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「津山三十人殺し七十六年目の真実」石川清 Gakken 本の書評そのものを書きたいわけではなく、35年来の念願であった「津山三十人殺し」の現場を見に行ったその顛末を書くことが目的である。 数十年前には、新潮文庫「津山三十人殺し」(筑波昭)がこの事件の(小説ではなく)実録書としては定番だった。ところが、紐解いた方にはご存知のように、事件の住所は大まかにしか書いてなくて、詳しい地図はない。また、現在では創作他、多くの間違いが指摘されている。この文庫本を読んだ35年前、私は2年間だけ津山に住んでいた。ところが、場所が全然わからない。当時地図検索なんて便利なものはない。実は職場の仲間に、事件のあった⚫︎⚫︎地区(昔は村としてひとつの自治体だった)から通ってる人がいた。彼の家にも何回か行ったが、一度場所を聞いたことがある。「此処とは相当離れているところだ」とだけしか言いわなかった。(実際車で10数分走らなければ辿り着かないところだった)結局それ以上は聞き難くなり、それ以降長い時間が経った。 1938年(昭和13年)5月21日の未明、津山の奥の小さな村で、青年が一晩で30人を銃や斧や日本刀などで次々と殺害した事件が起きた。1人の殺害者の多さでは、近年の京アニ事件(36人)までずっと1番を譲らなかった。世界的にも、個人の大量殺害事件としてはしばらく5番目の多さだった。何故そういうことが起きたのかは、論者が多くいて私の1番の関心ではない。問題は「八つ墓村」(横溝正史)にしろ、「丑三つの村」(西村望)にしろ、「龍臥亭事件」(島田荘司)「夜啼きの森」(岩井志麻子)にしろ、あまりにも多くの小説や映画に翻訳されてリアルな事件がわからなくなっていることだろう。せっかく岡山県に住んでいるのだから、実際の「現場」を見たかった。もちろんこれは単なる興味本位ではあるが、新たな憶測を広めることが目的ではない。よって、ウィキで調べたら簡単に住所はわかるけれども詳しい住所や行き方は示さない。むしろ、興味持った方は、それなりの「努力」をして「現場」にたどり着くべきだと思う。同時に遺族の心情を思うと、どんな理由をつけようとも迷惑でしかないことは承知している(もし「関係者」からの苦情があれば即刻削除します)。 おどろおどろしい「物語」から一旦自由になって、率直に「現場」に「立ちた」かったのである。私は、弥生遺跡巡りが大好きなのであるが、弥生遺跡はたいていは単なる広場である。しかし、私は博物館のジオラマよりも遺跡現場が好きだ。現場に立てば「発見」は意外に多い。その周りの景色、空気から「当時」を様々に「想像」できる。それは「現場」に行った者だけが味わえる「特権」なのである。 石川清さんはアメリカに存在した事件報告書を手に入れて3冊の「決定版」を書いた。そこには、犯人の実像がかなり追求されていると思う。石川清さんは〈結局は絶望した犯人の壮大なる「無理心中」である〉と、分析している(「京アニ事件」とその意味でも酷似している)。そこを深めるのが私の目的ではなかった。ただ「現場」を見たいのである。 というわけで、最近になって急速に進んだ研究書と普及書を二つ図書館から借りて、私はスマホでまずは近くの大字の辺りまで車で行き、そこから小字の「現場」まで、本を頼りに歩いて行った。 その感想は、次回に。
2021年08月04日
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「感染症文学論序説」石井正己 河出書房新社 近代日本文学揺籃の時期は、同時にさまざまな「感染症」が日本を襲った時期であった。感染症の歴史を学術的に書いた本は多く出たが、「史料としての感染症文学」という立場で研究した本は、おそらくこれが嚆矢だろう。感染症の実態が、公的な統計や記録からしか見えないとしたら、それは片手落ちである。人の営みの中でどのように感染症が描かれたかを知って初めてその「真の実態」がわかるだろう。文学はその最良のテキストのはずだ。 近代において出てきた(正体の分かった)感染症は「コレラ」「結核」「腸チフス」「疱瘡」「ペスト」「赤痢」「百日咳」「スペイン風邪」「梅毒」などがある。 「スペイン風邪」文学として志賀直哉の「流行感冒」があることは、私は一度取り上げたことがある。今回、小説ではなくエッセイとして与謝野晶子「感冒の床から」「死の恐怖」があったことを初めて知った。明治の世の中に向けて、母親の立場から筆先鋭く書いている。曰く「日本人に共通した目前主義や便宜主義の性癖の致すところだと思います」。盗人を見てから縄をなうというのは、正に現代のコロナ禍においてもあらゆる政治家がその性癖をあらわにしているだろう。東京と横浜だけでも一日に400人の死者を出していた時に「人事を尽くせ」と晶子は糾弾する。これは「社会連帯の責任」なのだと。忘れてはいけない。これは明治憲法下の大正時代のエッセイなのである。 正岡子規の結核は有名であるが、ずっとあれだけ人との接触が多い中で結核の伝染は無かったのか疑問に思っていた。子規は病気を理解して、食事を一緒に取らない、弟子が来てもソーシャルデスダンスをとって接する、栄養あるものをたらふく食って抵抗力をつけるなどの対策をしていたことが分かった。子規の周りでは、結核の伝染は起きなかったらしい。 一級の医者である森鴎外と娘の百日咳との戦いと経緯は、かなり詳しく、親としての心労とそれでも起きる判断間違いなどを分析して読み応えがあった。 総じて面白い視点の文学論だった。
2021年08月03日
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「時をつむぐ旅人 萩尾望都」NHK出版 番組を見損なった。萩尾望都大ファンの番組プロデューサー(秋満吉彦)が満を持して放つ100分de名著。番組よりも論者は更に加筆したようだし、論者たちをア然とさせたらしい萩尾望都ロングインタビューも完全版で載っている。番組観なくても、こういうムックで読む方がよっぽど役に立つ。 【内容】 『トーマの心臓』をよむ――小谷真理 『半神』『イグアナの娘』をよむ――ヤマザキマリ 『バルバラ異界』をよむ――中条省平 『ポーの一族』をよむ――夢枕獏 萩尾望都インタビュー ここで新たに提示されている萩尾望都論は、それなりに新しい視点ではあるけれども、驚くようなことは書かれてはいない。かつて80年代の初めに漫画評論誌「ぱふ」に於いて橋本治が「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」で指摘した時から、萩尾望都は文学評論の水準で語られてきた。まだまだ汲めども尽きぬ視点が出てくるだろう。 ここの論者たちが繰り返し指摘している視点がある。 「異端者」としての主人公=作者が、どうやって世間と折り合いをつけてゆくか。 「ここではないどこかへ」というのは、21世紀から出てきた萩尾望都短篇のテーマではあるが、それはそのまま萩尾望都の生涯のテーマであるというのである。 それはその通りだと思う。 じゃ、それは単なる「世間」なのか? というのが私の問題意識である。 それはもっと手強い「世界」ではないのか? 言葉にできない「世界」に対する不安。 それは同時に私たちの問題意識でもある。 萩尾望都が何度も読み返されるのには、理由がある。 小説では描けないものを描いているから、萩尾望都はマンガを描いているのである。と、インタビューで萩尾望都は明確にしていた。ネームの作り方は、最初は登場人物の心理状態も全て書くらしい。そのあと絵で還元できるものは全て削って、最後にうまく絵にならない部分が、あの夢のように流れる「モノローグ」として残るらしい。曲のない歌詞が歌ではないように、絵のない言葉はマンガではない。「悲しみの天使」という映画とヘルマン・ヘッセの小説に刺激されて「トーマの心臓」が出来たようだが、一度その両方を見て、私にも「トーマ」がつくれるか試してみたい(笑)。 論者たちの討論では、「イグアナの娘」のラストシーンに出てくる小さなトカゲの正体について、議論があったそうだが、インタビューではあっさり「それはお母さんです」と明かしている。ヤマザキマリは放送された番組を観てズッコケたらしい。この場合、娘とお母さんの和解は成立していたようだ。 その他、新「ポーの一族」で「アランは復活させます」とあっさり語っていたり、とっても重要なことをさらっと言っている。 萩尾望都を読んでいくために、新たに重要な本がまた誕生した。
2021年08月02日
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「藤子・F・不二雄のまんが技法」小学館文庫 「ドラえもんが世界をすくう」そんな日が必ず来る。しかもこの百年以内に‥‥そう信じています。 後書きにて、里中満智子さんは20年前にそう書いています。グローバル社会の現代、あり得るなあと思います。 実際ついこの前、中国で発見された新種の肉食恐竜に「のび太」の名前がつけられました。「エウブロンテス・ノビタイ」という。中国の研究者がドラえもんの大ファンだったのです。この本でも詳しく扱われている「のび太の恐竜」は、F・不二雄さんが思い入れも持って、しっかり調べに調べて、「まんが技法」を駆使して描かれたようです。少なくとも、既に古代生物研究者「世界」は「変えた」わけですね。 本書は、1988年子ども向けマンガ入門書として刊行された「藤子・F・不二雄 まんがゼミナール」(てんとう虫ブックス)を再構成して刊行された文庫本です。 ドラえもんのようなマンガを描くためのホップ・ステップまでを懇切丁寧に紹介しているので、子どもたちにも有用ではあるけど、「物語」を書いてみたいと思っている大人にも有用なアドバイスが、そこかしこにあるし、「のび太の恐竜」の始まりから終わりまできちんとその狙いや隠されているスパイスまで語っているので、この作品のファンならば楽しめること請け合いです。図らずも、マンガ入門の形を形を借りた、自らが語るドラえもんの魅力話になっていました。 私は、「ドラえもん」は掲載誌はかすっていないし、放映チャンネルは契約していなかったので、この国民的アニメの洗礼は全く受けていません。どうして「ドラえもん」が、あんなに人気があるのかわかりませんでした。だって、ドラえもんのポケットなんて、なんでもアリじゃないですか!その代わり、「オバQ」と「パーマン」は、今でもスラスラっと描けるほどの私の特技になっています。大好きなマンガです。「藤子不二雄」は、マイレジェンドとは言わないまでも、私の重要な作家の1人です。 特に興味深いのは、ドラえもんのアイテムの中には、マンガ技法「そのもの」がかなり使われていたということです。まぁF・不二雄さんはアイデアつくりにかなり苦労していたので、ストーリーにそういうとっておきの技術が反映されるのは当たり前なのでしょう。驚くのは、ここで紹介されている解説を読んで初めてわかるので、読んでいる時はマンガ技法を使ったな、とは思わせない所です。 ・時間を止める「タンマウォッチ」は、「俯瞰描写」の作例になっている。 ・「必ず実現する予定メモ帳」はシナリオ作りの基本。 ・「シナリオライター」で、目にみえるようにシナリオを実際に作って見せたりしている。 ・地図を貼り替えれば引越しができる「引越し地図」は、環境設定つくりで使える。 ・プロの漫画家を目指しているジャイ子は、のび太を観察してマンガを描こうとする。何度ボツになっても諦めない。「みんなもその意気を学ぼう」とF・不二雄さんは言います。 私的には、ともかくなかなか進まない時には「扉絵」を描けば、登場人物、構想、強調すべき点が整理できる、とアドバイスしているのがとっても参考になりました。小説的に言えば、「次号より連載開始を告げる作者の言葉」だろうか。創作する者にとって、一つのヒントになります。
2021年07月23日
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「国境のない生き方」ヤマザキマリ 小学館新書 ヤマザキマリ初めての自伝。文章は上手い。上手いのはマンガだけではなかった。音楽家のシングルマザーに育てられ、北海道の自然で成長し、イタリアで青春を過ごし、シングルマザーとして日本に帰る。10足のワラジを履いて、そのうちの一つで大当たり。でも日本に満足しない。 特異な体験がある。特異な視点がある。それを支える教養がある。卓越した文章力がある。一冊の自伝で終わらず次々と本を書いているのは当たり前だろう。 もう山ほど引用したいんだけど、適当なところで切り上げる。 ⚫︎(人間以外の生き物に出会うと)向こうから「あ、人間が来た」って目で見られたくない。一応、人間の袋はかぶっているけど「私はあなたたちと同じなんですよ」って、生き物と生き物として付き合える仲でいたい(21p) ⚫︎「ジャングル大帝」も「ニルスのふしぎな旅」と同じで、人間を素晴らしいものとして描いていない。(略)別に人間嫌いではありませんが、ディズニーみたいな人間礼賛、キリスト教的倫理観バンザイみたいな作品はどうも肌が合わないというか、惹かれない。(23p)古代ローマ時代においては、キリスト教もまだカルト新興宗教のひとつ。 ⚫︎(母親は)「他人の目なんて気にしなくていい」というのは、子供たちにはずっと言っていました。「他人の目に映る自分は、自分ではないのだから」(35p)。 ⚫︎(14歳のひとりヨーロッパ旅行は)私を根本から変えた。何より自分で考え、自分で判断することを覚えた私は、言われるまま、何も考えず何かを受け入れることができなくなっていました。(67p) ⚫︎イタリアの「ガレリア・ウプパ」というギャラリーで、討論の仕方を学んだ。「私はそうは思わない」と言うことは、別に相手を否定することじゃない。納得したい、相手のこともきちんと理解したい。対話というものはそこから始まるものでしょう。(83p)須賀敦子さんのイタリア・ミラノのコルシア書店に集う人たち(60年代)を読むと80年代の私たちと似ている。 ⚫︎同棲相手の破綻生活、屋台お店の倒産、借金、そして妊娠。もう死のうと思った。そして出産。そこでカーンと、ゴングが鳴った。マンガ「mini」に「彼女のBOSSANOVA」を描き、努力賞の10万円を貰って日本に戻った。(143p) ⚫︎背景で語る、絵全体で物語る。つげ義春さんがそうで、水木しげるさんがそう。だから、「プリニウス」はそれを目指した。1人じゃ無理だから、とり・みきさんを誘った。キャラクターを描くよりも、彼を通して古代ローマの闇の部分、人間の不条理を描いてみたいと思った。(168p) ⚫︎私にとって「失敗」は、ダメージ・ポイントじゃないんですね。失敗が増えれば増えるほど自分の辞書のボキャブラリーが増えるわけですから、「やっちまった」「しまった」と思って、またやり直しっていうのは、死ぬまでやっていいと思うんです。(略)そうやって失敗を繰り返しているうちに、やがて分厚くなったかさぶたがはがれる時が来る。「ああ、自分はカッコつけていたな」とか、薄皮が一枚一枚剥がれるみたいに余分なものがとれていった時に「ああ、失敗は、どれもいい経験だったな」と思える時がきっとくる。(174p) ⚫︎私はいずれ沖縄について、彼らについて描くことになるでしょう。(232p)
2021年07月21日
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「あの人に会いに」穂村弘対談集 毎日新聞出版 まえがき「よくわからないけど、あきらかにすごい人」に会いに行く より (対談の仕事が舞い込むようになって)「私は怖ろしいことに気がついた。もしかして、奇跡のような作品を作ったあの人にもあの人にもあの人にも、会おうと思えば会えてしまうのか。信じられない。でも、と思う」(その時に言いたいことは唯ひとつ、ありがとうございました、ということだけなのだ、でも、それだと対談にならないので)「溢れそうな思いを胸の奥に秘めて、なるべく平静を装って、その人に創作の秘密を尋ねることにしよう」←!!おゝそうだよね。私もその気持ちよくわかります。 よって、この場合の対談相手は多くない。 谷川俊太郎、宇野亜喜良、横尾忠則、荒木経惟、萩尾望都、佐藤雅彦、高野文子、甲本ヒロト、吉田戦車。対談期間は2013年年末から2015年。歌人の穂村弘さんは、読んだことないけど、ほぼ同年代の人でした。だから、彼のレジェンドの中に、萩尾望都と高野文子が居るのは決して偶然ではない。よって、私にとってのレジェンドの2人と、対談中味がとっても面白かった谷川俊太郎とのやり取りについてメモする。 (谷川俊太郎) ⚫︎(下からくるインスピレーションを受け取るには)植物が土の中に根をはりめぐらせ、養分を吸い上げるイメージです。 ⚫︎穂村弘 言葉の可能性を考え続け試し続けできた谷川さんという存在自体が言語ブラックホールのようになっていて、私の能力ではこの人を驚かせたり怒らせる言葉を見つけられない、すべて吸い込まれてしまう。 (萩尾望都) ⚫︎「24年組と言われる人たちも恋愛ものを描きましたけど、そのなかで「私は何を考えているか」ということを描いて、その延長線上で独特の世界観を持つ作品が生まれたということではないかと思います。」 ⚫︎「11人にいる」でまだ描いていないエピソードをネタバレしていた!!‥‥まだ性が未分化のフロルにお兄さんが行方不明になったせいで、お母さんがフロルに「男になれ」と迫って揉める話。でも恋人のタダと結婚したいので悩む。タダは大反対。フロルは「ぼくは男になるけど、タダが男の愛人になればいい」と提案して、ますます大反対するという‥‥。←おお!!なんという「現代的なテーマ」。発表するべきだ! ⚫︎(何故「トーマの心臓」のオスカーのような男がいないのか、と問われて)女の人はスカートの襞の数だけ細々と考えている。男がそのことをわからないのは仕方ない。オスカーは、半分スカートを履いているようなものだから、そんなボーイフレンドを見つけるのはちょっと難しいかもしれない(笑)。 ⚫︎(中編や長編のストーリー構成は、連載開始時から全体像が見えていたかと聞かれて)2作品「スターレッド」と「バルバラ異界」以外は全部見えていた。「バルバラ」は前後編、或いは4回の連載で描く予定だった。←やはり「ポーの一族」でアランが火事に巻き込まれていなくなるのは、最初から決まっていたのだ! (高野文子) 1957年生まれ。79年に漫画家デビュー。インタビュー時は「ドミトリーともきんす」発表直前。 ⚫︎16歳の時に萩尾望都のマンガを見て「天の声」だと思った。「こっちに来なさいよ」。 ⚫︎(「暗黙のルールと違うものが描かれていて攻撃されていたと感じていた」と穂村弘に言われて)「攻撃していたんですよ。マンガは攻撃しなきゃだめだと思ってやっていたんです」「やっぱりね、マンガは戦だと思っていたところがあるんですよ。でももう攻撃はやめたんです。「ドミトリーともきんす」はとっても平和なんですよ。」←何をおっしゃるか!十分攻撃的ですよ! ⚫︎←穂村弘からさまざまな質問をするけど、いつも想定外の言葉が出てくる。逆に穂村弘に長いことインタビューを始めるし‥‥。初めて美人顔を見ることができたし、想定通り想定外のインタビューでした!
2021年07月20日
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「REKIHAKU いまこそ、東アジア交流史」国立歴史民俗博物館編 国立歴史民俗博物館のお堅い研究雑誌「歴博」が、リニューアルされていた。これは今年2月に出された第2号。全面カラー、ムック体裁レイアウト、漫画や連載記事もある。けれども内容は紛うことなき歴博研究員たちの中間報告。 日本は韓国とは違い、国立博物館が質と量共に日本の博物館レベルの頂点にいる。それは地方の文化行政の質と財政がまばらで不足している、ということを示していて、豊富な展示と研究を両方兼ね備えるためには国の財政に頼らざるを得ないという事情があるのだろう。 そういうわけで、民族学博物館ならば大阪、美術と考古資料ならば東京、「歴史」と「民俗」ならば千葉県佐倉市にまで出向かなくては、日本最高峰の博物館に出会えないという、ある種不幸な環境下に私たちはいるのである。 特に歴博はその性格から、歴史民俗関係では、考古学含めて、日本最高峰の研究員が揃っている。残念ながら、上野国立博物館の考古資料は日本最高峰だけど、美術品として置かれていて研究はなおざりだ。ホントの考古学研究は歴博から始まっている。炭素14年代測定法も、ここから始まった。だからこういう雑誌は、日本最高峰の研究にいち早く出会える可能性がある雑誌というわけだ。 そういうわけで、最新研究の「窓」となっているこの雑誌をAmazonで買えるようになったのは、とても嬉しい。 ‥‥前置きはここまで。 博物館フェチなので、つい話が長くなる。 特集は「東アジア交流史」です。 「名もなき人々の小さな日朝関係史」という文章では、松田睦彦歴博准教授が近代の一時期、韓国南部に日本の漁村が大勢出漁していて、尚且つ長期入居していたことを明らかにしています。愛媛県魚島の漁村と巨済市一運面旧助羅里(クジェシ・イルウンミョン・クジョラリ)との関係です。国とはまた色の違う半世紀にわたる交流を紹介しています。南部には日本人村がたくさんあったということは聞いていて、一度探したことはあったのですが見つけきれなかった。今回住所がわかったので、機会があれば行ってみたい。 荒木和憲准教授による、中世の日本が自らの領土をどのように認識していたのか、という考察もとても面白かった。 今回より、博物館デジタルアーカイブ紹介の連載記事が始まった。私には関係ないけど、任天堂Switchのソフトにアーカイブ映画を貼り付けることができるらしい。その他、ほかの使い方は出来ないんだろうか。 それから、「くらしの植物園歳時記」では、見頃の花をいつも紹介してくれるのかな?ご存知かもしれないが、ここには「歴史的な」植物が豊富に揃っています。夏には、江戸時代に流行った「かわり朝顔」がたくさん展示されるはずだ。あゝも一度行きたいなぁ。佐倉は遠い。
2021年07月17日
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「闊歩する漱石」丸谷才一 講談社文庫 本書を紐解いた理由は2つ。ひとつは丸谷才一を批判するためである。後で詳しく書く。もうひとつは、たまたま電子書籍バーゲンがあって、諸処の条件をクリアして200円台まで値段が落ちたからである。スマホの学術書利用の練習としてピッタリと思ったのだ。 丸谷才一は、嫌いになりたい作家として長年筆頭候補に上がっていた。加藤周一の後継者の位置付けにある池澤夏樹が、文学評論の手本として丸谷才一と吉田健一を挙げていた(cf.日本文学全集)のが、どうしても納得いかなくてきちんと一冊本を読んでおきたかったのである。 私は「嫌い」と一言で済ませたくない。私はいわゆる陰口が大っ嫌いだ。子ども時代からこの方、思わず陰口を叩いたことは数えるぐらいしかないはずだ。必ず目の前にいないと人の悪口は言うまいと決めていたから、結局陰口の輪から離れることになり、それが結果的に私がイジメ現場を見なかった原因のひとつになっていると思う。それはともかく、作家や有名人の場合は、批評されるのを前提として人前に出ているのでその限りではない。むしろ、彼らは批評されてナンボなのだ。私は陰口ストレスを批評に転換して人生を渡って来たと言っていいかもしれない。よって、私は批評に情熱を注ぎすぎたのかもしれない。昔ガールフレンドは私のことを「結局、評論家なのよね」と「批評」したことがある‥‥。それはともかく(^_^;)、有名人を「嫌いだ」という場合、根拠をキチンと示すというのを最低ルールとして来た。低評価作品のレビューを長々と書くのは、そういうわけである。 文章が横道に逸れまくりですよね。 実は、コレが丸谷才一の文章の最大特徴なのである。 内容(「BOOK」データベース)は、このように本書を紹介している。長々と読んできて、実は書いていたことはこの約140字で見事に要約できていた。こんな本も珍しい。 夏目漱石の『坊っちゃん』は、あだ名づくしで書かれた反・近代小説。『三四郎』は都市小説のさきがけ。『吾輩は猫である』は価値の逆転、浪費と型やぶりによる言葉のカーニバル。初期三作をモダニズム文学としてとらえ、鑑賞し、分析し、絶賛する。東西の古典を縦横無尽に引いて斬新明快に語る、画期的漱石論。 丸谷才一は「おそらく初物の説になると思う」とこれから開陳する漱石論に自信を漲(みなぎ)らせている。確かに私は初めて読んだ気がする(初出は1999年から2000年)。20年経って漱石研究の分野で、丸谷説が現在どういう位置付けにあるのか、私は知らないし、興味はない。私の関心は、丸谷才一はどういう文学評論を書いたのか、ということだけだからである。 そうすると、「坊っちゃん」に対して、最初の頃こそ、坊っちゃんの物語で名前が与えられているのは「清」だけで、あとはみんな「あだ名」であるとか分析している。興味ないので簡単に書くと、結果的にイギリス文学で生まれつつあったモダニズム文学を、漱石はいち早く日本で展開していたのだと評価しているのである。その「根拠」として書き始めた「坊っちゃんと山嵐が赤シャツと野だいこをやっつけるくだり」が古代叙事詩のパロディ(擬英雄詩)であることに触れ、そこから延々日本と外国の擬英雄詩の伝統を100頁に渡って展開するのである。その古今東西の教養の広さと深さは、おそらく当時の知識人随一のものだったろうと思う。 赤シャツとのケンカで、「あだ名尽くし」が飛び出ます。そこから丸谷才一の連想は古今東西に飛ぶ。聖書は勿論、古事記、イリアス、枕草子、万葉集、平家物語、閑吟集、国姓爺合戦、義経千本桜、ハムレット、失われた時を求めて、ユリシーズ‥‥やがて言葉の列挙は「供ぎもの」だという考察に移ってゆくのです。自然主義文学が日本で起ころうとしていた時に、それに逆行する反19世紀文学を書いたと、丸谷才一さんは強調するのですが、そこに至る頃には読者は何がなんやらケムにまかれているという寸法です。 ひとつひとつの考察は、意表を突いてとっても面白いのですよ。面白いんだけど、たくさんの蘊蓄を語って結局何も聞かされていないという感想を持ってしまうんですね。丸谷才一の書きたいのは、漱石の反19世紀論(世界の構造)ではなくて、実は「そこから派生した枝葉」(世界の細部)なのだ。そう思う私は、意地悪なのか?ただ、そんなのを延々金を払って時間を取って聞かされる身になって欲しい。 丸谷才一の世界は、金と時間がある身だけが愉しむことのできる、高等遊民の世界であるという感想を、私は持つのである。そういうわけで、そんなに酷くはないが、やはり「私は丸谷才一が嫌いだ」という感想を持たざるを得ない。
2021年07月16日
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「図書2021年7月号」 今回読んだのは以下の諸編。 (1)蛇の末娘‥‥梨木香歩 (2)〈対談〉歴史学を「ひらく」‥‥吉村武彦・成田龍一 (3)猫とオリンピック‥‥柳広司 (4)魯迅の不安(下)‥‥三宝政美 (5)来し方行く末‥‥時枝正 (6)墓を買う‥‥長谷川櫂 (7)こぼればなし (2)は岩波書店「シリーズ古代史をひらく」完結記念対談です(1回目配本「前方後円墳」に関しては既に長い感想文を書いた)。文献学と考古学との関係など、興味深いテーマも語っていますが、対談増補版が岩波書店ウェブマガジン「たねをまく」に7月上旬より公開されるらしい。 (3)ホントはこちらこそ、全文ウェブマガジンで公開してほしい。そしたら、私は凡ゆる媒体で宣伝するのに!!3ページの短い文章。柳さんのオリンピック批判です。曰く「安倍晋三の嘘を前提に決定」「復興五輪が国策になったことで復興が著しく妨げられた」「何だかみんな〈目がイッチャッテル〉感じだ」「主催者すらもはや説明不可能」「どうやら五輪開催と書いてコクタイゴジ、或いはホンドケッセンと読ませるつもりらしい」「ローマ帝国末期と同じ発想、そもそもローマ帝国はその後ほどなくして滅亡している」「王様は裸だ」‥‥何処を切り取ってもキレキレの文章。是非読んで欲しい。 (4)魯迅が医学から文学へ鞍替えした契機となった「藤野先生」で描写された「試験問題漏洩事件」の真の経過と魯迅の意図を書いている。私は知らなかったので面白かった。 あとは省略。
2021年07月07日
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「萩尾望都と竹宮恵子 大泉サロンの少女マンガ革命」中川右介 幻冬舎新書 本書を絶版にして欲しい。理由は2つ。 (1)本書は昨年3月に発行された。著者は、ずっと秘密にされていた萩尾望都「一度きりの大泉の話」の経緯は当然知らない。そのせいもあり、本書には幾つもの重大な誤認がある。もはや訂正では済まないし、済ませるわけにはいかない。 (2)2人の名前を書名に冠し、「大泉サロンの少女マンガ革命」と副題につけているが、その副題は本書に書かれている内容とかなり違う。私は、大いに異議がある。 以下、詳しく述べる。 先ずは(1)について。 貶す前に、良い所について。 まるで百科事典のように、時系列と人物・作品の整理が完璧。良い資料になる。 (a)それを別の言葉にすると、本の資料だけに頼っているということだ。増田法恵に少しインタビューを試みたようだが、ほとんど何も聞けていない(彼女は少し嘘もついているかもしれない。そもそも、こんな不十分な取材で大泉サロンをテーマに本を一冊書こうとする方がオカシイ)。萩尾望都からは断られたのかもしれないが、竹宮恵子からも取っていない。大切な所は竹宮からの一方的な大泉サロン告白書「少年の名はジルベール」から採っていて、「大泉サロンとは何だったのか」に、全然答えていない。 (b)「はじめに」で著者は、「大泉サロンが目指したのは『少女マンガの革命』だった」と断定しているが、それは竹宮と増田の意識であって(←「ジルベール」を基に書くからそうなる)他のメンバーの「自覚」ではない。なのに「その『少女マンガ革命』の先頭に立ち、中心に陣取り、頂点に達したのが、萩尾望都と竹宮恵子である」と、萩尾望都が大泉サロンを主導したかの如く書いている。こういう「風の噂」が、萩尾望都をして「一度きり」を書かせた要因になったのだろう。「ジルベール」にも責任はあるが、中川のこの本は一定影響力を持つ(「手塚治虫とトキワ荘」を上梓してる)し、断定しているので、責任はこちらの方が重いと思う。本書の存在そのものが、要らない害を振りまいている。 (c)大泉サロンを解体し、萩尾が下井草へ行き、そこで「事件」があって体調を崩して、埼玉に行ったのは73年の初夏のはずだ。本書では74年春になっている。その萩尾望都の「重大な1年間」についての著者の「調査」は、限界はあったかもしれないが、はなはだ不十分である。 (2)について。 (a)「少女マンガ革命」とは何だったのか? それは「24年組」が開いたのだと断定する。24年組とは、1949年前後に生まれて少女マンガの変革を担った人たちのことである。著者も認めているが、自分たちで名乗ってもいないし、グループとして活動したわけでもない。評論家、ジャーナリストがそう呼んでいるだけだ。だからこそ著者は、大泉サロンは実態があるグループだとし、メンバーは固定できるから、それを中心にして本を書こうとしたのだろう。ところが、サロンは革命を目指したわけではない。メンバーの2人竹宮と萩尾がたまたま、変革に大きく力を果たしただけである。 (b)「革命とは何だったのか」。 著者は本の2/3を過ぎてやっと大泉サロンについて書き始め、最後の335pでやっと説明する。詳細は省略する。要はマンガの題材、テーマが広がり、表現技法も変化したということだ。その主体を著者はナント、竹宮や萩尾の他には、大島弓子、池田理代子、山岸涼子に求めている。全然大泉サロンじゃないじゃん!!!大きな変革は確かにあったと私も思う。しかし、本書では、それが起きた理由や主体者の詳しい解説は竹宮や萩尾以外はほとんど行われていない。 「大泉サロンの少女マンガ革命」というのは、大嘘の看板である。 以上が、本書を速やかに絶版にするべきだ、という私の主張の根拠である。トキワ荘について書をものした著者が、大泉サロンを第二のトキワ荘にしたいと勝手に目論んだのだろう。サブカル評論家の見栄の書である。
2021年06月23日
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「萩尾望都対談集2000年代編 愛するあなた・恋するわたし」萩尾望都 河出書房新社 河出書房新社は70年代、80年代、90年代と対談集を出しているのだけど、70年代の手塚や石ノ森等レジェンドとの対談は、内容が予想つき、その間は興味ある対談相手が居なかったので省略。本書は奇跡とも言える相手に恵まれた。 【目次】 ◆第1章 吾妻ひでお 「SF妄想世界の旅」 (2007) ◆第2章 よしながふみ 「やおいと純愛」 (2006) ◆第3章 恩田 陸 「萩尾作品は私の原点」 (2006) ◆第4章 庵野秀明+佐藤嗣麻子 「エヴァンゲリオンのその後」 (2000) ◆第5章 大和和紀 「少女マンガの黄金時代」 (2004) ◆第6章 清水玲子 「マンガ的美少年」 (2004) ◆第7章 ヤマザキマリ 「始まりは萩尾マンガだった」 (2014語りおろし) 特に、吾妻、よしなが、庵野、ヤマザキはとても興味深い対談になった。 以下私的メモ。 ⚫︎吾妻ひでおと萩尾が、ほぼ同年代、同時期レビューというのは新たな発見。仲が良い。さすがに吾妻もまだまだ元気で、対談後書きとして「バルバラ異聞」を描いている。この時は萩尾「バルバラ異界」がSF大賞を獲った直後で対談がメジロ押し。特に此処ではSF談義に花が咲いた。好きなSF映画は「ブレードランナー」だよと、萩尾は他の対談相手にも言っている。 ⚫︎「(萩尾望都は)一コマで3時間は妄想できる」と吾妻が驚いている。萩尾は、基本は結末決めて長編に取り組むタイプであると言ってはいるが、妄想が暴走すると、とんでもない処に行く。「バルバラ」はそのタイプで、成功したようだ(「スター・レッド」もこの対談集でそうだと告白しているので、しょっちゅうあるようだ。今度の「ポーの一族」続編もその可能性はある)。「バルバラ」は、まだ未読なので是非読みたい。 ⚫︎よしながふみの「きのう何食べた?」を、「一度きりの」で萩尾はかなり褒めていたが、この時は未だその連載は始まっていない。それでも初期の「愛すべき娘たち」から注目していたようだ。 ⚫︎「トーマの心臓」について「私、自分でも、いまは絶対に描けないと思いますね。いまは、『愛のために14で死ぬ』なんて考えただけで却下、です」との言葉は重要。少年愛への強烈な拒否反応がある。それでもよしながのBLは認めている。よしながは、「本当は同志的な話を(BLで)描きたかった」という。「女の子は、男の子との恋愛でも、本当は、男の子と同志的な関係になったうえで性的な関係になれたらいいと考えているけれど、男の子は女の子を基本的に性的な対象としか見ていないので成り立たない。だからボーイズ・ラブでは男性同士に変換しているんだと思います」。そう言えば、「何食べた?」も、そういう関係かも。 ⚫︎庵野秀明登場。。「お前ひとりじゃ対談に出られないのかよ!」というくらい、隣に2人共通の知人である佐藤嗣麻子(映画監督)が付いているのが異様です。新劇場版が始まる(まだ構想にない?)遥か前で、テレビ版の劇場版が終わって3年ぐらいした後の対談。萩尾はテレビ放映後にエヴァにハマっていて、オタクの庵野は当然萩尾のファン、であるのにも関わらず、2人の会話が噛み合わないことったらない(笑)。おゝ庵野って、凄い。 ⚫︎「ラストに5通りの方法がある」という萩尾に対して、庵野は「凄い」と感心して「紆余曲折の果てに再びようやく辿り着けた」と旧劇場版について言っている。 ⚫︎佐藤 庵野さんは、自分は大人だと思いますか。 庵野 子供じゃないですかね。(←その通り) 佐藤 私は、自分の親のことも大人だと思っていないんです。 萩尾 私は、親が大人でないことがすごく不満なんです。 庵野 僕は不満じゃないです。 ‥‥エヴァの内容から言っても、「不満だ」と続くのかと思いきや、丸切り順調な家庭関係を強調する庵野。うぅ佐藤の混乱が目に見えるようだ(笑)。 ⚫︎萩尾の長期連載「王妃マルゴ」が佳境に入りかけた頃のヤマザキマリ対談。歴史の話が主になっている。天然痘もペストも出てくるらしい。そういう視点から読んでみようかしら。(デュマ「王妃マルゴ」からイザベル・アジャーニ主演「王妃マルゴ」へ、そして萩尾望都「王妃マルゴ」へ) ⚫︎ヤマザキがとり・みきと合作している「プリニウス」の第3話で、ハチの死体をクローズアップした1コマに対して、とり・みきはまる2日かけてハチを描いたらしい。ルネサンス時代のブリューゲルは超サブカルで、そこから連想してこの話になった。対談集にはちゃんとその漫画のカットが載っていて、それを見ると「これがまる2日かけて描いたヤツか!」超細密で感動した。こういう絵こそが漫画の醍醐味である、と私は思う。決して芸術作品ではない。作品としては縮刷されて出回る。それでも、博物家プリニウスの漫画に「あって欲しい」絵なのである。漫画家は、現代の浮世絵師であると、改めて思う。 ⚫︎萩尾望都は、この時点では高圧的な父親と何事も禁止する母親との関係を、客観的に整理して語れるようになっている。正にこの30年間の彼女の作品は、両親からいかに離れてゆくか、が大きなテーマだったようだ。
2021年06月22日
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「自閉症の僕が跳びはねる理由」東田直樹 角川文庫 「自閉症」という言葉をそのまま捉えると、「自ら心を閉ざす病気」というように聞こえる。私も大まかはそんな理解だった。しかし、一つの映画をキッカケに本書を読んで認識は大きく変わった。 いまイギリス発のドキュメンタリー映画が、全国で順次公開されている。「僕が跳びはねる理由」(ジェリー・ロスウェル監督作品)。世界5人の「自閉症者」を取材して、東田直樹原作の内容を映像で「証明」した作品である。 ずいぶん前から東田直樹さんのエッセイはビッグイシューで読んでいた。それなのに、それは普通の若者の文章で、彼はどれだけ重度の「自閉症者」なのかを私は認識していなかった。 「大きな声はなぜ出るのですか」 「いつも同じことを尋ねるのはなぜですか」 「どうして目を見て話さないのですか」 「声をかけられても無視するのはなぜですか」 「跳びはねるのはなぜですか」 「どうして耳をふさぐのですか」 この数倍ある疑問のひとつひとつに、13歳の東田さんは「理路整然」と、自閉症者として答えている。そのこと自体が、私の見ていた自閉症者の実態が、その心の中では全く違っていたことの証明だった。私は間違っていた。 映画は、先ずは自閉症者が見る世界を映像として見せる。79pで東田さんは言っている。 「みんなは物を見るとき、まず全体を見て、部分を見ているように思います。しかし僕たちは、最初に部分が目にとびこんできます。その後、徐々に全体がわかるのです」 だとしたら、私たちの認識とは全然別のものになるだろう。そして世界は、なんと美しく見えるのだろう。部分が美しすぎて、それが気になって、隣の人の言葉なんか聞こえなくなるのも当然だ。 「(僕が同じことを尋ねるのは)みんなの記憶は、たぶん線のように続いています。けれども、僕の記憶は点の集まりで、僕はいつもその点を拾い集めながら、記憶をたどっているのです」 これは衝撃的だ。映画では、随分前のことがほんの一瞬前のように感じることを映像として見せていた。ベッドで飛び跳ねている場面に、海で嬉しくて全く同じように飛び跳ねているフラッシュバックがつくのです。脳がそうなっているとはいえ、私たちの見る世界とはやはり違う。 じゃあ知的思考はできないのか?できるということは、この本が明確に証明している。文字盤、やがてはPCのキーボードで、彼は思考も会話もできるようになったのである。東田さんだけが特別なのではない。映画では、アメリカの男女の幼友達が、かなり高度な会話をしていた。 自閉症についてどう思いますか? この質問に対して東田さんは以下のように答えている。少し長いが書き写す。教えなければ、誰がこの文章を13歳の男の子が書いたと思うだろうか?いや、そんなことが凄いのではない。私は、もしかしたら世界的に重要な哲学的発見を読んだのかもしれない。自閉症説明を超えて人類の本質を示唆しているのではいか。 「僕は、自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のままに生まれてきた人たちなのだと思うのです。 これは僕の勝手な作り話ですが、人類は多くの命を殺し、地球を自分勝手に破壊してきました。人類自身がそのことに危機を感じ、自閉症の人たちを作りだしたのではないでしょうか。 僕たちは、人が持っている外見上のものは全て持っているのにもかかわらず、みんなとは何もかも違います。まるで、太古の昔からタイムスリップしてきたような人間なのです。 僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっての大切な何かを思い出してくれたら、僕たちは何となく嬉しいのです。」
2021年06月17日
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「目でみることば」おかべたかし・文、山出高士・写真 東京書籍 ホントは面白い「謂れ」のある言葉を、写真をつけて「見る」ことによって、さらなる発見をもたらすシリーズ第一弾。おかべたかし・文、山出高士・写真。 興味深かったのは全40言葉のうち22。順番に並べる(言葉の意味解説は出来るだけ避けました)。 ・「阿漕(あこぎ)」 漕ぎ方のことではない。まさか地名だったとは! ・「急がば回れ」 和歌「もののふの矢橋の船は速けれど 急がば回れ瀬田の長橋」より。場所は琵琶湖です。 ・「ベーゴマ」 貝独楽のこと。バイ貝にそういえばよく似ている。 ・「うだつが上がらない」 左官修行した身としては、唯一ハッキリ分かった言葉。でも綺麗な写真見れて良かった。 ・「瓜二つ」 決して2つの瓜が似ているから、ではない。とは初めて知った。 ・「金字塔」 ピラミッドのことだそう。ということは、つい最近の言葉だよね。 ・「剣ヶ峰」 剣山のことじゃない。 ・「差し金」 (陰から人を操ること)元は文楽人形を操るための鉄の棒、或いは歌舞伎における蝶や小鳥の竿。 ・「試金石」 (人や物の価値を推し測る基準)えー!この真っ黒な粘板石のことだったの? ・「鎬を削る」 しのぎとは、刀の側面の1番高くなっている稜線の部分。先の面のことではない。コレを削る戦いって、どんな勝負? ・「勝負服」 服の色。競馬は馬によって決まり、競艇は枠順で決まる。 ・「図星」 弓の的の中心にある黒い丸の事。でも、「図星を射る」とは言わない。言うのは「正鵠を射る」。何故だ? ・「高飛車」 将棋で高圧的な態度でプレッシャーを与える戦法らしいが、勝率は良くないらしい。現実でもそうだよね。 ・「蓼食う虫も好き好き」 築地で鮎のツマとして800円で売っていたらしい。見ると、純粋葉っぱの方だった。ずっと赤い花のことだと思ってたいた。 ・「薹(とう)がたつ」 蕗の薹が立つことではない。花茎や花軸のこと。伸びると、野菜が硬くなり食用に適さなくなるから。そういえば蕗の薹が伸びるとそうなる。ブロッコリーもそうかな。 ・「灯台下暗し」 海にある灯台ではありません。知らなかった! ・「とどのつまり」 北海の海馬(とど)ではありません。オボコ→スバシリ→イナ→ボラ→トドの、詰まり、です。改めて、ボラは語源の宝庫。「いなせ」は日本橋の粋な若者が髪を「鯔背銀杏(いなせいちょう)」に結ったことに由来するそう。 ・「拍車を掛ける」 (物事の進行を早める事)乗馬靴のカカト。コレを脇腹に当てて馬を早く走らせる。可哀想。 ・「贔屓」 中国の亀に似た伝説の生き物で、重い物を背負うの大好き。(特定の人や物を可愛がる)そうか!アイツ亀じゃなかったんだ。 ・「洞ヶ峠」 京都八幡市と大阪枚方市の間の洞ヶ峠(ほらがとうげ)で、筒井順慶が秀吉・光秀の形勢を見守っていたことから出た言葉らしいが、実際にはそういう話はなかったらしい。同じ山崎の合戦系列ならば、天王山の方が現実味あり。 ・「もぬけの殻」 モノノ怪の殻ではない。もぬけとは、蝉や蛇の抜け殻のこと。 ・「埒があかない」 馬場の柵のこと。不埒は柵がないこと。なるほど! ‥‥全部書いていたら埒があかないので、此処まで。
2021年06月15日
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「禁忌習俗事典」柳田国男 河出文庫 面白かった事例をメモするとキリがないので、我が郷土に関する部分だけを記録する。いつか、話のタネになるかもしれない。 〈忌を守る法〉 ・「金忌(カナイミ)」阿哲。春分に近い戊(つちのえ)の日を地神の祭日とし、農耕は休み、鋤鎌などの金物を一切使用せず。 ・備中真鍋島では、忌小屋に女が入ることを山上がりと謂う。村は浜にあり、小屋はいずれも高い所に設けるからである。 〈忌の害〉 「産負け(サンマケ)」備前和気。 産の火に負けること。赤子祝い以前の家の者が漁の仲間に入ると、産負けして怪我をしたり、漁が当たらなかったりして人から忌まれる。故にこの祝いを早くすませて、世間を広くするという。 〈土地の忌〉 ‥‥今までは産血の忌が多かったが、ここではバラエティ様々。ホラー小説アイデアの宝庫(^^;)。 「袖もぎさん(ソデモギサン)」 薬師の辻堂のある処で、そこで倒れたら草履を捨てるか、または片袖をちぎって帰らぬと死ぬともいう(佐用)。 「縄目の筋(ナワメノスジ)」 岡山県では主にこの筋にあたる土地に家普請をすることを忌むが、或いはここで転ぶと病気になると言って、近寄らぬ様にしている処もある(佐用)。 この筋にあたる山々や尾根通りに、所々目立って大きな松があり、天狗が夜中に松から松へ飛び回る。これを天狗の羽音という。(備中吉備郡)。 普請するには何よりも先にこの筋にかかっておらぬか否かを確かめる(岡山歴史地理)。 「ナメラ筋」 縄目の筋を備前東部では魔筋、昔魔の通った跡という(邑久) 或いはナマムメスジまたは、ナメラスジといい、作州でもナマメスジ(久米)もしくは魔物筋という(苫田)。家作がこの筋にかかっていると病人が絶えぬといい、新たに建築する者は十分に警戒するのみでなく、単に通り合わせただけでも気分が悪くなることがあるといい、また化け物の出る処だと思っている者さえある。和気郡のそこの魔筋では、火の玉が通るともいう(岡山文化資料)。 「池鏡(イケカガミ)」 家の影が水に映る地形をいう。従ってまた川鏡も忌まれる。「神の正面・仏のまじり」という諺もこの地方にはあるという。仏のまじりとは墓場の後のことである(美作苫田)。 「物の忌」 ‥‥これもまた、バラエティ豊か。 「片目黒(カタメグロ)」 猫の一方の目のまわりは毛が白く、一方の目のあたりに色毛のあるものを飼うことを忌んだ(岡山方言)。 「忌まる行為」‥‥葬礼に関する忌が多い。つまり、葬礼には様々な作法があり、反対に平日ではその作法を絶対行わない様にした。そうやって、人びとは死の忌から注意深く逃れようとしてきたのである。 「一杓子飯(ヒトサジメシ)」 サジは飯杓子のこと。ヒトサジで盛った飯を食えば様々な悪いこと(継子にかかる‥‥つまり家族の何人か死ぬ等々)に遭うということ。此処で岡山の例は無いが、私はこれを一生涯守っている。ヒトサジメシは、お葬式だけにするもので、普段は必ず2回以上で盛らなくてはならない。と教わった。コレはいまだご飯を盛るという行為が無くならない限りは、日本全国で行われている言い伝えだろうと確信する。だよね?みんなしてるよね? 「一本箸」「一本花」 これも、お葬式の作法なので、平日は現代でも忌むのが普通。ただし、花を一本だけ立てるのは霊をこれに憑らしめる方式であって、古くは必ずしも葬礼の日だけに限らなかったのである。 岡山県に関する忌だけでも、ここまでで本書の約半分にあたる。書き出せばキリがないので此処で終わりにする。本書に選ばれた忌は多いが、それでもおそらく全国の忌行為の一部だろうと思える(箸の忌行為は多いが、此処には殆ど載っていない)。そのほとんどは、今は失われている。多くが、道具が無くなったり生産行為をしなくなったり又は科学的知識によって不要になったからである。反対に、新たな忌行為が出現している気がする。 「ラインにすぐ返事しないと悪いことが起きる」 「‥‥の家は祟られている」 「‥‥の道を一人で歩いてはいけない」 「‥‥をするとハゲる」 と、一部地域では言われている気がする。 100年前にはなかった忌は、ホントに、もっともっとたくさんあるだろう。 この100年で、 人の生活は大きく変わった。 人の気持ちは少しも変わらない。 だから、この本は3月に発行されて、決して安くはないのに10日で忽ち重版出来した。私もつい買ってしまった。
2021年06月14日
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「一度きりの大泉の話」萩尾望都 河出書房新社 「ひとつ屋根の下に作家が2人もいるなんて聞いたこともないよ。とんでもない話だ」(「少年の名はジルベール」より)1970年10月、萩尾望都、竹宮恵子の2人が一緒の借家に住む予定を、共通の編集者の山本氏に告げた時に、彼は上のように警告したという。 「あなたね、個性ある創作家が二人で同じ家に住むなんて、考えられない、そんなことは絶対だめよ」1973年5月、大泉で傷ついて埼玉に引っ越した時に、萩尾望都は木原敏江にそう言われたという。(本書167p) ‥‥結局はそういうことだったのだ。 その2.5年間。萩尾望都と竹宮恵子が共通の知人・増山法恵を通じて出逢い、増山家隣の二階建てのボロ屋に一緒に住みながら新しい少女マンガを描き始めた。その家はのちに大泉サロンと言われ、前途有望な若手漫画家が集ったことで知られている。その2.5年間(大泉サロンは2年間)、2人の才能は急速に開花した。萩尾望都は「トーマの心臓」の300pの習作を既に書いていたし、「ポーの一族」のシリーズ連載を始めていた。竹宮恵子は「少女マンガに革命を起こす」戦略の下「風と木の詩」連載を勝ち取るために、頭の固い編集局と闘っていた(連載開始は1976年)。次々と新しい少女マンガ雑誌が創刊され、健康な学園ものやスポーツもの、可哀想な少女だけが描かれる時代ではなくなっていた。2人の作家が目指す作品は、その編集者の思惑の遥か前にあった。そこでは、頭のいい竹宮が、天才肌の萩尾を、憧れ畏れ妬む要因も産まれていただろう。 「少年の名はジルベール」には、竹宮の嫉妬心理は詳細に告白されているが、実際に何があったのかは曖昧にされた。本書で、その具体的な経緯が初めて明らかになった。事実経過は2人とも同じことを書いている(そのあと派生した噂の真相については別)ので、2人が決別した契機は本書に書いている通りだと思われる。 決別は大泉解散の後、竹宮が萩尾の「ポーの一族」の「小鳥の巣」の第一回連載を見て、竹宮が公然の秘密にしていた「風と木の詩」の設定をパクったと非難したことがキッカケである。数日後竹宮は萩尾宅を訪れ「あの日言ったことはなかったことにして欲しい」と言った上で「距離を置いて欲しい」という意味の手紙を置いて帰るのである。全く意味がわからず、その後萩尾は心因性ショックの貧血で倒れ視覚障害を起こし入院する。 盗作かどうかは、普通のマンガファンならば簡単に「違う」と言えると思う。明らかに全く違う作品だからだ。ただあの頃の萩尾作品は、大泉の環境がなかったら(特に増田法恵の影響がなければ)生まれなかった事も確かである。それにしても「小鳥の巣」が、そんな悪条件で生まれたとは思いもしなかった。私は既存「ポーの一族」シリーズの中で最高傑作だと思っている(詳しくは「ポーの一族復刻版(3)」のマイレビューを読んで欲しい)。「盗作とは認めさせない」という緊張感がかえって良かったのか? そのあと、萩尾はこの出来事を永久凍土に埋めて封印した。竹宮と増山には極力出会わない様にしたばかりか、竹宮の作品は一切目に触れない様にした。竹宮を恨み、自分が暴走することが怖かったのである。今回一旦解凍したのは、「ジルベール」の為にあまりにも周りが姦(かしま)しくなったからである。 少女同士ではよくある、気持ちの行き違いによるケンカだった気がする。問題は、2人は少女マンガ界を代表する漫画家だったということだ。竹宮はそのあと、スランプから脱し自分のスタイルを確立し念願の「風と木の詩」も勝ち取り、次々と代表作品を発表した。自己肯定感薄い萩尾は一時期漫画家を辞めるかどうかを逡巡し、画風を変えて漫画家として生きることを決心する。私は、基本的には竹宮恵子の拙い嫉妬が原因であり、彼女が悪かったのだと思っているが、萩尾望都が後になって分析しているように、人間関係には理屈の通らない「排他的独占領域」というものは確かにあり、その地雷を踏んだ萩尾が、二度と踏まない様に3人の関係を修復させる意思を持たない決心をしたというのも充分に理解できるところ。トラウマは何年経っても治らない。 だから、私は萩尾望都には「そのままでいい」と言いたい。もう決して大泉時代を語って欲しいとは言わない。いや、語ってほしくない。このまま無事に「ポーの一族」完成を目指して欲しい。改めて言っておきたい。萩尾望都、貴女は天才です。 けれども、2人の著作で70年代初めの新しい少女マンガ揺籃期の内実が分かったことは、大きな収穫だったと思う。 本書は資料的な価値も高い。 傷心のまま英国語学留学していた時に、全て1人で描いた「ハワードさんの新聞広告」は、いろんな意味で貴重な作品だったことがわかった。原作付きの作品だったが、何処から見ても萩尾望都作品になっている。特に「知ってるでしょ ただの子どもはみんな飛ぶんだ」と言いながら消えてゆくジルの姿は、その数年後の「ポーの一族」エドガーの先駆形である。 今回、10数ページも、「トーマの心臓」と「ポーの一族」の未発表のクロッキー帳画が出ているのも貴重である。 2021年6月7日読了
2021年06月10日
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「少年の名はジルベール」竹宮恵子 小学館文庫(電子版) 本書を読む理由はひとつだけ。萩尾望都が今年4月『一度きりの大泉の話』を刊行したからだ。70年の始め、少女マンガが急速に変化した時代。伝説の「大泉サロン」で何があったのか?竹宮恵子と萩尾望都の言い分が大きく違うという噂が、現在駆け巡っている。そのことを確かめたかった。 今、萩尾望都の本は手元にあるが、1頁も開いてはいない。五年前に竹宮恵子が本書を書いたのだから、おそらくそれが今回の「事件」のキッカケなのだから、こちらから先に読まなくてはならないと思ったから。ただ70年代の萩尾望都作品は、おそらく(全集で)全部読んでいるけど、竹宮恵子作品は1割も読んでいなかった。私は基本、萩尾望都ファンである。それでも私は感情に囚われず、書いている事によって「事件」を判するだろう。その判断自体は次回になる。今回は、それ以外に発見したことをつらつらと書きたい。 本書の電子版限定参考作品集を見て改めてビックリした。竹宮恵子と萩尾望都の絵柄は、72年ごろまでは双子のように似ている。特に目や鼻の描き方はそっくりだ。萩尾望都が始めたと認識しているコマ枠を外して時の流れを描く手法も、竹宮恵子は『ファラオの墓』(74)で早々と使っていた。竹宮恵子も書いているが、「マンガ(技術)はオープンソース」なのである。萩尾望都の画には、それでも誰も追随出来ない個性があった。竹宮恵子には何があったか?しっかり読んでいないので言い難いが、本書で語られている所で類推すると物語の構成力と、(盟友増山法恵の影響もあるだろうが)プロデュース力にあるだろう。尊敬する漫画家が石ノ森章太郎というのも宜なるかな(反対に、萩尾望都の尊敬する漫画家は手塚治虫だった)。 そして、私は実は今回初めて知ったのが「大泉サロン」である。大泉のボロ屋に実質住んでいたのは竹宮恵子と萩尾望都の2人だけで、その意味ではトキワ荘とは全然違うのであるが、一階が若手の少女漫画家の溜まり場になっていたのである。坂田靖子、花郁悠紀子、ささやななえ、山田ミネコ、たらさわみち、城章子、伊東愛子、佐藤史生、高橋亮子、山岸涼子、もりたじゅん、などキラ星の如く名前が挙がっている。ささやの様に半年居候する者もいれば、手伝ってくれる漫画家卵、あるいはダベリに来る者。正にサロンである。なるほど、此処を膨らませば映画にも出来る。たった2年間だったが客観的に大泉サロンの少女マンガ世界へ与えた影響は大きかっただろう。 竹宮恵子と増山法恵は明確に「マンガで革命を起こす」という目標のために動いていた。この本には異常なほどに萩尾望都の台詞がない。いつもニコニコ笑っている、とある。70年代始め、少女マンガに何が起きていたのか。私は73年から83年にかけて、リアルタイムでそれらマンガ群を読んでいたが、本書には70年から76年ぐらいのことが、かなり詳しく語られている。その時々の会話を、テープに記録していたかの如く再現している。その記憶力は、驚嘆に値するだろう。幾つかのすり合わせは必要だろうけど、間違いなく、時代の証言だろうと思える。彼女は末尾にあの時代を一言で現している。やはり頭がいい。「駆け足で通り抜けた季節の熱い風であり、咲き誇る花であり、光る刃だ」 ひとつ、竹宮恵子のために特筆しなければならないことがある。現代は良い意味でも悪い意味でも、BL(ボーイズラブ)マンガの最盛期だろう。その少年愛マンガの嚆矢となった「風と木の詩」は、76年に連載開始ではあるが、その冒頭50pのラフ原稿は71年に完成していたのである。かなりの産みの苦しみを経て、少女マンガにおける少年愛マンガが出来上がったのだ。私の興味はともかくとして、その功績は計り知れないだろう。 2021年6月4日読了
2021年06月08日
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「図書2021年6月号」 表紙は、司修さんが大江健三郎「同時代ゲーム」の「神話の森」を目指して高知から愛媛に至る旅の夜にみた夢。種明かしは、大江健三郎の息子大江光さんが、薄雪で姿を変えた森の上の青い空で笑っているところらしい。題名は「生まれて初めて見た笑顔の夢」。 今回読んだ諸篇は以下の8編。 壮大な物語群との出会い(森見登美彦) 「痛勤」のゆくえ(高嶋修一) 恐怖と不安が私を呼んだ(大前粟生) 他所者の神戸(尾原宏之) 『荒地』のインフルエンザ(赤木昭夫) 〈「荒地」はスペイン風邪を扱った文学らしい〉 自分らしさ(畑中章宏)シリーズ6 〈めちゃくちゃ面白かったが、省略する〉 変なりに辻褄は合う(時枝正)シリーズ12 〈おそらく10年前の赤ちゃんの言動。子育てしたくなる〉 こぼればなし(編集後記‥‥webで読めます) 〈『岸惠子自伝』を1pかけて紹介〉 高嶋修一さんは「通勤」の社会的弊害と歴史を隈なく解説している。少し紹介する。 冒頭、去年のコロナ禍で中止になった幻の講演宣伝文を紹介している。 「(大都市の人々が)1日2時間通勤に費やすとして12年勤めれば、通勤時間はまる一年になり、一般的なサラリーマンは定年までに約3年を満員電車の中で過ごすことになります。コレは18世紀に太平洋を渡った奴隷船よりも人口密度が高い空間で、当時の奴隷よりもはるかに長い時間を生きていることになります」 都市計画を含むインフラ整備が、抑制的で、それを現場の従業員や利用者の頑張りによって補うという仕組みは、戦前も戦後の高度成長期においてさえも基本的には同じであったことに驚いた。 ‥‥皮肉にもコロナ禍で現在は通勤ラッシュが軽減しているが、コロナ対応そのものが、この「仕組み」そのものを踏襲していることに私は気がついた。 つまり。PCR検査もワクチンも進まないけど、医療者の頑張りと国民のひたすらの『我慢』に期待して、社会が回っているのである。
2021年06月06日
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「唐古・鍵考古学ミュージアム常設展示図録」 編集・ミュージアム 発行・田原本町教育委員会 藤田三郎執筆 平成30年(2018年)5月発行 72p オールカラー 比較的遺物説明は簡潔。 それらは、特別展示会に任せるのだろう。 代表的な遺物の写真があるのが大きな特徴だと思われる。 大きな見所は、最盛期の唐古・鍵遺跡の俯瞰図が二つあること、 豊富な弥生絵画土器の展示 道具や生活用品の作成ジオラマ (機織・スキや打製石器作成)の他、びっくりしたのは藁を編んでいるジオラマがあったこと。コレは見たことなかった。考えれば、そういうものがあって当然なのだ。 唐古・鍵遺跡周辺遺跡の地図(遺跡巡りに貴重) 唐古・鍵遺跡の歴史 纏向遺跡ができるのに、スライドして環濠の埋没があり、しかし集落そのものは継続して20-40年後にまた環濠の再開があったと述べる。コレが最新の研究。
2021年06月05日
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「海に生きた人びと 漁労・塩づくり・交流の考古学」大阪府立弥生文化博物館 平成29年度(2017)秋季特別展図録 109pオールカラー 塚本浩司その他執筆・編集 〈ホモ・サピエンス、海を知る〉 原生人類は20万年前に誕生した。8万年前に「脱アフリカ」を図った。大きなルートのひとつとして、バブ・エル・マンデブ海峡を通ってアラビア半島に至る道がある。それでも11キロの海を渡るためには舟を利用しなければならなかった。それから更に4万年後人類は日本列島に至る。海面低下はあったが、対馬海峡も津軽海峡も陸地化せず、琉球列島も大陸とは繋がっていなかった。つまり旧石器人は、航海者だった。特に大陸と陸続きだった台湾から宮古島を経て沖縄本島に渡るのは、かなりな困難がある。偶然の漂流は考え難い。複数の男女の移住が絶対条件だからである。 何故渡ったのか?その社会的・経済的理由は明らかではないが、 「探究心」という〈本能〉は無かったのだろうか? 舟は何処まで発達していたのか? 〈縄文時代〉 縄文海進によって、良好な漁場が増えた。 その規模で、加曽利貝塚も遠く及ばない中里貝塚(東京都北区・中期後半)がある。遺物の出土が殆どない。大型の貝加工工場だった。海岸部と内陸部との交易、地域間での分業の発達があったことを物語る。 〈海民〉 モリで大物を狙い、柄は突き刺さると離れる。誉ある男の所有物だったろう(表紙参照)。ヤスは柄が固定された突く道具。 縄文人はイルカ漁もしていた(横浜市称名寺貝塚)湾内に入り込んだイルカを、浜辺に追い込んで捕獲した。大型の鹿角製の鉤引式モリ頭が活躍した。他にもカジキやマグロ、スズキ、クロダイ、サメなどを獲った。 網漁もしていた。石錘と浮子(うき)の出土で判明。魚はカロリーは高くなく、食べれる人たちは階層が高い人たちだった? 〈製塩〉 海水には塩分3.4%。海水濃度を上げる(採鹹)。煮沸して結晶化させる(煎熬)。更に不純物を含むので水分を吸収して解けるのを防ぐために土器に入れて加熱することもある(焼塩)。 藻塩焼く、は不効率。製塩土器が縄文時代より始まる(宮城県松島湾沿岸・後期後葉) 重要な指摘がある(22p) 縄文時代、塩分は動物や海水を調理に使うことでも取ることができた。魚や貝を大規模に塩蔵加工するには量が少ない。 塩のネットワークの意味は何か?社会的な意味があったのではないか? 人類学的考察で、塩で固めた祭祀道具があったのではないか? それは弥生時代でも可能だろう。 〈弥生時代〉 〈北部九州の海〉 九州型石錘(楕円形に整形、孔や溝を掘り込む) 潜水漁が盛ん(魏志倭人伝)アワビオコシ有り(壱岐・北部九州・山陰)クジラ製のアワビオコシ(菜畑遺跡) 中期は勒島が交易中心、中期末から後期に原の辻遺跡へ(伊都国と経済的にひとまとまり)、終末期は福岡市西新町が国際港へ 〈船を大きく〉 縄文時代(刳り船)→弥生(準構造船) 竪板タイプと貫型タイプ 伊都国糸島市の井戸転用の板は6メートル(縄文時代と大差ない) 大阪府久宝寺遺跡(竪板)12メートル 櫂を使って動かす。しかし、日数をかけた航海では食糧・水や休眠のための港は不可欠、港のネットワークの発達で、海上交通に基盤を置く権力者も出現し始める。 〈昔も今もタコが好き〉 弥生時代からタコ専用の壺漁は始まり、飯蛸用と真蛸用の壺があった。 最古の壺は池上曽根遺跡(中期前葉)ここから西へ広がる。大型建物近くの土坑からまとまって出土も。祭祀道具? 〈北海道の海〉 北海道伊達市有珠モシリ遺跡から南の島でしか採れないイモガイの貝輪が出土した(続縄文時代)。同じものは長崎県佐世保市宮の本遺跡から出土。琉球から九州を経て北海道まで行く。南の島への憧れ、があったのか? 〈北海道だけではない〉 九州にはたくさんの南の島の貝製品が出土する。九州の人たちが、何故南の島に憧れるのか?もっと豊かな〈物語〉があるはずた。おそらく種子島がその貝交易の中間地点だった。実に豊富な貝製品がある。貝輪だけでなく、現代でも綺麗な貝符(イモガイを板状に加工、500点以上出土)がある。中国式の文様もあり、穴を開けて衣服にしばりつけていた。 〈弥生時代の製塩〉 水田稲作の時代に塩の需要は増加する。 専用の製塩土器を使い出したのは、児島半島の中期後半からだった。当時は児島は島だった。 製塩土器はしっかりとした脚台を持つボール状の台付鉢からやがて、ケズリによって表面を整形したビールグラス形(熱効率良い)になる(中期中頃)。終末期には、タタキで更にスマートに。吉備から後期後半になると、大阪湾南部紀淡海峡辺りで塩作りが本格化する。吉備から単純に技術を受け入れたのではなく、自主性もある。吉備はタタキ手法はここから採ったか? 作り方は、海藻を使って濃縮した海水を土器で煮詰める。少なくなれば、継ぎ足して行く。内面にびっしり塩がへばりつき、塩は明るい色に変色している。無駄なく取り出そうとすれば、壊すしかない。 塩の力は、終末期の国々の力関係をどう変えたのか?塩の交易のために、吉備は軍隊を持たなかったか?ホントは鉄よりも塩のために西日本の統一がなされたという説はあり得るのではないか?むしろ弥生終末期に、備讃瀬戸と淡路、大阪南部にしか製塩土器が見つかっていないのが意外だ。交易に使う塩はそれなりの技術と知識が必要だったのだ。 ヒトは1日5グラムの塩を必要とす。仮に500人の国で、半分の製塩が必要とすると、1日1キロ以上の買い取った塩が必要となる。1か月で30キロ。だとすると、塩はその時調味料ではない。クスリだ。国の力が弱まっている、その理由を塩にあると知った為政者は、何をもってしても塩を求めたのではないか? 更には馬は1日40-60グラムの塩を必要とするという(運動すれば100グラム以上)。弥生時代に馬はいないが、もしいたならば? 古墳時代以降は割愛する。
2021年05月30日
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「マナーはいらない 小説の書きかた講座」三浦しをん 集英社 いつかは弥生時代を背景とした大河小説を書きたい。そんな野望を持っているが、25年間一つも書けていない(泣)。そんなこんなで、藁をもすがる気持ちで紐解いた。文章教室的な本は幾つか読んだが、「エンタメ小説」指南書は初めて。忖度無し、コレは思いもかけず1番参考になる本だった。 しをんさんは「推敲に推敲を重ねよう」と言っているので、感想代わりに、最近このブクログ欄で原稿用紙約9枚のレビュー代わりの小説を書いたので、それを推敲してみようと思う(長さ問題があるので、引っかかった部分だけ)。 「白銀の墟 玄の月(3)十二国記」小野不由美 新潮文庫(20年5月6日) を、検索してみてください。これは、小野不由美女史が創り上げた「十二国世界」の、「創世記」を私流に「でっち上げた」お話です。つまりテーマは、大胆無謀にも、私流の「十二国世界観」です。 〈人称問題について〉 短編なので、一人称は正しかった。本当は主人公はキャラ立ちさせるべきなんでしょうが、長くなると問題なので、便宜的に中国秦国の官僚で記録官「中書令」の犀子(創作)を語り手にしてしまった。上手くいったと思います。大河小説ならば、三人称単一視点も試してみようかな。 〈比喩表現について〉 頭いたい。そもそも、もっと膨らまして9枚→100枚ぐらいには、するべき内容だったと思う。よってするべき比喩はほとんどできていません。でもそんなに長くなったら誰も読んでくれない!!あ、ごめん。この小説は〈小説〉と言ったけどホントは〈プロット〉というべきでした。誰か、これを原案に小説に書いてくれないかな。その前に小野先生に読んでほしいな。因みに三浦しをんさんは、新刊発売直後は感想検索しているみたいです。・・・なんか、「推敲」と言いながら「自己満足」と「言い訳」ばかしだな。 〈セリフについて〉 主な登場人物は3人で、喋るのは主には2人なのだから、此処で出ている「どの様な人が喋っているのか、誰が喋ってるか」技巧は難しくありません。むしろ気がついて欲しいのは、秦国の丞相である李斯は、最初はお尋ね者盧生を呼び捨てにしていますが、セリフのやり取りの途中、相手の正体に少し気がついてきて敬語を使い始めます(少し自慢)。‥‥だけど、繰り返しますが、構成からいってもホントは100頁半分をかけて李斯と盧生の関係を描くべき作品です。あゝ枚数が! 〈取材方法について〉 大変参考になりました(最大限ツテを利用、相手の佇まい・口調に注意)。‥‥でも、ホントは25年間ずっと取材しているようなもの。 〈高揚感について〉 しをんさんは、本の1/5ぐらいを使って映画「ハイロー」論を展開していて、ちゃんと高揚感の手本を見せてくれています。本来なら、私も映画を観た上で本書評を書くべきなんでしょうが、アマプラ無料にはなっていなくて断念しました(^^)。「青臭いセリフは小説だからこそ生きてくる」‥‥案外小説を書くには高揚感は必要なことなんだと思いました。 〈描写と説明について〉 「(粘りすぎるとくどくなるので)さりげない塩梅の描写を探ってください」という指摘が、繰り返しますがこの小説には適応しませんが、グサッグサッと来ました。「あれ?この納豆、あんまり糸を引かないな」‥‥そうです。25年間も温めていたら、そりゃ発酵を通り越して腐るわな(石になっているかも)。 〈書く際の姿勢について〉 「周りのアドバイスなど無用!」友達や同僚から感想を求めない方がいい。・・・迷っていましたが、ホント有り難きお言葉。SNSレビューも気にする必要なし。まぁそうなんだよね。だいたい、自分できちんと推敲出来なかったら、書く資格はない。 〈文章、書き進めるコツについて〉 「文章のデッサン力」という瞬発力が身に付いていたら、あとは「マラソンを完走する」持久力です。とのこと。「闇雲に走らない」。どういうコースか知らないままに42.195キロを走るマラソン選手はいない。「あと2キロ先に給水ポイントがある」とわかっていれば踏ん張りがききます。「ここから上り坂が続く」とわかっていれば、息切れせぬように慎重に行こう、とペース配分できます。‥‥心しておきます。 書いてみて気が付いたけど、しをんさんの本自体が脱線しまくりなのを良いことに、全然「推敲」になってないな。
2021年05月25日
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「一年有半」中江兆民 鶴ケ谷真一訳 光文社古典新訳文庫 中江兆民について思い出したので、新訳文庫に入っているのを発見して、紐解いた。原文は漢文調とはいえ学の無い大学生でもなんとか読めたのだから、何をわざわざ訳する必要があるのだろう、悪口を言おうと目論んでいた。 そうすると、訳文と同量の注がついていて、この40年間に画期的に進んできた中江兆民研究の成果を惜しみなく注いでいた。「コレは買わなくては!」となった。感想を書く(当然小論文ではない)。 とはいえ、「一年有半」は万民に膾炙している著作ではないので、簡単に説明する。明治34年、自由民権活動家・中江兆民は喉頭癌を患う。医師から「あと一年有半だ」と告知され、その後約4か月の間に「生前の遺稿」として、告知後の経緯、世の中の凡ゆる人物評、社会評、そして世界観などを著し纏めて弟子の幸徳秋水に託す。秋水はすぐさまそれを刊行。著作は忽ちのうちに一年で二十三版を重ね、20万部、明治の大ベストセラーとなった。「奇人変人中江兆民の書き殴りだ」という評価も、後世までない事はないが、一読、やはり名作である。今回慎重に読み解くことで、私がとうとう書き得なかった「卒論のテーマ」になり得る様な論点が幾つも浮かび上がった。 少し長いが、幾つか述べてみる(近代日本思想史に関心ない方はスルーした方が賢明です)。 ⚫︎兆民は余命を告知された後に徒(いたずら)に深刻にならず、妻と共に文楽座に何度も通っている。この積極的に死を受け止める死生観(cf.加藤周一「日本人の死生観」)は、忠義に死す「葉隠」とも一線を画す「新時代」のものであり、現代においてもかなり卓越したものである。非常に現代的な死生観と言えよう。 ⚫︎同時期に生死を彷徨い、文章を書いていた者に正岡子規がいる(『墨汁一滴』)。子規の辛辣な「一年有半」評がある(『日本』に「平凡浅薄」と述べた)。そのことの意味を鶴ケ谷さんは、かなりページ数をとって分析している。同意する。 ⚫︎星亨の暗殺事件に関わり、兆民は2点重要なことをサラッと言っている。「死刑制度には国際的からみても反対」もう一つは、しかしそれでも「テロはやむ得ない時には必要である」。後者について鶴ケ谷さんの「注」はない。だからこそ、研究する必要がある。 ⚫︎井上毅は、兆民の人生に立ち塞がった帝国憲法を、起草した人物である。同時に留学時代の知人である。兆民は、既に故人だった井上を評して、「真面目な人物、横着でない人物、ずうずうしくない人物」と滅多にない高評価を与えている。この2人の関係はとっても面白い。伊藤博文に対しても、「下手な魚釣り」とかなりな低評価なのだが、「(憲法をつくったことは)功績があった」と評している。皮肉的ではあるが、井上毅評価の裏返しだろう。 ⚫︎兆民の自由党、進歩党評価は、かなりな辛辣さがある。兆民の想いを解説すれば長くなるだろう。そもそも、日本史上初めての政党政治が始まった時代である。西欧政治史に詳しい兆民はその意義、または歴史の反省点を踏まえてか、生涯政党とは距離を置いた。何故その態度をとったのか?では、日本のグランドデザインにおいて、兆民は政党政治をどのように位置付けていたのか?その点を詳しく論じた論文は、これまであったろうか? ⚫︎ 兆民は「日本に哲学なし」(55p)と書いているが、じゃあその哲学というのはどういう意味なのか、突き詰めて考えた論考を調べてみたい。「天地万物の普遍的な本質」とは説明しているが、その効用とかの説明を読めば、哲学ではなく、「グランドデザイン」という風に読める、そうではなく「倫理感」という風にも読める。果たしてどうなのか?第二章で延々と解説している日本の将来への提案が、即ち哲学のある日本ということなのではないか?「哲学によって政治を打破する、これだ。道徳によって法律を凌駕する、これだ。良心の褒章によって世俗の爵位や勲章を払拭する、これだ」(304p)。これだけで確かに卒論のテーマになるかもしれない。その後に書かれた「続一年有半」で唯物論哲学を開陳しているのだが、病状進行で最早まともな事を書けなかった。兆民の初期の論述「維氏美学」「理学沿革史」との関係はどうか?「(日本は)世界のルーマニアとならなければ幸いである」と言った時に、世界情勢を何処まで認識していたのか?彼の唯物論哲学の帰結として、墓無用論も開陳、墓の土地問題を初めて述べ、土葬が一般的だった時に火葬を述べて骨灰共同管理、海中投棄という大胆現代的な提案もしている。そんなことまで書けば相当な論文になるはずだ。 ⚫︎第一章は7月11日に書き終えた。ガン告知は早くても3月28日。3か月ちょっとで書き上げた事になる。借金まみれで、妻と子供を遺して逝くのは可哀想に思ったのだろう。筆は速かった。兆民本来のジャーナリステック精神の本領発揮だろう。その後、秋水に原稿を渡す8月4日までの一月以内に残り2章3章を一気呵成に書いている。そのためか、第1章と比べると、病状の進行と相まって論考の密度は低下している。 ただし、いくら再販を重ねても兆民には印税は払われなかったらしい。この頃は最初の原稿代しか払われなかった。原稿料は医者代金に費やされただけかもしれない。兆民が無理して「続一年有半」を書いたのは、その辺りが大きな理由だったろう。流石に博文館は後年、遺児の教育費を援助したという。 ⚫︎「権謀は悪くない」。「目的を達成するための手段だからだ」ただ、「事」に施すべきで、「人」に施してはいけない。と書く。この時、兆民は忠臣蔵を例に引いたが、ホントは帝国議会の駆け引きやこのら10年の金策の失敗について思っていたのかもしれない。 ⚫︎大物政治家を外国人を例にとって述べた後に、大久保利通が出てくる。外国の政治家含めて、私は理解できない。しかし、おそらく本気で書いているのだろう。全て権謀を得意とする政治家だった。兆民の政治観が非常に良く現れた部分と思える。 ⚫︎ローマ字国語化論を述べているのは、意外。 ⚫︎しっかり管理された売春制度は、人間の性であるから必要だ(梅毒蔓延の観点から芸妓は廃止すべきだ、とも書いている)。とハッキリ書く。ジェンダーの視点から、これをもう少し掘り下げた部分を読みたい。実際、兆民ほどの愛妻子家はいないのである。 ⚫︎政治上の自由と経済上の自由は別問題である。と述べて産業の保護干渉は必要だと断じる。これも現代と通じる。兆民の産業論は現代でも見るべきものが多い。金策に明け暮れた北海道時代ではあるが、もし成功し、身体も健康で政界に復帰していたならば、どういう政治家になっていただろうか。 ⚫︎西園寺公望、井上毅、馬場辰猪がフランス留学時代の知人であることはすでに述べたが、注を見ると「東洋自由新聞」を共に立ち上げた松田正久も留学仲間だった。果たしてどういう人物だったのか。 ⚫︎馬場辰猪は「三酔人経綸問答」における理想家・洋学紳士君のモデルだとされる。アメリカで客死(「問答」刊行1年後)したのも、それに相応しい。 ⚫︎兆民の漢文素養について、本書著者の詳しい注有り。思うに、私は究めないが、近代漢文史における大きな貢献也。 ⚫︎「近代非凡人物31人」の政治家・文化者の中で、政治家・経済家・文筆家に藤田東湖、坂本龍馬、橋本左内、大久保利通、勝海舟、西郷隆盛、岩崎弥太郎、福沢諭吉、星亨、大村益次郎と挙げるのには異論はない。その他、そのあと順不動に親交がある者も短評している。佐々友房、坂本金弥。何故、井上毅がないのか。不思議。 ⚫︎日本の外交の貧しさの原因は「日本人は恐外病と侮外病に罹っている」と述べる。鋭く且つ現代的である。未だ日本人はこの括りから逃れてはいない。 ⚫︎兆民は人生に後悔を持っただろうか?実際には、いろんなやり残したことはあったはずだ。「一年有半」に書かれていることが多岐に渡るのはそういうことである。けれども、最後のページは満足して筆を置いている。実際、私の理想的な人生の終わり方だな、と思っている。 私は漢文の素養が無いし、卒論でさえ途中で挫折しているので、訳文の評価は上手くはできない。しかし、「注」は素晴らしかった。折に触れて紐解きたい一冊になった。
2021年05月23日
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「天皇陛下にさゝぐる言葉」坂口安吾 青空文庫 高橋源一郎『「読む」って、どんなこと?』の4時間目「(たぶん)学校では教えない文章を読む」で紹介された坂口安吾の短文です(青空文庫であっという間に読めます)。高橋さんはラスト数行を紹介していたので、私は中盤の数行を抜き書きます。大丈夫です。坂口さんは、一貫してほぼ同じことを言っています。 田中絹代嬢の人気は、まだしも、健全なる人気である。実質が批判にたえて、万人の好悪の批判の後に来た人気だからだ。 天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである。 地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。天皇に政治権なきこと憲法にも定むるところであるにも拘らず、直訴する青年がある。天皇には御領田もあるに拘らず、何十俵の米を献納しようという農村の青年団がある。かゝる記事を読む読者の半数は、皇威いまだ衰えずと、涙を流す。 初出:「風報 第二巻第一号」 1948(昭和23)年1月5日発行 46年2月から始まった昭和天皇の地方行幸をずっと観察して、遂に我慢ならなくなり発した坂口安吾の叫びのような文章です。雑誌「真相」が「天皇は箒である」という記事を載せたのが不敬である、とか評されて「人間宣言された天皇が人間らしい尊敬のされ方をしない方がおかしいのではないか?天皇さん、それで良いんですか?」と言い「このままいけば、また戦争になる」という警世の言葉を述べた文章です。 天皇巡行の行き先全ての建物は建て替えられて、いく道全て塵ひとつないというのは聞いたことがあります。その意味の「箒」です。天皇の行き先で「地にぬかずく」人がいるというのは現代では見ないけれども、批判が一切ない、というのは現代でも同じです。 NHKどころか、民放もこういう文書は紹介しない(おそらく)。それで良いのか?と坂口安吾さんは言っています。私もそう思います。 ただ、戦後80年経って、「天皇陛下は人間ない。というのが、私の認識です。「人間」ではなく「象徴」という「わけのわからない」者になった。よって、税金も払わない。普通電車にも乗らない。銀ブラもしない。かなり「大変なお立場」に居られます。 現代の坂口安吾は、どのように天皇陛下に言葉を捧げれば良いのだろう?
2021年05月19日
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「「読む」って、どんなこと?」高橋源一郎 NHK出版 てっきりNHKでの放送をまとめた本かと思っていた。いや、コレをNHKがテレビじゃなくても良いからラジオでも放送してくれたら、「日本は変わった」という事になります。勿論、良い方に。勿論、現代のNHKは「こんなもの」を決して放送したりはしません。百万円賭けたっていい(そう思っていたら、高橋さんはNHKラジオでゲストを呼んで本を紹介する番組を持っていた(飛ぶ教室)。今のところ、伊藤比呂美、ヤマザキマリ、しりあがり寿とかが呼ばれている。ホントに賭けて良いのか?いや、大丈夫。きっと)。 どうやら、NHK出版仕様の岩波ブックレットみたいなものらしい。何事も業書の始まりには名作がラインナップされている。志ある編集者が志ある著者に依頼し、志ある事を張り切って書くからである。「学びのきほん」シリーズ。あと他も読んでみようかな。 NHKが決して放送しないようなことって、一体何を読んだの? それは目次を見たら少しはわかると思う(^^)。 はじめに:誰でも読むことはできる、って、ほんとうなんだろうか 1時間目:簡単な文書を読む 2時間目:もうひとつ簡単な文章を読む 3時間目:(絶対に)学校では教えない文章を読む 4時間目:(たぶん)学校では教えない文章を読む 5時間目:学校で教えてくれる(はずの)文章を読む 6時間目:個人の文章を読むおわりに:最後に書かれた文章を最後に読む これを読んで驚いた方は相当いたようだが、私はほとんど驚かなかった。 「つまり、問題山積みで、できたら近づきたくないような文章、そういうものこそ、「いい文章」だ、とわたしは考えています」 という様な高橋源一郎さんの意見は、長い人生で掴んだ私の教訓と、以下の様なことで似通っていたからです。 「世の中の意見が二分するような事柄の中にこそ、世の中で大切にしなければならない核心がある」 防衛問題しかり、死刑制度しかり、生活保護問題しかり、嫌韓問題しかり。 ただ、第5時間目の武田泰淳「審判」には、少し驚きました。 中国戦線における、一兵士の中国人農夫射殺の心理を描いた作品。晩年において武田泰淳は、コレは自らの体験だったと告白したらしい。 私は堀田善衛の文章や「史記」論に寄せた武田泰淳の知識人としての誠実な姿を知っている。 俄には、コレは信じがたいことだった。 高橋源一郎は、Twitterでこのように言っている。 「武田泰淳は『審判』で「知的訓練のない」兵士(庶民)がどんな思考回路で中国農民を虐殺するかを書き「知的訓練がある」(自分のような)兵士がどんな思考回路で農民を殺すかを「内側」から書いたが、本当に恐ろしいのは、この小説を読んでいると我々日本人はまたきっと同じことをすると思えてくることだ。(2019/08/03)」 その通りかもしれないが、正に恐ろしいことだ。 しかし、それを見つめることの中にこそ、「世の中で大切にしなければならない核心がある」。
2021年05月18日
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「神様と仲よくなれる!日本の神様図鑑」大塚和彦 新星出版社 期間限定激安キャンペーンで手に取った(98円^ ^;)。 要は「古事記超簡単案内」と「古事記神様案内」と「祝詞活用術」「神社活用術」、それを基にした「気持ちの持ち様活用術」である。 本人は社会生活数年でドロップアウトしてバックパッカーをして、宗教に目覚め、会社立ち上げしても上手くいかず、古事記を読んで日本の神道に目覚めて、たまたま上手く軌道に乗った方の様だ。 「神様のことを知って(知識)、祝詞を読んで実践する(身体)」ことを「稽古照今」(「古事記」序文に出てくる言葉)というらしい。稽古とは古を知る、という意味があったんですね。 神様に参っても、単に参るんじゃなくて、神様の名前を調べて、その両親の名前や子供の名前も調べよう、そうすると立体的に神様の役割や位置付けがわかってきて、300柱もいる神様も覚えられる、と著者は主張しています。かなり真面目な方の様です。 もちろん、真面目な方ですから、試験勉強対策のごとく本書でも具体的に手助けしています。 「まずは代表的な6柱のことを知ろう」とイザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、オオクニノヌシ、ニニギのことは詳しく解説、これによって古事記神話部は案外細かいところまで解説しています。そのあと50柱近い神様のことをイラスト付きで解説。 実は、イラストがほとんどない第5章が著者の最も主張したかったことだろうと思えます。 神社では一般的に願いが叶うことを願ってお参りするのですが、著者は「それはたまたま叶ったのだ」とあまり重視しません。 神様と仲良くなること、そして神様を知ることによって、「変えることのできない現実」を自分なりに受け止めること、これが大事なのだ、と主張します。 何故なら、日本の神様はみんな完全ではないからです。大泣きもするし、悪いこともする。世の中はまだまだ人智では測れないことが多すぎる。でも、神様を知ればそれを受け止めようという気になれる、というわけです。 「自(みずか)ら」から「自(おの)ずから」へ。 つまり 自力で、から、自然にへと。 まぁ日本神道はそういう思想に近いと、私も思います。 会社役員がポジティブに世の中を渡るには、まぁ必要な哲学かもしれません。実際この哲学で、会社コンサルタンティングをしている様なので、効果も出ているのでしょう。 でも彼はあまり厳密に突き詰めていないようなので良いのですが、 コレは悪い意味での「不可知論」です。世界の秘密は自らではわからないので、神様に丸投げする思想です。私はそれに与しない、とだけは言っておきたい。 古事記を何度読んでもわかりにくい神様相関図が、わりと短時間でわかる神様入門書でした。
2021年05月17日
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「政治と報道 政治不信の根源」上西充子 扶桑社新書 2月に『呪いの言葉の解きかた』の書評を書いた。さまざまな呪いの言葉がある中で、政治にまつわる言葉は厄介である(今気が付いたが、やっかいには「厄」が付いている)。「政治の話はしたくない」「◯◯を政治利用しないで」「野党は反対ばかり」‥‥。 私はそれらの「空気」を変えたいとずっと思って来た。けれども、なかなか変わらない。何故か。「安倍政権」が世論操作してきたのか?「マスゴミ」が悪いのか?「国民」が未熟だからか?それとも私が「勘違い」しているのか? 今年3月に上梓した本書は、その根源を一生懸命に探っている。上西充子さんは2018年に「ご飯論法」という言葉を流行らせた。安倍政権の不誠実な国会答弁や記者対応を一言で言い表した言葉である。「朝ごはんを食べなかったのか」と問われて「ご飯は食べていない」と答えていながら、実は「パンを食べていた」等と、ことを巧みに隠す言い方を喩えたわけだ。問題を表面化せず、論点のすり替え、等々を使った最近特に目立つ与党の答弁である。(cf.加藤周一「白馬は馬にあらず」)記者は気がついていないのか?気がついてそれに乗っているのか?私はずっと不満だった。 本書は政治報道を丹念に追い求め、ひとつひとつを検証して、じゃどう書けば良かったのか?まで述べたものである。 本来政治報道は、問題の論点を読者に提示するのが仕事のはずだ。しかし、それを避けて「政局報道」に走る。「国会がこのように荒れた」「解散はあるのか」「時期首相は誰か」。その政局報道の陰で、1番問題にするべき時に論点を示さず問題法案が通っていっていく。最近の悪法は全てそれで通って行く。そして通った後に問題点を示す。 例えば、このように「切り込んだ批判」を上西充子さんは書いている。 ⚫︎自民、学術会議問題で「逃げ切り」に自信「批判の電話も少ない」月内に集中審議(毎日新聞2020年11月10日) ・この記事に山崎雅弘氏が「政治記者なのに、なんでそんな風に「傍観」するんですか」と批判した。すると、該当記者が反論したという。「傍観していません。これはストレートニュースです。深掘り記事は他に書いている」と。 上西充子さんは、その主張を受け入れつつも、「ストレートニュースには新聞社の「視点」や「判断」は含まれないのか」と再批判している。そして、記者の該当記事を細かに分析して見せている。事実の切り取り方、表現次第で、読者の印象は大きく変わるのである。「政府が逃げ切りに自信があるなら、もうそのまま逃げ切るだろう」と思うのである。それは政府の印象操作に手を貸す事と同義だろう。 「逃げ切り」報道も、報じられているのは「政局」である。まるで対戦ゲームのように、いかに相手にダメージを与えるか、いかにポイントを稼ぐかに国会審議の狙いがあるかのように描かれている。そこに欠けているのは、何が論じられ、その論点はどうだったのか、だ。 このような「外側」からの報道の「ファクトチェック」はとても重要だと思う。残念ながら、こういう問題意識を持って報道を読んでいる市民は、上西充子さん含めて未だ少数だ。よって、報道はまだ変わらない。 おそらく、ツィッターを見ると、最近はいくらかやっているのは見えているけど、それでも大勢の市民の「ファクトチェック」を始めることが、報道や野党の姿勢を変えることになるのだろう。
2021年05月09日
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「図書 2021年5月号」 司修さんの表紙は、2回目の緊急事態宣言が出された後の朝方観た夢を描いたようです。題して「自動人形オリンピア」。内容は(夢ですから)予想もできない展開なのですが、何故か腑に落ち。 今回読めた文章は、 大河原愛「雲と空のはざまで」 毛利悠子「アキバ」 大島幹雄「希望のクラウン」 畑中章宏「わざとらしさ」 こぼればなし だけだった。 ピックアップするのは、またもや畑中章宏さんの「らしさについて考える」シリーズの5である。 「わざとらしさ」。 現代では、ネガティブなイメージではあるが、果たしてそうだろうか?という論旨。 「態(わざ)と」に「らしい」をつけものに「さ」と接頭語をつけて体言化した名詞らしい。 大ぶりな身振り、誇張した仕草、いかにも思わせぶりな言葉遣いなど、人によっては気持ちを逆撫でにされたような気持ちになるのかもしれない。 でも、それは時と場合によっては必要なものではないか? 「祭」「祭礼」では「わざとらしい」ものが好まれる。 そういえば、そうだ。獅子舞を昨年2月神社の節分祭で見た時には、大国の主命に「わざとらしく」退治されていた。韓国の安東で仮面ノリ(劇)を観たことがある。大袈裟な演技で、言葉が分からなくても良く通じた。「わざとらしさ」が神様に愛でられる秘訣だったのだろう。 そもそも能の元は態だった。と、折口信夫は言っていたそうだ。芸能は芸態だった。 「わざとらしい」に似ている「あざとい」が近年たいへん評判が高くなっているらしい。日本芸能史にとって、あざとさがここまで評価された時期があっただろうか?と畑中章宏さんは言う。 つまり、田中みな実の「あざとさ」は、芸能人による「芸能」であるから、売りにもなるし、許されるのではないか?
2021年05月03日
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「日本の名著(36)中江兆民」中央公論社 つい最近思い出すことがあり、紐解く。 中江兆民に関しては、苦い思い出がある。私は大学の卒業論文が中江兆民だった。もはや原稿も紛失しており、どんなことを書いたのかも思い出せない。いや、忘れようとしてきた。 思い出すのは、卒論提出の締め切り当日のことだ。徹夜明けの朝、論文(というのも憚れる)清書原稿を紐で纏めて下宿を出て、大学へ行くまでのその真っ白に積もった雪の長い道のことである。疲れ切った頭は、わざと何も考えまいとしてきた。かじかむ手をこすりながら、研究室に原稿を置いて、学食で250円の具の入っていないカレー大盛りを食べて、そのまま帰ってずっと寝た。 準備をしなかったわけではない。半年前の夏休みは、ほぼ喫茶店に籠ってわかりにくいオール漢文の第一次資料を読もうとしていた。研究書に当たるのは、その後だと思っていた。ところが一日一頁も進まない。時間だけは思いっきりかけた。就職活動は最終学年の10月から始めたのに、一発面接で一発で決まってしまっていた。毎日卒論のことを考えていたのに、何も進まなかった。考えれば考えるほど書けなくなる。これは「隠れアスペルガー」つまり病気だということは、つい最近になって感じ始めたことであり、昔はともかく自分を責めていた。最後は原文ではなく、この中央公論社版の現代語訳本を参考に論を書いた気がする。ほとんど読書感想文だった。就職が決まっていたため、お情けで「可」を貰い卒業した。 10年後、担当教授が大学を離れ東京に赴くためのお別れパーティー(同窓会)があり、出席した。その間に岩波書店が「中江兆民全集」を出していた。漸く本格的な中江兆民研究が始まっていた。私は全集を大人買いしていた。私は教授にお詫びを言い「いつか、まともな卒論を書くので、その時は見てもらえますか」と酔っ払いながら言ったと思う。「勿論です」教授は快諾した。全集は揃えたけど、やはりまともに読まずにここまで来た。まともな事は何一つ書いていない。教授は、おそらく歳からいってもはや論文をチェックしてもらえるような状況ではない可能性が高い。人生の悔いのひとつである。 今回本書をざっと眺めた。 当時私は「三酔人経綸問答」の紳士、豪傑、南海先生の中で、兆民の真意は何処に有るか、というような誰もが考えることを考えていたと思う。明治20年、一介の知識人が日本のグランドデザインを構想して、それが実現するかもしれないと夢想できた時代だった。兆民の構想(小国主義)はかなり現実的なものではあったが、むしろ明後日(あさって)の方向に日本は向かってゆく。「君民共治の説」との関係、「一年有半」での総括、いろいろ感じるところはあるけど、此処に書くには原稿のマス目が不足している。感想文は、又何処かに書きたい。
2021年05月02日
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「中江兆民集」改造社 昭和4年に発行された改造社版の中江兆民評論集である。かつてこの本を探した時に、かなり苦労して探し当てたのに、古本でもそれなりの値段はしたので諦めたことがある。今回、これがKindleとはいえ298円で売られていることを知り、ついポチってしまった。どうもKindleでは近代思想家の文章が、かなり格安で売られているようだ。著作権が無くなっているからだろうけれども、昔の研究者からするとビックリするような状況である。 紐解くと、テキスト形式ではなく写真形式であった。昔の字体は打ち込めないから、まぁそうだろね。本書は実は、戦後大きく進んだ中江兆民研究の進展によって、かなりの所収論文が中江兆民のものではないことが明らかになっている。しかし、初期の中江兆民研究に資した役割は大きく、「民約訳解」(ルソー「社会契約論」)の訳者としてや、明治帝国議会の最初の国会議員になったのに直ぐにそれを打ち捨てた奇行人としての評価ではなく、自由民権運動を裏から支えた真の知識人としての功績を、広めるのに幾らか役割を持ったはずだ。 思い出を書くとキリがないので、 数十年持論として持っている「中江兆民を大河ドラマへ」案を披露したい。 題名は本名の「篤助」か、或いは「兆民」で。 何故、中江兆民が大河ドラマに向いているか? (1)明治や昭和を描いてきた大河ドラマはことごとく失敗してきた。それは、資料がありすぎて登場人物達の行動が制限されるからである。主人公はあまり知られていない人がいい。 (2)しかし、架空の人物ではダメなのは明らか。また、よく知っている人物があまり出てこないのも良くない。その点、中江兆民はその時代、時代の有名人と悉く接点がある。幕末期は坂本龍馬の子分のような役割を持っていた。明治4年に政府によってフランス留学をして、その時に生涯の交友を持つのが後の総理大臣・西園寺公望、自由民権運動家・馬場辰猪、そして実質帝国憲法を起草した稀代の知識人・井上毅、または日本にマンガを広めたビゴーがいる。この留学時代を番組冒頭に持ってゆき、最初の3回ほどを大河ドラマ初めてのオール海外ロケで作る。また、この時の5人の若者を中心に明治日本を描けばうまく近代日本を描くことができる。兆民はその後も板垣退助、植木枝盛、幸徳秋水などと接点を持つ。 (3)「麒麟がくる」の明智光秀が成功したのは、歴史的な謎に新たな光を当てたからである。中江兆民を巡る前半の大きなソレは、明治9年に書いた「策論」である。おそらく、勝海舟の意図を受けて、西南戦争間近の西郷隆盛を巻き込んで、政府クーデターを意図していたのではないか、という説がある。誰も小説化していない。これは歴史的なスクープです。ハッキリいって研究的にはこれ以上の進展は無理だけど、想像を交えて脚本化する事は可能だろう。これが大河ドラマ前半のクライマックスになる。次のクライマックスは、早いようだけど14年後、第一回帝国議会だ。自由民権運動家は、この時に向けてさまざまな憲法草案を作った。この中に現代に通じる様々な「夢」が詰まっている。中江兆民「三酔人経綸問答」は、その中の頂点とも言える「グランドデザイン」である。その夢が破れていく過程がクライマックスになる。最終回は、それから10年後、食道癌で余命1年有半と宣告された中江兆民が最後の輝きを見せながら見事に散ってゆくさまを見せる。絶対「絵」になる。 唯一の弱点は、中江兆民は「反体制」の代表であるという事だ。現代のNHKがこれを採用する度量があるだろうか‥‥。
2021年04月30日
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「「カルト」はすぐ隣に」江川紹子 岩波ジュニア新書 かつてオウムに殺されかけたこともある著者を迎えて、若者に「いかにカルトにのめり込まないようになれるか」を説いた書物。「のめり込むなんて、そんなことあるはず無いじゃないか」と若者は思うかもしれない。しかし、事実としてオウム事件で死刑になった当時の青年たちの多くはみんな、「あるはずない」と思うような青年だった。 死刑になった12人は、高卒もいれば、教授に将来を嘱望された科学者もいれば、医者も2人いる。みんな「真面目な」若者だった。 特に中学生、高校生にも読んで欲しいけど、実はオウム事件を経験してきた大人に、改めて「あの事件はなんだったのか」知ってもらいたい。殺人こそ犯さないけど、現代もマインドコントロールされる人たちが後を絶たない。そういう意味では、誰にとっても、危険はすぐ隣にあるだろう。 初めて知ったことが多い。 私はマスコミによって、逮捕劇とか空中浮揚とか絵になる事柄だけに詳しくなって、その概要を全然知らされていなかったのではないか?と思う。 松本智津夫(麻原彰晃)の人生も、死刑囚の人生も、次第とエスカレートしてゆく初期の数多くの(殺人を含む)犯罪も詳しくは知らなかった。 警察が初期捜査の段階で、如何に数多く犯罪を見逃してきたのか(ここに記述あるだけでも5件)。 オウムが登場してきた頃、マスコミが如何に麻原彰晃を面白おかしく宣伝していたのか(「ビートたけしのTVタックル」「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」「朝まで生テレビ!」)。 指摘されて初めてあったかもしれないと思い出した。 オウムを産み出した社会背景もいろいろと思い出した。オウム事件は95年だが、彼らが過ごした少年時代はどんな時代だったのか?73年のオイルショック、狂乱物価、「ノストラダムスの大予言」と「日本沈没」そして超能力。それらの爆発的ヒットの年だった。その頃小学生だった彼らは、やがてバブル期に青年になる。彼らが入信する80年代後半は「24時間戦えますか」「いじめ自殺」「過労自殺」が出現する。そして1999年の「終末」が近づいてくる。 はっと気がついたのは、オウム真理教の柱の教義に「ハルマゲドンが起こる。それまでに最終解脱する人を3万人作らないと間に合わない」というのがあった。「人類救済計画」と呼ばれていた。これって、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」と大差ないではないか。96年がエヴァンゲリオンのテレビ初登場。エヴァの背景にオウムがあるのは聞いていたけど、庵野秀明はまるまる25年をかけて「オウムの呪い(のろい)」から解放される「呪い(まじない)」を探していたということになるのか。 一応カルトの条件と、カルトから逃れる方法も書かれている。しかし、カルトには「タイミングさえ合えば、誰もがのめり込む」とも書いている。 もう、そういうことが起きないような社会にするしかないのかもしれない。けれども、戦争という人類史上最高度のカルトを無くさない限り、それは無理なのかもしれない。 2021年4月19日読了
2021年04月20日
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「腰ぬけ愛国談義」半藤一利 宮崎駿 文春ジブリ文庫 映画「風立ちぬ」公開に合わせて、公開前と公開後に実現した長時間座談の内容を記録したもの。半藤一利さんの追悼特集を読んで、やはりちょっとは読んでおきたいと思い手に取った。宮崎駿72歳、半藤一利83歳、8年前の対談である。 お二人とも軍事オタクだから、軍艦や飛行機の話になれば花が咲く。そのあい間にお二人の半生もちょこちょこ出てきて面白い。そしてやはり「風立ちぬ」の中身に突っ込んだ話が半分くらい占めて、私はあまり評価していなかったこの作品をも一度見直したくなった。 以下面白かった部分の要旨を箇条書き。 ・半藤一利「日本は、海岸線が長くて、資源が無くて、守れない、持てない国だ。それなのに、基本的には外交で守るしかない、とは誰も思わなかった。生命線とか愚かな思想が出てくる。現代は、長い海岸線に54基もの原発を無計画につくる。原発のひとつでも攻撃されたら、日本が滅ぶというのに。この国は武力による国防なんてどだい無理なんです。日本は脇役でいいんです。小国主義でいいんです。(66-69p) ・宮崎駿「アニメはこの50年でやり尽くした。あとは子供の人口が減って、どんどんジリ貧になる。大人の観客が増えて鈍化はしたけど、流れは止まらない。 ・宮崎駿「新河岸川の5分アニメを企画したことがある。郷土資料館で使ってもらえないかと。舟運の仕組み・歴史が一眼でわかる。でもついつい作ろうとすると30分ぐらいになっちゃう。 ・宮崎駿「堀越二郎のことを描かないと、かつてのこの国のおかしさは出てこない。(略)これを描くと子どもは土俵の外に置かれる、と言ったら誰かが「あとでわかる時が来るかもしれませんよ」と言って「そうかもしれない」と思ったのです。(略)あの時代を代表する二人は、自分にとって堀越二郎と堀辰雄だったんです。零戦だって、ぼくは描きたくないと思っていました。(略)終わりの草原はノモンハンのボロンバイル草原だよ、とスタッフに言っていた。(略)庵野は選びあぐねていた時に気が付いたんです。庵野秀明と出会ったのは、ぼくが43歳、彼が23歳、最初見た時は宇宙人がきたと思いましたよ。とうとうこういう人間が日本に現れたか、と。近頃ではいろいろなものを背負って歩いている。ギリギリのところで生きている。(略)やっぱり存在感が大事なんです。思い入れたっぷりに演技されるよりも、ボソッと喋ってくれた方がいいんです。 ・宮崎駿「堀越二郎は、真面目に一生懸命に仕事をしている。世界がいろいろ動いてもあまり関心を持っていない日本人。つまり、(宮崎駿の)親父です。(略)みんな刹那的でした。ドキュメンタリーをやってくれる人はいっぱいいますから、それはお任せしておいて、ぼくはやっぱり親父が生きた昭和を描かないといけないと思いました。 ・半藤「まだうまくいっていませんが、それでも東アジアが向かうべきはEUのような方向ですよ。 宮崎駿「ええ。それしかないですよね。 ←このことに関しては、私も全く「それしか無い」と思う!!
2021年04月19日
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『世界の紙を巡る旅』(烽火書房刊/2680円)。浪江由唯 3月3日、KSB瀬戸内放送のネットニュースで、岡山県西粟倉村で活動している若い女性の体当たり旅行記の存在を知って、直ぐに図書館に予約した。 著者の浪江由唯さん(26)が、2019年3月から2020年1月まで303日間かけて世界15カ国を旅しながら、さまざまな紙の写真や旅先で感じたこと、出会った人々をつづった本。大学時代に高知県の紙漉き村で紙作りの面白さに出会い、世界一周をする準備目的で岡山の文具店に入社する。若い、というのはそれだけで才能なのだ、と改めて思う。 カバーだけでなく、旅が1か月進むごとに紙の種類を変えていて、本書には結局11種類の紙を使った。放送では「紙の種類が変わるたび、インクの量や印刷機の中の紙を排出する圧力を30分から1時間ほどかけて調整する必要がある」と印刷の職人が話していたので、もうそれだけで、本に触れたくなって図書館のお取り寄せを待っていた。 カバーは、大学時代に出会ったネパールのロクタペーパー。カバーの色と模様は全て手作りで唯一のものらしい。原色ではない、やさしい色。和紙とは違い、繊維の筋がはっきり見える。でも優しい手触り。 その他の紙はおそらく世界の紙を使っていない。印刷用の紙だから、微妙に紙質は違うが、普通の印刷紙ではある。最終ページに紙の名前だけが載っている。私は、せっかくここまで本作りに拘ったのだから、この紙のひとつひとつをきちんと解説してもらいたかった。何故ならば、これが私たちが手に取る実物なのだから。そこに感動を持つ人が現れたら、第二第三の浪江さんが出てくるかもしれないかのだから。 私は(11種類の紙に拘りすぎて)本は写真と簡単なレポートで構成されるのだと勝手に思っていた。そしたら、ものすごい豊富なカラー写真と、旅中でずっと書いていた日記を元にした饒舌な旅レポートと、小文字で解説する紙製品やお店や紙職人の説明やデータで埋め尽くされていた。一年間で得たものを全て吐き出しました、という本でした。その辺りも、若さがあふれている。悪いわけではない。これを元に旅途中で、紙漉き工房を訪ねる人も出てくるだろう。 学びも多くある。植物の繊維を利用するのは同じだけど、工法が少し違ったり、仕上げ段階では色の好みで全然違う紙が出来上がる。草花を漉いたり、種を入れてお土産として後で咲かせてみたり、世界はいろいろである。 私の個人の関心では、カードや手紙の紙ものよりも、本に興味がいく。エストニアの破ったり燃やして穴を開けたりした本。ネパールの真ん中の竹ペンをとると表紙を開けられる手製本。ベトナムの、紙の上に貝殻を砕いた粉が塗装されていてザラザラ感があるノートなどは手にしてみたい。 旅は彼女を(多分)成長させている。「紙を学ぶのだから、それ以外の事は触れない」と思っていたのに、資金の関係で農家を手伝いながら滞在する旅をしたら、人生観を変えるような生活を体験した経緯とか。その他、当たり前のことなんだけど、長い旅は人を変えるのである。 彼女は今年春から拠点を四国に移すらしい。おそらくこれからもどんどん変わってゆくのだろう。頑張ってほしい。
2021年04月12日
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「ただいま収蔵品整理中!」学芸員さんの細かすぎる日常 鷹取ゆう 河出書房新社 「学芸員さんの細かすぎる日常」と副題にある通り、滅多にフォーカスが当たらない(というか、初めて当たる)博物館学芸員の日常漫画である。博物館フェチの私には無視できなかった。Twitterで見つけて、次の日には衝動買いをした。いわゆる学芸員資格試験志望者には、イメージ湧きやすい入門書になるのかな、と予測を立てて買ったところ、甘かったです。学芸員て、発掘して、図面書いて、企画展考えて、説明版書いて展示するだけじゃないんだ。漫画棚ではなく、専門書棚に置いてあったのも宜なるかな。 ホントは、考古学博物館の日常が見たかったんだけど、著者の実体験に基づいているために、今回は郷土博物館の、しかも廃校を利用した収蔵庫の資料整理の仕事がメインなのである。よって殆どが民俗資料である(←博物館の中だけでなく、他所に収蔵庫を作っていることを初めて知った)。私なんか信州鎌の錆落とし保存作業なんて、つい数十年前のものだから簡単に思っていたけれども、まぁ細かい!用具だけでも、ハケ・筆入れ、ステンシルブラシ(100円ショップ)、平筆(100円ショップ)、ハケ(大・中・小)(100円ショップ)、椿油、キッチンペーパー(100円ショップ)と説明する。100ショップで大丈夫という情報は、教科書には載らないだろう。 博物館だから、当然虫除けの作業はする(←当然とは私は思っていなかった)。ところが、「文化財防御」はそれだけでは済まないのである。どんな虫がいるのか「同定」して(捕まえる。当然クロゴキブリや穀蔵虫、シロアリも)対応する。木の種類によって、虫の種類が違う。脱皮殻で毛髪を食べる虫を同定する。うーむ深い、そんなことまで調べないと、資料収集・保存はできないのか? その他いろいろ細かすぎることを書いている。もはや教科書の範囲を超えて、やや知的ギャグになっていて、著者もそのあたりを狙って描いている気がする。 それと、1/3を使って、「学芸員あるあるホラー話」を載せている。何しろ、暗いところで昔のものに囲まれて仕事するのである。お地蔵さんを寄贈されたら、普通に「魂抜き」(お性根抜き、閉眼供養ともいう)をしているらしい。それでも、盛り塩がいつの間にか減っていたり、お地蔵さんから念仏の声が聞こえたり、と著者が実際学芸員さんから聞いたホントの「話」を描いている。学芸員さんにとっては特別なことではなく、怖がってもいないらしいのですが、そういう描き方だからこそ、ちょっと怖かった。 その他、企画展示準備のあれこれも描いている。 クイズです。企画展ではしばしば「展示替え」があるけれども、展示しきれないからだと思っていたが、ホントの目的は違うようだ。さて、どうしてでしょう? (答え コメント欄に)
2021年04月04日
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「図書 2021年4月号」 高橋三千綱さんの闘病記が最終回を迎えた。約2年ほど前から、連載中断を何度も繰り返し「もはや亡くなったか?」と思うたびに復活していた。 8年前に食道がんと胃がんを併発し、医者の反対を押し切って「瞑想と気流法で退治」余命半年のガンを消滅させた。2年前年末に食道狭窄症手術、更には昨年コロナ禍のもとに狭窄症手術を3回、更には胃の静脈瘤手術、白内障手術まで行っている。その間に初期胃がんの焼きとりまでやっていたらしい。道理で連載中断が続いたはずだ。今年の年賀状の言葉「一昨年は底を打った。昨年はどん底だった。今年は地獄をみる」連載中、食道をやられているのに酒や美味いものに執着して、家族に迷惑かけるこの無頼派作家は自業自得だと思ってきたけど、文章はあくまでもあっけらかんとしていて、やはり凄いのだと思った。年賀状は、あれでは少し暗いので付け足したそうだ。 「明日の、ブルドッグ」。高橋三千綱といえば、芥川受賞作を読むために「文藝春秋」を買った数少ない作家だ(1978年「九月の空」)。あの時、まるで自分と同じような武道にかける青い空を、共に見上げたけど、考えたらお互い歳をとった。 編集者後記「こぼればなし」には、必ず最終回を迎えた作品には言及があるが、高橋三千綱さんには何故かなかった。代わりに「かざる日本 第18」の橋本麻里さんの連載が最終回を迎え、編集後記でも言及している。あまりにも丁寧な調査執筆に、「飾る」にあまり興味なかった私も、度々ここで取り上げざるを得なかった。最後は「かざり」の「対であるべき人の営み」である茶の湯に代表される「簡素」に触れている。「この両輪の働きから生み出されてきたものが、列島の美術史に営々と積み重なり、分厚い層をなしている」。単行本が出たら、是非読んでみたい。 長谷川櫂は、一貫して警醒の書を書いている。俳人ではあるが、だからこそ社会を本質で見ようとする。彼にしたら、当初良識の民の総意による政府を選ぼうとして始まった「民主主義」という制度は、現代では大衆迎合主義(ポピュリズム)になり、「コロナ問題は最初から経済問題だった」し、「自分がウソをつくだけでなく、官僚や秘書にもウソをつかせる。元法務大臣夫妻が大金を使って有権者を買収する。現役の大臣が賄賂の現金を大臣室で受け取る」ようになったと嘆く。蓋し、多頷事。
2021年04月03日
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「おにぎりと日本人」増淵敏之 新書y 本書を紐解いた理由は2つ。 (1)本書は、明確におにぎりの起源を弥生時代であると書いているが、以前読んだ「おにぎりの文化史」では、遺物鑑定により最古のおにぎりは6世紀であると書いていた。どちらが正しいか。 (2)「文化史」でも本書と同様、中国・韓国では「冷や米を嫌うためにおにぎりは無い」としていた。では、韓国のキムパブや中国のちまきはどう説明するのか疑問だった。解説しているだろうか。 (1)について 著者の肩書は大学の先生のほか、コンテンツツーリズム学会会長、文化経済学会理事長という社会学系の人だった。よって、歴史部分は厳密ではない。この新書刊行段階で、既に2014年の横浜市歴史博物館「大おにぎり展」は終了していて、著者はそれを観覧しているか、図録をチェックしているはずなのに、後の参考文献の中には入っていない。それは、「大おにぎり展」が最古のおにぎりを、石川県杉谷チャノバタケ遺跡(弥生時代中期–後期)出土の炭化した蒸した米の塊(円錐形)に求めず、古墳時代横浜市北川表の上遺跡(6C)出土の竹籠の中に入った明確に食べるためのご飯の塊に求めたからであろう。著者がチャバタケを最古のおにぎりとする根拠は、これが「日本最古のものとされる場合が多い」という何かの本に書いていることを鵜呑みにしたからに過ぎない。お供えものであったことにも言及している。私もむしろ、チャバタケは現代も厳かな神事に供えられる円錐形ご飯だったと思う。「大おにぎり展」では、おにぎりであるためには、握った後にばらけないことが必要であるとする。そうなると、弥生晩期以前の「ご飯」では無理なのだ。うるち米が普及するのは、古墳時代になってからである。私は3-4世紀に最古のおにぎりがあった可能性はあるとは思うが、現物証拠として6世紀を最古のおにぎりとする方を支持する。 もっとも、現在まで続く、ご飯の塊を「聖なるもの」とする感覚は、中国や韓国ではうるち米が普及していたのに「冷めたご飯は食べない」という習慣が根付いたのに対して、日本では早くから「冷めたご飯の携帯食糧」が普及したことと関係するかもしれない。 (2)について キムパブやチマキについては、こちらの方が詳しく書いていた。 韓国のキムパブ(海苔飯)は、朝鮮合併時に日本の海苔巻きが輸入されてアレンジされたものらしい。現代も家庭料理というよりは、海苔が主役の屋台料理である。オカズに近い。また、チュモクパブというおにぎりそっくりさんも16世紀にはあった。文禄・慶長の役で李舜臣が採用した戦闘食らしい。しかし、貧しさの象徴として伝わったらしい。 中国にはファントゥアンという飯団子があるらしいが、これも具が主役でご飯は脇役になっている。チマキは広く定着しているが、日本同様チマキとおにぎりは全く別の食べ物である。 韓国は中国の影響を大きく受けているので、中国のおにぎり鑑が重要だろう。現代中国人におにぎりの嫌がる理由を聞くと主に2点あると言う。 1. 素手で触ることの生理的抵抗感。しかしこれは「中国人が特殊なのではない。私たち日本人が特殊なのだ」手食は衛生環境が良い日本ならではの習慣なのか。 2. 油料理が多い中国では冷めたものは不味くなり嫌われる。もしかしたら逆かもしれない。もともと体を冷やすことを避けたから(「冷えを嫌う」)熱々が発展したのかも。 (3)その他気がついたこと おにぎりは戦場携帯食糧として普及した。しかし、外国は麦のパンがある。古代日本にも麦は輸入されている。何故日本では麦食品が広まなかったのか?←それは日本人のお米に対する執着が大きいからだろう。 アニメ「千と千尋」において、ハクから千尋に渡される食べ物はおにぎりだった。これは「むすひ」の食べ物だったからという解釈もある。 おにぎりの形が全国的に三角形に統一されたのは、1978年セブンイレブンが三角おにぎりを発売して以降らしい。地域では、いろんな形がある。「一〇〇年前の女の子」において、大正時代の小学校修学旅行に、東京三越デパートで出てきた特別弁当には「白いご飯が俵の形で並んでいた」とある。あとは玉子焼きと焼き魚だった。東京でさえ、三角おにぎりは採用されていなかったのである。そう言えば、岡山県津山市の老舗のコンビニ「つるや」には、今でも海苔をぐるりと巻いた「まん丸のおにぎり」が人気である。 他のSNSで書いたら、三角おにぎりがコンビニで始まったと勘違いした人がいた。 少し補足します。 ◯◯さん、 コメントありがとうございます。 紛らわしい書き方してすみません。 三角おむすびという形は、江戸時代には既に大衆食としてあったようです。 おむすびという呼称は、平安時代の宮中にあったようですが、どういう形かはわかりません。江戸時代の女性が「上品に」するために流行らせたという説を著者は取っています。 三角おむすびのコンビニ化で画期だったのは、パリパリの海苔を食べれるようにしたからです。 最初は「パリッコフィルム」。海苔は明確に本体と分けられて、食べる前に巻くという方式です。 その次は「パラシュート方式」。外側から、外袋→海苔→内袋→おにぎりと包装されて、食べるときには内袋を引き抜いておにぎりと一体化させる仕組み。 でも、それはすぐに消えて、パッケージを中央で二つに切っておにぎりに海苔を巻く「センターカット方式」に移って今に至るようです。 この時のおにぎりが全て三角おむすび(おにぎり)だったことで、全国均質化が進んだわけです。 →おにぎりの全国制覇の道は、テレビでやれば視聴率取れると思います(海苔の方式はもっと細かく改善が進んだと思えるし)。何処かやらないかな?
2021年03月31日
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文庫版「一00年前の女の子」船曳由美 文春文庫 大正から昭和にかけての1人の少女の田舎歳時記かつ半生の記。単行本は昨年のMy Best3ノンフィクションの一冊に入れさせてもらった。手元に置いておきたくて、買い求めた。 文庫発刊を機に、表紙を描いた安野光雄と著者船曳由美との対談記事がある。それを読んで、新たに知ったことも多かった。 「一〇〇年前の女の子が見た日本(前編)安野光雅×船曳由美」 https://books.bunshun.jp/articles/-/3596 「(記録を始めたのは)母が語りだした日から十年たっていました。」 ←私は民俗学のフィールドワークの経験があるからイメージできるけれども、あの事細かに豊かに記録されるお母さんの物語は、何度も何度も同じことを聴いて綴られた結果なんだと思う。お母さんの脅威的な記憶力と、娘の学者はだしの構成力・表現力・そして質問力があってのことだったはずだ(もちろん元「太陽」編集長だったからではある)。 「安野 「筑波村大字高松」と書いてあったので、筑波山を目指して行けばなんとかなるだろうと……。あのとき電話したら、あなたが必死になって「違います、筑波山は茨城県です」と止めてくれた。」 ←安野光雄さんが表紙を描くために行った「女の子」の栃木県の実家は、はたと気がついたのですが、今年2月「あの」大規模な山火事があったところでした。すわ、危ないのか?とスマホで地図を見れば火事延焼の危険はないところでしたが、利根川近くの今でも田舎の感じがするところでした。安野光雄さんの表紙は悲しいことが多かった5歳の女の子を明るいイチョウの木の上に登らせて、銀杏取りの合間にバンザイをさせた絵でした。 「安野光雄 お盆に墓参りをして、ご先祖さまをおんぶするようにして帰るとは、はじめて知りました。 船曳由美 お墓の前でお線香を手向けたあと、墓石に背を向けてしゃがむ。すると、ご先祖さまが墓石の中からするするっと出てきて、めいめいの背中に乗られるんです。子どもたちは三歩も歩くと、背をのばし手を振って歩いてしまうんですが、ご先祖さまは自力でしっかりとしがみついているそうです。ヤスおばあさんは家に着くまで、決して手を後ろから離しませんでした。」 ←もちろん、地方によって様々な風習はあるけれども、ムラの外れの墓地からおぶって来る「魂」は、この地方で二千年間ぐらいは続いていた風習のような気がする。それは、様々な不幸という「呪い(のろい)」を背負ってきたムラ人たちの、生きていく上で必要不可欠な「お呪い(おまじない)」なのだろう。こんな小さな「知恵」が、この本の中には満載であり、いつまでも大切にしたいと思っている。 上京後の生活は簡単に記しているが、新渡戸稲造校長の女子経済専門学校の講師陣を見ると、その豪華さにクラクラする。吉野作造、我妻栄、古在由重、市川房江‥‥。しかもテイは吉野作造の推薦でYMCAの事務局に就職するのである。ホントは、関東大震災後の東京を舞台に、この辺りを中心にして評伝を書いてもらいたいぐらいだ。もはや無理だけど。 テイさんは、単行本発刊の4ヶ月後、眠るように大往生したという。
2021年03月29日
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「弥生時代の吉野ヶ里ー集落の誕生から終焉までー」佐賀県教育委員会編集 2006年発行。47pオールカラー。 適当に詳しい、吉野ヶ里遺跡図録になっていると思う。 目次 1. 蘇った弥生時代の環濠集落 2. 吉野ヶ里弥生集落の変遷 3. ムラの誕生 4. 大陸から導入された新たな技術ー青銅器の生産 5. 戦いと犠牲者 6.首長の誕生と威信財 7. 華やかな装い 8. 祭祀ーマツリ 9. 暮らしの道具 10. 南内郭と北内郭 11. 「クニ」と倉と市 12. 豊富な金属製品 13. 巨大環濠集落の終焉
2021年03月28日
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「大和の考古学」奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編集 常設展示図録 初版1997年 120p オールカラー。 平安時代まで、満遍なく解説しているが、 (1)当然大和に特化して写真や図があるところが価値である。 (2)もう一点は、日本で有数の考古学研究所としての権威ある解説であること。 具体的には(私視点) ・香芝市から羽曳野市にまたがる、二上山遺跡群の地図がある。旧石器時代遺跡、サヌカイト発見地(主には春日山)、サヌカイト礫を多く含む大阪層群を記入している。 ・唐古・鍵遺跡の豊富な生活木製品の写真がある。 ・大和周辺の青銅器分布図 ・弥生神祭りの豊富なジオラマ写真(特に鳥装の巫女は有名、他には少し疑問もあるが前期銅鐸を鳴らす儀式)巫女の写真解説によると、胸には若い鹿を描いた。男女一対の首長か、補佐する者がその側についているという。 ・大人の墓は集落の中にあったが、子供の墓(甕棺)は集落の外れに移った。 ・唐古・鍵遺跡は近畿最大の環濠集落。弥生時代中期初めに直径約500m、短径約400mの楕円形に、幅約10m、深さ約2m以上をはかる大環濠を完成させた。後にその外に幅約5mの濠をいく筋も加え、防御の効果をより高めてゆく。ちなみに、環濠の掘削土量は全長120mの前方後円墳の体積に等しい。古墳時代のはるか以前に、既に大規模な土木作業を可能とする、労働力の確保と組織化が果たされていた。この力がまた、戦争にも向けられた。東大寺山遺跡(後期中頃)は、盆地の集落が丸ごと一つ移動したと見られている。 ・残念なのは、弥生時代後期の遺物がほとんどないこと。大和政権成立の謎は、この博物館では解けそうにはない。 ・名物は古墳時代前期のメスリ山古墳の大型埴輪である。 ・大和古墳時代の遺物は豊富だ。また、天神山古墳の鏡、島の山古墳の大量の車輪石、石製品、茶臼山古墳の装飾具、倭の五王時代の遺物(宮山古墳、南郷遺跡の)などご注目される。 私の関心はここらまで。解説は簡潔だが、一方ではあまりにも簡単。そのあたりは特別展で補足するのだろう。
2021年03月27日
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「五輪と万博」畑中章宏 春秋社 五輪と万博の歴史をこうやって観ると、この100年間に都市の妖怪(土神?)が、名誉や欲に駆られた日本人を陰で翻弄してきたような絵が浮かび上がる。民俗学者・畑中章宏さんは一切そんなことを書いていないが、私にはそう読めた。以下、印象に残った事柄を要約して紹介する。 1936年、五輪ベルリン大会が開かれていた時、柔道の嘉納治五郎IOC委員が演説をして4年後のオリンピック東京大会が決まった。日本は関東大震災からの「復興五輪」を唱えていた。 代々木公園の辺りが一旦はメインの競技場に想定された。当時は「春の小川」という童謡がここで生まれたような、武蔵野の一部、牧歌的な風景が続いていた。 同時期、月島と横浜を会場に1940年万博が計画された。月島から晴海、豊州にかけて湾岸埋立がなされ勝鬨橋が作られていた。しかし、戦争が二つの大会を中止に追い込んだ。明治神宮競技場は学徒動員の舞台になった。1940年の五輪と万博は幻に終わった。 1964年の五輪は、「戦争からの復興」が掲げられ進められた(59年ごろ)。が、まだ復興していないという意見も少なからずあった。61年、選手村を朝霧米軍駐屯地にするか、代々木のワシントンハイツ(現在代々木公園辺り)にするかで二転三転。(←米軍の振り回し、そして忖度。豊洲移転の時もそうだが、役人は普通の仕事ができない)64年夏には、極端な雨不足に陥った。8月には遂に貯水量が2%を切り「東京砂漠」という言葉が生まれた。突貫工事で荒川から水を引き入れ10月に間に合わせた。(←果たして現在の日本で5月、そんな神業的なことができるか?)因みに、61年の『モスラ』は水が枯渇する奥多摩湖・小河内ダムに出現し、米軍横田基地を経て、渋谷へ、そしてオリンピック工事中と書いたミニチュアを壊す。脚本の中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の批判精神の現れだろう。 (五輪で大金を使う旨みを知ったのか←私論です)64年2月に70年大阪万博を行うことを閣議決定する。会場の千里ヶ丘はかつて村らしい村もなく、有数の桃と筍の産地だった。 オリンピックを終えた東京では、高度成長による歪みが露呈していた。都政では、公害問題、開幕直前の水不足問題、都議会黒い霧事件等々である。67年の都知事選挙で自民党は負けて、美濃部都政が誕生した。 千里ニュータウンは、万博に先立つこと65年には人口が3万3000人となり、日本一のマンモス団地に成長していた。阪急千里線開業(63年)、北大阪急行開業(70年)近畿自動車道開通(70年)と、急速に都市化。わずかに千里中央駅南の豊中市上新田1-4丁目は現在も昔の面影を残している。 大阪万博総入場者数は6千4百21万8770人。日本人口の6割以上が移動した(←私も岡山から親戚の家泊まりがけで移動しました。長いこと並んで2-3しか見れなかった)。2010年上海万博までは最多の入場者だった。万博史上初めて黒字を計上した。この成功体験もう一度と、その後税金を使って万博が雨の子たけのこ開催される。 美濃部後の鈴木都政は新宿新都庁をつくり、臨海副都心を開発した。副都心は1940年の万博予定地と重なる。箱もの行政と批判されて、青島幸男都知事就任の後、肝煎りだった都市博は幻となった。お台場の会場跡地にはフジテレビ本社が建った。(←少なくとも副都心の五輪会場は今回も幻に終わるのか?) 東京ではその後復興五輪が掲げられて20年にオリンピックが予定されていたが、延期になった。2025年に大阪夢の島で万博が予定されているが、もはや五輪も万博も、開発の起爆剤を求めていない。 本書は五輪に対して宙ぶらりんのまま、20年6月に筆を置いている。今の段階では東京五輪があるかどうかはわからないけど、後2年後に加筆して是非とも文庫本を上梓して欲しいと思う。
2021年03月24日
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「洞窟おじさん」加村一馬 小学館文庫 昭和34年13才だった少年は、父親の折檻に耐えきれず家を飛び出し、以来森や洞窟や川べりで43年も暮らした。読む前に私が確かめようと思ったのは4点。 (1)人間は人との間の交流がなく、生きていけるものなのか? (2)人間は文明機器と一切隔絶して生きていけるものなのか? (3)長い間で、喜びを感じたものは何か? (4)長い間で、悲しみを感じたものは何か? 結果 (1)表紙は洞窟の前に佇むカバンとスコップを持った少年と犬のシロ。下には無数の庶民がいる。読み終わってわかるのは、此処に出てくる主な登場人物だということだ。加村一馬少年は2年間洞窟でサバイバル生活を続け、その後数年間人にも会わずに生きていけたけど、最初はシロが居たから生きて行けたし、そのあと決定的に困った時には名もなき人の助けをもらっていたのである。人と話すのが苦手な加村さんではあるが、決して1人で43年間を過ごしたわけではない。 (2)文明機器は何かで、答は分かれる。2003年に自販機の小銭窃盗未遂で警察に捕まった時に、エレベーターもシャワーも初めて経験した。電気製品が無くても人は生きていけることを彼は証明したと思う。しかし、昭和34年最初持って行ったカバンの中には食料、四合瓶入醤油、塩一袋、ナタと小刀、研ぎ石、500本入マッチを入れた。スコップも持っていった。結果的に大嫌いな父親から教わった「生きるための知恵」であったが、文明機器と父親から教わったサバイバル技術が、彼を生きながらえさせたのは間違いない。 (3)何に喜びを感じたのか?人に親切にされたこと。人に頼りにされたこと。本を読んで気がつくのは、何にもメモしていないのに(少し文字を習ったのは30代後半)驚くほど生き生きと彼は覚えている。また、どんなものが美味しかったか、とかそういう記憶は忘れない。 (4)最大の悲しみは、間違いなく最初の2年間を洞窟で一緒に過ごしたシロの死であろう。群馬県足尾鉱山洞窟はシロの死で終わりを迎え、山梨県等の山中生活に移る。食べることはできても、孤独は癒せない。彼は死ぬために富士の樹海に入ってゆく。その彼を救ったのはやはり「人の死体」だった。骸骨や腐りかけた死体を埋葬していく過程で、彼は生きる気持ちが湧いてくる。 人間とは何か。 いろんなことを感じられる良書であり、 私にとっては生きたサバイバル技術の指南書だった。
2021年03月23日
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「冬の蕾 ベアテ・シロタと女性の権利」樹村みのり 岩波現代文庫 初出は93年。樹村みのりはひとつのテレビ番組を観て、憲法に男女平等条項を入れた若い女性の半生を描くことにした。未だベアテ・シロタさんの名前が広く知られていなかった時である。 その後、シロタさんの自伝も映画も出来た。シロタさんの公表が遅れたのは、若干22歳だった彼女の歳が改憲論客に利用されるのを恐れていたからだそうだ。 彼女の草案の是非については、多くの詳しい本があるだろうからそちらにお譲りする。私は、一、二の思い切った橋を渡ったのかもしれないが、何一つ間違ったことを書かなかった、むしろ#ME TO運動や昨今の女性差別発言事件を見るにつけ、75年先の未来をも見据えた素晴らしい仕事だったと思う。去年、本書が岩波現代文庫に入ったのも、そういう経緯からだろう。現代にこそ、広く読んでもらいたい。 偶然が3回続けばそれは必然である。 とは、最近映画「花束みたいな恋をした」の感想を書いた時に、ある人から教えてもらった箴言だ。 樹村みのりは、3回どころか、シロタさんの憲法草案の仕事は、様々な偶然が奇跡的に重なった必然だったことを、まるでドキュメンタリーのように見せた。シロタさんが産まれた時のこと、日本に関係なかった両親が来日したこと、日本で育ち、アメリカで語学を学び、その経験で日本と米国のジェンダー問題の現場を見てきたこと、また敗戦時いち早く日本に戻って奇跡的に両親に再会出来たこと、心が安定した時に2週間の草案の仕事に取り掛かったこと。まるで日本国民に、憲法24条という贈り物をするために生まれてきたような女性だった。こういう構成は、おそらく樹村みのりの発明だろう。 樹村みのりを約40年ぶりぐらいに読んだ。本書には2002年発表の短編三編も載っているし、文庫本用のあとがきも書いている。元気なことを知れて嬉しい。驚くのは、レビュー以来、ひとつも変わらないその硬質な「画」である。これは、漫画家としては驚異的なことだと思う。
2021年03月17日
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「ロシア革命運動の曙」荒畑寒村 岩波新書 大晦日に倉敷蟲文庫で手に入れた古本の最後の一冊。当然現在は絶版、掘り出しモンです、と書こうとしたらAmazonでは二束三文。うーむ。 荒畑寒村は明治時代の社会主義運動家(『谷中村滅亡史』著者)と思われているでしょうが、本書は1960年の書です。この時、寒村73歳。大逆事件以降、社会主義冬の時代を生き残ってここまで辿り着きました。本書はまるまる前期ロシア革命の歴史書ですが、歴史的な意義はその「はしがき(前書き)」にあります。 寒村は、日本とロシアの運動は1904年に既に交流があったと書く。日露戦争直後にロシア社会民主党に対する友誼の書簡を送り、それを「平民新聞」に載せ、世界の社会党機関紙は、さらにそれを転載したようだ。その後寒村たちは日本政府のために連絡を断たれるのではあるが、1917年の革命を受けて、断片的ながら社会主義への知識を得る。この「はしがき」で、後年の荒畑寒村は言う。 「(略)なるほど、ナドーロニキは明確な社会改革綱領を持たず、人道主義と正義感だけで行動したロマンチストであったろう。彼等のイデオロギーは極めて純然たる、非プロレタリア的社会主義に過ぎなかったであろう。彼等の反抗も客観的には、小ブルジョワジーの封建性に対する不満の反映であったかもしれない。 だが、それはみな後に習得した知識に過ぎないので、当時の私の実感ではなかった。私はただ、数千の青年男女が圧政と搾取に喘ぐ人民を救い、無知と窮乏から彼等を解放しようとする理想に情熱を傾け、あるいは現在の幸福な生活を捨て、あるいは将来の社会的栄達を絶ち、人民(主として農民)のうちに身を投じて啓蒙運動を開始した。その犠牲と献身の精神に感動したのである。ことに平和な啓蒙運動の「ヴ・ナロード」運動が、専制政府の苛烈な迫害に反発してテロリスト化した過程を知るに及んでは、為政者の暗愚と暴虐、犠牲者の殉難と刻苦とに悲憤痛恨を禁じ得なかった」(6p) 明治・大正から昭和の厳しい時代に、代表的な社会主義者・寒村がロシア革命前期をそのように見ていた!と非常に新鮮だった。また、寒村が原因ではないが、此処から日本の学生運動がロマン主義とテロリスト化に傾いていった要因を掘り当てることができるかも知れない。しかし、この本でそこまでの読み込みは無理である。 「カラマーゾフの兄弟」が刊行された翌年(1881年)に、ロシア皇帝が前期ロシア革命の闘士のテロにより爆弾の藻屑になった。「カラキョウ」のファンは多いが、「カラキョウ」に極めて多大な影響を与えた革命の具体的な推移を知っている人は少ない。今や本も少ない。この本は、19世紀終わりから20世紀初めまでの、波瀾万丈の経過を詳細に述べる。 皇帝暗殺の直後に、革命集団を指導したのが、若干20代の美貌の女性・ヴェーラ・フィグネルであった等々、とてもドラマチックに書いている。出現しては次々と消えていく革命闘士の「列伝」のような新書になっている(まるで北方謙三「水滸伝」のようだ!)。実際、読んでみて、理想と暴力の狭間、英雄と裏切りの物語、等々が続き、幾つもの映画ができると思った。実際、現在連載中の漫画「ゴールデンカムイ」は前期ロシア革命の残滓ともいうべき人々が登場している。 掘り出しモンでっせ。
2021年03月16日
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「書標ほんのしるべ」2021年3月号 丸善で本を買った時に、久しぶりにこの宣伝誌を持ち帰った。表紙は能勢仁さんの紹介する「世界の本屋さん」シリーズvol.110「クロアチア・ドブロニブク書店」。アドリア海の真珠と言われる超観光都市の石造の店構えの書店(約30坪)。観光客用の品揃えも多い。仮面の陳列・販売は地元祭りのためだろうと能勢さん。それはそうと、分厚い本が多いよねえ。日本はいつのまにか、薄くてすぐ読める本ばかりになった気がする。 特集「生まれてこない方がよかった」「ひとりを愉しむ」には興味はなかったが『独居老人スタイル』(ちくま文庫)は読んでみようと思う。 この雑誌の1番の眼目は、特集も『今月のおすすめ』約36冊の書評も、全て書店員さんが書いていること。今回、初めて字数を数えたら、約380字。原稿用紙1枚に収まるように書いている。びっくりした。私は、600字から1000字。たくさん書いたと思うときは、2000字、さらに歯止めが効かなくなって3000字書く時もある。そうしないと紹介しきれないと思うからだ。書店員さんたちは、かなり削りに削っていると思う。素晴らしいと思う。 ここまで、約490字。ここから100字は削らないとね。 本標はwebで全文閲覧できます。 https://honto.jp/store/news/detail_041000050741.html?shgcd=HB300
2021年03月14日
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「コロナ時代の僕ら」パオロ・ジョルダーノ 飯田亮介訳 早川書房 ジョルダーノがこの世界的に有名なエッセイを書き始めたのは、中国の感染者が8万人を超え、イタリアは未だ感染者数百人の段階だった。2020年2月29日のことである。しかし、科学者であり文学者でもあるジョルダーノの危機意識は高く、その透徹した眼は、その後のイタリアや世界の混乱を予測していた。 本書は予約してやっと8ヶ月目に手に取った。お陰で、私はジョルダーノの目線から一挙に1年後、2021年3月にワープした。俯瞰して彼の言説を読むことができる。 予言の的中やコロナウィルスの分かりやすい説明部分は省略する。私は未来の話をしたい。 ジョルダーノは、我々には「誰ひとりとして逃れることの許されない責任」があると言う。どんな仙人生活を送っていようとも逃れることができないだろう、という。 それは分かっていたけど、非常に重い認識だ。でも、コロナが去れば、新しい可能性も広がる。ふと思い出したのは、深夜のテレビ番組で見た、1人のツテを5人辿れば世界のどんな有名な人とも繋がれるという企画だ。そうか、コロナはこれも証明して見せたのか!5人いれば、イタリアのウィルスは僕の手元のマグカップまでやってくることは可能だ。 ‥‥「誰もひとつの島ではない」 私の書評は、時に著者自身の眼に届く事がある。年に2回以上は起きるようになった。こんなこと、10年前にはなかった事だし、20年前にAmazonが日本でレビュー掲載を始めたころには思いつきもしなかった事だった。 私たちは繋がれる。いい事だけじゃない。コロナは最悪の事態だし、新しいファシズムの条件でもあるだろう。でも、私たちは繋がれるんだ。 例えば、ジョルダーノは言う。 専門家は口々に別なことを言った。(略)今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えが欲しかったのに。(略)(でも)実は科学とは昔からそういうものだった。 ←確かにそうだった!科学は万能じゃない。いつも正しいわけじゃない。でもそうやって繋がって口々に言い合って少しずつできる事が増えてきたんだ。 例えば、ジョルダーノは言う。 フランスのマクロン大統領が「戦争」という言葉を使ったらしい。他のジャーナリスト、コメンテーター、医師までも使い出したらしい。私の国でも、遂には隣のおばあちゃんが「戦時のようなものだ」と言ったのを覚えている。ジョルダーノは、それは「恣意的な言葉遊びを利用した詐欺だ」と断罪した。彼の言葉は瞬く間に広がり、その後鳴りを潜めた。あのトランプさえ選挙戦で使わなかったと思う。言葉の力は、繋がる力であり、恐ろしい。そして、素晴らしい。 例えば、ジョルダーノは言う。 「僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなくなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは」(108p) そうだった。地球の凡ゆるところが病室だ。僕らは、小さな看護師になって、ベッドのそばでひとつひとつメモしておかねばならない。次のカンファレンスに活かしてもらうために。 例えば、ジョルダーノは言う。 「僕は忘れたくはない。政治家のおしゃべりが突如、静まり返った時のことを。」「僕は忘れたくはない。パンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを」 僕は忘れたくはない。 半年休会していたサークルの例会が、オンラインで繋がった時のことを。 僕は忘れたくはない。 いつも遠くて欠席していた会議が、オンラインで繋がった時のことを。 僕は忘れたくはない。 100メートル先に感染者が出現した時に、みんな不安な顔をしながら、やるべき事をしていたことを。 2021年3月10日読了
2021年03月13日
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「新型コロナ 自宅療養完全マニュアル」岡田晴恵 実業の日本社 この本の売りは、 ひとつは、2020年12月7日発行というところだろう。情報が日々変わる中で、今のところ最新の情報を、まとまって取得できる本である。 ひとつは、岡田晴恵さんが書いていることだろう。あれだけ毎日テレビに出た人の中で、政府情報にも忖度せずに堂々と言い続けて、今のところ間違っていたことを言っていたという評判はない。 本書は、コロナ対策はいかにあるべきか、という根本的なことはわざと避けている(ワクチンが必要というような当たり前のことは言っているが)。コロナの症状はどんなもので、どうすればいいのか、万が一かかったらどうすればいいのか、テレビ的な卑近なことを詳しく書いている。少しでも不安がある人には、それが最も必要だからであろう。 例えば、10月から先ず保健所に連絡するのではなく、かかりつけ医師に連絡すれば良くなったと書いている。それができない人は保健所でもいい。 例えば、10月からは38.5度以上の高熱で咳がひどくても「軽症」になる可能性がある。診断基準が「酸素飽和度」によって決めるようになったからである。このことは、私は知らなかった。 PCR検査をして、明日でも入院か、自宅療養か、宿泊療養かが決まるような段階であれば、急いで本屋に飛び込んで買っておくべき本だと思う。その時点で揃えておくべき備品・食料・薬のチェックができるからである。特に薬は入院する人以外は自前になるのだ。熱さましの薬は絶対必要だろう。市販の薬の一覧はとても役に立つ。陽性者にとっては、役に立つ情報満載である。他のただ不安な人にとっては、立ち読みでもすぐに読める。 内容紹介(Amazonより) 本格的な冬到来に先駆け、再び新型コロナウイルスの感染が再び拡大傾向にあります。 新型コロナウイルス感染症患者については、これまで一律に「入院」としてきましたが、政府は2020年10月から、「入院」の対象を、 ・65歳以上の者 ・呼吸器疾患を有する者 ・臓器の機能低下が認められる者 ・免疫機能低下が認められる者 ・妊婦 ・重度・中等症の患者 などに限定すると発表し、実施が始まりました。 つまりは、新型コロナウイルスに感染しても、無症状感染者や軽症で入院が必要ないと医師が判断した人は、自宅で療養することに……。 家庭内での感染が広がっている中、もしも自分が、家族が新型コロナウイルス感染症に感染したら、どのように療養し、看病すればいいのか。 あるいはそれ以前に、新型コロナウイルス感染症に感染しないためにはどうしたらいいのか。 早期から新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に向けて各メディアで警鐘を鳴らし続けてきた白鴎大学の岡田晴恵先生が、自宅療養のための完全マニュアルを詳しくレクチャーします。 書籍内容紹介 Chapter1 新型コロナウイルスとは コロナウイルス感染症ってどんな病気? 新型コロナウイルスとは? 新型コロナウイルスの主な感染経路は? 新型コロナウイルス感染症への治療薬は? いろいろな検査方法がある 新型コロナウイルス感染症の後遺症は? 世界各国の新型コロナウイルス感染症の対策は? コラム1 流行時、体調が悪くなったら? Chapter2 新型コロナウイルスにもしかかったら どんな症状が出る? 「軽症」「中等症」「重度」の違い 医療機関にはどうかかればいい? 感染患者を看病するとき ケース別看護方法の具体例 共有スペースでの感染症対策 コラム2 宿泊療養をするときは Chapter3 新型コロナウイルスに感染しないためには 個人でできる感染症対策 シチュエーション別対策法 自宅待機で必要になる備蓄品は家族構成で変わる コラム3 感染防止7か条
2021年03月12日
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「天災と日本人」寺田寅彦随筆選 山折哲雄編 角川文庫 東日本大震災直後(2011年7月)に編まれた、寺田寅彦随筆選である。編者の意図を超え、コロナ禍の現代に読むと、そのあまりにもいまの我々のために言ってるかのような言葉に溢れていて、びっくりした。 その幾つかを、以下に羅列する。 「天災と国防」(昭和9年) ・文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増す ・日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。 「流言蜚語」(大正13年) ・(大地震の最中毒薬を暴徒が井戸に投じたという噂に関して)いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。 ・もちろん常識の判断はあてにならない事が多い。科学的常識はなおさらである。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。 「政治と科学」(昭和10年) ・他国では科学がとうの昔に政治の肉となり血となって活動しているのに、日本では科学が温室の蘭か何ぞのように珍重されている。 「日本の自然観」(昭和10年) ・現代の日本では、ただ天恵の享楽にのみ夢中になって天災の回避のほうを全然忘れているように見えるのはまことに惜しむべきことと思われる。
2021年03月11日
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「醤油・味噌・酢はすごい」小泉武夫 中公新書 「醤油・味噌・酢はすごい」ことを書いているのではあるが、つくづく小泉武夫はすごいと思う。専門の学者とは言え、日本の三代発酵調味料たるこの3つについては、その歴史・製法・成分・効能・調理法まで凡そこのコンパクトな新書にギュウギュウに詰め込んで出し惜しみすることがない。 下手にネットサーフィンするよりも、この一書を読めば様々な調べ物は用を出すのではないか?とは言え流石に、発酵調味料が「腸に良い」という視点は、この学者には殆どなかった。医者でないので、 最新の病理学は得意ではないのだろう。あと現代風レシピもない。でも、「発酵調味料のおかげで、日本食はこんなにも美味い」ということは大いに主張している。日本全国、世界の発酵調味料は味わい尽くした御方ではある。 私の関心は腸活に関すること、古代の知識に関することなので、そこに限定して参考になった部分を以下にメモする。 〈醤油〉 ・塩の土器製塩法(縄文後期〜)は茨城県霞ヶ浦に初現、以後松島、津軽、やがて弥生時代に児島、そして瀬戸内海全体へ、古墳時代に愛知や天草へ。 ・醤油は6世紀初頭中国の豆醤(トウジャン)の上澄液の記録が有り。我が国へは仏教伝来(538)共に伝わったと言われているが、弥生時代に肉魚野菜を塩に漬け込んだ「比之保(ひしお)」があり、その保存液を捨てるはずがない(←私もそう思う)。「醤」に「ひしお」を当てたのは、似ているので、一緒にしてしまったのだろう。大豆も縄文時代からあることが、確かめられている。 ・醤油1リットルに納豆5包、昆布、ニンニクを混ぜた「納豆醤油」を、小泉武夫は万能調味料として作ってきたという。粘り気のある調味料。気持ち悪いかもしれないが、私は試してみたい。 〈味噌〉 ・養老律令(718)によると、調味料は「醢(肉の塩辛)、醤、鼓、未醤、酢、酒、塩」だったという。このうち、鼓は大徳寺納豆に近いもの、未醤が味噌である可能性が高くなった。味噌という漢字は「日本三代実録(901)」に初めて現れる。 ・味噌の保健効果は多い。「大豆アレルギーが起きない」「血中のコレステロールを下げる不飽和脂肪酸が多い」「メラニン色素の合成を防ぐ遊離脂肪酸」「動脈硬化を防ぐレチシン」「大腸癌を防ぐ食物繊維」「ビフィズス菌を増やすオリゴ糖」「抗酸化と食品保存効果のビタミンE」「血圧上昇抑制放射線防御効果」「抗腫瘍性と抗変異原性」 〈酢〉 ・酢の歴史は酒の歴史と同じ。ブドウ糖から酒が作られて、酒のエチルアルコールから酢酸菌が作用して酢酸ができる。 ・奈良時代では既に酢を作るために最初から醸している。 ・万葉集巻16に「醤酢に蒜つきかてて鯛願ふ吾にな見せそ水葱のあつもの」→「野蒜を刻んで加えた醤油と酢で鯛を食いたいと思っていたのに、水葵の煮物とは勘弁してくれよ」とある。←かなりのグルメだ! ・食酢の殺菌作用。o-157の様な薬剤に耐性を持つ細菌でも約150分で死滅。 ・減塩効果並びに肉魚野菜からカルシウム、マグネシウム、カリウム、リンなどを溶出する力等々がある。 ・熟鮓(なれずし)の知恵。保存性、魚臭の消滅、ビタミンの生成、整腸作用。 ・酢の保健効果。コレステロール値の低下。糖尿病の予防効果。高血圧症予防効果。肥満の防止(脂肪面積の減少)。骨粗鬆症の予防。疲労の回復。 ・食酢の有効摂取量は1日15-30ミリリットル。 ←発酵食品博士の小泉武夫さん。現在77歳。これは4年前の書ではあるが、そろそろ身体をご自愛してもらって、無茶な食べ歩きはせずに、発酵食品で健康長寿ができると証明してもらいたいものだ。
2021年03月06日
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「図書2021年3月号」 表紙は不気味な雲に隠れた不穏な太陽のように思えます。いつもの司修さんならば、私の見立てなどのあっさり斜め上に行くのだけど、今回は正解でした。ただし、今回は「夢」を描いていません。題名は「夢のようなもの」。2005年司修さんは、ネパールに〈太陽と結婚〉する儀式を見に行き、その帰り道、戒厳令封鎖に出逢います。幸いホテルに帰れたのですが、その時の漠とした不安を描いたもののようです。私は、ミャンマーのクーデター、あるいは10年前に「太陽に蓋をするのに失敗」した日本の原発事故も思い出していたのではないかと推測します。 今回は流石に東日本大震災関連の記事が多かったです。そして、異様に面白い記事が多かった。今回読んだのは、司修さん解説含めて16記事中10記事。以下のものです。 「11年目の枇杷」佐伯一麦 「止まった刻を進めるために‥‥東日本大震災十年」山崎敦 「大江山に鬼が出た!‥‥都に疫病を流行らせるもの」高橋昌明 「ラッドリー家の人々‥‥文学を愛する労働者階級の人たち」小川公代 「古びない物語の魅力」松田青子 「もっともらしさ」畑中章宏 「あんぜん対あんしん」時枝正 「水引に張りつめる力」橋本麻里 「不幸な日本国憲法」長谷川櫂 その中で民俗学者・畑中章宏さんの「らしさ」について考えるシリーズ(4)の「もっともらしさ」をピックアップします。 もっともらしさの最たるものは、「神様」のようです。特に日本のそれは顕著です。日本に神像が登場したのは、6世紀半ば仏教の仏像が入ってきて以降です。それまで神は自然崇拝に由来するもので、姿形を持ちませんでした。 けれども、日本人は外来からの刺激を取り入れて「雑種」を作ります。「神仏習合」はそうして起こり、「神像」も作っては見ました。でも、見てわかるように見てくれだけです。神像に仏像みたいな国宝は結局生まれなかった。むしろ、「山神」や「水神」、「道祖神」は、形象化されることなく、文字碑として祀られることが多い。 日本の神のイメージが持つ「もっともらしさ」を、科学の領域で再現させたのが、一昨年末の紅白歌合戦に登場した「AI美空ひばり」でしょう。この「もっともらしい歌の神様」には、日本伝統の慎み深さはなかった。それはおそらく、国民が願ったものではなく、上から作られたものだからでしょう、と畑中章宏さんは推測します。 そういう意味で、手塚治虫の新作もAIで作られているみたいですが、私は失敗するだろうと思います。おそらくこの辺りに「アンドロイドは羊の夢を見るか」どうかの答えもあるのではないでしょうか?
2021年03月01日
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「新型コロナの科学 パンデミック、そして共生の未来へ」黒木登志夫 中公新書 日本癌学会会長など日本医療の最前線で活躍してきた専門家から、まとまった解説書が出た。冒頭には、山中伸弥さんから「推薦の言葉」があった。私としては、もうそれだけで本書に全幅の信頼を置く。 とてもわかりやすく、尚且つ鋭い分析だと思う。昨年10月末までのデータがほとんどではあるが、昨年の日本ならびに世界のコロナ対策への評価と問題点抽出は出来ているし、我が意を得たりという気もした。 以下。参考になった部分。 ⚫︎「新型コロナウィルスについて知る」 ・変異。マイク真木「バラが咲いた」を例に説明。この歌は何故か、遺伝子暗号と同じように三つづつに区切れる、のだそう。 「バラガ サイタ バラガ サイタ アカイ バラガ」 →「バカガ サイタ バカガ サイタ アカイ バカガ」 塩基配列1箇所変異で、大違い。 ⚫︎「新型コロナ感染症を知る」 ・新型コロナが「無症状者からも感染する」論文が出たのが1月30日。しかし、これは直ぐには認められなかった。2月第二週に疑いのない事例が出て、初めて知られるようになり、きちんと確認されたのは5月初め。日本を含む世界は、この恐ろしい現実を軽視した。 ・「感染は本人の責任」と思うのは、五大国の中で日本が突出して多い。アメリカ1.0%、イギリス1.5%、イタリア2.5%、中国4.5%、日本11.5%である。←私の周りの印象では、これよりも%は多いと感じる。言うまでもなく、これは間違った考え方である。 ⚫︎「すべては武漢から始まった」 ⚫︎黒木登志夫さんのウィルス起源についての考え ・武漢の海鮮市場が、感染拡大のクラスターになったのは確かだが、海鮮市場の動物から感染が始まった可能性は低い。 ・武漢ウィルス研究所の実験室からウィルスが外に出た可能性は否定できない。 ・新型コロナウィルスが、意図的に人工的に作られたウィルスである可能性はない。 ⚫︎「そしてパンデミックになった」 ・「超過死亡」によって、見逃されていたコロナ死、医療崩壊により死亡したであろう数も予測できる。米国は3-8月で26万人超過死亡者がいたが、うち8万人がそれだと予測できる。 ←日本はPCR検査を絞っていたので、これで見逃されていたコロナ死亡がかなりあるのでは?と思っていたが、黒木さんによると日本では未だ確認されていないそう。何故確認されていないのか?理解できない。 ←なお、日本の新型コロナの問題については、黒木さんは10月23日出版の臨調『新型コロナ対応・民間臨時調査会 調査・検証報告書』を基に書いている。実は、私は昨年この書を直ぐに購入したが、そのあまりにもの分厚さに躊躇していてまだ紐解けていない。今回、見事な先導役を見つけたので、この後紐解きたい。よって、日本問題は多くは省略する。と思っていたが、黒木さんの見解として、日本の対応のベスト10とワースト10を作ってまとめてくれていた。3ページにかけて書いていて、あまりにも長文なので、末尾に載せる。今のところ、私と同意見である。 ⚫︎「世界はいかに対応したか」 ・コロナ禍は、社会の二重構造、インフラの整備状況、医療のレベル、健康保険の整備状況などを、図らずも明らかにした。指導者の資質も明らかにした。 ⚫︎「新型コロナを診断する」 ・PCR検査、抗原検査と抗体検査は大きく違う(特に診断の目的)。 ・米国CDCではPCR検査試薬に不純物が発見され、2月4日から3月15日まで使用できず、初動に大きな遅れをとった。 ・尿からウィルスは検出されていないし、便から感染性のあるウィルスは分離されないので、トイレ理由の感染はない。 ・日本の抗体保有率(6月)東京0.1%、大阪0.17%宮城0.03%。一方でスペイン3.7%(調査時の感染者0.46%) ・黒木さんはPCR検査を(1)感染者(2)医療従事者(3)感染リスク者(4)社会の安全・安心に順次広げていこうと主張しているが、現在は(2)までだという。←私は(2)も未だできていないと思う(特に首都圏以外)。一部批判にあるようにPCR検査を広げれば全て解決するとは書いていない。 ・60%の集団免疫が安心な基準だとしているが、まだ世界では確認されていない。 ⚫︎「新型コロナと戦う医療現場」 ・5月末現在、2105人の院内感染者。全感染者の12.4%。院内感染の致死率は20%。全国平均の約5倍。病院も閉めることになるので、医療崩壊の引き金にもなる。 ・欧米では死亡の40%が介護施設。日本は13%。日本ではトリアージによって高齢者を差別していない。インフルエンザ対策で、既にマニュアルがあり、1月31日には厚労省事務連絡が出ていて、初動が早かった。 ⚫︎「追記」 ・ファーザー、モデルナのワクチンの90%以上は、期待以上で、集団免疫も期待できる。明るいニュースだ。 『ベスト10』 (1)国民。国民は、要請レベルにも関わらず、行動を自粛し、マスク着用、手洗いなどを励行した。経済的に苦しい人もよく耐えた。 (2)三密とクラスター対策。初期のクラスター対策は一定の効果をあげた。その分析から生まれた「三密」キャンペーンは、わかりやすく、みんなそれにしたがった。 (3)医療従事者。未知の新型コロナに対して、検査・防護服などが不足しているなか、使命感から、献身的に貢献した。医師会も、コロナ問題に積極的に関わった。 (4)保健所職員。厚労省が保健所負担軽減対策に積極的でないなか、困難な調整と実務を行なった。公務員の責任ある行動として記憶されることであろう。 (5)介護施設。厚労省福祉関係三局は、いち早く介護施設に注意を呼びかけ、介護施設もそれに応えた。日本の死亡者が少ないのは、介護施設の努力によるところが大きい。 (6)専門家の発言。少なくとも、分科会に編成替え前までの専門家は、使命感から積極的に発言し、国民に警笛を鳴らし続けた。われわれも専門家の発言に注意していた。 (7)中央、地方自治体の担当者。医療従事者だけでなく、関係したすべての公務員は、一生懸命仕事した。 (8)ゲノム解析。国立感染研、地方衛生研は、新型コロナウィルスのゲノム解析し、感染の全貌解明と対策に貢献した。 (9)在留邦人救出。政府は感染の危機にさらされている在外邦人を、パスポートの前文の約束を守り、チャーター便により帰国の便をはかった。 (10)新型コロナ対応・民間臨時調査会。この報告書がなければ、コロナ禍のなか、政府内で何が起こっていたのか、どこに問題があったのかを知ることはできなかった。 『ワースト10』 (1)PCR検査。PCR検査の問題は言い尽くした。 コロナと生きる時代に必要なのは、PCR検査の徹底により社会の安全と安心を保証することである。 (2)厚労省。国民を守ることよりも行政的整合性を守ることに重きをおき、融通性に欠けていた。PCR検査では国民に背を向け、裏で政治工作をした。 (3)一斉休校。文科大臣、専門家の意見を聞かずに、安部首相の側近内閣府官僚によって断行された一斉休校によって、教育の現場、父兄の生活は大きな影響を受けた。 (4)アベノマスク。マスクを配布すれば国民の不安は消えますという首相の側近内閣府官僚の進言によって実行されたマスクは、160億円もの税金の無駄遣いであった。 (5)首相側近内閣府官僚。証拠に基づく政策(EBPM)の重要性が言われているなか、彼らは大臣、専門家を無視し、政策を首相に進言した。それを受け入れた首相は、さらに問題である。 (6)感染予防対策の遅れ。3月のヨーロッパ型ウィルスの流入予防対策に遅れをとった。第二波の最中にgotoトラベルを実行し、感染を広げた。 (7)分科会専門家。分科会委員に格下げされてからの専門家は、政府の政策にお墨付きを与えるだけの立場に甘んじてしまった。専門家が正論を言わなくなったら、専門家ではない。 (8)スピード感の欠如。初動態勢から今日に至るまで、すべての対応が遅すぎた。早かったのは、学校一斉休校とアベノマスクだけである。 (9)情報不足。感染情報は非常に限られていた。感染の実態(院内感染者、死亡者数、発症日別統計など)の発表がなかった。政策決定に至る過程も、不透明であった。 (10)リスクコミュニケーション。現状をわかりやすく説明し、質問に応えるリスクコミュニケーションがなかった。国民はテレビの情報番組に頼らざるを得なかった。 ←本書の増補版は必ず出るだろう。コロナが終息したと見られる一年後か、2年後か、それとも3年後か。その時、本書と見比べれば、わかりやすい「コロナの総括」になると思う。
2021年02月25日
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「新型コロナ 見えない恐怖が世界を変えた」発行所 (株)クレヴィス 昨年8月28日発行。新型コロナの世界各地の写真リポートである。前書き後書きなし。編著者名を明記していないので、おそらく発行社プロデュースの写真ニュース的な緊急出版だと思う。撮影日・場所・状況等の短いキャンプションのみがついている。 それでも、写真だけが見せる異様な記録になっているところが、この未曾有のパンデミックの異様さを証明している。 表紙は緊急事態宣言発令した後の4月18日。まるで早朝の如くではあるが、銀座のSEIKO時計は午後1時前を指している。その他の日本全国各地のゴーストタウン、そしてメルボルン、イラク、モスクワ、ダマスカス、デリー、アムステルダム、パリ、ブリュッセルの無人の街を紹介する。 感慨深いのは、最初の頃の写真だ。中国は確かに公表は遅れた。しかしそれでも、武漢は1月1日に卸売市場を閉鎖し、10日には白い防護服が跋扈し、1月25日にはロックダウンが始まって幹線道路に車一台のみになっていた。この時日本がもっと敏感に反応していたなら、と思わざるを得ない。 ※黒木登志夫『新型コロナの科学』によれば、1月12日に中国は新型ウイルスゲノム配列を公表した。中国の隠微体質により2週間公表が遅れたと書いている。どちらにせよ、そのニュースは全世界に伝わったが、日本はまだ水際で止めることができると信じていたようだ。1月18日屋形船でクラスター発生。2月大阪の二つのクラブハウウスでクラスター発生。日本が明確な規制を始めたのは3月24日オリンピックの開催延期が決まった直後だった。25日政府は海外渡航自粛を要請し、小池都知事は週末の外出自粛要請を出した。しかし、それは花見の三連休の終わった後だった。 2月11日、船内に足止めされたダイヤモンドプリンセス号の乗客からシーツに書いた手書きのメッセージが垂らされた。 「船内情報全くナシ TV民放見レズ ガセネタオオシ」 「情報不足しんこく TEL知りたい くすり 」 「報道ありがとう」 汚いものに蓋をする、日本人の汚いところが、この写真にある。 2月24日のリオのカーニバルの人人、人人。3月4日マイアミの浜辺の大賑わい。当然、1人たりともマスク姿はなし。この後、ブラジルとアメリカは世界最大の感染地域になる。数ページを繰ると、多数の墓地の穴、大量の棺桶。 3月16日緊急事態宣言前、品川駅のコンコースをマスクをつけて通勤する人々を写した写真もある。1割ほどはマスクはしていないが、今になって驚くのは、マスクではなくその密度である。リオのカーニバルばりの密度だった。 後半は、さまざまなソーシャルディスタンスの写真が続いている。 見えない恐怖が世界を変えた。
2021年02月23日
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「シネマ・クレール物語」浜田高夫+シネマ・クレール応援団 吉備人出版 昨年夏コロナ禍のもと、岡山県の唯一のミニシアターであるシネマ・クレールも、大変なことになっていた。緊急事態宣言での営業自粛、そこから復帰したものの「3密」になりやすい映画館から客足は大きく遠ざかり、倒産の危機に陥っていた。 映画館だけでなく、クラブハウスや飲食店も、クラウドファンディング(CF)により常連客さんに支えてもらう資金調達を行うことが増えていた。「シネマ・クレール応援団」は、協議を重ね、「思い出の映画館を守りたい」「岡山に多様な映画の灯を消させない」という想いを集めて鑑賞券方法ではなくて、記念品のみをつけたCFを始め、期日までに目標の1千万円を超える1087人の資金を集めることが出来た、その記録とシネマ・クレールの歴史を綴った本である(本書自体が記念品のひとつになっている)。 第一部 館長浜田高夫のロングインタビュー 第二部 映画人・監督からのメッセージ (塚本晋也・鈴木卓爾・片嶋一貴・想田和弘・前野朋哉・荒井晴彦・行定勲) 募金者のシネマ・クレール応援メッセージ127人 第三部 上映作品一覧 私の想いは映画監督の想田和弘さんのメッセージが最も近いので、そのままコピペします。 岡山は僕の第二の故郷で、妻であり僕の映画のプロデューサーである柏木規与子は岡山出身です。そしてシネマ・クレールは、岡山県内唯一の単館系ミニシアターです。 僕らの全監督作品を含め、ドキュメンタリー映画やアート系映画など、シネコンではかからない多種多様な映画を上映してきた、極めて重要な文化施設です。 (可愛い看板ネコちゃんやワンちゃんもいます。) そのシネマ・クレールがコロナ禍で存続のピンチに立たされています。 ここがなくなってしまったら、年間数百本の映画が発表の場を失ってしまいます。 岡山県の皆さんは、そうした映画を観る機会と憩いの場が失われてしまいます。 本来ならば政府が補償や支援をすべきですが、待っている間に潰れてしまったら元も子もありません。ここはぜひとも皆さんのお力で支えてください! そうなんです。 ‥‥一度、岡山県で上映される年間映画本数を数えたことがあります。東京よりも少ない約400本です。シネマ・クレール一館が上映した本数は、そのうちの約200本だったんです(後の約半分を県内3ヶ所のシネコンが担っていたということです)。クレールが無くなったらと考えるとゾッとします。 立ち上がり時の声の募集や募金の際のコメントが、ほぼそのままこの本に収められているようです。こんな立派な本になるのだったら、私もめんどくさがらずにコメント書いておくんだった!!と後悔している所です。みんなホントにいろんな「思い出」と「想い」がある事がひしひしと伝わってきます。そして約9割の人がコメントも残さず「無私の人」となり、CFに参加した。まだ苦しいはずだが、クレールには頑張ってほしい。 嬉しかったのは、1994年12月から2020年7月までの全ての上映作品を資料として載せてくれている事。その数書いてないけど、50作品×88頁として概算すると約4400作品弱です。「トキワ荘の青春って、96年4月だったんだ」「初恋のきた道は、01年の3月?もっと前かと思ってた。あの時から1年、色々あったなぁ」などと想いに耽ってしまいました(^_^;)。
2021年02月19日
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