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熊本の地震、被害に遭われた方にお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方のご冥福を祈ります。ところで、爆発したイオンモール。九州で勤務していた時、高速のインターの近くにあったので、何度か買い物に立ち寄ったことがあります。知っているところが、あんなになるとは・・・、複雑な心境です。常磐高速道の下り線にある千代田パーキングエリアにあった石碑です。石碑には、「高速道路三千キロ開通記念碑昭和57年三月三十日日本道路公団」という文字が刻まれています。石碑の背面には、次のような言葉がありました。昭和57年3月30日常磐自動車道谷田部・千代田石岡間24.4キロメートル、関越自動車道越後川口・長岡間23.6キロメートル及び山陽自動車道竜野西・備前間25.1キロメートルの供用により我国における高速道路(「高」ははしご高)の供用延長が3000キロメートルに達した道路建設に寄せられた関係各位の御協力に対し深く感謝するとともに高速道路(「高」ははしご高)社会の発展に大きく貢献することを願い、ここに記念碑を設ける高速道路、確かに流通や旅行に多くの人が利用し、生活を豊かにししてくれていますね。だから、未だに全国で高速道路の整備が進められているんですね。人気ブログランキング高速道路三千キロ開通記念碑
Jul 31, 2026
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錦糸町にある「餃子の珉珉」で、錦糸町店特選ランチ「中華オムレツ定食」(850円税込)を食べました。中華料理の店らしくオムレツは甘酢あんかけがかかっていたとの、中華風の卵とじスープ、そしてデザートで杏仁豆腐がついていました。変わりダネメニューのような気もしますが、これはこれで、なかなか美味しゅうございました。人気ブログランキング孤独のグルメ 中華料理屋さんでオムレツ
Jul 30, 2026
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「開校の町、飯田橋を歩く」の中で書き漏らした事があったので、補足します。目白通りから専大通りに入って、日本橋川を渡る堀留橋の手前にあるこの石碑。「東京理科大学(→→→こちら)発祥の地」の石碑です。碑文は次のとおりでした。東京理科大学 発祥の地明治十四年(一八八一)東京理科大学の前身である東京物理学講習所(同十六年東京物理学校と改称)はこの地 麹町区飯田町四丁目一番地で創立しました現在は新宿区神楽坂一丁目三番地にありますところで、このような開校に関する記念碑、川を渡った神保町、一ツ橋界隈には多そうなので、また機会を見て紹介してみたいと考えています。人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(補遺) 東京理科大学発祥の地
Jul 29, 2026
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こちらが、東京のお伊勢さま「東京大神宮」(→→→こちら)です。崇敬を集める神社とは言われていますが、お正月でもないのにこんなに参拝の方が多いとは、思っていると、訪れた日は「七夕祈願祭」が行われている時期で、心願成就と除災招福を祈願する祭事が行われていたからです。こちらが社殿です。東京大神宮は、明治天皇の勅裁を仰ぎ、明治十三年に創建されたそうで。伊勢神宮のご分社的な格式を有しているということから、当然、主祭神は、天照皇大神・豊受大神になります。また、神前結婚式創始の神社としても知られているので、七夕といえば、織姫と彦星が1年に1度だけ出会える日という伝説に因んで、パートナーとの出会いを短冊に書く方も多かったんでしょうね。(開学の町飯田橋を歩く)【了】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その8) 東京大神宮
Jul 28, 2026
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台所町から東は九段エリアになるので、ここから飯田橋駅の方へ向かって戻りました。そして、またも「北辰社牧場跡」の石碑を発見。北辰社牧場については、石碑の側面に説明書きが記されていました。榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久二年(一八六二)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しましたが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟の為の育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四,五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。ここに乳牛を飼育していた牧場があったとは、今の飯田橋からは考えられないですね。さらに「徽章業発祥の地」という石碑がありました。徽章業発祥の地の説明は以下のとおり、この奥、大神宮通り向かって左側に明治十八年(一八八五)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本徽章商会から生まれたといわれています。そして、現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。説明文の中にある大神宮通りとは、この石碑の手前にあった、東京大神宮のことですね。東京大神宮には後でお参りすることにします。ちなみに、「徽章(きしょう)」という言葉は余り使われていないようで、現代は徽章という文字は用いず「記章」として記載されますが、実は「徽章」と「記章」とでは意味が異なるようです。「徽章」は、身分や職業、資格、所属などを表すバッチのことを言います。バッチは、帽子や衣服に付けて使用するものです。一方、「記章」とは本来、記念に与えられるしるしのことを指すそうです。ただ、徽章の「徽」が常用漢字にないことから、「徽章」の意味も含めて「記章」と表記されるそうです(→→→こちら)。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その7) 北辰牧場跡と徽章業発祥の地
Jul 27, 2026
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目白通り沿いにあった「歴史のプロムナード」という石碑。今まで見てきた、石碑はこの歴史のプロムナードの石碑だったんですね。こちらの石碑には、飯田橋の歴史が紹介されていました。昔々、縄文時代の頃、このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として 賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建て、この町の移りかわりを示します。目白通りをさらに東に歩いて行くと、「台所町跡」という石碑がありました。台所町って、どういう意味かは、標柱に書かれていました。江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武鑑にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。町名は、飯田橋一丁目ですが、このあたりの人は、昔の町名の台所町って呼んでいるんでしょうね。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その6) 歴史のプロムナード
Jul 26, 2026
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神田川の派川(分流)である日本橋川(→→→こちら)です。かつて武蔵国荏原郡・豊島郡境界の平川(現在の神田川上中流)は日比谷入江に注いでいたものを、徳川家康が東向きへ河道を移設し隅田川へ合流させ、現在の日本橋川になったそうです。家康の作ったその流路も、現在では上空を首都高速道路に覆われています。日本橋川をわたる人道橋「あいあい橋」です。あいあい橋の由来が対岸の三崎町側のたもとに掲げられていました。あいあい橋の飯田橋側には、「東京大学理学部化学科誕生の碑」がありました。次のような説明が記載されていました。1861年万延二・文久元年東京大学理学部化学科誕生の地1861年、徳川幕府はば蕃書調所に化学部門である精錬方(学科)を設置。その後1877年、東京大学は精錬方を理学部化学科として取り込み、法・医・文・理の四学部構成で発足した。東京大学まで、飯田橋にルーツを持っていたとは知りませんでした。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その5) 東京大学理学部化学科誕生の地
Jul 25, 2026
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区政会館前にまだまだ開学の碑が建てられていました。ここってよっほど教育にテクした場所だったんでしょうね。まず「日本大学開校の地」です。碑文には、以下のように記されていました。日本大学開校の地明治二十二年(一八八九), ここ皇典講究所内に維新の志士, 吉田松陰門下, 時の司法大臣である 山田顕義 により 日本法律学校が創立されました。これは, 日本大学の前身にあたります。明治二十八年(一八九五)に 三崎町に移りました。そして、「東京府立第四中学校発祥の地」です。こちらの碑文には、東京府立第四中学校発祥の地明治三十四年(一九〇一), 東京府立第四中学校が, この地にあった 皇典講究所で開校しました。 同所は 明治十五年(一八八二)に国学を研究する目的で設けられたもので, 明治二十一年(一八八八)に 同じ地内に開設された補充中学校が, 共立中学校, 東京府城北尋常中学校 と名を変えて 府立第四中学校となったものです。その後, 府立四中は 明治三十七年(一九〇四)に 市ヶ谷加賀町に移転し, 戦後は 新宿区戸山町に移り 東京都立戸山高等学校となっています。と記されていました。さらに、「國學院大學開校の地」です。こちらの碑文は、國学院大學開校の地明治十五年(一八八二), この地, 旧飯田町五丁目に 国学を研究する皇典講究所が設けら れました。明治二十三年(一八九〇), 皇典講究所を母体として, 所長山田顕義によって 國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正十二年(一九二三), 渋谷に移りました。と記されていました。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その4) 日本大学、東京府立第4中学校、國學院大學
Jul 24, 2026
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皇典講究所発祥記念碑の横には、もう一つ記念碑がありました。日本医科大学付属第一病院記念碑です。碑文には次のように記されていました。七十三年の歴史日本医科大学付属第一病院は、大正13年(1924)に千代田区飯田橋の地に、日本医学専門学校飯田橋医院として開院し、昭和6年(1931)に当時の建築の粋を集め、近世スパニッシュ装飾を施して建てられた。日本医科大学の付属の病院として、日本の医学教育及び医療の発展に大きく貢献してきた、平成9年(1997)9月30日閉院した。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その3) 日本医科大学付属第一病院記念碑
Jul 23, 2026
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目白通りを東南方向、九段坂下に向かって歩いていくと大きなビルが目につきました。この21階建ての高層ビルは、東京区政会館(→→→こちら)です。公益財団法人特別区協議会の事務所だそうですが、特別区相互の連絡調整を図るための場として各種団体も入居しています。また、東京都立大学飯田橋キャンパスもあるそうです。こちらにあったのが、皇典講究所(→→→こちら)。皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)というのは、明治時代に国家神道が成立した宗教政策で、大衆へ向けて皇道の教化活動を行う機関として開講された学校だそうです。碑文には以下のように記されていました。発祥記念碑明治十五年 有栖川宮熾仁親王を総裁としてこの地に皇典講究所創設 同所を母体に 山田顕義所長のもと明治二十二年 日本法律学校(現 日本大学)明治二十三年 国学院(現 国学院大学)を開設す(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その2) 皇典講究所発祥記念碑
Jul 22, 2026
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関東地方も梅雨が明けて、連日猛暑日が続くようですね。これからは熱中症が心配。気象災害は台風や洪水だけでなく、猛暑も気象災害と言ってもいいのではないかと思いますね。さて、そんな猛暑の夏が恥っていない7月の初旬、飯田橋駅にやってきました。区制会館の前に、飯田橋の地名の由来が紹介された案内板がありました。これによると、天正18年(1590年)、開府前の江戸で農村地帯だった現在の飯田橋周辺を徳川家康に案内したのが、土地の長老であった飯田喜兵衛なる人物であった。家康はその功を称え、一帯を「飯田町」と命名しました。そして、明治14年(1881年)、交通の便のため、新たに外濠を跨ぐ橋が架けられ、飯田町に接する橋であることから「飯田橋」と命名され、昭和3年(1928年)に飯田橋駅ができたことから、飯田町という町名の存在が薄れて、飯田橋と呼ばれるようになったそうです。飯田橋から目白通りを九段坂方面にでたところに、「東京農業大学開校の地」と刻まれた石碑がありました。側面には、その由来が刻まれていました。明治24年(1891)、 東京農大の原点「育英黌農業科」が、当地で産声を上げました。生みの親は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴任した榎本武揚でした。明治26年(1893)、現在の中央線である 甲武鉄道の新設工事, また農場用地取得のため 大塚窪町に移転しました。(開学の町飯田橋を歩く)【つづく】人気ブログランキング開校の町、飯田橋を歩く(その1) 東京農業大学開校の地
Jul 21, 2026
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立ち食い蕎麦のチェーン店「ゆで太郎」のミニのり弁セットを頂きました。海老天はサービスクーポン券利用で無料でしたが。このセット普通は税込み800円ですが、金曜日の得ランチメニューだったので、700円で食べることが出来ました。ゆで太郎のこの得ランチ、日曜日から土曜日まで日替わりであるので、出来るだけ利用したいですね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ ゆで太郎でお得にランチ
Jul 20, 2026
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こちらが千葉駅東口です。平成23年(2011年)頃から建て替え工事が進められてきて、平成28年(2016年)に新しい「千葉駅」として開業したので、全体的に新しい感じです。こちらは、千葉都市モノレール千葉駅への入り口です。東口から千葉公園口へ抜けるこの駅前地下道には、大賀ハスの壁画が使われていました。千葉市は、やっぱり大賀ハス推しの町なんですね。帰りは、千葉駅に隣接する京成千葉駅から、京成電鉄で帰りました。(千葉市内を巡るコース)【了】人気ブログランキング千葉市を巡る(その15) 千葉駅です
Jul 19, 2026
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中央公園から千葉駅方面に向かいます。頭上にあるのは千葉都市モノレールの軌道です。ふっと思ったのは、懸垂式のモノレールが駅の間途で故障で止まった時、どうするんでしょうかね?羽田空港モノレールのように跨座式ならモノレールの軌道に降りて歩いて駅まで行けそうですが、千葉モノレールの場合は救助に消防のハシゴ車が来て降りるのでしょうか?千葉駅前大通りを歩いて行くと千葉駅に向かえますが、ちょっと寄り道して、栄町(さかえちょう)に行ってみました。千葉都市モノレールの栄町駅です。千葉市栄町(→→→こちら)には、こんな感じのお店が並んでいる町です。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その14) 栄町
Jul 18, 2026
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飲食店や商業施設が囲む市街地の中にある中央公園です。公園内にある銅像は、ヘレン・ケラー氏(→→→こちら)です。ヘレン・ケラー氏は生後19か月時に病気が原因で視力と聴力を失ったにもかかわらず、ハーバード大学に進み学位をを取得し、生涯を障害を持つ人々や女性参政権、労働者の権利、世界平和のため運動にささげた方です。財団法人千葉県アイバンク協会がアイバンク運動のさらなる発展を期して建立した銅像です。特にヘレン・ケラー氏が千葉県と深い関わりがあるというものではないようです。また、戦災復興記念碑(→→→こちら)というものもありました。終戦後、政府の「戦災復興計画基本方針」に基づき、千葉市では復興計画を立案し、昭和55年(1980年)に完了したそうです。碑文には戦後復興までの歴史が刻まれています。こちらには、歌碑がありました。歌碑の裏側には、この歌碑がライオンズクラブ25周年記念として建立されたことが記されていました。「千葉の野の 児手柏の ほほまれど あやに愛しみ 置きて高来ぬ」の歌は、奈良時代の防人であった大田部 足人(おおたべ の たりひと)が、天平勝宝7歳(755年)2月、防人として筑紫に派遣された際に詠んだ歌で万葉集に収録されているそうです。意味は、「千葉の野の児手柏(このてかしわ)の若葉のように、まだ初々しくて可愛いいあの子を置いてはるばるやってきた。」というそうです。公園の中心には「AD ASTRA(天体へ)」(→→→こちら)というモニュメントがありました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その13) 中央公園
Jul 17, 2026
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県庁の近くに明治天皇行在所舊蹟(あんざいしょきゅうせき)という石碑がありました。明治天皇って色んな所に出かけられたんですね。千葉県教育会館(→→→こちら)がありました。千葉県内の教育関係者が集まって研修会などを行う所のようです。こういう施設があるというのは県庁所在地ならではないでしょうか。教育関係の研修会だけではなく、技術講習会などにも利用できるようです。さらに歩いて行くと、千葉県酒造会館という施設もありました。千葉県は全国でも有数の酒蔵を誇るそうです(→→→こちら)。こういう施設も県庁所在地だからあるんでしょうね。2階にあるショップでは千葉県内各地の地酒が販売されているそうです。この大きな建物は、Qiball(きぼーる)(→→→こちら)です。「希望のボール」の意味から名付けられた施設で、Q の丸い字形がプラネタリウムをシンボル化しているそうで、頭文字のQは、9つの機能で市民のくらしに役立つQ=球になるそうです。市民の暮らしに役立つ施設とは、(1)子ども交流館(2)子育て支援館(3)科学館(4)中央保健福祉センター(5)中央区役所(6)プラネタリウム(7)アトリウム(8)ショップ&レストラン(9)千葉市のシンボルのことだそうです。こちらがQiballのロゴマークです。1階のホールには、こんな感じでした。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その12) 県庁所在地にありがちな施設
Jul 16, 2026
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千葉県庁本庁舎です。20階建ての高層建築です。なかなか県庁なんて訪れることはないと思いますが、20階はレストランそして19階が展望回廊となっていて、一般の人でも出入りすることができます。こちらが19階の展望回廊となっています。ここからは千葉市内が一望できます。先ほど訪れた猪鼻城とそこに隣接する千葉県文化会館の眺めです。千葉港とその先の京葉工業地帯です。猪鼻城と亥鼻公園、そして遥か先には成田の方まで見渡せました。西側の東京方面の眺めです。ビルの右側に見えるのは千葉ポートタワー(→→→こちら)です。さらに千葉港です。壁には、千葉県の各地を紹介する写真が展示されています。古い写真もあり、千葉県の歴史も知ることができます。こちらは、千葉の特産品をデザインしたレリーフがありました。また、千葉県に所縁の人たちの肖像も飾られていました。こちら日蓮聖人です。日蓮は鎌倉時代の仏教の僧侶で、鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖ですが、現在の千葉県鴨川市の漁村で誕生したそうです。左側は日本地図を作った伊能忠敬、現在の千葉県山武郡九十九里町小関の生まれで、香取市佐原にある酒造家の伊能家に婿入りし、名主として活躍したのち隠居し江戸で測量や天文学を学び、自ら歩いて日本地図の作成に取り組んだそうです。右側は大原幽学。江戸時代後期の農学者、農民指導者。下総国香取郡長部村(現:旭市長部)を拠点に活動した人物です。左は明治期に活躍した歌人、小説家の伊藤左千夫。小説「野菊の墓」などが知られていますが、現在の千葉県山武市殿台の出身です。右は五千円札の肖像で御馴染みの津田梅子です。女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者。父である仙が、下総佐倉藩上士の三男として生まれて津田家(御家人)に婿入りした人物であることから、千葉県に所縁のある人物とされているのでしょう。ちなみに梅子は江戸で生まれ育っています。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その11) 千葉県庁展望回廊
Jul 15, 2026
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郷土博物館から亥鼻公園を出て、千葉県庁の方へ向かいました。こちらの建物は千葉県立中央図書館です。そして、千葉県庁前にある羽衣公園(→→→こちら)に到着しました。公園の前にあった銅像。MoMo太郎の職場の理事に似ているので撮影しました。銘板には「初代民選千葉県知事 従四位勲三等 川口為之助先生之像」(→→→こちら)とありました。羽衣公園の由来となった羽衣の松(→→→こちら)です。千葉県の人口500万人突破の記念事業の一環で昭和60年3月に復元された松だそうです。松の前にあったは羽衣の松についての由来です。以下この説明板の引用です。羽衣の松(由来)「むかし、千葉の亥鼻(いのはな)城下に、千葉(せんよう)の花の咲きほこる池田の池という美しい池があり、その周辺は蓮の花盛りのころには、多くの見物人でにぎわっていた。いつのころからか静まりかえった夜半になると、ここに天女が舞いおり、かたわらの松の枝に羽衣を掛け、蓮の花の美しさに見入っていたという、この天女のうわさは、時の城主 平常将(たいらのつねまさ)の知るところとなり、常将は美しい天女を是非自分の妻にしたいと思い、家来に松にかけられている羽衣を隠すように命じた。羽衣を失った天女は天にかえることができず、常将の妻となり、やがて立派な男の子を生んだという。このはなしは、京の天皇のお耳にも達し、天皇の命により参内した常将がそれまでの事情をありのままに申し上げたところ、天皇は深く感銘され、これは前代未聞のことであるので、其方の地を千葉の蓮の花にあやかってこれから千葉と名乗れと仰せられた。常将はこの時から千葉氏を称したという、(「妙見実録千葉記」等の記録による)この羽衣公園は、このような伝説を秘め、県民の憩いの場として親しまれて来た。伝説中の池田の池は、この付近にあったといわれ、天女が、羽衣を掛けたという松は、この度、長い間、濃い緑を失わず、人々は千葉県の一つとして大切に愛護して来た。このたび、千葉県の人口500万人突破の、記念事業の一環としてここに羽衣の松を復元し、末長く後世に伝えることにした。」昭和60年3月 千葉県この松が、千葉の由来につながっているのですね。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その10) 羽衣公園
Jul 14, 2026
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千葉市立郷土博物館の4階は、原始と古代が紹介されています。縄文時代の出土品が展示されています。知らなかったのですが、千葉県は縄文時代の遺跡の密度が高いんだそうですね。こちらは弥生時代の出土品。こちらは古墳時代から平安時代にかけての出土品になるそうです。3階の展示になると中世になります。中世になると鎧や弓矢、馬の鞍など武士に関する展示が多くなりますね。鎌倉幕府の成立に関わった千葉氏に関する展示もありますよ。そして、戦国時代といえば、この火縄銃。2階は近世、近現代の展示です。千葉の海で使われていた実寸大の船の模型です。こちらは現代の都市となっていく千葉市の展示です。こちらのパネルは、近現代の千葉の歴史を説明するもので、画面をタッチすれば、みたいものが画面に表示されます。千葉市の歴史、しっかり学べました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その9) 猪鼻城は千葉市立郷土博物館Part2
Jul 13, 2026
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猪鼻城(→→→こちら)なかなか立派なお城です。通称は「千葉城」。千葉にも大名がいてこのような立派なお城があったのですね・・・。というのは、真っ赤なウソ。近世に千葉城は存在しません。また、千葉氏3代当主の千葉常胤の居城だったわけでもありません。そうですよね、千葉常胤は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将ですから。しかし亥鼻公園は猪鼻城跡になることは確からしいのですから、戦国時代にはここに猪鼻城と呼ばれるようなお城はあったようです。というとこの立派な天守のお城らしい建物は何かというと、「千葉市立郷土博物館」(→→→こちら)で、昭和42年に完成した観光施設を博物館にしたものだそうです。ちなみに千葉市立郷土博物館の使命(ミッション)は、歴史系博物館としての正当性を十分に確保したうえで、地域資源としての観光的な側面を併せ持ち、本市の過去を検証し未来へ繋げる都市アイデンティティ(千葉市らしさ)溢れる施設を目指します。とのことです。しかし、まあ歴史の正当性・・・ですかね?そして、見学は無料。流石は政令指定都市の千葉市です。ということで中に入ってみました。一階の展示物は、学校給食の歴史なのでしょうか。こちらは戦後間もない頃の学校給食。アルミのお椀に入った白いものは「脱脂粉乳」ですね。それでもカロリーとか、ビタミンとか栄養面はちゃんと配慮されていますね。こちらは、MoMo太郎が子供の頃の給食。ソフト麺とそれにかけて食べるカレー。学校給食のお陰でカレー好きになりました。こちらが、平成以降の学校給食。食器もきれいな模様がある陶器でしょうか。この給食ならカルシウムやカリウムとのミネラルに加えて、ガンバリウムも入っていて午後の授業も頑張れそう。こんな給食が食べられるなら、もう一度、小学校に通ってみたいです。順路としては、一気に5階までエレベーターで上がって、下に降りていくそうです。ということで天守から千葉の町を見下ろします。博物館のある亥鼻公園の北側からの眺めです。こちらは東側。左側にある大きな建物は多分、千葉大学医学部付属病院です。南側です。白い変わった屋根の建物は、千葉県文化会館です。南西の方角は、千葉港。煙突も沢山見えて、千葉市は工業地帯にある町ですね。西側の形式です。真ん中の高い建物は千葉県庁です。景色の紹介をしている案内板によれば、この方角に富士山が見えるそうですが、曇り空で見えませんでした。景色を観た後は、4階から展示物を見学します。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その8) 猪鼻城は千葉市立郷土博物館Part1
Jul 12, 2026
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亥鼻公園(いのはなこうえん)(→→→こちら)と猪鼻城(→→→こちら)がある亥鼻の丘に登って行きます。かって、城郭があった地らしく、この階段を登った丘になっています。階段を登り切って丘の上に出ると、天守閣のある立派なお城が、これが猪鼻城なんでしょうか?丘の突端の構造が猪の鼻に似ている、あるいは亥の方角(北北西)を向いていることから、亥鼻の名があるそうです。そして、亥鼻公園には石碑や銅像がありました。こちらにある石碑は、「千葉県殉難警察官之碑」です。こちらの石碑には、おそらく公務中に命を落とした警察職員の方々の名前なのでしょう。この中には成田空港に関連した三里塚闘争(→→→こちら)で亡くなられた3名の警察官の名前もあるのでしょうか?このような新左翼によるテロ行為がなければ、成田空港はもっと使いやすく便利になっていたかも知れませんね。仮に今日の日本の経済の停滞の一因に成田空港の整備が遅れたことがあるのなら、中核派をはじめとする新左翼の罪は重いと思います。こちらには二基の石碑が。こちらは原爆犠牲者慰霊塔です。1979(S54)建立、千葉県在住及び所縁の被爆者で亡くなった方を名簿登録(合祀)し奉納しているそうです。 「忘れない千葉空襲 平和祈念碑」です。721人の犠牲者の、番号・氏名を刻印されています。下段には、千葉市空襲の概要が記されていました。千葉市では、1945年5月8日、6月10日並びに7月7日に米軍による空襲があったそうで、約900人の市民の命が失われたそうです。そのうち氏名が判明された方々の名前が刻まれているそうです。わざわざ沖縄の辺野古まで行かなくっても、こういう石碑を訪れて由来を調べるだけでも十分に平和学習になるのではないでしょうか。こちらにあったのは、千葉開府850年記念碑です。大治元年(1126年)に、桓武天皇のひ孫である高望王の子の平良文の子孫、千葉常重が現在の亥鼻付近に本拠を移したことにより、千葉の町の繁栄が始まったとされています(→→→こちら)。ということで、今年千葉開府900年にあたるわけですね。「知ろう、愛そう、つくろう郷土千葉 千葉市長 荒木和成」という碑文が刻まれていました。確かに、郷土のことを知り愛することは大切なことですね。猪鼻城の前にあった騎馬武者の銅像。「飛躍」と題された千葉常胤の銅像です。市制80周年と政令都市移行10年記念して平成13年(2001年)に建立されたものです。千葉常胤は千葉常重の子で、治承4年(1180年)、石橋山の戦い(神奈川県小田原市)に敗れて安房に逃れて来た源頼朝のもとにいち早く参陣して、源平合戦や奥州合戦などにも参加し、鎌倉幕府の創設に大きく貢献しました。この功績によって千葉氏は上総国と下総国を中心に、東北から九州まで全国に20数カ所といわれた多数の所領を獲得し、幕府の中でも屈指の有力御家人に成長しまたそうです。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その7) 亥鼻公園
Jul 11, 2026
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都川を渡って、亥鼻城(千葉城)跡へ向かう所に、「お茶の水」という湧水井戸跡がありました。「千葉氏ゆかりの地 お茶の水」という千葉市教育委員会が建てた案内板がありました(→→→こちら)。この井戸にまつわる二つの伝承があるそうです。ひとつは、源頼朝が千葉城に立ち寄った際に、千葉常胤がこの井戸から水を汲んでお茶を進めたら、殊の外賞味されたのでこの名があるとする説。もう一つは、徳川家康が東金方面へ鷹狩りに向かう途中で千葉に泊まり、ここの水でたてたお茶を飲んだというものです。いずれにしても、征夷大将軍に因んだ井戸なんですね。とはいえ、今では井戸も枯れてしまっているようです。こちらにも記念碑が建てられていて、この記念碑には、治承4年(1180年)に鎌倉へ向かう途中の源頼朝が、千葉常胤がこの水でたてたお茶を差し上げたという説を示しています。しかし、よく考えてみれば、その時代にお茶を飲むという習慣が世間一般にも広がっていたのかどうか、ちょっと疑問ですね(→→→こちら)。お茶の水の背後にあったお堂です。これもなにか謂れがありそうなので撮影しておきました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その6) 千葉にもお茶の水
Jul 10, 2026
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千葉神社から、さらに国道126号を南に向かって歩いくと、窓のない大きな建築物がありました。ここが千葉市美術館(→→→こちら)です。美術館らしくイタリアの歴史的な建造物を思わせる入り口がありました。この美術館は、千葉空襲で焼け残った昭和2年(1927年)に建てられたネオ・ルネサンス様式の旧川崎銀行千葉支店という歴史的建造物を覆うように「さや堂」方式を用いて建てられたものだそうです。ということで、美術館への入り口はこちらのようです。この美術館の開館時間前にここ着いたので、絵画や美術品に人並みに興味があれば、開館時間まで待って見学したのでしょうが、まあ、先を急ぎました。さらに南に歩いて、都川に架かる大和橋を渡りました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その5) 千葉市美術館
Jul 9, 2026
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東千葉駅から国道126号を南に向かって歩いて行くと、千葉神社(→→→こちら)が見えてきました。千葉神社前の交差点にあったこちらのお店は、豆大福本舗「木村屋」(→→→こちら)です。昭和7年から続く、昔ながらの豆大福で有名な地元の名店だそうです。この千葉神社は、千葉氏(→→→こちら)の守護神である北辰妙見尊星王(妙見菩薩)を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立され、、明治2年(1869年)に千葉神社へと改称して以来、全国でも有数の北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰とを習合する神社となっています。というわけで、神社の前にある通町公園には、こちらの千葉 常胤(ちば つねたね)(→→→こちら)の胸像が設置されていました。千葉常胤は、桓武平氏良文流千葉氏の一族で、千葉氏第3代当主だった人物です。源頼朝の挙兵に協力し鎌倉幕府の御家人として重要な地位を占めるに至った武将です。そのような千葉氏の歴史がこの案内板に示されていました。こちらの鳥居の近くにあったのが、昭和天皇即位の御大礼の記念として昭和4年(1929年)に建立された左右一対の獅子児鍛錬像です。獅子が我が子を千尋の谷に突き落として鍛錬したと伝わる故実を題材とした唐獅子像です。こちらが神門ではなく、楼門型の分霊社「尊星殿」です。これは神社建築では余り例のない楼門と社殿の複合建築物となっています。千葉神社開創1000年奉祝事業として平成10年(1998年)に竣工したものです。分霊社「尊星殿」を通って境内に入ると正面に社殿が見えてきます。平成2年(1990年:開創990年)の「平成の大造営」に竣工したこの社殿は、重層社殿と呼ばれる形式で、拝殿が上下に二つある日本で唯一の様式だそうです。歴史のある神社にしては、新しい建築物だと思われるかもしれませんが、昭和20年(1945年)7月7日の七夕空襲によって千葉の街は戦火に見舞われ、千葉神社も現存する手水舎を残して灰燼に帰してしまいました。そこで崇敬者や氏子の皆さんの努力で、昭和29年(1954年)に木造の本殿が再建されました。新しい社殿の建立にあたり、その旧本殿が移築されたのが、こちらの千葉天神です。千葉県内最大の天神様のお社であり、受験合格祈願だけではなく、妙見様の御神力も同時にいただけるとされボケ封じを願う老年世代も多数お参りされているそうです。千葉天神の前にあるのが、こちらの泉です。石碑に彫られた「空験赫灼」の意味は不明ですが、赫灼(かくしゃく)というのは「光り輝いて明るいさま」のことですから、MoMo太郎的に解釈すれば、むなしさを経験することは光り輝くような未来を見えてきますということでしょうか。そして、こちら泉は「妙見延寿の井(みょうけんえんじゅのい)」といわれ、本殿での参拝後にこのお水を一口いただくと、福を増し、寿命を延ばすご利益があると伝えられているそうです。生水は身体によくないかもと思いながら、一口頂きました。さらに、こちらの石は亀石というそうです。妙見菩薩の神使とされる玄武(→→→こちら)は亀蛇合体像の形であることから、この亀石を撫でると福運があるということで、思う存分なでさせて頂きました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その4) 千葉神社
Jul 8, 2026
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千葉都市モノレールの車両です。高架といいながら、意外と低いなと感じました。千葉公園から総武線の下を抜けて、千葉市民会館の方へ出ると、石碑がありました。「ここに千葉駅ありき 千葉鉄道管理局長 浅井武」と刻まれた石碑です。1963年(昭和38年)に国鉄千葉駅が現在の地に移転するまで、この市民会館周辺に千葉駅がありました。千葉駅の移転は、千葉市の 戦災復興計画 の軸をなすものでした。駅が移転するまで、東京方面から内房・外房に向かう列車は、それまで千葉駅でスイッチバックをしていましたが、この移転により解消することになりました。移転前の様子は1952年(昭和27年)の国土地理院の地形図(→→→こちら)で確認することができます。地図の右下の隅っこに千葉駅があります。そして、移転以前の旧千葉駅構内の銚子側に国鉄の駅として1965年(昭和40年)12月20日にこちらの東千葉駅が新設されました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その3) 旧千葉駅跡地
Jul 7, 2026
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千葉公園(→→→こちら)の入り口に到着です。千葉公園は、千葉のセントラルパークとも呼ばれる約16haの総合公園です。同公園内には千葉公園野球場、千葉競輪場、プール、千葉公園体育館などの運動施設や綿打池(わたうちいけ)があります。江戸時代、千葉公園の辺りは、佐倉藩(堀田藩)領(千葉寺、寒川村)と旗本であった中山勘解由の領地(作草部村)との共同作業地になっていました。当時はヨシなどが生えた沼地湿地のようなところであったと言われています。明治41年(1908年)、大日本帝国陸軍は、この地に鉄道連隊を設けました。その後、大正7年10月(1918年)、津田沼に鉄道第二連隊ができるとともに名称が鉄道第一連隊と変わりました。鉄道第一連隊の兵士たちは、この辺一帯の演習作業場で、鉄道の保守、新設、修理をはじめ、敵地での鉄道の破壊訓練を行っていたそうです。戦後、その鉄道第一連隊跡地に千葉公園が整備されたそうです。そのような経緯を説明する色褪せた案内板がありました。こちらが綿打池です。朝が早かったせいか、営業してはいませんでしたが、貸しボートも楽しめます。こちらの小高い丘は鉄道第一連隊時代の遺構になる「荒木山」です。この丘では、連隊ラッパ手の訓練が行われ、「喇叭山(らっぱやま)」と呼ばれ親しまれていましたが、殉職した荒木大尉を悼む鉄道第一連隊の兵たちにより銅像が建立されたため、以後「荒木山」と呼ばれるようになったそうです。ちなみにその銅像は戦時中の物資欠乏により撤去されています。千葉公園の傍には、千葉都市モノレール(→→→こちら)が走っています。千葉のモノレールって懸垂式(→→→こちら)だったんですね。そして、こちらが大賀ハスの繁殖しているハス池です。平日で台風も接近しているような日ですが、多くの人が訪れていました。大賀蓮記念碑(→→→こちら)です。多くのハスが咲いています。向こうに見える建物は「蓮華亭(れんげてい)」で、公園内の無料休憩場所としても利用されている大賀ハスの展示資料館です。大賀ハスは、平成5年(1993年)に、千葉市が政令指定都市になったことなどを記念し「市の花」に制定されています。このハスの花は開花してからまだ間もないようです。ハスの花の真ん中に水がたまったのが面白かったです。こちらは、開花して日が経ってかなり開いていますね。ハス池から綿打池の方向を撮影してみました。このあたりが、バランスよく花が開いている状態ではないでしょうか。公園内では、アジサイも咲いていました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その2) 千葉公園の大賀ハス
Jul 6, 2026
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2026年6月20日(土)~28日(日)に千葉市にある千葉公園で「大賀ハスまつり」が開催されました。それに合わせて開催されているJR東日本が開催されている「駅からハイキング~大賀ハスと千葉市内の歴史を巡るハイキング」に参加してきまた。その報告です。スタートの千葉駅に到着しました。JR千葉駅は2016年11月20日に現在の駅舎となり、10周年を迎えたそうです。ということで広々として明るい構内になっています。千葉駅はJR東日本・千葉都市モノレールの駅です。総武線快速、中央総武線各駅停車、成田線、総武本線、外房線、内房線、千葉都市モノレール1号線、千葉都市モノレール2号線が乗り入ている一大ジャンクションおよびターミナル駅です。地上ホームはJR各路線の列車が発着し、高架になっているのは、千葉都市モノレールです。駅構内には、大賀(おおが)ハスが鉢に入れられて飾られていました。こちらのハスの花はまだ蕾の状態でした。大賀ハス(→→→こちら)とは、昭和26年(1951年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で、大賀一郎博士たち発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のことです。この大賀ハスが、千葉公園に分根されて植えられています。千葉駅から千葉公園に向かいます。まつりを盛り上げるためでしょうか、途中の住宅街にも幟が建てられていました。(千葉市内を巡るコース)【つづく】人気ブログランキング千葉市を巡る(その1) 大賀ハスを見に行く
Jul 5, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。こちらの学校は、新宿区立牛込第三中学校です。78周年を迎える歴史ある中学校ですが、その敷地の角にあったのは、「東京都立(府立)第四中学校の跡」という石碑が建てられていました。東京都立(府立)第四中学校というのは、現在の都立戸山高等学校(→→→こちら)の前身にあたる学校だそうです。碑文にはこのように記されていました。都立四中は明治二十一年九月私立補充中学校として麹町区飯田町に開校した後、共立中学校、東京府城北尋常中学校と改称、同三十四年四月東京府立第四中学校となる。同三十七年一月には牛込区市ヶ谷加賀町の此の地に木造二階建ての校舎が建ち、以来明治・大正・昭和前期にわたる深井鑑一郎 校長の薫陶の下で、礼を基底とした人間教育と学問の基礎の確立を通して、世に「天下の四中」の名を得るに至った。 時が移り第二次大戦の末期、昭和二十年三月十日および四月十三日の大空襲により明治以来の校舎、講堂その他建物一切は灰燼に帰し、さらには敗戦後、学制改革もあって、昭和二十二年、二十三年における旧制中学五年生の卒業を最後に、都立第四中学校は六十年にわたるその歴史の幕を下した。併し不易流行の校風は、都立戸山高等学校に受け継がれ現在に至っている。最後の卒業生となった昭和十七年入学者一同、四中終焉五十周年を記念して此の碑を建てる平成十年三月昭和十七年入学者一同またこの近くにあったのが、納戸町公園です。この公園は、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子(→→→こちら)が、明治29年(1896年)に渡欧するまで住んでいたところです。人気ブログランキング新宿彷徨(その102) 東京都立(府立)第四中学校の跡
Jul 4, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。こちらは令和3年(2021年)に開館した「市谷の杜 本と活字館」(→→→こちら)です。大正10年(1926年)に建てられた大日本印刷(秀英舎)市谷工場の営業所棟を再利用しているので、このような外観なんですね。もちろん、施設の運営は大日本印刷となっています。かつての印刷工場の光景を一部再現していて。文字の原図から活字の「母型」を彫り、鋳造し、活字を拾って版を組み、印刷・製本するまでの一連の設備や作業を見ることができます。こんなに沢山の活字があったんですね。入場無料ながら、かなり見応えのある展示がありました。人気ブログランキング新宿彷徨(その101) 市谷の杜 本と活字館
Jul 3, 2026
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新宿周辺を彷徨(さまよ)った記録を書いている「新宿彷徨」です。新宿区内をブラブラと散歩しながら、新宿区を紹介しているこのシリーズも気がつけば100回目になりました。新宿の町も掘り起こせば色々とあるものですね。さてこちらの建物が、JICA市ヶ谷ビルです。JICAというのは「独立行政法人国際協力機構」(→→→こちら)という政府開発援助(ODA)の実施機関の一つであり、開発途上地域等の経済及び社会の発展に寄与し、国際協力の促進に資することを目的とするという美名の下で、日本国民の血税を開発途上国にばら撒いている組織です。ちなみにここでは、JICAの国内最大規模の研修実施機関として、日本国内のさまざまな関係機関の皆さまの協力を得て、開発途上国・地域の行政関係者をはじめとする開発途上国・地域の将来 を担う人々に多くの研修を実施しているそうです。そして、もうひとつの目玉が、「JICA地球ひろば」(→→→こちら)という施設で、開発途上国の暮らしの現状や、地球が抱える課題、国際協力の実情などを、見て・聞いて・触って体験できる展示を開催しています。このような世界の民族衣装などがその内容です。また、2階にはJ’s Cafeというレストランがあって開発途上国のメニューを提供しているそうです。ディナーはありませんがランチタイムのみの営業です。入場は無料なので、海外、特に開発途上国に関心がある方は一度は訪れてみてはどうでしょうか。人気ブログランキング新宿彷徨(その100) 「JICA地球ひろば」
Jul 2, 2026
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今年の夏になって、初めて冷し中華を食べに日高屋へ行きました。冷し中華だげたと、やっぱり夏は乗り切れないと思い、餃子も頼みました。日高屋では、冷やし中華と呼ばす「黒酢しょうゆ冷し麺」と呼んでいます。餃子とセットで960円(税込み)。夏になると、なんとなく冷し中華に手が出てしまいますね。人気ブログランキングへ孤独のグルメ 今年初めての冷やし中華
Jul 1, 2026
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