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高輪大木戸跡を過ぎると、すぐ目の前に高層ビル群が見えてきました。これがTAKANAWA GATEWAY CITY(高輪ゲートウェイシティ→→→こちら)、JR東日本が主導し、東京都港区港南2丁目、芝浦4丁目、高輪2丁目、三田3丁目にまたがる再開発計画です。田町車両センターの跡地を利用し、開発区域面積は約9.5 haに登るそうです。2025年3月にまちびらきを迎えたばかりの未来型都市というところです。この新しい街の中を通って、2020年開業した、山手線の新駅、高輪ゲートウェイ駅に到着です。ここでやっと、昨年の11月18日の「山手線100周年 高輪ゲートウェイ→渋谷(その1) 高輪ゲートウェイ駅」(→→→こちら)から掲載を始めた山手線環状運転100周年記念の山手線沿線一周の駅間歩きをコンプリートできました。高輪ゲートウェイ駅から山手線に乗車し、家に帰ります。長い期間のこの駄文へのお付き合いありがとうございました。が、しかし、昨年の12月1日の「山手線100周年 高輪ゲートウェイ→渋谷(その13) 恵比寿駅・渋谷駅」(→→→こちら)の記事の内容を覚えておいていただいているでしょうか?実は、恵比寿駅から渋谷駅の間については、雨が降ったため。歩いていませんでした。ということで、引き続き、次回「山手線100周年 恵比寿→渋谷」の駅間歩きを報告させていただくこととします。また、しばらくの間、お付き合いのほど、宜しくお願いします。(東京から高輪ゲートウェイコース)【了】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その14) TAKANAWA GATEWAY CITY
Feb 28, 2026
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第一京浜(国道15号)沿いの歩道に大きな木が建っていました。この大木の横あったのが、大きな石垣があり、土塁の遺構が残っています。また、石柱と説明板が立っていました。ここが山手線の高輪ゲートウェイ駅の名称の由来となった高輪大木戸跡(→→→こちら)です。東京都教育委員会が建てた案内板には、高輪大木戸跡所在地 港高輪二丁目十九番指定 昭和三年二月七日高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(一七一○)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(一七二四)に現在地に移された。現在地の築造年には、宝永七年(一七一○)説・寛政四年(一七九二)など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。 天保二年(一八三一)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違門内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色も良く、月見の名所でもあった。江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅五・四メートル、長さ七・三メートル、高さ三・六メートルの石垣のみが残されている。四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。平成五年三月三十一日 東京都教育委員会と書かれていました。また石柱には、「史蹟名勝天然記念物保存法 昭和三年二月 文部大臣指定」という文字が刻まれています。明治元年、明治新政府は、馬車や人力車を走らせるため、道路の拡張を目的に西側の石垣を撤去しましたが、海側の石垣はそのまま残しいたので、それが現存しているのだそうです。この木戸があるところまでが江戸で、伊能忠敬も日本全土を測量する際に、ここを基点としているんてです。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その13) ここまでが江戸~高輪大木戸跡~
Feb 27, 2026
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JRの線路(新幹線、東海道線、山手線、京浜東北線等)を跨ぐ「札の辻橋(ふだのつじはし)」を渡ります。札の辻というのは、街道や宿場町など往来の多い場所に高札を立てた道・辻のことで、この場所は東海道から江戸への正面入口であり、元和2年(1616年)には、芝口門という門が建てられていたそうです。この橋の上もなかなかのトレインビュースポットになります。線路脇、今工事しているところは休止線となっている東海道貨物線(大汐線)があった場所ですが、ここに羽田空港アクセス線東山手ルート(→→→こちら)を作るところなんだと思われます。このモニュメントは、札の辻橋が架け替えられたことを示すもので、銘板にはこう書かれていました。札の辻󠄀橋は、昭和8年(1933年)地域の交通を結ぶ橋として架けられましたが、平成16年(2004年)に現在の橋に生まれ変わりました。このモニュメントは当時の橋で使用されていた石や橋名板を利用して作られたものです。再び第一京浜(国道15号)を高輪に向かって歩いて歩いて行くと、御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)と書かれた大きな看板がありました。御田八幡神社(→→→こちら)は、和銅2年(709年)東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られたのに始まる1300年を超える神社です。 徳川家康の江戸城入城の際に奇瑞があったことから、現在地である荏原郡上高輪村海岸を開拓して社殿を造営し、寛文2年(1662年)に遷座が行われたそうです。また「御田八幡神社」という名称になったのは、明治30年(1897年)だそうです。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その12) 札の辻󠄀橋と御田八幡神社
Feb 26, 2026
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田町の駅前には、東京科学大学田町キャンパスがあります。その中には、「東京科学大学附属科学技術高等学校(→→→こちら)」という国立大学法人東京科学大学の附属学校があります。東京科学大学は、2024年度に東京工業大学と東京医科歯科大学が統合されてできた大学です。それまでは「東京工業大学附属科学技術高等学校」という名称でした。今のところ、田町にありますが、田町キャンパスの再編に伴い、旧東京工業大学があった大岡山キャンパス(緑が丘地区)へ移転する予定のようです。ここに附属高校が出来たのは、戦前には今の千葉大学工学部の前身になる7「東京高等工芸学校(→→→こちら)」がここにあったからです。1951年に千葉大学東京工業専門学校附属校が東京工業大学へ移管されて、「東京工業大学工学部附属工業高等学校」となり、2005年からは「東京工業大学附属科学技術高等学校」となったそうです。学校の敷地の外に「東京高等工藝學校創設の地」という記念碑が建っています。この案内板によると「東京高等工芸学校は, わが国ラジオ放送発祥の地でもあります。大正14年3月には, その図書室から日本で最初のラジオ電波が送り出され, 日本放送協会は当地に「放送記念碑」を建立しております。」とありました。また、「後方に見える青銅と黒御影石の碑は, 当地にあった東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)を記念し, 工芸産業教育発祥の地として同窓生有志が建立したものです。という一文もあり4ます。ということで、ピントが合っていませんが、これが「後方に見える青銅と黒御影石の碑・・・」です。そして、「芝浦運河通り」を高輪に向かって歩いてゆきます。この道が、「芝浦運河通り」です。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その11) 東京科学大学附属科学技術高等学校
Feb 25, 2026
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第一京浜と日比谷通りの交差点付近です。このあたり箱根駅伝でよく見ることも多いのでは。芝五丁目の交差点になります。この近くに勝・西郷会見の地跡(→→→こちら)の石碑が建立されています。揮毫は西郷隆盛の孫吉之助。江戸城総攻撃を目前にした慶應4年3月13日、14日の両日薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城がなされました。この重要な会見の地については諸説があるようですが、13日の予備的会談は高輪の薩摩屋敷、14日の最終会談はこの碑の建つ田町の蔵屋敷で行われたようです。ということで、石碑の横には、「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)付近沿革案内」というプレートが埋め込まれていました。プレートにはこう記されています。この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。この石碑の近くに田町駅があります。田町駅は1876年に仮設駅として設置され、1909年に新橋~品川駅間が高架線になる際に正式な駅として昇格したそうです。また、田町という駅名は、三田口(西口)周辺一帯に広がっていたかつての町名からとられたそうです。江戸時代文政年間、江戸の各町の由来や現況について町名主に提出させた書類を合冊した資料「文政町方書上」によると、江戸時代に田畑が町屋へと移り変わったため、田町と呼ばれるようになったということです。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その10) 勝・西郷会見の地跡と田町駅
Feb 24, 2026
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浜松町駅からJR山手線沿いの道を南に向かって歩きます。こちらの人と自転車しか通れない架道橋。港町架道橋というのですが、何度かテレビドラマで見たことがあるような。架道橋の上は、山手線、東海道線、東海道新幹線、そして東京モノレールといくつかの線路があり、その下をくぐりぬけています。このあたり船宿が多くありました。第一京浜(国道15号)に架かる金杉橋(→→→こちら)を渡ります。この橋は、日本橋から丁度4km(一里)の距離があり、街道を行き交う旅人の目安になっていました。また、この橋がかかる古川には、多くの屋形船が係留されています。だから船宿が多かったんですね。なお、古川の上流は渋谷川(→→→こちら)になります。さらに第一京浜(国道15号)を南に向かって歩いてゆきます。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その9) 古川に架かる金杉橋
Feb 23, 2026
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旧芝離宮恩賜公園の脇を抜けて浜松町の駅に向かいます。この道の突き当りにあった石碑です。この大きな石碑は「創業記念碑」。碑文を読むと帝都瓦斯事業ハ其初メ官営トシテ計画セラレ此地芝浜崎町ニ瓦斯製造所ノ建設セラレタルハ明治六年十二月ニシテ瓦斯供給ヲ開始シ銀座街灯ニ瓦斯燈ヲ点火シ行人ヲシテ驚異ノ眼ヲ瞠ラシメシハ其翌年ノ事ナリ後民営ニ移サレ明治十八年十月ニ創立セラレタル我社ハ此地ニ於テ事業ヲ継承セリ爾来物換ハリ星移リ我社ハ他ニ移転シ瓦斯製造所モ廃毀セラレタリ本年創立五十周年ヲ迎ヘ此地ノ嘗テ瓦斯供給ノ本源地ニシテ且ツ我社創業ノ地タリシヲ憶ヒ当時ノ構内一隅ニ此碑ヲ建テ由来ヲ誌シテ記念トス昭和十年十月一日東京瓦斯株式会社取締役社長 井坂 孝とありました。明治6年に官営として帝都瓦斯事業が計画され、その瓦斯製造所がこの地芝区濱﨑町にでき、その翌年には銀座の街頭にガス燈を点火させ他党ことです。確かに、ここには東京ガス本社の高層ビルが建っていますね。隣りにあったこの石碑は、物故者慰霊碑でした。ガス事業に伴って亡くなった方を慰霊しているんですね。こちらがJR浜松町駅です。上空にあるのは、東京モノレール羽田空港線の高架橋です。浜松町駅は1909年(明治42年)に開業されました。浜松町というのは、元禄9年(1696年)、遠州浜松出身の権兵衛が名主となり、町名が芝浜松町になったそうです。この海岸沿いに磯馴松があったことに由来するわけではなかったんですね。開業当時は現在よりも海岸が近く、海水浴や潮干狩りなどの行楽客、増上寺や芝大神宮への参拝客で賑わっていたのでしょうね。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その8) ガス創業の地と浜松駅
Feb 22, 2026
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最近、気になったニュースが「高市首相、少子化相と法相に「旧姓の単記」実現に向けた検討を指示」(→→→こちら)。結婚で姓(氏)が変わった人が、旧姓を公的証明書などで単独で記載できる「旧氏の単記」実現に向け検討を進めるそうです。もし実現すれば、旧姓で携帯電話を契約してマッチングアプリで別の異性と付き合ってもパートナーの方にはバレる確率は低くなりそうですね。流石、サナ様、明るい男女交際を進める政策をお考えのようで。大丈夫でしょうか?さて、汐留地区から港区竹芝地区にやって来ました。竹芝地区にあるこの建物は、東京都立芝商業高校(→→→こちら)です。1924年に開校した、都内の商業高校では長い歴史を持つ学校です。「竹芝」にあるから芝商業高校ではなく、最初は「芝公園」の中に学校ができたから、芝商業高校というのだと思います。ちなみに巨人の星の原作者の梶原一騎氏(→→→こちら)も半年だけ通っていたそうです。ちころで、竹芝という地名は、かつては存在していたものの、現在ではこのあたりの住所は港区海岸になります。かってあった「竹芝町」は、昭和2年(1927年)、明治期以来の埋立地に誕生した町です。では、その「竹芝町」の由来は、現在の三田の聖坂辺りにあったとされる寺院「竹芝寺」にまつわる「竹芝伝説」(→→→こちら)によるものだそうです。竹芝伝説とは「更級日記」に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語で京都にいた二人が駆け落ちして武蔵国に戻ってきけど、その駆け落ちが許されて、武蔵国の支配を任されるようになり、皇女とともに幸福に暮らしたそうです。そして皇女の亡き後、住んでいた家が「竹芝寺だということです。その竹芝寺は今はなく、その跡地にたてられたのが、港区三田四丁目にある済海寺(→→→こちら)だそうです。ところで、皇女と駆け落ちしたといえば、今でいうと小室眞子さんみたいなものですかね。そんな由来の竹芝にある「ウォーターズ竹芝(→→→こちら)」です。ウォーターズ竹芝は、JR東日本が開発したホテル、オフィス、店舗、劇場などからなる複合施設です。こちらの建物はホテルなどが入っているタワー棟です。こちらの建物は、劇場やレストラン、商店があるシアター棟になります。ウォーターズということで、東京湾につながった水辺の魅力のある景色も楽しめます。海を眺めながら憩うのも楽しいでしょうね。ウォーターズ竹芝から竹芝桟橋(竹芝客船ターミナル)が近いです。このモニュメントある辺りが、今回の駅からハイキングのコースの中間点になります。そしてこちらが、伊豆・小笠原諸島への玄関口として利用されている竹芝客船ターミナルになります。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その7) 竹芝地区
Feb 21, 2026
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さて、旧新橋停車場を後にして、汐留地区を南に向かって歩きます。正式名は「東京臨海新交通臨海線」なんですが、みんなからは「ゆりかもめ」という愛称で呼ばれている鉄道の汐留駅を過ぎて、東西を首都高速都心環状線とゆりかもの高架橋に挟まれた汐留大通りを歩いていくと、ヨーロッパを思わせる公園がありました。こちらの名称は「イタリア公園」(→→→こちら)といいます。この公園、港区がイタリアに憧れてイタリア式の庭園を模倣したのではなく、「日本におけるイタリア2001年」を記念し同国から寄贈されたもので、ちゃんとしたイタリア人の設計による公園だそうです。この公園から、ゆりかもめの高架橋、東海道新幹線、そしてJRの在来線を眺めることができました。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その6) 汐留からイタリアへ
Feb 20, 2026
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新橋駅東側の汐留地区に建設された巨大複合都市「汐留シオサイト」の方へやってきました。きらびやかな高層ビル群のある街だけに、こんな外車を扱うディーラーもお店を構えていました。その隣にあるのがこの建物。この場所が、国指定史跡「旧新橋停車場跡」です。ここが本来の「日本の鉄道開業の地」ということで、旧国鉄汐留駅跡地の再開発時に、1872年に新橋横浜間鉄道が開業した当時の駅舎やプラットホームの基礎などが発掘されました。発掘調査の後、風化を防ぐために埋め戻されましたが、2003年に遺構の上に開業当時の駅舎を再現したこの「旧新橋停車場」が建てられました。旧新橋停車場の中には、鉄道の歴史を紹介する「鉄道歴史展示室」があるほか、建物の裏手には開業当時の雰囲気を再現した「0哩(マイル)標」やプラットホームとレールのモニュメントも作られています。なお旧新橋停車場の1階は貸テナントとなっていて、今は、、伊藤園が「お茶の文化創造博物館」「お〜いお茶ミュージアム」を開設しています。なお、「お茶の文化創造博物館」については入館料500円が必要です。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その5) 旧新橋停車場
Feb 19, 2026
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「日本の鉄道発祥地」新橋駅に到着しました。こちらの西口広場は、この駅を利用しているサラリーマンのおじさんにテレビの街頭インタビューなどがよく行われていますね。でもこの西口広場は、駅前に設置されているこの蒸気機関車に因んで、「SL広場」とも呼ばれています。この蒸気機関車(C11-292)は1972年に鉄道発足100周年を記念して、国鉄から港区へ無償貸与されたそうです。駅構内の北改札に入ると通路に、黒い柱が建っています。この説明板には「明治42年烏森駅開業時「柱」の由来と「床の軸線」」という題名がついていました。烏森駅は、明治42年(1909年)に開業した日本初の高架駅であり、その際に設置された柱の一つだそうです。そして、「鉄道開業150年」となった2022年10月14日にそれを記念して、こちらに移設されたそうです。 東京の新橋駅といえば、1872年10月14日 (明治5年9月12日)に日本初の鉄道路線が新橋-横浜 間に正式開業した際の起点となった駅ですが、実は当時の「初代・新橋駅」はかつての汐留駅で、現在の位置にある駅は「二代目・新橋駅」になるそうで。それは初代の新橋駅が、1914年(大正3年)12月20日に開業した東京駅へのルートから外れたため、こちらのルート上にあって初代・新橋駅に隣接していた鉄道院線電車の駅「烏森」が「新橋」に改称され、初代・新橋駅は旅客営業を廃止して「汐留」に改称されたことなっています。ということで、初代の新橋駅を探すために、新橋駅の銀座口から東に向かっていくことにしました。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その4) 新橋駅、昔は烏森駅
Feb 18, 2026
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帝国ホテル前のみゆき通りとJR高架が交わる地点から始まる商業施設がありました。ここが、JR有楽町駅と新橋駅を繋ぐ高架下の商業施設「日比谷OKUROJI(オクロジ)」(→→→こちら)です。ここでは、縦に約300メートル続く高架下の施設内に飲食店や物販店など43店舗が営業しているそうです。この施設がオープンしたのは2020年9月。「日比谷の奥に潜む、通な大人の通り道」がこの施設のコンセプトだそうです。日比谷OKUROJIを過ぎて、国会通りを渡ると、「URACORI(銀座裏コリドー街)」(→→→こちら)という商業施設が続きます。この施設がオープンしたのは2019年11月。裏コリドーというのですから、表もあります。表はJRの有楽町駅と新橋駅を結ぶ路線の高架下の道路で、400mほど軒を連ねる飲食店街の銀座コリドー街です。銀座コリドー街は随分昔からありましたね。こちらの飲食店も充実している大人の秘密基地といった雰囲気ですね。MoMo太郎も友達との飲み会で何度か利用させてもらいました。所々に照明プロジェクションで銀座裏コリドー街のロゴが浮かび上がっていました。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その3) 日比谷OKUROJIと銀座裏コリドー街
Feb 17, 2026
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有楽町駅に到着しました。有楽町駅は駅の施設をすべて高架線の下におさめた高架下駅として1910年に開業しました。中央口の東側には、有楽町マルイや回転レストランがあった東京交通会館ビルがあります。東京交通会館の最上部にあった回転レストランも今では回転しなくなりましたが、レストランとして営業は続けています。銀座口からつながるショッピングアーケドです。MoMo太郎が銀座に行くのにはここを通って晴海通りに出るのに使っています。晴海通りをわたり駅の南の日比谷側の道です。このあたりの高架下にも飲食店が並んでいます。そして、帝国ホテルが見えてきました。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その2) 有楽町駅界隈
Feb 16, 2026
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高輪ゲートウェイ駅から始まった山手線一周の駅間歩き。いよいよ今回のJR東日本の駅からハイキング「山手線環状運転100周年記念!鉄道の今昔を歩く」のコースで最後のピースが完成します。ということで東京駅にやって来ました。スタートは東京駅丸の内南口からです。今までの山手線一周歩きでは、雨か曇天が続いたので、このように快晴の下で歩けるのは気持ちがいいですね。丸の内南口ははとバス乗り場になっています。東京には長い間住んでいますが、はとバスで東京観光したことがしたことがない。一度は東京観光してみたいです。JRの線路に沿って南へ歩くと東京国際フォーラム(→→→こちら)が見えてきました。旧東京都庁舎の跡地に建設された東京の国際コンベンションセンターの一つです。平成2年(1990年)には新宿に今の東京都庁ができたので、ここに東京都庁があったことを知っているのは、今の50歳台以上の人に限られるかもしれませんね。こちらは有楽町高架下。このように有楽町駅付近の高架下は店舗スペースとして使われています。JR東日本が所有している土地なんでしょうから、家賃収入もJRにとっては大切な収入源なんでしょうね。そして、有楽町駅前の家電量販店が見えてきました。このビルはこの家電量販店のものではなく、読売会館(→→→こちら)という読売新聞グループ本社傘下の株式会社読売不動産が所有しています。この家電量販店になる前は、「有楽町そごう」という百貨店がテナントでした。この百貨店のキャッチフレーズは「有楽町で逢いましょう」ということで、歌手のフランク永井(1932-2008)が歌った「有楽町で逢いましょう」はコマーシャルソングだったそうです。(東京から高輪ゲートウェイコース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 東京→高輪ゲートウェイ(その1) 東京駅から
Feb 15, 2026
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久しぶりに丸亀製麺で、ぶっかけうどん(440円税込み)といなり(160円税込み)を頂きました。薬味のネギ、天かす、そしてワカメをたっぷり過ぎるほど載せているので、下のうどんは見えませんが、ぶっかけうどんです。讃岐うどんはやっぱり美味しいですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 丸亀製麺
Feb 14, 2026
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日本橋の南側、永代通りに向かいます。このあたり日本のビジネス街らしく、大きなビルが立ち並んでいますね。奥に見える高層ビルはオフィスビと商業施設が一体となった日本橋一丁目三井ビルディングです、どたらかと言うと商業施設のCOREDO日本橋(→→→こちら)といった方が馴染みがあるでしょうか。 この場所には、1999年まで 東急百貨店日本橋店(旧白木屋本店)がありました。日本橋の交差点を右折して永代通りにも高層ビルがどんどん建てられています。永代通りと外堀通りの交差点です。この交差点は呉服橋というのですが、外堀通りは江戸城の外濠に沿ってできた道なので、この近く外濠に呉服橋という橋が架けられていたんでしょうかね。吉野家のキッチンカーが停まっていました。近くで働くビジネスパーソンの皆さんが利用されるのでしょうね。JRの高架をくぐり抜けて丸の内側にやって来ました。ゴールの東京駅です。東京駅の開業は1914年、この赤レンガ造りの丸の内口駅舎は日本近代建築の父と呼ばれる辰野金吾(→→→こちら)らが設計した。しかし、この駅舎は、1945年の東京大空襲によって大きく焼けてしまい、戦後すぐに修復されたものの、資材不足から元通りとはいかず、特に損傷のひどかった3階部分が撤去されるなど、見た目も大きく変わっていたそうです。そして、2007年から2012年にかけて行われた東京駅の復元工事によって辰野金吾の設計した赤レンガの駅舎が本来の姿に復元されたそうです。東京駅にはステーションホテル(→→→こちら)があるんですが、用はないけど一度泊まってみたいです。(日暮里から東京コース)【了】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その18) 日本橋から東京駅へ
Feb 13, 2026
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さて、今の日本橋はは明治44年(1911年)に竣工した石造2連アーチ橋なのですが、当時は帝都東京を代表する橋を建設するということで、装飾にも力を入れたのでしょうね。日本橋には銅像もなかなか凝ったものが使われています。こちらは北詰西側にある親柱ですが、照明灯も凝っていますし。東京市章に足をかけた唐獅子も凛々しいですよね。口を結んだ吽形(うんぎょう)型。反対側の南詰西側の唐獅子は、口を開いた阿形(あぎょう)型と芸の細かいところがありますね。こちらは、橋の中央にある麒麟。左右対称になっています。日本橋の上には首都高速都心環状線の高架橋がありますが、この首都高速を地下ルートにする工事が始まっていて、日本橋の上には空が広がる予定です。南詰西側の親柱にある橋の銘板は、変体仮名で記されていますが、「にほんはし」と読めますね。この橋を架けた時の日本橋川の水は濁っていなかったんでしょう。日本橋の南詰西側の花の広場にある石碑。屋根瓦の乗っている碑は「日本橋由来記の碑」です。手前の小さなプレートのある碑は、平成11年(1999年)に日本橋が需要文化財に指定された時の説明板です。こちらが、説明板の写真です。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その17) 日本橋の麒麟
Feb 12, 2026
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日本橋の袂までやって来ました。こちらにあるのが日本橋の北西側袂にある「元標の広場」です。ここに展示されているのは道路元標で、道路元標とは、道路の起終点を示す標識のことです。この高い鉄塔は、東京市道路元標です。大正12年(1923年)の関東大震災後から復興後の昭和3年(1928年)のときに、日本橋の中央部、往復する市電の2本の線路間に建てられたものを移設したものだそうです。これは、日本国道路元標の複製です。日本橋の中央にあった東京市道路元標は東京都電本通線の架線柱として使用されていましたが、都電廃止後昭和47年(1972年)の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設されたると、東京市道路元標があった場所には、50センチメートル四方の日本国道路元標が埋め込まれたそうです。元標の広場に展示されているのはレプリカですが、本物は日本橋の中央にあります。こちらが、本物の日本国道路元標です。日本橋は江戸時代から東海道など五街道の起点とされていたことから、明治時代に入っても道路法で日本橋の中央を国道の起点としているのだそうです。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その16) 日本橋は道路網の起点
Feb 11, 2026
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中央通りを南に向かってさらに歩きました。日本橋には地域の名産品を扱うアンテナショップも出店しています。こちらは、福島県のお店、「日本橋ふくしま館」(→→→こちら)です。やっぱり福島県といえば、この方ですね。こちらの軒先の日よけテントのお店は、千疋屋総本店(→→→こちら)です。千疋屋の本店って銀座だと思ってましたが、日本橋が本店だったんですね。Wikipediaで調べてみると、千疋屋といえば、東京・日本橋の千疋屋総本店、京橋の京橋千疋屋、銀座の銀座千疋屋の3社のことを指す。京橋と銀座の千疋屋は、総本店からのれん分けされた別の企業である。とありました。そんなこと初めて知りました。まだまだグルメ修業が足りないですね。そして、こちらの人が多いのは、やっぱり、日本橋三越本店です。言うまでもなく、三越伊勢丹の基幹店で、三越ブランドの本店。また、西洋古典様式に範をとった重厚・華麗な意匠の三越日本橋本店は、日本の百貨店建築の発展を象徴する貴重な歴史的建造物として国指定重要文化財になっています(→→→こちら)。やっぱり三越といえば、このライオン像。MoMo太郎の祖母は、「誰にも見られずに背にまたがると念願がかなう」と言っていたので、大阪に住んでいた高校生の頃、大阪北浜にあった三越大阪店のライオンにまたがろうと狙っていましたが、結局またがれず、第一志望の大学に合格することができませんでした。ライオン像の台座には、こんな碑文が着けられていたんですね。こちら南側にある三越本店の新館の入り口です。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その15) 日本橋には銘店が多い
Feb 10, 2026
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神田の駅前、飲食店も多くて賑やかですね。このあたりに職場があったら、毎晩、寄り道してしまいそう。神田外語学院(→→→こちら)、やっぱり神田にあったんですね。神田駅から中央通りに出ました。こちらの交差点は今川橋。でもこのあたり橋は見当たりませんが・・・。とにかく、中央通りを南に向かって日本橋方向へ歩いと行くと、ちょっと傷んで読みにくくなっていましたが、「今川橋由来碑」というのがありました。この由来碑によると、今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~1683)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたものでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。 神田掘は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。 昭和25年(1950)龍閑川は埋立てられ、三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。 下図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。 平成4年4月吉日なお、今川橋の付近で売られていたのが「今川焼」なんだそうです。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その14) 今川橋
Feb 9, 2026
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台東区上野と港区新橋とを結ぶ延長5kmの中央通りが通る万世橋を渡ります。アールデコ調の橋灯がある大きな親柱が、この橋を作った人のこだわりなんでしょうか。今の万世橋が架けられたのは、昭和5年(1930年)3月。そんな時代だから、橋の表記も「萬世橋」と旧字体になっています。明治6年(1873年)に初代の万世橋が出来た当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋と書いて「よろずよばし」と読ませるように命名したのが、定着せずに、「まんせいばし」と呼ぶようになったそうです。そんなわけですが、橋の銘板には「まんせいはし」と表記されています。濁音になったのは下を流れる神田川の濁り具合に応じてでしょうかね。神田川の上流側を見てみると、神田川に沿って、赤レンガ造りのアーチが整然と並ぶJR中央本線の高架橋が走っています。そして、こちらの高架橋の下もマーチエキュート神田万世橋(→→→こちら)という商業施設に利用されています。万世橋を渡り、この神田須田町の交差点を越え、中央通りを辿っていくと、神田駅に到着します。神田駅の開業は大正8年(1919年)。当初は中央本線の駅として開業しましたか、大正14年(1925年)の山手線環状運転が開始となって山手線・京浜東北線と中央本線の乗換駅となりました。令和5年(2023年)10月2日からはJR東日本の駅名称に「アース製薬本社前」の副駅名を追加することになりました。ちなみにこの副駅名の使用は令和10年(2028年)までとのことのようです。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その13) 万世橋から神田駅
Feb 8, 2026
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JR東日本って高架下に商業施設を作るのが好きなようで、秋葉原駅にほど近いこの場所にも商業施設がありました。こちらにも駅名標をイメージした看板があって「ちゃばら(CHABARA)」(→→→こちら)という名称の商業施設です。こちらでは、バイヤー選りすぐりの日本全国の逸品を集めた食品の専門店街のようです。そういえば、平成になるまで秋葉原の駅前には神田青果市場(→→→こちら)があったので、その名残を現在に伝えようとしているんですかね。そして、こちらの秋葉原駅に到着です。こちらはバス乗り場のある駅の東側の広場です。秋葉原駅は1890年開業で、当初は貨物駅として設置されましたが、1925年に山手線環状運転に合わせて人が乗降できる駅になりました。さて、この秋葉原駅前通りをガードを抜けて万世橋の方に向かいます。ところでこのガード、佐久間架道橋というのが正式名称だったんですね。はじめて知りました・(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その12) CHABARAと秋葉原駅
Feb 7, 2026
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丁度、このあたりが今回の駅からハイキング日暮里~東京の中間地点になるようです。丁度、このあたりで「2k540 AKI-OKA ARTISAN(ニーケーゴーヨンマル・アキオカ・アルテザン)」(→→→こちら)という看板が見えました。「2k540 AKI-OKA ARTISAN」はJR秋葉原駅~御徒町駅間の高架下にある商業施設です。この2k540とは、鉄道用語では東京駅を起点とした距離「キロ程」で場所を示しています。この東京駅から2k540m付近にあるため「2k540」というわけです。AKI-OKA は、言うまでもなく秋葉原駅と御徒町駅の中間にあるということです。そして、「ARTISAN」とは職人の意味で、モノづくりやをする工房やショップが約50店並んでいます。もちろんカフェやレストランもありますし、途中で休憩できるスペースもありました。「2k540 AKI-OKA ARTISAN」を過ぎて、蔵前橋通りを越えたところにあるこの建物は、東京消防庁 神田消防署でした。さらに秋葉原駅に向かって歩きます。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その11) 2k540 AKI-OKA ARTISAN
Feb 6, 2026
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御徒町駅が見えてきました。御徒町駅は1925年の開業です。御徒町という地名は、江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来するそうです。御徒町駅南口の前にある「おかちまちパンダ広場」です。確かに、パンダが休んでいました。本物のパンダは中国に帰りますが、こちらには動かないから、ずっと日本にいる予定ですね。今度は高架橋に沿って秋葉原駅へ向かいます。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その10) 御徒町駅
Feb 5, 2026
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上野駅から御徒町駅に向かってアメヤ横丁(→→→こちら)を歩きました。アメヤ横丁は、JR上野駅とJR御徒町の間に位置する約500mの中に400店舗あまりが軒を連ねる日本有数の商店街です。正式には、アメ横商店街連合会という名称ですが、通称「アメ横」とも呼ばれています。「アメヤ横丁」という名前で呼ばれるようになった由来二つあるらしいです。(1) 第二次世界大戦直後、砂糖が手に入りにくかった時代に、マーケット周辺で露店を出した中国からの引揚者会が飴を販売し、大好評を博したからとも、「芋あめ」を売る店が並んだためともという説。(2) アメリカ進駐軍の放出物資を売る店も多かったので、アメリカ横丁からという説アメ横センタービルが上野仲通りとアメ横商店街を分けるように建つその前に、変なオブジェと共にあるこの石碑。「東北・上越新幹線上野駅誘致住民運動発祥の地 」という碑文がありました。読んでみると、当初の「新幹線鉄道整備法」では、 東北・上越新幹線の建設ルートは 東京駅始発で、北の玄関口の上野駅は通らないと発表された事で、上野の地元人々により上野駅誘致運動が発足したことを記念して建てられた碑だそうです。確かに東北・上越新幹線の上野駅はできましたが、最近は上野駅を素通りする新幹線もあるようですね。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その9) アメヤ横丁
Feb 4, 2026
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上野公園の京成上野駅脇の入り口、中央通りに面した階段の脇には、鏡面加工の金属台座に、柳樽に乗ったアヒル像を冠して立っていました。台座には、「川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 五條天神社 宮司 始澤澄江 柳多留250年実行委員会」と記されています。樽には「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」という川柳が、刻まれていました。この川柳の意味は、「不器用な存在でも、羽があれば飛びたい…、夢があれば実現したい」という意味なんでしょうか。この脇にある説明版には、川柳についての説明がありました。川柳の原点 誹風柳多留発祥の地 川柳は、江戸時代に江戸で生まれた17音の庶民文芸として今日に伝わっています。川柳の名称は、宝暦7年(1957)に浅草新堀端にはじまりましたが、明和2年(1765)7月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の勝句(入選句)から17音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、今日〈川柳の原点〉とも呼ばれる『誹風柳多留』を刊行しました。このことにより川柳は、〈17音独立文芸〉として確立され、後に全国へと広がっていきました。 この付近には、『誹風柳多留』の版元・星運堂(花谷久次郎)があり、俳諧書などを刊行するかたわら、3代にわたり、『誹風柳多留』を通じて〈川柳風〉の隆盛に貢献、川柳を「江戸文芸」の一つにまで育てました。「誹風柳多留発祥の地」は「文芸川柳発祥の地」でもあります。 記念碑の「羽のあるいいわけほどはあひる飛ぶ」の句は、「木綿」を号とした『誹風柳多留』の編者・呉陵軒可有の作です。平成27年8月 柳多留250年実行委員会 台東区教育委員会(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その8) 川柳の原点 誹風柳多留発祥の地
Feb 3, 2026
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こちらが上野駅の公園口。上野駅は1883年に日本鉄道の駅として開業しました。山手線の営業開始は1909年です。MoMo太郎の記憶では、この道路、今は行き止まりになっていますが、公園口の前を取り抜けて両大師橋、寛永寺の開山堂の方面に行くことができたのでは?そして、パンダ橋という愛称の「上野駅東西自由通路」を渡ります。そう言えば、もう上野動物園にはもうパンダがいなくなったんですね。2016年に上野動物園に行った時のパンダの写真もありましたので、見て下さい。わが国の優れた遺伝子工学の技術でクローンパンダとか産み出せなかったのですかね。そうすれば、かの国に大きな顔させることもなく、世界中のみんながパンダを見ることができたのにね。上野公園と入谷を自由に行き来できるこの上野駅東西自由通路ができたのは2000年でした。結構広い通路ですね。東西自由通路の上から昭和通りと首都高速を撮影してみました。ビルが立ち並んでいていかにも都会という雰囲気がしました。こちらは上野駅の広小路口から正面改札の風景です。昭和の時代には、お盆や年末年始の多客頃には、このコンコースに沢山の人が並んでいたような思い出があります。この中央改札の上には壁画あったのですが、幕で覆われていて見えなくなっていました。壁画どうなってるんでしょうか。思い出のある上野駅も段々と変わっていっているんですね。(日暮里から東京コース)【つづく】人気ブログランキング山手線100周年 日暮里→東京(その7) あ〃上野駅
Feb 2, 2026
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寒い時期なので、温まろうと思って、日高屋の「五目あんかけラーメン」(720円税込み)を頂きました。温まったのは良かったのですが、隣のテーブルに座っていた高校生2人組が、それぞれタンメンとチャーハンをペロリと平らげたのにはオッタマゲました。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 五目あんかけラーメン
Feb 1, 2026
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