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2016年06月01日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日、「親鸞」との出会いについて書いた序でに、長年の疑問についてもう少し書きたい。

悪人正機説というものがある。親鸞思想の入門編にして、最も核心を突いていると評価されている唯円「歎異抄」には以下のように書いている。

「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」

吉川英治「親鸞」は、恋愛などの悩みから無明の世界にいた頃、法然上人に出会い、この考えに辿り着いたごとになっている。だから、親鸞自らを凡夫だと云うのは分かる。親鸞自らを悪人だと認識している。それでも往生出来る、と発見したところに、真宗の真髄があった。しかし親鸞とわたしでは「次元」が違うのではないかとも思う。そういう目から見て、「悪人」でも「往生を遂げる」(=天竺に行ける?)という時には、やはり自分は「善人」の部類にはいるのだろうと、この40年間ずっと思っていた。しかしそれは大きな勘違いだったようだ。そのことを五木寛之「親鸞」は全体を通して描いたのだが、正に真宗ホームページにわかりやすい解説があったので、写してみたい。

悪人が助かるの?悪人正機


浄土真宗の教えといえば「悪人正機」と言われます。

この「悪人正機」を誤解して、
「悪をするほど助かる」までは行かなくとも、
「善をする必要はない」と思っている人があります。

「悪人正機」は、果たしてそんな意味なのでしょうか。

「悪人正機」とはどんなことか、
正しく知らねばなりません。

「悪人正機」とは、悪人が正客ということです。

「悪人」は、やった悪によって、悪因悪果で苦しんでいます。
「悪人」といえば苦しみ悩んでいる人、苦悩の人ということです。

だから苦悩の人が正客ということです。

苦悩の人が正客と言われたのはどなたでしょうか。

阿弥陀仏の仰せです。

つまり阿弥陀仏の本願は悪人正機なのです。

「苦しみ悩んでいる人が正客だぞ」
そういう者を助けると言われたのが阿弥陀仏の本願です。

阿弥陀仏の本願=悪人正機
浄土真宗は阿弥陀仏の本願を明らかにされています。
浄土真宗の教えは悪人正機です。

悪人正機をいちばん印象深く、
多くの人に知らせたのは『歎異鈔第三章』です。

善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや
(歎異抄第3章)
これが歎異鈔でも特に有名な歎異鈔第三章の書き出しです。

これは普通の常識では理屈に合いません。
善人でさえ助かる。悪人ならなおさら。
皆を驚かすのに十分です。

世間の常識では、
悪人でさえ助かるんだから善人ならなおさらだ。
と思っています。
倫理道徳では悪人は善人より助かり難い。
それが常識です。

ところがその常識をぶち破って反対のことを言われています。

倫理道徳、私たちの考えから言うと、
悪人でさえ助かるんだから善人ではなおさら。
こうでないと納得できません。
倫理も道徳も間違いだということになってしまいます。

浄土真宗は阿弥陀仏の本願。
阿弥陀仏の本願とはこういうものなのです。

これらの常識を皆否定してしまうということです。

阿弥陀仏の本願は
「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」

阿弥陀仏の本願は私たちの
大前提になっているものを否定されるんです。
その阿弥陀仏の本願を教えられたのが浄土真宗。

どうしてこういうこと言われたのでしょうか。

阿弥陀仏の御心は悪人正機。
悪人を助ける為に立てられた本願なんだから
悪人正客だから善人でも助かる。

ではなぜ阿弥陀仏は悪人正客の本願を立てられたのでしょうか

この世に悪人以外はないからです。

するとすべての人が正客。
すべての人を助けるということが悪人正機です。

では、悪人正機では、善人はどういう人になるでしょうか?

本当の自分を知らず、自分が善人だと自惚れている人です。

本当の自分を知れば悪人と分かります。

悪人正機というのはそういう深い意味があるのです。

ですから、考えて進むのではありません。
聞いて進むしかないのです。
自分の考えというものは、
このように間違いですから聞いて進むのです。
その為に浄土真宗の教えがあるのてす。
阿弥陀仏の本願、浄土真宗は聴聞に極まるなのです。


「聴聞に極まる」のは、まだよくわからない。「それは貴方がまだ自力に頼っているからだ」と言われそうですが、私はそれでもいいとまだ思っています。なぜならば、私は神を信じていないので、私の力は信じていないけど、人間の力はまだ信じている、というか信じざるを得ないのです。

閑話休題、テーマはそこでは無く、悪人とは何か、にやはりなる。確かに、私は悪人です。しかも極悪非道かもしれない。ここでは詳細にはのべないけど、具体的な実在の人を何人も見殺しにしたのかもしれない、と時々思うことがあります。それについて夜も眠れないほど悩むことはありません。普段はほとんど忘れています。こう書くとやはり極悪非道だ。それを忘れることが出来ない人がPTSDになるのだろうから、私は私を守っているのでしょう。

私に子どもはいないから、私の生涯の人類への貢献は「平和活動」なんだろうとぼんやり思っています。でも、もしかしたら奥のところでは、殺人に対する贖罪もあるのかもしれないと「今」思ったところです。

果たして私の贖罪はホンモノなのかどうか、も厳密にいえば問われるところだろうと思います。というのは、「親鸞 完結編」で、「青春編」「激動編」通して、親鸞と悪人正機説で決定的に対決して来た黒面法師との最後の問答でこういうのがあったからです。



「きくがよい」
「ひとつだけだ。わしは十悪五逆の極悪人。それでも浄土に往生できるのか」
「もし、そなたが心から懺悔し、阿弥陀仏の本願を信じることができるならばかならず往生できるはずだ」
「心から懺悔できる者は、悪人ではない。真の悪人とは、懺悔を知らず、生涯、弥陀の救いを信ぜぬ者のことだ」
黒面法師の笑いが闇の中にひびいた。(354p)


自分の悪を自覚し、真から悔いて、真からホトケを信じ、そして贖罪の気持ちを持つものだけが、往生出来るというのだ。それならば、黒面法師ではないが、わたしも往生出来ない。あ、ごめん。そもそも往生を願っていないのだから、わたしのことは考えるべきではなかった。人の多くは、と言い換えた方がいいかもしれない。しかし親鸞の云うのは、死ぬ間際でもそれは可能なのだろうか。そこら辺になると、果たして親鸞でさえ答えているかどうか。住職によって変わってくるところかもしれない。



人はなんために生きているのか
人はどのように人生を終えたらいいのか
人とはなにものなのか

なんか、次々といろんな疑問が湧いてくる。学者は、答えることが出来ない。身近な物識り(知識人)もむつかしい。結局、宗教者の出番なのか。しかし、私は若い頃、宗教に頼らないと決心した。確信はない。そっちの方に賭けただけである。神の不在は証明出来ないのだから仕方ない。

ごめんなさい。ちらかったまま、この文章を終わります。

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吉備路の五重塔





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最終更新日  2016年06月01日 23時31分37秒
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