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現説(遺跡現地説明会)にいってきました。場所は、永瀬清子の故郷熊山駅の近く、不思議なピラミッド遺跡のある熊山遺跡の北側、赤磐市の辺谷・成ル遺跡です。すぐ北側を吉井川(一級河川)が流れていて、南から注ぐ和田川が作り出した谷底平野の出口あたりの比較的平坦なところに立地しています。弥生から江戸時代にかけての複合遺跡というので、弥生に興味がある私は散漫な遺跡だろうなとあまり期待はしていなかったのです。処が、中心は弥生時代、しかも古墳時代の製鉄関係もかぶっているという、私にとっては非常に興味深い現説になりました。先ず驚いたのは、6世紀後半の住居のカマドから「フイゴの羽口」が出土していたという事。製鉄か、鍛治職人であった可能性がある。もし製鉄ならば、日本一古い製鉄遺跡(千引カナクロ谷遺跡)と同年代である。実は、谷の西側の山で辺谷製鉄遺跡という7世紀前半の製鉄遺跡が見つかっている。そうなると、総社が製鉄の最新地域だったと思っていたが、吉備の国で6世紀に入った途端に一斉に製鉄が始まったということになるかもしれない。或いは、カナクロ谷で製鉄が成功し数十年の内に一挙に吉備国全体に広げたか。それは金官伽耶の滅亡と関係しているのか。想像は膨らみます。この辺りの住居跡は焼失した跡です。弥生後期の住居が五つ見つかっている。他には、弥生後期の土坑がまとまって出土していた。丸く無く角の取れた四角である処が「後期」なのだそうだ。興味深いのは、弥生中期(一世紀あたり?)の木管墓が出ていたという事。簡便な板だったらしい。(写真では分りにくいが、少し色が変わっているところが板のあった跡らしい)身長は130センチくらい。小学生くらいだったのではないかとの説明です。腰のあたりに石の矢じりが16個もまとめて出たらしい。これは岡山県では四例目。直ぐに思い出したのは、真備の清水谷遺跡で胸の辺りに矢じりが出土し、身体全体に矢じりを打ち込んで埋葬されたのではないかと言われている例。しかし、こちらは量が一カ所に纏まりすぎているので、その可能性は薄い。枝は付いていない。墓が閉まらないからである。もしかしたら、男の子で勇者だったけど、事故で亡くなり、お母さんが悲しんで生前に仕留めた獲物(小さいので戦争用ではないと私は思う)の数だけ矢じりをいれたのかもしれない。(と、説明している人に言ったら「わかりません」と興味無いという返事。分かるけど、もっとロマンを持とうよ)弥生時代、田んぼ面積も小さくおそらく小さな集落に過ぎなかったこの村は、交通の便と背後に控える豊富な森林、そしてなんらかの人材を得て(朝鮮系土器は出土していない、朝鮮系地名もなし)、急に製鉄集団になって行ったのだろう。川上の月の輪古墳との関係も興味深い。(と、私は思う)
2012年07月05日
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今日は考古学出発の日である。1877年6月18日,アメリカの動物学者E.S.モースが来日。来日直後,横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓から露出した貝殻層を目撃し,発掘します。この大森貝塚の発見により,日本の考古学は第一歩を記しました。モースの報告書『大森貝塚』(岩波文庫)を少し紐解いた。文庫青 432- 1大森貝塚/エドワード・シルヴェスター・モース/近藤義郎/佐原真昔読んだ時は、まだお二人とも元気だったのであまり価値が分からなかったのだが、編訳が私が敬愛する近藤義郎、佐原真の両氏なのである。解説はどちらが書いたか明らかにしていないが(多分、佐原氏)、普通の解説には無い情熱のこもった名文であった。例えば、以下の通り。 「大森貝塚」をいまの水準でみれば、物足りない点や部分的な誤りは容易に指摘出来るかもしれない。しかしそのことは、この書物の価値をいささかも減じることは無い。 この研究報告書は決して分厚いものではなく、図版をのぞいて英文で39ページ、日本文で80ページたらずのものである。モースはその中で、貝塚・土器・石器・骨角器・装飾具・土版・動物遺体・人骨・貝類等について、簡潔で要を得た記述を行い、また見事な測図をしめしたが、それだけでなく、ほとんどあらゆる事柄について類例を求め対比を行い理解し解釈しようとする態度を、執拗かつ全面的に展開した。とくに諸遺物の解釈から描き出そうとした大森原始種族および貝類の進化について繰り返し述べる情熱的な叙述は、読む者を圧倒さえする。この書物がなお深い感銘を引き起こすのは、すべてを焼きつくさんとするが如き彼の精神のもっとも鮮やかな表現がそこにあるからにほかならない。 いま日本考古学は年間数百冊厚さ数メートルに達する発掘報告書を生み出し、資料の大海に自ら溺れさせようとしている。加えられているあらゆる状況を考慮せずに述べれば、そこでは画一化と技術主義が支配しようとしている。調査報告とは何かを、いまや「大森貝塚」についてふたたび学ぶ時にきているように思う。(187p)誤りとは、ここでは縄紋人の「食人習慣」が主張されている。出て来た人骨の跡がそうとしか見えない、というのである。解説によると、追加資料がみいだされず、「いずれとも決定されないまま」になったらしい。「大森貝塚人は、プレ・アイヌ人である」という主張もいまではあまり言われない。モースの報告書の図版は、現代でも充分通用する正確さを持っており、同時に美しいのである。やがて、モースが居なくなったあとに、この報告書を超える報告書がでてくるのは、不幸にも50年を待たなくてはならなかった。完成形の土器のみ製図したり、数を数えなかったり、本格的な学問はレベルが下がる。しかし解説者は言う。「モースの方針をそのまま受け継がず、その刺激を間接的に受け止めて独自の熟成を待ったからこそ、良い意味でも悪い意味でもアメリカのものでもヨーロッパのものでもない、日本独自の考古学が育って今日に至っている、ともいえるであろう」1929年、品川区大井六丁目に「大森貝塚」の碑が建てられた(発掘者は全員ここを大森だと勘違いしていたのである)。遺物の多くは現在大田区立郷土博物館にあるはずだ。12年ほど前に訪れた事がある。驚くほどきれいな、典型的な縄紋土器だった。付けたしとして、大森貝塚は、現代犯罪捜査に欠かすことのできない「指紋」の発見にも一役買っている。以下05年に読んだ本の感想の冒頭。「指紋を発見した男」主婦の友社コリン・ビーヴァン 茂木健訳スコットランド人医者ヘンリーフォールズは、宣教師として日本に滞在中、友人モースを手伝い大森貝塚の発掘に携わっているときに、土器に付いている指のあとの筋から『指紋が犯罪捜査に使えないか』と発想する。指紋が犯罪捜査に与えた役割はとてつもなく大きいものがあったが、それが証拠として採用されるまでにはいろいろなドラマがあった。
2012年06月18日
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さて、ご多聞に漏れず私も金環食見に行きました。初日の出スポットの鷲羽山展望台です。瀬戸大橋をバックにいい写真が取れるのではないかと目論んだのですが、バックになっただけでした。7時過ぎに着いたら既に大分かけていた。ピークは18分くらいだったらしい。周りは少し薄暗くなり、少し肌寒くなった。ラジオでは、カラスの大合唱が始まった、と言っていた。 写真はことごとく失敗。きちんと準備しなくちゃ駄目ね。これはピークが過ぎたころに、若者から大きな専用下敷きを借りて映したもの。私が今回こだわったのは、これが卑弥呼等に始まる弥生後期のシャーマンたちの権威付けに使うことが出来たかどうか、ということである。しかし、印象としては、世が変わると云う印象はない。古代、言われなければ気がつかなかったろう。やはり、金環食ではダメで、日食で無いと、古代、インパクトある預言者にはなれなかったか。いや、それとも、此れを見越して「私がこの程度で済ませたのだ」というか。おお、それならば、有り難みがもっと増すかもしれない。 ともかくいい経験をさせてもらった。
2012年05月21日
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以前発掘説明会に参加した淡路島の垣内遺跡の鉄器の分析結果が出たというので読んでみた。淡路・五斗長垣内遺跡:出土鉄製品、68点が弥生製 愛媛大教授分析 /兵庫残念ながら、弥生時代の鉄ということだけが分かっただけで、どこの鉄鉱石で作ったか等はわかっていなかったようだ。日本の鉄鉱石を使ったということが出ないか、何処かで期待していたのであるが。この遺跡は謎の遺跡だ。専門の鉄鍛冶集団が弥生後期に突如ここに起こり、まだまだこれから鉄が必要とされる古墳時代に入ったとたんにぷっつり消えている。私はひそかに纒向に対抗する秘密の武器供給基地であったかもしれないと思っている。それが、箸墓という前方後円墳体制が出来上がった時点で、潰されたかしたのだ。しかし、あの説明会に参加して以降、わたしの弥生時代の鉄に対する知見は大きく広がった。なんといっても、去年11月当時の鉄の先進地域の朝鮮半島の遺跡をめぐったことが大きい。そしてそのとき、慶尚大学の有名な教授(その後の情報では嶺南考古学会の会長らしい)の「技術だけが問題ではない。鉄鉱石が必要です」という知見を頂いたことで、弥生時代に鉄を作った可能性は大きく後退したが、その一方で、我々の想像以上に複雑な鉄を作るための苦労があることを知ったのである。その後、翌年三月、岡山大学の松木教授の「製鉄を始めるよりも、輸入するほうが効率的だった」という知見でさらに、政治的経済的判断でわざと製鉄を採用しなかった可能性に気がつくことができた。さらには、今年の夏に北九州を旅したことで、弥生時代の奴の国の全体像を知り、奈良県桜井を旅したり、シンポジウムの記録を読むことで、ヤマト政権の成立に吉備の楯築の王が深く係わっていることに大きく確信を得たのである。これらの知見は、私の場合、すべて論文という形(つまり学術的方向)には向かわない。すべては吉備の物語を紡ぐための「仕込み」なのである。(←十数年仕込ばかりして全然酒ができてないぞ)弥生時代後期から古墳時代にかけて、日本列島の諸国をひとつにまとめようということを意識して成し遂げた人物が確かにいた。しかも、それは中国大陸や朝鮮半島で行われていた武力による支配とは正反対のやり方で。鉄や塩の分配や、祭祀という政治の仕組みの交流を通じて、何故か西日本一帯が一つになった。なぜ、この島国でそれが可能だったのか。地理的要因はもちろんある。しかし、やはり幾人かの傑出した人物がいたからであるというのが、わたしの結論だ。その中心に、吉備の王がいた。150年に楯築の墓を作ったとき、楽浪郡から大量の朱が送られる。松木教授の言うように、107年中国に使いを送ったのは楯築の王だったのかもしれない。それは偉大な王だった。けれども、それから40年間から60年にかけて倭国大乱が起きる。武力がすべてだ。そういう思想は大陸からやってきただろう。大陸の事情をすべて分かった上で、北九州、出雲、ヤマト、播磨の仲間たちと若いころに交流を持ち、鉄の交易権の独占を勝ち取る塩の一大産地だった吉備が大きな力を持つようになる。これらを仕掛けたのは、もしかしたら女性だったかもしれない。当時、孔子の思想は輸入されていないから、中国の封建思想は日本になかった。あるのは、男女の役割分担だけだ。女性のネットワークと、勘の鋭さでもって、情報を武器に日本をまとめたのかもしれない。そんなことをつらつら思う夜長の秋でした。
2011年10月23日
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青春18切符の最後の切符を使って、9月10日、奈良県桜井市纒向遺跡に出かけた。近鉄桜井駅に着いたのが12時前。先ずは桜井埋蔵文化センターに出かける。博物館で情報を得るのが私の古代を巡る旅のスタイルである。バスで近くまで行く。埋蔵文化センターのすぐ側に「金海吉キメキチ」という焼肉屋があった。キンカイと読まずにキメと読んでいるのが気に入って中に入った。750円の焼肉ランチ。味はたいしたことなかったけど、お茶碗とお箸が金属器になっていて本格的だった。流石に地元である。去年発表されて話題になった四棟の掘立柱建物群の遺物がきちんと展示されていた。これは遺跡近くで発見された大量の桃の種である。NHKと共同で作った模型も展示されていた。どうやら、この建物三世紀の前半に建てられ、中ごろには既に柱材の抜き取りが行われていたようで、移転廃絶したと考えられている。たった30-40年ほどで移転するものだろうか。この掘立柱建物は19.2m×12.4mの規模に復元できる。当時としては国内最大の規模らしい。模型を見る限りでは、古代の神社の原型に見える。中国、朝鮮の影響はどうだったのか、次々と疑問が起きた。面白かったのは、その他の古墳を含めて箸墓が作られた当時の纒向の地域模型もあったということ。所謂微高地に掘立建物があったとすると、次ぎに建物群が出てくるとすると、隣の微高地か。せっかくここまで来たので三輪ソーメンを食べてみた。ソーメンの中で三輪ソーメンは高級品だが、良く分かった。今まで食べた中で一番細かった。ここから聖なる山、三輪山がよく見える。お盆を伏せたような形のいい山である。ソーメン屋から少し歩くと箸墓古墳が見え出す。この地方ではひときわ大きい。どこからでも見える。ずーとシンボル的存在だったことは確かだ。埋蔵センターで纏向遺跡マップはゲットした。大塚古墳の直ぐ南隣の変哲もない溝であるが、ここで注目すべき弧帯石が発見されている。この模様が吉備の特殊器台の直弧文と同じなのである。箸墓からも特殊器台が発見されているし、いよいよ吉備と纒向の祭祀を巡っての関係性が非常に重要である。この辺りは、箸墓に先行する前方後円墳もどきが林立している地域である。箸墓が三世紀後半に築造されたとするならば、大塚も三世紀後半。この纒向小学校となりの矢塚古墳は三世紀中ごろである。唯一周濠が確認される勝山古墳は三世紀前半か後半まだ諸説あるらしい。築造時期が三世紀初頭だと見られている日本最古の古墳は墳丘が削られて今は見ることができない。纒向石塚古墳である。この地域からずっと纒向の東端を眺める。山すそ辺りまでが纏向遺跡だ。丁寧な土器採集で確定した広さである。これが大体の纏向遺跡の大きさだと思われる。ゆっくり歩いて1時間。走って、20分で突っ切ることが出来る、日本最古の都市である。この広さが狭いと感じるか、広いと感じるか。ともかく歩いて、纒向遺跡を肌で感じるという私の目標は達成されたと思う。巻向駅横の建物群が発掘された広場にはやっぱり行かないとね。この広場から綺麗に三輪山が見える。そして南側に真正面に箸墓古墳が見える。横から見ると、後円部が異常に高い初期古墳の特徴が良く分かる。これと同じ設計の前方後円墳が直ぐに全国に出来始める。誰が埋葬されていようと、古墳時代の幕開けを告げる重要な古墳なのである。巻向から桜井駅まで行って、そこから歩いて桜井茶臼山古墳を探した。去年の墳丘発掘の説明会にいけなかったので、今日はぜひとも行きたかったのだ。標識がなくて少し迷ったけど、なんとかたどり着く。竪穴式石槨墓で朱をふんだん使った四世紀の纒向の王墓である。その重要さに比較してあまりにも整備されていない印象を持った。夕暮れが迫っている。もう帰ろう。近鉄線からJRに連絡するのは鶴橋駅である。ここで途中下車して、アジョッシという焼肉屋でカルビクッパを食べた。キムチは付いてこないし、始めからご飯は入っているし、850円と高いし、あまり辛くないけど、具沢山で肉厚のカルビが入っていて、美味しかった。この日も帰宅は12時を過ぎた。総歩数は23293歩であった。
2011年09月19日
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これは弥生中期の祭り用の土器である。赤色顔料で塗装しているだけでなく、ヘラで部分的に磨いて、光線の具合によって文様が浮き出る「暗文」を施している。驚いたのは、これと同じ型の土器が北部九州と朝鮮半島金海から出土しているという説明が書かれていたということ。(そこで思い出した。この写真は既に紹介しています。福岡埋蔵文化財センターにあった比恵遺跡の土器です)これに対して職員の方は「同じ型だという説明だけであって、この壺が朝鮮から来たという事ではないんです。それよりもなによりも、この遺跡からは、朝鮮から来た土器はひとつも発見されていません。だから直接朝鮮と交流があったとは考えられない」朝鮮系土器がひとつも無い!!いよいよ、あの顔は朝鮮系渡来人ではなかった。上の右側の土器は須玖式(北九州)といわれる土器で、この土井が浜では弥生中期に出土する。中期には他には瀬戸内式土器が出土する。一方、前期ではこのようなこの土地特有の土器(綾羅木式)が出土していたという。特徴は貝殻文様である。特にこの土器は木の葉紋が描かれている。この前、岡山百間川遺跡の現地説明会では前期前葉で正確な木の葉文様が描かれていたのに、前期後葉では三つ葉に簡略されていったのが明らかになったと書いた。元あった意味が長い年月の中で薄れて行ったのか、ということだったが、もともとこの文様がこの山口県響灘から来た文様であったならば、文様の奥に隠された「物語」は、その風土から遠く離れた吉備の地では確かに薄れて当たり前だったろう。それを裏付けるためには、この文様の「発生と流れ」を研究しなければならない。誰かしてくれないだろうか。そしてもしこの響灘沿岸で前期後葉でもまだ文様が生き続けていたならば、そもそも「木の葉文様」自体に「物語」があったことを裏付けることになるだろう。それは一体どのような「物語」だったのだろう。弥生時代に「文字」は無かった。青銅器にかかれた「絵」は文字一歩手前の簡略化に成功しているという説はあるが、ともかくも無かった社会において、口頭での「物語」の伝承は決定的に重要な「智識」だった。ある人間は一字一句間違えずに伝えることは出来ただろうが、基本的にはなにかの補助道具を使ったことは充分にありえるだろう。それが土器に施される文様だったとしたら、木の葉文様の一本一本の線には重要な意味が隠されていたのかもしれない。あるいは貝殻で文様をつけること自体に意味があったのかもしれない。私はこの「文様」を見ていて、思うことがある。どういう「物語」だったか、今は具体的に一切分からないけど、「英雄物語」ではなかった気がする。なんだか「恋の物語」こそ、相応しい気がする。ヨーロッパ諸国、英語圏では多くの「英雄物語」が存在する。日本でもヤマタノオロチ退治、あるいはヤマトタケルの白鳥伝説、あるいは吉備彦の温羅退治、など英雄伝説は存在する。しかし、一番最初に編まれた国書が「万葉集」だったことは果たして偶然なのだろうか。万葉集の一番多い歌は圧倒的に恋の歌であって、英雄を称える歌は皆無に近いのである。国を統治するときに必要なのは、「恋の歌」だった。それは決して万葉の人たちが遊び呆けていたということではないだろう。国を統治するのに必要なのは、戦時においてどう動くかという話ではなかった。平和なときにおいて人とどういう関係を持つかという話だった。それは遥か弥生時代から育まれた伝統ではなかったか。そういうことを意識的に重視しているのでなくては、真っ先に万葉集を編んだ理由が見つからない。話が大幅にずれた。えっと、話はどこまででしたかな(^^;)。そうそう、職員にいろいろ質問していたんですな。この若い男性職員、もうひとつ重要なことを教えてくれました。
2011年08月31日
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8月2日(火) 夏旅4日目7時前のバスに乗って吉武高木遺跡を目指す。上手くバスがつながらないので木ノ葉モール橋本北口で降りて歩いていくことにした。以前読んだ本では「弥生中期後葉の須玖岡本遺跡が奴国の王墓、三雲南小路遺跡が伊都国の王墓であることは間違いは無い。弥生中期初頭のこの遺跡は、それらの国に先立つ王墓ではないかとみなされています。」と書いていました。近くに橋本八幡宮があるので少し寄ってみることにする。落ち着いた神社だ。1482年柴田内蔵助重信父子創建ということで、武士の建てた神社である。のちに黒田藩主の別荘まで建てられるので地元の人の愛着が深かったようだ。若い女性が神社の空気を吸いに来ていた。槙と楠が幹の途中でつながった「きずなの木」があった。こういうのを大切にする心が嬉しい。地図で見つけた。次郎丸駅のとなりに紫式部神社あり。少し遠回りであるが寄ってみる。なるほど式部神社である。小さな祠があるだけで、謂れが全然書いていない。本来の神社から株分けでもしてもらったのかな。室見川を渡ってやっと着いた。田んぼが広がる何にもないところに吉武高木遺跡がある。この写真は大型建物跡である。東西の柱間が四間(9.6m)、南北の柱間が五間(12.6m)の規模で、床面積120平方m以上だそうだ。高床建物か土間式か未だに検討されているらしい。この説明パネルは去年三月に設置されたとある。1985年発掘なのに、ずいぶんと遅い。この広場からは王墓の跡が発見された。弥生時代前期末から中期末にかけてのおそらく日本列島最初の「くに」の墓である。ここから出た青銅の細形銅剣、銅鉾、勾玉などはほとんど朝鮮製で、墓は木棺墓と甕棺墓の二通りある。これは奴国の先駆なのか。今回現場に足を運んで、気が着いたことが三点ある。ひとつ。奴国では墓は丘に作っていた。しかし、ここはまったくの平地である。平地を墓にする思想は、いつから高みに墓を置く思想に転換したのか。ひとつ。そして、ここから見事に飯盛山(382m)が見える。この遺跡のどこから見てもこの飯を持ったような山が見える。間違いなく飯盛山は「特別な山」だったはずなのに、弥生遺跡がまったくないと言うのは返っておかしいのではないか。ひとつ。この山を越えていけば、実は伊都国の都に着くのだ。こんなに近いとは思わなかった。平地で言えば、奴国とつながっていて、距離で言えば伊都国に近い。この「くに」の運命はどうなったのだろうか。飯盛山に登りたくて、飯盛神社に行ってみた。九世紀に創建されたと伝えられている。建物は江戸時代中期のもの。珍しく常駐の神主がいた。ただ、登山口がはっきり分からなくて登るのは諦めた。バスで野方遺跡に一番近い停留所の壱岐南小入り口で下ろしてもらう。地図を見ると、側に「戸切人権の町づくり館」というのがあった。同和関連の資料館かと思い訪ねて見る(博物館フェチなんです)。そしたら、集会所なんだそうだ。公民館みたいな役割もしているらしい。今年四月にオープンしたばかりだが、なんと遺物も小展示していた。建物を作ったり、道路を作ったりしたときに出土した遺物の一部である(兵庫遺跡)。弥生前期末から古墳時代にかけての遺跡だった。弥生土器なんかほとんど縄文土器だ。「ここは当時日本でも最も国づくりが早くできた最新地域だったんですよ」と館長らしき人に説明したが、へぇという感じだった。なにしろ縄文土器そのものの言葉を知らないのだ。大きな新興住宅地のなかに野方遺跡はある。ここからも飯盛山はよく見える。地図を見ると、ここら一帯は新興住宅だらけだ。ゴルフ場と新興住宅地は弥生遺跡の宝庫である。微高地に弥生人は住むからである。住宅をしばらく歩くとやっと野方遺跡に着いた。
2011年08月12日
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久し振りに現説(考古学の現地説明会)に行ってきました。少し遅れていったのでほとんど説明は終っていて、私は説明を終えた調査員を捕まえて詳しい説明を聞いたのでした。幸いにも質問者は私独りで突っ込んだところを聞くことが出来ました。今回の調査は、日本の代表的な弥生遺跡である百間川遺跡のひとつ沢田遺跡(旧二号線百間川橋の下南隣)で、弥生時代前期から井戸や倉庫と考えられる半地下式の大型土壙、集落を区画する大溝から木葉文の描かれた壺の出土、弥生後期の綺麗な田んぼのあとなどが出土したことが特徴です。沢田遺跡は岡山では二例しかない環濠が発見されていることで有名です。今回調査した大溝は(絶対可能性はないということはないそうですが)環濠ではないのですが、以前見つかった環濠集落について私の疑問をぶつけました。「環濠の大きさは小さいと思うのですが、最高で何軒の住居があったのですか」「6軒です」「だとすると、戦いから守るための環濠ではないですね」「環濠の役割は防御のためだけにあったのではない、とだんだん考えられるようになりました。環濠があった時代は前期から中期までです。稲作が取り入れられて定住が始まった頃であって、土地への執着が、環濠という形で土地を区画するという行為になったのではないか。実際ここの環濠は逆茂木があるわけではなく、飛び越えようとしたら飛び越えることの出来る幅です。」「けれども、住居は環濠の外にもあったわけでしょ。だとすると、環濠で区画する意味がわからない。私は環濠の中に聖なるものがあったとすれば、納得するのだけれども」「そういうものは見つかっていないし、たぶん違う」「じゃあ、選ばれた人たちだけが環濠の中に住んでいたのか」「前期にそういう階層意識があったと思えない」結局この環濠は「戦争のための環濠ではない」ということだけが明らかであって、本当の意味についてはまだ分かっていない、ということなのだということは分かりました。岡山の遺跡からも武器は見つかっている。けれども、戦争を準備していた部族なのかというと、最後まで違う人たちだったのだ、というのが私の「仮説」です。さて、これが弥生後期の田んぼです。綺麗な田んぼで、大きさも現在の普通の田んぼの半分くらいから1/4位の大きさです。津島遺跡の田んぼと比べると非常に大きい。なぜ大きいかというと、この頃は鉄器が普及していて、土地を平らにして水を万遍に行き渡らせることが出来たからです。この一枚が当時の百姓の一軒の土地かというと、おそらくそうではない。当時百間川遺跡にはずーと田んぼが広がっていた。このくらいの大きさが彼らの美的感覚にはちょうどしっくりくるということだったのかもしれない。畦は簡単に見つかったらしい。そして一部だけれども稲株跡も見つかっている。洪水で覆われた遺跡だからこそ成果である。稲株あとが思ったより規則正しくないということで、どうやら議論があったらしい。確かにここは意見の分かれるところですね。私は「この畦にある跡は稲株ではないか」と質問しました。ちゃんとこれも議論していたらしい。畦にあるのが何か分からないけれども、たぶん何らかの植物の址とか足跡だったかもしれない。とにかくへこんでいる部分は総て洪水でタイムカプセルとして残っているのだそうだ。今回見つかった前期の屋根付き倉庫用の土壙。大型の倉庫が建てられるのは弥生時代中期になって以降であって、前期にあるのはこんな簡便な倉庫ばっかりだったようだ。しかし、底はきっちり平らにしており、規則正しく柱穴があり、倉庫だったことは間違いない。底が板だったか蓋はあったのかどうかはわからない。たぶん長期保存には向かなかっただろう。鼠対策等ができていなかったからだ。前期の小壺の蓋も出土していた。初めて見た。壺の蓋は前期中期までは結構出るらしい。私は前の講演のとき、日本では土器の蓋は出ないと教えられていたし、実際見ていないのでないのだと思っていたが、蓋が出てこないのは後期になってからだということだ。もちろんお米は煮て食べていたので、何らかの形で蓋は必要だったのではある。おそらく土器製のふたから木製蓋に変わったせいだろうが、韓国との比較についてはいまひとつ分からない。このふたは韓国でも見られない。穴に糸を通して持上げるのだが、上の写真が表。模様がある。下が裏。きちんと穴の大きさに対応した蓋になっているところが大変細かい。日本らしいと思う。弥生時代の壺型土器を飾る文様のひとつに木葉文があります。この文様は前期でも古くからみられる文様で、百間川沢田遺跡においても、南側の丘陵裾で前期前葉の壺から見つかっています。しかし、その時の文様は、方形の区画内に四葉状の文様が描かれていました。今回見つかったのは、前期後葉の壺からで、三つ葉で方形区画も描かれていない。しかも木の葉文様のしたの飾りをよく見てみると、書き順が文様が描かれた後に線で区画していることが見て取れます(一部文様の上に線が引かれているのが見える)。これによって、調査員の人は「この文様の書かれた意味が長い年月の間に薄れていったのでは」と述べていました。文様の変化は弥生時代において、作り手の交代ぐらいでは簡単に変化してはいません。しかし、この文様の変化がどのくらいの期間で起きたかは興味があります。調査員の人はとうとう教えてくれませんでした。最近の土器編年議論に対して大変戸惑っているからだそうです。100年単位なのかどうか。もし20-30年単位ならば、所謂文様の変化はその裏にある深い「思想」の変化ではなくて、「モード」の変化である可能性がある。四葉状の文様に実は深い想いがあるのならば、数十年で変わらないと思う。けれども、もしかしたら深い意味はあったかもしれないが、作り手は封印したのかもしれない。小説家はひとつの文様をめぐって5代ぐらいに渡って女性の歴史を紡ぐことが可能にならなければならない。いろんな想像が出来ます。沢田遺跡の既に発掘したところは現在では遺跡公園になっています。後景には古墳時代、早期から後期にかけて非常にたくさんの古墳が眠っている操山がそびえています。
2011年07月16日
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「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」福本明 新泉社私の考古学における最大の関心は弥生晩期の王権の移行であるし、そのために吉備の楯築遺跡には既に何十回となく散歩もかねて訪れているし(この前も松木教授から楯築の遺物の解説を受けたばかり)、遺跡の関連書も発掘者の近藤教授の著書含めて三冊は読破しているというのに、2007年に発行されたこの書物にはいろいろと学ぶところが多かった。全カラー印刷で非常に分かりやすく書かれているということがひとつ。専門的な話は横においておいて(それでも少し専門用語は入っているが)、最新の学説を良くまとめていることがひとつ。以下、刺激を受けた部分をかく。●カラーの「足守川流域の主な遺跡」をみると、同時期の弥生遺跡がたった四キロぐらいのところに本当に集中しているということが見て取れる。集落遺跡がざっと15、晩期弥生墳丘墓が三つ。急速な発展を可能にしたのは、この密集した遺跡があったからだろうし、何故急に発展したかといえば明らかに大陸との関係があるのだろう。●写真に突出部の発見の糸口になった列石が載っている。今度行ったときに確かめてみよう。この突出部に気がつかなければ、この墳丘墓がこんなに大きなものだと気がつくのがだいぶ遅れたことは間違いない。●意外にも楯築の象徴である立石は「地上部分が2-3mもある大きな花崗岩で、とくに加工を施した痕跡は認められない」とのこと。→絶対何らかの加工をしていたのだと思っていた。●「想定復元された楯築弥生墳丘墓」のカラー絵が載っている。きちんとした双形をとっていない。これも意外だ。●楯築は他にはあまり類を見ない木棺木槨墓なのであるが、土葬の断面のほんの少しの違いからそれだと類推したらしい。気の遠くなるような作業だったようだ。●歯が出土していた。「年齢は若年とするよりは熟年期を考えるのが妥当とし、性別は不明であるが、小ぶりな歯牙というかんじがもてる」とのこと。→副葬品を考えると、老齢の女性なのではないか。とは私の推測。それが吉備で最も特異な王墓として祭られ、しかもその祭祀の最初であり、しかもその祭祀が100年後には大和王権の祭祀に連なるというほど、決定的なものだったということ。これは何を意味しているのか。●副葬品は鉄剣一口と三連の玉類。鏡はもとより、大量の武器、農具といった品々もみられなかった。むしろ被葬者の愛用品が木棺に納められたという状態で、前方後円墳とは歴然とした違いが見られる。●排水溝があった。弥生墳丘部としては初めて。ひとえに木棺の腐朽を防ぐことに異様なほどに注意が向けられていたということを示している。もちろん30キロにも及ぶ朱もその一環。●中心主体の埋葬後に幾つかの埋葬があったことが確かめられている。→時間を置いているので、殉葬ではない。しかし、誰なのか。●楯築遺跡の特徴はほかに類を見ない特別な埋葬にある。立て石、弧帯文石、最古型式に属する特殊器台と特殊壺、他の追随を許さない墳丘規模と大量の朱の存在。●木棺木槨墓の例は、楯築のほかに岡山市雲山鳥打一号墳丘墓や総社立坂弥生墳丘墓、また山陰の出雲市西谷三号弥生墳丘墓などが知られている。そのなかで、楯築が規模や構造の複雑さで卓越していることから、吉備を中心に採用された埋葬方法であるといえるだろう。しかし、独自に成立したのではなく、楽浪郡古墓の棺槨との類似が指摘されている。しかも大量の朱も良く精製された良質の水銀朱のみが使用されており、徳島阿南の若杉山遺跡の朱とは違うことが明らかになった。産地は現在特定できていないが、これだけ膨大な量と質を供給できる産地として、中国や朝鮮からの搬入を考える必要がある。→私はひそかに楽浪郡の誰かが埋葬に先立ってプレゼントしたのではないか、と考える。●近藤教授は「朱の役割は引き継ぐべき霊を復活させ、その霊力を高めるために使用されたものである」としている。●割られて埋められていた人形土製品は首飾りや乳房のような表現が見られ、女性なのではないかという。武人ではなく、女性であるところが被葬者の気持ちが反映しているように思える。●円礫堆の中の土は黒色から黒褐色をしており、多くの灰や炭が含まれていた。祭儀の中で盛大に焚き火が行われたであろうを示ことす。さらには小モモやクスノキの一種、カジノキなどの種子も含まれていた。その他祭祀に使われた有機物の道具やそなえものも合ったに違いないが、腐朽してしまって今となっては知る術は無い。●土器類はほとんど穴が開けられており、飲食共食儀礼はあったろうが、象徴的な祭祀だったのだろう。人形や管玉勾玉、鉄製品、弧帯文石などは呪術具として穢れを祓う形代の使われ方をしたものと解されている。●もともと弥生時代中期から後期にかけて直会といえる農耕儀礼は出てきていた。ところが、後期後半になると、集落遺跡からその器台が減少し、首長墓に特殊器台として登場する。そのことは、農耕儀礼が首長の葬送に際しての儀礼に取り込まれたことを意味する。●著者は祭儀をこのように再現してみせる。林立する巨石に囲まれた中、なき首長の棺の真上に清浄な円礫が敷かれ、ふたつの弧帯文石がすえられている。それを中心として様々な儀器を使い首長の継承祭祀が執り行われるのである。盛大なかがり火の元、それは夜に行われた。火によって立石が照らし出され、その影が揺らめいている中で進行する。そして祭祀の終わりには小型の弧帯文石が砕かれ、土製品などの祭具も打ち毀されて役目を終えて円礫とともに盛り上げられる。一連の儀礼の最後に墓標のごとく特殊器台と特殊壺が立て置かれるのてある。このときご神体として伝世することになる弧帯文石も傍らに置かれていたに違いない。●特殊器台の胎土や施文に強い共通性が見られることから、備中のどこかの地で一括して作られていたのだろう。●大和から出土する特殊器台は最終型の宮山型が箸墓、西殿塚、中山大塚、弁天塚の四基の前方後円墳から出土している。特殊器台は首長間の擬制的な同祖同族関係とその階層性を示すものであったことを考えると、大和と吉備にその関係があったのか。しかし、吉備においては宮山型は前方後円型をした全長三八メートルの宮山弥生墳丘墓の一箇所でしか確認されていない。なぜか。近藤教授は「吉備における備中の大首長がその絶大な呪術性によって諸族の中枢の地位に擁立され、大和に移動・進出した。そしてその死に際して奈良平野の南東の地に前方後円墳を造り、宮山型特殊器台と特殊壺を持って前方後円墳祭祀を創始したのではないか」という見解を提出している。→私はこの説を支持する。よって、箸墓の主体は吉備からやってきたヒメミコである。●出現期の前方後円墳を構成する様々な要素のうち、少なくとも埴輪や竪穴式石槨、葺き石、朱の使用など幾つかにおいては吉備の弥生墳丘墓を中心に発展してきたと考えられる。⇒いずれにしても、ヤマト政権の祭祀の源流は吉備のしかも楯築墳丘墓にあったのである。
2011年07月02日
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震災前ですが、第九回津島遺跡文化財講座に行ってきました。最終回です。これで講座修了書をもらえます。何の資格にもなりませんが。岡山大学考古資料展示室に行きました。松木武彦准教授の豪華解説付きです。ずっと来たいと思っていた展示室なのですが、平日に限りしかも予約が必要ということで、来そびれていたのです。なぜ来たかったかというと、私の一番興味のある吉備の弥生晩期の時代、楯築遺跡の発掘成果が展示されているからです。岡山大学の近藤義郎教授が発掘したのでここにあるのですね。「これがこの展示室の主です」松木氏は先ずは弧帯石をみせてくれます。これはレプリカで、岡山県立博物館にもありますが、「非常に良くできたもので、傷の一つ一つも再現されています」とのこと。実物はもともと楯築神社の祭神だったということもあり、倉敷の楯築遺跡の側のコンクリート製の祠の中に保存されています。間違いなく弥生時代晩期楯築の墓を造る際に作られたものです。と、いうのは墓を発掘した際に中から、これと瓜二つの弧帯石が出てきたからです。その弧帯石の実物も展示されていました。初めて見ます。これは、わざわざ火をかけて脆くさせて打ち砕いているのです。しかも、墓を埋め戻す土の中に混ぜているのです。同じ土に混ぜているものとして、人かたちをした土製品、土の勾玉もわざわざ割って同じようにしているのです。非常に特異な儀式が行われたということが推測されます。レプリカの弧帯石の前には顔らしきものがついています。目と口らしきものがついています。しかし、これは後世彫られたようです。じつは良く見ると、その前に線刻があるのです。つまり、本来あった顔の線刻をハッキリさせるために後世彫られた可能性があるというのです。その先刻を見ると、他の土器に描かれている「竜」の絵ににているとのこと。竜を弧帯文に巻きつけて祀る儀式とは何か。竜は雨を降らすとも言われている。そのような儀式を行うものは何か。(此処からは私の想像)卑弥呼が仕えたと言う「鬼道」ではないのか。だからといって、薬師寺某氏が述べているように楯築を卑弥呼の墓だとは思いません。しかし、どこかで関係があったと想像を逞しくするのではあります。この展示室には貴重な展示物が目白押しです。楯築の特殊器台が展示されています。一部有名なのですが、この特殊器台にはなんと弧帯文がないのです。これは私はずっと不思議でした。楯築よりも前の墓の特殊器台には弧帯文があるからです。なぜなくしたのか。松木準教授に聞きました。「楯築より前の特殊器台は特殊器台とはいえません。実質特殊器台が始まったのは、楯築からです。そしてその始まりでは、弧帯石と特殊器台とそれぞれ役割が分かれていたのかもしれません」そうだったのか。これですっきりした。そういう意味では、楯築の王(あるいはそれを主催した巫女)はまさに弧帯文に代表される祭を始めた最初の王であったのだ。棺も特別でした。木の棺をさらに木で囲ったような棺になっていました。また、鉄剣、当時としては通常の三倍の大きさがある緑の管玉も貴重なヒスイ製の勾玉もその力をを表していました。しかし、なんといっても特徴的なのは、30キロ以上もあった朱です。これは例えば徳島で生産されていたそうですが、一日数グラムしか獲れない物です。これをまるでベッドのように敷き詰めていた。松木準教授に「述べ何人要ったのでしょうか」と聞くと、一日10人とすると、のべ1000人要ったでしょうか。とのことでした。他にも様々ななぞがあります。楯築の名前の由来のあった、どの古墳や弥生遺跡にも無いあの石の盾のようなオブジェは何なのか。(パンフの吉備のあゆみと書かれた背後の五つほどの立石がそうです)特殊器台から埴輪に移るちょうど過渡期の器台である都月坂遺跡の器台はなるほど、たしかに見事な弧帯文があるけれども、これは既に特殊器台じやない。四年前に場所が分からなくて撤退した遺跡ですが、またチャレンジしてみようとそのとき決意しました。そして、つい先日探しに行ったのです。前回は道なき道を行って途中で撤退したのですが、今回は津島小学校正門横に都月坂に向かう道がありました。「よしよし」そこまでは順調だったのですが、そこにあったのは「都月坂」という坂のみで、都月坂墳丘墓は見つからなかったのです。説明版は無くても、位置ぐらいは明示してくれていると思った私が馬鹿でした。仕方ないので都月坂遺跡から見えたであろう景色を写真に撮りました。ドームがあって森があるところが県営グランドであの辺り一帯が津島遺跡です。日本で有数の弥生遺跡がきれいに見えるところにこの都月坂の主は墓を造ったというわけです。でも、ここは日本史上重要な遺跡なんですよ。埴輪の起源は特殊器台であることは現在では定説ですが、それを決定付けるミッシングリングが見つかっていなかったのです。そしてこの器台がまさに見事にそれを証明したということなのです。このあと、この形をしているけど弧帯文が省略された器台が古墳の周りに立ち始め、やがて朝顔型とかに変化していき、最後に人の形や家の形になっていくというわけです。閑話休題、松木準教授に楯築の「鉄」はどこの鉄なのか聞いてみました。「たぶん弁辰の鉄だと思う。確かに金海の鉄かどうかは分からない。それとおっしゃるように、鉄はなかなか技術含めて製鉄技術は難しいものがあり、輸入は難しいところがある。製鉄はいわばコンビナートを造るようなもので、山師、製炭、製鉄炉など組織的にならざるを得ない。しかし例えば熊本に小さい製鉄があったのではないか、というような遺構が出てきたりしている。私は3世紀に「こぶりながら」製鉄はあったのではないかと思っている。」製鉄を行ったかどうかの確認は非常に難しいのだそうだ。だから、可能性としては弥生時代に製鉄が成功したことはある、という確信を私は持った。松木さんは「製鉄を始めるよりも、輸入するほうが効率的だった」とも言った。これは私には、初めての「視点」だった。もし本当にそっちのほうが効率的ならば、確かに製鉄を始めるのは遅れたかもしれない。どきどきしてきた。
2011年03月30日
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第八回の津島遺跡講座に参加しました。今回一番興味深かったのは、私が韓国に行っている間に土器を作ったらしいのですが、それを焼いているところをスライドで見せてくれたのです。私は弥生時代の土器は簡単に素焼きをして作るのだとばっかり思っていました。それだと焼けるところと焼けないところができて、割れてしまうのだそうです。どうやって焼いたのか、ハッキリしないのだそうですが、埋蔵文化センターの方が工夫を重ねた焼き方で焼いたみたいです。まず焼き芋を作る機械を借りて、籾殻でじわりじわりと焼いたそうです。はじめちょろちょろなかばっば、籾殻が真っ黒になった段階で松ノ木を薪を足していっきに焼きます。こんなふうに焼いてもまだ焼きムラができるので、取り出して黒くなって焼が不十分なところをさらに焼きます。こんなに手間をかけても、実際には沢山の焼きムラが残ります。途中で割れた土器も多く出てきたそうです。「実際には焼ムラがまったくない土器(祭祀土器等)も沢山あるのですが、どのように焼いたのでしょうか」と意地悪な質問をしました。「私たちの焼は実際にはマダマダ素人で、本当はもっと工夫がされていたのではないかと思います」焼き方ひとつとっても、マダマダ私たちの推し量れない技術が隠されているのでしょう。「失われた知恵」は動植物の「失われた種」以上にあるのかもしれません。
2011年02月28日
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津島遺跡弥生セミナーで考古学のお話を聞いてきました。今回のお話は、専門用語が多く、ついていくのが精一杯。もう少し、噛み砕いて話して欲しかった。最初のお話は『弥生時代の建築を探る 竪穴住居・高床倉庫・祭殿・楼閣』 東京学芸大学 木下正史メモをそのまま載せる。意味分からないと思います。私も良く分かりませんが、これも頭の隅に残すための作業です。すみません。青谷上寺地遺跡。非常に残りがいい。大変手の込んだ加工。継手、仕口などの技術。抜き技法がある。(ちょっと前まで奈良時代にならないと無いと思われていた)青谷の垂木出土。杉の木の皮で屋根を葺いている。青銅器。垂木を掛ける棟木。三柱。棟もち柱をもつ建物は神殿である。稲を貯蔵する施設は神が宿ると見ておかしくない。鏡には屋根が入母屋風。宮崎西都原遺跡埴輪。津島遺跡。同じような技術あり。桁材を欠き込みのある材をはめ込む。こやつかを掛けて棟木が通る。吉野ヶ里遺跡の神殿は漢の時代の神殿を参考にしている。異説おおくある。次のお話はすす・こげからみた津島遺跡の弥生深鍋による調理方法 北陸学院大学 小林正史こちらのほうは幾分分かりが深かった。前半はアジアの民族調査の事例から弥生時代の飯の炊き方を推測するという興味深いものでした。鉢とおわんの違いとは何か。高台があるかどうかの違いではないか。お椀は熱いので高台がないと持上げられない。手にもつので大きさも決まる。鉢には持上げないことが多い。鉢は箸でつまんで食べる。お椀は大きさが決まっている。鉢は大きさが多様。おかずは多様なので、おかずの種類に応じてつくる。お母さんの手の動きで子供は器も認識していく。だから、民族間で比較することが大事。フィリピン・ルソン島の炊飯民族誌。水漬けをしない。ぱさぱさに炊き上げる。吹きこぼれを防ぐために土製蓋を持つ。最初強火で焼く。吹きこぼれを保存。炊飯は下準備必要。側面焼むらしも利用。米飯とおかずは調理の分化があった。ご飯は飽きの来ない工夫が必要。おかず用鍋で炊飯するとおかずの匂いが移るので避ける。だから炊飯用とおかず用の土器は違うものを作っている。おかず調理の特徴は食材をやわらかくする。煮る炒める。炊飯の場合は、でんぷんを糊化する。水分を吸収して二~三倍に膨張させる。前半の強火加熱が非常に重要。強火加熱を達成するため、蓋をかけて熱を逃がさない。鍋の熱伝導率を高める。金属鍋への変化が早い、。綬熱面積をおきくするために丸底にする。吹きこぼれをおさえない。蓋が必要。むらしが必要なので、持ち運ぶ必要。だから、頸部は持ち運べるように丈夫。おこげがつくの特徴。強火加熱のために薄手になる。主食として多く食べるために、大きめになる。おかず調理では吹きこぼれを抑える。かき回したり、緋を弱める。あまり沢山入れない。だから蓋は不必要。小さめの鍋になる。津島あるいは西日本の炊飯方法まとめ米をぱさぱに仕上げる。だから朝炊いたのを夜でも食べれるようになる。保温。初期段階の強火加熱。吹きこぼれのあと、湯取りをした可能性もある。胴下部にこげがついたあと、程なくして鍋を火から下ろす。側面加熱を伴う蒸らしをしていた。あとで質問した。『韓国では、とってのある土器が作られているが、弥生時代には入ってこない。なぜか』「良く分からない。古墳時代にはあります」『弥生時代には蓋を使っていたのですか』『弥生時代の蓋はほとんど木製だったと思います。実は出てきていない。』そうか、韓国のは土器だから蓋があったのか。『炊飯土器はどのくらいの耐用度数だったのか。』『アジアの経験では、大事に使えば何年も使っていた。何千回も使えたと思います。けれども、大体は洗うときに壊れたりする。』弥生時代のご飯は、おこげつきの精米度も割合高いとっても美味しいご飯のような気がする。これは、津島遺跡で実際に炊飯に使っていたであろう土器です。
2011年02月13日
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車塚古墳への道、息が切れます。昔は登山道を作っていたとは思えない。本当にこんなところに古墳はあるのか。あった。これは後方部より前方部を見る写真。(よく分りませんね^_^;)四世紀前半の箸墓古墳と同じバチ形の前方部を持つ前方後方墳である。三角縁獣神鏡十三面出土。確かに全長48.3m、決して大きくは無い。しかし、登ってみて初めてわかることはある。大きさが問題なのではない。写真は竜の口山である。この山頂に車塚古墳はある。広大な(おそらく)自分の領土を見渡せるところに塚を作ったのだ。きちんと要らない枝を切れば、遠くからもこの塚を見ることができたはずだ。一方で、山頂に作ることの労力は並大抵のものではなかったはずだ。私は同時期の伽耶の遺跡と比べていた。山の急斜面でいえば、大伽耶の王陵、高麗の池山洞古墳群(写真)の山頂の王墓よりもこちらのほうが造るのに苦労が要ったのではないか。あそこの王陵も確かにわりと高い山の上だったが、登る苦労は全然ここと違った。少なくとも、四世紀段階で、池山洞には数えるぐらいの小さい古墳しかなかった。私の感覚は、大伽耶よりもりっぱな古墳を作っているように思える。山を刈って遠くからも見えるようにし、上り口も整備し、資料館を併設すれば、池山洞古墳に匹敵する観光資源になるのだが、勿体無い。(そのような観光資源が日本には無数にある)韓国と違うところは、韓国の王墓は群集墳がほとんどなのに、(写真は釜山の福泉洞古墳群)なぜか日本列島のそれは単独墳がほとんどなのである。この違いはいったいどこから来るのだろうか。車塚古墳は古墳時代の最初期では非常に大きく質も高い古墳であった。その被葬者は間違いなく、吉備のクニで、大首長だったはずだ。私の見果てぬ小説の舞台である二世紀後半から三世紀にかけての吉備の国のヤマト遷都の時代から約70~120年後の世界である。(まだプロットも出来ていない)私の小説の主人公は、日本列島における全面戦争を避けるために、あえて吉備の国ではなく、韓半島に近い北九州でもなく、日本列島の奥の大和の地に出雲と摂津、但馬そして北九州を含めた大連合国家をつくる。そこで理想的な国家をつくり、そのモデルタイプを全国に広めたのである。吉備の国に日本第四位、作られた当時では日本一の造山古墳が造られるのは車塚が造られたときよりさらに100年後(?)の出来事である。飛鳥に都が出来るのはさらにそのあと50年以上の月日が要った(はず?)。前方後円墳ではなく、あえて前方後方墳を作った車塚の首長あるいは王は、既に創建初期の理想が失われた大和に対する対抗意識を高く持っていたのかもしれない。何故そのようなことになったのか。考えれば考えるほど面白い。この日は夕焼けがきれいでした。11月の韓国旅行のレポートは1月初めから始めます。今一生懸命旅の日記をパソコンに書き写しているのですが、書いている途中に次々と思い起こすところがあってぜんぜん進みません(^_^;)。それでも、せめて五日分ぐらいは先ずは連載したいので、準備に時間がかかっています。お待ちください。
2010年12月15日
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12月10日、第六回の津島遺跡文化財講座で、百間川遺跡の発掘現場を見学しました。百間川遺跡は弥生時代の田んぼと倉庫、住居跡が発見された遺跡で、弥生時代後期の稲株痕が見つかったことで弥生時代でも田植えをしていたことが確認された遺跡で有名です。なぜ稲株痕が見つかったのか、それはこの田んぼが弥生時代の大洪水で埋まったからです。ポンペイの遺跡と同じ効果が出たわけです。そういう遺跡だから、畦も5-10cmほどの盛り上がりしかないのですが、確認することが出来ます。写真ではほとんど分かりませんが、肉眼でもほとんど分かりません。(中央の薄い白い線がそれです)けれども、わずかな盛り上がりを専門家は見分けるわけです。どのように、発掘するのかいろいろ聞きました。この写真は分かりやすい土の色の変化です。一番上の層は、昭和に入っての造成土。その下はそれまでの水田跡、その下は古墳時代の包括層であるが、なぜかお盆状に色が違っている。結果的には住居跡でもなんでもなかったのですが、このような微妙な色の違いを判断するのは私には神がかり的に思えました。竜の口山から見る平野の一部です。百間川遺跡の周りは実は遺跡だらけです。街の中を総て掘りつくせば、見事な弥生の国が現出するはずです。西に旭川、その西に津島遺跡、南に操山、北に竜の口山、真ん中を古代山陽道が通る。この地域はおそらく大穀倉地帯だったはずです。鉄の使用はどうだったのか。前期に既にひとつの住居から鉄のかけらが出ている。中期後半からほとんど総ての住居跡から矢じりなどの鉄が出ているそうです。それは潤沢に土つくりにも鉄の道具を使っていたことを想像させます。紀元前から二世紀、いったいどこから鉄を持ってきたというのだろうか。鉄は武器であるよりも先に土を耕し、木々を倒す生活の道具として大きな威力を発揮します。けれども、そのためには総ての住民に鉄をいきわたらせないと効果を発揮しない。この吉備の国はそれを実現していたというのだろうか。しかし、二世紀は金海の都が出来てまだ時が経っていない。もしかしたら、その最初期から吉備の国が金海と交易していたならば、吉備の国が栄えた理由も分かる。写真は金海の大成洞古墳資料館のジオラマより、日本から来た船に鉄を載せる場面である。フラッシュを焚かなかったので、不鮮明ですみません。船に乗っている人は日本風の髪型をしています。船も大阪の遺跡の船を参考に作ったそうです。講座を終えて、少し時間があったので北の竜の口山を登って備前車塚古墳を見ることにしました。新興住宅地奥にある公園から山に登ると、なんとずっと急傾斜の山道だった。続く。
2010年12月14日
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第四回津島遺跡文化財講座にいってきました。前回作った石包丁で稲刈り体験です。その前に弥生の米つくりについての学習。学んだことをメモします。・現在日本の農家で栽培している稲は、実る時期がほぼ同じで背丈も短く、もみの形も均一で、突起(芒のぎ)が短い。しかし弥生の稲に近いされる赤米(総社市本庄国司神社)は、湿田や乾燥しやせた土地でも良く育つ反面、草丈が高くて倒れやすい。・縄文時代で原始的な稲作は確かにあった(4500年前)が、陸稲や雨水を利用する天水田での稲作だった。・縄文時代晩期後半では板付や菜畑遺跡で、水路や堰を設けた体系的な灌漑システムを伴った稲作が始まっているが、弥生時代の定義が見直されるということもあり、この時期を弥生早期という学者もいる。・津島遺跡の水田は北部九州のそれが一区画200平方mの広さがあるのに対して、平均28平方mと小規模である。これはこの地域の水田が起伏があるために水が均一にいきわたらないための処置である。百軒川遺跡群の水田は現在4万平方mの水田を発掘。最終的にはこの地域の水田は10万平方mになるだろうといわれている。現代は一反(1000平方m)で約500キロの米が収穫できる。しかし、弥生時代では30-90キロしかできないと言われている。ちなみに奈良時代では100キロ、江戸時代130キロ、明治時代180キロである。・弥生時代肥料もなく、水田は休耕田もあったのではないかと言われている。弥生時代というと、一面田んぼがひろがっているというイメージがあるが、それは訂正したほうがいい。さていよいよ、石包丁に紐を通して稲刈りです。弥生時代は穂を摘み取る稲刈りになります。所長さんが最後の挨拶で言っていたのですが、弥生時代を800年間とすると、少なくとも800回稲刈りをしていたはず。その間にこの穂刈りを選んだのは、けっしていっせいに稲を摘み取るのではなく、出来上がった稲から穂を選びながら摘み取っていったのだろう、という意見でした。私はその意見に賛成します。なぜならば、今日の稲刈りもそうだったからです。同じ日に稲を陸稲で植えたにもかかわらず、まだ青々としている稲もあれば、完全に出来上がっている稲もあります。今年は暑すぎたせいか、身が詰まっている稲は少なく、これは作柄としては「不作」といわざるをえない出来です。古代米の作る難しさを感じました。古代人はすべての米をいっせいに精米にするということはせずに、穂のまま保存して必要なときに写真のようにして玄米にしたそうです。さて、この畑にはほかにエゴマなどを植えています。写真は粟(アワ)です。またこれはキビ。吉備の国の名の謂れになった栽培植物なので、当然昔は稲と同じく作られたことでしょう。
2010年10月16日
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総社市遺跡めぐりをしました。市の西境にある八絋古墳群はつい最近発掘を終えたばかり6-7世紀の横穴式石室を持った円墳です。八月の発掘調査報告会で聞いて興味を持ったので来てみたのです。工事をするから発掘調査をしたのであって、写真のように今は当然何も残っていません。何故興味をもったかと言うと、この道沿い300-400mの間の山すそに3つの古墳群と一つの製鉄遺跡が眠っているとそのとき聞いたからです。山奥に入っておそらく未発掘の二反峠古墳群を探してみました。円墳が16ほどあるのですが、土盛はほとんど崩れていると推測できます。竹やぶの中に入ってそれだとはっきり分ったのは、この横穴式石室のあとのみです。上蓋が取れて円墳が陥没しています。ツリガネニンジン(?)が咲いていました。砂子製鉄遺跡はいまはほとんど田んぼの中です。この道の西山沿いに砂小山古墳群があるそうですが、今さっきの古墳群と同じだと思ったのでは入りませんでした。岡山三大河川である高梁川の支流新本川のさらに支流の山田川がすぐそばを通っています。豊富な木材と水が製鉄遺跡には必須アイテムです。今は全くの片田舎ですが、当時は最先端工業地帯だったわけです。この小さな地域だけで古墳を34基数えるそうです。そして写真の奥の山すそには、日本製鉄遺跡では代表的な西遺跡遺跡群があります。前にも行ったことがありますが、今回覗いて見ました。ウイングバレイ工業団地を作るときに発見された此処は、6-7世紀に操業されたという製鉄炉跡が70基あったといいます。写真はを沖田奥製鉄遺跡の製鉄炉を復元したもの。左右に精錬時に出来る鉄滓を流す溝も残っていました。近くにはこのような炭窯も発見されています。このうなぎの寝床みたいな窯は、製鉄に欠かせない白炭を作るためのもの。製鉄作業はこのようなところで鉄鉱石を溶かしながら精錬していくわけですが、この工程は非常に複雑で、日本では現在6世紀初めの鬼の城の直ぐ下のゴルフ場で発見された千引カナクロ谷遺跡が最古です。そのあと総社市街地にある総社宮に行ってみました。総社という名前の謂れとなった神社です。備中国の324の神々を一つに祀った社です。古代の姿を今に残す三島式庭園が美しいです。長い回廊もありました。昔は総社ではなく、「惣社」と言ったそうです。律令時代の国司は各地域の「群」にあった宮を一ヶ所に集める必要があってこういう社を作ったそうです。昔は神に祈ることが即ち政治でした。地域の中央集権というわけですね。だから各地域に総社という地名は残っているそうですが、神社が現在まで残っていて、なおかつ市の名前までなっているのは此処のみだそうです。総社は戦災に遭っていないので古い建物がおおく残っているのですが、このような昔ながらの洋風建築(一般の家です)とか、こんな借家も見つけました。お昼はひさしぶりに「よこた」でうどんにしました。ここは、ともかくコシのあるうどんで有名なところです。ぶっかけのひや(600円)です。実は、私20数年前は2年ほど総社に住んでいたことがあるのですが(当時は遺跡には全く興味なかった)、ここのうどん屋は週に一度は必ず通っていたものです。あいかわらず美味しい。久し振りに来てみて、気がついたのは讃岐うどんでもこんなにコシのあるうどんはないということ。そして値段が高くなった。以前はざるが250円だったのに、今は450円です。そのあと備中国府跡の近くに最近建った埋蔵文化財「学習の館」に初めて行きました。ちいさな展示場ですが、総社市内から発掘された遺物(鬼の城、千引カナクロ谷、窪木、薬師寺等々)がずらっと展示されており、非常に見応えのある資料館でした。びっくりしたのは、千引カナクロ谷遺跡のジオラマがあったことです。これを見ると、一箇所に製鉄炉とふいご、炭窯の三点セットがそろっていたことが分ります。どのように鉄を作っていたのか実験もしていたようです。写真がありました。製鉄炉は土で作っているから当時に似ているかもしれません(けれど私のイメージは四角よりも円筒形なのですが)、ただふいごは仕組みがよくわかっていないせいか、どうも機械仕掛けのような気がします。この筒の下に鉄鉱石と木炭を入れてふいごから風を送って高温で溶かすのです。そうやって、一番下に精錬された鉄が残るという仕組みだそうです。この筒は、鉄が作られたあとには壊すのでどんな形だったかは不明です。この「学習の館」は発掘職員の事務所にもなっているみたいなので、今度時間があったときにいろいろと聞きたいと思っています。11月に韓国に行くつもりです。また新しいことが分ったら報告します。
2010年10月15日
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第三回津島遺跡文化財講座に行ってきました。五月に植えた弥生米がこんなにも大きくなっていました。今回は、この稲を刈り取る石包丁を作るのが目標です。その前に石器の学習を一通りします。石器は人類が使用した一番古い道具です。250万年前から使い出しました。土器の使用が1万4千年前ですから約249万年は石器のみ使ってきたのです。弥生の石器はその歴史の最後のたった600年間ぐらいですが、その間にものすごい進化を遂げます。打製石器と磨製石器に分けられる弥生の石器ですが、磨製石器は大陸から持ち込まれて、主に稲作に使われます。何故わざわざ手間をかけて磨くのか。質問してみました。『打製石器は衝撃に弱いという弱点があります。磨製石器は衝撃が面の一面に広がるから衝撃に強いのです』なるほど~と思いました。弥生に入って新たに出来た石器は、稲を刈るための石包丁、削るための石斧石の小刀、そして人を殺すためだけに作られた石鏃、石剣、石戈などです。このころは北九州には石器を作る専門職人集団も生まれていました。また、讃岐の金山、奈良の二上山に出土するサヌカイトは交換品として流通していました。驚くべきことに弥生時代の県南の石器はなんとそのほとんどが讃岐産のサヌカイト(黒曜石と同じ性質を持つナイフとかに使われる石)だったのです。もちろん讃岐との間には海がありました。それでもいくつ物持ち帰りやすい大きさに割って海を渡って持ち帰っていたのです。あとで講師の人に質問しました。「サヌカイトはいつごろから使われ始めたのですか」「3.5万年前からです」「最初は讃岐の周りだけだったのですか」「いえ、そのころは人々は定住していなかったですから、讃岐から大体50キロ圏内に持ち歩いていました。」「讃岐の金山にサヌカイトをとりに行きたいと思っているのですが、今でも獲ることは出来ますか」「探せばあると思いますが、原石があるところは実は今は自衛隊基地の中で入ることが出来ないんです」それでも一度サヌカイトを獲りに行きたいなあ、心に誓いました。サヌカイトは石器の歴史で言うとつい最近発見されたということです。サヌカイトを発見した昔の人は、英雄というべき人だなあと思いました。さあ、石包丁つくりです。岡山県真庭郡から採取した粘板岩(高田岩)を利用します。銘々が素材の石を選ぶことが出来るのですが、私は勘違いして、岩の粗割りから始めるのだと思い大きいのを選んでしまいました。このお陰で相当苦労することになります。このように砥石で磨いていきます。磨く時間は一時間半。たっぷりありますが、それにしても弥生人の石器つくりは大変だったのがよく分りました。弥生時代は石と石で磨いたようです。根気よく磨いていると、だんだんと包丁らしくなっていきます。穿孔作業です。穴を開けるのは紐を通して持ちやすくするためです。写真にあるような道具もあったのですが、私には間に合わなくて、ずっと錐のようなもので穴をあけていました。約40分。なんと右手の手のひらの皮が剥けてしまいました。さすがにやわい手なんです。穴は途中までで時間切れ。あとは古代吉備文化財センターの方に預けて穴を開けてもらうことになりました。このようにちょっとした野菜ならば切れそうなところまで仕上げています。来月の稲刈りが終わったらくれるそうなので、何処まで他のものが切れるか試してみたいと思います。
2010年09月19日
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「希望は目標であり、目標は動かず、方向を与える。動くのは当方との距離である。その伸縮に一喜一憂することは無い。」(加藤周一『夕陽妄語』2007.1月)情勢の変化はあるが、出来るだけ一喜一憂しないようにしたいと思う。動かない目標を持つためには、視線を遠くに持つこと。遠くに持つためには、はるか古代を調べるのは有効だろう。10日に「弥生時代と津島遺跡」と題して津島遺跡セミナーがあり、小林青樹氏と松木武彦氏の学習講演があった。小林氏の講演は、縄文時代の祭祀が弥生前期に色濃く影響していることを証明した(土偶の変遷は始めて知った)。松木氏に付いての私の思いは前日に書いた。松木氏は「景観から見た津島弥生ムラの移り変わり」で話をしてくれて、一般用に話すと非常にに分かりやすく話してくれることがわかった。世界情勢から話を始めるところがさすが、である。弥生時代とはどんな時代だったのか。紀元前、とくに前期から中期にかけて地球規模で温暖化が進む。これらの安定した生産と人口のうえに、中国は春秋戦国から漢帝国、またはローマ帝国等が築かれる。そして紀元後2世紀ころから寒冷化と共に瓦解に向う。ローマはゲルマン移動、漢は黄巾の乱。日本列島には漢帝国の周辺地域として部族の「国」が点在していた。北九州は「壁」を手に入れていたが、吉備にはそんな高尚な傘下の印はない。ただし、やはり寒冷化と共に「倭国の乱」へ。吉備とはどうだったか。農耕の発展と共にいくつかの「国」が形成される。吉備に国は、いくつかの塊がある。総社地域、足守川流域(ここからやがて楯築の王が生まれる)、津島地域、百軒川地域、赤磐地域、。津島遺跡、前5c~3c。まさに復元建物の景観。墓は舟形土溝があるが墓かどうかはハッキリしない。前1c~2c。墓地は「国」を見下ろす山の上に営まれるようになる。「生者は平地に、死者は山に」の世界観が生まれる。「西ノ京山にあるのではないか」との指摘。後1c~3c。人口がますます拡大する。居住が密集化する。(北東部、および伊福定国前)水田も拡大(コントロールが組織的になる。石から鉄への変換)墓地の中に有力な墳墓が現れる(2c都月坂2号墳、そして前方後円墳、前方後方墳3c七つぐろ一号墳、都月坂一号墳、)大和政権とのかかわり。「寒冷化に伴い、大和でも人口は減ったらしいが、吉備はかえって増えている。」と松木教授は言う。時間がなかったので質問できなかったが、大変面白いところである。それはなぜか。それなのになぜ、大王は大和になったのか。一般的にいえば、吉備はおそらく鉄の流通で決定的な「鍵」を握ったのだろう。それが吉備の繁栄の元であり、人口増大の理由だろう。普通ならば、吉備が日本列島の王となるはずである。しかしそうはならなかった。世界歴史の常識ならば、そこに戦争があったと見るべきである。しかし、吉備の祭祀が大和に移っている。吉備は祭祀=政治を大和に移したのだと見ることもできる。そこに、日本のほかの世界とは違う、決定的な「戦争回避」の姿勢がある。と、私は思うのである。
2010年07月12日
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こんど津島遺跡文化財講座を受講することにしました。無料ですが、平日を中心に年9回の講座があります。けれども、古代の稲の田植えから始まって、石包丁つくり、稲刈り、土器の製作とやってみたかった体験学習とわりとつっこんだ学習が出来そうなので登録してみました。今年は参加できる条件も整いましたし。一回目は岡山県弥生時代の代表的な遺跡である津島遺跡の概要学習と田植え体験です。国の史跡である津島遺跡は、岡山県総合グラウンドとその周辺に広がる縄文時代後期<約4,000年前>から近代にかけての複合遺跡です。これまでに何度か発掘調査が行われていて、弥生時代前期<約2,300年前>の水田や弥生時代中期から古墳時代後期<約2,200年前から約1,400年前>の人々が暮らした80軒以上の住居跡や生活に使ったたくさんの土器などが見つかっています。簡単な概要学習の後、津島遺跡跡に作られた講演の説明を聴きました。弥生時代前期、ここの大部分はほとんどは沼地でそれを生かして水田に変えて行き、集落は一部微高地30-50センチ高いところに作られたらしい。復元住居はそれより3メートル高くしたところに作られているので、遺跡が壊れたわけではないらしい。次第と土地が安定した中期から後期にかけて大規模集落になっていきました。竪穴住居の中では、暖や灯りや炊飯をするために火をたくが、その煤のタールのために家は30年は持っただろうといわれています。寝るときは、丸太を敷いて、わらを敷いてベッドにする。この時代布団はない。綿が日本に入るのは奈良時代かららしい。他にも鼠返しの完備した倉庫や作業場などを見ました。畑には大麦小麦のほか、染料になることで有名な紅花(写真)、繊維が衣服になるカラムシなども栽培していました。今日はその隣で田植えです。写真は百間川原尾島遺跡の稲株痕跡です。洪水で埋まったために田んぼの株跡がそのまま残っていました。それを見ると、一定苗代を育てた上で田植えをしていたことがわかります。現在と同じようにきちんと畦も用水路も作っています。一坪の中に400の稲があったそうです。かなり密集しています。それで換算すると一反で40-100キロの玄米が取れたのではないか、と言っていました。(あくまでも借りの計算です、と強調はしていました)。現在と違うところは、一枚一枚の田んぼがかなり小さいくて、なおかつ形がいいかげんなこと。(水平にする技術がまだで来ていなかったので、一枚は小さいほうがいい)これら田んぼの形式は、青森も九州も同じなのだそうです。ほとんど現代にも通用する米つくり技術は弥生時代、急速に日本列島全体に広まったのです。田植えは、陸稲でした。もちろん弥生時代、水田での田植えもしていたのですが、弥生時代は陸稲もあったそうです。苗代を用意してもらって一株づつ24株植えました。種類は陸稲、クロモチ、アカマイ、アカモチだそうです。根が雑なもので、少し根が切れたまま植えたかもしれません。果たして育つのでしょうか。心配です。
2010年05月23日
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21日の日曜日、総社でふたつの現説(現地説明会)があった。現説は大好き。生の遺跡に出会えるし、現場の考古学者に突っ込んだ質問が出来るから。ここはのちに、賀夜地域だといわれたところ。加耶に繋がると言う事で、渡来人との関係を云々されるところでもあります。また、そこから鬼の城がきれいに見ることも出来、すぐ近くの窪木薬師寺遺跡や千引カナクロ谷遺跡などの製鉄遺跡との関係はどうだったのか、注目されるところです。一つ目は北溝手遺跡、県立大学のすぐ西となりの遺跡です。弥生時代中期から後期にかけての住居跡、井戸、掘立柱建物跡、ごみ穴などが出土しました。後世、鎌倉時代から室町時代にかけて大規模な地下げがされており、古墳時代の遺構は丸まる消滅、平安時代の条里制の跡が検出されています。これは現在の水田地割とは一致しないが、中世の地下げのときは、大きな畦が作られ、それがなんと北溝手と南溝手のあぜ境として現在まで機能していたという。住居跡では、五軒の住居が重複していたところでは、方形から円形に家の形が変化したことが伺われます。しかもその一つは溝が三重になっており、修復を加えながら、長期にわたって居住していたというのです。なぜ、修復したかというと、家を支える柱は20年もたつと根腐りをおこし、柱の入れ替えが必要なんだそうです。私は弥生住居は50年くらい持つのだとばかり思っていました。中にはこのように建替え建替えをして持たせるところもあったのでしょうが、そうだとすると、20年が普通の家の期限だというのは少しショックです。ごみ穴には、大量の土器片と炭や粘土が捨てられていました。火災の住居あとかた付けがあったのかもしれません。井戸は素掘りです。時代ですから、木の先に鉄をかませて掘った可能性もありますが、基本的には木掘りでなかなか大変な作業だったろうということです。直径1.8メートル、深さ84センチですが、当時は更に深かっただろうということです。 注目されるのは、竪穴住居から発見された謎の土製品です。弥生時代中期中葉から後期前半にかけて岡山県に広く見られる分銅型土製品(土偶?)と同じ文様なのですが、分銅型ではなくて、丸いのです。しかも、たくさんの土器と一緒に出土したということで、弥生時代中期前葉と時代を特定できるということで画期です。分銅型の先駆系といえるでしょう。みると、手のひらにすっぽり収まる実にいい形です。しかも裏は石ではなく、へらできれいに磨いています。祭祀遺物だという説なのですが、いったい何に使ったのでしょうか。その他の出土土器です。ここでカメラの電源が切れました。写真が無いのは残念ですが、場所を少し南の窪木遺跡に移動。ここからは、藤原京が造営された7-8世紀初頭の律令体制成立期の賀夜郡衛(かやぐんが)跡に間違いない(根拠ありだが省略)という遺跡現説です。弥生時代ではないので、詳しく紹介しません。色々と質問してみて、面白いなあ、と思ったのは以下のとおり。○土器年代が鬼の城とまったく同じ。鬼の城との関係は?○北溝手遺跡もそうだし、この遺跡もそうなのですが、朝鮮式の土器はほとんど出土していないのです。説明員は言っていましたが「賀夜(加耶)地域だからと言って渡来系の文化で満ちているというのは間違いで、一部朝鮮系技術は伝わったかもしれないけれど、外国人移住区みたいに考えるのは、同意しない。名前が変わっている人が多いと言っても、現在でもアメリカ式の芸能名をつける人がいるようにそれだけではなんともいえない」それは確かにそのとおりである。彼は、製鉄遺跡の形も朝鮮系とは関係ないと言っていました。そうだとすると、私は大きな勘違いをしていたのかもしれません。もう少し考えていきたいと思います。
2010年02月27日
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先日の日曜日、弥生時代をテーマにしたシンポジウムがあるということでいそいそといって来ました。(以下講演メモです。万人に分かるように書くのは無理でした)「とっとり倭人伝 吉備と山陰の弥生社会」記念講演の西谷正九州歴史資料館長の話は話が長い割にはオーソドックスな話しかしなくて、退屈でした。以下はかろうじて面白かった点。○つぶて石は弥生時代においては、弓矢と同格の武器として有効であった。○環濠のクニと高地性集落はセットである。倉敷の上東遺跡の西のほう、どこかに高地性集落があるはずだ。そのあとのシンポジウムは去年夏に行った山陰の妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡と、去年秋に訪ねた津島遺跡の発掘担当者がパネリストで、司会は私の注目している新進弥生考古学者、松木武彦氏(岡山大学准教授)でした。聞き応えがありました。○青谷上寺地は入海の傍にあるという山陰の典型的な集落であって、まだ住居あとや墓が出ていなくてこれからが注目される。住むところというよりは、港機能のところだったのか。○妻木晩田は住居3-5に倉庫がワンセット。やはりラングーン(干潟)の近く国邑あり。妻木晩田の近くにも青谷上寺地のような場所は見つかる可能性はある。○一方岡山の大きな遺跡は平地にある。7軒で一セット。キロメートルで田んぼが広がっているという点では、現在とさほど変わらない。一枚の田んぼが小さいだけ。収穫物はバラエティに富んでいる。○方形貼石墓(弥生中期)→四隅突出型墳丘墓(中期→後期)が出雲であり、弥生後半は方形墳丘墓に集中していくのか゛とっとり。一方、吉備の場合は弥生中期はよくわからない。後期に方形貼石(みそのお42号墳)が出てきて、後期後半になって楯築遺跡が出てくるのである。○青谷上寺地で羊の骨が出土していないのに、羊としか思えない絵が出てくる。これは中国の人が来たのか、中国に行った人がいたのか。○とっとりは古墳時代となると、方墳がそのまま続く。前期4C初めは方墳で、そのあと方墳と円墳、前方後円墳に移る。これは吉備がすぐに浦間茶臼山のように前方後円墳体制に入ったのと明らかに違う。とっとりはこの体制に「入れてもらえなかったのだ」これは弥生時代に四隅突出墓を作り続けた勢力を怖れたのだろうし、初めのころは前方後円墳体制も締め付けはきつくなかったのだろう。
2010年02月10日
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20日の朝日新聞の追悼欄に岡山大学名誉教授、考古学者の近藤義郎氏の記事があった。私の尊敬する考古学者の一人である。「発掘50年」という本の紹介でもその一端を紹介したが、戦後の考古学史のエポックとなった発掘を数多く手がけた。当然私も幾つもその遺跡を記事にしている。古代製塩の実態を明らかにした喜兵衛島(香川県)、延べ一万人が参加し戦後の国民的歴史学の一翼を担った月の輪古墳(岡山県)、「超大物」の弥生首長墳丘墓である楯築墳丘墓(同)、最古の埴輪を追った都月坂1号墳(同)。それらの成果は「前方後円墳の出現をもって古墳時代と考える」と説いた著書「前方後円墳の時代」(1983)に結実する。前方後円墳と吉備・大和70代になって発行された「前方後円墳と吉備・大和」(吉備人出版)では、吉備の弥生時代の祭祀の中心である特殊器台と共に実に多くの人間が大和に移り住む。吉備の中心は大和に移った。という説を唱えた。近藤先生は「考古学と古代史のあいだ」の白石太一郎氏とは違い、決して文献を利用しない。よって、邪馬台国の「や」の字も出ない。純粋に「物」の証拠のみでそういうことを言ったのである。そこから、二世紀から三世紀にかけて日本列島に何が起こったのか、明らかにするのは後世の仕事である。私は佐原真によって「考古学の視点から平和を論じる」ことを学び、近藤義郎によって「吉備の地方から国つくりを考える」視点を学んだ。考古学を学び始めてまだ10数年、二人にはこれからもお世話になる。近藤義郎が亡くなったのは4月5日(84歳)だが、その死は遺言で半年伏せられたという。お別れの会の予定もないというほどの徹底振りである。秋に私もその報を接し、岡山の実に多くの人間が「何をそこまでしなくても…」という感想を持った。ある教え子は「先生らしいといえば先生らしいんですが…」という。先生の教え子で「怒られなかった学生はいなかったんじゃないでしょうか」という。他人に対する以上に、自らに厳しい人だった、と宮代記者は書いている来年さくらの季節にもう一度、都月坂一号墳を探しにいきます。先生安らかにお眠りください。
2009年12月22日
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岡山県古代吉備文化財センターの企画展「海を越えた交流」には以前にも行った時の報告をしていますが、今回その関連講座があるというので行きました。三人の講師からそれぞれ30分ほど駆け足のレクチャーをもらったあとセンターのバックヤード見学と企画展の見学へ。土器の接合室には、どきどきと、土器が並べられてある。発見したのは、木工用ボンドでつけるんだということ。製図室では色んな製図用に機械が並んでいました。ここのセンターは非常に大きな建物なのですが、それでも一時期手狭になったそうです。基本的に発掘場所の自治体などに返還していくのですが、それでも間に合わない。それほどまで発掘した遺物は多く、膨大なのですが、最近は増えなくなったそうです。開発が少なくなったからです。「遺跡が壊されないからいいことではあるのですが」少し複雑な心境のようです。三世紀の土器の移動には興味深いものがありました。津寺遺跡は楯築遺跡の築造前後に突然生まれて小さくなった遺跡です。常時30軒ほどの住居があった当時としては中核的な町です。いろいろと思わせぶりな資料説明をしただけで終わって、質問する機会もなく、ちょっとこれからの課題となりました。五世紀の初めに渡来人が一挙に吉備にやってきます。須恵器が多く作られ始めます。高塚遺跡、窪木薬師遺跡、菅生小学校裏山遺跡。このときおおきな「生活変化」がありました。何百年も変わらなかった竪穴住居に「かまど」が入ったのです。渡来人はどこから来たのか。質問しました。主には加耶地方だそうです。そうして新羅からも来ています。どこで分かるか。加耶地方の須恵器はこれで新羅地方のはこれです。「とって」の部分が明らかに違う。それと私には分かりませんでしたが、新羅のほうが「すとんと落ちている」そうです。何故彼らは来たのか。やはり五世紀の政情不安、そして加耶地方の国の滅亡も「関係しているのかもしれない」とは言っていました。加耶との付き合いはおそらく「鉄」です。そしてつい最近の発掘だそうですが、七世紀の鬼の城遺跡で鍛冶場工房が13も発見されたそうです。鉄の一大産地「吉備」の姿がだんだんと立ち上がってきています。
2009年12月20日
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私は邪馬台国がどこにあるか興味はありません。と、いうと少し語弊があって、「どこにあるかということに興味のエネルギーをとられたくない」といったほうが正しい。でも一方で、邪馬台国の場所が万が一決まれば、それはそれで大きいことです。やがて日本といわれる「国のつくられ方」がかなりはっきりするのです。この国の「初心」を知れば、この国の未来を語るときに大いに役立つだろうと思います。最近奈良桜井市の纒向(まきむく)遺跡に非常に大きな建物あとが発見されました。その規模と建てられた時期と位置を顧みて「すわ卑弥呼の宮殿だ」と騒いでいました。でもこのあとさらに大きな建物あとが発見されたとしても、それで邪馬台国の位置は確定しません。結局ありえないでしょうが、箸墓古墳から墓誌でも発見されない限りこの論争に決着がつくことはないのです。しかし、邪馬台国はどこであろうと、私は三世紀後半の時点で日本列島でもっとも力のあった国は、この纒向にあったと思っています。考古学の資料がそれを証明しているからです。文献史学を抜きにしてもそこまでの事はわかるようになりました。私はその視点から、日本列島の国造りを想像していきたい。考古学と古代史のあいだちくま学芸文庫 白石太一郎さて、この本は文献史学と考古学の成果を両方合わせてこの時代を語ろうとしている学者の第一人者の普及本です。この人は明確に邪馬台国は大和であった、と主張しています。今回、この本でその根拠をとりあえず知ることが出来ました。この本の三分の一で語られていて、あとは4世紀の大和と鉄剣の研究に使われているのですが、ここでは邪馬台国大和論の整理に便利なので、邪馬台国論の部分だけまとめて※部分で私の意見を述べてみようと思います。基本的な仮説鉄資源や先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る争いが、大和などの近畿中央部から瀬戸内海沿岸各地を経て、北部九州にいたる広域の政治的まとまりを促したのではないか最初(弥生時代中期)朝鮮半島南部(弁辰)の鉄や中国鏡などをを輸入していた中心は、玄界灘沿岸地域の伊都国や奴国だった。輸入ルートを巡ってこの国と戦うために、大和の勢力を中心に、近畿中央部から瀬戸内海沿岸各地の諸政治勢力が連合したのが、のちにヤマト政権につながる広域の政治連合の形成になったその根拠北部九州の中国鏡がヤマトを中心にする分布にシフトした。この大和の鏡でいちばん古い鏡は画文帯神獣鏡(後漢末~三国時代)なので戦いの初めは3世紀初め。つまり邪馬台国連合の成立は3世紀初頭。※驚くことに、ここで書かれている「根拠」はこの一点のみなのです。これだと、この時点で一番力のある国がここにあったという証明でしかありえません。邪馬台国東遷説は成り立たない。この時期、近畿や瀬戸内、あるいは山陰の土器がたくさん北部九州に流入しているのに対して、その逆の動きはほとんど見られないことが明らかになった。 ※それが事実ならば確かに、都の移動という大掛かりな人の異動はなかったでしょう。でも遷都を平安時代の遷都と一緒にしてはいけません。この時代、王だけの遷都もありえたかもしれない。何故大和が倭国連合の中心となったか。大和が水上交通の終点であり、東日本に至る陸路の結節点で交通の要所であった。※私はこれは根拠として弱いと思う文献史学での異説「後漢書倭伝」「梁書倭伝」によれば邪馬台国成立は2世紀後半である。しかし、これらの書はかなり後世のものでオリジナルティはない。魏志倭人伝にあるクナ国との戦いは南とあるのは、東と読み替えるべきなので、濃尾平野にあった国だろう。この国は弥生後期に三遠式銅鐸を生産していた。東日本の連合国を作っていた可能性が高い。※これは可能性としてはありうると思います。
2009年12月17日
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先週の土曜日の午後、少し時間が出来たので、ひさしぶりに古代吉備文化財センターに行って見ました。「まがね吹く」という枕詞で有名な吉備の中山に上って黒住教本部を右手に見ながら少し行くと、一寸立派な建物があります。ここは最近になって土曜日曜も開館するようになりました。(無料です)小さいながらも貴重な遺物をたくさん展示しているのですが、平日のみ開館だと人が来ないのは当たり前です。土曜の午後、それでもやはり宣伝が足りないみたいで、30分ほど居たけどその間誰も観覧者はいませんでした。時々展示替えがあり、三ヶ月に一回ぐらいでテーマ展示があります。今回展示替えで「遊びの遺物」を展示していました。平安時代の碁石とか、おはじきとか、興味深いものはあったのですが、毬杖(ぎっちょう)なるものもありました。木の枝を利用した杖を使って毬を相手陣に打ち込む遊びだそうです。江戸時代まで正月の遊びとして親しまれていたそうです。写真は平安時代のものです。将棋や囲碁は明らかに擬似戦闘、国盗り物語ですが、この遊びは何のまねなのでしょうか。ここからすぐの足守川加茂A遺跡から発掘された蛇の体に人面が付いた土器。なんなのでしょうね(レプリカではなく本物です)今回のテーマは「海を越えた交流」。弥生時代の百間川遺跡からは韓国の松菊里遺跡に酷似した遺跡が多く、土器も多いそうです。韓国西海岸の長い航海を終え、北九州に何故かとどまらずに瀬戸内水道を漂ってこの吉備の里に居を構えた渡来人の気持ちにほんの一瞬寄り添いました。上東遺跡にも朝鮮系遺物や技術が多くわたっています。ここでは、波止場あとが発見されたことで有名ですが、その技術も朝鮮系ならば、骨占いも朝鮮系です。また、このような刻骨(楽器?)も朝鮮系です。5世紀の薬師遺跡から多くの鉄製品が出土しました。鍛冶場があったと推測されています。これは出土した鐙。財政難の昨今、どこの文化財センターも大変でしょうが、兵庫とか鳥取のことを考えると、もっと予算がほしい。
2009年11月19日
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津島やよいまつりに行ってきました。津島遺跡は、弥生前期の水田の広がり、弥生後期の河道から出土した建築部材で有名です。今日は弥生グッズの体験が出来るときいて来たのですが、土器作りに2.5時間待ちと聞いて、あきらめました。それで人が作っているところを見学。土器はやっぱり、土を丸く丸めてそれをだんだんと重なっていてつくるようです。最後の仕上げは口部の形そろえ。「土器編年」というがあって、全体の形や口部によって決まるといわれてています。それによって、100年単位、ときには数十年単位で遺跡の作られた年代が決まるのです。(韓国の遺跡が大雑把な時代区分しかないのに比べて、日本の遺跡は必ず○世紀まで記述されているのは、これがあるからです)いつも疑問に思うのですが、ひとりひとりは個性を出そうとは思わなかったのでしょうか。ただ、指導員名から指導されているのを見ていて思ったのは、抗し難い「作法」というべきものはあったのかもしれない。個性は別のところで発揮されたのかもしれません。磨製石器も展示されていました。触ってみると、本当につるつるです。勾玉つくりをしている人たちは紙やすりでこすっていましたが、古代石器は何でこすっていたのか。「石と石でこすっていました。時間はかかりますけどね。多分現在の砥石と同じような硬さの石だったと思います」と指導員の職員は言っていました。木の臼と木の突き器で「もみすり」をしていました。「この臼はもみすり専用なんですか。木の実をつぶすような機能はなかったんですか」「専用でした。つぶすのは、石の臼を使っていました。このようにたたいて、口でぷーと吹くと、案外すぐにもみが取れるのですよ」貫頭着も着衣体験できるようになっていました。「いつも疑問に思うのですが、腰を帯で巻くだけだったんですか」「実際は腰巻もあったという説もあります」「そうだとしても、これだと女性は胸が丸みえだと思うのです。日常的にそれはありなのでしょうか。昔の羞恥心の価値観がわからないのです。上はこのような形だったという根拠は何なのでしょうか。」「このような土器に書かれた絵が根拠であって、本当にはこうだったかどうか分からないのにです」……ということでした。私は弥生の技術というのは、馬鹿にできないと思うのです。もっと「複雑な」着物を作っていたと思います。他にも今日初めて知ったこと。竪穴式住居の柱は一様に大きいけれども、実際はその半分くらいの太さらしい。どうやら現代の「建築法」によって、人が入ることの出来る施設では(安全のために)太さが決まっているらしい。私はずーと勘違いしていました。津島遺跡では、板張りの住居(倉庫ではない)が復元それている。このような住居も初めて。妻木晩田遺跡ではひさしのある複雑な首長クラスの住居模型があったが、あれは弥生後期の模型だった。こちらは前期である。また、こちらの竪穴式住居の中は、妻木晩田のように深く掘られていなかった。「それはこちらのほうが暖かいからですか」と聞くと、「穴の深さ自体は良く分からないのです。」とのこと。むきばんだは屋根に土がかぶさっていたが、こちらはどうなのか。「それも良く分からないのです。妻木晩田の場合は焼失住居があったので、分かったのですが、こちらにはないので」復元住居、そのまま信用すると痛い目に遭うということがわかりました。津島遺跡の範囲を示す全体地図と周辺遺跡の地図です。現代の地図に遺跡の範囲と主な遺跡の場所を重ねています。中央下に岡山駅が見えます。津島遺跡は岡山駅から歩いて15分くらいの場所ある岡山総合グランドの中にあります。右上には6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、稲作が縄文時代中期以前まで遡ることが出来るかもしれないと話題になった朝寝鼻貝塚があり、左上には07年3月に遺跡の場所を探して上ったことのある都月坂墳丘墓群があります。つまりこの一帯は、日本の最初期から稲作の先端地域で弥生時代後期に至るまで、重要な遺跡が集中しているところなのです。また、弥生時代最初期の水田跡がでてきた津島江道遺跡も津島遺跡に隣接してあります。そのときに作っていたのは、今のような黄金色の稲ではなくて、このような赤黒い古代米でした。ちょうど遺跡内にたわわに実っていました。また、最初期の水田は写真のように小区画水田です。けれども、それには水口もついていて、現在と稲作技術の大きな隔たりが有るわけではありません。
2009年11月07日
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ETCを利用して(^_^;)兵庫県立考古博物館に行ってきました。播磨町につい二年ほど前に建てられた最新の考古学専門博物館です。行ってみてわかりました。ここは、展示場ではないのです。ふれる、体感する、学習する、体験型の施設になっています。素晴らしいと思います。少し「研究」という点では物足りないところはありましたが。でも色々と勉強になりました。なんとも珍しい。発掘の広場というのがあって、発掘そのものが展示されています。また、この日は出張「修復作業」というものをしていました。女性職員に聞いてみました。「こんなことまで展示しているのは、珍しい、というよりか初めて見ました」「そうでしょ。バックヤード見学もあるのですが、そこではなかなか身近に見て、気軽に交流はできない。このように通路で修復していると、触れるし、気軽に質問してきてくれます」確かにその通りでした。例えばこの日修復していたのは、1400年前に作られた鉄剣と鐙です。良く見ると、鉄剣には布が付着しているというのです。良く見ても分りません。ルーペを貸してもらってみたら、やっとそれらしきものが分りました。職員の方も出土直後にはわからなかったそうです。でも気がついた。そこがプロと素人の違いですね。或いは、この鐙の横棒をよく見ると、ひねりが加えられています。この部分は全く目立たない場所であって、こんなところまで凝る「文化」とはいったいなんだろう、と思ってしまいます。テーマ展示は「古代祭祀の世界」でした。ふーんという感じで、目新しいものはなし。常設展示場にはこんな人骨もありました。この女性の人骨をよく見ると、上あごの骨が薄くなって穴まで開いています。これは鼻などに膿がたまる蓄膿症だった証拠だそうです。鼻水や鼻づまりに苦しんでいたのですね。(坪井遺跡人骨)地下には、まだ整理で来ていない土器の山がつまれていました。こういうものまで見学できるようになっているところが、この博物館の特徴みたいです。外の池のそばには葦が茂っていました。もちろん、古代の風景の模写です。
2009年10月28日
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実に7年ぶりに鳥取の遺跡を見に行きました。ETCのおかげで重い腰を上げたのです。前回の見学のころはまだブログがなくて、よそ様のホームページを借りて感想を書いています。ここにも書いているように妻木晩田(むきばんだ)遺跡は「国内最大級の弥生都市」です。2000-1700年前に栄えた152haに及ぶ弥生時代の集落で、約900棟の住居や建物跡、30基以上の墳丘墓の跡がわかっています。まだ発掘途中だし、その成果はこれから明らかになっていくと思います。今回も行くと、ちょうど復元建物を建築中でした。この後に行く青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の発掘成果とあわせて首長クラスの建物はこのようなものであるというこがわかりました。ここまで来ると、まるで江戸時代の農家のようです。いままで木の文化は腐ってなかなか残っていなかったけれども、だんだんと解明されてきました。私たちの思っている以上に、暮らしは現代に近いのかもしれません。この遺跡がまだ発掘途中で、保存運動の真っ最中だったころ、なんとしてでも残さないといけない、という気持ちの原動力になったのは、洞の原地区から見えるこの景色です。少し小高い丘陵に住居と墓が集中し、そこから弓ヶ浜が綺麗に見えます。来年にはどうやら展示施設の新館が出来るようです。いろんなボランティアがこの遺跡を守り活用していて、例えば、周りの木々はこのような説明書きがいたるところに吊るされていました。このころ、蕎麦の白い花が満開でした。さて、妻木晩田のあとは青谷上寺地遺跡展示館に行きました。国内で初めて見つかった弥生人の脳で有名なところです。溝の中から、ばらばらな人骨が100体以上見つかり、中には傷つけられた骨が100点以上含まれていました。その他、水に守られて豊富な木々やいろんな物が残っていて、「地下の弥生博物館」といわれています。写真は殺傷痕のある15-18歳の女性の頭蓋骨です。海の生活を再現できるいろんな遺物も見つかっていて、今回7年ぶりに来て、本当にきちんと整理されていることに驚きました。これは結合式のヤス(魚を突き刺す道具)です。これを駆使して、一挙に三匹も四匹も同時に取る名人もいたのでしょう。山陰特有の琴です。ただし、使い方は叩いて音を出していたようです。少し足を延ばして発掘現場にも行ってみました。日曜だったので人はいなくて、ビニールがかぶされていましたが、真っ黒い土の中から新たな発見があるかもしれないと思うと、どきどきします。妻木晩田も青谷上寺地も、地元の人たちの熱心な運動があって国の指定遺跡になっています。これからきちんと調査して新しい弥生時代像を作ってきて欲しい。たくさん本を買ってきました。すこしづつ読んでいきます。
2009年10月26日
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鬼の城(きのじょう)に行って来ました。一番の目的は、この前の台風九号の集中豪雨のときに版築工法で作られた土塁が崩れたと聞いたので、それを見に行ったのです。版築工法は基礎に列石を配置し、その上に土を一層ごとに突き固めて築くもので、朝鮮から来た技術を使ったといわれ雨風ににも十分耐えうるものでした。発掘当時はこの版築のところを掘ろうとすると、鉄が当たって火花が散ったと言われたぐらいです。実は五年前の大型台風のときも復元されたばかりのこの版築の土塁が崩れたことがありました。すぐ隣の1400年前につくられた版築土塁はびくともしていなかったのに、最新の現代工法でつくられた版築土塁が崩れたのです。「情けない…」というのが私たち考古学ファンの間での素直な感想でした。今回あの反省は生かされなかったのか!!というのを確かめようと思ったのです。鬼の城は総社市の砂山公園のを通り過ぎて、急峻の山を10分ぐらい車であがったところにあります。標高400mの山の頂をぐるっと2.8Km、城壁が築かれています。土塁が主体で、城門4ヵ所、水門6ヵ所、角楼1ヵ所、そして高石垣などで構成されています。ここからは、吉備の国が一望に眺めることができます。吉備の中山、楯築遺跡、造山古墳、国分寺跡、遠くは児島湾や、水島灘、もっと晴れれば香川県の屋島も見ることができます。一番立派な西門は復元されてこんな感じ。屏風折れの石垣といわれる、城外へ鋭く張り出した城壁の一部で石垣積みになっています。昔はこの石垣だけがきれいに残っていて、いまのように城の全体像が分からなかったので、何のためにこんな石垣が残っているのか、不思議に思われていました。実はこの石垣のすぐ下にゴルフ場があって、そのなかに現在のところ日本最古の製鉄遺跡、千引カナクロ谷遺跡があったのです。私はひそかにこの製鉄場を守るためにこの城が作られたのだと思っているのですが、専門家はそのことには否定的な意見が多いようです。なぜ、この城が作られたのか、諸説あってまだ決定的なものはありません。何しろいつごろ作られたのかが、まだ決定していないのです。5-6世紀につくられた、戦争逃げ込みようの朝鮮式山城だという説、白村江の戦い(663年)の後に作られた国土防衛のための朝鮮式山城だという説、いや、もっとあとのお城だという説もあるようです。さいわい、この城は国の指定遺跡になったためにいま整備がすすんでいて、まだ発掘途中、そこから色々と発見が続けば、分かるのではないかと思います。前置きが長くなりました。さて、ビジターセンターのおじさんに今回の崩れた土塁の場所を聞いてみました。西門から20mほど下った第0水門前後のあたりでした。おじさんの言うには、今回崩れたのは、新しく復元した版築土塁ではなくて、昔の土塁の部分だということです。五年前に崩れた版築土塁は教育委員会の人達にはそれはそれはショックだった見たいで、土塁を直すのになんと五年をかけたそうです。つまり原因を考えて対策を出すのに五年かけたようです。そのおかげか、今回の豪雨では新しく作り直した版築土塁はびくともしていません。写真の白いところが新しい版築土塁です。反省はすこしは生かされたようです。でも少なくとも、あと1000年たたないと「歴史的評価」は下せません。今回崩れたのは古いところですが、しかし、今まで崩れなかったのに、なぜ今回崩れたのか、それはそれで教育委員会の人達にはショックだったみたいです。ビニールで覆われているところが崩れたところです。「今日はお偉いさんが来て、視察をしていった」とのことでした。わたしは、この間の復元作業の過程で、どこか「自然状態」を壊す部分があったのではないかと推測しています。昔の人達の汗水たらした誠実な「技術」の前に私たちは正直に謙虚にならなくてはいけないのかもしれません。
2009年08月16日
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二週間ほどまえ商店街に飾ってあった七夕の短冊に書いていた願い事です。ホントそうですね。期待できない人がうじゃうじゃいますが、それでも政治の力に頼らざるを得ない。きちんと選びたいものです。さて、このまえの日曜にこのような展示会に行ってきました。ユーラシアの風新羅へ展新羅と日本、そしてオリエントの遺物を渾然一体として展示しており、興味深い展示会になっていた。(展示場所 岡山市立オリエント博物館)たとえば、慶州からはガラス容器やガラス珠、角杯、馬形土器などが来ていたが、それらは西アジアのイラン・イラク・トルコから運ばれたものが多く見られるのである。そしてそれらはなぜか百済や中国からは出土しないのである。ということで何が分かるか。これらの品物はシルクロード経由だか、中国を通らず、中央アジアを通って新羅をとおり、日本にもやってくるという交易の道が存在したということなのである。慶州龍江洞古墳には明らかに西域人(ヨーロッパ系の顔立ち)と思われる文官像も出土している。慶州の博物館に行ったことはあります。けれども、そこの展示説明が読めないためにたんに文物を見ただけでしたし、たぶん読めたとしてもここまで分析していなかったはず。日本は本当に細かい仕事をしています。日本の考古学はすばらしい。岡山での展示が終わると、8月1日から9月6日まで東京サンシャインシティ文化会館の古代オリエント博物館で展示が始まるそうです。
2009年07月23日
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ひさし振りの考古学ネタです。しかも私がこの10年間ずっと追い求めた弥生→古墳時代移行期の話です。今回私の考えを再度述べてみたい。きっかけは今朝の新聞でした。(以下引用)奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240~260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。 「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末~3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。 全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。 考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240~260年に絞り込んだ。 31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。 歴博研究グループ代表の西本豊弘教授(考古学)は「慎重に進めた5年間の研究の総まとめで結果には自信を持っている。どのようにしてこの年代を求めたのか、だれでも検証できるように測定データも含めてきちんと公表するようにしたい」と話している。(渡辺延志) この記事で何が重要なのか。私は「箸墓古墳が卑弥呼の墓か」どうかは重要ではない、と思っています。もっと言えば、邪馬台国が畿内か、九州か、そのことは重要ではないと思っています。もちろんそのことが分れば、大発見です。3世紀の日本列島の輪郭がかなりはっきりしてくる。分ったほうがいい。けれどもそれは金印の出土とか墓誌の発見とか、決定的な何かが発掘されない限りは分ることはない。だからそのことにエネルギーを割くことは無駄だと思うのです。(まあ、夢とロマンがあるので新聞は卑弥呼の文字を使いたがるし、それによって人は動くし、結果考古学は進歩する、そういう意味でまったく無意味なわけではない)この記事で重要なのは、畿内地域に突如として出現した政治集団の性格の問題です。280メートルもの前方後円墳という特異な形をした大型古墳を発明し、特殊器台を使った特異な祭祀(つまり政治)を行った首長の墓が240年から260年の間に作られた可能性が非常に高くなったということなのです。昔は四世紀に作られたといっていたのと比べるとこれは本当に大きな出来事なのです。日本列島がどのように「国」としての形を整えていったのか、それがかなり絞られて来ました。一方では九州に群雄割拠のクニグニ(イト、イチ等々)がある。出雲には銅剣銅鐸文化を封印して大きく勢力を広げてきた四隅突出墓を作るクニグニが広がる。吉備にも箸墓以前までには列島最大だった墳丘墓(楯築遺跡)をもつクニグニが急速に広がっていた。箸墓の数十年前までは、中国から見ると「倭国争乱」という混沌とした時代であったが、卑弥呼を擁立して何とか治まったという「史書」が伝えられている。その直後に畿内に九州や出雲、吉備すべての国々と交流があった地域から、列島最大の墓が生まれる。しかも吉備の特殊器台を引きいでいる。邪馬台国がどうなったかは知らず、当時の政治のエッセンスが畿内に集まり結果的に当時最大の政治集団を作ったことはほぼ明らかのようです。日本列島は何故大きな戦争を経験することなく、一つにまとまることができたのか。大陸と違い、ついに牧畜文化は列島には根付かなかったことが関係しているのか、していないか。それには、たぶん単に卑弥呼一人の力ではなく、九州、出雲、吉備の「黎明期の英雄」たちが関係しているのではないか、素人の私に出来ることは、ただただ想像することだけです。あまりにもかけ離れたことは想像したくない。今回の歴博の発表は、遥かなる私の想像への足がかりになるかもしれません。
2009年05月29日
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昨日の続きです。さていよいよ垣内(かいと)遺跡に行く。寒い。雪がかなり本格的に降ってきた。けれども用意していた説明会の文書が足りずに急遽コピーをしにとってくるような盛況ではあった。みんな背中を丸めて教育委員会の人の話を聞く。弥生後期後半(AC.120-220)の遺跡。標高200Mと山の上にあり、遺跡範囲は東西500M。今回は圃場整備でこの遺跡が見つかった、という。雪の中での説明会現地説明会資料のまとめにはこうかかれている。 今回の調査では、鉄製品やその未制品、鉄素材や鉄器作りの際に出る鉄片などどともに鉄器作りに使ったと見られる石制工具類、多数の炉跡を有する建物跡(鍛冶工房跡)が発見されました。竪穴建物跡を見学するこれらの内容は当時の鉄器作りの様子を具体的に知ることが出来る貴重な資料となります。 また平成19年度の調査とあわせると、全部で10棟の鍛冶工房跡が存在した可能性があります。確認した全建物跡17棟に占める鍛冶工房の割合が高く、まさに「鍛冶のムラ」とも呼べる様子が見られます。今回の調査で、これらの工房跡がすこしづつ時期と場所変えながら、弥生時代の終わりまで継続して営まれていたことが明らかになり、安定的に鉄器作りを行なっていたものと考えられます。この建物からは炉跡は発見されず。用途は不明。 鍛冶工房跡の詳しい説明は省略。私は見学の群れには加わらず、教育委員会の人に質問攻めをしました。そうすると現地説明資料では分らなかったことが、見えてくるのです。一つ大きく分ったのは、鉄の遺跡なのでこれからの遺跡分析によってでしか分らないことがあまりにも多い、ということです。だから結果的には私の疑問に答えてくれるような現説(現地説明会)ではありませんでした。鏃。しかし、クリーニングしないとよく分らない。例えば、出土した鉄製品は主に鏃(やじり)なのだが、他に生活用具を作っていたかどうかは謎だと言うことです。けれどもこの鉄分析によって朝鮮半島で作ったのか、中国で作ったのかぐらいはわかるだろうということでした。ここに常時何人が働き、どれだけの量の鉄を生産したかは謎のまま。非常に興味深いのは、この鉄工場が弥生後期後半から突如立ち上がり、弥生の終了とともに終わり、決して大和朝廷の台頭する古墳時代には引き継がれなかったということです。 生活土器が出土しないのも特徴です。しかしミニチュアの土器はありました。これは祭祀用でしょう。人はいったいどこに住んでいたのか。聞くと、ここから通勤圏内にしかも同じように200M高地に弥生住居跡がいくつもある。ミニチュア土器。本来のものよりふた回り小さい。 鉄を作るためには大量の燃料が必要だ。燃料はどうしていたのか。島内で燃料は確保できたのか、聞いてみました。鉄を加工するためには高温化が必要である。しかしどのようにしていたかは結局は謎だそうです。ひとつはついにふいご(送風管)施設は見つからない。(もっとも弥生時代の鉄遺跡では見つかったためしがないらしい)送風はいったいどうしていたのか、これからの課題である。高温化のためには炭を作るのが一番なのだが、まだ炭焼き跡は発見されていない。どうやらこの鉄工場では鉄を溶かすほどの高温化はしなかったようだ。しかし一部分では土の色が変わっているので、溶かすまでやったかもしれないとはいっていた。木材は島内で十分に確保できたようです。備長炭の材料でもあるウメバガシもこの島には豊富にあるらしい。垣内遺跡 遠景 少しびっくりしたのは、この遺跡と邪馬台国とを結びつけることを担当者はひどく嫌っていたということです。鉄製品は島内だけで消費したかもしれない、と担当者は言っていました。でもそれだと突然(しかもこれからというときに)鉄の生産がストップした理由が分らない。報告書が出来上がるのは、数年後、下手をすれば10年後ぐらいになってしまう。今すぐにでも、ここをテーマにシンポジウムを開いてほしい。海が近い。山の上だが、交通の便はよさそうだ。約100年間に淡路の島に大鉄器工場が出現し、ちょっとした新興住宅地を作り、そして消えていった。時はあたかも、初めてクニが出現し、「倭国大乱」の真っ最中であり、その直後におそらく大和に吉備、出雲、近畿、北九州の連合国家が出来上がり、箸墓古墳が築かれた頃である。約三代から四代に渡るであろう、鉄の技術屋集団(遺跡の数から私が推測するに常時100人以上はいただろうと思う)は、何処からやってきて、何処に行ったのか。大きな謎を抱えたまま、太陽沈む方向に、山を100以上超えて帰っていきました。
2009年01月28日
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昨日の私のドジ記事に対するたくさんの温かい言葉ありがとうございます。財布を落としたのは、この「古代吉備よもやまツアー」に参加したからです。高校教師を講師に地元学習サークルが主催したものです。先ずは吉備津神社。実は観たのは初めてでした。実はここで財布落としました。桃太郎の鬼退治として全国的に有名な大吉備津彦大神を主祭神とするものの、建物自体は室町期に建てられたらしい。その古さ、規模ともに全国屈指の大社です。比翼入母屋造という拝殿と本殿が並んで建っているという日本唯一の建築。また上田秋成「雨月物語」の鳴釜神事でも有名です。吉備津彦に退治された温羅(鬼)の首は最初岡山のこうべという処に埋められたのですが、うーん、うーん、という声が鳴り止まず、犬に食わせても鳴り止まない、それで温羅の首のいうとおりに総社のアゾという処で作られた釜の下に埋め、アゾの巫女に占わせたならば、占いの時にだけなるようにしてやろう、とまあ都合のいいことをいって静かになるわけです。これを見ても温羅が完全に退治されたようには思えません。吉備津彦は大和朝廷からの征服者、温羅は地元の朝鮮系豪族と考えれば、結局温羅は大事な祭を取り計らう裏の大物として生き残っているようです。鳴る釜は吉備津の本殿から少し離れたところに今もずっと火を絶やさずに炊き続けられており、釜も今だにアゾで鋳物として作られています。吉凶の観立ては幸あれば鳴り、禍あれば荒らかに鳴るという。つまり神主の胸先三寸なわけです。次に行ったのは、楯築(たてつき)弥生墳丘墓です。知る人ぞ知る弥生時代最大の墳丘墓(全長72m)、質的にもほかに類を見ない異例なことだらけ。主墳の頂上には木棺を取り囲む盾の様な巨石が建てられている。縄文のストーンサークルのような規則性もない。謎です。(写真参照)または木棺には30キロもの朱が敷き詰められていたし、弧帯紋が施された異様なご神体(亀石)の存在もある。この弧帯紋は纏向遺跡(飛鳥時代に先駆ける大和王権の中心的な町)の弧文円板と同じ。葬送儀礼で共通している。と言うことはどちらが先か。時代的に吉備が先なのは明らかである。私の大好きな遺跡です。その次は楯築の二代目といわれている鯉喰神社弥生墳丘墓。鯉喰神社の下が墳丘墓です。「普通二代目というとさらに大きい墓を建てるものですが、何故この墓は規模が小さくなったのですか」と私が質問しました。「弥生時代はそんなに墓の大きさに拘らなかったのではないか」「一代目があまりにもカリスマがあったということなのではないか」というのが講師の答でした。ここはまだ未発掘の遺跡です。探したら土器が見つかるかもよ、といわれてみんなで探したらほんとに見つかりました。すごい。特殊器台特有の赤土を使っています。(写真参照。携帯のカメラでボケボケですみません)次は造成時では日本一の大きさだった造山古墳です。講師は「無料で自由に立ち入ることの出来る墓としては、世界一かもしれない」と言っていました。宮内庁の管轄ではないんです。無料なんです。ピラミッドも始皇帝陵も有料なので、お得です。みなさんぜひ吉備に来て見ませんか。
2008年11月03日
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先日、岡山県笠岡市の長福寺裏山古墳群に行ってきました。 1長福寺裏山古墳群の案内板 posted by (C)くま5世紀代に築かれた古墳群。「かさおか古代の丘スポーツ公園」として整備され、遊歩道がつくられています。 2七つ塚古墳群 posted by (C)くま七つ塚は、小さな4基の方墳です。出土した「初期須恵器」は貴重だそうだ。朝鮮系のものだそうで、この古墳群の初期の古墳なので、5Cになって突然ここで古墳が造られるようになったのは、渡来人の影響だったと推測できるのかもしれない。ちっょとした小高い山に盛り土をして竪穴式石室を作るのは、釜山や金海で見ることのできる古墳の特徴。 3双つ塚古墳を前方部から後円部分を眺める posted by (C)くま双つ塚は、墳長約60メートルの前方後円墳で、井笠地域で最大の古墳である。周りには堀と土手がめぐっており、古墳本来の形をよく残している。前方部に登る。後円部に石棺があったそうなので、この前方部で、親類縁者を集めて盛大な葬式と同時に王の権威を引き継ぐ「祭」を行なったに違いない。登ってみて、10数人しか登れない。反対にいえば、それだけの周りの王を呼び集めることの出来る力を持った古墳の主ということである。 4埴輪の破片を発見 posted by (C)くま実はこの前方部と後円部の間のくびれ部分の下で土器らしきものを発見した。写真にあるように、直径約15センチ、太さ二センチくらいの割と大きい土器片で、しっかり調査をした後なので、本物かどうか迷ったのだが、管理事務所に持っていくことにした。「これを拾ったんです。埴輪片だと思うのですが」「そういうことは全然わからないんです。ちょっと教育委員会に電話してみますね。」電話すると、おそらく埴輪片に間違いないだろうとのこと。実際に見てもらって本物だったら、また連絡してくださいということで帰った。後日連絡があり、円筒埴輪の一部であろうとのこと。5C中ごろのものです。50-70センチの高さの円筒埴輪でしょうということでした。つまりつぼ型の埴輪ですね。5C中ごろというと、造山古墳はすでに作られていて、吉備の勢力が最大になって少し落ち着いた頃です。吉備の一地方都市がこの外れの地で、育っていったのでしょう。「この土器はどうしますか。」「もちろん笠岡市の財産ですから、とってください」「……そうですか。それでは保管させてもらいます。」基本は、発掘現場で拾った土器は全て自治体のものになる。だから言ったのではあるが、その人は少し意外そうであった。ほしいという人には上げているのかもしれない。ハッキリいって私には管理できないので惜しいという気がしない。でも、あれがもし直孤紋や絵画が描かれていたならば、大発見なので自分のものにしたいと思ったかもしれない。 6仙人塚古墳石室入り口 posted by (C)くま仙人塚は43メートルの帆立貝形古墳で、葺石がふかれていたことが分かっている。最もたくさん埴輪が出土した古墳で、円筒埴輪のほかに動物・人物などの形象埴輪の破片も発見されている。現地に行くと、写真にあるように、竪穴式石室が見学できる。明治時代にこの石室から短甲(鉄のよろい)が掘り出されたというエピソードが残る。東塚は50メートル弱の前方後円墳で、後世の開墾(かいこん)によって南半分が崩されていたが、公園整備に伴って復元されている。
2008年09月06日
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昨日の「08大阪古墳めぐり(2)」で府立弥生文化博物館の廃止を橋下知事が決定したことに触れた。大阪の財政状況はよくは知らない。だから、府の財政がどれだけ逼迫していて、どこにどれだけ無駄があって、どこをいつまで削るべきか、ということについて私はコメントする立場にはない。けれども、そういうことがわからなくてもいえることはある。私の意見は基本的に金関恕弥生博物館館長と同意見である。弥生文化博物館:大阪府PT案で廃止 金銭で考えるのか--金関恕館長に聞く「私たちの活動は人々の教養のためのサービス業。これを金銭的にプラスかマイナスかという基準で考えることが正しいことなのだろうか。」「弥生文化博物館では毎年4~6月の3カ月間だけで、約1万5000人の小中学生が見学に来る。学芸員が説明し、子どもたちが歴史を学ぶ手助けをしている。」「(PT案では弥生博の機能は近つ飛鳥博に集約するとなっているのでは、と言う記者の問いかけに対して)博物館活動はどこでやっても同じではない。府立博物館が全部、サイトミュージアム(遺跡博物館)として深く遺跡と結びついているからだ。」「次の世代が「あれは間違いだった」と評価することは十分にありうる。」弥生文化博物館は日本で唯一「弥生時代」をテーマにした博物館である。その意義はとてつもなく大きい。弥生時代ファンとして、私が知っているだけでも「弥生時代に都市はあったのか」議論、「弥生時代の音楽はどのようなものだったのか」「弥生時代の宝石」等々、専門博物館でしか出来ないような議論を仕掛けて、その認識の大きな前進を図っている。わたしもこの10年間で五回も通っている。岡山からここに行くには、その費用もさることながら非常に時間もかかるのである。行って帰るだけで1日仕事なのだ。しかしそれだけの意義があると思って通っているのである。弥生時代の最新情報を知りたい、という一考古学ファンの満足度をかなえる施設だからである。一度、博物館バックヤード見学をさせてもらったときにその感想をメールで送ったことがある。それに対して丁寧なお礼を頂いたのを気をよくして一つ質問を再度送った。「特別展では今まで丹波や信濃、大阪、出雲、北海道、沖縄などの地方をテーマにしたものが数ありますが、まだ吉備をテーマにしたものはないようです。楯築墳丘墓の存在だけでも、弥生時代は吉備を抜きには語れないと思いますが、ぜひ吉備をテーマにした特別展を企画して欲しい。」それに対してはこのような意味の返事を頂いた。「当然吉備を重要視していないという意味ではないのです。私たちも吉備については重要な関心を抱いています。ただ吉備はあまりにも大きい存在なので、それなりの準備をして臨みたいとおもっているのです。後しばらくお待ちください。」と言うものでした。出雲よりも、吉備の方が準備に時間がかかる存在だといってくれたような気がして、そのときは満足したのである。しかし結局それから約五年、未だにその特別展は実現していない。この博物館が廃止されたならば、永遠にその特別展は幻になってしまう。誰かが橋下知事のやり方を「焚書坑儒」だといっていた。同感である。秦の始皇帝のせいで中国でのまれに見る実践的な平和思想家集団「墨家」の思想が永遠に失われたように、その歴史的損失はあまりにも大きい。
2008年08月30日
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今年の最初のぶらぶら旅は途中で日和って2日で切り上げてしまいました。久し振りの車での旅で、前日も1日目もうまく眠れなくて‥‥‥。写真や旅の記録の整理が出来次第、まだ記事に起こします。タダ、2日めのときに大阪府立弥生博物館で買った特別展の図録に考えさせられる記述がありました。今回弥生博物館に来た一番大きな目的は四年ぶりに来るこの博物館の特別展の図録を買うことである。弥生時代の最先端情報がここで得られるので、いくら高くても意味がある。しかも今回は車で来ているので、いつものように「重さ」に悩まされる必要は無い。四冊買って5300円。博物館は去年の春季特別展で「稲作とともに伝わった武器」と言うテーマで展示をしており、図録ではさまざまな武器のオンパレードになっていました。ここで結局分ったのは、確かに弥生時代に入って「人を殺すための武器」は飛躍的に増えたということ。けれども、何を目的に戦争をしたのか、どのような戦争をしたのか、わかっていないということです。私の説は、弥生時代は戦争の始まった時代であるが、最も平和的に戦争が始まったのである、と言うものです。根拠は、日本では中国のように住民皆殺しのような戦争はついには弥生時代、古代にかけて起こらなかった、「話し合い」で、自分たちのリーダーを決め、大和をその中心地に決めている。だけです。徹底的な戦争をしない、と言うことはいいことばかりではなくて、日本に「革命」が起きなかった理由にもなるかもしれません。なにごとも徹底性が無いためではないかというわけです。回りまわって戦争責任が明らかになっていないのは、そのせいではないか、と偽悪的にも思ってしまいます。何はともあれ、私の説は果たして正しいのか、ということが常に私のテーマになっています。私は「話し合い」の中心を担ったのは、吉備のリーダーであり、吉備には戦争らしい戦争は無かったという仮説を立てていました。(根拠の一つ‥‥‥本格的な環濠がない)けれども人の殺し合いはあったようです。再生会病院(南方)遺跡で見つかった盾には石鏃(石のやじり)が刺さったままで残っていました。(そんなこと前の説明会では聞いてないぞ。)そのほかにも、石剣でも人を殺したことが証明できる遺物が見つかっているようです。すこしづつ細かに修正しなくてはなりません。けれどもまだ、日本に皆殺しの「殺戮」はほとんど無かった、と言うのはいえそうです。唯一の例外が鳥取の青谷上地寺遺跡です。ここから109体の遺体の骨が見つかっており、女性や子供の骨から人為的に傷つけられた痕跡が多く見られるのだそうです。殺傷痕のある遺体は10体。小児、成人とも背後に多い。ある男は遠方から弓矢で傷つけられ、至近距離からきりつけられた。ある女性は前頭部の頭蓋骨に突き破られた後がある。女性の遺骨は三割に占めている。この109体、いったん埋葬された後にすぐに掘り返され、環濠に再度埋葬されたことが分っています。一体どのような経緯でこのようなことが行なわれたのか、謎です。今度6年ぶりぐらいに青谷上地寺遺跡に行きたいな、と思いました。岡山大学教授の松木武彦氏は特別論考を書いていました。なんか難しくごちゃごちゃ書いていましたが、要は、戦いの発生要因は二つの説があるそうです。農耕の本格化によって生み出された余剰の争奪(春成)農耕開始によって不足した土地や資源の争奪(松木)いずれも、農耕の本格化が要因です。もうひとつの説は松木が唱えた「心」の問題です。渡来人たちにもともと日本人には無かった制服的心性があった。これは人間の脳の働きを科学して唱えているのらしい。どうも結局、まだほとんどわかっていないということを告白しているだけのような気がします。なぜ、戦争は生まれたのか。どのように戦争は育ったのか。それを明らかにすることは、どのようにして戦争をなくすことが出来るか、に繋がるはずです。人類の歴史で一年に換算すると戦争を始めたのは大晦日の午後。ならば、ちょっと心持を変えたならば皆仲良く除夜の鐘を聞くことが出来るだろう。
2008年08月18日
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昨日は休みだったので、散歩がてら真備町をぶらぶらしてきました。この地名はもちろん奈良時代に右大臣にまでなった吉備真備にちなんだ地名です。真備町は吉備の国の中心地である総社市より高梁川をはさんで西にある小田川流域に位置します。真備公園に車を止めて、その隣にある資料館に入って見ます。吉備の真備は生涯二度遣唐使として、中国に渡りますが、その船の復元が展示されていました。初めて吉備真備の生涯を見ました。吉備真備(ウィキ参照)なんとも凄い波乱万丈の人生です。命からがらの遣唐使二回もすごいですが、750年藤原広嗣が反乱左遷。鑑真の招聘。756年に新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、764年(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。そして恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱80歳、政治家として死んでいる。ほんとうに80歳まで生きたのだろうか。今なら十分ありえるが、昔は奇跡的だったのではないか。どうしてこの時代、地方の豪族である吉備氏がここまで出世したのだろうか。散歩してわかったことは、小田川の水の豊富さ、低い山々と豊かな平地、交通の便、近くに藤原遺跡があり鉄の産地だったこと、大和から来た王子の吉備武彦の子孫であったのでたぶん大和王朝の遠い子孫だったのだろう。裕福な土地だったのだ。結局吉備から見たら、侵略者の子孫なのではある。しかし、長い間に彼らは土地の人間になる。五世紀には、雄略天皇による弾圧があったことも知られている。そして七世紀末から八世紀にかけて、一人の秀才を中央政治に送り込むことに成功したというわけだ。資料館を見た後、箭田大塚古墳を見に行った。非常に大きい石室を持つ横穴式の円墳である。6世紀末から7世紀にかけての築造。吉備真備たちの一族(下道氏)の有力首長の墓だったのではないか。吉備真備を生み出す数代前の実力者だったのだろう。そこから一キロも歩かないうちに、吉備真備が産湯を使ったという井戸があった。吉備地方には、日本書紀とは、180度違う日本列島の政治史がある。2世紀から8世紀にかけて、アジア全体を巻き込んだ歴史がある。雄略天皇に対抗して新羅と組んだという噂もある。2-3世紀ころには、朝鮮半島南の鉄の産地と交流があり、そこから鉄の技術を盗んだというのが私の考えである。(すみません学術的でなくて)3世紀までの弥生時代に私は興味はあるのですが、それ以降の歴史にも最近は興味を持ち始めました。地方から見える歴史がある。私のライフワーク(立ち消えになる可能性も十分!!)のひとつです(^_^;)
2008年07月17日
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兄に看病を頼んで総社市の鬼の城(おにのしろではありません。きのじょうと読みます。)に登っています。約二年ぶり、だいぶ整備されました。6Cか7Cに築かれた朝鮮式の山城です。ただし日本書紀には記述はありません。諸説ありますが、くま説としては「6Cごろ最古の製鉄遺跡であるカナクロ谷遺跡を守るために小さく作ったが、はくすきのえの戦いの後大きく作ったが、こうじんの乱の時、天智天皇側についたため、歴史から抹殺された」というものです。一応根拠はあります。この鬼の城は総社市各地に残る温羅伝説の中心にあります。温羅(うら)はこの地域では吉備津彦(桃太郎のモデル)と対等に闘った者として最近ではだんだん英雄的扱いにされてきました。うらじゃ踊りがよさこい踊りに匹敵する祭として成長してきています。ウノコ竹ノ子のように踊りサークルが出来ています。官民主導なのですが、この踊りは桃太郎(支配者)に対抗する温羅(鬼)が主人公なのです。なんか偶然とは思えません。
2008年03月16日
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5Cの民衆レベルの古墳群を見て来ました。一日の土曜日、現説(現地説明会)つまり発掘調査の説明会があり、近くなので飛ん行きました。総社市の吉備路の丘の東側の小さな丘陵3000平方メートルの中に12基の古墳が見つかったのです。法蓮広堂山古墳群と言います。もともとこの丘陵には、造山古墳等、大小合わせて300ほどの古墳が確認されていました。しかし族長クラス(30-50人の長)の小さな古墳は植林などで破壊されて土の中に隠されていたことが今回分かりました。それから推測すると、5C~8Cの間に千基以上の古墳が、三須丘陵というこの一帯にひしめいていた可能性が高くなってきた!と総社市教育委員会のT氏は興奮していいます。(この時代のこの規模の群集墳は大阪に一例あるだけだそうです)「なぜ30-50人の長なのか」聞いてみました。「もとになっているのは、8Cのこの地域の戸籍です。それをみると当時は30-50人で一つのグループを作っていたんですね。また、この古墳は個人単位で造れるような規模ではありません。土を盛り上げるだけでも大仕事です」「そうやって計算するとこの地域だけでも常時一万人の人が住んでいたことになります」現説はこのように突っ込んだ質問も出来ます。また、遺跡の形状が最も解る形で見ることができるのでだいすきです。けれどもこの遺跡は数週間後には開発で破壊されるという。いかんともしがたい。私は古代を幻視する。古墳時代、この丘陵を歩く。木々は刈り取られ遠くまで見渡せる。吉備の最後最大の輝きを放った大王の墓は東側に堂々とそびえている(造山古墳)この丘陵では足の踏み場もないほど円墳、方墳、前方後円墳が盛り上がっている。丘陵を上ると遠く大王の直径の子孫の大墓(作山古墳)は綺麗な形を見せ、規模は比較小さいが石室は立派な墓(こうもり塚古墳)も造営中だ。こうもり塚古墳の西側に五重塔の国府が出来るのは後百年またねばならない。丘陵から吉備中枢の大きなクニが見渡せる。一万人が住んでいるという。一人一人とクニとがかろうじて一体感をもてる規模だ。どんな政治が行われたか、それはまだ霧の彼方ではある。まがね吹く三須丘陵の吉備のクニいくさなき世を幻に見る
2008年03月02日
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やっと約一日の自由時間を作り、この一か月以上全然運動していないので、ウオーキングがてら、古墳めぐりをすることにしました。近田駅 posted by (C)くま電車で広島に向かい、福山駅から福塩線に乗り換え、近田駅で降ります。このあたりは、備後地方と言います。私の住んでいる倉敷や総社の辺りが備中、岡山市から東の辺りが備前。三つ合わせてゴレンジャーではないですが、古代では吉備の国でした。どうやら6-7Cにかけて、吉備の国は解体されて、三つの行政組織に分かれたようです。今日めぐるのは、その頃に出来た古墳です。二子塚古墳 posted by (C)くままずは二子塚古墳。古墳時代の後期後葉の前方後円墳です。墳丘、石室ともに県下最大の規模らしい。けれどもそんなに大きいと感じられない。総社市にある全国四位の造山、九位の作山古墳と比べてももちろん、こうもり塚古墳等と比べてもまだ小さい古墳です。(全長68m)改めて、吉備中心部は大きな力を持っていたのだと知りました。けれどもここは、規模と質から言って備後地方を統べる古墳時代最大の長の古墳であったことは間違いないでしょう。非常に残念なことに、石室は入り口を閉めていて隙間からしか中をのぞくことができません。平地のそばのちょっとした小山の尾根の奥まった所に位置しているのは、古墳の位置の正しいあり様だと思います。池ノ内遺跡 posted by (C)くまこの古墳のすぐ西側に弥生遺跡がありました。(池内遺跡群)団地造成に伴って行われた発掘で、竪穴式住居30棟が発見されたらしい。今は整然とした弥生が丘住宅となっています。仕方ないとはいえ、非常に残念。東側のちょっと小高い丘が公園となっていて、ここは弥生式のお墓があった所だそうです。ここで作ってきた弁当を食べました。(吹きっさらしの中で一人食べる弁当は少しさびしい)ホトケノザが満開 posted by (C)くま風は冷たいけれども、ホトケノザの満開に近い原っぱもありました。声は聞こえないけれども、鶯もうろちょろしていました。微かに春は来ているのでしょう。宝塚古墳 posted by (C)くま宝塚古墳では、石室内には入れました。特別大きい石室ではないけれども、きちんと作られていて、この1400数十年間、少しの緩みもないように見えます。工人たちはいい仕事をしています。こんな大きな墓を造った豪族(円墳なので、そのように類推)の人生は、今は忘れられて語る人はいません。けれどもその墓を造った人々の仕事は今に残って多くのことを語っています。薄暗い石室の中でしばらく物思いにふけっていました。千幾年、早いうちに盗賊はやってきて、宝物は盗まれ、石室の中は空っぽです。宝塚古墳 posted by (C)くま人は死んだら何を残せるというのだろう。権現古墳 posted by (C)くま権現古墳は墳丘が流出して、横穴式石室の天井部が露出し、その上に熊野神社の社殿がたてられています。こんなタイプの古墳は案外多い。何百年たって岩の謂れさえ忘れられても、なんとなく畏れ多いところとして残るところが古墳なのです。お糸の碑 posted by (C)くまそのあとてくてくと服部大池を横目に見ながらずっと歩きました。この池は生保年間福山初代藩主が作ったといわれる大池です。こんな歌が詠まれ、碑が立っていました。(歌は池のそばの説明文にあった)備後一かや服部大池は かあいやお糸が人柱現代も道路や公園がある堤があるのですが、ここに「人柱」を入れたのでしょうか。いつの時代も時の為政者のすることといったら…。迫田古墳 posted by (C)くま 迫田古墳 posted by (C)くま大迫古墳にたどり着きました。なんと普通の家の横にあります。墳形は完全に取り壊されていて、明らかではないそうです。けれども、奥壁は見事なたった一枚の岩、側壁は三枚、天井は二枚の巨石で構成されていて、今日見た石室の中で一番立派なものでした。遺物は金環が伝えられていて、大迫金環塚古墳の別称もあります。築造年代は後期後葉から終末期、今日見た古墳では一番新しい。時代が下るにつれ、技術革新が進み、飾りも華美になるのはいつの時代でも同じ。広島風お好み焼き posted by (C)くま遠くから雪雲が近付いてきました。駅家駅まで歩きました。(駅家という地名から明らかなようにここは古代の山陽道。馬の停留場跡があったといいます)近くのお好み焼屋で広島風お好み焼きを食べました。ソバがパリバリ焼けていて美味しかった。今日の行程約6キロ。よく歩いた。膝が痛くなる。ほんとうに足が弱っていたようです。
2008年02月17日
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古代吉備文化財センター主催の発掘調査報告会に行ってきた。この前行ったのは2年前。(「日本の平和のルーツは弥生時代・吉備にあり 」)そのときも大きい会場で手を上げて質問をしたのであるが、今年も質問をした。今回一番面白かったのは、弥生遺跡の大旦(おおだん)遺跡ではなく、5C~7Cの総社市の窪木(くぼき)遺跡。報告者は松尾桂子さんといって中堅の考古学者風。ほかの報告者が「貯蔵穴(ちょぞうけつ)」とか「官窯的(かんようてき)な性格」とか専門用語を使いながら説明している中で、ひとりパワーポイントを縦横に使い、発掘地図を色分けしたり、アニメのようにイラストを加工したり工夫をしていて、専門用語には必ず説明を加えながら、しかもポイントを抑えて短時間で終わらせた。ちょっとマイラブ。こんな人岡山にいたっけ。イントネーションは関西系のようだった。しかし面白かったのは、報告の仕方ではない、内容だ。この遺跡は古墳時代の集落なのだが、歩いて30分くらいのところに、日本最古の製鉄遺跡千引きカナクロ谷(6C後半)があり、5C当時では日本最大の大きさだった造山古墳がある。つまりこの団地から通勤出来る距離にある。この遺跡は5Cから竪穴住居が建ち始め、6C後半で最盛期を迎え、掘立柱建物に変わり、7Cで家が少なくなるという。だとすると、ここにある集落は造山の王とカナクロ谷製鉄遺跡と連動していることになるのではないか。しかも住居からは5C後半に作られたという鉄ヤスと鉄の三つ股グワが出土している。カナクロ谷より前の鉄製品ではないか。支配者の権威のための遺物ではなく、生活用具だ。ここの住人はその鉄をどこで作ったのか。自ら製鉄したのではないか。‥‥‥報告で聞いたことを元に主にそのようなことを会場で手を上げて質問した。そうすると松尾桂子さんは「この鍬がどのように作られたか、私も知りたいぐらいです。判る術はありません。確かにカナクロ谷と連動していた可能性はありますが、それよりも私は6C後半の製鉄遺跡で鉄加工もしていたここからすぐの窪木薬師遺跡との連動を考えています。」とのことでした。私の質問の本当の目的はカナクロ谷よりも前に誰も知らない最古の製鉄遺跡があったのではないか、と言うことであった。松尾さんの回答で、とりあえず、5Cにこの土地で製鉄が始まっていたかもしれない可能性は残ったということになります。私的にはそれで満足。学問的にはどうでも、想像する幅が残ったので。私の一番の関心は、あくまで弥生時代3Cの倭国大乱から大和政権に移る「平和革命」の解明(上の二年前の記事参照)なのですが、最近は5C~6Cにかけて大和と吉備の日本列島の主導権争いがどのように推移したかにも関心が行っています。写真はそのあと県立博物館に行って(本当はいけないのだけど)写した楯築遺跡の弧帯石のレプリカである。日本を代表する弥生遺跡の遺物。石の表面をまるで粘土のように削って特別の模様や謎の人の顔が彫られている。この模様が特殊器台の模様と同じ。特殊器台が全国に広まる埴輪の原型であったことを指摘すれば、この石の重要性を理解してくれると思う。日本重要文化財。国立博物館にも同様なレプリカが展示されている。
2007年08月26日
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久しぶりに現地説明会に行った。真備町の勝負砂古墳で古墳時代中期の未盗掘の石室が見つかったのだ。全国紙ではあまり報道されなかったが、地元紙では大きく取り上げられたので、好い天気にも助けられ、何百人と来ている。この遺跡は珍しい学術発掘。岡山大学考古学研究室の学生が全部取り仕切って現地説明会を行っている。私の好きな弥生時代じゃないけど、それなりに面白かった。未盗掘で(おそらく武人の)埋葬当時の様子がそのまま残っていること、珍しい馬具が残っているというのが、学術的価値らしい。説明板には「雄略期プロジェクト」の説明があった。五世紀後半、吉備中枢部の巨大古墳の築造が下火になったころ、なぜかこの真備町(小田川流域)の築造が活発になるのです。そのとき大和と吉備はどんな関係にあったのか。大和と吉備の鉄の覇権を巡る大戦争があったために作り山古墳が終わったあとには突然巨大古墳の築造が下火になったのだろうか。(桃太郎伝説はその名残か)そのとき、小田川流域は雄略の支配下にあったのか、それとも拮抗していたのか、私の妄想は一挙に膨らむ。私は残党が此処に集まり、拮抗していたと考える。そしてなぜ此処を選んだか、想像してみる。歩いてみると、緩やかな山の間に集落が点在している。私は北方「水滸伝8」で中心の話になるはずの祝家荘の戦いを思い浮かべていた。村そのものを要塞にする考え方が昔にあったとすると面白い。この地域の道は入り組んで何処にでも罠を仕掛けることが出来そうだ。雄略天皇に奪われた鉄の遺跡を奪還するため、また、この小田川の奥にある鉄の製造工場(藤原遺跡)を守るため、数十年がかりで要塞を築いたのではないか。朝鮮半島の伽耶連合国の滅亡、百済の滅亡、それらとこことが結びついてダイナミックなドラマが生まれていたりはしないだろうか‥‥‥。いやいや、わたしの関心は弥生時代なので‥‥‥。
2007年05月20日
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先日登った、宮山墳墓から出土した特殊器台は「宮山型」といいます。わかりやすい説明と大きな写真が載ってあったので、参考までに紹介します。 弥生時代末期から古墳時代前期にかけて、吉備地方特有に見られた特殊壺と特殊器台は、やがて埴輪へと発展していったと考えられています。特殊壺・特殊器台が埴輪に転じていく過程を、代表的な型式の変化をもとに見ていくと、次のようになります。立坂型(弥生時代)→宮山型(弥生時代)→都月型(最古型式の埴輪)→壺形埴輪・円筒形埴輪・朝顔形埴輪 このようにして、特殊器台から円筒形埴輪が、特殊壺から壺形埴輪が、円筒と壺が合体して朝顔形埴輪が生まれたと考えられます。日本の場合は決して「人柱」として埴輪が作られてきたのではない、ということが今では学会の定説になっています。実はそれを決定つけるためには、「宮山型」と全国に広く分布している「朝顔型」(器台の上のほうが朝顔の花のような形になっている)の間を結びつける「ミッシング・リング」が必要だったのですが、「都月型」の発見によってそれが決定付けられたのです。先日その発見の場所になった、都月古墳を探して岡山市岡山大学から少し西側にいったところこの山に登りまた。春雨降る中、桜の咲き始めた津島小学校の横の畑を登っていくと、たんぽぽや踊子草いつの間にか花を咲かしていて、春が来ていたのだと思わされます。なんと残念なことに、藪が邪魔をして後一歩のところでたどり着くことが出来ません。つまり、どんなに重要な遺跡であろうと、岡山の場合、これほどまでに遺跡は整備されていないのです。ただ、収穫はありました。 都月古墳の近くから見た津島の町並みと津島小学校の桜たどり着いたところで、振り返り、下を見下ろすと、津島小学校からずっと南へ日本で代表的な弥生遺跡である津島遺跡のある地域が広がっています。この山の尾根に自らの墓を作った古墳時代初期のこの地域の首長は、この三角形の地域が丸々彼の守備範囲だったのかもしれない。ここの首長はこの景色が好きだったのかもしれない。時代としては、箸墓古墳の次の世代です。おそらくまだ大和政権は独裁色を強めていなくて、日本はまだ緩やかな連合体だった頃です。《そのとき、約60年前、後世西日本といわれた地域で「全面戦争」を回避した英雄たちはすでに伝説の人となっていた。大和政権に受け継がれた吉備独特の特殊器台を使った祭祀はこの地域でさらに簡略化、そして儀式化されていき、それが大和にもつながれていっているようだった。器台は流行により、もう器台とはいえない寸胴の筒になってきていた。伝統ある器台製作者を擁する都月の首領は、それでもいいと思っていた》‥‥‥というような場面を想像していました。その後、他のところで古墳に至る道はまだほかにあることを知りました。また次の機会に何とかたどり着きたいと思います。
2007年03月28日
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近藤教授の「発掘50年」に三輪山の古墳のことが触れてあった。幾つか確かめたいことが出来たので、春日の先日、吉備の国の総社市の街中にある小高い山の上に登ってみた。ただ、単に登っただけだけど、以前には見えなかったことが見えてきた。事件刑事は「現場百回」という。考古学もそうなのかもしれない。ここに宮山墳墓群がある。築造は1700年前。これを最古級の(箸墓古墳と同時期)の前方後円墳と見るか、弥生晩期の墳丘墓と見るか、実は学会の中でもまだ意見が分かれているという。だから私自身は以下のような可能性があるとずっと思っていた。線で囲ったのが三輪山で、矢印先が宮山墳墓。この山には古墳がこれほどにもたくさん集中している。奈良桜井市の卑弥呼の墓と噂される箸墓古墳、その古墳を見下ろすように東側にお盆を伏せたような形のいい山がある。三輪山という。この山は古墳時代に先立って聖なる山として祭られていたという。しかし不思議なことにこの山には弥生墳丘墓が無い。(その代わり朱が出る)聖なる山といいながら、聖なる山に「昇格」したのは、実は、前方後円墳時代が始まるホノケ山、箸墓古墳と同時期なのではないか、と「くま説」として唱えていたものだ。そのとき、「三輪」の名前をどこから持ってきたのか。もう一方で、箸墓古墳からは吉備が起源の特殊器台、しかもこの宮山古墳と同時期の「宮山型」特殊器台が出土している。つまり箸墓古墳を作ったり、三輪山を神聖視した主体は、この総社市に住んでいた三輪山一族なのではないか。というのが私の説であった。(それを保障する大和政権東遷説は多くの考古学者が唱えてはいる)今回改めてこの山に登ってみてみると、一番重要な宮山墳墓は連なる小山の一角にあり、桜井市の三輪山とあまりにも形状が違う。いわゆるカムナビ山(聖なる山の形の典型)では無いのである。名前をここから持ってきたというのは根拠が薄いのではないか、という気がしてきた。「三輪山」はむしろ「宮山」から来たのであって、それは全国的に使われる「聖なる」場所の呼び名である。二つの山が同じような名前だというのは確立の高い偶然だったのかもしれない。窪んでいるのが墳墓の竪穴式石室のあと。板式の蓋だったらしい。しかしこの宮山墳墓は面白い。それはこの墳墓(前方後円墳?)の周りからずっと西側の尾根伝いにづらっと庶民の墓が並んでいるのである。階級差ははっきりとあった。しかし、支配者と庶民との間が非常に近かった。このような墓の作り方は日本ではあと長野ぐらいにしか例がないという。私はむしろ、韓国1~3世紀の竪穴式墳墓のことを思い出していた。この墓の埋葬者は三世紀の終わり、間違いなく日本列島の中の主役群像の一人だったろうに、今はほとんど誰も省みられることも無く、静かに眠っている。
2007年03月26日
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春闘決起集会で岡山後楽園東側の総合福祉会館から岡山駅前まで、長くないデモ行進を終えたあと、午後から県立図書館にこもった。本当ならもうすっかり春のぽかぽか天気の日曜日、街中散策などしたいところなのだが、借りていた本を返さなくてはいけなかったのだ。一回貸し出し延長をかけているものだから、かれこれ一ヶ月近く借りたままだ。すこぶる大著で、値段も高い。(7800円)今日読み通してしまわなかったら、今度いつ読めるかわからない。こんな本である。「発掘50年」河出書房新社 近藤義郎著買うなんて到底出来ないけど、岡山で遺跡を好きな人ならたまらなく面白くて、手元に置いておきたい本だと思う。氏が岡山で暮らしてきた50年の間にかかわってきた約80の古墳、遺跡の発掘経過を書いている。氏の経験が、そのまま吉備の国の戦後発掘史になり、またそれが、原始集落、土器製塩遺跡、弥生墳丘墓、たたら遺跡、前方後円墳の成立、古墳への発展へと、最先端考古学の概説にもなっている。そのような知的な興奮があるということがひとつ。もうひとつの魅力は読み物として優れているということ。月の輪古墳で住民一体となって発掘をしたということは昨日の記事で述べた。それは記録映画にもなり、賞も取ったらしいので、一度何とかしてビデオを探して見てあと1~2回記事にしたいと思っているが、その発掘の中心になったのが、若き日の近藤義郎岡山大学助手なのであった。氏の発掘は月の輪だけにとどまらない、本を読んでいくと程度の差こそあれ、ほとんどの発掘は住民や地域の学校の生徒を巻き込んでやっているということがわかる。感心するのは、一度きりに発掘に参加した女子学生を含めて、出来うる限りこの本の中で発掘参加者の名前を記入しているということである。その中には、今では考古学会の大家となった学者(春成秀爾、田中琢、都出比呂志、高橋護、藤田憲司等々)もいれば、岡山県下で気鋭の考古学者として活躍している人たち、あるいは私が吉備遺跡見学会でいつもお世話になっている出宮氏の若き日の名前も載っている。あるいは、高校生のときから発掘に参加し、大学生、社会人としだいと成長しながら発掘一筋に生きてきたような方の名前もサイドストーリーとして読み込むことが出来るような仕組みになっている。あるいは、考古関係者ではない、私の知人の名前もいくつも発見したりした。そんなのを見ると本当に「民衆とともに」(今様の言葉で言うと、「市民と一体になって」)発掘をし、それが古代の解明に大きな寄与をしてきたというのがこの本を読んでよく分かるのである。氏の業績を素人である私が紹介するのは危険なのだが、あえて言うと、日本列島製塩遺跡の解明、特殊器台の解明、埴輪の誕生の秘密、前方後円墳誕生の解明、大和の祭祀は吉備が起源であり、吉備の勢力が「東進」して始まったということ等である。一片の土を運ぶことがそういうことの解明につながったのだということがわかるすこぶる面白い本であった。古代に関心ある人にはお勧めです。
2007年03月04日
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思い立って、柵原町の月の輪古墳に上った。今、古墳の裾からメール発信。(よって後ほど詳しい記事を書くかも)月の輪古墳は320mもの山上に築かれた直径60mもの大型円墳。五世紀前築造。53年に住民たちが実行委員会をつくり、延べ一万人が参加して発掘したことでゆうめい。資料館のカギを開けてくれたおばさんも中学生のころ、参加したらしい。なんと今は近くまで林道が通っていて、簡単に登れるが、当時はのぼるには一時間はかかっただろう。葺石が古墳にはびっしり拭き詰められていたらしい。おもったより大きな石で古代一人一個が限度。それを手で確かめるだけで当時築造にどれだけの労働が必要たったか推測できる。発掘した中学生は実感したことだろう。写真は山上より吉井川を望む。
2007年03月03日
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しばらく書く記事が教育基本法一色になっていたので、ちょっとほかの記事を書きます。というか、そもそも私のブログのメインは映画評、書評、旅、そしてこの考古学なんです。きっと。岡山で三番目の環濠遺跡が発見された。それは大変だ、ということで岡山市埋蔵文化センターの発掘調査スライド上映会に行ってきました。なぜ大変か。一定の住居を水路や溝で取り囲む環濠というのは弥生時代特有の遺跡です。一般的に争乱に対する防御的な施設であるといわれています。ところで私は、弥生時代から古墳時代に移るときに日本大陸の指導者たちは、中国や朝鮮の大陸の人たちと違い、『戦争を起こさず平和的に連合国家を作った』という仮説を立てています。(連合国家説は多くの歴史家が言及しているが、戦争を起こさなかったと断じている歴史家はほとんどいない。)私はその指導者集団の中心に吉備の国があったと思っているのですが、その吉備の国から環濠遺跡が出てくると、私の説が覆されるかもしれないと思ったわけです。結果で言うと、『大丈夫』でした\(^o^)/この遺跡の場所は、岡山市国体町、南方遺跡です。済生会病院の建替え整備に伴う発掘でした。環濠はここで三重にわたって円心状に掘られていました。(発掘は一部分のみ)時代は弥生時代前期(約2400年前)です。弥生中期になるとこの溝は埋め立てられます。つまり西日本に倭国大乱がおきた卑弥呼の前の時代、この環濠は跡形もなかったというわけです。つまり、前に百間川遺跡の環濠について聞いたときと同じような遺跡だったわけです。直径は60m~100m。環濠の中にも外に住居があり、必ずしも防御施設かどうかははっきりしない。武器は出土しています。大きさは『動物も殺せるし、人も殺せる』という代物です。確かに人間は絶対に人を殺さない生き物ではありません。弥生時代前期には村と村のいさかいぐらいはあっただろうし、その時に人も死んだかもしれない。ただし未だに西日本つまり倭国統一過程で、大規模集団同士の争いがあったという証拠は出てきていないのです。私はかえって自分の説に自信を持ったものでした。その他、平安時代から続く鹿田の荘園の跡を示す大供本町遺跡、真っ赤な朱に染まった人骨が出土した南坂16号墳の説明などがありました。
2006年11月12日
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6月17日付け朝日新聞の「単眼複眼」で、「人はなぜ花を愛でるのか?」という難問をテーマにしたシンポジウム(国立京都国際会館)についての記事があった。人類学、考古学、動物学、造園学、美術史、昆虫学者が知恵を出し合ったが、結論は出なかったみたいだ。この記事の中にもあるが、すぐに思い出すのは、約6万年前のネアンデルタール人の墓の中からキク科などの花粉が大量に出たこと。多くの文学者はそのことに感動し、至る所で言及している。曰く。「人類は6万年前から死者をいたわる気持ちを持っていた。花を愛していた。」ところが、小山修三氏(考古学)はその思いに水を差す。「死者に花を供えていたと解釈する人もいれば、あとからたまたま流れ込んだという意見もある。今でも論争中だ。」なあんだ、がっかり……。フランスのラスコーやスペインのアルタミラなど古い洞窟壁画には、動物は描かれているが、花は描かれていないらしい。日本でも、縄文土器には花は描かれていなかったという。人類は自分が関心があるもの以外のものは愛さないのだろう。ただ、日本の場合は、実用的に利用された動物などは縄文時代から描かれるが、花を愛するようになるのは、飛鳥の万葉の時代まで待たないといけないのだろうか。最近の改良種はべつとして、梅や菊や萩、桜は人間のために綺麗に咲いているわけではない。もし花を愛するようになったのだとしたら、それは生活に余裕が出来た人間の、上手にいえば「進歩した心」、悪く言えば「上流階級の趣味」の問題なのだろうか。そうだとすると、人類数十万年の歴史の中で日本はたった1700年前から花を愛するようになったということになる。あまりにもさびしい。小林正典記者は(昆虫と同じように)「人間にとっては、思いを乗せて相手に運ぶことが出来る貴重なメディア(媒介物)だからこそ、花を愛おしいと感じるのかもしれない。」と結んでいる。しかしこれではやはり、奈良・平安の上流階級の「花を愛でる」理由だろう。故・佐原真(考古学)はどこかの本で「縄文・弥生時代は、花は空気と同じようにいつもそばにあるものだった。もしかしたら、身近に、環境的に花が無くなっていくのと平行して、文化の中に花が現れるのかもしれない。」といっている。私はこの説に賛成したい。人類は「花を愛する心」をネアンデルタール人のころから持っていた。でも人は花をなくして初めてその気持ちに気がつく。その価値に気がつく。花だけではない。文明が始まって、いや、ひとりの人生の中でも、人は多くのものを失ってきた。無くなりかけているものは限りなく美しいく、愛おしい。安倍降しキャンペーンに参加中
2006年06月17日
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昨晩、私の考古学仲間花嵐氏より「平家蟹さんが来た」というお知らせを頂いた。今朝いそいそと会いに出かけた。「平家蟹」といっても、怪人カニ男みたいなのを想像してもらっては困る。詳しくは花嵐氏の記事「考古学界の山頭火、平家蟹さん岡山へ来る」を参考にしてもらいたい。この記事は相当古いですが、今日聞いたら「(現在は)全国の古墳見て歩いて約20年」だそうです。HPは「古墳のお部屋」。ちょっと中の方に入っていくと、その古墳データと写真の多さには、びっくりする。去年12月の私の「九州平和と遺跡を訪ねる旅」は元をただせば、平家蟹さんの遺跡訪問をお手本にしたわけです。(ああ、早く続きを書かなくっちゃ)午前中は花嵐氏と平家蟹氏とKUMAとML仲間の方と歓談をして、午後は平家蟹氏の案内で、岡山市郊外の東にある操山古墳群を案内してもらった。やはり自分ひとりで行くのとは全然違いますね。二股古墳といって石室がズボンみたいに二つに分かれている古墳があるのですが、「こんな古墳は全国に例がない」と聞いて、全国をくまなく実際に見てきた人の意見だけに、急にこの古墳の位置がピット上がったりしました。ガイドブックにないけど、石室がしっかりしている古墳をたくさん見させてもらったのですが、一番気に入ったのはこの「柿の木古墳」です。現在柿木は枝の先端にことごとく若葉が芽生え始めた頃です。なんとも風情がある。柿ノ木の花は目立たないそうだけど、ぜひ満開になった頃もう一回来てみたい。今日の平家蟹さんのお目当てはこの古墳だそうです。沢田山51号墳。竹やぶの中にありました。ほとんど人の目には触れない古墳ですが、中に入ると、羨道の狭さのわりには玄室は非常に広く高くて、「いやーすごいすごい」とはしゃいでしまいました。今日は久しぶりに気持ちのいい汗をかいて刺激を貰いました。平家蟹さんも、お体には気をつけてくださいね。ありがとうございました。
2006年04月16日
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先週の土曜日、春を探しに久しぶりに吉備路を歩いてみた。備中国分寺まえの駐車場に止めて、アスベスト処理のために閉館していた吉備路郷土館がリニューアルオープンしたというので先ず訪ねてみる。本当にアスベスト処理「しか」していなかった。つくづく岡山の考古施設は貧弱なものばかりだ。千足古墳の直弧文の石障のレプリカ、3000年前の福田貝塚のもみ痕、特殊器台等々きちんと展示すれば凄いものばかりなのに、パネルが全然変わっていないし、ジオラマも作らないし、ビデオ施設なんて無いし。県はどうして予算をたてないのか。というようなことを(来て素晴らしかったというようなことばかり書かれてある)訪問ノートにぶつぶつ書いて、細い路地の田舎道を歩いた。畑には思い出したように菜の花が咲き、ホトケノザは紫のじゅうたんを作り、池の鴨の子は道端で日光浴をしていた。コブシが太陽を吸って輝いている。ところで、↑これはコブシですよね。私、いまだに白木蓮とコブシの見分け方がわかりません。花が小さいほうがコブシだとは聞いているのですが、私の知っている木蓮より花が小さいように思うのですが。ほかに見分け方はないのだろうか。江崎古墳にいってみる。6C後半、この吉備最後の首長の墓だろうといわれている。実に立派な石棺が残っている。古墳に上ってみると、国分寺の周りの村が一望できる。この景色が、実際の古墳を訪ねるときの醍醐味だ。ついでに作山古墳も運動がてらいってみた。全国第9位の大きさの古墳である。側は何度も何度も通ったのだけど、上に登ったことはない。登ってみるとさすがに高い。総社市の西側はほぼ一望できる。その西側に三輪山古墳群がある。(この山の上には小さいが日本最古級の前方後円墳がある)私はひそかに奈良の三輪山の名前はこの山を模倣したのだと思っている。箸墓古墳が卑弥呼の墓かどうかはわからないが、奈良の三輪山の麓で、大和朝廷に先立つ弥生時代のクニが育っていた。それはつまりその国の人たちがふるさとの山を大事に思っていたということなのだろう。
2006年04月03日
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