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利根川に国道6号を通す大利根橋から西側に大きな排水機場が見える。利根排水機場と青山排水機場である。普段は静かな施設である。大雨や利根川増水に活躍する大型ポンプ4台が格納されている。農業用水路の終点に位置する利根排水機場が完成したのは昭和41年だ。 上流の田中調整地を含むこの地域には1,200ヘクタールの広大な新田が広がっている。東京ドーム257個分に相当する。戦後の食糧増産政策として、昭和20年代に整備されたところ。水田は2条の堤防内にある。利根川が大増水した場合、洪水量を一時貯留する場所でもある。 当時、利根川に堤防を造る工事は、台風による出水等で幾度となく締切堤が決壊、挫折を繰り返す。だが国営事業であったため工事資金が続き、何とか「坂東太郎」を鎮めることが出来た。その結果、一大穀倉地帯が出現した。しかし時代は進み、日本人は米を食べなくなってしまう。 今年はこれまで少雨で、河川敷が水没するような増水に遇っていない。台風も本土に近づいていない。干ばつの後は大雨がくるジンクスがある。利根川流域に味曾有の被害をもたらしたのは、9月の台風・カスリーンである。利根排機場の排水ポンプが静かにして、稼働しないことを願う・・。写真-1 利根排水機場。北新田(田中調整池内)の基幹用水路の終点に建つ。写真-2 排水機場の吐き口となる青山水門。利根川増水時にこの水門を閉じる。 写真-3 千葉と茨城を結ぶ全長1,209mの大利根橋。国道6号線の橋を渡ると取手駅。写真-4 暑い一日が終わる利根川の夕景。大利根橋から上流を・・。 写真-5 大利根橋から利根排水機場を望む。
2013年08月15日
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利根川の夜空と川面を彩る「とりで利根川花火」へ散歩を兼ねて出かけた。花火会場は、取手緑地運動公園(利根川左岸)だが、人混みを避けて対岸の我孫子側まで歩くことにした。JR取手駅から国道6号(水戸街道)の大利根橋1.2kmを往復。日中の暑さを忘れさせる川風が心地よい。 取手の花火は、今年で還暦の60回を迎えた。隅田川花火大会の36回目と比べると異例ともいえる。花火好きのDNAが継承されているのだろうか。最初の打上げ花火は昭和5年。水戸街道に待望の大利根橋が架かり、その開通を花火で祝ったのだ。渡橋する両県民が橋中央で正面衝突したと言われる。 大利根橋からは常磐線利根川橋梁が視界を遮るので、花火打ち上げ会場を直接見ることはできない。利根川は常磐線快速電車の徐行・助走区間であるため、電車内からの花火観覧ができる。うわさでは、取手駅と天王台駅とを数回往復して、「花火列車」替わりにしているカップルもいるとのこと。 常磐線の利根川橋は、現在架け替え工事中。大利根橋より10年早い大正9年に完成した4代目だ。鋼材は初代のものを使用しているため、トラスをリニューアルしている。この橋はある意味幸せである。全国の橋梁において築後50年以上の橋が16パーセント(11万橋)もあるのだから・・。写真-1 開始早々の花火。手前にはゴルフ場があるので川に近付くことはできない。写真-2 宝石を散りばめたような花火。利根川右岸から取手会場を観る。写真-3 大利根橋から観た打上げ花火。利根川と常磐線橋梁を彩る。 写真-4 利根川の鉄道橋を照らす輝き。写真-5 常磐線の利根川橋梁と右岸土手に集まった見物客。
2013年08月13日
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朱塗りの八つ橋を埋めるようにスイレンが迫る菖蒲池がある。岩槻城址公園の東側にある7,000m2(160m×45m)の小さな池。岩槻城址公園は、東武野田線・岩槻駅から東へ約1.5kmに位置する。その城址公園のすぐ脇には、元荒川が流れている。 この公園は、岩槻城址を中心に造られ、野球場や運動公園も整備されている。岩槻城は、江戸時代以前には「岩付城」と呼ばれ、大田道灌の父親が築造したされる。しかし映画「のぼうの城」で有名になった成田氏が築いたとの説もある。戦国時代末期北条方の支城。豊臣軍により落城している。 1590年「岩槻城の戦い」は、小田原開城の約40日前に4日間の攻防で落城。一方、行田の「忍城(おしじょう)」は、小田原開城後まで戦ったことで映画になっている。映画では、石田三成の水攻めが失敗する。堤の決壊洪水シーンが東日本大震災を連想させるので、上映延期なった経緯がある。 岩槻城は、川越城、忍城と並ぶ名城だったという。元荒川から水を引き、入り組んだ水豪が城を守る「浮城」と云われていた。近くの元荒川に架かる新曲輪橋の親柱には雛人形が飾ってある。岩槻は人形のまち、ドーカンさんゆかりの土地であることを再認識した・・。元荒川は利根川水系に種別されている。写真-1 スイレンが八つ橋に押し寄せるような菖蒲池。写真-2 朱色の八つ橋が岩槻城址公園に彩りを添える。桜の名所でもある。写真-3 密集するスイレン。2週間以上見頃が続いているとのこと。写真-4 元荒川に架かる新曲輪橋と可愛らしい雛人形。写真-5 かつての岩槻城の絵図。浮城と云われた縄張り。
2013年06月23日
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利根川104km地点に芽吹大橋(めふきおおはし)が架かっている。千葉県野田市と茨城県坂東市を結び、県道3号・つくば野田線の要所である。戦後の農業と地域の産業振興に大きく貢献した橋で、「関東地方の橋百選」のひとつ。茨城県では、この他に水戸市の水府橋など5橋が選ばれている。 芽吹大橋は、カンチレバー式トラス橋で、橋長が2径間×(3支間×89m)=534mである。中間のトラス桁が両端のトラスで支える構造だという。トラス橋で少しでも長いスパンに挑戦した歴史が残っている。昭和33年(1958年)に日本道路公団が管理する橋であったが、10年後両県に移管された。 国交省は、芽吹大橋辺りを流下する利根川の水位・流量を1956年から観測している。下流の取手 観測所(河口より85km)、上流の栗橋観測所(河口より160km)のデータを見て洪水情報を発信する。観測所のデータは、1時間毎に蓄積されている。 芽吹大橋辺りの指定水位(水防団が待機)は、+2.0m(零点高YP+6.15m)としている。6/19の水位は-2.6mでかなり水量が少ない。橋から下流を眺めれば、川床に堆積した土砂が三日月状に顔を出している。逆光の写真となったので、セピア色に変換してみました。写真-1 河口より104km地点の利根川に架かる芽吹大橋と流量観測所標識。写真-2 芽吹橋側道から利根川上流を望む。トラス鋼材等に錆が目立つ。写真-3 直線535mの歩道部。往復1kmの散歩が可能。写真-4 利根川水位は零点高さ-2.6m。堆積した土砂が広がる。写真-5 橋中央で愛車も休憩。この日風が弱くて助かった・・。
2013年06月21日
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鬼怒川の最下流に赤くて、古い橋が架かっている。利根川合流点から上流約3km、守谷市坂井戸の滝下橋(橋長170m)である。茨城県内では、美しい橋のひとつ数えられている。車道(県道58号線)と歩道橋が分かれている。おかげで鬼怒川の流れを見ながら安全に渡ることが出来る。 地元では赤橋と親しまれている橋だが、昭和31年に完成した当時の姿。高さ制限や大型車両の通行に支障が出ているようだ。橋の左岸に清瀧寺、右岸に清瀧香取神社がある。前後の道路を広げることも出来ず、架け替工事は簡単ではない。橋の型式は、3連のワーレンストラス橋。 赤橋の近くでウロウロしていると釣人から声をかけられた。600m下流へ行くと川が開け、川床に直接降りることが出来ると・・。そこはシルト岩の岩床が広く露頭している所であった。鬼怒川の水量が少ないこともあって、普段靴でも歩きまわれた。 鬼怒川下流は、江戸時代の利根川東遷事業の際に台地を開削したところ。鬼怒川上流から下るサカナと利根川から遡上する魚とが混じりあうところ。魚の種類も多いらしい。近くの裏道沿いに「ロール海岸」との看板を目にした。どうもケーキ屋さんのようだった・・。写真-1 鬼怒川最下流に架かる滝下橋。三連ワーレンストラス橋の赤い橋。写真-2 昭和31年に完成した当時の姿のまま。大型車両は譲り合って通行している。写真-3 下流の岩床から赤い橋を望む。鬼怒川の洗濯岩場と名付けたらどうか・・。写真-4 硬い岩盤ではないが、粘りのある軟岩。近くにロール海岸というケーキ屋がある。
2013年06月19日
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四季の里公園の小さな池を目指す。この公園は「もりや工業団地」内にある大小9つの公園の中で最も大きく、四季の花々が植えられている。団地内の憩いの場所である。菖蒲池にはハナショウブ、アヤメ、カキツバタの計43,000株が咲く。池中央の展望小屋からは360度の花景色だ。 つくばTX線・守谷駅から北西3kmに位置する四季の里公園は、自宅から直線距離ならば約10km。日差しがきつくないので愛車でサイクリングする。途中、利根川と鬼怒川を渡るために、大きく北上した後、南下しなければならない。おかげで片道23kmになる。 もりや工業団地は、1899年に造成工事(65万m2)が始まり、1991年頃完成した。その年に日本最大級と云われたアサヒビール茨城工場が入所した。ビール工場の敷地面積は、39万m2で団地面積の約6割を占める。茨城県の工場見学の目玉である。見学後は無料の生ビール(グラス3杯)を飲める。 アサヒビール工場の西側1kmに鬼怒川が流れているが、工場用水は小貝川のようだ。水海道の浄水場から送水される。ビール製造は大量の水を必要とする。1日平均2,000kl(大ビン270万本相当)を製造するという。このところ雨の日が続いた。関東の水ガメは、僅かに回復した。写真-1 四季の里公園のアヤメ園。もりや工業団地の一角にある2万m2の公園。写真-2 菖蒲池の中央に東屋がある。池をぐるりと紫・黄・白の花が彩る。写真-3 第21回目を迎えたアヤメ祭り。アサヒビール工場の北側にある憩いの空間。写真-4 公園内の北側に設置してある水車。水は菖蒲池へ流れ込むようになっている。
2013年06月17日
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梅雨入り(5月29日)してから好天が続く。江戸川土手では、朝ランをするも遮るものがないので、紫外線を大いに浴びてしまう。そこで日差しの強い日については、柏の葉公園へコースを変更する。公園内は、散歩する人と犬が多いので、「よそ見ラン」は御法度だ。 柏の葉公園には旧陸軍の軍用地由来の樹木があり、緑豊かな場所である。中央広場のヘリに桜などの木が植えられている。7kmを40分で駆け、マイナスイオンをもらう。ボート池の西側にはアジサイが咲き始めた。今年は小ぶりのように思える。 報道によれば、今年5月の降水量が極端に少なかったので、平成8年以来の渇水が心配されるという。利根川上流8ダムの貯水率は59パーセント(6/10現在)。昨年は87パーセントだった。下久保ダムの貯水率は50パーセント。 台風3号(ヤギ)が北上している。南九州に強い雨をもたらしている。関東では恵みの雨になるのか今後の動向が注目される。梅雨前線を刺激して大雨・洪水にならないことを願う。昨今は気象の振れ幅が大きい。都合の良い降り方は、裏切られるが多い。山羊さんがゴウト鳴いたら、増水に要注意。写真-1 柏の葉公園中央広場横断路。新緑から元気をもらえると自己暗示を駈ける。 写真-2 柏の葉公園西側の路。ボート池と調整池の間を通り、西日をより遮る場所。写真-3 ボート池西側のアジサイ。貸しボートは、営業開始前の時刻です。写真-4 テニス場付近のガクアジサイ密集スポット。
2013年06月11日
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春はあけぼのやま・・。赤・白・黄のジュータンが広がる。柏あけぼの山農業公園の風車前広場は、例年どおり15万株のチューリップの花が咲いた。よく見るとチューリップの足元に、スミレ科の「ビオラ」も咲き並んでいる。チューリップの和名は、鬱金香(うっこんこう)と書くそうだ・・。 『さいたさいた チューリップの花が 並んだ並んだ あかしろきいろ どの花見てもきれいだな。』この童謡・唱歌は、昭和初期に創られたもの。小さな子と母親が一緒に歌う姿が見に浮かぶ・・。作詞者は広島県出身の近藤宮子氏、作曲が井上武志氏である。 あけぼの山公園のコンセプトは、遊んで学べる花の里だという。今春のチューリップは昨年の11月中頃に植えたもの。その球根植作業には、近隣の富勢(とみせい)東小学校の児童全員約120名が参画しているという。赤い花列に黄色の花が混じっているのもある。何か微笑ましい光景だ。 『どの花見てもきれいだな』という歌詞には、何事にも良いところがある。特に弱いものには目を配りたい-との思いが込められている。チューリップの花言葉は色にもよるが、博愛・真摯な愛・不滅の愛・・などがある。しかし「母親の愛」が相応しいと思う。写真-1 今年もチューリップの絨毯が出現。柏あけぼの山農業公園の風車前広場にて。 写真-2 あけぼの山から風車前広場を覘く。写真-3 富勢東小学校の花壇。自分が植えた花だろうか・・良い記念になるね・・。写真-4 チューリップに飽きた子は、ハス池を走りまわる。落ちなければよいが・・。
2013年04月18日
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小貝川に3つの大きな堰がある。関東三大堰(福岡・岡・豊田)とも言われ、このうち最上流に建設されたのが福岡堰。農繁期に水門を閉じると、貯水量275万トンのダム湖が出現する。堰天端からは北方に筑波山を望むことができる。 福岡堰は、つくばエクスプレス線みどりの駅から西へ3km、つくばみらい市と常総市の境に位置する。福岡大堰または福岡頭首工とも呼ばれた。中央部を占める可動堰は、大きなシェル型構造の越流扉(長さ28.7m×高さ4.5m)を2門備えている。 小貝川は、洪水をおこす「暴れ川」として知られ、利根川の支流で最も長い川(延長=112km )。昔は鬼怒川と合流しており、水害を度々引き起こした。江戸時代に入りと伊奈忠治らの努力により、小貝川と鬼怒川の分流に成功した。 この分流で洪水被害が激減すると、湿地帯の開墾が始まる。しかし豊かな農地に変えるためには安定した水が必要となる。その後小貝川に大堰が3つ造られた。福岡堰は明治以降、大改築を3回も行っている。日本のコメ作りは、堰や水路等のインフラ整備と伴に発達してきた歴史がある。写真-1 小貝川と福岡堰を下流から望む。北方に筑波山が見える。写真-2 上流から福岡頭首工を望む。可動堰2門を卸して湛水状態。写真-3 福岡堰の下流。小貝川の堰群で、最初に洪水を受け止める「おおぜき」 写真-4 シェル型構造越流扉の塗装はサクラ色。長さ28.8m×高さ4.5m。
2013年04月08日
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利根川から小貝川を27km遡ると灌漑用水を確保するための堰がある。古くは山田沼堰と呼ばれた福岡堰である。この堰から取水した水を下流地域に導水する水路(根通用水路)が、多くの人で賑わっていた。 この根通用水路と小貝川の間には堤防があり、1.8kmの堤防は、茨城県の桜の名所にもなっている。桜堤には約550本のソメイヨシノが植えられている。桜が水辺に近く植えられているので、水面に美しく映し出される。お昼になると、弁当を持って集まる安らぎの場所でもある。 福岡堰さくら公園は、つくばみらい市の西端に位置する。平成18年に伊奈町と谷和原村とが合併して出来きたのが、つくばみらい市(人口約4.4万人)だ。その前年には、つくばエクスプレスが開業している。新駅として「みらい平駅」が創られた。 合併して伊奈町の名前が一つ消えた。福岡堰など、小貝川分流に尽力した「伊奈忠治」ゆかりの町名。忠治は、利根川東遷事業で有名な伊奈忠次の次男。オヤジに由来する伊奈町は、埼玉県にある。「伊奈」は水を治める者と同義語のような言葉である・・。写真-1 福岡堰からの導水路「根通用水路」。長1650m×幅30m×高5mの水路。写真-2 満開を迎えたさくら堤。約1.8km続く土の路面は、絶好の散歩道。写真-3 福岡橋近くのサクラ並木。水面の桜と合わせると、2倍の本数になる。写真-4 さくら堤に渡る橋は3本ある。中間に位置する北山橋はビュースポットだ。
2013年04月05日
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最近成田山表参道沿いは、「うなぎのぼりの街」と呼ぶらしい。成田駅前から新勝寺総門までの800m間は、古くから旅館や料理店が軒を並べてきた。いまでも約60店がうなぎ料理を出している。13mに1店の割合だ。これほどの密度は全国的に珍しく、うなぎの街を自称するだけのことはある。 成田にうなぎ屋さんが多い理由として、ひと昔まで近くの利根川と印旛沼に天然うなぎ多かったこと。更に成田詣に訪れた江戸庶民が、旅の疲れを回復するために栄養価の高いうなぎを好んで食したこと。門前町の旅籠では、競ってうなぎ料理を工夫して来た。しかし今後、「うなぎ」は永遠か・・。 天然うなぎが貴重種になり、近年はほとんどが養殖ものである。日本のうなぎ養殖に年間で必要な稚魚は20トンと言われ、その半分を外国からの輸入に頼っている。輸入稚魚は、密漁されたものもある。世界のうなぎの六割を消費する日本、何とかしなくては・・。近い将来、絶滅危惧種になってしまう。 最近の研究で、うなぎの稚魚はマリアナ諸島近くで孵化して、赤道海流と黒潮に乗って東アジア辿り着くという。日本沿岸や河口に集まる稚魚は、シラス漁で効率的に捕獲される。親うなぎとなる確率は年々低下する一方だ。親うなぎが育ち、海へ戻って行く国際的な仕組みづくりが必要か・・。写真-1 うなぎの尾に当たる成田山新勝寺総門。高15m総欅造りとして平成19年に建立。写真-2 坂道の表参道には、うなぎの蒲焼の匂いが漂う。「並うな重」は2300円程度。写真-3 門前町の影が残る表参道の町並み。電線の地中化で、遠くまで見通しが良くなった。写真-4 成田うなぎマップ「うなぎのぼりの街 成田」。うなぎの頭は駅前広場だ。
2013年01月08日
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正月三が日だけで300万人が訪れるという成田山新勝寺。「成田山は御護摩」とも云われる。本尊は不動明王で、江戸時代から歌舞伎界や商人・庶民が信仰してきた。美味いウナギと小旅行を楽しむ人々で、いまも賑わうところ。 成田山は、門と本堂がほぼ南北に一直線である。南に位置する総欅造りの総門をくぐり、境内に入ると赤い提灯のある仁王門がある。仁王門から53段の石段(東海道五十三次をならう)を昇ると大本堂が待っている。 大本堂は巨大な建物である。間口95.4m、奥行き59.9m、棟高32.6m、タタミ300畳の大広間を持つ空間である。ここが護摩祈祷を行う中心道場。芝・増上寺大殿の2.5倍を誇る大きさだ。正月3日から7日まで、1時間毎に特別護摩祈祷が行われる。一般客も大広間に入れるので、満員状態だ。 正時になると色鮮やかな法衣の導師・職衆が入場し、護摩祈祷となる。揺らめく護摩の炎の中に護摩木を投入し、願い事を清めて成就することを祈願するのだ。成田山新勝寺のキャチコピーは横断幕に記されている。「お護摩の火 心を清め 願いを叶う」。写真-1 成田山新勝寺の大本堂へ上がる参拝者。一方通行が原則。 [1月4日]写真-2 大本堂から見た境内の様子。人波が途切れることはない。写真-3 仁王門から大本堂へ。階段の左右には数々の奉納品が並べてある。写真-4 護摩祈祷の日程が終わった17時過ぎの境内の様子。
2013年01月06日
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日光市街地の東側を流れる大谷川(だいやがわ)。華厳の滝に源を発し、荒沢や稲荷川などの5つの支川を集めて鬼怒川に合流する急流河川だ。流路延長29.5km、平均勾配が1/33の暴れ川。この川を治める闘いに、多くの先人達の汗と血が注がれてきた。 日光は、江戸・明治と土砂災害が繰り返されてきた。明治23年の台風では、神橋や大日堂が流出した。大正期から先ず稲荷川の砂防工事に着手。山崩れや土砂流出の元凶を断つための工事。昭和に入ってから大谷川本川の床固工に取りかかり、今日に至る。 稲荷川合流点から今市大谷橋の約7.5km区間を大谷川中流床固群と称し、床固工(落差工)が35基も造られている。大谷川全体では130基とも云われている。床固工は、河床の勾配を緩やかにし、激流を和らげるもの。これによって、川床や川岸の洗掘を抑制するものである。 鳴虫山登山道の途中にある神ノ主山(標高842m)からは、日光市街と稲荷川の谷筋が見渡すことができる。下山の際、神ノ主山の北裾を流れる志渡渕川の船ケ沢の砂防堰堤を通った。この堰堤の直下流は墓地だった。日光は砂防堰堤類がとにかく多い所だ。毎年少しずつ訪ねてみようと思う。写真-1 霧降大橋より大谷川中流床固群を望む。男体山や女峰山の山並みが見える。写真-2 稲荷川との合流点。かつて稲荷川から大量の土石が流れ込んだ所。写真-3 神ノ主山から日光市街と稲荷川の谷筋を眺める。写真-4 大谷川の支川・志渡渕川の船ケ沢に建設された砂防堰堤。直下流は墓地だった・・。
2012年11月27日
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秋色に染まる龍王峡の自然研究路を歩いた。龍王峡は、鬼怒川上流部に発達する峡谷で、火山岩が約3kmに亘って侵食された景勝地。竜が暴れ回ったような形跡なので龍王峡と命名された。 峡谷は岩石の種類と色彩により、三つに命名されている。上流から安山岩が主体の紫龍峡、緑色凝灰岩が顔を出す青龍峡、そして虹見橋に露頭する白い流紋岩の白龍峡。3種類の岩石と奇岩を「研究」しながらのウォーキングだ。まだ、日本のジオパーク25地域には認定されていない。鬼怒川と呼ばれたのは明治以降と云われている。江戸の利根川東遷事業前までは、香取海に注ぐ大河だった。その頃は、毛野川または衣川と呼ばれていた。人が多く住み洪水の被害が人災に及びようになると、「鬼が怒る川」と呼ぶようになる。住民が警戒心を抱くように考えたのだろうか・・。 龍王峡を通過した鬼怒川は、南下し続け約140kmで利根川左岸に注ぐ。合流点は利根運河東口近で、守屋市・柏市・野田市の市境である。鬼怒川の領地(流域面積)は、1770km2と坂東太郎の10分の1ではあるが、大きな水害をもたらす力を秘めている川・・。写真-1 虹見橋より白龍峡を望む。峡谷上空に、淡い虹が見えた。写真-2 山紅葉越しの虹見橋。鋼製上路アーチ橋で長さ約70m。写真-3 むささび橋付近の青龍峡。昭和52年に完成した吊橋で、此処からの眺めが一番・・。 写真-4 黄色の鱗を身に付けた紫龍峡と穏やかな鬼の川。
2012年11月12日
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江戸川区中央を東西に開削された水路がある。幅約20mの新川である。荒川放水路建設に伴い、新たに作られた川。付近を流れていた船堀川を流路変更・改修して現在に至る。約3kmの人工河川は、中川に注ぐので、中川の支川として1級河川なのだろう。 新川は旧江戸川の新川東水門から水を取り入れ、中川(荒川と併流)の新川西排水機場から排水されている。水路内に水が滞留しないように水の流れをつくり、水質悪化対策をしている。釣りをする人も見かけた。 江戸の頃船堀川は、「塩の道」や行徳川とも言われた。沿岸には「ごったく屋」と呼ばれる料理屋が多く立ち並んでいた。そのような背景があるので、区では新川を整備してきた。石積護岸、木製の人道橋をつくり遊歩道もできている。しかし、無駄遣いとの批判もあり、7割程の整備率だろうか。 新川の西端には公園広場と高さ15.5mの江戸風火の見櫓が設置されている。旧江戸川の方から歩くと東京スカイツリーとこの黒い塔を目指すことになる。将来「新川千本桜計画」の起点となる公園らしい。桜の頃は遊歩道沿で、地元住民の花見で賑わいそうだ・・。写真-1 人道木橋から新川を眺める。両岸には遊歩道が整備され安心して歩ける。写真-2 旧江戸川に面する新川東水門。この水門から新鮮な水を取り入れて水質悪化を防ぐ。写真-3 新川西端(中川側)に設置されている新川西排水機場。写真-4 西排水機場近くの公園に立つ江戸風の「火の見櫓」。
2012年10月20日
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関東ひまわり名所のひとつに柏あけぼの農業公園がある。公園のシンボルであるオランダ風車の西側に2.2haのひまわり畑が広がっている。品種はハイブリッド・サンフラワーで、草丈1.5m程度に成長する。見頃のピークは少し過ぎたようだ。 「日まわり」とも呼ばれるが、大輪ともなるとフレキシブルには首が動かない。花首の柔らかい蕾の時だけ昼間、太陽の方をむくようだ。従って、あけぼの山からは、東方向にある風車に向かって、ひまわりが整列・礼をしている。 ひまわりの種は食用や塗料にもなるが、日本では鳥や小動物の飼料になることが多い。夏の太陽と呼ばれるだけに、栄養価が高く、脂肪分もある。ひまわり油を自家製で作っているところがある。フランス料理でも使われ、海外ではポピュラーな食料油と云われている。 一時、放射性セシウムで汚染された土壌を除染するのに有効かと話題になったひまわり。その後話は断ち切れに。ひまわりの種はBDF(バイオディーゼル燃料)にもなる。但し、コストが高く、1L当り千円以上。50Lの油を得るのに、ひまわり5000本が必要。やはり食品関係での利用か・・。写真-1 あけぼの山からひまわり畑を望む。風車に向かって一礼をしている状況。写真-2 サンフラワーの大輪を逆光で眺める。西陽が厳しいので、背にするのかな・・。写真-3 高さ18mオランダ風車。平成14年国産で設置、ミルストーンを備えている。写真-4 あけぼの山公園から北東方向に筑波山が見える。手前には利根川が流れている。
2012年08月06日
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春日部市東方を流れる古利根川(ふるとねがわ)の左岸に、特別天然記念物の「牛島の藤」がある。旧利根川の氾濫原に位置し、古利根川と中川に挟まれている庭園にある。牛島藤花園が保存・管理を行っている。 牛島の藤は、弘法大師が植え、樹齢1200年とされる。藤紫の花房は、長さ2mにもなる。根回り10m2から広がる藤棚面積は700m2。同じ規模のものが3箇所ある。敷地面積2haの園内には池や中島もあるが、500余年の老松が存在感を放つ。 古利根川は、利根川東遷事業の旧流路の名残で、「大落古利根川」とも呼ぶ。水源を葛西用水路(久喜市)とし、吉川市西端で中川に注ぐ延長26.7kmの一級河川である。古利根川の右岸には、整備された川久保公園がある。ビオトークと石のモニュメントがあり、ウォーキングには持ってこいの場所。 「牛島の藤」への最寄りの駅は、東武線・藤の牛島駅。800mほど離れて平行に流れる古利根川と中川に直交して鉄道が走っている。駅は二つの川のほぼ中間に位置する。牛島とは、一般に低湿地の土地や舟運の要所を示す。その昔、舟を遡上させるための牛や馬が屯した場所だろうか・・。 写真-1 弘法大師が植え、樹齢1200年とされる「牛島の藤」。藤花園が保存・管理。写真-2 風に揺れる藤紫の花房。昭和30年に特別天然記念物に指定。写真-3 樹齢約500年の老松は、藤花園の中で存在感がある。写真-4 川久保公園から古利根川を望む。電車位置から約700m上流に「牛島の藤」がある。
2012年05月09日
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利根川の流れを千葉県柏市付近でスライスさせる小山がある。その亀の甲羅ほどの高台には、弁財天像が祀られている。紅龍山布施弁天(東海寺)である。地元では布施の弁天さまと親しまれている。 布施弁天の創建は、大同2年(807年)。空海が開山したと言われる。紅龍山の由来は、大雷雨の中、紅の龍が土塊を運んで造った島に、天女の御像があったからと・・。三方破風(はふ)造り総朱塗りの華麗な本堂からは、北方(約1km)に利根川を見下ろすことが出来る。 布施弁天から南側の低地には、「あけぼの山農業公園」が広がる。この公園では四季の花々を観ることができる。この時期はチューリップ。オランダを思わせる風車と池、そして15万本のチューリップが訪れる人々を楽しませる。水はきの良い土と適度の湿気がチューリップの栽培に適している。 布施地区は、柏市・我孫子市・取手市との境、利根川右岸にある。このため江戸時代は、東北地方と江戸を結ぶ交通(水運)の要衝であった。関東三弁天のひとつである布施弁天は、当時から庶民に人気があった。江戸川を渡って来る人々も多く、街道もあった。 写真-1 オランダを思わせるチューリップと風車写真-2 布施弁天の本堂を北から見た境内。茅葺形銅版葺きの屋根曲線が美しい。 写真-3 紅龍山の楼閣・最勝閣。階下に四天王、階上には釈迦三尊が安置。写真-4 柏市の「あけぼの山農業公園」。ハス池付近のチューリップを観賞。
2012年04月27日
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冬に近づき空気が澄んできた。江戸川からも富士山が見える日が増えた。ここ、利根運河の江戸川口(西口)は運河位置を標記する起点である。但しこの時期は、遠景富士のスポットになる。僅かながら駐車スペースもある。暗くなった夜道を運河沿いに帰れば安全・便利だ。 ここでの富士山は、朝には陽を受け左半面がほんのり赤らみ、夕には影絵のようなシルエットを見せてくれる。そして、冬至が近づくにつれて、夕陽が山頂に沈む。師走の堤防は、吹く風が冷たい。体調を考えて長居は無用。 むかし運河口は、間口が今より広かった。浮橋や舟小屋が設置され、通行料を徴収した場所。大正10年のピーク収集金額は6,400万円。汽船の通船数では明治41年が最大を示し、2,372隻と記録がある。当初運河は、いまと逆方向に江戸川から利根川に流れていたという。 小生のジョギングコースで、お気に入りチェックポイントが運河西口。季節や天候を考えて、走る方向を変えている。冬は北風のアゲンストを避けるべく、江戸川を下るように反時計回りに走る。すると写真-2の方向に富士を望める。そんな幸運な日は数少ないが・・。西口で振りむけば筑波山。写真-1 江戸川越しの富士山。もう少し早い時刻に撮影すると東斜面が淡いピンクに染まっている。写真-2 江戸川に面している利根運河西口。堤防連絡橋と送電線に囲まれているのが富士山。 写真-3 富士山のふもとに沈む夕日。もう少し日付を遅らせると山頂と夕陽とが交差する。写真-4 昔の利根運河口(江戸川側)。浮桟橋や舟番所があり、料金を徴収していたという。 にほんブログ村
2011年12月08日
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利根川と江戸川とを延長8kmで結ぶ利根運河。その運河の流入口跡が柏市船戸(利根川河口より96km地点)にある。運河東口とする。現在は、利根川の水が流入しないように堤防で締め切られている。流入部特有のラッパ形状の護岸は、いまなお健在である。 運河入口から800m上流の利根川に、北方向より鬼怒川が合流して来る。「鬼」が静かにしている時には、合流部には砂州を見ることができる。また、800m下流には常磐道利根川橋とつくばエクスプレス橋梁が架かっている。昔も今も交通の要衝のようだ。鬼怒川の延長は177kmで、利根川の支流れの中で最も長い。流域面積も利根川の10%を占める。源流は鬼怒沼。日光山地で大雨が降ると、黒い濁流が運河入口付近に流れ込む。昔は幾度となく大水を繰り返したため、鬼が棲む川と恐れていた。 70年前(1941年)の台風では、大激流が運河に流れ込み水堰を破壊した。更に堤防の損壊、大量の土砂の堆積をもたらした。以後、運河の通航は途絶えた。鬼の出口が運河の入口に近いのだ。現在は、河川敷が広いパブリックゴルフ場となっている。ゴルフ場が遊水池のようだ。今年も冠水した。写真-1 運河東口から鬼怒川合流部を望む。出口にあたる利根川に砂州が形成されている。写真-2 運河東口から下流の常磐道利根川橋を見る。つくばエクスプレス橋梁が重なって見える。写真-3 船戸地区の運河水門。破壊された旧水堰の下流に建設された。写真-4 「つくばエクスプレス」の利根川橋梁を右岸から望む。筑波山に向かって架かっている。人気ブログランキングへ
2011年12月06日
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利根川の水を荒川へ運ぶ水路を武蔵水路という。上流ダム群で造り出された水を利根大堰で受けとめ、横の須加樋管から配水する幹線だ。14.5km南下すると荒川に合流する。水路上幅が20m程度の台形水路で1967年に完成した。この水路造りは、420年前の忍城水攻めにヒントがありそうだ。 取水された水は、沈砂池を経て各施設へ分配される。大きく3系統である。(1)埼玉用水路(Q=30m3/s)、(2)武蔵水路(Q=50m3/s)、(3)見沼代用水路(Q=44m3/s)。この他にも行田上水や群馬県側の送水などあり、合計の配水規模は135m3/sに及ぶ。 武蔵水路の当初用水量は、都市用水30m3/sと隅田川などの浄化用水20m3/sであった。最近の豪雨で、内排水も必要になってきた。水路の傷みも目立ち(地盤沈下、薄い張コンクリートの劣化)、リニューアル工事が始まっている。補修を容易にする中壁と壁を垂直にして流下断面を大きくするものだ。 武蔵水路沿いを7.5km南下すると忍川に接する場所がある。その東側に「さきたま古墳公園」が広がっている。行田市は忍城と古墳の町である。秀吉・家康で小田原城を攻めた際、北条方の忍城(城主:成田氏長)を石田三成が水攻めにした。三成は丸墓山古墳に登ぼり、水に浮く城と堤防を眺めたはず。 写真-1 利根大堰右岸から取水する須加樋管施設。沈砂池を経て三つの水路に分けられるが、武蔵水路が最大。写真-2 44歳の武蔵水路はリニューアル中。水路断面積増と補修用仕切壁を設置する工事。 写真-3 さきたま古墳公園内にある丸墓山古墳。高さ19mの円墳の頭には大きな桜の木がある。写真-4 忍城跡に復元された天守閣。御三階櫓で展望・資料室となっている。 にほんブログ村
2011年11月30日
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成田山の麓には、北へ向かって流れる二つの川がある。東側を流れるのは根木名(ねこな)川、西側を流れるのが小橋川。そして成田山新勝寺から北3km付近の新妻橋で合流する。根木名川は、更に7km北上して、成田市安西の新川水門を通って利根川に流れ出る。 根木名川延長は、江戸川の半分の30km程度である。中小河川であるが1級河川である。過去の秋台風で流域付近を繰り返し氾濫させてきた。利根川の水位が高いと逆流もするのだ。現在は堤防の嵩上げや、川床の掘削等の災害対策が進んでいる。 新妻橋付近の上流向側に、小さな丘の公園がある。この公園で毎日「川を見つめる少女」がいる。黒御影石の本当の彫刻像である。やわらかく丁寧に仕上がっているので、そっと肩に触れたくなる。しばし、ふたりで「きた」を眺めた。少女は風と雲を見、小生は北の故郷を想う。 このような少女は、水戸や弘前にもいるという。生活の風景を石で置き換える作風とか。高嶋文彦氏の手によるものだ。高嶋氏の作品は、有名だけに都会に多い。このような小さな川のほとりにあるとは驚きだ。新妻橋を通行する際には、上流南の丘で「ねこなちゃん」が見つめているのを忘れずに。写真-1 根木名川と小橋川の合流場所を見渡せる小さな丘から北の方向をみる。新妻橋が地平線。写真-2 根木名川に架かる押畑橋より成田山新勝寺方向を望む。複数の鉄道が川を横断する。写真-3 根木名川親水公園にある自然石を活用した橋。崩れないのは、各石にアンカーが付いているため。写真-4 高嶋文彦氏の手による「川を見つめる少女」像。黒御影石の彫りもの。左側にスペースがある。横に並んで一緒に風景を見るのだ。にほんブログ村人気ブログランキングへ
2011年10月06日
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川いっぱいに広がった「通りゃんせ」遊びを思い出させる風景がある。ひとが堰柱、繋いでいる手と腕がゲートだ。ここは海から18.5km地点、利根川河口堰である。約1.2kmの川幅に水門ゲート23門が直線に並んでいる。 河口堰と言っても、3つの複合施設である。右岸から数えて黒部川水門(3門)、利根川河口堰(10門)、常陸川水門(10門)となる。利根川河口堰は、利根川下流域の水田を塩害から守ることを主目的に昭和46年(1971年)に完成した。渇水期と満潮が重なると海水は、河口より40km遡上するからだ。 同じような形状と機能を有した構造物でありながら、名称を堰と水門とに使い分けている。これは建設の当初目的に関係するものと思う。利根川河口堰は、首都圏の水を取水する役目もあった。一方、常陸川水門は、あくまでも利根川の支川。本川が増水した際の逆流を防ぐ水門の役割がある。 この河口堰建設により得られた水22.5m3/sは、木下の北千葉導水路を経て江戸川に送られる。更に東京都の金町浄水場で取水され、首都圏の生活水に使われる。(7月6日記の「川辺の水汲み」を参照)。また、堰の脇に2種類の魚道が整備されている。春に鮎、秋に鮭の遡上する様子を観たいものだ。写真-1 「通りゃんせ」する利根川河口堰を上流から観る。制水門が5門、2段扉の調整水門が2門、閘門が1門。写真-2 下流左岸より総延長約1.2Kmの常陸川水門と利根川堰を望む。黄色区間が常陸川水門群写真-3 魚道の上流側を観る。コンクリート製の幅7.5mの階段式魚道と石張り緩勾配魚道(鰻や蟹さん用)とが配置。 写真-4 調整ゲートのうち上流側扉天端には「竹輪」のような突起物がある。魚に対する配慮かな・・ にほんブログ村
2011年09月17日
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今年の中秋の満月は9月12日。流山市内でも好天に恵まれて月見を楽しめた。しかし、64年前の中秋の「迷月」は、どうであっただろうか。台風カスリーンは、空を暗雲で覆い、長い時間大雨を降らしたはずだ。台風の雲間に見えた月に、ひとは何を願ったか。また月は何を照らしたのか。 昭和22年(1947年)の9号台風は、御承知のようにカスリーンとも呼ばれる。典型的な雨台風で、戦後の間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらした。利根川の本川堤防が9月15日の深夜、東村(現在の加須市)右岸側約340mにわたって決壊した。濁流は、現在の東京都江戸川区まで押し寄せた。カスリーン台風による死者・行方不明者数は1,900名を超え、罹災者が40万人を超えたという。6か月前の3.11大津波による被害は、この10倍規模である。利根川等の決壊箇所は、70日で延べ16万人が動員され復旧したとされる。それに較べ東北の復旧・復興にスピード感が不足している。 この被害を後世忘れないようにするために、決壊箇所がカスリーン公園として整備され、記念碑やモニュメントがある。首都圏の洪水対策は、このカスリーン台風を教訓に防御目標としている自治体が多い。しかし、想定外の雨量が各地で生起している。避難する場所と施設の見直しが必要となる。写真-1 カスリーン公園を望む。利根川右岸(埼玉県加須市新川通)。海から134km地点。写真-2 台風の雨雲のモニュメント。遠くの日光連山に向かって恐龍が何か叫んでいるようにも見えるが・・ 写真-3 決壊口跡の碑。決壊跡の碑は渡良瀬川など各地にある。東武日光線の鉄橋が見える。写真-4 1947年9月のカスリーン台風経路図 にほんブログ村
2011年09月15日
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水郷大橋を渡るとレンガ造りの水砦が出迎えてくれる。利根川と霞ヶ浦とを結ぶ水運の要衝点、横利根閘門だ。閘門規模は長さ90m×幅11m。上下流それぞれに二重の門扉を持つ。煉瓦造複閘式閘門と専門的に分類されている。2000年には近代化遺産の重要文化財に指定。 水郷大橋は、千葉県香取市と茨城県稲敷市を繋ぐ、長さ535mの斜長橋である。若草色の主塔が県境の位置。斜ワイヤーの本数が少なくシンプルな橋。上下流の幅2.5mの歩道から安全に景色を楽しめる。昭和52年には土木学会田中賞を受賞。筑波山や富士山も見えるので、水郷地域のランドマークだ。 水郷大橋から下流500mで、横利根川が利根川と合流する。このような場所には必ずと言って、水門や閘門等がある。横利根閘門は、利根川の増水が霞ヶ浦に逆流しないように、更には船舶の航行を確保するために、大正10年(1921年)に造られた。稼働率は低いが今なお現役の開閉装置がある。 かつて、那珂湊-涸沼川-霞ヶ浦-横利根川-利根川、といつた東廻り航路があった。東北の大切な物資を積んだ船が鹿島灘で遭難することを避けるために。この航路の維持管理を担い、活躍した閘門もいまは水辺公園。派手な色彩の商業施設ができた。多くの車が大橋を行き交う水郷の日常である。写真-1 水郷大橋は地域のシンボル。斜ワイヤーが少なくシンプル。橋からの眺めと風が心地良い写真-2 大正10年に造られたレンガ造りの閘門。水砦の門から小早船が打ち出で来そうな気配。 写真-3 横利根川上流から閘室を見る。遠くに近代的な青水門が見える。利根川口がある。写真-4 現役で活躍する二重の門扉と開閉装置 にほんブログ村
2011年09月13日
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日光街道(国道4号線)と利根川とが交差する所に「房川の渡し」があった。江戸幕府は、東北の玄間口であり、江戸防御上重要な地点には橋を架けさせない。利根川橋の右岸袂には栗橋関所跡碑がある。 栗橋宿は、千住宿から7番目、中田宿が8番目にあたる。参勤交代では40数家の大名がこの渡しを利用した。しかし、徳川将軍が日光東照宮を参拝する際には、50隻以上の和船を横繋ぎした船橋を架けたと言う。船の上に板をはり、砂を敷き詰めたと言う。古河歴史博物館にその模型がある。 大正13年(1924年)には、この場所に本格的な鋼製トラス橋として利根川橋が架けられ、平成21年12月まで現役で活躍してきた。現在は、この橋を挟み上下線の新利根川橋が完成し供用している。旧橋は、日本の近代土木遺産にも選ばれているので、何らかの保存が検討されている。 この渡しの上流2kmには渡良瀬川が合流している。その合流付近は、肥沃な土が堆積しヨシなどが良く育つ。その河原を淡青緑色の橋梁が這い、草原と大空と境界に鉄道が敷かれているようにも見える。その鉄橋は、9スパンのトラスが連なる延長800mのJR東北本線である。(写真-1を参照) 写真-1 大空と草原との狭間を這う橋梁。新利根川橋より利根川の河原を観る。写真-2 大正13年から旧利根川橋(トラス橋) と利根川橋(下り線)を埼玉県側から観る写真-3 解体中の旧橋を新橋(上り線)より望む。近代土木遺産の橋が消えて行く写真-4 栗橋関所跡と将軍を渡す「船橋」の図会 にほんブログ村
2011年09月11日
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台風12号は、紀伊半島で猛威を振ったが、坂東太郎(利根川)は今回暴れずに済んだ。被災地の方々には、お見舞いを申し上げるすべしか持ない。利根川中流右岸地域の大洪水を防ぐ手段として、田中調整池(遊水池とも呼ぶ)がある。広大な農地だ。 田中調整池は、柏市と我孫子市にまたがった大規模な洪水調整池である。その貯水量は68,000千m3、面積は11.7km2。越流場所(約400m)は、隣接する堤防より3m程度低くして利根川の増水を呼び込むようになっている。大洪水の際には、任意の堤防決壊を避け、予め場所を特定しておくものだ。 遊水池内は「米どころ」でもある。黄金色した稲穂が垂れ下がり、一部収穫が始まっている。今年は、東日本大震災、新潟・福島豪雨、そして今回の災害で米収穫の石高が懸念されている。関東の石高は、例年以上のものになってほしい。 調整池は、ダムに代わるものとして昨今脚光を浴びている。しかし、下記のような課題もある。(1)越流堤付近の地盤沈下。(2)土砂の堆積で通水断面の減少。(3)遊水池内での農業生産意欲の低下。(4)調整池の上流地域で堤防が決壊した場合のリスクなど。治水事業は、地道で終りのない闘いだと思う。写真-1 新大利根橋(県道47号線)から増水した利根川下流を望む。2011年9月6日撮影写真-2 収穫前の田中調整池を横断する常磐自動車道路と筑波エクスプレス線 写真-3 堤防天端より3m程度低い越流堤を観る 写真-4 越流堤長は約400m。自転車で縦断する にほんブログ村
2011年09月07日
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今週(5/16)から主要企業でクールビスが始まった。昨年よりも2週間も早い。業種によっては、さらに進んでスーパービズを取り入れる会社もある。サラリーマンにとって、今年の夏は、「覚悟の夏」、「節約ビス」とに長くお付き合いしなくてはならない。各自独創的な工夫あれ。 私は、夏が来れば、尾瀬または北海道へいっとき避暑したいとなア考えている。10年前片品村戸倉の「ロッジまつうら」に泊り、鳩待峠から入山し、湿原を満喫した。健康なうちは、何回でも行ってみたい所だ。 片品村には、さる3月18日に南相馬市の920人もの方が避難した。旅館・民宿の35施設に分散して宿泊しているという。明日で3ケ月目に入るが、今も全員健在でいるのだろうか。 6月の尾瀬は、水芭蕉の季節。避難生活で大変だと思いますが、湿原特有のおいしい空気を吸いに、身心をリフレッシュするために尾瀬などに出かけてみてはどうか。マイナスイオンを大量に体内に取り入れ、次なる生活の糧にしよう。 下記写真は、尾瀬沼近くを源流とする片品川に建設されている重力式コンクリートダムです。水のエネルギーをスキージャンプ方式で減勢し、河道を保全している。 クレストゲートからの放流する薗原ダム (吉ジイの秘蔵写真集より、2009年撮影)
2011年05月17日
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