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神の一線に立つ私たちマタイ福音書 二五章:二九節から四六節一九六〇年十二月十一日(日)前本部教会この時間、皆さんと共に考えるみ言の題目は「神の一線に立つ私たち」です。 絶対的な中心と関係を結べない被造世界 天地に中心がなくてはならないことを、私たちは切実に感じます。個人においても、自身の人格が誰にもあれこれ言われない、絶対的な思想や主義を中心にして保たれることを望むのです。家庭も同じことです。ある団体を見ても、その団体もやはりその中心と一つになって、中心が動けば共に動く闘争路程を経て、一つの目的に向かって行くのです。さらには国家も同じです。どんな力にも動かされない盤石のような中心を持つ国家なら、誰もその国家を呑み込むことができません。 この世界に生きる万民は、共に良心を持っています。歴史的に見ても、人間はこの良心を中心に善に従う生活をして、また新しい歴史を創造するために努力してきました。であるにもかかわらず、私たちは人間が悪の絆から脱することができず、生活の中で悪の追及によって苦しみを受けている実情を見るのです。それを見るとき、世界を動かしているある変わらない中心があって、その中心が人間を絶対的な一つの基準に連結させようとしていることを、私たちは否定することができません。 であるとしたら、小さな私個人から広がって大きなこの世界に至るまで、その中心に連結される形態と現象は各々違うとしても、原則的な方向は一致しなければなりません。そんな立場に私たち自身がおかれ、この世界がおかれていなければならないのです。 ですからこの地に生きる世界人類と宇宙は、変わろうにも変わることができない一つの不変の基台を得て場をしめてこそ、問題の解決点を見出すことができるのです。 世界がこのようになるなら、天地を創造された絶対者もそうなのです。被造世界は絶対者の理念が反映した世界であると見ることができます。それゆえこの被造世界は創造されたその主体と渾然一体となり、不変の中心と一つになり、永遠なる位置をつかんで天が良ければ良く、天が動ずれば動ずるのでなければなりません。被造世界がこのような一つの絶対的な不変の中心を求める日には、私たちの良心が位置をつかんで安息の基台を求め、考えもしないうちに結果的な目的を成して、喜ぶことができるのです。 それでは今日この世界、さらには天と地、即ち、天宙に存在するすべての個体々々が、不変の中心を得てその位置をつかみ、生活の路程においてその価値を現してしるでしょうか? そうはなっていないのです。極めて小さな分子を見ても、中心と相対的な関係を結んで存在しています。このような絶対的な原則は、誰も否定できないのです。絶対者が主体として被造物を創造されたなら、その主体となる絶対者と相対となる被造物は、離れるにも離れることができない不変の関係がなければならないことは、必然的な事実です。 最初から天地がこのようであったら、今日我々人間は苦しみの環境とは何らの関係もないのであり、不安と恐怖などという単語すら我々とは関係がなかったのです。歴史的な悲惨さや、凄惨は戦争や闘争史があるはずもなかったのです。であれば目的とするその価値を成して生き、目的とする価値が結実して、その価値と共に愉むことができる環境になるのです。また我々には限りなく平和で、限りなく自由な、理想世界が繰り広げられるのです。しかしそうではない現実に面している皆さん自身であり、家庭であり、社会、国家、世界なのです。 人間がおかれた実情と絶対者 摂理のみ旨を成してゆくに、涙の峠を避けられない悔しい事情があるのは、なぜでしょうか? それは人間が絶対者が指向する一つの位置を捉えることができず、変わることのないその位置で、変わることのない関係を結んでいないからです。それゆえこんな結果が生じたと、断定する他ありません。どんなに優れ、どんなに満天下に自身の名を上げて号令する者であっても、覆るときは彼も転落の運命なのです。ですから歴史路程で、民族を指導した中心、あるいは愛国者が、天を中心にこの世界人類のまえに善に近づく真理を表明した聖賢賢哲が多いとしても、彼らも歴史的な批判の対象になり、歴史の祭物となって消えていったのです。 それでは、私たちが持っている現在の主義や思想や観念、私たちが立てる生活の目標等はどんなものでしょう? それも変わることなく原則的な中心が現れるまでの、一つの過程的なものに過ぎないのです。過程的なものは一つに合わさることがないのです。 完全無欠な中心が立つときには、自分が持っているものを満天下に誇れば誇るほど、これがむしろ恥ずかしいことになると、知らねばなりません。天下を動かす成功者であるとしても、何かが波のように押し寄せ、心を揺り動かすことを感じてくるのです。これは、ある絶対的な一つの完全な存在、変わろうにも変わることのない明瞭な一つの核心存在がこの世界に浸透して、この時間にも動いているからなのです。良心的な善なる人々は、それに向かって前進しているのです。 皆さんは中心を失った人間です。これを宗教的な用語で言えば、堕落の報応というのです。怨痛で憤ろしい堕落の報応です。これは創造以後、堕落の歴史路程を経てきた我々の先祖たちも願わず、現在の人間も願わず、未来にも願わないことです。こんな恨みおおい汚点、恨みおおい堕落の報応によって、人類は四方に押し流され、こっちで倒れ、あっちで倒れ、こっちに追われあっちで分かれて、死の道を歩んできたのです。こんな中で生まれた人間ですから、苦しみであるのです。このような立場の我々であることを、知ってこそです。 それでは天が願わざる堕落が起こったのですが、これをどうするのか? もしもこれを解決してくださる神様でなかったら、とても悲しいことです。今日世界は左右両陣営に分かれて対決しているのですが、この歴史的な苦しみを解決できないでいます。私たちは一つの新しい世界を出産させるべき立場におかれているのですが、人間が空想して計画したそんな何かによっては不可能なのです。理念に傾き、思想に傾き、主義に傾いている我々の心を、駆り立てることはできません。我々は我々自ら、我々の体の細胞と神経を動員して力をつくして新しい園、新しい理念世界を目指して駆けることができません。このことは人間ならぬ絶対者、天宙の中心の価値を決定することのできる一人のお方を通してでなければ、解決することができません。 それゆえ有難いものは、この世のある主義ではなく、ある団体でもなく、ある指導者でもありません。こんな惨めな環境を解決することのできる方法を持つ、絶対者がおられるという事実です。中心を失って、故郷を失って、何ほどの価値も見出せない破滅した人類を、救援することができる神がおられるという事実以上に、有難いことがないのです。ですからある主義や思想を越えて、自身の人格と価値を越え、神を尊重しなければなりません。良心がある限り、これを否認することはできないのです。 私は誰のために存在しているのか ですから歴史は覆ってきたのです。左が右に、右が左に、先が後に、後が先に、上が下に、下が上になって、四方八方が逆になって来たのです。そうではありませんか? 皆さんの一日の生活もそんな生活として、一年もそうであり、一生も同じだというのです。家庭生活や社会生活も、このような環境において覆っているのです。 前後、左右、上下が逆になって変遷してきた歴史路程において、天は一つの解決点を求めているのです。私たちは誰のために生き、誰のための働くかが問題です。右の座に立たねばならないのに、悔しくも左になっている恨があったとしても、天のために存在する人間にならねばなりません。 倒れても倒れても、この作戦をしてこられた神がおられるという事実を、人間は知らないのです。ですから善を指向する人々、即ち道に従う善なる人々は、時代々々それぞれに残酷な目に遇ってきたのです。彼らは位置が変わるたびに肥やしにされ、時代が変わるたびに肥やしにされてきたのです。 時代の変遷に従って無念にも、多くの血と汗と涙を流しました。彼らは当時においては滅びる者であり、哀れな者であり、恨みを受けて当然の者として、民族の怨讐として消えたようであったのです。しかしながら彼らの目標、彼らの中心、彼らの生活感情は、むしろ一つの理念を求めて、摂理の中心に向かうことであり、さらには神に向かうことであったのです。このようなことを徹頭徹尾やってのけた人々が、歴史を覆してきたのです。滅びたような者が歴史を目覚めさせ、失敗したような者が歴史を収拾したことは、歴史路程が立証する事実なのです。 今日私たち自身は、どこにいるのか? どんなに中心をつかむことができない混乱した環境におかれても、どんな死の場に入っても、自分自身が誰のために存在するかを知らねばなりません。これを教えてあげたいのが神の心です。これを万民のまえに教えるために神は宗教の歴史を通して、メシアや救援思想を立てられるのです。ですから私たちは誰のための存在するのか? 天のために存在しなければなりません。死ぬのも天のため、生きるのも天のためです。このような者は、死しても死んだ者ではありません。 いずれ歴史は世紀々々、時代々々を経ていって覆り、壊されるのです。その時代にどんなに大きく成功したとしても、それが天地の中心と接することができず、神の目的と通じなかったら壊れてしまうのです。またその当時には壊されなくとも、時間的な差はあっても十年、百年でなければ何世紀後には、必ず壊されるのです。このように覆る歴史路程に処している皆さんなのです。 このような歴史路程に処している皆さんなので、どんなに家庭を抱き、子を抱いて愛したとしても、それもやはり一度は入れ替わるのです。六千年の歴史を経てきたのですが、その心情の中心はいつか一度は替わるのです。今まで人類の歴史路程において、生活を通した事情は年ごとに替わり、世紀ごとに替わり、時代ごとに替わってきたのです。全部が一度は替わってきたのです。終わりの日とはいかなる時か。心情的な中心が、人間自身も知らないで入れ替わる時が、終わりの日です。その時にはこの世の中の事は全部、入れ替わるのです。 今日までの人倫道徳は父母が子を愛し、子は父母に孝道をなし、夫婦に別あり、としなければなりませんでした。これは三綱五倫の礎石から今まできたのですが、これもやはり替わってくるのです。このように既存の慣習や規範などが自然的に替わる勢いが社会環境に、生活環境に浸透してくる日が終わりの日なのです。世界的な指導者、あるいはメシアがこの地上に現れるなら、このお方はこの問題を収拾しなければなりません。ですからイエスはこの地上に来て、誰よりもわたしを愛しなさいとされたのです。 それでは、異口同音に終わりの日と言うこの時に、皆さんは’自分が誰のために存在するのか’を知らねばなりません。皆さんは自分のために存在したら駄目なのです。国の為に、世界の為に存在しなければなりません。さらには、ある主義や思想を足場として、天と地の為に存在しなければなりません。天と地の為に存在するという、自負心を抱いて現れる群れとならねばなりません。 今日すべての宗教は’地’を怨讐としています。しかし’地’を怨讐としないで、一つの目的を果たす対象物としなければなりません。そうして天と地はわがのものであり、私は天と地の為に存在すると、自負できなければなりません。 絶対者がおられるとして、彼が立てる主義と思想、理念はどのようなものか? 天と地の為ということです。さらには神と人類の為に存在し、自らその価値を尊重視し、自らその位置を高く評価し、そうして自らその方向に徹頭徹向かって行ったと自負する群れが、この地に現れなければなりません。これを天は望み、これまでの人類もやはりこれを願っているのです。 第二次世界大戦以前までは、物を奪う闘いをし、それ以後今日までは人を奪う闘いをしてきたのですが、今お終いになって、神を奪いあう闘いが起こるのです。神を奪うために互いに私は三段で、あなたは二段(異端)だ、と主張するのです。 皆さん、昨日の新聞でも見たでしょうが、これからはこれよりもっと大きな問題が起こるのです。今まで天は宗教団体をそっとしてきたのですが、これからは世界的な思潮、世界的な運勢をぐるぐる渦巻きにさせるのです。動機的な立場に立って問題を解決するか、相対的な場に押しだして解決させるかされるのです。それゆえこれが成就するときまで、多くの宗派が壊されるのです。 神の摂理が終結するためには 人類歴史が一つの目的世界に向かってゆく過程で、数多くの民族が壊れて替わったのです。一つの帰結点を求めて立てようとされる神の摂理も、このような路程を経るのです。ここにおいて、最後に残って歴史を収拾する理念は、天の為、地の為、人類の為にという理念です。ですから人類を通し、神を通し、天地を通す心情基準を持って、自分の価値を天上天下に誇り、歌うことができる人々が出なければなりません。さらには地と天と神は我々のものであり、神は我々のアボジであり、私はそのお方の息子であると自信をもって言える群れが、出てこなければなりません。 今まで家庭を持ってみなかった神であり、国を持ってみなかった神であり、世界を動かしてみなかった神が、そんな個人を求めたらどんなに喜ばれるでしょうか? 神はその人間を中心に社会の基本となる家庭の形態を得て、その家庭を中心に社会を形成し、その社会を中心に民族を形成し、国家を立て、新しい主権世界に向かって出発することができるのです。 神様はこの地上にメシアを送り、彼を新郎として人類は彼の新婦であるとされました。これは何を意味するのか? 歴史路程において、神が最も捜し求めてこられた一番の基準が、アボジと息子・娘、即ち真の父母と真の息子・娘の基準を立てる歴史のペイジを記録するための、起点を立てることであることを、知らねばなりません。 今は精神を引き締める時です。自分が持っているものを、再び考えてみる時です。めししゃもじを握って、もう一度考えてみなければなりません。目前に見えるすべての万象に対して再批判して、自分の生活的なすべての条件を再収拾しなければなりません。天心を通して、どのようなものが正しく、間違っているかを冷徹に判断して決定し、正しいものは取り、間違ったものは切り捨てるのです。 最後の時に、このような事が起こらねばならないのです。誰のために? 自分のためではなく、神のために。神の為というとき、自分自身がそうなら自分を切って捨て、家庭がそうなら家庭を切って捨て、国家、民族、世界までも未練なく切って越えてゆくのです。自分自らが誤ったすべてのことを放棄し、変わることのない一つの中心と通じる位置と方向を得て、生活の中で目的の主体たる神の価値を唱うのでなければなりません。こんな人がいるなら、彼は人生行路において大勝利者です。人間はこのような過程を経てゆかねばならないのです。多くの人々が滅び、多くの民族が滅亡していっても、神の摂理のみ旨が終結するには、このような核心的な過程を経ていってこそです。 皆さんたちは星回りが良いのか運が良いのか、時代的な恵沢を受けて良い時代に生まれました。鞭打たれるにも直接打たれ、賞を受けるにも直接受け、話を聞くにも直接聞き、叱責されるにも直接聞くことができる時に生まれたのです。皆さんは韓民族、即ち韓国の民として生まれても、韓国の民としてのみではなく、世界を代身する民族という立場を離れることはできません。自分の民族のみのために、自分の国のみのために生きる時は過ぎ去ったのです。今は世界主義が台頭する時代です。互いに対決して闘争する過程では、一社会の主義や思想を越えて、それ以上の価値的な位置と方向をもって現れない限り、到底新しい時代に向かって行くことはできません。また支配された民族にはなっても、支配する民族にはなれないのです。 この地の上の人間たちは、今まで何を支配してきたのか? 物質を支配し、肉体を支配することに精力をつくして来ました。その反面、宗教は物質と肉体を切捨て、良心を支配して来ました。これが二つに分かれた歴史路程です。私たちは知らなくとも神は、歴史路程において良心的な歴史の因縁を広げていって、一つの中心理念を持つ存在を立て、人間が彼と一つなるという目的を持って来られたのです。今から二千年前、即ち、堕落以後四千年目に、良心の方向を失った人間たちのまえに息子のような、プラス的良心型として現れた人がイエス様です。彼は真の人、善なる人であったのです。 歴史の帰趨と求道の道 それではこの歴史は、どのようになるのか。何を中心にして帰結するのか。物質と肉体を中心とした歴史的な観や理念、主義や思想は世界の基盤になることはできません。世の因縁を断ち切って、良心に従って善を指向してゆく人々、即ち、求道の道を行く人々が世界の基盤になることができるのです。彼らの行く姿は惨めです。哀れです。顔を見ても境遇を見ても、哀れな人々です。彼らが行く道は寂寞閑散としています。その道には家族も付いてきません。独り、独り行く道です。一度行けば、二度とは行けなこです。この道でみ旨が果たせなければ、倒れて滅んでしまう道です。求道の道はそうだというのです。 私たちがイスラエルの歴史を参考にして見ても、その道を行ったら再び帰って来ることができなこであると知るのです。帰って来る日は死です。イスラエル民族がエジプトのパロ宮中を喜んで脱出して、荒れ野に向かって力強く駆けてゆく時には、言葉にもならない希望と所望に溢れていたのですが、その道は悲惨な道だったのです。風呂敷も持たずに行く道であり、安らかに眠れる布団一つも持って行けなこだったのです。すべてが放り出されて行く道です。その道は飢える道であり、渇く道であり、よそ者の道であり、ぼろをまとう道であり、病んで倒れる死の道であったのです。今日までの人類歴史路程を経てくる間、道を愛する数多くの人々はそんな道を歩んで来たのです。その道は愛する息子・娘を捨てて行く道であり、天的な因縁をもって死んでもその道で死ぬ道、一生を懸けて行かなければならなこです。 骨肉をえぐるような痛みに涙を流しても、愛する家族をおいて背を向けて行かねばならぬ運命の道です。だからといって、この道を行くにおいて明瞭な目的があるわけではないのです。漠然とした道です。求道の道を求めてさまよう人、真に哀れです。同時にこのような道を求める家庭も哀れです。このような民族があるなら、この民族もまた哀れです。 天に直接背反したのもイスラエル民族であり、天のことを台無しにしたのもイスラエル民族です。哀れな民族です。唯一神の理念を持ち、どこへ行ってもその中心だけは忘れてはならない彼らは、行く所々で虐殺され、虐待され、今まで流浪孤客の身でした。哀れな歴史路程です。天の歴史がこうであることを、私たちは知らねばなりません。この道は二人で行けないのです。ただ独りで行かなければならなこです。 こんな歴史路程で、世は世として、天は天として行くということではありません。個人を立て、家庭を立てたとする基準を立て、この個人を再び率いて送り出さなければなりません。四千年の間こんな道を行った人々、その全体の価値を代身して送られた一人のお方が、まさにメシアです。そのお方がメシアなのです。このメシアは、我々の先祖たちが流した血の結実体、犠牲の結実体、苦労の結実体、涙の結実体、汗の結実体なのです。また先祖たちの復活体であり、怨讐を打って先祖の恨を解くべき中心存在であり、カナンの約束を受け継ぐお方なのです。 神人平等の時代が来なければ 今日の世界は、肉体と物質のために闘う世界です。どんなに経済学、科学、思想が発達したとしても、それが我々人類に平和をもたらすことはありません。それをもっては駄目なのです。心の世界に入って、この肉体と物質を再鑑別させるある主義か、天的な動きが歴史的な終末時代に現れない限り、この世界は滅んでしまうのです。今天が必ず一つの中心を決定すべき、最後の時代に逢着したのです。このような時代に生きる私たちは、この多くの問題をどのような立場で解決し、精算するのか? この問題が世界的に起こり、二つの思潮として現れるのですが、その一つが唯物史観であり、他が唯心史観です。さっと分かれてきたのです。地と共に、肉体と共にゆくなら滅びるのです。ですから神と共に、精算しなければなりません。 ここにおいて我々が提唱すべきことは心なのですが、この心の主体が誰か? これを持ち出さなければなりません。心の主体は神です。しかし漠然とした神様ではありません。 神を主とする時が来たのです。数千年の歴史路程を経てきたのですが、神を主とする主義、思想がいつ現れたでしょうか。出て来なかったのです。どの民族、どの国家の理念や主義思想も、神を主とする主張はしなかったのです。影のように漠然としているのが、今の民主主義です。これからは人権擁護の時代を越えて、男女平等権を主張する時代を越えて、神権を擁護して、神と我々人間が平等であるという場まで行かなければなりません。今まで神が、神の役目をしてみなかったのです。 神が神の役目をしたみないというのは、何でしょうか? 神と人間が平等の場に入っていないということです。誤ったことです。神権が擁護されなければなりません。神権を擁護するのです。私たちは創られた主体とは何らの関係も結んでいない、接するにも接することができない立場にありながら、何が平等で、何の自由でしょうか? 神と平等の立場に行かねばなりません。その場に行くには涙なしにはならず、痛悔して胸を打たなければなりません。神を正しく見ない立場を越えて、自由と平等を歌い’わがアボジ’といえば’おお ’とされる場に行かねばなりせん。イエスが復活して後、マクダラのマリアが抱きつこうとした時に’触れてはならない’とされたのは未だ時が来ていなかったからです。終わりの日には、神が愛の手をのべて’わが息子・娘よ’と万民を抱かれる時です。ですから神権擁護を叫び、神人平等を叫ばなければなりせん。こうして神と人間が一つになって自由の天地で歌う時に、神の復帰歴史も終わるのです。我々人類の所望も、すべて成るのです。 今まで人間たちは、そのために神が動いて来られたことを知らずに、眠ってばかりいたのです。自分の子女を愛して生きてはいても、そんな人間を眺めて涙ぐむ神がおられることを知らなかったのです。人間は平和らしい家庭、自由らしい家庭を歌っているのに、神は涙を流して来られたのです。’おまえたちはわたしの息子・娘なのに、怨讐の家庭に入って、平和を歌っているのだよ、怨讐の祭物になっているのだよ’と涙ぐんでおられるのです。天までとどく怨讐サタンの懐に抱かれる道であるのも知らず、自分の子女を抱いて生きる群れを眺めるとき、狂わんばかりであったのです。このようなことを、誰が知るでしょうか? 神の願いと中心人物たちが歩んだ道 言葉もなく真を求め、黙々と善を求めていった我々の先祖たちは、人生を通してただ一念、神が喜ぶ所望の一日を苦待したのですが、終わりの日というこの時まで、その一日を迎えることができなかったのです。この一日を成すお方に逢うことができず、侍ることができなければ、人類はどうなるのでしょうか? これを考えるとき、私たちは新たに覚醒しなければなりません。新しい覚悟と、決意をしなければなりません。憤り怨痛なる神がおられ、惨めで哀れな私たちの兄弟がおり、神が成そうとされた一つの主権と理念が立たない怨痛なることが残っている事実を、知らねばなりません。道を求める人々は、みな家庭を持たなかったのです。すべてがよそ者で、裸でした。哀れな群れです。どこへ行っても一晩も安らかに休むことができなこを歩んだ人々が、いわゆる神を父と呼んできた人たちです。怨痛、怨痛なることです。 昔、ノアも怨痛でした。アブラハムも怨痛でした。また曲折は知らず、その事情は知らなくとも、その曲折と事情の対象者として選ばれた者たちも、やはり怨痛なる路程を歩んだのです。神の為という一念であったヤコブも、ハランに向かって行くとき、石を枕に涙する路程を経たのです。怨痛なることです。モ-セも同じです。豪華絢爛たる外的なすべてのものを備えるパロ宮中のもろもろの条件が、彼の心情に平和と幸福をもたらすことなく、満足を与えなかったのです。彼がおかれた場は、怨讐の場所であったのです。ですから一片丹心、天のまえに膝を屈し、人知れぬ涙を流す祈祷を止めないモ-セであったことを、皆さん知らねばなりません。 モ-セの天に向かう心が懇切であり、わき起こってふきあがり、遂には宮中を蹴飛ばして出たのです。天が許される時を苦待したモ-セは、世の中を察すること、前後をわきまえることができる年齢、四〇才になった時にイスラエル民族に向かって、宮中を蹴飛ばして出たのでした。彼がゆく道は、どんな道でしょうか? 豪華に三食をたべ、絢爛に着飾った彼が、一着の服と一足の履物で一片丹心、目的に向かう輝く忠節の心に染みて、苦役に虐げられる哀れなイスラエル民族を訪ねたのでした。このようなモ-セの歩みが悲惨であったことを、皆さんは知らねばなりません。 ではモ-セの四〇年の人生も怨痛ではありますが、イスラエル民族から背反を受けたことは、もっと怨痛なことでした。こうして怨讐の国エジプトにも留まることができず、ミデアンの荒野へと去ったモ-セの哀しみを、私たちは考えでみなければなりません。しかし環境が変わり、自分の体が見るも無残になったとしても、彼の一片丹心は変わらなかったのです。自分が行く道が歴史的な祭物の道であり、道人たちが越えて行った歴史的な路程であることを知るモ-セは、歴史的な道を行く民族の友となるために骨折り、未来の数多くの人間が行くべき求道の道を開拓する責任者の立場で、四〇年間羊飼の牧者生活をしたのです。 眺めやる草原地帯をカナンの地と見たて、草を食んでいる羊をイスラエル民族と思い、羊を抱えて泣いたモ-セであったことを、知らねばなりません。その地を抱き、羊を抱えて’神よ’と涙するモ-セを見やる神は、モ-セのその心情の土台が祝福できるところであったので、’おまえの立つ所は貴い地であるから、おまえの靴を脱げ’とされて訪ねて来られたのです。哀れな場にあっても、懇切な心に染みる位置がモ-セの心情であったので、神と因縁を結んだのです。神の為の道がこのように怨痛なる道であることを、私たちは知りました。この道はただ単に、モ-セのみが行った道ではないのです。 無念で怨痛なる道を行くべき聖徒 イスラエル民族史を収拾して、神の恨を解くために四千年の結実体として、メシアとして送られたイエスの心は一面では喜びですが、地上に来た彼の境遇は悲しく怨痛であったのです。彼はどうして他の人のように民族を得なかったのでしょうか? どうして権勢を持って生まれなかったのでしょうか? それは必然的な蕩減の路程を行かなければならないからです。これをご存じの神は憤りつつもイエスを十字架に送り、聖霊をこの地上に一つの中心として送ったのです。地は母の象徴ですから昇天したイエスの代身の、母神が来なければなりません。それでこの地上に来て祭壇を積んで涙を流し、人間と母子の因縁をもってきたのが、今までのキリスト教の歴史です。悔しく憤ろしいことです。無念なことです。 希望の一日を苦待して六千年の歴史路程を孤児のように、よそ者のように、ぼろをまとって喘ぐ群れが、キリスト教の信者です。いつの一日も平安に眠ることができなかった群れが、キリスト教の信者です。 自分が優れていて君は駄目だ、といってイスラエル民族は荒野でカラスの餌になり、禿げ鷹の餌になったのです。このような事を考えてみるとき、今日私たちは覚醒しなければなりません。覚醒して怨痛なる歴史上の事実を、我々が我々の時代に解怨するのです。すべての精力を注ぐのです。民主社会を論議して、神があると主張する世界の思潮のまえに我々は祭物にならなければなりません。 この時代に、天の福を受ける者は誰か? 安楽に眠る者ではありません。天が未だに安息されずにいるという事実を知るなら、私たちがここに安息することはできません。この世界のまえに怨痛なる道を行く群れは、この世界を支配することができるのです。怨痛でなければなりません。誰のために怨痛でなければならないのか? 自分自身のためではなく、神の為に怨痛でなければならないのです。終わりの日は怨恨を解く時です。 神様は愛したいその愛の心情を分け与えられずに怨痛であり、ご自身が立てようとされる民を立てられずに怨痛であり、ご自身が求めようとされる家庭を求められずに怨痛であるのです。私たちはかように怨痛なる神を思い、染みる心情で世界に向かい、のろしを挙げて行く群れにならなければなりません。このような群れが現れることを、神は願っているのです。 歴史は東西が一つの終結点をつけるためにぶつかり、回っているのです。ここにおいて倒れることなく、凄まじい渦巻きの中心に突きでて’神よ! あなたの悲しみと苦しみと恨の路程に、私を送ってください’とすることのできる群れ、荒野で羊を飼ったモ-セのような気概を持つ群れが出ることを、神は苦待されるのです。カルデアのウルで神様に忠誠であったアブラハムのような人の群れ、ハランで二一年の間、神に対して準備したヤコブのような人の群れを、神は苦待されるのです。きっとこんな群れが出なければなりません。 皆さん、今日涙をこぼして落胆しないでください。血と汗を流す恨があったとしても、落胆しないでください。世界の運命は今こそ、生死を決定する時に来ているのです。このような時に、皆さんはどこへ行くのですか? パロ宮中に留まるのですか? 我々が生きるここは、我々の故郷ではありません。きっと行くべき故郷があるのです。我々の先祖、アダムとエバから怨讐までも、ハレルヤとすることができる本郷があるのです。その本郷へ行くべき道が残っていることを、皆さんは知らねばなりません。これを残してゆく者は滅びるのです。滅びます。 心情で装うべき私たち 皆さん! 自分自身を明らかにするのです。自分自身を再分析するのです。自分自身を注視して、私の血は誰の血か、私の皺のかたまりは誰のものか、私の骨は誰の骨かを、知らねばなりません。’手よ、おまえは神様が握られる手だ。体よ、おまえが倒れる日に、万民が嘲弄したとしても、神様は抱いて涙されるのだ’と自任する皆さんでなければなりません。肉が裂けて鞭打たれ、鉄窓に閉じ込められる恨があっても、神様が鉄窓の間から手を差しのべ’わが息子よ! ’とされる人間になるのです。歴史的な思潮を越えてゆくなら、きっとこうでなければなりません。 時は来るのです。時を待つ私たちも急くのですが、時を求める神はさらに急いておられることを知らねばなりません。耐えきれずに倒れる人よりも、その場を解決できずに忍耐の場におられる神の心が、さらに焦燥であることを皆さんは知らねばなりません。 この話をここに立つ若い人の言葉とのみ思わないで、論理的な論拠を立ててそのような面に立脚して批判し、判断してみてください。今までのものと異なる何かがあってこそ、人類は再び生きることができるのです。その何かがなければ、滅んでしまうのです。生きたいままに生きてみなさい。いい加減にやって、幸福の基がなったように生きてみなさいというのです。滅ぶのです。アブラハムが取って神の前に捧げた祭物の死体の上に、いきなりカラスが降りて来ることを、誰が知っていたでしょうか。永遠無窮の平和の王宮を建設して生きることが、たやすいことだと思いますか? 決してたやすいことではありません。 今の時がこのような世界を成すべき時ですから、モ-セが身支度をし、アブラハムが身支度をし、ヤコブが身支度をし、イエスが身支度をしたように、我々も身支度をして出なければなりません。何のために? 自分の国の為ではなく、世界の為に、さらには天の為に、身支度をしなければなりません。 新郎を迎えるべき新婦たちよ! 貴方たちは内外共に装備して、装わなければばなりません。装うときは物でするのではありません。心情で装いをしなければなりません。人類の心情、神の心情、主の心情で装うのです。天の心情が自分の動機となって、地の心情が自分の結果になるのですから、わたしはアルパでオメガ的な、心情の結実体としての装いをしなければなりません。こうして神が遠くで見つめておられた歴史を引き寄せて近くで見ることができ、希望を求めた人類が、今までのどんな主義や思想もすべて捨てて’あなたは世界を与えても取り替えられません’とする人間が、この地上に現れない限り世界は滅ぶのです。これは空論ではありません。 今は生死が逆転する最後の時です。神の一線途上に立って、最後の決判をつけなければならず、勝敗を決定すべき時です。即ち、今私たちは神の一線に立っているのです。それではこの闘いは、どんな闘いでしょうか? 物質的、外的な闘いではありません。心の闘い、心情の闘いなのです。この心情には怨讐が多いのです。外的に現れる世の中のすべてのものが怨讐です。(停電により十秒ほど録音されていない) 神の一線とその一線を成した目的 サタンを咎め、讒訴し、呪咀し、試験したいすべての条件を懸けて闘う人間、一二〇年間ノアは数多くの怨讐の群れと、ただ独り闘ったのです。数多くの怨讐に対し、独りで闘ったのです。槍で闘ったのではなく、心で闘ったのです。怨讐たちの槍に体をやられるのではなく、心を突かれたのです。アダム以後一、六〇〇年間、痛手を負う神を代身して、心に傷を受けてきたのです。こうして彼は神が同情される立場に立ったので、神は彼を訪ねて来られたのです。そんな後にも一、六〇〇年間苦労された神の一線を敵に奪われず、その箱舟の告知を奪われなかったので、神はこれを中心に天使を動員して、洪水審判をすることができたのです。 こうしてわずかに神のみが取ることができる最前線に、ノアの箱舟を立てたのですが、ここに再びサタンの一線が生じたので、神の心情はどうだったでしょうか? 一、六〇〇年間無念に攻撃され、サタンの矢を受けなければならなかった事実をすべて整理して、一つの勝利的な一線を得て平和の園を立てるべきノアの家庭に、再びサタンの一線が生じたことは、あまりに怨痛なことです。 ハムの失敗は個人的な失敗につきるのではなく、歴史的は失敗であり、ノアの憤激は家庭的な憤激ではなく、天宙的な憤激であったのです。ところがこのような事実を、ハムは知らなかったのです。一個人として選び立てられたノアも、自分がこのように大きく用いられ、このように大きな価値の存在であることを知らなかったのです。地をすべて審判して、数多くの民族を魚の餌にしてしまっても、ノアの八人の食口だけは生かされた神のこの上ない愛を、彼らは知らなかったのです。 ノアの八人の食口がいる所は、神の愛の一線でした。神の愛の一線ですよ。ですから、ハムの失敗がそのように大きな恨をもたらしたのです。神の愛の一線が侵犯されたので、神は侵犯されたその所にはおられないので、彼らを再びサタンに渡し、四〇〇年間この民族を抱えて、無念さをこらえてきたのです。 こうして二千年目に、アブラハムを選び立てたのです。かろうじて立てた神の一線に、神の代身の人間を立て、人間をしてサタンを屈伏させようとされたことが、神のみ旨なのです。それで神はアブラハムを立て、以後イサク、ヤコブ三代を経て、かろうじて人間に対する作戦開始をする足場を立てられたのです。こうして初めてヤコブの時に至って、地上の神を代身する家庭を動かせる参謀を立てたのです。ヤコブ家庭が神の一線になったのです。 このように個人を経て、家庭を経て、民族に至って捜し立てたモ-セは誰で、イスラエル民族はどんな民族でしょうか? モ-セは神の一線の参謀総長であり、モ-セに従ったイスラエル民族は神の一線を守べき精兵たちであったのです。ところがイスラエル民族は行軍ラッパを鳴らして戦えという神の命令を聞かず、必死に叫ぶ参謀総長モ-セの言葉を拒否したのでした。こうして悲しみの祭物として、寂しい荒野に埋められたという悔しい事実を、私たちは知らねばなりません。 民族を捜し立てられた神は、サタンを民族に任せて眺め、ご自身は闘われないとされたのです。ところが民族が責任を果たさないので、神が加担されて再び歴史を率いて来られたのです。サタンとの闘いの一線に神が加担されることなく、人間たちだけが集まってサタンの都城を打ち破り、一つの世界を成そうとされることが神のみ旨なのです。ですからイスラエル民族は、神が共におられると、その権限をもってするのではなく、最も哀れな民族の立場に立たなければならなかったのです。民族を指導するには、その民族の最も哀れな立場に立たねばなりません。サタン世界を指導するには、サタン世界の末に立たねばなりません。神はモ-セを民族の責任者として立て、彼が最も哀れな場でご自身の心情を現すことを期待されたのです。 一、六〇〇年の歴史を率いてノアの時を迎えた神は、初めてノアを立てたのです。次には家庭を立て、民族を立てた後、イスラエルの国を立てたのです。このようにして神は、個人の一線を失わず、家庭の一線、民族の一線、国家の一線を失わないという位置におられなければならないのです。ですから神は、加重された苦しみを受けるのです。民族が責任を果たさないとき、神のまえに家庭の責任がプラスされ、個人の責任がプラスされるのです。 神がイエスをこの地上に送られたことは、地上の人間によって神の一線に責任を負い、霊的な闘いを実体的な闘いにするためであったのです。ところが地上の人間たちがイエスを殺すことによってイエスと聖霊が分かれて、今まで霊的な闘いが続いてきたのですが、肉の闘いまで加重されて来たのです。それで肉を打てというのです。この肉身の中にサタンがうごめいているので、打てというのです。怨痛なることです。 最後の一線 それ以後二千年が経過して、終わりの日になったのです。キリスト教徒を動員して神が動かれ、新しい第二のイスラエルを立て、新しい時代に向かって越えてゆくべき時が来たのです。イスラエル民族はイエスのみ言を通して、天国を建設する天の側の選民になるべきであったのですが、その時代を逸してしまったのです。それで国家の苦しみ、民族の苦しみ、家庭の苦しみ、個人の苦しみを、神とイエスと聖霊、即ち三位神が負うのです。今まで三位神がこの地上の悔しい者の父、迫害される群れの主人であったのですが、これがどんに哀れで、怨痛なる事実でしょうか? 皆さんはお父様に福を願いますが、まずそのお父様が、どのようなアボジであるかを知り、信じる主がどのような主であるかを知り、信じる聖霊がどのような聖霊であるかを知らねばなりません。それを知るなら自分の手に傷があったとしても’神よ、これを治してください’と祈祷することができないのであり、鞭打たれて倒れるとしても、神に許諾の祈祷をし難いのです。 世界的な終末の時代に神は再び歴史的な運命と共に、勝利の基準を立てる最後の天的な一線を捜し立てなければなりません。このような時に私たちは、世界人類のまえにのろしを挙げ、’全世界に広がるキリスト教徒よ! 道人たちよ! 団結せよ、良心ある人は動員されよ’というプラカ-ドを掲げなければなりません。我々が神の精兵として一線の高地に登り、サタンとの最後の決戦場に立つべき時が近づいてのです。有難くも感謝です。一面、憤り無念で怨痛ではありますが、これに責任を負って怨讐に仇を打つ時が来たのは有難いことです。今がまさにそんな時です。歴史的にこのような時なのです。 天は皆さん個々人に’某よ、あなたは第二イスラエルの天民として、この地上の怨讐を占領して勝利の地と、勝利の民を得ているか?’と問われるのです。今がそんな時です。自分は優れておまえは劣っていると、争っている時ではありません。全世界の宗教人が動員され、イスラエルの隊列を捜すべき時です。 それでは、どのような観に立つべきか? すでにお話したように、私は誰のものであり誰の為にいるのか? 私の目、私のすべての感覚機関は、誰の為にあるのか? 肉体は怨讐であり、心は天です。皆さんは悪の一線なのです。これが縦的に個人から家庭、社会、国家、世界まで展開されてきたのです。今は皆さんがこのように縦的に下ってきたことを横的に展開させて、昔のノアのような場に立たねばならず、アブラハム、ヤコブ、モ-セとヨシュアとカレブのような場に立たねばならず、さらにはイエスのような場に立つべき時なのです。皆さん、このような場に立っていますか? こんな時が来たのです。間違いありません。皆さんは固く決心しなければなりません。この言葉は、ここにいる人間の言葉ではありません。 多くの恨を抱いてきた韓国民族! この民族は’飢えよ、ぼろをまとえ、裸になれ’という聖書のみ言のように、皆なったのです。昔、天の為に出ていった人々がそうでした。この終末の時に、世界的なイスラエルを建設しようとされる神のみ旨があるなら、この最後の時代に、追われ突かれる祭物的な国家が現れなければなりません。飢えて呻く声が聞こえなければならない時が来たのです。のどの渇きに溜め息をついて泣く声が、聞こえなければならない時が来たのです。留まる所もなく、裸の身の上となった民族が出なければなりません。今我々の民族が、そうではないでしょうか? 我々は裸です。ですから物乞いをして食べるしかないでしょう? 飢えて病んでいます。そして閉じ込められているのです。地域的にそうでしょう。 天上に神がおられてこれをご覧になるなら、時代的な気運に従って、こんな民族を世界のまえに天の精兵として立てられるのです。このような運命の前に立つ三千万民族は、どんな姿になるべきか? 極めて小さな者であっても、神の血のにじむ心情を抱いて涙を流し、神の心情と共に動く哀れな孝子の姿、孝女の姿、忠臣の姿となって、神が抱いて慟哭される民族にならねばなりません。であれば、この民族は生きる道があるのです。 皆さん! 落胆しないでください。私たちがぼろをまとっているのは、私たちのためではありません。私たちが飢えているのも、渇いているのも、よそ者になっていることも、病んでいるのも、私たちのためではありません。それは世界の為なのです。このような立場にいるこの民族に、ただ一つの道があるのです。食べられないと泣かないのです。ぼろをまとっていると泣かないのです。病んでいると溜め息をつかず、閉じ込められていると落胆しないのです。六千年の歴史路程において、神のみ旨と善を捜し求めてきた人々の歩みがそうであり、堕落したその日から今まで、神もやはりこのような歴史を経て苦労されてきたのです。ですからこの三千万民族は、六千年の歴史路程の上につけられた神の悲しみの足跡を取り除き、慰労して差し上げる神の民にならなければなりません。 民族的に神を抱いて、我々のアボジの国の為に、我々のお父様が臨在される道を築くために、我々のお父様が住まわれる家を造るために、我々のお父様が行幸される国土を装うために、飢えても動くならばその栄光がどれほど大きいでしょうか? 飢えて渇くこの事情をもって、アボジの基台を開拓しなければなりません。我々が言うこともできない惨めな裸の姿であったとしても、この裸以上に苦しみの道を歩み、息子・娘を捜し求めておられるアボジを案じ、自分の身の上を忘れ、アボジの為ならと苦労する群れにならなければなりません。朽ちてゆく死亡世界を見やって苦しまれる神の心情を慰労してあげ、神の痛みと苦しみを和らげることのできる皆さんにならねばなりません。そうであったなら、絶対に滅びることはないのです。 統一信徒の皆さん! ここで語る人間は、ある一教派を主張したいのではありません。教派の看板が問題ではありません。うまくいくか、いかないかが問題ではなく、知るか知らぬかという唯識と無識が問題ではありません。問題はただ一つ、神のまえに捧げる供え物があるかということです。この供え物を準備するために、天のお父様のひもじい事情を知って、涙を流して飢える場であっても、神様にパンの一片でももてなす皆さんになり、渇く場であっても飲みたい一口の水を、神様にもてなす皆さんになり、裸になって一着しかない着物も売って神様に捧げ、病床にあっても神の苦痛を代身して喘ぐ皆さんになり、捕らわれの不自由な身であっても、神を代身して苦痛を受ける皆さんにならねばなりません。 天のお父様はこの民族に訪れるとして、その中でもどんな者を捜しておられるでしょうか? 飢える者を捜すのです。食べて踊る豪華絢爛なる場にいる者のアボジとして訪れるのではなく、飢える者の父として訪れるのです。ですから私たちは、飢える者でなければなりません。渇く者に訪ねるのです。それはご自身がそんな歴史路程をたどって来られたからです。裸を訪れるのです。ですから皆さんは、裸の場を経て行くのです。捕らわれの者に訪れるのです。病身の者に訪れるのです。そのような所に、神の心情が留まるからです。これを知らねばなりません。本心、天心を中心に、人類愛に喘ぐお父様なのです。 私はこの民族がそうであることを願い、我々の教団がそうであることを願い、我々教徒がそうであることを願うのです。一面から見れば、残忍な師であり、残忍な責任者であるかも知れませんが、天的な原則から見るとき、皆さんをこのような場に追い立てる立場ですから、この責任を果たさなければ人類すべてに災いが及ぶので、そうする他はないのです。皆さんはこれを知らなければなりません。 神の一線に立って戦勝兵となれ このように追いこむ目的が、何でしょうか? 自分一人が良く生きるためではありません。天国建設のための路程において、神の一線途上で勝利の精兵として凱旋歌を歌い、神のまえに栄光をお捧げするためなのです。私たちが行かなければ神が自ら行かれるなら、行かない訳にいかないのです。 自分の命が惜しくてこの道を戻る者がいるなら、彼は殉教して天上に行った数千万の天の食口の怨讐になるのです。彼らが鬱憤晴らしをすれば、怨讐に対してするのではなく、そこに追い込む者に対して鬱憤晴らしをするのです。ですから行かないとしても行かざるを得なこです。 ’私は天の祭物として天のお父様の懐に安らぎ、神と共に赤い血を流して神の一線に立つ精兵として、同志の手を握り、足を握り、体を抱いて涙し、血を見て涙する死の場であっても行きます’と決心する人間がいるなら、彼は世界を支配するのです。神を自分のアボジとして侍り、天のまえに忠心をつくす人間がいるなら、彼は新しい歴史の第一ペ-ジに記録される使徒になることを、知らねばなりません。 我々の赤い血は我々のの知らない間にも、寝ても覚めても行く道を促しているのです。人間は行くべき運命から抜けることができない存在であり、どうせ一度は生死の問題を解決すべき存在です。ですからどこへ行くかを、決定しなければなりません。私たちはペクマゴジの熾烈なる戦闘が、高く評価されていることを知っています。それは歴史に記録され、それぞれ残っているのです。今は天国建設のためにペクマゴジで倒れた精兵たちのような、祭物が必要な時です。皆さん! どうせ死んで一握りの土になる体であり、共同墓地の何坪かを埋める体です。 歴史の恨を体に担う皆さんが、残る最後の歴史を締め括り、新しい歴史を敷かなければなりません。天が長らく抱いて納める天的な闘争歴史の遺業を我々が相続して、これまでの九九回の戦いに失敗したとしても、残る一度の戦いに勝利を納めなければなりません。今までの敗北の怨みを洗い流して、歴史的な勝利を誇るサタンを打ち砕いて降伏させ、神のまえに栄光をお返しするのです。このような皆さんになるべきことを、よくよく知らねばなりせん。 皆さんが対している環境が、戦いの場です。皆さんが食べるごはんの一杯も、自分が着ている服の一着も、皆さんが見ている天下万象すべてのものが、戦いの条件に懸かっているのです。そのすべてが皆さんの手を通して、戦いの嘆息から解怨される一日を苦待していることを知り、どうか神の一線の精兵の威信を立てる戦勝兵となり、神の祝福を受ける皆さんになってくれることをお願いします。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.31
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怨讐に対するお父様の恨みマタイの福音書二三章一節-一二節、二九節-三九節一九六〇年七月一七日(日)前本部教会 *このみ言は第一次七年路程初めての全国四〇日伝道実施に先立ってなされたみ言 しばらくお話するみ言の題目は’怨讐に対するお父様の恨み’です。’怨讐に対するお父様の恨み’という題目でお話します。 私を中心とした善と悪の闘い 私たちはすべて、私たちが生きているこの地が善なる地になったおらず、地の上に生きる人類も、善なる人類になっていないことを知っています。この世の中が悪なる世の中であるにもかかわらず人間は善を所望とし、今日の不足なることを案じながら、明日の完全なる姿を慕っていることは、皆さんが生活を通してよく知る事実です。 今日、地の上に生きている数多くの人々の中には少しはましな人がいる反面、そうではない人間がおり、少しは忠誠であろうとする人がいる反面、その忠誠の道を妨げようとする人間がいるのです。世の中のこのようなことと同じく私たち自身も、より良くなるという道を行こうとするとき、善なる何かを立てて行こうとするとき、これを妨害する要素が前を遮ることを、皆さんは何度も感じるのです。 自分が善なる人間であると満宇宙の前に、自認することができないことを感じれば感じるほど、自身の環境が悪なる環境であると恨むようになるのです。さらには自分がこんな悪の世の中で生きているので、このような環境に染まって悪なる立場に立つようになったと、一時的な弁明をして生きているのが現実なのです。 それではどうしてこのようになったのか? 自身が善なる人間になっておらず、善と反対の悪なる人間になったのは、環境のためであると恨嘆する原因はどこにあるのか? この原因を追究してみれば、堕落の報応からきた事実であることを否定できないのです。善とか悪という名詞が残っていることも、堕落のゆえであるのです。 世の中の人をおいて見るとき、善なる側の人と悪なる側の人、また善なる人と悪なる人に区分することができます。私個人をおいて見るときにも、ある一方向に自分を引っ張って行くかと思えば、また他の側に自分を引っ張って行くという事実を、私立ちはよく知っているのです。 人間に善なる人間と悪なる人間がいるように、神があるならその神も、善なる神と悪なる神があるのです。これは私たち自身を推し量って見ても、否定することができません。 自分の心は善に向かって行こうとするのに、環境に引かれて悪なる道へ行ってしまう原因は、どこにあるのか? 自分が動機的な主体ではないという事実を認定するなら、ここにはきっと自分以上の原因と動機である力が、作用しているという事実を否定できないのです。春が来れば春の気運が、すべての山河を覆うのと同じです。自分自身が環境による感情に縛られたり、環境による罪のなかに縛られるこれらすべてのことは、自分が直接的な動機になって動いているのではなく、ある動機的な力の下での間接的な動機によって動いているこのなのです。 善を求めてみれば結局、絶対者を立てざるを得ず、悪を糾明してみれば絶対者と反対の神と、出会わざるを得ないのです。それゆえ私たち個体には、重要な責任があるのです。自分が良くなれば善になり、でなければ悪になってしまうのです。自分が良くなれば絶対者を喜ばせるのであり、でなければ悪の怨讐を喜ばせるのです。このような岐路に立つ人間ですから、どんなに微々たる生命だと考える人間であっても、彼は天的な闘いと歴史的な闘いをして生きているのです。 世の中や理念を通して新しい世界に向かって動いてゆくことが、今までの人類歴史なのです。歴史の方向を理想世界に転向させるために展開されてきたことが、文化史の変遷過程なのです。これを見るとき、人間が主体ではなく、人間は第二原因の立場で、第一原因の対象として行動してきたに過ぎなかったという事実を、認定せざるを得ないのです。 キリスト教では人間が、堕落によって罪悪となった世の中に生きているので、このようにならざるを得ないと言うのです。 悪に占領された人間と摂理歴史 善の理念を立ててゆく絶対者、即ち神が存在するなら、その神の前に反対となるものがあるのですが、これが罪であり、鬼神であり、サタンなのです。これは人間の怨讐であると同時に、神の怨讐であると規定せざるを得ないのです。 私たちは神があるということを主張する前に、私たちの周辺に誰がいるかを、まず知らなければなりません。私たちの周辺には神ではなく、神の怨讐である悪神が私たちを取り囲んでいるという事実を知ってこそなのです。 人間が堕落することによって、創造主神は人間を怨讐の懐に渡したのです。であれば人間のために創られたすべての万物も、悪なる怨讐サタンに渡されたのです。本来神は私たちの心の主人であり、私たちの体の主人であり、私たちの生活の主人ですが、我々人間がしかじかの曲折によって神に背反して、神のみ旨とは反対の立場で喘いでいるのです。誰によってこのようになったのか? 神の怨讐である悪神によってこのようになったという事実を、私たちは知らねばなりません。 人間には体があり心があります。さらには心情があります。心情と心と体をもって世界に出てゆくとき、事情が絡みつく生活舞台を離れてなすことはできません。今日私たちが感じ、見て触り、食べて暮らしているこの世の中は誰が占領しているか? 神が主管しているのではなく、神の怨讐サタンが占領しているのです。 ですから神は怨讐サタンが主管している世を取り戻し、本然の状態に回復しようとされるのです。これが復帰摂理です。回復するにはどうしなければならないか? 怨讐を降伏させなければ、回復することができません。これから天上と地上に大きな闘いが起きるのですが、この闘いは神が怨讐、即ち鬼神サタンを屈伏させるために起こる闘いなのです。これが最も大きな闘のです。 歴史路程において人間は部分々々、即ち地域なら地域、宗族なら宗族同士が闘ってきたのです。神はこのような闘いを解決するために、人間を善なる側に率いてきたのです。悪なる側に引かれたならまた引っ張って、個人から世界にまで率いて来たのです。ある時は悪の側が勝ったようですが、結局は善の側へと歴史を率いておられるのです。 今私たちは、大怨讐を知らねばなりません。どんな怨讐が大怨讐か? 歯をむいて報復するぞという、個人の怨讐は何ほどもありません。怨讐の中の大怨讐が誰でしょう? 神の創造の偉業を成そうとするこの世界を破綻させるサタン、鬼神、悪神が正に私たちの大怨讐なのです。彼は全被造世界の怨讐であると同時に、我々人類の怨讐なのです。この怨讐を打つための路程において、人間はこの闘いの材料に使われてきているのです。 闘いはすでに起こっているのです。皆さんが平安に眠っている夜にも、善の神様は怨讐を撃退するために闘っておられるのです。昼も夜も闘っておられるのです。 皆さんは怨讐を打たなければなりません。こんな怨讐が我々の前に命を狙い、理念を破綻させ、歴史的な行路を汚し、我々を悪の罠へと追い込む動きが地上に起こっているのです。ですからある事件が起これば、この事件を中心に右側が生じ、左側が生じるのです。左翼があれば右翼があるのです。前後があり上下があるのです。 サタンが占領している所は、天地の全体です。この地はサタンが占領している場、怨讐が占領している場なのです。本来人間は怨讐に占領されて生きるようにはなっていないのですが、主人の教えを違えたことによって、主人の命令を違えたら死ぬというその道を行って、怨讐の捕虜になったのです。捕虜ですよ。このような宗族として繁殖していったのが、今日の人類なのです。天地に大怨讐があるのであり、これは歴史的な怨讐であり、この時代的な怨讐なのです。また未来の怨讐でもあるのです。これは人類の怨讐であると同時に、万物の怨讐であり、神の怨讐なのです。 善と悪の作戦本部になる人間の心と体 歴史的な戦争、あるいは天宙的な闘争時期が来るとして、その時に先頭に立ってサタンを撲滅させる、屈伏させることのできる義の精兵がいるなら、彼はきっと天の息子・娘に間違いないのです。 宗教や善というものの目的が何でしょうか? 平安に楽に暮らすことではありません。他人が羨むほどに、地で良い暮らしをすることではなく、自分を越えて後孫にまで侵犯して蹂躪する怨讐サタンを撃滅して、地球上から追い出すことです。これが我々人間の目的であり、神の目的であり、全被造世界の目的なのです。また、これが今まで闘ってきた目的なのです。 皆さんの体は、皆さんのものではありません。皆さんが食べるごはんも、皆さんのものではありません。ごはんを食べて動じている皆さんの肉体も、皆さんのものではないというのです。皆さんのものではありません。では誰のものか? 悪魔のものです。 それで神が人間を支配しているこの悪魔を撲滅させるための、基地として立ておかれたものが何かというと良心なのです。良心は時間性を越え、皆さんと闘争しているのです。この社会と闘争しているのです。過去の歴史路程においても闘争してきており、今日この時代にも闘争しているのであり、明日の歴史路程においても闘争しなければならない一線の将兵が、正に皆さんの良心なのです。 私一個体には天の作戦本部もあり、サタンの作戦本部もあるのです。私たちの良心を根拠としているものが天であり、体を根拠としているものがサタンなのです。この良心と体が闘っているのです。それで人間は大声をあげて闘い、倒れては起き上がり、誓ってはまた崩れ、決心してはまた無力な生活を反復しているのです。ここにおいて体を打って、立ち上がれないでいる良心の権限を回復することが、神様が願う最高の目的なのです。 宗教的な言い方をすれば、私たちの心は天国に連なっていて、私たちの体は地獄に連なっているというのです。心を治める神が善神であり、体を治める神が悪神なのです。 なぜ、このようになったのか? 皆さん、一匹の昆虫を見ても相対的な関係で対するときは衝突がないのです。ところが、なぜこのようになったのか? 神が誤って創って、こうなったのではありません。元来は人間の心と体が相対的に無限に授け受け、授け受け、また授け受けするように創られたのです。であるにもかかわらず、与えようとしても受けずに互いに争ってばかりいるのは、堕落の報応なのです。 この争いを誰が整備しなければならないか? 誰が責任を負わなければならないか? 天と人間が合同作戦をして整備しない限り、信仰の目的を達成することはできません。理念や理想といっても、この目的を達成できないのです。それゆえ今日人間は’良心的に生きよ’’善を指向せよ’と主張しているのです。そうではありませんか? この地がサタンの占領圏内にあるので、数多くの民族に分かれたのです。民族と民族間の風習が違い、伝統が異なるのです。この社会はサタンが主管しており、サタンを中心とする伝統と風習が植えつけられているのです。ですからこのサタンどもを、撲滅しなければなりません。 人間の良心と神の摂理 そのために天は時代々々ごとに、人間が新しい良心の衝撃を受けるように役事され、彼らの心と理念を開拓され、革命を通してサタンの勢力を打ち崩してきたのです。ですから今まで、どれほど苦労されたことでしょうか? 私たちが見ることも知ることもない歴史路程において、神は闘ってこられたのです。 人間が地上でどんなに善のために叫んだとしても、百年以上も続けることはできませんが、神は善の世界を成すときまで、怨讐に対して闘いを継続しなければならないのです。しかし神は今まで、怨讐のまえに天の側の精兵を立て、行進命令、出動命令をしてみたことがないのです。今までの歴史路程において、神は新しい理念を立て、人間の心を動かして悪の世の中を征服する精兵を集めてこられたのです。これが今までの歴史です。 それでは、神の怨讐に仇を打つ軍隊があるかというとき、未だにそんな軍隊がないのです。善なる精兵が集め、この善の精兵との合同作戦によって怨讐である悪魔、サタンを捕らえて底無し穴に追い落とすことが神の目的なのです。 私たちはちょっと次元を高めて、考えてみなければなりません。今日普通の人々は日常生活的な感情を通して自分と対立する者、あるいは何代かの先祖から何らの衝突があり、怨恨を結んでいる者を怨讐と思っているのです。しかしそれよりさらに大きな怨讐があるのです。だからこの怨讐を打つまでは、どんな怨讐にも仇を返すなというのです。こんな個人的な怨讐は問題ではありません。個人的な怨讐に仇を返す善なる人が、犠牲にされたのです。ですから耐えることです。 キリスト教では神のみ旨に従い愛を強調して、怨讐のために祈りなさいと言いながら、なぜ終わりの日に審判するという命題を立てるのか? これは怨讐サタンのために祈祷するということではないのです。人間のために祈祷しなさいということです。人間を堕落させた張本人であるサタンのために祈祷しなさいということではなく、この怨讐に籠絡されて悔しい人間のために、祈祷せよということです。でなければ何のために審判という名詞を立てたのか? 神は公義の審判主です。全世界の天の側の善なる精兵たちは一つになり、神の出動命令に従ってこの悪なる世を打ち、サタンを生け捕らなければなりません。その時まで、各自が準備をしなければなりません。神様はその日を迎えるために、六千年という歴史を率いてこられ、未だにその一日を迎えていないことを、皆さんは知らねばなりません。 本来の良心基準をもったなら 人間とは、心と体が離れては存在することができません。私たちの体と心を分析して見るとき、私たちの心が絶対的に天の側に立っているか? 違います。私たちの心はある思想的な、あるいは理念的な環境に左右されるのです。 それでは人間が堕落することによって、まず侵犯を受けたところがどこか? まず侵犯を受けたところは体ではなく、心なのです。自分の心において今まで作用している良心の基準は、アダムとエバが堕落する前の基準なのです。本来の善なる人間、完成した人間が持つべき良心基準ではありません。これが正しいのか、あれが正しいのか判決をつけることができない良心基準なのです。堕落する前の未完成のアダムとエバの良心基準が、今日世界人類の良心と連結されているのです。そうなっているのです。 もしも堕落しなかったなら、この良心基準がどこまで上がったでしょうか? 神について解明する必要がない基準まで上がったのです。神が私たちの主人であることを、自動的に感じる基準まで上がったのです。このような良心基準が完結したら、この良心という種から生まれべきものが何でしょう? それは心情です。愛という言葉です。人間がこのような基準を持ったなら、神の愛を中心に満宇宙を支配するのです。 愛は時間性を超越するのです。空間性を超越するのです。ですから良心作用も、心情に従って動くのです。 ところが人間が堕落することによって、どんな事が起こったのか? 本来、神の立てられた良心の基準、即ち堕落することなく完成したアダムとエバの良心基準を持てなくなったのです。堕落することなく完成したアダムとエバの心情を、人間が持てなくなったのです。もしも神の創造計画どおりアダムとエバが完成して、完成した心情を持つなら、神を忘れるでしょうか? 忘れはしないのです。天使が誰であり、万物が何であるかを知ったのです。 人間は万物の霊長として、心情においても心においても体においても、いかなる不足もなく絶対的な愛の心情と連結されて、絶対者を代身するのに不足がないように創られていたのです。ところが堕落することによって、人間の心の基準は堕落したアダム、堕落したエバの心の基準から出発したのです。ですから皆さんの心では、神があるのかないのか分からないのです。アダムとエバも神が現れて取って食べてはならないと命令されたので、そのとおりに信じてきたのですが、神が現れないので自分たちが勝手に行動して堕落したのです。 私たちの心が体を屈伏させられない原因は、どこにあるのか? 心の基準がサタンに組み敷かれているからです。ですから今日地上に生きている人間たちの心が、体の支配を受けているのです。しかしアダムから本性的に残っている良心基準が、天に向かい、天倫に向かって動いている方向性を失っていないので、これを貫いてきたのです。過去を悔いる瞬間に爆発するのです。’アイゴ-、これでは駄目だ’というとき、爆発するのです。このように隙間があれば爆発してくる心の作用を、皆さんは今まで人生路程において、あるいは時間々々の生活過程において、無数に蹂躪したのです。ですからサタンの僕、サタンの息子・娘だというのです。 もしもこの地上に神のみ旨が完全に成り、私たちの良心が神の創造理念によってさっと充たされる日には、この体のようなものは問題ではないのです。肉体が問題ではないというのです。ところが良心基準が神が立てられた基準ほどになっていないときに堕落して、サタンに組み敷かれてしまったので、今日人間はこの原則の基準まで上がっていないのです。 本然の良心基準を立てる日には サタンは死亡の障壁を立てているのです。その下に組み敷かれているのが、我々の体です。神のまえに怨讐となったサタンは、本来は天使長です。神が主体であれば、天使長は霊的な対象です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴しているので、サタンは人間の体を足場にして活動しているのです。それでどの宗教も、体を打つのです。ある国家やある主義を征服することが宗教の目的ではなく、体を征服することが宗教の目的なのです。こうして本然の良心基準に帰ろうとするのです。体が要求するすべての条件を無視して、心の門を開いてアダムとエバが堕落しないで上がるべき良心基準に帰ってくるとき、初めてここに平和が始まるのです。 キリスト教の使命が何でしょうか? イエスは語ったのです、天国はわが心にあると。サタンを屈伏させて、安息所を造らなければ地獄です。天国に行くでしょうか? そんな妄想は捨てることです。分かってみれば、信じたという条件だけでは天国に行けないのです。信仰の力をもって天と敵対しているサタン、即ちこの体に克つ勝利者になっているかどうかが問題です。これのみを通過すれば、地獄に行きません。絶対に行かないのです。今日人間が修養だ道徳だといっていますが、それではこの基準に及ばないのです。だからといって人間が、手を挙げて降伏するのですか? 降伏することはできません。なぜ? 神がおられるからです。神がおられるならどのようにしてでも道を貫かねばなりません。これを知らねばなりません。 堕落人間は、世の中に対する欲心の他にはありません。地のみを主管しようとするのです。しかし本来人間は、地だけを主管するように創られてはいないのです。霊界まで主管するように創られました。ところが人間はこれを覚えていないのです。人間を主管する天があるのですが、天の命令を通して直接的に主管することができる橋がないのです。人類の始祖がこれを断ち切ってしまったからです。ところが後孫の中にも、これを連結させる人間が一人もいないのです。本部には作戦参謀部があって、すべての計画をしているのですが、その計画を連絡する電話線が切れているのと同じです。これを知らねばなりせん。 これを引き継ぐ日には、良心のあいている場を充たす力が出てくるのです。神の生命力が流れ込んでくるのです。即ち、堕落しないで完成した本然の良心基準を立てる日には、体は問題ないというのです。肉体の征服は問題ないのです。のみならず、そんな心の基準を立てて、神が知らないとはされない心情の因縁を持たねばなりません。 これが神と人間を父子として因縁づけることなのです。神は父であり、人間は息子という因縁を結ぶことが、最も重要なのです。今日の人間の中で、こんな因縁を結ぶ人がいますか? 一人もいません。 皆さんが今、見て聞いて感じるすべての感情は、神から出ているものではないのです。今日我々が生きて感じるすべての感情は、良心の完成基準で神の心情と連絡して出てくるものではありません。ではないということです。違うのです。ではどこから出てくるものか? 悪神から出てくるものです。悪神が私たちの心を占領しているのです。悪神の血筋が我々の心と、体の細胞にまで連結されているのです。これを知らねばなりません。 怨讐が天にいるのであれば、皆さんの血と肉が怨讐サタンの要素なのです。血と肉が怨讐です。怨讐の血が体に入ってきているのです。これを考えるとき、体に鳥肌が立つのを感じなければなりません。このしわのかたまり、この細胞に大怨讐の血が流れているのです。皆さんの血と肉に、怨讐の根がのびているのです。今まではこのような事実を知らなかったのです。それで人間たちはこんな、しわのかたまりを大事に養っているのです。 そんな内容がありますから、宗教はこの怨讐を捕らえようとするのです。イエスは怨讐は自分の家の中にあると言いました。人間の体を聖殿としているでしょう? この体は聖殿ですから、つまり家です。家の中に怨讐がいるというのですから、体がつまり怨讐になるのです。だからこの体を征服しなければ、神の創造理念を完遂することができません。 それではどんな方法によって、怨讐を征服するのでしょうか? これを知らねばなりません。ある怨讐がいるなら、彼がどのようにして怨讐になったのか、この事情を知らなかったら、彼を征服することはできません。だから知らなければなりません。アダムとエバからどのようにして体が怨讐になり、怨讐サタンが我々の先祖たちを、どのようにして籠絡し、またイエスをどのようにし、自分をどのようにしているかを知らねばなりません。歴史的な怨讐を知らなければなりません。歴史的な怨讐として行動したことを、知らねばなりません。 またこの時代の怨讐が自分を侵犯し、自分を籠絡していることを知らねばなりません。わが命を未来にまで永遠のように、僕にしようとする怨讐であることを知らねばなりません。このような怨讐どもの世界が、地獄なのです。怨讐の奴を知らねばなりません。怨讐を知らずに、怨讐を屈伏させることはできません。まず天上と地上に根づけられた怨讐に対する神の怨恨があるということを知らねばなりません。怨讐に対する神の怨恨が、誰のゆえに生じたのか? 地の上の人間たちのためです。地上に生きているこの群れのためなのです。 人間が最後の安息所とする所 人間は本来、どのような群れであったのでしょう? 神の懐で秘蔵っ子として愛を受ける群れなのです。神の血を受け、神の骨の骨であり、肉の中の肉であり、細胞の中の細胞として、神の愛を受ける人間であったのです。 神が原則を立てておいて満宇宙を創造されたので、この基準を無視する日には、全被造物がみな壊れるのです。これを無視することはできません。人間はこのような基準を中心に、互いに愛し合って暮らすべきなのに、堕落することによってこの基準を放りだし、右手に神を握り、左手に地をつかんでいるのです。こんな人間を率いて、接ぎ木という事をされるのです。これが救援摂理なのです。 堕落が何でしょうか? 神との心情的な因縁に背反したことです。神が願われる良心の基準を完成しないで、背反したことが堕落です。神の理念を立てることなく、背反したことが堕落ということです。焦点は、神の心情基準を失ったことです。 それゆえ神は、人間に訪れて来られるのです。訪れて来られるときは’あなたたちの体を愛しなさい。ある学問や知識を愛しなさい’とはされないのです。’神の愛を求めよ’とされるのです。’神の愛を求めよ’とされるでしょう。これが今まで、神様が修道の道を立ててこられた基準なのです。 このような曲折を知らず、サタンがどのように神のまえに怨讐になったのか、我々の先祖がどんな罪を犯し、神から追い立てられたかを知らないで、どうして怨讐を征服することができるでしょうか? どうして怨讐に対する恨を解くことができるでしょうか? 結ばれたなら、解かなければなりません。結んだものを解くには、反対の方向に通して行くのです。怨讐たちが出て行かなくとも、貫いて行くのです。怨讐の障壁を貫いて行くためのことが、今までの人類歴史なのです。 人間はこれから世界が、一つの世界になるべきことを知り、その道を捜し求めて行っているのですが、良心と心情が統一されなければならないことは、知らないのです。これをどのように連結させなければならないか? 歴史的な思潮を見るとき、人間は一つの世界に向かっているのですが、神が願われる本然の良心と、その良心に吹き込まれようとする本然の心情を知らないのです。 ですからこれを外的に、環境的に、事情的に収拾してゆくものが思想であり、主義なのです。思想や主義は、良心的な感興を起こさせるものです。ところがこの目的が地にあったならば、これはサタンです。 天を通して人間の良心を爆発させ、環境に革命を起こす運動が、この時代に出てこなければならないのです。この一面をもって出たものが、今日の左翼です。唯物史観です。これはこの地上で、ある程度まで勢いを得るのです。しかし天上の因縁を中心とする主義のまえには、手を挙げなければなりません。 人間が最後の安息所とする所は、どのような所か? 心が平安だから幸福だとはしないのです。心の中で、心情の安息所を開拓しなければなりません。ちょっと難しい話です。心が平安な環境を持ち、自分の思い通りに世の中を主管することができる基準を持ったとしても、その心に核心がなければ駄目です。その核心は、心情です。この心情を充たしてこそ、これが万事の動機となり、調和を成すものなのです。 父母が良いわけは何でしょうか? 父母の心と自分の心が同じだからです。心情が一つだからです。離れようにも離れず、環境を越え、時代を越える内容があるから良いというのです。 天国に行ける条件 このような時におかれている私たち、心情を失い、良心の中心をつかむことができず、生活の目標を失った体をもつ私たちは、どうすべきか? いっぺんには駄目です。悪なるものを取り除かなければなりません。取り除くのです。善なる世界に最も近づいている時には良心が問題になるのであって、肉体は問題ではないのです。 ですから宗教においては体を打つのです。ごはんを食べることが何か! 怨讐の腹に勝たねばなりません。肉体を平安にすることは、サタンを安息させることです。この肉体に対して、敵愾心を持たねばなりません。怨讐であるこの体に対して報復する自信のある者であってこそ、そんな自信を持って勝利する者であってこそ、天の精兵になることができるのです。出発基準が成っていなければなりません。大きな善の理念を中心に、体の情欲や食欲など、欲望の一切を自由自在に主管することができる男や女にならない限り、天が立てることができないのです。 宗教でいう終わりの日になると、どのような現象が起こるのか? 誰の命令を受けなくとも、世の万象をみな捨てる場に入るのです。今まで息子だ妻子だ、何だかんだといっていたすべてのもの、全部が夢のようです。こんな心情的な革命が起こらない限り、天国の民にはなれないのです。アイゴ-、わたしの愛する息子・娘、アイゴ-、わたしの愛する夫や妻、アイゴ-、わたしの愛するお母さんお父さん、等々のものがどこから出発しているのか? サタンを根拠として、因縁をもってきたものなのです。 大審判が何でしょうか? サタン世界の舞台を汲み取ってゆくことです。サタン世界との心情の因縁を、断ち切ってしまうことです。それで歴史は、父母と子が背反する思潮へと流れてゆくのです。どんなに抱いて座っていても、分かれて立つのです。兄弟と兄弟が争い、夫婦が争うようになるのです。そのようになるのです。それで終わるのではなく、新しい場を立てなければなりません。天の心情を再び接ぎ木してあげる、そんな事をするのです。 イエスはこの地の上に来て’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。果たしてメシアです。こんな原則的な観によって見るとき、果たしてイエスはメシアなのです。愛の救い主です、愛の救い主。有難いことです。歴史路程において、このような叫びがなかったなら、今日私たちは生きる意味を求めることができません。有難いことです。神を父と呼び、この世の父母を捨てるなら、天の父母を与えるというのです。天の父母を与えることです。皆さんを産んでくれた父母が、本当の父母でしょうか? 私を創り、生命までも吹き込んでくれた父母が、本当の父母です。愛する肉身の父母の代わりに、天の父母を与えるというのです。であれば世の中のものと合同作戦をしては駄目です。この世のことは怨讐です。怨讐! 怨讐だというのです。 ですからイエスが福音を叫んでゆくとき’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。’父、母、あるいは妻や子や姑、その誰よりもわたしを愛しなさい’としたのです。果たしてメシアです。聖書六六巻のすべてが必要ではありません。自分の子よりもさらに神を愛してこそ成るのです。 どのようにすれば天国に行けるのか? 天国に行くことができる条件とは何か? 自分の息子・娘よりも神をより愛すること。夫や妻よりも主をより愛すること。自分の体よりも聖霊をより愛すること。これが三位一体です。 心は体の新郎であり、心情は心の新郎であり、神は私たちの心情の主人であるのです。またイエスは新郎です。聖霊は新婦です。それで心的な型がイエスであり、体的な型が聖霊です。天地を代身して、心情の神を代身して、心的な型であるイエスと、体的な型である聖霊が役事するのです。ですからイエスは心の世界を求める中心なのです。新郎です。私たちが心から慕うものが何でしょう? 新郎です。新郎! 私たちが生じてより、初めであり終わりである革命を提示するために来られたお方が、イエス様です。これを知らねばなりません。 怨讐に仇を返すには このような見地から見るときキリスト教徒、終わりの日に神の前に立つべきキリスト教徒が’神様、私の息子某を連れて来ました。また、誰を連れて来ました’ということは通じないのです。それらはすべてサタンを根拠として出発したので、彼らが愛する一切に神は対することができないのです。サタンが好む舞台から出発したので、怨讐なのです。怨讐! これを考えるときにこれが分かれるのです。今日、歴史の終末まできたのですが、未だに心情の革命を主唱していません。部分的にしてきました。キリスト教から部分的にしてきたのです。イエスを信じる人々は家庭の世話もしないで歩き回っているでしょう?イエスに狂っているというのです。そうでなければです。そうでなければ。 修道の道は、独身生活をするのです。女は女で独身生活をし、男は男で独身生活をするのです。このようにして、まずもって充たすべきものが何か? 心です。心を充たし、天情と因縁を結んだ後に、世の中を見渡さなければなりません。この曲折の動機を解くまでは、神の怨讐に仇を打つことはできません。怨讐は永遠に残ってしまうのです。よくよく知らなければなりません。これは嘘話ではありません。事実です、事実。それでイエスは母親であるマリアに’婦人よ、あなたとわたしは何の関係がありますか?’と言ったのです。この世的な血肉の因縁をもって、対することができないのです。当然です。当然の話ですよ。天を愛さなければならないイスラエル民族、天のみ旨を受けるべきユダヤ教徒は自分の息子・娘よりも、神をより愛したという認定を受けなければなりせん。 サタンの世で持っていた残り物を、神が受け取られるでしょうか? 受け取られないのです。怨讐の手の触れた物を受け取られるでしょうか? 皆さんは知らねばなりません。この体には毒素があるのです。悪の目的を果たそうとするサタンの血肉が、染み込んでいることを知らねばなりません。この目、この体、この耳このすべてがサタンの行楽と、サタンの理念を立ててゆく通路なのです。それで仏教ではこの世の中を遠ざけ、山中に入るのです。しかしそのようにしては駄目なのです。悪と闘って勝利しなければならないのに、闘いもしないのです。キリスト教は世の中にあって、悪と闘って勝とうとします。それゆえこの世的なものと闘い、勝ったとする群れが出てこなければなりません。 怨讐の中の最大の怨讐が、どんな怨讐でしょう? 事業上の怨讐ではありません。最も大きな怨讐は、愛する夫や妻を奪う人間です。これ以上に大きな怨讐はありません。皆さんも知っているでしょうが、本来こんな曲折が起こったのです。こんな先祖からの血肉を受け継いだ我々は、体に対する愛着心を全部捨てなければなりません。飢えてみなければなりません。修道の道は飢える道です。この体が疲労して倒れるまで、労働の場で一途にやってみるのです。むやみと打つのです。 こんな場に出る人間は、父母が来て’やあ、某よ’といっても堂々と越えてゆかなければなりません。愛する妻が過去の因縁を押し立ててきても、断然つらぬいて行くのです。世の中のどんな欲望や、周囲の因縁が襲いかかってきても、貫いて行かなければなりません。であれば神が’おお 、おまえはわが愛する息子だ’とされて再び送られるのです。おまえたちの息子・娘を救い、父母を救い、妻を捜してゆくように再び送られるのです。このようにならなければなりません。 イエス様はこのような使命を果たすために地上に来られ、弟子を立てようとされたのですが、そんな弟子を持てなかったのです。今日まで数千年の間、信じるという信仰者たちは世界的に数え切れないほど多いのですが、このような信者はいなかったのです。 今日統一理念をもってゆく私たちは、何をしなければならないか? 心情的な因縁を回復しなければなりません。目的はこれです。よく食べ楽に生きることは問題ではありません。乞食のじいさんの服を着ても、顔がくしゃくしゃになっても、どのようになったとしても神が’おお わが息子よ、わが息子よ’とされるとき’アボジ!’と駆け寄って慟哭することができなければなりません。こんな心情が皆さんにあるでしょうか? サタン世界で勝利する秘訣 今日人間は父が父なのか、誰が誰なのか分からないのです。何も知らない天地で生きているのです。父を失って見ていないので、その父がこうだと説明してくれる人が出てこなければなりません。父がこれこれだと説明できる内容を持って来る人が、真の牧者です。その姿を望み見るとき、自分もどうすることもできず、自分の心が慕い引かれる血筋の因縁を感じる指導者に出会わなければなりません。皆さん、イエスがこの地上の人間のまえに真の父として来たのですが、そんな因縁を感じる人間がいなかったのです。 それではサタン世界で勝利する秘訣は何でしょうか? 神が私の父であるという事実を解明して、神も涙を流される場まで行くことです。そんな者が、神の息子・娘なのです。神のまえに出て’あなたは歴史路程において数多くの怨讐のまえに籠絡され、苦喪を綴ってこられても、私たちを息子とし娘とするために、血の涙の歴史路程を意に介さず、この時まで耐えてこられた私たちの真のアボジです。あなたの心情はこうであり、あなたの心はこうであり、あなたの体はこのようであることを知りました’とすることができなければなりません。 であれば神様は、大声で慟哭されるのです。神の威信を捨て、神の宝座を考えず、大声で慟哭されるのです。その姿がみすぼらしく、堕落世界ではよれよれの形無しの姿であったとしても、神が威信を捨てて慟哭されるようにできる者であってこそ、神の息子・娘となるのです。 人間は多くの欲心を持っています。私が望むことはそれではありません。皆さんを悪口を言われる場に追い込んでも、死ぬ恨があったとしても、天の息子・娘となることができる因縁を結ぶ場に立てたいのです。ここに入ってみ言を聞けば、即ち神がこうだということを見せてあげたく解明してあげるみ言を聞けば、神を抱えざるを得ない染みる心がわき起こるのです。そんな感じがわき起こってこなければ、この運動は世界的な運動ではありません。行っても壊れてしまうのです。 統一教会を信じてここに来た皆さん! 願わくば皆さんは、このような人間にならなければなりません。そんな人間になっていますか? こんな運動が自分一個を中心に、起こらなければなりません。真の良心を中心に真の道を捜してさまよう人間に、神を解明してあげればわれ知らずに包みこまれて元に帰るのです。帰ることができるのは天的な内容、本然の良心の力です。今皆さんがもっている良心ではなく、本然の良心の力です。この本然の良心の力と、本然の心情が爆発してくる感じを、信仰路程において求められないならば、天国には行けません。神の息子・娘として、立てないのです。 怨讐に仇を返す方法 神の怨讐を打つときは、槍で突いて打つことではありません。どのようにして仇を返すのでしょうか? 絶対者たる神のまえに、サタンを解明しなければなりません。’神様、こうこうでこうではありませんか?’とするとき神が’おう、おう’とされなければなりません。丸ごと讒訴して、サタンを放り捨てるのです。サタンは心情の盗賊です。 それではサタンが、どうして神の大怨讐になったのでしょうか? 人類を奪っていったその日から大怨讐になったのですが、怨讐になった内容が何でしょうか? 神様が創造理念によって永遠に因縁を結ぼうとされた、天的な愛の因縁を奪ったことです。だから大怨讐です。大怨讐ですよ。今この事実を、私たちは知りました。 サタンの役事は自分の体から起こるのです。だから自分の体を征服しなければなりません。これを考えますとき、飢えてぼろをまとい、悪口を言われることが問題ではありません。鉄窓に閉じこめられることが問題ではありません。 死ぬ前に怨讐を打たねばなりません。皆さん、死ぬ前に仇を返さねばなりません。怨讐に仇を返して死ぬのです。真の父母の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐、真の子女の怨讐が天と地に残っているのであって、この怨讐を撲滅させる責任がキリスト教にはあるのです。 怨讐を撲滅させるには、神の心情を誘発させなければなりません。神の心情を誘発しようとすれば、神の事情の内を知らなければなりません。分からなかったので、知らなければなりません。 アダムとエバを創られてあれほど喜ばれた神様なのに、アダムとエバが堕落したときには、あれほど悲しまれた神様であったことを知らねばなりません。アベルとカインを中心に闘った神様、ノアを中心に闘った神様、アブラハム、モ-セ、イエスを中心に数千年間闘って来られた神様であった事実を、知らねばなりません。 そんなお父様であることを知るとき、心情が溢れでるのです。衝撃を受けなければなりません。心に深く衝撃を受けなければなりません。世の中のどんな説教者、どんな師の言葉にも受けたことのない感動を覚えなければなりません。歴史的に、時代的に、未来的に心情の因縁を証してこそ、生きることができるのです。神の大怨讐の仇を打たねばなりません。この地は善なる人々が血を流した地です。怨讐のゆえに血を流した地なのです。 神を代身して皆さんを押し立てた、神の心は凄まじいのです。人間がどうしてこんな道を経て、天に背反した報いを蕩減しなければならないのか? 曲折がこのようになったので、これを解くには反対の道を行かなければならないのです。 皆さん、アボジが恋しくて何度か慟哭したことがありますか? 失ったアボジが泣き叫んでおられるのを捜して、足が折れても意に介さず、山にでも入って喘いでみましたか?アボジが私を慕って慟哭される場があるなら、そこはどこでしょうか? そこを捜し求めて、さまよってみましたか? 今日私たちは全世界のまえに、全天宙のまえに、絶対的な内容を主張して出るとするなら、知ることが何でしょうか? 神は私の父であるということ、父の心情がどうかということを知ったのです。ですから今’お父様は孝子孝女の姿を望み見て、笑い喜ばれるために人間を創られたのに、悲しみが何としたことでしょうか? サタンが何としたことでしょうか? 曲折が何としたことでしょうか? これらのすべてが、息子・娘になれなかった私たちの罪です’と慟哭する群れにならなければなりません。であれば帰ってくるのです。であれば帰るのです。であれば新しくなるのです。 私たちはすべて失ったのです。持っているものは何にもありません。私自身も持っているものはありません。私は名誉も願いません。皆さんの師となることも願わないのです。ただ、倒れるその瞬間に’自分が生きている間、アボジを代身してあれをもう少しやっていれば・・・という後悔を残さない場で、死なせてください’と祈祷するのみです。 寂しい群れを前に立てるとき、天は苦しいのです。心において、心情において、抑えることができない何かが、わき起こってくるのです。私たちは世の中の因縁をはね退け、天情によって背を向けたのです。背を向けた歩みですから、落胆の姿で行くのではなく、力づよく行かなければなりません。 天は何千年も待っておられるのです。今も待っておられるのです。私たちが死亡の谷間を通り過ぎても、待っておられるのです。皆さんが喘いでゆく時ごとに、天は待っておられるのです。この場で叫んでいる人間が、よく知っているのです。終わりであり最後であることを知るものですが、お終いではないのです。絶望したら倒れるのですが、天があることを知っております。 今皆さんは真の父母を抱いて慟哭する群れ、真の父母を求めて喘ぐアボジの手を握り、慟哭する群れにならねばなりません。そうして真の父母の前に立てられた真の子女となると同時に、真なる兄弟を慕う皆さんにならねばなりません。これが皆さんが持つべき内容です。 人間は縦的に父母である神を慕い、その神のまえに必ず孝誠の道を立てなければなりません。しかし、堕落の恨を解くことができない私たちです。孝子が何でしょうか? 蕩児のたとえを、皆さんは知っていますか? 涙をのんで蕩児を待っている父と同じ心で、帰ってくる蕩児の前に駆けよる兄弟がいるなら、父は彼に全体の遺業を残すのです。 神の大怨讐を撲滅させる一つの道 今日私たちは知りました。この世の蕩児たちも、一つの血肉の親族であることを知りました。歴史は流れても、その心情においては死亡の息子・娘を忘れることなく、六千年の曲折を経ても彼らを捨ておかれないお父様です。アボジの心情と恨が彼らに残っているのです。 天に対しようとするとき、溢れる心情に涙が先立つ父母の心情を、皆さんは持たねばなりません。このような心情に燃えてください。真夏の暑さに荷を背負って行く人がいたなら、彼を抱いて慟哭して父の心情、母の心情を感じてみなさい。彼が苦労するのは自分のためだから、自分が荷を背負うとしてごらんなさい。行く道を遮り、兄弟よ! 行く道が残っているならどこへ行くのかと、切ない心情をもって慟哭してごらんなさい。そんな皆さんになったなら、皆さんが行く道には天が共にいてくださるのです。 ここで語る人間にも同伴者がいません。寂しこを歩んできました。恨み多く憤り、痛憤する事実が胸に一杯つまっているのです。しかし天の苦労に比すべくもなく、六千年の間恨を抱いて来られた神のまえに立つべくもない自分であることを感じるのです。しかし責任を担うに不足であることを感じて痛嘆するごとに、天が私を抱いてくださり、励ましてくださることを、また私は知るのです。他人が逃げだす場において、訪ねてくださる神を迎え、その神様がわが息子・娘であると誇ることができる息子・娘になってください。皆さん、神様はそんな場で皆さんを待ち焦がれておられることを、知らねばなりません。 イエス様が十字架で逝かれるとき、弟子たちは十字架が怖くて逃げたのです。しかし、強盗であったとしても、死んだイエスの身の上を哀れに思い、イエスの体に手でふれてみたく、触ってみたい心で一杯になるとき、その強盗は救いを受けるのです。天の血族はここから始まるのです。言葉だけではいけません。言葉の多い人間は沢山います。手段と方法は数千数万とあるのです。しかし真実の中の最高の真実は、愛の心情です。愛の心情には、手段と方法があるべくもないのです。これのみが、神の大怨讐を撲滅させる唯一の道であることを、私たちは知らねばなりません。 神を抱き、その神の心と心情を受けてサタンと対決してゆく者がいるなら、それより優れた人も彼の前には口をつぐむのです。人間が神を知らないときには、サタンが人間を思い通りに蹂躪し、思い通りに支配することができたのですが、天上の心情を通してわき起こる内容をもって現れるとき、億万サタンが降伏するのです。ですから死んでもアボジ、生きてもアボジです。この血がサタンから受けた血であっても、この血が変わり、アボジの血で一杯になるその場を慕って駆けてゆかねばなりません。であればサタンが抜け落ちるのです。 私たちの責任 今私たちは祈祷しなければなりません。皆さんの血肉が今、サタンに属していますか?皆さんの血が流れて肉が落ちるとき、サタンが来てアイゴ-自分の血だ、自分の肉だと叫んで抱きつく者にならないよう、祈祷しなければなりません。血を吐いて倒れるとき、お父様が抱えて泣く者にならなければなりません。 今まで数多くの人々が、地上に来ては行ったのです。また数多くの人々がこの地上で生きています。数多くの人々が修道の道を求めているのですが、今日までこのような息子・娘を迎えなかったのです。ペテロが十字架に逆さに吊るされようと、イエスに背反した罪が引かかっているので、神も取ることができないのです。数多くの人々が刑場の露と消えたのですが、神が送った独り子に背反した罪があるので、その死を蕩減条件として認めるとしても、神のために善の血肉をふりまいて死んだとは認定することができないのです。 皆さん、三千万民族が行く道が分からずに喘いでいるのです。ですから飢えているこの民族のまえに、指導者にならなければなりません。死亡の世界において血と汗を流し、哀願する民族のまえに、鉄の杖をもって死亡の鉄条網を断ち切ってゆき’同志よ、兄弟よ、私がここにいるぞ’と叫ばなければなりません。 そうして父子の因縁を立てておき、兄弟の因縁を立て、宗族と民族を形成して天の民として登場する日、天上の主権は回復されるのであり、天上に染みる心情の怨恨は解怨されるのです。これをよくよく知らねばなりません。 皆さん、着ている物が惜しいですか? 脱いでしまいなさい。宝物を持っていますか?虚空に放り投げてしまいなさい。 これが天のまえに出てゆくときには、サタンの餌になるということを知らねばなりません。善のために血の涙も意に介さない彼らのまえに、一寸の土地、一枚の着物でも提供するために眠らない民族になるなら、この民族は世界を支配するのです。 天はこのような人間を求めているのです。アボジが恋しくて目がどろどろになるほど泣き狂ったとしても、その人間は地獄に行かないのです。飢えて大勢の人に後ろ指をさされ嘲弄されて倒れたとしても、アボジを慕って倒れたなら、その場は空き地にはならないのです。 今日私たちは、時代を創造するために行くのです。天倫の革命の路程に新しい開拓者として行くのです。ですから私たちの体には開拓の血が躍動し、開拓の肉が躍動しなければなりません。眠っているこの民族を抱いて天に向かって祈祷し、飢えるこの民族を慰安する者となるために喘がなければなりません。そのような皆さんになるなら、今日この時代に踏みつけられて追われても、この民族のまえに、人類のまえに必要なその日が、間違いなく来るのです。 私たちはこのような群れが、慕わしいのです。私たちはこのような食口が、慕わしいのです。私たちはこのような人々を糾合するために、すべてのものを犠牲にしなければなりません。こうして父母を知らない者たちに父母を解明してあげ、兄弟の因縁を知らない者たちに今までの通説を破って、霊界と肉界の限界を越えて、真の兄弟の因縁を知らせてあげなければなりません。そうして君が飢えているなら僕は食べず、僕が食べるときは君も食べるという心情が、民族感情以上に、世界のどんな思想や主義の感情以上に強くなるなら、神の解怨歴史は自動的に起こることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 私は皆さんが伝道しようとして罵倒されたと聞けば、一面では憤りもするのですが、心では喜んで祈祷するのです。なぜ? その人はその心に人間の心情ではなく、天の切ない心情と、篤い因縁を結んで帰ってきたからです。これを天のまえに誇る日があるのです。 今日私たちが新しい覚悟の下に、ある情熱をすべて注ぎ、世界人類を代身して天的な恨を一身に背負って一つの爆弾となって地獄に行ってはじけ、血を流したとしても、ここに勝利の塔を立てることができると、私は信じるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.28
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天の父母様聖会 天苑宮天苑教会 聖日礼拝(21.03.28)2021/03/28 AM09:30~に公開予定となっています。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.28
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2021 天地人真の父母様 天宙聖婚61周年記念 孝情 Youth Blessing Festival2021年3月27日(土)AM09:30一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.27
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私たちのために打たれたことマタイ福音書 三章 一節から一七節一九六〇年十月十六日(日)前本部教会 この時間、皆さんに’私たちのために打たれたこと’という題目でお話します。 この天と地が誰のものかといえば、アボジのものであると同時に、私たちのものです。この天地がどんな天、どんな地になるべきかといえば、善の天地にならねばなりません。善の地ですから、この地に存在するものはどのようなものでも善でなければなりません。善によって出発して、善の目的を描いて神の前に喜びの条件を提示する天地でなければなりません。ところがこれとは反対に苦しみの天となり、苦しみの地となったのであり、悪の地となり、悪と闘うのみの天の立場になったのです。このような事実を、私たちは知っています。 神の悲しみと苦痛の対象になった被造世界 善で始まり、善で終結し、またその過程のどのような現象も、神を喜ばせないものはないはずの天地であるのに、この天地は行く所がなく、そのことごとくが悲しみであり、対する人ごとに泣き声が起こり、苦しみを感じなければならない天地になったのです。こんな悲しい事情にあたる他ない神の立場なのです。こんな立場におられながらも、私たちを再び抱こうとされる神の苦しみを、私たちは知らねばなりません。 悲しみで始まるべき世ではなく、苦痛で出発すべき世ではなく、死や落胆で結実を結ぶべき地ではなかったのに、どうしてこのような結果を招来し、どうしてこのような過程的な歴史路程を経てきたのか! この曲折の原因が神様にあるのではなく、我々にあるのです。見れば極めて小さく、何にほどもないこの一身が動機となって、天に対して悲しみをもたらし、歴史路程に苦痛と死をもたらしたのです。こんな事実を知って私たちは目を上げて天を仰ぎ見ることもできず、地を望み見ることもできない罪人であることを悟らねばなりません。わが目、わが手足、わが体がそうであり、一切の感情までがそうだといことを、知らねばならない時が来たのです。 今日自分が生を営む生活路程で関係するすべてのことは、神様が喜びで望み見ることができる立場で始まったのではなく、神様が喜びで取ることができる立場で始まったのではなく、神様が所望によって対することができる場で始まったことではないのです。全部が反対の立場で始まり、反対の路程を通って、反対の結実を結んだことを、私たちは明白に知らねばなりません。 これを私たちが感じることなく、悟ることがなければ、天は私たちのためにどんなことで打たれたかという事実を、知るべくもないのです。神様が涙を流されたと叫ぶ者がどんなに多くとも、その涙が自分とは何らの関係もないというのです。血を吐く死の場で、天の愛を歌う者がどんなに多くとも、その愛は我々とは何らの関係もないというのです。 ですから堕落している自身であることを認定して、この運命の路程を開拓して、新しい希望の日を欣慕している自身であることを認定するなら、私たちは知らねばなりません。何を知るのか? 私たち自身がこれこれの惨事を引き起こした張本人であり、歴史的な悲しみを積みあげた張本人であり、この時間も結果的に天に対し、悲しみの条件を連結させている張本人であることを知り、私たちはこれを明らかにしなければなりません。でなければ歴史的な神の苦しみが大きく、時代的な神の悲しみが大きいとしても、我々はどんな解決点も見出せないのです。ですから今日私たちは、天地のまえに許しも受けられない歴史的な罪人であることを、悟らなければなりません。 今日この地上に悲しい事実があれば、それは自分自身に始まったことであり、苦しげな事実があれば、それも自分自身に始まったことであり、倒れて死ぬ悔しい事実があれば、それも自分自身から始まって連結していることを、悟らねばなりません。それでこそ、この社会の悲しく苦しげな事実、多くの人が倒れて死ぬ事実を見て、それが自分自身の事として感じて、責任を負う立場に立つことができるのです。 神とこの世界と私の関係の回復 私一個体に連なっている世、即ち大韓民国なら大韓民国を通じて世界が連なっており、世界を通じて天宙が連なっているなら、今日の国で成されるすべての事は、それ自体で成されているのではありません。動機は私たちにあるのです。勿論、永い歴史が流れてきた動機の因縁が遠くにあるとしても、それは結局私とは切るにも切れないのであり、その動機の原因者として加担している、私自身であることを認識しなければなりません。 この世の悲しい事を見れば私の悲しみとして感じ、苦しげな事を見れば私の苦痛として感じ、残酷なことを見て自分の残酷さを感じる者にならなければなりません。これはあなたの事ではなく私の事であり、この国の事ではなく自分の事として感じて、これを生活の舞台で自分が代身するという心情が染みわたるとき、ここから初めて新しい歴史が、私個人を通じて起こってくるのです。これがまさに社会を革命するものであり、国家を建設する源泉になるということを、知らねばなりません。 神様が人間を創られるときの目的は、堕落した人間を見ることではありません。しかし人間が堕落したその日から、神は堕落の責任が人間にあるのではなく、その人間を創ったご自身にあるという心を抱かれたので、復帰摂理のみ旨を立てられたことを、皆さんは知らねばなりません。復帰のみ旨を立ててこられた神がそうであるなら、堕落して復帰のみ業を成さしめる我々人間、これが私によって成るということを感じるなら、新しこを発見することができるのです。私一人を改革することは、社会を改革することであり、国家を改革することであると感じなければなりません。ですからこの社会、国家と因縁をもつ私自身のすべての問題をきれいに精算した後にこそ、この地は新しい世界に発展するのです。 私たちがこの社会の実情について明らかに知るなら、この社会は私と関係を結ぶことが難しく、自分の心情が反映して、接しられる環境ではないことを感じるのです。そんな時にそこにぶつかって、悲しみと苦しみに身悶えざるを得ないのです。これは社会と私の関係だけではなく、神と私との関係においてもそうであることを感じなければなりません。そのようになるとき、神と私とこの世が因縁を結んでいることを知るのです。それゆえ、神のまえにすべての悲しみ条件を造っている者が、自分であるこをを知るのです。自身の一生一路が平坦でないことを知るとき、皆さんは永遠なる理念を成就するために六千年の間、復帰摂理路程を歩んでこられた神の心情世界に、どれほどの苦しみが付きまとったかを、推し量ってみなければなりません。 私たち自身がそんな立場になって、神様が私たちのために受けたことがいかがであり、神が私たちを捜し求めるために、いかなる闘いの路程を経て来られたかを回想するとき、神と私が一つの動機と因縁を持って、新しい姿を輝かすことができる復帰の理念が、成就し始めるのです。 ですからこの地上に来ては行った数多くの先知者たちの中に、悪なるこの世を見て喜びを体恤した人がいないのです。偉人や聖賢たちは、地が悪なら悪であるほど、この地のために涙と汗を流し、さらには命を捧げていったのです。これはなぜか? このようになる原因が、まさに自身にあるということを感じたからです。 天地を中心とした心身の関係 今日私たちは歴史的は偉人を求め、世界的な指導者を求めています。しかしそれが問題ではないのです。歴史的な偉人や世界的な指導者も、すべて過ぎ去るのです。問題はこの時代に自分を確実に捜すことです。諸々の罪状を持つこの世のすべての人間を代身する、そんな形状を備えていることを知り、自らを冷徹に批判し審判することのできる人格を備える自分になるなら、この地上に素晴らしい指導者、歴史的な聖賢がいるとしても、彼に全的に世話にならなくていいのです。 私は天を代身しているのです。地も代身しているのです。わが心は天に似て、わが体は地に処している故に、たとえこの身が極めて小さくとも、わが一身が動くところは天地が動くのと同様であり、天地を抱いて天地を代身して行動することなのです。天はアボジであり地は息子です。わが心が天を代身し、わが体が地を代身するとしたら、わが心はアボジであり、わが体は息子です。このように自分の心と体を大きく見れば天と地であり、小さく見れば父と息子なのです。 それでは天に苦痛があり、地に苦痛があることを、何によって知るのか? わが心が安らかではなく、わが体が安らかではない故に、天と地に苦痛があるのは同然のことです。この心に苦痛があることを願わず、この体に悲しみがあることを願わずとも、行く事々に心には苦痛が、体には悲しい事がぶつかってくるのです。 天と地を代身するこの心と体の争いを解決しない限り、天と地にある悲しみの名を除去させることはできないという事実を、認めざるを得ません。 神が私たちのために打たれたすべての事は、私たちの体と心に反映するのです。体が行動する一々に、心は善の目標を指向して環境を正すべく、休む間もなく努力するのです。また、体が目的と方向を失って、死亡のどん底に落ちたてしまった時、心は体に向かって善なることを望み見よと勧告するのです。これを皆さんは生活の中で、たくさん感じるのです。このように、自分自身から解決しなければなりません。 私たちの心が天を代身するなら、心が望む目標と天が望む目標が一致しなければなりません。神が私たちの心の中心であるなら、その神様が望む目標と私たちの心が望む目標が一致しなけれななりません。また、体と心が一つになるために、体はこの地の理想的な基準と一致し、心は神が目標とする方向と一致しなければなりません。歴史的な最後の終末時代、善の理想世界がきっと来るなら、わが体が生活において善の理念世界と接する因縁を持たねばなりません。心の基準が神の基準と分かれるとき、苦喪が生じるのであり、体の基準が世界的な理念と衝突するとき、また苦喪が生じるのです。 それではこれを、どこから是正するのか? 私たちの心と体を目的の理念世界、新しい理念世界に、どのように是正するのか? 是正の方法は相対方にあるのではなく、自分自身にあるのです。ですから善を指向してゆく人々は、良心を唱えるのです。彼らは心のうちでどれが正しいと認めたら、これを根拠にその原則の下に動いてゆくのです。それゆえ彼らの心と体が、生活をその方向へ動かしてゆくのです。 それではどのような人が、善なる人でしょうか? 神のみ旨と自分のみ旨が同じ人、神の生活と自分の生活が同じ人が、善なる人間です。堕落の因縁から脱した人が、善なる人間です。このような人間になることが、神が望む最後の目的なのです。 それでは、今日皆さんは、どのように生きているでしょうか? 皆さんは自分の生活がどこに向かっているか、知らないのです。我々の理念が何であるか、知らないのです。自身の心の中心がどうなっているか、知らないのです。このように混沌とし、混乱した位置にある私たち自身であることを、知らねばなりません。だから行ってみれば、互いに叫ぶのです。千にも万にも分かれに分かれて、千態万象に行動して、行動するごとに叫んでいるのです。これは人類歴史を摂理される神のまえに、良い実として現れることではなく、悲しみと苦しみの結実として現れるのです。人間は口にも言えぬほど、もつれ合っているのです。 神が築いてこられた道とその目的 神がおられるなら、神は必ずこのようにもつれ合っている人間たちを収拾して、救援しなければなりません。収拾するときには、人類のまえに何を提示されるのか? 天地には中心があります。それゆえここには、この中心に対する目的があるというのです。神が我々人間を創られたので、我々が神の目的であり、同時に神が我々の目的にもなるのです。神と我々は、原因と結果の関係ですが、この原因と結果の関係のみで終わるのではなく、ここに相対的な条件があるのです。神と我々の間には、希望があり、新しい創造的な目的があり、新しいみ旨があるゆえに、神と我々は一つにならねばなりません。そうするべきみ旨があるというのです。 どんなに自分の体と心が一つになっても、それで終わるのではありません。体と心が一つになるとき、自分自身が善の理念世界と和するように生活圏内において、全体的な価値と共に愉むことができるか、できないかが問題です。神が人を創られたことは、神と人の関係においてのみではなく、人間を中心として全天宙を抱いて愉むためであったのです。神が人を創った目的は、全天地と和して一つになるためであったのです。 ですから神様は、堕落して千にも万にも分かれに分かれ、収拾しようにも収拾できないほどからみ合ったこの人類の歴史路程を、混沌としたこの世を収拾するために、ある一点から手をつけ、道を築いて来られたのです。それではどんな道を築いて来られたのか? 耐える道を築いて来られたのです。皆さん、宗教の道は耐える道です。耐えて犠牲になって、死ぬまで行く道です。ですから善を追求してゆく人の中に、耐えない人がいません。耐えなければ善の目的を、達成することができません。奉仕と犠牲を目標としなければ、善の基盤を広げることができないのです。死を覚悟しなければ善を伝え、証すことができません。このように神様は、複雑にもつれるこの地の上に耐える道、犠牲になる道、死の道を築いて来られたのです。しかしそれは目的ではなく、過程的な現象なのです。 それでは目的は何でしょうか? 喜びと満足を感じる幸福な世界です。この世界は奉仕を代身して尊称を受け、犠牲となって蘇生することができる所です。このような世界に向かって、天は率いて来られたのです。 このような歴史路程を開拓して来られた神であるなら、これから世界を支配することができる民族は、どんな民族なのでしょうか? 耐える民族、奉仕する民族、善の為に死ぬことができる民族なのです。この世界の歴史路程において、耐えてきた民族がいるなら、天は抱くのです。犠牲になる民族、死の場にまで恐れることなく大胆に行くことができる民族を、天は抱かれるのです。 これは何のためでしょうか? 神様が目的を果たすためにこんな路程を経て来られたので、神と同じ目的で従う人もきっと、こんな道を歩まねばならないのです。ですから個人を求めるためには個人的な苦しみ、民族を求めるためには民族的な苦しみ、国家を求めるためには国家的な苦しみ、世界を求めるためには世界的な苦しみが付いてくるのです。 今日この時代は、言うこともできない苦しみの時代です。心の方向がどこへ行くべきか分からず、どこへ行っても心を頼むことができない、混乱と混沌の時代です。これを持っても駄目、あれを持っても駄目なのです。’あ、私はやった’という人がいたとしても、その心の底には言うこともできない、苦痛の波濤がわき返っているのです。しかしこのようなすべての苦痛に耐えてこらえる人、こんな複雑な過程においても最後まで耐えて犠牲となり、奉仕することができる人、いかなる脅威と恐怖が襲いかかっても残り、死の峠までも越えてゆける人、こんな人々がいるなら天は必ずこの群れを通して、新しい時代を形成されるのです。 神の民が行くべき道 今までのキリスト教の歴史は、希望の一時を望み見て耐え、犠牲になって、死の場までも自らが行く歴史だったのです。今まで家庭を代身する時代、民族を代身する時代、国家を代身する時代に出るにおいても、このような道を歩んで来たのですが、今世界を代身する時代へと越えて行く時に世界的な苦痛、世界的な犠牲、世界的な死の峠を越えなければなりません。こんな覚悟と信念を持つ信仰者、こんな信念を抱く者がいるなら、彼は絶対に滅びないのです。今までの歴史路程が、すべてそうだからです。 神は摂理路程において時代が変わるたびに、天のみ旨を成すためにある民族を選び、苦痛の場に追い込んだのです。また祭物の場、犠牲の場、血を流す場に追い込んだのです。神様は人間が堕落したその日から、人間に贖罪の条件を立てさせるために、祭物を捧げるべくされたのですが、そこでは羊からイエスまで祭物になったのです。それゆえ人間はイエスに対する民族、その民族に対する国家、その国家に対する世界へと経て行かなければなりません。これが復帰摂理です。羊を祭物に捧げましたが、羊の代身にイエスが万民を代身して、祭物になって血を流しました。ところが、その血を受けた民族は、民族的な祭物になることを知らなかったのです。 これからの終わりの日は、世界的な祭物の時代です。全世界に広がるキリスト教を主として、数多くの宗教が世界的な祭物になるのですが、この時がまさに大審判の時です。 では歴史的な終末時代において、私たちはどんな民族になるべきか? 豪華絢爛に着飾り、腹いっぱい食べて暮らす民族ではなく、歴史を代身して耐え、奉仕する民族にならなければなりません。逆になるのです。であれば公平です。主権を握って命を奪ってきた、ある理念とも反対の立場に立たねばなりません。そんな時が来なければならないのです。必然的にこのような過程を経る歴史路程なのです。でなければ、道が塞がれます。 神が行く道、神の息子・娘が行く道、神の民が行く道は、どんな道か? 耐え、奉仕して、犠牲になって行く道です。皆さんたち、耐えるにも名目的ではいけません。救い主の為に? 神の為に、耐えるのです。神のみ旨の為に耐えなければなりません。一時があるのであって、この時の為に耐えるのです、そうではありませんか? ですから再臨思想のない求道がありません。 一時が来るとして、その時はどんな時か? 心の主体たる神様が、心の目的を果たす時です。人間は心の主体たる神のみ旨を手本として闘い、その時の為に捜し求めるべき歴史的な運命におかれているのです。人間が神を手本として、神の目標に向かって行くときには闘いの路程があるのであって、この曲折を記録したものが歴史なのです。 この闘いはどのような闘いか? 耐える者がまず打たれる闘いであり、犠牲になる者が支配される闘いであり、新しい理念と、新しい希望を抱く人々が打たれて死ぬ闘いです。ですからこの地上に善を叫んで出る人は、誰もが苦痛の路程を耐え、民族を代身して犠牲になり、自己の信念を曲げないためには、死の場に出なければならないのです。 最後に残される主義 歴史がこのような曲折で出発したので、我々は願わざる方向へと歩んできたのであり、天も我々人間以上に難しい立場で、願わざる道を開拓した来たのです。神が人間の苦しいすべてのことを独り背負い、この歴史路程において道を築いて来られたという事実を、忘れてはなりません。 皆さん、これを考えてみましたか? 百万長者の息子が自分の豪華絢爛とした生活の裏面で、父母の途方もない苦しみがあるということを知らないのと同じように、私たちもこの社会環境において、自分自身の根拠を明示できないまま、今日に満足して陶酔して生きているのです。このように知らなかった事実を、全歴史をおいて明らかにすべき時が来たのであって、この時が終わりの日であり、大審判の日なのです。 今日この地上には、数多くの民族と国家があります。それでは、神は数多くの国家の中で、どんな国を求めておられるのか? アメリカ? ソ連? 違います。民主主義? 違います。共産主義? 違います。最後には何の主義? 心情主義でなければなりません。死ぬのも旨のために死に、それを模範として死に、その命令に従って死ぬという、そんな主義だけが最後に残るのです。 このみ旨、この主義は神主義です。この神主義が私の主義であり、神のみ旨が私のみ旨だとして、この主義と私が心情的に因縁を持ち、この因縁を世の中のいかなる富貴栄華とも取り替えられず、この因縁を切ろうにも切ることができないとき、最後の終着点が到来するのです。 このような一時を迎えるべき終わりの日の私たちは、視野を広げて世界を冷徹に批判しなければなりません。今まで私たちが学んだ歴史観をもってしては駄目です。方向が違うのです。歴史は無鉄砲に流れているようですが、流れるにはある動機があるのです。これはそれ自体にあるのではなく、その上で、あるいは遠くでこの世界を回しているということを知らねばなりません。 なぜそうなのでしょう? ある国にある主権者がいたなら、その主権者が自ら滅びようとするでしょうか? どこの国の主権者も滅びようとは思わないのです。どの主権者たちも主権を得て世界を支配し、万民を掌中に置いて統治してみたい心があるのです。しかし願う通りにはならないのです。そうではありませんか? その主権者たちはこのような民族と国家を望んでいるのですが、死の峠がなぜ来て、滅びの峠はなぜ来るのか? 願わざる事が起こるということが、歴史路程の悲惨さであることを知らねばなりません。ですからそれ自体が動機と解決点になっては駄目なのです。その動機と解決点は、他のところにあるのです。 ですから人類はその動機の世界と、結果の世界を求めてさまよっているのです。それではこの動機と結果は、どのようなものなのか? 人間による動機ではなく、神による動機であり、人間による結果でなく、神による結果にならなければなりません。真であるなら神から始まって終わるのです。そうなれば簡単ですが覆っているのです。人間が動機になり、人間が結果になり、この動機と結果は表現できないほどにからみ合っているのです。それゆえ、人間の動機と結果を除外しなければ、新しぱ機と結果に変わることができません。これを変えるために神は、無限の苦労をして来られたのです。 神におかれては、今日人間の世に死の道があるとしても、それ以上の場に立たれるのであり、苦しみの道があるとしても、それよりもさらに辛い苦しみの道を歩まなければならないのです。そうではないでしょうか。人間が死亡の淵に転げ落ちるのを防ぐために、それより何倍の力が必要なのです。違いますか? 転げ落ちるその程度の力でいいですか? それより何倍かの力が必要です。この地を生かすための天のみ旨があるとしたら、腐敗して腐ったところを解剖して除かなければなりません。そのために今日自分が受ける苦痛の何十倍、何百倍の辛い苦しみを、人間ならぬ他の存在が受けているということを知らねばなりません。これを知らしめることが、宗教の目的です。神様が救援摂理をされるとして、その理由がどこにあるかといえば、この事実を知らせて救援摂理をなさる神の心と我々人間の心を、一つの方向にするところにあるのです。 天と地の反映体である個人 皆さんに初めにお話したように、この社会と時代の悲しみと苦しみは、私に因縁があって反映しているのであって、皆さんの心と体に染みる悲しみと苦しみの淵を埋められない限り、皆さんと関係しているこの世界の悲運の曲折を、除去できる道理がありません。ですからイエスもこの地に来られ、ある相対的な所に天国があるとはされなかったのです。天国は自分の心にあると言われたのです。心に天国が成されない限り、他のある所に天国が成されることはないのです。従って私たちが生きているこの世界が、どんなに悪であったとしても、落胆してはなりません。この世界は私自身と因縁を持ち、私自身が反映している世界であることを知り、私自身が一つにならないで未完成であることを発見して、完成する人間にならなければなりません。嘆き呪うことがあっても、自分自身を呪咀する人間になるならば、その場から蘇生する道が開けてくるのです。 個人々々が集まって形成されたものが、世界であり人類です。しかし終末時代において全世界の人類は、一人の人間と同じです。全世界で起こる事実が、一人の人間の生活舞台で起こることと同じなのです。それは一人の心の反映であり、体の反映として見ることができるのです。 それでは終わりの日に、どうすれば勝利することができるのか? 心を収拾して、体と一つになれば勝利できるのです。これと同じく、全世界の人類の心を収拾して、人類の目的である生活舞台と一つになることができる何かが、現れなければなりません。 個人は天宙の模倣であり、天と地の反映体です。天地を代身する存在です。それゆえ私一個は、家庭の主人になることもでき、社会の主人にも、国家の主人にも、世界の主人にも、天と地の主人にもなれるのです。このような’私’にならねばなりません。天地を代身して、天と地の反映体である心と体が、実体の心と体の世界と完全一体、完全自動、完全自主となるとき、全天宙はその人間によって左右されるのです。原則がこのようになっているのです。 しかし人間が堕落することによって、このような私を失ってしまったので、この自分を回復しなければなりません。捜し求めるのです。求めるにある民族主義時代の私を求めるなら、天地を代身する心と体の価値が、その時代の指導者の他にはならないのです。歴史的な終わりの日に天地を代身して、心と体が一つになり、新しい栄光と、新しい理念を代身する人格を持つ一つの姿を立てるのが、神の摂理なのです。このような人格を持って現れるお方が、来るべき主であるのです。来られる主は天地を代身するお方ですから、心では天を動かし、体では地を動かすことができる存在なのです。 本来人間は、本然の実体として天地を動かしうる存在になるべきであったのに、堕落によって死亡の世界に落ちてしまったのです。このような人間を覚まして、民族的な代表に立て、国家的な代表に立て、世界的な代表に立てたのです。人間と天と地を一つに和することが創造原則ですから、人間を世界的な一つの中心存在に立てるということが、救援摂理の目的です。 主が経るべき路程 それではこんな中心存在になるためには、どうしなければならないか? ヤコブを中心に見るとき、彼は天が認める家庭的な中心存在になるために、その一代において苦しみの道、犠牲の道、死を覚悟する路程を経なければならなかったのです。家庭的な環境のすべての困難を、越えなければなりませんでした。 心ではすべての理念を抱き、体では環境的な困難に克ってこそ、自己に対する中心使命を完結することができたのです。そうではありませんか? モ-セも同じです。モ-セが新しい理念を抱き、イスラエル民族を率いてカナンの地に向かう路程において、苦痛と犠牲と曲折がぶつかる環境に耐えて越えてこそ、カナンに入ることができたのですが、そうはならずに倒れたのです。民族的な試練にぶつかり、倒れてしまったのです。 このように家庭を過ぎ、民族を過ぎ、国家を過ぎ、世界に向かって行くとしたら、救い主として来たイエスもこの地上で、平安な場で救い主になることはできません。もしもイスラエル民族がイエスを殺すことなく、イエスと一つになったとしても、この世界を神の国にするには苦痛の闘い、曲折の路程を経るのです。個人から家庭、民族、国家、世界を経てゆく歴史的な摂理路程もすべてそうなのです。それゆえ全世界キリスト教徒もどんな道を経るかといえば、第一イスラエルであるイスラエル民族がイエスを十字架で殺して滅んだので、第二イスラエルのキリスト教徒も新しい主権国家の民になるために、死と迫害と苦痛と忍耐の路程を、開拓してゆかなければならないのです。 終わりの日に主が来るとしても、栄光の中に現れ、歴史的な悲しみの事情がからむこの地に向かって、一挙に号令をかけることはできません。歴史を支配する者は歴史を通して現れ、世界を支配する者は世界を通して現れ、天地を動かす者は天地を通して現れるのです。皆さん、そうではありませんか? 歴史的な終末時代、世界的な終末時代、あるいは摂理的な終末時代であるこの時、この世を支配される主が来るとして、歴史と神のみ旨を中心に見るとき、そのお方も歴史的な因縁の時期を通過しなければなりません。でなければこの世界を支配できないのです。そのお方は悲しみと苦痛と死と悲哀が染みるこの地の歴史的な現実において、勝利する者でなければなりません。でなければ矛盾するのです。歴史的な艱難を通過し、摂理路程に勝利するお方です。この摂理路程には見えるこの地だけでなく、見えざる無形のサタンもいるのです。即ち、怨讐がいるのです。この怨讐と闘って勝利しなければなりません。神を求める路程だけでなく、怨讐と闘う歴史的路程にも勝利しなければなりません。怨讐にまで勝利した者、と公認されなければならないのです。 この地に必要な救世主 また、次には終わりの日にこの世界を支配できる主人は、どのような勝利者なのか? 神の心情の本質において、勝利する者でなければなりません。神様が人間を創造されて子女として立てられたので、それを極めて愛するのが父の心なのです。しかし人間が堕落することによって、その心を充たしてあげられなかったので、人間が堕落する前に神の心に深く染みていた心情、その愛の心情を充たしてあげる者でなければなりません。 ところでそれが、いっぺんにできることでしょうか? 人間が堕落したその日から、神様は悲しみを伴ってきたのです。堕落以後アダム家庭からノア、モ-セ、イエス、そしてイエス以後今までの二千年の歴史路程において、イエスと聖霊が闘ってきた心情的な歴史の基盤を通さなければなりません。これから来る主は、まさにそんなお方でなければなりません。そんな主が私たちに必要であり、この地に必要なのです。そんなお方であってこそ、怨讐の勢力をくじいて勝利することができ、神のまえにすべてのものを思いのままに主管することができるのです。 それではイエス様がこの地に来られて、勝利されたでしょうか? しなかったのです。摂理路程を歩まれたが、サタンによって十字架に釘打たれて逝かれたのです。イエス様は’わが父よ、もしもできることでしたらこの杯を、わたしから過ぎ去らせて下さい’と、悲哀の因縁を越えてゆかれたのです。このようになるのは父にも苦喪であり、息子も苦喪だったのです。神が善を中心に、息子・娘を自由に懐に抱いて愛することのできる因縁の基台を成すことなく、イエス様は逝かれたのです。であるなら、このように行った主様がその如くに来られるでしょうか? ではないのです。 ですから終わりの日に、世界を支配できる新しい理念に向かって行くという群れがあるなら、歴史的な因縁、摂理的な因縁、天情的な因縁を通過しなければなりません。人情ではなく天情の因縁を通過しなければなりません。歴史が公認し、摂理が公認し、お父様が心情から愛して’おまえは真の忠臣、孝子、烈女よ’とされなければなりません。そんな内容がなければならないのです。 それでは、再び来る主が天上世界からそんな内容を持って来られるのか? それでは救世主になれません。悪なる者の救世主になるなら、悪なる者以上の内容を持ち、罪人の救世主になるには罪人以上の深い内容を持ち、殺人強盗の救世主になるには、殺人強盗以上の曲折の心情を通らなければならないのです。でなければ、彼らを救援することはできません。 来られる主はどのような心の本質を持って来るのか? そのお方は歴史の曲折がどんなに多く大きいとしても、そのすべての曲折を自分のものとして持って来られるのです。それでこそ救世主なのです。死の場に入っても対策を立てなければなりません。それでは主がこの地に来られる前に、どのような事が起こらなければならないか? この地上の悪なるすべての事は、みな自分のためとする群れが現れなければなりません。このようになったのも私の責任、あのようになったのも自分の責任とする、すべてのことに対して責任を負うという群れが、出てこなければなりません。でなければ主は来ることができません。私が知るには、そうなのです。 このように見るとき、今日この世界で怨讐に打たれるか、賞賛されるかする民族がなければなりません。判決はどこで決められるのか? 自分の側と、他の側がぶつかる場において決められるのです。そして打たれるときも、悔しく打たれるか当然と打たれるかが問題です。苦痛を受けるときにも、悔しく受けるか、当然として受けるかが問題です。 すべてのことを神を主とする時 私は時に皆さんが苦痛に打たれることがあるなら、当然のこととして打たれるのではなく、悔しく打たれる者になることを望みます。そんな皆さんでなければなりません。分かりましたか? これは三千万民族のまえに叫びたい内容です。今まで韓民族が当然のこととして苦痛を受け、当然のことして悲しみに打たれたか、でなければ悔しく苦痛を受け、悔しく悲しみに打たれたか、ということを推し量ってみるとき、常に悔しく打たれてきたのです。ですから我々の民族は滅びないのです。 天倫はこのような方向を求めるのであって、この民族の中の悔しい者を糾合すべき時が来たことを、知らねばなりません。悔しく苦痛を受け、悔しく追われ、悔しく突かれる群れを通して、新時代の門が開くのです。追われる群れが時代を革命してきました。悔しい者たちが時代を革命してきました。当然の事実ではない場、即ちその時代の原則ではない場で、革命してきたのです。 皆さん、この韓民族において、特に青年男女を知らねばなりません。憤ることがあったなら、その憤りが誰のための憤りであるか、考えてみなければなりません。自分のゆえの憤りであるなら、耐えなければなりません。求道の道は自分を中心とすることではありません。自分を中心とすることは、善ではないのです。 善とは自分以外の相対的な世界の為であり、その為にすることが大きいか小さいかによって、その価値が大きくも小さくもなるのです。真というものは自分を主にすることではなく、天を主にすることです。ですから大きな天を主とするには、大きな世界を自分のものとして、大きな天のまえに近づいて行かねばなりません。世界を自分の心に抱いて行くというのが、天の考えです。 皆さん自身が悲しく、難しく憤っても、それで終らなければなりません。皆さん自身が千万べん憤っても、この民族は憤りの場に立ってはなりません。この民族がどんなに憤る場に立っても、この世界が憤る場に立ってはなりません。さらには、この世界がどんなに憤る場に立っても、神が憤る場に立ったら駄目です。より大きなものが、憤る場に立ってはなりません。善は自分を基盤にして、より大きなものに広げてゆくことです。 家庭のために奉仕し、血と汗を流し、死を覚悟する者はその家庭の主人になるのです。社会のために苦痛を受け、奉仕して死を覚悟する者は、その社会の責任者になるのです。国家のための忠臣もそうであり、天の為に闘う人間も同じです。 神は六千年の間摂理され、神を信じるキリスト教徒に、最も良いことを教えてあげたのです。世の為ではなく、世界の為でもなく、自分の国の為でもなく、自分の家庭の為でもなく、この地上の誰の為でもなく、神ご自身のみの為にとされたのです。大きな人間になるにはそうなのです。 家庭の為に立つなら国家が打つのです。国家の為に立つなら世界が打つのです。世界の為に立つなら神が打つのです。それでは打たれない最も中心が何か? 神の為ということです。 神の恨を解怨する孝子孝女 神が復帰摂理歴史路程を経てこられる間、我々の先祖たちは血を流し、死の峠を越えてきたのです。今民族主義時代が過ぎ、世界主義時代も過ぎ、新しい統一の理念をもって、天を中心とする新時代がきっと来るのです。この時には歴史路程において耐えてきた私たちが解放されるのです。この解放の時代が、今日のキリスト教でいう’千年王国’です。 皆さん、今私たちはもう一度、振り返って見なければなりません。今この世で悔しく打たれている大韓民国は、哀れな国です。この世でも悔しく打たれれば同情し、助けてくれます。悔しく打たれる人には味方が生じるのです。この韓民国も悔しく打たれるので、味方が多いのです。どんなに難しい状況に処しても、今は飢えて死ぬことはありません。 それでは、この民族がすべき事が何でしょうか? 神を抱かなければなりません。神は悔しく憤るとき、その悔しい憤りを誰にも訴えたことがないのです。人間に訴えたことがありません。良心的な人々も、悔しく死の場にゆくとき、この国に対して自身を知ってくれることを望まなかったのです。神のみが知ってくれることを願ったのです。個人がそうなら家庭もそうであり、民族もそうであり、国家もそうでなければなりません。ですから悔しい国家の立場に立つこの国の三千万民族は、心を一つに合わせ’神様、私たちは知りました’という運動を起こさねばなりません。であれば、滅びることはありません。 それでは再度、考えてみるのです。私たちが’神様、私たちを知ってください’というとき、神の立場はどうであるかを考えてみるのです。私たちだけが悔しく憤ることは決してありません。神様は私たちよりもさらに悔しく、より憤る立場、より哀れな立場に処しておられるのです。なぜそうか? 神様は愛する息子・娘、善の側が哀れに追われ打たれることを見るとき、’お、よくやった’とされるでしょうか? 胸が破れてとける痛みを感じられるのです。私たちが受ける悲しみよりも、されに大きな悲しみを受けて私たちを見つめられる神様なのです。 この民族が神の心だけを知る日には、この民族は天地を支配するようになるのです。どうしてそうなのか? 数多くの子がいて、数多くの民がいたとしても、最高の孝子孝女、忠臣は一人です。堕落した人間の父母でさえ、同じ子でも悔しく打たれる子をより思うのが人の常ですから、まして神はそうではないでしょうか? ですから私たちはこの地で、我々の民族が苦しんでいることを神に訴えるのではなく、’この民族を見つめられるアボジの心はどのようでしょうか? どうか私たちの苦しみによってお父様が苦痛を受けることのないように願います。私たちが苦しみを受けるこの道を、自信をもって行きます。死の道のために苦しみを受けないでください。私たちがこの道を行きます’とするかたい覚悟をもってこそです。それでこそ最後の忠臣を決定する山場で、天地が公認する最高の忠臣になるのです。 神は何を求めておられるのか? 神はある民を求めているのではなく、最も愛する孝子孝女を求めるのです。孝子孝女を求めて立て、民に誇りたいとされるのです。世界を収拾して一民族を求め、イスラエルを立ててここに一つの血族を求め、一つの血族を収拾して一つの家庭を求め、一つの家庭を収拾して一人の人を求めるのです。この一人の人を求めることが、世界を求めることであり、この一人の人は神のすべての歴史的な恨を解いて差しあげる心を所有する、孝子でなければなりません。そんな孝子が現れてこそ、彼によって悪なる人々が、贖罪を受けることができるのです。 私たちが悔しい場にいるなら、天はより悔しいということを知りました。新しい時代に向かって越えるとき、歴史的な因縁と摂理的な因縁、心情的な因縁の過程を通過しなければなりません。この路程を通過するにおいて、民族が悔しく打たれていることを見て、これを眺めてばかりいては駄目です。それを見つめるアボジの心は、より苦しいのであって’私たちが喜びの心でこの場に立ったのです。私たちを見て民族を許し、世界をお許しください’としなければなりません。そんな人々になれば間違いなく、神が愛する息子・娘になり、天地の遺業を相続して、全民族がその前に頭を下げるのです。私はそれを確信しています。歴史はこのように流れてくるのです。 新時代の役軍とは 今日ここに集まった皆さんに、み言を伝えました。恨多いこの民族、今私たちはこの民族の恨の原因が、ある主権者にあるとは言わないのです。’私の責任であり、私たちの責任です。彼らは私たちを代身した者です’とするのです。彼らが寂しいとき、私たちも寂しく、彼らが苦痛を受けるとき、私たちも苦痛を受けなければなりません。これが私たちが行く道なのです。この国の運命を見やり、今私たちが行くべき方向はこの道のみです。これは私のことだ、国に悲しみがあればそれは私の悲しみだ、として’万民よ! あなたたちの悲しみを神様に告げないで、私たちに告げよ’とする息子・娘になることを望みます。分かりましたか? 私たちに悲しみがあっても、神の悲しみを知る私たちはこれを恨としないのです。民族のまえに出て、あなたたちのすべての悲しみを私たちに告げよ、として彼らの悲しみに責任を負い、死と犠牲と忍耐で防ぐという群れがいるなら、その群れは神のみ旨を代身する生きた実体として、この地上の善・悪を審判することができる主人になるのです。神様はどこの民族、どこの教派にこのような群れが現れるかと、六千年の間待ち焦がれておられます。私たち以上の苦痛を受け、私たち以上の死の峠を越え、私たち以上の悲痛な曲折の心情を抱いて、安息の基台を捜せないまま、喘ぎ求めて来られたのです。私たちはこのようなアボジの姿を、知ってあげなければなりません。 お父様のこのような姿を知り、お父様が歴史路程において苦労されるのも私のためであり、この時代の摂理のみ旨のために苦労されるのも私のためであり、未来の希望のために苦労されるのも私のためであり、私のために苦労されるお父様のまえに、孝子となるべき因縁があることを知らねばなりません。これを万民を代身して責任を負うとする者たちだけが、新時代の役軍になり、新時代の天のことを任せて処理することができる人間になれるのです。 ですから終わりの日に来る主は、雲に乗っては来ないのです。雲に乗って来ては駄目なのです。そのお方は苦しみの王者であり、迫害される王者であり、忍耐の王者なのです。最高の迫害も受け、最高の怨恨に染み、悲痛なる心情を抱いても世界を抱き、’アボジ、こんな事は私がそっくり受けるべき人間的な世の中の事ですから、私に対して無念に思わず、苦しむことなく、胸を痛めないでください。これは私が今やらなければならない責任です’として、自分が人類の苦痛と死亡圏のすべてをを一時に背負い、お父様の責任をこの地上で完遂したとする者であってこそ、救世主になることができるのです。 こんな人格体を立てるために、神は苦痛を受けたのです。このようなことが、すでに皆さんにお話した題目なのです。 天は私たちのために、何を受けたのか? 私たちは、私たちのために打たれた神のその苦痛の内情を、知らなければなりません。人々は七、八〇年の短い人生を生きて、怨讐が多いの何がどうのと、心が平安な環境になっていないのです。天の反映であり、地の反映である個人がそうなら、このような個人の主体であり、地の主体であられる神はどうでしょうか? 六千年の間、神の涙の乾く日が一日としてなかったのです。 皆さん、皆さんは神様はどんな涙を流されると思うの。皆さんの涙はどこから始まったのでしょう? 神様も知、情、意をもっておられます。神から創られた人間に知、情、意があるのですから、神様にあることは言うまでもありません。 サタンは六千年の大怨讐 たとえこの地の上の人類が堕落の後孫であっても、神ご自身の血族であり、直系の息子娘ですから、失った息子・娘を捜す父母の心情、それ以上の心情をもつお方が神様なのです。ですから私たちがこの地に対して涙を流し、死と苦痛に倒れ、悲哀に染みて悲しむ場面々々が、まさに神の悲しみと悲哀の反映である場面々々なのです。それゆえ善なる人を蔑み、善なる人を迫害し、善なる人を殺す個人、家庭、民族は長くゆけないのです。なぜか? 神様がこれを記憶されているからです。 ですから私たちは自身の涙が落ちる度に、天の涙が落ちることを知らねばなりません。私たちが怨讐に憤り、痛切な心がわき起こる度に、神様は容赦の涙を流されることを知らねばなりません。怨讐に仇を打っても’やあ 、こいつめ、よくぞ死んだ’というそんな神ではありません。人を怨讐と思って打つのではありません。人間は怨讐ではありません。六千年の大怨讐がいるとして、それは人間ではなく、人間を惑わすサタンなのです。サタンが怨讐です。 立派な裁判官なら、ある罪人に極刑を下すとして、彼のために涙を流すことを知らなければなりません。人間の個体は極めて善なるものなのです。耳目口鼻を持つその実体は、満宇宙を代身する貴い聖体です。そんな聖体の心を動かす悪が悪いのであって、その悪を審判する権限はあるが、その体を審判する権限がないと涙を流す裁判官なら、天上に行って引っ掛からないのです。もしもそうではない非法度的な心をもって、天のまえに一度行ってごらんなさい。どうなるか。 天は滅亡する民族を、呪咀する民族を打つのです。審判を受けて倒れるその民族を見て嘲笑する人間を打つのです。我々韓民族は歴代にわたって、数多くの民族の被圧迫国家として、こっちに踏まれ、あっちに踏まれてきたのですが、この民族は他の民族に対して怨恨がありません。侵略を知らない民族です。私が見るに有難いことです。打たれる場において涙して自ら嘆いても、他を恨むことを知らない民族性を持っているのです。これを見るとき、この民族には希望があるということを、私が感じるのです。 皆さん、皆さんのまえに、不具戴天の怨讐の人がいますか? その人が怨讐ではありません。民族と対決し、理念と対決してきた反逆者は人間ではなく、まさに大怨讐サタンであることを知らねばなりません。 人類の苦喪に独り責任を負われる神 神様が天と地が一つになることを、どれほど願っておられるか知っているでしょうか?神様は我々の先祖がエデンの園から追い出されたその瞬間から、神と人間が父子の間の心情を通して、一つになることを苦待されたのです。もしも人間が堕落しないで、天に背反しないで怨讐が生まれなかったなら、我々はきっと理想世界を迎えたのです。今日二〇世紀のような科学文明は、何千年前に出来ていたのです。現代文明は文芸復興以後、四〇〇年という歳月を通して成されたものです。今日この文明は四〇〇年の間に建設したと誇ってはいるのですが、もしも神様が直接干渉されたなら四〇年、いや一代でこんな文明の世界が建設されたかも知れないのです。 ところが曲折が起こったので、神はここに一つの理念を立て、一つにするための苦喪の歴史に、独り責任を負って来られたのです。神は民族に対し、国家に対してこられる間、この天地にご自身の足跡を残さない所がないのです。善なる者が倒れるごとに、そこには神の涙が落ちるのです。善なる血族は滅びることがありません。神の息子・娘が迫害されて追われるその場には、神の汗のしずくが落ちているのです。その神の涙と汗を占領する者がいません。サタンもできません。 悪とは、利用するのが本質であり、善とは、利用されるのが本質です。利用する本質を持つサタンが、利用される本質を支配することはできません。支配しようとすれば、自分もそうなるからです。ですから求道の道は、為にすることが本性であり、本質なのです。為にする本質を高めるために倒れた者が流す涙は、神の涙であり、彼らの血と汗は神の血と汗なのです。 この民族は今、混乱した状態におかれています。青年男女の皆さん、私たちには血と肉があります。私たちの心情には、情が流れています。心臓が鼓動するたびに、動脈と静脈を通して血が躍動しています。骨と肉と血を通して流れる、汗と涙があります。誰の為にそれは流れるのか? 民族の為に倒れることも良いです。ある主義思想の為に倒れることも良いです。しかし何よりも、神を抱えて倒れるのでなければなりません。であれば皆さんは、滅びはしないのです。 イスラエル民族をごらんなさい。彼らはイエスが来て行って以後二千年の間、流離孤客の民族となったのです。どこの社会に行っても、その社会から追われたのですが、今日世界の経済は彼らが左右しており、新文化も彼らの基台によって成ってきたのです。彼らは追い出されるときに歯を食いしばり、涙で神を呼んだのです。このような歴史路程が残っている限り、神は悲しむ他はなかったのです。 統一勇士の行く道と責任 今日皆さんはこの統一教会に来て、膝を屈しています。この統一教会の人々は迫害されています。ここで語る人間も同じく、憤って恨む事情があり、悔しい心情があるのです。私には怨讐がありません。私一人の存在を追い立ててこの民族が福を受けるなら、そうなることを望む人間です。 統一食口の皆さん、私たちの胸には血が流れています。しかし四肢五体を通して流れる血が止まる日には死ぬのです。皆さんはアボジがいることを忘れることなく、死ぬ瞬間まで、このみ旨のために汗を流してください。このみ旨を決して後代まで延長させないで、自分がきっとやるという確固たる心で身悶えるなら、皆さんは滅びることはないのです。 愛する子女が鞭打たれるのを見るとき、神は打つ民族を踏みにじりたい思いが、どんなに強いでしょうか? しかし怨讐を滅ぼすことが目的ではなく、人間を滅ぼすことが目的ではないので、そうはされないのです。怨讐は憎んでも、人は愛される神様なのです。 我々が天地を恨み呪咀すれば、天は悲しみ、サタンは喜ぶことを知らねばなりません。それゆえ怨讐に仇を返すとしても、人のためには涙しなければなりません。そうではありませんか。 統一勇士の皆さん、私たちの前途には闘いの道が畳々と連なっています。険しいいばらの道が残っています。これがこの民族の、ある問題を解決することで終わるのではなく、世界を越えて、天上の世界まで行くべき道が残っているのです。この道を行く皆さんの涙は、六千年前のアボジの心情の、最も奥の奥が動機となっている涙であり、千万年も神が喜びの園で、踊ることができる世界のために流す涙なのです。この世界に向かって行く皆さんは、倒れることを知らず、力強く突進しなければなりません。そうなればここから、神が打たれた事情は解かれてゆくのです。 このようになるや神は’おお 、愛する息子・娘よ、地の上に数多くの人が生きてはいるが、わたしの心情を代身して闘った人がいないのに、今はおまえとわたしは、同じ場に立って闘うのだなあ ’と慰めを受けられるのです。 このような姿が、迫害される統一の群れなのです。狭こを行く私たちに曲折があるこの場面でも、私たちは嘆く環境を克服して、この民族の恨を自分一身に背負い、世界的な迫害に責任を負うとしなければなりません。’アボジ、このすべての事に私が責任を負いますから、今日私が打たれることが世界が打たれることを代身し、私が慟哭することを、後世の慟哭によってお受けください’とする私たちにならねばなりません。であれば私たちは滅びないのです。 先生は今まで皆さんの前に、今から行かべきときに涙を流せとしました。血と汗を流せとしました。ここに立っている人間は、そのように闘ってきたのです。弁明し、避ける者では決してありません。皆さんが涙を流せば、私は血を流すことも意に介さず、皆さんが汗を流せば、涙を流すことも意に介さぬ心を持つのです。でなければ民族の行く道をつかむことはできません。 今日、皆さんに聞かせるこの師の勧告を、言葉として聞くだけで終わっては駄目です。天が私たちのために打たれた山場々々の、歴史を知らなければなりません。私たちがある何かを打たれたとしても、天が打たれた山場に比すべくもなく、どんなに悔しくとも、神の悔しい心情に比すべくもないのです。私たちは歴史的な罪悪の宗族です。どうか願わくば、今日この場に参席した皆さんたち、来てそのまま帰る人にならないでください。 心情の悔しさと憤りを抱いている人類です。それゆえ私たちはこの恨を、えぐり取ると同時に神に侍り、サタンとの闘いに責任を負うべき立場であり、さらには哀れな人間を抱いて愛すべき立場なのです。神が私たちを捜し立てられたことは、ご自身のことを任せるためのみ旨があることを知って、このような責任を負う皆さんになることを、許諾されたということなのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.27
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3月27日(土)午前10時から『2021 天地人真の父母様 天宙聖婚61周年記念 孝情 Youth Blessing Fesitibal』がオンライン生中継で開催予定です。映像はPeaceLinkホームページを通して全世界に配信されます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ ※ 4/4(日)午前10時から「天の父母様聖会平和祝祭」を行う旨の発表が世界本部よりありました。これもまた、PeaceLinkホームページを介して配信される予定となっています。
2021.03.25
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「真に行きたい所」ヨハネの黙示録 第21章 1-6節1960年10月2日(日)前本部教会 今日お話する題目は「真に行きたい所」です。「真に行きたい所」という題目でしばらくの間、お話します。 より良い所を捜し求めている人間と神 地上に生きている数多くの人々は、この時間にも自身も知らないで、より良い所を捜してさまよっているのです。地上に生きている人間がそうでありますので、地上に対しておられる神様もやはりそうであるというのです。我々が生きているこの地上が、本当に良い所ではないという事実を認定するとして、そんな中で生きている我々の個体もやはり、真のものではないという事実を、自認せざるを得ないのです。 真の世の中と、真の自分自身ではないという事実を認定したならば、この世の中と我々に対しておられる神も、本来のお姿としておられないということを、我々は認定せざるを得ないのです。 神様が自らこの人間を率いてこられる歴史路程において、神が人間を真のものとして苦待して来られた存在であるとして、不変の基台の上に立ったならば、我々人間も真のその立場に立つことができたのです。ところで今日、神様がそんな立場におられないので我々人間もやはり、願わざるこんな立場で生きていると見るのです。 言い換えれば、人間が不完全な状態で、真なる姿を慕っている立場でありますから、人間と切ることのできない因縁を持っている神も、人間と共に不完全な立場におられざるを得ない、悔しい立場であることを我々は忘れてはなりません。 天と地が慕うと同時に、天から由来するところの全てのものもやはり、真なる所を慕っているということを、歴史的に見ても、何を見ても否定することができないのです。真なる所、真に行きたい所は、現実の我々が慕っているのみならず、歴史を編んできた過去の先知者たちも慕い、また我々の後孫も慕わざるを得ない所なのです。 真に神が愛であり、全てのものの中心が神であるとしたならば、神はきっと真ならざるこの人間世界を開拓しなければならない責任があり、地上に生きている我々も、神との共同目標のもとに共に動いて、慕わしい真なるその所を開拓しなければならないのです。 我々には善を指向する良心があるとして、この良心はこのような目的のもとに動かなければならず、宗教団体であればこれもやはり、このような目的のために動かなければならないのです。心から愉むことができ、生活も愉むことができ、社会が愉むことができ、人類全体が愉むことができる「真に行きたい所」に、人生行路において出逢はなかったとしたならば、歴史が過ぎ去りまた去っても、人類に真なる幸福はあるべくもないのです。幸福を主張するどんな理念も、これは不可能なのです。 神がおられる限り、必ず真に行きたい所、喜びで生きる所がこの地上に完結されなければならないのです。これが完結されない限り、この地上に戦争が終わらないのであり、全ての矛盾した現象を除くことはできないのです。 このような人間を救うための救援の目標を、総体的に宗教的な言い方をすると、天国と言っているのです。ですから宗教で言っている天国、この天国回復運動が展開されない限り、我々は真に行きたいその世界に行こうにも行けないのです。神がおられるとして、このような世界を必ず成さねばならないのです。もしも人間に対して約束されたその話の目的を果たさない神であったならば、我々にそんな神は必要ないのです。 真に行きたい所とはどんな所か 神がおられるとして、このことを解決しなければならず、また神に従う人間がいるとして、その人間は人生路程においてこのことを引受け、やり遂げなければならない運命の道を行くのです。このようにして成された世の中を、理想世界というのです。 もしも人間が堕落しなかったら、真に行きたい所という話は必要ないのです。なぜなら堕落しなければ、すでにその場に行っているからです。そのような世界に人間が生きていたら、復帰摂理、すなわち救援摂理ということは、我々には必要なかったのです。 しかし人間は、このような全てのことを失ってしまいました。ですから今までの多くの英雄烈士たちも、全てを失った立場で出発したのでした。過去の多くの人々が真に行きたい所を捜すことを願い、今も捜していますので、我々は全てのものを失った立場にあるということを、否定することができないのです。それで人間が堕落しているというのです。 堕落によって、我々が願うその希望の世界とは関係がないものになり、永遠なる存在に向かって前進しなければならない心的な理念の世界は行く所ではなくなり、肉的な理念を成すのに汲々としている世界になってしまっているのです。心から願い、心が愉むことができる理念の世界、すなわち天国を失ってしまったのです。しかし心が作用する限り、必ず心が指向する目的の世界を成そうとするのです。 それでは我々が真に行きたい所があるとして、それはどんな所なのか? それは我々が呼んでいる神に出会う所です。神に出会うと同時に、真の父母を中心とする真の家庭がある世界であり、真の兄弟がいる世界なのです。さらには真なる民と、真なる主権を中心とした、真の国であるのです。 しかし歴史上に数多くの人々がおりましたが、神の真の姿を見た者はなく、真の父母を持った者がなく、真の兄弟を持った者がなく、真の国王と真の主権を持つ国家がないのです。ですから今日も、そのようなことを求めているのです。 このように見る時、我々は最善の理念的な要素を、全て失った状態にあるのです。それで我々自身が、どれほど哀れな存在であるかということを感じなければなりません。こんな現実の中で生きている自分自身が、どれほど哀れであるかを感じなければならないということです。 我々はここにおいて人生行路を新しい方向にと転換させる、基準を立てなければならないのです。現在自身が立っている立場が、どんなに幸福だとしている人間であったとしても、その幸福が永遠に継続するかといえば、そうではないのです。誰かれを問わず、地上に生きている全ての人間は、口に言えないほど哀れな者なのです。勿論、現世において哀れに生きている人間も哀れですが、どんなに権力があり、堂々たる人間であっても、彼らもやはり哀れな存在であることを感じなければならない時が来るのです。 我々人間が面している現実 今日の韓国の実情を見やれば、全てが生活に縛られているのです。社会的な事情に縛られているのです。解決しようにも解決できず、どうにもならない立場に縛られているのです。明日に向かう希望の心情は強いのですが、そんな問題を解決する考えさえもすることができない事情に縛られているのです。この現実が自分を永遠の幸福の福地、真に行きたい所に引っ張って行ってくれればいいのですが、むしろそれと反対の方向に、自分を引っ張っているのです。ここに争いがあり、苦痛があるのです。 ですから皆さんはこんな環境を解決するにおいて、親友が必要だと感じる時があるのです。さらにはこのような環境を開拓する、指導者を願うのです。しかし親友と指導者があったとして、全てのことが解決されれば分かりませんが、そうではない時には深い心情を通してこのような環境を解決することのできる、真の兄弟が慕わしいのです。兄弟のみならず、さらにはこのような環境に責任を負う私を抱いて愛してくれる真の父母を慕わざるを得ないのです。 それでは今日、皆さんがこの環境において持つ親友が、真の親友ですか? 皆さんがこの環境において持つ兄弟が、真の兄弟ですか? 皆さんがこの環境において持つ父母が、真の父母ですか? 違います。違うというのです。 堕落の因縁によって絡んでいる環境ですから、そこにある全ての親友も堕落の因縁を脱ぐことができない親友であり、父母や兄弟もやはりそうなのです。このような立場に縛られている我々なのです。 もしも真に行きたい所で、神を中心として、本然の父母を中心として、本然の兄弟を中心とする本然の理想的な一つの家庭が成されたなら、それはどれほど幸福なことでしょうか? しかしこんな理想的な条件を全て失い、これを慕いながら観念的に考えなければならない立場におかれてしまったので、人間はどんなに哀れでしょうか? こんな哀れな人間を救うことが、神の愛なのです。こんな愛の神ですから、地上の人間が知らない間に、地上の人間が死亡圏に縛られ身もだえている間に、神は我々の背後で、あるいは前で、この道を開拓するために無限に苦労されている事実を、皆さんは知らねばなりません。 皆さんはこのような環境に嫌気がさすつどに度に何かを憧憬し、その位置が嫌になる度に、新しい何かを考えるのです。しかしこれは皆さん自身だけが考えることではありません。そんな度に神は皆さんの背後で、あるいは前で、皆さんを本然の目的世界にと率いておられるのです。こんな神のみ手が、皆さんと共にあることを皆さんは知らねばなりません。 この時間は、神がこんな環境にいる哀れで惨めな我々の心の門を開いて入り、我々を真の所に行かせる衝撃を与えて下さる厳粛なる時間なのです。ですからこの時間こそは、わが一生においてなくてはならない重要なる時間であることを、知らねばなりません。この時間に受けた新しい衝撃と感じたものを通して、我々はこれまでの生活を分析して自我を批判し、新しい自分として明日に向かわなければならないのです。このようなことは、皆さんの個人生活や家庭生活、あるいは社会生活を通して沢山体験することです。 先決しなければならない問題 神はこれまでの歴史路程におきまして、孤児のような哀れな人間を救うために親友の立場で、あるいは兄弟の立場で、あるいは父母の立場で、さらには師の立場で摂理されてきました。それでもダメな時には僕の立場で摂理されてきたのです。今日、この時間にも天は救い主として、あるいは父母として、あるいは兄弟や親友として、我々の前に現れて来られることを知らねばなりません。 歴史的な聖賢や偉人たちがこの地上に来て、人類歴史に貢献してきたことは、自分自身が優れていてそのようになったのではないのです。その人々は、環境と悪に対して敵愾心を感じ、時代を批判し、大衆のまえに新しい方向を示してやるために、天が送った人々なのです。 歴史路程においてこのような人々を、我々の先祖たちは一度も歓迎してみなかったのです。むしろ彼らを迫害し、ついには死の峠にと追いやった事実を、我々はよく知っています。ですから図々しく頭をそらしてどんなに立派な姿だとしても、神の立場で見るならこれは許すことのできない反逆の一族だというのです。 皆さんの体には、天の召命を受けた人々、天を畏敬し、天のために生きたその人々を殺した先祖の血と肉が残っているのです。昔そんな人々を殺した彼らだけが逆族ではなく、天に背反した彼らだけが背反者ではなく、その血と肉によるところの今日の我々自身も、そんな立場にあるのです。 天は過去の歴史路程においてのみ役事されているのではなく、皆さんが生きている今日の現実においても、役事されておられるのです。皆さんは知らないでしょうが、天は真なる親友として皆さんを捜し求めている時もあるのです。ある時には真なる兄弟として捜し求め、ある時には父母として、師として皆さんを捜し求めたのです。しかし我々はその神を親友として侍らず、兄弟として侍らず、父母として侍らず、師として侍らなかったのです。これ以上の大きな罪がどこにあるでしょうか? 召命を受けた彼らは、一国家を代表した者ではないのです。天上から地上に至るまで、全被造世界を代身し、創造主によって召命された人々であるにもかかわらず、地上の人間たちは背反し、迫害し、追い立てて殺し、やりたい放題のことをしたのです。このような見地から見てみるなら、我々は歴史的な血統を通して生命を受けている存在ですから、どうしょうもなく全部が、天のまえに許しを受けることが難しい背反者であり、罪人たちとならざるを得ないのです。 罪あるところには、幸福はあり得ないのです。罪あるところには苦痛がつきまとい、苦しい事情が押し寄せることによって、破壊されて終わってしまうのです。 地上に生きている数多くの人類は、心の底に深く染みこんだ歴史的な苦痛を、未だに精算できないでいるのです。歴史的な悲哀を、我々の体から取り除けないでいるのです。 それではこのような歴史的な絶望、歴史的な苦痛、歴史的な悲しみ、歴史的な死亡の勢力を、どのように収拾するのでしょうか? 歴史的な苦痛を通して求め入ってくる死亡の勢力をどのように精算し、この悲しみと苦痛をどのようになくすのでしょうか? 人類はこの問題を解決しなければなりません。これがこの時代にある我々の、切迫した運命なのです。ですから我々は心を集中し、精神を集中し、真心を注いで収拾しなければなりません。今はこのような時なのです。環境も再び収拾し、またさらには心と心情まで再び、収拾しなければならない時なのです。自分を中心として、このような生活をどのように収拾するかが、問題なのです。最後に求める歴史的な審判の関門に向かって行く人類は、この死亡の勢力を解決しなければならないのです。この問題を解決しない限り、真に行きたい所があったとしても、これは我々と何らの関係もなくなってしまうのです。それで全体を精算しなければなりません。 神の最も大きな憤り 我々は神がおられることを知り、神と反対のサタンがいることも知っています。サタンはどんな存在か? 歴史路程において、罪人中の最高の罪人です。これまでの6千年の間摂理されてこられた神の前に、サタンは反対してきたのです。6千年の間、一日も抜かすことなく反対し、今この時間にも反対しているのです。 人間はどんなに悪であるといって、心では天に従うという考えをもっています。真を考えているのです。しかしサタンはこんな人間の心まで、破壊しようとしているのです。このように天の役事に反対してきたサタンですから、全世界がサタンの舞台になっていると同時に、皆さん自身までもサタンの舞台になっているのです。 それではこのサタンを屈伏させるには、どのようにしなければならないでしょう? 過ぎ去った歴史上の罪を、精算しなければなりません。歴史上に累積された全苦痛を除去しなければなりません。時代的な苦痛が問題ではなく、歴史的な苦痛を除去しなければならないのです。このサタンを自分から追放するには、どうしなければならないか? 歴史的な悲しみから、自分が解放されなければならないのです。そうなればいいでしょう? 世の中に恐ろしいものがあるといって、サタンよりも恐ろしいものはありません。この時代がどんなに恐ろしいといって、この時代はいずれ過ぎ去ります。しかし人間が堕落したその日から、人間から離れない一つの怨讐がありますが、これがサタン、悪魔、悪神なのです。 我々が地上に生きている時にある怨讐がいるとして、我々はそれに対して仇を打つのです。一代で仇を打てなかったら、後代を通してでも仇を打つのです。しかし6千年の間、神を代身してこの世の君となったサタンを、人類は追放できず、一度もこの怨讐に仇を打てなかったのです。 大審判とは何ですか? 地上の人間を全滅させることではなく、大怨讐サタンを滅ぼすことです。これが大審判です。歴史的な怨讐であり、この時代の怨讐であり、未来にも怨讐となるこのサタンを全て処断することが、大審判なのです。 今までサタンは、真の人間になるためにゆく聖徒の道、真なる良心を持つ人々がゆく道に、あれこれと絡み付いてきました。例をあげれば、この時代にある主権国家があるとします。その国家の憲法や、その国家の理念のもとに善に、あるいは良心的に生きれば、義のある人間であると認められたのです。しかしそんな善は、どんなに認められたとしても時代が過ぎれば引っくり返るのです。そうなれば過去に善であるとされたことが、今日になっては善ではなく、今日に善であるとされたことが、明日には善ではなくなるのです。そうではありませんか? 東側が西側になることはできず、西側は南側になることはできないのです。そんな善は絶対的な善ではありません。一時的に善になることはあっても、絶対的な善にはなれないのです。木に例えて話せば、こんな善は葉にあたる善の行使にはなるとしても、枝や幹にあたる善の行使にはならないのです。 ですから時代が変わるに従って、善に対する正義も変わり、悪に対する正義も変わるというのです。人間が堕落した後の世の中は、基準が行ったり来たりしますから、言うに言えない絡み合った世の中になったのです。神がおられたとして、このように絡み合った世の中を、全部善として認定するか、でなければ全部壊して再び造るか、全部切って捨ててしまうか、三つのうちの一つをやらなければならないのです。この三のうちのある一つの方法を立てなければ、この地を到底、善の世界に率いることはできないのです。 終末に当面する問題 神は地上の人間を、どんな条件もなしに善にも悪にもなさらないのです。勿論、善なる人間と悪なる人間の差異はありますが、その差は僅かなものに過ぎません。善の基準は神であり、悪の基準はサタンであるというのです。 人間は善と悪の間において、善にゆくこともでき、悪にゆくこともできる立場です。それでは終末になったなら、これをどのように解決しなければならないのでしょう? 悪の主体であるサタンを取り除かねばなりません。そうすれば悪が終わるのです。すでにお話した三つの方便の中で叩き壊すとは、何を叩き壊すのでしょうか? 人間を叩き壊すという話ではないのす。最高の善である神と相反する、サタンを叩き壊すということです。このサタンだけを除けば、人間は悪なることをやろうにも、やれなくなるのです。そうじゃありませんか? 父母が善ならば、その子女も善になるのです。遺伝の法則がそうでしょう。父母が悪ならば、子女も悪になってしまうのです。悪の根が切れて作用しなくなったなら、自然的に悪は解消されるのです。 終末が近づけば近づくほど、我々の細胞の一つ一つまで、悪が占領して入ってきているのです。ですからどんなに素晴らしいという人間であっても、その人間の細胞までサタンが占領しているのです。寝ることも食べることも全部、サタンに主管されているのです。こんな圏内で今日の世界が動いているのです。しかし他の反面においては、神を中心とした善が占領しているのです。それで二つに分けられてきているのです。 これから神の側は最高の善に、サタン側は最高の悪に、認定されるのです。皆さん、そうではありませんか? 大韓民国の人間が全部善なる人間ですか? 大韓民国の人間は、大韓民国の人間を正しいとします。右翼の人なら右翼のやることを正しいとみます。であってもその上で見る時も、正しいかというのです。主体とある相対的な関係を結んだならば、全体的に正義だと認めたということです。その細部的なことは調整するとしてです。中心がどうかが問題なのです。 歴史路程に数多くの人々が生き、この地上に数多くの人々が生きていますが、彼らが神の側か、サタンの側かが問題なのです。神は見えないとして、神を信じないならば、皆さんは悪の圏内から到底、脱しようにも脱することができないのです。6千年の間、もつれにもつれたサタンの金網から脱する道理がないのです。しかしながら神のみ言を信じて守り、生死の決定がなされる立場において「私は神の側です」と言うことのできる信念だけを持ったなら、滅びはしないのです。 それでは善圏内に残るには、皆さんはどのようにしなければなりませんか?「私はこれこれの罪人です」と告げなければなりません。そのままでは残れないのです。ですから救援という名詞を立て、容赦という名詞を立てるのです。それで終末は大いなる許しを受ける時であり、また大いなる罰を受ける時でもあるのです。これを知らねばなりません。 審判の日に、人類のまえに自分が歴史的な罪人であることを告げる者は、歴史的な善の圏内に残ることができるのです。その立場において、神の側であるとすることのできる人々は、天上天国と地上天国を主管できるというのです。罪の巣窟において漂う全てのものを精算したという立場に立ってこそ、サタンを押しやることができるのです。 ですから罪の根が、問題なのです。我々はアダムとエバが犯した罪から、今日の時代的な罪まで負っているのです。ですから我々は「天よ! 私たちは摂理のみ旨の中で、天に背反した歴史的な宗族なのです。救援摂理のみ旨を代表し、時代時代ごとに来ては往った先知先烈たち、言いかえればアダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モ-セ家庭、イエス、そしてこれから再臨主が来られたなら、そのお方まで背反した歴史的な罪人なのです」という条件を提示しなければなりません。 希望を果たすための要件 人間は誰かれを問わず、希望を持っています。希望を果たすためには、事情が通らなければなりません。事情を通すには、心情的な基準が立たなければなりません。そうではありませんか? 誰であっても心情と事情と希望、この三つは抜くことができません。それで聖書に、信仰と希望と愛は、常になければならないものとあるのです。 それでは神の希望とは、何でしょうか? 神の希望とは、我々が真に行きたい所に到達して、共に生きることです。こんな世界になっていないために、我々もその希望の世界、真に行きたい所に向かって行っているのです。また神も希望がある反面、事情があるのです。その事情とはどんな事情か? 悲しい事情です。喜びの事情を持って、全天下が喜々楽々としたならば、その希望の世界は喜びの世界になったのです。しかし我々が悲しい事情に縛られておりますので、喜びの希望を求めても、風呂敷を背負って行かねばならないのです。今まではこのようであったのです。 皆さんがどんなに祈祷を沢山して、どんなに恩恵を多く受けたとしても、希望の時や、希望するそのみ旨が、罪悪と悲しい事情圏内に生きている我々を中心としていたなら、永遠なものとして続くことはないのです。朝には変わり、昼には変わり、夕には変わるのです。春夏秋冬が変わるように、事情が千態万象に変わりますので、天の恩恵が希望の基台を得て、我々の生活を通して末長く続くということはないのです。このように受けた恩恵は、一時的な事でしかないのです。 このような恩賜を越えて、神は世界的に恩賜を与えられるのです。恩恵を与える一人にのみ与えるのではありません。地上にいる数多くの聖徒たちに与えるのです。このように恩賜をとっても、その中で倒れる者が多いのです。しかし天は10人の中で、9人が倒れて一人だけが残っても、その人を標準にして10人を立てたのです。一人であっても、正しい形態の基準を立てたなら、これを中心として一段階上げて立て、さらに上げて立ててきたのです。このようにして数多くの宗教と、数多くの民族形態が興ってきたのです。 我々は希望を持っています。しかし環境と事情が通じないので、これを収拾するための方法を開拓してきたのです。愛というか、主義を中心として、最後には理念統一を目標にして、生活統一から環境統一をしてきたのです。このようにして希望と事情が、善の希望と善の事情にと完全に成立して初めて、善の心情の園が建設されるのです。これがイエス様が地上に来て成そうとされ、また再臨されて成さなければならない地上天国なのです。 それでは真のその所、我々が永遠に生きるそこは、どんな所か? その所は、わが希望が相対的な価値として現れる所ではなく、わが心情と事情が共に四方性をもって現れる所です。またさらには立体性をもって現れる所です。同時にそこには全てのものを失って生きたとしても、不幸ではなく、悲しむこともない所なのです。そこは考えれば考えるほどに喜び、考えれば考えるほどに感謝し、考えれば考えるほどに押さえ難い喜びがあふれ、体に染みわたる所なのです。そのようになったなら、全てが成就するのです。 神が苦待される勝利した息子娘 皆さんもそうではありませんか? 心がひどく喜んでいる時は、皆なが良くはなくても許せるのです。神もこの地上の数億千万の罪人を、許してあげたいのです。罪は犯したとしても、これを許してあげたいのです。 神も地上の誰かが来て「あなたはこれこれの心情と、これこれの希望と、これこれの事情をもって人間に対して苦労され、救援の役事をされて来られたのではありませんか?」と慰めてくれることを願っているのです。歴史的な心情と事情と希望、時代的な心情と事情と希望、未来的な心情と事情と希望を抱え、勝利した姿でこの地上に現れ「アボジよ!これまでの歴史的な悲しみと恨を解いて下さい」と言うことのできる一人の人間が現れなければなりません。それはなぜ? 歴史的な罪を許して下さったからだというのです。 歴史的であり、時代的であり、未来的な神の事情と希望と心情を通して「アボジよ!」と言うことのできる息子が来たとしたら、神はとても喜んで「どりゃ、わが息子よ! わが所願が何か」とされるのです。それではその息子は何と答えるでしょうか? その息子は死亡の世界を越えるのに、大変に骨が折れるのです。死亡の路程を開拓するのに凄まじい力がいるのです。しかし骨の折れるこの道を開拓してゆくことがアボジの歴史であり、この道を開拓するために身もだえ、死をものともせず、最後に勝利の城壁を建設しなければならないことが人類の共同運命であることを、よく知っている息子なのです。こんな息子がどうして「私を天に連れて行って福を下さり、無限に生かして下さい」と要求するでしょうか?「あなたの所願がこの地上の罪多き人類を救うことであり、6千年の怨讐サタンを屈伏させることですので、私がこれをやります」とするのです。 心情を放って神をアボジともせず、事情を放って神をアボジともせず、希望を放って神をアボジともしてみなかったので、今日の人間がこのようにさまよっているのです。とはいっても単に神様を「私のアボジ」と言って、サタンを「やあ 、このサタンめ」と言っても、サタンが屈伏する道理がないのです。ですから天上において神が立てようとされた原則的な息子娘の基準が立ち、地上においても神が立てようとされた原則的な息子娘の基準が立たなければならないのです。この原則は、悪が主管することができないのです。その日において初めて、サタンが屈伏するのです。 このような歴史的な大勝利の信仰者が来て、勝利の喜びを万人の前に返さなければならないのです。そのような者が来たなら、彼によって人間は審判の峠を越えることができるのです。しかしサタンだけは許せないのです。そのような時が、大審判の時なのです。火の雷を落として、地を滅ぼすのが審判ではありません。そんな神様なら、どうして愛の神といえるでしょうか? この世でもそうではありませんか? 失った子供を見つけたとかあるいは結婚式をするとか、嬉しいことがあった時には過去の怨讐も許し、過去の悲しいことも全部忘れるのです。神様も地上にいる数多くの罪人たちを、喜びを条件に許してやりたいのですが、人間を許してやれる喜びの刺激を起こさせる息子娘がいないのです。 ご覧なさい。イエスも栄光なる姿で「アボジ、あなたの心情はこうであり、あなたの事情はこうであり、あなたの希望はこれです。神様! あなたの所願は正に成就いたしましたので、私を見てお喜び下さい」と言ってはみなかったのです。神はこれまで悲しい立場で、人間を許してきたのです。悲しみの圏内で、許してきたのです。ですから許しても、サタンがまたついてきたのです。悲しみの土台が消えない限り、許しを受けても、また罪を負い、また罪を負うのです。神は喜びのその日を迎えるために天と地、全宇宙のまえに「天よ! 地よ! わが息子を高くせよ。今日の喜びを千秋万代に末永く残るように」と言うことのできる人間を望んでおられるのです。 今日の大韓民国もご覧なさい。第二共和国になりましたが、その前に事件に係わった人々を、喜びを条件に赦免しなかったでしょうか? 霊界も同じなのです。このようなことを考えてみる時、皆さんはこの地上が悪だといって悲しむのではなく、自分自身が解決点を見い出せなかったことに対して、悲しまねばなりません。自分自身がこれを解決できなかったなら、神はきっとこの目的を果たす実体を立ててでも、役事されることは間違いないのですから、このような者がどこに来るか分からないので、眼を大きく見開いて、精神を込めて捜し求めなければなりません。 イエスを親友とする内容を持っているか 皆さんを永遠なる死のどん底に追いやるために、サタンは昼となく夜となく戦っています。皆さんを地獄に連れて行こうと、サタンは昼でも夜でも休みなく戦っています。ところで皆さんはどうしますか? 食べたい物を食べ、やりたいことをみなやっています。それでいいでしょうか? それではダメなのです。よしんば体は平安な生活をしていても、心情においては昼夜なく戦っているのです。 我々はアブラハムを信仰の祖だとしています。彼は誠精を尽くして神に侍った人です。神は彼と同じように誠精を尽くして心情の因縁を連結した、心情的な息子を要求されたのです。ですからアブラハムの真の息子は、アブラハムが生んだ息子ではなく、アブラハムの心情に従い、アブラハムが神と呼んだものを神と呼ぶことを知る人間なのです。彼が正にアブラハムの息子なのです。またイエスの心情に従い、イエスが神と呼んだその神を、アボジと呼べる人間がイエスの兄弟になるのです。 救い主ということは、罪悪の世の中において必要なのです。救援を受けたその後では、救い主は必要ありません。その時には、親友になるのです。親友だけではなく、兄弟にもなるのです。兄弟。皆さんが腹を持って「イエス様はわが兄弟だ」と言うことのできる人間がいたなら、地獄には行きません。 それでは皆さんは、イエスの親友だという条件を持っていますか? 歴史的イエス、時代的なイエス、未来的なイエスを親友だとする内容を持っていすか? これだけがあれば問題ありません。これだけがあれば皆さんは、複雑な環境と、事情が絡み合ったこの世界がどのように善の世界になるかということを、心配する必要はないのです。 左右が対立している緊迫した世の中で、今日皆さんは右足は右翼を踏まえ、左足は左翼を踏まえているのです。右手は右翼を握り、左手は左翼を握っているのです。これらは互いに戦っています。戦う時には胸を打つのではなく、頭を打つのです。こんな時に、理念もなく、神もなしに戦ってはダメです。 このような世の中を見やる我々は、その戦いの目的を解明しなければなりません。これは人間が、戦いたくて戦っているのではありません。誰が回すのかも分からず、コンパスの脚が回っているのです。コンパスの頭は他のところにあるのです。人間は、金が儲かることばかり願っているのです。 どんな人間でも、滅びたいという人間は一人もいません。皆さん、ミョンドン街に行ってご覧なさい。物凄い眼をして、10ウオンでも損はしまいというのです。みんなが10ウオンでも利益を得たいというのです。これは誰が、このようにしたのでしょうか? 自分でこのように造ったのではないのです。自分が願えど願ったようにはならないのです。み旨の通りにならない理由は、最大の原因が自分にないからです。全てのことは天地運勢によって、その時代の四方性によって全部、複雑に起こってくるのです。 神をアボジと呼べる者になれ 今日、国連総会を中心として、非同盟国家の巨頭たちが集まって会議をしています。しかし全ての重大事は、人間同士だけでなるものではないのです。人間だけでやれば、結論を下す時にもぶつかってしまうのです。それで終末には、そのような事がしきりに起こるのです。しかしここに神がいるなら、我々は安心できるのです。反対に神がいないなら、不安なのです。もしも全てのものを調整する神がいるなら、ある目的を成すためにも、ある解決点をつくるためにも、ここに合うように導いかれなければなりません。でなければ安心しようにも安心できないのです。神がいないなら心配ですが、神がいるなら、ちょっと考える余裕があるのです。 ここにおいて神が解決されるとして、必ず人間を通じて解決されるのです。神のみでみ旨を立て、神のみで解決されるなら、人間を造る必要がないというのです。神のみ旨は必ず相対的な関係、すなわち相対的な立場の人間を通して、この地上と連結されておりますので、神のみではいけないのです。直接なさることはできないのです。法がこのようになっているのです。ですから神がいる限り、世界的な終末期には神と密接な関係を持つ人間を必要としているのですが、その人間はどんな人間でなければならないか? 善なる神がおられ、罪悪のサタンがいますが、これをどのように解決するかが問題なのです。 この歴史的なサタンをどのようにしてでも処断して、歴史的な神をわがアボジだとすることのできる者にならなければなりません。であればすでにお話しましたように、神が真の息子娘を迎えることのできる、過去、現在、未来の心情に通じることのできる息子娘にならなければなりません。そのようにのみなれば、何の問題もありません。皆さん、そうではありませんか? どんなに孝行をしたくても、父母が分からなくては孝行をすることができません。何十年前に別れた父に出会って、一度に孝行することができますか? そのようにはできないのです。父の顔をじっと見つめ、自分が父に似ているとか、生活の感情が通じるとかが分かって、またある程度の心情の基準が一つになって、孝行をするようになるのです。一度にはできないのです。人間と神の間においても、同じなのです。 人間が堕落しなかったなら、永遠に神の息子娘になったのです。しかし堕落することによって、神を失い、神をアボジとして侍ることができなくなったのです。 神は僕を立て、自分がおまえの父であると教えられたのです。僕をして、天使をして教えられたのです。そのような時代が、旧約時代なのです。その次には息子として役事されました。その時代が、新約時代なのです。その次には聖霊をして役事されました。 皆さん、聖霊が何の聖霊ですか? 母の神です。母の神を立て、役事されたのです。その次には父を立て、役事されるのです。僕にされて役事され、息子にされて役事され、聖霊をして役事されたのです。今、終わりの日には、父を立てて役事されるのです。 主様はどのようにして来られるか 今までのこの天地には、神の真の孝子がおりませんでした。勿論イエス様は万民のメシヤであり、天の独り子として来られましたが、この地上で神のまえに孝誠を果たせなかったのです。熱い思いはあったも環境を得ることができず、孝子の行いを成すことができなかったのです。神がイスラエル民族の前にイエスを立てた目的は、イスラエル民族を率いて行って、世界のまえに天が選んだ民族が、サタン世界のどんな民族と国家よりも素晴らしいという事実を認識させ、また世界から認定を受けるためでした。しかしイエスは認定を受ける立場で、神のまえに孝行をしてみなかったのです。 ですから天と地を代身して、この地上で真の孝誠を果たすお方が来なければならないのです。そのお方が、再臨主なのです。再び来られる主様が、何故に来られるのか知っていますか? イエス様が地上に来られてイスラエル民族を率い、神のまえに孝誠を果たしてみなかったので、これを成すために来るというのです。神はこのような一時を願いつつ、6千年の歴史路程を来られたのです。数千年の歴史路程を転げまわりながらアボジの心情を教えてこられたのです。わしはお前の父であり、お前はこのように育ち、お前の罪が何であり、お前がどうなっているか、どんな怨讐がお前を引きずっているかということを、教えてこられたのです。 今、皆さんはサタンが何であるかを知らねばなりません。サタンがどのようにして怨讐になったかを知らねばなりません。それで「この、サタンめ! お前は過去に天のまえに許すべからざる罪を犯したろう? 我々人間に、許すべからざる罪を犯したろう?」としなければなりません。我々はサタンの罪を知らねばなりません。サタンは6千年の間、天のアボジの役事に反対してきた怨讐であることを・・・。皆さん! 自信ありますか? サタンに対して「今まではお前がこの世界を統治してきたが、今お前は私の前から追い払われるのだ」とすることができますか? このようにすることのできる勝利者が来なければならないのです。 皆さんはみな聖書を抱えています。聖書だけ抱えていればいいのですか? 既成教会では、文某は聖書の通りではない、と言って非難しています。聖書の文字通り生きねばならず、聖書の内容通り、聖書に流れる心情の通りに生きなければなりません。言葉が問題ではありません。心はこうだが、言葉はこうであったり、ああであったりするのです。技術者と話をするときは、その人に相応しい適当な話をするのではありませんか? 時と場所と水準に従って表現するのです。話には内容を、内容には心情を求めねばなりません。 サタンは神の話を条件にして、役事するのです。心情が通じない話はいくらしても、サタンが反対しないのです。それで恵みを受けたという人を見ると、本当に恵みを受けた人なのか、気違いか精神病者か、いっぺんに分かるのです。ですから神の心情に通じているか、通じていないかが問題なのです。聖書を沢山読んでいるか、知らないかが問題ではなく、み言の背後に潜む神の心情と通じているかどうかが問題なのです。神の心情に通じる立場において「この野郎」といえば、サタンもどうすることもできないのです。 皆さんは神の勇士にならねばならない 皆さんがどんなにイエスの顔を穴のあくほど見ても、どんなにイエスの顔に触っても、どんなにイエスと共に行っても、どんなにイエスと共に生きたとしてのも、心情が通じなかったなら全てが無意味なのです。心情を通じて触り、心情を通じて共に生きなければならないのです。 聖書の中心はイエスであり、イエスの中心は新郎・新婦なのです。では新郎・新婦の中心は何ですか? 新婦なのです、新婦。新婦が言葉だけでいいでしょうか? そのみ言の中には、神の涙の刺激があります。そのみ言の中には、神の血が滲んでいるのです。そのみ言の中には、神の汗のしずくが結ばれているのです。涙と血と汗・・・それだけではありません。それだけではないのであって、死の峠まで連結しているのです。神は涙を流される度に、サタンと一大決戦をやったのです。血を流される度に、大怨讐と決戦をやったのです。死の峠を越える度に、サタンと対決したのです。こんな事実を知っていますか? 歴史をどれほど知れば、何かの役に立ちますか? 歴史に通じることのできる人間にならなければなりません。違いますか? 今、皆さんは聖書に通じ、神の涙を求めなければなりません。聖書に通じ、神の汗のしずくを求めなければなりません。聖書に通じ、神の血を求めなければなりません。聖書に通じ、逝かれたイエスの心情を求めなければなりません。 皆さん、神の勇士にならねばなりません。サタンは何千万回、神のまえに敵対してきました。その時ごとに神が流された怨恨の涙と、悔しくも憤ろしい峠の数々を、解怨してあげなければなりません。そのようにして、「サタンめ、お前は我々のアボジの怨讐だな。このお方は我々のアボジなのだ。この地はわが地だ。お前はわが僕と同時に、怨讐だ」と言うことができなければならないのです。今日、数多くの修道があり宗教がありますが、この問題を解決できないでいるのです。この問題を解決しない限り、この世の中には平和が来ないのです。来ないのですね。 こんな観点から見ると、我々韓国の民謡はとても素晴らしいのです。「月よ、月よ、明るい月よ、宵の明星のみごとな月よ・・・ご両親父母様に侍って千年万年生きて下さい」 これはどんなに素晴らしいことでしょうか? 両親父母に侍って、千年万年生きてほしかったに・・・。我々の民族はこれまで孝道を主唱してきて、孝子と烈女と忠臣を高くしてきました。数百年の間、このような民族の気風を身につけてきた皆さんなのです。今はこれがいつ結実するか否か、ということだけが残っているのです。何と共に? 天と共に結実するか否かが差し迫っているのです。これまでキリスト教徒たちが、神のためにどれほど死んだでしょうか? これがこの時に、結実するか否かということが問題なのです。 聖書を多く知っていると、自慢しないで下さい。博学だと、自慢しないで下さい。泣いておられる神であることを知って、共に泣ける息子娘にならなければなりません。天はどんなに焦り、どんなに緊張されているかを知って、切なくて身のおきどころもない皆さんにならなければなりません。アボジには痛がって死ぬと騒ぎ、苦しいと騒ぐ子供がいい子でしょうか? そんな子供は怨讐です。 信仰におきまして、最も大切なものは体恤です。体恤する時、自身も知らぬ涙を限りなく流すようになるのです。皆さんは意識を越えて涙が溢れ落ちるのを感じてみましたか? 誰かに悪口を言われ、悔しくて悲しくて、泣くのとは違います。自分も分からない惨めな心情にひたって、止めどなく涙が落ちるというのです。信仰者の本質的な生活というものは、こうであるのです。自分も知らず、苦しみが染みわたるのです。胸がふさぎ、身のおきどころもないほど、染みわたらなければなりません。わが心がそうであるのは、知ってみれば、天がそうであるからです。 信仰において最も尊いこと そのようになればこそ、神の息子娘だと言えるのです。神は声を張りあげておられるのですが、意識的に聞かないで夢ばかり見ているのが息子娘でしょうか? 人類歴史6千年の間、天はどれほど切なく、どれほど多くの死の峠を経て来られたでしょうか? このような峠を経る時、我々の先祖の中に、「アボジよ、どれほど悲しいでしょうか?」と慰める人間がいましたか? 涙の同参者がいなかったのです。汗を流す場において、同参者がいなかったのです。全てが過ぎ去った後で、泣き叫び、騒ぐのです。イエスの生前に、弟子たちはイエスが流した涙を知りませんでした。イエスが流した汗と、こぼした血の価値を知りませんでした。死んでから後に分かったのです。 終末の時代に神が人間を捜し求められるなら、どのような者を求められるでしょうか?すでにお話したように、神の胸には涙の聖殿と、やるせない心情が残っているのです。血と汗の聖殿と、死の峠が残っているのです。皆さんがこの歴史路程に同参はできないとしても、辛く切ないこの心情は感じなければなりません。ノアの苦労を考えて胸が痛み、モ-セの悔しさと切なさを考えて自分がその場にいるかのように切なく、イエスの寂しさと悲しさを考えれば、身のおきどころもないというのです。歴史は過ぎ去りますが、その当時の彼らの切ない心情を体恤し、泣くことができる親友の立場までいかなければなりません。私とモ-セの時代とは、歴史的な距離をおいていますが、心情においてはイスラエル民族を見やる度に切ない心にひたって涙したモ-セのように、涙を流さなければなりません。こんな人間が真のイスラエルなのです。歴史的な悲惨さ、歴史的な悲しい事実を聞いて、血肉に染みる何かを感じ、この時代の惨たらしさと共に同じ涙を流してアボジと呼んでこそ、歴史的なサタンに対して勝利するのです。でなければとても無理なことです。 それでは今まで知らなかったこのような事実を、誰が教えてくれるのですか? 神は審判の門を開く時、必ずその心情を代身して示してくれる人間を立てられるのです。ですからこの地上に、そんな使命を果たす人間が現れなければなりません。皆さん、外形的に豪華絢爛、数千名が集まる教会がそんな使命を果たすでしょうか? 違います。なぜ? 終わりの日に起こる現象 終わりの日には、頭に油を塗って密室に入って祈祷せよと言われました。人間の言葉を聞いてはダメです。人間の言葉を聞いてはダメな時なのです。新郎の言葉のみを聞かなければならない時です。牧師も、信仰の同志も、最後の峠に来たなら自分の助けにはならないのです。自分は天国に往き、彼は地獄に往くなら、地獄に往くその人間は自分にすがりつくのです。愛する親友が水に溺れたら、助けようと水に飛び込めばその親友がすがりつくのと同じです。その時は同情することができない時です。どんな指導者も、私の命を救ってはくれないのです。そんな時が来るのです。 このような時をまず迎える地域、国家、教団、社会においては混乱が起こるのです。牧師が長老を信ぜず、長老が牧師を信ぜず、平信徒が教団を信ぜず、教派は教派同士で信じられず、社会や政党もお互いに信じられないのです。国民が大統領を信ぜず、大統領は国民を信ぜず、民は国を信じられない中で、みな引っくり返ってしまうのです。四方を見回しても信じられない混乱した世の中です。そんな中にあって自分が自分を信じ、天が認める信仰の場を捜し求めなければなりません。 自分のお父さん、お母さんも信じられないのです。みな分かれてしまうのです。これが民主主義です。みな分かれて、みな失ったなら、孤独につき当たるのです。孤独な立場で天の心情に接続させるのです。そんな者は何もない者のようですが、この上なくある者であり、この上なく淋しい者のようですが、この上なく幸福な者なのです。全て失い、より大きな姿にぶつかった場においてのみ、全ての問題が解決されるのです。 今日、この世の中を見渡して見る時、さらには韓国の実情を見渡して見る時、皆さんは大学に通い、大学院に通っている? どんな博学者になっているの? 心を売渡し、心情を売渡し、善を蹂躪している皆さんです。今、韓民族は、イスラエル民族がモ-セに率いられて荒野に出て行った時と、同じ時代に当たっているのです。荒野においてモ-セが倒れた時、ヨシュアとカレブのような新しい指導者が現れたように、この地上にも新しい指導者が現れなければならない段階に来ているのです。 それではこの時代に必要なことが何でしょうか? この民族の生きる道が何でしょう?この民族の青年男女は、ある国家的な理念、またさらには天的な理念を、心情を基盤として武装することです。このことだけ成れば、この民族は世界を指導することができるようになるのです。今、韓国が苦しみを受け、苦喪をなめていることがこの民族には悪いことのようですが、これは天が一つの中心を立てるためにこのように動かれているのです。ですから必ず韓国の青年たちを動かす新しい何かが、現れなければならないのです。 新しい何かが現れますから、戦わなければならないのです。キリスト教、仏教、儒教、どうしょうもなく全部、争っているのです。これは我々の心が、真の行きたいその所を捜し求めるならば、今まで因縁のあるものを全て切ってしまわなければならないからです。聖書をご覧なさい。修道の道を行くなら、全てのものを精算しなさいというのです。全てのものを精算して、出発しなさいというのです。 韓国は南北に分けられています。父母と子供が分けられ、夫と妻が分けられ、全て分けられてしまいました。教会は教会として、社会は社会として分けられています。これに対する方針が立てられなかったなら、この民族は滅びるのです。歴史を考察し、歴史的心情を探って見るなら、この時代的思潮に新しい衝撃を加えたのが、文芸復興なのです。中世の封建社会を切り開き、文芸復興を引き起こしたのです。神の心情は歴史の底辺を通して今、我々の生活の底に流れているのです。いまや我々は過ぎた歩みを振り返り、堕落する以前の人間始祖に対された、神の心情を尋ねなければなりません。堕落した我々の先祖に対する神ではなく、堕落する以前の我々の先祖を愛して、大事にされた神の心情、造られた息子娘を万物の前に、あるいは天使世界と地上世界の前に誇りたく、抱いて愛してやりたい神の心情を尋ねなければなないのです。今はこれが必要です。アダムが堕落した後の神の心情はちっとも知りませんでした。知ってみれば涙の海であり、苦しみの海であり、悲しみの海であったのです。これを知ってみれば、慟哭せざるを得ないのです。アダムが堕落してしまった場面を皆さんが体恤してみたなら、10年泣いても終わることのない、そんなこみ上げてくる神の心情があったことを知るのです。 終わりの日に備え持たねばならないもの いまやこのような悲しみの歴史、苦痛の歴史は過ぎ去らねばなりません。こんな全ての悲哀の根源が、サタンと共に起こったので、これを越えるためにはまず、アボジの心情を感じてみなければなりません。これまで聖書解説者も多く、神学博士も沢山おりました。このようなことは全て、過ぎ去らねばなりません。神学というものも、入ってみることもなかった太初のアダムとエバのように、純真無垢なる赤子の心情に入らねばなりません。聖書にも、赤子のようでなければ天国に入ることはできない、とあります。罪を負う前のアダムとエバのような立場に入らねばなりません。 もしもアダムとエバがアボジの懐に抱かれ、アボジの頬を引っ掻いたり小突いたり、どんなことをしても良いことと認められる立場にあったなら、我々はこのような惨めな立場ではなかったのです。しかし我々の先祖の時からこのような一時をも、持ってはみなかったのです。もしも人間が真の子女になったならば、どんなに恨んでも罪にはならなかったのです。どんなに苦労の多い立場にあったとしても、恨むこともない因縁の世界が善の世界なのです。 皆さん、聖書も必要であり、教会も必要であり、同志も必要であり、師も必要です。しかし今日、この天地が荒れ野になったのは、教会がなくて荒れ野になったのではありません。この世の中が凶年になったのは、何かがなくて凶年になったのではありません。真の人間がいなくて荒れ野になったのであり、真の心情の足場がなくて不毛の地になってしまったのです。 大戒律の意味 今、我々は祭壇を前において、神のまえに要求しなけばならないことは何でしょう? 聖書にも「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ」とあります。教会を愛せよといわれましたか? 精神を尽くして子女を愛せよ、とされましたか? 違います。数多くの教会や、教派、宗派を問わず、本質的に間違ってしまったのです。精神を尽くすことも、自分の子供のためであり、夫のためあり、妻のためであったのです。こんな法がどこにありますか? もしもそうなら、聖書の心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、主なる神を愛せよという言葉の代わりに、あなたの息子娘を愛せよとするでしょう。そうじゃありませんか? しかし聖書には、神をより愛せよとあります。 今、我々は歴史的な苦しみをのり越えなければなりません。歴史的な苦しみと、歴史的な悲しみと、歴史的な死亡圏を精算してしまわねばなりません。これを精算してこそ成るのです。歴史的な苦しみと、悲しみと、死亡圏が、自分の心に縛りつけられ、心情までも縛りつけられているのです。生活と、体と、心と、心情までも縛りつけられた天までとどく怨讐の足を払いのけねばなりません。自分の体を打っても、払いのけねばならないのです。皆さんの怨讐は、相対側にあるのではありません。皆さん自身の心に対しては体が怨讐であり、体に対しては生活環境が怨讐なのです。 我々は歴史的な悲哀があったなら全てのものを精算して、堕落前のアダムとエバに対された神の喜びの姿を迎えなければならないのです。神は人間に対して、堕落した息子娘という感情を解消することのできる日を、首を長くして待っておられるのです。もしも息子娘を救い、神の前に立てたとして、神は彼らに対する時、お前たちは罪悪世界で罪を犯した後孫であり、そんな血統を受けた子女だという感情を忘れられるのです。そんな立場で神を神として、侍ることができるのです。罪の感情が残っていてはいけません。罪の感情を超越して、アボジの前に行くなら恥ずかしさはないのです。そんな者がいたなら、サタンはその人間に侵犯できないのです 今日、人々は教会を求めています。よろしい。教会に来ては「歴史的な神の心情がこううであり、時代的な神の心情がこうであり、再び来られるアボジの心情がこうなのだ」ということを知って、自分も知らずに涙を流さなければなりません。このようにして、その怨讐に仇を返して屈伏させると、永遠に誓う皆さんにならねばなりません。でなければ、歴史的な全てのことを、踏み越えて行くことはできないのです。 我々は、我々が希望し、全天宙が願い求めている「真の行きたい所」に行かねばなりません。皆さん、それについていくらか考えてみましたか? 罪を負う前の神の保護のもとに育った、アダムを慕わねばなりません。どんなに良く生まれ、どんなに素晴らしいとしたところで、彼らは堕落の宗族であり、堕落の血統を脱げない人間なのです。ですから皆さんは罪を負う前の、本然のアダムの性相を見て喜ぶことができ、その性相を通して神を歌うことのできる、そんな存在を捜し求めなければなりません。そんな心情を持った者を捜してこそ、審判によって火で焼かれてしまう世を救うことができるのです。 原則的な観点から見る時、この問題を解決することのできる人間が、歴史路程にいませんでした。どんな英雄、どんな聖人、どんな聖賢たちも、この問題を解決できなかったのです。 今はこれまでに信じてきた修道を捨てる時です。仏教を信じてきた人々は仏教を捨てなければなりません。釈迦自身が、この問題を解決できませんでした。どんな修道も、根本問題を解決して、神の心情と因縁を結んで来なかったので、これを再び結ぶために来られるお方が、再臨主なのです。皆さんはこのお方が、雲に乗って来ると思っているかも知れませんが、そうではありません。 神の心情と本然のアダムの心情が、人類の心情に染みることができる道を開くための、歴史的使命を成すお方が現れなければならないが、このお方が仏教でいう弥勒様であり、儒教でいう真人であり、キリスト教でいう再臨のイエスなのです。これは名こそ違いますが、結局は一人の人間なのです。 天国にはどんな人間が入るのか 天国にはどんな人間が入るのか? 赤子のような人間が入るのです。ですから神がアダムとエバを造って喜ばれたその心情の因縁を、再び回復しなければなりません。天地万物を造っておいて、罪を犯す前のアダムとエバを見やって喜ばれた、その喜びの心情をどのように回復するか、ということが問題なのです。これを回復させなければなりません。 そのためには本然の心情を持ち、歴史的な恨を全て除き、サタンを屈伏させなければなりません。このようにしてこそ「やあ、天使長よ!」と言えば「ハイ」となるのです。 本来は僕だった天使長が、サタンとなったのです。召使の主に、主人のアダムとエバが蹂躪されたのです。それゆえ人間はこの僕との因縁を切って、神との心情的な因縁を結ばなければならないのです。でなければそこに、入れないのです。 我々は門を開けなければなりません。何の門? 真理の門、人格の門、心情の門を開けなければなりません。聖書を中心として、根本問題を完全に解明しなければなりません。この問題を解決した後で、完全な人格の門を通過しなければならないのです。これを通過した後で、完全な心情の基準まで行かなければなりません。このような観点において、我々は今まで遠かったのです。 今日の信仰しているという人間を見ると自分の考えが正しいと、がんとして動かないで「私は正統であり、あなたは異端だ」と言うのです。どうしてこのような結論が下せるのですか? 過去を見て下さい。初めは旧教が、新教にこの野郎めといって、どうなりましたか? 時間が過ぎていって、むしろ旧教が新教に追われています。全てのことは時間が過ぎるに従って、状況が移り変わるのです。 今は世の中の水準が上がっている反面、教会は下がっているのです。世の中が上がる前には、教会が上がっていました。上がって、神様以上に上がったのです。それで神は世の中を上げて、教会を下げたのです。こうして中世キリスト教封建社会は壊されたのです。どの教会や教派でも、一度は勢いを得たのです。けれども下ったのです。下る時は落ちついているのではなく、悔い改めなければなりません。 今日韓国におきまして、キリスト教は軌道圏下で全部が動いているでしょう? しかし今は、下らなければならない時に来ているのです。下れば顔も上げず、伏して祈祷などしていなければなりません。罪人であるとしていなければいけません。であれば希望があるのですが、そうではなくてジタバタすれば怪我するのです。世の中の人々が、第三者が襲いかかって打つのです。「イエスを信じているという奴を打て」ということが起こるのです。今回、南韓各地をずっと回って見たのですが、行くことごとにイエスを信じた人々がみな怨讐だというのです。ここに誰かが火をつけたら、どのようになるでしょうか? それで行く道が正しくない時は、悪なる怨讐を呼びつけて打つのです。イスラエルの歴史を見て下さい。同じことです。今日、統一教会は有難く思わなければなりません。我々はじっとしているのですが、世の中がしきりに打つので、有難いというのです。 神を望み見て行かねばならないこの道 皆さんは教会がくずれて、信仰するときに中心が立たなくて悶えている立場にあったとしても、落胆しないで下さい。落胆はなぜするのでしょう? 人間を見たらそうです。人間を望み見てはダメです。我々の目は、天を望み見なければなりません。もしも人間が堕落しないで根本的に善であったなら、90度以下を眺めて生きることができるのですが、堕落しましたので、目は天を望み見なければなりません。信仰者には90度以下を見ることは許されないのです。天を望み見なければなりません。ところが地を望み見たなら滅ぶのです。自分を中心として行ったなら、滅びるのです。 今、この時代において、我々は全てのものを収拾しなければなりません。生活から体、心、心情に至るまで全部、収拾しなけばなりません。それではその心情の基盤はどこに置かなければならないか? 神霊なる牧師におかないで下さい。神霊なる教派にもおかないで下さい。統一教会にもおかないというのです。心情の基盤は歴史路程におくのではなく堕落する前のアダムとエバの心情におかなければなりません。このようにして、その心情を通して天と共に、今日の生活感情と時代的な全ての思潮を消化させ、天と共に解決する生活をしなければなりません。このような息子娘がこの地上に現れなければなりません。 皆さん、考えてみて下さい。聖書の創世記第1章も解決できないで、神の心情の園に入ることができるでしょうか? 創世記第二章の「生命の木」と「善悪知るの木」から解決しなければならないのです。この問題も解決できないでどのように・・・。根本問題を解決しなければなりません。知らずに何をするのか、無知であっては、完成することはできません。信じさえすればいいのでしょうか? 信じれば成るのでしたらここで語っている人間が、このように迫害は受けないのです。このように悪口を言われないのです。 皆さん、他人が知らぬ迫害の道を、自ら進んで求めてきたのです。出発した道が滅びの道ならいざ知らず、そうでなかったならば、この道を初めて行ったその日の、決心を捨てないで下さい。その日の決心を・・・。 この道を行く時は暴風雨が襲いかかり、イバラの道があるのです。しかし皆さんが望み見て行くこの道は、天の血痕が染みていることを知らねばなりません。皆さんが行く道は決して、皆さん自身だけが行く道ではありません。皆さん自身は初めて行く道ですが、神はこの道を何千万べんも行ったのです。この道にはそのお方が流された血の跡が残っていることを、知らねばなりません。 アブラハムもこの道を行き、ノアもこの道を行き、モ-セもこの道を行き、イエスもこの道を行き、イエス以後の数多くの聖徒たちもこの道を行ったのであって、皆さんはこの道を行くのが嫌ですか? それでは天上に行って、罰を受けねばなりません。この道を行くなら、天的な伝統を立てたという心情がなければなりません。一歩を踏み出すごとに、先祖の血が噴き上がるのを感じ、イバラが自分の体に刺さるごとに、先祖の血肉を裂いたそのイバラが、わが体を裂いていることを感じなければならないのです。 このように行った人間は、時代的な個人ではあっても、一時代で終わる人物ではありません。6千年の間、アボジと共に行く者になるのです。ですから皆さん、この道を行ったが、手錠に縛られ、牢獄の身となったとしても、恐れ多いと涙を流す人間になることを願います。「あなたが求めたこの道この場に、不肖、滅びの他にない罪人の後孫であるこの体が、こんな栄光なる場に参席できましたので、恐れ多いことでございます。数多くの殉教者たちが尊い血を流したこの基台の上に、汚れたこの身が足を踏み入れましたので、恐れ多いことでございます」としなければなりません。 我々は必ずこの道を行かねばならない 統一教会の勇士、皆さん! 皆さんは最後の道であるこの道を、行かねばなりません。真の行きたい所があるので、数多くの先知者たちがこの道を行き、真に行かなければならないこの道ですので、我々は必ずこの道を行かなければなりません。この道に従ったが、体は裂けて涙を流す時には、これは自分一人で流す涙ではないのです。このような道を行って裂かれた数多くの先知者が、同じく泣いた涙なのです。それで地上でそんな道を行った人間は、歴史的な生きた実体だというのです。そんな姿で神に出会って「アボジ」と抱きつくその瞬間には、天地が遠くないような感激を覚えるのです。 誰にも悔しい心情を一言も言うことができず、心に釘を打ち込まれた天であるのです。この釘はサタンが打ち込んだのです。しかし愛の釘は、罪悪までも収拾することができるのです。 愛するなら、相対的関係が起こらねばなりません。神が愛する息子娘があるとしたら、彼らを通してサタンまでも許してやりたいのが、神の愛の心なのです。いままで反対してきたサタンが、息子娘のまえに敬礼する日には、そのサタンを無条件に許してあげるのです。神の無限なる愛の釘は、罪悪も収拾することができるのです。神が愛する息子に対して、サタンまでも同情して慕うなら放ってはおかないのです。皆さん、審判を受けないということは、イエスを愛し、イエスのために血を流した跡があり、イエスが残した心情的な因縁を抱えて身もだえた愛の因縁があるからなのです。神もこの愛の因縁を持った存在は、打つことができないのです。 今日お話したことはみな忘れてもいいのです。今日我々の個体は歴史の供え物です。たとえ盲目で、三つ口で、かたわであっても、彼らには先祖の遺業があるのです。彼らも天が送った貴重な供え物なのです。ですからその身が罵る時には、歴史が悲しむことを知らねばなりません。その身が悲観する時には、心情を通して天上まで悲観するということを知らねばなりません。その身が落胆する時には、天の国の数千万の人々が落胆して、悲しみに沈むということを知らねばなりません。 皆さんがこのような事実を実感的に感じたならば、百回死ぬ恨があったとしても天を恨まないようにしなければなりません。行けば行くほど、知れば知るほど頭を下げ、ついには手ひとつ慎み深ぱ作をする、謙遜なる心を持たねばなりません。このような心情に染って1年を過ごしてみましたか? そのように過ごしたなら、その1年は皆さんのまえに永遠に残るのです。もしもこのような基準が皆さんから消えたなら、この1年は天上に行って、大きな讒訴の条件になります。恩恵を受けた人間が、この基準を失ったなら滅びるのです。滅んでも、わめいて滅びるのです。 ですから天のまえに忠誠を尽くしたと考えず、自分がやったと考えないというのです。自分の体が裂かれても駆け出すその力は、自分自身から出てくるものではないのです。アボジの力なのです。アボジの力が動脈を通して自分に与えられているので、見えないところで主管を受けていて、その力が現れるのです。こんな観点で見れば、自分が裂かれることは、アボジが裂かれることです。ですからこのようになったと自慢することは、何にもないのです。自慢することはありません。 皆さんはこのような路程を通って、神の歴史的な悲しみと事情を知って、また神の経てこられた全ての苦痛を体験し、新しい食口が繋がり繋がって、アボジのまえに召命を受けたのです。このようにして一つの民族を立て、一つの国家を形成し、世界的な新しい主権の世界を復帰するということが、神がこの地上の人間に対して摂理される、最後の目的なのです。その中心は何か? 堕落前のアダムとエバの心情的な基準を、復帰するということなのです。 堕落したアダムとエバは追われましたが、我々はサタンの全ての事実を解明し、再びサタンの侵犯を受けないという心情的な基準を得て、歴史的なサタンまでも主管することのできる立場に立たなければなりません。神の心情を通して、天と地に号令するに不足のない、神の直系の息子娘にならなければなりません。こうして神から「わが息子よ、娘よ、今はわが時、わが日だ。今はわが思いのままにすることができる」と祝福を受けるその日まで行ってこそ初めてその所、真の行きたいその所に、行くことができるのです。 皆さんは歴史的な罪状を精算して、歴史的な死亡の垣を精算して、神の創造理想を成すことのできる心情を持たなければなりません。歴史的な死亡の権勢を、歴史的な生命の権勢に、歴史的な罪を精算して、歴史的な善にと復帰しなければなりません。さらには歴史的な天の心情を立てることを知る皆さんになって、初めて真の行きたい本然の世界に行くことができるのです。 今日以後、皆さんはこのような観点で、自分たちがどんな位置にいるかを自ら知って、聖別するときにおいて、無慈悲な闘争をしなければならないことを、肝に銘じてくれることを願います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.25
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真なる基盤を捜してマタイ福音書 七章:七節一九六〇年九月二五日(日)前本部教会 この時間、皆さんと共に考えるみ言の題目は’真なる足場を捜して’、’真なる基盤を捜して’です。こんな題目でしばらくお話します。 神が天地万物を創られた時には、変えようにも変えることができないある基盤を基準としたことに間違いないのです。人間も目的としたものがあって創られ、すべての万物も目的としたものがあって創られたことを、私たちは否定することができません。このような目的の下に創られた私たちであるなら、私たちの心においても体においても、あるいは生活や理念においても、誰もが動かすことができない徹頭徹尾なる基盤を持たなければならないのです。 真なる足場になるべき人 ところで私たち自身を探ってみるとき、自分の生活、自分の体、さらには自分の心情が変わろうにもかわることのできない不変の基盤の上に立っていないという事実を、否定することができないのです。私たちは共に変わぬ足場を持っていない身の上なのです。 絶対者たる神様がいかなる目的観を中心に被造万物を創られたとしても、その存在もそのような目的の下で変わろうにも変わることのない足場を持たなければなりません。ところが今日の私たちがそうでないとすれば、それは堕落性を持つという事実を立証しているのです。神が成そうとされた目的、変わろうにも変わることのないその天的な足場は、堕落によって人間と因縁を結ぶことなく、ずれてしまったのです。これは否定しようにも否定できない事実なのです。 私たちはよく神は愛なりといいます。愛なる神がこの地の上の人間を愛されるとして、その愛を受けることができる不変の足場を持つ者がいるでしょうか? また神は真であると言うのですが、真なる神のまえに、真の足場を持つ存在がどこにあるでしょうか? また神は生命であり、不変の理念であるとして、その生命と理念を継承することができる不変の足場を持つ者が地上にいるかと問うてみるなら、いないと答えざるを得ないのです。 この地上でどんなに優れ、権勢を持って自分を誇る人がいたとして、その人の胸を開いて見れば神が願う絶対的な価値、あるいは善、あるいは生命、あるいは事情のまえに、不変の足場となる対象者であると、自信を持ってでる人間は一人もいないのです。 真なる生命、真なる善の母体である創造主がおられるとして、そのお方はこのような足場となっていない環境を破壊して、いかなる形態であれ真の基盤、あるいは真の足場として造るという考えをせざるを得ないのです。そのために役事してこられた事が救援摂理であり、その救援を成すための手段と方法として、宗教が出てきたということを、私たちは知らねばなりません。 全被造万物を創造された神が愉むことができる不変の足場は、誰がなるのかといえば、創られた万象の中でも、人間がならなければならないのです。生命を中心に見てもそうであり、神の不変の愛を中心にして見てもそうなのです。ところが神のまえに変わろうにも変わることができない不変の足場になるべき人間が、そうはなっていないことが嘆きなのです。 もしも私たちが絶対的な生命、絶対的な愛なる神のまえに不変の足場となるなら、不幸があるべくもなく、死亡もなく、苦痛もあるべくもないのです。絶対的な生命、絶対的な愛、絶対的な理念、絶対的な善など、絶対的な諸条件を持つ存在は、誰もが屈伏させようにも屈伏させることができないのです。 真なる足場となることができる条件 絶対的な愛をもって現れるべき神であり、絶対的な善をもって現れるべき神であり、絶対的な生命と理念をもって現れるべき神であり、創られたすべての万物のまえに絶対的な価値として現れるべき神が、絶対的という名詞を使うことができない立場になってしまわれたので、その苦喪がそれほど大きく、嘆きと悲しみがどれほど大きいでしょうか? これを皆さんは考えなければなりません。 神様が地に対して摂理されるとしたなら、人間が理念的な諸条件をすべて得て、完全な足場になるときまで、鞭を振るって打つとかどんな方法によっても、目的とされる所へ追い込む役事をしなければならないのです。 人間は誰でも滅びたいとは思わないのです。滅びたいとう人はいません。優れていれば優れているほど、滅びたいという心はさらにないのです。歴史路程において数多くの英雄烈士たちが、自分の運勢を堂々と誇ってきたのですが、自分が望んだ欲望の通りにはならなかったのです。ですから歴史は時代々々を経てくる間に分かれてきても、明らかな一つの目的の下に動いて来ているという事実を、私たちは否定できないのです。 今皆さん自身が立っている位置と足場が、完全無欠であると考えていますか? そうではないのです。完全ではない場において誇る者は、必ず嘆きのうちに屈伏する日がくるのです。ですから真の良心、真の理念を捜し求める者は、心の奥で自分を探り、心の奥で自分の姿をはかり、心の奥で自分の価値を求めてさまようのです。 先知先烈たちが来ては行ったのですが、誰も自分を中心とするすべての問題を解決できないまま流されて行き、その問題は今日の私たちにまで深刻な問題として残っているのです。 それでは私たちはどうすべきか? 永遠なる天道があり、その天道のまえに不変の足場として立つ自信があるかと反問してみるとき、そうではないと答える他はないとしたら、皆さんは自分が生きているこの社会と世界を再検討し、再分析して、新しい足場として率いて行かなければなりません。 今私たちが生きている生活舞台を探って見るのです。ただ人々は自分を主張したいのです。自分の何かを主張したいのであり、自分の価値を高めたく、自分の何かを残しておきたいのです。願うすべてのことは平面的な時代性として現れるかも知れませんが、縦的に連綿と流れている歴史と共に、ある関係を結んでいるかが問題です。ここに歴史的な問題が介在し、歴史を経てくる人倫道徳が問題となるのです。人倫道徳を中心に見るとき、良心はその基準を通すことのできるある目的、即ち対象を要求するのです。ですから人間はある目的を中心に、良心の基準を立てなければならないのです。ある目的を中心に良心基準を立てない限り、一つの時代は変わってゆくのです。世界は革命過程をへて変遷してゆくのです。 一人の人間が生を営むにも、心によって体が動き、一つの目標に向かって駆けて行く目的意識によって生活感情が動く自体にならない限り、完全な基盤の上に生きているとは言えないのです。一つの国家なら国家、一つの民族なら民族を見るときにも、彼らが望む目標が千なら千、万なら万のすべてが違っては駄目なのです。千人、万人、各々違っていても、その目標だけは一つに帰結していなければならないのです。 一つの目標に向かうべき人間 人間には喜怒哀楽を感じる感情がありますが、これが目的意識を通して感じる感情でなければ、この地上に平和はないのです。幸福はあるべくもないのです。ですから皮膚の色が違い、事情が違い、生活が違ったとしても、希望とする目標、苦待する目的だけは民族を越え、歴史を越えて同じでなければならないのです。 ところがごらんなさい。民族、民族が違い、その目的も各々が違い、生活形態も違います。千態万象によって異なって動いているのです。このような人々を救援するために神が摂理されるとしたら、必ず一つの方向へ収拾して行かなければならないのです。収拾するときには、生活を収拾しなければなりません。生活を収拾すると同時に、感じる感情までも収拾しなければなりません。生活から感情まで、全体の分野を収拾してゆかなければならないのです。ここには全万物がみな関与しているのです。 このような目的の下に、新しい不変の基盤を求めるために、神が摂理して来られたのです。不変の目標に向かって行く歴史路程であるとしたら、私たちは目的地に到達しているのではなく、目的地に向かって行く過程にあるというのです。私たちが信じている宗教、国家が主張している理念、あるいは世界的な理念、ある団体や、ある民族や、ある国家が望み希望する目標も、過程的な位置にあることなのです。 今日私たちが信じているキリスト教も、目的と全面的に和することができ、突き当っている結果的な内容を持っているかといえば、そうはなっていないのです。過程的な位置にいるのです。私たちにこの過程的な一段階が残っているので、この過程を過ぎて目的地に行かなければなりません。この道は決して平坦な道ではありません。折れ曲がる曲折の道であるかも知れません。 ですから時代につれて変わる歴史であることを知る人間であるとして、自身がおかれている位置が、幸福な場だと考えではいけません。この位置で満足していては滅んでしまうのです。なぜ? この世の中は未だに目的が成る世界ではなく、不変の基盤によって決定されている場ではないからです。私たちが行くべき過程が残っているのです。範囲が広がれば広がるほど、その如くに複雑な内容が、私たちの前に立ち塞がるのです。 学問をする人が学問を中心に一切の目標を立て、それによって幸福を感じたとして、彼は時代的な幸福は感じることができるかも知れませんが、歴史的な幸福を喜び、神が摂理される不変の基盤に残る永遠な者になることはできません。現実において満足する位置は不変の位置ではなく、変わるのです。 今日の国家情勢もそうであり、宗教もやはりそうであり、社会制度やすべてのものが、そんな過程におかれているのです。このような難関を経て行ってこそ、完全な基盤、完全な足場を立てることができるのです。 創造主たる神が立てられたその目標は、変わることがないのです。どんなに時代が変わり、歴史が曲折の過程を経たとしても、すべての人の良心の中心になり、すべての人の希望の目標となる神は、決して変わることがないのです。永遠前から永遠後まで、変わることがないのです。ですから’わたしはアルパでありオメガである。初めであり終わりであり、始まりと終いである’というのです。果たしてそうなのです。 審判と関係のない立場にいるべき信仰者 人間は動機から結果までゆく過程で、落ちてしまったのです。それでは曲折を経て流れる歴史過程において、どのような道を行かなければならないのか? 結果的な方向を捜し求めてゆくか、でなければ反対に原因的な方向を捜し求めて行くか、二つのうちの一つを選ばなければならない運命にあるのです。現実に満足していたら滅びるのです。目的の世界を捜し求めてゆくか、でなければ原因の世界を捜してゆくか、二つのうちの一つの方向を取らなければならないのです。 ここに原因的な世界を追究してゆくものが哲学と宗教であり、結果的な世界を追究してゆくものが自然科学なのです。この二つに分かれた道のなかで、ある方面に目的意識を感じ、絶対者の存在を意識するなら、絶対者の不変の足場として立てると誇ることができるでしょうか? これが堕落した人間のまえに提示された、不変の命題なのです。 このような見地で私たち自身を振り返って見れば、我々はどんな位置におかれているのか? 自分自身はどんな位置にいるのか? どんなに過程の生活を楽しんでも目的と関係がなかったら、それは何の意味もないのです。過ぎた日の生活が目的と関係がないとすれば、その過程が複雑であれば複雑であるほど、苦喪が多ければ多いほど、目的の時に至れば苦痛の他にはならないのです。躊躇の条件、行く道を塞ぐ条件の他にはならないというのです。 神はこれを知っておられるので、人生行路を行くにおいて単純に、徹底して一つのことだけを知って行けと、主張してこられたのです。それで宗教というものは単純なのです。神を’信じろ!’何があっても知らずに、無条件に信じろ、と人間を率いてきたのです。しかし時代が過ぎ、人々の知能が発達するに従って、これはどうも理屈に合わないと感じてきたのです。すべての現象を見るときにも、何らの内容がないようであるのです。それゆえ世紀末的な終わりの日には、信仰者たちが世の荒波に押し流され、批判の対象にならざるを得ないのです。 とはいっても落胆しないでください。過程的な路程は必ず過ぎ去るのであって、過ぎ去る過程で批判を受けても、落胆するなというのです。過ぎ去る歴史を踏み越えて行くことができる信念を持つのです。どうせ過ぎ去るこの複雑な環境を、この過程を越えることができる信仰だけを持ちなさいというのです。誰が何だといっても変わらない、信念を持って生きればいいのです。 神を無条件に信じるのもいいのです。無条件に信じるときはアルパとオメガ的な神、初めであり終わりの神であると決定して、信じなければなりません。これは歴史的な過程を超越した信仰と見ることができるのです。盲目的な信仰観を立てることも、一理があるのです。信仰という二文字を、神が願う不変の足場の上に立てたなら、複雑に信じる必要がないのです。神様が信仰を立てられたなら、その本然の心情に一致する信仰観念を持っていかなければなりません。ところがそんな信仰者がいるでしょうか? いないのです。 どんなに終わりの日がきて、末世の審判があるとしても、その審判は自分とは関係ないとするのでなければなりません。であれば、どうしなければならないか? 今日この地上に起こるすべての罪、あるいは罪状と関連する万事は、自分とは何らの関係がないという立場に立たねばなりません。しかし、どこがそうでしょうか? 悔い改めてはまた罪を犯し、犯してはまた悔い改めるのです。罪とは関係ないという信仰を、捜して見ることができません。 ですから’このような思潮の時代が来たので、このような動機からこんな過程を経て、このような目的の世界に行く’ということを解明しなければなりません。今日キリスト教がどんなに世界的な宗教になったとしても、これができないときには必ず、崩れてしまうのです。 今日この時代の宗教人たちは、彼らがおかれている位置において、すべての事を解決することができないのです。ここにおいて新しい覚悟と、新しい方向にゆくまでの、残された過程が短ければ短いほど、一ぺんに押し寄せる思潮を踏み越えられる信仰を持っているか、これを押し退けて行く内容を持っているか、二つのうちの一つがなければ滅びるのです。 変わることのない神のみ旨 このような観点から、歴史的な信仰者を解明しなればなりません。歴史的な信仰者が誰であり、この時代的な信仰者が誰かを、解明してみなければなりません。見ていてごらんなさい。ここで語る人の言葉が、正しいか正しくないか。歴史的な信仰者が誰か? 神様が時代を代身して立てた民族の代表者として、民族を率いてゆく不変の足場として立つことのできる信仰者が誰か? 家庭を率いてゆく不変の足場が誰か? 個人を支える不変の足場が誰か? また世界を代身してゆくことのできる不変の足場が誰か? 終わりの日に来る主の前に、新婦として出ることができる不変の足場が誰か? ですから、歴史を考えなければなりません。歴史的な忠臣、歴史的な聖賢たちを追いつめた原因がここにあるのです。合わせて現在、ある新しい理念に従って生活するときにおいても、同じなのです。やたらに暴れたらくぼみに嵌まってしまうかも知れません。大宇宙を立て、大目的観を立てる神がおられるなら、このお方が望み見る歴史的な本然の足場はどこか? 宗教的な不変の足場はどこか? これが問題です。聖書を研究し、祈祷する目的も、ここにあるのです。数百万の群衆を一度に糾合し、解体させる能力があったとしても、それは無用のことです。それゆえ歴史路程には、革命があったのです。滅びたいという人がどこにいますか? 自分の地位を投げ出したい人がどこにいますか? いないのです。しかしながら、そうなるときはそうなるしかないのです。哀れな場に入る者たちが哀れでも、神のみ旨は変わらないのです。 現実に戻って世界を見渡してみれば、民主と共産が対決しているのです。ここにおいて我々は、どちらが結果で、どちらが原因なのか、解明しなければなりません。ある事を違えたなら、それを違える前の状態を回復してこそ、再び出発することができるのです。 今日このように哀れで悲惨な環境におかれている人類が、捜し求めるべきものが何か?新しい観点を立て、再び推し量ってみる条件を捜さなければなりません。今日のこの現実において、どれが原因であり、どれが結果であるかを解明して、原因に通じるところではなく、結果に通じるところに出るのです。でなければ滅びるのです。滅んでしまうというのです。 今日、共産主義も結果的なものを解明することができず、原因的なことを解明できません。民主主義も原因と結果を解明できません。それでは誰がこれを解明するのか? ここに登場しなければならないものが、宗教です。ある宗教が現れて’あなたたちはある動機から始まって、ある結果に向かって行っている過程にあるのだ’と主張して、これを大多数が公認する解明基準を立てなければなりません。この解明基準を人本主義ではなく、神本主義によって終えなければなりません。 ごらんなさい。第一次大戦までは、国家を中心とする闘争であると同時に経済的な、即ち世界を市場化するための闘争だったのです。外的な環境、即ち土地を奪うための争いだったのです。ところが第二次大戦に入ると、人を奪うための争いをしたのです。 それでは土地を奪い、人を奪う後には、何を奪うのでしょうか? 人ならみな人間でしょうか? 人であるから、みな人間ではないのです。正しい良心を持ってこそ人です。それでは、正しい良心の基準が何でしょう? 歴史を踏み越え、時代を踏み越えることができるなら、未来の目標を指向することができるのです。 ある主義が何かを主張して、周囲の数多くの人を包括したとしても、心から幸福を感じて、その価値が天上に表れたと感じる人間を造れない限り、過ぎ去ってしまうのです。 人を奪い、人を包括する時代の後には、どんな時代が来るのか? 個々人の心を包括する時代が来るのです。その時代が心主義時代です。善に対する方向において、人間の心は千年前でも万年前でも、変わることはないのです。心を中心に動くことが、違ったら駄目です。これが正しいとしたら、君も僕もそこに向かって駆けて行かねばなりません。駆けるのが一日ぐらいで終わるのではなく、命が終えても駆けなければなりません。それゆえ心を包括すると同時に、心が永遠に向かって出発できる衝撃を起こす主義がなければなりません。 変わらない心情の基盤を求める復帰路程 心は時間と空間の制限を受けることがありません。ですから一度活動すれば、生命の峠を越え、その時代のすべてのことをみな越えてある結末に至るまで、終わりまで駆けてゆくという信念が生じるのです。そんな動きを起こすことができる主義が現れなければなりません。されにはそんな心をより大きくするには、心情が必要なのです。 父母が子を愛する心、子が父母の為とする心は、どんなに偉大な人間も遮ることができなません。どんなに勢力のある者も遮ることができず、制裁もできず、変えさせることもできません。なぜなら、これは絶対的な自然原則によって動いているものだからです。 千人、万人の心は平面的でも、この心のまえに神様も良いと入ってこられ、人類も良いと飛び込んできて、天と地の全万物も良いと飛び込んでくる心情がなければなりません。この心によって懇切に愛するその愛の本心は、わが子だけの為ではないのです。その心は天心と通じているので、そのような心を持つ人間は神が見られるように、人類全体が兄弟であり、子女と見るのです。その心情を通した場においては、万人が兄弟であり、万人がわが肢体なのです。 こんな感じをもって万人を結束させうる不変の動力が、私たちの理念と共に一つの存在を中心として、この地上に不変の基盤として立たない限り、この世の事は解決できないのです。これを決定的に解決して、完全な不変の足場として立つ者が、キリスト教的に言えば新婦なのです。来られる主が、時間々々に変わる者たちを新婦として迎えられるでしょうか? 迎えられません。絶対に迎えられないのです。 自分から物を奪ってゆき、肉体を奪い、心を奪っていったとしても、私のこの愛だけは何ものも動かすことができない絶対的なものであり、この心情だけは神のものであり、地のものであり、人類のものであるとする者が、地上に現れなければなりません。であれば彼によって、この世の万事が解かれるのです。原則がこのようになっているのです。 共産主義者たちが言う、意識革命が問題ではありません。意識革命が問題ではありませんよ。これを越えて、これからは宗教がなすべき責任があります。今日宗教が世界の為にしたことが何でしょうか? 勿論、若干はありますが、本当に天が立てる宗教としての使命は果たしていないのです。しかしこれからは、果たさなければなりません。すべてのものが通り過ぎ、疲れはててしまったこの時に、再びいま一度心を収拾して、天倫に向かって大行軍をしなければなりません。神はその時を望み見て、準備しておられるのです。今日の信者も、新天新地の理念を抱いてその時を希望とし、望み見ているのです。 皆さん、「ヨブ」のような人をごらんなさい。自分の財産、自分の子女、自分のすべてのものを奪われても、神に向かう心には変化がなかったのです。自分にある物質をすべて奪われ、愛する子女を奪われ、彼に属するすべてのものをみな奪われても、びくともしないのです。彼のように、私たちもどんな環境の恐怖にも、神のために、神を愛する自分の心を屈伏させることはできないとしなければなりません。このような不変の一つの基盤を求めて、人間も復帰路程をさまよい、神も復帰路程にある人間を抱えてその基盤を開拓して来られたのです。 人間は今まで土地を奪う争い、人を奪う争いをしてきました。唯物論は人間の体を率いる理論です。そこには心と永遠なる理念と、天倫の大目的と共に同行することができる心的理念がありません。このような理念を立てることが宗教の使命なのです。そんな理念を拡大させて、私たちが世界的に、あるいは天地を代身して現れることができる一時、一時代、あるいは一世紀を望んで、神は今まで役事して来られたのです。 再確認すべき自身の生活 では皆さん自身を一度、考えてみるのです。皆さんは、ごはんを食べて生きています。ところで皆さんは自身の生活を他の人に、このように生きるのだと、証しすることができますか? 息子・娘に対して、あなたが私の息子・娘ならばこのように生きるのですと、自身の生活を証しすることができますか? あるいはある指導者として、従う人たちに向かってこのようにしなければならないと、自身の生活を証しすることができますか? できません。言葉だけで、このように生きなければならないと言うのです。そんな指導者は必要ありません。’このように生きるのです。これが結果であると同時に根本です。人間はどうせこの場を通過しなければならない’としなければなりません。そうなれば新しい理念も必要ありません。過程的な現象で、これを解決するために覆っているのです。 皆さんは、皆さんが生きている生活を再鑑定して、再分析しなければなりません。皆さんが朝ごはんを食べて、職場に行く時に片足をまえに’足よ、おまえは天倫の大理念世界と共に歩調を共にする生活環境に向かっているか’と問うてみれば、そうだと答えることができないのです。うら寂しい人間です。立派だと奢り高ぶっても寂しい人間です。生活がそうですから社会がそうであり、社会がそうですから国家がそうであり、国家がそうですから現実世界を信じることができません。心をゆるすことができません。 皆さんは風にそよぐ葦と同じです。風が東から吹けば西に、南から吹けば北に押し流されて行く人たちです。こっちにドボン、あっちにドボンです。行動の一切を天倫の前に立てることができない、無価値な存在です。このように行くなら、これからどうなるでしょう。結局は崩れ、神の悲しみと人類の悲しみとなって終ることはないと、誰が壮語できるでしょうか? ’不変の足場よ、真の足場よ現れよ! 真の基盤よ現れよ! わが心の門を開放して、わが体と生活の門を開放して、私に訪ねて来られるのだ! ’世界的な恐怖と脅威に襲われるこの時代において、真の良心をもって叫ぶことがあるとしたら、これ以外にはありません。’真の足場よ、この民族のまえに現れよ! 真の基盤よ、この民族のまえに開放されるのだ’とするとき、ここにはすべてのものがみな入るのです。真の国土、真の主権、真の民、真の機関、真の個人、真の文化となるのです。カカシのように踊りを踊っている現実の自己を無慈悲に批判して、覆ることができなければなりません。誰がそうさせるのか? このような衝撃を与える一つの動きがなければなりません。目的も果たせず、動機も失った現実を、越えさせる衝撃を起こす人間が出てこなければなりません。そうではないでしょうか? ’迫害される群れよ、落胆することなかれ。追われる群れよ、絶望することなかれ。追われ突かれる群れを通して、歴史は革命してきたのであり、過去の我々の先祖たちが歩んできた輝く歴史の基台の上に立つ人間であるなら、落胆することはない。過去を過ぎて現実を越え、明日と因縁を結ぶことができる何かを持つなら、力づよく闘うのだ’と叫んで耐えて鍛練し、終わりの日に世界的に追われ突かれる現象が起こる時に、歴史の転機を準備する動機や結果とならなくとも、滅びる人類をして立たしめ、越えさせるか背を向けさせる群れにならなければなりません。 今日皆さんは、狭い門を訪ねて来たのです。四方から打たれ、批判されている統一教会を訪ねて来たのです。しかし何かを期待しないでください。私たちの使命はこのような歴史的な転換期において、原因になるか結果になるか、二つのうちの一つにならねばなりません。でなければ原因に向かう行軍ラッパや、結果に向かう行軍ラッパでも吹く使徒たちにならねばなりません。二つのうちの一つの使命でも担う宗教、機関、民族、主権であるなら、これは絶対に滅びることはないのです。 動機と目的に通じうる人を捜す歴史 ごらんなさい。神が天地を創造なさるとき、目的もなく創造されたでしょうか? 必ず創造目的があったのです。その創造目的とは個体独りのみ、喜ぶことではありません。個人が喜ぶと同時に、個人が全体の価値を歌い、全体がその歌を聞いて喜ぶようになっているのです。そうならなければならないのです。全体は一を輝かすためであり、一は全体を輝かすためのものなのです。このようになっているのです。 このような観点からある主義、思想をもって支配しようとする先進国家が全体的な位置に立っているのは、ごく小さな国家を助けるためであるとすることができるのです。ところがそれらの国がそんな責任を負わなかったら、滅びるのです。これからアメリカのような国は、自分たちの風呂敷を全部ほどいて、未開な民族と共に生活し、共に喜び、共に泣くことができなければなりません。あなたたちの幸福は私たちの幸福であり、あなたたちの苦喪は私たちの苦喪であるとしなければならないのです。。でなければ、横から侵されてしまうのです。それで共産主義が出てきたのです。出なければいけないのです。神がおられるなら、方便上からも出なければならないのです。 このような見地からも、このみ言はこの時代に極めて適切であると、私は考えます。街頭に波のように押しかける青年男女たち、あるいは学んでいる人々、彼らの胸を一度開いてご覧なさい。何があるか。何が残っているか見てみなさいというのです。彼らが国を生かし、世界を生かすことはできません。駄目です。 ですから私は、宗教人に対して叫びたいのです。神は原因でると同時に、結果です。その価値をどの程度まで知っているでしょうか? その価値を中心とするわが生活、その価値を中心とするわが体、その価値を中心とするわが心、その価値を中心とするわが心情になっているでしょうか? 皆さんはその価値を、どの程度に現しているでしょうか? 何にも現していないのです。それなのに自分たちの教会だけに、神が動いていると言うのです。考えてごらんなさい。神様が自分たちの生活の中に入って、僕になるでしょうか? 神は私たちの神様だ、あの教派は異端だ、する下らない話はそんなものです。このように主張する人間が長くゆくか、ずっと見ていなさいというのです。 人々は前にのみ行くことを知って、後について来る人がいることを忘れるのです。もしも前を行く人が続けて行けなくなったら、後について来る人はその前の人を踏み越ええ行くのです。そうであっても行軍しなければならない運命の路程で、惨めな姿になる他はないのです。自分の主観的な観念で、神が自ら経営されていると考えるなというのです。 皆さん、いまこの統一教会は一つの教派として現れ、迫害を受けています。それでもいいのです。しかしながら一個人のある主観的な観念の通りに、神のみ旨が成されると考えては駄目です。そんな考えは神のみ旨の動機とも遠く、目的とも遠いのです。それゆえ今動機と目的を中心にして叫ぶ何かが現れたなら、それが最後なのです。動機と目的をもって世界を越えて叫ぶことのできる動きが現れたなら、それを通して世界は収拾されるのです。間違いありません。これが神が願う基準であり、復帰路程で結ばれた恨を解くものなのです。こっちに押されあっちに寄っても、どうせ解かなければならない人類の運命であることを、よくよく知らねばなりません。堕落した人類を復帰するときにおいても、動機は神です。目的もやはり、神に帰結するのです。では過程を率いてゆくものは誰か? 人間です。歴史に記録された事件ではなく、人間なのです。 原因と目的を、全部にぎることができる存在は何でしょう? 人類歴史でもなく、社会的な制度でもありません。それは人間なのです。それゆえ歴史は原因と動機に通じることができる人間を解明して立証し、その場をつかむための血のにじむ行路なのです。 だからといって、人間の思い通りに歴史を押して変えられるでしょうか? とんでもありません。なぜ? 皆さんは自分の動機で動かすことができず、結果的な現象を勝手にもたらすこともできません。皆さんに自身の動機を、自ら捜す力がありますか? であるなら皆さんが創造主です。私たちは自分も知らずにわき起こる心の動機を、時間を超越して自由自在に動かすことができるかといえば、できないのです。自分の心を勝手にはできません。皆さんは動機ではないのです。また、皆さんはある結果的な現象を、自分の勝手にすることができますか? 避けることができますか? このようにならなければ良いと、それを避けられるかというのです。ですから、大きなことを言うなというのです。 神様が捜し求める最後の足場 皆さんは動機と結果を顧みることのできない人間です。烙印を押された堕落した宗族に他なりません。どんなに大口をたたいても、何ほどのこともありません。ここに必要なものは動機の主体であり、結果の主体です。動機と結果は、互いに授け受けしなければなりません。 自分が一つの中心になって、与えようとされる神のその心を受入れ、また自分の心を万物のまえに向けることができる場に立たねばなりません。そうであれば動機と結果に対する問題はみな解決するのです。 心は動機的な神と往来し、体は結果的な世界と往来すれば、ついには右手に動機の神、左手は結果の神に仕えるようになるのです。ここに神が被造世界を創られたみ旨があるのです。これがいわゆる、主体と対象の関係です。 皆さんは決して神を中心とする動機的な主体と、結果的な環境を無視することはできません。神の目的は人間を中心に、結果的な環境と、動機を結束させることです。何をもって? 人倫道徳ではありません。神の心情を通すことができる父子の因縁、食口の因縁、すなわち家庭的な因縁をもって、結束させるということです。これが神様が求められる最後の足場なのです。 皆さん、ごらんなさい。皆さんが家庭に帰れば、子女がいます。皆さんはその子女たちを、皆さんの永遠の足場とすることができますか? できないのです。後ろには父母がいます。しかしその父母もまた、永遠不変の足場ではないのです。皆さんの生活がそうであり、社会がそうであり、人類がそうなのです。しかしいずれこのような環境を精算して、新しいものに代えなければなりません。 それでは神の最後の目的は、何でしょうか? 愛する息子・娘を立てて宗族を造り、民族を造り、民を造って何をするのでしょうか? 神様は天地の主体となられ、ご自分の息子・娘をして宗族、民族、民、そして天と地と全被造世界を主管することができるようにするということです。即ち、愛する息子・娘をして真の材料、真の足場になるようにするということです。 このような目的があるなら、そんな世界に向かって行く歩みに間違いないのであって、その神をまえに信仰生活をする私たちは、どのように信じるべきでしょうか? 神様を信じて天国に行くという信仰は止めてください。個人を主張する者は、親友を失うのです。そうです。家庭第一主義でゆく人は、氏族を失うのです。宗族を失うでしょう。民族を主とするなら国家を失うのです。国家を主とするなら世界を失うのです。世界を主としていったなら、天地を失うのです。天地を主としていったなら、神を失うのです。このようになっているのです。それゆえ自分を踏みつけ家庭を抱き、家庭を踏みつけ社会を抱き、社会を踏みつけ国家を抱き、国家を踏みつけ世界を抱き、世界を踏みつけ神を抱かなければなりません。これが天倫が動いてゆく公式なのです。 信仰の根本目的 自分が信じて天国に行くというのではなく、自分が信じて家庭を救援するという信仰をしなければなりません。自分が信じて民族を救援し、世界を救援し、神を解放するという信仰、これが伝統的な信仰であると、私は考えるのです。それゆえ反対されるという恨があったとしても、このことの為に私は闘うのです。 統一信徒の皆さん、我々は知りました。我々が行かなければならない所を知りました。天国は個人から出発して、世界の終わりを過ぎてこそ行くことができるのです。イエス様が復活したことも、民族を愛する心からではないのです。神を愛する心から、死んで復活されたのです。これがイエス様の教えです。自分独り天国に行くという信仰をするなら、すべてのものを自分のものにしようとするのです。これがサタンでなくて何でしょうか?信仰路程を開拓するときにおいて、すべて人の為の材料になるという位置を離れ、自分一人の目的を果たすために全体に背反したなら、彼はサタンです。六千年の復帰摂理歴史路程において、天倫の大役事のための材料になるべき人間が、この材料を自分のことのみにしようとすること、これがサタンの本質なのです。 私たちはこのような信仰観念を、打破しなければなりません。現実世界にこのような信仰思潮が流れているなら、これを壊してしまわなければなりません。このような目的の下にゆくのが、統一信徒です。日曜日の朝九時になれば、四方から教会の鐘の音が聞こえてきます。聞こえるその鐘の音は、もの寂しいのです。彼らの目標は個人の救いです。しかしイエスの目標は個人の救援ではなく、世界の救援です。信じる食口を抱いて愛することを知らず、信じる兄弟を抱いて愛することを知らなければ、滅びるのです。信仰的な本質がずれているので、革新しなければなりません。これはここで語る人間の主張ではありません。天道がそうです。天倫がそのようになっているという話です。 ごらんなさい。一国の忠臣の中で、愛する妻子が行く道を遮ろうとして’それは、あなたの言葉が正しい’と歩みを止めた人がいますか? 彼らを踏みつけて行ったのです。それでも正しい言葉を聞かなければ、刃で打って国の為に行ったという事実を、私たちは知っています。 善が向かう目標は、自分一人を足場にして二つに連結し、この二つを足場にして四つに連結して、世界的に広げることです。全世界にまで広げて、次はどこへ入って行くのか?肉体ではなく、心へと入って行くのです。心の神は無形の神であり、体の神はこれから来られる主様です。ですから信仰の根本目的は、失われた神を求めることであり、失われた主人を求めることです。自分を求めることではありません。イエス様当時、自分を求めてさまようすべてのユダヤ教徒とパリサイ人は、イエス様にどのように対したでしょうか? 結局、イエス様を捕らえて殺したではありませんか? 自分を求めるならこうなるという話です。絶対に神は一教会のみのためにあるのではありません。そうではないでしょうか? 自分の為のみの信仰は、めくら信仰です。 神と人間が一つである心情の世界 結果と動機の環境を貫いて、越えて行かなければならない時代が終末時代です。この終末時代に、世界的な思潮が形成されるのです。世界は今、民主と共産の二つの思潮に分けられています。二つは一つに最も近いのです。二つが合わされば一つになるのです。国連機構をごらんなさい。そのようになるか、ならないか。一つの世界は必ず来なければなりません。であってこそ、神様が目的を中心にこの世界を創造され、その目的の下に堕落した人間を復帰しようとされるのです。でなければどうして、神がおられと言うことができるでしょうか? 今は民主主義時代も過ぎたのです。世界のどんな思潮や、主義を中心に叫ぶ時代も過ぎたのです。主義が残るとしても、万人の良心を苦痛から永遠に、神の心情と結ぶことができる心情主義の他は残らないのです。もしもこの心情主義が我々人間に染み込んだなら、歴史的なすべての事を一時に革命することは問題ないのです。何の話か、理解できないでしょう。 神の心情と百%因縁をもって’あなたは私のアボジであり、私はあなたの息子’であると不変の足場の上に立つ人には、世の中の正義や何やらということは問題にならないのです。一時に影もなしに百%革命するという自信感が、この地の上の人間たちの胸にわき起こってこそ、根本的にすべての事は解決されるのです。 それでは神様がこの地上の人間に対して救援摂理をされるとして、どのようにされるのか? 良い環境を造って、楽に食べて良く暮らすようにすることですか? 勿論それも良いのです。しかし体を平安にしたとして、心が安らかでしょうか? 違います。ですから一度抱いたら永遠に続く心情の世界と、結束しなければなりません。この心情の世界は、一度愛すれば終わりがありません。抱いても、抱いても、永遠のように抱いていたい世界なのです。 人間の最高の理念は、理想とされています。この理想は愛の要素を離れては、完結することができません。論理やある組織的な形態では不可能なのです。心的な基盤を動かし、心情的な基盤の上に安息できる道理がありません。理想は人情を超越した天情的な内容を内包していて、この地上の万民を一時に動かすことができるものです。このような理想の新しい門が開放されたとしたら、世界の救援は難しくないのです。赤か黄色かを区別させてあげればいいのです。問題は簡単です。どれが善で、どれが悪かを教えてあげるだけで問題は簡単に解決するのです。このように複雑他端な世界ではないのです。そうではありませんか? 心情の世界は説明を越え、見解を超越するのです。愛するということを、どう説明できますか? ここには何かの観がありません。観というものは相対的な条件があるとき、即ち原因と結果が相対的な位置にあるときに、生じるものです。しかし心情世界においての原因となる主体は、永遠なる主体であり、結果となる対象は永遠なる対象として入ると同時に一つですから、観があるべくもないのです。心情を通しては、神と人間が二つではなく、一つなのです。こんな心情の世界が、この地上に起こる日には天地が蘇るのです。 人類のまえに残っている最後の革命 神が理想的な創造主であり、人間に対して満宇宙と結びつく永遠不変の足場を造ろうとされた創造目的があったとしたなら、それは何を中心とした目的でしょうか? 心情なのです。見て、また見たく、永遠に見ても良く、嫌という言葉を考えることもできない、目一つ見ても永遠に喜ぶことができる、その何かで人間を創った素晴らしい神ではありませんか? このような心情が充満している世界が、天国なのです。皆さんは天国がどのような所が、知っていますか? 一つの存在に対して千年も鑑賞しても、まだ鑑賞しきれない所です。 もしも人間が堕落しないで、本然の園で本然の主人を迎え、本然の心情を通して天情と人情が結ばれたなら、世界がこの様にはならなかったのです。そう考えますか? 堕落した人間の世の中でも、愛ゆえに死ぬの生きるのを騒ぐのですから、神の愛と因縁が結ばれたらどうなるでしょうか? 死ぬこと生きることは問題ではありません。こんな原則と基準を失った人類は、喘ぎ慟哭して彷徨し、蹂躪されているのです。それで滅んだなら、天の恨み、地の恨み、歴史の恨み、時代の恨み・・・万事が恨みによって始まり、恨みによって終わりを結んでしまうのです。 しかし目的のある天倫が残っており、我々が知らない深い心情の基盤の上に、天道を立てる神様がおられる事実を知るなら、安心できるのです。問題は接続するその面が、東にあるのか、西か南か、北にあるのかということです。環境的な差異、あるいは距離が遠くて今この場で接することができないとしても、世界的な終わりの日には、万民が合同で讃え、合同で接する時が来ることは、間違いないのです。それでこそ、愛の神なのです。全部が火の審判で死んでしまうのでしょうか? 死ぬならとっくに死んでいるのです。アダムとエバの二人だけのときに死んだら、どれほど良かったでしょうか? しかし、そんなことはないのです。 ですから皆さんは時代的に覚醒し、未来的な希望を抱いて覚醒しなければなりません。今日の世の中をじっと見れば、哲学も宗教も、芸術も科学も、みな終わりに来ているのです。今人類のまえに、最後の革命が残っています。それはどんな革命でしょうか? 神を中心とする人間の良心革命、心情革命です。これを提示することができる天地運勢が、必ず来なければならないのです。この地にお出ましになるものが、神の摂理なのです。 皆さん、聖書を見てください。神様は今まで霊界の天使長をして、息子をして、聖霊をして役事されてきました。神が直接、心情を接っする役事ではありません。旧約時代には天使をして役事され、新約時代には息子を立てて役事されました。従って旧約時代は天的に見るとき、民を収拾するための時代であり、新約時代は子女を収拾するための時代だったのです。それで新約時代に、楽園という言葉がでたのです。 終わりの日には新しいことを通して旧約と新約、過去と現在と未来を心情的に接ぎ木する一時が来なければなりません。この地に主が来られるのです。皆さん、これを知らなければなりません。主は新郎として来られるのではなく、アボジとして来るのです。マタイの福音書一六章二七節にも、人の子が父の栄光によって来る、とあるではありませんか? 天使長の心情を教え、天使長の心の本性を教え、息子の心情も教え、息子の心の本性も教えてあげて、今はアボジの心情に接ぎ木するというのです。どれほど有難いことでしょうか? 永遠の世界と関係を結んでいない堕落した人間の前に、火を下して審判するのがふさわしい群れの前に、本当のあなたの僕たちを送られ、その僕の心情を手本とすることによって僕の新婦になるようにし、息子を送って息子の心情を通すことによって、息子の新婦になることができるので、今残っていることはアボジと息子を連結することです。これをなす時が末世です。’わが父よ’と呼べば’おお ! わが息子よ’とされる日が来るなら、世界は完結するのです。 愛によって人間を抱こうとされる神 永遠なる動機が神であり、永遠なる結果は息子であり、永遠なる過程的な因縁は被造万物であるなら、父と息子・娘が愛で抱き合うその時に、天地も抱き合わないでしょうか? 原因も私によって解決され、結果も私によって解決され、過程も私によって解決されれば、過程の闘争歴史のなかで、世界的な理念を捜し求めるこの世界も、わが懐に抱かれるのであり、万事は解決されるのです。このようにできる足場が現れなければなりません。であれば神様は万軍のエホバ、万王の大主宰者として、神の独り子、天の皇太子を立て、満天宙に愛する血族を造り、万民を民として万国統治の主権を行使することができるのです。どれほど素晴らしいことでしょうか? 中世封建社会においては、キリスト教が聖であったのです。そんなキリスト教を立てたことは、キリスト教一派のみのためではなかったのです。世界のためであったのです。国家を越えて、世界を越えるべきキリスト教理念であるにもかかわらず、このような理念に背いてしまって、中世封建社会は滅んだのです。こうして、君主社会へと移ったのです。 しかしその当時の人々も神に顔を背け、自分たちの勝手にしたのです。それで、民主社会へと移行したのです。 ここにおいては、神と民が父子の関係です。ここには、世の中の何も必要ありません。世の中の何かの主権者、何か教会などというものも必要ありません。父と自分が直接関係するのです。どれほど良いでしょうか? 大統領だ何だというものは、すべて越えるのです。なぜなら、万民に父の心情を連結させるために壊されるからです。サタン側の主権を壊し、封建社会にキリスト教の主権を立て、次には君主社会を立て、これをまた壊して民主社会を立てたのです。今は神が愛する息子・娘たちが主権を握り’アボジ!’とすることができる一日が、来なければなりません。 今まで求道の道をゆく人々は、無残に踏みにじられたのです。口はあっても言うことができず、鼻はあっても香りをかぐことができず、目はあっても見ることができず、耳はあっても聞くことができず、足はあっても思い通りに歩むことができない哀れな群れが、求道の道を行く人々であったのです。ですから耐えなければなりません。 悪なる世界の主権を打って裂き、また裂いて万民が平等であり、大主権者とも’あなたはわたし、わたしはあなた’とすることができる位置で、神が君臨されなければなりません。どれほど素晴らしいでしょうか? 人間が知らないうちに歴史は流れてきたのですが、神はその背後で先知先烈たちを刑場の露と消えさせてまで、終末の理念を立てられ、ここに結社の自由と信仰の自由等、すべての自由と権限を付与し、拘束のない立場で神をアボジとして侍ることができる運勢を造って来られたのです。 民主主義を何ゆえに造られたか、知っていますか? 神が人間を、息子として抱くために、大きな愛のために造られたのです。昔の主権者たちは僕として抱いたのであり、あるいは使いをさせる民として抱いたのですが、これはすべて偽りのものですから、天は真のの僕を送って、悪なる怨讐の懐にいる人間たちを、神に背反して呪咀する群れを抱こうとされ、それで終わるのではなく、再び息子を送って死なせたとしても、人間を抱こうをされたのです。こうしてこの世の中を崩すのです。僕を送って抱こうとされるときには、サタン世界の僕である立場のすべての主権者たちを退け、息子を送って抱こうとされるときには、サタン世界、悪なる世界の息子的なすべての主権者たちを、退けようとされたのです。 今はアボジ的な主権時代に向かって、退けられるのです。これは宗族と血族を越えて、同じ良心と、同じ心情によって、神をアボジと呼べるようにするためです。ここではどのような制度も介在しないのです。いかなる形式も超越するのです。 理想世界に向かう行軍 愛の法度、これは天倫を離れようにも離れられない法度なのです。もしも離れたら恐怖が染みわたり、破壊されてしまうのです。今日の罪悪の世の中では罪を犯しても、その報応は歴史上をずっとくるのですが、これからの心情世界においては、ある間違いをすれば時間性を超越して、その報応が直角的にくるのです。ですからその世界においては、罪を犯すことができません。こんな世界にならなければなりません。この世界が、理想世界です。そんな世界で、自分の血肉と細胞にまで通じる心情の基盤の上で、アボジと息子・娘が出逢うことのできる日が来なければなりません。そんな日が来れば堕落した人間たちには、それ以上に福なる日がないのです。 真の父母を求め、真の主人を求め、真の民を求め、真の国土を求めて、天のすべての霊人たちと、今まで死んだすべての先祖たちと、これからの数千万代の後孫まで、全部が天の民としてアボジを尊び、愛の世界、愛の価値、愛の倫理、愛の法度等、愛のすべての条件を歌うことができる世界が、まさに理想世界なのです。これはここで語る人間の言葉ではありません。事実なのです。 今日ここで語るこの人間は皆さんが知っての通り、社会においてあらゆる謀略の対象にされています。しかしいいのです。ここにいるこの人間は、数十年の人生をそのことの為に駆けて来たのです。わが命が絶たれたら絶たれたその基台の上に、再びこののろしを掲げて駆ける者がいると、私には自信があるのです、死んでもそれで終わるのではなく、死を越えて駆ける群れがあるのです。天はそれを望んでおられるのです。 イエスは露のように倒れて消えたのですが、神様が復活の役事をされたので逃げた弟子たちも、この復活の役事を受け継いだのです。怨恨の死を足場として、世界に向かって行軍することを、誰が知っていたでしょうか? 同じことなのです。 皆さん、心配しないでください。私たちには信念があります。私たちの徹頭徹尾なる信念を、誰が奪うことができるでしょうか? どのような誠精をもっても、どのような手段方法によっても、奪うことはできません。もしも奪われる可能性があるなら、こんなことはしません。どこの誰が悪口を言われるのが良く、どこの誰が悔しい場にいるのが良いでしょうか? そんな場で精神に釘打つ者がいれば、胸ぐらを掴んで跳びかかるのです。何が不足で、こんな事をするかというのです。 しかし耐え、また耐えてきたのです。この忍耐は私の忍耐ではありません。アボジの忍耐です。お父様はこのように歩んで来られたのです。人類の不変の基台を築くために、アボジは涙の谷間を歩んで来られたのです。ですから何でこの道を楽しんで行けるでしょうか。またお父様はこの基台を築くために、汗の流れる道を歩んで来られたのです。一日ではなく、七、八〇年でもなく、六千年という永い歳月の間、一人ではない多くの先祖たちを死なせ、涙を流してこられました。それでも駄目なので、ついには息子を送られ、その息子を死なせてしまったのです。その死は、イエス一身の死ではありません。 この死は、その時まで死の道を行った多くの人に対する報応であり、勝利の結実であったのです。こうして人類のまえに、生命の門を開放したのです。イエスもこのように来て逝ったので、今日の私たちにおいては千万べん受けても、何も言う言葉がないのです。 一人の人間が埋葬されて民族が生きるなら、どれほど良いことでしょうか? 一つの体が踏まれて民族が生きるなら、いくらでも踏まれるというのです。このように踏まれることによって終わるのではなく、踏まれることによって消えるのではないのです。 神が会いたいとされる群れ 皆さん、今私たちは天性の門に向かって、本郷に向かって、両手の拳をぐっと握って天のまえに誓う群れにならねばなりません。一片丹心、ちりぢりに動く細胞の一つも、のびる血管も、言葉もなく動いている神経も、私たちの意識的なすべてのものが天のまえに誓うことを忘れてはなりません。 食べるのもこのことのためであり、聞くこと、見ること、話すのもこのことのためでなければなりません。なぜ? 神様は歴史路程において人を見たかったのですが、見る人がいなく、語りたかったのですが、話せる人がいなく、接してみたいのに接する人がいなかったのです。 私たちが神の代身、民族のまえに話すことができ、神の代身、対することができ、神の代身、見てあげることができたなら、私たちの個体が倒れて滅びる場、消える場に処したとしても、絶対に滅びることはないのです。 こんな道を歩んでこられたアボジであることを知る私たちであるなら、子女の名分を求め、責任を果たすという覚悟と決心をしなければなりません。朝に目をあければ、一日を予示することができる皆さんにならなければなりません。起き上がって歩みだすときには’心のうちにサタンが住みつく不平不満の要素を、すべて取り除いてくださり、喜びの笑みと共に、今日を力づよく生きるようにしてください’としなければなりません。神はこのような群れに会いたとされるのです。 このように険しく哀れな天地に、希望をおくことができないこの地の上に、一つの群れにでも希望を留めなければならない神の心情があるのです。しかし私たちは持っているものがありません。何にもない哀れな民族です。後進国の中の後進国として、先進国の援助を受けなければならない立場です。しかし外的に援助を受けるよりも、内的に神の援助を受けることができる民にならねばなりません。外的な援助は受け、内的な天の援助を排斥してはなりません。哀れなこの民族に同情して後援してくれるその裏面には、神の後援があるのです。この民族がこれを知る日、世界万民のまえに億千万倍の恩返しができるのです。 歴史はこのようなことです。死亡のあるところに懐妊するのです。破壊と建設、腐敗と蘇生は、一点に共にあるのです。万民が同情して後援する裏面には、天の助けがあるのです。知ってみればそうなのです。皆さん、このような天的な意味において、地上に対する摂理的な運勢が私たちに訪れているのです。ですから民族に訪れるこのみ旨は、教団のまえに追われ、家庭のまえに追われ、個人のまえに追われているのです。ではあっても、落胆するなというのです。 昔の先知先烈たちの中で、誰かこのような道を行かなかった者があったでしょうか? 私たちが信じるイエスの生涯を、察して見てください。四千年の間準備して、全民族を抱くために来られたこのお方を、民族が背反するとは何としたことでしょう。イスラエル民族を選び、立てられたダヤ教を抱くために来られたイエスのまえに、教団が反旗を掲げるとは何としたことでしょう。国家に追われ、教会に追われ、家庭に追われ、兄弟にも追われ、愛する弟子にまで追われ、ついには殺されてしまったのです。彼が永遠に死んだと思ったのに、再出発するとは誰が夢にでも考えたでしょうか? 願わくば我々統一教員はそうはならないとしても、そのような立場になりと出るというのです。であれば、それ以上のことを迎える時が来るのです。 目標に至らなかった恨のゆえに復活したイエス 私は個人ではありません。私が死ぬ場においては永遠に個人であっても、生きている生命の主権と共にあるときは、個人ではありません。追われる場、哀れな場に処して、鎖に繋がれる牢獄の身であったとしても、その心の世界においては独りではありません。これは歴史的な実証を通して、生活を通して確実に知ることができるのです。私たちが戦場で倒れ、足で蹴られたとしても’こいつ、わたしがいるから落胆するな’とされる神様がおられるのです。過去にもそうであり、現在もそうなら、明日もそうだという心情的な足場だけ失わなければ、皆さんの行く道は一人ぼっちではないのです。 天と因縁を結ぶ人間であるなら、獄中にあっても知らない人が食べる物を持ってきてくれるのです。追われて、軒下で眠る身の上になったとしても、その部落に良心的で天倫に従う人がいるなら、眠ずに捜して朝日が昇る前に訪ねてくれるのです。このように前後、左右、上下に天と関係している限り、時代的な迫害は問題になりません。倒れたら起き上がり、また行って十回倒れてもまた起き上がって行き、もしも命が尽きて倒れるなら、霊的にでも行かねばなりません。行くべき所に行けなかった恨が残っているので、イエス様も復活されたのです。 皆さん、私たちの永遠の希望は何でしょうか? 歴史的に討つことのできなかった大怨讐サタンを、私たちが鋭い刃で倒し、屈伏させることです。ですからこのサタンの宗族が屈伏する日まで、行軍は止むことがないのです。目の前に見わたせる曲折と万象を見て落胆することなくこれを越えて、自分をもどかしく見ておられる主の姿を望み見て、神のお姿を望み見なければなりません。 自分の悲しみが問題ではありません。私が個人の人生路程を行くならそれだけですが、歴史的な摂理を抱いてゆくお父様は、わが人生を過ぎて未来にまで喘えいでおられるのであり、自分が抱く心より何百倍、何千倍も懇切に、私を待っておられるのです。このような神の心を知ったなら、誰がどうして行かないと言えるでしょうか? 神を慰労して差し上げるのです。永遠なる足場のない神を、私たちが慰労して差し上げるのです。心情の足場がなく、心を焦がすイエスの惨めな姿、ゲッセマネの園で独り夜露にうたれ、草の根を掴んで訴えて涙した悄々たるイエスの姿、誰がイエスをこのような姿にしたのか? 全世界人類が共に、歴史の審判台の上に立って、共同的に罪の蕩減を受けるべき運命にあるということを、知らねばなりません。 イエスは希望とされたのです。彼は信じてあげたのです。自分を釘打って追い出したその群れたちを、信じて逝ったのです。背反する弟子たちを信じて逝ったのです。このように信じたという条件があったので、復活された後、再び訪ねることができたのです。 背反した者、逆賊たる者を、蕩減なしに再び立てることはできないのです。天倫がこのようになっているのです。ところがイエスは、どうして背反した弟子を訪ねることができたのでしょうか? ピラトの法廷でも、最後を迎える瞬間にも、ペテロを信じたのです。背反の場で踊りを踊るペテロを、そうではない者として信じてあげたのです。自身が倒れる恨があったとしても、そうではないものとして信じてあげたので、復活した後に弟子たちをを訪ねても、サタンが反対できなかったのです。この信仰が動機となって、弟子たちを再び集め、地上復帰運動の先鋒として旗を掲げることができたことを、私たちは知らねばなりません。 皆さん、死ぬことは同じなのです。私たちはこの歴史的な怨恨を蕩減して、解怨すべき運命にあるのです。死の道を行っても、これを解決しなければなりません。食べることができなければ飢えても行き、着る物がなければ脱いでも行き、寝られなければ夜を徹してでも行かねばなりません。 私たちは他人の世話になっては駄目です。もしも世話をかけたら自分の血と汗を流し、肉と骨を削って返さなければなりません。であればサタンのまえに、天倫の心情を通す子女の威信を百%立て、天が願う勝利的な足場になることができるのです。勝利の足場、勝利のこの足場を神様が、どれほど慕っておられるかを知っているでしょうか? 学校を見渡せば学校も、社会を見れば社会も、教会を見れば教会も、どんな政党、どんな財団、どんな機構を見ても、勝利の足場はみな塞がれたしまっているのです。 苦しみの場で人間を待っておられる神 一片丹心、一つの道を行くべき運命にある天国の民は、どのようにこの道を行かなければならないか? 知恵で行くことができなければ汗と涙で、汗と涙と行けなければ血でも行かなければなりません。我々の汗を神の汗として、我々の涙を神の涙として、我々の精力を神の精力として捧げなければなりません。血は神の為に、涙は人類の為に、汗は地の為に流さねばなりません。こうして神と地と人類が出会うことができない怨恨の土台を、余すところなく踏みつけなければなりません。これが私たちがなすべきことです。自分の生活感情が’神のことであり私のことであり、私のことであり地のことであり、私のことであり人類のことだ’とする場まで行って、私を中心とする天的な価値を歌うことができなければなりません。 今までの歴史は天は天として、宗教は宗教として、地は地として分かれてきたのです。天を訪ねてみれば人類を失った状態であり、人類を訪ねてみれば天と地を失った状態だったのです。今は天的な心情を通して、私たちの生活感情を通して、これを求めることがアボジのことであり、地のことであり、人類のことであると同時に、私のことだと感じなければなりません。始まりから終わりまで、一つに終結する一つの理念的な基準、栄光なる勝利の姿を得て、両手を合わせて’失われたものを捜してお返ししますから、お受け下さい’としなければなりません。神はこのような息子・娘に、天上で逢おうとされるのではありません。世界万民が集う豪華な場で逢うことを望まれるのでも、幸福の園で逢うということでもないのです。血が流れる基台の上で、涙の他ない複雑な環境において、闘いの道場において、逢いたいのです。皆さん、これを知らねばなりません。 栄光の中でアボジに侍ろうとする者は、アボジに逢えないのです。血の涙を流す場において、万民が中心を失って混乱し混沌としている場で、生死が覆る場において勝利の姿で’天よ、地よ、人類よ、わがアボジよ’としなければなりません。こうして’おう、わが息子よ、おまえは今まで天上で願ったわが息子だ。万人の前に立てたかったわが息子だ。天上天下に誇ることのできるわが息子なのだ’という神の祝福の恩賜を受けなければなりません。それでこそ、今日お話した真の足場、真の人類の基盤が成されるのです。 私たちによって天と地と人類の幸福の起点が、この地上に現れなければなりません。このことは、誰かが責任を負わなければならないのです。涙が前を遮って歩むことができずに引っくり返り、このことに責任を負うと伏して訴える者がいるなら、彼の膝の前に頭を下げ、痛悔しなければなりません。惨めで絶望的な身の上であっても自己の一身を考えずに、その場において感謝する心をもって天の為に、み旨の為に、血の涙を流してゆく群れがいるなら、決死的に彼らに従うのでなければなりません。 このような信者、このような良心的な人士がこの民族の中に、特にこの民族の青年男女の中に現れなければ、この民族は滅びるのです。’自分が神の永遠不変の足場です。この姿がたとえボロをまとい、飢えて持つものがないとしても心情においては、自分でなければあなたのみ手を握る者がなく、自分でなければあなたの衣服を整える者がなく、自分でなければあなたの履物を繕う者がありません。あなたのどの部分でも、自分でなければなりません’とする群れが集まる日には、闘わなくてもこのサタンの天下を、征服することができるのです。 重要なことは、私たち自身です。問題は自分自身であることを徹頭徹尾、知らなければなりません。一つの目的のために行く私たちは、兄弟です。私は私、君は君ではないことを知らねばなりません。戦場で血を流して倒れてゆく兄弟を見て、眠ることもせずにその場に自分の血を加えてゆくと、天のまえに誓う私たちでならなければなりません。 私たちは涙を流す場においても、汗を流す場においても、そうでなければなりません。生きた足場、勝利的な足場が、皆さんの心情を通して立てられるときまで、皆さん、落胆しないで行ってください。であればきっと皆さんのまえに天宙的な大勝利が来ると、私は自信を持っているのです。 <祈祷> アボジ、あなたはとても私たちを愛しておられますので、このような道を来られたことを知る私たちは今日も行き、明日も行きます。悲しくとも行き、悪口を言われても行き、踏まれても行かなければなりません。とても大きな愛であり、とても大きな恩賜ですから、この韓国は何をもっても報いることができません。何をもってお父様に報いることができるかという心を持って体を折り曲げますので、あなたのみ旨の通りにお受けください。 今日ここに、多くの命が参席いたしました。自身がどのような立場に処しているかを明らかにして、過程的なこの世界を踏み越えてゆける信念を持てるようにして下さい。でなければ現実を越え、未来のことでも案じなければならないことを知りましたので、今日ここに集う者たちの生活の一面でも、神の真の足場、神の真の基台になることができるようにして下さい。体・心・心情の一面なりとそんな基台となり、この悪なる世の中に見せてあげ、この悪なる世の中を収拾できるようにさせて下さい。 そのような場でアボジのまえに栄光をお返しし、あなたの息子・娘という賞賛を受けることのできる私たちになるようお許し下さることを許諾され、すべてのことをお受けください。主のみ名によって祈祷いたしました。ア-メン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.23
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大韓民国の伝説的な女性 韓鶴子 日本語版世界平和統一家庭連合公式チャンネルチャンネル登録者数 2.35万人台湾初の女性副総統となった呂 秀蓮 元副総統をはじめ、台湾の著名人たちに韓鶴子総裁の自叙伝「人類の涙をぬぐう『平和の母』」を読んだ感想を聞いたインタビュー映像です。人類の涙をぬぐう平和の母 自叙伝 [ 韓鶴子 ]【中古】 人類の涙をぬぐう平和の母 自叙伝 /韓鶴子(著者) 【中古】afb
2021.03.22
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過去記事からです。3月21日、サタン完全(自然)屈服の日(1999年)(2014.03.21)サタン完全(自然)屈服の日(1999.3.21)(2019.03.20)天一国摂理史--「双十節」宣布(1999.10.10 ウルグアイ)32 第四次アダム圏にならなければならないと、一九九八年に宣布しました。「双十節」に、第四次アダム圏の峠を越えたのです。ですから、十月は栄光の月になるのです。十月は、四日が、お父様が西大門刑務所から解放された日であり、十四日は興南監獄から解放された日です。私は、天宙的「四・四節」を宣布しました。コディアクで家庭的「四・四節」を宣布したので、ウルグアイで天宙的「四・四節」を宣布したのです。ですから、神様の四位基台理想が連結されれば、サタンの峠を越えていきます。それで、サタンを屈服させることができるあらゆることを整備して、これから第四次 アダム圏時代、蕩減が必要ない時代に越えていくのです。蕩減復帰ではなく、自然復帰時代に越えていくのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.21
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神と共なる愛着心を持て 1960年9月4日(日)前本部教会 この御言は40日伝道期間を終えて帰ってきた隊員たちに語られた この期間に南韓各地400か所に行って伝道し、今は多くの教会が生まれました。それゆえこれから統一信徒は、新しい覚悟を持たなければならない時が来たとみるのです。今協会長も話ましたが、血と汗を流して、その地方なら地方を抱えて、命をかけて戦うことを有難く思うものです。 この世的な愛着心を切る摂理をされる神 皆さんに一言、言いたいことは今から我々は戦わなければならない時が来ましたので、神が願う時期を迎えて、我々はある覚悟をしなければならないということです。個人的な覚悟よりも、天地を代身して天を動かし地を動かすと同時に、人類を動かすという覚悟をしなければならないということを、皆さんはこの伝道期間を通してよくよく体験したと思います。この時代的な基準を我々はまず知りましたので、この時がどんな時かを知らねばなりません。 天は必ず善なる群れを率いる時、平坦な道を行くのではないのです。踏まれるその場で涙と汗と血の祭壇を連ねて、これまでの歴史を抱えて来られたことを、どんな歴史的な史実を見ても、摂理的な路程を観察して見ても、これは否定することができない事実です。 ですから今日のこれまでの歴史、文化を見ても、その環境に遊んで安楽な立場で生きてきた群れによってできたのではなく、踏まれ追われる群れを通して、彼らの涙と汗と血によって成されてきたことをよく知っています。このように個人から家庭を経て、あるいは社会、民族、国家を経て世界を越えて、ひとつの目標に向かって歴史を編んできて、これまでの人類文化は発達してきたのです。 それではこの時はどんな時か? 良心的な者や、あるいは道を究める人や、誰かれを問わず、新しい覚悟をしなければならない時であることがよく分かるのです。この時は自分が暮らす社会に対する愛着心を切ってしまう時が来たのです。神はこの地上に摂理されるにおいて、求道の道を行く数多くの群れに対して、彼らの世の中に対する愛着心を断ち切る道へと追い込まれるのです。家庭から、自身の欲心から、この世にはある欲望の属性が多々ありますが、神はこれを除去する方向へと、率いてこられたことは事実です。 これは単に宗教人のみではありません。宗教なら宗教人を中心として、一つの目的を成すための神のみ旨があったとすれば、最後の終末時代にはどんな世界が来るのか? 必ず全ての人々が愛着心を失ってしまう社会環境へと、神は追い込まれるのです。 終末とはどんな時か? 終末とはどんな時かというならば、自分たちが命をかけるどんな事に対しても、愛着心がだんだん薄れていって、ついには失ってしまう時です。そんな終末時代が、必ず来る時がなければならないのです。これはなぜでしょうか。世の中の愛着心を持っていては、天のみ旨を達成できないからです。 とすれば神は必ず目的を達成し、み旨を果たそうとされるなら、必ず地上の人類、あるいは国家に対する愛着心、民族に対する愛着心、あるいは自分の学問に対する愛着心、さらには家庭に対して、あるいは父子の関係における、各分野、各部署における愛着心を断ち切ってしまわれようと、天は摂理されていることを総括的に見ることができるのです。 さらには現在を総括的に観察して見ると、民主と共産世界が対決しています。こんな思潮が行けば行くほど、民主陣営にある人間自身も民主陣営に対する愛着心を失ってゆくのです。その反面、共産主義者たちも共産主義に対する愛着心を失ってしまう方向へと、必ず世界は動いて行くのです。このように闘争的な現象を経て、人類に対する愛着心を断つ方向へと、これまでの歴史は展開して終末的な路程へと流れていることは事実なのです。 世上に対する愛着心を断ち、神の代身者と因縁を結べ 我々が天の側の立場で観察して見ると、必ず個人から家庭を通して社会と国家を越える世界、天宙の思想圏までもこんな傾向になっていると同時に、さらには宗教や良心にすがっている人々、あるいは求道の人々においても、そんな傾向にと必ず行かざるを得ないのです。ですから今日、既成教会や、全ての宗教を見ると、その人々が必ず新しい宗団に向かう本来のみ旨の時が来ましたので、どの宗派を問わずそこには必ず分裂が起こり、誠心誠意すべてを注いで殉教していった数多くの聖徒たちが、これを排除していかなければならないのです。こんな終末時代が必ず来なければならないのです。 それではどうして神はこんな方向へと行かねばならないのか? 皆さんはこれを知らねばなりません。悪の世の中と善の世の中、悪の世の中で一つの峠を越えるためには、必ず精算しなければなないのです。これを精算する時がいつかといえば、審判時代なのです。その時が審判時代です。我々が世の中の全てのことに愛着心を持って終わりまでしがみついていたら、天の前に大いなる審判の場を越えることができません。ですから天は全部整理させようというのです。ついには自分を信じられず、愛する人までも信じられないという孤独の境地にまで追われ、愛着心を持って世の中に誇る何物もないという立場まで追い込まれるのです。このように追われ、ここにおいて人間の力ではもうダメだと誰もが思う時、再び天を願い、天に対する愛着心を呼び起こす摂理のみ旨があるのです。そのようになるのです。 それでは我々がこの時代において、この時代が審判の時ならば、どのように審判がなされるのか? 御言審判と同時に人格審判があり、人格審判と同時に心情審判があります。原理を学んでいますから、皆さんは良く知っています。ただ名目的に審判するのではありません。火を降り注いでこの地に天変地異を起こし、全てを滅ぼすのではありません。絶対にそうはなりません。必ず審判には、御言審判があり、その次には人格審判があり、そして心情審判があるのです。 キリスト教全体の歴史を照して見て、イエス様までの4千年の間、求めてきたものが何か? 真の真理を求めてきたのです。さらに真理を中心とする、真理化する、神のまえにに立って、神を心から呼び、神が心から話され、神の御言に直接ふれ、神の御言に直接、答えることのできる一人の人格者を捜し求めてこられたのです。 その人格者を立てて、どうするのですか? 神とその人間と一体となって、神の愛を受けたならば、神の前に愛をもって答える立場まで導く神のみ旨があったのです。ですからイエスが来られた後、これまでは御言を中心とする審判歴史なのです。「信ずれば救われ信じなければ救われない」という標語のもとにこれまで来ました。それで御言と実体が必ず伴わなければならないのです。神の真の御言は必ず、実績と実体を残さなければならないのです。これが天理の原則です。 ところでこの地上に万物を造る時、真の息子娘のために造られたのに、真の実体が現れなかったのです。これが堕落ですよ。真の実体を得て神と共に生きることができない世界となったのが、堕落した世界です。これを再び探し求めるためには、再び神が御言を下されて心情と連結しなければなりません。御言を再び立てて、御言を代身した実体を立て、その実体の姿が完結した後に、神の心情を注いで父子の因縁を結ぶのです。これが創造目的であることを、皆さんは良く知っています。 ですから天が今まで、摂理されて来たことは、御言を捜し立てることだったのです。しかしいまだイエスが行かれた後、真の御言は現れないのです。御言とはどんな御言であり御言の目的は何か? これは個人と国を生かすためのものではありません。御言の目的は個人を越え、家庭を越え、社会、国家、世界、さらには無形の世界まで、この天地の理念を蘇生させるためのものです。この目的を達成してこそ成るのです。 なぜそうか? 神はアダムとエバを造られ、祝福されて万物を主管せよとされました。主管する時は外的な面ばかりではありません。内的な面まで主管しなければならない基準があるのです。この話は何の話ですか? 私個人が信じて天国に行くためのものではありません。私個人が信じると同時に、私の家庭が信じ、社会、国家、全世界、さらには天上にいる無数の霊人まで一つになり、神が創造された理念と共に、一体の立場までゆくためのみ旨で、そんな御言を下されたのです。 神の御言を中心として理想世界を成せ こんな面から見るとき、今日のキリスト教はいまだキリスト教の世界観が立っていません。個人は必ず本然の家庭を基盤として、社会理念を経て国民、あるいは世界人類としての関係を離れることはできません。ですから我々の個体を中心として、救援の目的を探す時は過ぎ去ったのです。「天のお父様、お救い下さい」と血と汗を流して祈祷する時は終わったのです。時がそんな時ではありません。 ですから昔、神様はこのような歴史的目的を達成するために、数多くの人間を悪なる存在の懐に抱かせ、そのままに任せ、新しい角度から新しい色あいの姿を求め、個人から、あるいは家庭から社会、国家形態をもって選民という民族をここに立てるために役事されていることは事実です。 それで神の救援の目的は宇宙的な、さらには天宙的な目的達成であります。ですから今日、人間が必要とする御言審判時代に要求するその御言は、やはり天宙の理念を越えることができる御言でなければならないのです。ですから個人が救いを受けようというのではありません。世界観から、天宙観から徹頭徹尾、原則的なその御言を中心として、自分がぶつかる時、いまの自分自身は神の御言のまえに、土くれが光を受けて造られたように、ここに生命が生まれ、感情が生まれ、理念的な方向を捜し求めて行くのです。そんな真の御言を、人間は必要としているのです。 今日このような内容を持つ御言はどこにあるか? ないのです。ですから堕落以後から今まで、聖書の年代を見るとき、幾千年の歴史を経てきていますが、幾千年の歴史路程におきまして神が憤りの言葉を発せられないのです。聖書の御言はイエス様が独身の身で語られたものです。イエスを中心とするその理念は、宇宙の全体のまえに立てるものでなければなりません。しかし個人救援摂理を中心に、今まできたのです。これを分かって下さい。個人救援を過ぎ、家庭救援、家庭救援を過ぎ、社会救援、国家救援まで天は必ず、立てなければならないのです。最小単位として、国家でなければなりません。そうすれば世界的役事をすることができるのです。 ですから今日、キリスト教徒たちは国がない民なのです。求道の道を行く人々は国がない民なのです。ここには国籍もなく、移管される国家もないのです。自分が自分の宗族だとすることのできる民族もないのです。 こんな現世界において、今日この時代はどんな事を要求しているのか? 今日この時代現象において、我々は宗教人のまえに何を要求しているのか? 道の理念を中心に国籍を立てることのきる、道の理念によって国土を確定することのできる、道の理念を中心として民として立てることのできる基準が、神が摂理されたなら必ずなければならないというのです。 こんな現象を収拾するためには、どうしなければならないでしょうか? ひとつの分野を見てみると、百軒あれば百軒の暮らしが全て違うのです。違っていてもある原則的な心情に一致する帰一点がなければなりません。この帰一点を立てるためにキリスト教は、愛というテ-マを掲げたのです。とすればこの愛のまえに、誰が接ぎ木されて、復帰されるのでしょうか? この愛という言葉のまえに、誰でも尊敬することのできる基準を、天は引き上げなくてはなりません。ですからここに新郎新婦という名詞を与え、絶対的基準を立てるために、教会や聖書の中にこれを訓戒されたのですが、今日教会を信じる多くのキリスト教徒は、そんな境地に立っていないので、問題が大きいのです。 こんな摂理されてきましたので、今この時代に神が最後に望まれることは、心情的基盤において、ある個人が信心して天国に行くことを願ってはいないのです。個人を中心とする家庭、家庭を越えて国家、あるいは世界全部が神の心情のまえに一つになる、御言を中心とするそんな世界を慕い求めているのです。これは不可避なことです。 御言を中心として互いに一つになれば理想世界を成せる ですから名目的に信ずる時代は過ぎました。全ての事理は我々の生活的な感情まで、位置と公式的な法度過程を条件として、我々と関係を結んでいる実生活を否定しなかったら信仰観念において、やはり突き上げるものがなければなりません。 それでは今日、聖書において示し、聖書で望んでいる目的はどこにあるのか? 神の目的は何か? 審判の目的はどこにあるのか? 一個人を審判して、救援して、天国を望む目的は絶対いけません。神の善の国を造ることが目的です。全てを滅ぼしてしまうことが神の目的ではありません。神は滅ぼしはしない愛の心情を、持っておられるのです。 それゆえ今日これを収拾するために、この歴史をどんな面へと率いてこられたかといえば、必ず立ち塞がる過程を経なければならないのです。ないと解決できないのです。必ずこれを精算してこそ、新しいことを始められるのです。悪と善が一つ所にありますか?一つ所に同じくはないのです。分けられなければなりません。 それでは今、悪なる世の中から善なる世界へ移行することが神のみ旨であるとして、そこには必ず審判的な条件を提示されるのです。その審判をする時、御言をもってするのです。その御言の目的は、全てが救援です。それは個人の心情に通じ、家庭食口たちの心情に通じ、国民、あるいは国境の異なる民族の心情に通じる、神の側から見ると、一つの心情に通じることのできる基準を持っている、そんな宇宙的な理念を中心として摂理されてこられたのです。 皆さんたち、今日全世界キリスト教徒は誰だと思っているのでしょう? 全世界キリスト教徒は兄弟であり、天の国の民です。兄弟の観念を持っていなかったら、民になることはできません。兄弟の因縁を離れた者は、民になることはできないのです。今日の教会の現象を見ると、互いに引き離しています。兄弟の因縁はみんなどこかへ・・・。 この時は今、どんな時を要求しているのでしょう? 天の国、天国を建設するための新しい時が来ましたので、民の過程を経なければなりません。それでは皆さんは兄弟の時代を迎えていますか? これを各自が反問しなければならない時です。今日我々には今まで歴史的に、あるいは今までの自分の環境的な背景を中心として生きてきた、全ての体制というか、家庭の体制というか、信条というか、この全部が、私をして天のまえに捜し立てる、真の兄弟の因縁を結んでいなかったことを、はっきり知らねばばなりません。兄弟の因縁を結ばなかった者たちが、団結して民として任じても、これは必ず壊れるのです。国を愛するにおいて、兄弟よりもさらに愛さなくてはなりません。こんな路程に、天は追い込むのです。 それで今日の世界キリスト教徒、さらには求道の道を歩む多くの人々は、いま心を同じくして兄弟の因縁を求め「我々の因縁は誰が奪えるか」という道を中心に行かねばなりません。こんな形態が、必ずこの地上に現れなければならないのです。 見てみなさい。キリスト教の初代教会時代には、兄弟が血を流している時には、自分の命を捧げて、死の場もかまわず貫いて行くという因縁を残して、悪の世界に力強く行軍して行ったのです。しかし今日、互いに兄弟の因縁を求めずに争うここには、崩壊です、崩壊。崩壊の一路をたどっているのです。しかし天の時は来たのです。天が要求されることは、天国の民を求めることであり、民は必ず兄弟としての因縁を経ていなければならないのです。これが全て、断たれてしまいました。 神の御言を求めるための愛着心を持て 今日これまで世の中で結んだ因縁を切るということは・・・。天はこれが壊れることを良しとされます。全てのものを壊して、愛着心を無くしてしまうのは、何のためか? これを奪っていって、他の面に愛着心を持つ方向へと行くために、歴史過程を全て率いて、精算されようとされるのです。それで今、この時代においては全ての分野において愛着心を持つことのできない、そんな世界的な現象が現れているのです。 この目的はどのように果たされるのか? 愛着心を全部捨ててしまうのが目的ではありません。良からぬことに対する愛着心を捨てる反面、天を標準とする人々は互いに愛着心を持って、世の中の兄弟以上の兄弟として、世の中の父母以上の父母の因縁をうたうことのできる群れとなるのです。必ずこんな群れにならなかったら滅亡するのです。ですから韓国に統一教会が現れ、数多くの非難の対象になりましたが、滅びないのです。この民族が愛着心を全て切って、我々と肩を並べようにも並べることのできないそんな時が、いつ来るのでしょうか? もしも神の審判をまず受ける民族があったなら、そんな民族がまず受けるのです。しかしながらまず審判を受ける民族の中で、審判を受けない民族は神の愛を受ける民族です。いかに世界が広いといっても、そんな存在が必ず今日の社会、あるいは我々の風習圏内の全体を襲い、そんな社会規定を成す一時が、来ることを願うものです。 皆さん自身の胸に手を当てて、反省してみて下さい。皆さんが命をかける覚悟をして信じる何がありますか? 自分が誠精を尽くして侍るというそんな何かがありますか? 父母が子を殺そうとし、妻子家族が互いに反発し、惨めな現実となっています。今日のこの家庭に対して、自分が愛着心を持てないでしょう。自分が専攻しているある学術的分野においても同じです。 なぜそうですか? 国が滅び、民族が滅びゆく環境においては持つことができないのです。なぜこれが持てないのかというんです。我々が生きているこの実社会、さらには韓国の実態を見るとき、愛着心を持てない民族になっているのです。こうして我々が絶望の中に倒れるのではなく、必ず来なければならないその時が来たことを、我々は肝に銘じなければなりません。 天がこんな場に追い込まれる目的はどこにあるのか? 我々をぶち壊して地獄に放り込むのが目的ではありません。我々をそんな場に立たせ、全てを失い、全てを断ち切り、一片丹心この心を再収拾して、天を望み訴える道を開くのが目的なのです。今日韓民族が、さらにはこの時に行くべき道は、経済にもなく、政治にもなく、文化にもなく、これまでどんな既存宗教にもないのです。 なぜ? 彼らが命をかけ、神のみ旨であるとする、こんな愛着心を持つ宗教の内容がない限り過ぎ去ってしまうのです。こんな時が来ましたので、時を知る青年男女においては鋭利なる視線をもって批判し、分析しなければならないのです。また、哲学も道がありません。今日の環境は政治や、なに、なに、なに、信じられますか? 皆さんに愛着心があるかというのです。愛着心があるとすれば、パン一斤に愛着心があるのです。このような過程で起こることは、今日の唯物史観です。この唯物史観は世界的な舞台に踊り出ています。そんな時を伺っています。しかしこれではダメです。 人間は食べるだけではダメです。どんなに満腹になったとしても心情的天運が、心霊に食い込む思潮の潮流を止めることはできないのです。防ぎ消化する力があれば喜び、でなければ喜びがないのです。ですから今は審判の時が来ましたので、不安と焦燥と恐怖に沈む時であり、自分の心情に何かの愛着心を持つことのできない終末の時なのです。こんな時にあるということを、知らねばなりません。 今日、我々がいま一度、愛着心を持つべきものは、世界人類です。ですから皆さんは、新しい愛着心を起こさせる御言を得て、叫んで行かなければなりません。父母から、一切のもの全てを失いましたから、再び愛着を持つことのできる御言が、必要な時が来たのです。この世界の思潮において、どんな主義も信じられない時代が来ましたので、これ以上の何かを感じて、これに対して自分の命をかけて、死の場に倒れる恨があったとしても、生命以上の愛着心を感じることのできる、御言が必要であり、理念が必要な時が来たのです。こんな境地で皆さんは、自己批判して下さい。自己批判して下さいというのです。 それでは天が全部ぶち壊してしまうのですか? このような時が来ましたので御言を通して個人が生き、個人が生きると同時に民族が生き、民族が生きると同時に世界が生き、世界が生きると同時に神が生き、神様までも幾千年の間の嘆息の恨をのがれ、解放の統治圏を得て、満天下に号令することのできる時を、迎えねばならないのです。ですからぶち壊してしまうことではないのです。このような面において、神があるなら、愛着心を持つことのできる一つの運動が起こらなければならないということは、必然的な事実です。そうではありませんか? 名目的な信仰、いいかげんな時は過ぎました。 最後の歴史的伝統から残ることは天情を中心とした心情のみ 今我々が愛着心を持つ時は、その愛着心を持つことのできる動機となる御言を知らなければなりません。この御言は自我を踏み越えていける御言でなければなりません。この御言は自分が今まで信じていた、観念的な宗教を打破することのできる御言でなければなりません。この御言は今日の時代的な、社会のどんな主義思想の全ての問題をもはね返し、新しい旗を中心に天宙に向かって叫ぶ時、天地が感応することのできる御言でなければならないのです。 ですからこのような内容の御言をもってすれば、今日の論理的な観に立つ世界主義ではダメです。この論理を越えて、心情的な理念を通してくる天宙主義でなければダメです。人間が幸福だという時は、自分が沢山知っているから幸福ではないのであり、自分がある大学の学長になり、総長になって幸福になるのではないのであり、今日自分が一国の何かになって幸福になるのではないのです。とんでもありません。その心情が自分のおかれている環境を越えていって、いかなるものとも取り替えることのできない安定した価値をうたうことのできる立場にあってこそ、幸福になるのです。 神が今まで、苦痛を受けてこられたのは何故でしょうか? 神が今まで苦しみを受け、苦労されたと言う、その原因はどこにあるのか? 心情的価値を今日、創造の世界において、立てることができないということが、神の悲しみであり、苦痛なのです。 歴史を全体的に収拾して、最後に残るものは何であるか? 人類の心情のみが残るのです。これを知らねばなりません。人類の心情が残るといって、その心情とはどんな心情なのか? 堕落した世界でこれまで追われ、破壊されたことではないのです。愛着もないそんな場にとどまる心情ではなく、永遠無窮なるまでこの心を誰も占領することのない、そんな内容の心情でなければならないのです。そんな御言でなければなりません。そうすれれば、個体と全体が一つになるのです。 皆さん、心情的問題においては、価値を超越しているのです。相対的に比較する価値を超越しているのです。どんなに大きく高い神であっても、わが心情を通して現れる時、自身は神の法度に外れることがあったとしても、価値的な面においては相対性を得ているのです。 こんな立場で神を中心として、神を中心に尊敬していって自分が愉しむそんな人間になったとすれば、彼は無限に幸福な者になるのです。宗教の理念はそこまで行かなければなりません。人間の命令を受けて動いていてはダメす。天はこんな標準まで人間を率いるために、いままで摂理されてこられたのです。歴史の伝統から最後に残るものは心情です。何の心情か? 人情ではありません。人情的心情ではなく、天情的心情なのです。 歴史を見てみると、孝子、忠臣、烈女が多くあります。人類に通じる心情的足場はどれほどか学び、どれほどかあるのですが私とは何らの関係もないのです。民族と民族を関係づけることができないのです。これによって解決はできません。ですからこれを処断し、掻きまぜなければなりません。ですから無愛着になる風潮が必ず、世界審判の直前に来るという現象が、起こらざるを得ないのです。これを知らねばなりません。 我々の胸を開いて見れば、アボジを呼び、主を信じるという心情の内情を見てみれば、神の子女であると自ら任じる者があったとして、彼が神の心情問題を知っているのか? 個人に対する神の心情がどうであり、民族に対する神の心情がどうであり、また国家に対する、世界に対する、神の心情がどうなのか? これを知らなかったら、絶対に忠臣、烈女にはなれません。 歴史の目的は人類が共に喜び、心情の安息所を捜し求めることであることを、よくよく知らねばなりません。文化の目的、芸術の目的、宗教の目的、全ての目的は、この基準において、一つの精算をするためのものなのです。ですからこのような観点からこんな内容をもって現れる宗教が何か? 最初に登場する宗教が、キリスト教なのです。 イエスがご自身を新郎であり、あなたたちは新婦であると言われた心情的な基盤は、今日堕落した人間を中心とした新郎新婦の心情ではありません。天情の因縁を求めるために今日の無知なる民のまえに条件を立ててゆくことでした。因縁を結んだ人間を従え、死の敵陣を越え、歴史を押し広げていって、世界に基台を造り、役事されました。 秘められた天情の恨を解くことが真の真理 皆さん新婦を知っていますか? 新婦の立場は、そんなに易しい立場ではありません。今日新婦たる資格者がこの地上にいるとして、この地上で新婦だと自認する人間は・・。 今日のサタン世界、悪なる世の中に、ある忠臣がいたとするならば、数多くの忠臣者の中で、誰とも比較もできない内容と、心情的気概をもった存在でなければなりません。そうでないなら、神が彼を天の忠臣として立てられないのです。なぜ? サタン世界の忠臣者を、天の世界の忠臣に立てられないのです、威信上。標準がこの標準なのです。 「烈女や孝子があったなら、その中である誰々がいたとして、幾千年の間の数多くの孝子をいっぺんに立てていって、天のまえに立てることのできる一人の孝子と比較する時、取り替えることができない!」こんな価値ある孝子が現れる前には、神の息子ではありません。サタンが握り、サタンが押さえるそんな立場にあっては、神が事にあたります。ですからキリスト教の内容に「誰よりも私を愛しなさい」という条件があるのです。皆さんはこれをよくよく知らねばなりません。 このような心情をもって今日、人類を捜し求めてこられたアボジの心情がどれほどの悲しみであるかを知らねばなりません。知ってみれば千年万年、慟哭したとしてもその心情をお慰めすることがきない恨を抱えてこられたアボジだということを、我々は知らねばなりません。審判のその時を求め、このような恨の心情をお慰めしてあげる一人の息子娘を立て、満宇宙を再び祝福する時が、再臨時代であるというのです。 皆さんは自問自答してみて下さい。天のために涙をどれほど流したか、天のために汗をどれほど流したか、天のために命の血をどれほど流したか? 神のある基準のまえに認定を受けない者が、神の息子娘であると自認するなら盗人が笑います。私はそのように見るのです。今回の伝道期間には、数多くの食口たちが生まれたと思います。今、我々はどのような覚悟をしなければならないか? これがまず我々が考える問題です。 この時はどんな時代か? この時は審判の時として、神が再摂理される御言審判の時代が来たのです。これは原理原則です。数学の公式はどんな国境も超越しています。偉大だという人物の内容を超越しているのです。これはひどく平凡であり、万事同一なのです。 皆さん、公式的な神の心情を知っていますか? 父母が子女を愛するのに二つとなく、一つなのです。心から愛することは二つではなく一つなのです。公式法度のために新しい理想的な、モデルを造らなければならない天的な心情世界の内容を知らなかったのです。「ただ我々が信じて天国に行こう」というならば、どんなに易しいでしょう? 汗を流して皆さんにこんな話もしないのです。人生を捧げ、迫害の道を行って、民族のまえにこんな戦いをしなくともいいのです。 統一の青年たち、さらには我々統一の信徒たちには新しい覚醒の必要な時が来ました。もしも統一教会に入って、こんな内容の全てのことを解決しなかったら、ふろしきをたたんで行けというのです。すでにお話したように天情に秘められた御言を語らず、自分の目に火をつけない内容の御言なら偽りです。偽キリストです。どんなに聖書66巻をマスタ-して、流暢な説教をしたとしても、もつれた死の血を分ける内容がなかったならば、真理ではありません。 変遷の歴史を、革命して行くことも・・・。この泥水での戦いの、血の感情を、新しい血の感情にと変えるごとに、歴史は新しい革命の時となり・・・。我々はこれまで新しい歴史の開門に向かって来たという、歴史的事実を知っています。皆さんの心情に新しい血筋が染みて、新しい血肉が躍動する新しい理念の目的に向かって行く、その位置において価値を誇ることのできる姿を持っているか? わが位置と、わが価値と、わが目的が方向を得ているかということを反問してみる時、深刻だというのです。神は永遠不変の位置であり、永遠不変の価値があり、永遠不変の目的の主体であることを明らかに知らねばなりません。皆さん自身も永遠不変の位置であり、永遠不変の価値があり、永遠不変の目的の対象体となっているかというのです。 ですから我々はこの町あの村、この教会あの教会、この教派あの教派、数多くの人物を尋ね歩いたが、結局は統一教会というここに来ました。皆さんがこの道まで尋ね来たその額には汗が流れ、その背には跡が残っていることもあり、その歩みには傷があることもあるかも知れませんが、私は歴史の一刻を語らざるを得ないのです。なぜ? 神の汗と涙と血がこれまでこの民族のまえに、今日この世界人類のまえに残っている限り、我々は天の心情をお慰めする孝子、烈女、忠臣にならなければならないからです。それゆえ我々の血をアボジの血に、我々の汗をアボジの汗に、我々の涙をアボジの涙にしなければならないのです。なぜそうか、皆さんはよく知らねばばなりません。 御言のメシヤとして来られたが使命を果たすことができずに行かれたイエス様 天理の御言を立てることが、神の幾千年の歴史でした。ところで御言を心のままに語ることのできない神であったことを、皆さんは知らねばなりません。無念なことです。父なる立場で、子女という名を持っている堕落した人間、因縁から見れば息子ですが、事情から見れば怨讐の立場に立つこれをいかに切り開いてゆくか? ですからみ旨ある良心的人間を動かし、この垣を切り開いて来たのです。わが心情の血をたぎらせてお父様と呼び、息子がお父様と呼ぶその声と、父が息子よと呼ぶその声に、全天地がとけても余る、そんな時が必ず来なければなりません。こうしてこそこの地に審判が終わる時となるのです。 皆さん心からアボジを考える時、慟哭する心情が切実であり、肉身が引き裂かれ踏みつけられる悔しさを意に介さず、涙の垣と涙の海を蹴散らし、目標を果たすという個体になっているか? 反省する時だというのです。私は一時、泣き明かすこともあります。限り無く泣くことがあります。これは私個人の、どんな欲望と目的からでもありません。このような基点を中心として、歴史的な転換点を解決しなければならない時が、必ず審判の時に来ることを知っているからです。どのようにしてか歴史的な曲折を中心として、人類の惨状が生じるかと考える時、天情を代身する真の息子の姿を慕いあえいで慟哭されたという事実を感じるのです。アボジが慕い求めているその声と和して、聞こえるその声のまえに、私はここにいる、と叫ぶことのできるその場が、慕わしかったのです。 数十年の宗教生活を誇るなというのです。アボジが呼ばれるその声のまえに、その心情を思いやって呼ぶ答えのまえに・・・。アボジの事情の全てを引き受けて、責任を担ってゆくという真なる息子娘が、この地上にいるのか? 考えてみて下さい。皆さん自身を中心に考えてみるのです。哀れで無念なる天であったのです。どうすることもできないアボジの心情だったのです。サタン、これはすでに何千年前に審判の供え物に地獄の火と硫黄に消えたのですが、恨を抱えたままの人類歴史だったのです。これを忍んで今まで来たのです。私はアボジで、おまえたちは息子だ、という因縁を残さなかったなら、皆さんは自信を持って生きてはいけません。 復帰の心情を歌っています。今はここにアボジの声が呼んでおられる、その声が必要な時です。この自分自信において慕わしいことは、この世的な何かが慕わしいのではありません。世の中はすでに断ち切られ塞がれる時が来ましたので、今ここにおいて自分の耳があり、目があり、口があり、自分の感情があったとしても、この耳目口や五感を通してくるその感情が、昔の感情を越えることのできる新しい感情を通してこそ成るのです。この感情は天情と共に因縁づけられているという事実を確実に把握して、私はアボジの息子であり、娘ですと言えることを、知らねばなりません。 こんな過程を越えなければならぬ人間ですから、無知なる人間を、落ちて踏まれる哀れな人間を手ぶりで教えることが、救援という盾なのです。比喩と象徴で心情のうちを通過しないまま、今まできた人類を保護するために来たのが、メシヤなのです。そのメシヤはどんなメシヤなのか? 実体のメシヤ。そのメシヤはどんなメシヤなのか? 御言のメシヤとして、イエスがこの地上に来て見せてくれたことは御言のメシヤとしての使命を完結しないで、人格基準も完結しないで、心情基準も完結しないまま行かれました。御言のような御言を残したものが、聖書ですよ。これは比喩と象徴です。 個人と世界を越えて神の恨を解怨してあげなければならない統一教会 我々は今ここに、何を求めなければならないでしょうか? 御言と共に、御言通過以後に実体通過時代が来るということを知らねばなりません。これをキリスト教徒たちは今、知らないでいるのです。聖書を読み、研究する目的は実体基準を通過するためなのです。実体の基準を通過しなかったなら、その実体にすがりこの地上でその事情を知らなかったなら、新婦にはなれないのです。ですから地上の人類は主に出会わなければなりません。御言を完全に通過していない我々、実体を完全に通過していない我々、心情を完全に通過していない我々が、そっと見れば、良いことばかり望んでいるのが今日の事情なのです。 おお 、新郎なる主様! 新郎なる主様! 愛の場までゆくには御言を解決しなければなりません。御言をわがものとしたら、御言と一体のイエスを代身した人格者にならなければなりません。これを全て無視して、信じれば天国に行って新婦になるのですか? 行くか行かないか見てみなさい。我々は聖書を研究しています。聖書を研究するにおいて何が問題か? 聖書を読めばみんなヨハネ3章16節のように、誰でもそうなるのですか? とんでもありません。そうではありません。 神様に悲しみがあったならば、最も悲しいことは何か? 神様に十字架の苦痛があったならば、最も大きな苦痛は何か、無念なことな何か? 聖書を全て知っても精算できません。根がありませんよ、根が。いま聖書を尋ねてみても根がないというのです。えらいことですよ。さまよい争い、異端だなんだという王さんたちはうっちゃてしまうだけです。しかしどんなに争っても・・・。枝は枝だけで争い、葉っぱは葉っぱだけで争っていればいいのですか。生命の体液は延びてゆくのです。回るのです。どこを通って? 根を通して。皆さんがこれを知れば・・・。ペテロが十字架に逆さにかけられても「主よ!」と叫んで死んだ、あの主と心情的に通じあう根の内容を、捜しだして因縁を結ばねばなりません。 イエスが十字架の途上において、死の場に行っても「天の父よ、わが思いのままにではなく、父の思いのままになさって下さい」というこの心情から流れ出ていったその事情が何であったか、知らねばなりません。これが分からなければ死ぬのです、死。聖書の未解決の問題を、解決しなければならない時です。そうではありませんか? 解決されなければみな色あせてしまいます。終わりの日が来たのです。いま皆さんはこれをよくよく知らねばなりません。 それでイエスはこの地上に、新婦を探し求めて来られたのです。反対するイスラエル民族のまえに出て叫ぶ目的は、イエスを信じて天国に行くための、個人の目的ではありません。私を信じ、イスラエルを救うということが目的です。よくよく知らねばなりません。私を信じ、イスラエルを救い、イスラエルを信じ、世界を救おうというのが目的です。イエスは霊界と地上を救うために来られたのです。イエスを信じて自分だけ天国に行くのではありません。不当千万な話です。どこにそんな目的がありますか? 我々がイエスを信じるのも、民族のために信じるのでなければなりません。自分が神を愛するのも、世界のために愛するのでなければなりません。神がおられたなら、そんな信者を慕われることでしょう。同じことでしょう? 皆さん、切り換えて考えてみて下さい。大宇宙の公業を完成しなければならない責任を願い、数多くの民族を動員し、良心的な人間を連結させ、一つの形態をもって善の主権を解放することが神のみ旨であるとして、自分個人のためであってはいけないのです。個人のためのことはぶっ壊すのです。火に投げ込むのです。これは壊さねばなりません。壊さなかったら神が滅ぶのです。自分の一族の、一国のための宗教は壊さねばなりません。これが壊されなかったら、神がいないということです。ですから今日、全世界キリスト教は混乱の時となっているのです。これは人間の力でやることではありません。神が壊されるのです。なぜ? 神の目的と、自分たちの位置と価値が違うからです。統一の理念を我々が叫んで出る時、我々が信じるとは、自分が信じて天国に行くためではないのです。これは断ち切ってしまわねばなりません。もしも自分が信じて民族を救い、その民族が天国に行ったなら、自分が天国ではない地獄に行くだろうかというのです。信仰の方向が逆になったので、曲折が多いのです。これを知らねばなりません。 我々統一の信徒は「私が信じるとはこの民族を救い、私が信じるとはこの人類と世界を救い、さらには神が悲しみの中におられるから、神の悲しみまで解放するためなのだ」というのです。皆さんを知らない人々は「神は何か、全知全能なる神・・・」と言います。これは知らないからです。ここで語る人の本意を知れば、勉強しなければなりません。 「あ、神は悲しげな・・・」皆さんの悲しみはどこから来るのか? 我々の喜怒哀楽は天から来るのです。そのようになっているのです。それで我々は迫害される時、最高に迫害されよというのです。数多くの宗教人の反対を受けるここに、我々は倒れる群れとなってはいけません。大衆に向かって叫ぶ時、ここに燃え立つ一つの炎が、大衆の心を引っくり返す内容を持ったなら、生きるというのです。 ですからこの時代において、天法の御言の時代が来たのです。御言を求める時代が来たのです、御言時代が。御言を探し求めて新婦となれば、主体と対象の姿が同化しなければなりません。新婦となることを願う者は、人格的な基準において、イエスが経てこられた心情に通じる、そんな人格者になってこそ、成るのです。そんな人、いますか? 地上に御言愛着回復運動が起これば人類の生きる道が生じる 霊的な世界においてその心情を尋ね求めてみれば、イエス様が再降臨することを無限に待ち望んでいるのです。これを知らねばなりません。神が2千年の間、待っておられるのです。イエス時代に主がいつ来られるかという時、全て話さなかったでしょう? 彼らは来られるとは知っていても、再臨の理念に対する心情的な基盤ができていなかったので、恨み多き犠牲の歴史をつづり、時と人を立て、世界的に動くことのできる時を願ってこの2千年の間、捜し求めてきたのです。 再臨するという天の心情は、切実だったのですが、来れなかったその事情は何か? 皆さんたちが無知で、さらには無情だからです。主がこの地上に来られるのは、万国を統治するために来るのに、皆さんの信仰観は、自分が救われて天国に行くというのです。そんな狭い心で新婦だというのですか? 常識不足ですよ、常識不足。イエスは万王の王であり、万有の主であり、神の皇太子ですよ。神の王者ですよ、王者。これを知らねばなりません。大統領の息子だといってえらぶっていますが、空前絶後の歴史的な主人公であり、時代的な主人公であり、あるいは未来的な主人公であり、栄光なる立場の主体であり、唯一おわします、絶対者の息子なのです。彼の新婦になるのですよ、新婦。ところがこんなデタラメはないというのです。 イエスが信じるという内容は、皆さん一人を中心に、個人天国のためではありません。信じなさいということは、全天宙に対して訴えた言葉なのです。天宙の心情ふかく染みたイエスの理念を通して、あふれ出たイエスの御言であったことを、知らねばならないのです。こんな境地に立って死亡の世界、罪悪の世界に対して、戦いゆく天の精兵が慕わしいというのです。こんな代表者として、ロ-マ帝国に向かって行ったのが、70門徒の姿だったのです。 皆さん、こういうことです。イエスの聖書の御言を信じて、そんな内容を知って、人格者となって、心情において万民に対してわが血を流し、怨讐までも幸いを祈るお父さんお母さん以上の心を持たねばなりません。常識的に批判するとしても、こんな論点を解明せざるを得ないのです。それでは皆さんはこんな人間になっている? こんな目的を持っている? こんな度量がある? 問題はここにあるのです。ですからこんな立場をきっと貫いて行く群れがあったなら、そんな群れは滅びないというのです。これは仮説ではありますが、こんな内容をもってゆく息子娘があったとしたなら、天は罰っしられますか? 事実がこうです、事実が。 今の時は御言が慕わしくてあえぎ、御言の乏しいことを感じて、あえぎ苦しむ時です。彼らを覚醒させる者は誰か? 終わりの日が来ましたので、末日のまえに待ちくたびれる群れを尋ねる姿は実体であります。主の代身として、くたびれたその内容を解くすべを知り、主の代身として、この環境を収拾する一人の指導者が必要な時が来ました。今日、全世界キリスト教を見やれば、教団は大きく、教会員は多くても、そんな人間を何人も見出せないといっも過言ではありません。私が皆さんに言いたいことは、我々統一信徒はすでに経なければならない歩みを全て経てきました。長老教がどうで、管理教がどうで、新約思潮がどうだという、そんなことは全て知ったという基準で、あえいで来た群れです。 今、皆さんに何が必要ですか? 自分がへばっているこの立場から、再びわき上がって来るものが必要です。これが問題です。御言をもって研究し、研究して疲れている時は、御言によって再びいま一度、御言の自信を得るのです。御言愛着回復運動を提示する、新しぱきが地上に現れない限り、道を塞がれたこの人類が、どこに行くのでしょうか? 今日このように断末魔的先端に立っているこの歴史・・・。御言に疲れ、信仰生活に疲れ、教会生活に疲れた自分をして、疲れた御言と疲れた信仰に新しい感情を起こさせ、より以上の善なる価値によって「お父様、分かりました」と言える、御言に対する愛着心を起こさせる運動が必要な時が来たことを、皆さんは知らねばなりません。 皆さんたち、このような審判の時において、御言審判、人格審判、心情審判が終わりの日に始まるのです。御言の審判をするためには、御言の心情を起こさせる、御言に対する愛着心を起こさせるところの、一つの御言を立てなかったなら、神は神ではありません。人格審判をするためには、人格審判のある基準を、この地上に立てなければなりません。でなかったならば、これも神ではありません。心情審判をするためには、心情の基準を収拾することのできる、その基準を立てなければなりません。立てなかったならば、全てが滅んでしまいます。このような時と時期を見る時、この時は審判時代なのです。分かりますか? 審判時代ですよ、審判時代。 皆さん、いま皆さんの手に握っているものを放して、「自分が今、持っているものはアボジが一番愛しているものではありませんか?」と聞いてみなければなりません。答えなければならない時です。首をくくって死ぬ恨があったとしても、死ぬ覚悟までして解決しなければならないのです。「その通り」という時代は過ぎました。 キリスト教の生命は天情的な心情基準を立てること 皆さんは今、反省してみる時です。自分が今まで最も愛する・・・。天地運勢に合わせる、そんな観点から見る時、自分自身が愛着心を持っているか?「神様、これをご覧下さい」と言えるものを持っているか?「主よ、これをお受け下さい」と言えるものを持っているかというのです。みんな失ってしまいました。持っているようですが、みんな失ったのです。 ですから終末には最後の精算時代がくるのです。最後の審判時代ですので、御言を中心とする角度で、180度回らなければなりません。こんな現象が起これば国が生きるか教会が生きるか、新しい事が起こるのです。それで審判時代におかれている人類なのです。彼らの心が、どこの誰に誇ることのできる、愛着の足場を得ているか?「どうぞどうぞ連れていって下さい」としなければなりません。主の前に出る時、自分の息子娘が救われ、自分の何かが救われるからですか。思潮がそうなっているのです。 しかしそのような時代が来れば、民族的にそんな思潮が襲いかかり、断ち切られるそんな環境に立つ民族と国家と、世界思潮を代表して苦痛を受ける、そんな一地域や、民が生じるのです。これが今日、世界的に見る時、韓民族ですよ、韓民族。南北に分けられ、父母、妻子が引き裂かれています。心情的な破綻となっているのです。今日韓国の6・25動乱によって経済的破綻となり、理論的破綻となり、政策的破綻となり、宗教的破綻とななっているのです。しかしながらここで、落胆はしないのです。また再び起こる天のみ旨が、この民族のまえにあることは間違いないことを、我々は知るのです。歴史を見ても、腐敗の峠を越えて、新しい歴史が始まるのです。 今日この政権の12年間の腐敗政治によって、新しい青年たちの血が湧きたっているのです。上がってくればここから新しい歴史へとのびて頂上です。種を植え、根がはったので、肥料をやらなくても同じことです。私はここに何か野心を持って話しているのではありません。宗教を愛し、神を愛し、人間を愛し、世界を愛する心を持つ青年男女がいたとしたら、4.19革命当時に流した血を、どこに率いて行くのですか? こんな心を抱き、天の前に祈祷する数百人の若者の血を流しましたが、数百人の父母はさらに痛憤したのです。しかし心からその父母以上にアボジの前に訴えて「この血の代価がどうかこの民族の生命の血の代価に、天倫の法度の時のために、天の愛する気概ある血脈として残りますようにして下さい」という涙あふれる群れがどこにあるかを探す時だというのです。でなければこの民族は峠を越えることができません。このように前進を命じて方向を示し、使命を果たすことのできる新しい門を解放してこそ道は開かれるのです。 今、神の首を抱き、戦う青年男女となるのです。若者はこれを慕っていたのです。行く道もなくへたり、さまよう群れはきっとある時、統一ののろしを必ずあげるのであり、のろしの火に新たなる衝撃を受ける日があり、ここに躊躇することなく方向性を示し、天的な摂理と共に拍車を合わせる心情的内容の、何かを求めなければなりません。これをいかに捜し立てるか? これは人間中心ではありません。天情を代身する心情的な基準をどのように立てるか? これが今日、韓国キリスト教徒の解決すべき問題であり、いわゆる各教派、あるいは宗派、あるいは道を求める数多くの人々の、責任なのです。 皆さんが行くことを知り、我々の位置と目的を知り、我々の価値的なその何かを天を中心として推し量ることを知ったとして、皆さん自身が・・・。ここにおいて我々は地と天を代身する新しい人々を捜し求め、心情から染み出る御言を発表しなければなりません。この御言が歴史的な御言を審判する御言となっているか? これが必要だというのです。そうでなければなりません。盲目的ではありません。盲目。 今日の社会の人々は、文先生といえばアホかバカか未熟者と思っています。しかしそうではありません。こんな道を行くために、誰よりも血と汗を流し、誰よりも頭を使い、誰よりも生死の別れ目の戦いの、いく峠かを越えてきたのです。自身に対する覚悟と、自身に対する信念と、実践的な証しの何かを得て人類に対し、民族に対し、どんな国家、どんな思想に対しても戦いゆく自信を持っているか? このような問題をおいて、無限に苦悩する人間なのです。こうしてこんな立場で、悪評の看板を掲げているのです。 神を動かす天的な信念を持てば祝福が下る 皆さん、皆さんたち! 我々はここにおいてこのような過去、現在、未来の歴史を編んで、抱えて戦ってこられた神がおられるならその神を中心に、過去の血と汗と涙でよられた神の心情が何であり、この時代に涙と汗と血でよられた神のみ旨を実践するその心情が何であり、未来の心情が何であるか反問する時、皆さんは言葉もなく、自分が持っている全てによって証しをしなければならない責任があるということを、皆さんは知らねばなりません。信念なき者を、神は祝福されません。天は自ら助ける者を助けるのです。 イエスはみすぼらしい身なりの、苛立たしい姿で、ガリラヤの海辺の貧しい漁師の師であったかも知れませんが、いかなる祭司、ピラト、その誰にも・・・。天的な信念において、神の心情まで動かすことのできるそんな信念を持っていました。この信念は人類が必要とする信念ですから、信念を通した御言の因縁が残る限り、その御言の目的が中断されるまでは、そのお方と共に関係を結ばねばならないことは必然的な事実です。 ですから今日のキリスト教は、世界的な宗教として発展してきたのです。民族に対して戦うという信念、世界にどんな反対者がいたとしても、これをかき分けてゆくという信念を持たねばなりません。さらには統一の信徒たちは・・・。ここで語る人間は、多くの人間を必要としてはいません。 大砲時代は過ぎました。今は原子砲時代です。み旨のために血と汗を流して、途中で倒れる時、その郡が弾けるというそんな信念を持たねばなりません。こんな自信と信念を持つ皆さんになっているか? これが問題です。こんな境地において、アボジの御言はこうであり、アボジの持つ真理はこうであり、これなくしては世界を救うことができないという御言の内容をもって、信念を持って、被造世界に対し主人として主管せよといわれた、主管の行為を凛々と行うという信念を持たねばなりません。 自信を持って立つ位置をたがわず、その価値に天地が頭を下げる立場に立って、天に対してアボジと叫ぶ息子娘があったなら、「え-い、こいつ奴、おまえはバカげた奴だ」とはならないのです。自分が願う時、追われ迫害されることが有難たいのです。真なるものが、悪口を言われて滅びる法がありません。それはごく小さな事から一から二に、二から四に広がってゆくのです。天は大きく始めるのではなく黙ってするのです。誇ってやるのではなく、静かにやるのです。そうすれば名実共に統一教会が・・・。 統一教会が今まで問題になってきましたが、これからはキリスト教が問題です。申し訳ありませんが。皆さんはよく知っているでしょうが、キリスト教は問題が大きいのです。見ててごらんなさい。どんなにレンガを積み上げ、何かをしても理にかなっていなければダメです。真理は理です。理といって個人生活の理ではないのです。天宙生活の理です。これを知らねばなりません。真理とは、聖書の一節をうまく解釈するという真理ではありません。自慢するなというのです。神と共に生きる生活的な理、ひどく平凡なようで極めて高尚であり、ひどく普遍的なことのようで極めて無限なる価値を持つものが、宇宙的な真理であります。 こんな真理の基準に立って、皆さん自身が民族を生かし、国家を生かすのです。天を動かし、地を動かし、神の心情を占める皆さんにならなければなりません。こんな人間になれば、主がアメリカに行っても、主を引き上げられるのです。アメリカのような国に神が祝福されようとしても、祝福できないのです。なぜ? 天国は力を尽くす者が奪ってゆくからです。こんな人間が何人いるか見てごらんなさい。この世界に大きな祝福の包みがあったとしたなら、抗議をすることができるのです。実際そうです。信じる者に出来ないことはありません。新婦の条件を備え、神が涙し、天上の全てのものが感動する真理の内容を持つある人間がいたとしたら、それを通して主が来られるのです。 そのような人間、アボジのみ手を握り、わがアボジと呼び、躊躇なく進み出てアボジと子女の因縁、父子の因縁を回復して、6千年の間、失われた息子を求める過去の悲しみと苦しみと、悩みに染まる全てのことを解き放ち、アボジの名を呼び、息子だとする場において、心情的因縁を体験する主人公が、この民族のまえにただ3人あったとしても、世界キリスト教は彼らによって、解決されるのです! 私はこのように信じています。また、このように知っているのです。 御言愛着運動を起こしこの民族を覚醒しなければならない統一教会 数多くのキリスト教徒、数多くの求道の徒があるとしても、最後の霊的な世界問題と人間的な最後の心情問題において、解決づける基点は、統一教会でなければ解決できないのです。これを自ら統一しようという我々でなければなりません。そのためには御言審判の過程を経なければならないので、この御言審判を受けるのです。御言を求めて、血の涙の死の峠をも行くのです。御言を求めて、祈祷する時も、誰にも負けぬ祈祷をしなければなりません。歯をかみしめ、ほんとうに顔を突きだして・・・。天理が分からなければ、絶対に止めない、そんな祈祷を・・・。 そんな御言を求め、この地上に真なる信仰生活をする人々がいたら「私が不足なので兄弟よ! その心情的な基準はどうなのか」と叫ばねばならず、自分がこの御言が正しいとして「神様!」という時、神が「おお 」と答えられる、御言の内容を持たなければなりません。わが民族のまえに、皆さんのまえに、信じられぬ真理だなどといって、そんな真理は過ぎ去ったのです。これは過ぎたのです。 皆さん、今日統一教会に入ってきて、何かを感じたものがあるはずです。感じたものがあれば、これを再鑑定するのです。名目的に信じるなというのです。そこに到らなかったならば、世界一周をして再び来なければなりません。それで厳しい命令もするのです。そんな意味で、ここにいる皆さんは御言を聞いていますので・・・。 今日ここで語っている自身におきましても、御言審判の過程を経るために見えざる世界と、見える世界を比較して見る時、見えざる世界におきまして勝利の何かを解決しましたので、見える世界におきましてもこの基準を経てきたのです。霊的完結と肉的完結、無形世界完結と地上世界完結をなさねばならないので、ここに数多くの怨讐が現れたのです。ですから我々は祈祷しなければなりません。24億人類が現れて、統一教会に押しよせる声を聞きたいものです。 こんな観点から皆さんが、天情を代身して現れた人々のまえに誰にも譲歩しない、自分だけが、我々だけがアボジのまえにゆくというその内容を知って行くならば、その因縁を持っていない数多くの人類は必ず動かざるを得ないのです。動かないではいられないのです。動くところの霊的な、全ての内容があるのです。それで神霊というのです。ある人は「神霊」というと妖術めいているので「心霊」と考えますが、そうではありません。位置的な内容を通して・・・。 こうして皆さんは御言と共に・・・。その次には実体通過時代です。ここで語るこの人間も今まで、40年の生涯を戦ってきました。自分が倒れるその瞬間にアボジのまえに、わが情熱を全て注いで、未練の思いが残っていないかを案ずる人間です。この仕事である手段、方法によって自分一個の欲望を満たしたなら、天罰を受けるでしょう。もしもそのようになったら、きっと滅んでしまうでしょう。倭政(日本統治下)から数十年、こんなみ業をなしてきました。行く所で監獄生活をしました。行く所で嘲弄を受けました。しかしながら怨讐は、私にはないのです。 これはなぜでしょうか? 天倫の法度が、御言通過時代の過程を経れば、必ず実体通過過程を経なければならないからです。イエスの十字架の道が残っており、この地上において、恨を残す怨恨の基準が残っているのです。考えて見て下さい。アベルの血が訴え、万王の王たる神の王者が、この地上に涙を流し、血を流して訴えていないでしょうか? いないかというのです。イエスの血の涙が訴えているのです。 この血の涙の訴えを、どこで蕩減するのか? 今日の信徒たちが、今までのキリスト教が、血の戦争により、真の血を連結させるために訴え、蕩減してきたのです。そのためにこの全ての問題を引きずって行く時、皆さんは残された十字架の道を、行かざるを得ないのです。この場で語っているこの立場が、皆さんが見上げれば良さそうな立場に見えるかも知れませんが、この場で私が牢獄の身になったとしても、心理的な変化があってはなりません。こんな信念を持って行くのです。 今日この現実舞台において、我々はサタン世界を解決しなければならない悲運にあるのです。これを解決しなければなりません。今日統一教会がこのような形態となるために、無限の涙を流したことを、皆さんは知らねばなりません。一つの事実にも、血と汗が流れているのです。我々は使っても余るそんな何かによって、神のために働いてきたのではありません。食べずに飢え、追われ、ぼろをまとって震えてきたのです。今日こんな形態を得て、民族問題の提示条件をもって、現れたのです。 そんな時から沈黙を守ってきました。時が、こんな時が来たので、新しい文化においてわが真理を通して、今日知識人が関心を失っているこの民族のまえに、関心を引き起こさなければならず、愛着心を起こす運動を展開しなければなりません。これを実践して国に対する愛着心、あるいは我々の理想世界に対する愛着心を失った群れを激励する時が来たのです。これができなければ祭りをやってでも彼らを目覚めさせ、天が抱ける民族にするという、民族的使命に燃えて、我々は行かなければなりません。 皆さんが御言を通して、今までの既存真理を審判する御言を持つ者として現れるためには、まず信念を持たなければなりません。信念をもったら実践して、背信した怨讐と正面衝突する時、勝手気ままな環境にある彼らに、堂々と教えることのできる、実力をつけなければなりません。これも不足しているなら、真と偽を証明するために血を流し、天のまえに供え物となる信念を持つのです。いま統一信徒たちは、これを持たねばなりません。 神の心情を体恤して神の遺業を相続せよ 生活を動かす御言、生活の実体で感動させる愛、生活にあえぐ心の基台を安息させる心情の主人にならなければなりません。こんな群れとして、天を背景にして、歴史的な過去と現在と未来的な所望の基台の上に、確かな出発から目的まで、変わらざる原則的な路程に向かって行く群れとなったなら、皆さんは絶対に滅びることはありません。こんな観点によって、皆さんは行かなければなりません。ですから今この時は真理審判の時であり、人格審判の時であり、心情審判の時なのです。外的な現象から見る時、摂理的な条件に照らして見ればそうなっているのです。 皆さんがこの御言を携えて戦いゆく時、この御言を叫ぶ時、皆さんは御言の心情、ここで語っている、あるいは我々が語っているこの御言が現れるまで、そこにひそむ曲折の凄じさを感じて、天のまえに感謝する心がこみ上げて、皆さんがこの御言のために行くなら行くことごとに、天が共におられるのです。間違いないことです。天が共におられます。この御言をもって行くことごとに、告げる心に革命が起こるでしょう。良心の革命から、心情の革命をそなえる自身となるのです。こんな自身となるので、ここで語っている人間もまた・・・。 また、堕落した我々後孫を見る時・・・。我々は堕落性を持っています。堕落性の四大条件は何ですか? 驕慢と、時期と、血気と、偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性ですよ。皆さんもこれを、脱がなければなりません。これを脱ぐために今まで、断食をし、叱ってもきたのです。これを脱ぐには復帰路程の審判時代において、いかにしなければなりませんか? 自分自身が御言で武装し、御言の実体にならなければなりません。実体過程を通過するには、必ず堕落性本性を脱がねばなりません。そこには四大条件が残っていますので、これを脱ぐには迫害も受け、試練も受けるのです。今までこのような途上で、皆さんは残ったのです。 そんな立場で見れば、ここに初めてアボジが我々を救うために、苦労をされたことを、感じるのです。そこで初めて、心情を体恤するというのです。聖書を見ても、絶対これは分かりません。祈祷の中で、いくらかは体験できます。実体的にアボジといえる、生活的な感情の中で怨讐のまえに、アボジと呼べる心情が、ここに埋められねばなりません。多くの迫害を受けて戦う路程において、この実体舞台において、皆さんはしっかりやらなければなりません。 ですから皆さん、行って戦うのです。自分一人を救うために、今まではこのように戦ってきたことを知らねばなりません。このように戦ってきたので、神様は私一人を求めるたために6千年の間、苦労されたことを知りましたので、今日捜し求める私として、あるいは真理を代身する姿として、審判の基準を越えてゆく自分にならねばなりません。 今日わが個体を中心に、神のみ旨が完全に終結するのではありません。自分を越えて、民族が残り、自分を越えて世界が残り、自分を越えて宇宙が残るのです。これを知っておられるので、天は今、私を越えて血の汗を流さねばならず、涙を流さねばならず、死の峠を越えることを、考えざるを得ないのです。 アボジと息子娘となる心情的な体恤をした後には、アボジのまえに孝子とならねばなりません。息子娘になるにはまずどうするのでしょう? アボジの遺業を相続しなければならず、アボジの子女を率いる人間にならねばなりません。そうすれば、成るのです。 私個人は縦的な面において、天と私が個体において縦的な関係で、父子の因縁を結んでいますが、私においては縦的関係で一つでなければなりません。兄弟的な関係を中心に民族を通して、今まで広がっていったのです。しかし今、我々においては縦的問題を解決するには、横的問題において兄弟的な路程、兄弟を捜すための苦労が残っているのであり、今日この我々は真の孝子、忠臣、烈女になる責任を感じるのです。ですからアボジの遺業を相続しなければなりません。遺業の相続といって何を相続? 兄弟を救うという偉業を相続しなければなりません。兄弟を救うには、天が越えて行かねばならない地が残り、天が越えて行がねばならない涙の峠が残り、天がかき分けて行がねばならない死の峠が残っているのです。 悔しく憤ろしく、淋しい立場で相続する 今回、40日間にわたって伝道して戦い、帰ってきた統一教会の皆さんは、自らの心情的な体恤を成したと思うのです。また今まで、自分一人を探すために、神様はこのように苦労され、自分一人を立てるために涙の道、血の汗を流す道、死の道をものともせずに、6千年の永き歳月を一日のごとく、不肖なるこの身を救わんがためのアボジの心情がいかなるものであったかを体恤した期間が、あるいは迫害を受ける立場、飢える立場、限りなく切ない立場で、どこの誰をも知らず、草の根を抱いて山川を仰ぎ見て、わずかな風の便りと共にそんな心情にひたり、アボジの姿を慕い、アボジの心情のまえに皆さんは頭を下げ、アボジといえば涙があふれる体恤をした期間が、この40日の期間であったと思うのです。 それではこれで終わるのですか? 我々はこれまで、追われることが沢山ありました。心情、心情、叫んだこの御言を通して心情が何であるかを知り、御言、御言、実体、実体と叫んだその言葉が何であったかを、皆さんは良く分かったことでしょう。 このようにして皆さんは、心情的な面において今一度、アボジのみ旨のまえに真の息子娘として認知を受け、新しい覚悟をしたここにおいて、何をするのか?「今、アボジの息子として、私が立ちましたから、アボジよ祝福して下さい」と祝福を受ける立場に立つ、我々であると見るなら、皆さん自身は祝福により、何を受けるのですか? アボジの偉業を相続しなければなりません。 そのために皆さん自身は、どのようにしなければならないか? 神の内にある、神の中にある喜びと、栄光を相続するのではありません。神の内にある悲しみと、苦痛と悔しさをまず相続しなければなりません。孝子、烈女がどこにいるか? 喜ぶ時、孝子は誰でもなれます。悔しく憤ろしく、淋しく悲しい時、孝子となる息子娘でなければなりません。ならば神の悲しみ以上、アボジの胸の奥にある悲しみを知って血の涙を流さねばなりません。「6千年苦労されたことを、一年間で血を抱いて死なぬ正道となり、いっぺんにこれを蕩減いたしますので、私を送って下さい」こんな信念を持たねばなりません。 我々は今一度、正義の戦いのために行かねばならない、責任があるのです。こんな言葉を与えて皆さんを激励する、皆さんの前に立っているこの人間も、胸が痛むのです。今回の巡回路程で、幼い者たちが血の涙を流して村から村へ追われ、惨めな事情にさらされ、しゃくりあげる涙が落ちるの見るこの先生の心は、痛むのです。心から慟哭したのです。「神様! この道がもし、間違いであり、誤った道であり、自らの思いの何かから出たとしたら、その場で天罰を受けるでしょう」と祈ったのです。天罰を受けるのです。 行かずとしても行かざるを得ず、死んでも行かねばならない使命があることを知り、この民族の凄惨さと、この民族に神の苦労のみ手が秘められていることを知る限り、行かねばならぬみ旨があるのです。どこの誰か、比較する資格と知恵があったなら、こんな道を行くことは願わないのです。しかし行かねばならない事情と、曲折が残っていること見やる時、涙をのんで倒れるたびに天が励まし、追われ打たれるそんな時、天の愛を抱き、今でなければ行く時がないという、責任ある信念をもって誓い行くのです。 私はこの道を覚えるごとに、皆さんが行くことごとに、涙をこぼしたことを知っています。皆さんが行くことごとに、汗を流したことを知っています。皆さんを送って私自身、神のまえに祈祷したことは、「アボジよ、彼らに真の天のみ旨のために流した涙があり、流した汗があり、アベルの血が天宙を代身して善の目標を立てるために嘆息して訴えているからには、彼らの汗と彼らの涙が、必ずこの民族とこの時代のまえに訴える日があることを、我は知るなり」と心から何度も覚悟して、皆さんを送ったのです。 誠心誠意を尽くし、至誠を尽くして流した汗は消え去りはしないのです。心情から切なる思いで民族を愛し、み旨を愛して流した涙は無視されないのです。死ぬ命だ、最後の絶壁だ、門が塞がれたと嘆息するごとに、天は行く道を開いて下さることを知っていますので、皆さんをそんな場に追いやったのです。 我々は持っている物もありません。金もない。勢力もない。この世に親友もいません。父母が反対し、親戚が反対し、兄弟が反対し、既成教会が反対して、全てを失った立場です。この世に対する因縁と、愛着心を全て断ち切って、天運が同時に現れるこの時の運によって初めて、アボジが相応しい姿で立たせて下さったことに感謝し、そんな場に出会うごとに倒れ、落胆する者がないことを願っているのです。 天と地と人類のために犠牲の道を行かねばならない統一教会 御言により、実体により、心情から傷跡を残す所々に、今日地上の人間は反対していますが、善なる霊界を動員して必ず成就しなければならない、責任を感じなければなりません。皆さんが流れる涙を条件にして、汗のしずくを条件にして、蕩減の善なる闘争歴史をつづってきたことを知っております。人間が反対したとしても霊界の数多くの霊魂は、神を代身して現れた数多くの霊たちは、統一教会側です。皆さんが信じられないならば、祈祷してみなさいというのです。このように皆さんが涙を流すごとに、アボジはその言葉を聞かれ、苦境に陥っている皆さんの側を守られ、知らぬ人間が信じるように告げられ、淋しく追われる場で一人環境を開拓するのに躊躇するたびに、神は保護者を送られ、皆さんの環境を守られることを、私は知っております。 こんな実質的な体験により、そこに湧きあがる新しい決心と、新しい覚悟をもって行かねばなりません。今までは教会のために行きましたが、今からは民族のために、世界のために行く時が来たのです。今までは統一教会が、キリスト教を代身した一教派の看板を掲げ、教会的真理の基盤のもとにやってきました。しかしながら今日、この民族を救うためには、我々でなければならないのです。この民族の生きる道を経て行って、一挙に勝利の王者として登場し、天地のまえに誇ることのできる姿と成らねばならないのです。そのために数多くの涙があるのです。数多くの汗があり、数多くの犠牲があるのです。飢えた体を起こし、飢えた手を取り、新しい覚悟と誓いの手をさっと差しのべ、アボジのまえに行くべき時が来たのです。 いま行く時はアボジの遺業を相続して兄弟を救うため、天宙の怨恨を解くための使命を果たさねばなりません。この使命を今は知りましたので、皆さんは真っすぐに見て、顔を真っすぐに向け、心情を真っすぐに向けなければなりません。誰に向かって? 神に向かって。問題の解決点は、ここにあるのです。 皆さんが5、6月の暑いさ中、伝道地を回って訪問するたびに、汗を流して過ごしました。あるいは環境に追われ、飢える立場で、涙あふれる生活をしました。これは有難たいことです。自分には父母も親友も、師も、どんな環境の私生活もない淋しい心情ばかりでした。よるべなき身でただ神と我・・・。うら悲しい荒れ地のごとき天地のまえに、気を取りなおしてアボジと呼ぶその心と共に、涙あふれるその場に、そよと吹く風のそよぎが自分には親友でした。 東の空に昇る朝陽の光が、わが心情の友であり、もの淋しい地面の土がわが友であり、眺めやる自然がわが友であることを、皆さんが感じたなら、ここに新しい自我を発見し、新しい価値と新しい因縁が躍動する決心を、再度なしたと思うのです。この決心をもって怨恨を解くために、自分自体だけが伏して祈るのではなく、必ずこの民族を抱え、一族を捧げても天を抱え、涙と汗と血を流さねばならぬのです。こんな新しい決心をなしたと見るのです。 いま天の総決算的な条件があったとしたら、これはある聖書の御言の条件ではないのです。この御言を通して神の遺業を相続して、兄弟を代身して、永遠を代身して涙を流す心情の主人になっているか? 一生、汗を流してもいいという、心情の人格者になっているか? でなければ血を流して、供え物になる恨があったとしても行くという、そんな心情の姿になっているか? そんな自分にならねばなりません。 統一教会の信徒たちは胸に手をおいてみる時、心臓の鼓動と脈拍とを感じるたびに、この血はある日ある時に途絶えるのですが、切れるということが誰のためかといえば、自分のためというなら、天宙の恨となるのです。途切れる日が、この血と脈拍が人類と天と地のためだったならば、ここにおいて皆さんが地獄に行くともがいても、自然に天国に行くのです。統一信徒の行くべき人生の目標が、ここにあります。人生の目標はこれです! いつ自分が鎌をふるうかハンマ-をふるうか、血を流し、汗を流して働く場に行かねばなりません。ここにアボジと共に、涙を流し汗を流さねばなりません。この天宙の偉業を成就せずして人類と共に涙し、天と共に成果があがらずに切なく涙する立場にあったならアボジと共に、人類と共に、歴史と共に、血を流してこのみ旨を完結するという決心をする群れがこの民族のまえに、一つの村に一人づつあったなら、滅びることはないのです。そこに加担しないという人は沈むのです。ここで語っている人間が、平安な立場でこんな話をするのではありません。私がそうですから、皆さんもそうでなくてはなりません。このように生き、このように戦っていますから、皆さんもそうです。 宇宙の全ての生命の運勢を懐に入れ、握りしめるのです。こんな心情を懐に抱いたが、放したら天地が滅びるのです。放すなというのです。自分の手が切れたとして放すな! 失ってしまう群れとなっては、ダメです。 血と汗と涙の道を行く心情の主人公になれ こんな観点から見る時、今は皆さん自身に返って反省してみるのです。天がどんな観点で皆さん自身を指導しておられるか、反省してみて下さい。皆さんの心情からある目標に向かって指導されたかを考えてみるのです。皆さんは1年6か月以上、あるいは2年近く心情問題を叫んできました。この時は真理と人格と心情を、いっぺんに神のまえに讒訴の条件として提示する時であることを知りましたから、この基準を完全に終結するために、血と汗と、涙を尽くさねばならぬことを知りましたので、天地の度数に代わるある数の条件を備えて、皆さんを万民のまえに送ったのです。 今から行って皆さんがこんな信念を抱き、天地の大名分を代身する本然の家庭の基準を胸に抱き、皆さんが行って戦う時、行くごとに摂理は、思いもよらぬほど変わるのです。人間ができなければ、霊界が動いてくれるのです。皆さんは今回、多くの証しを立てました。貴重なことも多いでしょう。貴重な便りにも多く出会ったことでしょう。虫けらほどの価値もない自分一個を中心として、理論的な心情にすがって行く時、これが天を通して自身の環境を超えて動いていることを見る時、どれほど恐れ多くも、有難たいことかというのです。 このようにして皆さんが帰ってきましたので、今からは心情の武装、御言の武装、人格の基準を完結させて解決しなければなりません。この時に天のまえに、一つの相続的な権限を得て、信じて祝福すれば祝福された通りになるという信念を持たねばなりません。息子娘の心情を代身する基準に立って、神の偉大さを代身し、サタン世界に向ってやってみるのです。 ある村に入ったなら、我々はその村のために苦労している人間に負けてはダメです。その村に入ったら負けるなというのです。何をする時? 戦う時ではありません。汗を流し涙を流す時において、負けるなというのです。ですから我々は食べなくても決心を持たねばなりません。皆さんは犠牲にならねばなりません。今から3年の間、皆さんは総団結するのです。 最後に言うことは、どうして血と汗と涙が必要かということです。歴史はこれによって戦って来ました。あるいは涙を通して、血を通して編んできたのです。ところで今までのキリスト教は、血を流し涙を流しても悔い改めよ、と叫んできました。イエスの血を中心にして涙を流してきましたが、ここにプラスするに、汗を加えなくてはならないのです。汗を加えるのです。 今回、数多くの人々が210か所に教会を立てましたので、これを我々が責任を持たねばなりません。今こんな足場ができ、そのようにやらねばならない立場にあるのです。皆さん自身を見て下さい。歴史的に見てもそうであり、み旨から見てもそんな立場に立っているのです。それではここに我々の血は何をするのですか? 神の栄光にならなければなりません。皆さんの血は神のものです。 神は我々の血の代価を要求されるのです。人類は涙の代価を要求するのであり、地は汗の代価を要求するというのです。なぜですか? 数多くの人々がこの地上に来て、悪なる世界に汗をいっぱい流しました。人類は今まで悪なる涙を、いっぱい流しました。悪なる血を、いっぱい流しました。ですから蕩減原則によってこの地は、我々善なる人間の汗によって洗わなければならないのです。今日この人類は、善なる人間の涙で洗わなければならないのです。神の前に、我々の血を、お返しするのです。 今から統一教会の生活信条は、天のためにわが血、人類のためにわが涙、地のためにわが汗を流せということでなければなりません。このような生活的感情から「アボジ!」と呼び「私は息子ですからこうであり、あなたはアボジですからこうです」という、そんな父子の因縁がありますから、こうならざるを得ない心情的な基地を立てて、万事は終結するということを知らねばなりません。心情の涙、心情の汗、心情の血を我々が行くことごとに立てることが、今から戦い行く皆さんの義務であり、責任であることをよくよく知らねばなりません。分かりましたか?「ハ-イ」 俗なる群れのまえに、真実をもって行かねばなりません。今は言葉よりも実践をしなければなりません。話す前に、身に染みる心情から涙を流し、彼らを抱え「兄弟よ」「同胞よ」と涙あふれる者にならなければなりません。この民族がこのように惨めで、この民族がこのように頼るところもないことを知る時、自分の体を支えることもできぬほど慟哭する、心情の主人公にならねばなりません。 この民族を握って、行く道が塞がれて振り返りつつ行く道であったとしても、解放の時であることを切実に感じますので、言うに難しく、強調するも困難な言葉を師の口から言うこの苦しみを、皆さんは分かっていると思います。天の栄光を私は願いません。皆さんのために・・・。皆さんが戦い行くに、戦うたびにその涙はアボジの涙として、その汗はアボジの汗として、腹がへれば断食をして、血を干してでも訴えるのです。その姿に天は役事されるのです。 我々の真の同志の姿は惨めです。それでこれまで、統一教会の皆さんはお分かりのように、私は物質を求めませんでした。人間を要求しませんでした。飢えた者を抱え、彼と共に慰める者を求め、哀れな者を抱え、彼と共に愉しむ場を求めました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.21
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天の父母様聖会、インターネット生中継での礼拝が韓国・天苑宮天苑教会、そして、神日本第五地区で予定されています。真のお母様主管の元での礼拝です。多くの方々の関心を寄せてオンライン参加を希望します。1)天の父母様聖会 天苑宮天苑教会 聖日礼拝(21.03.21)2)天の父母様聖会 『神統一世界安着のための 神日本第五地区希望前進礼拝』(21.03.21)
2021.03.20
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天の父母様聖会 『神統一世界安着のための 神日本第五地区希望前進礼拝(21.03.21)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.20
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2021.03.19
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怨讐に対するお父様の恨みマタイの福音書二三章一節-一二節、二九節-三九節一九六〇年七月一七日(日)前本部教会 *このみ言は第一次七年路程初めての全国四〇日伝道実施に先立ってなされたみ言 しばらくお話するみ言の題目は’怨讐に対するお父様の恨み’です。’怨讐に対するお父様の恨み’という題目でお話します。 1. 私を中心とした善と悪の闘い 私たちはすべて、私たちが生きているこの地が善なる地になったおらず、地の上に生きる人類も、善なる人類になっていないことを知っています。この世の中が悪なる世の中であるにもかかわらず人間は善を所望とし、今日の不足なることを案じながら、明日の完全なる姿を慕っていることは、皆さんが生活を通してよく知る事実です。 今日、地の上に生きている数多くの人々の中には少しはましな人がいる反面、そうではない人間がおり、少しは忠誠であろうとする人がいる反面、その忠誠の道を妨げようとする人間がいるのです。世の中のこのようなことと同じく私たち自身も、より良くなるという道を行こうとするとき、善なる何かを立てて行こうとするとき、これを妨害する要素が前を遮ることを、皆さんは何度も感じるのです。 自分が善なる人間であると満宇宙の前に、自認することができないことを感じれば感じるほど、自身の環境が悪なる環境であると恨むようになるのです。さらには自分がこんな悪の世の中で生きているので、このような環境に染まって悪なる立場に立つようになったと、一時的な弁明をして生きているのが現実なのです。 それではどうしてこのようになったのか? 自身が善なる人間になっておらず、善と反対の悪なる人間になったのは、環境のためであると恨嘆する原因はどこにあるのか? この原因を追究してみれば、堕落の報応からきた事実であることを否定できないのです。善とか悪という名詞が残っていることも、堕落のゆえであるのです。 世の中の人をおいて見るとき、善なる側の人と悪なる側の人、また善なる人と悪なる人に区分することができます。私個人をおいて見るときにも、ある一方向に自分を引っ張って行くかと思えば、また他の側に自分を引っ張って行くという事実を、私立ちはよく知っているのです。 人間に善なる人間と悪なる人間がいるように、神があるならその神も、善なる神と悪なる神があるのです。これは私たち自身を推し量って見ても、否定することができません。 自分の心は善に向かって行こうとするのに、環境に引かれて悪なる道へ行ってしまう原因は、どこにあるのか? 自分が動機的な主体ではないという事実を認定するなら、ここにはきっと自分以上の原因と動機である力が、作用しているという事実を否定できないのです。春が来れば春の気運が、すべての山河を覆うのと同じです。自分自身が環境による感情に縛られたり、環境による罪のなかに縛られるこれらすべてのことは、自分が直接的な動機になって動いているのではなく、ある動機的な力の下での間接的な動機によって動いているこのなのです。 善を求めてみれば結局、絶対者を立てざるを得ず、悪を糾明してみれば絶対者と反対の神と、出会わざるを得ないのです。それゆえ私たち個体には、重要な責任があるのです。自分が良くなれば善になり、でなければ悪になってしまうのです。自分が良くなれば絶対者を喜ばせるのであり、でなければ悪の怨讐を喜ばせるのです。このような岐路に立つ人間ですから、どんなに微々たる生命だと考える人間であっても、彼は天的な闘いと歴史的な闘いをして生きているのです。 世の中や理念を通して新しい世界に向かって動いてゆくことが、今までの人類歴史なのです。歴史の方向を理想世界に転向させるために展開されてきたことが、文化史の変遷過程なのです。これを見るとき、人間が主体ではなく、人間は第二原因の立場で、第一原因の対象として行動してきたに過ぎなかったという事実を、認定せざるを得ないのです。 キリスト教では人間が、堕落によって罪悪となった世の中に生きているので、このようにならざるを得ないと言うのです。 2. 悪に占領された人間と摂理歴史 善の理念を立ててゆく絶対者、即ち神が存在するなら、その神の前に反対となるものがあるのですが、これが罪であり、鬼神であり、サタンなのです。これは人間の怨讐であると同時に、神の怨讐であると規定せざるを得ないのです。 私たちは神があるということを主張する前に、私たちの周辺に誰がいるかを、まず知らなければなりません。私たちの周辺には神ではなく、神の怨讐である悪神が私たちを取り囲んでいるという事実を知ってこそなのです。 人間が堕落することによって、創造主神は人間を怨讐の懐に渡したのです。であれば人間のために創られたすべての万物も、悪なる怨讐サタンに渡されたのです。本来神は私たちの心の主人であり、私たちの体の主人であり、私たちの生活の主人ですが、我々人間がしかじかの曲折によって神に背反して、神のみ旨とは反対の立場で喘いでいるのです。誰によってこのようになったのか? 神の怨讐である悪神によってこのようになったという事実を、私たちは知らねばなりません。 人間には体があり心があります。さらには心情があります。心情と心と体をもって世界に出てゆくとき、事情が絡みつく生活舞台を離れてなすことはできません。今日私たちが感じ、見て触り、食べて暮らしているこの世の中は誰が占領しているか? 神が主管しているのではなく、神の怨讐サタンが占領しているのです。 ですから神は怨讐サタンが主管している世を取り戻し、本然の状態に回復しようとされるのです。これが復帰摂理です。回復するにはどうしなければならないか? 怨讐を降伏させなければ、回復することができません。これから天上と地上に大きな闘いが起きるのですが、この闘いは神が怨讐、即ち鬼神サタンを屈伏させるために起こる闘いなのです。これが最も大きな闘のです。 歴史路程において人間は部分々々、即ち地域なら地域、宗族なら宗族同士が闘ってきたのです。神はこのような闘いを解決するために、人間を善なる側に率いてきたのです。悪なる側に引かれたならまた引っ張って、個人から世界にまで率いて来たのです。ある時は悪の側が勝ったようですが、結局は善の側へと歴史を率いておられるのです。 今私たちは、大怨讐を知らねばなりません。どんな怨讐が大怨讐か? 歯をむいて報復するぞという、個人の怨讐は何ほどもありません。怨讐の中の大怨讐が誰でしょう? 神の創造の偉業を成そうとするこの世界を破綻させるサタン、鬼神、悪神が正に私たちの大怨讐なのです。彼は全被造世界の怨讐であると同時に、我々人類の怨讐なのです。この怨讐を打つための路程において、人間はこの闘いの材料に使われてきているのです。 闘いはすでに起こっているのです。皆さんが平安に眠っている夜にも、善の神様は怨讐を撃退するために闘っておられるのです。昼も夜も闘っておられるのです。 皆さんは怨讐を打たなければなりません。こんな怨讐が我々の前に命を狙い、理念を破綻させ、歴史的な行路を汚し、我々を悪の罠へと追い込む動きが地上に起こっているのです。ですからある事件が起これば、この事件を中心に右側が生じ、左側が生じるのです。左翼があれば右翼があるのです。前後があり上下があるのです。 サタンが占領している所は、天地の全体です。この地はサタンが占領している場、怨讐が占領している場なのです。本来人間は怨讐に占領されて生きるようにはなっていないのですが、主人の教えを違えたことによって、主人の命令を違えたら死ぬというその道を行って、怨讐の捕虜になったのです。捕虜ですよ。このような宗族として繁殖していったのが、今日の人類なのです。天地に大怨讐があるのであり、これは歴史的な怨讐であり、この時代的な怨讐なのです。また未来の怨讐でもあるのです。これは人類の怨讐であると同時に、万物の怨讐であり、神の怨讐なのです。 3. 善と悪の作戦本部になる人間の心と体 歴史的な戦争、あるいは天宙的な闘争時期が来るとして、その時に先頭に立ってサタンを撲滅させる、屈伏させることのできる義の精兵がいるなら、彼はきっと天の息子・娘に間違いないのです。 宗教や善というものの目的が何でしょうか? 平安に楽に暮らすことではありません。他人が羨むほどに、地で良い暮らしをすることではなく、自分を越えて後孫にまで侵犯して蹂躪する怨讐サタンを撃滅して、地球上から追い出すことです。これが我々人間の目的であり、神の目的であり、全被造世界の目的なのです。また、これが今まで闘ってきた目的なのです。 皆さんの体は、皆さんのものではありません。皆さんが食べるごはんも、皆さんのものではありません。ごはんを食べて動じている皆さんの肉体も、皆さんのものではないというのです。皆さんのものではありません。では誰のものか? 悪魔のものです。 それで神が人間を支配しているこの悪魔を撲滅させるための、基地として立ておかれたものが何かというと良心なのです。良心は時間性を越え、皆さんと闘争しているのです。この社会と闘争しているのです。過去の歴史路程においても闘争してきており、今日この時代にも闘争しているのであり、明日の歴史路程においても闘争しなければならない一線の将兵が、正に皆さんの良心なのです。 私一個体には天の作戦本部もあり、サタンの作戦本部もあるのです。私たちの良心を根拠としているものが天であり、体を根拠としているものがサタンなのです。この良心と体が闘っているのです。それで人間は大声をあげて闘い、倒れては起き上がり、誓ってはまた崩れ、決心してはまた無力な生活を反復しているのです。ここにおいて体を打って、立ち上がれないでいる良心の権限を回復することが、神様が願う最高の目的なのです。 宗教的な言い方をすれば、私たちの心は天国に連なっていて、私たちの体は地獄に連なっているというのです。心を治める神が善神であり、体を治める神が悪神なのです。 なぜ、このようになったのか? 皆さん、一匹の昆虫を見ても相対的な関係で対するときは衝突がないのです。ところが、なぜこのようになったのか? 神が誤って創って、こうなったのではありません。元来は人間の心と体が相対的に無限に授け受け、授け受け、また授け受けするように創られたのです。であるにもかかわらず、与えようとしても受けずに互いに争ってばかりいるのは、堕落の報応なのです。 この争いを誰が整備しなければならないか? 誰が責任を負わなければならないか? 天と人間が合同作戦をして整備しない限り、信仰の目的を達成することはできません。理念や理想といっても、この目的を達成できないのです。それゆえ今日人間は’良心的に生きよ’’善を指向せよ’と主張しているのです。そうではありませんか? この地がサタンの占領圏内にあるので、数多くの民族に分かれたのです。民族と民族間の風習が違い、伝統が異なるのです。この社会はサタンが主管しており、サタンを中心とする伝統と風習が植えつけられているのです。ですからこのサタンどもを、撲滅しなければなりません。 4. 人間の良心と神の摂理 そのために天は時代々々ごとに、人間が新しい良心の衝撃を受けるように役事され、彼らの心と理念を開拓され、革命を通してサタンの勢力を打ち崩してきたのです。ですから今まで、どれほど苦労されたことでしょうか? 私たちが見ることも知ることもない歴史路程において、神は闘ってこられたのです。 人間が地上でどんなに善のために叫んだとしても、百年以上も続けることはできませんが、神は善の世界を成すときまで、怨讐に対して闘いを継続しなければならないのです。しかし神は今まで、怨讐のまえに天の側の精兵を立て、行進命令、出動命令をしてみたことがないのです。今までの歴史路程において、神は新しい理念を立て、人間の心を動かして悪の世の中を征服する精兵を集めてこられたのです。これが今までの歴史です。 それでは、神の怨讐に仇を打つ軍隊があるかというとき、未だにそんな軍隊がないのです。善なる精兵が集め、この善の精兵との合同作戦によって怨讐である悪魔、サタンを捕らえて底無し穴に追い落とすことが神の目的なのです。 私たちはちょっと次元を高めて、考えてみなければなりません。今日普通の人々は日常生活的な感情を通して自分と対立する者、あるいは何代かの先祖から何らの衝突があり、怨恨を結んでいる者を怨讐と思っているのです。しかしそれよりさらに大きな怨讐があるのです。だからこの怨讐を打つまでは、どんな怨讐にも仇を返すなというのです。こんな個人的な怨讐は問題ではありません。個人的な怨讐に仇を返す善なる人が、犠牲にされたのです。ですから耐えることです。 キリスト教では神のみ旨に従い愛を強調して、怨讐のために祈りなさいと言いながら、なぜ終わりの日に審判するという命題を立てるのか? これは怨讐サタンのために祈祷するということではないのです。人間のために祈祷しなさいということです。人間を堕落させた張本人であるサタンのために祈祷しなさいということではなく、この怨讐に籠絡されて悔しい人間のために、祈祷せよということです。でなければ何のために審判という名詞を立てたのか? 神は公義の審判主です。全世界の天の側の善なる精兵たちは一つになり、神の出動命令に従ってこの悪なる世を打ち、サタンを生け捕らなければなりません。その時まで、各自が準備をしなければなりません。神様はその日を迎えるために、六千年という歴史を率いてこられ、未だにその一日を迎えていないことを、皆さんは知らねばなりません。 5. 本来の良心基準をもったなら 人間とは、心と体が離れては存在することができません。私たちの体と心を分析して見るとき、私たちの心が絶対的に天の側に立っているか? 違います。私たちの心はある思想的な、あるいは理念的な環境に左右されるのです。 それでは人間が堕落することによって、まず侵犯を受けたところがどこか? まず侵犯を受けたところは体ではなく、心なのです。自分の心において今まで作用している良心の基準は、アダムとエバが堕落する前の基準なのです。本来の善なる人間、完成した人間が持つべき良心基準ではありません。これが正しいのか、あれが正しいのか判決をつけることができない良心基準なのです。堕落する前の未完成のアダムとエバの良心基準が、今日世界人類の良心と連結されているのです。そうなっているのです。 もしも堕落しなかったなら、この良心基準がどこまで上がったでしょうか? 神について解明する必要がない基準まで上がったのです。神が私たちの主人であることを、自動的に感じる基準まで上がったのです。このような良心基準が完結したら、この良心という種から生まれべきものが何でしょう? それは心情です。愛という言葉です。人間がこのような基準を持ったなら、神の愛を中心に満宇宙を支配するのです。 愛は時間性を超越するのです。空間性を超越するのです。ですから良心作用も、心情に従って動くのです。 ところが人間が堕落することによって、どんな事が起こったのか? 本来、神の立てられた良心の基準、即ち堕落することなく完成したアダムとエバの良心基準を持てなくなったのです。堕落することなく完成したアダムとエバの心情を、人間が持てなくなったのです。もしも神の創造計画どおりアダムとエバが完成して、完成した心情を持つなら、神を忘れるでしょうか? 忘れはしないのです。天使が誰であり、万物が何であるかを知ったのです。 人間は万物の霊長として、心情においても心においても体においても、いかなる不足もなく絶対的な愛の心情と連結されて、絶対者を代身するのに不足がないように創られていたのです。ところが堕落することによって、人間の心の基準は堕落したアダム、堕落したエバの心の基準から出発したのです。ですから皆さんの心では、神があるのかないのか分からないのです。アダムとエバも神が現れて取って食べてはならないと命令されたので、そのとおりに信じてきたのですが、神が現れないので自分たちが勝手に行動して堕落したのです。 私たちの心が体を屈伏させられない原因は、どこにあるのか? 心の基準がサタンに組み敷かれているからです。ですから今日地上に生きている人間たちの心が、体の支配を受けているのです。しかしアダムから本性的に残っている良心基準が、天に向かい、天倫に向かって動いている方向性を失っていないので、これを貫いてきたのです。過去を悔いる瞬間に爆発するのです。’アイゴ-、これでは駄目だ’というとき、爆発するのです。このように隙間があれば爆発してくる心の作用を、皆さんは今まで人生路程において、あるいは時間々々の生活過程において、無数に蹂躪したのです。ですからサタンの僕、サタンの息子・娘だというのです。 もしもこの地上に神のみ旨が完全に成り、私たちの良心が神の創造理念によってさっと充たされる日には、この体のようなものは問題ではないのです。肉体が問題ではないというのです。ところが良心基準が神が立てられた基準ほどになっていないときに堕落して、サタンに組み敷かれてしまったので、今日人間はこの原則の基準まで上がっていないのです。 6. 本然の良心基準を立てる日には サタンは死亡の障壁を立てているのです。その下に組み敷かれているのが、我々の体です。神のまえに怨讐となったサタンは、本来は天使長です。神が主体であれば、天使長は霊的な対象です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴しているので、サタンは人間の体を足場にして活動しているのです。それでどの宗教も、体を打つのです。ある国家やある主義を征服することが宗教の目的ではなく、体を征服することが宗教の目的なのです。こうして本然の良心基準に帰ろうとするのです。体が要求するすべての条件を無視して、心の門を開いてアダムとエバが堕落しないで上がるべき良心基準に帰ってくるとき、初めてここに平和が始まるのです。 キリスト教の使命が何でしょうか? イエスは語ったのです、天国はわが心にあると。サタンを屈伏させて、安息所を造らなければ地獄です。天国に行くでしょうか? そんな妄想は捨てることです。分かってみれば、信じたという条件だけでは天国に行けないのです。信仰の力をもって天と敵対しているサタン、即ちこの体に克つ勝利者になっているかどうかが問題です。これのみを通過すれば、地獄に行きません。絶対に行かないのです。今日人間が修養だ道徳だといっていますが、それではこの基準に及ばないのです。だからといって人間が、手を挙げて降伏するのですか? 降伏することはできません。なぜ? 神がおられるからです。神がおられるならどのようにしてでも道を貫かねばなりません。これを知らねばなりません。 堕落人間は、世の中に対する欲心の他にはありません。地のみを主管しようとするのです。しかし本来人間は、地だけを主管するように創られてはいないのです。霊界まで主管するように創られました。ところが人間はこれを覚えていないのです。人間を主管する天があるのですが、天の命令を通して直接的に主管することができる橋がないのです。人類の始祖がこれを断ち切ってしまったからです。ところが後孫の中にも、これを連結させる人間が一人もいないのです。本部には作戦参謀部があって、すべての計画をしているのですが、その計画を連絡する電話線が切れているのと同じです。これを知らねばなりせん。 これを引き継ぐ日には、良心のあいている場を充たす力が出てくるのです。神の生命力が流れ込んでくるのです。即ち、堕落しないで完成した本然の良心基準を立てる日には、体は問題ないというのです。肉体の征服は問題ないのです。のみならず、そんな心の基準を立てて、神が知らないとはされない心情の因縁を持たねばなりません。 これが神と人間を父子として因縁づけることなのです。神は父であり、人間は息子という因縁を結ぶことが、最も重要なのです。今日の人間の中で、こんな因縁を結ぶ人がいますか? 一人もいません。 皆さんが今、見て聞いて感じるすべての感情は、神から出ているものではないのです。今日我々が生きて感じるすべての感情は、良心の完成基準で神の心情と連絡して出てくるものではありません。ではないということです。違うのです。ではどこから出てくるものか? 悪神から出てくるものです。悪神が私たちの心を占領しているのです。悪神の血筋が我々の心と、体の細胞にまで連結されているのです。これを知らねばなりません。 怨讐が天にいるのであれば、皆さんの血と肉が怨讐サタンの要素なのです。血と肉が怨讐です。怨讐の血が体に入ってきているのです。これを考えるとき、体に鳥肌が立つのを感じなければなりません。このしわのかたまり、この細胞に大怨讐の血が流れているのです。皆さんの血と肉に、怨讐の根がのびているのです。今まではこのような事実を知らなかったのです。それで人間たちはこんな、しわのかたまりを大事に養っているのです。 そんな内容がありますから、宗教はこの怨讐を捕らえようとするのです。イエスは怨讐は自分の家の中にあると言いました。人間の体を聖殿としているでしょう? この体は聖殿ですから、つまり家です。家の中に怨讐がいるというのですから、体がつまり怨讐になるのです。だからこの体を征服しなければ、神の創造理念を完遂することができません。 それではどんな方法によって、怨讐を征服するのでしょうか? これを知らねばなりません。ある怨讐がいるなら、彼がどのようにして怨讐になったのか、この事情を知らなかったら、彼を征服することはできません。だから知らなければなりません。アダムとエバからどのようにして体が怨讐になり、怨讐サタンが我々の先祖たちを、どのようにして籠絡し、またイエスをどのようにし、自分をどのようにしているかを知らねばなりません。歴史的な怨讐を知らなければなりません。歴史的な怨讐として行動したことを、知らねばなりません。 またこの時代の怨讐が自分を侵犯し、自分を籠絡していることを知らねばなりません。わが命を未来にまで永遠のように、僕にしようとする怨讐であることを知らねばなりません。このような怨讐どもの世界が、地獄なのです。怨讐の奴を知らねばなりません。怨讐を知らずに、怨讐を屈伏させることはできません。まず天上と地上に根づけられた怨讐に対する神の怨恨があるということを知らねばなりません。怨讐に対する神の怨恨が、誰のゆえに生じたのか? 地の上の人間たちのためです。地上に生きているこの群れのためなのです。 7. 人間が最後の安息所とする所 人間は本来、どのような群れであったのでしょう? 神の懐で秘蔵っ子として愛を受ける群れなのです。神の血を受け、神の骨の骨であり、肉の中の肉であり、細胞の中の細胞として、神の愛を受ける人間であったのです。 神が原則を立てておいて満宇宙を創造されたので、この基準を無視する日には、全被造物がみな壊れるのです。これを無視することはできません。人間はこのような基準を中心に、互いに愛し合って暮らすべきなのに、堕落することによってこの基準を放りだし、右手に神を握り、左手に地をつかんでいるのです。こんな人間を率いて、接ぎ木という事をされるのです。これが救援摂理なのです。 堕落が何でしょうか? 神との心情的な因縁に背反したことです。神が願われる良心の基準を完成しないで、背反したことが堕落です。神の理念を立てることなく、背反したことが堕落ということです。焦点は、神の心情基準を失ったことです。 それゆえ神は、人間に訪れて来られるのです。訪れて来られるときは’あなたたちの体を愛しなさい。ある学問や知識を愛しなさい’とはされないのです。’神の愛を求めよ’とされるのです。’神の愛を求めよ’とされるでしょう。これが今まで、神様が修道の道を立ててこられた基準なのです。 このような曲折を知らず、サタンがどのように神のまえに怨讐になったのか、我々の先祖がどんな罪を犯し、神から追い立てられたかを知らないで、どうして怨讐を征服することができるでしょうか? どうして怨讐に対する恨を解くことができるでしょうか? 結ばれたなら、解かなければなりません。結んだものを解くには、反対の方向に通して行くのです。怨讐たちが出て行かなくとも、貫いて行くのです。怨讐の障壁を貫いて行くためのことが、今までの人類歴史なのです。 人間はこれから世界が、一つの世界になるべきことを知り、その道を捜し求めて行っているのですが、良心と心情が統一されなければならないことは、知らないのです。これをどのように連結させなければならないか? 歴史的な思潮を見るとき、人間は一つの世界に向かっているのですが、神が願われる本然の良心と、その良心に吹き込まれようとする本然の心情を知らないのです。 ですからこれを外的に、環境的に、事情的に収拾してゆくものが思想であり、主義なのです。思想や主義は、良心的な感興を起こさせるものです。ところがこの目的が地にあったならば、これはサタンです。 天を通して人間の良心を爆発させ、環境に革命を起こす運動が、この時代に出てこなければならないのです。この一面をもって出たものが、今日の左翼です。唯物史観です。これはこの地上で、ある程度まで勢いを得るのです。しかし天上の因縁を中心とする主義のまえには、手を挙げなければなりません。 人間が最後の安息所とする所は、どのような所か? 心が平安だから幸福だとはしないのです。心の中で、心情の安息所を開拓しなければなりません。ちょっと難しい話です。心が平安な環境を持ち、自分の思い通りに世の中を主管することができる基準を持ったとしても、その心に核心がなければ駄目です。その核心は、心情です。この心情を充たしてこそ、これが万事の動機となり、調和を成すものなのです。 父母が良いわけは何でしょうか? 父母の心と自分の心が同じだからです。心情が一つだからです。離れようにも離れず、環境を越え、時代を越える内容があるから良いというのです。 8. 天国に行ける条件 このような時におかれている私たち、心情を失い、良心の中心をつかむことができず、生活の目標を失った体をもつ私たちは、どうすべきか? いっぺんには駄目です。悪なるものを取り除かなければなりません。取り除くのです。善なる世界に最も近づいている時には良心が問題になるのであって、肉体は問題ではないのです。 ですから宗教においては体を打つのです。ごはんを食べることが何か! 怨讐の腹に勝たねばなりません。肉体を平安にすることは、サタンを安息させることです。この肉体に対して、敵愾心を持たねばなりません。怨讐であるこの体に対して報復する自信のある者であってこそ、そんな自信を持って勝利する者であってこそ、天の精兵になることができるのです。出発基準が成っていなければなりません。大きな善の理念を中心に、体の情欲や食欲など、欲望の一切を自由自在に主管することができる男や女にならない限り、天が立てることができないのです。 宗教でいう終わりの日になると、どのような現象が起こるのか? 誰の命令を受けなくとも、世の万象をみな捨てる場に入るのです。今まで息子だ妻子だ、何だかんだといっていたすべてのもの、全部が夢のようです。こんな心情的な革命が起こらない限り、天国の民にはなれないのです。アイゴ-、わたしの愛する息子・娘、アイゴ-、わたしの愛する夫や妻、アイゴ-、わたしの愛するお母さんお父さん、等々のものがどこから出発しているのか? サタンを根拠として、因縁をもってきたものなのです。 大審判が何でしょうか? サタン世界の舞台を汲み取ってゆくことです。サタン世界との心情の因縁を、断ち切ってしまうことです。それで歴史は、父母と子が背反する思潮へと流れてゆくのです。どんなに抱いて座っていても、分かれて立つのです。兄弟と兄弟が争い、夫婦が争うようになるのです。そのようになるのです。それで終わるのではなく、新しい場を立てなければなりません。天の心情を再び接ぎ木してあげる、そんな事をするのです。 イエスはこの地の上に来て’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。果たしてメシアです。こんな原則的な観によって見るとき、果たしてイエスはメシアなのです。愛の救い主です、愛の救い主。有難いことです。歴史路程において、このような叫びがなかったなら、今日私たちは生きる意味を求めることができません。有難いことです。神を父と呼び、この世の父母を捨てるなら、天の父母を与えるというのです。天の父母を与えることです。皆さんを産んでくれた父母が、本当の父母でしょうか? 私を創り、生命までも吹き込んでくれた父母が、本当の父母です。愛する肉身の父母の代わりに、天の父母を与えるというのです。であれば世の中のものと合同作戦をしては駄目です。この世のことは怨讐です。怨讐! 怨讐だというのです。 ですからイエスが福音を叫んでゆくとき’誰よりもわたしを愛しなさい’とされたのです。’父、母、あるいは妻や子や姑、その誰よりもわたしを愛しなさい’としたのです。果たしてメシアです。聖書六六巻のすべてが必要ではありません。自分の子よりもさらに神を愛してこそ成るのです。 どのようにすれば天国に行けるのか? 天国に行くことができる条件とは何か? 自分の息子・娘よりも神をより愛すること。夫や妻よりも主をより愛すること。自分の体よりも聖霊をより愛すること。これが三位一体です。 心は体の新郎であり、心情は心の新郎であり、神は私たちの心情の主人であるのです。またイエスは新郎です。聖霊は新婦です。それで心的な型がイエスであり、体的な型が聖霊です。天地を代身して、心情の神を代身して、心的な型であるイエスと、体的な型である聖霊が役事するのです。ですからイエスは心の世界を求める中心なのです。新郎です。私たちが心から慕うものが何でしょう? 新郎です。新郎! 私たちが生じてより、初めであり終わりである革命を提示するために来られたお方が、イエス様です。これを知らねばなりません。 9. 怨讐に仇を返すには このような見地から見るときキリスト教徒、終わりの日に神の前に立つべきキリスト教徒が’神様、私の息子某を連れて来ました。また、誰を連れて来ました’ということは通じないのです。それらはすべてサタンを根拠として出発したので、彼らが愛する一切に神は対することができないのです。サタンが好む舞台から出発したので、怨讐なのです。怨讐! これを考えるときにこれが分かれるのです。今日、歴史の終末まできたのですが、未だに心情の革命を主唱していません。部分的にしてきました。キリスト教から部分的にしてきたのです。イエスを信じる人々は家庭の世話もしないで歩き回っているでしょう?イエスに狂っているというのです。そうでなければです。そうでなければ。 修道の道は、独身生活をするのです。女は女で独身生活をし、男は男で独身生活をするのです。このようにして、まずもって充たすべきものが何か? 心です。心を充たし、天情と因縁を結んだ後に、世の中を見渡さなければなりません。この曲折の動機を解くまでは、神の怨讐に仇を打つことはできません。怨讐は永遠に残ってしまうのです。よくよく知らなければなりません。これは嘘話ではありません。事実です、事実。それでイエスは母親であるマリアに’婦人よ、あなたとわたしは何の関係がありますか?’と言ったのです。この世的な血肉の因縁をもって、対することができないのです。当然です。当然の話ですよ。天を愛さなければならないイスラエル民族、天のみ旨を受けるべきユダヤ教徒は自分の息子・娘よりも、神をより愛したという認定を受けなければなりせん。 サタンの世で持っていた残り物を、神が受け取られるでしょうか? 受け取られないのです。怨讐の手の触れた物を受け取られるでしょうか? 皆さんは知らねばなりません。この体には毒素があるのです。悪の目的を果たそうとするサタンの血肉が、染み込んでいることを知らねばなりません。この目、この体、この耳このすべてがサタンの行楽と、サタンの理念を立ててゆく通路なのです。それで仏教ではこの世の中を遠ざけ、山中に入るのです。しかしそのようにしては駄目なのです。悪と闘って勝利しなければならないのに、闘いもしないのです。キリスト教は世の中にあって、悪と闘って勝とうとします。それゆえこの世的なものと闘い、勝ったとする群れが出てこなければなりません。 怨讐の中の最大の怨讐が、どんな怨讐でしょう? 事業上の怨讐ではありません。最も大きな怨讐は、愛する夫や妻を奪う人間です。これ以上に大きな怨讐はありません。皆さんも知っているでしょうが、本来こんな曲折が起こったのです。こんな先祖からの血肉を受け継いだ我々は、体に対する愛着心を全部捨てなければなりません。飢えてみなければなりません。修道の道は飢える道です。この体が疲労して倒れるまで、労働の場で一途にやってみるのです。むやみと打つのです。 こんな場に出る人間は、父母が来て’やあ、某よ’といっても堂々と越えてゆかなければなりません。愛する妻が過去の因縁を押し立ててきても、断然つらぬいて行くのです。世の中のどんな欲望や、周囲の因縁が襲いかかってきても、貫いて行かなければなりません。であれば神が’おお 、おまえはわが愛する息子だ’とされて再び送られるのです。おまえたちの息子・娘を救い、父母を救い、妻を捜してゆくように再び送られるのです。このようにならなければなりません。 イエス様はこのような使命を果たすために地上に来られ、弟子を立てようとされたのですが、そんな弟子を持てなかったのです。今日まで数千年の間、信じるという信仰者たちは世界的に数え切れないほど多いのですが、このような信者はいなかったのです。 今日統一理念をもってゆく私たちは、何をしなければならないか? 心情的な因縁を回復しなければなりません。目的はこれです。よく食べ楽に生きることは問題ではありません。乞食のじいさんの服を着ても、顔がくしゃくしゃになっても、どのようになったとしても神が’おお わが息子よ、わが息子よ’とされるとき’アボジ!’と駆け寄って慟哭することができなければなりません。こんな心情が皆さんにあるでしょうか? 10. サタン世界で勝利する秘訣 今日人間は父が父なのか、誰が誰なのか分からないのです。何も知らない天地で生きているのです。父を失って見ていないので、その父がこうだと説明してくれる人が出てこなければなりません。父がこれこれだと説明できる内容を持って来る人が、真の牧者です。その姿を望み見るとき、自分もどうすることもできず、自分の心が慕い引かれる血筋の因縁を感じる指導者に出会わなければなりません。皆さん、イエスがこの地上の人間のまえに真の父として来たのですが、そんな因縁を感じる人間がいなかったのです。 それではサタン世界で勝利する秘訣は何でしょうか? 神が私の父であるという事実を解明して、神も涙を流される場まで行くことです。そんな者が、神の息子・娘なのです。神のまえに出て’あなたは歴史路程において数多くの怨讐のまえに籠絡され、苦喪を綴ってこられても、私たちを息子とし娘とするために、血の涙の歴史路程を意に介さず、この時まで耐えてこられた私たちの真のアボジです。あなたの心情はこうであり、あなたの心はこうであり、あなたの体はこのようであることを知りました’とすることができなければなりません。 であれば神様は、大声で慟哭されるのです。神の威信を捨て、神の宝座を考えず、大声で慟哭されるのです。その姿がみすぼらしく、堕落世界ではよれよれの形無しの姿であったとしても、神が威信を捨てて慟哭されるようにできる者であってこそ、神の息子・娘となるのです。 人間は多くの欲心を持っています。私が望むことはそれではありません。皆さんを悪口を言われる場に追い込んでも、死ぬ恨があったとしても、天の息子・娘となることができる因縁を結ぶ場に立てたいのです。ここに入ってみ言を聞けば、即ち神がこうだということを見せてあげたく解明してあげるみ言を聞けば、神を抱えざるを得ない染みる心がわき起こるのです。そんな感じがわき起こってこなければ、この運動は世界的な運動ではありません。行っても壊れてしまうのです。 統一教会を信じてここに来た皆さん! 願わくば皆さんは、このような人間にならなければなりません。そんな人間になっていますか? こんな運動が自分一個を中心に、起こらなければなりません。真の良心を中心に真の道を捜してさまよう人間に、神を解明してあげればわれ知らずに包みこまれて元に帰るのです。帰ることができるのは天的な内容、本然の良心の力です。今皆さんがもっている良心ではなく、本然の良心の力です。この本然の良心の力と、本然の心情が爆発してくる感じを、信仰路程において求められないならば、天国には行けません。神の息子・娘として、立てないのです。 11. 怨讐に仇を返す方法 神の怨讐を打つときは、槍で突いて打つことではありません。どのようにして仇を返すのでしょうか? 絶対者たる神のまえに、サタンを解明しなければなりません。’神様、こうこうでこうではありませんか?’とするとき神が’おう、おう’とされなければなりません。丸ごと讒訴して、サタンを放り捨てるのです。サタンは心情の盗賊です。 それではサタンが、どうして神の大怨讐になったのでしょうか? 人類を奪っていったその日から大怨讐になったのですが、怨讐になった内容が何でしょうか? 神様が創造理念によって永遠に因縁を結ぼうとされた、天的な愛の因縁を奪ったことです。だから大怨讐です。大怨讐ですよ。今この事実を、私たちは知りました。 サタンの役事は自分の体から起こるのです。だから自分の体を征服しなければなりません。これを考えますとき、飢えてぼろをまとい、悪口を言われることが問題ではありません。鉄窓に閉じこめられることが問題ではありません。 死ぬ前に怨讐を打たねばなりません。皆さん、死ぬ前に仇を返さねばなりません。怨讐に仇を返して死ぬのです。真の父母の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐、真の子女の怨讐が天と地に残っているのであって、この怨讐を撲滅させる責任がキリスト教にはあるのです。 怨讐を撲滅させるには、神の心情を誘発させなければなりません。神の心情を誘発しようとすれば、神の事情の内を知らなければなりません。分からなかったので、知らなければなりません。 アダムとエバを創られてあれほど喜ばれた神様なのに、アダムとエバが堕落したときには、あれほど悲しまれた神様であったことを知らねばなりません。アベルとカインを中心に闘った神様、ノアを中心に闘った神様、アブラハム、モ-セ、イエスを中心に数千年間闘って来られた神様であった事実を、知らねばなりません。 そんなお父様であることを知るとき、心情が溢れでるのです。衝撃を受けなければなりません。心に深く衝撃を受けなければなりません。世の中のどんな説教者、どんな師の言葉にも受けたことのない感動を覚えなければなりません。歴史的に、時代的に、未来的に心情の因縁を証してこそ、生きることができるのです。神の大怨讐の仇を打たねばなりません。この地は善なる人々が血を流した地です。怨讐のゆえに血を流した地なのです。 神を代身して皆さんを押し立てた、神の心は凄まじいのです。人間がどうしてこんな道を経て、天に背反した報いを蕩減しなければならないのか? 曲折がこのようになったので、これを解くには反対の道を行かなければならないのです。 皆さん、アボジが恋しくて何度か慟哭したことがありますか? 失ったアボジが泣き叫んでおられるのを捜して、足が折れても意に介さず、山にでも入って喘いでみましたか?アボジが私を慕って慟哭される場があるなら、そこはどこでしょうか? そこを捜し求めて、さまよってみましたか? 今日私たちは全世界のまえに、全天宙のまえに、絶対的な内容を主張して出るとするなら、知ることが何でしょうか? 神は私の父であるということ、父の心情がどうかということを知ったのです。ですから今’お父様は孝子孝女の姿を望み見て、笑い喜ばれるために人間を創られたのに、悲しみが何としたことでしょうか? サタンが何としたことでしょうか? 曲折が何としたことでしょうか? これらのすべてが、息子・娘になれなかった私たちの罪です’と慟哭する群れにならなければなりません。であれば帰ってくるのです。であれば帰るのです。であれば新しくなるのです。 私たちはすべて失ったのです。持っているものは何にもありません。私自身も持っているものはありません。私は名誉も願いません。皆さんの師となることも願わないのです。ただ、倒れるその瞬間に’自分が生きている間、アボジを代身してあれをもう少しやっていれば・・・という後悔を残さない場で、死なせてください’と祈祷するのみです。 寂しい群れを前に立てるとき、天は苦しいのです。心において、心情において、抑えることができない何かが、わき起こってくるのです。私たちは世の中の因縁をはね退け、天情によって背を向けたのです。背を向けた歩みですから、落胆の姿で行くのではなく、力づよく行かなければなりません。 天は何千年も待っておられるのです。今も待っておられるのです。私たちが死亡の谷間を通り過ぎても、待っておられるのです。皆さんが喘いでゆく時ごとに、天は待っておられるのです。この場で叫んでいる人間が、よく知っているのです。終わりであり最後であることを知るものですが、お終いではないのです。絶望したら倒れるのですが、天があることを知っております。 今皆さんは真の父母を抱いて慟哭する群れ、真の父母を求めて喘ぐアボジの手を握り、慟哭する群れにならねばなりません。そうして真の父母の前に立てられた真の子女となると同時に、真なる兄弟を慕う皆さんにならねばなりません。これが皆さんが持つべき内容です。 人間は縦的に父母である神を慕い、その神のまえに必ず孝誠の道を立てなければなりません。しかし、堕落の恨を解くことができない私たちです。孝子が何でしょうか? 蕩児のたとえを、皆さんは知っていますか? 涙をのんで蕩児を待っている父と同じ心で、帰ってくる蕩児の前に駆けよる兄弟がいるなら、父は彼に全体の遺業を残すのです。 12. 神の大怨讐を撲滅させる一つの道 今日私たちは知りました。この世の蕩児たちも、一つの血肉の親族であることを知りました。歴史は流れても、その心情においては死亡の息子・娘を忘れることなく、六千年の曲折を経ても彼らを捨ておかれないお父様です。アボジの心情と恨が彼らに残っているのです。 天に対しようとするとき、溢れる心情に涙が先立つ父母の心情を、皆さんは持たねばなりません。このような心情に燃えてください。真夏の暑さに荷を背負って行く人がいたなら、彼を抱いて慟哭して父の心情、母の心情を感じてみなさい。彼が苦労するのは自分のためだから、自分が荷を背負うとしてごらんなさい。行く道を遮り、兄弟よ! 行く道が残っているならどこへ行くのかと、切ない心情をもって慟哭してごらんなさい。そんな皆さんになったなら、皆さんが行く道には天が共にいてくださるのです。 ここで語る人間にも同伴者がいません。寂しこを歩んできました。恨み多く憤り、痛憤する事実が胸に一杯つまっているのです。しかし天の苦労に比すべくもなく、六千年の間恨を抱いて来られた神のまえに立つべくもない自分であることを感じるのです。しかし責任を担うに不足であることを感じて痛嘆するごとに、天が私を抱いてくださり、励ましてくださることを、また私は知るのです。他人が逃げだす場において、訪ねてくださる神を迎え、その神様がわが息子・娘であると誇ることができる息子・娘になってください。皆さん、神様はそんな場で皆さんを待ち焦がれておられることを、知らねばなりません。 イエス様が十字架で逝かれるとき、弟子たちは十字架が怖くて逃げたのです。しかし、強盗であったとしても、死んだイエスの身の上を哀れに思い、イエスの体に手でふれてみたく、触ってみたい心で一杯になるとき、その強盗は救いを受けるのです。天の血族はここから始まるのです。言葉だけではいけません。言葉の多い人間は沢山います。手段と方法は数千数万とあるのです。しかし真実の中の最高の真実は、愛の心情です。愛の心情には、手段と方法があるべくもないのです。これのみが、神の大怨讐を撲滅させる唯一の道であることを、私たちは知らねばなりません。 神を抱き、その神の心と心情を受けてサタンと対決してゆく者がいるなら、それより優れた人も彼の前には口をつぐむのです。人間が神を知らないときには、サタンが人間を思い通りに蹂躪し、思い通りに支配することができたのですが、天上の心情を通してわき起こる内容をもって現れるとき、億万サタンが降伏するのです。ですから死んでもアボジ、生きてもアボジです。この血がサタンから受けた血であっても、この血が変わり、アボジの血で一杯になるその場を慕って駆けてゆかねばなりません。であればサタンが抜け落ちるのです。 13. 私たちの責任 今私たちは祈祷しなければなりません。皆さんの血肉が今、サタンに属していますか?皆さんの血が流れて肉が落ちるとき、サタンが来てアイゴ-自分の血だ、自分の肉だと叫んで抱きつく者にならないよう、祈祷しなければなりません。血を吐いて倒れるとき、お父様が抱えて泣く者にならなければなりません。 今まで数多くの人々が、地上に来ては行ったのです。また数多くの人々がこの地上で生きています。数多くの人々が修道の道を求めているのですが、今日までこのような息子・娘を迎えなかったのです。ペテロが十字架に逆さに吊るされようと、イエスに背反した罪が引かかっているので、神も取ることができないのです。数多くの人々が刑場の露と消えたのですが、神が送った独り子に背反した罪があるので、その死を蕩減条件として認めるとしても、神のために善の血肉をふりまいて死んだとは認定することができないのです。 皆さん、三千万民族が行く道が分からずに喘いでいるのです。ですから飢えているこの民族のまえに、指導者にならなければなりません。死亡の世界において血と汗を流し、哀願する民族のまえに、鉄の杖をもって死亡の鉄条網を断ち切ってゆき’同志よ、兄弟よ、私がここにいるぞ’と叫ばなければなりません。 そうして父子の因縁を立てておき、兄弟の因縁を立て、宗族と民族を形成して天の民として登場する日、天上の主権は回復されるのであり、天上に染みる心情の怨恨は解怨されるのです。これをよくよく知らねばなりません。 皆さん、着ている物が惜しいですか? 脱いでしまいなさい。宝物を持っていますか?虚空に放り投げてしまいなさい。 これが天のまえに出てゆくときには、サタンの餌になるということを知らねばなりません。善のために血の涙も意に介さない彼らのまえに、一寸の土地、一枚の着物でも提供するために眠らない民族になるなら、この民族は世界を支配するのです。 天はこのような人間を求めているのです。アボジが恋しくて目がどろどろになるほど泣き狂ったとしても、その人間は地獄に行かないのです。飢えて大勢の人に後ろ指をさされ嘲弄されて倒れたとしても、アボジを慕って倒れたなら、その場は空き地にはならないのです。 今日私たちは、時代を創造するために行くのです。天倫の革命の路程に新しい開拓者として行くのです。ですから私たちの体には開拓の血が躍動し、開拓の肉が躍動しなければなりません。眠っているこの民族を抱いて天に向かって祈祷し、飢えるこの民族を慰安する者となるために喘がなければなりません。そのような皆さんになるなら、今日この時代に踏みつけられて追われても、この民族のまえに、人類のまえに必要なその日が、間違いなく来るのです。 私たちはこのような群れが、慕わしいのです。私たちはこのような食口が、慕わしいのです。私たちはこのような人々を糾合するために、すべてのものを犠牲にしなければなりません。こうして父母を知らない者たちに父母を解明してあげ、兄弟の因縁を知らない者たちに今までの通説を破って、霊界と肉界の限界を越えて、真の兄弟の因縁を知らせてあげなければなりません。そうして君が飢えているなら僕は食べず、僕が食べるときは君も食べるという心情が、民族感情以上に、世界のどんな思想や主義の感情以上に強くなるなら、神の解怨歴史は自動的に起こることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 私は皆さんが伝道しようとして罵倒されたと聞けば、一面では憤りもするのですが、心では喜んで祈祷するのです。なぜ? その人はその心に人間の心情ではなく、天の切ない心情と、篤い因縁を結んで帰ってきたからです。これを天のまえに誇る日があるのです。 今日私たちが新しい覚悟の下に、ある情熱をすべて注ぎ、世界人類を代身して天的な恨を一身に背負って一つの爆弾となって地獄に行ってはじけ、血を流したとしても、ここに勝利の塔を立てることができると、私は信じるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.19
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イエス様はすべてのものを残して逝かれたヨハネの福音書 一六章二五節から三三節 一七章 一節から二六節一九六〇年六月五日(日) 前本部教会 皆さんとしばらく考えるみ言の題目は’イエス様はすべてのものを残して逝かれた’です。’すべてのものを残して逝かれたイエス様’、こんな内容でお話します。 1. 一つの目的に向かって動くすべての存在物 この地の上でどんなに成功した人間であるとしても、その人にはまた他の希望が残っているということを、私たちは知っています。なぜ、なのでしょうか? 天と地のすべての根本真理を定め、天地を創った絶対的な主人公がいるならば、その主人公まで動かすことができる基準を完結したとするある聖賢・賢哲も、また他のどのような人間もいないからです。即ち、どんなに成功したいう人であっても、新しい何かを希望としているという事実を推し量り、このように言うことができるのです。 歴史路程において、時代々々ごとに、その時代の人々を指導する指導者が必ず必要でした。ところが時代々々、あるいは世紀々々ごとに、指導者を送って経倫して摂理の目標を成してゆくべき責任ある神であるにもかかわらず、そのような指導者を送らないならば、その神に対して人間を愛する神、人間に対して摂理なさる神であると、言うことができないのです。 今日までの歴史路程において、自分がこれこれの人間になり、これこれの成功を収めたと自信を持って語ることができる人間は、多くはないのです。成功して自分一代で名声を轟かせたい心を持たない者はいないのですが、自分が考え、計画した通りに成っていった人間は、多くはないのです。それでも歴史路程において、新しい革命の旗を掲げてその時代を率いた人物の中には、その時代の環境にのり、その時代の思潮の力によって、自分でも知らぬ間に世紀的な使命を成していった人が多いことを、我々は知らねばなりません。 こんな見地から、どんなに確固たる自信と信念をもって目的を達成しようと行動を開始する人間がいたとして、我々はそれが思い通りには成らないということを、断言できるのです。ですから我々の運命や人生行路は、自ら計画してゆくことだけではなく、ある大きな流れと力に和して行くという事実を、否定できないのです。 こんな立場から流れてゆく歴史であり、こんな立場から自身の解決点を捜すために喘いでいる我々であることを、否定できないのです。また、世界がある所に向かって動いているならば、ある一時に向かって動いていることを、否定できないのです。言い換えれば、すべての存在物はこんな一時と、一つの場所、一つの環境を希望として行くのであり、この時とこの環境を収拾して人類歴史の目的を終結させる、その何かを慕って行っているのです。これは普遍的な常識を持つ人であるならば、誰もが理解できることです。 それでは今はいかなる時であり、社会はどのような環境にあるのか? そしてこの時と環境を、誰が支配して率いて行くのか? 民主と共産が対決しているこの時は、どのような時と環境を造成しようというのでしょうか? また、時と環境を造成していって、いかなる指導者を迎えようというのか? これが現代インテリ階級の知性人が苦悶すべき、重大な問題材料なのです。 いずれこのような過程を、必然的に経て行く歴史路程なのです。なぜ、そうなのか? これは人間は知らないのですが、一つの目的観を立て、歴史を動かしている主人公があるからなのです。もしもそのような主人公がないなら、歴史は希望とする一時と環境に向かって、そして理念の中心に向かって流れることはないのです。 今までは民族感情がそれぞれに求め、歴史的な背景も求め、生活の形態までもが全部求めたのです。しかし歴史の流れに従って人類はこのようなことを超越して、従来に持っていた頑固な基盤を壊して、時代的なすべての組織を革命するある思潮に襲われてゆくのです。これは外的には人間が歴史をつづって行くのですが、その背後にある絶対的な存在の目的観があるからなのです。それゆえ人間は自分も知らずに、絶対的な目的観に率いられて行くのです。このような立場におかれている我々なのです。 2. 最後に残る主義 今日人類は、このような時を捜し求めているのです。また平和な環境を求めているのです。これを捜し立てた後に、人類を永遠の心情世界へと導く一人の主人公を求めなければなりません。それに向かって歴史が流れて行くということを、よくよく知らねばなりません。実際に歴史はこのように流れているのです。それでは、この被造世界がなぜ、このようになっているのか? この地の道人や偉人たちは大部分、この世界を手中に置いて一時を迎えて主導しようと考えたのですが、彼らは一つの部類や一つの民族、限られた範囲でのみ実践するだけで、世界的な立場でその目的を達成できなかったからです。 神がおられるなら、このような大目的は必ず成就しなければなりません。もしも世界的な大目的を成就する時が来ないならば、神はいないということです。時を動かし、環境を動かして、一人の人間をして天倫を中心に、全人類を統治させなければなりません。そうでなければ、神が創造したこの世界は、不完全な状態に留まってしまうのです。 創造の理念や何やらいうことも、あるべくもないのです。また、人間をして万物の霊長として、すべての万物の主管者だという話も、偽りとなってしまうのです。それゆえ最後にはこのような一人のお方を立て、歴史を整理し、時代を整理し、環境を整理して、人格を再び得るようにする時が、きっと来なければならないのです。 こんな見地から観察して見れば、どんな宗教や主義が世界的になるかならないか、大体分かるのです。このように見るとき、キリスト教は特出した位置にいるのです。皆さんは生まれてみれば、韓国人として生まれたのです。韓国人として生まれたことを、ひどく不幸なことと考える人がいるかも知れませんが、私はそうは思わないのです。なぜ? 一つの目的と一時と、一つの環境を捜し立てようとされる神がいる限り、どこであっても同じだからです。ですから自分が韓国に生まれたからと、嘆く必要はありません。韓国の状況が自分の心と事情と生活感情に合わないと、嘆息することはありません。韓国に指導者がいないと、嘆くことはありません。ただ案じることは、その一時を迎えるとき、その時に対することができる自分になっているかということです。またそんな環境を迎えるとき、その環境に和することができる自分になっているか、世界的なある新しい主人公が現れるとき、そのお方と心情が通じる自分になっているかとうことです。このようなことが、問題なのです。 これから歴史は氏族主義を越え、民族主義を越え、国家主義を越え、いかなる主義や思潮を越えて、心情の帰一点に向かって流れてゆくのです。皆さんの心もそうなのです。宗族が違い、血族が違っても、心情は同じなのです。父母が子女を愛し、子女が父母に従う心、夫婦が互いに愛する心、兄弟の間の互いの為にという心は、みな同じなのです。それでこのような心は、歴史的ないかなるものも革命できないのです。数千年の歴史過程を経てきても、原則的なこの基準だけは、永遠に本体に向かって駆けているのです。 それでは最後に残り得る歴史的な一つの主義があるとしたら、どのような主義でしょうか? それは父母以上の心情を持って、万民に対することができる主義です。このような心情を持つ主義が出てくるなら、世界は一つになるのです。青春の男女が互いに思慕する力よりも強い心情が、この地上のある一つの所から出るなら、世界は統一されるのです。死の場において倒れてゆく愛する兄弟を見て、死線を越えても救いたいという心情以上の心情が、この世界的な思潮のまえに登場するなら、世界統一は問題ないのです。その他のどんな学説やどんな主義、どんな人格であっても駄目です。 それゆえ宗教という名を持つある団体、ある教派を分析して見れば、心情を無視する宗教は歴史路程に残らないのです。キリスト教は創造主に対して、絶対者に対して父とし、万民に対してもイエスを迎える新婦であると言うのです。それでは果たしてこの地上に、父の愛があり、新婦の愛があるでしょうか? ないのです。これが登場する日には、世界は統一されるのです。罪悪の歴史はこれによってのみ、終結するのです。これを皆さんは知らねばなりません。 3. 善なる人を犠牲にさせて摂理なさる理由 それでは神様はどうして、歴史路程においてご自身の名を呼ぶ数多くの人々を、悪党どものまえに犠牲にさせ、虐殺させて摂理なさるのか? その理由が何でしょうか? それは愛することができる環境になっていないからです。結論はこれです。何ゆえにこのように苦労させるのか? 愛することができる状態になっていないからです。イエスが新郎であるとしても、新婦として愛することができる人がなく、神が父であるとしても、息子・娘として愛することができる人がいないからなのです。神の息子となれる者、神の娘となれる者、神の家庭で食口となれる者、神の福を受ける者がこの地上にいないのです。そんな人間が、この地上に登場しなければなりません。 発電所で生じる電気は、電線さえあれば何千里までも伝達されるのです。発電されるには、授け受けなければなりません。プラスとマイナスの電気が互いに授け受ければ、灯がともるのです。天と地も新しい理念を中心に、互いに授け受ける心情的な基準が立つべきなのに、それができないことが恨であるのです。 どんな億万長者であっても、自分がとても愛する者が一人もいなかったら、持っている物は何の価値もないのです。神がこの地をサタンのまえに渡しておいたのは、愛する息子・娘を捜し求めるためであったのです。 それではイエス様は、地上にいかなるものを持って来られたのか? 心情的な主義と理念を持って地上に来られたのです。でなければ救い主になることはできません。救い主ではありません。たとえ救い主になっても、外的な物を救う救い主にはなるかも知れませんが、心情を基盤として生命を連結してゆく救い主にはなれません。真の救い主は、心情的な内容を持つお方でなければならないのです。我々は救い主が、こんな立場のお方であることを感じてこそなのです。 今日の現実を越えて、我々人類の先祖の時代を、再び一度回想してみるのです。今日我々が一つの所、一つの環境、一つの中心存在を待ち焦がれていることは、我々が堕落の後孫であるからです。もしも堕落という名詞をつけられる前、即ち、我々の先祖アダムとエバが堕落する前に、神が立てた一時を成したらどうでしょうか? 考えてみてください。神はある一時にこれこれの環境を成して、これこれの指導者を立てるという目的があったのです。堕落しないアダムとエバが、神の祝福を成していって、満宇宙を支配することができる一時を迎えたなら、このように多くの犠牲を払うことはなかったのです。 この一時を迎えて、万物を指揮して創造された環境全体がこの号令に動くならば、今日皆さんには嘆息という言葉があっでしょうか? これもみな堕落の応報なのです。それだけではありません。我々人類の先祖アダムとエバが、神様が立てた一つの環境と時を迎えて、支配することができる代表者になったなら、今日この世界はアダム主義の世界になったのです。心情を中心にあなたとわたしは兄弟、とする一つの心情世界ができたのです。 人間始祖によって堕落という二文字が造られたその日から、人間はどさっと落ちたのです。どれくらい落ちたのか? 液もないほどに落ちたのです。内を見ても死んでおり、外を見てもみな死んだのです。神がこれ以上かき回して捜せないほどに落ちたのです。 こんな人間に薬を与え、注射して再び生かそうというのです。救援が何か? 落ちて死ぬものを再び生かすことです。薬を与えるなり注射するなり、冷水をかけるなり、いかようにしてでも再び生かすということです。これが救援摂理です。それでは生かしてどうするのか? 一時を神と、一つの環境を神と、主導的な行事を神と共にしようとされるのです。神様がこのような摂理をされないなら、人類は哀れになるのです。これに対するもう少し具体的な歴史的な事実については、皆さんがここに来て勉強すれば分かるのです。 4. 時と環境と主権を回復すべき人間 本来、神様は人間にある一時から永遠の時を許され、一つの環境から永遠の勝利の環境まで許されたのであり、一つの責任的な権限、即ち、永遠の責任的な権限まで許されたのです。しかし人間が堕落することによって、これをすべて失ったのです。神が立てようとされた時を失い、神が得て与えようとされた環境を失い、神が立てられた万物を主管する権限を失ったのです。これを再び捜し求めることが、今までの人類歴史なのです。 ところが、この堕落した人間を誰が率いているのか? 怨讐が率いているのです。彼らが神の息子・娘であるにもかかわらず、怨讐が反対方向に引っぱって行っているのです。このように反対方向に引かれてゆく彼らの良心が動かされないように、今まで六千年の間苦労して来られたお方が神であり、この地に来ては行った聖賢・賢哲であり、生命的な摂理の基盤を築くために骨折った、先祖たちであったのです。 しかし人類は時を失い、環境を失い、万物を主管する主人公の立場を喪失したまま、頼るところもなく風が吹けば吹かれるまま、水が流れれば流れるままにこっちに押され、あっちに押されて漂う浮草のように、今まで彷徨してきたのです。 今、彷徨を終えてどこへ行くべきでしょうか? 神様が本来はアダムとエバに与えたその祝福を、捜し求めて行かなければなりません。神様が喜んで’ほうれ! おまえのものだ’と祝福してあげられるその環境を、捜し求めなければならないのです。その次にここに’おまえはわたしの息子・娘だから、天上天下のすべてのものを主管せよ’という権限を相続しなければなりません。そんな場に向かって、世界人類は行っているのです。 この地の上のある人が得た知識が多く、手腕が優れ、すべての事を自分の思い通りにできる背後の条件を完備しているとしても、時を迎えず、環境を得なかったなら、志を成すことはできません。このような見地から見るとき、今の時とはどのような時か? 全世界が一つに向かって行く時です。この世界は一つの環境を描いて行っているのです。 人間は本来、堕落することなく時と環境を得て、神の祝福を成す真の先祖になるはずでした。ところがそうならずに堕落した先祖になったので、万民のまえに堕落していない善の先祖が登場しなければならないのです。彼は天にある霊人たちにもアボジであり、地に生きる人々にもアボジとなるお方なのです。このようなお方をキリスト教では、再臨のイエスだとしています。こんな事実を、よくよく知らねばなりません。 子羊の宴が何か? このお方が父として来られ、母を立てる宴なのです。キリスト教の真理が、正にこれなのです。キリスト教の中心はイエスであり、イエスの中心は愛です。聖書の中心も愛です。愛の中心は新郎・新婦であり、新郎・新婦の中心は子羊の宴なのです。それでは子羊の宴の中心のみ旨が、何でしょう? 本来神が許された時と環境を得ていって、天と地を相続することができる真の先祖として、祝福を受けることです。アダムとエバがこれを成せなかったので、再び回復して取り戻さなければならないのです。 世界人類は人間先祖の堕落によって、堕落した父母と、堕落した兄弟と、堕落した夫婦の情を断ち切れないまま、喘いで来ているのです。もしも人間が堕落しない真の父母と、情的な因縁を結んだなら、兄弟が兄弟を憎むことはなく、人間が人間を恐れることはなかったのです。神という一つの根から生まれた血肉ですから、小さな葉っぱのような部分であっても、これが全体の木との因縁を離れることがないのと同じなのです。 5. 神のまえに連れ子になった人間 ところで怨痛で憤ろしいことが何でしょうか? 我々が連れ子になったことです。養子になったことです。養子と実子は違います。パウロはロマ書八章で’私たちは天に対し、主に対しアバ父よ、と呼ぶことのできる養子になることを待ち望んでいる’としました。養子は血が異なるのです。血が違います。ですから神のみ旨は歴史的な終末時代に、堕落の因縁を精算して、新しい一時と新しい環境を迎え、再創造目的を成すということです。この創造目的を成すためには、時と環境が成ったとしても、その時と環境を支配することのできる主人公がなければ駄目です。それで神が最大の精力を注いで千辛万苦、終わりにこのような主人公として創られたのが、正に我々の祖先なのです。 神は早くアダムをこのような祖先にすべく創られたのです。しかしアダムがそんな主人公にならなかったのです。これが堕落です。堕落してその資格を失い、故郷(環境)を失ったので、再び捜し立てなければならないのです。それで神様は六千年の間、岩場の道を歩まれて千辛万苦、どん底の乞食のような群れから引っ張りあげる摂理をされるのです。死ねば当然のように地獄に行く群れを、まず訪ねて来られるのです。 神様は僕たちを送り、サタン側にいる人々をご自身の僕として選び立てる時代が、旧約時代です。息子を送ってサタン世界にいる人々をして、息子の因縁を結ばせる時代が新約時代であり、最後に父母の資格を持つ真の息子・娘を立て、祝福する時代がこれから来る再臨主の時代なのです。 皆さん、天国に行くのですか? そんなことは言わないでください。主様の祝福を受けましたか? 主様の祝福を受けなければ、天国には行けません。行けないのです。これはここで語る人の言葉ではありません。天理原則がこのようになっているのです。アダムとエバに時と環境を許された神様は、たとえ人間が誤って堕落しても、終わりの日に備えて一時を準備しておられれるのです。終わりの日に対備して、一つの環境を開拓して来ておられるのです。ですから我々は、感謝しなければなりません。 一に最も近いものが二です。今までは二つの思潮が互いに闘って、その何かに向かって流れて来たのです。今一つの時が近づいたので、終わりの日なのです。終わりの日です。世界は東西が互いに通じて、民族を超越して一つの理念の世界、一つの心情的な因縁の足場に向かって行っているのです。それでこれからは、心情主義を叫ぶ時代になるのです。世界主義ではありません。人間主義を過ぎて、心情主義なのです。 時を失った人間ですから、神は救援歴史をなさるのです。救援歴史は、再創造の歴史です。壊れたので、再び造らなければならないということです。アダムとエバが堕落しなかったなら、一つの根に連結されたのですが、堕落して数多くの罪悪の曲折を持つ人間を繁殖したので、この繁殖した人間たちを一つの根に接ぎ木しようというのです。聖書に出てくる偽オリブの木と真のオリブの木の比喩と、ぶどうの木の比喩のように、接ぎ木するということです。このように接ぎ木の幹として、この地上に来たお方が、イエスなのです。歴史はこのように、帰ってゆくことなのです。 今のこの時代は環境を得なければならない時、世界万民が終わりの日であるとする時、世界が一つにならなければならない時なのです。ですから今日世界主義だ、何の時代だという言葉が台頭するのです。神は今までこのようなことを、準備して来られたのです。 神様がこのような時を成すために、六千年の間苦労されて来たのですが、いつの時であっても神を絶対的に信じる群れがあるなら、そんな時と環境を開拓して、そんな主人公を送ろうとされたのです。それゆえイスラエル民族を選ばれて、彼らをして悪なる世の中と接することなく、わたしの言葉に従えとされたのです。アブラハムを選ばれた後、二千年の間苦労してイスラエル民族を立ておかれ、ここに主人公として送られてお方が誰かといえば、メシアイエス様です。救い主です。 それではイエスはどのような使命を持って、この地上に来られたのか? 神様がエデンの園で人間に許された、本然の時を持って来られたのです。また、何を準備するために来られたのか? 堕落していない息子・娘として成すすべての国家と民族を準備する万王の王として来られたのです。言葉だけではなく、全天地をその掌中において準備するために来られたのです。これを準備するのに神様は、四千年の間苦労されたのです。イエス様はこの地上に現れて物心がつくころから、パリサイ人やサドカイ人や祭司長たちに対して、’わたしに従え’とされたのです。そのときに彼らが’はい’と従わなければならなかったのです。ところが、そのようにしたでしょうか? 6. イエス様を迫害したイスラエル民族 選ばれたイスラエル民族は、二千年の間このように待ち焦がれたメシアが来たのですから、そのメシアを中心に鉄石のように団結しなければなりませんした。彼が東に行けば東に行き、西に行けば西に行き、四肢が落ちても共に落ち、首を括るなら共に括らなければならなかったのです。そのために四千年の間準備した、イスラエル民族ではなかったでしょうか? ところが、約束された一時を迎えたこの民族は、この主人公にどのように対したのですか? ’やあ、あなたが何か’こんなふうに対したのです。 天の時を迎えて三〇年の準備期間を経たイエスは、心中にきっとこの時が民族を救う時と考え、神が許された時を抱えて行ったのですが、四千年の間苦労して選んだ地の上のイスラエル民族は、このような天の時を知らなかったのです。誰が知っていたでしょうか?誰も知らなかったのです。時を知らなかったイスラエル民族ですから、地獄行きです。当然、審判を受けなければなりません。それでイエスの怨讐となったのです。 環境を準備するために神様が四千年の間、数多くの先知者たちを送り、彼らが血を流し裂かれて築いた善の功績を尊ぶべきイスラエル民族、時を得て来た主人公を尊ぶべきイスラエル民族、来られた主人公のまえに環境の土台となるべきイスラエル民族が、むしろイエス様に背反して十字架に釘打ったので、世界各所で死ぬほど苦労しなければならないのです。イエスは天的な時を迎えるために心情的に準備し、その環境を慕って夜も昼も心を砕いたのに、彼が準備した時を知って迎えるために現れた群れが、どこにあったでしょうか? イエスが捜し求め、イエスの環境となるべき神殿が、どこにあったでしょうか? むしろイエスを見て、バアルの神がついているとしたのです。こんなユダヤ教が未だに地上に残っていることは、怨痛なことです。神は四千年の間、多くの苦労をして固くかたく約束したメシアを送ったのに、このように反対されるとは! イエスは天の立場から見るとき、天の時をもって来た方であり、天の背景をもつ方であり、天の主権をもつ王者であり、天の皇太子なのです。天の背景をもって地上を治すために来たイエスを迎えるべきイスラエル民族、時を迎て環境を持つべきイスラエル民族は、むしろイエスが立てる時を崩し、環境を開拓しようとすることを妨げるのに汲々としていたのです。このような罪を犯した我々の先祖たちです。 イエスが死のうとして来たの? であればイエスを送るのに、なぜ四千年もかかったのですか? なぜ善なる先祖を死なせて、このようなことをするのかというのです。イエスは仕方なく敗軍の将になったのです。それで死んで再び生き返って、秘密のうちに弟子たちを訪ね、天のみ旨を成してくれることを頼んでいったのです。これが正に、キリスト教の出発点なのです。イエスは敗軍の将です。地上に来たが時を失った敗者であり、環境を失った敗者です。時を成し、環境を開拓すべき使命のあるイエスのまえに、死とは何としたことでしょうか? その時を所望として、その環境を所望として、この時とこの環境を成す使命を任されて果たすためのものが、使徒以後のキリスト教史なのです。よくよく知らねばなりません。よくよく。イエスはすべてを残して逝かれたのです。もしもイエスがこの地上で時を迎え環境を迎え、皇太子として登場したなら、天地はすべて彼の手の下で治されるのです。ところがそのようになったでしょうか? なっていないのです。 イエスは満宇宙を統治すべき、我々の真の祖先として来られたのです。イエスはアダム以後四千年が過ぎた後に、この地上に来た歴史的な祖先です。失われたものを逆に捜し立てるので、真の祖先なのです。第一アダムが失敗して堕落した祖先となったので、第二アダムとして来たイエスは、天上と地上のすべての法を一つの場に置いて、時と環境を整理した後に、天の主管国家を立て、この地上の人々を指揮しなければなりません。このようになったなら、今日我々は堕落した世の中に生きてはいなかったのです。ではそのようにしたでしょうか? しなかったのです。 ですからイエスは逝かれ、再び来るゆえに耐えて待てとされたのです。福を受けて平安に暮らせとはされなかったのです。十字架を負い、わたしについてきなさいとされたのです。この道を行くときは、家の中の食口が怨讐だとされたのです。命を得ようとする者は失い、失おうとする者は得るとされたのです。キリスト教徒たちは歴史のわき道で追われ者になってきた群れだったのです。歴史の路地裏で密かに約束してきた群れです。神様はこの群れを収拾して、第二イスラエルを造られたのです。ですからキリスト教には、第二イスラエルの使命があるのです。 それではキリスト教徒が成すべき使命が何でしょうか? 主がこの地上に来られて、時を失ったので時を求めなければなりません。我々の祖先のイスラエル民族が時を失ったので、時を求めなければなりません。環境を失ったので、環境を求めなければなりません。時と環境を得ていって’主人公よ、どうぞおいでください’という懇切な心を持たねばなりません。これが終わりの日の聖徒たちの、重要な問題なのです。 7. 願われた時と環境を残して逝ったイエス イエスは逝かれました。どのように逝かれたのか? 使命をもって来たが、すべてのことを残して逝ったのです。残して逝ったのです。イエスが求めたその時を残して、イエスが見たかったその環境を残して、イエスが行使しようとしたその主権を残して逝ったのです。それゆえイエス様は’こうでも一つになり、ああでも一つになれ。時が来ればあなたたちに比喩で話さないで、明らかに話すであろう’とされました。イエスは時を語らなかったのです。なぜ? 怨讐のまえにご自身が万王の王であると語れば、ロ-マ帝国の植民地であるイスラエルが耐えられないからです。それでイエスは時が切迫していることを感じても語ることができず、環境を築くために闘わねばならなかったのですが、そうはできなかったのです。 これがメシアを願った我々がすべき行動でしょうか? 昔も今も、同じことです。 第一イスラエルが世界的な使命の足場を壊したことによって、イエスが時を残して逝かれて二千年が過ぎた今日こそ、あのお方が希望として残した時が訪れて来るのです。それでは、第二イスラエルの立場の世界キリスト教徒は、どのようにすべきか? 知らなければなりません。再び来られるイエスは、昔のユダヤ教に訪れては来ないのです。そうでしょうか? そうではないのです。ユダヤ教は怨讐です。彼らがイエスを捕らえて殺したのではありませんか? 皆さんたち、イエスの心情を一度考えてみてください。時を求めてどれほど心痛めたことでしょうか? ヨセフとマリアの家庭で育ったとき、何度も天倫のすべてを語りたかったのです。マリアは処女懐胎してイエスを生んだ後、乳を飲ませて養うときにはそれでも神の息子と知り、神が選んだ貴公子と思っていたのですが、日がたてばたつほどその心が色あせて、イエスに普通の子と同じように接したのです。イエスは滅多に自分自身の事情を話すお方ではありませんでした。イエスはヨセフ家庭で食べる物も食べず、着る物も着ないで、心情の王者としておられたのです。しかしその心の奥深くには、時を慕う心情があったのです。 イエスは神が許された一時のために準備し、神が許された一つの環境のために、内的にも外的にも、または人格的な分野においても、得るべきものはみな得て自分みずから神、あるいは万民のまえに現れる時を待ち焦がれていたのです。そうか、そうではないか、考えてみてください。十二才の時、父母も知らない間に神殿を訪れたイエスだったのです。しかしエルサレムの多くの人々のまえに証しなければならな彼の兄弟たちまでが、からかって嘲笑したのでした。 イエスは今日の人々が考えるような、仮想的で歴史型の人格者ではありません。聖書にも大食いでぶどう酒を楽しむ人、病人の友、罪人や取税人の友だとありますが、ありうることでしょうか? なぜ、そうなのかというのです。これを考えるとき、皆さんは慟哭しなければなりません。イエスがどうして、罪人と取税人の親友になったのでしょうか? 彼らの親友になりたかったイエスではありません。どうしようもなかったからです。 イエス様は祭司長たちがご自分の前に膝を屈して’あなたは万王の王であり、我々の指導者です’と頭を下げて敬礼することを、どれほど待ち焦がれたことでしょう? しかし彼らはむしろ後ろ指を差したのです。モ-セの律法を蹂躪し、神殿を汚す者と非難したのです。それで仕方なく罪人の友になり、取税人の友になったのです。四千年の間に成した祭壇が崩され、どうすることもできなくて、そうなったのです。その当時の祭司長は大審判の時、一番に呼ばれて審判を受けなければなりません。そうでしょうか、そうではありませんか? 今まで、人々はイエスを盲目的に信じてきたのです、盲目的に。’イエスが我々のために死んでくれたので、我々は信じるだけで救われる’という簡単で、たやすい話です。しかし、イエスは福音のみ言を伝えるとき、食べず着なかったのです。切っぱ詰まればいちじくの実を取って食べようとして、いちじくの木を呪ったでしょう? 平安に太平楽に、腹が満ちるイエスではなかったのです。とんでもない話です。神の息子の身の上が、このようにがた落ちになってしまって・・・。 本来、イエスはエルサレムの城の前でピラトとカヤパの頭を踏みつけ’おまえたちよ’と叫んでみたかったのです。であればイスラエルが団結して、殺されようとする時に暴動でも起こさなければならなかったのです。’バラバを解き放つことを願うか、イエスを解き放つことを願うか’と問うてぶるぶる震えていたピラトの前で、祭司長の全部がイエスを中心に一つになったならば、六〇万を率いたモ-セに神様が権能の鞭を与えて役事されたように、イエスのまえにも神の役事があったのです。 時を失ったイエスだったのです。また、環境を失ったイエスだったのです。いる所がなく、この家あの家と転々として、マクダラのマリアのような寡婦の家を訪ねたのでした。今日のような自由な時にそうだったのではなく、二千年前にそうだったというのです。女人が三〇〇デナリもする香油をイエスの足に塗り、頭の毛を洗ってくれたのです。このような事が、許されるでしょうか? とんでもない事です。イエス様はどれほど気の毒なことでしょうか? こんな場まで追われたイエスの心情が、どうだったでしょうか。 ’四千年の歴史が蹂躪されていったのだ。ここが神様が苦労され、数多くの先知者たちが血を流して築いた歴史的な土台が崩れた場なのだ’ということを考えるとき、呪咀したい心が染みたのですが、口を閉じるイエスだったのです。呪咀するなら四千年の間苦労した神の苦労が絶たれてしまうので、自分のために準備された土台が崩れても、自分が責任を負うと口を閉じたのです。イエスは悲しく難しいとき、独りカンラン山をさまよって祈祷し、ゲッセマネの園をさまよって祈祷されたのです。皆さん、これが神の息子のすることでしょうか? イエス様は人間の幸福を約束する新しい人生観と宇宙観を、その時代に鉄石のように立てるべきだったのですが、そのようにしたでしょうか? イエスの人格観がどうだったかはっきる言えますか? 漠然としているのです。自分がこれこれの理念を持って、この地を支配するとされたでしょうか? 時と環境を整理して、これこれの支配をしたでしょうか? やってみなかってのです。敗北者として、消えていったイエスなのです。 イエスはこの地上に来て三年間、み言を語りました。しかしそのみ言の中の一つも、成してはみなかったのです。三年の間、率いていった弟子たちがどうなったでしょうか? 終いにはみな不信したのです。三年間すべての誠精をつくし、血肉をけずって喜怒哀楽を共にし、導いた弟子がこの様です。先生は先生なりに、弟子は弟子なりに行くというふうだったのです。結局、イエスはすべてを残して逝ったのです。 8. 終わりの日の聖徒の姿勢 イエスはあの世に行ってもこの地を見つめ’この歴史的な終末に、わたしが対したい一人の人よ現れよ、一つの家庭が現れよ、一つの社会が現れよ、一つの民族が現れよ、一つの主義よ現れよ’と祈祷しておられるのです。これは天にあっても目的を果たそうとされているからです。 キリスト教を中心とする理念は、民主陣営を造成したのです。これはその反対である外的な唯物論と闘っています。どのようになるのか心配ですか、皆さんたち? 今皆さんは世界の運命と世の中の決判をかけて、悲しんでいるよりもイエスが歴史的に残して逝ったその時を、身につけなければなりません。皆さん、これは重要なことです。イエスは’時は至るが、今がその時’とされたのです。即ち、望みの時と至る時があるのですが、至る時が、望みの時として残されたのです。望みの時が終わりにきたので、今がその時であると言うことができなかったイエスの心情の苦喪を、知らねばなりません。 今もその時と同じです。’時は至るのだが、今がその時だ’と言われた’その時’が正に今なのです。これは矛盾する言葉ではありません。イエスが残して逝ったみ言を成す時です。今の時は心の時、天の時です。成す時とは、この世の中で成す時を言うのです。これが一つの拍子に、ぴたりと合わなければなりません。イエスは心の内に時を抱いて来られたが、心に抱いた時を伝えるところがなく、持って逝かれたのです。この心の時が来ることを苦待し、祈祷しているのですが、その日が正に再臨の日なのです。 ですから今日ここに集まった皆さんたち、心の時のために準備しなければなりません。新郎である主様の心を知らねばなりません。主様の心を知るのです。しかし聖書をどんなに見ても、主様の心情がどうかは分かりません。どんなに聖書に能通しても、分からないのです。心の問題です。心が懇切でなければなりません。イエスは’あなたがわたしのうちにおり、わたしがあなたのうちにいる’と語られました。イエスが皆さんを訪ねて来るとき、皆さんの心の門を開いて訪ねて来るのです。それゆえ皆さんは、心の時を迎えなければなりません。そして心の聖殿を成さねばなりません。心の時と、心の聖殿を成した完成した人間として、聖殿の主人役をしなければなりません。これが再臨思想です。皆さんたち、問題はここにあるのです。 それでは、心の時を迎えるために皆さんはどうしなければならないか? イエス様は皆さんの兄弟を越え、民族を越え、世界を越えて新しい世界を慕ったように、皆さんも慕わなければなりません。イエスが来られる時に自分の心は個人的に、イエスと聖霊がいつでも訪ねてくる土台がなければなりません。でなければ主様が自分を訪ねてきても、再び行ってしまうのです。ですから来られた主様に対し’一度来たら行くことはできない’という世界的な土台がなければなりません。 皆さんが世界的な土台を成すには、どうしなければならないか? 信じる心が懇切でなければなりません。イエスの名においては、世の中の物質が問題ではなく、自分の名誉が問題ではない、という心を持たねばなりません。分かりますか? イエスの名において、通じぬところはないという心情的な立場に立たねばなりません。そうなっていますか? ごらんなさい。牧師同士がいがみ合って吠えつき、長老と教職者たちは互いに争い、兄弟は兄弟同士で喧嘩しています。これでいいのでしょうか? イエスは遠からず行かなければならない立場の時、弟子たちを呼んで、一つになりなさいとされたのです。わたしがあなたたちを慕うように、あなたたちもわたしを慕い、あなたたち同士も慕いなさいとされたのです。 イエスは時と環境を残して逝かれました。環境の中に弟子たちを残して逝かれました。イエス様が生前に語ってあげられなかった弟子たちはなく、打ち明けて語ってあげられる弟子たちの姿を、見ることなく逝かれたのです。こんな教会を見ることなく逝くと同時にこんな社会、国家、世界を立てることなく逝かれたのです。 9. 主様を迎えることができる者 それでは、皆さんはどんな圏内でイエスを迎える群れになるのか? 個人的に訪れる主に出会うのですか? 家庭的に訪れる主に出会うのですか? 社会的に訪れる主に出会うのですか? 国家的に、世界的に訪れる主に出会うのですか? 皆さんはどの分野の主に出会うとするのですか? 皆さん、主が天から雲にのって、鳴り物入りで来ると思いますか? 絶対にそうではありません。これをよくよく知りたければここに来なさい。絶対にそうではないことを、説明してあげます。そんな妄想は信じないことです。今キリスト教は、我々統一教会を異端視しています。よろしいです。異端(二タン)でも三タンでも、一度ぶつかって闘ってみろというのです。どっちが潰れるか。自信があるから、こんなことを言うのです。自信があるから・・・。 それでは、世界的な時を迎えるために来る主、世界的な環境を支配するために来る主を迎えるには、皆さんはどんな資格者にならねばならないか? ’主よ、どうぞここにおいでください’といえば’ようし’とされ’あなたがおられるに相応しい家がここにあります’と言える自分にならなければなりません。そのようにできますか? ええ? できるの? ’主よ、あなたがこの地上に成そうとされた時と環境を、個人から民の全体に至るまで残して逝かれたので、今あなたが留まることができる個人と民がここにございます’と主の前に紹介できますか? こんな言葉を言うには言ってもやれなければなりません。 イスラエル民族を指導した祭司長たちのなかに’主よ! どうか、おいでください! あなたが率いるべきものがここにございます’と言った人間がいましたか? いなかったのです。イエスを生かしておけば全部がイエスのまえに屈したものを、目をむいてイエスを、そのままにはしておかなかったのです。 しかし彼のまえに、すべてのものを紹介しなければなりません。紹介すると同時に、渡さなければなりません。’主よ、この家も、この教会も、この世界も私のものではないので、あなたのものとしてお取りください’としなければなりません。 ごらんなさい。教派間に熾烈な闘いがあります。各教会ごとに、時に至ろうとしているのです。各教会ごとに、主に対する観点が違います。ところでどのようにイエスが来られるのか? 来ても引き返してしまいます。どこに来ることができますか? 教派ごとに時が違い、環境が違い、指導理念が違います。これがイエスの教会ですか? これがイエスが留まる聖殿ですか? イエスに従う者のために準備した教会がこうですから、問題が大きいのです。ですから終わりの日には、誰の言葉も聞くなと言われたのです。ここに来て語っている人間の言葉も、信じるなというのです。どんなに血の汗を流して話しても、聞くなというのです。どれが偽か真か、分からないのです。自分の父母も信ぜず、兄弟も信じないで、誰を信じるというのでしょうか? 今の時は心の審判から、自らが勝利しなければなりません。心の審判。心から審判してそれしきの者なら、切って捨てなければなりません。心は分かるのです。すべての面において、心の審判をしなければなりません。これが駄目なら終わりの日には、頭に油を塗って密室に入って祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れている人も多いのですが、何が終わりの日に神が準備したものか? どこが主が臨まれる環境の基台か? どのようなものが、主の理念世界を建設する民であるのか? 祈祷してみましたか? 死の穴かどうかも分からないで、口を開けて喘いで、騒いでいるのです。どんな網にかかっているか、分かっているのでしょうか? 10. 終わりの日に起こる事 韓国にある四二の教派の中で、四一教派は反キリストです。ですから皆さんは心の時を成すことができる教派、心が安息する所を訪ねなければなりません。神と共に生き共に死ぬ(同生同死)ことができ、共に苦しみ共に楽しむ(同苦同楽)ことができる礼拝堂を訪ねなければなりません。ここにそんな所がなかったら、風呂敷をくるんで行きなさい。止めはしません。みな行けというのです。心の門を開いて’心の時が成る所がここなのだ!アボジに侍ることができる心の環境がここなのだ! ここだけがアボジの心情を中心に一つになれる所だ’とすることができる所を、訪ねなければなりません。 それではこのような時と環境と基準を造っておいて、何をしようというのでしょうか?世界を統一するというのです。終わりの日には、統一が成るのです。我々統一教会が、統一するというのではありません。誰が統一するにしても世界は一つの理念に向かって、一つの時に向かって、一つの環境に向かって行かねばなりません。一人の指導者と一つの環境に向かって行かねばなりません。一人の指導者と、一つにならねばなりません。もしも教派が一つになれる環境ができなければ、一つにすることができる、時の開拓者が出なければなりません。時の開拓者が。 今の時はしっかりと心を引き締めるべき時だと強調する群れが、どこの教派であっても出なければなりません。時に対して強調する群れが。今は数多くの人々が、終わりの日だとしています。ですから今、キリスト教には混乱が起こっているのです。時の証し人が出るのです。環境の証し人が出るのです。’あ、私が一番だ’という指導者たち、代表者たちが出るのです。互いが主であると騒ぐのです。こんな群れが互いにぶつかって、ここに残らなければなりません。既成教会はこのままでは、残ることができません。 新しい歴史は、新しいところから起こって、連結されてゆくのです。今青年たちは、各教派の殻を破らなければなりません。破らなければ神が打つのです。だから自分たち同士で争うのです。争っていないでしょうか? 天が打つのです。時がこのような時になっているのです。’打て! 近い所から打て’争いは神が愛される教派から起こるのです。神が極めて愛する人々から起こるのです。それゆえ既成教会に、争いが起こっていないでしょうか? それだけではありません。どのようになっているかというと、牧師たちと青年たちが争っています。今の時は青年たちが、開放される時です。天地の運勢は青年たちの胸々を動かして、過去の仮面を脱いで、新しい理念世界へと越えるようにさせているのです。ですから教会は堂会(牧師長老からなる最高機関)の教会ではありません。我々の教会です。我々の教会。そんな時が来たのです。そうかそうでないか、見ててみなさい。 教会が一つから二つに分かれ、二つから四つに分かれ、このように三度だけ分かれたら神は離れるのです。天理の原則がそうなのです。それで家庭的に集まるのです。恩恵のある人は家庭的に集まります。教会に行かないのです。家庭で伏して祈祷します。そうなるかならないか、見ててみなさい。教団で叫んでいた、昔の祭司長の立場に立ちやすい時なのです。 そんなふうですから今日我々は、心の門を開き、体の門を開き、生活の門を開き、国家の門を開き、主義の門までも開かなければなりません。この門は私から世界にまで、開かれなければなりません。それゆえ世界に訪ねて来られる主が、個人にまで訪ねて来る因縁を造成する教会が出てこなければなりません。そして皆さんは世界に来る主が、いつでも自分を訪ねて来るように、完全に開放れた道を築いておく群れにならねばなりません。そうすれば皆さんが主に出会うのです。それでは、どのような門まで開くのか? 心情の門まで開かねばなりません。皆さん、心情が何か分かりますか? 主が最も好まれることを共に良しとし、そこに拍子を合わせ、主が求めることに応えてあげることです。こんな心情の門まで、開かねばなりません。 このようなことを考えてみるとき、今天におられる主の心情が、どれほど切ないでしょうか? 地を見つめる主の心情が、どれほどもどかしいでしょうか? この地にそんな人がいますか? 今日キリスト教が第二イスラエルの形態はもっていても、その中に神の祝福と相続権を受けられる選ばれた人がいないのです。韓国の民がどれほど哀れな境地にいても、イエスが手をのべて祝福してくださる群れになるなら、この国家は世界を支配するようになるのです。また神が祝福してくれなくても、どこの国家よりも忠誠をつくせば、天が与えて下さらなかった福も奪ってくるのです。天国は襲うものが奪ってゆく、とあります。アメリカの神様? どこかの先進国の神様? そうではありません。 我々は心血を注いで、今まで人類がしたことのない誠精をつくさねばなりません。これが自分一代で駄目なら二代三代、何代かかっても忠誠をつくす、世界的な忠誠の宗族になると考えなければなりません。こんな人々が多ければその民族は、救援を受けるのです。そうなるでしょうか? そうではないでしょうか? ええ? 11. 過去を振り返らない信仰 今日皆さんは、統一教会の名のもとに集まりました。我々が心情世界を、開放するのです。主義や思想すべてのものを全部、開いておくのです。開いておいて、訪ねてみるのです。訪ねてみれば自分の心がおける所であり、体が安息できる基であり、間違いなく神の息子・娘になることができると考えられる所を発見するなら、首を切られてもそこに行くのです。そこが最後の所です。今日皆さんが統一教会に来て、こんな因縁が骨肉に染みないなら、行きなさい。みな行ってしまえというのです。 このような群れになるために、このような因縁を結ぶために、この時代における謀略や迫害を受けても、叫んでいるのです。この世の人々はここで語る人間が、自分だけがいけないと思っているのです。しかしこの人間は人生行路において、誰よりも多くの苦労をしたのです。もの凄い風にも、もまれてみました。切ない心情で闘ってもみました。これを見てもあれを見ても、このようにせざるを得ないので、この事をしているのです。過ぎゆく言葉の端に笑われ、籠絡の言葉に左右される、そんな遊び事(み旨)ではありません。 皆さん、イエスはすべてのものを残して逝ったのです。今我々はイエスの時を、自分一身で取り入れてあげるのです。イエスの環境を、自分一身の環境において収拾して捧げるのです。さらにはイエスがペテロに、ご自身のすべての権限を相続させたかった、それ以上の祝福を受けることができる息子・娘になるのです。であれは我々によって、天国の門は開くのです。さらには時を迎えられなかったキリスト教が、我々によって時を迎えることができ、神に侍る環境を成すことができなかったキリスト教が、我々によって神に侍る環境を成すのであり、神が宣布できなかったことを、我々によって宣布できるようになるのです。 我々は誠精をつくしてみるのです。誠精をつくして、後ろを振り返えらないのです。イエスはそうでした。三三年の人生を生きて、遠からぬ死を見つめ、ゲッセマネの園で祈祷したイエスは、自分の人生を振り返ってみたいのですが、一度も振り返っては見なかったのです。それでイエスは’わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)’と祈祷されたのです。 イエスは過去を振り返る者を、咎めました。皆さんもある誠精をすべてつくすなら、これを知ってくれないと恨まないでください。私は誰かが知るなら気掛かりです。知るなら心配です。心をつくし、精神をつくし、忠誠をつくしたなら、血を流して倒れる恨があったとしても・・・。知ってくれる人間がいないと、嘆息しないでください。来られる主のまえに、わが忠誠の節義を立てて差し上げるために倒れる群れがあったなら、主は涙を浮かべて立ててくださるのです。 皆さんはイエスをどれほど愛し、イエスが慕い待ち焦がれたその時をどれほど欣慕し、イエスが開拓したその環境を、この時代に開拓してみると、どれほど心を砕いてみましたか? 皆さん、よくよく知らねばなりません。もしも天の祝福を受けたなら、これは自分のものではありません。万民のために祝福してくださったのです。自分に福を与え、自分に祝福をしたことは、すべての民を生かすためであったという心を持たねばなりません。こんな立場で皆さんが心情を開き、心を開いて生活しなければなりません。 イエスを信じるのに、皮膚の色が問題ではありません。東西洋のどの民族、宗族が問題ではありません。血の色が問題でありません。今までの環境的、感情的、観念的な一切を越えて、すべてのことを忘れ、イエスが希望とした愛の心情と、イエスが求めた生活的な感情を持たねばなりません。それでこそ皆さんが、世界的に来られる主に対することができるのです。来られる主は、世界的な主様であるからです。 今や時は近づいているのです。世界的に訪れるこの天地の運勢の時を収拾することができる群れを、天は願っているのです。我々はこの時を収拾する群れになるのです。また我々は、この環境を建設する群れになるのです。そうしてそのまえに忠臣となり、孝子孝女となる群れにならなければなりません。すべてをそのまま捧げる群れになるなら、残して逝かれた主が訪ねて来るとき、そんな人間に背を向けることはないのです。必ず訪ねて来ることに、間違いありません。これをよくよく知ってくれるよう、望みます。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.19
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一つになろうとされるお父様エペソ人への手紙 四章:一節から一六節一九六〇年五月二九日(日)前本部教会 皆さんと共に考えてみる題目は’一つのなろうとされるお父様’です。’一つになろうとされるお父様’、こんな題目でしばらくお話します。 地の上に生きている数多くの人間は、自分みずからを信じ、自分自身の価値を満天下に誇るには不足であることを、皆よく知っているのです。自身を信じられない場において、信じられる他の何かを捜し求めてさまよっているのです。私自身の価値を忘れたまま、他の所に私と因縁を持てる何かがないかと、求めてさまよっている我々なのです。 自分が自分を百%信じることができ、自分の価値を満天下に晴々と誇ることができると同時に、満宇宙を創造された神のまえに行って’あなたが捜しておられる価値が、これであることを知りましたのでお受けください’とすることのできる人間がいたなら、彼は人生の最高の成功者でないはずがないのです。 1. 葛藤を起こしている心と体 今までの歴史上に、偉人や聖賢・賢哲が多く来ては行ったのですが、自分を信じて自分の価値を満天下のまえに公開して、’私のように生きよ’と自分に叫んでゆく人間はいないのです。 我々は善なる目的、より大きな目的に向かって行くことを望みます。自分が楽しんでいる現実の生活環境を無視してでも、心はその所に向かって駆けようとしていることを、皆さんは体恤するのです。また皆さんは、皆さんが留まっているその環境が、永遠なる安息所ではないという事実を、自らの良心の作用を通してよく知るのです。この良心は、留まっているその場が喜ばしい場ではないので、私をして行けと促し、ある目的と価値に至っていない自分自身であることを、暴露させるのです。このような事実を、我々は生活の中で切々と感じなければなりません。 心がある目的地に向かって行けと命令するとき、体が行かなかったなら、彼は善悪の闘いにおいて敗北者であり、天や人間の世において絶たれる者になるのです。反面、この命令に従って行動し、自身の環境を踏み越えて行く者は、歴史上において何かを貢献することのできる人であり、全体を摂理される天のまえに、何かを残してゆく人間であることに間違いありません。 行けと促すこの心は、時間がたっても変わることを知らず、環境が変わっても変わることを知らないのです。しかし安息の基台を得て満天下のまえに、あなたは安息の王者であると誇ることができますか、と誰かが問うてみるとき、誰もがそうではないと答え、嘆息する他はないというのです。 それではこれが、天を動機として創られた人間の運命なのでしょうか? 違います。ですから我々人類は、より高い良心の追求に従ってゆくために、時代と世紀を経て、闘いの歴史路程をたどって来たのです。しかしこれを解決することができないまま、今も目的の世界に向かって行っているのです。 皆さんが一日の仕事を終えて家に帰って、一日の日課を反省する時に、心から満足して微笑み’天よ、地よ、万民よ、私のこの喜ばしい心情を手本にしてください’とするでしょうか? 本来、我々の心はこんな場にあることを望んでいるのですが、今日我々がそんな場にはいないので、これが嘆きであり、不幸であり、恨みであるのです。心は自己の生命と全体的な問題を解決することを待ち焦がれているのに、内的なある内容の条件も解決できない体をそれでも率い、生の運命を経てゆく悲しくも哀れな、人間の姿なのです。 我々の体と心がこんな立場ですから、ある大きな目的に向かって行けと、催促と刺激を受けるたびに、体はここに抗うのです。このように抵抗するその何かに対して、対決する自己の立場を明らかにし、この問題を解決してゆくべきであるのですが、人生のすべての問題は解決不可能、という結論を下す他はないのです。 2. 堕落人間と修道の道 これらのすべてが、どうしてこのようになったのでしょうか? 人間が自ら善によって出発したのではなく、善なる目的に向かって行く過程で、悪を動機として始まったので、この悪をはね退けてゆかなければならないのです。このような道を行くのが我々人間なのです。我々はこんな道を造っておいた、堕落した祖先の血肉を受けて生まれた後孫であることを、よくよく知らねばなりません。 どんなに優れていると、満天下に自己の栄光を誇る人間であったとしても、やはり堕落の血統を受け継ぐ後孫であり、嘆息の他はない宗族であることに間違いないのです。こんな自分ゆえにこれ以上恥ずかしいことはなく、これ以上に体面が立たないことがないのです。しかしこんな自分であることを切実に感じ、自分自身を無慈悲に打つとき、ここから新しい心情革命が芽生えるのです。天はこのような者を求めているのです。 もしも本来から人間がそんな自体であったなら、人間にとって無頓着な神とは見えなかったのです。本来からこんな自体になっていたら、歴史路程において多くの生命が血を流して行けば、善の目的を追求してゆく善なる神であることを、明らかに見るのです。しかし、そうではなかったのです。 我々は嘆息圏内に入っていても、善を指向する動機を持っているのです。大宇宙を創造した絶対者がいるなら、この絶対者は我々が寝ていても覚めても、食べても休んでも、いかなる瞬間も休むことなく、我々の心と良心を通して、その所に向かって行くよう促しているという事実を、知らねばなりません。ですから良心的なものは、価値があるということです。自身の環境がどんなに満足だとしても、心に何かわだかまりがあり、悲しみが染みることを感じる瞬間は、本然の動きが催促している瞬間であることを忘れてはなりません。このようなことを感じて自分自身の解決のために喘ぎ、喘いで求めてゆくのが、宗教の道なのです。 宗教の道を行く人々は、その時代の先頭に立つ人々ではありません。ある思潮の流行に未練を感じる人々ではありません。ある思潮を革命するために、その先端に立つ勇者でもありません。その人々は時代の流れに後れ、時代が流れてゆく方向を拒否して、背を向ける人々に間違いないのです。ですから今まで、宗教人は社会と離れ、政治と離れ、生活理念から離れよと勧めてきた理由が、ここにあるのです。勇断を下してこの社会環境や生活環境を離れた人々、またここに心情的な相反する思いと悲哀を感じ、これを否定して背を向けて行く人々が、修道の道を行く人々なのです。 それでは道の人とは、いかなる者か。豪華絢爛たる栄光の場に留まっていたとしても、その場において涙を流すことのできる者です。道を知る者の心情とは、いかなるものか?どんなに大きな権勢を持って、天下を動かすことのできる環境にあったとしても、その深い心情において、人知れぬ涙を流すことのできる心情です。どんな社会や団体を問わず、そんな心情を持っていない人は、真の道人や宗教人とはいえないのです。 神を信じて主に従う信徒であるなら、自分がどんな栄光の座にあったとしても、その場を最高の満足と安息の基台として喜びを感じるのではなく、その場を経ていって人知れぬ涙を流すのでなければなりません。そんな者でなければ、修道の道を行く人間とはいえないのです。 ところがこんな道を行くべき人々が行かずに、宗教が押され追われてきたのです。これはなぜ、そうなのでしょうか? 罪悪の場を離れ、本然の場に帰らなければならない運命におかれている人間であり、正しく行かず、反対に帰ってこなければならない運命におかれている人間ですからそうなのです。それではなぜ、帰らなければならない運命におかれているのか? 堕落したからです。堕落によって転がり落ちた世の中になったので、反対に捜し求めて、上がってこなければならないのです。 歴史を尊重する民族は、自国の国民性を保つことができるのです。歴史的な心情を基準として団結する民族は、それ以上の心情を持つ主義でなければ、何をもってしても屈伏させることができません。歴史を尊び、節義を守ってきた聖人・賢哲、あるいは忠臣たちがいたとして、それ以上の心情を持つ者でなければ、彼らを屈伏させることはできないのです。ですから時代が妨げるなら、その妨げるものを断ち切った後でこそ、他のある基準に接ぎ木されるようになるのです。これは我々が社会発展過程において、常に見ることなのです。 3. 誰も侵犯できない良心の領域 それでは今から我々は、何をしなければならないのか? 歴代の忠臣の基準を越え、孝子孝女の基準を越えなければなりません。またこれを越えても行く目的があるのです。現在とかけ離れた環境を提示するとしても、これは今この世界において、未来の世界へと我々を引き渡すためのものなのです。これが神のプログラムです。忠臣の中の忠臣であり、孝子の中の孝子を造るためなのです。たとえ地の上において捨てられ、排斥されたとしても、彼らが主管し、彼らが享受することができる一時が来たならば、それがキリスト教でいう、主が地上に再び来て建設される地上天国なのです。 世の中には家庭のための忠誠をつくす人、社会のたまに忠誠をつくす人、国家のために忠誠をつくす人もいます。国家のために忠誠をつくす人は、国家理念を後代に残すにおいて、一つの伝統の条件を立てることができるのです。しかしこの地とこの世界のすべてのものはどうせ一度、審判台に立たなければなりません。これを越えるために、一民族のための忠臣ではなく、一父母のための孝子ではなく、満天下の王の中の王であり、主人の中の主人であり、万有の父である神のまえに忠臣となり、孝子となれと宗教では教えているのです。これが宗教の道理です。 それではどうして神は信じる人々に向かって、この世の中を捨てよされるのか? この世の中はどうせ過ぎ去ってしまう世の中だからです。永遠のものではないので、捨てなさいというのです。未来にわたって永遠に愛する心情を持っておられる神であるがゆえに、たとえその時代には捨てられても、未来には孝子であり忠臣として、その価値を高く賞賛される群れが、キリスト教的に見れば山羊と羊の中で、羊に相当する群れなのです。だから我々は世の中の基準を越えなければなりません。この理念に向かって忠誠をつくし、この理念に向かって駆け行く者たちが、道を信じる人々なのです。ですから道人たちはこれから、こんな世界に駆けて行くにおいて、先鋒者にならねばなりません。でなれば彼らは滅びるのです。滅びです。どんなに何がどうだこうだといっても、滅びるのです。今日の世界は、このような運命におかれているのです。 皆さん自身は個々人として出発したのですが、全体の世界を抱えて、この個人と世界が連結されて、初めであり終わりであるとする世界が来なければなりません。即ち皆さんの本当の良心が成ることを願うのに対して、この世界が’果たしてその通りだ’とする場まで行かなければならないのです。 力は目的に向かって動いてゆくのです。自然界を見ても、目的もなく動いている存在物はありません。極めて小さな科学作用にしても、目的のために動いているのです。ところで誰も侵犯することのできない良心の力が、目的なしに動いているかというと、そんなことはないのです。良心にも必ず目的があるのです。 わが心の良心の主人公と共に愉むことができ、安息することができ、踊りをおどることができる栄光なる環境、これが人間が捜し求める天国です。天国がある地域に別にあるのではありません。このようにならない人間は、天国ができても逃げ出すのです。そうなるのです。 神は六千年という永い歳月、離れていった人間たちを抱えて来られたのです。人間のようなものはすでに千万べん殺しても余りあるのです。殺すだけでなくガソリンをかけて、痕かたもなしに燃やしてしまうのです。しかし神はこのような人間を捜し求めて来られたのです。その求めてきた目的が、何でしょうか? 罪人である人間と、一つになることです。極めて善なる立場で、極めて悪なる者に対して’心情で、心で、体で、環境で、理念で一つになってあげたい’というのが神の心情なのです。皆さんは神の心情がどうであるかを、知らねばなりません。考えて見てください。万物をさっと創っておいて、むやみに罰だけ与えて審判だけする神であるなら、必要ありません。そんな神様ではないというのです。 ですから皆さんは、ここから解決していかなければなりません。自分が信じる神は、どのような神であるのか? 罪に対して審判だけする神ではなく、審判する前に、懇切なる心情を持つお方です。もしもそうではない立場で神が審判するなら、抗議するというのです。罪だけを審判する神であるなら、抗議するのです。しかし、抗議はできないのです。なぜ? 神様は人間の罪を千万べん越えて、越えることのできる心情をもって審判されるがゆえに、人間は審判を受けても抗議はできないのです。神は皆さんが観念的に知っている、そんなお方ではありません。 4. 神を新たに認識しなければならない時 今まで我々は神を求めるのに、儀式の神を求めていたのです。み言の神を求めていたのです。関係の神を求めていたのです。しかし、動機の神は知らなかったのです。聖書のみ言を見ても、堕落以後に生まれた関係の神は知っているのです。神様が我々の先祖たちにどのように対され、堕落した後孫がどのように対したかは、知っているのです。しかし、堕落することを防がなかった神の事情は知らないのです。神様が堕落したアダムとエバを追われる他はなかった動機は知らないのです。動機を知らないので、解決する法がありません。世の中の事もそうです。ある問題があるとき、その動機から知って解決すれば、後患がないのです。 我々が聖書六六巻にみな通じても、聖書の中に潜んでいる動機の神と、過程の神と、結果の神を知らなければ役に立たないのです。過程の神は歴史路程に現れているので知ることができるのです。四千年の間、千辛万苦してイスラエル民族を率いて、メシアの足場を立てるのにどんなに苦心されたでしょうか? これはあえて推し量ることができます。しかし我々が過程の神を知るにしても、はっきりとは知ることができません。動機を知らずに、分かったとはいえないのです。 それでは結果の神は、どのようなものでしょうか? どのように審判されるのか? 皆さんが今、神の心情がどうだかも知らないで喜んでいるのですか? 駄目です。動機のない結果は、あり得ないのです。すべてのことは動機を経て、過程を経て、結果が出るのです。これが自然科学の現象です。人間がこのように造ったのではありませんか。天理原則がこのようになっており、神の法度がこのようになているという話です。突然変異ということはないのです。ないというのです。秩序的なのです。動機を中心にして原理原則的な過程を経て、実体的な目的体が形成される世界が、創造理念世界です。 皆さん、成功する人々が心にかたい覚悟なしに成功できますか? 心の動機を中心にして、環境を開拓して、変わることなくこれを信じて行くなら、目的地に到達するのです。我々一個人が成功するにもそうであるのに、大天地を創造なさる神が目的を成すのに、このようにされないでしょうか? やはり同じだというのです。 皆さんは歴史的な神ではなく、創造的な神を訪ねてみましたか? この時代に皆さんが信じる神ではなく、創造の動機を持たれた神、審判を受けるべき世界をおいて摂理する神ではなく、審判した後ですべての人類を抱いて、栄光の中で万民と共に喜びと幸福のうちに生きる神を知ってみましたか? 知らなかったのです。一人の人間が成功するときにおいても、過去と現在と未来を離れてはないのです。過去も天理原則とその源泉が同じであってこそ、これが歴史的な伝統として立つのであり、またその人の業績を歴史と共に未来にまでも誇れるのであって、その動機において脱線するときは、いつかは審判を受けるのです。ですから今日、我々が知るべきことが何でしょう。動機の神なのです。 それではこの動機の神を、どのように知るべきか。堕落した立場に留まっている我々に神はどう対して来られたのか。神は歴史過程において、堕落している我々を、動機の心情によって対され、未来の心情をもって対してくださるのです。地の上に生きる人間たちは神を知らないので、神は人間たちを捨てられなかったのです。六千年が過ぎる今まで、人間たちは神を知らないでいるので、神は創造当時から人間を、息子・娘として対されたのです。このような心で天理法度を立てたので、この被造世界をぶち壊すことができないのです。壊れたものを再びくっ付け合わせるのが、救援摂理です。穴があいて壊れたものを継ぎ合わせるという話です。継ぎ合わせるときは、動機から過程を経て、目的としたその完結体として因縁を結び、継ぎ合わせなければなりません。それまでは全宇宙被造万象のまえに、完成品として出すことができません。道理がそうではありませんか? 我々は再認識しなければなりません。再覚醒しなければなりません。さらには青年たちはしっかりとした決心をしなければなりません。歴史路程において我々は闘って、勝利しなればなりません。宗教の道を行く皆さんは、何かに利用されているな、と感じてみたことがありますか? ここで叫んでいる人間は、切実に感じてみたのです。自分が今、神に利用されているか? 人間に利用されているか? 教派に利用されているか? 歴史のまえに利用されているか? 立てられたある神学体系に利用されているか? どちらでしょうか? 解明しなければなりません。これを解明した冊子を私は見たことがありません。これを解明するために泣き叫ぶ学者にも、出会ったことがありません。 この民族はこの世的には、世界のまえに押し出すことができる希望の条件が一つもない惨めで哀れな民族です。私が願うことは、世界が目覚めずに眠っているこの時に、我々の民族が再覚醒するということです。我々は歴史を再鑑定し、時代を再鑑定し、信仰を再鑑定して、神を捜し求めて行かなければなりません。 人間や何かの機関や、教派に利用される人間は滅んでゆくのですが、神に利用される人間は滅びないのです。何の話か、分かりますか? 人間世界のある欲望をかけたものに利用されるなら滅びるのですが、世の中で追われ、地において排斥されても、天に利用されるなら、滅びるようでも滅びることはないのです。志のある青年たちであるなら、どちらを取るか冷静に考えなければなりません。それゆえいつかの時には、自分の父母、兄弟も批判してみなければなりません。その実であるからです。何の話か、分かりますか? 5. 人間の堕落によって不自由になった神 イエス様以後に動いておられる神を知ることは簡単です。イエス様は四千年の神の心情を通して来られたのです。皆さん、これを知らなければなりません。イエスを送るとき、イエスと共に来られた神、イエスは逝ってもイエスの十字架と共におられた神、人間はイエスを十字架につけて殺したとしても、その人間を捨てたまわず後孫までも抱えて来られた神を、皆さんは考えてみましたか? これを解明することができる何かを得なければ、皆さんは新婦になる夢も見るなというのです。 我々はみ言のイエスを知りました。ここで語る人間の話も、無条件に信じなさいというのではありません。道理に合っていて、心に革新的で劇的な何かが触れ、今の自分をぶち壊して新しい何かを建設させる可能性があるなら、これを掴んで信じるというのです。イエスを信じる人は、こんな境地を通過しなければなりません。 皆さん、我々は背負っている人間です。神は堕落した人間を抱えて、無限なる努力をされたのです。皆さんが想像することもできない、無限なる努力をされたのです。これに報いるには、二七億人類をいっぺんに祭物に捧げてもお返しできないのです。心情に釘を打たれても苦労される神であることを、知らねばなりません。神は無知な人間たちに対して摂理されるにおいて、動機と過程と目的をもって対されたのです。対されるときは、十字路の交通巡査のように’こっちに行け、あっちに行け’というやり方ではないのです。 聖書の中には、神が義人に対して命令される内容のみ言がありますが、神はそのことの何千倍の過程を経ていって、命令されたのです。私はこのようなことを知って、とても聖書を見ることができないことがありました。涙が先にたって見ることができないのです。人間に対してこのようにせよ、とされるとき平安な場で、このようにせよとされたのではありません。神におかれてはその場を何百ぺんも通過して、そのみ言をされたのです。一度ぐらいやってみて、やれというのではありません。何百ぺん何千ベんやってみて、やりなさいとされたのです。サタンとの闘いに勝つならこれこれのことを保障するという基準を立てておいて、初めて神は我々人間に対して、やれと言われるのです。こんな神様なのです。 聖書で死ねとされることも、神が死の苦喪を経た後にこそ、言われたことなのです。このように語ることができる主人公になったゆえに、そうされるのです。そうではない立場で、万人が苦痛の中にあるときも、栄光の宝座に座って号令する神であるなら、サタンが讒訴するのです。サタンが讒訴しないということは、神の心情的な悲しみが、サタン世界のあらゆるものより大きいからです。永遠の天理原則と、永遠の心情をもっておられるので、サタンが讒訴できないのです。原理は壊すことができません。不可侵なのです。神は原理的な心情によって、堕落した今日まで抱いて来られたのです。分かりますか? 神は誰の神でしょうか? また堕落した宗族は誰でしょうか? その神は堕落の宗族のアボジなのです。万有のアボジとされたのです。この父は、恨を持つアボジです。神は罪を犯して監獄に引かれてゆく、息子の後について行く父になったのです。自由なる神として知っていたのですが、その心にはどうにもならない手錠が掛けられているのです。永い歳月を一日のように、息子の死と、息子の疼きを案じる心でついて来られた神であることを、皆さんは知らねばなりません。 ’恨み多いことです。どうしてあなたは堕落した祖先の父になったのですか。あなたがお気の毒です’と祈祷しなければなりません。子供である心が爆発してわき起こって訴える息子・娘がいたなら、神は彼を抱いて慟哭されるのです。神は喜びの中で我々に会うとされるのではありません。鉄窓に閉じ込められ、引き裂かれ折られたアボジを抱いて’アボジ、どんなに苦労されましたか。あなたが私のアボジであることが恨みです’と慟哭する息子・娘を求めてさまようのです。こんなお方が、神様なのです。 すべての人は勝手にゆき、時代は流れても、父なる神が子に対する一片丹心は、誰も侵犯することができません。事態が複雑で、環境が複雑であるほど、神はより心配されるのです。六千年前には、我々の先祖個人に対して切ながられたのですが、世界人類が死亡の沼で喘いでいるこの時において、最も凄まじい心情で切なく思う神であることを、知らねばなりません。ですから皆さんは、どうしようもない罪人なのです。不孝きわまりない者どもです。 6. 救援摂理をして来られた神の心情 一国の君王に反対すれば逆族であり、父母に反対すれば不孝者とされるのに、万主の主であり、全天宙のアボジに対して、我々は幾たび逆族となったことか! 幾たび不孝者となったことか! 各自一度、考えてごらんなさい。ですから修道の道を行けば行くほど、服を脱いで打ち、それでも不足なら刃で体を裂き、首を絞首台にのせても不足としなければなりません。これが神に対して負う、息子の持つべき心情なのです。 イエスがそうでした。他の人を手本にすることはありません。イエスは万人のまえに現れるときは堂々とした姿でしたが、独りあるときは歴史的な深い涙を流したお方でした。悲しい涙を流した主人公でした。涙を流すときも王者でした。聖書にはこんな内容は現れていないのです。彼の心を誰が知るでしょうか? 知る人はなかったのです。私が今日、統一教会の信徒たちに願うことは聖書に現れたイエスではなく、三位神と呼ばれる神ではなく、それ以前の動機の神を知れということです。であればイエスが分かるのです。 イエスは自ら、喜ばしい場を避けたのです。自ら自分の家を捨てて出たのです。このようにすることが、良いからではありません。アボジに対して泣きたくても泣くことができない環境であり、アボジを知ってあげたくても知ってあげることができない環境であったので、そうする他なかったのです。イスラエル民族が嫌で、イエスが寂しい山の中で祈祷したと思いますか? 違うのです。イエスはイスラエル民族を抱え、神の心情を吐露し、共に泣きたい心情に染みていたのです。ところが分かってくれる者がいなかったのです。 皆さんが先祖の血肉を受け継いだとして、この細胞の一つにも恥ずべき罪状がかかっているのです。今日自分が何か、ああだこうだとしても、そうはできないのです。行けば行くほど涙を流さなければならず、アボジのまえに顔もあげることができない、歴史的な罪人なのです。 神は心情をもって私たちを捜し求めて来られたのです。心情で求めてきたのです。皆さん、わたしはあなたの父であり、あなたはわたしの息子に間違いないという心情で、求めて来られたのです。その次に、事情をもって求めて来られたのです。罪人たる者を救わなければならないという事情をもって、求めて来られたのです。その次には、希望をもて求めて来られたのです。これがいわゆる、信仰、希望、愛というものです。 聖書を見ると、聖霊の九つの実がのっています。愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠誠、柔和、自制、この九つの実の骨子が何であるか? 愛と寛容と忠誠です。 神の摂理をすべて探って見れば、み旨によって人間を捜し求めて来られたことを知るのです。何のみ旨? 罪人を救い、息子を造り、その息子に天と地をすべて与えるというみ旨です。こんな希望を持って求めておられるのです。アダムとエバを創り、神様は万物を主管せよと祝福されたのです。ところが主管してみましたか? 堕落することによって、主管してみなかったのです。それで神様は、人間を再びその場に立たせようとされるのです。こんな希望を持って求め、こんな心情を持って捜して来られたのです。 人間が罪を犯したとして’や、こいつ、なぜ罪を犯したのか’とのみされる神ではありません。罪を犯す事情をよく知る神であるのです。ご自身の事情を考えもせず、人間の事情を知ろうとされる神なのです。悲しむ者には悲しい事情をもって訪ねて来られ、苦しむ者には苦しみの事情をもって訪ねて来られ、悔しく痛憤する者には悔しく痛憤する事情をもって訪ねて来られるのです。皆さんは神と、どの程度に事情を通じてみましたか? 神は我々の生活環境の中にも、このように訪ねて来られるのです。それだけでなく、心情をもって訪ねて来られるのです。わたしに背反しても、わたしはあなたの父という心で、六千年という永い歳月を求めて来たのです。 それでは神の最後の目的が何でしょうか? あなたがわたし、わたしがあなたになることです。イエス様も語られるに’その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがわたしにおり、また、わたしがあなたにおることが、わかるであろう(ヨハネ一四:二〇)’とされました。目的は一つになることです。何によって一つになるのか? 心情によって一つになり、心情と希望によって一つになることです。そのために神は求めておられるのです。 7. 神の最後の目的 ところで地の上には現在、三〇億に近い数多くの人間が暮らしていますが、神の事情を知る人間が一人もいないのです。皆さんは神のみ旨が何か、知っていますか? 神の希望が何か、知っている? 信じて天国に行くことが希望ですか? とんでもない考えです。ここで叫んでいる人間は、そんな神は信じません。罪悪に腐った体を天国に送る、そんな神を信じるの? それなら矛盾した神です。罪を犯した人間を許して天国に送るの? そんな天理原則が、どこにあるかというのです。今まで、天国に行った人間はいません。みな楽園の他には、行っていないのです。 一つとなった者と幸福に生き、一つとなった者と共に永遠無窮に天上天下を動かすことが神の考えです。それゆえ神は一つとなる者を求めておられるのです。どんなに説教をうまくやり、何をどうやったとしても、神と一つになっていなければ、すべてが偽りです。偽り。事実の通りに行う人たちが、偽ものよりも劣って見えるときが多いのです。俳優たちをごらんなさい。全部偽ものです。全部にせですが、事実よりもうまくやってのけるのです。問題はここにあるのです。 聖書が必要なのではありません。そのお方の事情と自分の事情が一つになって、そのお方の心が向かうところに自分の心も向かい、そのお方の抱く心情を自分が抱くことができなければなりません。神はそんな人間を求めているのです。一つになる人間を求めているのです。ですから歴史上の闘いは、人間同士が一つになるための闘いではなく、神が人間と一つになるための闘いなのです。歴史路程において、数多くの悲惨な決闘劇が演じられましたが、これは人間が神を求めるための闘いではなく、神が人間を求めるための闘いであることを、よくよく知らねばなりません。 これから神様が、公義の審判主として現れるとき、神はどのようになさるのか。’わたしはあなたのための心情をつくしたが、あなたはわたしのために、どれほどの心情をつくしたか。わたしはあなたの事情をみな知ってあげたが、あなたはわたしの事情をどれほど知っているか。わたしはあなたのために死ねよ生きよとしたが、あなたはわたしのみ旨をどれほど考えたか?’とされるのです。これによって問題を解決しようとされるのです。聖書のみ言に、これこれの肉を食べるなとありますが、一片を食べたから地獄に行くというのではないのです。心情の世界は法度を超越しているのです。 我々が公義の審判台の前に立てばサタンが讒訴します。法廷に一度行って見なさい。この世の法廷にも判事がおり、検事がおり、弁護士がおり、囚人がいます。公義の審判台もこれと同じ様子なのです。検事のようなサタンが皆さんを讒訴するのです。イエス様は皆さんの弁護士です。皆さんが過去にどんな事をしても、これを弁明してくださるために汗を流すのです。しかしもともと六千年の罪悪史をもつ人間ですから、弁明しようにも弁明のしようがないのです。たやすくできることではありません。恥ずべき罪状があまりに大きいのです。 サタンに引かれる条件のみなのに、これをどうするのでしょうか? これを精算してくれる一人の人が現れることを、アボジは待ち焦がれておられるのです。主はあの世に行って、これをおいて祈祷されているのです。これしきの地上で、幾らかが倒れるのを心配することではありません。天倫の大道を立てることを案じておられる主であるのです。皆さん一人ぐらい地獄に行っても、神が滅びる? 違います。救援は個人のことであり、天倫の大道は万人のことですから、一人の人間を犠牲にする恨があったとしても、大道は立てなければなりません。それでイエス様は、祈祷されておられるのです。 皆さん、聖書を見るとき、あるいは祈祷するときはどのようにしますか。神のみ旨が何であり、神の事情が何であり、神の心情がどうであるかを知って、神が最も悲しかった一つを掴んで一生の間、泣いてみるのです。そうすれば天国に行きます。他の何かをどうだこうだという必要はありません。神が最も悔しいことが、何でしょうか? 最も悲しいことが、何でしょうか? 最も喜ばしいことが、何でしょうか? 聖書を見ても喜ばしいことはありません。悲しみだけです。排斥され、追われたので、嬉しい時があったでしょうか。アボジの日の中で、最も悲しかったことが何でしょうか。問題はここにあります。これを解決すればいいのです。親友も相手方の悲しみを知って、心情が通じてこそ、本当の親友です。孝子も誰でもみなやれる立場であっては、孝子とは言えません。忠臣も同じです。これを知らねばなりません。神の六千年の歩みの骨子が何かを知らねばなりません。 8. 父の栄光をもって来られる再臨主 神は心情と事情と希望を抱いて、人間に対して勧告されるのです。神が我々の心情を百%知り、事情を百%知り、希望を百%知っておられるのですが、語ることはないのです。これが神の事情なのです。なぜ、語ることがないのでしょうか? これを話してしまったら、サタンが先に知ってしまうからです。 ある金持ちが、まだ未熟で幼い何にも知らない世間知らずの息子に’何の宝物はここにあり、何の宝物はそこにある’として、主人に背く僕や怨讐がいるところで相続させたなら、彼らは息子が持つままに、そっとしておくでしょうか? サタンがそんな立場です。神がすべて語ったなら、神の息子・娘がする前に、サタンがまず知ってみなやってしまうのです。 なぜそうなのか? 神は堕落した世の中と離れているのです。この地は誰が支配しているのか。サタンが支配しているのです。空中の権勢を握るサタンが、地まで支配しているのです。それでこの地の上には、怨讐がいっぱいです。神が息子・娘に命令することを、息子・娘がやる前に怨讐たちが知ってまずやった後で、これをもって要求するなら聞かなければならないのです。公義の法度を持っているので、仕方がないのです。怨讐であったとしても、これがやれという命令に符合しているなら、認めなければなりません。 ですから聖書は、秘事となっているのです。秘密です。悔しくも憤ろしいことです。聖書の難問題を抱えて’お父様、どうしてこのようになったのですか’と祈祷をするとき、ここで語る人間はこんなことを感じたのです。’お父様、あなたはどうして、万民を救わなければならないお父様になったのですか’と訴えたら、神は’おまえの事情よりも、もっと痛ましいわたしの事情があるからだ’というのです。 このようなことを知るとき、皆さんは厚かましいのです。信じるだけで天国に行くのですか? 厚かましいです。皆さんは一つになろうとされる神に侍ったことがありますか?アボジと一つになるために、闘ったことがありますか? 一度もないのです。一度もないなら、皆さんは反論することができません。しかし天は我々と一つになるために、どれほど苦労されたでしょうか? 皆さんはこれを知らねばなりません。 見てみなさい。神はイスラエル民族に、み旨で一つになれと勧告されたのです。であれば四千年の間準備したあなたたちイスラエル民族は、世界を支配するという希望を与えたのです。アブラハムを祝福して’あなたの後孫は天の星のように、海辺の砂のように生みふえて、地に満るであろう’とされたのです。希望をもって求めて来られたのです。 その次にイエス時代には、事情をもって訪ねて来られたのです。旧約時代には国がないイスラエル民族のまえに世界の中心、即ち祭司長王国がなるという希望を与えたのです。希望をもって行く息子・娘に、神はまた事情をもって訪ねて来られたのです。事情は誰が持って来たのか? イエスが持って来たのです。皆さんの事情を弁護するために来られたのです。事情を弁護することが終わったら、何をするのか? 心情を糾合するのです。そのために、再臨主が来るのです。その標準は愛です。最もお終いは、愛なのです。 それでは我々自身はどんな立場にいるのか? 心情と事情と希望、このすべてのものを知る場にいるのか? 知らない場にいるのです。白紙です。何にも知りません。何にも知らないもののために、このように苦労される神様なのです。この神を我々は今まで、知らなかったのです。しかし神は心情をもって一から世界まで、全歴史を率いてついには、父として全体を愛することができる時のために、心を砕いておられるのです。 旧約時代は僕を送って希望を抱かせ、新約時代は息子を送って事情が通じるようにされたのです。これから再び来る主は、アボジの心情を持って来られるのです。アボジの栄光によって来るというのです。アボジの栄光によって来て、心情の基準を立てる時が終わりの日です。心情の条件を地上と天上にまで立て、次にはこれを満宇宙のまえに公布しなければなりません。あなたはわたしの永遠不変の息子・娘であるという、式をするのです。これが子羊の宴です。 皆さん、終わりの日にはどのようにしなければならないか? キリスト教では希望を抱いて、忍耐せよというのです。耐えられなければ天上の大道を壊してしまうので、耐えよというのです。イエスやステパン、あるいは十二使徒をごらんなさい。裂かれていろんな目にあったのですが、耐えたのです。希望の一日を望みとして耐えたのです。その人々が我々の先祖です。希望を持って耐えよ。明日をおいて耐えよ。事情を知るなら忠誠をつくせ。あなたのために主はこのように死なれたので、死ぬほど忠誠をつくせ。これがキリスト教精神です。忠誠が何でしょうか? 忠の字は中心の心です。中に心であり、誠の字は言葉を成すという意味です。天のまえには弁明ということはありません。死ねといえば死ななければなりません。綿を背負って火に入れといえば、入らなければなりません。 9. 混沌とした世の中を愛で収拾される神 ’愛せよ、忠誠であれ、懇切であれ’とされるのです。これは神の心情と愛と希望を連結させるためです。しかし我々には未だに、希望の時が来ていないのです。わが心情の君が来ていないのです。私の事情を知ってくれる者が来ていないのです。その時代が、そのお方が来ていないので、来るその時までイエスと聖霊は涙ながらに’お父様、耐える息子・娘を哀れにおぼしめしください、忠誠をつくす息子・娘を覚えてください。心情を注いで思慕する息子・娘を覚えてください’と祈祷しておられるのです。この因縁を歴史的に収拾するときまで、心情の荷を背負っておられるイエスと聖霊なのです。 こうして世界的な時が来れば、一つになるための役事をなさるのです。アブラハムからヤコブの家庭、モ-セの民族、イエスの世界、全天宙まで一つにするための役事をなさるのです。この被造世界を一つにするために求めておられる神ゆえに、歴史も一つの世界に向かって流れていることを、皆さんは知らねばなりません。 こんな歴史的な見地から今日、異口同音に終わりの日であると言うのです。もしも誤れば、今にも滅亡する危機に瀕しているのです。しかし、天があるのです。判決は善と悪、最後の二つが互いに衝突して起こるのです。これが歴史的な闘いです。ごらんなさい。歴史を明らかにして見れば、神様はアダムとエバが堕落した後、カインとアベルを立て、堕落したアダムとエバの家庭を収拾しようとされたのです。 収拾するときは、どのようにするのか? 神が愛する人間を愛しなさいというのです。愛を通した心情、愛を通した事情、愛を通した因縁ということです。即ち、心情を通した愛であり、心情を通した事情であり、心情を通した理念です。このような心でアダムとエバの代身、カインとアベルを求めたのでした。カインがアベルを愛するということです。接ぎ木です。ここから接ぎ木ということが起こるのです。ここで一つに帰結しなければならなかったのですが、カインがアベルを石で打ち殺したのです。戦争の歴史はここに始まったのです。 10. 中心人物たちを通した摂理歴史 ですから今までの歴史は、善なる人々が悪なる人々に殺される歴史だったのです。普遍的にも二人の人間が互いに偉いと主張するとき、まず主張する人間が悪い人間です。八〇%はそうです。善が先に悪を打つ法はありません。韓国の歴史を見ても、奸臣が忠臣を打っても、忠臣が奸臣を打つことはないのです。 このような闘いは、どこから起こってきたのか? アダム家庭から起こったのです。カインが神の愛を受けるには、神が愛するアベルに接ぎ木しなければなりません。絶対服従せよということです。であれば神に背反したサタンを、屈伏させることができるのです。人間に全宇宙を主管せよと祝福されたのですが、人間が堕落して血筋に二つの因縁が生じたので、この法度に従って世界は二つの方向に起こってゆくのです。 こうして神が愛することができる個人を捜し立てたのが、アブラハムです。アベルを立てたら良かったのですがアベルが殺されたので、この代を受け継いで神が愛することができる完全な実体として一人の人を捜し立てたのが、心情と事情と希望を代身する信仰の祖アブラハムであったのです。万天下の人類は神が最も愛するアブラハムに、すべて服従するということが神の摂理なのです。神が愛する人の前に屈伏すれば救いを受けるのであって、でなければ地獄に行くというのです。それでアブラハムを立てて、アブラハムの家庭からアブラハムと一つになれというのです。一つにならなければ怨讐です。アブラハムが割礼を受けて神の息子になったのであって、受けない人間は全部が怨讐です。 モ-セ時代には、モ-セの言葉に絶対服従しなければなりません。優れても劣っても、モ-セにすべてが服従しなければなりません。接ぎ木するには心情が同じでなければならず、事情が同じであり、本質的な所望が同じでなければなりません。モ-セが死ねといえば死ぬという心、生きるなら生きるという心、何をやれと言えばやるという心、またはこんな心情をもって、事情を経て、所望の土台まで伸びて行ったなら、滅びることはなかったのです。ところがモ-セに反旗を掲げたイスラエル民族は、どうなったでしょうか? 四千年の間苦労して選んだイスラエル民族のまえに、イエスが来たのです。イエスは国家と民族を神のまえに、心情によって接ぎ木しようと来たのです。イスラエル民族を所望的な基準まで接ぎ木しておいたので、心情を通していって神の心情おく深く接ぎ木しようとしたのです。ところが事情も通じることなしに逝かれたのです。 人間は堕落して他の血を受けたので、偽オリブの木です。それでイエス様の骨髄のように応じて和し、あなたはわたしの血肉であるとされる、直系に因縁を結ぶ一人の息子が出てこなければなりません。であれば息子を立ててすべての人類は、この息子のまえに無条件に服従しなければなりません。真のオリブの木に接ぎ木されたなら、偽オリブの木は切り捨てなければなりません。 完全な木になるには、三つ以上のものがなければなりません。こんな立場のイエス様を中心とする三弟子、その中で誰かが劣っていて、彼らにみ言を語られなかったのですか?違います。時を見て心情の深い、天の悲劇を話そうとされたのですが、彼らがそこまでになっていないので話さなかったのです。それで’わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今それに堪えられない(ヨハネ一六:一二)’と言われたのです。気の毒なイエス様です。神の生命、神の愛、神の全体理念を三弟子を通して現そうとされたのに、彼らが堪えられなかったのです。 ですからイスラエル民族は、主権のない民族になってしまったのです。これはイエス様を捕らえて殺した罪によるものです。もしもイスラエル民族がイエス様を万王の王として侍り、絶対従順であったなら、世界はきっと神が征服したのです。モ-セの後継者がカナン七族を打って降伏させたように、征服したのです。問題ないというのです。そのようになったら二千年間、選んだイスラエル民族が、イエスを信じる後代のキリスト教徒が、虐殺されたでしょうか? とんでもないことです。イエスを殺したので、報いを受けなければならないのです。自分の先祖の罪が、三、四代にまで及ぶというのですから、みな報いを受けなければなりません。これを四千年以内に蕩減しなければなりません。モ-セもエジプトで四代目に出たのです。すべての事は、天地の法度を中心に動いて行くのです。 このような歴史を経て今まで来たのですが、心情的に事情的に所望的に、神と接ぎ木された人間がこの地の上にいないのです。ですからアボジは歴史をおいて、一ぺんに息子として対することができないのです。なぜ? 堕落して落ちてしまったからです。本来の創造理念に、神が闘うということがどこにあるでしょうか? 神はこんな理念は立てなかったのです。だから僕たちをして闘わせるのです。人間が堕落して僕の立場に落ちたので、ここにおいて闘って勝って、事情を通じることができる息子の立場に引き上げるために、役事してこられたのです。折って接ぎ木しなければならないので、この心情を接ぎ木するためのものが、再臨役事なのです。’主よおいでください’という懇切な心情が、天上、地上を貫かなければなりません。このような心があれば、天の側になるのです。こんな一時に向かって、神は今まで役事されているのです。 11. 終わりの日に父のまえに立てる息子・娘 終わりの日とは、いかなる時か? 天が六千年の間、全力を注いできたこの地に向かって、一撃を加える時です。最大の誠精をつくすべき時です。息子と僕が共になる時です。息子と僕が同じ場で闘うのです。それのみならず、アボジまで力を合わせるのです。父と息子と僕が、いっぺんに出てくる時が、終わりの日です。アボジも出て、息子も出て、僕も出るので、天国生活を整える時です。神様は本来アダムとエバを子女として、天使長を僕として創られました。アボジを中心に息子・娘と僕が平面的に立つことができる世界的な環境の時を、天は今まで求めて来られたのです。 それで終わりの日には’私はアブラハムだ’という人間も出るのです。皆さんがパゴタ公園のような所に行って、探って見てください。そこでどんなことを言うか。みな動機があることなのです。’私はパウルだ、私はイエスだ、私は神だ、私は何々だ’と叫んでいる人間が出るのです。これはなぜそうなるのか。僕と息子とアボジが出会う、世紀末的な時、総精算する時だからです。葉っぱと枝と幹が、一っぺんに接ぎ木されて生かされるということです。幹のアボジ、枝の息子、葉っぱの僕が一っぺんに現れるのです。世界の思潮はこのようになってゆくのです。心情を中心に接ぎ木された人々を、この世の中の主人公として立てるための事が、終わりの日の神の役事です。 今日世界を担う者は共産主義者でもなく、民主主義者でもありません。神の心情と事情と所願に一致して、接ぎ木されて生きる群れです。これが聖書の骨子です。歴史の最後の終着地は、こんな所として現れなければなりません。 今日まで、道人たちは踏みつけられてきました。ある時は上流階級が世に出、軍閥時代には中流階級が世に出ました。今の時は労働者と農民の時です。会社にも労組があって、労働者たちが巾をきかせています。みな世に出、成功してみたのですが、修道の道を行く人はひどく惨めに、上流階級の人間にも、中流階級の人間にも、下層階級の人間にまで、あれはイエスかぶれだと迫害ばかりされたのです。しかし神の心情と事情と希望に接ぎ木された息子・娘がいるなら、ここに消え去ることなく、彼らが天と地を支配するのです。道人たちが支配する時が来るのです。それでこそ公平な神様なのです。その一時を望み見て、神は永い歳月を準備して来られたのです。 こうして神様は、どうなさるのか? 僕を立て、息子・娘を立て、アボジとして彼らを懐に抱いて過ぎた日を思って歴史的な涙を流し、溢れる希望の心、切ない事情の心、寂しい心情をすべて解き放つのです。息子を抱き、娘を抱いて、僕を立てるその瞬間、初めて歴史を振り返ってハッハッハと笑うことのできる神の姿を、我々は慕わねばなりません。 サタンよ、おまえの権勢がどこにあるのか? 悪党どもよ、おまえの権勢がどこにあるのか? 公義の審判の前に追われて行くのだ。六千年の間一つになるための苦労された神を、終わりの日には一度、知ってあげなければなりません。六千年目に一度でも知ってあげる神様なのです。’あなたは私のアボジであり、私はあなたの息子・娘です。このように苦労されたアボジ、恐れ多いばかりです。私のためにこのように苦労されたことを知りました。昔に逝った先祖たち、アブラハム、モ-セ、イエス様が苦労したのも、私のためでした’と涙して、体ごと駆り立てる過程を経なければなりません。 ’私には心情の主人公に、侍ることができる心情がありません。これが恋しいのです。事情を抱いておられるその主人の事情を知らないので、どうしたら良いのですか。あなたはこれを好まれますか? あなたが好まれるものを持ってきました’としてみましたか?’アボジ、これを差し上げたいのです。アボジ、これを召し上がってください’という心がわいてこなければなりません。’あなたのみ旨が韓国の民を救うということですか?これが願いです。であるなら自分が死んでも、食べる物を食べなくても、この民族を救うアボジのまえに捧げます’としなければなりません。 世界人類のみならず、天上の数千万の霊人たちまで救援するために、我々は耐えるにも無限に耐え、事情を抱くにも無限に抱いてゆかねばなりません。心情を抱くにも無限に切ない心情を抱いてゆかねばなりません。心情をつくし、心をつくし、体をつくしてこの世界に向かって行く皆さんにならねばなりません。お父様がこのように求めておられることを知るとき、涙ながらに罪責感と恐れ多い心に染みるなら、審判の峠を越えることができるのです。 悔い改めで始まったキリスト教ですが、最高の罪人です。事情を知らず、み旨を知らず心情を知らなかった罪を、悔い改めなければなりません。勝利のその一日のために、六千年の間一つになるために闘って来たアボジと息子・娘の因縁を結び、あるいは僕の因縁を結ばなければなりません。そのようになれば’六千年の間積んできた摂理歴史を今、わたしの代身、あなたがたに任せる。すべてのものを、一挙に精算するのだ。首を切るなら切り、腹を裂くなら裂け’とされるのです。神が打つべきことを、我々が代身して打ち、すべてのことを代身して精算せよというのです。これが審判です。 心情を準備するキリスト教徒、事情を解決するために行く聖徒たち、その日の希望を満天下に伝えなければならないキリスト教徒なのです。今は心情をつくし、事情をつくし、み旨をつくさなければなりません。このような何かがあれば、一つになるために訪ねて来られるアボジのまえに出て、息子の認定を受け、娘の認定を受け、越えてゆくことができるということを、皆さんはよくよく知らなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.18
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「天は心情によって侍る者の場」 1960年2月14日(日)前本部教会 今日は「天は心情によって侍る者の場」という題目でお話します。 1. 天国と堕落人間 天国という所は心情を通じてでなければ行けないことを、皆さんは知っています。天国は全体を主管する本然の国であり、本性の国であるというのです。その国はある事情をもってしては、所有することができないのです。深く染みる心情の因縁をもってこそ、所有することができる国なのです。ですからキリスト教は究極的に、事情を通した教会ではなく、心情を通した教会なのです。事情の因縁を越えて、心情をうたうことのできる基盤を築く時、地に対して摂理される天の目的があったのです。 堕落が何であるか。神の事情を言わなかったことではなく、心情を言わなかったことが堕落なのです。堕落した人間を捜し求める神は、失った息子娘を求める心情を持っておられますが、その心情を分かちあう人間がいませんので、その人間を捜し立てる役事をされますが、これが救援歴史であり、その人々を捜し立てるために送られた方が救い主であることを、皆さんはよくよく知らなければなりません。 我々は天国を所望する前に、神の心情を願わなければならず、また神の心情を願う前にわが一身はどのように生きるべきかを、考えなければなりません。皆さん自身はまず、侍る心情を持たなければなりません。高く尊いものに対しては、頭を下げて慕うことが人間の本性なのです。人間は堕落しているとはいえ、高く尊い天の心情に対して、侍りたいということが、我々の造られた人間としての本然の心情なのです。ですから心情が通じる侍る生活をしてみない者は、天国とは何らの関係もないということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 ところで侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経たのちに、侍る生活が必要になります。侍るための準備の過程を経て、侍る生活をなしたのちに行くところが天国なのです。心情により侍った者が行くところが天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を賛揚して、高く現れる世界が天国なのです。これを皆さんはよくよく知らねばなりません。我々はこのような目的の世界に向かって行く過程を経なければならない運命があるのです。 堕落の血統を受けて生まれてのち、今日まで全世界の人類が心情を尽くして天に侍る一日があったか。ないのです。堕落しなかった我々の先祖、アダムとエバは創造理念を通じて誇り、心情の因縁を立てて神様に侍ってみる時間がなかったのです。 神の恨が何であるか。心情を中心として、神様に侍らなければならないない人間が、侍ることのない立場に落ちてしまったことであり、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られなかったことです。信じる者がいないことが恨ではありません。心情を通じて神に侍り、心情を通じて神に対する人間がいないことが、天と地の恨であることを皆さんはよくよく知らねばなりません。 堕落した人間は捜し求めているのです。何を捜しているのでしょう? 天を捜し求めているのです。しかしながら心に染みる喜びを感じ、そこが永遠に自分が住む天であり、わが心情が永遠にとどまることのできる地であり、自分の生活舞台だと誇ることのできる天と地を求めた人間が、歴史路程においていましたか? 一人もいないのです。 2. 子羊の婚姻を通して見る神と人類の所望 我々が信じている救世主イエスも、この地上に来られ、心情を通じることのできる環境で、神様に侍ってはみなかったのです。全ての万物は、神の息子娘の心情の喜びを感じて和動する場で、主人と共に心情の因縁を持つために造られたのです。しかし人間の堕落により、そんな場で因縁を結べなかったのです。このような地上に心情を通じることにできる環境を造るために来られたメシヤも、心情の基台を得て、天に侍る生活をすることなく行かれたという事実を、我々は知らねばなりません。 イエスが言われるに、ご自身は新郎であり、我々に対しては新婦であるとされました。また、神様は父であり、我々は子女であるとされました。心情の因縁の基台とは何であるか。父子の因縁であり、夫婦の因縁であります。またこれを基盤として結ばれた兄弟の因縁、同胞の因縁であります。 それでは天地万物を造られた神様のまえに、世界人類はどんな存在を立てなければならないのでしょうか。復帰摂理をされてこられた神は、この地上にどんな人間を立てなければならないのでしょうか。心情の因縁を得て横的には世界に通じ、縦的には神に通じ、横的には現実に通じ、縦的には過去と未来に通じる心情の基台を成して、その中において真の息子・娘、真の新郎・新婦を立てなければなりません。このようにして天は、心情が連結された場において、神様に侍る息子娘、一つの家庭を慕っておられることを我々は知らねばなりません。 イエスは終わりの日が、喜びの日であると同時に悲しみの日となるであろうと予告されました。心情が通じる人間には、喜びの贈り物を受ける日であり、心情が通じない人間には、悲しみの贈り物を受けなければならない日であるというのです。 イエスは来られるに、新郎として来ようとしました。子羊の婚姻は、新郎・新婦が相逢うことを言うのです。神の摂理は、この一日のために始まったのです。摂理のみ旨に従う信徒たちもまた、この一日を願って闘ってきたのです。摂理の目的、摂理のみ旨に従い、信仰生活をしてきたただ一つの目的は、何であるか。新郎・新婦の因縁が結ばれるその一時、天と人間、そして人間と万物の間に切れていた因縁が、神の心情に対することのできる息子娘を中心として、再び結ばれるこの瞬間を迎えるためであることを我々は知らねばなりません。 我々は侍ることを苦待してきました。誰に侍ることを願うのか。来られる主に侍り、さらにその主が侍るアボジに侍って生きることを願うのです。これが我々人類の所望なのです。救援ということも、この基準に通じなかったらダメなのです。 3. 新郎に侍るための準備と礼物 ですからこれまでの歴史は、主様に侍るその一日のための、準備をする歴史なのです。来られる主様を慕うことも、侍ることのできる内容を知るための準備であり、慕わしい天のみ旨を知って、そのお方と共に生活できるその日のための準備であることを知らねばなりません。 キリスト教は今まで、2千年の間、準備して来ました。新婦として、侍る生活をするための準備をしてきたのです。それでは準備をするといって、どんな準備をしてきたのでしょう。み言の準備でもなく、信仰の準備でもなく、生活の準備でもないのです。心情を通じることのできる準備をしなければならないのです。 新婦を慕って2千年の間、求めて来た新郎の心情を、皆さんは知らねばなりません。私一人を新婦として迎えるための天の慕う心、私一人を立て、新婦としてつくるための天の苦労と滲む心がどれほど大きいか、皆さん、感じてみましたか? 外観は見すぼらしく微々たる存在であっても、天は思慕し、慕わしいのです。うわべではなく真心から、形式ではなく真情から、ある方式ではなく真なる心情をもって、我々を慕ってこられたのです。ですから今日まで、摂理歴史路程は慕わしい心情によって連結されてきたことを、我々は知らねばなりません。 我々が新郎に侍るための準備をする前に、天は何千回、何万回、その準備をされたことを我々は知らねばなりません。我々が準備する前に、まず天が我々のために準備されたのです。今日、新郎を迎えようとする皆さんは、身に染みる心で準備する自身であるか、自ら反省しなければならないのです。慕わしい主様、心情に染みるほど慕わしい主様に侍ることのできる、その一日のために準備する我々の態度、今日のキリスト教信者たちの態度は、どのようでなければならないかということを、皆さんは考えてみなければならないのです。 主様に出会いたいという心が強ければ強いほど、天に対する慕わしい染みるような心情が強ければ強いほど、皆さんは上を見やって来られる主に出会うことを願うよりも、後ろを振り返って、来られるために闘い、我々を準備させて来られた主の為に泣くことを知る人間にならなければなりません。私一人を捜し立てるために、苦労してあえぎ来られた6千年、サタンと闘われた6千年、傷もなく善なる天が、凶悪なるサタンの讒訴を受けてきた6千年、傷もなく善なるその体に、サタンの矢を受けてきた6千年、どの時代どの時期にも、天は悲しみに会わなかった日はなかったのです。このような悲しみの心情を抱き、抱いて来られても、天は何ほどでもない我々を、心情で和することのできる姿の勇士として立てるために捜し求め、慕い来られたことを皆さんは感じなければなりません。 このような天のまえに出て行くために、皆さんが準備した礼物が何でしょうか? 6千年の間、摂理されて残ったキリスト教信者たちが準備した礼物が何ですか? 何を持ってきましたか? 天は苦待されて来ました。世のどんな値打ちのある金銀財宝や、真珠を欲しておられるのではなく、心情、心情、心情に染まり、全てのものを抱いて愛し、天と共に生活する人間を求めて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。 こんな心情に染みて準備した自身になっているとするなら、皆さんの目と耳と口と体はどうでなけばならないのか。心情を通して見て、心情を通して聞き、心情を通して語り、心情を通して行動しなければならないのです。心情を通した因縁を得て生きなければならないのです。心情が通じる目をもって、主様と共に見て侍ることができるその一時、心情が通じる耳をもって、主様と共に楽しむことができるその一時、心情を通じて語り、心情を通じて行動して生きるその一時を、天は慕いつつ6千年の間、捜し求めて来られたのです。 皆さんの目と、皆さんの耳と、皆さんの口と、皆さんの体が、天と心情の因縁を持っていますか? この目は見るに心情による因縁をもって万物を見なければならず、この耳は聞くに心情による因縁をもって叫ぶ声を聞かなければならず、この口は心情が通じる言葉を発しなければならず、この体は心情が通じるところの生活をしなければならないのですが、いまだ侍る場に入る前の準備過程にいる我々なのです。それゆえ皆さんが得ている心情的な準備は、どの程度かということを考えざるを得ないのです。 天は願っておられます。心情が通じる一つのみ手に、万物が慰撫されることを願っておられるのです。心情が通じる子女によって、全ての息子娘が抱かれることを望んでおられるのです。心情が通じるところの新婦たちによって、神の主管が成されることを苦待されておられるのです。心情が通じる息子娘たちのまえに、この世界が主管されることを苦待されておられるのです。これを皆さんは考えてみましたか? 考えれば考えるほど、えらいことなのです。 このような神の所願が、わが一身のみならず、世界と天宙まで連結されていることを考える時、私は主のものであり、アボジのものであることを否定できないのです。ですからわが心もアボジのものであり、わが心情もアボジのものであり、私の意識と直観と感覚器官一切までもアボジのものであり、自分が感じ意識する全体が心情を通じるところのアボジのものであるという観が、決定ずけられなければならないのです。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有できないことを、よくよく知らねばなりません。 これらを考える時、皆さん、我々は恋い慕わなければなりません。我々は捜しまわらなければなりません。我々はこんな事実を知って、全力を尽くして天の所願を成すために訴えなければならないのです。死の道がどんなに恐ろしくとも、笑って越える強烈なる心情をもってゆくなら、信念をもって屈伏させる自体とならなければならないのです。 4. イエスの事情と心情と恨 イエス様が死の峠を越えることができた力は、どこから来たのか。その力の中心は、何であったのか。それはただ一つ、心情であったことを皆さんは知らねばなりません。4千年の間、準備してきた心情の歴史を受け継いだイエスは、30余年の人生の間「恨多き4千年の歴史よ過ぎ去れ、神に侍ることのできる所望の一日よ来い」と心中から、心中から叫んで生きたのです。彼はまた、求めさまよいました。4千年の間、心情をつくして準備された新婦を求めてさまよったのです。 イスラエル選民を立てられた天の悲しみは、何であったのか。教団がないことではありません。パリサイ教とサドカイ教がないことではありません。(録音中断)哀れなイエスのために、4千年の間準備した新婦はどこ行ったのか? いなかったのです。いないのです。人類の歴史的な悲しみは、ここから始まったのです。イエスには心情を通じることのできる新婦がいないのです。汗を流しても、その汗を拭うハンカチ一枚ぬってくれる新婦がなく、誰かがぬったハンカチで汗を拭い、着るものもイエスが誰であるかも知らないサタン世界の人々が作った着物を着たのであり、食べるものもサタン世界の聖別されていない婦人たちがつくったごはんを食べて暮らしたのです。住む所もないのです。無念なことです。憤りを覚える事実です。 イスラエル選民を立て、準備されたのは何のためであったのか。メシヤ、すなわち新郎たるイエスが来られる時、新婦を立てるためであったのです。ですから一枚のハンカチも一さじのごはんも、一枚の着物も、一つの部屋も、一杯の水も、全てが心情が通じなくてはイエスの前に出すこともできないにもかかわらず、イエスはこのような場に一時も居ることがないまま、この地上から亡くなられたのです。悲痛といって、これ以上の悲痛がどこにありましょうか。痛憤なることがあるといって、これ以上の痛憤なることがどこにありましょうか。 神の4千年の歴史がはずれた基準がどこからでしょうか。心情を通じるイエスの真の新婦がいなかったことから、はずれた歴史となったことを、皆さんは知らねばなりません。 私は一時、こんな祈祷をしました。「イエスがこの地に来られる時、私はそのお方に侍り、サタン世界の誰もが歩むことができなこを歩みたいのです」という祈祷をしたのです。サタン世界の人々が手で作ったものであって、心情が込められた種を植えて取り入れて作った着物を、心情の準備をした一枚の着物を、この地上のどこの誰が作ったでしょうか? 作ってはみなかったのです。そのようで福が受けられるでしょうか? イエスが主であるとして、4千年準備した主であるとして、ユダヤの神殿は心情が通じる神殿になっていなければなりません。その神殿はイエスのものであり、その民族はまたイエスのものであり、その民もイエスのものなのです。教会の何か祭司長、書記官のものではなくて、全てイエスのものなのです。ところが彼らが、イエスの怨讐になってしまったのです。こんな悲痛なる事実を、皆さんは知らねばなりません。今日、皆さんが侍っているイエスの行路には、このような曲折があったということを、はっきりと知らねばなりません。 来られたみ旨を果たせずして、心情の相対を慕い、恨を残したまま天と地の因縁を抱えて死んで往かれても祈祷されたイエスの心を、誰が知っていたか。悔しい曲折を抱えたまま、死の峠を越えて復活されましたが、その曲折を知る者はいなかったのです。知っている人間がいないのに、どのように解くのでしょう。解こうにも解けないのです。人間に対して結んだ曲折を、人間が知らないので、解こうにも解くことができないのです。こんな心情をもって復活されましたので、マクダラのマリヤが復活したイエスの前で「主よ!」とすがりつこうとする時、触ってはならない、と遮られたのです。 イエスがこのように行かれ、2千年が経過した今日まで、彼の心情を知る者は誰か。 変貌山上の、彼の心情を知る者は誰か? 皆さん、真の牧者と偽りの牧者は、何によって判別されますか? 心情に染まった天の心心情に貫かれ、心情に染まった天倫の心情に貫かれた内容を持っていない者は、真の牧者ではないのです。 キリスト教は分散し、争っています。キリスト教はだんだん衰退しています。なぜ、そうなのでしょう? 心情が薄れているからです。人間がダメで、下らなくてそうなったのではないのです。優れていてもそうでなくても、知識があるかないかを問わず、持つべき心情を失ってしまったからであることを、皆さんは知らねばなりません。主様は心情の行路を経て来られ、今来られる時も心情の行路に従って来られるということを、皆さんは知らねばなりません。 5. 天が求めて来られたことと新婦の道 それでは来られる主に侍るための準備過程において、6千年の間、信仰生活をしている数多くの人類は、どんな道を築かなければならないか。どんなに億千万円を積んだとしても、天はこれを取られないのです。どんなに豪華絢爛たる文化を築いたとしても、天はこれをそのまま取られないのです。人間がある金力をもって「これが天のものだ」としても天はこれを取ることができないのです。天は何から得ようとされるのか。天はどんな物質からも、得ようとはされないのです。天が得たいとされるのは、心情なのです。心情の主導的な権限であり、生命の源泉であるのです。違いますか? 天は何を捜し求めるために、さまよい悶えて来られたのですか。お金を求めるために?人間を捜すために? とんでもない話です。準備された心情の持ち主を捜すために、心情を通じて侍るために準備された者を求めるために、天は6千年の間、身もだえてこられたことを、皆さんは知らねばなりません。 新婦が何でしょうか? 新婦は新郎のために、新郎が考える一切を備えた一人の完全な対象として現れる人間をいうのです。その新婦は実体として、体と心がなければならず、そこに対応する環境が造られていなければなりません。それゆえ新婦は、自分に属していることも、自分のものということができないのです。自分のものだと心のままに処分できないのです。今このような路程にあるキリスト教の思想は、新郎・新婦の思想をいうのです。新郎に侍るために準備された処女のように、もてる誠精を尽くして、またその体に染みる情熱の血と共に煮えたつ時に、初めてその新婦となることができるのです。また、一番目であり最後だという立場で求めてゆくのが、新婦が行く道なのです。 その心情のまえには、新婦の全てのものが支配されるのです。ですからその心情を明らかにしてゆく時は、自分の所有も自身のものではないのです。その場にゆくためには、自身が尊重され、自身が尊く思うほどに準備をしなければなりません。一時、一時間といえど、そのお方に侍るために万般の準備が必要なのです。 今日、信仰する全世界キリスト教徒は、目を覚まさなければならない時が来たのです。 心情を通じて侍るための準備過程にある新婦として、ユダヤ教徒たちは何を準備したのか。もしもイエス様当時に、イスラエル民族の中にこのような心情を知って準備した者がいたならば、イエスを飼い葉桶に寝かせることもなかったのです。知ってみれば、悔しくも悲痛なことです。救世主が、30余年の大工生活とはどうしたことでしょうか? 天の息子であると証しした東方の博士はどこに行ったのか。洗礼ヨハネの家庭はどこに行ったか。アンナはどこに行って、マリヤとヨセフがどこに行って、天の息子イエスが乞食の中の乞食の王になったというのですか? このお方のために、このお方の安息地のために、このお方の平和のために、血を流す場に行く恨があったとしても責任を負うように彼らを選び立てられて、息子を送られた天のみ旨を、どこの誰も理解できなかったのです。証しをした者が、全て失敗してしまったのです。そのようにすることが、神の所願であるはずがないのです。 もしも東方の博士がイエス様に侍ったなら、彼らはイエス様の弟子になったのです。「あなた様は尊い体ですから、あなた様の生活的なことは私が責任を持ちます。地上の悲しいことは、全て私が責任を持ちます。お金がなくて心配されるなら、これも私が責任を持ち、生活に必要な全てのものは私が責任を持ちます」という人間がいますか? ヨセフとマリヤもイエスを疑い、イエスの弟たちも嘲笑ったのです。兄さんに会ってどうしてここにいるかと、エルサレムに上ってきた弟たちまで嘲笑ったのです。(ヨハネ7:3-5)これはどうしたことでしょうか? ここに集まった皆さん、我々はイエスの時代を思って泣くことを知らねばなりません。いや、イエスを地上に送る前に血と汗と涙を流して苦労された神様を思えば、泣かずにはおれません。さらにはアダムとエバに望みをかけたが、真にその苦痛を受けられた神様、堕落したアダムとエバを眺めるしかない切ない神様の心情を思って泣かねばなりません。 神様がこの世界を創造するために苦労された時代から、アダムとエバが堕落した後の4千年の間、悲しみの峠また峠、イエス様の30余年の悲しみの峠また峠、イエス様以後に聖霊が降臨してからの2千年間の悲しみの峠また峠を代身して涙を流し「先祖たちの不忠を許して下さり、先祖たちの不足を許して下さり、先祖たちの罪悪を許して下さい」ということのできる姿、「我々の先祖たちは来られたお方をこのように扱いましたが、私は絶対にこのようには扱いません」といって食べる物も食べず、着る物も着ないで、自分一身はどんな損害と被害をものともせずに身悶えする一つの姿、一つの群れが地上に現れることを、私は願っているのです。 このような者がいるとすれば、神様が抱えて慟哭されるのです。イエスも抱えて慟哭されるのです。聖霊も抱えて慟哭されるのです。三位神はむろんのこと、今まで往かれた歴代の先知先烈たちも彼を抱えて慟哭するのです。ところでこの地上に涙で証しされた者がいるか。この地上において神様の涙をもって証しすることのできる、天の心情を代身した姿をもった者がいるか。神様が、イエスが、あるいは聖霊が、心情の準備をなした者であると、涙で証しする人間がいるか。歴史的な先祖たちが「我々もできなかったことを、その時彼らはやった」と涙を流すほどに準備した人間がいたか。いないとしたなら、滅びねばなりません。滅びねばならないのです。必ず滅びなければならないというのです。 歴史を支配するのは、ある文化ではありません。ある思想でもありません。思想を動かされる天と共に動くことのできる心情の基準が立たない限り、歴史は方向をもって行くことはできないのです。人間はこれが分からないのです。 最後に人類のまえに残るものがある文明でもなく、ある形式的な宗教団体でもなく、自身の主観的なある主義を主張する人間でもありません。言葉で説明することができない心情を通したことだけが残るのです。 心情こそは、万宇宙と取り替えることもできないのです。議論に先立ち、このような感情を感じることのできる人格の主人公がこの地上に現れれば、地上は収拾されるのです。こんな使命者として来られるお方が、再臨主なのです。 6. 最後に人類のまえに残るものが何か 皆さん、我々は再びいま一度、考えてみなければなりません。いつ涙がにじむ心情でハンカチ一枚作ってみましたか? ここにいる婦人たち、作ってみましたか? 針を持って「この針が真の心情に通じる聖徒のみ手を経ていたら良いのに。悲痛なことだ」として、「アボジよ、私に針を作る技術があれば、私の手によって真心のこもった針を作ってハンカチを作ったら良いのにそうはできないので、作られた針でも心情を尽くしてハンカチを作ります。お受け下さい」とその針に糸を通してひと針ひと針すすむごとに、心情がにじむ中に「この針の動きに歴史的な婦人たちの怨恨が解かれますように、新郎たるイエスの慕う心が解怨されますように」としてみましたか? 世の中では百年も共に生きられない自分の新郎のために、いろいろ尽くすのです。あらゆることをやるのです。新郎だから何だからというのです。笑いごとではありません。 それでは新婦として準備する者とは、どんな者ですか? 彼がおかれている環境がたとえ限られた環境であり、その体は一個体であるとしても、彼がとどまる環境は世界が連なり、天と地が連なっているのであり彼が立っている場は神様を代身した立場であり、イエスを代身した立場であることを知らねばなりません。こんな心情に染まり「主が来られる時、私は差し上げる物もありません。持っている物もないのです。準備する何物もないこの不肖なる体は、心情がにじむ一片のハンカチなど、主に代わる新郎の前に差し上げたいのです」としたならば、全てをあげることよりも、さらに天地が喜ばれることを皆さんは知らねばなりません。こんな人間を、天は求めておられるのです。 新婦とは、どのような新婦でなけばなりませんか? 豪華絢爛たる主の栄光を願う新婦ではなく、主によって天国に行こうという新婦でもなく、「私が地獄で善の足場になりますから、私を足場にしてこの地上に天国の心情を与えて下さい」という新婦、このような新婦が必要なのです。 このように見る時、全世界キリスト教徒は地獄に行かなければなりません。天国とは何の天国、地獄に行かなければなりませんよ。 皆さんたち、我々は礼物を捧げなければなりません。馬小屋に生まれた哀れなイエスのまえにも、参席した東方の三博士が、黄金と乳香と没薬を礼物としたように、皆さんは来られる新郎のまえに捧げる何かの礼物を持っていますか?「お父様! 私には何にもありません。差し上げたい心は切実なのですが、捧げたい心は懇切なのですが、何にもないのです。それで私が食べる一椀のごはんでも、私が食べる前にまず差し上げます。一枚のみすぼらしい着物であっても、私が着る前にまず着て下さい。穴蔵住まいではありますが、私が住む前にまず、お住まい下さい」と言うことのできる心情のみを、天は必要とされるのです。このような心情で見やる物質は、億千万の価値に代わるのであり、この心情で慕う世界は、本然の世界に代わるのであり、この心情で慕う時、主様はその場に現れるのです。 皆さんの中に、私は今まで十数年の間イエスを信じてきたので、他の者は皆な地獄に行っても、私はきっと天国に行って救援を受けるだろうと自任する人はいますか? いるならば、そうする前に彼はまず悲しまなければなりません。主様の心情を知らないことを、悲しまなければなりません。心情を通じてこそ、侍るべき主様がこの地上の来られても、その主様が留まる環境がないということを、悲しまなければなりません。主様のまえに差し上げる物を持っていないことを、悲しまなければなりません。目にする万象全体が悲しみの象徴物となって、悲しからざる物がないゆえに、我々はそんな立場に立っていないのです。 しかし神様を心配する心が先だっていますので、主をこれをご覧になり、その心情のまえに世界を失い、地を失う恨があったとしても、おまえだけは失うことができないと探されたことを、よくよく知らねばなりません。そんな人間は天が引っくり返っても、おまえだけはサタン世界に二人といないとして探されたのです。主の再臨が2千年も延長されたのは、歴史路程にこんな一人の人間がいなかったからです。 皆さん! 我々は心から泣かなければなりません。心情から泣かなければなりません。後ろを見ても涙であり、前を見ても涙であり、左右を見ても涙であり、上下を見ても涙なのです。罪ある自身のために苦労された神様を考えて、自分が体の中にあるのか体の外にあるのか分からないくらい、自分の存在意識を失う立場で食べることを忘れ、着ることを忘れ、威信と境遇を忘れ、天のまえに恐れ多くも伏して慟哭する時があってこそであります。これが新婦の路程に入っての初段階であることを、皆さんは知らねばなりません。このような心に染まり、このような心情と一体になった信仰の衝撃を受けない者は、来られる主様と何らの関係もないのです。 7. 主様のまえに新婦たる者の生活態度 我々は振り返って、涙あふれる道を行かねばなりません。この地上の救い主であり、天の皇太子であるイエス、万王の王であるイエスはこの地上に来られ、このような道を行かれました。4千年の間、準備された新婦の基台はどこへ行ったのでしょう。新婦と共に幸福の歌をうたい、万宇宙を和動させ、天の栄光を歌わなければならないイエスが、苦しみの十字架を背負って死に往かれたことを見られ、嘆かれる天の悔しさを我々は知らねばなりません。彼はその道を行かれ、食べることを着ることもならず、父なし子として兄弟からお兄さんとも呼ばれず、近所、親戚から後ろ指をさされたのです。思いは同じであり、恵まれた生活環境を慕う心情は同じですから、彼の悲しみは誰よりも深く、苦痛もまた誰よりも多く感じたのです。教会から追われ、祭司長からも追われたイエスが、カンラン山の麓を通るたびに涙が前を覆ったことを、皆さんは知らねばなりません。 このように哀れなイエスであったことを、皆さんは知らねばなりません。30余年の人生の路程を行かれたイエスの哀れな姿に比べれば、皆さんの環境はどれほどか素晴らしいのです。皆さんはどれほどか、多くのものを持っているでしょう。皆さんは悔しければその悔しさを表すことができ、喜べばその喜びを表現することができるのです。しかし虚飾と外飾を知らぬイエスは、悔しい事情を一度も表すことがなかったのです。これが悲しみの中の悲しみなのです。いつ喜びの表情をしてみたでしょうか。してみなかったことを、皆さんは知らねばなりません。 今、皆さんはごはんを食べる時も、新郎に代わって食べなければばりません。父母が愛する子女を他郷に送っておいて、一椀のごはんを食べる前にまず子女を思うのと同じく、皆さんは一椀のごはんをおいて「主よ、このような食卓を前にしてみましたか?」とするのであり、一枚の着物を着る時も「主よ、こんな着物を着てみましたか?」とするのであり、ある楽しい場を持った時にも「主よ、こんな場に行ってみましたか?」としなければならないのです。 皆さんが侍る新郎は、こんな環境にあったことがなかったので、新婦になろうとする者は、主様の生活的な感情に和して、深い心情の因縁を持つ覚悟をしなければなりません。これが問題です。こんな人間には指導者が必要ないのです。聖書も問題ではありません。聖書は手紙でしょう。心情的な人格者を育てるために残された手紙であることを、よくよく知らねばなりません。 我々は心情がゆく場で一つの物を見ても主様を考え、涙がにじむ心で、その物を使う前に「主よ」ごはんを食べる前にも「主よ!」、着物を着る前にも「主よ!」布団に入る前にも「主よ!」としなければならないのです。こんな新婦がいたとしたならば、新郎はその新婦を探し求めるのです。 天国はどんなところか? 準備したことを誇るところであり、侍る生活をしたことを誇るところです。それではその天国はどんな者が行くところか。主を信じて福を受けるために、福をまえに立ててゆく者が行くところですか? 違いますよ。天国は侍るために、心情的に準備した生活をした者たちが行くところです。準備する期間に死んだとしても、侍る生活をして喜んでゆく者が行くところです。ここに復活があるのです。 侍るために準備をした後に、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は、侍るためです。侍る生活をするためなのです。侍る生活は、どのようにするのですか? 皆さん、環境をふり返って見なさい。生活の内幕は現れてはいないのです。どのように生活するかということが、今我々が侍る生活において考えてみなければならない重大な問題なのです。 主に対する時は、どのように対するかという準備をしなければなりません。主に侍る準備の生活をしなければなりません。侍る時は、天上に行って侍るのではなく、この地上で侍る者にならなければなりません。皆さん、主様に侍ってみましたか? 主様の顔はどんなで、主様の体はどんなで、主様の鼻はどんなで、主様の笑った目はどんなで、主様の声はどんなで、話される主様の口はどんなで、主様の手と態度はどんなだか知ってる? 8. 心情の世界 心情を先だたせてゆくところには、人々を引きつける調和の法度があるのです。子女を慕う父母の心情は、距離と空間を超越して、子女の境遇がどうかということを認識できるのです。これは自然現象なので、超自然的に起きるのです。心情に染まればこのようになるのです。このような心情は天宙を包括しても残るのです。こんな心情にはイエスも引きつけられるのです。こんな心情に染まってみれば、関係がない主様のようであっても関係あるものとなり、因縁がないような主様が、因縁を持って現れることを皆さんは知らねばなりません。とすれば主に出会う時に、主がどのようになされるのか、分かるのではありませんか? ですから準備していって、侍る生活はこれこのようだと、知らねばならないのです。 今日、新郎が新婦を捜し求めるための、書簡体として書かれた聖書のみ言は、暗号が多いのです。なぜ、暗号で語られるのか? 心情の神様であるからです。聖書は誰も解けないのです。解けませんよ。新郎・新婦だけが解けるのです。心情を通して侍る準備をした者だけが解けるのであって、そうではない人間には解けないのです。ここにある暗号の全体が、何でしょう? 新郎が来ることができる門を開く秘訣であって、その秘訣が何か。心情なのです。父母の心情は幼子を抱え、乳を飲ませた時でも、その子が頭に白髪をいただく時になっても同じなのです。その心情には、違いがないのです。 ですから我々は聖書にひそむ全ての心情の根源を明らかにしなければならないのです。これを知る時には、博学者が必要ではなくなります。彼らがどんなに解釈しても、学説は過ぎ去り、終わったのです。心情は論理で支配できないのです。理論では体恤することができません。体系によって方向をつかむことはできないのです。なぜ? 心情は天倫と共に、自然と共に流れているからです。 聖書など勉強しなくても、知ることができ、感じることができる心情の流れと感じを得て解釈するまでは、分からないのです。博学者が主張する現代の神学思潮も過ぎ去りました。しかし心情の世界は、過ぎ去る法がないのです。これがいわゆるアルパとオメガ、すなわち最初と最後であり、初めと終わりなのです。 心情には過ぎ去る条件がないというのです。心情があるところには、主様も過ぎ去れません。神様も過ぎ去れません。聖霊も過ぎ去れません。歴史的な哲人も過ぎ去れないというのです。ですからこのような心情的な因縁をもった民族であるほど、滅びないというのです。滅びないのです。民族精神が、国のための心情の線に近く染みるほど、その国は滅びないのです。これが分裂して分散する時には、天倫が過ぎ去って滅びるのです。 一片丹心の動機となるものが、心情なのです。一片丹心、これは結果なのです。一片丹心という名詞を立てる前に心情、この心情をもつ者であるなら、彼が天と離れた地上にあったとしても、天国にいるというのです。不幸な立場におかれているようであっても、幸福な立場にいるということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 我々がこんな心情を持つ過程にいるとして、どうしなければならないでしょうか? 皆さんがアブラハムの前に出てゆく時「アブラハムよ、おまえはこれこれをせよ」と言える資格者にならなければなりません。本人はあの世のアブラハムに直接命令もするのです。モ-セに命令もするのです。12使徒にも命令するのです。心情世界において反応するなら、4先年前のアブラハムをこの心情世界に追い込み、命令するというのです。モ-セもそうであり、使徒たちもやはり同じだというのです。 使徒がどんなに素晴らしいとしても、彼らはお使いなのです。使徒に対して、新婦であるとすることはできません。使徒と新婦、どっちが高いでしょうか。新婦が高いのです。使徒が新婦の前に、頭を下げなければなりません。 9. 天国は心情で侍る生活をする者が行く所 歴史上の使徒パウロ! もちろん素晴らしいです。しかし今日では、この使徒パウロまでも「どりゃ!」と言える、新婦の心情に通じる一人の人格者が来なければなりません。地上において過去に往かれた人々に対して命令することができ、地上において心情の因縁を持った者を支配することができ、未来に心情の因縁を立てられる資格者ならば、堂々と新婦となるに不足がないのです。我々は地上においてこのようなクリスチャン、このような神の息子娘に出会わなければなりません。 アブラハムの心情を語れば、アブラハムの心情を感じることができ、モ-セの心情を語れば、モ-セの心情を知ることができ、イエスの心情を語れば、イエスの心情を知ることができ、神様の心情を語れば、時代的な神様の心情を反映して感じることを知る一人の姿がこの地上に現れない限り、主様の再臨は不可能なのです。不可能ですよ。 主様がこの地上に来られる目的は何であるか? 地上に天国を成すためです。天国はどんな所か? 侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行く所であって、侍るための準備と侍る生活を、満宇宙に永遠に誇ることのできる世界が天国なのです。 天国に行ったなら、何をするのか知っていますか? そこが遊びに行く所でしょうか。とんでもありません。遊びに行くなら、遊びに行く過去の準備と条件と、生活的な条件がなければなりません。ところがこれが何にも分からないで、福を受けようと祈祷ばかりしています。神霊なる人々が、骨の折れる主な原因がここにあるのです。どんなに恩恵を受けようとする人も、7年を越えるので骨が折れるのです。無条件に福を受けようとするのは、真の信仰ではありません。 皆さんはこのような立場に行くなら、どのようにしなければならないか。今日この地上にいる27億人類は、6千年の間に広がったアダムの後孫です。ですから皆さんにはこの27億の人類を抱え、慟哭することのできる心の基準が立っていなければなりません。でなかったら皆さんは、この世界と絶対に因縁を持てないのです。哀れな乞食を見て胸が痛んで耐えられず、着る物もない人を見て自分がちゃんと着ていることに耐えられず、食べられないことを見れば自分も食べず、自分一身だけが平安な立場におれないという心を、皆さんは持たなければなりません。 10. 心情の主人公にならなければならない我々 現在の人類の心情は、6千年の歴史の反映です。ですから時代的な義憤を抱き、心を高めて慟哭する生活過程を経て、歴史的な心情に相対する動機を求めているのです。 聖書には詳しくは書かれていませんが、イエスはイスラエル民族を見やり、多くの涙を流したのです。哀れなイスラエル民族、その中においても苦痛を受けている彼らを哀れに思ったのです。これを条件にして世界万民まで哀れに思ったイエスだったのです。天はこういう人を立てて役事されるのです。 モ-セも怨讐を哀れに思う心よりも、サタン圏内にいるイスラエル民族を哀れに思う心が強かったので、怨讐のまえに打たれているイスラエル人の味方をして、エジプト人を打ち殺したのです。憎くて打ったのではなく、イスラエルを愛する心が先に立ったのです。モ-セはイスラエルを愛する心が、エジプトを憎む心よりも上になる基準で打ったので、引っ掛からないのです。天は愛する心が先に立ったある行動をしたとしても、天はこれを罪とはされないのです。ある人間を殺しても、心情が先に立っていたなら天法に引っ掛からないのです。サタンも讒訴できないのです。 エジプトからカナンの福地への復帰路程において、イスラエル民族は40年の荒野流浪をして残った群れがカナンの地に入る時、神様は彼らにカナン7族を全て殺せと言われました。掃討せよと言われたでしょう。こんな神様なのです。神が約束したカナンの地を愛し、神に侍りたいという心が強く、神のまえに出て行く道を塞いで反対する群れを打つなら、滅びなかったのです。審判することのできる資格者は、このような者なのです。神はこのような者を苦待されているのです。 終末が来たことを我々は知っています。今は終末であると言っています。であればこの終末に残ることのできる群れ、審判することのできる群れはどんな群れか、当然、心情の主人公です。 天の怨讐であり、6千年、我々の先祖を蹂躪してきたサタン。彼らに対して神はどれほど憤り、どれほど悔しかったでしょうか? こみあげる身にしみる心情を中心に、「許せない」と打つ時、サタンも「その通りだ」と言うのです。こんな心情を持ってみない者は公義の法度のまえに立つことができないのです。 我々が追われる場において、抱えて行かなければならないものはただ一つです。家庭から迫害され、兄弟から追われ、国から追われても、失ってはならないただ一つが、心情です。歴史が忘れてしまった心情、時代が忘れてしまった心情、地が忘れてしまった心情が天の心情なのです。この心情が立てられる日、天とこの世が分けられるのです。この心情を抱えて喜ぶ日、この世に悲しみと苦痛が終わるのです。この心情を抱えて「お父様!」「息子よ!」という日、この心情を抱えて「新郎よ!」「新婦よ!」という日には、この世に天国の門が開くのです。ここから永世極楽の世界が建設されるということを、我々はよくよく知らねばなりません。 天国という所は、心情を通じて侍る者たちが入る所であり、心情を中心とした侍る生活を通じて、サタンを打って越える者が入る所であることを、よくよく知らなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.17
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新しい日一九六〇年二月七日(日)前本部教会 この時間、しばらくお話するみ言の題目は「新しい日」です。「新しい日」という題目で、しばらくの間お話します。 1. アダムとエバに対する神の所望 神様が天地万物を創る瞬間は、新しい瞬間だったのです。創られた万物も、新しい万物でした。創る瞬間もそうですが、創られた万物も新しいものであると同時に、新しいものを望み見る神の心も、新しい心であったことを、皆さんは悟らねばなりません。 新しい万物を創るそのエデン、新しい万物と共に永遠の楽園を享受すべき主人公アダムとエバ、そのアダムとエバを立てておかれ、新しい心情的な理念を抱いて望み見る神様、この神にはいかなる瞬間いかなる一時も、貴からざる時はなかったのです。アダムとエバが挙動するその瞬間々々は、言葉にもならない深刻な瞬間であり、口にも言えない貴い因縁の時であったことを、我々はこの時間に再び回想してみなければなりません。 成長するアダムとエバは日がたつにつれ、理知と知能が明るくなり、神の本性を代身するに不足がなかったのです。彼らは神によって創られた新しい世界に対して、神の心情を代身して見ることができ、聞くことができ、触れることのできる資格者であることに間違いなかったのです。 神はアダムとエバを見つめ、彼らの動きが神自身の動きとなり、彼らが言う言葉が神自身の言葉となり、また彼らが聞き、見て感じるすべてのものが、神自身が聞いて見て感じるものになることを願ったのです。このような関係と因縁圏内にあるアダムとエバは、神が心から慕う、神の全体を代身した存在であることに間違いないことを、皆さんは知っています。 アダムとエバのために創られた万物を抱いて神は、アダムとエバを立ててどんな一日を待ち焦がれ、慕っておられたのか? 六日目までに万物の創造を終え、アダムとエバを完成した姿に創造しなかったときには、きっとアダムとエバと神との間には、何かが残っているのです。神が望んだことは、創っておいた状態のアダムとエバでもなく、彼らが成長した姿を望み見るその期間でもなく、アダムとエバを通して求め成そうとされる一日があることを知らねばなりません。この一日を迎えるその瞬間、神も喜ばれるのであり、アダムとエバも喜び、万物も喜び、万物もその日を苦待し、人間もその日を苦待し、神もその日を待ち焦がれているに違いないのです。 その日こそは万象が喜ぶ日であり、その日こそは神が創造の歴史を終えて喜び、最高の笑いを笑う日であり、最高の踊りを踊る日であり、天地が生まれて初めて最高の自由と幸福にひたり、万象が引っくり返って和動する日なのです。ところがこんな日、こんな一時こんな瞬間は、神の心中に望みの時、望みの瞬間としてはりついたまま、今日まで未完の理想として残っているのです。このように神は悔しい場におられるという事実を、我々は知らねばなりません。 どうしてこのようになったのでしょうか? 堕落という悲しい場面に落ちてこのようになったことを、我々は肝に銘じなければなりません。堕落! この堕落ということが、新しい万物も天が立てた法度から絶たれ、新しい人間も神の法度から絶たれ、新しい天地もその法度から絶たれ、新しい神の理念から絶たれてしまった事実を、我々は悲しく思わねばなりません。堕落の因縁を結んできた歴史、堕落の血統を受けている私なのです。これを本然の新しい園のアダムとして、新しい園の万物として、新しい園の神として創るためには、どう処理するのか? これが神の苦喪であり、人類の苦喪であり、歴史の苦喪であり、万物の苦喪であることを、我々は知らねばなりません。 2. 人間の堕落と、新しい一日を迎えるための歴史 神が堕落した人類を捨てることができない因縁を持っていることを、皆さんはよく知っています。永遠の因縁を中心に人間を創った原理的な内容があるゆえに、神は堕落した人類を捨てようにも捨てられないまま、この日この時まで抱えて来られたのです。 人々は俗に、人間は万物の霊長だと言っています。すべての万物は人間のためにあり、この世界も人間のものだと言っているのです。しかし今日人間が、新しい何かを持っていると誇っていても、いくら人間的な権限を誇ったとしても、これは堕落世界の僕の身の上を免れない場であるということを知らねばなりません。 言い換えれば、堕落人間は神が創られた新しい理念の世界、新しい理念の園、新しい理念の心情を持つ人間と、この万物とは何らの因縁も、何らの関係もないということを、我々はよくよく知らねばなりません。 それゆえ堕落した人間たちは、争いの歴史を経てきているのです。苦痛に満ち、悲しい生活のうちに喘いで希望と願望、理念と理想を捜し求めてさまよっているのです。その願いが何であり、その理想が何でしょう? その目標が何でしょう? それは他でもない、新しい一日だけなのです。新しい一日だけだということを、皆さんがよくよく知らねばなりません。堕落した人間が新しい一日を迎え、この万物が新しい一時を持ち、この天地が新しい一日を迎えるなかで、神に侍る新しい日を愉むことができなければなりません。 歴史路程に数多くの先知聖賢と、義人たちが来ては行ったのですが、’私は新しい日を迎え、新しい天のみ旨を立て、新しい一日を間違いなく立てたのだ’と叫んで行った人間はいないのです。イエス様も新しい一日を所望としながら、死んで逝かれたのです。神も我々に約束されるに、終わりの日が来るとされたのです。自分の心の動きをみても、今日の私を拒否して、新しい一日の私を求めてさまよっていることを、否定できないのです。 堕落した人類は、新しい日を求めてまよっているのです。堕落の血統を持つ今日の我々も、新しい生を求め、新しい一時を求めてさまよっているのです。自分も分からないその何かが、我々の感情を動かして今日のこの時にも、私をこんな方向へと催促していることを否定できないのです。 この新しい一日が天地の間に成るならば、神は我々のもの、世界は我々のもの、人類は我々のもの、万物は我々のものなのです。神を通して因縁づけられた天上天下のすべての被造万物は、私のものになるのです。それで人間はこの一日を迎えることができる世界的な理念を求めて、喘いでいるのです。世界を支配して、世界を主管しようとする理念を抱いてその主義を主張してゆく人間であるなら、この理念を拒否して、この心情的な要求を拒否する者は一人もいません。聖賢君子、聖人賢哲たちが我々よりも前に、このような希望を持ってこの道を開拓したのです。 その後に付いてゆく我々も、やはり同じなのです。それゆえ我々はこんな一日、神は私のもの、世界は私のもの、人類は私のもの、存在する一切が私のものとなる一時を慕いつつ、苦待していることを我々は知らねばなりません。 3. 新しい一日を立てるために開拓者として闘われる神 神はこのような歴史的な一時、歴史的な一日、新しい一日を立てるために今まで、闘いに闘いを続けておられるのです。今この時間にも我々の目前で闘っておられるアボジであることを、知らねばなりません。神は歴史路程において闘って来たのであり、今日この時間にも我々のまえに、新しい一日の開拓者として闘っておられるという事実を、知らねばなりませせん。 神は新しい一日を、待ち焦がれて来たのです。新しい日を立てるために闘っておられるのです。人間が闘って勝利したとしても、堕落人間の勝利が何ほどか。堕落した人間をして建設させても何ほどか。ですから堕落と何らの関係もない神が、堕落した人間のまえで闘ってこられ、堕落しなかったという勝利の基準を立て、堕落していない血族を残すために苦労して来られたことを知らねばなりません。時代々々が過ぎるにつれ、個人を過ぎ、家庭を過ぎて民族、あるいは部族を過ぎ、国家を過ぎて世界まで来たのです。 人間は自分が先頭になって闘うと思っているのですが、これは違うのです。堕落した人間だけで闘って行ったら、理想や理念というものが成る一日が来ることはないのです。これを知る神は今まで六千年という永い歳月を経てきて、我々の先祖からまず開拓して来たのです。我々の先祖が動きだす前に、我々の先祖が開拓する前に、神がまず開拓者になっていたことを、皆さんは知らねばなりません。神が開拓者になって苦労された土台の上に人間を立て、闘って来た歴史であることを知らねばなりません。 歴史上に大きな戦争が何度あったでしょうか? この大戦争が起こる前に、神がまず大戦争をされ、この戦争で勝利した足場の上に人間を立て、戦争をしてしてきたことを知らねばません。 今日、肉身を持つ我々人間は、肉のみの人間として知っているのです。しかし宗教人たちは、悪神がいると同時に、善神がいるということも知っているのです。善なる神がおられ、悪なるサタンがいるということも知っているのです。サタンは人類を支配しているのです。サタンは人類を自分の所有物としてきたのです。サタンは我々の血統まで、我々の心情まで蹂躪して、自分と因縁を結んでしまったのです。 こうして人間によって支配されるべきこの世界が、サタンが支配する世界になり、人間によって造られるべきこの世界の歴史が、サタンによって造られる歴史になってしまったので、すべてのものがサタンと因縁を持っているのです。今日人間たちは、これを知らないでいるのです。 歴史の起源はある民族でもなく、ある部族や氏族でもなく、個人が提唱する主義や思潮でもありません。この歴史はただ一つ、善なる神が開拓者となって、悪なるサタン世界と闘ってきた闘争史であることを知らねばなりません。これに由来して、歴史は善と悪が対立してからみ合って来たという事実を、我々は正しく知らねばなりません。 4. 天とサタンが闘う根本目的とその終結時期 それでは天の願いが何でしょう。失ったエデンを再び捜し求めることです。天の願いが何でしょう。創った園が死亡の恐怖を感じることなく、怨讐の侵略を受けない安息の園になることです。これが天が闘って捜し求める、所望の目的地であるのです。それゆえ歴史は一つの世界に向かって行き、一つの理念世界を指向して行っているのです。今日世界には主義や思想が現れ、動いていっています。しかしこれによって、世界は終わることはないのです。動いている主義と思想が、新しい主義、新しい思想のようであっても、これは堕落の限界を越えられない主義であり、思想なのです。ですから皆さんの心が動いていても、これは悪の血統の因縁によって動いている心であるとをを知らねばなりません。皆さんの心情や、愛も同じことです。 それでは主義と思想は、どこに根拠をおくべきでしょうか? 生活的な感情を、永遠なる理念と接続させることができる縦的なものを、基盤にしなければなりません。そのようにできない主義と思想は、ある一時に悲しみと共に消え去ってしまうのです。それゆえ天は人間の心と人間の心情を革命するために、人類歴史を動かしてきたのです。 神がこの世の人間たちを訪れてくるときは、どのように訪れるのか。人間の心情の中心に向かって攻撃戦を開始されるのです。サタンに支配され、サタンに占領されているこの人間を、サタン世界と断ち切って、悪の本性を廃して本性的に悪を嫌い、善を好むようにするこの心情基準を成すために、天は開拓してきたことを皆さんは知らねばなりません。 今までの修道の観念は、心情的な基準になっていませんでした。この道の主義と思想は良心的な基準にまでなっていないので、歴史的な心情、民族的な心情、天倫的な心情、骨髄に流れている父母が子を愛する心情、夫婦同士が愛する心情、兄弟同士が愛する心情、こんな心情問題を完全に解決できないでいることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。この心情の基準が成っていないので、人類は争うのです。この心情の基準ができていないので、兄弟間に分裂が生じるのです。神とサタンは何ゆえに六千年の間、闘ってきたのか? 我々の心情を互いに占領するために闘ってきたことを、皆さんは知らねばなりません。 それではこの心情基準は、いつ掴むことができるのか? この世界の終末と共に、サタン世界がことごとく占領されなければならないのです。これが神が堕落した人間を求めて立てようとされる新しい日であることを、知らねばなりません。堕落した人間たちが、心情世界を占領してきた群れをおいて、天が心情的に占領されたと叫ぶことのできるその一時、その一日が、人間が求める日であり、神がその一日を人間のまえに教え示すための、闘いの勇者として、全体に責任を持つ開拓者として、我々の先祖のときから今まで世を率いてきたことを、皆さんは知らねばなりません。 神の苦労が終わる時は、いつでしょうか? 神の闘いが終わる時は、いつでしょうか?神の心情は一つです。子が父母を、父母が子を愛するその心情は一つです。誰も占領することができない心情です。神がそうであり、神の子女がそうであるとするその一日が、神が求めておられる新しい日であることを、知らねばなりません。 堕落した人間も、父母たる者が子を愛する心は、二つではありません。これは絶対の中の絶対です。これは存在意識を越えて存在して動いているのです。これは満宇宙のいかなる原動力や、どんな存在物の主管圏内に留まることなく、超越しているのです。愛は理念を超越しているのです。この基準は神の価値までも超越することができるのです。こんな基準が成る日には、悪に対して審判主の立場にある神も、審判主ではないという場に入られるということを、皆さんが知らねばなりません。 ですから神は道の基準を立て、良心の道理を立て、人間世界に倫理を立て、この一つの目的を望み見ているのです。このサタン世界は主義の闘い、あるいは革命的な思潮を開拓してきたのです。ですから宗教の歴史は変遷の歴史であり、我々の生活の歴史、我々の闘いの歴史は変遷してきているのです。 心情はアルパでありオメガです。初めであり終わりです。真のというものは、初めと終わりが同じことです。初めは大きいのに、終わりに小さくなるのは偽ものです。初めよりも終わりが大きいのが、善なるものです。善は滅びる法がないので、小さなものから大きいものに、即ち、小さな善から神と共に大きな善へと発展してゆくことであることを、皆さんは知らねばなりません。 悪は大きくても小さくなるのです。悪は大きなこの天地を持っていても、だんだん奪われてゆくのです。悪の歴史は失われる歴史であり、善の歴史は求めてゆく歴史です。このような原則を見るとき、神が主管するある修道、ある宗教があるなら、それは日がたてばたつほど拡大してゆかなければなりません。日がたてばたつほど、主義や思想をひとまとめにさらって、一つの世界に向かってゆくに間違いないと、結論を下すことができるのです。 5. 歴史が変遷する理由と闘争歴史の終着点 こんな原則の下に判断してみるときに、今日キリスト教は世界的な宗教になっており、キリスト教徒は世界の思潮を動かす人々になっているでしょう? 善は善なるものとしてきているのですが、善の目的地を捜すことができないでいるのです。善は善としての歴史は経てきたのですが、善の価値がこうであり、善はこれだ、アボジを求める善はこれだ、永遠なる善の主体が持つべきものはこれだ、ということを明示できないのです。イエスはこれに対して、終わりの日には新郎・新婦が出会わなければならないと、象徴的に語られました。 我々は最高の善を指向して来ました。行動にも善であり、語るのも善であり、生活にも善であり、自分の観念と主義の全体が善となることを望み、私は望んでいます。主義でのみ主張する善は退き、行動でのみ誇る善は退くのであって、これを越えて神の愛を指向する善が、人類が捜し求める最後の終着点であり、この善が、神が善の環境を開拓してこられた最後の終着点であることを、我々は知らねばなりません。 善の中心がこうですから、イエス様は語られました。誰に対して孝をつくし、誰を愛するかを教えてくれたのです。自分を愛しなさいとは言われませんでした。’心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これが一番大切な、第一のいましめである(マタイ二二:三七)’とされました。それゆえこのような原則的な内容を持たない宗教は、いつかは屈伏させられるのです。こんな内容を持たない主義と思想は屈伏させられてしまうのです。世界はこんな終末的な舞台に、ゆき着いているのです。 それゆえ神がおられるなら、神も知、情、意を内包する主人公を求めるのです。知と意は相対的ですが、情は絶対的です。世の中でどんなに素晴らしい人格の持主、名望の高い人がいたとしても、心情的な面においてある基準にまで至っていなかったら、不幸な者であるのです。これは否定できないことです。 神は望んでおられるのです。神は求めておられるのです。人類も望み見、また求めているその基準は、神と同じ点なのです。この基準は分かれた人間と神が、出会うことのできる点なのです。神が心情の園で初めて安息できる位置を掴むことができる点は、この点なのです。この点は、果たして何であるか? 新しい息子・娘を立てて、永遠に永遠に愛するわが息子、わが娘とすることのできる心です。神が人間を愛さずにはいられない心、神の骨髄に流れる心は、誰もが占領できないものなのです。どんなに悪なるサタンの権勢であっても、主人が二人はいないこの道理を、皆さんはよくよく知らねばなりません。 私は神のまえに数多くのキリスト教を代身して、祈祷する時がありました。’神様、どんなに名のあるキリスト教徒が多く、栄華なる環境を誇る教会と教派が多いとしても、私はそのようなことを願いません’と。神もそんなことを願われないことを知っているのでこんな祈祷をするのです。天は求めておられるのですが、ある教会を求めているのではありません。 父母は自分の息子が青年の時は息子を預け、他の若者を愛するのです。愛するのですが若者全体を直接、愛することはできません。それゆえ誰かの由縁で、誰かによって愛するのです。息子という存在を根拠として、愛の因縁を結んでゆくのです。 6. 神が人間を間接的に愛する他なかった理由 このように神も、人間を愛したい心が懇切だったのです。それで愛されてきたのです。愛するときは歴史的に愛し、あるいは社会的に愛し、あるいは家庭的に愛したのです。保護してくださり、サタンを分別して愛してきたのです。このように愛してきたのですが、人間に対して’おまえはわが息子であり、わが娘だ’と抱いて愛してみなかったことを、知らねばなりません。 皆さんは復帰ということを知っています。神の歴史は、復帰歴史であるとしています。復帰歴史ですから、根源から下ってくるのではなく、上がってゆく歴史です。神は愛してきたのです。子女として愛さなければならない人間ですが、堕落のゆえに僕のように愛するときがあったのです。さらに言えば、民のように愛するときがあったのです。これがイスラエルの歴史です。僕のように、民のように愛したので、息子のように娘のように愛することができる一日を求めなければなりません。これがキリスト教の歴史です。 イエスと聖霊は来たのです。誰として来たのか? イエスは愛する息子として、聖霊は愛する娘として来たのです。今日キリスト教徒たちは、これをよく知りません。聖霊が何でしょうか。聖霊は母の神です。母の神が聖霊です。イエスは息子であり、聖霊は娘、これが人間の標本です。人間はイエスと聖霊を標本として、彼らと因縁を結んで天の息子・娘となることができるのです。天の息子・娘になるのです。 自分が息子・娘になるのですから、有難いことです。有難うございますと、何度でも感謝しなければなりません。ところが息子・娘として認定されるのはいいのですが、神の恨が残っていることを、私は知っているのです。神様はただ息子・娘として祝福してあげる息子・娘よりも、懐に抱いて秘蔵っことして愛する息子・娘を、求めておられることを知らねばなりません。万物に対して誇る息子・娘よりも、懐に抱いて頬をつけ、唇を合わせて愛することができる息子・娘、この上なく愛する息子・娘、骨髄に染みて心情から愛することができる息子・娘を、求めておられるのです。 神はイエスを立てて、新郎と新婦という目標の下に、人類を導こうとされたのです。それゆえ復活したイエスを、マクダラのマリアが抱きつこうとしたとき、遮ったのです。それは神が求めている日が、遠かったからです。神が願われる息子・娘は、子羊の婚姻の日に新郎・新婦として祝福して、その日から抱いて愛することができる息子・娘であったのです。ところが歴史上の誰もが、六千年前から今日この時まで、アボジの懐に抱かれ、血肉のように心情から育てることのできる、息子・娘になっていないのです。 今日キリスト教徒が越えなければならない峠は、どんな峠か。主に会うための世界的なゴルゴダです。主に会うための世界的なゴルゴダを、越えねばなりません。この峠を越えて復活圏内に入るには、主にどのように対するのか。’あなたは歴史的な神の息子です。あなたは時代的な神の息子です。あなたは未来的な神の息子です’と認めることができなければなりません。 7. 神の究極的な願い 我々はみ言を通して、イエスが歴史的な神の息子であることを知りました。このイエスは堕落前の善の姿として神の懐で育つアダムのように、堕落の恨のない場で育つ息子でなければならないのですが、そんなイエスだったでしょうか? そうではなかったのです。恨み多い四千年の歴史を抱え、この歴史的な悲しい場面と闘う闘いの責任者として、一生を送ったお方がイエスだったのです。 天は待ち焦がれているのです。イエスが新婦を迎えるその日が、神の解怨が成る日であったのですが、これがないのです。神もまた願っておられるのです。私はあるときにこれを知って、無限に悲しかったのです。歴史的な闘いの舞台に一人の救い主としてイエスを送ったのであって、救世主が必要ない善の園、堕落の因縁がない園の王者として送らなかったことを知ったのです。堕落していない世界、サタンの讒訴と非難を受けない善の園、サタンの非難、嘲笑、サタンの讒訴を受けずに自由に行動できる王者としては生まれなかったことを知ったのです。 今日キリスト教徒は、イエスのこんな事情を夢にも知らないのです。ただイエスだけ迎えればいいのです。違います。イエスに出会うにはどうするのでしょう。イエスに出会うには、神の愛を歌わなければなりません。神の愛。神は何を慕っておられるのか。堕落による恨を脱いで、安息できる自由の新天地を迎え、すべての心配を忘れて愛することができる、幼いときから抱いて愛することができるそんな息子・娘を慕っておられるのです。 イエスがこの地に来て行ったのですが、こんな息子・娘がこの地上にいたでしょうか?いないのです。もしもこんな息子・娘がこの地上にいて神が彼を死なすなら、神も讒訴されるのです。こんな息子・娘を殺す者はいないのです。神がイエスを死の場に置かざるを得なかったのは、彼がこんな息子・娘を持てなかったからです。彼は自分を救世主として対さない堕落した世界で、闘いの王者、メシアの基準を持ったのです。もしもサタンの侵犯を受けない永遠の善の園で、神が抱いて愛することができる息子・娘がいるとして、彼をサタン世界に放って死なすなら、天理原則は根本から崩れるのです。 ですからイエスが人類のまえに表していない分野があったということを、我々は知らねばなりません。私はこの分野が明らかになることを願うものです。神の願いも当然そうであってこそ、論理的に合うのです。堕落したがために、我々にイエスが必要なのです。でなければイエスが必要ありません。ところがイエスが必要な立場で救援を受けるなら、その場は養子の場です。養子。ロマ書に、養子となることを願うとあります。直系の子女ではない、養子なのです。 イエス様も新郎・新婦を得たならば、神の懐に安らぐのです。安らぐときは、そのようにできる条件を持たなければなりません。もしもイエスが勝利して、新郎・新婦を得て、地上天国を成して、神が愛することができる息子・娘を持ったなら、即ちエデンの園での堕落していない基準で息子・娘を持ったなら、どのようになったでしょうか。これを考えて見ましたか? 今日初めて来た人は’あ、これは異端の言葉だ’とするでしょう。よろしいです。この基準に向かって、我々は越えて行かねばなりません。私は皆さんに対してこれを待ち焦がれているのです。私が祈祷する目標があるならこれです。このようなことのために祈祷するのです。 8. 人類が行くべき最後の目的地 皆さん、我々はその日を思慕しているのです。一時を求めるために闘っているのです。この目標に向かって数十年、寂しこを歩んで、この目的に向かって迫害の道も歩み、この日を成就するために、連続する試練の場も躊躇することなく行くのです。我々はこの目標に向かって行ってこそなのです。 第一イスラエルは滅んでしまったので、イエスを主とするキリスト教が、第二イスラエルです。今日キリスト教徒が、第二イスラエルの民なのです。キリスト教は第二イスラエルです。ところがこの第二イスラエルが責任を果たさないので’主に侍って生きる第三イスラエルを、神が抱いて愛することができる息子・娘を、この地上に送ってください’と祈祷しなければなりません。祈祷する事は、これ以外にありません。自分の息子・娘に福をください、自分の国を愛してください、この世界がどうだという祈祷はしないでください。この世界はみな滅びるのです。一度は審判台の前に、立たねばなりません。 神も捜し求めておられます。人間も求めているのです。皆さんや私が、慕って求める所がどこでしょう? 自分が誠精を注ぐべき、誠精の根源地がどこか? 誠精をつくすべき王宮がどこか? 誠精をつくすには、イエスを通さなければなりません。イエス様を通して、堕落する前のアダムの心情を代身して、堕落しない息子・娘が神のまえに誠精をつくすその基準まで、行かねばなりません。これが堕落した人類が行くべき最後の目的です。 我々は忠誠を成したイエスよりも、さらに忠誠をつくさねばなりません。イエスは罪悪に対して闘い、サタンに対して闘うにおいて、一面では刃を突きつけて怨讐と闘い、また他の面では神を慰める立場だったのです。しかし我々は闘わない立場、即ち闘いをすべて終えて、不安と恐怖を感じない平和と自由の環境で、自由の天地で神のまえに忠誠をつくさなければなりません。神はそんな姿を慕っているのです。イエスもそれに向かって二千年の間、闘ってきたのです。聖霊もそれに向かって、その日を希望として闘っているのです。我々はその一時、その一日に向かって行くのです。行くときは死んでではなく、生きて行くなら、どれほどの栄光でしょうか? その一日は、心情がからみついている瞬間であり、神が喜びに慟哭する時であり、神の喜びと、神の悲しみが一ぺんに溢れでる時なのです。今まで六千年の間に積まれた悲しみの荷がはじける時なのです。その瞬間は歴史的に、最も悲しい瞬間になるのです。歴史と共に神は、ありったけの悲しい路程を歩んできたのですが、その瞬間には歴史のすべての悲しみを、一挙に泣いて叫ぶのです。同時にその瞬間から、喜びの涙を流し始める瞬間なのです。その日は悲劇と喜劇が交差する瞬間です。これを象徴して人間世界に反映して現れるのが、神の悲しみを受け継ぐ宗子(本家の長男)、神の喜びを受け継ぐ宗子とに分かれるのです。これが審判です、審判。 神が今まで人間を抱えて悲しんだ歴史は終結し、人間に対して所望とされた喜びの日が始まるのです。神のうちに体恤された悲しみは悪なる宗子に残し、善なる心と喜びに泣くその声は、善なる宗子に残すのです。 世界は心情において分かれる日が来るのです。これが天が人間のまえに立てる、審判の日なのです。この日の審判を避けるために、先知先烈たちが善の闘いをした血のにじむ歴史路程があったということを、知らねばなりません。これを大切に、これを高く、これを立てるために、闘ってきたことを知らねばなりません。 皆さん、その日は近づいているのです。皆さんが眠る時間にも近づいており、闘う瞬間にも近づいているのです。何かを考える時間にも近づいており、皆さんが子供を抱いて愛するその瞬間にも、近づいているのです。いかなる瞬間、いかなる刹那も止むことなく、我々の心に向かって肉薄しているのです。我々の生活に侵犯してきているのです。我々が眺めている世界に向かって、攻撃しているのです。その一日を心から生活において、家庭で、社会で、国家で、世界で、両手を挙げて歓迎する一人の王者がいないのです。天はこんな者を求めておられるのです。 9. 天が求めている人間と新しい一日 皆さん、皆さんはどのような生活観を持っていますか? どのような主義を持っていますか? どのような世界観を持っていますか? 皆さんが持つべき世界観は、それではありません。天は新しい理念にもとずく世界観、この理念を中心とする世界観、社会観、家庭観を持って、この理念を中心とする人格者を願っておられるのです。それゆえ自分一身からこのような人格を得て、家庭、社会、国家、世界の門を開き’神様おいでください’とできる者になるなら、審判台を越えるのです。何の話か、理解できますか? イエスが主張した主義がこれであり、神が求めておられることがこれなのです。こんな世界観なのです。このような人格を得て’アボジよ、私が死亡の世界の門を開けますからおいでください。この死亡の社会の門を開けるので、アボジよ、おいでください。死亡の家庭の門を開るので、アボジよ、おいでください。死亡の実体の門を開けますから、おいでください’とすることのできる一人の王者を、神は求めておられるのです。 皆さん、地の上でこんな人間に会って見ましたか? 来ては行ったイエスがこのような事をされたのです。イエス様は神の国を語ったのです。誰でも天におられるわが父のみ旨の通りにする者なら、わたしの兄弟、姉妹、母であるとされたのです。家の中の食口も、そうでなければ怨讐だとされたのです。異なるということです。彼は徹頭徹尾なるお方です。’わたしの手に釘打ってもわたしは死ない。釘打たれて死ぬわたしではない’とされたのです。死なない自分があったのです。それゆえ我々も、このように徹頭徹尾なる宇宙観を基盤にした世界理念を得て、死亡の環境にあっても’天よ、この世界の門を開き、この民族とこの社会の門も開いたので、おいでください’とすれば神様も’どうれ’とされないはずがないのです。 それゆえ死亡の波が揺れるこの地上で、自分の心の門を開き、家庭の門を開き、社会の門、世界の門を開いて’アボジ、おいでください’とする者にならねばなりません。審判の日が来る前に、審判を通り越す息子・娘が出なければなりません。そんな存在が出てこそ世の中は滅びないのであって、出なればみな滅んでしまうのです。 人間は人生観を持っています。世界観を持っています。しかし私は心情を通した宇宙観を持つことを願っています。人間は理論的なことだけでは、安楽にはなれません。人間は理論だけで、動いているのではありません。これを知らねばなりません。天宙観を持てば言わなくても、対すればみな通じるのです。 今日人間のまえに、君が誰で僕が誰と言わなくても、この世で最も近い兄弟や父母のように、誰よりも近くなることができる心情が、刺激されるその何かが必要なのです。これがあれば兄弟を捨ててそっちに行き、父母を捨ててそっちに行き、国家を捨ててそっちに行き、世界を捨ててそっちに行くのです。これは論理的な限界の人格、空想し想像して成る人格ではありません。自然的であり、自動的であって、天倫に通じることができる人格なのです。天情が動き、人情的なすべてのものを自動的に支配する心情的な人格がこの地上に現れたなら、世界はじっと放っておいても統一するのです。天はこんな一日を待ち焦がれているのです。 こんな刺激を起こさせるには、どうしなければならないか? 堕落していないとき、神が抱いて愛されたそんな息子・娘が、この地上に現れなければなりません。サタンを壊滅させて、サタンの讒訴や悪の侵犯がない、恐怖と不安を感じない幸福の園で、その場は永遠無窮に太平であり、永遠無窮に自由であり、どこに行ってどのように抱いて愛して、どうして誰がどうだということのない、自由の天地の園において、神が抱いて愛することのできる息子・娘が現れなければなりません。であればこの世界は、一瞬の間に統一が成るのです。私はこのような事を考えるごとに’アボジ、どれほど慕わしいでしょうか?’としないわけにはいかないのです。 10. 新しい一日を迎えるための我々の責任 この慕わしい心は、創世以前からお父様が慕っておられた心なのです。そうじゃありませんか? アダムとエバを生む以前から待ち焦がれた心、万物を創る以前からあった心なのです。この心情を満たすために、天地を創造されたのです。しかし神は無限に哀れなお方です。罪悪の子を抱いて愛する息子とする他はない、たまらない立場の神様、罪悪なる息子・娘が生きているこの地上に来て、引き裂かれ、傷を負い、追われる神であることを皆さんは考えなければなりません。 神の心情は引き裂かれているのです。神は慟哭されているのです。神の心情にはズタズタに裂かれた傷痕があるのです。民族が倒れ、新しい民族が興るときごとに、歴史のどの一頁にも心情の曲折が染みていることを、皆さんは知らねばなりません。 神は堕落の歴史路程において、このような心情を抱いて来られたので、皆さんはこんな伝統的な心情を抱く神と、心情的に結びつかなければなりません。であるなら無限に悲しかった神を知り、無限に苦しかった神を知らねばなりません。無限に憤り、悔しかった神を知らねばなりません。 それでは誰のゆえに、神がそうなのでしょうか? 人類のゆえに、我々のゆえに、この世界のゆえにです。ですから地上に生きる我々は、神の恨を解いてあげなければなりません。神の悲しみと苦痛が終わらない限り、悲しみの歴史を抱える神であることを知るなら’アボジよ、あなたの悲しみを私に分け与えてください’とする息子・娘にならなければなりません。与えてくれなければ奪ってでも、負うのです。 奪ってでも神の悲しみを負う息子・娘にならねばなりません。お父様の苦痛が私の苦痛であり、お父様の悔しさが私の悔しさだとする息子・娘が、この地上に出なければなりません。どころがこんな息子・娘が、何人いるでしょうか。イエス様を信じて天国に行くの? イエス様を信じて平安になるの? こんな人間は天の逆族です。やるべき事をみなやってこそ、天国に行くのです。やる事をみなやってこそ、福を受けるのです。やるべき事もやらないで、天国に行って福を受けるの? そんな人間は強盗です。これを知るべきです。 今皆さんは神の悲しみを引き受ける、王者にならなければなりません。イエスはそんな王者だったのです。死を独り引き受ける王者だったので、救世主になったのです。死によって倒れたのですが、復活の権限によって生き返ったので、死亡圏を支配することができる王者になったのです。イエスは隠れた涙を多く流しました。皆さん、聖書にはこれがわずかしか記録されていないのです。自分の涙、血、感情、ここにはイエスのすべての五感の感情が、こり固まっていることを知らねばなりません。イエスと共に泣いた者、イエスと共に苦痛を受けた者、イエスと共なる感情に浸ってみた者、そのような者でなければなりません。皆さんは統一教会を訪ねて来たのですが、過去のそんな習慣的な信仰を持っていては駄目です。統一教会の信仰はそんな信仰と、根本的に違うのです。 11. サタンが最も恐れる人 サタンが最も恐れる者とは、どのような者か。霊と肉を合わせて、神が負う十字架を代身して負う者です。神の愛を受けようという者は、サタンが笑うのです。’神様、私があなたの十字架を背負います’という者は、サタンが最も恐れるというのです。’神様、私が悔しさを担います’とするとき、サタンは逃げ出すのです。 ですから終わりの日の聖徒には、必ず艱難が来るのです。神が耐えてこられた峠ごとの曲折を初めとして、悔しさと背反と排斥と迫害と死と、歴史上の血のにじむすべての痕跡が、皆さんを襲うのです。しかし天に対する一片丹心、’わたしの思いのままにではなく父のみ旨の通りになさってください’というこの心情を、誰が支配できるでしょうか? アボジと私との心情的な因縁を、誰が断ち切れるでしょうか? サタンの権勢ですか?とても駄目です。死亡の権限も、とても駄目です。この心情を何が支配できるか! これを捜し求める路程において、どんな困難も耐えて越えてゆく基準を持つ者であってこそ、最後の審判台を越えることができるのです。そんな者だけが、神が求め、人類が求めている新しい一日を迎えられるということを、よくよく知らねばなりません。 愛と絶対的な善は、永遠です。初めと終わりが同じなのです。ところがアボジから恩恵を受け、喜んで踊りを踊って誓う瞬間に、変わってしまう者はサタン側です。我々は’アボジと共に、心情的に結ばれた心を誰が占領できるか。サタン世界の死亡圏よ来い、サタン世界の血の曲折よ来い、サタン世界の何であっても来い、世紀末的な恐怖や七年の大艱難、全部いっぺんに押しかけて来い。私は占領されない。そんなものでは私を占領することはできない’とする基準、心情的にアボジを呼ぶことができる勝利の礎を、持たなければなりません。 こうして’サタン世界でこのようなみ旨のために闘って来たアボジよ! この死亡の世界でいつの日に、こんな息子・娘に会い、慰められてみましたか? 慰労されなかった神様! 今日、私が慰めて差し上げます’としなればなりません。このような者は新しい時代、新しい日に神の息子・娘になるのであり、世界を遺業として受けることができる堂々たる資格者であることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.17
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天の心情を誰が知っていたか 一九六〇年一月十七日(日)前本部教会 今日、皆さんにお話しするみ言の題目は’天の心情を誰が知っていたか’です。このような題目でお話しします。 1. 堕落した人間を見やる神の心情 万物を創られる前に、すでに神には創造されようとする心情があったのです。この心情は創造理想として、これを実現するために神は創造の計画を立てられ、万物を創り始めたのです。 神の願いはこの心情が通じることのできる創造理想の世界、創造理想の人間、創造理想の万物であったのです。ところがこのような理想の世界、理想の人間、理想の万物にならなかったことが、神の恨であるのです。 なぜ、このようになったのか? 皆さんが知っての通り、堕落したがためです。永遠無窮に神の心情を中心にして、創造理念と共に動じてゆくべきであった創造物は、善の起源を求められないまま今日まで、天と人間、天と被造物とが各々かけ離れた動きをしてきたのです。本来は神のみ手を経る因縁を持っており、神の心情の対象として切っても切れない因縁を持っている万物と人間であるのですが、今日では神のみ手が我々の体にも心にも及ぶことなく、神の心情もまた万物にも我々の身にも留まることがないのです。このように嘆かわしいことになったのは、堕落の結果であることを我々はよく知っています。 堕落した人間を見るその日から、神は堕落した世界を見なければならず、堕落した人間に対するその日から、神様が苦待された創造理想世界は、心のおく深くに秘めておく他はなかったのです。理想はあっても、この理想を実現することができず、万物に対する度にこの理想を成したい心は動くのですが、この理想の心を表現することができない天であったことを、皆さんが知ってこそです。神が創られた万物であるのに、神のものではなく、神が愛すべき子女であるのに、神が愛することができる子女ではないのです。それゆえこの地を見やる天は喜びの天ではなかったのです。悲しみの中の悲しみを感じる天であり、苦しみの中の苦しみを感じる天であったことを、我々は知らねばなりません。 神は本来人間をして、ご自身の直系子女という名分を得させるべく創られた因縁を放棄することができないので、再び求める歴史、即ち救援歴史、再創造の歴史を開始されたのです。失った者を捜し求めるための歴史路程において、神は多くの悲しみを綴って来られたのであり、この悲しい心に同情する一人の人間がいなかった神の心情を、皆さんは知らねばなりません。このような中で天は悲しみの心情を抱き、堕落した人類の後について来たのです。先に立つことなく、後について来たのです。死刑囚の父母が刑場に引かれる息子の後をついて行くのと同じく、神は死の手に引かれてゆく人類、宇宙的な死刑囚のような人類の後について来たことを、我々は知らねばなりません。 神様はご自身の思いのままに主管して愛しても余りあるこの人類を、サタンの掌中に置き、サタンのまえに蹂躪され、引き裂かれる祭物の立場におく度に、無限の苦痛を感じたのです。個人をこんな立場におくとき、個人的な十字架の苦しみを感じ、家庭や民族、あるいは国家をこんな立場におくとき、ここに相応する十字架の苦痛を感じざるを得なかった天であったのです。これを我々は念頭に入れておいてこそなのです。 2. 人間に対して抱いている神の心情と所望 それではどうして神が、こんな事情におかれるようになったのか? 人間が堕落したからです。神はいかなるお方か? 人類の真の祖先です。私とは切っても切れない、私の本質と因縁を持つ父なのです。このアボジがこんな事情にあるという事実を、我々は知らなかったのです。天は人間がこんな立場を破壊し、再びアボジと呼ぶことができるその日が来ることを望み、また願っておられるということを、知らねばなりません。天のみ旨を知って天を求め、天が動いている方向に従って修道の道を開拓してきた人々も、この一日を待ち焦がれてきたのです。 ですからこの日は、アボジが苦待される日であり、息子・娘も苦待する一日なのです。この日は失われた息子が死亡の鎖を切って、解放の姿として再び帰り、アボジと呼ぶことのできる日です。本然の園において創られた、その本然の真の息子・娘として、本然の心情でそんなアボジを呼ぶことができる日なのです。この一日が人類が願い、神が願う日であることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 このような心を抱き、天は歴史路程に対して来たのです。罪人の中の罪人たる人間に対するときもこのような心が消えることなく、死にゆく息子・娘に対される場であっても、この心は消えることがなかったのです。またこのようなことを嘆き、善の方向を求めてさまよう数多くの道人たちが動じる場にも、神は離れることがなかったのです。一人の罪人から、善に向かい義にもえて泣き叫ぶ一つの命に至るまで、いかなる環境、いかなる時代を問わず、天は同じ心情を持って対してきたという事実を、知らねばなりません。 このように善なる神であり、このように我々を愛されている神である故に、人間が罪の中に囚われているとしても’わが息子よ、娘よ’という思いが消えることはなかったのです。この感情が消えることがないので、彼らに対されるとき、天は無限の苦痛を感じざるを得ないということを、知らねばなりません。悪なる息子・娘を見やって苦しみを感じる神は、善を求めてゆく息子・娘がいるならば、彼らにわが苦しみを解いてくれと、求めざるを得ない立場です。これが天の心情なのです。それが故に善を指向して修道の道を行く数多くの人々が、罪人を抱いて倒れていった事実を、我々は歴史路程を通して知っているのです。 それではどうして天はこんな作戦を指示されるのか? 天は死にゆく息子・娘に対しても、息子・娘という感情を失うことがない故に、やや善なる息子・娘を動員して彼らを救いたく、助けたいのです。これがアボジの心なのです。ですから天は、六千年という永い歳月を罪人たちのために、悪なる群れを救うために、善なる息子・娘を死の場に押しやることも意に介さなかったことを、我々は知らねばなりません。 我々が信じる神は、誰なのでしょうか? 我々の父なのです。我々のアボジはどのようなお方か? 神は父母の神ですから、死亡の絆に捕らわれた息子・娘を見やるとき、彼らを助けたいのです。それでアボジに従う息子・娘を犠牲にしても意に介さず、歴史を率いて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。この心が摂理歴史を率いる本心なのです。 ところがアダム以後六千年の歴史が過ぎ去りましたが、罪悪に染まる人類がいつ、こんなアボジを呼び、いつこんな事をされているアボジを思い、感謝したでしょうか? そんな者が何人いるでしょうか? いないと言って、過言ではないのです。 どうして天はアダム家庭に対するとき、無限に悲しい心情で対されたのでしょうか?アベルに対する心とカインに対する心が、どうして違うのでしょうか? 本心からわき起こる心情においては、それもこれもみな息子・娘の立場ですから、差別の心情で対しなければならない天の事情があったのです。このように切ない立場の天であったのですから、アベルの供え物は受け、自分の供え物は受け取られないとカインがアベルを撃ち殺したことは、神を打つことよりも憤ろしい事実であったのです。 こうして人類の歴史は、神の心情と因縁を結ぶことなく始まったのです。神の真の心情のまえに反旗を掲げ、背反と怨恨と不満を吐きだし始めたのが、カインの歴史なのです。こうして神の心情に対する心情の歴史は絶たれ、背反の歴史の代を重ねてきた世界が、今日の天地であることを我々は知らねばなりません。 背反することによって堕落の心情を重ねたカインの歴史を、我々は無限に嘆かざるを得ません。神と父子の因縁を結んで、神の心情の歴史が展開すべきなのに、そうではなく背反の心情、反逆の心情が代を重ねてきたが故に人類歴史路程において、神の心情の歴史が現れることはなかったのです。神が愛することができる息子・娘が、地上に現れなかったのです。 我々は恨を抱かねばなりません。自分の体に走る心臓の鼓動の音を聞くとき、我々は恨を抱かねばなりません。この脈拍はどこから出発してきたのか? カインの心臓からなのです。カインの心臓の音が、今皆さんの体の中で響いているのです。さらにはカインの血と因縁を持ち、善に相反することを楽しんでいる立場で、サタンの血が駆けめぐる自身であることを、我々は知らねばなりません。 3. 神が嘆く原因と人間の責任 天が今まで、嘆く原因がどこにあるのか? 心情の起源を同じくし、天と共に生活し、共に万物を主管すべき人間であり、直系の子女の立場にあるべき人間であるにもかかわらず、そうはならない立場に立ったのです。その反面、サタンと同行し、サタンを中心に生活し、サタンを中心に世界を主管しているのです。この世界は悪を中心に、悪の事情に通じ、悪の心情と結託して成っている世界であって、善を中心に善の事情に通じ、善の心情と結託して成っている世界ではないのです。 ですから善を指向して良心の清い人間であるなら、誰もがこの世の中は嫌だという感じを抱くのです。この世の中が自分の本心とは、逆になっているからです。世の中がこうですから、天は見えないところで歴史路程を通して’道’を立て、人類を率いて引っ張っているのです。この中で代表的なものが、キリスト教です。 我々人類が感じ、見て感覚する一切のものは、神によるものではないのです。認識を徹底させなければなりません。神によってすることではありません。自分が好むものは、誰によるものであるのか? サタンによるものなのです。これを知る人間がどれほどいるでしょうか? 人類はどんな人間になるべきか? 差しあたって好み、喜ぶすべてのものは善の神様、我々のアボジを起源として成っているものではなく、サタンの舞台で成っているものであることを知って、この楽しみの場を蹴とばし、喜びの場を跳ね退けて行かなければなりません。このような運命におかれているので、修道(道)というものは、サタンの舞台から離れようとするのです。自分が暮らしているこの家庭から離れ、この社会から離れ、この世界から離れようとするのです。離れてどこへ行くのか? 新しいところです。サタンと因縁をもって動いているこの世界ではなく、神と因縁をもって動いている世界なのです。そこが人間が望む本然の世界です。 皆さんは今まで、勝手に生きてきました。今まではこれが良い、あれは悪いといって、良い悪いを分けて生きてきたのですが、皆さんが好むそのすべてのものは、天を起源としていないということを、よくよく知らねばなりません。 これはむしろ神を悲しくさせる材料なのです。これを怨讐視して、打ってゆく者になるまでは、本然の世界に入ることはできせん。この世の中にこのような息子・娘を立てようとする天と、鉄壁にようにこれを塞いできたサタンとの闘いが、今までの歴史路程なのです。 皆さんがのらくら寝ているその家庭が、自分が留まる家庭ではないことを知らねばなりません。自身が動いているこの社会が、我々が望む社会ではないことを知り、二つの目で見るこの地区が、我々の理想とする地区ではないことを知らねばなりません。この被造世界が自分のものになっていないことを知るのです。’私のものなのに怨讐のものになっている。本来は私のものであったものを、怨讐に奪われたのだ’という心情に染みて嘆き、泣き叫ぶ群れが、地球上にどっと溢れてこなればなりません。 このような群れが出てくるまでは、歴史の恨を解く道がないのであり、歴史の恨を解くまでは、希望と愛と理想を成す神の愛の心情と、因縁を持つことができないのです。ですから世界を大審判するというのです。憤りを解いた後に、願った心情の世界を成すというのです。これが地上天国なのです。 4. ノアを中心に摂理される神の心情 ご覧なさい。カインだけが神に背反したのではありません。天はカイン以後一六〇〇年目にノアを立て、苦労されることを意に介さなかったのです。天に対してきたノアも、天のみ旨を受けることを意に介さなかったのです。ところが神はノアを知るのに、ノアは神の本当の心情を知らなかったのです。神はアベルとカインを知るのに、アベルとカインは神の心情を知らなかったように、ノアも神の心情を知らなかったのです。また、その当時の人々も、神を主とするノアの心情を知らなかったのです。 皆さんはこれを知らねばなりません。神はノアをよく知っていたのです。よく知って、ノアが神の心情を代身して神の恨を解いてあげるなら、このときに喜びの息子として、み旨を抱いてノアを見つめる神であったのです。福があるというなら、これ以上の福がどこにあるでしょう? 祝福があるというなら、これ以上の祝福がどこにあるでしょう? 栄光があるというなら、これ以上の栄光がどこにあるでしょうか? 天はこのような心情でノアを見つめていたのに、従うノアはこんな神の心情を知らなかったのです。 復帰摂理路程において、神はこんな事柄を重ねて綴ってきたのです。皆さん、知らなくても付いてきたノアが、どれほど哀れでしょうか? 分からない立場でもノアを抱きしめてきた神が、またどれほど哀れでしょうか? 分からなくても神のみ旨の為に生きると、喘ぐノアだったのです。天はこんなノアがご自身の心情を知ってくれることを願ったのですが、ノアはその心情を知らなかったのです。知らぬノアの心情も不安だったのですが、神の心情はさらに不安だったのです。ノアも神を知らないのですが、ノアと共に動くノアの友達も、ノアを知らなかったのです。神様はこのように知らない息子・娘を抱えて、その苦喪がどれほど大きかったかを、我々はよくよく知らねばなりません。 ノアが一二〇年間苦労した後に神は洪水審判をされたのですが、その後に残ったものがノアの八人の食口でした。ここに神は何を待ち望んでいたのか? 堕落しない天の食口として、天の家庭として神をアボジとして侍って愉むことを苦待したのですが、ノア自身がこれをよくよく知らなかったのです。自身は本然のアダムの資格を復帰すべき立場でありアダム家庭によって結ばれた恨を蕩減復帰すべき立場として呼ばれた自身の八人の食口だということを、ノア自身が知らなかったのです。ノアが知らないと同時に、ノアの息子・娘も知らなかったのです。ハムもノアを知らなかったのです。憤ろしく悲しいことが何でしょう? 他人が知らないことに耐えることであって、死ぬなら共に死に、喜ぶなら共に喜び、悲しむなら共に悲しむべき食口が、知ってくれなかったのです。これが天の悲しみだったのです。 このために天の歴史は延長されたのです。世の中の人間が知らなくて延長されたのではありません。知らなければならない群れが知ってくれないので、天の歴史は悲しみが加重されていったということを、よくよく知らねばなりません。ノアのまえにハムがそうであり、モ-セのまえに民族がそうであり、イエスのまえに使徒たちがそうだったのです。歴史はこのように下ってきたのです。知ってくれることを願って育て養った群れが、分かってくれなかったので、天のみ旨は壊され、引き裂かれて下ってきたのです。 5. アブラハム家庭を通した神の摂理と教訓 神がアブラハムを召命されて、カルデアのウルを離れよとされたとき、アブラハムは神の召命に応えて離れたのです。故郷を捨てて離れたのです。なぜ? そこはアブラハムが棲む世ではなかったからです。この世は恨みを受けるべき世、呪咀されるべき世でした。どんなに愛する父母や親戚たちが暮らしている地であっても、この地は天の人間が住む地ではないので、神はアブラハムを寂しい荒れはてた荒野へと押し出したのです。’カルデアのウルを離れよ’とされたのです。 アブラハムは今日皆さんが聞いている内容を知らない立場で、この罪悪の世を蹴とばして無条件で出発したのです。神様に祭物を捧げるときも、内容も知らないで祭物を捧げたのです。イサクを殺そうとしたときも、その命令の意味も分からないで、無条件に従ったのです。このように知らない立場で、天のみ旨を受けていった我々の先祖たちの歴史であったことを、知らねばなりません。責任を負う人々は知らなくても、天を尊ぶために重要視していったのです。これを知る家庭は、多くはなかったのです。 アブラハムからイサクを経て、ヤコブ時代になって、ヤコブが十二子息を連れてラバンの家から帰った目的が何であったか? この一代で、天的な家庭の基盤を造るためだったのです。天の祝福を慕い、自分の兄をだます事までやったヤコブでしたが、彼の息子・娘はこのような父を知らなかったのです。彼らはヤコブが愛するヨセフとベニヤミンを妬み憎んだのです。これが起源となり、条件となってイスラエル十二支派が、十支派の型と二支派の型に分かれる動機になったのでした。 このように歴史路程において天を尊ぶ責任者は、天のみ旨が貴いということを知って、これに従って動いてきたのですが、その責任者を知るべき食口が分かってあげないので、天の歴史を台無しにしてきたことを、皆さんは知らねばなりません。 アダムとエバとその子女を復帰するための神のみ旨を、アダムの息子が背反するのか!ノアを通して成そうとしたみ旨を、その息子ハムが背反するのか! ヤコブを通して成そうとしたみ旨を、ヤコブの息子が背反するのか! サタン世界にいる者たちが背反して、知らないでいるのは当然かもしれません。しかし天に従う指導者の元で、あるいは父母の元にいる子女たちが従って来なかったので、築いてきた先祖の功績が蹂躪されて下ってきた歴史的な事実を、我々はよくよく知らねばなりません。怨讐がどこにいるのか? 門の外にいるのではありせん。イエス様は語られました。自分の家の食口が怨讐であると。このみ言は、信じない者、背反する者、天と関係ない位置で行動する者が怨讐だという意味です。 神は知らないで従うノア、アブラハム、ヤコブのような先祖たちを率いて来たのです。天は知らない者たちを立て、懇切なる心情を知ってくれることを願ったのです。どうしてこのような先祖たちを、指導者に立てたのか? 皆さんは原理を学んでよく知っているのです。しかしこれを我々の先祖たちは知らなかったのです。知らないで従ってきても、天はみ旨のまえに背反するとき、彼らを打つのです。容赦する法がないのです。 6. モ-セとイスラエル民族を中心とした摂理 ヤコブ時代を過ぎて、モ-セ時代も同じだったのです。モ-セを立てて、彼を長子イスラエルの指導者として立てようとされた天の心情を、モ-セ自身も知らなかったのです。パロ宮中、怨讐の宮中に送り、豪華絢爛たる環境で育った理由を知らなかったのです。 しかし民族精神を失うことなく、モ-セは自身のまえに豪華絢爛たる栄光が幾重にもあればあるほど、それが自身の生きる世ではないという信念が、積もっていったのです。 アブラハムもこんな信念の下に天のまえに立ち、ノアもそうであり、ヤコブもそうだったのです。モ-セもそんな立場であったのです。どんなに豪華絢爛たるパロ宮中であったとしても、怨讐の宮中だという心が、鉄石のごとく固かったのです。四〇年をパロ宮中で暮らしたモ-セは、いかなる日とて幸福な日は、一日としてなかったのです。自身の民族が悲嘆の中にいることを見つめるときに、死の恨があったとしても、引き裂かれる恨があったとしても、恐怖が襲ってきても、民族を救いたく、民族に同情する者として、民族の為に死ぬという心情が先立ったので、イスラエル民族に向かって帰っていったのです。 このようなモ-セの気概を、誰が知っていたでしょうか? イスラエル民族を愛する心を持つモ-セであることを、このときイスラエル民族の中で誰が知っていたでしょうか? もしもこのときイスラエル民族が、こんな志操を持って天を擁護し、選民を救うという心情を持ったモ-セと一つになっていたなら、天の歴史は延長されなかったのです。 しかしモ-セがイスラエル民族のまえに現れ、新しい信念のみ言、新しいみ旨を語るとき、背反することを事としたイスラエル民族だったのです。この群れが互いに争うのを見やるとき、モ-セの義侠心は燃えたのです。互いに団結して怨讐と戦わねばならない立場なのにこれを知らず、同族同士が互いに争ったので、これを見る彼の心情は切なかったのです。盛んに民族愛に燃えているときに、怨讐の国のエジプト人と同族のイスラエル人が争うのを見たモ-セは、その場でエジプト人を打ち殺したのです。イスラエル民族全体がこの時モ-セの側になって一つに団結したら、神の摂理はこの時から始まったのです。 四〇年の延長はなかったのです。民族を伴って行かなければならないモ-セは、民族の背反によって、ミデアン荒野四〇年という延長の道を、歩まざるを得なかったのです。パロ宮中で苦役を受け、イスラエル民族を奪って荒野に率いて行くモ-セと、彼に従って行くイスラエル民族は、さらに惨めな人々だったのです。 今はある主権、ある価値、ある社会的な背景が目的ではなく、ある環境やある社会を建設することが目的ではありません。神が願うことが何であるかを、知ることが目的です。 神が願う所がどこでしょうか? 神が願う地がどこでしょうか? 神も行きたく、人類も行きたい所が、どこでしょうか? そこが目的地です。 であればイスラエル民族が団結して’神が願う所がどこでしょうか?’とモ-セの後に従って、生死をものともせずにカナンの地へと駆けて行くなら、彼らは荒野で倒れることはなかったのです。神のみ旨を知らず、導かれるままに行くモ-セに対される天は、いかなる瞬間も休む間もなく、たとえモ-セが眠っている瞬間であっても、気づかって民族を見つめておられたことを、知らねばなりません。 どうなるか分からない場にモ-セを押しやって導いた天の心情も切なかったのですが、切ない場にいるそのモ-セを、イスラエル民族が分かってくれないことがさらに憤ろしいのです。ですからこの民族は、審判を受ける他はなかったのです。審判はこんな場面で起こることなのです。こうしてモ-セはみ旨を成すことなく、彼の後継者がカナン復帰のみ旨を成したのでした。 7. イエス様を中心とした神の摂理と福音の中心内容 モ-セもそうだったのですが、さらにはイエス様の時代を回想してみてください。イエス様は何故にこの地上に来られたのか? 四千年の歴史路程に来ては行った信仰の先祖たちは、知らない中で神を信じ、知らない中で天を所望として従って来たのですが、イエス様は哀れなイスラエル選民のまえに、天の心情を告げるために、追われても率いてきたお方です。この四千年の間、知らない者たちを導いてきた天の心情は、どれほど憤ろしく切なかったことでしょうか? 天はこの心情を抱えて何にも知らないイスラエル民族のまえに、メシアが来ると数千年の間、準備させてきたのでした。彼が来る日には天の心情を知るように、神の内的心情を預告させたので、イスラエル民族は知らない中でメシアを望んでいたのでした。こんな民族が、メシアを否定したのです。もしもメシアを望んでいないイスラエル民族であったなら、審判を受けることはなかったのです。 天はイスラエル民族に、知らない彼らを導く苦喪を打ち明け、わたしは誰であり、あなたがたは誰という事情を、分かち合いたかったのです。この事情を分かち合うために、四千年目に天の召命を受けたメシアが、イエスだったのです。イエス様によって歴史は照らされ、イエス様によって心情は明らかにされ、イエス様によって新しい世界は展開したのに、もしもそのときイスラエル民族がイエス様のまえに帰依し、イエス様が死ねば共に死に、生きるなら共に生きる団結する民族になっていたなら、今日この世界は原爆の恐怖におびえる世にはならなかったのです。 イエス様はこの地上に何を持って来たのか? 新しい宣布をするためのみ言を持って来たのです。新しい宣布の内容が何であるか? ’わたしはあなたがたの父である’ということです。さらには’あなたがたはわたしの民’ということです。イエス様はこのように宣布する内容を持って来られました。さらには、良いという名詞をすべて許すために来たのです。罪人であった人間が神の民になることができ、罪人であった人間が神の息子・娘になることができ、罪人であった人間が神の新婦になることができ、罪人であった人間が神を代身することができること以上に、良い知らせがどこにあるでしょうか? 持って来られた福音の、中心内容がこれなのです。 イエス様は宣布しようと来られました。四千年の間、恨を抱いて悲しんできた神の切ない心情を、宣布するために来たのです。しかしイエス様は追われたのです。草が茂るベッッサイダの野原に五千人の群衆を集め、食べる物がなく、神に哀願の祈祷を捧げたイエスだったのです。準備した聖殿は数多くあったのですが、その所が安息の居場所とならず、体をのべる所とてなかったイエスだったのです。 公然と設けられた宮殿の祭壇で神を呼び、議論すべきイエス様が、キャベツ畑の畦道で訴えるイエス様になったのは、これは何としたことか? 四千年の間準備したエルサレムの聖殿は、誰のためのものであったのか? 神の事情を告げ、心情の因縁を宣布するその主人公を迎えるために準備した、エルサレムの聖殿であったのです。しかしこれはイエス様の前には、なくなってしまったのです。平安なる場において、天のすべての事情を宣布しなければならないイエス様が、ゲッセマネの園が何としたことか? そこまではそれでもいいのです。終いには十字架の道、ゴルゴダの道とは、これは何としたことか? 彼は信じる者を慕ったのです。ユダヤの民を捜し求めたのです。信じる者を捜し、信じてくれる者を捜し、分かってくれる者を捜したが、信じる者も求められず、信じてくれる者も求められず、分かってくれる者も求められなかったのです。さらには愛する者を求めたのに、それもまた求められず、イエス様は仕方なく十字架を背負って、この地上から追放される悲しい身となってしまったのです。 悔しい天の心情を宣布するために来られたイエス様、天が約束された天的な福を与えるために来られたイエス様、選ばれたイスラエル、苦労したイスラエル、悔しかったイスラエルのすべての願いを成就させて、世界のまえに誇れる祭司長国家を成すために来られたイエス様を追い出したために、今日イスラエル民族は、このように悲惨になってしまったのです。みなイエス様を殺した、罪の代価なのです。当然、受けなければなりません。 8. イエス様はどのようなお方として来られ彼の目的は何であったか? それでは来られたイエス様は、どのようなお方であったか? 彼は無形のアボジを代身する実体のアボジだったのです。実体のアボジ。彼は我々のアボジなのです。死んでも我々のアボジ、生きても我々のアボジなのです。人生を捧げて侍るべきアボジ、永世の国でも侍るべきアボジなのです。ところがこの父は息子・娘に会って、一度も息子よと呼んでみず、一度も娘よと呼んでみないまま、息子から追われ、娘から追われ、終いには槍で突かれて死んでいったのです。悲痛なる事の中で、これ以上に悲痛なる事がどこにあるでしょうか? ですからイエス様は地上の来て’わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれには堪えられない(ヨハネ十六:十二)’とされたのです。彼は父として、子女に言うことも言えなかったのであり、新郎として新婦に言うことも言えなかったのであり、万王の王として言いたいことも言えなかったのです。その当時のロ-マの法に引っ掛からない程度のことしか言えなかったのです。それがイエス様が言いたかった言葉でしょうか? 違います。違うのです。怨讐の地でイエス様が自身の心情をすべて打ち明けたら、その場で捕まるのです。そんな状況だったのです。サタンが主管するこの世界においては反動分子であり、反逆者になってしまうのです。それゆえ天は極めて小さいが、このような事情を預告する一つの国家形態を造っておいて、こんな話をしなければならないイエス様を送られたのです。 祭司長と律法学者、イスラエル民族全部が一つに団結して、イエス様がどんなみ言をされても一言も聞きもらすことなく実践したなら、イエス様のみ言を中心にした理想世界は始ったのです。しかしイエス様はこのような環境を持てなかったのです。祭司長、律法学者は、行く所ことごとくイエス様の怨讐になったのです。捕らえようとしたのです。こんな局面ですから、イエス様は自分が誰であり、あなたがたは誰かということも話さずに逝かれる他なかったのです。これはどんなにか不幸なことでしょうか。 天は四千年の間苦労したご自身の事情を知らしめるために、事情を解いて手に手を重ね’アボジ!’’わが息子・娘よ!’とする一日を見るためにイエス様を送ったのですが、送ったことが恨になったまま、キリスト教二千年の歴史を成した来たことを私は知っております。 今日堕落した人間の中で善を望み、良心の指向する方向に従おうと喘ぐ人々は、何を願うべきか? ’神がおられるなら、神よ、あなたの事情を知らせてください’としなければなりまん。先祖たちが寂しこ、死の道を行き、血を流す道をものともせずに行ったのは、何のためか? 神の事情がそうであったからです。 神の事情を知ったら、次に何をすべきか? 神の心情を知らねばなりません。すでにお話した、父子の心情です。これを知ってこそ、神が私の父であり、私は父の息子・娘となることができるのです。天地が崩れる恨があっても、これだけは変わりません。これが解決されて初めて、所願とするその基準が立つのです。この瞬間、天地の逆転が正に回転するというのです。このようになる時が、終わりの日なのです。 このように知らない人類、知らない先祖たちを指導してきたことが、神の悲しみであることを、皆さんは知らねばなりません。神はこれを知ってくれる人間が出てくることを待っていたのです。こうしイエス様がこれを知り、これを知らせるために来られました。来られて新しい宣布をしなければなりません。何を宣布するのか? 天国建設の青写真を宣布するのです。人間が失ったエデンの園をサタンが所有しているので、このサタンを撃破して、新しい本然の園を建設する内容を宣布するのです。その宣布文はこの聖書には載っていません。みな捨てられたのです。ですから二千年の歴史路程は、しどろもどろの歴史であったのです。 9. 再び来られる主の使命と信仰の目的 この世界を率いてゆく主人が誰か? 民主主義でもなく、共産主義でもありません。よくよく知らねばなりません。この世界の主人が誰かといえば、神の独り子である万王の王なのです。このお方が主管される世界ですから、死亡の世界に留まっている数多くの人類は’おいでください、メシアよ’というのです。 このお方が再び来られたら、何をされるのか? アダム以後六千年の間に積まれた神の憤る心と、恨み多い心を隅々まであらわにし、先祖の恨を明らかにし、従い尊ぶべき人物たちが背反したことを明らかにし、からんだ曲折を残す過去の傷痕の歴史路程を、再び反復することのないようにすることです。これを成すために、これを宣布するために来られるお方が、主様なのです。このお方はサタンを糾明して審判台にのせ、人類を糾明して審判することができる原則を立てておき、その次に天国の法度を宣布されるのです。わたしが求める息子・娘はこのような息子・娘、わたしが求めるその息子・娘が暮らす家庭はこのような家庭、わたしが建設する社会はこのような社会、わたしが成すべき国はこのような国であると宣布し、その統治圏内に世界を引き入れ、天と地が一つに和する基台を造った後に、神の国を宣布することです。 今日我々が信じている聖書のみ言、六千年の摂理を支えてきた聖書のみ言があるとしても、これは怨讐の国でなされたみ言ですから、心をゆるして語った言葉は一つもないのです。これをよくよく知らねばなりません。天国に通じる理想的な言葉はサタンが讒訴するので、呪咀する立場でされたみ言です。’讒訴するおまえの権限が何であり、おまえが讒訴する理由が何か?’とサタンを踏みつけ、勝利的な基盤の上でされたみ言は、一言もないのです。これを信じているのです。 キリスト教信徒はこの聖書を信じているのです。聖書を読み、聖書を学ぶ目的は、聖書の句節を離れたところにあるのではありません。イエスの行跡を知ることが目的ではありません。良くても悪くても、イエスがなぜ来たが行ったか、こんなことを知らなくても聖書の中に隠されている、聖書を通して表れようとしていることが何であるかを、知らねばならないのです。神を’わたしの父’といえば神も’おまえはわが娘であり、わが息子’とされる心情の場に立って、怨讐もいかなる者も、これに手出しはせさないという覚悟と信念で、天をアボジと侍って生きる人間がいるなら、彼は聖書の完成者なのです。このようになれば、聖書の一節も知らなくてもいいのです。 こんな心情の場まで行こうとするなら、我々は知らねばなりません。我々のアボジはこんな信念を持って人間を創り、堕落した人間のゆえにこのように苦労され、イエス様をこの地上に送られてから今まで二千年の間、こんな歴史的な心情を抱いてきたことを、知らねばなりません。こんな神を知り、この神は時代的な私を中心に何かを成すために、心情を注いでおられることを知らねばなりません。 歴史を抱えてくる間、アボジは我々の先祖に使いをさせるとき、僕として使いをさせ、息子として使いをさせたことがないのです。僕として闘わせ、民として仇を返しても、息子として立て、怨讐に仇を返してはみなかったのです。それで息子を立て、怨讐に仇を打つ日が審判の日なのです。 我々は知らねばなりません。何を知るのか? 神の事情を知らねばなりません。この事情を知って何をするのか? 神の心情を知らねばなりません。神の心情を知って何をするのか? その次には、わたしのアボジだとしなければなりません。わたしのアボジ、我々のアボジ。 我々がこのように学び、聞き、侍る生活をするのは、何のためか? 六千年の間、人類が喘いできた目的が何か? それは聖書に流れている神の事情を知り、神の心情を知るためです。民族や国家は言うまでもなく、個々人を父母の心情で対し、傷を負い、蹂躪され排斥され、引き裂かれてきたこの神が、私のアボジであることを知るためです。 イエス様は祈祷されました。ゴルゴダに登る前にすでに倒れることを知り、ゲッセマネの園で夜を明かして祈祷されたのです。’わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)’と。これは’あなたがわたしを送られたのは、父の基準を立てるためであり、わたしが地に生まれたのはアダムの基準を立てるためであったのに、父を証さなければならない立場で、このように倒れることはできません’という意味です。これがイエス様の心情であることを、知らねばなりません。天地が崩れる恨があったとしても、アボジが送られたイエス様、息子の基準を得なければならないイエスだったので、天上に対して、アボジに対して、このみ旨に背反することはできなかったのです。 10. 神が求められる息子・娘 イエス様は息子として来たが、息子として逝ったのです。息子として逝ったが、息子として復活したのです。皆さん神の息子として、あるいは娘として生まれ、神の息子としてあるいは娘として生きましたか? 悔い改めなければなりません。ある家の息子として生まれたら、死んでもその家の息子であり、生きてもその家の息子です。ある家の娘として生まれたら、死んでもその家の娘であり、生きてもその家の娘です。この因縁を誰が否定できるでしょうか? 神は求めておられるのです。天上の法度を立てて、叫んでおられるのです。わが息子と呼べる群れを求めておられるのです。生きているときもわが息子と呼べる息子を求めておられるのです。息子だけではありません。わが娘よと呼べる娘、生きているときもわが娘と呼べる娘、死ぬときもわが息子・娘と呼べる息子・娘を、求めておられるのです。 イエス様は息子として来たが息子として死に、娘として来て娘として死ぬものがいなかったのです。それゆえ新婦を捜し求めるのです。このような天の心情を知らねばなりません。息子として来たが、死に逝くイエス様のまえに立つ新婦を求められなかったので、娘として生まれ、娘として死ぬ新婦を求め’おう、わが息子・娘よ’と本然の園でアダムとエバを創り、手をおいて祝福するその喜びの心情を、神は再び求めておられるのです。恨の心情を蕩減してなくし、善の心情に連結させ、相続させることができる息子・娘がいなければなりません。この息子・娘はサタン世界の恐怖の雰囲気の中ではなく、サタンが讒訴してはならない息子・娘なのです。 天地のどこへ行っても、自由自在に活動できる息子・娘を持つことが神の願いであり、神が摂理される目的なのです。このために全世界のキリスト教信徒を立て、その日を預告させてきたことを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 11. キリスト教徒に対する神の所望 全世界のキリスト教徒は、イスラエルのこのような背反の歴史を知っています。イエス様を怨讐に渡した、このような惨めな歴史を歩んできたことを知っています。こんな歴史が民族層を過ぎて今日、世界的な層へと登場したのが、キリスト教徒なのです。ではこのキリスト教徒は、どのようにしなければならないか? 兄弟同士が争っていたら滅びるのです。ですから教派と教派が争うのを見やり、彼らを棒で打ち下ろし、無知な羊を死に追いやる群れと闘い、天を代身して闘う勇士が現れるのを、神は願っているのです。 イスラエルを籠絡し、天に背反したすべての祭司長、律法学者、パリサイ人がその職責をすべて精算して、イスラエル民族をイエス様のまえに屈伏させたなら、神はみ旨を立てることができるのです。 歴史がこのように血にまみれ、悲しみとなって引きつがれてきたことを知る我々は、団結しなればなりません。団結。君も団結、僕も団結。洋の東西を問わず、国家民族を問わず、すべてが団結しなければなりません。これがみ旨を抱く人々が肝に銘ずべき、一つの標語なのです。団結するときは生活統一、行動統一、理念統一、心情統一が成されなければなりません。黒人が問題ではありません。白人が問題ではありません。イエスの血潮が通っている人間、心情がわき起こってアボジと叫びたい人間は、すべて団結しなければなりません。このような運動を全世界のキリスト教徒のまえに、宣布すべき時が近づいてきたことを、我々は知らねばなりません。 天はこのようになることを願っているのです。全世界のキリスト教徒が滅んだイスラエルの代身、第二のイスラエルとして登場して、怨讐たちと闘うことを願っているのです。そんな日が来るのですが、その日がイエス再臨の日であり、この闘いに責任を持って来るお方が、再臨のイエス様なのです。 人間が知らない間に導いて来られた神は六千年の間、独り苦労されて今日、全世界をキリスト教圏内に追い込み、このような環境を造っておかれたのです。これを見渡すとき、我々は恐れ多い心を持たねばなりません。誰のために? 無知なる民の為に、何も言えない恨多いこの群れの為に、天はこのように苦労されたのです。皆さんは恐れ多い心で望み見なければなりません。 今、残ることが何か? 先祖たちも知らなかった神の心情を、我々が知ることです。神の心情を、誰が知っていたか? 神の心情を、誰が知ろう! 選民権を誇り、四千年の摂理の曲折を抱えてきたイスラエル民族が知っていたか? 二千年の間イエス様を信じてきたキリスト教徒、あるいはこの時代の全世界のキリスト教徒が知っていたか? 知らなかったのです。 神は求めておられます。誰を? アボジの心を知り、天地が変わろうとも決して変わることのない心情を持つ、アボジと息子・娘の因縁を結ぶことのできる人間を求めておられるのです。全世界のキリスト教徒がみな知らなくても、知ってくれる息子・娘が一人でも出てくるなら、問題は収拾されるのです。先祖たちも神の心情を知らなかったのです。さかのぼって振り返って見るとき、ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブとモ-セもそうだったのです。すべてが知らない中で環境を開拓していったので、知らせるためにイエス様は来られたのです。それゆえ、また来なければなりません。 ここに集う皆さん、皆さんはどのように考えていますか? 神は誰なのか、分かっているでしょうか? 神が我々のアボジであることを、知っているでしょうか? 皆さんの心と体はサタン世界にからまれているのですが、これを解脱して神のまえに立つ息子・娘の威信を得ているでしょうか? 一歩進んで天は要求されているのです。私でも息子になることができる息子、私でも娘になることができる娘を、願っておられるのです。この息子・娘が、皆さんを通して出てくることを願っておられるのです。ですから皆さんには、私でも息子・娘になることができる息子・娘を、天のまえに得てさし上げる責任があるのです。このような責任を担う者は歴史的な解怨を成就することができる者、神の直系子女という名分を受けるに不足のない者たちです。 12. 神の息子娘の威信を立てるべき我々の責任 私は言いたいのです。今までこれを知らせるために来た歴史が、どんな歴史であったかを。血に染まる歴史であったことを、知らねばなりません。涙が数千万べん流されたみ言であることを知らねばなりません。自分が立っているこの地を求めるため、この人類を求めるためだったのです。この人類の背には、先祖の血の跡がこり固まっているのです。この人類の額、あるいは裾には先祖の血の涙が残っているのです。これを見ることのできる人間にならねばなりません。 先祖たちは当然、涙を流して死なねばならなかったのであり、私でも神の息子であり、生きても神の息子であり、死んで復活しても息子であったその息子の、涙と血の跡が皆さんの体に染みていることを知らねばなりません。教えることを願ったイエスの心情を、この時代に生きる我々が知る権限を与えられたなら、この栄光を何によって報いるのか? 神様は知らせるために六千年の間苦労され、イエス様を送り、先祖たちを犠牲にしてきたのも、無意味で無価値で無感覚なだけの人類を集め、知らせようとする一言は、数千万の善なる人々の首をくくり、血を流す祭壇のみ言であることを知らねばなりません。 我々は学びました。我々は分かったと自認しています。分かったら宣布すべき責任があるのです。知らせるこの一言のみ言には、刑場に消えた数千数万の善なる人々に知らせることができなかった神の曲折があることを、知らねばなりません。皆さんが創造原理から復帰原理までの全体のみ言を受けるとき、このみ言の一言々々には血の涙がこり固まっているのです。これを求めるために苦労した人間はさしおいて、歴代の先祖たちの血の涙と溜め息が、切々とからんでいることを知らねばなりません これを求めてどんな道も甘受してゆく人間がいるなら、彼が歩む路程には一言のみ言を求めるにも血の涙の事由が宿り、呪咀と恨みが溢れる歩みを、ものともせずに行ったことを知らねばなりません。この一言のみ言の下には、血の涙がこり固まり、死の呻き声が私を催促していることを感じる者なら、歴史的な神の心情と事情を知り、神が所願として求める息子の面目を得るのです。このようになれば六千年の後に生まれた息子であったも、心情を中心にすれば六千年前の私であり、心情を中心にすれば四千年前の私であり、心情を中心にすれば二千年前のイエス様と、同じことになるのです。 皆さん、我々はこのみ言を通過しなければなりません。み言を越えてゆくには血潮が飛び、涙の道が塞ぐのです。これをものともせずに行かねばなりません。このみ言を越え、実体に侍るには、傷を負い、十字架に架けられて死ぬ境地の実体を迎える悲壮な覚悟を、皆さんは持たなければなりません。このみ言を抱いてゆく場で、天の背反者とされ、良からぬ烙印を押されたとしても、あるいは背反されて露のように消える恨があったとしても’自分は血潮がこり固まるこのみ言と共に死ぬのだ’とする気概を持つ人間にならねばなりません。 復帰というのですが、何を復帰するのですか? み言を失ったことが堕落ですから、み言を求めなければなりません。み言を求めた後に、何をしなければならないのでしょう?み言を求めた後には、実体を復帰しなければなりません。実体に侍るには事情が通じなければなりません。事情が通じるにはどうするのか。心情が連結されなければなりません。 今までの救援摂理歴史は、み言を通過する歴史でした。ですから人類は真理のみ言を求めてさまよったのです。真理を求めた後には、実体を通過しなければなりません。この実体を通過しない恨が残っているので、この地上に実体の主人公である一人のお方が来るのを願ったいるのです。これが再臨思想なのです。実体通過の恩賜を受けた後に、何をするのでしょう? 新婦の装いをして、新郎・新婦の因縁を結び、心情の門を通過して行ってこそ、神の相続者になることができるのです。み言をもっては相続できません。身体だけをもっては相続できません。実体がみ言の化身になって、神の心情を通過したという合格証を受けてこそ、天上天下の大主宰たる神の息子・娘になることができるのです。 13. 神の心情を知る者となれ 皆さん、我々はよくよく聞きました。我々はよくよく学んだのです。み言が根づよくのびる所に、生命が躍動するということを知りました。み言が自分の体をかすめて過ぎるとき、歓喜と解放感が押し寄せることを知ったのです。しかし、それだけで満足しては駄目です。このみ言の後ろには血の涙の跡があることを知り、悲しみの声を聞くことができなければなりません。これを知り、またこのように行く恨があったとしても、感謝して恐れ多い心が先立つ場であってこそ、神のまえに立つことができる息子・娘になるのです。 皆さん、六千年の間、人間は神の心情を少しも知りませんでした。しかし天が喜ぶ一時があるとして、その一時はどのような時か? 心情によって神を知らせ時です。善なる人々を通して、死亡の世界の人間を生かそうとされる神の心情を知り、その心情を解怨するために神の代身、生かす責任を負って闘い、神の心情を宣布する人間がいたとしたら、天はすべてのものを惜しげなく、その人間のまえに渡されるのです。惜しまれることはないのです。 今、我々は持っているのです。我々は誇っているのです。我々は残しているのです。何を? 我々の名誉を残すためではなく、我々の家門を誇るためではなく、我々の何かを立てるためではありません。ただ一つ、我々が誇るものが何でしょうか? 神の心情です。その次に誇るものが、何でしょうか? 神は我々のアボジでり、私は神の息子・娘であるということです。個人がそうであり、家庭がそうであり、民族、世界がそうであり、天上天下がそうだというとき、神の願いは成就するのであり、神の恨は解かれるのです。神の天地創造の理念は完成するのです こんな責任が皆さん各自にあることを知り、神の心情が分からないなら、皆さんが生きている間に知らねばなりません。自分から、あるいはそっと神の愛の心情を存じあげ、真の息子・娘と言うこともなく消えてゆく皆さんになるなら、皆さんに天国が問題ではありません。天上の皇国で、天の貴族になることに間違いないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.16
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再臨期における洗礼ヨハネ的使命の生活と我々の覚悟一九六〇年一月六日(水)前本部教会*本み言はこの部分から録音されている *婦人たちが天の足場になってきたのです。こんな理由からイエスを信奉する婦人たちが、今まで信仰生活をする過程で多くが犠牲になってきました。のみならず、天に近づいて接近してゆく最後の瞬間まで、婦人たちが開拓してきたのです。それでキリスト教は、婦人の宗教なのです。男性たちは天使長と同じです。男性たちは婦人たちを棒で打ってきたのですが、結果的には従ったのです。 1. キリスト教を通した復帰摂理の様相 全世界のキリスト教徒を比率で計ってみると、五分の三以上が婦人たちなのです。この婦人たちが今まで天的な使命を遂行してきたのです。天も婦人たちを相対として多くの役事をされてきました。役事するときも、賢い優れた婦人を立ててするのではなく、最も底から、乞食の場から復帰歴史を始めてきたのです。哀れな女性たちから始めて橋を掛け、その人々が使命を果たせば、また時々ごとに他の人を立て、だんだん橋を掛けてきたのです。このようにして最後には、女性を代表して世界的に押し出しても遜色ない最高の母になるそんな場まで、復帰摂理をしてきたのです。女性たちはこんな路程を経て行かねばならないのです。これが天的な摂理の、原則になっているのです。ですから皆さんは知らないでしょうが、全世界に広がる婦人たちを通してこのような役事が展開されたのです。 こんな摂理的な内容があるので、新しい使命を帯びる教派、即ち特別な教派は女性が使命を帯びてくるのです。こんな教派は新しい時代の特異な使命の足場を築くために役事するのです。この韓国の国土を中心にある天的な摂理があるなら、この国土において内的使命を成す運動が始まらなければなりません。その中で外的使命は男性たちが責任を負い、内的な使命は女性たちが責任を負わねばなりません。内的使命は女性たちが成し、外的使命は男性たちがやるということです。 堕落した形を見れば、エバがアダムを主管したのですから、復帰路程では婦人がアダムを代身して内的使命に責任を負い、アダムがエバの主管を受けた故に、男性たちは復帰路程において外的使命を担い、堕落したときの基準を捜し求めてゆくのです。 2. 再臨時代の神霊役事 ですからこの韓国の教団においては、神霊なる役事が起こらなければなりません。韓国キリスト教の歴史が約八〇年になるのですが今から約六〇年前から神霊役事が始まったのです。このようにして解放まで継続されたのです。そして解放直後に全国的に’聖霊降臨四〇周年復興会’を一か月か、四〇日間かやったでしょう。憶えていますか? 今から五〇年ないし六〇余年のすべて、宗教界を中心にしてこのように神霊役事の基盤を築いてきたのです。こうしてこれが左右に分かれ、内的から外的に分かれていって、神霊役事が展開されたのです。ここに特別な祈祷をする婦人たちに、イエス様が直接現れて指導されたのです。 今から約四〇年前、「あのチョンチャンロ(鄭錫天長老)お母さんが入神して啓示を受けたのは今から何年前ですか?」「・・・・」「ですから三七年前でしょう?」それで恩賜をうける動機は、四〇年前からこんな役事があったのです。天的な女性を代表して、韓国の女性を代表して、天と連絡する使命をする人がいなければならないのです。現れる一人のお方が現れるには、その一人の人を立てるために、三人を立てて役事するのです。 この時代にこんな使命を帯びた三人の女性が、韓国河山を中心に役事してきたのです。この女性たちを中心に、恩恵に浴することができる人々が相当に多かったのです。このような人々を収拾していって、一人の人物を立てて新しい時代、即ち再臨時代の新しい歴史を預告してきたのです。のみならず、聖書の未知の事実を解明したのです。解明するときは堕落問題とか、イエス様がこの地上に救い主として来た目的等、聖書において最も未知の骨子となる問題等の、輪郭を解明してきたのです。そして天はここに水を注ぐとか、聖霊の火を下して、糾合運動をしてきたのです。この運動をするとき、知恵があれば壊れなかったのです。 ところがこんな神霊なる集団の中には、天が’踊れ’といえばその通りに踊りを踊る集団があったのです。エデンの園で裸で暮らしていたので、事実がそうなので、そんな命令をしたのです。’おまえは裸になって踊りを踊れ’というのです。天が命令するのですから、踊らないでしょうか? 戸をぴったり閉めて一人で踊るのはかまいませんが、数百人が伏せって祈祷していたのが、踊れと言われればどうしたでしょうか? 何人かは裸になって踊りを踊ることもしたのです。それでそんな噂が生まれたのです。神霊なる恩恵を受けて直接的に役事する過程では、必ずこんな事があるのであって、こんな命令をするときには、理由があるのです。この命令を知恵で消化して、処していかなければなりません。 なぜこんな命令をするのかということを、解明する天的な条件を立てなければなりません。これはサタンを屈伏させるための、一つの作戦なのですが、これを知らないで受けた通りに動いていった多くの聖徒たちは、ここでやられてしまったのです。天的に指導する天の原則的な内容を知らないで動いた結果、今まで神霊なる集団が良からぬ結果となって壊れていったのです。 今から約四〇年前に、特別な恩賜を受けて役事をした集団があったのですが、これがチョルサン(平安北道)の新主派です、新主派。新主とは新主人をいうのですが、これは婦人を見て主様だというのです。なぜそうなのでしょう? 夫婦、即ち新郎・新婦は一体です。創造理念から見るとき、夫婦は一つの体になるように創られたので、一体理念を中心に役事するのです。新郎・新婦の場は創造理念が成る場ですから、この最高の基準を中心に教えてくれたのです。それで新郎・新婦であると教え、主の妻だと教えたのです。一つの体であると教えたのです。’あなたはわたしであり、わたしはあなた’と、’あなたがわたしのうちに、わたしがあなたがたのうちに’というのです。一つの体だということです。 3. 新主派を中心とした天の摂理 天は縦的であり、地は横的です。縦的な存在が地上に下ってくれば、主様は男になるのです。男である主様は即ち天であり、地は婦人であり、夫婦は一つの体ですから、地において主様という者がいるのです。分かりますか? それで婦人であっても、主様という人が多いのです。これを理解しておかなければなりません。 こんな役事をしてゆくにおいて、彼らの息子娘が良く敬うなら、失敗しないのです。こんな天的な責任を負って使命を果たす婦人を、その直系の息子娘が敬わなかったら、嫁が敬わなければなりません。その母が死ねといえば死に、裸になって踊れといえば踊らなければなりません。事実、母が踊れといえば三人が裸になって、踊らなければならないのです。これが何でしょうか? 母を中心にして三人が一つになって、天の命令に服従して、従わなければならないという意味です。嫁であれ息子であれ娘であれ、すべてが一つになって天と地を敬うなら、壊れることはないのです。 ところが知ってみれば、チョルサンの新主派を率いた人の息子が、ここにいるチョン長老なのです。そしてその娘はチョンソクオン(鄭錫温)氏です。み旨は直系へと流れてゆくので、息子を中心にして嫁にみ旨があるのです。このような事はお母さんが話さないので知らないでしょうが、天的な流れがこうなのです。だから息子と嫁が至誠をつくして母よりもさらに忠誠をなせば、絶対に壊れないのです。ところが責任を果たさなかったと見るのです。(チョン長老に’やらなかったでしょう’と問うてみれば長老も’はい’と答える)そうなれば必ずその嫁や息子を打つのです。一人が祭物にならねばなりません。 (チョン長老に、そんな事があったかと問えば、夫人が死んだと答える)嫁がまず死んだのです。嫁がまず死に、その次に母までが死んだのです。天はこのように役事されるのです。それでもチョン長老が生き残ったのは、アダムを復帰しなければならないみ旨があるからです。それで残っているのです。アダムは打つことがありません。アダムの役事があるので残っているのです。このような事を、皆さんは知らねばなりません。 彼らが責任を果たさなければ彼らの使命は、彼らに誠を尽くして侍る信徒に移されるのです。鄭氏の家門の天的な功績が大きいので、天は彼らを愛され、恩賜を与えられたにもかかわらず、その息子娘がみ旨を尊ばなければ、彼に従った信徒たちに受け継がれるのです。このようになれば、丸ごと移されるのです。これが一代で駄目なら、三代までゆくのです。それでこの使命を受け継いだ人が誰かというと、この母に至誠を尽くして侍った一人の婦人でした。それが許氏夫人です。 この夫人は生活のすべてを、主様を中心にしてきたのです。そのようにすれば天は、一番最初に罪を脱ぐ方法を教え、その次に生活する方式を教え、また次には主様が来た後に子女を育てる方式を教えたのです。順序がこうなのです。この許氏夫人は主様に侍って生活する法度と、全体的な規範例を立てて準備したのです。ところがこれは解放される約七年前から、準備しなければならなかったのです。(先生がチョンソクチョン長老に、母親がいつ死んだかと問えば、解放直前と答える)元来は解放される七年前から、このような準備をして来なければならないのです。許氏夫人は解放前からこんな準備をしなければなりません。(許氏がいつからこんな準備をしたかと問うと、解放される三年前からと答える)原則は七年前から、こんな準備をして来なければなりません。 このようになれば、韓国を中心にして再臨理念が出発するようになっていたのです。ですから七年前から準備して、役事を下して来なければならなかったのです。こうしてこれを受け継いで、新しい役事をして行かなければなりません。そのときは一段階落ちるのです。自分が主様だと証しするのではなく、主様の新婦だとして主様を産むというのです。腹中を通して、主様が産まれるというのです。これは復帰ですから、こうなるのです。これがマリア的な使命です。一番目(金氏)はエバ的な使命であり、その次(許氏)はマリア的な使命です。 マリア的な使命ですから、許氏夫人はイエスを産んで育てる体験をするのです。イエス様が産まれて過ごした、すべての事を体験するのです。イエス様が三〇余年を過ごされたのですが、この地上でみ旨を成すことなく逝かれたので、そのすべての恨を解くための一切の準備をしなければならないのです。それで許氏夫人は着物も作って、みな準備したのです。こうして主様は韓国に来られるのであり、幼な子として産まれるというのです。そしてこのように生活しなければならないということを、全部教えてあげたのです。このような歴史は、絶対になくてはならないのです。これからは、先生に責任があります。ここにいるチョン長老の母がなす使命と、許氏夫人の使命に対するすべての事、今まで異端だと踏みつけられ、サタンに蹂躪されたこのすべての事を先生が全部みな明らかにして、天的な歴史として残しておかなければなりません。 4. 再臨役事の始まりとその準備 許氏夫人は主様が来れば侍る生活的な、すべての準備をしたのです。またイエス様が地上に来て三三年間生きて、み旨を成せずに願わざる十字架につけられたので、これを復帰するための準備をしたのです。そして再び来る主様は、韓国の人として来られるとしたのです。そのお方の身長がどれくらいで、体格がどうかということまで啓示を受けて、着物から寝具に至るまで一切を準備したのです。元来このようなことをすべて、準備しなければならないのです。これを準備する者が地上にいないので、主様を送れないのです。 昔イスラエル民族が、主様が寝る部屋一間準備しないで、イエス様は飼葉桶に寝かせられたのです。このような恨を抱く天ですから、神は選んだ人を立てて生活的なすべてのもの、即ち着る着物、おられる部屋、家庭の器物一切を準備させたのです。この時代に文化生活をする東西洋の、誰もが持てないような最高の水準で、すべての物を準備させたのです。イエス様当時、一二〇門徒がこれをしなかった恨を残したので、世界的な使命を負って来られる主様の舞台を準備するためには、少なくとも一二〇〇名以上の教徒たちが動員されなければならないのです。(先生が腹中教徒がみんなで何名かと問い、チョンチュンソクが約三〇〇名と返事する)元来は一二〇〇名以上が動員されて、その準備をすべきなのです。こんな教派を中心にして、動いて行かねばならないのです。 韓国がアダム型の国家として、復帰されなければなりません。日本はエバ国家であり、韓国はアダム国家です。アダムがエバに主管されて、アダム国家になるべきこの国家は、この方式の通りに日本に三六年間支配されたのです。元来は四〇年の苦難の期間です。韓国という国家が、四〇年目に出てきたのです。日帝治下三六年ですが、軍政時代の四年があって、四〇年の苦難期間を経ていって、韓国は解放と共に復帰されたアダム国家として現れたのです。こうして解放されるや、再臨役事が始まったのです。 天的に見るとき、一人の婦人が蘇生役事の使命を成し、また一人の婦人が中間的な責任を成したので、新しいものが出て来なければなりません。皆さん、ノアが鳩を飛ばすとき第一次、二次は同じ鳩でしたが、三次には他の鳩を飛ばしたのです。一次大戦、二次大戦は国を中心に起こったのですが、三次大戦は他のことを中心に起こるのです。これは即ち直系系統が責任を果たさなければ、代わって必ず一時的に蕩減条件を立てて、いっぺんに越えて行くということです。ですから解放の鐘の音と共に、こんな使命を成す人が出てこなければなりません。女性としての、こんな人が出てこなければなりません。三代に渡ってするのです。ですから許氏夫人の他にこんな使命を成す婦人が、また一人いなければならないのです。分かりますか? このように下って来るのです。 先生はすでに、このような天的な使命があることを知って、解放直後からこの事に責任を負ってきたのです。その前には、親友たちも先生が何をやるのか知らなかったのです。それは信仰生活を良くやる一青年、と思っていたのです。先生と共にいた妹たちも知りませんでした。父母も知らず、誰も分かりません。こんな中で、私は解放の鐘の音と共に、新しい道へ出て行ったのです。 婦人もそうですが、男性の側でもこのような事をしなければなりません。男たちもこのおばさんたちに対備して、神霊役事をしなければなりません。男性は東側であり、婦人は西側です。ですから西側であるチョルサンでは婦人たちが神霊役事をして、東側のウオンサンを中心として、男性たちの神霊の役事が起こったのです。ここにファンククジュウ、イヨンド、ペクナンジュウ、等が神霊役事をしたのです。このとき、このような外的な形態を基盤とした神霊役事に責任を負ってきた方が、イヨンド牧師でした。彼は韓国教界で神霊なる役事をしたのですが、異端として追われ、三三才で死んだのです。この方がみ旨を果たすことなく死んだので、この方の代を継ぐ方がなければなりません。この三代を経て、必ずこのような方がなければならないのです。こんな責任を負う一人の方がいるのですが、これを皆さんに話していないのです。 5. 再臨期における先生を中心とした役事とその過程 それでは先生はどうしなければならないか? この方たちに会わなければなりません。それで先生は解放直後、神霊なる人に会おうとしたのです。最も信じがたいことを言う人間に会わなければならないのです。どんな人間に会わなければならないか。自分が主様だと言う人に会わねばならず、’私は主様の一番の新婦’という人に会わねばならず、さらには’私はエホバの夫人’と言う人に会わねばなりません。先生がこんな神霊なる人を求めて、韓国の教界を捜したがいないのです。 ところが救援船という信仰団体に、キムエグンという方がいるのですが、この人が堕落問題について原則的なことは知らないのですが、果実を取って食べたことが堕落ではないか、という程度は知っているのです。これ以外は知らないのです。それでこの方に会ったのです。天的な使命を受け継いだこの男性は、洗礼ヨハネ的な使命を帯びた人でした。 洗礼ヨハネはイエスのまえに、サタンを防ぎ止めるべき者です。洗礼ヨハネという存在は、堕落したアダムが生き返った存在、即ちサタンの支配を受けて落ちたのが、再び復活した形態、サタンを屈伏させなければならないアダム型であるということです。洗礼ヨハネはこんなアダム、生き返ったアダムということです。サタンを屈伏させるべきアダム型です。洗礼ヨハネがサタンに勝ったことを受け継いだイエスは、サタンの侵犯、サタンの試みを受けてはならなかったのです。イエスはこんな場で祝福を受け、サタンの讒訴を受けない場で、み旨を成そうとしたのです。ところが洗礼ヨハネが責任を担わないので、洗礼ヨハネが崩れたので、サタンがイエスのまえに現れるようになったのです。このようになったので、イエスは洗礼ヨハネの代身、昔アダムを手折ったサタンと歴史的な対決をすべく行ったのが、四〇日断食期間の闘いでした。分かりますか? 先生は二十歳を過ぎてから、こんな人に会わなければならないことを知っていました。どんな道を通っても、一度は会わねばならない人であることを知っていたのですが、すぐには会えませんでした。そうしていたところが、解放の鐘の音と共にこの方に会ったのです。それで洗礼ヨハネがイエスに祝福を与えたように、この方も先生に祝福をみなしたのです。自分が想像もしない言葉で、祝福したのです。 その時は先生は何にも知らない食口の様子で、彼を訪ねたのです。洗礼を受けようと、洗礼ヨハネを訪ねたイエスと同じように。こうして彼のすべての基盤をそのまま相続しなければならないのですが、そうするためには信奉者として認定される苦労の過程を経なければなりません。ですから、六か月の間いたのです。六か月の間、涙も沢山流しました。ここにいる我々の食口の中で、知る人がいるかも知れません。彼に従う主な弟子の全部を先生に相続させるべき天的な使命が彼にあったが故に、先生は内的に主な人の前にこんな話をし、また自分が直接話さなくても天が彼らに、文先生に従えと命令したのです。であるにもかかわらず、彼らは悟らなかったのです。’我々が侍っている先生がこれこれのお方であるのに、天が我々の先生を捨てて、何ものでもないあの文先生に従えとは何ということか’というのです。 神が何度も教えてくれたのです。期間をおいて役事したのですが、それでも彼らは悟らなかったのです。それで先生は’今や祝福を受けたのだから、この基準をもって神霊なる役事をする婦人を訪ねなければならない’と考えたのです。’わたしはエホバの夫人だ。誰でもわたしに屈伏すれば救われる’という夫人を捜したのです。このお方は復活したエバですから、堕落直後のエバを代身した役事をするので、両方の役事をする人だったのです。ある時は神が入って役事し、またある時はサタンが入って役事する、緩衝形の実体です。こんな婦人に会って、実体で対決して挫かなければならないのです。 それでこんな婦人がいるかどうか、各方面に噂になっている道を捜して、この婦人に会ったのです。他人が信じない、他人が知らない事を言う婦人に会って、とても嬉しかったのです。この婦人は、先生よりも歳が上だったのです。母のような使命をする方ですよ。復帰歴史がこうです。先生は平壌へ行ってこの方に会い、誠精を尽くして侍ったのです。こんな先生ですから、皆さんが先生に侍らなかったら天法に引っ掛かるのです。天的な使命を負う天のプロが、どのように入ってどのように帰結するかをみな知っていた先生は、何にも知らない三尺の童子のような様子で、このおばあさんが死ぬる時まで誠精を込めて侍ったのです。このおばあさんの下着まで洗ったのです。 先生が平壌に行っている時に侍ったこのおばあさんは、もの心もなしにああしろこうしろと言うのです。良い物があれば、全部持って来いというのです。これはそうなのです。蕩減復帰時代ですから、これからの万物復帰を真似るのです。先生はこんな人間に、神のように侍ったのです。その所に集まる食口たちは、このおばあさんが相手にしてくれないので、先生に会いに集まったのです。しかしながら先生は、このおばあさんに至誠を尽くして侍ったのです。なぜ、侍るのか? 天のものは天のものとして、サタンのものはサタンのものとして、分けておかなければならないからです。ここに分けておかなかったら、復帰の基準を立てることができないので、絶対服従して侍るのです。皆さん、天がサタンを捕まえるために、どのようにするか知ってますか? サタンに服従して捕まえてくるのです。今までこのようにして来たのです。これを知らねばなりません。十八か月以上、二一か月以上こんな期間をおいて、従順の期間を経なければなりません。であればそれだけの祝福をされるのです。 このおばあさんに二つの役事をするのですが、必ずサタンがまず役事するのです。天が先に現れることはないのです。それで、ここに行ったとき、怨讐視するのです。しかし先生はすでにそうなることを知っていたので、相手になりません。終いまで頭を下げていたのです。踏みつけ、責められても、三度以上従順にしていればサタンが踏みつけません。むしろ事実を、証ししなければなりません。このときに、奪ってこなければなりません。虐げられても従順に侍れば、天のはしの天使長が祝福するのです。であれば’正しくやった’と上がってくるのです。蕩減復帰原則の通りに何、何をしていって段階的に上がるのです。こうしているとついには、この人は天上天下の誰々だと証しするのです。ここからは小突くのです。’仕えよ!’というのです。こうなるとこのおばあさんは’いきなりこれは、どうしたことか?’というのです。(場内拍手) 6. 統一教会が現れるようになった霊的基盤 このおばあさんはこれから天が祝福される子女が、自分の息子・娘なのですが、これがそうではなかったのです。このおばあさんは息子・娘の数も多かったのです。アダムからノアのときまでの十代の型、元来家庭的な出発をしたならこの十代型を持たなければなりません。このおばあさんはそのために、天は自分の十人の息子・娘をとても愛すると言うのです。私は見ていてじっと我慢したのです。しかしこのおばあさんが祝福をするときまでは、このおばあさんの息子・娘にまで侍らねばなりません。これに耐えて、母のように侍らねばなりません。それで’おばあさんの言われることは正しいことです。この息子娘は、神様がとても愛される息子・娘です’としてきたのです。 このようにしてお終いに祝福を受けた後で’私は誰々である。このときは誰々であるから、復帰の恨を解く天のみ旨のまえに屈伏せよ’と言ったのです。 自分の思い通りに主管して、ああしろこうしろと言ってきた若い青年が、このように現れれば、これは何としたことでしょう?’わたしはエホバの婦人なのだから’としてきた場なのに、屈伏しなければならないとしたら、気がおかしくなるのです。ここでこのおばあさんが従順であったら、先生も苦労しないのです。従順でなければならないのですが、これが大変なのです。ここに天命なら天命が、みな崩れてしまったのです。屈伏しないで反対したこの時から、このおばあさんは精神が異常になったのです。天の福をみな奪ってサタンはサタンなりに、ポキンと割れたのです。このようにして、割れ始めたのです。こうして、天の強盗という名札がついたのです。 このようにして今、内外の祝福基準を得たので、どこに行っても闘うことができるのです。この基準が成るまで、内外の霊的な試験は言うことができません。どのような試験まであるかというと、四〇日の試験期間があったのです。この時は霊界のすべての霊人たちが全部、このおばあさんの側になって押し寄せたのです。イエス様までが先生のところに来て’このおばあさんはエホバの夫人であり、神が愛する娘だから、どうか侍らねばなりません’と乞うのです。しかしながら先生は天理の原則をもって、彼らと闘ったのです。先生は独り四〇日間、今まで来ては行った数多くの霊界の道人たち、イエスと神まで全部が動員された、全霊界と闘ったのです。戦場の天地にすることはできないので、天は四〇日の期間が満ちれば、初めて判定を下さなければならないのです。 天理の原則、これがなければ天地が滅ぶのです。先生が求めて行くこの道は、間違いありません。先生は最後の決戦において、勝利したという判決を受けたのです。イエス以下数多くの霊人たちが逆族として追い、反対した文という人間の主張が、復帰の恨を解く原則であり、天倫の秘訣中の秘訣であるという判決を受けていって、勝利の基準を立てたのです。何の話か分かりますか。先生はこんな判決を受けるためにイエス様とも闘い、神とも闘ったのです。このようにして、統一教会が生まれたのです。これを皆さんはよくよく知らねばなりません。 こんな原則的な基準で歴史的な帰結をつけ、天地のすべての基準を終結させなければならない責任があったが故に、先生はこんな内容を誰にも言わなかったのです。このおばあさんにも話をせず、食口たちにも話をしなかったのです。こんな役事をしてきたのです。また、これを展開させるための複雑な内容もあったのです。先生が二七才で平壌に行き、今話したこんな歴史を経て、この道を行っているのです。今まで来るに、皆さんに話していない内的な苦喪が、すべてを語れないほどに多いのです。これはここにいる近い食口たちも知りません。食口たちが見るに、先生が平安に見えるかも知れません。皆さんは自分の思い通りに話すことができ、自分たちの事情をみな天のまえに告げることができるのですが、先生はあれこれできない秘密の内容を持って、今まで来たのです。皆さんも先生を知りません。皆さんが先生について知っているようですが、事実はよく知りません。知らない事が多いから、皆さんが先生のまえに頭を下げるのです。 良心の基準がある基準を越えた人は、分かるかも知れません。ですから全世界の数多くの霊通する人たちが、この世の中でこのみ旨の証しをしなかったら、天法に引っ掛かります。首が掛かります。霊界に行っているイエスにも通じる人なら、このみ旨を証しなさいというのです。今皆さんは、世界的に神霊なる人を多く見るのです。そして数千数万の群衆を率いる人も、沢山見るのです。皆さんには彼らと、すべての人々にこのみ旨を一日も早く、知らなければならない責任があるのです。 ご覧なさい。一年が流れれば、天的にどうなるのでしょうか? 天はこのように見ているのです。人間の死亡率が一年に平均、百人に一人だとします。では三千万人なら一年にあの世に、霊界に行く人間が三〇万人になるのです。二八億なら二千八百万です。そうでしょう? 二千八百万人という人間が地上を離れ、どこに行くのですか? 天上に行くのではなく、地獄に行くのです。天はこのように計算しているのです。ですからどれほど性急で、どれほど切ないことでしょうか? 7. 天の祝福を受けるには 復帰歴史を中心に見るとき、既成教会が解放直後にみ旨を受け入れて、この若者の後に従ったなら、韓国はこのように惨めにはならなかったのです。であれば三八度線が立ち塞がることはなかったのです。三八度線がなければ国際情勢はこのようにはならなかったのです。そしてソ連もきっとなかったのです。一九五一年四月にトル-マン大統領がマッカ-サ-将軍を解任させてより、韓国は押され始めたのです。もしもこの時、マッカ-サ-将軍の言う通りにしていたら、この年の九月に韓国は蘇満国境で戦ったのです。このようになれば、日本が受ける祝福を韓国が全部受けるのです。じっと座っていても生きていける国になったのです。ところが紆余曲折の末に、今のように複雑な世界になったのです。 これから世界情勢は、我々の動きと対比して行くのです。世界情勢がどんなに大きく変わっても、我々の動きと対比しているのです。皆さんはこれに対して具体的な内容を知らないでしょう。復帰歴史はこのようになって行くのです。ですからこの時代に生きる皆さんにはどんな使命があるかを知って、覚醒しなければなりません。四〇年前から韓国に運勢を引き入れるために、み旨を受けてきた洗礼ヨハネ的な使命を帯びた男性たち、あるいは女性たち、ほぼ六〇年前から天の祝福を受けて、復帰的な新婦の使命を成してきた人たちが、先生に会わなければならなかったことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 男性たち、女性たち、皆さんは私と解決しなければならない事が残っています。今も残っているのです。だから正面から入ってくるサタンの役事を、皆さんが防ぐのであった、先生にまで残しては駄目です。男でも女でも同じです。生死の決断をしても、皆さんが防がなければなりません。神の六千年の願いは、復帰の使命を負って来るアダムを勝利するアダムにすることです。即ち失敗したアダムを、勝利するアダムに造っておくことです。だから皆さんは百回死ぬ恨があっても、一生においてサタンを屈伏させて、勝利の判決をつけなければなりません。 皆さんは、家庭においては家庭的なアダムであり、社会においては社会的なアダムであり、国家においては国家的なアダムです。各自の分野において、サタンを屈伏させなければならないアダム的な立場であり、エバ的な立場であることを、よくよく知らねばなりません。サタンを屈伏させて勝利した者であってこそ、天の祝福を受けることができるのです。聖婚式をすることができるのです。原則がこうなっているでしょう? サタンを屈伏させない者が、どうして天の祝福を受けることができるでしょうか? これが復帰歴史の要点です。 こんな話は今、皆さんに初めてするのですが、先生はこのような歴史的な因縁を持って皆さんに対してきたのです。皆さんが知らないなかで、皆さんに対して多くの期待を抱いてきたのですが、皆さんに沢山だまされ、欺かれたことを知らねばなりません。今皆さんはある力を尽くして、サタンを屈伏させる先鋒者になれねばなりません。 8. 終わりの日の聖徒の責任 四〇数を中心にアダムが失敗したこと、洗礼ヨハネが失敗したこと、そしてイエス様が成せなかったことを内外から終結させるべき、蘇生、長成を経て完成的な基準を越えなければならないこの時は、真に緊張する時なのです。今皆さんは’個人的なサタンよ来い、家庭的なサタンよ来い、社会的なサタンよ来い、国家的なサタンよ来い、世界的なサタンよ来い’として闘わなければなりません。皆さんが知らない間に、先生がこのように闘ったのですから、皆さんもこんな道を行かねばなりません。行くときは先生のように四〇年ではありません。しばらくです。しばらくの間です。 ですから皆さんは周囲のすべての事を収拾して、この闘いの場に出て行く装備を持たねばなりません。また闘って勝利した基準を立てねばなりません。先生にはこのような人間を集めて天的な、新しい理想的な家庭を造らなければならない責任があります。今までは先生が皆さんの事をやったのですが、今や皆さんの事は、皆さん自身がしなければなりません。天が協助しなくても皆さんの事は皆さん自身がやり、皆さんの事のみならず、皆さんの子孫の事にまで責任を負わなければなりません。それでこそ復帰歴史は展開されて行くのです。分かりますか? このようにしなればなりません。 内的にこんな役事をしていって、外的にはこれに合わせるための証し的な役事をするのです。それで縦的に三数が、横的に起こらなければなりません。学んだでしょう? 縦的歴史が横的に起こるのです。縦的な数が横的に起こるので、三代の歴史が必要です。ですから先生の時代に、先生を証しする三代の女性と、三代の男性が必ずなければならないのです。これがノアの代の八人の食口と同じことです。何の話か、分かりますか? このように合わせてゆくのです。 このような形態が家庭的な形態を経て、世界的な形態で起こらねばならないのです。これを一時に横的に、世界型に合わせるために、天は準備しておられるのです。国家的にもこうであり、世界的にもそうなのです。世界的に七千名以上の神霊なる人がでて’あなたが主様だ’というのです。こんな人々は、イエスを信じる人だけではありません。三大宗教の理念圏内にいる人々は、全部がその中に属して入るのです。今のこの時は道(修道)の混乱時代です。自分が一番だという人間が、世界的に七千名以上いるのです。 これが外的な世界形態ですが、内的な形態においては、この韓国に少なくても天的な使命を持つ人間が、七〇名以上いなければなりません。七〇名以上の人間がでるために、三数を中心に三×七=二一、二一数形態として起こらなければなりません。これが外的な復帰歴史に橋を掛けるためであって、中心を無視して自分たちが中心だとしたなら、彼らはみな偽キリストです。偽キリストだということです。 このようなことを代表して現れたのが、三中心人物です。彼らが責任を果たさなければ責任者を切り捨てるのです。こうして教員たちが全部、転じてしまったのです。また教会が三分したのです。初めに二つに分かれ、二つがまた分かれて、そうしたら三千万は家庭単位に分散します。復帰は父母時代、夫婦時代、子女の時代を経て復帰するのであって、三千万はすべて家庭単位に落ちてしまうのです。それゆえこれからの教会は全部家庭形態に分散するのです。そうなれば終わりの日です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.16
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すべては善悪の戦場を越えなければ 一九五九年十二月六日(日)前本部教会 この時間は’すべては善悪の戦場を越えなければ’もう一度いうと’すべては善悪の戦場を越えなければ’このような題目をもって、お話します。 1. 堕落人間の実像と堕落圏を逃れ得る条件 我々は堕落した祖先の後孫であることを知っています。ここに堕落したという言葉を認めるならば、自分自身がある栄光の条件や、価値的な何かの条件を持っていたとしても、それもやはり堕落圏内に属するものと知らねばなりません。我々自身が心で、あるいは体で感じる幸福感、あるいは希望にあふれる所望を持っていたとしても、これもやはり堕落圏内の所望であり、堕落圏内の幸福なのです。生活を営んでいる我々自体も、やはり堕落圏内に留まっている自体であることを否定できません。我々の生命がそうであり、我々の理念と幸福の要素がそんな立場におかれているので、この環境においてそのままであったなら、堕落の恨を脱ぎ捨てることはできないのです。このままの私で幸福な世界、あるいは理想世界の’私’であると自任することはできないのです。これは明らかな事実です。 それゆえ人間は誰かれなく、老若男女を問わず、彷徨しまた彷徨しつつ、歴史を綴ってきたのです。ときにはこっちに追われ、ときにはあっちに追われ、引き裂かれ、踏みつけられ、血に染まる悲惨な歴史路程を経てきたのです。 かように歩んできた人類の行路、あるいは歴史の流れは、どこへ行くためにこのように流れているのか? 一言ゆえに堕落した、この恨多い歴史と世界を越えるためなのです。 皆さんがどんなに幸福らしく暮らしていると自負しても、堕落圏内で暮らしているのです。本来の命は、このように生きることを願っていないのです。ですからこの世界で生きている人間も被造万物も、どうしたらこの世界を越えることができるかと、この苦痛圏内で命を懸けて闘っているのです。これが今日、世界で起きている現象であることを、我々はよくよく知らねばなりまん。 人間に幸福があり、ある理想があり、真の生命の喜びがあるとして、それはいつ成るのでしょうか? 今日のこの堕落圏内の幸福や理想、あるいは喜びではなく、堕落圏を踏み越えて’私は果たして天と地のまえに自信ある生命、永遠なる生命を得たのであり、永遠なる幸福の園、永遠なる理想の園に立った’とすることのできる一日を迎えて後でこそ、真の幸福、真の理想世界が始まると、我々は言わざるを得ないのです。 この堕落のどん底を埋め、踏み越えるべき運命におかれている人間ですから、皆さんの心はこの時間も駆けているのです。この時間、皆さんの家庭も駆けており、この民族も駆けているのであり、今日我々が生きているこの世界と天宙までも、駆けているのです。ところで、どこへ向かって駆けているのか。恨み多い堕落圏を蹴とばして越えるために、駆けている我々であることを忘れてはなりません。 神がおられるとしたなら、神の目的は何であり、善があるとしたなら、善の目的は何でしょうか? 歴史上の善なる人々がこの地上に来て、犠牲になっていった目的が何でしょう? 駆けているこの人類がこの峠を早く越えるためであることを、我々は否定することができません。人間にこの峠を越えさせようと、神様は善なる個人を送られ、善なる環境を開拓させ、善なる国家形態を得て、善なる世界へと率いる摂理をされているのです。 このように見るとき、今日の世界は最後の判決を下して越えるべき運命に処しているのです。世界がそうであり、この国がそうであり、我々の家庭がそうであり、我々自身がそうなのです。またこれと共に、天も再び越えるべき運命の時であることを、我々は知らねばなりません。 それでは越えるときはどのようにして越えるのか? 笑って越えることはできません。もつれた紐を切ってこそ、越えることができるのです。それも一っぺんに越えることはできません。一人づつ越えるのです。このように越えた自分たちが集まって群れをつくり、一つの家庭を、一つの民族を、一つの国家形態を、一つの世界を立てなければ駄目なのです。これが結論です。 ここに来た皆さんは、自分に誇る何かがありますか? 命を懸けて闘う何かを持っていますか? すべてが堕落圏内のものですから、誇る自身の価値が大きければ大きいほど、大きな十字架を負わなければならないのです。各自のものが大きければ大きいほど、大きく掛かる立場に立つというのです。ですから修道の道を行く人々は、みな切り捨ててゆくのです。彼らの目的が国を救い、世界を救うことであるにもかかわらず、彼らはどうして個人を切り捨て、国家を切り捨て、世界を切り捨ててゆくのか。これが修道の道を行く人々の矛盾した行路なのです。彼らは越えるべき一時があることを知るので、ただその目的のために行くのです。 越えてゆくときは、打って越えて行かなければなりません。なぜ? この世の中は精算すべき世の中ですから、善なる立場で打たねばなりません。従って修道の道は、打ってゆく道です。 終わりの日は、我々の目的が近づくのです。最後の審判の一日が近づいて来るので、この一瞬間を迎えるべき我々は、いかなる立場に立たなければならないか? 人の世で誇る愛、誇る命、誇る理念に対して、堂々と笑いとばして行けないとしたなら、新しい勝利の勇者として、サタンの権勢を蹴とばして越えては行けないことを、皆さんは知らねばなりません。歴史はそこに向かって行っているのです。それゆえ我々もこれを越えなければならず、我々の家庭も越え、この社会、国、この世界、天上の数多くの霊人までも越えなければなりません。世の中だけが越えるのではなく、世の中が越えると同時に、神も越えなければならないのです。 2. 善悪の闘いの条件が残っているすべての存在 堕落した人間に対して摂理される神様は、人間が苦しむなら同じように苦しみ、人間が悔しいなら同じように悔しいのです。境遇と立場は違っても内的な心情は同じですから、天も越え、地も越えなければならないのです。このような運命にある人類と天が、これを越えるための合同作戦によって喘ぎ苦しんできたのが、今日我々の信仰路程なのです。合同作戦を広げるための土台が、今日の宗教なのです。ですから今日の宗教人たちは、この作戦で勝利すべき責任を負っているのです。 それではアダムが堕落して以後、この終わりの日まではいかなる期間か? この期間は我々が望む期間ではありません。この期間を早く早く短縮させ、解決しなければなりません。なくていい期間です。それゆえ良心のある者は誰かれを問わず、このような世の中がどうか過ぎ去ることを願っているのです。この暗黒の世界、恐怖に襲われるなかで喘いでいるこの世の中が、どうか過ぎ去ることを二七億人類は誰もが待ち焦がれているのです。人類のみがそうではなく、天もそうなのです。天も苦待し、人類も苦待しているので、この世界を精算して越えてゆくことが道(修道)です。早く勝って越えてゆくことが、今日宗教がなすべきことであり、これに妨害となる何かがあるなら、宗教人はこれを攻撃し、打ち破ることを断行してこそ成るのです。我々がこのような責任を負っているのです。 今日我々は五感を通してこの世界の万象を見渡し、我々が生きている社会の現象を見渡していますが、この見える万物を見渡すとき、我々は何を感じなければならないか? いかなる存在も、善悪の戦場であることを感じるのです。善と悪の闘いの路程を経るということを、感じなければなりません。 神はこの地と天を求めることを願うのですが、地はこのままでは求られません。なぜ?一大精算をしなければならないからです。この地上の人類は神のまえに、いっぺんに相続したいのですが、このままではできません。なぜ? 汚れたからです。だから精算しなければなりません。この地に誇る草の一株も、善悪の闘いの場であることを知らねばなりません。また、皆さんが着ている着物一つにも、善悪の闘いの痕跡が残っているのです。見て、聞いて、感じるすべてのもの、またこの地の小さな物の一つにも、神とサタンが対決するその日から、善悪の戦場において所有が左右されてきたということを、皆さんは知らねばなりません。 旧約時代には、神様は祭物を通して、物質をおいて闘われたのです。この物質は万物を代身したものです。万物が戦場になった日から、神様はこの万物を抱え、サタンの讒訴を受けることのない一日を所願とされたのですが、未だにその日を迎えていないのです。 その次に、人間を戦場として闘ったのですが、この代表者が神の息子イエスだったのです。イエスをおいて、神はサタンと闘ったのです。ここにおいて勝利して、イエスを天の側に引き込むとき、神はサタンの讒訴を受けざるを得ないのです。このように万物から今日までの人類全体は、善悪の戦場で左右されてきたことを、我々は知らねばなりません。 今日我々の体もそうであり、我々の心もそうであり、我々の心情もそうなのです。今どんなに素晴らしい何かを持っているとしても、そこにはサタンが讒訴する条件があるのです。我々自身の体と心が、どんなに貴いとしても、これはあくまでサタンが讒訴する戦場におかれているということを、知らねばなりません。 ここに徹頭徹尾なる観を立て、目に見える万象には今この時間も、善悪の闘いが起こっていることを、知らねばなりません。我々が握っている一つの物件にも、善悪の闘いの条件があり、今この時間にも闘っているのです。 それでは神の願いが、何でしょうか? 創られた被造万物のすべてが、このような闘いの条件に掛かっているので、全体を越えてサタンが讒訴せずに背を向ける一日を見ることです。これが神様が闘ってこられた目的であるにもかかわらず、神は未だにその日を見ることができないのです。 3. 神の願いと復帰の原則 皆さんは地上において、天を代身する責任を負っているのです。このような責任を背負う我々は、どのようにすべきか? 善悪の条件に掛かっている万物を率いて、サタンの要素を押し退け、神のまえにお返ししなければなりません。人間復帰の前に、万物復帰をしなければなりません。神様は人間を創る前に、まず万物を創られたのです。それゆえ自分自体がでる前に、自分にある全部をサタンのまえにおいて闘って勝利して、取った万物を神の前に立てなければならないのです。ですから世界は物質をもって闘ってきたのです。 今日修道を信じ、キリスト教を主としたすべての民主陣営は、サタンと闘って、この世界のすべての経済力を天の側に返さなければならないのです。原則がそうです。天の側に回さなければなりません。でなければ、サタンに飲み込まれてしまいます。サタンに引っ張られてしまいます。では経済力を天の側に回すには、どうするのでしょうか。善なる人に分配しなければなりません。 物質を天の側に向けるには、サタンが関係するすべての条件を切らねばなりません。その次には、自分の体を向けなければなりませんが、この体は心を主としてこそ、回るのです。この心が神の心に似せても、本然の心情を通じることができる基準が立っていなかったら、体を回すことはできません。サタンが体を握っているので、心を中心としてこの体を回すことができる者にならねばなりません。 今、人々は理念を中心にして人間を奪うための闘い、肉体を奪うための闘いをしているのです。この理念は精神を象徴しているのであり、心の世界を象徴しているのです。皆さんには全世界を抱えたい心があります。こんな心、即ち理念を中心に人間を奪う闘いをしているのです。 このようなとき、我々がサタンから体を奪ってくるためには、どうすべきか? サタンが持っていない理念を持って、現れなければなりません。変わる過程においては、どこまでもサタンが侵犯するのです。変化発展して、他の形態を得ようとすることは変わることですから、サタンが干渉するのです。変わってゆく過程においては、どのようなものにもサタンの侵犯を受けるのです。ですから今日の社会において、ある善悪の基準を定めなければなりません。ところがこの善悪の基準は、各国家や民族ごとに違うのです。それでこの善悪の基準は、永遠に変わらぬ主権時代を迎えるためにしきりに変わってゆくのです。 今我々人間がサタン世界にある体を奪って、天のまえに返すためにはどうしなければならないか? 変わろうにも変わることができない、動揺しようにも動揺することができない、永遠なる一つの理念を掴まなければなりません。であれば悪なる世界にこの理念を立て、人間を奪ってくることができるのです。ところが今、世界には変わらざる一つの理念がありません。それゆえ変わる心の本質を、動いているこの心を変わらない理念に接ぎ木するまでは、この肉体が向きを変えられないのです。なぜ? この肉体をサタンが支配しているからです。サタンが侵犯している場は、変わる可能性がある場です。変わる場にはサタンが侵犯する条件があるというのです。 もしも良心が思慕する理念が、天地が変わっても変わることのない理念であるなら、心は回るのです。心は回るでしょう。そのようになるのです。 今日人類が物質を天の側に引き入れるには、どのようにしなければならないか? 民主主義陣営に変わることのない理念があって、世界がこの理念を中心に回れば、可能です。そんなときには我々の肉体も、天のまえに求めてゆくのです。 今までの人類は、物質を懸けて闘ってきました。肉体を懸けて、天地を代身する良心を追求する人々が闘ってきました。ところが次には、変わらぬ心を中心に、変わらぬ神の心情に通じる心情を持つなら、最後の決判が下るのです。 物質を求め、体を求め、心を求め、その次には心情を求めるなら、この地はすべての事が解決されるのです。皆さんがどんなに素晴らしいといっても、こんな条件が掛かっているのです。間違いなく。 ですから世界を支配することができる主義がでてきたとしても、人間がこの主義を中心に死の場を体恤することができる心、世界まで左右する理念ですら支配できない心情が凝結する一つの場所を持っていない限り、闘いは終わらないのです。善悪の闘いは終わらないのです。また、我々がサタンから物質を奪って神のまえに返し、体を奪って返し、心を奪って返さなければならないのですが、この心を返すためには、どんなに変わらぬ理念があったとしても、それで良しとしていては駄目なのです。 この理念のおく深くひそむ心情問題に入って、心情が通じる場に立てば、神が私であり私が神であり、神のものが私のものであり、私のものが神のものになるのです。この心情を連結させるとき、今まで捧げた物質、体、心が全部一つに統一されて、神のまえに最高のものとして決定されるのです。そのために祭物を捧げるのです。 4. 私の怨讐が何であり、善悪はどのように区別するのか 皆さんは怨讐を持っています。皆さんのまえに見える物質が怨讐であり、皆さんの体が怨讐です。これらがサタンの祭物になる条件なのです。 罪とは何でしょうか? サタンが侵犯することができる条件を提示することです。皆さんの心が往ったり来たりすることも怨讐です。一度善であるなら、善でなければなりません。ところが悪なる場に入る人間は、心がしきりに背くのです。行かなければならないのに、行こうとしても日に何度も変わるのです。 善と悪の区別はすぐにつくのです。悪なる場にいるなら、心がしきりにその場を離れようとするのです。日に何度も変わることが悪です。変わる世界で変わり切れないのが、天のまえに近いのです。ですから変わるこの心、この怨讐を追い出さなければなりません。変わり得る理念なら、その理念も打ち破らなければなりません。 ある宗族を中心として、ある民族を中心として、ある宗教を中心としてきたのですが、これが本然の良心と心情を糾合してきた天倫、あるいは自然の軌道による変わらぬ形態として動くことができるときこそ、初めて人類は理想世界へと入るのです。 言い換えれば、物質が怨讐です。この肉体が怨讐です。この心が怨讐であり、この心情が怨讐です。なぜ子供は父母が好きなのか。子供に対する父母の心が、変わらないからです。死んでも変わらないから、良いのです。天をなぜ、良いというのか。いかなる曲折にも天は変わらないがゆえに、良いというのです。変わらないということは、最後に現れます。父母もそうではないでしょうか? だから変わらないというもの、変わらない自体が現れなければなりません。 皆さんが持っているすべてのものは、怨讐世界の利用道具です。ですから修道人は物質を打ち、肉体を打ち、自分の欲望を打ち、自分の心情を打つのです。これが何であるかは知らなくても、いつかより大きな物、より大きな善の肉体、より大きな善の良心、より大きな善の心情を求めるという目的があるので、道人たちはそれに向かって駆けているのです。これを我々は、蕩減復帰歴史というのです。 5. 人類がすべき最後のこと それでは最後の日、終わりの日というこの時に、我々はどのようにしなければならないか? 精算するところへ行かねばなりません。’物質よ、わがまえに現れて権限を振るってみよ、私と闘おう’と一時に捨て切ってしまう自分にならねばなりません。そうすれば体を復帰することができるのです。そうすれば体が留まるのです。天地が変わっても、この肉体が変わることのない理念に染みて、心のまえに屈伏しなければなりません。神の心情と人類が持つ根本的な心情が、通じることのできる変わらぬ心情の一つの核心が起こるなら、サタンは風呂敷をくるんで行くのです。風呂敷をくるんで行くというのです。 事実今、情的な出発地が準備されているのです。ところが本然の心情は天にあり、血統はサタンのものであるので、このサタンの血統を絶つために天を求めてゆくのです。こうしてどこへ行って帰結されるのか。心情に入って帰結されるのです。理念が最高に追求する目的が何でしょう。理念を立てる目的が何でしょう。神の愛を実践するためです。それゆえこれが今日、全世界にひろがる良心的な人、信仰を持つ人々が歩むべき、最後の勝敗を分ける道なのです。 こんな境地から神を見やるとき、神は気の毒です。六千年間闘って来られましたが、今日神の心情を踏み越えることができる一人の人間がいますか? いません。神は真に哀れです。六千年間、一つの肉身を求めて来られたのですが、神の心情を踏み越える肉身がどこにあるでしょうか? 神は哀れです。理念を立てるために苦労されたのですが、神の心情を中心にする理念はないのです。ですから今日この世界が、こんな姿になったのです。 理念と我々の肉身と万物が、神の心情に接ぎ木されていって整理されるその瞬間に、本然の位置は決定されるのです。ですから皆さんは物質を見やるとき、’歴史的な数多くの善なる人々の血を籠絡したこの物質よ’と怨痛なる心を持たねばなりません。自分の肉身を見やるときには’天の呻吟をもたらすこの肉身よ’心の動きを探ってみるとき’神の心情に背く心よ’という恨めしさを感じなければなりません。今がそうでなければならない時です。そのようにできる所が神の最後の目的地ですから、そこでは二人の主人に仕えることはできません。 このようなことを我々が認定するなら、ある理念圏内に入るときには物質も問題ではなく、死も問題ではないという理念圏に入らなければなりません。このような理念が、真の理念なのです。ある理想主義があるなら、この主義のためなら’物質が問題ではなく、億千万金の宝華が問題ではない。この肉身一つ死ぬことぐらい問題にもならない’とすることのできる主義でなければなりません。 この理念のために死ぬとしても、悔しく憤ることなく喜んで’当然のこと’とすることができる理念、このような理念がこの地上に現れなければなりません。キリスト教が驚くべきことは、このためです。彼らがイエスを抱える瞬間は、ただイエスのみです。何ものも意に介さないのです。イエスを抱えて行く道では、死も意に介さないのです。問題ないというのです。 イエス様が立てておかれた理想は、良心の理念です。今はこの良心の理念を越えて、心情の基準を立てなければなりません。ですからイエス様は’わたしは新郎であり、あなたたちは新婦’とされ、良心の橋を架けて心情に世界にまで連結しようとされたのです。 終わりの日とはいかなる日か? 神の息子イエスと、人間の心情が連結される時です。だから全人類は、イエスの心情に接ぎ木されなければなりません。そのようになればイエス様は’あなたたちは神の息子であり、わたしはあなたたちの新郎であり、あなたたちはわたしの新婦’とされるのです。なぜ、そうなのか。新婦を捜し求めるときは、これが世界のどんなものよりも勝っている時だからです。今日の理念は世界を抱くためのものであって、心情は神と全体を抱くためのものです。理念というものは対象世界を抱くためのものであり、心情は主体と対象を抱くものです。だから心情世界において、初めて統一が起こるのです。 このような観点から、今日我々は修道を終結させて、越えてゆかなければなりません。歴史の流れを見、論理的な推理をしてみれば必ずそうあるべきであって、このような立場で全体を代表して現れたものが、キリスト教です。ですからキリスト教は世界的な宗教なのです。しかしこのキリスト教が再び一段階、革命すべき問題があります。キリスト教が良心的な基準にのみ喘いでいるなら、滅びるのです。キリスト教が神の愛、神の心情を標榜して動いてゆかないなら、今日民主陣営が行く道を失うのです。それで我々統一教会はこのような面に指向して行くのです。 心情を通した真理においては神のまえに全体が子女であり、全体が新郎・新婦であり、全体が兄弟姉妹なのです。このような圏内に入るとき、我々は食口という名詞を立てることができるのです。このような一食口には、億千万金を与えても取り替えることができない価値があることを知り、またこの価値を貴く思わなければなりません。今日のどんな主義や金銀財宝を与えても、取り替えられない価値として知らねばなりません。 我々はこのような価値を知る人間が慕わしく、修道の道を行くのです。神様もこのような価値を知り、慕って生きる園を創るために苦労して来られたのが、六千年の復帰歴史なのです。 我々は嘆息しなければなりません。我々は天に対して’お父様! お父様が与えたい万物を与えてください、お父様が与えたい体を与えてください、お父様が与えたい心を与えてください、お父様のみに対することができる心情を与えてください’と祈祷しているのですが、考えてみればお父様が与えられたのに、我々が失い、また失ってきたのです。これが堕落です。ですから我々は善の物質を回復しなければならず、善の理念を回復し、善の心情を回復しなければなりません。これが人類がすべき最後のことなのです。歴史は善の物質、善の理念、善の心情のある所に向かって行くのです。数多くの民族が引き裂かれ倒れる恨があったとしても、民族を越え、国家を越えて、そこに流れてゆくのです。 6. 終わりの日に持つべき人生観、生活観、宇宙観 現在を見渡してみると、二つの理念がぶつかっています。ここにおいて一つが壊れる日には、どうなるのでしょうか? ’この物質はわたしのもの。この世界、人類がわたしのもの。この理念がわたしのもの。この心情がわたしのものだ’とすることができる主人公が現れなければなりません。このすべてを自身のものとして所有できる資格者、人類を籠絡したサタン、我々の良心と体と、我々の物質を籠絡したサタンに対して’この野郎’と怒鳴りつけ、審判することができる人間が現れなければなりません。こんな人間が、どのような人間か? キリスト教でいう再臨時代に、審判の場を逃れられる人間であり、最初の復活に参与する栄光を占める人間です。皆さんにこのような腹がありますか? ここでいう腹とは、拳を突いて語る腹のことではありません。歴史と共に、過去・現在・未来を通した摂理路程において、サタンが讒訴するすべての条件を蹴とばしてゆく権限を意味するのです。 神様は地上で’サタンに対するすべての物質を取りだせ’とすることができる息子・娘が出てくることを六千年の間、待ち焦がれておられるのです。’未来世界は我々のものであり、私のもの’とする群れが出なければなりません。これはある人間の欲望ではなく、神の願いなのです。万物を創られたのは’これは私のものだ’とすることできる観が立つ真の息子・娘のためであったのです。ですから我々には、宇宙観がなければなりません。生活観が必要であると同時に、宇宙観が必要です。世界観が必要です。この世界観が何でしょうか? ’この世界が私の世界だ’という観です。本来の人間はこのようになっているのです。 こんな観点から、人間はすべて世界主義者です。劣っていても優れてもすべて’私の世界だ’というのです。ところが私の世界だと主張できる条件を持っていないので駄目なのですが、この条件を得て天上に行って訴えたら、いくらでも求められのです。この天地は私のものとする主義が、皆さんが持つべき主義です。その次には、この世界に広がっているすべての人類は、一つの兄弟だという観がなければなりません。それでこそ、神が父の役目を果たせるのです。兄弟、この兄弟という観念を持って’この地上の理念は我々の家の理念であり、我々の心情は父母の心情だ’とすることができれば、世界は一つです。宗族を超越して一つになるのです。このような世界を立てられなかったなら、どんな政治、どんな理念も役に立ちません。 今日アメリカがどんなに経済力を誇っていても、ご覧なさい。彼らが風呂敷をひろげて全人類に分けてあげなければなりません。天運がこのように動いていることを、その人々は知らないのです。ですからアメリカが、これをやらなかったら駄目です。神の代身、倉庫にあるものを分けてあげるのです。このような心を持たなかったら、悪く言われるのです。アメリカが今、そうでしょう。 このような見地から今日、我々が世の中を見渡すとき、この世の中は二つに分かれて進行していることを知るのです。それで今日はどのような様相を呈しているのか。人間の世で尊いという家庭基準が壊れているのであって、先進国家がよりはなはだしいのです。まず間違いないのです。彼らが父母が分かりますか、兄弟が分かりますか、夫婦が分かりますか、子女が分かりますか? みな壊れてしまったのです。天運がこのように行っているのです。これをそのままにしていたら、離れることができないからです。このようなことを見るとき、世の中は終わりなのです。 それではここに、この世の中は滅んでしまうのか。違います。ここに新しい過程を経て収拾するところが現れてこなければなりません。であれば生存するのです。この世界は物質を越え、宗族を越え、五色人種を超越して’私のものであると同時にあなたのもの’という世界です。このような理念の動きが起こってこそ、世界は一つところへと収拾されてゆくのです。このような世界で我々は一つの兄弟となり、一人のアボジを中心とする父子の関係を成すことができるのです。神と人間がこのような関係で、神のものであり自分のもの、自分のものであり神のもの、神の喜びが自分の喜びになる時が地上に起こってくるまでは、物質に対する闘いも、肉身の闘いも、主義の闘いも、喘ぐ心情の闘いも解決することはできません。これを知らねばなりません。 このような観点から、いま一度過去を振り返って見てください。我々が何を中心にして生きてきたのか。これが物質であるなら、物質が受けるなら受ける準備をしなければなりません。これがこの肉身であるなら、この肉身が排斥されるなら排斥されなければなりません。我々がこの地上のある理念を持っているとして、この理念が砕かれるなら我々も砕かれるのです。日本を見てください。帝国主義が砕かれたので、全部が砕かれたのです。今日人間におきまして、愛が砕かれるときはすべてのものがみな砕かれ、みな失って喘ぎ苦しむ人間になってしまうのです。 哀れな人間が誰であるかといえば、すべてのものを失って’自分のもの’を持たないで喘いでいる人間です。本来、人々は全天宙を’自分のもの’とすることができたのです。それゆえ万物を失い、この地も失い、それらを’自分のもの’とし、心情世界やその理念も’自分のもの’とすることができる位置を失った人間が哀れな人間なのです。乞食はなぜ哀れですか? 自分を維持する所がなく、自分のものを残すことができないので、哀れなのです。 7. 我々の欲望と神の愛 今日我々人間はいかなる欲望を抱いて、運命的な復帰の道を行っているのか。すべてのものを自分のものにするために、行っているのです。’この天地がわがもの、この天と地にある人類がわが兄弟よ、地の上の理念が正にわが理念であり、主権者や企業主のものではなく、わがもの’。その次には’神もわがもの’とする場にも行くのです。それでは皆さんの欲望は、どこまで行けば止むのか。神もわがものとして、神だけを抱えてどうするのか。神の心中の愛も’わがもの’とすることができる場まで行くなら、すべてのことが終わるのです。 皆さん! 神の愛がどんなものか分かるの? 言葉ではそれらしいのですが、事実もそうなのです。人間が万物の霊長になることができる権限が何でしょうか? ’神様、おいでください’というとき’おう、行こう’と来られるように、神を呼び出すことができる主人公になることです。これは神の心情を自分のものとするなら、可能なのです。’神様行きます’とするとき’おう、来い’とされるのは何ゆえでしょうか? 皆さんそうではありませんか。心情が一つになり、互いに慕うときには、来るなといっても付いて来るのです。神様も人間にこのような標準で対し、求めておられるのです。’地の上で暮らしている人間たちよ、数千年前から喘いでいるこの恨を、おまえたちが解いてくれることが何だろうか。わたしの心情全体をおまえたちが占め、万物の主人となることができる姿になるとき、わたしに結ばれた恨をすべて忘れるのだ’とされることが、神の愛なのです。 聖書に’わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしがあなたがたのうちにいる’とあるみ言は、どんな意味か。人間の欲望というものは、この土くれを思いのままにしてみても満足しないのです。今日、フルシチョフやアイゼンハワ-大統領などという人たちがこの世の中を膝元に置いて’やあ、おまえたち、これをやれ’というとき’はい、やります’とするようにしたら、平安になれるでしょうか? 安らかではないのです。人間は最後に神様が’良く闘った、このようにやれ’とされて喜ぶように創られたのです。 神様は我々が、神の愛を独占する王者になることを、望んでおられるのです。ここに万事が解決されるのです。我々がその場に入って、六千年の恨み多い天に対し’アボジ’と呼ぶ一言に、神の六千年間に結ばれたすべての恨が、みな解かれてゆくのです。 そのようになれば、キリスト教は新しい次元に飛躍するのです。二千年前に来られたイエス様が、あなたがたは物を握って闘い、体を握って闘うが、そうではない。このすべてのものを捨て、わたしを信じなさい、とされました。あなたがたは、わたしイエスの新婦になることを信じなさい、とされたことは有難いことです。天的な心情の因縁を結びなさい、とされたことなのです。であれば、再び訪ねて来られるのです。そのようになれば、また神も人類を訪ねて来られるのです。 人間が神を求めてゆくとき、どのようにする人間が善なる人か。大きなことを考えてゆく人です。愛国者なら自分の家庭を捨て、自分の肉体を犠牲にしても、三千万民族を考えなければなりません。三千万民族を自分の肉体や、自分に属している何よりもさらに考える人間が、愛国者であり忠臣です。心情的にこのように考えなければなりません。忠臣烈女、孝子孝女が全部、このコ-スをたどるのです。 最後に、このすべてのサタン世界の条件までも精算できる一つの基準が何か。どんなに優れた人でもなく、人格者でもありません。ある権勢を持つ主権者も、この基準になることはできません。神も身じろぎもできない愛です。この愛を持つ人が全体の中心であり、全時代史の中心であることを、皆さんは知らねばなりません。 8. 主が迎えることができる者 今日我々は少なくとも、少ない三千万民族だとは限らないのです。百万信徒にすぎないキリスト教徒だとは限らないのです。世界に数多くのキリスト教徒がいて、天を愛する人が多いのですが、統一教会員が多いとは限らないのです。 天が願う歴史的な心情をもって、すべてのサタンの要素を絶つことができる人格者に、まずならなければなりません。こうして審判の基準を立てておいて、それ以外には許すことができないとする者になってこそ、六千年の間闘って来られた神の代身、この地上の事を整理する代表者として立つことができるのです。 神様はすべてを失ったのです。万物も失ってしまい、愛する息子・娘も失ってしまい、切ない愛の心情も踏みつけられたのです。神がそうなのですから、人間がどうしてそんな道を行かないでいられるでしょうか。ここに誰が打つのでもなく、自分自身が打たなければなりません。’天に背反したこの体を捨てて当然’と果敢に断ち切る存在でこそ、怨讐圏内に因縁のあるすべての恨み多いことを、踏み越えて行けるのです。これができない人は主様を迎えようにも、どうにもならないのです。ここで語る人の言葉に、間違いありません。事実がそうだというのです。 このような心情をもってゆく人々には、心と肉体と物質が自動的に付いてくるのです。ですからこんな心情を持つ国があり、民族があったなら、世界の物質はすべて彼らによって料理されるのです。世界の人類は彼らによって左右され、世界の主義も彼らによって判決づけられ、世界の愛も彼らによって左右されるのです。事実がそうなら一度やってみますか? ここに立って語る人間もこのような事を知っているので、こんな事をやっているのです。 それではその方法に入るには、どのようにするのか? これが我々のやる事です。我々はサタンの条件物になっている自身であることを、知らねばなりません。我々が財布に数千万ウオンの大金を入れていても、これがサタンが付いてくる餌であることを、知らねばなりません。ですから、このようになっているので・・・。 今我々は団結しなければなりません。団結しなければ。神様は愛する息子・娘の手を経て、すべてのものが現れてくることを願っておられるのです。私の考えはそうです。そうだというのではなく、そのようだというのです。誤解してはいけません。サタンに籠絡された万物を、ノアの箱舟を通して、神が愛することができる聖別された物として繁殖させようとしたのが、神の心であったのです。 だから我々は神のものとして、神の情に通じることができる物質を造らなければなりません。神の情が通じる万物の基盤を、造らなければなりません。堕落した人間の嘆きが何でしょうか? 万物の嘆きが何でしょうか? 神の情的な感情を感じられない段階におかれているがゆえに、嘆息するのです。この肉身が今サタン世界におかれているがゆえに、神の情的な感じに付いてゆけないのです。心もそうであり、全部がそうなのです。 9. 物質の割礼、体の割礼、心の割礼、心情の割礼 ですから私はこんな生活をしているのです。ある食べ物を出されても、むやみには食べないのです。皆さんは知らないでしょう。ここには必ずある理由があるのです。イスラエル民族がカナンの地に入るとき、万物の割礼をして、体の割礼をして、心の割礼をしたのです。物質の割礼、体の割礼、心の割礼したのですが、私はここに心情の割礼までするのです。 皆さん、今日世の中の人間がみな何でしょうか? 神を求めてゆくとき、必要なものを勇断をもって実行しなかったら、主様に出会うことはできません。絶対に会えません。息子・娘であれ、何々というものまでも自分の手で断ち切っていってこそ、その後に神の愛が連結されて入ってくるのです。このような観点から、皆さんの心がそのように動いてゆく所があったなら、行って抱きしめなければなりません。首を抜かれても落ちてはなりません。落ちたら自分だけが犠牲になるのです。ですから必ずこんな覚悟をもって動かなければなりません。終わりの日であるこの時、この時代にこのような動きが、この地球上に現れなければならないのです。 世の中にこれを模範とする動きが現れる前に、神を中心にして、理念を中心にして、食口という名詞を立てなければなりません。統一教会の食口という言葉が、ここに出るのです。分かりますか? ここに物質をもって、食口の威信を籠絡したら駄目です。自分の一家庭のある事情を中心に、我々食口の因縁を蹂躪する人間は、不合格者です。ある理念や思想観念、ある信仰観念を中心に、我々の理念を測る人間も、不合格者です。ある情的な感情を中心に、実践することを躊躇する人間も、不合格者です。この言葉が合っているか合っていないか、見ていてみなさい。 堕落した以後、我々人間には恨めしい運命の道があることを、知らねばなりません。愛する食口に出会うためには、数千万金を一朝一夕に使い果たしたとしても’あなたに出会ったので、どんなに良かったでしょうか’という心を持たねばなりません。この肉体が疲れ、苦痛を受けることがあっても’愛する兄弟一人を捜し求めるためなら、どんな所でもかまわず行かねば’という心を持たねばなりません。このような理念を抱き、イエスのように地上でみ旨を成就できずに逝く恨があったとしても、この理念だけの為に行くという人間は、必ず神の愛に接するのです。 理念を中心に物質を捨てる人間は、神の息子としての肉身を占める権限を受け、肉身を占める理念も地を中心とする理念であれば、捨てて行く人間は神の心情が待っているのです。このように、一段階、一段階、連結されて上ってゆくのです。イエス様は万王の王としてこの地上に来られ、理念も捨て、命までも捨てて行かれたのですが、その上に心情があることを知っておられたので、神に対して’アボジ’と呼ぶことができたのです。我々も同じなのです。 このような観点から我々は今、判決を下さなければなりません。自分がどんな場に立っていて、私はどんな存在であり、どれほどの価値的な場に立っているのか? 自明な事実です。皆さん自身がこの道を行くにおいて、ある世の中の物質をおいて躊躇するか、あるいは自身の家庭や、自身の国家的な立場で躊躇するか、これまでの主義や理念、あるいは信仰的な観念のゆえに躊躇するかしては駄目です。これは問題にもなりません。さらには愛の問題、即ち情的な問題までも、自信をもって越えて行かなければなりません。見事に越えて行く衝撃的な事を、終わりの日には必ず求めなければなりません。 10. 善悪の戦場を越えるには 歴史の流れは不義を許さないのです。それで修道(道)は良心を通して、善であれと教えるのです。善は命令するに、’自分の体を犠牲にして、おまえのすべてのものを他に与えよ、頭を下げて他を受けよ、民族を受け、世界を受け、人類を受けて神を受けよ、そして自分の体を神様に預けよ’とするのです。このようにすれば、どのようになるのか。最後にはどうなるのか。神の愛を自分に与えるのです。善が目的もなしに命令するでしょうか? このようにすれば、神の愛を自分に与えるのです。これを知る者、これを感じる者にならなければなりません。 世の中でどんなに反旗を掲げたとしても、神の愛を侵犯することはできません。神の愛の世界は、侵犯する場がありません。サタン世界は侵犯することができても、神の愛を中心とするところは侵犯できません。これがお終いであり、永遠であり、変わらない基準だからです。ですからこの基準の上に出発することができる真の息子・娘、真の家庭、真の社会、真の世界、真の世界の万物にならねばなりません。それでこそ全世界は善悪の戦場を越えることができるのです。 それではこんな場に出てゆけない我々は、どうしなければならないか。我々が見るときも善と悪が闘い、聞くときも、食べるときも、話すときも、動くときも、全部が善悪が対立して闘っているのです。それゆえ我々は善悪を選んで’私はこのように行かねばならない’神の心情に立脚して、神の変わらぬ理念を通して見るとき、’このように行かねばなない’という観を立てなければなりません。こんな宇宙観を立てて、心情を通して左右を分けて行くとき、皆さんはこの戦場を越えることができるのです。 それでイエス様も、神の愛が染みる十字架を受けて行かれたのです。神の愛。皆さん、故郷を捜して行く人が、父母と争って行って良いでしょうか? 父母の愛が恋しくて行く人は喜悦に溢れ、希望に溢れるのです。イエスが十字架上で、誰を恨んで切なく逝かれたでしょうか? アボジの愛の懐に行く場ですから、イエスは怨讐に対して福を願われたのです。今日皆さんはこのような場を、取り戻さなければなりません。ですから堕落した人類は、復帰の過程を経なければなりません。そのためにはこのような条件を精算しなければなりませんが、そのようにできる自分であるか、自問自答してみてください。 11. 我々の責任と祝福の基準 神の願いが何でしょうか。我々人間が、お父様が案じることのない場で、お父様のものとして貴く思う物質を造り、お父様が愛することのできる肉身を造り、お父様が愛することのできる理念を持つことです。物質を復帰して、肉身を復帰して、理念を復帰して、天のまえに現れるなら、神様は取ることができるのです。それで人類は理念を追求しているのです。イエス様がわたしは新郎であり、あなたがたは新婦という理念を中心に、生死の境を越えてゆかれたので、このお方と共にすべてを捨てて、死の峠を越える覚悟をする者がいるなら、その前に主様は愛の主人公として現れるのです。 終わりの日には、そこが恋しくてまた恋しく、見たくてまた見たく、行きたくてまた行きたくなければなりません。億千万金があったとしても、それが問題ではないのです。今地上でどんなに富貴栄華を享受していても、これを蹴とばして捨てて行くように率いる教団を、今日人類は迎えてこそなのです。もしも統一教会がこの路程を行かないなら、また他の所へでも行かなければなりません。ここが最後ではありません。風呂敷を包んで、また行かなければならないのです。 今日我々が、自身を籠絡する物質の権限を嘲笑い、自身を打っている肉体的なすべての条件を嘲笑い、自分を縛ったいるすべての条件を、心情のまえに屈伏させる自分にならなかったなら、この峠を越えられません。越えられないのです。絶対に越えられません。 ’私は誰のために教会に行く、私は愛する息子・娘のために教会に行く。あるいは愛する夫のために、妻のために教会に行く’という者たちはみな越えられません。誰のために行くかといえば、神のために行くのです。神を自分のものとして所有するために、神の愛を自分の愛として求めるために、教会に行くのです。 ですから聖書には、気概を持てとあるのです。こうして神のまえに祝福を受ける過程を経てゆけば、その次は無事太平です。そのときはこの天地にサタンが一杯いても、そんな人間は支配できないのです。そんな時が来るのです。外的にそんな時代が来れば、ここに内的に合わせなければならない時代が、必ず来るのです。 だから今日我々は恨み多い過去を再び嘲笑い、この時代を蹴とばして神様が愛することのできる土くれ、神様が抱いて愛することのできる万物、神様が愛することのできる兄弟姉妹、神の愛を歌う息子娘を抱くことができる、その一つの所に向かって駆けて行かなければなりません。そこまで我々が行かない限り、この地上の悲惨な歴史は終わらないのです。 今日我々はこの争いの世界が、どうか過ぎ去ることを願っています。人類はこの争いの世界が過ぎて平和の世界、愛の世界、善の世界が来ることを願っているのです。この一つの世界を指向するのが神の目的ですから、この時が目の前に近づいているこの時、我々が理念的なすべてのものを一代で精算して、内的な準備をして越える者にならなければ、審判主であられる神の息子として立つことはできません。皆さんは審判の時が来る前に、審判を受けていって、神の仕事をすることができる資格者にならねばなりません。こうして審判の時になれば神の代身、審判の行使をしなければなりません。これが聖書で言う、祝福の基準なのです。 今日我々が行く道は、こんな道です。神を我々のものとし、神の心情を我々の心情として、この地と宇宙を我々のものとして、造らなければならないのです。天と地の心情に背信したのですから、食べることも忘れ、いつどんな所でもこのみ旨を成すためには、責任を持って行くという心情に染みる人間になってこそ、このすべての恨み多い善悪の戦場を越えることができるのです。そのような者がこの恨み多い戦場を、まず越える資格者になるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.15
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天国を捜して成そうとする悲しい父と息子・娘一九五九年五月一七日(日)前本部教会 皆さんに暫くの間、お話する題目は’天国を捜てし成そうとする悲しい父と息子・娘’です。こんな題目で、暫くの間お話します。 人間が善なる目的を追求する理由 人間始祖が失楽園の悲しみを体恤したその日から、今まですべての人間たちには心の悲しみがあり、体の悲しみがあり、生活の悲しみがあるようになり、その悲しみは全世界と天まで連なっているという事実を、皆さんは知っています。 一つの目的を追求すべき我々人間が、二つの目的に対している立場に立つことによって一人の主人公に対すべき人間が、神の他にサタンに対している立場に立つようになったのです。ですから堕落した我々人間は、二つの目的の世界に対している立場に立っているということを、生活を通して体恤するのであり、これは誰もが否定することができない現実なのです。 人間を創造された神のみ旨から見れば、人間は一人の主人公を中心に、一つの目的と一つの理念を持って生きるべき存在なのですが、堕落したその日から二人の主人に対し、二つの目的の理念を望み見る人間になってしまったのです。 このようになることによって、善悪は自分一個体の環境圏のみならず、全世界にまで因縁をもつということを、皆さんは知っています。さらには地のみならず、天にまでこんな因縁が及んでいるという事実を、我々は知っています。 今我々は目的の世界に向かって 行かざるを得ない運命におかれているのであり、その何かは分からないが、自分の良心がある方向性を指向して、自分を催促しているということを、拒否しようにも拒否できないのです。ですから今日我々人間は、現実的な社会の矛盾に対するとき、世界の複雑なる実情を超越する新しい理念の世界を、心から追求せざるを得ないのです。 それでは自分をしてこのような心情を感じさせ、自分自身も知らないある感触を通して自分の心を、そんな一つの方向へと率いている動機は、どこから始まっているのでしょうか? それは一つの目的と、一つの理念を持つ、一人の主人から始まっているのです。そうしてこのかたは、一つの理念を持って、一つの目的を指向してゆく人間と、一つの世界を再創建するために、皆さんの生活環境に干渉して率いているということを知ってこそなのです。 今日人間は、新しい文化世界を創建していっています。のみならず、この文化世界を創建していって、この文化に通じることができる心の世界の理念まで指向しているのです。これを拒否できない立場に立っている自身であることを知るなら、皆さんは平安なる一日を持つことができないのです。 なぜならば、我々の祖先が失楽園の恨を抱いたその日から、その悲しみの感情は我々にまで連結されているからなのです。こんなどえらい事実は、歴史的にも実証されている事実なのです。我々の心情を通して、生活的に体恤するこの事実を、どうして拒否することができるでしょうか? このような事をおいて深刻に考え、み旨を抱く人間がいるとしたなら、彼はこの恨となる悲しい曲折の因縁を解くために、天地に向かって両手を広げ、訴え喘ぐ立場を免れようにも、免れることができないのです。 それゆえ皆さんは、今日の我々がこのような姿になるために、どのような目的と理念を持って、どのような中心に向かって生活する開拓者の立場に立つかということを、再びふり返って考えるべき時がきたことを、知らねばなりません。天はこのような時代を創るために、このようなみ旨を立てるために、歴史路程を経えきて良心を基盤にして、善を指向し、善の理念を捜し求めてゆく摂理を、我々の先祖たちを抱えてされてきたことを、知らねばなりません。 従って皆さんの心情が善を指向させるために、ある衝撃を感じる瞬間があるならば、その瞬間は崇高な瞬間なのです。崇高な瞬間ですよ。歴代の我々の先祖たちが皆さんを立てて、全人類が願う善なる目的の方向へと行くように、催促している瞬間なのです。さらには天が、自身を立てようとされる瞬間であることに、間違いないのです。 人間の心情が善を指向するように衝撃を感じる瞬間は ですから真の理念、真の心情のみ旨に向かって良心が動く人間がいるとして、彼はこれをどのように収拾して、自身の心の中心として、体の中心として、生活の中心として、理念の中心として、あるいは目的の中心として立てるために喘いでいるかということを、反省してみなくてはならないのです。 このような境地から人間がそれ自体を批判し、自身を中心に因縁のある世界を批判し、さらにはこれらのすべてのものが、見えざる無形の創造主と因縁を持つということを案じる心情を抱いて喘ぐとしたら、我々人間の心情に結ばれた恨の峠は、きっと歴史路程のある一時に消え去るのです。天がこのような問題を解決できないなら、天としての責任を果たさないのです。 それゆえ天は、このような事をある一時に、ある一人の人間、ある一つの集まり、ある一つの国家に預告させ、摂理されてこられないはずがなく、またこのような歴史の痕跡を残されぬはずがないのです。 我々がこのような痕跡を捜して追求してみるとき、この恨の歴史を精算する事は、ある論理的な方便や、理論的な形式によってはできないのです。それで心の世界を捜し求め、善の理念を追求して、さらには霊的な世界、即ち超自然的な次元の感情を引き出す方法を捜し求めて、人間と因縁を結ばなければならないので、宗教というものが現れるようになったのです。 宗教を通して我々が感じなければならないことは一つの目的、一つの理念、一つの中心が、歴史の始まりから終末時代まで、変わってはならないということです。一貫した思想によって流れなければなりません。なぜ、そうなのでしょうか? 皆さんは善悪の基準、言い換えれば善なる民族、善なる人間、善なる事は、何を基準として判断するのか? 始まりと終わりが統一しているのが天であり、善であるのですからそれを基準として判断するのです。真の善、真の天というならば、昔であれ今であれ、その目的、その理念、その方向が変わることはないのです。ですから宗教が一つの理念を立てるなら、歴史の変遷はあったとしても、その理念は変わることなく、うまずたゆまずに行くのです。 神の実存体が現れれば 人間の悲しみは、堕落によってもたらされたのです。さらには神の悲しみも、人間の堕落によってもたらされたとして、この悲しみを解怨する一日を預告するあるみ旨がなければならず、これを実践する方便がなければならず、これを解決することができるある人間がいなければならないことは、間違いないのです。 この事を担い、この事に責任を持つために送られたかたが、宗教的に見れば修道(道)の責任を負う者なのです。 全世界的なある修道の使命、救世主の使命を持って来ることを、キリスト教的にいうとイエスの降臨というのです。 このような中心存在が、天上の悲しみと地上の悲しみを解怨するために、この地上に現れるなら、絶対に栄光にみちた姿として現れることはないのです。なぜならば、神の実存体が現れるにおいては、歴史の過程を否定することができず、時代性を度外視することができないからです。 天が悲しい過程を経る歴史があるので、イエス様が天宙の理念を代身する理念の主体として、目的の主体として、生命の主体としてこの地の上の現れるためには、このような過程を経なければならないのです。 実存するということは、因縁の過程を経なければなりません。それでこそ実存の土台を持つことができるのです。ですからイエス様も、歴史的に因縁づけられたその悲しい心情を、体恤しなければならなかったのです。人間を代表して、そんな心情を体恤する反面、天を代身して神の悲しい心情まで体恤しなければならなかったのです。 人倫的に見る観と、宗教的に見る観は違うのです。人間たちが見るときには、自分を否定して全体を代身して、大衆の苦痛を背負うという人間を、善なる人として仰ぎ敬うのですが、宗教的に見るときにはそうでないのです。人間的な悲しみを代身すると同時に、天倫の悲しみを代身する立場でなければならないのです。 それは堕落によってたがえ、絡みついたその怨恨の曲折を解くべき人間が、必ず持つべき天的な要求であり、全人類の要求であることを、我々は知ってこそなのです。 このような怨恨を解怨して、堕落によってたがえた曲折を打破するために来られたかたがイエス様であるなら、彼は四千年の人類歴史路程において、どこの誰も体恤することがなかった神の悲しい心情を、感じる道を行かねばなりませんでした。それでイエス様は、四千年の歴史路程に現れたどのような主義よりも、神の心情の奥深く染みている悲しみの感情を、体恤しなければならなかったのです。もしも地の上の人間の中に、天の悲しい心情を体恤した者がいたとして、彼は涙なしに地を見やることができないのです。天と地まで悲しみに染みて、嘆息し、慟哭する境地にぶつかってしまうのです。イエス様はこのような心情を感じられたのです。 これが誰のゆえであったのか。初めは天のゆえであり、天が人間のために彼をこの地上に送らたのに、その次には人間のためであったと見ることができるのです。ですから天の悲しみを抱き、人間を抱いて泣かなければならなかったイエス様であり、人間の悲しい心情をにぎって天に向かって訴え、泣かなければならなかったイエス様であったのです。 神の悲しい心情を一掃したという一時、即ち神の心中に染みている悲しみを解消させる一時が訪れてこない限り、人類の平和も成せず、天的な一つの理念も、この地の上に結実の一時を迎えられないということを、皆さんは知らねばなりません。 こんな曲折に処している皆さん、こんな曲折に染みて喘いでいる今日の人類が今、新しい覚醒をしなければならない時が来たのです。わき起こる警鐘の音に、我々は時が来たことを知るのです。 今日この時は、歴史上に恐ろしい時が多かったとしても、これ以上に恐ろしい時がなかったのであり、悲しい時があったとしても、これ以上に悲しい時がなかったといえる、そんな時なのです。なぜならば、父母が子女を知らず、子女が父母を知らない時であるからです。このように貴い天的な因縁を、自分勝手に放棄して、破綻させてしまった彼らが、どこに行って自身の悲しみを慰められるかと考えるなら、これ以上の悲しみはないというのです。 今日の人間がおかれた状況と我々が取るべき方向と態度 悲しみがわが心に染みているのですが、また一面では恐怖の世界が、自分に襲いかかっているのです。このような状態で喘いでいる自分一自体において、安定した心情の園がどこにあり、安息と自由の園がどこにあるのか? これがこの時代の人類、この時代に生きている我々が解決しなければならない切迫した、かつ重大な問題であらざるを得ないのです。 皆さんはこのような圏内に、おかれているのです。このような皆さんであることを、再認識すべき時が来たのです。それゆえ今、右手を挙げて’天よ、私たちの手を握ってください’と力をつくして叫び、左手を挙げ’人類よ、私と共に前進するのだ’と叫ばなければならない時が来たのです。ところがこんな衝撃を、心から感じようにも感じることがなく、こんな刺激を受けようにも受けることがないこの地の上で、どうするのか? 人間は今まで自分たちだけで捜して見て、争い、いろんな事をやってきたのですが、これを解決することができず、その結果は絶望と、死亡と、滅亡の他はないのです。我々人間の努力に対する報いがないということを、理解する時がきたのです。 天があるとするなら、人類は歴史的な努力を注ぎ、ある一分野において天と因縁を結ぶという信念を持って、天を求めてゆかなければなりません。このような日が個人から芽生えたなら、個人が蘇生するようになるのです。このような日を捜してさまようある集い、あるいは民族、国家、世界があるとして、その集まり、あるいは民族、国家、世界には、この新しい因縁の世界を捜し求めてゆく動機と、理念がないとすることはきないのです。 もしも天があって、このような世界性を望み見ておられるという事実を知るなら、我々はより多くの恐怖を感じるのです。心的な世界において、自分も分からない恐怖の刺激が日がたてばたつほど、時代が切迫すればするほど、よりましてくるのです。 それゆえこの世界、この方向をこのままで行ったなら、駄目なのです。この道を行けば生命に脅威を感じ、生死の脅威を感じることは、間違いないのです。この道は本然の心情を持つ人間が行く道ではないことを再認識して、帰ってくることができる環境を捜して見る、余裕の心情なりと持たねばなりません。今まで皆さんが地の上で、天のまえに忠誠をなしたそれ以上に忠誠をなし、苦難を受けた以上の苦難を受け、いかなる情熱を注いだ以上の、情熱を注がなければなりません。 本然の私 ある善の主体、ある善の目的体、理念の世界がその心に染みていって、皆さんが感じないとしても感じざるを得ず、喘ぐまいとしても喘いでしまうのです。そんな姿になっているなら、皆さんはある目的世界を捜し求めて行く動機を持っていることに、間違いないのです。 今まで自分が持っているある合理的な論理を通して立てた主観や認識を通して、自分の思い通りに立てた観念で、自分の全人生を委ねて生活し、安堵感を感じる人間がいたとしたら、彼はその学んだ知識が自分を、自縄自縛してしまう結果になることに間違ないのです。 皆さんの心の底をさらけだして考えてみるとき、このような感情の流れを否定することができない一つの真理体であり、実存体である事実を知ったなら、この姿は宇宙的な姿であり、宇宙的な証拠物であり、歴史的な証拠物、理念の証拠物であり、一人の主体に対する対象的な存在であることは、確かな事実なのです。 今天があるとして、我々は主体たる天の対象である自分の個体を、一〇〇%信任してくれるその一日を捜し求めなければなりません。この目的に対し、一〇〇%の信念を持って捜し求めて行かなければなりません。また、一〇〇%の信念を持って突進することができる、方向性を持っていなければなりません。これがこの時代に生きる人類が解決すべき、最後の重大な問題なのです。 このような悲しみの環境を越えなければならない人間ですから、神はこれを解決するある条件を、立ててこられたことに間違いないのです。であれば神は歴史路程において、どのように摂理されてきたのか。人間始祖が堕落したのは、神を信じなかったためであったという事実を、皆さんはよく知っています。信じなかったので、堕落したのです。さらにいえば、神を愛さなかったからです。そして神に侍らなかったが故に、堕落したのです。これがキリスト教でいう信仰の三大要素、即ち、信仰、希望、愛を象徴しているのです。 信仰者たちの希望の標準 我々の最後の希望が何であるか? 神に侍ることです。人間が必ず求めなければならないことが、天的な因縁を回復することです。解怨される一つの歴史的な条件、摂理的な条件、未来的な条件があるとして、この条件は何を通して我々に訪れてくるのか? 過去の我々の先祖たちが信じず、愛さず、侍らなかったがゆえに、信仰の運動を提示して、愛の運動を提示してきたという事実を、我々は知っています。このようなことを通して、我々に訪れてくるのです。 イエス様が来る前までは、信仰の基台を築くために喘ぎ、イエス様がこの地上に来られて人類を愛するために闘われたのですが、そのみ旨を成すことなく、新郎・新婦の因縁のみを立てて逝かれたのです。ですから人類を抱いて愛することができる、愛の主人公が来なければなりません。 それではその主人公を迎えるその日以後からは、どのようにしなければならないのか?生活の中で、そのお方に侍って生きなければなりません。これが地上天国なのです。このように無限に侍って生きる、このような天国世界において生きることが、信仰者たちの希望であり、標準なのです。歴史の摂理路程も、このような方向へと動いて行っているのです。 ですから天が悲しみに染みている人間を捜し求めているなら、逆説的な要素と逆理的な条件を通し、勝利的で法度的な条件を捜し立てなければならないのです。ここに天の曲折があるのです。人間の悲しみも大きいのですが、天の染みいる悲しみがさらに大きいのであって、人間はこんな天の悲しみを知らないでいるのです。無知なる人間のまえに法度を立て、勝利的な過程を経ていって訪ねて来る天の悲しみを、知る人間がいないのです。 それでイエス以後、これまでの歴史は信義の歴史です。人類の歴史は信仰の一つの基準を造成して、またこの基準を高め、善の実績を積んできたということを、我々は知っています。イエス様が愛の一つの中心としてこの地に来られたのですが、来られた目的をすべて遂行することができずに逝かれたので、これからの信義の時代から、侍義の時代へと移っていかなければなりません。 ですから天は悲しみの環境の中におかれている私一個体を、救援するために再び訪ね来られるのです。 人間が神と因縁を結べる条件-信仰と実践 歴史的には何を通して天が人間を訪ねて来られるかというと、信仰という条件をもって訪ねて来られるのです。天は人間をしてこの信仰の条件を立てさせる反面、人間に対して何を要求されているのか? 実践を要求されるのです。天と自分が因縁をもち、悲しみの感情を除去することができる一つの足場を立てるためには、信仰を中心にして一つの実践的な行路がなければなりません。そうしてこそ、歴史的な因縁を立てることができるというのです。 なぜならば、私という存在は私個人のために生きるのではなく、私を否定して、天が行く方向に従うべき運命におかれているからなのです。天は我々個人をまとめて、世界と天宙のための方向へと、その方向性を得てゆくのであって、善の方向性というものは、私を中心にしてはいないのです。善の標準は、私を中心にしてはいません。これは国家が対象になり、天が対象になっているからです。ですから天は信仰と実践を強調して、人類に対して摂理してきたのです。 今日まで信仰と実践を強調してきた六千年歴史、この六千年の歴史を検討してみれば、言葉にもならない悲しみの歴史です。しかし今日皆さんは、人類の悲しみよりも、人類を抱えて来られた天の悲しみが、さらに大きいという事実を知らなかったなら、天的な因縁を結ぶことはできません。今まで、これを知る群れがなかったのです。 我々は人間たちが、天を追放し、先知先烈たちを殺した歴史的な先例を持つという事実を、知らなければなりません。 天は人間が無限に信じて実践して、ご自身を求めてくれることを願っておられるのですが、人間には神に対する心情がなく、信仰を持って実践して実行することができる足場を持っていないのです。 また信仰の足場があったとしても、人間は天の悲しみと伴なる感情を通した信仰、感情に通じることができる心情を持って実践してこそ、天の信仰と人間の信仰が互いにぶつかりあって、人間のすべての悲しみを解怨できるようになるのです。ところが我々人間が、そんな境地に立っていないということなのです。 今日皆さんが新しい理念に向かってゆき、新しいみ旨を指向してゆくにおいて、自らの信仰に自信がありますか? 自信がないというのです。この自信と共に、歴史的な因縁を拒否する自分の生命体を得ていないならば、歴史的な因縁の環境を開拓しなければならない実践路程が残っているのです。たとえ信仰していることを実践する資格があったとしても、天情の悲しみを体恤し、神の信仰に心を奪われ、神の実践に心を奪われる感情が先に立たなかったならば、皆さんは神様が捜し成そうとされる天国とは、何らの関係がないのです。何らの関係もないというのです。 人間同士の信義も、悲しい面と喜ばしい面が相対的な関係を結んでこそ、これが長く維持できるのであり、その信義を基盤として約束したことをどこまでも実践できるのです。天に対する信仰路程においても、実践路程においても、他なりません。天の喜ばしい面と悲しい面を感じていって、信じて実行できなければなりません。それゆえ喜びの自我になるには、悲しみの自我をまず、捜し求めなければなりません。 ですから信仰の主人公として来られたイエス様は、万民を代身して信仰の中心となる心情をもって、真の信仰者の姿をもって、天のまえに現れようとされたのです。そして天はイエスが万民を代身して、ご自身と信仰の因縁を結び、そのイエスが万民とも因縁を結ぶことを願ったのですが、願った通りにはならなかったのです。言い換えれば、イエス様と天は因縁を結んだのですが、人間との間には所願とされたその因縁を結ばないままに、今まで過ぎてきたのです。 それで今までの聖徒たちは信仰を立て、実践してきたとしても、信仰と実践が自身において完成したとする日を、迎えてはいないのです。 真の信仰と実践 天国とは、真の信仰とは’これこれである’と解釈することができ、真の実践とは’これこれである’と解釈できるところです。ですから今日人間が、このような真の信仰と、実践を成事させるための路程において、天が受ける苦難と悲しみの感情を体恤するにおいて、その感情の限界を分析して同感する場に立っていなかったなら、彼は未だに天国理念の世界においては、両手を挙げて歓迎することができない立場であることを、知らねばなりません。 ですからイエス様が歩まれたその跡は、貴重なものなのです。イエス様はご自身の一言のみ言が立てば、天が立つのであり、そのみ言を実行すれば、天のみ旨が実行されることを知っていたのです。ここに基準を合わせて生きてゆかれるイエス様にあっては、人間を案じる心が大きく、天を案じる心が大きく、天と地の悲しみを体恤する感情が大きいのです。 聖書の中にはイエス様が喜びにあふれ、踊りをおどってみ言を語る句節はありません。なぜ? 神様も未だに喜びの園で、子女である人間に語られていないがゆえに、イエス様は心中に喜びがあったとしても、天と地を越える喜びの感情で、自由にみ言を語ることができなかったのです。 イエス様のみ言は、喜びの感情で伝えることのできるみ言でなければならないのに、語られるご自身は悲しみの感情を通してされるということを、知らねばなりません。従って皆さんは今こんな感情に染みて、み言の尊厳性を悟らなければなりません。 イエス様と自分が歴史性を超越して関係を結び、現実の生の理念圏内において、因縁を結ぶみ言になっていないなら、そのみ言は天のみ言ではありません。 信仰者の本質と神の願い 皆さん! 今皆さんに真理の道を求め、信仰路程を復活させようという切なる心情があるなら、イエス様が悲しみの感情によって語られた信仰観念の最後の限界線がどこかを知り、その限界線を越えなければなりません。イエス様は天宙の悲しみを解怨しなければならず、人類の悲しみを解怨しなければならない中間的な責任者であったので、彼の心は推し量ることもできない悲しい心情だったのです。人類の悲しみが百なら百、千なら千の心情を感じて、さらには神の千万までの悲しみを感じたのでした。ですからすべてがイエス様の悲しみの感情を通して現れるみ言に対して、人間の信仰の基準が立ってこそ、神と人間との間の塞がれていた因縁が、再び結ばれるのです。このような基準を立てることが、信仰者の本質であるといえるのです。 ですからキリスト教は、笑いの宗教ではありません。涙の宗教なのです。従って我々がイエス様についての、一つことを知ってみれば胸がつまり、二つことを知ってみればわれ知らず慟哭し、知って知って、また知ってみるなら自分自らが祭物になるべき立場であることを、感じないとしても感じざるを得ないのです。こんな感情からの信仰、こんな感情からの実践をするなら、死せる人間を生かせるようになるのです。 天のまえにどれほど素晴らしい功績を立てたとしても、その功績の結果は自身によって成されたものではないのです。それは天によって成されたものなのです。 それでは摂理の糸口は、どこから始まるのか? 人間の心が天の悲しみと通じるその瞬間に、新しい摂理歴史は開拓され、積まれてきたことを、皆さんは知らねばなりません。 神は人間に対して、信仰と実践の路程を歩むことを促され、六千年の長い歴史路程を経てこられたのです。全人類に対して、このような存在になることを懇切に願われているのです。全人類のまえに神ご自身を、一〇〇%立ててさしあげる実体を願っているのです。 天は限りなく信じて行動しても、その事実を忘れてしまう一つの存在を、捜し求めておられるのです。天の標準がそうなのです。信仰という言葉が必要なく、実践という言葉が必要ない、そんな存在を捜し求めているのです。イエス様を通して与えたみ言を立て、実践の名詞を立てることのみならず、天の感動を引き起こす存在を求めてこられたのです。ところがこのような天が、人間に求められるその限界線を越えて、実践したという人は一人もいないのです。 神が求めている人 今日キリスト教の数多くの信者がいるとしても、このような心情の限界線を越えて、実践路程を誇ることができる一人の天的な子女が、どこにいるでしょうか? 天的な子女がどこにいるでしょうか? 問題はここにあるのです。今日皆さんは信仰の名詞を、夢にまで立てなければならず、どのような一つの事実においても、時代性と歴史性を超越して、永遠から永遠にまで自由自在にわがものと思って愉み、わがものとして応じることができなければなりません。神様が人間に対して、信仰の基となる道を立てたという、そんな内容がなければならないのです。 世の中の信義の法度を忘れてしまう一つの存在、実践の価値を忘れてしまい、実行の価値よりも貴く思うそんな境地で天のみ旨に染みるとき、天は初めて’わが息子よ、わが娘よ’とされるのです。ですから真の息子と娘を求められないことが天の悲しみであり、この地上の人類の悲しみです。この人類を息子・娘として対することができないのが、天の悲しみだというのです。 今日絶対者をおいて、神と呼ぶ言葉を持っているのですが、神はこのようであると紹介するとき、真の感情が通じないのです。皆さんは感情を離れた言葉はあり得ないことを知っていす。それでは言葉が通じ、感情によって接することができる神は、どこにいるのでしょうか? 皆さんがこの信仰の路程を行くにおきまして、切実なる心情をもってこんな問題にぶつかり、信仰という名詞と実践という名詞を越えて、アボジに心奪われてわれ知らず、自身の細胞と自身の心情が動じ、アボジを呼ぶのでなければなりません。天はきっとこんな叫びが、生理的な状態として留まる一つの存在を、捜し求めておられるのです。 今日の人類が泣かねばならぬことがあるとしたら、人類自体が責任を負っていないことをおいて悲しみ、泣かなければなりません。六千年の間、天を悲しませた逆族であり、背反者である我々の先祖たちに対して、悲しまなければなりません。さらには今日の自分一個体をおいて、悲しまければなりません。 今日の信仰的な観点から、我々自身がある限界圏内においてさまよっても来なかったかを、考えてもみないで動いて行くなら、このような我々に対して天は’その通りだ’とされるか’悲しい’とされるか? その心情は四千年を過ぎ、六千年の歴史の因縁を加えた悲しみでいっぱいなのです。そして皆さんは、天が皆さんに対して嘆息される立場におられることを、自認しなればなりません。 人間が堕落することによって信仰を失い、愛を失い、侍る生活を失う心情に、流れこむものが何であったか。悲しい心情であったのです。何だか分からない悲しい感情でした。ですから皆さんも信仰生活におきまして、自分も分からないうちに悲しい感情が芽生え、ある意識的な基準を立てないにもかかわらず、生活的な分野におきまして、周囲の環境から悲しみが訪れてくる時があるのですが、天が訪ねてくる時間であると知るのです。このような時間に、その悲しみの実体を抱え、涙の因縁を結ぶことがあったなら、彼は蘇生することができる人間なのです。 このような因縁を結ばなければならない人間なのですが、堕落した人間が天に対して、立体的に対することができないので、平面的な主人公としてこの地上にイエス様を送られたのです。堕落した人間には、実体の主様としてのイエス様が必要であったのです。それでイエス様はこの地上に来られたのです。 四千年の悲しみの歴史路程において、追われこずかれたイスラエル民族が、天の悲しみの感情を抱いたイエス様を抱えて慟哭することができたなら、この民族は今日世界のまえに名を挙げる民族になったのです。であれば民族を失い、主権を失い、国土を失い、流浪する民族にはならなかったのです。そんな民族にはならなかったのです。そうではないでしょうか? 喜びよりも悲しみがより大きかったイエス様の生涯 統一教会は本来、険しこを行くためのものではなかったのです。私は皆さんが統一教会に入ってくるのを見やるとき、歓迎する心よりも案じる心が先立つのです。そんな心で見やるのです。歓迎するよりも、躊躇する心で見やっているのです。 こんな天の内容と天の実情、即ち我々人間に対して求めておられる天の事情が、このように懇切であることを感じる人間であるほど、自分を捜し立てることができず、自分を否定する他はなくなるのです。 自分の意識と、自分の主観からは批判することができない境地に、自分も知らずに引かれてゆくある存在になったなら、こんな境地の悲しみを感じる反面、主体的な立場で天を安心させ、慰労することができる一部分を任され、連結づけるその場においてのみ、この道を行くことができるのです。このようになれば、この道を行けるのです。 平安な道を行くことを願う人は、この道は行かないでください。私が歩んでみるに、この歩みには親友がいない寂しい歩みであり、同志がいない歩みであり、事情を通じ合えない歩みであり、維持することができない歩みであり、信じられない歩みであることを知るのです。歩んでみれば、こんな曲折を経てこられたイエス様の心情を、深くくみ取ることができるのです。 私が今、イエス様を紹介するなら、まず悲しみの面のイエス様を紹介したいのです。めしを食べる時も忘れ、眠る時も忘れ、悲しい胸を抱えてこの村、あの村へと追われ追われたイエス様、その時代のどこの誰が彼の心情を知り、親友となった人がいたでしょうか? 天は悲しい天であったのです。天を代身しようとした先知者も悲しい祭物であったのですが、イエス様まで死んでしまったので、み旨を抱いておられた天、その天は悲しい天であったのです。 この天が、誰であったのか? 知ってみればアボジであったのです。神と我々人間の関係を知ってみれば、父と子の関係でした。我々人類は、アボジの悲しみを知ることのない存在になっていたのです。ところで人間が知らないアボジの、その悲しい心情を知ってあげるべき責任は、神ご自身にあるのではありません。それは人間にあるのです。それでこれを遂行するために先知者が来て、イエス様が来られたのです。 イエス様は悲しみの王者 天は今まで待ち焦がれ、求めて来られたのです。イエスが行った悲しい信仰の路程、イエスが闘った悲しい信仰の闘い、その闘いを今日子女の名分を持とうとする者は、代身して闘って勝利しなければならないのです。 人類は未だに地上に喜びの一日を持ってはみず、栄光の一日を持っていないのです。このような事情をおいて、悲しみの感情に動かされて天を呼ぶとき、われ知らず天があることを知るのです。 私が知るところ、イエス様は人知れず涙を多く流されたお方です。この事実を皆さんは知らねばなりません。聖書には何か所しか表されていませんが、イエス様は人知れず涙を多く流されたお方です。山川を眺めて責任感を感じたお方であり、散らばる民族を眺めるときにも責任感を感じたお方であり、無限なる天に対しても責任感を感じたお方であったのです。責任を背負って実践することができない分野があることを見やれば、さらに悲しみの心情を抱き、その他また天を慰労しなければならない立場で、慰労してさしあげられない悲しみ、人間を救援すべき救世主の責任を担うことができずに加わる悲しみ等、彼は本当に悲しみの王者であったのです。 我々が信じているイエス様は、ある万王の王、栄光の王者、勝利の王者であるよりも悲しみの王者であることを、我々は感じてみなければなりません。 こんな事を言えば、キリスト教の異端者として烙印を押されるかも知れませんが、知ってみればそうだというのです。’イエス様は万民のまえに、歴史のまえに初めて現れた、天の悲しみの心情に通じる王者であったのだ!’と感激がわき起こる瞬間を経てこそ、皆さんがこのお方と因縁を結ぶようになるのです。また、それのみなのです。イエス様は苦痛の王者であったのです。 イエス様の深い心情と事情 天に背反し、天に対して呪咀する先鋒に立つ者たちは誰だったのか? 彼らは信じ従うように立てられたユダヤ教徒であり、イスラエル民族だったのです。天はイエスを捕らえて殺すために四千年間準備して、イスラエル民族を立てる道理が万に一つもないのです。 これを見るとき、イエス様はすべてに勝利してゆかれたお方ではありません。完全な勝利ではなかったのです。皆さんたち、考えてみてもそうではありませんか? イエス様が十字架に逝かれたことが完全な勝利なら、受難の一日はそれ以上に喜ばしいことがないのであり、十字架に逝かれたその瞬間が、最後の勝利の瞬間であり、万民万象を動員して喜ぶ瞬間であることに間違いないはずですが、喜びの瞬間ではないことは誰もが知っているのです。ですからマクダラのマリアが歓喜の心で迎えようとするとき、イエス様は来るなとさえぎられたのです。イエス様は愛する弟子と共に喜びに染みて、天のまえに栄光をお返しできなかったのです。それはできなかったのです。であるがゆえに悲しみを抱くイエスであり、哀痛なる死であり、悲しみを抱えて成した復活であったことを、我々は知らねばなりません。 我々は天の悲しい心情を体恤して自身の身のおきどころも知らず、生活の方便も忘れ、行く家々の門前で睨みつけられ、この村あの村へとさまよつつ追われていったその憔悴したイエス様の、同志にならなければならないのです。 イエス様は民族のまえに追われ、教団のまえに追われ、親戚に追われ、愛する弟子たちにまでも追われたのです。このように、悲しみの中の悲しみを感じられたイエス様だったのですが、天の心情を抱き、世界人類に自身のすべてを与えるという心を持った、また人を信じようという心を持ったお方だったのです。 イエス様は悲しみの感情で通じることができる人類に対する因縁が、過去と現在と未来にまで連なることができないので、自身の心中に抱いたその懇切なる願い、懇切なる心、懇切なる事情を、人類のまえにすべて知らせてゆけなかったのです。皆さんはこれを知ってこそであります。 今日終わりの日にある聖徒たちは、み言をつかんだというそれだけで自身が天の王者のまえに立つことができる約束の新婦だと、自認しないでください。そのようにはなっていないのです。知ってみれば、そうはなっていないのです。 それゆえ今皆さんは’アボジよ! 私たちはみ言が恐ろしく、私たちの行いが不足なのです’という恐れ多い心に染みて、アボジと呼ぶまえに涙が先にたち、アボジと考えれば胸がつまって堪らない心情が伴わなければなりません。自分が千万べん祭物となっても、歴史を率いて苦労されたアボジのまえに、自身を立てて何かを期待することができないことを、知らねばなりません。 こうしてこの心が、天に向かって行っても行っても不足であり、行っても行っても恐れ多く、行っても行っても心苦しい心情に染みて、悲しみの涙を流す場であってこそ、イエス様の弟子となり、イエス様の新婦になることができるのです。 我々がこのような境地に入るならイエス様が’狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない(マタイ八:二〇)’また’カペナウムよ、まえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落とされるであろう(マタイ十一:二三)’と言われたみ言を理解するようになるのです。 こんな心情に通じてみ言を明らかにしてみるとき、このみ言がイエス様のみ言としてではなく、皆さん自身のみ言として、骨肉に染みなければなりません。こうして皆さんが、新しい理念、新しい覚悟、新しい決心をもって、新しい目的の時代を指向しなければならず、このような衝撃の姿として周囲の環境を開拓する、信義の子女にならなければなりません。 であってこそ、本質世界を通したイエス様のまえに、新婦として立つことができる一つの対象となり、信仰者であるといえる存在になるという事実を、皆さんはよくよく知らねばなりません。 我々を捜し求めるイエス様は、信仰の重要性を強調なさる一方、何を語られたかといえば、神は愛であるとされたのです。愛なる神、慈悲の神、義の神、等々神のいろんな面を語られたのですが、神のすべての面を代表する結論として’神は愛である’という定義を立てて我々を指導されたのです。即ち、真の愛を求めてさまよう神であることを、知らせてくださったのです。 わたしをより愛せよという言葉の意味 ’何よりもわたしをより愛せよ’というこの言葉は、何の意味か? わたしがあなたを信じ、あなたを愛するということであり、また天は我々に、このように対されているということです。天は我々を愛するに、時間を惜しまれないのです。 今日宗教界に責任者たちがいるとして、喘いでいる羊の群れを見て、自身の骨肉に染みて彼らの生命を抱え、涙を流して慟哭することができる心がなかったならば、彼らは天法に引っ掛かる牧者になってしまうのです。天法に引っ掛かるのです。そうではない牧者がいたなら、彼は死んだ牧者なのです。 神がなさることは言葉よりもまず、心情が先に立つことが特徴なのです。心情に染みて自分も知らずに溢れてくる言葉のまえに、サタンは屈伏してしまうのです。悪はそうしたところから屈伏してゆくのです。でなければどんなに良いことを言っても、悪は屈伏しません。染みる心情が発露されて、人間の生命が生死の岐路に立つことに憤り、これを自分一身の苦痛として感じるのみならず、自分の身の上を助けずに体を投げ出し、彼らを救うために抱きしめたい染みる心情が先だってこそ、ここから救援が始まるのです。 イエス様は十字架を背負ってゆかれるとき、愛せよという言葉を残して、行かれたのです。十字架上にあっても、天を離れて怨讐のまえにゆく彼らを恨むことなく、呪咀されなかったのです。 自分自身の痛む心情よりも、彼らに対する哀れみの心が先だつゆえに、怨讐のまえにでて行く彼らを防ぎ、手をのべて怨讐のために、祈祷することができたのです。このような祈祷のまえにのみ、サタンは屈伏するのです。 ですから天のために生きようとし、天のまえに行こうとする人間ならば、自分が食べている物が他よりも良いときには、呵責を覚えなければなりません。着る物、暮らすこと、見る物自体をおいて、呵責の心を先だててゆく人間がいるとしたなら、彼は飢える法がなく、追われる法がなく、迫害される法がないのです。たとえサタン世界では追われることがあっても、天の心情を求める群れのまえには、追われる法がないというのです。 それで天は、我々人間に対して’わたしを愛しなさい’とされたのです。その愛は今日皆さんの感情から感じるそんな愛の心情や、限界のある愛ではありません。六千年の悲しみを、解怨することができる愛でなければなりません。それはエデンの園において、アダムを追放しなければならなかったその悲しみの心情、さらには地獄に行った命まで哀れに思い、慟哭する心情を持つ愛であるという事実を、皆さんは知らねばなりません。 神の愛は、当然罰を受けるべき罪人であったとしても、サタンと天のまえにおかれた条件の法度があるので、この法度の条件を実践させるために、彼を打って悲しませ、捨ててまた抱えてこられるのです。 イスラエルの歴史を見るとき、反逆するイスラエル民族はどこの誰よりも、神のまえに背信者であり、背反者たちであったのです。しかし天は彼らを捨てても取り、再び捨てたが取ってこられたのです。取った個人を捨てて再び取り、ここに繁殖した家庭を取られたがまた捨て、一家庭を立てて天のまえに数百、数千、数万家庭を取られたが捨て、また取っては捨て、イスラエル民族を立てて今日、第二イスラエル民族型である世界キリスト教を展開させてきたのです。言い換えれば、第二イスラエルということができる世界キリスト教を、立ててきたのです。 神の愛の世界と因縁を結べる出発点 ここにいる信者たちは、サタンに対してまでも未練を持つ神の心情と、サタンまでも許すことができる法度を考え、摂理して闘ってこられた神の心情を、知らねばなりまねん。このような神であることを、我々は知らねばなりません。 こんな心情を持つ神であることを知り、今日皆さんは天に背反した罪と、自身の不足なることと、違えた過去の生活を振り返り、愛する心のみならず無条件で仕えたい心、無条件で為になりたい心が、起こってこなければなりません。このような瞬間から、皆さんは天の愛する人間なのです。父母も忘れ、父母も記憶しないほどに動いてゆく、そんな境地が天の立場なのです。 堕落した人類の父母も子供の過ちを忘れようとするのに、まして天情を代身しなければならない我々は、もっとそうであるべきではないでしょうか? 今皆さんはこんな心情が動き、こんなアボジであることを体恤して、そのアボジを無限に尊敬し、無限に侍らなければなりません。こうして自分自体をすべて奪われ、また誰が自分のすべてを奪ったとしても’私は感謝します’とする心情にとらえられなければなりません。正にこんな時が、神の愛の世界と因縁を結ぶことができる出発点であることを、よくよく知らねばなりません。 ですからイエス様は愛を強調され、愛の主体としての使命を完遂しようとしたのです。それで彼のすべての生活は奉仕の生活、与えるための生活であったのです。与えられずに喘ぐイエス様でした。彼は自身の命を与えようとし、自身のみ言を与えようとし、自身の栄光を与えようとし、自身の宝座まで与えようとされたのです。しかし自身のすべてのものを与えても受けようとしないので、ついには自身の体、自身の血と肉までも人類の為に投じて逝かれたのです。 これが愛を標榜し、実践したイエス様の生活であったのです。我々もこんな愛を追求してゆく自身であるならば、永く信じてきた人を見れば自ら頭を下げ、天のまえに苦労した人を見れば、自ら仕えたいとしなければなりません。皆さんの信仰生活におきまして、このような心情がないとしたならば、天的な愛の因縁は断たれてしまうのです。 人間が今まで持ってきた愛は、永遠なる愛ではないので、人々は愛という名詞をかけ、その永遠の愛を捜し求めるために、死ぬことを覚悟して喘いでいるのす。人間的な愛が、天的な愛の因縁にぶつかって愛の感触を感じる瞬間は、大宇宙の所有権限を決定する価値のある、甘美さを感じるのです。天的な愛に接続するその瞬間は、すべてのものを失っても未練がないのです。このような世界は、妄想的ではありません。ある架空的な空想の世界ではなく、実存的な実相の世界なのです。 こんな感情が今日人類の心情のうちに、大宇宙圏内にあるのです。我々が知ることのない天情の世界において、人類に向かって流れこむ感情があるのです。これを皆さんが否定してはなりません。イエス様は愛の神髄を教えるために来られました。これを教え、神の愛を立てるためには、人類を代身して数千年の間苦労された天に仕えるという心に、染みなければならなかったのです。 今までの信仰の世界がこうだったのです。初めは信仰の世界であり、二番目は愛の世界です。愛の世界は新郎・新婦の世界を言います。今これからの時代がどんな時代かといえば、侍る時代です。ところで信仰の過程を通り、愛の過程を通過してこそ、侍る時代に入るのです。これを今日のキリスト教徒は、よくよく知らねばなりません。 今まで信仰のみによって救援を受けると主張する人は多かったのですが、愛によって救援を受けると主張する人はいませんでした。使途パウロが言うに、’信仰と希望と愛の三つが常にあるが、このなかでの一番は愛’としました。信仰によって行くところはありません。それゆえ今日の統一勇士たちは、信仰の論理を主張し、信仰によって救援を受けると主張することよりも、愛することによって救援を受けるという標語をもって、行かなければなりません。 世界を動かすことができる主人公 愛は自分個人を愛することではなく、民族を越え、世界と天を愛することにまで及ぶ心情です。自分に熱があり、力があり、生きている限り誠精をつくしたく、叫びたい心であり、世界を越えて天と因縁を結びたい心です。 このような愛を実践するために、今日も逆境、明日も逆境が迫ってきても、与えまた与え、仕えてもまた仕えなければならなかったイエス様の、三〇余年の人生だったのです。イエス様はパリサイ人に’偽善なる墓に似た者たちよ’と咎められ、呪咀されたことさえあったのですが、限りなく為に与え、限りなく受け与えたいのに、彼らがその心を分からないので、こんなみ言をされたのです。 今日我々は、為に生きる人を捜すことができません。真に為に生きる人を捜すことができません。この韓民族は、為に生きる民族になっていないのです。為に生きるいかなる理念も持っていません。過去のこの民族の為にとする理念を持たず、現在のこの民族の為にとすることのできる理念を持たず、未来のこの民族の為にとすることのできる理念を持っていないので、為に与える天の摂理のみ旨とは、相反することを我々は知らねばなりません。 皆さん自体もそうです。自動的な発露として、過去と現在と未来の為という心が現れてこなければなりません。自分が成功し、名を挙げようとする等、自分を中心にすることは堕落の道です。堕落の道がこのようであるのです。どんな主権者の立場に立つとしても、彼は高く上げられる者ではなく、三千万なら三千万全体の為に、与えるべき者なのです。 この民族すべてが、ごはん一杯食べるにも三千万の血と肉を食べる心情になり、着物一つ着るにもこんな心情が伴うならば、この民族は滅びないのです。今日キリスト教が強調すべきことが、このことです。このような個人、このような牧者、このようなキリスト教が出てきてこそ、民族が生きるのです。 今このような悲哀と曲折の、嘆息圏内にある現実を見やる我々は、覚醒しなければなりません。 天が提示された愛の標語を、実践することができるその一人の人が、何であるのか? 肉が裂かれ、血を流しても為に福を願い、与えたい心が全宇宙にぎゅっと満ち溢れ、神様までもとらえることができる心を持つ一つの存在が現れるなら、彼は世界を動かすことができる主人公になるのです。そのようになれば、心情世界の理念を捜し立ててきた天までも、その人を抱き抱えなければならないと、決断する他ないのです。 それゆえ天は皆さんの信仰路程において、重要な一面である愛という名詞を立てたのです。罪悪なる世の中にも、愛を捜し求めてゆくときには心情がなければなりません。そんな心情に染みてゆこうとする何かがなかったならば、愛のイエス様も皆さんとは関係がないのです。 それでは天の嘆息を解怨するために、立てられた目標が何であったか? 失われた天国の復帰です。失われた真の息子・娘、永遠に抱いて愛することができる息子・娘を捜し求めることです。生活的な面において神を失うことなく、永遠に同居することができる息子娘、堕落前のアダムとエバのような、本然の人間として復帰することであることを、皆さんは知らねばなりません。 天が成そうとされた目標 堕落した人間が信仰路程をすべて経た後に審判の時を越え、天国に入ることができる姿となってアボジの子女として現れるには、まず本然のアダムとエバの型を持った立場で、信じるという言葉が必要なく、悲しみの境地を越えて愛するという言葉、侍るという言葉を言わなくても、感情から体から、行動的にも、また生活全体、理想全体がこのような面において、自動的に動いてゆかなければならないのです。 ある法度的な条項によるとか、命令系統に従って動いてゆくことよりも、我々の心情の法度を先に立て、我々の良心作用がある論理、ある最高の法規を越えてゆく所であってこそ、天的な因縁が完成する世界なのです。天的な心情にとらえられ、動かないとしても動かずにはいられず、行わないとしても行わずにはいられず、愛さないとしても愛さずにはいられず、為にならないとしても為にしないではいられない、こんな崇高なる姿にならなければなりません。キリスト教徒には、これが最高の信仰の標準なのです。今日これが、現実に現れなければなりません。 皆さんがこのような者に出会うその瞬間、マクダラのマリアが復活されたイエス様に抱きつこうとしたとき、イエス様が避けたその心情を体恤することができるのです。今皆さんは’ようし、死の道も行くぞ’という心で、難しい峠を越え、実践の道を経て愛の心情を抱いて行かねばなりません。喘ぎ追われてもこの峠を越え、復活の恩賜に感謝し、天のまえに栄光をお返しする瞬間、愛の心情を抱いて侍る栄光圏に入ってこそ、ここから天国生活が展開するのです。 今日皆さんにおいて、天国という名詞が観念的な名詞として残っているのです。この観念的な名詞が自分にとって、いつ生活的な名詞として転換されるかが問題です。天があるなら、この転換点を成すことができる一点を捜し立てられるのです。この時を、いわゆる終わりの日というのです。 このような境地で、天は我々を捜し求めてこられました。それでは今日、皆さん自身をおいて、反省してみてください。皆さんは天を信じていると、天を愛しているということを基盤にして、信仰の源泉である神を自分に隷属させようとし、大実践者である神を、自分が実践しなければならないことを代身する小さな存在として立てようとし、宇宙的な愛の主人公を、自分の愛の心情圏内に捜し立てようとし、為なる主人公である神に対して、自分のための友にしてしまおうとした過去を自ら嘆き、悲しい心情に染みなければなりません。 こうして復活の瞬間を迎えて’アボジよ! 私のアボジよ!’と呼ぶことのみならず、アボジのまえに自分の体が溶かされるのでなければなりません。さらにパウロが三層の天に入って体恤したように、自分が体の中にいるのか体の外にいるのか、分からない境地に出会ってこそ、天的な基準の生活に越えたと私は見るのであり、またそのように知っているのです。 このような境地を捜してさまよう天であることを知るときに、その天がおられる所はどこであり、その天はどのような天なのか。それは我々の国、永遠なる私の国であるのみならず、私が暮らす所なのです。そしてその神は、私のアボジなのです。こんなアボジを、こんな国、こんな生活舞台を知らないで喘いでいる人間たちが、この事実を知らなければなりません。こうして神様に歓喜の歌を歌ってあげ、サタンに対しては激憤して打ち滅ぼすと出て行くその時が、正に審判の日なのです。 ですから皆さんがサタンを打ち滅ぼし’主よ、勝利の基準が立ちましたので、治めてください’とできる姿で現れてこそ、イエス様が皆さんを抱くことができるのです。 イエス様はどうして、マクダラのマリアを歓待なさらなかったのか。サタンとの闘いに勝利しなければならない路程が残っているのに、彼女はこの路程を経ていなかったからです。勝利の路程を経ていないマクダラのマリアは、復活されたイエス様のまえに立つことができないのです。 サタンとの闘いで勝利した場に入って、天に対して’アボジ!’と呼んでアボジを抱きしめれば、全宇宙を所有するのです。自分の体に対する意識を忘れ、そのアボジを信じるほどにならなければなりません。そんな境地でアボジを思い、アボジを信じるとき、自分という感情がなくなるのです。 今わがアボジを怨讐視してきたサタンに対して憤慨心を抱き、彼に審判の一撃を加えた後、勝利の姿で現れ’アボジ!’と呼んでアボジを抱きしめる人にならねばなりません。こんな場で、喜びと悲しみに染みて泣く信仰者であってこそ、天国生活の理念時代に入ることができると、私は断言したいのです。 このような世界において、侍る生活をしなければならない我々なのです。希望の天国は迎えても、侍り実践して生活することができる天国は、迎えていないのです。即ち、生活的な主体の神を知らないのです。 神と一体となる信仰生活をすべき我々 天は預告されました。’あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう(ヨハネ十四:二〇)’とされたのです。これは否定的なみ言ではありません。 観念上では神の実存を知っており、対象的な信仰の主体としておられる神は知っていても、直接的にわが良心の主体であり、わが体の主体であり、わが生活の主体であり、わが生活圏内に訪ねてこられる主体としての神が、実存されておられる事実を知らなかったのです。 なぜ、そのようになったのでしょうか? 信仰の限界線を越えたことがなく、また愛の心情に触れたことがなかったからです。こうして復帰すべき使命を背負う終わりの日の聖徒たちは、こんな事実を知ってどんな犠牲、どんな困難、どんな迫害があったとしても、天情の悲しみと天宙の恨みを解いてさしあげるという心情に染みて、天の旗を上げてゆく群れにならなければなりません。 そんな群れがある民族のまえに現れたなら、その民族には善なる心が主導する時代が来ることは間違いないのです。今日この世界は知的なことを追求し、真理的なことを追求する世界です。真理を動かしてゆく動機は、体です。体を動かすことができる動機は、心です。心を動かすことができる実体は何であるか、詳しくは分からなくても、霊的なものです。ですから真理のみによっては、万事を解決できないのです。ですから未来には我々の心を一つの方向へと指向させ、心情の動きを一つところに指向させ、霊的な感情までも一つところに指向させることができる世界が、来ることに間違いありません。 こんな理念の世界が来ると信じ、このような世界を捜し求めてゆく今日の我々は、観念的なことに囚われて生きては駄目です。実際の生活において天に対し、歌うことのできる勝利の勇士にならねばなりません。こんな人間が、この地上に現れなければなりません。 もしもこんな信仰をすると考える人間がいるとして、彼は夢の中でもこれを考えなければなりません。また可能性があり、天があるとして実際に一度それを現実に見てみたい、懇切な心を持ってこそ、天のまえに近づくことができるのです。こんな懇切な心を持つのみならず、時間性を超越して、生活的な面で六千年前に人間が、エデンで歌った歌を今日の歌として歌うのでなければならず、その時の感情を今日の感情として生き、堕落した後で感じた悲しい感情を、今日になっては喜びの感情に変えることができなければなりません。このような存在が、侍る主体であると同時に、歴史的な解怨の主体なのです。 このような存在があってこそ、皆さんは彼と関係を結んで勝利的な存在となり、天と地の悲しみを解くことのできる存在となるのです。こんな関係のうちに皆さんが、悲しみと苦難の心情を持つ神様が、永遠なる私のアボジであり、私の国、私の家の主人たるお方であることを実感するのであり、また皆さんは新郎たるお方の悲しみの、すべてを解怨してさしあげる真の息子・娘になるのです。 今日我々がこのような道を捜し求めて見れば、アボジが悲しみのアボジであることを知りました。その悲しみのアボジの息子・娘は、どうしなければならないかを知りました。天国を回復するために、悲しみの場で闘っておられる天の憤りを知りました。天の悔しさを知りました。 それゆえ皆さんは怨讐に対して、憤りと悔しさと、敵愾心を抱かなければなりません。こうしてどんな民族よりも歴史的な勝利の標語を掲げ、すべての事に責任を負い、自分に勝利したという一つの基準が、皆さんの心に、体に、生活的な分野において確固として立つことによって、勝利の歴史が起こらねばなりません。こうしてこそ皆さんが実体をもって、復活圏内に入ることができるのです。即ち、実体をもって天国復帰の園に入って、皆さんが神に対してアボジだとし、神は皆さんに対して、息子・娘だとすることができる境地に入るというのです。 神の願い-天国復帰 このような境地で心情の世界を求める皆さんは、自身のために信じては駄目なのです。天国に行くという観念、自分が何かになるという観念を捨てるのです。 イエス様は自分自身が、天国に行くと考えなかったのです。自身は宇宙のために信じ、民族のために信じ、さらには神のために信じるという信仰観念を持ったのです。これは架空の話ではありません。事実がそうなのです。 自分が行うことは自分のために行うことではなく、人類のためにやる、世界のためにやる、アボジを代身してやるという信仰、これはどれほど痛快でしょうか。 自分が愛するということは自分一身を愛することではなく、民族をおいて愛するのだ、人類をおいて愛するのだ、神をおいて愛するのだ、天と地をおいて為にするということです。それゆえ我々の侍ることも人類をおいて侍り、天をおいて侍らなければなりません。また侍って感謝する心、信じて実践するという心を持たねばなりません。 心で愛して体で仕え、心で侍って生活において感謝して、自分を越えて信じ、自分を越えて愛し、自分を越えて侍るという観念を持って、皆さんの信仰行路を歩んで行くなら、ここには絶対にサタンが侵犯しないのです。サタンの誘惑の手がどれほど強くても、こんな信仰者には触れることができないのです。 それでは天の願いが、何でしょうか。失われた天国を回復することです。失われた父母を回復することです。失われた子女を回復することです。今我々は自分の国、自分の民、自分の父母を求めなければなりません。こうして真の父母の真の子女になって、六千年のすべての怨恨を忘れ、サタンを押し退けて勝利の条件、愛の条件を誇ることができなければなりません。それでこそ悲しみの歴史を経てきた神のまえに、真の息子・娘になるということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.14
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信仰者の態度一九五九年三月二九日(日)前本部教会この時間に話すみ言の題目は’信仰者の態度’です。’信仰者の態度’という題目で、しばらくの間お話しします。 信仰の本質世界 皆さんは今まで、信じていると自任しています。我々は現実の国を所望として歩んでいるのではなく、永遠なる国を所望としてきたのです。皆さんはこの国を見たこともなく、行ったこともありません。み言を聞いて、そのようだと信じてきただけです。 でありますから信仰の本質が、現実のすべての条件と妥当性を得ているものと見ることはできません。大きく無限なる天が、我々が想像もつかない永遠の理念の登山として存在し、私という存在と相反的な関係を結び、常に自分の理念を再築してこそ、信仰の道を続けることができると、真の信仰生活をしようとする人々は感じているものと見るのです。ですから我々が所望とするその国は、夢や想像、あるいはどんな知恵ぶかい推測をもってしても、論理的に説明することができないことを、我々は知っています。ですからこの世界が、我々には必要なのです。 この世界は我々が考える理想の、無限なる世界であり、我々が考える理想の、幸福と愛と理念の世界なのです。この世界が、我々が願う信仰の国、我々が生きたい信仰の天国なのです。この世界の本質を通して、信仰する人間を地を中心に見れば、哀れといえば極めて哀れであり、寂しいといえば極めて寂しく、悲痛といえば極めて悲痛な人間であると見ることができるのです。 しかしこのような場にあっても天の心情を体恤して、その心情圏内で狂わしい衝撃と、刺激を感じる者があったなら、地の上のいかなる迫害、苦痛、死の道が横たわっていたとしても、その人間が行く道を立ち塞ごうにも塞ぐことができないことを、我々はまず考えなければなりません。 真なる信仰者の生活 このような心情が心を激動させ、その心が体を促して四肢を動かすことによって、自分も知らないうちに無限の境地に向かって歩んでゆく生活の、一片々々を体恤しようと努力することが、正に今日俗世に暮らしている信仰者の生活であると、私は言いたいのです。 このような感触と、このような衝撃の生活をすることができ、遠くにある理念を実際生活の力として現すことができ、さらにはその力の衝撃によって、周囲から襲いかかる死の波濤まで押し退けることができる心的基盤を築くなら、天がこのような人間に対して、真の信仰者として認めてくださると、私は見るのです。 皆さんは、我々がある立場で天に向って叫んでゆくとき、ここにおいて自我の認識を通して感じることが、どんな主義や思想によって感じるその何かよりもさらに大きく、これが心的、あるいは肉的、または生活環境の核心的な光の価値として現れるということを、考えざるを得ないのです。 このような重要な決定的な立場で、勝利の一路を経てゆくことが、信仰生活であると見るのです。ですからこの道には迫害が加重されて、悲しみが加重され、十字架の道、あるいは死の道が加重されてくることを、我々は歴史路程を通してよく知るところです。このような歴史と伝統があるゆえに、今日皆さんもこのような歴史的な信仰路程に、背反してはならない立場におかれているのです。ですから今日我々は、正しい信仰の態度をとることが、何よりも貴いとうことを強調せざるを得ないのです。 難しい信仰の道を凛々しく越えるためには このように歩む信仰の難しこ、迫害の道、死の道を凛々と越えてゆくためには、まず感じなければならないことがあります。今日皆さんの一自体が生まれたことも、自分が生まれたいと望んで生まれたのではありません。このような国に生まれたくて、このような国の民として、このように不自由な環境に生まれたいという意識があって、生まれたのではありません。皆さんも知らないうちに、ある動きに襲われてこの地に生まれ、このような事をしているということを、否定することができないのです。自身にこのような動機を与え、このような過程を経させ、このような結果の姿として現れたということを再び考えてみるとき、この私という存在は、私自らが誇る自分ではなく、私には歴史に入り、全体に入り、あるいは未来に入り、理念的な圏内において誇りたいという何かがあるということを、我々は忘れてはならないのです。 それゆえ今、皆さんがこんな信念と感じを持たなかったなら、皆さんの信仰の道には今日自身が考えるよりも、複雑な事が起こるようになり、悲しい事が及んできて、難しい事が及んできて、無念なる死までが押し寄せ、天倫の因縁を破る信仰者の態度を取りやすくなり、天に背反しやすい立場に立ってしまうということを、知らねばなりません。 ですから皆さんは神の理念に対する染みる心情を抱かなければならず、自分の生活をこの理念によって観察しなければなりません。無限なる信仰世界の理念と因縁を結んで、自身は宇宙的な因縁を輝かすための、一つの祭物であるということを感じて生きなければなりません。このような理念が心から消えることなく、こんな感じが心の中から離れることのない信仰生活をする限り、この地の上にあえて皆さんを侵犯したり、屈伏させたりする存在はないのです。 我々の先祖たちは、このような因縁を多く感じたということを知らねばなりません。ヤコブがイスラエルの祝福を受けて始まったこの民族は、神の選民という理念を持っていました。この選民意識がユダヤ民族史をつくり、復帰摂理歴史を継承させ、新しい福地の園を建設する路程において、希望の基台になっているということを我々は知っています。単にこの民族のみならず、民族を率いた民族の指導者も同じであったのです。 アダム以後一六〇〇年の間、天を捨てた人類のまえに、再び新しい約束の因縁を結ばせるために、ノアを捜し立てたのです。彼はその時代の人々が仰ぎ見る人間ではなかったのです。彼らが見るには何ということもない存在でした。しかしこのような自身を選んで、千秋の恨を解こうとされた天の心情を知るノアですから、ノアは天のみ旨、天の命令を抱いて一二〇年間、すべての困難を克服してきたのです。ノアは天が立ててくださり、呼んで命令されたその因縁が貴重であることを知るとき、その内容が大きければ大きいほど、天との因縁が大きいことを知るようになったのです。歳月が過ぎ去るにつれ、自分を召命された神の内的心情のみ旨が、どれほど大きかったかということを深く感じたのであり、何にも認めてはくれないで多くの人間が、嘲り排斥したのですが、ノアは一二〇年間箱舟を造る生活を捨てなかったことを、皆さんは知らねばなりません。 中心人物たちの心の持ち方と生活 彼の同族たち、彼の近親者等、すべての人間が背反したのですが、ただ彼だけは神のみ旨に背反しないという、鉄石のような信念を持っていた原因はどこにあったのか。ではあっても自分を捜し求められた天の因縁が、自分の兄弟を捨てることよりもさらに大きく、自分の親戚を捨てることよりもさらに大きく、自分の生活を捨てることよりもさらに大きいという事実を知ったのでした。それで天が許されたそのみ旨のまえに、哀れな事情が及ぶなら、頭を下げて涙でその因縁に染みた心情を抱き、無限の世界を慕ったのでした。これを皆さんは忘れてはなりません。 ノアのみならず、アブラハムやモ-セもやはり同じだったのです。豪華絢爛たるパロ宮中は、モ-セには栄華を歌う、最大の自由気ままな環境だったのですが、彼は神の摂理のみ手が歴史的な因縁を通して、先祖たちの骨髄を通して、自身の骨肉に及んでいることを考え、これらをすべて捨てたのです。パロ宮中においてエジプトのすべての文化に通じ、怨讐の国のすべてを知れば知るほど、彼は内的にイスラエル選民の歴史的な因縁を知らないことを悲しんだのです。民族が民族の切なさを知らないことを、悲しんだのです。気ままな環境がどんなに良いとしても、選民の後孫であるというこの因縁に染みてゆくとき、彼はパロ宮中を敵対視して、エジプトの民を怨讐としていったのでした。このような事実を、我々は知らねばなりません。 このようにモ-セはパロ宮中を後にして、天と因縁のある群れであるイスラエル民族を訪ねていったのでした。み旨を知ったモ-セはこのような心情を抱いて生きていたのですが、このみ旨を知らないユダヤの民はこのようなモ-セを知らず、ここに歴史的な悲しみと嘆息が染みこんだということを、我々は再び考えてみなければなりません。 民族を訪ね求めたモ-セは、民族さえもが自分を捨て、ミデヤンの荒野で四〇年の間、牧者生活をするようになったのです。モ-セはこのような道を歩んでも、天の選民である気概と志操を持ち、この体が倒れる恨があったとしても、自身が抱く信念を誰かに残しておきたい心が懇切であったのです。であればあるほど彼は、パロの虐政の下に呻吟するイスラエル民族を考え、涙した事実を知らねばなりません。 また彼はイスラエル民族が眠りこけ、無知のなかにあったのですが、目をあげ、祝福の地カナンを望み見て眠ることなく、心情の血と油をしぼって民族のために祈祷し、民族に対する悔しい心情をもって、天のまえに痛悔する生活をしたのです。このような生活をしたモ-セであったので、その時代の主人的な責任を負い、天の代表者になることができたのです。天はこのような因縁の歴史を再び捜し立てるために、因縁の要素を再び得るために、倒れゆくイスラエル民族のまえにモ-セを押し立てた事実を、皆さんは歴史を通して知っているのです。 イエス様が地上において感じたことと覚悟 彼だけではなく、それ以外の多くの先知先烈たちが歩んだ歩みも同じだったのです。アダムとエバの堕落以後四千年目に、堕落したアダムのすべてのあやまちをその体に担い、天の悲しみと、万民の悲しみと、全万象の悲しみをその体に負い、天の嘆息と悲しみをもよおすすべての暗闇の条件の数々を独り担い、これを打破するために来られた第二の人類祖先であるイエス・キリストを、我々は回想して見るのです。 イエス様は地上に、いかなるお方として来られたのか。彼は四千年の歴史を遡り、犯罪による恐怖を感じることなく、罪による悲しみを感じることのない人間、即ち神様が善の感触と善の心情に染みて創られた本然のアダムとエバを、その心に憧憬されたのです。イエス様には人類の真の善の祖先にならなければならないアダムとエバの姿を代身、復帰するための歴史的な因縁と、神の創造の理念を代身して来たという信念が、社会のどんな環境よりも、生きてゆく自身のいかなる心的動向よりも大きいということを、我々は否定することができません。 それゆえ彼に哀しみがあったとしても、その哀しみは天と因縁を結ぶ哀しみでした。イエス様は自身の哀しみを通して神の哀しみを推し量るとき、自身の哀しみは哀しみとして考えることができないのです。また、彼自身がある所望や理念に染みるときごとに、人類のまえにその所望と理念を伝えなければならないという、責任感を感じたのです。 彼は神が願う所望を成してあげ、先祖たちの堕落によるすべての罪状を蕩減すべき主人としての、責任を負う自身であることを感じていたのです。このようなことを感じれば感じるほど、彼は堕落したアダムを恨むまえに、堕落した後孫を恨むまえに、さらには天使長を恨むまえに、その恨みに染まる心があればあるほど、一歩進んで創世以後四千年の哀しい復帰摂理において、神と自分との関係が父と息子であるという、神と切っても切れない自分自身であるということを感じたのです。天は父であり、地は母であり、自分自身は天と地を代身する息子として生まれた、ということを感じるようになったのです。イエス様はこのような悲壮な場において感じる、その因縁の衝撃によって天を望み見るとき、神の性相が、地を望み見るときに地の性相が、万民を望み見るときに万民の性相が、自身と永遠の因縁を結んでいる事実を感じざるを得なかったことを、我々は悟らなければなりません。 ところでこんな場で、彼の心に染みたことが何であったのか。喜びの因縁ではなく、悲しみの因縁を感じたということです。元来、人間は喜びの因縁を持って、永遠なる理念の園を建設して、天と父子の関係を結ばなければならなかったのです。こうして彼自身の一切の条件が、父の喜びの条件を刺激させ、その喜びの心情を歌わなければならないのに、喜びの因縁を結ばないで悲しみの因縁を結んでしまったのです。このような事実を感ずれば感ずるほど悲しみ、慟哭せざるを得なかったイエス様の心情を、皆さんは知らなければならないのです。 このような立場に立っていたイエス様は、四千年の間の自身の先祖たちが結ぶ因縁が、喜びの因縁ではなく悲しみの因縁であることを知っていたので、誰よりも悲しい世界の主人公になるべきことを、悲しいときごとに覚悟し、難しいときごとに覚悟したのでした。このようなイエス様であったことを、我々は知らねばなりません。 天倫の喜びの祭壇を持つことができなかった民族と、ユダヤ教を見やるイエス様の悲しみは大きかったのです。教団を知れば知るほど悲しく、民族を知れば知るほど悲しく、自身の宗族、自身の事情を知るほどに悲しかったのです。このように知れば知るほど、それが喜びの条件にならないで、悲しみの条件になったのでした。しかしイエス様は悲しみの連なる歴史に責任を負われていたので、その心情には言うに言えない悲しみを感じ、切なさを抱いてゆかれたことを、我々は知らねばなりません。彼の心は無限に栄光なる善の因縁の世界を慕っていたのですが、彼が生きている現実は、嘆きの他はない悲しみの世界だったのです。このように二つの交差点に立つイエス様の心情を知る人間は、誰もいなかったのです。 信仰者の正しい態度 このイエス様が今日我々が信じているイエス様であり、この信仰を立てるために人生を捧げたお方であることを、歴史以来の信仰者たちの中にも、知る者がいなかったのです。このようなイエス様を抱えて泣く者が、この地の上にいなかったということです。このように推し量ってみるとき、イエス様のその悲しみに止めどもなく泣く心が、皆さんの生活のうちにたちこめ、皆さん自体に押し寄せて動かされる感じがなかったなら、天国に向かって行く信仰者であると見ることはできません。私はそう感じているのです。 それゆえ今我々がこの哀れな民族を見やるとき、この民族の運命に対して悲しむことを知り、天を求める教団が散々に分かれて互いに争っていることを見やるとき、皆さんは自身と切っても切れない因縁を持つ立場でこれを見やり、イエスと同じ心で歴史を代身し、現時代を代身し、未来の後孫を代身して悲しんでこそ、皆さんの後孫に、イスラエルに許された祝福を受けるその因縁の条件を、地上に残すことができるということを、知らねばなりません。 このような観点から正しい信仰者の態度とは、自分ということをみな無くすことです。死の峠までも越えてこそ、天と喜びの因縁を結び、消えゆくその時に’父よ、イエス様のようにすべて成しました’とすることができ、今まで結んできた悲しみと怨恨の因縁を終結させ、喜びによって結ばれた因縁を歌う瞬間を持つことができなければなりません。 このような者たちが所有するものが永遠の国であり、このような者たちが暮らす所が天の国であり、このような者たちを捜し求めることが神のみ旨であることを、我々は知らねばなりません。 統一教会を訪ねて入ってきた皆さんを見れば、哀れな思いがすることがあります。皆さんが統一教会を訪ねて入ってくるとき、その何であるかは分かりませんが、因縁が結ばれていたからです。足を回しても何か未練を持たせる因縁が、皆さんを引きつけたのです。自分も知らないうちに結ばれた、行こうにも行くことができない因縁が、自分による因縁でなければ誰による因縁なのか。血の涙の歴史を解怨するために立てた先祖たちの功績の基台が、我々の背後にあったからであることを知らねばなりません。ですからこのような感触を心中に感じるたびに自分の存在意識さえ忘れ、倒れても天に向かって’アボジ!’と呼びたい心が爆発しなければなりません。このような心を持って、最後に悲しみによる因縁の歴史の峠を越え、喜びの世界と因縁を結ぶとき、初めて主を迎えられる資格者になると見なければなりません。 皆さんもそうであれば、私もやはり同じなのです。なぜか分かりませんが、耐えようにも耐えることができない切なさが、込み上げて染みるのはどうしてでしょうか。自分も分からない歴史的な、恨の因縁があるからなのです。自分も知らない天的な因縁と、地的な因縁と、人的な因縁が、今日の私と因縁を持っているからなのです。我々はこれを知らなければ駄目なのです。それではここにおいて、天が願うことが何か? 地の上の悲しみの因縁を、すべて蕩減することができる人間が現れることです。彼は’神よ! 天の悲しみの因縁を、私がすべて蕩減しますから、悲しみの因縁の歴史の主人になることができるように、導いてください。悲しみの因縁の世界で残り、この世界で天が要求する姿になり、民族になるようにしてください’とすることができる人間です。皆さんがこのような心を持ったとしたならば、数多くの十字架が今日の我々の心にぶつかってきたとしても、それで終わりではないことを、知らねばなりません。 イエス様が’すべて終わった’とされたのは、いかなる意味であったのか。天の悲しみを蕩減する路程において、自分一身の死を通して、ある限界だけはみな成したということです。即ち、イエス様はご自身が死んだなら、言うに言えない悲しみが神の心中までも連結され、従う群れに悲惨な死の道が残ったとしても、霊的救援の基台が成るということを知っておられたので、自分が死ぬことぐらいは凛として越えてゆかれたのです。 真なる信仰の道 このような感じが皆さんの心にわき起こるなら、たとえ持つものがなくても天地を所有するのであり、たとえ同志がいなくても天地が同志として現れるのです。ですから真の信仰の道は因縁の歴史を引き継ぐのであり、天との因縁の塔を積んでゆくということを、皆さんが感じてこそ成るのです。 この世の親友とも、会って別れるときは名ごり惜しく悲しいのに、まして天を中心とする因縁の路程が絶たれるその瞬間はどのようでしょうか。歴史的な悲しみの瞬間であり、天地の悲しみの瞬間であり、人類と天上の悲しみの瞬間であることを、皆さんは感じてみなければなりません。 これを感じる者がいたとしたなら、行けども行けども不足なることを、感じぬとしても感じざるを得ず、溢れ出る涙を耐えんとしても、耐えることができないのです。また、皆さんが原理を通して学んだように、今日我々の個体が立つ位置は、天と地と、あの世にいる霊人たちの一人まで、解怨成就しなければならない場であるのです。このような宇宙史的な運命の、祭壇におかれている皆さんなのです。このように祭物たる自身の立場が、悲しいといえば無限に悲しいのです。しかしこのような祭物を見やる数多くの霊人たちの悲しみ、祭物を見やる数多くの民族の悲しみ、祭物を見やる天と地の数多くの存在たちの悲しみが、皆さんの悲しみよりもさらに大きいという事実を知るなら、皆さんは天に向かって行く路程において、落胆しようにも落胆することができず、嘆息しようにも嘆息することができないのです。 わが心に感じるこのような感触、わが心に因縁づけられたこの衝撃が、ある永遠の理念にまで因縁を結ぶために動いているという事実を知り、必ずこのような理念を成就させ、この世界で生きるようになることを願う心が、我々にあることを否定できないのです。従って霊があるとするなら、その霊が愉んで生きることができるその世界まで、我々が建設しなければなりません。今日この地の上に因縁を持つその幅と高さによって、その世界を所有することができる権限が左右されるのです。このような事実を考えるとき、皆さんはこのように動いても、あのように動いても、あるいは嬉しい時や悲しい時も、罪人であるという心情を禁じようにも禁じる道理がないのです。このようなことが、天を求めて行く信仰者の道であると、私は見るのです。 ですから、四〇年この道を歩んでいる私もやはり、覚悟してこの道を行くとき’天よ!私は天を求めて行きますから、今日天と約束したこの因縁を死のその時まで、捨てないようにしてください。天がなくなり、地がなくなり、この体が消える恨があったとしても、この因縁に従って生き、この因縁に従って死ねる人間となるようにしてください’と祈祷したのでした。従って皆さんもこのような歴史の渦中で、一つの時代を生きていって困難にぶつかり、十字架が迫り、迫害が加わるそんな瞬間々々に、天と約束した自身を慕い、そんな環境にあっても天のまえに涙ながらに頭を垂れ、自身の未熟さと自身の不完全と、自身の無気力とを嘆息して、天を抱えて泣かなければなりません。これが天を求める者の歩みであると見るのです。 皆さんは先生が持つすべてのものが、先生のものであると考えないでください。私のすべてのものを、皆さんのものとして結んであげたいのです。神は天が持っているすべてのものを、歴史的であり、時代的であり、未来的なものとして残しておかれたいのです。 ところが我々はこのような心情を通して、因縁づけられている民族であることを、宗族であることを、個人であることを忘れたなら駄目です。私が語る神が偽りではなく、私が願う理念が偽りではなかったとしたら、皆さんが天のみ旨を否定するほどに、審判の条件に引っ掛からないかと案じるのです。イエス様はこのような心情を持っておられたので、死んでも行き、生きても行かねばならなかったのです。イエス様はこのような場におられたので、万民が同情するようになったことを、皆さんは知らねばなりせん。 先生の考え 私が知るところでは、皆さんが私に従おうとし、師として侍り、誠精を尽くそうとしているのですが、その侍ることを受けるのに躊躇している師であることを、皆さんは知らねばなりません。なぜならば、天がこの地の上において、そんな一日を迎えていないのであり、私がまずアボジのまえに心から誠心を注いで毎日々々、敬礼を捧げていない、侍ってもいないからです。このように喜びをもって天に対することができない自身であることをあまりによく知っているので、皆さんの誠心を拒否することも多く、天のまえに泣き叫ぶ切ない心情を知られないように、ふり捨ててしまうような立場を取るときも多いのです。これは私のある欲望を満たすためにそうなのではなく、因縁の世界の怨恨を考え、現実世界の万象を見渡すとき、そうせざるを得ない事情があるからなのです。それで皆さんがこんな様子、あるいはあんな姿を見やるたびに、ここに芽ぶく天の悲しみを案じる心情を持つ者たちになってくれることを願うのです。 我々が天と出会って良かったなら、良かったことだけで終わることではないのです。天の悲しみがあるとしたなら、その悲しみが今日で終わることではありません。ですから我々に希望があり、喜びがあるとしたら、それは言うこともできない大きな喜びであり、地の上に悲しみがあるとしたら、それは言うこともできない大きな悲しみなのです。このような地の悲しみを解怨し、アボジの悲しみを慰めるなら、地の喜びを歌い、アボジの心情にはりついた喜びを表すことができる主人公たちが、いつの日にかこの地の上に現れるのです。皆さんはこのような心情を持って、このような主人公たちに会うことができる因縁を無視してはいけないのです。私が皆さんを無視することはなく、皆さんもやはり私を無視することはないのです。皆さん同士は、涙と悲しみの六千年の歴史を経て出会った人たちなのです。 天は天の親友を待ち焦がれ、天の家庭を待ち焦がれ、天の民族を待ち焦がれ、天の国を待ち焦がれているのです。それゆえ天の国を苦待する民族にならなかったなら、その民族は消えるのであり、天の民族を願う家庭にならなかったら、その家庭は消えるのであり、天の家庭を苦待する個人にならなかったら、その個人も行く所がなく消え去ってしまうのです。 神の息子・娘として決定され得る場 自分を越え、家庭を越え、民族を越え、国家的な一つの基準を立てておいて、その理念圏内において悲しみを蕩減できることを、知らねばなりません。そうしてこそ、国家形態の理念を捜し立てるために六千年の間苦労されたアボジ、悲しい因縁を越える国家を所望されてきた、アボジを慰めることができる資格者になるということを、皆さんは知らねばなりません。そんな場で初めて天の息子・娘が決定されるのであり、そんな場で初めて天と地の因縁が回復されるのであり、そんな場で初めて喜びの歴史が起こるということを、皆さんは知らねばなりません。 いかなる民族も主権がなくなれば、来ては行く人間が籠絡し、過ぎ行く人までも嘲笑うのですが、主権が立つその日からは、誰もが勝手に通り過ぎることはできず、勝手に籠絡することもできないのです。ところが今日、地上に広がるキリスト教徒たちは神の国の民になっていないのです。天の主権のある天の民になっていないのです。天の民であるとしても、その民を率いることができる主権を持たなければ、その民族は蹂躪され、見捨てられるということを知らねばなりません。 ですから神様は、イスラエル民族六〇万大衆を中心に、エジプトに天国の主権を回復しようとはされないのです。天の主権の国を所望して、六〇万大衆を因縁の地カナンに向かって荒野へと押し出した原因は、どこにあったのか? あれやこれやの迫害を受け、死の峠を経ていっても、天が直接動くことのできる一つの主権国家を立てなければならなかったからです。このように死亡の波濤が襲いかかる荒野へと、イスラエル民族を押し出した天の心情を、我々は知らねばなりません。どんな民族であっても、国家形態を得て神に侍ることができる主権を回復しなかったなら、その民族は滅びる他はなく、蹂躪される他はないのです。 このような観点から天の摂理を見てみるとき、世界に広がっているキリスト教徒たちは自分の教派の為とする時ではないのです。選民主義的な思想を越えて、天民主義的な思想を、天の思想として知らなければなりません。その国の民である威信と気概を持って、天的な因縁と、地的な因縁と、歴史的な因縁と、人間的な因縁を結び、天を中心として団結することができる祭壇が現れなければなりません。このような祭壇が現れない限り、地上に天国を実現するということは、夢に過ぎないことなのです。 皆さん各自々々には、数多くの怨讐たちが住んでいた歴史的な因縁があり、籠絡された先知先烈たちの因縁が染みており、サタンによって悲しみとなった骨髄に染みる歴史の因縁が、染みこんでいることを知らねばなりません。たとえ出会うのは一個人であり、対するのは単なる一人間ではあっても、天の因縁と天の事情が絡みあっているかも知れないのです。この一面においては、宇宙史的な因縁が結ばれているということを、知らねばなりません。 六千年の間、天は主権を求めてさまよい、一つの主義を求めてさまよい、一つの因縁を求めてさまよい、真の心情を持つ同志を求めてさまよったのです。すべてのことは、出発から終結まで、こんな歴史的な因縁を拒否することができないのです。こんな統合的な因縁の歴史過程を相続し、相い逢って生きてゆく信仰生活であるとして、どんなに同志に欠けたところがあり、どんなに食口に不足なるところがあり、どんなに親友が皆さんに刺激を与えたとしても、どのように天と因縁を結ぶかを願う心以上の憤る心を持ち、この因縁を捨てるときに感じる悲しみ以上の、大きな悲しみがどこにあるでしょうか。 国の為に自分一身を返り見ずに忠誠をつくす人間を忠臣といい、家庭と親族の為に自分一身を捨てて孝誠をつくす人間を孝子といい、家庭を抱えて自分一身を返り見ずに祭物となって生きる女性を、烈女ということを皆さんは知っています。 それでは今日、因縁の歴史を見渡してみれば、天は新郎であり、我々は新婦という因縁を結んでいるのです。我々の視線を通して見やるこの因縁、この相対的な因縁には歴史的な視線が注視しているのであり、歴史的な、泣き叫ぶ声がこだましていることを、知らねばなりません。 こんな因縁の心情を感じ、アボジを呼ぶ瞬間、この自我の意識が入り込んでくるとき、この私は今日の私であっても、この地の上に限定された私ではなく、永遠なる世界の理念圏内で保障される私なのです。このような私を、天は完成した者であると命名されるのです。私が知るところ真の信仰者の態度とは、何よりもこのような因縁の心情を感じなければならないのです。皆さんが受けた正にその恩賜も、今日の喜びの因縁が及ぼす恩賜ではなく、歴史的な因縁を受け継ぐ恩賜であることを、知らねばなりません。 天が安心して命令されるためには 今日自分に天の為に忠誠をつくす心があるとしたならば、その心のまえにまず頭を下げることを知らねばなりません。この心は、私から始まるものではありません。わが心から自動的に生じるものではなく、ある真理を通して、ある事情を通して、天と地に結ばれた因縁を通して、生じるものなのです。このことを知り、心に感じることを大切に考えなければなりません。心に決心したことを大切に考えなければならず、心に誓ったことを大切に考えなければなりません。この決心、この誓い、この心情を感じる衝撃を、その日で終結させてしまっては駄目です。歴史と共に終結させ、歴史と共に解決させなければなりません。ここに天の恩賜が共にあるのです。こんな因縁を持っているがゆえに、決心したこの決心が、歴史とともに消えてしまってはならず、あるいは誓ったその盟誓も、歴史の解決点と共に消えてはならないことを、皆さんは知らねばなりません。 このような責任的な使命を感じる者がいてこそ、天は安心して、命令されると見るのです。我々が悲しみに染まっているとしても、今まで天の因縁を日に何度となく捨ててしまう心を持っている、邪悪なる人間に対される天の悲しみが、どれほどに大きいことか。天はこのような人間をおいて、その心を推し量られていることを感じなければなりません。 分かれようにも分かれることのできない因縁であり、逃れようにも逃れることのできない因縁なのです。天国に行っても逃れられず、地獄に行っても逃れることができない因縁なのです。それゆえ地獄に行って、苦痛を覚えるのです。 本然の因縁の中で生きるべき我々 皆さんに会う時間が短くても、天のまえに恩賜を受けることが一か月、二か月、あるいは一年、二年、三年、四年の歴史を持っていても、皆さんがその期間ほどに恩賜を受けるものとのみ、考えてはなりません。’私は天の恩賜を受けること六千年にもなりました’という感情を感じなければなりません。このような心がわき起これば、皆さんは天に対して恐れ多いのです。千万べん死すべきこの一身を、捜し立てるための苦労は天がされているのに、喜ぶべき自分がする、そんな邪悪な皆さんになってはなりません。 ですから本然の因縁で生き、本然の因縁で泣き、本然の因縁で死ぬ群れ、その群れが歴史の主人であり、時代の主人であり、未来の開拓者であることを知らねばなりません。天はこのような者たちを集めるために、このような者たちを呼ぶために、このような者たちを立てるために、因縁を結ぶ役事を放棄されることなく、摂理されておられる事実を忘れてはなりません。審判があるとするなら、この因縁を捨てる者以上に恐ろしい審判を受ける者はいないのです。 皆さんが統一教会を考える心がありますか? そんな人間はここにあるこの建物を考える者でもなく、世の中のいかなる真理を信じる者でもなく、ここの集まっているこの群れを考える者でもありません。これを越えて、神と因縁づけられた統一教会を意識するものであり、こんな統一教会の真理に自ら従い、こんな因縁によって集まった統一教会食口の感情に通じる人間が、正に統一教会の食口なのです。より多くのみ言を聞くことはありません。 神が待ち焦がれる人間 その次に、信仰者の態度はどのようでなければならないか? 待ち焦がれる心情がなければなりません。因縁を持っているがゆえに、苦待せずとも苦待せざるを得ないことを、皆さんは知らねばなりません。それでは、天は何を苦待されているのか? 信仰者を苦待されているのではなく、生活の中で実践する者を待ち焦がれているのです。私も信仰者になることを苦待しているのではなく、生活の中において実践する者になることを、苦待しているのです。所望の国を苦待することではなく、その国において生活することができる人間を苦待しているのです。 今日我々は、信仰という名詞をおいて苦待しているのですが、このような段階を越えて生活的な信仰をしなければなりません。即ち、天と共に生活する食口、天と共に生活する民、天と共に生活する教会にならなければなりません。このように生活して愉しみ、歌うことができ、栄光をお返しする信仰生活をしなければなりません。天はそれを苦待されているのです。 歴史過程の数多くの我々の先祖たちのまえに、信仰という名詞を立てておいて、神様が彼らに苦待されたことが、何であったのか? その場において闘う信仰者としての、それ自体ではなく、終わりの日まで残ってアボジと共に生きる人間を、苦待されたということを皆さんは知らねばなりません。天が我々を苦待されたことを、知らねばなりません。 神様が苦待されていることは、信仰のために喜んで消えてゆく私、信仰のために死んだが復活することができる私、死亡圏を脱して生命圏内において、復活の価値を歌うことができ、永遠なる世界において神をアボジと呼んで生きる、そんな私を苦待しておられるのです。これを考えますとき天が苦待する私、その私を慕い、その私を捜し求めるために、その私に出会うために、身悶える皆さんにならねばなりません。 今日皆さんがここに立っていますが、皆さんは天が苦待するその私ではないことを、よく知っているのです。天が捜している、私ではないということです。ですから皆さんに天を考える心があり、天の為という心があり、天との因縁があるとしたなら、本然の私を苦待する懇切なる心が、自身の生活標準として立っていなければなりません。 このような私を捜すときには、その私を誇り、私の価値を歌い、そんな私を求めるアボジに侍って生きることができるのです。このような私を苦待する、皆さんにならねばなりません。この心情を失ったならば、信仰の道を行くことはできないのです。 信仰者の一番標準になる本然の私 人間は自分を中心に始め、自分を中心に解決づけ、自分を中心に批判してゆく道が、最も効果的な道なのです。ですから皆さんは天が求める相対的な私を追求することよりも、相対的な私の価値を追求するその心に加えて、直接的な因縁を持つ自分を追求しなければなりません。そんな私を捜し求めるために泣き、闘う衝撃が私から始まり、私自身を深く感動させなければなりません。こうしてこの感動した私と、所望の私が因縁を結ぶ感じを持ってこそ、信仰の行路を無難に突破することができることを、皆さんは知らねばなりません。 皆さんが従っているこの先生は、今日の人間に対して、限りなく悲しんでいるのです。今日に処する因縁を内的に無限に呪咀したい一面、所望とするその私に対しては歌いたいのです。 皆さんもそのような心を、時間々々を通して、人生を通して感じることを知らねばなりません。対人関係において、教会関係において、いかなる環境や身の上も意に介さず、そんな私を捜し求める一歩ごとに如何にして背くことができ、如何にして呪うことができ、如何にして躊躇して、眺めてばかりいるのかという心を持たねばなりません。このような路程において後退する者であるなら、その私を所有することはできないのです。そのようになれば私はその時間から、嘆息するようになるのです。今までしてきたような生活を続けるなら、嘆息と、自暴自棄と、自滅的な状態に陥ってしまうのであり、無能力で無気力な自分自体を嘆息する他はないということを、皆さんは認識しなければなりません。 ですから理想的な信仰者に最も近い標準は、その所望の私を求め、苦待することです。従って皆さんがいつかその日に、その私に出会うかという心情に染みているなら、天を望み見るのであり、その私を求めるために闘うのです。 神のまえに立つには 神様が創造理念を立てて望まれた一自体の姿が、歴史過程を通して所望の姿として現れても、実質的な姿としては現れなかったのです。神様がどのように六千年の歴史路程を耐え、闘ってくることができたかといえば、所望のその日を苦待する心が、所望とする人間を苦待する心があったからなのです。このような心が強かったがゆえに、あっちに行き、こっちに行っても、いつかはその実際的な姿に出会う日があることを知られるがゆえに、天は今まで耐えてこられたことを、我々は知っているのです。 イエス様が十字架を越えて復活の恩賜を受けても、その日を誇ることなく’再び来る’という所望のその日を立てて、行かれたのです。以後’再び来る’とされた一日を慕って二千年の間、闘っておられるのです。天もこのように行かれるなら、地の上の今日の我々も、このような道を行かなければなりません。さらには我々はこの地上に創りおかれた本性の姿、その私を立てるために、天の苦労の歴史があったということを知る群れにならねばならず、天の体面と威信を案じる心がなければなりません。歴史的な所望のその日を、歌ってゆくことを知らねばなりません。即ち、栄光によって来られる復活の主様に出会う私は、どのようにするかということを考えて、その私に対する確固とした基準を持って、これを求める日までどんな事が生じても行くという、このような決意と誓いがなければなりません。そうでなかったならば、今日までの信仰生活がむしろ、私を蹂躪する生活であったことを、否定することができなくなるのです。 イエス以後二千年の歴史過程を経てきて、天は再び来る所望のその日を望み見て、耐えておられるのです。歴史行路の足跡がこのようなものであることを考えますとき、地の上において私が食口のために奉仕し、私が食口を訪ね励ますこれらすべてのことは、当然至極のことです。新郎たる主人公を迎えるその日を求めるために、これは新婦として持つべき一つの装いのものであり、一つの装飾品であることを知り、これを感謝して、これを愉し、アボジのまえに涙を流すのでなければなりません。 天の世界は遠く、無限の世界です。その世界において、一つの存在は無限なる存在だという心を持って天に染みて訴える場に行くときに、イエス様は私を求められるのであり、希望をもって捜し求める私を、歓待されるのです。このような時間が、皆さんの霊的な体験の時間であり、霊的な面において、イエスと出会う時間なのです。ですから逢いたいという心が、皆さんに染みることを願うものです。この心がない者は、アボジのまえに立つ第二の自我を求めることはできず、さらにはアボジのまえに立つことができないという結論に至るということを、よくよく知らねばなりません。 信仰をするのに忍耐が必要な理由 その次に、耐えることを知る者にならねばなりません。神も耐えてこられたのです。エデンで罪を犯したその日から、この日までの歴史路程は忍耐の路程であることを、否定する者がいないのです。民族に対される神の足跡を探って見ても、耐えて涙する道であり、耐えて血を流す道であることを、我々は知っています。さらにはキリスト教の歴史をご覧なさい。死の祭物として消えたとしても、天は耐えてこられたのです。 また、天が選んだイスラエル民族は長い歴史を経てきて、世界のいかなる民族のまえに現れるときも、蹂躪されないことがなく、追われない時代がなかったのです。それではこの民族の神であり、この民の神であるにもかかわらず、今まで耐えてこられたことは何故であったのか。耐えられずに堕落した人間になってしまったので、耐える者が勝利の一日を立てるときまで、神も耐えんとしても耐えざるを得ない、運命におかれているのです。耐えられずにみ旨を破ってしまったので、耐える一自体を捜すまでは、神の心情が解怨されることがないのです。即ち、耐えて神の心情を解怨してさしあげ、耐えて民族を解怨し宇宙を解怨し、幸福の一日を希望とし、闘いの道、迫害の道、死の道であっても越えてゆく個人と、家庭と民族と、国家に出会うまでは、耐えてこられる歴史を終結させることなく、審判の行使をすることができないことを、皆さんは知らねばなりません。 このように六千年の間耐えてこられ、憤りの心に染みていても、審判の権限があっても審判をされることなく、耐えておられるアボジの悔しさと、アボジの悲痛と、アボジの怨痛とがあるゆえに、耐えることによって出発し、耐えることによって終わりを結ばなければなりません。 キリスト教には審判という名詞がありますが、この審判とは何であるのか。天が耐えてこられた歴史を、終結させることができる一時であるのです。天はそんな一時を待ち焦がれ、耐えてこられたのです。これは神ご自身が解くことではなく、人間を通して解かれるのです。審判の権限を持って審判台に出て、怨讐を審判することができるキリスト教にならなければなりません。そして我々には、六千年を耐えられた神のその忍耐が、後押しとならなければなりません。 歴史路程において耐えられたアボジの心情を体恤して、また受け継いで’お父様! 耐える心情を解き放ち、私によって解怨成就してください’とする覚悟を持ってゆく者にならなければなりません。六千年の間、天はみ旨を立て、先烈たちに対して時代々々、また世紀々々を経てきて、言うこともならない凄まじい闘いの歴史を経て、耐えてこられたのです。このように耐えてこられた神の心情に、皆さんの全体の心をすべて合わせ、耐えても残る余裕の心を持って現れなければなりません。でなければ神の忍耐の基準を越えることなく、それによって解怨の基準を立て、審判を催促することができないのです。 天は終わりの日に、七年の大艱難があることを、我々に預告されました。そして聖徒たちのためにされるみ言が、終末には選ばれた者も迷惑になるというのです。また、終わりの日には、この艱難の中で終わりまで耐える者が救援を受ける、とされたことを皆さんはよく知っています。 忍耐の終着地 それではこの、耐えることの終着地はどこか? 忍耐の終着地がどこか? 皆さんはこの終着地を探って、さまよって来たのです。これがアダム家庭だったのですか? そこでもありません。ノア家庭だったのですか? そこでもありません。歴代の先知者たちだったのですか? そこでもありません。今日わが一自体にも、やはり忍耐の歴史が残っており、この社会にも忍耐の歴史が残っており、自分以後の後孫にも忍耐の歴史が残ることを考えるとき、自分は忍耐の王者としての資格を得て、アボジのまえに現れなければなりません。六千年を耐えてこられたアボジをお慰めするという心を持って、天のまえに行くと考えもする者たちが、地の上になければなりません。 皆さんに忍耐があったとして、この忍耐が歴史的な忍耐の終着点とは、遠い距離にあることを悟るのです。今日我々の教会と因縁のある人々が’弱り果てて行けない’というのです。’統一教会は良いのだが、難しくて行けない’という言葉を聞くのですが、この言葉をいう人間は、幸福な者です。地を見渡せば幸福な者かも知れませんが、天を見渡せば哀れな者です。そうなのです。果たして行くのが難しいのです。行く道は涙の道です。見ては泣き、感じては泣き、闘っては泣く涙の道です。涙が止む時がいつかと思えば、ないのです。涙がさらに続かなければならない、即ち、さらに涙を苦待される天の心情があることを知って、天が凄絶なる姿である我々を待っておられることを知るとき、私が耐えたその事実も、天のまえには面目がありません。 先生は解放以後今日に至るまで、今だに自分の忍耐の限界を考えてみません。また、終わりを願ってもみません。終わりを願うその時間から、自分を探ってみるのであり、その時間から恐ろしさを感じるようになるということを、皆さんは信仰生活において感じなければならないのです。 耐えるアボジ、そのアボジがわがアボジであり、耐えるそのお方が、私と永遠に共に生きる私のアボジであり、耐えるお方が自分が侍る新郎であると、皆さんは心の奥く深く考えてみたことがありませか? これがないというのです。天のまえにで喜んで栄光を受ける者がいます。彼を見やって羨むことよりも、耐える場において堂々と、耐える場において泰然自若としていなければなりません。天のまえに耐える姿として現れる者が、今日のこの混乱した歴史において、忍耐の歴史過程において、幸福らしい者よりも貴い者であることを感じる皆さんでなければなりません。このような心情で、今日のこの混乱した時代を越えてゆくことを知らない者は、天に対する背反者になってしまうのです。 皆さんに、物質による苦痛がありますか? これを耐えなければなりません。知識による苦痛がありますか? これも耐えなければなりません。わが一身に対する心情の苦痛がありすか? これも耐えなければなりません。忍耐の六千年の歴史に背反するそんな者にならないために、耐えて耐えて、また耐えなければなりません。滅びることを知りましたので、残ることが天の歴史であり、倒れることを知りましたので、蘇生してゆくことが天の歴史なのです。 皆さんは死六臣(朝鮮王朝世祖の時に処刑された六人の忠臣)をよく知っています。この民族の魂が砕かれようとするとき、民族精神が濁ろうとするとき、再び民族を新しい希望によって率いていった基が何であったか。それは我々が知っているソンサムムン(成三問)を始めとする六死臣があったからです。忍耐の道も、死の道もどんな苦痛の場でも、過酷な刃も耐えたその基台があったので、我々の民族精神を支えたということを、知らねばなりません。 それでは今日我々の伝統的な、天的な精神を受け継ぐ者が誰か。忍耐の祭壇を高々と受ける者です。忍耐の祭壇を受け、天に向かって苦待する群れがそれであることを、皆さんが知らねばなりません。 このような心が架空的で空想的ではなく、実際的な感情、実際的な触覚によって感じなければなりません。その感じることは、自分が耐えると約束して誓ったことなど問題にならないと笑う、そんな余裕が皆さんの腹中から、細胞まで動かさなければなりません。こんな衝撃がないとしたなら、残る苦難の数々をどのように埋めるのか。民族が越えるべき苦難の峠を、どのように越えてゆくのか。世界が越えるべき苦難の峠を、どのように越えてゆくのか。天が越えるべきこの峠を、どのように越えてゆくのか。苦難の城を築き、死の城を築いて耐える過程を経た後に、福地が現れてこないならば、神の忍耐もいつの日にか終わりを見るのです。 真なる指導者をどこに見いだすのか 今日我々は、信仰者であるといっています。この天の理念を捜し求めていると自任しています。明日の命を歌い、明日の所望を求め、明日の希望を基準にして、明日の国と明日の民、明日の民族、明日の家庭、明日の自分を求めているのです。これが信仰の道であって、この明日の自分とは未だに距離が残っているのです。この私は今日にあるのではありません。ここに求めるなら、全部が落胆するのです。皆さんの周囲にも、ないのです。皆さんはまず歩みを、正しい苦難の道を歩まねばならず、苦待する懇切なる心情の基準を高くしなければなりません。立てる正しい人類歴史が残っている限り、これを精算する前までは、その日は来ないことを知らねばなりせん。 今我々の歩みはその所望の理念のために、お出ましの準備をして出発する天の精兵であるので、その歩みは前進の他は知らずに行くのです。後ろに声が挙がったと、振り返って見てはなりません。それは怨讐の声なのです。横に君よと、近寄ってはなりません。それは自分の命を狙う怨讐であることを知らねばなりません。皆さんが生きてゆく環境には、真の親友がいないのです。 皆さんが生きてゆくにおいて、真の指導者がいません。皆さんが真の真理を求め、真の指導者を求める場においてのみ、真の天の指導者が現れるのです。皆さんが偽りの心を持っているなら、どんなに真なる者であっても、偽りの者になってしまうのです。歴史過程にはどんなに真の生命の因縁を持っていたとしても、偽りの生命の因縁によって現れなければならない曲折があるのです。真を求める皆さんの心に、訪れなければなりません。真の師を求める皆さんの心に、真の家を求める皆さんの心に、真の故郷を求める皆さんの心に、真の国を求める皆さんの心に、訪れなければなりません。そして皆さんは所望の理念を、帰結点として考えなければなりません。さらにはこれを中心にして、環境的な暗闇と闘い、この因縁を誇らねばならず、もどかしい心情で所望が成ることを苦待しなければなりません。こんな真の自身の姿を誇って周囲の環境を押し退けて行くとき、初めて天の役事が加わるのです。 ですから皆さんが最後の勝利の決定線で、最後の一歩を踏み出してその線を切るや、皆さんに新しい所望が現れるのです。皆さんが新しい日を迎えるのです。新しい理念を、皆さんのものとして所有するのです。この新しい理念を皆さんのものとして、因縁を結ぶためには、このような道を行かねばならない天的な条件が残っていることを、皆さんは知らねばなりません。従ってこのような歴史的な運命を前にしている皆さんは、しっかりとした覚悟を持たねばなりません。 今こんな境地で、皆さん自身を振り返って反省してください。私は果たして信仰者の態度になっているか。所望の心を立ててゆくための信仰になっているか。これを願う自分であるか。古い信仰をもってみな成ると思い、すべてのことを解決しようとしたら、この道を行けないのです。 正しい信仰の態度をもってゆくべき我々ですから、今我々に死亡の威力がぶつかってきても、その死亡の力を精算しても残るものがなければなりません。残ったという痕跡がなければなりません。わが情熱もそうであり、わが忠誠も、わが努力も、わが忍耐も、自分に属しているすべてのものに、残る分野がなければなりません。これが天の相続の第一の基準になるということを、知らねばなりません。 今日のこの複雑なる有形を経てゆくためには、この所望を捜し求めて行かねばなりません。歴史的な因縁と、時代的な因縁と、未来的な因縁を心に抱いて、所望の私一自体を苦待して、これを捜し求めてゆかなければなりません。これを捜し求めてゆけば、限りなく怨讐たちが立ち塞がるのですが、それらと闘い、また闘って行ってまた行ってぶつかり、またぶつからなければなりません。こうして忍耐の祭壇をわが肩とし、足とし、手とし、体とし、頭として、忍耐の峠を越えることを覚悟して、生きた祭物にならなければなりません。そうでなければ、真の信仰者の態度を持つ者と見ることができません。天のみ旨と天の真理を捜し求める者と、見ることができないのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.14
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2021.03.14
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天の父母様聖会 天苑宮 天苑教会 聖日礼拝日時 : 天一国 9年 2月 2日(2021年3月14日) 午前 9時30分場所 : 神韓国オンライン非対面中継 : 韓国語、日本語、英語一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ 3月14日は、また別に、韓国ではオンラインで「神忠清國希望前進礼拝」が予定されています。 世界平和統一家庭連合、神忠清國オンライン希望前進礼拝14日に開催11時からは、日本全体で韓国の「神忠清國希望前進礼拝」の真のお母様のみ言から視聴参加致します。
2021.03.12
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エリヤに対する天の心情一九五九年三月一五日(日)前本部教会 神様は堕落の歴史が始まってから後、長い歳月の間無数の苦労をものともせずに、選んだイスラエル民族を抱えてゆかれたのですが、三千年がたって時にイスラエル民族が知らないうちに、大きな所望と期待をもってサウル王を立てられました。ところがサウル王が責任を担わないことによって、神の本来のみ旨はダビデ王を経て、ソロモン王の時まで延長されたのです。即ちサウルを立てて成そうとされた神のみ旨は、ソロモン王の時まで、一二〇年間というもの延長されてきたのでした。 分裂して異邦の神に仕えてユダヤ民族 ソロモン王は天のみ旨を受けて神殿を造り、彼の民族を統率して神殿と一つになるべき天的な責任があったのですが、その使命を担わずに自身も罪を犯すことによって、民族をサタンに渡してしまう立場になったことを、我々は知っています。 結局、ソロモン王が死んだ後、ヤラベアム王とレハベアム王によって、北朝イスラエルと南朝ユダに分けられました。神を中心として一人の指導者がきて、彼が左と言えば共に左となり、彼が右と言えば共に右となるべきイスラエル民族が、神様が苦労の歴史を経て来て率いた民族が、天の引率を受けるイスラエル民族が、天の所望とは異なり、南と北の二つの王朝に分かれた哀しい事実を、我々は知っています。イスラエル十二支派は天の側に立って、一つの祭壇を中心として、天と一つにならねばならなかったのです。 ヤコブがハランに向かって行く時、神はベトエルでヤコブに現れて祝福を与えられ、ヤコブは枕にしていた石を立てて石像とし、神様に誓願したのです。そしてヤボク川を渡る前にギルアデの山地で石塚を造り、神の名を付け、ラバンと約束しました。このように天から祝福を受けたヤコブから始まったイスラエル民族は、神の権限を行使することができる一つの主権国家として、一つの主権民族として、一つとなって神殿を受けなければなりませんでした。ところがこの天的な使命を投げ捨て、十二支派は北朝十支派と、南朝二支派に分かれたのです。この哀しい事実を我々は、歴史的な事実としてのみ知るのではいけないのです。 当時のイスラエル民族は、神の血の涙の三千年の歴史と、闘いの路程を経て来て生き残った群れであり、追われて残った群れであり、惨めに扱われる哀しい路程で残った群れであったのです。彼らは先祖たちを蹂躪した数多くの異邦民族と、神のみ旨に背信した数多くのサタンたちを恨み、怨讐視しなければならない立場を忘れ、同族同士が血の戦いを起こしたのです。こんな哀しい事実を引き起こしたイスラエルとユダを見やる神の心情が、どのようであったかを考えてみなければなりません。 ヨシュアとカレブの導きでカナンの福地に入ったイスラエル民族は、ソロモン王を中心に神が留まる神殿を建設して、神に侍らなければなりませんでした。であったにもかかわらず、北朝イスラエルと南朝ユダに分かれて、互いに争って、バアルの神とアシュラの神を崇拝するまでになったのです。こんな悲惨な光景を見やる神の心情を、我々は知らねばなりませんん。 このような歴史を率いて来られた神は悲しみに染まり、その染みた悲しみは歴史を経て今日、我々にまで及んでいるのです。ところで歴史的な哀しみはどこへ行き、民族的な哀しみはどこへ行き、さらには天的な哀しみはどこへと行くのか! このような条件が皆さんの心情を包み込んでいるということを、このような条件が天を求める我々の周囲を取り囲んでいるということを、このような条件が我々の意識世界を超越して、我々の行く方向を正しているという事実を、我々は知らないのです。 召命されたエリヤの心 このような凄惨な環境を見られた神は、ギレアデの地に住んでいた農民の中から、エリヤという人間を捜し立てられました。イスラエルの王もおり、十支派の族長もいるのに、エリヤを選ばれたのです。こんな哀しい事実を皆さんは知らねばなりません。 国家を支配して天の神殿を守るべき王が、その責任を忘れて天を排斥して恨み、民族を蹂躪したのです。さらには天の怨讐であるバアルのために祭壇を築き、アシュラの木造を造り、民族のまえに立てて仕えたのです。こんなアハブ王を天はどんなに憎悪されたか、我々は考えなければなりません。神様はその憎悪の心情を抑えることができず、選んだ民がサタンに蹂躪されるのを見る悲しい心情を抑えることができず、その哀れな事情と心情を解くために一人の人間を選ばれたのです。ところがその選ばれた人間は、国の王でもなく、皇族でもなく、ある族長でもない平民のエリヤだったのです。 天は捜すべき者を捜さず、持つべき者を持たず、率いるべき者を率いない立場に立つとき、切ない心情を抱えて王から族長たちと、多くの人々を捜し求めたのですが得られず、その時代の民族的な悲しみと、天的な悲しみを知って案じ、天に向かって祈祷して泣き叫ぶ一人の姿を捜し立てられたのですが、彼がエリヤだったのです。 このようにして立てられた、エリヤでした。皆さん! このエリヤを回想してみてください。エリヤは宗族の後援を受けた人でもなく、自分を擁護し、自分の立場と処し方を擁護してくれる環境を持つ人間でもありませんでした。彼は天の心情を知り、天の召命を受けて現れた人だったのです。 この時、彼が対して仰ぎ見る環境は、アハブ王の主権下にあった怨讐の環境だったのです。このような環境で天の召命を受けたエリヤは、死んでもこの民族を抱えて死ぬという心が、誰よりも強かったのです。死んでも民族的な摂理歴史路程で歴史的な心情を代身した先知先烈の伝統を、尊重しようとしたエリヤだったのです。さらには誰よりも神の心情を案じて涙を流し、民族と歴史を代身して涙を流すエリヤであったことを、皆さんは回想してください。ですから天は、このようなエリヤを捜し求めたのです。 それで今日皆さんに語る御言の題目は「エリヤに対する天の心情」です。「エリヤに対する天の心情」こんな内容で暫くの間、お話しします。 ごらんなさい。神は三千余年の悲しい心情を代身して、エリヤを捜しだされたのです。即ち、数多くの先知先烈たちが歩んで感じた歴史的な心情を代身して、神が手を挙げてイスラエルであると祝福された約束を忘れることなく、それを案じる天であるがゆえに、ヤコブ以後エリヤの時まで、一千年余年の歴史過程を経て摂理されてきた心情を抱え、エリヤを捜し求めたのでした。 神がエリヤを召された心情と責任者として立てる方法 怨讐に捕らわれたイスラエル民族を再び回復するために、エリヤを立てられた神様には悲しい反面、希望にみちた面もあったということを、我々は考えざるを得ません。 神に選ばれたイスラエル民族が、アハブ王と彼の王妃イザベラと共に、異邦のバアル神を崇拝し、アシェラ偶像を造って汚されていることを見て、悲しみに耐えることができずにエリヤを召される時、彼は喜びの心で父の前に現れたのではなかったのです。 エリヤは天が召されたからとて「アボジ! 分かりました。あなたが願われるこの道を私が行きます。あなたが招くみ旨を、私が責任を負って行きます」とすることが出来なかったのです。それで「私は何にもない平民に過ぎません。天よ、私よりも素晴らしい族長もおり、王もあり、王族もあり、数多くのイスラエル民族があるのに、私のような微々たる者を求められるのは、何としたことでしょうか」としたのでした。良心を持つエリヤはイスラエルを案じる心が大きかれば大きいほど、私心なく天のまえに固辞する他はなかったのです。 しかし天は時期から見て、この民族全部を捜し立てることは出来ず、エリヤでなければ駄目なことを知っておられたゆえに、エリヤを立てたのでした。 それゆえ神様は、エリヤがその場で使命を果たすよう命令して追い立てるのではなく、その環境を整理してあのように、このようにとショックを与え、自動的に現れるようにされたのでした。 ですからエリヤが天の召命を受け、アハブ王に現れる時、天は「父の命令であるから、あなたがすぐに行くのだ」という瞬間的な決心をするようにしたのではなく、行かないとしても行かざるを得ない環境にぶっつけ、自身の惨めさと民族の惨めさが、よりつのってゆくようにし、「民族の代身、私が死んでゆき、宗族の代身、私が死んでゆきます」という覚悟をした後に、闘いの責任者として押し出したという事実を、皆さんは知らねばなりません。 ノアとマリアの信仰姿勢 我々の祖先であるノア、もそうだったのです。「一二〇年後にすべての世を水で審判するから、あなたは箱舟を造りなさい」という神様の御言を実践してゆき、ノアは内的な闘いの路程で、天を疑うようなときも多かったのであり、自分自身の微弱なることを嘆息する環境におかれるときも多かったのです。しかしノアがそんな立場に立つほどに心に染みたことは、この地の上の人間たちが水に襲われる審判の日が、近づいて来るということだったのです。 また、マリアを見るのです。彼女は純潔な処女であり、イスラエル民族を誰よりも深い心情で案じたイスラエルの真の女性でした。天が数千年前から約束された、我々の指導者メシアはいつ来るのかと、メシアを待ち望む心情が、イスラエル民族の誰よりも強い人だったのです。 メシアを送ろうとする天の心情を知るマリアでした。このようにメシアを迎えなければならないイスラエル民族を代表するマリアを、人々は知らないとしても天は知っていたのです。こんな心的基準を、マリアは持っていたのでした。 こんなマリアの心的基準は、民族を代身して怨讐を打ち破るということではなかったのです。苦しみの中に呻吟している民族の哀しみを精算するために、闘いの勇士として現れるということでもありません。天の悲しみがあることを知って涙を流す心情、当時の人々は知らなのですが、民族の背後に悲しみの歴史路程があるということを知る心情、選ばれたイスラエル民族が、神のまえに立てない悲惨な実情を、嘆き悲しむ心情を持っていたのでした。 このように現れるべき堂々たる姿が現れないとき、その姿が現れることを願って涙を流し、骨に染みる心情を抱いていたその功績によって、天の歴史的な心情と因縁を結ぶことができたので、予想もしなかった時に天使が現れて「あなたはみごもって男の子を産むでしょう・・・(ルカ一:三一)」と晴天の霹靂のような御言を告げたのです。しかしマリアは言い張り「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに(ルカ一:三四)」と言うと、天使が再び「神には、なんでもできないことはありません(ルカ一:三七)」と言ったのです。父の事を成そうとする天使のこのような話を聞いて、マリアはためらうことなく「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言ったのでした。 このように天の心情と因縁を結ぼうとした、マリアの心情は強固であり、自身の生涯が破綻し、終いには死ぬかも知れない立場になっても「みこころのままになさって下さい」としたのでした。なぜならば、処女の体で懐妊した話が広まったなら、その当時のモ-セの律法によって、その場で石で打ち殺され、民族から追放され、宗族から許されなかったからです。そんな環境であっても、イスラエル民族の中で誰一人自分を歓迎してくれなかったのですが、マリアは「主よ! はしためですから、みこころのままになさってください」としたのです。 悲しみに染みた内的心情と、実体的な信仰を現すここに、マリアは歴史的な主人公であり、時代的な主人公であり、未来的な主人公であり、世界的な人類の主人公であるメシアを誕生させる母親となったのです。 エリヤの涙と忠節 このように天のまえに、エリヤは召命を受けました。天が彼を訪ねられる時まで、エリヤは人が知らない涙を流す、涙の王者だったのです。イスラエルの王よりも、イスラエルのどんな人間よりも、多くの涙を流す涙の王者でした。哀れな境遇で涙を流すイスラエルの民があったとしても、彼らが流す涙は自分自身の為に流す涙であって、一人の平民ではあってもエリヤが自身の環境と威信を忘れて流す涙は、自分自身を越えた涙であったのです。彼には「天が導くイスラエルがなぜこのようになったのか」という心が何よりも大きかったことを、皆さんは知らねばなりません。 エジプト苦役四百年を経て、荒野の四〇年路程において六〇万大衆を失い、残った民族がカナンの地に入って国家を成したイスラエルが、異邦の国によってこのようにされ、怨讐によって籠絡され、神が選ばれた選民圏が没落することを見て、染みる悲しみを抱く人間がエリヤだったのです。彼は誰よりも民族の為に熱心に祈祷し、誰よりも天の為に誠精を多く捧げました。このようなエリヤだけがイスラエルを代身することができたので、天は彼を捜し求めたのです。 神のまえに召されたエリヤは天から「エリヤよ、エリヤよ」という声を聞いた時、うろたえたのです。彼は「この御印は何としたことでしょうか? これは夢にも考えず、予想もしなかったことです」としたのです。このように恐れおののいて、大きなみ旨のまえに出るとき、天は「わたしがいるから、行ってアハブ王に告げよ」と言われました。天のその御言に、エリヤは天を代身してアハブ王と闘っていったのでした。 異邦の国から来た王妃イゼベルを通して入ってきた、バアルとアシェラ木像によって、遠からず審判の日が来ることを恐れていたエリヤであり、長い間天の悲しみと、民族を抱きしめて悲しむエリヤであったがゆえに、天の命令に「父よ、民族が生きるなら、この体を祭物にしてこの事を断行いたします」と出ていったのでした。このように天の命令を受け、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活に喜びという名詞はなかったのです。彼は見ることも予想もしない現象を見、聞くことも考えてもみないことを聞かなければならず、食べて着て寝る環境も、安らかならぬ環境であったことを、皆さんは知らねばなりません。 エリヤはアハブ王に、異邦の神を崇拝すれば滅ぶのであり、凶年に入って飢えるよになることを預告したのですが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、むしろエリヤを殺そうとしたのです。それでエリヤは逃げ、ベエルシバに身を避けたのでした。その時、エリヤの心情は限りなく悲しかったのです。 天を知らなかったなら、彼には身を横たえる家があり、父母があり、親戚があり、兄弟があったのです。暮らすことのできる地もあったのであり、自分を認めてくれる環境もあったのですが、天を抱えて出ていったその日から、彼は考えてもみなかった渓谷に身を避けなければならない身の上となったのです。 それでもエリヤは天を恨むのではなく、アハブを恨み、民族を恨むのではなく、イゼベルを恨んだのです。このように追われ追われる環境で、天に対する忠節の心がなかったとしたら、エリヤはそんな環境を捨て去ったのです。しかしエリヤは自分の環境が難しければ難しいほど、さらに天の悲しみを抱え、民族を抱きしめたのでした。天を抱えて悲しむ生活が、暫くの間喜びを感じる生活よりも大きいことを知るエリヤであったので、歴史的な先祖たちの功績を忘れることなく、自身の苦痛をものともせずに天のまえに近づき、さらに近づいて行ったのです。 ではあってもエリヤは、兄弟が考えてくれる以上に天が自分を考えてくれ、親族が案じてくれる以上に天が案じてくれ、父母が案じてくれる以上に天が自分を案じてくれることを、知らなかったのです。いつも過ぎ去った後で、天の心情を知るのであって、これが天を求めゆく悲しい事情なのです。 エリヤの重要な業績と苦難 エリヤはベエルシバに身を避けるその環境にあっても、覚悟を新たにしたのです。アハブとイザベルを追い出してイスラエル民族を救うために、身を避けたエリヤの切ない心情を人々は知らなかったのですが。カラスが飛んできて食べ物をくれたのです。このように飢える生活をつづけても、天の心情を知ってくれる群れを捜し求めると誓ったエリヤを、皆さんは知らねばなりません。 彼は生死の岐路に立つ民族によって天の悲しみが染み、その染みた心情が積もって審判の日が来ることを知ったのです。ところがこれを独りで担うことが出来ないことを感ずれば感ずるほど、天のみ旨の為に自分を犠牲できる一人の同士を、エリヤは慕ったのです。民族を愛するほどに自身のまえに現れる同士たちを愛し、天を愛するほどに自身のまえに現れる同士たちを、愛したい心に染みたエリヤでした。 このようなエリヤの心が、民族を救うことができる心であり、民族を生かす群れを抱きかかえる心であったのです。また天と人間を、因縁づける強固な心だったのです。エリヤにこのような心情があったがゆえに、天は彼を選び、彼を導いたのでした。 一度は飢えたエリヤが、天の導きでザレパテの寡婦の家にいって餅をもらって食べたのですが、この哀れなエリヤを助けた寡婦は、食べ残した粉で餅を作ったのではなく、一握りしか食べる物がない粉で、餅を作ってくれたのです。それゆえその後、ザレパテの寡婦は食べ物の心配をしなくてもよかったことを、我々は知らねばなりません。 エリヤがザレバテの寡婦の家に留まっていた時、その寡婦の息子の病が重くなって息を引き取ると、寡婦はその息子を抱えてエリヤに訴えました。その寡婦の痛切な訴えを聞いてエリヤが天のまえに祈祷すると、死んだ幼子が生き返ったのです。また、カルメル山の頂上でバアル神の預言者と、アセラ神の預言者八百人を捕らえて殺したのですが、これは偽の神と真の神を分けて立てるための、一大決戦であったのです。 こんな立場でエリヤは神様が民族を愛されているがゆえに、自身を召されたことを知ったのです。神が自身を召されたのは、怨讐を憎む神を代身、戦ってゆくためであった事実を知ったのでした。民族を代身して召され、神を代身してバアル神とアセラ神の預言者に対して戦う責任者として召されたことを知り、エリヤは水に浸った祭壇に天が火を付けて焼かれる時、バアル神の預言者とアセラ神の預言者八百余人を捕らえて殺したのです。 この事が終わった後に、凶年と飢えで悲嘆の中にあったイスラエル民族を哀れに思ったエリヤは、カルメル山頂に登って、命を懸けて天のまえに七度重ねて訴えたのでした。するとアハブ王が来る前に、雨が降ってきたのです。 このような役事を通してアハブ王とイスラエルの民は、生きておられる神を知り、自分たちが仕えているバアルが偽の神であったことをよくよく知り、悔いてエリヤの後に従ったのです。アハブは宮中に入り、イサベルに詳しく告げました。そしたらイザベルは、エリヤに「あなたが刃で切り殺したバアルの預言者のような運命になる」という使者の伝言を伝えたのです。 それでエリヤはイスラエルの国境を越えて、ユダのベエルシェバに至り、そこで僕を残し、荒野に入って一日の道のりを行き、さらにはレダマの木の下で天のまえに祭壇を築いて祈祷したのです。 イスラエルの国境を越え、願いであったユダヤの地に行ったのに、行く道が塞がれたのです。許されたイスラエルを救うために自分が選ばれたことを知るエリヤは、多くの逆境と多くの闘いの路程を経て、苦労しても苦労したような実績を立てられなかったのです。こうしてユダヤの地に逃げて行ったのですが、行く道が塞がれたエリヤは、膝を屈し「天よ、あなたが送られた預言者たちがみな死んで私を立てられたのですが、天を求め、天に対しようという心情を抱く者を捜すことができず、また彼らが私を捕まえようとするので私は今、これ以上行くことが出来ません。私を死なせてください」と言ったのです。 お父様! 私だけが残りました 摂理を営む神様が信じて召し、立てた目的を果たすために苦労して民族を率いてきたエリヤが追われる悲しい場で「お父様、私だけが残りました!」と訴えるのを見やる天は、さらに加重された悲しみを感じた事実を、我々は知らねばなりません。 天は迫害され、追われて身を避けるエリヤを、数多くのイスラエル民族よりも、より尊く感じ、イスラエルの地におく所望よりも、さらに大きな所望を彼においていたのです。疲れるだけ疲れ、望みも絶たれたまま、その行く方向も分からない荒野において、最後の決定を下すことを訴えたエリヤを、我々は考えてみなければなりません。さらにはイスラエル民族を率いる神、エリヤを捜し立てるために苦労された神、エリヤが苦境に陥っている時、さまざまな奇跡で助けて下さり、家より彼を抱えて下さった神を知らねばなりません。ここにおいて、エリヤに対する天の心情が悲しみに浸っていたことを、皆さんは知らねばなりません。 ユダヤの地に留まることが出来ないことを悟ったエリヤは、四〇昼夜を歩んでイスラエル民族がエジプトから出る時、神が彼らに祝福を下された山、彼の先祖たちが天と因縁を結んだシナイ山の近くにあるホレブの山から逃げ出したのでした。エリヤが国境を越えなければならないことを知る神も、このように逃亡するエリヤの行く道が遠く、また彼が行く道に友もなく、同情する者もないことを知られたのです。それで神様はレダマの木の下に座っているエリヤに、天使を通して焼け石の上で焼いたパンと、一ビンの水を与えて食べさせたのでした。 エリヤはこれを食べ、再び力を得て天の悲しみと民族の悲しみを抱き、怨讐に仇を返す敵愾心を抱き、悲しみの地であるイスラエルに向かって駆けて行かなければなりませんでした。であるにもかかわらず、反対にホレブの山に向かって逃げて行ったのです。 このように四〇昼夜を歩み、ホレブの山のあるほら穴で眠るエリヤは、敗残兵のように哀れな身の上であったのです。神が導いて下さる道を離脱した後、自分一身の平安のために逃げてほら穴の中で眠っているエリヤを、天はまた訪ねたのでした。眠っているエリヤに神様は「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と言われたので、エリヤは「天のために熱心に考えていました。しかし私は先祖たちより弱い者です」と答えました。この言葉は、神を慰める言葉ではありませんでした。 しかし神は眠れるエリヤを山に立たせて、さまざまな様相で勧告されたのです。強い風で、あるいは地震で、あるいは火の手で勧告されたのです。しかし神は直接エリヤの前に現れなかったのです。その後、静かなうちに神は現れ、エリヤを呼ばれました。エリヤは答えました。「父よ、あなたの預言者たちがすべて彼らの手で殺され、追われ追われたこの場で、私は何としたものでしょうか」しかし神は再び「イスラエルがアハブの手中にあるが、その中で割礼を守り、バアルに膝をかがめない七千余の群れがあるが、彼らをどうしたものか」とされたのです。「アハブ王の手の下で苦しみを受け、バアルに屈しない七千余の群れはどうしたものか・・・」これがエリヤに対する天の哀しい心情であったのです。 こにおいてエリヤは再び天の命令の通りにダマスコに帰り、ハザエルとエヒウに油を注ぎ、王として立て、エリシャに油を注ぎ、自分の後に彼を預言者として立てたのでした。 エリヤは歩みを返し、バアルに屈しない残った七千余の群れを天が案じていたことを知り、新らたな決意をしたのです。 これと同じように、今日摂理のみ旨に対しているすべての人々は、苦労の道を行っているのです。血の涙の道を行っているのです。十字架を背に負い、追われる道を行っているのです。それではこの悲しみと、痛憤と悔しさの場は、誰がゆえに生じたのか。民族のゆえであるのです。さらには神の六千年の怨讐であるサタンのゆえであったということを、知らねばなりません。 悲しみと苦しみが込み上げてきて、迫害の暴風が襲い来る事情におかれている原因は、何であるのか。それは民族を生かすためであり、天を解放させるためであるのです。ところが天のみ旨に対している人々も、こんな神の心情を感じ難いのです。 十字架上でも天を案じ怨讐を愛したイエス イエスは教団から追われ、民族から追われました。教団の異端者として、律法の破壊分子と見られました。彼は自身の宗族から追われ、家で追われたのです。洗礼ヨハネの一団からも追われたのです。荒野に行っても、そこでも追われました。それで終わるのではありません。ついには全体が動員されて、十字架の道へと、ゴルゴダの道へと追いやられたのです。 しかし反逆者として追い立てる民族の為に、むしろ涙を流したイエスであったのです。イエス様はユダヤ教団から異端者として扱われたのですが、イスラエルのどんな祭司長よりも、彼らの為にさらに血の涙を流す人であったのです。その時代の誰一人、自分の味方になってくれる人間がいなかったのに、イエスはその時代の親友でした。民族の反逆者として追われたのに、民族の忠臣であり、教団の異端者として追われたのに、教団の忠臣であったのです。 彼の歩みは、どんな歩みであったのでしょう。引き裂かれ、追われ、倒れる、十字架を負う悲惨な歩みでした。その道だけだったのでしょうか? 無茶な悪党どもの鞭で打たれて追われることもありました。そんな場でもしもイエスが、エリヤのような人間であったら、また再び「お父様、私だけが残りました」こんな祈祷をしたのです。 しかしイエス様はゲッセマネの園で、三弟子を後にして祈祷されるとき「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)」とされたのでした。これは偉大なことです。自身の事情も痛ましいのですが、自分の一身は民族の祭物であり、人類の祭物であり、天倫の祭物であることを知っておられたのです。 このようなことを知るイエスは、自身の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいかということを案じる心が、さらに強かったのです。民族の為に現れたのですが、民族のまえに背反される自分を見やる天の悲しみが、どれほど大きいかということを、より案じられたのです。イエスは天の皇太子であり、満宇宙の主人公であり、メシアであったのです。そんなイエスが、悲惨な十字架の運命とは何としたことでしょうか? 嘆息するなら、この宇宙を総動員して嘆息するところなのに、嘆息することができない自分自身であることを感じていたので、追われる場に立つことを面目なく思ったのです。 教団を糾合させ、民族を糾合させ、天の王国を建設して、世界を父の懐に抱かせるべき責任を負うイエスは、その責任を果たさずに十字架の道を行くとき、恨む何ものも感じなかったのです。「この杯を過ぎ去らせてきださい」と祈祷されたのも、自分一身が死ぬことが悲しいのではないのです。自分一身が死ぬことによって、民族の悲しみと、天の悲しみが加重されるとをを知っておられたので、このように祈祷されたのです。 イエスは自身が十字架に倒れれば、後代の世界人類のまえに加重される十字架が残り、それによって悲しみの歴史が終わらないことを知っていたのです。ゴルゴダの道が終わらないことを知っていたのです。死の道が終わらないことを知っていたのです。そして自身がゴルゴダの道を行けば、自身に従う人々もゴルゴダの道を歩まねばならないことを知っていたのです。十字架のみならず、さらに困難な道が残ることを知る、イエスであったのです。 両手、両足に釘打たれ、脇腹を槍で突かれて血を流す場、イバラの冠を被る場に立ったとしても、これが自分に止まらないことを知っても、イエスは天に向かって「すべてが終わった」とされたのです。この御言は人間の世において、十字架の道がすべて終わったということではなかったのです。十字架のために泣いて案じる心の訴えが、天に通じたということなのです。 イエスは数多くの先知先烈たちが、天のまえに犯した過ちを背負い、天を慰めて差し上げるために自分自身が生きた供え物として、天のまえに捧げたという事実を、皆さんは知らねばなりません。 それでは、イエスに対された神の心情はどうだったのでしょう。死にゆくイエスの姿、天を案じ、十字架の峠を越えてゆくその姿を見やるとき、人間世界に憤ることがあるとしても、これ以上の憤りはないのです。天の四千年の歴史路程に憤りがあるとして、これ以上の憤りはないのです。 しかしイエス自身は死につつ「父よ、わたしをお許し下さい。自分が天のことを知らなかったからです」とされたのです。神はノアの時以上の審判をされたい心があったのですが、イエスが民族を抱いて死に、教団を抱いて死に、十字架を抱いて死んだがゆえに、神は人間たちを捨てたまわず、抱いてこられたのです。こんな心的な因縁が後代の人間、残されたイスラエル民族と結ばれていたので、背反する後代の人間たちを捨てたまわず、抱いてこられたのです。背反する後代の教団を、抱いてこられたのです。 我々が成すべき事 後代に生まれた我々は今、こんな天の心情を知らねばなりません。イエスはこんな心情で天に対することを苦待され、このような生涯を送ることを願ったのです。イエスの宗族であり、イエスの後継者であり、イエスの遺業を相続しなければならない我々、天のまえに栄光の実体であると、誇ることのできる群れにならねばならない我々、こんな使命と責任を背負い、天的な期待のまえに立つ今日の我々は今、何を求め、何を感じ、何をすべきかを、考えてみなければなりません。 今我々はまた、何を考えなければならないか。イエスの友となり、イエスの新婦になろうとして、そんな人間になると考えなければなりまねん。さらには、我々は我々の先祖が天のまえに結んだ、歴史的な恨を解いて差し上げなければなりません。それで死の嘆息の因縁を、我々の後代に残さないようにしなければなりません。闘いの路程を死のゴルゴダに残すことなく、勝利のゴルゴダとして残さなければなりません。天はこんな責任を負う者を捜し求めておられるという事実を、皆さんは知らねばなりません。 このような終わりの日の使命が信徒にあるなら、審判の日を待ち焦がれ、復活の主を求め、栄光の基台に立つことを願う我々は、イエスの心情とノア家庭に対された神の悲しい心情を知らねばなりません。天のまえに立てられたノアが、一二〇年の間苦労した後で洪水審判を逃れる時、天は残ったノアの八人の食口を通して、その間の怨恨をすべて解こうとされたのですが、ハムの失敗によって再び嘆息の条件が残ったという事実を知り、ノア家庭の悲しみを再び解いてあげる、我々にならねばなりません。 アブラハムは祭物の失敗によって、息子のイサクを祭物に捧げたのであり、彼の後孫たちはカナンの地を離れ、エジプトに入って四百年の苦役時代を経たのです。 天はイスラエル民族をカナンの福地に復帰させるためにモ-セを立てられたのですが、その復帰路程において、イスラエル民族はさまざまに天を背反したのでした。その後、数多くの我々の先祖たちがみ旨に対して出ていったのですが、天が「おお 、わたしのみ旨をすべてやった、わが願いは果たされた」とされる賞賛と祝福を受ける群れはないのです。 このように先祖たちによって悲しみの心情に染みた、天の心まで皆さんは知り、今日聞いた御言のように、アハブ王のまえに逼迫と迫害を受けるエリヤのような立場に立つとしても、草露の生涯として消える恨があるとしても、自身の身の上を嘆くことなく、ただ神を抱いて行かなければなりません。 ゲッセマネの園とゴルゴダの山頂で、イエスが抱いたような心情をエリヤが抱いたら、そこで天と因縁を結ぶのであって、天はここに歴史的な悲しみの一端を、解怨することができるのです。しかしそうならないことによって、天の悲しみはイエスにまでも延長されたのでした。 ところがイエスが死なれることによって、このみ旨は解怨されないまま、今日にまで延長されてきていることを、我々は知っているのです。 この時代のエリヤ 今日この世界に起こる現象を見てみるとき、これは昔のイスラエルのアハブ王の時代に起こった事と符合するのです。偶像というものは何ですか? 天を見捨てて他の何かを崇拝すること、それを神様以上に崇めることが偶像なのです。ところが今日の数多くの人類は、自分も知らないうちに文明という偶像の下にあるということを、我々は知らねばなりません。 このような時に、アハブ王を見やるエリヤと同じ心情で、即ち、アハブ王を見やった天の悲しい心情を、内的心情に加重して感じたエリヤのような心情を持つ者がいたとしたなら、エリヤと同じ心情で天を慰め「この地を父の懐に抱かせる愛する息子・娘として立ててください」と祈祷する群れがいたとしたら、彼らはエリヤ以上の憤慨する心を持って、この時代を見やる群れでなければならないのです。 そんな群れがないとするなら、自身がたとえ卑しいとしても、先祖たちが天のみ旨を受け、天倫の道を立て、摂理の伝統を立て、摂理をなされている神の歴史が残っていることを知り、自分自身がたとえ不足であったとしても不足だとは考えないで、ひと知れぬうちに祭壇を築き、ひと知れぬ涙を流す群れにならねばなりません。こんな群れがこの地上に現れて闘わなかったなら、この世界の終末的現象を防ぐことはできないのです。 アハブ王が天に背反し、イスラエル民族を籠絡したのですが、これは民族的であったのです。しかし今日は世界的に、人々は物質を偶像化し、文明の奴隷となり、自分の命の中心がどこにあり、自分が行く方向と位置がどこなのか分からなくなって、天を捜し求めずにさまよっているのです。こんな群れは昔、アハブ王に捕らえられた群れと同じです。 今日我々のまえには、世界的な神の審判が残っています。アハブ王とイスラエル民族のまえに審判があったように、終末期の我々のまえに、偶像の包みをぶち壊す審判の日があるということを、我々は知っているのです。このようなとき、天はエリヤに対された以上の悲しみの心情をもって、今日の皆さんに対されているという事実を、夢にでも見たことがありますか? ないとしたら、反省しなければなりません。 アハブ王を中心としたイスラエル民族が、死んでも神殿、生きても神殿という心で天に対し、天の伝統を継承して、天の血族を成すために苦労すべきであったのに、そうではなかったことによって、アハブ王を中心としたイスラエル民族は血の闘争によって終わりを迎えてしまったことを、我々は知っているのです。このような歴史的な実情は、時代的な実情として今日、再び再現されているのです。 世界も世界ですが、我々はこの時代を見やり、我々の民族を知らねばなりません。我々は大韓の息子・娘です。先祖から血と肉を受け継いだ大韓の血族です。我々は国の為に、民族の為に、民族の将来に光明の朝が訪れるようにする為に、民族精神を鼓舞する為に、血を流し涙を流した忠臣たちが多かったという事実を、知らねばなりません。いかなる民族の歴史にもない、悲しみと悲劇の悲惨な環境を経てきて、その時々に数多くの忠臣・烈士たちが、血の道を歩んだ歴史を持つ民族であることを知らねばなりません。 このような歴史的な伝統を受け継いで、人倫的なことよりも天倫的なことを得て、アハブ王の偶像のようなこの世界の文明を押し退け、天が君臨できる新エルサレム神殿を建設する者は誰か、ということを案じる時が来たのです。 今我々は、心を広げなければなりません。私の悲しみよりも、民族を抱えて悲しみ、さらには世界人類を抱えて悲しみ、またさらには、神と天と地の為に悲しむ者にならねばなりません。 堕落圏内で嘆息している民族を抱え、天の代身、泣くことのできる心情を持つ主人公はどこに現れるのか? もしもこの地上に万王の王であられる主が降臨されるとしたら、間違いなく世界的な理念を持って来るのであり、世界的な指導者として、人倫と心的因縁を結ぶために来られるのです。 しかし今日皆さんがこのようなことを考えなかったら、主は皆さんといかなる関係も結べないのです。こんな理念を持って統治される主が来ても、このような理念の世界を夢見て考えてみなかったら、この世界と何らの関係も結ぶことができないのです。考えてもみて、思案もし、空想もしてみなければならない立場に、皆さんはおかれているのです。 皆さんは個人を案じてみましたか? 塗炭の苦しみにあえいでいる家庭を、案じてみましたか? ある社会や、国家を案じてみましたか? そうではない自分を発見するなら、宇宙歴史のまえに犯罪者である自身の正体を暴露して、天のまえに悔い改める心なりと持たねばなりません。 皆さんにもしもこのような心すらないなら、この民族はどうなるのか。五千年の歴史を誇る韓民族ではあっても、神の摂理歴史を経て、苦難の歴史を経てきた民族であっても、このような何かがないとしたら世界史、あるいは世界文明圏内において、あるいは神の摂理圏内において、何をもって貢献することが出来るのか。 我々が誇る何かを持っているとしたら、これが天と天的な因縁を結ばないなら、むしろ天に悲しみを加重させる他はないという事実を、我々は知らねばなりません。 歴史の主人 歴史は、追われ追われる群れが主役であったのです。歴史を支配してきた主人は、このような群れによって造られました。(高台広室)高い場で、豪華絢爛に生きて、山海の珍味を楽しむ群れが、ある主義を成してはこなかったのです。追われる場、踏まれる場、哀れな場にある者たちが造ってきたのです。彼らが歩みだすとき、涙の一歩を踏み出したのです。 民族が腐敗し、世界が混乱をきわめるとき、世界を抱えて天を代身し、涙を流す群れは世界的なエリヤの後継者たちです。こんな群れはエリヤが案じたイスラエルの民を代身して、天のまえに立つことができるのです。「エリヤはエリヤ、私は私」と言うなら滅びます。天が泣き、天が悲しむなら、共に悲しむ我々にならねばなりません。 御言のみをされる天ではありません。御言と、実体と、心情と、愛の神なのです。ところが我々は、御言も分からない群れになってしまいました。体が何んであるか、分からないのです。自身の心情がどんなものかも、分からないのです。天が主張される天の愛が、どんなものであるかも分からないでいる我々なのです。 皆さん! 神の愛がどんなものであるか、説明することができますか? 心情がどんなものであるか、説明することができますか? 自分自体がどんな存在であるかと、説明できますか? 自分の話す言葉が、どんな言葉であるかを説明することができる何かを持っていますか? ないのです。ありません。 今日人々は、自分の優れていることを誇ります。ではこれを誇るとして、何世紀の間誇っていられますか。過去のある時代に誇っても、名は何世紀まで残るの。それゆえ人間にただ誇ることがあるとしても、残ることのなこを行くのです。こんな民族は、滅びることがありません。 今までのすべての民族が共通的に行く道を行く人間が、民族を生かし、世界を生かすのではなく、他人が行かなこを行く人々が民族を生かし、世界を生かしてきたのです。キリスト教が歩んだ路程も、こんな路程です。 今日世界のキリスト教は、嘆息すべき時です。神を信じ、イエスの十字架の死を知り、イエス以後、聖霊を送って二千年の間苦労した歴史を知るとしても、現実のキリスト教を見やって、安らかに眠ることができません。 イエス様当時のユダヤ教徒は、この時代の教徒よりも、より教会に行くことを喜んだのです。この時代の教会よりも、さらによく礼式と形式を備えていたのです。御言がなかったのではなく、歴史がなかったのではなく、誇る条件がなかったのではありません。ところがそんなユダヤ教を、天のまえに誇ることができなかった訳は何でしょう。それは彼らが、天の新しい摂理を知らなかったからです。 それゆえイエス様は、今日のキリスト教徒がご自身の死を連想して「イエス様の心情がわたしの心情であり、カルバリ山頂で釘打たれたイエス様の体が、わたしの体だ」と考えて、ご自身のために泣いてくれることを願っているのです。そんな親友を待ち望んでいるのです。また、死んでも言えないのですが、心中に染みるほどの心からの新婦を、苦待されているのです。その新婦に逢える日には心を解き放ち、彼の生涯のすべてを語ることができ、六千年の間、役事されている神の内的心情の、悲しみを語ることができるのです。その内容は聖書にある御言とは、異なるのです。 もしもイエス様の悲しみと、神の悲しみが皆さんの愛する息子・娘のまえにあったとしたなら、どうするのですか? 皆さんの愛する父母のまえにあったとしたなら、どうするのですか? 時はいよいよ最後の解決点に向かって、流れているのです。歴史も流れ、宗教も流れ、主義も流れ、この問題を解決するのにこっちでも戦い、あっちでも戦い、こっちでも嘆息し、あっちでも嘆息しているのです。 こんな混乱期に、信じようにも信じることができず、収拾しようにも収拾することができない時に、エリヤが現れて新しい心情の一端を吐露したように、歴史において捜し見ることができなかった、天の心情を吐露するある新しい声がないのかと、皆さんはこんな考えをしなければなりません。 この時代の信仰者が取るべき姿勢 主義と思想は、今日皆さんを刻一刻と刺激しています。さらにはこの時は、妙なる時です。歴史に対する恐怖が、皆さんを押し出しているのであり、この恐怖と闘って勝ち、個人的に勝利の凱旋歌をうたう者は誰であるのか。いないのです。 それではこの歴史は、どこへ行くのか。死が引き倒そうとしているので、新しい希望と解放を叫ぶ声は、どこから現れるのか。どうか早く来なければならないのですが、これが問題です。 今皆さんが想像もしていない、新しい何かが出て来なければなりません。皆さんが想像もせず、夢にも考えない何かが、現れなければならないのです。 この時代は宗教の戦いを経ている時代です。これからは民族の戦い、国家の戦い、世界の戦い、主義の戦い、宗教の戦いはすべて過ぎ去るのです。しかし皆さんの心が、皆さんが知ることのないその何かに襲われても、それに勝たなければなりません。そんな時が来たのです。 この世界に多くの人間が生きていますが、神との縦的な関係を中心にして見れは、皆さんとは何らの関係がないのです。三千万民族が皆さんと切っても切れない関係を結んではいるのですが、神との縦的な関係を中心として見れば、何らの関係がありません。 カルメル山のてっぺんでエリヤが「神よ、私だけが残りました」としたその叫びを、エリヤの叫びだけにしてはいけないのなのであり、今日この終わりの日に、審判を受けなければならない群れの、叫びとしなければなりません。 皆さん、そんな立場におかれていないでしょうか? 皆さんの命を誰が保証してくれますか? 父母でもなく、愛する妻でもなく、子女でもなく、国家でもなく、主義でもありません。皆さん、このような生命を尊重視している皆さん自身を、考えてみてください。底も終わりもない渦に巻き込まれて、正体を解明することもできない虚しい自身を誇らないでください。 今日世界人類は、カルメル山頂で戦ったエリヤの闘争の歴史を経なければなりません。天に向かって「私だけが残りました」と訴えたエリヤのように、天に向かって訴えなければなりません。自身も知らない歴史路程を経て、歴史の終点に立つ自分たちを、どんな主義も救えないことを知るなら、天に向かって頭を高く挙げなければなりません。頭を高く挙げ、心が指向するところ、心を解放させてくれるところ、そんなところを希望としなければなりません。そのような欲望に染みて、我々の中に生命が躍動しなければならず、我々がすべき残された何かがあるということを、知らねばなりません。 今日、イエス様がカルバリ山で天を代身して「すべてが終わった」とされたように、そんな言葉を言える群れがありますか?「天よ、私だけが残りました」と言う群れにならなければなりません。そんな時が近づいているのです。 審判の一日を契機として、新しい歴史を出発させる摂理のみ旨が、皆さんのまえに残っていることを知る以上、皆さんは「私だけが残りました」とすることができなければなりません。なぜ? なぜ? なぜ? 今日、我々はどんな宗教も信じられず、どんな主義も信じられず、どんな家庭、親族、師も信じられず、どんな道も信じられないのです。我々はこのように、どれ一つ信じられない立場におかれているのです。 皆さんは天に向かって「私だけが残りました」とする他はない立場におかれているのです。そんな立場で取るべき姿勢は、天に向かって「私だけが残りました」と泣き叫ぶことです。皆さんはどうせ心から、このように泣き叫ばなければならないのです。 今皆さん各自は、闘争の過程を経なければなりません。成すべき天的なみ旨があり、捜し求めるべき民族があり、聖別すべき教団があることを知り、天の側にある人々はみ旨の為に、動員されなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.11
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愛天者と愛国者となろう一九五九年三月一日(日)前本部教会 この時間に話す題目は「愛天者と愛国者となろう、天を愛する者と国を愛する者、即ち愛天者と愛国者となろう」です。 人間を善の方向に導いて来られた神 本来人間は、天を愛し、兄弟を愛し、この地を愛するようになっているのです。天と人間と地を、すべて愛さなければならない存在であったのです。 神様は本来、人間を創られるとき、天を愛することを知り、兄弟を愛することを知り、地を愛することを知る人間を目標にして創造されたのです。ところが今日、地上に生きている人間はすべて堕落の後孫であるゆえに、天を愛することを知らず、兄弟を愛することを知らず、この地を愛することも知らない人間になってしまったのです。これが堕落による哀しみです。 それゆえ天はこの哀しみを抱いて、堕落した人間を本然の人間に回復させるために今まで、六千年という長い歳月の間どんな闘いもものともせず、犠牲を重ねてこられた事実を皆さんは知っています。即ち、失った人間を復帰しなければならない天的な責任を持って人間を捜し求めて来られたことを、我々は知っています。 今日我々は神の復帰摂理のみ旨は知らなくても、自分の心は密かに天的な因縁に従っていて、その天的な因縁は私の生活と人生を支配しているという事実を、我々は実際の生活で多く体験しているのです。 それではどうして皆さんの心は、われ知らぬうちに善なる大きな理念の世界を憧憬して休む間もなく動いているのか。皆さんの心がどうして、自分が願う方向に動いていかないのか。それは皆さんが考えず、知らない方向へと率いる神、即ち、皆さんが考える以上の因縁を通して、経倫され苦労されている神がおられるからです。このように我々の心は、善の理念に率いられてゆくのです。 天は最高の善であり、最高の理念です。この天は我々人間の最高の生命であり、最高の所望の中心として過去にも動き、現在も動き、未来にも動いてのですから、我々の心はこの天の指向する善の方向へと率いられて行っているという事実を、我々は悟らなければなりません。 皆さんが善を指向する心情を持っていて、善なる天禀を持っているとしても、皆さんはこれを自分のものだと大言しては駄目です。また天禀を元にして自分の体が造られ、善なる段階にいるとしても、この体は自分のものだと自慢しても駄目です。 良にして善なるものがあり、他人のまえに光るものがあったとしても、これを自分のものとのみ思って、自分のものとして現しては駄目です。天が皆さんをこのように因縁づけられたにもかかわらず、皆さんがこれを忘れて自分を立てて誇る立場に立ったなら、その時から天的な罪を犯す立場になるという、恐ろしい事実を知らねばなりません。今日我々は、我々の周囲に暮らしている人々の中で、往々にしてこんな罪を犯すことを目撃するのです。 今日我々はすべて善なることを望み、義なることを望んでいます。このように我々には善になろうとする心と、義なる方向へと動いて行こうとする心があるとしても、この心もまた皆さん自身のものではないのです。この善なる心の歴史を探って見れば、六千年の人類歴史が表れてくるのであり、さらには神の創造の歴史が表れてくるのであり、神の創造本然の心情が表れてくるのです。 ですから皆さんはこのような歴史的な因縁と、時代的な因縁と、未来的な因縁を代身して、その中心を通して動いている本然の善を、所有しなければなりません。 皆さんがこの善を、皆さんのものとして所有しようとするとき、誰かがその道を妨げ、この善に反対となる条件を示すなら、これが法度的な条件に引っ掛からないと言い切れるでしょうか? 今日人間は、このような善の心を捜し求めねばなりません。さらにはこのような善の心を持って、この心が自分の為に動くのではなく、全体的な善の主体に向かって動いてゆかねばなりません。であるにもかかわらず、これを知る人間が多くないことを我々は知っているのです。 善の実現と良心作用 元来、善というものは自体内で成される法はありません。善は自分を越え、環境を越えて、世界を越えて創造主の善と因縁を結ぶところにのみ成るのです。実績が残る路程にのみ、この善という名詞が立てられるのです。 我々はこのような善の方向を求め、その目的地を知り、そこに向かって動いて行くと同時に、善なる自体となって、善なる生活の実績を残さなければなりません。今までの歴史路程にこのような事実を知り、すべての事に責任を負い、自信をもって生きてゆく人間がいなかったと言っても過言ではありません。このような人間を抱えて、神様は今日まで苦労して来られたのです。苦労をしてもこの苦労に答えることのできない人間、死の道で自分の命が救われても感謝することを知らない人間を、六千年の間率いて来られたのです。 このような歴史的な哀しみの路程が、今日皆さんの代で終わらなかったら、皆さんの後孫にまで延長されるのです。この哀しみの路程が皆さんの生活の中に、皆さんが呼吸している生命の上に流れているという事実を感じる人間にならないなら、国を愛し、天を愛するという言葉は嘘だということを、我々は考えざるを得ません。 一日の生活も、善を根拠とする心でなけれななりません。善なる心が我々の生活を支配しなればならないのです。それで今我々は生涯の目標を成してゆくとき、善の理念圏内で誇ることができる実績を立てなければなりません。そうではない者は歴史路程と、天的な善を捜し求めてゆく復帰路程に、どんな貢献どんな実績も残すことのない者と見る他ありません。 それでは人類の堕落はなぜ生じたのか? 自身の生涯を自分のものとのみ思っていたので、堕落したのです。人類の始祖であるアダムとエバは、自分たちによって万事が成ることを知り、自分たちを根拠としてすべての事が出発することを知り、自分たちにすべての目的が結実することを知っていたので、堕落したのです。これを皆さんは知らねばなりません。 従って我々は、先祖たちが犯した罪を暴露し、自分を根拠として何でも解決しようとする心を、捨てなければなりません。その代わり民族と、世界と、天と地を懸けて解決するという真の心を持って、善なる世界を指向する人間にならねばなりません。そんな群れがあるなら、天は彼らを捜し求めるのです。良心が指向する目的を立てようと摂理される天は、このような群れを求めておられることを、我々は肝に銘じなければなりません。 このようなことを明らかにした後に、自分を再認識してここに自身の価値観、生活観、生涯観、人生観、歴史観、宇宙観を持って「天を愛します」とすれば、ここに愛の因縁が結ばれるのです。またこんな観点から国を愛してこそ、皆さんが本当に国を愛したとする立場に立つことができるのです。 我々はこの道が歴史的な人物も行くべき路程であり、時代的な人物も行くべき路程であることを知り、このような方向で自分を再分析してみなければならないと見るのです。 今日人間は堕落することによって、善なる良心作用は感じていても、善が指向する目的地は知らないのです。善を指向する良心の作用を受けても、良心の呵責を受けない善なる生活は、していないのです。 今皆さんはこのような矛盾した立場に処している自分を明らかにして、新しい目標と、新しい理念のまえに自分を照らして見なければなりません。こうして今まで持っていたある認識、ある主義主張、ある観念を捨てて、新しい善の目標に向かって行くのです。終わりの日のこの時代の人類は、この善の目標に向かって行くべき危機に面してしていることを、我々は知らねばなりません。 真なる愛天者とはどんな人間か ところで堕落した人間は、どの時点まで落ちたのか? 神の創造理念と正反対の立場まで落ちたのです。 人間は本来この世の中を、自分たちの世の中と思って愉み、全人類が一つの宗族として生き、また創造主神を自分たちの神として、侍って生きなければならないのです。 ところが今日地上の人間たちが、自分の世界を成していますか? 成してはいないのです。全人類を一つの宗族と考える人間がいますか、国家がありますか? ありません。また神を自分たちの神として侍り、生きる群れがありますか? ありません。 それゆえ我々は善の基準を捜し立てた次に、我々の力とすべてのものを注いで、我々の世界、我々の宗族、我々の神を捜し求めなければなりません。これが堕落した人間が求めて成すべき歴史的な使命であることを、我々は知らねばなりません。 我々の神は虚しく消え去り、我々の宗族である人類も四方に散り、我々が主管すべきこの地もバラバラに分けられてしまったのです。 創造主がおられるなら、その創造主の理念が何でしょうか。この地を我々の地として造ろうとすることであり、この人類を一つの宗族、一つの兄弟にすることであり、我々を神と一つに和するようにすることです。こうして創造主がこの人類の神として、世界の神として、現れようとされることを知らねばなりません。 それでは「私は天を愛します」と言う愛天者がいるとすれば、彼はどんな人間でしょうか? 彼は我々の世界を捜してさまよう者であり、人類全体を一つの宗族として造ろうとさまよう者であり、創造主神を我々人類の神として、世界の神として親しく侍って生きようとする者です。このような者をいわゆる、天を愛する者というのです。 今日人間はこのような標準を喪失してしまったので、善が動く心の作用を感じても、善の実績を求めるにもも求められない生活をしていることを、我々はよく知っています。 善の作用は創造理念、人間が成すべき天的な理念、世界的な理念を中心として、我々の心のうちに絶えず起こってくるのですが、これを無視して断ち切って蹂躪して生きてきた我々であることを、この時間にいま一度、骨肉に染みて感じてみなければなりません。 このような人間にならないとしても、堕落した人間として神を愛するという場に入ろうにも、到底入ることができないという事実を、皆さんは知らねばなりません。 それでは今皆さんが、ある誠精をすべて注いでやるべき事が何でしょう? どんな犠牲も覚悟してやるべき事が何でしょう? 神様が所望とされる世界、人類が所望とする世界を成す事です。神様は一父母による血族、即ち神を中心とした一つの宗族を求めておられるのです。神を中心とした、一つの家庭のような世界を求めておられるのです。我々はこれを知り、この基準に合った生活をする人間にならねばなりません。そんな人間にならなかったら、神様が求めておられる理念的な世界、理念的な人類、理念的な天国は成すことが出来ないのであり、成したとしても我々とは何らの関係もないことを、我々は悟らねばなりません。 神様は人間を創造して祝福され「万物を主管せよ」とされました。「地に満ちるほど繁殖せよ」とされました。人間がこの御言をすべて成して完成したら、神様はその完成した人間を自ら主管されようとされたのです。これが創造の基準でした。ところが人間はこの基準を今まで完成しなかったのです。それゆえ我々は、地を主管できない者たちであり、真の愛の世界において繁殖できない者たちであり、真の神の愛を受けられない者たちなのです。これが我々の悲しみです。このような因縁圏内にあるゆえに、我々はサタンの試みの祭物になっているのです。 このような人類を天は再び立たせ、地を主管させるようにし、善の功績を積んで悪にからまれた堕落した人間のすべてのものを精算して、これを再び和合させて天の血族として造ろうとされるのです。そうした後にこれを主管なさるために、神様は動いておられるのです。これが人間が指向してゆく歴史的な目的であり、人類が心から憧憬する所望の基準であるのです。 我々はそのような所で生きるべき存在なのです。ですから我々のすべての要素が、体と心が所望とするその所に向かって行くことを、限りなくあり難く思う我々でなければなりません。 神を中心とする愛の世界を建設すべき人間 ところが天を失い、本然の兄弟を失い、落ちるままに落ちないで目茶苦茶に落ちた人間は、逆にこれを捜し求めているのです。本来は神の愛を受けて、兄弟と愛の因縁を結び、夫婦同士が愛の因縁を結び、その後に父母に侍らなければならないのですが、神と愛の因縁を結ばないで、堕落した人間になってしまったのです。ですから真の父母、真の夫婦、真の兄弟だと大きなことを言う人間がいたとしても、神の愛を中心とする真なる関係を結ぶ人間は、一人もいないのです。 我々はこのような宗族であるゆえに、人間が主管するどんな物も、神のものであると主張する何らの理由もないのです。神のものとして創られたこの世界が、人間のものにもならず、恨めしくもサタンのものになったのは、何としたことでしょうか? 神のものでなければならず、人類のものにならねばならないこの地が、神や人類のどちらのものでもなく、出し抜けにサタンの所有になってしまったのです。これを見やる天の悲しみを体恤する者、人類の悲しみを体恤する者が出てこなれば、この世界をサタンの所有から解放させる運動をすることが出来ません。 神様はこの運動を展開するために、長い歴史路程を経て来られて、人間に良心の作用を起こさせてきたのです。神様が主管すべき人間を失ったので、時代々々ごとに時を迎えて中心人物たちを送ったのです。人類のすべての問題に責任を負い、人類がやるべき使命と時を知らしめるために中心人物を送ったのですが、この人々が誰かといえば歴史路程に往来した先知先烈たちでした。 人間は堕落して神の創造期間の六日をすべて失ってしまい、安息日という一日を通して神に対するようになったのです。このようになって、常に対するはずの人間を失った神はそうできる契機を求めてさまよい、限りない苦労もいとわず、人間を捜し求めておられるのです。ところが人間は神様がどんなに苦労されているか、まるで知らないのです。 それでは時を迎えて来ては行った先知先烈たち、時代的な使命に責任を負い、来ては行った天的な人々は、この地に何を提示したのか? 地のいかなる存在価値も認めないで、天を信じよと主張したのです。人間が生きているこの地が、永遠なる地ではないと主張したのです。また地の上での命が永遠の命ではないと主張したのです。地上で愉む幸福は永遠の幸福と何らの因縁がないことを、歴史路程において提唱して行ったのです。 神様が六千年の摂理路程において一時期、一時代を代表する苦労の実体として送られた先知者たちを、捕らえて殺すために血を流して闘ってきた罪の祖先を持つ我々、天倫のみ旨に背反した歴史的な背反の罪状を持つ我々、神様が送られた人のみならず、神様まで背反した祖先を持つ我々、今日このような我々がどのような立場にいるのか、再度考えてみるべき時が来たのです。 天はこのような人々を立てられ、堕落した人間と因縁を結ぶために無限の苦労の路程を経て来られたのです。このような苦労が積みに積まれたのが天の悲しみであり、地の悲しみとして残ったにもかかわらず、この悲しみを認識してもみないまま、自分個人の事をおいて悲しんでいる人間、自分の家庭の事をおいて悲しんでいる人々は多いのですが、天と地をおいて悲しむ人間は、一人もいないのです。 終わりの日が近づいて来たと、異口同音に言うこの時に、皆さんは天の哀れさと悲しみを抱いて嘆く人間がいないことを知る、天の心情を感じてみましたか? 神様は六千年の間、嘆息し、後悔されながらも人類を抱えて闘って来られたのに、人間は未だに天のまえに嘆息の条件として残っているのです。ところが今日皆さんは、心の門を開き、天と地と全万物に染みている天の悲しい心情、泰山よりも高く積まれた天の悲しい心情を推し量ってみましたか? この悲しみはどんな民族の悲しみよりも、どんな国家の悲しみよりも大きいのです。今まで人間が悲しんできたどんな悲しみも、比べることができない悲しみであることを、我々は知らねばなりません。 自分中心の思考方式を捨てよ 我々が天を愛する愛天者の群れに同参する人間であるなら、このような運命の道を行くべき堕落した人間の後孫であるなら、我々の心中に善を指向する心が爆発して、天と全万物にまで染みている天の哀しみを感じて、その哀しみを解いてあげる責任を果たす群れにならねばなりません。そんな群れが現れなければ、大きな摂理のみ旨は成就できないことを、皆さんは知らねばなりません。 ところが人間は今まで、自分だけを中心にして闘ってきました。自分の家庭を中心に、自分の国、自分の地、自分の民族を主にして闘ってきたのです。しかし天はそうではありません。神様は我々の世界、我々人類の為に、我々の神となる為に苦労して来られたのです。ところが地に生きている人類は、自分を中心とする家庭、自分を中心とする国家、自分を中心として主管する地を求めて、さまよっているのです。これが今までの歴史路程であったのです。 人間は堕落することによって、天的な心情と良心と、体と心を失ったのです。ところが人間はこんなひどい事実を知らないまま、自分を中心とする物質、自分を中心とする体、自分を中心とする心、自分を中心とする情を追い求めているのです。このような人間を抱えて、自分を越えてゆく方向へと率いる神の摂理がなかったとしたら、人類は滅亡してしまうのです。人類は滅亡するのです。 こんな人類を目覚めさせようと、我々の心を通して日々の生活に命令される天に対し、我々は限りなく感謝しなければなりません。今日まで自分を中心にして生きてきた堕落した人間は、落ちるところまで落ちてしまったのです。それで自分を中心にして、地を捜し求めているのです。しかし堕落した人間は、本然の立場に行くべき復帰の運命におかれていることを、知らねばなりません。 今日皆さんが持つ体は、宇宙的な価値を成すための体であり、皆さんが所有しているすべてのものは、宇宙と因縁を結んでいる祭物なのです。ところが人間は今まで、これを知らないでいるのです。皆さんにある天的な心情があるなら、その心情は宇宙的な、天的な心情と因縁を結んでいる心情です。ところがこれを忘れている人間、即ち、天と反対の立場にある人間と、天は因縁を結ぶために今まで苦労して来られた事実を、皆さんは知らねばなりません。 今までの歴史路程において見たすべての事実は、自分個人を中心に闘うことでした。自分の一民族を中心に、自分の一国土を中心に闘ってきました。一つの主権の下で、自己の国土、自己の民族、自己の主権のために闘うところに留まっていました。利己主義を中心に今日まで、即ち、第一次大戦前後まで闘って来たのです。ところでこのような闘いに止まっていたなら、人類は滅亡へと駆け上ってしまうのです。 今まで数多くの民族、国家が明滅しましたが、その民族や国家の為に忠臣であった人間は沢山いました。民族と国家を愛した人間は多くいたのです。その時代にその民族、国土とその主権を抱えて愛した人間は多くいたのです。ところでその愛国者たちは、みなどこへ行った。歴史上に名を残したその愛国者たちは、みな消え去ってしまったのです。歴史上の主権国家には多くの忠臣がいたのですが、今日このような忠臣の節と義の心は、訪ねても見られないほどに消え去ってしまったのす。 我々が知らねばならないことは、今までの歴史的な事実を探って見るとき、多くの人々が地を奪うために戦い、国境を打破することをして来たのですが、こんな方法では本然の理想世界を建設することは出来ません。 このように地を奪って拡張する帝国主義時代を過ぎた次に、我々人間は何を求めるのでしょうか? 世界的な帝国主義時代が過ぎた次に、人間を捜し求めなければなりません。そんな時が来たのです。そんな人間を求めて要求することが、主義と主張なのです。しかしある主義主張を中心にして地を占めようとすれば、その主義は主義として存続できません。皆さんは第一次大戦を峠として、新しい主義と理念を求めていった歴史的な事実を、否定できません。地を求めて戦った時代が過ぎた次には、人間を求めるために戦う時代が来るのです。この時が、理念を持って戦う時代なのです。 民族観念を克服して天を愛する新宗教が出なければ この時代を過ぎて、その次にはどんな時代が来るのか。本然の人間が失ってしまったものを、取り戻さなければならない時代が来ます。万物を主管すべき責任が人間にはあるので、世界を我々のものとして造るために、我々の本心は動いているのです。ある主権を動かすことが出来る権限があるとしたら、この主権を世界的な標準にまで引き上げたいのが人間の本心です。ですから本性はある方向を提示して、我々の心を主管しているのです。 その次には「神の息子・娘として全世界に満ちよ」とされました。神の息子・娘として満ちよとされましたので、今日世界の格国は主義と思想を中心として、民族性を基としなければなりません。民族性を基として、民族観念を引き起こさなければなりません。人間は知らないのですが、天はこんな闘いをされているのです。 こうして地を主管して、兄弟を回復した次には何をするのか。天を愛さなければなりません。これが人間が必ず行くべき運命の道ですから、これから新しい宗教が現れるとしたら、それはこの時代の宗教を克服する愛天的な宗教でなければなりません。 地を求めてさまよう人間のまえに、これを求めるために民族を動員し、国境を打破して領土を拡張させてゆき、人類を捜し立てるべき天的な摂理時代に生きる人類のまえには、民族と民族の障壁を打破する主義と思想を立ててきたのですが、その次には何が来なければならないか。天を愛することができる主義と思想、宗教と教派の垣を基とする一つの主義が、必ず出なければならないのです。こうしてこそ復帰歴史の終結を見ることが出来るのです。 ですから過去のようにある国土に欲望を持って、自分の民族のみを愛する心で侵略的な作戦を立てる主権国家は滅んでしまったのです。しかし他を侵略しても、近づく時代の新しい理念と接近する指導理念を立てて侵略したなら、その指導理念の効果が消滅する時までは、滅びることなく持続するのです。歴史はこのように流れた来ました。 こうして今日まで、数多くの宗族が糾合してきました。ところでどんな民族が天的な理念に近い理念を持って、国家形態をなして動いてきたのか? 天的な理念と近い時は主権を行使できるのですが、そうでなくなるとこの主権が第三者に渡されるのです。また天的な理念により近くなり、より近づいてゆく理念を持つ第三者にその主権が渡されていって発展してきたのが、歴史発展の実情であるのです。 今日は皆さんがご存じのように三・一節(三・一独立運動記念日)です。我々の民族は日帝から三六年間、限りない苦しみを受けてきました。日帝治下で苦痛を受けた我々民族の所望は何であったかといえば、日本が滅ぶことでした。我々の民族はこのような時が必ず来ることを願って、忍耐して生きてきました。外的な環境が拡張されてゆけばゆくほど内的に強い意思が積もるその流れが、今日の三・一節の爆発となったのです。第一大戦前後に、ウイルソン大統領によって主張された民族自決主義の影響によって三一運動が起こったことを、皆さんはよく知っています。 アメリカという国が民主主義陣営の主導権を握って、民主陣営の全体を動かす一つの代表的な国家として今まできたのですが、これも天的な復帰摂理路程において、その指向する方向が、天に近いほどに残ることができるのです。もしもその間にヒビが生じる時にはアメリカも衰退の一途をたどるのです。 我々は日帝三六年間に、数多くの愛国者たちを見ました。またこの国この国土に愛国者たちの血を流してきました。血を流しても彼らの心は、この民族は今はただ圧政を受ける立場にあっても、この環境で滅びるのではなく、きっと独立国家になるという所望を持って闘ったゆえに、今日の大韓民国という主権国家を回復させたのです。 イエス様がメシアになることができた理由 その愛国者たちが圧政下ですべての条件に対抗して闘ったことは、勿論民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また彼らには勝利の一日を望み願う心と、その勝利の一日がきっと来ることを信じる強い心があったゆえに、そんな圧政下においても屈することなく、闘ってきたのです。これを我々は知らねばなりません。 このように、一つの国を求めるときもそうなのです。まして天的な理念を求めるときにいおいては、よりいっそう変わらぬ信念と、変わらぬ同士愛を持って、聖土を所望とし、天を代身しなければなりません。こんな群れがこの世になかったなら、この世は天と因縁を結ぶことが出来ません。歴史的な流れに同伴して、天が摂理されるみ旨を受けてきた数多くの宗教人たちがいますが、その中においても歴史を経て来て、サタンとの血の闘争において悲惨な犠牲の祭物になったキリスト教徒が、正にこのような群れであることを我々は知らねばなりません。 旧約四千年の歴史から、イエス以後二千年のキリスト教の歴史を見ても、他の人々はこの理念に対しては夢にも見ず、また、異邦の人々はまるで考えてもみないところで、天の教えに従って死んだ人間が、数限りなくいるのです。それのみならず、天の理念を捜し求めるときにおいても、数多くの人々が犠牲になったのです。 このように歴史路程において、天の理念を捜し求めるために数多くの人間が犠牲になってきました。それでは天のみ旨を求め、このみ旨を成すために犠牲になっていった群れとこれに反して国家のために闘って犠牲になった群れは、どのような帰結点に達するのか。これがこの時代の我々にとって、気がかりな問題です。これからは世界政府主義の時代が来ると、人々は言っています。一つの政府の形態、一つの理念の世界に向かって、歴史は流れており、この二つは今日近くに接近しているのです。ところでこの二つが、互いに和合する気配が見えないでいるのが実情ですが、我々はこれをどうすべきなのか。 ここにおいて皆さんは、歴史路程において天の為に無残に血を流した群れ、天の理念を握って闘っていったこの群れを、記憶しなければなりません。神様はある一時のために、彼らを率いて来られました。それゆえ地を奪い、主義を立てて人間を包摂する時代は必ず過ぎ去るのです。 宗教はすでにある形態をもって、天が指向する方向へと動いていますが、人間の所望はその場まで行かないで中間で止まってしまっているので、歴史上に数多くの忠臣がいますが、彼らが今日歴史が輝くこの時に、世界が動いているこの時に誇るものが何でしょか? 我々韓国の六忠臣のような方たちが、世界的な次元で誇る何かがあるでしょうか? 民族的な次元においてのみ、誇ることができる方たちです。 このような見地から、二千年前のイエス様と我々を比べて見れば、イエス様はどのようなお方でしょうか? イエス様は国家を統治し、世界を統治し、人類を統治することができる理念と資格を持って、神を父と侍り、神の独り子であると主張されたお方です。これ以上また、することがあるでしょうか? 正にメシアの資格があるというのです。 今日我々は、何かの最後の息子・娘となり、この世のある主人の息子・娘となることを待ち望んでいるのですが、イエス様は創造主をおいて、自身がその独り子であるとされたのですから、果たしてメシアの資格があるお方なのです。 このような姿で現れたイエス様は、どんな困難にも嘆くことがなかったのです。これが彼が人類のまえに残した、最大の貢献だったのです。イエス様はそんな信念を持って、どんな億千万のひどい暴風雨がぶつかってきても、その場において忠臣の気概を立てたがゆえに、今日万民のメシアとして賞賛されているのです。 このような気概を抱き、一つの理念を成就するために生涯を捧げられたイエス、彼はその道を妨げる父母にも「やるなら、やれ」民族にも「やるなら、やれ」宗族にも「やるなら、やれ」教団にも「やるなら、やれ」とされたのです。すべてのものをみな捨て、抱えたものは世界と人類だったのです。彼は世界と人類を抱えて行ったのです。父母、兄弟、教団、民族が行くままに行ったのですが、そのまえに消え去っては駄目だと考えたのが、この世界であり人類だったのです。これがイエス様の中心となる考えでした。 ですからイエス様はこの世界のまえに必要なお方であり、この人類のまえに必要なお方でした。そしてイエス様は天を抱え、天の為に生きてゆかれたお方でした。しかしイエス様は神様が必要とされお方でした。このように天地が必要とするお方ですから、メシアとならざえを得ないのです。今日我々は、これを知らねばなりません。 何を捨て、何を得るのか 今までの歴史をすべて収拾したなら、次に何をもって世界的な因縁を結ぶのか? これが今日、み旨と抱負と希望のある青年男女の解決すべき重大な問題です。また何を持ち、何を捨てるかということが、終わりの日の審判を見やる人類が最後の行動のために、選択しなければならない問題なのです。 イエス様は当時の時代状況から見るとき、民族の反逆者でした。教団の反逆者であり、宗族の反逆者であり、さらには伝統の破壊者でした。しかし真の意味において、彼は破壊者ではなく建設者であり、反逆者ではなく愛国者であり、愛天者であったのです。このよな事実を人間は、今日に至って知ったのです。 我々が真の愛国者というなら、彼はどんな人間でしょうか。真の愛国者、真の民族主義というなら、イエス様のように世界を一つの民族として考えなければなりません。 ゴルゴダの道、十字架の道を堂々と行かれたその姿が、我々が尊敬すべきお方の姿であることを、いま一度考えて見なければなりません。イエス様が悔しくもこのようなイバラの路程を行かれたのですが、その悔しさを知ってくれる群れがどこにいるでしょう。逝かれた方の殉教の基台が地上に残り、彼の悲しみが天に染みている限り、成すべき天のみ旨が残っている限り、そのすべての悲しみを解くことのできる歴史的な終末の時は、必ず来るのです。この時を指して我々は、審判の日、終末というのです。 今、終末の時代であると胸の奥深く感じるこの時に、皆さんはどこに行き、何を得なければならないのか? これは皆さんが自問自答して、解決しなければならない問題です。イエス様の断固たる行動を模範としてゆく群れが、果たしてこの民族に中に、この世界の中にあるでしょうか? 我々は視線を変えて他の角度からこのような群れを捜して見る、知恵ある人間にならねばなりません。 皆さん! イエス様が死なれたその時代と、我々が生きているこの時代は何が違いますか? 何にも異なるものはないのです。ありません。何にも変わらない時代に生きている今日の我々が、あの時代に排斥されたイエスに侍ることができるかということは、考えてみるべき問題です。 今日我々が世界を捜し求めるこの時代に平等を叫ぶ共産主義はどうであるか。「労働者農民を生かせ、同じように食べ、同じように生かせ」と叫んでいます。 歴史の流れを、もう一度観察して見ます。これから世界を動かす民族はどんな民族なのか。世界を動かすことのできる主義は、どんな主義なのか。世界を動かしてゆく宗教は、どんな宗教なのか。これはまず御言が教えるように、善の理念と化してすべてのことをこれに依り、行動する民族主義宗教なのです。 これが何の事かといえば、善というものは自分を中心にするものではないということです。自分の家庭を主として生きて、滅びなかった家庭がありますか? 自分の一国家を中心として世界を求めた民族の中で、残った民族がどこにありますか? こんな主義を中心にしてこの世界を支配し、永遠不変の理念を得たと大言壮語するようですが、見ていてごらんなさい。天を奪えば万事は終わりです。 本来の人間は神に侍り、天倫を中心に生きるようになっているのです。このような人間の生活において、天倫の条件を代身するものが何かといえば、人間が持っている良心の基準です。この良心の基準のまえに理念があり、理念の基準のまえに天情があるのです。このような内的環境において、天倫を捜し求めてゆくことが復帰なのです。 人類はみな同じ神の息子・娘 我々の世界に訪れ、我々の民族に訪れ、我々宗族に訪れ、我々の国に訪れ、我々の主人に侍ることができるその日が、いわゆる天が所望とされる終わりの日です。その日が天のみ旨を持って地に来られたイエス・キリストが定めた終わりの日であり、我々が捜し求める所望の日です。天が所望とし、イエスが所望とし、我々がまた所望とする日であるのです。その日には、すべての事が解決されるのです。 皆さん、再臨主は行かれたように来るのが復帰の原則です。あるものを無くしたら、無くした所に行って捜さなければなりません。故障を起こしたら、その反対の方向で、故障を起こした順序を経てこそ、故障を起こさない場まで戻るのです。これが因果法則に外れない鉄則ですから、再臨主も行ったように来るということを、知らねばなりません。失ったように捜し求めることを、知らねばなりません。 今日この時代は、エデンの園でアダムとエバに許されたことを取り戻す時代なのです。今日この地上に生きている人間は、すべて堕落したアダムとエバの後孫たちです。皆さんも堕落した父母の子孫なのです。真の父母の子孫になっていないのです。それで再び、真の父母の子孫にならねばなりません。これが何の話かと言えば、皆さんは神と真の父母に直接対することができる神の愛の圏内で、真の父母様が両手を挙げてなされる祝福を受けて、夫婦となり、繁殖する真の父母の血族にならねばならないのです。ところが今日まで我々人間は、真の父母の子女としてこの地を真に主管してみないので、真の父母の息子・娘になることができないのです。道理がそうではありませんか? それでは今日は、四千年の間苦労されて人間のまえにどんな主義を立て、どんな主人公を立てられたのか。「この世界は私のものであり、全人類は私の宗族であり、神は私の父である」という主義を叫ぶ、イエスを立てたのです。こうして初めて人間と因縁を結ぶようになったのです。ところがこのようなみ旨を、地上においてすべて果たすことなく十字架につかれたので、逝かれたその主様は再び来るべき運命にあられるのです。これが民族的な審判の終わりの日が、世界的な審判の終わりの日へと、延長される結果を生んだのです。 今日この世の中に、イエス様が行かれた通りに再び来るなら、すべてのことを捨てて逝かれ、果たせなかったイエスの目的が成されなければならず、イエスを主とする世界理念を得ると同時に、イエスを主とする宗族の動きが現れなければなりません。 ですから統一の形態をもってゆく運動が、起こらなければならないのです。単にキリスト教の統一だけではありません。すべての宗教が一つの形態を成さねばなりません。 キリスト教徒たちは「あ・・・! あなたは儒教を信じて、仏教を信じているので地獄に行く」このように言っています。ところが、そうはなっていないのです。行ってみるとそうではないのです。そのようになっているなら、私があの世に行って談判してみます。絶対にそうではありません。イエス様お一人をおいて四方から引き上げてゆくので、一つ所に早く集めなければなないので、横的には行けないので縦的に「お前が一番だ」といって追い込むのです。このように見るとき、今日人間は全部み旨の中にいる群れなのです。 イエス様は四千年の間、民族と血肉を捨てて積んだユダヤ教団、四千年を経て選び立てられたイスラエル民族を放棄されたのです。とはいえ彼らは神と因縁がない民族ではありません。絶対的な因縁がある民族でした。どんな立場であっても「神は我々の神だ」ということのできる民族でした。このようなイスラエル民族をイエスが放棄したので、天も放棄し、地も放棄し、人類も放棄したのです。それゆえユダヤの民は世界で最も悲惨な群れになったのです。世界を流浪漂泊して、この民族、あの民族にと追われたのです。 天を所望としている今日の我々も、悲惨な生活を沢山しています。これを今までは人々が知らないのですが、我々の一日が来れば世界歴史路程の動きにおいて、我々が無視することができない位置に立つのです。 イエスを背反しなかったなら、栄光なる世界理念を獲得することができた民族が、苦労と逆境の中で世界の理念を捜し求めてきたので、祝福を受ける民族も受けない民族も同じになってしまったのです。 イエス様が、天が四千年間念をいれた民族を捨てて掴んだものが、世界なのです。イエス様はユダヤ教を中心とする、宗派的な観念に囚われることがなかったのです。ユダヤ民族が信じなくてもいいという覚悟で、新しい理念をもっていったイエス様であったことを振り返って見るとき、今日のキリスト教徒たちには、覚醒すべき一面があるのです。 心情で世界を統一する天民となれ このような内容を全体的に整理してみるとき、民主主義の形態をもって、主義と思想をもって、理念的な宗教の統一形態を得てゆく鉄則があることが分かるのです。この時に、民主陣営に残る群れとなるには、どうしなければならないでしょうか? 民主陣営に残る群れとなるには、イエスと同じでなければなりません。イエスのように全世界の為に、全人類の為に、天の為にすべてを捨てることを知れば、その国は残るのです。自分の下着まで奪われても「おお ! 天よ」と叫んだイエス、天情に染み、天のみを抱き、自身のすべてを捧げたイエスの後に従えば、残る群れとなるのです。ある民族がこのような理念をもってゆけば、その民族のまえにすべての民族が、制覇されざるを得ないのです。 このような観点から見るとき、韓半島に生まれた哀れな群れである我々は、今何を覚醒し、何を覚悟するのか?「南北に分けられたこの国に生きる私たち、持っているすべてのものをみな捨てました。父母、兄弟も捨て、家族も捨て、宗族も捨て、物もみな捨てましたので、このような事を気にもかけません。願わくば天よ! 世界の中で私たちがいるこの場が、イエス様が叫んだゲッセマネの園としてください。この地が世界のゲッセマネの園になるようにしてください。さらには世界のゴルゴダの頂上にしてください」と祈願する心が燃えなければなりません。このような青年男女がこの国に多く出てきたなら、この国は絶対に滅びないのです。 今日「歴史を捨てても、この時代を捨てても、ある主義、ある宗族を捨てても、天の心情のみは、天の愛するものだけは捨てることができません」とする群れがいたなら、その群れは世界を支配するのです。このような群れが、真の天の群れなのです。 イエス様が再び来られる時に、行かれたように来られるとしたら、その行った足跡、ゲッセマネの園におけるその悔しい心情はどこへゆくの。ゴルゴダで十字架を背負い、血の汗を流して歩んだその切ない心情はどこへ行くの。イエスそれ自体が、問題ではありません。今我々が捜し求めなければならないものは、イエスの心情です。 心情を通して許し、心情を通して一つになり、心情を通して和合し、真の人類愛に染まる群れが希望の園で生きるのであり、心情を通して世界を見やる主人公になってこそ、この世界万物までも和平するのです。その時こそ、初めて神を私の父と呼べるのであり、六千年の間結ばれてきた億千万の怨恨の峠があったとしても、これを越えて天を抱きしめることができるのです。このような群れが、ゲッセマネの園において叫んだイエスの実体の結実であり、ゴルゴダで十字架につかれたイエスの実体の結実なのです。 それゆえこんな存在が現れてこそ、全人類が善の園で一つの宗族として神に侍り、一つに和して生きることができるのです。この世界は受けんとする人々が生きる所ではなく、与えようとする人々が、与える為に気づかって生きる所です。今まで歴史路程において、受ける為にさまよってきたのは正にサタンです。自分を主にした善と統一を主張するのではなく、他の為に善と統一を主張する群れが生きる所が、統一教会で主張する地上天国なのです。 神様はイスラエル民族に選民思想を与えられたのですが、その選民思想をもって誇って生きる人間が、正に選民思想を持つ人間です。ですから神様が今まで捜し求めた人間は、選民を失った天の悲しみを知り、天国を建設するための選民思想に徹底した人間です。選民思想に徹底したその心情がある所が、千万人の帰結点です。 ですからそこに入る者は、滅びることがないのです。またこの点をおいて出てゆくときは、万事解決されない問題がありません。その心情に染みて、他の為に与えるために気づかう群れが生きる世界が、いわゆる初めに主張したみ旨の世界なのです。また、今日までの歴史過程を経て、摂理された神のみ旨が成る世界であり、今まで苦労して苦しみを受けつつ経てきた歴史路程の所望の園であることを、皆さんは知らねばなりません。 すべての事を犠牲にしてみ旨の為に闘う人間が真の愛天者 この地に真の国があるとしたら、その国はどんな国でしょうか。その国を、いわゆる地上天国と呼ぶのです。その国が成ってこそ、神様が本然のアダムとエバに「あなた方が完成した時に、万物を主管せよ」と祝福されたそのみ旨を成し、人間は初めてこの地の真の主人として現れることができるのです。また、その時にこそ初めて人類は、互いに真の兄弟になることができるのです。その時に初めて我々は、神の真の息子・娘になるのです。天の父に対しては真の孝子・孝女、主人に対しては忠臣であり、この宇宙万物に対しては真の主人になるのです。そのようになれば神様は我々に全権を任されるとき、外的な全権のみならず、内的な全体の心情の中心までも移し与えてくださるのです。神がすべてのことを任せて、安心することができる息子・娘になるのです。 こんな息子・娘は歴史路程におけるどんな忠臣、烈女、孝子、孝女よりも大きな存在です。こんな人々を世界的に誇ることができる日が、これから来なければなりません。 今日共産主義者たちは、自分たちが標榜する理念を中心として、人格者と功労者に従うようにモデルを立てているのですが、民主主義はそうではありません。 我々はこれを越え、歴史路程において天に対し、全体の理念を立てる功労者たちを崇拝し、彼らの人格を尊敬しなければなりません。さらには彼らの足跡を死守し、そんな主義を持って地上において、天が要求する理念の世界に向かって動いてゆく人間、またそんな群れにならねばなりません。 このような理念圏内でこの世界を一つの国として、この世界人類を一つの民族として考え、希望の主人公に侍って生きる一日、天地を代身して全被造万物を和合させ、敬礼することができるその日を望み見ていかなければなりません。その時が来るまで、すべての事を与え、犠牲を覚悟して闘ってゆく人間が、正に天が願う愛国者であり、天が願う愛天者であると言うことができるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.11
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天の父母様聖会 天苑宮 天苑教会 聖日礼拝日時 : 天一国 9年 1月 24日(2021年3月7日)午前 9時30分場所 : 神韓国オンライン非対面中継 : 韓国語、日本語、英語一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.07
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あなたは誰のものか一九五八年三月十六日(日)前本部教会 この時間は「あなたは誰のものか」という題目で皆さんにお話します。 この地上に生きているすべての人間は、各自ある目的のために生き、振るまっているのです。 考えてみれば我々の人生は、私を中心にして始まり、私を中心にして終わりを結ぶようです。しかしもう一度考えてみれば、私を中心にしているような人生が曲折の多い人生であり、嘆息と悲しみの多い人生であることを、皆さんは今までの自身の実際の生活において、多く体験していると見るのです。 また、自身を中心とする生活をして、自分だけのための生活をすれば、罪と悲しみが満ちるようになるのですが、自分を忘れて自分を否定する生活をするなら、どんな困難も無難に越えることができるという事実を、皆さんは実際の生活で感じるのです。 すべての存在の存在要件 我々が本質的な面で人間をより深く考えてみるなら、自分の体も自分のものではなく、自分の心も自分のものではないということを、否定することができません。また、創られた全体の被造世界、全宇宙もその主人が被造万物それ自体のようですが、より深く考えてみれば、創造主のものであることを、誰もが否定できないのです。 例をあげると、この地球は主人が地球自体であると考えやすいのですが、この地球も宇宙に属している存在であることを否定できません。また、地球の上に存在しているすべての万物も、自らが主人であり、自ら存在し始めているように考えやすいのですが、万物もやはり地球の因縁から外れて存在できないことを、また否定できません。 このようにすべての存在を探って見れば、大きなものから小さなものに至るまで、すべてが切っても切れない因縁を結んでいます。地球を探って見るときも、我々はこの地球が自ら存在できないことを知っています。即ち、全体と切っても切れない因縁を結んでいって、自然法度によって運行されるときにのみ、地球としての存在要件を完備するのです。このように地球を中心にして見るときにも、地球の原因者である創造主がいることを是認するなら、この宇宙は創造主である神によって生じ、地球は宇宙によって生じ、この地上に存在している万物は、地球によって生じているということを、皆さんは否定することができません。 それでは今日この地上に存在している万物の根源者、即ち人間の父母のような存在は何であるか? 宇宙ということを否定できません。ところで天宙の父母(根源者)が何であるかに対しては、未だに解明されていないのが事実です。 すべての万物はこのように、必ず父母の因縁と同じ原因的な過程を経た結果物として存在しているにもかかわらず、結果世界自体としてのみに満足しているのは歴史的な矛盾であり、現実的な矛盾であることを皆さんが今、悟らなければなりません。 それではこのような立場に処している宇宙万象と皆さんに、最後にどのような解決策がなければならないでしょうか? このすべてのものを解明することができる人間、即ちすべての因縁に通じることができ、宇宙全体の価値と全体的な理念、福音的な理念を代身することができる一つの実体を立て、宇宙に対して出て行くことができる人格者が、この終末の時代に現れなければならないのです。もしもこのような存在が現れないとしたなら、神様が人間を中心として摂理されたと断定できないということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 今日この見える万物世界を主管している人間、いわゆる万物の霊長であると自任している人間が、自身のものであると思っているなら、それは誤解です。皆さんの体は皆さんのものではありません。皆さんの心もまた皆さんのものではありません。皆さんのものであると認定する根拠が何かと反問してみれば、皆さんは答えることができない立場に至るのです。 もしもこの問題が解決されれば、これが歴史的な一つの起点になって、同時にすべての問題を解くことができる解決点になるのです。しかし今日この地上に生きている人間は、この問題を忘れたままで、生きているのです。 神様は宇宙を失って悲しむよりも、このような人間になってしまった事実を、より悲しまれるのです。ですからこのような神の心情を感じて、体恤する人間がいたとしたなら、彼から根本的な宗教の摂理が出発するようになるのです。ここから神を再び捜し求める道が開拓されることを、知らねばなりません。 この地上に存在しているすべてのものが、地を父母として、全体を父母としているのであり、さらには創造主を父母としているように、皆さんの一身も皆さん一身として終わるものではないのです。 皆さんは、地が自分の父母であると感じたことがありますか。我々の体は地のすべての元素で結合されています。地が我々の根源であることを否定できない人間であるのです。ところが人間は自分を、地が抱いているという事実を忘れて生きている時が多いのです。今皆さんは物質の父母が地であることを知っているのですが、さらに自身を一つの人格体として生んだ、父母があるという事実までも知らねばなりません。 人間の構造と価値、そして生の標準 それでは人間はどのような存在として創られたのか? 物質的なすべての要素を持っている存在、天の理念を代身することができる実体形状として立てるということが、神様が人間を土と水と空気で創られた理由であったのです。このような創造主の理念を通して創造された人間ですから、人間自体に神の神性に和することができる、ある要素がなかったとしたならば、この人間自体にはどんな理想も希望も所願もあり得ないことが、創造の原則となっているのです。 神様は人間を創られるとき、すべての物質と通じることができる物質的な要素の結実体として肉身をこしらえ、この肉身を主管する霊を吹き込んで人間を創ったのです。 物質が一つの存在性を現すためには、地球や満宇宙と通じる因縁を持っているように、人間も地を父母としていて、さらには理念的な主体である天を父母としていることを信じる人間にならねばならないことを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは人間は、何であるか? 物質的なすべての因縁を代身した実体(肉身)と、神霊的なすべての因縁を代身した実体(霊)が結合した、一つの実体として創られた自体が正に人間であるのです。このような価値を持つ人間ですから、創造主のまえに愉むことができ、敬礼することができ、創造主を讃えることができるのです。このように人間自体は極めて小さな一個人ですが、全宇宙を代身して天の栄光を現すことができる宇宙的な価値を持つ存在なのです。また天はこのような価値を持つ完成された人間に対することを、願っておられるのです。 それゆえ今皆さんは、自身を立てて何を主張しようという、心を持ってはならないのです。体が自分のものではなく、心が自分のものではない立場で、自分のものを主張していったなら、歴史が許さないのです。過去の歴史においてこんな個人、こんな民族、こんな国家が滅んだ事実を、皆さんはよく知っているのです。 人間が必然的にこんな道を行かねばならないので、天は人間に善の道理を捜し立てさせ善の方向を提示して、歴史を今日まで率いてきたのです。氏族社会時代にはこの氏族の習慣、民族国家時代には民族主義や国家主義、今日では国家の次元を越えて世界的な主義を中心として生きています。 今ここに終わりの日になるのではなく、最後には天道を中心とした摂理のみ旨の為に生きなければなりません。そうではなくて自分の主義や、自分の国家理念を指向する人間は必ず壊されるのです。 これを考えてみるとき、皆さんはどこに安定圏を求めるのか? 皆さん自らが幸福を感じ、皆さん自らが満足して、全被造世界のまえに自信を持って神を代身して現れることができる安息圏は、たやすく得ることはできません。しかしこれが人間が捜し求める、共通的な目標であるのです。 今心は天上に向かい、体は万物に対する立場に立っている皆さんは、このすべての万象は私のものであると、自信を持って言うことのできる境地を感じてみましたか? 血統的な因縁による氏族・国家、そして世界の人類に向かって、そのものたちは私のものという感じを持ってみましたか? さらには地上の人間のみならず、霊界にあるすべての霊人たちに向かって、そのものたちは私のものとすることのできる皆さんになっていますか? このようなことを考えてみるとき、そうではなしに自慢して、自身の何かを立てて誇る人間、自身のある主義主張を押し立てる人間、その人間は必ず倒れます。 このような事実を皆さんは否定することができないなら、皆さんはどんな標準を持って生きるべきかということが、重要な問題になるのです。 父子関係の回復のための宗教の教え 元来、人間が堕落しなかったなら、善の価値を持つ天の相対的な立場に立っていたのです。ところが堕落することによって、善の父母との因縁が切れてしまったのです。それ以後、人間は悲しみの道を歩んでいったのです。人間は死の峠を越えてでも、この善の父母との切れた因縁を回復しなければなりません。 それではこの因縁をどのように結ぶのか? この因縁はある世界的な主義主張や、ある国家理念、社会的なある体制で結ばれるものではありません。ですから皆さんの心の底から、この一つの事実が決定されなかったなら、どんなにこの世界が幸福らしい世界、善の世界になったとしても、皆さんとは何らの関係がなくなってしまうことを、皆さんは知らねばなりません。 ところが今日の皆さんの欲望は、皆さん一個体を越えて国家、あるいは世界に向かって動いているのです。このような所有の欲望を持つそれ自体も尊いのですが、それよりもさらに尊いものが何でしょうか? まず自身を永遠不変の主体に属する自体であることを認定して、その次に宇宙的な欲望を充足させることです。正にこのような人間がいたなら、この地上には彼を打ち滅ぼすどんな権勢や、勢力もないのです。 ところが今日人間は、これを考えないでいるのです。自身の本当の価値を主張しない人間が、万物を取り、宇宙を主管して何の役に立つでしょうか。 ですから今日人間世界において、天宙的な理念を現す主義主張があるなら、それは宗教です。宗教理想の主義主張がないというのです。見えざる創造主に対し、このお方が我々の父であり、我々は彼の息子・娘であると言うことができる関係、そして切っても切れない父子の因縁と、その価値を土台として出発するものが宗教です。従って真の宗教は、その時のある民族を支配する次元に留まっているものではありません。未来の国家、未来の世界、さらには天宙を望み見るものです。そして創造主の理想を通して創られた地と人間が、三位一体的な関係として一つになろうとする、目的に向かって動いて行くのです。 正にこれを求め求めて回復するためのものが宗教ですから、宗教は今まで主従の関係を重視してきたのです。また何が先で何が後かという前後の関係などの、秩序的な因縁を結んできたのです。天倫がこのようになっているのです。 それでは悪というものは、どこから出発したのでしょうか? 天倫を中心とする秩序的な因縁を外れたところから、悪は出発したのです。それで天は皆さんが満宇宙のものであり、創造主のものであり、皆さん自身のものであるという、この一基準を立てさせるために今日まで、苦労されてこられたのです。 皆さんは、未来の中心になろうと願いますか? 神との因縁がなしに立てられた人間世界の中心は、永遠ではありません。あるいは民族の中心になりたいですか? 皆さんが思いどうりに民族の中心になったとしても、皆さんは堕落した人間ですから、いつか一度は折られる時があるのです。世界のまえに堂々と出たとしても、一度は折られる時が近づいて来るのです。それで宗教の道、即ち修道の道を行くという人間には、すべてのものを捨てよと教えるのです。しかしこの御言は、いつも捨てなさいということではありません。 堕落した人間が善の路程を経てゆくときにおいては、言うこともできない紆余曲折の路程を経て、革命と闘争の過程を経なければなりません。神様はこのような過程を経る人間ですから、どんな民族でもある主義にかたよって固着してしまったら壊れることを知られて、そのすべてのものを捨てなさいとされるのです。 それでキリスト教がこの地上に、天を云々して現れるとき、言うこともできない迫害を受けたのです。またどの時代においても、天を現す個人や民族は、歓迎されなかったのです。二千年前にもイエス様の新約の福音を聞いたのですが、彼を国家的にみな追い出したのです。さらにはイエス様以後、今までどの時代においてもキリスト教を迫害しなかった民族は、一つもありません。 しかし神様は、この地上にキリスト教の理念を立てるために、どんな国家の政策的な理念であっても、イエス様が主張される内容と一致しないときは容赦されなかったのです。 神が所有すべき個人、家庭、国家、世界 イエス様は持つべき民族を持たず、持つべき国家を持たず、持つべき世界を持たなかったので、神様はこれを取り戻すために、今まで苦労されておられるのです。それではこのみ旨を、誰が成就させるのですか? このみ旨を成就しなければならない人間は、天でもなく、地でもなく、正に皆さん自身なのです。 神様はこの宇宙を取り戻すための摂理をされ、一度に全宇宙を求めることはできないので、まず一人の人間を捜し求めるための苦労の歴史を経るのですが、これが正にアダムの堕落の後、ノアを求める一六〇〇年の期間であったのです。アダムが失敗することによって、神様はノアを立てたのですが、ノアもこのみ旨に対する責任を果たすことができず、これが四百年延長され、アブラハム・イサク・ヤコブのときに至って、初めて一人の個人を求め、一つの家庭を捜し求めたのです。 神様はこのヤコブ家庭を中心に、エジプト路程を経ていって、モ-セを立ててイスラエル民族を率いさせたのです。ところが民族を中心としてイスラエルの国を求めるために来られたイエス様が、この国を自身のものとして求められず、天のものとして立てられない立場で逝かれることによって、選ばれたイスラエル民族はどうなったでしょうか? 世界を流浪する民族になったのです。 こうしてイエス様が来て行って後、今日まで天はこの地上の人間のまえに新約の摂理路程を立てて何をされたかといえば、イエス様が捜し求めた神を中心とする民族と国家を建設し、さらには天宙的な天の理念を運行できる世界を建設されようとしているのです。 このような足場を持っていないので、今日イエス様を信じている信者たちには未だに自分たちが捜し立てるべき国家の理念が残っているのです。しかしこのような事実を、彼らは知らないのです。 それではイエス様が今日、この時代に要求することが何でしょうか? 天が四千年の間苦労して立てたイスラエル民族を失ってしまったので、このイスラエル民族を代身することができる第二のイスラエルの使命を、今日キリスト教が担うことを願っておられるのです。ところがこれをキリスト教徒が忘れていることを、皆さんは知らねばなりません。 このような際に天性に向かってゆく皆さん自身を考えてみれば、皆さんは哀れな人々です。人間が天性の道理を正し、善なる姿になっていないので、天性の道理に通じることができる家庭がなく、社会がなく、民族がなく、国家がなく、世界がないのです。正にこのような立場に処している自分たちであることを、皆さんが考えてみなければなりません。 皆さんがこのすべてのことを捜し立てることが最後の目的ですから、天は今まで皆さんがこれを捜し立てる前には、あるものに属してそれに頼む存在にならないことを望んでおられるのです。即ち、ある民族、ある主義にも属さないことを望んでこられたのです。ですから今日皆さんは、このようなことを心の底に刻んで歩んで行くべき運命におかれているのです。 そして今日皆さんに、皆さんの体がこの地を代身する体になり、民族を代身する体になり、永遠の生命を代身する体になっているかと問うとき、皆さんはそのようになっていると答えることができないのです。それゆえ皆さんは、皆さんの一身を自身のものと主張しては駄目です。皆さんは、ヤコブに十二子息を中心とする七十食口があったように、神が臨在することができる家庭を成さねばなりません。そして皆さんの家庭は、神が統治される国のものであり、その国は神が支配する世界のものにならねばならないのです。さらには天上のすべての霊人たちまでも、神が主管される理念圏内に属するようにしなければなりません。 これを考えてみるとき、今日皆さんはどんな立場、どんな位置で召命を受けたのかを知らねばなりません。また、皆さんがどんな立場で自身の理念を、自身の欲望を、また自身の行動をどのように展開させてきたかを、反省してみなければなりません。こうして今日皆さんの立場がこのように天倫の全体的なみ旨、創造的、全体的な摂理のみ旨において、どのような位置にあるかということを、皆さんは明白に知らねばなりません。 神のキリスト教に対する摂理のみ旨は、神様が喜ぶことができる個人を捜し求め、神が支配することができる家庭を求めるためであり、この家庭を合わせて天の民族を成そうとすることなのです。正にこのみ旨を成す責任を、選民イスラエルが完遂しなければならなかったのですが、彼らがこれをぶち壊すことによって、神様は世界キリスト教徒を動員して、第二イスラエルを建設されてきたのです。ですから今日、全世界キリスト教徒が一つに団結して、この地上の悪に対して進撃することができる一日、キリスト教で言う最後の審判の日を、迎えなければならないのです。 神のものとして所有されるためには 天倫のみ旨のまえに完全に和して、天上の認定を受けた人間、神秘的な体験をした人間は知るのです。神が私に対してお前はわたしのもの、と認定するのを感じると同時に、万物が私に対して頭を下げるのを見るのです。全被造万物がお前は神の息子であると、神のものであると認定する日には、霊界の数多くの霊人たちは勿論、地上の万物までも彼に頭を下げ、讃えるようになるという事実を、今日人間は知らないのです。神が認定し、万物が認定する立場に入るならば、真の良心を持つ人々もやはり、彼のまえに自然に和して入ってくるのです。 そして皆さんは自身の存在位置と存在意識をもっても、自分のものという所有観念を捨て、自分が万物のみ旨を代身し、人類のみ旨を代身し、天倫のみ旨を代身するという考えを持たねばなりません。自身がこんな理念を持ってゆくことを自覚する人間が、いわゆる道人です。皆さんがこのような修道の道を歩むには、この地上で持つものをみな持ち、やることをみなやって、享受することはみな受ける生活をしては駄目です。 皆さんが本当に天倫による存在の価値を捜し立てようと願うなら、まず皆さん自身を無慈悲に否定して、自分の家庭や社会、罪悪なるこの世の中に対して無慈悲に闘ってゆくという、敵愾心を持ってゆく覚悟がなければなりません。だからといって腕力でやるのではなく、奉仕と犠牲によって罪悪に相対し、攻撃していかなければなりません。こんな過程を経ていって、天は六千年の長い歳月を、無言で闘っておられるのです。 それではこのような創造主たる神が、人間を再び捜し求めるために苦労していることを知るとき、皆さんは今どうすべきか? 皆さん自身が正にこの宇宙のもの、すべての人間のもの、さらにはすべての万物のものとして、和する存在にならねばなりません。また神のものとして所有されねばなりません。 それでは皆さんが神のものとして所有されるためには、どのようにしなければならないか。まずこのすべての被造万物を創られた創造主神が、正に我々のアボジであることを感じなければなりません。それで創造主神は、永遠不変の絶対者として、創世から今まで、切っても切れない父子の関係を回復するために苦労してこられた、我々のアボジであることを知らねばなりません。 肉親の父母が我々に血肉を与える父母なら、創造主はいかなる父母か。我々の永遠不変の霊的な真の父母なのです。私の心の父母であると同時に、永世を与える霊の父母なのです。今日まで人倫的には血肉の父母を尊び、また孝行せよと教えてきたのですが、天倫の創造主に対してはどんな法度もないので、人倫と天倫がそれぞれ違う道を歩んできたのです。こうして人類を代表して、天倫を代身する創造主神に対し、天倫的な真の父母の道理を叫んで行くものがなければならないのですが、このお方がいわゆるイエス様であったのです。 イエス様は地上に来られ、創造主はわたしの父であると語られました。神はわたしの父であり、わたしと一体であるとされたのです。夫婦一体、父子一体の内容を持って、イエスはこのように主張されたのです。ですから他のどんな主張よりも、天倫のために孝子・孝女の道理を立てたことが偉大であったのです。 イエス様がメシアとなり得た理由 今日イエス様を信じる皆さん、皆さんは歴史の終末期に処しているのです。ところでここまで来るには、数多くの革命の過程を経てきました。個人を中心に、あるいは宗族を中心に主張した習慣や風習は、より大きな民族が現れるとき、みな壊されたのです。一つの個別的な国家は、やはり全体的な統一の理念を追求する摂理によって、より大きく強い国に吸収される歴史過程を経てきたのです。 地球も一つであり、人間も一つであり、神も唯一ですから、最後にはこの三者が同席して喜ぶことができる一日を成すために、神は苦労されているのです。そしてある指導的な権限を持って命令する神ではなく、自身の欲望で主管するための神ではないのです。 神様は六千年の間、個人は家庭のためにという心、父母が子に対する以上の心をもって人間に対してこられたのです。人間が神に対して、孝子以上の孝誠の心でアボジと呼ぶ一日を捜し求めることが、人類に対する神の苦労の歴史なのです。ところが今日人間は、このような事実をよく知らないでいるのです。 今皆さんがこのような考えを心に抱いて祈祷したなら、多くの祈祷が必要ないのです。「天のお父様!」というこの一言と共に、数千年間役事されたアボジの心情を感じるようになるのです。六千年の歴史の中で、神様が闘争の過程を経てこられたのも、今日の私を捜し求めるためであったことを、感じるようになるのです。 ですからこの神様が自分に対して「愛する息子よ」と呼ぶことを願うなら、皆さんは創世時に持たれたアボジの心情、人間の堕落によって感じた悲しい心情、再び全世界万民を救援するためのその心情を感じて、神を父とする人間にならねばなりません。 そして皆さんは、神様が今日皆さんに対して摂理されるこの事実を見て、満足して喜ぶのではなく、未だにこの地上に残っている悪と対決して、千辛万苦の苦労の路程を経て、カナンの目的地まで行かなければならない人類を案じるアボジの心情を感じ、愛するアボジを呼ぶならば、このアボジという一言は歴史的な全体のみ旨に通じる言葉になるということを、知らねばなりません。 ところが今日皆さんがいつも祈祷するとき「ご在天のお父様」と呼んでいますが、世の中ではこのアボジの名を汚す人間が多いのです。アボジと呼ぶ言葉には、六千年の歴史の血の祭壇を通して往来した、先知先烈たちの叫びが込められていることを、知らねばなりません。ここには十字架の要所が宿っているのです。我々の先知先烈たちの無限の苦しみと、残酷な歴史的因縁が現れているという事実を、知らねばなりません。 ですからこの創造主が、自分と切っても切れない因縁を結んでいるアボジであることを皆さんが認識したなら、そんな人間はサタンがどんなに強くても、奪ってゆくことができないのです。どんなに地獄の火が恐ろしくても、そんな人間は溶かすことができないのです。 それではイエス様がメシアとなる原因が、どこにあったのでしょうか? 父母のまえに孝道を尽くすという信念が、人類の歴史を代身することができるように、イエス様は自分一身で人倫を捨てても天倫を代身するという覚悟を持って、万物を創造された神をアボジと受けとめ、即ち自分が滅んでも興っても自身の威信と体面を省みず、神を父して侍っていったからなのです。 イエス様は自身の家庭において歓迎されず、自身の宗族から冷遇されたのです。また、洗礼ヨハネの一団から歓迎されず、さらにはユダヤ教から排斥され、イスラエル民族から逆賊として追われたのです。しかし歴史的に結ばれたアボジの怨恨の心情を解いてあげるべき使命を悟っていたので、人類のすべてが自分を見忘れ、またそれらから排斥されたとしても、ここに落胆しなかったのです。ここにイエス様が、メシアとなる資格があったのです。人類歴史上、誰もが持つことのなかった心情、即ち神の為に自身の骨肉親戚よりもより骨と肉に染みる心情を、イエス様は感じたのです。 こうして神様は、四千年の歴史を終結させるべき立場ですべての人間が反対するとき、ご自分の威信を忘れてイエスを抱きかかえ、涙されたのです。四千年の歴史の中で、数多くの先知先烈たちが来ては行ったのですが、神の心情を真に知る人間は、イエス様ただ一人だったのです。 即ち、イエス様は自身の人生路程において、人間のまえに天倫の法度を教えたのです。神はわたしの父という心情に、体が通じ、血が通じるそんな場で、五感を通して万象を見やるとき、即ち神を捜し求めてさまよう人間と天上の因縁を結ぼうとする万物を見やるとき、イエス様の哀しい心情はこれを語ることができなかったのです。 神の真の子女-心情の相続者 ですから今日の人類は、イエス様と神が四千年の歴史を総決算するために出会った、その一瞬の出会いの心情を感じなければならないのですが、これを今日の人類は考えてもみないのです。イエス様がゲッセマネの園で血の汗を流して祈祷された時、背反する民族、不信する祭壇を思って、世界の摂理を代身していったイエス様の哀しい心情は、これを語ることができないのです。 このようにイエス様は教団と民族、国と世界が反対しても、神を愛する心がより大きかったので、人間として感じる心情、神様のすべての心情を感じることができたので、ゴルゴダの道を自信をもって行かれたのです。 ですから今日皆さんも「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)」と祈祷されたイエス様の心情と共に祈祷するなら、地獄に行く人間はいないのです。ところがイエス様がこのように神の愛の心情を持って現れたように、イエス様の愛の心情を知る人間が、当時一人もいなかったのです。それでイエス様はこの地上に、新郎・新婦という名詞を残していったのです。 それではどうしてキリスト教の中に、マクダラのマリアの名が残ったのか? 千秋万代に彼女の名が伝えられてきたのは、何ゆえでしょうか? それはイエス様が彼女の名を、紹介されたからです。その当時、一人の卑しい女の身で三百デナリもする香油を、独身のイエスの足に注ぎ、頭を拭うという事を、誰が許したでしょうか? 弟子たちまで嘲り、ユダが抗議し、皆なが反対したのですが、イエス様はどうして福音の報せにマグダラのマリアの名が記念されるようにしたのか? イエス様は愛する弟子、また多くの人々よりも、この一時のマグダラのマリアの誠精が、神様にご自分の誠精をすべて捧げると同じ条件になったので、このように語られてのです。イエス様が十字架につかれるや、従ってきた弟子たちはみな逃げてしまったのです。しかしマグダラのマリアとイエス様の母は、イエス様の墓を捜したのです。彼女らにも家庭と夫があって、固有の旧約思想を中心にしたユダヤ教の風習がありました。ところがこのような事をすべて度外視して、即ち自分の社会的な威信や体面を考えないで、死んだ独り身のイエスの墓を捜してさまよったのです。それでマグダラのマリアは、イエス様に出会ったのです。 それでは天上の審判は、どこで決定されるのか? 皆さんが天の為の功労と苦労が多いからといって、誇るのではありません。それによって決定されるのではありません。ただ神の心情とイエス様の心情が、皆さん自身の体に体恤されて結実して、それが神様やイエス様と切っても切れない因縁となっているものだけが、永世不死の条件になるのです。 これを考えてみるとき、今日全人類はどのようにしなければならないか? 神に通じる真理の御言を追究し、霊的な体験を追究することも良いのですが、神の心中深くに留まっている愛の因縁に結びつけ、イエス様の心情と愛の因縁に結びつけなければなりません。そんなときに皆さんが、イエス様の新婦、神の息子・娘として立つことができるのです。 ところが今日我々は、悲しい人間たちです。大韓民国三千万民族が、イスラエル民族にならねばならないのですが、そうはなっていないのです。この社会に教会がどんなに多くても、神の教会がなく、信じる人間がどんなに多くても、神の息子・娘がいないことを知るのです。それゆえ今、この地上に何が出てこなければならないのか? この民族を生かす神の息子・娘が出てこなればなりません。神の教会がなければなりません。神の民族がなければなりません。従ってこのような涙の道、捨てられる道で神の息子になることができる道が開かれたなら、我々はここに感謝しなればなりません。 イスラエル民族が一つの民族を建設するために、エジプト苦役の四百年期間に天を中心とした一つの標準と理念を立てて、民族が団結して変わらぬ信仰の期間を経た後にこそ、初めて所望の一日を迎えることができたように、今日皆さんもこのような立場に処しているのです。 また今日皆さんはエジプトの地のような、そんな地で生きているということを骨身に染みて感じてみなければなりません。 それゆえ今皆さんは、選ばれたイスラエル民族を蔑視したパロ宮中に対して、敵愾心を持って闘ったモ-セの心情を抱く人間にならねばなりません。一日に決心した心を、ミデアンの荒野四〇年の路程をさまよっても、変わらなかったモ-セの心情を、我々は持たねばなりません。 三代父母に対する責任 それでは今皆さんが、このような長い期間を耐えてゆくならどうすべきでしょうか? 皆さんの何かの真理、何かの運動、何かの主義をもってしては駄目なのです。皆さんは天の心情を代身して、民族を望み見なければならず、イエス様が民族と教会の為に、ユダヤの国が滅んだ事実を精算する為に、祈祷されたその心情を持たねばなりません。こうしてユダヤの国の初代教会と同じく、手に手を取って自身の立場と威信を忘れて、天を代身してゆかねばなりません。こんな時に、この民族は生きるのです。 イエス様は反対するイスラエル民族に対し、その時は呪咀したい心があったのですが、四千年間というもの耐えてこられ、摂理された神の心情を感じるがゆえに、むしろ彼らの為に福を乞うたのでした。即ちゲッセマネの園で、あるいはカルバリの山頂で、または十字架上で、怨讐たちのために涙を流して祈祷されたのでした。 当時ロ-マの市民権を持っていて、その国のすべての慣習や法度を固く守っていたパウロが、どうして自身の名誉と信ずるユダヤ教を捨て、自身の知識もみな捨て、ユダヤ教から追われる立場に立ったのでしょうか? それはパウロがイエス様の偉大なる愛の心情を知ったからです。こうしてどこにも頼る所がなく、身を横たえる所もなく、世の荒波にさらされながら一身の安楽を忘れ、イエス様の御言を伝播していったのでした。 パウロが使徒の職分を果たすことができたのは、彼の人格のゆえではありません。彼が他の人が持っていない、即ち神の愛を代身して現れたイエス・キリストの心情に通じる一つの基準を持っていたので、使徒パウロになることができたことを、皆さんは知らねばなりません。どんなに博識で、お金が沢山あっても、それをもってしては駄目なのです。それゆえ今、皆さんもこんな天的な法度で歩んで生き、心と体がそこに向かって動かなければなりません。 我々は天と地と人間の、三代の父母の因縁から外れることができません。それではこの三代の父母の恩に何をもって報いるのか。今までの人類・民族・民はみな滅びました。こんな理念を捜し立てるべき摂理が残っているので、今日世界的な物質の運勢が人間に訪れてくるのです。物質が人間を打つときが近づいて来ました。なぜならば、人間が自分の位置を失って万物のまえに犯した罪があり、これを終わりの日に世界と人間のまえに蕩減復帰しなければならないみ旨があるからです。それで今日人間が、世界的に物質的な苦痛を受ける立場に処しているのです。それゆえこの物質的な苦痛を踏み越える人間が、出てこなればならないのです。そして初代教会的な神の愛に通じる使徒たちが、出てこなければならないのです。 今日先進国家であるアメリカも、民主主義的な内容を持って動いているのですが、物質万能主義だけを叫ぶ立場になれば、物質にやられてしまうのです。この物質を全人類の為に使用する方法を考えないと駄目な時にきているので、アメリカのような国では他の国のために援助するのです。ところが援助しても、裏面で自分たちの利益を得るために援助するなら、これは天倫が許さないのです。 このような理念を成すために、人類は民主主義の経済社会を経て、本然の物質文化、経済社会を指向していっているのです。従って人間が物質の価値を主張して、本性の理念を代身することができる実体の基準の者となって、物質と人間と天の三者が同席する型を持たなければならないのです。 天国の民の伝統 今日のすべての信仰生活を推し量って見るとき、我々は物質に隷属する信仰観念を持っていては駄目です。もしもこのような宗教団体があったなら、天が良心的な人々を動員して、そんな信仰観念を修正するのです。そんな時が近づいて来ています。また天倫を忘れて自分の正当性を主張する人々の意識も、是正すべき時に来ているのです。 地球も一つの存在ですから、意識があり、存在の目的があるのです。そして地球も被造物ですから、一人の主人がいるのです。その主人が、正に神様なのです。それで神がおられる限り、一つの理念の下に動くことができる世界は、必ず成就するのです。 また人類のすべての思想を支配することができる、統一的な宇宙観が出なければなりません。神の実存性を中心とした理念が、人間世界を支配できるようになり、人間と父子の関係を結んでおかなければ、神は地球と人類の父母としての責任を果たさないことになってしまうのです。それゆえ万物も一つの中心のために動いているのであり、地も宇宙の理念を中心にして動いていて、人間もやはり一つの主義を中心にして動いてゆく、その日が来てこそなのです。 今日数多くの人々は「私はこんな人間だ」「私はこんな国の民だ」と自慢しています。今日アメリカ人は、大きな国の民であると威張っています。しかしこれをもってしては、永遠ではありません。アメリカは自分の国の為に生きていますが、他の国の為に生きなければならないことを知らないのです。その昔、ギリシャ文明がロ-マの為にあったことを知らなかったようなものです。ロ-マも自分の国の文明が、イギリスを経て現代文明の為にあったことを知らなかったのです。ですから今日アメリカ国民は、自分の国の為に働くことは勿論ですが、他の国の為にも働くべきことを知らねばなりません。ところが大部分のアメリカ人はこれを知らないでいるのです。そんな中でも一部の人々が、自分たちの為だけに生きるのではなく、天倫の為に働かねばならないという理念が立っていることは、不幸中の幸いです。 それゆえ今皆さんは天性を代身して、世界的な摂理のまえに新たに武装して行かなければなりません。今までは物質文明が人間を支配し、人間の理性に通じる主義が世界を支配してきたのですが、それで終わってしまうのではなく、天性に通じ、イエス様に通じ、天的な理念に通じ、神の心情に通じることができる一つの主義が、この地のどこかに現れる時が必ず来るのです。 ところで今日、我々はどんな主義も持たず、我々の国は世界的な先進国家でもありません。しかしこの民族が、最後に残る天宙的な神の心情を代身し、神のものとして捧げることができ、全人類が頼み希望するもの、神主義として現れる理念を感じることができる所に立ったとしたら、皆さんは気を落とさないでください。 今日統一教会に集まる皆さん、皆さんはたとえこの小さな教会に座っていても、これを広げれば世界を代身し、さらには天上を代身することができるという心情を感じるなら、問題は解決されるのです。何であっても解決できるのです。皆さんは神のみ旨を代身する子女ですから、神をこの世界の主人として侍る天国の民になるというのです。そして皆さんはいつ、どこでもアボジのみ旨に外れないことを、肝に銘じなければなりません。 さっき読んだ聖書の御言の中に、こんな御言がありました。「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」そして「怨讐のために祈れ」とされました。 イエス様が主張されたことは、我々が立てるべき法度と、永遠であるアボジの民族が誇るべき伝統的な風習です。そしてイエス様が主張された道理は、その当時にのみ限られたことではなく、人類を復帰させるにおいて必要な天倫の法度であったのです。従って今、皆さんが神の息子になり、神の娘になるには神の愛を感じ、神の愛を所有しなければなりません。そうするためには、神様が六千年を耐えて愛の息子・娘を捜し求め、今まで闘ってきたのですから、皆さんも闘ってゆかなければならないのです。 聖霊の九つの性禀 皆さん自身が天のものとなりたいなら、まず涙を流される神の立場に立ってみなさい。神様が切ない歴史過程を経てこられたことを感じて、皆さんも涙を流すのです。聞いているこの耳もやはり同じです。食べている一杯のめしも通らないのです。このように切ない天の心情に通じることができる皆さんになったなら、この民族は生きるのです。神様は正にこのような人間を捜し求めておられることを、皆さんは知らねばなりません。 聖書には、聖霊の九つの実に対する記録があります。「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制(ガラテヤ五:二二)」を言います。この聖霊の九つの性禀、これが神が主張し、神が建設し、神が立てようとされる御国の標準であり、その社会の制度であり、生活の理念であって、これを皆さんは心身に染みて感じたことがありますか。もしも皆さんにこのように染みる心があったなら、イエス様がエルサレムに向かって、石を抱えて言いたかったことを泰山のように口を閉ざして耐えた、その心情を感じるのです。 今日皆さんは統一教会に入っていますが、皆さんのための統一教会を願わないでください。今日我々があるのはこの民族の為であり、今日この民族があるのは世界の為であり、世界があるのは天の為であることを皆さんは知らねばなりません。また皆さんがこのみ旨の為に苦労し、祭壇の前に何かを捧げるものがあっても、神はそれよりもこのみ旨を案じてくれることを、より喜ばしく思われるということを知らねばなりません。 イエス様に平安な休み所を用意し、あるいは山海の珍味を並べた宴を催すよりも、イエス様の心に代って案じ、世界を抱えて涙を流すことを、神もイエス様もより喜ばれるという事実を、皆さんはまた知らねばなりません。 イエス様は十二弟子が自身を敬うことよりも、自身のことをすべて忘れても、ユダヤの民をより愛することを求めたのです。イエス様の三〇余年の生涯の路程がそうであり、モ-セもやはりそうであり、神もやはりそうであったのです。 それゆえ孝子・忠臣・烈女たちにならねばならない皆さんは、天のまえに弁明しようにも弁明できない心苦しさを感じなければなりません。また自分が何かをやったと主張できない自身の不足なることを感じ、天性のまえに恐れ多いことを感じなければならず、自分が自分のものではなく、アボジのものになるために闘ってゆかねばなりません。もしもこのような皆さんになっていったなら、歴史は民族を経て、国家・世界を経て、天宙主義時代に越えてゆくのです。 今日人間が主導的な役割をしようとしているように、天が主導的な行為をするときが来ないと、誰が言い切れるのか! 天がある限り、天が主導的な行為をするときが必ず来るのです。今日まで人倫的な一つの基準が立っていないので、天倫が干渉できないのですが人倫のまえに天倫の威信が立つ日には、その命令と法度に人間はとうてけれることはできません。 時はこのように過ぎているのに、人間は知らないのですから、いま一度反省して見なければなりません。こうして神の愛の関門に自分が通過して「神を絶対に信じます」とする自信ある実力者になって、永遠なるアボジに侍る真の息子・娘にならねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.06
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天に向かう決心を失わないように一九五八年二月二三日 前本部教会 「天に向かう決心を失わないように」こんな題目でお話します。 決心の価値基準 今日集まった皆さんの中には、心のうちにある決心を持っている方たちもいるのです。また人の前に自信ありげに「私の決心は正しい」と主張して出る人々もいるかも知れません。 しかし今皆さんは、自身の決心が誰のための決心であるかを、考えでみなければなりません。即ち、皆さんが持っている決心が、自分のみのための決心であるか、さらには神のためにまでの決心であるかを、考えてみなければなりません。 何よりも自分が抱いている決心が天のためか、そうではないか、ということを考えるべき時が、皆さんのまえに来ているという事実を忘れてはなりません。 今日人々が持っている決心はさまざまです。甲が持っている決心と、乙が持っている決心は異なり、男性が持っている決心と、女性が持っている決心は違います。またこの民族とあの民族が違うように、彼らは各自異なる決心を持っているのです。 それでは各自が主張し、各自が持っている決心が、どんな目的を達成するためであるのか。自分について冷徹に反問してみるとき、自暴自棄にならざるを得ない立場であることを認識するのです。 終わりの日に処している我々、また地の上に生きている人類は、自分が持っている決心が、民族を動かすことができる決心なのか、世界を動かすことができる決心なのか、さらには天上にある千々万聖徒たちを動かすことができる決心なのか、またさらには神までも動かすことができる決心なのかと反問してみるとき、そうではないと告白せざるを得ないのです。 このような私、このような我々に天の希望があるとすれば、我々が我々の心の底に何を納め、何を望んでゆくかというこの問題を、何よりも重要に思ってください。 今までの歴史過程に数多くの人々が、ある主義をもってこれを主張してきたのですが、彼らが主張した主義が、今日の我々の心を動かすことができるある要素を持っていないとすれば、彼らの主張、即ち歴史過程に往来した数多くの先哲たちが主張してきた主義は、我々とは何らの関係がなくなるのです。 それでは今までの人類歴史は、何を立てるために発展してきたのか。これは人類の幸福のために、あるいは人類の永遠なる理念を立てるために発展してきたことを、天があるという事実を知るならば、否定することができません。天がある限り、人間に幸福の園がどんなものかを教え、人間をして永遠なる喜びの園を、建設させなければならないのです。この責任を完遂するために、歴史過程を摂理された神であるのですから、歴史の終末段階に処している我々とは、切っても切れない数知れぬ関係を持っているのです。 従って天が動ずれば自分も動じ、天が静ずれば自分も静ずることができる基準を、心の本性のなかに持っていない人間は、歴史を蹂躪する者であり、神の所望に背反する者になるのです。 神の決心 全宇宙の運行の法度は、天倫の原則に従っており、この運行の中に全体の目的を成すための摂理があるとすれば、神もこの摂理の運行法度を通さなければならず、また人類もこの運行法度を経てゆかねばならないのです。であるなら今、私一自身を民族のまえに立てて考えてみなければなりません。 この民族に対して運行されている神のみ旨が何であり、この民族を覚醒させるための神の決心が何であるを、皆さんは考えてみたことがありますか? ないというなら、皆さんは民族を天倫のまえに導くのを妨げる立場に立つということを、知らねばなりません。 そして今日我々の心に悲痛なることがあるなら、この民族がいずれ行かねばならなこを行くために、一つの理念を中心にして団結した心で、闘争していないということです。また天倫に対して全世界人類が団結した立場に立っていないということが、天の哀しみであり、人類の哀しみであることを、皆さんは悟らなければなりません。 そして今日我々は、自身がどんな立場に立っているのかということを、冷徹に分析して批判してみなければなりません。天は皆さんが民族のまえに自信をもって出て、自信をもって天倫に対することができる心の基となっているかということを、我々に問うておられるのです。 神が人間に対して最大の所望があるとすれば、これが何であるか。まずこの地上にみ旨を成就させようという神の決心を、人間が果たしてくれることです。神は天地万物を創造する前に決心されたことがあり、この決心によって万物を創造されたのですが、この決心が未だにこの被造世界に実現されていないので、神は悲しみの歴史を経て来たことを我々は知っています。 今このような事実を知る我々が、宇宙を隅々まで捜して見なければならないものがあります。これが正に神の決心です。我々はこれを捜し求めて、成してあげねばなりません。こうして神が抱かれる哀れさと悲しみを、解いて差し上げねばなりません。 ですから今日我々はこのようなみ旨を中心に、一大革命の過程に立つという決心と、主義主張と覚悟を持たねばなりません。それでこそ神の悲しみを解怨することができるのです。 神様は我々が知ることのない中で、ご自身が決心されたみ旨を地上の人間たちに知らしめるために、苦労の歴史過程を歩んで来られたのですが、これが今までの摂理歴史であることを、皆さんは知らねばなりません。 神のこの決心をもって人間を代身する救世主が地上に現れ、すべての悪の勢力と対抗して、彼らを撃滅させなければなりません。このような使命を遂行する代表的な人間がこの地上に現れないなら、神のみ旨は成就されないのです。そして神の決心と、人間の所望の基準が、ある一日に連結されなければ駄目なのです。 神の指向されるこのみ旨を、人間を代身してこの地上に成就するために、一人の中心存在として送られた方が、イエス・キリストです。神様は四千年の間苦労され、すべての難しい環境で闘いの道を歩まれたのですが、このような道を行く方が、正に我々が救世主として信じているイエス様であるのです。人間始祖アダムとエバが堕落することによって、成就されなかった神の創造の決心を復帰するために、イエス様は来られました。言い換えれば、神様がこの俗なる人間の世に、第二アダム格の人物として立てられ、神の決心を満宇宙のまえに現すために、イエス様をこの地上に送られたのです。 それゆえイエス様は「わたしは神と一体」であると主張されたのです。神とイエス様は二つではなく、一つだという言葉です。ここに神が喜ばれる条件ができたということを、皆さんは知らねばなりません。またイエス様は「神はわたしの父である。これに反対して阻もうとしても、わたしが感じ、決心しているこの内容は、何ら奪うことができない」と語られるほど、自負心を持っていたのです。即ち、イエスは命を失う覚悟をして、これを果敢に公表されたのです。 神の決心を今日の数多くの信者たちに現すことが、イエス様の二千年の間の苦労の目的であったのです。神はイエス様を送られるために、六千年間の長い歳月を休むことなく、苦労されて来たことを、今日地上の我々は知らねばなりません。 イエス様の決心と聖霊の役割 今皆さんが天に対して出るならば、天のみ旨を代身すると決心していったキリストの性相を、皆さん自身の性相に代えて感じるときがあったかを、天は反問されるのです。 イエス様はこの地上に来られ、三〇余年の生涯の間、言葉にもならない苦難の道を歩まれ、最後には十字架の道をゆく悲運の人生を送られたのです。ではあっても自身が持つ中心だけは、何ものも決して壊すことができない確固たるものとして、保たれたのです。 それゆえイエス様は天に対する決心を、今日我々の心の底にまで植えつけられているのです。死がやってきても、弟子たちが背反しても、選ばれた民族が背反し、教会が背反しても、彼は創世全部が父の持つ決心の内容であると知っていたので、変わることのない立場を守ったのです。 このような決心の主人公が、地上の人間のまえに何を立てるために来たのか。それは自身が抱いている神の創世前の決心を、愛する弟子たちに受け継がせるためだったのです。ところが歴史過程に現れた数多くの聖徒たちの中で、イエスが持っていた決心を抱いて、神のみ旨を成すために闘った人間が何人いたでしょうか。これを考えてみるとき、神の悲しみは不信者にあるのではありません。イエスの名によって信じる、聖徒たちにあるのです。天を代身する確固たる決心がない聖徒たちを見て、神は悲しまれたことを我々は悟らなければなりません。 イエス様はこの地上で、自身の決心を分かってくれる一人の相対者を捜しだせなかったので、み旨を完全に成すことが出来ないまま逝かれたのです。この世においてイエス様を代身する、神を代身する決心を持つ人間がいたならば、神は彼の心情を通して直接的な権限を行使されて、統一の炎を燃やすことができたのですが、このような決心の所有者がいないゆえに、神のみ旨は成されていないのです。 だからイエスには復活した後に、この地上に来た目的を代身する決心の主人公を再び立てるべき、責任が残っていたのです。それで自身の使命を受け継ぐ一人のお方を送ったのです。このお方が誰かといえば、人間のまえに現れた聖霊であるということを、皆さんは知らねばなりません。 それでは天の決心とイエスの決心は、誰において実を結ぶのでしょうか? 神は聖霊を通してご自身の決心を再度、人間のまえに現したのです。これをみ旨の主人公のまえに伝え、この主人公は新婦のまえに伝えてこれを足場にして、み旨の主人公が地上に臨在して一つの家庭に移し、家庭を中心とする親族、親族を中心に民族、民族を中心に国家、国家を中心に世界にまで移してゆくということが神のみ旨であることを、今日人類は知らないのです。信じている信徒たちさえ知らないのです。 皆さんはイエスを信じ、聖霊によって神のまえに行くことができると、自信を持っていけますか? どんな苦難と犠牲があっても、またどんな誘惑が付いてきてもこれをはね退け、押し退ける神の心情を代身する決心と、イエスと聖霊を代身する決心を持っていますか? このような質問に、私はイエスを代身する心情と決心を所有していますと、自信をもって答えることができる人間にならなかったなら、イエスを背信し、イエスを売ったイスラエル民族よりも、さらに厳しい審判を逃れることはできません。 なぜなら、イエス様のみ旨を受け入れなかった民族ですから、聖霊を苦労させ、聖霊のみ旨を受け入れない第二のイスラエル型の今日のキリスト教徒は、数多くの使徒たちを苦労させ、単に使徒たちのみならず、我々の数多くの先祖たちを苦労させたからです。このような苦労をさせている今日の我々ですから、我々がイエス様の持つ心情と決心を所有しないならば、神のまえに体面が立たず、イエスと聖霊のまえにも体面を立てることができなのです。のみならず、この時まで数多くの犠牲の祭壇を積んできた聖徒たちのまえにも体面が立たないのです。これから責任を果たさない人々が、自らを嘆く時が来ることを知らねばなりません。 天の決心を所有しなければならない聖徒 天は今日終わりの日にあって、我々に要求しているのです。イエス様と聖霊も我々に向かって訴えているのです。父の実体になり、父の決心を所有する人間になり、これを蹂躪するサタンを撲滅させる勝利の主人公になることを、神はこの時間も苦待されているという事実を、皆さんの骨と肉に染みて体恤しなければなりません。こうして「天が抱く決心を私に相続させてくださり、血がとびちる祭壇の過程を経ても耐えてきた使徒の決心を私にください」とする資格を持たねばなりません。ではなくて天国に行こうというなら、それは間違いであることを、我々は再認識せざるを得ない時が来たのです。 現下のキリスト教を覚醒させなければならない責任が、我々にはあります。神の決心とイエス様と聖霊の決心と自分が連なって、一つの実体になって現れたなら、歴史を支配する権限を行使することができるのです。 先に読んだ聖書の御言にはソドム、ゴモラに審判を下された神の切ない心情が現れていました。神様はその都に向かって審判をしようとされる時、愛するアブラハムの甥のロトがいました。神はロトが審判を逃れるようにしました。ロトが立派でソドム、ゴモラの審判が避けられたのではありません。神様はアブラハムを愛されていたので、何の苦労した功績もない甥にまで、審判を逃れるようにされたのです。ではあってもロトの家庭全体が神の心情を分かっていたかというと、そうではなかったのです。 ロトと彼の二人の娘は、神様が避けようとされた所に逃げたのですが、ロトの妻は神のみ旨が何であるかを知らなかったのです。彼女が天のみ旨に対する決心や、み旨に対する配慮、または天に対する恐れよりも、自分たちの暮らした家とその環境を慕って振り返ったことが、ソドム・ゴモラよりもまず神の戒めを受ける他ない条件になったのです。 人間には必ず歩むべき道があるのですが、この道がどんな道かといえば、天倫のみ旨に従っていかなる困難も覚悟して歩んで行く道です。これが堕落した人間が歩むべき運命の道なのです。ロトの妻も、自分のすべてのものを捨てて行く決心がつかなかったので、死んでしまったのです。神の命令を受け入れていった自分の夫を、神の代身者として信じて夫がやれという通りにしたなら、彼女は決して死ぬことはなかったのです。 神が摂理歴史をなさる過程においても、神はご自身の心情を代身する人間を立て、ご自身を信じないとしても、その人間の言葉を聞いても決心ができるようにされるのです。ところがそれさえできない人間は、審判を避けることはできません。 我々自身を見てみれば、堕落した宗族ですから経てきた悲しみがあるのです。大きな神のみ旨に対して最善を尽くしたく、自分の心身を祭物にして、新たな決心をして行動に移したい心は暗黙のうちに感じているのですが、この決心を断行できないわけは、我々が堕落の宗族であるからです。 アダムとエバは自分たちを創造されて「取って食べてはならない」と言われた神の御言を心の奥深く納め、その御言と自分たちは離すに離せない一つの結合体と考えて、変わらぬ決心を持ってすべての万物を主管する責任が、自分たちにあることを実感したら堕落することはなかったのです。 アダムとエバが堕落するようになったのは、エバがアダムと一つにならなかったからであり、またアダムが神と一つにならなかったからです。こうして各自がバラバラに分立してしまい、自由気儘、自由自在の環境において自分勝手に振るまって、創造理想の園を台無しにしてしまったのです。終わりの日にもやはり、神を中心にした決心を立てないで、自由主義を叫ぶ自由陣営も壊されてしまうのです。天地の道理がこのようになっているのです。 神を代身すべきアダムが、どこの誰がみ旨を破るように誘惑したとしても、自身は絶対にそのみ旨を破らないと決心してエバを主管し、天使を主管したなら、堕落することはなかったのです。まず堕落したエバがどんなに自分を籠絡しても、アダムがその誘惑の言葉を聞かなかったら、アダムは死ななかったのです。もしもアダムが堕落しなかったら、エバはいくらでも再び創造することができるのです。 天に背反したために天倫と遠くなり、許された御言とみ旨を自身の心に一つの中心として立てることができなくなって、アダムはアダムなりに、エバはエバなりに、天使長は天使長なりに分かれてしまったのです。こんな宗族になった我々は、今日信じていたことが明日は信じられず、この時代に信じていたことが次の世紀には信じられなくなり、次の世紀に信じたことが、その次の終わりの日には信じることができない環境になってしまうのです。 神の解怨のための決心の主人公 それでは神の案じることが何でしょうか? 天の悲しみが何でしょうか?「わたしが六千年の間、ひどい逆境と苦難の過程を経てきて苦労して、このようにおまえ一人を捜し求め、今やおまえに出会ったので安息できることよ」とされて、エデンの園で天使長に語ることができなかったその内容を、安息できる場において語り、ご自身の心境を吐露することができる一人の人間がいないことが、神の悲しみであることを知らねばなりません。 我々はアボジを求めており、信仰生活をしてはいても、神が安息できる環境を持っていないのです。こんな立場にある我々は、行けば行くほど心の焦りを避けることができず、どんなに優れていると威張っていても、終わりの日が近づけば近づくほど、心の不安感を免れることができないのです。こうして個人的であれ、社会的であれ、国家的に、そして世界的に難しい立場に処しているのです。 それでは終末時代に、いきなりやって来るこの恐怖と不安を押し退ける人間が、どこにいるでしょうか。人間を代身して大胆に出るのではなく、天倫を代身して大胆に出ることができる決心の主人公はどこにいるでしょうか。天はこんな人間を捜し求めているということを、知らねばなりません。 神がアダム家庭を失うことによって、アダムと通じる創造本然の家庭を失ってしまい、同時にアダムと通じる親族と、アダムの血族を代身する民族と、アダムを中心とする国民と、アダムを中心とする天国の民をみな失ったのです。しかしながら神はこの失われたすべてのものを、再び捜し求めておられるのです。 神はこの民族全体を求め、世界まで捜すために、まず一個人から初めて家庭・社会を捜し立てようとされるのです。これを基として民族型から世界型まで、さらにはこの世界全体を求めるために、神は摂理されておられるのです。 神は一面では闘い、またあるところでは犠牲となって、歴史過程を通してこれを捜し求めて来られたのです。このような裏面で個人的な形態を得て、アダムを代身する家庭・親族・民族・国家・世界をこの地上に建設されておられるのです。 ですからアダム家庭を失ったこの一つの事実が、アダム一身のみの悲しみではなく、アダムの血統を通して千秋万代の全人類にまで及ぶ悲しみであることを、皆さんは生活圏内において痛切に感じるのです。こんな状態で安逸を望み、安楽を享受しようとする人々がいても、こんな安逸で安楽な生活はいつまでも続かないことを、知らねばなりません。 我々は恐怖の関門を前にして、これを越えるべき立場にあることを知らなければなりません。このような時を、いわゆる「審判の日」というのです。 神はこんな恐怖を無くするために、選んだ一人の人間を立てた後、彼を中心とする民族を立て、この民族を再び世界の先頭に立てるために、今日まで切なく摂理されておられるという事実を、皆さんは知らねばなりません。 これから天の国を建設することができる民族は、大きな民族ではありません。今日世界を支配している民族でもありません。天国主権を回復して、第二天国を建設しようという民族は、大きな民族ではありません。神様は何ということのない所に、隠密に天国を建設する作業をなさるのです。 そんなわけで、神のみ旨に背反する人々は良い暮らしをしているのに、神のみ旨を受け入れる人々はむしろ食べず生きられない、こんな反対の現象が起こり、人類の闘争の歴史は今日まで継続しているのです。なぜならば神に対する心情を失った人間ですから、再び神が信じられる立場を復帰するには、このような過程を経なければならないからです。であれば神が六千年の間苦労されたこの苦難が、一時に自分にぶつかって来ても、これを乗り越えられる自分にならねばなりません。自分の命を失う恨があってもその前に屈しない決心の主人公になって、天が代表して出す一存在として、立たねばなりません。 天に向かう決心を抱いて生きた先祖たち 神様はそのような世界的な代表としてイエスを送られたのであり、そのような人間を立てるために数多くの我々の先祖たちが苦労の道を行ったのです。アダムが失った家庭を求めるためにアダムの代身、不信の心を持つその宗族と民族を蹴散らし、天に対して信仰の決心を抱く一人の人間が召命されたのですが、この人間がノアなのです。 ノアは一二〇年間、天が引っ張っても引っ張っても変わらない決心を抱いていたので、これがアダムよりも素晴らしかったのです。アダムは未成年の時に堕落したことを、我々は知っています。アダムが神に背反したゆえに、神が再び信じられるためにアダム以上の苦労をするなら、何百倍の苦労をするとしても、これを貫いて行かねばなりません。 ノアは自分の一身、自分の家庭、自分の親族、自分の民族、さらには自身と因縁を持つどんな世界万象が反対したとしても意に介せず、一瞬の決心を最後まで守ってアボジを抱えて一二〇年間闘ったことが、神を代身してこの時の人類のまえに立つ条件になったことを知らねばなりません。 洪水審判を逃れて神の恩賜の圏内にいたノアにあって、何よりも重要なことは、神の心を持つこのノアの心を、受け継ぐ人間がいなければならないということでした。しかしノア自身も、このような事実を知らなかったのです。 ノアが一二〇年の間苦労してこの切なく悔しい路程を経て、天倫を案じたその心を代身して、ノアの手を握って「お父さん、何なりと私に命じてください」とすることのできる一人の息子がいなかったのです。それゆえ一二〇年の間苦労して造った祭壇は、崩れてしまったのです。 神に対して、真心を尽くす決心を抱くノアであることを、ノアの八人の食口が知っていたなら、死んでも生きてもノアのまえに絶対服従して、父が死ぬなら自分も死に、父が良いなら自分も良いという立場に立たねばなりませんでした。そうであったら他の物の数でもない内的な条件がしみ付いていたとしても、神を中心にして心情を結束させれば何の問題もないのです。ハムは父のノアの言葉を聞かなければなりませんでした。兄弟たちが何かの話をしても、父のみ旨に外れていれば聞いてはならなかったのです。彼が聞かなければならない言葉は聞かず、聞いてはならない言葉を聞いたので、ノアの一二〇年の苦労は無になってしまったのです。 アブラハムも同じでした。アブラハムが故郷と自分の持ち物をすべて捨て、カルデアのウルの荒漠たる荒野に向かって去って行ったのも、やはりたやすいことではありませんでした。神のみ旨を知った後、アブラハムは人知れぬ決心を抱いて住みなれた故郷山川と、自分の親族もみな捨てて、カナンの地を求めて行ったのです。 その後、アブラハムが故郷を捨てて神のみ旨一つを案じる、その心を最後まで捨てることなく、全勢力を注いで祭壇を守ったのも、ここに失敗があってはならなかったのです。祭物を捧げる自分が凄まじい立場であることを知り、自分の信仰のすべて、ある勢力のすべてを注いで、神と一致するという決心を持っていったのです。そして自身は小さな祭物であっても、自身の理念を立てて、全体の天倫のみ旨を代身する立場で神に対し、至誠みつる心で祭物を捧げたなら、ここで失敗することはなかったのです。 祭物に失敗したアブラハムは、再び神のみ旨を受け継ぐために、祭物の代身にイサク献祭が必要であったのです。言い換えれば、アブラハムの心と一つになっている息子の姿を求め、ノアの心と一つになっている姿を求めなければならないのです。それでアブラハムは自分の心と、息子の心が一つに結実することができる立場を求めていったのです。 背反されても変わらない決心の価値 こうしてイサクをモリヤの山頂の祭壇にのせ、刃で刺そうとした場面で、死の祭物を代身するという天の認定を受けたのです。イサクも父のまえに服従したのであり、アブラハムも父のまえに服従して、彼らは天倫の指向する方向へ向かうことができたのです。 その後イサクを経てヤコブのときに至って、ヤコブを中心にして初めてアダム家庭を代身し、ノア家庭を代身することができる基準を捜し立てたのでした。こうして初めて三代の親族形態を持つ七〇人が、カナンの地を離れてエジプトへと入って行ったのです。 言い換えれば、息子から孫まで、地上に三形態の親族的な形態を持つ土台によって、彼らはサタン世界のエジプトに入って行ったのです。ところがこのように、個人から家庭、そして親族的な環境を立てた後にも、彼らは平安な道を歩んで行ったのではありません。親族的な七〇門徒を代身する彼らは、また再び民族を造成するための民族的な闘いを展開して、神を中心とする民族を形成しなければならない試練の舞台に上がったのです。これがパロ宮中四百年の苦役期間であることを、皆さんは知っています。 この苦役期間に選ばれたイスラエル民族は、昔自分たちの先祖が神を恨んで神のみ旨に背反したことを後悔して、再び神を慕う心に帰ってゆかねばなりませんでした。こんな心が強ければ強いほど、イスラエル民族は激しいエジプト苦役に勝って団結して、六〇万をまるごと率いてカナンの福地へと入って行く道が、たやすく開くのです。 ですから、エジプトで苦難を受けるイスラエル民族を導くべきモ-セも、パロ宮中で四〇年の間人知れず心中苦悶して、民族を愛する民族精神に燃えていったのです。ところがエジプト人を打ち殺したことが、結局荒野でもの寂しい牧者の生活をする動機になったのです。このような立場に処したモ-セは、エジプト宮中の豪華であったすべての栄光を捨て、逆にミデアンの荒野の苦役生活が近づいたとしても、変わらぬ心を抱いて自分を愛する心よりも、神のみ旨を案じる決心を持ったのです。 荒野のあらゆる風雨にさらされる悲しみを味わってもこれを押し退け、民族から追われても神を抱えたモ-セの変わらぬ決心があったがゆえに、民族が難しい事情におかれ、モ-セがこのような困難の環境におかれても、民族が団結するようになったのであり、天はモ-セを立てて摂理することができたのです。 ある民族を再び選んで国家として立てるためには、世界的な試練のまえにこの民族を追い込んでおいて、攻撃戦を展開させることが神の摂理の方法なのです。ですから神を中心とする一つの国家建設のために来られるメシアは、選ばれたイスラエル民族のまえに反対されるのです。復帰過程のゆえにそうなるのです。 アダム家庭において、アダムに従うべきエバがアダムを打ち、ノアに従うべきノアの息子がノアを打ち、イスラエル民族六〇万大衆がモ-セに従うべきなのにもかかわらず、モ-セをミデヤンの荒野で追ったのです。このような歴史過程を経ていったので、イエス様が主人公として来られるとき、選ばれた民はイエスのまえに新婦格であるのに、むしろイエスに反発したのです。 天倫の法度を知るイエス様はイスラエル民族から追われ、ユダヤ教団からも追われました。自身の親族に追われるだけでなく、天が選んだ洗礼ヨハネの一団からも追われ、従う使徒たちからも追われ、天と地を与えても替えられない三弟子からも追われました。それでも彼らを抱え、天のまえに連れてゆくイエスの事情があったということを、誰が知っていたでしようか。アダムがイエスのような事情にあって、エバの持つ凶悪な欺瞞と誘惑があってもこれを手折るべき立場にあったのと同じように、イエス様の立場も民族を捜し求めなければならないのです。モ-セがイスラエル民族のまえに追われて荒野の生活をしたように、イエスが民族のまえに追われるなら、世界のまえにも追われなければならない立場におかれることを、知らねばなりません。 もしもこのように「民族が背反し、教団が背反しても、自分のアボジに対する一片丹心を誰が奪ってゆけようか。自分が立てる決心のまえには、天が立てた洗礼ヨハネが背反したとしても問題ではなく、自分に従っている弟子が背反したとしても問題ではない。さらには自分の肉体が問題ではなく、この決心があれば悲しい事があっても悲しまず、哀れな場であっても哀れな表情ができない復帰の運命に責任を負うイエスの心情を、今日我々は知らねばなりません。 天に対する一つの決心を持って、祭物であることを満天宙のまえに押し立て、人間が反発しても崩れることなく、霊界にある千々万聖徒と、今日空中権勢を握っているサタンが総動員しても、奪われることのないそんな決心があるので、ここから歴史的な転換点が起ってきたのです。 決心の相続 こうして霊・肉共に実体的な勝利の基台が、世界的に起らなければならないのです。復活したイエスを中心に第二の決心を弟子たちに与え、霊界カナン復帰理念を立ててこられたことを、皆さんが知らねばなりません。 イエス様は世界人類のためにこの地上に訪ねて来られました。世界の人々はイエスのまえには息子の立場、即ち相対的な立場にあるのです。エバがアダムを蹂躪し、イスラエル民族がモ-セを追い、祭物がアブラハムを讒訴し、ノアの息子がノアを追ったように、世界のキリスト教は行く所々、世界のいたる所で追われ、悲惨な路程を逃れることはできなかったのです。 今日世界に広がっている第二イスラエルの祝福が、イスラエルを中心にして成就されなかったので、第二イスラエルとして選ばれたキリスト教徒を立ててこの怨恨を解き、天と地を復帰しようとされるのです。神は天宙復帰のみ旨を成就するために一人の中心人物、一つの中心民族、一つの中心国家を求めているということを、皆さんは知らねばなりません。 なぜそうかというと、六千年の間苦労してみ旨に対してきたのですが、イエスが死ぬことによってノアも、アブラハムも、モ-セも、失敗した形になったのです。イエス様お一人が逝かれることによって、復帰摂理が完成を見ないことになってしまったのです。こうして今日、楽園にある霊人たちは失った第一イスラエルを復帰しようとされたイエス様のみ旨のための足場を築き、されに回復のみ旨を霊的に成就した型の、霊人たちなのです。選ばれたイスラエル民族が、元来第一イスラエルにならねばならないのですが、第一イスラエルが崩れてしまったので、第二イスラエル型が、霊的復帰の過程に留まっているのです。 イエス様を失って結ばれた神の怨恨は、今日第二イスラエル型に属する霊界の霊人たちによって解かれるのです。第一イスラエルを選ばれた神のみ旨は、イエス様が成さねばなりません。それでこそ神に結ばれた怨恨の心情を、解くことができるのです。それゆえ今第二イスラエルを動員して、霊界の霊人たちを動員して、第二イスラエル回復運動に拍車をかける時が、終わりの日であることを皆さんは知らねばなりません。 それでは今日世界に広がっているキリスト教徒たちは、どんな時代に処しているのか。モ-セの荒野四〇年路程に、匹敵する時代に処しているのです。モ-セがシナイ山に登って石版を受けるために祈祷した期間に相当し、イエスが昇天して以後、二千年の歴史過程は、モ-セの四〇日の断食期間に相当し、四〇年の荒野期間に匹敵するのです。またモ-セがいないことを見て、イスラエル民族が切なかった状況に匹敵するのです。 このキリスト教は再び現れるモ-セを迎え、何をしなければならないのでしょうか。荒野のイスラエル民族は昔の旧約の御言、モ-セの十戒の御言を受けるべきが受けず、歓喜の心情を持たない民族になったのです。モ-セにおきましては、民族がモ-セの背反者になってしまったのですが、我々は天が願われる道を捜し求めなければなりません。こうして第三イスラエルの場を求め、勝利して世界カナン復帰の理念を成就しなければなりません。そのためには新しい御言を受け入れる覚悟を、持たなければなりません。 モ-セの決心が、六〇万大衆の決心にならねばならないのです。今日、世界に広がっている第二イスラエルの祝福を受けるべきこの民族、あるいは世界人類とクリスチャンたちはイエスの決心を受け継いでいないので、モ-セのとき荒野でサタンがイスラエルの六〇万大衆を籠絡したように、今この時代もこんな時代にきているのです。 これを見やってみるとき、今日わが肉体に血肉がおどり、わが心に何かを感じる皆さんであるなら、皆さん自身が忠誠を尽くしていかなければなりません。イスラエル民族がモ-セに出会うまでは、食べることも忘れ、着ることも忘れ、眠ることも忘れなければならないのに、そうではなかったのでイスラエルがモ-セを失い、すべてのみ旨が崩れていったことを忘れてはなりません。 これと同じく、イエス以後の二千年間は荒野時代です。イエスを失ったキリスト教信者たちは、食べることも忘れ、着ることも忘れ、悔しいことにも憤りにも耐えに耐え、歯を食い縛ってイエス様に出会う時まで、かってモ-セの歩みの跡を死守しなかったことを、反対に蕩減復帰して、我々はイエスの歩みの跡を死守するイスラエルにならねばなりません。ところがこんな立場に処している今日のキリスト教徒が、自分たちにそんな使命があるということを、知らないでいるのです。 終わりの日の現象と聖徒が抱くべき覚悟 時が近づいてきたので、この時を準備しなければならない過程において、選ばれた民族を異邦の国に渡されるのです。皆さんが学んで知っているように、イスラエル民族がメシア降臨準備時代を迎えるために、イエス様が来る六世紀前に準備する期間として、バビロニア捕虜時代があったのです。 イエス様再降臨六世紀前から、文芸復興運動を中心としてキリスト教を破壊させる世界的な攻勢が起こってきたのです。この闘いの路程を今日、世界のキリスト教信者たちはどのように対処しなければならないでしょうか? これを防ぐ責任を果たすために、我々がまず覚醒しなければなりません。 一四世紀から一六世紀に至る時代において、文芸復興運動が誘発されたことは、人々が昔のギリシャの古代文明を研究して、新しい復帰理念を得ようとしたからです。このように革新的な文化の一面を起こさせたように、今日終わりの日を迎えている聖徒たちも、歴史を回顧して二千年前のイエス様の心情を体恤できなければならず、また堕落前のアダムとエバと神の心情を体恤して、心を革新しなければならない時が来たのです。 み旨に対する直前のアダムとエバに、天使長の攻撃があったように、ノアにも、モ-セにも、イエスにも、み旨が現れなければならない末日の聖徒たちにも、このような攻撃が現れるのです。これはサタンの攻撃です。まずは物質的な攻撃があり、その次には情的な攻撃時代が来るのです。このような時代性が今日の我々のまえに展開されているのです。こんなキリスト教の歴史がある国、ある民族を通して進展する時、その路程は公式的な原理原則によってなってゆくのです。 世界がキリスト教を外的に反対する、そんな時代がありました。この時代には昔イスラエル民族に反対したエジプト民族型が現れ、第二イスラエル民族のまえにモ-セのような人物が現れる時、民族が団結して彼を追い出す現象が現れるのです。 それでは終末時代の信仰者は、全部どのようになるのでしょう? 我々の周囲においては、エジプトの地のような事が起こるのです。今日我々が生きている現実は、エジプト苦役時代を彷彿させる状態です。のみならず、象徴的にも実体的にも、あるいは信仰的に、すべての面において侵犯されざるを得ないような状態になってゆくのです。 一時選ばれた選民の志操をもって自分たち同士が抱き合い、外部から来る悲しみを押し退けるためのイスラエルの団結運動があったように、今日のキリスト教徒たちにもこんな運動がなければならないのです。教派に依存する者や、自分の教会の年輪を自慢する者はユダの一派になるのです。モ-セの命に従って、カナン探偵から帰った十二支派の中で、ヨシュア・カレブに反対した十支派があったように、今日このような形態が起こらないと誰が言い切れるでしょうか? このような時が、我々の目前に迫っているのです。 それでは我々は今、自身のすべてのものを忘れて出なければなりません。また、ソドムゴモラが受けたような審判を避けるためには、ロトの家庭が歩んだ足跡を我々の鏡としなければなりません。ヤコブがハランの地からカナンの地に帰る時も、すべてのものをみな捨てて出たのであって、我々の歩みもヤコブのような歩みでなければなりません。またイスラエル民族がエジプトの地を離れる時、すべての未練をはね退けて出たように、我々もそうでなければならないのであり、イエスがすべてのものをみな捨てて、十字架の道を独り越えて行ったように、我々もそんな道を行くという決心を持って行かねばなりません。 このような覚悟と決心を、すべての万物万象のまえに押し立てる資格を持つ人間がいますか。天はそんな資格を持つ人間を求めていることを、皆さんは知らねばなりません。今日世界に広がっている新教が、旧教に追われた過程は、哀れなモ-セの過程を反復するような現象なのです。 キリスト教徒の使命 今荒野のようなこの世の中を開拓する、新しい使命者が出なければならなりません。今日のキリスト教で満足しては駄目です。イスラエル民族が荒野の生活でモ-セの身辺を守らなかったように、新教の出現の時もそうでした。新教が現れたのですが、荒野生活の形態で認定されなかったことが、モ-セの事情と同じでした。終わりの日にもこのような形態によって、神のみ旨が進展するということを、皆さんは知らねばなりません。 モ-セとイエスは、人間的に見れば哀れな人々です。モ-セとイエスを考えるとき、皆さんの血肉に通じる感じがありますか? 皆さんの心に、モ-セとイエスが身のおく所もなくさまい歩いた、その歩みを考える一時がないとしたなら、モ-セの四〇日シナイ山断食祈祷の時に流した切なく哀しい涙を売り渡す、天倫の背反者になるのであり、荒野で倒れたイスラエル民族のようになるということを、皆さんは知らねばなりません。 イエスの哀しい心情を我々が体恤して、第一イスラエルと、第二イスラエルが成せなかったことを、成就しなければなりません。これを成就しようとして来られたイエス様の哀しい心情と歩みを、皆さんは分かりますか? 宇宙的な理念のみ旨を成すために「霊界の霊人たちよ! わたしが彼らの所願を解いてあげます。地上の万人よ! おまえたちの祭物になります。空中の権勢を握るサタンたちよ! おまえたちを捕虜にして、天の審判台に引きあげ、讒訴するのだ」という決心を持って、時代が変わり世界が変わっても、人間の主義主張がすべて変わっても、わたしは変わらないとされたイエス様の気概と忠節を、今日皆さんが持たねばなりません。このように時間性を越え、生涯の理念を越え、天倫の理念に通じる心的な覚悟と決心の基がなっていないとするならば、神のまえに無条件に従わねばなりません。でなれば審判を免れることはできません。 シナイ山に登ったモ-セのまえに、イスラエル民族が無条件に服従したならば、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に入ったのです。またイエス様のときもそうであり、今日終わりの日もそうなのです。皆さんの前途には、人生全体の価値を決定すべき時が訪れているのです。我々が死ぬまで神のみ旨ただ一つに責任を持ってゆくという心で、天を代身してゆくことをアボジも望み、イエスと聖霊も望み、我々の先祖たちも望んでいることを、皆さんは骨髄に染みて感じなければなりません。 こんな事実をまえにして、我々自身を振り返って見れば、自分を中心とするこの肉体が怨讐であり、自分を中心とするわが家庭が怨讐なのです。ノアにあっては家庭が怨讐だったのであり、ヤコブの家庭においては宗族が怨讐であり、その次に国家形態においては世界が怨讐でした。神はこのような歴史路程を歩んで来られ、今も数多くの山場々々を回り回って、ある中心人物が倒れれば他の人間を立ててでも、また繰り返さなければならない事情に処しているのであり、皆さんはこのような神の体面と威信を立てることを知る人間にならねばなりません。 ある個人の力だけでは、神のみ旨を成すことはできません。神様は世界に分散する一つの民族形態を、捜し立てる包囲作戦をして来られるのです。こうして個人から家庭、宗族と民族を捜し立て、神を中心とする国家形態を得なければならない時が来たのです。 それゆえ今日、全世界キリスト教十二支派を再創建すべき時期が到来しているのです。荒野に広がったイスラエル民族に班列があったように、世界キリスト教徒たちが班列を編成して、サタンに対する攻撃戦を展開しなればならない時代が来ているのです。これを知らないでいるクリスチャンたちは、荒野のイスラエル民族がモ-セが導く方向を知らなかったのと、同じ立場に立っていることを知らねばなりません。 団結して強く雄々しく進べき時 今我々は、手に手を取って行くべき共同運命におかれているのです。十二使徒の中でイエス様を売ったユダ一人によって十二使徒を蹴散らし、イエスを殺してしまったように、我々も同じ運命におかれることもある立場なのです。それゆえ我々の教会の食口たちは、すべてがこの時の決心がわが決心であり、この時の心がわが心であるとして、み旨のために一つになることができる班列的な、形態を持って行かねばなりません。そして紅海を渡り、荒野を過ぎてヨルダン川を横切り、カナン七族を全滅させなければならない我々の闘いの基が、残っていることを知らねばなりません。 従って今、我々は歴史的な使命持って、これを蕩減復帰していかなければなりません。今までの祭壇では神が「捧げよ」とされたのですが、今は神様が「受け取ってください」とする祭物がなければなりません。 天倫の決心が内的・外的な決心の実体として現れ、この決心を中心にして家庭と競い、その家庭を復帰しなければならず、教会を覚醒させ国家、民族を覚醒させて復帰しなければなりません。このような場面において自分が暮らしている家庭、社会、国家、教会が、そして自分が願い望んでいるこの世界が、我々を怨讐視することは不可避なことです。 今日皆さん自身は、家庭と社会において迫害を受けています。ところでこの迫害に勝ったからといって喜ばないでください。この後の荒野時代にいろんな困難が襲いかかって、攻撃戦が起こってくるその闘いで、皆さんが倒れては駄目だというのです。天倫の運勢は一度打たれて越えなければならないので、世界的な復帰過程においてキリスト教を打つのです。外的に打ち、内的に打つそんな時が来るのです。第二イスラエルを動員する時代が来たので、霊界が動員されるのです。天にある霊界が動員され、世界的な第二イスラエルを世界的に広げておいて、第三イスラエル民族を建設しているのです。 それではイスラエル民族が荒野でさまよって人が知らない物、他の国の人間が知らない物、誰もが想像できない命の食料を食べたように、今日皆さんはこんな時代に、天が降らすマナとウズラを食べることを知る人間にならねばなりません。今これからは不毛の時が来るゆえに、マナとウズラを求めてさまよう時が来るのです。 今復帰の園を建設すべき時が来たので千辛万苦、肉が裂け骨が砕ける恨があったとしても、天倫のみ旨一つのために「アボジよ! 霊界の千々万聖徒たちよ! 役事してください」と叫ばなければなりません。イスラエル民族は霊界を動員しなかったのですが、我々は霊界を動員しなければならない時が来たのです。ですから皆さんには霊界の協助があるのです。我々食口は、霊界の霊人を呼べば来るのです。ですから今日、神霊役事が沢山起こってくるのです。 我々は自分一身を立て、自分の家庭と民族、世界を動員すべき使命、またサタンをアボジのまえに屈伏させるべき最後の使命が、我々に負わされていることを知らねばなりません。ところで我々がいつ自分一身に対する試験、家庭に対する試験、教会に対する試験、社会に対する試験に勝ったかというのです。このような試験に勝つという覚悟を持ってこそ、天的な使命を完遂することが出来るのです。 神がヨシュア・カレブに強く雄々しくあれとされましたが、今我々にも強く雄々しくあれという時が来たのです。皆さんは手に手を取って、心と心を合わせ、サタンと闘って勝利を勝ち取らなければならない時が来たことを肝に銘じ、強く雄々しくならなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.05
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PeaceTVホームページからのご案内です。現時点で日本語の案内では開始時刻が掲示されていませんでしたが、韓国語ホームページからの確認ではAM10:30からとなっていました。ところで、創立60周年(1961~2021)となる「天苑社」とは何ですか?「天一国経典・真の父母経」巻末の「真の父母様の主要摂理年表」を調べてみました。一九六一 02・11 「図書出版成和社」設立と、韓国の「成和社」が「天苑社」と名称変更していたのか? あるいは、60周年を迎えて新たにそうなるのか? といった60周年記念式のオンライン生中継です。以下はまた、「天一国経典・真の父母経」(P.1042~)からの関連した一文です。み言および摂理歴史の記録真の父母様は、生涯にわたって、多くのみ言と業績を残された。これを保存し、記録、 編纂して、後世に永遠の資料として残すため、成和出版社と歴史編纂委員会、「平一企画」などを設立され「成和」誌や「統一世界」誌など、多くの媒体を創刊 された。一九六一年十一月一日に出発した歴史編纂委員会は、歴史編纂と資料の収集および保管などを担当している。二〇〇四年十月一日に設立された「平一企 画」は、各種の映像メディアを制作してきた。12 今後の新しい文化世界創建のための伝統的資料を、どのように設定するかは、お父様に侍って生きる側近の人たちが重要視しなければならない中心問題です。 今までの責任者たちは、歴史的伝統を知らずにいます。これからの後代の子孫たちにとって、お父様が生きているこの当代、この当時の資料がどれほど貴 いかを知らずにいるのです。お父様の説教集を編成することもそうです。火事になれば、このみ言がすべて吹き飛んでしまいます。ですから、歴史編纂委員会で もそれを知らなければなりません。私たちの行事で重要なものを、一級、二級、三級、四級、このように定めて、これを歴史の伝統的資料として残さなければな りません。 このみ旨は、統一教会だけで動かすことができるものではありません。統一教会を中心として、国家とアジアと全世界に影響を及ぼした、その伝統内容を 編成していかなければなりません。そうすることにより、これから統一教会について調べようとする人がいれば、直ちにここに接して調べることができるので す。この文献を通して、歴史的伝統を追求することになるのですが、その追求する内容は膨大だというのです。自分たちのある一国家や一団体ではなく、世界的 団体と世界的国家が入っていて、自分たちの一つの宗教的な団体ではなく、総合的な数多くの宗教団体が入っています。このようなものを見れば、若者たちは興 奮せざるを得ません。ですから、資料が必要だというのです。13 統一教会員たちは、歴史的資料についてよく知りません。現実と関係を結ぶことや、現在の環境で歩調を合わせることに汲々としているので、歴史というものを 考えることができなかったのです。ですから、説教集を作るように、お父様がすべてしてあげました。奨忠洞(チャンチュンドン)時代の歴史や、梨花女子大学 退学・退職事件のようなことを知らなければなりません。その当時の、転換時期における韓国の実状がいかなるものかを知らなければならないのです。宗教的背 景に従って摂理をまとめてきたお父様は、すべて反対ではなく、和合できるようにまとめてきました。そのように関係を結んでいるのが個人的時代でしたが、家 庭時代に連結できる思想的内容がなければなりません。ですから、説教集が必要なのです。過去、現在が必要です。ところが、過去のことはあまり知りません。 復帰と言えば、旧約時代のエデン復帰派、新約時代のエデン復帰派、その次に、成約時代のエデン復帰派に分かれてくるのです。そのようなことを学問的に整理 できる体系的な基準を立てなければ、関連性をもつのが難しいというのです。摂理史全体を知らないからです。ですから、過去、現在、未来を経ながら、これを 再び補強してあげなければなりません。そのようなことを、歴史編纂委員会でしなければならないのです。14 ある人がいれば、その人には小学校から中学・高等学校、大学まで出てきた歴史があるように、お父様にもそのような歴史があります。お父様がソウルを中心に して活動していた壮年時代が重要なのですが、誰もそのことについて詳しく知りません。一緒に釣りをしに通ったり、魚取りをするために付いて回ったりした 人々の記録は多いのですが、それを連結させられる経験者がいません。歴史編纂委員会で、その人々を中心として連結できるように、インタビューでもしておか なければなりません。新たにしておかなければならないというのです。その人々が、詳細に自分たちの歴史を書かなければなりません。大概は同じ時代ですが、 指示した命令によって、活動した内容が違うというのです。それを時代別に編纂すれば、文化史が出てくるのです。そのように整理しておかなければ、混乱が生 じます。そのためには、すべての材料を再びつくってでも、説明したとおりに結果が連結された事実を総合して、観察できる記録を残さなければなりません。記 録があってこそ博物館を造ることができ、博物館があることによって、補充材料をもってきて、表れていないものを二次的に復元できるのです。現在と過去を連 結するものや、何段階かの証拠物をもって連結しなければならないのであって、突然、十年、二十年飛び越えてはいけないというのです。ですから、材料が必要 です。 それで、日記を書きなさいと言っているのです。船であれば、船に関する日記、車であれば、車に関する日記、どこに行ったかをすべて記録しなければなりません。ここの主流的人物や核心メンバーが誰かなどを綴り、記録をもって博物館のようにしなければならないというのです。15 韓国の歴史編纂委員会は、様々な本を制作できる基盤ができています。電算装置が整っていて、膨大な資料を瞬時に検索できます。「平壌」と打てば、お父様の 説教集、すべてのみ言選集の中から、「平壌」と関連した内容を検索することができます。そのように検索できるシステムができているので、新しい冊子を編集 するのは時間の問題だというのです。一瞬にして抜き取ることができます。そうして、体制を整えて本を作ることができるのです。16 成和出版社では、早急に、お父様が講演したすべての内容をシリーズで編成しておかなければなりません。み言もそうであり、歴史の編纂もそうです。一九五七 年に伝道に行ったときに書いた感想文のようなものを冊子として記録しておかなければなりません。特定事項のようなものを冊子にし、資料が多くあるものを整 備しなければなりません。第一次整備、第二次整備、第三次整備、このようにしておいて、その次には博物館に積んでおかなければならないのです。17 統一教会の歴史を明確にし、統一教会の現在の時点を明確にし、統一教会の未来を明確にしなければなりません。そのためには、お父様が語ったことをすべて整 理しておかなければなりません。いくらすべてのことに通じる人だとしても、お父様の心については分からないのです。生きている間にそれが何のことかをお父 様に尋ねて、答えをまとめておかなければなりません。後代のことを考えるのであれば、そのようなことを考えなければなりません。 み言集は子孫万代の宝物です。財産として譲ってあげなければならない宝物です。伝統を引き継ぐことができない人は流れていきます。いくら騷々しい世の中の環境でも、そこに流れてはいかないお父様です。今、文化時代を中心として、これを整備しなければなりません。18 天の国にも電波があります。天には「天波」があるというのです。地にも「世波」があります。その次に「人波」があって、人間が暮らす実情はどうかというこ とも、インターネットを通して、電波を通して連結するのですが、この電波を統一して送る会社が「平一企画」です。それを始めたので、天の知らせと地の知ら せ、体と心が願う知らせを中心として表題をつくり、生活舞台に近づけるようにしなければなりません。そのためには、芸術分野や技術分野など、あらゆる活動 分野に力を注いで、発展していかなければならないのです。19 音は、独自に出すことはできません。相対的関係がなければなりません。波長は単体では出てきません。相対的関係から出てきます。電波には「天波」があり、 地上にも相対的運動をする存在が波長を出す「世波」があり、心の世界から出す人格教育を中心とした道徳的観念の「心波」があり、そして、体には自分の個人 主義的欲望、自分第一主義を主張する退廃的な思想の「肉波」があります。 「肉波」は、邪悪な世の中で、どれほどよく変わるでしょうか。「肉波」は、世の中を変化させるのではなく、世の中の変化に付いていき、「心波」も霊 界の変化に付いていっています。ですから、「天波」と「世波」を主導する心と体の世界にならなければなりません。したがって、「心波」を完成した波動がイ ンターネットで主流になり、完全に両世界を統括して、統一和合、平和統一をする「平一企画」にならなければなりません。多様な映像世界の実体像をどのよう に感覚器官に反映させ、知覚によって意識構造の世界で悟らせるかというのです。20 コンピューターは秘密の宝箱です。大きな図書館が一つ入っているのと同じです。作業をしながら、何でも抜き出して使えるようになっています。統一教会が社 会的に何か問題になったという場合、放送局を通してそのように問題とする背後を明らかにしたのち、それまでに蓄積された秘密の包みをほどき、原理の根本か ら詳細に統一教会の実像を紹介するのです。そのような競争時代に入ります。そのようになれば、一瞬にして世の中がひっくり返ります。それを今、準備してい るのです。 ですから、最高の施設を造りました。現在の放送局にない最高の施設を備え、いつでもその資料を中心として、質の良いドキュメンタリーを作り、映画の ように編集するのです。これからインターネットを通して、新聞社が競争しながら資料を抜き取って使うことができる最高のセンター(施設)を造るのです。そ のため、日本とアメリカと韓国で資料ができれば、「平一企画」にすべて送るようになっています。ですから、世界のすべての新聞社は、プラグさえ差せば、こ この秘密がすべて流れていくのです。そして、個々人だけでなく、今まで言論界や政界、文化活動を行う世界で「統一思想」を危険視してきましたが、これから 扉が開いていけば、世界はすべて一つの方向に追われていくのです。このような道をつくってあげなければなりません。21 私たちの報道資料は、世界のいかなる新聞社も問題ではありません。「ワシントン・タイムズ」やUPI通信など、世界に広がっている新聞社の組織を中心とし た膨大な資料があるのです。逐一取材して書くのはごく一部です。ですから、その内容のすべてを用いて、APやUPI通信社が報道する以上のものを「平一企 画」で作らなければなりません。 この(APやUPI通信社の)人々は、ある大陸で事件が起きたとすれば、その大陸の中心機関に「あなたたちはどのように考えるのか」と尋ねて資料を 作り、現地踏査もせず、議論をして評価したのちに記事を書きます。私たちは、国連加入国にすべて支部があり、現地踏査や現地でインタビューした内容を中心 とした詳細な報告が入ってくるので、それを記事にして、最高の技術で特別に放送するのです。インターネットを通してこれを放送するようになれば、世界の新 聞本部として、先端本部になるのです。 そのような基準を中心として、原理講義を紹介し、原理の内容を中心として、今まで埋もれていた秘密を知らせるのです。今までは、キリスト教や外部の 世界が、このような内容が明らかになるかと思い、すべて押さえつけて消してしまおうとしました。そのような時代は過ぎ去ったというのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.04
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全天宙は愛の一日を捜してさまよう 一九五八年二月十六日(日)前本部教会皆さんは原理の中に、天宙という言葉があることを知っています。そしてこれは無形世界と有形世界を総合した言葉であることを知っています。 ところで被造世界を創造された創造主や、その創られた被造物やがすべて愛の一日を捜しているというのです。 人間が生きてゆくのに必要なもの 我々人間におきまして最も必要であり、また何よりも急を要する重大な日があるなら、それは神を所有する一日です。その次には真の心と真の体を持つ、真の人間になる一日です。その次には真の物質を持つ一日です。その次には、どんな日でしょうか? それは我々人間になくてはならない愛を持つ一日です。これらのものが今日堕落した人間が生きてゆくにおいて、なくてはならない重要な一日であるのです。 今日自分一身を見てみるとき私には私を中心とする、神と私を中心とする真の人間と、私を中心とする真の善なる物質が必要であり、さらには私を中心としてすべてのものを、団結させる愛の因縁が必要であることを、皆さんは否定することができないのです。 それでは今日皆さん自体をおいて見るとき、皆さんが必要としている神がどこにおられるのか、知っていますか? 皆さんが必要としている真の人間、真の物が、どこにあるのか知っていますか? このような質問を受けるとき、それはこれこれですと自信と実力を持って出る人間が、一人もいないのです。 それゆえ今日ここに集まった皆さん自身の中に、誇る何かがあるなら、新しい心、新しい意識を持ってゆかなければならないのです。でなければ駄目な時がきたのです。今日皆さんは自分に必要なすべての要素を持ってはいないので、人生路程を歩むにおきまして、平安と安逸の生活をすることができず、永遠なる創造理念に対している神の愛を体得して自身の人生を歌い、生きてゆくことができないことを、皆さんは今まで生きてきた人生を通して強く感じるのです。 それゆえ全天宙万象のまえに自身を立てて、誇ることができる何ものも持っていないことを嘆息する時が来たという事実を、皆さんは否定することができないのです。ですからこんな事実が天の哀しみであり、人間の哀しみであり、万物の哀しみであることを、パウロはありありと披瀝したのです。皆さんはこのような哀しみを解怨しなければならない責任が皆さんに与えられ、こんな責任を持ってゆくことが、復帰の運命圏内に生きている皆さんが行くべき人生路程であるという事実を、忘れてはならないのです。 それゆえ今、自らに告げるべき立場に立つ、自分であることを嘆息する心があるなら、皆さんは引きつづく歴史を案じなければならないのであり、この時間以後の未来を案じなければならないのです。 ところが案じなければならない自体をおいて、考えもなくあえぎ苦しむ人間がいるならこれ以上に哀れな人間はいないのです。堕落することによって天地のまえに残された嘆息の条件を、解怨しなければならない運命を背負った人間が、自身の位置を悟ることができず、万象のまえに恥ずかしい姿をさらすとき、これを見やる神の心情がどうでしょうか? ここにおいて皆さんは、神様に嘆息を増し加えている恥ずかしい姿であることを、悟らなければなりません。 人類の究極的な所望 それではこんな相反する環境を踏み越えて、全天宙の嘆息を代身して責任を負うと、堂々と現れる一人の忠臣の姿がどこにあるのか! 人類に所望があるとしたなら、このような一人の忠臣になることです。 それでは我々がこのような忠臣になるためには、どうしなければならないのか。今日我々に必要な、神と真なる人間と、真なる万物を代身して、これを一つに一致させ、神のまえで愛を語りあえる存在にならねばなりません。 今まで我々人間が摂理歴史過程を経てきて、神様にさまざまな祈祷をしてみ旨を受けて来たのですが、神の心の底に深く染みている怨恨を解怨して愛を語りあえる場には、未だ誰一人として至っていないということを、皆さんは知らねばなりません。イエス様がこの地上に来られたのですが、人間がこのお方を通して実地に神と愛の関係を結べなかったので、このお方は再び来なければならないのです。 イエス・キリストは四千年の復帰の歴史を、完成させるべき使命を持って来られたのですが「人間が神の愛と因縁を結んでいるか」と反問されるとき、誰も「そうです」と答えられる立場に、立っていなかったのです。このような我々ですから、哀れといえばこれ以上に哀れなことはなく、嘆息するならこれ以上に嘆息することはないのです。 それでは今日皆さんは、自身を立てて誇る何を持っていますか? 知識を持っていますか? 皆さんが持っている知識は天地万象の原理原則に比べてみれば、極めて微々たるものです。二〇世紀文明がどんなに発達しているとしても、一つの絶対的な原理原則を成立させ得ない圏内に留まっているのです。それゆえ我々に誇る材料があったとしても、これを再分析すべき新しい時代が近づいているという事実を、皆さんは感じなければならないのです。 それでは天が歴史的な運命を望み見、時代的な運命を望み見、未来的な運命を案じて、私自身を捜し求めておられるなら、こんな天のまえに私自身を立て、また私自身を誇ろうとするなら、皆さんはまず天を所有することができる人間にならねばなりません。真なる人間にならねばなりません。また真なる万物に対することができる人間にならねばなりません。これが重大な問題なのです。 そして皆さんは神様が天地万物を創っておかれ、アダムとエバにこれらを主管せよとされた、その主管の資格を得て「お父様が願われたこと、お父様が祝福して下さったことがこれであることを知りましたので、あなたの天的な愛の因縁に結びつけてください」とすることができる一人の姿が、今まで摂理されて来られた神の最高の目的であり、摂理のみ旨を立てて今まで苦労されて来られたイエス・キリストの最高の基準であることを、はっきると知らねばなりません。 ところでどうして人間は現在のような状態に至ったのか。それは、人間の堕落のためです。今日の人間は、堕落人間の後孫であるので、堕落した様子と形式を逃れて生活する人間は、一人もいないのです。個人の堕落した生活が合わさって、世界的な堕落性を成していっているので、これを蕩減して除去するためには、世界的な堕落性をぶち壊す一つの原則が出なければなりません。 堕落とは反対の方向に、人間を導いて行くことができる原則が出るまでは、人間がどんな善の理念、どんな真理を主張したとしても、これは我々人間の所望、また根本的な喜びと関係を結ぼうにも結ぶことが出来ないことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 それでは堕落歴史の絆を断ち切れない堕落の後孫である我々が、追求しなければならないことが何であるか? これは全天宙の理念を代身することができる人格と、全万物を主管することができる価値を持つ、真の人間になるということです。また、我々が神の愛を苦待しているとしたら、忘れてはならないことが何でしょうか。これが何であるかといえば、我々は堕落の血統を受け継いだ宗族であるという事実です。 そして皆さんが自身の心の奥に、堕落の根性が居座っていることを感じたなら、今まで考えたこともなく、推し量っても見なかった新しい何かが現れるという事実を、知るようになるのです。今皆さんは被造物として、あるいは全宇宙を代身した人格者として、神のまえに出て「私は堕落の宗族です」と訴えなければなりません。こんな祈祷の一時がなければ、皆さんは未だ天宙のまえに残っている嘆息圏を逃れることはできません。 堕落と不信によって失われたもの それではアダムとエバの堕落は、何を意味しているのか? それは神を捨てたことであり、本然の理想的な人間性を失ったことであり、善主権の環境を失ったことを意味するのです。言い換えれば、神を失い、真の人間を失い、真の物質を失ったのです。その次には神の御言を失い、神の愛を失ったのです。これが堕落であったのです。ところで人間はこんな結果を、越えることが出来ないでいるのです。 今我々はこれらのものを反対の方向から収拾して、開拓するための闘いをしなればなりません。皆さんがこんな闘士にならなかったなら、歴史的な罪悪圏と、天の摂理に反対するサタン圏を、逃れようにも逃れることが出来ないことを知らねばなりません。 人間は堕落することによって神の懐から外れ、本然の真の人間性から外れ、真の宇宙圏から外れてしまったのです。これを再び回復するための歴史が神の再創造の歴史であり、今まで苦労されて来られた神の摂理なのです。 第一アダムが堕落したことによって、怨恨が結ばれるようになったので第二のアダム、即ち復帰されたアダム格として来られたイエス様は、どんな事をされなければならなかったか? まずイエス様自身の心に神が来るようにしなければならず、自身の体に真の人間のみ旨を持たねばならず、真の主管者にならねばなりませんでした。こんな実体として来られ、天的な愛を証し、人間的な愛を証し、万物の情までも証して一つに統合させることができる、一人の主体としてイエス様はこの地上に来られたのです。 ですからイエス様はこの地上に来られ、心の天国を主張されたのです。そして神が自身の心の奥にいるとして、神と一致している自身を主張したのです。また全宇宙が自身の主管を受けなければならないとされたのです。そして全人類に対しては愛の標語を掲げ「わたしは神の息子であり、あなたがたはわたしの友であり、兄弟」とされたのです。 皆さんはこの御言に、メシアとしてのイエス様の価値が盛られていることを、知らねばなりません。 イエス様には自分自身を中心に家庭を動かし、社会を動かし、民族、国家、世界、さらには天宙までも動かす使命があったのですが、イスラエル民族が背反し、教会が背反し、選ばれた洗礼ヨハネが背反し、家庭が背反したのです。 それでイエス様は自ら使徒たちを立てて彼らを足場として、世界的な第二イスラエルを形成して、世界的なカナン復帰の理念を実現されようとした事実を、皆さんは原理を通してよく知っているのです。当時イエス様は、十二支派に形成されたイスラエル民族が反対したので十二支派型が壊され、モ-セが造っておいた足場が失われ、ヤコブが成しておいた十二兄弟を中心とする足場が失われて、十二弟子のみを連れて出て行かれたのです。 第二イスラエルの創立者として、先頭に立たなければならないイエス様でしたから、ヤコブの十二子息のような十二使徒たちが崩され、再び遡ってノア家庭の形態を取らなければならなかったので、ノアの三人に息子の型である三弟子を連れて、ゲッセマネの園をさまよったのです。しかしこの三弟子までがイエス様と一つになることが出来ず、イエス様は堕落当時のアダム家庭へと落ちてしまったのです。これがイエス様の姿であることを、皆さんは知らねばなりません。今日キリスト教徒は、これをよく知らないのです。またイエス様が無知な人類の為に祈祷されたことと、イエス様の哀しい心情を知らないでいたのです。 世界を主管する主人公として、世界人類に神の心情を教えなければならないイエス様、万物を主管すべきイエス様なのですが、彼は洗礼ヨハネから排斥され、自身の家庭から排斥されたのです。 こうしてイエス様は世界的な足場を失ってしまい、民族的な足場を失った哀れな姿になってしまったのです。こうしてイエス様は、堕落したエバによって新婦を失ったアダムのような立場になってしまったのです。 堕落しない真の父母を失った人類のまえに、真の父母として来られたイエス様であったのですが、子女として立てた三弟子まで失ってしまって、イエス様はエバを失ったアダムの立場になったのです。それでイエス様はこの地上に、新郎・新婦という名詞を残しておかれたのです。このように切ない事情に処しておられたイエス様であったことを、皆さんは知らねばなりません。 そしてイエス様は世界を統合することができる御言と、イスラエル十二支派を代身する世界的な第二イスラエルであるキリスト教信者を統合することができる御言と、天倫のまえに立つことができる個人的な法度と社会倫理と、家庭の制度に関する御言を、すべて伝えることができずに逝かれたのです。これがイエス様の、最も大きな哀しみなのです。 しかし今日人間たちは、このような歴史的な事実を知らないでいます。そのうえ神を信じるというキリスト教徒までも、知らないでいるのです。このような人間たちを見やる神様が、どうして嘆息しないでいられるでしょうか。イエス様当時にユダヤ民族を第二イスラエルとして祝福され、第二のカナンを建設させようとした神の計画が駄目になることによって、神の哀しみはさらに加重されたのです。 再び来られる主様に必要なもの それではイエス様が地上に再び来るなら、どこの誰に来るのか? イエス様は堕落した人間世界に、ただ一度訪ねて来るのではありません。復帰の路程を経て来なければならないイエス様ですから、ノア家庭とアダム家庭の段階を越えなければなりません。 こんなイエス様の事情を引受けて世界まで行くべき歴史的な運命の過程が、今日の信仰者たちの背後にあるのです。しかし今日の信仰者たちは、これを知らないのです。これを知らなければ、イエスをよく信じたとしても、彼を迎える道がないのです。 再び来る主様は、世界の主人公として来られるのです。しかし再び来る主様に、まず天を中心とする家庭がなければならず、宗族がなければならず、民族と国家がなければなりません。それでこそ、世界の主人公になるのです。これが原則です。 今日キリスト教が、世界を復帰しようとされる主様の理念を代身するならば、世界的な足場となるイエスを中心とする天の家庭があるかということを、まず考えてみなければなりません。イエスを中心とする天の宗族、天の教団を得て、民族的な観念を超越することができる基台を造成して、世界的な足場を成しておかなければ、イエスがこの地上に再び来ても、悲しみのイエスにならないと、誰が言えるでしょうか? 歴史的な事実がこれを立証していることを、皆さんは忘れてはなりません。 天地の運勢は、皆さん自身を経て来ているのです。皆さんが知ってか知らずか、民族が知ってか知らずか、国が滅んだり興ったりしている間に、ありったけの曲折の路程が皆さんを経て行っているのです。 イエス以後二千年の歴史過程を摂理された、神のみ旨がどんなものであったのか。イエス様を通して、全体の天的な理念を代身することができる中心を立てて、この地上に真の愛を実現させることが正に神のみ旨でした。しかしイエス様が十字架に逝かれることによって、このようなみ旨が完結できなかったので、このみ旨を完結させなければならない使命が、地上の人間に残っているのです。 それでは今、皆さんはどうしなければならないか。イエス様を失ったゆえに、天の側に属する真の人間、真の万物を所有している真の指導者を、再び送ってくださいと天のまえに訴えなければなりません。 第二アダム格として来たイエス様を殺したがゆえに、人間はまた再度、神の心中に秘められた御言を持って来る主様、天国の人格を代表して天国を建設しようと来られる主様、万物を主管することができる資格を持って来る主様が必要なのです。これが人類の希望であるのです。 今我々は、我々人間を立てて摂理される神のまえに、体面を立てることを知らねばなりません。でなければイエス様がこの地上に再び来られても、我々はそのお方に会うことができません。その次に皆さんは、イエス様がこの地上に来られたとき、イエス様を受け入れなければならない人間たちが、イエス様を逝かしめて第二次の堕落をする立場に陥ったことによって、また再び神を捨て、天国を捨て、真の人間を捨て、満宇宙を捨ててしまったということを肝に銘じて、常に主様を信じて受け入れなければなりません。 新時代の主役たちがすべき事 それでは今日の信徒たちは、何をしなければならないのか。最も重要なことはイエスの愛を通して天国を建設することです。それでは天国はどこから始まるのか。それはイエス様の愛と人格を知って、イエス様が主管される万物の主管権を知るところから始まるのです。イエス様の愛と人格、万物の主管権を知らない人間は、神を求めないようになっているのです。 我々がイエス以後の二千年の歴史を回顧して見れば、数多くのキリスト教徒たちが神を再び捜し求める運動をしてきたことを知っています。それで激しく迫害したロ-マがキリスト教を公認するに至り、ついにはロ-マに法王庁を立て、法王権を中心とした政治をするようになり、さらには封建社会を形成していったのです。 ところが中世に入り、再び法王庁が腐敗して人本主義の思想がキリスト教に入ることによって、中世以後のキリスト教徒においては、神を捨てることが起こるようになったのです。即ち、多くの人々が人本主義の思想によって流されてしまったのです。こうして啓蒙思潮を経て結局、唯物史観が現れたのです。 これは人間の理性を重視する合理主義と経験主義の哲学思想を根拠としているのです。それで世界は今、唯物史観と資本主義の思潮によって、物質の価値を重視する物質万能主義が横行する世界に転落してしまったのです。 イエス様は天のみ旨を代身して、全体の摂理を統合する使命を負い、第二のアダム格としてこの地上に来られたのですが、我々の先祖たちがイエス様を排斥することによって、最悪の歴史路程を逃れることが出来なくなったのです。こうして神を求めず、真の人間を求めないので、真の物質を捜し求めないのです。それでどんなに真の人間を求めようとあがいても、求める道がないという状況になってしまったのです。 それでは中世の封建社会を、誰が崩壊させたのか? 天が崩壊させたのです。神はロ-マ法王庁を中心にみ旨を成そうとされたのですが、その法王庁が腐敗してしまったので、これを壊されたのです。天を信じる人々がむしろ天倫のみ旨に背反したので、人本主義の思想を立てて、彼らを打ったのです。 そんな中で神様は摂理の起点を失わないために、天を案じる一人の人間、ルタ-を中心にして宗教改革を起こしました。このように神様は片方は壊し、片方は立てる摂理をされたのです。そしてキリスト教を通して第二のイスラエル型を経ていって文芸復興を経て、一大混乱をたどった後で、人本主義的な理性の哲学を中心とする啓蒙思想に敵対してゆく摂理をされてきたのです。 啓蒙主義者であるヴォルテ-ルやルソ-、モンテユスキ-のような人々はキリスト教が破滅すると知っていたのです。ところがドイツで清廉な人物たちが出て、神秘性をうたって神の実体的な内的体験を主張したのです。これが英国を経て、ウエスレ-兄弟の復興運動を起こしたのです。のみならずクエイカ-教派を起こし、神秘的な内的体験をするようになったのです。 反面、人間は神を愛することを忘れ、人間を愛する理性も忘れ、物質を愛することだけを知る、唯物思潮的な主義にまで至ってしまったのです。堕落した人間であっても、必ず本然の立場に帰らなければならないので、いつの時かは、この物質を中心とする思潮を打つ時が来るのです。 今日は神を中心とした中世も過ぎて、理性哲学を中心にして支配した時代も消え去り、十八世紀に成立した唯物思潮を中心とする、唯物論的な理念も光を失っている状態です。これからの世界は人間が物資を愛しても満足を得ることができず、過去の歴史的な人間の教えに従っても、現実の問題を打開することができない、そんな悲惨な世界です。ですから物質的な生産力を通して、社会の反映を指向する共産主義の理念をもっては、到底世界を支配することは出来ません。 ですから二一世紀を契機として、我々のまえには原子力時代を迎えて、物質文明の世界的な支配を破壊させる時代が来るのです。その次には、どんな時代が来るのか? 愛を求めて愉む時代が訪れるのです。互いの為に与える時代が、我々のまえに訪れるのです。 ですから皆さんは近づく愛の時代に、宇宙万象のまえに晴々と胸を張って出るために、歴史的なすべての価値を総合して、統合させることができる中心的な存在として、使命を担う賢明な人々にならねばなりません。 そして皆さんは堕落したアダムとエバの路程を経るべき境遇であり、第二のアダムの時代的な使命を継承すべきなのに、そのような資格を持っていないことを知らねばなりません。さらには今日の歴史は、人間の堕落によって失った神と、真の人間と、真の物質を捜し求める歴史であることを、知らねばなりません。 堕落の原因と歴史発展の究極的目的 それではアダムの堕落はどうして起こったのか? 神が許されない、左右横から入ってきた不義なる愛の誘惑に引かれて、天倫を破壊したところに始まったのです。我々が生きてゆくにおいて、エデンの園で起こった天使長的な形態が、多く現れるのです。正道ではないものが、正道のふりをする時代を経ていっているので、ここに愛の混乱時代を免れることは出来ないのです。 神の摂理は反対経路を経て、逆に役事されてくるのです。六千年の歴史を今日の我々が振り返って見れば、旧約時代は物質を求める時代、即ち、物質を祭物にして神のまえに出てゆく時代であり、新約時代は真のアダム格であるイエス様を祭物に捧げた時代であったことを知るのです。 そしてこれからの成約時代は、すべての人間が神のまえに実体祭物になって、全万物を統合することができる基準を越えて、愛を支配する時代になるのです。 ところが世の中の外的な面は打って無にしてしまい、内的な面を捜し立てる形態へと、神の摂理は現れているということを、今日のキリスト教徒たちは知らないでいるのです。言い換えれば、歴史の外的な面は打って、内的な面は受入れる神の内的摂理の内容を、知らないでいるのです。 それでは神様が六千年の間、摂理されて来たことは何を捜し求めるためでしょうか? 神と人間とを結ぶ永遠の約束の御言を捜すためなのです。この御言は父子の関係を結んで一つになれということです。 皆さんは原理を通して人間の堕落は、非原理的な不倫なる情緒関係が原因であったことを知っています。ですから終わりの日に面している皆さんは注意しなければなりません。どんな男性であっても、ひょっとして誤って二人の女性に相対する立場に立てば、女性はここに巻き込まれやすいのです。 それではこれをどのように収拾して防ぐのか。このハンドルをどのように回すのか。これが問題です。 無限動力を中心とする物質文明の時代は来ているのです。一番初め、人間には生食時代があり、その次には火食時代を経て、次には水食時代、即ち水の栄養を取る時が来るのです。これから科学的食料によって、我々の健康を充分に保つ時代が訪れるのです。我々人間の努力が必要な時代は越えてゆくのです。 この時、我々は何をするのでしょうか? この時に残るものは芸術文化であり、我々は美と愛の道を求めてさまようのです。これは良い事です。 しかし人類が天理法度に外れて、この道を求めてさまよったなら、結局はどこに行き、どのようになってしまうのか? これは今日、宗教を尊ぶ人々が案じなければならないことです。 現代の文明は世界の真相を知らないで、あえぎ苦しむ宗教が必要ない段階にまで来たのです。ですから今日、宗教は人間たちが行かないとしても行かざるを得ない、そのような道を提示しなければならない使命を負っているのです。二千年の歴史を回顧して見る時、数多くの革命がありました。人類はこの革命の過程を経ていって、一つの統一世界を指向しているということを、皆さんは知らねばなりません。 神の愛を中心とする正義の世界 人間には知、情、意があることを考えるとき、人間を創られ、全天地万物の主導的な主人公としておられる創造主は、より高次的な原理法度を通す知、情、意の主体であられることを知るのです。そして歴史を探って見れば個人から家庭、家庭から宗族、宗族から民族、国家、世界へと拡大していっているのです。またこのような外的な型を経て、内的な思想及び観念を優先する時代へと入って来ているのです。 人間個体におきましても、外的な面を経て、内的な精神面に向かっているのです。精神が主導的ですから、この精神を統一してこそ、一つの価値性を捜し立てることができ、そのようになれば統一的な目的に向かって正しい行路を歩むのです。 世界もやはり同じことです。世界にも世界認識がありますから、一つの帰結点である精神統一のために、世界を一つに束ねることができる世界構造が出てくるのです。これが正に今日、民主と共産が対立して闘っている姿です。この時は霊界と天宙を創造された神様が、天宙の統一理念を実現されようとされるので、霊界の理念と地上の理念が相反してぶつかるということを、皆さんは知らねばなりません。 地上においても今まで優勢な民族と劣等民族が、闘いの歴史過程を経て一つの世界観を中心として、一つの世界へと行っているのです。これから霊界のすべての霊が、全部地上に再臨する時があるのです。そのようになれば地上では大きな混乱と、あらゆる衝突と闘いが起こるのです。そのようになる時皆さんは、このような事が天が願っている方向に帰結するようにする、主導的な役割をしなければなりません。そのためには神の心情と、天倫の理念を代身する、資格者にならなければなりません。これが神の歴史の終わりに願う所望ですが、今日のキリスト教ではこの所望を果たすことが出来ないのです。 今までの歴史過程を経てきて数多くの革命がありましたが、人間の情的な問題をおいて革命があったことはありません。社会と国家のすべての構成体制は時代を経ていって、革命の要素が芽生える時にこれを押し流すことができず、むしろそれらから革命を受けてみな壊されたのです。 しかし人間の父子の間の情、夫婦の間の情、兄弟の間の情だけは、未だに革命されたことがありません。ある倫理や道徳、ある哲学や理念は革命過程を経て来たのですが、情的な愛の問題においては、革命を起こすことが出来ないのです。 それでは今日皆さんは、この情的な問題を持って、天のまえに立つことができる真の父母になっていますか? 真の夫婦になっていますか? 真の子女を持っていますか? そうではなかったならば、天倫に引っ掛かるのです。 ですからイエス様はこの地上に神の愛を持って来られ、その愛を示して自身を神の息子であるとされました。イエス様が神と結んだその愛の因縁は、今日まで誰も壊すことができません。この地上にサタンの勢力がどんなに強くても、これを壊すことができないのです。またイエス様は「あなたがたはわたしの新婦であり、わたしの兄弟」とされたことを壊すことはできないのです。 このような基盤がありますから、キリスト教は歴史過程を通して発展してきたのです。こうしてキリスト教は天国の中枢になることができ、一つの人格を通す天情を代身する家庭形態を成すために、歴史過程を通して発展してきたのです。 どんなに強大な権勢を持ち、博学者の地位を持っていたとしても、天との情的な因縁を持たない人間は哀れなのです。それでこのような原則を知る人々は、イエス様に対して感謝であると考えるのです。もしもイエス様がこれを主張しなかったならば、人間世界はどのようになったでしょうか。暗黒の世界に変わったのです。不信と闘争、反目と不和の世界に変貌するのです。 ですからこの地上には神の愛を中心にして、人間の情的な分野が一つになり、新しい実証的な愛の世界が建設されて初めて、和平の時代が到来するのです。従ってこの宇宙終末時代に処する皆さんは、理性的な問題において、自分を中心にしてはいけません。そして自分よりも家庭をより愛し、家庭よりも民族・国家・世界をより愛し、世界よりも天宙をより愛するという心を持たねばなりません。今までの歴史過程において求めたすべての、人間的な経倫と天的な経倫が、この終末時代に一〇〇%結びついてこそであります。 こうして今、自身が今まで持っていたすべての情的な問題を捨て、新たに出発できる喜ばしい報せを聞くことを願う時がきたのです。二千年前イエス様が、誰よりもわたしを愛せよ、とされたその御言がこの終末時代に再び現れなければなりません。人間の理性を尊重する時代を経て、物質の時代を経たので、今は愛の時代が到来したのです。 ですから今は人間の情的な問題、愛の問題を解決することができる天の御言が必要なのです。このような時が来たのです。 神と愛を授け受けようとすれば 今までの人間は歴史過程を通して、プラス的な理念のみを追求してきたのですが、それではいけないのです。天はプラスであり、人間はマイナスと同じです。それで宗教においては、人間は傲慢であってはならないとします。また自分を愛してもいけないとします。自分のすべてのものを否定して、さらには自分の体も打つのです。これは天がプラスなので、人間がマイナスになってこそ、互いに授け受けするからです。 プラスとプラスは相反します。互いに反発して憎むのです。サタンが何であるかというと、神がプラスの立場であるのにマイナスの立場に立たないで、プラスの立場に立ったということ、これが正にサタンなのです。前に言ったように、修道の生活においては禁欲主義を叫んでいます。これはサタンの側、即ち悪に属するプラス的な面を打って、マイナス的な立場に転換させるためであるのです。 体を打つことは、体がマイナス的な立場に立たべきなのに、プラスの立場に立とうとするので、これを打ってマイナス的な立場に返して、天(+)と完全に授け受けるするためなのです。従って皆さんも、自身の体を主とするすべての条件を除去しなければ、完全なるプラスである天のまえに、完全なマイナスとして立てません。 全天宙はこのような存在が、この地上にすぐに現れ、神と永遠なる愛を授け受けする愛の一日が来ることを苦待していることを、皆さんは肝に銘じてください。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.03
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神の選民である選ばれたイスラエルになれ一九五八年二月九日(日)前本部教会皆さんとしばらくの間考えてみる御言の題目は「神の選民である選ばれたイスラエルになれ」です。「神の選民である選ばれたイスラエルになれ」という題目でしばらくの間、お話しします。 創世記にはヤコブがひどい苦労の路程を経た後に、天を代身して試みを受けた内容があります。 ヤコブはその試練の過程で、自分がイサクから祝福を受けた選民であるということを心に抱いて、そのみ旨をさえぎろうとする天使と、最後まで闘ったのです。それで勝利して神が許された選民圏内に入ったということを、我々が知っているのです。ヤコブが神のみ旨を中心として、あらゆる逆境と闘って勝利した者として、神が許されたのが「イスラエル」という名詞です。今日我々はイスラエルという言葉を、沢山使っています。 ところでこれは単純な名詞として、残っているのではありません。この言葉は歴史的な生命を代身している名詞であり、天と地を復帰するための、アダムからヤコブまでの二〇〇〇年の歴史を終結させる勝利の名詞であることを、我々は忘れてはなりません。また神がヤコブを立てて、イスラエルという祝福をされる時、喜びがあったということは勿論ですが、反面悲しみもあったという事実を、我々は悟らなければなりません。 ヤコブを苦労させた神のみ旨 神様がヤコブを捜し求め、数千年の間苦労されて摂理されてきたことは、ヤコブの祖先であるアダムが堕落したからです。アダムが堕落することによって、神様がされようとした祝福を失ったのです。それでその祝福を再び求めたのですが、失った神の祝福を再び捜し求める歴史過程には、言葉にもならない哀しい事情があったのです。ヤコブをイスラエルという名で祝福された神には、こんな哀しい心情があったということを、皆さんが知らねばなりません。 神がイスラエルという祝福の御言をくだされたことは、ヤコブ一代だけに許された御言ではなく、全創造の理念と理想を代身した御言であり、神の全体心情がこの一言に込められていることを、皆さんは知らねばなりません。 ですからラバンの家に行って数十年間、苦労して疲れたヤコブ、神が許されたカナンの地を立てるための困難な路程を経たヤコブは、イサクが手をのべて祝福した天のみ旨を実践する場において、自分が持っているすべての財物を失っていって、エドムの地のエサウを訪ねたのです。 ところが訪ねた故郷は、自分一代に幸福を与える本郷ではなく、喜ばしい場ではなかったのです。懐かしい故郷と兄を訪ねたのに、心配と苦労をしなければならない事情に直面したのです。これはヤコブ一身だけの事情ではなく、全人類が歩むべき路程であることを見せてくださったという事実を、皆さんは忘れてはなりません。 故郷を訪ねたその前には、ヨルダン川が横たわり、ヤボク川が立ちふさがっており、許された祝福の地を前にして、夜の眠りもままならず、涙を流して祈祷しなければならなかったこんな事情は、先祖たちが残していった事情であり、天倫の摂理をされるアボジの事情であったことを、ヤコブは誰よりも骨身に感じたことを、皆さん知らねばなりません。このような事情は、ヤコブ一代においてのみの事情だはなかったのです。選民イスラエル民族が歩んだ歴史路程であるのみならず、神のみ旨に対して現れたすべての我々の先烈たちは全部、このような心情を抱いてアボジの懐にとび込むために、暗闇の障壁を前にして闘いの峠を越えなければならない事情に面したことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。 それではイサクの手を通して祝福された神、すべてのものを捨てて故郷に帰れと告げた神様は、どうしてヤコブを案内して行く道を平坦にしてやらず、またヤボクの川岸で夜を明かして天倫のみ旨を抱いて、切ない心情で天のまえに訴えるヤコブに、励ましの御言をかけてあげるどころかむしろ天使を送ってヤコブを打つという、そんな非情な環境においたのか! 言うこともできない事情、人間が知るべくもない切ない曲折の心情がここにあったということを、今日我々は忘れてはなりません。このように神が許された故郷の山川を訪れたヤコブの道は、荒野の道であったのです。今日我々が歩んで行く路程にも、こんな曲折があるということを、ヤコブの路程を通して悟らなければなりません。 それではどうして天は、このような環境を提示しなければならなかったのか。人間一人を選んで立てることも勿論、神の摂理のみ旨ですが、背後のサタンを押し退ける足場を造ることが、さらに重要な摂理のみ旨なので、人間の知らない、神とサタンが知る見えざる世界の曲折の垣を、人間を通してつき崩さなければならないそんな曲折があるので、これを壊すことができる条件を立てるために、ヤコブに無理な行動を天は提示せざるを得なかったのです。これを皆さんは知らねばなりません。 ヤコブには祝福を受けたその日から、エサウがいる故郷の地に帰ってくるときまで、喜びの一日がなかったのです。これは何を我々に見せてくださるのかといえば、神のみ旨を代身して神の祝福を受けた者がいるなら、彼は天地のまえに一つの祭物の立場でこれに判決を下す時までは、憂愁の生涯路程を経て行かざるを得ないことを、見せてくださるのです。 このような歴史路程が残っているので、今日皆さんが神の祝福に責任を負ってゆくというとき、ヤコブのように怨讐の世界にも訪ねて行かねばならず、難しい環境と独り闘う、闘いの路程も歩まなければならないのです。 このような闘いの路程においてヤコブが疲れて倒れたなら、彼にはイスラエルという名は与えられなかったのです。イスラエルの名を通した祝福の恩賜が、ヤコブとは関係ないのです。しかしヤコブがイサクの手を通して下された祝福を成すために、どんな苦難と難関にぶつかってもこれを克服してゆくという燃えるような心情を持って、天に対して忠誠であったので、ヤボクの岸に現れた天使との闘いに勇猛果敢に闘い、勝利の足場を築いたことを、皆さんは知らねばなりません。 ヤコブが受けた「イスラエル」の内容 このようにヤコブは天が許した御言を中心に、生命を失う恨があったとしても、これを失わないために凄い闘いの道を歩んだ代表的な天の精兵であることを、皆さんは知らねばなりません。 それではこれは何を預告しているのか。我々の先祖であるアダムとエバが所望の一日を迎えるために最後まで御言を守らなければならなかったのに、彼らはそうはできなかったのです。この一つの事実を蕩減するためには、アダム以上に神の御言を死守する存在がなければならないのです。ヤコブが正にこんな人物として天のまえに呼ばれたことを、皆さんは知らねばなりません。 こんな立場に立ったヤコブ、天の試練を受ける立場にあったヤコブは、一時も心をゆるせなかったことを、皆さんは知らねばなりません。彼は神の祝福の御言を固く信じ、闘いが終わるまでは腕が抜ける恨があっても退かないという、固い信念を持っていたのです。このように闘って勝利した後にこそ、祝福が臨んだのでした。これがイスラエル選民の勝利の基礎になったということを、皆さんが忘れてはなりません。 それではどうしてヤコブが、こんな立場に立つようになったのか。それは人間祖先、アダムとエバが神の御言に不信して、神に背反したために彼の後孫たちは、神様が自分を捨てられる恨があったとしても、この御言を中心に最後まで神を信じなければならなかったからです。ヤコブはこんな立場で御言を中心にして最後まで信仰を守ったので、サタンのすべての讒訴条件を越えることができたのです。 ヤボク川の岸で徹夜していたヤコブに、神を代身して天使が現れなかったなら、ヤコブはサタンの試練を受けるべき立場に立つのです。神はサタンが讒訴できないほどに信じることができ、その御言を中心に闘うことができる代表的な人物として現れるために、ヤコブに天使を送って夜通し相撲を取らせたのです。 ヤコブは一人の人間として、天使を問題なく退けるために死ぬ恨があっても、自分に与えられたこのみ旨を成すという、心を抱いて闘ったのでした。このようなヤコブのまえにサタンはあえて讒訴の条件を示すことができず、どんな弁明もできませんでした。こんな勝利がヤボクの岸でなりましたので、天は第二試験の対象であるエサウを感動させ、ヤコブのまえに屈伏させることができたことを、皆さんは知らねばなりません。 このようにヤコブによって立てられたイスラエルという名と、ヤコブによって立てられたイスラエルの基台は、一代だけの祝福の対象として成立したものではないのです。ヤコブを通して個人的なイスラエルが始まり、ヤコブを通して家庭的なイスラエルが始まり、民族・国家・世界的なイスラエルを形成するためのイスラエルの名であり、イスラエルの基台なのです。こんな神のみ旨があったということを、ヤコブの後孫たちは歴史路程を経ていって感じ、信じなければなりません。 ところがヤコブの後孫たちはヤコブによって自分たちにまで及んだ祝福を、ただ自分たちのものとしてのみ信じ、行動してきたのです。それで選ばれたイスラエル民族は、今日この地上にその事跡を現すことができないでいるという事実を、皆さんはよく知らねばなりません。 民族に対するモ-セの愛と彼が歩んだ苦難の路程 ヤコブがハランで家庭を形成して勝利したのですが、また越えなければならない峠、即ちヤコブ家庭における、天使との闘いがあったのです。これをヤコブの後孫たちは知らなかったのです。即ちヤコブの後孫たちはエジプトに入って、四〇〇年間パロの懐で、民族的な試練を経なければならなかったのです。このときモ-セが現れ、イスラエル民族を再び収拾して、昔ヤコブから約束されたカナンの地を、回復すべき責任を背負ったいったのです。 ヤコブ一代で造られた勝利的イスラエルの足場のような、民族的な勝利の足場をイスラエル民族は、エジプトにおいて持たなければなりませんでした。即ち、イスラエル民族はエジプトで疲れるだけ疲れて、ヤコブがヤボク川の岸で天使と闘って勝利した足場を、怨讐の国において立てなければならなかったのですが、これを立てられなかったのです。言い換えれば、イスラエル民族は団結して、民族的な天の試練と情を通過しなければならない立場に立っていたという事実を、忘れてしまったのです。 こんな立場に立っていた民族を再び収拾するために、天はモ-セを立て、民族を代表してパロ宮中で四〇年間の準備をさせ、ミデアンの羊飼の生活四〇年の路程を経ていったのです。選民イスラエルの祖先であるヤコブが昔、ヤボク川の岸で成したその祝福を、エジプトにいるイスラエル民族が成すことができないでいるので、彼らを再収拾するために、モ-セはヤコブのような民族的な路程を歩むために、荒野に去って行ったのでした。 ヤコブがエサウの祝福を再び受け、ハランの荒野を訪ねて行ったように、モ-セもイスラエル民族を代身して、神からの祝福を再び立てるべき責任を担ったのです。このようなモ-セが、同族同士が一つになれずに争うのを見て憤激し、また民族が異邦人のまえに屈辱を受けているのを見て、その異邦民族に対抗して命を懸けて闘っていったのでした。 こんなモ-セの後に従って、エジプト民族に対抗しなければならないイスラエル民族がむしろモ-セを押し退ける立場に立ったので、これはちょうどヤコブが神の祝福を受け、自分の故郷を去って行ったような立場だったのです。また、ヤコブが祝福を受けなければならない家庭を去り、サタン家庭へと行ったように、モ-セも祝福されるべきイスラエル民族をエジプトに残しておいて、ミデアンの荒野生活四〇年の路程に出て行ったのです。 このようにモ-セが荒野に向かって去った事実は、モ-セ一身のみの問題ではなかったのです。 それではどうしてモ-セは、こんな路程を歩まねばならなかったのか? これはヤコブが神の心情を代身して築いた、勝利の足場がなかったからです。そしてこの足場を民族的に再び築かなければならない責任感を、誰よりも切実に感じるモ-セだったのです。 怨讐の懐で苦役をなめるイスラエル民族のために、誰よりも懇切に祈祷したモ-セ、一日一時であろうと苦役の路程にあるイスラエル民族を、忘れることはなかったモ-セの心情を、皆さんは骨に徹して感じなければなりません。 羊飼として、荒野で寂しい生活をする自身の事情が惨めであっても、自分の惨めさを忘れ、エジプトの地で怨讐にいじめられて苦労しているイスラエル民族を見やり、同情の涙を流したモ-セであることを、皆さんが知らねばなりません。こんなモ-セの寂しい事情と心情が天に染みて、モ-セが天のために案じ、選民のための代表的な兄として現れたので、神はモ-セを再び呼んでパロの宮中へと送られたのです。 これはちょうどヤコブがエサウを恐れて、二一年の間ラバンの家で苦労した後、自分のすべての所有物を持って、エサウがいる所に訪ねていった路程と同じことなのです。このようにモ-セも、ヤコブと同じ難しい路程を歩んで行ったことを皆さんは知らねばなりません。 こうして三大奇跡を見せられ、御言を代身するアロンとミリアムを立て、天が行けといわれるパロ宮中を目ざして行ったのです。 ところで、ここにまたどんな事が起こったでしょうか? モ-セの行く道は神が後押しする立場ではなく、眠っているモ-セを殺そうとされる事が起こったのです。これもやはり、ヤコブが歩んだ行ったことと同じ路程だったのです。ヤコブがヤボク川の岸で天使と相撲を取っている時、腰骨が外れるのも知らないで闘ったその事情を通さなければならないモ-セの立場であったので、モ-セも今、神のまえにそれと同じ立場に立たされたのです。モ-セはこんな試みを無難に越えた後に、選ばれたイスラエル民族に再び会い、神と民族を代身して、民族的なイスラエルの祭壇を積むようになったことを、皆さんは知らねばなりません。 モ-セに対するイスラエル民族の責任 今ここに我々が知るべきことが何でしょうか? 我々の先祖たちのヤコブとモ-セだけがこんな路程を歩み、こんな責任を背負うのかといえば、そうではないのです。ヤコブだけがこんな責任を担うのではなく、ヤコブ家庭のすべての食口たちもヤコブ以上に切ない心情をもって天のまえに訴え、責任を担う立場にあったのです。ところがヤコブに従っていったその食口たちは、この事実を知らなかったのです。これが正に天の悲しみだったのです。事実、ヤコブよりも食口たちが、より切実でなければなりませんでした。 イスラエル民族を訪ねていったモ-セ、神がミデアンの荒野で、天地が変わってもわたしの約束は変わることがない、と言われた御言を信じていったモ-セは、固い覚悟と決心をもってイスラエル民族のまえに再び現れたのでした。 こんな立場にあったモ-セには神の試みだけがあったのではなく、ヤコブがエサウから受けた反対のような、パロ宮中の反対があったのです。皆さんが原理を学んでよく知っているでしょうが、ヤコブが十回だまされた事を蕩減する十災禍をエジプトに下して、パロを屈伏させて、イスラエル民族は第二次の民族的な祭壇を造成したという事実を、皆さんは再び回顧して見なければなりません。 それでは神様に哀しみがあるなら、それが何であったのでしょうか? それは怨讐によってもたらされた哀しみではありませんでした。また、神に悲しみがあったとしたら、それは怨讐たちが悪であるゆえに感じる悲しみではなく、神の苦労の道に従ってきたイスラエル民族の祭壇が崩れることが、神の悲しみであり、人類の悲しみであることを知らねばなりません。 六〇万大衆を率いてカナンの地に入らなければならないモ-セには、また他の試練が横たわっていたのです。これが正に紅海の路程と、荒野路程でした。これは何を意味するのかといえば、モ-セが個人的に歩んだ試練の荒野路程を、民族的に経るということを意味しているのです。こんな運命へとイスラエル民族を押し出していったことを、皆さんは知らねばなりません。 荒野でイスラエル民族は、モ-セが手を挙げれば自分たちも手を挙げ、モ-セが行けば彼らも行かなければなりませんでした。即ち、六〇万大衆が全部第二のモ-セになって、モ-セと神を代身しなければならなかったのに、彼らはこれを忘れたのです。言い換えれば、神がパロの宮中から導き出された時は感謝して、我々を愛される神であると知り、鉄石のような約束によって、自分たちをカナンの地まで導いてくれると思っていたイスラエル民族であったのです。 それではこの民族が、どうして荒野で倒れてしまったのか? 四〇年の間、荒野において放浪の生活をして、牧者の生活をしながらも、神が愛する選民のために気概をもって闘った、モ-セの心を持っていなかったからなのです。イスラエル民族がその心を少しでも持っていたら、荒野で倒れはしなかったのです。 民族をおいて、民族的なイスラエルの祝福を立てようとされた神の願いは、民族を代表するモ-セと、その民族が一つになるところにあるのですが、二つに分かれたので民族を代表するモ-セもやられ、民族を代表するモ-セがやられるにつれて、イスラエル民族も壊れたことを、皆さんは知らねばなりません。 それでは荒野に出ていって、腹がへった時にはウズラを食べさせ、マナを降らせてくださった神様が、どうしてアマレク族を通してイスラエル民族を攻撃する事が起ったのでしょうか。これは天倫のみ旨に反逆した人間であったので、人間が天倫のみ旨を捜し求めようとするときには、神も反対の立場で打つべき摂理的な条件が残っているので、アマレク族を通してイスラエル民族を攻撃せざるを得なかったのです。こんな天の切ない心情があったこをを、皆さんは知らねばなりません。 この試験を通過できなかったので、死んではならないモ-セが死に、死んではならない民族も滅んでしまったことを、皆さんは知らねばなりません。この時モ-セには民族に対する指導者としての責任があるので、モ-セ自身に過ちがなくても、不信する民族を代表してシナイ山に登り、食べず着ないで倒れようとするイスラエルを求めて四〇日の間、贖罪の祭壇を積んだのでした。 もしもイスラエル民族に選民の資格があったなら、モ-セがシナイ山に登って切なくやるせない時、その山を取り囲んで六〇万大衆が、寝食を忘れて天に向かい「神よ、我々の指導者モ-セを下ろしてください」という祈祷に力をこめたのです。しかしそんな人間は一人もいなかったのです。 モ-セが飢えて祈祷しなければならない事情は、自分一身のためにではなく、民族のためであったにもかかわらず、民族は夢にも思わなかったので滅びる他はなかったのです。モ-セは、ヤコブがヤボク川の岸で祈祷したように、難しい峠にあったのですが、モ-セを代身してイスラエル六〇万大衆を指導する人間がいなかったのです。もしもこんな人間が一人でも出て民族を率いたら、彼らは困難な立場におかれることはなかったのであり、平安な場にいたのです。そうではなかったので、サタンが民族を籠絡していったのです。このような歴史路程を、我々の先祖たちは歩んだのでした。 試験と試練の意味 こうして再びモ-セを代身する指導者、ヨシュアとカレブを立て、二世たちを率いてカナンの地に入ったのでした。イスラエル民族はカナンの地に入ったなら聖殿理念を実現して、聖殿と一つにならねばなりませんでした。ところがこのような立場に立てなかったので、イスラエル民族は倒れてしまったのです。このように御言を中心として一つになれない民族は、時が来る前に必ず神から見捨てられるのです。 アダムとエバが全被造万物の主人公になれなかったので、この被造万物は御言を中心に六段階期間を通して創造されたので、万物復帰の民族的な峠を越えて、世界的な峠を越える時にも必ず六数の過程を歩んで、神の御言を立てるか立てないかという試験、即ち天使長の代身、アダムを攻撃する事が起こるのです。 それでイエス降臨六世紀前に、イスラエル民族は旧約の御言をよく守るか、守らないかという試験を受けたのです。即ち、天はイスラエル民族がみ旨を世界的に伝播しなければならない時に至るや、民族を打ったのです。これがイスラエル民族が、バビロンに捕囚になる期間なのです。それで過去に神に背反したこの民族が、再び御言に背反するか、背反しないかという重大なる岐路に立ったのでした。 天に背反した民族ですから、天を代身してこの民族が新しい六数の出発の峠を越えるときには、サタンの攻撃と打撃を許さざるを得なかったのです。それでバビロンをしてイスラエル民族を占領させる時があったのです。 この時、イスラエル民族はどのようにしなければならなかったのか? 神がくだされた御言を抱え、モ-セが荒野をさまよっても神の為に、民族を愛したその心情を抱き、怨讐の国であるバビロンに行って最後まで闘って、この御言を死守しなければなりませんでした。このような民族になるべきなのに、そうはならなかったイスラエル民族は壊れてしまったのです。 旧約聖書を中心に、第二次民族的な御言の基準を復帰しなければならない歴史的な路程に立つイスラエル民族が、神の選民である気概を抱いていったなら、たとえバビロンに捕囚になったとしても、モ-セのような新しい指導者が出て、彼らを率いて行ったのです。 ところが六世紀が過ぎた後に、どんな形態が起こったでしょうか? 意味があってヤコブがエサウの直系を無視し、モ-セが選ばれたイスラエル民族を無視したように、イエスが地上に来られ、意味あってエサウの立場にあったイスラエル民族、エサウ的な御言である旧約を無視していかれるとき、歓迎しなければならなエサウの立場にあったイスラエル民族が、イエスを歓迎しなかったので、世界的な死亡圏を形成してしまったことを、皆さんが知らねばなりません。 それではこのイスラエル民族はどんな型なのか。エデンの園でアダムとエバを試みた、天使長型と似ているのです。そして今から五〇〇年前には、新約聖書を打つということがありました。即ち、人本主義思想を中心とする文芸復興によって、今日のキリスト教を中心とする封建社会が、根本的に崩壊してしまったのです。 法王庁の主権が壊され、フランスの攻撃によってアビニヨンの捕虜期間を経なければならない運命があったのですが、これは何でしょうか? 復帰路程において、こんなイスラエル民族を代身する第二イスラエル民族が、イエス当時に形成されねばならないのに、第二イスラエル民族を代身した新しい使命を背負うキリスト教が、使命を果たさなかったので、キリスト教を世界的に打つことがあったのです。これは皆さんは原理を通して、よく知っています。 ここにおいて、法王は天のまえに悔い改めなければならず、神が立てた気概の心を抱いて、終わりの日までこのようなみ旨を継承して、今日に至らなければなりません。それでは終わりの日に至って、どのようにしなければならないのか。その時に残る既成の御言と既成の教団は、エサウの立場であり、イスラエル民族の立場に立っているということを、彼らが知らねばならないのです。 キリスト教信者に対する神の願い ですから神に願いがあるなら、その願いが何でしょうか。堕落することによって失ったこの世界人類を、代身して求めた選民イスラエルを復帰することが、神の願いであることを、皆さんは知らねばなりません。イスラエル民族を復帰されようとする天の摂理のみ旨を、皆さんは知らねばなりません。 ヤコブを通して、モ-セを通して立てられたイスラエル民族は、二〇〇〇年前にどこへ行ったのか。イスラエル民族とユダヤの国を世界復帰の足場として立て、この足場を中心にして世界的な復帰の電撃戦をやらなければならないイエス・キリストの路程であったのですが、イエスが逝かれることによってイエス様はモ-セのような事情になってしまい、それで今日になるまでキリスト教は荒野時代にあるのです。主人を失ったイスラエル民族と同じように、荒野路程に留まっているということを、皆さんは知らねばなりません。 それではイエス様は地上に来られて、第二イスラエルを回復して、ヤダヤ民族はイエスを中心に世界的なカナンの地を復帰しなければならないのですが、このような責任を背負ってイエスのまえに立つ、選ばれたイスラエル民族はどこに行ったのか。またユダヤ教はどこに行ったのか。イスラエル民族がなくなり、ユダヤ教団がなくなり、イスラエルの家庭がなくなり、ヤコブやモ-セのような個人的なイスラエルもなくなることによって、哀れなイエスになって死んで逝かれたのです。 死にたくて死んだのではありません。今日、既成神学者たちは、死ななければならなかったと、誤って認識しているのです。民族と教団のまえに追われ、家庭から追われ十二弟子から背反され、最後には三弟子からまで背反されたので、行くところは死の他になかったのです。 イエス様が三〇余年の生涯を哀れに死んだことは、神がイエスを送られた目的ではありません。イエス様は神の皇太子であり、独り創造理念を代身することができる天上天下の主人公として送られたのであって、神が愛される独り子イエスが地上に来て苦難を受けたのは、イエスが誤ってそのようになったのではないのです。民族と教団が知らずにそうなったのであり、社会と家庭が知らずに苦難の道を行ったのでした。 このように、イエスを殺す歴史的な犯罪を犯した我々に、イエスが求めたイスラエルはどこにいるのか! 心から訴えてみなければなりません。またイエスが求めたイスラエル教団はどこにいるのか! 心から祈祷してみなければなりません。イエス様は二〇〇〇年前にこの地上に来られ、イスラエル民族と教団を捜し求めたことを、皆さんが知らねばなりません。 イエスはこの地上に来られ、選ばれたイスラエルが反対することによって逝かれたのです。それで自身を信じるキリスト教徒を、失われた第一イスラエルを代身する第二イスラエルとして立て、世界に広げてもう一度再収拾されておかれるのです。今が正に、そんな時なのです。 それで今日世界に広がってイエスを信ずるキリスト教信者たちには、どんな使命があるのか。イエスに背反して十字架で殺すことによって、最初に選ばれたイスラエルを失ったので、これを代身する第二イスラエルを建設すべき路程が、今日のキリスト教徒に残っているのです。 今日世界に広がっているキリスト教徒たちは、どんな立場に処しているのかといえば、イエスの十二弟子のような人物を中心として、またはイエスの三弟子のような人物を中心として、一つの教派に団結しなければならないのに、こんな条件を失っているキリスト教ですから大変なのです。モ-セのまえに六〇万大衆は、十二支派長と七〇長老を中心にした班形態の組織内において、各々の位置が定まることによって荒野路程を経ていったのですが、今日第二イスラエルにならねばならない使命を背負う世界のキリスト教徒たちは、班列がないでしょう。 イエスのまえに十二班列を代身して現れた十二使徒と、三弟子が責任を果たさないでイエスが逝かれることによって、全世界キリスト教は世界の代表的な教派を中心に、十二教派の形態をもって結束しなければならない時期が訪れていることを知らねばなりません。 イエスは今、どんな生活をされているのでしょうか? イエス様が天のみ旨をこの地上に成せなかったことにより、ヤコブとモ-セが牧者生活をしたように、今イエスもあの世にいって牧者生活をしているのです。霊界にいって休むことなく、皆さんのために祈祷されているので、これが牧者生活です。 ですから何をされたのでしょうか。イエス様は今までの二〇〇〇年の歴史路程で、イエスを信じていった人々、即ちイスラエルになることができる人々を集めて、霊界において失った第二イスラエル型を造っておくことが楽園なのです。イエスを殺した第一イスラエルを失うことによって、蕩減復帰原則によってイエスのまえに捜し求めてきた使徒たちを集め、イエスが復活した後に霊的に第一イスラエルを復帰した型が、今日の楽園世界なのです。 地上天国の主人公の資格 楽園世界はどのようになっているのか? 楽園世界に行った霊人たちも、第一イスラエルの祝福を受けてイエスを歓迎する足場を地上に立てるべき条件があるので、天上のすべての霊人たちは地上に再臨して、現在生きているクリスチャンたちを第二イスラエルの祝福を代身する立場に立てて、彼らと一つになって、第一イスラエルがイエスに反対したことを蕩減復帰するために活動しなければならない運命にあるのです。これを皆さんは知らねばなりません。ところが今日のキリスト教徒は、これを知らないのです。 今日終わりの日は、いかなる時でしょうか? 旧約の御言を信じていたユダヤ民族を、異邦民族が打ったように、新約の御言を信じているキリスト教徒を打つ時があるのです。それで人本主義思想を中心に、唯物思想がキリスト教を打っているのです。このように新約の御言を信じるキリスト教が打たれている中で、御言を抱えて出る一つの教派が現れねばならないのですが、この教派は改革教派なのです。 ところでモ-セ路程において、幕屋を祭る時代が過ぎ、聖殿を祭るべき時に民族が結束して闘うべき試練が残っていたことを、ユダヤ民族は知らなかったのです。そして聖殿を祭る時代から、実体聖殿を完成しなければならない時代に変わる時も、宇宙的な闘いがなければならないのです。この闘いを防ぐことはできないので、今日この闘いが世界的に起こったのです。 終わりの日においても同じように皆さんは今、実体聖殿を持たねばならないのです。そして実体聖殿を成した次には、何をすべきか。地上天国を建設しなければなりません。 人間は堕落することによって、御言を失いました。それで新・旧約御言がでて、人間を善なる方向へと導き、今新しい御言がでて、その御言と一つになる人々を実体的に復帰させるのです。封建主義時代は、神のみを主とする時代でした。ところが宗教改革が起こって、この宗教改革によって神のみを主とするのではなく、人間と結合している神として考えたのです。人間がこのような過程を経ていったのですが、今実体聖殿を復帰する時代に入ったのです。 それではここにおいて、皆さんはどうすべきかといえば、新約を中心とするこの時に、これから世界的に成約の理念が現れる時、皆さんが世界を抱くことができる主人公にならねばならず、イエスの代身存在にならねばなりません。地上天国の主人公になるには、実体聖殿が成った後に、環境的な主人公にならねばなりません。こんな存在になるには、理念的な革命過程を越えなければならないのです。 それではこの過程は、どのような型によって成されるのか。歴史は蒔かれた通り、または植えられた通りに刈り入れるのであり、今日世界的な終末時代においても、既成観念に属している信仰者たちと、既成主義の御言を持つ者たちは全部、天を背反する立場に立つのです。彼らが誰かといえば、天使長のような立場にある者たちなのです。エデンの園で天使長がアダムとエバを誘惑したように、終わりの日の時代において、天使長のような霊的な教団が現れ、神のみ旨に対して反対する時が不可避なように現れるのです。 神様はこのような原則を通して、復帰摂理をされるということを感じるとき、終わりの日に面している我々は、どうすれば選民であるイスラエル民族になることができるのか。覚悟をしなければなりません。皆さんは、どんな人間にならねばならないのか? 皆さんはヤコブの後継者にならねばなりません。二〇余年の人生を経て、ヤボク川の岸で闘ったヤコブの代身者にならねばならず、荒野路程においてイスラエル民族を抱えて哀願して歩んで行ったモ-セを、あるいは世界人類を代表するイスラエルの国に対して、ゲッセマネの園で祈祷したイエスを、代身することができる人間にならなければなりません。 末世におかれたキリスト教徒の立場 それでは今、世界に広がっている第二イスラエルよ! おまえの行くところがどこか?世界に広がっているキリスト教徒は、天のまえに訴えなければならない時がきました。イスラエル民族が塗炭の苦しみの中でエジプトのパロ宮中を憎み、我々の約束の地カナンの福地へと誰が導いてくれるのかと、指導者を捜し求めてさまよったように、今日のキリスト教徒も自分が処すべき班列と種族がどこであるかを、捜し求めなければなりません。 ですから既成教会はこわれます。そのようになってこそ、十二班列に分けることができるからです。どうにでもしてみなさい。班列を構成して世界的な復帰の運命を経なければならない立場にあるのですから、国家の運勢を動かすキリスト教であっても、社会と家庭そして個人において、威信を失ってしまう時がくるのです。 イスラエル民族がエジプトにいる時、班列編成をしなかったのですが、荒野に出発しなければならない時には班列編成をしたように、世界的なキリスト教も、世界的なカナン復帰のための再臨理想が近づいてきたので、班列編成を開始しなければならない時が来ました。 過ぎし日イエスが地において、ペテロ・ヨハネ・ヤコブを中心に十二弟子を通して班列を編成して、信仰者は誰でもこの支派に属するようにして逝かれたなら、今日世界のキリスト教は混乱を起こさなかったのです。これを再び収拾しなければならない時が来ているのです。ところで最もどん底で排斥されている一つの集まりを立て、証しする時が来ているかも知れないのです。統一教会が正に、こんな教会であるかも知れませんよ。 それで今日、韓国のキリスト教において神霊役事をする人間、ナ長老やパク長老という新しい教派が現れました。このような派が今、教会を壊しています。班列を組織しなければならないのに、こんな役事が起こっているのです。ここに今、問題点として残ることが何でしょうか? 既成主義的な観念です。これは神のまえに怨讐です。既成主義的な観念即ち自分はエサウのように長男であるから、神の祝福を受けなければならないという、こんな下らない思想を、捨てなければなりません。ひょっとして誤ってエサウの観念に立って、イエスを殺したユダヤの民になりやすいのです。 これを越えなければならない歴史の終局に至っているので、今この関門をどのように越えるのか。この時におきまして、誰が怨讐なのか。エデンの園でアダムに最も近かった天使長が怨讐になったように、アダムを復帰するための、第二アダムとして来られたイエスのまえに、霊界の天使長型に該当していた当時のユダヤ教の祭司長が、最も怨讐であったのです。彼らは天使長型を第二次として受け継いで、イエスを攻撃したので地獄に行かなければなりません。 今日終わりの日にもやはり、世界に広がっている教職者たちが再臨される主のまえに天使長になって、天の名において天を打つ、こんな型が起こるのです。しかしこんな立場に立っても環境に影響されることなく、歴史的な運勢は越えてゆくのです。こんな道を誰が歩むのか。このような祭壇の前に新しい御言と、新しい終末を告げる一つの先知者的な使命者たちが出なければなりません。しかし彼らは既成教団のまえに排斥されなければならないのであり、それで新しい段階に越えて行くのです。 それでは同時に、どんな時代が来るのか? 霊的な世界の攻撃時代が来るのです。天使長がヤボク川の岸でヤコブを苦しめ、またモ-セを攻撃したように、世界的な終末時代におきましても、この地上のすべての人々が反対すると同時に、天までも攻撃する時代が来るのです。 サタンの讒訴を逃れることができる信仰 イエス様が亡くなるその時「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七:四六)と言われたことは、満宇宙復帰の主人公を代身して現れたイエスであるので、宇宙を代表したアダムが天に背反したことを、蕩減しなければならなかったからです。このようなイエス様はご自分を知らないというときも「知らない」という神を「知った」されたので、その「知った」という条件が霊的復活を起こさせたのです。皆さん自体にもこのような、歴史的な峠が残っていることを知らねばなりません。 世界的な終末の運勢が、今日皆さんの生活圏内に染みいっていることを、皆さんが感じたならこれが皆さんに、モ-セと民族が結束しなければならなかったその時を預告しているのであり、モ-セがパロと闘ったその時代を預告していることを知らねばなりません。それでは神の悲しみは、どこからもたらされたのか? その指導者たちが誤ったために神が悲しむのではなく、後に従う人々が駄目なために神を悲しませているということを、皆さんが知らねばなりません。 今日皆さんは人が知らなこ、人が行かなこを歩んでいる目的が、何でしょうか? 皆さんは力を合わせて団結して、神の運行される一つの班列となり、食べても飢えても個体を失っても、天倫のみ旨に対して身悶えたモ-セの足跡を死守する後継者になり、イエスが行った足跡に従う後継者として、使命を完遂しなければなりません。これが終わりの日の聖徒たちが、選ばれたイスラエル圏に入ることができる条件です。 天を代身したイエスはこんな原則を知っていたので、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きる、といわれたのです。即ちサタンを屈伏させるには、神を中心とする死の場であっても越えなければなりません。天が人間を排斥されてもこれに動揺しないで、引き続いて天を信じていってこそ、サタンが離れ、サタンのすべての讒訴条件を逃れるのです。 それでは今、天は失われた第一イスラエル型を霊的に立て、世界に広がる世界の教徒を第二イスラエルとして立てて、彼らを合わせて一つにした場において、第三イスラエルの建設をされるということを、知らねばなりません。 それゆえ皆さんは、アブラハムのような第三イスラエルの祖先、ヤコブの代身第三イスラエルの祖先、民族の代表者であるモ-セのような第三イスラエルの代表者、世界の代表者であるイエスのような、第三イスラエルの代表者にならなければなりません。また皆さん自身は神の復帰摂理歴史過程を振り返って見て、過ぎし日に父なる神に対して讒訴したサタンを踏み越えて、神を慰めることができる個人、民族、国家、世界になるということを、知らねばなりません。 それでは、サタンとは何か? 神に背反した逆族です。ところでサタンも、神が悪くないというのです。それで神がサタンに対し、与えざるを得ないのです。サタンも神を好きなのです。こんな条件があるので、六〇〇〇年間の長い歳月を経なければならなかったのです。ではサタンも神を好きだという立場で「アダムを通して満宇宙を主管すべきこのようなみ旨を、わたしを立てて主管するようにしてください。であれば神のまえに絶対服従いたします」このようにいうのです。 サタンは神に対抗していって、神のまえに肯定せしめるための役事をしているのです。摂理のみ旨に最後まで反対して、肯定させるための立場に立つのです。 忠臣のふりをする奸臣たちも、王を嫌う法はありません。ところが忠臣を取り除いて、自分の言うことを聞けというのです。 このような立場に立つサタンの圏内に全世界が入っているので、これ一つだけ認定すれば、世界が神に帰ってくることができるのです。ところが、なぜしないのか? 天理法度を破ることができないからです。神は法度の神であれば、秩序を壊すことができないのです。ですからあらゆる苦労をされても、世界を主管するサタンを肯定することなく、世界を主管するサタンのまえに人間を立てて、讒訴するサタンを阻むのです。これが神の切ない心情であるのです。 もしもサタンの讒訴を阻む人間が現れたなら、神に対してとやかく言わせないのです。天理原則が回復されるので、エデンの園で天使長がアダムとエバの主管を受けなければならない原則を持ちだす主人がいれば、サタンが根本的に屈伏しなければならないのです。それもイエス様のように霊界で、神の玉座に行くことではなく、地上においてこのような一日を立てなければなりません。こんな一日を立てる時が、再臨時代なのです。 皆さんは今、反対するサタンの立場に立ってはならず、六〇〇〇年苦労された神の足跡に従って行かねばなりません。今日終わりの日の皆さんは、神の無限の世界の初めての出発であるアダムとエバから今日に至るまでの、復帰過程において苦労された神の心情を体恤して、神の後に付いて行かなければなりません。このような運命におかれているにもかかわらず、夢にも見ないでいるのですから大変です。 サタンの試験に勝利する道 「神よ! 私を通して栄光を受けてお休みください」とすることのできる天の国の選ばれたイスラエルがなければなりません。このような使命を代身したヤコブであり、モ-セであり、イエスであったのです。神がサタンと闘う闘いを代身して受け継ぎ、サタンに対抗して闘うことができる一つの姿になってこそ、ここから決定的なイスラエルの主権が天のまえに立てられるのです。こうして今まで神を讒訴していても、戦争の目的を終結させておかなければならないのです。いかなる抗議もできないので、戦争は終わるのです。こんな人々を中心にしていって、第三イスラエル建設のために出発すべき時が来なければならないのです。 モ-セ時代のエジプトの地のイスラエル民族は、自分たちの故郷であるカナンの福地を攻撃する戦いが残っていたのであり、イエス時代にはイスラエル民族を中心に、世界的なカナンの福地を建設する戦いが残っていたのであり、今日第三イスラエルを建設しなければならない我々においては、団結して第三イスラエルを成就するための激戦が残ったのです。 それでは今日皆さんは、どんな人間にならねばならないのか? イスラエル民族を再編成してゆくとき、天に対して神のまえに立てられたイスラエルの選民として自ら進んで、三人組の一員になり、小隊長になり、中隊、大隊、連隊、師団長にならねばなりません。こんな天の精兵の指揮官に、誰がなるかということが問題です。これをやらねばならない時が必ず来ます。歴史的な終末にはすべてのものが、一つの世界に統一されるのです。多くの人々が思想統一を要求しており、地上世界が統一理念を要求しているので、必ず天の理念を通す、統一の時が来るのです。 今までの歴史過程ではどのようになったかといえば、二つが戦えばその中で少しは善なるものが勝ったのです。これが原則です。地上世界が一つの理念圏内に入ってくれば、どのようになるでしょうか? 地上よりも少し善なるものが勝つのです。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから今日、名を神経症などという神経系統の病気が、多く発生するのです。薬では駄目です。これは天地サンファ湯(疲労回復の煎じ薬)を飲まなければなりません。 天を和動させ、地を和動させることができる、そんな理念のために霊界が地上を襲撃する時が来たのです。地上人が地において神のみ旨を代身する時ですから、一つになるためには必ず戦いがあるのです。二つが戦った後に一つになるその世界が、天を中心にして合わさる正に審判の時なのです。このように霊界が地上を襲撃するこんな場面で、地上を代表する総指揮官の使命を持ってくるお方が、再臨主であるのです。 第三イスラエル建設路程の出発に立つ皆さん! 皆さんはどうしなければならないか?霊界の法度を知ってこそ、逃れることができるのです。この命令系統がどのようになっているかを、知らなければなりません。その国の軍隊は、自分の側の軍隊が使っている暗号を知れば、戦争する時に自分の側から攻撃されることはありません。 この時は天の国の暗号が聞かれる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、歴史的な暗号、時代的な暗号、また人間的な暗号、使命的な暗号の通信時代なので、このような暗号を通して連絡でき、作戦計画を遂行をして、地上統一の理念を代身することができる時代なのです。 今日、既成教会で反対するパク長老やら、ナ長老やら、統一教会やら、あるいはいわゆる異端やらいうこと、よろしいです。現代は科学も天宙時代を論議するそんな時代です。このような時代に至ったのに、未だに古臭い宗教観念を持っていては駄目です。これを踏み越えて上がる、一つの包括的な統一主義が出てこそ成るのです。 今日暗号に通じることができる短波装置があるように、神の秘密に通じる短波装置の所有者があるなら、彼は勝利するのです。ですから霊界が地上を襲撃して来る時は、戦争方法が変わるのです。起きることは起きるのですが、限界を知りません。このような様相の戦いが地上に起こるのですが、この時に良心ある人々は、ここに動員されてくるのです。 第三イスラエルの先祖になる道 今皆さんは終わりの日のこの一日に備え、良心的な善なる人々を犠牲にして、今日まで歴史が流れて来たことを知らねばなりません。今日、堕落の運命におかれている我々は、最後の帰一的な理念世界を捜し求め、すべてのものを失って犠牲にならねばなりません。そしてイエスの肩にのっかって「神様、私に任せてください」と自信をもって言うことのできる天の息子・娘にならねばなりません。神もこんな息子・娘が現れることを願っているのです。 皆さんは楽園世界のすべてのものを解怨して、天国生活を教えてあげるべき使命がイエス、あるいは神にあるのではなく、今日終わりの日の皆さんにあるということを、肝に銘じてください。イエス様の代身、すべての作戦計画を任され、神の代身、闘ってゆく代表者が出て、責任を完遂してこそ神を解放してあげられるということを、知らねばなりません。このような宇宙的な使命を前にして、皆さんは勝利的なイスラエルの路程を捜し求めて行かねばなりません。 そのためには皆さんが、自分が属している班列を捜し、自分の指導者を捜さなければなりません。また自分が留まっている位置が、天のまえにどんな位置かということを知り、変わらぬモ-セ、アブラハム、ヤコブ、イエスの代身存在にならねばなりません。それでサタンに対して号令してゆくときも「君、このときは宇宙の創造理念を代身して神のまえに栄光をお返しする資格者である神の息子・娘だなあ」という賞賛と共に、サタンから敬礼をされる一人の存在になってこそ、地上天国の園で世界的な聖殿理念を代身して、神のまえに立つことができるのです。 そのようになる前に、皆さんは一大激戦にぶつかるのです。皆さんを各教派が攻撃するのです。皆さんを霊的に試験もします。モ-セを神が打ったように、皆さん自身にもこのような路程があり、モ-セを民族が背反したように、皆さんのまえにもこのような路程があるのです。イエスが十字架上で天から捨てらたように、皆さんのまえにもそんな事があるのであり、イエスが民族から背反されたように、皆さんのまえにもこのような路程があるということを知り、皆さんはここで落胆してはなりません。 神のみ旨というものは優しいみ旨ではなく、極めて難しいものです。それで皆さんは世界的な艱難を背負い、極めて凄まじい反対を受けても闘いの路程で倒れてはなりません。世界と天地の、一つの帰一点を発見するときまで、皆さんは闘争し続けなければなりません。 この過程において皆さんは、イスラエル民族がエジプトを離れて荒野に出て、食べる物がない、飲む水がないと恨嘆したように、恨嘆しないでください。誰が知ってくれないと恨まないでください。自分を知ってくれるモ-セのような指導者が、一人だけいてくれたら最高と考えてください。自分を知ってくれる神だけを抱えてこれが最高と信じて、すべてが排斥したとしても、このお方だけを抱えて行けば、このお方がなさることを自分が受け継ぐことができる、という心を持たねばなりません。こうしてこそ皆さんは、第三イスラエルの選民たる資格を得て、神の栄光に参与することができるのです。 こうして神の栄光の姿となることができると同時に、歴史的な栄光の姿、全天宙の理念を代身する栄光の姿になるのです。即ち我々が栄光の息子・娘として世界を代表し、天のまえに現れてこそ、初めて神が休まれるのです。 ヤコブに天使が祝福したそんな祝福ではなく、神が直接イエスに手を差しのべて祝福された、その祝福を下さるのです。即ち、終わりの日に訪ねてきた皆さんに神は手をのべ、イエスを代身するわが息子・娘、永遠の第三イスラエルの主人公としての、わが息子・娘になれと祝福されるのであり、永遠に天が喜ぶことができる実体的な、喜びと栄光と美の存在になれと、初めて祝福されるのです。 このようにイエスの愛を通して、神の愛の圏内に入り、神の愛を成してこそ第三イスラエルの祖先になるということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.03
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イエス・キリストの心臓を持つ者となれ一九五八年一月二六日(日)前本部教会皆さんと暫くの間考えてみる御言の題目は「イエス・キリストの心臓を持つ者となれ」です。聖句の中で「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるのは神である」という御言を中心に「イエス・キリストの心臓を持つ者となれ」という題目でお話しします。 アダムとエバが堕落したその日から、神の所望が何であるかといえば、神の心情を代身することができる人間、神が住まわれる聖殿として完成した人間、神と一致する心情と心臓を持つ人間を捜し求めることです。 この地の上に神のみ旨を代身した、神の実体聖殿として来られたイエス・キリストは、四〇〇〇年の間、神が苦労された歴史的な摂理路程を代身して現れた神の聖殿であると同時に、四〇〇〇年の間摂理された神の内的心情を代身したお方として、実体的な生きた胸を持って現れたお方であったことを、今日我々は感じてみなければなりません。 イエスの心情と心臓 神の心情を体恤しているイエス・キリストの体であり、神の心情を感じているイエスの心臓なのです。それでイエス様のときめく心臓は天を動脈とし、人間を静脈として、天が動ずればイエスが動じ、人間が静ずればイエスが静ずる一体の関係を結ばなければならないのであり、これが地上に来たイエス・キリストの使命であったのですが、神の心情を感じるイエス・キリストの内的心情を知る人間、神の体を代身するイエス様の外的心臓を知る人間がいなかったのです。 それでイエス・キリストの心臓がどうだったかといえば、三〇年の準備期間に他人が知らぬうら寂しさを感じる心臓だったのです。 イエス様はなぜ、こんなうら寂しさを感じたのか。それは神が人間始祖のアダムとエバが堕落することによって、創造の理念を成して栄光を受けようとされた神のみ旨が成されず、被造万物は主人を失う立場に立ってしまったので、これを見やる神は口にも言えないうら寂しさを感じておられるので、そんな神の心情を知るイエス様でしたから、イエス様もうら寂しさを感じたのです。それゆえ皆さんもイエス様のように、被造世界が口にも言えないほどにうら寂しい世界になってしまったことを、感じる人間にならなければなりません。 三〇年の準備期間を経たイエス様は、その次にどんな生活をされたのか。四〇〇〇年の間、神様が苦労されて選び立てられたイスラエル民族のまえに、神を代身してみ旨を受けて現れ、新しい福音を伝えるとき、その胸は言葉にもできない使命感がみなぎっていたのです。三〇年間の哀しみの人生を精算して、天の哀れさと悲しみをさえぎり、失われたエデンの主人公を再び回復させるべき使命を負うイエスは、誰にも話すことができないときめく心臓を抱いて現れたということを、皆さんは忘れてはなりません。 選ばれた選民のまえに現れ、神の代身、新しい御言を伝えるとき、み旨に従ってきたイスラエル、摂理のみ旨を代身して召されたイスラエルは、イエス様を理念の全体を代身したお方として、自分たちの希望の実体として、自分たちの栄光の自体として侍る環境を持たず、むしろ彼らはイエス様のまえに反旗をひるがえし、敵対する胸を抱いて現れたのです。神がご自身のみ旨を代身して立てた、アダムとエバが堕落することによって、哀しみを感じられたように、立てられたイスラエル民族がイエス様のまえに、み旨に対して応じてこなかったとき、イエス様は神がアダムとエバを失い、悲しまれた心情を再び感じる他なかったことを、皆さんは知らねばなりません。 不信するイスラエル民族を見やるイエス様の心情は、無限に悲しかったのです。憤慨心も大きかったのです。天のまえに訴え、呪咀し、彼らを打てと命令したい心も痛切であったのです。しかしイエス様はそんな心情をすべて振り捨て、溢れる胸を、溢れる心臓を押さえつけ、昔エデンでアダムとエバが堕落した後に、神が耐えられたその心情を思い、じっと耐える、哀しい心情を抱かれてきたのです。そして反対するイスラエル民族に対して希望を残してきたイエス・キリストであることを、皆さんは知らねばなりません。 イスラエル民族を代身して贖罪の祭壇を積んでゆくべき洗礼ヨハネであるとか、アブラハム以後四〇余代の選民の血族として、神の手によって導かれてきたヨセフ家庭も消え失せ、み旨を受けてご自身を懐妊して産んで三〇年間育ててきたマリアと、兄弟たちや氏族たちもみな消え失せてしまったのです。 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子にはまくらする所がない」(マタイ八章二〇節)と言われたイエスの心情、天のみ旨を抱えて孤独な身の上で闘って行かなければならなかったイエスの脈打つ心臓を、皆さんはこの時間にも感じてみなければなりません。その脈打つ心臓の中に、神の苦労が大きいことを知れば知るほど、イエスの切なさと憤慨心は大きくなり、選ばれたイスラエル民族に対する希望と期待が大きければ大きいほど、イエス・キリストの心臓は張り裂けんばかりの怨恨に染みたのです。しかしこれをこらえ、黙って家を出ていったイエスの心臓がどうであったかを、皆さんは感じてみなければならず、今日脈打っている皆さんの心臓がどんな状態であるかを探って見るときが、正にこの時であることを知らねばなりません。 イエス様の真の友 時は過ぎましたがイエス・キリストの脈打つ心臓の脈拍が、今日皆さんの心臓と血管、動脈と静脈を通して動いているのです。それゆえ皆さんは、天的な心臓の脈拍を代身することができる人間にならねばなりません。こんな責任を代身することができる人間が現れることを、イエス様は二〇〇〇年の間、苦待されてきたのです。また神は六〇〇〇年の間というもの、待ってこられたことを皆さんは知らねばなりません。 このような事を考えてみるとき、枕する所もない事情におかれたイエス・キリスト、選ばれたイスラエル民族を後にして、天を信奉してきたユダヤ教を後にして、三〇余年の生涯を懸けて荒野でイナゴと野蜜を食し、千辛万苦、苦労してメシアの道を備えた洗礼ヨハネも後にして、選ばれたイスラエル民族の血族として続いてきたヨセフ家庭も後にして、天を背にし、家庭を背にし、教団を背にして荒野に出て行ったイエスの脈打つ心臓は、いかばかりであったかということを、皆さんは知らねばなりません。 背を向けて行かれたその歩みに怨恨があったとすれば、天を代身して染みる心情を持って民族を恨み、その恨みに染みた心情が鬱憤ばらしをするなら、呪咀の炎を下して審判の訴えをすべき立場であるにもかかわらず、イエス様は民族の行く道を案じ、背反し排斥する人々を案じ、彼らを再び抱くために荒野に向かって歩んで行かれたのです。こんなイエスの寂しい心情を、皆さんは感じなければなりません。 歴史的なすべての運命を精算し、自身の使命の全体のための準備と、時代的であり永遠の問題の解決のために、この世の万事を放棄し、頼るべき所一つない不毛の荒野に向かって行ったイエス・キリストの心臓を、推し量ってみる人間にならねばなりません。 イエス様は民族を後において荒野に行き、四〇日間の断食をしたのです。このように荒野に出て、食べる物も食べずに四〇日間、独りさまよったことを考えれば悔しさが染みるのですが、四〇〇〇年の間耐えてこられた神の心情を考え、それでもこの民族に対する未練が残っていることを感じるイエス様は、彼らに第二の基台を造ってあげるために、荒野で食べる物も食べずに四〇日間、神のまえに民族的な祭物を捧げたことを、皆さんは知らねばなりません。 皆さんも断食してみて分かるでしょうが、イエス様は四〇日断食期間中、食べる物も食べなかったので、体が渇きに渇いたのです。四〇日間断食する過程で、イエス様の心情は口に言えぬほど憂いに沈み、心臓は衰えていったのですが、四〇日断食の峠を越えたのは神の心情を感じたからです。 それでは今日皆さんは、どうしなければならないか? イエス・キリストの事情に通じる友となると同時に、食べなかったイエス・キリストを抱きかかえ、死にゆくイエスの心臓の音を案じる友とならねばなりません。 そして力のでない体ではあっても、天倫の新しい理念を開く闘いの路程で、煮えたつ心を抱えておられたイエス様、神の寂しい心情を思って染みる心を抱えておられたイエス様に、友が現れずにサタンが現れて試練したのです。こんな事情に処しても、自身の使命を完遂しなければならないイエス・キリストの心臓を感じる皆さんでなければなりません。 サタンが現れ、イエス様の心と体まで破壊するための三大試練をするとき、我々は神のみ旨を代身し、民族を代身し、先祖たちを代身して新たに決心していったイエス様の、脈打つ心臓を感じなければなりません。 結局、サタンの試練を押し退けたイエス様は、自身を排斥したイスラエル民族、また自身に反対して追い出したユダヤ教が、再び訪れるのは骨の折れることであることを知ってはいても、荒野に出て神と談判した後に、この罪悪の都を復帰するための闘いに燃える忠誠心をもって、決然と立ったことを皆さんは知らねばなりません。 この日から、イエス様は死を覚悟していったのです。イスラエル民族を代身し、死んでも自分の一身は自分のものではないことを自覚して、自分を試練したサタンに対して、自分を排斥したイスラエル民族に向かって、第二の攻勢をかけていったイエス・キリストの脈打つ心臓を、皆さんがこの時間、再び感じなければなりません。 ところで俗に、人々はイエス・キリストだからそんな事情に耐えられたのであって、そんな苦難と非難にも耐えることができたのだと言うのです。しかしイエス・キリストだからより耐えられないということを、皆さんは知らねばなりません。イエス様は人よりさらに鋭敏であり、人よりさらに深い心情に染みておられたがゆえに、誰にもない悲壮な心情を持ったのです。 こんな立場に立ったイエス・キリストが、失った都を再び求めて行ったとき、人々は信じなかったのです。イエス様があれほど悲しい生活、ぼろをまとう生活、飢える生活をみな経てゆく立場に立ったとしても、地上においてイエス様の事情に同参する同志が、一人もいなかったのです。それでイエス様は神だけが自分の友であり、神だけが自分のアボジだという心情を持たれたのです。このように当時の人々は、イエス様を信じようとしなかったのです。 神はわたしと共におられた 民族が背反し、教団が非難し、親戚と血族が顔を背け、自身のすべてのものがなくなったとしても、ただイエス様の慰めとなり、彼の希望となり、彼の心情を補ってくれたものが何であったかといえば、果たして神は自分と共にいるという事実、神は自分のものというこの一つの事実であったのです。この一つの事実が、四〇〇〇年の歴史を代身して再び天を案じ、神のみ旨を再び成してイスラエル民族に伝え、神の心情を万人類に植えつけようという思いを抱かせたのです。 イエス様はご自身が荒野に出る前までは、神は愛の神とのみ思っていたのです。自身を育ててくれる無限の希望の神として、喜びをもって訪ねて来るお方と思っていたのが、こんな手にあまる心情を抱いてゆくとき、昔は相対的な関係としておられ、いつも自分を育て、自分を抱いてくれ、慰めてくれた神の難しい事情に面して、神の難しい事情と悲しみの心情を感じるようになったのです。そんなわけでみ旨を「わたしが担います」と訴え、こんな心情を抱いてゆくとき、その日から相対的な神ではなく、直接的な神、自分と共におられる神として、神と共に新しい覚悟のもとに、怨讐たちのまえに出ていったのです。 それで四〇日断食期間が終わり、新しい闘いの路程を出発したイエス様、民族を代身して四〇〇〇年の神の怨恨を解いてあげるために、神の怨讐であるサタンを退けるために、死を覚悟していったイエス様は、イエス一身としてのみ行ったのではなく、四〇〇〇年の間そうであった姿、神の心情を代身したお方の姿として現れたのです。 この次からされたイエス様の御言は、イエス自身の御言ではなく、イエス様の行動もイエス様自身のみの行動ではなかったのです。イエス様がされた御言は、神の御言を代身したものであり、イエス様がされた行動は、神の行動を代身したものであったのです。イエス様は明らかに神が自身の心のうちに生きておられ、自身の心情を動かしておられることを感じたのです。 こうしてイエス様は再びイスラエルの村々に帰ってきました。ところが初めに民族が反対したときには、寂しい心情を抱いて荒野に出て行ったのですが、今は押し寄せる試練と迫害がどんなに強くても、ぶつかって勝負をつけるという覚悟と決意をもってゆくキリストの心情を、皆さんは今一度考えてみなければなりません。 失ったイスラエルを再び捜し求めるために行くイエス様、肉体がなくなる恨があっても決して後退しないという、確固たる信念に燃えれば燃えるほど、さらに脈打つ心臓を抑えることができないイエス様であることを、誰が知っていたでしょうか。この世の中にはイエス様の脈打つ心臓を知る者が、まるでいなかったのです。ただ神様だけが、イエス様の心臓を知っておられたのです。 このような中でイエス様は、三年公生涯路程を歩み始めたのです。初めに弟子として使徒たちを選び立てたのです。しかしイエス様は弟子たちに対するときにも、四千年の間、アダムを失って悲しまれる神の心情を代身して、弟子たちに対されたのです。この弟子たちが誰でしょうか? 神の実体聖殿になるべき使命を持っている弟子たちでした。そしてイエス様は直接彼らをして、実体聖殿になるように導くという心が、骨に染みていたのです。 反対するイスラエル民族もサタンの宗族ではなく、神の実体として現れなければならない息子・娘であるので、神のみ旨を知らずに反対する彼らを見て悲しむ神の心情を感じるイエス・キリストの心情が、いかばかりであったかを皆さんは知らねばなりません。 それでイエス様の三年公生涯路程を探って見るときに、イエス様は自身の為に生きるのではなく、まず神の為に生き、次には弟子たちと人類の為に生きたのです。イエス様は自身の為に生きたのではなく、神の心情を代身して生きたのです。 イスラエル民族の不信と弟子たちの無知蒙昧 そしてイエス様の脈打つ心臓は、神を代身し、イスラエル民族を代身していたのです。それがゆえに神の悲しみがイエス様の悲しみであり、イスラエル民族の悲しみがイエス様の悲しみになったのでした。ここに神と、イエス様と、イスラエル民族を代表する使徒たちは、三つではなく一つになることができたのです。神と民族と自身が一つになるという心情に染みた、イエス様であったのです。そして皆さんはイエス様がご自分に従ってくる弟子たちを、自身の真の子女以上に大切に思われ、愛されたことを知らねばなりません。 イエス様の三年公生涯路程は、子女たちの為に犠牲になる父母の心情をもって、真の愛の生活をされた路程だったのです。罪悪にあえいでいる人間たちを哀れに思う神の心情を代身して、民族と使徒たちの心情を代身したイエス様であることを知る人間がなく、イエス様の事情を知る人間が、地上に一人もいなかったのです。 一人も知る者がいない中で、切ない天の心情を抱いて闘って行かれたイエス様、また再び民族が反対し、ついてきた人々が離れ、最後にはゲッセマネの園で独り祈祷されたイエス様の心情は、いかばかりであったか? 皆さんはこれを考えてみなければなりません。ゲッセマネの園で、夜を明かして祈祷されたイエスの心情は、言葉にならぬほど切ない心情であったのです。であったにもかかわらず、ついてきた三弟子たちは、イエス様と行動を一致することができず、各自それぞれに行動したのです。イエス様だけを通して行かねばならず、イエス様と同じ心情で訴えなければならないにもかかわらず、またイエス様は愛する弟子たちの為に心から訴え、弟子たちを案じたにもかかわらず、彼らはイエス様の心情がどうであるかを知らず、疲れて眠ってしまったのです。 生死の決判をつける場、死ぬか生きるか、岐路に立っていたイエス様の心情は、天と地が溶けるとても言葉につくせぬ切ない心情であったのです。しかし三年の間、本当の息子娘のように育てた愛する三弟子は、イエスの心情を知らずに居眠りをしていたのです。それで火のように切ない心情で、三度まで弟子たちを目覚めさせたイエス様の痛々しい心情を、皆さんは感じなければなりません。 この時、イエス様はどんな心情を感じたことでしょうか? 神がエデンの園でアダムとエバを失って感じた悲しみを、感じたのでした。そしてイエス様はご自身のまえに、第二民族として選ばれたイスラエル民族が反対し、ユダヤ教が反対し、再び三年公生涯路程を経てきながら、自身を絶対に信じる一人の人間を捜しだせなかったとき、信じがたい人間たちであることを感じたのです。 アダムが堕落した後に感じた神の悲しみ、イエス様の三〇年私生涯期間と、三年公生涯期間に感じた悲しみ、さらにはゲセマネの園で祈祷したその切ない心情を感じて、イエス様に対した人間がいないのであり、神の心情を感じる人間がいなかったのです。三年公生涯路程で喜怒哀楽を共にした、弟子たちも知らなかったのです。 神を代身して歩んで行かれた一生であったにもかかわらず、イエス様が歩んで行った目的が、民族の為であり、世界の為であり、人類の為であったにもかかわらず、三三年の生涯を歩んでみれば、残っていたのは独りだったのです。そして四〇日断食を終えた時も、切ない心情と哀しい心情に染みるイエス様に、怨讐サタンが現れたのでした。 こんな時、イエスの心情はいかがであり、脈打つ心臓はどうであったか。人間の世に対して、すべての事を信じることができず、どんな所にも頼ることができず、居場所を伝えることができない切ない事情にあったにもかかわらず、怨讐サタンが現れて試みたので、イエス様の心情は言葉にならぬほどに切なかったのです。ではあってもユダヤ民族と、人類を案じて、焦るようなイエスの心情を、皆さんは知らねばなりません。 我々に歴史的な使命を代身して、蕩減の路程を再び歩まねばならない責任があるとすれば、神の心情を代表するイエス様の切ない心情を代身し、代身して闘い、イエス様の脈打つ心臓を代身して案じなければなりません。天はこのような真の息子・娘が現れることを苦待されておられるのです。 十字架を背負うイエス様の心情と心臓 所望の条件を全部断ち切っていった荒野の路程において、イエス様はサタンと闘い、勝利されたのですが、イエス様には実体祭物を捧げなければならない事情があったのです。これを皆さんは知らねばなりません。 こうしてイエス様は愛する弟子たちと共にエルサレムに入られ、選ばれたイスラエル民族と教団を失って瓢々単身、哀れにもゴルゴダの道を歩まれたイエス様の事情も、皆さんは知らねばなりません。また、この事情から恨むべきイスラエル民族であり、呪咀すべき十二使徒ですが、鞭で追い立て、大声で騒ぎたてる選ばれたイスラエル民族を見やり、言葉もなく十字架を背負い、死に至るゴルゴダの道を歩んで行かれるイエス様の心情を、皆さんは知らねばなりません。 イエス様も人間ですから、人情的な感情があるなら悔しいのです。呪咀と恨みに染みた痛憤なる心が胸に込み上げてくるのですが、神がこの民族を、この世を再び救援されようとするみ旨が残っていることを知るイエスは、呪咀の口をふさぎ、哀しみの心情にかえたのです。 イエス様はご自身が天を代身してこの民族を呪咀し、神を代身して審判すれば、後代の人間を救援する救援摂理が破壊されることを感じていたので、救援の一基準を立てることができたのです。もしもイエス様が自身の悔しさを、悔しさとして表し、神を代身する自体として呪咀と怨恨の立場に立ったなら、この世の中は希望がすべて絶たれてしまうのです。この世の中はこの時から、お終いになってしまうのです。 このような事を知るイエス様でしたから、自分が死の峠を越えたとしても成せねばならない神のみ旨があることを知るイエス様の心情は、呪咀し恨むべき民族に対して、復讐すべき怨讐たちに対して「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三:三四)とされたのです。このように第二救援摂理のみ旨を受け継ぎ、出発した切なくも深刻な瞬間であったことを、皆さん知らねばなりません。こうして神はイエス様を第二救援の実践者として立てることができ、人間たちに復活の恩賜を与えることができたのです。 このような事情に処したイエスは、怨讐たちが十字架に釘打つことを忘れ、過去の歴史を回顧して神の心情を案じ、未来の後代の子孫たちを案じ、自身の血肉が引き裂かれることも忘れて、天の歴史的な哀しみの心情を代って背負い、歴史的な神の怨恨と、歴史的な救援のための責任を代って背負い、「天よ! 蕩減してください!」と訴えたイエス・キリストの心情と、イエス・キリストの止まってゆく心臓を思う人間にならなければなりません。 こうして万民にために哀惜しながらも、人間として生まれてこの世に一つの慰めの場所さえ求められず、こっちに追われ、あっちに追われる寂しい孤児のように、追われる放浪児のように寂しこを歩む生活が、最後の場がカルバリ山頂の十字架の死で終わってしまったこの事実を考えてみるとき、これをご覧になる神の心情がいかばかりでしょうか! 神の悲しみは、天と地が引っ繰り返ったほどだったのです。聖書にイエス様が息をひきとる時、三時間にわたって天地が暗くなったと記録されていますが、これは神も四〇〇〇年の間信じてきた息子イエス、四〇〇〇年の間失ったアダムを捜し求めるために、後のアダムとして立てたイエスであったのが、死のゴルゴダの道で祭物になってしまったことをご覧になり、息もとまる心情を抱かれたことを表しているのです。このような神の悲しみと切ない心情を知らねばなりません。 これを知るイエスは、神の悲しみが自分の悲しみよりも大きく、神の憤りが自分よりも大きいことを知り、神の痛みが自分の痛みよりも大きいことと、反対する民族ではあっても再び捜し求めなければならない、神のみ旨があることを知っておられたがゆえに、イエスはむしろ「わたしの死は軽いのです」と従順に祭物になったのでした。死の場にあっても、こんな従順と孝誠の心情が強かったイエス様を、皆さんが知らねばなりません。 このように逝かれたのですが、イエスの死を慰める人間、イエスの死体を神の息子として侍って差し上げる人間は、一人もいなかったのです。また、イエスを好き勝手に扱ったロ-マ兵たちは、終いには槍でイエスの心臓を突き刺したのですが、このように突き刺されたイエスの心臓を、皆さんは知らねばなりません。 自分の血がふりまかれた心臓になって、一滴の血も残さない残忍な怨讐のまえに立つイエスの心臓を、皆さんは考えてみなければなりません。 終わりの日の聖徒に対する神とイエス様の願い それでは神の怨恨と悲しみが何であったか! 地上に生きたイエス・キリストの生涯を代身し、神のみ旨を証したイエス・キリストの心情を、自分の心情のように感じ、イエス様のみ旨を代身、相続する者が誰なのか? 神はこんな人間がでてくることを願っているのです。 こうして死んで三日のうちに暗闇をかきわけて復活して、選ばれた第一イスラエルを失って、第二イスラエルを救うための福音運動を展開して求めた人々が、今日全世界に広がっているキリスト教徒であることを知らねばなりません。 今日世界キリスト信者たちは誰なのか? 彼らはイスラエル民族の失敗を復帰するための第二イスラエルであり、第二の選民なのです。 それでこの民族のまえに、人類のまえに、この一つの所望と救援のみ旨が残ることによって、十字架上で祈祷されたこのみ旨を解怨するために、イエスも神も摂理されておられるのですが、この所望が誰に留まっているのか! 今日第二イスラエルである皆さんに、留まっていることを知らねばなりません。 四〇〇〇年歴史を代身して現れるべきイスラエルが崩れたことを、今日我々は復帰したイスラエル、イエスに反対したイスラエルを、イエスを歓迎するイスラエルに復帰しなければなりません。そして神の心情を代身して来られたイエスを排斥したイスラエルをこわし、今日第二のイスラエルである我々が神を代身して、悔しさを解怨して差し上げてこそ今日主様を我々は迎えることができるのです。天もこれを要求しておられるのです。 それでは終わりの日の聖徒たちに願う、最大の要求が何であるのか! 再び来るメシアを迎える人間は誰であるのか! イエス様が切ない心情を抱いてこられたその脈打つ心臓の、内情を体恤する息子・娘なのです。そのような息子・娘がこの地上にでてこそ、死なれたイエス・キリストの恨を解き、神の怨恨まで解いてあげることができるのです。であれば人間は喜びの一日を迎えることができることを、皆さんは知らねばなりません。 イエスは復活の一日を求め、復活した後にもイエスは排斥した弟子たちに会ったのですが、喜ばれはしなかったのです。復活した後にマクダラのマリアがイエスに会い、抱きつこうとしたときも、触れてはならないとされたのです。 喜びの一日であり、喜びの瞬間であったのですが、歴史的な悲しみを引きつぐ事情を知らない彼らであったので、彼らはイエスを代身し、イエスのまえに喜びの一つの条件を立てることができなかったのです。これを皆さんが悟り、復活した後にイエスに抱きついたマリアの心情を越えて、イエスの内的心情を洞察して、彼の心臓まで知って、一人の主人公の資格を得て、天地を肩に背負う勝利者の資格を得なければなりません。いかなる人の世のサタンであっても踏みつけて天のまえに出てゆき、神の心情とイエス・キリストの心情を持つ人々になってこそであります。 アベルの血が歴史を代身して訴え、これを蕩減しなければならないイエス様が、血の訴えの祭物を捧げたのですから、その後に我々はどうしなければならないのか! イエス様が血を流したことのみによって終わるのではなく、この血を収め、再び神が生きる人間の血として我々の心身に備え、この血が躍動する天的な心情と心臓を所有する、資格者にならなければなりません。 皆さんは、イエス様が自身を排斥した彼らに対して、もう一度許しの心を抱かれた心情を知らねばなりません。互いに鉄石のごとくに信じ、死ぬも生きるも一緒であり、同じ生死の道を行くと覚悟をした弟子たちが排斥してゆくとき、ここにおいてイエス様が再び雅量をもって彼らに対され、ご自身が代身して死の峠に当たるとしても、彼らを呪咀されることなく、許されたその心情を知らねばなりません。 また排斥した弟子たちをみな後にして、復活して喜びの心をもって独り昇天していったイエス・キリスト、ご自身に反対した使徒たちを訪ねたイエスの心情を、皆さんは感じてみなければなりません。 歴史的な解怨の出発点 それでは今日、歴史的な解怨はどこから始まるのでしょうか。イエス様の悲しい心情を慰め、喜びの心情にするところから始まるということを、皆さんは知らねばなりません。今日、地上で悲しむ人間がいるなら、彼を抱きかかえて悲しむ皆さんにならねばなりません。 地上で選ばれた第二イスラエル的な立場の、世界に広がっているキリスト教徒たちを見てみるとき、選ばれたイスラエルを再び収拾して、神の祭壇を積み、生きた祭物を捧げなければならなかったイエス・キリストの切ない事情が、歴史的な怨恨として結ばれていることを知らねばなりません。そして今日世界に広がっている第二イスラエルを動員して、彼らの保護者となり、彼らの闘いの代表者になり、彼らを代身してサタンに対して闘ったイエス・キリストの事情を体恤する人間にならねばなりません。こんな心情を体恤する使徒たちになってこそ、イエス・キリストの使命を受け継ぐことができるのです。 皆さんはまた、すべてのものを放棄していったイエス・キリストの足跡を死守し、イエス様が荒野で受けたようなサタンの試みや、カイサルの審判や、ロ-マ兵士の槍先を払いのけ、勝利することのできる人々にならねばなりません。こんな責任を完遂する一人の同志がいると同時に、イエス様に侍ることができる一つの家庭と宗族、社会、一つの国家、一つの世界がなければならないのに、これらのものはみなどこへ行った! 今日我々は、団結しなければなりません。教団を踏み越え、神の心情を代身して団結する時がきたのです。御言を通過してイエス・キリストの実体を所有する時がきたのです。旧約の御言を土台として、イエス・キリストの実体を所有しなければならないのであり、イエス様の実体通過の門があるのですが、この門が分からないのでイスラエル民族が崩折れたことを知らねばならず、さらには新・旧約の御言によって通過する時代が過ぎ、イエス・キリストを通した、実体通過時代が来ていることを知らねばなりません。 エデンの怨恨が何であったのか! 御言を失ったことは勿論、怨恨の条件になるのですが、実体を失ったことがより大きな怨恨であったのです。それでは誰が御言を踏み越え、実体通過の門を解放させるのか! これが問題です。こんな門がないので、今日皆さんがこの門の石になり、この門を造らねばならない使命を背負っていることを、皆さんは知らねばなりません。 神は御言のみを、重要視されるのではありません。新・旧約聖書、即ち数億の人々が読んでいる聖書の御言よりも、この御言を通過した一人の息子を、重要視するのです。この息子は、いかなる人間か。御言を頭で知る人間ではなく、心臓と体で知る人間なのです。頭で知る時代は過ぎたのです。御言を胸で知り、体で知り、神を代身して自分独りでもサタンに対して闘ってゆく、実体祭物を要求する時が来ているのです。 イエスが三〇余年の生涯を経ていったことは、神の切ない心情を解くために、旧約の御言をはね除けても、一人間自体が御言を代身して、神の心情と一つになり、誰もが引き離すことができない一つの門を、この地上に造っておくために苦労した生涯であり、またこんな資格を持った一人の人間を捜し求めるための、闘いの路程であったのです。 この一人の人間がいないために、イエスは逝かねばならない運命におかれ「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」という御言を残されたのです。 今日この怨恨を誰が解怨してあげるのか。神の恨を解くために、イエスは身悶えて苦労したのですが、成就することなく逝かれたのです。六〇〇〇年の歴史の終末である今日、この摂理を受け継ぎ、この使命を担うために、身悶えて神とイエスの恨を解いてあげる、地上の新婦が誰なのか。この新婦は、新・旧約を知っているだけの人間ではないのです。 イエス・キリストは三〇余年の間、神のために染みる悲しみを抱き、人知れぬ排斥を受けたのです。四〇日の間、食べることもせずにサタンと闘ったイエス様は、死ぬも生きるも一緒と誓ったはずの背反した弟子たちを、再び抱くために行ったのです。人間のようであれば夢にも会いたくないはずなのに、イエス様は復活した後に再び弟子たちを捜し求めたのです。このように神の心情を代身したイエス・キリストであるのに、皆さんがイエスキリストを売りとばしては駄目です。 彼を代身しなければならない世界に広がる第二イスラエルのキリスト教徒は、どこに行ってしまったのか? 教団を造ってきたサドカイ教徒、パリサイ教徒は全部、イエスを受け入れなかったのですが、今日皆さんは、こんな教団を踏み越える人間にならなければなりません。 神の恨を解いて差し上げる真の息子・娘になろう 皆さんはアボジの御言を代身して、こんな教団を踏み越える実体祭物にならねばなりません。心臓と心臓が連なるイエスの祭物を神が受けられたように、イエスと神の心情が一つとなる生きた祭物の実体が、この民族を代身した教団のうえに現れなければならない時が来たにもかかわらず、今日この民族と人類は眠っているのです。 世界が一つの心臓の動きによって、一つの形態を得てゆき、天の心情とイエスの血肉を通して歴史が流れたきたのですが、今日ただ今実を結んでいる一つの実体が、皆さん自身であることを知らねばなりません。 皆さんはイエス・キリストの切ない心情と、脈打つ心臓を所有する相対者になってこそ第三イスラエルとして残ることができることを、知らねばなりません。イエスがこんな心情を抱いて祭物になり、第二イスラエルを造られたのですから、今日我々がこんな覚悟を持ってこそ、第三イスラエルの先祖になることができるのです。またいわゆる、エデンの園の本然の子女になるのです。 皆さんは復活の恩賜の実体をもって、歴史的なすべての苦痛を経て、時代的な怨恨を脱いで天を求めていってこそ、神の息子・娘として捜し立てられるのです。 イエス様の三〇余年の生涯が、神の四〇〇〇年の歴史の心情を代身して、祭物の実体として現れたように、今日我々も六〇〇〇年の間、復帰摂理をされた神の心情とイエス・キリストの心情を代身して、天が動ずれば動じ、静ずれば静ずる神の子女たちにならねばなりません。 こうして過去六〇〇〇年の歴史を回顧して哀しみ、不信したイスラエルを見て哀しみ、未来に第三イスラエルの園を立てるべき使命を抱いて案じて、誰が行っても行かなくても「私独りこの責任を負って行く」と天のまえに誓う、息子・娘にならねばなりません。そしてイエスの足跡を死守し、後継者の責任を完遂しなければならないのです。 皆さん自身が今、新・旧約の御言が何であるか、ということを知らねばなりません。新・旧約の御言よりも、イエスの心情が何であり、イエスの心臓がどうかということを知っていって、即ち、イエスの内的な心情を知り、外的な心臓の動きを知り、天が動ずれば皆さんも動じなければなりません。 皆さんはまた、天の動と静に合わせて動き、天倫を代身してアボジのまえに勝利の祭物として捧げてこそ、イエスがこの地上で恨を解くのであり、神もこの地上において恨を解くのであり、万民万象すべてが神のまえで、彼に従って勝利の栄光を受けることができるのです。 皆さんが偶然にこんな立場に立ったと考えないでください。歴史的な運命を代身して、必然的な路程の祭壇を受け継いだと考えてください。皆さん自身が今、イエスがゴルゴダの山頂で積んで残した哀しみの障壁を踏み越え、ゲッセマネの園からゴルゴダの山頂まで登り、十二使徒を一つに束ねた生きた祭物として勝利の祭壇を積み、サタンを屈伏させて「アボジよ、独り栄光をお受けください!」とする勝利の息子・娘になってこそ、主のみまえに新婦の資格を得る、勝利者になることができるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.03.01
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