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日本の経済史においては、1955年から1973年までを高度成長期あるいは高度経済成長期と呼び、この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた。
中でも特に、1960年に首相に就任した池田勇人が打ち出した「国民所得倍増計画」によって、成長体制が整備された。
池田は「国民所得倍増計画」を打ち出し、国民総生産 ( GNP ) を10年以内に26兆円(1958年度価格)に倍増させて、国民の生活水準を西欧先進国並みに到達させるという経済成長目標を設定し、内政と外交を結びつけることで、完全雇用の達成と福祉国家の実現、国民各層間の所得格差の是正をはかることを目指した。さらに減税、社会保障、公共投資を三本柱として経済成長を推進させた。
また悪い表現でいえば " エコノミックアニマル " の出発点でもある。
実施に至る経緯
「国民所得倍増計画」が、池田内閣で世に出るまでは複雑な経緯を辿っている。そもそもこの " 高度経済成長政策 " の理論的骨格は、宏池会が結成された1957年頃から、池田の指示を受けた下村治たち池田のブレーンが、ケインズ的思想を初めて導入して、日本経済と国民生活がこれからの10年間にどこまで豊かになれるかという潜在成長力の推計を大蔵省内の一室で続け、池田とのディスカッションを経て練り上げたものが " 大元 " である。
当時から、この経済成長政策に " 月給二倍 " 、 " 所得倍増 " という考えが池田の頭に既にあったとする文献もあるが、1958年頃はまだはっきりとは無かったものと思われる。池田がはっきり、 " 倍増 " という発想を明確にしたのは、読売新聞1959年1月3日付朝刊に掲載された一橋大学教授の中山伊知郎の短いエッセイを読んだのがきっかけとされる。このエッセイには、新聞社の整理部員が「賃金2倍を提唱」という見出しがあった。
内容以上に見出しの " 賃金2倍 " の言葉が池田の心を捉えた。月給が2倍になるという具体的なイメージを、理論とは別の「そうならざるを得ない」といった展開性を持った構想を高めていった。
下村は「日本経済の成長可能性が、当時国民全体が感じている状態より非常に強いと、池田さんがだんだん感じをつかんだんじゃないかと思います」と述べている。
池田は1959年2月22日に郷里広島の演説会で「月給倍増論」を初めて口に出した。同市の天城旅館に宮澤喜一、大平正芳、登坂重次郎が集まった際に、池田が「月給倍増はいかん。
月給というと給料取りばかりが相手だと思われる。 " 所得倍増 " にしよう」と言ったといわれ、時系列的には若干合わないものの、この辺りで " 所得倍増 " というフレーズが生まれたものと見られる。
広島からの帰途、大阪に立ち寄り、100人余りの関西財界人の前で再び「月給倍増論」を唱えたが「春闘を控えて、いたずらに労働者側に甘い期待を抱かせることになる」「月給を二倍にすると、必ずインフレになる。無理に生産力を伸ばせば、輸入が激増し国際収支が大幅赤字になる」といった反対論が噴出した。
池田は誤解を解く必要があると思い、帰郷後3月9日の『日本経済新聞』朝刊「経済時評」の欄に「私の月給倍増論」と題する小論を発表した。
内容は「いま月給をすぐ二倍に引上げるというのではなく、国民の努力と政策のよろしきをえれば生産が向上する。
せっかく力が充実し、国民経済が成長しようとしているのに、これを無理に抑えている。いま日本でインフレの心配は少しもない」というようなものだった。
この議論は大きな反響を呼び、「国民総生産(GNP)」という経済用語が、初めて政治家によってマスメディアに持ち出されたといわれる。
一方で、幹事長だった福田赳夫が「岸総理に『所得倍増』をいわせるんだ」と言っていたという。
経済企画庁の大来佐武郎が、福田が幹事長だったときに説明に言ったら福田が「何か二倍になるものはないか」と言ったと証言しており、福田の幹事長就任は1959年1月のため、福田は池田の『所得倍増』のアイデアを盗み、池田 - 下村ラインの経済政策を岸 - 福田ラインが内閣の方針として取り込もうとしたものと考えられる。
池田が1959年6月の参院選でも党内野党として「月給倍増論」を活発に繰り返すに及んで、岸は池田を強力な反主流派に留めておくべきでないと判断し、内閣改造の際に「所得倍増計画」の実現を任せると約束して池田を通産大臣として入閣させた。池田は、早速組閣直後の閣議で、首相談話原案中に書かれた「10年で所得を倍増させる」という文章から「10年」という文字を削除させ、「10年」以内に所得倍増が可能であることを強調し、内閣を主導した。池田は入閣によって次期政権の機会を捉えようとし、政府側の経済政策を積極論へ転換させることに力を注ぎ、ブレーンたちと「所得倍増計画」の原型を作っていく。
岸は池田の政策構想を福田に牽制させる体制を作ろうとし、福田を蔵相に据える構想を抱いたが、弟の佐藤栄作が蔵相の留任に固執したため福田は農相に就任した。池田はこの通産大臣時代に「所得倍増計画」と同じような積極財政論を公表していたが、岸内閣は翌年の安保闘争による総辞職に至るまでこの問題にかかりきりで新政策を展開する余裕がなかった、
1959年10月、自民党内に設置された経済調査会が出した報告に池田や佐藤が「具体的データが不足している」などとその内容にクレームを付け、白紙に戻された。党の基本構想を葬り去った池田の背後には「下村プラン」が控えており、既に骨格を作り上げていたため、党の基本構想のデータの欠陥を指摘し得たのである。
やむなく岸内閣は11月26日、あらためて経済審議会(石川一郎会長)に諮問したが、この年 9 月にあった伊勢湾台風の被害に対応するため、1960年度の予算編成は、国土保全政策に重点的な支出配分を行うものになり、「所得倍増計画」に重点を置くことができなかった。
大来佐武郎はこの11月の答申から12月の閣議決定の間も池田が狙っていた高度成長と違うと相当揉めたと話している。
福田もかねてから長期経済計画を持っていたため、池田が「月給二倍論」を唱えるのに対抗して「生産力倍増十ヵ年計画」を構想した。
福田は、これに池田が影響を受けたと話しているが、池田サイドから福田のそれに影響を受けたとする証言がない。「福田が池田の構想を先取りしようと考えた」と書かれた文献もある。
福田は「積極財政」の池田とは逆の「均衡財政」志向の「安定経済成長論」を唱え続け、後に政調会長だった第2次池田内閣のとき「国民所得倍増計画」を批判して池田に更迭された人である。
戦後最初の経済計画は第3次鳩山一郎内閣が1955年12月に決定した「経済自立五ヶ年計画」といわれており、当然ながら福田以外にも同時期に経済成長政策を構想していた政治家もいたと思われ、また「所得倍増計画」に一部に共通する部分があるとしても、同じ経済成長政策のため似ている部分があっても不思議はない。藤山愛一郎は「福田君の安定成長論は私のマネをした」と述べている。福田は「池田氏の所得倍増は月給二倍論で非常に危険だった。背景には消費美徳論、二宮尊徳批判論があった。
これが定着すると消費をあおり、その後の政治が難しくなる。これをひっくり返すため私は、安定成長論を持ち出したんだ」と語っている。
下村は「所得倍増計画が10年計画だったが、それは前半の5年ぐらいで、あとの後半は全然考えの違った人たちに計画が委ねられたことが、最も不幸だった」と述べている。
鳩山内閣の「経済自立五ヶ年計画」や、岸内閣の「新長期経済計画」も、年平均5〜6%の成長率を政策運営の前提とし、従来の経済計画はいずれも5ヵ年を目途とする計画であったのに対して、この計画は1970年を目標年次とする10ヵ年計画であった。より長期的視点で日本経済の性格を決定したという意味で「所得倍増計画」は大きな役割を果たした。
またそれまでの経済計画が、 " 安定成長 " を志向したのに対して、池田は市場経済システムを強化することを主眼としていた。
当時の民間経済界やエコノミストの間では、日本の経済成長は、戦後の復興段階を終えて、屈折点を迎え、鈍化するのではないかとする見方が根強かったが、この計画は全く趣を異にしていた。池田内閣の「国民所得倍増計画」は、このような殻を打ち破ろうとする政策だったのである。岸や福田が所得倍増計画を作った、とする文献も散見されるが、「所得倍増」というアイデアは中山伊知郎のエッセイをヒントに池田が思いつき、取り入れたものであり、池田は「所得倍増計画」を自身の内閣の一枚看板にするほど重きを置いたが、岸と福田が経済政策にどれほど熱を入れていたのか不明である。岸は経済政策を軽蔑していたともいわれる。
また、この二人がプレゼンして国民に受け入れられたのかという疑問もある。宮崎勇は「岸内閣のときは大蔵省も反対し、佐藤栄作蔵相も『倍増なんて数字ではなかなかできない』と言っていたのに、池田さんが総理になってやるということになると、『これは協力すべきだ』と変わった」と証言しており、池田の時代になってから本格的になったといえる。
「国民所得倍増計画」は、独自に人心に訴える効果があり、その後の日本の進路を決する重要な選択として世間に知られることになった。
立案には約 3 年間を費やし、民間の有識者など各方面から1000人ほどの意見を聞いて練り上げたともいわれ、最終的には池田が首相就任後の1960年9月、池田とその側近である下村、大平、宮澤らも含めて、役所が総がかりで池田内閣として政策体系にまとめ上げた 。宮崎勇 は「池田さんは下村さんを中心とした個人的ブレーンを使っ ていた から、私どもが『倍増計画』を経済審議会の意向を受けて仕事をこなす以外に、池田さんとのブレーンとも調整を進めなくてはならず、複雑な機構になっていた」などと述べている。
下村は「経済企画庁が作った所得倍増計画と自身のもの(下村プラン)とは、全く違う発想で、池田内閣になって、池田さんの意見が出てきたので、総理大臣の意見を無視するわけにもいかないので、何とかある程度総理大臣の意見をくんだものをつくるということが最後に決まった」と述べている。
「国民所得倍増計画」は、池田のアナウンス効果も含めて、国民各層の意欲を喚起するだけの新鮮な響きを持っていて、提唱が現実の施策として時宣を得ていたから池田内閣のときに、国民に受け入れられたといえ、日本経済と国民生活がこれから10年間に、どこまで、どう、豊かになるのか、分かりやすく、かつ緻密に示したことが括目に値する。
側近の前尾などは「所得倍増計画」は選挙までと思っていたが、池田政権の約4年の間、細かい不況などの逆境があったが強気の姿勢・政策を取り続けた。
沢木耕太郎は「所得倍増計画」の辿った運命について以下のように表現している。「池田とそのブレーンが生み出した " 発想 " としての『所得倍増』が、福田赳夫の機転により岸内閣のもとにかすみとられ、経済企画庁の " 計画化 " という長いトンネルに放り込まれ、そのトンネルがあまりにも長すぎ『所得倍増』が『国民所得倍増計画』の衣装をまとってトンネルを抜け出したときには、向こう側で待っていたのが放り込んだ者ではなく、 " 発想 " をかすみとられた人々だったという皮肉な巡り合わせになる。池田にとって幸運だったのは " 計画 " としての『所得倍増』が岸内閣の手に渡されなかったことである。
もし " 計画化 " が早くなされ、岸内閣の手に渡っていれば、『所得倍増』が明確な思想のもとに " 政策化 " されることもなく、ブームとなることもなかったろう。
その処女性を失うだけで棚ざらしのまま、それまでのいくつかの政府長期計画のように意味のないものとなって消えただけだろう。
そして、1960年代の政治状況は決定的に異なっていたかもしれない」。すべての始まりとなった中山伊知郎は「あの文章が池田さんの『所得倍増』を生んだとは、どうしてもぼくには思えないんですよ。
ぼくは『所得倍増』という言葉を作った覚えもない。その当時のぼくが考えていたのは、高賃金の経済というものが日本でも可能なのではないかということでした。
経営者は賃金のコストの面ばかりを見て抑えつけようとするが、賃金のもうひとつの側面である所得をあげることこそが、かえって生産性を上昇させ労働争議のロスを少なくさせ、社会全体にとってよいものなのだということを主張したかったわけです。賃金を二倍にしてもやっていけるような経済を作っていこうという、いわば夢を述べてわけなんですね。『所得倍増』は、ぼくのこの考えを基礎にしたものではありません。二つは無縁なものだと思いますね」と語っている。
岡崎哲二はこのような「所得倍増計画」をめぐる経緯に関して「当時の自民党の中に政策的・政治的な立場を異にする複数の有力な政治家とそれを支えるグループ(派閥)が、厳しく対立しつつ政治的な駆け引きを行っており、そのことが自民党と日本の政治全体に活力を与えていた点」を評価し「派閥の積極的な意味にあらためて目をむけるべき」と論じている。
所得倍増計画その要締
1960年7月19日に池田は内閣総理大臣に就任し、9月5日に「所得倍増論」の骨子を発表。「今後の経済成長率を経済企画庁は年率7.2%といっているが、私の考えでは低すぎる。
少なくとも年率9%は成長すると確信している」「過去の実績から見て、1961年度以降3ヵ年に年平均9%は可能であり、国民所得を1人あたり1960年度の約12万円から、1963年度には約15万円に伸ばす。
これを達成するために適切な施策を行っていけば、10年後には国民所得は 2 倍以上になる」「9%程度の成長がないと、10年間で完全雇用と、生活水準を西欧並みに引き上げることはできない」などとした。経済成長率年平均9%は、池田の裁断で決めたといわれ、外人記者は「ナイン・パーセント・マン」と打電した。
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