全35件 (35件中 1-35件目)
1
「七七七双聖酒式後の御言」1970年10月18日水澤里中央修練院 韓国のソウル市内で行われた七七七双国際合同結婚式に先立つ十月十八日、水澤里中央修練院において、日本人二三五双を対象とした聖酒式が執り行われ、聖酒式終了の際の祝祷と、日本人カップルに語られた御言の要旨。 祝祷 天のお父様、真の父母の血統を受け継ぎ、善なる先祖となることをお許しくださったことに感謝します。ここに、新しく二三五双の新郎、新婦が天の前にお仕え申し上げますことをお許しください。 神の国の子女として、永遠に神を讃えることができ、そうして神を褒めることができる、真なる夫婦となることができますように祝福し、今までの歴史過程において、多くの家庭における夫婦より増して、神の愛のとどまる真なる夫婦となって、永遠の世界において善なる先祖となることができますよう、なおいっそう祝福してくださることをお願い申し上げます。 きょうを中心として、昔の血統の因縁を完全に分別して、新しく神に接ぎ木され、そして 蘇った喜びを、あなたの御前に永遠にお捧げ申し上げますことを重ねてお願い申し上げます。昔の我々の先祖であるアダムのような過ちをなし、神に汚名を残し、禍いを残した、そのような夫婦として絶対に立たないことを、もう一度お誓い申し上げます。 永遠なる基準によって、永遠なる神様、お父様と一致して、真なる子女となって、そうして永遠なる父母になり、真なる父母になって、善の子女を育て、神の国を形成することを、この時間誓う者でありますから、どうか神、祝福してください。二三五双を我々は御前に捧げますから、神祝福してくださることをお願い申し上げます。 ここに、真の父母の御名を通して、あなたの御前に、この二三五双を捧げることをお誓い申し上げます。アーメン。(アーメン)。 血統を受け継ぐ復帰式 復帰という問題はこれほど難しいものです。昔みたいに、信じたらすぐ天国に行かれるような、そういう基準と我々の基準とを考えてみなさい。いかに難しいか分かりますか。 約婚式をして、もし嫌だったら、その一人は犠牲にしても、一人は救ってあげるのです。なぜかというと、堕落して復帰の道が残っているから、許さなければなりません。しかし、今血統転換した以上は、そんなことはできません。それ以前は、もう本当に嫌がった場合には一人は後に回して、一人は祝福していくのです。なぜかというと、エバは堕落したけれど、アダムが堕落しなかった場合には、そのまま残るのです。皆原理的です。 この二十一日に行われる結婚式は、実体世界の勝利圏に立つためには、実体を中心としての蕩減の過程をもう一回通過しなければなりません。式場の方に先生の立っているこの前には、十二双あるいは二十四双、三十六双を合わせてずっと立たせて、大体、普通は新郎新婦がその中を通っていくのです。これが復帰です。神の願いは何かというと、十二弟子と十二子女を中心として、勝利の子供として生まなければなりません。勝利するには、男からでなくて、女を合わせて家庭基準を通過しなければなりません。歴史過程の復活をする。 そうしないと父母の前に立つことができません。みんな蕩減するのです。その間には必ず復帰の路程がそのようになっているでしょう?。七歩ずつ行って三拝する。そうすると三×三=九になる。初め三回ずつやればそういうことになる。十数になる。十数は天の神様の数であり、完成数でしょう。それはずっと復帰路程を象徴しているのです。 こういうふうになぜ三拝するかというと、これは三位基台であるからです。アダムとエバとそれからアベルを象徴します。これは血統を受け継ぐ復帰式です。エバが堕落してから、アダムを誘引して堕落させ、そこから人間の先祖が始まったのでしょう? 結婚式はその式です。今の式は堕落の復帰式です。血統を復帰して、原罪を取らないと神の前に出られないでしょう? 祝福など全然できないでしょう。原理的に皆そうなっています。 こういうような行程を通じなければ、サタンが分かりません。サタンを屈伏するには、こういうような原理的な基準を通過した条件を立たせない限り、サタンは退きません。もしも一遍失敗したならば、だれがこんなことをしていますか。考えてみなさい。それは、完成基準において堕落したことになるのだから、それはサタンよりもっと悪いのです。 皆さんは、堕落した立場を復帰しなければなりません。そういう完成基準に、堕落したその子女というものも、神様は見ることができません。原理の世界には、いることができないのです。もしもいい男とか、いい女が会って結婚したとするなら、そのようにして結ばれた子供自体はどうなるか。完成した原理の世界には、そういうものの影は全然見られません。どういうふうにそれに締まりをつけるかというのです。それは永遠に地獄においても、姿を現すことができません。 復帰の圏の恵沢圏が残っているから、地獄に行っても神様は向くことができるのであって、これは全然無抵抗な世界です。永遠の裁きになっています。恐ろしいものです。遊び事ではありません。命懸けのことです。 だから絶対に男、女別れて行くな。どこへ行ってもついて行く。うれしいことがあったら同様にうれしく感じる。寂しいことがあれば、悲しいことがあれば同じように悲しく感じるというのです。心情一致。だから夫婦同士では、一日の中で悲しかったり、うれしいことがあった場合、必ず家内に言っておかなければなりません。「女なんか、そんなの分かる必要ない」。そうはいきません。思想統一でしょう?。生活統一でしょう? それから心情統一。行動統一。だから女性は注意しなければいけません。女性は弱いので、いつサタンの男たちが攻めてくるか分かりません。 特に、祝福を受けた場合には、周囲のサタンは引かれる。相当美人のように見える。エバが堕落する前に、天使長の目には、最高の美人として相対圏になったと同じように、皆さんに何となく引かれる。何気なしに尊く見える。だから注意しなさい。 昔は貞操帯というものがありました。そんなことをしなくてもいいのですが、自分の体を保護し得る万全の準備をしなさい。命を捨てても自分は貞操を守る。今から血統が問題になります。純粋なる血統をいかに残すか。それは我々に残された一番重大な問題です。毎日の生活において、命懸けで闘う。そうでしょう?。(はい)。これがはっきりした者は、再び堕落することはできません。 公式的七年路程 もう少し詳細に、話してみましょうか。(はい)。復帰というものは、完全に復帰することです。この前、血統転換ということを話したでしょう。そうするには、母のおなかにまで入らなければなりません。そうして再臨の主の、結婚しないアダムの近くに、(霊的な意味で)その骨髄の中に入らなければなりません。その子供の種が母を迎えて、再び愛によって生まれなければなりません。今までそういうふうには来なかったのです。一九六〇年の先生の聖婚式において、その基準が立ったのです。 皆さんの家庭は先生の家庭を中心とすると、平面的なカイン家庭です。だから皆さんから復帰が始まるのです。だから完全復帰は三代目です。先生の一代と、皆さんの二代とその子供たちが三代です。だから、皆さんの使命が果たされなければ、また引っかかるのです。夫婦相対理想をかなえなければ天国に入れません。だからイエス様は楽園に行って、今まで二千年間待っておられたのです。相対基準が完成されなければ、創造理想の本国である天国には入れません。それは原理でしょう? アダムとエバとで堕落したために、子供まで含めて二代で復帰するのです。神様を中心としてみれば、神様とアダムと子供で、三代になります。垂直の中心に立つ神様と、平面的な先生を中心として一代、二代です。縦的、横的蕩減条件というようになっているのです。だから皆さんは三代目に完成するのです。 だから堕落した人間にとって、七年間はだれもが通過するのです。七年間は先生のために、命懸けでどんなことでもやらなければなりません。天の訓練です。先生は天の国の使命、神様の使命を身代わりに果たすのです。先生のためにするのは世界のためであり、神様のためにすることです。だから七年間は、自分として生活するのではありません。それは公的生活なのです。完成基準の原理結果基準をまだ通過していないために、七年間を通過しなければなりません。 この期間にどういうことが起こるかというと、個人の十字架を背負うのではありません。家庭的十字架を背負って行く道なのです。結果主管圏内にはサタン圏がまだ残っているために、いつもサタンが侵入しやすいのです。だから七年間を通過しなければなりません。 ノア家庭の八人の兄弟を中心として、洪水審判がありました。アダム家庭で失われたすべてを復帰しても、それはカインの家庭であり、それ以上乗り越えることができません。だから、ノアがアダムの家庭を復帰したとしても、その家庭の基準にメシヤが来なければなりません。 だから、キリスト・イエスが来る前には、艱難の第七年路程が残っています。それは個人の艱難ではなく、家庭の艱難です。それから子供に対しての艱難です。 信仰の三子女の必要性 本当は、カインの子供を愛さなかった者は、アベルを愛することはできないのです。神様は、今までカインの子供を愛するためにアベルを殺し、犠牲にしてきました。歴史の過程はそうなっているのです。そうであれば、先生自体においても、カインのために、自分の子供を犠牲にしなければなりません。だからカインを復帰して、愛さなくては、アベルを愛することはできません。それは何の話かというと、信仰の子供を愛さなければ、自分の子供を愛することができないということなのです。 先生もここに引っかかったために、聖進様を置いて北へ行ったのです。サタン世界のカインを愛せなかった者は、天の身代わりとしてのアベルを愛することはできません。こういうような基準に引っかかっているから、神様はサタンの世界を愛したという絶対的な基準を立たせない限り、世界的アベルの子女として愛することはできません。 なぜ、三人の信仰の子供が必要かといえば、自分の子供を愛する資格を得るためです。その過程を通過しなければなりません。愛するには、信仰の子供が絶対に必要です。それが原理でしょう? (はい)。それは先生の話でもありません。だから、歴史が六千年間延長したのです。 それで、イエス様も、「敵を愛せよ」(マタイ五章四四節)と言われたのです。自分のおやじの怨讐であり、自分の子供の怨讐です。これ以上の怨讐はないというのです。日本では、これは仇討ちの代表者になるべき存在です。自分のお父さんのお父さん、子供の子供の怨讐だったら、仇討ちするでしょう?。これは許されない敵なのに、そういう者を愛さなければなりません。 だから神様が一番、今まで心情の十字架を背負ってきました。先生もこの道に引っかかってこういうような淵にかかって、今まで苦労してきました。それがなければ苦労しません。個人のカインと、家庭のカインと、氏族のカインと、民族のカインと、国家的カインを愛さなければならないのです。 エバ国家だけでなく、中心国家を中心として、十か国がつながったという条件を立たせたとすれば、それは地上に、四方八方に連結される天的恩恵の時代になるというのです。 だから摂理は、韓国を中心としてなされてきたために、韓国に連れてきて、こうした結婚式をするのです。それが七七七双、それは完成です。七七七、三数、三×七=二十一でしょう。平面的、四方八方の門を開ける天的勝利圏を獲得する式です。だから、日本も、韓国も、世界も騒ぐのです。全部が騒ぐのです。それによって十か国が引っかかるのです。十数復帰でしょう? だから、七〇年代の世界勝利的基盤を七〇年につくらなければならないということを年頭に発表したのです。そこに皆さんが参加して祝福されることは天宙的なことです。 アベルの使命 カインがなければ、アベルを愛することができません。カインを持たずして愛した場合には引っかかります。神が、六千年間の摂理の道を捨ててしまうのと同じです。 今まで神は、カインを愛するために自分の子供たちを犠牲にしてきました。犠牲にすべき立場に立っているのに、自分の子供を愛するということが成り立つかというのです。だから統一教会においては、三人の信仰の子供を持たなければなりません。 それで、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネという三人の主弟子を、死ぬところまで連れて回ったのです。アダムの家庭を復帰するには、男性一人では絶対的に不可能です。それこそが、四位基台造成のための絶対的基準だからです。 それができなければ、歴史的摂理の基台は全然なされません。イエス様自体が結婚の足場を求めてきたのです。自分の足場ができるとともに、その三人の弟子の新しい家庭ができれば、カインの三人の子供の家庭を愛したことになります。だから、自分の子供を祝福させるその道が開かれてくるのです。どれほど難しいことでしょうか。自分の子供を育てるより、三倍以上の苦労が必要です。 それが三時代を通過した神の摂理路程です。自分の子供はそのままにしておいて、血統の違う、怨讐の子供を連れてきて、自分の愛する長男とさせるというような立場です。サタン圏内につながれていた時以上の愛をもって接しなければ、復帰はできません。 それゆえに、イエス様は十字架につけられながらも、迫害する者のために祈ったのです。あなたの家庭においてもそうでしょう。今、祝福されたという場合に、一人はアベルの側で、一人はカインの側です。アベルという者は、カインを愛さなくては神の子になれません。女性でも神の娘になれません。二人が一つにならなければ共に救われません。闘いながら、拳を打ち合うような環境では、神の家庭ができません。相対基準がなかったら救われません。神のもとへ立ち帰れないのです。両足のような、そういう一身です。それが家庭というものです。 先生の家庭の勝利基盤があるために、先生の家庭と皆さんの家庭は、アベル・カインです。だから、アベルの家庭が愛されているということを、いつも実感しなければなりません。そうするには、あなたとともに、父母のみ旨を愛するのです。アベルを復帰するには、まず第一に、父母を復帰しなければなりません。父母を復帰しなければ、子供がいないことになるでしょう。 アベルの第一の使命は何かというと、子供としての使命をなすことです。子供として、蕩減の信仰基台を立て、実体基台をつくってから、父母復帰の基台と父母の蕩減基準をつくっておいてから、父母によって父母と自分が一つになればアベルの復帰ができるのです。逆さまです。上がるのは父母に認められるためであり、上がってから父母と一体となればアベルは堕落しないのです。 なぜかといえば、アダムが危ないという時に、お父様(神様)に聞いてみれば、お父様はその時教えてくれます。「エバがこう言っていますが、神様、どうですか」と聞けば、教えてくれるはずです。原理結果主管圏内でも教えてくれます。 皆さんもそうです。皆さんの父母の家庭を復帰したという基準を立てなければ、アベルの立場の使命を果たすことができなかった立場でしょう? 父母になって完全に復帰しておいてから、その家庭と皆さんの家庭が一つになってこそ、地上に勝利のアベルが成就するのです。 家庭出発のための最低条件 こういう原理を知った場合に、行けない所がありません。皆さんは日本人ではありません。天民です。我々には国がないのです。どこに行っても、がやがや言われるでしょう? しかし、その過程を通過しなければなりません。地球のいずこにおいても、この公式を確信するのです。言葉が違うといって、通じないのではありません。国が違うといって、通じないのではありません。この原則は、地球上いずれにも通じるというのです。神の前に立ち帰るには、この公式なくしては、いかなる王者でも立ち帰ることができないというのです。先生の家庭は父母でしょう? 皆さんは、アベルの家庭の立場に立たなければなりません。父母の家庭を復帰したという条件が必要です。アベルは父母を復帰しなければなりません。 それゆえに、家庭自体が父母に忠孝を尽くさなければならないというのです。救ってから、そうして認められてから相続を受ける、その主体者がアベルです。アベルは長男の目的、長男の完成のために立たせているのでしょう?。原理がちゃんとそうなっています。だから、父母に三年以上侍らなければなりません。 父母の価値がどれくらい大きいかということを知れば知るほど、それに比例した真心を尽くして侍らなければなりません。天にあっても地にあっても、自分の夫婦一体、すべてを犠牲にしても(不明)できない父母だというのです。天宙にない貴い宝物があっても、その宝物はすべて神様がつくったものでしょう?。それはいくらでもつくることができます。しかし、先生はいくらでもつくることができません。 み旨を考えない、あなたの父母と全く関係がない者たち、どこから飛んできたか分からないような者たちを連れてきたのも、復帰の因縁があるからです。アダム・エバを中心としての、子女関係を犯した罪を復帰するための神のみ旨があるからです。そのタイプを持ってきて、先生が合わせなければならないから、それが再び現れなければなりません。これが、神様を中心とした子供ということになるのです。 信仰の子供を愛さずしては、自分の子供を愛せないことはもとより、夫婦も共に愛せません。それゆえに、聖進さんのお母さんと先生は別れたのです。キリスト教の、三人のカインの信仰の子供が生まれてくるのを待ったのですが、それが生まれてこないのです。だから、夫婦共に生活することができなかったのです。こういう原則になっているのです。 統一教会に入って一番難しいこと、一番恐ろしいことは、「伝道するな、伝道するな」と言われることです。それは、「死んでしまえ」と言うのと同じです。伝道しなければ三人の信仰の子供をつくれません。三人の信仰の子供は十二人の代表でしょう?。だから十二人から選ばなければなりません。それがイエス様の恨みを解放する基準なのです。 まずもって三人の兄弟を捜して、それから、その民族的基台を、十二チームを捜さなければなりません。三人の主弟子がアベルですから、彼らは十二人の弟子を愛さなければなりません。結局は四位基台の道になるのです。それを合わせれば三×四=十二になる。だから、四位基台を愛しなさい。 子供が生まれるには、愛から生まれるでしょう? 男性の愛があり、女性の愛があって、それが一つになる過程を通じて、血肉が一体となる基準を通じて、子供が生まれてくるのです。 だから復帰も同様です。イエス様がだんなさんであり、聖霊はその花嫁でしょう? 霊的花嫁によって、霊的新郎を慕う愛がなくてはなりません。その愛が自分の一身において夫婦の、父母の愛の因縁として結実していかなかったなら、自分の生命は生まれてきません。これがキリスト教の再生、復活の原理なのです。 そのような霊的基準で復活したとしても、半分しか復帰したことになりません。さらに、肉的基準を通過したという条件を立たせるために、再臨の主は必ず来なければならないのです。再臨の主も、ちょうどそういう道をたどってきたのです。 イエス家庭における神の摂理 皆さん、考えてみなさい。ヨセフは天使長の立場であり、マリヤはエバの立場でしょう?。結婚のために堕落したのを復帰するには、結婚をしないと復帰できないでしょう? 天使長は結婚しますか? (しません)。結婚という問題はエバしかありません。エバのだんなさんはどこにいますか。今まで、天使長しかいない世界に、再び神と関係を持って現れた男性がイエス様だったのです。 マリヤはお母さんです。お母さんは、天使長から奪い取られたエバが元返しされた神側の女性だというのです。結局イエス様の母であり、イエス様の相対者の母の立場に立つべき女性だったのです。エバは結局、こう引っ張られていったために、堕落した世界の母が生まれてきました。エバは落ちていく子孫の元に立ったのです。 しかし、落ちていったその女性の中から一人、このように元返してきたというのは、復帰されるその中心の基準になるというのです。このマリヤが復帰されるに従って、今まで結婚して家庭を持ったすべての女性たちの復帰の道が開かれるというのです。 そうでなかったら、家庭は全部不和になり、救われる道は全くありません。このマリヤが神の方に帰ることによって、復帰された勝利の立場に立つから、世の中のすべての家庭内にいる、マリヤの立場に立つ女性たちが神の方に帰る道が生じてきたのです。それができなかったら、みんな殺してしまうか、裁いてしまわなければなりません。それは、エデンの園において血統を汚さなかった、堕落しない女性です。婚約をした条件を残し、サタンと結ぶような立場に立ったのです。 それは、復帰の条件を満たすために、そのような立場に立たせたのであって、神の本意はそうではありません。神に引っ張られて元返してきた、その女性です。サタンに引っ張られたものを元返して、帰ってきた女性でしょう。サタンが引っ張っていくことのできない、本当のエバがいなければなりません。堕落しない女性から完全復帰がなされるのです。 イエス様がだれを立てたかといえば、新婦です。その新婦は復帰の使命をします。失ったものを元返す、その女性がいなければなりません。それは結婚した女性です。結婚している人とか、婚約した立場から引っ張ってこなければなりません。それから、そういう条件と全然関係ない女性がいなければなりません。そのようにして復帰されてきた立場の女性がマリヤです。それは母の立場です。自分の相対者の立場に立つまでは結婚しない、処女がいなければなりません。その年齢は十代であって、二十歳を超えてはならないのです。堕落はその年代にしたからです。 だから先生が四十歳で、十七歳のお母様を迎えたのです。その女性は、統一教会の熱心な人であってはいけません。原理も知らない、信じて出発する。そのような女性を選び出さなければなりません。そういう方面において、お母様は天来の素質を持っていました。生まれる時も、そういうような内的な因縁を持って生まれてきました。みんな原理的です。 イエス様は出家しましたね。それはなぜかといえば、この外で子供を求めようとしたのです。外でヨセフの代わりの人はだれか、考えたことがありますか。イスカリオテのユダは何のために先生を売ったのかといえば、愛のためです。こうすれば理由がはっきりしてきます。(イエス様とともに)一番、だれよりも内緒話をし、共にしながら、こういうことをしようとしました。 しかし、教えることはできません。教えて堕落しましたか、誘引して堕落させたのですか。その女性は、イエス様に、天の愛によって引っ張られてくるのです。そういうような闘いが、摂理の背後で闘われてきました。結局、イエス様が失敗したのはだれのためかといえば、ヨセフのゆえであり、イスカリオテのユダのゆえでした。 それで、イエス様はガリラヤのカナの結婚式に行ってぶどう酒を作りました。そこで、お母さんが現れて、「ぶどう酒がなくなってしまいました」と言った時、イエス様は、「婦人よ、あなたは私と何のかかわりがありますか」と言ったでしょう?。本当に怨讐になりました。「お母さん」と言わなかったのです。 また、ある人がイエス様に、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」と言った時、「私の母とはだれのことか。私の兄弟とはだれのことか」と答えられ、さらに弟子たちの方に向かって、「……天にいます私の父のみこころを行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである」と言ったでしょう?。それは、み旨を行けなかった証拠です。 聖書は、一つを隠しておいてそれを教えるのに、いかに苦労したかということがすぐに分かってしまうのです。だから、先生によって、こういう歴史の背後の秘密が今紹介されているのです。何の話か、聞いて分かるだけではいけません。実行しなければなりません。そうすれば、皆さんが愛するその奥さんを神の方に捧げるその愛、神をもっと愛するように、奥さんを捧げ物として捧げるような心持ちを持たないと、天使長は復帰されないというのです。 重要な女性の立場 皆さんは天使長の立場です。その奥さんはみ旨のために、いくらでも、どんなことでも捧げる。愛の怨讐の立場にある者に渡しても祝福しなければならないという心持ちを持たなければ、天の真なる子女になれないというのです。 そういうようなみ旨を分かっている者が、「おお、女の子、自分のためにやれ」とか、「いいや、私のために生まれた」と、そんなことが言えますか。愛のために堕落したのでしょう? 生死の問題は愛を中心としています。摂理の勝負の問題は愛を中心としてです。その愛は家庭です。統一教会にも、そのような女性がいなければなりません。 それは蘇生、長成、完成という三時代に接しています。そういう十字架の道を先生は戦ってきているのに、皆さんは全然知りません。その先生の家庭が中心の家庭であり、皆さんは、そのようなアベルの伝統をそっくりそのまま引き継がなければならないでしょう。だから、先生がそれをやっているのだから、皆さんの奥さんは自分たちのものではありません。先生も、そういうような覚悟でこの道を出発しているのです。 聖進さんのお母さんに対しても、もしも怨讐が神のみ旨で奪い取ろうとする者がいれば、そこに土産物をつけていくらでも渡してあげます。ゲラルの王アビメレクも、アブラハムの妻サラを返す時には褒美までつけて返したでしょう?。自分の奥さんを盗まれても、共にその男の妾のように生活しながらも、共に生きる男がいるというのです。おとなしくて、話もしないで祈るし、嫌々ながらもそういう立場で一緒に生活する男もいるというのです。 日本にもそういう女がいるでしょう? そういうような男性が摂理において非常に貢献してきた。だから摂理は妾から始まります。本家の本妻からは復帰できません。神様から見た場合、エバは二番目でしょう? 堕落しないエバが本家であって、二番目(堕落したエバ)は妾でしょう? だから、世界的に有名な偉人とかいう人は、貧しい所から素晴らしい子供として生まれてきます。本妻をさておいて、愛情心に燃え上がって、妾とか、華僑の女とかつきあった、そういう所から素晴らしい男性が生まれてきます。マタイ伝の冒頭には、四人の淫行の女性がいたことが書かれています。タマルも、ラケルも、ラハブも、ルツも皆妾のような立場です。 ヨセフもマリヤとの愛の問題で、イスカリオテのユダも愛によって失敗しました。その弟子も分からなかったのです。あなたたちもまずもって、イスカリオテのユダ以上の心情を持った男にならなければなりません。自分の愛する女を盗まれても、(その男を)祝福してあげるような度量と寛容心を持たないというと、天国人となることができません。 先生の話す話は、聖書によると皆こうなっています。皆追われても追われても、皆これを縫いつけるようなことをしているのだから、その縫いつけたところに水が漏れるようにしたら、サタンが侵入する。水が漏れないように百パーセント一致しているから、サタンが後退するのです。 だから今、統一教会がそこまで完成して、勝利した基準があるから教えるのです。それを教えなければ、あなたたちより何百倍、何千倍知恵深いサタンが持っていってしまうのです。そうなった場合には、神の復帰の道は完全に閉ざされてしまいます。子供のなすべきことをサタンがすぐに持っていって成した場合には、またそこに神の二重の苦しみが生じてくるのです。だから、それは暗示や比喩でもってなす。表示や合図でもって教えるのです。それは真理を愛する子女関係を結べば分かるのです。 それを見ると、今まで合図しながら教えなければならない神が、いかに苦しい時があったのか。それに拍子を合わせて復帰路程を開拓するには、いかに神も、一つやるにも何回も繰り返しながら四方八方与えてみて、そして探ってこなければならないその道を通過してきたのです。 その先生は、どれくらい苦労したのだろう。考えてみなさい。いっぺんでそうなったのではありません。神が数万年、数億年かかって復帰の道を来られながら、地球星に向かって復帰摂理をなしているのです。そこには、いかに繰り返し、繰り返しながら、その残りの糸口をつないで引っ張ってきたことでしょうか。 祝福の貴さ それをつなぐには、絶えざる犠牲を払い、蕩減の条件を立てなければならなかったのです。そのようにして、今までつながってきているのです。そう考えてみた場合に、もしも皆さんが祝福を受けずして死んだらどうなるか、考えてみなさい。家に帰ってあのようなことができますか。(できません)。できる者はいません。地上の皆さんたちにとって、これは話にならないほどの希望の的です。 だから、イエス様はヨセフの家庭でも、外でも相当努力して失敗したのでしょう?。それゆえに、先生はその内容を復帰しなければならないでしょう。同じ道を行かなければなりません。それをだれに話しますか。お母さんにもだれにも話すことができません。たった一人で考えたのです。 問題は、強い天的愛情心でもって引っ張っていくのです。そうすれば皆、あふれてしまいます。自分の子供も問題ではありません。だんなさんも問題ではありません。そういうのを一度に切ってしまって、飛び越えるような天的心情に燃え上がるその道を、先生の周囲を中心として摂理の道を開拓するように準備していくのです。 今からは、納得させて、言葉ですぐに解決する基準に持っていくのです。話して解決してあげるのです。堕落は、こそこそ話してしたでしょう?。愛の話が堕落の最初のきっかけだったのです。それで、これからは愛でもって結末をつけるようにしなさい。復帰の結末は愛でするのです。こうして真理を得るのです。その愛は、家庭愛ではありません。世界を乗り越える愛であり、神様が包容される愛です。真理の世界はそのようなものです。 ゆえに、先生から祝福されないことより恐ろしいことはありません。一番恐ろしいことは何かと言うと、太陽でもなければ、原爆でもありません。先生が祝福してあげることのできない女性、男性となることです。逆に、一番うれしいことは何かといえば、先生によって祝福されることです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.31
コメント(0)
「先生御自身の証」1970年10月13日水澤里にて 涙の信仰生活 結局は、この歴史のすべての犠牲は、私一人を救うためのものであったことを実感できる、自分の人格を持たなければならない。そういう歴史を見た場合には、涙なくしては見詰めることができない。統一教会の食口は、涙の切れる生活であってはいけない。 一週間、だれも自分を相手にしなくとも、自分なりの信仰生活ができなければならない。神様と向かい合った時、胸が裂けるほどの悲しみを感じる。こんな私を頼りにせざるを得ない神様は何とかわいそうか。つらい歴史を担当してきた神様の心情を、私たちは慰めなければならない。神様には昼も夜もない。何千年も続けて失敗を繰り返しながら後退できず、ずっと摂理を続けてこられた神様はいかにかわいそうか。 涙が切れている統一教会の兄弟は、食口ではない。目がはれて、太陽を見ることができないほど泣き続けたことがあるか。本当の孝行息子なら娘なら、一言の言葉で神を泣かせる。また神の一言で、わき上がる涙を抑えることができない。いつ自分の感動的一言で、神が泣いたことがあったか。神と抱き合って一体となって感謝し合ったことがあったか。 世界のだれ一人分からなくとも、神と私との間にあったその内容は、だれにも否定できない事実として存在している。それがなければ霊界に行っても惨めだよ。心情が問題だ。子としては、やってもやっても、もっとやりたくて、そしてもっと探し求めるような心情だよ。神のためにやりたくてやりたくて、それが永遠に続くような心情だよ。こんな神様を自分の父として迎えるのが、統一教会の食口だ。 北韓の牢獄 先生は、北の共産党の牢獄に入って二年八か月(興南では二年五か月)、重労働した。何の労働かというと、肥料工場だ。硫酸アンモニアの工場で、粉がコンベヤーで工場の真ん中に落ちるようになっていて、それをはかりにかけて袋に詰め、貨車に積み込む。 熱処理をして造ったものだから、落ちてくる硫酸アンモニアは熱い。それが冷えると塊になる。それを何年も置いておくと、岩石のようになってしまう。 重労働だった。一日八時間の労働時間に、一人ひとりの責任分担がある。十人が一組になって仕事をする。一日の責任は千三百袋で、八時間以内にやり終えないと、食料の半分は減らされてしまう。一日にくれるご飯は、小さなおわんに一・七杯くらい。漬け物は何もない。汁は塩水をかけたもので、みそ汁ではない。それを食べて八時間労働するのだよ。 共産主義の作戦で、重労働させて殺すようになっている。ここに入って三年たつとみんな死ぬ。必ず、間違いなくそうなる。三年以内に。食べ物をやらずに重労働させるのだから、この工場に入ってくる者は、まず完全に処分できる。 この世の基準なら、一日に三食、油物を食べて最高にやっても一日七百袋だよ。この工場はその倍に近い。 食べ物は少ないし、大口なら三口で終わってしまう。そして重労働するものだから、朝食べて工場に向かうその道でもう足が何回も曲がるのだよ。そういう足を引きずって行って、朝から働き出す。それはもう悲惨極まりない。 半月かかった決心 先生は、共産党の政策を相当知っているから、それに引っかからないようにした。先生は、与えられるご飯の半分で生きる決心をした。人間は、パンによって生きるのではないんだよ。神様からの言葉で生きるんだよ。どうせこのご飯では死んでしまう。だから、このご飯の半分で生きようと決心するまでに半月かかった。自分が半分食べて、あと半分は配ってあげる。いかに自分が精神的に幸福か。日々、いかに感動の量を大きくするかが問題だ。精神的慰めは実に大きなものだよ。 生活は科学的である。働いていても働いていることを考えない。仕事の時間が祈りの時間だった。いつも世界的にいろいろなことを探っている。 朝、牢獄を八時に出発して、工場に十時に到着する。 十分間トイレの時間が与えられた。 もう死にたいくらい疲れるのだよ。胃が溶けてしまうほどのつらさを感じる。だからそのことを全然考えない。それを考え出すと、ただ休憩の時間ばかりを頭に描く。四十キロの中身を入れて、それを持ち上げるのが一番難しい。皆嫌がる。先生は、みんなが嫌がるこの難しい仕事を自分が担当する。この難しい仕事を続けたら死ぬ。だから、この一番難しい仕事をやり抜く体力をつくるより生き抜く道がない。 皆さんも一番難しい仕事を担当せよ! そういうように前進的に考えよ! 一日に千三百俵以上入れて運ぶのだから、もう休む暇がない。千三百俵といったら、この講堂(水澤里)よりも大きな山になるよ。考えてごらん、千三百俵だよ。これを一日八時間でしなければならない。粉を入れて量って、袋を移動するのに五分から十分かかる。平均五分でやった。みんなは十五分かかる。こんなに時間をかけていたら、責任分担を果たせない。山を崩していくにしたがって、はかりを移動していくのだが、四、五メートル以上はかりを動かしたら遅くなる。だからあまり動かさないで入れるように工夫した。 みんなこれに従わないから、しかたなく自分一人でやる。そういうふうにやると、みんなやはり良心があるから、先生は千三百俵のうち半分以上は一人でやるので、結局はみんなが従ってくるようになる。 先生は模範労働者だよ。共産党から毎年、模範労働賞をもらった。その時の体重は十九貫三百(七二キロ)あったよ。今は二十一貫(七九キロ)近くある。先生は見たところあまりないようだけれど、骨が重いのだよ。 囚人は皆やせ衰えるのに、先生はやせない。だからみんなの研究の的だった。 新しく入ってくる者には先生が教育した。 体は硫酸に侵されてくる。毛が抜けてくる。肌をつまんでみると水が出る。六か月で必ず喀血する。たいがい肺病と思って落胆するから死んでしまう。せいぜい一年半くらいか、二年しかもたない。 どれくらい腹が減るか どれくらい腹が減るか。ご飯がどれくらい欲しいか。それは話にならないや。 自分の家族とかが面会に来る。来る時は何かを持ってくるので、どんなに恋しい妻でも、慕わしい母でも、来た人の顔を見るより先に、まず持ってきたものに目が行く。面会の時は持ってきたものを食べられる。どんなに会いたい妻でも母でも、そんなものより食べられることがうれしい。 工場ではほとんど食べさせないから、面会の時に食料を与えないのでは社会問題になってうるさいので、これは許していた。面会に来て、米の粉を持ってこなかったときほど悲しいことはない。親が死ぬより以上悲しいというんだね。それはもうあなたたちには理解できないよ。 どれくらい腹が減るかというと、腹が減ると胃液が出る。ただ胃が運動するから熱が出る。だから、唾がゴムのようにずうっと伸びる。それはもう想像できないだろう。 一番恋しいのは満腹になることだ。そうしたら死んでもよいと思う。これだけご飯が恋しいんだよ。そういう日の連続だ。 ある人が面会に来て米の粉を持ってくると、それをこねて餅を作る。しかし、石でこねると石に粉が付くから石をあまり使わない。石に粉が付いたら、もう競争し合って、それを取って食べる。それは話にならない。研究にも及ばないところの境地だよ。ご飯がどれくらい恋しいか、それは死ぬ境地を越えるほどご飯が恋しいんだよ。 工場に出ない時は必ずご飯が半分だ。働かざる者は食うべからず、というのが共産主義の鉄則なんだよ。病気でも、みんなと同じ一杯のご飯が欲しくて、死力を尽くして出かけていく。そうして最後の力を尽くして帰ってきて、夕食の時食べながら死んでいく。と、すぐ周りの人が死んだ人のものを戦闘的に奪い合う。先生はそんな中で、人間の深いところまで研究したんだよ。 このパンを慕うほど神を慕うか。先生は毎日、比較対照しながらやってきたんだよ。何よりも神を愛さなければならない。このご飯の一握りを食べるために入ってくるのではない。万人の蕩減の道を開拓するために入ってきた。自分の仕事の分配に対して、不信するような態度は絶対とらない。だから先生は有名だった。 それから絶対口をきかない。共産党の組織を知っているから、口をきかずとも、霊界より協助してくれる。人間はみ旨のために生きる以上、心配することはない。神はあらゆる方法を持ち、方策をもって助けてくれる。 先生は一番貧しい服装をしていた。良いのはみんなに上げて、破れれば自分で竹で針を作って縫った。 日曜日は休みだ。みんなは死体みたいに倒れてしまう。先生は絶対に寝ない。規則正しい生活をずっと続けていた。 先生もある時、あまり無理をして病気になったんだね。マラリアにずっと一か月かかった。しかし、自分の責任分担に許しはない。同じようにする。 囚人番号五九六番 先生は、牢獄での囚人番号が五九六番だった。霊界の先祖たちは、何とかして先生と因縁を結ばせようと必死になる。そして何か差し入れでもあると、その霊の霊界の先祖が現れて、半分を五九六番に持っていけ、というおとぎ話のような話なんだね。 統一教会はこのような生活圏から出発した。口をきくことができないから、霊界は天使長圏だから、天使の復帰の使命を果たせないと、アダムの栄光圏と関係を持つことができないから、霊界は援助せざるを得ない。そして牢獄の中で十数名が伝道された。 どんな悲惨な環境にあっても、先生は神様と生活をした。 一九五〇年八月一日、百機以上のB29が総攻撃して、興南工場を大爆撃した。先生は、こうなることをあらかじめ知っていたので、先生の直径十二メートル以内は神が守るということが分かったので、親しい者には、みんな先生の周囲にいるように言った。 先生はそんな中でじーっと瞑想していた。爆弾のことは思わない。今後の理想世界のことを考えていた。結局、思想、理想を持った人が価値あることになる。このような復帰の使命を果たす、このような人を霊界に連れていったら、神は天宙的な損であるというんだね。神は、どんな犠牲を払っても防備してあげたいし、そうせざるを得ない。 いろいろなことがあったよ。その中で一番難しいのが、毎日感想文を書くことだった。先生は書かない。それが問題になっていた。しかし仕事においては、やっているのだから、共産主義の考え方が良いとも書かないし、悪いとも書かない。いつも白紙を出した。そういう戦法をとってきたんだね。 先生は五年の刑で入獄した。連合軍が攻めてきた時、共産党は囚人を処分していった。先生の前まで全部殺された。ある日、麻縄をよせ始めた。先生は直感で最後の時がいよいよ来たことを感じた。 先生は深刻な祈りをしたよ。名前を一人ひとり呼び上げた。他の場所に移動するという。これが最後の道だった。一人ひとり、井戸に逆さまに投げ込んで殺した。次の番が先生だった。 その夜、総攻撃があって、午前二時ごろから逃げ出した。その時、何人かの弟子を連れて平壌に寄って南に帰り、統一教会の再出発をした。 牢獄での生活はいくら苦しいといっても、人に恩恵を受けてはいけない。それが絶頂に立つべき方策だ。他人から恵沢を受けることは、蕩減の道には許されない。いくら極に立ってもやらなければならない。精神的にも、物質的にも、やったという立場を越えないと完全蕩減した立場に立てないよ。 千三百俵を毎日持ち上げた。それでもびくともしない。何によって乗り越えたか。それは精神力だ。 こういう体験が、先生の生涯においてマイナスにならない。あんたたちに時間があったら記録に残そうと思うんだけど、本当に話もできない惨めなことがあったよ。そういう境地から統一教会の出発があった。 出獄 出獄した後は何も持たない旅人だよ。ずーっと平壌から南まで、約三か月間は乞食をした。黙々として。そういう時には、言葉で言い尽くすことのできないほど食べたいこともあった。放浪の生活をした。 霊界は先生を愛するらしい。かと言って、神様、きょう食べるものがないから何か…なんて祈りは絶対しない。かえって神様を慰めて寝たよ。 ある時は、あすはきっときれいな婦人が道端で何かくれるだろう、とそう思うと次の日には、そのごとくに真っ白い着物を着た人が道端で待っているよ。 実は夕べ啓示があって、万全の準備をして待っているようにと言われたので、こうして待っておりました。どうぞ召し上がってください、と。そんなことたくさんあるよ。こういう、だれも否定できない生きた実績を持っているよ。そういうふうに助けてくれた部落には、時至ったら恩返しに行こうと考えているよ。 神への心情 あなたたちは、先生に対して一言その時の心情に触れるものがあったら、先生は涙を禁じ得ない。神様もそうだ。 先生と神様と抱き合って泣いた悲しさは、地上の人々はだれも知らない。その深い神への心情は計り知れない。それを思うと細胞がしびれるようだよ。そういう心情で、孝行の道を進んでいることがあなたたちに分かる? 食口たちが霊界に通じるようになると、先生はかわいそうなかただとすぐ知れる。 友達も、聖進さんのお母さんも知らなかったよ。たった一人でやってきた、しのびしのんでやってきた期間があるんだよ。それを取り出して讃えつつ、先生が世の中で一番かわいそうな青年である。だから「真を尽くせ」、と霊界は言うんだよ。 そう考えると、植えたものは必ず刈り入れるようになる。何十倍、何百倍になって刈り入れるんだよ。先生が神の前に植えたものは、ほんのわずかだが、何倍、何千万倍にして刈り入れさせようという神の心情が分かっただけで、先生は神にどう報いようかと思うんだよ。 感謝する心 み旨成就が近づくに従って、ますます神に感謝する心が増し加わってくるんだよ。 先生には、反対した者をどうしようという思いは夢にもない。もしもそういう心で神が打ったら、この地に一人でも残らなかった。もう数千年も前に飛んでしまっている。 心情を傷つけたからといって、それを仇に思うなど、そんなこと夢にも思わない。それは、我々統一教会が、その教えの道を開拓しなかったからであって、そう教えることのできなかった自分の責任と思っている。だから先生には敵がない。昔反対した人々に先生は時々道で会う。しかし、それらの人々は先生を見ると逃げてしまう。 こういう背後の歴史をもって、統一教会は生まれてきたよ。そういう根を地上と霊界に張ったから今、芽が出たのが統一教会で、その恵沢を受けているのが、あなたがたの現状の立場だよ。その根に匹敵したその力、勢いでもって、芽として若い枝として成長すればよい。 背後の関係は、あなたたちは知らなくともよい。しかし、先生は根の使命があるからしかたない。これを世界的にするためには、枝を折って挿し木をしなければならない。その時、先生の通過した幾分の一かを通過しないと、挿し木はできない。 お母様に申し訳ない 先生はお母様に対して、内外的にこんな使命を果たすのにすまないと思うことがたくさんあるんだね。女としての心を知っている。女の花盛りのやりたいことをたくさん知っている。やれなかったんだから、かえってだれもやることのできない愛情の代価の 賜 として浮き上がる。疲れて寝る時、眺めながら、涙を流しながら敬礼する。そんな心情が必要だよ。こんな部屋は幸福な部屋だよ。香りがあれば、花盛りの香りの中に神は住まわれる。 夫が帰ってきて、夕食もせず、口もきかず、いびきをかいて寝てしまったら、そのいびきを聞きながら、そのいびき以上に泣き声が自分の胸からわき上がる女にならなければならない。そんな家庭を見たいのが先生の願いだよ。もしも、それを果たさなかったら、先生の苦労はむなしいことになる。神様の六千年の犠牲はむなしい犠牲になる。それを知らなければならない。 胸が突き詰まるほどの痛みを感ずる時、だれもそれを解くことができない。神自身もそれをどうすることもできない。しかし、たった一人、自分の心情を理解する横的相対がいたら何と尊いことだろう。そして、相対に欠けたところがあったら、神様に対して感謝できる条件になる。神の重荷を軽くさせる条件になる。相対が一から十まで、自分より足りない場合は、かえって神に自分を整えて出る条件になるんだね。 開拓伝道をすると、生きた神がいつも一緒に我々の周りで守っていることを体験するよ。その神を裏切り、反対の方向に行く場合は長くないよ。必ず自分の子供が罰せられる。我々を迫害した者の子供が、あまりに悲惨になっているから、世の中で一番恐ろしいのは統一教会だとみんな知っている。だから、今は反対した部落の人々が頭を下げておわびをする。反対した者は、みんな罰せられている。 日本もそういう現象が起こるだろう。行く道は難しい。三時代が引っかかる。死ぬどころの騒ぎではないよ。 家庭内に心情の最後の基盤が残るように努力しなければならないよ。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.30
コメント(0)

天の父母様聖会 世界平和統一家庭連合本部教会天苑宮天苑教会 聖日礼拝2021.05.30 AM09:30~一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.29
コメント(0)
「血統的転換」一九七〇年十月十三日 韓 国水沢里 摂理の重要な目的はどこにあるかというと、救いの完成にある。救いの完成は完全なる完成を意味する。中途半端は誰も願わない。我々、人間は堕落した。結局サタンの血統を受け継いだ。サタンはどういうものかというと、神の愛の怨讐である。 本当は、未来の実体の神様の現れを目標としてアダムを造った。だからアダムは実体をもった神様である。この世界を造った、創造したすべての、その主管というものは、完全に知らなければできない。完全主管をなすには、その創造したる神以外に完全主管はできない。完全に知らないというと完全主管はできないから、完全に知っている神以外にない。だから神以外は完全主管はできない。アダムは被造物である。被造物自体が創造の全般をつかさどって、それを完全主管するということは不可能である。だから、そのようなアダムを前に立たせて、そのアダムの中に神直接臨在して、アダムという肉体は、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この天宙を主管しようとした。 アダムの創造 また、なぜ神様はアダムというタイプの象徴を通過したか。万物は形をもったものである。しかし神様は無形である。何のタイプももっていない。大きいというと無限大。小さいというと無限に小さい存在である。ある標準的タイプの形成、それを表示しても、実体をもった万物というものは、神から直接指示を受けることはできない。だから実体をもった被造世界においては、実体なる主人的人格なら人格、そのタイプを備えなければならない。 また、神はこの地上万物の主管だけではなくして、無限なる霊界も主管しなければならない。天使長とか、いろいろ形をもった実体、それは無形実体だね。無形実体世界までも主管するには、やはりその中心的なタイプ、形状が必要だ。その形が必要だから、それをどこからかたどるかというと、アダムを通しての形をとるのである。そして、霊肉ともの世界、無形世界、有形世界をアダムを中心として、主管しようというのが、神の創造目的であるというんだね。だから、人格的神様として、現れの表示をかたどるために、アダムという実体と関係をもたなければならないというんだね。そして、アダムの完成とともに、神様のいわゆる形式完成がなされる。そのアダムの形は、人相は、人格のその表れは、無形世界の中心にいますべき神様の表れと同じ一つのタイプに帰結するという考えでもって、アダムを造り出した。だから形がなければ、形の世界を主管できない。 それから第二の目的は何かというと、アダムと神様が一つになる、その結びつけるものはいったい何によるか。ここに平面的代表者は人間であり、立体的代表者は神である。それを永遠に結びつける紐{ひも}、結びつける結実点、結びつける中心のポイントがいわゆる愛であるというんだね。だから、この肉体をもった人間自体も、神様が臨在されて一体となるときのその心情、体恤感、その感情は無限なる愛に、自分が一致されたという最大の幸福感を抱くその基準を結んでおかなくてはならない。いわゆる最高の幸福感だ。 その幸いな境地から呼び求める理想世界、善なる世界観、善なる創造理想ということ。それを見計るにも、愛情に包まれて、神と一体となったという愛の実感を感じながら世界を見つめる、世界を統一するというような立場で創造理想を願う。その願いが、結局愛を中心としての願いであるから、その目的を達するにも愛の環境を離れては達成できないというような実感を、生涯かけて体験する。だから愛によって一つになる。愛によって神と人間は一つになる。愛によって人間と世界が一つになる、という結論になる。これが神が創造した目的である。 愛の復活路程 男性も女性もそういう立場に立つと、愛を感じ、そして、創造目的に対して一体化されざるを得ない。それが自然である。そういう立場に立たせたのは、神が人間と愛を中心として結びたかったからである。これが個人において、堕落によって反対の方向になってしまった。この中心のポイントを、天使長なるサタンがねらった。だから、宇宙はめちゃくちゃにならざるを得ない。中心のポイントが、神において結ばれるべき人格の基準がサタンによって結ばれた。その結ばれた動機は反対の作用を受けながら結ばれたのだから、結ばれたそれ自体もいつも反発する。だから、良心の基準とあなたの肉心の基準とが反発する。神様の愛ではなくして、サタンの愛を中心として結びつけられたのだから、結びつけられた紐をいかに解いて解放するかということが、今日までの人類の数千年の歴史を通して戦ってきた苦労の道であった。 しかし、神はそのような基点を回復するために、直接人間の内心に入って全般的に支配しながら神の愛を結ぶことはできないから、間接戦法を通して、だんだん我々の良心の世界に臨在圏の深さを求めて今日までやってきた。それから、歴史上においては預言者とか数多くの先覚者たちが来て、神の愛の体恤をなし、その部分部分を今日までずーっと人々に教えて、それを全部取り次いで、だんだん発展してきている。それが、今日までの復帰の歴史であった。だから、中心の問題は神の愛の復活の路程をたどってきたという結論になる。その目的は何かというと、堕落以前の人間の体とその良心の中に臨在する神。それは、神の愛によって一つになることを願ってきたというんだね。 メシヤを迎えたイスラエル それを歴史的になしてきたのがイスラエル選民である。四〇〇〇年の歴史を通過してイスラエル選民圏をつくって、選別された民族の代表、アベルの立場に立ったユダヤ教を中心として、ずーっとメシヤ思想をたどらせながら民族を率いてきた。ユダヤ教とメシヤ。国家は信仰基台に相対し、実体基台はユダヤ教が相対し、信仰基台と実体基台が、横的に国家基準を中心として一体と成された場合には、メシヤのための基台は自然に完成されたはずであった。その基台のために、神はその一時を願って四〇〇〇年の歴史を通過しながら苦労した。 イスラエル選民圏に立つべきその民族も、その圏を目標として民族圏国家基台を願ってきたのだから、その基台は完成されずしても、原理的にその期間に到達したのであるから、神は急ぎながらイエス様を地上によこさざるを得ない。だから、ユダヤ教とイスラエルが一体となった場合には、イエス様は、メシヤのための実体を中心として真の父母を迎える。真の父母を迎えることができなかった場合には、新しい愛を中心としての血統の転換ということは思われない。原理的にそうなっている。 メシヤの必要性 我々にはなぜメシヤが必要か、その目的はどこにあるか。それは救われるのが目的である。救われる根本の基点は何か。神の愛の接触点に再び立ち帰ることである。立ち帰るには、我々自体はどうなっているか。サタンの血統を引きずっている。一から十まで、すべてが神の血統とかかわりのない、そういう実体をもった人間になってしまった。これは神の愛とはまるっきり反対である。それを蕩減させなくてはならない。それを蕩減させるとは、原罪を取り除くことである。原罪を取り除くには、血統的問題のそれが根本的なものとしてある。これをいかに解決するかという問題、これは堕落した人間としては到底できないというんだね。 だからメシヤが必要である。この血統を、我々代々に刻み込まれているこのサタンの血統を清めるのは誰がしなければならないか。それをやるべき者がいれば、それは真の父母である。善なる神の愛と一体となり、善なる相対基準を成して、世界を愛し得る真なる父母が現れてこない以上は、絶対これを清めることはできない。だから愛を中心とする戦闘基準を通過しなければならない。どちらが強いかと比べ合いながら、そしてみんな闘って最後に残るのが、サタンの愛であってはいけない。神の愛が残ったという基準において初めて血統圏が屈服する。 イエス様の道 そういう基準をイエス様は願ってきたのだから、イエス様一身においてそれを成すには、三年の公生涯に立つ前に宣布したのは何かというと、すべての者は誰よりも我を愛せ、妻よりも、親よりも、子供よりも、誰よりも我を愛せ、愛せざるものは自分の弟子にはなれない、ということであった。それから自分の弟子になるには、自分の十字架を背負って自分に従え。自分の十字架というものは、自分が背負わなければならない。血統を清めるのはメシヤがするかもしれない。しかし、清められるように行動しなければならない。そこに一体となって従わなければならない。この基準が成せない以上は、我々は救われない。 それが清められるには、どういう立場でかというと、死ぬか生きるかの、その境地を通過しなければ清められない。生死の境だね。そこを基準として悪の血統が清められていく。これを清めるには、我々が話し合って、気持ちで解決できるものではない。その場に行かなければならない。四十日の断食祈祷とか、死の境地をたどっていくんだね。血を吐いて、生命よりも、この肉体の生命よりも神の愛を中心として、よみがえるその一心を慕いながら、この一心に讒{ざん}訴{そ}される一つの負債も残らなかったという、その境地をいかにして体恤して乗り越えるかということが、イエス様において、第一の戦いであった。これは理論的にそうならなければならない。 ところが四十日の祈祷とか、ヨセフの家庭における数々の迫害、人間としてたまりきれないほどの迫害を受けてきた。生きた感情をもった者が、生きた死体と同じような生活過程を通過しながら、そればかりか実際にそういうような生死の境を通過しながらも、一心不乱、内心で願うのは神の愛と自分の体が一つにならなければならないということであった。これは鉄則だ。ここに一つも許されるものはない。 イエス様はそういう決心をして、そこまで行ったとして、自分の勝利圏は成したかもしれないけれど、それを歴史的にいかに関係をもった勝利圏と結合させるか、これが問題だ。自分個人にとっては、神につながる勝利のものになるかもしれないけれど、歴史過程に、摂理上において、今までこのような血統転換をもってして、神の摂理したすべての過去において失敗したその悩みを、いかに自分が受け継いで勝利した基盤に立つかということが問題である。それを完全に受け継いだという基準に立たなければ、メシヤとして立つことができない。それを神はあらかじめ知っておられるのだから、その方法を歴史を通してずーっとやってきた。 そうするとこの血統の転換はどこにおいて成されるか。一身においては、生死の境を通過しなければならない。これは信仰の基準になる。一身においては生死の境、死ぬか生きるかの境を抜き出るような立場で、神を愛し、未来の人格を愛さなければならない。 愛の基台 神は創造本然の神として、人間を創造本然の人間として造って、神の愛を結合したかった、その神の愛というものを慕いながら、自分の一身を忘れてもかまわないという愛情心にあふれなければ、乗り越えることはできない。だから、完全なる宗教は肯定から出発するのではなくて、否定から出発するのである。完全否定だ、生命までも否定する。そうした立場を通り抜けないと、サタンの前に立つことができない。それが今まで、各個人の信仰生活をやっていく立場であった。 しかしイエス様の場合は、個人の立場ではいけない。歴史の立場に立たなければいけないから、そのためにはどういう歴史過程を通過してこなければならないか。これを転換させるには、これをどこで転換させるか。自分が生まれて三十歳、死の境地に達して転換されたとしても、その基準からは、勝利の基準を出発はなすかもしれないけれども、それ以前の勝利圏はなかったのではないか。これが問題である。公式路程を出発する以前の勝利圏、公的出発以前とその生活圏は歴史的復活の生活に当たる。そして、これを完成させなければ、公的時代において出発基準を成すことができず、その公的三年は、現世に対しての使命を全うすることができない。公的三年は、現世に対しての使命を全うするためである。 三十年期間は歴史的、公的心情基準を開発して、現世を神の心情を中心とした愛の基台に取り次ぐ基台をつくらなければならない。そうするには、その基台はずーっとアダムからやってくる。その次はいったいどこから埋められたか。愛によって埋められたんだね。何の愛か。家庭基準を中心として、悪から出発したのだから、これを神自身の真なる父母の家庭基準をたどって、そこから転換運動をやっていかなければならない。それには歴史的代表者を立たせて、蘇生、長成、完成と段階的、歴史的、あるいは世界的、そういうような代表者を立たせて、こういう転換運動を歴史の過程を通過しながらやってきた。 復活の教え その歴史は何か。人の誕生は男性から女性を通してなされる。そうすると、この転換の道はどこにいってその交差点をつくらなければならないか。それは女性の胎中だ。そこからずーっと、歴史はもとがえしの運動をしたという条件を立たせなければならない。そのため、神はある家庭を中心に摂理してきた。しかし、完全復帰ということを思う時に、男の骨肉の中に潜んでいる種が出発である。だから、その男の血肉の中の原因の基準まで、神の愛を中心として一体となったという条件を立たせなければならない。そこを通過しなければ、これは完全な血統転換の基台をつくったという条件が満たされない。 こういう立場から見た場合に、宗教はそのような道を行くのだから、この世界で世界的宗教はどういう宗教かといえば、再び生まれなければならないという内容をもった宗教である。だから、キリスト教は世界的宗教に名実共にならざるを得ない。再び生まれなければならない。ニコデモとイエス様の問答のように、再び生まれ変わらなければ天国に行かれないということだ。 よみがえりの教えというのは、何で生まれてきたか、それは今まではっきりしなかった。どこをねらってよみがえりの基盤を出発するか、それもまだ見つけていないんだよ。今生まれて、大きくなってイエス様を信じて、三十歳で信じたからこそよみがえる、と思ったら大間違いだ。心情的内容の発生地は三十歳からではない。歴史からだ。それを取り次いだ心情の相続をした、という条件を自分にもたないと、よみがえる出発と動機はなされない。それが分からないといけない。 今、血統的転換をさせるには、アダムの骨髄の中まで、骨肉の真ん中まで行って、将来の子供になるべきその原因に、神の愛と結束した勝利的条件を満たさないと、将来神の子供として生まれることはできない。これは、理論的に間違いない。聖書はそのようにやってきたから、神の言葉だというんだね。 イエス様を慕う 今までのクリスチャンは、イエス様を主様といい、すべての愛の大本と思って、心情的に一体となりたいという心をもつ。その一体となりたいというのは、教理や聖書の教えでは一体となれない。ああ恋しい、慕い焦がれるような境地に立ってこそ、イエス様は自分と同じである。自分もイエス様の一身である。イエス様が悲しくなると自分も悲しくなる。その骨肉の中に子供の源があるとすれば、イエス様の感情すべてはその源に影響を及ぼす。うれしい時にはうれしい影響を及ぼす。悲しい時は悲しい影響を及ぼす。そうならなければ、その実体とつながる子供の源とならない。 イエス様を信じるとは何か。イエス様は男である。本当は堕落しない大本のアダムである。結局は霊的でありながらも、霊的にお父様だ。だからこのお父様と一つにならなければ、再び生まれ変わる道は全くない。だからキリスト教は、イエス様のすべての骨髄の中にまで入ったという、慕い焦がれる愛情に触れ合う、そういう生活圏を体恤するたった一つの教えだ。イエス様を、慕う新郎として迎えた教えである。その新郎という、花婿として教えるのは、それは二重の効果を得ようとしている。一つはその骨肉に入る子供の源となるとともに、母の胎中を通過したという条件の基台も得ようというのが、新婦という立場である。 人々はみなアダムの子供の立場にある。人類はアダムの中へみな帰れ帰れという。聖霊はエバの神である。これを復帰するのに、自分は生むことができない。生まれる前にアダムの中へ早く帰るような作用をしなければならない。その作用をするのが聖霊の働きだ。だからクリスチャンはみな、イエス様の体中の子女の立場にもとがえらなければならない。 今、このような信仰をしているクリスチャンは何人いるか。こんなことは分かりもしない。夢にも思わない。ただイエス様を無条件に信じて天国に行きます、と言う。自分がそれがやさしいからそういうことを言う。やりたいから言う。それで天国に行けると思ったらとんでもないことだ。原理的に見て、こうならなければ完全復帰はできない。理論的にそうである。だから万民はイエス様に帰れ、といってもイエス様の前に群がるんじゃない。骨肉の中に帰れ。 神がこれを歴史上果たすのがたやすいことかどうか、考えてみるとよい。この中間には数多くのサタン圏、怨讐圏が防備しているんだよ。神はこの妨害するサタン圏を突破するには、一遍にできない。数多くの戦いに、数多くの犠牲者を出している。では、イエス様の骨肉の中にまで潜りたいという信仰をもっている信者は何人ぐらいいるか。イエス様の骨肉に入るといっても、肉体は入れないよ。心情しかない。愛しかないんだよ。だから愛以外には因縁を結ぶ何ものもない。真理でもなければ正義でもない。生命がある前に愛がある。父母の愛によって生まれてくる。愛なくしてそれを結ぶ方法がないというんだね。その愛があれば、それは完全に可能である。愛は歴史でも飛び越える。距離とか空間の支配を受けないというんだね。 今は生涯の転換期 なぜこのようにはっきり教えるかというと、復帰の路程がこうなっているからだ。今からあなたたちは心情的問題を中心として、新しい世界圏の第一歩を踏み出さなければならない重大な転換期に立っているんだよ。この血統的転換期だけではなく、生涯の転換期に立っているから、立つにはこういうはっきりした内容の基盤の上に立っていかなければ、サタンが讒訴する。「オイ、どこから引っ越して来た?」「どこから出発した?」「堕落しないエデンの園、神の懐から」「何がそうか」といった場合、「ここがこうじゃないか」といって証{あかし}しなければいけない。 自分としては立つ瀬はないのだけれども、こういうお方が成してくださったそのものを、サインして、もらったのだから、建物は世界的建築家が建てたのだけれども、その所有権は紙一枚で自由に行ったり来たりする、それを我々がもらったのだから、サタンは頭を下げざるを得ない。 新しく生まれる道 そのようにして、イエス様を通して、神の愛に触れて、真の父母の血肉に接し得るその内因を立てたという条件を満たした場合に、それから、イエス様と聖霊とが慕い合う愛の道をたどっていかなければ、生まれてこない。イエス様の相対者は聖霊であり、その生きた子供のよみがえりの実体そのものは、父母の愛の道を通過しなければ生まれてこない。そうするには女性が男性を慕い、男性が女性を慕い合う、それで一致なる愛の境地を通過しなければ、再び生まれてこない。それには何の疑問もないだろう。そうするには、聖霊の感動を受けるとイエス様が非常に恋しくてたまらない。聖霊はそういう感動の役目をする。イエス様は新郎、聖霊は新婦だ。これが慕う愛の道が、これが一つになった、霊的に一つになったという喜びを、その実体が体恤して初めて、失われた本来の愛の基準が新しく準備される。そこにおいて、よみがえりの体恤ということが成立する。 キリスト教の復活の原理はそこだ。これは重大な問題である。神もこのために歴史過程を通過したし、イエス様も歴史的悲哀の運命を背負って乗り越えて今日まできた。こういうのがあるから、六〇〇〇年もかかったんだよ。そうでなければ六日もかからない。誰が分かるか。神が教えてやった場合には、堕落した人間自体が主管圏を復帰することができない。人間自体がそれを求めて、これだという自覚した基準に、世界的人格権威をもとがえししなければ、神の前に立ち帰ることはできない。このような絶対的な世界に、先生のような男が現れてきたということは、悲しいことかうれしいことか。あなたたちはうれしいことというかもしれないけれど、先生はうれしくない。生涯死を懸けて闘ってきた。それをあなたたちは忘れてはいけない。 世の中につらいことというのはやればできるものだけど、これはやればできるものではない。一人ではできない。腕力とか暴力ではできない。原則、鉄則のもとにやらなければならない。それは四方八方において、標準を定めながら、中心的位置を外さずにそれを保ちながらやっていくというのは、これは難しいことだ。その難しさは、神が天地創造するより以上難しいのではないかと。そういうのを今までずーっと内的基盤を、蕩減の条件を立たせて、あなたたちが夢にも思わないその圏内において基盤をつくって、あなたたちが知らなくても乗り越えられるような平安圏を成したというのは、天宙的勝利だというんだね。そういう方面において、先生は一生かけて大成功したことになるんだよ。聖霊がイエス様を助けて、堕落させたエバを引き出して、サタンのほうに譲ったのを引き入れて、それから自分がもらって、本来の愛情を中心として生んだ条件を立てないというと、完全復帰の条件にならない。そうすると、イエス様誕生までの歴史的内縁の心情基準を結合させる摂理は、どうなっているかということになる。女性の胎中、ここにおいて問題を解決しなければならない。だから闘うんだよ。だから歴史は闘いから始まる。 アダムの家庭においてアベルとカインが闘う。闘って、それをどこへもっていくかというと、カインを弟の立場にもっていく。兄さんがいかにして弟になるか。そうしないとサタンも断ち切れない。ここにおいて、復帰の闘いをする。この闘いは、生まれてからの兄弟の闘いだよ。みな兄弟を中心に闘う。カインも一人生まれたしアベルも一人生まれた。だから再びこういうことをやる。エサウとヤコブ、これは双生児でもって、双生児で生まれた者で闘う。ここで屈服した条件を立たせたけれども、どこから闘ったかというと、大きくなってから闘った。四十か三十か、四十代に闘った。それ以前の勝利はどこか。それをもう一回縮めて闘わせる。お母さんの胎中にあって闘う。 タマル タマル、あなたたちタマルについて研究すれば、原理すべてが分かる。タマルは誰と関係して子供を生んだの。舅{しゆうと}だね。舅と関係して生まれた子供が、いかにしてイスラエルの血統を受け継ぐことができたか。世の中にそのようなことがあり得るか。ソロモンの母は誰? バテシバ。バテシバはどういう女性か? ウリヤの妻だ。ダビデ王がウリヤの妻を奪い取った。その子供がいかにしてソロモン王になるか。ウリヤは何かというと、第二の主人だよ。これが堕落もしない前のエデンの園のその位置に再び帰った立場、すなわちダビデはアダムの立場、ウリヤは天使長の立場、天使長の妻は復帰しなければならないエバの立場。天使長がアダムの相対者たるエバを、堕落して引っ張っていった。愛によって占領して、盗んでいった。それを蕩減するには、そういう三角関係に立ってもとがえししなければならない。そういう原理的基準に立った条件を成した基台の上に生まれた子供は、天の愛の子供として、栄光の子供として生まれる。 ソロモンは栄光の子供だ。タマルという女は自分の舅と関係したが、その精神が立派だというんだね。その時の掟{おきて}によると、淫行の女は石で打ち殺すというような時代圏において、自分の第一の夫、第二の夫が死んでしまった。この血統は神が愛しているということを知っている。この血統を守らなければならない。自分の体面とか、自分の威信が問題ではない。神が願う血統をいかに残すかという、愛するかという問題である。血統を愛する。血統を愛したから、血統を復帰しなければならない神の摂理の圏に立ち帰る。心情的に立ち帰る条件になる。それで舅と関係した。これを見た場合には舅はどういう立場か、自分のお父さんだよ。 マリヤ この勝利した、胎中勝利した基準を、伝統的イスラエル、伝統的歴史過程を取り次いで、ずーっとイスラエル、ユダヤ教の子孫を取り次いで発展していく。なぜそれが国家的基準に立たなければいけないか。それは、サタン世界に国家が立っているから国家的基準に立たなければ、サタン世界と、カイン、アベルとして相対的に立つことができない。だから、これをなすためのイスラエル市民権を、こうして発展しながら、内的、血統的勝利の基準をなしてきた。ここにおいて、歴史的先祖たちの、心情的取り次ぎをなしてきた。自分の体面とか、自分の威信とか、社会的環境とかすべてを忘れて、神のみ旨がすべてだという代表的な心情をかけた一人の娘がマリヤだ。 そうすると、マリヤの胎中には、勝利したその基準を受け継いだ胎中には、サタンの讒訴する事実がないことになる。その基盤において、マリヤを通してイエス様がはらまれた。そうすると、イエス様は、歴史的闘いを済ませた勝利的基盤をもって、神の前に生まれる資格と条件を完成して、来られた。こういう歴史を通過しないものは、メシヤになれない。だから、イエス様は自分は命である、道である、自分を通さずして神の前に立ち帰ることはできないと言った。このような血統的内容を抱えて生まれたのだから、神の前に初めて愛されるひとり子となり得る。これは理論的に間違いない。 このようにして生まれたのだから、イエス様はメシヤだ。だからイエス様を信じないと、神に立ち帰ることはできない。これは絶対的標語である。これが今まで分からなかった。だからいかなる宗教があっても、宗教はみな僕の宗教か、養子の宗教の圏には立つかもしれないけれど、絶対的実子圏に立つべき宗教は、イエス様の教え以外にない。これは理論的にそうなっている。 イエス様の誕生 ここから生まれたイエス様は、生まれながらにサタンの讒訴を受ける立場に立ったか、立っていないか。立っていない。だから、天使が来て侍らなければならない。天地共に霊界総動員して、誕生を祝賀しなければならない。そこから新しい世界が始まる。もしもイエス様がここに生まれてきて、イエス様の前に天使長は、家庭的に、内的には、教会を中心としてはユダヤ教、国を中心としてはイスラエル主権者ピラトだ。この家庭が一つになれば、ユダヤ教は自然と一つになった。洗礼ヨハネと一つになればユダヤ教は完全に一つになれた。 ヨハネは預言者として知られている。それで、家庭がみなでプログラムをつくって、祭司長を前に立たせて、そして踊らせながらみな働かせて、家庭内で指揮して、ローマの反対する者なんか追放してしまえばいい。ユダヤ教、イスラエル民族が一体となれば、ローマなんか問題ではない。そして国家を立てた場合には、ローマをのみ込んで、そして地中海全般にわたったローマ文明圏が、イエス様のもとに入った場合には、世界統一はなされた。そこを基盤として全世界を中心としてやれ!! そういうようにして地上天国の理想を、イエス様を中心として成そうとしたのだけれど、成すことができなかった。それが数千年の犠牲の死の代価を払って、今ようやく世界的に発展した第二イスラエル圏を成して、再臨の主が来られる。しかし昔と同じように、第二イスラエル圏のキリスト教会は地上に国がない。それはイスラエル国家がイエスを殺した罪の贖{あがない}の期間として、二〇〇〇年間放浪の民族として、世界万民からいじめられてきた。この蕩減の鉄則は許しがないよ。 神の保護のもとで、すべてが歓迎するその環境において、イエス様を中心としてイスラエル国家を建設すべきその国を失ってしまったから、周囲八方と再び戦って勝利しなければ、イスラエル国家は立たない。これを再臨のメシヤは救わなければならない。そういう歴史的使命がある。こういうことが、時の来たのを証明することにもなる。だから、十二弟子を失ってしまったから、イスラエルはアラブ圏の数多くの十二以上の国家と対決して勝利しなければならない。 このようにしてイエス様は生まれてきた。ところが、キリスト教には地上に国がない。神様と地上のイエス様とそれからサタンと対決して、これは神様の土地だ。そういうふうに決めた土地があるか。ない。第一イスラエル国家を、築いたすべてをみんな崩してしまった。浮かんだ雲みたいに、風の吹くままに追いに追われつつ、今までずーっときたのが、数は多いけれど地上に価値のない群れが、宗教圏の群れだよ。数多くの政権に迫害されてきた。そして、その戦いを防備する法則がないから、宗教と政治と分離するという条件を出した。宗教と政治と分離するどころか、これは一致させなければならない。それは宗教と政治との間に長い虐殺問題があり、いろいろの悲惨なことになるから、仕方なしに革命の勝利の基盤に立って、宗教の自由権を確保するために政治と分離させた。そういうことを考えた場合には、これからはやらなければならない複雑な問題が多くある。 入籍する国は そうすると、神は地上に足場をつくりたいか、つくりたくないか? つくりたい。いったいどこにつくろうか。宇宙全体といっても、氷が張る時も一点が問題だ。氷であるかないかという境地にある。こことも、あそことも分別のつかない、そのものから始まる。だから、どこが本当かうそか分からない、そこから始まる。そういう時代が来る。今がそういう時だ。そこに何か氷になった、という場合には、世界は一度に凍ってしまう。だから先生は聖地を決定した。あなたたち聖地で祈る? 祈るということは、祭物を捧げるということだ。自分のものでなければ、そんなことはできない。それは神が絶対権限でもってそういうことができる、という地上の基盤をつくった。 それでは、ずーっと本源に帰って考えてみましょう。この世界は、誰の名前のもとに居{い}たかったか。神様の前に居たかったし、真の父母の名前のもとに居たかった。万物はアダム、エバより、真の神様を中心として、神と一体となった完成した夫婦、父母の名のもとに居たかったのが創造本然の位置である。それを所有したのは天使長である。それを喜んでいるのは、天使長の子供たちである。それを思うとき、我々の統一思想は、真の父母を中心として考えた場合に、世界はそこにおいて一つにならなければならないという結果になる。 そうすると、あなたたちには籍がない。入籍されていない。神様を中心として新しい入籍をしなければならない。入籍するには国がなければならない。あなたたちは国なき者だ。生きた形はあるのだけれども、サタン世界に、権威をもって自分の位置を堂々と言える基盤がない者だ。あなたたちは、それをはっきりと知らなければならない。天民として入籍する。その主権は大きくても小さくてもよい。アメリカでも小さい国でも投票の権威は同じだ。 国なきイスラエル 外国へ行ったイスラエル民族と、そっくり同じだ。統一教会としては国なき第二イスラエル民族である。だから我々は本郷の地に向かっていかなる苦労、いかなる闘いをしてもそれを奪還占領して、その元の国へ帰って、思うままの主権のもとの民族統制を願わなければならない。だから第三イスラエルを中心として、主権基盤を中心として新しく、今まで歴史上に現れたつらい路程をたどり来たったその希望は何か。その国に帰って主権を復帰して、世界的に誇るような国民の位置に立って、入籍する一日が最高の願いである。早い期間にいかに達成するか。心から、言うに言えないその内心でもって、この目的に全部注いで進まなければならない。これは原理的である。入籍する、そういう時になった場合には、それは国を超越してみな帰りたい。今イスラエル民族はそうだ。今アラブと戦闘して、イスラエルへ帰りたい、そういう思想をもっている。 入籍するとともに、自分のもったすべてをその国のものとしたいのが我々の願いである。入籍する順番において先祖が違う。第一入籍者は第一先祖の位置に立つ、第二は第二、第三は第三になる。そして、小さい数の序数は自然とその主権国家において重要なる権威を受け継ぐということは事実である。そうすると、いかなる国民がそういう国民になるか。日本人がそういうような国民になるか、アメリカ人がなるか。それを思う時、競争して統一教会の発展を反対して禁止しても、禁止するどころじゃない、夜も昼もかけあって発展せざるを得ない。いくら日本がエバ国家でも、黙っていてエバ国家になれるかというんだね。自分のためである。誰でも自由自在に行ける道を広く開けることになる。それは自分の国のためである。そう考えると一つにならざるを得ない、栄えざるを得ない。それは最後の愛国心である。もしも、そういうような条件基盤がイエス様が来られる時に、今の統一教会基準くらいの基盤が成った場合にはイエス様は死んだか、死ななかったか、それは死なない。 再臨の道 イエス様はかわいそうに死んだ。イエス様を中心として、イエス様の骨髄の中に込められた子供の源が霊的結合して、実体的内容はいずこに求めるか。そうなるとそこにおいて、イエス様は歴史的使命を果たすという原理的観点から見た場合には再臨、再び来なければならない原則になっている。再び、絶対的に地上に来なければこの宿命的課題の解決の道がない。再び来る。来るには追われていった、そういう悲しい立場を乗り越える世界的基盤を満たさないと、来られない。そのために、世界的キリスト教の宣教の問題が進められてきた。二〇〇〇年もかかった。 二〇〇〇年もかかって民主主義国家圏を中心として、ローマとイスラエルが戦い合って勝利し得るその位置を、世界的その対立圏を、キリスト教圏と共産対立圏として、優位な立場に立った基準を準備したのが、今日の民主主義国家圏である。その内的思想、これは霊的第二イスラエル、世界的国家基準だ。そこの内容において、内的ユダヤ的世界基準に立つべき位置が、キリスト教会である。それは霊的基準である。その霊的基準完成が完全に果たされた場合には、内的相対基準は自然に生まれてくる。これは原理的観点だよ。だからそういう霊的世界基準、第二イスラエル圏世界基準を霊的であっても、その基準において世界圏民主国家、ユダヤ教圏、宗教圏、キリスト教圏を成してきた。ここに世界的キリスト教の基台を中心として、その基台を考えてみた場合には、そこには三段階の過程を通過してきている。 カトリック旧教が使命を果たさなかったから、堕落したアダムと同じように蘇生過程を通過して、長成過程を通過する。それが新教だ。それは原理的に見た場合には、旧教は律法的信仰だし、旧約的信仰、新教は新約的信仰。それで新教の主張するのは言葉を主張する。その言葉の実体は誰か、再臨の主である。だから言葉の世界の基盤をつくって、今日までやっている。その実体は何を兼ねなければならないかというと、心情を兼ねた実体でなければ、神の前に立つことはできない。これはキリスト教史において、完成基盤として、その主体の位置を占める者は、心情一致した内容のキリスト教的真理をもたなければならない。それが統一教会である。 先生の使命 統一教会がこういう基盤をつくるには、新約的使命のある新教を迎えなければならない。迎えて一致した場合には蘇生、長成、完成と一遍に完成される。一遍で教会が一つになるといった場合には、ユダヤ教を中心としてイスラエルが自然と一体となるように、キリスト教が一体となった場合には、民主主義国家世界は自然と一体とならざるを得ない。そうなると、世界は自然に救いの圏内に立たせられる。共産圏が近世において問題となったのは、第二次大戦後だ。少なくとも十四年過ぎてからだ。なぜ十四年か、十年までに解決をつけなかった場合には問題になる。それはまだ最後の七年の闘いをしなければならない、という基準になっている。原理で世界情勢を見れば実におもしろい。詳しいことは言わない。 そういう立場をたどるべき先生の使命は、先生は一人だよ。一人ぼっちだ。先祖もなければ誰もない。ここにおいて、新しく新教に対して基盤をつくろうとしたのが、失敗した。反対した。ハッとするほど反対する。弟を打って始めた歴史だから、迎えるということは本当に神を信じなければ、本当に神を知らなければ迎え難い。自分の環境に立った因習的な教理とか、内容をそのままもってはなかなか難しい。それで、先生が教会に反対する立場に立った。それは何かというと、実体的に追われたイエス様である。実体的イエス様の立場を受け継いだのと同じである。再び、復帰の路程をたどってこなければならない。だから、二〇〇〇年の歴史を二十年で蕩減しようというのが今までの闘いだ。 北に行った先生 そして蕩減はどこからするか。韓国以南、南の国ではできない。北に行く。北に行った場合には、サタンの本拠に行ったのだから、サタンの共産圏に行く。世界的サタンだ。共産圏に行って死を覚悟して入る。それはキリスト教がユダヤ教に追われたときには、ローマに入った。ローマに入って、そこにおいてそれを占領し、四〇〇年の戦いの間に勝利圏をつくって、キリスト教の自由な平面的基盤をつくったのと同じように、北に行かなければならない。それで先生は北に行った。 行って共産党との闘いだ。そこから基盤をつくった。何人も連れてこなければならない。これを詳しく言えば限りがない。何人か復帰してきたのだから、何人かというのは四位基台だ。数的四位基台をつくってきたのだから、南のほうに下って、それで牢屋の生活とか何とかいろいろやった。牢屋に追われた時でも、何人かが、イエスの弟子と同じように、みな反対して逃げてしまうような立場ではいけない。共産党の恐怖の圏がいかに怖いといっても、命を惜しんでみな逃げていくような立場であってはいけない。その環境において、何人かの食口が残らなければならない。牢屋に引き込まれるその場から、地上天国を失ってしまった。それを牢屋の中から復帰しなければならない。だからイエス様を中心として、反対しなかった内容の要件を復帰しなければならない。そして、イエス様の三人の弟子というものは男ばかりじゃない。本当は、その三人の弟子が家庭を維持して立たなければならない。そういう背後的内容を中心として、イエス様が来た目的は弟子を求めて来たのではない。最初には弟子は方便である。天使長の三時代のカインが反対したのを、三時代カイン完成の要件を蕩減するに必要な存在である。 三弟子の立場 イエス様はアベルである。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは三時代を神に服従しなかったカインの立場を、一遍に蕩減させるために立たせたカインの立場である。それが命を掲げて同じく死んだという場合には、イエス様は天上に行かない。地上において、聖霊とイエス様とこれは霊的であるけれども横的に分かれる。そうすると、キリスト教の発展は六〇〇年で世界的になれる。死んだのだから、旦{だん}那{な}さんが霊界に行ったのだから、命懸けて祈らなければ会う道がない。もしも昇天しなかったならば、イエス様の弟子が一体となって、カイン、アベルが一つになった場合には、神を迎えることができる。原理がそうなっている。ここに神を迎えて、地上、横的基準において、神様と霊的アダムと霊的エバが、いわゆるイエス様と聖霊が一体となって、横的発展の基盤となる。 先生を中心として、カイン的基盤ももちろんだけれども、それよりもイエス様の願いは何かというと、カインより、もともと願ったのは、三時代を中心として、第一回の摂理においてエバを失ったのは、神の恨みである。イエス様はその胎内においてマリヤを中心として、それを復帰するために来た。それもまた失ってしまった。イエス様が来て、三代目にそれを復帰しようとする、いわゆる、歴史的女性、お婆さん、相対だね。三代基準にわたった女性を、いわゆる、神が失ったことになっている。その三代圏の女の形を復帰できなければ、本当の夫婦を兼ねた子女を、カインとアベルとして一体とした子女を迎えることができない。そういう蕩減的な女性たちが必要である。 三役事 三人の役事がなければならない。その基盤と一体とならなければ、三時代の目的は、相対的な国としての条件の平面基盤をつくらなければ復帰はできない。だからそういうような貴い方たちが三役事である。それで、あなたたちの地区を中心として祈れ。僑胞の人を何人か合わせて、四方八方に十二名立たせて祈れ。そういうことも言っている。それが立たなかったから、イエス様は死んだ。だから日本もそういう条件を立たせなかったら、復帰は速くできない。 先生もそういう内容を決めて、北韓から救ってきたのはそれしかない。そうして一人の子供、その一人の子供は金さんだよ。二十年前だ。二十年前だから意議がある。三人の女性を連れて、一人の男性を連れてきて、南へ来て新しく統一教会の出発をなすことができる。原理は頭で考えることではない。原理は一歩も譲らない。それを基盤にすれば、共産圏から既成共産圏から共に追われてきたことになるから、南に基台をつくって、いくらがやがや言っても、今から発展だ。このようにして発展したのが、統一教会の出発である。 イエス様がユダヤ教に追われてきたのだから、仕方なしにその道を再びたどってこなければならない。そして勝利するには、その失敗の大本の内容を解決した基準に立たなければ復帰はできない。その基準を立たせて、今まで発展して、家庭の基盤をそこから中心としてずーっと発展してきた。そうするには、キリスト教会は反対するのだから、これは反対圏ではできないのだから、我々はキリスト教会圏をさておいて、アベル的キリスト教会圏をつくろうとしてつくったのが統一教会圏である。二番目に生まれたのだけど、アベルに違いない。アベルは大きくなってから、その兄さんと対決し得るような外的条件を果たした立場が現状だ。だから二十年以前に会うべき兄弟の結合を失ったそのものを国家的基準において、その時兄弟が一体となれば家庭は自然結合、氏族自然結合、民族自然結合、国家自然結合と一遍にやるべきものを、結合過程を蕩減を重ねて、個人的アベルの基盤をつくるために先生は相当苦労した。家庭的個人の基盤、個人を中心とした氏族的基盤、そして民族的基盤から国家的基盤へと、このように押しかけて、統一の群れは十字架の道、犠牲の道を乗り越えて今まできた。 この道は生きた死骸の道をたどってきた路程である。だから韓国には残るものはない。見たときには、生きた死骸が残ったような、そういう過程を通過して、そこで死守して、このように国家的基準から認められるようになった。今、既成教会が反対しても、我々が優位な立場に立っている。先生の戦法に巻き込まれつつある。結局屈服しつつある。ユダヤ教圏である既成教会が屈服しつつあるというと、ユダヤ教を中心としたイスラエル圏は自然と向かい合う段階にきているから、ここを中心として修練所とか、国のために我々は手をつなぐ道となって両面作戦でやっていく。 教会においては統一教会。外的に思想的には勝共活動。韓国は勝共を命懸けでやらなくてはいけない。そういう立場において、我々の作戦と一体とならなければ行く道がないような、その時点に接している。 血統的転換 復帰路程には僕の僕として、先生は牢屋から、乞食みたいな生活から始めた。なぜそうしなければならないか。復帰は乞食からやらなければならない。牢屋から復帰の基盤をつくって、惨めな最下の基台からずーっと上がって、ここまで上がってきた。それが国家的基準になるまでは、先生は姿を現さない。イエス様はその理想的姿を現して願ってきたのを、姿を現さずして国家的蕩減基準を通過しなければならないその原理的観点があるから、今まで先生は公的席上に現れないでいる。 これで勝利的な男になったのだから、これから横的基準において、国家的基準を中心として横的基準を迎えなければならない。その横的基準を日本を中心にしてやる。原理的に公式どおりになっている。 こういう時代圏に立って、今まで数多くの預言者や開拓者が犠牲になった。結局何のために犠牲になったか。アダムを立たせるのはもちろんだけれども、結局はエバを探し求めるために苦労した結果になる。これをその使命の国は感謝して、いかに報いなければならないか。このような背後の関係でもって、日本は現在まできた。 ここまで来るには、血統的転換をいったい誰がするかというんだね。これは誰もできない。先生がやってきた。これは涙ぐましい、並々ならぬ心情的十字架を背負ってきたということを、あなたたちは分からなければならない。それをなした基準があるから、あなたたちは何の功労もなしにただでこのような祝福という新しい血統を受けた。転換の勝利圏を立たせるには、数千年の神の苦労のもとに、実体を中心とした先生の生涯のもとに植えて、神様を下に、先生を下に足場として立ったところがあなたたちだ。結婚するということは、切ってしまって接ぎ木する。接ぎ木することによって、血統が変わるんだね。 血統に責任をもて これは、先生によって今までなされてきた。もしも、こういうふうに通過した人と、霊界に行ったたくさんの人がいるが、彼らと我々といかなる価値の差があるか。信仰の基準において天地の差がある。相手にならない。このような貴重な天的賜物を、もしも誤った場合には、行く所はない。サタンもあなたたちを讒訴する。サタンは、自分は長成基準においてサタンになったのだけれど、あなたは完成基準において堕落した大物であるから、わしの僕になれ。サタンが裁く。最後の道だから行く所がない。深刻なものだ。いいかげんな、世の中の、流れてしまうような結婚と思ったら大間違いだ。天宙の心情を中心とした、貴重な時期である。 この基準が家庭において、神の愛を中心として心身ともの一致の栄光の喜びの情的雰囲気を、人格とともに完成し、完成したる男女が一体となって、結び合って、愛の感情における目的観に徹して、その目的を完成させる路程には、悩むとか苦しむとか、そんなこと思ったらいけない。感謝の念においてなすべき、心情の目的観の世界である。そのような基準に立ったならば、この地上には堕落とか悩みとかないはずだ。 しかし、復帰の基準に立った我々夫婦たる者は、今から世界目的に向かって進む我々にして、今からの生涯の道において、どういう心情をいつも体恤しなければいけないかというと、堕落しなかった創造理想の心情圏にあふれて、生涯かけてのその路程において、感謝の一念で過ごすということが、今からの家庭が行く、創造目的に向かっていく路程である。苦労があるとしても、それは我々を苦しめるためではない。天に今まで秘密に積んである無限なる祝福を、自分にもっと多く授けるために、このような苦労の道を行かせる。有り難いものである。 そして心情的愛によって結ばれた夫婦は、その愛情にあふるる感情が生活圏を乗り越えて、生涯を乗り越えて、目的と一致するに違いないという信念に立った家庭にならないと、永遠の神様のおられる天国に入れない。それが結論になる。これが創造した神の目的だ。夢みたいな話だよ。まるっきり夢みたいな話だけれど、根がない話ではない。今から、そういう家庭に向かって、先生と約束して進むんだよ。そのようになりたいという者は両手を挙げて誓いましょう。そのまま挙げて、祈ろう。 天のお父様、今神が慕ってきた本然の家庭がいかに厳粛なる家庭であるかということを知りました。その理想に残る家庭の境に向かって、我々は今から手をそろえ足をそろえ体をそろえて共に行かなければならない運命をもちました。どうか清い生涯を残しまして、純然たる血統を今から残しまして、神の永遠の愛の懐に強く抱かれるその者となることができますように、切に守り祝福してくださることをお願い申し上げます。このような歴史の過程におきまして、因縁たる内的心情復帰の路程を重ね、それを延長させ、それを継続する間に、神がいかなる苦労をなさいましたかと思う時に、何一つ言いようもない者でございます。 どうか一身すべてをあなたに捧げた決意のもとに、もう捧げましたから、両手を挙げて誓うこのかわいそうな者たちを清くしてください。今まで守って導いてくださった神の御恩に本当に衷心より感謝いたします。このようなすべての天的秘密を教えてくださった神様に、先生に、真心から感謝いたします。地上の万民は夢にも思わざるこの境地に立って、我々は生活感情の体恤圏として授けてくださったこの御恩に、何を捧げて報いようかと知らないものでありながら、どうか生涯、実体すべてを祭物として、あなたの祭壇の前に捧げるほかないということをはっきり分かりました。このような恵沢圏をなしてくださった、地上にある真の父母様に感謝するとともに、天にいます神がいかに苦労なさったかと思います時に、何千万遍礼をしても、口々唱えてもたたえても限りつかない感謝の念で、従いたい決意を、もう一度なすこの瞬間でありますように。 挙げた手を、直接両手をつかみまして、今後激しきあるいは険しきその罪多き社会に、この道をたどってゆくその路程におきまして、どうか守り合い、互いに助け合い、その相対者がなければ堕落しやすいということを思いまして、時間ごとに守り、時間ごとにそれを心配しながら、共に助け合う、世の中にほかにない親しき友となり、親しき親となり、親しき子供となって、そして兄弟となって、この大なる栄光の本郷の愛の世界に、その達するに不足ないような、その者となるように神励まし導いてくださることを切にお願い申し上げます。 血統的転換という、恐ろしいことを今聞きました。こんなにも復帰の路程が難しかったことを思う時、我々は今まで何も知らない身としてついてきました。今までやったというすべての栄光は、自分に帰したいという心持ちでやってきましたことを思います時、いかに愚かなものであるかが分かりました。分かるたびごとに分かれば分かるほどに、自分の一身の身の留める所がなくなり、すべてが天であり、すべてが父母であるということを思うばかりであり、それ以外にないということを今分かりましたから、その信念に包まれて生涯勝利の基準を助け合う夫婦共に、神の前にその栄光の足場として残されることができますように、そして神の記憶内において、永遠なる子女を抱いて、乳を飲ませ、そして親の接吻し合うような子女をもちまして、神にもう一層四位基台の愛の心情を帰すことができますように、真なる男に女に、そして真なる夫婦となることができますように、祝福してくださることを切にお願い申し上げます。 今、相対者の顔が問題ではありません。学力が問題ではありません。微妙なるその姿が問題ではありません。神が住みつける内情の心情の量がいかに立体的になっているかという、それが問題であるということを考え、共に神に近寄ることができますように。杖になり、それから励ましの、激励の薬となりますように、共に救い主となって、このサタンの世界の波狂うこの悪の世界を通り抜けることができますように、今守り導いてくださることを、再三お願い申し上げます。今誓えるこの両手を、この身を、その夫婦を清くなさいまして、新しい天の世界に、入籍の、その約束者として、神清くなさいまして、彼らの行く道にいかなる苦労がありましても、神共に苦労なさったこと、涙ぐましい場面場面を、神はそれ以上のつらさを体験すること、天地開かなくとも互いに助け合い、互いに慰め合うその境地を忘れないで、真なる夫婦となることができますように、神励ましてくださることをお願い申し上げます。 きょう、この長い時間を通して語りましたすべての言葉を骨髄に収めて、百遍死んでもそれを明記して残していく、そして成し得なかったなら遺言を残して、子孫万代にその完成を成していくような、真なる先祖となることができますように、神祝福なしてくださることをお願い申し上げます。今後すべての心情的一切は、神なくして我々は思わざる者であるということを思いながら、今新しい家庭の創造、心情の世界の開拓の、その先駆者として恥ずかしくない身振りと身構えをそろえることができますように、神守り導いてくださることをもう一度お願い申し上げます。二二六双のその結末の悲劇が残ってはいけません。喜びだけ残る、その立場に立つことができますように、ああ神守ってください。そして神、世界万民のすべての前に立たせて、褒めざるを得ない真なる家族、夫婦となるように、守り祝福してくださることを切にお願いいたします。今後のすべてを任せますから、お父様、導いてください。真の父母のみ名を通してあなたのみ前にお捧げいたします。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.27
コメント(0)

誰でも参加できます。国際家庭の友人をお誘いください。スグに登録して下さい。zoomリンクが送られてきます。https://zoom.us/meeting/register/%20t...一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.27
コメント(0)
昨日の記事「原理本体論 - はじめに | 奇 知 外 記 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)」を見られて知恵ある方は既に悟られたことと思います。奇知外記の過去記事(実体「天地人真の父母様」までも改ざんしたサンクのH4夫妻 | 奇 知 外 記 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))でも何度か書いていましたが「サンク」、並べ替えては「サクン(左君)」、一画加えれば「サタン」!!となってはいないか? ということです。サンクチュアリ教会の亨進氏は神様が「天の父母様」であることを否定していました。ところが、「原理原本」、「原理講論」、そして、「原理本体論」においても「原理の本体であられるお一人の神様を人類の真の父母として」「侍って暮らす」ことを願って来られたのが真の父母様でした。 『原理本体論』では、『原理講論』で説明しなかった内容をいっそう本質的に分析することで、原理の本体であられるお一人の神様を人類の真の父母として明かしています。したがって、『原理本体論』は、人間始祖の堕落によって真の父母であられる神様を失い、孤児になった人類がつくった現実世界の、そのあらゆる問題を解決することになるでしょう。 神様は、堕落した人間を救うために宗教を立てて摂理してこられました。宗教の究極の目的は、人間に人生と宇宙を創造された真の神様を正しく解き明かし、神様を真の父母として侍って暮らす、創造本然の世界に導くことです。その内容を解き明かしたものが『原理本体論』です。したがって、『原理本体論』を明らかにすることで、宗教の使命は終わります。なぜなら、神様が創造された本然の世界は、宗教が必要のない世界だからです。お母様や家庭連合を批判される方々も声をそろえて「お母様は原理を学んでこなかった。原理を理解していない」などといっては、神様が「天の父母様」であることを否定していました。しかしながら、原理本体論にも明記されていたのは「天の父母様」であり、こんにち、「天の父母様聖会」を建てられてはその御旗に元に呼び集めようとされておられるのが、お母様です。お父様と一つとなっておられずしてそれが成せるとは決して思われません。顕進氏もまた、お父様が解明された「天の父母様」に対して否定的でした。このように、「天の父母様」でない神様(偶像)を崇拝し、あるいは、それをも否定する共産主義のような思想に翻弄されているのが分派子女様を支持される方々です。もう一度、ご自分の「良心」に訊ねてみては如何ですか。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.26
コメント(0)

神統一韓国安着のための天地人真の父母様 特別集会天一国9年 天暦 4月12日(2021.5.23)午前 9時30分神慶尚国 釜山教区本部教会およびPEACELINK TV 生中継一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.26
コメント(0)

上記は「21万祭壇 世界聖殿天福宮 は神様の理想」(サンクチュアリ教会)が推奨している「原理本体論」訓読映像シリーズの「Ⅰ-⓪ 原理本体論 はじめに(p 3~5)」です。サンクチュアリ教会では、真の父母様が解き明かされた神様が「天の父母様」であることを否定していましたが、本体論に矛盾するものとなっています。「原理本体論」はお父様から出たものですが、果たして、サンクチュアリ教会メンバーは何を信じ、また、誰の言葉に従っているいるのでしょうか?家庭平和協会(FPA)もまた、同様です。原理本体論 はじめに 『原理本体論』は、文鮮明先生が明らかにされた『原理原本』から出発します。『原理原本』は、歴史以来、誰も明らかにできなかった天の秘密を、文鮮明先生が明らかにされたものです。文鮮明先生はイエス様が「再び来る」と約束されたメシヤであり、救世主であり、人類の真の父母であられます。 真のお父様は1920年1月6日(旧暦)、韓国でお生まれになりました。当時、韓国は日本の統治下にありました。真の父母様は、数えの16歳だった1935年4月17日、復活節の夜明けに神様の大命を受けます。神様が、イエス様を通して果たせなかった み旨を完遂する使命者としてお立てになったのです。その時から真のお父様は、1945年8月15日、韓国が日本の統治から解放される時まで、10年の間、神様の原理を究明することに没頭されました。 解放後、韓国は6.25動乱(朝鮮戦争)で、戦争を再び体験しましたが、その戦争の渦中である1952年5月10日、真の父母様は『原理原本』を編纂され、原理の伝播をスタートされました。『原理原本』を解説した内容を整理し、1957年8月15日に真の父母様のみ言に従って『原理解説』の本が発行されました。『日本語 原本』の解説を整理するのに5年かかったのです。また9年目に『原理講論』を 世の中に発表しました。『原理本体論』は、『原理講論』が出版されてから42年かかって発表されたものです。『原理本体論』も、『原理解説』や、『原理講論』と同様に、『原理原本』を根本にしてつくられました。真の父母様は『原理解説』は、象徴的原理、『原理講論』は、形象的原理、『原理本体論』は、実体的原理だとおっしゃいました。 神様の摂理は、時が満ちなければ 明かすことのできない 天の道なので、み言を通して段階的に明らかにされてきましたが、『原理本体論』は、真の父母様が最後に明かされた 原理本体についてのみ言です。『原理本体論』で明かされた核心的内容は、真の神様と真の父母様、霊界と人間の責任分担の重要性と「絶対性」、罪と蕩減復帰、そして「私はいかなる存在なのか」 という内容を、明確に解き明かした 原理本体についてのみ言です。 『原理本体論』では、『原理講論』で説明しなかった内容をいっそう本質的に分析することで、原理の本体であられるお一人の神様を人類の真の父母として明かしています。したがって、『原理本体論』は、人間始祖の堕落によって真の父母であられる神様を失い、孤児になった人類がつくった現実世界の、そのあらゆる問題を解決することになるでしょう。 神様は、堕落した人間を救うために宗教を立てて摂理してこられました。宗教の究極の目的は、人間に人生と宇宙を創造された真の神様を正しく解き明かし、神様を真の父母として侍って暮らす、創造本然の世界に導くことです。その内容を解き明かしたものが『原理本体論』です。したがって、『原理本体論』を明らかにすることで、宗教の使命は終わります。なぜなら、神様が創造された本然の世界は、宗教が必要のない世界だからです。 第一次、第二次世界大戦を経た人類は、今や、第三次世界大戦を憂慮しています。しかし、第三次世界大戦は思想戦です。その思想戦も、原理の本体であられる神様をはっきりと解き明かすことで終わります。 真の父母様は、父なる神を人類の真の父母として解き明かし、無形の父なる神を実体の真の父母様として顕現させられました。 神様の息子 娘として、神の宮となり、人類の真の父母になるべきアダムとエバが、堕落によってあらゆる資格を失い、偽りの父母になって、神様の家から追い出されたその時から、人類は真の父母を失った孤児になりました。そして、真の父母様が来られて、偽りの父母が築いた悪の歴史を清算されることで、人類は蕩減復帰が必要のない先天時代を終結し、勝利された真の父母様に従って神様の家庭に帰ることのできる、蕩減復帰の必要のない後天時代を迎えました。 真の父母様は、人間始祖の堕落によってつくられた現実世界のあらゆる問題を解決できる『原理本体論』を解き明かされ、8大教材教本を人類に下さいました。今、人類は真の父母様に従って、神様の息子 娘に帰り、真の神様を真の父母として侍って暮らす天宙大変革期を迎えるようになりました。 真の父母様は、本然の原理本体であられるお一人の神様を人類の真の父母として解き明かされ、イエス様が来られることで紀元前と紀元後(BCとAD)に分かれた歴史を清算し、蕩減復帰の勝利を通して、天暦を宣布されました。今まで、堕落した人間たちが用いた陽暦と陰暦は、天暦を補助する役割を果たすようになります。 真の父母様がアダムとエバの堕落による罪悪の世界を清算することで、神様を真の父母として侍って暮らす道を開かれ、真の父の家庭に帰る天国の門を開かれることによって、人類が6000年ぶりに真の神様の息子 娘となって、神様の心情の懐に帰る回帰時代を迎えたのです。 真の父母様に従って神様の心情の懐に帰って、神様に侍り、真なる家庭を築くためには、人類の真の父母であられる原理の本体をはっきり知らなければなりません。 堕落した子孫として生まれた人類は、サタン世界で生まれ、成長しながら、サタン世界で見聞きし、学んで生きています。このような堕落した人間は、創造本然の人間に戻るために、今まで生きてきた堕落した世界の衣を脱ぎ、天の新しい衣に着替えなければなりません。 そして、天宙の中心であられる真の父母様に従って、『原理本体論』を通して、心情復帰の完成と「絶対性」の原理を生活化する天一国の民となって、神様を解放・釈放し、創造本然の世界で神様と真の父母様に永遠に侍り、真の愛の中で幸せに暮らす 平和統一世界を築いていく人生にならんことを 心から念願いたします。2011年12月1日一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.25
コメント(0)
「生涯において何をなすべきか」1970年9月27日ソウル本部教会 今集っている皆様の中には、年齢的に見て、いろいろの人たちがいるでしょう。三十代、四十代あるいは六十代の人々もいるでしょう。しかし、年を取ったといって失望する必要はありません。今まで過ごしてきた自分の生涯が自分の理想としてきたところまでいっていないとしても、決して失望してはなりません。そういう人たちは、より一層努力するため全生涯を集約的に整理して、民族と国家と世界のために投入する準備をする必要があります。また、二十代、三十代の若い人々は、国家のため、全人類の歴史のために、大きな希望を抱いていることでしょう。しかし、希望を抱くということだけでは問題になりません。 問題は、我々が環境に支配されるのではなく、環境を支配しながら、あるいは環境に影響を与えながら、寂しい人々を慰め、無力な弱い人々に力を与えつつ、未来のための希望を彼らに提示しながら、自分がいかなる生涯を送るべきかという点について深く考えなければなりません。もし、我々統一教会の食口たちがこのようなことをしなければならない天命を受けているとするならば、我々は生涯をいかに送るべきであるか――これが重大な問題になるのです。 ここにおいて、皆様は歴史の復活体にならなければならないのです。 理想と現実 この国で生涯を送ったのち、死んでいった我々の祖先たちのことについて考えてみましょう。彼らは、この国がアジアにおいて、かくも弱い国家として存在することを望んだでしょうか。(彼らは)もっと富強な国として栄えることを望んだのであり、また望んでいるのではないでしょうか? それでは、果たして我々の祖先たちが希望としてもっていたその理想を、この地上で、いつ実現させてあげることができるでしょうか? 我々はその希望を実現させてあげる実体としての条件を、この地上においてつくり上げなければならないのです。これが問題なのです。 それゆえに、我々は国民に希望的刺激を与え、彼らに未来に対する新しい希望を与えなければなりません。こういう点において、我々は確固たる主体性を保たなければならないのです。しかし、果たして今、皆様がこういう実体になっているか、これが重大な問題なのです。「私でなければならない。少なくとも私が受け持っている分野においては、私でなければならない」――こういう自信をしっかり抱いて、自分の周囲をして協調せしめる、そういう立場に立っていなければならないのです。こういう立場から現在を眺める時、我々は果たしていかなる作戦を展開させなくてはならないか、これがまた問題となるのです。 死んでも復活せよ 正常的な作戦をするか。すなわち、宣戦布告をして戦うべきか。「我々は、これだけの十分な数と力をもっている。それだから、君たちと一つ戦ってみよう」、こういう態度を、今の我々が果たしてとることができるでしょうか? いまだそういうところまでいっていないのです。それではどういう作戦をとるべきか――我々にとっては、これを成し遂げ得るに、ただ一つの作戦しかない。それは奇襲作戦である。 いつ、それを敢行すべきか――真昼に奇襲作戦を行うべきでしょうか? そういう人はいないでしょう。真夜中にやるのが当然です。真夜中といってもいろいろあります。静かな真夜中と、嵐が吹きまくる真夜中があるとすれば、我々は嵐が吹きすさぶ真夜中に作戦を敢行するのです。誰もが嫌い、誰もが動こうとしない真夜中に攻めていくのです。 こういう道は平坦な道ではありません。険しい山の絶頂を登るような道です。いばらの道です。生死を決定する最も険しこに違いありません。そして、特攻隊でなくては、このような道を突破することはできません。今の、この国の中で、誰が、どの団体が、この特攻隊になり得るでしょうか。それは我々統一教会の食口たち以外にないのです。 それでは、我々はいったいどのような精神的態度をもって、この道を突進しなくてはならないでしょうか。敵陣に攻め込む途中、あるいは敵陣に攻め込んでいって、「そこで死んでもいい」――こういう態度ではいけません。「我々は死んでも必ず復活する」――こういう自信のある精神的態度をもって、これに臨まなければならないのです。結局はこの問題に帰着するのです。こういう確固たる態度でなくては、そのような難しい使命を全うすることはできません。我々は、このような信仰の道を歩かなければなりません。あくまでも信仰を通して行くのです。信仰的希望を抱いて行くのです。どれほど長い時間がかかっても、この道をたどって進まなければなりません。 我々一代でこの使命が達せられない場合には、遺言を通して後孫になさしめてでも、これを成し遂げなければならないのです。それでなければ、天の遺業を完成するという、我々の使命は全うされないというのです。 一人残されても このような立場から考える時、統一教会の歩むべき道は決して平坦なものではありません。誰も想像もできないほどの奇跡を通して、勝利しなければならない我々の運命であるということを、皆様がはっきり自覚しなければならないのです。こういう点から、我々は、新しい立場で我々自身を見直し、また批判しなければなりません。統一教会を指導している者もそうでなければならないし、また指導者のあとをついて行く皆様もそうでなければなりません。我々はこの目的のために生き、この目的のために死ななければならないのです。あらゆる努力を、この目的のために集中させなくてはなりません。 こういう道を歩む時には、必ず多くの犠牲者を出すという事実もよく分かっています。最後の一人となるまで我々は戦わなければなりません。全員が犠牲になって、たった一人残されたと考えてみましょう。そういう時にはどうするか。敵と共に死ぬのではなく、天の父と共に死ぬのです。そういう人が知恵ある人です。 天と共に行こう イエス様がそういう生涯を送ったのです。イエス様はあらゆる境遇において天と共に歩いた人でした。 こういう道のみが、歴史を受け継いでいくことのできる唯一なる新しい伝統の因縁を、サタンの世界の中に根深く植え付けることができる道です。それは、イエス様が最後に、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いながら死んでいったその態度の中に、あらゆるものが含まれているのです。それゆえに、我々は天の意志と一致するそういう道を歩かなければなりません。我々にとってはこの道が、一番正しこに違いありません。 イエス様がそういう道を歩かれたために、彼の理想は歴史と共に動いて、今日の世界に重大なる影響を与えているのです。イエス様がそうであったために、キリスト教は世界的な宗教として発展しなくてはならなかったのです。こういう宗教は決して滅びません。そういう宗教的な道が勝利の基盤をつくり上げ、伝統のきずなを固く植え付けることができる唯一の道であるということを、我々ははっきりと知らなくてはなりません。今日において、我々統一教会が歩いている道もこれと全く同じ道です。我々の教会は、世界のために建てられたのです。世界の生死の問題を解決するために建てられた教会なのです。 この国には三十八度線が置かれています。しかし、三十八度線よりももっと大きいものがあっても、これを解決する覚悟がなければなりません。今、我々が深く考えなければならないことは、この国の三十八度線は問題ではないということです。中国とソ連の三十八度線がまだ残っているということを忘れてはなりません。韓国の三十八度線は、将来、中国あるいはソ連の三十八度線を取り除くための、一種の予備訓練のためにつくられたものなのです。もし、我々がこの国の三十八度線を解決し、さらにこれを乗り越えて、第二、第三の世界的な三十八度線を解決するとするならば、我々は新しい世界に対する主体性をもつことができるでしょうし、また新しい世界の方向を提示することができるでしょう。それゆえに、我々は世界的な共産主義を徹底的に撃破できる実力をいかにして保つことができるか――これが問題なのです。 共産主義は、今まで偽装戦術を使って世界的な侵攻を敢行してきました。これはあくまでも、サタンであるということを、我々ははっきり知らなければなりません。悪を中心として活動体系を整えてきたのが共産主義です。これは確かにサタンの業です。このようなサタンに対して、我々が果たして勝利し得るか――これが問題です。 生涯を通して何を残すか 一方、我々としては、個人として成功するということよりも、世界的な、歴史的な、天宙的な、広大なる目的に対して貢献することがどれだけ重要であるかということを、はっきり知っていなくてはなりません。 ただ、食べながら生活していくことは誰もがみな同じです。しかし、問題となるのは、我々がいかなる生涯を送っているかということにあります。生涯を通して何を残すかということが重要なことです。また、何かを残すという点においても、これがただ一つの国のためであってはいけません。統一教会的な、統一教会式の何ものかを残さなくてはならないのです。統一教会的なものであっても、これは世界的なものでなければなりません。三十数億の全人類が両手を挙げて歓迎する、そのような世界的なものでなくてはならないのです。 こういう我々の態度に対して、今日では共産主義者たちも非常に恐怖を感じています。共産主義者たちは非常なる憂いを抱き始めました。このような憂いが高まるにしたがって、彼らは第二の戦線、第三の戦線を敷くでしょう。しかし、我々は決して負けてはなりません。絶対に負けてはならないのです。どういうことがあっても勝たなければなりません。勝つためには、彼らよりも、もっと強い装備を整えなければなりません。生活力においても勝たなければなりません。一から百に至るまで、すべての点において彼らより優れていなければならないのです。これができれば、問題はごく簡単です。 しかし、現実にはこれができていないのです。それゆえに、我々は負けても勝つという戦法をとらなければなりません。負けるのにどうして勝つことができるでしょうか。これが天の父の戦法です。 打たれて勝利する道 歴史上から見て、善人たちは常に打たれてきました。聖人たちも常に打たれてきました。ただそれだけを見ると、彼らはみな負けたような姿でした。しかし、彼らは決して負けたのではありません。彼らは必ず最後の勝利を勝ち取るようになっているのです。これが天の戦法です。イエス様もそのような戦法をとられたのです。それゆえに、我々の歩む道は決して平坦ではありません。苦痛と受難があふれている道を我々は歩いていくのです。平坦な道を歩もうとする者――そういう人は、天に対しては反逆者であると考えて間違いありません。 我々の統一教会におきましては、特に、個人的な利益のために走った人々はみな消え失せてしまいました。他人が見ていようと見ていまいと、国家のため、世界のために黙々と働いている場合、そういう人々は言葉の約束がなくても、深く深く一つに結ばれていくのです。それゆえに、祈りにおいても、人の知らないところで祈祷をすることが最も大切です。見えない至誠を尽くすことが大切なことです。そういう人が最後まで残る人です。そういう人が最後の宝となるのです。 統一教会はそのような人をつくり上げるために、一生懸命になっているのです。千万人を代表し得る信仰の実体をつくり上げるため、我々は骨を折っているのです。こういう方法をもって、我々は初めて天を解放することができるのです。それゆえに、我々は、自分一人が肥料となって、天を解放し、後孫たちを解放させる覚悟を決めなければなりません。 一人山頂に残って、涙を流す――天のために嘆くその人は、世界の平和をたたえるその人よりも、もっと深刻なる人です。こういう意味において、イエス様のゴルゴタにおける三次の祈りは、いかなる祈祷よりも深刻なものであったのです。そういう人がいる場合、天は彼を取り巻いて深い関心をもたざるを得ないのです。そういう人が、全人類の希望の的となっていることを我々は知らなければなりません。そういう人を中心として、天は動くのです。 自分一人の利益のために生きる人は光を残すことはできません。しかし、国家のために、世界のために、天のために生きる人は復活圏内に入ることができるのです。最後まで残る唯一なものは天です。ゆえに天のために生きる人が最後まで生きることができるのです。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.25
コメント(0)

お母様のみ言は、2000年間再臨主を待ちわびたキリスト教がその時を知らなかったこと、また、50年以上も前に祝福を受けた家庭に対しても「聖霊を汚すものは……」と。また、シンクタンク2022出帆大会(2021.05.09)をされた後の釜山教区での特別集会ということもあって「日韓トンネル」が今後の神統一韓国への希望となるといったみ言もありました。
2021.05.23
コメント(0)

真のお父様の遺言 第二教主(平和の母自叙伝)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.23
コメント(0)

急きょ予定が変更となり、お母様は釜山教区でみ言を語ってくださいました。希望前進大会 神統一韓国安着のための天地人真の父母様 特別集会一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.22
コメント(0)
「密使と祖国」一九七〇年二月十六日韓国・統一産業寄宿舎の講堂 『文鮮明先生み言選集第二十九巻 人類歴史の発展において、新しい歴史は現実に安住しては成すことができないということを私たちは知っています。既存世界の思潮や風潮に合わせた立場では、新しい革命運動が起きないからです。 したがって、既存世界の思潮や風潮を完全に否定した立場で、新しい未来に対する望みをもって実績を備えてこそ、新しい発展について語ることができます。歴史過程を探ってみるとき、このような事実は誰も否定することはできないのです。 復帰摂理歴史と天の密使 今日この堕落した世界の歴史発展がそうであるように、神様の摂理路程も同様です。この摂理路程は、サタン世界と方向が同じで内容が通じる立場ではなく、方向も内容もすべて反対です。こういう立場から見るとき、新しい基点と、新しい体制を備えて影響を及ぼし得る環境を再建するのは、どれだけ難しいことでしょうか。 歴史を経て、影響を及ぼすことのできるある一基準を成すまでには、表すことができない内的な闘争の時期があります。その内的な闘争が、時代的なすべての要人と、国家の為政者たちの前に影響を及ぼすことのできる基盤をもつようになるとき、その国家全体を新しい分野で革新することができます。もし狭い範囲に影響を及ぼすようになるならば、一つの村ができるでしょうし、一つの家庭もできるでしょうし、さらには一つの個人もできることでしょう。 復帰摂理について見るとき、今まで神様がこのような革新運動を悪の世界に提示しましたが、その影響が社会と国家にすぐに及んだことはありませんでした。いつも個人がまずその影響を受け、そのあとに家庭を糾合する運動をして、今まで歴史を発展させてきました。これが今日摂理史において、個人が歩んでいかなければならない伝統的な路程です。 このように個人を通じて家庭から氏族、宗族、民族、国家、世界基準まで達した宗教世界を見てみると、どんな宗教でも闘争の歴史をつづってきたということを知ることができます。 そのような歴史をつづってくるのに、公然と現れて戦ったのではなく、自分自身を隠しながら環境に追われたり、または制約された環境を抜け出すことができない立場で発展的な要因を利用できないまま、一つの公的な姿勢を備えてきました。 このような事実を考えるとき、責任を担った摂理的な責任者の立場は、いつも自由な体ではないのです。自分を表すことのできる立場になく、自己主張できる立場になく、自分の行動をむやみにできる立場にないというのです。 自分本来のすべての行動の要件を隠して、その社会環境と対する人々の前に、現実の社会環境よりもより有益な与件を新しく提示しなければなりません。その人々と何としてでも関係を結んで、心が通じる立場に立って、自分の本心と連結させて発展してきたのが復帰摂理歴史路程です。 過去の歴史的な先祖を顧みると、彼らはどんな時でも密使の立場、すなわち、自分の正体を現すことができずに隠す立場にいました。そういう環境で、自らの踏み台を開拓するために限りなく努力していった人々です。 今日サタンがこの世界を占領して、数多くの主権国家をもっている舞台の前に、この国家と世界を洗いざらい天のものとして転覆させようというのが神様の復帰摂理であり、救いの摂理です。ですから、このような摂理の志をもった一つの姿が現れるたびに、いかなる国家、いかなる社会でも反対せざるを得ない立場に立つようになるのです。 ですから、反対される立場に立った人、言い換えれば摂理に責任を負って立つ人は、いつも密使のような心情でした。そのような人は神様から怨 讐の国家に派遣された密使、すなわちその国の主権に責任をもち、その主権が向かうことのできる運命を勝負づける密使の使命をしてきたというのです。 ローマに入っていったキリスト教も、やはりそういう歴史過程をたどってきました。個人的な密使の行動が、家庭的範囲、氏族的範囲、民族的範囲として提示されるようになるとき、これがその社会において新しい革命ののろしになり、新しい国家を成し遂げ得たのを、歴史を通じて知ることができます。 今まで宗教自体が発展するためには、その背後に密使の責任が大きかったことを知ることができます。怨讐の国家に派遣された密使の使命を成し遂げるために、そこに天の側の氏族を残していった人々は、その時代において天の前に責任を全うした人であり、そうでない人々は天の前に責任を全うできなかった人だというのです。 密使の苦衷 私たちも神様の復帰摂理の全体的な責任を担った立場で、やはり同様の運命の道を歩んできました。またそういう責任を提示して、その全体に責任を負った先生自身も同様でした。大韓民国という基台の上に生まれて、同じ倍逹民族(注:上古時代の韓国の称)として生まれましたが、この国、この民族の信任を受ける立場で出発することができませんでした。正に孤独な立場で、自らの内的なすべての事情を隠して社会活動をしてきたのです。 天が作戦を立てて展開していくにおいて、苦衷となる環境を克服し、自分の踏み台を発展させられないならば、祖国の運命を分ける大きな責任を完遂することができないのです。それゆえ祖国のための大きな使命に臨むたびに、密使の使命を帯びた自分個人の態度と行動が深刻であらざるを得ないのです。 例えば、一つの国にスパイが派遣されるためには、まずスパイ生活をするための訓練を受けなければなりません。では、訓練を受けるときに、まず何を習得しなければならないのでしょうか。そこでのすべての風習を習得しなければなりません。そこでの言葉と生活方式を身につけなければなりません。彼らがそこでの生活にどれくらい良く適応するかによって、自分の生死の問題が左右される運命がかかっているのです。 ですから、生活環境からすべての専門的な分野まで、吸収できる自分をどうやってつくるかということが、スパイ訓練の原理となっています。言葉や生活習慣で、少しでもぎこちなかったり、おかしいと見られる面があってはいけません。平凡で普遍的な環境を、そのまま自分の生活の中で表現化して暮らさなければならないのです。 自分たちの風習があり、生活習慣があり、社会的な制度があるために、そのようなことが我知らずある環境で現れることもあります。それにもかかわらず、これらすべてのものを取り除いて、他の国の人、または他の地方の人として行動するということが、どれだけ難しいでしょうか。二重三重の神経を遣わなければなりません。一度行動するとき、また一言話すにおいても、必ず二度、三番考えて注意してしなければならないのが、スパイの立場です。 もし、その行動や口調が人より少し違うとか、生活習慣が少し違うというときは、それが自分の正体がばれる一つの糸口になります。このように、自分が生きてきた生活環境と違う所で生きなければならないのが、スパイの生活です。そういう生活をしようとすれば、内的な面においてどれほど苦衷が大きいでしょうか。またそのような生活に染まるためには、どれほど多くの訓練をしなければならないでしょうか。こういう生活を、私たちもしてきたのです。 今日地方にいる先生に従う責任者は、今は少し良い立場にいますが、昔の草創期にはそれこそスパイのようで、特命を受けた密使のような立場で生活をしなければなりませんでした。では、そういう生活をするためにはどうすればいいでしょうか。自己主張をし、その地方の全体に適用しようという態度をもってはならないのです。 こういう環境ですべての犠牲の代価をみな支払い、今に及んでは、大韓民国の為政者にも認められる基盤を立てるようになりました。このような基盤を立てるまで、皆さん自身はよく知らないでしょうが、全体に責任を負った先生には限りない苦衷がありました。中央で全体に責任を負った先生は、密使の使命の基準を超えることができない生活の枠の中で、戦いを展開してきたのです。 今や、この国を神様のみ旨の前に立てなければならず、神様が願われる祖国の主権を取り戻さなければなりません。新しい人類の祖国の主権を取り戻さなければなりません。こういう意味で私たちの責任遂行を前にして、冷徹に批判してみると、今まで私たちがつづってきた生活態度は、どのような意味の生活であったかを反省してみざるを得ません。 祖国の主権回復のためにもつべき信念 天の密使としての使命を担いましたか、それとも特使の使命を担いましたか。悪の世界だということを忘れてしまって、その国全体を代表した特使の任務に責任を負うかのように、今まで私たちが勝手に行動してきたがゆえに、ここで言うに言えない犠牲の代価を支払ったのです。 これから大韓民国の全地域を中心として、アジアまで及ぶことのできる摂理のみ旨を発展させていくために、どうればいいでしょうか。これもまた、表すことができない密使の使命を帯びた責任の道を経なくてはならないのです。今後進んでいく道において、このように極めて難しい問題が横たわっているということを私たちは知らなければなりません。 ではどのように備えて、どのように解決するのでしょうか。私自身がその社会で生活し得る人格をどのように備えるのでしょうか。ある一つの新しい使命を担ったことが問題ではなく、その使命の目的をどのように達成するかが問題なのです。ここに解決点があります。ですから、どんなに大きい使命と責任を引き受けたとしても、その責任の遂行が前後左右に及んで効果的な結果を結べないときは、使命を担った人たちも批判を受けなければならないのです。 それで皆さんが今、み旨を中心として覚悟しなければならないこととは、「神様から密使の特命を受けている私の体だ」ということです。それゆえ、自分自身が行動一つ間違うことによってその環境に及ぼす影響は、自分一人だけに限られることでなく、祖国という広大で途方もない内容に連結するという事実を知らなければなりません。 今日私たち責任者、すなわち核心の要員であり、精鋭の要員だと言える人たちの中で、果たして祖国の主権回復のための天の特使の使命を成すために召命を受けて、担った責任を現地で果たす一存在だと自認できる人たちが、どれくらいいるでしょうか。 密使が果たすべき責任と、取るべき生活態度 皆さんが一地域に責任を負った人ならば、地域自体が今後祖国に代わることのできる一つの母体となれるという信念をもたなければなりません。また、三千里半島にある地域がみななくなって自分の地域一つだけ残っても、ここで国の代わりに祖国の主権回復のための一つの基盤をつくるという信念をもたなければなりません。永遠の世界を成し遂げるために、ここから新しい基盤を立てて、三千里全域に及ぶ栄光の起源をつくるという信念をもって進まなければならないというのです。 そのためには、密使の使命時代を経なければなりません。密使の使命が完結されるとき、言い換えればその環境で証されて、その環境が自分を信奉し、自分を信じて、自分と相談できる立場に立つようになるとき、初めて天に代わる特使の使命を果たすことができるというのです。しかし、その環境が自分を信じない立場で、自分の権威と自分の国家ならば国家の権威を先立たせて、その環境に出れば出るほど反発が加重されて、排斥の矢が飛んでくることでしょう。 ですから、皆さんが今後どのような心をもって地域に行かなければならないでしょうか。新しい密使の使命を受けるためにここに召命されたという事実を知って、内的に深く誓わなければなりません。そうして自分の地域に行って、密使の使命を完結しなければなりません。環境を開拓して、自分が絶対的な権限を成し遂げるようになるとき、そこで地域の人たちと共に初めて天の特使の使命を果たすことができるのです。今まで責任者たちが密使の使命時代を忘れて、特使の使命を成そうとしたので、私たちが発展するにおいて多くの迫害を受けてきたのです。 皆さんを指導している先生も、今も密使のような心をもっています。国家ならば国家の権力の前に信奉される基盤をどのように切り開くのでしょうか。そういう時になってこそ、特使の使命を果たすことができるのです。 その基盤を切り開くことができず、密使の使命の段階を経ないで行動していては、必ず破綻するようになります。自分の生命はもちろん、自分のすべての前後関係と国家の運命がここに横たわり、全体の前に惨事の結果を避けられないという事実を、いつも念頭において行動しなければならないのです。 密使の使命を担う過程においては、特使の使命よりもより厳粛で二重三重に心の中で誓いながら、自分の正体がその環境に露出しないように努力しなければならないのです。 それで彼らの前に利益を与えることのできる一つの条件を提示することによって、彼らが自分の前に順応できる基盤をつくらなければなりません。直接的な作戦よりも、間接的な作戦を起こさなければならないのです。すなわち、個体を検討して連結する戦いをしなければならないというのです。そういう作戦を展開したのちには、彼らを自分と共に生死を分かつことのできる基準まで引き上げなければなりません。そういう立場で自分の信ずるところを打ち明けて、共同の目的を達成することが密使として果たさなければならない責任なのです。 皆さんは、この民族が私たちを信任しているその基準に満足するのでなく、ここで神様がまだ明かすことができない内的な心情の事情が多いことを知って、これを発展させ、展開しなければならないのです。こういう密使の使命分野を、まだ経ていない私たち自身であるということを忘れてはなりません。 私たちは、スパイの生活をするように、その環境で一言であっても同化されてはなりません。行動するにおいても同化されてはなりません。時をおいてその環境で、またその部落ならば部落、地域ならば地域など、全体の前に何かを残してあげることができ、利益となる多くの問題を提示する人として認められなければならないのです。密使として責任を負わなければならない使命分野以上の基準を立てなければなりません。そのような立場で命令し、決意し、約束して、新しい運動を展開しなければならないのです。 では、密使はどのような態度を取らなければならないでしょうか。自分の生死が問題ではありません。密使はいつも生死の脅しを受けており、死がいつもその前をふさいでいます。ですから生死の境界線で死を踏んで越えた立場にいる、神様の代身なのです。三十八度線を越えてみた人は、その気分を知っているかどうか知りませんが、密使は国境線を越えるのと同じような冒険の世界で、死の足場を踏みつけることのできる確固たる生活態度を取らなければならないのです。 同様に、今日私たちが新しいみ言を伝えるにおいて、み言一つだけを伝えてはなりません。まず人間的な面で手本となり、生活的な面で手本となり、行動的なすべての面で手本とならなければなりません。すなわち、その村で上下関係やすべてに、彼らの前に手本とならなければならないのです。どのような面でも、彼らより劣ってはならないのです。 彼らが「あの人は我々の村に本当に必要な人だ」と言って、自分が離れようとするとき、すべての部落が一致団結してそのまま住んでくれることを願う基盤をつくらなければなりません。そういう基盤をつくらずには、私たちの立場で目的を成就するということは、大変難しいことなのです。 皆さんは、そのような生活をしてみましたか。自分が生まれた民族の前で、二年、三年、十年の歳月を一日のように、そういう生活をしてみたかというのです。密使の使命を完遂することで、責任がみな終わるのではありません。その民族や国家において、祖国の目的を達成させるために特命を受けて派遣された人がいるならば、その使命を十年、二十年かかっても達成できないのです。 また自分の一代においてその使命を果たすことができず、代身者を立てて使命を譲っていかなければならない人もいることでしょう。ですから、このような特命を中心として、いつも気をもみながら、それこそ生きた祭物のような立場で自分の責任を遂行しなければなりません。その責任を展開することができ、収拾することのできる一人の責任者にならずに、密使としての目的を成し遂げるということは不可能だということを知らなければなりません。 このような観点から見るとき、皆さんは、生活態度や他のすべての面で変わらなければならないのです。 その部落において誰も責任を負えないことを、当然自分の責任だと思って負うことができなければなりません。その部落に代わって打たれることがあれば、自分が乗り出して打たれるのが、密使として責任を完遂できる一番早こです。部落のために打たれても死なずに立つとき、部落が全部屈服するようになるのです。 祖国の主権回復を迎えるための私たちの姿勢 今日天のために行く人たちは、派遣された密使です。個々人において大きい小さい、広い狭い、高い低いの差はあるかもしれませんが、各自が置かれている生活自体は、密使の生活を離れてはならないのです。ここには、いつも生死の脅威が介在しています。まかり間違えば永遠な生命の問題が左右される、こういう立場に置かれるようになるのです。 それゆえ永遠な生命を支えることができ、永遠な生命を保護してくれる私たちの祖国を探すという観念が、その環境より何百倍も強くなければ密使の生活をすることができないのです。その祖国の栄光を見つめる心をもって、祖国の恨みを解いたときに、全万民が喜ぶということを考えなければなりません。そして新しい歴史を創建して祖国の主権復帰の一日を迎えるその時に、自らの功労が表れることを考えながら、現在の立場を無視することができなければなりません。 そのような心が先立たなくては、密使の使命を遂行することができないというのです。言い換えれば、祖国の主権復帰のための望みが現実の望みより千倍、万倍強まる心になってこそ、今日の生命を取り替える恨みがあっても、それを克服して密使の使命を遂行することができるのです。 万一そのように責任をもちながら不意の事故で犠牲になっても、その場には新しい責任者を再び派遣することができるのです。彼は既に死んだとはいえ、彼の友人になることができ、彼の味方になることのできる人々が生じることでしょう。彼が模範になる立場で生きてきたので、たとえ彼が犠牲になったとしても、そこには彼の味方になることのできる人々が残るのです。 こういう人たちが残っている限り、神様はその基台の上に代身者を送ることができるのです。しかしそうできない立場で死ぬようになるときには、そこで彼がどんなに苦労したとしても、それで終わるのです。 こういう立場で皆さんが、これから新しい時代を迎えて、いかなる姿勢を備えなければならないでしょうか。祖国の主権復帰のための信念が、何よりも高く胸の中に燃えなければなりません。 言い換えれば、六千年間神様が待ち焦がれた祖国を建設する騎手となって、先駆けて立った精鋭部隊の一員として開拓者になるという、この途方もない使命に責任を負った自負心を感じなければなりません。過ぎ去った多くの人たちが手にすることを望みましたが、もとうとしてももつことができなかった、一つしかなく、この一時しかない特権的な使命を担ったという厳粛な責任感をもたなければならないのです。 ですから食べて、寝て、行って、来るすべての生活が、祖国創建のためのものでなければなりません。神様から特別に派遣された密使として凛々しく、格好良く、「この使命を遂行する」と言って立ち上がってくれることを神様がどれほど待ち焦がれていらっしゃるでしょうか。私たちは国家の足場を備え、全体の内容を提示して、一度も繰り広げることができなかった天のみ旨、祖国を立てることができるという志を立てなければなりません。今までそのみ旨を一度も立てられなかったというのです。 しかし今は、そういう祖国を建てることができます。その祖国には主権があって、その祖国には国土があって、その祖国には国民がいます。また、そこには単一民族の血統が因縁となっていて、他の民族がもつことのできない歴史があります。このような祖国のために、私たちは密使の使命を遂行しなければならないのです。 そういう使命を自分自ら早い日時内に完遂すればするほど、祖国の主権復帰の基台が自分によってますます近づくのです。今日、苦労の代価を支払うことが、祖国の主権復帰の一日を近くに迎えることのできる基台になるのです。 このような事実を考えながら、皆さんは生きて密使の使命を完遂するという決意をしていかなければなりません。そうでなければ、神様が私たちにもたらすことのできる世界史的な祝福と天運を、私たちのものとして迎えることができないのです。 密使は時を待つことを知らなければ 今回皆さんが知らなければならないことは、「密使と祖国」という信念です。「密使と祖国」というこの信念をもって戻らなければなりません。一つの村に責任を負えば、その村を早く復帰するために、その村の有志を訪ねなければなりません。それで、どのように影響を及ぼしますか。その人に、今までのどんな友人よりもより貴い友人にならなくては、彼を動かすことができません。その村のために誰よりも心配する立場に立たなければ、その村の責任者を動かせないのです。 その村の風習を守ることにおいても、その村の誰よりも一番よく知って守らなければなりません。そうでなくては、その村を動かせないのです。けれども一つの境界線を越えることのできる機会が来れば、その時には特使の使命を果たさなければなりません。それこそ権威を備えて道理を問いただしながら、善し悪しを判断して、正しいことを彼らの前に認識させる使命を果たさなければなりません。 今日私たちがこういう生活ができなかったので、私たちが過ごしてきた過程に副作用が多かったのです。副作用が多かったにもかかわらず、今日このように発展することができたのは、神様が密使の使命を代行してくださったためだという事実を知らなければなりません。 自分一人の過ちによって霊界が動員されて協助するようになれば、絶対良い結果をもたらしてくれません。神様が協助すれば、必ずサタン世界に蕩減の内容が残るようになるのです。神様が協助することが、今日摂理の途上に現れた恩恵の歴史だということを皆さんは知らなければなりません。 ですから皆さんがこの重大な責任を果たせないときは、皆さんの代わりに神様が何倍もの蕩減条件を立てて、皆さんをして密使の使命を完結し、その環境を収拾するようにするために、祭物の役事を成しているという事実を忘れてはなりません。 現在の皆さんを見れば、自分という観念が先んじています。それは密使が取るべき立場ではありません。密使は、自分が現れないかと、恐れて用心しなければならないのです。私の計画が一〇〇パーセント現れることのできる環境にならなかったにもかかわらず、計画が現れることを恐れない人には生命の脅しが迫るのです。 こういう問題について考えると、皆さんに付与されたことが祖国のための密使の使命ではなく、自分が成功するための使命だと思っているならば、皆さんは滅びるのです。このような観念を皆さんが感じて、皆さんの血に、皆さんの肉に刻まなければなりません。先生は、現れることを嫌います。なぜですか。まだ越えなければならない峠が幾重にも重なり残っていて、歴史上で最後の峠を越えることができずに死んだ先祖がいることを知っているからです。 黙って自分自ら心的基盤に深い根を下ろして、春を待たなければなりません。春が来れば一斉に生い茂って育つことのできる根深い生の価値のために、また自らの力量をみ旨に導入させるために、何よりも時間を投入し、努力を投入しなければなりません。 そうせずに自身が現れることを望むことは、あたかも根がない木と同じです。根がなく植えられた木は、そのまま枯れてしまうのです。このような問題を中心として、皆さんは再度自分を分析し、批判しなければならないのです。 密使が行くべき道 あなた方が責任者として仕事をするようになるとき、責任者の権限をもってむやみに「ああしろこうしろ」と言えば、多くの人の批判を受けるようになるのです。そのような批判の矢をどのようにして避けるのでしょうか。これが、ある役職を受け持っている責任者においては、一番先に超越しなければならない重大な問題なのです。その瞬間にも密使の使命を果たさなければならないのです。言い換えれば、その時には自分の正体を現さず、もみ消さなければならないのです。 ですから自分が関係していて、対している環境において、不快でも、相手に不快な印象を与えてはいけません。その人が、いつ怨 讐になるか分かりません。怨讐になり得る人とは親しくしなければなりません。親しくなるためには、お金が問題ではありません。お金と私の生命を替えることができますか。何をくれるといっても、生命と替えることができないのです。生命を保護するための囲いをつくらなければなりません。 そのためには、楽に座って人に使いをさせながら、私を表に出しては絶対にいけません。密使の使命、それ自体が重要です。本然の生活態度でその環境に一〇〇パーセント適応して、一〇〇パーセント以上の姿を備えて、彼らの前に中心的な態度を見せることができるかどうかが問題です。そうしようとするならば、食べることにおいても人より良く食べてはなりなせん。着ることにおいても人より良く着てはなりません。住むことにおいても人より良く住んではならないというのです。 皆さんは、その村の人たちがみな外的にうらやむほどに良く暮らしては、その環境に適応することができないのです。特権階級とは連結されるかもしれませんが、どん底から全体が皆さんに順応はしないのです。怨讐は上下高低を問わずどこでも現れるので、特権階級とだけ連結してはいけません。全体が怨讐であるので全体に適応することのできる立場に立って、防備態勢を備えることのできる生活態度を取らなければならないのです。 自分のために生きることは、その時は良いようですが、滅びるのです。しかし密使の使命を果たすことは滅びるようですが、必ず天の主権が彼と共に成すために滅びることがないのです。密使が行く道は、天の主権の直接的な命令を受けて行く道ですが、そのような行動圏を外れるようになるときにはサタンの支配を受けるようになります。このようにサタンの支配を受けるようになるときには、神様が願われる祖国の権威をもって現れることができないのです。 世の中でもそうです。一般的な国や、その国民の前においても同様です。良く暮らす位置を中心として、自らの権威の意識と自己主張を表に出す立場に立つようになれば、必ずその周囲から打たれるようになります。けれども自分を現さないで彼らのために歩調を合わせて、純利的な環境で彼らの前に利益をもたらすことのできる何かを残してあげるようになれば、「来るな」と言ってもついてくるようになるのです。密使が行かなければならなこが、正にこのような道です。 その国とその村の風習を中心として、私がそこに何の利益を与えるのでしょうか。どのように利益を与えることのできる私となるのでしょうか。またその村の責任者の前に、私が何をもって利益を与えることができるのでしょうか。そのような部落を指導している責任者の前に一番近い者として、利益を与えることができる、ある形態を備えて現れなければならないというのです。 新しい命令によって新しく決意せよ 今日、私たちはこのような道を切り開いてきています。先生が今まで指導する目的も、そこにあります。何でも、この国に対して利益を与えることのできる者になりなさいというのです。ですから私たちが必ず利益を与えることができて、利益になると彼らが認める立場にさえ立つようになれば、彼らを私たちが取ることができるようになるのです。 そして、私たちが本当に間違えば頭を下げなければならず、また良くしても頭を上げずに黙っていなければならないのです。このようになれば、彼らは自然に私たちの味方になることでしょう。村でも同様です。その村に善良な人がいれば、誰が何といっても、村人たちはその人の肩をもつのです。村の人たちが彼を認めて、肩入れをしてくれるのです。 このように、すべての人々が私たちの味方になることのできる環境を、どのように収拾し得るかという問題は、私たちが密使の立場を中心に、環境をどのように改善させていくかにかかっています。ですから、そのような生活態度が絶対的に必要だということを知らなければなりません。 今や皆さんは、新しい密使なのです。神様から新しい命令を受けて、新しい世界の前に立った皆さんです。これから皆さんは深刻でなければなりません。威信をもって村の人たちに対してはなりません。皆さんの生死の問題が掛かっており、今までの世界の問題が掛かっているのです。 ですから、深刻な心で新しい運命と共に私の基盤を固めて、密使の任務を全うしなければなりません。サタン世界に、崩れることのない基盤を固めるために、自分の身の振り方に気をつけなければならないのです。それにもかかわらず、昔のままの習慣で、新しい命令などしようがしまいが私のしたいとおりにするという心では、神様のみ旨を成し遂げることはできません。 新しい服と古い服は違います。新しい命令と昔の命令は違うのです。新しい現在の視点と過去の視点はお互いに違うのです。過去の段階と現在の段階とは大きく違うのです。これが発展的な段階だというのです。新しい自覚と新しい気分と新しい決意で、新しい環境の基盤を備えずには、新しいみ旨を成し遂げることができないのです。 摂理の段階も、一段階、二段階、三段階というように段階的に上がっていきます。それゆえ皆さんは次の段階に上がっていくために、自ら実践することができるという心をもたなければなりません。そうして実践したことが環境に適応するようになるとき、どのように成果として収め得る個体になるかということが問題になるのです。 こういう問題を見てみると、皆さんはまだよく知らずにいます。十年前に入るときの心も現在の心も、先生に対し神様に対することにおいて同じだというのです。今の心がその時の心より劣るようになれば、押し出されるようになるのです。 今まで神様が復帰してこられた過程には、天の秩序や礼儀礼法など、すべてが加重されてきています。加重されたこういう時代圏に自分が立っているにもかかわらず、昔世間知らずだった時の心よりもっと劣る心をもっていいでしょうか。部落での密使の使命と、道での密使の使命は違います。事情が違うというのです。また、一つの国の主権を中心として密使の責任を成すときにも違うのです。過去のような能力をもっては成せないというのです。 ですから、新しい命令と新しい指示があるときには、その命令に従って自分の生命を投入し、再出発をしなければなりません。過去にしたその基盤をもっては成せません。再投入をしなければならないのです。皆さんは昔は失敗して追い出された立場でしたが、今は歓迎される立場にいます。これから特使の使命を遂行するようになれば、そこから神様のみ旨の横的な進展を見ることができるのです。そうでなければ、私たちは発展することができません。 このような受難の道、退屈な道を内的に苦労していくのが密使の生活です。そのような生活は、誰もができるのではありません。天気が晴れても心配し、曇っても心配し、雨が降り、雪が降って季節が変わっても心配だというのです。 村の犬の吠え声一つにも、自分の生死の問題を中心として考えなければなりません。もしも自分の家の玄関を尋ねる人がいれば、その一人のために自分の生命を張る生活をしなければならないのです。汗を求める生活をしなければなりません。このようにすべての問題を、自分の生死の問題と結びつけた立場で考えなければならないのです。 密使の内的生活 それが、特使や密使の使命に責任を負った人たちの内的な生活です。誰も体験できない内的な生活なのです。他の見方をすれば、死刑を宣告された死刑囚が、死の時がいつ来るか分からずにすべての触覚を鋭く逆立てて、外から聞こえてくる声が、ひょっとして刑を執行するために自分を呼ぶ声ではないかと、脅威を感じながら生きるのと同じです。ただ東西南北に行動できるだけで、それ自体は一つの監獄生活と同じだということを皆さんは知らなければなりません。 先生はこのような使命を中心として、今まで流れてきた日々を一時も忘れることができません。どこに行くときにも、目的地を言わないのが習慣になりました。気を遣うようになるのです。なぜでしょうか。怨 讐がいつもねらっているためです。 このような闘いの歴史を経て、世界が認めることのできる現在の立場まで引き上げておきました。これはただできたのではありません。ここには数多くの事情があり、生死の峠を越えながら闘ってきた基台があったためです。すべてを天ものとして譲り、譲ったものが積みに積まれて今の実績に至ったのです。このような事実を知るようになるとき、皆さんの責任と使命は重いのです。 今まで六千年の復帰摂理歴史では、数多くの事情とともに先知先烈たちが犠牲になっていきました。このように血の祭壇を連結させてきたものを、この瞬間に恨みを晴らすことができるのでしょうか。それとも、恨みをもっと積もらせるのでしょうか。このような問題を扱っている深刻な立場に、私たちがいるのです。ですから、神様が同情することのできる心の姿勢、神様が同情することのできる生活姿勢、神様が同情することのできる公平で義理固い姿勢を備えなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。 密使は、いつも祖国のために生きる人です。本然の主権者が神様であられるので、「お父様、これからこのようにしていてください」という生活、それ自体とならなければなりません。私たちはこれからどうなるか分からない立場にあるので、私が死んでも父と共に死に、追い込まれても父と共に追い込まれ、追われても父と共に追われ、戦っても父と共に戦うという心が、密使の生活圏内から離れてはならないのです。 秘密があれば、心を整理してその主権者の前に報告しなければならない責任を負っている人が、密使です。それゆえ、そのような心をもっていくところにおいて、死の道を十峠越えたとするならば、十峠以上の実を結ばなければなりません。実を結ぶことができないときは、神様の前に裏切り者になるのです。 北朝鮮で教育を受けて韓国に下りてきたスパイたちが、韓国の実情を見てもなぜ自首できないのでしょうか。その背後には他人には分からない密使の生活の中で、今自分が生きている韓国の生活より何百倍も熾烈な難しい峠を克服して越えたものがあるために、環境的な現実は問題とならないのです。それで彼らは自首しないで、再び北に越えていくのです。 神様は、どのような方でしょうか。神様は密使の大王です。祖国の主権復帰のために、サタン世界に現れる密使の大王であり、総司令官です。では、そういう神様がこの地に対して「私が神様であり、私が教える真理はこれだ」と、六千年の間に一度でも主張したことがあったでしょうか。なかったのです。 けれども神様は、私たちの澄んだ良心を通じて指示し、因縁を結ぶために苦労してこられました。私たちの心の土台を広めて、一致化することのできる自由な世界へ導き出してきたのが六千年の復帰摂理歴史です。 このようなことにすべて責任を負ってこの地に来られる神様の息子に、密使の使命を外的、内的に連結させなければならない使命があるために、外的にぶつかる怨 讐のような環境の難しさは、内的な面において神様と一致することのできる刺激的な内容になるのです。 難しい環境が分立させるのでなく、むしろ密接な内容で一つになるようにするのです。それゆえ、そういう所には必ず神様が現れ祝福して、神様が共に戦ってくださるという事実を認めざるを得ないのです。 祖国の主権復帰の責任を遂行する自分になれ 皆さんがこのようなことを実感して、責任を遂行するために誓いを立て、新しい旗手になると固く誓って立ち上がるとき、大韓民国は私たちの懐に入ることでしょう。 それゆえ、きらきら輝く目つきをもったなら、その目つきは栄光の祖国を直視する目つきと化さなければなりません。才能と力があるならば、これを祖国の主権復帰のために使うことのできる勇士となって、皆さん自身が堂々とした姿で祖国の主権復帰のために、聖別された責任者の代身をするという信念を感じながら行くことができなければなりません。 皆さんは祖国を立てて、祖国を輝かせて、祖国と共に生き、祖国の中で死ぬことのできる自分にならなければなりません。今まで天の前に誰も責任を負うことができなかったし、一時に一度しかできない、この厳粛な責任をおろそかにしてはなりません。一度聞いて十通りを考えて、一度聞いたことをもって十通り以上と比較しながら出ていかなければなりません。 天の運勢をここに表すためには、自分が千回恥をかいたとしてもそれを気にせず、または百回の死の道があるとしても、それを気にしないで行くという信念をもって出ていくようになるとき、神様が皆さんの行く道を守ってくださるのです。なぜなら、先生が今まで歩んできた生活の中で、どのような時にも神様は私を捨てなかったことを体験したので、皆さんも神様が保護してくださるに間違いないというのです。 それゆえ、祖国の主権復帰のための一つの主体的な使命者として、自分が引き受けた一つの道(注:韓国行政区の一つ)であれば道、一つの部落ならば部落で、この責任を遂行する人は自分しかいないという信念をもって、絶対に退いてはなりません。ここで裏切り者となってはいけません。天命にかなう責任を果たすことができなくてもいけません。責任の裏道にいては、この道を越えていくことができないのです。 寝ることができなくてもしなければならず、食べることができなくてもしなければならず、追われながらもしなければならず、死ぬとしても決定を下して死ななければなりません。皆さんが、このような決定的な使命を成し遂げると新たに決心して立つようになるとき、皆さんの行く道は当然開かれるのです。 しかしそうでなくなるときは、先生が皆さんを前面に立てて信じて見つめた希望の世界、光明の世界がかえって闇の世界となるのです。先生はこのような問題を心配しています。それで皆さんの前に、この時間に残してあげようとするのが「密使と祖国」という問題です。 神様が、この国を訪ねてきたその目的を達成して、すべての民族が国を挙げて御自身の名前を称賛しながら栄光の一日を万世に誇ることのできる時とはいつでしょうか。この使命を失わず、これを求めることが私の生涯の目的だと誓いながら行くことのできる皆さんとなる時に、皆さんの将来に祖国の主権復帰の希望の日が迫ることでしょう。そうできないときは、皆さんの前に受難の道が来るようになります。また、皆さんが責任を負えないことによって、その結果がこの民族の前に引き渡されるようになるということを知らなければなりません。 密使は、その姿が良いからなるのではありません。また、能力があるからなるのではありません。密使の使命は、神様と心情が一致した立場に立って、その国の風俗を正しく立てると同時に、絶対的に忠誠を立てて、その環境を収拾しなければならないのです。 これをする日には、天の主権者である神様の直接的な命令を受けた代行者の立場に立つことができるのです。そのようになれば、神様が責任を負わざるを得ないというのです。 皆さんが密使の責任を負うようになれば、そのことは必ず成し遂げられるということを先生は、長年の体験を通して知っています。皆さんもこのような生活をしていくことを願うので、きょう「密使と祖国」という題目で少しの間お話ししました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.21
コメント(0)
「真なる相対者」1970年1月25日韓国にて あらゆる存在が存在しうる基台を造るには、そこに第一の必要物としては相対者が、相対物がなければならない。いわゆる主体があってそれから相対物があって、それが一つとなるところに永遠なる基台ができる。これが原理の教えである。こういう観点から見た場合に絶対なる神がいる。その神の前に絶対なる相対者、それがいなければならない。神は心情の神であり、人格の神であり、それから理想の神である。そうなるというと心情的においても人格的においても理想的においてもこれがその主体に対して完全に一致せる、その相対し得るものがなければならない。それが決定してこそ永遠の理想、永遠の幸福というものが打ち立てられるのであるから神はその目的を成すためにいわゆる操縦をしなければならない立場におるという結論を問われる。それが人間の、我々子女によって成せるべきその使命であり、その基準に到達しなければならない絶対的責任であったにもかかわらず、人間の先祖いわゆるアダムとエバはその基準に到達せずして堕落によってその基盤を失われてしまった。これを再び神は救いの道を通して元返ししなければならない。これが今までの摂理の使命である。その摂理の使命がこの基準を復帰することによって、神の望み、堕落世界に今まで望んできた希望、いわゆる摂理の目的が完成するということは言うまでもないというんだね。そうすると本当に神が願うその国、あるいは民族、あるいは家庭、あるいは個人、絶対なる神に対しての相対者となり得るその一人の人がまずもって問題である。その一人の者が解決しなければ家庭は望まれない。そういう絶対の相対基準に立ち得るその一人の者によって家庭が望まれる。その一人が絶対のその相対基準に立たない以上は神にはその望むべき家庭を望むことができない。それが今までの、今までの宗教を通しての神の摂理の要求である。いわゆるイエス様もその基準において四千年の歴史を蕩減して、四千年間に神が求めてきた絶対なるその相対者として如何にしてそれを勝利の基盤を打ち立ててその基準に立つかというのが、これがイエス様の生涯の使命である。その使命を成すためにそれを、いわゆるその環境をおさめて、その環境の中心者として立って、あるいは家族を代表して、あるいは民族を代表して、国家を代表して、それを一つの垣根としてその中に立って、そうして神の絶対なる相対者の基準を決定しなければならないというのがそれがイエス様の使命であり、その使命を保護し、それを守るべきその基台を造ったのがイスラエル民族の使命である。それを果たし得なかったんだから、絶対その使命を成し得なければならないイエス様の使命がそれが成し得られない立場に立った場合には、絶対なる神の前にこれは立つことができない。再びそれを元返ししなければ立つことができないという。それは言うまでもない。 それで、それをいわゆる再び元返すには、やはりそこには民族、あるいは基盤になるべくその基台が使命を果たし得なかったから、それを民族が蕩減するか、その基盤となるその氏族が蕩減するかしなければならない。それを蕩減させようとしても神の方に立つ側のその氏族とか民族になっていないから蕩減させる基盤が完全になくなってしまった。ま、そういう立場に追われている神の立場から見た場合には、誰をその蕩減の立場に立たせるか、求めてきたその選民、あるいはユダヤ教、すべてが神に、神の相対基準に遠ざかっているから仕方なしにイエス様をその民族を代表して、あるいはその氏族を代表して、条件のその立場に立たせざるを得ない。その条件の立場に立たせるんだからこれは捧げものという。成せるものの立場に立たせざるを得ない。そういうような成すべき本来のイエス様の使命をさておいて、今まで成そうとしてそういう基盤を造ってきた民族、あるいは氏族の使命の身代りとして立った場合そこにはサタンと神、その中間の立場に立っていざどこへ行くかということを決定しなければならない。そのものが十字架の道であった。この十字架の道において自分は如何なる悲惨なる立場に立っても神の相対なる立場を固守して、それによって生きそれによって死ぬという、いわゆる捧げものとなった場合には捧げるものの立場として、それを中心として生まれたものになり、それを中心として死ぬものになる。そういうような運命に立っても神の蕩減の基準において絶対なるその相対者を神の前に求めておるのを知っているイエス様は、そのものに如何になるかということが、それがイエスとして願わなければならない立場だった。その願いの立場がゲッセマネの園におきましての最後の晩の祈りであったというんだね。 そこにおいていわゆる栄光の神様の相対者たるそのものが民族あるいは氏族の身代りとして、蕩減の正体として行かなければならない運命がイエス様の十字架の道であったということを思わなければならない。そうするとそれによって行かれたイエス様は栄光の一日、いわゆる絶対なる神の相対基準を如何にひととき、自分の願いのそのひとときを又求めつつ、それは数千年の歴史を開拓の使命を成してきておる。そうしてそれが民族的でない、世界的基盤を造ってその世界的基盤によって、それを基盤として昔のユダヤ民族の誤ったことをそれを補い、それからユダヤ教が間違ったあるいはそのヨセフの家庭におきまして果たし得なかったすべての蕩減の条件を再びそれは世界基盤におきましてそれを治めなければならない。再びそれを立ち帰るようなその基盤を造って、その基盤がその基盤となるその位置において初めて栄光の立場として立ち得べく、いろいろ神の相対者の位置に立つことができる。それを今まで求めてきた。それが再臨の二千年。そうなるというとそういう立場から見た場合には神の相対者たるその一人がいなければならない。それから家庭、それから氏族、それから民族、国家がいなければならないというのが神が今まで摂理して来たその根本の問題となってくる。一人を必要とするのは家庭のためである。家庭を必要とするのは氏族のためである。氏族を必要とするのは民族。民族を必要とするのは国家を編成しなければならない、その国家たるもの、その民族たるもの、その氏族たるもの、その家庭、その個人はそれが絶対なる神の前においての真なる相対者、相対物にならなければならない。相対者になって、相対なるその氏族、国家、国家なら国家にならなければならない。こういう立場から考えた場合にこの世界には真なる神の相対の立場に立ち得る国がいるか、あるいは民族がいるか、氏族がいるか、家庭がいるか、個人がいるかということを考える場合、それが今まで歴史過程になかったのだから今までない。これがない場合には神の摂理完成ということはこれは絶対ありえない。これを知っておられる神様としては世界をさておいて一人の人を再創造し、再び救い上げなければならないという歴史の苦労の道が今までの宗教であった。 そうしてその目的を完成する一人を正して、その目的は家族を中心として氏族の方に、氏族を中心として民族、国家の方にこれを連結させていきたいのが神の摂理の方向である。そういうような歴史的使命の要求のその両点の立場に立ってその使命を果たさなければならないのがこれが統一教会のいわゆる責任たる使命である。こういう歴史上の要求の立場から見た場合に、本当に真なる、真なる天の摂理に対して、真の、真なるその女になり得るか。問題はそこにある。真の子女が迫害を受けずして保護圏を成し得なければエデンの園の基準にそれは到達することはできない。いわゆる天使長を中心としたアダム・エバはそれが神の保護圏にあり、あるいは天使長の保護圏にあって、その神の喜びの目的のためにそれを成長してゆく成長期間と同じように、この悪の世界におけるそういう環境をいかにするかという、元返しするほどのその時の、堕落前のその時の環境をこの地上に造っておかなければ完全復帰の基盤を神が願うこともできないし、それを成し得る相対者たる一人も成し得られない。そういう環境を造ろうというそれが今までの六千年の神の苦労の召しであった。そういうふうにしてキリスト教を中心として、世界へ、世界へ、こういうふうにして基盤をここには数多くの犠牲者を出して、そして発展の一路としてそれを開拓してきたのが今までのキリストの殉教史である。そういうふうにして成し得た世界的キリスト教の中に果たしてそういう基盤を成し得るその者達がいるか、その国がなっているか、昔の第一イスラエル民族の身代りとしての使命を受け継ぐような、現実の天が喜びうるような国家があるか。ない。アメリカでもない。今のそういうイスラエル民族にもない。どこにもない。皆神のみ旨に対しては皆反発し得るその立場に立っている。そういうようなこの世の中において、それは国をさておいて宗教を代表するキリスト教においてこそ、それだけをつなげれば第二の国家を新生する希望が探せるべきなのに、キリスト教はキリスト教がその基盤を果たし得なかった場合には、その使命に対しての願いまでそれをもつことができない。それでそういう立場から見た場合にキリスト教の使命がいかに大きいかということを、それを我々は知らなければならない。もしも宗教が成し得なかったならば民族編成はこれは不可能である。宗教がその神の摂理に相対基準とならなければ氏族もそれを打ち立てることは難しいであろう。氏族がなければ家庭も、家庭がなければ真なるその息子がおれば、息子に対してのその相対者としての信仰を求めるのはそう簡単ではない。その信仰の一人を求めるには神が一人の息子を求めきたった六千年のすべての条件を条件として、その最後である七年を条件として打ち立てて、再び闘いの道を通さなければその一人の相対者を求めることはできない。だからそういう立場に立ったのがイエス様である。イスラエルの一国が相対基準に立っておっても、それは世界的である。それは天宙的である。だから六千年の歴史の苦労によってイスラエル民族、ユダヤ教会を成し得た数多くのそういう内面的の蕩減の因縁はそのイエス様のゆく一人の相対者を求める道に、あるいは十二代で成し得たそのことを再びイエス様を中心として相対者に成し得なければ、そうして勝利の基準を再び立たしたという勝利の基準をそのイエス様の相対者として成し得なければイエス様と関係をもつことはできない。そういう運命に立っている。それと同じように統一教会も同じ運命を行かなければならない。 いわゆる神が今まで求めてきた宗教はその天のみ旨に立ち得るその宗教がなかった。いわゆる全体がキリスト教を反対しだした。宗教がない。それから氏族がない。そういうような立場に立った場合のその神の相対者である真の子供として地上に生まれたとしても、その地上に生まれた子供は正常な道を行くことができない。その一人がその六千年の苦労の、神の苦労の道がたどって来たと同じように、条件のその基準を再び正して、その子供の前に立たせる相対者は再びもとかえししなければならないというような立場に立っている。そこには歴史的闘いが再び展開し、縦的その蕩減の六千年の歴史が横的基盤において再びもとかえして、これを真なるその子供の前に立ち得る真なるその娘を求めるその間においては、横的六千年の歴史の蕩減の条件を再び立ち返すところの路程を行かなければ、これをもとかえししなければならない。そういう道をたどって来なければ完全なる真の相対基盤を家庭において、相対者において決定することはできない。それを決定する二人の立場というものは世界を代表した中心である。国家を代表した中心である。それから民族、あらゆる民族を代表した中心である。あらゆる子女、あらゆる家庭を代表した中心になるのだからサタンは世界的すべてを総合してこの基準をこわしてしまう。あるいはこれを引き抜いてしまう。総動員してこれは打ってかからなければならない。そういうような迫害の道が再び展開されるに違いないという結論になる。そうなるというと、真なるその相対者になり得る一人の息子、それが決定しなければ相対物としてあがなうことができない。一人のその子供を求めなければ相対なるそのものを求めることはできない。まずもって一人の親孝行する一人の子供が問題である。そういう子供の立場を如何にして、そこにそれを基準を合わせるか、そこに到達しうるかという、それが又問題となってくる。国が準備し、宗教が準備し、その宗教の中心である家庭とか氏族、そこに皆含まれている。 そういう基盤があって一体となって行けばそこには蕩減の道がない。その時代においての蕩減の道なしに相対基準を求めてゆくところにはその蕩減の条件が残らない。こういう基盤が反対の立場に立った場合には全部が問題になる。相対者の立場に立ち得る子供の立場においても又再び勝利者として立つようなその決定的条件を又見出して、その決定的国あってこそ、それから氏族あってこそ、家庭があってこそ、決定すべきその立場に立つにもかかわらずそれがない場合にはその子供として立つその基準も又蕩減の道を行かなければならない。いわゆる自己完成というものは再びしなければならない。この自己完成というのは堕落しない神の主管圏内において、サタンの要素が見られないその立場がエデンの園であった。サタンがイエス様に対して国とか、あるいは氏族とか、家庭を願うその前に条件を立たせるような基盤になっては天のみ旨を果たすことはできない。そういう相対圏が不信の立場に立った場合には全てが又条件の圏として現れて来た。だから国家、あるいはユダヤ教すべてがイエス様によって試練の相対の立場に立たざるを得ないというんだね。そういう運命の道を開拓しなければならない。それがいわゆる数多くの時代におきまして神のみ旨、その選ばれた人々の立場である。そういう立場から考えた場合に、あるいは天的使命を受けたとすれば、先生のこの原則にはずれることができない。だから目的は宇宙が目的であるけれど、それは第二の使命の基盤であって、第一の使命の基盤ではない。第一、まず自分が問題である。宇宙を主管する前に自分を如何に神と一体となって主管し得るやというそれが問題になってくる。そういうような期間を通してそれが霊界におきまして勝利の基盤を再びもとかえしてゆかなければならない。いわゆる数多くの先祖達、数多くの偉人達が霊界に行っておるけれども、それらが生涯において果たし得なかった勝利圏を地上によって決まりをつけてやらなければならない。そういうような世界的いわゆるその内的闘いを再び展開しなければ、その勝利の基盤をもって、その勝利の圏をもってこそ帰ってくる闘いにおいて再び勝利しなければ、完全絶対者の神の子女としてあるいは子供として立ち得ることはできない。だから内的勝利外的勝利の基盤を勝利して、そこにサタンを霊界におきましても地界におきましても成し得たその基盤を持ち出さなければ神の相対圏に、相対者の立つべきその圏に立つことはできないと言うんですね。それが今まで一九六〇年まで闘ったその先生の生涯の道である。だからたった一人その孤立なる立場から見た場合には、国があるようで国なし、民族があるようでも民族がなし、氏族があるようでも氏族親族あるいは家庭父母兄姉があるようでもそれはすべてがない、たった一人家庭を求めるには自分の中から求めなければならない。氏族を求めるには自分を通して求めなければならない。国を求めるには自分を通して求めなければならない。こういう立場は悲惨な立場である。世界を求めるには自分を通して求めなければならない。そういう立場に立ってこそ、真なる孤独とか真なる神のつらさとか、神のいわゆる今までいかに苦労なさったかということを、それを伺うことができる。その観念その基準まで我々は帰ってそれから勝利の権威をもって再び戻って来なければならない。それが復帰の路程をゆく我々の立場である。その過程を通過せずして真なる相対者の圏に立ち帰ることはできないというんですね。 だからそういう基準を、そういう立場に立っておるか、神はそれをその人を通して神の家庭を願っておるんだね。だからその人を通して神の氏族、その人を通して神の国、その人を通して神が世界を求めておるんだよ。この勝利こそはその世界の勝利の基盤になるし、この勝利こそはその国家、その民族、氏族あるいは家庭の、あるいは相対者の勝利にならざるを得ない。そういう立場において勝利を成し得たその息子として現れるのがこれが再臨の主になれるというんだよ。そういう境地に立たなければ再臨の主になれない。だからそこにいて、新しい世界観、新しい国家、新しい民族、新しい氏族とか新しい家庭、新しい歴史の一端が出発しうる。それの出発の基準というのは、その子供だったら子供に対して全部その相対者たるその人を持ち出さなければ、家族もなければ氏族もなければ国家も果たし得ない。世界ということは望みがないというんだね。勝利の基準を成し得たその立場から見た場合に相対者がその相対基準に立ち、いわゆる真理を悟った人がいればいいんだけれども、まだいない時には越えるという条件として再び闘いの道が残っておる。 いわゆるアダムはエバを主管しなければならない。エバによって堕落したんだから、エバによってサタンは絶対的にまだ反抗し得る条件を打ち立てることができる。自分の勝利も問題だけれど、相対基準において勝利圏をいかに完成するかという再びの勝利が残っておる。その闘いの基準が第一次七年の路程である。それは立体的その内容を持っている人を救うには、その救われる人の立場より以上の立場に、より以上の辛い立場に立たなければ救われない。闘いの世界のすべてを救うには救いの最高の立場に立ったというその決意に立たなければ救うことはできない。だからそこにはサタン自身が、いわゆる今まで人類歴史において罪を犯してきた、万民を蹂躙してきたそのすべてのサタンの権威を払うべき基盤より以上の蕩減の道でも甘んじて行き、そうしてそこにサタンを屈服さして、その基盤の条件を充たさなければ、再び帰ることができない。それは一人の相対基準を通してそういう闘いをする。それが成し得た場合には、それから子供ができ、そういう子供を中心として又そういう闘いをしなければならない。そういう問題になる。そういう子供を中心として一つの家庭をなし得たとすれば、家庭を中心として又そういう闘いが残っている。だから祝福されたその家庭同士はそういう闘いをまだしなければならない。その家庭を中心として、あるいは氏族を復帰するにはそういう闘いを家庭が一体となって、そういう闘いをしなければならない。その氏族が一体となって、それから民族に対して又闘わなければならない。民族圏を中心として又国家という問題を中心として闘わなければならない。 最後の標準として願うところは、イエス様の願ってきた第一イスラエルのその基準だよ。完全なる神の基準におきまして一体となる完全なるユダヤ教、神本来願ってきたそのユダヤとイエス様を中心としてそのヨセフの家庭を中心として、そうしてその氏族を中心としたるその宗教、ユダヤ教、ユダヤ教を中心としてのユダヤ国家、それが一つにならなければならない。それが一つになっていない場合には必ず蕩減の道を行かなければならない。蕩減するにはカインが蕩減するんじゃないよ。アベルが蕩減していってやらなければならない。ただそういう路程を開拓して行くにおいて、統一教会がそういう使命があれば、その基準を果たすまでにはこれは悲惨な犠牲の道を行かなければならない。そうして真なる神が願う一人の息子を中心として、真なる神が願う一つの夫婦としての家庭、家庭から兄姉が、四位基台が入る。いくら夫婦が一つになっても家庭を中心として子女が一つにならなければならない。だからこういう立場から見た場合に、これは再臨の主をこの地上において迎えながら三代の、三段階の十字架を背負わなければならない。個人完成、自分のための十字架。それから相対者のための十字架。それから子供のための十字架。この十字架を完全に蕩減しなければ四位基台完成は果たされないというんだね。それは自分の直系の血統に属するその子女を中心としてではない。そこにはカインアベルの家庭型四位基台が世界にある。それを神圏にもとかえしするには、それをももとかえしし得たその条件を世界的身代りとして立たして、いわゆる外的蕩減条件までかねて一体とならなければならないというこういうような問題が残っている。その条件を結びながら今までやってきたのが六〇年以後の統一教会の道であった。 これを完全に成し得たという場合にはそれは世界が回るようになるというんだね。世界の外的環境を、如何にそれが複雑であっても、それが如何にその望まれないその環境であっても、その内的基準が決定されれば、これは急激にあるいは直ちに外的基盤が崩れてゆくという問題は結局ここにあるから、真なる相対者、真なる相対物、そういう基盤を如何に決定するかということが世界において勝利し得る問題のもとになる。だから我々も、我々のすべても、真の子たるそのいわゆる本点はどこにあるかというと、天によるんじゃないよ。神様のふところの中にあるんじゃないよ。この問題を解決する地上にそれがあるに違いない。だから天も地上を中心として援助する。霊界すべてがそこを中心としてすべての活動をする。いわゆる天宙史を見ればその勝利の一点のために総動員しておる。結局そういう結論になるんだね。そこにおいて真なる神の心情基準、真なる神の人格基準、真なる神の理想基準を如何に知らせるかという問題が、先生がそういう責任を持っているということを知らなければならない。それは必勝のその真理である。こういうようになるわけだ。 そうすると先生につながっている貴方達、あるいは韓国にいる統一教会の食口とか、世界にひろがっている統一の食口は、自分の国のために働いてもその働く目的は自分の国のためでない。これは第二の基盤を完成するためである。その基盤とならなければ、如何にその国が復帰されていってもそれを再び闘わなければこれを結束させることはできない。はじめから闘う。はじめからそういう考えでもって日本で活動するのはこの第二の基盤となるべき使命を果たすため、その基盤において蕩減条件を、今の現世において我々が成し得て、再びくるその主体、あるいは真の相対者がゆく上において十字架の蕩減条件をみださないように準備するために我々は働く。そういうような立場に立って働かなければ、いくら完成なし得たとしても第二の十字架の道がまだ残るというんだ。だから先生が願うのは世界的に広がっている宣教師達に願うのは、このことを願っておる。自分の勝手気ままにこういうふうにしたら統一教会の食口になれる、こういうふうにすればこれは神のみ旨を果たし得る、天的基盤が造られる、自分の主張、自分の意見、自分の気分によって成し得たとしても全然神の方とは何の関係もない。いくら成し得た基準としてもこれを引き入れるには再び蕩減条件を正さなければならない。こういうことを我々は考えなければならない。ただ働くのも、日本として日本が結構な立場に立つのではない。どこまでも先生と子女の関係を持って、神が願うのは家庭を求めた場合には氏族、氏族から民族、民族から国家基準こういうように発展の道を開拓しなければ、蕩減条件を充たしてゆかなければならない。日本において、日本民族の蕩減の条件を、我々を身代りとして成し得るその使命を神は要求している。それを果たすために今働いている。それは日本の氏族とか日本の民族による国はそういう基準に行かなければならない。どうせ行かなければならないのだ。第二の十字架の道を防ぐために我々は働いている。だから働くんだこと自体は先生の身代りとなって働くというんです。ここには神の前に絶対なるその子供ができた場合、子供があるならば、その子供を中心として、第二の絶対圏として自分達がそれを立たせなければならない。そうしなければ蕩減の道は立たない。今はアメリカもそうだよ。ドイツもそうだよ。だから国家基準の基盤を造るまでには先生が直接命令して指導しなければならないという結論になる。直接関係を持って指導されて来たというその対応した指導者自身がそういうような考えを持ってないと言うと、その国家に果たし得たその人が神の方に因縁をそのままつぐことはできない。結局神の子供の分身として、娘の分身として、神の家庭の分身として、こういうような一体となった基準の条件を通さなければ世界的復帰の道はスムーズに行かない。日本民族と韓国民族と、もしもそういう基盤を通して国家を復帰したという基盤に立たなければ、この国と日本の国はまだ蕩減の条件を残して再び問題を提示してこれを解決した基準に立たさなければ勝利の蕩減点に立ち得る両国の位置は決定されないというんだ。 こういうふうに考えた場合、位置に働くにしても三段階、前後、左右、上下関係、自分がおるというのも前後左右上下関係を決めてからおる位置を決定することになって、上下関係とか左右関係がなければ位置を決定することができない。だから日本が神のために働くというように決定するには三点の関係を求めなければならない。日本自体だけじゃない。そこにおいて韓国なら韓国、それから日本を中心として世界、あう世界を対応の国としてこれを連結させる使命観を持たなければ、今後神の全体的勝利の意義が人間を結びつけることはできない。そのように見た場合にこの世界にはそういう国家がない。そういう民族がいなかった。統一教会を中心として、統一教会はこれは間違いなくこういうような条件を皆結合させてゆくべき使命が統一教会の使命である。そうすると一人の息子の前に一人の女が、完全なる相対者は誰だというんだね。その基準を決定しなければその家庭は生まれて来ない。その家庭が決定された場合には、家庭を中心としては氏族編成だね。氏族編成をしなければならない。逆になっている。それは世界の人を生んでやるんじゃない。生まれているその人達を蕩減復帰して氏族編成をしなければならない。いわゆる外的世界を代表したその氏族編成をしなければならない。その氏族の中にその直系子孫があるわけだ。これを見るとこれも三段階だね。世界は蘇生であり、その中間にあるそれが長成であり、直系のその血統を受け継いだ子女が完成になる。そうすると完成させるには蘇生と長成基盤が一体とならなければならない。堕落は蘇生長成基盤以上、それが一つになってその以上を信仰することができなかったんだ。完成圏に進むことができなかった。だからこの二つの段階が一つにならなければ一つの段階を復帰することができない。だからそういうような天的内容があるから霊界に行っておる人達もこの地上の長成基準を通過し得るその期間の摂理期間におきましては霊人達が地上を協助するという問題が問題になる。だから霊界と地上が一体とならなければ完成なる世界、神のみ旨はそこにできない。そういうようになっている。それを考えてみた場合に、今韓国を中心として今統一教会はどういう条件を通って来たか。個人的条件はもちろん、家庭的条件はもちろん、氏族的条件はもちろん、民族的条件はもちろんだね、その民族的条件を乗り越えて国家的条件を立たせようとするその時代が七〇年代の韓国による統一教会の使命である。国家的条件を立たせるその国があらわれつつあるその基準において、相対なる国家を、如何なる国を立たせるかという問題になってくる。いざ神のための相対なる国家的基準が決定したという場合には、その時点から、今から準備してその基準に相応し得る国家基準を準備させなければその時になってこれ一人からそういうことをやれることはそれは再び蕩減の道をそのまま行かなければならないという結果になる。国を中心として、個人から又そういうことは摂理上これは延長になるに違いない。それで我々二次三次の基盤を造るために国家基盤と世界の基盤を今から日本は組んでゆかなければならない。それが我々の宣教の使命としてよく知らなければならない。だから韓国において先生が迫害された時に、日本に人をよこしたというんだね。平安な時によこしたら蕩減になる。切迫なるその環境において、普通の関係じゃない、世の中に否定されるその立場において、神の愛を中心として日本民族を愛した。こういうことをやったのは自分がその世界に余った金があるからじゃない。余る人があるからよこしたんじゃない。使えるものを使わずして、汚きところにいいものを出して行かしたその条件が天の条件になり、サタンの世界にも条件になるようなその基盤に立ってこれを果たさなければ蕩減にならない。だから我々の正常な立場において神の摂理を成し得て行くところがそもそも間違っている。緊迫なる最高の立場において、神も困る立場、サタンが最高に勝利したというような立場、そこにおいて闘ってそうして勝利なされたような、サタンの方を屈服させることによって全体的神の方の勝利を打ち立てることができるんだね。こういうような戦法をする。だから今統一教会の食口達も迫害を受けて、世界的なその迫害を滅ぼしている。十字架の道を開拓してゆくこの現世においてそのことを成すのは、これは今後の世界を蕩減させていかなる時よりも蕩減の条件の量として大きな用量の基準を立たせるその期間にならなければならない。だからこのように無理をして我々は宣教活動までかねてしなければならないということになってくる。 国が国同士で相対基準になれば、それからは第三国も第四国も世界的基盤に出発する。韓国を中心として韓国の国家的蕩減基準をその乗り越えるという現段階におきまして、それに相対者の立場に立つ国はいかなる国やというんだね。その国となるにはその国においてその民族を中心とした祝福された家庭がなければ、国の名前を名目としてあらわすことはできない。だから先生は昨年世界を回りながら、そうして急がなければならない国家を中心としての世界基盤、世界民族を代表してのその結婚式を成してやったのも時が来るからそういう基盤を造らなければならない天的使命があるんであるからそういう世界的結婚をやった。そこで問題はとくに日本が問題だった。結婚するかしないか。合同結婚式をすれば皆マスコミも待っている。そういうような不利な立場にあってこれを果たし得なければならない。久保木会長は心を使った。不安な境地におそわれ、せめられた。環境がそういう環境である。しかし問題は環境じゃない。先生はそういう運びでもって五月一日、結婚式をやったわけなんだ。それが無事に終えたというのは日本においては祝福される条件となり得た。もし日本が果たし得なかったなら。そういうような家庭基準を中心とし得る国家圏を充たすことができたんだからアメリカにもできるしドイツにもできるし数多くの世界的相対国家系が並ぶというんだね。だから今運勢は、世界は六九年を越えれば七〇年代から、六九年は何かというと第二次七年路程におきまして二年を過ぎる時代である。この三年間におきましてイエス様が求めきたった勝利の基盤を成そうというその期間に当るんだね。だから七〇年のこの峠を越えるのはむずかしい。そこには数多くの蕩減の条件を、先生の家庭やあるいは環境からそれを果たしてそれをうずめて行かなきゃならない。こういうふうにしていよいよ一九七〇年を迎えたというのは、三年の圏内に入っているというんだね。その三年基準を迎えたその七〇年代においてイエス様が戻って来た国家基準がなくなったんじゃない。国家が希望の摂理圏に含まれる、その圏になってきた。だからそれにおいて新しい世界的運勢が連結されるのであるから今後において統一教会は発展するというんだね。飛躍的発展する。だから天を中心としてこれは公に、これを民族に、世界に宣伝しなければならない。正々堂々と宣伝しなければならない。そういうシステムが、時勢に、そういう期間に立ち得ることができるか、それで今度の大会もそういうみ旨のその願いによって始める。そこにはいろいろ心配なこともある。しかしこれは勝利の道が開かれるに違いない。こういうふうにしてアジア的大会を成したというんだね。これにつながって日本も先生が指導し得るように一体となれ。一体となれば日本の方も韓国の方をも、立ち得た条件はその国家の条件とただして勝利圏に共に立ち得ることができるというんだ。それが今現実の日本の立場である。それかと言って日本は別、韓国は別々である。直接先生の指導によって一つの方向に向って行かなければならない。それが今、現実の日本のその立場だよ。あんた達がゆかなければならない立場なんだよ。そこにおいて個人的相対者、家庭的相対者それから氏族、民族、国家的相対基準を韓国を中心として迫害の立場から今までずっと開拓した。その基準まで行った。だから韓国自体内は統一教会をどうつぶすべきか、これをなくそうとしてもなくすことができない。 統一教会の存在というのは韓国に限っての存在ではない。これは世界的につながっている。打とうとすれば世界を打たなければならない。サタンがもし世界を打つという場合、自分の国をまず打ってから統一教会を打たなければ犠牲になるというんだね。だからサタンの世界は今から後退しなければならないことになってしまう。我々の信念と我々の理想をもって如何に勝ち取るか。サタンを勝ち取る能力を如何に全国的あるいは世界的に影響を及ぼすかという問題が問題である。それを及ぼしたなら今までのサタン世界は死んでゆく。今こそ我々は団結して冒険をしなければならないという時期になってきた。一挙に世界を神の相対世界に立ち帰すことの可能なる圏は今我々の目下に立ち寄っている。その立ち寄っている天の運勢をいかに勝利するかという、それが問題である。人が多くてそれを料理するかと思ったら大間違いである。三人以上が大切である。三人以上が一つになれば問題は解決する。神を中心として三人以上になること、そうすると三ケ国が一つになれば問題が解決する。一直線が引かれるよ。直線を引いて四位基台になる。直線を引かなければ四位基台にならないよ。神の創造の目的は何かというと、子供が目的だよ。この基準が一致してればこれを成すためにこういう四位基台の条件を中心として子供に向って行く。 そういくとこれは何代か、神が一代、二代、三代、だからそういうような原理的立場に立っておる人間だから父母がいなければならない。子供がいなければならない。何故か。三代圏において天の心情圏を結ばなければ完全にこの地上において勝利した勝利者になり得ない。天の前に顔を持ち出すことができない。本当の幸福になり得ないというんだね。子供を持たないそのものが幸福になり得ない。それと同じように国を中心として、神を中心として三人が、三ケ国が一つになれば世界は回るというんだね。世界は回る。だからここにおいて韓国と日本、先生が求めているのはアメリカ。いかにしてアメリカを引き入れるか。目的は日本を通してアメリカといかに直線を引くか。問題はそこにある。 それを充たしてゆくにはまずもって三国を完全勝利圏にいかにそれを押し入れるか、そういうような段階になっている。だから今から七二年まで我々は総力を使って韓国の復帰のために進んでゆかなければならない。あなた達もそれを考えて、国を中心として、神の相対国家の位置に立ち得るその栄光は国家としては日本が初めだよ。何の苦労なしで。韓国は苦労の基盤を造って行ったんだ。何の苦労なしで自分を立たして、求めて、立たして下さったそのお方に対していかなる感謝をしなければならないか。それは今から日本がやらなければならない礼儀である。だから結局は我々の働くのは本国のために働く。それからその基準に徹底化して、日本をすべて本国の力によって救いの手足となるために我々は働くんだというんだよ。これが成した場合にはそれは一つになる。それは一つになって、プラスマイナス一つになって新しいその立体的プラスになる。アメリカを中心とせよというんだね。それが成れば日本を中心として三段階基準が統一であるというんだね。そうだよ、日本から見た場合は三段階、だから先生から見たらアメリカであり、日本から見た場合には統一せるその四ケ国だよ。蘇生、長成、完成を成すその条件を成すには四つの線を引かなければならない。三つか、四つだね。だからここには七つの数がそなわっている。三数も入るし、四数も入るんだよ。だから先生から見た場合には四ケ国である。日本から見た場合には三ケ国そういう基準がなされれば世界は回る。だから先生の祈るのはこういう国家をいかに一つにならせるか。世界的作戦なら作戦を、この国家を如何に天のみ旨の圏内に引き込むかという作戦を、その試合なしに勝とうというのが今摂理上の先生の作戦である。ここにはあらゆるすべての世界に拡がっている数多くの国々を蕩減として、その目的に注目、こうして勝利感を獲得しようというのが今後の世界に向っての先生の作戦である。 だから今すでにそういう基準がついて祝福されているから、家庭すべてが生きた祭物として、いわゆる夫婦はイエス様が知らずして、その勝利の圏に立った。三位一体化。イエス様を中心として聖霊を合わせて三位一体の生きた実体である。そういうような平面的基準を、自分を、自分の一家を通して成し得た。そういう権威をもったんだから、だから蘇生完成基準までも越えて完成世界でもって我々は活動しえるというその信念でもって押し立ててゆかねばならない。そういう栄光をあんた達は今度帰ったら、その栄光を神の方に帰せば、今まで歴史以後通し来たった苦労以上の苦労を果たしても自分達の忠誠の心を尽くさなければならない。それには一つである。そこには何の自分もない。一体となったとすれば、日本の発展も非常に早い。問題はそこにあるんだよ。だから久保木会長を中心として統一教会の幹部達が、いわゆる統一教会を率いるすべての幹部達が一体となって、先生とその本国とよく歩調を合わせて、韓国復帰のために外的援助、外的使命を果たさなければならない。そうすれば韓国の勝利は、あんた達にそのまま日本の勝利圏になるんだよ。そうだろ。(ハイ)アダム・エバが一つになってその国をたずねて来たよ。アダムだけやるんじゃないよ。完成というのは相対基準が決定されなければならない。だから国家もそうである。だから先生は今から十年前、十年後にそういう基盤を願うんだから誰もが知らないうちに、あんた達が夢にも思わなかったその時において、実践をたてておるというんだね。こういうのを用いて真なる相対者、国家の道を我々は歩んでゆかなければならない。それから勝利した場合には夫の勝利は奥さんの勝利だろ。 結局韓国を自分のものにそのまま愛することのできる自分の勝利圏は、こういうような因縁の条件を立たせれば愛することができる。わかる、(ハイ)。そういうように思っているんだよ。それは原理的神なんだよ。ここまで来るには六千年の、今までの歴史を総動員して、この二つの国を相合わせるための犠牲、献げものであった。献物であった。神から見た場合には、愛するものはサタンに一番近かったものを奪って来て立たせる。神が今まで育てて来たそのまことを尽くして、愛するような立場に立たせようとして努力して育ててきた。そのものがもしも損なった場合には、かえってそれをサタンの方に引っ張られていったんだから、かえってサタンが一番愛するところのものをして自分の子供の身代りとする。日本と韓国はできた。歴史を考えた場合にこれは一つになり得ない。ただ既成教会で反対したんだからそういうことになる。そういうことでもって日本の食口達はすべてを献げてこの日本の復帰、日本のために働くのが、韓国の国家を救うためのその第二の基盤を造ることになる。その使命のためにある。今、三段階から見た場合に日本の第二の立場に立っている。それで先生は直接日本の今後の活動において非常に関心を持つのもそのためである。第二段階の日本がよくやらなければ第三、第四、勝利するのが問題になってくる。日本と韓国民族を超越した伝統を立たせよ。いわゆる世界各国の国境というものを乗り越えて、心情圏による神の摂理圏において、いかに一体になったかと言う。精神的に日本があれだけになったじゃないか。日本と韓国はもともとこういう結果にはみ旨がなければ絶対夢にも思われない。その基準は無限にそれを成し得る立場に立ったんじゃないか。その基準を、世界はそれを伝統と受け継いでそういう方向に進められている、と世界的宣伝をすることができる。そうだろ、(ハイ)。先生の家庭を中心として、先生が今まで家庭をこんなにして伝統の道をたどって来たんだから、その伝統によってその家庭は進められている。国家の伝統基準を正して世界は行使される。だから日本が一番栄光の立場に立たせられている。韓国のいわゆる伝統の標準として仰ぐその立場に立つ。これ以上神の祝福はないと言うんだね。わかる、(ハイ)。日本をさておいてアメリカがもしそうなった場合アメリカは一挙になってしまう。何故かというと、それはキリスト教の氏族に入っている。我々の原理を伝えればこれはもう進歩が早い。それを日本人は反対だろ。何故反対だ。キリスト教は存在しない。影も一つしかない。それは二千年前のローマの時代のクリスチャンより収容数が劣るというような、そういうような基準になっているんだよ。それが数千年の犠牲を払った栄光の基準の基盤にもならずして、その基準が神の栄光に直ちに立つことができたということはこれは歴史的栄光の立場である。だから歴史的蕩減を感謝してゆかなければならない基準なんだよ。 国家的真なる相対者になりなさい。そういう使命をあんた達を中心として成し得るように努力してくれというんだね。わかる、(ハイ)。そのためにあんた達は韓国に来た。一体となって、我々は絶対なる神の前に絶対なる両国の基準を正して、今後は世界的運勢がこのアジアに、又徹底的に出てくるというんだね。だから先生は韓国を中心として摂理を進めてゆく方向に日本もついてゆかなきゃならない。天はそういう方向に打ち立てている。日本は自然と韓国の勝利圏によって帰化される。その環境に巻き込まれる。それを行かれないとか何とかそういうふうにその運勢を反対するその国家的主権者があるとすれば、それは打ち返してしまう。いくら反対しても勝利できない。ま、こういうのをはっきりわかって、あんた達が今度訪韓したその目的は今までの歴史的なその訪韓したのとは違う。だから新しい出発のために我々はここに集ってきたということをはっきり覚えてないといけないよ。(ハイ)。各県を代表して、各県が問題だよ。一つの県も反対したらいけない。それに我々は涙を流し得た蕩減の条件を立たせる。一人から三人まで残らなけりゃならない。だからこういうような全国的人事異動、地域を拡張する問題が問題になってくるんだよ。ここにおいてそういう使命を授けられた人達はイエス様の立場に立って、県を神のみ前にいかに立てるか、自分の県をみ旨の通り成し給えとイエス様の祈りと同じようなそういう心情を一致させたその基準に立って、久保木会長を中心として全国が一つになり、久保木会長は先生と一つにならなければならない。今から心配するのはその問題だよ。だから一つになればアジアは重大な問題になるよ。そして結束するに従って共産党はこれは崩れ去る。崩れてゆくよ。我々の基盤がまだなっていないから堂々として政府に打ちかかる。勝利の道は我々の救いの杖である。モーセの手につかませておる杖と同じくらいにみた場合、原理と勝共というような、荒野の路程におきまして火の柱とそれから雲の柱の二つ、これでもって、世界を料理するんだよ。こういう考えで真なる相対国家になるように、先生の相対としてその立ち得る人として努力してもらいたい。わかる、(ハイ)。では祈ろう。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.20
コメント(0)
「勝利的統一戦線」 一九七〇年一月一日 今、我々は一九七〇年度を迎えました。それで今年の標語としては勝利的統一戦線というこのような標語を立てゝ今年一年を我々は走って行かなければなりません。第二次七年路程における三年路程の三年標語を全面的進撃という標語として立てて行かなければならないということを昨年にもお話ししました。勝利というのを確実なものとするためには全面的進撃という過程を経なくては勝利を確立することは出来ません。 その内容においては前年度と関連を持っておりますが、今年は我々がアジアや世界を中心としていちじるしい責任をなさなければならない時代に入ってきた為に勝利的統一戦線という、このような題目を立てざるを得なかったのであります。 勝利するということはたやすいことではありませんけれども天が今まで復帰摂理を遂行してきたその一つの目的は何であるのかとすれば、勝利することの出来るその日を基準として今まで摂理されたのであります。アダムの家庭からモーセ時代を経て、洗礼ヨハネとイエス時代を経て今までその数千年歴史として歴史が続いてきたその一つの目的は何であるかと言えば勝利という一点、これを成就する為に今まで戦ってきたことを知るのであります。それではその勝利のすべての要因と勝利のすべての願いはそれがいかなる土地、あるいはどのようなところでこれがなされたかという問題を考えてみる時、それは言うまでもなく、今日韓国の地、このところでこればならないということをここに集まった皆さんはよく知っていらっしゃると思います。そして勝利する為には必ず戦いの過程を経なければなりません。 それではその戦いは如何なる戦いであるかというのが問題であります。今日迄戦いが展開してきたのは一国の主権のための戦いではなかったのであります。あるいは我々社会においてのある経済的目的のための戦いでもありませんでした。又、如何なる団体の目的のための戦いでもありませんでした。この戦いこそ天において、或いは地において、或いは全人類が加わっている戦いであります。これは国家と民族を閲越した戦いなのであります。この戦いは必ず勝利を持たらさなければなりません。それではその勝利されうるその一つの基準は何でありましょうか。 勿論そのところとその国は韓国になりうるし、これがなりうるけれどもその勝利するところのできる一つの位置その位置は何であるかというと個人からはじまるのであるし、その個人は誰であるかといえば今日我々自体、一人の男性と一人の女性からこの勝利を確立きなければならないのであります。その為に今まで歴史過程をかえりみると今までの歴史は一人の男を中心として勝利の基準をめざして如何に戦っていくかという戦いであったのであります。そして二千年前、イエス様も戦いの責任を持っていやっした方であります。この戦いをイスラエル民族対その時の時代の世界に対して戦いを展開しようとしたのであります。 いいかえれば、世界人類を代表したイエス、イスラエル民族を代表したイエス、そのイエスは数多き歴史時代を代表したイエスであって今まで歴史を推進してきた天を代表したイエス、その一人の男、一人の人の前に人類が直結されるようになっていたのであります。 この一人の人が勝利をするためには天を基盤として、歴史を背後において現時点から天が追求してきたのであります。そして歴史が願ってきたその個人を通じてなさなければならないすべてのことが完結することにおいてのみ個人的勝利ということを約束出来たにもかゝわらず、その個人的勝利を確立することが出来なかったことによって十字架につけられたのを知るのであります。 その個人が勝利するためにはイエス一人だけではありません。そこにおいてはイエスを中心とした国がなければならないし、イエスを中心とした宗教がなければなりませんし。イエスを中心とした一つの兄姉がなければなりません。このようなすべてのことが解決されてはじめて一人の個人がこの勝利的戦いを決定することができるのを我々は原理を通じて知っているのであります。それではイエスの勝利の要因となることのできる一つの兄弟、一つの家庭、一つの教団、一つの民族、一つの国家、この国家がはじめてイエスという一個人と共に、共同的な運命体になって勝利したという因縁を連結するということによってその個人が勝利するようになるのを我々は知っております。このような基盤において個人の勝利を確立するとき、この個人を中心としての一人の男性を中心として一人の女性をはじめてたてることが出来る。こゝにおいてはじめて歴史上に女性的な勝利の一個人が女性として勝利することのできる決定権がなされるにも拘らずイエスが個人として勝利の基盤を確立して一人の相対理念をなすことができなかったことによって、こゝに十字架のうらみを残していったことを我々は知っております。万一、イエスが個人的勝利の基盤をきずいてきたとするならば、今まで準備されたその国をそのまゝひきつぐことはできないのであります。今の宗教をそのまゝひきつぐことはできないのであります。或いはその氏族であればその氏族がそのままそれをひきつぐことはできないのであります。家庭であれば家庭、兄姉であれば兄姉とそのまゝ受入れることはできないのであります。これを整えるためには必ず一人の男性と一人の女性を中心として摂理して、一人の女性を中心として一つになったというその基準をなさなければ家庭も再びひきつぐことはできないのであり、その氏族もひきつぐことはできないのであります。その国家が民族を引きつぐことができないためにより一層世界を引き継ぐことができなかったということはいうまでもありません。そのために外的な環境を整えることができずして死んでしまったイエスは、内的な基準を決定してこれを確立して外的基準を相続して受けはければならない立場であっにもかゝわらず、外的な基準の前においては外的な基準の前に追われて内的な基準までも失なわれたイエスは、今までこれを再び復帰する為に二千年の歴史をうらみの歴史としてつづってきたという事実を我々は知らなければなりません。 このような事実は今日世界舞台を中心として数多くの国家群があって数多くの民族が住んでいる華麗な文化国が多くあったとしてもその文化国を全半越えて今日のこのような歴史的な全体にかわることのできる一つの解決基盤が韓国ではじまるという事実を韓国の国民として三千万群集はあなたと私という区別なく全部両手を上げて歓迎すべき問題であるにもかかわらず、そうでない歴史的な事実を残したのはこの民族の恥であります。この民族の精神的な指導を任せられた宗教界、その中においてもキリスト教、世界的な子女を連結することのできるキリスト教がこのような時においてここでもう一つの協助の対象となって一つの環境を遂行することにおいての必要な宗教とならなければならないにもかゝわらずここに反共を立てて出てきたという事実はキリスト教においての第二の恥であります。これを換言するとユダヤ教が四千年歴史の結果として成して来たがその結果がイエスを排斥したのと同様に、キリスト教の二千年歴史の基台の上に??成されてきた功労の基台がかえって天の側をふさいでしまったという悲通な事実であります。 このような運命の道において今日の統一教会は闘争をしてきたのであります。その闘争してきたことは個人的な勝利の基盤をきずかなければなりません。その次には宗教的な基盤を整えなければなりません。氏族、それ以上に個人、このようにしてその環境で勝利の決定をなして相対理念を経てこれを再び相続し、受けることのできるこのことをすべきであったにもかゝわらずそうすることができる環境的な多くのことを与えることができなかったことによって我々の全体が異端と同じような立場に立たされて個人的な収集、個人的な解体において勝利的な基盤を収集すると同時に環境を収集してくるのにこのような戦いをせざるを得なかったのが今まで六十年代の戦いであったということを知らなければなりません。 それは何を目標としてきたか。ユダヤ教がなすことのできなかった宗教基盤を我々はきずくあげなければなりません。キリスト教あるいは全体の国民、民族が、或いはこの国家が反対するこのような立場においても今日統一教会の宗教基盤をきずきあげなければなりません。その宗教基盤がユダヤ国家の思想的な基盤を中心としたのと同じように統一教思が韓国で思想的な基盤を中心として影響のおよぼすことのできるその基準まで引き上げなければなりません。この戦いを再び再現させなくては再び民族と共に、又教会と共に、又家庭と共に、又宗教を因縁ずけてこゝに確固たる基盤を築きあげることをイエスがしなければならなかったのでありますが、イエスがしなければならなかったと同じような立場を今まで蕩減してきたのが六十年代まで、今この二十分前、六十年代をすごす我々のこの瞬間までの戦いありました。それでは宗教を立てるのにおいて、宗教は今、既成世代のそのような宗教圏内にたてるのではなく、それは新しい舞節にたてるのであります。そのために歴史的すべての国は我々と敵であり、歴史的な宗教、歴史的な氏族、歴史的な家庭、歴史的な個人は我々の敵にならざるを得なかったのであります。 このような立場で、今日まで追われながら我々は新しい宗教を中心として国家、民族の前に影響を及ぼすことのできる基準にまでいかに引き上げることができるか、この戦いが六十年までの戦いでありました。これが我々においては六十年代の戦いであったけれども、天においては歴史以来の戦いであり、イエスから今日に至るまで二千年闘いであり、イエス以後に出てきた数多くのキリスト教と信奉していた殉教烈士達は今までこのようなうらみをはらんである時はまちにまって期待してきた戦いの場であることを我々は知らなければなりません。このような厳粛なる課題において我々はこの七十年代を迎えるということは、今我々においてこの民族におよぼすことのできる統一教会という教団を整えるようになったのであります。この教団の中において我々としての団結された一つの氏族があります。一つの家庭があって、一つの兄姉があるという、これがちがうというのであります。これがイエス様時代とちがうということであります。このためにイエスが宗教を中心としてユダヤ教を統合し、宗教を中心としてイスラエル国に向って進軍することのできるこのような時の時代内へと越えていくことができる時が曰く七十年代ということを皆様は知らなければなりません。これが七十年代であります。今日共にこの場を共にして七十年代を新しく迎えるこの朝から我々が成さなければならないことが何であるかというとユダヤ教を代身とした我々統一教を中心としてイスラエル民族を統合しなければならない使命的な分担を遂行しなければならないはじめのスタートだというのがこの瞬間であります。 それではこの立場で見る時、個人的な勝利の基準はすでにすぎさって家庭的な勝利の基準も決定され、氏族的な勝利の基盤を決定させ、新しい舞台に向って進出することはイエスがこの地上にきて天のみ旨をそのまま受けることができるユダヤ教とイスラエル国に対していた時代圏内にはいるのでこの時代圏を天は準備してきたことを歴史を通じてなしてきたと同時に外的世界がここに波調が統合することができるようにその思潮を押しに押して我々を門の前まで引いてきた結果が今日この情勢であることを知らなければなりません。ここで波紋だけでも投げたならば新しい歴史がアジア的、世界的に波打つことができる時が今、七十年代だということを皆さんは知らなければなりません。そして今まで我々が恨みの蕩世代であり、くやしく代償をおさめなければならない時代に住んできたけれど七十年代からは新らしい歴史時代に入るのを皆様は知らなければなりません。今我我がこの国、この民族の為に戦うこの時は栄光の結実としておさめる時であるのであります。過去においては、十ぺん植えて一度おさめることが難しかったし、百ぺん植えて一ぺんおさめることが難しかったのであります。 今までそれ以上に天は六千年の間苦労の功栄をたてゝきたけれども今日、我々の時代においてはそのような時代は過ぎ去ったのであります。今は情と熱を合わせてこの七十年対相を中心として、三千万民族と三千里半島に私の血と汗を流せば、それはそのまま我々におさまることができる平面的時代のすべての条件が集ってくるということを知らなければなりません。 このような観点から見る時、今般祝福家庭を全体的に立たせたのは、今まで祝福家庭が天の前に責任をなさなかったことの事実を蕩減できる天の一つの愛であり、七十年代を統一家庭として、統一教団として新らしいイスラエルに向う責任を遂行す旗をその誰よりも思いもよらずにもって出て、この朝において心を一つとしての国家のために我々は責任をもぴて四十日伝道に出て天の前に真をつくすことができるのであります。我々は統一教会人として今迄蕩減しなければならない使命を十二分に果すことの出来なかったことを許してもらう良いチャンスとなることができるのであり、新らしい時代を迎えるのにおいての恥しい多くのことを、これをカバーできる一つの絶対的な要因となるために今度家庭の夫人達を全面開拓に追い出す原因もこゝにあったのを知らなければなりません。 さあ、それでは今、勝利的統一戦線だと言ったけれどもその統一戦線はどこからひろめるべきでありましょうか。今、話したのと同じように一人の個人であれば個人、一人の男性であれば一人の男性から、一人の女性であれば一人の女性からそれは私の心と体を中心として統一戦線を構成しなければなりません。私が出世して、私がよくなるためのものではありません。私の願いの家庭がよくなるためのものであり、家庭を復帰するための私自体においての心と体を統一させるのであります。こゝに苦難があったとしても愛する家庭を救うために完全なる男性、完全なる一人の人とならなければ救うことが出来ず勝利的決定基準をなすこともできないのが歴史が今迄つゞってきた願いであったのでこの願いに立脚して一人の男性、一人の女性にならなければなりません。自分の家庭であれば自分の家庭に影響をおよぼすことのできる、言いかえれば私の心と体を統一させよう。私の心と体に三十八度線が横たわっているのでこれを打開してしまって統一させなければなりません。統一の運勢をここからはじめなければなりません。我々統一教会家庭夫人達においては自分の心と体が一体となるのが勿論であり、その一体になるという事は私のみ旨であります。天のみ旨であると同時に世界のみ旨であり、そのために巨大なる天地に志をもってそのみ旨に順応する三個体の統一性を確立するために私の心と体を中心にして統一化運動をしなくてはなりません。いいかえれば心と体がたたかっていて、心は心のまゝに体は体のまゝに動いてはなりません。心がゆくところに体もついてゆくことの出来る勝利的統一戦線をひきなさい。そうすることによってその個人達はそのような家庭、その家庭を中心として父母は完全に子女と一つになることのできる家庭的統一戦線、家庭を中心としてその次には氏族的、金さんであれば金さん氏族、氏族的統一戦線をひかなければなりません。こうすることなくしては家庭的勝利的基盤において安息することの出来る個人の基盤がないのであります。そのために家庭的勝利を整えた上においてのみ、個人的勝利の安息所が生れることによって、個人的勝利の統一戦線を整えたその人は、家庭的勝利の権威をもって戦うことが出来るのであります。そして一つの家庭は一つの核心となり一体となって、これが主体性をもってその次には自分の氏族であれば氏族を中心として連結あせて統一戦線を引くのであります。それではこゝに数多く、我々の金さんだとか朴さんだとかいろいろな多種多様の名字が集まっているけれども、この名字は一つにならなければなりません。これが一つに連結されたとしたら民族を動かすことができるのであります。我々統一教会全部が一体となりうるときは、世界も一体にならなければなりません。いいかえれば我々心と体が一つになって目的のための縫え戦線を成すようになった時はアジアを……。アジアを中心として世界に発展してゆくのであります。この観点からみる時、統一教を中心として今や国家民族を中心とした統一戦線を引かなければなりません。これが現在我々が処している立場であることを確実に知らねばなりません。 そのために今統一を追求していく我々においてはこゝに必ず勝利することのできる武器がなければなりません。信念がないところにおいて力がでないのであります。信念があるためには理念がなければならないし、理念があるためには思想が成立しなければなりません。思想ということは何であるかというと世界観であれば世界観、人生観であれば人生観、このような世界観を中心として体系づけられた論理なのであります。論理体系的な思考、言いかえればそれは何として表示されるのかと言うと、結局真理と表示されるのであります。真理なくしては理想が真理なくしては理想が成立されるのではありません。理念がなくては力がでないのであります。それでは今まで歴史は何を探してきたか、統一することのできる統一名案を模さくすることのできる一つの真理、一つの思想体系、一つの理念であります。こゝにおいて国家民族を超越して、民主主義であれば民主主義という特定民主圏を中心とした民主主義でなく、これは超国家、超国民的な立場での民主主義であり、共産主義であれば共産主義の特定国家を中心としたそのような共産主義ではなく、超国家的な立場で、今まで主張してきているのであります。そのように未来においても我々が勝利的統一戦線を模さくするためにおいて我々統一思想を中心とした歴史観、あるいは歴史観が確立され、こゝにおいて時代観が確立され、未来観が確立されていかねばなりません。この理念こそ我々歴史がまちに侍っている理念とならなければならないし、今迄復帰摂理を追求してきた教多くの先知先烈達が探そうと苦労したのは勿論であります。 この歴史を動かしてきた天があるとすれば成就させるために、これを表わすために今までがまんして認耐し、戦ってきた願いの結実体になることができるこの真理の顕現がなければなりません。この真理を中心としたこの運動が今日、統一教会の統一運動であります。それでは今日統一教会が願っているその統一真理はどんな真理でありましょうか。共産主義が言う真理よりもあるいは民主世界が言う真理よりも天と人間それ自体において一つとしての公に要することのできる一つの真理理想として登場しなければなりません。そのようなものが統一教会でいう原理観とならなければならないということを知らなければなりません。そうするために今日我々は今まで思想統一を叫びながらまいりました。言いかえればその真理を中心として皆んながこういえば甲という人も同じであり、乙という人も同じであり、金さんが見る世界観も同じであり、朴さんが見ている世界観と目的観も同じでなければなりません。そして、行く目的が同じならば同じであるのでその目的を中心として、真にみ言を中心として如何にみ言が正しいとしてもこのみ言がそのまゝみ言として残っている限りにおいてそのみ言が指向する世界は成立されないのであります。み言を中心としてその勝利されたその世界観は変わらいのであります。それではそのみ言を中心として統一されなければなりません。統一するためには如何にしなければならないのか。行動がはじまるのであります。その為に今日迄我々は行動統一を強制してきたのであります。心情統一、行動統一、理念統一を強化しているのであります。 それではどのように戦ってきてどのように願ってきたのか、それは目的成就のためでありました。それでは真理が追求する目的成就が何であるか、今日行動を通して追求する目的成就は何であるか、み言は良いけれども行動は良くない。とすればその人は人格者にならないのであります。そのためにみ言と一致することのできるその人格と、その人が願うのが何であるか、その目的が何であるかとしてみるとき、この目的は天の創造目的と一致されなければなりません。創造主があれば創造主が人間を創造する時の本来の目的と我々が探し求めて来た目的と一致されなければなりません。その目的基準が何であるかというとこれが心情問題なのであります。 男子の前においては相対的存在が必要であります。家庭においては必ず家庭を中心として相対的心情的基準が必要なのであります。そのために一つの家庭があればその家庭を中心として、一つの氏族があれば氏族が成されるようになるし、この氏族を中心としてより大きい心情的目的を追求してくるのがこれが愛国始祖であります。国を愛することの基準があれば世界を愛することができます。そのために博愛主義だとか何とか言うことを言います。その目的はどこに帰結される五であるかと言えば心情問題に帰結されるのであります。そのために我々が理念統一、心情統一、行動統一ということを中心として今まで我々が呼びおこしてきたそれが何であるかということを、これを我々統一教会で歩んできたことを通して簡単に要約すると、理念統一はみ言を中心てしたことばであり、行動は何であるかと言えば心情を中心として、心情は何であるかと言えばみ言の実体で人格者として心情を中心としたものであり、中心とした言葉であります。そのみ言が何であるかと言うと人格が何であり、心情が何であるか、これがエデンにおいて別々になって全部別れてしまったのであります。み言はみ言のまゝに人格は人格のまゝに、心情は心情のまゝに別れてしまったのであります。これが堕落であります。アダム、エバが堕落することによゃて天のみ言はみ言のまゝに分裂してしまったのであります。天のみ言を通じて実体的一体がなされることのできる人格完成が可能であったアダムの人格も失ってしまったのであります。そしてその完成された人格を中心として成さなければならない心情も全部分立されたのであります。これが全部別れ離れに分散されてきたのであります。そのために今まで歴史は何を追求してきたのでありましょうか。天のみ言、真なる真のみ言を立てりために戦ってきたのであります。真の人間を中心として真の世界を中心とした愛を立てるために戦ってきたのであります。統一教として言えば、なるというそのようなことは過程を経るために今日堕落した人間においてはみ言審判過程を経てゆかなければならないし、心情審判過程を経て進んでいかなければなりません。なぜそうであるか、皆さんはみ言の制体ではなく、今日我々なみ言を中心として関係のない人達であり、そのみ言と一致された人格者でもないのであります。これが破綻してしまった堕落者であり、そのためにそこになされる愛もそれは別れ別れに離れてしまうのであります。完全なものではないのであります。全部過ぎ去ってしまうのでこれを再び収集しなければならないので蕩減条件が必要なのであります。そのためにみ言審判あるいは人格審判や心情審判という名称が出るようになったのであります。 さあそれでは根本問題にもどってみ言と人格と、心情をどのように通過させるが、これを如何に皆さん自体において結実させるか、み言はみ言のままであって、人は人のままであって、ここにおいて心情は心情のまゝであったとすれば、今迄問題は人がいなかったということではありません。人は多かったけれどもみ言がなかったというのであります。み言と一体とならないうちには天のみ旨を成すことができなかったので人間が今日までみ言をさがして求めてきたのであります。それでは今日、統一教会はこのみ言があったとしてもみ言と一つとなることができなかったのでみ言と一つになることが歴史的願いでありました。一つとなって何をするのでありましょうか。天の愛と一つになるのであります。そうするために皆さんが個体において天が公認することのできるみ言をどのようになして、その実体がもつことのできる天の愛と如何に一致させるのかとする問題が今日我々においては一番重要な問題であります。イエス様自身をおいてみる時にイエス様は如何なるお方であったか、天の内在的な心情にかわることのできる人格を引き受けたものであり、心情を引き受けるものゝ天の願いを成兆させうる内的事情、言いかえれば真理をみ言を引き受けるものでありました。イエスは天のみ言がなされたものであり、天のみ言の結実をおさめることができる人であり、天が今まで創造理想として持ってきて理想としてつくってきた人であり、つくられたその理想的な結制と収穫することのできる理想的な制体であり、天のそれ以上、天のその理想的な結実を収穫し得る実体と共に愛の因縁を完全に整えてでることのできる方がイエス様でありました。しかし、そうすることの男性の前にそうすることのできる女性がなかったというために、今までキリスト教は新郎新婦を中心として二千年歴史をつづってきたのであります。まちがいない事実であります。 それでは皆さん自身に一番適応するのは何でありましょうか。勝利的統一戦線を皆さんの個体の中において如何に展開させるのか。そこにみ言が必要であるというのであります。人格が必要であり、心情が心要であります。み言のみではなりません。問題はここに帰着しているのであります。私がより貴重であるか、私が貴重である以前にみ言が貴重であるかを反省することのできない人は統一戦線の役軍として立つことができません。それでは、今日統一教会が今まで戦って成してきたのは何でありましょうか。み言を中心としてもっと進んで戦えというのであります。その戦いはなぜ戦わなければならないのか。堕落は一線ではじまったのであり、堕落はいつの間にか家中で起ったのであります。境界線で起ったのでありますために境界線にいかなければなりません。失ったものを捜すためには失ったところに行かなければなりやせん。このようにして何をするのか、何をもっていくのかみ言をもっていくのであります。今これが相反してはならないのであります。これ、どこから別れたのか、み言、人格、心情、全部がどこから別れたのか、アダム、エバ、一人でやったのではなく二人でやったゝめに天国は一人でははいれないのであります。この観点から見る時、今日統一教会が提示したのは個処の救援、完成ということはあり得ないのであります。家庭救援、完成というのは今まで宗教歴史上になかった新らしい分野を開拓するのであります。そのために家庭という基準を徹底化させるためにここを徹底化させることのできる宗教の権限が可能であります。家庭という基準を徹底化させるためにその氏族と氏族が連結される民族を編成することのできる理想が可能だということであります。民族を中心として国家は形成されるのであり、これがちがってきたのべあります。それではいかにして皆さん自体内に統一させるのか、世界を統一させる五は問題ではありません。しかし皆さん自体内において別れて心と体が毎日戦っている五であります。天のみ言によって収集しなければならないのであります。天に愛されるそういう人でなければなりません。これであります。我々はこのようにはなっていないのであります。私は私を立てておいてそうだ、天がしなければならない、そのようにはなっていないのであります。これであります。私が言うことと、天がそうだ、認定せざるを得ない。このような実体を整えて生活圏内で私を中心としてどのようにこれを統一化させるのか、どのように統一戦線を構成するのかという問題が何よりも一番貴重なものであります。今年に入ってこれを皆さんが実感として感じなければなりません。そうすることのできる私たちになったか、ならならなかったか、でてやってみるのであります。私のある誠を全部つくして、み言集をやって実行してみるのであります。そうする時にはみ言を中心として天と共にいる二四を知らなければなりません。そのことによってそのみ言を通して天と連結されるのであります。み言なくしては天と連結することができないのであります。天のみ言を中心として天と人が連結されるのであります。 こうすることなくしては連結点を持つことができないのであります。そして実体がこれを持たなくては何をすることもできないのであります。 これであります。連結されるのにおいては、この目的は何であるか、これは天の愛であります。言いかえれば天の愛を中心として連結されると同時にそのみ言を行う人は地上の人間であります。これであります。それでは人を通して語られたみ言が天と共になされたみ言になるために、そのみ言によって新しい人間として生まれかわることによって又生まれかわることができるために、私自身が授け受けることは授け受ける基盤に立って完成基準を整えることができるのであります。原理見解がそうであります。授受しながら繁殖するのであります。そのために、そのみ言に天が共にいることによってその相対的なそのような存在が復活されるその立場に私がひとつとなることによって、こゝに確固たる自己自体を整えることができるのであり、この実体を整えることによってそこで天の心情面において体恤的な問題がはじまるのであります。その程度の深さと広さが大きくなるに従って天の心情の比重によって体恤が出てくるのであります。そのために、そのみ言を通すようになる時もみ言を中心として天の心情が躍動しているのであります。そのみ言は人は如何に堕落した人であってもみ言に接するようになると自分も知らないうちに天の心情が芽ばえてくる為でであります。天の信念が芽ばえてきて敵と敵対視することのできる力が発揮出来るのであります。それは主管することのできる基盤的な力が発動するためなのであります。それではみ言を一人料が知ってもっていたとしても絶対力ではないのであります。天をいかに誘発させることができるかという問題を置いてみる時、皆さんを今まで開拓伝道をさせてきたのであります。それはなぜそうしたのか、サタンが第二対象を中心として繁殖することによって堕落したために我々が天を中心として繁殖、行動をすることによって復帰されるのであります。そのために皆さんが降りて行って私を仰ぎみながらあがってくるのであります。私は統一戦線を整えて、み言を中心として人格を中心として、心情を中心として私自体内にみ旨を実体として完備することのできる自我を如何に発堀するかという問題が統一思想圏を中心として私個体において、家庭にむかって進出するか否かという問題が決定されるのであります。この基準を解決しないうちの迫害を受けてきたけれども屈服しなかった意志を中心として、天命によって生き、天命によってぶたれてきたのでであります。しかし、家庭をもった以後においてはその家庭はどのようにこゝに一つにさせるかという問題、こゝにすべての真を個人よりも倍加、忠誠つくせねば解決することはできないのであります。そのような基準を中心として影響力をおよぼすことのできる肢体をどのように決定するかという問題がより大きな問題であります。言いかえれば個人においてのみ言を中心として統一的家庭を中心としてこのような統一戦線を確保しなければなりません。その家庭がみ旨と共に一体化してそこにおいて天が立証することのできる基盤を作っておいて教会と共に、あるいは宗教と共に、あるいは国家と共に発展現象を展開して世界化運動をどのようにさせるかというのが今我々が行かなければならない戦いの路程においてひろげなければならない統一戦線であることを知らなければなりません。私個人が一番貴重だということを皆様は知らなければなりません。私個人が一番貴重だという、これが天運の愛であり、天の愛が如何にあったとしても私自体が受けることのできないその愛に相対的な条件を整えなければ何の関係もないというのであります。天が如何に善だとしても私がその善なる方の前に相対的、人格的構成を整えなければ私と何の関係もないというのであります。これでであります。天のみ言は如何によいとしてもそのみ言と共に私が再創造の能力を連結させることが、連結することのできる相対的条件を整えなければ何の関係もないのであります。これを簡単に言いますとこのような個人を中心として家庭となるのであり、家庭は個人と一つとなって家庭となるのであります。この家庭なくしてはならないのであります。何一つかけてはならないのであります。いいかえれば主対と対象が授け受けることのできる、お互いが我々統一教食口であれば食口の間において、あるいは祝福を受けた家庭は家庭同志、ともどもが協助し合ってみ旨のために生きなければならないのであります。 こゝに授けて受ける授受作用というのは何であるかと言いますとこゝに天が今まできづいていらっした天が今まで降りていらっしたのであります。今日祝福を受けた家庭達が天を中心として、み旨を中心とした生活をしてきたかというのが問題であります。そうすることができなかったのであります。天が臨在してこれを中心として、この肢体を中心としてこれが相対となって授け受けるようによってはじめて天の愛が形成されるのであります。このような家庭ができ、その次には氏族を中心として主体となるのであり、これが氏族であります。この氏族を授けて受けるとこの氏族を中心に天が運行する、天の愛を中心として連結されるのであり人間の愛を中心として手段と方法が私の方便でもって一つになるのではなく、物理的そのような条件は何の関係もないのであります。天の愛を中心として氏族と氏族が一つとなる。これであります。親戚と親戚が一つにならなければなりません。ひとつの目的を中心として共に行かなければならない、その群達が確心的な路程を天を中心としてはじまるためにその道をつきぬけて入らなければなりません。こうすることのできる立場ではじめて氏族を中心とした愛が形成されるのであり、愛の氏族、愛の環境がはじまるのであります。これはこうすることによってはじめて、この次にはこの氏族を中心としてその次には何であるかと申しますと、ここから氏族がはじまるのであります。こゝに授けて受け、この中において天が臨在することによってこれが民族を中心とした愛の環境となるのであります。このような民族を中心としてプラスされて愛の、天の愛がこのような基盤の上で国家を中心とした愛の世界とすることができるのであります。天の目的が成就された世界となるのであります。全部が同じであります。個人においては心と体が授けて受けなければ天の世界が成されることができなく、そうするためにいつも個人を中心としてみてもこの基準は天の愛でありこれが世界まで行く時に結局はこれがなされる時、地上に天国がなされるのであります。いゝかえれば天の愛を中心としてそうなるのであります。 我々原理からみると二性性相がなぜ必要であるのか、二性性相があるのは必ず二性性相がなければ創造的調和はなすことができないのであり、創造に必要なのであります。これであります。二性性相があることによって授けて受けるために、授けて受けることによってはじめて天の骨と肉と、天の骨と同じであり、肉と同じとなるのであります。こゝに一つの形態がはじまるのであり、それが天の二性性相の自体であるために天を中心として具体的な相対世界が、これは生まれざるを得ないのであります。二性性相が必要なのは創造的美を増すためであります。そのような主体と対象があるとするはら必ず授け受けなければなりません。授けて受けるその目的は何であるかと申しますと天に侍るためのものであります。天の愛をうつすためのものであります。 そのために国家主権者であり、主権者を中心として国民を授けて受ければその国民とその国家主権は主権と主権者と国民が一つとなってその国の、その世界の流れている国運がこゝに臨在するのであり、これが世界理念を中心としてそのような国家となされる時、国民が一つとなったならば、天運あるいは世界運勢がこゝに臨在するようになるのであり、天のみ旨を中心として一つの肢体を中心として、一つの国家なら国家が一つとなれば天運がこゝに働くのであります。一の国民が興るか、あるいは滅びるかということは何を見て知ることができるかと申しますと、その国家、国民を中心として見る時、知ることができるのであります。その主権者とその国民が如何なる一体化がされているかという問題がこれからの発展の如何を計ることのできる尺度であります。国家主権者を愛するか、国家主権者は国民を愛するか、その愛が自己を越えて共同目的である国家という到底その前においての主権者はそこから吸収されて国民もそこにおいて吸収され、一つの合性体を形成するのにおいての天の愛の環境がはじまるのであります。これが原理見解であります。 個人的な完成もそのようにして、家庭的な完成もそのようにして、氏於的な完成も民族的な完成も世界的な完成も結局は天を中心とした統一戦線であります。勝利的統一戦線であります。勝利的統一精神が何であるか、この場であります。この場が統一されるのであります。個人においても心と体が一つになって天の愛が臨在されなければならないのであります。皆さんの心の中において、今、自ら今まで感じることのできなかった無限なる天の愛が臨在されるか、これが個人から家庭へそして一つの家庭が行くことのできる天の愛の氏族が行くことのできる、天の愛が臨在し、民族がゆくことのできる愛の臨在地、世界が行くことのできる天の愛の臨在地が統一戦線であります。結局は天の愛を持たなくては、天の愛なくしては発展することもできず、天の愛を持たずしては存在することもできないということであります。そのためにキリスト教の本質は生命そのものよりも生命の校質を愛においたのであります。これは我々統一教会の愛として今我々生活環境において、社会的なすべての環境と対比して我々が行かなければならない統一戦線であります。それでは私一人個人がこれを行くためにこゝにおいていろいろな冒険があれば冒険を打開して犠牲をしなければならない。ある程度の犠牲の代価を払ったとしても必ず、この道を行かなければならないのであります。本来人間は家庭以外の道ではなく家庭を基盤としての国、国を基盤としての国家、国家を基盤としての世界、世界へ行くことのできる天宙というものすごい、最後においては天と私と親子関係に入っていくのであります。世界的基盤を整えることのできる心情的因縁を持たずしては天の真の子女となることができないのであります。アメリカを愛する国民を持って天の子女となることができるか。これであります。そのため国家、民族を超越しない愛を中心とした国家、民族というのはその看板、そのワクをこえることができない。これらの主義、思想は世界を指導することはできないのであります。人間は個人を中心として、私を中心とした主義は国家を越えることができません。 多くの国あるいは先進国家というのは国家をわくてしていながらも、公的人民度が高く人々は国法という法を中心として順応することのできるその限界線を保護して育成してゆくというのであります。未開なる民族は国家間もなく、私、自分の子供だけであって天にかけ離れるのであります。このようにかけ離れ来たのが未開の民族であります。先進国家というのはその基準が高いのが先進国家であります。それではこれから先進国家以上の人達は何であるか。世界を自分の国よりももっと愛する民族、愛することのできる民族、その主義が出てこなければ世界も指導することはできません。 ソ連の共産主義もソ連というワクを越えていませんし、アメリカという民主主義もアメリカというそのワクを越えることができないのであります。如何に大声をあげて逃げたとしても、如何に大きな声をはりあげたとしても滅びるのであります。これから統一思想を持たなければならないということは何であるかと申しますと一つ民族以上に世界を愛することのできる主義とならなければなりません。 それは韓国の人が滅びないのはなぜでありましょうか。世界を訪ねていくと韓国々民はどこへ行くのでありましょうか。天の前に一番の主体に入っていくのであります。我々が開拓する目的がどこにあるのか、私のために開拓するのではないのであります。天の世界的愛を植えつけるためにやっているのであります。この国の、この民族に天が天の愛を植えて、三千万民族が天の愛を分配させてあげるさめに私がそのような大きな使命を受けたのであります。これが素晴らしいというのであります。その時なぐられるところにおいても私が一人でなぐられているのではなく世界のためになぐられているのであります。もっと打って、歴史に叫弾してきて、歴史を叫弾することのできる世界、愛の世界を防害してきたサタンよ打て! 私がお前よりも力が強いのにもかゝわらず叫弾をしないのだ。 自分の民族圏内にあたるために導いていくのであります。イエスがそのような意味において全部をすべてを成したというのであります。天のみ旨とイエスのみ旨がはずれてはならないのであります。イエス自身のみ旨はイスラエル民族と国のみを考慮してきたのであります。しかし、天は世界をながめていらっしゃるのであります。世界を愛する天の立場とイスラエル民族を愛することの立場はちがうというのであります。天のみ旨と私のみ旨とちがうのであります。皆さんはこれを知らなければなりません。自分の家庭の中においてのみ楽しんでみなさい。そうしているうちに滅びてしまうのであります。その次には基を堀って死ぬのであります。大韓民国を愛しこれと共に生きて、これらを愛し、愛して私は生きるという時に大韓民国の垣根の中に墓を起していくのであります。それが愛国者であります。イエスのような方はなぜ世界的な垣根の中に墓を残したのか。 これがキリスト教であります。 イスラエル民族を失ったその恨みがあったとしても世界人類を探さなければなりません。敵を許して私が探すことのできる未来、民族あるいはローマとならなければなりません。このような観点において敵を許すのは当然なのであります。 このような観点から六〇年代、我々統一教会は敵までも許してきました。私がこの統一教会の垣根の中に限界圏内でくさっていく人ではないのであります。 大韓民国と三千万民族を越えて世界に行かなければならないために、私が教会の前でプレゼントを全部あげて解放の歴史を終えればその次には何をしなければならないか、三千万民族を全部勢えた日には何をすべきでありましょうか。反対する人に全部与えなければなりません。時間の問題であります。いずれ私の敵を結んでくやしく思いながらも訪ねなければならないのが何でありましょうか。心を大きくもって与え、すべてを配給することのできる心を持って与えるのであります。 そうすることにおいて時間ときうのが問題であります。このために今日統一教会はそのようなゴームをしているのであります。このような戦線を広げなければなりません。それは統一教会ひとつを中心として統一教会ひちだけをもってしてはできません。やることができません。既成キリスト教にも影響を及ぼさなければなりません。このようにして三千万の民族・数多くの団体達に影響を及ぼさなければなりません。大韓民族を中心として進んで日本とアジアを中心として連結しなければなりません。今、そのゲームをしているのであります。 しかし日本を韓国は昔から敵であって共にことを成すことのできない世間的な考えがあるために歴史的な敵国であったとしてもそれは問題ではありません。主対と対象に対して統一戦線を広めよ!! これであります。日本と韓国の中において天の愛を立てよ、その天の愛は、民族の愛よりももっと強いのであります。 伝統的な愛よりも、歴史的なすべての愛よりも強いためにその愛に接するようになる時には民族も超越するのであります。この統一戦線をひろげなければならないのです。それはどこからはじまるのかと申しますと、はかり知れない事実が可能となる時代圏を前に、眺めるのにおいてこの七十年度を力強くはじめなければなりません。 それでは個人から勝利的統一戦線をひろげるのにおいて勝利的統一戦線が何であるかといいますと、天の愛を中心として心と体がひとつになったそこにおいて天を中心として復帰していくのであります。授けて受ければ必ず繁殖がはじまり、繁殖がはじまったならば天が臨在していらっしゃるために繁殖がはじまるのであります。天をおきざりにして繁殖ははじまらないのであります。 天地創造原則であるためであります。天からの動機となっているために天の愛の目的のために繁殖がはじまるのであり、何故繁殖がまずはじまるかと云えば天が臨在して授受作用するためであります。このような統一戦線勝利的統一戦線を個人から家庭に、氏族から民放に、国家から世界に、それでは我々現在統一教会の立場が如何なる立場であるか、民族を中心として国家の国家の方へ行こうこと位に高らってきたというのであります。我々統一教会は今民族と国家に及ぼすことのできる時代圏内に入ってきたのであります。このために我々の前においては世界的な情勢は我我のために万全の準備をして門の前まで来たというのであります。一つだけ突破口を開けば飛ぶようになるのであります。コーブコネデーの人口衛生、アポロ十一号もどうすることもできないのであります。火をつけておけば飛ぶようになっておるます。さあ、そうすることのできる時を迎えていかなければならないためにいかなる道においてもすぐ行ってかえって来なければならないのです。それでは私自身においても私の心と体がある認識よりももっとみ旨に対する認識が強いかと云うことが問題なのであります。心よりもみ旨に対する認識がより強く動いているか問題はそこにあるのでであります。強い磁石は引き出しておいてもそこにくっついてしまうのであります。 私の心の中にみ旨という強い力が天との愛に生き天をなつかしがり、天を思い、天五みのために生きるこのようなすべての心よりも強い認識が徹底して確固たる基盤が私の心の中にその何をもってしても又、肉体がなくなったとしても、心がなくならない限りにおいてそれは残すことができるか、これであります。 イエスがそのために死んでしまったのであります。それでは全部を成したというのは何でありましょうか。その心を中心として残すことのできる相対的要因を霊的に残したというのであります。今まで皆さんはこれがはっきりしなかったのであります。これをなすためにはどのようにしなければならないのか、すべて蕩減路程を経なければなりません。 これは一代、一路においては不可能なものであります。そのために蕩減路程を立てていくのに皆さんは全部条件物であります。さあ、このような皆さんが勝利的統一戦線を自己を中心にしてこのみ言を中心として経ていくのであります。そのためにはこの主体と対象関係を経てこれが個人から家庭、氏族、種族、民族から国家、善が歩む道は何であるかといえばその道はより大きいもののために小さいものを犠牲とするのであります。このようになるのであります。個人よりも家庭が大きいでしょう。個人がいかはければならないその道はどこにあるかといえば家庭であります。処女とチョンガーが行かなければならないところは何でありましょうか。結婚であります。そうであります。そうじゃないですか。それでは何でありましょうか。家庭とか人々が男子、女子が行かなければならない目的地は何であるかといえば家庭であります。家庭は何を求めてゆくのでありましょうか。子女達であります。 子女達は何でありましょうか。兄弟がはじまるのであります。氏族の目的がなされるのであります。家庭と家庭の目的は何であるか。何故子女達を必要とするのであるか。統一戦線何故子女達を必要とするのか、個人の目的は何であるのか、子女達は何のためにあるのか、それは氏族編成をしようとするのであります。氏族編成をしてそれから何をしようとするのでありましょうか。自分の氏族が多くなればなんでもできるのであり、民族がはじまるのであります。民族は民族となって何をすべきでありましょうか。国をつくろうとするのであります。そして国家をなしたならば如何になるのでありましょうか。ありましょうか。国家は誰かを中心として中心を立てるのであります。 今日民主主義式でいえば大統領というのがあって国民の代表として立っているのであります。民主主義は人民の政権といわれていますね。それは我々の家庭の中の兄という立場であり、兄がかわって苦労しているのになぜ嫉妬し我々兄弟がはかせになるのに我々はいやだといって共に私をねらっていった敵であると何故いうのか。つまりその父も喜び、兄弟も喜ぶそのような社会がなされないのであります。そのために個人が目的とする家庭であり、家庭が目的とする子女であり、子女を中心として子女が目的とする家庭がはじまるのであり、家庭の四位基台を復帰してその四位基台復帰を中心としてもっている皆さんが一つになればどのようになれか、氏族となってその国家となっていくのであります。それは確実なものであります。そのようなモデルケースの家庭が一つつくれれば世界家庭となって一つ一つ組となって三〇億人類も出てくるし、天国は如何ところになされるのかといいますと天国は国がある以前に氏族がなければならないし氏族がある前において家庭がなくてはならないし、それがなくて国がなるわけがないのであります。 今日キリスト教はイエスを信じて天国へ行こうとしていますが、天国は父一人で行くのではなくイエスも妻ももたない男であったために一人で天国に入っていって楽園に行って待っているというんであります。楽園に二千年の間知らずしてそのために新婦を探し求めて、そして婦人が死ねばそのだんなはなぜ涙を流すかといえば第三の目的の子女を探して得ることができない。得ることができる地的をなす道がふさがれているために死ななければならない。代行するしか道がなかったのでありました。それをなさなければ倒れるのであります。みなさん、電気をみるとプラスがあるのにそのマイナスが生じなければそのプラスも消えてしまうと同じようにそれが人生の道であります。男子は女子と結合して家庭をなせば子供達を持たなければなりません。子供達がいてその子供達一人で生きるのではなく自分の「親戚」おじ、いとこ全部必要だというのであります。少くとも天の子女となるためには世界的な人間にならなくてはなりません。この天は今、私のものである。そのような人にならなくてはならないという話です。そうする為に環境を全部超越して垣根の人々を全部解放させて世界は私のものである。そうだ、世界はそうでなければならない。それがなされてなかったならばすべての文化圏が分かれ言語が分かれこのくだらない、きたない中にしみだらけの中に全部しみ入ってしまうというのであります。これを全部後かたずけしてしまって天が喜ぶことのできる言葉も一つ、言語も一つつくって全部生活も共に生活をして働くことも全部一諸にしなければならないというのであります。一つ五国の計画を中心としてこの白頭山をほりかえそうとするとすれば堀りかえすために全部がシャベルを持って出て行く、我々統一教の群れはそうなっているでしょうか。私はよくしようとすればよくすることのできる自信がありますよ。我々統一教会に反対していた父母の墓を堀りかえそうとする時、気持よく思わないでしょう。勝利的統一戦線がどこにあるかといえばこれであります。しかし、だからといって統一教会統一戦線をつくってこれから大韓民国大統領をしょうとするのではありません。誤解しないで下さい。何か間違った人達は何か間違って聞くと人々がいっていろいろな話を全部します。統一教会で統一戦線をひろげて現政権を破壊しようと現政権を破壊して何になりましょう。アジアを堀りかえして自分のものにしようとは思いますけれども現政権を堀りかえして自分のものにしようなどとそんな小さなことは思いません。そのために今私が勝共活動をして日本も今その中に入るようになったし、中国も今そのゲームをしているのであります。 勝利的統一戦線、その出発点がどこであるか、その個人の心と体をどのようにひきつけてひとつとするかそうするために私の体を殺すことがあったとしても体を踏みにじって成すみ旨が心よりも強いみ旨、統一戦線をもたなければならない。これが男の勇気ではないでしょうか。このような個人と個人が結合して祝福を受けりのであります。しかし皆さん、皆さん自身を見ると例えば金さんという一個人を取り上げてみても、体の思いと心の思いが二つあってつねに戦っているでしょう、それがこの世の男性であり又女性も二つの思いが闘い合っていてこういう二人が結合するといくつの思いになりますか。四つの思いになるでしょう。四つの思いが闘っている中に統一戦線おいて今自分の中の二人だけでも精一杯なのにその四人までも入ってくればこれはどうすることもできない。荷物になるので結婚はしない。そうなっているのですよ。アメリカの女性達は運勢が強いというのであります。そのために多くの寡婦達が行列を作るというんですよ。そういう人達と誰が一諸に住むんですか。我々統一教会の青年でさえそういうものはいやと思うでしょ。心合う人達が一つの部屋に座っているのとどちらの方がいいですか。それは勿論合う人達と一諸にいた方がいいでしょ。 それでは皆さん心があっていますか。心と体があってますか。それを、一つにするつもりですか。それが問題です。この問題ですよ。その戦いに歴史が今まで年月をそゝいできたし、聖人達がその戦いで人生が何であるか、神がいるかどうか、こういう問題で全部死んでいきましたよ。統一教会思想だけが入ればこの統一教会のみ旨を知るようになったならばこのようなややこしい考えを始めるようになるんです。統一教会でみ言を聞いた後には学校に通っていた少女達も全部カバンを持って帰らなければごはんを食べてもよく消化にならないというんですよ皆さんもそのようなことを感じたことがありましたか、なかったんですか、感じたことがなかったとすればそれはうそであります。なぜそういうふうになったか、今話したのと同じように心が何よりも、体が何よりもここがよくてこゝにいたがって、それがいいかえれば天が思考することのできるみ言と人格と心情が臨在していて天がいらっしゃるところだ、それが皆さんが天がどこであるかといえば手にもって歩くものでなく、思いの中に入れて歩くのでもなく、思いに待ってあながら心でくいちがっているということはできない因縁であります。こそであります。個体の統一戦線がそのようになされなければなりません。わかりましたか。 皆さん、今心がそういうんですよ。これが問題であります。この心の基準は本来ここから下ればそれ以上下がろうとしないけれどもこれがあがればあがる程もっとあがろうとしているのですよ。これはなぜでしょうか、あがれば天の前に近くなるからですよ。皆さんもお金をもうければもっともうけたくなるでしょう。それと同じなんですよ。愛も天の愛が最高であるために最高にあがろうとするのがそれが全部であります。そしてあがったら、全部が全部世界の大統領をやってみたいと思わない人がいるでありましょうか。さあこのような統一戦線基準を如何にすべきかこれを確実にしなさい。私がそれをできないときは私は偽りものであります。偽りのその心にはみ旨が占領されなければならないし、み旨が心を占領して、み旨が体を占領いてもっていく、これが四位基台でありますよ。目的から見れば四位基台であります。そうでありましょう。全部が四位基台哲学であるのが統一教会です。そしてそのために体と心を支配することのできる主体があってその主体は必ず授けて受けて目的のために再出発するのであります。これが今まで間違っていたのであります。その位置が離れていたのであります。これが堕落であります。 さあそのような基準を個人から家庭に、家庭から如何になったか、家庭がこれは家庭は夫であれがを中心にして夫として中心であり、夫が夫となる時には女性が中心とならなければなりません。女性がまさ気持が悪いことですけれどもしかたがないのですね。いつも主体になって収集していくのであります。このようにしてその家庭が一つになって氏族を中心として一つとなり、民族を中心として一つとなり、このようにして天の愛を中心にしたその基台が連結されることのできる、このような中心本部が世界的に天の心情までも、天の心のふろしきまでも、これは外的であったとしても、外的な基準が天までも至って天個人となるのであります。この個人が外的であったとしても、しかしこれを中心として見る時こゝで統一がはじまるのであります。同じように天も世界を願っていらっしゃるのであります。我々人間も世界を願っているように、その世界を一つとした中に天がいるし、このようになされたところにつながったところが世界であり、このような統一戦線を皆さんがなさなければなりません。これのみを我々統一教会がビシッと線を引いておけばもう全部伝道しなくてもいゝですよ。伝道をたくさんする必要がないんですよ。このようにして個人的な家庭、民族的な家庭、全体家庭的確信があるというこういうことであります。わかりましたか。この確信のみ間違いなく確立して世界まで進むようになれば世界は自動的に復帰されるのであります。 このように勝利的統一戦線をこれからながめながら皆さんはみなさん個から、家庭から、家庭を経てそして民族を経てこのような観点から皆さんに氏族的なメシヤとして、氏族的なメシヤになろうとすれば天の愛と一つにならなくてはメシヤになることができるでしょうか。このような観点から男・女となることによってそのような祝福の家庭が認定されているために聖霊とイエスが一つとなって、その歴史をすることによって信仰の子女ゑ生むのと同じように、実体としてそのような基準をたてることによって、平面的な立場で立って子女ゑ繁殖することのできる立場に立つことによって、通俗的なメシヤという言葉も出てくるのであります。わかりますか。従って個人を犠牲にしたとしても家庭を立てなければなりません。父母が犠牲とされても子女達は生きなければなりません。父母が死んだとしても子女達をいかせなければなりません。さあ例をあげてみると父母が子供達の犠牲になる人達が多いでしょうか。少ないでしょう。これが天法でさります。天法において父母は子供を救がなければなりません。救わなければ自分の行く道がふさがれてしまうのであります。又この家庭、子女達が何であるかといえば親戚が必要であります。親戚のために犠牲にならなければなりません。その人達は村のために善なる家庭であり、その人達はその村においての崇拝を受けている全部慰めを受ける家庭となるのであります。そうでありますか。 そうじゃないですか。それがなぜそうなるか。結局慰めを受けるように、慰めを受けてみると私のものになってしまうのであります。私が私のものを主管することができ、私側の群となるというのであります。わかりますか。なぜ私が今まで犠牲になったか、私側にいる私の側で私を中心として実を結んでおこうというのであります。このような立場にいれてもらうために犠牲となれというのであります。そしてその親戚の氏族のために犠牲になる家庭はその氏族を全部結実として棒げることができ、その氏族達はそのような家庭では全部来てつながろうとするのです。そうですか。そうじゃないですか。わかりますか。又氏族は民族を救い出すためには大韓民国といえば大韓民国を中心として、数多くの民族氏族達を救わなければなりません。大韓民国は民族を中心として犠牲となるから善となるのであります。このようになるのであります。民族は国家、一つの国のために犠牲となるのが善であります。そのため善は犠牲を成して得られるのであります。結論はこうなるのであります。いゝかえれば天の作戦は打たれて取ってくる作戦であります。サタンの作戦は打って奪っていこうとする作戦であります。そのために政治史をおいてみると、国家興亡史をみると、全部権力を握った人達がこうして血を流すようにしてから奪ったしそれは亡びなのであります。そのために数多くの国家が亡びたのであります。それでは宗教は自分が自己を犠牲とされてから奪ってきた、歴史時代を経れば数千年経てきたとしても宗教は亡ばずに世界へと版図を圏をひろめてきたのであります。それはどうすることもできないのであります。歴史的事実はどうすることもできないのであります。そのために善なる人々は如何人々であるかといえば、善なる人は人のために犠牲になろうという人であります。 悪い人達は自分を中心てして他人を利用しようとする悪党であります。それでは統一教はどうしようというのでありましょうか。といゝますと我々が大韓民国のために父母の心情をもって僕の体を用いるまで、大人になれば子供を必要とするように、そのような立場で奉仕していかなければ彼らを教えてあげることができず、彼らを目覚めさせ、そしてこの心情をそのまゝ受けつぐようにしようとするのでありますよ。教えさえすれば親の立場にあるのでついて来なくてもいいと言ってもついてくる、聞くなといっても聞かざるを得なくなるようになります。わかりますか。このような原則的な内容を今七〇年度においては再び皆さん個人が活動してこれを具体化させ、勝利的統一戦線をするようになれば、その気分を一元化させ、表現化することができるよう皆さん自身が責任を持たなければなりません。皆さん個人が環境からそのような生活をすべて、そして今までの自分自身をおいださなければなりません。わかりますか。このような面において世界的な思潮で全部を連結させうるゲームをしなければなりません。そのために今日からはアジア大会だとか世界大会だとかこのようなゲームをたくさんすることになるでしょう。世界がどのようになっても統一教がこれからの問題をたくさん提示るようになるでしょう。その時皆さんがそこに踊りを踊るために、皆さん自体がこのような基準に立って、天を門前に立てゝ、私が行く道に前後中心をもって道を開拓するのにおいての同伴者をつくって生活の舞台を天化させていくのに主力をそそぐことによって皆さんが行く道は絶対孤独であるはずがないのであります。必ず天と共になすことを如実に生活圏内で感ずることができ、皆さんは新しい路程において天が本当に共にあるのを、五代子孫達が喜びながらやることのできる基盤をこの地上に残していくことでしょう。こうしたことから勝利的統一戦線という標語をかゝげる原因があることを皆さんが心に留めておいてくれることを願っております。
2021.05.19
コメント(0)

2021.05.19
コメント(0)
「理想の基準」1969年4月27日 聖日説教松濤本部にて 今日は理想の基準のいうことで少し話をしましょう。現世に住んでいる数多くの人々は皆理想の郷を願っていることはもちろんでありますが、現世の人々ばかりでなく過去の数多くの先祖達、或は義人哲人達もやはり理想の基準ということを考えてきました。過去がそうであり、現在がそうであるというと、これは未来にも又残る問題であると思う時、誰かが苦悶して解決しなければならはい重大な問題なのであります。これが解決されることによって世界の平和、或は統一の世界が果される六のであって、我々統一青年の目的も、この日本の一角に数少ないその者達が、日本のためにひいては世界のために理想郷の基準を立たせるため以外の何の何ものでもなく、この理想郷、理想の基準を願って立っているのである。 この地上に住んいる今迄の人類が願っあ基準でなくして、神御自身が願っている理想の世界を果たすことなのであって、この理想の基準たるものは、世界の基準でもなく、ある国家の基準でもなく、あるいは又ある社会の団体の基準でもないのであります。世界でもなければある国家でもない、ある社会でもなければ家庭でもない、ある社会でもなければ家庭でもない。家庭は又個人なくして成り立たない。その基準たるものをつきつめて考えてみると個人につき当る何ものでもない、従って神自体の理想の基準は我々人間の個人に求めなければならない立場になる。先づ願うものは個人の基準において理想の基準をいかに立たせるかということが問題なのであります。 神の摂理はいかなる道をたどってきたかというと、ある国家を求める前にある氏族を願わなければならはい。ある氏族を願う前にある家庭を願わなければならはい。ある家庭を願う前にある個人を願わなければならない。神の救いの目的、復帰の目的この一点にあったということを知らなければならない。過去の歴史においてそほ基準が果たし得なかったことはいうまでもない。理想の基準を考え、それを願った者は数多くあったけれども、それが世界の果てにあるのではなくして、自分の中にあるということを考えた者は多くない。神は理想の基準を一個の人間にあるいは家庭に求めなければならはいのか、絶対なる神であったならば、絶対なる神は二つの目的を立たせるこおはできない。相対の立場に立つ事ができるが、絶対なる神は絶対なる一つの目的のためにすべてつくった結論になる。 では、我々自体がその一つに目的基準に一から十まで一体となってその目的に向っている自分になっているか。これはそうではない。この我自身は朝に夕に変る者である。人の心は千変万化である。絶対なる神によって造られた人間が、万物の中心として、巧宙の和動の中心体として立つべきその人間が何故このような一つの目的のもとに立つことが出来ないのか、これが大きな問題なのであります。これを考えてみると我々自身には、我という者が一人しか居ないのではないかということを否定することはできない。我々は良心というものがあると同時に、これに反対する何ものかがある。これが問題なのであって、数多くの聖人達も、良心を中心として、これに反対しうる自分をいかに屈服させるかという問題を基点として皆たたかってきた。その勝利の基準を作った者は一人も居なかった。その基準が地上に現われない以上我々人間の理想郷は立つことができない。ここに集-ている若者達、自分の心をふりかえり、自分たる存在は今一体どこに立っているのか、歴史の願う基点に立っておるのか、過去の基準を通過して、現在の基準に立て、そして現在の基準を連結させる未来の最後の目的まで、いかにして連結し得るか、それが何よりも重大な問題である。もし神あるならば、これが絶対必要要件なる神ならば、この理想の基準、基点を我々人間に果たさせなければならない立場に立ってい居る。こう思う時に復帰の摂理というのは一体その目的は何にあるのか、宇宙にあるのではない、世界を目的とする前に、個人個人に向かってその目的は願われるということを忘れてはいけない。 皆さん一人一人を考えて見た場合、自分というものの根拠地はどこでありや、自分の人格の基を成すその基準はどこにありや、ある人は自分はこういう過去の経歴を持っているからその基盤が我の基準である。と言ってもそれは本心の願う基準ではない。永遠なる絶対なる基準ではない。我々の良心とは一体どこから来たものなのか。これは数千年の先祖の血統を受け継いで今現在の存在を成している進綿たる歴史過程の因縁のもとに生まれて来た。自分自体がそういう存在であるなら、我々の先祖もそういう存在にちがいない。我々人間の最初の先祖迄これは届く。何故この先祖自体が人間としての最高の目的基準に立つことができなかったか。このようになった結果を宗教用語で堕落したという。しかし、善なる世界に永遠に住みたいと願う人間の本心はいかなる歴史過程を通過しても変らない。神がこういう歴史を摂理して来られはのは、必ずその目的を果たされるある一点があるからこそであって、そのある一点がなかったなら人類すべてが願って来たあらゆる理想郷というものは空しいものとなってしまう。 もし神あるならば我を造る時完全なる一つの人間として、良心の願うすべてに対して、心も体も絶対的一つとなって、そのめざす目的になぜ直行する道に立ってなかったのか。完全なる一個の人間として造-たなら遠い昔にこれは解決されていなければならはい。ある者は死をもってぶつかった者もある。あらゆる努力を成してこの問題解決のために当たったが今だに解決されていない。神あるならば、なぜこのようなみじめな立場に立っている人間を救うことが出来ないのか、いかなる方法手段を成しても解決すべき要件を見出しておかなければならない。歴史過程において神は成してこなかったというならば、我々そういう神を信ずる心要はない。それならば我々人間としての問題解決の鍵はどにあるのか。天宙復帰、それはあとの問題である。世界復帰あとの問題である。日本復帰あとの問題である。自分の氏族、家族あとの問題である。つまり自分の問題にとどまるのである。自分の本心と命をぶつけても一致しようと努力した歴史基準がそこに残っていなければならない。それが何か、宗教というとものである。宗教とは一体何か、人間の理想の基準、基盤をつくる方法あるいは手段を説いたものである。それは何か。神でもなく世界でもなく我等自身の問題である。「先生の言うことは違います、私は心と体がいつも一体となっている」という自信のある者は手をあげて。自分自身が決して一人ではない本心の願う自分と、もう一人もう一人これに反駁する自分が居る。この法則は鉄則に近い。日本一億であるならば二億の戦いをやっている。世界三十六億なら七十二億の戦いを成している。世界万民七十二億の戦場地となっているこの世の中をいかにしてなおすか。神あればこれを診断して手術しなければならない。この重大問題を解決してくれる宗教があったとすればこれは有難い。日本とこの有難さを変えることは出来る?世界とこの有難さを変えること出来るだろう?絶対出来ない、としたらその価値の基準は一体どの位のものなのか、日本がダイヤモンド列島だとするとそれ以上の基準だろうか、地球がダイヤモンドの魂だとしたら……。かしそれ以上の価値として今迄の歴史がたどって来た道であるとするならば、どれ程感謝せねばならないであろうか。 歴史はどういう背後の基盤によって文化が発展して来たか、結果からずーっとさぐって見た場合、宗教という素晴らしい精神の結合基準によって新しい文化が生まれた。その文化によって教多くの歴史は編纂されて来た。歴史自体がそれを証明している。文化の背後の基準は絶対なる神によって導かれており、宗教から発展しなければならないという結論に到達する。なぜこの宗教という背後関係を中心として、人類社会の基点、文化圏を成して来たかというと、それは神が人間の絶対なる理想郷の基準を解決するための準備を成して来たのであって、人類から始まったというならばそれはとんでもない文化の起源は人間より出発したのではなくしほ神から出発したのである。二十世紀の文明を誇る、現世の民主主義の思想の基準はどこにあるか。それはキリスト教の文化圏である。なぜキリスト教が二十世紀の世界的基盤を成しとげることが出きたか。それは人間創造より以来の因縁を持っている神と、人間堕落の基盤を通過して数千年の歴史過程においてもその因縁を成し得た背後関係をもっていなければ、世界的文化を総合させることはできない。そういう観点から見た場合にキリスト教の歴史は人間創造以前から始まっている。一番長い歴史の基盤をもっており、絶対なる神によって出発の文化歴史過程を通過しながら、数多くの苦労の道、悲惨な歴史過程を乗り越えてきているのである。ヘレニズムと、ヘブライズムの歴史的上下交叉の叉の路程によって現世まで至っていることは皆歴史を学んで知っているが、これは一つは良心の基準一つは体の象徴であって、人間自体は良心の基準も、体の基準も離れることは出来ない。これが交叉し合いながら歴史を編纂しつなげてきた。これが戦う立場ではなく、或る一体とならなければならない一点、期間があるから、歴史がこのような背後を残して来たということを知らなければならい。いずれ戦うのでははなくして、これを一体化させるある時がこなければならない。その一体化させる大もとの基準はどこから来るのか、世界の或る主権者の力によってか、軍事力によって成されるのか。そうではない。カイン的歴史発展を外的にしながら、内的において身心共に一致させる問題を成さなければならはい。それが宗教の果たす使命であることを我々は知らなければならない。統一教会それが果たせるか否か。それが可能でなければ皆風呂敷包んで帰れ!卒直な告白である。日本に先生が来た。又変な目つきをして先生を見る者が多いことを知っているが、日本自体に防害をかけるような先生ではない。日本ばかりじゃない、韓国人ばかりじゃない世界数十億の人が皆願うその基準を解決しなければならない重大な問題をかかえている先生であることを皆分らないのであ。成し得るや否や、世界的問題である。 キリスト教の歴史は殉教の歴史である。良心の願いにおいて体の要求を木っ葉みじんに打ち砕いてそれを乗り越えた歴史の男がある。自分なりの力によってそうなりましたか?そうではない。自分を通して神共に絶対なる目的観に引きづられて乗り越えることができた。これはいかなる宗教にも見られない又できない悲惨なり世界的殉教史をいだいている。労した者には必ず報いを授けるのが天の法則である。キリスト教は歴史過程にこのような犠牲の価を払ったのだから、それに報いる世界の人々を救う主権者が来なければならない。そのような立場に立っているんだけれど、その解決の方法はいかにするか。これ先生皆に聞きたい言葉だ。可能でありますか?不可能だったら皆帰ろう。私も帰る。足も痛いし腰も痛い。しかし帰るわけにはいかない。理想の基準を目的として永遠に行かなければならない。世界に行こう。 神様は日本と韓国の国境を作って下さいました?これは日本人と韓国人が作ったにまちがいない。ソ連と中共の国境誰がつくりましたか場神は世界をつくる時、国境という概念をもって作ったなら、そんな神を信ずることはいらない。世界数十ケ国を今度廻って来たんだけれど、一番気持悪いのはパスポートである。神様がこんなもの作ったの?これも人間がつくった。理想郷をたどる者があったら神様の側に立つか?人間の側に立つか?早く神の側に立って早く世界に国境徹廃運動をしよう。黒人であれ、白人であれ、日本人、韓国人であれ問題ではない。我々は分らないけれども、日本人が日本人を愛する前に、神は黒人を愛したかも知れない。白人えらそうなこと言うな、君より黒人を愛した神の歴史があったにちがいない。神は人類の親であり母であるならば、母たる者は十人の子供があった場合、生まれながらに不具の子供がああったとしたら、健全なる子供以上に不憫に思い愛するものである。御飯が食べたかったら勝手に食べて、着たかったら勝手に着ろ。こんな親がありますか?あなた達のお父さんお母さんそんなですか?(ちがいます)堕落した父母の基準でさせそうであるなら、未来の理想郷に立っている神様、人類の親たる神様がそんなはずはない。黒人をまず愛される歴史になっている。長男は黒人である。日本は現世において世界第三の指に数えられる文明国として、あなた達は誇っているかも知れない。しかし先生はそうは思わない、可愛そうな立場に立って居ると思います。中共がもし手をのばして台湾海狭を蓋いでしまったら、二週間以内で日本は飛んでしまう。源油はみんな中近東から選んでこなければならはい。日本からの貿易六五%はこの台湾海狭を中心として運ばれている。毛沢東もやろうと思えば一週間以内にやることができる。共産党のねらいはここにある。平面的基準において日本は美しいかも知れない。しかし、未来永遠にに通過しなければならない日本の歴史はどうなるか、先生は分ってい居る。 日本と先生を一対一とすればこれは敵である。帝政時代には数多くの拷問を受けた。しかし神は敵を討てとは命令しない。敵が裸になれば、敵が飢えたならば、そのために日本に先生は西川先生を送って来た。日本全土が反対するのも知っていたし、韓国自体が反対した、しかし、数十年後には韓国のためになるし、日本のためになる。両国民が手を合せて感謝する日があるにちがいないことを知っていたから、どうしても日本に来せた、法的においては許されない条件になっていたし、韓国においてはその時先生は牢屋に引込まれて弾圧の最絶頂に立っていた。一人の働き者が貴重なその時に、日本へよこすには涙ぐましい誰にも知れない苦悩が背後にあったことを忘れてはならない。死を覚悟して成したこの基準は日本歴史上においては取り消すことはできない。韓国の歴史上においても取り消すことはできない。今になって韓国は先生に対して感謝している。天照大神が日本を愛する前に神は日本を愛した。そういう事を考えた時、先生は日本の歴史上誰よりも日本を愛した。韓国人ではないかと言うかも知れない、平面的基準はそうかも知れないが、しかし内的基準においては、日本人以上に日本を愛したのである。神様が愛する日本であったならば、日本人以上の心情で日本を愛はねばならない。アメリカもそうである。アメリカ大きなことを言うな移民達のかたまりで今日の文化を築いたかも知れないが、君達より以上、神はアメリカを愛した。その愛した神の真の子供になっているか?神に愛される息子となってアメリカを愛した本当の息子ありや。先生は神のふところの真中に抱かれてアメリカを愛した。そして祈って来た。そう考えた時この地球は誰が愛するか、誰がもっと愛すべきか、世界の人々が愛した前にもっと神が愛した本当の神の子供になって世界を愛し、真心をこめて神に告げるならばいずれ神は世界を愛する現実の道を開いてくれるだろう。 先生は宗教界において問題を起こす大物になったことを神に感謝する。つらい道である。見えるものとのたたかいではないのである。見えない戦争に勝たなければならはい。これはむづかしい、そうでしょ。統一教会が日本のマスコミにおいてたたかれても、一度も、弁明弁解したことがあるか、絶対なる神においても数十年間先生が迫害されてきたけれども、一度も弁明したことはない。なぜか。神様が弁明の歴史を教えたことがない。聖書で弁明の歴史を教えたことがあるか。真なるものは永遠であり、永遠なるものは神以外にない。神を否定し、迫害する者達は可哀そうな者である。可哀そうなその者に対して永遠の価値ある者の弁明、弁解は理に反する。真なる者は弁明、弁解必要ない、迫害されながら我々発展する。宇宙は廻っている。上に立っている者大きなこと言うな、頂点に立ったとしたら下に下る準備をしろ、廻る世界の原則である。弁明する余裕の力があったら行くべき道に一歩でもふみ出せ。 絶対なる神様でありながらなぜこのような人間を造ったのだろうか、二つに割れた者である。二つに分れた者だよ。一体どこが割れたか。心と体が割れてしまった。そうだろう。始めからこのように割れた人間を造った神様だったら、絶対なる神ではない。不完全な神である。あなた達瀬戸物を焼く時、土で形を造り乾かして、火の中を通過させなければならはいことを知ょているだろう。初めからひびが入っていることが分ったら釜の中に入れるか? 途中でひびが入って割れててしまった。どうすりか、再び造り返さなければならない。だから救いとか救世主とか、復帰とか、これは悲しい言葉である。割れなかったら、このように祈りとか救い主とか宗教等は必要なかった。堕落の結果必要になったということを知らなきゃならない。天国とか地獄とかこれも悲しい人間の堕落によってできたものであって初めから神様が造られたものではない。宗教生活というものは本来の人間には必要でなかった。統一教会は何を願うか? 宗教統一、そうでははい宗教徹廃運動を願っておる。宗教統一、世界統一とガヤガヤ言っていたのに、宗教徹廃、宗教いらないといったら世間は驚ろくだろう。しかし神様の果たす摂理の目的をはっきり知ったら、我々成さなければならはい絶対的要件はどこにあるか。日本全土ではないよ、どこ? どこにあるの。自分である。自分から解決しなければならはい。自分のまわりにある様々な問題、それよりもっと重要な重大なもの、それは過去、現在、未来を通して我々に要求されているもの、それを忘れてはならない。その他の問題はすべて過ぎ去ってしまう、我は永遠なる価値の存在として宇宙間に認められたいとするならば、二次的なものにまどわされてはならい。 この地上は戦闘が始まった。七十二億以上の数々の戦闘が始まった。神の行動作戦が世界的段階迄発展してきた。人類歴史はこの最後の戦いにきまりをつけるために行動作戦をやらなければならない。だから歴史は思想を完全に二つに分ける限界まできているのが現世である。理想郷を目ざしての世界的戦い、共産主義も一つの理想郷を打ち立てんとしている。しかし共産主義社会で理想郷はできない。それが分らない。世界が二つになって戦う。人類が破滅してしまう。共にマイナスになり、共に損害が増したことをはっきり教えてやらねばならはい。それを統一理念でやるうというのが統一主義である。しかし主義というのは先生気持が悪い。統一理想だ。最後に残るものは主義が残るんじゃないよ。理想が残る。だからこの理想の基準によって出発し、理想の基準によって成される家庭、氏族、国家、世界を中心とする理想世界が残るのである。今迄説明してきたが、その理想郷は最初は何であるか、神様? 救世主? 自分である。自分なんだよ。そしてメシヤ神様へと行く。だからメシヤ思想は必ず必要である。宗教でとなえるのは、だから救世主なのである。救世主にも種類が多いよ。黄色もあれば、赤もある青も黒もいろいろあるではないか、どれがほんものの救世主か? 鑑別の必要があるよ。お金が沢山あって素晴しい服を着て、高い壇の上に上って礼拝の時、「オホー皆さん」とそれは先生大嫌いだ。なぜ先生は壇に上って説教しないか気がついているだろう。それはなぜか高い所、低い所そこには距離がある、一体となれない、平面上においては一体になる。だから平和とうのは平の字ではないか、高和とは言わない。平面でなければ一つになれない。先現はそれを良く知っている。そうすると救世主は一つになるには地上に来なければならはい。天上ではない、高い所ではないよ。人間が天上に行かなきゃメシヤと会えない。それはまちがっている。数多くの宗教は霊界から始まっている。仏教は釈迦牟尼仏を信じて世界一の救道の主と彼等はたたえている。回教はマホメットを中心としている。どっちが一体救世主なる内容を持っているのだろうか。それについて話したいけれども、それを話すと三時間も四時間もかかてしまう。 今回は理想の基準ということだから、理想郷というものは一体どういう所なのか考えてみよう。男あって女ない所が理想郷か。女ばかりで男のない世界これが理想郷でしょうか? 男も女もなければならはい。じゃ男、女あって何するの。毎日たたかうか? 朝から晩まで。それが理想郷? じゃ笑うのがいいの? 毎日毎日笑ってばかりいる。これでも困るんだね。じゃ何するんだ、喧嘩もしなければ、笑ってばかりも困る。愛という傑作の言葉がある。愛するためじゃないか。一体愛というものの基準がどこにあるのか、それを考えてみた場合、愛は一人では成り立たない。絶対、条件として相対基準がなければならはい。それ否定できないでしょ。愛という問題は主体と相対関係なくして絶対なり立たない。私自体愛の実体となるためには、私の心と体はどうだろうと考えてみると、愛の実体になるには、二つになっていて成り立つか一つになってこそ成り立つものか。理想郷を望むその時に、相対基準を否定することできないんだから、その実体として立ち得る存在、愛の確信の基準に立つには、我自体にその内容の要件が必要である。心と体、愛とうものはこれが一つとなったならば、大きな力となることを忘れてはいけない。世界という大きな大きなものを願う前に個人において、その主体なる心と相対なる体が神の愛によって一つになる自分より出発しなければならはい。 男が女を愛する、これはもともと歴史がそのようになっているがこれは結果の存在である。結果の大もとなる根源は神から来ている愛である。神は愛なり、神というものは愛の定規によって、宗教とか、教育とか思想を通して歴史に流れて来た。では神の愛を一体直接受けることができるであろうか。その仲介者の救世主がここに必要である。救世主の果たすべき使命はどこにあるのか。歴史的神の愛を人類に直ちに教えるその道を開いてやらなかったならばその者は人類愛の持主とはなれない。そうすると神様の愛の実体ならば、どういうような実体にならなければならはいか。神がプラスだったら、その方はマイナスに立ったお方じゃなければならはい。そうでしょ。ここにおいて人類歴史はじめての愛の因縁によって人間と神様を結びつけることができる。今日までの歴史過程において、そのような一点一角を成し得た宗教の責任者、開祖は一体誰であるや、いずこにありや、愛を中心とした内容を完全に教える宗教でなければ、万民を理想郷へたどり着く道として迎えることはできない。 神様がもしあるとするならば一体何を願うのだろう。神様は金持がほしいのであろうか、世界を願うのだろうか。堕落した我々人間でさえも宇宙と自分の命を取替えることはできないという価値を認めているのに、神様において、そんな物的条件を願うような神様ではない。神は一体何を一番願うだろう。神様と私達の関係において、それはどんな愛の関係であろうか? 僕の立場だろうか、兄弟の立場、夫婦の立場、神様本当に愛するんだったら、その愛の相対基準の位置を一体如何なる基準に決めるのだろうか、それは親と子供の関係しかない。そうでなければ、神様は人間を絶対必要としないよ。神様は我々人間を最高の愛の基準として求めてきている。人間も最高の目的を完成した安着の基点は神の愛に帰結する。神の愛を完全に占領し得る子供の立場に立つのが理想郷の基準である。親あって、子供があった場合何が成り立つか、家庭である。親子が成り立つのである。切っても切ることができないのが親子である。親である神様の愛を中心として、娘、息子成長する。そして結婚します。そして神様の孫を生みます。神様の愛を中心として三代目の子供を生みます。神はそれを願うのである。神を中心とした真なる娘、息子として愛を占領し、その愛の圏内において結ばれた夫婦となって、理想郷の男女の基準としてそこから生まれた子供こそ、神願う基準なのである。人間堕落はその基準を失ってしまったことである。数多くの宗教あれど真なる宗教は何か、本来の人間としての位置をはっきり知らせてくれる宗教でなくてはならない。神の真なる子供であるということを教えていない宗教は偽りの宗教である。真なる娘、息子となって、真なる夫婦となり、子女を生むその道を教えていない宗教は理想郷に到達することはできない。こう考えて来た時に如何なる宗教が世界的にこうした内容を持っているのだろうか。キリスト教しかないのである。先生はだからクリスチャンの道をたどってきた。 神の一人子イエス・キリストは神を親として、その愛の家庭を造り子女を持つことが何よりの神様の願いであった。イエス様としては神の完全なる子供としての目的を成し得る基準に立つことができなかったという結論に到達する。イエス様は何のために来たのか、理想世界の基準を立たせるために来たのか、大きなことを言ったとしても、愛の基準を地上にうえることができなかったとしたら、理想世界の家庭は現われない。神は何を理想の基準とするかというと、この家庭を基準としている。家庭がなかったならば氏族なく、氏族がなかったならば民族がない、民族なかったならば国家なく、国家がなかったならば世界は成り立たない。堕落という基準より歴史がはじまったんだから、神の愛を中心として出発したのではなく、サタンを中心として出発してしまったところに問題がある。生まれてみたら真の柿ではなく、しぶ柿であった。姿は柿の姿をもっているが内容が全くちがう。真なる甘柿に帰るにはどうすれば良いか。そこにイエス様が必要なのである。自分の今迄関係していたすべてを切って、イエス様の思想、イエス様の人格、イエス様の生活観、イエス様の宇宙観を完全にうえつける。そうすれば再び真なる柿の実が生まれる。新生復活の内容なのである。従って二十世紀の文化の基盤はキリスト教キリスト教を中心とする文化圏であるということになる。しかし現世における多くのクリスチャンといえどもこれがちっとも分っていない。統一教会は異端であるとか何とかいうが、先生自体も科学を勉強したものである。単なる空想とか理論に合わないことがあるならどうしてここまでの基盤を作ってこられるか。統一思想は世界どこへ行っても短期間のうちに??する。こうしてメシヤの価値の基準が、先づ第一にキリストでなければならない基準が分ってきた。神は今迄堕落した人間をかかえ、六千年の歴史を唯一人の息子、娘を求めて尋ねてこられた。神の創造目的の基準をすべて完成すべき真なる愛をかかえた人類の父母となるべき者を探してこられた摂理の歴史であった。それがキリスト教のいう再臨の主という問題になる。再臨の主とは何か。真の父母の昔準を失った神の前に、真の父母の位値を復帰し、人類を子として神の前につがせて下さるお方が再臨の主なのである。 歴史は外的基準から復帰されてきた。第一次、第二次大戦においても分るように、日本は敗戦というみじめな立場に立ったが、勝ったアメリカの援助によって現代の文化の基点、基準を造り出してきた。これはすべて天の摂理であり、天運によってこういう結果となってきたのである。共産圏はカインの立場で、民主圏はアベルの立場である。カインはいつも先に打って出た。打った者はいつも負けてきたのが今迄の歴史において見ることができる。第一次大戦も打った者が負けたし、第二次大戦も打って出た日本は負けたのである。第三次大戦といわれる原子力による戦争は果たして起こるのだろうか。ソヴィエトによって思想的に打たれている現世において、打たれる者が勝ってきた歴史を見た場合、共産主義は必ず滅亡しなければならない。一九一七年から一九五七年までで中共紛争は四十年目で、これは必ず分別されなければならはい天的法則になっている。これは人間がそうするのでも何でもない。神の公式鉄則なのである。世界平和は何から始まるか、理想の基準は何から始まるか、兄弟から始まるんじゃない、神を中心として真の父母から、真なる愛を中心とした血統の氏族が地上に生み増えて地上天国が始まるのである。 こうして神の祝福圏が世界的に繁殖したなら世界復帰は朝飯前である。しかしここまでこの道を開拓してこられた天のお父様の心情をあなた達はここで深く考え、感謝しなくてはならないのである。死を乗り超えて苦労を忍びつつ、六千年という歴史の復帰のために私達を呼んで下さったその神とお会いする時、その抱き合う瞬間において、我れ声あればつきる程の、感謝の涙にむせびつつ、ひざまづかねばならない程の基準をもって感謝しなければならはい立場が統一青年の行くべき道なのである。その前には数多くの迫害が横たわり、我行く道をふさぐかも知れない。しかし我は行く、行かねばならない。そこには父母が先頭に立って反対するかも知れない。自分の尊敬する先生が反対するかも知れない、一番愛した子供、或は夫、妻という立場であるかも知れない。しかしそれを乗り越えて行ける者でなければ、理想の基準は復帰することはできない。否定される現世の社会、否定される自分の存在、完全なる否定基準、ゼロよりの出発なくしてもと返しすることはできない。これこそ真の宗教の教えであり、いいかげんなこの世との愛協、肯定の立場は神へのそむきである。 統一教会何故反対父母の会等起こるようにするか。いいようにしたらいいのに、というかも知れない。しかしそれを知らないのではない。父母に孝行しなければならない。誰よりも孝行娘、息子にするために、ある峠を乗り越さねばならない。そこまで引っ張って行く使命を果たすまでは妥協してはいけない。頭を下げてはいけない。永遠の悔いを残す。しかしそのつらい道を乗り越して、真なる娘、息子としての基準を認められた時に、家族も共に永遠という基準において相抱き合うことができることを思う時に、大なる正を立たせるためには小さな条件を無視しても行かなきゃならはい。共に滅び神のさばきに終らないために、もと返しするまでのある期間、ある月日の副作用はどうしても仕方がないのである。だから完全なる否定から出発して完全なる肯定が復帰されてくることが分っただろう。世界三十億がすべて反対しても我は行くそれが統一の勇士である。こういう立場でもって君達は理想郷の基準に立った。しかし君達がいくら、神を愛し神様を信じるといっても、そうはいかない、神様自体が君達を信じるような男、女にならなければならない。神様が君達を愛さざるを得ないそういう人間にならなければならない。それでこそ初めて理想の基準に立ったということができる。君達同志は、自分の血統的兄弟よりも近い。民族、氏族、人類の差別を抱かない。その調和したる新しい世界が、理想世界なのである。統一の勇士によってそれは事発し、世界に広められる。君達はその基準に立たなければならはい。神に信じられるその基準を立たしめるのが統一青年の成すべき使命である。我々の行くべき道は忙しい。全国にその波を広げていく。新しい、神による天国実現のため頑張らねばならないのである。 祈り 歴史路程におきまして万民の救いの目的が何であったか分らない数多くの万民の前に、我々は神の願う基準の何たるかをはっきりと知ることができました。もっと深い内情におきまして、永遠なる神の実子として生まれることができますように、そして神にたたえられ、神にほめられ、神に信じられ、神に愛されざるを得ない実体となることができますよう我々は願い、努力しなければなりません。弱き力なき者におきましては強き力を与えて下さることを願い、真なる父母が今この地上にたずねてこられていることをはっきりと知って、一人残らず神のみ胸に抱かれて、真なる父母と呼ぶことができますように導いて下さいますことを切にお願い申上げます。我々願える世界は、我々に限っている世界ではありません。歴史を通しての願いであり、現世を通しての願いであり、未来通しての願いであることをはっきりと分りました。このような素晴らしい理想郷へ向かって、理想の基点目指して我々つき進むことが最上の喜びであることを体験し得るそこまで我々は行かねばなりません。数多くの迫害の道が横たわっておりました。たまりきれない悪魔の怒濤の道がありました。それを乗り越え神による最上の勝利の基盤を築くまで、忍び戦い抜かねばならない使命を深く感ずることができました。 理想の基準、理想の基点やそれは今日世界のいかなる文化の基準でもないことを知りました。アメリカでもなければ、ヨーロッパのいかなる国でもなく、日本の現下の文化の基準でもないことを知りました。神が背負われるみじめな立場におきましてこの道が開かれるということをはっきり知りました。 過去数十年の間神直接導いて下さった歴史が今残っておりますが、その心情基準におきまして、数多くのサタンにふれる立場から神よみがえる勝利の息子、娘が残っているということを知っております。その基準を記憶なさいまして、はげましてた神の心情基準におきまして我々一人一人を訪ねて下さいまして、みじめな境地に立った場合には、先生を導びかれた神直接のその御心情を彼等にも授けて下さいまして、その場をまぬがれることができますように、そして天の息子、娘となることができますように直接主管なさいまして勝利の見解まで指導して下さることをもう一度お願い申上げます。今日この聖日におきまして、血につながる世界の友々、世界の統一勇士はこの場を慕いつつ祈っているということを知っております。数多くの国家に対して、善なる神の心情圏を我々はうえなければなりません。勝利の見解としてそれを成しとげなければならはい。戦いの将軍として恥ずかしくない者となることができますように祝福して下さることを切にお願い申上げます。 幾日も残っていないこの期間におきまして何を日本の地に残すか、神御自身が思い出しまして、この日本民族のために、我々統一勇士として絶対必要なるそのものを、残して下さることを切にお願い申上げます。そして神の願う建設のため、天宙復帰の勇士として、統一の勇士として、そのけがれなき素晴らしい勇士として、神をたたえ、神の望みを叶え、神の命令に従いえるものとなることができますように御導き下さることを切にお願申上げます。 以後の時間をあなたのみ旨に任せますから、声に従いつつ、願いの目的の一点に集結することができますよう祝して下さることを切にお願いしつつ、すべての祈りを真の父母のみ名を通して感謝の祈り、あなたの御前にお捧げ致します。 (アーメン)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.18
コメント(0)
「真の子女になりましょう」1969年4月20日 聖日説教松濤本部にて 多くの国々を廻ってきて日本に着きました。その間、あなた達の熱心な祈りを感じ、よこして下さった数多くの手紙に接する時、実に神に感謝せざるを得ませんでした。こうして、また、あなた達とまみえることができたことを再び神に感謝しつつ、許される時間内に「真の子女となりましょう」という題目で一言話したいと思います。 「真の子女」ということを思う時、子供というだけを考えれば簡単な内容のようでありますけれど、歴史を通じて求めてきた内容を考えれば、これ以上複雑な、これ以上大きな問題をかかえているものはないということを我々は知っております。今、ここに集っている個人個人を考えても、いかにしても真なる子女としての基準に立たなければならない我々であることをはっきり知らなければなりません。堕落した人間の子女として生まれた以上、復帰略程を通過して真なる神の子女にたち帰ることを、我々は最高の願いとして求めなければならないのです。この使命、責任を果たさなければならないのが、堕落圏内にある我々であるのです。 「真の子女」という言葉を考えてみた時に、その背後には「真の父母」がなければなりません。真なる親を迎え、真なる親と共に善なる何事をもなさなければ真なる子女の関係を結ぶことはできない。我々は本当に真なる親を知って迎えているか、真なる親を持っているか、真なる親のみもとによって生きているか。そのためには、真なる親の基準が決定されているかということが問題である。これが決定されていない以上は真なる子女としての基準を探し出すことはできない。だから、真なる親がこの地上に現われなければならない。 もし、神があったならば、そして、人間に真なる子女となるべき目的を求めているならば、神は真なる親の立場に立たなければならない。我々は実体を持っている人間に対してそういうふうにするには、真なる親と子女との関係をいかに結ぶかということも問題になる。特に堕落した人間にとっては、神がいるかいないかということさえ分らない。神、実にいます。その神たるは、我々のすべてに代えても否定できない真なる父母の立場に立っている。こういう認識をいかに体験し得るかということが何よりも重大な問題である。 神が六千年の歴史を通して摂理してきたその基準は何であるか。それは真なる親の立場を人間に表わしてきた基準である。それが今まで摂理上において神がなさなければならなかった使命である。それがなされた場合、その真なる父母に対して、真なる子女ときて立ち得る関係を結ばなければならない。これが果たせずして、真なる家庭、真なる氏族、国家、世界は望まれない。だから、個人個人が神に対して孝行し、奉仕し、そのなすこと、主張することが、真の親に対しての関係をはっきりさせる立場に立たなければ、神とは関係ない。真なる父母と真なる神の願う基準の心情に一致し、それに徹しなければならないということは、何よりも重大な、まずもって世界をうためにの基準であり、その基準を体験していかなければならないということをなし得たとしても、再びその基準を通過しなければならない。もともと創造本然の世界においては、神が人間創造した当時においては、その立たせた基準は判然としていた。このような真の親と真の子女として、永遠に保障し得るような神の愛を中心として一体となったならば、こういうような我々の願われている第二の真の親と子女としての基準は必要でなかった。 我々は生まれながら、母親のふところに抱かれるその時より、真なる父母の基準において生まれてきたか。生まれていない。だから、我々は真なる親のふところに抱かれる子女の様相を、また、たち返して考えなければならない。神が我々の真の親だとするならば神のふところに抱かれている子供のように見ることができるような者になっているかどうかが問題である。だから聖書は教えている。〈幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない>。なぜ、そういうことを神は教えなければならないのかといえば、神はその本心において真なる子女を求めなければならないのである。神の内心においてそれを永遠に忘れることができない、愛さないではおられない。しかし、抱いて離すことができない幼な子のような子女を、神が永遠の愛を語りながら抱きあったことがあるか。それはなかった。ある目的を願いつつ、日にちを通過しながら、望みを抱きながら、エデンの園のアダムとエバを支えてきた神にとって、真なる目的達成の喜びと共にその子女を愛することができなかった。これを思う時に、復帰路程を通過して真なる子女となり得たいという立場に立っている我々は、エデンの園におけるアダム・エバよりももっと大なる目的完成を抱いて、神の愛の前に立つことを保障し得る子女とならなければならない。アダムより、エバより、もっと大なる使命を果たさなければ真の子女になり得ない。堕落した人間にとって、いかにしてその目的完成を体験するかということが問題である。 イエス様の立場は創造直前のアダムの立場ではない。ある目的完成を体験するかということが問題である。 イエス様の立場によって自分の生活を統制し、自分の行くべき道を決めていくことを神に誓い、歴史に誓い、その時代に誓って立ったイエス様であった。だから、アダム・エバより以上の立場に立っていかなければならないことはもちろんである。そういうアダムより以上の目的完成に近よった子女としての心情を体験するには、神と共に過ごし、神と共にすべてをなさなければならない。神が今まで六千年間語ってきた内的心情基準において一致し得る自分を発見しなければならない。本来の神の創造の心情より始まって、創造し得たアダムとエバの長成期まで成長し得たその内的心情、そして堕落とそれ以後数千年の歴史過程を通過しながら神が受けてこられた悲しい復帰の心情を体験しなければならない。そして、体験し得たすべての心情圏を、自分一人神の前に立って、神を慰めなければならない。 神を今まで数千年間、苦しみの立場に立たせたのは、人間の堕落の結果であるから、喜びの立場でこれを復帰することはできない。悲しみの立場で、善と悪の歴史の中で生死の戦いを通しながら、天の目的を果たすために我々の先祖が払ってきた数多くの犠牲を、皆おぎなわなければならない。そういうようにして、つらい神の内心を慰めなければならない。だから、イエス様は一人であっても、その一人の歴史的復活体であるというんだね。アダムよりも、ノアよりもアブラハムよりヤコブよりモーセより、誰より以上の価値をもって神を慰め得る、神の目的をなし得た勝利の実体である。そういう実体をもって、神の内心に抱いている悲しみを清算しなければならない。 そうするには、また、神の目的観以上の目的観を抱かなければならない。神が十の目的を果たそうと思う時には、百以上の目的をなさなければならない。神が現世において願っている使命の限界が百とすれば、イエス様においては、千万というような責任の限界を果たし得るような、神様の希望の窓である息子としての実体となり得なければ、新しい内心の情熱を神の心情内に湧き起こすことはできない。それができなければ堕落圏内の心情にとどまる。それ以上価値あるものを、イエス様はいかにして立ち返すことができるか、これが何より、イエス様にとって難しい問題であったということを我々は知らなかった。イエス様の真なる親孝行は、アダムとエバが祝福された平和の園でなし得るような孝でなくして、その反対の立場において、神の内心を慰め、神を心情的に解放させ得たというような勝利的な基盤に立たなければならない。人間としてこれ以上誰も行かれないような苦しみの頂点に立っても、なお目的をなし得るような、神自体がその境地を同情せざるを得ないような立場でなければ、本心の心情圏に立つことはできない。それをイエス様であることを我々ははっきり知らなければならない。 復帰路程というのは、個人復帰、家庭復帰、氏族、国家、世界というふうに展開していく。それでイエス様は個人の復帰の目的を完成することは個人に終るのではなく、世界の目的完成という観念をいつも抱かなければならない。個人を復帰するその内的基準は何かというと、自分自体が立つよりも、世界を立たせるということである。創造の目的観念に徹し得たその宇宙観に立って、個人を復帰しようという立場は、アダムより以上の立場である。個人を復帰する基準が全体の目的のためになされのであるから、個人を復帰し得た時には、全体は自然と復帰の基準に立つことができる。 こういうように出発基準がアダム・エバとは違っていた。人類が行った堕落の道を絶対に、夢にも行かれないことを誓い得る信念に徹しなければならない。そういう信念において、目的に向かう神のみ旨に対しては何の疑うところもない。一年、十年、生涯をかけても疑うことができない。ここに、もし、疑うとか、ほかの理想を要求するとかいう隙間があるとするならば、そこから問題の起点になるに違いない。だから、み旨を知ってからは何の疑うこともない。疑おうとして、いくら研究してもそれを疑うことができない。そういうような立場に立たなければならないのがイエス様であった。我々もそれを体験しなければ真の親に対して真の子女の立場にたち返ることはできない。 こうういうふうに考えてみた時に、我々が今まで望んできた、真の子女となるべき基準と、イエス様が孝なる息子として立ち得た基準とを比較して、どの位、差があるかをはっきり知らなければならない。その差が大きければ大きい程、それに比例して苦労をしなければならない。蕩減条件を満たさなければならない。大概の今までの成約聖徒の観念は、自分個人の目的完成だけに立ちやすいということを往々にして見ることができます。そういう立場ではいけない、自分があって世界があるのではない。いつも世界、いつも神のみ旨、これが自分のすべてを支配する原点にならなければならない。損った道を取り戻すには、その力以上の力ある基準を立てなければならない。その力以上の内的決意と内的原動力を持たなければ復帰の目的は完遂しない。イエス様にとっては、延長されてきた四千年の歴史を取り返すには、それだけの決意をしなければならなかった。そういう基準と我々の今まで信仰してきた基準といかなる差があるかを生活圏内において比較しなければならない。 我々は何か神の前に果たしたという場合、これを認めてもらいたい。しかし、そのなしたことより、内的必情において神の認め得る決意が問題である。神の認め得る真の子女となるためには、神に抱かれて真なる子女だという名前を付けてもらわなければならない。自分から名前を付けてはいけない。いつ神が私に対して真なる子女という名前をつけてくれるか。自分の名前を呼ばれる時、あるいは呼ぶ時、神がつけて下さった名前として呼ばれ、呼ぶという実体になり得たということから考えなければならない。そして、自分の名前ばかりではなく、自分の存在の基準が、神の愛のふところに抱かれる真の子女として立っているかというそれが問題である。特に日本の食口達にとっては、今後の世界情勢から見て重大な立場に立っている。アジアの運命を、世界の運命を、日本の地を中心として決定することを思う時日本の地に生まれ、日本の地に育ち、そしてみ旨を知った以上は、世界いづれの地にも優って真の子女となる決意を固めなければならない。世界の情勢は今からはアジアの問題に立ち返り、日本はいつも浮き上がってくる。そういう神の摂理は、日本にいつも、ある願いを望まざるを得ない。その望みの第一の基準は、世界いづれのところより優る真の子女としての権威である。 それを果たし得るのは平安なる道ではなく、戦いの真只中に立って生死の境目をのりきっていかなければならない。日本のために、世界のために、一死ばかりではなく、千死、万死を踏み越してもなさなければならない使命を感じる自分を発見しなければならない。自分ながら、そういう自分であることを認め、周囲の者も認め、全国が認め、堕落世界が認める基準を通過しなくては、真の子女という名前を付けて下さいと神に申し出ることはできない。だからイエス様以上に難しい立場に立っている自分達であり、イエス様以上の道を行く決意が必要である。そういう決意を持った者が日本に現われたならば、その人は問題になる。神はその人を愛さざるを得ない、その人に、アダム・エバに与えた祝福以上の祝福を与えざるを得ない。それ以上の目的完成のために神御自身援助せざるを得ない。問題はそこから始まる。先生がいつも思っているのはそういう基準である。世の中がどう見ようが、周囲の人が何と言おうが問題ではない。神に永遠に抱かれ得る子女の基準をいかに保ち得るか、それが問題である。自分の体面とか環境とかが問題ではない。その目的基準まで行って見てから、自分としてもう一度考えるべきであって、そこへ行かずして別の考えを持つことはできない心境に立たなければならない。これは自分一生の問題だけではなくして、歴史関係を持っており、過去の歴史だけではなくして、現世の世界が関係を持っており、現世ばかりではなくして、未来が連結されている。 今までの生涯をかけてきた先生におきましては、平安とか安楽の思いを持つことができない。まだなすべきことがある。夜であろうが、辛い立場に立とうが、それをのり越えてなさなければならない使命の一点がいつも残っている苦しみの立場を避けて、通らなければならない苦労の道を通らないとすれば、それがサタンの起点になるかもしれない。生涯において、その一点をいかにサタンに許さないか、こういう切迫なる思いで復帰の路程を行かなければならない。一瞬一秒でも安心することができない生涯の道であるということをあなた達も知らなければならない。さらに、歴史過程における数多くの先祖達の忠誠の道をすべて連結させて、完成という名前を付けて神に捧げる使命がまたある。それをなし得なければ、歴史過程において犠牲になった人々を復活させることができない。しかし、先生自体がなした基準では、彼らを復活させることができない。彼らの基準に立ってなし得た勝利の基準を認めてから彼らを復活させることができる。だから、復帰の道は難しい。 先生は神の前に真の息子として立ち得ているかどうかというと、まだまだその道をさぐっている。世界に目的をなし得るまでは、堕落圏が残っている以上は、真の息子であると自分ながら言うことができない。神が自分に対してそう言っても、自分は神の前に真の息子であると主張することはできない。まだまだ果たさなければならない多くの使命、戦わなければならない多くの戦いが残っている。だから、いかなる迫害が襲ってきても、感謝で迎える心情の基準を今でも持っている。神が我々を解放し、世界を解放し、そして神共に解放なし得た環境的基準に立った時、神は真なる親であり、我々は真なる子女となり得る。その基準までにはまだまだ遠い。これをいかに短期間のうちに果たすかが先生としての使命である。こういう道を今まで開拓してきたし、これからも開拓していかなければならないのが先生の路程として残っている。これがいつ最後の基点をなし得るか。それは先生一人ではなされない。全体基準をいかにして連結するか、これが重大である。今まで六千年の歴史を通過してきた数多くの辛い復帰の路程より以上の辛さが、先生のなすべき平面基準に残っている。 先生は時々こういうことを感じます。我々の勝利の一角が表われた時、それに向かって全面的な喜びの声を発すりことはできない。本来の目的基準に立っている神にとって、これを天宙共に喜び得るか。そうはいかない。その基準には善なる結果を神に表わしたとしても、それだけで満足できない。世界を越えなければならない。世界ばかりじゃない。数多くの霊的世界がまだ残っている。これまで解放しなければ我々は責任が残っている。この思いを、誰もが、朝めしをする前に思わなければならない。もしも自分一代でこれを成し得なかった場合には、数千代の後孫を通じてなさなければならない使命がある。愛する自分の後孫にこれを相続させるわけにはいかない。それを思うと、我々一代でこれを打切ることができるか、できないか。それを誰よりも辛い内的痛みを感じながら、神に訴えなければならない立場に立っているのが我々である。 神が全世界を愛する心情以上に、神は日本を愛したという心情の基準に立たなければ日本復帰は不可能である。そして、神は、日本を愛する以上に我を愛するというような基準、即ち、世界より以上、日本より以上に神から愛される自分、というような基準を立てなければ、誰が日本復帰の基準になり得るか。その一人が居なければ日本復帰はできない。そういう親の心情の一点とつなぎ得る真の子女として、歴史を対応し、時代を対応し、未来を対応し、神の今までの辛い復帰路程の痛みの心情を慰めなければならない。その一人を、全世界にも代えられない息子、娘として愛し、そこからすべての問題の解決は始まる。我々は原理によって知っているように、完全なるものが現われれば完全なる相対基準が現われる。だから、神と一体となった完全なるプラスに立ち得る息子、娘があったならば、その相対基準としてすべての息子、娘は現われてくるのが原理の鉄則である。だから完全なるプラスに立ち得る者、それが問題である。 今まであなた達の内心において、み旨一点に尽きたことがあるか。この道に入ってきて一年、二年、三年、五年、あるいは十年近くなるその期間、夜も昼もこの一点に尽きて、内心的、情的基は日が増すに従って強固なる確信となっているか。そういう基準が立っておれば、年がたつに従ってくたびれることはない。十年たったら十年の内容を持っている決意を持っている。誰もそれも動かし得ない強固な基盤に立った者であることを万人が認めざるを得ない。そこで、自分がそういうような心的基準において日々を過ごし、年数を重ねてきたかということを思う時、今だに神の前に顔を上げることのできない一人一人である。 そうすると、もしこの甚準に達し得なかった場\965Fにはどうするか。永遠に復帰ができないかというと、その間隙を埋めて、結びつけるために、神はメシヤ思想を歴史過程に残してきた。メシヤとはいかなるものか。それは真の親である。真の親と万人とはいかなる関係になければならないかというと、今まで縦的関係において、神に対する子女関係を信仰でもって願われてきたけれども、その内的心情を同じように平面的関係においてメシヤと結ばなければならない。なぜなら、人間は平面基準において、堕落したのである。だから、歴史過程において数多くの先祖達が結ぼうと努力した心情基準以上の基準において、我々は真の親と平面的立場で関係を持たなければならない。イエス様は縦的心情基準においては神と結ぶことができたが、平面的基準においてそれを果たし得なかった。ここに十字架の道が現われてくる原因があった。だから、縦的より以上に、横的基準をたち返さなければ神の願う完全復帰は望まれない。それをなし得る立場を持つ我々は、いかなる先祖よりも尊い立場である。だから、霊的基準においてなし得た心情より強い横的な心情の結合を保っているという信念に徹しなければならない。毎日の生活基準がアブラハムの神につなられた内的心情以上の強い感覚で生活し得る自分でなければ、アブラハムの目的基準を復帰することはできない。神の心情世界は縦的関係ではない。横的関係をいかに結合させ、神の心情をいかに展開させるか。これを果たすためにはメシヤは神の身代りとして、霊的神にもう一面をプラスする真の親として、地上に来る。これが果たされなかったら復帰はできない。絶対にできない。 復帰歴史において、その時代のなされなかったものは、歴史を通過して後にプラスされる。だから先生が使命を果たそうとすれば、数多くの歴史過程における失敗を勝利しなければならない。それを思うと、先生の歩んできた路程は、内的に、外的に、いかに苦労したかわからない。そういう立場と、自分の立場とを比較してみた場合、あなた達はそれ以上の苦労の道でも楽しんで行かなければならない。先生は韓国という一国の圏内において、時代時代を通過しながらすべての歴史の内的心情を抱きながら、迫害されてきた。そうすれば、我々日本に居る食口達はどういう考えしなければならないか。日本という一国における迫害以上の迫害を世界から迎えるような決心を持たなければならない。そうしなければ、先生自身が日本を認める条件がない。世界に向って進まなければならないの平面的連結条件が立たない。この平面的連結条件を世界へ世界へとかけていかなければならない。だから真の子女は世界的決意を基準として立たなければならない。世界は自分のものである。真なる神の子として祝福された自分の園である。これを犯す悪者があったら許しておかない。その決意が必要である。その決意をあなた達が持たなければ、今後世界へって進み行く先生とは関係がない。それは先生の子供ではない。そうならざるを得ない。先生は生涯をかけて、神の行われる道の前に障害となる悩み苦しみがあったら、これを一身に背負って戦っていく。いかなる苦労の道も、いかなる迫害の道も、生死の境地に立っていく。誰一人助ける者なくしても、失望しない。たった一人神を慰め得るものは我しかいないという決意に徹して今まで戦ってきた。今もそうである。もし世界の人々がなさなくとも、我一人なす。もし、なし得なかったら問題を残していく。今度日本に立ち寄って何を残してくか。何か問題を残していかないとなやない。文という人の人問のためにそれは残して行くのではない。世界のために残して行くのである。たとえそのために日本が滅びても、神のみ旨にプスであるならば、滅び行く日本を結果的には救うことになる。韓国も同じである。神がなされなければならない世界の復帰路程のその一角を果たした以上それは地上に必ず現われてくる。それは摂理上の鉄則である。神の心情圏において、理想圏を切り抜けた基準に立った者は、たとえどんな者でも、それをそこなうことは出来ない。これを保護し従わなければならないのが絶対の鉄則である。そういう基準を残した以上は心配することはない。死しても問題ではない。たとえ死したとしても、それはむしろ結果は早く現われてくる。 こういうようなことを考えて来た時に、日本の食口達は今後の復帰路程においての内的心情基準がいかに重大であるかを知らなけゞばならない。神の立場に立って現れば、もし真なる子女があった場合には、永遠に見たいし、立てたいし、住みたいし、永遠に善なる事をなしたいものである。神自体がそうならざるを得ない。永遠というものは時間を超越する。目の前から消えて行ってはいけない。いつでも目の前にあるものとならなければならない。だから神は霊人体というものをつくって時間、空間圏界をのり越える活動を可能にした。霊的体験におきまして、距離の問題、時間空間の問題を解決し得る、永遠に見える世界、天国はそういう世界である。その世界がなければ神は苦しみの神である。愛の基準におきまして永遠の喜びを持つことが出来ない。その基準を現実においてなさなければ、目的完成をなし得た生活基準を復帰することはできない。我々原理から見た場合それを成さなければならない。そういうことが果たして可能であるか、可能であると言うんだね。見たい所は見ることができる。いかなる苦しい辛い立場であっても共に住むことができる。これは今迄の歴史上思いもよらないことであったが、今地上の平画的世界においてなし得る段階に入っている。そういう基準が世界的に立って、これが地上天国である。そして神の愛の関係を結び、世界的天国をなし、神が万物を創造した目的を果さなければならない。そのために、あるいは苦労の道が開かれるかも知れない。しかしこれは神の子としての条件を結びつけるために神が我に授けた賜である。神と共にまみえることのできる、共に住み、共に喜びあうことができればこれ以上の栄光はない。それをなし得た者は最も神に愛される条件となる。大概の人は苦労の道はさけて通りたいと思う、平安な道、楽な道を願うが、これでは神願う世界的復帰の条件を満たすことは絶対できない。しかし、誰もが願わない苦労の道を一個人に立っておられる神と関係を結び、世界、宇宙のためになし得る苦労の道を我は完遂して行く、そういうところに貴重なる内的世界、外的世界まで結びつけて行くことができるのである。自分の願いのままではなく神のみ旨のままに成し得たという境地に立ち得た時、その一点に神は働くことができる。今までの悲惨な歴史はたまらない辛さである。責任ある現世の我々は、任せられた使命を果さねばならない。使命ある自分である在認めた以上行かなければならない。 先生は今から世界的問題を引き起す。世界が何と言っても復帰しなければならない。いかなる迫害があっても、先生の願う信念と願いは変らない鉄則としている。通って行く、つき進んで行く、すべての心情基準をつき進んでい行く。日本の人達は韓国人の文鮮明氏の統一主義は日本を荒してしまうから困る。というものがあるかも知れない。しかし先生はそんな者ではない。日本をあてにするのじゃない。日本を復帰していかに世界的になし得るか。しかし、日本の政府は先生が日本に入るのを好まない。先生は日本の一億国民に言いたい。過去日本を誰よりも日本を愛したのは日本人の誰でもない。神である。日本人が現われる前に日本列島を愛したものは神である。いかなる歴史過程に表われて来た勇士であったとしても、神が日本を愛する基準に立って日本を愛し、日本のために心配する者が居るか。居ない。居なかったならば我に続け、先生はそういう心情を持っておる。アメリカでもそうである。世界いづこへ行ってもそうである。どこの国へ行っても飛行場を降りると「この地へ参りました、この一角に踏み立つその一歩の中に、神の心情のつながりをなして下さい。この国よりも世界万民のために、忠誠なし得る、神願う一人の子女のために私は来たのです。その者のために祝福して下さい。」と祈るのである。 まあ今日こうした先生と相まみえることが出来て感謝するかも知れない。この感謝はどこに感謝するか、先生自体に感謝する必要はない。その感謝を日本に返す。もし神に対して感謝したら、神は喜ばない。神は願わない。日本に帰せ。日本にまで来るのに神は六千年間かかった。日本まで尋ねて来るには本当に遠かった。アメリカから日本まで飛んで来るのには十一時間以上で来ることができる。今のこの瞬間の時間は実に重大な問題を持っている。歴史的距離を短縮し、心情的歴史観を縮めて、全天体を展開し得る内容のすべてがここにおいて出発し得る瞬間かも知れない。その感謝はどこから始まるか、先生からじゃない、神から先生を通してあんた達につないだ。その感謝は先生にするんじゃない。日本に帰し、世界に帰すために神は我々を呼んだのである。先生も今までそのために日本に来た。先生はあなた達が感謝してくれなくてもいい、神自体が認めている、それでいい、自分の一身が死の境地から救われたという感謝の念があったら、その感謝の実体を日本のためにやれ、それが最高の感謝である。天が保証し得る娘として息子としてやれ、日本ばかりでなく世界に向かってやれ。 世界に拡がった聖地を決定した四十ケ国に対して責任を持たなきゃならない。それで今度その四十ケ国に宣教師を派遣する問題は解決して来た、いずれ行くであろう今年は何としてもいかなる辛いことがあってもなさなければならない。しかし日本はこれに抜けて加わっていない。あなた達はどうなの?(いやです)じゃ行け!世界のために行く者は世界に心要な者をやらなければならない。日本で一番えらい者をやらなければならない。英雄をやらなければならない。日本は皆若者だね。神は若い者を願うんだね表平均年令二十四、五才かな。さあここに居る二十四才一体何に使うんだ?何かの責任者にさせる?国家的使命を果たすような責任者、体験が足りない。一体何に使う?使い道がないじゃないの。しかし一つだけ使い道がある。それは兵隊だ、統一勇士というね。この名前は実に青年に対して福音である。青春時代というのは瞬間的に刺戟を求めるものである目的完成のための戦いである。戦いという場合には気合がかかるというんだね。「よしっ」先頭に旗をうち立ててつき進む。しかし三十代過ぎたらもう駄目だ。子供を持って何かこぶがいろいろ問題になってくる。だから若い者がいいよ。しかし年寄りの人も落胆しないで下さい。年寄りは青年に帰れ、これ又一大福音である。誰でもいやになる。しかし、「ああ、六十才ですか、お若いですね、沢山の経験を積んで、これからですよ、青年に立ち帰りましょう」といえば誰でも喜ぶ。実際年を取った人は青年に負けない条件を沢山持っている。何かというと若い者のように眠らない。多く食べない。生活体験これは若者がかなわない。それから子供を持っている。君達みたいに一人ぼっちじゃないから力強いよ。そして青年時代の内容を良く知っている。青年は年寄りの内容を知らない。だから青年より以上まさるものを持っているんだから、これが若返ったら青年より以上の実践を成し得るというんだね。だから年寄りもそう嘆かなくてもいい。若返りの福音である。年寄りも青年の中に入りましたから老いも若きも働いて全日本一億を救くおうじゃないか。 日本の若者達を皆訓練しよう。訓練して先生が与太者のかしらになるんじゃないよ。青の親孝行をする真の子女にならせる。目的はここにある。そのためには、数億万の敵がある。その真只中をつき進んで対決し勝たなきゃならない。そのためのあらゆる訓練を先生はやってきた。一週間も目をつぶらなくても夜通し証をしたこともある。そういう訓練が必要である。先生はしかし戦争に行って戦ったことがないのが残念だ。一騎討ち、のるかそるかのスリル男としてやはりやってみたい。だから先生そういう映画が好きだ。あんた達も見るだろう。女の子は、好きとか嫌いとかそんな映画を見るんだけれど、先生は好きじゃないんだよ。しかしこれは始めからそういうふうに男と女つくられたから仕方ない。とにかく統一勇士としての武装、外的武装をしなければならない。統一理論は内的武装をする。外的武装は実行においてあらわして行く。あなた達はまだ実感として来ないでしょう。勝共活動をした人は少し分るかもしれない。共産党は数が多い。原研は少い。戦争においては多数の者が少数に勝つのが原則である。そうすると、我々は負けてしまう結論になる。原研大きいこといっても共産党に負けてしまった?「ちがいます」数が足りない!何で勝つか?信念と実践によってなしてゆく。 君達ボンネ洞{どん}というところ知っているだろう。釜山の一角だけれども不便なんだ。石ころの多い所でね、そこに先生は避難民として洞窟みたいな住家を作ったんだよ。石をかかえて来る粘土を積み上げて、一人でみじめな生活を始めた。しかし言うことは必ずでかいことを言うんだね。天宙復帰だ、世界はわしの計画通りに結果はなる、復帰はこういうふうになす、とか何か夢のようなこと言ったよ。世界の歴史を一人で変える如くどなりつけた如く言く言うもんだから皆逃げて行く者が多かったんだね。そして、あーあの山奥には不思議な男がおる、背広を見れば上着は米軍の作業服の色さめた物であるし、ズボンは韓国の色あせたズボンであるし、靴は日本の靴をはいている。三国同盟むすんでいる。見ただけでもこれはみすぼらしいこと限りがない。今思えば一番その時代が忘れられない印象深いものだ。万民を最高に慕う深い深い心情基準をもって何時間も座って熱い祈りをした。すると人が向こうから世界の果てからたどってくるんだよ。一日かかった、二日かかった、三日、四日かかった。それ自分で感づくんだよ。目の前に数多くの者が来ている。神の心情を通して先生を中心として慕う者が集って来る。何かある、何ものかそこにあるから女ばかりでなく恋しくて恋しくてたまらない男も自分の恋人を慕う如くに集って来る。そういう心情基準を持たないと完全復帰は出来ない。これは誰が持って来るか。先生も来ない、神様も出来ない、絶対基準である。自分知らずのうちにこの内的心情が連結され、それが連綿と生活基準に脈動して我に刺戟してくれる。こうなると誰も断ち切ることは出来ない。滅びることはない。そうでしょ、神もどうすることも出来ない。先生もどうすることも出来ない。君達もどうすることも出来ない。そこから、平和の世界が始まる。 先生が先に道を開いて、先生がみんな取ってしまったんだから、我行く道はない。それ以上になりたかったにもう行く道がない。しゃくにさわると思ったらちがう。先生が願うのは先生より以上立派な人になれ。神に近寄るのを先生は願っておる。女も男も今戦場に立っておる。その戦場によって勝利圏界を通過しなければ子女になれない。歴史の最頂点に立ってやるべき時が今まであると思うんだね。日本のために、世界のために、神安息のその日のために、我々は生まれ、我々は生きる。今までの縦的歴史における先祖にまさる基準を、平面において、真の父母と真の子女の実体基準において成さなければならない。神と先生と自分と三身一体にならなければ四位基台は生まれない。ここにおいて本当に神を慰め得る、真に愛し得る子にならなければならないということを私達は知らなければならない。 祈り 今に至った復帰の路程において、みじめな神様を我々はありありと実感することができますように導いて下さいますことを切にお願い申上げます。今まで苦しい道をたどって来た弱き者達が集まっておりますが、誰もが願わざる道をたどって行かれるその人の後を、ついて行く運命の境地を離れることはできません。涙ぐましい立場に立つ時、共にその境地に立たして下さいませ、迫害の真只中に立つ時も、又その者と共に働かねばなりません。復帰路程の運命のみじめさをよく知っております。この地上の一角に神の永遠なる足場となるその一平面の土地のないことを知っております。このような悲しみが地上にあらわれたのも我々先祖のあやまちであることを知っております。この道を何十倍、何百倍、何千倍蕩減してこれを果たさねばならない使命を弱き心情圏に神は背負わせ、辛い苦労の道を行けと命令せざるを得ないあなたの苦しみはいかばかりでしょう。神のその心情を察し得ることができますよう、毎日共にあり、共になし、共に我々を励まして、侍べりゆくことができますよう、その境地を永遠に保つことができますよう祝福して下さいますように切にお願い申上げます。我々の願いは自分個人のための目的ではありません。神の名前と共に立ち、共にその目的をなし得る共同存在であるということを実感しなければなりません。いかなる迫害の真只中におきましても、神を忘れることなく、神を疑うことなく、神により生まれた以上は神によってなし、神によって生活することができますように、神によって考え、神によってすべてを解決することができますように、神によらざるものはべてないという立場を保って、神のために働き神のために行くことができますように直接お守り下さい。日本の一億国民を神の御前に復帰する数多くの苦難のいばらの道が横たわっていることは良く知っております。その知っている以上の決意が必要であります。今日の戦い明日の戦い、或いは一年、或いは生涯かけての戦いにおきまして、神に忠を残して行くにまちがいない者として育てて下さいますことを切にお願い申上げます。真の子女として立ち得る喜びの境地を万民と共にたたえる境地までなすことができますよう導いて下さい。勝利の圏界に立って神を直接たたえることができますよう守って下さいますことを切にお願い申上げます。今後のすべての時間あなたの主管圏にまかせますから、どうかみ旨のままに導きまして勝利の圏界まで、すべての喜びの基準としてたちかえることができますように祝福して下さることを切にお願い申上げます。真の父母のみ名を通してあなたの御前にお祈り申上げます。 (アーメン)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.18
コメント(0)
「理想相対」1969年2月4日東京教会 理想相対という問題は、歴史始まって以来ずっと問題になっている。今の世界も、今後の歴史においても問題になる。ここにおいて、理想相対の絶対なる基準はいかなるものであるかを考えてみる。 美人として美男子を望むのが当然であるか。そうではない。我々が「統一原理」によって教えられたことは「復帰」という問題である。神が願う真なる理想相対、夫婦関係が失われてしまったから、このようなやっかいな世界になってしまった。それを取り戻すにはどうするか。男性として自分が喜ぶ女性を迎える、女性として自分が喜ぶ男性を迎える。その立場だけではない。その限界を乗り越えてそこにはまだまだ立体性をかけ、神も喜び、万物すべてが喜ぶものでなければならない。そのような環境というものは、存在するすべてのものが、その夫婦に動員せられて、それに応じなければならない。鳥は彼らにさえずり、ちょうちょは喜んで飛ばなければならない。こういう現象界において神は喜び、人も喜び、万物すべてが喜び、小さな昆虫界も喜ぶ。こういう立場にあって我々先祖たちが出発すれば、それこそ理想郷だ。 女性の心の中にある男性といえば、神の愛するその男性であり、そしてその似合いの男性の心の中には、神の愛するその女性がある。そして共にたたえた場合には、神もそれを望んで喜ばれ、万物のすべても喜び合う。彼らが抱き合うその喜びの基準が、天地共に喜ぶ価値になる。そのようにして一体となる、男女それ自体が、宇宙が一体になるその場であり、神の理想の姿である。創造本然の姿はそうであった。 自己中心愛 それが堕落によって、神と万物の因縁を切ってしまった。自分ながらの抱き合い、自分ながらの付き合い、自分を中心としての愛の占領主義、これを思う者はサタンのものであり、サタンの特権に振り回されていることを知らなければならない。 日本の場合は特にそうだ。若者たちがたくさんいるから、こうして団体生活をしていく中に復帰の実情を知って、厳然としたその位置を固守した立場をもたなければならない。神のみ旨が成就しなかったのは男女の堕落のゆえである。だから、一人で神のみ旨を正すことはできない。男女共同して、そこに神のみ旨を立たせることによって、そこから社会、国家を復帰する立場に立つ。それなくしては、国家も世界も、あるいは天宙も復帰できない、そういう結論になっている。それを責任をもって担当し、忠実にそれを完遂し得る男女こそが、神の愛による因縁を再び結ぶことができる。それが今まで神の心中の望みであったにもかかわらず、中間過程において堕落してしまった。天使長の愛に従って抱き合った結果において堕落世界が始まり、長い過程を通過してきた世界の歴史は、苦悶の歴史となってしまった。これを復帰しなければならない。 愛の絶対基準 愛の持ち主はいったい誰か。愛の主人は誰か。男性の立場からいった場合には、女性がいなければ愛も何もあったものではない。愛の相対基準は男性の前には女性である。女性の前には男性である。しかし、これは相対基準であって、愛の絶対基準にはなり得ない。通過過程の存在としては認めるけれども、その主体としての価値を認める存在ではない。だから絶対的な立場にいる愛の持ち主、主人公は神様である。その神様の愛を、神様のみ旨のままになさずして、それを横取りしようというのは、泥棒である。エデンの園を犯したその犯罪人である。これが分からなければならない。 堕落後の先祖の血統を受け継いできた人類は、蒔いた種を刈り取る時期になったのだから、若者たちが目に余る行動を平気でやるようになってしまった。日本も多いんだろう。青少年たちが、まだ二十歳にもならない者たちが――。これは、そういう種を蒔いたのだから、世界的に、収穫しなければならない秋の時期になってきたのを表徴している。しかし、こういう時が来た場合、理想的な新しい男女関係、理想的な相対基準、これをたたえる、ある者が、ある動きが現れてこないと、神がいないという結果になってしまう。こう考えた場合、理想相対というたたえがこの地上の一角に現れて、騒がれだしたということは、世界においての限りない福音である。神が喜ぶ福音である。 悔い改めよ 統一教会の女性たちは今まで培ってきたその心情を、路傍のつまらん男性なんかに握られるな。踏まれてはいけない。本当は信仰が深くなり、霊的体験をした場合などは、めちゃくちゃに行動できないというんだね。だから愛は神様から。自分からはサタンだよ。神様を押しのけて自分たち同士愛し合おうという、これがサタンの世界である。 今まで自分ながらにそういうことやってきた者がいれば、先生の話を聞いた今から悔い改めなければならない。我々の先祖が誤った行動をして、とんでもない結果になってしまったのだから、あなた方は自分たち同士で結婚したりすれば、新しい先祖になれるどころか、とんでもない結果になってしまう。そのような立場で、愛し合うことは絶対許されない。神にすべてをゆだねなければならない。そうして結婚式をした場合、神様を真ん中において神共に喜ぶその顔を見ながら愛し合える、そういう関係、これが真の神様の喜びである。本来恥ずべきものでもなく、一番貴いものであり神聖なものであったのに、神の法則を犯し、罪と悪の恥ずべきものとして歴史は流れてきた。 ここに真の父母を地上に迎え、新しい歴史をつくり、新しい先祖となるために、真の父母よりその基準が出発しなければならないから、日本における統一青年も、アメリカにおける統一青年も、先生が来るのを首を長くして待ち焦がれている。あなた方もそうなの? (はい)。 気分が良くないね。いろいろやってきたんだろう。手紙をやるのは平気だし、付き合うのも平気、ウインクなんかは、もうちょっとエンピツを買うぐらいの平気な顔をしてやっている。そんな者が祝福を受けるなんて、先生は気分が悪い。本来の祝福の基準は、そんな気持ちの悪い環境は全然なかった。原理から見れば、あなた方にはその資格はない。だから堕落した後孫として、その時の基準を取り返さなければならない。神は真なる乙女と息子、神の愛をたっぷり受けたその子供を失った。そして男女を考えた場合、神を中心とした夫婦関係を失った。そして子供から見た場合、真なる父母の価値を失った。堕落の行動一つで、この三つがみな奪われた。だから、いかにしてこの三つの心情を一時に、蕩減復帰の原則によって、蕩減し、神認め得る基準を立てるかが問題である。 まず神の前に真の娘、息子として神を愛する基準を復帰し、その過程を通過して、年ごろになって神の愛を中心として夫婦が結ばれ、さらに神喜び願う四位基台の善なる子女を生まなければならない。 神の子女としての実感 我々が統一教会に入って信仰していく場合にも、最初の出発点は何かというと、神に対して子供であるという実感、神の愛を中心とした子女の立場を復帰することである。神より愛される自分であり、この偉大なる神のみ言を誇りとして、天宙にそれをたたえ得るような心情になっていない自分であるとすれば、それは神の子として、神の娘として立つことはできない。神の権威を中心として、その基盤が立ったことを、自分が自然に感じるような権威をもたなければならない。堂々とサタンの本拠地へ天の息子としての権威をもって、自信満々、いかなることがあろうとも立ち向かっていける基準、それがあるかどうか。アダム、エバを犯したそのサタンを、屈服し得る過程を通過しなければならない。そうでなければ、祝福の基準は立たない。 我々は世界的なサタンに向かって、より求めていくぐらいの基準、少なくとも三カ国ぐらいの四位基台の国家基準に対して責任をもち得るような基準をもたないと、天的子女の立場、神の子となり得ない。それを考えると、たやすいことではない。しかし、ここにそういう過程を通過して、今までの歴史になかった、誰が見ても望ましい夫婦が地上に生まれてきた。数千年の歴史以来、数えきれない死の境地を乗り越えて、息詰まるその境地に立って、初めて神願う相対基準が成立した。神喜び、万物喜び、歴史が待ち望んだこの喜びの瞬間、永遠なる価値の御父母様は立った。そこから神の真なる愛による、貴い、こうしてたたえることのできる実体基準としての四位基台が出発したのである。 堕落で失われた相対基準 夫婦になった場合、女性は自分の夫に対して、「夫は神の身代わり」と思わなければならない。そういう立場になった場合には、妻は夫の娘にならなければならない。神が失った娘を、夫として復帰しなければならない。神は堕落のために三つのことを失った。 だからその一つ、神の娘を、神の身代わりの夫が復帰しなければならない。奥さんから見て夫はお父さん、お父さん以上に信じなければならない。自分の今までの体験を総合した価値より以上の価値を見いだすような基準に立って、向かい合わねばならない。そういう心情基準を復帰できなければ、サタンが破壊した理想相対基準を取り戻すことができない。その反対に、男性は自分の奥さんに対して、「私は奥さんの息子である」というような心情をもたなければならない。自分の奥さんに対して、自分のお母さんのような、自分が子供になったような心情がわき上がるようでなければならない。 それから、もう一つは、もし私がいなかったなら、一日も過ごし得ない、夜も昼も絶対的に必要な我々であるという心情。そのようにして、夫婦一体となっていかなければ復帰の条件は立たない。 堕落はエバから始まった。何歳の時か。十六歳。未青年。天が信頼すべき父母の基準を女性が犯した。だから復帰の原則によって、真の母になるべきそのお方は二十歳を越えてはいけない。そういう原則なんだよ。そして、先生の聖婚式は四十歳を越えてはいけない。そういう理由で先生は若いお母様を迎えて、娘のように愛した。それで最初の七年間は何をする時期であったか。お母様を育てる時期なんだね。天的な家柄や家法による教育、そうなっている。だから先生は、夜が明けた時にはそういうことはしないのだけれど、寝る時にはずっとそのことをお祈りする。お母様には分からないけれどね。そのようにして堕落の結果失われた、娘とその相対基準と神の前に真なる父母の基準、この三つを家庭において復帰する。これは堕落した人間としては、誰もが行くべき道なのである。 自分ながら相対基準を勝手に決めたとしても、それを天的、地的、天宙的基準として決定するわけには絶対いかない。そういう決定基準を天から受け継いでおられる方が再臨の主である。メシヤである。その基準こそ、歴史が願い求めてきた万民の解放の終点である。だから、その基準が現れた時には、本心に近い、本来の精神に近い者は、そのお方の前に立った場合、説明せずとも、我知らず引き付けられる。 三段階の心情復帰 このように、我々は心情的には三つを復帰しなければ祝福の基準が認められない。神を中心として上の立場から父母の心情、下の立場から子女の心情、そして夫婦の心情を出発し得る自信のある男性、女性でなければ、祝福を望むこと自体が神の掟に逆らうことになる。「そういう立場に私は立っている」という自信のあるものは手を挙げて。日本においては祝福される者は誰もいないね。 いかなることにも、そこには蕩減という一つのことがあるというんだね。それは、あなた方の復活の祭物期間だよ。だから、「蕩減条件、ありがとうございました」というんだね。その内容はいかにして立てるか。それは先生に教わらなければ分からない。聖書にもあるでしょう。「全世界をもうけても、自分の命を損したら何になるか」。どんな代価を払っても、命を買い戻すことはできない。だから我々はそれを願う、命を願う。 だから男女関係において恋愛は許されない。寂しい? (いいえ)。本当のことを言いなさい。「はい、寂しいです」と。寂しい? (いいえ)。教えなくても、本心によって恐れているから分かるんだよ。こういう内的価値がはっきり分かった場合には、自分が過去において、この手で、ああいう手紙を書いた、サタンの手先になって、自分の手が動いたこと、これはたまらないほど悔しい! 何遍泣いても泣ききれない。この身でもって、その時は思いもつかなかったけれども、こういうことをなしてきた。サタンの汚れた血によって汚されたこの肉体。 これを清算するために、自分の肉体を切って処分してしまいたい。しかし、そうして死んでしまうわけにはいかないから、それを清算するための条件が必要である。サタンに使われたこの手、この体、みんな一遍に飛ばしてしまって、神の愛によって始まった肉体はいずこにありや。汚れ果てた関係を保っていこうというのはもってのほかである。こういう心情を体恤した? 神にとってエバは未来の奥さんである。なぜなら、アダムは神と一体となるのであるから神自身である。だから神は、自分の奥さんをサタンによって犯された。そのように神を蹂躙してきたものを、今まで始末していない。神は悲しみのうちにも、創造理想を取り戻す希望を抱いて我慢してきた。それを思う時、あなた方もまた、自分のために神の奥さんを奪ってきて、いい気になって自分の子供たちまでみんな、父なる神を何とも思わないようにすることはできないだろう。 しかし、これが今の堕落世界であり、サタンと神との関係である。そういう基準において、サタンは私たちの、神の怨讐である。あなた方も、本来ならば堕落世界にいた。だから、どうせ復帰の道をたどらねばならないのならば、一遍に終えてしまう。何事をやっても私はてっぺんにいたい、そういう燃え上がる心と訓練と力とで、本然の自身を発見していかなくてはならない。 神の心情をたどる ここで一週間断食した者、手を挙げて。断食したことのない者にとっては、一週間目の夜の十二時三分前の気持ちはどうか、いくら何百冊の本を書いて説明しても分からない。砂糖の味はこうだと、いくら書いて説明しても一かけらの砂糖をなめてみる以上のものではない。だから十字架の道を信じたい人は、十字架の道を実際に行ってみる。神の心情の分からない人は、神の分身のような立場に立たなければならない。そういう中心人物の存在であれば、自分の愛する者を怨讐にも分けてやって、我慢し得るような心構えをもたなければならない。そのように、我々は神の心情をたどっていかなければならない。我々は神の心情から離れた堕落の後孫であるということ自体、神にとって許されないことであるのに、何やら人間を中心とした理論を作ってみたり、自分中心の相対基準とか、何を言うかというんだね。 我々が、「統一原理」によって教えられたのは心情圏である。この心情の基準は、堕落圏の先祖の基準を越えている。だからこれを分かって、もしも堕落した場合には、長成期完成基準において堕落させたサタンよりも怖い。サタンが彼を呪う。だから彼らには救いの道がない。そういう、恐ろしい最後の道があることを知らなければならない。 それは真の父母をわきに置いて、天の神様をわきに置いて、直接、堕落の愛を増し加えることである。先祖の堕落は、まだそういう歴史が始まっていない圏内において犯された。しかし、これは歴史の限界を越えた結果になって、サタンより以上に悪いことになる。そういう背後関係があったこと、今初めて分かったでしょう。 女性は注意せよ だから女性の皆さん、特に女性は注意しなければならない。統一教会に入って従順なる女性は、堕落前のエバの立場である。そして従順なる信仰をもてばもつほど、周囲にいる男性たちがガヤガヤとついてくる。会いたくて、眠れないほどに恋い慕ってくる。男性でも従順な信仰をもてば、世間の女性たちにはこういう現象が起こってくる。これらのことは、エバを見てサタンが燃え上がった現象であり、堕落したエバがアダムを犯そうと試みる現象である。それを体験することによって、この原理は永遠なる真理だということを実感することができる。そうでなければ、原理の価値はないだろう。ここまで乗り越えねばならない。 こういうことを聞いてみるというと、今あなたの基準はどういう基準かが分かるだろう。それでもって、「先生が来たら、さあ祝福だ。準備しよう。先生は人の事情はよく分かる人だから、少しばかりのことはよく見てくれるに違いない」。そういう考えによって支配される先生ではない。 聖書に、「乳飲み子をもつ女は不幸だ」とあるでしょう。自分と切ることのできない関係をもった夫や子供や親をもった人は、いかにその境地を逃れるか。こういうような基準を解放するために、神は民主主義や自由主義を広げた。離婚も自由自在、子供が親に反対するのも平気、親の苦労を知らないことが、今の常識となっている。もちろん、そのようなことを神は願わない。だから、それを逆のほうへ飛躍させていくのが神の戦法である。みんなこうなっている。 すべてを告白して 祝福されるには蕩減されなければならない。昔、汚れたことがあったら、洗ってしまわなければならない。自分の力によってそれをすることはできない。助け手が必要である。弁護士に助けてもらうためには、内心のあらゆる事情までみんな告白して訴えなければ分からない。そうすれば弁護士は、自分のことのような立場に立ってそれを弁護してくれる。そうでなければ助からない。 それと同じように、先生はあなた方のとりなしの弁護士になってやるよ。だから、あなた方は、「ああ言いたくない」と思っても、先生には誰も知らない自分だけの秘密をみんな告白しなければならない。嫌なことがまたできたと思うの? 先生はもっと嫌だよ。本当は、先生の仕事はこういう者に付き合ってやるのが使命ではないよ。しかし、祝福するためには、こういう立場を通過しなければならない。汚れた者であるけれども、消しゴムやインク消しで消して、白い紙に戻したという条件に立ってこそ、初めて祝福がなされるのであって、それができなければ、もともとめちゃくちゃだから、祝福も何もあったものではない。そうだろう? 青い目をした西洋人も、でかい黒人も、アメリカ人もみんなそれをしなければ、先生は「まあいいよ。わしは知らん」と言うよ。 先生はみんな知っている 先生には、こういうことがあるんだよ。霊界のほうから、「先生聞け」と言ってくる。聞いてみれば、みんなやっかいなことがあるんだよ。何のことか。みんなお金のことか男女関係のことだ。先生はみんな分かるよ。だからそんなこと聞きたくない。しかし、彼らはそれをどうしても解決したい。今まで真っ暗な闇の中に隠されていたものが、白昼の中に飛び出すことになる。それはサタンの陣営が、白昼の中でボロボロになってしまうことである。だから新しい世界の出発基準が立つというんだね。 日本のほうでも、祝福とか何とかということで、男女関係がぼちぼち出てきている。自分勝手な約束をしても、先生は知っている。知られたくないと思っても、どうせ先生に告白しなければならない。兄弟以上の男女関係で、互いに見る者はサタンの実体と同じだ。そういうものは絶対に許されない。そういう要素が少しでもあれば、切っていかなければならない。 先生は今まで、新しい祝福、新しい家庭のための蕩減条件をあなた方が立てるようにしてやって、みんなの重荷を私が責任をもって背負ってやろうというふうにやった。しかし、先生が責任を果たしたにもかかわらず、あなた方が天法を犯したとするならば、それは何十代の子孫にまで引っ掛かる。恐ろしいことだよ。もしも、統一教会の心情圏を土台として、それを主張してきた者が、自分の気ままに付き合って、結婚して子供を生んだとするならば、原理の限界を越えてしまう。それを誰が責任もつか。神も責任もたない。旧約聖書では、淫行や姦淫の罪を犯した者は、石打ちで殺した。それ以上の者はどうするか。だから、日本においても、こういうことはもっと徹底しなければならない。 確固たる主体性をもて 蕩減は誰によって統轄してくれるか。絶対に自分である。主管圏を失ったのが堕落だ。ほかからいかなる干渉があろうとも、自分ながら確固たる主体性をもっていく。人がいかなる道を行こうとも、我行く道は忙しい。横でガヤガヤと何か言っても、それを気にしている暇がない。そのような現状に、いつも追われている基準を立てなければならない立場にある。夜寝る時間がない、座って御飯も食べられない、腰かけて食べる暇もない、そういう切迫した復帰の情にかられるあなた方でなければならない。 神は七〇〇〇年の歴史を願って、今まで辛抱してきたのであるから、我々は最初の七年期間に蕩減せずしては、神の前に立つ資格がない。六〇〇〇年の歴史をいかに七年間に縮小して蕩減し、これを心情的に受け継ぐことができるか。これは容易なことだと思う? 若い時に精いっぱいやっても、やりきれないような復帰の路程が残っている。勉強するのも、何になるのも、すべてこのためにやる。 先生がここまでくるには、どのくらいの蕩減の価を払ったか、どのくらい真剣だったか分からない。牢屋が問題ではない、拷問が問題ではない、首が飛ぶのが問題ではない。一度に時来たるその時を願って、黙々と何十年と全生命を懸けてきた。その真剣さは神を感動させ、神が同情せざるを得ない。だから先生は黙っていても、世界中の霊能者は先生のために動きだしている。世界の津々浦々で、先生の成功のため、霊界を総動員している。 合同結婚式 ここで結婚式というものを問題にしてみよう。これもみんな蕩減歴史を通過している。なぜ合同結婚式をやるか、それを知りたくない? もしも、祝福という問題がエデンの園で行われたとしたならば、天宙の大事件である、国家的事件である。イエス様の場合も、少なくとも結婚式の晩はイスラエル全国的なものにならなければならなかった。こういう、エデンの園において天宙的な基準を成し得なかったことを、原理によって蕩減するために合同結婚式をするんだよ。 だから四三〇組の時は、世界的問題になっただろう。それによって、世界がいろいろ問題にする。だから、世界的結婚式をしたことになるよ。神の結婚式は、それぐらい世界的なことをしなければならないというんだね。自動車は少なくとも何百台動員するとか、道端の人やソウル市内のすべての人が見るようにすれば、何千万人の人を動員したことになる。 蕩減が式場を通過 統一教会の結婚式には条件がある。今までの結婚式は自分中心のものだったけれど、我々は神に喜びを返すような内容をもって、蕩減しなければならない。我々の結婚式というのは、蕩減だけが式場を通過するんだよ。原理ではそうなっている。イエス様の成し得なかった新郎、新婦の基準、神のその恨みを通過し得たことを原理は明らかに説明する。そういう蕩減条件を、先生はいかにして考え出したか。蕩減献金というのを知っているだろう。汗を流しながら得たものを献金する。一時にしてしまうのではなく、四年間にわたってする条件。そういう条件を先生はいかにして研究したか、いかにして分かったか不思議だろう。先生の頭の装置がどのようになっているか分からない。神が教えれば、それは蕩減にならない。アダムが自ら知って解決しなければならなかったことを知らずして、六〇〇〇年歴史は延長されてきた。 だから、先生は自ら考え出さねばならない。それを先生一代において解明して、実行して勝利の旗を立てたということは、天宙的、歴史的な成功である。だから先生は勝利者である。死んで霊界にいる聖人たちも、イエス様も、孔子だとかいろいろな人たちも、みな先生をあがめるようになる。そうなるから霊界も統一される。地獄も解放される。本当にそういうようになっている。信じられなかったら、日本の有名な霊能者のところへ行って、先生のことを聞いてみれば、すぐ分かる。そういう霊界の背後的組織は地上界に連結されているから、一国、二国、三カ国が立つようになれば、世界は乗っかってしまう。そういう希望をもって、我は行く。 一点一画も許しがない 結婚した場合、四十日の蕩減期間があるよ。聞いたことあるでしょう。それは、イエス様の霊的復活ではなくして、死せずして復活の祝福圏に入るための蕩減としてやらなければならない。それは夫婦になって相愛する立場において、ある規則を通過しなければならない。こういう難しい蕩減の道を勝利するために、自分の気ままな男女関係とか、そういう気持ちとか、そういう話しかけとかいうものを、今晩からは一切してはいけない。 祝福には必ず蕩減がある。間違いなくある。そこには許しがない。だから恐ろしい所だよ、統一教会は。これは脅迫ではないよ。原理がそうなっているんだよ。原理の計画圏には一点一画も許しがない。それを乗り越えなくては、神の計画はなされない。そして、乗り越えればサタンは讒訴できない。だから先生は、サタンが善に対して使った手段でもってサタンを打ったとしても問題はない。だから今からが問題だ。これが統一教会だよ。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.18
コメント(0)
「復帰と祝福」1969年2月2日東京教会 今まで歴史上において、人類歴史は復帰歴史であるということを知った人はいない。歴史の背後関係を、復帰という問題で決着をつけたということは、我々統一教会が歴史に残した大きな功績である。 この歴史の背後の大本となるのは神であり、神が責任を担当して、今まで歴史をずーっと支配して発展させてきた。そのために、数多くのいわゆる「復帰」という使命を負わされた個人、家庭、氏族、民族、国家があり、それによって段階的に歴史は発展してきた。この復帰歴史の完成、復帰の目的がいつ成し得るのか、これが歴史の問題であり、あらゆる問題解決の基準になっている。 統一教会の使命 復帰完成ということを考えた場合、完成されなかった基準、アダムにおいて堕落した基準、イエス様において成就できなかった基準、それらすべてを現世に引っ張ってきて、解き明かし、再び蕩減して、復帰していかなければならないのが統一教会の使命であり、先生は自らそれを実行し、先生のあとをついてきてくれる世界に広がった統一教会の食口たちに、それを行わせるのが先生の使命である。あなたたちは命令されて、それを行うのが使命である。 そういう立場に立つ男は、アダム以上の、イエス様の身代わりとして不足のない基準に立たなければならない。そういう立場に立つ女は、エバ以上の、イエス様の新婦として迎えられるに不足のない基準に立たなければならない。統一教会の使命はそのような男女を誕生させることである。イエス様は十字架に追われていく結果になって、いわゆる地上的基盤を完全に失ってしまった。こういうイエス様の成し得なかったすべてのことを一人一人が蕩減し、イエス様以上の基準に立たなければならない。 すべてに反対される道 蕩減するには数多くの混み入った歴史的背後関係によって、現世に基準を立てねばならない。そういう立場において、すべての者から反対され、これと戦って屈服させなければ、蕩減復帰はできない。統一教会の今までの道は、そういう反対される道だった。ただ追いに追われ、打たれに打たれて、それでも何の弁解も許されなかった。個人から、家庭から、氏族、民族、国家から追われた果てに、最も孤独な立場に立たされ、そして最後の心情をもって神を慰めなければならないのが統一教会の歴史であるということを、あなたたちは知らなければならない。それは誰にも分からない。先生にしか分からない。イエス様においては、最後には三人の弟子からも反対される結果になった。だから、この道を世界的に開拓していく時、三つの国家から反対されなければならない。 三人の弟子は世界的国家の代表として象徴されるから、三つの主権から反対される。一つの民族内、すなわち、長成圏内で迫害されるのではなくて、これは全体的、世界的情勢の波のまっただ中にあって、そういう蕩減条件を立てなければならない。こういう中にあって、勝利の基準を積んできたのが第一次七年路程であった。一九六八年からは第二次七年路程が始まった。このような蕩減の道を先に勝利していかなければならないのは、イエス様の失敗の基準を取り戻し、アダム、エバの堕落の基準を取り戻し、内外ともの蕩減基準を通過し得なければならないからである。 今あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的記録であり、これをいかにして蕩減すべきかということについては、まだまだ述べていない。それは先生自身が闘って、勝利して切り開いていく。韓国においても、今や統一教会は、いかなる力を合わせても、どうすることもできない、この地上から抜き取ることのできないその基準を完全に勝利した。もしも悪のほうから統一教会を打とうとすれば、神御自身がこれを守ってやらなければならない。神が守って、サタンのほうから讒訴することはできない。そういう貴重な勝利圏である。これは、先生を中心として二十一年間で成してきた。神がイエス様を中心とした二〇〇〇年間、あるいはそれ以前の四〇〇〇年の間望んできた、イエス様の実体を中心とした過去の失敗の基準を、我々が終末の時期において成就し得たということは、歴史的、世界的、天宙的に喜ばしいことである。福音といえば、これほどの福音はない。 いかなる人間といえども、縦的讒訴条件を免れることのできる者は一人もいないこの地上において、縦的讒訴条件ばかりではなく横的讒訴条件までも、我々は飛び越えることができる、こういう時を迎えたということは、これ以上の幸せはないということを、まず分からなければならない。蕩減復帰は反対であるからである。 アダム家庭においては、アダムの堕落をカインとアベルを中心として反対に上がっていって復帰する。だから、カインとアベルを蕩減しないと、真の父母なるメシヤを迎えることはできない。そういう立場から考えると、来たるべき再臨のイエス様、神の心情に一体化し得たそのお方の来られる道は、平担な道ではなくして、イエス様の最後に負った十字架から戻って来なければならない。ゲッセマネやカルバリの最高の苦しみのまっただ中から、生死の問題、のるかそるかの問題を通過して、勝利し得た生きた祭物として立ち返らなければ復帰の足場はできない。 牢屋から出発した統一教会 だからメシヤとして来られる方の最初の道は、一番近いところ、一番遠いところ、すべてから反対される道である。まあ、日本にはそういうような歴史はなかった。世界的な摂理に対する神のみ旨は、先生を中心とした韓国にあったからこそ、そういう環境がつくられたのである。そういうことを考えてみるとき、我々は苦労のどん底から復活の道を開拓していかなければならない。だから、最初の統一教会はどこか? 牢屋である。福音の初代教会はどこから始まったか? 牢屋である。牢屋から第二イスラエル歴史は始まった。それを復帰するには、自然になっていくのではない。蕩減という問題が引っかかっている。だから統一教会も牢屋のどん底において、神直接に働いて、共に基盤を成すような過程を通過しなければならない。 イエス様が牢屋に捕らわれた時には、弟子たちも追いに追われて、みな逃げてしまったけれども、今度はそれと反対である。恐ろしい、命懸けの立場において、皆、真正面から一体となって、自分から死の境地を責任をもって先頭に立ち得る者でなければならない。 もともと、どん底から上がってきて七年で通過すべき神の摂理であったけれども、二十一年もかかった。民族共に迎えたならば、民族を代表し得る中心の宗教が迎えたならば、七年間でよかったのだけれども、我々はその環境を得ずして、二十一年間という路程を通過するようになった。 あなたたちが知っているのは、一九六〇年からの第一次七年路程だけれども、その背後関係は知らない。その背後は神の家庭の歴史であり、この地上における神を中心とした氏族の歴史である。だから、この歴史を知るには祝福されなければならない。歴史基準においての相続権を受けなければ、それを教えることができない。その路程を完全に知った時、ああ復帰の歴史はこういうようにつらこをたどってきたんだな、ということを感ずることができる。だから祝福がいかに貴いかということを、我々はさらに考えなければならない。 生死を乗り越えよ そういうような立場を望んでいる我々にとって、まず第一に問題になるのは何か? み旨のための生死の問題である。イエス様のゲッセマネの祈りにおいて、自分の思いではなく神のみ旨どおりになし給えという基準、それ以外にない。個人の願いにおいては十字架の道を願わない。しかしこの道を行かなければ、神の摂理は成されない。自分はみ旨のために生きている以上、み旨のために行かなければならない。そういう基準において、生死の問題を乗り越え得るだけの確実な自信をもたなければ、復帰の道を迎えることもできなければ、行くこともできない。 だから、いわゆるみ旨のために命を捧げ得るような自主性があるか。それも、自分一人ではなく、それを万民に訴える立場で、自分のあとに続く弟子たちを、その平安な心情で慰め得るような余裕しゃくしゃくたる態度をもち、しかも命を懸けた自主性をもつ者となり得るか。それが問題である。私はこういうような若い娘であり、こういうような美しい容貌をしていて、どこへ行っても、誰からも迎えられるにふさわしく、特に欠点もない、そういう乙女が命懸けの仕事など気に食わない。あるいは、我は男として、これだけの体格があり、家柄やその他の外的条件から見ても、天下どこへ行っても不足なところはなく、我願うことはことごとく成し得る。このような素晴らしい男が、みすぼらしい格好して、惨めな命懸けの仕事など、という方向に考えてはいけない。冒険の道、命懸けの道を行くにはつらい顔をしてはならない。 もしも、イエス様が十字架を背負ってカルバリ山上へ向かう時、ああ悔しい、こういうことをやるんじゃなかった。男が三十三歳にもなって結婚せず、こういう運命になってしまった。これでは男の使命は、男の価値はどこにあるかと考えたら、嘆息の種はいくらでもある。しかし、それは問題ではない。我は行く。襲いかかる十字架の重荷も、それが問題ではない。体力尽きて倒れても、その内心は倒れない。堂々たる気迫をもっている。道端に自分の母親や僕のヨハネを発見して、今後の問題を頼むような余裕のある態度、世界の歴史のいかなる偉大な人物といえども、その内心において神と通じた強い決意をもった男は一人もいない。その恩恵によって歴史は新しい命の方向に向かい、そこから地上における神の出発点となった。 現在までに、二〇〇〇年の歴史が通過したけども、イエス様の精神は汚れずにそのまま受け継がれているこの時代に生きる我々は、いかに幸福な者たちであるか。その伝統を直接受け継ぐべき偉大な使命をもった我々は、命一つぐらい問題ではない。だから、死の暗闇の中に叫び上がって、神の心情の光でその暗闇を切り裂き、そして世界にその光を輝かせるような、そういう内的歴史をもった男になっているか、女になっているか。それが問題である。 もともと堕落は死の境地に陥ったものであるから、救いはその境地を乗り越えなければならない。どうせその過程を通過しなければならない運命ならば、気持ちよく、男らしく生きる若者たち、青年たち、壮年たちにならなければならない。これがあれば世界は新しい方向に進む。我々はその母体をなす心情に燃え上がっている。あなたたちの内心には、そのような生死の境を乗り越える自信があるか。先生は何十、何百、何千、何万と生死の境をにらみつけて対決してきた。そういうような運命が、いつ再び来ても、たとえ足を切られても、目玉を抜かれても、首が飛んでも、出発した決定の路程に消えていく。そこには何一つ条件はない。だから死んでしまわなければ勝つ! 神の願う勝利 この前、五十名近くの一行が韓国に来て、釜山の聖地の所へ行ってみただろう。そこは墓場の側で、石ころだらけの谷で誰もいない。そういう所に先生は豚小屋みたいな、仮小屋を作った。しかし、その小屋の中に寝る時でも、この地上のいかなる栄光の宮中に住む人より、神の子として親孝行し得る第一の道を歩んでいた。そして、誰も追いつくことのできない深い内心の基準に到達することが望みだった。 その当時は、見ただけで外面的に何でもない、一文の価値もあるようには見えない。ひげが伸びているし、顔は黒くなるままになっているし、服装は西洋式を混ぜている。しかしその話は、これはでっかいものだ。大砲より、原子爆弾よりも大きい。あんまり大きいものだから、みな驚いて逃げてしまう。先生はそういう環境を味わってきたのだけれど、君たちはそれは分からないだろう。そういうことを話したら、五十年もかかるよ。 君たちはいくら苦労して活動してその環境から追われても、自分自体を神の前に永遠に残さなければならない。イエス様は外的に、十字架路程に消えていったのだけれども、内的に神の心情に焼き付いた基準は、神御自身報いざるを得ない。イエス様がそれを願わないと言っても、神の心情を抜き去ることはできない。イエス様は四〇〇〇年の歴史上、最初の子供である。ここには三〇〇人近くいるだろう。この人たちがこういう決心だけするならば、日本四十三県の問題はふっ飛んでしまう。勝利というものは過程において決まるものではなく、出発の時の内的基準によって決定された結果、表れてくるのが勝利である。これが分からなければならない。その勝利が、生死の境を何百回も見て成し得たものだという場合には、それを奪い返すためにはそれ以上の決意が必要である。神は永遠なる勝利、サタンも追いつけない勝利を願っている。 日本の現状にあって、まあ先頭に立って、厳しいつらい中を自分ながら苦労してきたけれど、ここでいいだろうか、効果があるだろうか、と思うかもしれない。しかし先生にはちゃんと計算の世界がある。だから統一教会が教えているすべてのものが、歴史を動かし歴史に残っていく。考えもしなかった、思ってもみなかったことをあなたたちに教えているんだよ。日本でも、相当統一教会はうわさになっている。若い青年時代をみな費やして、苦労の道を重ねていったいどうしようか。やっと東大に入学して、親兄弟や知人からたたえられていたのに、統一門下に入って、家中がめちゃめちゃの結果になってしまった。そういう人がたくさんいる。 しかし、男であるならば世界を舞台にしなければ狭い。いくら苦労しても、日本圏内における苦労は神の理想圏に入り得る苦労ではない。統一教会は何か。神の理想圏に入り得る基準を目的とするから、それを知った我々は、より大いなる価値を中心とせざるを得ないという結論に達する。 迫害される道を行こう イエス様の死の立場において、神はこれを復活させられた。ここから新しい世界が出発してきた。これを反対に蕩減していかねばならない。三人の弟子の信ずる立場、十二弟子、七十門徒、一二〇門徒、反対からいうならば、一二〇から追われ、七十から追われ、十二から追われ、三人の弟子から追われて十字架まで行かれてしまった。これを蕩減しなければならない。そのためには、死ぬか生きるかの問題を中心として、神の立場に立ち返るか、立ち得ないか? これをまず決定しなければ復帰の路程はもどかしくて仕方がない。 そして、その基準が立った場合には、迫害の道を通らなければならない。今は民族的立場に立っている。国家基準を中心として我々は責任をもつ。自分の三代圏以内において、完全にそこまで復帰させ得る決意をもたなければならない。なぜ三代かというと、それは原理数で、四位基台というのは三代である。そういう決意をもって乗り越えて行かなければならない。 蕩減献金と三子女 イエス様は真の親として、真のお父様として来られた。その方をユダが売って、死の谷に陥れたその行動は、結局、世界万民がなしたと同じになってしまう。それをなしたる子孫として、摂理圏内にあるすべての民が、自分の真の親を売った結果になってしまった。これを蕩減しなければならない問題として、蕩減献金の問題がある。真の親を売ったのを蕩減しなくてはならない。一人の行動によって、真なる親をこの地上から追い払う立場になり、四方八方に神の摂理は完全にふさがれてしまった。その結果、四方八方にサタンははびこってしまった。 これを蕩減しなければならないのが蕩減献金で、四年間三数に値する金額を、真の親を売ったその実体の値として、神のほうにお返ししなければならない。四年間というのは東西南北に値し、韓国においては三〇〇〇円を四年間、そのお金は汗と涙と自分の死の値よりも精神のこもった、神のみ旨を思う基準において、勝ち得たお金を天の前に捧げる。この問題が蕩減路程に残っている。 その次は三人の弟子、三主弟子の問題である。イエス様を中心として一体となるべき弟子が、イエス様を裏切るような立場になったのだから、これを復帰しなければならない。それから十二弟子、七十門徒、一二〇門徒という問題になっている。これが蕩減路程において果たさねばならない我々の路程である。我々においては三人の信仰の子供を立て、それを中心として十二人、七十人、そして一二〇人の門徒を立てねばならない。 これが、先生の今まで成してきた二十一年間の路程であった。イエス様がこの地上で果たし得なかった運命は、神の悲しみであった。これを我々は解決しなければならず、それが統一教会の使命であり、我々の行くべき公式路程である。そして氏族を復帰して、新しい先祖の基準をつくり、民族復帰をし国家、アジア、世界という基準に立って発展させていこうというのが、神の摂理の行くべき路程である。 迫害の中での聖婚式 一九六〇年の聖婚式の背後には、過去四〇〇〇年に重ねて、イエス様から二〇〇〇年という、歴史の過程に引っかかったすべての蕩減条件を果たさねばならなかった。その内容において世界的であり、天宙的立場に立たされているにもかかわらず、現実には数少ない人々によって成してきたのであるが、その迫害たるや想像に絶するものであった。 一九五三年から六〇年までの準備の期間は、迫害の時期だったのである。そこには、少なくとも三六〇万以上の人が迫害の旗を立てて、教派としては三つ以上、そして、その時代の国家としては三主権以上の数多くの迫害のまっただ中におかれて、それでも蕩減条件を勝利の圏内に立たせられたのが、一九六〇年における先生の聖婚式であった。これが、統一教会の運命を決定した最初の日である。 これは、この地上において記念すべき世界的天宙的大事件であった。世界的基準における、縦的蕩減条件を横的にこの地上に解決する実体として、霊肉ともにおいて勝利の基準を成したということになる。それをするには、先生の聖婚式の前に三人の弟子を、反逆したその弟子を復帰しなくてはならない立場にあった。目的は何かというと、我々の親たるアダム、エバが夫婦の関係において堕落した。堕落は夫婦を通して成されたのだから、復帰は一人ではなされない。男一人では復帰できない。男一人では救いは完成されない。女一人でも天国にいかれない。したがって、二人でもって解決していかねばならない。真の父母がアダム、エバの基準を、この地上において立てなければならない。それには、三人の弟子の約婚という問題を中心としなければならない。 イエス様の三弟子 復帰はアダム家庭復帰を目標として成されるから、それがノア家庭に移され、ノアの家庭を中心として、世界のすべての人々を、洪水の裁きにおいて滅ぼし、サタン侵入の条件を離れて乗り越えた家庭基準を立たせて、摂理の基盤を地上に置こうというのが神の摂理であった。それがアブラハムに、イサク、ヤコブを経て、モーセの時代に移り、イエス様へとずーっと延長されて、我々の時代まできたのだから、その道を蕩減しなくてはならない。アダムの家庭基準を蕩減しなくてはならない。その失った三人の子供を復帰せずして、真の父母の立場に立ち帰ることはできない。 イエス様において、三弟子は絶対必要であった。その三人は何を象徴するかというと、アダム、エバにおいて三人の天使長がいたというんだね。三人の天使長が一体となってアダム、エバに服従し得なかった、侍らなかった。その結果堕落世界になったのだから、完成する父母の境地を乗り越えるには、三人の弟子の基準として、完全に侍り得る三人の天使長たるものがなければならない。これを果たさなければ、サタンを地上から追い払うことはできない。霊界において三天使を象徴し、堕落圏内において三時代、旧約時代、新約時代、成約時代の三時代を通過しながら、カインがアベルに服従し得なかった歴史を、完全に蕩減するには、第一のアダムの家庭におけるカインの代表、イエスの時代におけるそういう代表、再臨の時代におけるそういう代表、この地上に縦的歴史過程を通過し得るアベルに対して、カインの三人の代表を縮小したその三人が、いわゆる主弟子である。 霊界においては三人の天使長、地上界において服従し得なかったカインの代表が、旧約、新約、成約の過程において、縦的歴史観をつくってこられた再臨の主によって一時に屈服される。アダムの身代わりはイエス様であり、イエス様の身代わりは再臨の主である。そのアベルに服従し得たという三人の信仰の子女をもたなければ、真の親の立場に返ることはできない公式となっている。自分の生死の境を乗り越え、迫害のまっただ中にも従いゆく、親孝行になりきれる三人の弟子をもたなければならない。その基準が一九六〇年の四月に立った。 復帰路程においては逆に上るんだから、祝福の子供の立場に立っている者が先に祝福される。家庭圏はヤコブの家庭だから、十二基準を基盤としなければならない。三人の弟子、三人の子供を中心として、そのような基準を通過しなくてはならない。 十二弟子の祝福 アダム家庭において、カイン、アベル、セツの三人の復活体として相対基準を成し、それを約婚の立場を乗り越えて実体的に親の立場を決定したのが、一九六〇年の聖婚式である。神の恨みとするアダムの家庭における三人の子供と父母が一体となったということが、地上において歴史始まって以来初めて、一九六〇年に韓国で成就できたというのは世界的なことであり、新しい歴史の運勢が回り始めたといえる。すなわち、一九六〇年四月、十二数を中心として祝福した。 この基準は歴史的に見て何に値するかというと、イエス様の十二弟子復帰の基準に値する。聖書にも十二真珠のたとえ、イスラエルの歴史も十二数を中心として問題になっている。だから、二〇〇〇年前イエス様が成し得なかった、二番目の天の息子としての使命を蕩減しなければならない。それを天地に解決しないと、霊的キリスト教の理想が、霊肉の地的基準の基盤をつくることはできない。神の悲しみは何かというと、地上において足場となり得る個人、家庭、民族、国家がないことである。これを立たせるためには、足場の基点となる個人、家庭の基準を成さねばならない。その家庭はノア家庭、ノアの三子息を中心として、アダムからノアまで十代、そこにカイン、アベルを兼ね、ノアの子供セムとハムを兼ねて十二代。そしてノアからアブラハム、イサク、ヤコブまで十二代になる。 ここにおいて十二人を復活させたのは何かというと、アダム家庭からアブラハムまでの失った先祖たちを復活成し得た結果となる。言い換えれば、縦的蕩減を横的に成し得た結果となる。だから、アダムからノアまでは十代だけれども、摂理上双子を中心として、カイン、アベルの基準を見た場合、十二代になるというんだね。その横的関係を実体圏において、十二の弟子を祝福して蕩減したということになる。サタンがいつも讒訴し得る第二の位置を、勝利圏に収めた結果になる。 ノア家庭はアダム家庭の身代わりであり、ノア家庭を中心として復活される基盤をつくったのだから、アダムよりノアまでのカイン、アベルを合わせて、すべて十二代を復活させることができる。霊界に行っている霊人体の立場を、地上において復活し得る窓口が開かれ、霊界解放の基準が、地上に決定することができたということである。 三種の家庭 アダム家庭、アブラハム、ヤコブ家庭という十二数を地上において初めて、縦的関係を横的関係において成し得たその基準がヤコブ家庭の祝福であって、統一教会の本部においては、アダム家庭、ノア家庭、ヤコブ家庭を第一家庭、第二家庭、第三家庭という。第一家庭は既に結婚していた、自分の気ままに結婚した人たちを祝福した十二人の人たちであり、ノア家庭というのはイエス様の立場に立っているような者。それは何を意味するかというと、イエス様は二〇〇〇年間何を願ってきたかというと、結婚式を願ってきた。祝福のその一日を願ってきた。その立場から、愛の問題を中心として関係はもっていたけれども、結婚式を成し得なかった者たちを引き集めて祝福したのがノア家庭である。これはイエス様がずーっと望んできた立場であった。ヤコブ家庭は、これは善なる男女で。このようにして三十六家庭を祝福した。 ここにおいて統一運勢、天地ともの天宙統一の基盤を、地上において決定することができたということになる。三時代を通して先祖が目的を果たし得ず、失敗してきた神の悔しい歴史を横的現世において勝利成し得たというのが、統一教会の先生の成してきた歴史である。霊界が地上に降臨した結果になっているというんだね。だから、神様はどこにおられるかというと、神臨在なし給う所は天上ではなく地上圏であるという、その基準が成し得たという結果になってしまう。神様が地上にいまし給うようになったのだから、地上的世界発展基準がそこから始められることになる。 一九六〇年からの七年間は、神の地上降臨の基盤を完成する期間であったというんだね。 七十二双と一二〇双 次に子女の問題がある。カインとアベルの闘いにおいて、カインがアベルに服従し得なかった先祖たちの立場であったのが、今まで延長の歴史となってきた。それを蕩減するには、先祖たちの一家庭、一家庭の前に、カインとアベルの服従の基準の蕩減をなさなければならない。それが七十二家庭である。三十六の二倍である。先祖の成し得なかった四位基台、サタンの讒訴条件となっていたものを、神のほうに勝利圏を成し得たのであるから、サタンは後退せざるを得ない。縦的関係を全部地上に引き降ろしてしまった。父母の地上的世界的発展の基準を立てた統一教会におきまして、七十二双の祝福とともに一二〇双の祝福がなされた。一二〇双は何かというと、世界万国の代表を象徴したものである。 イエス様は、霊的において、世界的出発するには一二〇の門徒を世界代表の勝利圏の立場に立たせなければ、世界発展をなすことはできないわけで、これを霊的でなく実体的に、先生が統一教会において果たさねばならなかったのが二十一年間の使命であった。それが成されたのだから、次に何が始まるか? 万物祝福。つまり聖地決定ということになる。神の願う人を探すことができたのだから、次に万物を得なければならない。これは一九六五年の世界聖地、四十カ国を中心として、一二〇カ所の聖地決定であった。これを世界的に成して、その運勢を大きく転換させるポイントとしてきたわけである。 神の日の決定まで 次に、素晴らしい日の一つに「父母の日」がある。我々堕落した後孫において、神から喜ばれる父母をもつことができなかった。しかし、これを復帰することができた。再び迎えることができた。これ以上の喜ばしいことはない。そして「子女の日」を迎えた。こうした、堕落の結果において失われた日を人類は迎えることができなかったのは、復帰の路程が分からなかったからで、これを成し得たということは、歴史的福音である。 これによって、一九六八年一月一日「神の日」が決定された。「神の日」の決定とともに、地上に神の臨在の基準を立たせることができた。したがって、統一教会の発展は、地上において急速に日を追って進むであろう。そういう基準を成し得たのだから、統一教会の真理を中心として、霊界解放とともに地上解放、地獄を解放ということに発展していく。なぜかというと、神の日を迎えるその時には、地獄もサタンもない基準に立ち帰るということは理論的に可能だというんだね。「神の日」の決定とともに、先生の使命は完成された。 イエス様の失敗を復帰 先生は韓国に追われ、既成教会に追われたけれど、イエス様においては、ユダヤ教に追われるようになり、その身において公式路程を開拓しながら、新しい、ユダヤ教を乗り越えて、ユダヤ教の失敗を取り除き得るイエス様の福音を中心とした、第二の新生のユダヤ教を立てようと出発したのが公式三年の路程である。それは個人から家庭、家庭から氏族、そして新しい民族と……。これは、イスラエル圏のサタンを屈服し得る、霊肉ともの永遠の勝利の基準を立たせようとしたのだが失敗した。 先生は、ユダヤ教においてイエス様が反対されたのと同じように、既成教会に反対されて、サタンのまっただ中に入って闘って、そうして反対に元に帰さなければならない立場に立ってしまったのだから、追いに追われるような身になって、先生は、北韓の怨讐の本拠地である平壌への道をたどらなければならない。神が祝福して、今まで基盤をつくっておいた本郷の地である自分の故郷のソウルをあとにして、怨讐の本拠地であるところに行かねばならない。そこにおいて闘って、また闘って讒訴条件を乗り越えてこなければ、第二の出発をなし得ない。それが、先生の共産圏においての獄中生活であった。 獄中生活においては、イエス様が追われ、弟子がみな反対するというような立場ではなくて、その牢屋の中においては歓迎されるように十二数以上の弟子を霊界から伝道し、先生に結ばれる基準が成された時、そこから、それ以上の基準が、新しい歴史が出発していったというんだね。 そのようにして、南のほうに来て、新しく反対する既成教会を押しのけて、先生を中心としてあらゆる新しい教派、いわゆる今までの世界的基督教のすべての使命を一人において果たし得、結合させようとする神のみ旨を行ったのだけれども、彼らは迎えなかった。そこで、我々はそれを押しのけて新しい教派の基準として、彼らに比肩するような教派圏をつくっていった。彼らなくしても、我々は神の摂理を受け入れて果たし得るような基盤をつくったのが、韓国においての統一教会であり、統一教団である。 そして、一九六八年をして既成教会とアカデミーハウスの問題が始まった。九月十日だったかね。あの時、既成教会の博士や、統一教会の先生に対して反対してた筆頭者ばかりが集った。約四十人ばかりだった。大きな顔をしているそこへ堂々と入っていった時の気持ちは悪くなかったね。 我々はもう時勢において、こういう時を迎えなければならない。その人たちは今から何年か前に、自分の気ままに反対したその者である。あなたたちは(今)吹けばプッと飛ぶようなみすぼらしい者であるけれど、時来たり、時節過ぎてみた時にはそうではない。今その両襟を正して、前に現れる立場になってしまった。結局その人たちが先生を迎え、統一教会の真理を推挙するようになったことは、勝利的な段階に入ってきているということである。そういう結果になった。だから韓国において、非常に問題である。統一教会が一番怖い。文先生は最高の総司令官である。キリスト教においても手のつけようがない。理論的にもとてもかなわない。だから相手にするなと、今まで烏合の衆みたいにガヤガヤやってきた。 勝利の基盤 そうした迫害の道をたどりながら、復帰の道は開拓されてきた。 天下すべてが立って反対しても、これを太平のごとく肝っ玉をもって迎えるよ。我、何遍死しても天のみ旨は果たし得る圏をつくり得た。これがなぞであった。既に、神の六〇〇〇年の歴史を通過し得なかった歴史的問題すべてを、先生一代において成し得た。成功した。今は死んでも統一理論は世界を制覇する。いくら一億ガヤガヤ動員して反対しても統一主義には絶対勝てない。 日本を神が必要とするのか。日本自体を要求するのではない。世界を必要とするからだ。霊界、地界、天宙を必要とするからだ。世界的環境を神はまずつくった。今はちょっと動けば、世界がすぐ動きだすような時代圏に入っている。私たち統一青年において、神がいないということは夢にも思わないだろう。神はいるが、観念的神ではなく、生活圏内においての神である。その心情たるは感傷的心情ではなくて、実証的な心情を兼ねている。これこそ素晴らしいものである。 祝福の基準 復帰の路程を完全に通過しなければ、個人、家庭、氏族、民族、天宙すべての圏内に入って、サタンに讒訴されない基準を立たさなければ、祝福の条件を立たすことはできない。 一九六〇年が、いったいどの基準であったか? 堕落したアダム、エバの立場、長生完成級の基準である。長成期完成級基準を中心として完成圏まで上がるには、七段階の七年の期間が必要である。それが第一次七年路程であるというんだね。完成基準に立ち入る時は神の直接主管圏に入る。直接といえば内外ともの直接だから、心情、生活圏共に主管成し得る基準である。 完成基準を残して祝福した基準が、一九六〇年である。しかし、その圏たるは今まで堕落したアダムにおいて、堕落した圏内に入っているのだから、サタンの主管圏にある。この主管圏内において、サタンを打ち壊す大物が現れてきたのだから、その家庭に対してサタンは総攻撃してきた。しかし、反対に追い払って闘ってぶつかって蕩減し、神の日の決定、子女の日、万物の日、父母の日と、四つの日の決定をこの七年間に成し得たのである。 神からサタンが奪っていったものを、奪い取った基準が立ったのだから、そこにおいて完成基準が完全に地上に決定権を成し得ることができた。 花婿と花嫁がサタンを押しのけて出会う。その一日が神の願いであり、二〇〇〇年のキリスト教の歴史であったが、花婿はイエスで、天を指し、聖霊は女性神で、地を指し、空間のサタンを突き破って天地が一つに成り得た宗教人の最高の目的を、我々統一教会が成し得たというんだね。だから、ここにおいて始まった先生の家庭を中心として結び合っている家庭は、一つの氏族である。それが日増しに発展していけば、これは民族になる。もう少し発展すれば国家、世界圏を成し得る。 だから新しい民族、第三イスラエル民族ということになる。今までの歴史過程の先祖より受け継いだ血統による子女でなくして、新しい血統圏を受け継いだ神による子女圏となり得る立場を授けるのが統一教会である。 我々の立つところは違う。サタンの讒訴を防ぎ、勝利圏を成し得た内容をあなたたちに教えましょう。どの基準にあなたたちはいるか。長成期完成基準にも上がってこないというんだから、祝福ということが問題だというんだよ。二人の男と女が追い出されてしまったのが堕落だから、二人は歓迎されない境地を乗り越えなければならない。それが祝福である。 第二次七年路程 祝福というのは完成基準における祝福じゃないよ。 先生においての神の日、先生においての父母の日、先生においての子女の日、先生においての万物の日は世界的、天宙的に決定された。あなたたちはその圏内において祝福し得る、参席し得る立場に立っているというんだけれど、参席はし得てもその道はまだ行っていない。本当はあなたたちの父母の日、新しい氏族の先祖として立ち帰る時が、あなたたちの真の父母の日であるというんだね。木村だったら、木村氏においての真の父母の日が生れてこなければならない。真の子女の日、万物の日をこの木村氏を中心として、そして神の日の決定という白い旗を立てて、永久に翻るその日を我々統一教会は迎えなければならない。 この旗を掲げて出発したのが第二次七年路程である。それは長成期完成圏において勝利した男、堕落した後孫であるけれど堕落しないアダムより以上の立場、エバ以上の立場で、完成に向かって堂々と行軍し得る立場、サタンの邪魔があれば屈服させるその権威で押しのけていくのが、我々の唱えている全面的進撃である。それは先生だけに限るんじゃないよ。全世界的になっているんだよ。男も女も老いも若きも行かなければならない。第二次七年路程も全面的進撃の年である。 先生の氏族 そして、この第二次七年路程においても、先生の恨み、イエス様の恨みは何かというと、親戚関係を中心として真理を語り伝道したことがない。自分の使命も話すことができない。主張したことがない。先生の父母とか、先生の兄弟たちに、どういう使命を(先生が)もっているかは分かってもらえないけれども、兄は「自分の弟が何か大きな人間というか、大きなことをやる。」「世界的な弟をもっている」と言ってくれたんだね。まあ、そういうことを知ってくれる兄さんや、お母さんに対しても、先生は八人兄弟だが、誰よりも愛したその肉親に対しては、この貴重な原理の内容を打ち明けることができない、悲運な男として立っている。これが先生の悩みであった。 自分の血統的に近い、愛の関係をもっている父母とか、兄弟を中心として、血縁のものを愛することができずして、反対のサタンのほうに、カインその者を、自分の血統の親より以上、兄弟より以上愛さなければならない立場をたどってきた。それが今日の統一教会の発展となった。ちょうど自分の嫡子より以上に愛さなければならないようなものだ。自然屈服させなければ、アベルとして蕩減復帰はできない。だからカインがなければ、アベルが立たない、ということになるんですね。 自分の血統的嫡子より以上の心情でもって、自分に孝行し、尽くしてくれる者を伝道しなければ、蕩減復帰はできないのだから、そういう立場を立たせるということはいかに苦労であるか。食べることも、寝ることも忘れて愛さなければ、彼らは心情的に屈服しない。そういう環境をずーっと広げて、勝利圏をつくってきたのだということを知らなくてはならない。 氏族的メシヤになれ あなたたちにおいては、先生と違って、今から第二次七年路程が始まった以上は、自分の血統的、親、兄弟に対して自分の尊いものを直接与えることができる圏内にあるのだから、統一教会の食口たちは結局氏族のメシヤの立場に当る。氏族のメシヤとして、第二次七年路程において成すことは、先生の成し得なかった、イエス様の成し得なかったことをあなたたちの氏族を中心として、親を中心として、兄弟を中心として、新しく成すがため、あるのであり、それによって神のほうの蕩減をみな完成させよという。そして個人から、家庭、氏族、民族を通過する道が、世界までの道ができたということになっている。 イエス様が四〇〇〇年の歴史の末に、ヨセフの家庭において、み旨をマリヤとヨセフに打ち明けて、協力して果たし得る基準を取り継いだ立場に立たせるのが、第二次七年路程の出発の基準であり、使命である。 先生もそうであったけれども、神様も自分の近親の者を愛したならば復帰はできなかった。愛する民族を引き裂き、犠牲の立場に立たせて、十字架を背負わせてきたんだね。サタンのほうの家族を、サタンの氏族を救うために自分の一番近い、子供、家庭、氏族を犠牲にしてきたのが今まで神の摂理の路程である。 だから、神様は愛だというんだね。十字架につけられる。その怨讐たちに対しても祝福をしなければならない。神に彼らの罪を、「彼らは分からないから赦してほしい」「助け給え」と祈りをなしたのも、神の心情圏を知ったイエス様であったからこそ、そのような祈りができたわけだね。 復帰路程は拳{こぶし}による力ではない。心情的力によってすべてを屈服させる基盤をつくらなければ、蕩減完成は成し得ないということを、私たちは知らなければならない。結局、「復帰と祝福」という問題は、イエス様が成し得なかった祝福を我々として果たし得るところに、復帰完成と祝福完成があるということが分かれば良いという結論に達する。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.17
コメント(0)

[家庭連合]アメリカのキリスト教がヤバイことになっています。米国基督教牧師たちが祝福を受け、40日聖別と3日行事までするようになりました。現場からの取材です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.16
コメント(0)

天の父母様聖会 天苑宮天苑教会 聖日礼拝日時 : 天一国 9年 4月 5日(2021年5月16日) 午前 9時30分場所 : 神韓国オンライン非対面中継 :一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.15
コメント(0)
「子女の日とはいかなる日か?」(第九回子女の日のみ言葉)1968年11月20日(陰暦十月一日)韓国・青坡洞旧本部教会にて メシヤの使命 きょうは第九回「子女の日」です。我々食口たちが子女の日を迎えるたびごとに、胆に銘じなければならないことは、この「子女の日」がどれほど重要な日であるかという事実です。神様は天地万物を造られた後、アダムとエバを造り、彼らを中心として、「子女の日」を迎えなければならなかったのですが、そうすることができませんでした。 もし、そのようにして「子女の日」を迎えたならば、そこから「父母の日」も立てることができたし、「万物の日」も立てることができたのであり、「神の日」も定められたのです。この「子女の日」というのは何であるかと言えば、子女として勝利して、栄光の場に出ることができるそのような日が、全宇宙的に始まったという日なのです。 ところが今日、人間たちが堕落したために、アダム以後に全人類は神の御旨の前に一致しうる立場で勝利して、神が許諾することのできる栄光の場に参席した人は一人もいないというのです。このような立場に置かれるようになったのを救援するために、即ち再びそのような場に引き上げておくための歴史が今までの摂理歴史なのです。 それではメシヤとは何でしょうか? このようになった人たちを、そのような立場に引き上げておくために来られた方が救い主です。それ故に、「子女の日」と言えば、この一日が他の日と異なって、そう言うのではなく、「子女の日」と言うのは、子女たちが神様の栄光の場に同席することのできる、そのような一時を、堕落することによって持てなくなりましたが、歴史以後に初めて、そのような日を持つことができるようになったことを、子女たちとして最初に記念する日なのです。 その日が始まったために、その日が始まった過程を経るようにすべく努力したその方に従って行けば、そのような栄光の日の中に自分が参席することができるのです。それ故に、今日我々統一教会において、統一教を信じる人々は、統一教が導く道をついて行くようになれば、必ず子女の栄光になる立場に立つことができるというのです。 そのために、この「子女の日」がなくては、救援も受けることができないというのです。皆さんが霊界に行くようになれば、イエス様も行っているという事実を知らなければなりません。では、この地上においてイエス様が再び来なければなりませんが、その理由はどこにありますか? それは、神様の前に受け持っていた責任をもって、メシヤの使命をもってこられた責任を完遂することができなかったからです。完遂出来なかったが故に、再び来なければならないというのです。 ある人がどこかに出張に行って、その用事がすべて終わったなら、再び行く必要がないのです。ところが、それを皆果たすことができず、残して来たために再び来られるのです。即ち、責任を全うすることがてきなかったが故に、息子として、神の栄光の場に参席できなかったということです。そのために今まで祈祷するのです。祈祷というのは、未だに自分が所望するところのものが成されていない、その要求の条件をかけて願うことなのです。それを天が成してくれることを、力を補給してくださることを天にお願いするのです。 それ故に、そのような要求の場を逃れるためには、この地上に再び来られて、自分の本来の使命を完結することのできるその一日を決定せずしては、勝利の場に出ることができないのです。 真理の中心 今日、キリスト教において、イエス様が十字架ですべてを成したということは、十字架で死ぬことによって霊的救いを成したという意味であって、霊肉の救いをすべて成したということではありません。本来、神の創造理想は、霊的天国をつくるためのものではなくて、この地上にアダム・エバも、彼らの息子・娘もこの地上で天国の息子・娘として生きなければならないというのです。しかし、そのような基準を取り戻した人が歴史以来一人もなく、そのために一つの家庭も成すことができませんでした。 それでは、どこにおいて堕落したかといえば、アダム一人で堕落したのでもなく、エバ一人でもなく、夫婦が共に堕落したというのです。このように、夫婦が堕落したために、夫婦が神の前に怨恨の種を蒔いた張本人になったというのです。一人で蒔いたのではなく、二人で共に蒔いたというのです。それ故に、二人で蒔いたものを取り除くためには二人でなければならないのです。 それで、イエス様はこの地上に来られて、“新郎であり、新婦である”と言われました。このアダムとエバが蒔いた罪悪の苦い根を根こそぎ抜くためには、その父母であるアダム・エバと同じような立場をこの地上において再び再現させておいて、これを抜き取らなければならないというのです。それ故に、新郎であられるイエスという方はメシヤなのですが、それはお兄さんの救い主ではなくて、父親格の、即ち、我々を直接生んでくれることのできる父親、救い主だというのです。 では、イエスを信ずれば復活すると言う、その内容は命が再び生き返るということですが、それはお兄さんを通して生まれる法はないというのです。生まれるという、それ自体の言葉を中心として見るとき、父と子の因縁を持たずしては、再び生まれることができないのです。そのために、イエスは何かといえば、父であり、聖霊は何かと言えば母なのです。今日、キリスト教界では聖霊は何かといえば、聖霊は聖霊だろうというのです。アダム・エバが堕落したので、男性・女性、即ちアダム・エバが堕落する以前の円であれば円、三角形であれば三角形の姿を持った男性・女性がその場を埋めなければならないのです。 アダムによって偽りの父母となったので、これを埋めることによって真の父母となるのです。真理の起源は簡単です。歴史の根源は簡単だというのです。今日、真理の内容が何であるかといえば、真理がいくら良いといっても、自分の父母に代わることはできず、真理がいくら良いといっても夫に代身することはできず、又、自分の妻や子供を代身することはできません。最高の真理の中の真理が何であるかといえば、父母であり、子女なのです。それでは、その真理の中心が何であるかと言えば愛です。 それでは今日、人間の世界においてのこのような原則を中心として、最高の真理の中心、皆さんが神を真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体であるという、それは何なのか? 同じ話です。真理が成立しようとすれば、愛と生命がなくてはならないというのです。 人間が真なる言葉、真理を語ることができる人になろうとすれば、自分の生命の中に真理が沸き上がっていなければなりません。自分の欲望がなくてはならないのです。欲望というものを中心として見る時、私の人格基準を中心としては相対的な立場なのでしょう? 同じことです。そのために、最も核心は何ですか? 生命の本体とか、愛の本体とか真理の本体とかと言うものは何ですか? 神様なのです。神様は何ですか? 父と母です。それ以上はないのです。簡単だというのです。 イエス様と聖霊の役事 では、キリスト教は二千年間何をしてきたのでしょうか? 新郎とは何なのでしょうか? この地上に、宇宙の人間の中において、新郎が来られる、新婦は何なのか? 新郎はお父様であり、新婦はお母様です。なぜ父親と母親が必要なのかというのです。過って生まれたために、再び生み返さなければならないからです。それで、「再び生まれなければならない。」という言葉が出て来たのです。 皆さんは全員生まれるには生まれたのですが、父母もないのに生まれたのと同じ立場になったというのです。そのために、すべて打ち砕いて再び練り直して、母親のおなかの中に再び入って行って出て来なければならないというのです。これが救いの歴史なのです。 そうしようとすれば、イエスが父親にならなければなりません。それではイエスを信ずる人たちはどんな立場になるのでしょうか? 結婚をする前に、父親のおなかの中に隠れている息子の種、娘の種と同じ位置に戻って行かなければならないのです。イエスを信じて何をするのでしょうか? イエスと一つになって、即ち、「イエスが私の内にあり、私がイエスの内にある」ということはどういうことですか? イエスは未だに結婚の席上に出ることができません。それでは、今までイエスを信じてきた人たちは何でしょうか? 霊的に新郎と新婦の立場に出ることができず、そのような立場に立った男性の中にいる子供としての立場を探し求めていくのが、イエスを信じる人たちがなしていることなのです。 今や新婦の体であり、母親の体を通して生みの苦労をしなくては、再び新生することができません。このような過ちを正して、埋め合わせるために霊的にこの業をするのがキリスト教のイエス様と聖霊の役事なのです。それで、聖霊を受けない人は救われない、即ち、お母さんのおなかを経ずしては生まれることができないと言うのです。 それでは、なぜ聖霊は来て、罪を清める役事をするのでしょうか? 聖霊は母親の神であるので、人類の母が罪を植えたために、罪を植えた人が来て、清算しなければならないのです。 蕩減の原則により、聖霊はこの地上に来て、罪を贖う役事をするのです。罪を贖って何をするのでしょうか?贖った後には、即ちアダムが結婚する前の、体やおなかの中にある息子の種、娘の種の立場に入って行かなければならないのです。 それ故に、イエスをどれだけ愛さなければならないのか? 自分の命よりももっと愛さなければならないというのです。そうではありませんか? 一体にならなければなりません。男性であっても、女性であってもイエス様を愛さなければならないのです。 男性も、イエスを愛することに自分を忘れてしまうほど慕わなければならないし、女性も自分を失うほど、イエスを慕わなければなりません。この世において、今まで一緒に生活してきた自分の夫や、妻が死んだとしても、「イエス様はいなくてはならない。」と言うことができなければならないのです。 接ぎ木する業 それで、我々統一教会において「子女の日」が出てくるためには、アダムとエバが播いたものを切ってしまって、解放することのできる起源をつくらなければならなかったのです。「子女の日」を持つことができなかったために、この万物が解放されず、万物も嘆息圏内に入っており、神様も嘆息圏内に入ったというのです。即ち、「子女の日」を迎えることがてきなかったために、神様が喜ぶ栄光の日を迎えることができなかったのです。 それ故に、「子女の日」を迎えるためにはどのようにしなければならないのか? 間違った子女が、間違うようにしたものを全部是正することのできるその起源において、神にすがらなければならないというのです。子女が間違った行動することによって、神を失ってしまったのを是正することのできる息子・娘たちが出て来て、「子女の日」を立てることによって神を捜し求めるというのです。神を捜し求めえたときはどのようになるのか? 神が栄光の場に出て行き、喜ばれるようになるというのです。神が喜ばれるようになるので、息子・娘たちも喜び、万物も喜ぶようになるのであります。 それで、統一教会では、「子女の日」と「万物の日」と「父母の日」と「神の日」を捜し立てたのです。「子女の日」と「父母の日」はお互いに通ずる日なのです。「子女の日」と「父母の日」は一度に成されるのです。しかし、これを捜し立てるためには、どのようにすればよいかというと、一人の男性をおいてみるとき、男性一人ではその位置にそのまま行くことは出来ないというのです。 復帰路程において、どのように出て行くかと言えば、堕落することによって、神の息子の立場から僕の僕の位置にまで落ちたのです。それで僕を主人として侍ることを知らなければなりません。このように、神の息子の立場から、僕の僕となった立場まで落ちたことを回復するのに、六千年という歳月がかかったというのです。 では、それを復帰するためにはどこまで上って行かなければならないのでしょうか? 逆に上って行かなければならないのです。旧約時代においては、僕の僕になった立場から、僕の位置まで上って来たのであり、新約時代においては僕の立場から養子の位置まで上ったのであります。従って、皆さんも直接神様の息子となれず、養子なのです。養子! 養子は血統が異なります。 では、この養子の位置から直系の位置に行くためにはどのようにしなければなりませんか? イエス様によって接ぎ木されなければなりません。今日のこの世が偽りの、野生のオリーブの木となっているために、真のオリーブの木が来て、接ぎ木する業が成されなければならないのです。 では、イエス様はどのような立場で来られたのかというのです。息子として来られたのですが、これが真のオリーブの木です。野生のオリーブの木と真のオリーブの木は何が異なりますか? 見た目には皆同じです。皆さんが見ても、イエス様も耳があり、目もあり、口もあり、食べて寝る、すべて皆同じだというのです。ある人々は、イエス様は御飯も食べず、トイレにも行かず、そのままいるとそのように思っています。しかし、イエス様もスプーンを持って御飯を食べなければならないし、トイレに行って便をしなければならないのです。 このようなことを言うと気分が悪いでしょう? しかし、これが聖なることなのです。ほかのことが尊いのではなく、今日人間世界であるように、御飯を食べることが最も聖なることなのです。それを知らなければなりません。聖なることが他にあるのではなくて、太陽と月、星、聖霊すべてが尊いのであります。それを否定する人間はこの地球上から追放されなければなりません。存在価値を自分が否定する立場に立つのです。蝶が飛び、蜂が飛び、鳥が歌い、子供たちが跳び回って遊ぶことが聖なることなのであります。イエス様はなぜ断食をしたのでしょう? 好きでしたのではなく、仕方がなくてしたのです。 それでは、聖なることというのは何ですか? 私が眠りたい時眠り、御飯を食べたい時食べ、遊びたい時遊んで……ということが聖なることなのです。特別なものとして考えないでください。 天国はどのようなところなのでしょうか? 思いのままに食べて、思いのままに生きることができる所です。規制を加えないところなのです。規制を加えたとしても、その規制は私にとって規制にならないということです。すべてのものを克服して、すべてのものを祝賀することのできる権限をもって、消化することのできる能動性をもつことが天国です。 宇宙主管の前に自己主管を 今日、統一教会においても、地上天国と言うのは地球が変わると思っているかも知れませんが、方向が変わるだけです。今までは後ろに行っていたものが、逆に回ればいいのです。即ち目的が変わるだけです。 それ故、今日宗教者たちは堕落して、どんどん前に進もうとしますが、舞い戻らなければならないのです。戻れば復帰できるのです。昔、出発した位置を過ぎて行くのです。どんどん上がって、アダムが堕落したその基準を更に過ぎて行くようになれば、神に出会うというのです。 それ故に、宗教者たちは神に出会おうとしています。そのために、この世と全部隔離して行こうと言っていますが、更に深く入って何をするかといえば、昔アダムが出発したその基準を越えて行こう。そうすれば、越えて行けば神様がいるのです。 それ故に、神を捜し求めて行こうとすれば、この世のすべてを否定しなければなりません。そのために、この世を否定せずしては、宗教は真の使命を果たすことができないのです。宗教は否定から出発したのです。それ自体からみる時、堕落を否認することができません。我々は僕の僕の位置から僕の位置に上って行って、再び養子の位置を経て、接ぎ木されて神の前に帰って行くのです。 それでは、接ぎ木されたオリーブの木と、接ぎ木されないオリーブの木がどのように異なりますか? その実が異なるのです。野生のオリーブの木も接ぎ木をすれば、真のオリーブの木の実を結びます。サタンは真のオリーブの木を切って、野生のオリーブの木に接ぎ木をしようとし、神は野生のオリーブの木を切って、真のオリーブの木へと接ぎ木しようとされるのです。サタンと天はこれが異なるのです。 そして、人の中においても真と偽りがありますが、何が真であるかといえば、良心が真であり、体は偽りなのです。では、この野生のオリーブの木である体が、真のオリーブの木である心を切ってしまえばどうなりますか? 全部が偽りになります。心に接ぎ木された人は神の息子であり、体に接ぎ木された人はサタンの息子です。 それで、宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさいと言うのです。戦争の中において最大の戦争は何ですか? ヨーロッパ戦争でも世界大戦でもありません。私を征服する以上の大きな戦争はありません。この戦争は六千年以上も継続しているのであり、未だに戦いが終わっていません。我々の先祖のおじいさんたちが、この罪悪の風呂敷を更に大きく作ってくれたというのです。それで、皆さんは六千年罪悪史の一つの結果物となってしまいました。 では、この罪の荷を誰が解き放してくれるでしょうか。皆さん自身としてはできないために、それよりもっと大きな力をもったメシヤが必要だというのです。 それでは、「子女の日」というのは、何がどのようになるのでしょうか? 「子女の日」を我々が必要とするのは、「子女の日」を我々が失ってしまったために、それを我々が必要とするのです。「子女の日」は誰が失ってしまったのでしょうか? 神様が? 万物が? アダムとエバがしました。では、この「子女の日」を誰がつくり出さなければなりませんか? アダムとエバが失敗して、三角の穴を開けたとすれば、誰がこれを埋めなければならないでしょうか? アダムとエバがこれを埋めなければなりません。 最初のアダムは滅びるようにしたアダムであり、二番目のアダムは回復するアダムなのです。それ故に、最初のアダムは滅ぼすようにしたアダムであるが、二番目のアダムであるイエスは、救ってくれるアダムになりました。そして、最初のアダムは父として、滅びる父となったのですが、二番目のアダムであるイエスは、父として、救ってくれるアダムになりました。 聖霊は何ですか? 聖霊は女性神です。これを地上に結びつけるために再臨しなければならないというのです。再臨して何をしますか? 雲に乗って再臨しますか? とんでもないことです。雲は何ですか? 雲は雨を含んだものです。地上にやって来るとすればまだしも、雲に乗って来るとは……。荒唐無稽なそういった信仰はするなと言うのです。 私がこんなことを言うからといって、異端だと言われるのですが、誰が異端であるか、見てみれば分かります。本物であるか、偽物であるかというのは、結果を見れば分かるのではないでしょうか? 統一教会とキリスト教会がぶつかってみれば分かるというのです。「あーあー、統一教会! 統一教会には行くな、行けば滅びる!」そう、イエス様は死んで地獄に行っても三日間伝道したのですが、そのイエスについて行こうとすれば、地獄に行ってでも伝道することができなければならないのに、自分は地獄の見物もしないって? 地獄の見物をしなくては、天国の味が分からないのです。自分が苦労の味を切実に味わった人であればこそ、どんな小さな幸福であっても、とても甘く感ずることができるというのです。 私がこの間、魚の肝を少し食べてみましたが、とても苦くて、いくら口を洗っても、変わらなかったのです。ところが、蜂蜜を少し口に入れると、どれほどうまいか?それは、本当に薬中の名薬でした。それも、苦いものをそのように味わってみなくて食べたならば、まあそんな程度で、それほどまでおいしい味とは思わなかったでしょう。 男性が結婚して、夫人が気に入らず、一緒に生活できないと言っていたのが、楽しく生活している夫人に出会うならば、どれほど幸せでしょうか? だからといって、結婚を二度しなさいというのではありません。 人は刺激を受けなければなりません。刺激は普通の場では刺激になりません。反対になる立場において刺激が来るのです。それで、天地なのです。天だけでは天になることはできません。地があってこそ、天がはっきり現れてくるのです。そうではないでしょうか? そのために、反対なものが必要なのです。 それ故に、イエス様は今まで霊界に行っているために、かわいそうなイエス様となったというのです。これが統一教会の主張なのです。かわいそうなイエス様が救いをなしても、かわいそうな救いしかできません。また再び行って、再び来て、更にひと皮脱がなければなりません。これが統一教会の論法です。ところが、分かってみると、この統一教会の論法が神様の論法なのです。統一教会だけの論法であるとすれば、私は主張することもしません。そのようになったことを私ははっきり知っているために、このようなことをしているのです。 歴史以来、穴が開けられた男性と女性ばかりであって、穴を埋めたという父母がなかったので、真の父母が出て来なければならないのです。それで、イエスが小羊の婚姻をするために来られるということは何の話かといえば、真の父母として来られるということです。初めて神様が「息子・娘である。」と言える資格、即ち、堕落の恨を残したサタンの息子・娘となったので、サタンに打ち勝つことができなければなりません。サタンを引っ張って来て、神の公判廷に出しておくことのできる、検事のような役割をすることができる資格者とならなければ、神様の息子・娘になれないのです。 今までは、サタンが私たちを引っ張って行って、全部神様の前に、「こうこう、こういった罪人ではないか。」と検事の役割りをしました。サタンが悪を中心とした検事の役割りをしたけれども、善を中心として悪を処断することのできる検事の役割をすることのできる人が出てこなければなりません。その検事の資格をもって初めて来られた方がメシヤなのです。 それでは、メシヤはいかなる人なのでしょうか? 人類の父なのです。その一日を二人の人が忘れてしまったので、二人が一緒に訪ねて来なければならないのです。これは個人的にしなければなりません。統一教会の文先生であれば、文先生個人として、「子女の日」を迎えるようになるのであります。 み言葉と一致し得る人に それでは、私たちは「子女の日」のために何をしなければならないのでしょうか? 復活をしなければなりません。堕落したために、神のみ言葉を失って神の愛を失ってしまいました。み言葉と人格と心情を失いました。それ故、復帰しようとすれば、これを取り戻さなければなりません。 では、神の中に隠されて、復帰すべきみ言葉というのは何でしょうか? み言葉どおり実践して、み言葉の実体となって、み言葉の実を結ばなければなりません。愛してこそ実を結ぶようになるのです。み言葉を中心として実践して、愛の実を結ぶために愛さなければなりません。愛してみようとするならば、自分を中心とした愛で愛してはなりません。愛の主人は神様ですから、神様を中心とした愛で愛さなければなりません。 それで、統一教会はみ言葉を中心として実体復帰をしなければなりません。そして、心情復帰をしなければなりません。即ち、み言葉復帰、実体復帰、心情復帰の順序です。 アダムが堕落することにより、神のみ言葉を失い、体を失い、神の愛を失ってしまったので、この三つを復帰するために、統一教会ではみ言葉を中心とした復帰をしなければなりません。では、統一教会で教えているみ言葉はどのようなものでしょうか? 歴史以来、神が求めてきたそのみ言葉を代表なさることのできる、そのみ言葉を教えてあげているのです。それ故に、み言葉と一致し得る人にならなければなりません。統一教会の文先生が進んでいく道には大韓民国が反対し、世界が反対しました。それでも、くじけずに、善を中心として勝利しました。そのために男であれ女であれ、そういう心情をもった方が現れる時には、ついて行かなければならないのです。 歴史以来、神が捜し求めてきたみ言葉を代表するそのみ言葉を教えてくださった、そのみ言葉と一致することのできる人となれ! そういう人になろうとすれば、数千万人が反対します。統一教会の文先生という人に大韓民国が反対し、世界が反対しました。そのように反対するのに、くじけなかったというのです。それ故に、そのような心情の人となるためには、男性であっても、女性であっても、そのような心情をもった人に従って行かなければなりません。 今日、統一教会では生命運動をすることのできる真理の人になるためには、男であれ、女であれ、その一つの中心に会いたくて、涙を流すことのできる動機の源泉を持たなければなりません。そうでなければ、堕落した男性や女性を救うことができないのです。父が泣けば、息子や娘も涙を流さなければなりません。統一教会の文先生であれば、文先生を中心として、私が涙を流せば、男性であっても、女性であっても、同じ事情の中に入って、自分の心が間違いなくそうであると言える立場に立たなくてはなりません。さもなくば、そうすることのできる所に向かって、再び尋ねて行かなければなりません。 どの程度、そのように前なければならないかといえば、私の愛する息子・娘をさて置いてでも、「先生!」と言い、私の妻や私の夫を捨ててでも、「先生!」と言うことのできる、そういう道を捜し求めなければなりません。 霊的に救いを受けるためには、イエスの中にある息子の種、娘の種の立場を捜して行かなければならないのと同じように、今後、主が実体として来られるならば、その実体を中心として、結婚しなかった、昔堕落しなかったアダムのおなかの中で、これからお母さんに会って生まれることのできる子供の種の位置に入って行ってこそ、生まれてくることができるのでしょう? そうではありませんか? それが、どのようにして罪悪の種として生まれたかといえば、その罪悪の愛を通して生まれたのです。それでは、お母さん、お父さんのおなかの中に、骨髄の中に隠すことのできる存在がありますか? 誰であっても、それを愛することによって深く入って行くのです。統一教会に、そのような原則に一致することができる内容が欠けているというときは、統一教会はまた再び行かなければなりません。どんなことをしてでも、皆行かなければなりません。しかし、これが事実そうであるならば、統一の男女は一つとなるのです。 父母の道理 この頃は私は直接指導をしなくてそうなのですが、私は昔、悪口をたくさん言われ、うるさく言われたので、従って来ようとする人たちが退いてしまいました。そうでしょう? 今だってそうです! 私が夜を徹して酔いながら話をすれば、皆さんも酔うのです。私がうれしくなって話をすれば、皆さんもうれしくなるのです。そうではないでしょうか? そうでないとすれば、皆さんが偽物であるか、私が偽物であるかなのです。 男も、自分の父母が想い出されたら涙が出るでしょう? 着られず、食べられずに苦労しているのを思えば、子供として道理を果たせなかったために、ただ涙が出るし、苦痛を受け、病で臥すようになれば、自分の一生を通じて悔い改めたいという心がなければなりません。骨がある男性であれば、そういう心があってこそ男なのです。そういうことがなくてはならないのです。 それは、堕落によってアダムとエバが神様の前から離れる時、そのような心を感じたのです。悲しくて、悲痛な心を感じていたのです。それを初めて復帰するにおいて、喜ばしく、感謝する心が起こらなければならないのです。 それ故に、統一教会では何を教えてくれるかといえば、父母の道理を教えてくれるのです。ここで教えてくれることが、従来のキリスト教の教えと異なるのです。キリスト教は息子の宗教を教えてくれるのであり、統一教会においては、何が違うと言いました? 父母の宗教、これが異なるのです。父、御子(みこ)、御霊(みたま)の名前で祈祷すると言わないで、なぜイエスの名を通して祈祷するのですか? 皆さんが男性、女性を中心としながら、男性だけ好きだと言って餅を与え、女性は少し待つようにと言ったら気分がいいですか? 三位一体にしておきながら聖霊はさっと取り除いて、「イエスの名で祈祷します。」と言うのはどういうことですか? 家においても、お父さんだけが良くて、父の誕生日が来たとして、お母さんがいても、お母さんのことは考えもしないで、「お父さん、ありがとうございます。」と言えますか? 天地に二人といない父母(の価値)というのは、今日(神を)信じない人たちも知っています。 目も耳も全部が合わさってこそ調和が展開し、全部のものが合わさって、目も耳も原則的な目的が成されていくのです。耳も鼻も目も、二つが合わさって目的をなすのであって、手も一つだけで働いても何もできません。二つが合わさってこそ、すべてのものの調和が起こるのです。息を吸い込むだけでは生きる法がないというのです。吸い込むことよりも、吐き出すことの方がもっと必要だというのです。吐き出して、炭酸ガスを出してこそ、たくさん入って来るようになっています。 再創造の道 それ故に、男性だけ出て来てはいけないというのです。この堕落世界は、男性を中心とした世界です。私が出て来て、女権を根本的に解放させなければなりません。それで、一個体をおいてみるとき、復帰するには僕の立場を経なければなりません。堕落するとき二人で落ちました。落ちる時は、二人が落ちたとしても、上って行く時には、二人が上って行くことはできないのです。 上っていくのは、再創造するのと同じです。創造する時に、一日でアダムを造って、エバを造ったと言いましたか? 再創造もアダムを造っておいてこそ、エバを造らなければならないのでしょう? それで、今までの歴史は復帰歴史であったために、アダムを造る歴史でした。そのために、この世の聖人、賢哲には女性がいません。女性の聖人を見たことがありますか? 聖人のお母さんということは聞いたでしょうが、女性の聖人はいないのです。 孟子の母親の話は聞いたでしょうが、そうだからと言ってその方が聖人ではありません。結局、今までは再創造の法度です。堕落した人間を救済するにも、二人同時に救うことができないというのです。まず原則があって、再創造の過程を経て行かなければならないために、今まで来られた主はいかなる方でしょうか? 創造目的を完成した男性として、この地上に天地の相続権を占めるために来られた方が主です。簡単なことです。 それは何かと言えば、エデンで堕落しなかった時に、エデンの園でアダムを造っておいて、そのアダムが結婚する前の立場の、その人格者として代表して来られた方が主です。来られて、結婚式をなさるために来られた方が主です。来られて何をするかと言えば、女性、即ちお母さんを捜し求めるのです。 そのために、今までの旧約や新約の歴史において、教会の指導者や、預言者たちはすべて男性でした。このように少し男性を育てておいて、それを麹として更に少し大きく、更に大きく、そうなって世界的な代表者としての神様の息子としての資格をもつために、更に大きくして、その息子の位、心の位、体の位、すべての事情の位、希望の位、全部の位をもって来られた方がイエス様です。 そのような男性として初めて、堕落する以前のアダムを造ったのと同じように、神が直接関係して造っておいた息子を再び造った型が、この地上に来られる主なのです。それでは、主が来られてどのようになるのでしょうか? アダムを造った後に、アダムの肋骨(あばらぼね)を取って、エバを造ったというのですが、肋骨を取って、本当に造ることができますか? それを見本として造ったのです。 最近、クリスチャンたちは、男性は肋骨が一本ないと言うそうです。解剖してみなさい。もっと大きいのがあるのに、なぜないと言うのですか? それで、天国に行こうとするのです。幼稚園の囲いの中で、「僕、大学院で博士になるよ!」と言うのに似ています。そう言うのを見ると、統一教会の文先生が来て、キリスト教の解放が始まるのです。カトリックの修道女たちが、そのヴェールを被って往来することが、どれほど苦痛でしょうか? それでは、天国はさておいても、パラダイスにも行けません。 既成教会との一体化を ところが、統一教会の食口たちは、また、これは頭が大き過ぎて困るんです。頭が大きくて、足がぐらつくんですね。頭だけ働かせてしまっているんだね。それが問題なのです。それで、体は既成教会の信者たちに接ぎ木しなければなりません。だから、私は既成教会の人たちから悪口を言われるけれども、既成教会の人たちが必要なのです。皆さんは、統一教会の食口たちが必要だというけれども、私は既成教会も必要なのです。 それで、闘うことにおいて、私一人にも負けるというのです。彼らは遠ざけようとするし、私は近付こうとしているわけですから……。近付こうとしている人たちを排斥することはできません。彼らに一つ必要なことがあったとき、二つを与えれば「あーあー」と征服されるようになっているのです。 既成教会の信者たちは、「文イエス? 統一教会の文なにがしという看板をかけた。」と言っています。しかし、私がイエスになって、何が悪いでしょうか? この世の人が皆、イエスを捜し求めているのに、私がイエスになれば、この世の人々はみんな私を尋ねるようになるのは仕方がないでしょう? そのようにして、かわいそうな韓国の民を助けてあげた方がいいのでしょう? 一体何が悪いのですか? 私はそういう言葉を言わなかったが、この既成教会の人たちは、「文イエス☆☆」と言っているのです。統一教会という名前も私が付けたのではありません。しかし、この名前もそれほど嫌ではないので、そのまま使っているのです。 私が思うに、神様もどうしてそんな運命になってしまったのでしょう。神様はあらゆる見物をしていなかったでしょうか? 神様があらゆる見物をし尽くしたので、息子である人間たちもそのような見物をせざるを得ないのですよ。「お父さんもそうであったので、私もそうすることができます。」そのように考えれば心が安らかでしょう。 女性の解放運動 結局、ここにおいて成す運動は何かというと、解放運動、即ち女性の解放運動であります。今や男性を立てて、男性を復帰することができる時が来たので、女性を造らなければなりません。女性を造ってからすべてを整えておけば、男性でも女性でも同じであるという解放運動が展開されるというのです。 第一次世界大戦の前後を中心として、世界的な女性運動、人権擁護運動が始まっているように、女性の解放運動が始まるようになったのです。新郎である人類の父が人類の母を迎えて、天国の法度を確立なさる時代に入って来たために、歴史はそのような方向に終結点を結ぶようになるのです。 統一教会の食口たちは、今やすべて私の世話にならなければならないので、気分が悪いですか? 世話になればありがたいという考え方はせずに……。それで、なぜ世界で、男女がどうだとか、女性運動がどうだとか言っているかと言えば、人間は、男性は女性が必要であり、女性は男性が必要であるのに、なぜ出発点から同等な権利と位置をもって生まれることができなかったのかというのです。 この原則、即ちアダムを造った後にエバを造った天地の法度があるので、女性が(先に)この地上に登場してはいけないのです。誰が天理をひっくり返したかと言えば、女性がそうしました。そのようにして男まで駄目にしたので、男性が解怨成就して女性を救うことのできる時になるまでは、女性は頭を上げたら大変なことになるというのです。 では、この女性たちの中でもその歴史を研究してみる時に、どのような国家が最も恵みを受けることのできる国家となるのでしょうか? 女性たちが無慈悲にも虐待され、迫害され、無慈悲にも苦痛を受けた歴史をもつ国家、民族を中心として、選民的な摂理の救いの手が近付くことのできる基台が立つというのです。それが大韓民国だというのです。男性よりも女性が恥ずかしめられ、かわいそうで耐えることがてきないほど、世界を代表することのできる民族、最も女性が悲惨であり、卑しめられるそのような民族を救い出して、再び造らなければなりません。 そうする時には、同等な位置において造らなければなりません。それは、女性の中において、陶器師が陶器を造って焼くのと同じように、また、雑巾の切れっ端までもみんな破れてしまった、そのような最後の極限において再び造るというのです。それ故、女性が耐えることのできないほどの苦労をする歴史の過程を経た、そのような女性を中心とした国家から再創造の歴史の救いの手が始まるのです。ですから、大韓民国のような所には、そのような意味で主が来られる可能性があります。 では、韓国において今まで女性たちが苦労してきましたか、きませんでしたか? 子供を産むためには女性は苦労をしますか? しませんか? 自分が卑しめを受けなかったならば、自分自らを卑しめなければなりません。そのために自分を惨めな立場に置きなさい! しかし、そうすることのできる能力がないので、神様が卑しめるようにしてでも、そのようなことを通して蕩減しようとするのです。 そういうことを見るとき、私は統一教会の食口たちをもっと苦労させなければならないと思います。そのために韓国の女性たちはかわいそうなようですが、かわいそうではありません。それで統一教会においては、女性たちは今まで先頭に立って闘ってきたというのです。 良い夫婦としての出会い ここで僕の僕とならなければならないし、僕にならなければならないし、さらに僕から養子となって、養子が接ぎ木を受けることによって息子とならなければなりません。息子が息子となる前には、天の福を受けることができないのです。天の福は男性だけで受けたということができますか? 女性として女王となったならば、それが福を受けたことなのですか? いくら女王であると大声を張り上げたとしても、いくら君王であると大声を張り上げたとしても、相対圏がなければ滅びるのです。男性たちも、女性がいなければ滅びるのです。自分一代で滅びるのです。 福とは何ですか? 何かよい食事をして、よい生活をすることが福ではありません。自分の相対にうまく出会うこと、夫婦として正しく出会うこと、天地の因縁に従って、天倫の法度に従って、いい夫婦として出会うことが福(恵み)なのです。それ以上の福(恵み)がどこにありますか? いくら人気があって、いくら権威があって、どれだけ何がどうだと言ったとしても、彼が妻にうまく出会わなかったときは、その夫の価値がなくなるのです。たとえ看板が立派で、見かけも良く、体格が良い夫であるとしても、どうしようもないというのです。どれほど美しい女性であっても、夫とうまく出会わなければ運勢が暴落してしまうのです。そのために、恵みの中においても何が大きな恵みであるかといえば、相対によく出会うということが、最も大きな恵みであります。 何? 栄光の月桂冠?……しかし、月桂冠が何であるか知っていますか? 天国が何であるか知っていますか? その相対的な価値をです。 それで、息子を中心として復帰して、最後にはどのようになるのでしょうか? 偽りの因縁を中心にして、偽りの愛によって堕落したために、真の愛の神が与える神の愛を受けて、神の家庭、天道について行って、天道を守ることができる家庭から天国を成して行かなければならなかったのです。しかし、イエス様も家庭を成すことができなかったために、イエス様も天国に行くことができず、楽園に行っているというのです。楽園というのは、堕落することによって生じたものであり、天国に行くための待合室なのです。神が創られたものではありません。 天国はどのような所でしょうか? 男女が共に、家庭が入って行く所なのです。それで、イエス様はこの地上に来られて何をしましたか? 新婦を尋ねて来ましたが、求めることもできずに亡くなったために、今まで楽園に行って、二千年間祈祷をしながら聖霊を送って役事をしているのです。 女性が罪を造ったために、女性神である聖霊が来て、罪を拭ってくれることのできる世となって、その母親が聖霊の実体として現れることができるようになれば、そこに再び新郎として来られるのです。そして、新しい種を注入して再復活させて、新しい天地の復活体として、神を中心とした新しい世界を造ろうとすることが目的でした。そうしてこそ神に計画があって造ったものであるわけでしょう? 神の目的によって造られたこの世が、今日のこのような堕落世界であるとすれば、そういう神様はどうして必要でしょうか? もし、堕落する以前の人間がすべて堕落していたとするならば、堕落していった人間たちがいくら救援を求めたとしても、以後に再び堕落する可能性が多分にあるというのです。「父母の日」と「子女の日」の決定 それで、統一教会において“この日”をつくったのです。制定するにも統一教会の文先生が制定し、内容を整えたのも、文先生が整えました。歴史をひっくり返したのです。しかし、それは決して一人でできるのではなく、必ず祝福という基準を懸けてできるのです。統一教会の合同結婚式がそこから出て来たのです。この世においては、統一教会の合同結婚式はお金がなくてそのようにするのであると言っていますが、事実はそうではありません。 この日を迎えることによって何が始まるのでしょうか? これを中心として初めて先生を中心として見るときに、この過程を経て、父母の位置を決定するのです。それで、一九六〇年に「父母の日」を決定した後に、これらの日々が決定されたのです。順序がすべてそうなのです。父母、即ち、天地人類の父母として登場するようになる時に、「子女の日」も決定するのです。もちろん、復帰路程において子女として決定付け、父母の出発を見るのです。 しかし、ここにおいて父母のみではなく、子女として横的な面において、「父母の日」の出発であり、「子女の日」の出発なのであります。復帰の立場においては、「子女の日」が最初であり、「父母の日」が後であり、横的な基準においては「父母の日」が初めであり、「子女の日」が後であるために、天地間に歴史以来初めて「父母の日」が来ました。これは天地間に勝利の歓声をあげることのできる日なのです。 この日が展開することによって、霊界には塞がれていたものが解かれていくというのであります。それ故に、この地上の悪なる世界は、だんだん統一教会によって消滅されていきます。先生がすることに従って左右されるのです。それが原理的ですから、共産党は八代を越えることができず、崩れてしまうのです。 そして、四十年目に二つに分かれなければなりません。一九一七年から四十年後の一九五七年から中ソの理念紛争が生じ、そして統一教会はその頃から出発するのです。それが先生においては創立の一九五四年から四年たって五七年、そして三年たって第一次七年路程に入っていた時だったでしょう。それは皆そうでなければならないのです。ある一つの動機に拍車が合わなければなりません。 相対のために生きる 今日、キリスト教において、摂理の主流心情思想に永遠になければならないものとして、父母が子供を愛するその愛が、思想の土台となっているのです。その内容が変わるでしょうか? これは神様も、私たちの何千何万代の父母もそうでしたし、これを侵犯する存在はこの地上に存在することができません。 これを知らないのです。天地がこれを捜し求め、イエス様もこれを捜し求めるために来られたのです。新郎が来たならば、新婦が来なければならないでしょう。そうすることによって家庭が生ずるのです。「私がなぜ女として生まれたのか?」そう思うかも知れませんが、女性として生まれた結論は何でしょうか? 結婚するためなのです。男性を迎えて、愛を受けて夫婦となり、父母となるのです。これは、いかなる人生においても、いかなる存在物であったとしても、この法度を踏みにじって用がないという存在は滅びてしまうのです。 今日、仏教やキリスト教が栄えるのは、男子創造時代圏内に、その天運圏内に入ったためです。分かりましたか? だから、妻帯僧が勝利するのです。ローマ法王庁の神父、修道女たちだけでは滅びるのです。ローマ法王の前に二人が出て来て、もしカインもアベルもローマ法王に「結婚すべきですか? 結婚すべきでないでしょうか?」と問い質す時、「すべきでない。」と言う群れはすべて滅びるのです。女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれているのです。それが最高の真理なのです。 ここにおいて、最高の真理を離脱することは最高の悪です。最高の悪。それはコンパスの中心台の中心です。これは移すことができません。神にこれがあるために、父母が息子を愛する原心情的基準は変わらず、従ってそれはサタンも占領できなかったというのです。 いくら父母は悪ある者だとしても、息子に対してはどうでしょうか。「人を打ちのめす時、気分がとても良い。あなたたちもこのように人を殴らなければならない。」と、そのように教育する父母がいるでしょうか? 悪なる父母も、その法度には順応しなければならないのが天法なのです。殺人強盗のじいさんでも、いかなる悪もこれは占領することができないために、悪は常に相対的な立場に立つとしても、中心にはなれないのです。 神が本来立てようとされた神の子女たちとして立つことのできる、息子と娘のその位置を尋ねて越えて行かずしては、その高い天国に入って行くことができません。それを記念することができ、それを決定づけることができることが、統一教会の文先生の権威であり、誇りなのです。それで、「子女の日」と「父母の日」と「万物の日」と「神の日」を捜して立てたのです。 最も意義深い日 では、我々統一教会において、最も大きな名節は何かといえば、堕落した人間においては、「父母の日」よりも「子女の日」がもっと大きな名節です。分かりましたか? 自分が父母として登場することのできる道は、六千年かからなければならなこでしたが、その立場に出ることがてきさえすれば、それ以上の願いがないのです。堕落した人間においては、最も貴重な日が何の日と言いましたか? 「子女の日」なのです。 それは、父母の権限を剥奪させた堕落の恨に更にそれを付け加えてきた六千年の人類歴史を蹂躙して来たサタンを打って、勝利の旗を掲げて現れる日、その日を今日、堕落した人間がもってこそ、天国に行くことができるし、天の父母に侍ることができるのです。 皆さん! 統一教会の食口であったとしても、一人で行っては天の父母に侍ることができません。侍るとしても、今後の橋を掛けなければなりません。分かりますか?だから、男性、女性、全部霊界に行っている人が橋を作っておかなければなりません。同じように、皆さん一人一人で橋を作らなければならず、(そうしなければ)直接侍ることはできないのです。 では、今日、統一教会の食口たちだけがこの日を守るのでしょうか? これは、これからも世界万民が永遠に守る日なのです。クリスマスが問題でありません。堕落した人間には、最も意義深い日が何の日でしたか? 「子女の日」なのです。その次に、「子女の日」の栄光を持つことのできる権威をもった勝利の王者、王女たちを侍ることができる日が「父母の日」です。それ故に、子女となるためには蕩減路程を経なければなりません。 ところが、このごろはじっと見ると、蕩減の道をまっしぐらに行かずにいます。みんな教えてあげた後にも、そのように真っすぐに行くことがてきなければ、私は責任をもちません。霊界に行って私に「先生、私は青坡洞教会で先生に会ったではありませんか?」と、いくらそう言っても、その時は私の目は原理の眼鏡をかけている時です。分かりますか? 私が歩んできたその眼鏡をかけるでしょう。そしてそれに合えば、受け入れるでしょうし、合わなかったら受け入れられないのです。 私も神様の目から見る時に、復帰摂理の路程において、蕩減路程を行かなければなりませんが、神様もそのような眼鏡をかけて御覧になるために、私は今までその眼鏡に合わせるためにこの仕事をしているのです。それ故に、私は世間のすべての人々に対して、私の良心には少しの呵責もないのです。良心の呵責を受けては大きいことを言えないのです。 復活と祝福 さあ! それではそのような喜びの日が、そのようなものかと想像はついたでしょう? しかし、それをどれほど知ったのか? 骨身に染みるほど、電気が通じて全身が震えるほど知ったかというのです。うれしくて飛び跳ねたり、あまりにもうれしくて、気絶してひっくり返るほどに跳ばなければならないのです。 けれども、そのように喜んでみましたか? 神様が六千年間苦労をして捜して来た、そのような娘であり、息子が解怨することができ、息をつくことのできる、そういう日が早く来れば、神様はどれほどお喜びになるでしょうか? 喜ばれる神様の前に、「あっ! あの神様はなぜあのようなのか?」といぶかしがることができますか? 「父よ!」と言って走り寄って、手を取り合って踊るだけではなくて、私の手足で踊りを踊ろう! こうすることのできる資格をもって、父を刺激させ、更に喜ばせることのできる皆さんとなっていますか? 皆さん、「父母の日」はこれから皆さんが長く、久しく輝かさなければなりません。私が二階に行って眠ってしまったとしても、皆さんはここに来て挨拶もしないというようにはなっていないのです。ほかの日はいくら祝賀しようとしても、祝賀にならないようになっているのです。 そして、「子女の日」は先生においても縦的な立場にいるために、先生個人においては、み言葉復活、実体復活、心情復活の過程を経て来たということなのです。分かりました? 実体復活、心情復活という言葉を聞いたことがありますか? み言葉復活という言葉は聞いたことがないはずです。それは神様が決定することなのです。み言葉復活、実体復活、心情復活を経て来るのです。心情復活を経ずしては、男性としての本分を絶対に果たせないのです。 こうして、神の公認を受けて出るとき、初めて神の祝福という門を開けて入って行くことができるのです。もう一度言うならば、エバを再創造することのできる、堕落した、理想の男性としての心情をもって、その人格、心情を中心として、み言葉を中心として、その理想の立場に再創造することのできる具体的な見本となるのです。それでは、相対であるエバは、絶対服従して、そこに一つになりうる基準まで従って来なければなりません。 それ故に、今日、縦的な立場において息子の位置を決定し、その次に、中心から見る時に父母の位置を決定する立場なのです。それが一九六〇年度です。先生を中心として、そのような父母の位置を縦的に決定づけたために、復帰過程においてそのようになるのです。父母の立場を決定したので、横的な立場において「子女の日」の宣布がなされるのです。 復活には、み言葉復活、実体復活、心情復活があり、それは先生を通して出て来たのです。蕩減をしなければならない日がそうです。それがなされたために、初めて一人の男性を中心として祝福がなされ、新しい歴史時代に入って行くのです。従って、皆さんに対しては、父母が出て来たために、初めて新しい時代の息子・娘として祝福することができるのです。皆さんは蕩減路程において、先生のように実体復活の過程を経なくても、先生に付いていけば、それを先生が皆接ぎ木してきたために、皆さんはサタンの讒訴を受けずに、蕩減路程を経て行くことができるのです。 宇宙統一の公式 それでは、そのような「子女の日」は喜びの日ですか、悲しみの日ですか? 「子女の日」を迎えるようになる時には、父母を捜すのです。そうすることによって、「子女の日」が決定され、私たちは神に対することができるのです。そうでなければ、皆さんたちは、父母がなく生まれた孤児のような立場です。父母なくして生まれたのが堕落です。父母のある立場で、父母たちが死ななかったので、初めて正常な息子として生まれるのです。そのために、今やそのような基準を先生を中心として決定づけるのです。 それで、一九六〇年度を中心として、「父母の日」、その次には十月を中心として「子女の日」までこのように始まったのです。子女がいれば子女を中心としてなさなければならないことがあります。子女を中心として十二人の息子・娘を捜さねばなりません。その次には、蘇生・長成・完成の三時代を経て、三十六家庭が出て来ます。 そして、カインとアベルをすべて蕩減復帰させるために、七十二家庭が出て来るのです。そのようにして、一つの家庭を中心として、家庭的な環境を経て、家庭を一つの国家的な代表として立てて、更に世界的な代表として立てて百二十カ国、それを捜すのです。そうしたことは、皆さんがなさなければならないことですが、私が代わりに捜してあげるのです。そのために家庭が入って行き、社会が入って行き、万国が入って行くことのできるこの期間となったために、天と地が重なることができる時が来たために、新しい時代へ移って行くのです。これは七年路程を経て来ながら入って行くために、歴史はだんだん変わって来つつあるというのです。そのために民主世界も終わりが来たというのです。分かりました? ところで、皆さんは、どれほど「子女の日」の意義を深く知っているかというのです。先生が話をしてくれるのでそのように分かるのでしょう? ある人はこう言うでしょう?「あーあ、文先生はうまく装うものだ!」と。事実、装うことは、うまく装うでしょう。でも、いくら装ってみても、それ以上装うことができなければ、それは公式となるのです。公式になれば、法となるのです。そうではないでしょうか? 公式とは何かといえば、ある一つの公式が百のものに当てはまるとすれば、百にすべて当てはまるモデルとなることができるのです。即ち標本となることができます。そうすれば公式となるのです。公式は別のものではありません。それ故に、どこにでも持って行って当てはめてごらんと言うのです。異常がありません。神が持って行って貼ったとしても、異常がなく、他の人が持って行って貼ったとしても、異常がありません。そして、世界の数多くの人がいくら研究してみても、これは公認しなければならないとなれば、結局最後には宇宙統一の公式となるのです。そのようになれば、統一の世界がなされるのです。ただ時間的な問題だけです。 統一教会の精神 そのために私は、今まで色々な悪口を言われながらも、堂々と耐えながら、このことをなして来ているのです。皆さんは疲れて座り込んでいるかも知れませんが、私は実に面白いです。世間に起きる、あらゆる事件が本当に面白いのです。これからこのようなことが生じなければならないのに、私は他のことを考えているのです。 皆さんは、今見て別のことを考えています。復帰路程がこのようになっているのに、皆さんは別のことを考えています。そうではないでしょうか。そのような面白味があればこそ、生きられるのでしょう? 統一教会であれば、統一教会という一つの家における主人としての、父の立場があったために、統一教会の文先生は苦労をするのです。それもいいというのです。そのように苦労をすることまではいいというのです。しかし、その結果を見る時、共に喜ぶことができなければならないというのです。 そのために、誰でも私の仕事、言い換えれば、皆さんの仕事に協助しなければなりません。もし協助をしなければ、その結果を見る時に、本当に感謝しなければなりません。そのような時においても、「協助することのできる道を行こう。」と決心できる、そのような材料としなければならないのに、「こうやっても、ああやってもいいし、ああしてもいいし。」と言うのは全部妨害になるだけなのです。このような事実を皆さんもみんな御存知でしょう。 そしてまた、「時」というのは何かといえば、昔の原点を取り戻すことです。そうですか、そうでないですか?皆さん「時」は好きですか、嫌いですか?「時」となれば、どのようにしなければなりませんか? ここに生命をかけて苦労しなければなりません。苦労しなければなりませんよ。先生は、今日まで父の前に「時」を合わせるために苦労をしてきたのです。 統一教会の精神を知らない人は、人ではありません。皆さんたちは先生が必要ですか、必要でないですか? 自分が必要な時以外には投げ出してしまうのです。そのために、先生は気分が悪いというのです。初めからそうであるならば、教会に入って来ない方が良かったというのです。そうでしょう。そうでないとすれば、この民族を復帰し、この国、即ち救援摂理の御旨がすべてなされる時まで必要でしょう? 皆さんはどれほど必要であると思うか知りませんが、事実はそれ以上、もっと天宙復帰する時まで必要なのです。御旨のために死ぬ時まで、必要であればいいのです。そのために、「子女の日」に接するたびごとに、このように意義を考え、更に「子女の日」に対する意義を深く感じて、この日を捜し求めて来るまで、天はどれほど血みどろなゴルゴダの道を歩んだかという事実を深く知らなければなりません。 そして、ここにいる皆さんは、億千万代において死刑宣告を受けた囚人と同じような立場です。そうではないでしょうか? 自然刑法によって、殺人強盗よりももっと大きな罪状の札が立てられているのです。このような囚人は自然の刑法によって死にます。他人が殺して死にますか? 自然の刑法によって死ぬというのです。人はどのように死ぬかという問題は重要です。故に、死ぬなら見事に死を遂げなければなりません。御旨のために働いて死ななければなりません。 復帰時代は三点ですが、縦的には神様・先生・子女復帰であり、自然的に見れば、祖父・息子・孫まで結びつけて横的復帰が成立するのです。そのために、私たちは蕩減復帰をしなければなりません。この世的にしたいことを皆なして、どうして蕩減復帰の道を行くことができますか? 道を行く時も、先生は昔は歩いて行き来しました。電車にも乗って行くお金がないからではなく、あらゆることにおいて、すべて蕩減の道を歩むことをなして来たのです。そして、そのお金でかわいそうな人たちを助けてあげました。なぜそうするのでしょうか! 人は祭物となる立場で、天の前に捧げる心のある人が、恵み(福)を受けることができるのです。 祭物を捧げる立場まで出て来るためにも、復帰の道、即ち蕩減の道は歩まなければなりません。個人を蕩減するにおいても、自分自身では蕩減することができません。相対的な存在を立てて蕩減しなければなりません。 その天的な存在が、この世に今まで出て来ることができなかったために、相対的な人物を立てて蕩減するのです。それが祭物時代です。次に相対的な、即ち蕩減することのできる実体が出て来たのが、実体祭物時代であるイエス様の時代なのです。その次に、最高の相対が何かといえば男性においては女性であり、女性においては男性です。即ち愛なのです。イエス様はこの地上に来られたのも、愛を中心として家庭を捜し求めようとしたのです。 三時代の勝利者に では、どのようになりますか? 私自体においても、物質に対する祭物の過程を経なければなりません。そのために、私の体を中心として祭物の過程を経なければならないのです。サタン世界の愛を捨て去って、神の世界の愛を蕩減復帰しなければなりません。つまり、私自身が物質を超越し、肉体的な欲望を超越し、欲情を超越し、今までの現実的で感覚的なすべてを、一切を否定しなければなりません。そういう過程を経なければならないのです。それを否定せずしては、神を愛することができません。 従って、神の愛を受けることのできる男性でなければ、家庭を持つことができません。女性も同じです。男性と女性が、皆同じ蕩減路程を経なければなりません。そのために、この世のすべての物質的なことを重要視する人は滅びるのです。自分を中心とした信徒たちが集まる教会は滅びるのです。 従って、誰しもこのすべてのことを超越して、御旨に従ってゆかなければなりません。歴史的に見ても、ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、モーセもそうでした。即ちこれを完全に捨てるのではなく、永遠のものとして取り替えるというのです。旧約時代は物質を蕩減する時代であるために、祭物をおいて天の前に出て行ったのです。 今日、我々自体を見ても、旧約時代・新約時代・新約時代の三時代を経て、現在歴史的な縦的な時代を横的に蕩減しなければ、神の息子・娘となることができないのです。あたかも、イエス様がちょうどそうであったように、物質を蕩減し、私の体が御旨のために死ななければなりません。そのようにして神を捜し、愛を捜さなければなりません。それが復帰歴史なのです。このような過程を経なければならないにもかかわらず、何も知らず、反対しているのです。そうしていては滅びるのです。 今日、蕩減復帰ということは、旧・新約聖書を中心として、私自身において完成しなければなりません。従って、皆さんは旧約時代の勝利者とならなければならないし、新約時代の勝利者とならなければならないし、成約時代の主体者とならなければなりません。 こういう背景で見るときに、皆さん自体においては、旧約的な立場をとることのできる物質的な危険をたどって、体を犠牲にしなければなりません。このような隠れた秘密を知っているために、統一教会の人たちは今日までのいかなる教会の人たちよりも優秀であるというのです。 ところで、ここには蕩減というものがあります。この蕩減を経なければならないのです。それ故、今日縦的な役事を、横的役事で蕩減して来るのは間違いないというのです。 旧約時代は祭物、即ち万物を中心として蕩減していた時代であるために距離が遠く、新約時代には、息子であるイエスを中心として蕩減していた時代ですが、子女を中心として見れば、自分の実体の息子・娘なのです。息子を中心として見れば、神の心情圏内に入って行かなければなりません。ここにおいて、子女の立場を決定付けるのであり、ここで新郎・新婦の立場が始まるのです。旧約の祭物・万物時代を経て、息子であるイエス様を通して新郎・新婦の家庭を捜して来るのです。 天国への入籍 このような歴史が六千年をおいて下って来て、縦的な歴史が横的に蕩減されるために、皆さん自身が、御旨の前において物質を超越しなければ、御旨の道を行くことができません。また御旨を中心としてイエス様が「アバ、父よ!……私の思いのままにではなく、父の御旨のとおりなさしめたまえ……」と死んでも、十字架を背負いながらでも、感謝するのと同じように、皆さんも死の道を訪ねて行って、十字架の道を越えて、ゴルゴダの道を越えて行かなければなりません。 即ち、ここにおいてゴルゴダの道を越えて行くのです。ゲッセマネの園を越えて行くのです。民族を代身し、世界を代身して、ゲッセマネの園を越えなければなりません。これが統一教会の指導方法です。峠を越えるのは、イエスと共に死んで越えるのでなくて、生きて越えなければならないのです。そのために、縦的な歴史を横的に蕩減復帰しなければなりません。これが六千年の歴史であり、七年路程に該当するのです。七十年を七年で蕩減するのです。これは公式的です。そのために、堕落した人間は、今日誰にとっても七年路程が必要なのです。 それで、神霊的復興集団も七年だけ越えれば荷物をたたむのです。それを越えることができれば、いくらでも収拾することができるのです。そのために、縦的歴史を横的に蕩減するのであります。 今までは、イエスと聖霊の役事、即ち祭物を捧げる時代でした。ところが、統一教会では父母が実体的に十字架を負うことをします。従って、この公式的な路程は誰もが皆歩まなければなりません。これから祭物を捧げるためには、自分のすべての財産を天の国に入籍させなければなりません。お嫁に行く花嫁と同じなのです。イエスは新郎であり、私たちは新婦であるので、すべてお嫁に行くのです。 従ってお嫁に行こうとすれば、自分の物を全部持って行かなければなりません。この世の万民は新婦の立場であるために、すべての物質も相続圏内にあるのです。それ故に、我々は天の前に相続を受けることができる立場として、出て行かなければなりません。そうするためには、すべての物質を入籍させ、体を入籍させ、心情を入籍させ、このようにすべてを入籍させることがお嫁に行くことなのです。このようにして、イエスは結婚するようになるのです。 このような立場で、先生だけがなすのかと思っていたでしょうが、先生は世界的な使命をなし、皆さんは氏族的な使命を担当しなければなりません。これはどれほど宇宙的な膨大な事実でしょうか。地上ではこのような事実を知らないでいますが、霊界ではこのような事実を知っているのです。この一日、即ち父母を中心とした「子女の日」をどれほど待ちに待ったか知れません。我々はこのような子女の日を迎える度ごとに、更にこのような意義深い意味を胸深く刻まなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.14
コメント(0)
「全面的な進撃をしよう」 第一次七年路程の終結 第一次七年路程が終われば、第二次七年路程を私たちが行かなければならないという、このような命令のみ言葉をたびたび聞いたことと思います。 この暁のこの瞬間は、今まで我々が待ち焦{こ}がれ、希望を抱きつつ使命を背負い、血の滲{にじ}む闘争を覚悟して、誓いながら闘ってきた七年路程を振り返りながら、その日とその時とは関係のない新しい一九六八年を迎えました。 この瞬間からは、時代的差異と使命的な分担があって、隔たって異なった時代的様相を帯びた第二次七年路程を出発する、このような時機に置かれているのです。 ここに集った我々は、御旨を既に知りました。御旨のために生命と財産を捧げることを覚悟しました。また、そのような歴史的な闘争の路程があるので、我々の一身に負わされているそのことを自分が知り、「天の血と肉の因縁をもって、この時代的な使命の責任を負います。」と天の前に誓った自分自身として立つことを、我々は一層自覚する次第です。このような位置にあって、今我々は過去のことを後悔すればするほど、御旨の前にあって新しく決意する心が大きくなければなりません。 六千年の歴史において、七年路程を中心として締めくくろうとした父の御旨があることを知りましたし、イエス様聖誕以後、二千年の今までキリスト教の歴史が、血の滲む殉教出血の教会の祭壇を連ね、苦労しながら来たということを知っております。そのような願いと希望の基盤が、この七年路程において終結を見なければならなかったことを知りました。神様とイエス様と聖神(聖霊)はもちろんでありますが、昔からこの世に生まれて死んで行った数多くの預言者や烈士、聖賢たちもやはり一{ひと}時{とき}の恨みを残しながら、サタン世界を心で踏みしめ、御旨を立て誓いながら、あるいは、ある時には犠牲の場、ある時には死の場に行ったことを知っております。 彼らのすべての願いも、この終わりの日の七年の大混乱を中心として成就するように、ここに決定的な願いと希望をおいてきたという事実を我々は知っております。 このような歴史的な要求が一時代の一起点に集中され、サタンと神との最後の闘いを提示しておき、これを決めなければならない使命を背負って出て来るその責任者たちが誰かといえば、この地上に住んでいる多くの人々ではありません。我々が住んでいる大韓の息子と娘、あるいは三千万の我々民族でもありませんでした。世界は知り得なかったし、大韓民国の三千万我々民族も知り得ませんでしたが、この民族の中で追われ、追いつめられてきたこの統一の群れが、このような重大な責任を背負っていたという事実を天は今まで知っていて、我々と共に険しこを開拓するのに同調してきた事実を考えるときに、これは我々だけが持っている特権であり、我々だけが持つことのできる天の誇りであり、歴史の過程においてやり甲斐のある期間が、過ぎ去った七年期間であることを我々はよく知っていました。 このような七年間において、我々は各自が天の前に忠孝の道理を果たさなければならないことを、時間のある毎に強調したのです。忠孝の道理を立てるにあたって、勝利的、あるいは栄光の、あるいは人並外れて豪華な位置においてやろうと我々は約束しませんでした。 血と涙が交叉し、死の道が行き交う、そのような道にあって、誰もがその道を行くのを願わない、このような最後の峠の道で七年路程を行こうと、我々は固く決意して出てきました。涙を流すにおいても、他人が流したことのない凄惨な涙を流すことを覚悟したし、そのような死の道にぶつかる場合においても、過去のいかなる者も抱くことのできなかった歴史的な恨みを抱こうとする、そのような立場で七年というこの道を我々は、辿ってきたのです。そのような道を回顧するようになる時には、涙の滲むような内容も多かったのです。 他人が到底理解できなこを、我々は歩んできました。その中において、我々の受けた悲しみも大きかったけれども、それ以上に、我々を導いて下さりながら、内外の道を開拓するためになされた天の御苦労と天の悲しみが更にもっと大きかったという事実を、我々は過ぎてしまってから回顧するということが、どれだけ恥ずかしく、申し訳ない事実であるかということを、もう一度感じなければなりません。だからと言って、天を悲しませたという事実が完全なる善の結果をもたらし、この民族全体を天の前に導いたことになったのかといえば、それもできず、世界が神の主管圏内に入って行くことのできる道になったかといえば、そうもならなかったというのです。 第二次七年路程 それでは、ここにおいて我々はもう一度襟{えり}を正して、この民族と世界人類の前に、再び第二次七年路程を設定しなければなりません。この時期にあって、天地の前に御苦労なさる神に再び侍ってさしあげ、共に苦労の道を再出発しなければならない立場にあることが、悔しくやるせない事実であることを、皆さんは知らなければなりません。 六千年の道もたいへんな道であったが、過ぎ去った七年路程において、後ろ向きに覆す蕩減の峠の道で御苦労なさる父の御苦労がもっと大きかったのに、ここまでしても摂理の終結をみられず、再び民族的な恨みをもたらし、その上また父を前に立てて、再び行かなければならない第二次七年路程を迎えたということが、天の前にどれほどか恐れ多いことであるかを知られなければなりません。皆さんは今、厳粛な心情を整え、過去の歩みを悔い改めて、自分が果たせなかったその責任をもう一度整えながら、新しい年において、父の前に生き甲斐のある祭物として、新しく自身を捧げる姿勢でもってこの七年路程に立とうと心の中で固く決意することのできる皆様になって下さることをお願いする次第です。 過ぎし日の七年路程というのは、先生の二十一年路程の終局を準備するためにあった期間であるということを皆さんは知っております。それは、世界史的な意義において個体的に参席したけれども、ただ個人として参席したのではなくて、歴史的な数多くの人間を代表して参席して来たということを知っております。皆さんがこの闘いにおいて精誠を尽くしたことは、決して無駄になりません。これは、千秋万代において、地の因縁がその位置に根付くのであり、天上に行っては数多くの善霊たちが讃美することのできる、このような基盤が残り得るというのです。再びこの地球上に来ないそのような時がすなわち、今何分か前に過ぎ去った一九六七年として終わりを告げたというのです。その間、御旨のために忠誠を固く決意し、天のためにすべての精誠を尽くしたことを歴史が知るようになるでしょう。一方では、憤って心を痛めなければならないことも事実であるけれども、それはどうすることもできないこととして、既に過ぎ去った内容になってしまいました。 このような観点から、そのような心情を中心として、三千里半島(韓半島を指す)の上に統一の旗印を掲げて出て来た我々は、今まで民族的な迫害と攻撃を受けて歩んできました。 けれども、我々は行く道を留まりませんでした。追い詰められ、追われながらも、自我の内的拡張と外的整備を怠らず、韓国内にあって、あるいは三千里半島において、今は統一教会の行く道を妨げる者がいないのです。いかなる銃剣の力をもってしても妨げることができません。 どのような銃剣の力をもっても妨げることのできない、このような基準を再び捜し求めなければならないという事実を、天的な基準からみるときに、これがとてつもない勝利の結果をもたらしたという事実を知ることができるのです。民族的基準を中心として、新しい歴史時代を成すことができたという事実に対して、我々は感謝しながら、過ぎし日の苦労してきた道も甲斐のあるものであったことを知らなければなりません。 今や、残された新しい内的な分野において、民族的な全体をかけておいてこれを整備して、新しい世界に向かって、新しい出発をしなければならない使命が我々にあるのです。また、これをさせなければならない使命が私にあることを、もう一度考えざるを得ないこの時間であることを我々は肝に銘じなければなりません。 過去七年間の標語 それで、今年にあって我々はどのような道を行かなければならないのだろうか? これが新年の始まりにおいて、全国にいます統一教会、あるいは世界に広がっている統一教会の食口たちに先生が勧告せざるを得ない課題なのであります。 今年はどのようにするのか? 『全面的な攻勢を取ろう』、あるいは、『全面的な進撃をしよう』という標語をもって第二次七年路程の出発をしようというのです。過ぎ去った七年路程において、第一次年度の標語は『生涯中、最大の実績をあげる年になるようにせよ』というものでした。二番目の年は、『父の代身者になろう』、三番目の年は、『見せてやり、誇ることのできる者になろう』、そして四番目の年は、『勝利的主管者になろう』というのが、その標語でした。これをもう一度考えてみるとき、その内容がどんなものであるかというと、“生涯の最高の年にしよう”というものでした。 人間の願いと希望は何ですか? このサタン世界において、歴史的な蕩減の因縁をとり揃{そろ}えている我々として、サタン世界の前に分別された立場をとって、個人復帰するのが目的でした。そうすることによって、その次には神様の前において、天側の息子・娘になって、サタンを審判することのできる権威を持った息子・娘になろうというのでした。 その次には何でしたか?『見せてやり、誇ろう』でした。“今や実績をもって天の息子・娘になったその姿を、この地の上に実践的な結果をもって見せてやろう! それを、個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に見せてやろう。そうして、勝利的な主管者になろう”と言うのが七年間の標語でした。これが、個人から国家に至る七年間の目的を物語っているのです。 このような観点からみるとき、今年において、『全面的進撃!』、これをしなければなりません。こうして、我々統一教会の食口にあっては、一人も残さないように、どのようにして夜も昼も活動できるように造るかということが問題です。 内的整備 第一は休まず活動しなければなりません。そのためには、内的整備を強固にしなければなりません。皆さんが活動するためには、活動できる目標があるのです。自分自らが、その目標を達成できる内的なすべての内容を整え、備えておかなければなりません。 このような観点からみるとき、全面的な進撃をするために、まずしなければならないことは、統一教会自体内にある、全般的な分野における内的整備を速やかに急がなければならないことです。 そのためには、個人の信仰を中心として、我々がみ言葉に対して、天の前に立証し得る私自身になっているのか? 実践において父の前に、神の前に保障を受けることができる私になっているのか? 心情を中心として、大勢の人々の生命に責任をもって、そこに新しい繁殖を起こすことができる能動力をもっているのか? このようなことが問題になるのです。 皆さんが知っているとおり、審判には、“み言葉審判、人格審判、心情審判”があります。それでは、個体において我々は、御旨を中心として活動するために内的整備をしなければいけません。これが完全に整えられて、天が御覧になるときに、「正しい」と言われることのできる基準をもたなければならないのです。そのためには、皆さんが原理のみ言葉を勉強しなければなりません。もちろん、この七年路程において、正常的な位置を踏んで来た統一教会の食口であるならば、原理試験に合格しなければならないのです。 我々はただみ言葉に従い行く人になってはいけません。み言葉化した自己自体が、主体性を確立した実体となって、創造を成し遂げることのできる人格を備えなければならないというのです。 今まで我々統一教会では、原理のみ言葉を勉強する人の多くは、全部その心情的基準、人格的基準において捜し求めていこうとせず、み言葉だけで仕事をし、動いているのです。このようであってはいけないというのです、み言葉を語る場合、そのみ言葉が“自分のみ言葉”として吐露できるようでなければならないというのです。その原理を、ある師が教えてくれた原理として語るのではなくて、自分の骨と肉が感じるような生命の因縁を備えた、その内的な人格を備えた立場で、本人の主体性をもってみ言葉を語ることのできる人にならなくてはなりません。そうでなければ、そのみ言葉によって因縁づけられた人たちが、自分と何ら関係がないというのです。 サタン審判の基準 それゆえに、み言葉を中心とした実際的な人格を完成しなければならないというのです。そのためには、神様の公認を受けなければなりません。そのためには、必ずサタンと対決して勝利しなければならないというのです。 それでは、サタンをどこで屈服させるのか? 自分が住んでいる家で屈服させるのではありません。自分が活動している職場で屈服させるのでもありません。一つの国では、その国の最高の位置でサタンと是非を区別して断を下し、個人として讒訴するサタンでなくて、国家的に讒訴するサタンを屈服させてこそ、神様の息子・娘になることができるのです。 なぜそうかといえば、イエスがこの地に来られた時、個人的な立場で来られたのではありません。国家を指導するために来ました。従って、イエスが残した恨みを蕩減復帰すべき立場にある我々は、イエスが国家的基準においてサタンを中心として対決したが、十字架に亡くなったこの恨みを解いてさしあげなければ、国家的権威を代身することのできる、復活したイエスの代身実体を備えることができないのです。サタンを審判する権威は、最高の国家的試練の途上でこれを処理していかなければ、立たないというのです。 このような摂理の方向があるために、統一教会が今まで歩んできた道において、国家的に反対を受けなければならなかったのです。教会、家庭、社会はもちろんですが、国家的次元での迫害を受けずしては、国家的に勝利した人格的な価値を身につけることができないがゆえに、天はそのような場に、我々の試練の舞台を展開させたという事実を知らなければなりません。 このような観点からみるとき、真理を知っているだけではいけないというのです。真理と一体化したその人が、み言葉を語らなければなりません。み言葉の前に引きずられて行くのではなくて、み言葉を支配しなければなりません。神様のみ言葉をサタンが「その通り正しいです。」と公認しなければならないということです。そのようになるためには、み言葉と共に、実体がサタンを屈服させることができる実証的な事実を身につけなければなりません。サタンは、神様の心情を蹂{じゆう}躙{りん}し、侵犯したところから出発したゆえに、今日このようなサタンを屈服させ、審判することのできる第一の基準が何かといえば、神様の心情を復活させるところから自体勝利の決定を準備しなければならないということを、皆さんが知らなければなりません。 それゆえに、“終りの日”におけるみ言葉・人格・心情の審判において、どのような基準でなされるのか? アダム・エバが堕落する前の段階の基準以上の位置に上って行かずしては、み言葉を再び捜し求めたという位置に、勝利的価値をもって現れることができないのであり、かつ、天の前に召され、立てられた者として、神様の心情を再度相続を受けて出で立ったと言うことができないというのです。つまり、アダム・エバが堕落する前の段階よりも更に高次元的な段階において、この場を決定しなければならないのです。 それで、今日統一教会では、神様を中心とした完成時代における神様の心情を教えてきました。アダムは、長成期完成級時代に堕落しましたが、その時、神様の心情がどうであるかということを、アダム・エバは推し測ることができませんでした。我々統一教会においては、完成を中心とした神様の御旨がどうであるかということを語ってきました。 それゆえに、その基準以上の位置に立たずしては、サタンがアダム・エバを引きずって行ったその基準を清算し、片付けることができないので、皆さんがそのような場に出て行かなければならないです。 では、そのような場が、どのような所なのでしょう?この世界人類をおいて見るとき、今日、どの一人たりともそのような場に出て行った人がいないというのです。そのような場に我々が出て行こうとするのです。それゆえに、統一教会がもっているみ言葉は、特権的なみ言葉といえます。このみ言葉を通して統一教会が実践する実践は、特権的な実践です。このような立場に立った心情の因縁は、この歴史上になかった、天地を連結させることのできる、神様の心情が連結されるという事実を我々は知らなければならないのです。 もう一度言うならば、失われてしまったアダム・エバの心情よりも一層高い心情から、新しい歴史的な世界が出発することのできるこの基準が立てられなければならないということが、いわゆる統一教会の食口たちが目標として出ていく基準であることを知らなければなりません。 このような観点からみるとき、私の個体としてこのような内的整備を完結しなければなりません。これができているかどうかということが問題なのです。そのようになっていないとすれば、いかなる手段を講じても、一九六七年にあってこれを責任もって行い、このような結果の場に立つように努力しなければなりません。このような場に立脚して、きょうから総進軍しなければなりません。しかし、どれだけ進撃するといっても、内的整備ができていない限り、そこでは必ず敗者の悲痛さを免れることができないということを、皆さんは知らなければなりません。それゆえに、休まず活動するにあたって、これを支えることのできる内的整備が必要であるということを皆さんは知らなければなりません。 目標意識 二番目は、目標意識が明白でなければなりません。内的整備がどれだけ完備されたとしても、うろうろしてはいけないのです。この目標がどのような目標であり、それが指向して出て行く道がどのようになって、その目標として成されるのか?また、その価値がどのようなものなのかということを皆さんは確実に知らなければなりません。 我々統一教会の食口たちは、一九六八年から全面的な進撃をしなければならない立場に置かれています。我々は、一つの目標を中心として前進するのです。 我々統一教会自体は、一般既成教会を通じて越えて行かなければなりません。そして、どこへ行かなければならないのか? 大韓民族、大韓の国、倍達の民族(韓民族の歴史的な、または古風な呼称)を中心として、この民族全体を天の前に復帰させなければならない使命が、我々に背負わされているということを知らなければなりません。この目的のために、私は食べ、眠り、生きるということを、私はこの目的のために活動しているということ。 皆さん、このような目的意識が徹頭徹尾確立されていなければ、その成果は期待することができません。どれだけ努力するか。しかし、“努力はするがむやみに努力するな”というのです。内的整備を強固にして、あるだけの精誠を尽くして行かなければなりません。我々は一つの明確な目的を中心として行かなければならないのです。 イエス様がゲッセマネの園を越えて、カルバリ山上を経て、ゴルゴダの山頂まで行った行路を我々は忘れてはなりません。「アバ、父よ。もしできることでしたらどうか、この苦杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の思いからではなく、御心のままになさって下さい。」と、言うことのできる、ただ一つの疑問ももたないような心をもって、「私の思いではなくて、父の御旨のままになさって下さい。」と、その父の御旨に通じた思いによる目標、これが皆さんの内心に確立されていなければなりません。 父の御旨を中心とした目標を制定しておいて、これに向かって出ていくにあたっては、カルバリ山上からゴルゴダの山頂まで行ったイエスの事情を我々はかき抱いて行かなければなりません。イエスは、ユダヤの国を忘れようとしても忘れることができなかったのです。また、その次にはユダヤ教団を、愛するダビデの後孫であるヨセフの家庭を、更に自分に従っていた数多くの群衆を忘れようとしても忘れることができなかったのです。そのように一つに連結されるすべての思いは、自分のための思いにではなく、イスラエルを中心として関係づけられる全体の心に根拠を置いていたのでした。 そのようなイエスの心を中心として、これを遂行するためには、怨讐たちが時にどれだけ迫害をし、どれだけ難しこが立ち塞{ふさ}がったとしても、命がけで遂行しなければなりません。この道を行かなければならないというイエスの心を手本としなければなりません。 今や、今年度から我々が行かなければならない分野は変わりました。国家的な使命も充分に成し得なければなりませんし、氏族的な使命も充分に成し得なければならないことを、先の昼の礼拝時間に四時間近く話しました。このような観点からみるとき、我々は大韓民国を復帰しなければならないというのです。 そして、共産治下の北韓が、南侵の機会を狙っているこのような時代的な状況下に置かれている我々においては、天が要求される摂理の御旨と結びつけて、これを蕩減させておいて、どのようにここに勝利の基準をもたらすようにするのかという細部的な問題については別に指示しますが、この国をどのようにして天の前に復帰させるのかという問題を、目標として定めて我々は行かなければなりません。イエスがユダヤの国を救うために死をかけて闘って行ったのと同じ心情で、我々もこの国を救うために死をかけて行かなければなりません。 この国がどこに行くか?我々は、怨讐たちが出没している根拠地を天の代わりに凝視することによって、これを必ず占領しなければなりません。だからといって、この世的な方法でするのではありません。我々統一教会が行う作戦方法が別にあります。涙と血と汗でもって打たれて奪って来、あるいは踏みつけられながら奪って来る作戦を展開して来るのが、我々の作戦方法です。その結果、我々は敗者の悲しい位置を免れました。既に実践し、勝利の結果をもたらしたその体験をしたゆえに、このような作戦を展開させることを休まず、時間を争って出て行きながら、大韓民国の地を救うために、我々は闘って行かなければなりません。 そのために、全般的な問題において我々がしなければならない責任分野がどれほど多いかを知って、体が百、千、万に粉々になっても足りないと感ずることができなければなりません。このような場に立って、目的意識に徹して、この目的使命を完遂するために総進軍しなければならないことを皆さんは決意すべきです。 ここで問題となり、肝に銘じなければならないことは、イエスがカルバリ山頂からゴルゴダへ行く時のその切実な心情を中心として、死を踏み越えて行くことを決意したイエス様自体のその姿を代身することのできる場で、目的意識に徹することのできる皆さん自身にならなければならないのです。 敗者の悲痛さ 三番目に、目的意識に徹しなければならないこのような場で、我々が知らなければならないことは、万一失敗して我々が目的を達成できない日には、敗者の悲痛を免れることができないということです。「その目的を中心として天の命令を受けて使命を遂行します。」と出で立った身が、行くその途中で敗れて、敗者の結果をもたらすようになる心の痛みを体験するよりは、先立って我々は、今からそれを内的に体験してみようというのです。 敗者の悲しみを皆さんは、想像してみることができなければなりません。イエス様もゲッセマネの園で祈ったその時から、最後の恨みの言葉を父の前に祈ったそのような立場に立脚するようになる時まで、敗者の悲しみを感じたのでした。我々は、敗者の立場でそれを感ぜずに、その場に行く前に感じてみようというのです。敗れたとき、その自体の悲痛さがどのようなものなのか? 敗者の結果を予測してみよう! これが何よりも重要な問題なのです。 万一、敗者の悲痛な立場に立脚するようになる時には、怨讐たちが喜ぶのです。この怨讐は、この時代において現れた怨讐のみならず、歴史を蹂{じゆう}躙{りん}して来た天の怨讐であり、イエスと聖霊の怨讐です。この仇を討つために、我々がこの時代の使命を背負って、剣を抜いて立ち上る限りは、これを全滅させなければなりません。これが使命です。勝者の栄光を勝ち取らなければならないのが使命であるのにも拘らず、敗者の悲痛さを迎えるようになるときは、どのようになるのか?それを皆さんがこの時間に感じてみなければならないのです。我々は勝者の栄光に陶酔する場を離れて、勝利的な結果が来る前に、敗者の悲痛さがいかほど悲惨であるかということを、骨身に染みるように感じなければなりません。 そうして、この人類と全天地の怨讐を撃退させるために働かなければならないというのです。私一人ではできないのです。ある兄弟たちを見るとき、兄弟と兄弟間に心が合わないと間隔をおいて彼を批判し、彼を審判する人がいるかも知れませんが、それはいけません。神様の全体的な作戦において、まだ勝利の場に至っていない立場では、そうしてはいけないというのです。 勝利の場、栄光の場に行くためには、まだまだ苦難の峠をもっと越えなければなりません。そのような苦難の場で闘っていかなければならない我々は、敗者の悲痛さがどのようなものであるかを確実に知らなければなりません。万一、エデンの園で、アダム・エバが前もって堕落の結果がどんなものであるかを確実に知っていたならば、堕落しようにもすることができなかったのです。その結果がどれだけ残酷であり、どれだけ悲惨だったかという事実を知ったならば、アダム・エバは絶対に堕落することができなかったのです。 それと同じく、この第二次七年路程の初めにおいて、今やこの年は勝利の年として栄光の一日を迎えるか、そうでないか、という観点からみるとき、ここに目標意識の確立を強調しながら、勝利的な目的を強固にしなければならないことを固く決意するのです。その前に、まず問題となるのが、すなわち、敗者の悲痛さを体験せよ、敗者の結果を想像してみよ、その結果がどういうものであったかを体得してみよということなのです。アダム・エバの一日の失敗で、六千年の恨みが身に染みつくことを誰が知り、アダム・エバの後孫がこのように千万年をかけておいて、自分の祖先を恨み続けてきたとは、誰が知ったか! この事実を知ったならば、たとえ千回死んだとしても、千万回倒れる恨みがあったとしても、堕落をしでかすことができないというのです。それと同じく、皆さん自体も今日において、統一教会が行く道の前にあって、勝利のある面を仰ぎ見ることによって喜ぶのではなく、それよりもきょう、この瞬間においてそれを固く決意することのできる一つの刺激剤として、敗者の悲痛さが、いかほどか驚きあきれることかを知らなければなりません。 ノアが一二〇年間苦労し立てた家庭がハムの失敗によって敗れ、崩れてしまったということを皆さんも知っています。アブラハムが祭物一つを裂かなかった小さい失敗が、イスラエル民族をカナンの地からエジプトに追放し、また、イエスを売って、十字架に出すことのできる動機と起源になるとは夢にも考えられなかったではありませんか? 歴史的な結果と現在を懸{か}けておいて、歴史的な秤の分銅と同じ、このような立場に置かれなければならないのが、今日の我々の立場であることを知らなければりません。 今日の我々の立場 ここにおいて、今から固く決意し、敗者の悲痛さがどれほど悲惨なことかを感じつつ、一日一日の生活を固く決意しながら、そのような悲惨な場には歯を食いしばってでも私が落ちてはいけないと――きょう一日を勝利の道を目指す同志の隊列に歩調を合わせて、目的意識に徹することのできる場として、固く決意して行くことのできるような人になるならば、その時間の中で無限なる喜びと、無限なる痛快感を感ずることができます。 これを感ずることができない人は、希望と勝利の夢に奥深く染み込んで、それを夢みて、それを願うけれども、それがそのように容易に社会に現れることができないというのです。そのような人は、疲れてへとへとになり、後退するようになっているのです。このように、敗者の結果を体験する自我の立場で、勝利の決定場を仰ぎ見る天の勇士たちになることを、皆さんは固く決意しなければならないのです。 先生はこの道を出発するとき、既にそのようなことは皆、固く決意しました。皆さんが万一、摂理の御旨の前において願われていることを成すことができないときは、私はどこに行くのか? このようなことを知って、最後の談判下で御旨の道に臨まなければなりません。その場がどれほど悲惨であるか? 六千年史の悲しいこの絶頂において、我々は再爆発しなければなりません。そうでなければ、預言者や先烈たちが流したすべての血が空しくなるのです。歴史の峠の道において、忠孝の道理を果たした美徳を明らかにしながら、善の目的を指向してくる中にあって、実績を収穫したすべてが破{は}綻{たん}するのです。その場がどれほど悲惨でしょうか? その場に行くとき、どれほどか恐ろしく、どれほどか残酷であり、どれほどか震える心になるほど、熾{し}烈{れつ}な闘争の中で、いかなる怨讐の矢が迫ってくるとしても、その悲惨なる事実に勝つ以上の心情を貫いていかない限り、絶対に環境を開拓することのできる動機となることができないというのです。 我々が行かなければならなこがそれであり、我々がしなければならない仕事があまりにも多いのです。手足が千や万あっても足りません。このような場に、体全体を抱いて踊ることのできる勝利の結果をもたらすことを固く決意する一方で、自分自身があまりにも足りない、弱い者であることを感ずるのですが、そうかといって我々がためらい、傷心だけするのではなく、万一敗北する日にはどのようにするのか? ただただ、このことを前もって心の中に体験しておかなければなりません。 きょう、新年の初めに、勝利の世界の輝かしい希望に溺れることも必要であろうけれども、それを自分のものにするためには、その絶対的な要因が我々になければなりません。そうである以上、皆さんはこの時間に敗者の悲痛さがどれほど悲惨であるかということを感じなければなりません。これは、このような環境を解決するのに絶対的に必要なのです。 何かの仕事をしようとするならば、例えば、皆さんが人工衛星を作って発射するとしても、その場所がケープ・ケネディならばその基地において、人工衛星を発射するためには、どれほど苦労をするか? そこには、栄光も何もありません。それこそ悲惨な過重の中で呻吟して、固く決意するそのような場面を克服しながら、成功の一時を仰ぎ見つつ、悲惨なる峠に当たれば当たるほどその目的が成就されたときのその喜びは、天下で他に味わうことのできない喜びになるのです。 皆さん、我々統一教会の食口は、そのような場を経て行ってでももう一度、この任された使命期間の間、力強く行かなければなりません。 勝利の秘訣 今や、一九六八年からなす仕事が多くあります。それを全部ここで話すことはできません。今や、我々は、韓国に対する使命のみならず、世界に対する使命も果たさなければなりません。今日の統一教会まで発展させるためには、迫害を受けながら日本宣教をしなければならなかったし、アメリカ宣教をしなければならなかったし、そのために人を送り出さなければなりませんでした。迫害し、反対するその政府が出国させてくれないことが分かったので、日本に伝道に行く人を密航船に乗せて送りました。 これは、その当時における法にひっかかることかも知れません。その時代において、いけないことかも知れません。しかし、天の摂理に従って見るとき、私は良心の呵責を受けないのです! そうかといえば、アメリカに宣教師を送るときは、自由党を利用しました。万一、そうしなかったならば、今日このような勝利の基盤を絶対に準備することができなかったのです。 一九六三年度末期において我々は、文教部と闘いました。その時、革命政府が出て来て、宗教団体の登録問題を出したのですが、統一教会の登録許可申請を文教部で脚下してしまいました。それを我々はわずか一週間以内にひっくり返したのです。何をしたのか分かりますか? 日本で既に国家的な宗教法人の認可を受けているし、アメリカにおいて既に登録を受けているといって、抗議の手紙が文教部に舞い込んで来たのです。ドイツでも既に登録を受けていました。 その時、我々はこの民族を代身して、それこそ生命を覚悟して、地方に出て行って啓蒙活動をする時でした。実績の前には、大きなことを言えないのです。今、我々が反共運動を展開していますが、一番最初にいかほどあざ笑われましたか?「『反共連盟』があるのに統一教会が何の反共? 共産党がどれだけ恐ろしいか、世界の半分を飲み込んだのに、彼らが反共するって? 裸一貫で?」しかし、「愚かだとは誰が愚かなのか、今に見ていろ!」という決意でした。満二年も経ずして警察局長が我々を訪ねて来たり、また道知事が公文を出して、我々と事情を通じるようになりました。 今後における先生の計画がたくさんあります。皆さんたちは、どのような所に送られることを願うか? 誰であっても大きい成功を願い、大きな使命を背負うことを願っています。昔から今日まで人間は、そのような欲望と、そのような欲心を根本的に身につけているのです。誰であっても大きい希望をもち、大きい責任を背負うことを願うけれども、その責任に耐えられないのです。責任を負う前に、責任に耐えられなければどうなるのか?「耐えられなければ、生命と換えるという信念を持て。」と言うのです。このように見るならば、生命を懸けて問題の核心が解決するというとてつもない解決点が出てくるのです。 最近、我々の工場でも、そのまま任せておいたので、従来の生産高の三分の一も出て来ないということです。それで、行って思想的に呼びかけて押し出してやると、一週間以内に三倍の生産量になったというのです。万一、責任完遂をできないならば、自分たちの面目が立たない立場に直面するようになるということが分かるようになるときは、大変なことになるというのです。 自分が敗者の悲痛さから免れるためには、それが民族的であり、世界的であるならば、世界的であるほどに民族的な責任が必要なのです。民族的な同情者が必要なのです。世界的な局面を懸けて、闘いを責任負うという者には、世界的な同志が必要です。共産主義に勝つことにおいて、民主世界の同盟がなぜ必要なのかといえば、敗者の悲痛さがいかばかりかということを心配するからです。これを出発当時から感ずることができない人は、勝利の栄光を勝ち取ることができないのです。アダムがそれを感ずることができなかったゆえに、エデンの勝利の栄光を勝ち取ることができませんでした。堕落した後孫になった我々は、我々の先祖がそのような失敗をすることによって、その後孫たちがこのように悲惨になったということを知っている以上、また再び、そのような失敗を繰り返してはいけないというのです。 我々自体内において、平時に敗者の悲痛さが我々の前に矢の役割をしているということを知るようになる時、私はどのようにするか? 敗者の悲痛さを征服しておいて、勝利の道へ行こうというのが統一教会の作戦方法であると同時に、神様の作戦方法であることを知らなければなりません。今日、我々が覚悟して計画するすべてのことが、敗者の結果として現れるようになるときにはどのようになるのか? この問題を懸けて、大きい願望をもつ人においては、その行く道が敗者の結果をもたらし得ません。そこに比例する前進があるのみであり、そこに比例する勝利の結果があるのみであって、敗者の悲惨さがあり得ないというのです。このような覚悟の下で皆さんは出て行かなければなりません。このようにしてこそ、必ず勝利するのです。進撃のために生きるか死ぬかの二つの内の一つだ! 必ず勝利しなければなりません。 そのためには、どのようにしなければならないのか! 他人が一回勝ったならば、私は二回勝とう。他人が二回勝ったならば、私は三回勝とう。他人が一時間眠るならば、私は三十分眠ろう。他人が一膳食べるならば、私は半分食べて闘おう! 即、このようなところに勝利の鍵があるのです。 勝利の秘訣が空中を飛びまわったり、何か他の世界にあるのではなく、どれだけそこにおいて時間をたくさん消耗し、努力をたくさんし、資本をたくさん注ぎ込むかという問題にあるのです。 入学試験を受ける人たちにおいては、時間の闘いが重要であるというのです。精神の闘いが重要であるというのです。努力の闘いが重要であるというのです。落第した人たちは、他人よりもっと眠ったし、もっと食べたし、他人よりも何か一つもっと楽に過ごした人たちです。ですから、勝った人は、その反対の立場を取った人です。私は最近四時半に起きて、工場に行きます。工場に行くのにおいても、どの誰よりも先に先生が出て行くというのです。 今や、七年路程が終わって、再び第二次七年路程が始まるのですが、どのようにするのか? そのままの通りにそっと置いてはいけません。 「私は年を多くとっており、上流階級であり、何々の高官である。」ということは関係ありません。私には休む余暇がありません。皆さん、そうではありませんか? だからといって、愚かな人ではありません。ただ、どのような結果を願おうとも、そうできる仕事をしなければならないのではありませんか? それで、何をするのか? 皆さんたちを勝利者につくろうというのです。すべての人たちが朝、市内に出て行くのは、何のためなのですか? 皆、目的があって行くのです。すべての生活において、勝利の結果をもたらすためです。ところで、結果においてそうできない時はどうか、敗者になる証拠でしょう? 私が万事において一回手を差し伸べるならば、善なる事で結果を結ぶか、悪い事で結果を結ぶか、必ずこの二つの内の一つです。 全面的進撃 今や、一九六八年を中心とした統一教会の標語は、『進撃の年』、『前進の年』、『全面的な前進! あるいは、全面的な進撃の年』です。 進撃というのが実感できる言葉です。皆さん、ちょうど戦争する気分でしょう! そこには、必ずその戦場で勝利するのか、敗れるのか、二つの内の一つです。勝利するのか、敗れるのか、どのようにならなければなりませんか? 勝利しなければなりませんか? 敗れなければなりませんか?(「勝利しなければなりません。」)勝利しなければならないことは、お腹の中から学ぶことであり、敗れるということは、お腹の中から学ぼうとしないことです。この世に一体誰が、勝利したくないという人がどこにいますか? けれども、敗れる人が多いですか? 勝利する人が多いですか? すべての人が上から下までみんな「自分は必ず勝利する」と言うけれども、結果的には敗北する人が多いというのです。 ここにおいて、我々が緻密な作戦を立てて、この目的を遂行するにあたって総進撃しなければなりません。分かりますか? そのためには、代価を払わなければなりません。大韓民国を救うためには、三千万を導いて行くことのできる力をもたなければなりません。三千万が眠り、目覚めなければ、踏みつけてでも目覚めさせうるような粘り強い底力と忍耐心がなければなりません。そうではありませんか? 綱引きするのと同じです。彼らは、一度に皆できないから眠っている時間にでも引きずって行こうというのです。彼らは、眼をあけて引きずられて行ったけれども、眠っている時でも引きずって行こう! そうしてみようというのです。 そのようにするには私の力が足りませんから、「神よ、手助け給え、霊界よ、手助け給え。」と言おうというのです。このようにして祈るのです。私の目的で私の息子・娘がよくなるために祈祷してみなさい! どれだけ祈祷し、祈祷しても、その息子・娘がどうしようもない人間になってしまうだけだというのです。見ていてごらんよ。そうであるか、そうでないか。自分の欲心を働かせて、自分の息子・娘のために祈ってごらん。約七年だけ祈祷してごらんというのです。やくざな人間になってしまうというのです。その息子・娘のために祈祷する精誠をもって民族を救い、世界万民を救うために祈祷しなさいというのです。 我々の統一教会は、そういうことを皆知っているゆえに、しないのです。それでは、数多くの大敵に対して勝利するためには、少ない数でどのようにしなければならないのか? 非常作戦をしなければなりません。奇襲作戦をするとか、あるいは、誘導作戦をするとかしなければならないというのです。そうでなければ、側面作戦をしようとするならば、力が強くなければならないというのです。 そうしようとするならば、ここでは私の力が足りないから天の力を求めなければならないというのです。それで祈祷するのです。それが天の仕事であり、父の御旨に合うことによって、そのように祈祷するならば、成るのです。それゆえに、統一教会の行く道は、“転{てん}禍{か}為{い}福{ふく}”(禍い転じて福と為す)の体験方法をよく利用したのです。分かりますか? このようになるのです。打たれて勝利した者は、勝利した後に打つ者がいないのです。先に打たれて勝利した者は、勝った後に叩く者がおりません。そうでしょう? 打たれずに勝利した者は、勝利してから後にまた打たれなければなりません!それでは、どちらがよいのですか? この世の人たちは、勝利を先に要求するでしょう? 打たれて勝利するという考えはしないというのです。復帰歴史がそうだというのです。神様は、打たれ、奪われる作戦をなさるのです。力の比重において、対備することのできる力の力量をどこから補充するのか? ここで神様は、我々と共になさるのです。 私が先ほども話しましたけれども、統一教会は、天運に乗っています。どれだけ大韓民国の国運が素晴らしいといっても、国運は、押し寄せて来る世界の運勢の前に取り換えられるのです。世界の運勢がどれだけ力があり、権勢が多いといっても天運が巡りまわってくるならば、世界の運勢も押されていくのです。 それでは、我々が、大韓民国の運勢に対して勝利するためには、世界の運勢と天運に乗って行こう! 天運に乗ろう! というのです。天運に乗ろうとするならば、天運がゆく道はどのようなものか? 万民が好きで、楽しみ、食べて飲もうという所ではありません。全部が嫌う場です。そのような場で感謝し、そのような場で責任を遂行しながら天の前に栄光を返し、自分自ら感謝することのできる場に立つならば、それは天運に乗ることのできる場です。これゆえに必然的に勝利するようになるのです。 このような観点から見れば、第一次七年路程において、「生涯中、最高の実績を残す年をつくろう」というのは何か? それは何よりも勝利の結果をもたらさなければならないということです。元来は、この七年路程の標語は、いつでも皆さんの前にあって永続的な標語になるのです。そのような意味で、今年における「全面的な進撃」、これを中心として、我々統一教会の全体要員をどのように休まず活動させるか? 活動させるためには、内的整備が必要であり、目的意識が確立されなければなりません。その次には、敗者の結果を体験すること。このような過程を経て勝利を固く決意することが活動する上で絶対条件であることを皆さんが知らなければなりません。 怨讐をより分けよ 初めに活動、その次には何か?敵を知らなければなりません!我々の敵が誰であるか知らなければなりません。活動するにあたっては、いつでも活動に反対する勢力が生じ出てくるでしょう。そうでしょう?ですから敵が何か知らなければなりません。 すなわち、我々には二つの敵がいます。見える敵と見えない敵がいます。ところで、この二つの敵は我々に向かって共同作戦をしています。これに対して我々はどのように対して行くのか? 敵を知らなければなりません。それでは、皆さんたちが一日一日の生活において必要なことは何か。祈祷することです。この見えない敵を知り、見えない敵をより分けるために祈祷するのです! どれだけ進撃しながらも、敵をより分けることができなければ襲撃されるのです。そうでしょう? 一回だけ走ると二つ打たれるというのです。 今日、統一教会の食口たちの中でみ言葉にひっかかって倒れて行くという場合、その人も死んで倒れて行ったけれども、私もその人のゆえにひっかかって倒れて行くというのです。それでは、結局はその人も殺し、私も死ぬというそういう結果になるのです。皆さん、敵が何なのかというのです。怨讐が何なのかを知らなければなりませんし、ありふれた世間知らずのようにやたらに突っかかってはいけません。 自分が現在身を置いている場がどのような場なのかを知らなければなりません。私がここにおいて多くの攻勢をかけるのか、勝利をするのか、攻撃に対して守備をするのか、作戦はそれです。戦争では、普通、守備をするのか、攻撃をするのか、二つの作戦が必要です。守備作戦か、攻撃作戦か、それは、環境に留まり得る怨讐をより分けて作戦をすることができなければなりません。そうだ!あの者には守備しなければならない。あの者は間違いなく私に食べられてしまうに違いない。そのような時は、直射砲を激しく撃つのです。その時は容赦ないのです。地区ならば地区に対する怨讐がいるのであり、地域ならば地域に対する怨讐がいるのです。区域ならば区域に対する、教会ならば教会に対する怨讐がいるのです。信者であるならば、信者の位置の怨讐がいるのであり、体であるならば、体にも怨讐があるというのです。戦いの場に出て行って、皆さんが怨讐をより分けることができないならば、敗れてしまうのです。 それでは、我々が天の御旨を中心として見るとき、神様の怨讐をより分けて、それがどのような者なのか知らなければなりません。統一教会の怨讐が誰なのかを知らなければならず、これに間接作戦をするのか、直接作戦するのか、あるいは、これを包囲作戦するのか、迂回作戦するのか、このような問題を皆さんが知ることができなければ、真実なる意味で所期の目的を達成することができないことを知らなければなりません。怨讐を知れ! では、今、退脚している怨讐はどの様な怨讐なのか? 六千年間神様を溶かして食べてきた怨讐がいることを知らなければなりません。この怨讐の知恵がどれだけ巧みであるかと言えば、天地を創造した全知全能であられる神様を、六千年間生きられないように蹴っとばしてきた、熟練した怨讐であることを知らなければなりません。それが何なのか、サタンです。サタンの氏族が誰なのか? 三十億人類の乞食であることを知らなければなりません。この様な局面をかけておいてどのように進撃し、どのように作戦するのか? これは、先生が始めることであり、きょう皆さんにとっては、どのようにうなずきながら、所期の目的を達成するのかということが任せられた責任であるのです。それゆえに、怨讐をよく知らなければなりません。 それでは、皆さん自体は、現在私がその身を置いている場で、怨讐をより分けなければなりませんが、その次には、皆さんがその身を置いている場が夜なのか、昼なのかをより分けなければなりません。換言するならば、恵みが共にある場なのか、恵みが去った場なのか、それを知らなければなりません。攻撃するにしても、天が協助する舞台を整えて攻撃せよというのです。私一人で攻撃するなということです。支援兵を募集して攻撃せよ。それゆえに夜なのか、昼なのか、環境をよくわきまえてみよというのです。私自らの能力を自分一人で持ちこたえることができるのか! それゆえに、ここには同志が必要であり、それで三位基台の法度が出て来るのです。この様なことを整えて前進するところにおいては、独{\C54F}断{\C54F}前{\C54F}進{\C54F}は、神様が好まないということを知らなければなりません。個人として前進することは、絶対にこれは失敗する可能性が多いゆえに、合同作戦をして前進せよというのです。 それゆえに、少なくとも三位基台を編成して前進せよ!特に、今年において、全面的な進撃活動を展開せよというのが先生の今の計画なのです。これを中心として、統一教会がしなければならない分野が相当に多いのです。しなければならない分野が何であるかといえば、超教派運動や勝共講義や原理研究会や、今や全国的な新しい経済事業から文化事業に至るまでしなければならない分野が多いというのです。それらは、別に指示通達することであるけれども、まず全面的な進撃をするにあたって、ただこのようなことを知って、一九六八年を天が喜ぶことのできる勝利の年に導いて、第二次七年路程の第一年を輝かしい年としてくださることをお願いする次第です。これは、「全面的な進撃」を標語にたてた今年において、活動上、非常に重要な内容であることを知らなければなりません。 第一番目に内的整備、第二番目に目標意識確立、第三番目に敗者の結果を体験すること。これらは、この活動を成すためのものであり、これが必ず必要です。今日、この世の人たちは、これを考えないでしょう? 仕事することは全部成功すると思うでしょう? それゆえに何の仕事をしてもそうなのです。私が監獄に入るというそのような場に行くとしても、それを収拾することのできる結果まで考えておいてから、そうして勝利を固く決意しなければなりません。また、活動を展開させて行く上で、前進するにあたっては必ず怨讐をより分けよというのです! 怨讐をより分けなさい! サタンがいつ攻撃して入って来るか分からないから、夜も昼も怨讐をより分けなさい、怨讐に相対して進撃するにあたって、自己独断的に進撃するなというのです。自分の環境をよくわきまえてみて、夜なのか昼なのかわきまえて、同志と協力して進撃するならば、必ず所期の目的を達成することと思います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.12
コメント(0)

天の父母様聖会 FFWPU(韓国)ホームページからです。シンクタンク2022は統一された韓国のための希望を打ち上げました - マイクフェンス前米国副大統領、マイクポンペイオ前米国国務長官、潘基文前国連事務総長、マークエスパー前米国国防相など多数参加 - チョン・セギュン前首相の祝辞、フン・センカンボジア首相祝電送信 天宙平和連合(以下UPF)と世界平和統一家庭連合(以下家庭連合)は、共同主催で、5月9日(日)午前9時30分からコロナ19社会的距離を置く防疫指針を遵守し、非対面方式であるオンライン世界194カ国100万人余りが参加した中で「神(神)統一韓国のThink Tank2022発足希望前進大会」を開催したと明らかにした。イベントは、「韓半島の平和統一と恒久平和の世界を実現」というテーマで国際的参加者たちのために、14の言語に同時通訳して行われた。コロナ19ファンデミクに関係断絶と人間の尊厳の喪失、世界経済の不安定性、自国の利益中心主義、北東アジア新冷戦体制は、南北関係の緊張状態につながり、軍事的衝突状況に置かれている。これまで以上に政治、経済、社会、文化、宗教、マスコミ、学術などの全分野の1つの力を中心とした大統合と大連帯が必要時代である。このような緊迫した時代の要請に合わせてスタートする世界の知識人の連帯体「Think Tank 2022」は、現在の大韓民国の危機と試練に平和と統一の基礎となる共生・共栄・共義のビジョンを提示し、朝鮮半島の持続可能な平和と恒久共同繁栄を遂げている。南と北が本当に一つになる神統一韓国の時代、すなわち21世紀大韓民国がアジア・太平洋時代の中心国家として成長することができるように加えてよく生きる共生の経済、加えて参加している共栄の政治、加えて実践する倫理の共義を持っている各分野を一緒に政策を提案したい。 Think Tank 2022は韓国1,011人、世界1,011人が一緒にして、合計2,022人で構成された。第6回となるThink Tank 2022発足希望の前進大会は、世界中の発足式である1部と地域別の発足式である2部行われた。 1部Think Tank 2022発足希望の前進大会は記念映像をはじめとユン・ヨンホ家庭連合、世界本部長の開会宣言、イスラム教・キリスト教・仏教・ヒンズー教・シーク・ジャイナ教・家庭連合8台の終端代表平和祈り式、平和の歌提唱、アメリカメガ処置であるジョナサン・ポルウェル(Jonathan Falwell)トーマスロードバプテスト教会選任牧師の平和の起源は、潘基文前国連事務総長であるの歓迎の辞、ニュート・ギングリッチ(Newt Gingrich)元米国下院議長・チョン・セギュン前首相の祝辞、マイクフェンス(Mike Pence)元米国副大統領・ホセ・マヌエル・バローゾ(JoséManuel Barroso)前EU執行委員長(前ポルトガル首相)の基調講演、フン・セン(Hun Sen)、カンボジア首相の蓄電順につながった。そして非照射オスマニ(Vjosa Osmani)コソボ大統領・フセインのでウィニー(Hussein Mwinyi)ザンジバル大統領・フェリックスウルロア(Felix Ulloa)、エルサルバドル副・オルシェグン・オバサンジョ(Olusegun Obasanjo)前ナイジェリアの大統領の特別祝賀メッセージ、マイク・ポンペイオ(Mike Pompeo)前米国務長官・ジム・ロジャーズ(Jim Rogers)ロジャースホールディングス会長の基調講演、サムルノリ人金徳洙とハンウルリム芸術団の祝賀公演、韓国知事と国会議員の祝賀メッセージ、マーク・エスパー(Mark Esper)元米国防長官・2020年ノーベル平和賞受賞団体のデビッド・ビーズリー(David Beasley)国連世界食糧計画事務局長・アストラゼネカワクチンを共同開発したサラ・ギルバート(Sarah Gilbert)オックスフォードバック神学教授の基調講演、リトルエンジェルス芸術団の国歌順で進行され、次いでThink Tankの発足式はギスダン記入項目、真の父母様のThink Tank 2022決議サイン、Think Tank 2022発足タジンは、私たちの願いは統一合唱順に進行された。2部地域Think Tank2022発足、決意式、昼食、文化公演や感想を発表順に進行された。国内では地域別にソウルミレニアムヒルトンホテル、仁川松島セントラルパークホテル、水原ラマダプラザホテル、春川世宗ホテル、牙山鮮文大学校国際会議室、酒グランドプラザホテル、全州ラハンホテル、光州ラマダホテル、大邱インターブルゴホテル、釜山ロッテホテルで開催された。マイクフェンス元米国副大統領は基調演説で「10億人以上がワクチン接種を完了しコロナウイルス終息が一日一日近づいオーサー公益のために国が力を合わせればできないことがないという教訓を得た」とし、「副大統領を務めていた4年間、米国と韓国は法治主義の下、多くの成果を出し、共同防衛のために、私たちの約束は変わらないだろう」とした。そして「私たちの共同の相手に対抗しながらも相手を友人にするという強い信念を持って努力すれば、私たちが生きている時、韓半島の平和統一の礎石を置くことができると信じている」とし、「宗教的自由、言論の自由、民主主義、自由企業体制の原則は、健全な家庭、教育と法の平等な待遇など根本的な価値は、米国と韓国を70年近くか一つにまとめており、この価値を守ろうとする私たちの決意が変わらなければ、戦争に分かれた土地が一つの国と民族になって平和に団結することになる日がすぐに来る」と強調した。また、マイクポンペイオ前米国務長官は、基調講演で「スペクトル部政権は、世界の安全を守るために努力しており、2018年のイースターの週末、私は北朝鮮の非核化と韓半島の平和を達成して、北朝鮮の人々の生活の質を高め、さて、平壌を訪問した」とし、「シンガポール首脳会談で調印された共同声明は、歴史的に重要な文書に残って質であり、トランプ大統領はキム・ジョンウン委員長に会って同盟国の目標は北朝鮮の完全かつ検証された非核化であることを強調して、これにキム・ジョンウン委員長も同意し、米国との関係正常化と韓半島の平和統一も北朝鮮の究極の目標であることを強調した」と述べた。そして「適切な手順を踏んでいけば、韓半島の統一は行われ、バイデン政権もこの緊急国際事案を解決するためにトランプ大統領と私聞いた時間と労力だけ対北問題の解決に積極的に参加することを願ってバイデン政権のご健勝を祈る」と、「神への祈り、信仰、真心がある場合は、平和は必ず続く」と述べた。Think Tank 2022で提示された主なアジェンダは、来年2月までソウル・仁川圏、京畿・江原圏、忠清圏、湖南圏、嶺南圏の5つの地域に拡散して、新統一韓国定着のための地域のオンライン希望前進大会を開催する予定である。これ全国民に真の父母様提案DMZ平和公園の造成、第5UNサク国半島の誘致、韓日海底トンネル、金剛山観光開発、離散家族探しなどの具体的な平和運動を地域別オンライン希望の前進大会と連携して大韓民国がアジア・太平洋文明圏の中心国家に進むことができるよう全国民的ブームを造成しようとし、朝鮮半島の平和と共同繁栄の具体的な政策論議と実践方策として、神統一韓国のビジョンと理想を示してたい。そしてThink Tank 2022で議論されたポリシーとビジョンは、各地域の希望の前進大会を経て、具体化されるものであり、来年2022年2月には、「神統一韓国定着のための100万大会」に続き、韓半島の統一と大韓民国の平和を熱望している国民の声を結集させる予定である。マークエスパー元米国防長官は基調講演で、「原則、信念、自由を守護することにより、米国と同盟国は、逆境を克服こなせるものであり、韓国に駐留する米軍に会って励まし、米国国防総省で大韓民国政府関係者を招待して議論をした時には目標はいつも徹底した準備、同盟強化、侵略阻止、北朝鮮との問題解決、高まる米中対立の解消だった」とし、「危機の時、時には最も機会の瞬間であり、一緒に人類が直面した逆境を克服して、人類の共通の目標平和の自由のために守護を成し遂げよう」と激励した。フン・センカンボジア首相は祝電で「韓半島の平和を支持しThink Tank 2022が創造的で多次元的に韓半島の港で持続可能な平和と安全を達成と確信する」と伝えた。続いて、世界的な投資がジム・ロジャーズロジャーズ・ホールディングス会長は「世界情勢の文明の流れはアジア・太平洋に移動し、真の父母様が言われた、アジア・太平洋時代言及は絶対的に正しい」とし、「もしDMZ非武装地帯に列車が通って道路ができれば無限の経済発展の機会があり、壁が崩れ始めると、爆発的な成長が追いつく南北だけでなく、中国、ロシア、日本、アジア、世界の利益を見るだろう」と伝えた。Think Tank 2022は、紛争と葛藤を理解するために、現場を確認するファクトファインディングツアー(Fact-finding Tour)、神統一韓国フォーラム(ILC)、神統一韓国希望前進大会、韓半島の平和サミット2021、神統一韓国100万救国救世大会と接続して活動する予定だ。そして世界の平和頂上連合(ISCP)、世界平和国会議員連合(IAPP)、世界平和宗教連合(IAPD)、世界平和経済人連合(IAED)、世界平和ジャーナリスト連合(IMAP)、世界平和学術的連合(IAAP)、世界平和芸術家連合(IAACP)と連携して平和活動を展開していく予定である。チョン・セギュン前首相は祝辞で「世界に吹き荒れたコロナ19危機は個人や国家のリーダーシップでは克服できない危機であり、これまで以上に国際的な協力と連帯が必要だ」とし、「世界で唯一の分断地域ある韓半島は南北だけの問題ではなく、恒久的世界平和のために国際的な関心と努力が要求され、Think Tank 2022が韓半島と世界の平和を早める呼び水となることを祈る」と激励した。イシジョン忠清北道知事・ヤンスンジョ南道知事・ソンハジン全北知事・ギムヨウンロク全羅南道知事、ユン・サンヒョン・ハンギホ・イダルゴン・ギムハンジョン・ギムソンギョ・ホジョンシク国会議員、イ・ヨンソプ光州市長も映像お祝いメッセージが上映された。元国連事務総長の潘基文国の気候環境会議委員長は歓迎の辞で「世界最高の専門家が韓半島の平和のために」Think Tank 2022」を発足することになり韓国人として心から感謝を申し上げ、本ネットワークは、国際的な団結で、韓半島の平和のために変化を起こすだろう」とし、「国連事務総長在任時代196の締約国がパリの気候変動枠組条約に署名した奇跡を通じて政府、市民社会団体、民間部門の代表者、利害関係者が国家自体の利益と理念を超越した共同の目的を共有すると、実質的で肯定的な変化をもたらすことができるという事実を知ることになり、この点で真の父母様と天宙平和連合、シンクタンク2022を支持する指導者に拍手を送る」と声を高めた。家庭連合は毎年1960年旧暦3月16日に元本部教会で行われた天地人真の父母様聖婚式を記念してきたが、今年は新暦4月27日に記念行事が行われた。この日、第54回天の父母様の日及び第62回真の父母の日も初めて聖婚記念日と一緒に記念して、天一国礼拝記念式典が行われた。同日、インターネットの双方向生中継で「天苑宮(天苑宮・博物館)上棟式」を開催した。天元宮はチョンピョン湖を眺めるジャンラ山裾に37,922坪の敷地に延べ面積24,700坪に地下4階、地上3階の規模で建設される。天元宮は、過去2014年2月推進委員会が発足され、2023年5月に完成する予定である。ウォン宮殿建設を通して、神の下の人類大家族の理想を通じた平和理想世界のモデル提示と真の愛とヒョジョンを基にした心情文化を基礎設けしようと努力している。 4月25日には「2021天地人真の父母ヒョジョン天宙祝福祭り」をコロナ19社会的距離を置く防疫指針を遵守し、非対面オンライン方式で、世界64カ国で6,000以上のペアが参加した中で行われた。今年は特に真の父母様と金日成主席の訪朝平和会談30周年を迎える年である。天地人真の父母様聖婚61周年を迎え、△天の父母様の日と真の父母の日礼拝式△聖婚61周年記念△2021天地人真の父母ヒョジョン天宙祝福祭り△第6回神統一世界の安着のための希望の前進大会△ウォン宮上棟式△世界平和青年学生連合総会△国際指導者会議の(ILC)△国際科学統一会議(ICUS)△第2次God&Science Conference△神統一韓国論確立のためのカンファレンス△世界平和ファイン連合総会△ヒョジョン天寶特別大役事などのイベントを開いて分裂した国との間の世界的な協力のために努力している。<フォトニュースショートカット>一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.10
コメント(0)

10日AM9時からオンライン生中継の予定です。10日夜の追記:10日22時現在、オンライン生中継の映像は「録画」としての視聴も可能となっているようですが、「限定公開」のこの映像リンクがいつ途切れるとも限りません。関心のある方は早めの視聴をお勧めします。一つの例を挙げれば、昨日9日の「【生中継案内】神統一韓国のためのTHINK TANK 2022 出帆希望前進大会」の映像リンクが生中継終了とともに途切れていました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.10
コメント(0)

神統一韓国のためのTHINK TANK 2022 出帆希望前進大会日時 : 2021年5月9日午前9時30分場所 : 清心平和ワールドセンターおよび全世界オンライン生中継中継 : 韓国語、日本語、英語、スペイン語、フランス語、中国語一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.08
コメント(0)
「蕩減が行く道」 一九六七年六月四日(日)前本部教会 この場は皆さんの立場では何にも分からないでしょうが、先生の立場から見れば優劣をつける場なのです。どんなに我々がこの場において、復帰摂理を成し、神のみ旨を成してさしあげるとしても、このみ旨が世の中に広がらなければ何の役にも立たないのです。 先生は今まで反対される道を歩んで来ました。反対をされるのは反対されたのですが、それは世界的なものだったのです。しかしこれからは反対する人々に、反対するその内容をもって反対せよと言えるです。このように反対される立場で成した実績は、真のものとして天国の倉庫に積まれているのであって、これを取り出して万民に分けてあげるとき、それは万民が感謝の心で涙を流して受け取る、貴い礼物となるのです。 蕩減復帰のみ旨 皆さんは「蕩減復帰」という言葉を学びました。蕩減復帰ということは、小さな条件を通して大きなことを蕩減することです。例をあげれば、百人を許してあげるために、一人が代身にしてサタンに打たれる場にあっても不平不満をいわず、ただ神を思慕して心には天国を抱いてその場に当たる人がいるなら、その善なる一人の人間が打たれる代価として百人の罪が蕩減されるのです。 蕩減の場に立つ人間は、周囲が追い詰めるなかにあっても天国を慕い、神を思慕して、死ぬも天、生きる天、生まれたのも天のため、生きるのも天のためという心を持たねばなりません。天から出発して天の過程を経て、天が終着点になるのです。こんな場を担って越えて行くことによって、百人の罪が許されるのです。即ち、人間百人の代表として一人を立て、彼が百人の代身に打たれて百人が打たれるこを許され、悪なる場から善の場へ帰ってゆくのが蕩減復帰だというのです。何の話か、分かりますか? それでは蕩減復帰歴史というものを、何によって知ることができるでしょうか? 神の摂理を見ても知ることができるのです。人類歴史は蕩減復帰歴史だったのです。ですから先生もここにいる真の人、四、五人のみを中心にしていけばいいのです。この言葉に異議がありますか? 先生は今までこんな生活をしてきたのです。もしも先生が日本に行ったなら、地方では夜通し待って電話なり何なりして「自分がこの恩賜を千回万回お返ししますから、ただ手紙の一本でも下さい」と頼むのです。これは先生が願わないことですが、地方からこんな連絡が来るのです。これは本部でも知らない事実です。 今度の期間はどんな期間か? 蕩減復帰の期間です。また今回の期間は伝道の期間でもあるのです。伝道の期間として出発する目的がどこにあるかといえば、先生が世界四〇か国を中心に、その三倍の一二〇以上の聖地を選んで決めておいたからです。これは地と因縁を結ぶべき関係にあるのです。先生は蕩減復帰のために三年間たくさんのことを考え、いろんな事をしてきたのです。 人類歴史には、良い事と悪い事が反復しているのです。良い世界が成ってもこれが永続しないで、ある期間が過ぎると悪い時節があるのです。そして蕩減するときにおいても、必ず当てはまるのです。 人間はある重要な事や、重大な問題が生じるなら、これをまえに誠精を尽くすのです。また自分がある目的を定めておいて、これを成すためにも誠精を尽くすのです。百日祈祷やら何かの祈祷だといって、誠精を尽くすのです。特に宗教を信じる信仰者たちは熱心に誠精を尽くすのです。それではなぜ誠精を尽くすのか? それは蕩減するためです。 誠精と蕩減 皆さんがこれからすべき重要事が、サタンに侵犯されてはいけません。あるいは選ばれた人が放棄されてはなりません。そのためには、その前に罪悪の要素を除くための蕩減を甘受する立場で、すべての悪の要素を蕩減しておかなければなりません。 ですから誠精を尽くさなければなりません。誠精を尽くすにおいて、食べて眠て着ることを、そのまましていたら駄目なのです。誠精とは食べるものをみな食べ、眠りたいだけ眠って、着るものはみな着るそんな場においては、絶対にできることではないのです。ですからある重大事を前にしたら、必ず神と自分が談判する闘いをするのです。予め打たれるのです。神が打たれないなら、自分が率先してでも予め打たれるのです。打たれたらどうなるか? 神の相対になるのです。これが神がしてこられた、復帰摂理の法則です。 こんな観点から見るとき、先生はこの期間を特別な期間と考え、できることなら聖地も一定の期間内に巡回しなければならないと考えるのです。それ以外のことは考えません。先生が工場に何度か立ち寄っても、そんな時にも心では我々が行く道のために、先生がすべきことが何であるかを考えるのです。その上外国の食口たちは我々の国に対して、大きな期待をかけているのです。ところが韓国人はこれを知らないのです。彼らは我々本部教会の食口たちを、想像できないほど高く考えているのです。彼らが想像できる最高の存在と考えているのです。 彼らがどれほどまでに考えているかというと、先生は階段を雲に乗って上がったり下がったりするものと思っているのです。また先生がごはんを食べるときも、ハシでは食べないものと考えているかと思えば、トイレにも行かないと考えるのです。彼らがみ旨を知ると、最高の基準で韓国と先生を考えるのです。先生は彼らを見れば、顔がおもはゆいのです。どうしてこんな話をするのか、彼らの話を聞けば顔がおもはゆく、心がおもはゆいのです。どこに、世の中にこんな話がありますか? だから皆さんは彼ら以上に誠精を尽くさなければなりません。彼らは献金や礼物を捧げるときにも、何十回も祈祷して捧げるのです。 我々食口たちは必ずこれを知らねばなりません。誠精を込めた献金や礼物に対する時、その価値を知らないで対したら、その誠精を込めた礼物に審判されるという事実を、よくよく知らねばなりません。 君王も自身の処身を誤ったら、即ち誠精を尽くす人間をいい加減に扱ったら滅んでしまうのです。またその君王に従う同僚たちも、その人間に反対したら天の逆族として追われるのです。ですから先生はそのように誠精を尽くす人に、やたらと接しないのです。それでこの期間に、暇のある限り聖地を回ろうと思います。 その次には何をするのでしょうか? 過去に神様が先生に対してなされた、すべての事を振り返って反省するのです。自分がある事情に処しているとき、神が私を呼ばれて協助されたその恩賜を、彼らにも分けてあげようというのです。今日ここに集まっている数多くの食口たちが、育ってきた過程は千態万象です。出発から、これから天国の門に連結されるときまで、すべてが異なる道をゆくのです。 このような人々を心情によって連結させるために、先生は今まで蕩減復帰の道を歩んできたのです。かように神が協助された心情の因縁を、彼らに連結させていって、彼らを神のまえに奉献しなければならない責任があるので、先生はこの期間に聖地を巡回しているのです。今回に特別に集会をしたのも、やはりこの趣旨からなのです。 今先生は皆さんに対する時、昔の統一教会の食口という気分で対したくはないのです。どのようにしたら新しい気分で、皆さんに対することができるかを考えているのです。それで今回の集会の期間に、どうしたら皆さんと共に神が下された新しい使命と目的を中心に、新しい心情と新しこ義の法度を討議して、互いに一つになってゆく新しい心情を誘発させるかということが、今回に先生が考えたことの中で最も重要なことです。 それで今回の期間に、皆さんが統一教会の草創期の時から入ってきて、神を信じて侍ってきて生活した全般的な状況を、全部発表しようというのです。であれば皆さんは信仰告白というか、証しを通して、今まで聞いたことのなかった多くの事由を聞くことができるのです。 それらが何でしょうか? それはただ流れ去るものではありません。皆さんはこんな事由があったという、事実さえも知らないのです。しかし神様は復帰路程におきまして、きっとこのような事由を中心にして、蕩減復帰をさせるべき責任があるということです。実際その人は知らなくとも、神が公式的にこの責任を追求する立場で、彼らのまえにこんな事由を与えられたという事実を知らねばなりません。それゆえ皆さんはこれらの事由によって、蕩減歴史が発展していったという事実を知るのです。 日本食口たちよりもさらに誠精を尽くせ 先生が今最も心配することが何かというと、皆さんの心情が日本の食口たちの懇切な心情に後れをとってはならないということです。これが問題です。 皆さんは寂しい場で喘ぐとしても神の心情を占め、あの世の天軍天使にも負けないという高い心情で、この国この民族を哀れみの心で治めなければなりません。これがあれこれと出入りするお客さんみたいに、習慣的に集会に参席して神のまえに恥ずかしい条件を残してはなりません。また韓国人のまえに日本人は民族的な怨讐です。ですから神の民として神のまえに忠誠をなして、み旨に対するその歩みが常に彼らよりも優れた基準を保ち、彼らよりもより勝ることを願うのが、先生の願望なのです。 我々が彼らよりも劣る場にいることを見やるときの、先生の心情がどうでしょうか? 水が逆流するのと同じことです。皆さんの心的基準と、すべてのことを蕩減してゆく彼らの心的基準を比較して見るとき、ここに格段の差があることを先生は知るのです。それで皆さんが大学に行くことを制裁するという結論がでることを、皆さんは理解しなければなりません。何の話か、理解ができますか? 今日初めて来た人がいれば良く理解できないことです。しかし説明を聞くなら分かるのです。このように皆さんが新しい希望を日本の食口たちに与え、誇って見せてあげられる心的基準が成っているかが、先生の最も大きな心配なのです。だからといって日本人にサタンの業をやれというのではありません。それはなりません。 天が見渡すとき、心情を尽くして誠精を込めるにおいて、韓国食口たちが日本の食口たちに負けていいでしょうか? また、じっと座って「負けてはならない。私は天国を成すのだ。私は神の息子・娘だからきっとやりとげる」と言うだけでいいでしょうか? 駄目です。絶対に駄目です。皆さん、やりとげる自信がありますか? ありませんか?(自信あります)自信があればやってみるのです。それで先生が今回の世界巡回を終えて帰ってきたら、神のまえに証しされるという自信のある人は、出迎えることを望みます。 それでは蕩減復帰という名詞が、なぜ重要でしょうか? 我々統一教会では蕩減復帰という言葉をよく使います。この言葉が必要になった理由は、人間が堕落したからです。堕落によって我々は本然の道を行きたくても、思うままに行けなくなってしまったのです。神によって創られたので、神を捜し求めたくない人間がどこにいるでしょうか? この道は老若男女、古今東西を問わず、歴史上に去来したいかなる人間もすべてが慕って行きたかったのですが、思いのままに行くことができなかったのです。 この道を行くときには、必ず条件を立てて行かねばなりません。蕩減の道を行くためには、条件という橋をかけて行くのです。 蕩減条件を立てるにおいての中心-神様 神を失った人間の所望は、神を失う前の本然の世界に戻ることです。これは誰もが望むことです。また本然の創造理想世界を与えるために人間を創られた神の所望も、やはり人間と相会うことなのです。このように人間と神が相会う場が永遠の本然の世界なのです。ですから神は人間を捜し求め、人間は神を捜し求めなければならないのです。即ち、神は人間を求めて下って来て、人間は神を求めて上がって行かなければらないのです。上がるには、そのままでは上がれません。ここには必ず、契約条件が成立しなければなりません。神が人間を求めるためにも、人間が神を求めるためにも、ここに必ず契約がなければならないのです。 それでは契約は誰とするのか? また契約するときは何を必要とするのか? 契約するときは必ず条件を必要とすることを、皆さんは忘れてはなりません。 人間は必ず復帰しなければなりません。堕落によって本然の世界から落ちてしまったので、蕩減復帰して本然の世界に帰らなければなりません。ところで帰るときは自分勝手に行くことはできません。皆さん自身が勝手に帰ることはできないのです。この道を行くには、必ず蕩減条件が必要なのです。それでは蕩減条件が何か? 契約を履行するときに必要なものです。ところで自分独りだけで「自分がここに一つの条件を立てたので、皆さんがここに千年の間いれば、すべてが天国に行く」とすればこれが蕩減条件として成立するでしょうか? しないのです。 それではこの条件を立てるにおいて、根本中心が何であるか? 神様です。その次には人間を堕落させたサタンと、堕落していない人間です。堕落した人間は蕩減条件を立てることができません。堕落した人間は堕落条件を立てる資格がないので、絶対に条件を立てられないのです。神もおられサタンもいるので、堕落していない人間でなくては蕩減条件を立てることができないのです。これを皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは人間が堕落することによって、どの程度まで落ちたのか? 高いといえば神の宝座から、地獄のどん底まで落ちてしまったのです。それゆえこの過程を再び復帰して上がらなければならないのです。復帰の道がどんなに遠く、復帰の峠がどんなに険しいかといえば、これは今日の人の世において、困難きわまる剣山峻嶺のようなものです。高いといえばヒマラヤの山が問題ではなく、深いといえば太平洋の海底が問題ではありません。我々が想像もできないほどに高い分水嶺があり、限り無く深いというのです。このように人間は堕落によって、誰もがあえて越えることもできず、入り込むこともできないほどに深いところに落ちてしまったのです。 これを何によって推し量ることができるのか? 広大無辺なる全天宙を創造された神は人間祖先の堕落によって彼らを失ってしまったので、彼らを再び捜し求めなければ、彼らが本然の基準に戻ることができないのです。彼らが本然の基準へと戻ることがなければ、神の本来の心が発動されず、その本来の心の発動がなければ、神の本来の理想を成すことができないのです。ですから神は今まで本然の基準にまで上がってくる一人の人間を、捜し求めて来られたのです。 この人間がどれほど歩んで来たのか? 今まで聖書上に現れた歴史を見渡してみるとき六千年という期間があったのです。しかし未だにこれを復帰させることができなかったのです。これはどれほど深く落ち込んだ人間でしょうか? 能力ある神様が六千年というものを捜し求めて来られても、未だにその一人を見出すことができないのです。 それではなぜ捜し求めることができないのか? 能力がなくてそうだというのではありません。それでは今まで救援摂理歴史路程において、このように能力のある神様が、なぜ数多くの善なる人々を犠牲にして、神の為に忠誠を尽くした人々が蔑視と冷遇を受けて、悔しくも追われ追いつめられる場にあっても彼らをそのまま押し立て、また死の道であっても行くという心情で感謝した彼らに、なぜ同情されなかったのか? そのようにするしかなかった神の内的な事由が何であったのか? これは蕩減条件という問題が懸かっているからなのです。この条件はサタンも公認し、神からも公認を受けなければならないのです。また人間も、堕落しない人間から公認を受けなければ、この条件を越えることができないのす。 蕩減の方法 今日統一教会員たちは蕩減条件という言葉を学んでいます。皆さんは蕩減条件という言葉を漠然と使っているのですが、事実を分析して蕩減条件とは何をいい、またこれはどういうときに成立するかを知らねばなりません。皆さんがある蕩減条件を立てたとしても、これがきっと成立すると考えたら駄目です。こんな愚かな人間は蕩減条件を絶対に立てられません。こんな話を聞いたら大変でしょう? そのようでは復帰できないのです。蕩減条件は、神とサタンと人間との間に立てられるものです。 それでは皆さんは蕩減条件を立てることができますか? できないの?(できません)できなければ救援を受けるの? 受けられないの?(受けられません)それではなにゆえに統一教会を信じるの? えらいことになりました。 それでは今日堕落した人間は、蕩減条件をどのように立てなければならないか? 蕩減条件を中心に接ぎ木しなければなりません。人間は堕落することによって息子の場を失って、神から遠い距離に落ちてしまったのです。僕の僕の場にも立てないのです。またサタンの支配下で億千万世、心を支えることができない惨めな人間になってしまったのです。こんな人間を神が蕩減復帰して来られたので、復帰歴史過程がどこまでも続いたのです。これは一、二時間でできることではありません。必ず天地創造の原理法度によって、再び逆に上がって来なければならないのです。 人間が堕落によってどの程度にまで落ちたのか? 神の僕にもなれない場まで落ちてしまったのです。本来、人間は何によって生まれたのか? 神によって生まれたのです。本来は赤子として生まれ、成長過程を経て完成すれば、神に侍る実体として神の体にならなければならないのです。 それでは神は何ゆえに人を創ったのか? 相対的な関係を結ぶためです。愛は相対を必要とするので、この愛を成立させるためには、互いが相対的な位置に立たなければならないのです。このように愛を成すためには必ず相対的な基準を必要とするので、神はアダムとエバを神の体として創られたのです。 それゆえ彼らが神の体となるときまで、父の愛を受けて育たなければならないのです。赤子のような過程を経た後に、息子の過程を経て、神と一体となった場まで行かねばなりません。そしてここにおいて、アダムとエバが一つとなった後に、夫婦となって子女を繁殖することによって、その子女もやはり神の息子・娘になるのです。アダムとエバから生まれた子女が神の息子・娘なのです。そうではないでしょうか? だから神は私たちの父であり、私たちは神の息子・娘であるというのです。 もしも人間が堕落しないで完成したなら もしもアダムとエバが完成したらどのようになったでしょうか? 彼らが完成して祝福を受けることができる段階に入ったなら、即ち男・女として完全に成熟したなら、どのようになったでしょうか? 一つの愛を中心にして、満宇宙の母体的な結合を成すのです。これが成ることによって神と一体となり、この宇宙、天地創造圏内において神と人間が初めて一つの出発を始めるのです。その出発点が何か? 愛です、愛。本来、出発は愛から始まるべきなのです。それではその愛はどんな愛なのか? まさに神の愛なのです。 このようになるべき人間が堕落したのです。本来はこの出発の原点が神の愛から出発して、人間のすべての生涯が出発し、ここに血族が生まれなければならなかったのです。ところがこの出発の時期を、サタンが強奪してしまったのです。 今日の既成教会には、惜しむものが何もありません。彼らに善悪の実が何かと問うてみれば、これが指折り数えるような答えなのです。「それを私が知るものか、神がそうだというからそうであって。神が嘘の話されるか? 善悪の実は善悪の実でしょうが」こんな調子なのです。言葉ではいかにも簡単で良いでしょう? ところがどんなに意地悪な神様でも、善悪の実を造っておいて、取って食べて自分の息子・娘を滅ぼしてしまうような、そんな神様がどこにいるでしょうか? だから我々を見て邪教だ異端だというのです。 しかし人間は善悪の実を取って食べて堕落したのです。この世界人類は元来、本然の血筋を通して生まれなければならないのに、不倫の愛によってサタン悪魔の血筋を通して繁殖してしまったのです。 それでは皆さんは誰の血族でしょうか? サタンの血族です。世界でどんなに立派だと大きなことを言う人も、全部がサタンの血族なのです。サタンの血筋を受け継ぐサタンの雛たちなのです。雛が何でしょうか? 息子・娘です。 皆さんは誰の息子・娘でしょうか? 堕落して誰の息子・娘になったのでしょうか? サタンの息子・娘です。皆さんにサタンの息子・娘だといえば、気分が悪いでしょう? ところでこの言葉を、本当に気分悪く考えてみたことがありますか? 近頃、娘やおばさんたちが顔に白粉をつけたり何かを塗っていますが、何のために化粧しますか? サタンの雛がきれいになったと自慢するためですか? 笑い事ではありません。 宗教人は蕩減のために体を打ってきた 宗教を持って信仰生活をする人は、真の道を行かなければなりません。天の真の道を求めてゆくのです。人間の血筋の中に流れるサタンの血を無くして占領することができないので、宗教は真理を中心に「闘え、押し出せ、打て」と命令するのです。これに正面から闘ってゆくのが、宗教なのです。 宗教を信じる人は、肉体を打とうとしてきたのです。野郎の肉塊、野郎の肉体を愛さねばならないでしょうか? それで血を抜け、断食をせよというのです。この肉体が怨讐です。この肉身は楽になることを、しきりと待ち焦がれるのです。 下ることは易く、上がることは難しいのです。即ち堕落するのは易いということです。堕落は教育を受けなくてもよくやります。しかし神が数千年間、数多くの聖賢たちを動員して教育をさせてきても、この目的を達成できなかったのです。そうではありませんか? 皆さんも堕落しようとすれば、堕落の急行列車の一等席に乗る素質が濃厚なのです。なぜに? 堕落の大王たるサタンの血を受けているからです。この野郎の肉塊が・・・。これが事実でしょうか、違いますか? 真ですか嘘でしょうか? 先生が無駄なことを言っているのでしょうか? この肉の塊りどもが誤って食ったのです。この肉体を打ち叩いたといえる基準を、いつ残してゆくのですか? これを征服して天上世界のまえに主張し、歴史上の千々万聖徒のまえに誇り、後世の万民と全世界に向かってこの勝利を誇ることができる、天地が私を歓迎する勝利の息子・娘になっているか? 皆さんはこんな勝利の真の人生となりたくて身悶えてみたことがありますか? それが冠みたいなものを被って、コクリコクリして「あれかこれか?」とやっているのです。 それでは自分の力だけで、ここから抜け出せるでしょうか? 自分の力だけでは抜け出せないのです。ですから神はここに非常対策を取らざるを得ないのです。サタンと結んだ血統の因縁、肉のすべての悪の条件をどのように追放するかを中心に、神は今まで闘争してきたのです。しかしこの事をそのままではできないのです。これを全知全能なる神の力で全部、張り飛ばしたらどんなに良いでしょう? しかしそうはできないのです。これは骨の中にもぐり込み、涙の源泉に入り込み、汗の源泉に入り込み、血の源泉に入り込まなければならない事なのです。愛の涙の谷間にもぐり込み、汗の谷間にもぐり込み、血の谷間にもぐり込まなければならない事なのです。付けているすべての仮面を脱がなければなりません。 それで宗教人は、慟哭しなければなりません。涙を流さなければなりません。「悲しいかな、悲しいかな、悲しいかな! 何としてこの体は怨讐の血肉を受けたのか!」こんな自分が忠誠の道を行くために、天と因縁を結んでゆくと身悶えることを思うとき、胸が込み上げ、血がうごめく痛憤と怨痛に慟哭しなければなりません。このように慟哭する自分でなければ一刀両断にして、憤慨心を爆発させなければなりません。いっぺんに爆発してバラバラにしてしまうのです。皆さん自身が自分のすべての怨恨と感情を超越した場で、決死的に天を抱きしめて身悶えない限り、これを絶対に復帰できないのです。このようにあのように、痛々しくも恨み多い人生行路ですから、神の復帰摂理歴史が六千年もかかったのです。 この肉体は良いものを無条件に食べようとする、下心を持っているのです。ところで肉体を分析して見れば、良いものが一つもないというのです。それで宗教は完全に否定するところから出発するのです。涙を流さねばなりません。涙を流すときは、アダムとエバが堕落した時に神の胸の内に結ばれた、骨髄の内に染みた神の悲しみの痕跡を全部、抜き取ってしまわねばなりません。恨を結ぶ怨讐の血筋を全部みな抜き取って、アボジの血肉を受け「アボジよ、私が来ました。今アボジのまえに孝道を尽くす真の本然の姿勢を得ましたので、今日からは安息して下さい。あなたの胸と骨髄の内に結ばれた恨を解いて差し上げます」としなければなりません。この地球上にこんな息子が現れなければ、神は解放されません。ですから、統一教会が出たのです。 蕩減条件を立てる場は血の涙を流す場 皆さんは汗は地の為、涙は人類の為、血は天の為に流さねばなりません。これがアボジの望む所願なのです。人類を抱いて涙を流すのです。涙を流すときは、そのままで流すのではありません。本然の心情と本然の園を失ったそのむごたらしい情景を見渡し、明日の希望のうちにそれが再び解放されるその道の前に、迫害と苦難と逆境が、泰山峻嶺のごとく立ちふさがるとしても、これを越えてゆくとして流すのです。 それゆえ皆さんはこの道を開拓する立場において、血と汗と涙を流さねばなりません。涙を流し、汗を流しても終わりにならなければ、わが命が砕け散って神のまえに捧げても行かねばなりません。これが神の喜ばれる本来の姿として戻ってくる道なのです。神が喜ばれる体として生きてあげられなかった邪悪な種であるから、死ぬときは一個の童貞なりと残してゆくという心を持つ人間になってこそ、世界で神のまえに召命され、また神が記憶される人間になるということを知らねばなりません。イエス様もこんな立場で、この地上に来ては行ったのです。 蕩減条件は自分自らが立てることができません。そこには神とサタンと真の人間がなければならないのです。ところがこの地球上には、未だに蕩減条件を立てることのできる真の人間が出ていないのです。ただ出るための、準備がされているだけです。神の蕩減歴史は段階を踏んで、一番下から始まってきたのです。 それではここにおける中心使命が何でしょうか? サタンと因縁をもつ全世界に対して中心的な責任を負う人間は、どうしなければならないのか? 蕩減復帰をしなければなりません。これを成すにおいて、食べたいものを思うままに食べては駄目です。食べたいという代わりに、み旨をおいて慟哭する場に入らなければなりません。見たいものもそうです。死にたいくらい難しい場を、通過しなければなりません。この話が何の話かというとこの世の万事を全部失って、何にもない場に立つと同じ無価値な立場で、神が同情して下されば生き、そうでなければ死んでも感謝するという心で、こんな場を守ってゆかなければならないのです。そうでなければ復帰の因縁を結ぶことができなのです。蕩減条件を立てることができないのです。この場はそんな、遊び事で成る場ではありません。事情を通し、人情を通して成る場ではないのです。 それでは人間は、どのような人間がいるのか? 神が愛することができる人間と、サタンが好む人間、この二つの種類の人間がいるのです。 先生がすでに、蕩減条件は神とサタンの間で立てられると言いました。人間には神が極めて愛する人間と、サタンが極めて愛する人間の、二種類の人間がいるのです。ここに一人の人間を立てるのです。もしもサタンが好む人間がサタン世界を本質的に好まないで、変わらない天性を持つ人間がいたとします。この人間がサタン世界において忠誠を成したとしても、その忠誠は自分の目的の為ではなく、天下の為であったというのです。こんな人間はサタン側にいる人間であっても、天の側に戻ることができる可能性が高い人間なのです。神はこんな人間を、サタン世界から抜き取ってこられるのです。 蕩減条件を生きて立てる人間と死んで立てる人間 それでは神が愛されるということが、何でしょうか? 認定されるということです。そして神が極めて愛されることは、蕩減条件を立てる人間が現れることです。これをさらに説明すると、ここに朴なら朴、金なら金、ある人間がいるとして、神がこの人間をサタン世界から抜き取って愛される時までは、その人間が全部蕩減を受けなければならないのです。それで神とサタンとの間に、取り引がなるのです。 神が「やあ、サタンよ、わたしが彼を愛してもいいか?」といえば「そうですね」となるのです。また、神が「わたしの為に忠誠を尽くし、夜も昼も万民の為に公的な生活をする人間だ。あるいは世界人類を救うために、解放させるために、復帰させるために働き、すべての幸福の要件を中心に、満天下を代表する人間だ。サタンよ、おまえもそれが分かるか?」といえば「そうですね。付き合ってみれば分かります」とこうなるのです。付き合ってみるとは、何の話でしょうか? 闘ってみるという意味です。 そして「もしもおまえが調べてみて分かったら、どうするのか?」とすれば、「それなら認定しましょう」こんなやりかたで進展するのです。それで神が「よろしい! それでは調べてみよ。やってみよ」とすれば、その時からサタンが試験をするのです。今まで人類が受けてきたすべての試練、苦痛をその人間、即ち、代表格として苦労する人間に全部移し変えて、降り注ぐのです。そうなればその人間が、平安でいられるでしょうか? これが幸せに、平安に暮らせるでしょうかというのです。 もしもサタンが「神様、その人間の手を切ってしまってもよいですか」といえば「そうさ、ではその手を切ってみよ」となるのです。皆さんは神の為に忠誠を尽くして、手まで切ることができるでしょうか? またその人間がたくさんの財産を誇っていることをサタンが試験して、すべての財産をすっかりはぎ取ってしまったというとき「アイゴ-神様、わたしは嫌です」としたら蕩減ができるでしょうか? 絶対にできないのです。もしもサタンがすっ裸にしようとして、さらには密室ではぎ取るのではなく、チョンロの十字路ではぎ取ろうとしたとき、「アイゴ-、それだけはできません。神様も事情は分かってくれるでしょう。それはあんまりです」と不平を言って拒否したら、蕩減ができないのです。チョンロの十字路が問題ではなく、それより何百倍も悲惨なニュ-ヨ-クのど真ん中ではぎ取られたとしても「はぎ取るなら取れ」とこれを越えなければなりません。 その足がぶらぶらしているので、こいつの足を切ってしまえというとき、天に対して面倒だから切ってしまって下さいと、ぐずぐず言わずにさし出さなければなりません。首を切ろうとしても、よろしいとつき出すのです。それでサタンがこれを切ってしまったら、どうなりますか? 死ぬのです。死ぬのですよ。 人間は死んで蕩減条件を立てる人もあり、生きて蕩減条件を立てる人もいるのです。歴史過程において数多くの先知先烈たちが去来しましたが、蕩減条件を立てるにおいて、死んで立てる人もあり、生きて立てる人もいるのです。忠誠が天上にまで染みて、反対したサタンまでも涙を流すなら、サタンは打たないのです。サタンも本来は天上の因縁をもってきたので、自分がしたことを悔いることを知るのす。それゆえサタンがわれ知らず涙を流す感情をもつなら、その人は生きて蕩減条件を立てる人間になるのです。 生きて生前に、サタンをして自ら悔い改める感情を引き起こすことができなかった人間は、蕩減復帰路程において中心人物として登場することができないのです。分かるでしょうか? カインとアベルの祭壇においても、神は深く愛する息子を中心に、あのような摂理をされたのです。サタンはここに反旗を掲げたのです。 蕩減にサタンの試みが付きまとう理由 アベルは死んでも天の側だったのです。ですからアベルの血が訴えたのです。アベルは死んで蕩減したのです。神はある中心人物が死ぬなら、代身者を立てて来られました。このようにしてこそ、蕩減をしてカイン世界を押し分けられるからです。分かりますか? また神はアベルを通して立てた伝統によって一六〇〇年を下ってきて、神の為に、神を受け継ぐ世界が成ることを願われたのですが、サタンの血統を受け継ぐ人間ですから、そうはできなかったのです。このような人間に神が役事されるとき、即ち季節でいえば、春の季節を通して摂理された来られたのです。 春の季節は一度しかありません。一つの時代がめぐるときには春の季節もあり、夏の季節、秋の季節、冬の季節もあるのです。人間も同じことです。神はこの四つの季節のうちで、春の季節のみを通して役事して来られるのです。これが神の責任なのです。それゆえ神は昔、アベルが誠精を込めたその心を中心にして、ハラハラするような心情で代を継いでノアにまで至ったのです。ところがノアのときの世はすでに堕落におぼれ、地上において天情の因縁を結ぶことができない世界だったのです。それでノアが、神のまえに出たのです。 アベルが血をふりまいたその誠精を、この地上の人類が継承しなければならないのに、天情の因縁を結ぶことができなかったので、ノアは悪なるサタン世界を断念して初めて神のまえに出たのです。そして神のまえに誠精を尽くしたので、ノアは義人になることができたのです。この世の中、天地に生きている数多くの人間の中でノアだけが、ただ神の心情に従っていったのです。 歴史的に見ればアベルの血筋を通してのみ蕩減の因縁が結ばれるので、ノアは神から召命される前にも多くの蕩減を受けてきたのです。それで神の命令を受けて、一二〇年にわたって条件物を立てるのに、サタンの攻撃があったのです。「こいつ、よくやるな。どれほど神を愛しているか見よう。おまえが一二〇年の間舟を造れるかどうか、見てみよう」とサタンが試験したのです。皆さん、考えてみて下さい。舟を川辺に造るならともかく、山中で造るのですから、これは根本的に間違っているではありませんか? これは反対される他はないことです。絶対に正常とは見なされないことです。またノアが舟を造りに行く時「今日は昼飯を食べて、ちょっと散歩しに登ろう」という考えで山に登ったでしょうか? 違います。めしなど食べてもどうでも、と舟を造りに山に登ったのです。 一二〇年間、舟を造れと神が命令されたのですが、一二〇年のこの期間を短縮しなければ、という心情で夜も昼も全心全力を尽くしたノアであったのです。このように天性の節義を立てたのです。 そうしてどうなったでしょうか? まず理論からして、抽象的にならざるを得ないのです。水は川や海に集まるのです。山のてっぺんに水があるでしょうか? だから悪口を言われる他はなかったのです。皆さん、考えてみて下さい。村の女たちが悪口を言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? 私がそれを見ても、面と向かって悪口を言ったでしょう。皆さんならどうでしょうか? 反対する人々が、どんなに多かったでしょうか? このような場合では、反対する人間が普通です。そうですか、そうじゃありませんか? 事情を知らないのですから、ノアじいさんに反対する以外に別の道理があるでしょうか? サタンが愛する人物を抜き出して復帰の人物に仕立てる神 もしもひどく反対する人間がいて「私はあのノアじいさんを一二〇年の間、働く場所まで追い詰め、しつこく反対する」としたならどうでしょうか? 神はその人間を祝福するのです。「もしもおまえが反対してノアじいさん倒れたら、おまえをノアの代わりに立ててやろう」神はそうされるのです。蕩減復帰はこのようにするのです。これが重要です。ノアが一二〇年の間、神のまえに忠誠をなしたその忠誠よりも、一三〇年、一五〇年、それ以上かかったとしても、ノアに反対してきっとへし折ってやるという人間がいたら、ノアが失敗して倒れる日には、神はその人間を抜いてノアの代身としてその場に立てられるのです。そのようなこともあるのです。このようにして神はサタンが最も愛する人間を奪ってくるのです。 ですから先生は、既成教会の牧師で統一教会に最後まで反対する牧師たちを訪ねてみるのです。神を統一教会文先生や統一教会食口たちよりも、さらに愛する人々を・・・。 こんな意味で統一教会の人々を全部一つ所に括りつけても、また統一教会の食口を探して世界をめぐる人間がいるなら、そこまでも残忍非道に統一教会の食口を粛清したとしても、自分がやった事が正当なことであると同時に天の為であり、また当然やるべき事であると考えてのそのそ歩き回る人間がいるなら、神はその人間を抜いて統一教会に蕩減復帰させるのです。これが凄いでしょう? これからそうなるかならないか、見ててごらんなさい。 その目的基準が国と民族の為、世界人類の為というところにあるのです。そんなとき、神はサタンが最も愛する人間を抜き取って、神が最も愛する場に立てられたのです。例を挙げればアブラハム、モ-セ、使徒パウロのよな人々は全部がサタン側の代表者であったのですが、神が抜きだした人々です。むしろ彼らは初めは反対したのですが、彼らの心情と所願から見るとき、未来にはきっと神と出会うことができる人々ですから、神はその人々を抜きだしたのです。神は彼らを蕩減の祭物にされたのです。 怨讐に仇を返すことのうちで、これ以上の方法がないというのです。言い換えれば、怨讐が最も愛する子供を抜きだして、天の側にしてしまうなら、これ以上の復讐がないというのです。再びサタンが復讐をしようとしても、自分の息子を殺すことができない原則があるので、復讐することができないのです。そのようになればこの世も解放され、悪の世が無くなってゆくのです。(ex.交差交代祝福?) それでは神はなぜ、こんな戦法を使うのかを知らねばなりません。サタン世界を完全に解放させようとしても、子供が父母に怨讐の仇を返すことはできないのです。また、父母が子供に怨讐の仇を返すこともできません。これを返すには人間が復帰されなければなりません。サタンの子供を奪って忠臣にするとき、サタンが仇を返す場において仇を返すことができなければ、今まで築いてきたすべての土台を捨てて後退しなければならないのです。これはとても深刻なことです。ですからサタンはノアに、どこの誰を立ててでも反対させたのです。 このようにサタンは策謀をめぐらしたのですが、神側からノアが登場したのですから、サタンがおちおち寝ていられるでしょうか? 呪咀にもえて死ぬほどでした。これがどこでも殴り殺したい思いが、日に一二度以上も迫ったのです。それで一二〇年の間、こんな歴史を経ていったのです。しかしながらノアじいさんは環境がひどければひどいほど、神をだき抱えてきました。その反面サタンは天の側の息子・娘たちを引きずって祭物にしようとしたのです。妻を動員し、息子を動員して反対させたのです。このように天の側とサタンの側が、互いに奪いあう闘いをしたのです。それで結局ノアも、ハムのために駄目になってしまいました。復帰摂理はいつも息子が問題なのです。 終わりまでがまんして耐えたなら ノアじいさんはひっ迫がはなはだしく難しい環境の中でも、渾身の力を込めて頑張ったのでこの環境にうち克つことができたのです。神の法度のまえに子女の忠孝の道理を尽くすのみ、という謙遜な心をもっていったのです。神のまえに出ればでるほど環境が非情であることを感じ、悲しみにおそわれたのですが、そんな時ほどノアじいさんは神様に恐れ多いという心で悔い改めの涙を流したので、彼が行く道を妨げる者がなかったのです。何の話か、分かりますか? このようにして一二〇年の間を過ごしたノアを、一度考えてみて下さい。ノア一人をおいて、サタン世界はあらゆる方法を使って打ち、反対するだけ反対したのですが、神が中心として立てたその基準において、ノアは忠孝の道に外れることがなかったのです。この基準は天宙の絶対的な中心として立てられ、宇宙の正義の人間として立てられ、真の勝利者として立てられたものなのです。それで神はこの基準に反対となるすべての怨讐の要素を精算しようとされたのです。 このように終わりまで打たれたゆけば、凄い事が起こるのです。皆さんはどれくらい打たれたでしょうか? 我々統一教会員たち、きょろきょろしている目をじっと見つめれば自分の心が重苦しくなるでしょう。 アブラハムもノアと同じです。偶像商の息子アブラハムは、サタンが最も愛する人間でした。しかし神は賢く愛すべき息子を奪ってきたのです。アブラハムが希望とした世界はその父の考えとは異なったのです。怨讐の息子ではあっても、考えることがその父とは異なったのです。アブラハムは自分の家庭だけではなく、未来のイスラエルを案じる心を持っていたのです。こんなアブラハムを神が奪っていったので、どうなったでしょうか? 育つ時には彼の環境と親戚が内側であったのですが、そのすべてのものが怨讐になってしまったのです。その上、自分の国と宗族を離脱し、自分の父母に反対していったアブラハムが、行く家がどこにあり、親戚がどこにあり、国と世界がどこにあったかというのです。まさに独り残ったのです。ですからアブラハムは行く所ことごとく、試練と辛酸をなめたのです。エジプトに行ったときはパロ王が彼の妻を奪おうとし、どこに行っても追われるジプシ-暮らしをしたのです。 しかしこのように追われる行路においてもアブラハムは、自身の父母と親戚から愛を受けて安楽に暮らすことよりも、イスラエル民族が自分を呼び、勝利が自分を呼び、幸福の基が自分を求めていることをより切実に感じていたので、ジプシ-の行路においても天の星を見上げてただ神のまえに望むことは、所望の天国へと駆けて行くということだけだったのです。 それゆえ神はアブラハムに祝福を与えられたのです。彼のまえに迫る辛い苦痛と難しい環境は、他の人なら自分を呼び出した神に背いて自分の立場を嘆くのですが、アブラハムはそんな場にも神と共に深い因縁を結ぶことができる心情で神に侍ったので、彼の前途には幸福の門が開けていったのです。 この時は自身の民族から試練を受ける期間ではありません。宗族から試練を受ける期間ではありません。民族的な試練を受けるべき時代を越えて他の民族が打つ時代なのです。ノア時代までは自分の親族、自分の宗族が打ったのですが、アブラハム時代になっては異邦の民族にまで及ぶのです。復帰歴史はこのようにしてだんだんその領域を広げてゆくのです。三つ以上の異邦の民族に追われるようになるのです。 このようにしてアブラハムの後孫であるモ-セの時に至っては、民族的な蕩減をするのです。この時からはイスラエル民族をおいて宗族的な蕩減と民族的な蕩減をするのです。それでモ-セが行く道には数多くの民族が反旗を掲げて讒訴して、行く道を塞ぐのです。もしもイスラエル民族が、モ-セが導いて行く道を感謝と考えて彼に協助したなら、彼らは明るい天地を迎えたのですが、不平不満を口にして感謝する心を持たなかったので、神は怨讐を打つ前にイスラエル民族をまず打つ他はなかったという事実を、皆さんはよくよく知らねばなりません。それで結局モ-セ一派は、荒野でタカのえじきになってしまったのです。 しかし彼らに再度近づく民族的な試練を有難く受け、カナン七族が統治する怨讐の槍先も感謝で受け、天のみ旨と共に生死を共にするというその歩みのまえに勝利の結果をもたらしたということを知らねばなりません。このような立場で、民族的な蕩減をなすことができたのです。これは決して簡単にできたことではありません。 蕩減の道をそのまま行けなかったイスラエル民族 神はノア、アブラハム、モ-セと同じような人々を中心にして、その時代ごとに蕩減的な使命を連結させて基盤を築いてきたのです。こうして宗族時代、民族時代、選民時代を経てだんだんその範囲を広げていって、イエス様の時まで来たのです。かようにその版図がだんだん広がるならば国家時代を越え、世界時代を迎えるられるのです。そうではないでしょうか? こうしてイスラエルが民族編成を成して一つの法治国家、主権国家を中心にして神の勢力を引き上げなければなりません。それでその国家の勢力がすべての怨讐国家を凌駕するようになれば、これを中心にすべての怨讐世界を精算してしまうというのが、神の作戦なのです。 ここまで神の勢力を引き上げるには、どのようにしなければならないか? イスラエル民族自体が試練を経て、カナンを復帰しなければなりません。彼らはカナンの福地が乳と蜜の流れる幸福の園であり、艱難のない世界、神が自分たちの願いを成して下さる世界だと考えていたのですが、蕩減復帰の原則から見れば、絶対にそうではないというのです。イスラエルの国の創建理念を全世界に植えつけるためには、イスラエルの国がその世界から、まず打たれなければならないのです。 先生は近頃、こんなことを考えるのです。イスラエルが二千年前に打たれるべきを打たれなかったので、この時代になって再び打たれなければならない立場におかれているということです。だから正しく打たれて昔の全ての失敗を悔い改めて、神の前に出るなら許しを受ける道が開かれるということです。 彼らの血のにじむ努力を通して一つの主権国家を立て、神に侍った当時の国力が弱かったので、どこからでも侵略されたのです。しかし彼らが神を中心に団結して夜も昼も一片丹心、国家と世界と神の為に、神のみ旨のまえに忠誠をなす世界的な基盤を代身すると身悶えて民族的な基盤を築いたなら、世界を支配することができる民族になったのです。また、地上のすべての人類を救援するメシアに侍って、万王の王が治める主権国家を成して世界を支配できたにもかかわらず、イスラエル民族はその責任を果たさなかったのです。蕩減の路程を行くべきが、そうはしなかったのです。 彼らは蕩減をなすために世界的な試練と、世界的な圧迫を有難く受けねばならないかったのです。そんな姿勢をとるべきだったのです。彼らがそんな姿勢をとった上でイエス様を来られたら、イエス様は何をされたのか? イスラエルが民族的な姿勢だけ得たなら、これを基盤にしてイエス様は総力を傾けたのです。そしてロ-マの圧政から脱するためにイスラエル民族を団結させ、ロ-マに反旗を掲げるのです。これを契機としてロ-マから圧政を受けたすべての連邦国家がここに同調するのであり、そのようになればロ-マはここに完全に巻き込まれてゆくのです。 しかしイスラエル民族はその時であることを知らず、自分たちにそんな使命があるという事実を知らなかったのです。ではメシアとして来たイエス様が、この地上で何をしなけばならなかったのか? イスラエル民族自体が蕩減すべきことを代身して、蕩減する立場に立たねばならなかったのです。イスラエル民族が世界人類から迫害される場で、勝利の要件をつくるべきが、そんな場に立てなかったのです。 もしもイスラエル民族がイエス様と共に、世界的に迫害を受ける場に立ったなら、神がその民族を通して世界のまえに勝利の基準を立てたのです。しかしその責任を果せず、むしろイエス様を死の道へと追いやったのでした。どれほど怨痛であり、憤ろしいことでしょうか? それではイエス様は、こんな迫害の途上において何をすべきかというなら、民族を中心に世界的な蕩減路程を越えて行かねばならなかったのです。これがイエスの使命であったにもかかわらず、イエスは民族に追われ、むしろ自分個人が越えるべき峠を越えることができず、歴史的な責任を受け継ぐことのできる基盤でさえ造成することができなかったのです。だから天と地がどれほど身悶えて悲しんだかを、皆さんが知らねばなりません。 蕩減の道には近道とえり分ける道がない イエスは元来、死んではいけないのです。生きて霊と肉を合わせて一つの家庭、社会、宗族を中心に、民族と世界を代表して蕩減してゆかねばならなかったのです。そんなイエス様が追われて死ぬことによって、霊的救援の基台のみを造ることになったのですから、イエス様の事情がどれほど悔しく、憤り痛むかを知らねばなりません。 ですからイエス様は、再び来なければならないのです。来られるときは蕩減復帰原則によってイスラエルの選民圏を求めるのであって即ち、キリスト教の中のキリスト教を求めて来るというのです。 それではキリスト教はどのようにしなければならないか? キリスト教全体が来られるメシアを歓迎して、サタン側の共産主義を難なく突破して、彼らを愛によって自然屈伏させなければなりません。こんな段階をどのように越えるべきかということが、現代における苦悶であり、来られる主が越えるべき最大の苦悶であるにもかかわらず、今日キリスト教信者たちはこのようなことを夢にも見ないでいるのです。まかり間違えばイスラエル民族と同じく、来るメシアを追い詰めて再び捕らえて殺してしまえばいいというのです。 今日統一教会が、福があってか災いがあってか分かりませんが、世界の数多くの宗教とキリスト教から試練と迫害を受け、艱難と苦痛を受けてきているのです。これが良いことですか、悪いことですか? 良いことです。しかしもしも既成教会が統一教会と一つになって、大韓民国が統一教会と一つになったら、韓国の現実がこうはならなかったのです。共産党問題はすでに先生が解決していたのです。 しかしこの民族が背反する場に立ち、既成教会が背反する場に立ったのです。迫害する場に立ったのです。あらゆる謀略を尽くして統一教会を迫害し、先生を殺そうとしたのです。しかし先生はこれに引っ掛かりません。千辛万苦終わりを求める天のみ旨のまえに、先生が楽になりたい心をもつなら彼らにやられてしまうのですが、千べん万べん死を覚悟して蕩減路程を行ったので、彼らに引っ掛からなかったのです。ただ一つやるべきことが何でしょうか? それは伝統を立てる道に従うにおいて、どのようにすれば彼らが讒訴する条件に掛からないかという問題です。また一つは、どのようにして蕩減の峠を越えるかということでした。 皆さんはこんな先生の世界を知らねばなりません。先生の生活の中には旅人のような行路がたくさんあったのです。暗闇が迫る夕日を受けて道を急ぐ旅人のような道を、たくさん歩んだのです。背のうを背負って「愛する妻子を残して自分は行かねばなりません。行かざるを得ないのです」と祈祷した時を、先生は今も忘れることができません。うまくゆけば忠誠の道であり、間違えば怨讐となる他はない岐路において、神を迎える時まで私は妻子を愛することをしません、と祈祷したのです。七年の大艱難の峠を越える時までは愛することをしない、という覚悟で後にしたのです。目の前が真っ暗になり、どんな障壁が立ちふさがったとしても、民族を求めて行く道はこれ以上の道がないという覚悟で出たのです。世界を生かすためには、血の結ぶ路程を行かねばならないのです。こんな覚悟がなければ、真の世界を成すことが出来ないのです。 こんな場にあっても自身の妻子、自身の家の者を抱いて涙を流せず、訪ねなければならない未来の大きな世界を抱いて、涙しなければならないのです。背のうを一つ背負って道を行く旅人の行路には近道がなく、えり分ける道がないのです。血と汗を流して求めなければならない困苦なる道なのです。旅人の行路を歩む、天の道を求めて行く青年の姿は、追われに追われる一匹の羊と同じです。求めるその道において流す涙は、私の涙ではなく私を通して流す神の涙なのです。 蕩減路程において必要なこと 先生は監獄に入って髪の毛を剃られるとき、神のまえに祈祷したのです。私が願って頭を剃られるのではなく、怨讐の手に引かれ強制されて頭を剃るのですと・・・。その時、先生の目がどんなに輝いたか知れません。剃り落とされる髪の毛を見ながら、自分が願った幸福を捨て、その上怨讐のまえに頭を剃られることは悲しいことです。復帰の事由を連ねてゆく路程において、そのすべての逆境が恨み多いことです。しかし、過ぎる時は恨みがましくとも、過ぎてみればこれをすべて神が私を記憶して下さるので、それにうち克つことができたのです。幾日も拷問を受け、鞭打たれて倒れるその場であっても同じです。私が鞭打たれるのは自分のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、自分が流す涙は、この民族の痛みを代身する蕩減の涙であったのです。 私はすべての行路において神をだき抱えて身悶え、神の同情を受けるときまでこの蕩減路程の道を行かねばなりませんでした。私独りで、この道を越えてきたのです。 イエス様もそうだったのです。民族を代身して蕩減復帰の道を行ったその歩みのまえに落ちる涙は、イエス様自身の死の道を案じて流す涙ではなかったのです。民族の死の道を案じる涙であったのです。自身に従った人々が背反して、天上において受けねばならない最後の審判を案じる涙だったのです。 先生がエルサレムを訪問した時に見たのですが、イエス様がゴルゴダ山頂まで登る途中で倒れた所に立て札が立っているのです。十二回も倒れたその所を見やり「こんな蕩減の道を行かれたのだな」と思ったのです。その場で先生は「暗黒のような二千年前に新しい天的な使命を背負って、砂漠と荒野のようなこのど真ん中を訪ねたイエス様の事情がどれほど切なかったでしょうか? しかし大きく裕福な多くの民族をみな除いて、このように見る影もなく、やせ細ったイスラエル民族を訪ねてこられたことは、民族復帰の恨を一日も早く解こうとされたアボジの事情があったが故であるということを知りました」と祈祷したのです。 その所を訪問する人は誰もが、イエス様が抱いた事由を深くお慰めしてさしあげる祈祷をしなければならないのです。それでこそ、その場においてサタンは気をもみ、神様は慰められるのです。それでサタンは悲しんで泣き、神は嬉しくて泣くのでなければならないのです。 アダムが堕落することによって神が慟哭され、サタンもアダムも涙を流したのです。サタンは神に背信して追われて涙を流し、アダムもやはり堕落によって涙を流したのです。それでイエス様も涙を流され、サタンも涙を流し、アダムも涙を流したのです。ですから復帰の峠道では、神とサタンに涙を流させなくては復帰ができないのです。自分自身も涙を流さなければなりません。自分の涙が神を泣かせ、サタンまでも泣かすことができる涙でなければ、これを復帰させることができないのです。これが蕩減路程で必要とする条件物であることを知らねばなりません。 今日皆さんは世界の大きな問題をかけて、天的な使命を背負ってゆくこの先生が行く道がどれほど寂しこであったかということを知らねばなりません。先生が同情を受けるためにそうだというのではありません。先生は寂しい人間です。多くの人が先生に従うのでそうは見えないかも知れませんが、実は寂しい人間です。誰にも同情を受けることのない寂しい人間なのです。 アダムとエバが誰にも同情をされなかったように先生も誰にも同情されない人間です。サタンにも同情されることなく、神のまえにも同情を求めることがありません。同情を求めるなら自分自身の知恵に同情を求め、涙と血の汗と誠精がこもる場において身悶える自身に同情を求める他はありません。このように恨多こを行く先生であることを皆さんが知らねばなりません。今日も明日もそうでなければならず、またこの民族を越え、世界復帰路程においても、この道を行くということを知らねばなりません。 真情から皆さんに神を愛する心があるか 先生が外国に行くというので、ある食口がどうかしたら今回が先生に会う最後になるかも知れない、と涙を流すのを見ました。先生は再び帰って来るのです。しかしこの民族が誤って行くなら、戻る道がないのです。この民族が神のまえに背反者の烙印を押されるなら、この民族は間違いなく戻って来ることができないのです。先生はどんなに反対され、迫害されて悔しい場に立ったとしても戻る道があるのですが、この民族は戻る道がないのです。ですから先生は、皆さんが私のために泣くのではなく、民族のために泣くことを望むのです。 師を慕う心からこの師に再び会えないのではないかと、心配してそんなことを言うのを見れば心が痛むのですが、神の為という心が先立たなければなりません。真に皆さんに神を愛する心がありますか? 自分一身の幸福のために、自身のみ旨を立てようと身悶える人がいるなら、皆さんはそんな人間に同情してはなりません。そんな人間は絶対に蕩減復帰の条件を立てる人物として、同情できないのです。自分がうまくやったとしても、他人が誤ったことを代身して打たれ、民族が誤れば民族を代身して打たれるのです。自分がそんな惨めな場に立つのは、世界人類の恨を解くためにそうだというのです。 こんな環境を未だに求めてみなかったのです。それで今年、一日の試練を再び私のまえにやってくれることを、手を広げて訴えるのです。これは蕩減の条件を立ててゆく人々が今まで使命を果たしていないからです。 すべての力を尽くして闘ったとき、その心が疲れたとしても、その背後には神を案じる心があるので「何とまあ! もう一度神の為に闘おう」と誓って行かねばばなりません。これが復帰路程に責任を負う人々が行くべき行路です。蕩減条件を立ててゆくにおいて、こんな道を行くべきことを皆さんは知らねばなりません。 こんな観点から見るとき、皆さんは真に統一教会を愛しているでしょうか? 真に皆さんが統一教会を愛したなら、この民族と国を愛さなければなりません。真にこの世界を愛しますか? これが漠然と垣根だけ見て、愛するという言葉はいくらでも言えるのです。だからそうであっては、主人になることはできません。 その垣根の内で彼らを収拾してあげ、彼らを解き放つという心を持って民族と世界を愛してみましたか? 真なる条件を立て、神も肯定される場において蕩減してゆくという心で、自分一身において蕩減の条件を残すと身悶えてみたかというのです。そのためには蕩減条件を立てて堕落の因縁を脱する完全な人間が、さっと出て来なければなりません。こんな原則があるので、先生は皆さんを押し出さざるを得ないのです。 神が気をもみ、サタンも気をもむそんな立場において、そこで神の心情と因縁を結ぶのです。それでこそ堕落の因縁を脱ぎ捨て、天と地が一致するのです。そんな立場で神の心情を相続し、サタンの攻撃を受けて闘って勝つ自分にならなければなりません。蕩減の行路に勝利の立て札を立てて戻る皆さんになってこそ、それが決定的な路程になるのです。 もしも皆さんが神から、間違いなくこんな行路を経てきたかと質問されたら、何と答えるのでしょうか? 恨多い歴史の路程を誰が行くのか? 国の為のこの道は統一の役軍が行き、人類の為のこの道は三千万民族と大韓民国が行かねばなりません。最後の試練の行路を越えるための復帰の道を行かねばならないのが、世界を統一する勇士たちの路程なのです。この道を行くには、そのままで行くことができません。神の為に行く道は条件を立てて行くのです。神がそんな道を行き、師がそんな道を行ったので、皆さんはどうするのですか? 絶対的な原理を求めて、未来の人類を解放させる勝利者の姿にならなければ、復帰の使命を完遂することができないのです。 蕩減の道には至極なる慕わしさが必要 今日まで神は皆さん一人を捜し求めて来られたのであって、皆さんは家庭と子女が越えてゆける道を築いたでしょうか? 子女が自分を通して神を求めてゆける道を蕩減しておかなければ、子女から追い出されるのです。皆さんは家庭を越え、親族全体が神に侍って生きるように蕩減条件を立てなければなりません。さらには家庭、宗族を越えて神がこの民族に訪れて来られるように蕩減条件を立てておかなければなりません。ですから祝福家庭の責任が重いのです。 神が大韓民国を愛するなら、それは大韓民国だけのためではないのです。世界を愛するので、大韓民国を愛するのです。大韓民国を生かすことによって、世界を生かすためなのです。我々が荷を負ってゆくのも、我々だけが福を受け、愛を受けるための目的でゆくのではありません。我々が代身して十字架を負い、多くの群れが愛を受けられる場に立て、その愛が未来にまで及ぶようにしなければなりません。これが蕩減の道に責任を負う人々の使命なのです。 天的な基準から見るとき、自身の心がどこに留まっているかを、自ら反省してみなければなりません。皆さんの中に「私はこんな環境、こんな事由、こんな事情があるので、神が公認される条件になるだろう」として安心する人がいるかも知れませんが、それは絶対にそうではないのです。 皆さんは蕩減条件だけあればいいと思うかも知れませんが、そうではありません。自身の父母や妻子を見やるときに涙を流して慕い、恨が結ばれるほどに慕う心がなければなりません。皆さんは自身の宗族に向かって、恨が結ばれるほど慕ってみましたか? 蕩減の道を行くとき、慕わしい心が先に立たなければなりません。自分の存在意識を越えるほどに慕うのです。慕わしさが先に立って死線も跳び越えることができなければなりません。 教会を愛し、民族を愛すべき皆さんに、慕わしい心がなければなりません。先生がなぜこのような深刻な話をするかといえば、皆さんがこの時点において、新しい覚醒をすることを望むからです。蕩減路程は血と汗と涙で編んでゆくものです。過ぎ行くある旅人たちのために、川辺に放り込むそんな話ではありません。涙は人類の為に、汗は地の為に、血は天の為に流し、父母の心情、僕の体を通してこのような理念を求めるのです。こんな事由をもって、民族復帰と世界復帰の先鋒に立つということが、我々の思想なのです。 今日なぜこんな話をするかといえば、皆さんが生きてゆくにおいて、最後の一刻を耐えて越えるなら、すべてを一ぺんに跳び越えることができるのですが、一瞬間を耐えることができなければその場に倒れてしまうからです。そうなれば恨が結ばれる場に立つ他はないのです。 先生がこんな話をすれば、先生は苦労せよという話以外はしないという人がいるかも知れません。しかし蕩減法則を中心に分析をしてみるとき、蕩減の道を結論づける起点がどこか? その場は世界的な場なのです。ユダヤ民族のように、この道を歩むのが嫌な民族は滅びるのです。蕩減の道を避けて行く民族と国家は滅びるのです。人類も同じです。行く道がこの道の他にはないので、行かざるを得ないのです。それで四千年の血のにじむ歴史路程が受け継がれてきたのです。こんな歴史の峠道がなかったら、どうなったでしょうか? 蕩減をするためには、どうせ打たれなければならないのです。しかし民族のまえに追われる悲しみよりも、自分自身から起こる悲しみがさらに重苦しいという事実を、その当時のイスラエル民族は知らなかったのです。それゆえ皆さんも外部から迫害されることよりも、内部から天をないがしろにして、天のまえに無感覚な状態になるのが恐ろしいことです。怨讐が誰か? 民族ならぬ皆さん自身が怨讐となる可能性が多いということを、よくよく知らねばなりませんん。それでイエス様も、自分の家の食口が怨讐だと語られたのです。 復帰の隊列は、だんだん熾烈な闘いの舞台に展開されてゆくのです。行くべき歩みが遠くにあるのに、行くべき歩みを縛りつけて環境を逃避しようとする人間が誰か? まず入る人間です。内にいる人間だということです。 個人は滅んでも民族が滅んでは駄目です。民族が滅んでも世界が滅んでは駄目です。世界が滅んでも神の復帰のみ旨が滅んだら駄目なのです。多くの歴史路程において、蕩減路程を歩んだ我々の先祖は死の道にも逆境を耐え、神の為に身悶えたのです。我々はこのような過程を甦らせ、自分のこの手がどこへつき、自分の体がどこへ行って倒れるか今一度悟り、倒れたら再び起きて勝利の蕩減条件を立て、勇士という立て札を掲げ、休む間もなく駆けなければなりません。これが統一勇士の使命です。にもかかわらず今が昼だか夜だが分からない人間であっては滅ぶのです。皆さんはこれを、確実に知らねばなりません。 統一教会の責任 蕩減して行く道は条件を提示しなくては行くことができません。世界的に見ても歴史的に見ても、この民族を神のまえに表すことのできる道を開くためには、蕩減の条件を立てずしてはできないのです。民族の解放を所望とする者であれば自分の親戚と宗族を抱え、友を抱え、国を愛する道、国を救う道がいかなることかを見せてあげるのです。涙と血の汗を流しても、彼らに見せなければなりません。これが神が教える教訓なのです。皆さんが泣いたからとて、できることではありません。 これは数日の間でできることではありません。少なくともざっと三年は見なければなりません。三年以上、準備しなけばならないのです。それで三年間は耐えよ、三年間は死ぬほど苦労せよというのです。天国を成そうという人々が、神の息子になろうという人々が三年を耐えられないでしょうか? 三〇年でも意に介さずに行かねばなりません。 今日先生が皆さんに話す「蕩減が行く道」には、条件が必要であるというのです。蕩減条件は神とサタンと、また堕落の因縁を受けていない即ち、蕩減復帰した人間がなくては完結することができないというのです。 それではどうすれば、そんな場とそんな時を迎えることができるのか? 皆さんには資格がないのです。神が愛することができる条件を立てて、サタンが讒訴する条件から勝利したという土台を残すまでは、そのような資格がないのです。そのために責任を負うという人間が、統一教会の先生なのです。その次には個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰のための蕩減条件を立てるのです。これを私が責任をもって行くというのです。 このようになれば個人圏内において、体と心が解放されるのであり、家庭圏内では食口が解放され、宗族圏内では各家庭が解放され、民族圏内では各宗族が解放され、国家圏内では数多くの民族が解放され、世界圏内では数多くの国家が解放されるのです。分かりますか? このようにして六千年の縦的な歴史を、横的に蕩減しなければなりません。 個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、国家復帰、世界復帰の道を準備して、一つの基準となる中心が来ることによって恨の行路であった個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰のために開拓して行かなければなりません。この使命を背負って行こうというのが統一教会の責任であり、統一教会を指導する先生の責任なのです。ですから先生は今日もこの道を行っているのです。 世界が韓国民族のために涙を流した、それ以上の愛の心で世界人類を代身して涙を流す自分にならなければ偽ものです。顔かたちも違い、風習も違い、思想も違うアメリカ人のために、彼らが韓国のために涙を流したそれ以上の涙を流すことのできる心を抱いていなければ、偽ものだというのです。民族と社会と歴史の背景が違っても、国境を超越した同族の心情で涙を流して祝福する心がなければ、この世界を復帰することはできません。 神は自分の民族よりも世界を、より愛することを望んでおられるのです。それで先生はこの心をどのように誘発させるかということに対して、苦悶しているのです。皆さんが恩恵を受けて伝道できないで見悶えるその時よりも、環境が自由になるこの時に、民族を救うことができずに身悶えるその心が、より貴いということを知らねばなりません。 韓民族の使命 皆さんは自ら蕩減条件を立てることができないので、先生の背に乗って行かねばなりません。先生の背に乗って行け、私が深い川に架かる橋になってあげるので、乗って行けというのです。肩を踏んで、頭まで踏んで行けというのです。サタンの讒訴条件を逃れることができる道を築いてあげるというのです。ところがこれも嫌なのですか? それさえも嫌だというなら滅びるだけです。滅びなければなりません。そんな人間は落伍者になる他はありません。 幸福になれる時代、六千年の縦的な恨を横的な基準において蕩減することができる幸いなる時代を迎えても、その時代をすべて逸してしまうのです。七年行路が悲しければ、この民族が傾いてしまうのです。これが分かるでしょうか? 言葉だけではありません。七年、七年ということが言葉だけではないというのです。悲しみの涙が先にたつこの年を見送り、今は祭物的な蕩減条件を示しておくべき運命におかれていることを、皆さんは知らねばなりません。 それでは今から皆さんはどうすべきか? もしも皆さんたちに素晴らしい人間、神様から福を授かる人間になりたいかと問うてみれば、すべてがその通りですと答えるのです。みんな欲心は大きいのですが、欲心の通りになれないのです。福を受けるためには、その三倍以上の苦労の基準を立てなければ、授かる福を持て余すのです。その福に値しないということです。そして天と地が苦労する三倍以上の苦労をした基準の上に受ける福でなければ、その福を伝統として後孫のまえに残しておくことができないのです。ですから三倍以上の基準を用意しなければ、天に従って行くことができません。 先生は近頃、統一教会員たちに先生が福を与えれば、受けることができる人間が果たしてどの程度いるかを案じているのです。また、み旨のために苦労する人間が誰かを考えるのですが、それは福を受ける人間であり、み旨のために苦労する人間だからです。こうして蕩減の条件を立てた人間は、神から公認されるのです。 先生は皆さんをどんな人間につくりたいでしょうか? 民族の隊列のまえに蕩減条件を立て、数千万代の後孫たちと、あるいは先祖たちが皆さんに頭を下げることができる民族的な勝利者としてつくりたいのが、先生の願いなのです。それで今年からは外国に宣教師をたくさん送ろうとしています。そうせざるを得ない天的な因縁があるからです。 「蕩減が行く道」そこには条件が必要です。神が韓国の民を信じて訪れて来られたので皆さんは信じ訪れるそのみ旨を、世界に連結させることができる一つの連結体を造らねばなりません。どの民族よりも韓国人が世界に多く行って、天の旗を立てるべき責任があるのです。どの民族よりも涙を流してこそ、韓国に下された福をそのまま保って、他の民族にまで福を分けてあげられるのです。分かりますか? それでは行くにはどう行くのか? 条件をもって行かなければなりません。チュイポンジュンさんも日本に行って、日本人を韓国人よりもより愛したのです。そうでなければ滅ぶのです。これから祝福を受けた人が外国に宣教に行くとき、そこで自分の妻や子供に会いたくて涙を流したら、讒訴条件に引っ掛かるのです。自分の子供を考える前に、まずそこにいる人々を、自分の子供よりもさらに愛さねばならないのです。そうではな、自分の妻や子供が慕わしくしきりに手紙を出したら、家にいる妻や子供に良くないのです。自分の責任を果たして帰らなければならないのです。その国で怨讐が攻撃する非情事態を迎えたなら、その敵を追い払うために戦う大将のように、その戦いをすべて終えた後にこそ、帰って来るのです。 それゆえ皆さんは、今がいかなる時点であるかを正確に知って「蕩減が行く道」に条件を立てるにおいて、自分は何をすべきかを、再度分析して見なければなりません。分かりましたか?(はい) 今回、世界巡回に出発するのに、皆さんにこんな深刻な話はしたくはないのですが、仕方がないので話すのです。先生は今、こんな深刻な道を行っているからです。だからといって皆さんが心だけが先にたって、飛んで行きたい心が起こることを望んでいるのではありません。 でも先生が皆さんを愛している様子でしょうか? 皆さんは先生が愛するほうが良いでしょうか、愛さないほうが良いでしょうか?(愛するほうが良いです) 復帰の道は求める道、原理の道は踏む道 先生と皆さんは死の恨があっても、同じ道を行かねばなりません。道を行って出会う人々も、すべて因縁があって出会うのです。それゆえ先生と皆さんは因縁を通して、神を喜ばせてあげるその一日を迎えなければなりません。未だ皆さんには行くべき道が残っているのです。 今回で七年路程が終われば、再び第二次七年路程を越えなければなりません。七年路程において蕩減すべき基準を中心に条件を立てなければ、第二次七年路程を立てて再び行くのです。何の話か、分かりますか?(はい)ですから前に先生が話したように、皆さんは自身の食口であれ最も愛する父母であれ、一人が十二人を誠精を込めて因縁を結び、彼らのまえにアベルの立場に立たなければなりません。そうでなければならないのです。言い換えれば、蕩減の道で条件を立てる人間になるということです。しかしこの条件は、皆さん自らが立てることはできません。先生の後に従わなければなりません。即ち、先生が行く道が皆さんの行く道なのです。 先生が食口たちを愛するためにある基準で身悶えるのは、皆さんが行くべき道を見せたあげることなのです。信仰の路程におきましては、御言によって死亡の世界から復活してゆかねばなりません。その場においては死んでいるからです。死んだ子供が蘇生する時のような、喜びを感じなければなりません。ここに神の価値があり、神の愛があり、自分の価値よりもさらに大きな価値があり、自分の喜びよりもさらに大きな喜びがあるのです。だから皆さんは悲しみを忘れて、その場を見渡して喜ぶことができなければなりません。 皆さんは一つの命が貴いということを、感じなければなりません。「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか(マタイ一六:二六)」というイエス様の御言をその通りに感じて、体験することができる人間になってこそ、宇宙を主管できる資格者になるということを確実に知らねばなりません。よく分かりましたか?(はい) 皆さんは条件を立てる資格者になっているでしょうか? 本当に資格者になっていますか?(なっていません)いつ皆さんがサタンから賛辞を受けるほど神を愛し、いつ皆さんがサタンを感動させる事をやってみましたか? 皆さんがそうでないので、神が人類を愛して蕩減の道を開拓されて、その本然の世界に戻るまで従ってくるように教えるのです。これが統一教会の原理なのです。 復帰の道は求める道です。原理の道は踏んで行く道です。先生がこの蕩減復帰の道を行くとき、先生の一生は捜し求める路程だったのです。だから皆さんは先生がすでに求めておいた道に従って行くだけでいいのです。ところがこれもできないのですか? ついて来ることができないのですか? 蕩減条件は神とサタンと、堕落圏を脱した基準を立てた人がいなければ、立てることができないのです。 蕩減がなる場 それでは皆さん自身が神とサタンの前に蕩減条件を立てられないので、どうしなければならないか? 先生に頼らなければなりません。こうして解放を迎えられる条件を立てて越えなければなりません。一方は上がってゆき、一方は下がるのです。即ちサタンの世は下ってゆき、天の世界は上がってゆくのです。であれば入れ替わらなければなりません。ですから皆さんは下がって行くのです。それで下って行ってできるだけ上がる運勢に乗って、上がって来るのです。蕩減は平安な場、自分が願う場においては成らないのです。分かりますか? それでは天国はどこから始まるのか? それはイエス様が生まれた飼葉桶から始まるのではありません。イエス様が十字架を背負って行った、あのゴルゴダの山頂から始まるのです。生死の岐路において、生死を決定づける場、死亡と復活が、生命と死亡が行き交う場において始まるのです。蕩減はこんな場で起こることなのです。ところで何をもって蕩減をするのか? 愛をもってするのです。 統一教会の食口たちには先生が主人です。それゆえこの世のすべてのものをみな捨てても先生に服従するという心があってこそです。であれば神が愛を通して、我々の蕩減条件を率いて行かれるのです。天と地が公認し、サタンが公認する場、神が喜びに涙ぐみ、サタンが悲しみの涙を流し、皆さんが喜んで讃える場になってこそ、そこに蕩減条件が立って勝利圏を成すことができるのです。 それでは統一教会においては、何を提示するのか? 皆さんの心情的な条件を誘発させるのです。ですから統一教会は最後の道であるというのです。真理を誘発させることが目的ではありません。勿論真理も誘発させ、その真理を通して人格革命を起こすのですが、そこには心情を誘発させる主目的があるのです。 カインはアベルに従わねばなりません。アベルが指示する道に従順に従わねばなりません。ですから皆さんは先生をアベル的な基準で侍り、アベルを慕う心情で先生に従って来なければなりません。この道が最後の道ですから、死線をも越えなければなりません。未だ人類歴史路程において、この道を提示したのは統一教会だけです。分かるでしょうか? このような心情を中心に、皆さんが条件を立てて越えるなら、最後の峠道を越えることができるのです。だから統一教会が終わりの教会だということを、皆さんが知らねばなりません。 心情の所願が解かれて初めて神が安息されるのであり、サタンがこの地上から永遠に追放されるのであり、我々自身も安息するのです。 終わりの日にこのような条件を立てることができる道は、ただ一つしかないのですが、それがまさに統一教会であるということを知らねばなりません。分かりますか? そうですか、そうではありませんか?(そうです)これが実際に感じられますか?(はい) 蕩減条件は独りで立てなければならない 蕩減条件を立てるには、二人が立てることはできません。夫がいても夫を横に立てることができません。愛する父母や妻も連れて行くことができません。前後関係は許されても左右関係は許されないのです。分かりますか?(はい)二人が立てば復帰ができないのです。心情の世界においては、二人が立つことができません。二人の中の一人が、主体にならなければならないからです。 夫が主体の立場に立つためには、父母のまえに絶対服従しなければなりません。また妻は夫に侍るに、神のように侍らなければなりません。なぜそうでなければならないのか? 蕩減復帰しなければならないからです。男が行く道に絶対に服従して従えば、前後関係が成立するのです。それゆえ皆さんは先生に従わねばなりません。そうでしょう?(はい)従うときは、泣いたりわめいたりして従うのではありません。良しとして従うのです。 皆さんは先生がどこに行っても、先生を忘れようにも忘れることができないのです。先生が外国に行って長くなればいいでしょうか、早く帰って来ればいいでしょうか?(早く帰ればいいです) 先生が今まで皆さんに強調したことが何でしょうか? 先生は皆さんがお金を集めて楽に暮らすことを願いません。「伝統を立てよ」というのです。どんな伝統ですか? 蕩減路程において、蕩減条件を立てる伝統を立てよというのです。また、これからもこのような伝統を立てなければなりません。これを立てておかなければ皆さんは、他のところに流れてしまうのです。 皆さんが現在どんな立場にいるかということを確実に知って、先生が出発した後にさらに多くの祈祷と誠精を尽くさねばなりません。それで過ぎし日には漠然と生きていた生活を、今からは具体的に生きなければなりません。先生を愛するように自分の父母を愛し、先生を愛するように昔の信仰の同志を愛し、先生を愛するようにこの民族を愛さなければなりません。 麹のような作用をする皆さんになって、世界のまえに出てゆくなら世界が天国になるのです。分かりますか?(はい)そのように知って、皆さんがそんな人間になるために努力してくれることを願います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.06
コメント(0)

文鮮明先生御言選集 20070505 - 「双合十勝日」三周年記念式典の御言『「双合十勝日」三周年記念式典の御言』天一国七(二〇〇七)年五月五日、韓国・天正宮博物館 時が変わる節目の時 訓読の前に、先生が言うとおりに言ってみてください。 きょうから。(「きょうから……。」)天地創造の主人であられるわたしたちのお父様が。(「天地創造の主人であられるわたしたちのお父様が……。」)摂理上の先頭に立って指導する。(「摂理上の先頭に立って指導する。」) 変わります。時が変わるのです。それを理解して、きょうが(「双合十勝日」)三周年なので……。きょうは、いろいろあって複雑でしょう? 五日目を越えていく時です。 訓母様が来ていましたね。なぜ現れなかったのですか? (郭錠煥会長「来られましたが……。」)(「双合十勝日」の説明と訓読) (2007年)三月十七日[「キング・ガーデン」奉献式および環太平洋摂理新出発大会、ハワイ、コナ]、四月十七日、五月十七日、三か月です。本格的な出発です。韓国から、日本と米国と太平洋圏を超えるのです。最後の闘いです。 先ほど始める前に、わたしが何と言いましたか? (「きょうから、天地創造の主人であられるわたしたちのお父様が、摂理上の先頭に立って指導する。」)摂理歴史時代において、初めて神様が先頭に立つのです。 宗教を通して、思想を通してではありません。直接先生を通して先頭に立つのです。先生が十六歳(数え年)で新しく出発したのも、人間始祖が十六歳で堕落したからです。 ですから、先生の体を中心としてサタンと闘い、分別するのです。先生が勝ち、内的な基準を中心として生き残ったので、外的なサタン世界が除去されます。蕩減です。 天一国に入って、一年、二年、三年、四年、五年、六年……。これが逆さまにこのようになり、ここから四、五、六、七となって再び出発するのです。 八です。これが中心になります。いつも一次から三次に超えていくのです。失ってしまったものを求めて戻ってきて、すべてを経ました。 そのような意味で、「双合十勝数」というものは全体が入っています。ですから、十になった後は十一です。今までは、十の次の十一に神様がいませんでした。神様が出発しなければならないのですが、サタン世界より優れていなければならず、十より優れていなければ、新しいものはありえません。サタンが十を支配したので、新しく二十へつなぐ十一、また二十を超えて三十に続くことができる二十一、このように前に続く基盤を先生が築いてきたのです。(訓読が行われる) 数えるときも、一、二、三、四、五、この五つです。これは、サタンが支配しています。三を通して全体を支配しているのです。一、二、三、四、五、これをすべてサタンが支配しているのです。ですから、取り戻さなければなりません。 「双合十勝日」三周年 きょうが満三年目です。「双合十勝日」の三年目です。三年が完成数なので、この摂理全体を天に委ねるのです。今まで、自分の不足なものは、サタン世界の助けを受けることはできないので、すべて真の父母に頼ってきましたが、今はもうそのような時が過ぎていきました。 霊肉を中心として見てみたとき、真の父母が実体基準の体になっていますが、内的な天も父母なので、そこには影がありません。明るくなっているのは、内的な光が体を通して現れたものなので、サタンはここにいません。それを知らなければならないのです。 この全体の摂理史を皆さんが考えれば、先生が本当に苦労したということを知ることができます。先生に対して「苦労した。」と言うことさえ大変です。自分たちは、個人時代も超えることができないのです。 家庭時代、氏族時代、八段階の世界を超えていけません。それは、先生が超えていくのです。先生が十六歳を中心として、国のすべての希望も、家庭の希望も、兄弟の希望もなく、父母も信じることができない中で、独り闘ってきたのです。 そのような位置に立って祈祷したのが、今、皆さんに伝えた「栄光の王冠」です。その時の祈祷です。わたしだけ残ったのです。一人しかいません。そのような責任を中心として、すべてのことが先生に懸かっています。死ぬか生きるかという問題が懸かっているのです。 そのようなことを理解して、一次、二次、三次、個人時代、家庭時代、氏族時代、祝福家庭が経てきながら……。その祝福家庭が経てきた困難は、個人より家庭がもっと大きく、五段階までは、サタンの戦力がすべて集まってくるのです。 サタンの全権と天の全権です。天の全権は行使しませんが、真の父母の全権をサタンに浴びせるので、サタンは五を超えて六までも思いどおりに処理しようとするのですが、それは譲歩しません。 七年間で七千年を代表し、摂理史に必要なすべてのものを超えて、今、この(天一国)七年の一月からなされたすべての諸事実は、この世界、歴史の全体を代身してすべての季節を経るのです。 四季、四時代、旧約時代、新約時代、成約時代、心情圏時代を超えていくのと同じであるということです。それを代表して超えていくのです。一心、一念、一核です。家庭が分かれることはできません。一つです。 口と目、鼻が分かれることはできません。堕落していない心と体の考えによって作動するようになっているのであって、目自体、口自体では作動できません。今は目が二つです。口も二つですべて二つです。 ところが、天の目が見えません。サタンの目で見ています。青盲(目はあいているが視力の全くない人)になっているでしょう? これが原理を通して……。 「原理」もそうです。今から、(わたしたちの生活自体が)御旨の道になります。『原理解説』、『原理講論』の時代、そして今は実体の時代です。今からは祝福の完成です。 そのようになっていくのです。それを知らなければなりません。皆さんが持っているこの本、平和のメッセージが最後の内容です。これをすべて覚えなければなりません。 この先生のみ言の中の結論は一ページにもなりません。二分の一ページにもなりません。み言がそのようになっているでしょう? 百六十二ページ、百六十三ページです。 何ですか? 結論が、どこですか? 何ページですか? これは別のものでしょう? 最初のものには、巨文島の話が出てきます。完成の日です。絶対性を中心として終わるのです。(「プリントされた本では百八十九ページです。」) ここに出ていますね。「平和メッセージ完成の日、二〇〇六年十一月十五日、巨文島にて」とあります。 先生の時代は過ぎていく 天正宮博物館においては、「二〇〇七年一月八日午前四時四十二分、完成完結」を宣布しました。 これは先生です。すべての精誠を尽くして、やり終えたことを報告したものであるということを知らなければなりません。今からは、先生の時代が過ぎていくのです。 自分たちがしなければなりません。先生に対して支援を願う、それは違います。天の父母を中心として実体の父母が一つになり、神様を中心として先頭に立てながら、皆さんがしなければならないのです。 今までのような、神様が地上のわたしと共にあり、完成できていないわたしを押してくれる時代とは違うのです。神様が、前に立たなければなりません。 ですから、きょう、皆さんが出発する前に、(「双合十勝日」)三年目の記念日なのでこれを宣布したのです。摂理歴史、摂理世界の先頭に、神様が立たなければならないのです。今から先生は、後ろに戻らなければなりません。称賛することがあれば、文総裁を称賛するのではありません。 今までレバレンド・ムーンが反対されてきた代表的な言葉が何ですか? 真の父母です。この真の父母を取り戻すために、救世主、メシヤ、再臨主、真の父母、復帰の過程には、このようなたくさんのこぶがぶらさがっていました。それを取ってしまわなければなりません。 皆さんが真の父母と連結され、神様と、天地父母と連結されようとすれば、神様を足場にするのではなく、真の父母を足場にしなければ、天地父母、神様を連結させることはできません。真の父母が許諾しない皆さんは、天国でも何でも、存在価値がないのです。サタンよりももっと悪い、創造前の土の塊にも劣る位置に落ちるのです。 再創造の歴史は、言葉だけで終わるのではありません。皆さんが言葉だけであれば、春なら春の風が吹き、夏なら夏の風、秋なら秋の風、冬なら冬の風、春夏秋冬の風が吹く、一年、二年、数十年の歴史が皆さんと何の関係があるのかということです。自分が誇ることができる期間になっていません。 逆さまに下がっていきます。上がっていくのではありません。引っ繰り返って、上がっていかなければなりません。み言の訓読は、すべて終わりましたか? (「少し残っています。」)それでは読んでください。 ですから、皆さんは、この日を守らなければなりません。毎年一月八日午前です。一月八日です。新出発する日です。四時四十二分です。サタン数を超えて、完成完結を宣布した記念日です。 四時四十二分に起きて精誠を尽くさなければなりません。訓読会に参席するためには、精誠を尽くさなければなりません。先生は、十二時を過ぎれば、昔とは違う生活をしています。 昔は、十二時、一時、二時に寝ましたが、十二時になる二時間前、三時間前、九時、十時になって寝れば、翌日は、必ず一時、二時前には起きるのです。 きょうもそうです。そうしてすべて準備するのです。歴史時代のすべてのことを、再び行かなければならない道があるのです。 『天聖経』と「平和のメッセージ」について ですから、『天聖経』やこの本(平和のメッセージ)は、皆さんのすべてと自分のすべての先祖を渡しても取り替えることができない本であるということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか? 先祖も億千万金を出し、神様も億千万金を出して、この本と取り替えてもらわなければなりません。神様も解放されていません。真の父母自身が道を開いておいたので、真の父母がすべて解決しなければならないのです。 今、先生は、神様が命令していない、以前に完成できなかったその道をすべて超えました。何のことか分かりますか? 「原理」にもなく、復帰の再創造理念の中にもないことまで、やってきたのです。それは根を抜くためです。 題目が、「神様の理想家庭と平和理想世界王国」ですが、「平和理想世界」は取ってしまってもよいのです。「神様の理想家庭と王国」です。理想家庭の中には、神様のすべてがありました。 理想家庭、理想氏族、理想民族、理想国家、理想世界、理想天宙、理想天上天国、神様の時代まで、そこにおいては神様と一体となって、神様との一体圏を成さなければなりません。八段階です。 まず個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代の五段階を超えなければなりませんが、五段階を超えれば、この世界には行く所がありません。このようには連結されません。 ですから、わたしが再び出発してここに合わせなければならないのです。合わせようとするのですが、サタンがこの中に詰まっているので、合わせることができません。これをすべて除去しなければならないのです。 神様が除去することは、できないではないですか? 偽りの父母が生じたので、真の父母が千万の受難があっても、それをすべて除去しなければなりません。死ぬことが問題ではなく、これをなくすことが問題なのです。 皆さんが、今まで暮らしていた、その習慣のままではいけません。今まで統一教会を信じていたそのままの姿ではいけないのです。 アダムとエバが祝福を受ける前夜祭に現れるとき、あるべきものは何であったでしょうか? 水平を中心として、初めて横的な世界の上に縦的な出発が始まるのです。この横的世界は、すべてのものを立てていては、この縦的世界と横的世界の中心が生じません。 中心がいくら大きくても……。中心というものは、ここで立てることはできません。ここで二つをぴたっと合わせて広げ、ゆがんだ所を広げた所で中心が立つのです。その四方を中心として、この中心の縦の長さに該当する型が四方にできれば、その分、高くなるのです。これが押してなくなれば、これが生じます。 皆さんが断食するのは、そういうことです。世の中で願う心と体の欲望をすべて否定してなくしてしまえば、その分、上がっていきます。無視した分、上がっていくのです。 中心はこの二倍ではありません。この二つに折った半分の所に上がっていくのです。合わせれば、中に縦的な基準がぴたっと一点で出てきます。中心点として、ぴたっと一点が出てくるのです。 ですから、天は、二倍以上努力してこそ残るということです。そのようにして中心が出てきます。そうではないですか? 二倍にするよりも……。二倍にしても、ここから芽は出てきません。それよりも優っていなければならないので、二倍以上、三倍です。三倍であってこそ、折って入っていき、同じ位置に立つのです。そうでしょう? 三倍になってこそ、出てくるのです。 「初不得三」 「初不得三」ですが、「初」と「不得」は駄目です。「三」が中央に留まって出発しなければなりません。言ってみてください、「初不得三」。(「初不得三。」) わたしたちは、サタンに勝ってこそ、新しい出発ができます。「初不得三」です。ですから、これを中央で半分に折っておけば、この位置を中心として、この中の値がこれと同じにならなければなりません。二つが合わさって代表……。ここでは、一人で行くのではありません。相対理想です。一つ、二つ、三つ。そうでしょう? 二つが一つになっていないので、三つが一つになりません。二つが一つになり、折って挟み、一つを立てようと犠牲になってこそ……。二倍以上、三倍以上しなければなりません。これは、主人が来てしてくれます。宗教であれば、教団の責任者たちが責任を果たさなければなりません。 教団の責任者たちが、その権威を中心として……。これは、世界の中心ですが、教会の中心はこれしかありません。そこで、神様が自分と共にあると言い、神様のみ旨がどうだと言いますが、どうやってそこから出発するのですか? 出発できないので、そこで動けば動くほど、だんだん、だんだん落ちていくのです。 それで、すべての主義が世界主義を主張するその時は、共産主義も滅び、キリスト教主義も滅びます。それがすべてなくなり、残るべきものは、キリスト教や共産主義が求めようとしていた世界主義が残るのです。それは、神様を中心としてアダムとエバ、本然の理想的な基準である最初と二番目と三番目が残ります。三番目が真ん中になっています。そうでしょう? そうではないですか? このようにこの二つを折れば、中央がどこかというと、この縦的なものは、二つが合わさった中心に立つので、半分にしかならない所です。その二つの生命体を中心として、その根源がすべてそこにぶらさがっています。 ですから、絶対に一つにならなければなりません。分かれた存在はありません。絶対信仰という観、絶対服従という観、そこに横的に延長した……。折る前のその延長が役に立ちますか? そうでしょう? 右側と左側の二つが合わさり、その中に、三を挟んで入れなければなりません。右側と左側の代表なので、そこから根になり、幹になり、新芽が出てこなければなりません。新芽というものは、統一された縦的基準の中心です。 自分個人主義ではありません。天宙主義まで拡大するのです。人間が暮らしている今の生活環境では、いくら理想が発動してもそこには届きません。その最高の中心、最高の高い所に神様がいるというのですから、そこは安全地帯でしょう。自分のあらゆる精誠を尽くして、それがそこに届けば、神様がそこから下りてくるのです。 それでは、ここに備えたすべてのものは自分のものではありません。中心のためのものです。中心のために存在するものであって、それが自分のものだという女性や男性たちは、どろぼうです。 地にあったものを、わたしが天に上げ、神様の所有権内に広げなければなりません。広げれば、下りてくるのです。ここから下りてくるので、サタン世界はなくなります。このように回っていくのです。それで、サタン世界はなくなります。存在することができません。 ですから、百八十度の基準から上がっていき下りてこようとするときは、サタン世界はありえません。回れば回るほど、すべて風が押してくれ、作動するのです。それで、反対がありません。解放釈放時代が来るのです。 運動の法則がそのようになっています。じっと見てみれば、運動がそのようになっているのです。それを、度数を合わせて解いていくのです。双合十勝というものが、神様の日になります。 数に対して、一、二、三、四、五、六、七、八、九まではサタンが支配しました。それで十分の一献金です。十分の一献金というものは、神様にささげるのです。そうすることによって、人間の体はサタンのものになりましたが、神様が人間のしっぽにくっついて離れずにいることができるのです。 しっぽが生きて、体まで生かそうとすれば、天が霊界に入っていって補充して連結させてあげなければなりませんが、そのしっぽがありません。父母がしっぽになりますか? ですから、上がっていってから下りてくるとき、頭がしっぽになり、しっぽが頭になって戻ってこなければなりません。そのようになるではないですか? それで回るのです。回る原則があるので、逆さまの形になっても、それは立て直すための不可避な結論です。 所有権について それで、皆さんが生まれるとき、自分の主人がいますか? 父母も自分の父母ではありません。父母自体も自分の父母ではないのです。自分という存在が、母親の卵子と父親の精子が一つになる場に自分がいましたか? 自分の所有権がどこにあるのかということです。すべて母親と父親の所有権でしょう。 ですから、父母を信じることができなければなりません。この原則を知れば、孝子にならなければなりません。聖人でも何でも、道人の道というものは必要ありません。宗教でも何でも、必要ありません。父母がいて、そこで母親が認め、父親が認めてこそ自分のものになり、自分の体のように考えてくれてこそ、自分の所有権が生じるのです。 父母はそうです。皆さんはそうではないでしょう? 父はわたしの父であり、母は永遠のわたしの根本であると考えていますか? めちゃくちゃになりました。堕落世界では、母が死ねばよいと考え、父が死ねばよいと考え、兄が死ねばよいと考えているでしょう? それは、すべて自分のために……。地が土でわたしを立ててくれたのに、これ(地)を否定すれば、自分はなくなるのです。 それは、「地獄に行ってはいけない。」と言っても、地獄に行きます。簡単なことです。それは難しいことではありません。哲学や宗教は必要ないのです。それを知らなければなりません。 皆さん、先生がしたことは、皆さんも自分の生涯ですべてしなければなりません。祝福結婚式をしなければならないでしょう? 天の国の国民証を受けなければなりません。何でもよいのではないというのです。 先生が死の峠道を歩んできたことが、すべて骨になっていて、手が、骨が……。骨をかたどって体が生じるのです。この地上の堕落した人間たちは、骨がありません。骨があるとしても、臨時のものであり、しばらくの間あるだけで、サタンが喜ぶものです。 アダムでいえば、一代に連結できる、ふにゃふにゃした骨があったかもしれませんが、それはあってもなくても同じです。十年の歳月で見れば、なかったのと同じです。かえって妨害になるのです。自分の所有権があってはいけません。 自分の夫と妻が、今から神様が勝利した天国を中心として認定されなければなりません。その天国は、堕落する前の神様の創造理想世界での一つの天上天下であり、天上天国です。それが地に下りてこなければならないというのです。 地上世界と天上世界は、別々ではなく一つの世界です。天国だけがあり、神様を中心としてわたしの父であり、息子、娘にならなければなりません。「神様の家庭がわたしの家庭である。」と言うことができ、共に暮らすことができる立場にならなければならないのです。 この天正宮博物館が皆さんの家ですか? 三日なら三日、一週間なら一週間に一度ずつここに来て眠りたい、そうでなければなりません。眠らなければならないのです。ここに連結した地、北漢江の川を中心としてこの川、京畿道、江原道の境界線を引いている、この二つの世界をだれも思いどおりに入ってくることができません。今すべて入ってきているのです。 ここに、統一教会に反対した人がいます。訓母様を苦労させ、引っかいて血肉をはがし、自分が裕福に暮らそうとした人です。どうなるか、黙って見ていなさい。 最初はうまくいくように見えますが、だんだん、だんだん風に飛ばされてしまうのです。吹きつける暴風雨は、それをほうっておきません。いくら砂漠の丘があっても、風が吹けば平地になるのです。ぴたっとそのようになります。 ここに上がっていくのですが、自分の土地があっても、自分がその主人ですか? 神様のものなのですから、神様にお返ししていないものがあれば、墓でも何でも、自分の先祖たちが来て、すべて入れ替えなければなりません。 それで、ここに新しい花や木を植えるのです。クロフネツツジですか? (「つつじ浄火祭です。」)浄火祭ですか? 浄火祭とは何ですか? 祝賀するのです。祝賀というものは、神様を抜かしてだれを見て祝賀するのですか? わたし、文総裁は、どれほど苦労した体かということです。サタンに打たれた跡が多いのです。 その跡は、うれしいものではありません。わたしは苦労しますが、皆さんの苦労をすべて超えさせてあげるのです。ですから、わたしが飢え、わたしが困難でも、皆さんがみ旨を知り、生死の境を意に介さずに行こうとする人には、自分の服を脱いで与え、皮を脱いで与え、肉を脱いで与え、骨を与えてあげるのです。父母がそうです。父母の心情がそうなのです。 ところが、皆さんが死ぬまで先生を利用し、先生の世話になり、先生を苦しめて死ねば、どうなるでしょうか? では、先生を愛していますか? (「はい。」)どのように愛するのですか? 自分は、山が溶けて砂の海になり、砂の海が緑地帯になり、花が咲き、オアシスのような泉になって草木が育ち、そこで畑仕事をして神様をお迎えしようと考えなければならないのが、堕落によって地獄に行っている人たちの立場です。 わたしは、それをそっくりそのままつかんで水平にし、ちょうど半分のここに立たなければなりません。自分中心に、これもわたしのものであり、これもわたしのものだと、永遠にそのようになれば、上がっていくことができません。 天国がないのです。そうではないですか? 地で億万年暮らしたいと思うでしょう? 霊界に行きたいという思いがありますか? 中心がなければ、中心にいることはできません。中心になるためには、四方、東西南北を中心とすれば、東西南北にすべて与えなければなりません。 それで、先生は、韓国人として韓国のために生きたのではなく、世界の人のために生きました。どこかの島国に行けば……。島の中で、いちばん大きな島はどの島ですか? (「世界で、ですか?」)そうです。(「オーストラリアがいちばん大きいです。」)オーストラリアは大陸でしょう。(「はい。」) 島国に旗を挿さなければなりません。ですから今、韓国の地にある四千三百の島を、わたしに任せなさいということです。先生がそのように懇切に願っても、黄善祚氏は、「先生だから言うのだろう。」と、すべて忘れてしまうでしょう? やらなければ、先生が大統領を立ててしまわなければなりません。 皆さんが先頭に立たなければ、わたしが先頭に立たなければなりません。わたしが先頭に立つことはできないのです。十二か国の大統領を立ててこそ、先頭に立つことができます。十二支派長ではないですか? そうではないですか? 二千年前、イエス様もその十倍、百二十か国の上に立たなければなりませんでした。ローマを消化すればよいのです。ですから、環境を創造した神様がイエス様を送りましたが、イエス様が行くべき環境においては、そこに主体と対象の組織を編成し、人生と国の形態を成すのは、イエス様自身がしなければなりません。 皆さんに、すべてただでしてあげたのですが、これをもってこれを成していける部屋もありません。公的な部屋がないではないですか。すべて公的な所有です。ですから、ここにすべての財産をはたいて入れなければならないのです。 先生が、ここに修理できるお金を用意しなければなりません。また、ほかの宮殿を建てて拡大するために、この宮殿で食べさせることができず、着せることができず、覆うことができずにいるのです。ないからです。自分たちが平安に暮らして、ここに来て、「自分の宮殿である。」と言うことができますか? これが自分の宮殿ですか? それをしなければなりません。 訓母様、来ていませんか? 訓母! きょう五時に訓母様がよく来ました。きちんと知っているからです。日本に行って、責任を果たしなさいと忠告するのです。十七日まで、負債を負ったまま超えてはいけません。負債を負えば、その負債を返して超えていかなければならないのです。 それで、そこにいる人たちを、どこかに移動できる条件を立て、時になれば移動してしまわなければなりません。今のままでは、日本の国の人は、生きていけません。流れていって、すべてなくなってしまうのです。ですから、深刻なのです。 さあ、わたしがする話ではありません。結論を下しましょう。(「結論を、最後に奉読いたします。」)最後をよく聞いてください。(訓読) わたしはない これが一つです。この中にわたしが入っていかなければならないのです。わたしはありません。わたしはないのです。こうして、これが一つの年輪になってこうなります。年輪になるのです。何千年たっても一つの木です。先生と共に同じ年輪にならなければなりません。年輪になっていないでしょう? 自分たちの所有権はありません。先生の年輪の前から離れれば、離れたものはいつでも破壊されるようになっています。皆さんの一族が引っかかります。 文氏なら文氏自体が、全体の年輪の中に入っていくことができなくなれば、残された年輪となって、行く道の前に千年万年怨讐です。サタンの振る舞いをするのです。清くなければなりません。 先生のような年輪……。この年輪が神様の年輪ではないですか? そうではないですか? 心と体が一つになり、それが神様を中心とする年輪にならなければならないのですが、体自体が、自分のもう一つの所有権を中心として天を否定する立場に立つようになれば、これはなくなるのです。 今からは、救援摂理がないので、残りません。なくなるのです。だれが救ってくれますか? 皆、知っているでしょう? 天国に行ける図面をすべて与えました。これを持っていれば、だれか反対すると思いますか? これを一枚(一ページ)でもつかんで離さなければ、天国に上がっていくのです。 この本自体が完全な本です。ですから、この本が天上に上がっていくとき、皆さんがつかんだページが破れてはいけないので、皆さんも一緒に引っ張られて上がっていくのです。 そうなれば、霊界に行った先祖たちはどのようになるでしょうか? ほかの世界に行き、島国のような所に連れて行って、再び教育しなければなりません。それは、先生が行ってするとき、一対一です。条件的な蕩減時代ではありません。春夏秋冬、四季の結実までも、実ができていれば、実に該当するものまでもすべて蕩減されなければなりません。 エデンの園の土の中に、すべて埋められて戻っていくでしょう? 死んだ人類を燃やして、その灰のようなもので再びつくることはできません。そうではないですか? 本然の土になりません。それ自体が神様の墓になるのです。神様がそれに見向きもせず、それを避けて遠回りするのです。 優れていると自分を誇っていたことそれ自体が、自分の先祖たちまでなくしてしまうのです。先祖までなくなります。ですから、父母を失ってしまうのです。天地父母と個人的にどのような関係であり、家庭的にどのような関係であり、天地とどのような関係があるのですか? わたしは関係がないでしょう。生きていくのに、日月星辰も空気もすべて「関係ない。」と言い、太陽が「関係ない。」と言えば……。関係のあるいちばん重要なものを知らず、一人ですべてなくしてしまいながら、ありがたさを知らずに生きているでしょう? 地に対してありがたいと思い、空気に対してありがたいと思い、太陽に対してありがたいと思いますか? 未開人たちのほうが、むしろりっぱなのです。文明人たちは、夢にもそのようなことは思いません。未開人たちは、それでも自分よりも大きなものの前に頭を下げようとするのです。それが迷信(自然崇拝)です。迷信の王の峠を越えてこそ、善の人が生まれるのです。 そうでなければ人の根本がなくなります。そのようなことを深刻に考えれば、どうして独りで暮らせますか? 人里離れて独りで暮らし、働きもせずに暮らせるのですか? ほかのものは、虫のように動いて働いています。太陽もそうであり、日月星辰、すべてのものが万宇宙の存在を生かすために存在し、働き、消耗して犠牲になり、努力して子女を生むのです。なくならないために子女を生むのです。 最近は、女性たちが子供を嫌うでしょう? 夫も嫌い、女性だけがいなければならないと思っています。女性だけで一人で暮らしてみなさい。 あとで影もなくなります。故郷もなく、父母もなく、独りで自殺して死んだ後、復活して生き返ると思いますか? 自分で自分を殺した者を、だれが生かしてくれますか? 生かすことができる時代の恵沢を真の父母が与えたのに、また自殺したいというのですか? 父母に連帯責任があるのです。生かすことができなければ、皆さんの息子、娘、皆さんの子孫が地獄に行くのです。ですから、善の子女の服に着替えさせるまでは、境界線を越えることができません。 礼服がなければ、人が行き来する村の祝宴の場に入っていって食べ物にあずかることはできても、本当の新郎を迎える場には入れません。そのような主人のいる場に入っていくためには、主人の祝宴を手伝ったという何かの内容がなければ、その場にいることはできないのです。恵んでもらってばかりいる人が、主人の位置に立つことができますか? 追い出されるのです。 天正宮博物館の主人はだれですか? 神様ですか、先生ですか? 皆さんですか? 皆さんが父母の名によって、真の父母の名によって一つになっていると、この周辺に来て……。 とんでもないことでしょう。世の中の人が、いくら見物したいと思っても、ここに来ることはできません。許諾しません。「十年、百年、この境界線に入ってくることはできない。」と言えば、ここに訪ねてくる人が何人くらいになるでしょうか? 皆さんは、サタンの四親等、サタンの十親等、サタンの百親等、何と言いますか? 影のような人が入ってくることはできません。 それを知らなければなりません。深刻に考えずに、ただ群れの中で押されていきながら食べる物を恵んでもらう、そのような不規則(無秩序)な民はありえないのです。それをすべて目覚めさせるために……。 峠を越えようとすれば、自分が越えなければなりません。だれも越えさせてくれません。最近は飛行機があり、ヘリコプターがあるので、ありがたいのです。統一教会員たちは、ヘリコプターに乗って、飛行機に乗って行き来しましたか? 先生がそのようにしているので、皆さんにもそのような時が来ます。サタン世界が黙っていますか? 過った人は、かみつかれてのびてしまうでしょう。 ですから、皆さんの先祖が、過去において皆サタン側に入っているので、早く先祖たちを救ってあげるようにということです。 アダムとエバを最後に創ったでしょう? 今は、皆さんを祝福して先に創ったので、父母の代身、先祖の代身にならなければなりません。 そうでなければ、先祖たちが逆さまに引っ張っていくのです。また、親戚が怨讐になります。ですから、親戚を祝福するのです。族長たちをすべて祝福したでしょう? すべてしました。先生がそのようなことを無責任に流してしまったりしません。 今、カインの王たちを皆呼んで参席させています。何が何でも、自分の国の王は、手紙ででもアベルUNの加入書を書かせるのです。書かなければ追い出されます。神様の怨讐であるサタン世界の何倍もの城が、包囲してしまうのです。それは、越えることができません。 女性が女性を好み、男性が男性を好んで友達になり、そこで……。それは、島国に追放してしまわなければなりません。本来は、男性と女性が一つになって子女を生まなければならないのに、男性は男性同士で暮らし、女性は女性同士で暮らし、互いに自分たちが一番だと言って争うので、最後には皆死んで、なくなるのです。 今、女性時代が来たと言うでしょう? 女性時代を誇ったからといって、生きることができるのですか? だれが女性時代をつくってくれたのですか? 神様です。天のお父様です。お父様なのです。 それでは、その時代になって青春を迎えても、赤ん坊を生めなかったおばあさんになれば、どれほど恨が大きいでしょうか? 尽くした精誠がすべて流れていく精誠になるのです。 歴史時代の新しい時代において、新天新地で精誠を尽くす清い男女が、新しい夫婦の立場で赤ん坊を生むことができていないので、分身をつくりなさいということです。母の分身、父の分身です。接ぎ木してあげるのではないですか? 接ぎ木してあげて代身者になりなさいということです。接ぎ木するということは恐ろしい話です。そのようなことをよく知らなければなりません。 きょうから神様が先頭に立つ きょうから摂理上において、だれが先頭に立つのですか? (「神様です。」)先生が独り祈祷してきたのです。「このような日になります。」と祈祷してきたのです。 ですから、そのような特別な日なので、先生自身も、時間がなくて精誠を尽くせなければそれを悔い改め、そこに条件を立ててこなければなりません。「このようなことで代身します。」と、そのようにしてこそ引っかかりません。そのようにしなければ波風が立つのです。 ですから、九十になろうとどうなろうと、座って……。座っていれば足が痛むのです。二時間より三時間はもっと腫れます。立っていても腫れるのです。どうしますか? 横になって暮らさなければなりません。横になって暮らしてもそうです。横になっても、腫れたものがよくなりません。ですから、地上で生きられる時間が長くありません。自分の体の重さがだんだんとどのように変わっていくのかを知ることで、(地上に)いる日があまりないということが分かるのです。 それで、あの国に行って第二次的な責任が残っているので、その責任を果たすために今準備するのです。 このような怨讐がいたのに、あの国ではどのようにするつもりですか? 天の直系の息子、娘を刃物で切って殺すのを現場で見た神様が、赦すことができたのかということです。 「あいつを殺しなさい。あいつの刃物を奪いなさい。」、このようにできなかった天の事情……。神様がそれに手を出すことができなかったので、再臨主が、息子という人が何十倍の鍛錬を受けました。 そのような怨讐は、先生が喜ばない人であり、夢に見るのも嫌う人であるにもかかわらず、天上に行くときにそのような人を連れて行くのですか? 新しい保留地域があるということを知らなければなりません。 今は一つの体制なので、地獄と天国が合わさって完全に入れ替わるのです。夏が夏にならなければならないのであって、秋になってよいのですか? そうではないですか? 皆さん、それを知らなければなりません。あの国に行っても、先生についていくことができません。地で先生が「来なさい、来なさい。」と言っても、来ることができなかったのですから、先生が訪ねていくこともありませんが、訪ねていっても収拾しません。知らないふりをします。それが人情の常です。人が互いに持っている情なのです。 ですから、先生は、だれの名前も記憶しないようにしようと思っています。姉の名前までもすべて忘れてしまおうと思うのです。もうろくすることを何と言いますか? (「痴呆です。」)侵害ですか、痴呆ですか? (「痴呆です。」)(韓国語で「侵害」と「痴呆」は同じ発音になる)「痴呆」はどのような意味ですか? 「侵害」です。「害なので沈んだ」という話です。役に立たないということです。かえって妨害です。長生きしようとすれば、朴パク正敏さんのように痴呆にかからない自信がありますか? 今、九十四歳だそうですね。わたしは九十二歳だと思っていたのですが、二歳上の九十四歳だそうです。 きょうが何の日ですか? 「双合十勝日」ですが、朴正敏さんが出てきて、一曲歌でも歌って、全員で一度万歳をしましょう。 神様が代表としてこの地上に責任を持つときは、一晩で天下をすべて引っ繰り返し、わたしが願うとおりにするのです。朝になれば夜が来ます。朝に、「ああ、わたしは朝に目が覚めたが、夜が必要だ。」と考えても、夜になりますか? まっすぐに立ってみてください。このように体が曲がっています。それが習慣になっているからです。きょう、暗唱したいものをすべて暗唱してみてください。わたしがちょっと聞いてあげます。歌も歌い、暗唱したいものをすべて話してみてください。(朴正敏 勧 士の歌)話したいことを話してみてください。きょうは何ですか? (朴正敏勧士の証し) 女性たちは、一年に一度ずつ精誠を尽くして朴正敏さんに食事を接待し、喜ばせてあげることが、自分たちが天国に行く一番の近道であると考えるのがよいのです。「あのおばあさんは、遠からず死ぬので関係ない。」と考えてはいけません。 また、その次に、姜賢實さん。(「はい。」)一度、愚痴を話してみてください。「愚痴」というのは、「お釈迦様の経文だ。」と考えていましたが、自分の嘆かわしい愚痴を話してみてください。(姜賢實会長の証し)(史吉子会長の証し) 演説文は、すべて終わりましたか、終わっていませんか? (「はい、少し残っています。」)終えましょう。これが必要です。中間に入れておいたものは、すべて必要なのです。きょうは記念する日なので、このような話をすべて聞いて、ふろしきをすべて解き、真っ黒なものを洗わなければなりません。 自分自身が知っているので、良いものは残しておき、良くないものはすべてほうり投げるのです。毎日のように見物しなければなりません。天国に行けることがどれほど美しく、どれほど巧みで、どれほど不思議で、どれほど貴いかという事実を知らなければなりません。さあ! (訓読)(郭錠煥会長の祈祷) きょうたくさんのことを聞き、たくさんのことを感じ、たくさんのことを考え、そのことが皆さんの実として実るように努力さえすればよいのです。結実した世界は永遠です。(「億万歳」三唱) 今から四回目を迎えるときは、健康で恥ずかしくない皆さんになることを決心するように願います。分かりますか? (「はい。」)【関連記事】天一国摂理史--雙合十勝日(2004年5月5日)(2019.05.06)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.05
コメント(0)
「本郷を探して」一九六七年五月二十八日韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十八巻』 故郷は、自分がいた所、離れれば懐かしい所、行きたい所、住みたい所です。◆本郷を懐かしんできた人間 今日、この世の中には多くの人が住んでいますが、すべての人に、真の故郷、真の本郷があるかと尋ねてみれば、「ある」と答えられる人はいません。「ここは私たちの先祖のころから願った所であり、世界万民が懐かしがり、来たいし住みたい所であり、千秋万代の子孫がここを離れては生きられない」と言える所、そのような本郷がどこにあるのかというのです。 昔イエス様はユダヤの国に生まれましたが、本当の意味において、ユダヤの国はイエス様の本郷にはなれませんでした。ユダヤの国がイエス様の真の本郷になったとすれば、そこを永遠に懐かしがり、そこに住みたかったはずですが、イエス様はその地をあとにして四方八方へ放浪しなければなりませんでした。 では本郷に行って、何をするのでしょうか。本郷に行って、闘おうというのではありません。本郷に行って、客のようにしようというのではありません。愛を中心として生きようというのです。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛、親戚たちの愛を中心として生きようというのです。 私たちは故郷を訪ねていき、その親戚たちが好む自然とともに、愛の原則を伝授しなければならない使命をもっています。人が強い愛の力をもとうとすれば、故郷と因縁をもたなければなりません。ですから、故郷は懐かしい所です。故郷を懐かしむことのできる圏内で生きている人は自信に満ちています。 もし、その故郷が万民が懐かしがることができ、喜びに満ちあふれる本郷であれば、私たちは他の所を探そうと努力しなくても、そこで家庭を中心として父母の愛と兄弟の愛を楽しみながら、その愛の中に浸って生きる生活をするでしょう。 今まで歴史が流れいく間、数多くの人々が生まれては死にました。その中には数多くの預言者もいて、また預言者を代表する聖賢もいました。ところで、その中に「万民が永遠にとどまることのできる本郷の地はここだ」と宣布した人がいたでしょうか。あらゆる聖賢が過ぎ去り、その聖賢が生まれた故郷も忘れられてしまいました。 さらにさかのぼり、人類始祖のアダムとエバに「あなた方には真の本郷があるか」と尋ねれば、彼らもやはり「本郷をもつことができなかった」と言うでしょう。本郷というのは、幸福を謳歌し、父母の愛に浸り、天地万物を主管しながら、天地が喜ぶ中で永遠に生きたい所なのです。 人類始祖が本郷を見ることはできなかったので、その子孫も分からないのです。それゆえに、人間世界は堕落した世界であり、悪の世界なのです。◆本郷とはどのような所か 本然の地とはどのような所なのでしょうか。悪がとどまる所ではなく、悪から完全に切り離され、あふれる本然の愛を中心として永遠無窮に幸福を謳歌して生きる、永遠の統一世界なのです。ところがそのような所で生活した人がいたでしょうか。一人もいませんでした。歴史上で数多くの人々がそのような世界を追求しましたが、その世界はこの地上に立てられませんでした。その世界がどのような世界であるのかを話した人はたくさんいましたが、自ら実践してその世界を築いた人はいませんでした。 孔子も同じであり、イエス様も同じです。イエス様も本郷の地を創建するために来られましたが、本郷を創建できずに逝かれたのです。「天国はあなたの心の内にある」と語られましたが、イエス様も天国を直接見ることはできませんでした。したがって、すべての人は本郷を探すために行くのです。 では、その世界はどのような世界なのでしょうか。互いに憎み合いながら、人がうまくいけば腹痛く、人がうれしがれば死にそうだという、そのような世界ではありません。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことであり、一人が喜ぶのは全体に代わって喜ぶことであるので、一人が喜ぶことは全体が喜ぶことであり、一人が喜べば全体がついて喜ぶ世界です。それが本郷です。 修道の道を行く人々、あるいは信仰生活をする人々が、環境の難しさを顧みず、迫害の矢を受けながらも探そうと内的に外的に決心して確かめていく目的は、より良い所を探していこうということです。◆良心はなぜ絶えず命令するのか 世界の各民族ごとに文化背景が違い、社会制度が違い、生活習慣が違うので、本郷の世界を構想する方向もみな違います。古今東西の文化圏をつくり出してきた観点でも、同じ環境圏内に住む人々の指向する方向がそれぞれ違うので、その願う本郷、目的地もやはり違うのです。しかしながら、すべての人間がもっと良い所を探しているということには違いありません。 私たちが生活で体験せざるを得ないことは、一日二十四時間を過ごす中で、個人生活でも社会生活でも、生活においてぶつかるすべてのことに心がいちいち干渉するということです。そのようにしてはならない、そちらへ行ってはならない、こちらに行かなければならない、その人を寝かせてはいけない、その人を起こさなければならないというふうに、良心はいちいち干渉するのです。 その良心に「何のためにそのように干渉するのか」と尋ねれば、その良心の返答は簡単でしょう。「私がより良くなるために、より良い私がより良い環境で暮らせるように、昼も夜もなく命令するのだ」と答えるでしょう。 では、良心はどの程度良いことを願って命令するのでしょうか。自分が一銭もない貧しい旅人のような身の上にあるからといって、自分が直面している衣食住の問題を解決することだけで満足することはできないのです。たとえその場では満足だとしても、それが一週間は続かないのです。その場では喜び、「良かった」と言うかもしれませんが、自分の人生全体において見るとき、良心は決してそこで「休め」とは言わないのです。「それが内外に永遠に安息できる所だ」と言わず、行け、また行けと命令するのです。◆欲の深い神様 宇宙の中で欲が最も深い方は誰でしょうか。神様です。園に行ってじっと見れば、小さな虫がいて、鳥たちがさえずり、土のにおいが漂いますが、自然に潜んでいる神秘が本当に美しいということを感じて「神様は欲が深くて、たくさん創造なさったんだなあ」と考えることができます。芝生のような所に行ってじっと眺めれば、小さい虫が行ったり来たりする通路があります。平べったい虫、真ん丸い虫、とがっている虫など、あらゆる虫が行ったり来たりします。 ところがそのようなことも知らずに、私たちが「ふかふかして良い」と言って芝生に腰を下ろせば、そこで行ったり来たりするお兄さん虫、お嬢さん虫が哀れにも「ああ! 死にそうだ」と言って、生かしてくれと叫ぶでしょう。 虫たちも人間と同じく、呼吸器官、消化器官などよく見えませんが、人間が備えている調和したすべての器官を備えています。その世界は単純だと考えるかもしれませんが、決して単純ではありません。今後、先生は世界的な研究者を立てて、そのような世界を探求させようと思います。 神様に欲がなければ、そのようなものをお造りにはならなかったのです。この世を造られた神様は、欲が無限に深いのです。そのような神様が、イエス様をこの地にお送りになったので、イエス様も欲が無限に深かったのです。それでイエス様はこの世界に無限に与えようとされました。神様は欲が深い方なので、胸に抱いていた欲をすべて満たす場合には「仲むつまじくしなさい」と言ってひとしきり楽しまれるでしょう。 宇宙の多くの惑星の中で太陽系を見れば、多くの惑星によって成されていますが、その多くの惑星は、自分勝手に動くのではありません。太陽を中心として、ある惑星は一年に何周、またある惑星は十年に何周、百年、千年に何周かずつぐるぐる回っているのに、互いにぶつからず、また、自分の位置を離れてどこかへ行ったりもしません。 そのようなことに比べれば、この地球に生きている人々の暮らしは、子供たちのままごと遊びのようなものです。ほこりほどにもならない極めて小さなものです。そのような地球にしがみついて生きている人々の姿を想像してみると、おもしろいのです。◆大きな心をもった人間は貴い存在 全天下の万物にはそのような素質と欲がありません。宇宙万象の中で永遠に生きる人間だけがそのような欲をもっています。そのような人間の心を広げておけば、全宇宙まで詰め込んでもいっぱいにならないでしょう。そこに最も欲の深い神様までもそっと迎えて、楽に横たえてさしあげることのできる雅量をもっているのが人間の心なのです。人間にはこのような貴い心があるので、万物の霊長だというのです。もし人間にそのような心がなければ、人間は悲惨です。 人間はこのような心をもっているために貴い存在なのです。では、この心は何を命令するのでしょうか。悪の立場では、死ぬようなことがあっても「入るな」と命令します。悪は必ず滅びるようになっていて、善はいくら迫害を受けても滅びずに勝利するようになっています。 歴史上に現れたすべての聖人賢哲は、善なる立場で、世間的に見れば滅びる道を行きました。しかしながら、一時代を導いていく時代的運勢と世界的運勢は天運の行く道を防げることはできないので、天運圏内で働く人は、世界的な運勢や時代的な運勢を飛び越えることができるのです。世界を心のままに動かすことのできる世界的な運勢も、天地を創造した神様の目標圏内で動くのです。◆人間の欲望の末 世界を見れば、台風が吹く所、津波が起きて大騒ぎする所、雨が降る所、雪が降る所など、ありとあらゆることが起きる所があるはずです。しかし、そのような現象は地球の大気圏内で起こる現象です。 ところが、このような小さな地球星を越えて巨大な宇宙を眺めれば、宇宙にはどのような現象が起こっているのでしょうか。私たちが想像もできないことが、絶対的で奥妙な調和の中で千態万状に起こっているはずです。 それゆえ、私たちの心はより良いことを願うのです。心が願うものはどれほどのものかといえば、神様を占領したとしても足りず、「もっとしろ、もっとしろ」と言うでしょう。神様まで占領しても安息しないというのです。 そうであるなら、心は何を探さなければならず、何を中心として初めて永遠の安定圏に浸って安息することができるのでしょうか。怨讐を征服しても安息することができず、イエス様を占領しても安息することができず、宇宙を創造なさった神様を占領しても安息することはできません。そうかといって、心が目的なく動くのではありません。 どのようなものでも目的なく作用するということはありません。ある分子が動くにも目的なしでは動きません。自分に損となる作用は絶対しないというのです。互いにプラスとなるように動くことが天地の法度なのです。 お一人でいらっしゃる神様、その神様の愛をそっくり占領して、自分のすべきことを差し置いて、歴史の恨を解いて安息するときには、神様も踊るでしょうし、世の中もすべて踊るでしょう。心はそのような一日を夢見るのです。 修道の道を行く究極的な目的も天国に行くことではなく、神様を知ることでもありません。神様の愛を占領することなのです。 この上なく良く、この上なく高い永遠の世界へ行こうとするのが人間の本能なのです。その本能は、神様に似てそのようになっているのです。天主の欲望があり、人間はその天主の息子、娘として造られたがゆえに、人間の本能はその基準に似たのです。 それゆえ、人間の心は永遠に神様と一つとなり、真の人の生活基準に接することを願い、真の心で生活できることを願うのです。そうして、真の心の中心が立つようになれば、真の愛に永遠に接ぎ木されようとするのが人間の欲望なのです。◆神様と人間は父と子 今まで世界的に多くの宗教がありましたが、その宗教は何を教えなければならないのでしょうか。どのような宗教でも、まず第一に神様について教えなければなりません。神様について教えない宗教は宗教ではありません。神様について教えるにも、漠然と教える宗教は不確実な宗教です。 では、どのように教える宗教が真の宗教なのでしょうか。神様がいらっしゃるならばどのような方であり、神様の人格はどうか、また、神様の愛はどうかということについて教える宗教が真の宗教です。世界的な宗教の中でこのような内的な深い事情をもって現れた宗教があるならば、それはまさしくキリスト教です。 では、キリスト教では神様をどのように教えてきましたか。父だと教えてきたのです。それで「父なる神」と呼ぶのです。地上の人間たちは、その父と同格の立場に来られる主を新郎として迎えなければなりません。そして、その新郎に侍る新婦は、神様を信じる聖徒です。このように、キリスト教はすべての家庭の中心となる基準を宣布しておきました。 多くの宗教の教祖たちが探している所は、心が永遠にとどまることのできる所です。もし、彼らの宗教にも真理があるならば、その真理は神様を確実に教え、また神様と人間との関係を確実に教え得るものでなければなりません。また、教えるときにも、愛を中心として教えなければそれは流言飛語にすぎないのです。教える教理などの差によって、宗教の分裂が生じます。 数多くの宗教の中でキリスト教が中心であり、イエス様はこの地に来られて、「私は神様のひとり子である、人間の世の中に神様の息子として生まれた者は私しかいない」と宣布しました。父の息子として生まれたということは、父の骨髄を受け、父の血肉を受けて生まれたということです。それは、父なる神様の血が動じ、肉が絡み合い、骨がぶつかり合って生まれたということなのです。 親子の間柄は、子が悲しめば親はより一層悲しみ、子が喜べば親はより一層喜ぶ間柄です。そのような親子の因縁は、世の中のどのような公式や法度でも切ることができず、どのような権勢や名誉でも否定することができません。自分の父であるので、誰かが現れて刀を胸に突きつけて、お前の父ではないと答えろと脅迫したとしても、たとえその場を免れるために言葉では父を否定するかもしれませんが、内心では「私の父だ。私はその子供だ」と、より一層念を押すでしょう。このようなことは誰にも否定することはできません。宇宙を革新し、宇宙を革命し、宇宙を破綻させることのできる頭脳をもった者だとしても、これを否定することはできません。父子の因縁を否定することのできる根拠はどこにも存在しないのです。 このような観点から、イエス様がこの地上で神様を「父」と呼んだということは、万代を治めることのできる特権的な中心的使命をもって来られたという事実を、万有の前に闡明にすることだったのです。◆キリスト教の目的 私たちが神様を探していく過程では、新郎新婦の立場でした。それゆえ、キリスト教は新婦の宗教なのです。他の宗教にはない、父の骨身に深く深くしっかりと込められている愛の因縁を人間の世の中に紹介すべき新郎新婦の宗教です。多くの宗教が真理として自由な、また観念的な理想を論じましたが、愛が直接的に生活の舞台に絡んで、愛によって覆す争いの歴史を経ていく宗教はキリスト教だけです。 イエス様が新婦を探していく過程では新郎ですが、婚宴が終わったのちには兄弟となります。男性には兄となり、女性には兄さんとなるのです。「お兄さん」「弟(妹)」と呼ぶときには、既に主従関係が成立しています。横的な立場で訪ねてきて、主従関係を確立するのです。 立体的な世界だけで妄想する宗教は、理想的な宗教ではありません。立体的な世界の内容をもって、横的、平面的な世界の実像を土台とする一つの宗教でなければ、理想的な宗教にはなれません。なぜなら、人は心と体から成っているので、心は立体的な世界と関係をもち、体は平面的な世界と関係をもち、二つの世界に理想的な根拠を備えなければならないからです。それが愛の世界です。それでイエス様に会ったのちには、兄弟関係として立つようになります。 新郎新婦の関係というのはいつも危険なものです。夫婦はいつでも離婚が成立する可能性があります。しかしながら、兄弟や兄妹関係は切ることができません。いくら切ろうとしても、血統がつながっているために切ることができない関係なのです。それゆえ、兄弟や兄妹関係がより良いのです。 今までキリスト教が探してきたものとは何でしょうか。それは神様を知ることであり、神様が送られた新郎に侍ることであり、その新郎を迎える新婦を準備することです。また、その子女を探すことであり、彼らと共に楽しむことができる宗族を準備することであり、その氏族とともに世界を復帰できる民族を編成し、彼らと共に一つの世界国家を編成することです。 数多くの宗教がもっとたくさん伝道をしようとする目的もそこにあります。修道を中心として世界の人を呼び集めようというのです。それで世界のあらゆる宗教は、伝道を通して選民をつくり、その次には世界を一つの故郷として、世界の人を親戚として神様の民にしようというのです。 万民はその生きていく環境が違うだけであって、人間という点では白人でも黒人でも同じです。ですから、何としてでも世界人類が一人の父によって生まれた一兄弟という心情がにじみ出るようにしなければなりません。そうでなければ世界の人々の統一は不可能であり、万代の糾合は不可能です。 世の中の青年男女をよく見ると、ある人を愛したとしても、その人よりもっと良い人が現れれば心が変わって、その人を愛するというのです。また内外の条件が備わった、天下のすべてが尊重できる相手が現れるようになれば、自分が今まで好きだった人よりもその人を好きになりたいのです。人の欲がそうなのです。おそらく、世の中の夫たちは自分の妻がイエス様を信じることも気にくわないでしょう。それは、自分の妻が夫よりもイエス様をもっと愛するからです。 新郎がもっと良いのか、息子、娘がもっと良いのかというとき、新郎よりは息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れることはできますが、息子、娘とは別れることができません。家系図で掘り起こしたとしても、血筋を受け継いだがゆえに別れることができないのです。新郎新婦は離婚して別れれば忘れることができますが、息子、娘は時間がたてばたつほどもっと慕わしく会いたくなります。このような事実は、子女のいる人ならば誰でもよく分かるはずです。サタン世界に生きる親たちも、それだけは否定できないはずです。 ですから、私たちは新郎の愛を踏み越えることによって父の愛、神様の愛を探していくのです。イエス様が地上に来られたのは、万民がイエス様の愛を通して神様の愛を受けるようになるためです。それゆえ、ローマ人への手紙第八章三十九節でパウロは、「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」と言っています。イエス・キリストの中にある神様の愛を誰も切ることはできません。したがって、最後の目的は神様の愛を受けることです。◆宇宙万象が作用する目的 主体と対象が互いに相対基準を成して、良く授け良く受ければ力が生じるようになります。力が生じるようになれば、互いに一つとなり、一つとなれば繁殖するようになります。主体一人では絶対に作用できません。誰かを好きになるのと同様に、互いの力が作用します。誰かを好きになるということは、その人と自分の心がぴったり合ったということです。好きになれば、理由なしに心が行ったり来たりします。その心がどれほど強いのかといえば、「この人でなければ私は死ぬ」というように死を超越して体を引っ張っていきます。それは世の中でいう運命というものが、そのように作用するからです。 善なる人は善なる人、悪なる人は悪なる人を好みます。世の中のすべてがそうなのです。例えば、運動競技をするときに、走るのが上手な人は走るのが上手な人だけで集まって競走をし、相撲では、上手な人だけが土俵に集まって相撲をします。これと同じように、私たちの心もそのままいい加減に動くのではありません。必ず主体と対象が互いにある作用をするのです。 そして、その作用は損をするためにするのではありません。商売をするのも損をするためにする人はいません。同じように、私たちの心も損をするために動くのではありません。あらゆる存在が損をしないで何か利益を残そうとするのは、すべて神様の摂理的な作用なのです。 どこの誰がどのようなことをしても、損をするためにしていることは一つもありません。子供たちの行動も、よく見ればそうなのです。また動物もそうです。 では、このように作用する根本目的は何でしょうか。補うためです。作用するということは、すべての利益を生むためであり、絶対に損をするのではありません。 すべては平等です。それで根本は平和と和睦、忠、和なのです。「平等は水平だ」と言えますが、水平はそのままでは成されません。上下関係、高低関係にあるものが、ある作用を経てこそ水平になります。高低があるので、必ず高い所で受け、低い所に補う作用を経てこそ水平になります。 では、人間について見るとき、水平になっているでしょうか。なってはいません。人間は低い所にいます。それゆえ、高い所から受けて、水平を成すのです。ですから、人間は高次的な理念を探し出さなければならず、高次的な精神の慰安所をもたなければなりません。 水平はそのままでできるものではありません。他の所から力の補給を受けなければなりません。自分自体の内で補給を受けられないので、補給をしてくれる所がなければならないのです。その補給をしてくれる所は高い所です。高いながらも悪い所でなく良い所です。そこは万民が理想とする所です。では、その理想とは何でしょうか。よく食べることでもなく、よく寝ることでもなく、真の愛なのです。◆人間の理想は愛によってなされる 今まで人間は歴史過程で本然の心を中心として、本然の心が懐かしむ人を中心として、ただの一日も休んだことがありませんでした。それで「人生は苦海だ」と言うのです。 このようなことを知るときに、人間は一つの基準を探し出さなければなりません。それゆえに愛そうというのです。愛するには二人だけでいるのは良くありません。父と息子、娘だけいてはなりません。人が互いに愛そうとすれば、人も集まらなければならず、踊りと歌も必要です。「愛するという言葉だけを言えばいいのに、何の歌が必要なのだろうか」と言うかもしれませんが、感情を込めて愛を表現するためには、歌も必要なのです。また「静かに立っていれば良いのに、なぜ踊らなければならないか」と言うかもしれませんが、踊りも必要です。 人がいいものにうっとりして、愛する心で歌えばどうなるでしょう。一度歌ってみれば、ただ骨の中からとろとろし、細胞がかたかたとし、目がちらちらし、涙まで出てくる、動揺が起こるようになります。では、そのようなことがなぜ必要なのでしょうか。その場で天地の調和が起こるべきだからです。そのためには、神様と私、父と子、二人だけでいてはならず、付帯条件がたくさん必要です。 父がいれば母がいなければならず、男性がいれば女性がいなければなりません。もし女性だけの世の中ならば、女性たちは女性だけで何度も会うのを嫌がるでしょう。また、男性同士で暮らすようになれば、男性たちもやはりそのようになるでしょう。それゆえ、父がいれば母がいなければならず、父母がいれば子がいなければならず、その次には兄弟姉妹がいなければなりません。 では、「私」は誰のためにいなければならないのでしょうか。私は、正に私自身のためにいるのです。父と母も私のためにいるのです、兄弟姉妹も私のためにいるのです。皆がみな私のためにいるのです。 人間は欲が深いです。神様の愛をふろしき包みごと受けて、誰にも与えず一人でもとうとする人々ですが、「父のために生まれ、先生のために生まれた」と言えば気分が悪くなります。何千年間、私たちの先祖が生まれては逝きましたが、すべてが私一人のために生まれて逝ったのです。ですから、私がどれほど重要なのかというのです。それでイエス様は「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ八・三六)と語られました。◆本郷の地を探していこうとするなら 神様は誰のための神様なのでしょうか。「神様のための神様ではなく、私のための神様だ」と言いたいのが人間の欲です。 道義の条件を見いだそうと前後関係を議論して審問する世界は、不安な世界です。愛を中心として前後関係が完全に一つとなって授け受けすることのできる立場に立ち、自分の周囲を見回せば、私以外には誰もいないように見えますが、いつも主体がいるということを肝に銘じなければなりません。 それでは、全世界にいる数多くの人々は何を探していくのでしょうか。本郷の地を探していくのです。そのためには祭物を捧げなければなりません。昔、カインとアベルが神様の前に祭物を捧げたのも本郷を探すためでした。ノアが百二十年間箱舟を造ったのも本郷を探すためでした。本郷を探していく道に箱舟という条件物が必要だったのです。本郷を探していく道を短縮させることならば、何でもしなければならなかったのです。アブラハムも同じでした。人間が行くべき究極の目的地である本郷の地を探していくためには、自らの故郷の山河も祖国領土も捨てなければなりません。本郷は二つになり得ないので、自分が望む理想世界も捨てなければなりません。 万民が共に安息できる本郷の天地に向かっていくためには、自分のすべての個性も、自分のすべての夢も捨てなければなりません。自分の夢を中心として継代を立てていこうとすれば、本郷を探すことは不可能です。それゆえ、すべてを捨ててしまって一片丹心で本郷の地を探していかなけばなりません。より一層、真の場所を探していこうという、その一念で食べて、寝て、喜怒哀楽を感じる生活をしなければなりません。 そのためにアブラハムは、自分の故郷であるカルデヤのウルを捨て、モーセもやはり自分の民族の本郷の地カナンの福地を目指すために、万民がとどまることのできる本郷の土台を準備するために、豪華絢爛なパロの宮中と王子の座をすべて捨てて荒野生活をしました。そして、イスラエル民族が四十年間荒野でさまよったのも、彼らの故郷、本郷の地を探し出すためであり、今まで数千年間、国なき世界をさまよってきたのも、やはり希望の本郷の地を探し出すためでした。 世界に散在している数多くの民族が移動したり、革命を起こして歴史が変遷してきたのも、やはり本郷の地を探し出すためであり、本郷の世界に行くためでした。このように、その道は世界人類が行くべき共同運命の道であるので互いに区別することなく、みなその運命の道を行くようになるのです。その道には神様が共にいらっしゃいます。その神様を中心として修道の道に責任を負っていく指導者たちと修道の道に従っていく人々が、そのような責任を負わなければなりません。彼らには本郷の地を世界的に準備しなければならない使命があります。それゆえ、信仰者として世の中を導くことができない人々は、人間世界の人倫的な宗教人にしかなりません。 人は、心と体が一つになってこそ一つの人格を完成することができます。その人格は、体それ自体だけでは現れることができません。人格が現れるためには、心を通して体が反応しなければなりません。したがって、人格は心と体を通して平面的な環境での人間関係を中心として、社会性を通して現れるようになります。 宗教は内的な分野、すなわち観念の世界に対して教えていますが、それを実践できる社会的な実践場が必要です。今までの宗教は、霊的な面、すなわち来世だけを追求してきましたが、人は来世に行く以前に現実で生きています。現実世界を通して来世に入っていくようになっています。 ところが、今まで宗教は内的世界を通して外的世界、現実を描き出してきました。なぜそうなのかと言えば、外的世界ができていないからです。外的世界は、既にサタンによって占領されたので、逆に内的世界をまず準備して外的世界を追求してきたのです。◆信仰者の責任 本郷の地を探し出すには、一人では行けません。必ず歴史的な因縁を経なければなりません。それゆえ、私たち人間は歴史的な因縁をもっていくのです。きょうがあるのは、あすを準備するためであり、きのうを輝かせるためです。したがって、過去の事実を否定する立場に立つのではなく、過去の事実を認める立場に立たなければなりません。 歴史路程で過去を真に認めることができるものは何でしょうか。これを探ってみると、真の道を探すようになり、真の道を探ってみると、真の宗教を探すようになっているのです。そして、真の宗教の基盤の上で本郷を紹介するためには、決して愛を除いてはいけません。こういう観点から見れば、キリスト教はとても重要な位置に立っています。 キリスト教の使命とは何でしょうか。信じている人を生命視して、互いに愛して生き、愛によって和し、愛を伝えることです。また、その愛はすべての生命の源泉です。では、キリスト教を信じる人々はどのような立場に立つべきでしょうか。愛の本郷を探していくところに影響を与える立場に立たなければなりません。 そのような立場に立って信仰生活をしなければなりません。こういうことを見れば、愛によってのみ和平がなされ、愛によってのみすべての人が平等になるのです。それには愛がなくてはなりません。 愛には、どのような愛があるのでしょうか。内的愛と外的愛、すなわち精神のための愛と物質のための愛があります。人も内的な人と外的な人に区分できます。これは五色人種の誰でもみな同じです。 それでは、私たちが愛するには、どの程度愛さなければならないのでしょうか。神様が万民を兄弟のように愛し、万民を子女のように愛するのと同じように、私たちもその父のような立場に立たなければなりません。 父母の心情をもつためには、父母の心情がどのようなものなのかを知らなければならず、父母の心情を探すためには、本郷の地へ行かなければなりません。他の所では見いだせません。今日この地に住む多くの人々は、結局本郷に行き、父母の心情を見いださなければならないのです。いくら修道を追求し、世の中のことに熟練し、精通していても、父母の心情に通じなければ子になることができません。 人は父母の愛によって生まれます。私たちは父母の愛を通して生まれるには生まれましたが、偽りの父母の愛を通して生まれました。これは、本郷の原則を中心とした正常的な父母の愛を通して生まれなかったということです。本郷の地に入り、安息したのち、父母の愛を中心として生まれなければなりませんでしたが、そうはできませんでした。それで、私たちは父母の愛を探すために本郷へ行かなければなりません。このように、父母の愛を探すために本郷を探していかなければならない人生だというのです。◆復活し重生してこそ本郷の息子、娘になる では、堕落によって愛はどこまで落ちてしまったのでしょうか。父母の愛から徐々に落ちていき、子女の愛、兄弟の愛、知人の愛、友人の愛を経て、僕の愛、僕の僕の愛にまで落ちていったのです。それゆえ、父母の愛を探して本郷の道を行くには、再び逆に探して上がらなければなりません。ですから、修道生活を通して神様を中心とし、僕の僕の位置まで入っていかなければならないのです。 僕には主人がいますが、僕の僕には主人がいません。私たちはそういう僕の僕の位置から僕の過程を経たのちに、養子の位置まで探して上がらなければならないのです。そのような養子の位置まで上がり、直系の子女から接ぎ木されなければなりません。 また、愛を中心として見るとき、僕の僕の愛から僕の愛、養子の愛、直系の子女の愛を経て、夫婦の愛、父母の愛にまで上がらなければなりません。そうして次に、父母の愛を通して子として復活しなければなりません。これがキリスト教でいう重生です。 父母の心情に通じるにはどのようにしなければならないでしょうか。人の生命は必ず父母の愛を経て生まれるので、父母の愛を受けたという基準があってこそ、父母の心情に通じることができます。ところが、真の愛の主人公は神様なので、神様を中心とした真の父母の心情、真の父母の愛の過程を経ずには重生することもできず、復活することもできません。 愛を中心として見れば、大慨、私たちは相対の愛だけを恋しがっています。しかし、それだけではいけません。それを越えて、父母の心情を中心として復活し重生されてこそ、ここに初めて本郷の地を占有することができるのです。単純に父母の愛を受けるだけではいけません。その父母の愛を中心として再び生まれてこそ、本郷の息子、娘になれるのです。 では、再び生まれるには誰がいなければならないのでしょうか。父母がいなければなりません。私たちの生命を救うには、お母さんの胎中で十カ月を経るのと同じ立場を経なければなりません。そうして、胎児がお母さんのあらゆる栄養素を受けて育つように、皆さんも育たなければならないのです。 単純に父母に会い、父母の愛を受けて再び生まれるのではありません。堕落した世界から捜し出された人々なので、父母が堕落したのと同じ峠を越えなければならないのです。そのようにしなければ、本郷の地に永遠に入っていくことはできません。ここで一度ひっくり返し、もう一度お母さんの胎中に入って出てくる重生の過程が起こらなければならないのです。そうして天真爛漫な子供のような立場から育たなければなりません。再び生まれるには、お母さんの胎中に入っていく立場に立つ前に、父の骨髄に入っていく立場に立たなければなりません。 いくら自分が本郷を探していく人であっても、完成級に至れば、相対と会わなければなりません。しかし、完成級まで行くにはまだ距離があるのです。堕落したがゆえに、蘇生級以下から出発するのであり、完成級から出発したのではありません。したがって、どんなによく信じ、信仰生活を良くする人であっても、蘇生級から上に上がっていかなければならないのです。 では、どのようにして完成級までつながるかということが問題です。世間一般の人生は、倒れてもまた立ち上がって行くことができますが、私たちが行く道は、一度倒れれば再び立ち上がって行くことはできません。いくらよく信じて、いくらうまくやると大口をたたく人でも、完成の峠を越えなければなりません。そうでなくては、本郷の地で落ち着いて暮らすことはできないのです。その本郷の地に入っていくには、父母の心情を基盤として生命体が復活しなければなりません。そのためには、父母の心情が中心になるべきであって、自分が中心となってはいけません。 どの道、私たちは、本郷の地を探していかなければならないのです。真の本郷を探すために、堕落した人間はどのようにすべきでしょうか。アダムとエバが堕落する前の立場にまで上がらなければなりません。しかし、まだ人間は堕落前の立場に完全に復帰できていないのです。 本来人間が堕落しなかったなら、三段階の成長過程を経て完成し、そこで生きていたのですが、堕落によってそのようにできなかったのです。◆キリスト教の接ぎ木する真理は本当の真理 キリスト教では、「終わりの日になれば主が来られる」と言います。主が来られるならば、男性として来なければなりません。今まですべての人々が生まれるには生まれましたが、誤って生まれました。種が違ったのです。それゆえ、自分のすべてを否定して新しく接ぎ木されなければなりません。種類が似ているために、接ぎ木をすることができるのです。このようなことを見るとき、キリスト教の接ぎ木する真理が本当の真理なのです。 接ぎ木するには、今までのすべてをばっさり切り捨てて、新しい芽をもってきて接ぎ木しなければなりません。したがって、新しい思想と新しい生命力と新しい氏族を接ぎ木して、自らの生命全体をも維持する中心としなければならないのです。それゆえに、今までキリスト教は「ため」に与える宗教として、そのような役割をしなければならなかったのです。 では、人間個人はどのようにすべきなのでしょうか。新郎として来られる主は人間の父です。そして新婦は母です。天は男性を象徴し、地は女性を象徴するので、地上に女性が出てこなければなりません。 ですから、心情を中心として主の内に掘り下げて、生活感情も主と同じであり、死ぬのも生きるのも主と共にし、喜ぶことも主と共に喜ぶことのできる絆を結ばなければなりません。そうして、父、すなわち主の内にいる息子のような立場に立たなければなりません。それで、新郎として来られた主が新婦を迎えて夫婦となれば、その新婦、すなわちお母さんを通して再び生まれるのと同じ立場に立たなければならないのです。お母さんを通るその期間が正に、女性を象徴する地を中心として苦労する期間なのです。そのお母さんを通して、自分の復活と同時に先祖を復活させ、民族と国家までも復活させなければなりません。 このような兄弟が集まって親戚になり、このような親戚が集まって宗族になり、このような宗族が集まって民族、国家、世界になります。それによって、世界が神様の愛を中心として一つの根から生まれた世界の形態を備えます。それでこそ初めて、世界が神様を中心として一つの世界となるのであり、神様を主にした地、すなわち地上天国が実現するのです。ここが正に、私たちが永遠に暮らすことのできる本郷です。◆すべてが自分のためにあるという自覚をすべし 今日「私」という存在は、何をするためにいるのでしょうか。この堕落した世界のあらゆる事情を踏み越えて、個人的な復活とともに家庭的な復活、民族的な復活、国家的な復活、世界的な復活を成し遂げた立場で、神様に自由に侍るために私たちは生まれたのです。それゆえ、真の父母が来られるのも自分のためであり、真の父母の愛がなされたのも、真の父母の愛を中心とした兄弟と親戚が生じたのも、すべて自分のためです。 それゆえ「私」という存在は宇宙的な自我であるので、万有の全体は自分一人の完成のために歴史とともに動員され、被造万物全体も自分一人の完成のために存在し、動いているのです。 自分一人を完成させ、自分一人のために与え、自分一人の志のためにすべてが存在しているという事実を考えるときに、人の本心がどれほど大きいのかということを知ることができます。この石も、この山にある草も木もすべて自分のために存在し、数多くの民族が互いの観念が違い、文化の背景が違ったとしても、すべてが自分の理想を完成するために動いているというのです。自分一人を中心として宇宙が回っていくというのです。そのような自分自身の価値を感じることができる場は、いつも神様に感謝できる場です。 すべての存在の始めから終わりまで、すべてが自分一人のために存在するのです。愛を中心として見るときにも、すべてがそのようにつながっています。自分が他人のために彼らを愛するのではなく、自分のために彼らを愛するのです。各自がそのような心をもって神様のために行ってこそ、神様を中心として全宇宙が一つになれるのです。また、この基準を越え、自分はどのような人なのか、自分は神様の息子、娘であるけれど、どのようにすることが神様のみ旨なのかを自分自身に尋ね、調べなければなりません。 そうして、これと同じ立場で、父母の心情で兄弟を愛し、親戚を愛し、宗族を愛し、民族を愛し、世界を愛するという心が実感的に感じられる場で祈祷をするようになれば、その祈祷は世界のための祈祷になるのです。◆神様の王子と王女になって暮らす所が本郷 涙ぐましい真の愛の前に、世界が引っ張られてきました。このような愛を中心として世界が一体となる基準に入っていくことができる人は、完全な本郷の地を占有することができる人です。しかし、このような人になっていなければ、本郷の地に行くことができないだけでなく、本郷の地を探したとしても入っていくこともできません。それゆえ、神様の愛を中心として一体化した人は、その愛の圏内で永遠無窮に万宇宙を支配できる能動的な主体となり、天の王女となり、天の王子となるのです。 神様は復帰路程を通して人間を探してきていらっしゃいます。その神様は万人の主人であり、万有の主体であられます。合わせて万国の主体であられます。そのような神様の息子、娘、すなわち天国の王子は誰で、天国の王女は誰なのでしょうか。王子は主であり、王女は主の新婦です。私たちはその主と新婦を中心として、再び生まれるのです。そのようになれば、主と主の新婦は人類の先祖になり、父母になるのです。私たちがその方の愛を通して再び生まれれば、父母の立場を相続でき、第二の王子と王女の立場に立つようになります。 万民はすべて神様の息子、娘にならなければなりません。それゆえ、人間の欲望は神様を父として侍ろうということです。世界を征服し、宇宙を征服した人だといっても、神様の愛を懐かしむのです。これは愚か者でも優れた者でもみな同じです。このように、すべての人間の本心が神様の愛を懐かしむように作用するのは、そうし得る可能性が一〇〇パーセントあるからです。 これと同様に、人間の心が神様の愛を中心として本然の姿勢を備えようという欲望をもっているのは、本来それができる立場にあったからなのです。したがって、神様の愛を中心として私たちが天国の王子と王女の位置を占有することができるのです。また、天国のすべての所有と天国のすべての運命が私たちのものとなって、父のものが私のものになるのです。父の事情も自分の事情です。 そのようになれば、天下にないものはないため、そこにおいて初めて幸福であり得るのです。そこには自分が必要とするすべてのもの、すなわち愛があり、愛のほかにすべての付帯要件まで全部備えているのです。そこが初めて私たち人間が安息できる場であり、私たちの本郷なのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.05
コメント(0)
「全盛時代」一九六七年五月二一日 前本部教会 全盛時代、これは良い言葉です。人々は誰でも全盛時代という言葉が好きです。 それでは人々がすべて好むこの全盛時代という言葉は、全被造万物を創られたお方がおられるなら、そのお方は好まれるでしょうか、嫌われるでしょうか? 劣った人も好み、優れた人も好み、人間という人間がみな好きなのですから、人間を創られたお方がおられるなら、そのお方も間違いなく好まれるのです。 誰もが望む全盛時代 全盛時代とはどんな時代をいうのでしょうか? 文字どおり見れば完全の「全」の字に盛んの「盛」の字ですから「完全に盛んな時」をいうのです。ですからすべてのことを成して繁盛して、これが社会化して、国家化して、世界化する時が全盛時代なのです。 本来、地上において人間が迎えるべき喜びがあるとすれば、それはどのような喜びでしょうか? 簡単に考えれば、全盛時代を迎えて感じる喜びなのです。人間を創造された神様は、人間たちに全盛時代をもたらしたかったのです。そして神ご自身も、人間と共に喜ぶことができる最高の全盛時代を、間違いなく望んでおられたのです。 気高いお方ほど喜びの日を迎えるなら、ごく低い場の人間、末端の人間、そして貧民窟で暮らす人間にまでも、共に喜ぶことを願うのです。またどんなに悪なる独裁者であっても、自分に喜びがあればその国の全体が喜ぶと同時に、怨讐たちまでも共に喜んでくれたら、という心を持っているのです。 昨日まで怨讐を無慈悲に悲惨に虐殺した君主であっても、勝利の日を迎えたときにはその国家の民は勿論、その主権と対立して戦った怨讐国家の民までも喜んでくれたらと思うのです。どんなに悪逆な独裁者でも、これを望まずにはいられないのです。 もしも事実がそうであったら、その君主は勝利の中の大勝利をしたのです。すべてが喜ぶことができる環境を造ったなら、それによって歴史を動かし、世界を創造してゆく勝利者だといえるのです。 しかしながら歴史的に見るとき、一方が興れば他の側は傾くという事が起こってきたのです。国家対国家を見ても、常に互いにぶつかって発展してきたのです。小さなところから大きなところへ、国家から世界へと発展してきたのです。 こうして勝利して全盛時代を迎える側になるか、でなければ反対に敗北して悲しむ側になったのです。こんな時に勝利した側の反対の側に立つ悲しみの側が、常に勝利した側を歓迎して仰ぎ見て従ったことは歴史になかったのです。 ここにおいて我々は人間が描く最高の喜びや全盛時代を迎え、その栄光を讃えることはどこまでも限界的であって、国境を越えて世界的なことにはならないという事実を、糾明することができるのです。歴史はこのように発展してきたのです。 韓国のことわざに、いとこが田を買えば腹が痛む、という言葉があります。いとこは父を中心に見ればとても近い兄弟であり、お祖父さんを中心にしても一つの根です。なのにわずか三代以内の兄弟同士が、ある人が少し良くなると口を歪めるのです。これが堕落した人間の本質であり、本性なのです。 ところがどんな主権者も、自分に栄光があれば怨讐国家までも、共に喜ぶことを願うのです。ここにおいて我々は主権国家の主権者が願う所願基準と、一対一の生活環境で現れる個人の所願基準が互いに相応しないことを知るのです。主権者は怨讐までも彼の喜びを讃えてくれることを望むのです。それゆえ兄弟が良くなれば喜ばなければならないのに、嫌うのです。これは変でしょう。こんな観点から見るとき、一国に責任を負う主権者の事情と、個人の事情は異なるということを皆さんは知らねばなりません。 国運と天運 それでは一国を代身して国家の運勢を率いてゆく責任者の立場に立つ人間は、どうして自分個人の立場と事情が、他の立場で所望をおかなければならないのか? それは自分の思いでするのではなく、そうしなければ歴史的な方向に背駆するからです。今までの歴史を見るとき、こんな環境を多く得て一時は大きな栄光を享受したとしても、その栄光が長く続かなかったという事実を知るのです。 皆さんは個人がゆく基準と、歴史を代表して国家がゆく基準が異なることを、念頭におかなければなりません。 一国を治めて責任を負って率いてゆく人間は、一個人としての責任を背負う人間ではないのです。このように国家の運がかかっているのです。人間には年齢があり、人間の生理に合った生活形式があるように、国家にも年齢があるのです。国家は社会に貢献できる生理的な基準を持たなければなりません。大きいというだけで、個人と同じなのです。 しかしながら国家と個人が、異なる点は何でしょうか? 個人は国家に従えばいいのですが、国家は個人に従ったら駄目なのです。 個人の感情や私的な命令は、常に些少な分野において、互いに衝突する立場なのです。しかしながら国家を指導する主権者の立場で望む所望というものは、個人のそれとは異なる一面を追求してゆくものなのです。これを見るとき、個人の立場と異なる国家の立場が何でしょうか? 国家は天運に従うということです。 一つの国家が形成されて発展するのは、その国家だけのために発展することではないのです。世界を編成するための責任を背負って発展するのです。ですから国家は世界編成の理念に向かって一つの所望を持ち、また国家は現実的な立場を超越しなければならないのです。このようなことを見るとき、我々は国運以上の天運があるということを知らねばなりません。 それでは天運はどのように動いてゆくのか? もしも今日、全盛国家を成して栄光と享楽を享受する国家と民族を率いる君主がいるなら、その君主のみ旨に天運が従うでしょうか? 違います。主権者や独裁者がどんなに権威を誇ったとしても、これもやはり国運は治めることができても、天運は治めることができないのです。天運を従えなければなりません。 天運が行く道は怨讐までも抱き込んでゆく道です。それゆえ主権者たちが自分の喜びを怨讐国家の人々までが賞賛してくれるよう望むのは、天運の連結を望んでいるからであることを、念頭におかなければなりません。 内的全盛時代と外的全盛時代が相応して また一つ面白いことは、全盛時代には外的全盛時代と内的全盛時代がなければならないということです。人間には体と心があります。体があると同時に心があるとして、体と心が一つでしょうか? 一つのように見えるのですが、一つではないのです。 例を挙げて、金某という人間をおいて言えば、金某は体があり、心があります。漠然と見れば金某の四肢五体が即、金某のごとく見えるのですが、そうではありません。また彼の心が、体の中にあるようでもあり、そうではないようでもあるのです。金某がその村で欲張りで、皆が嫌っている人間だとします。それでこんな金某に「あなたはそんな人ですか?」と言えば、彼の心はそれに同意しないのです。どんなに悪なる殺人強盗でも、彼の心は殺人強盗のたぐいに同参しないとするのです。ですから心で苦痛を感じるのです。苦痛を感じるということは、そのたぐいに同参しないということです。 金某なら金某、朴某なら朴某という人間をおいて見るとき、体と心が異なるということを知るのです。体が良いということと、心が良いということが異なるのです。即ち、体の全盛時代と心の全盛時代が相応しなければならないのに、相反しているのです。これは皆さんに良心があってよく良く知ることです。体の全盛時代と心の全盛時代が異なるというのです。 堕落が何でしょうか? 心と体が元の場にいないということです。絶対的な神様が人間を創造され、理想とした通りの実体を得て、満宇宙のまえに堂々と現れることができる本然の人間がいるとしたら、その人間は心と体が立つ場を得た人間なのです。そんな人間がいたなら、すべての環境がその人間の拍子に合わせて動くのです。このような場を得ていないことが堕落なのです。 ですから心は東側に行こうとし、体は西側に行こうとするのです。変でしょう? 心が指向することと、体が指向することが異なるというのです。こんなことを見るとき、人間が堕落したということを、否定できないのです。 人間は神の絶対目的によって、自分も知らずにに生まれたのです。それゆえ人間にはその目的に符合して一致する生理的な現象が作用して現れるべきなのに、人間は心と体の場と方向が異なっていることを否定できないのです。 ’私’は’私’ですが、心も私であり体も私のようですが、実際に体が自分の体であり心が自分の心かというとき、自身もこれが分からないのです。元来は体と心が一つになって、離そうにも離すことができず、神も分けようにも分けることができない絶対的な基準で、自身の目的を成就してゆかなければならないのです。 心が処している場と体が処している場が異なる人間に、人生の最高理想的な全盛時代が来るでしょうか? 絶対に来ないと結論を下してもかまわないのです。どんなにユ-トピア的な理念を追求して、またこれを実現しようと身悶えたとしても、心と体が処している場が異なる立場であっては、絶対に不可能なのです。 鼻がつぶれた人であっても、全盛時代を求めないかというと、そうではないのです。鼻がつぶれた人も、やはり全盛時代を求めるのです。不具者でも同じなのです。不具者であることまで賞賛されるように、他の人間よりもさらに全盛時代を求めるのです。しかし人間の心と体が分立した立場で、全盛時代を迎えるということは不可能なのです。 それではどうすべきか? 全盛時代を迎えるには体を打って心を解くか、心を打って体を解くか、二つの中の一つを取らねばなりません。ところで体を打って心を育てることはできますが、心を打って体を育てることはできません。これは皆さんが良心生活をして良く知るところです。体に少しでも偏れば、心は拒否するのです。これは誰がそうしようとしても駄目なのです。常にこの胸の内では二つの世界が闘っているのです。二つの世界が闘っているこの胸から、三八度線を取り除いて平安をもたらし、天地に誇ることができる太平の王国を成さなければ世界統一は不可能のみならず、天国建設はさらに不可能です。ですからイエスは「天国は自分の心にある」とされたのです。それではこの心にある天国を、どのようにして現実に成すのか。体を通して顕現させなければなりません。理想は必ず体を通して実践して実現させなければなりません。社会化され、大衆化され、普遍妥当化されなければなりません。であれば、理想としての価値があるというのです。 真の人間の役割 それでは、皆さんは今どこへ行っているのか? 人間は誰でも二つの分かれ道に立つのです。優れた人間でも劣った人間でも、不具者や世の中の人間という人間はみな、二つの分かれ道にいるのです。過去の聖人・賢哲もそうであり、イエスもそうだったのです。今日その何かを誇っている人々も同じことです。 それではこの二つの分かれ道を、どのように解決してゆくのか? 個人から世界に至るまで、すべて二つに分かれに分かれているので、これをどのように統一するかという問題が、外的な戦いを通して世界を収拾することよりも、より大きな問題であるということを皆さんは知らねばなりません。 このような観点から見るとき、肉的な全盛時代と霊的な全盛時代、肉体的な全盛時代と精神的な全盛時代が完全に一つにさえなれば、太平王国が成らないはずがないのです。そのようになればここに生きる人間や、生まれた人間、国家形態、自然世界、実際に現れる現象等の全部が一つになるのです。 ところが今、人間たちはすべて心と体の二つの分かれ道で、葛藤しているのです。今日唯物論者たちは、心も環境に従って変わると主張しているのです。心が常に主体性をもって環境を主管すべきなのに、今日の人間たちはそうはなっていないのです。 体の全盛時代と心の全盛時代が、一致しなければなりません。そのようになっているでしょうか? 可能性があるでしょうか? 今のままでは不可能なので、我々がでてきたのです。 歴史上の戦いは氏族時代から宗族時代を経て、民主時代へと発展して来るにおいて、ある経済的な問題が動機となって戦ったのではありません。その戦いが起こる前に体と心の戦いが、まずあったということを知らねばなりません。環境的な戦いの平定は一時的にはなるのですが、体と心の平定を求めるための戦いは、歴史と共に進行しているということを知らねばなりません。 昔の孔子もそうであり、イエスも、釈迦もそうであったのであり、この時代にどんな道人が現れたとしても、この体と心の闘いは続いているのです。闘いの方法と様相は、常に体と心の闘いなのです。今まで人間は、新しい第三の環境へと越えてみなかったのです。ここにおいて、人生とは何かという問題が生じるのです。それでパウロのような人は「ああ、わたしは何と哀れな人間であろうか」と嘆息したのです。 この闘いの歴史は未だに終わっていないのです。今日共産主義がいう理想的な共産世界が成ったとしても、やはり体と心の闘いは続くのです。 それでは根本的な問題が何でしょうか? 外的な環境を平定することは間接的な問題であり、直接的に平定させるべきものが、自我を中心とする体と心の闘いです。これをどのように解決するかが根本的な問題なのです。この体と心の闘いが内的な闘いであり、動機であり、世の中の闘いは外的な戦いであり、結果なのです。ところで世の人々は外的な戦いの他は知らないのです。ですからこの結果を土台としてこの世を収拾してゆくのです。 天地を創造された神が、創造理想的な人間を創るために計画された世界があったなら、その世界は体と心の全盛時代が一致化した世界であるのです。それでは体と心の全盛時代を、いつの時に一致化させるのでしょうか? この体と心の全盛の時期は歴史時代、終末時代、あるいは終わりの日のある一時になって一致化されるのか? そのためには偽の人間をもっては駄目なのです。真の人間がいなければなりません。 それでは、何が本物か? 真とは変わらないことです。真は変るものであってはなりません。歴史を通して変わらない最高の理想的な人格者が現れて、全盛時代を成したなら、その全盛時代は絶対に変わっては駄目です。外的な環境の差異はあったとしても、内的な差異はあってはなりません。即ち、環境は高い低いの差はあっても、心の差はないというのです。労働者の心も国王の心も、同様であるのと同じです。階級的な差異はあっても、人間の本心を中心として動く立場において、差異があってはなりません。こんな観点から神がいるのかいないのか分からない人々も、時代の要求を知るようになるのです。 天運による全盛時代を迎えなければ 人間世界を収拾して世界万民が一つとなり、最高の全盛時代を成そうとするために、今日次第に一つの世界を追求してゆく現時代の要求として現れているのです。しかしこんな要求が現れるほど、世界の統一が易くなることばかりではないのです。 民主主義や共産主義が抱いているようになるでしょうか? ならないのです。ならないということを、知らねばなりません。絶対になりません。ならないというのです。強制的な統一であっては一つの世界が構成されることはなく、永遠なる世界を成すことができないということです。 統一される一つの形態が現れるなら、ここに背駆するまた一つの形態が現れるのです。弁証法を例に挙げてみれば、弁証法においては正反合の理論によって、互いに反対して闘争することによって統一が成るというのです。しかし反対ということは、すでに概念が異なるということです。反対ということは、二つの概念があるときに可能なのです。この二つの概念は、闘争はしても統一はされないのです。相反するものなのです。プラス同士は互いに押してゆくでしょう。離別しようとするのです。互いに分かれようとするのです。これを外的な弾圧を強化することによって、制度化させて率いてゆくものが共産主義です。彼らは自分たちの最高の権限以上に上がっても、限界線を認識することができないでいるのです。その世界は不安な世界なのです。 人間世界には人倫と天倫があり、国運と世界運があるのです。国運を中心として世界運を動かそうとすれば滅びるのです。ここから分かれ始めるのです。アメリカが滅びないようにするにはどうしなければならないか? アメリカが滅びないようにするには、弱小民族を救援しなければなりません。救援するときには彼らの財産の中で、最も深くしまい込んだ金でもはたいて、救わなければなりません。そうすればアメリカは滅びないのです。先生が何の話をしているのか、ずっと見ていれば分かるようになるのです。 先生も全盛時代が好きです。先生も全盛時代を好きなのです。皆さんも好きでしょう?皆さんが先生よりもさらに好きなら、この全盛時代を皆さんに譲歩するのです。ところが先生よりも好きさが足りないので、先生が持っていなければならないのです。 歴史上に全盛時代を好きだった素晴らしい人よりも、神が全盛時代をさらに好きだったので、全盛時代の主人は神様なのです。僕であっても、どうせならその村で有名な金持ちの僕になりたいのが、人間の心なのです。どうせ僕になるなら、一番の金持ちの僕になりたくないでしょうか? またその村に金持ちが二人いたとして、一人は善良で一人は悪だというとき、皆さんがもし僕ならどちらの家の僕になりたいですか? 問うまでもありません。人間は誰でもより大きなものを好み、より高いものを好み、より価値あるものを好むのです。 人間がそうなら神はどうでしょうか? 神が一番ビリが好きなお方でしょうか? 神は世界を統一して世界最高の全盛時代を迎え、全宇宙が全部一つになって、人間が喜ぶことを願われるのです。ところで喜ぶときに一つ注意することがあります。我々人間だけが良いというのではなく、神に仕えて共に喜ぶのでなければならないのです。 韓国に良い便りがあれば、韓国に世界的に誇れる良い内容があったなら、新聞記者たちがやって来て世界的に報道するのです。関心がある限り、誰でも共に喜ぼうと宣伝するのです。これと同じように、世界が一つになって全盛時代を迎えたなら、人間だけが喜ぶのではなく、神様まで案内して共に喜ぶのでなければなりません。これが良いことですか、悪いことですか? 大統領の訓示を直接聞くことが良いですか? 代理の訓示を聞くことが良いですか? すべてが代理の訓示を嫌がるのです。このようなことを見れば、世界のすべての国家が一つになって、歴史にない絢爛たる全盛時代を迎える時に、宇宙の中心である神がおられることを知ったなら誰もが、神様ようこそお出で下さいました、となるのです。もしもその時に、神様お出で下さいますな、という人間がいたら、彼は泥棒野郎です。なぜ? 世界を統一して全盛時代を成す時に、国家の運によっては出来ないからです。天運を通してでなければならないのです。 それではこの天運を、誰が動かすのか? 神が動かされるのです。神が動かす天運に乗って全盛時代を迎えたなら、その動かれた神を中心に仕えて良しとしてこそ、秩序が整うのです。 宗教の教え こんな観点から一つの全盛時代を迎えるなら、体と心の障壁を取り除かなければなりません。これを取り崩そうと主張するものが何でしょうか? 一般の歴史観を主として人類道徳を教えることは、社会制度に一致はするのですが、一国家の主権を主とした教育方法に過ぎません。 それだけではいけないのです。国家を超越して、民族を超越して、世界を超越して天宙と一致することができる何かを教えてくれるものが、人間の世に出なければなりません。歴史過程に現れなければなりません。これがまさに現代の地上人たち、青年男女が嫌う宗教なのです。宗教の宗の字が、何の宗の字ですか? 屋根の棟を意味する宗の字です。棟はどこを言うのですか? 一番高い所を言うのです。ですから宗教の教えは教えの中でも最高の教えなのです。 それでは宗教を嫌う人々は、どんな人々でしょうか? 落第生たちです。こんな人間が何かというと、動物のように食べて飲んで、命を軽視する動物よりも劣った人間です。 宗教は二つの世界の間を、狭めるための闘いをつづけて来ているのです。それではこれを誰がするのか? 人間がするのですが、その頂きでは常に神が指揮を取っておられるのです。 ですから人間たちの頂きにおられる神のまえに、お使いのような役割をする預言者が出なければなりません。見えざる神と見える人間の間に、中間の橋を架けて、その連絡を担う人間がいなければなりませが、この人間がまさに預言者なのです。それで歴史上に預言者がたくさん現れたのです。 それでは宗教は何を教えてくれるのか? 体が願う通りに食べ、楽しみ、踊りをおどれと教えますか? 先生もお金があればソウルぐらいの広場を買って、三千里半島の青年男女を全部集めて、一しきりツイスト踊りをおどってみたら良いでしょうよ。それも指がみな抜けるほど踊ってみたら良いでしょう。そうしたら二度と踊ろうとは言わなくなるのです。酒を飲むにも限度があるのです。自分の酒量の見当がつかずに飲みつづけたら、腹が痛くなって死ぬのです。胃が抜けて死ぬのです。 このように肉的な全盛時代には限界があるのです。国家が滅びることを防ぐためには、早く目覚めなければなりません。踊って遊びたいのを防ぐ方法が、あるにはあるのです。三年も強制して踊りをおどらせたら、嫌気がさして踊らなくなるのです。こんな作戦があります。 善は永遠、悪は瞬間と歩調を合わせる すべての事には始まりがあり、終わりがあるのです。良い事にも悪い事にも、始まりがあり、いつかは終わりが来るのです。良い事は歴史が長いので終わりが遅いのですが、悪い事ほど終わりが早く来るのです。善なるものは永遠と歩調を合わせるのであり、悪なるものは瞬間と歩調を合わせるのです。滅びる行楽は一時に酔い、興る行楽は永遠に酔うのです。永遠に酔うことができる行楽の土台は、体ではなく心なのです。 ですから宗教は心の友、心の主、心の師、心の大王、心の国、心の人、心の世界を慕って、そのような理念を標榜してきたのです。 宗教が良いものですか、悪いものですか?(良いものです)答えは良いのです。どれくらい良いですか? もの凄く良いですか? 宗教は人生においてとても重要なものです。宗教を通して「あ! 良??行けて良かった!」と感じる人は、人生行路において成功した人です。 イエス様はどのような能力を持っておられたのか? あ、イエス様は神の息子だから、マラソン大会に出ても一等になり、すべての方面でいつも世界チャンピオンなのだ、と言えば当たっているでしょうか? チャンピオンはチャンピオンでも、何のチャンピオンですか? 心の世界のチャンピオンです。今までの人類歴史において、分かれに分かれてきた心というものを収拾するにおいて、誰もついて来れないチャンピオンなのです。分かれた心々を収拾する方法がどれほど緻密で権威があり、能動的であるか、サタンまでもその圏内に入れば生きられないで飛び出すほどの、チャンピオンなのです。 このような歴史的な求道のチャンピオンが、人間世界と宗教世界を管轄しなければならないのです。ですからこれから宗教を全面的に反対していったら、世界が一つになることができず、世界を一つの理想的な国家として造ることもできないのです。 世界の三分の二が宗教圏内に入っているのです。今日共産主義者たちが世界をすべて赤化しようとしているのですが、絶対にできないのです。人間から心を抜き取ることはできません。共産主義者たちは資本論や弁証法を通して、心を抜き取るとするかも知れませんが、人間が持っている心というものは、絶対にそのようにはできないのです。 イエス様はどのようなチャンピオンでしょうか?(心のチャンピオンです)イエス様は孔子、釈迦、マホメット、ソクラテスのような、どんな聖賢や哲学者もできないことを収拾するのであり、誰も持っていない方法と法度を持つチャンピオンなのです。そして彼がすることは天運と拍子がぴったりと合っているのです。その時代圏内においてのみ合っているのではなく、時代を越えて合っているのです。 応援をするときには、どうせならチャンピオンを応援したいものです。三回戦まで競技して、四回戦からは勝勢の人を応援したいものです。初めから負ける人を応援するというのは気分の悪いことです。 同じように皆さんが負けている時、先生はとても気分が悪いのです。一度目は負けても二度目には神が保護されて勝つのです。自分でも分からずに相手を倒しているのです。しかし三度目は、自分独りで戦わなければなりません。ですから初めから勝つ人を後援したいのであって、戦って負ける人間を後援したくはないのです。ところで歴史上にない、そんなチャンピオンに出会ったらどんなに栄光でしょうか? ですからそのお方の戦いの場に行って、戦う時にそこに同調して、身悶えて共に戦うのでなければなりません。 それでキリスト教は、今まで凄い戦いをして来たのです。人の見せ物になって戦うのではなく、首を出して戦ったのです。戦いの中でも最も無慈悲な戦いをして来たのです。それで宗教歴史の中で、キリスト教史には殉教者が多かったのです。血を流して戦ってきたのです。この戦いは世界を征服するまで継続した、熾烈な戦いです。この戦いは刃と槍をもって戦う戦いではありません。他の戦いとはちょっと違うのです。 それゆえキリスト教は世界を統一するための、ある絶対的な主体を立てて、その主体の前に絶対的に順応して一つになれというのです。即ち一つの完全な主体の前に、完全な対象体になれというのです。今までキリスト教においては、これを主張してきたのです。 誠精と恩恵 これまで堕落した人間の心と体が闘ってきたのでが、その比率が互いに似たり寄ったりだったのです。その比率が十対八程度でした。体が対している環境は世界全体と接しているのですが、心が接すべき道はただ一つしかないのです。堕落した世界に接する人間の体は、時々刻々として環境に占領されてゆくのですが、心は一つの道に従ってきたのです。ですから現実世界は、現れた結果を締め括ってきたものなのです。 悪い事をしようとするとき、心に恐怖がくるのです。それでもその事を行ったなら、今まで積んできたものが崩れてしまうのです。これを見るとき心は肉身の行動を最初から、序盤から干渉するのですが、中盤になると肉身に支配されるのです。ですから外的な比率ら見れば十対八程度ですが、環境のゆえに心が体に常に押しだされてきたのです。 それでは神は宗教を立てて、何をなさろうとされるのか? 外的な環境に対備できる恩賜を与えようとされるのです。与えるには、そのまま与えるのではありません。誠精を尽くしてこそ、与えられるのです。その国の国運を左右する君主が誠精を尽くす以上の、誠精を尽くせというのです。命を懸けて誠精を尽くさねばならないというのです。 誠精を尽くせばどうなるのか? 神の恩恵が来るのです。祈祷生活をしてみた人は分かるのです。祈祷生活をすれば、大きく偉大な力が来るのです。それで祈祷する人の目は、その力によって肉界のみならず、霊界までも透視するのです。 神は超自然的な実体の理念圏を人間に因縁づけるために、宗教的な基盤を中心に摂理されてきたのです。人間の本質的な感情を刺激させて、このような圏内に行くようにする欲求を起こさせるのです。こうして人間を超現実的な善に連結させようとされるのです。このようなことをしてきたものが、宗教なのです。 ですから信仰者たちは、首を切られて殉教しても良いとして信仰の道を行くのです。現実的な感情を超越する、超現実的な感情を実質的に広範囲に感じるので、彼らは死線を越えてもこの道を行くのです。それでこの道を行く人々は千万の力を八千万の力に増大させなければなりません。ここに神に侍って力を増大させ、体を打てというのです。 闘うときには力が勝敗を決定します。宗教はこの世の体の欲望と、社会欲求によるすべてのものを塞ぐのです。ですから現実的な全体を否定してゆく宗教であってこそ、純粋な宗教であり、理想的な宗教だとすることができるのです。 宗教は否定するものです。ですから全部捨てなければなりません。食べることも捨て、眠ることも捨て、好きなものをすべて捨てよというのです。情欲、食欲、睡眠欲を捨てよというのです。寝食を捨て、好きなことをみな捨てよというのです。人間は本来、食べて眠らなければならないものです。そして良くならなければなりません。ところがこのすべてのものが、肉身を通して死亡の行路となったので、これを追放せよというのです。体に爆弾を爆発させるのです。原子爆弾を爆発させるのです。獄殺撲殺して、全部占領せよというのです。 体は高くされることを好み、平安なる場を好むのです。またゴツゴツしたものを嫌い、ふっくらして、すべすべして、ふわふわしたものを好むのです。我々はこの体が好きなものを良しとしてはならないのです。 だから我々はパンパンなもの、ゴツゴツしたもの、コチコチなもの等、体が好むものと反対のものを良しとしなければならないのです。体は高くされることを好み、他人の金を盗んでも食べたら良いというのです。人が何だか良い暮らしをしたらいいでしょうか。だからこのような本性を全部捨てなければならないのです。高くされることを好む体を低くし、温柔謙遜になれ、犠牲奉仕せよというのです。 真の信仰者になろうとするには この体と心のうちの一つを、処断しなければなりません。二つともそのままなら、滅びるのです。それで一つを処断しなければなりません。ところで心がまず生まれましたか、体がまず生まれましたか? 生命は体から生じるのではありません。生命の根は体によるものではありません。生命の本当の正しい根は心です。ですから生命の主体たる心が問題なのです。生命の根のなかでも、さらにもっと深い根が心にあるのです。生命の根が二つあるのですが、本当の元になる根は心にあるのです。この二つの根をみな抜き出してしまえば死んでしまうので、神様は少し浅い体の根を抜こうとされるのです。 それで純粋な宗教であるほど、体を打つのです。特にキリスト教徒たちが、独身生活を多くするでしょう。社会と万民のために、犠牲と奉仕をせよというのです。キリスト教では「汚い出しゃばりにならず、もっとも下のきれいなものになれ」「柱の中でも表門の柱にならず、垣の柱になれ」と教えているのです。 聖書の教えは全部、体が願うことと反対なのです。堕落した体と心を共にそのままにしおいては駄目なのです。それゆえ体が好むものの、反対の側に追いやるのです。であれば体が願うものが除去されるからです。 純粋で最も高次的な宗教とは、どのような宗教か? 体が願う側と、反対の側に最もよく追いやる宗教です。すべてのことを気にする宗教は、最も下の宗教です。統一教会はよく追いやるのですか、追わないのですか? 追いやるでしょう? 先生は追いやらないと考えるでしょうか? 神様がよくやるよ、本当によくやるとされる基準まで行かねばなりません。こんな自信がありますか? ヨハネの福音書、三章一六節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるでしょう? 信じるというのですが、信じる道が易こでしょうか? 世の中と反対になり、相突する道でしょうか? 歓迎される道であるなら偽ものです。反対される道が本ものです。皆さんは偽ものになりたいですか、本ものになりたいですか? 問うてみるまでもなく、すべてが本ものになりたいと言うのです。問うなり本ものになりたいと言うのです。しかし本ものになる道が、けっして易しこではありません。 本ものと偽ものは何によって区別されるか? 溶鉱炉で区別されるのです。金と鉄を区別するためには、溶鉱炉に放り込まなければなりません。こうして熱してみなければなりません。金は打っても叩いても、熱してもそのままです。ですが鉄は熱すれば熱するほど蒸発するのです。 同じように皆さんも溶鉱炉に入れなければなりません。それで自身の本質を区別しなければなりません。サタンの巣窟になっている体をそのままにしておいては駄目なのです。溶鉱炉は自分が存在しようとして望む欲求を満たす環境を提供するものではなく、反対的な環境を提供するのです。このような溶鉱炉がまさに宗教なのです。真の宗教がまさに溶鉱炉なのです。ここに入れて痕跡もなく溶かして捨てるものは捨て、そこに純金のように残ったものを取るのです。皆さんは本性と姿形が、変わらない人間にならなければなりません。どんな環境にも、変わることのない姿として残っていなければなりません。 それでは真の宗教人が行くべき道が何でしょうか? 死亡の谷間、即ち体を死なせる道を行くのです。それでイエスは、死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬと言われたのです。自身の体を死なせる人間は心が生きるのであり、自身の体を生かそうとする人間は、心が死ぬというのです。相反するのです。人間は心と体の二つのうちの一つを、処断すべき悲運に処しているのですが、我々は体を処断しなければなりません。 国運を超越できなかった今までの宗教 死ぬときにも段階があるのです。体を死なせるにも順序があるのです。いっぺんに首を切って殺せばいいのですが、それでは駄目なのです。なぜならば父母の血を受け、幼いときから少しづつ少しづつ育って今の自分になったのですから、いっぺんに死んだら蕩減にならないのです。イエス様も四〇日断食をして、少しづつ少しづつ血をぬいて、骨と肉を干す期間を送ったのでした。体を死なせるために宗教は断食を主張し、苦行を主張するのです。彼らが愚かでそうするのでしょうか? そうではありません。天運がそんな道へと下ってくるので、行かないわけにはいかないのです。 人々は豪華絢爛なるものを好みます。そして美味しいものを好み、きれいで美しいものを好みます。目は笑って踊るもの、花園のように美しいものを好むのです。しかし宗教人たちは、そのようには教わらないのです。目には死亡の陰鬱な谷間を見やり、涙を流せ、耳に心地好い笛の音を聞くのではなく、世の誰もが聞くのを嫌がる音を聞け、世の最も惨めな音を聞け。そして食べるものは最も貧しいものを食べるのであって、それも貰って食べろと教えるのです。貰い食いをするにも、善良なおじいさんがくれるごはんではなく、その国の奸臣となって、どうしようもなく逃げ出した人から貰って食べろというのです。そんな人間の前に行って、一杯のごはんを乞えばどうなるでしょうか? アイゴ-、よくお出でなさいました、部屋にお上がり下さいと言うでしょうか? この野郎うるせえ、と鼻血が出るほど殴られるのです。そんな場で貰い食いをするというのです。ここから基盤を築いて、上がって来なければなりません。真の最高の宗教は、こうでなければならないというのです。 こんな観点から宗教が、世界福地化運動を提唱しなければならない現時点であるにもっかわらず、このような運動をする宗教団体が出てこないので、先生がそんな宗教を立てようとしてきたのです。 宗教は今までどのような宗教団体も、終わりを中心に社会福地化運動をしたのですが、国家を越える世界主権と世界統治権を持っては、一度もこんな運動をしてみなかったのです。どのような宗教の全盛時代であっても、教団を主とした全盛時期であって、教団と国と世界の為に、教運と国運と天運が三位一体となった運勢圏内において、全盛時代を迎えてはみなかったのです。どんなに教会が全盛時代を迎えたとしても、国運を超越することができなかったのです。 キリスト教会は一時ロ-マ法王庁を中心に一三世紀から一六世紀にかけて、ヨ-ロッパ一帯で全盛時代を成したのです。しかし彼らが神のみ旨受け、天地が要求する基準において全盛時代を迎えることができず、そのようになる方向を得られなかったので、永遠なる全盛時代へと連結することができなかったのです。 永遠なる全盛時代を迎えようとするには 体と心の全盛時代を同時に成さなければならないのですが、これが到底不可能なので、神は二つのうちの体を打って、心の全盛時代を成そうという作戦をされるのです。 人間を中心に見るとき、一人の人間の歴史を発展させたものが世界史です。このうちで内的な面に責任を負ってきたものが宗教であり、外的な面に責任を負うものが社会制度と科学です。今日二〇世紀に生きる人々は、こんな歴史の中で歩んできたのです。 体を打って克服できなければ、心の全盛時代は来ないのです。歴史は神が理想とされたことと、反対に動いてきたのです。外的な世は体を主とする世であり、悪が主管する世の中だからです。 歴史の発展史を探って見れば、大陸文明時代から島嶼文明を経て、半島文明時代へと越えていって、再び島嶼文明時代を経て大陸文明時代に帰っていって、各々全盛時代を成したことを知るのです。そのようにして結局は滅びるということを繰り返してきたのです。それでは神も全盛時代を願い、人間たちも全盛時代を願ったのになぜ滅んでしまうのか?それは内・外が一致して、内的基準を中心にした全盛時代を成したのではなく、外的な体を中心とした全盛時代を成したからです。 それではなぜ神は、外的な全盛時代を許されたのか? 神の救援摂理は世界統一化運動です。それゆえ各民族を一つの文化圏内に吸収して、一つの文化世界を創造しなければならないのです。ですから歴史発展過程の段階を経てきて、特殊な民族のまえに全盛期を許されたのです。この民族に他の民族までも連結させる思想的な基盤があれば、他の民族までも吸収させてきたのです。しかしながらそんな基盤がないときには、その時までの全盛時代を滅ぼして、新しこ主というか、新しい理念を中心に、新しい全盛時代を迎えさせたのです。 外的には一つの世界文化圏を形成していって、内的には人間の心を中心に体を完全に占領するなら、一時に世界を占領することができる基準が立つのです。 内的な問題は簡単に解決できることではありません。内的な問題を解決するときには、歴史的な発展過程が必要です。 内的基準が完成して、外的基準を征服する瞬間に解決されることなのです。我々が歴史過程を経てくる間に、神様は外的文化世界と共に内的な世界を準備して来られたのです。ですからある一時に内的基準のみが完結されれば、瞬く間に外的社会を吸収することができるのです。結局、外的世界を今日のように発展させて来たことも、終わりの日になって神の復帰摂理を助けるための方法に過ぎないのです。 ところでこの内的全盛時代と外的全盛時代の間には、常に衝突が起こるのです。心は体を打とうとし、体は心を打とうとするのです。外的文化は常に内的宗教に反対して来るのです。皆さんはこれを知らねばなりません。ある一時に全盛時代が来れば、その時には歩調を合わせなければならないのです。ある主義から主権が現れて、全盛時代を迎えて行楽を享受すれば、この時代の大多数の人々は自分の一族や、自分のクラブを主にして、全体を全部束ねてしまうのです。こんな主義主権国家は早く滅ぶのです。しかしながら自分個人を主とするのではなく、自分のクラブや自分の宗族を主とするのではなく、天運と共に神の理念と一致化できる主義主権国家が全盛時代を迎えたなら、歴史と時代を中心に世界の歴史を支配することができるのです。このような民族としてイスラエル民族が立てられたのですが、その責任を果たさなかったのです。そのような場を掴むことができなかったのです。 イエス様が来られることによって、イエス即ち完全な人間を中心に完全な地と、完全な主権が三位一体となって、天運と一致する基準を立てて新しい文化世界を成し、新しい理想世界を建設しなければならないのです。しかしこれができなかったので、再びキリスト教を中心に今まで役事されてきたのです。 誰が歴史を率いて行くのか 天運に近い理念を中心に長い歴史を経てきた教団は、自身の教団の為めではなく、宗族の為のものでもなく、民族の為のものでもなく、国家の為のものでもなく、世界の為に、天と地の為の教団にならなければなりません。終わりの日に世界万民の為の聖徒が多ければ多いほど、その宗教の理念は長く残るのです。しかしながら一つの教派、一人の君主、一つの民族を中心とする宗教は、ある一時代に一時的な面目を保って全盛時代を迎えたとしても、たやすく消えてしまうのです。 国家的に発展した宗教も同じです。歴史上に数多くの国家が全盛時代を持ってきたのですが、その国家は天運と因縁を結ぶことができずに、国運の因縁をもって全盛時代を迎えたので滅んでしまったのです。 その国が傾き始めたら、その国の内的基準を継承する第二の存在が現れるのです。ですからどの時代にも全盛時代が傾いてゆくときから、新しい宗教が発生するのです。それでその宗教は死線圏において、その国の主権者のまえに常に迫害されて追われても、そんな場で発展してくるのです。 心と体が常に争うように、外的な全盛圏内において、内的な第二段階の全盛時代を迎えようという人は死線圏内から準備してくるのです。ですから神は内的な第二の出発者として、準備してゆく人々を常に打たれるのです。それで彼らはその社会から追われ、追い立てられるのです。 それでは歴史は、誰が率いて行くのか? 追われ追い立てられる人々が歴史を創造してゆくのです。歴史はそんな段階を経て発展してゆくのです。今日我々がここにおいて一つ肝に銘じなければならないことは、全盛時代を迎えようという民族は世界平和主義を押し立てて行くということです。であれば自分の民族を主として行くのではなく、世界万民の為に、世界平等化運動に貢献しようとして行かなければなりません。こんな民族は絶対に滅びないのです。 こんな思想をもって今日まで歴史を発展させるのに貢献したのが、まさにキリスト教なのです。世界万民の平等化運動、世界万民の兄弟運動、世界万民の大家族運動、等の理念を中心にしてきたので、歴史時代に攻勢を受けたのです。 これがカインとアベルの闘いなのです。長子がいつも次子を打つのです。しかしながら打つときには常に滅びるのです。打てば打つほど早く滅んで、相対側に吸収されてしまうのです。こうして第二の段階へと連結させてゆくのです。ですから戦いが起こってきたのです。全盛時代に戦いが起これば起こるほど、天運のみ旨を相続することができる時代的な指導者たちが準備されたのです。しかしながら彼らは全部その時代の主権者たちから追われ迫害されたのです。今までキリスト教がこのような道を歩んで来ました。アベルが殺されたように、神の復帰摂理歴史で召命を受けた指導者たちは殺され、血を流してきたのです。 ですから外的な全盛時代になれば、内的な全盛時代へ出発しなければならないのです。そのようにして外的な全盛時代が傾いたら、これを肥料にして内的な全盛時代が発展することができるのです。即ち、外的な全盛時代の滅びが、内的な全盛時代の発展の要因になるのです。腐敗した環境が、新しい理念を中心に一致団結するようにするのです。即ち低気圧と高気圧の大きな差異によって台風が起こるように、新しい理念が世界史的な出発の動機になって、新しい歴史的な革命が起こってくるのです。 釈迦のような貴族も、その時代の内的な全盛時代を準備する人だったのです。その時も外的な全盛時代だったのですが、社会環境は腐敗していたのです。このような環境の中でも準備する人々は、その環境以上に上がることができる内的な全盛時代を迎えていったのです。 神が外的な全盛時代を打たれる理由 神は内的な全盛時代を出発することができる土台を造らなければ、絶対に外的な全盛時代を与えられないのです。与えたら滅びるのです。これを知らねばなりません。外的な全盛時代を打つことは、内的な全盛時代を与えるためなのです。ですからどの時代にも、内的な全盛時代の指導者たちは環境的に迫害され追われたのです。釈迦も、孔子も、マホメットもそうであり、イエス様もそうだったのです。これは皆さんが歴史を探って見れば分かることです。 それではなぜそうなのか? 外的な迫害に比例して、内的に強固な根を持つがためなのです。神がごらんになるとき、肉身の基準よりも心の基準が高いように、外的な基準よりも内的な基準が高いゆえに、肉的な外的基準を打って内的基準に吸収させようとなさるのです。歴史上のすべての民族はこのような過程を経て来たのです。 それではキリスト教をおいて見るとき、キリスト教はいつまで追われるのか? いつまでも外的な全盛時代だけがあるのではありません。神様はその時代を通して内的な全盛時代を成してこられるのです。キリスト教は今まで世界的な全盛期を迎えてみないのです。勿論自身の教派を中心に、国家的、宗族的、家庭的には全盛となることができても、キリスト教理念を中心に天運と共に、世界を標準とする全盛時代は、未だに迎えてみなかったのです。この全盛期が来ると約束される日が、終わりの日なのです。 こんな原則をおいて見るとき、キリスト教が全盛時代を迎えようとするにはこの時代がどのようにならねばならないか? 世紀末的な腐敗の時代が到来しなければなりません。 それでは腐敗する動機が何であるか? 第一は天を知らないことであり、第二は地を知らないことです。天と地を知らないこと、即ち神と人を知らないことが腐敗の原因なのです。ここから腐敗が起こるのです。 堕落が何であるか? 天を見忘れ、地を見忘れ、神を見忘れ、人を見忘れたことです。堕落は天と地を見忘れ、人を見忘れ、神を見忘れ、人間を主とした愛をなしたところから起こったのです。ですからいかなる社会も、淫乱がはびこる社会は滅びるのです。 アメリカが今、民主社会で先進国家だと誇っているのですが、この国家の未来に責任を担う青年たちがどのようになっているか? アメリカの将来に責任を負う青年たちが、享楽主義に流れる悲運にみまわれて没落しているのです。それは彼らが神を知らず、人間が何であるかを知らず、天が何であるかを知らず、地が何であるかを知らないからです。自分を中心とする愛によって落ちていっているのです。そうであれば滅びるのです。 私がアメリカに行ったとき、青年たちが享楽主義に流れるのを見て、遠からずこの国は滅びると思ったのです。彼らがそのままそうであれば、滅びるのです。我々の理念が必要であることを知らねばなりません。アメリカが滅びないためにはどうすべきか? まず初めに天を正しく知り、地を正しく知り、神と人を正しく知らねばなりません。これだけを正しく知ればいいのです。神を知る人間は悪を行うにも行うことができず、人を真に知る人間はそんな道を行くことができず、天地の道理を知る人間は天宙の法度に外れたことをする道理がないのです。 このようなすべてのことを知って、人間の愛ではない超自然的な神の愛を中心に、幸福を歌うことのできる時代が来るまでは、太平の天国は成されるないのです。 今日全世界に広がっているキリスト教が、世紀末的な現段階において、世界のまえにどのような立場におかれているのか? 歓迎される立場にあるのです。これは神を中心に今までの文明を発展させて、外的基準を消化することができる枠が形成されたからです。それゆえ民主世界を主として宗教の教派が成され、自然的な環境を経て宗教が歓迎される圏内へと入って来たのです。 しかし民主社会から歓迎されるこの段階において、安息しては駄目です。ここからさらに一歩出なければなりません。キリスト教は現在の全盛時代に満足しては駄目です。心的基準、即ち内的基準を世界的な立場で決定づけねばなりません。こうして外的なものを完全に消化させて、一〇〇%率いて行けなければならないのです。こんな内的基盤を喪失してしまえば、キリスト教は世と共に流れ去ってしまうのです。 このような立場から見るとき、キリスト教を始めとする今日の宗教は非常時に処しているのであり、危機に処している事実を否定できないのです。 こんな危機から脱する秘訣が何か? この社会から一〇〇%歓迎される場ではなく、迫害される立場から新しい何かを得て、新しい世界の創建のためにでて行く新しい運動が起こらなければなりません。こんな運動がなければならないのです。もしもキリスト教が世俗化したなら、このキリスト教は外的な世界に引かれて入ってしまうのです。 迫害されても内的全盛期を成すという覚悟 来られる主がこの世界に天国を建設なさるお方であるとして、今日世界のキリスト教が主を迎えられる環境を造ることができなかったら、新しい宗教を中心として第三次の革命を成すのです。今までの社会制度や教派的な制度と形式を根本的に革新して、社会的なすべてのものを教会的な立場に率いてゆかねばなりません。こんな観点から、統一教会の使命はとても重要なのです。 この国が解放を迎えて先生がこの道を出発するに当たって、三千万は老若男女を問わず解放が来たと手を挙げて喜んだのです。しかし先生は歴史がこのように動いてゆくので、統一教会の運命をどのように開拓してゆくかを考え、静かにしていたのです。日本が全盛時代を享受するとき、韓国は悲惨でした。 キリスト教徒たちが新しい世界的な、内的全盛時期を出発させるための基盤を築いている時、外的全盛時代にあった日本独裁者たちは、彼らの首を切ったのです。しかしこのような環境に屈することなくこれを克服してきたキリスト教は、解放のラッパの音と共に第二次の出発をして、この民族のまえに訪れる国運を世界運勢へと連結させたのです。 こんな出発をしたのに、キリスト教はどのようになったのか? 社会の中に吸い込まれたのです。アメリカの風潮と思潮に吸い込まれてしまったのです。資本主義の影に全部が埋もれてしまったのです。それで個人を主とした教派と教権主義、個人を主とした教会へといって、みな滅んだのです。社会と共に滅んでしまったのです。 こんな状況で、私は考えたのです。このような教派のまえに、歓迎される自分になるのか? この国と民族のまえに歓迎される統一教会を創るのか? 統一教会が歴史のまえに立つためには、教派のまえに反対されなければなりません。民族のまえに反対されなければなりません。試練の途上で揉まれなければなりません。彼らのまえに歓迎されたなら、新しいものを創建することができず、第二の新しい世界へと出発をすることができないので、私は統一教会が追われに追われ、迫害される事実を悪いとは考えないのです。 イエス様はその時は追われに追われたのですが、そのなかで時代を克服することができる内的な基盤を造っておいたので、この基盤を通して新しい世界を創建してゆくことができたのです。同じように、統一教会が今は迫害され難しい環境の中にあるのですが、これに屈することなく、打たれても絢爛たる内的な全盛期を成さねばなりません。神の心情を握り、神の内的な愛を中心に、世界史的なすべての苦喪を克服できなければなりません。 押し寄せる風波と、迫りくる試練と嘆息と絶望を克服するとき、我々は成功を約束し、勝利を誓い、いかなる艱難も防ぐことができると私は確信するのです。 こんな立場から見るとき、追われに追われる場であっても希望を抱き、手錠を掛けられる獄中の身になっても希望を抱いて、明日を望み見て勝利の姿が羨ましくはない場で、神のまえに訴え出て行かねばならないのです。 周囲の環境を考えて見て下さい。試練を通して環境に同化されるのか、環境を同化させるのかを考えて見なさいというのです。先生は二一年間、闘争歴史を経て来たのであり、皆さんは七年路程を終わろうとしています。こんな場面で過ぎた日を回顧してみるとき、悲しいこともあった一面、痛快で懐かしく嬉しいこともたくさんあったのです。 希望に溢れるべき統一教会 我々の財産は今までに捜し求めた教員たちであり、今までに試練を克服してきた多くの事由です。この財産が世界に広がり、多くの人々の胸に新たに植えられるとき、死んでいた生命が復活するその日が来ることを確信するのです。 ですから先生が常に皆さんに、伝統を尊重せよと語ったのです。この伝統は外的全盛時代に拍子を合わせるのではなく、内的全盛時代を中心に、新しい歴史を創造して、新しい社会を再結成するということです。 イエス様がゲッセマネの園で「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)」と祈祷されました。 自分のみ旨と父のみ旨が違うなら、自分のみ旨は社会と接して足をおくものであり、アボジのみ旨は天倫と接しているのです。 このように社会に足をおくのと、天倫と接する二つの道があるのですが、どちらの道に従って行くのか? 天倫に接する道へと行かねばなりません。腐敗した社会環境において歓迎されることよりも、第二の新しい復興と新しい出発を望み見て、内的全盛期を誓って天倫と繋がってゆくべきことを知る我々は、このような闘いをしてゆくのです。このような道を行くにおいて、環境が提示する問題が大きければ大きいほど、その内容が大きければ大きいほど、ここに比例して迫害が多くなるのです。 我々はこの迫害のまえに自ら後退し、挫折してしまう弱者になってはなりません。そうなれば歴史上に背反者となり、天宙の相続を受けられないのです。歴史を主導できないのです。また教派を収拾して、新しい歴史時代を成すことができなのです。こんな時点において対外的に、または世界情勢から見るとき、我々統一教会とキリスト教がまさにそんな立場にあるのです。こんな立場にある我々が外的な全盛時代において、内的な全盛時代の基準を立ててきたといえるのです。 皆さん個人における全盛時代はどのような時か? 今まで社会を中心に生きてきた時が皆さんの全盛時代です。統一教会に入って来る前の時代が、皆さんの全盛時代です。皆さんがそこでの行楽を追求し、そこに人生の勝利を追求して行っていたのです。 皆さんがいつ、統一教会に入ろうと考えたのですか? しかし統一教会に入ったその日から、自身の社会的な基盤が一時に消え失せたのです。この社会的な環境が高く大きければ、その大きさに比例して受けるべき試練と苦痛もさらに増すのです。しかし我々は行く道がどんなに難しく、どんなに苦痛に満ちていても克服しなければならないのです。これを克服できなければ、皆さんは歴史と共に、時代と共に滅んでしまうのです。 今日、七年路程を行く皆さんはどんな立場にいるのですか? 社会環境を打開して、前進しようと駆り立てる希望が胸に染みるべきであるにもかかわらず、昔を慕っているのではありませんか? イスラエル民族が荒野で苦労をして、昔は肉のス-プも食べたのにこれが何だ、四〇年間ウズラとマナばかり食べなければならないとは、とエジプト宮中での生活を慕ってモ-セを恨んだように、過ぎし日を慕っているのではありませか? 堕落した人間を救援することが皆さんの使命であり、本分であるにもかかわらず、それなのに昔は良かったと言っているのではありませんか? 世界的な外的全盛時代は滅びなければなりません。真が現れ、真の基準が立ったなら、これは滅びなければなりません。これが道理であり、天理なのです。滅びなければ滅びるようにしなければなりません。ですから真を知る人々はその外的な環境を見忘れて行かねばならないのです。 捨ててゆくのですからすべてのことを忘れて、絶対的な心を中心に内的基準を再び立てて、第二の自分を主管して、第二の自分を支配することができる第二の人格を創造しなければなりません。ところがこれを忘れ去って、昔を回想して慕う人々は滅びるのです。第二の内的基準を立てることが生きる道です。我々はこのような岐路にあることを、確実に知らなければなりません。いつかは、統一教会の全盛時代が来るのです。 アメリカが現在は世界の国家のまえに全盛時代を誇っています。しかしこんなアメリカが滅びることなく生きるためには、天運と歩調を合わせなければなりません。そのようにするにはアメリカの為とするアメリカになっては駄目です。世界の弱小国家、哀れな国家の為とするアメリカにならなければなりません。アメリカが彼らの国民を動員して、世界の生きられない民族を自分たちの兄弟のように対して、生きられるようにする運動をしなければなりません。そうであればアメリカは滅びないのです。でなければ滅んでしまうのです。 必ず統一教会の全盛時代が来るのであって それでは統一教会の全盛時代は、いつの時になるのか? 統一教会の全盛時代が来るのですが、その時がいつの時か? 全盛時代が我々の前に近づいているのです。遠からぬ将来に統一教会の全盛時代が来るのです。その全盛の時が来れば世界が動くのです。世界が動くその時が来れば、統一教会がどのように動いてゆくのか? 先生はこれに対して案じているのです。 韓国は韓国としての全盛時代が来るのです。その時が来たら韓国を動かすことができる統一信徒にならねばなりません。世界的な内的全盛時代に責任を負う統一信徒になるかということが問題です。韓国統一教会を主とする全盛時代が来たなら、韓民族は世界のすべての民族が内的な全盛時代を迎えられる基準をつくる民族にならねばなりません。言い換えれば、全世界において最も哀れな民族を救うために、いかなる民族もできないことを先頭に立ってやるということです。 それでは韓国において今まで、統一教会に忠誠をなした人々ではない他の人々を通して新世界を建設するのか? 違います。必ず統一教会に忠誠をなす人間を最前線に押し立てて、世界の為に苦労させるのです。 もしも韓国民族がこの責任を果たさなければ、この使命を果たすことができる統一教会理念を持った第二の民族が出なければなりません。日本でもよく、アメリカでもよく、ドイツでもよいのです。そんな理はないのですが、共産主義であってもこんな理念を持って出るならいいのです。であれば彼らは世界的な立場でこの理念を自身の理念のように形成して、栄華を享受するときが来るようになるのです。何の話か、分かりますか? ですからこの国が我々のみ旨のまえに近づいて来て、環境が我々のまえに福を持ってきても喜ぶなというのです。明日に行く道があるのですから、明日の希望を確かめ、明日に越えるべきその峠を越えるための準備をしなければなりません。試練を越えるための鍛練の期間が必要なのです。 今我々が闘っている闘いは、これから世界の舞台で闘うための準備に過ぎません。ですからその日のために目標を定め、その時を迎えるために三千里半島この民族のために闘うことよりも、民族を超越して力強く堂々と世界に向かって行く意気揚々たる青年男女が多くなければ、世界を指導する統一教会とはならないのです。このような民族が統一教会と一つになれば、世界的な主導権を掌握するということを知らねばなりません。何の話か、分かりますか? それでは皆さんはどのような立場に立つべきか? また先生は皆さんがどのような立場に立つことを期待しているでしょうか? 統一教会員は行楽と満足を追求するそんな人間になってはなりません。世界の舞台に向かってあらゆる試練と苦痛を押し切って、新しい世界の創建のためにもの凄い風雪を独り受けとめ、責任を負ってゆくことができる人間にならねばなりません。 であれば統一教会の運勢は世界的な運勢と供に、世界を指導し支配することができるのです。もしもそうでなければ、口にも言えません。先生はこれが心配です。家庭生活もやはり同じことです。家庭の満足ばかり追求しては駄目です。今日の栄光の中に陶酔していては、明日に越えるべき峠を越えることができません。内的にさらに誓い、決意して、内外のすべてのものを整備して総進撃すべきときが残っているので、今日この場に我々は安息することができないのです。心を許せないという事実をはっきり知らねばなりません。 こうして今日までの全歴史時代を総合した世界史的な全盛時代である二〇世紀の全盛時代を守ることができる、内的全盛時代の権限を持たねばなりません。そのようになる個人があれば彼は世界的な統一王国の代表者になるのであり、そんな団体があれば世界を指導する団体になるのであり、そんな民族と国家があれば世界の数多くの民族と国家を治める民族や国家になるのです。こんな思想を持つ民族や国家があったなら、新しい理想世界を建設するときに主導的な責任を任さざるを得ないという事実を、歴史的な観点から推し量っても知ることができるのです。 ですから統一教会員たちはアフリカの暗黒の地に絢爛とひるがえる勝利のみ旗を立て、神のまえに凱歌を挙げなければなりません。アフリカのみならず、韓国、アジア等の惨めな民族が生きるところに最後の勝利を決定づけ、神のまえに賛美を捧げることができる基準を立てようと見悶える民族になるなら、間違いなくその民族を通して世界は統一されるのです。我々の理念はそのようにしても余りある、充分な内容を持っているのです。こんな責任を担う青年男女になれというのです。 神の思想と伝統を相続して実践すれば 先生は遠からず外国に行くのです。先生が考えることは民族的なことではありません。統一教会が今までの数年間、千辛万苦、苦労の道を意に介せずに歩んで来たので、この民族のまえに我々の姿を現すようになったのです。我々のこんな強力な力を国家にも知らしめたのです。我々が内的な基準を中心に活動してきた内容を、自他共に認めることができる社会的な環境ができたのです。 しかし我々はここで満足してはならないのです。我々の行く道が、ここで終わるのではありません。我々は我々を歓迎する人々と共に額を合わせ、笑いあう場を求めるために出発したのではありません。我々は神が安息できる土台を造るために出会ったということを常に肝に命じるのです。世界的な大戦争の場において勝利する、その日のために出会ったということを、肝に銘じなければなりません。 我々は銃剣をもって戦うのではありません。血と汗と涙で闘うのです。今まで神がされた作戦、即ち伝統と思想を相続して実践するのです。それでこれが結実したといことを万存在のまえに見せてあげ、万民と万存在物がその勝利の権限のまえに頭を下げて入り、すべてのもの相続して神の愛の圏内に安らぐことができるようにしなければなりません。そのような日が我々が希望とする天国が建設される日であり、万民が平等な世界を迎えて、安息することができる地上天国の理念が確定する日であることを、はっきりと知らねばなりません。 我々はその所に向かって行かねばなりません。この若者たち、行くのですか、行かないのですか?(行きます)誰かが銃剣を抜いて危険であっても行くのです。その日を早めなければなりません。我々はその日のために生まれ、その日のために闘い、その日のためにこれからも行くのです。自分が今日行くのも、その日により一歩近づくためであり、自分が闘うのも、その日の勝利のために標的を立てるがためなのです。 先生が四〇か国を回って見て感じたことが何かというと、アメリカの人々がどうして今世界の経済圏を全部掌握しているかということです。彼らは技術分野が他の国よりも優秀なのです。本来、産業革命はイギリスを中心に起こったのですが、アメリカがどうしてこんなに早く経済発展を成したのか? アメリカの人種は合わさった人種です。数多くの人種が総合されたということです。ところでここには大体どのような人々が集まったのか? 以前に暮らした国と民族のまえに歓迎された人々が集まったのではないのです。すべて反対された人々が集まったのです。国が反対し、民族が反対する人々は、頭が良い人間なのです。こんな人々は自分の国だけを中心に生きるのではなく、世界的に生きようという考えを持っているのです。それほど図体が大きく、抱負が大きいというのです。ふう変わりなことを考える人間です。ですからその国の主権国家のまえに背反されるのです。 それで彼らはピュ-リタニズムを中心に、自由信仰を訴えて糾合したのです。そうして思想的な基準が同じ、生活的な基準が同じであったのです。ここに強力で荒々しい性格まで合わさって図体がでかいのですから、その前に小さなことはすべて消しとんだのです。こうして彼らはその基盤を広げていったのです。 それ以前には本国で追われ、追い詰められた人々ですから社会的な基盤がないのです。ですからアメリカに行ってある程度の基盤を得て、本国に帰って彼らの宗族の前に歓迎を受けようとしたのです。このような人々が集まって、経済的な基盤を立ていって発展したのがアメリカです。 世界主義を中心にして行け 今日の世界を見るとき、西洋人、東洋人、黒人、白人、全部が思想的に異なるのです。思想が同じなら目的観が同じであり、心情的に一つになるのです。また神の心情を中心にすれば、生活感情が全く同じなのです。思想が同じ、目的が同じなら、分かれようにも分かれることができません。であれば統一が成るのです。分かれるということは、反対があるからです。 それで先生はこれから国際結婚をたくさんやろうと思います。世の中で最も惨めに追われ、追い立てられる人々が混血児たちです。これから世界的に追われ、追い立てられる人々が集まって暮らせる国を造ってあげなければなりません。混血人国家を造るのです。その人々を中心に、アジア一帯でやることが多いのです。 先生は二一年間、韓国民族から追い立てられて闘って、青春時代を送ったのです。先生はだからといって何かに、誰かに頼ることはありません。踊りを踊っても誰にも負けません。私が遊ぶなら誰よりもよく遊ぶのです。ところが一度も遊んでもみないで、惨めなみっともないざまになって、この世的に考えれば憤るときもあるのです。 しかしながら、天的に見れば見事なのです。憤りよりも見事という考えが大きいので、この事をしてきたのです。今は統一教会食口たちを引っくり返すのです。大学を出た人たちが問題です。大学になぜ入るのですか? 食うために行くのですか? そんな人間なら統一教会にいる資格はありません。大学に行くのも、民族と世界の為に行くのでなければなりません。 先生が今回アメリカに行ってくれば、一二か国に宣教師を送り出すのです。金がなければ財産をみな売っても行けというのです。先生はこの道を歩んできて、財産だけ売るのではありません。自分独りが良く生きるために、そうするのではありません。この民族を良く生かすために、世界を良く生かし、神を喜ばせてあげるためなのです。このように行くのが、公的な路程を行くことです。これが公法です。ですからそうではないすべてのものは、公法に対する反逆です。 ところが韓国には皆さんを送り出す所がありません。なぜなら韓国では歓迎されるからです。先生は今まで反対されてやってきたので、皆さんが行って歓迎されるのですから気分が悪いです。本当にそうだというのではなく、ちょっと気分が悪いです。(笑い) なぜ? 先生が気分悪くなれば、世の中の人々が喜ぶのではありませんか? 悪口を言われる統一教会の先生が気分良ければ、世の中の人々はどんなに気分が悪いでしょうか?そうかどうか、ちょっと気分を悪くしてみるのです。(笑い) 今は第二の出戦をすべき時です。我々はアジア大陸に派兵された軍隊です。以前に先生がアジアの南方の国々を巡訪して、とても大変なのが暑さでした。暑い所での宣教が一番大変なのです。インドのカルカッタに約一週間いたのですが、温度が四一度まで上がるのです。それで扇風機をつけて眠ったのです。扇風機をつけて眠ると病気になるというのですが、病は何の病でしょう。扇風機の下で昼寝でもすれば気分が良いのです。それで先生は、や! ここで伝道するのは本当に骨が折れる、と考えたのです。皆さんの中でそこに行く人がいるでしょうか? エジプトではホテルから出て、ちょっと歩いても汗が出るのです。時間がないので駆けようとすると、そこの人たちが止めるのです。駆けたら大変だというのです。そうでなくても熱射病になったり何かの病いになったり大変なのに、駆け出したらえらいことだというのです。その人たちがみな経験して知っているのですから、駆けられるでしょうか? アジアのどこに人口が多いかと考えてみると、極東地方より熱帯地方が多いのです。中国でも全人口の半分が暑い地方で暮らしています。比率から見れば、北側よりも南側に人が多いのです。 一時先生は我々統一教会員たちの墓を全部、南方に造ろうと考えたのです。先生の考えが良い考えですか、悪い考えでしょうか? まるきり無駄ばなしをしているようで。聞いたことのないことですから。良い考えですか、悪い考えですか?(良い考えです)神はどのように考えられるでしょうか? 先生よりもさらにそう考えるのです。南方のどこか大きな島に統一教会員たちを飛行機で移動させて、そこで暮らさせたいのです。 先生がアメリカに初めて行った時、アメリカ人たちは先生が彼らの生活様式にほどなく同化するか、させようという感じだったのです。先生が「主義」と言えば世界主義者であり、アメリカを同化させるのであって、アメリカに同化はしないのです。先生がこのように言うのをみて彼らは笑ったのですが、先生はそんなすべてを無視したのです。そうしているとその時から、彼らは先生のまえに屈伏してきたのです。 心情はどこでも通じる 人間はみな同じです。心情的なものは同じなのです。先生が涙を流せば、彼らは私よりも涙を流して泣くのです。そして韓国の統一教会食口たちが先生を好きなことより、さらに好きになるのです。先生が韓国で地方を巡回するときに、統一教会の女性たちが先生を抱いてキスする人はいませんでした。ところがアメリカの若い人はいきなり抱きついてキスするのです。それで先生はそれはいけないと言ったのです。それは西洋風俗であって、けっして天の法度ではないので、絶対に駄目という限界をおいて、しないと誓わせたのです。先生にはアメリカ式挨拶は通じないことを植えつけたのです。このように過ごしても先生が出発する時、見送りに来て飛行場に出ると表情が変わるのです。 先生が飛行機に乗る前に韓国の食口たちの顔を見ると、だんだん沈鬱になってゆくのです。そうしていたのが、先生が飛行機に乗ると涙をちょろりと流すのです。ある人は先生が飛行機に乗ろうと皆に挨拶する時まで涙を流していたのが、先生が行くのが見えなければまた見えないと泣くのです。ところがアメリカの人たちは泣けば恥ずかしいので、泣かないのです。父子の間に恥ずかしいということはないのです。 先の世界巡回の時に七番目の国に到着すると、一人のおばさんが髪をといて来て、先生に誰よりもまず初めにキスをすれば歴史に残ると、霊界から教えられたといってキスを求めてくるのです。それで先生を愛するかと問うてみると、愛するというのです。それで、先生のどこを愛するのか? 指を愛するのか、全体を愛するのかというと、全体を愛するというのです。私が最も愛するところも愛するかというと、それも愛するというのです。それで私が頬を最も愛しているので、女性が私の頬に触れることは最も嫌うと言ったのです。私を愛するなら、愛する人の好む通りにすべきではないかと、拒絶したのです。このようなことを西洋の夫たちは理解するのです。これが韓国と違うころです。夫人が東洋の先生とキスしたくて後を追うときにも、そんな夫人を理解するのです。生活感情が東洋と、このように違うのです。 それでは心情の基準が何か。南方の国、またはどんな国であっても皆さんが心情だけを持っていればいいのです。高いところに上がれば、低いところへと下ってゆくのです。皆さんは水道水が流れる原理を知っています。高い所の水は低い所へ流れてきれいになるのです。高い所と低い所が連結されさえすれば、水は流れてきて一杯に満ちるのです。 ですから皆さんは心情のパイプだけを、神と連結させておくのです。心情のパイプだけ神と連結させておけば、行くなといっても行き、越えるなといっても越えるのです。ですから心情を継承させなければならないという結論になるのです。 心情のみをそのまま伝えてやれば、やるなと行っても最も良い家までも与えるようになるのです。最も良い家を持っていても、私が必要だからいえば提供するのです。これは心情的な基準があるからです。 このようなことを見るとき、心情が熱帯地方の四〇度を越える温度よりも低いのか高いのか? 心情は神の愛する人間であるほど高いのです。熱帯地方に神が最も愛する人間がいて、韓国の人間以上に先生の御言に酔う人間が発見される日には、四〇度、五〇度を越える所であっても話をするのです。こんな人間がいないので、暑さを感じるのです。 心情的な度数が高くて四〇度、四五度までも越えるほど神を愛する人間は、一〇〇%合格することができるそんな場にゆくのです。そのようになれば暑いことも、ごはんを食べることも、寒いことをすべて忘れてしまうのです。 統一教会では、信仰の熱度が強い人が先に立つのです。男性が熱度が強いですか? 女性が熱度が強いですか? 女性が熱度では強いのです。それで女性たちを宣教者として派遣しようというのです。もしもインドに送るならサタン世界に女性だけを送り出せないので、信仰的に良く訓練されたインド人と結婚させて送るのです。世界人であれば誰もがアメリカに入れます。それでこれからインドに宣教に送る女性たちを、アメリカ統一教会のインド人と結婚させて、インドに帰国させるのです。人間として生まれて自分のことだけに生きるよりも、自分の国の為に、アジアの為に、世界の為に生きることが、広々と価値あることです。神様も喜ばれることをしなさいというのです。 永遠なる全盛時代のために誠精を尽くせ 先生は韓国を愛しています。皆さんはどうでしょうか? 先生が韓国を愛するように、皆さんも韓国を愛するのです。それでは先生が韓国を愛するなら良いでしょうか? 皆さんがさらに愛するなら良いでしょうか? 神を愛するときも、独りで愛することよりも、いろんな人が愛するならさらに良いのです。同じように皆さんが韓国をさらに愛さなければなりません。 皆さんは世界を愛しますか? 世界を愛するなら、愛する条件が何であるかと問えば、どのように答えるのでしょうか? 言葉でだけ愛するのですか? 条件のみならず、事実として表わすことができなければなりません。他の国の人々ができない事までも、しなければならないのです。 アメリカの主人は物質的に、霊的に、肉的に、誰よりもよりアメリカを愛する人です。韓国において大統領になれる候補者は誰か? 韓国を誰よりもより愛する人でなければなりません。 アメリカの主人が誰か? 神様なのです。なぜならば、アメリカの地に人が定着する前から、アメリカの地を愛されたお方が神様であるからです。韓国の主人が誰か? 韓国の地に倍達民族を立てられる前から、韓国の地を愛してこられた神様なのです。最も難しいときも変わることなく愛してこられた神様なのです。それゆえ神様が主人なのです。ですから皆さんが神の変わらざる息子・娘であるなら、アメリカの地もわが地であり、韓国の地もわが地であり、世界の地もわが地であるいうことができるのです。愛を中心に見ればそうだというのです。 皆さん、世界を愛しますか? 世界を愛するなら条件を立てなければなりません。世界の為に涙を流すことができる母がいるなら、その息子は世界を治めることができる人間になるということを知らねばなりません。考えないものが因縁となることはなく、因縁とならないものが成就することはありません。ですから誠精を込める人が、歓迎を受けるのです。世の中の万事が、みなこのようになっているのです。それゆえ統一教会員は世界を愛さなければなりません。先生よりも、世界をより愛さなければならないのです。このようにして我々は、全盛時代を迎えなければなりません。 今までの仏教や儒教は勿論、すべての宗教は神の摂理によって立てられたものです。しかし未だに求道の基準において、全盛時代を迎えることができないのです。ある一時に宗教が一国の主権を中心に、天下に号令をかける時代を迎えては見なかったのです。求道の全盛時代を迎えるためには、時代的な全盛時代のまえに、ある方法によって闘争をして、これを克服することができる思想的な基準を立てておくかということが問題なのです。 それゆえこれから新しい時代を創建することができる内的な全盛の基盤を造り、この基盤の上に新しい歴史を出発させる基準を立てなければなりません。こうして内的な全盛時代を成す世界を創建しなければなりません。このような時代を成しておかない限り、平和の王国は絶対に到来しないのです。 我々はこんな世界を望み見て、こんな世界を成すことができる理念を中心にしてゆくので、内的な全盛の基盤の上に外的な全盛基準を一体化させ、神と一体化させなければなりません。こうして万国の勝利、万天下の勝利、最後の勝利の終着点において、神のまえに勝利をお返しして、神を永遠にアボジとして侍ることができる場にまで行ってこそ、初めて解怨成就が成されるのです。そのようになれば、今までの歴史上の数多くの全盛時代は興亡の路程を経てきたのですが、その時からは永遠なる全盛時代、即ち、永遠なる太平王国、地上天国、千年王国が建設されるということを、皆さんは確実に知らなければなりません。 我々統一教会員はこの世界に向かって出発したのであり、この世界を創建するために今も闘っているということを、確実に知らなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.04
コメント(0)
「み旨の行く道」 1967年5月14日(日)前本部教会 この世の中で目的(み旨)もなく生きている人間はありません。人々は社会生活をするにおきましても、自分なりのみ旨を中心にして生きているのです。今世界に広がっている人類は、自分の事業に対するみ旨、学問に対するみ旨、あるいは自分の専門分野に対するみ旨を立てて、その目標に向かって歩んでいるのです。 善が要求すること それではこのみ旨は何を中心として成すのでしょうか? 勿論人間を中心にして成されるので、その心を中心として成されるのです。ここにおける心は、常に失敗することを願わず、うまくゆくことを願っているのです。それが平面的であれ立体的であれ、時代的であれ歴史的であれ、さらに良くなることを願っているのです。ですからみ旨が指向する最高の目標は、万民が良いという基準に至ることです。 人間の良心は言うまでもなく、常に善に従っているのです。この善は人間をして、より大きな何かを成すようにさせる要因になるのです。自分の研究分野や、あるいは他のいかなる分野を問わず、善に立脚してみ旨を立てなければならないのです。 それでは善自体を見渡してみる時、善はどんな内容を持っているのでしょうか? 善は非動的か主動的かを分析してみれば、善自体は非動的であることを願わないのです。常に主動性を願っているのです。ですからある社会、ある団体の条件が大きければ大きいほどこれを中心として、その社会や団体を動かし、善なる基準圏内に隷属化させようとするのです。 人々はなぜ、真の善を願うのか? 善自体が非動的ではなく主動的であって、我々の生活に不義と損害をもたらすのではなく、常に利益を得させようとするからです。 ですから良心を持つ人間は、善に立脚した自身の主動性を持つことが肝要なのです。他人から支配されることを嫌う原因もここにあります。また良心にのっとって願う善の基準も、限界的なものを願ってはいないのです。それゆえ韓国の人間であっても、韓国的な人間だけを願ってはいないのです。自分が韓国人であっても、世界的な人間になることを願っているのです。より高い何かがあるとすれば、そのような存在になることを善は要求するのです。 ですから人間は真の、良心的な生活をしなければなりません。真の良心を持つ人々は、自身の主動性というか、自分自身を中心とする最高の理念を堅持しなければなりません。良心的な人間であるほど、自身の絶対的な主動性を要求するのであり、絶対的な最高のものを願うのです。 み旨が指向してゆく時、何が連結されるのか? ここには必然的に理想、あるいは理念が連結されるのです。ですからみ旨は理想の世界に向かって行くのです。それではこの理想とは何か? これは万民のある思考圏内に生じるものではなく、あるいは時代圏内で目的を立てて行くことではないのです。それは時代性と歴史性を超越して、地域的な限界を越えた基準で捜し求めて行くのです。 ですから心はある相対的な理想圏を要求するのです。この基準が無限であれば、無限なる環境圏を要求するようになるので、この無限なる相対的な理想圏を要求する心の主体性もやはり無限であり、それゆえ無限に至高なることを要求するのです。人間はこのような心を持っているゆえ、高貴なものという結論が出るのです。 み旨が行く道は、理想を目指して行く道です。歴史過程を経てきた数多くの人々は自分が及ばずに生きてきましたが、み旨はより高い善を、より価値あるものを追求してきたのです。より高い理想を求めてきたのです。 歴史の流れに従って、時代が入れ替わるに従って、あるいは国家の主権が入れ替わるに従って、その環境がさまざまに変遷して来たとしても、み旨は常に一つの理想世界に向かっているので、刺激となり力となってきたという事実を、皆さんは知らねばなりません。それゆえ世の中が漸次、理想世界に近づけば近づくほど、万民が願うみ旨、その理想は一つの目標に向かって行かざるを得ないという結論が出るのです。こんな観点から現在の世界情勢を見てみれば、一つの理想世界に向かって行っているということを知るのです。 み旨が行く道 今、世界では民主世界と共産世界が闘っています。民主と共産のみ旨が今、先になり後になりして人類歴史と共にもつれ合っています。 それではこれがどうなるのか? み旨は二つはありません。絶対的なみ旨、最高の理想的み旨、それでこそ神の理念と通じるみ旨は、二つはないのです。それゆえ民主と共産のみ旨はいずれ一つにならねばなりません。今日民主主義は民主主義として、共産主義は共産主義として、理想が何であり理念が何であると叫んでいるのですが、現実は一つの帰結点を成すみ旨の方向を捜し求めて心を砕いているのを、我々は否定する道がありません。今世界は歴史過程を経て20世紀の現代文明を迎えて、初めて一つの理想圏内に帰一する段階に入っていることを、我々は感じるのです。 それでは過去の我々の先祖たちの良心は、善ではなかったのでしょうか? そうではありません。現在より善でした。それでは先祖たちが描いた理念が、現世よりも劣っていたのか? 決して劣っていません。それではその当時、全部が一つになる理念を主張して行かねばならないのに、なぜ出来なかったのか? み旨が行く時には道があるからです。み旨は出発と同時に一ぺんに成るものではありません。その目的地まで行く時は必ず経なければならない過程があるのです。 今日宗教的な立場で見れば、人間始祖が堕落したことは否定する道理がないのです。それでは堕落とは何か? み旨の方向性を失ったこと、即ちみ旨が向かう本来の方向を失ったことです。行くべき道をさしおいて、行ってはならなこに行ったことです。言い換えればみ旨と一致する方向を捨てて、み旨と反対の方向に行ったことが堕落なのです。それゆえ人類歴史が、人類始祖の堕落と共に出発したことを認める他はないのです。ですから人類は必ずその方向に入って、一つの理念的な世界に向かって行かねばならないのです。それでは今まで歴史過程に来ては行った数多くの先知先烈、あるいは数多くの道主たちは何をしたのか? 彼らはそれぞれの主張を立てて、絡み合ったみ旨の方向を一つの方向に帰結させようとしたのです。絡み合ったみ旨の方向を、ある思想的な一つの目標を立てて、その方向を帰結させようとしたのです。 また彼らは、一つの絶対的な理想世界に向かって行く道を捜し求めた人々でした。それではその道をどの角度で合致させるか、平行線上で合致させるのか? 直線上において合致させるのか? ある主義、主張やある宗教が行く道には、一段階ごとに合致させれば残る距離までの試練が残るようになるのです。ある角度で出発して、ある程度下れば、歴史過程に起こる因縁が、終わりの日まではその使命を知るようになるのです。ですから試練の角度はそれなりに少なくなるのです。 こんな観点で良心を中心にして、より高次的な目標点に向かって行くために現れたものが何でしょうか? 勿論、哲学もそうですが哲学よりも宗教がそのようなことをさらに深く取り扱ってきたのです。ですからこれまでの人類歴史を概観して見る時、文化は宗教的な基盤を通して発展してきたのです。即ち、文化が発展することは、長い歴史過程を経て来て、宗教的な基盤を通して、その時代圏内の文化圏を一つの方向点に収拾してきたからです。これはなぜそうなるのでしょう? み旨が指向する一つの目的点に帰結せしめるためにそうなるのです。 み旨が指向する目的 み旨を指向するにおいて重大なる使命をなすものが宗教です。このような宗教の歴史が深ければ深いほど、現実の文化世界を凌駕する深く新しい内容が生まれるのです。それでその宗教的な内容を通したみ旨の基準、あるいは理念的な基準は、必ず全人類が指向するみ旨の目的と結びつくことが出来るのです。それでは今日、民主主義は何を中心としているのでしょうか? キリスト教思想です。しかし共産主義はこれと反対の思想を持っているのです。 み旨の行く道を探ってみれば、み旨は本質を外れることがないのです。み旨は総合的な最善の基準を通して連結されることですから、み旨が帰結点を成すには短日時の過程をもってしてはダメなのです。またその因縁を結ぶためには人類歴史と共に、その文化歴史と共に関係を持ってこそ成るのです。こんな観点から悠久の歴史的な理念をもって、現実において重要な責任と使命をなして、み旨を発展させた宗教はキリスト教であります。 ところで共産主義はどこへ行くのでしょうか? 今から50年前の1917年にソ連を中心にいきなり現れたのです。それではこの共産主義が歴史的なみ旨と、今までの時代的な全てのみ旨を全部、一つに括りつけられるでしょうか? そうはできないのです。 皆さんの良心が、真ごころからの、良心らしい良心に頭を下げる高度な基準が唯物的であるか、唯心的であるかという時、これは言うまでもなく唯心的なことなのです。お金が沢山ある人間であるからと、彼を人格者とは呼ばないのです。人格者としの良心の基盤の上に、より大きな何かを持っていなければなりません。 ですから現実におきまして、宗教的な歴史を中心にして、新しい形態を持たなければなりません。そして頂点をきわめる因縁をもつ思想体系を得ていなければなりません。世界人類の方向を決定するものでなければなりません。このようなことを見る時、共産主義はみ旨と正反対の道を行っているということが分かるのです。 み旨の目的は理想を求めることです。理想は何を通して成されるか? 三度のめしを腹いっぱい食べて、理想は成らないのです。それではみ旨が指向する目的は何か? めしを食べて満腹になることではありません。またどんなに酒が好きな人でも、酒が目的になることはありません。ではそれよりさらに問題になることが、何でしょう? 愛です。この愛は一時的な愛ではなく、端った金で買える安物の愛ではありません。本質的な愛です。この本質的な愛を分析してみれば、愛には革命がないということが分かります。父母が子を愛することは、真の愛にあたります。ですから人間始祖の時から、人がわが子を愛する心と、数千年後の後孫である我々が子を愛する心は全く同じなのです。また数千年後の我々の後孫が、子を愛する心も同じことです。愛には発展もなく、終わりもありません。革命の要件を必要としない純粋なものが、愛なのです。 それでは神の愛とは、どのようなものでしょうか? 神がある存在を絶対的な基準の場に立てておいて、その存在性を認定して彼を愛したなら、その愛はそれ以上の革命を必要としない愛なのです。 み旨を成すためには 革命はどこから出発するのか? 欲望から出発するのです。悪いことがあればこれを捨て、良いという内容を全体の前に適用するのです。これを社会に適用させて社会に革命を引き起こし、宗教に適用させて宗教界に革命を引き起こし、また他の全ての分野に適用させて、その分野に革命が起こるようにしなればなりません。 み旨が指向することは理念であります。しかし理念はそれ自体では、み旨を成すことが出来ません。み旨は愛の問題を通して解決しなければならないからです。即ち、み旨を成すためには、物質をもってしてはダメだからです。 こんな観点から、キリスト教が最も重要視するものが愛なのです。それではこの愛を成す方法が何でしょう? それは新郎・新婦を立てることです。悠久の歴史過程を経て、愛の内容を中心に現れたのがキリスト教です。ですからキリスト教は世界的な宗教になったのです。 それでは今、キリスト教が成すべきことが何でしょうか? 理念を成就するためには必ず世界的な宗教にならねばならず、世界的な宗教になるためには愛の問題を通して来なければならないのです。この時の愛は妥当性がなければなりません。この愛がアベルにだけ当てはまり、カインには該当しないとか、大韓民国の人々には当てはまり、アメリカ人には該当しないというのではダメです。 今までの革命を経て来た歴史もここには係わりなく、一瞬間に統合され、適応されなければなりません。キリスト教にこのような愛があれば、キリスト教を中心にして世界の国家を統合することが出来、理想世界を造ることが出来るのです。ところがこの愛が欠けているなら、キリスト教に新しい革命を引き起こさなければなりません。 今までのキリスト教を見渡せば見渡すほど、真っ暗です。現時点における環境を探って見れば、現在の時点まで連結されている内容が不分明だったことが分かるのです。形態はあるのですが、内容としては表に出すことができません。 普通、木に登るのは下りるより力がいります。しかし本当に高い木に登る時にはどうにかこうにか登るのですが、下りる時はなお難しいのです。またどうにか下りたとしても、再び登るとなると登れない場合が多いのです。しかし下りたら必ず登らなければなりません。愛も「ああ ! わたしはあなたを愛する」と言ってずっと登っていられますか? そうはならないのです。愛は登ったり下ったり、与えたり受けたりしなければなりません。ですから愛は独りですることができません。愛する父子の間の関係は、地球の端から端まで離れてもその距離を越え、互いに求めて抱きあい愛するのです。何が原因でそうなるのでしょう? それは愛のためです。 神は絶対的な存在であり、我々はきわめて惨めな存在です。ところで惨めな我々がどのようにして神と愛し合うのでしょうか? 絶対的な存在が、惨めな場まで来ることはないのです。それでキリスト教が、その基準まで連結させる使命を帯び、現時点までどうにか下りてきて、世界性を帯びているのです。ではこれをどうするのでしょうか? これを普遍化させて、万民が真であると認める公的な愛の法度に、適応させなければなりません。であれば現時点から、現時代の歴史過程をとび越えなければなりません。 愛の主義が現れなければならない現時点 それではこれからキリスト教が果たすべき使命が何か? 歴史過程の総合的な理念と共に、思想的な目的を成すための宗教的使命を果たさねばなりません。それで今まで下って来た歴史的な因縁に従って上ってきたのが、再び下らなければなりません。下る時は6千年かかったのですが、上がる時は6千年かかってはダメです。なぜ? 人生は短いからです。人間はどんなに長く生きても100年しか生きられません。ところが6千年の人類歴史を全部たどって上がってくれば6千年かかり、また下る時も6千年かかるのです。 それでこれを短縮しなければならないのですが、それが出来る内容が何か? それは真理自体よりも、真理を中心とした人間です。その人間は時間を超越しているのです。10年前に死んだ子も、時間を超越して愛している心と同じです。 また、歴史性を超越して往来できる一つの絶対的な要因が何か? 真理よりも人間なのです。イエス様は弟子たちに真理を教えたのですが、その真理は愛を教える一つの方便に過ぎなかったのです。それゆえ愛を完全に成す活動が出来ませんでした。ですから行動的な結果を通して愛の内容を明かすことができず、保留してきたのが今日までのキリスト教の歴史なのです。 それゆえ現時点で新しいみ旨を指向する無数の理念を統合・完結して、人類に幸福をもたらす一つの主義が現れなければなりません。この主義とは何の主義か? 具体的な歴史を通して、時代に通じる愛主義です。神はこんな主義を願っておられるので愛する子、即ち息子を送り、新郎の装束を着せ、彼のみ旨に従う万民を新婦として立てるために摂理されて来られたのです。ですから歴史は流れ過ぎても、その心情の因縁は常に平面的です。従って縦的な歴史を経て来ましたが、神はその社会の平面的な、現実的な舞台において摂理されましたので、キリスト教は生活的な宗教となり、社会的な宗教にならなければならないのです。このように見る時、統一教会は何をする教会か? 人間始祖のアダムとエバが堕落したのですが、彼らは神の愛を受けて堕落したのか、愛を受けないで堕落したのか? ここにおいて、神は人類のアボジですからアダムとエバを愛しておられたのに、なぜ彼らは神の愛を受けないうちに堕落したのかという疑問が生じるのです。神がアダムとエバを愛する時は、特別な経路を通して、特別な愛しかたをせざるを得ないのです。これはいい加減に愛するということではありません。息子が100人いたとしても、100人の中で父の遺業を相続する息子は未だ一人しかいません。 このような観点から見る時、、この堕落した世界で愛の体系を持つためには、神を中心とする選民思想を持たねばならないのです。「お前たちは傍系の一族だが、我々は直系の一族だ」と言える民族が出て来なければなりません。愛も同じことです。先生も皆さんをいっぺんにみな愛さなければなりません。ですから真っすぐ直行しなければならず、そのためには自身の全ての財産と生命までも捧げなければなりません。即ち理念と愛、その一つしかない人間のために、生死を越える人間にならねばなりません。それでは堕落圏内の人間の中で、誰が愛の相続者になるのでしょう? 我々の人類始祖アダムの、堕落前の立場の人間です。選民とか何とか言うのは、愛を誤ったがゆえに現れたことなのです。 神の愛を求めるためには こんな観点から見る時、愛の天理を教えるために神のみ旨を達成することができる人間が、堕落圏内から必ず現れるのです。それゆえイスラエル民族を通して選民思想が現れなければなりません。 イスラエルとは勝利したという意味です。何に勝利したのでしょうか? 何かの運動競技でしたのでしょうか? でなければ新婦を愛することで勝利したのでしょうか? 違います。神の愛を求めるにおいて、第一番に勝利したのです。 それでは神の愛を求めるために、どうしなければならないか? 世の中の人間に従っていてはダメです。必ず世の中の人々と、反対の道を行かねばなりません。サタンと反対の道を行かねばならないのです。それでノアもアブラハムもヤコブも、自分の居場所を離れて荷物をまとめたのです。 み旨の道を行くためには、神のみ旨を誰よりもより強く思慕しなければなりません。従って今日、我々は世の中自体を否定して、世の中を打つのです。言い換えれば、宗教は現世を否定し、哲学を克服しなければならないのです。 それでは極めて過激に現世を否定する群れが、どんな群れでしょうか? 殉教の歴史を持つクリスチャンたちです。彼らは神のみ旨を成すために、社会の病弊を除くために、殉教しても社会を否定して、叫んだ群れです。このキリスト教は現世を完全に否定しましたので、社会から追われたのです。社会を電撃的に否定しましたので、社会から過激に迫害され、追われたのです。現世を否定したら、必ず社会から迫害を受けるのです。それでキリスト教は追われ追われて、迫害されてきたのです。 ところでなぜ迫害した人々は滅んで、迫害された人間は滅びないのでしょうか? 迫害された人々にはみ旨の方向と連結され、そのみ旨と通じる理想があり、天を愛し地を愛し未来の理念を愛する心が宿っていたからです。即ち彼らは天運と拍子を合わせることができる因縁を結んでいましたから、世の中の人々が滅んでも彼らは滅びずに残ったのです。 ですから愛の神を中心とする宗教的な理念によって、民主世界と共産世界を統一することができる心情の天理が明らかになる日には、世界は自動的に統一がなるのです。軍事的な会談や平和的な会談を通しては、統一は出来ません。 この地球上には30億に近い人類がいます。そしてその中で20億に近い人類が、宗教的文化圏内で暮らしています。ですから世界人類の3分の2が、宗教文化圏内で暮らしていることになります。このような宗教圏に共産主義が深く食いこんでゆけるでしょうか?そうは出来ないのです。 ゆえに新宗教主義が現れなければなりません。それでここに統一教会員は、新しい主義と思想を持って、世界的な王者として現れなければなりません。全人類が宗教を持ったなら、共産主義は草のように蹴散らされるのです。ではその次に、綴られた歴史と残された歴史を総合して、解決づけなければなりません。 それではいかなる人間が、主人になるのでしょうか? うわべだけ見れば強盗のように強奪してゆく人間が主人のようですが、違います。本来の主人はいかなる人間か? 誰よりも人を愛する人間が主人なのです。犬も愛する人に従います。愛の心がない人間は、主人になることはできません。 人類歴史の総結論 共産党は武力政治、強圧政治によって人類を死に追い込むのです。彼らは何をするにも昼やらないで夜やるのです。彼らの工作は全部、夜中に起こります。昼やることはないでしょう。夜は陰です。陰は滅びるのです。ですから共産党は滅びなければなりません。 こんな観点から、み旨の目的から見て、これから世界が留まることができる内容の母体は何か? 物質ではありません。歴史と共に血を流し、歴史と共に涙を流し、歴史と共に呻吟して、歴史と共に解怨の一日を願ってきた歴史的な、愛なのです。それゆえこの歴史的な愛を実体化した、一人の指導者が現れなければなりません。その指導者が誰か? キリスト教的に言えば、メシヤなのです。 このような内容を中心に見る時、人類は新婦としての準備をした後に、新郎として来られるメシヤを迎え、神のみ旨の通りに生きなければならないのです。知性人だと自認している人々は宗教は必要ないとしていますが、そうではありません。 それでは統一教会においては、何をしようというのでしょう? この時点で神の愛を感じなさいというのです。神の愛を感じるなら、どの程度に感じなければならないか? 歴史過程における全人間は望めません。その愛の力をもってしてはダメなのです。イエス様が主張された2千年前の愛のように、漠然とした愛ではダメなのです。より貴い愛、価値ある愛、実体的な愛、実証的な愛でなければなりません。それは何よりも強く、現実的な生活観念を持って、誰よりも神の愛を強烈に感じるという、姿勢を持たねばなりません。愛を強く感じるには、どうしなければならないか? まず、愛の道がどのようにして付けられたかを、知らねばなりません。父母が子を愛することは、何によって教えられたのでしょう? 夫婦が互いに愛することは、言葉ではダメなのです。子供が父母の愛を感じる時も、子供を愛してきた父母の行路を、反対にたどることによって初めて「あ! うちの父母はこんなお方だったんだなあ 」となるのです。 それで逆にたどってきて、その愛を思い起こして見るのです。神を中心にして出発した愛は、どんなに理想的だったでしょうか? 人間が堕落しなかったなら、その愛は素晴らしく素敵な愛として出発したのです。神の心情は、この素晴らしい愛を中心として、自由天地の中で春の日に酔って生きる、夢を見る心情だったのです。しかしこのような神の心情は、出しぬけのつむじ風に出会って突然、氷のように凍ったのです。とり肌の立つ神の心、熱い火のようなその心に氷のかたまりが降り注いで、神は爆発的な悲しみに打たれたのです。ですから我々は、この愛を捜し求めなければなりません。今まで愛を捜し求めるための回復運動をしてきたのが、人類歴史だったのです。 人類歴史の総結論が何か? 簡単であります。神を中心とした本然の愛を、再び捜し求めるための運動なのです。これを捜し求めるために今まで、時代的に方法と手段と形態と概念を互いに異にして、人類歴史は流れて来たのですが、その目的は一つなのです。 神の愛 今日、私を中心にして見る時、神の愛が私と何の関係があるのか? 実質的には何の関係もありません。関係があるなら、どれくらいなければならないか? イエス様とイスラエル民族との関係よりもより深い、それ以上の関係があるという刺激を感じなければなりません。そうでなければイエス様の愛は感じられないのです。言い換えれば、イエス様に従った弟子たちよりも、イエス様をより愛するという心を持たなかったらダメだというのです。 統一教会はこのようなことを、歴史的に解明しなければなりません。即ち、どのように愛が発展してきたかを、歴史的に解明しなければならないのです。こうして歴史的に解明され、証しされた事実を通して、今日この時点の我が個体を中心として、歴史がこのようであるから私はこうでなければならず、歴史がこのようであるから社会的に、私にこんな価値があるという基準を、生活において立てなければなりません。こんな生活自体が、神を愛することであり、イエス様を愛する立場に立つという基準を得ることなのです。こんな内容を誰もが知るようになったなら、世界は自動的に統一されるのです。 ここには何かの手段と方法が、必要ないのです。家庭でも愛する妻がごはんを作ってくれれば美味しいのです。またお母さんがごはんを作ってくれても美味しいというのです。子供を持つお母さんは、その子が便をして体にこすり付けてどんなに汚しても、憎くはないのです。むしろ可愛くて愛らしいというのです。そうじゃないですか? 神の愛は、歴史過程によく現れているのです。ある民族を中心に見る時、熾烈な戦いに敗れ、追われる群れが命を失うそんな立場であっても、その国の主権を再び立て、新しい出発をしようとするのは、その背後に人間に対する神の愛が宿っているからです。数多くの民族が興り滅ぶその歴史の背後にも、時代ごとに変遷してきたキリスト教の歴史過程においても、今日世界的な文化が交流し、ぶつかる過程においても、必ず神の愛は宿っているのです。大韓民国の社会がどんなに腐敗しているとしても、ここには我々が知らないうちに、神の愛が宿っているのです。 これを見る時、腐敗した大韓民国にも世界に貢献できる要因があるのですが、それが神の愛なのです。従って皆さんは腐敗した世界の途上においても、神の愛が何千万倍も宿っていることを知らねばなりません。そしてこの神の愛は、この世の中を救うためであることを、実感的に感じなければなりません。 それゆえキリスト教は悪の世界から離れず、愛を叫んでゆかなければならないのです。しかしキリスト教はそんな内容を展開する宗教になることができず、それで終着点がないのです。このような社会を救えず、社会を指導する力量を失う宗教に傾いていっているのです。 これはある体制を持つ形態や、ある基盤によって出来ることではありません。骨髄から溢れ出る良心の本然の姿勢にわれ知らず包囲され、包囲するその力が、天運と方向を合わせ、この方向が歴史性に通じる感情を求めれば、ここに人間改造、人間再創造が起こるのです。 ですから人間は回生しても、手段と方法を通して回生したら絶対にダメなのです。良心的な人間であればあるほど、絶対的な真理を通して自分が回生することを望むのです。しかしそれ以上に心に深く望んでいることは、真の愛を通して回生することです。なぜそうなのでしょうか? 人間は死ぬ時も愛する人の胸の中で死にたく、愛する環境の中で死にたいのです。金銀財宝を積み上げて喜ぶ場ではなく、愛する心を通して信頼されるそんな場で、天的な因縁を結ぶのです。 愛はすべてが好むもの 今日我々が宗教を持つという意味は、宗教を持って社会の為に革新運動をしなければならないという意味です。内的にそのようにできる爆発的な心情を持たない宗教は、その使命を果たすことができません。宗教はあくまで言葉ではなく新しい環境を提示してきました。どんなに悪いところに行ってしまった民族であっても、その民族に真の愛の爆弾を投ずれば、彼らは必ず溶かされて同化するのです。皆さんの心もそうなのです。 先生は田舎で育ったので知っているのですが、首に綱をつけた子牛が鼻に鼻輪を嵌める前には、引いて行くのにとても力がいるのです。ところが子牛をつかまえて竹串を作って鼻に嵌め、手綱を引けば子牛は鼻から血をどくどく流して引かれるのです。その時から力を入れて引っ張らなくても子牛は引かれて行くのです。しかし鼻輪を付けた子牛でも、愛してやらない人間が引っ張る時には、うまく従わないのです。その子牛を愛している人間だけが、易々と引いて行けるのです。 これから世界を全て消化させるものが、何でしょうか? 共産主義でもなく、民主主義でもありません。それは愛です。愛も父母が自分の子を愛する愛だけではダメです。他人の家の子が死ぬのは胸が痛まない、こんな愛ではダメです。また一人の男と女が愛しあう時にも、二人だけが幸せならば良いという愛は、世界の人間とは何の関係もありません。それではどんな人間が必要なのか? 絶対的な世界において公平と平等に生きる人間が必要なのです。 世の中の人々の願いは何でしょう? お金をたくさん稼ぐことですか? それで人々はお金を稼ぐために故郷を離れてもやがて「アイグ-もう一度、故郷に帰りたい」と考えるのです。何で故郷に帰りたいのでしょうか? 故郷の山河が恋しいからです。愛する父母の懐に抱かれたいからです。それでごはんを見れば我れ知らず涙が出るのです。また故郷を想えばわけもなく胸がさわぎ、春の山を見るように心がうきうきしてくるのです。これはなぜ、そうなるのでしょうか? 父母、兄弟がいる故郷に愛の因縁を求めて行きたいからです。即ち、父母の愛、兄弟の情が慕わしいからです。 皆さん、家庭とう言葉をじっと考えてみるのです。この「家庭」の「庭」という字は何の「庭」の字ですか? ニワの庭でしょう。庭には色とりどりのきれいな花がたくさん咲いていて、家庭にも兄弟がいて父母がいるのです。それではこの花々が互いに良いという庭になるのか、互いに嫌だという庭になるのか? 家庭は互いに喜び、愉んで歌をうたい踊りをおどるところになっていなければなりません。ところが互いに争って闘ったら、その庭はどうなるでしょうか? 荒れ地になってしまいます。全部が滅ぶのです。 お金が欲しくて、親父の何文も入っていない巾着の金まで奪って自分の財布にしまう息子がいたなら、彼はひどい息子です。それではいけません。このように物質は限られています。限界線を越えることが出来ません。しかし愛の包みは、ほどけば無限大です。 ですから愛を中心にして見る時、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、氏族の愛、民族の愛世界の愛、天宙の愛の、縦的な基準がみな異なるのです。ここで異なることは、誰もみな良いというのです。 植物もよい音楽を聞けばよく育つのですが、悪い音楽を聞けば絶対に育たないのです。皆さんが一度、実験をしてみなさい。従って争い合うひどい声を聞けば、皆さんもよく育たない植物と同じようになってしまうのです。しかし愛が宿るパンソリを聞いて育てば、素晴らしくなるのです。この素晴らしく生きることができる何かを持っている心が、愛なのです。 み旨が行く道は愛が行く道 思春期がなぜ素晴らしいか、分かりますか? 素晴らしくなるから素晴らしいのです。思春期の時には何だか味もなく、勉強も知らないと投げ出して、いつも心が騒いでいて、自分が人工衛星のように飛んで行くのではないかと心配するほどです。このようになったら、どんなに素晴らしいでしょうか? 人間の最高の目的は何でしょう? 所願が何でしょう? 人間は地のために、全部が大地を抱きしめて地上で生きたいとするのですが、結局はどこに行くの? お墓に行くのです。それで人間は愛が宿るお母さんの懐を恋しがるのであり、愛する兄弟の懐を恋しがるのであり、愛する妻の懐を恋しがるのです。そのどれも愛なくしてはなりません。ですから最高の真理は、愛を中心として行くことです。ここにおいてキリスト教が、世界的な宗教にならざるを得ないことが証明されるのです。こんな内容は、仏教にはありません。儒教にもありません。 イエス様は新郎・新婦に対する御言もされ、また兄弟に対する御言も話されました。即ち宇宙の頂点は、世界人類がみな兄弟ということです。ですから人類は愛の俵の中で絡み合って、自分のための愛ではなく、他の為の愛を求めなければなりません。また家庭よりも宗族の為に、宗族よりも民族の為に、民族よりも国家の為に、国家よりも世界の為の愛を求めて行かなければなりません。これがみ旨の道であり、愛の行く道なのです。 忠臣は国の為に、自分個人を無視し、自分の家庭を無視し、宗族を無視して行かねばなりません。これが忠臣の道理です。また孝子は自分一身を無視し、自分の妻子を無視し、父母のみ旨に従って行かねばなりません。ですからみ旨の行く道は、愛が行く道です。自分個人よりも大きなことをまず愛する道が、み旨の行く道であり、愛の行く道です。 こんな観点から天地を推し量って見れば、イエス様は万民のメシヤにならねばなりません。イエス様は十字架で怨讐の槍に突かれ、嘲弄とあざ笑いの中で、無念にも惨めに死んでゆく最後の場においても「父よ、彼らをおゆるしください(ルカ23:34)」と祈祷されました。 それゆえ我々はイエス様の愛以上の愛を持たねばならず、自分に因縁のある人間だけを愛するのではなく、怨讐までも愛することができなければなりません。また我々は光明だけを求めるのではなく、漆黒のような暗黒も良しとする雅量と肝を持たねばなりません。そうすればその背後に、悪の勢力を払いのける神の愛が宿るのです。 であればキリスト教を中心とする、世界的な文化世界を創造することが出来るのです。ところでこんな事実は、外的に現れることはないのです。この内容を解明することがまさに統一教会の願いであり、信仰なのです。 ですから皆さんは自分よりも家庭を、家庭よりも宗族を、宗族よりも民族を、民族よりも国家を、国家よりも世界を、世界よりも天地をより愛するという心を持たねばなりません。さらには天地よりも神を、より愛するという心を持たねばなりません。このような心を神は願っておられるのです。 神は欲心が多いのです。神は6千年前に、人間の前に愛の基準を立て、神のみを愛せよとされたのです。これは天理ですから、独裁ではありません。イエス様もやはり、誰よりもわたしを愛さなければ、わたしにふさわしくない。わたしの弟子とは言えないと語られたのです。天理がありますから、愛の基準もあるのです。このような過程を経てくれば、天地の運勢も歴史の過程において歴史を動かすことが出来るので、神は人間にあらかじめ祈祷するようにし、苦労をかけられないのです。それで仕方なく人間に何千年もの間、耐えて見せられたのです。 ですから神は恵みを受けることを願う人々に、死んでまた死んでゆけとされ、天地のみ旨を守ってこられ、育ててこられたのです。良くですか? 悪くでしょうか? 良かったのです。 み旨の行く道は理想の道 統一教会の先生は神を、私の神としたいのです。他の人の神にしておきたくはないのです。こんな欲心は罪ではありません。善なのです。先生が神を私の神として皆さんを愛すれば、皆さんも喜ばねばなりません。ところが先生が愛そうとする韓国が、先生に最も反対するのです。気が滅入ることです。 み旨が行く道は理想の道です。理想は必ず愛を中心にして座を占めねばなりません。そうすればここに永遠なる安息の基台が生じるのです。しかし未だいずれの環境においても永遠に安息することができる安定圏が造成されていないのです。ですから宗教人は、可能性がある立場で、そこに向かって行かねばなりません。ところが可能性のある立場で、行こうと考える宗教人がいないのです。統一教会は可能性があると考え、可能性を感じて行かねばなりません。皆さんはこれを感じて行きますか? 感じなかったら皆さんは、また荷物をまとめてこれを捜し求めなければなりません。先生もやはりそうなら、また再び荷物をもとめて捜しに行くのです。 神のみを愛せ。主のみを愛しなさい、という言葉は人間の前に愛の動機となると同時に結実になるのです。それでキリスト教が2千年という長い歴史過程において犠牲になってきましたが、今まで残ったのです。 皆さん、終わりの日が近づいています。いよいよ最後の決勝点が近づいています。ゴ-ルインしなければならない時です。ですから最後の1歩を残しておいて「私が駆けたようにみな駆けてる」と駆けて来る人々に「あなたたちは今駆けているが、私はこんなに駆けて来た」と見物していてはダメです。その人間がどんなに千里の道を駆けて来たとしても残った一歩のために、万里の道を行くということ知らねばなりません。 終わりの日になってキリスト教が世界を主管できる、ゴ-ルインする最後の決勝点に到達するにもかかわらず、彼らは休んでいるのです。即ち、キリスト教は万宇宙の前に誇ることができる勝利の権限を持っているのに、彼らは決勝点で休んでいるのです。休んでいて「アイゴ-、ここがどこだ! 駆けている時は分からなかったがここに何があるんだ」と目的を見失ったまま、他の事をしているという事実を悟るようになるのです。しかし統一教会は、現在のキリスト教とは違います。同じであってはいけないのです。 それでは現下のみ旨の行く道が、どんな道なのか? 善の道です。それでは善とはいかなることか? 欲心を満たすことか? 他人の財布のものを持ってくるのが善ですか? 違います。善は与えることです。愛の心で飽和状態になることです。しかし愛はこの飽和性を越えるのです。飽和状態ではそれ以上は上がれないのですが、愛はその基準を、その飽和性を突破して越えて行くのです。我々統一教会員は愛によってこの活動範囲を越え、神の懐までこれを連結させ、因縁を結んで神を喜ばせなければならないのです。 本然の愛を求めて行かねばならない人生 数十億の人類は生まれる時も愛を中心にして生まれ、死ぬ時も愛を中心にして死ぬのです。即ち愛の中で生まれ、愛を中心に生き、愛の中で死ぬのが人間というものです。このように人間は変わることのない愛に依存して生き、変わらない愛がとどまる所に安息するのです。ですからそんな愛がとどまる所なら、岩間であっても大手を広げ、いびきをかいて安心して昼寝ができるのです。 皆さんは父母の愛によって生まれたのでしょう? 真の愛によって生まれたら、真の世界で愛を抱いて生きなければなりません。これが理想的な人生です。ところが人間は誤った愛の一致点を通して生まれたので、誤った愛の圏内で生き、誤った中で死んでゆくのです。ですから人間は本然の愛を、追い求めて行かねばなりません。 キリスト教で言うところの、復活をしなければなりません。本然の愛の中で生まれず、本然の愛の中で生きず、本善の愛の中で死ぬことが出来ないので、再び生まれ、再び生きて死ぬことができる道を開拓しなければなりません。我々の人生は、本然の愛を追い求めなければならないのです。 本来の愛の道が何でしょうか? 理想が宿る道です。それではその理想とは何か? 神が本来、人間を創造された時の創造理想です。愛は最高に不可思議なものです。 人間は神を占領しても安心できないのです。男はみな盗賊です。先生も男ですからこれを否定できません。神を占領しようとしてこれで良いと、満足できないのです。人間の欲心は、どこまで占領したいのでしょうか? 神の心の包み、心情の真ん中にある秘密の倉庫の中の愛を願っているのです。永遠のこの愛を完全に占領したら、人間の欲心もその時にやむのです。人間は神の愛を占領するための、競技に出場する勇士です。 今まで大韓民国で先生は悪口を言われ、いろんな噂を聞きました。しかしその噂を世の中の人々が問題視すれば、神を占領する条件を立てることになりますから、それは悪いことではないのです。それで先生は難しこも耐え、我慢して、統一教会を率いているのです。言い換えれば、サタンを始めとする悪の世界のひどい迫害と、苦しみを堂々と克服する人間にならねばならないのです。 この世的に見れば無価値なおばさんが、統一教会に入ってくれば他人の為に祈祷してあげるのです。彼らの心の中には愛によって他人を許し、愛を望み、その愛の前に永遠に宿りたいという心があるのです。ところがその愛を盗もうという人間がいたら、その人間は愛の盗人です。それでは神はそれを嫌われるでしょうか? 神もそれを良しとされるのです。愛の盗賊の中での大盗賊が、まさに神様なのです。 ある人間が「ああ ! 苦労される神様」と神を抱え「私を愛して下さい」と言ったら、彼は間もなく愛を失ってしまうのです。失ってしまったものは、永遠に自分のものではありません。人間は元来、神の愛の中で生き、神の愛の中で死ぬべきなのです。今まで先生がどんなに辛くても耐え、この道で闘ってきたのは、この道で死なねばならぬことを知っているからです。 我々がどんなに外的に、もらい食いをして乞食になったとしても、滅びはしません。神の怨讐を打つための作戦ですから、幾日か御飯をもらって食べてもそれが罪でしょうか?それよりもより大きな事をしようとしているのです。このような事を、皆さんは知らねばなりません。先生がプサンに避難する前、埠頭で労働して事業して金を稼いだのですが、他の人々が金を稼ぐのと目的が違うのです。先生は出来ない事がありません。塩田で塩を積み上げることも良くやったのです。やってみない事がないのです。野良仕事もやってみました。皆さんもこんな事をやってみなければなりません。 先生は金が一文もない人間ですが、天下の誰も羨んでみたことがありません。アメリカの大統領も羨ましくはありません。(中略) 先生は難しい時は、絶対に祈祷しません。死ぬような事が起こったら、アボジに生かして下さいと言い、良い時はさよならというようなことは、しないのです。 統一教会が立てる愛の基準 皆さんは服を着て自慢し、笑って暮らしていますが、その全てが臨時に借りて着て、臨時に暮らしているのです。言い換えれば皆さんの暮らしは、旅人の歩みのようなものであり、皆さんが暮らしている家も、旅館やホテルのようなものに過ぎないのです。我々には無限大の価値があります。それは自分を呼ぶ声も聞こえず、知ることも出来ないのでどんなに哀れなことでしょうか? 人間は愛の中で生まれ、愛の中で暮らし、愛の中で死んでゆくべきなのです。その愛とは何か? 金をやれば出入りする愛ではありません。存在の起源をふるわせる愛であり、存在の事由を主管する愛であり、存在の結実を現実化する愛なのです。この愛は生まれ出た時から死ぬ時までの絶対的な愛です。それで人間は世界を統一したいのであり、玉座に座って万民の前に誇り、同時に愛する人と共に暮らしたいのです。ここまでが人間的な欲望です。 しかし統一教会の欲望は、一段階あがるのです。統一教会の欲望は二人だけの愛ではなく、二人の人間を合わせ、その中で神に侍り、神主義を成して30億人類を集めようというのです。こうして本然の世界を求め立て、神を中心に人類を結びつけ、全て愛するというのです。統一教会が立てようという愛が、こんな愛なのです。分かりますか? イエス様もそうですから、キリスト教を中心にして世界を復帰してきたのです。従って今は、世界がキリスト教圏内にあって、イエス様の愛を是認しているのです。キリスト教の2千年の全てが今、終わりの日に到るまでに人間を復活させて、その中において神に侍り、神に人間をまとめて結びつけ、愛の園を成そうというのです。これが地上天国でありキリスト教の第一の理想です。 それでは自身の血統的な縦的関係を無視して、横的な関係をより重要視しする愛の感情をどのように爆発させるか? 今まで人間は縦的な愛の道に従って来ました。しかし我々が指導してきたこの縦的な愛の道を、世界の道にまで発展させなければダメです。ですから世の中が大騒ぎするのです。従ってこんな縦的な愛、自身の血統的な愛を分離させておいて、この愛を尊重視する新しい愛の包みを解かねばならないのです。言い換えれば、自身の妻より、息子娘よりも、より世界人類を愛さねばならないのです。 神の立場から見る時、全人類は公平です。自分が愛する息子娘と世界人類は、神の前にはみな公平なのです。それゆえ自分が成すべき責任と使命を背負い、より尊くより価値ある存在に従って愛することを願う人間が、神側の人間なのです。ですからこんな愛を発展させるためには、自分の親戚、宗族、民族を超越して、世界を愛さなければなりません。イエス様は民族を越えて、世界を愛された人です。ですからイエス様は世界の主人になるのであり、人類はイエス様を中心にして、この世界を復帰しなければなりません。 み旨の道は愛の道であり、善の道 み旨の行く道は理想の道です。しかしこのみ旨の道は、苦労の道なのです。創造主である神の理想は何ですか? それは人間が愛の中で生まれ、愛の中で暮らし、愛の中で死ぬことです。ここにおいて、このような命の道を行く人間は永遠にその愛と共に、この道の主人になり、そうでない人間は流されて行くのです。ですから人類はこのような愛を持たねばなりません。 それでは統一教会員はどうか? 愛の中で再び生き、愛の中で死ぬのです。自分の家庭の愛ではなく、天と地の愛を抱えて生きて死ぬというのです。 本来、人間始祖アダムとエバの所望は、天と地を一つにすることだったのです。彼らはそのために生まれたのです。今日の人類もこんな愛の因縁の中で生まれ、その愛を実践するために生きなければならないのに、人間はこれを知るよしもないのです。 それで神は第二のアダムとして、イエスを送られ、愛の因縁を相続させ、この愛を実践させるようにされたのです。そのための足場として、イスラエル民族を立てておかれたのです。しかしイスラエル民族がイエス様を不信することによって、この愛の本質を失ってしまったので、神は活動舞台を再び霊界に移されたのです。こうして再び世界的に、この愛を展開させるためにイエスが来られるのであって、その日がまさに再臨の日なのです。即ち、神が願う愛によって一つの世界を成すために、イエスは再臨されるというのです。 それではこの愛が、どこに行くのでしょう? 愛が行く道は善が行く道であり、み旨が行く道なのです。それゆえ皆さんは自身を犠牲にしたとしても、家庭をみ旨の前に立てることができる愛を持たねばなりません。大きなもののために、小さなものを犠牲にしなければならないのです。自分個人の縦的な愛を犠牲にしたとしても、世界的な愛を発展させる人間にならねばなりません。こんな人間が地球上に生じ始めたら、この時から地上天国という理想世界が成就し始めるのです。分かるの? ここに初めて来た人は統一教会をよく知らないでしょう? 統一教会は大韓民国が嫌っている教会です。ところで誰が分かって言っているのでしょうか? 統一教会が悪いといって、そのように言う理由がありますか? 初めて統一教会に来た人々は「アイグ-、これはえらいことだ、統一教会の文先生がえらいことだ」と言うのです。しかし統一教会がどんな教会か知らないで、悪口を言うのです。その人々は今まで、自分の家庭のために国の禄を食んで、国を利用して大風呂敷を広げて座っている連中です。 孝忠ではなくて忠孝です。そうでしょう? 孝誠を尽くして仕えなければならない父母を捨てて、忠臣の道を行くのが天理です。それゆえみ旨が行く道においては、より大きな価値のために、より小さな価値を吸収して犠牲にするのです。そうすれば統一が成るのです。統一がいいですか? 悪いですか?(いいです)ところでなぜ、既成教会の人々は統一教会を憎むのですか? 頭は統一で下は教会なので、従兄弟ですから・・・。 皆さん! 宣伝できますか? 皆さんは宣伝することを知らないでしょうが。宣伝を知らないでしょう? それで反対の風がここに吹き寄せて、同じように絡みつけば統一されるのです。分かりますか?(ハイ) 統一はどのようにするのか? み旨に従ってやるのです。韓国人よりもアメリカ人をより愛そうとすれば恨めしいですか? 恨めしくないですか? 恨めしいでしょうが、韓国人を犠牲にしても、西洋の人々を生かさなければなりません。そしておばさんたちの髪の毛を切ってカツラを作って売ったとしても、外国人たちを助けてやるのです。どうを、恨めしい? なぜ黙っていますか? 皆さんはどこまで入って行かなければならないの?死ぬような最高のどん底まで、入って行かなければなりません。えらいことでしょう? でなければ世界主義者ではありません。 統一教会は世界主義者になる道を教えているのです。ちょっと前に日本の娘さんが来ましたが、その娘さんは韓国の人々を信じて、お金も本部教会に任せておいたのです。韓国にいる従姉妹の家にも行かないで、ハンドバック一つ持って韓国の統一教会を訪ねて来たのです。統一教会の文先生が何の能力がありますか? ところが先生が食事していると、まるで自分の家の奥の間に座った嫁が、孫をつれて還暦祝いをした人のようにゆったりして、どっさり食べるのです。誰がそうしなさいと教えたのか、先生にも分かりません。 皆さんは怨讐の中の怨讐を殺してやりたいと思っても、愛して原理をしきりに入れてやらなければなりません。今日、我々が抱いて行くことは、こんな原則です。ですから統一教会の人々は、世の中の人々とはタネが違うのです。それで悪口をたくさん言われるのです。しかし先生は他人に後ろ指を差されても、黙々と涙を流して、世の中にみ旨を知らしめようと全力を注いでいるのです。 涙は人類の為に、汗は地の為に、血は天の為に 今、先生は韓国を離れ、外国に行こうとしています。外国の人々を生かすために、統一教会の人々の鼻に縄をつけて引っ張って行くのです。こうして万民が生きれば、先生は死んでもかまいません。これが罪ですか? 善ですか? (善です)それでは皆さんの鼻に縄をつけて引っ張って行きます。先生は今まで、神の前に抗議したことはありません。このようにして皆さんを率いてきたのです。途中、監獄にもしきりに出入りしました。今は監獄について知らないことがない博士です。監獄でひどい鞭にも打たれました。ですからもしも誰かを打つなら、無慈悲に打つ人間です。道に外れた人間ぐらい処理するのは問題ありません。音もなくズバリとやるのです。 先生は何事もやると決心すれば、3年以内にやるのです。皆さんが先生にこっそり、しこりになったものを解こうとひと芝居やろうとしても、先生はすでにそんなことは皆なやったのです。このように言うと皆さん、気分はいいですか? 悪いですか?(いいです)なぜいいの? 皆さんは先生を、どんな立場でいいと言うのですか? 同じ韓国の人間としての立場でいいと言うのですか? でなければ神の立場でいいと言うのですか?(両方です)(笑い)皆さんは先生は悪いと思うのでしょう? 慇懃に神の手先だと、だから悪いというのです。 世界的な闘いをするにおきまして、今までは統一教会の負けです。前半戦は統一教会が負けていました。しかし第2次戦である後半戦に入ったら勝利するのです。勝利の基準がこちらに傾いているのです。それで多くの人間が必要なのです。(中略) 先生は韓国でだけ活動するのではありません。アメリカ、ドイツ、日本でも活動しなければなりません。いつかはそこの人々を全て復帰するという、腹を持っているのです。飛び回る蜜蜂が蜜の味を一度味わえば、蜜の板にしっかりひっついているのです。どんなに離そうとしても離れません。鳥の羽ではらっても離れません。同じように甘い神様の愛の味を一度知れば、自分の国も神のみ旨の前に捧げるのです。決死的に復帰させようと努力するのです。世界を引受け、人類を引受け、国家を引受けるにおいて、最も重要なものが何でしょうか? それは神の愛です。めしに飢えて生きても、愛があればいいのです。 皆さん、鼻に縄を通されていいでしょうか? とんでもない? イエスもそんな道を行ったのです。先生もやはりそんな道を行きながら、多くの試練を受けました。皆さんはこれを知らねばなりません。(中略) ここにいる人の中には、既成教会に通っていた人もいるのです。彼らは初めは統一教会が中身があるのかないのか、いろいろ叩いてみるのです。良く熟しているか熟していないか、叩いてみるのです。叩いてみて、とても良く熟していたのです。 その人々が統一教会の味を知ってみれば、春の園のような統一教会の味をみてみれば、子供からおばあさんまで列をなして手を振り、入ってくるのです。心の世界はこのよになっているのです。 統一教会に入って来れば誰が知らせるのですか? 神が知らせるのです。先生は神の作戦法によってやらせます。自分個人のために生きたらダメです。この民族を生かさねばなりません。従って涙は人類の為に、汗は地に為に、血は天の為に流さねばなりません。 「自分は今まで知らなかったが、この味を知って余りに余りに素晴らしい、胸がつまるようだ!」というほど、神の愛を感じなければなりません。 教会の組織にしばしばなじめなくて、教会と通じなくなって離れた人が多くいます。どんな激しい風が吹いてきても、これを制する人間にならなければなりません。そうでない人間は、統一教会員ではありません。 み旨の行く道に向かって誠精を尽くせ 先生は今、外国に行かなければなりませんが、離れて皆さんに福をこうて行くのでしょうか、悪口を言って行くのですか? でなけれが情を残して行くのでしょうか、放って行くのでしょうか?(情を残して行くでしょう)先生は情を離れて行かねばなりません。考えてみて下さい。情を残して行ったら、アメリカの人々が喜ぶでしょうか? 嫁に行く娘はまわりをきれいにして行くのであって、ボロボロにして嫁に行くでしょうか? それがいいでしょうか? そのようにする人がいますか? 愛はみな同じなのです。ですから先生は、韓国への情を離れて行かねばなりません。 ついてくるものを離すには、どうしなければなりませんか? ついて来る子供がいたらゲンコツをくれてやらねばなりません。ゲンコツでダメなら刃ででも離さなければなりません。ですから離すのは離すのですが、どうやって離す? これを先生はいつも考えているのです。皆さんもこれを考えなければなりません。先生は一回りまわって、今まであった全ての事由を全部、忘れてしまうのです。新しく再出発する心を持ちたいのです。分かりますか? 今まで先生は韓国の人間を愛してきました。しかし今は、彼らから離れて行かなければなりません。従って皆さんは誠精を尽くして、一つにならねばなりません。 皆さんは誠精を込めた包みをくるんで、先生の前に来て「これが全てです。よろしくお願いします」としなければなりません。皆さんは特別に、ありったけの誠精を込めて祈祷しなければなりません。分かりますか?(ハイ)それでは誠精をどのように込めるのか?善は誠精についてくるので、7年路程を許されたアボジが何の条件もなしに7年の誠精を込められたので、皆さんはそれ以上の誠精を込めて、夜昼なく真っしぐらに駆けねばなりません。分かりますか? こんな誠精を込めるに、休む時がありません。 先生は1965年、韓国の聖地の土を世界120か所に分けて与えました。こんな過程で世界の地を連結させようと、日本に行きました。ところで日本で、先生に逢いたくて夢中になった人間が来ました。事実、先生は狂ったといえば狂っているのです。ところで何に狂っているかが問題です。神の国を創るのに狂っているのです。 それでは今、どうすべきか? 地上を連結させる立場になれば、その次に人間を連結させるのです。人間の中の真の人間、誠精を込めた人間です。先生は誠精を込めた人々の心と、統一教会の人々の心を互いに一致する方向に連結させようとしているのです。そのために先生は自ら、皆さんのお使いをすることまで躊躇しません。それゆえ彼らの誠精を中心に、そんな祈祷をしなければなりません。皆さん、祝福が何であるか知ってますか? 先生は祝福をしなければなりません。実権主義者たちの享楽的な関係は、人生を敗北させる決定的な状態に至っています。ところで女性たちはこのようなことを知りません。 先生が日本に行く時、一等の飛行機に乗って行かなければならないと、日本の人々は家を売っても一等の切符を買って、パッと飛べるようにしたのです。そのようにやったのです。我々統一教会は、普通の人間が理解できないことをやるのです。今先生は世界を巡回して回って、7年の峠を完全に終結させて越えなければなりません。分かりますか? それゆえ皆さんはみ旨の行く道のために、誠精を込めなければなりません。言い換えれば犠牲を覚悟して、涙と血と汗を流す覚悟をしなければなりません。物心両面から世界の為に、全てのものを捧げなければなりません。 世界を復帰することが出来る秘法 神がアメリカを祝福されたのは、誰のためでしょうか? 皆さんはアメリカを愛された神の心と一致する心で、誠精を尽くさねばなりません。これが今日、皆さんに許諾されたことです。分かりますか?(ハイ)そのようにしたい人、手を挙げて。皆さんがこのように力強く手を挙げれば、先生は出て行けます。何の話か分かりますか? 先生が行く道の前に、皆さんが誠精を込めてくれれば、先生はしっかりと報います。他の人々はみな先生を悪く言いますが気にせず、追われることがあってもみ旨の為に誠精を込める人間は、びくともしないのです。先生は後ろ暗い人間の前では威厳を保つのですが、誠精を込める人間の前では気後れがするのです。ならば神様をがっちり結びつける秘法は何でしょうか? 鞭うたれ追われても、戻ってきてその鞭を忘れて再び訪ね、そうするより他に仕方がない事情があったと、アボジに許しを求めるのです。それでむしろアボジを慰める人間にならねばなりません。そんな人間がいたなら、ならず者のようなアボジであったとしても、心が溶かされるのです。こんな人間が「アボジここにお出で下さい」と言えば「どうりや わが息子よ!」とされるのです。こんな人間には神もとりこになるのです。そんな人間が神をがっちり縛りつければ、神は「がっちり縛られても良い、もっと縛ったくれ」とされるのです。これが世界を復帰する秘法です。 先生が皆さんにお願いしたいことは、み旨に従って行く道においては、自分のために祈祷することより、世界に広がっている日本、アメリカ、ドイツ等、外国の食口たちの為に祈祷して、誠精を込めることです。全世界人類の為に祈祷して、誠精を込める皆さんにならねばなりません。分かりましたか?一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.03
コメント(0)
「記憶せよ侍義時代」1967年2月15日(水)前本部教会 統一教会は再販です。我々は初版ではなく、再版です。壊れたものはきれいに濯いで、再び造るには、自分の全てのものを捨てなければなりません。この時、自身の考えが少しでも残っていたら、元来の位置に復帰できないのです。 統一教会は再版 長子であり、初版であるサタン側は滅びましたが、次子であり、再版である天の側は滅びることなく勝利しました。我々の教会は初版に属しますか、再版に属していますか? 初版はすでにサタンが、みな占領してしまいました。初版に属している人間が多いのですが、全部壊されてしまいました。初版の使命を相続した人々が、再版に属する人々です。今日皆さんは統一教会に入って、7年路程の恵沢圏内に入っております。これは皆さんの先輩たちが苦労し、迫害を受けても、サタン世界とに闘いに勝利した結果に起因するものです。 統一教会の若い女性たちはお嫁に行く時、初版に行くの、再版に行くの? そこのキムトンウオンさんどうですか?(キムシに向かって)「トンウオンシはその時、婿に行くのが良いですか、嫌ですか?」嫌だと言わないことをみると、良いという様子ですが? もしも嫌だというなら、悔い改めなければなりません。悔い改めるなら、どのように悔い改めるのか?「私は再びは婿には行きません」と悔い改めなければなりません。これが最も早く許しを受ける方法です。 我々は悪口を言われるにも一番に言われ、鞭打たれるにも、一番に打たれなければなりません。殴られたら蕩減になります。しかし蕩減条件として、同一人物が同じ事を二回はやれないということを、知らねばなりません。アブラハムが3祭物を捧げることの失敗を精算するために、10倍以上の苦労の路程を経ていった事実は、どうにも否定できないのです。復帰路程において、蕩減条件を立てる人間は、ただ一度だけしか立てられないのです。重要な蕩減の使命を任されるために立てられた人間が失敗したら、その人間は再び立てることが出来ないのです。 であるなら一度しかない蕩減時代が過ぎ去る前に、蕩減条件を提示できなかったらどうなるのでしょうか? もしも責任を担えない時には、生きてきた功績が吹っ飛ぶのです。今まで積んできた功績が、そっくり吹っ飛んでしまうのです。ですから死を覚悟して、必死に神のために闘わなければなりません。ヤコブがヤボク河で、天使と夜を徹して闘った時にも、死を押し切って闘ったので、勝利できたのでした。この急がれる人類の大事ですので「今夜は過ぎてしまいましたので、明日の晩に再びやります」とは出来ないのです。そのようにやったなら、何千年の歳月が過ぎた後にか、そんな時を再び迎えるようになるのです。 緊迫した重要なる7年路程 復帰の歴史は6千年の間流れてきましたので、一人の人間が6千年を蕩減して条件を立てるためには、少なくとも60年の間、み旨を抱いて行かねばならないのす。一生において6年ではなく、何と60年の間、煩悶しつつ蕩減条件を立てなければならないのです。ところがこのような期間に立てなかったら、120年の間に再び立てなければならないのです。ヤコブやモ-セは、イエス様のために蕩減路程(4千年)を行きますので、40数の蕩減路程を行ったのです。 でありますから、一度時を逃したらダメだということを考えると、7年路程がどんなに緊迫して、重要であるかということが分かるのです。我々が7年の初めの戦いに挑戦して神に誓い、民族的な蕩減のために自分自身を祭壇の上に捧げ、祭物としなければなりません。皆さんは先生が、皆さんを祭物として民族的祭事を捧げようとする、一度しかないこの7年路程であることを知らねばなりません。 皆さんが嫁に行き、妻を娶りしてこんな戦いの場に行ったなら、支障が多いのです。ですからできるなら7年路程を終ってから、嫁に行き娶るのが良いのです。今まで嫁ぎ娶った人たちは全て良くありません。それでは嫁ぎ娶った人は多いのですが、そんな人たちはどうなったでしょうか? 今まで嫁ぎ娶った人は、歴史的な蕩減の祭物になったのです。ですから今、若い女性たちは7年路程を全て終えなければなりません。神のみ旨の通り、韓国が歓迎することができる時代になれば、皆さんは一等婿ガネに出会えるのです。 これまで先生は民族復帰の使命を完遂するために、7年路程を来ました。思想的な基準を中心に見れば、先生の内的な基準がアベル的な立場であり、外的な基準がカイン的な立場なのです。すなわちカインアベル的な基準と中心として見る時、内的な基準は思想的な基準だということです。先生は思想的な面におきまして、この国の全ての権力者や、ある団体を凌駕することのできる基準、すなわち天的な基準に立っています。このようにして3千万民族が一つになって、世界的な復帰路程を出発するなら、第二の初版ではなく、再版になるのです。 初版において勝利の権限を持った人たちと、再版において勝利の権限を持った人たちの中で、どっちが偉大でしょうか? 初版で勝利の権限を持った人たちです。初版で勝利した人たちは、再版も思いのままに決定することができるのであり、彼らが行きたければ行き、でなければ行かないのです。初版に合格しなかった人間は行きたくても行けないのですが、合格した人は再版三版にも行けるのです。これは1次戦、2次戦、3次戦と延長させて来た復帰摂理であったからです。ですから第1次に勝利すれば、第2次に出ることができ、第2次に勝利すれば、第3次に行くことができるのです。もしも第1次の戦いで国家的な基準の勝利をなしたら、国家的な勝利の栄光を占めることができるので、全国に行っても、国家的な基準の重要な責任を負うことができるようになるのです。しかしながら世界的な責任を再び延長できないと、世界的な責任をなす立場にはなれないのです。 このように考える時、統一教会の幹部たちは、よくよく知らねばなりません。今まで36家庭が韓国を主として、初版の戦いにおいて責任を担ったとしても、またさらに世界舞台へ出戦しなければなりません。36家庭は出戦の責任者たちです。ところが出戦をしない時には、神は行かないと叱ることもされず、責任追求もされないのです。その代わり、世界的な出動によって勝利の結果を招いたその場には、同参することができないのです。しかし「私はここで留まることはありません。先生に従って、再版終版までついて行きます」という人間は、どうせ苦労しなければなりません。苦労をする時、先生を代身して責任を負い苦労したならば、先生と同じ立場に立つようになるのです。ですから皆さんが7年路程の初版の戦いに加担して、真なる者として神のまえに責任を担い、涙を流し、血と汗を流したことがどんなに貴重なことかを、知らねばなりません。 世界に拡散する統一教会の理念 み言がいつから表れましたか? 先生が16歳の時から表れました。算式や数学問題を解く公式を話そうというのではありません。女で言えば何かおしゃれをしょうと、そんなおしゃれを覚えなさいというのではありません。男なら世の中で今まで生きて来た自分の居所の中で、覚えている道を求めて行くというのではないのです。皆さんはこの闘いに責任を負う者としての矜持を持って、この責任を中心として記憶しなければなりません。 皆さんが生まれたこの世には、4大聖人、すなわちイエス、孔子、釈迦、ソクラテスがおります。このような聖人を追慕すれば、その聖人が生まれた背後の環境と生活が慕わしくなり、であれば聖人がどんな国に生まれたのかということが、問題になるのです。 先生はイエスが生まれたイスラエルの国に行ってきました。ベツレヘムにも行って見、エルサレムにも行って見ましたが、そこは乳と蜜が流れるカナンの福地とは見えませんでした。半砂漠地帯に、畑が少しばかりあるだけでした。そこにはロバとラクダが多く目にとまりました。そしてオリ-ブの木が沢山ありました。これは気候が熱帯性だからで、良い地ではないように感じました。 今日このイスラエルを、全世界に広がっているキリスト教徒が巡礼することが、一生最大の幸福と感じているのは、なぜでしょうか? これは、イエス様が生まれた所だからです。孔子が偉大だということは、孔子の思想を中心として国が興り、中国文化が創造されたからです。 釈迦もやはり同じことです。王室の王子として生まれましたが、自ら苦行を通して悟りを開きました。こうしてあらゆる苦しむ人々に、生きる道を開拓してあげたので、苦しみを受ける全ての人々は彼を追慕すると同時に、彼が生まれた国まで慕うのです。ですからインドは、忘れてはならない国になるのです。 それでは聖人を待つ我々は、何を考えなければならないでしょうか? その立場を考えなければなりません。その立場を考えたなら、その立場を成すまでの由縁となった環境を考えていって、であれば聖人が生まれたその国を、考えなければならないのです。ですから世界的な聖人が生まれた国は、疲弊し荒廃していたとしても、その地を尋ねる人々は依然として絶えないのです。皆さんはこのことを否定できません。 歴史上のある一時代の、一国の主権者、すなわち自身の国の文化と権勢を誇った主権者は、歴史に1ペ-ジを残したまま消えていったのです。しかし年輪を経て、思想的な基盤を築き、世界的な文化を成した、人格的な素養を持ったそのような聖人がいたとしたならば、その聖人が生まれたインドならインド、イスラエルならイスラエル、あるいはギリシャならギリシャ、このような国を慕わざるを得ないのです。その国はたとえ滅んでも、その国にその聖人が残した痕跡をたどってみたく、その聖人が生きた当時の姿を想起して、その時代の文化と生活の感情に触れてみたいというのが、我々人間なのです 統一教会の理念は、神の復帰摂理の中で、おそらく一度しか生じないのです。また今は対外的な関係から見る時、空前絶後の歴史的な時なのです。これはどれほど驚くべき事実でしょうか? 今日の韓民族の実情は、あまりにも悲惨です。口にも言えない重大なる責任を任された民族なので、世界のいろんな民族から同情される他はない立場なのです。しかしこのような環境の中にあっても、新しい世界を立ててゆく文化的な基台と、思想的な要所が、統一教会の動きによって世界に現れるようになるのです。我々がこのために専念すれば、今日我々が直面しているこの不幸なる立場が、歴史的な幸福のために闘っている立場だということを、否定する道理がないのです。 それでは皆さんは、統一教会が持っている理念を、イエス様が立てた基準以上のものと考えていますか、釈迦が立てた基準以上のものと考えていますか? あるいはソクラテスや孔子が立てた基準以上のものと考えていますか? 皆さんが、彼らが立てた基準以上の基準を立てたなら、彼らよりもさらに高く、貴い価値の場に立つのです。皆さん、こんなことを考えてみましたか? 皆さんが見るに、先生は何事もなく捜し求めたように見えるかも知れませんが、今日この地上に立って、歴史を振り返って見る時、統一教会が提唱している理念が最高だというのです。統一教会理念を中心として、世界が一つになることは間違いのないことです。 この民族の歴史的背景 神の復帰摂理の終着点にならなければならない立場に、皆さんは立っているのです。ですから皆さんが立っているこの立場が、どれほど大変な立場か、ここに立っている皆さん各自の個体がどれほど貴重な、尊貴な存在であるかを、皆さんは考えてみなければなりません。 先生がエルサレムに行った時、博物館に入って、イエス様が当時使っておられた何か遺物がないか、聞いてみたのですが、何もありませんでした。もしもイエス様が使っていた遺物、すなわちハシの一本でも残っていたら今、韓国のお金を全部やっても買うことができません。これは民族全部をやっても買うことができない、無限なる価値があるというのです。もしもイエス様が身につけておられた衣服が残っていたら、その衣服は無限の価値があるのです。文化世界における最高の価値として、代表となる価値なのです。これは歴史が過ぎて、それによって及ぼした影響を見てみる時にうなずけるのです。しかしイエス様当時に生きていた人々は、そんな価値があることを未だ知らないのです。その当時の人々は、イエス様と寝食を共にし、行動を同じくし、彼と共に修養する立場にあったのですが、彼らはそんな価値があることを知らなかったのです。これが全ての後孫のまえに、恥じとなったという事実を、我々は感じなければなりません。 ですから時が過ぎて後に、その価値を感じるよりも、歴史を率いてきた実績を見て、その人格を尊重することよりも、その当時に価値を知ることができる素質と、そのようにすることができる性質を持たなければなりません。そのお方は、世界と取り替えることもできず、世界にある何物とも比較することができない、価値ある存在であると高くあげる人間がいたとしたら、その人間によって主様に侍ることができ、そのお方のものを相続することができる資格者となるのです。これを皆さんは、覚えておいて下さい。 皆さん、過ぎ去った昔の自分自身を振り返ってみて下さい。先生や皆さん全てが、今まで惨めな道をきました。この三千里山川の歴史的背景を見やり、我々民族は惨めな民族でした。歴史以来、他民族から圧政を受け、蔑まれ、彼らから追われつづけてきた民族でした。このような歴史的な背景を推し量ってみる時、この地は歴史的な事由と、歴史的な怨恨が結ばれている地であり、この民族は歴史的な悲しみを留めている民族なのです。 皆さんは、故郷の山川を慕うでしょう? ところで惨めで、歴史的な悲しみが宿っている故郷の山川であることを、皆さんは考えてみましたか? そこには忠臣、烈士たちの惨めに流された血と涙の痕跡が残っていますので、彼らの悲しみを解怨成就しようという心を持ってみましたか? そんな心を持って涙を流し、彼らを慰めようというのす。 この民族は国運が悲運におかれているので、涙を流す他にはない事由があったのです。この民族を通して、全人類を復帰されようという神のみ旨がありますので、三千万倍達民族は、神の摂理のまえに忠誠を尽くす奉仕者となり、捧献者とならなければなりません。しかし今までは、そんな人間がいなかったのです。悠久なる歴史を見通してみる時、これが我々の先祖たちの恨となり、直接的には復帰摂理を主管される神のまえに、悲しみを残すこの山川、この民族になったということを、皆さんは知らねばなりません。 人々が聖人と共に遺物遺跡を追慕する理由 神は数多くの民族を選んでおいて、この国この民族を捜し求めて来られた事実に、三千万民族は感謝し、称賛しなければならないのに、そのようにはなっていないのです。倍達民族の後孫として生まれた皆さんが、民族を代身して、この民族の全ての失敗に責任を負うという、こんな考えを少しでも持ってみたかというのです。 この八道山川を中心として、神がある郡、面、里の民家なり商家なり、ある家を尋ねて来られる時、その背後に結ばれた事由とうものは、先生が語るにも簡単な事由ではないのです。 決定という錨を降ろしておいて、摂理を出発されるならここに歴史的な曲折が染みているのであり、歴史的な事由が宿っているという事実を知らねばなりません。これを知らない人間は歴史を相続することができず、これに責任をもって記憶しない人間は、神のまえに公的な責任を担うことができないということは、歴史的な事実なのです。 どうして偉人や聖人を、後孫たちは追慕しなければならにのでしょうか? 彼らの心のうちには、歴史的な全ての事由がしっかりと結びつけられているのであり、善の事由と曲折がそのうちに絡みついているのです。善の目的を達成するためには、彼らのそのような基台を通して誠精を尽くさねばなりません。でなかったなら、目的に向かう道と関係を結べないのです。たとえ堕落の後孫であったとしても、人心は天心に通じ、数多くの人々が聖人を追慕し、聖人が行った道を追求するのです。ですからこれは本然の価値を追求することであり、自然的なことなのです。 このような観点から見る時、統一教会員がこのみ旨をいかに念願として、現在おかれている立場においてこのみ旨を中心として、どんなにか苦労したか? 内的な体恤をして、自分が成さなかったらダメだと自ら自覚する者がいるか? このようなことを考える時、そうはなっていないというのです。 ソウルは先生が学窓の時代から、涙を沢山流した所です。そして先生は三千里八道山川の名勝地を尋ね歩き、涙を流しました。各道の四方八方をめぐり、車に乗って道路を走る度に、神の苦しい胸のうちを少しでも早く解いてあげるために走る車を急がせ、涙がにじむ信念を持って、困難の中にある食口たちを尋ねるに汲々としているのです。全国の村むらから迫害される息子娘、迫害される隊員たちを残しておいて涙を流し、背を向ける歴史的な事由が宿るそんな村むらなのです。 統一教会青年男女が流した血と汗の価値 7年路程において統一教会の青年男女、すなわち歳の若い20代、10代の青少年たちが涙の決意をなし、家では追い出され兄弟たちには追われても孤独な伝道の行路に出て、歓迎されざる村に入り、他人が考えもつかない惨めな場で、み旨という名をかかげて身悶えたそんな村むらを、皆さんはどれほど考えたことがありますか? 7年路程の間、三千里半島津々浦々に、統一教会の青年男女が尋ね求め、彼らは悲壮な心と涙のにじむ心情をもって、結ばれた神の歴史的な恨と、時代的な恨を解いてあげるために「私は歴史を代身し、この時代の蕩減の役軍として来ました」と考え、怨讐視する彼らのために夜を徹して祈祷していったのです。飢えたお腹をぐっと握り、アボジを呼んだその祈祷の声が、今も残っているという事実を考えてみたことがありますか? 皆さんが今、安穏に生きているその村の環境のうちには、我々の先祖たちが涙で祈ったその声が、今だに残っているのです。彼らは消えて行ってしまいましたが、差し迫った場で神にすがって訴え、祈祷した内的な心情の祈りは、神の胸のおくに残っているという事実を、憶えておかなければなりません。 我々に反対し、恨をうえつけた怨讐を屈伏させて神に勝利をもたらし、また我々の恨を解くことができるその一日がいつ来るかと、その一日が来るのを千万べん祈祷して身悶えた事実を、皆さんは考えてみなければというのです。 このような観点から三千里半島を見やる時、昔我々の先祖たちが錦繍江山(美しい山河韓国の別称)と誇ったその名の因縁が、ここから結ばれたということを、皆さんは考えてみましたか? 神の息子娘が誠精を尽くし、涙を流し、血と汗を流し、自身の命をかけて談判して訴えたものが、正に錦繍江山なのです。 過去に我々の先祖たちが知るべくもない立場で、この国を称賛し、この民族を称賛したか知れません。しかし知ってみれば倍達民族、大韓の息子娘が暮らしているこの三千里半島こそが実に、我々の先祖たちが流した涙と、誠精をこめた血と汗が染み込んでいるのです。天的な心情の基盤と価値が残っているという事実を、皆さんは記憶しておかなければなりません。 誠精を込めた祭物のような立場で、祭壇の前に立たなければならない皆さんであるにもかかわらず、そのような祭壇の前に立てる資格者となっていますか? もしもイエス様が今この地に来るなら、その昔のイスラエル民族とユダヤ教ではなく、現在の統一教会のような環境の中に来られたら、我々を抱きかかえて慟哭されるのです。そしてこの三千里半島を見やり、この民族の内面に染み込んでいる事由を見れば、この民族を抱きかかえて身悶えし、慟哭されるのです。皆さんはこのようなイエス様の立場を考えてみましたか? このように行き違った事由が、三千里半島のために主体として立つ統一の青年男女の血と汗を通して成されるという事実を、皆さんは忘れてはなりません。 この民族の因縁を掘り返して見れば、そこには血が煮えたぎる数多くの青年男女の涙が入り混じり、歴史的な恨を踏み越えてゆくと慟哭する先祖たちの涙の跡が入り混じっているのです。さらには復帰摂理の歴史的路程を来られた神の涙が染みこみ、皆さんが見上げている師の涙が混じっているというのです。皆さんはこの驚くべき事実の前に頭を下げ、真に姿勢を正し、自ら行動を自制して神の法度を守ってゆくために身悶えるという事実がありますか? これを憶えておくことを、皆さんは今一度考えてみなければなりません。 新しい決意をなして行かねばならない我々 皆さんは歴史的に入り混じっている事由の前に出て行くに、あまりにみすぼらしく、あまりに未熟で、あまりに及ばざる自身であることを悟っているかというのです。いま皆さんが自然を眺め、あるいは名山を眺める時、真に愛することができる心をいま一度考察してみなければなりません。皆さんは誠精を尽くし、心を尽くし、み旨を尽くし、鍬の柄を握って地を掘ってみなければなりません。皆さんがこんな心情で、地上にある全ての万物を従えて、主人のすることを成したと誇ることができる資格を得ましたか? これを論じてみなければならないというのです。 自分の食口たちを守り導く時にも、皆さんは歴史的な責任を負ったイエス様を代身した立場に立って、強固なる心情をもって身悶え、縛りつけられた事由を伝えなければなりません。そしてそれらと共に天的な勝利を得てゆくという、誓いと決意のもとに導けなかったことを、悔い改めなければなりません。 統一の役軍である皆さんは、知ってみれば驚くべき因縁のなかに引き込まれているのです。これは皆さんが、み旨に従っている過程では分かりません。しかしみ旨からいったん落ちてみれば分かるのです。その立場がどれほど貴く、福なる立場かということが、落ちてみれば分かるのです。しかし落ちてから知ったのでは、何の役にも立ちません。過ぎてから知ったのではダメなのです。そのみ旨のまえに立つ時に知る者が、賢い者であり、そんな人間は指導者となり、責任者となるのです。 地方教会で責任を持ている皆さんたち、地方で神のまえに忠誠を尽くすと誓った皆さんたち、皆さんは過去に実体でこのように生きてきましたか? そうではなかったのです。それゆえ新しい面において歴史を代表し、時代を代表することができる、天が要求する本意に立脚して、その事由に責任を負って身悶えてゆくという、新しい覚悟をしなければならないのです。これを皆さんは、知らねばなりません。 ですから河を渡る時も、昔のようにぼんやり眺めて渡る、そんな皆さんであってはダメです。お金を稼ぐことも、今までの金某なら金某の一生を歩んでいてはダメだというのです。峠を越える時も、今までその峠を越えてきた金某として越えたらダメなのです。ごはんを食べる時も同じで、道を歩く時も同じです。寝ても覚めても、悔しい時、嬉しい時、悲しい時、全ての行動全体をこんな観点から、再検討しなければなりません。いつ皆さんが時代的な責任者としてこんな歴史的な因縁を考えてみたか、もう一度想起して正しい関係のもとに、正しい姿勢を取らなければなりません。天的な蕩減歴史をなすという新しい決意をもって、三千里半島全域に向かって行かなければなりません。皆さんがこのような立場にいるということを知って、再びいま一度新しい決意をしなければなりません。 後孫のまえに何を残してゆくのか 今皆さんが責任を持つ地域や村に行く時、昔と同じ心で行ってはなりません。この国その地方のために皆さんが誠精を尽くし、忠誠を尽くしたその基盤を、これから皆さんの後孫たちが尋ねる時、彼らはその地を記憶すべき地だと考えるでしょう。ですから皆さんの後孫がその地を尋ねることができるように、歴史的な涙の跡を残してゆくと命をかけ、転換してゆく皆さんにならなければなりません。 このようにして皆さんの後孫たちが、その地を尋ねてくる時「我々の先祖たちが、過去にこのようにやった」と語ることができるようにしなければなりません。先祖として、後孫たちが追従できるような一つの基準を立てておくと、忠誠を尽くす皆さんにならねばなりません。皆さんは一時に来て行く人間だと、考えないで下さい。生死をかけ、勝敗を決定づけなければならない責任を負った、天の勇士だと考えなければなりません。そのような姿をもって、自身が責任を持つ任地に入るのです。 皆さんが行くべきその村を、もう一度考えてみて下さい。それではその村は自分が知っているそんな村ではなく、今まで日常的に接してきた村ではなく、事由と曲折が染み込んだ村であることを感じるのです。それでその村に対する、皆さんの態度が変わるのです。そうして後代の皆さんの後孫が、その歴史的な偉業を相続して、さらに偉大なる立場に立ったならば、その歴史的な因縁が発展したと言えるのであって、そうでなかったら負けなのです。 今まで生きてきた全ての環境を一新して、歴史的な責任を負った者として新しこに行かなければならない時が来たということを、肝に銘じなければなりません。明日、本部教会を離れて車に乗って地方に入るとき、皆さんは何を持って行くのですか? 深刻だというのです。そのまま来て行く皆さんであってはなりません。 この狭い空間に人が多くて大変だと、逃げ出したい人がいたらこの場を早く去って下さい。狭い場所に沢山の人が座っていますから無理かも知れません。しかし我々だけが思っているのではなく、神はとうに知っておられます。こんな姿を見て、世の中の人は笑うかも知れませんが、先生はそうは考えません。先生は神に「我々の教会を造って下さい」という祈祷はしないのです。こんな場にいることを、むしろ栄光だと思っているのです。昨夜もその門の後ろに押し出されて、野外講話になりました。これを哀れと思わずに、これを見やる神の切ない心情をお慰めするために「一時はこのようなことがあるのも、良いことではありませんか?」と祈祷する心を持って、参席する人間になって下さい。 このような人間がいれば、これから世の中を蕩減復帰することができるのです。このような環境は、悲惨な境遇にある我々の民族のみが持つことのできる真実の財産であり、蕩減復帰することができる材料となるのです。 新たに認識しなければならない時 これはアメリカでは、夢にも考えられないことなのです。集会に対する規定というものがあって、規定人員以下は許されているのですが、規定より一人でも多くなったら法にひっかかるのです。規定人員より多く集まるということは、夢にも考えられないのです。 しかし韓国ではそうではありません。アメリカでは夢にも考えられないことも、やる他はないのです。 こんな環境が不幸の要因ではなく、むしろこれによって神のうちなる事情に深く入ることができ、我々の教会を造ってやりたい神の心情的基準を、我々に連結させることのできる恵沢と恩賜の条件になるのです。ですからどれほど有難いことですか? 皆さんはこんな立場で、考えてみなければなりません。 今、本部教会に出入りすることも、これまでのように習慣的に来るのではダメです。行事があるので来て、日曜日なので来るというのではダメです。行き来することは誰でもすることです。誰でもすることをする人間を、神は欲してはおられません。統一教会のやることは、誰でもやることではありません。特定の人間のみができることです。 特定の人間は、内的な要件が違い、外的な要件も違います。彼が持つ価値も違い、彼自身が持っている思想的基準も違います。思想的基準が違うほどに精神的基準も違うのであり、精神的基準が違うので、行動基準も違うのです。 本部教会の門を開き、数多くの人々が出入りするのですが、この門を開いて入って来る時、震える手で門を開き「アボジ、慕わしかった本部教会を尋ねて来ました」と慟哭する食口に出会っていません。先生はこんな人間に会ってみたいと、ひどく苦待しているのですが、いまだに出会っていません。本部教会のみすぼらしい姿を見る時「わが胸に釘を打つなら打って、こんな姿を見なくてすみます。天の誠精がこもる基台が、どうしてこのようにみすぼらしいのですか? われ一代でこのみすぼらしさを、雄壮なものに変えてさし上げます」と忠誠を誓う息子娘にならねばなりません。 今は皆さんが、7年路程の最後の峠を越えている最中です。先生の歳が47を過ぎ、48歳になる時です。この時に統一教会員たる皆さんたちは、これまでの考えをふり捨てていま一度、新しい考えを持たねばなりません。すなわち、本部教会に対しても新たに認識して、師に対しても新たに認識しなくてはなりません。地区長に対しても新たな認識を持たねばならず、地域長に対しても新たな認識を持たなければなりません。勤士に対しても新たな認識を持たねばならず、食口に対しても習慣的な観念を捨てて、新たな認識を持たねばなりません。 皆さんがこれまで記憶して知っていたものが、神の願う基準に達していなかったなら、100%この基準に達するように、自身の考えを整備しなければなりません。こうして神が願うその基準に完全に達してこそ成るのです。そのようにすることのできる若い統一教会の食口たちとなることを、神はどれほど苦待しておられることでしょうか? 皆さんが神が願っておられる基準に達していると考えるなら、これは間違った考えです。その基準に達するということは、どれほど難しいことかを皆さんはいま一度考えなくてはなりません。とはいっても皆さん、落胆してはダメです。 原則的な祈祷 春になれば、皆さんの家の軒先に江南から来た燕が入って、巣を造るのを見るのです。そうして暫くして卵を産んで、約40日もすれば雛になるのです。その巣で育つ時には、狭い所で苦労するのですが、いったん成熟した時には天下を自在に飛びまわることができるのです。どんな渡り鳥よりも遠くに飛んで、いっぺんに江南まで飛んでゆくことができる素晴らしい燕になるのです。 皆さんも同じことです。ここで辛い訓練を受けることは、これから近づく試練の実戦場において、敗者の悲しみを味あわないためなのです。ここで二重三重の試練を経て、新しい信念によって武装しなければなりません。燕のように、新しい天国に向かって飛んで行く皆さんになれば、今この基盤がどれほど恵まれた巣であるかということを、皆さんははっきりと分かるようになるのです。ですからここで食べることは、一生の何物よりも貴いことであり、ここで寝たり着たりすることは、何物よりも貴いことなのです。 新しい時代には、新しい真理を受けなければなりません。地方にいる食口の皆さん、祈祷する時は、常に原則的な祈祷をしなければなりません。「神様、私がここのある地域のある所で、今晩祈祷します」というのではダメだというのす。神が祈祷を聞かれる時は、自分の所属をはっきりさせなくてはなりません。本部教会の南方なら南方、正南方なら正南方で、本部教会に対する方向を定め、何地区の何地域のどこそこにいる誰それであるとはっきりさせなくてはいけません。なぜそのようにしなければならないかと言うと、歴史的な伝統を尊重する意味においてそうだと言うのです。 そのようにして、自分が現在率いている食口たち、すなわち自分を中心として横的に因縁を持っている食口たちのために、祈祷しなければなりません。「私には彼らに光を与え彼らのためにしなければならない責任があります。この責任を果たすための力が私には不足ですので、力を与えて下さい」このような祈祷は、通じるというのです。 重要な祈祷、重要な解決のための祈祷であるほど、本部教会で誠精を尽くしたと同じ心情でなさねばなりません。祈祷する方法が、こうでなければなりません。本部教会がたどって来たこれまでの歴史的な因縁、歴史的な背後を探って、涙ぐむ心情の親友にならねばなりません。ここに神が共におられるのです。神のみ旨を中心として、本部教会で祈祷する人間がいれば、その人よりもさらに忠誠を尽くす立場で祈祷するという心を持たねばなりません。「本部教会でなしていることを、ここでもやります」と祈祷しなければなりません。ところが、そのように祈祷していないのです。祈祷していることを見れば、やっていることもまたそうなのです。 主流に属する我々の責任 統一教会の教員は、任地に向かって駆けなければなりません。自分がある一地方の責任を持って活動する時、良い事があったなら「アボジ、感謝します」としなければなりません。良い事がある時、自分がいいとその場で喜ばないで下さい。「神様、この事を喜んで下さい。本部であったこの事を喜んで下さい」このように祈祷した次に、自分が属している地区長や、地域長に報告した後で、自分が喜ばなければなりません。 このような心で生活する人間が行く所には、道を塞ぐ法がないのです。統一の運勢が発展的な運勢だとして、その運勢が残っている限り、その人間が行く路程は、絶対に塞がれる法がないのです。塞がれたことが、かえって善にとって有益であるとしても、悪としてその人を縛りつける結果とはならないのです。 皆さんはどこに属しているのでしょうか? 神の側に属していなければなりません。ところで神の側の中でも主流がありますが、統一教会の皆さんは主流に所属しているということに対して、自負心を持たねばなりません。 主流に属する皆さんは、一本の木のように春になれば葉が芽生えなければなりません。夏になれば葉がおい茂り、花が咲き、秋になれば実を結ばなければなりません。その木が持っている影響を程よく受け、共に育たなければなりません。葉が育てば枝も育ち、幹も育ち、根も大きくなるのです。同じ立場で育つのです。これが木が持っている本質です。すなわち統一教会が発展するに従って、皆さんも発展しなければなりません。 国家的な基盤を通して発展するか、部落的な基盤を通して発展するかは、範囲は小さくなりますがその形態は同じでなければなりません。そうではない所では事故が起こりますので、自ら不足なる立場であることを、悟らなければなりません。 皆さんがこれを悟ためには、四方が決定されていなければなりません。すなわち、地区の東方区か西方区か、席も以北か以南か、決定していなければなりません。位置は上下と前後、左右の関係が決定された後に明示されるのです。皆さんが面している位置も、やはり同じです。皆さんは四方の度数に立脚して、価値を立て、位置を決定づけておかなければなりません。そうすれば現在の状況に符合し、正しい姿勢をとることができますが、そうでなかったら否定的姿勢となってしまいます。そうなったらいずれ歴史の流れに押し流されてしまう他はないのです。統一教会は世の中が発展するその軌道に従っては、発展しないということを知らねばなりません。 今回帰って行く皆さんは、どのようにすれば神のためになるかを、よくよく憶えておかなければなりません。皆さんは神をよくよく記憶し、復帰摂理の路程をよくよく記憶し、自らをよくよく記憶し、地区長、地域長をよくよく記憶し、統一教会精神を持てば発展するということをよくよく記憶し、上下関係において自らどんな姿勢を持つかということをよくよく記憶しなければなりません。 繁殖の原則 上があれば下があるのであり、前があれば後ろがあるのです。下上があってはなりません。皆さんをじっと見ていると、自分から下を考えているのですが、これが下上です。自分から考えますと下となるのです。しかし上がまずあるのですから、まず上を尊重しなければなりません。たがいに好んで合わさった二つよりも、上をより良しとする方が、早く発展するのです。 ですから聖書にも、二人が地において心を合わせ、祈祷したなら何事も成就される、とあるのです。神と人間においては、神は上になり、人間は下になるのす。 上下の縦的な関係においては、繁殖はされません。繁殖をするためには分立作用をしなければなりません。そして横線上になければなりません。横線上にあれば、繁殖は自動的に起こってくるのです。 地域長と区域長の関係のように、縦的な関係においては繁殖はなされないのです。しかし互いに一つになって、地域長なら地域長を中心として、区域長が行動を共にする時には繁殖が起こるのです。これが創造の原則です。 我々はなぜ、伝道をするのか? 繁殖するためです。繁殖は縦的な関係では起きないのです。横的な立場に立って、一つになって、互いに授け受けてこそ成るのです。従って皆さんは教会長を中心として、教会員と横的な立場で一つにならなければなりません。そうすれば全ての面で発展するのです。地域長を中心として教会長たちが一つになろうとすることは、このようにして全ての面で発展させるためであり、地区長を中心として地域長たちが一つになることも、さらに発展させるためです。発展、すなわち繁殖させようということです。皆さんが忠誠を誓う時、ここにおいて数十倍の繁殖が起こるのです。 時が大きいとか小さいとかはないのです。人間の心が大きい、小さいがあるので、各地方に離れていって活動する個人であっても、本部での全組織を中心として横的な基準に立たねばなりません。体内で感じる全ての感覚が、神経を通して細胞まで一時に及ぶのと同じように、全ての食口たちも本部組織に対して、同感することのできる立場でなければなりません。そうしてこそ天上的な生命を持つのです。ですから皆さんが本部を慕うのは、当然の位置なのです。 しかしながら神経系を通して伝達するような、縦的な基準においてのみ関係を結んでいるなら、一時的には感じるかも知れませんが、継続して感じることはできないのです。我々の体の骨の組織を見てみる時、これは秩序だって縦横に連結されているのです。 「記憶せよ、いま一度記憶せよ」 近々本部から行ってしまう皆さんが、心に抱いて行かなければならないことが何か?これは「記憶せよ、いま一度記憶せよ」ということです。皆さんが習慣的な感情をどれだけ超越しているかに従って、皆さんの人格が決定づけられるということを、はっきりと知らねばなりません。 ですから本部教会に対する時において、食口に対して、地域に対して、各個人に対する時において、これまでに皆さんが取ってきた立場をもう一度、革新しなければならないのです。新しい立場で認識しない前には、発展しないのです。新しい創造力が発生しないのです。創造原理がそのようになっているのです。 4段階倍加運動、これは今年我々が立てた4大目標の一つなのです。これを超過達成するために、理想を大きく持つことは問題とはなりません。しかし悔い改めを避けてゆく姿勢をとったなら、昨年が難しいなら今年はさらに不可能となるのです。ですからどえらい目標を前に置く皆さんは、これをさらに記憶しなければなりません。神の心情と、神の所願を悟らなければなりません。 このようにして心情的な内的基台を造成して、4段階倍加運動、あるいは経済復帰するための活動を完遂して、この全てのことを成就しなければなりません。このような問題を見渡してみる時、皆さんがこれまでのように観念的な、地区長を通しての認識を持ってはダメです。徹頭徹尾、記憶された認識が、皆さんの四肢五体を動かして爆発させることができる、行動の源泉にならなければなりません。この爆発力が、昨年よりも小さかったなら、7年路程におきまして落伍者となるのです。 ですから皆さんは再びいま一度、記憶しなければなりません。これまでの皆さんが知っていた地区長をもう一度、記憶しなければならず、地域長をもう一度記憶しなければなりません。皆さんは疲れるそんな場で、もう一度記憶しなければなりません。皆さんの心情が疲れる原因は、神にあるのではなく、皆さん自身にその原因があるのです。神が勝利された人間が行く道を、塞ぐ法はありません。忠誠を尽くす人間を、神は勝利の道へと導かれるのです。ですから皆さんが誠精を尽くしたなら、失望して疲れはてて落ちてしまうことはないのです。 皆さんがみ旨の道で疲れるのは、神を中心として考えるのではなく、自分を中心にして考えているからです。自身から考えて滅びてしまうことは、正に堕落した後孫であることを自証しているのです。自分から出発したことが、神から出発したことと同じになってしまったなら、復帰は自動的にできるでしょうか? 今まで積み上げられた罪悪の歴史を蕩減するという、このどえらいみ言を皆さんは聞いたのですから、蕩減復帰のための最前線に立って、神を抱えて身悶えてみたかというのです。皆さんは道なら道に責任を持つ地区長、郡なら郡に責任を持つ地域長、面なら面に責任を持つ教会長を中心として、真情から蕩減復帰のための最前線に立って、サタンとぶつかってみなさいというのです。 困難にぶつかる時、想起すべきこと 皆さんはこれまでの過ぎた歴史を振り返って見て、現在を見やり、未来に向かって行かなければなりません。過去から現在まで、認識し記憶していることを刷新して、新しい記憶と認識が、皆さんの心を捉えるようにしなければなりません。このような決意と信念を持つ皆さんにならなければ、初期の目的は達成できないということを、はっきりと知らねばなりません。 そうするためには皆さんは、何を想起しなければなりませんか? 皆さんが初期の目的を達成するために、困難が伴はざるを得ないのです。当然、困難がなければなりません。 皆さんはこんな困難にぶつかるごとに、ノア爺さんが120年の間、周囲の人々の非難と嘲笑を受けながらも、手斧を握り、木を切り倒し、箱舟を造った姿を思い起こさなければなりません。また、アブラハム、イサク、ヤコブの3代に渡って天的な因縁を回復し、神が捜し求められた目的を達成するための大変な労苦を、皆さんは忘れてはならぬというのです。イスラエル民族のために、ノアが歩んだ120年がどんなに難しい期間だったでしょうか? これまでのイスラエル民族が神のみ旨のまえに立てず、数多くの民族に虐待され、世界的に追われる民族になったことは、イエスに侍らなかったという愚を犯したからです。しかしイエスはゲッセマネの園のおいて、血のにじむ祈祷をなし、十字架を背負いてゴルゴダの丘を登っても、自分一身が引き裂かれて滅ぶことは気にもしなかったのです。むしろ神と共に決意し、誓ったのです。こんな鉄石のごとき内的決意があったということを、皆さんは思い起こさなければなりません。 いつか皆さんが、ゲッセマネの園で祈祷されたイエスのように「わがアボジよ!」と泣いて祈祷してみたことがありますか? 非難、嘲笑、嘲弄と鞭打ちにも屈せず、死を覚悟して十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かって行ったイエスの立場に立ってみましたか? また我々の先祖たちの全ての過去の因縁を、再び回想して見ましたか? この歴史的な事由が、今日皆さんのまえに再び再現して、皆さんによって蕩減されねばならないことが、復帰摂理の原則なのです。ですからこの時代に皆さんを、こんな条件の前に立たせるのであると、考えなければなりません。こうしてノア、アブラハム、モ-セのように、神の悲しみと切なさを推し量り、歴史的な先祖たちの悲しみと切なさを推し量り、歴史的な先祖たちの心情を推し量ることができる自身になると、身悶えて自身に鞭打つ皆さんにならなければなりません。 皆さんが涙を流す時、値打ちのない涙になってはなりません。大道商人の一声で駆け出して行くようではいけません。一人の人の言葉に、自分の命の道を無にする安っぽい人間になってはなりません。台風が来ても、皆さんは怯まずに立つことができ、怨讐が襲っても、その怨讐を打ち破ることができ武器となると、誓わなければなりません。このように誓う皆さんになればよし、襲い来る台風と、入り乱れた環境の中で、自ら崩れてゆく人間になってはならないというのです。 神と先祖たちの立場で考えてみれば 皆さんは歴史的な路程で、イエスがゲッセマネの園で血のにじむ祈祷をなし、ゴルゴダに向かって行った心情を、生活の中でどれほど体恤してみましたか? ノアが120年間耐えてきたその路程を、皆さんはどれほど行ってみましたか? モ-セが自身の栄光を投げ捨て、祖国であるイスラエルに対する愛国精神に燃えて、死を意に介せず、神のみ旨だけに向かって行ったその路程を、どれほど行ってみましたか? 皆さんたちは歴史を辿ってさか上り、彼らを慰めることができる各自とならなければなりません。全ての先祖たちをそんな立場で、慰めなければならない皆さんであることを、はっきりと知ったなら、疲れようにも疲れることができないのです。 このように先祖たちを見やる時にも、皆さんは疲れることがないのです。そうであってこそ、過ぎし日の先祖たちの失敗を、復帰することができる一つの条件も、立てることができるのです。先祖たちがやっておいたことだけを、もってしてはダメなのです。にもかかわらず皆さんは、神を中心として考えないで、自分個人を中心に考えているのです。皆さんが何にもなくて惨めで、どんなに苦しいことがあったとしても、神が息子娘を失った時の悲しみの心情と、失った息子娘を捜し求めて6千年の間、歩みこられた哀しい歩みに比べることができるでしょうか? 神は歴史路程において、悲しみと、呪咀と、凄惨なる環境にぶつかってこられても、ただの一日でも我々を不忠者とは考えられず、むしろ我々を救われようと摂理されて来られたのです。新しい所望の天国を夢見て、救援摂理をされて来られた神であったことを考えます時、皆さんはこのような神の心情に立脚して考え、神のされることに同参しなければなりません。そのようにすれば、歴史的な先祖となるのです。皆さんがこのようなことを考え、実地に感じたなら、落胆して疲れる理由がないのです。こんな話を聞いても、確実に認識できなかったら祈祷しなさい、祈祷。復帰原理を中心として、祈祷しなさいというのです。 神がアダムとエバを創造される時、どんなにか多くの誠精を込めて創造されたでしょうか? これも知らずに、アダムとエバは堕落したのです。アダムとエバが堕落した時、神はどんなにか、悲しかったでしょうか? アダムとエバが堕落して、神はカインとアベルを中心に蕩減復帰されようとされました。ところがこれが壊された時、神の心情はどんなにか悲しかったでしょうか? 皆さんがもしも、そんな立場に立ったなら、どうなってしまうでしょうか? 皆さんはそうであってはなりません。 皆さんはノアを中心に、ノアの立場で祈祷してみなければなりません。アブラハムならばアブラハム、モ-セならモ-セの立場で祈祷してみなければなりません。洗礼ヨハネなら洗礼ヨハネの立場で、祈祷してみなければなりません。イエスを分からなければならなのに分からなかった、惨めにも哀れな洗礼ヨハネの立場になって祈祷してみなさいというのです。また、3年公生涯路程を喘ぎながら行かれたイエスの立場で、祈祷してみなければなりません。背反した民族を全て収拾して、神の祭壇を造りあげ、勝利の結果を神にお返ししなければならない責任を負われたイエスの立場で、祈祷してみなさいというのであり、イスラエル民族のみならず、堕落した数多くの世界の人類を復帰しなければならない責任を負われたイエスの立場で、祈祷しなければなりません。また、これまでの皆さんの先生を中心として、先生の立場に立って、祈祷してみなければなりません。 経済復帰を強調してきた理由 それでは皆さんは何を考え、どんな祈祷をしなければならないのでしょうか? 皆さんの小さな村、郡、面、道を考え、祈祷することだけではダメです。現在、韓国を中心として動いている時でも、複雑な事由が多いのですが、これが問題ではありません。これよりもさらにどえらい世界的な問題が絡みあっているので、皆さんはこれを案じ、祈祷していかなければならない立場にあるのです。ですから国内で起こる苦しみの種は、苦しみの種にすることができないのです。ところで皆さんは、疲れることがありますか? 血がたぎる20代の青年男女がですよ。それで統一教会には、若い人たちが多いのです。 もしもこのような環境で、皆さんに刃を突きつける時には、讒訴する群れとなってはなりません。最後の白兵戦で、銃剣を取って血戦をする人間にならなければならないのに、そんな場で自分のことばかり愛して苦しむ人間になってはダメです。 皆さんの地区長、地域長たちが持ってみなかった歓迎の一時、さらにはそれぞれの地域に行って冷たくされ、歓迎されなかった先祖たちを代身して、皆さんが歓迎される時には感謝しなければなりません。彼らが夢の中にでも出てきたなら、皆さんは彼らに「私は受けませんから、あなたがお受け下さい」という内的な心情的基準を持って愛さなければならないので、そうではなかった時には、自分も知らぬうちに引っ張られてしまうのです。ですからこのような場に出て行く時には、断髪をして行かなければなりません。断髪をして、腰帯をぐっと締めて行かなければなりません。そんな時皆さんは、自分が目の前に現れたのを見て、笑ってしまう可能性が高いのです。消化できる観点で対し、その度に神を抱きかかえて祈祷しなければなりません。皆さんはアブラハムが持ってみなかった理想と、ノアが解くことができなかった恨、我々の先祖たちが持ってみなかった環境を、神を経て歴代の先祖たちのまえに返してあげなければならないのです。私は僕の僕ですから、歓迎を受けるに不足です、という態度で対しなければなりません。そうならば心情的な基準で落伍しても、サタンに絶対に引っ張られることはないのです。そうではない時には、十中、八九は引っ張られてしまうのです。 経済復帰を強調してきたこの時は、なおさらそうなのです。今まで生活してきた全ての背後をみて見る時、皆さんが疲れてしまったら何の役にたつでしょう。地域長たちが過去には千ウオンを求めるのも、天の星を取るように難しかったのですが、今は万ウオンも取るに足らぬと考え、10万ウオンもさほどとは思っていないのです。先生が今までの記憶を通して、経済復帰を強調してきたのは、これが皆さんの生命の基台となり、神の足場となり、心情をかき立てる助けになるためであったのです。ところがむしろ、心情を売ってしまう材料に利用されてしまうことを考え、もどかしいことこの上ではありません。こんな問題ならぬ問題を考えます時、心情的な内的基台の造成を再度、強調せざるを得ないということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。 我々の安息の場所 神を代身し、民族のためにゆく皆さんが、反共講義をすることは、若干の人のためにするのではないのです。復帰途上において共産主義は、必ず打ち破らなければならないサタンの勢力だからです。神は勝利した民族を立てようと骨折っておられるので、民族全体が歓迎するその日が来る前には、皆さんは歓迎されないという心を持っていなくてはなりません。民族が歓迎する時、皆さんが前に立つことよりも、先祖として行った全ての義人たちを前に立て、神が喜んでおられるという、謙遜な心を持たなければなりません。 今、皆さんは歓迎されるそんな場に立ってはダメです。これは過程的な現象です。あくまで皆さんには、越えなければならない峠が多く残っているのであり、駆けなければならなこが多く残っているのです。その道を行くときに妨害となる要件があっても、これをきっと越えてゆくという皆さんにならなかったらダメだということを、記憶しておかなければなりません。でなかったら今まで積んできた伝統を、すっかり売り払ってしまうのです。7年路程の闘いにおいて立てた功労の中の一番が、正に伝統なのです。ところがこれを売り払ってしまうのです。 先生は今まで、ジャンパ-を着てやっていました。ボロを着ていても恥じることなく、誇る立場で着ていたのです。でも事がある時には、環境的な要件を持たなければならず、対外的な威信も立てなければなりませんので、今は洋服を着ているのです。これは神に対するためであり、神の威信を立てるためなのです。ところで家庭に帰ってからは、昔の姿でいるのです。皆さんは先生がそんな姿でいることを、淋しがったり嫌ったりしてはいけません。これを嫌う人間はサタンです。 工場が発展するのは、工場長の努力があったからです。その人が市内に出かける時にはきれいな衣服に着替えて行くのです。工場に帰れば再び服を着替えなければなりません。ところで再び帰っても、着ていた新品の服を脱いで作業服に着替えるのを嫌ったら、彼は工場長になることができません。すなわち再び帰って、その油が染み込んだ服を着るのを嫌って、機械に触るのを嫌ったら、彼は自分が築いた基台を喪失してしまうのです。皆さんもそんな位置にいるのが楽でしょう。ところで皆さんが惨めな環境にあって、涙を流して流浪の孤客となっている時、同じ道を歩んでおられる神であられることを、知らねばなりません。 先生は工場に行く時、できれば洋服を着ては行きません。先生が心から決心した責任がありますから、同じことができないのが、恨なのです。 皆さんを育てた安息の場がどこですか? 歓迎される場が、安息の場ではありません。天国や宮廷のように万民が仰ぎ見る場が、安息の基台たる休み所ではないのです。そんな場を投げうって十字架を背負い、闘って勝利した場において神の慰めを受けることができる所が、安息の場なのです。神が与えられる慰めを大きなものと見て、世の中で送られる慰めを好んだなら、国に売ってしまうことを、皆さんは再びいま一度考えなければなりません。 経済復帰のために誠精を尽くせ 今年は経済的な基盤を確立するために、動かなければなりません。皆さんが事業をやっていますから、既成教徒たちは「統一教会の若者は商売している。非宗教団体だ」と言っていますが、気にしてはいけません。我々が経済復帰するにおいては、豪華絢爛たる場ですることを、先生は願いません。歓迎を受ける場ですることは、さらに願っていません。行くなと言っても行かなければなりません。 民族が全部歓迎したならば、今まで復帰摂理をやってはいません。私は3千万民族が、お互いの為に生きる、そんな統一の民族を成したら良いというのです。皆さんが良い場でこれを収めたなら、これは小さな蕩減になるのです。難しい場であっても、これを糾合して収めたなら、より貴いものになるのです。先生はこのように考えます。 皆さんは苦しみ多くとも、この一つの物を売るために尽くす誠精は、どんな商人よりもより真摯でなければなりません。他の商人たちより何倍かの心情的な基準を持ったなら、値の張る物でも、頷いて買うのです。こんな消費者の数が、今年になってどれくらいになりましたか? そうするには皆さんは、自分の責任分野に入って、万事について祈祷して誠精を尽くさねばなりません。であればみ旨は成るのです。 地域長たちが集まった時に、地区長が大声をだせば気分が悪いです。気分悪いという看板を、神様から受けましたか? しかし気分が悪くなるそんな場が、滅びの場ではなく、うまく克服したなら、皆さんが勝利できる基盤を築けるのです。こうして皆さんが帰ってくれば、そのままではなくてそんな前後、左右を知り、神を中心としてこれまでの自分自身を反省し、再び今一度、新しい立場で動いて下さることを願います。分かりますか? 天の人間になるには 皆さん、侍義時代が何ですか?(侍る生活をする時代です)皆さん、今は示威時代ですか、侍義時代ですか? ところで近頃、示威する人間は多いのです。ですから侍義なのか示威なのか、はっきりして下さい。 皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活におきまして、正確な中心を決めてゆかなければなりません。神に侍る時には、法度があるのです。この法度を破る時には、神は非常に怒れるお方なのです。子を愛する父母が、子供の一言で胸に釘を打ち込まれたり、抜き取られたりするのと同じように、神も人間を愛しておられるので、憤ることの多いお方なのです。ですからちょっとしくじると、神から怒りを受けるのです。ですから常に、先生も先生なりに、神を喜ばせてあげようとするのです。衣服を着る時も、きちんと着なければなりません。先生も衣服をきちんと着ている人を見れば、気分がとても良いのです。それで先生もそうしなければならないと思い、洋服を着て来たのです。そうでなければ、ジャンパ-を着て来るのです。 面で称賛を受けようとして生活する人間は、うまくやる時は称賛されますが、そこで一度失敗したら、完全に滅んでしまうのです。しかしながらその人が、面で称賛されて、郡においても称賛されようと熱心に忠誠をつくしたなら、生きる道が残るのす。しかし郡でも称賛されようと、目を血走らせていたなら、一度失敗すればその人はむしろ滅んでしまうのです。しかしながら郡を忘れて、道のための目標を目指して行くなら、郡で失敗しても、また生き残ることができるのです。しかし我々統一教会員たちは、神を最も愛し、神の称賛を受けなければならないのです。世界のいかなる大統領の称賛が、問題ではありません。神から称賛を受ける体験だけが、永遠に残るのです。ところでいまだに、神からの称賛を受ける時が、ないのです。 先生は我々統一教会が、大韓民国においてのみ称賛を受けることを、願っているのではありません。また、世界の30億人類が称賛したとしても、それで満足はしないのです。数多くの霊人たちが歓迎し、神から有難いと称賛されるそんな立場なで行かなければならないというのです。これはとんでもなく遠い基準です。 自分が3年間、苦労して骨を折ったので、必ず称賛されなければと考えたなら、その間に苦労したことが、全て無駄になってしまうのです。民族と世界のために3年苦労したとしても、いまだ苦労した立場に立っていないと考え、より忠誠を誓わねばなりません。であればその苦労の値打ちが、ますます世界的に広がって、終いには大きな称賛、すなわち世界的な称賛を受けることができる立場に立てられるのです。そうなれば天の人間になるのです。 先生が歩んだ道 先生が皆さんを地域長にさせ、また皆さんに韓国に責任を持てと言ったことが、何の話か分かりますか? 全部アフリカ、南米、ヨ-ロッパ等、世界の五大洋、六大陸に送るためなのです。ところで韓国では、こんな考えを持っている人間がいないのです。日本人を見ても、全部が日本を離れて世界復帰のために力を尽くしていますが、韓国の統一教会の青年たちの中には、こんな人間がいないのです。いますか、いませんか?「います」いるといって、何がいる! であれば要件を持たなければなりません。 皆さんが苦労し、骨を折って称賛されるという立場に立てば、その要件を得ることができません。ですから自分に任された責任を中心に、面を通して郡、郡を通して道を動かすと考えなければなりません。また、道を通してこの国を動かす、と考えよというのです。先生はこのようにやって来ました。 先生は小さな土塀の家でひどい暮らしをしていても、今日のおかずは何にするか、明日は何を食べるか、という心配はしないのです。たとえ着る物はボロでも、食べるに困っていても、思いだけはこの世界を征服して天の国を造ってやると、そんな大言壮語をガンガンやったのです。 ならば皆さんも地方に行って、一間の部屋、あるいは村の人々が入って来ない部屋、すなわち歳とって死にそうな人が暮らしていたのが息を引き取った、そんな部屋で生活したとしても、天下を統一する土台を残さなければなりません。そしてその土台の上に教会を立てたなら、天がどんなに貴く思うでしょうか? ですからその部落だけを中心にする、と考えるなというのです。そしてここで称賛を受けることを考えてはダメです。そんなことは、よくあることです。過ぎ行く旅人に、昼めしの一杯ももてなせば、その旅人が有難うというのと同じことだと、考えなさいというのです。 こんな考えをもって、気分が悪いことがあったとしても「アイグ-、悔しくて、もうダメだ」と言って自分の胸に結んだ感情を、神のまえに訴える、そんな祈祷をしてはならないというのです。これをうまく克服して、み旨のために死ぬという立場まで行かなければなりません。何事があってもそのように考えたなら、み旨のまえに条件が立つのです。この条件に引っ掛かる人は、欲心が多い人です。欲心が多い人は、目の前にあることは全て自分のものと考えてしまうので、条件に引っ掛かるのです。 教会の誰がどうで、誰がこうしたという人は、みんな欲心が多いのです。どんなに無いとしても、絶対そうであってはなりません。何が無くて、何が無いというのも、みな試練の舞台で神が私に、教訓とするためであり、私を教育するための材料として登場することだと、考えなければなりません。先生はこのように考えます。ですから全てのことを悔い改めて、その環境で皆さんは責任を果たさなければなりません。分かりましたか? 侍ることと祝福 皆さん、侍義が何ですか? 仕えるのは乞食ですか? では皆さんは、どれほど侍ってみましたか? 皆さんはどこであっても腹がへった時や、ひどく難しい時に助けられたなら、とても有難く感じます。先生もそんな時がありました。今も学窓時代、困っていた時に助けてくれた人を忘れることができません。それでこの7年の間、先生が条件だけ立てたなら、その時は全部お返ししょうと考えているのです。先生は今まで復帰の道を歩んで来て、悲しみに出会う環境にある時、先生に恵みをほどこしてくれた人々をみな記憶しています。すなわち先生が世話になったことを、みな返そうと思っているのです。ところで今まで、なぜ返さなかったのでしょう? それは今返せば、小さなお返ししかできないからです。 先生が一つ、恨めしく思っていることがあります。先生が以北で避難した時、先生を助けてくれた平安道の親友がいました。その人に対して、骨身に染みて有難く、いささかもその有難さを忘れることができません。それで先生はこの7年路程が終わって、世話になったことをお返しする時が来たなら、我々統一教会員たちの家は造ってあげなくとも、彼に家を造ってあげようと思っているのです。そんな人々にこれから真ごころを込めて、模範を示してあげたいと考えているのです。先生がこのように心で思っているのですが、その人がある時、食口たちの所に来て「あなたがたの先生が困っている時、私が助けてあげたのだから、私を助けて下さい」と言うのを先生が見る時、とても切ないのです。それで「気の毒な人だから、じっと耐えよう」と思うのです。先生はそのように忘恩の徒ではありません。先生はそのようにする深いみ旨があるのです。何の話か、分かりますか? 皆さんは神に侍る者として、皆さんが嬉しい時、神をどれくらい喜ばしてあげていますか? 皆さんが腹がへっている時、ごはんを食べて感じる有難さ以上に、神に侍って差しあげなければなりません。 皆さんは良い物を食べる時や、着る時、そして悲しい時や困っている時にも、常に神に侍らなければなりません。そして神の心に記憶される、事由を残さなければなりません。 皆さんが統一教会で出世するには、地方教会の教会長の心を占領して、その教会長の心に残る人間にならなければなりません。すなわち村なら村の中で、まず残ることができる人間、教会長の祝福を受けることができる人間にならなければならないのです。その次には、地域長の心に残り、地区長の心に残り、さらには協会長の心に残らなければなりません。そうすれば先生の心に残るのです。このように段階を経てゆくのです。 7年路程は侍る生活の準備過程 ですから皆さんが上の人の心に残るには、誠精を尽くさねばばりません。そのためには良いことが一つでもあったら、みな与えてあげたいという心が、皆さんに充満していなければなりません。 心情の世界では、物をもって通じるのではありません。心で通じるのです。常に感謝する心で、上の人が悲しい時、同じく悲しみ、嬉しい時、同じく喜ぶことができる因縁をもって通じるのです。このように生きる人間に、神は共におられるのです。それで彼が悲しむ時、神も悲しまれ、彼が喜ぶ時、神も喜ばれるのです。 ですから皆さんがこのような段階を経ないで、地区長に対し、地域長に対してはいけないのです。 侍る時におきましては、段階があるのです。ですから統一教会員であるというなら、誰であっても7年路程をみな経なければならないのです。すなわち7年路程は、侍る生活に対する準備の過程として、堕落した人間にとって絶対的な過程として残っているのです。であるにもかかわらず、7年路程に対して、多くの人々が知らないのです。みな忘れているのです。皆さんはどうですか? 「7年路程が何だ? こうこうだ」このように考えてはダメです。ですから家庭で言えば、二人が暮らしていれば、4人で暮らす生活をしなければなりません。すなわち父母に侍らなければならないということです。しかし父母だけに侍っていたのではダメです。さらにはその息子まで、侍らなければならないというのです。分かりますか? ですから皆さん自身が「四位基台」を復帰するためには、父母だけに侍っていてはダメです。必ずその息子にまで侍らなければなりません。このようにして皆さんの全ての誠精を、そのまえに連結しなければなりません。そうすれば外的な面においては二人で暮らしていても、内的な面では何と4人、5人の生活基台となるのです。 父母に侍る時は、3年は侍らなければなりません。なぜ3年ですか? 3数過程をいっぺんに復帰するためです。ですから皆さんが家庭を中心として生きる時には、先生がいつ何時に予告もなく、皆さんが暮らしている家を訪問しても、先生がくつろげる部屋がなければなりません。部屋がなければ、席でもなければなりません。その席は、誠精を込めた場所でなければなりまん。 ですからその席を中心として、一間であっても、いつも誠精を込めた場所を造っておかなければなりません。そうして父母に侍ることができるその日が来たなら、服を着るにも準備された服を着て、履物を履くにも準備された履物を履いて、身ぎれいにして侍る準備をしていなければなりません。ほうきを取って庭をはくにも、みな掃いておかなければなりません。そして父母を千回、万回、偲ばなければなりません。皆さんたち、そのようにしてみましたか? そうしてみた? 生きた教会になるには、みなこのようにしなければなりません。教会にはお父様が来て、祈祷する所がなければなりません。平素、心情の蝋燭を灯して、誠精を尽くさなければなりません。 慕わしい心を持て 近頃、地域長を見ていると、いい加減な地域長が多いのです。仕事に行って礼拝の日になっても、礼拝は食口たちにやらせて自分はその日も忘れている地域長が多いのです。祭司は誰が管理するするのですか? 祭司長が管理するのです。そうでしょう? 祭司は客が管理してはダメです。ですから皆さんが地方で、公的な会合の場を重要視しなかったなら、発展しないのです。分かりますか、地域長たち? 区域礼拝も同じことです。 主の日の礼拝の時には、必ず沐浴斉戒して、神のまえに敬礼を捧げ、また聖地を尋ねて祈祷しなければなりません。たとえ尋ねて来る人がいなかったとしても、神がその部落を思いやって、共にされる心情的な基台を築いておかなければなりません。神のまえに一人祈祷して、涙を流すその場は、絶対に心ぼそくはないのです。神が共におられますから、絶対に淋しくはないというのです。3年以上、皆さんが誠精を尽くしても、その村で得た人がいなかったら、その村は滅ぶのです。 皆さんが爪を切るその時にも、お父様に侍ることができるその時、その時間が来たら、どうするのですか? どのように孝道をなすのでしょう? そしてどんな姿でお父様に侍るのか、考えてみなければなりません。お父様にどの川岸で、出会うことができるのか!どんな所で出会うことができるのか! 皆さんが山奥に入って生活するなら、我々統一教会員の食口たちが尋ねて来たら大切にもてなし、また食口の中で誰か悲しいことがないかと、案じたりします。そして自分と最も親しい食口に会えたなら良かった、また先生に会えたなら、地区長に会えたなら、地域長に会えたなら良かった、という慕わしい心がなければなりません。 毎日のように慕わしくないという人間は、神に侍ることができないのです。皆さんはこれが分からなければなりません。誰を慕うにも常に、慕わしさに染みていなければなりません。ところで夜、12時になると「やあ やあ ! さあ さあ 」という人間は、神に心配を掛ける人間なのです。親友には、夜も昼もないのです。心情の因縁を知ってゆく時には、夜が問題ではありません。 他人から反対され、迫害された話を聞けば、その人よりさらに悔しくて胸が痛み、称賛された人を見たら、その人のことを地区長や地域長に報告して、誇ることができなければなりません。全部報告して誇りたいという心を、皆さんが持たなければなりません。 ですから慕わしい心がない人は、侍る生活をすることができない人です。慕わしい心、すなわち本部を慕い、地区を慕い、兄弟を慕わしく思わなければなりません。こんな心で生活する人間は、絶対に淋しくはならないのです。 そうなればその人によって、必ず繁殖が起こってくるのです。こんな基準で教会を立てれば、天上的教会になります。では、皆さんの教会はどうでしょうか? 全部みな冷え冷えとしているのです。このような慕わしい気分にならなかったなら、皆さんは写真でも見て、一人であったも慰めなければなりません。口にも言えないよじれた事由は、素晴らしいことなのです。であればお父様がその間に流した涙は、一つの感情によって解かされてゆくのです。皆さん、そのようにやってみましたか? その流した涙の中に、天に通じる感情が生じてくるのです。涙を流してアボジを呼ぶ時に、その声はどこに行くのですか? 食口たちの困難な様子を見る時、それは他のことではありません。皆さんが暮らしている村に、伝道隊員が来れば「彼らは自分の仕事を代身するために来てくれたのだから、彼らの所に行きたい」という心がなければなりません。 修道の道を歩む人間は乞食の親類になれ 孝子は父のことを代身して責任を負う立場ですから、父のことを代身して責任を持つことは無論ですが、その周囲に誠精の手を延ばすべき所があったなら、その場に行って見たく、またそこに行って涙を流し、そこの食口たちと一緒になりたいという懇切なる心がなければなりません。そんな心がない人間は、先生に侍ることはできません。そんな慕わしい心を持ってみない人間は、侍義の生活圏から離脱した人間です。すでに神と同じ目的を持っていないというのです。 イエス様を信じる信者たちが、イエス様の愛の新婦である信仰の兄弟たちを愛すれば、これはイエス様を代身して愛したのですから、その人は早く蕩減復帰できるのです。 完全なプラスは、完全なマイナスを生むのです。ですから完全に心情が一致すれば、完全なる心情の対象者が生まれ、新郎新婦の欣慕の心情を連ね、縦的にそんな関係を結べなければ横的に同志あるいはは食口、あるいは同胞の関係を結んで、繁殖してゆくのです。人間は腹がすけば沢山食べます。しかしどんなに腹がへっても、食べ物を横にいる人にも分けてあげなければなりません。 皆さんよりもさらに忠誠をなした先知先烈たちが、皆さんと同じ立場で神のみ旨を立てることができなかったので、恨が残っているのです。ですから全体が神の対象になっているのです。 皆さんたちに慕わしい心がありますか? 地域長が慕わし時がありますか? また、先生が慕わしくて会いたい時がありますか?「ハイ」時にはあるでしょう。皆さんが迫害され、悔しい時「先生! 先生を愛していますほどに、私を愛して下さい」とは言っても、自分がちょっと楽で嬉しければそうではなくなるのです。鞭打たれ、悲しい立場になった時には先生のこと考えるのですが、そうでない時には考えないのです。 ですからこれから環境がだんだん良くなって、統一教会を歓迎する人々が多くなる時、その時が正に統一教会の信者にとって、危機の非常時代になるのです。分かりますか? まず財布にお金がちょっとあれば、祈祷する心も起きないというのです。皆さん、そうですか、そうじゃありませんか? それで修道の道を歩む人間は、みな乞食の親類になれというのです。家を捨て、山中修行するというのです。ところで我々は天国の門に入るまでは乞食の様子ですから、天国生活をする時にはいけませんので、我々は覆って行かなければなりません。 その代わり心情だけは、いつも終始同じでなければなりません。皆さんは心情教育を受けていますから、今までそんな分野では道義的にゆくことができるのです。 ですからまず、縦的な関係におきまして天的な基準を立て、縦横を蕩減しなければなりません。上下、前後、左右です。右左、後前、下上そのようになっているでしょう?「上下、前後、左右になっています」一切の影響は、根から上がって来るのです。 勝利する生活 先生は誠精を込める食口や家庭を、最も恐れるのです。そして苦労した食口を見ると、その食口が苦労したということを、先生はいっぺんに分かるのです。 誠精を尽くすということは、むやみに求めることではないのす。ですから統一教会に入って、先輩たちが天に向かって誠精を尽くした基台の上でしくじったら、霊界に行って全部引っ掛かるのです。これが分からないで統一教会に入って、逆賊になる人々がいます。そんな人間は、7代が引っ掛かるのです。先生がさっと印を付けておけば、彼らはあの世に行って引っ掛かるのです。こんな怨痛なることがあるでしょうか? 悪の世界が滅ぶ時には、彼らはまず一番に滅ぶのです。 ですから皆さんは、侍義の生活をしなければなりません。朝起きて、最初の一言を天のまえに捧げ、家を出る時には、最初の一歩を右足から踏み出して、天のまえに捧げるのです。平素の習慣がこのようになったら、皆さんの生活は侍義の生活となることができるのです。このような観点で皆さんは、原則的な基準で、生活における態度とするようにして下さい。 さあ ! 今はこれくらいにして今日、記憶することを忘れませんか?「ハイ」 今、皆さんは、自ら伝道基盤を築かなければなりません。ところで今、皆さんの心の姿勢で、できますか? さらに女性たちは伝道に行かなければなりません。統一教会食口たちは女性でも、3月以上伝道に行かなければなりません。そうしない女性たちは、これから嫁に行く歳になっても、嫁に行けないのです。これは蕩減条件が残っているからです。 また、結婚していない青年たちはどうなるのでしょうか? チョンガ-ですよ。チョンガ-なら、統一教会に来て女性たちを連れてこなければなりません。それで千年(青年)は一日の如く、一日は千年の如しです。間違いなく、目が落ち込んで待っているのです。ですからより多くの体験をしてみなければなりません。すなわち、霊的な感を通して相手方がどんな感じを持っているかということを、知らねばなりません。ところで大部分の霊界を通して預言されるいる人々が、これを失敗するのです。それでこれをよく判定しなければなりません。ですから霊界で教えても、むやみに喋ってはダメなのです。全て消化して、天的なものを追求するのに合致した位置に帰って、処理しなければダメです。でなかったら、パンクしてしまうのです。 神のまえに忠誠なる先生 先生はこんなことを体恤した人間なのです。先生が監獄に入っている時、どんなに裏寂しいでしょうか? ところで神は、先生に多くのことを約束して下さったのです。そんな時ごとに「あふ ! そんなにはるか遠いことを、どうして押し分けてゆくの」と言って神を怨むなら、千万にもわたる事由をもって怨むことができるのです。しかしながら男として生まれたからには滅んだとしても、天地を創造された偉大なる神を引きつれて立派に滅ぶというのです。本当にこれは、男らしいことです。 神のまえに忠誠を尽くそうとしたのに、神が100パ-セント排斥されたとしても、これは素晴らしいというのです。しかし普通の人は、神が自分を100パ-セント排斥する立場に立ったなら、千べん万べん神に背反し、怨讐視して仇を返そうとするのです。しかしこんな立場に立っても、ホホと笑って「これくらいでは我が心は動きません」という人間がいたなら、神は「やあ 、こいつを見てくれ。千万の人間以上の気概を持っているなあ !」とされるのです。 先生がこのように考えて決心しているので、神は先生を愛さずにはいられないのです。もしも神が愛さなかったなら、先生は千万の山場で間違いなく倒れたのです。しかし背骨が飛び出してものそりのそりと這って、死んでも心に抱いた決心を捨てはしないのです。 それで先生は拷問を沢山受けました。五体に全部血がまわるほど、また血が鉢に何杯も溢れるほど、鞭にも打たれたのです。 時を失うなかれ 日本統治時代には、軍靴で腹を蹴られる拷問も受けました。二人の男が左右から手を掴んで、また二人の男が上から踏みつけるのです。そうしたら腹の皮膚がどうなりますか?破れますか? 切れますか? それで便所にいって一度座って、起きてみなさい。それがどんなに苦しいでしょう。しかしながら先生は、気を落とさないのです。やあ ! 素晴らしいというのです。(笑い)神のためにこのようにしたということは、世の中にないことです。(笑い)考えてみて下さい、そうじゃありませんか? ではあっても私が出て行く時には、彼らに親切にしてやって行かなければなりません。約5・6時間、ひどい拷問を受けて、気絶してばったり倒れる時、その時むしろ彼に同情したのです。その同情は本物です。あ! その時その何某はどこにいるかと、考えたのです。享楽を追求する人間に、こんなことをいくら説明しても絶対に分かってもらえません。 そんな場においては、アボジと共なるその時が慕わしいのです。鞭で打たれて血を吐いて、肉が熱くなるそんな場であっても「この血は歴史に背反した先祖の血だ。私には未だ行くべき道が残っているので、背負う十字架があるので、みな背負わせよ」という祈祷をしたのです。これはどんなにか男らしい祈祷でしょうか? 先生がこんな話をすれば、終わることがないのです。これまでこんな路程を、経て来ました。 耐えて来たのですが、いつの日にか、返す日が来るのです。ですからアボジ、耐えて下さい。韓民族を審判されるなら、最後の審判をされる前に私に通告して審判して下さい。また、世界を審判されるなら、最後に私に通告して審判して下さい・・・。 こんなことを考える時、運の悪さを嘆き、身の上を嘆く人間に比べれば、どんなにか素晴らしい男でしょうか? 歴史時代に一度現れて霊界に行くとしても、世界的に仰ぎ見られる人間になってみなさいというのです。どんなに素晴らしいことでしょうか? このようにすることは、一度しかないのです。この時を逃したら、ないというのです。この機会を捉えなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.03
コメント(0)

天の父母様聖会 天苑宮天苑教会 聖日礼拝日時 : 天一国 9年 3月 21日(2021年5月2日) 午前 9時30分場所 : 神韓国オンライン非対面中継 :一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.02
コメント(0)

オンライン生中継の映像(韓国語のみ)はPeaceLinkホームページ、5月2日AM09:30から配信される予定です。韓国ニュースからです。http://m.localsegye.co.kr/news/newsview.php?ncode=1065616888469715一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2021.05.01
コメント(0)
全35件 (35件中 1-35件目)
1