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「手書き地図のつくり方」手書き地図推進委員会編著 学芸出版社私の旅のスタイルは、ともかく歩き尽くす、というやつだ。特にちょっとした横道にある地元の人しか知らない、アレコレに出逢うと嬉しくなる。だから、観光センターや駅構内、お店に手書き地図が置いてあると必ずもらうことにしている。そこには、観光雑誌に載っていないディープな情報が満載だからである。この本は、全国の手書き地図を紹介するという面もある。が、メインは、役所や商店街が住民を巻き込んで一つの地図を作るプロジェクト、そのノウハウをまとめたものである。ひとりで作る手書き地図も、もちろんある。埼玉県ときがわ町の「食品具(ショッピング)マップ」などはその雄かもしれない。現在年間10万部が刷られているらしい。私がこの本を手に取ったのは、もしかして趣味でそういうのを作れるかもしれないかな、と思ったからだ。でも、プロジェクトで作ると少なくとも3つの良いことがある。(1)町の魅力起こし。(2)参加者が「娯楽」として参加してくれる。(3)地元住民がヒーローになる。私の住む街には本格的なロケ地マップは無いので、参加している映画サークルでそれを作ったらいろいろ面白いかもしれないなと思い始めた。まぁ未だ夢想ですが。もちろん、手書き地図には弱点もある。沖縄の八重瀬町具志頭村の港川原人の骨が出土した港川フィッシャー遺跡を目指した時に、役所が作った観光パンフに簡単な手書き地図があって、それを目当てに歩いたのであるが、往復30分で済むかと思いきや、実際は1時間以上かかるコースで、しかも迷ったので、実際は2時間近くかかってしまった。でもお陰でちょっとした僥倖もあったのだが、それはさておき、こういう地図では、自分の位置関係がはっきりしないのは、なかなか悩ましいところである(もちろんスマホアプリで自分の位置はわかるのだが、それが手書き地図の何処かよくわからないのである)。「沼津街歩きマップ」では、位置情報を付加して、スマホで見られるらしいけど、そんな仕組みはなかなかできるものではない。遺跡めぐりをすると、アルアルなのだが、住民は自分の家の20メートル先に遺跡があっても、時には裏側にあっても知らないことが多い。観光地でない遺跡は、日本でも韓国でもずっとそうだった(単なる場所でしかない弥生遺跡などはその最たるものだ)。だからこそ、こういう手書き地図は必要だし、そういう手書き地図を書いてみたい郷土の場所が数カ所私にもある。
2019年11月27日
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「沖縄県謎解き散歩」下川裕治 仲村清司 新人物往来社 この前沖縄旅行をして以来、ミニ沖縄ブームになっている私は、沖縄を知る入門書の位置づけで紐解いた。沖縄の人口・雇用動態、歴史、宗教・民俗、飲食、地理・自然・生物、生活・文化を一通り紹介している。一つ一つの掘り下げは少ないけれども、少しは沖縄のことを知っていたつもりの私が知らないことがあまりにも多くて、やはり読んで良かったと思った。下川裕治氏は著名なアジア旅のライター、仲村清司氏はこの前読んだ「沖縄の人だけが食べている」を著していた沖縄在住のライターである。以下、覚書的に新たに知ったことの一部をメモする。 ・長寿県沖縄は過去。男は2000年に25位、77.64歳まで下がった。米国式食生活が影響か。←女性は未だ2位ぐらい。男の自堕落な生活が目に浮かぶ。 ・沖縄方言(琉球語)は、古墳時代の日本語の祖語から分かれて琉球諸島に入ってきたのが定説。今でも肉を「シシ」、魚を「イユ」、種を「サニ」、子どもを「ワラビ」という。 ・「琉球」は朝貢時代の中国語、琉球処分で日本古来の言い方である「沖縄」を充てた(新井白石『南嶋誌』)。 ・琉球にも元寇があった。東アジアの交差点だから当然。1291年、1297年軍隊を送ったが失敗(『元史』)。詳しくは不明。←小説に使えるぞ!誰か書かないか? ・那覇市久米村には、中国テクノラートのチャイナタウンがあった。←この前歩いた。孔子廟があった。 ・琉球王国では、王は神と交信できる聞得大君によって即位を許され、国家の安寧・鎮護も彼女の霊力で保たれるという解釈をした(神聖国家)。←ほとんど邪馬台国の構造。 ・米兵の無法な暴行はペリー来航の時から始まった(恩納村米兵発砲事件、ウィリアム・ボード事件)。 ・沖縄の名字の9割は地名に由来している。名字が読みにくいのは、地名だからだ。←那覇から糸満までバスで行く途中だけでも、「翁長」とか「高良」とか「阿波根」とか沖縄特有の人の名前が地名になっているのを発見した。 ・ユタ(民間にあり霊的な判断を下す人)は、一説によると3000人から1万人いるという。沖縄人口は140万人だから多い。職業にしていない人も多い。ただし、サーダカ(霊力が高い人)と呼ばれる。沖縄では65%の人がユタを信じると答えているデータがある。仏教が根付いていなくて、祖霊神やアミニズムを肯定し、生者と死者の間がボーダレスな社会でもある。←「精霊の守り人」の世界観に似ている。上野菜穂子が学生の頃フィールドワークした地域だからか。 ・沖縄料理に昆布(クーブ)は欠かせない(沖縄そばの出汁も昆布とカツオ、豚骨である)。しかし、昆布は北海道産で沖縄では採れない。18世紀、薩摩藩は昆布を必要としている中国と密貿易するために二重朝貢をしている琉球を利用したのだ。沖縄は数年前まで昆布消費量日本一を誇っていた。←北方謙三「楊令伝」によれば、昆布は中国の脚気治療に効いたらしい。薬並の貴重品だったのだ。 ・タコライスは1984年、金武(きん)町の「パーラー千里」で、メキシコのタコスのトルティーヤをご飯にかえて発祥した。米軍基地キャンプハンセンのゲート近くにあるお店が円高を背景に、米兵でも安く満腹になるようにというコンセプトのもとに作られた。よってその姉妹店「キングタコス」では常に大盛りのタコライスが食べれる。←こんな最近の発明だったのだ!私は「ステーキ88」で850円、普通盛が確かに大盛りだった。美味しかった。 ・先の「沖縄の人だけー」で、私は間違えた。「スパム」は、「ポークランチョンミート」という食品名のメーカー名だと思っていた。実はどちらもメーカー名だった。沖縄の人たちはこれらを「ポーク」と呼んでいる。豚肉のことでは無い。添加物と脂身が多く、健康的ではないのだが、沖縄料理と相性がよくて広く使われているらしい。「スパム」は、米兵が「うまいぞ」と勧めたが英兵が「こんなまずいもの」ということから転じて迷惑メールの意味になったらしい。←この前「カルディ」に置いてあるのを発見した。 ・沖縄の台風で、学校や会社が休みになる基準はバスの運行が取りやめになったとき。
2019年11月26日
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「沖縄の人だけが食べている」仲村清司 夏目書房 沖縄の古本祭りでゲットした。残りの日程あと2日、読了出来ず。斜め読みをして、どうにかこうにかゲットできたのが「ポーク玉子おにぎり」である。普通に置いてあるコンビニおにぎりなのだが、なんと沖縄しか無いという。2003年発行のこの本ではローソンで180円となっていたが、私はセブンイレブンで220円だった。表紙の、上から3番目の写真がそれである。この形状と具の組み合わせもなかなか本土にはないが、1番の特徴はポークが豚の精肉ではなく「ポークランチョンミート」だということだ。SPAMというメーカーが最も有名な缶詰肉である。その薄切り肉と卵焼きに薄くケチャップを塗ってご飯でサンドして海苔を巻いている。ホテルのゴーヤチャンプルーの肉はたいていコレだった。輸入缶詰だが、消費は沖縄県が9割だという。元は豚のくず肉をコンビーフ状に固めたものらしく、占領時代に安く肉を使うためにこれが沖縄県内に普及したらしい。食べてみると、普通に美味しく、オカズとご飯を一杯を食べた満足感がある。 沖縄にしかない食べ物は、実はものすごくあると思う。ここで展開されている「島豆腐」「焼きテビチ」「中味汁」「沖縄そば」「古酒」「島ラッキョ」「島ニンジン」等の有名なものだけでなく(この辺りは沖縄旅行をすれば自然と食べることができる)、「スクガラス」「ムーチー」「インガンダルマ」「きっぱん」「マース煮(表紙の1番上にある写真)」「大東寿司」等のマイナーなやつ、聞いた限りでは本土にもあるが実は沖縄独特の「天ぷら」「餃子」「ヨモギ」「味噌」等々と紹介して、文章もなかなか読ませてくれて楽しい。 しかも、那覇市を中心にして何処で手に入れられるか、値段はいくらか、書いてくれていてとても親切だ。食べれるお店を何軒も梯子をする必要があるが、数日で制覇できる可能性がある。 やはりこういう本は、沖縄旅行に行く前に読む本である。次回行く時には、何何を制覇するのか、計画をたてて行こうと思う。
2019年11月19日
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「王都首里見て歩き 御城と全19町ガイド&マップ」古都首里探訪会編・著 新星出版 沖縄に行ってきた。2日目に那覇バスセンター3階の古本祭りで買い求めた本。3日目、荷物になるので、この本の一部をスマホに写真を撮って3時から5時過ぎまで首里城周辺を歩いた。失敗した。マップが親切ではないのと、昔ながらの道で道路が入り組んでいて、行きたかったところの2割も行けなかった。そもそも、この本に載っている300以上はあると思われる首里時代ゆかりの遺跡や土地を、観光で踏破するのは無理なのだ。少なくとも1/3ぐらい見つけようとしたならば、おそらく丸2日はかかるだろう。 復元された首里城が灰塵に化した。行っても、高い壁沿いにその僅かな痕跡をスマホで撮るぐらいしかできなかった。でも行ってみて初めてわかることがある。世界遺産たる首里城の価値は、上の復元お城だけではない。世界遺産に指定されているのは燃えていない王陵やお城の地下構造なのだ。地下構造や当時の城下町の様子を知るためには、恐ろしいほどよく残っている首里城周辺の町を歩いてみると、良くわかる。ということを、ほんの少し歩いただけなのだが良くわかった。 金城町には、沖縄戦の戦禍をしのいで樹齢300年を越す大アカギの大木群があった。その幾つかを神様のように祀っている姿。坂道を石畳にして軍事道路をつくっている。至る所にある井戸は貴重な水源をみんなで分け合う庶民の集いの場で、現在も使えるような綺麗な水が湧いている。至る所に御嶽(うたき)があって、庶民の信仰もまだ守られている気がする。 次回は、この本一冊だけを持って、迷いながら一日中適当に歩けば、きっと様々な発見がついてくるに違いないと思う。
2019年11月19日
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「沖縄県平和祈念資料館総合案内」 何度も来た祈念資料館ではあるが、総合案内図録を初めて買った。 子供やおばあが道端で亡くなっている写真等、いくつか不足しているところもあるが、あの膨大な展示資料を一通りまとめていて、有用な図録だと思う。 以降、沖縄県の戦争に至る歴史、沖縄戦の実態、その後の2000年までの沖縄の歩みを辿る時、教科書的な本になると思う。 沖縄戦があまりにも苛烈だったために、残っているものはほとんどなく、人の「証言」が、大きなパートとして「展示」されていたのが、この資料館の大きな特徴だと私は思ってきた。それは今回見ても変わらないのだけど、それだけではない。ということもわかってきた。特に、殆どの本文を英語併記で書いていることが注目される。米兵に是非この沖縄のことを知ってもらいたいという著作者たちの真摯な想いを感じた。だから戦後の沖縄についてもかなりの分量をかけて解説している。戦後のページが本書の1/3以上を占める。復帰運動、米兵の事故・犯罪も載っていた。正しいと思う。
2019年11月17日
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「ぬじゅん第12号」『まぶいぐみ』実行委員会編 『時の眼−沖縄 批評誌N27』編集室 沖縄で買った本を何冊かシリーズで紹介します。沖縄県平和祈念資料館でゲットしました。『DAYSJAPAN』が惨めな撤退をした後、こういう写真雑誌は貴重です。全面原則1ページ1写真、キャンプションはほとんどなく撮影日のみ、24ページ立て。年6回発行だそうな(やっていけるのかな)。それでも、十分訴えるものはある。わかりすぎるほどだ。「ぬじゅん」は沖縄語で「抜く、撮る」ことらしい。資料館に置いている最新がこれだった。 今回は表紙にあるように、安倍首相は沖縄県知事選挙のあと、昨年10月県知事を迎えて対話すると約束した口の根も乾かぬうちに「12月14日、辺野古土砂投入を強行!」した。この頃は未だドローンを撮影に使えたらしい。辺野古のサンゴ礁の海がみるみるうちに土砂の色に染まっているのを見事に捉えた写真。 土砂投入の写真、カヌー隊で反対に乗り出す写真、「土砂投入阻止 海を殺すな」と立て看板持って抗議するおばあたち、機動隊と対峙する写真、写真、写真。一気に怒りが溢れている。 写真報道誌、頑張ってもらいたい。
2019年11月16日
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「なるほどデザイン 目で見て楽しむデザインの本」筒井美希 MdNコーポレーション 全体的には雑誌編集に役立つようなデザインの基礎が「目で見て分かる」ように書かれた良書だと思う。私は別の思惑で本書を手に取ったので、その点に絞って感想を述べる。 20年以上、月1回ある団体のミニ新聞(A4)をボランティアで作っている。ワードで作っているので、あんまり凝った事は出来ないが、それでも一回の作業時間3-5時間のうち、半分以上は「割り付け」「レタリング」に費やされるのである。10年ひと昔、ならぬ20年ほとんど進歩がない私の新聞の少しは改善点があるのではないか?と思って紐解いた。 割り付けについて ⚫︎どんな構成かは「どんな人に」「何を」「なぜ」「いつ・どこで提供するか」で決まる。←当たり前のことだけど、大事。時にはそれを思い起こして作っていこうと思う。←ここまで書いてふと気がついたけど、20年の間に「人」と「いつ・どこ」は大きく変化している。20年ひと昔のように同じ新聞を作ってはいけない、ということに今更ながら気がついた。 ⚫︎誌面構成の解説は、わかりやすいカラー例示と共に整理されていて、本格的にきちんと頭に入れば割り付けに応用が効くのかもしれない。 レタリングについては ⚫︎書体を声音に例えて擬人化してみる 体育会系 ヒラギノ角オールドW9 かわいい子ども 筑紫A丸ゴシック しっとりした女性 筑紫明朝体 おばあちゃん リュウミン+遊筑36ポ仮名 明快なビジネスマン ゴシック体M →ただし、こんな細かい字体は持っていない ⚫︎やはり書体や大きさ、時には字間も「煩雑に」変えよ、と解説している。時間がかかるんだけどなあ。 ⚫︎タイトル・リード以外にキーワードがある。方法は、数字をつける、アイコンや記号、“”、【】、フリガナや英語訳を添える等々。 ⚫︎写真には「感じる写真」と「読む写真」がある。 うーむ、作る時間が増える事はあっても、時短にはなりそうにないなぁ。雑誌編集はいつもこんなことを考えてるのか!時間がいくらあっても足りないじゃないか!
2019年11月13日
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「通販生活2019年冬号」 「通販生活」は年間購読している。マスメディアが次々と忖度メディアと化し、雑誌メディアは売らんかなのセンセーショナルメディアと化している中で、今や数少ない硬派メディアになった「雑誌」として読んでいる。「通販生活」が変貌したわけではなく、世の中が変わったのである。 でも、前号のように紹介する気が起きない記事を書く場合もある。それもこれも、あらゆるモノに忖度しないこのメディアの姿勢だと思えば気持ちいい。 実は今回のラインナップは、恐ろしいほどに参考になる記事が多かった。表紙からして、「戦後最悪の日韓関係」に真っ向から逆らうモノだ。記事の内容だけでなく、通販商品のトップに「韓国の便利生活雑貨」を特集した。なかなかである(←買えないけど)。 他には「憲法改正国民投票テレビCM規制について」「どうしていつまでたっても全国の仮設住宅はなくならないのだろう(木野龍逸)」「通販生活×あすのば 春入学準備金カンパのお知らせと受取者の取材記事」「百歳現役」「舞台裏座談会マジシャン 詐欺とマジックの手法は同じ。騙されていいのはマジックだけ」「介護を考える」「人生の失敗 明石市長泉房穂」「おすすめ本」等々全部紹介したいのだけど、キリがないので題名だけ載せます。 あ、15回にわたって『グーグーだって猫である(大島弓子)』を全て転載していた連載が終わった。私は永遠に続くのかと思っていたら、2011年3月11日の描写があったと思ったら、その1ヶ月後にグーグーが15歳8ヶ月の生涯を閉じて終わらせてしまった。全ての物語には終わりがある。大島弓子は、今もたくさんの猫たちと一緒に暮らしていると「確信」は出来るが、もう名人的な猫のマンガは描かないのだろうか、と思って検索すると『キャットニップ』というエッセイマンガの第3巻目が11月に出るらしい。どうやら全ての猫たちの看取りを描いているらしい。ちょっと心配である。
2019年11月12日
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「ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」池内紀 中公新書 池内紀の遺作である。ドイツ文学者として多くの訳本を書いていた時に常に「背後に1人の人物がいた」という。それがヒトラーだ。「だが、その男に歓呼して手を振り、熱狂的に迎え、いそいそと権力の座に押し上げた国民がいた。私がさまざまなことを学んだドイツの人々である」。だから池内紀は「自分の能力の有効期限」のうちにこの本を3年かけて書き上げたという。そして亡くなる3か月前に、この明晰な「あとがき」を書いた。新書ながらも淡々と事実を選び、文学者の視点で当時の社会状況が目に浮かぶように書いて完成させた。もともと不勉強な時代だったのでもあるが、私が学んだことはあまりにも膨大だ。その幾つかをメモする。以下は、私の覚書なので無視してくださっても結構です。(←)の中は、私の主観による感想である。ちなみに、池内紀は日本については一言の「ひ」も言及していない事を言い添えておく。 ⚫︎1900年から1913年、画家志望のヒトラー青年がリンツとウィーンにいた間の詳しいことはほとんど知られていない。その間ヒトラー青年が交遊・庇護を受けた大半が、その名前からして明らかにユダヤ人だったからである。ウイーンにいた極貧の5年間をヒトラーは「最も悲惨な歳月」であり「世界観の基礎と政治の見方」を学んだと書いた。どうやらとりわけ憎悪の仕方を学んだようである。 ⚫︎ヒトラーは、演説一本で突然注目された(←現代で言えば突然YouTuberになるようなものだろうか)。1920年党名をナチス(国民社会主義労働者党)に改称。2月24日、ヒトラーの演説日をナチ党大会記念日とした。ヒトラーが大衆に働きかける方法を自覚した日だったからである。 1.簡潔に断定して細かい議論はしない。(←「もし妻が関与していたら辞任する」と言って細かい議論を拒否した一国の責任者がいる。この方は「責任は私にある」を49回も繰り返しているが、一回も責任を取ったことがない) 2.単純化したロジックを用いて、相反する2つをあげ、二者選択を迫る。 3.手を変え品を変えて繰り返す。 ⚫︎派手なポスター、飛行機からパンフをまく、有力者に演説レコードを送りつけ、トーキー映画をつくる。宣伝用キャッチフレーズに特有の文体を使う。簡潔で、文学的レトリックを備え、党首のカリスマ性を掻き立てる。 ⚫︎絶望に瀕していた中流市民層と理想主義的な若い世代を捉え、保守派にも花を持たせた。そして、最初権力層はヒトラーを過小評価していた。せいぜい「共産主義の防波堤」として「利用できる人物」だった。1930年、ナチス第二党に躍進。1932年第一党。(←この過程は、あまりにも維新の党、N国党の躍進と酷似しているし、自民党の選挙戦略とも酷似している) ⚫︎1932年1月ヒトラー首相の内閣は、最初はナチスは2人のみ。ユダヤ人を目の敵にして、過激なことをうたい、政治を祝祭のように儀式化して、事あるごとに派手なデモストレーションを打って出るナチスに対してドイツブルジョワ・知識人層は大方は「呆然たる思い」だったが、「仕方ない」とした。ずっと内閣は半年しか持たず、混乱を鎮めるための差し当たり汚れ役を期待していたからだ。ヒトラーは直ぐに「ドイツ国民保護のための大統領令」を発令。最初はそっと踏み出し、「良識ある」閣僚は誰1人異議を唱えなかった。同年2月27日国会議事堂炎上、翌日「大統領緊急令」(もちろん本質は簡単にわからないように糊塗はしていた)発令、ワイマール憲法で認められていた言論の自由、報道の自由、郵便及び電話の秘密、集会及び結社の自由、私有財産の不可侵性などが一時的に停止。(←「翌日」というのが凄い。そして当然「一時的」ではなかった)翌月、最初で最後の総選挙、ナチスは全議席647のうち288、社民党120、共産党81、中央党74、国家国民党52、その他1だった。直後、ヒトラーは共産党の国会議員無効を宣言、結果ナチスが単独過半数になった。(←ナチスはバカだと思っていた知識人は、その用意周到、手段を選ばないやり口に完全に遅れを取った。今でも某国首相をアホという知識人は多いが、組織としての自民党はいつも戦略的に勝利している。この時ドイツ国民が大統領令の危険性を自覚して選挙で勝たせなかったら、とは思う。しかし、安保法や共謀罪法が成立した後に、選挙でその政党を第1党に祭り上げたのは果たして何処の国の国民だろうか) ⚫︎ナチズムの15年間、最初の戦時体制に突入するまでは、普通の市民にとっては「明るい時代」だった。ワイマール末期に600万台まで数えた失業者は、100万台まで減少した(政権奪取後に車産業にテコ入れ、雇用十数万人を創出失業者を減らした)。ドイツ国民は、一党独裁という極端な形であれ、手の施しようのない分裂状態よりはマシ。少し我慢すれば、自分たちの利益は確保できると希望を見出していた。1934年「長いナイフの夜」事件でSA隊長以下77名を粛正、腐敗に対する断固とした態度を示した。タバコの肺ガン物質の発見の後がん撲滅キャンペーンの世界的な最初、ヒトラー自ら禁煙を説く、「健康国家」の提唱。(←現代の不倫への極端なパッシング等々似た所がある気がしている) ⚫︎当時未だ数十万人しか試聴していなかったラジオは、33年発売して普通価格の1/8、一気に数百万人になった。「ドイツ国民に告ぐ」と始めて、政局の折々に、荘重な音楽が流れヒトラーお得意の弁舌が流れる。ヨーロッパは英米と違い、「部族の太鼓」たる人間の内面への働きに慣れていなかった。ラジオ聞き入り恍惚としたのである。ユダヤ人を槍玉に上げる際に、インフレでマルクの価値が1兆円分の1に下落した国民に向けて、インフレ的に演説した。「最初のユダヤ人」を邪悪な敵として攻撃する。続いて国内のユダヤ人、占領地域のユダヤ人、最後には100万単位で絶滅させるべき「社会の害悪」として攻撃した。(←嫌韓は作られている。日本国民は気がついて欲しい。反対に嫌中は巧妙にトーンダウンした) ⚫︎33年ゲタシュポ(秘密警察)は200-300人、40年には1100人になった。共産党員を「半ナチ陰謀」をでっち上げ、逮捕・勾留・拷問を繰り返した。どれだけが逮捕・拷問されたかは不明だが、Mの姓だけでも45年までに3万4591人が検束され、辛うじて生き延びても強制収容所へ護送された大半が殺された。 ⚫︎独裁制の完成は32-33年の2年以内で急速に巧妙に完全に行われた。(←まるで十数年このために準備した知識人かいたの如くだ。現代日本ならば30年かけてやってきて、あと少なくとも10年は必要な法律ばかり。世界初だったからか) ⚫︎ナチスの膨張時代、33年までの10年間、実は国家人民党、中央党、社会民主党の得票率に変化はない。ナチスは浮動票を攫ったのだ。ドイツ経済の破綻と社会不安、ヒトラーは仮想敵を名指しして、繰り返し、浮動票取り込んだ(←現代日本とよく似ている)。政権奪取後、1年で全ての党を解党に追い込んだ。小都市では、時流に敏感な小市民は小狡く小さな権力者にすり寄っていった。(←結局、社会の空気と絶妙な時代のタイミングがナチスを躍進させた。10年前の日本でも社会の空気と閉塞感は十二分にあっただろう) ⚫︎亡命ハンドブック『フィロ・アトラス』が38年12月に出た。(←このひとつひとつを追っていけば、映画が出来る) ⚫︎大不況の最中に首相になったヒトラーは翌日に「我々に四ケ年の猶予を与えよ、しかるのち批判し審判せよ」と大見得を切った。誰もがいつもの大ボラと思った。フォルクスワーゲン構想、自動車専用道路計画、その他で4年後失業者は1/6の100万人に減っていた。この最初の5年間を「平穏の時代」という。36年にオリンピックがあり、独裁制の国際批判を明るいイメージに修正させた。35年住民投票でザール地方がドイツに復帰、ヴェルサイユ条約破棄、再軍備、38年オーストリアを併合、チェコのズデーテン併合。(←この政局の節々で国民投票をやっている。だからナチスは民主的な政権だと自己主張していた。政局の節々で総選挙をやった某国と良く似ている) ⚫︎作家のケストナーは「雪の玉が小さいうちに踏み潰さなくてはならない。雪崩になってからでは、もう遅すぎる」と言った。
2019年11月06日
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「図書2019年11月号」 表紙は司修氏の『都市型原子力戦艦』。左右に地球と月が浮かんでいるのを見ると、宇宙を征くクジラのように見える。ところが、この絵の背景を読むとびっくり。奄美大島の隣の大きな無人島・枝手久島に核燃料再処理工場建設とか原子力船「むつ」の受け入れ話が以前にあり、それを巡って起きた事件などもあったらしい。司修さんは少し調べた後、夢の中で出てきた「無人島がそのまま巨大な戦艦となって浮遊している姿」を描いたのだという。ウィキで枝手久島を調べると、石油備蓄基地構想があったとしか書いていない。けれども、司修さん自身が奄美大島の居酒屋で土地の人に聞くと「もう昔のことだが、あそこは無人島だからな、いざと言う時は島ごとコンクリートで固めたらなんとかなるんじゃないか」と言っていたらしいから、かなり信憑性があるだろう。そうやって見ると、まるで悪夢のような絵だ。 私は「図書」を年間購読している。が、どうやらあわせ買いで、個別でも買えるようだ(102円)。※(あわせ買い対象商品は、Amazonギフト券を除くAmazon.co.jp が発送する商品と組み合わせて、合計額が2,000円(税込)以上の場合にご購入いただけます。) 今回の「図書」は豊作だった。雑誌というのは、1/3ぐらい読む記事が有れば充分だと思うのだが、今回はナント!11/17もあったのだ。全部紹介したいのだが、その余裕も力量もない。本屋で手に入れることの出来ない方は、是非「あわせ買い」で手に入れて欲しい。例えば、読売新聞記者の川村律文さんが岩波文庫的『月の満ち欠け』について、私の書評で抜けていた“岩波文庫的"の仕掛けの数々を解説していただけでなく、その裏話、或いは佐藤正午さんの作家としての本質を書いていた。 その他、その他、いろいろ書きたいのだけど、ここまで。因みに「良いな」と思ったのは、上記記事の他に以下のもの。 「三島先生、最後の歌舞伎 坂東玉三郎」「三宅島でトマトを育てる。ドリアン助川」「思い出 麗子のあれこれ 岸田夏子」「人類文明の品格と寿命 家 正則」「俺の人生を聞きにきたのか 赤坂憲雄」「ライオン・総社・高校生 さだまさし」「明治の空気 長谷川櫂」「験す神 三浦佑之」「五色譜と「お座なりズム」山室信一」
2019年11月04日
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「キリン解剖記」郡司芽久 ナツメ社キリン研究を志した郡司芽久さん(女性・当時23歳)は、論文のテーマが決まらなかった時、先輩にこのように言われた。「凡人が普通に考えて普通に思いつくようなことって、きっと誰かがもう既にやっていることだと思うんだよね。もしやられていなかったとしても、大して面白くないことか、証明不可能なことか。本当に面白い研究テーマって、凡人の俺らが、考えて考えて、それこそノイローゼになるぐらい考え抜いた後、更にその一歩先にあるんじゃないかな」(99p)まぁ、世の中の偉大な発見は「証明不可能」なことを証明してみせたり、「偶然」に見つかることが多いかもしれないけど、その辺りは「天才」に任せて、確かに凡人の私たちにはこんな処に落ち着くんだと思う。その辺りを素人の私も「楽しく」読めるように丁寧に書いている。「難しい事を分かりやすく面白く描く」これって、一つの才能だろう。で、偶然にも若いのにキリンを20体以上動物園から献体してもらいキリン研究をこころざして約7年間で「キリンの胸椎は、胸椎だけど、動くんじゃないだろうか?」という研究論文を書く(当時26歳)。200万年以上前から哺乳類は人間含めてみんな7つの頸椎しか持っていない(マナティとナマケモノは例外)のだけど、キリンは8番目の"首の骨"を持っているのではないか?ということを20代で見つけたわけだ。偶然にも多数解剖できた彼女は基本的にラッキーな所もあったとは思うが、半分以上は情熱とキリンへの愛情が論文を書かせたのだろう(現在30歳)。それだけである。「偉大な発見」じゃない。哺乳類の進化の鍵を見つけたというわけでも無い(と思う)。でも、進化の秘密を少しかすった(とは思う)。キリンは生き残るために、そうやって身体機能を少し変えたのだ。科学の世界が面白いのは、評価された研究ならば、まるで自分の研究成果のように「知識」として、他の研究成果を著作権料を払わずにこういう本で披露できることだ(コラムとして、他の研究成果がたくさん紹介されている)。だから、数年後に郡司さんの研究が大きな謎解明に役立つかもしれない。郡司さんは、「世界で1番キリンを解剖している人間」だと自分を紹介している。「解剖すればするほど、その動物のことを好きになっていく」と言っている。人間ならばホラーだけど、動物ならばあり得るかなと思う(でも、考えたらちょっと怖い)。「今は亡きキリンたちの「第二の生涯」ともいえる死後の物語を読んで欲しい」と著者は思ってこれを書いたという。そういう愛情の表現の仕方もあるのだ。(成る程と思ったキリン知識の一つ)※中国ではキリンのことを「長頸鹿」と呼び、麒麟とは呼ばない。呼んだのはただ一度、明の時代、鄭和がアフリカからキリンを持ち帰り、永楽帝に「これが(あの伝説の)麒麟です」と奏上したらしい。その記録を読んだ『解体新書』の桂川甫周が「洋書のジラフと、この麒麟は同一だろう」と推察した。だから、日本ではキリンのことを麒麟と書くのである。因みに、インドに生息していた絶滅したキリンの仲間、ジラファ・シヴァレンスは長頸ではなく、伝説霊獣の麒麟によく似ているそうだ。むしろヘラジカのような姿をしている(鹿ではない)。なるほど、麒麟伝説は何処から来たのか、少し興味がある。
2019年11月01日
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「縄文人になる!縄文式生活技術教本」関根秀樹 ヤマケイ文庫 なかなか貴重な本です。古代技術を解説した本はいくつかあるけど、専門用語で書かれた専門書が出ているだけで、その本を持って森で実践しようという気にはならない。これは、実践するための教本です。しかも、教師は縄文さんこと、15年間竪穴式住居を構えて実践してきた山崎三四造(現在は故人)さんです。 私の興味関心は弥生時代なのだけど、非常に参考になった。弥生も縄文もやっていることは、そんなに変わらないからです。鉄器があるか無いか、稲作とその消費のための土器や木工品を作るかどうか、人を殺すためのヤジリを作るかどうか、そして祭祀の違い、おそらくそれぐらいです。山崎さんは火を起こし、黒曜石からナイフを作り、様々な石器を作り、翡翠に穴を開け、琴をつくり、笛を吹き、イチイの木を使って弓をつくり、キジやヤマドリなどの矢羽を使ったヤジリをつくり、骨から釣り針を作り、モリやヤスを作り、準構造船ではなくて丸木舟を作り、糸を作り布を編み、クズなどを使ってポシェットを編み、木の実クッキーを焼き、ブドウからワインを作り、家を建てる。 え?それって古墳時代の技術じゃないの?と思った貴方、大間違いです。少なくとも3000年前には、または1万6千年以上前から既に日本人はそういう生活をしていた。案外快適だったかもしれない。 快適ならばクニなんて必要無いじゃない。戦争なんてしなくてもいいし。そうだよね。私もそう思う。でも、その辺りを研究した本は別にある。
2019年10月30日
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「町山智浩・春日太一の日本映画講義 戦争・パニック映画編」町山智浩・春日太一 河出新書 町山智浩さんのいわゆる外国映画講義は何冊か読んでいるのだけど、不思議なことに日本映画については読んだことがない。映画館で年間100-140作観る私が常に感心するのは、町山さんの映画評だけだ。必ず面白い話が聞けるーそう確信して本書を紐解いた。WOWOWの『町山智浩の映画塾!』の書籍化。 残念なのか、流石というべきか、戦争・パニック映画を講義して大きく扱うのは7作品だけだ。『人間の条件』『兵隊やくざ』『日本のいちばん長い日(1967)』『激動の昭和史 沖縄決戦』『日本沈没(1973)』『新幹線大爆破』『MIFUNE THE LAST SAMURAI』である。2作は未見だが選択は納得する。 『人間の条件』原作者も監督も撮影監督も実体験をフィルムに焼き付けようとした。 『兵隊やくざ』は『人間のー』の裏返し。公開当時、実体験を持つ観客は多かったから、さぞかしスカッとしただろう。会社組織の上司の関係も同じ。風呂場で喧嘩シーン、前貼りなしなのに絶対アレは見せない(大映撮影布陣の技術力)。有田と大宮の関係はBLだ。赤ん坊のために戦闘が一瞬止まる場面は後に『トゥモロー・ワールド(06)』が影響されたに違いない。等々参考になった。 『日本のいちばん長い日』脚本との違いがある。阿南(三船敏郎)の切腹場面と森師団長(島田省吾)の殺される場面は、音だけの描写だっが、血みどろ描写を丸見せした。奇跡的に生き残った岡本監督の出発点だったからだ。『ヒトラー 最期の12日間』に、書類を焼いている所はこの作品のオマージュ。横浜守備隊の隊長がポケットに入れていたのは『出家とその弟子』、『シン・ゴジラ』で『春と修羅』が出てくるのと同じ。 『激動の昭和史 沖縄決戦』71年岡本喜八監督、新藤兼人脚本。未見。戦争を憎みながら、戦争アクションは見事。東宝スタッフ子会社化前の、総力作品。一人ひとりの生き方死に方に描いて、ウエットに描かない。 『日本沈没』(73年森谷司郎監督、中野昭慶特撮監督、橋本忍脚本、そして木村大作の撮影デビュー)タイトルが出てくるまで1時間。『日本のいちばんー』でも20分かけた橋本脚本。この映画によって、二本立て興行が一本立てになった。 『新幹線大爆破』(75年佐藤純弥監督、高倉健主演)80キロに減速したら爆発する。『スピード(94)』『アンストッパブル(10)』で使われた。タイトルを聞いて国鉄の協力が得られなくなったので、遠景は無許可、駅は私鉄だった。元ネタは黒澤明脚本の『暴走列車』。東映は社会的メッセージを入れる伝統がある。博多市民を救うために新幹線を止めて乗客を犠牲にしろ、という選択は「トロッコ問題」。選ぶことができない、というのが正しい(と私は思う)。宇津井健は「私は一回でも新幹線を止めようと思ったから国鉄マンとして失格だ」という。 『MIFUNE THE LAST SAMURAI』(三船敏郎のドキュメンタリー)『椿三十郎』の殺陣は三船が考えた。それまでの殺陣ではなく、お互い切るつもりでやっている。黒澤明が要求した。みんな黒澤に酷い目に遭っている。『蜘蛛巣城』で矢を射られたのは、後々トラウマになったらしい。 日本映画の知識は、圧倒的に春日太一が上。そのせいか、対談のせいか、イマイチ切口が鋭くなかった。
2019年10月13日
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「友情について 僕と豊島昭彦君の44年」佐藤優 講談社 佐藤優さんの高校の同級生・豊島君が、すい臓ガンで余命幾ばくもないことがわかった。佐藤優さんはそのことを聞いて豊島君に「2人の自伝を書かないか?」と提案する。 すい臓ガンは怖いガンだ。気がついた時は既に遅く、ある事情で私も他人事ではないと感じている。しかも、この2人とはほとんど同世代ということがわかった。私と違い、優秀な成績で社会に出た後に98年の日債銀経営破綻で人生がガワリと変わった豊島君は、しかし同世代だけに遠い世界ではない。 「それで豊島君は何がしたい」あえてビジネスライクに佐藤優さんが聴くと 「自分がこの世に生きた証を遺したい」 で、2人の自伝を提案すると、豊島君は怯む。佐藤優さんは畳み掛ける。バブルがはじけた時代を語ることは意味があるはずだと。 「でもそれは、あの時代に特有だった特殊な事例であって、今の時代には通用しないのでは」 「そんなことはない。時代は繰り返す」 豊島君の想いは、とてもよく理解できる。佐藤優さんの判断も正確だ。とても理性的だけど、限りなく情に溢れている。これが「友情」というものなのかもしれない。 2人の高校生活を見ると、2人を合わせて1/3にしたようなのが私の大学生活だったと思う。私の3ー4歳先を既に歩いていたのである。なるほど、これが秀才の歩く道なのだ。 90年バブル破綻、97年北海道拓殖銀行破綻、豊島君は、悪循環に落ち入る日債銀の中にいて「一度マスコミに対して弱みを見せるとマスコミは一気呵成に徹底してその弱みを追求してくる」と強く感じた。「結局誰か犠牲を作らないとこの攻撃は終わらないのだ」。この構造は20年経っても1ミリも変わらない。 「外見の強そうな男がメンタルも強いとは限らない。(略)普段は温厚で柔和だが一度決めたことはブレない意志の強さ、そして地頭の良さを兼ね備えた豊島君のような人間こそが、どんな修羅場も毅然と乗り越えられるタイプであることを私は経験的に知っている」(163p) 会社が経営破綻して、外から外国人上司がやってきたときに、いち会社員としてどのように接したかということは書いてあるが、当然だがバブル崩壊そのものの全体像は描かれていない。平成会社員「史」としては興味深かった。上司との付き合い方には普遍性がある。差し障りがあるので詳しい事は書けないが、私は頗る共感した。 数年前に豊島君は両親と死別した。似たような経験を私もしている。また、最後の人生8訓も、私は頗る共感する。やはり、同世代なのだ。
2019年10月12日
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「アジア新聞屋台村」高野秀行 集英社文庫 高野秀行さんは、「ワセダ三畳青春記」で描かれたボロくて狭くて楽しい早大近所のアパートで暮らしていた時期の99年から03年までの5年間、時々アジアの冒険を挟みながら、約5国のアジアの在日外国人のための商業新聞社の編集顧問の仕事もやっていた。新聞社と言いながらも実際ははちゃめちゃな社員と社長を有した、冒険的な編集だったのだが、これはその記録である。 詳しくは読んでもらうとして、文庫本紹介に、これと「ワセダ三畳青春記」と「異国トーキョー漂流記」とが、姉妹編を成していて、自伝的青春物語であると紹介されていた。へー!そうなんだ。3冊ともなんかフィクションのような内容だけど、実際はバリバリのノンフィクションなのである。と思った所でひとつアイデアを思いついた。 高野秀行さんを副主人公にして、映画を作れないか? 絶対面白いと思うんだけどな!どこかのプロデューサーさん!原案権は主張しないから、作ってくれないでしょうか!! 【高野秀行をテーマにした映画】 普通の早大生から社会人になった青年が、その時々で幼なじみの〈高野秀行〉と交流する物語。 高野秀行と幼馴染で共に成績優秀者で一緒に早稲田大学に入学した早大生の存在だけが創作。あとは全て事実で構成する。怪獣を追っていた時のメデイア巻き込んでの騒ぎも、アマゾン源流冒険も、ミャンマーアヘン王国潜入も、三畳一間のめちゃくちゃな下宿生活も、アジア新聞も、東京在住外国人から外国語を短期間で学んで翻訳本まで出した経緯や、次々と単行本を出している様子など「まるで創作のような話」が、全て「事実を元に」描かれる。そして、早大から真面目な会社に就職して長時間労働に苦しむ幼馴染は、最初こそは「コイツ、負け組だ」と優越感に浸っていたが「真面目に勉強して真面目に働いているオレはなんなのか」と悩み始めるのである。 キャストは、真面目な早大生に伊藤健太郎、高野秀行に賀来賢人(「今日から俺は」の2人)を希望。
2019年10月11日
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「地図帳の深読み」今尾恵介 帝国書院 私は地図マニアではないが、本屋でたまたま手に取った本書がなかなか愉しくて紐解いた。世界と日本の地図が全頁カラーで載っているけれども、私の興味関心から日本の「深イイネ!」と思った部分をメモする。 ・四万十川が太平洋を目前にして内陸へ向きを変えているのは、南海トラフ地震が何度もあって、海岸線に山ができたから。 ・この前広島県三次もののけミュージアムに行ったのだが、そこを流れる江(ごう)の川は、そのあと広島港まであと25キロまで来て、八千代から島根県方面に流れて江津にたどり着く。これは、中国山地の隆起量に対し江の川の浸食量が根性で凌駕した結果らしい。 ・私がパラパラめくって面白いと思った所。まるで盲腸の突起のように、境界線が入り組んでいるところがある。最もわかりやすいのが、大阪市が松原市内に細長く飛び出した部分(長さ620m、幅2mほど)がある。地図の赤色点線の市境の記号がとてつもなく異様だ。これは阿麻美許曽神社の参道のためです。この規模の大きいのが、山形、福島、新潟の県境にある飯豊山神社の参道で約8.3キロに及んでいる。地図で、こういうのを見つけれたら、楽しいだろうなぁ。 ・知らなかったが、和歌山県は「飛地」を持っている。新宮市の東北に三重県と奈良県の間に新宮市が2カ所ある。練馬区には、埼玉県新座市の中に練馬区飛地がある。13軒の家があり、ゴミの収集や学区問題では55m離れているだけなので困っていないが、東京ブランドのお陰で隣の土地より2割も地価が高いらしい。他に神奈川県相模原市の東京都町田市飛地、大阪府池田市の兵庫県伊丹市飛地がある。 ・地名の読み方にも一章を設けている。原音に忠実に書くのは難しいらしい。コラムで、岡山は地元民間では「おきゃーま」と言っている、と書いているが、地元民として言うが何十年前の話をしているのやら。 ・わざとなのか?表紙に使われた地図の説明が一切ない。よく見ると、東京都日本武道館の隣に史跡(?)として「ヒカリゴケ生育地」とある。また、大分県、熊本県、福岡県の県境に酒呑童子山がある。九州に何故?そのすぐ側には、カメルーン選手たちの練習場になった中津江があり、鯛生という閉山した鉱山があった。ちょっと調べたら金山で70年代まで掘っていたらしい。いろいろ気になるー! 地図って、楽しそう!
2019年10月09日
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「図書2019年10月号」 「漢字の植物園in広辞苑」(円満宇二郎)の連載が1年巡って12回目、最終回を迎えた。トリビアな植物情報を教えてくれて好きでした。最後は「菊」「金木犀」「藤袴」そして「サフラン」が扱われています。全て10月に咲きます。 「金木犀」の香りを嗅ぐと、私は何時も「何処からか花の香する」と書いた山本周五郎の小説を思い出し「さぶ」のことを考えます。ところで、金は花の色でわかるのですが、木犀がずっと疑問でした。そもそも何故「犀」が「セイ」なのか?答えは、「サイ」は奈良時代以前に伝わった呉音、漢音では「セイ」と読むらしい。立派な中国語なのです。何故植物に動物の名前?12世紀中国書物に「湖南では九里香、江東では岩桂、浙江では木犀という。木肌の模様が犀のようだから」とあるらしい。そこで我が家の金木犀をじっくり見てみました。色は土色で似ているかも知れないが、ぶつぶつ模様でソックリとは言い難い。そもそも浙江に犀は居たのか? 「サフラン」は「サ夫藍」と書きます。「サ」はかなり特殊な漢字で、表せれるか不安でしたが、最近のスマホは一発変換しました(でも楽天では機種依存文字で拒否られた)。すごいですね。 新連載は俳人・長谷川櫂の「隣は何をする人ぞ」。1回目は、昨年皮膚癌になって「考えたこと」をつらつら書いていました。 三浦佑之の「風土記博物誌」は、今回は「神」がテーマです。風土記に出てくる神さまは、たいていは「あらぶる神」のようです。舟の航行を邪魔し(播磨国風土記)、往来の人を殺し天皇が平定したので神崎と言ったり(肥前国風土記)、大和の人に頼んで荒ぶる神の引越しをしてもらったり(常盤国風土記)する。たいていは、天皇関係者が神を鎮めます。思うに地方役人の大和政権への「忖度」でしょう。何処でも、結局風土記における「神」は、西欧のように一神教でもなければ、福を授ける者でも、真実を伝える者でもないのです。日本人は、荒ぶる自然に対してのみ、何時も「神」を感じていたのでしょうか?古代では、恐れだけで神への感謝はなかったのか?新たな疑問が湧いてきました。 今回は連載記事以外に面白いものはなかった。
2019年10月08日
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「世界史を大きく動かした植物」稲垣栄洋 PHP出版 私たちは、植物の手の平のうえで踊らされているのかもしれないー(扉表紙裏より) 人類の歴史は、自分や共同体の人々が如何に生き残るか、その知恵の出し合いと攻防の歴史である。そこには、当然食物である植物は大きく関与せざるを得ない。常に植物の見えざる意志によって、人類が翻弄されてきたのは確かだったとは思う。 しかし、もちろん人類史の契機は食物だけで説明はできない。歴史を作ったのは、植物だと理解するのは間違いだと思う。歴史学者ではなく植物学者の稲垣氏の歴史記述は、大袈裟な部分があるので注意が必要だ。例えば「チャの輸出が外貨を得て、日本は近代化の道を進んでいくのである」(143p) 閑話休題。以下クイズに出そうなトリビア情報を箇条書きしていく。特に日本関係を中心にした私的覚書です。無視してください。 ・イネ科の植物がケイ素(ガラスの原料にもなるような物質)を体内に蓄えるようになったのは、600万年前。これによって、草食動物の多くが絶滅したと考えられている。 ・2万年前から1万年前に気候が変化して、乾燥化や寒冷化が始まった。草原は食べ物が少ない。だからこそ、農業が発展した。最初は、イネ科を食用にする動物の家畜化。やがて非脱粒性のヒトツブコムギが炭水化物を種子に蓄えることで農業が始まり、富も蓄積され始めた。 ・農業の魔力によって、人類は人類となっていくのである。 ・戦国時代の日本は、同じ島国のイギリスと比べて、すでに6倍もの人口を擁していた。それを支えたのが「田んぼ」というシステムと「イネ」という作物である。 ・東南アジアでは、イネは数ある作物の一つだが、日本では主食。 ・15世紀ヨーロッパでは、コムギは種子に対して3ー5倍の収穫、17世紀の日本では、種子に対して20ー30倍の収穫。現代でも、コムギは20倍、イネは110-140倍もの収穫がある。 ・イネの栄養は、タンパク質、ミネラル、ビタミンも含む。不足はアミノ酸リジン。それを多く含むのが大豆。味噌汁とご飯で日本人は完全食を食べれた。コムギはタンパク質が不足するので、肉類が必要で、主食にならなかった。イネは日本のモンスーン気候にも合っていた。 ・大航海時代にポルトガルは東回りで、アフリカ、インドへ、スペインは西回りでアメリカ、インドへ到達する。そうやって手に入れたかったのがコショウである。しかし、産業革命で蒸気船ができるとコショウの価格は下落する。 ・1492年、スペインのコロンブスはアメリカのトウガラシをコショウと言い張るために、レッドペッパーとしたが、味も種類も全く違いもの。トウガラシはヨーロッパに受けいられなかったが、1500年にブラジルに到達したポルトガルは、船乗りのビタミンCに必要で、かつ害虫の繁殖を防ぎ、食材や料理の保存に便利で、食欲亢進にもなることでアフリカ・アジアに輸出。受け入れられた。 ・人間の味覚は生存するための手段。苦味は毒の識別、酸味は腐った物の識別、甘味は果実の熟度の識別、しかし、人間の舌には辛味を感じる部分がない。カプサイシンは舌を強く刺激して、痛覚が辛さと勘違いする。カプサイシンを早く消化・分解させるために胃腸が活性化、様々な機能が活性化して、血液の流れは早くなり、発汗もする。更には痛みを和らげるために陶酔感さえ覚える。←辛さを感じる人に個人差かあるのは、こういう仕組みだったのか! ・赤い果実は動物にとって甘いのが常識。しかしトウガラシは、辛味によってカプサイシンを感じる受容体がない鳥だけを、種子を運んでもらうパートナーに選んだ。 ・16世紀初めにポルトガルは中国経由でトウガラシを日本に輸入、よって唐辛子と書く。ジャガイモはジャガタラ芋、つまりインドネシアのジャカルタ経由。サツマイモは、元は中米原産。九州では中国経由で唐芋と呼び、日本全国へ薩摩経由で薩摩芋になった。トウモロコシも南米原産だが、中国経由で唐もろこし又はナンバン、カボチャはアメリカ大陸原産で南京。トウガラシは鮮度を重視する日本ではあまり広まらなかった。加藤清正経由で日本から渡ったトウガラシが韓国で広まったのは、当時は元の支配下で肉食だったから。 ・種芋から増えるジャガイモは悪魔の食物と呼ばれたが、飢饉対策として、王室は栽培を広めるために努力した。イギリスは葉や茎を使って料理してエリザベス一世をソラニン中毒にして失敗、ドイツフリードリヒ二世は成功、ドイツにジャガイモが広まる。フランスで広めたのは、ルイ十六世とマリー・アントワネット。 ・日本ではジャガイモはサツマイモやカボチャと同じ時期に輸入、しかし味が甘くなくて広まらなかった。広まるのは肉食(カレー、シチュー)と合う明治時代。 ・カレー粉を発明したのはイギリス海軍、船の揺れに対応した。コメを食べるベンガルに駐在していたので、カレーライスを作った。シチューも同時に作り、これに航海食として欠かせなかったジャガイモを入れた。日本は1920年に日英同盟が結ばれると、イギリス海軍に見習いカレーライスを作る。更には砂糖と醤油を入れて、肉じゃがも作り、家庭に広めた。 ・トマト、ジャガイモ、トウガラシはアメリカのアンデス山脈周辺原産で、コロンブス以後(16世紀)ヨーロッパに渡った。しかし、トマトだけは200年食用とされなかった。その時ナポリ王国(後のイタリア)だけは、安いトマトをスパゲティソースやピザソースとして使って(17世紀)やっとヨーロッパに広まった(ナポリタン)。そのあと、アメリカがトマトケチャップを作り、フライドポテト、ハンバーガー、オムレツに使った。 ・ワタのおかげでアメリカは経済的に豊かになった。そしてワタのおかげで多くの黒人奴隷たちが犠牲になったのである。 ・ワタは塩害に強く、江戸時代の干拓地(豊田、今治市、倉敷市、北九州市)で広まった。車産業、タオル、ジーンズ、工業地帯の基になった。 ・薬としては、抹茶飲み方が優れている。宋代に日本僧侶(栄西)が伝えて、茶道になる。中国ではそのあと抹茶が廃れる。「茶」は中国「チャー」日本「チャ」ヒンディー語・モンゴル語・ロシア語・ペルシア語「チャイ」福建省「テ」ヨーロッパ「ティー」。ヨーロッパ紅茶ブームが米独立戦争を引き起こす。緑茶と紅茶は同じチャという植物から作られる。チャは抗菌成分を含むので、忙しい工場労働者が沸騰しない水で淹れて飲んでも赤痢菌などにかかる心配がなく、産業革命時に広まる。 ・ソメイヨシノは吉野の桜という意味ではない。「染井村で作られた吉野の桜」という意味である。吉野ブランドを利用された、吉野とは関係ない桜だった。明治時代に命名。散る桜に美を見出したのは、明治以降。本居宣長の桜(敷島の大和心を人ととはば朝日に匂う山桜花)は、大和心を散る桜に求めたのではなく、美しく咲く桜を歌ったものだ。桜が一斉に咲き散るのは、桜が時期を知るのではなく、クローン桜だから。
2019年10月04日
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「芸術新潮7月号」大特集 萩尾望都かつて80年代初めに漫画専門誌「ぱふ」なるものがあった。私をそれを読んで初めて、萩尾望都がいかに漫画の革新を行ったかを知った。それ以降、本人ならびに他者による本は何冊も刊行されたが、一度も満足を覚えたことがない。だから舐めていた。特集を組んでいると言っても例によって、著者描き下ろしの絵で誤魔化しているのではないか。甘く見ていた。実に約40年ぶりの本格的な萩尾望都解体である。本格的な論文は、小野不由美のそれだけではあるが、萩尾望都の一面を丁寧に書いただけに過ぎない。驚くべきは、おそらくインタビュアーの内山博子や編集者の努力と思うが、出てきた昔の作品の一コマ一コマのキャンプションがあまりにもよく調べ、マトを得ていることである。例えば、p17の「エドガーのふわふわふわ巻き毛は、どの向きから見ても同じ顔にするために考えた髪型だそう」、p18「トーマの心臓の最終頁の原稿。ユーリ、エーリク、オスカーそれぞれの新たな門出を象徴する忘れがたいラストシーン。光、風、植物といった萩尾お気に入りのモチーフによる見事な構成だ」p37には、連載開始前のクロッキー帳が公開されていて、そこに既に「火の塔の‥‥アランの死」と書かれている。「この時点で、物語のはるか先の終着点まで見えていたということか」衝撃の事実を公開している。私にとってもショックだ。アランの登場を最初から予定していて、しかも終わり方まで構想に入れていたとは!萩尾望都が、しっかりしたコマ割りを壊して、時空を超えた夢の表現を、その描写方法から、ストーリー構成まで牽引したことは40年前から既に橋本治が指摘していたのだが、我々の想像以上にそれはかっことしたものだった。だとすれば、やはり今回の「ポーの一族」再開は、かなりある程度時空を行ったり来たりはするが、きちんと構成されたものであるということだろう。同時にクロッキーブックに対する萩尾望都インタビュー、或いは他のロングインタビューもあるが、これもかなり貴重な証言が幾つかある。美術雑誌らしく、物語のテーマよりも、作画構成に寄った切り取りをしている。それはそれで、私にはとても新鮮だった。以降、萩尾望都を論じる時には、必携すべき本になっていると思う。
2019年09月27日
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「KOKKO第36号」日本国家公務員労働組合連合会 特集の「労働組合はSNSで運動できるか」に興味を覚え、わざわざ取り寄せました。労働組合をNPO団体に換えれば、現在私が参加している団体&サークルでも、そのまま活用できるのではないか、と目論んだからです。 座談会の司会者を務めていて、本雑誌の編集者の井上伸氏は、私はFacebookもフォローしているが、労働問題の労働状態分析のエキスパートで、一時期ヤフニュースの個人オーサーをしていた時には常に労働問題では上位アクセスを稼いでいた。彼が作るグラフや表には、滅多にマスメディアに載らない視点に溢れていて、いつも目を覚まされる。 マスメディアに載らないけれども、どうやって運動を作っていくか(特定の人や世の中に認知されるか)、ずっと試行錯誤を繰り返してきた彼だからこそのノウハウや問題意識があるのではないかと期待したわけです。 先ずは「サルでもわかる」と副題をつけたらいいかと思われるような資料「国公労連版SNS活用のススメ」がオススメです。特にNPO団体には、「いいとわかってんだけど、やり方がわからん」「炎上とか怖いんじゃないの」というお年寄りが大勢いらっしゃる。その方達に向けて、親切丁寧に書いている。私は第2部「SNS実践編」で、いくつか参考になるところがあった。その更に実践編が、座談会である。東京と地方では全く状況が違うのではあるが、やってみなくちゃわかんないところもある。 面白かった。
2019年09月13日
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ビッグイシュー366号ゲット! 特集は「プラスティック革命」。リード文は以下の通り。 2050年、海の中のプラスチックの量は重さで魚の量を超える、との試算がある。 1950年頃からのバージンプラスチックの生産量は約83億トン、うちリサイクルされたのは1割弱。今も毎年900万トン以上が海に流れ着き、5ミリ以下のマイクロプラスチックとなって魚などの体内に取り込まれ、生態系の連鎖が始まっている。 ようやく各国が「使い捨てプラスチック使用禁止」に取り組み、欧州などではプラスチックごみを資源化、再循環させる「サーキュラー・エコノミー」への産業政策が加速している。 環境ジャーナリストの枝廣淳子さん(幸せ経済社会研究所)、徳島県上勝町でごみのリサイクル率8割以上を実現した「NPO法人 ゼロ・ウェイストアカデミー」の坂野晶さん、プラスチックごみを分子レベルに戻して再資源化する「日本環境設計」の岩元美智彦さんに取材した。 プラスチックごみの環境流出を防ぎ、再資源化する「サーキュラー・エコノミー」への動きに注目し、市民ができることを考えたい。 プラスティックの海汚染は、今はなき「DAYS JAPAN」の中で、海鳥の腹いっぱいにプラスティックが詰まっていたという衝撃的な写真を見てから、やっと私も意識するようになった。海汚染は待った無しの状況になっている。 ショックなのは、「容器包装プラスティックの廃棄量」の一人あたりの量は、約35キロで、世界の中で、米国に次いで2位だったということだ。あと、EU、中国、インドと続く。これは、国民の意識の問題だと思う。 リサイクル技術の解説があったのだが、今ひとつよく分からなかった。勉強が必要かもしれない。 スペシャルインタビューは、クリスチャン・ベールだった。あの、カメレオン俳優だ。 2013年 アメリカン・ハッスル 2012年 ダークナイト ライジング 2010年 ザ・ファイター 2009年 パブリック・エネミーズ 2009年 ターミネーター4 2008年 ダークナイト 2007年 3時10分、決断のとき 2007年 アイム・ノット・ゼア 2006年 プレステージ(2006) 2005年 ニュー・ワールド 2005年 バットマン ビギンズ 2004年 マシニスト 「バッドマン」の時以外、あまり印象にないのは、彼の本当の顔がよくわかっていないからかもしれない。 今年春に公開された『バイス』で恰幅のよいチェイニー元米国副大統領を演じたクリスチャン・ベールが、今作『荒野の誓い』では西部劇の伝説的陸軍大尉に“変貌”を遂げた。らしい。「白人とアメリカ・インディアンたちの和解を描くこの作品は、分断の広がる今日の世界で大きな示唆を与えてくれます。」とのことである。西部劇だと思っていたら全く違うみたい。見ておきたい。
2019年09月11日
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「亡き人へのレクイエム」池内紀 みすず書房 ドイツ文学者・エッセイストの池内紀氏が8月30日に亡くなった。78歳。膨大な著作のほとんどに、私は接していないが、晩年の2つの仕事を読んで私は深く感銘を受けたので、残念でならない。ただ、近年次々と刊行された著作ラインナップを見ると、この数年間死への仕度をしてきたようにしか見えない。 森鴎外『椋鳥通信(上・中・下)』(2014-15)は、鴎外全集の中でも際物に扱われていた20世紀初頭の何処よりも速い西洋ゴシップ記事レポートを、あまりにも詳細な注解を付して立体的に提示したものだ。鴎外研究にも大きく与するはずだが、第1次世界大戦前のヨーロッパを、我々がインターネットで知るかのように見せてくれるという意味でとっても面白い著作だった。またその後に、しばらく絶版だった池内最初の訳書であるカール・クラウス『人類最期の日々(上・下)』(2016)も再発行された。正に第1次世界大戦下の、直ぐに勝利のうちに終わるだろうと思っていたドイツ国民を、政治家・庶民まるごと「同時進行で」劇化した大作である。これを留学生だった池内紀氏が翻訳し、そして現代に再度問うたことに、池内氏の企みがある。高価なこともあり、おそらくほとんど売れていないはずだが、これらの仕事は後世必ず評価されると思う。 そして今年は、亡くなる直前に『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』という現代日本を見据えた評論を出している。 文章の振り幅は、ドイツ文学に偏らず森羅万象に及び、現代日本については批判的で、正に日本を代表する知識人の一人だったと思う。 長い前振りだった。本書を紐解く。2016年発行。21世紀を迎えて以降の、様々な知り合いの追悼文や思い出話に、「死について」の短文を添えて書き遺している。森浩一、北原亞以子、森毅、小沢昭一、米原万里、児玉清、高峰秀子等々、私の知っている者だけさっと読んだが、長い間常連役をしていたラジオ番組「日曜喫茶室」への歯に衣を着せぬ批評など、辛口であることを意外に思った。けど、亡くなった人への評価は愛がありやさしい。そして自らの死期を悟って書いているのかまったく不明ではあるが、「自分の死を他人にゆだねない」と自らの尊厳と自由をかけて宣言している。思うに、根っからの西欧的知識人かつ自由人だった。
2019年09月09日
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丸善のPR誌「本標(ほんのしるべ)」9月号が上梓された。ウェブ版で拝見した。 表紙は今回は、マレーシアのコタキナバル(ボルネオ島最大の都市で約55万人)のタイヤングエンタープライズという本屋さんだ。この街で1番大きな本屋らしい。何か、日本の昔からある町の本屋さんの雰囲気。二階建てで、一階は新聞、雑誌、書籍(実用書・料理書などが中心)、二階はコミック、参考書など。お母さんが教育熱心でよく売れるらしい。でも、これがホントに都市1番の本屋なのか?小説や専門書は?でも、これが現代のマレーシアの文化的水準なのかもしれない。 巻頭書評は、この前読んだ「生き物の死にざま」だった。次は、「菌は語る」星野保 春秋社。文章の面白さが冴え渡っているらしい。興味深いのは、「仮病の見抜き方」國松淳和 金原出版。なんと専門医が「医療現場を取り巻く嘘と偽りを小説という形で表現」したのだそうだ。普通は本屋の専門書コーナーにあるらしい。これは読んでみなくては!
2019年09月07日
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「図書 2019年09月号」岩波書店 非常に気がかりな事が書いてあった。掲載文章のことではない。巻末の編集後記「こぼればなし」のことである。KADOKAWAのPR誌「本の旅人」の休刊に関して述べて、「PR誌のあり方も変化していくのが趨勢」と述べているのである。 かつては広告媒体も新聞や雑誌に限られていて、そのメディアの多くが書籍の読者と重なっていた。しかし、それらの読者の減少が続いている。他方SNSで発信された、ある個人の「つぶやき」がベストセラーをもたらすことも、もはや特別な風景ではなくなってきている、とこの編集子は認識している。 ただ一方で、電子書籍が紙媒体を近いうちに駆逐すると思われていた米国でも、紙への回帰と見られる現象があるらしい。 だから、「本の旅人」の休刊に伴って、PR機能は文芸情報サイトへ、連載媒体は既刊雑誌や電子雑誌へ移行するのは、単純に「紙vs.デジタル」といった構造ではないだろうと分析する。 「PR誌のあり方も、PRの方法にあわせた最適なものが考えられてゆくことになるのでしょう」と編集子は結ぶ。素直に読めば、「図書」の休刊を模索しているとしか思えない。止めて欲しい。この形態だから、気軽に読めるのである。書き手も、此処だから書けることを書いてきたのだと、私は想像する。 巻頭の伊東光晴氏の「私にとっての加藤周一」もそうだ。一見、鷲巣力『加藤周一はいかにして「加藤周一」になったか』の書評の体裁をとりながら、明らかに、新しい加藤周一評伝の新材料を提供する貴重な論文になっている。どこかの雑誌が加藤周一特集を組まない限りは、決して書かれることのなかった論文である。加藤周一ファンの私としては、とても参考になる論文だった。6月号の朝日まかて氏の「富嶽三十六景」論もとても参考になったし、2018年12月号の加藤周一の娘さんの寄稿は、とてもびっくりしたし、貴重なものだった。 休刊が私の杞憂であることを願います。
2019年09月04日
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「特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー(ノーベル文学賞受賞記念講演)」カズオ・イシグロ 土屋政雄訳 極めて明確に、簡潔に、美しく、イギリスの地で創作を開始した日本人の血を持つ作家が、半生を語った。ノーベル文学賞受賞記念講演。 始まりの2冊は日本を舞台にした英語の文学だった。次は、きわめてイギリス的な話なのに、世界的な世界観を描いた。らしい。 私はカズオ・イシグロの小説は読むまいとしてきた。人生は短く、読まなければならない本ははるかに多い。読み始めたならば、一冊だけで済むとは思えなかった。ただ、この小さな講演記録文章によって、世界基準とも言えるかもしれない文学を見渡す地図を貰った気がした。「遠い山なみの光」と「日の名残り」と「わたしを離さないで」を読んでもいいかもしれないと思い始めている。 最後に一つの呼びかけをー僭越ながらノーベル賞受賞者からの呼びかけをーお許しください。この世界の全体を正すことは困難です。ならば、せめて本を読み、書き、出版し、推薦し、批判し、授賞しつづけられるよう、私たちの住むこの「文学」という小さな一角だけでも、維持発展させていきましょう。不確かな未来に私たちが何か意味ある役割を果たしていくつもりならー今日と明日の作家から、それぞれのベストを引き出そうと願うならー私たちはもっと多様にならなければなりません。(95p) 「この世界」をどう見るのか、なぜ「全体を正すことは困難」なのか、「多様」とは何なのか、は此処に簡潔に語られている。
2019年09月03日
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「北斎 富嶽三十六景」日野原健司編 岩波文庫 「どうだ、面白ぇか。え、こっちはどうだ」と、北斎の娘、葛飾応為を描いた朝井まかてさんがこの三十六景の北斎の「企み」を説明していた(「図書2019年6月号」)。「これは活き活きと自由に虚構を用いた、壮大な物語なのではないか」。私も今回初めて全ての作品を一覧してまかてさんの説に同意する。 例えば「深川万年橋下」。大勢の人々が行き交う万年橋を真正面に捉え、その先に隅田川、対岸には武家屋敷、橋の下のに富士山を置く。けれども、実際には橋の下の富士山を眺めるのは角度的に無理なのだ。構図的には、透視図法で両岸を描き、画面いっぱいに弧を描く万年橋。しかも中央に富士山を配置せずに、やや左にずらして、しばらく絵を眺めさせて発見させる。技巧を凝らし嘘をつき、何かの「夢」を見させる。見事である。「東海道吉田」の富士見茶屋の富士山も、あんなに見事には見えないらしい。承知で描いているのである。 「三十六景」と言えば、「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」ばかりが表に出てくるが、やはり「観た」というならばひと通り観なくては、北斎のたくらみには乗れない。文庫本は小さいし、真ん中で改貢のために絵が切れてしまうし、色も正確とは限らない。でも、ホンモノを全部実際に観るのは、現代日本では夢物語なのだから、私はこの夏ゆっくりと手元に持って愛でて、日本美術の教養を堪能した。
2019年09月02日
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「100分de名著 小松左京スペシャル」宮崎哲弥 NHK出版 実は久しぶりに買って読んでみて、なおかつ録画していた番組も100分視聴したのであるが、遥かに宮崎哲弥の文章よりも、NHKの番組の方が良かった。プロの俳優の朗読や、アニメ化された作品の方が多くを語ってくれた。宮崎の文章は、新たな知見も多かったが、それ以上のものではなく、かえって内容を難しくするだけの知識の羅列であり、役には立たなかった。 素晴らしかったのは、改めて小松左京を思い出したことだ。高校生だった私に、世界(日本を含めた宇宙)を見ろ、未来を想像しろ、と促した恩人だったと思い出した(新書「未来の思想」)。SFというものを知らしめてくれた人だった(「果てしなき流れの果てに」)。 「地には平和を」(1963)は、偶然にも最近読んだ本と関係があった。『日本のいちばん長い日』の1945年8月15日のクーデターが「成功していた場合」どういうことが起きるのか、という問いかけだった。これがコンピュータ付きブルドーザーと言われた小松左京の実質デビュー作であり、やはり彼の膨大な著作の原点だったのだ。 「地には平和を」で、歴史の改変を行ったキタ博士は、タイムパトロールにこのように反駁する。 「悲惨だと?」「悲惨でない歴史があるか?問題はその悲惨さを通じて、人類が何をかち得るかということだ」「20世紀が後代の歴史に及ぼした最も大きな影響は、その中途半端さだった。世界史的規模における日和見主義だった」「日本の場合、終戦の詔勅一本で、突然お手上げした。その結果、戦後彼らが手に入れたものは何だったのか?20年を待たずして空文化してしまった平和憲法だ!」(24p) この「戦後」に対する明確な違和感。これが小松左京の出発点だった。 「日本沈没」(1973)は、高度成長期の終わりに、もう一度それを壮大なシュミレーションSFとして作ったものである。 「ゴルディアスの結び目」(1977)は、左京の思想の影響を与えたダンテ「神曲」の小松版地獄編である。 その地獄編を更に進めた未完「虚無回廊」(2000)。 未来を想像し、創造しようとした小松左京が、阪神大震災のルポを書いている途中に神経をやられて休筆し、東日本大震災で混乱している2011年の半ばに亡くなったことを知った。"未来"が彼を殺したのか?絵に描いたようなSF人生だったと思う。
2019年09月01日
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「意外と知らない岡山県の歴史を読み解く!岡山「地理・地名・地図」の謎」柴田一(しばたはじめ) 実業之日本社 岡山大水害から1年。本屋で手に取りパラパラめくると『「晴れの国」はとてつもなく雨に弱い「水害の国」でもあった!』という小見出し以下の文章が目に付いた。予言的である。発行は2014年。18年大水害の4年前である。 去年まで岡山県民はみんな、「(岡山県は)晴れの国」と思っていた。雨が少なく温暖、災害も少ない。震度4の地震なんて数十年に一度だ。台風はずっと直撃が無かった。ところが、実は一旦大雨が降れば大きな被害が出る、(この時まで)水害被害額全国第6位の大雨弱小県だったのである。これは、近世の岡山平野の出来方に原因がある。ほとんど干拓によって平野を作ったのだ。標高ゼロメートル地帯が230平方キロにもおよび、なおかつ天井川が多い。18年の時に町ごと水没した真備の小田川も天井川だった。しかも「小田川の流れは昔は逆だった」と、私も知らなかったことを書いていた。広島県福山側に流れていたのだが、当時の福山藩主が洪水を防ぐために井原で逆にしたらしい。ところが、大きな工事だったはずなのに、一切記録がないという。岡山県最大の謎と書いている。しかも、これがなければ小田川の氾濫は起きなかったのである。これは、小説にしても面白い謎だろう。 このような「謎」或いは「トリビアな情報」が、なんと70以上も綴られている。著者は高校教師、博物館学芸員、大学教授、名誉教授等々の来歴。かなりの勉強家なのだろう。惜しむらくは、ひとつひとつのエピソードの原因の掘り下げ、なおかつ問題点の掘り下げが、ページ数の関係から無いこと。岡山県在住の学生・研究者は、是非ともここに提示されている「不思議な出来事」を探って欲しいと思った。 素人の私は、私で、地道にやっていきます。
2019年08月31日
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「ビッグイシュー365号」ゲット!表紙は「ライオンキング」。知らなかったが、ディズニーが「初めて」作ったオリジナルストーリーの「アニメ」だったらしい。作ったのは、結局王道の英雄物語。観てはないが、イーリアスからヤマトタケルまで続く、英雄の試練と帰還に渡る物語をトレースしているのではないかと推測する。もちろん「ジャングル大帝」も、そのバージョンだったからパクリ疑惑が出た。「パクられるぐらいなら、誇らしい」と虫プロが問題視しなかったため大ごとにならなかった。オトナな対応だったと思う。結果、それだけでなくアフリカ文化を世界に紹介するツールとなり、今回の実写版に繋がったようだ。観る気は一切なかったのだが、ビッグイシューで扱われたので、観ようかな。特集は「漢字を包摂した日本語」。リード文は以下の通り。アルファベットは52文字。漢字は5万305字。圧倒的に数が多いうえ、4千年前の原型がいまも生きる、一番古い文字、漢字!私たちがいま日本語で読み書きできるのも、先人たちが漢字を導入したからこそ。さらに、固有の文字のなかった日本が、外来の“異なる文化”を包摂したからでもある。21世紀に入って、そんな漢字のルーツ(字源)をめぐる研究は急速に進展。個々の漢字の誕生とその歴史をたどれる「字形表」が世界で初めて作成されるなど、漢字研究は今、新たな展開を見せている。阿辻哲次さん(京都大学名誉教授)に「知られざる漢字のおもしろさ。日本語の成立と漢字の果たした役割」について。落合淳思さん(「立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所」客員研究員)に「漢字は“タイムカプセル”。世界初の『字形表』誕生」について聞いた。日本語は漢字をどう包摂したのか? 日本文化のルーツと未来を考えたい。阿辻哲次さんが紹介する「武」の字。元のつくりは「戈を止める」、つまり「武器の使用(戦争)をやめることこそが、真の武(勇気)である」という平和を願う文字であることが、「春秋左氏伝」に載っているそうだ。過激な家臣を諌めるために、楚の王が語った言葉である。しかし、楚王は実は嘘をついていた。この時代、止は既に止めるの意味だったが、元々は進むの意味だっだのだ。それを楚王が敢えてこのように説明するところに、現代に通じる、「武」(戦争)に関する真実がある。戦争の二面性は2000年以上前から、人々の間で揺れていた。これは「歴史的な証拠」である。人類はこの2000年間、何をしていたのか!卵の元々の意味は、鳥や動物の卵ではなくて、魚類か両生類の卵だった。これは卵の出自表である「字形表」を見ると一目瞭然。しかも、卯は卵からは来ていないらしい(^_^)。
2019年08月26日
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「生き物の死にざま」稲垣栄洋 草思社 セミは必ず上を向いて死ぬ。脚が硬直して縮まるからだ。ついでに、目の構造から空を見て死ぬことはできない。それでも、自らの役割を全うすることが昆虫としての幸せに繋がるとしたならば、そういう死に方は、別に惨めでもなんでもなく、多くは繁殖行動を終えた後のプログラミングなのだ。 というようなことを冒頭6pは書いていて、延々と29の生き物についての死にざまを説明してくれている。「幸せ」という言葉は、私が付け足した。レビュアーの多くは彼らの行動を「切ない」という。でも、それは1つの解釈に過ぎない。「メスに食われながらも交尾をやめないオス」カマキリとか、「生涯一度きりの交接と衰弱しながら子を守りきるメスの」タコとか、その行動原理は唯一だ。如何に種として生き延びるか。それに尽きる。 ところが、「もしかして5億年の間不老不死だったかもしれない」ベニクラゲの章が登場する。それでも、個体はウミガメに食べられてあっさりと死ぬという。プランクトンなどの単細胞生物はどうだろう。ずっと分裂を繰り返し、コピーして行き、38億年、生きものに「死」はなかったのかもしれないという。でも、それだとコピーミスによる劣化も起きる。新しくもなれない。一度壊して作り直す。10億年前、「死」が生まれた。これは「生物自身が作り出した偉大な発明」であるらしい。さらには「オスとメスという仕組みを作り出し、死というシステムを作り出し(環境変化に対応し、「進化」する仕組みを作った)」。単細胞生物のプランクトンは、寿命はないが、わずかな水質変化で死んでしまう。知らなかったが、身近な石灰岩は、有孔虫というプランクトンの殻が堆積して出来た岩らしい。 面白い話が山のように語られるが、みんなさらっと終わるので深められない。もともと著者は、植物の専門家なのだ。専門に必要な「ちょっとした」知識が惜しげもなく語られているのかもしれない。
2019年08月25日
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「おにぎりの文化史」横浜市歴史博物館監修 河出書房新社 大変面白く、貴重な本だった。2014年企画展「大おにぎり展」の図録がやっと出たのか、と思ったら、それを基にした普及版だった。もはや幻の図録だったので、それはそれで素晴らしい。 おにぎりの歴史は、即ち日本人はどうやってお米を食べてきたのか、という大問題に直結する。おにぎりの文献記録を辿る第1章〜2章は、戦後のおにぎり呼称の変遷や、中世から近世にかけての絵巻物語や浮世絵に登場するおにぎりの姿を記録する。ご飯は主食なので、あまりにも当たり前に存在する。だからみんな、それぞれの地方色豊かなおにぎりを作っていたことの自覚がない。そして、実は国民のイメージが「三角おにぎり」に劇的に変化したのも1980年代で、つい最近のことなのだ。コンビニの普及によって国民意識が「統合」されたのである。つまり、歴史は現代も動いているのだ。また、中国地方だけは、まだ半分くらい「おむすび」の呼称か続いているらしい。そういえば私も「三角おむすび」とか言っている。 面白いのは、世界のおにぎり文化圏は日本以外では、タイ・ラオス・雲南地方だけらしい。粘り気のある米を使う中国や朝鮮半島でも、冷えた米飯を食べる習慣がなく、米飯とおかずを混ぜて食べることが多いのでおにぎりは無いという(韓国のキンパブはどう位置づけるのだろ)。だとすると、おにぎりは基本的に日本人の発明なのではないか? いつから始まったのか? 第3章にご飯や籾の炭化遺物がずらっと並んでいる。これだけのモノをよくも集めたと感心した。そして遺物観察と考察の結果、現存してる確定的な最古のおにぎりは、表紙にもある古墳時代横浜市北川表の上遺跡(6C)のものである事が明らかになった。いくつかの塊がくっついているらしい。しかも竹籠(弁当箱?)に入っていた。 おにぎりは弥生時代から始まっていてもおかしくないじゃないか? しかし、そうでもないらしい。ご飯を握れるように炊くまでには、古墳時代の蒸炊きを待たなくてはならなかったのである。実験考古学の説明が、実にわかりやすく出ていた。 炊飯の方法は、世界的にも大きく分けて6種類だ。 (1)湯取り法(炊き上げる)。途中で湯を捨てて炊き上げる。一部東南アジアで使用されていて、弥生時代もこうだったようだ。 (2)炊き干し法。現在の炊飯ジャーで炊く方法。 (3)蒸器で蒸す。赤飯・おこわなどはこれ。振り水で補う必要あり。古墳時代はこれだと言われている。 (4)湯取り法(蒸しあげる)。途中ザルなどにあげて蒸す。江戸時代文献にあり。 (5)煮る。お粥(炊き粥)を作るのに、使われる。 (6)炒め煮。西洋のリゾット、ピラフ、パエリアなどはこれ。 あと、チャーハンは炊いたご飯の再利用。雑炊は炊いたご飯の煮たもの。 私は弥生時代は蒸器はなかったのだから、雑炊やお粥が多かったと思っていたが、土器の付着物で他の穀物と混ぜて調理した例はないらしい。だとすると、ご飯を炊くのは、竪穴式住居の外で、かなり慎重に、技術を持って毎日作っていたことになる。感動する。それを高坏の食器を囲んで手づかみで家族で食べていた。パサパサのお米だったから、おにぎりは握れない。しかも、学芸員は三回試してやっとまともに炊けたのである、。そんなに苦労しても、お米が良かったのか?雨の日はどうしたのか?またもや新たな疑問が出てきた。古墳時代になって、やっとかまどを家の中に据えて蒸して炊くことができるようになる。 次第とパサパサ米から粘り気のあるウルチ米に変わって行く。そして弥生時代晩期から個別食器に変わって行く。食卓の情景はこの頃大きく変わったのだ。お箸が使われ始めたのも、この頃の少し後である。弥生時代、ご飯は必ず家族で鍋をつつくように手づかみで食べていた。人生の中で、食事がいかに大きな構成要素だったか、私は想像する。
2019年08月23日
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「邪馬台国時代の王国群と纒向王宮」石野博信 新泉社 二上山博物館主催の17回に渡るシンポジウムに寄稿した論文に加えて、関連論文をまとめた。シンポの中心者である著者の邪馬台国論の集大成。それは即ち現代の邪馬台国近畿説の集大成ということになるだろう。かなり専門的だが、それでも短文が多いためにラフな論考が多い。ザッと読んだだけだが、細かに検討する時には再読しなくてはならないと思う。 以下は、あくまでも私的メモ(ウェブ上に残しておくと、何かと便利なんです)。特に吉備との関係で前半部分から少しメモした。無視してください。 ・「倭人は文字を使っていた」唐古・鍵遺跡(1ー2C弥生後期)で使われていた記号は後続の纒向遺跡(3C)では消滅する。漢字の導入のせいではないか。卑弥呼の外交と関連しているのでは。伊都国三雲・井原遺跡の1ー2世紀の硯片、島根田和山遺跡の硯片、福岡県薬師の上遺跡から完全形の硯等で、文字使用は決定的に(←最新報道では弥生中期の硯片が大量に発見された)。 ・「半島との交易」日本海航路では、松江市南講武草田遺跡、太平洋航路では高知市仁淀川河口の仁ノ遺跡に近畿系土器出土。瀬戸内航路では、姫路市丁・柳ヶ瀬遺跡で丹波系土器、総社市津寺遺跡・ほか酒津遺跡、楯築遺跡など。福山市御領遺跡には纒向甕、湯田楠木遺跡には第5様式系の叩甕。大分安国寺遺跡には纒向大和型甕、宇佐市豊前赤塚古墳周辺から纒向型壺。関門海峡の航行には熟練の海導者が必要。田布施町国森古墳に楯築・ホノケと共通するヤス(への字型鉄製品)がある。海峡通過後は、中津宮、沖津宮(沖ノ島)等のコースを辿ったろう。 ・「阿波・讃岐・播磨の連合はあったか」1-3世紀にかけて、積石と石囲いの遺跡と吉備・大和の葬儀用器台のグループに分かれる。 ・「3世紀の大和と吉備の関係は?」楯築は180年ごろ、纒向石塚は210年ごろ、と一世代遅れた、と分析。大きさは楯築(80m)を超えた(96m)が、葺石も墳頂の列石なし、突出部は1つ(総社立坂、宮山)。特殊器台採用は、3世紀の中山大塚古墳(130m)、箸墓古墳(280m)まで待つ。しかもこの時期は器台と壺が分離、葬送儀礼の変質があった。ホノケ山(3C中、80m)は阿波・讃岐の海洋民か。 ・「3世紀の三角関係 出雲、吉備、大和」楯築のころ、越の人々が因幡に集団移住(西大路土居遺跡)。2-3世紀は越と因幡・出雲(吉備)に航路があった。3C前半から後半にかけて、伯耆西部と出雲東部(南講武草田遺跡)に大和・河内の人々が現れて定住した。それとともに、吉備は出雲から姿を消した。四隅突出墓も衰退に向かった。出雲は吉備との連合を解消し、大和との連合に向かったのだろうか。2世紀末大和に多くいた吉備が3世紀に激減、しかし特殊器台は採用し続ける。河内は繋がりを持っていた。河内を通じて大和は瀬戸内航路を持っていたのか。3世紀前半まで多かった尾張が激減し、3世紀中以降近江系が増加、かつ大和は出雲に進出、日本海ルートを選択。3世紀中は卑弥呼・トヨの交代時期。2世紀末は吉備主導だったが、3世紀後半から4世紀中にかけて大和主導に転換した。 ・卑弥呼登場の時期の2世紀末の各地域を見て、楯築の被葬者が中心になって卑弥呼擁立を決めた可能性が高い。箸墓はトヨの可能性が高い。邪馬台国は吉備ではなく、大和だ。
2019年08月21日
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「ビッグイシュー364号」ゲット! 写真はセサミストリートのリリー。NHKの放送は終了していたので、しらなかったのだが、なんと家族でホームレス状態にある子供らしい。アメリカの子供番組の懐の深さに脱帽する。まさか、こういうこともあってNHK放送が終了したのか? 特集は稲葉剛責任編集の「ホームレス支援をアップデートする」。うーむ、ひとつひとつの事例が、今ひとつ具体的にイメージできなかった。 「大英博物館で「マンガ」展!」の記事。老舗の博物館でマンガ展とは何事か、との声はあったらしいが、一方ではその発言者は英国で炎上したらしい。確実に時代は変わっている。図録があれば是非手に入れたいが、無理だろうな。 投書コーナーで、高知県の山間部でビッグイシュー含む古本の良心市を始めた、というのがあった。そういう手があったか! 今回の号は楽しい読み物が多くあった。
2019年08月20日
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「ぶらりあるき釜山・慶州の博物館」中村浩・池田榮史・木下亘 芙蓉書房出版 過去7回ほどに渡り、述べ70日ほど韓国の古代遺跡と博物館巡りを1つの目標にして歩いたことがある。よって、ここにある主要な博物館は踏破してはいるが、それでもまだこんなにも行っていない所があったのか!と驚いたのが正直な所。個人のインターネット検索では網羅しきれない博物館はまだまだあるのだ。遺跡となれば言うまでもない。この本の発行によって、個人で韓国の歴史を学ぼうとすれば、この本によって旅の計画を練ることが必須になるだろう。貴重な仕事だと思う。 しかし、だからこそ、この後に続く「済州島」「ソウル・韓国南西部」編では軌道修正してもらいたい所がある。(1)おそらく、この後の10年以上に渡る読者を意識したので敢えて最新情報は載せなかったのかもしれない。しかし、観覧料はともかく、休日と観覧時間は載せて欲しかった。例えば日曜日休みなのか、月曜日休みなのか明らかにしておいて欲しかった。旅の計画に必要なのだ。大学博物館は多くは日曜日休みだと思う。苦渋を何度も舐めた。また、私は年末年始の休みを利用しての旅行が多かったので、臍を噛むことが多かった。年間の休み予定は知りたい。 (2)簡略な場所の地図しかない。行くための交通手段の詳細が必ずしもない(最寄駅は記載ある場合もある)。有名博物館ならばガイド本でわかる。しかし、地方にある、特に大学校博物館などは、なかなかわからない。バスで行くしかないが、これは検索で知るのは至難の技である。特に韓国は大学校博物館に素晴らしい遺物が置かれていたりするので、尚更である。 ここに書かれている博物館は、新羅や伽耶の考古学遺物が豊富である。この時代、倭国(日本)は常に学ぶ時代だった。よって、自らのルーツを知ろうとしたならば、この国々を知らなくてはならない(例えば、なぜ製鉄技術は6世紀まで日本列島に渡らなかったのか等々)。私が、情熱もって韓国を旅した理由のひとつである。 未見の博物館で、私の興味関心に沿うもの。 ・国立日帝強制動員歴史館 ・東義大学校博物館 ・新羅大学校博物館 ・国立慶州文化財研究所 ・玉ヒョン遺跡展示館 ・昌寧博物館 ・嶺南大学校博物館 ・国立伽耶文化財研究所 ・慶南大学校博物館 ※普州の青銅器文化大坪里博物館が無かった。私は今まで観た中で五本の指に入る博物館だと思っているのでとても残念だった。序でに普州慶尚大学校博物館は、偶然教授と色々お話できた思い出ある博物館で懐かしかった。
2019年08月19日
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「日本の文様解剖図鑑」筧菜奈子 文・絵 エクスナレッジ発刊 私の目論見が外れて、私にはあまり役に立たなかったが、力作である。しかも、オールカラーでこの値段ということは、案内役の「うめモン」ちゃんだけでなく、ここに出ているあらゆる「文様」を筧さん独りで描いたということでしか説明がつかない。いくら芸大出身だからといって、恐ろしいほどの力技だと思う。 第1部「日本の文様77種」に平均4つのイラストを配置したとして約300、その他いろいろで400-500の文様を正確にトレースしたはずだ。表紙を見たらわかるように、ひとつひとつが、ほとんど絵画だ。 しかし、残念ながら、日本と世界の文様の比較や、歴史から来るその大きな特徴、また、弥生時代の流水紋は現代まで生き残っているのだが、それは何故か等々の考察はほとんどされていない。ただただ、どんな文様(意匠)があるのか、分類して紹介しているだけなのである。目論見が外れたと言った所以である。 もちろん、着物を説明して「貝尽くし文様夜着」と聞いてどんな着物か想像できたら楽しいだろうし、京都四条通界隈に錦天満宮の梅、1928ビルの星、京都大丸の八芒星、先斗町入り口の千鳥、松竹南座の松竹等々の意匠を見つけたら楽しくて仕方ないだろう。 この本を持って、古い街に行き日本を感じる、そういう使い方がよく似合う本だと思う。
2019年08月18日
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「看板建築」萩野正和 トゥーヴァージンズ発行 看板建築という建物をご存知だろうか?そうそう!正面は立派な洋風建築なのに、裏や横に回ってみれば、木造建物だった、というアレである。特に商店が並ぶ街並みの中で作られて、商店街の景観を作っていた。 歴史はなんと昭和の一時期に限られている。関東大震災の復興中に、潤沢な資金のない個人商店が採用した方法が、やがて全国に波及した。よって竣工は、昭和初年からいくら遅くても昭和40年ごろまでの建物しか存在しない。現在次々と解体されている。 しかし、この本を見てビックリしたのだが、日本人らしい細部に凝った意匠が一軒の中にもたくさん採用されていて、時の大工さんたちの心意気が見事に見えるのである。 昭和遺産とも言っていい建築物の数々が載っている。多くは既に解体された貴重な写真がある。そして現在でも現役で頑張っている建物を、約80軒近く記録し、更に色濃く看板建築の暮らしを、10軒にかけて詳しく記録している。なかなかの労作だ。 私が東京に住んでいたならば、必ずこのうちの数軒は尋ねると思う。なぜならば、ほとんどが店なので中まで入れるし、外の窓枠や装飾だけでなく、中も職人の技が極まっているからである。住んでいる人たちは、文化財だから残そうという意識はまずない。時期が来たら無くなるからである。 荻野正和さんの企画を支持する。ここに記録されているのは、実はほとんどが都内だけだ。これからは全国の看板建築を記録するか、ホームページを開設して、全国から記録や写真を収集して欲しい。もう一つの視点は、海外の看板建築の記録を撮って欲しいと思う。韓国の釜山や江景や地方の街で、私は数多くの看板建築を見てきた。昭和の風景を残そうという意識ではなくて、改築が出来ないので残ったという残り方だった。そういうのもプロの視点で是非記録してほしいなぁと思うのである。
2019年08月17日
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「日本のいちばん長い日」半藤一利 文春文庫 「天運がどちらに与するかそれはわからないでしょう。どちらに与してもいい、判決は実行することによって定まると思うのです。そしてその実行が、純粋な忠誠心より発露しているものである以上は、臣道としてなんら恥ずるところはありません。…中佐殿、私は、まず宮城内に陣どって外部との連絡を断ち、時局収拾の最後の努力をこころみるため、天皇陛下をお助けすべきだと信じます。将校総自決よりその方が正しいと思います。近衛師団との連絡はもうついているのです。必要な準備はととのっております。あとは、少数のものが蹶起することによって、やがて全軍が立ちあがり、一致して事にあたればいいのです。成功疑いありません。中佐殿にはぜひ同意されて、この計画に加わっていただきたいのです」(115p) 岡本喜八版の映画では黒沢年男が、原田眞人版では松坂桃李が演じた畑中少佐が、8月14日の午後4時、聖断が降りたことで諦めきっている井田中佐にクーデターへの参加を詰め寄っている「記録」である。生き延びてしまった井田正孝の証言なので、かなり正確だろうと思う。中佐も少佐もない。最後の段階では、声の甲高い「狂」が、時を動かしかけた。 今から観ると、狂気の言としか思えない。ところが、井田や当時の陸軍士官のほとんどは、14日の前までは、この方向でみんなまとまっていたのである。「成功疑いありません」当時の最高の知性が、74年前のこの夏の日に、そういう判断をしていた、ということを私たちは忘れてはならない。 彼らが護ろうとした「國體」は、天皇そのものではなく(何しろご聖断に背いてクーデターを起こすのだから)、むしろ実体のない「こころ」のようなものであったのだが、それが多くの国民の命よりも、自分の命よりも大切だった(蹶起した3人の士官は15日に自決した)。現代ならば、実体のない「成長神話」がどんな国民の生活や命よりも大切だと思っている頭の良い人たちが存在するのと、同じかもしれない。
2019年08月14日
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「縄文ZINE 10」望月昭秀編集発行 フリーペーパー界の雄!3万部近く発行しているはずの縄文時代に特化したフリーペーパーの最新号をゲットした。とは言っても、今回は珍しく岡山市埋蔵文化財センターでゲットしたので、一か月前の話なんだけど。いつも岡山市の無印良品でゲットするので、こんな「まともなところ」でゲットすると、なんか新鮮! 今回は特集2つがなんといっても面白かった。「わけのわからないものばかりの縄文時代で、とびきりわけのわからないもの」と「遺跡はみんなキラキラネーム」である。これはそのまま弥生時代でも当てはまる。 これは雑誌にはなくて、望月氏のツイッターから拾ったもの。尿瓶?そんなはずはないよね。わけわかんない。 これはテレ丸さんのツイートから拾ったもの。わけわかんない。 一般的にも「トロトロ石器」と名付けられているらしい。本来尖っていないといけない先が尖っていない。誰も傷つかない鏃だ。しかも、西日本の広範囲に渡って、ほぼ同じものが出土している。「かなり重要なものだったのではないか」と専門家の意見である。縄文早期に限られている。そうやって考えると面白い。 前から思っていたけど、遺跡って、字で名前つけるので、キラキラネームって多い。でも、編集人は100個も拾っている。ご苦労様。 多いのは、流石に甲信越、東北。私は近くの、岡山、鳥取、島根から採る。 【岡山】溝落遺跡 【鳥取】陰田隠れが谷遺跡、井図地中ソネ遺跡 【島根】面白谷遺跡、金クソ谷遺跡、アガリ遺跡、田中ノ尻遺跡 「金クソ」は、製鉄の際に出来る鉄鉱石のカスではあるが、知らない人にはインパクトがある。逆に、どんな土地なんだろうかと想像が膨らむ。面白谷は、ホントに私にもインパクトがある。なんでこんな名前? 名前の由来を深掘りしてもらいたかったが、無かった。次回に期待する。
2019年08月13日
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「ワセダ三畳青春記」高野秀行 集英社文庫 高野さんは昨年の今頃、数少ない私の「お気に入り作家」に昇格した。そうなれば、出ている文庫本の少なくとも8割くらいは読まなくては気が済まないのが、私の性分。恋でも本でも、原理は同じですね。これで7冊目。まだまだ道のりは長い。この本で、第1回酒飲み書店員大賞を受賞。読めばわかるが高野さんは全ての作品が名文なのである。読み始めると、直ぐに高野節に染まってゆく。 でも、家賃1万2千円の三畳間には別に驚かない。私は2年間、家賃1万5千円の「家」に住んでいた。学生時代ではない、社会人になってからである。1つのボロ屋を2つに仕切って、半分に住むのだ。こちらは1人、向こうは一回も顔を合わせていないが、おそらく4人以上の家族だった。私が使わなかった部屋はふた部屋もある。最後は畳がブヨブヨになったが、全くノープロブレム。途中で私の母親が亡くなったので、夜になると真っ黒い部屋の片隅をよく凝視した。一度も出てきてはくれなかった。 話がそれたが、ともかく高野さんは、私のような孤独な下宿生活ではなく、普通の冒険旅行と同じく変人と共になんやかんや起こしながら、11年間、元気に「生活」してゆくのである。思うに傑作だろうと思う。
2019年08月06日
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「図書」2019年8月号 さだまさしの連載もの(「さだの辞書」)では、長崎に伝わる幽霊話を紹介しています。「飴屋の幽霊」という話は、いかにもありそうなお話でおそろしいのではありますが、さだまさしの伯母が死に目に仲良しの親類の老母に報せに来たという話も書いていました。 それで、私が直に体験したことも思い出しました。昔のことなんですけど、まざまざと覚えているのは、それが私の中学の入学式当日の朝だったからです。 その少し前から、私の母は家を留守にすることが多かったのです。どうやら母の実母が危ないということで病院に通っているということだけは聞いていました。その日はそれでも私の入学式なので、母は無理して私の式に出る予定でした。朝食の時に、家の屋根の上で、カラスがかなり大きな声で三鳴き四鳴きしました。「なんか不吉じゃねぇ」と言っていた時に黒電話が鳴ったのです。母は急いで受話器を取りに行き、暫く話したあと、私に「式に行けなくなった。ごめんね」と言ったのです。泣き虫の母が涙も見せていないことに「悲しくないのかな」と思ったことを覚えています。「あれはおばあさんが報せにきたのかなあ」と家族の誰もが思いました。まぁ、何処にもあるような話です。 三浦佑之さんの「風土記博物誌」は、今回は各地に伝わる大男伝説の話。ちょっと近くの兵庫県の伝説は、現在現存する山がちゃんと比定されているので、機会があれば行ってみたい。 山室信一さんの「モダン語の地平から」は、なんと現代もある常用漢語は1921年から始まっているという話。漢字学習の効率化と新聞など活字を選ぶ職工の作業軽減などが求められたらしい。最初から1962字。かなり絞っていたことに驚いた。常用漢字表にない漢字は仮名で書くことにした。現在では2010年から2136字が用いられている。 それでも外語は入る。この時の外語は実は中国語だ。マージャンは1909年に初めて入ってきて、20年代に流行、「テンパる」「面子」などは今は意味は転用されて使われている。他には裏面工作の「工作」、「合作」、「下野」、「要人」等も。軍事用語として「改編」「改組」。とても面白い。外来語は特に近代はカタカナ語ばかりと思っていたけど実は違っていたのである。
2019年08月05日
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「生死の覚悟」高村薫 南直哉 新潮新書高村薫の転換点が阪神大震災だったということは聞いていた。そこで体験した「自分が死ぬということを覚悟する」ことが、その後の「晴子情歌」「新リア王」「太陽を曳く馬」の福澤影之3部作に結びつく。影之は高村薫の分身であったことを新書の中で告白している。そうやってみれば、生い立ちやライフストーリーは全然違うが、いくつか思い至るところがある。南直哉は、禅僧であり、道元の生き方の体現者である。どこから私淑したのかはわからないが、高村薫は彼を「師」と呼ぶ。びっくりしたのは、高村薫の小説作法である。「マークスの山」の水沢がフォークリフトを手足のように扱う様や、「柿照」の野田の熱処理加工管理の頭の整理の仕方など、もう自ら体験するほどに取材を徹底したのだとばかり思っていた。この「仕事」の描写が高村薫の魅力のひとつだった。ところが、高村薫は「現実の企業や組織を描くときに、現実だから迷惑をおかけしないように、直接の取材は絶対にしない」と決めているのだそうだ。信じられないが、どうもホントのようだ。南直哉は、取材もされていないのに、福澤影之が4ー5点にかけて自分とソックリで「小説のネタ元」疑惑をかけられたらしい。高村薫は、芝居ではなければ(^^;)、その事実をこの対談で初めて知り、大いに恐縮するのである。阪神大震災から13年間迷いに迷って、たどり着いた境地が、「太陽の」のラストらしい。期待して読みたい。南氏のいう。人は「死んで物体としての『死体』となり、あるときから『死者』となってあらわれる」という死の表現はピッタリくる。死とは何か。生とは何か。ここで、宗教の観点から展開される「オウム批判」は、決してメディアでは展開されていない部分だが、重要な部分である。直接言及以外、この本そのものがオウム批判になっている。内容全体が禅問答みたいなところがあるので、読む人を選ぶと思う。私は道元を体現したかのような南さんの境地に至りたいとは思わないが、唯一「(信じるとは何かという問いに対して)私は賭けだと思ってやっている」(126p)という説明には、納得するものがあった。私は私の信条が「絶対正しい」とは思ってやっていないが、やはり「これは賭けだ」という意識が何十年も前からあったからだ。「私は今、次の小説の準備もあって、ずっと歴史の本を読んでいます。中でも仏教の歴史を振り返るにつけ、日本人はこれまで「宗教」とどのように対峙してきたのか-ということを考えざるを得なくなりました」(122p)と言っているのは、まさに新著「我らが少女A」の話だろう。だとすれば、やはりかなり思弁的なお話になるはずである。先ず次に読むのは、「太陽を曳く馬」だ。暫く後のことになる。
2019年07月22日
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「99.9%は仮説」竹内薫 光文社新書90%は当たり前のことを書いているのに過ぎない(99.9%でない理由をこの後延々と述べます)。けれども何故この本を読む気になったのか?それはオウム事件死刑囚(故)広瀬健一の手記を読んだからである。広瀬が何故そこまで思いつめてしまったのかは、今はもう聴くことは出来ない。けれども彼は高校生から大学院生になるまで、ずっと「生きる意味」を探していた。「宇宙論のように、全ては無に帰してしまうのではないか。絶対的な価値はあるのか」と探し求め、いったんは無いと諦め、この早熟な知性はそのことにより「生きる意味」さえ見失っていたのである。ところが、たまたまの「宗教的体験」が「絶対的価値」だと勘違いしてしまったのが彼の悲劇の始まりだった。この本の題名で言えば、「0.1%」が麻原彰晃の言うことだと信じて仕舞えば、貴方でさえもポア(殺人)するのに、何の躊躇いも無くなるのかもしれない。私がそう思うのには、根拠がある。麻原彰晃に出会う前の広瀬のように「世の中の真実は、相対的でかつ不可知なのだからわかりようがない。変えようと努力することは無駄である。生きる意味もない」という諦めは、広く広く若者の中に浸透していると思うからである。この本のレビューを見ても、「全て不可知だ」で感想をまとめている人が多い。どうも竹内薫はそう言う考えに結びつく事を書いているようだ、と「仮説」を立ててみた。99.9%は仮説だから、思い込みで判断しないようにしましょう、と竹内薫は言う。「飛行機が何故飛ぶのか?実はよくわかっていない」という説明はとてもわかりやすく書いていた。「土地の値段は絶対に下がらない」という仮説が間違っていた、という説明は歴史的事実だからとてもわかりやすい。では、109-110pにこういう文章があります。「この世には『正しいこと』などなにもない」「時代と場所によって『正しいこと』は変わるのです」。相対性理論は視点の設定らしい。つまり「ある意味、諦めることが肝心なんです」。(190p)それを突き詰めると、著者は「誤解を恐れずにいうと、人殺しですらある意味では悪じゃない可能性がある」(199p)という「仮説」を立てます。「ある意味」という条件として戦争を引き合いに出している。しかし、反証手続きは一切やっていない。もしやろうとすれば、この本の倍以上の分量は必要(それでも反証は難しい)なので、「諦めた」のかもしれないが、私はものすごく「無責任な文章」だと思った。「世界は数秒前に誕生した仮説」を否定する証拠はないから、この仮説は有効なのだという(241p)。この本の1番の問題は、自然科学や物理科学と、歴史科学や経済科学(反証できないから科学と言ってはいけないと言っている)を、言っている端から「同じ土俵で」論じている点である。自然科学と社会科学を同じ土俵で論じてはいけない。これは論理的な問題であると私は思う。人は明日の天気を予測できるけど、明日のニュースを予測出来ない。こんな思想の竹内薫だから「戦争による殺人は許される」ということに結びつきかねない文章を平気で書けるのである。それは人間としての教養の問題だと思う。上で私が出した「仮説」は証明された。竹内薫は、「ホントに書いていた」。よって、この本を読んで納得した若者から「広瀬健一」が出てきても全然おかしくはない。私の仮説で言うと、オウム真理教よりも質(たち)がわるい本だと思う。竹内薫が広瀬健一にならなかったのは、竹内薫が広瀬ほどは真面目ではなかったからだ、という仮説さえ成立するかもしれない。私はそれでも世界を諦めたくはない。何故ならば、竹内薫ならば「諦めて」も全く生活に支障はないだろうけど、私の生活は諦めた端(はな)から壊されていくからである。私たちは、社会の全てに「優先順位」をつけて「白い仮説」を信じて生きていかざるを得ないのである。
2019年07月21日
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「悔悟 広瀬健一の手記」(朝日新聞出版) 高村薫の合田雄一郎シリーズ新作が出版された。「冷血」文庫化で予想した通りだ。それに挑むためには、未読の「太陽を曳く馬」を読まなくてはならず、そのためには最近の新書「生死の覚悟」も紐解かなくてはならず、その準備として高村薫が序文を寄せている本書を手に取った。 何故ならば、「太陽」はおそらくオウム事件を契機に書かれたものだし、その根幹には仏教の死生観があり、オウムの真実に近づくためには、やはり犯行者本人の肉声に触れておいた方がいいからである。 「(オウム犯人の死刑は)裁いた側にも裁かれた側にも大きな不全感をのこした。なぜなら、私たち一般社会の側は事件の本質が宗教行為であった事実に蓋をするほかはなく、一方の信者たちは宗教の側からの弁明がほとんど社会に届けられないまま、一般の犯罪者として処断されたからである」(高村薫序文より)「宗教の側からの弁明」とは何か? 主な構成は4pの自筆の「被害者への謝罪文」、約55pに渡る女学院大学生に対する「カルトへの入会防止講義」への冊子原稿、100p以上に渡る武装化の経緯を書いた手記(未完)である。いくら時間があったからと言っても、私は先ず、内容よりも先に、論理的に真摯に文章を書いている広瀬の知性に瞠目した。それが何故、この狂気の所業に結びつくのか? 重要な事を箇条書きする。 (1)高校生時点で「真理は何処にも無い」と、早熟な知性は諦めていた。 (2)大学院の時に、麻原彰晃の本を読んだ後に「宗教的体験」をすることにより、真理はあると確信してしまう。 (3)「ヴァジラヤーナの救済の教え」(救済出来ない人を呪殺し、仏国土に導引する)を実行することが使命になってしまい、ポア(大量殺人)もそのための手段となってしまう。 ザクッと書けばそういう経緯で、一連のオウム事件が起きたのだと私は理解した。「手記」は、しかし武装化、サリン事件、逮捕、獄中生活、脱会の経緯については書かれていない。昨年に死刑執行されてしまったたからである。「手記」の多くは客観的な教義批判になっていて、私はスルーした。しかし、「弟子の暴走説」と「洗脳で思考停止になっていた説」をキチンと批判していたのは貴重である。 この優秀な知性でさえ、ボタンを掛け違えれば、ここまでの事を犯す。そこには「カルトだから」の一言では済ませてはいけない内容があると思う。
2019年07月20日
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「自炊力」白央篤司 光文社新書 副題は「料理以前の食生活改善スキル」。よって詳しいレシピは無いけれども、応用出来るヒントがたっぷり。「料理をするのは今のところ難しいけれど、そりゃ食生活は少しでもより良いものに変えたい」人向けに書かれた意識改革の本。 私は、それよりもう少し意識はある方だとは思うが、面倒くさくて「まぁいいか」と思うこと多々。思ったよりも参考になるところがあった。以下に箇条書きで記す。 ・冷凍野菜食品の活用。なんと、生鮮野菜よりも栄養価高いことがある。でもパッケージの注意書きは絶対守る。 ・アボカドみたいな「ときめきの食材」を簡単料理にミックスさせる。 ・冷凍チャーハンにコンソメの素をお湯で溶いてかけて「スープかけごはん」にするのも美味しい。 ・スープはとても自由度の高い料理。何を入れてもいい。失敗しにくい。 ・何か食材が余ったら、まずは味噌汁に入れれば大体片付きます。肉や魚(鯖缶など)など、動物性のが入れば基本出汁を用意する必要もありません。 ・スープはコンソメ。クノールチキンコンソメはキューブ1つで水300ミリリットル。白菜、チンゲン菜、ほうれん草、豆腐、卵、プチトマトなど入れてオーケー。 ・より良い食材の選び方。ナス・ピーマンは表面がつややかでみずみずしいもの。カボチャは表面のデコボコがはっきりしているもの。キュウリは太さが均一なもの。ブロッコリーは淡い緑色でつぼみが硬く締まっているもの。 ・揃えたいものリストで私に不足しているもの。ボウル大小、軽量カップ、キッチンタイマー、スケール、おろし金、保存容器(130、480、1100)。 ・片栗粉のとろみつけは一対一で。 ・最初は豚しゃぶサラダがおススメ(切る、加熱、和えるの三行程があるから)。野菜を切って、肉を茹でて、ポン酢かドレッシングで和えれば完成。 ・冷凍庫常備菜は、きのこ類(石づき取って)、油揚げ(油抜きして切って)保存する。練り物類(スライスして煮物に利用)、ソーセージ・ハム・ベーコン(出汁要らずの味噌汁やスープに)、トマト(流水に当てれば皮がむける、スープに)に活用する。
2019年07月14日
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「ビジホの朝メシを語れるほど食べてみた」カベルナリア吉田 発行ユサブル発想は面白いので、リクエストしてまで借りて読んでみた。面白くなかった。行ってなんとしでも食べたいと思う朝メシが66軒中2軒しかなかったのが一つ。特色は朝メシそのものではなく、朝メシあるあるネタ集でしかないのが一つ。しかも、写真は美味しそうに撮れてはないわ、文章は素人のブログより品がない。しかも、東横インの朝メシが15軒。載せ過ぎでしょ。昔よりも改善されて感動したからといって、東横のポイントが貯まるからといって、何なの?「ビジネスホテル朝食評論家」と自負しているようだけど、「マツコの知らない世界」にだけは出ないでね。
2019年07月13日
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「遅読家のための読書術」印南敦史 ダイヤモンド社「ここで1つの結論めいたことを言っておけば、つまるところ、遅読家というのは能力の有無ではなく、読書の捉え方に由来しています。『本を速く読める人』と『遅くしか読めない人』がいるのではありません。『熟読の呪縛から自由な人』と『それにとらわれている人』がいるだけなのです」(扉表紙の裏側にあるリード文)まぁそうなのでしょう。特別な事は書いていない。私の関心は、この人はどのように本を選んでいるのか、ということぐらいだな。メモを書きながら読めば、数時間で読み切り、書評も書けるだろう、と見通しを立てる。読み進めるうちに、反感ばかり覚えてくる。著者は反感を覚えるような本は読まなくていいという。でも、ここまで読んで書評を残さないのも何だし、書評を残すならばきちんと根拠を示すのが礼儀というもんでしょ?著者は9割は「速く読める本」を選べという。でも、それは著者の書評家生活に特化する理由だ。あんたの生活に合わせる理由が私にはない。「速く読む必要がない本」はエッセイ、小説などらしい。根拠は「筋が重要だから」。バカ言ってんじゃない。小説は文体こそが重要なのだ。或いは細部こそが重要なのだ。この時点で、価値観がまるきり違うことが判明する。LGBTを生産性がないから不要だと言った政治家を思い出した。あとは冒頭のかなり詳しい目次を見たら、この人の書いた内容の大体は分かった。半分くらいは既に私が実践してることか、実践したいと思っていることであり、半分は私とは関係ないことのようだ。この時点であとの2/3は読むのよを止める。ここまで書きながら読んで掛かった時間は30分である。流石、素晴らしい!この調子で読めば、この人のように年間700冊は読めるかな(笑)。(追記)何でこんな本を選んだかというと、ブクログ書評を読んで興味を持ったため。直ぐに図書館に予約しました。印南さんじゃないけど、そういう本の選び方は重要だと思う。
2019年07月12日
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「図書7月号」岩波書店「図書」7月号が届いた。大きな本屋では無料で置いているところもあるので、読んでみてはいかがでしょうか。一般的に雑誌は7月号というと、6月初めに発行、7月には古くなっていることが多いが、「図書」の場合は正真正銘7月1日発行です。7月発売の本を宣伝する内容なので、当然なのかもしれない。今回目を引いたのは、特別寄稿ではなくて、連載ものでした。地味なのでしっかり読んでいなかったのだが、読むと楽しい。「漢字の植物園ln広辞苑」(円満字二郎)は、植物名の由来を述べていくというもの。「百日紅」を「さるすべり」と読み、7月から9月まで百日咲くからという説明は有名です。実際私は近所の花が何日咲き続けたか、確かめたことがあります。7月3日から10月5日までホントに百日近く毎日咲いていったので、よくぞ名付けたと感心しました。ところが、名前は中国由来なのですが、17世紀の「二如亭郡譜」によると、150日咲いていたらしい。「中国と日本とでは気候が違うからなのでしょうか」とは円満字氏。何故この名前になったのか不思議です。実は「猿すべり」も中国に「猿が登れない」という説明があるらしい。完璧に和名だと思っていたので、これも意外です。意外といえば、「合歓木」と書いて「ねむのき」と読む花。エッチな妄想が膨らみますが、元の意味は違うらしいです。私の好きな古代の話なのですが、三浦佑之「風土記博物誌」は、出来るだけ読まないようにしていました。何故なら、風土記の世界は、基本的に8世紀成立の文学であって、何百年も昔の実態からは歪められて表現されているので、あまり染まりたくはないのです。但し今回「ワニ」の説明で、「古事記ではワタツミ(海の神)の娘トヨタマビメがワニになって子を生んだと語られているように、ワニは、海の神が人の前に現れる時の姿と考えられていた」と書いているのは、諸星大二郎「海神記」を読んだ直後だったので、おゝとなりました。ワニは鮫のことですが、「海神記」では下関の一族は鮫の顎を兜代わりにしていました。諸星大二郎は、8世紀の風土記の世界を換骨奪胎して4世紀世界を作り変えたのだと改めて思いました。1936年映画「一人息子」で、当時の最先端の呼称で「ラーメン3つ」と台詞に言わせた小津安二郎は、戦後もずっと支那そばの呼称を続けたらしい。「支那」という呼称を巡って、6ページに渡り山室信一は「モダン語の地平から」で分析しました。憧憬が侮辱に変わる過程を解説した後で「憧憬と侮辱の間で今も捻れ続ける日中関係。その捻れを解(ほど)くためにも、言説の背後に潜む事実を確認し続ける他はない」と結ぶ。私も「支那は差別語だから、中華そばと言った方がいいですよ」とわかったような大人にはなりたくない。
2019年07月08日
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「書標6月号」「書標」と書いて「ほんのしるべ」と読む。丸善のカウンターに置かれている宣伝誌である。全国78の丸善ならびにジュンク堂書店に置かれている他、定期購読も受け付けているが、定期購読は年間1680円と高い。調べたら、なんと「全ての書標はweb版でも読むことが出来る」らしい。早く言ってよ。 ジュンク堂書店は、2015年に丸善と「合併」して、「丸善ジュンク堂」になったらしい。イラストレーターの佐藤ジュンコさんは2014年4月にジュンク堂を辞めているから、この事実上の吸収合併に反対して辞めたわけではないようだ。「書標」の後には、いつも佐藤さんの4コマが付いているから、余計そうだろう。 長い記事は無くて、無著名の本の書評・紹介が中心。ということは、本屋さん店員の書評だろうか?そういう「素人の本気書評」が私的には、嬉しくて、しかもチョイスが、売れ線がほとんど無くて、本屋さんが「発掘しました」感がたくさん出ていて、私には嬉しい。 丸善やジュンク堂で手に取るか、web版で読むか、オススメです。
2019年07月03日
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「ビッグイシュー361号」ゲット!今回の表紙は、私の生涯ベストのひとつである「パピヨン」リメイク版のかつてダスティン・ホフマンが演じたルイ・ドガ役をやるラミ・マレック。演技者としては、これで評価が定まるだろう。特集は「生きやすくなる方法」。リード文は以下の通り。なんとなく「空気」や「雰囲気」に引っ張られ、なぜこんなに生きにくいのか?と自問したことがありませんか? そんな「生き苦しさ」がどこから来るのか? を考え続けたのは、鴻上尚史さん(作家・演出家)だ。日本には「世間」と「社会」の二つの世界があって、基本的にあなたが「世間」に生きているから苦しいので、このことをわかれば生きるのが楽になると言う。また、なぜか、少し大人になれば「生きやすい」のにと思ったことはありませんか。そして、もはや「若者」ではないのに、どうすれば「大人」になれるのかと考えたことは?熊代亨さん(精神科医)は、「若者」をやめて「大人」を始めた頃の自分の体験を生々しく覚えている。誰もがいつまでも「若い」ままではいられない。あなたが「大人」を始めようとする時、何が必要なのだろうか?鴻上さん、熊代さんのお二人に、「生きやすくなる方法」を語ってもらった。鴻上さんはおそらく『「空気」を読んでも従わない(岩波ジュニア新書)』の中身をかいつまんで話したのだとおもう。実は私には「いじめた」のも「いじめられた」のも、記憶の中では認識はないのだ。どころか、同級生の中で、そういうことがあったのは、結果的にチンピラになって大阪に行って若死にしてしまった中学ニ・三年で同級だったYくんのことしか思い当たることがない。Yくんからは変に懐かれたが、付かず離れずの関係のままに終わった。大人になると、私はいろんな場面で戸惑った。そこで初めて生きづらさを感じていたのかもしれない。私の時代は、ちょうどムラ社会が音を立てて壊れて行く時代だった。音は聞こえなかったが、ムラと都会の両方の景色を見ながら育っていった。ムラという「世間」がなくなり、「社会」の中でも生きられず、新しい「世間」(スマホや会社)の中で流動化してるのが現代らしい。最近千歳楽の記事を巡って、千歳楽の地元の人からクレームのコメントが来た。いくつかやりとりをして、ある程度はわかってもらえたと思っているが、多分全面的には納得していないだろう。あれば、「世間」の話をしようとしているコメント主に対して、こちらは「社会」の話をしようとしたことから起きた軋轢だと思う。「異世代ホームシェア」の記事があった。とても魅力的だと思う。「今月の人」で、東京都のビッグイシュー販売者さんが、将来のことを尋ねられて「とりあえず、東京オリンピックの間、生活や販売ができるのかが心配。あとはもう、どうしたいと欲を言う年齢でもないかな」といっていた。まさか、そんなことが!と私などは思ってしまう。でも絶対にないとは言い切れない。販売者さんたちにとっては、ホントに死活問題なのだ。
2019年07月01日
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「五日市憲法」新井勝紘 岩波新書今からおよそ50年前、旧家の土蔵から未発見の自由民権期の憲法草案が見つかった。その時、最初に手に取った色川大吉ゼミ学生の新井勝紘氏は、その後50年ずっとこの憲法の研究に携わることになる。 明治の歴史を紐解けば、自由民権運動の創憲の時代は、近代日本でも数少ない下からの政治体制創出の時代だったと私は思っている。一年ごとどころか、数日ごとに民衆と政府との力関係は逆転し、最後にはまだ力の差が大きかった明治政府が欽定憲法を作って大日本帝国を築いてしまったのではあるが、ほんの数%は逆転の機会があったのではないかと私は思う。その時に、のちの日本国憲法よりもある意味民主的に徹底していた憲法草案を作ったのが、一つは植木枝盛の私擬憲法草案であり、それに次ぐのがもしかしたら五日市憲法だったのではないか。全体の構成は、立憲君主制、天皇と民選議院と元老院で成り立つ三部制の国会、三権分立主義の性格を持つ。これらは他の私擬憲法と同じではある。国民の権利保障と、行政府に対する立法府の優位性、国民の権利を周到に保障するための司法権の規定は、他を圧倒していた。「憲法は為政者を縛るためにある」憲法を作り始めた最初期、現在東京都あびるの市の片田舎で始めた小さなサークルが立憲主義の原則をキチンと法文に落としていた。彼らは、ここまでの高みまで登っていたのだ。現代の政治は、彼らに胸を張ることができるだろうか。文中に憲法草案全葉の写真と、付録として五日市憲法草案全文が載っている。現在では名前も知られている起草者の千葉卓三郎の生涯を如何にして発掘していったのかを、回想形式で書いている。とても読み易い。また近代歴史の研究指南にもなっていて興味深い。実際千葉の人生がここまで波乱万丈とは思わなかった。充分に映画化できる。また、憲法草案以外にもいくつかの文章があるようなので、「千葉卓三郎著作集」の刊行も可能なのではないか。新井氏の調査によれば、当時の自由民権の結社は全国で2189社である。会員は1万人を超えていたという。もちろん多くはない。しかし、当時の日本の人口が5千万人程度であり知識人は希少だったことを考えると、決して少なくもない。しかるに、現在の「9条の会」の数は7500団体を超えているといわれる。思うに、五日市憲法を現代に再び蘇らせる意義はあると思う。
2019年06月26日
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