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2015/02/20
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カテゴリ: 歴史散歩
喫茶店で手にした「サライ」に宮本武蔵の記事があった。


  • サライ.JPG


吉川英治の「宮本武蔵」では慶長5年(1600)関ケ原合戦に
幼馴染の又八と 西軍側の落ち武者(足軽)として登場する。

「サライ」の「宮本武蔵略年譜」によれば本当は 
19歳で関ヶ原の戦いに九州豊後において黒田官兵衛の軍に属して出陣とある。

21歳の時 京に上り吉岡一門と勝負し勝利
23歳で巌流小次郎に勝利、円明流を樹立
34歳で大坂の陣に徳川方三河刈谷城主水野勝成軍に客将として出陣

57歳で島原の乱に出陣
59歳で肥後熊本入国、細川藩の客となる
64歳の正保年(1645)5月19日熊本城内で死去

数年前ウオーキングの途中名古屋市の笠寺観音に立ち寄った時
宮本武蔵之碑というのを見たことを思い出した。
武蔵は名古屋にも滞在し その流儀も伝えられていたのだった。

  • 笠寺.jpg


石碑正面には
       新免武蔵守玄信之碑

       三傳中興祖  左右田武助藤原邦俊
               子孫門人等謹建□

と刻んであった、尾張藩に伝わる武蔵・円明流の中興の祖左右田邦俊の


  • 笠寺側面.JPG


石碑の左右側面及び裏面の写真から 私に読み取れたのは
『 武蔵の略歴、
尾張での円明流は 林資籠・八田智義・左右田邦俊へと伝わった。
邦俊の時に門人は非常に増え 彼は中興の祖と言われている
今年 新免先生百年忌に当たり邦俊の子孫・門弟が相談して


というような内容だった。

石碑の全文


サライは取り上げていなかったのだが
武蔵は50代の頃 3年ほど名古屋に滞在し
初代藩主徳川義直の知遇を受けた。
義直は柳生新陰流4世の道統を継ぎ新陰流は尾張藩の御流儀となった。
尾張藩は剣術の盛んな土地だったのである。

武蔵滞在中 林資籠・八田智義などは直接指導を受け後に印可を受けている。
左右田邦俊は八田から道統を引き継いだ。

武蔵の二刀流とはどんなものだったのだろうか

それを見つけた



16分あたりから見て欲しい





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最終更新日  2015/02/20 09:18:06 AM
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