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このお笑いコンビの左側の人、林田洋平というそうです。このお笑いコンビの左側の人、じろうっていうそうです。NHKの朝ドラにも出演していましたね。このお笑いコンビの左側の人、堂前 透っていうそうです。このお笑いコンビの右側の人、水川 かたまりっていう人です。この4人、なんか似ているので、コンビで出ていないと区別がつかないです。人気ブログランキング相方がいないと区別がつかない
Jun 30, 2026
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ビートルズが1966年6月29日に初来日し、日本武道館で3日間・計5回の公演を行ってから60年です。そこで、この「ミスタームーンライト」(→→→こちら)をお届けします。ビートルズの「ミスター・ムーンライト」は、1964年12月4日にイギリスで発売された『ビートルズ・フォー・セール』と、1964年12月15日にアメリカで発売された『Beatles '65』に収録されています。アメリカの全国チャートでは最高位68位を記録ということで、それほどヒットしたわけでもなく、音楽批評家の間でも、高く評価はされていなかったようです。しかし、どうして、この曲かと言うと、当時、日本テレビが放送した「ザ・ビートルズ日本公演」という番組の冒頭で、羽田空港に到着した4人の乗った自動車が夜明け前の高速道路を疾走するのを映し出しつつ、突然この曲が流れたので、日本人の多くが知っている曲というわけです。そんなわけで、「ミスタームーンライト~1966 ザ・ビートルズ武道館公演 みんなで見た夢~」という映画まで製作されているわけです。「ミスタームーンライト」という曲は、1962年にアトランタのグループ「ドクター・フィールグッド&ジ・インターンズ(Dr. Feelgood and the Interns)」がリリースした曲です。そして、インターンズのギタリストであり作曲家のロイ・リー・ジョンソンが歌ったこの曲は、アメリカのOkeh Recordsから発売され小ヒットした「Dr. Feelgood」のB面としてリリースされています。そしてビルボードで66位、キャッシュボックスで74位を記録しています。ところで、「ドクター・フィールグッド&ジ・インターンズ」はウィリー・ペリーマンがピアノ・レッドまたはドクター・フィールグッドとしてグループを率いていました。 このウィリー・ペリーマン(→→→こちら)、白人のように見えますが。アルビノ(人間の先天的な状態であり、皮膚、髪、目に部分的または完全に色素が欠如している状態)のアフリカ系アメリカ人です。アルビノは光恐怖症、眼振、弱視など、さまざまな視覚障害と関連しているそうで、このウィリー・ペリーマンも視力が悪かったそうですが、彼は独学でピアノを習得し、バレルハウス・ブルーススタイル(騒がしいバーや酒場に適した大音量の打楽器的なブルースピアノ)を演奏していていたそうです。黒人音楽のR&Bを音楽的なルーツとするビートルズですから、デビュー前のライブでもこの曲をカバーしてレパートリーとしていたようです。このようにデビュー直後にドイツ・ハンブルグにあるスタークラブで非公式に家庭用テープレコーダーで録音された音源でも、ミスタームーンライトを演奏していることが確認できます。ということで、ザ・ビートルズの原点回帰といえる、「ミスタームーンライト」の歌詞とその和訳をやってみました。Mr. MoonlightYou came to me one summer nightAnd from your beam, you made my dreamAnd from the whirl, you sent my girlAnd from above, you sent us loveMr. Moonlight君はある夏の夜、僕のもとにやってきた君の光で、僕の夢を作り上げ渦の中から、僕の彼女を送ってくれたそして天から、僕たちに愛を届けてくれたAnd now she is mineI think you're fine'Cause we love youMr. Moonlightそして今、彼女は僕のもの君は素晴らしいと思うよだって僕たちは君を愛してるMr. MoonlightMr. Moonlight, come again pleaseHere I am on my kneesBegging if you pleaseMr. Moonlight、もう一度来てください僕はここでひざまずいているどうかお願いだからOn the night you don't come my wayI pray and pray more each day'Cause we love youMr. Moonlight君が僕のもとに来ない夜は僕は毎日、さらに祈り続けるだって僕たちは君を愛してるからMr. MoonlightMr. Moonlight, come again pleaseHere I am on my kneesBegging if you pleaseMr. Moonlight、もう一度来てください僕はここでひざまずいているどうかお願いだからAnd the night you don't come my wayOh, I pray and pray more each day'Cause we love youMr. MoonlightMr. MoonlightMr. MoonlightMr. Moonlight君が僕のもとに来ない夜にはああ、僕は毎日さらに祈り続けるだって僕たちは君を愛してるからMr. MoonlightMr. MoonlightMr. MoonlightMr. Moonlight人気ブログランキングビートルズ来日60周年にあたって、ミスタームーンライトを聴く
Jun 29, 2026
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すき家でランチしました。いただいたのは「さば定食」(600円税込み)です。さばの骨が取ってあり、食べやすかったです。最近は、牛丼の店でもこういう魚のメニューがあるんですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ すき家の定食
Jun 28, 2026
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息栖神社の参拝の折り、前々から気になっていた所を回ってみました。それがこちらの神社です。茨城県には、養蚕発祥の地との伝説が残る場所が、神栖市、つくば市、日立市の3か所にあります。このうちの一つである神栖市の蚕霊(さんれい)神社へ参拝に来ました。こちらの神栖市教育委員会が設置している蚕霊神社の由来を簡単にまとめると、紀元前3世紀ごろ、天竺(インド)の国王・霖夷(りんい)には、世にもまれなほど美しい娘・金色姫がいた。母が亡くなった後、継母は金色姫の美しさに嫉妬し、姫をあの手この手で亡き者にしようとした。ついには桑で造った丸木舟に押し込め海に流したところ、舟は常陸国豊浦浜に漂着。土地の漁師、権大夫とその妻に救われる。薄幸の運命に心を痛めた夫婦は、姫を看病するも病気で亡くなってしまう。死後、小虫となり変わった姫に、夫婦が桑の葉を与えていると、やがて美しい糸を吐きながら繭を作った。その繭から繰りとった絹糸で織り上げられたものが、見事な常陸絹織となり、名声を得て各地に広まり、新しい産業として人々の暮らしを豊かにしたのです。。このような養蚕の発展に感謝敬慕の念から、この神社が造営されたました。ということです。こちらが、その社殿です。社殿には、明治41年にこの神社造営に奉納した人たちの名前が記されていました。そして、もう一か所。常陸利根川のほとりにある「サーキットの狼ミュージアム」(→→→こちら)です。こここは、かって1970年代にスーパーカーブーム(→→→こちら)を巻き起こした漫画「サーキットの狼」の作者である池沢早人師(池沢さとし)によって開設された資料館になります。スーパーカーといっても、Z世代の人にはわからないでしょうが、高出力・高性能で、特徴的なデザインのスポーツカーというのが、基本的な定義でしょうか。代表的なスーパーカーといえば、フェラーリの288GTO、F40やF50。ランボルギーニ・カウンタック、ポルシェ 911ターボ、959、911 GT1、カレラGTなとがあります。ちなみに、MoMo太郎が若い頃乗っていた、カローラレビンAE86型(→→→こちら)は、速くていい車でしたが、誰もスーパーカーとは呼んでくれませんでした。(息栖神社)【了】人気ブログランキング息栖神社(その5) 息栖神社周辺を巡る
Jun 27, 2026
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息栖ゆかりの歌碑というものがありました。鎌倉時代、藤原為氏によって編集された「新和歌集」の中には、息栖周辺を詠んだ歌が収められているそうです。その歌が、「海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきには心なりけり 理然法師(息栖神宮寺僧)」だそうです。また、その他にも三首の和歌が新和歌集には収録されているそうです。こちらが、その一首の「鹿島潟 沖洲の森の ほととぎす 船をとめてぞ 初音ききつる 藤原時朝」です。その他にも「われのみと 待ちつる暮を 郭公(ほととぎす) またたか為に 鳴てすくらん 諦如法師」という歌碑と、「里とをき 山のすそのの ほとときす たか為になく 初音成らむ 稱佛法師」の歌碑もありました。社殿の脇にある、真っ直ぐ天に向かって伸びている大木が、御神木で、別名は「息栖の夫婦杉」、樹齢は推定千年とのことです。そして、ようやく社殿にたどり着いて、参拝できました。もともとの社殿は享保8年(1723年)に建て替えられたものの、昭和35年(1960年)に焼失し、その後昭和38年(1963年)に再建されたものです。ところで、息栖(いきす)という名称ですが、古代の関東平野東部に太平洋から湾入した内海であつた香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であったことから、「おきす」から「いきす」に変化したといわれています(→→→こちら)。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その4) ようやく息栖神社に参拝歌碑
Jun 26, 2026
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息栖神社の境内では、力石と芭蕉の句碑が柵に囲まれて置かれていました。力石とは、昔の若者たちが力比べに使った石で、ただの石ではなく、地域の祭りや暮らしと結びついたものです。説明板によると、祭礼の際に若者たちが競い合い、力を誇り合ったものとのこと。こちらの石碑には、「この里は 気吹戸主の 風寒し」と刻まれているそうです。句碑の解説がありました。松尾芭蕉がこの地を訪れたのは貞享4年(1687年)のことで、この句碑は地元の俳人らによって建てらたものであるがその時期は不明のとのこと。句の意味は、「いざなぎの尊が黄泉の国から戻った時に、筑紫日向の橘の小門で身体を洗い、罪や汚れをすっかりそそぐ落とし浄め流した。そり流れの中から生まれたのが気吹戸主(息栖神社の祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。」ということだそうです。こちらに祀られているのが「さざれ石」(→→→こちら)。君が代にも歌われている「さざれ石」ですが、小石が集まって大きな岩となったといわれていますが、学術的には「石灰質角礫岩」と呼ばれる堆積岩の一種です。石灰岩の小さな角礫(角張った岩片)が雨水に溶けた石灰成分によって徐々に固結し、数万年から数百万年の時間をかけて一つの大きな岩の塊になったものです。この木には、よく見ると花の蕾のようなものがありました。この木は「招霊(オガタマ)の木」(→→→こちら)です。この木は一円玉に刻印されている木と言われています。また天の岩屋に隠れてしまった天照大神を外へ誘い出すために、天岩戸の前で踊った天鈿女命が手にしていた木なのだそうです。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その3) 松尾芭蕉句碑や招霊(オガタマ)の木など
Jun 25, 2026
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白い鳥居は二の鳥居になります。そして右側にある社号碑には「東国三社息栖神社」の文字が刻まれています。「東国三社」とは、鹿島神宮、香取神宮、そしてここ息栖神社。鹿島神宮や香取神宮に比べると少し控えめな印象があるかもしれませんが、由緒ある神社で、近年ではパワースポットとしての人気も高いそうです。こちらには、神栖市教育委員会が設置した息栖神社の紹介です。これによると、古くは、日川(にっかわ。現:神栖市日川)に創建されたという。その後、大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝えられているそうです。また、名称について「日本三代実録」では「於岐都説神」と記されていそうです。この鮮やかな朱塗りの神門を抜けて、社殿のある中心部に入っていきました。こちらには、神社が設置した息栖神社の由緒についての説明板がありました。息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、天鳥船・住吉三神を相殿の神として祀られており、古くから国史にも見え(三代実録に書かれているある於岐都説神社)が今の息栖神社です。鹿島・香取両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社です。岐神(くなどの神)は厄除招福・交通守護の御霊格の高い神で、鹿島・香取の大神と共にその先頭に立たれ国土の経営にあたられた。天鳥船神(あめのとりふねの神)は航海・航空の守護の御霊格が高く古事記に(天鳥船を建御雷神に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の御先導を務められた神であります。住吉三神は海上守護・漁業守護の御霊格が高い三柱の神様である。このように五柱の神々を祭られているので古くは息栖五所明神とも称された。神門から社殿までは木々に囲まれた参道がまっすぐ続いていました。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その2) 東国三社
Jun 24, 2026
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鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに「東国三社(とうごくさんじゃ)」と1つである息栖神社(茨城県神栖市)にお参りしました。息栖神社・鹿島神宮・香取神宮の東国三社のすべてにお参りをすると、お伊勢参りに行ったのと同じご利益があるといわれています。また、江戸時代には、お伊勢参りを済ませた人が、「下三宮参り」として東国三社詣が大人気でした。息栖神社は常陸利根川沿いにあって、水運で鹿島神宮、香取神宮と巡ることでができます。ひんなわけで、江戸時代の人たちは、現在の印西市にある木下(「きおろし」と読むそうです)から遊覧船に乗って東国三社巡りをしていたそうです。こちらは息栖神社船溜まり前にある堤防から常陸利根川を撮影したものです。息栖神社の船溜まりの先にあるのが、息栖神社の一の鳥居です。鹿島神宮の「南の一之鳥居」としての重責を担っているといわれています。ちなみに、東は神栖市の明石浜鳥居、太平洋に面し、神が上陸したとされる場所だそうです。西は鹿嶋市にある大船津鳥居、北浦に浮かぶ水上鳥居になります。かつての江戸からの鹿島神宮への参拝玄関口になります。北は鹿嶋市の戸隠神社鳥居、浜街道の分岐点で「神戸」の地名の由来となる門だそうです。こちらの神栖市教育委員会の建てた「息栖神社と河岸」という案内板には、息栖神社の玄関口となった河岸の歴史についての説明が記されていました。その一の鳥居の両側にある「忍潮井」と呼ばれる2つの井戸があります。こちらが利根川に向かって右側にある男甕(おがめ)です。利根川に向かって左側にある女甕(めがめ)になります。この石碑の説明によると、忍潮井は、三重県の明星井(あけぼのい)、京都伏見の直井と並び日本三霊水の一つに数えられいまるそうです。常陸利根川の下流には水門ができて、霞ケ浦は淡水湖となっていますが、かっては周囲が汽水(海水が混じる水)であった時代から、こんこんと真水が湧き出し続けていたという不思議な場所だったのです。こちらの石碑には、風の音の遠き御代より 詣で人水際に仰ぐ 畏きや息栖の宮の大鳥居 大いなる鹿島開発の歩みの中に 地を穿つ柱太知り 秋宝に笠木高知り 今ぞ築き建つ 昭和四十七年十月と刻まれていました。鹿島開発(→→→こちら)とは、鹿島臨海工業地帯造成計画のことで、巨大な人工掘込式港湾、鉄鋼、石油化学、電力等などの総合臨海工業地帯を建設し茨城県東南部の中核拠点づくりを目指した国家プロジェクトのことです。この一の鳥居からの参道を歩いて息栖神社へ向かいました。(息栖神社)【つづく】人気ブログランキング息栖神社(その1) 忍潮井(おしおい)
Jun 23, 2026
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父の日に家族からエプロンをプレゼントされたMoMo太郎です。これからはエプロンをして家事に励んでみようかと思う次第です。【長い髪の女の人】ドア近くの端っこの座席に座っていると、顔の横になにか触れるものがあり、確かめてみると、ドアとシートの間に立った女性の長い髪が当たっているのでしか。このムシムシ、ジメジメした季節、なんとなく不快な感じになるものですね。昔は「ワンレン」と言って、こういう長い髪が流行していましたが、なんとなく迷惑なので、できれば通勤電車に乗るときは、ロングヘアでもまとめて垂れない様にして欲しいものだと思いました。【ガクチカ】lリクルート関係の車内の広告で、「4つの質問に答えるだげ、ガクチカの下書きができる」というコピーの広告がありました。「ガクチカ?」意味がわからなかったので、「ワンレン」を知らなかかったZ世代の職場の若い人に聞いてみたら、、ガクチカとは学生時代に力を入れていたことの意味で、採用面接の時などに聞かれるんだそうです。しかし、学生時代に野球に力を入れていて神宮球場で開催される全日本大学野球選手権に出場しましたとか、マラソンに力を入れていて箱根駅伝を走りました。とかということならカッコイイし、就職にも有利かもしれませんが、そんなことを語れる学生なんて一握りだと思ったのですが、「ワンレン」知らないZ世代のZ君の説明では、クラブ活動の資金集めに学園祭でたこ焼きを売りましたみたいなことでもいいそうです。しかし、たこ焼き売っただけならガクチカでもないだろうと思いますけどね、やっぱりガクチカにふさわしいのなら、美味しいたこ焼きを作るために服部栄養専門学校に通いましたくらいの努力をした痕跡は見せて欲しいですね。【ピアスしている女子高生】電車の中で隣に立ったセーラー服の女子高生をふと見ると、耳にピアスが。今の高校ではピアスしてもいいのでしょうかね。しかし、勉強が本分の高校生がそんなに色気づいていいのかと、昭和生まれのV世代おじさんとしては思う次第でした。こういう娘さんが、小学校の低学年くらいまでは「パパがいい」と言っていて、その後、小学校高学年から中学校くらいになると「パパはいい」になって。それからは「パパ」という言葉を忘れたフリをして、気がつけば、苗字も変わって見ず知らずの男性を「パパ」と呼ぶようになるんでしょうね。そして、その結果、父の日にエプロンをプレゼントしてくれようなるんでしょうか。人気ブログランキング通勤沿線 気になるあの人(その14)
Jun 22, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。曙(あけぼの)橋にやって来ました。曙橋というのは昭和32年(1957年)に建設された、靖国通りの上を跨ぐ外苑東通りの橋の名前です。靖国通り沿いにあるこのビルにちょっと変わった団体が入居していました。「公益財団法人日本人事試験研究センター」(→→→こちら)です。市町村、道府県・指定都市、警察官の採用試験問題を作成・提供する公益法人なんだそうです。こんな団体があるんですね。都営新宿線の曙橋駅近くにある商店街です。そういえば、かっての人気テレビドラマ、MoMo太郎も我が家の事を思い浮かべながら見ていた「渡る世間は鬼ばかり」(→→→こちら)では、泉ピン子さんの嫁ぎ先の中華料理店「幸楽」はこの曙橋商店街にある設定になっていました。亡くなられた橋田寿賀子さんの跡を継いで、MoMo太郎が「渡る世間は鬼ばかり」の続編の脚本を書いてもいいかなと思っています。我が家では「渡る世間は鬼ばかり」的なエピソードはかなりありますからね。この商店街の北側には「東京女子医大病院」があり、また、近くには「国立国際医療センター」や「慶応大学病院」もあるので、医療面でも安心できますね。商店街の途中にこんな道標がありまた。左フジテレビ、右地下鉄あけぼの橋驛とあります。こちらの坂道を登ると、お台場に移転する前のフジテレビがあったんですね。人気ブログランキング新宿彷徨(その99) 曙橋界隈
Jun 21, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。こちらの建物は、新宿区立花園小学校(→→→こちら)。調べてみると四谷第五小学校と四谷第七小学校が平成7年(1995年)に統合してできた小学校だそうです。新宿区内、かっては沢山あった小学校も子供の数が減って、統廃合されているのですね。四谷四丁目の交差点にある四谷大木戸碑です。江戸五街道の一つ甲州街道の最初の宿場町の内藤新宿へ続く木戸の北東側の跡です。新宿御苑のある南西側には立派な石碑や説明文が有るのですが、こちらは交差点の角のスペースが小さな庭の様になっていて、ちょっと散歩の休憩に立ち寄るのにはいいかもしれません。ちなみに四谷大木戸というのは、甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所だったところです。つまり江戸時代の江戸府内はここまでだったということですね。こちらにあるのは、かって新宿区立四谷第四小学校だったところです。平成19年(2007年)に旧四谷第一小学校、四谷第三小学校、四谷第四小学校が統合して四谷小学校になりました。廃校となったこれら三校ともそれぞれ100年以上の歴史を誇った学校だったそうです。そして、この跡地は「四谷ひろば」(→→→こちら)として、地域住民中心のボランティアなどにより自主管理自主運営される「地域ひろば」と「東京おもちゃ美術館」「CCAAアートプラザ」の協働で運営される施設として利用されています。「東京おもちゃ美術館」(→→→こちら)とは、世界各地のおもちゃを展示するほか、世界の遊びを紹介する施設だそうです。校舎の建物のこちら側のエリアが、東京おもちゃ美術館になります。ちなみに、入場料は、おとな(中学性以上)がオンラインチケットで1,100円になります、また、こども(6ヶ月~小学生)はオンラインチケットで800円、6ヶ月未満だと無料。ということで、ちょっと気軽には遊びに来れないかな。人気ブログランキング新宿彷徨(その98) 廃校となった新宿区の小学校を利活用
Jun 20, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。東京都新宿区新宿二丁目にある太宗寺(→→→こちら)にやって来ました。太宗寺は、江戸時代初期の寛永年間(1624~1644年)に内藤新宿の開発を進めた内藤家によって建立されたお寺です。入るとすぐに眼に入るのが、この大きなお地蔵様。銅造地蔵菩薩坐像。東京都指定有形文化財になるそうです。銅造地蔵菩薩坐像は江戸六地蔵(→→→こちら)のひとつだそうです。江戸六地蔵は、宝永から享保年間にかけて江戸の出入口6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像です。東海道の出入口にあるる品川の品川寺、奥州街道の出入口にある浅草の東禅寺、甲州街道の出入口に当たるのがこの新宿の太宗寺、中山道は巣鴨の真性寺、水戸街道は江東区白河の霊厳寺、そして千葉街道は江東区富岡にあった永代寺。しかし、永代寺は明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により廃寺になり取り壊されて、代仏が上野の浄名院に祀られているそうです。その他にも境内には色んな堂宇がありました。こちらは、新宿区指定有形民俗文化財である都内最大の閻魔像が祀られている閻魔殿です。新宿区指定有形文化財の三日月不動が安置されている三日月不動堂。こちらの現代的なデザインの建物は本堂です。山号は霞関山というのですね。こちらは、塩かけ地蔵体の悪い部分に塩をかけて祈ると病気が治るといわれているので、沢山の人がお参りして全身塩まみれでした。その他もこのお寺には、文化財が多くあるようでした。人気ブログランキング新宿彷徨(その97) 文化財の多い太宗寺
Jun 19, 2026
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ザ・ビートルズ(The Beatles)が1966年6月30日から7月2日にかけて、東京・日本武道館で来日公演を行ってから今年は60周年だそうです。そして、ザ・ビートルズのメンバーの中で今でも現役で活躍されているポールマッカトニー(Paul McCartney)の誕生日が今日です。ということで、ウィングス時代の1974年に発表した、ジュニアーズ・ファーム(Junior's Farm)を聞いてみました。イギリス人って、農場にバカンスに行くものなんでしょうかね。イギリスの農業経営はEUの「共通農業政策(CAP)」に基づく補助金、特に「直接支払い(BPS: Basic Payment Scheme)」によって支えられてきていたそうですが、「ブレグジット(EU離脱)」に伴い、単に作物を生産するだけでは補助金は出ず、環境貢献活動を行って初めて対価が支払われるような政策になっているそうです(→→→こちら)になります。Ah, you should have seen me with the poker manI had a honey and I bet a grandJust in the nick of time I looked at his handI was talking to an EskimoSaid he was hoping for a fall of snowWhen up popped a sea lion ready to goLet's go, let's go, let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farmTake me down, JimmyAh, at the Houses of ParliamentEverybody's talking 'bout the PresidentWe all chip in for a bag of cementOllie Hardy should have had more senseHe bought a gee-gee and he jumped the fenceAll for the sake of a couple of penceLet's go, let's go, let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farmLet's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farmEverybody tag alongI took my bag into a grocer's storeThe price is higher than the time beforeOld man asked me why is it moreI said, you should have seen me with the poker manI had a honey and I bet a grandJust in the nick of time I looked at his handLet's go, let's go, let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay low(Down to Junior's Farm)The low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farm(Down to Junior's Farm)Let's go, let's goDown to Junior's farm where I want to lay lowThe low life, high life, oh, let's goTake me down to Junior's farm(Down to Junior's Farm)Everybody tag along(Down to tag along)Take me down to Junior's farmTake me backTake me backI wanna go backYeah, yeah, yeahポーカーマンと一緒にいる僕のことを見た方がよかった。僕は可愛い子ちゃんがいたし大きく賭けたよ。丁度彼の手をたところでね。エスキモーと話したよ彼は雪が降るのが楽しくて飛び跳ねるって言った。アシカへも顔を出して踊るのさ。僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへジミー、連れて行ってくれ国会でみんなが大統領について話し合っている。僕たちはセメント袋を買うために寄付したよ。オーリー・ハーディはもっと分別を持つべきだった、彼はお馬さんを購入したけどフェンスを飛び越えちゃった。わずかな小銭にしかならなかった。僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、みんな付き合ってくれよ食料品店へカゴを持って行った値段は前より高くなっていたじいさんが、なぜ高くなるんだと僕に尋ねた、僕は言った、ポーカーマンと一緒にいるのを見ていたかい僕は可愛い子ちゃんがいたし大きくを賭けた。丁度彼の手を見てね。僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう(ジュニアーズ・ファームへ)下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、(ジュニアーズ・ファームへ)僕が隠れていたいジュニアーズ・ファームへさあ行こう下層の暮らしでも、上流の暮らしでも、さあ行こうジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、(ジュニアーズ・ファームへ)みんな付き合ってくれよ(付き合ってくれよ)ジュニアーズ・ファームへ連れて行ってくれ、連れ戻してくれ連れ戻してくれ帰りたいんだイエー、イエー、イエー人気ブログランキングポール・マッカトニーの誕生日
Jun 18, 2026
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次のシリーズを考え中ですが、なかなか筆が進まないので、中休みで、最近食べた「孤独のグルメ」を紹介します。すき家の朝食メニューの納豆まぜのっけ定食(400円税込み)です。朝から、納豆、半熟温泉卵とオクラ、とネバネバしたものを食べると、なんとなく精力がついてような気持ちになって、今日も頑張るぞ!という気持ちになれそうな朝の定食です。たまごかけ醤油というのもついていましたが、普通の醤油とどう違うのでしょうかね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ すき家の朝食
Jun 17, 2026
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光源寺から本郷通りに出た向丘二丁目交差点にあった町中華。今、町中華が人気なんでしょうね。行列ができていました。本郷通りから動坂に向かう道との駒本小学校交差点の近くにあった、駒本(こまもと)小学校同窓会で建てた開学五十周年記念碑かありました。建立した年が平成6年(2004年)とあったので、昭和29年(1954年)に駒本小学校(→→→こちら)として発足したんでしょうね。さらに動坂に向かって少し歩くと、高林寺(こうりんじ)と書かれた標識がありました。金峰山高林寺(→→→こちら)は、元々は江戸神田に位置していたのですが、慶長9年(1604年)に御茶ノ水に移転し、さらに明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火の後に現在地に移転したお寺です。御茶ノ水時代に、境内に湧き出ていた湧水の水を徳川将軍家に献上したことがきっかけで、その地が「御茶ノ水」と呼ばれるようになったそうです。墓地内には、幕末期の蘭学者緒方洪庵の墓や明治・大正期の歌人岡麓の墓があるのですね。高林寺の方へ向かって歩いて行くと、駒本小学校の校門がありました。その隣あったのが、高林寺です。訪れた日には、檀家の皆さんの行事があったようなので、参拝は遠慮しました。本駒込界隈、歩いてみると意外と面白いものがありましたね。またこの辺り探検してみたいです。(本駒込散歩コース)【了】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その13) 高林寺と駒本小学校
Jun 16, 2026
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銭湯らしからぬクラッシックな建物の「ふくの湯」(→→→こちら)です。風呂場は2階にあるのも、ちょっと変わっていますが、観光ガイドでも紹介されている人気の銭湯のようです。以前、このブログを見ていて下さる人から、矢印と人の形がある道路標示について、見たことがないというコメントを頂いたのですが、自転車ピクトグラム と矢羽根が得かがれたこの表示は普通自転車が走るために通常の車道にガイドとして描かれる法定外表示になります。そして、駒込大観音で知られる浄土宗のお寺、光源寺(→→→こちら)にやって来ました。山門の脇にあるこの樹木。よく見れば、梅の実が生ってました。この案内板によると、蓬莱梅と呼ばれる梅の木で榛名山の麓から委嘱されてきた梅の木だそうです。境内には「西国八番 大和長谷写十一面観世音」と刻まれた石柱がありました。十一面観音とは、頭の上と正面、合わせて11のお顔を持つ観音様のことですが、江戸時代前期の豪商丸屋吉兵衛は、大和国(現・奈良県)の長谷寺に参詣した時にあった。木造十一面観音立像を拝し、「このような尊像を江戸にも勧請したい」という思いから、元禄10年(1697年)に奈良の長谷寺の写しとして木彫金箔の観音像を建立したそうです。しかし、この初代の観音像は、太平洋戦争中の昭和20年(1945年)5月24日夜の空襲で焼失してしまい、平成5年(1993年)にこの観音堂と共に観音像がさいけされました。それがにこの駒込大観音像です。総高約6メートル、ひのきの寄木木造に金箔を貼った十一面観音立像という立派な観音像です。また境内には大きな石塔がありました。側面には「庚申待百万遍講中」という文字が刻まれていました。この石塔は、文京区指定有形民俗文化財の「庚申待百万遍講中庚申塔」(→→→こちら)というものだそうです。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その12) 光源寺の駒込大観音
Jun 15, 2026
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駒込病院の敷地の中に説明板が建てられていました。東京都指定史跡「動坂遺跡」(→→→こちら)という東京都教育委員会が建てた説明板です。昭和49年、都立駒込病院の外溝工事中に貝塚が発見され、発掘調査の結果、縄文中期の住居跡と土器が出土しています。特におもりが多く出土しこのあたりでの漁労が行われていことが推測できます。また江戸時代には8代将軍・徳川吉宗が復活した鷹狩の鷹匠の屋敷があった場所です。今では、この動坂貝塚記念碑が立つのみです。この碑の下には住居跡と貝塚がそのまま保存されているそうです。しかし、縄文時代から東京に人が住んでいると思うとちょっと不思議な気がしました。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その11) 動坂遺跡
Jun 14, 2026
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駒込天祖神社の裏にあるのが、こちらの東京都立駒込病院(→→→こちら)です。そして、駒込病院に隣接したこじんまりとした公園がありました。銘板の文字は読みにくかったのですが、文京区の「駒込公園」です。豊島区にも駒込公園があるのでちょっ紛らわしいかも。遊具も沢山あるようで、近所の子供たちには有り難い公園のようでした。この先にある動坂(→→→こちら)と呼ばれている坂道を下るとJR田端駅に行けますが、駒込病院の方へ向かって本郷通りを目指します。大きな駒込病院の建物が見えました。地方独立行政法人東京都立病院機構が運営する東京都立駒込病院です。この駒込病院は「がん」と「感染症」を中心とした高度専門医療を提供する病院として知られているそうです。そんなわけで、都道府県がん診療連携拠点病院(→→→こちら)に指定されているのですね。また、理科の実験で一度は手にしたことがあるかもしれない駒込ピペットを開発したことでも知られています(→→→こちら)大きな14階建てのビルが威容を誇っていますね。近傍の駅から歩くと時間がかかるので、バスで通院できるように構内にバス停が作られているのですね。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その10) 東京都立駒込病院
Jun 13, 2026
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駒込天祖神社の境内を出てすぐの場所にある地蔵堂です。江戸時代に創建された縁結びや子育てのご利益がある縁結び子育て地蔵尊だそうです。こちらには三体の石仏が祭られていました。真ん中ににあるこちらの石仏は、縁結び子育て地蔵です。こちらの「縁結び子育て地蔵尊御縁起」によれば、地蔵尊は江戸時代正徳二年五月(西暦1712年)の創建とありました。また霊験あらたかとして参詣する者が多く、新縄にて尊像をしばり奉り、満願成就の日、その縄をほどく風習があったそうです。右側に安置されているのは、如意輪観音像です。こちらの「如意輪観世音菩薩御縁起」によると、創建は寛文十一年十月(西暦1671年)の創建とありました。そして昭和48年地蔵堂再建にあたり天祖神社境内より堂内に安置されたとありました。一番左にあるのは水子地蔵尊、昭和50年(1975年)に建てられたものだそうです。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その9) 縁結び子育地蔵尊
Jun 12, 2026
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本駒込の住宅地の中にあった鬱蒼とした林。ここが駒込名主屋敷(→→→こちら)だそうです。大阪夏の陣後豊臣方の残党としてここに亡命し、当時傳通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷だそうです。現在も居住中なので、見学は外観のみになるそうです。こちらにも大きな神社がありました。こちらの神社が駒込天祖神社(→→→こちら)です。ちなみにこの駒込天祖神社が駒込富士神社を兼務していて、駒込富士神社の授与品や朱印は天祖神社の方で行っているそうです。こちらの文京区教育委員会の建てた案内板がありました。江戸時代、駒込の氏神として、神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた、社伝によれば、文治5年(1189)源頼朝が、奥州藤原泰衡追討の途中この地に立ち寄り、夢のお告げで松の枝に大麻(伊勢神宮のおふだ)かかっているのを見つけた。頼朝は征討のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源といわれる。社殿は神明造り。大麻のかかっていたいた大木は神木として崇められ、さしわたし4尺(1,2m)もある大木と伝えられる(『江戸砂子』から)その後、宮守りもなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木は、その後枯れたという。社殿の裏に、都立駒込病院あたりにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石碑がいまも残る。境内にあった亀石。亀の姿に似ていないこともないですね。イチョウの並木か続く長い参道。秋にはイチョウの紅葉が楽しみですね。こちらには、神社が掲げた御由緒がありました。そして、社殿です。コンリート造りなのは、太平洋戦争の空襲で焼けて、さいけんしたからなんでしょうか。ご祭神は、天照大御神であります。そういえば、6月の最終日曜日には、天祖神社の夏越の大祓式があります。正月から半年の間に知らず知らずのうちに、心身についた穢を形代に託してお祓いし、茅の輪をくぐり、無病息災をお祈りするしたいものです。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その8) 駒込天祖神社
Jun 11, 2026
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こちらの駒込富士神社の境内は広々としてました。境内にはこのような高い樹木がありました。こちらは文京区保護樹木の「かや」だそうです。参拝する前には、やっばりこの手水舎で身を清めないと。しかし、柄杓に穴が開いていて、水がちゃんと汲めませんでした。こちらの富士塚の上に社殿があります。駒込富士山という名称がありました。そして、ここが富士浅間神社ということですね。この石段を登た上に鳥居がありました。結構、勾配が急です。富士塚の上にある社殿は、コンクリート造りでした。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その7) 駒込富士神社Part2
Jun 10, 2026
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本郷通り沿いにあった蕎麦屋さん。なんとなく古くからありそうな雰囲気がありました。そして、訪れたのは駒込富士神社(→→→こちら)です。鳥居の上の扁額には「富士社」とありました。天正元年(1573年)に本郷に築かれた冨士大権現(神仏習合時代の名称)が、加賀藩上屋敷の敷地となったため、寛永5年(1628年)頃、日光御成道沿いの現社地に遷座したのがこの駒込富士神社です。この駒込の富士塚は江戸時代の初期に築かれ、江戸の富士講のなかでも有名な富士塚として信仰されていたようで、文京区駒込からかなり離れた墨田区本所菊川町にあった会社からの寄進された席柱がありました。ちなみに2021年に、こちらの神社の始まりとなる文京区本郷七丁目にある「富士浅間神社」へMoMo太郎は参拝していました(→→→こちら)。こちらが、本郷にある富士浅間神社です。この小さな公園の奥に社殿がありました。この小さな社殿が、富士浅間神社。「冨士淺間大神」と刻まれた石碑もありました。この神社にも文京区教育委員会の建てた案内板がありました。案内板には、このように記されていました。かつてこの地は明治5年(1872)から昭和40年(1965)まで「本富士町(もとふじちょう)という町名であった。加賀藩本郷邸の跡地にたつ東京大学本郷キャンパスにおいて、その名残を今にとどめる赤門を入って右手に、かつて「椿山」と呼ばれる小丘があった。江戸時代、「椿山」は「富士山」「富士塚」などと呼ばれ、富士浅間神社が祀られていた。駒込富士神社(本駒込5-7-20)は、この本郷の富士浅間神社から勧請したという伝承を有し、そのことが「本富士町」という町名の由来ともなった。明治4年、本郷の富士山やその一帯は国に接収され、祀られていた富士浅間神社は旧加賀藩邸の南西一角に屋敷を構えた前田家の敷地内に移転した。前田家が昭和3年に駒場へ移転したのちは、地元の町会である本富士会(現在の本富士町会の前身)の管理下に移された。地域住民に守られるこの小さな社は、かつて本郷に「富士山」があったことを物語る唯一の場所である。文京区教育委員会平成29年3月では、明日のブログで駒込富士神社に参拝した報告を。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その6) 駒込富士神社
Jun 9, 2026
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本駒込にある吉祥寺の紹介Part2です。こちらには板碑が並んで建っていました。この板碑の並んだ奥にあったのは、経蔵でした。文京区指定有形文化財になっている建物です。第二次世界大戦で境内のほぼすべてが焼失したなか、山門と合わせて残った貴重な建物になります。江戸時代、こちらのお寺は曹洞宗の僧侶の為の学校「旃檀林(せんだんりん)」でした。その時に図書収蔵庫として使われていたのがこの経蔵です。こちらの墓碑は、二宮尊徳の墓碑になります。二宮尊徳を祀る神社は、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)とあります。またお墓としては、二宮尊徳の墓は栃木県日光市今市の報徳二宮神社内(→→→こちら)と、神奈川県小田原市栢山の善栄寺(→→→こちら)にあります。では、なぜここにもお墓があるのかというと、二宮尊徳の子・尊行は、今市の如来寺に仮内葬し、善栄寺には二宮尊徳の歯と遺髪を納めたものの、遺骨そのものは曾孫(ひまご)の二宮徳の代になるまで納骨せずに手元にとどめたのだとか。そして二宮徳は、吉祥寺を菩提寺と定めて、大正12年、東洋拓殖会社から南洋方面視察の旅に出発することになり、遺骨を吉祥寺に預けて出発。途中、二宮徳が船内で病死したため、吉祥寺に保管されたままになっていたのを、昭和14年当時の本郷区長らが中心となって遺骨を埋葬したのが、この二宮尊徳の墓になるんだとか。二宮尊徳と言えば、この薪を背負って本を読むこの姿。そして、ここでは木陰で涼みながら読書していました。本堂の前は、こんなに広々としています。こちらが吉祥寺の本堂。お参りさせていただきました。寺号額には「諏訪山」という山号が書かれていました。参拝を終えて元の北方向へ行こうとすると鐘堂と経蔵が見えました。こちらが、文京区指定有形文化財の経蔵です。境内にあった薄紫の花が咲いているこの樹木。こちらが「センダン」の木(→→→こちら)。ちなみに「栴檀は双葉より芳(かんば)し」ということわざがありますが、この場合はセンダンではなくビャクダン(白檀)をいうことらしいです(→→→こちら)。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その5) 吉祥寺Part2
Jun 8, 2026
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本駒込にある吉祥寺(→→→こちら)です。武蔵野市にある、東京で住みたい街1位の吉祥寺には、結構お寺がありますが、吉祥寺というお寺はありません。じゃあなぜ、多摩地区に属する武蔵野市に吉祥寺と呼ばれる町があるのかというと、明暦3年(1657年)、明暦の大火で江戸本郷元町(現在の文京区本郷一丁目、東京都立工芸高等学校付近)にあった諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した時に、江戸幕府が吉祥寺門前の住人を現在の武蔵野市東部の土地を開墾して住人達を移住させたことから、吉祥寺の町が始まったそうです。山門の脇あった文京区教育委員会の案内板です。案内板には、以下のように記されていました。曹洞宗 諏訪山吉祥寺 本駒込3-19-17 長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。 天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。 僧侶の養成機関として旃檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。古い堂塔山門 享和2年(1802)再建 江戸後期の特色を残す。経蔵 文化2年(1804)再建 旃檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財墓所二宮尊徳(江戸末期の農政家) (墓地内左手)鳥居燿蔵(江戸南町奉行) (墓地内左手)榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家) (墓地内右手)川上眉山(小説家) (墓地内右手)=郷土愛をはぐくむ文化財-文京区教育委員会 平成6年3月ということで、旃檀林(せんだんりん)という扁額の掲げられた山門を通って境内へ、かなり長くて広い参道が続いていました。参道の途中にあったのは、花供養塔。この石碑によると、花を愛する人達が寄進した供養塔のようですね。茗荷稲荷という稲荷社がありました。この案内板によると「家康公ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に茗荷権現あり、疫病蔓延の折祈願の人絶えず…」とありました。信仰の篤いお稲荷さんのようですね。そして、「八百屋お七・吉三郎の比翼塚」です。比翼塚(ひよくづか)は、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚ですが、八百屋お七といえば、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女ですね。井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られていますが、おそらくモデルとなった女性はいたとは思えますが、本当に実在した女性かどうかはわからないそうです。つまりこの比翼塚は、小説などの人気にあやかって建立されたものでしょうね。禅定印を結ぶ釈迦如来坐像の吉祥寺大仏です。吉祥寺の紹介は、明日に続きます。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その4) 吉祥寺
Jun 7, 2026
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本駒込にある南谷寺(なんこくじ)(→→→こちら)。江戸五色不動のひとつ目赤不動(めあかふどう)として有名なお寺ですね。こちら山門の近くには目赤不動尊に関する説明板がありました。万行和尚が元和年間(1615-1624)に駒込動坂に庵を設け不動明王像を安置したのが南谷寺の創建であり、この不動を赤目不動と呼んだのが始まりです。寛永年間(1624-1644)三代将軍家光が鷹狩りの途中、動坂のこの庵に立ち寄り、この赤目不動を、目黒・目白不動と同じように”目赤不動”と呼ぶように伝え、寺領を現在地に寄進した。そこで、寺を動坂からここに移転し、駒込目赤不動と称するようになったそうです。お地蔵さんは六体セットですね。天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、そして地獄道(じごくどう)の六道に地蔵菩薩が六道に行くために姿を変えたものが六地蔵だとも言われているそうです。こちらが赤目不動尊です。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その3) 南谷寺(通称:目赤不動尊)
Jun 6, 2026
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本郷通り沿いにある、社名からして、どのような本を出版しているかがわかる会社(→→→こちら)がありました。なかなか、立派な本社ビル。その前庭に銘板の建てられた木がありました。♪この木何の木、気になる木。ということで、銘板を見ると「ヒポクラテスの木」だそうです。この銘板には、このように記されています。「プラタナスの木」ギリシャのコス島にプラタナスの大樹があり,医聖ヒポクラテス(紀元前460年頃~前375年頃)がその木の下で医学の講義を行ったと伝えられる。新潟の蒲原宏先生が1969年コス島を訪れ,その種子を日本に持ち帰り発芽させた株の1つ(蒲原株5号)を当社創業者・今田見信が創業50周年の記念に譲り受け,1972年埼玉県八潮市の倉庫庭に植樹した。その挿し木を本社(文京区)と学生寮(豊島区)の庭に植樹し,創業100周年の記念とする。 2021年11月医歯薬出版社実はこの「ヒポクラテスの木」様々な経緯で日本に持ち込まれ、その結果、日本各地の病院や医系大学の敷地に植えられているそうです(→→→こちら)。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その2) ヒポクラテスの木
Jun 5, 2026
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東京メトロ南北線の本駒込駅にやって来ました。南北線のホームドアは、おそらく東京地下鉄では唯一の天井までほぼ完全にホームを被う半密閉式フルスクリーンタイプになっていて、地下鉄に乗るというより未来都市の地下トンネルにやってきたみたいな印象です。地上に出ると、東京都道455号本郷赤羽線(通称「本郷通り」)が通っており、東京メトロ南北線の東大前から王子まで間は、南北線はこの道路の地下を走っています。この本郷通り沿いにあるこちら天栄寺の山門の脇には、文京区教育委員会による案内板「駒込土物店跡」がありました。案内板には、神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。起源は、元和年間(1615~24)といわれている。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の“さいかちの木”の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起りといわれている。土地の人々は“駒込のやっちゃ場”と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごほうなど、土のついたままの野菜である“土物”が取り引きされたので土物店ともいわれた。正式名は“駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは“駒込青果市場”と改称した。街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって現在に至っている。また、さらに2本の石碑も建てられていました。一本は「史跡文化財駒込土物店跡」とあり、もう一本には「江戸三大青物市場遺跡」と刻まれていました。石碑の間には「白鳥神社社誌」という石碑がありました。これには、かつて天栄寺境内にあった白鳥神社の御由緒が記されていました。この白鳥神社にが、江戸時代の初め頃に市が立つようになった起源とされています。 天栄寺の境内にあった「境内の駒込土物店縁起」という石碑もありました。この碑には、文京区本駒込にある天栄寺の境内で、江戸時代の初め頃に市が立つようになった起源を記した石碑です。これによると、「昔時當寺境内に巨木のさいかち樹あり、樹下白鳥社を祀つた。元和の頃より里人此に来つて青物市を碑瀧駒込市場の濫觴をなしたといふ」とありました。ちなみに「濫觴(らんしょう)」とは物事の起こり。始まり。起源という意味だそうです。このようにいくつもの石碑が建てられているとは、駒込土物店とは、今の東京大田市場(→→→こちら)のような施設だったんでしょうね。(本駒込散歩コース)【つづく】人気ブログランキング本駒込を楽しむ(その1) 駒込土物店跡
Jun 4, 2026
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松屋で食べる朝食は、最近この得朝定食(400円税込み)が多いかも。このメニューのいい所は、ご飯は並盛にしても、大盛にしても、特盛にしても値段が同じというこ点です。昼ごはんがいつ食べられるのか、わからないことが多いので、大抵特盛にして食べています。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 松屋の得朝定食
Jun 3, 2026
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昨日(2026年6月1日)に7,000,000アクセスを越えました。これもMoMo太郎の拙いブログを見ていただく皆様のお陰と深く感謝いたします。夫婦岩と並んで建つ建物に立ち寄ります。こちらの建物です。小袖海女センター(→→→こちら)です。「北限の海女」で知られる小袖海岸の観光拠点だそうです。1階は観光案内所や産直施設になっていますが、2・3階には北限の海女の歴史について展示紹介されていました。北限の海女さん達を撮影した写真も展示されていました。モノクロームの写真が歴史を感じさせますね。そしてもう一つの見どころが、北限の海女素潜り実演です。しかし、このイラストの海女さん、「あまちゃん」に出ていた女優さんにもう少し寄せて描いてもいいのでは、と思いました。小袖海女センターの横にあるこの入江で、7月~9月の週末や祝日を中心に、伝統の磯着姿で、ウニなどを採取する北限の海女素潜り実演が行われます。朝ドラの「あまちゃん」でも主役の女優さんやその他の海女さん役の女優さん達がこの入江で泳いでいたことを覚えているでしょうか。そういえば、MoMo太郎も30年以上前、岩手県で働いていた時に、ここで海女さんの素潜り実演を見学したことを覚えています。こちらにも歌碑が建立されていました。刻まれた文字を判読してみると、小浜菊咲く 観螢それよりも鮑とる此処北限の海人をとめどもと読めました。観螢というのがこの短歌を詠んだ歌人でしょう。どのような人か調べてみました。おそらく久慈市出身の小田観螢(→→→こちら)という方だと思います。夫婦岩を間近に見ると、かなりの大きさです。この夫婦岩は、火山から噴出した溶岩が冷え固まったものだそうです(→→→こちら)岩山の頂上に鳥居が建てられており、小袖漁港を守護するご神体の岩だということなんでしょうね。しかし、あんな高い所によくも鳥居を建たものですね。そして、足元には沢山の星、いやヒトデが落ちていました。もう少し小袖海岸の風景を楽しみたかったんですが、ここで帰路につきました。駆け足のみちのくドライブ旅行でしたが、三陸海岸の魅力を味わえました。でも、もう少しゆっくり時間をかけてみたかったです。(久慈市小袖海岸)【了】人気ブログランキングみちのくドライブ(その15) 小袖海女センター
Jun 2, 2026
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小袖漁港周辺を歩いてみました。こちらの石碑は目立たないですが、「津波襲来の碑」という石碑がありました。石碑の側面には、「今次の震災が永久に教訓となることを願ってこの地に建立する」と刻まれていました。平成23年(2011年)に発生した東日本大震災での被害を後世に伝える碑なのですね。さらに大きな石碑と案内板が並んでいました。こちらは、「北限の海女の道起点地・あまちゃんロケ地記念碑」の石碑です。こちらの説明板には、平成25年に「北限の海女」をモデルとしたNHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」のロケがこの小袖集落で行われたことを記念して建てられた石碑であることが記されていました。こちらの看板は「ここは、あまちゃんりロケ地」という看板で、この地で「あまちゃん」のロケが行われたことを説明しています。さらにこちらの山に登る道が、北限海女の道(悠久の古道)だそうです。この道の由来が説明された看板です。この道を上り下りして、海で漁をしたり、山の上の畑仕事をしていたそうです。そして「あまちゃん」でも使われた小袖漁協監視小屋もこの道を登っていくとあるそうです。そして、北限海女の里という石碑がありました。素潜りで伝統的に海女漁が行われているのは世界中で日本と韓国のみだけだそうですが、その中で久慈市の海女は最北部に位置するとされることから「北限の海女」と呼ばれているようですが、北海道でも素潜り漁をしているのかもしれませんね。ただし、漁業協同組合が認知する漁業権を持った集団的海女漁が保持されている北限はこの地であるとされています。そんなわけでやっぱりここは北限の海女というのは間違いなさそうですね。この石碑の隣にあったのは「北限の海女 のふるさと」の歴史を紹介した案内板がありました。「北限の海女 のふるさと」の歴史NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん 」のロケ地 岩手県久慈市 宇部町小袖海岸 は北三陸に位置し、昭和四十六年に陸中海岸国立公園 に指定、平成二十五年には三陸復興国立公園 と改称されました。 宇部町「海女 のふるさと」の歴史は古く、今から約二千五百年前に縄文人が海中に潜ってアワビを採取するために、シカの骨で作った骨ベラが二子貝塚から出土しています。 藩政時代には小袖・久喜(くき)・大尻(おおじり)・野田の男性による海士 (あま)は、伝統の素潜り漁によりアワビ・ナマコ・ウニなど高級食材を採取する海の産業に深く関わっていました。 素潜り漁 は漁村 文化として育まれ、やがて男性から女性へと移り変わり、女性が潜る海女は生業が原点にあり、その期限は明治維新頃とされ、百年をはるかに超える歴史があります。 「北限の海女」は久慈市の海で活躍する海女の総称で、昭和三十一年に海女クラブが結成され、現在のかすり半天等の衣装による素潜り漁として今日まで守り継がれてきた「海女物語」があります。 久慈市観光キャッチフレーズ「白樺ゆれる 琥珀の大地 海女の海」として、名称小袖海岸の自然美と共に、全国に愛される「北限の海女のふるさと」です。昭和三十四年 NHKラジオドラマ「北限の海女」放送 水木洋子 脚本平成二十五年 NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」放送 宮藤官九郎 脚本 岩手県久慈市 小袖海岸 宇部町「海女のふるさと」会ラジオやテレビで取り上げられたことが、この町の誇りなのでしょうね。こんな石碑や案内板が多い漁港ですが、小さいながらもこのような神社で豊漁と航海の安全を祈願したんでしょうね。(久慈市小袖海岸)【つづく】人気ブログランキングみちのくドライブ(その14) 北限の海女の道起点地・あまちゃんロケ地記念碑
Jun 1, 2026
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