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尼子氏
の旧臣
山中幸盛
、
立原久綱
らが
尼子勝久
を奉じて
隠岐
で尼子再興の挙兵し、
出雲
の
新山城
に入り出雲の諸城を攻略する事件が起きた(
尼子再興軍の雲州侵攻
)。毛利氏の出雲の拠点である
月山富田城
を脅かすなど、毛利氏の領国支配体制が危機にさらされることになった。
この危機を脱するため、毛利元就は筑前方面に展開している吉川元春、小早川隆景らの毛利軍主力を呼び戻すこととし、毛利勢は立花山城に 乃美宗勝 らわずかな兵を残したまま 宗像氏 の支援を得て北九州より撤退し、多々良浜の戦いは大友氏の勝利に終わった。
また、立花山城は翌年になって開城し守備兵も約定により本州へ撤退した。
戦後処理と後世への影響
大友氏による筑前支配体制の確立
戦後、大友宗麟は苦戦の原因として、立花山城主の立花鑑載、宝満城とその支城の岩屋城を領する高橋鑑種といった筑前の重要拠点を預かっていた両氏が叛旗を翻したことと判断し、ここに腹心を送り込むことになった。
具体的には、先の落城の際に自害した立花鑑載の 立花氏 の名跡を家老の戸次鑑連に継承させ、高橋鑑種の家督を奪い毛利氏へ追放し、 高橋氏 の名跡を同じく家老の吉弘鑑理の次男 鎮理 に継承させた。
これにより、戸次鑑連は立花道雪、吉弘鎮理は高橋鎮種(後に剃髪して紹運と号す)と名を改め、筑前の軍権を立花道雪が握るようになったことにより、大友氏の筑前支配は磐石となった。
毛利氏の外交転換と大友氏の北九州支配
毛利氏は 1571 年 (元亀2年)に当主元就が死去しており、後を継いだ 毛利輝元 は外交戦略をそれまでの 織田信長 との友好を保つ方針から、 足利義昭 が主導した信長包囲網に加わる方針に転換した。
この為、毛利氏は北九州で失った拠点を奪還する兵を起こすことはなくなり、1550年代から10年以上に渡って続いた大友氏と毛利氏の筑前・豊前における覇権争いは大友氏が勝利することになった。
この支配体制は立花道雪が病死した 1585 年 (天正13年)以降も高橋紹運と、紹運の子で道雪の養子 立花宗茂 の2人に継承されている。島津氏が筑前に攻め寄せた際には、高橋紹運が岩屋城に、紹運の次男 高橋統増 が宝満城に、立花宗茂が立花山城に拠って抗戦している。
この戦いで高橋統増は筑紫氏の家臣団が裏切ったことにより捕虜となったものの、高橋紹運は 岩屋城の戦い で玉砕するまで戦い抜き、立花宗茂は立花山城に拠って島津勢を相手に奮戦するなど、大友氏の衰退期にあってもこの宗麟の築いた支配体制は機能していた。
大内輝弘の乱 (おおうちてるひろのらん)は、 戦国時代 後期の 永禄 12年( 1569 年 )に 周防 ・ 長門国 で起きた騒乱。
旧大内家の動向
弘治 元年( 1555 年 )から始まった 毛利元就 の 防長経略 によって 大内氏 は滅亡し、周防・長門国は毛利領となった。大内家臣の多くは新たな領主となった毛利氏に従ったが、これに不満を持つ大内遺臣もいた。
毛利氏の支配が始まった直後から、毛利氏の支配が確立して間もない 弘治 3年( 1557 年 )11月には、旧大内氏の重臣格であった 杉氏 ・ 内藤氏 ・ 問田氏 らが 大内義隆 の遺児とされる 問田亀鶴丸 を奉じて挙兵、 山口 近郊の 障子岳 に籠もった。この反乱は、毛利氏の支配を覆すべく挙兵した大規模なものであったが、毛利家臣となっていた 内藤隆春 ・ 杉重良 らが鎮定。
その後も、小規模の反乱が山口周辺で発生するも、山口支配責任者として 高嶺城 に入っていた 市川経好 がよく平定して毛利氏の支配を強化していた。
一方、 豊後国 の 戦国大名 ・ 大友氏 の客将に、 大内義興 の弟である 大内高弘 の子 大内輝弘 がいた。高弘は 大友親治 ( 大友宗麟 の曽祖父)の誘いに乗り、大内重臣 杉武明 と謀って義興に謀反を起こしていたが、失敗して豊後国に亡命していた。
輝弘は山口に帰国して大内家を再興しようとしていたが、頼ろうとした大内家残党(陶・内藤旧臣)が永禄8年(1565年)6月に周防 屋代島 に集まったところで毛利麾下の 来島通康 勢に討ち取られてしまっていた。
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