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この時、臼杵城に籠城していた宗麟は大砲・国崩し( フランキ砲 )を使って臼杵城を守った。
しかし、大友氏はもはや数ヶ月すら持ち堪えられないところまできており、滅亡寸前にまで追い詰められた。
天正15年( 1587 年 )、滅亡寸前のところで 豊臣秀長 の軍勢が豊前小倉においた先着していた 毛利輝元 、 宇喜多秀家 、 宮部継潤 らの軍勢と合流し、豊臣軍の総勢10万が九州に到着。同年4月17日に 日向国 根城坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦( 根白坂の戦い )においては、砦の守将・ 宮部継潤 らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守。
根白坂の戦い (ねじろざかのたたかい)は、 天正 15年( 1587 年 )4月17日に 日向国 根白坂で行なわれた 豊臣秀吉 軍と 島津義久 軍による合戦である。
九州制覇を目指す島津義久は、天正14年( 1586 年 )に入ると豊後侵攻を開始し、12月には 戸次川の戦い で豊臣・大友連合軍を撃破し、 大友義統 は 島津氏 の勢威を恐れて 豊前 に逃亡し、豊後の西部及び中央部はほぼ島津氏の占領下に入った。
一方、宿敵の 徳川家康 を臣従させて後顧の憂いを無くしていた豊臣秀吉は、天正15年( 1587 年 )1月に 九州征伐 の大動員令を発し、畿内や中国・四国の諸大名による軍を九州に送り出した。
3月には秀吉の弟・ 豊臣秀長 の軍勢が豊前小倉において先着していた 毛利輝元 や 宇喜多秀家 、 宮部継潤 ら中国の軍勢と合流し、豊臣軍の総勢は10万になった。これにより先の豊後侵攻で島津軍の侵攻でも陥落しなかった 岡城 の 志賀親次 や 栂牟礼城 の 佐伯惟定 、 鶴崎城 の 妙林尼 などが勢いづき、豊前・ 豊後 の土豪、さらに 肥前 の 龍造寺政家 と 鍋島直茂 も豊臣氏に帰順する。
これに対して島津義久は、彼我に圧倒的に兵力差があり過ぎることから戦線の縮小を図った。戸次川の戦い後に義久の弟・ 島津家久 が占領していた府内を放棄させ、家久は後方の豊後松尾城に撤退し、代わって島津家久の兄・ 島津義弘 が府内に入って守備を固めた。そこへ秀吉は高野山の 木食応其 と一色昭秀を遣わし和議を勧めるが、島津義弘は応じず徹底抗戦を選択した。
しかし佐伯惟定率いる大友軍の反撃によって本国との経路・日向国境近くの 朝日嶽城 が落とされ、戦況の不利を悟った島津義弘の軍勢は3月15日の夜半に府内城を脱出し、豊後松尾城の家久と合流、島津軍は豊後から退却する。退却の際に3月16日に三梅峠で志賀親次、3月17日には梓峠で佐伯惟定が率いる大友軍の追撃を受け、島津軍は犠牲を出しながら日向まで撤退した。3月下旬に入ると豊臣秀長率いる日向方面軍(九州東部軍)が豊後を発って日向に侵攻した。3月29日には日向北部の要衝である 日向松尾城 が陥落した。
秀長軍は日向南部の要衝・ 高城 を包囲した。高城は堅固であり、守将も島津軍きっての将・ 山田有信 だったため、豊臣軍も力攻めを行うには多大な犠牲が必要であった。
秀長軍は無理に力攻めをせず、城を何重にも包囲した上で兵糧攻めとし、併せて島津軍が城を助けに来るなら必ず通るはずの根白坂に砦を構築し、ここを要塞化して島津軍を待つ戦略を取った。
一方、豊臣秀吉率いる本隊(九州北部・西部軍)は3月1日に大坂を出陣し、3月29日に豊前小倉に着陣した。秀吉は島津氏に従属する 筑前 の 秋月種実 の支城・ 岩石城 を4月1日に落とした。
秋月種実は秀吉に各個撃破されることを恐れて支城の 益富城 を破却して全軍で 古処山城 に立て籠もった。
ところが秀吉得意の築城技術により、破却したはずの益富城は早々に修復され、ここを拠点に古処山城が攻撃されたため、種実は戦意を失って4月3日に秀吉に降伏した。その後、秀吉は4月10日に 筑後 に侵攻し、4月16日には 肥後 隈本(熊本)、4月17日には宇土へと進軍する。この間、秀吉の勢威を恐れて諸国の土豪は次々と降伏していった。
島津義久は西から秀吉の軍勢が急速に南下していることを知って慌てた。義久は秀長の軍勢に備えるために 薩摩 ・ 大隅 などの軍勢の大半を日向 都於郡城 に結集していた。そのためもあり、九州西側の守備は手薄だった。
豊臣方の軍勢がやってくると、各地の島津氏に服従していたはずの在地勢力はことごとく豊臣方に寝返っていった。
この状況で有力な家臣である高城の山田を見捨てる選択は、島津氏の評価を下げることとなる。局面の打破を迫られた義久は、九州東部方面軍であり、高城を包囲する秀長の軍勢に決戦を挑んだ。
4月17日夜半、島津軍は根白坂を急襲した。この根白坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が高城を救援するなら必ず通らないといけないルートだった。
そのため前述のように、島津軍の後詰(救援)を予想していた秀長らは根白坂に砦を構築し、要塞化して守備を固めていた。
島津氏は縣城を質に誘い出され、またそうせざるを得ない状況となっていた。
戦闘経過
この時の両軍の兵力は諸説があって定かではないが、豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどだったといわれる。
島津軍では総大将の島津義弘が自ら前線に立って戦ったと伝えられるほど奮戦するが攻めきれず苦戦した。 砦の守将 宮部継潤 らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。
これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。 ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の 尾藤知宣 は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長本隊は軍監の言に従い、救援の中止を受け入れた。
しかし豊臣秀長麾下の 藤堂高虎 の500名と 宇喜多秀家 麾下の 戸川達安 の手勢らが 宮部継潤 の救援に向かい、島津軍を翻弄。
ここに小早川・黒田勢が挟撃を仕掛けたため、島津軍は大将格の 島津忠隣 ・ 猿渡信光 等が討死するなどほぼ全滅状態となり、敗北遁走した。
秀長らは追撃を行おうとしたが、尾藤が深追いの危険を主張したために追撃戦は行われなかった。
後に、日向国高城にて島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、 宮部継潤 の働きに「法印(継潤)が事は巧者のものにて、天下無双」(『川角太閤記』)と秀吉をうならせた。 この戦いは、豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦 ( 戸次川の戦い ) に望んだ上で敗北した 仙石秀久 の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている 大友義鎮 を救った戦いであった。
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