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1月22日、岡山県立博物館で開催されている「とっとり弥生の王国 青谷上寺地遺跡と妻木晩田遺跡」を観て、記念講演を聴いた。少し旧聞になるが、参加した考古学イベントはすべて記録するというのが私のスタンスなので、紹介したい。講演は撮影不可だったのだが、企画展の撮影はOKだった。最近の博物館・美術館のトレンドはストロボを使わなければ撮影できるものに変わってきている。撮影OKの場合はたいていブログに掲載してもOKである。世界はずっと前からそうだった。やっと日本がそれに追いついてきた。もちろん、国内最大級の弥生集落である妻木晩田や、地下の弥生博物館とも言われる青谷上寺地には、国の史跡になる前から私は何度も訪れてはいるが、青谷の遺物は380点も展示するなど、今まで見たことのない遺物がたくさん目の前に展開して、とっても興奮した。鳥取県埋蔵文化センター所長の中原斉氏の講演は、内容にあまり目新しいモノはなかったものの、いくつか新発見を羅列してみる。(1)青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の名前は、私がつけた。ただ(遺跡の名前を付ける時の基本である)大字小字名で付けたのだが、(吉野ヶ里と比べても)とても読みにくい。まさか、(国の指定遺跡になって)保存されるなど予想していなかった。大失敗。(3)妻木晩田は、保存当初は「地区ごとに機能分化した山上の弥生都市」というイメージだったが、環濠「住居」はなく、王というよりか、リーダーがいた。修正を迫られている。(3)妻木晩田の消失住居は、すべて、家財を撤去してから燃やされた。(4)弥生人は食事は手づかみなのか。サジはたくさん出てくる。花型木製高坏を見ると、その匠の技にはビックリする。(5)青谷上寺地の殺傷痕人骨は何を物語るか。子供・大人共に致命傷の胸、防御の手足に傷がある。大人は左胸に多い。つまり、対面でやりあった。子供は背後から。傷口は治癒傾向は認められず、ほぼ即死。金属製の武器。ムラはその後も存続。やがて埋め戻しも行われた。110点の殺傷痕の骨があるるつまり、100ー80人近くの遺体があったのか? (6)弥生人の脳。DNAは核DNAは取り出せなかった。ミトコンドリアDNAは確認。(7)今まであまり生活用品が出てこない。都市のように、昼間の人口が多いところだったのか。企画展を全部紹介すると、写真がいくらあっても足りないので、面白いところのみ説明写真付きで載せたい。まずは、関連年表。弥生後期から終末期に移る直前の西暦170年ごろに、妻木晩田は最盛期を迎え、青谷上寺地はあの大殺戮があったことがわかる。ついでに言えば、それはちょうど倭国大乱といわれる頃でもあり、吉備ではすでに楯築遺跡は作られていた。しかし、反対に言えば、私は楯築を作った人間が吉備を最盛期にさせたと思っているので、青谷上寺地の「事件」は、吉備の事件でもあった可能性が高い。この青谷上寺地の復元CGは、鳥取県埋蔵文化センター所長の中原斉氏の自慢のモノである。植生まできちんと根拠をもって再生しているらしい。ズームすればわかるらしいが、こんな細かいものができたと、誇っていた。
2017年03月03日
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「弥生時代の集落」弥生文化博物館編集 学生社 平成7ー8年の弥生文化博物館の共同研究を基礎にした論文集。面白い論文が多かったのだが、そろそろ返却期限が近づいてきたので、1番の目的である、松木武彦氏の「吉備の弥生集落と社会」について、まとめと感想を書いて、私の感想としたい。私が考古学に目覚める直前の研究である。この頃から約10年間、弥生時代は重要発見が相次いだ。現代は、それらをキチンと評価すべき時なのかもしれない。 「吉備の弥生集落と社会」 松木氏は、吉備の環濠は、前期に小さなモノが現れるくらいで、「集落の一部を囲んだ施設にすぎなく」防御の機能はおそらく持っていなかっただろうと、推測している。その点で、北九州や近畿・伊勢湾沿岸とは大きな違いがある。なぜそうなのか。松木氏は、「それを要するほどの激しい武力抗争がなかったからだ」という説は大型石鏃や石剣の数からそれを退ける。「むしろ、大河川の三角州のただ中のわずかな高まりに集落がのり、いく筋もの自然流路が網の目のように周囲に広がるという自然条件が、環濠に代わる防御的な役割を果たしたとも想定できる。」(122p)という。 そしてその集落立地が、集落の流動化、そして周溝墓群が発達しない原因にもなったと推測する。その一方で、中期後葉から丘陵上や尾根上で墓がつくられ、「むしろこれが、集団成員による帰属感や一体性を意識させる視覚的・精神的な核となっていった可能性が高い」と見る。さらにはこれらが「青銅製祭祀の排除とほぼ軌を一にして」いるという。「この墓域が当初は首長墓では無く、集団墓として現れるのも重要である。」(みそのお遺跡、総社前山遺跡)つまり、青銅製祭祀の消滅が単純に共同体祭祀から首長墓祭祀へとの移行で始まったわけではないことを示している。つまり、松木氏は「墓の格差」は、社会組織や経済的な階層構造の変化から現れたというよりも、一族の中で傑出した個人が現れたことを記念するところから始まったとみるべきだ、と説く。吉備の地形条件によって墓域を分離する行為が古墳時代に通じるそれらの慣習を引き起こしたのだ、と松木氏は見るわけだ(もちろん、そう結論つけてはいない)。 20年前のこの考察は、しかし重要なのかもしれない。松木氏は述べてはいないが、この大雨によって流動化する集落の在り方が、吉備における龍神信仰を作り、それを止揚した楯築の被葬者という大王が産まれた契機になったのかもしれない。それを準備したののが墓域の分離だったわけだ。 中期から後期にかけて、吉備では、それ迄パッとしていなかった地域が突然輝き始めたという。例えばそれを鉄の交易路の開拓と見ればスッキリするかもしれないが、そう単純ではないのだろうな。 ともかく新たな視点を貰った。 2017年2月10日読了
2017年02月27日
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古代の里資料館の展示物の続きです。この自治体の教育委員会が書いたのだと思う。古代がテーマにするのだから、それなりに情熱をもって開館したのだと思う。昨日行った府立の資料館には、大風呂南墳墓の青いガラスの腕輪の実物こそはなかったけど、きちんとレプリカがあったし、丹後三大古墳から出てきた貴重な埴輪の実物もあった。そういう展示物の優劣ではこちらは劣るところはあるけど、説明は熱があってよかった。ここから古墳時代前期。なんと龍神信仰は同じなのか。吉備の弥生土器の龍の絵と同じような絵画土器が出ている。海から天気が変わるとすれば、丹後で龍神信仰が起こるのはむしろ自然。しかし、同じような絵があるのにびっくりする。古墳時代中期の竹野遺跡から乳児用の石棺が出ている。こういうのは初めて見た。玄関にこんな写真パネルもあった。資料館から新明寺古墳の横顔を写す。 丹後半島を東回りに回って帰ることにした。同じ道を通りたくない、というのは私の貧乏性から来ていて、多分一生治らない。波が高くなっている。 海沿いのレストランで昼食。そこからも、名勝「松島」を写す。 定食にはハバ飯付きのを選んだ。この地方の海藻を混ぜ込んだご飯らしい。魚はキス。 なんか台風がかなり近づいて来ているらしい。早々に出る。途中の海岸線。 途中で強く雨が振り出したが、つい「舟屋」が見える道の駅に寄ってしまう。 展望台からは、雨でけぶってよく見えない。 宮津与謝「9条の会」は頑張っていました。 宮津に近づくと、ピタッと止んだ。それでお魚センターで、食事。「宮津カレー」を頼んだら、ここのは「カレー焼きそば」だった。ちょっと衝撃的。ネギと魚のフライが入っている。もともとカレーは、魚の出汁が合うのは常識なので、これでもいいのかもしれない。わりと美味しかった。単なるこの店のオリジナルなのか、どうかは不明。 兵庫まで車で戻り、加西パーキングでコンニャクと肉のぶっかけ丼を食べた。もう腹いっぱい。 この旅はこんなところかな。
2016年09月26日
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みやづ歴史の館に行く。細川ガラシャの木造が作られていた。 大河ドラマ誘致作戦があるらしい。 ここは、歴史資料館らしいのだが、企画展の時にしか開けないらしい。でも、本だけはみさせてもらった。 気になっていた、この町の自由民権運動は天橋義塾という結社が中心だったらしい。本を読むと、わりとガチガチの武士が中心人物だったようで、天皇中心の憲法案を作っていた。それでも、ここと慶應義塾と立志社が三代自由民権結社だったというのだから、自由民権運動はまだ十分な動きのないまま盛り上がり、そして潰されたということになる。さて、今日は奈具岡遺跡跡を見て、丹後の古代の里資料館に寄るのが目的。奈具岡遺跡は、いろいろ迷った。遺跡は主に「あざ名」で名ずける。しかし、ドライブ用の地図にはよくて町名、悪くて市の名前ぐらいしかついていない。よって、前日の資料館で教えてもらった不鮮明な国土院地図と見比べながら探し当てるのではあるが、目立った立て看板がない場合は、それこそカンで探し当てることになる。迷って、地域のご主人に聞いてみる。「奈具遺跡?この前の畑は古墳じゃということで、ずいぶん長い事耕すこともできんかったが、奈具いうたらこことちがうよ。たしか、ずっと先の信号のあたりだと思う。」こんな風に最初の聞き合わせで、大体の場所を教えてもらうのはまれである。感謝して、場所を勘違いしていいたことを恥じつつ、その場所に向かう。しかし、この高校の下にあったのは間違いないと確認した。この丘陵の上で、日本有数の玉造の里があったわけだ。ガラス玉やくす玉、そして製鉄までも引き受けた弥生後期の丹後の先進性が象徴が、この奈具岡遺跡である。立て看はついに見つけることができなかった。 竹野神社にたどり着く。古い神社。 可愛い絵馬。 隣には古代の里資料館。ここが思ったよりよかった。 町立博物館なのだが、非常に情熱を込めた展示解説があり、かつ、写真撮影OKなのである。よって、弥生時代に絞り関係する大量の写真をそのまま載せます。これを読むと、この2日で訪れた遺跡の概要もわかると思う。写真が多くなったので、後半は明日。
2016年09月25日
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7時、小雨が降っているけど、朝の散策に出かける。少し歩くと、カトリック宮津教会があった。 明治の洋風建築らしい。 後ろから見た方が特徴があった。大村邸あと。中級武士の住居があり、自由民権運動で天橋塾という一大運動があったそうで、その指導者が輩出したそうだ。初めて知った。調べる必要がありそうだ。 出た。城下町特有の角ばった道。 この産婦人科医(現役)も充分明治風建築である。 やはりかなり間口が狭く奥行き深い造りだ。 ちょっと坂をあがって町を撮る。 宮津町のマンホールは、小さいのも大きいのも、やはり天の橋立がテーマ。 古い町なのだが、日本海ということで、古い建物が多い。 彼岸花が咲いていた。 これは宮津藩最後の藩主本荘宗秀•宗武の墓。幕末はわりと不遇だったらしい。アーチ状の石橋が面白い。 この一角は映画の撮影にも使えそうだ。 蕪村通りには、蕪村の俳句が家々に飾られている。 この辺りから気がついたのだが、道の角々に異様にお地蔵さまが祭られている。全部綺麗に化粧して、花も添えられて、町全体で統一されている。しかも全部表情が違う。こんな地蔵堂町はない。ホテルの人に聞けば、隣り組で管理しているらしい。 城下町らしいいろんな建物をみる。 これは「味じまんたい焼き屋」の店だったらしい。 これは元カメラ屋だったらしい。宮津は歩くとかなり面白い街だった。
2016年09月24日
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今年に入って、2日続けての休みが取れなかったのですが、急遽取れることになり、かねて行きたかった丹後の弥生遺跡群に向かうことにしました(ここは交通の関係で、夜に出発というわけにはいかないので、丸々2日必要なのだ。でも、結局高知ほどには大きな収穫はなかったので、連載も4回で終わります)。舞鶴若狭自動車道の西紀(にしき)パーキングで、ちょいと休憩。「泳ぎたこ焼き」に「踊りたこ焼き」。ここは、明石焼ともまた違うこんなものを売り出している。食べませんでした。 綾部で京都縦貫自動車道に移って宮津で降りる。昼飯は手軽な道の駅みたいなところで、海鮮ものを頼んだのだけど、冷凍ものの寿司でした。残念。 そこから、天の橋立を望む。横から見るので、何が何やらわからない(一応半島の突端、つまようじみたいなものが天の橋です)。 多分、この辺りに春の頃に読んだ大風呂南遺跡があるはずだ。 京都府立丹後郷土資料館。弥生遺物の展示は、ここだけのような気がするのでとても期待していたのだが、なんか情熱の感じられないがっかりしたものだった。赤坂今井墳丘墓など、弥生時代最大級の遺跡があるのにもかかわらず、淡々としか書いていない。写真禁止なので、詳しくは述べれない。でも、ともかくここで行きたい遺跡の場所だけは教えてもらった。こういうところが、博物館のいいところなのだ。ここの資料館は、中世以降に力点があったようだ。与謝野蕪村特別展示をしていた。 この資料館は丹後国分寺跡のそばに併設されている。ここから天の橋立も見える。古代においても、この不思議な地形は、有名だったようだ。 そこから遺跡めぐりをする前に、天の橋立ワイナリーに寄る。甘いワインとケーキを買った。ここのぶどうは、牡蠣の貝殻を大量に土壌に蒔いていた。ぶどうつくりはやはりアルカリ性がいいのか。 男山を通り過ぎ、人に聞きながら、丸山墓地の道を少し上がると、大風呂南遺跡(弥生晩期)あとがあった。 鉄塔が立っていた。写真を見ると、ここから遠く天の橋立も一望出来ていたようだ。交通の要を司る王の墓だったのか。この遺跡を嚆矢として、丹後の王墓が始まる。それにしても、(台風が接近していた頃で)ちょうど雨が本降りになった。植物のツルも絡まりびしょびしょになる。 そこから竹の川流域を上る。三坂神社墳墓(弥生後期)。かなり迷う。入り口近くで、バーベキューをしていた家族に場所を聞く。「三坂神社は確かにここだけど、弥生遺跡なんて聞いたことがないわね」地域の人も知らない遺跡というのは、弥生遺跡の宿命である。登ってみると、なんのことはない、反対側から道が通っていて、ホテルや府立マスターズビレッジの施設が建っていた。この施設のために一山削ったのだろう。 説明板もあった。 ここは、山の突端。大風呂南遺跡と同じである。自分のテリトリーを見渡すところに作っている。この頃から、墓に多量の鉄器・ガラス玉が副葬される。王様が出来つつあった頃である。 そして、17号線にずれて、峰山街を抜けると、谷あいに赤坂今井墳丘墓がある。 国の指定になっていて、ちゃんと遺跡は保存されていた。 しかし、国の指定の割には他になんもない。 ここからは、眺望もよくない。テリトリーに作ったのではない。丹後の最後の大王と言われる。何かがあったのかもしれない。明日、この地域で反原発の学習会があるようだ。文字に地域の怒りがよく出ている。ここは京都だ。しかし、福井の原発銀座はすぐ隣だ。地域に何の益もないのに、不安だけが大きく膨らんでいる。 今日はここまでにして、早いけど帰る。雨がひどくなった。ホテルは楽天で銀水という和風ホテル。まあまあ。
2016年09月23日
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「吉備の弥生時代」岡山大学埋蔵文化財調査研究センター編 吉備人出版 待望の岡大埋文センターの本が出た。岡大は、岡山県の最も代表的な弥生遺跡である楯築の遺物が展示されている所だ。ここの解説本がないと、楯築遺跡を知るためには専門書を紐解くとしても、その周辺のことを考えるには、様々な本に当たらなくてはならない。 2014年の岡山シティミュージアム会場の「弥生時代を語る」特別展示を二年後にまとめた本らしい。図録ではなく、展示会をまとめてくれたおかげで、とても興味深い本が出来上がった。第一部は、その展示図録のようになっているが、面白かったのは、第ニ部で記念シンポをそのまま記録していて、内容的にも面白かったことと、第三部において、研究者のミニ論文が興味深かったことである。 不覚にも初めて知ったのであるが、弥生時代前期と後期後半の岡山平野南部の地形変化の図(11p)を見てビックリ。いわゆる楯築遺跡周りの土地は、この間に河川の土砂によって作られていたのである。上東遺跡は、小島に陸が繋がった小さな半島の趣だった。 鹿田遺跡の様子は初めて知った。現在の岡大歯学部が上に建っているので、岡大だけが発掘しているようだ。 また、「吉備のマツリとシンボル」として、「分銅型土製品」「黥面」「龍」が取り上げられている。 「人」のイメージは、縄文文化の流れをくみつつも豊穣の祈りの中でリニューアルされ、社会動向に対応するかのように変化しました。また粘土で造形した小さな人形も、この頃の吉備のムラを特徴づける資料です。弥生時代後期後半には、入れ墨を施す人面文様が瀬戸内海沿いに西方から岡山平野にもたらされました。中国大陸由来の龍の形象は、ムラの中では雨をもたらす水神として、壺や器台に描かれました。(28p) 黥面や分銅型土製品の顔の表現から、「頭部重視の思想」について注目しているが、それ以上は深められていない。また、天瀬遺跡から出土した海から飛び出したばかりのような龍の線刻が描かれた土器は初めて見た。これは「水神」として非常に説得力があった。また、龍の抽象的な線刻が描かれた土器の津島岡大遺跡と百間川原尾島遺跡のそれは、兄弟土器といってもいいものだと写真を見て初めて思った。 楯築弥生墳丘墓の詳しい説明がある。その中で埋葬儀礼の復元図は初めて見た気がする(48p)。円礫すい(円礫の集積)をあんな風に盛っていたのか。大型孤帯石はその上にあったのか(おそらく想像)。勘違いしていたのは破砕された小型孤帯石は墳丘に混じっていたと思っていたが、円礫すいに混じっていたのである。それと、あまり注目してこなかったが、円礫すいに他にも混じっていた玉形、人形土製品。特に人形の正体はちょっと大きな謎である。今回鮮明な写真が載っていて、俄然興味湧いた。シンポの中で、「楯築の埋葬者は、リーダーというよりも東アジアまで展望するネットワークのブローカーだったのではないか」と言われていた。大きく頷くところである。 ミニ論文では、島崎東氏の「吉備の手焙形土器」が興味深い。謎の土器だったのだが、島崎氏は「中に炭を入れ、熾火による熱を用いたなんらかの行為、例えば、小形で特殊な細工物などの加工道具としての可能性」(95p)と、踏み込んで言及した。記憶したい。また、松木武彦氏の「楯築弥生墳丘墓と二世紀の吉備地域」では、楯築築造時期を、今までの二世紀後半(180年ごろ)から「遅くとも二世紀の中ごろまで」に引き上げるべきだと提案している。ということは、140ー150年ころと思った方がいいのか?また、楯築と同時の弥生墳丘墓に出雲の西谷三号だけでなく、因幡の西桂見、越の小羽山30号(福井市)を揚げ、その関連性を述べているのは新鮮だった。楯築・西谷・小羽山は鉄剣一振りと玉という同じ品目のセット、楯築と西谷は木槨・木棺・特殊器台という類似性がある、という。「ある種の申し合わせ」があり、楯築は吉備の一人歩きではなかったのではないかということを言っている。特に木槨などは楽浪郡の影響を考えるべきだろうという(126p)。 わかりやすくて、いい本だった。
2016年08月16日
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平日の水曜日に総社刑部遺跡の現地説明会(現説)があったので、行って来た。今回は四月からの二ヶ月だけの落ち葉拾い的な発掘調査だったのかもしれない。前回の現説に来ていないので、「県下最古級のカマド付き竪穴住居、弥生時代のヒスイ勾玉や銅鏡、古墳時代の曲刃鎌(きょくじんがま)」のことは初めて知った。特に、銅鏡の破片は、墓では無く、完成品ではなく、住居跡から「破片」が出てきた。これはかなり珍しいらしい。呪術的な目的でもって、シャーマンがもっていたのかもしれない、と調査員の方は云う。残念ながら実物はなかった。その代わり、何度も見た近くの神明遺跡(図の刑部遺跡の上にある遺跡)から出た(住居跡近くから出土の貴重な)銅鐸を展示していた。そこで見学者が調査員に噛み付いていた。「紀元前後の埋納だとしたら、この頃は既に楽浪郡あたりでは文字を使っていた。それなのに、どうして弥生遺跡からは文字が出てこないのか」見学者は気がついていないかもしれないが、それは弥生人の立場で発想していないと私は思う。まるで、文字を使うことが文明的で、進歩的なことであり、それを使わない弥生人は、やはり知恵も何もかも遅れた野蛮の国だったのだ、とでも言いたげな風情だ。貴方たちの御先祖なんですよ。私はもちろん文字を解さないとか、使う能力をもっていなかったとは思わない。しかし、この当時文字を書くことは、現代のように会話や記録のツールとしては認識していなかった、可能性が強いと思う。言葉には言霊が宿る。ゆめゆめ簡単書く事ができなかったのではないか、と私は思うのである。刑部遺跡は、もう発掘はないらしい。数年続けて現地説明会に来たけど、これが見納め。大きな道路になると云う。
2016年06月03日
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「人はなぜ戦うのか」松木武彦 講談社選書メチエ図書館でこの本を見つけて、かなり面白く読み始めたのだが、途中で既視感。念のためにアマゾンで調べてみるとありました。15年前に私が興奮して感想を書いている。投稿者くま2001年7月29日この本のテーマは私の考古学のテーマにそっくり重なっており、まさに「よくぞ出てきました」という思いです。まずは「闘争本能と戦争は関係があるのか」という古くて新しい問題に答えながら、弥生時代以降の倭国の軍事戦略、軍事思想を明らかにし、その特質を述べる。曰く、日本は島国の特性もあり、征服戦争をすることは無かったし、外敵もいなかった。曰く、その軍事合理性よりも、精神性を尊び、合理的な施設や体制を作るよりも人的資源の投入を重視する気風が生まれた。それは保守主義につながり、仮想敵を作るという政策にもつながる。これらを考古学的資料より説得力もって描き出しているという点で素晴らしい。我々はこれらの「歴史的教訓」を活かしながら次ぎの世界にどう戦争のない世界をバトンタッチするのか、考えていかなければならないだろう。こういう感想を書いているとは知らずに、私はわたしなりに、この15年間の蓄積を活かして、各論を書き始めていました。というか、まだ一章しか進んでいないのですが、日本人最初の戦死者はいかにして生まれたかを推理してみたのでした。もしかしたら、ほかの章も書くかもしれません。25pより。戦争による犠牲者と断定するには、いろんな要素を鑑みなければならない(殺人用の武器、守りの施設、遺骸、武器を備えた墓、武器崇拝、戦いを表した芸術作品)。それらを考慮して、最初の戦争犠牲者と言われているのが、福島県志摩町新町遺跡の大腿骨に突き刺さった磨製石鏃である。弥生時代初め頃、木棺墓の熟年男性左足付け根の石鏃である。背後から矢を射られ、致命傷になったかは分からないが、治癒反応がないので、傷を受けるのと同時に絶命している。推理小説ならば、「わかったぞ小林くん」パートがあるのだが、いかんせん考古学は迷宮入り事件だらけだ。データも不足しているし、第一ここには数ページ足らずの記述しかない。でも日本の最初の戦死者と言われている害者である。推理する楽しさはある。簡単なデータのみ調べた。糸島市志摩の新町地区にある「新町遺跡展示館」は、国内で稲作が始まった時期の初めての人骨出土として注目されている「新町遺跡」の様子を余すところなく見学できる施設。昭和61年に初めて発掘調査が行われ、弥生時代早期(紀元前300年頃)の支石墓(巨大な天井石とそれを支える石で構成されたお墓)とカメ棺墓が57基も発見されました。平成4年に町指定の史跡となり、その歴史的に貴重な遺構を保護するために遺跡全体を覆う形で歴史館が作られたとか(見学できる遺跡は埋め戻された現物の上に復元されたもの)。ここから見つかった石の鏃が刺さったままの人骨は、現在、日本最古の戦死者と言われています!(志摩町ホームページより)これにより、どうやら木棺墓は支石墓の下にあったようだと分かる。非常に濃く朝鮮半島の影響を受けているだろう。紀元前300年は不明。年代法論争結果によっては、BC8-10年の可能性もあるだろう。敵は渡来系弥生人で間違いはない(磨製石鏃)。時期的には渡って来た本人たちかもしれない。害者も渡来系なのは間違いないだろう。縄文時代には戦争はなかった(多くの根拠はある)。弥生時代に入って直ぐに戦争が始まった。つまり彼らの多くは朝鮮半島での戦争経験者かその直接の子供たちだったのだ。戦争で死んだリーダーを丁寧に埋葬する習慣を彼らは獲得していた。英雄として死んだのかは分からないが、粗末に扱ってはいない。彼らは勝ったか負けたかは分からないが、墓がきちんと残っているのは、負けていないことだろう。それなのに背後から矢を射られた?大きな戦争ではなかっただろうから、リーダーも最前線で戦ったのだろう。熟年男性なので、戦士ではなかった。何かを守るために戦死したと見る方が正しいのかもしれない。興味深いのは、この棺の下に小穴があって、その中から別の人物の歯が見つかった。少年または青年の頭部だという。松木武彦氏は「墓の主は奮戦してこの若者の「首級」をとったものの、その戦いの傷がもとで死んだのだろうか。それとも、墓の主の戦死に対する敵討ちとして、同じ集落の者が「首級」をとって供えたものだろうか。」と書いている。首級が敵か味方か、が先ず分からないが、味方とすると、理由が見つからない。敵だろう。では、前者か後者か。前者だとすると、言うまでもなく「英雄」としてこの墓が作られたのである。乱戦ならば首級が味方に渡ったままになるだろうか。組織戦ならば、熟年男性が決定的な場面に居たのがよくわからない。後者ならば、首級は矢を射た者の可能性が高い。そうだとすると、戦争に個人的な恨みがかなり残っていることになる。そもそも首級を同時埋葬する文化とは何かなのか。台湾には近代まで敵の首を「狩る」ことで、敵の生命エネルギーを取り込む文化があった。ところが、この熟年男性は縄文人の体つきをしていたという。渡来系と縄文人の混合がかなり進んだあとの人物ということになる。そうなると、新しい社会の中で自分なりのアイデンティティを立てようとして戦乱の中で頑張ったのだという推論も立つ。一定の推論を立てようと思ったけど、立たなかった。ひとつわかったのは、最初のころの日本での戦闘は、かなり血生臭かったということである。
2016年04月23日
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「出雲に米づくりが伝わった」展シリーズの最後。正直、島根の遺物を真剣に観たのはこれが初めて。弥生時代では鳥取の妻木晩田や青谷上寺地が一番すごいと思っていたのですが、この出雲があってこその山陰の弥生時代なのだと考えを変えました。それではもうしばらくお付き合いください。分銅型土製品の一般的な説明は、写真にあるとおり。この展示品だけなのかどうかはわからないのだが、模様が極端に少ない。吉備のは、人の顔まで描いているのが多いのである。しかし、形は極めて似ているし、丁寧に磨いているのも、同じである。よって、この祭りの発生は吉備で間違いないと思うが、吉備からやって来た女の子が広めた可能性がある。家の中の、成長を願う祭りだったのかもしれない。第四章です。そうか、棒切れではなくて、貝殻で描いていたんだ!なんと、そのあと行った稲佐の浜で同じ貝を拾っていました。日常的な貝だったんですね。なんと、特殊器台、特殊壺が四隅突出墓ではなく、川の中からまとまって出土していた。吉備でも例のない出土の仕方である。吉備のそれを模倣したらしいが、「水辺の祭りに使ったのでは」と書いている。だとすると、特殊器台の祭の「効用」は、五穀豊穣なのか、それとも治水なのか。ともかく非常に興味深い。以上、弥生時代の後期。出雲地域は間違いなく日本列島の先進地域だった。それを外観する展示を見ることが出来てとても有益だった。非常に充実した展示なのに、なぜか図録がない。おかげで写真は取り放題だったのは良かったのではあるが、なぜだったのか。おそらく、いずれ本格的に「出雲の弥生時代」をやるのだろう。そのときは見逃したくないなあ、と思う。出雲は「ぜんざい」発祥の地らしい。博物館内のカフェで、○○食限定と銘打って販売していて、ついとびついた。おいしゅうございました。
2016年04月04日
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「出雲に米づくりが伝わった」展の続きである。入口に置いてあったチラシに、わざわざ写真撮影OKと但し書きがしている。しかも商業目的でなければ、ブログやフェイスブックにアップしてもOKだとも書いてあった。こういう展示はいまだかつてなかった。その代りこれだけ大々的な展示にも関わらず、図録は作っていない。よって、このブログがその代りの記録の手助けを少しでもできるようにと、今回は異例の枚数をアップします。三回に分けてこの展示を連載する所以です。木の葉文様は、山口県下関の渡来系弥生人が作った綾羅木郷遺跡土器から多く出土し、吉備までその範囲は広く流行した。縄文時代の度合いが多いこの三田谷遺跡で、いやこの出雲全体で、木の葉文様土器が多く出土するのは、どういうことなのだろうか。ひとつの「謎」として、ここにメモしておきたい。この展示で、1番目立つオブジェでした。三田谷遺跡から見つかったこの文様は、東北の縄文の亀ヶ岡式土器にも使われている文様(三叉文)である。西からの文様も、北からの文様もある。この当時、文様は単なるファッションではなかったはずだ。だとしたら、三田谷ではどういうドラマがあったのか。非常に興味深いですね。ここに載せた礫(つぶて)も石斧も、昨日に行った田和山遺跡の見ることの叶わなかった遺物である。実は礫は初めて見た。びっくりした。こんなに大きいとは。頭に直撃したら必ず死ぬ。しかし、そんなのを用意してまで何を守っていたのか。頂上には小さな社がひとつあっただけなのである。実はやっと「第二章」。この企画展のスターとして登場する遺物である。前の人面土器が縄文人を表しているとすれば、こちらは弥生人を表しているという意図です。瓜実顔の一重まぶたという、弥生人の登場です。第三章弥生の暮らしと祈りです。吉備の発明品である曲柄鍬を出雲の弥生人は、さらに改良して使っていたという。
2016年04月03日
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あけましておめでとうございます(^^;)。出雲国の旅レポートもやっと三日目に入り、年を越えることができました。こんなに遅くなったのは、写真の整理がなかなかできないのです。おそらく5回に分けて紹介します。2016年 元旦 (晴)温泉宿なので、朝風呂に入って部屋に戻るとちょうど窓から東の山々から初日の出が見え始めていた。期待していなかった分、嬉しかった。ただ嬉しくていま気がついたのだけど、何のお願いもしていなかった。朝食。年末年始のホテル。期待通り、おせち料理が出た。特に雑煮は期待通り、「出雲の雑煮」だった。出雲の雑煮は雑煮ではないのである。基本は、こんな青菜も出ないはずだ。なんと餅だけが出てくるのである。あとでホテルマンに聴くと、出雲地方はこうなっているらしい。西の方に行けば、これに「あずき」が入る所もあるらしい。雑煮の横に食べ方の説明書があって、「腕の中から先ず青菜を採って、それを食べ残して、菜(名)をあげ、名を残す」或いは青菜を高く引き上げて「名を高める」というのもあるらしい。ホテルで餅つきもしていた。あまりにも水分多くて伸び切っている。甘酒だけもらってチェックアウト出発。県立古代出雲歴史博物館に再びやってきた。朝の9時にきたらなんとか遠くの駐車場に停めることが出来た。もちろん、無料開放だからだし、新たに「出雲に米作りが伝わった」展の写真を撮り直すために来たのである。以下要らない説明は省き、学術的な説明は写真のプレートに任せたい。出来るだけ多くの写真を載せる。気がついた所だけコメントする。かなり重たいページになったかもしれないが、ご容赦願いたい。「縄文土器 有文浅鉢」北原本郷遺跡(雲南市)縄文時代後期(4000年前)この羽状文を拡大したのは、模様の描く順番が、よく見るとわかるからである。四本の線をヘラか棒切か、細い石先でぐるっと描いたあとに、おそらく下の方から羽状の模様を勢いよく描いている。上に行くと勢いもなくなりなんとなくなおざりに思える。昔には、この模様にも意味はあったのかもしれないが、この時には既に機械的な作業になっていたのかもしれないし、この土器を作った女性(?)の性格なのかもしれない。そんなこんなを「実物」を仔細に眺めることで想像することができる。遺物のひとつひとつはいろんな情報を持っているのである。私が博物館フェチたる所以である。まだまだ展示品はありますが、ここでいったん切ります。
2016年04月02日
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最後は、久しぶりの全国的な考古学展示となった「発掘された日本列島2015」をむかえて、岡山県が珍しく張り切った「邪馬台国と吉備」展の残りの展示を紹介する。その前に紹介し忘れた。これがわが岡山県立博物館である。旧態依然とした建物。全国屈指の遺物があるのに、企画展が非常に貧弱な博物館である。吉備の墓制をもう一度振り返る。これはみそのお遺跡の写真である。岡山市の弥生後期から終末期にかけての遺跡だ。区画を持たない集団墓から区画を持つ集団墓へ。さらに区画を持つ個人墓へと変化していく様子がこの遺跡の中で展開された。出土土器の多くは高坏で赤く彩色されたものもあり、墓の上でのまつりがあったのではないかと言われている。これは甫崎天神山遺跡(岡山市 弥生後期)出土の大型彩色器台と壺。特殊器台の祖形ではないかと言われている。墓は集団墓だった。その遺跡から出土した鳥形土製品。埋葬祭祀に鳥の力をかりて霊界に送ってもらおうとしたのか。この遺跡の主がどこまでの人物だったのか。それにもよるが、いわゆる伝統的な鳥の霊力を借りる墓は、これ以降吉備の王墓には出てこなくなる。神殺しはなかったが、神の代変わりはあったのではないかと、私は推測する。初めて見た。鯉喰神社墳丘墓の出土品である。楯築の次の王だといわれている。楯築のふもとに作られた墳丘墓であることと、楯築以外に唯一弧帯文石が発見されているという風に私は聞いていた。その石を初めて見た。楯築のそれによく似ているそうだ。ふーん、そうなんですか。というほかはない。こんな破片とは思っていなかった。所蔵はなんと、鯉喰神社。一応40m×35mの方形墳丘墓と考えられている。本気で弧帯文石の秘密に迫るならば、楯築遺跡と同じように墳丘墓の中に破砕された弧帯文石が混じっているかどうかを確認しなくてはならない。残念ながら発掘はされていない。特殊器台も鯉喰神社所蔵のものしかないみたいだ。破片である。しかし、専門家はこのわずかな情報で、向木見型(2番目の形)の特殊器台であると喝破する。つまり最初期の立坂型から約10-30年間で次の流行に移ったということになる。私が職人の代変わりごとに器台の文様が変わったのだと主張する所以である。宮山墳墓群である。時期は弥生時代終末期から古墳時代初期。説明プレートを読んでほしい。墳墓ではなくて、古墳である、という説がある。特殊器台の完成形はすでに前々回にみせた。ともかくも、この宮山の時期に、吉備と大和で日本史上もっとも重要な何かがあった。と私は見ている。最後に特殊器台復刻プロジェクトの仕事が展示会場のロビーに飾ってあったので紹介する。ながいこと、こんな大きな器台は昔ながらの焼き方ではひび割れがして作れないと思われてきた。それを土の採取から作り方まで研究して、なんとか当時の大きさと形をまねてつくったのがこれである。反対に言えば、あらためて、昔の職人はすごかったというのが、これを見ての正直な感想である。私はプロジェクトのホームページを注視していたので、土の選定から、野焼きでの焼成まで、非常に厳密に苦労して二年がかりくらいで作ったのを知っている。ところが、作成者には全く申し訳ないのだが、炭のあとがどうしようもなく着いている。また、なんかうすっぺらく、重々しさがない。もっと他に作りようがなかったのだろうか。もっときれいに線は引けなかったのか。どうしてこんなにガタガタの線になるのか。また、線のゆがみ。昔の職人の正確さは、相当な訓練の末でないと難しいことが証明される。復刻プロジェクトは画期的な試みで、尊敬するが、それよりも尊敬するのはやはり神の継承儀式の要になる土器をつくった職人は、いったいどんな人たちだったのか、という「謎」が浮き彫りになったということになるだろう。
2016年03月15日
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もうしばらく、三か月前の岡山県立博物館特別展示「邪馬台国と吉備」について、私が考えたことに付き合ってほしい。今まで主に「龍神信仰」「分銅型土製品」「家族祭祀用銅鐸」「特殊器台」について書いてきた。それはすべて楯築遺跡に集約される課題である。倉敷庄パークという新興住宅団地の頂上にあるその遺跡は二世紀後半に突如現れた弥生時代空前絶後の王墓である。70mという弥生時代最大の大きさ、30キロ以上の朱、謎の立石、特殊器台、等々。特別なことは数え上げることができないぐらいにある。そして、特に言及しなければならないのは弧帯文石である。これはレプリカではない。本物の埋葬祭祀において破砕され、墳墓の土の中にばらまかれた弧帯文石である。見るのは二度目。しかし、こんなにきちんと写真に撮ったことはない。岡山大学所蔵のこれがこんなにも堂々と展示されていている。もうそれだけで興奮してしまう。そして、やはり思い付きなのだが、このあとに紹介されるもう一つの弧帯文石との比較研究をきちんとしてほしいのだ。一般的に、楯築神社の御神体の弧帯石とこれとは兄弟のようなもので、同時に作られ文様も同じだと言われている。本当にそうなのか。文様がどのくらい一致するのか、確かめたのか。もし本当に同じならば、その徹底ぶりが確認されるだろうし、今度は筆跡鑑定もしてもらって、同じ職人で作られたのかどうかも確かめてほしい。また、違うのならば、それは何処なのか。なぜなのか。職人は同じなのか。違うのか。検証してほしい。遺物の保存というのは、そういう検証作業のためにあるのではないだろうか。そしてこれが約1700年間「楯築神社ご神体」として人の目にさらされ続けてきた弧帯文石である。レプリカではあるが、元岡大の松木先生は「非常によくできている」と太鼓判を押していたものだ。また、これほど綿密に写真を撮ったのも初めてである。上から見る。下から見る。ご神体の弧帯文石しかない「顔」。謎である。後代に付け加えられた等の説もある。また、いったん描いて削られたのは後代だという説もある。本当はこの顔は龍だったのだという説もある。そもそもなぜここに顔があるのか。弧帯文はこの人物を縛るためにあるのか。すべてが謎である。楯築の特殊器台である。特殊器台はここから始まった。そして、その始まりでは弧帯文様はついていない。よくみると、朱がかけられている。おろそかにはつくられてはない。何もかも特別である。楯築のこの弧帯文からすべての「祀り」つまり古代の「政治」は始まった。日本の原像といっていい。それを日本全体に発信したい。岡山県にはその意思がない。私は非常にもどかしい。
2016年03月14日
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私のブログでは、特殊器台の重要性をひつこいぐらいに書いている。とりあえず詳しくは私の記事のヤマト王権成立のカギを握る「特殊器台の世界」を参照してほしい。この展示会にはふつうここまではそろわない特殊器台が展示されていた。右から真庭市中山遺跡の特殊壺(立坂型)。同特殊器台(立坂型)。新見市西江遺跡の特殊器台・特殊壺(向木見型)。(ここまでは弥生時代後期)。総社市宮山墳墓群の特殊器台(宮山型)。(弥生時代終末期~古墳時代初期)。岡山市都月坂一号墳の特殊器台形埴輪(都月型)。(古墳時代初頭)。正直、都月坂の特殊器台型埴輪と宮山墳墓群の特殊器台は初めて見た。宮山型の特殊器台では弧帯文は非常に簡略になっているのがわかる。楯築からここまでいったい何年なのだろうか。もしかしたら50年も経っていないのではないか。その間に特殊器台の型は少なくとも二回もしかしたら三回リニューアルされている。これはもしかしたら、そのまま特殊器台職人の代変わりごとにそうなったのではないか。だとすると、この文様には「カミの意味」はあまり反映されていなくて、むしろ職人の美意識、つまり現代の洋服のような「モード」だったかもしれない。などという「思い付き」さえ考えてしまう。こんなことを書いている研究書は一切ないはずだ。この模様の意味を突き止めた研究者はひとりもいない代わりに、この模様の意味があまりないといった研究者も一人もいないのである。都月型の「特殊器台型埴輪」に至ると、弧帯文とさえすでに言えないで蕨手文という言い方がされる文様になっている。埴輪と器台の違いは、下に台が付かないで土に直接埋めるようになる。壺はすでに必要がなくなっているので、口縁部は縮小。しかし、この文様にはまだこだわっていることだけは感じられる。楯築からいったい何代目の職人なのだろうか。四代目か五代目か。研究者の方には、「研究課題」を提案したいのだが、文字には癖があって「筆跡鑑定」がある。それならば、文様の線の描き方にも「癖」がないだろうか。土にわりと石先か鉄先かの圧力さえわかるように文様が描かれていて、よく見ればその描く順番さえ想定できるように描いているだろう。それならば、その「癖」は見分けることができるのではないか。そしてそれができれば、同時代にどれほどの特殊器台職人がいたのか推定できるのではないか。うまくいけば、初代から立坂型に至る時に職人の代変わりがあったのか、どうか等々のこともわかるだろう。そうなれば、文様の変化は、職人の気まぐれではなくて意味があったことになる。その他、いろいろなことがわかるのではないか。もちろん胎土によって、どの工場出身の職人かもわかるようになるだろう。非常に面白い研究だと思うのだが、どうだろうか。
2016年03月13日
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分銅型土製品。こんなに揃っているのはもちろん初めてだ。弥生時代中期に分銅型に整ったというのは初めて知った。また、顔の表現を持つようになったのは後期だということも初めて知った。ということは、龍神信仰と「共存」したということだ。今回、顔をまじまじとみつめた。ひとつわかったのは、ハート型龍の顔の土器とは対極にある顔だということだ。この顔には表情がある。よく見ることのある顔だ。赤ん坊の顔である。分銅型土製品はほぼ割れて出土する。また、墓からではなく、住居跡などから出土する。ということは、家族の子どもとの儀式だった可能性があるのではないか。でも死んでから作るのでは遅すぎる。子どもができたときにつくる。そして、あるいは死に安い子どもの代わりに、霊界に行ってもらうための土偶だったのではないか。分銅型土製品は吉備とその周辺にだけに流行した「祈りの形」だった。きっと、吉備地方で霊験あらたかな「物語」があったに違いない。朱の製作道具。楯築遺跡からは異例の30キロにも及ぶ朱が出たそれである。それだけ作るのに、おそらく気の遠くなるような工程と人手とが必要だったはずである。そのことを側面から証明する初めて見た土器である。小銅鐸の土製品。これも非常に興味深い。もし、説明プレートにあるように、銅鐸祭祀が終わった後も家族のような小さな単位において銅鐸祭祀が続いていたのだとしたら、銅鐸祭祀の終焉とは決して「銅鐸の神」を殺して成立したわけではないということになる。この時代における「カミ殺し」は、現代における「戦争による政権転覆」と同じ意味を、もしかしたら持つのではないか。それが発生しなかったということは、銅鐸祭祀から墳丘墓における祭祀への変化の過程で、戦争は起きなかったことを意味するだろう。実際、現代でも昔はお殿様や天皇・貴族がしていたような儀式を普通の家庭で当たり前のように行っていることがある。それは決して、お殿様や天皇を殺して手に入れたものではない。つまり、少なくとも「銅鐸祭祀の終焉において、戦争は起きなかった。」という仮説は有効になるだろう。
2016年03月12日
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昨年の秋、岡山県立博物館で待望の「発掘された日本列島2015」が開催された。それだけでも岡山県の博物館にとってはすごいことなのですが、併用して開催される地域展が予想以上に素晴らしくてまだ興奮している。それは「邪馬台国と吉備」というテーマで、邪馬台国時代の吉備の岡山県所蔵遺物が一堂に会していた。岡山県の、それも私がこの十数年ずっと関心を持ってきた遺物なので、一度は見たものばかりではあるのですが、それが一つのフロアに集まることはなかったのです。各地域の埋蔵文化センターや予約してからでないと見ることができない(結果一度しか入ることができていない)岡山大学埋文センターの遺物が隣同士で見ることができる。しかも、フラッシュをたかなければ写真撮り放題なんです。その日は午後から用事があったので、10時から見始めて十分に余裕があると思っていたのですが、気が付くと午後二時に迫っていました。もう一度じっくりと見る必要があり、じつは写真を撮りに後日もう一回入りました。。本当は「発掘された日本列島」展のことも紹介したほうがいいのでしょうが、こちらには詳しく解説された本がすでに出版されているので、機会があればそれを紹介します。今回はとりあえず「邪馬台国と吉備」展を見て気がついたことを中心にメモしたい。総社上原遺跡のトリ型立体仮面も久しぶりに見た(弥生時代前期)。幅20センチほどで、こうやってみると小さな頭の人なら被れるかもしれないと思うようになった。子供用かと思っていたが、実は今回絵画土器で岡山県からも鳥のいでたちをしたシャーマンの絵が出土していたのに気が付いた。だとすると、被る主体は子供ではありえない。小さい頭だとすると、成人女性だったかもしれない。弥生時代中期、新庄尾上遺跡の絵画土器である。頭は鳥の格好(嘴と鶏冠)をして、両手を広げ何かマントを羽織っている。これは大和にも同じようなものが出土している。そうなると、鳥の姿に神性を求めるのは、広く強く西日本を覆っていた可能性がある。もっといえば、朝鮮半島から、稲の文化とともに来たのかもしれない。これは勉強になった。邪馬台国時代の吉備の土器ということで展示されていたのであるが、やはりこの帯をまいたような形が吉備特有なのだと再確認したことと、甕(かめ)は「器の壁が非常に薄く作られており、熱効率に優れています。また、大きさや形態が規格的で、商品として生産・流通していた可能性が指摘されています」と説明文があった。なかなか素人目に「これは吉備の土器だ」とわからないのですが、これからはそういう目で見てみようと思う。二股鍬は柄の組み合わせ方によって鍬(くわ)や鋤(すき)として用いたものだそうだ。漢字変換して気が付いたのだが、スキは鍬と書いてもスキと読ませることもできるようだ。弥生時代にできたこの道具によってそういう読み方になったのだろう。そして、なんとこの二股鍬は弥生時代後期に吉備で考案されたそうだ。「古墳時代に全国に広まった」とある。岡山県人よ、もっと誇りをもとう!百間川遺跡から出土したこの彩文土器(弥生時代後期)は、何度も見たことのある有名なものなんです。でも、今回の展示会には「突っ込んだ説明文」が書かれているのが特徴でした。この土器に関しては「井戸から出土したもので、赤色で書かれたS字形は龍を表しているという説もあります」と書いていた。後期から晩期にかけて吉備の国が「隆盛」しました。そのときに、弧帯文等の龍を思わせる模様を作る過程の一つして、祭祀土器のこれに龍の文様が描かれたことは、充分ありうることです。吉備の国の信仰の一大特徴は、龍神信仰である。それが時にはこういう模様になり、または弧帯文、特殊器台になる。それを今回つくづくと確認した。その龍神信仰が王位継承儀礼と密接に結びついている。その王位継承儀式が、おそらく大和朝廷の王位継承儀式に受け継がれた。つまり、この吉備の文様の秘密を知ることは、日本という国を知るためにも、とてつもなく重要なことなのである。日本の政治体制が、戦争が決定的な契機にならないで大きく変わったことは、史上二回あると私は見ている。一つが明治維新であり、一つが倭国統一である。明治維新では、国境を越えて若者が縦横に行き来をした。おそらく、倭国統一前夜もそうだったのではないか。奈良の纏向遺跡に各地の様々な土器が搬入しているのは有名であるが、実はここにあるようにそれと同等に吉備の国でも各地の土器が搬入している。四国、山陰、機内、東海、北陸、九州遠隔地のものが多いが、それぞれに弥生時代を代表する国がある。弥生時代後期、倉敷市矢部(楯築遺跡のおひざ元)から出土した「龍型土製品」である。立体的な龍の造形としては、国内唯一のものである。頭頂部と口が大きく開いており、液体を注ぎ入れる容器の一部である可能性が考えられる、とのこと。「両側面にも龍を表すとみられるS字形の文様が描かれている。」と説明にあって、びっくりした。とりあえず、この龍は「人の顔」をしている。言葉を解していたとみていいだろう。龍神信仰の正体にひとつ近づいた気がする。弥生時代後期、足守川加茂A遺跡のハート形の顔のついた「龍」の絵の土器である。やはり人面だ。二つの遺物の出土地域は、足が速ければ1時間も離れてはない。時期も近いか重なっている。しかしこの遺物の「隔たり」は何なのだろう。基本的に同じ信仰を共有していると見たほうがいいのだろうが、本当に同じ信仰なのかとさえ思ってしまう。基本的に「龍」は神なので、こちらのように抽象的に描くほうが正しいのかもしれない。もしかしたら、「龍型土製品」の具象性は異常なのかもしれない。とはいえ、これも抽象的とはいえかなり突っ込んだ描き方だ。この顔の無表情は何を意味しているのだろうか。喜怒哀楽がないように思える。「人間性がない」ということの現れなのだろうか。ギリシャ神話と比較して見ると大きく違うような気がする。また、身体のこの模様は何を意味しているのだろうか。蛇のような鱗なのだろうか。説明文には「稲妻のような文様」と書いていた。私はそんな風には見えないのだけど、私の観察眼が弱いのか。この弧帯文土器の欠片群の多くは初めて見たような気がする。こうやって集中的に展示されると、楯築弥生墳丘墓という弥生時代最大の王の登場よりも早い時期に弧帯文は吉備の国に広く強く普及していたのだと思う。私は楯築の王か、その祭祀を主催したシャーマンが弧帯文を「発明」したのだと思っていたのだが、その考えは修正したほうがよさそうだ。それにしても、「龍神信仰」についてここまで突っ込んだ説明は、今までの本とか現地説明会でも全く聞いたことがない。この説明プレートは展示会が終わると撤去されるので勇気をもって書いてくれたのだと思う。これでも私にとってはおとなし過ぎるくらいだ。だから私は素人の特権でこのように自由に「妄想」を書かせてもらっている。しかし、そろそろ特殊器台祭祀の本質は「龍神信仰」なのだということを公的に論議するころなのだと私は思う。この展示会では、細かい出土地域の広がりや作成時期などはわからなかった。私はそのあたりをきちんと検証しながら論議するべきだと思う。
2016年03月11日
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今年初めての現地説明会。操山の金蔵山古墳。造り出し(前方後円墳の祭祀の場)を去年に引き続いてさらに調べた結果。非常に珍しい形の形象埴輪を使った祭祀が行われたようだ。去年でははっきりわからなかった囲型埴輪の形がはっきりした。とんがっているのは邪鬼を払うためだろうと言われる。聖なる空間を演出し、中には木樋を通した水の祭祀を行った可能性があるという。埴輪は、当然現実にある施設の「模型」だから、それと同じ施設が現実に何処かに存在して水を司る祭祀を主催するのが、築造時点で吉備最大の金蔵山古墳の首長の役割だったことになるだろう。山を登って発掘現場にたどり着く。今年の発掘は去年のそれの確認みたいなもので、大きなものはなかったようだ。しかし、造り出しの前後で段を設けるなど、複雑な墳丘形態が明らかになった。葺石は、操山にあった石を砕いたそれと、河原石を使い分けている。河原石はそばの旭川から持って来たとしても相当の量であるのは確かである。やはりこの墳丘築造には相当な労力がいったと思える。今回聞いてびっくりしたのは、操山の先行古墳として網浜茶臼山古墳と操山109号墳があり、こちらには特殊器台型埴輪が使われていたのである。特殊器台型埴輪とは、特殊器台から埴輪に移行する最初形態の埴輪である。それがやがて円筒埴輪になってゆく(円筒埴輪バウムの記事で発祥の地は吉備だと書いた所以)。その間約70-100年。しかも特殊器台型埴輪の出土地は、都月古墳や備前車塚や近畿地方一部を除けば、この地域に集中しているらしい。その辺りの古墳祭祀の重要な流行がたった100年もせずに、細かいところ言えば、世代が変わるごとに次々と新しい祭祀を取り入れていることに、私は驚きを覚える。箸墓古墳から言えば、金蔵山古墳は4世紀後半で、100年後。その間に形象埴輪は大きく発展した。網浜から金蔵山に至るまで、何かが起きたはずだ。と、この道の専門家は一様に言う。さらに言えば、金蔵山以降、山の頂上に墳墓を築くこと自体がなくなる。そうやって、次々と流行が変わっているのである。写真は沢田地区から金蔵山古墳頂上を臨む。聖なる山の特徴であるお盆を伏せたような形になっている。築造時点では、墳丘は当然こちらかも見えただろうし、南側は海が迫って旭川の入江がすぐ側まできていた。そこからも見えていただろうという。流行が変わるその一方で、地域ごとの横並びは統一される。造り出しや円筒埴輪はヤマトとの同一性を意識している。変化のスピードと横並び意識は、まさに今の日本人だ。せっかくここまできたので、少し足を伸ばして、この地域で最大の石室を持つ沢田大塚古墳に行った。普通腰を屈めてやっと入れる石室が多い(入れない石室が圧倒的に多い)なかで、ここはここはまるでアパートの中に入るように広い。この石室は特別であるが、操山がおそらく数百年に渡り聖なる空間だったことが、こういう規模の古墳がゴロゴロしていることでも分かる。柿畑にはこんな古墳もある。
2016年03月07日
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どーしても欲しくて、送料に商品代金と同等以上掛かったのですが、新潟丸屋本店から送ってもらいました。「円筒埴輪バウム」です\(^o^)/素晴らしい造形。考古学ファンとしては、永遠に飾っときたい衝動にもかられますが、遺物の保存には厳しい眼を持っているので、写真撮影して記録にとったあとはすぐに食しました(^-^)/ザラメの砂糖が、まるで土器の手触りのようでドキドキしました。初めて知ったのですが、新潟県では、古墳時代前期に当たるこの円筒埴輪出土は初めてらしい。豊かな縄文文化の土地なのに、弥生から古墳時代にかけては「辺境の地」になっていたのだろうか。ちょっと興味深い。説明書には、しきりと大和の古墳との類似性をうたっているのですが、円筒埴輪発祥の地は吉備の国であることを、新潟の人々は知らないのだろうか?
2016年03月06日
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2003年から2005年までの3年間、私は実はこの楽天ブログの前に「エンピツ」という日記サイトを利用していた。最近久しぶりにそれを見ることがあり、かなり懐かしかった。しかし、開設してから13年も経つのにいまだにアクセス数が22000弱なのである。webの広大な森の中では顧みられることのない一本の古木のようなものである。ここに書いている文章をそのまま、埋もれさせておくのはもったいない気がして、書評は主に書評サイトに、映画評は機会があればこのブログに、その他旅の記録もこのブログで少しづつ紹介していきたい。先ずは約12年前に書かれた考古学のレポートを記載する。感想としては、考古学に目覚めて約5年後ぐらいの記事だと思う。よく書けている。反対に言えば、こんなに長い事遺跡巡りをしているのに、あまり進歩がない、ということに唖然とするのでありました。この遺跡については、これから7年後に新内宮内遺跡 GW兵庫を行く(下) として記事にしています。最初に行ったときに書いている「三つの美しい三角形の山」や、「分銅型土製品」、「弥生戦士の墓」につては、こちらの記事に写真があります。参考にしてください。2004年01月16日(金) 播磨新宮町遺跡めぐり(03.11.9) 久しぶりの考古学ポートを送ります。とはいっても、内容は吉備地域ではありません。11月9日兵庫県新宮町で行われた「歴史ウオーク」新宮宮内遺跡周辺巡りに参加してきました。この遺跡は山陽線を播磨線に折れて播磨新宮ICで降り、国道179号線を龍野方面にいくと左側に新宮町が見えてくるので、その中の町民スポーツセンターの隣に在ります。皆さんご存知だとは思いますが、私の関心領域は弥生時代です。特に最近は近藤義郎教授の「吉備東遷説」(3Cに吉備の中心勢力が大和にそっくり移って、前方後円墳体制を作った)を自分なりに解釈咀嚼することに凝っています。今回のレポートもその視点で書いていることをお断りしておきます。今回の遺跡の近くには兵庫県を代表する河川揖保川が流れています。兵庫県西の河川流域には注目すべき弥生遺跡がたくさんあって、以前二号線沿いの有年原・田中遺跡に行った時、非常に大きい円形墳丘墓が在ったことに驚きました。特にここでも吉備地域につながる特殊器台・特殊壷が出土していたのです。この地域は吉備を考える上でも大和とのつながりを考える上でも重要な地域だったのではないでしょうか。少なくとも吉備から大和に向かう通過点ではなくまとまった国があり、「倭国大乱」から「卑弥呼の時代」をへて「前方後円墳体制」に移る段階で重要な役割を持っていた地域と考えていい様な気がします。今回新宮町の遺跡群を見て、その規模と量の大きさ豊富さを見て、そう感じました。先ずは新宮宮内遺跡の見学をしました。弥生時代中期を中心とする縄文時代から平安時代の複合遺跡で竪穴住居跡、溝、方形周溝墓、円形周溝墓などが見つかっています。特に円形周溝墓は弥生中期のものとしては国内最大規模です。吉備でたくさん見つかっている、分銅型土製品が21点も出ています。この土器は謎の祭祀土器と言われていて、木管墓の木管が美作地域のそれと類似しているのと同時に同じような祭りをする首長がいたのかと吉備とのつながりを豊富に想像させます。弥生中期といえば特殊器台が「発明」されるだいぶ前、いったいどんなつながりがあったのでしょうか。その一方で吉備ではあまり見られない環濠のあとや矢じりがたくさん刺さった「弥生戦士の墓」も出土されています。また、私が注目したことで、この遺跡から三つの美しい三角型の山が見えるということです。大和の三輪山、吉備の中山、出雲の茶臼山、弥生時代の拠点集落在るところに必ず「かむなび」(神の降りる山)あり。だんだんと私の確信になってきました。事実、この新宮三つの山はいずれも「播磨国風土記」に出てくる山だそうです。一番形のいい大鳥(風土記では鳳)山だけはまだ遺跡が見つかってません。私はきっとなにかあると思います。そのあと、天神山(風土記では飯盛山)麓の意外と考古資料がたくさん展示されてある「歴史民俗資料館」、国指定重要文化財の16Cの社内殿を特別に見せてもらった「宮内天満神社」、全長11.5mの横穴石室に入らせてもらった古墳時代後期の円墳「天神山古墳」、約30基の後期古墳が密集している「宮内古墳群」、日本最後のあだ打ちをした墓がある(その絵馬がなんと倉敷に5点もあるという)「梅岳寺」等を見せてもらった。箸墓古墳と同じ時期の前方後円墳「吉島(よしま)古墳」は残念ながら天候の関係で見ることが出来ませんでした。このコースはなかなかいいハイキングコースになっている。資料はスポーツセンター隣の図書館で手に入るみたいなので、気が向いたときに訪ねるといいかもしれない。今は新宮町では「邪馬台国への道のり」と題していろんな企画をしておりこの「歴史ウオーク」もその一環。その他スポーツセンター2階では遺跡の出土品の展示をしていて、これがその量の豊富さではちょっとした資料館とひけはとらない素晴らしさである。念願だった田中遺跡の出土品もたくさん見ることが出来た。河内、山陰、吉備のつながりがここでも確認できた。豊富な資料もただで貰えた。このお金の掛け方は凄いとしか言い様がない。岡山県に爪の垢でもせんじて飲ませたいぐらいぐらいだ。
2016年02月28日
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「弥生ってなに⁉」国立歴史民俗博物館企画展示図録(2014)図書館でたまたま見つけた。しかし、この表紙に騙されてはいけない。非常に高度で冒険に満ちた内容だった。返却最終日に読み始めたので、また借りることになると思う(流通に乗っていないので買うわけにはいかない、博物館に行くには遠すぎる)。まさか、こんな面白い企画展示をしていたとは思いもしなかった。弥生時代は従来のBC5世紀ではなく、BC10世紀から始まったという説を立てた、藤尾慎一郎氏の全面指導で作られ、文章も半分以上氏が書いている。それの説明図録かと思いきや、その説明はほとんどなくて、「東日本から見た弥生時代」という、かつて見たことも想像したこともない展示になっていたみたいだ。去年の10月に明治大学博物館を見た時に、砂沢弥生遺跡の土器に紛うことなき縄文土器の特徴が現れていて、私だけの発見かと思いきや、既に十分研究(しかし本格的研究はこれからだろう)されているのでした(^_^;)。つまり、西日本らしい弥生時代は、新潟から群馬、埼玉、千葉を結ぶ線より西に限られており、栃木、茨城、福島、宮城のように水田耕作は行うものの農耕社会が成立していたかはわからず、古墳時代に突入する地域や、青森のように水田耕作を300年近く行ったあとに水田耕作をやめ、もとの採集狩猟生活に戻った地域もあったらしい。以下の図がわかりやすい。各論の論述も面白かった。弥生時代における縄文文化の伝統は、呪術具にも幾つかある(綾羅木郷・石棒状石製品、西川津・流水紋遠賀川式土器)、抜歯。大陸系譜。朝鮮半島由来のもの。特に前期末-中期初頭に金属器が来た。中国由来のもの。特に中国鏡。弥生オリジナル。銅鐸の祭り。遺体埋葬用土器(縄文にもあったが、成人のは弥生のみ。金海式甕棺は埋葬用に転用したもの)。分銅型土製品、打製石剣、特殊壺と特殊器台、人面付土器。その他いろいろあるが、今回はここまで。2016年1月11日
2016年01月12日
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明治大学博物館は、東京にある考古学博物館としては、一級の価値を持っていると思う。後半、しばらくお付き合いください。どうしても一つだけ気がついたことをメモする。縄文時代の大家、小林達男教授が言っていたのだが、縄文土器の最大の魅力は世界最古だということではない。火焔土器の芸術性ではない。土器の縁に必ず突起があることだ。それには必ず「物語」があったはずだ。というのだ。そしてびっくりしたのは、この東北の弥生土器には、西日本にはない「突起」があったのである。それは明確、強烈な縄文時代から弥生時代への「連続性」を示唆しているだろう。私は、関東・東北の考古学には疎いのだが、西日本とは大きく違う世界がこちらには広がっていた可能性がある。江戸時代の刑罰の「遺物」の展示も特別展としてやっていた。首を晒すという行為は、刑罰以外にも魂が戻ってきても蘇らないという呪術的な面もあっただろう。とは、宮本常一の指摘である。明治大学博物館を辞して、御茶ノ水駅から霞が関駅に着く。会場の日比谷野外音楽堂はB2の出口からすぐだった。集会のことは既に書いた。デモ行進は、40分ほどアピールして、日本銀行前の公園で終わった。この建物もすっかり歴史遺産だ。せっかくここまで来たのだから、帰りまでの時間を利用して東京江戸博物館に行こう!と突然思う。日本橋駅から錦糸町駅で乗り換え、両国駅へ。着いたのが4時30分。急げばまだ展示を見ることが出来るけど、予定通り諦める。一度観たことがあるので、こだわりがない。ショップで最近の図録を買うのがホントの目的だった。あとでわかったのだけど、この春大幅にリニューアルしたらしい。惜しいことをしたかもしれない。常設展図録が約300円と異常に安くなっていた。それと、二冊最近の特別展の図録を買って満足して博物館を出る。(←図録は基本、博物館の中でしか買えない)両国駅前で夕食。両国らしくない中華だけど、案外美味しかった。なんやかんやで、いったいなんのために東京に行ったのかと疑われるような旅レポートでした(^_^;)。
2015年11月20日
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10月21日仕事が終わって、バスに乗り、電車に乗り、新幹線に乗り、新横浜で降り、さらに電車に乗り継ぎしながら見知らぬ土地の町田に降りたのが10時40分。既に記事化している「憲法をいかし、いのちをまもる10.22国民集会」に参加するために東京に行く交通費は出たので、せっかくいくなら前泊して午前中は博物館巡りをしようという目論見です。町田ヴィラというホテルに泊まった。あまり意味はなくて、楽天で検索して1番安いホテルにしたのである。あとでわかったのだが、東京ではなくて神奈川県だったらしい。あとでわかったのだが、映画「まろほ駅前」のロケ地町田だった。次の日の朝早く、まほろ駅前の映画のロケ地は私鉄駅前通りと訊いて行ってみたら、あまり他の駅前とかわりなかった。この普通っぽさが、やはりこの映画の特徴だったのがわかった。私の街と違うのは、駅前の一等地に「質店」が堂々と営業していること。さすが東京、真っ黒い外国人が闊歩していたことぐらいか。ホテルで豪華なバイキング朝食を摂る。さて、これから今日のメイン、大田区郷土博物館に行く。しかし、あとでわかったのだが、なんとこんな複雑な乗り換えをしないといけないと知った。7:56発 町田 横浜線(東神奈川行) 乗車:6分 運賃:160円8:02着 長津田 ▼乗換5分8:07発 長津田 5・6番線発 東急田園都市線準急(押上行) 乗車:19分 運賃:270円8:26着 溝の口 ▼乗換3分8:29発 溝の口 3番線発 東急大井町線急行(大井町行) 乗車:15分8:44着 旗の台 ▼乗換2分8:46発 旗の台 5・6番線発 東急大井町線(大井町行) 乗車:2分8:48着 中延 ▼乗換6分8:54発 中延 1番線発 都営浅草線(西馬込行) 乗車:3分 運賃:180円8:57着 西馬込 1・2番線着しかも、町田駅で電車の方向を間違える。約12分のロス。私の悪い癖なのだが、9時開館にあわせてギリギリの予定を組んでしまった。着いたのは、9時15分。時間がもったいない。それにしても、西馬込は「にしうまごみ」と読まずに「にしまごめ」と読む。ここに来るまで知らなかった。ホント日本の地名は読みにくい。しかし、こういう読みにくい地名に限って、歴史的ないわれがありそう。また、地域の特色もある。馬込は、関東大震災のあと、尾崎士郎を頼ってかなりの文士がやって来たらしい。文士村として売り出していた。それはいいのだが、やっとたどり着いた郷土博物館が閉館になっていた。展示変えのためらしい。定休日は調べていたのだが、そこまでは知らなかった。「冗談じゃない!、わざわざ岡山から来たのに!」かなりガックリ来た。仕方ない。博物館巡りの第二候補、明治大学博物館に行こう。そこからは、今日のホントの予定の集会会場へすぐだから、ちょうどいい。それにしても、時間がない。よく考えたら、東京はどこを回っても「発見」はありそうだ。暇が出来た時は、一度腰を据えて一ヶ月ぐらい居たいものだ。発 西馬込 都営浅草線通勤特急(京成佐倉行) 乗車:15分 運賃:270円着 三田 ▼乗換5分発 三田 4番線発 都営三田線(西高島平行) 乗車:11分着 神保町 4番線着景色はすっかり東京。明治大学って、こんな高層ビル化していたんですね。そして、その地下一階二階に何ともすごい博物館がありました。ストロボ撮影しなければ写真OKということなので、以下説明文も全部写真で代替します。それにしても、日本の大学博物館に来たのは、岡山大学のそれ以来二回目です。大学に博物館を設けていること自体、日本では珍しいことなのではないかと思うのですが、明治大学博物館は、その中でも空前絶後でした。大学博物館のことは、まだよく知りませんが、おそらくここが規模・質共に日本一なのではないか?写真が多くなったので、後半にバトンタッチ。
2015年11月20日
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「氷河時代のヒト・環境・文化 2012年度明治大学博物館特別展」図録旧石器時代は、私の長い間の「関心外」考古学だったのですが、明治大学博物館に行ってせっかく買ってきた図録なので、しっかり読んでみました。2000年の「前期・中期旧石器時代遺跡捏造事件」の余波は、この図録にも影を落としていて、4万年前の遺跡(中期以前)候補はいくらかあるみたいですが、確定したとは書いていません。また、この図録にはおびただしい数の石器の写真があるのですが、そのほとんどが「原寸大」なのです。これほどまでに、現物を大切にする図録は初めてです。以下学んだことをメモ代わりに以下に記す。私も充分咀嚼し切れていない専門用語がありますが、すみません。○20ー15万年前にアフリカで進化したホモ・サピエンスが、アフリカから拡散し始めたのは約6万年前。4.5万年-4万年前までに、西はヨーロッパ西部に、東はオーストラリアまで到達。○ネアンデルタール人は3.5万年前に現代人と交代。その時に若干の交雑はあった。○日本列島の現代人はほとんどつながりかけていた対馬海峡か、琉球列島から来た可能性が高い。後期旧石器時代前半期に日本列島にいた動物は、北海道のマンモス、本州・四国・九州のナウマン象、大角鹿(ヤベオオツノジカ)、本州以南ではそれに加えオーロックス、ステップバイソン、ニホンムカシジカ、オオカミ、ヘラジカ、ニホンジカ、ヒグマ、ツキノワグマがあるが、多くは最終氷期最寒冷期で絶滅。○後期旧石器時代前半期の石器群は、「環状のムラ」として登場する。直径80mから10mにかけて環状に点々と石器が出土している。○その場合、小さいムラは、単位集団の遊動と離合集散があった。それが、集団的協働に移り大きくなる。やがて、資源獲得の効率化・活性化による人口増加、気候の寒冷化傾向、資源・社会環境への人口圧の増大により、同盟関係、相互扶助の強化としてのムラが出来たのではないか。という仮説を立てている。○東京都神津島にヒトが到達したのは、3.8万年前であることが明らかになった。ここに行くためには、舟が絶対必要。そして、ここで生産された黒曜石が、箱根、関東西部、関東東部に運ばれている。2015年10月読了
2015年11月20日
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昨日、総社神明遺跡の現説(現地説明会)に行ってきました。またか、と思われるとは思いますが、ここでこの遺跡の現説の記事は三回目ですから当然です。岡山埋文の発掘調査はここにかかり切りみたいですし、他に適当な現説がないのです。これは弥生時代の焼失住居跡の説明状況。失火ではなく、他に土器が見つかっていないことからも移転のための焼失だろう。とのこと。 今回埋文が現説を開いたきっかけは、例の銅鐸の洗い出しが返ってきて、模様がはっきりしたからとのこと。 とは言え、私の撮影技術ではその模様はよくわからないので、パネルをみて欲しい。しかし、意味わからんとおもうので、むつかしい漢字は苦手なので、説明パネルをそのまま載せます。 今のところ、同型の銅鐸が見つかっていない。それはそれで、特異な話。また、1番期待された発掘調査での銅鐸発見によって、細かな埋納時期が特定出来るのではないかという期待は空振りに終わりそうだ、ということ。しかし一世紀前半とわかっただけでも良しとするべきか。 今回のマイ大発見は、楯築以前の孤帯文土器が見つかったことである。つまり、あの文様自体は楯築遺跡で突如出現したモノではなく、一般住民の祭祀を流用したものだったということです。模様はあまり規則性はきちっとしていないし、非常に細い線で描かれて弱々しい。身分の低い、普通の家の祭だと見る所以である。しかし、孤帯文様は私には雲の渦巻きに見える。やはり「龍神の祭」が王位継承の祭に進化した可能性が、私の中では高くなってきた。孤帯文土器は、普通の祭用の器台か広口壺だったのだろう、とのこと。時代は弥生時代後期である。残念ながら、近代の穴倉から見つかったために詳しい時代認定は出来ない。しかし、この土地は100年以上人々が住んでいたらしい。暮らしやすい中核の村だったのである。吉備の村の一つの典型と思っていいだろう。面白いものを見させてもらった。
2015年09月06日
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弧文円板(復元)。纏向石塚古墳(3c)出土。みてわかるように、特殊器台の模様である。 纏向弁天塚古墳(3C)の特殊器台。見事だ。吉備の工人がこちらに来たのか。それとも吉備で学んだのか。 この前急いでみたので、今回初めてじっくり見た気がする。これが日本史解明の大きなカギを握る箸墓古墳から拾って来た、特殊埴輪の破片である。ビックリした。器台とは書いていなかった。埴輪なのだ。とにかくこれを「拾って来た」おかげで、箸墓古墳の時代がわかったのだからかなり貴重なのだ。 だとすると、楯築から箸墓まで50-80年ぐらいしかないのか。楯築の王が亡くなって、箸墓古墳が出来て曲がりなりにも大和に倭国を代表する王の墓が出来たその時までに、一〜ニ世代分の時間しかないのだ。そうか、やはり埴輪なのだ。しかし、特殊器台の終わりからすぐあとの世代だ。 メスリ山古墳(4C)の埴輪の実物である。やはり大きい。古墳の後円部中央にある二つの竪穴式石室の上部を長方形に取り囲む形で、大型の円筒埴輪と高杯型埴輪と円筒埴輪が二重に巡っていたらしい。最も大きな埴輪は、石室の両端の位置にあり、高さが2.4メートル。日本最大らしい。「王よ、私はこんなにも大きな埴輪を作ることに成功しました」「そうか、それならば今度のワシの墓に使おう」。そういう会話が聴こえるようだ。 (追記)昨日の記事をFacebookで公開すると、「このような大きな円筒埴輪があるのを見ていると、もっともっと大きな埴輪を作ってみようと思わなかったかな?って考えちゃいますね!!」と感想が届いた。しかし、仁徳天皇陵(仮称)の例から見ても分かるように、人間はある程度の大きさを極めると、あとは小さい方向、複雑系に向かっていくらしい。埴輪がどんどん形象化して行ったのは、そのせいかもしれない。ただ、日本人はともかく大きいのが好きで、スカイツリーで騒ぐのもそのせいだろう。そろそろあんなのは止めた方がいい。 大型埴輪の作成実験もしていた。形を作るのに一ヶ月。さらにその場所でゆっくり乾燥させ、埴輪の周囲を粘土でかこみ窯を作り、焼き上げるまで8ヶ月かかったらしい。楯築の実験は野焼きだった。こちらの方がはるかに大掛かりだが、大きく上手く作れるのは確かなのだろう。王の権力がそれだけ増大している。その力は何だったのか?鉄か?しかし吉備も鉄は輸入していたはずだ。倭国統一を果たしたあとに、大和はいったい何が変わったのか?わからない。 メスリ山古墳。長さ236メートルの前方後円墳で、代表的な前期古墳。後円部の頂上に約8メートルの竪穴式石室があり、これは既に盗掘にあっていたが、その東側の高杯型埴輪の下にも副葬品のみの石室(副室)があり、玉状や鉄製弓矢、200本を越す鉄製槍先、236本の銅鏃、鉄製農耕具などが納められ、まさに武器庫のようであったという。つまり、平和理のうちに始まった大和王権は、すぐに武力王権に変貌したというのだろうか。わからない。 これは太安万侶(古事記などを編纂)の墓誌。ビックリするのは、あれ程の歴史家が自らの人生を一切語らずに、身分と没年のことしか書いていなかったこと。そのおかげで、養老7年という彼の没年がわかり、実在の人物であったことがわかった。しかし中国の有名人などと比べるとあまりにもあっさりしている。 博物館を出て駅に向かう。途中、橿原神宮の鳥居を横目で見る。そう言えば、この辺りは何度も歩いたのに、橿原神宮に参ったことは一度もなかった。ここは神武天皇を祀っているところだと初めて知った。来年は(戦前かよと突っ込みたくなるような)「二千六百年大祭」があるらしい。 橿原神宮駅で埴輪饅頭なるものを買った。ここまで午前中に歩いた歩数は約2万6千歩。いやあ、歩いた、歩いた。 というわけで、近鉄奈良駅で降りて本来の目的であった平和委員会全国定期大会に参加したのでした。(続く)
2015年07月31日
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甘樫丘周辺から畝傍山のふもとの橿原考古博物館に歩いて到着したのは10時半ごろだった。予定よりも少し遅れた。これは修羅石である。古代7不思議というのがあるかどうかは知らないが、研究者の間では、熊本阿蘇山の遠くから古墳に使った巨石を運んだことは知られていたが、それがどうやって運ばれたのかは詳細はわからなかった。それで昭和53年、藤井寺市で朝日新聞社と朝日放送とが主催して復元修羅の牽引実験が行われた。その重量14トン。実際にこういう形で運んだことが証明されたし、使われた延べ人数がわかることで、当時の権力者の力が数字として出すことができるようになっただろう。 博物館館内に入った。前回までは飛鳥時代主に6ー7世紀の世界を想像していたのだが、これからは一挙に時代を遡って縄文時代から弥生時代、そして古墳時代の初めの頃にタイムトリップします。玄関前にあるのは、古墳時代初めの頃の象徴的なオブジェです。橿原考古博物館は、珍しく展示物によって、撮影OKなのと、ダメなのと分けている。しかし、おかげで堂々と写真を撮ることができた。助かる。これは桜井市メスリ山古墳の円筒埴輪(復元)である。箸墓古墳の次の世代の王だといわれている。見てわかるように、弥生の吉備の楯築遺跡から発達した特殊器台の名残りを持っている。しかし明確に円筒埴輪に移行しているのと、これはビックリしたのだが、こんなにも大きかったのか!ということ。それも一つではないのだ。百幾つもこれがずらっと並んでいたのである。この世のものとは思えないお墓が演出されたのではないか。 これは橿原市の観音寺本馬遺跡(縄文晩期)土壙墓から出土した埋葬人骨。屈葬だったこと、165センチと比較的背が高かったこと。などが特徴。 この地域から出土した縄文の土偶。すべて壊されて埋納されている。当然なんらかの儀式の必要があってそうしているのだ。最近気がついたのだが、現代人は土人形を壊すのも単なる「儀式」としか思わない。しかし、縄文人や弥生人は違う。明確に呪術的な「力」を信じていただろう。壊す前の土偶には、明確に「人」かそれに連なる「何か」が入っていたに違いない。そう思うと、この小さな土塊の一つ一つがとても生々しく見えてくる。 この部屋の中央には弥生時代のジオラマ(立体模型)が展開されている。一般的にジオラマはその時々の研究成果の集約的表現なので、着物の帯一つさえ参考になる。橿原の弥生人は、流石に都会人っぽい格好をしている。 弥生人の戦いの装束らしい。中国や朝鮮では、既に鎧は開発されているが、倭国では、その必要はなかったのだろうか。 戦争用の弓ではなく、短弓であることに注目。大きい矢じりはあまり出土していないのかもしれない。 弥生時代の武器である。軽々しくいえば、全体的に貧弱である。 弥生時代の舟。五人乗り。木材のくり抜きであって、構造船ではない。川を下って、高速交通、近海の魚獲りぐらいには使えたかもしれない。 ここまでは弥生時代。しかし、大和の考古学のすごいのは、弥生から古墳時代に移る時の決定的な遺物が豊富にあるところなのだ。(続く)
2015年07月30日
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「古代国家成立過程と鉄器生産」村上恭通 青木書店 弥生晩期(世にいう邪馬台国の時代)に倭国統一がなったのは、鉄の流通を掌握した人物が、それを望んだからである。という予測をたて、そのために韓国まで何回も赴いてまで材料を探した私ではあるが、この前「その割には考古学の鉄の専門書を一冊も紐解いていないよね」ということに気がついた。 村上恭通氏は現代古代鉄考古学のおそらく第一人者である。その人の8年前のおそらく集大成ともいえる専門書がこれである。それ以降専門書も一般書も著してはいない。淡路島の五斗長垣内遺跡も言及していないので、情勢が変化していないわけではない。むしろ、あまりにも発掘が多すぎて整理し切れないのかもしれない。でも流石に専門書だけあって、驚きの連続だった。 「炉で熱した鉄素材を鍛治具を用いて鍛えて製品化するという鉄器生産の方法が遺構・遺物の双方から確証出来るのは弥生時代中期末葉以降である」(10p)それは当然としても、弥生時代中期から既に先行的な遺構が幾つも出ていたとは知らなかった。北九州・中部九州・山陰・西瀬戸内に関して言えば、穂摘み具以外はほとんどの利器が鉄器化していたという。しかも、大陸と比べて技術的には劣るものの既に「日本化」していた。雑種文化たる日本の面目躍如である。再加工になればさらに前期に遡る。 ここを読んで素人ながらもかなり「驚」いた。なんとなれば、弥生終末期に倭国統一を果たすはずの近畿では鉄器を用いての農耕をしていなかったというのだ。それではすべての生産量が西日本に劣るではないか!日本はどうやって倭国統一を果たしたのか?それについては、この本では何も言及されていない。 わたしはもちろん、「日本は話し合いによって、倭国統一がなされた」世界的にも稀な国である。と仮説を立てている。しかし、国力が劣っている地方でその盟主が生まれたとは思っていなかった。これは「謎」である。 製鉄技術が渡来人含めて倭人によって用いられ始めたのは、少なくとも西暦元年前後からになる。それから6世紀の初めまでの約500年間、ついには「製鉄」は行われなかったのか。それはなぜか。これも私の「謎」になる。それには著者は少し答えている。 「製鉄を弥生時代に始めた」という説を唱えている学者もいるらしい。広島県三原市の小丸遺跡は中期後半でその可能性があるらしい。しかし古墳時代の可能性も否定できず、著者は否定的だが、私には刺激的な説だった。また、熊本県西弥護免遺跡の鉄製品は低温による直接製鉄法の可能性があるらしい。 しかし大筋においては「製鉄は順調に発展継承してはなく、その生産性と経済効率の低さから、鉄素材の舶載に強く傾斜していった」(50p)つまり、製鉄よりも輸入の方がコスパが良いということだったらしい。 鉄器生産を具体的に見てみる。九州経由の技術と、山陰経由の技術がある。特に山陰の鉄器生産は特筆すべきものがあったらしい。 伝播ルートを見てみる。一つは北部九州→松山平野→今治平野。そこから芸予諸島から北上して山陽ルート。または、四国北岸地のりルートがあり、瀬戸内の真ん中を突っ切る沖のりルートは存在しなかったという。特に徳島の鉄器生産は多く、若杉山遺跡に産出する辰砂や朱の関係があったのではとも書いていた。また、東九州から高知に向かうルートもあった。 一方広島平野は中期末葉まではほとんどなかった。しかし後期中葉以降は、環瀬戸内の中心地となる。やがて東部瀬戸内地域まで、近畿と対峙するほどの質・量を誇るようになる。 東日本では、日本海沿岸を除くと、鍛治工房としてあるのは弥生終末期の愛知県豊田市の南山畑遺跡のみ。近畿も鉄器生産はなかった(この時点では大和鉄器生産拠点としての五斗長垣内遺跡は述べられていない)。 2015年5月3日読了
2015年05月04日
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「日本発掘!ここまでわかった日本の歴史」朝日新聞出版 「発掘された日本列島」展20周年記念の連続講演会の記録である。さすがに文化庁主催なので、講師は豪華だ。 私の関心はご承知のように弥生後期から古墳前期までなのであるが、その前提としての石器時代、縄文時代、そして古墳時代の終わり方も興味がない訳ではない。 よって、旧石器時代偽造事件の処理顛末として、国際連帯が高まったことを知り、あの事件がまったく無駄な10年間ではなかったことがわかり嬉しかった。 また、縄文時代の重鎮小林達雄氏の健啖振りを聞けて良かった。縄文土器の1番古いのは、青森県大平山元遺跡の1.5万年前のモノであり、それに次ぐのが中近東の9000年前の土器というのだから、ダンチです。しかし、氏は「土器はあくまでも標識で、縄文革命とは定住的な生活が始まったことが革命だ」と述べる。縄文時代の定住するムラの発展は、ハード面だけでなく、祖父母から孫世代への知識の伝達というソフト面の発展があったことが重要だと云う。その通りだと思う。縄文世界の特徴は何か。火焔土器はよくわかるが、沖縄の伊波式土器にも突起がある。何故これが共通するのか。それは「言葉」である。東北から対馬、沖縄まで言葉は共通で、少し離れただけの朝鮮半島とは違っていた。この視点は弥生を考えるときも重要だと思う。 重鎮たちの話は自説の解説になっていたが、弥生を担当した石川日出志氏は、講師陣の中で1番若い。よって、このパートのみが「ここまでわかった日本の歴史」を体現していた。私はしっかりとメモをとった。 古墳時代の大塚初恵氏は、反対に講師陣の中では1番の高齢で、今年89歳。その割には講師陣の中では、石川氏ほどの精緻な紹介はしていないものの、全体的な学説の到達点を述べていたのは流石だと思う。 さて、以下は石川氏の説をメモしたものです。私用ですので、無視してください。 ●弥生時代早期論争 (1)菜畑遺跡の夜臼式土器。縄文終わり→弥生「早期」として学会で合意。 (2)歴博チームの説。始まり5世紀→10世紀。弥生前期B.C3→B.C8。中期B.C2→B.C4。 (3)現在。歴博チーム説。従来説。中間説(開始を6ー7世紀にとる)の三つに分かれている。 ●稲作の始まりはいつか。 (1)縄文時代の始まりから?→否定。しかし、豆類は栽培していた。弥生早期ではアワ・キビの栽培も始まっていた。生業・食糧調達方法はこの20年間で一変した。 ●弥生のムラの姿 (1) 環濠集落は、弥生前期では全国的に小さく、中期では九州と近畿で規模が爆発的に拡大する。中・南部九州、東北、茨城・栃木県域、瀬戸内北岸と長野・山梨あたりは環濠集落がないか、きわめて少ない。 (2)大阪八尾南遺跡の洪水埋納竪穴住居群は注目。 (3)静岡平野は登呂遺跡のあるのにも関わらず、後期の大きなムラはまったくない。(←もしかして津波の影響⁉) (4)北陸に高地性集落。後期初めに福井県地域で始まり、後半に北陸地一帯に広がり、またすぐになくなる。この時期の激動を物語る。 (5)福岡市比恵・那珂遺跡群、南北一キロ以上もある広大な集落。弥生早期に那珂に環濠集落として出現、紀元後2世紀ごろにムラをいっせいに再編したことがわかった。ここは春日市須玖遺跡群と共に奴国の中心地。 (6)纒向遺跡も後期末に唐古・鍵遺跡を再編して出現⁉2013年国史跡に指定。 ⇒(4)〜(6)より、つまり弥生時代後期後半(紀元0から2世紀?)に九州から中国、近畿にかけて時代の波に揉まれる大変動があった⁉ ●青銅器の鋳造と副葬・埋納 (1)青銅器の発見例がない熊本市八ノ坪遺跡・白藤遺跡から、銅剣・銅戈・小銅鐸などのいろんな青銅器の鋳型が出土した。 (2)弥生時代前期末〜中期初め、BC3世紀の鋳型が福井、和歌山からも出土。全国から青銅器鋳造は始まった。青銅器鋳造始めは九州か機内か、邪馬台国論争と絡めて論議して来たが、これで幕を閉じた。 (3)中期後半、BC1世紀になると、福岡市須玖と比恵・那珂、茨木市東奈良遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡など特定の集落で青銅器を作って周りに配布するようになる。 (4)北部九州の社会の階層化の様子がわかってきた。中期前半、BC3〜2世紀はまだ中心はない。中期後半、BC1世紀になると、ようやく奴国と伊都国地域が社会的に突出した位置を占めてゆく。吉野ヶ里よりもワンランク上。ふたつの国が突出したのは弥生時代前期からではなかった。 (5)青銅器埋納の具体例が各地で明確になった。発掘途中での発見例が続いた。長野県中野市柳沢遺跡で、西日本だけでなくここからも多量埋納。銅戈と銅鐸。一点だけ九州産、あとは畿内産。銅鐸を鳴らし、銅戈・銅矛・銅剣で春秋の農耕祭で宗教的なパフォーマンスをしていた西日本の祭は東日本でもあったということになる。福岡県小郡市寺福童遺跡でも同じ埋納。すべて埋納の仕方が同じということは、儀礼行為が全国的に定式化していた。和辻哲郎の銅矛銅剣文化圏と銅鐸文化圏の対立という図式は確実に否定して良いと思います。 ●地域的個性への注目 (1)京都府与謝野町大風呂南遺跡(後期の方形台状墓)。丹後地域の豪華な副葬品。武器や宝石。こういう副葬品は北部九州以外ではここのみ。日本海での交易の成果か。京丹後市赤坂今井遺跡(弥生晩期、方形台状墓、一辺約40m)中心部は未発掘。出雲と吉備に匹敵する人物だった?(←そうかもしれないが、私はかなり好戦的な人物だったと想定しており、好きではない) (2)長野県木島平村根塚遺跡(後期後半、木棺墓)。渦巻き装飾の握りのある鉄剣。これは明らかに金海地方伽耶地域のもの。しかし、握りの部分の軸が剣身とズレ。西日本や大陸にはなく、東日本特有。東日本が大陸に特別注文をして手に入れたのでは。それぐらいの大陸とのネットワークを持っていた証拠。 (3)仙台市沓形遺跡(弥生中期)では、津波のあと(当時は海岸線から2キロ内陸)。このあと水田の放棄。 仙台平野ではこのあと、中期後半から後期の遺跡はすべて仙台平野の西側のやや高い地域のみに分布するようになる。869年の貞観大地震で、多賀城にも被害があったことが確かめられている。約1000年おきの大地震と津波。 寒川旭氏による地震考古学の提唱。 ●考古学と倭国・邪馬台国論争 (1)「九州と近畿、どちらが有力かとか、九州と近畿が直接手を結ぶ状況はすぐにはわからないわけです。ところが出雲や吉備を中心にみると、まず最初に両地域を核として遠隔地の有力者どうしが手を結ぶ状況が出来上がります。新しい政治的連携をともなう古墳時代開幕直前の社会の組み替えは、じつは近畿地方でも九州でもなく、中国地方あたりから胎動し、次第により広域な、九州から近畿、一部東日本まで含めた広域にわたる政治的な連携が実現していくわけです。」(135p) 2015年4月1日読了 (内容紹介) 江戸東京博物館で2014年に開催された 「発掘された日本列島」展20周年を記念する連続講演会「日本発掘」。 捏造事件後の旧石器遺跡検証の道のりと、 わかってきた列島の旧石器の独自性。 大規模発掘により、近年各地で発見相次ぐ 環状遺構の共通性と見えてきた縄文人の心性。 弥生開始年代論の現在と、 モノの移動に見る日本海側の地域と大陸との交流。 墳丘墓か古墳か、白熱する発生期研究と、終末期古墳研究の現状。 都城中心部での発掘調査成果で明らかになる律令国家の誕生。 史料の欠を埋める中世都市の発見。 遺跡探査・遺物分析・資料保存に果たした科学技術の役割など、 最新情報と考古学の醍醐味をわかりやすく解説する。
2015年04月02日
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27日の土曜日、岡山市操山の金蔵山(かなくらやま)古墳の現地説明会に行きました。 操山は今までも、何回かご紹介しました。ハイキングコースであると共に、大小の古墳が至る処にある、聖なる山です。ほんの道の真ん中にこんな小さな古墳がある。 道端にガマンすれば中に入れそうな、古墳時代後期の沢田裏山古墳。 奈良の石舞台古墳を小さくしたような巨石だけが残っている八畳岩古墳。それらの道をなかなかしんどい山路を登って、備前平野を見渡せる一つの山の頂上に行くと、今日の現説現場がありました。 金蔵山古墳は4C末〜5C始めに作られた、墳長165mの築造当時では中四国・九州では最大の前方後円墳です。よって、当時の時代を考える上では最高に貴重な古墳と言えます。 この古墳の前方部と後方部のつなぎ目から造り出し(祭祀場)が発見されました。円筒埴輪列と柵型埴輪列で区切られた中に、家型埴輪がふたつ出てきました。切妻造りと入母屋造りです。囲型埴輪も出てきました。蓋型埴輪の破片も出土しました。 しかも、注目すべきはくびれの反対側に「島状遺構」が確認されており、そこが造り出しのように祭祀を行う「場」であれば、全国三例目の大発見になる。とのこと。 これは入母屋造りの埴輪。ともかく、このように埴輪の位置がハッキリ分かる発掘現場は他に例がないそうで、古墳造り出しの起源や性格を研究する上で、とても貴重な発掘になったそうです。 「私は古墳祭祀は前方部でなされていたと認識していたのですが、違うのですか?」 前方部はやがて祭祀場所ではなくなった、という答を期待して質問すると、 「前方部で古墳祭祀が行われたというのは、江戸時代に唱えられ、そのために前方後円墳という名前がつけられたのだけど、それは幻想です。」 と、大きく否定されてしまいました。前方部で祭祀が行われた証拠はないそうです。 あとで他の人に聞くと、前方部で祭祀が行われた可能性も残っているそうです。4C後半という、古墳時代が始まって比較的古い頃の祭祀遺構が見つかった。これから、研究がさらに進むことが期待されます。しかし、それにしても未だに前方後円墳がなぜあの形になったのか、それさえも我々は解明していない。古代がロマンである所以である。 この発掘は、国指定史跡を目指しての調査らしい。国指定にするべきでしょ!
2015年03月07日
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2月24日と27日に、現説(現地説明会)に行きました。それを記事化したのが、この前のメモアプリコピー消滅事件でアプリそのものが使用不能になって、いくつかの記事がいまお蔵入りになっています。 そのままにしていると、記事の内容そのものが腐ってしまうので覚えていることだけでも記事化して残しておこうと思います。 24日の現説は、以前総社の神明遺跡で銅鐸が見つかったと報告しましたが、あの遺跡のまとめ的な説明会です。平日の火曜日に行われたのは、小学校の授業に使われることを想定した現説だからなのでしょう。小学生にとって初めての遺跡発掘現場のはず。身近に遺跡や古墳がある総社や倉敷市の小学生にとってドキドキするような体験になればいいな。私の小学校時代にこんな授業があれば良かったのに。 さて、神明遺跡の銅鐸についてです。あれから半年、新たにわかったことはまだ多くない。この説明書にあるように、発掘現場から出土した貴重な銅鐸です。つまり、銅鐸を「埋納」した時期が特定出来る貴重な銅鐸です。つまり、「おそらく西暦元年の頃に埋められた」ということが確定すれば、その前後にいったい何があったのか、銅鐸祭祀を終わらすような出来事があったのか、様々なことがわかってくる貴重な銅鐸です。 「埋納」したのは、ほぼ確定です。説明書にあるように、どの地域でも銅鐸はこのように埋めて祭祀を終わらせています。 今回の最大の収穫は、この分銅型土製品を見ることが出来たことです。なんと、これは銅鐸の少し下から出土したらしい。銅鐸と同時に埋められたわけではないらしい。だとすると、ふたつのことが分かる。銅鐸が埋められた場所は、普通の場所ではなく、「神聖な場所」だったこと。(1800年前と書いているけど、私が間違いを指摘しました。2000年〜2100年前?) もう一つ。この拡大版を観て欲しい。色が違うけど、これはカメラが悪いから。本来は土色です。なんと云う精巧さだろう。なんと云う丁寧な磨きだろう。人の顔を入れることが多いのに、これは幾何学文様になっている。分銅型土製品の用途はまだわかっていない。土偶的な使い方がされたのではないかといわれている。ともかく、単なる遊び道具では決してない。重要な祭祀道具だったことは明らかです。 その他、この遺跡で見つかった遺物を集中的に展示していた。まとめて紹介します。
2015年03月06日
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11月10-11日、韓国の旅でたいへんお世話になったsuzuさんが長期の台湾の旅を終え関西経由で岡山を通るというので、岡山の案内をしました。 「何が見たい?」と聞くと、 「遺跡!」と言うので、 私の「とっておきの吉備の国」をお見せすることにしました。 とは言っても、いくと決めていたのは楯築遺跡と造山古墳のみで、あとはその時の興味と時間割で決めたのでした。 結果、一日目は 楯築遺跡→造山古墳→千足古墳→吉備五重塔→こうもり塚古墳→江崎古墳 二日目は 三因古墳群→軽部神社→総社埋蔵文化財学習の館→鬼の城 ということになってしまいました。幾つも心残りはありますが、とりあえず弥生晩期から古墳時代の全てを通り過ぎて大和体制の確立までは説明出来たのではないかと思います。これを時系列にまとめると、楯築遺跡→造山古墳→千足古墳→こうもり塚古墳→江崎古墳→三因古墳群→鬼の城→五重塔→(まとめ)総社埋蔵文化財学習の館→(おまけ)軽部神社となります。ということで、時系列に紹介します。 楯築遺跡(2C後半)の謎の立石に手を添えるsuzuさん。 楯築遺跡は弥生時代最大の墳丘墓にして、その後の古墳時代を準備した(くま説)という点でも、超重要な遺跡であるということは、既に私のブログでは何回も述べています(よね?)。今回、県立博物館や国立博物館にもレプリカがある遺跡の「御神体」を、隙間から撮影したら、案外綺麗に撮れたのでちょっと嬉しくなりました。重要な弧帯文様は鮮明ではないけど、周りの様子がよくわかります。 全国四位にして築造当時(5C)の頃には日本最大だったかもしれない、しかし中に入れる王墓級の古墳、造山古墳を眺めるsuzuさん。 そのあと、造山の培塚であろう千足古墳を確認。 非常に立派な石室の中に入れる、こうもり塚古墳(6C)に入り、 その近くにある多分最後のこの地域の王墓江崎古墳の石室を眺めるsuzuさん。 同時にその頃は、古墳も首長墓から(リーダー的な家の)家族墓に移りつつあった。何百という古墳が集まっている三因古墳群を見る。 白村江の戦いに敗れた倭国は日本各地に山城を築きました。その中の一つ、ちょうど私たちが歩いた吉備の国が一望出来る位置に鬼の城(7C)があります。近年発掘調査されて、西門やそれに続く城壁が復元されました。 城壁は当然「版築」で丈夫に作られています。けれども、1回の大雨で復元された版築城壁が崩れてしまうという大失態をしています。反対に言えば、其れほど過去の技術が凄かったということでもあります。そのあと直していますが、suzuさんがそことは違う場所で、城壁の新たな崩れを見つけてしまいました。 鬼の城までは、一方では大和体制が吉備の国を支配下に入れる歴史でもありました。しかしそれも一段落つき、国分寺が各地に作られていきます。この写真の五重塔は江戸時代の制作ですが、この地にひときわ広く国分寺が作られていたことが確かめられています。 それら一連の出来事をちょうど総社市の埋蔵文化財センターの遺物が証明していたので、一通りsuzuさんに説明出来たのは幸いでした。 これはおまけ。ちょっと思いついて軽部神社にいきました。ここは、おっぱい神社という別称もあって、乳の出が悪かったり、安産、乳がん治癒を祈念して多くの絵馬が奉納されていることで、有名です。 私のとっては当然のこと(石室の中に入れることなど)を、思いがけず喜んでくれたり、一通り説明することで、楯築から始まった吉備の国の理想が、「日本国」成立の過程で、支配下に置かれて忘れさられていったことなどが、自分なりに改めて思い知らされ、興味深い2日間でした。
2014年11月24日
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ちょっと前でしたが、総社の神明遺跡の現地説明会現場にいきました。午後から用事があるので、資料だけ貰いに行ったのですが、忙しいのに説明をしてくれました。 弥生時代中期に作られた銅鐸が埋納した状態で見つかったということで、2200年前ごろに作られ、2000年前ごろに役割を終えて埋められたかも。集落遺跡の発掘現場で見つかった埋納銅鐸は極めて珍しく、全国でも20例しかないらしい。これによって、周囲に多くの土器片があることから埋められた時期が「特定」出来る可能性が出て来ました。それが何故重要なのか。銅鐸はほとんど埋納されて発見されます。それはある時期を境に、突然銅鐸祭祀が終わりを告げるということを意味します。そのあとに楯築遺跡に代表されるように、大型墳丘墓が発達し、王ともいえる存在が吉備から出て来ます。それはどちらが先立ったのか、鉄の出現と関係あるのか、大陸との関係は?等々の疑問に答えが見つかるかもしれないのです。 ともかく吉備でこのような遺物が発見したことは初めて。注目したい。これは出土した弥生土器。 これは銅鐸埋納場所の引の画面。前の発掘現場の写真と比べてここが「微高地」になっていることが分かるでしょうか。弥生時代はかさ上げして家を建てるとかはしなかったので、こういう微高地に人が住んでいることが多かった。やがて時代が下って古墳時代になると、昔沼地だったところにも河川の水はけ工事の結果もあり、人が住むようになる。それが前の発掘現場です。 この弥生の微高地に、写真のように銅鐸が埋納されていたそうです。埋納の仕方は、全国的によく似ている。決して捨てられていたのではない。では、なぜ埋納したのか。侵略者がやって来て隠したならば、他の地域と同じ埋納の仕方になるのはおかしい。極めて特殊な事態だから、他の地域と相談して埋納の仕方まで決める余裕はなかったはず。毎年祭りの後には埋納していたのだ、となると合理的ではあるが、本来黄金に輝いていた銅鐸をわざわざ錆びるようなやり方で埋納するだろうか。 とか、いろんなことを想像させるのが、こういう発掘現場の楽しいところです。
2014年10月10日
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青谷上寺地遺跡展示館を出て、今日は日曜日なのでやってはいないのだが、発掘現場に行ってみた。ずいぶん雰囲気が変わっている。イメージキャラクターまで出来ている。 この遺跡はこの道路を作るために発見された。脳が残っていたことで、世界的な発見になり、一部そのままになっているようだ。 まだまだ掘ることが出来ていない部分はあるのだろう。まだ何か出てくるのかと思うとゾクゾクする。 ホントはこの残土も宝の山なのである。普通はここに土器のカケラが残っていたりする。しかし、今回のお宝は木片だ。私の手には負えない。何か無いかなとは思ったが、そのままやめる。 隣の田んぼでは、鳥取大学の学生が地域とこんな取り組みを。 緑米らしい。 田んぼアートとはこういうことらしい。 青谷の土地は典型的な山陰の漁港である。大屋敷もこのように切妻造で構成する。 青谷の町に食事処はナンと一つもなかった。仕方ないので、小売屋でビールとつまみを買った。それを青谷駅のホームで飲む。これが夕食。 帰路につく。山陰線、伯備線は単線である。駅での待ち時間がいやに多い。駅舎も古い。その中で遺跡の施設だけには金をかけている。思うに首長の見識だろう。 17:31発 青谷 山陰本線(米子行) 乗車:1時間53分 運賃:3,670円 19:24着 伯耆大山 ▼乗換28分 19:52発 伯耆大山 伯備線(岡山行) 乗車:3時間 1分 22:53着 倉敷 ▼乗換14分 23:07発 倉敷 山陽本線(糸崎行) 乗車:8分 23:15着 新倉敷
2014年09月30日
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妻木晩田遺跡の淀江から青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の青谷までの電車の時刻表は以下の通り。 13:51発 淀江 山陰本線(鳥取行) 乗車:1時間39分 運賃:970円 15:30着 青谷 青谷駅に着いた。 展示館は相変わらずプレハブである。しかし、行く度に展示内容は変わっている。埋蔵文化センターがすぐ近くにあって、精力的な研究をしている結果だと思う。 ここに来るといつも思うのだが、弥生の時代観が変わる。たまたま水中保存がされたことで、弥生生活の木製品がほとんど残された。これは現代青谷の航空写真。 これは当時の青谷を再現したもの。駅や展示館の辺りは海だった。まだ住居地域や墓が出ていないので青谷ムラの全体像はわからないが、中心地域はごくごく小さなムラだったと思う。しかし、ここには当時の最先端が集結していた。何故か。急速に発達した一大交易拠点だったからである。 さまざまな木製品や卜占用の骨、代形等々の祭祀品。 今でも座れそうな腰掛け。いろんな重要なものや生活用品を木で作っていた。しかし、それは今ではほとんど残らなかった。青谷上寺地遺跡の凄さ。 妻木晩田遺跡の展示館で祭祀建物に使われていた窓枠は、この窓枠を根拠に再現された。 ここの発掘で弥生の建築技術が相当わかったようだ。 こういう建物もあっただろうと、出土遺物の材木から推測。 そして、大阪弥生博物館で見た土玉がここでも出土していることが判明。つまりは、普通の物々交換ではなく、商業取引に近いものがあったのだと、私は思う。むしろ、そういう「商人」がいたからこそ、本来漁村だったこのムラが「振興都市」のようになったのだろう。そして、さらに想像を逞しくするとするならば、そういうポッと出の商人に対する「嫉妬」や「恨み」が日本史上初めて起こった結果として、のちに紹介する稀に見る残虐な「紛争」が起きたのかもしれない。 青谷は「地下の弥生博物館」と言われるように、本来腐って残らない木材や植物、骨などが良好な形で残った。弥生のバッグもその一つ。この見事な編み方。これは想像ではない。事実である。 その編み方の一つは、なんと現代には伝わっていない編み方もあったという。古代よりも現代の方が技術的に優れているということは、全てにおいては決して言えないということがこの一点だけでも証明されると思う。 青谷では、なんと100体を越える人骨が遺棄されるような状態で見つかった。中にはこの写真のように、若い女性に致命傷を与えた人骨がある。なんらかの紛争があり、多くの人が「殺された」とみなければならない。どうしてそういうことが起きたのか。人骨が出てくるのは珍しいとは言え、弥生時代に老若男女が一度に殺されているのは、私は他には知らない。外国では知らず、日本ではかなり珍しいことが起きたのではないか。まだ「戦争」に慣れていない倭人が起こした「悲劇」だったのでは無いか、というのが私の「説」である。 青谷上寺地遺跡では、世界でも数列しかない脳が残った人骨が数体出土した。将来この脳から「死ぬ前の記憶」とかが再生出来たら、私はもう失神してしまうかもしれない。 今回初めて見たけど、コンピュータグラフィックスで弥生の顔の復顔をしていた。明らかな朝鮮半島の顔だが、大陸系の人骨に肉を付けていくと、まぶたや唇は想像で作るしか仕方ないので朝鮮顔になってしまう。しかし多くは渡来系の人骨だったらしい。
2014年09月29日
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「弥生の館むきばんだ」を出て、前回発掘途中で行けれなかった処を回る。妻木山地区の弥生のムラが完成していた。 竪穴式住居入口。 住居の中。他地域と比べて深く掘り込んでいるのが特徴。雪深く寒い冬をこれで凌いでいたのだろう。 今までの弥生住居の常識を覆すモダンな設計。画一的な設計を覆している。 遺構展示館も一応行ってみる。発掘とはこういうものなんだよ、という学習のための施設である。 さらに自転車で未体験のゾーンに突入。妻木新山地区である。ここから、弥生の館や弥生のムラ、洞ノ原地区も一望出来るし、その背後の高麗山も見事に見える。私は勘違いしていたのだが、妻木晩田遺跡からは何故か霊峰伯耆大山は見ることが出来ない。そこは、この前行った福市・青木遺跡とは違うところである。 いや、違う! 霊峰伯耆大山が見えない処を選んで、妻木晩田遺跡は作られたのだ。つまり、あくまでも高麗山を崇めるために、妻木晩田の人たちは結束していたのではないか。そういうことは、解説書のどこにも出ていない。あくまでも私の「説」である。高麗山という名前がもしも古代でも使われていたのだとしたら、この土地の人々の出自にも関わっているかもしれない。 さらに進むと仙谷地区に入る。後期中葉(紀元2世紀前半頃)に作られた方墳と四隅突出墓群がある。ここには仙谷2・3・5号墳がある。方墳である。1番突端の3号墳からは、22基にも及ぶ木棺の跡が見つかった。ここからも海がよく見える。特別な場所だったのだろう。 仙谷一号墳は遺跡最大の四隅突出墓(一辺約17m)である。何故か一つのみ離れて存在する。妻木晩田遺跡はこの直後に最盛期を迎える。これで妻木晩田遺跡の見物を終えた。何時の間にか時間が二時間も経っていた。 妻木晩田をあとにし、自転車をどんぐり館に返し、急いで淀江駅に戻った。今日は強行予定を組んでいる。このあと電車で一時間半もかかる青谷上地寺(あおやかみじち)に行くのである。どんぐり館で買った、どんぐり饅頭、どんぐりパン、とうふプリンを昼食代わりに車内で食べた。饅頭やパンは素朴な味わい、プリンはとうふの味がした。 途中由良駅はコナン駅になっていた。
2014年09月28日
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前回日にちを書き忘れていました。8月31日夏休み最後の日曜日でした。 伯耆古代の丘公園のあと、上淀白鳳の丘展示館に入る。立派な建物を作っている。 有名な角田遺跡の絵画土器の本物があった。詳しく見る。 一本一本の線は力強い。確信を持って引いている。これは、準構造船か。 これは井手狭古墳から出土した埴輪の本物。 淀江廃寺の中を復元していた。 かなり本格的な立派な寺だったことが分かった。 まさか、こんなすごい壁画もあったとは。 隣のどんぐり館でレンタルサイクルを借りた。此処から歩いて妻木晩田遺跡まで行くと20-30分かかって時間が足りなくなるからだ。写真はどんぐり館の隣の畠にかけられていた「よどえ9条の会」の立て看板。 自転車で行って良かった。広い遺跡内部も自転車で行くことが出来る。時間がないのであきらめていた洞ノ原地区の場所にくることが出来た。 妻木晩田遺跡の何がすごいかと言って、1番はなんと言ってもこの景観である。保存運動を主導した女性考古学者の佐古和枝さんは何度も「この景観だけでも、この遺跡はゴルフ場なんかにさせてはいけない」と言っていました。 弓ヶ浜を一望にして、弥生時代後期前葉(紀元1世紀後半頃)に作られた四隅突出墓群が並ぶ。有力者たちの墓のために、用意したのは自分たちの祖先に繋がる海か、それとも交易で利益をもたらした海か。 さらに降りてみる。前回来た時には此処の環濠施設は、まだ調査・工事中だった。 洞ノ原地区の突端に、環濠に巡らして何を作ったのか。 「弥生の館むきばんだ」に入る。この5-6年の研究成果が見事に結実していた。 建物を作っているこのジオラマは初めて観た。精巧に作られている。これは家の建築ジオラマ。 材木加工ジオラマ。 材木伐採ジオラマ。 青谷上地地遺跡の成果も利用して、豊富な森林資源をいかに利用したのかが目に見えるように展示されている。鍬にはアカガシを使う。 チョウナを作るのに枝を利用。榊(サカキ)を利用。 土器のみで腕を作るのでなかったようだ。ケヤキ製の腕。こうすれば美しい木目を生かすことも出来る。これらの木製品は普通の遺跡には残らなかったので、大阪の弥生博物館のジオラマでも採用されてはいない。 鍛治施設のジオラマ。妻木晩田では出土した鉄器は400点以上にのぼった。非常に多い。しかもその多くは木材加工のための道具(袋状鉄斧、ヤリガンナ)、ナイフ(刀子)などで武器ではなかった。太い鉄素材輸入のルートを確保していて(おそらく北九州を経由せずに直輸入したのだろう)、生活を豊かにするために使われていたのが分かる。日本で製鉄遺跡が出てくるのは今のところは6世紀からなので、それよりも5-600年前のこの時はあくまでも鉄素材を加工する技術のみだった。 松尾地区の王の住まいの模型。ここからは中国からもたらされた青銅鏡の破片をペンダントに加工したものが出土した。 その住まいから40mほど離れた所にあったムラの祭殿模型。母屋の両側にヒサシを持つ。たたみ20畳くらいの広さ。ちょっと目には現代の農家のように見える。反対に言えば、まだ土壁などは出て来ていないが、それ以外は作ろうと思えば弥生時代でも現代の住居は作れたのだ(格子窓は青谷上寺地出土品を参考)。なぜ作らなかったのか。私見だが、必要なかったからだろう。寝室を別にする、食堂を作る、ましてや子供部屋を作るというような発想、個人を大切にするというような思想を持たなかったのだ。もちろんそれだけの余裕がなかったからだろうし、なくても十分ストレスなく幸せに過ごせたという証拠だろう。弥生人と現代人、果たしてどちらが幸せなのだろうか。
2014年09月27日
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青春18切符の旅第四弾である。 今日は再び山陰に出向き、久しぶりに妻木晩田と青谷に行く予定。かなり考古学に特化した旅になりました。朝飯は今日はおにぎりを作って来た。朝が早いが何故かキチンと早く起きることが出来る。 5:21発 新倉敷 運賃:2,590円 5:30着 倉敷 ▼乗換15分 5:45発 倉敷 伯備線(西出雲行) 乗車:2時間59分 8:44着 伯耆大山 ▼乗換49分 9:33発 伯耆大山 山陰本線(倉吉行) 乗車:5分 9:38着 淀江 新見までは圧倒的に入母屋造りの屋根が多かったのだが、新見の町はかえって不自然なほどに切妻屋根と入母屋造りが混じっていた。新見が実質山陽と山陰の結節点で史しねつあるという証拠だと思う。そして鳥取県(山陰)に入った途端に9割方切妻造に変わる。出雲大社様式と言えばそうなのかもしれないが、山陰の結束力だと思う。 伯耆大山駅で一冊本を読み終えた(「お文の影」)。 淀江駅は無人駅だった。 こんな運動もしているのね。 2000年ごろ、妻木晩田遺跡の保存運動があって、それに刺激されて年に数回この辺りを訪れていた時期があった。その頃、この伯耆古代の丘公園は造成中だった。いい機会だから一度入ってみよう。 20分ぐらい歩く。道端の石塔。 中に入るのにお金を取るとは思わなかった(310円)。でも夏休み最後の日曜日なのに人がいない。これは古代ハスの園。 ホタテ貝古墳の復元(井手狭3号墳を2/3に)。古代にこんな階段は無いけど、造成当時はビッシリ葺き石がされているのはその通り。 埴輪もちゃちいけど、こんな感じだった。埴輪は特殊器台から変化したものということがこういうのをみるとよくわかる。 良かったのは、此処から妻木晩田遺跡の丘が見えること。真ん中の丘陵の全てとさらにその奥が、弥生最大の面積を持つ妻木晩田遺跡である。 公園をさっさと出て向かいの向山古墳群を歩く。古代の丘公園の地図を借りて言えば、右端の古墳群である。 6世紀を中心に築かれた古墳群で、前方後円墳が8基あり、当時の有力な人々の王墓群と考えられている。 丘にこのように古墳を集中させるやり方に覚えがある。韓国の三国時代、池山洞古墳群などの大伽耶地域の古墳群である。あれらが主に五世紀ごろに出来たのだとすると、これらはそれらに影響を受けた可能性はないだろうか。写真は向山8号墳。 特に丘の最先端に特別な古墳、岩屋古墳が鎮座している。全長52m、後円部径30m、高さ6m、後円部東側に台状突出がある特異な形。須恵器、円筒埴輪、人物、馬、水鳥などの形象埴輪、鉄刀、馬具などが副葬され、最も華やかな古墳。 此処は中の石室に入るのことが出来る。 中は広い。そして暗い。相当多くの親族が「追葬」出来た気がする。古事記のイザナギがイザナミに追われるエピソードは、ここに入っていた人の白昼夢ではないか。だとすると、横穴式石室は早くて5世紀以降なので、神話の世界も案外最近ということになる。
2014年09月26日
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思い立って赤磐市の古墳巡りをしてきた。家を出るのが昼すぎになったために、ぶらぶら当て所なく歩くわけにはいかない、先ずは赤磐市の山陽郷土資料館に寄る。数度目の寄館であるが、ここの展示は博物館フェチの私から見ると、残念でならない。良質の遺物は全て県や国に持っていかれてしまうというジレンマはあるにせよ、国の指定文化財が両宮山古墳、備前国分寺跡、熊山遺跡、備前四耳大壷と四つもある地域なのに、パネル説明がおそらく20年間ほど変わっていないのである。その間、綺麗な無料パンフが四つも出来上がっていた。その成果を更に詳しく展示するのが、資料館の役割ではないか。 マア、古墳巡りの地図を無事ゲット出来たので、良しとしよう。結局行く気が起きた古墳は、この車で10分ほど北上した池のそばにある鳥取上高塚古墳のみだった。大池には、日曜日の太公望たちが10人ほどいた。何が釣れるのかと聞くと、ブラックバスらしい。そのすぐそばに全長70m、古墳時代後期(6世紀後半)の前方後円墳がある。横穴式石室である。 石室は全長11.2m。県内でも有数の規模だ。狭い羨道を潜ると、中は案外と広い。スマートフォンの能力が無いために暗い写真になったが、実際入ると急にひやりとして少し怖かった。横穴式石室なので、何度も追葬が行われたはずだ。前方後円墳の格式を持って、なおかつ両宮山古墳からかなり外れたここに祀られる人々とはどんな人物だったのか。 何度も行ったので行く積りはなかったが、やはり両宮山古墳も見てみよう。私は五世紀後半両宮山古墳が築造された時代、吉備は雄略天皇によって実質侵略されたと見ている。だとすると、何故その時代に二重の周濠を持ち総長349mもある畿内大王墓に次ぐ格付けを持つ古墳が築造出来たのか。それは、上つ道氏が支配するこの地域がいち早く吉備を裏切り大和側に着いたからではないかと思っている。その同時期、全国九番目の規模を持って築造されていた作山古墳は途中で築造が中止される。そのあと、吉備は大和王朝に蹂躙される。その名残りが桃太郎伝説や温羅伝説である。 上つ道氏は、優遇された。しかし、それはいっときである。100年もすると、おそらく支配層は大和の外来組に移っていっただろう。元の上つ道氏はひっそりと北の鳥取上高塚古墳に祀られたのである。両宮山古墳は、いってみると近くではその全貌はわからない。造山古墳や作山古墳よりも小さいのに立派に見えるのは周濠に守られて未だに青々と山が保存されているからに違いない。 3世紀の吉備東遷から300年間の、吉備の栄枯盛衰はいつか物語にしたいと思う。
2014年05月26日
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「特殊器台の世界」 先日岡山市埋蔵文化財センターで、造山古墳の埴輪を見た時に無料で置いていた前回の特別展のパンフがありました。 去年の10月に行われた「特殊器台の世界」のパンフです。たった9Pですが、全てカラーで、なおかつ内容が素晴らしい。いろいろ勉強になったので、メモがてら記事にしたいと思います。 特殊器台とは何か。私のブログでは、何度も言及していますが、改めて復習すると、 吉備では、弥生時代の墳墓に使用される土器として、壺とそれを捧げる台(器台)が非常に発達します。弥生時代最大の楯築墳丘墓の出現と共に、非常に大型化し、複雑な文様で飾られる墳墓専用の器台ー特殊器台が現れます。この特殊器台は、やがて古墳に並べられる埴輪に繋がっていくと考えられています。つまり、ヤマト王権成立に吉備の首長たちが大きく関わったことを現しています。特殊器台の秘密は、すなわヤマト王権成立の秘密でもあるのです。私がしつこく注目するのも当然でしょう。 今回初めて特殊器台になる前の「器台」を見ました。弥生時代中頃に現れたそうです。これは、祭り用の器台。おそらくこの頃に「農耕用に関わる祭りの形や道具立てが整えられ、確立した」のでしょう。 これは集落で出土した、「日常のさまざまな祭りや祈りの場で使われた土器」のようです。意外にも、壺とセットではない場合が多いらしい。壺だけではなく、さまざまなものを捧げものにした可能性がある。 「弥生時代後期後半以降、限られた人のために墳丘墓が築かれるようになってからは、集落内で出土する器台は小型化し、出土数も激減」する。 小さな家族で行われる神と人との祈りの場が、公の場での秘儀になっていったのだろう。 つまり、楯築の祭りは、誰かが突然外から持って来て強制したものではなく、比較的伝統的なものが一つ二つ「飛躍」したものだったのだ。と私は思う。 そして、楯築弥生墳丘墓と特殊器台が出現する。倉敷市庄パークという住宅地の中央辺りにある小山の頂きにこの特異なお墓がある。墳長70m以上、巨石を立て並べたその姿は他に例を見ない。今はないが、周りには1番最初の特殊器台がずらっと立て並べられていた。最初の特殊器台には、後の特殊器台にある組帯文と呼ばれる渦のような文様はなく、綾杉文や鋸歯文を組み合わせた文様だった。組帯文は亀石というもう一つの重要なアイテムに施されていたのである。一方で、文様帯四段、間帯五段という構成やプロポーション、その大きさや形は元の器台からは飛躍して作られた。まさに楯築の王の(祭の)ために作られた器台だったのである。しかもその形が後の墳丘墓の祭を決定つけたという意味でも、楯築の王、或いはその王の祭りを主催した人間の突出した「大きさ」を想像せざるを得ない。まだ謎はある。この巨石はいったいなんのために立てられたのか。そして、その形があとあと継承されなかったのは何故なのか。特殊器台がなぜあの形でなければならなかったのか、ということと含めて、まだ誰も納得のゆく説明をしたことがないのである。 楯築の王のあと、吉備王国は飛躍的に大きくなる。吉備王国はすなわち特殊器台王国と言ってもいい。それは備前、備中、備後、美作、(播磨)に広がり、連合国だとは思うが山陰へ、やがては纒向の箸墓の王も、特殊器台を使用するようになり、さらには特殊器台は埴輪となって、全国に広がってゆくのである。特殊器台の胎土は、角閃石という鉱物を含む特別な粘土を使用していて、きっちりとした決まりがあったようです。実際、現代の研究者が何度も再現を試みましたが(去年成功したらしいけど)なかなか成功しませんでした。あんな大きな土器を焦げ目をつけずに割らずに焼き上げるのは、我々の知恵を凌駕する何かがあったと見ないといけない。文様だけは次第と変化してゆきます。 楯築型→立坂型→向木見型→宮山型。写真は楯築の綾杉文と組帯文が組み合わさる立坂型。 これは、総社市の宮山弥生墳丘墓から出土した宮山型特殊器台。文様も非常に特徴的になっており、形も文様帯三段、間帯三段と変わっている。また、これと同じ形が纒向からも出ていて、特殊器台型埴輪と同時に出ているものもある。実際、宮山弥生墳丘墓は前方後円墳といってもいいような形をしている。矢藤治山弥生墳丘墓と併せて、この時代がおそらくヤマト王権との話し合いを持った決定的な時期だったのだろうと、私は思う。 これは、特殊器台ではない。特殊器台型埴輪である。「都月型」埴輪ともいう。今から50年前に都月坂一号墳で、発見された。それにより近藤教授が唱えていた特殊器台から埴輪への変遷のミッシングリンクが、ここでやっと繋がったのである。特殊器台形埴輪は、奈良の箸墓をはじめ、吉備と近畿の最古の古墳から見つかっているが、まだ17例しかないらしい。この埴輪に、文様がなくなってやっと埴輪は、全国各地の古墳に受け入れられるようになったともいえる。反対に言えば、あの弧帯文様には、かなり特殊な意味が付随していたともいえるだろう。 その他貴重な写真はまだあった。この特別展見落として、つくづく残念だった。
2014年04月22日
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桜も咲き始めましたが、桃の花も咲き始めました。3月27日、岡山県古代吉備文化財センター。ここは、数ヶ月に一度展示変えをしているので、年数回行くようにしている。 遺跡から出土した桃核を展示していた。写真は倉敷市上東遺跡の波止場状遺構(弥生後期)から出土したものの一部。ここからはなんと9608個出たらしい。なんらかの祀りをしていたとしか、思えない。果たして何を祈ったのか。種を利用したのか。果肉も利用したのか。中国の昔から、桃は長寿の秘薬として崇められてきたが、それとは関係あるか。さらに言えば、その祀りが奈良の纒向に移った可能性はある(最近大量の桃核が出土)。他にも百間川今谷遺跡、津島遺跡の桃核が展示されていた。因みに、平安時代の「延喜式」には、岡山から都へ桃仁(種)を「薬」として納めていた記録がある(種には血行をよくする作用があり、今でも婦人の漢方薬として使われているらしい)。また、桃太郎伝説との関係(吉備津彦の温羅退治がなぜ桃太郎伝説に変化したのか)、現在でも岡山県は桃の主要産地である点(昭和30年代は全国一の生産、清水白桃は現在でも一位)、桃を巡っていろいろと物語はありそうです。
2014年03月30日
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桜の開花をやっと確認した3月27日、ある考古学施設を訪ねました。 行ったのは、岡山市埋蔵文化財センター。ここは、3月28日まで「造山古墳の時代」という特別展をしている。ギリギリのところで間に合った。造山古墳の陪塚千束古墳の発掘現地説明会で見た遺物もあったが、ここにはその時代の周辺の遺物があって面白かった。この時代の埴輪の変遷もわかった。写真、金蔵山古墳の埴輪は初めて見た。円筒埴輪ではあるが、まだ特殊器台としての面影が残っている。 右が当の造山古墳の埴輪、左が佐古田堂山古墳の埴輪である。全く同じ形であることが分かる。こういう比較によって、造山古墳の築造時代を決定したわけである。 これは、造山二号墳の円筒埴輪。最初の頃の円筒埴輪の模様は三角とか、丸とか、いろいろだったらしいが、この頃になると丸で統一されるらしい。 そして造山四号墳の家形埴輪。造山古墳の時代は、円筒埴輪から形象埴輪に移る頃。よく見る人物埴輪は、時代が下らないと出てこないらしい。(←その意味からも、埴輪が殉死した人物の代わりとして発達したと言う仮説は破綻する。) なぜ当時、古墳を埴輪で飾り立てることが、とってもとっても重要だったのか。どういう神事と関係しているのか。私はまだ納得する説明に出会っていない。古墳時代中期ごろに製造方法の革新があった。須恵器つくりに使用する「窟窯(あながま)」を使用して、硬質な埴輪を大量に生産することが可能になる。墳丘を多量の埴輪で飾る必要性からそうなったのか、技術革新があったから多量に飾るようになったのかは、わからない。中期の終わりころには、埴輪の簡略化・小型化が徐々に進む。さらなる大量生産を満たすために、工程を省略する必要があったと考えられている。 蓋(きぬがさ)形埴輪。貴人の上にさしかける笠を埴輪に写したものだそうだ。古墳時代の銅鏡の中には、住居に付随した大型の蓋が表現されているものもあり、権威の象徴であったと考えられている。展示している蓋は、笠の鰭(ヒレ)の部分や基底部分だそうです。 造山古墳を作った人びとは誰か。 説明板には、思った以上に突っ込んだことを書いていた。周りには五世紀の集落遺跡の数も多く、竪穴式住居が何度も建て替えられていることからも、安定した集落だっただろうと書いていた。さらにこう書いていた。 「住居にはカマドが付随していおり、陶質土器や鉄ていなどの朝鮮半島から持たされた遺物なども出土している。周囲の丘陵部には、陶質土器を出土した小型古墳も築かれており、渡来系の人びとが居住していたと考えられます。現在は田園風景が広がっていますが、当時は極めてエキゾチックな都会的な空間が広がっていたと考えられます。」 私は一時期大和政権が吉備政権に移ったに違いないと思っている。 これは、造山古墳の陪塚である千足古墳から出土したと言われている青銅鏡である。千足古墳は、明治末に「乱窟」された。その一部は宮内庁へ、一部は地元に戻されたと言われている。考古学が宝探しだったころの悲しい出来事である。その地元品の一つがコレ。 青銅鏡は倭製(国産)で、本来は怪獣が棒のようなものを咥えている図柄らしい。しかし、国の技術がまだ未熟だったのか、毛の束のような文様に崩れてしまっている。
2014年03月29日
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津山に行ったので、やっぱり遺跡は見ておかないと。3月2日土蔵崩壊事件の集会に寄ったついでに、念願の処に行きました。 昔、二年も津山に住んでおきながら、弥生時代に興味を持ってはや15年、それなのに、それなのに、まだ訪ねたことがなかった津山市沼の弥生住居跡にやってきました。 沼というからには、沼地かと思いきや、珍しい高台にありました。すぐそばには、立派な文化財センターがあり、ビックリ。 この遺跡は遺跡保存運動の嚆矢になったらしい。 この辺りの弥生土器は、頸が綺麗なマフラーのようになっている。非常に特徴があり、なおかつこの形は奈良の纏向遺跡でも見たことがあり、少し感動。 こんな形のヤリガンナも出土したらしい。こんな小さなカンナで、丁寧に仕上げをしていたのだ。 少し時代は下るが、県北のこの地域、古墳時代にはこんな陶棺が数多く作られている。他の地域にはどうなんだろう。
2014年03月08日
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今年の2月1日、千足古墳の現地説明会があった。いそいそと出かけた。 岡山市教育委員会では、史跡千足古墳の保存事業に伴い、千足古墳の正確な形状や規模、2010年度の調査で一部のみ確認されていた埋葬施設の規模を調べるため、平成25 年11 月より発掘調査を進めてきました。このたび調査がほぼ終了したため、みつかった遺構や遺物を公開することとなりました。今回の発掘調査では、後円部墳頂において、石障を取りあげた石室(第1石室)の隣から、初期横穴式石室と推測される埋葬施設(第2石室)が新たに確認されました。この他、2012 年度に引き続き、前方部の東で周溝状遺構を確認したほか、靫形埴輪の破片が出土しました。(現地説明会資料より。以下現説資料) 去年の現地説明会には300人の考古学ファンが来たそうだが、今年はなんと500人が来たらしい。駐車する処が無くて、たいへん困った。今回の現説資料は前回よりもわかりやすく書いているので、ほぼ全文載せます(手抜きとも言う)。 新発見の石室(第2石室)について これまでの発掘調査の成果から、第1石室の位置が墳丘中軸線上から西にずれていることが分かりました。このことから2010 年度の発掘調査で確認されていた、粘土と石で作られた遺構が第1石室と対を成す埋葬施設の可能性が考えられたため、この遺構の範囲の確認を目的にして調査をすすめました。その結果、横穴式石室と推定される新たな埋葬施設が発見されました。石室は上半部がすでに崩壊しており、石室内からは石材や墳丘上に立ち並んでいたであろう埴輪が出土しました。 石室の規模は、長さ約2.6m・幅約2m で、上半部は崩壊していますが、本来は高さ約1.7 ~ 2m程ではなかったかと推測されます。平面形は、第1石室と同様に正方形に近い形状です。(現説資料) 緑の糸で囲んでいる処が石室の推定の形です。石組は既に崩壊しているのですが、そこから元の形を推測する考古学者の緻密な発掘と想像力にはいつも敬意を持っています。 使用される石材は、地元で採取可能な花崗岩がほとんどで、一部に香川県で産出される安山岩が使用されています。安山岩の表面には赤色顔料が塗られています。壁面をよく観察すると、石の積み上げが壁の途中から天井に向かってドーム状になるよう、前へせり出すように積まれています。また、石室を上から見ると石室の隅が緩くカーブを描くように積まれていることが確認できます。このように、ドーム状の天井部、正方形に近い平面形、という特徴から第2石室は通常の竪穴式石室ではなく、第1石室と同じく九州系の初期横穴式石室の可能性が高いものと考えられます。第2石室の構築に際し、墳丘盛土を掘り込んだあと(掘方)が確認されたことから、石室の作られた順番は、第1石室が墳丘築造と並行して構築され、その後、第2石室が作られたようです。築造の時期は、第1石室の構築時期とそれほど離れていない、5世紀前半のうちでより新しい時期と推測されます。(現説資料) 横から見ると、奥の石組がわずかにドーム状に積まれているのが見えるでしょうか。こういう処をみて、元の形を想像するわけですね。 今回の調査では、石室の床面まで掘り下げを行いません。そのため副葬品の種類や第1石室と同様に石障があるのかどうかは不明です。また、石室の入口(羨道部)の詳細も明らかではありません。被葬者についても、九州と何らかの関係があった人物と推測することしかできません。不明な点が多い埋葬施設ですが、2基の初期横穴式石室が同一古墳内に、計画的に築造されたことが確認された点は、吉備と九州地方との交流を考える上で重要な発見といえるでしょう。(現説資料) 千足古墳の遠景です。実はこの周りの畠の所有者の1人がたまたま私の知り合いだったので、話を聞いたのですが、今でも畠を掘り返すと埴輪の破片が出てくることがあるそうです。彼のいうには、今回の発掘で前方部とその周りは岡山市が買い上げ、空きスペースには資料館を建てる計画があるそうです。そうなったら、野菜や果物の小売をしようかなと言っていました。「そのぐらいは当然作るべきだ、何しろここにはもしかしたら当時の日本の中心(政府)があったかもしれないのだから」と私は言いました。 ところが、資料にも書いているし、私も写真に載っている発掘担当者に質問しましたのですが、今回はもうこれ以上掘らないそうです。つまりは、この下にお宝があるかもしれないし、ないかもしれない。それでも、発掘しないというのです。私はてっきり「今期は」という意味だと思い、それ以上言わなかったのですが、あとで他の担当者に聞きました。 「次の発掘はいつぐらいになるんですか?」 「いや、決まっていない」 「え⁉でも続きの発掘はするんでしょ?」 「しない可能性が高い」 「そんな馬鹿な!それは、予算が出ないからですか?」 「‥‥」 「資料館を作る話は?」 「そんなのが出来たらイイな、ということです」 「そりゃない!岡山県はどうしてこんなにも考古学に金を出さないんだ!鳥取の妻木晩田や島根の出雲と比べるとダンチじゃないか。ホントは山陰よりも吉備の方が、古代においてはもっと凄いのに、誰も気がついてないじゃないか!」 私は暫くというよりも、この10年間怒りが治まっていません。 出土遺物について 今回の調査では、第2石室の埋土および前方部の周溝状遺構から、家形埴輪・靫形(ゆきがた)埴輪などが出土しています。靫形埴輪は、昨年の調査区に隣接した地点(T24・25)から出土しました。飾板と矢筒部と考えられます。いずれも直弧文が描かれており、一部には赤色顔料が塗られていた痕跡を確認できました。今後接合作業を進めていけば、全体像の復元が期待されます。(現説資料) 第2石室の埋土からは家形埴輪の屋根の一部や貴人にさしかける傘を模した蓋形(きぬがさがた)埴輪が出土しています。これまで墳頂部の発掘ではほとんど埴輪が出土しておらず、墳頂部における埴輪を用いた祭祀を知る上で貴重な成果といえます。(現説資料) あと、説明を聞き損ねているのですが、盾形埴輪も出土していたようでした。 おわりに 後円部墳頂部に新たな埋葬施設が確認されたことが大きな成果です。さらに、墳丘中軸線を挟んで並列して築かれていることから、古墳の設計段階から2つの埋葬施設を構築する計画があったことが窺えます。さらに2基とも吉備最古級の横穴式石室であり、当地における横穴式石室の導入過程や地域間の交流を考える上で重要な発見といえるでしょう。(現説資料) 靫形埴輪の出土地域だけで見ると、造山古墳の陪塚で吉備(大和王権?)の大王の重要な家来と思える千足古墳の埋葬者は難波あたりと繋がりがあったと思える。しかし、埋葬方法は北九州と濃い繋がりがあるのは明らか。造山古墳の石棺も阿蘇からものすごく苦労して持ってきたピンク岩であることがほぼ確定的である。近くには、その頃端緒が付いたと思われる日本最古の製鉄遺跡の千引カナグロ谷遺跡がある。これは、伽耶地域からの輸入文化だろう(と、断定f^_^;)。西日本に、伽耶と北九州と吉備というネットワークがあり、これらが5-6世紀にかけてすべて大和王権によって制圧されているのは、どう考えても見過ごせない。大きなドラマがあったと「妄想」を始めるべきだろう。 大和王権は吉備や出雲、九州の言わば連合国だった。成立から多くの時が流れて、その時の盟約は破られようとしていた。その時に立ち上がったのが、造山の王である。いっときは、伽耶や北九州の支援を受けて吉備に倭国統一の代表王権が出来るまでになっていたが、高句麗王の朝鮮半島支配が本格化する中で、大きな転換点が起きる‥‥。 まあ、妄想なんですけどね。
2014年02月23日
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千足古墳シリーズ二回目です。今回は昨年の2月岡山市の埋蔵財文化センターで開かれていた石障公開の写真を紹介します。 石障の紹介については、当時の山陽新聞の記事が「わかりやすい」ので、そのまま紹介します。下の写真は岡山市埋蔵文化財センターです。玄関のメインの装飾がそのまま千足古墳の石障であることに注目。つまり、岡山市の発掘関係者にとって、それほどまでに重要な遺跡だったということなのでしょう。 千足古墳の石障の一般公開 古代吉備の至宝とも呼ばれた装飾古墳、国史跡・千足(せんぞく)古墳(岡山市北区新庄下、5世紀前半)の古代文様・直弧文(ちょっこもん)の彫刻が損傷した問題で、保存措置中の装飾石材・石障の一般公開が28日、同市中区網浜、市埋蔵文化財センターで始まった。 ガラス越しに展示された石障(幅162センチ、高さ53センチ、厚さ13センチ)は、装飾のある面を上向きに設置。黒っぽく変色した下半部を中心に、直線と曲線を絡めた精美な文様もろとも石の表面がはがれ落ちているのが、はっきりと見て取れる。 同古墳の石障は2009年に損傷が判明。装飾の消失も危惧され、同市教委が11年12月に石室から搬出。約1年たち状態が安定してきたため、期間限定で公開することにした。 一般公開は2月9日(3日休館)までの午前9時〜午後4時半。 このような装飾石障は大和には皆無(⁉)。九州の装飾古墳の影響を受けたとしか考えられない。 詳細に見ると、おそらく鉄器は使っただろうが、非常に精巧に作られていることがわかる。この模様の意味は何か。わからない。 何しろ直弧文である。直弧文は弥生墳丘墓の楯築遺跡を代表として、吉備の土器に多く見られた模様だ。「特殊器台との関係は?」 とは聞いてみたものの、時代が300年近く離れている。関係ないだろう、というのが1月の説明会関係者の返事だった。 納得いかない。そういえば、「直弧文とは何か」を本格的に解明した書籍はまだ存在していないのではないか。 しかも、写真にあるようにこの石障には朱が塗られていたのである。楯築遺跡の石室に30キロの朱があったのは、ご承知の通り。 千足古墳の航空写真があった。後円部は三段、前方部は一段構成であることがよくわかる。今回きちんと発掘されて、見た目よりも一回り大きいことが判明したのだろう。 歴史年表があった。これを見ると、岡山市中心の遺跡・古墳を載せてはいるが、倉敷・総社だけが吉備王国の中心ではないことがわかる。むしろ、その周辺が豊かに発展していたからこそ、弥生時代に突如楯築遺跡が出現し、そして古墳時代に造山古墳が出現したのである。弥生前期に津島遺跡、中期に南方遺跡、そして高地性弥生集落の貝殻山遺跡、後期の百間川原尾島遺跡と、弥生集落遺跡の代表がずっと続いている。都月坂2号弥生墳丘墓は、楯築遺跡から出現した特殊器台が埴輪になるミッシングリンクを証明した。古墳時代前期には、浦間茶臼山、備前車塚、金蔵山と、前方後円墳時代初期の重要な古墳が集中している。箸墓の大和政権と蜜月の時代だったのかもしれない。これら巨大古墳の集中は吉備王国がむしろ発展していたことを証明するだろう。そして、当時としては日本最大規模の造山古墳が出現する。吉備政権時代の出現と考えてもおかしくはない。 この埋蔵文化財センターには、その他先日発見されたばかりの銅製の矢じりも展示されていた。以下山陽新聞の記事より。 弥生時代中期の集落跡が残る南方遺跡(岡山市北区)で、紀元前5世紀~紀元前4世紀末ごろの戦国時代の中国大陸で作られたとみられる青銅製の矢尻が岡山市教育委員会の発掘で出土したことが24日分かった。刃が二股に分かれた「双翼式銅鏃」という形式で、国内で見つかるのは初めて。 国学院大栃木短大の小林青樹教授(東アジア考古学)は「これまで弥生時代の文化は朝鮮半島の影響が強いと考えられてきたが、中国の影響があったと分かったのは大きな発見」としている。 市教委によると、昨年12月、集落内の溝跡から出土。長さ約3・7センチと小さく、実戦用でないことから、儀礼用とみられる。 実物はホントに小さかった。
2014年02月22日
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昨年の1月26日、千足古墳の現地説明会があって見学に行っていたことをまだブログには公開していませんでした。そして、さらにその石室から保存処理のために取り出していた石障(装飾石材)の公開があったこと、そしてさらに今年2月1日に千足古墳で第二の石室が見つかって現地説明会があって見学に行ったこと、これらを三回に分けて連載します。 「むつかしいことをわかりやすく」書ければいいのですが、力量不足でたぶん無理です。でも努力してみます。 なぜ千足古墳が面白いのか。 私見ですが ●日本第四位の大きさを誇る造山古墳のおそらく陪塚(従者の墓)である。この墓の解明は、造山古墳時代の解明につながる。そして造山古墳は造成当時は日本第一の規模の可能性があり、もしかしたら一時的に大和政権が吉備に移っていた可能性もあるのである。 ●ここから出た石障は九州に多く存在する装飾古墳とのつながりが非常に濃い。吉備と九州のつながりはどうだったのか。そこを明らかにすると、謎に満ちた倭国の形成史が豊かになるだろう。 大きく言ってこの二点です。 (←いかん、この時点でかなり難解。すみません) 先ずは昨年の千足古墳発掘説明会です。写真は造山古墳と千足古墳の位置関係。誰が見ても陪塚ですが、発掘関係者はハッキリとは言いません。 千足古墳は、造山古墳群と呼ばれる古墳の中の一つです。現地表の観察では墳形は前方後円墳で、後円部は3段築成、前方部は1段築成と推測されます。前方部が後円部に比べて短い「帆立貝形古墳」と呼ばれます。これまでの発掘調査から、墳丘長は約81 mで、後円部の直径は約63m、前方部の幅は約26m あり、築造されたのは5世紀前半頃と考えられます。(2014現地説明会資料より。以下「現説資料」と略す) 実はこの数字は、2013現説資料よりは大きくなっている。発掘で正確に測った処、大きさが分かったらしい。 後円部より前方部を眺める。前方部はどうやら畑を作るために少し削られているみたいだが、それにしても低い。そして短い。これが「帆立貝形」の特徴である。 今回の調査では古墳の盛土は確認されていません。千足古墳は3段築成ですが、盛土が確認されたのは2010 年度に調査した後円部の2段目より上だけです。このことから、墳丘1段目は、基盤層を掘って外形を作ったと考えられます。この結果、古墳の周囲には外形を造り出した跡が、周溝状の掘り込み(周溝状遺構)として一部確認できました。(現説資料より) 後円部から遠く造山古墳を眺めた。 石障はすでに取り除かれているが、石室そのものは今まで非公開だったので、見るのは初めてである。このようにちょっと地下に降りる感じで羨道(石室に通じる道)があるようだ。 思った以上に綺麗に石を積んでいた。 周溝状遺構から多数の埴輪片が出土しました。埴輪片には朝顔形埴輪や靫形(ゆきがた)埴輪等が含まれており、靫形埴輪には直弧文が線刻されていました。 直弧文のある靫形埴輪は、岡山県内では、これまで造山古墳で1点確認されているだけでした。 靫形埴輪とは矢を収納して背負う武具である靫を模した埴輪です。直弧文とは、古墳時代の文様の一種で、直線と弧線を複雑に組み合わせて表現します。 直弧文が描かれた靫形埴輪は、奈良県御所市の室宮山古墳(墳長240 m)、大阪府堺市の百舌鳥陵山(もずみささぎやま)古墳(伝履中天皇陵、墳長365 m)など、近畿地方の巨大古墳を中心に分布しています。岡山県では造山古墳から採集されており、今回千足古墳から出土した靫形埴輪は県内で2例目になります。(現説資料より) 靫形埴輪は何を示すのか。謎は深まるばかりです。
2014年02月21日
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文化の日の憲法講演会に参加する前に、岡山市立オリエント美術館で開かれている「平山郁夫と古代メソポタミア文明展」を観て来ました。 現在読みかけの「エイラ地上の旅人シリーズ」は黒海のちよっと北に住んでいた3万5千年前のクロマニヨン人たちの話です。メソポタミア文明は、約5000年〜2500年前ぐらいの黒海の南に展開された農耕民族たちの世界です。人類最古の文明です。けれども、私にはエイラやライオン族の子孫たちの世界に思えて仕方なかったのでした。 楔文字が発明されたのが、この文明である。有名なのはハンムラビ法典である。しかし、平山郁夫さんの個人的な美術館からこんなにも多くの文字版が展示されているとは、全く想像していなかった。ここだけでも、数十の粘土版がある。ということは、山のようにそれらが出土しているということだ。 飛鳥・奈良時代で出土している文字は非常に限られている。弥生時代ならば、数十文字ぐらいだ。一方、メソポタミア文明についての情報量は、比較出来ないほどに巨大だということだ。私は圧倒された。 事実、メソポタミア文明には人類最古の文学にして、大冒険叙事詩「ギルガメッシュ物語」さえあるのである。 これはBC1300年の「医術文書」。皮膚病についてさまざまなことが書かれているらしい。エイラは薬師として実に豊富な知識を持っていたということになっている。その3万年後の薬師の頭も、どうやら豊富な知識があったようだ。しかし、呪術的な知識も付随的に付いている。そしてこのように文書として残り出すと、医学は大きな「飛躍」をするだろう。ホントは写真を撮ってはいけないんだけど、許してください。 その他、BC24の人物定礎釘、円筒印章など興味深い遺物がたくさんあった。 私の興味はあくまでもそれからさらに約1000年後、アジア大陸の東の果ての列島に住んでいた弥生から古墳時代に移る人々の物語ではある。しかし、文明のあけぼのの世界を見ていると、弥生時代の人々の意識が見えてくる気がする。 (ウェブより) 平山郁夫と古代メソポタミア文明展 9月14日(土)〜11月24日(日) 人類最古の文明メソポタミア文明は、いまからおよそ5000年前、現在のイラクを流れる2つの大河、ティグリス川とユーフラテス川のあいだで育まれました。豊かな生産力を背景に巨大な都市が生まれ、遠隔地から貴重な鉱物や木材、貴石を入手する交易システムや社会、そしてそのシステムを記録するための文字=楔形文字が発明されました。現代社会の基礎となる仕組みや技術の多くがすでにこのときに生み出されたのです。 平山郁夫シルクロード美術館はメソポタミア地域から出土した資料を多数所蔵しています。まさにメソポタミアの中核から出土する資料は国内ではほとんど見ることができません。実は当館においても狭義のメソポタミア地域の資料はわずかしかないのです。平山郁夫シルクロード美術館の収蔵品から典型的な古代メソポタミア文明の資料を揃えた本展は大変に貴重な機会です。 また2009年になくなった日本画家・平山郁夫画伯はシルクロードをテーマとした優れた作品を多数遺しました。本展ではメソポタミアを題材とした平山郁夫画伯の絵画作品も展示し、メソポタミアの風景、空気をイメージしていただこうと思います。
2013年11月05日
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青森県の遺跡から縄文時代の面白い土器が発掘された。2012年9月28日 読売新聞記事を以下に載せる県埋蔵文化財調査センターは27日、縄文時代中期から後期の大川添(3)遺跡(西目屋村川原平)から、赤の顔料が入った土器を出土したと発表した。キノコ型の土製品でふたをした状態で発見された。専門家は「祭事に使われていた可能性が高い」と指摘している。 土器は8月末、遺跡調査中の同センター職員2人が発掘。中に赤色顔料の粒が入った土器(長さ16センチ、高さ7センチ、口径4センチ)と、ふたになったキノコ型土製品(直径最大6センチ、長さ4センチ)がセットで見つかった。無地で表面には取っ手がとれたような跡がある。 弘前大学人文学部の関根達人教授(日本考古学)は「赤色顔料入り土器が、キノコ型のふたをした状態で見つかるのは全国で初めてではないか。元々、赤色は縄文人にとって祭事などで使う特別な色。土器は祭りの道具として使われていた可能性が高いと見られ、縄文人の精神性の一端が垣間見られる貴重な遺物だ」と評価している。 同センターによると、キノコ型土製品は東北北部を中心に多く出土。土器の近くで見つかっていることなどから、用途はふたなのではないかと考えられていたが、今回、土器に差し込まれた状態で見つかったことで、その可能性が高いことが分かった。 同センターは今後、中に入っている赤色顔料の粒を分析し、詳細に調査する予定。。同センターの白鳥文雄副参事は「西目屋村にこんなに貴重な品があることを広く知ってほしい」と話しており、29日に土器など遺跡の発掘現場を一般公開する。事前申し込みは不要。問い合わせは同センター(017・788・5701)。写真を見ると、いろんな想像が膨らむ。これが実際に発掘報告会などに行くと、更に膨らむのだ。それが、よく言われる「考古学のロマン」というやつです。今回は遠いので、写真を見て思った事をうだうだ書いてみる。・キノコ型の蓋なんて、縄文人たちはよく考えたものだと思う。蓋は必要だっただろう。昔だってホコリはあっただろうから。しかし、この土器だと平たい蓋ならばずり落ちる。これなら、キノコの柄が重しになってうまく嵌るだろう。・この土器は明確に祭祀用の土器である。しかし、祭祀に採用される前にこの形は日常用具として先ず作られていたのではないか。縄文時代では、現代の土瓶と形状的に全く同等の精巧な祭祀用の土器が作られていた。何らの特別な水を注ぐ行為は日常でも必要だったのではないか。私は「秘伝」の調味料があったのではないか、と想像する。この様な形の土器は他にも発掘されていないのか。そして、何かの痕跡は残っていないのか。あゝ現地説明会に行って色々と質問したい‼現場に行かなければわからないこと。少なくとも、現場に行けば一つでもわかることがある。何か、ということはその場でそれぞれだけど。古里原発もそうだったし、沖縄もそうだ。行かなければ、「沖縄に日本の矛盾が集中している」という感想をもつことは出来なかった。考古学のロマンは現場に行って初めて育てられる。私は世の文献古代学者の多くを信頼していない。あ、はなしがとっちらかってしまいました(^_^;)。
2012年10月05日
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韓国の旅レポートは2日お休みして、残った青春切符で決行したミニ旅行の報告をしておきます。カメラ新しく買いました。同じようなデジカメですが、ウームやっぱり腕がない、ボケボケですね。9月4日(火)晴れ青春切符を消化しないといけないという事もあって、播磨古代を訪ねる旅に出かけた。三回乗り換えをしながら電車で二時間ちょっと揺られて兵庫県土山駅に降り立つ。考古学博物館までの道がふれあいの道として、こんな風に歴史の学習が出来る様になっている。県立考古学博物館に来た。この前来た時はゆっくりできなかったので、今回はゆっくりしよう。いわゆる日本では最新の部類に入る考古学博物館である。しかし、あまりデジタルは使われていない。ビジュアルてきには、とてもわかりやすい。石と鉄の差は八倍だったかなあ。四倍じゃなかったかしら?弥生時代でも、矢じりのこの様な「変革」があったのだ。武器が大幅に変わる時に戦争の「質」は変わる。飾りか付いた土器ということで、古墳時代後期の勝手野6号墳の装飾付須恵器が展示されていた。装飾部分が男の人生を表しているのだそうだ。真ん中は、女に言い寄って振られている処だそうだ。右側は狩りをしていて見事射止めている。左側は神事の相撲をしているのである。見事だったのは、古墳時代の準構造船の実物モデルである。釘を遣わず樹齢800年の大木を切り抜き、作っている。後でその経過のビデオを見たがたいへん参考になった。弥生時代には準構造船は無いと言われている。しかし、それが無いと朝鮮半島から倭国にはやって来れないという人もいる。木を切り抜く鉄は半島にあった。そして実際間違い無く朝鮮半島から来ているのだ。私は不完全ながらあったのではないかと「想像」を逞しくした。他にもいい展示物はいろいろあったけど、紹介する余裕が無い。この博物館には、展望台もある。そこから、弥生時代の大集落大中遺跡も見える。郷土博物館が近くにあって、大中遺跡の遺物を展示している。大中遺跡のなかを通って帰路につく。ゆっくりし過ぎて二時過ぎになったのだけど、駅前に行くまでの約二キロ、営業している食堂が一軒しかなかった(三軒は昼休み)。韓国では、いくら寂れた駅でもあり得ない光景である。この規模の駅ならモーテル街があってもおかしくない。日本は住宅地に店を持たなくなっている。車で移動するからだ。ならば、それが出来ない貧困層や老人はどうするのか。無機質な街が駅の周りに広がっていた。(韓国のごちゃごちゃした街もどうかと思うが)やっと一見のうどん屋を見つけてそぼろ定食を食べた。帰りに有年駅(此処こそ正真正銘駅前に何も無い。饅頭屋が一軒ある)に寄った。歩いて20分、有年原・田中墳丘墓に至る。吉備の楯築遺跡に次いで巨大な弥生墳丘墓である。私には、明確に支配層と他の層の墓が分かれていて「強権政治」の臭いがした。
2012年09月15日
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現説(現場説明会)に行ってきました。場所は、緒現方洪庵や木下利玄の故郷足守の足守中学校裏手です。大森遺跡と言います。縄文時代晩期中葉の土器が思いがけずたくさん出てきたので、わりと大きなムラが一時的に住んでいたことがわかりました。多分今回の大分の様な洪水で、ムラごと流されて放棄したのだろうということです。何故分かったか。川辺にあるムラなのですが、川に流木がたくさん出てきたのです。また、弥生、平安時代の土器は出てくるが、量が少しなので、言わばアウトロー的な人物が住んでいただけだろうということです。そして、何よりも、河岸段丘が流路へ張り出した部分で、ポキンとと折れた石棒が一点出土したのです。長さが38センチ。岡山県では、最も長い方になります(5センチとか13センチとか11例出土はしているようです。東北と違い西日本では少ないのです)。折れていなければ、全長70センチになっただろうとのことです。石棒の存在は、以下のことを物語ります。(1)そういう精神活動が可能なほどに余裕のあるムラだった。(2)精神的支柱が必要なほどに大きなムラだった。(3)河岸にあることで水の祭祀を担っていた可能性がある。新聞報道では「 市教委によると、石棒は東日本では縄文中期以降に大型化し、集落の水くみ場にお守りとして祭られていた。水辺での発見例は県内初で、西日本でもほとんどないという。(略)「西日本でも水の恵を守るシンボルとして石棒を崇拝する信仰があった証明だ」と言います。(4)洪水からムラを守れなったことで、石棒に全ての責任を被せ、折ったのだろう、そしてそのままムラは他に移ったのであろう。とのことです。折れた片方は、見つかっていません。多分もう一方は男根の形をしていたはず。生のをみたことがないので、少し残念でした。この当時鉄は当然ありませんから、石でこれを磨いたのでしょう。先ずは石斧でおおまかな形に削る。そして砥石で磨くのです(とのことでした)。手間はかかります。鉄屑も見つかっていました。実は南へ山を一つ隔てると、最古の製鉄遺跡千引カナクロ谷があるのです。縄文時代からずっと途切れることなく、この周りいろんな処に人は住んでいたのでしょう。この足守川流域は、弥生時代から大きなムラがたくさん栄えています。それがやがて弥生晩期に楯築に結実する。(→それが大和政権に飛躍する。)そういうルーツの一つを見た気がしました。
2012年07月15日
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