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2024年12月02日
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カテゴリ: 中世



(みなもと の よしなか)は、
平安時代 末期の 信濃源氏 武将 河内源氏 の一族、 源義賢 の次男。 源頼朝 義経 兄弟とは従兄弟にあたる。


木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『 平家物語 』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。


以仁王 の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を 北陸宮 として擁護し、 倶利伽羅峠の戦い 平氏 の大軍を破って入京する。


Ø 連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより 後白河法皇 と不和となる。 法住寺合戦 に及んで法皇と 後鳥羽天皇 を幽閉して 征東大将軍 となるが、源頼朝が送った 源範頼 ・義経の軍勢により、 粟津の戦い で討たれた。


生い立ち


源 義賢 (みなもと  の よしかた)は、 平安時代 後期の 武将 河内源氏 源為義 の次男。 源義朝 の異母弟。 源義仲 (木曾義仲)の父。


保延 5年( 1139 )、のちの 近衛天皇 である 東宮 体仁親王を警護する 帯刀 の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま 東国 関東 )に下った後、重要な官職に 補任 されており、この時点では 河内源氏 嫡流 を継承すべき立場にあったと考えられる。


翌年、滝口源備殺害事件の犯人を捕らえるが、義賢がその犯人に関与していたとして帯刀先生を解官される。このために、為義は弟である四男・ 頼賢 に嫡男の地位を譲らせる形で義賢を事実上の廃嫡にせざるを得なくなった [1]


その後 藤原頼長 に仕える。 康治 2年( 1143 )頼長の所有する 能登国 の預所職となるが、 久安 3年( 1147 )年貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の 男色 の相手になっている(『 台記 久安 4年1月5日条)。


堀川の源氏館にいたが、父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・ 義朝 が、 仁平 3 年( )に 下野 に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。 上野国 多胡 を領し、 武蔵国 の最大勢力である 秩父重隆 と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の 埼玉県 比企郡 嵐山町 )に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす(なお、義賢は重隆の養子になったとする見方もある [1] )。為義・義賢は 秩父氏 児玉氏 一族に影響力を持つ重隆を後ろ盾に勢力の挽回を図ろうとしたみられるが、結果的には両氏の内部を義賢派と義朝派に分裂させることになる [1]


久寿 2年( 1155 )8月、義賢は義朝に代わって 鎌倉 に下っていた甥・ 源義平 に大蔵館を襲撃され、 大蔵合戦 に及んで義父・重隆とともに討たれた。享年は 30 前後とされる。大蔵館にいた義賢の次男で 2 歳の駒王丸は、 畠山重能 斎藤実盛 らの計らいによって 信濃 木曾谷(木曽村)の 中原兼遠 に預けられ、のちの 源義仲 (木曾義仲)となる。京にいたと思われる 嫡子 仲家 は、 源頼政 に引き取られ養子となっている。


埼玉県比企郡嵐山町大蔵には大蔵館跡がある。都幾川に沿った段丘上で、川をへだてて水田が開け、現荒川の沖積平野に続いていて鎌倉街道の要路にあたっている [2] 。近くには源義賢の墓と伝えられている県内最古の 五輪塔 がある。なお、大蔵館の所在は現在の 東京都 世田谷区 大蔵 とする説もある。また、世田谷の大蔵は義平の居住地という説もある。埼玉県 児玉郡 上里町 帯刀の 福昌寺 は、 室町時代 に義賢の菩提を弔うために創建され、大蔵合戦後に落ち延びてきた義賢を祀ったとされる五輪塔がある。






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最終更新日  2024年12月02日 06時22分59秒
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