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トーチカのような「風の館」屋上の展望台から岬突端まで、約800mの遊歩道が整備されている。風の弱かったので、皆で岬の突端まで歩く。終点部の平場には、神社跡を示すと木製鳥居と石碑が立っていた。「豊国丸殉難追悼碑」と刻まれている。1929年に襟裳岬沖合で座礁沈没し、78名が亡くなった。 襟裳岬突端部から太平洋へ向かって、大小の岩礁が連なっている。岬形状は、ネズミが伏せたように見えるという。「オンネエンルム」のエルムは、鼠を意味しているという。60mの断崖から続く尾根(岩礁)は、沖合約7kmまで伸びている。この岩礁にゼニガタアザラシが生息している。 襟裳岬のある襟裳町は、夏から秋にかけて町が昆布一色に染まるという。日高昆布の産地だ。かつて「えりも砂漠」と呼ばれた土地は、現在草木が生えている。緑化に辿り着けたのは、地元漁師の力によるところが大きかった。海の幸は、山からもたらされる。また山は海から贈り物で成長してゆく・・。写真1 襟裳岬突端、ネズミの尾。写真2 太平洋へ沈み込んでゆく岩礁群。写真3 突端部遊歩道と3つ目の展望台。写真4 ゼニガタアザラシが生息するという岩場。写真5 海面近くの平場と波打ち際。写真6 神社跡と海難事故慰霊碑。
2023年01月18日
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北海道岬めぐり、12番目の襟裳岬に立つ。アイヌ語で「オンネエンルカ」(大きな岬)と呼ばれた。実際に立つと大きな岬で、3カ所の展望台が整備され壮大な展望を望める。西海岸方面にアポイ岳・ピンネシリ、東海岸方面に豊似岳。観光センターの食堂で、腹ごしらいをして散策した。 日高山脈が海に沈んで行く場所であり、太平洋に突き出した襟裳岬。風が吹き付ける地で、風速10m以上の日が年間260日もあるという。そこでついた名前が「風極の地」。また沖合で暖流と寒流がぶつかり合うため海霧が年間100日以上もあるという。風と霧と昆布の名所。 かつて岬周辺には広葉樹の原生林で覆われていた。しかし開拓期に。木々の伐採や牛馬、綿羊の放牧で土地は荒れ砂漠化してしまった。豊かな大地を取り戻すプロジェクト「岬の緑化事業」が昭和28年に始まった。かなりの面積が復元され、2010年に国指定の名勝に登録されるに至った。写真1 名勝 ピリカノカ 襟裳岬。写真2 襟裳岬の歌碑と太平洋。写真3 岬の左右海岸と山岳景色(アポイ岳、豊似岳)。写真4 風極の地と断崖地形。写真-5 襟裳岬灯台と案内看板。写真-6 観光センターで昼食とお土産。
2023年01月15日
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釧路川河口近く、左岸高台公園にぶつかるように、「幣舞橋(ぬさまいばし)」が架かっている。アイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」が名前の由来。神を祀るために木幣を立て並べ、祭祀を行う神聖な場所という意味。木幣のようにオリベスク風の親柱と橋上の4体の彫刻が特徴の橋だ。優雅で安定感ある名橋。 現在の橋は、5代目。昭和51年(1976年)に架け替えられた。橋長は124m、支間割りが34.5+54.0+34.5mとバランスが良い。初代の橋は、「愛北橋」で、明治22年に名古屋の愛北物産が自費で木橋を普請する。釧路川は、屈斜路湖から154km流れて太平洋に注ぐ。高低差が無いので、一級河川としては珍しくダムがない川だ。 みなと釧路は、昭和30年から50年にかけて世界最大の水揚げを誇った漁港。港湾計画は英国の技師が参加している。釧路川が内陸との輸送が便利であったため、明治時代から財閥が進出し、硫黄、石炭、木材、水産部の積出港として栄えた港町。小説・ドラマ・映画で度々、登場した幣舞橋を歩く・・。写真-1 丘に向かって架設されたような幣舞橋。写真-2 下流より幣舞橋を眺める。写真-3 橋脚と重厚な鋼製桁。写真-4 護岸プロムナードと複合施設(フィッシャーマンズワーフ)。写真-5 幣舞橋を特徴づけるオリベスク風親柱と四季の像。写真-6 釧路川河口の波止場。
2023年01月07日
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釧路市内に入る前に、厚岸味覚ターミナルの炭焼炙屋で「焼き牡蠣」の夕食をする。厚岸町は、湾と湖があるので、サロマ湖とならんで牡蠣(マガキ)が特産物。道東エリアにおいて、北海道の養殖牡蠣量の約9割を生産しているという。「海のミルク」と呼ばれる牡蠣は、ミネラル分が豊富で、栄養価の高い食材。 釧路市内での宿泊は、釧路川にかかる「幣舞橋(ぬさまいばし)」のすぐ近くのホテル。最上階に天然温泉大浴場が設備されている「ラビスタ釧路川」。眼下に釧路川を望むことができる。風呂に入る前に、ライトアップされた幣舞橋を見て、橋袂の設置された「釧路の夜」(美川憲一の歌)を聞く・・。写真-1 釧路川の夜景。写真-2 釧路川に架かる「幣舞(ぬさまい)橋」。写真-3 橋上の彫刻(四季の像)。写真-4 美川憲一の「釧路の夜」のメロデイが流れる。写真-5 厚岸味覚・コンキリエと厚岸市内夜景・厚岸大橋。写真-6 厚岸名物の牡蠣を焼いていただく。
2022年12月30日
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根室半島と釧路市との中間に、太平洋に突き出す小さな半島がある。標高50mほどの長テーブルのような半島の東端に霧多布岬がある。正式名は湯沸岬(とうふつみさき)。駐車場からを草原に伸びる遊歩道(600m)を歩くと断崖に立つ灯台に到る。 四角い建物の上に提灯を載せたよう見える湯沸岬灯台は昭和26年に初点灯。2016年に「恋する灯台」に認定され、映画のロケ地にもなっている。全国に恋する灯台は、49ヶ所ほどあるという。二人の未来を見つめる場所に相応しいのが灯台と定義されているようだ。人生の道標にとの想いで、選定されているようだ。 夏、黄色いエゾカンゾウが咲き誇る霧多布岬であるが、希少な生き物でも注目されている。野生のラッコの生息状況がNHK「ダーウィンが来た」で報道された。陸上から観察できる岬。また「エゾピリカ」という珍しい鳥も生息しているという。写真-1 太平洋に突き出した霧多布岬。写真-2 夏は草原の岬になる。写真-3 断崖の展望台と霧多布岬の碑。写真-4 遊歩道終点の眺めと松浦武四郎の歌碑。写真-5 ラッコが生息している岬海岸。写真-6 恋する湯沸岬灯台と夕景。
2022年12月25日
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日本一早い初日の出が観られるという納沙布岬を始めて訪れた。岬めぐりの10番目の岬。ロシアの占領・実効支配が続く、北方四島のひとつ歯舞群島が直ぐそこにある。岬から貝殻島まで3.7km。満潮時には水没する貝殻島岩礁に朽ちた灯台が立っている。日本が昭和12年に築いたが、今はロシアが支配している。 納沙布岬は、一帯を「望郷の岬公園」として整備され、「四島のかけ橋」や高さ100mの展望台(オーロラタワー)がある。四島(しま)のかけ橋像は、北方四島を4つのブロックに表現し、それぞれが互いに連なり合って、大きな架け橋となって、領土返還を祈るゲートを表現している。高さ12.6m×長さ35mの領土色の門だ。 北方領土と呼ばれる四島とは、近いほうから歯舞(はぼまい)群島、国後(くにしり)島、色丹(しこたん)島、択捉(えとろふ)島。戦前の4島人口は約1万7千人。その島面積計は5000km2に及ぶ。 ロシアの侵攻によって、ウクライナの土地が約12万km2占領されている。日本の国土1/3に相当。プーチン政権は、黒海に出る回廊として、ウクライナ東・南部を手に入れつつある。停戦すれは北方領土のようになりそう。電力・ガス・水道がなくて、この冬を乗り切れるのだろうか・・。一時的なクリスマス停戦が実現できれば・・。写真-1 納沙布岬灯台と歯舞海域を望む。写真-2 納沙布岬の碑と四島の形。写真-3 北方領土返還を祈念する「四島のかけ橋」のゲート。写真-4 納沙布岬と朽ちた貝殻島灯台。写真-5 公園内のモニュメント類と蟹形トイレ。写真-6 オーロラタワーから見た「望郷の岬公園」と「北方領土視察証明書」。
2022年12月20日
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国道44号沿いにある道の駅「スワン44ねむろ」で休憩する。施設の前面ガラス張りの窓から、風連湖(ふうれんこ)および春国岱(しゅんこくたい)の雄大な自然を望むことができる。風連湖の西端、春国岱の入口にネイチャーセンターがあり、野鳥のウォッチングサイトとなっている。 風連湖は、根室市と別海町に跨り、国内最大級のハツチョウが飛来する湖。周囲94km×面積約57km2。根室半島のつけ根にある汽水性の「潟湖」。南側(根室)から伸びる春国岱と北側(別海町)から伸びる走古丹の二つの砂嘴によって、オホーツク海と隔てている。砂嘴の中央に幅300mの水道があり、市・町の境でもある。 オオハクチョウの姿が見られるのは10月上旬、シベリアからの渡り中継地となっている。ピークとなる11月中旬には、5000羽以上のハクチョウで、湖面が白く彩られる。風連湖の西に隣接して「温根沼」がある。根室湾の湖口に、「温根沼大橋」(ニールセンローゼ橋)が架かっている。根室市街地への出入口となっている。2度この橋を通行した。写真-1 風連湖を望む展望台。写真-2 風連湖と春日岱を望む。写真-3 ハクチョウの湖と周辺地図。写真-4 道の駅「スワン44根室」。写真-5 泥炭化している湖の岸辺。写真-6 根室市街への入口となる温根沼大橋。
2022年12月17日
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知床半島と根室半島の中間に位置し、オホーツク海に腕を伸ばすように広がる野付半島。全長26kmの日本最大の砂嘴(さし)だ。更に八列の分岐砂嘴もできている。釣り針のような、ススキの穂をもイメージさせる不思議な形状をしている。大自然のアート作品・・か。 野付半島のカーブを描く竜神湾の近くにネイチャーセンターがあり、バスが通行できるのはここで。ここから少し歩くと、「トドワラ広場」がある。トドマツの朽木が横たわり、「この世の果て」を思わせる風景がある。地盤沈下と塩害で、樹木が枯れてしまっている。足の不自由な人は、トラクターバスを利用すると良い(片道1.3km)。 ネイチャーセンターの近くに、国後島を観る展望台があった。2016年に造られた津波避難施設、平時は一般開放されている。国後まで16kmの距離、ロシア大陸を控えたカムチャカ半島の入口だ。東へ向けて開かれた門とも言われた。江戸時代には、 野津半島の漁業と交易の拠点「キラク」があったという。水深が浅い野付湾には、海底にアマモが茂り、北海シマエビが生息している。「海のゆりかご」とも呼ばれ野付湾。漁船のスクリューで荒らさないよう「打瀬舟」による漁が、年2回行われる。三角の帆をはためかせる風景は、北海道遺産に登録されている。写真-1 別海町・野付半島碑。写真-2 鏡のような水面の野付湾。写真-3 トドワラとトラクターバス。写真-4 国後島を望む。写真-5 ネイチャーセンターの内部。写真-6 野付半島の地図。岬灯台と打瀬舟。
2022年12月12日
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網走湖を出発して、網走と知床との中間地点道の駅「しゃり」で休憩する。国道224号から海側1kmほど離れているJR知床斜里駅のすぐ傍。斜里町は、オホーツク海に突き出た知床半島の西側にあり、細長い街(延長65km×平均幅12km)。濤沸湖(とうふくこ)から知床岬までの海岸線は、100kmに及ぶ。 道の駅「しゃり」は、駐車場で車中泊が可能。トイレ施設も充実している。夏シーズンは、マイカーやキャンプカーで満車になるという。斜里町の特産品は、やはり海産物が中心。サケ・マスの水揚げ日本一を誇っている。当地で食べる、「鮭の親子丼」は絶品とガイドさんが言う。 斜里町の市街地を貫通する直線道路は、「天に続く道」と呼ばれている。町内の大栄地区から峰浜まで続く18kmの直線ルート(国道244号、国道334号)は、道の先が「天」につながっているように見えることから、この愛称がついた。ライダーに大人気の絶景ルート。観光バスの片側車窓では、その爽快感は薄れてしまうが・・。写真-1 網走川を挟んで網走監獄(博物館)。写真-2 知床の山と釧網線原生花園駅。写真-3 シベリアからオオハクチョウが飛来する濤沸湖。写真-4 JR知床斜里駅近く、道の駅「しゃり」で休憩。写真-5 秀麗な山容の斜里岳(1547m)。写真-6 斜里町の「天に続く道」(国道244号線)。
2022年12月09日
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女満別川などが網走湖に流入して、網走川となってオホーツク海に流れ出る。水面の標高がゼロメートルなどので、干満の影響を受ける。網走港河口まで5km足らずの距離に位置する。周囲約39kmの海跡湖。北西側にも、やはり海跡湖の能取湖が隣接する。 年間を通じ雨量の少ない地域なので、淡水より海水が流入する方が多いとされる。2層構造の汽水湖を呈している。上層(6、7m)が淡水層、下層が塩水層で無酸素層と言われている。オホーツク海地方は、これから厳冬期を迎える。網走湖も氷が張る。するとワカサギ釣りができる。 宿泊し網走湖荘の対岸は、呼人半島(よびとはんとう)が伸びる。網走湖に約2.5km突き出ているこの半島は、手つかずの自然が残っている。「探鳥遊歩道」が8kmほど整備され、バードウォッチングができるという。半島の東側(網走湖荘)は、湖面が穏やかなので、夏場カヤックが盛んな水場となるようだ。写真-1 静かに水を湛える網走湖。写真-2 ホテル上層階より網走湖を望む。写真-3 ホテル対岸の呼人半島。写真-4 湖畔の秋景色。写真-5 湖畔東を走る電車と呼人半島先端部。写真-6 ホテル前カヤック乗場と呼人半島の地図。
2022年12月06日
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約50年ぶりに、網走湖荘に宿泊した。大昔、層雲峡近くで仕事をしていた頃。たまの休みに、友人と石北峠を越えて国道39号を良く走ったものだ。北見・網走へは、冬以外は快適なドライブを楽しめる。現在のホテル網走湖荘は、かなり規模が大きくなっていた。更に大浴場が温泉となっていた・・。 湖畔に建つホテルのすぐ前を、国道36号とJR石北本線が通っている。朝6時頃ラベンダー色の特急「オホーツク」が通り過ぎた。網走駅を5時56分出発して、旭川に9時45分、札幌には11時15分頃に着く列車だ。踏切の奥に、鉄道マニア用の宿「鉄ちゃんと鉄子の宿」がある。国鉄時代の保養所をリニューアルしたもの。 宿泊した夜、メインロビーで「田村まさかショー」が開催された。ものまねタレント(自称、古畑任三郎)とし知られているが、ピアノとオカリナの演奏家でもある。静かな湖畔の宿で、オカリナ音色を聞き入った。 客室159室もある網走湖荘。コロナ禍で、ホテルの施設維持費、従業員の雇用など大変な時期を過ごしている。全国旅行支援で客足は戻ってきたという。しかしキャンペーンが終了すると、その反作用と物価高で景気が悪くなると予想もある。昭和23年創業の老舗旅館であるが、宿泊施設規模が大きい・・。写真-1 網走湖畔に佇むホテル。湖畔の宿。写真-2 網走湖荘と本館入口。写真-3 ホテル前の踏切。ラベンダー色の特急「オホーツク」が通過。写真-4 鉄道マニアの宿泊施設「鉄ちゃんと鉄子の宿」。写真-5 ホテルのメインロビーでオカリナを演奏する「田村まさか」氏。写真-6 温泉大浴場に浸かった後に夕食。
2022年12月04日
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天然の良港を構えるオホーツク紋別。過去にコールドラッシュに沸いた街でもある。50年前に閉山した鴻之舞金山は、昭和30年には年間3トンの金を掘り出した。現在は流氷のまち。押し寄せる流氷は、豊富な植物プランクトンを同時運んでくる。蟹、ホタテ、ウニに欠かせない栄養分となる、港近くの海鮮レストランでランチする。 ホタテの産地故に、その貝殻が大量に発生する。大量のホタテ貝殻が港ヤードに高く積まれていた。貝殻を細かく破砕して、有効活用をいろいろ試みているようだ、土壌改良材、塩分を除去すると質の良い肥料になるという。港の東端に、観光用の「オホーツクタワー」や巨大な「カニの爪」が見えた。 国道238号沿いの道の駅「サロマ湖」に寄る。佐呂間町のキャラクター、カボチャの「ももちゃん」がホタテを持って出迎えてくれる。その後、サロマ湖を左手に見ながら、オホーツクラインを東へ進む。サロマ湖は、日本で3番目に大きい湖。延長25kmに及ぶ砂嘴でオホーツク海と内海が分かれている。砂嘴上の道は、竜宮街道とも呼ばれる。第二湖口を跨ぐようにPC橋がいつの間にか架かっていた。写真-1 天然の良港とされるオホーツク紋別港。写真-2 港ヤードにホタテ貝殻が集積されている。有効活用を待っている。写真-3 港近くの海鮮レストランで炉端焼き昼食を。写真-4 東港のオホーツクタワーとカニの爪オブジェ。写真-5 道の駅「サロマ湖」による。写真-6 サロマ湖の砂嘴(竜宮街道)と第二湖口橋。
2022年12月01日
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オホーツクの町、紋別市の北西に流氷岬がある。市内を流れる猪骨川(ちょこくがわ)河口の左岸3km地点に、ネイチャーハウスと流氷岬碑とオムサロ原生花園口がある。例年2月になると、オホーツク海を南下してきた流氷が砂浜に接岸する。岬に打ち上った流氷を間近で観察できるスポットとして有名。 海岸線に沿って5kmほど伸びるオムサロ原生花園。厳しい自然条件下で咲く花たちがいる。ハマナス(浜茄子)の大群生地と知られている。白いハマナスを稀に観られる場所。訪れた時期、赤い実を沢山つけていた。この赤実は、興部町の特産物「オホーツクはまなすジャム」として市販されている。数量は少ないが・・。 秋シーズン、オホーツクの浜辺はサケ釣りで賑わうという。ここ流氷岬の浜で、釣竿が一直線に並ぶ。壮観な眺めだ。主な河口付近では捕獲規制があるようだ。従って少し離れた砂浜で、釣りをする人が多い。竿を一人で5本も設置する「プロ」もいる。体調60cm以上にもなる「アキアジ」となれば、手ごたえ十分の釣りとなる。写真-1 オホーツク海を望む、紋別・流氷岬の碑。写真-2 流氷が接岸する砂浜。写真-3 流氷岬の浜に並んだ、サケ釣の竿。写真-4 オムサロ園とネイチャー・ビューハウス。写真-5 オムサロ原生花園とハマナスの実。写真-6 途中休憩した枝幸町の道の駅「マリーンアイランド岡島」。
2022年11月29日
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宗谷丘陵を越えて、国道238号を網走に向けて一路南下する。オホーツク海沿岸に沿って続く国道238号(宗谷国道)は、別名「オホーツクライン」と呼ばれる。稚内から網走まで、約319kmタイトな距離。道の駅「さるふつ公園」で休憩。ホテル、キャンプ場、パークゴルフ場を備えたオアシスパークのようだ。 猿払村は、「日本最北の村」の看板を観る。北海道一広い村で、人口2700人ほど。村民より牛の数多い。昭和59年に記録を樹立した。生乳の年間生産量2万トン、1戸当り平均200トン。これを記念して、「風雪の塔」を建てという。 道の駅の海側も公園として整備されている。乱獲を戒める「いさりの碑」がある。現在、猿払のホタテは、「育てて獲る」に転換して成功している。道の駅の売店には、ホタテ関連のお土産並べてある。「帆立のり」と「帆立カレー」を購入する。 オホーツク海の初冬は荒れる。近くの沖合で、昭和14年12月大きな海難事故か起きた。旧ソ連の旅客船が座礁転覆して700名が犠牲。村民総出で約400名救出したという。「インディギルカ号遭難者慰霊碑」に刻まれていた。写真-1 道の駅「さるふつ公園」で休憩。チョコレート色でコーデネイトされた施設。写真-2 農業資料館と「風雪の塔」。写真-3 道の駅内のホテルと猿払村アピール看板。写真-4 開拓の先人の苦労と偉業を偲ぶ「いさりの碑」。写真-5 「インディギルカ号遭難者慰霊碑」とオホーツク海。写真-6 国道138号(オホーツクライン)と公園案内図。
2022年11月28日
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日本最北端の地、宗谷の岬を始めて訪れた。岬めぐり7番目の岬となる。薄曇りのなか、北方43kmに横たわるサハリンが僅かに見えた。岬から北西1.2kmに無人島の弁天島が見える。日本の施政がおよぶ地域では、最北端の地だ。宗谷岬の緯度は、45度31分。ウクライナのヘルソン市の緯度は46度30分。電力施設は、悪露軍に破壊尽くされたようだ。宗谷の春は遅い、ウクライナの春は更に遅い。 岬から南に丘が伸びている。標高30mほどの高台に四角い灯台が建っている。ロシアと国境を接する国際海峡を照らす「宗谷岬灯台」。北海道で3番目に灯火した灯台(明治18年八角形)。昭和29年に改築されて現在の姿になる。 岬広場の東側に「宗谷岬音楽碑」が設置されている。大理石に刻んだ歌詞等を大きな赤い石が守っている。赤色チャートの岩石だろうか。「流氷とけて春風吹いて・・ ・・ハマナス揺れる宗谷の岬」。作詞吉田弘、作曲船村徹。ダカーポによって昭和51年にヒットした曲。昭和47年には黒木真理さんが唄ったという。写真-1 宗谷岬「日本最北端の地碑」。北斗七星がモチーフ。写真-2 間宮海峡を見つめる間宮林蔵像。写真-3 最北の先端部と1.2km沖合に浮かぶ弁天島。写真-4 赤い石に抱かれる「宗谷岬音楽碑」。写真-5 サハリンを望む。林蔵樺太出港の地碑写真-6 日本最北の灯台とトイレ。
2022年11月25日
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早朝、宿泊ホテルから岬散歩する。前夜、声問岬の浅瀬に、アザラシが来ているとのうわさを聞く。小さくて平らな声問岬なので、1周30分との案内図をもらう。昆布干し場沿いの路を800m進むと、先端の浜に到る。貝殻を敷き詰めた浜辺となっていた。大量の貝殻は、何処から来たのだろうか・・。 薄暗い岬の浅瀬に、30頭ほどのアザラシが休息していた。越冬するために、北方から来遊してきたゴマフアザラシだという。昆布漁が終わった頃に岸に近づくらしい。水族館で見るアザラシは可愛いが、漁師にとって死活問題。このアザラシは、サケやタコなどを好んで食べるようだ。定置網で捕獲した魚も、食い尽くす「害獣」だ。 散歩の途中で、キタキツネに遇う。砂利道の茂みからひょっこり現れた。人間慣れして逃げないので、こちらが戸惑う。餌を待っている眼差し。夏毛から冬毛に変わる時期のキタキツネ。鼠はもちろん、サケなどを食べる雑食種。野生のキツネには、寄生虫がいるかも知れないと思い早々に退散。しかしキタキツネは、まだ見つめていた。写真-1 稚内声問岬のゴマフアザラシ。写真-2 貝殻を敷き詰めたような声問岬。写真-3 宗谷湾沿岸の風景。写真-4 声問岬から利尻富士を望む。写真-5 稚内市内方面を望む。写真-6 声問岬で出会ったキタキツネと散策マップ。
2022年11月24日
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日本最北端の隠れ宿と称される稚内市声問(こえとえ)の温泉宿「めぐま」に泊る。海の幸の食事と温泉で、小樽からの長旅を癒す。声問は、湾曲する宗谷湾の中央付近にある突き出た場所。海流と声問川で出来た舌状砂洲のようだ。JR南稚内駅から東へ4.7km、稚内空港から車でわずか5分の距離にあるホテル。 ホテル内のラウンジおよび庭のデッキから、稚内港越に利尻富士を眺めることができる。ホテル到着時、雲が広がり、薄暗くなってしまった。早朝にチェックアウトして、フェリーで利尻島に渡る宿泊客もいるようだ。館内には利尻富士の風景パネルが飾られている。小生らは利尻・礼文へは渡らないので、売店で絵葉書を購入した。 ホテル名の「めぐま」は、稚内空港の山側(南側)にある「メグマ沼自然公園」に由来する。この沼は、東西500m、南北600mほどの円形の形をしている。上空から見るとハート形にも見えるという。メグマ沼周辺には湿原もあることから植物・野鳥の観察が出来るよう木道が設置されている。エゾカンゾウが咲く6月に寄りたい場所。写真-1 ホテルの近くから利尻富士を望む。写真-2 ホテル「めぐま」の建物とラウンジ。写真-3 ホテルの施設設備他。写真-4 夕食と朝食。写真-5 絵葉書「花の利尻」、礼文島から対岸を望む。写真-6 メグマ沼自然の位置と沼の形。
2022年11月23日
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夕暮れ迫る稚内駅に寄る。その直ぐ近くに、有名な「北防波堤ドーム」がある。ゴシック建築を模した半ドームの構造物。平成15年に土木学会推奨土木遺産に認定されている。海陸の連絡を波飛沫から防護する類例のない設計が評価された。全長427m×高さ13.6m×幅15.2m、70本の柱列が並ぶ。 JR宗谷本線稚内駅で、「日本最北端のレール」を観る。前身となる「稚内港駅」は昭和3年に開業。昭和11年に稚内桟橋が完成すると、北防波堤ドームにも「桟橋駅」が作られた。戦後、樺太運航の停止に伴い、桟橋駅も廃止。現在の駅は、周辺の再開発で、大幅にリニューアルされた(2012年)。その際に、駅舎の外までレールを伸ばして、モニュメント化した。 稚内港には、埠頭が5箇所ほどある。稚内駅の波止場からは、中央埠頭が見える。利尻・礼文航路を営業するハートランドフェリー(株)があった。乗客定員550名の「サイプリア宗谷」が停泊していた。3500トンの船舶で利尻島まで片道約1時間40分。コロナ前は、大型クルーズ船(飛鳥)も寄港したというが・・。写真-1 稚内港北防波堤ドーム。かつては石炭置場になった・・。写真-2 土木学会推奨土木遺産(平成15年に認定)。写真-3 特徴的なゴシック建築風の土木構造物。写真-4 温水プール「水夢館」と宗谷本線終着駅稚内駅。写真-5 日本最北端のレール。駅舎外まで伸びるレール。写真-6 稚内港と中央埠頭に停泊する「サイプリア宗谷」。
2022年11月21日
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いつしかオロロンラインは、道道106号から道道254号に変わった。日没に間に合うように、ノシャップ(野寒布)岬へ向けてバスは走る。岬めぐり6番目の岬だ。この辺りは、利尻富士と夕日が美しいので、「サンセットロード」の愛称で呼ばれる。恵山泊漁港公園に着くと、「ノシャップ岬の碑」と「イルカのモニュメント」、そして防波堤灯が夕照のシルエットになった。 イルカ像から西側に、白と赤のストラップの大きい「稚内灯台」に見える。北海道第一位の高さ43mを有する灯台だ。6本の赤色帯は、雪の日でも視認し易いため。現在の灯台は、1966年改築されたもので、初代の初点灯は明治33年。JR稚内駅から路線バスで15分。バスから数人降りるのを見かけた。 細長い丘陵地の先端に位置にするノシャップ岬。より高いエリアにレーダー基地を配置、低い草原をノシャップ公園としている。当該「自衛隊稚内分屯基地」は、日本で珍しく、陸・海・空が同じ敷地に詰めている。通信・監視が主な任務。しかし近代戦では、レーダーシステムは、真っ先にターゲットになる。移動可能なレーダーの艦・機が、どれだけ固定施設をバックアップできるか。限られた国家予算の配分が流動化してゆきそうだ・・。写真-1 「イルカ」がジャンプするノシャップ岬。写真-2 ノシャップ岬碑のシルエット。写真-3 夕照の日本海。写真-4 イルカのモニュメントと稚内灯台。写真-5 漁港灯台と利尻山頂部。写真-6 ノシャップ岬丘陵とレーダー基地と野生の鹿。
2022年11月20日
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小平町からオロロンラインを更に北上する。最北の稚内をめざす。途中、羽幌港を通過する際、学生時代に天売島でキャンプしたことを思い出す。まだ道立自然公園で、オロロン鳥の島として有名だった。昭和38年まで8000羽が生息していたが、年々減少して今は絶滅危惧種に指定されている。 国道232号沿い道の駅「てしお」でひと休みとなる。丁度、道道106号と交差する場所でもある。ここからオロロンラインは、道道106号となりサロベツ原野を進む。道の駅には、「ドムマンホール」があった。近頃、「ガンダムマンホールプロジェクト」となるものが進行中で、キーホルダーやカードなどを記念販売しているという。 天塩川を過ぎると、サロベツ原野に入る。ライダーが憧れる直線道路だ。そして原始砂丘に、3.1kmに渡り一直線に大型風車が並ぶ。壮観な風景・・。直径50m×高74mのオランダ製風車28台が発電する「オントルイ風力発電所」。北緯45度モニュメントを過ぎる頃から、日本海に浮かぶ利尻富士がチラッと見えた。写真-1 昔オロロン鳥の島と呼ばれ天売島を眺める。写真-2 道立自然公園時代の天売島の絵葉書。写真-3 国道232号に面する道の駅「てしお」。写真-4 ガンダムマンホールプロジェクトのマンホールを見かけた。写真-5 サロベツ原野に建つ新旧の巨大風車と北緯45度のモニュメント。写真-6 日本海に浮かぶ利尻・礼文の島影が見えた。
2022年11月19日
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留萌市街から北へ約25km、オロロンライン沿いに道の駅がある。その敷地内に、「旧花田家番屋」が建っている。この建物は、ニシン漁最盛期の明治38年建てられたニシン番屋。漁夫(ヤン衆)、船大工、鍛冶職など約200人を収容できた。花田家は、文久3年に松前から当地・鬼鹿に移り住み、大漁業家となる。 昭和46年に国の重文指定を受け改修した建物は、長さ40m×奥行23m、床面積906m2と現存する番屋では道内一の規模。中に入ると、吹き抜けの大空間がある。1階の広い土間と台所が直結し、忙しい漁夫が下足を脱がずに食事することができた。漁夫の寝台(ねだい)は、デッキと呼ばれる雛壇三段式になっていた。 道の駅入口の大看板に「今よみがえるヤン衆のいぶき」が書かれている。「ヤン衆」とは、ニシン漁をする季節労働者を指すが、当事者間では使われていない。語源に諸説があるという。アイヌ語の「エウンモシリ」に求めるもの。または、方言的に「やんちゃな若い衆」が短くなったとか。 ヤン衆とカモメとの関係を示すものとして、「やん衆かもめ」(北島三郎)がある。留萌市の真夏のイベントとして、「やん衆盆踊り」もある。更に、石狩挽歌に「オンボロロ・・」との歌詞ある。ニシンが何処かに行ってしまい、ニシン御殿もオンボロになって行くさまを唄っている(北原ミレイ)。写真-1 旧花田家番屋は、現存なかで最大規模。写真-2 ヤン衆が寝泊まりした鰊番屋。写真-3 中央土間(庭)と漁夫の居間。囲炉裏は3カ所ある。写真-4 三段雛壇式の漁夫の寝台(ねだい)。写真-5 巨木材料の梁空間と独特な鰊運搬具の「モッコ」。写真-6 鰊群来の兆しか・・。独特な運搬具「モッコ」。
2022年11月17日
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日本海オロロンラインの休憩ポイントの一つ、道の駅「おびら 鰊番屋」でランチする。道の駅の施設建物は、シックな風合いの2階建。特産品販売コーナと地産の食材を使ったレストランがある。予約してあった「甘エビ丼」を頂いた。食事後に、隣接する旧花田鰊番屋を見学する。 国道を挟んで、道の駅の反対の海側に、「にしん文化歴史公園」が整備されている。海岸に平行にアーチが建っている。アーチを額縁にして、夕日が沈む様子と日没後を観る「トワイライトアーチ」だという。アーチのそばに「松浦武四郎翁像」ある。彼は、江戸時代に蝦夷地を数回探検しており、「北海道」の名付け親とされる。 公園の一画に、「三船遭難慰霊碑」がある。終戦直後、1945年8月22日、樺太の引上げ者が、三隻の輸送船に5082名もの人数が乗っていた。無防備な船を旧ソ連軍の潜水艦が攻撃した。沈没・大破して、1708名の生命が奪われたという。戦争の悲劇と平和の願いを語り継ぐもの。今、ロシアが侵攻しているウクライナには、数多くの慰霊碑が出来ている。繰り返される戦争。人類の遺伝子がそうさせているのか・・。写真-1 小平のにしん文化歴史公園。写真-2 道の駅「おびら 鰊番屋」と「にしん街道の標柱」。写真-3 トワイライトアーチと松浦武四郎翁像。写真-4 小平・鬼鹿海岸。写真-5 「三船遭難慰霊之碑」と日本海の海原。写真-6 鰊番屋食堂で「甘エビ丼」。
2022年11月16日
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オロロンライン途中の、留萌港近くに「黄金岬」がある。岬めぐりの5番目の岬。日本海に落ちる夕日が美しいと評価されている。かつてニシンの大群が押し寄せ、背びれが夕映え染まり水面が黄金色に見えたことに由来する。黄金岬公園からは、走って来た増毛崎や暑寒別岳の山並みが見えた。 岬公園の中心に「波濤の門」が立っている。岬の前面には、玄武岩溶岩が固めている。日本海の荒波が、この岩石に当って激しい波濤をつくる。世界三大波濤(インドのマドラス、スコットランドのウィック)の一つとされ、最大波濤高さ12mの記録があるという。激しい波で、柱状節理の玄武岩がサイコロ状になっていた。 黄金岬公園の東側に「若者たちの歌碑」(1997年)がある。昭和40年代には流行ったフォークソングで、ザ・ブロード・サイド・フォーが唄った歌詞が刻んでいる。この曲の作曲者・佐藤勝氏が留萌出身のため。留萌港には、変わった灯台がある。灯火を右手に掲げる「波灯の女」ブロンズ像(2007年)。 留萌は、増毛と同様にニシンで栄えた町。昭和30年代にはいるとニシン漁が衰退したが、「数の子のマチ」として知られている。今も、数の子生産量日本一を誇っているという。写真-1 留萌・黄金岬公園。写真-2 黄金岬のシンボル「波濤の門」。写真-3 バスで走って来た増毛と暑寒別岳。写真-4 黄金岬を形づくる玄武岩とその岩礁。写真-5 若者たちの歌碑。懐かしいメロディーが聞こえる。写真-6 「波濤の門」と「波灯の女」。
2022年11月15日
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小さな岬に囲まれ、良好な港・増毛は、江戸時代からニシン漁が開かれ、ニシンの村として栄えた。最盛期の増毛は、「ニシン千石」場所とよばれ、網元や商人が財を成した。明治当初は船運が交通の主な手段。増毛駅が開業したのは、大正10年(1921年)。ニシン漁の衰退に合わせて、鉄道利用が減って行く。 増毛が栄えた理由のひとつに水がある。暑寒別岳の豊富な伏流水があり、生活に欠かせない良質な地下水があったため。この名水を使用して、酒造りをした人(本間泰蔵)がいた。日本最北の酒蔵「国稀(くにまれ)酒造」だ。酒蔵内を見学した。敷地の駐車場側に、自由に汲める湧き水施設があった。 深川から伸びる留萌本線の終着駅だった増毛駅。利用客が年々減少し、平成28年(2016年)に廃駅となる。しかし、1981年公開映画「駅・STATION」で、留萌駅とその周辺が舞台になったこともあり、解体されずに、2018年にリニューアルされた。「増毛(ぞうもう)」のコマーシャルに一役買っている「益」だ。アイヌ語のマシュケ(カモメの多いところ)が由来。ニシンが押し寄せていたことを物語っている。写真-1 リニューアル保存されているJR増毛駅。写真-2 増毛駅舎と旅館富田屋。写真-3 駅舎内休憩所と映画ポスター。写真-4 日本最北の酒蔵「国稀酒造」と湧き水名水。写真-5 旧商家丸一本間家。写真-6 レトロな建物。増毛館と田中商店
2022年11月13日
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小樽銭函を抜けて、国道231号(石狩国道)にはいり石狩市を北上する。国道231号とそれに続く国道232号は、「日本海オロロンライン」の愛称で呼ばれる。オロロンラインは、海岸風景が美しいが、トンネルで中断させられる。 石狩市は、石狩湾に沿って南北約90kmと長い。その中間地点にある道の駅「あいろーど厚田」で休憩。道の駅の建物、および隣接する「あいろーどパーク」から石狩を一望できる。また夕日のスポットのようだ。近くに厚田漁港では、多くの種類の海産物が水揚げされる。「タコ」と「シャコ」が特産物。 道の駅からオロロンラインを40kmほど北上する雄冬岬になる。しかしトンネル区間で見えない。旧浜益村から雄冬までは、断崖絶壁と海食が激しい場所で、長い間「陸の孤島」と呼ばれた。道路建設には、多額金額と時間を要した。浜益トンネル(4.7km)を出ると直ぐに「白銀の滝」。そして増毛町になる。写真-1 厚田から石狩湾を一望する。写真-2 道の駅 石狩「あいろーど厚田」。写真-3 高台から石狩の海と厚田漁港を望む。写真-4 案内看板と道の駅施設と恋人の聖地展望台。写真-5 日本海オロロンラインを走る。写真-6 昔の秘境雄冬と白銀の滝。
2022年11月12日
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生まれ育ったふるさと小樽。勝手知った港で、日の出を見に行く。北海製罐の建物の西側に位置する色内埠頭公園を散歩する。以前、岸壁で釣りをする人をみかけたが、現在工事中のため、立ち入り禁止となっていた。当該都市公園は、3.7ヘクタールと広く、早朝犬の運動場と化していた。 小樽港には、6つの埠頭がある。色内埠頭は、最も北側(手宮側)に位置する。通常、海上保安庁の巡視船や官公庁船が停泊する岸壁。鋼管矢板で造られた護岸は、海水による腐食が進んだようで、鋼管を打ち替える作業をしているようだ。 明治初期、小樽で最初に、石積みの埠頭として築造された色内埠頭。昭和15年に第1号ふ頭が造られると、第2号、第3号、中央、勝納と工事が続けられた。色内埠頭は、最後に昭和56年に近代的になる。向いの第3号埠頭の改修工事は、ほぼ終了している。13万トン級クルーズ船を迎える準備のひとつはできたようだ。写真-1 色内埠頭と小樽港。写真-2 色内ふ頭公園広場の日の出。写真-3 色内埠頭から日の出と小樽市内を望む。写真-4 旭橋から色内埠頭と第3号埠頭を眺める。写真-5 運河と港を結ぶ水路に架かる旭橋と赤い屋根の工場。写真-6 運河中央橋の紅葉と宿泊ホテル。
2022年11月11日
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島武意(しまむい)海岸を午後2時半頃に離れる。追分ソーランライン(国道229号、国道5号)を西進して、小樽運河沿いのホテルに入る。夕食は自由なので、街歩き(堺町通り・運河沿い)する。ホテルにコインランドリーが設備されていたので、たまった洗濯物を処理した。 函館のホテルでもらった地域クーポン券を、小樽の寿司屋で消化する予定だった。しかし、水曜日は地元寿司店の定休日。あてが外れてしまった。仕方なく、焼肉店で食事する。バスガイドさんの「お土産に困った時のコンブ」との言を思い出して、海鮮物店でクーポンを使い切ることにした。 堺町通りの観光お土産店(北一硝子など)は、辺りが暗くなると閉店となる。人通りが閑散とする中、修学旅行の高校生も地域クーポン券の使用方法に悩んでいるようだ。昆布やイクラを実家に郵送するために列をなしていた。夕食後ガス灯を頼りに、倉庫を見ながら運河の石畳路を歩く。写真-1 五差路のメルヘン交差点。写真-2 ルタオ本店の塔と名物スイーツ。写真-3 小樽オルゴール堂と堺町通り。写真-4 代表的な運河夜景スポット。写真-5 運河沿いのホテルと浅草橋夜景。写真-6 ライトアップされた倉庫群。
2022年11月09日
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岬巡り四番目の積丹(シャコタン)岬を訪ねる。追分ソーランラインを野塚町からそれて、道道913号を北上する。積丹岬は、積丹半島の最北端にあたり、日本海に突き出ている。この積丹岬と出岬の間に島武意海岸がある。いわゆる「積丹ブルー」の海と雄大な断崖、そして渚を見ることができる。 道道913号の脇に、レストハウスと駐車場があり、そこからトンネルを抜けるといきなり展望台がある。このトンネルは、ニシン漁の最盛期に、手掘りで掘られたもの。展望台から下の海岸に人が積んだと思われる石垣が見える。ニシン番屋の痕跡だという。断崖を上り下りして、ニシンを人力で運んだ「漁業遺産」であろうか・・。 アイヌ語で「シュマ・ムイ」(岩の入り江)に由来する島武意。人を寄せ付けない断崖絶壁が続くなか、唯一波打ち際まで降りることができる。但し70mの高さ、不安定な階段と引き返す体力を考えて途中で引き返す。左側の岬側にひと際立派な岩がある。安山岩質の屏風岩、岬先端から切り離されたように立っている。 写真-1 積丹岬の島武意海岸で「積丹ブルー」を観る。写真-2 断崖絶壁と渚のコントラスが素晴らしい。写真-3 屏風岩と波打ち際。写真-4 海岸入口トンネルと展望台。写真-5 改修された連絡トンネル。かつてニシンを運んだ路。写真-6 食事処・鱗昇(りんこう)で「うに昼御膳」。
2022年11月08日
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寿都町から日本海「追分ソーランライン」(国道229号)を北上して、積丹岬をめざす。泊村から神威岬付近は、道路幅が広く、トンネル区間が少ない。好天に恵まれると、風光明媚が海岸景色を楽しめる。 岩内町付近の雷電海岸は、日本海の荒波による海岸浸食ために、旧道を盛り替えている。旧トンネルの山側に新たなトンネルを掘るので、必然的に延長が長くなる。一方、休止中の泊原発施設の前後のソーランラインは、トンネルが少なく見通しが良い。 神恵内付近では、岬の断崖や奇岩を車窓が眺めることができる。ジュウボウ(十坊)岬に、南側に窓岩、北側に「西の河原」がある。道路から賽の河原は見ないが、かつては霊場だったという。難破船が流れ着いたまま放置される。また流木を含めて色々なものが流れ着く場所のようだ。 道の駅「オスコイ かもえない」で休息をとる。神恵内村もニシン漁で栄えたところ。大正時代には道内で1、2の水揚げがあったという。「オスコイ」とは、ニシン漁の際、船を漕ぐ櫂(かい)の動きを合わせる上での掛け声が由来。ニシン漁を想い起させる響きがあるのだろう・・。似た掛け声に、相撲の「どすこい」がある。写真-1 日本海のソーラン海岸景色。窓岩とジュウボウ岬。写真-2 海岸線ぎりぎり、追分ソーランラインが走る。写真-3 奇岩が点在。キス熊岩と弁慶の刀掛け岩。写真-4 神恵内の代表的な景観。写真-5 道の駅で見かけた流木アート作品。写真-6 今回パスした神威岬の遠景。
2022年11月05日
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長万部から国道5号・道道9号を経て、日本海に面する寿都湾(すっつわん)に出る。寿都町は、「だし風」と呼ばれる強い風を活用した風力発電が盛んな町。寿都湾の北西端、日本海に突き出した先端部に弁慶岬がある。訪れた日は風が穏やか。そして、大きな弁慶像(台座含めて約5m)が待っていた。岬巡り3番目の岬。 各地に義経・弁慶伝説があるが、ここ政泊の波蝕崖もそのひとつ。奥州を逃れた義経・弁慶一行は、蝦夷地に渡り、この地に滞在した。弁慶は、毎日この岬の先端に立って同士の到着を待ったとか。そんな弁慶の姿を見たアイヌの人たちが、いつしかベンケイ岬と呼ぶようになったとの伝説。 弁慶岬の周辺の海岸には、石畳みのような波蝕棚が広がっている。よく見るとこの棚に、大きな裂け目が入っている。アイヌ語でこのような危険な割れ目を「ベルケイ」と呼んでいた事と併せて弁慶岬となったのだろう。伝説には続きがある。義経はこの地を立ち、宗谷岬を渡り「ジンギスカン」になったというオチもある。写真-1 弁慶像が待っている弁慶岬。写真-2 断崖に立つ弁慶岬灯台。写真-3 コトブキブルーと称される寿都の海。写真-4 弁慶岬から積丹半島方面を見る。写真-5 「裂け目」がある波蝕棚。写真-6 遠望の弁慶岬と風車群。
2022年11月04日
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函館から日本海に面する寿都町を目指す途中、八雲PAに立ち寄る。このパーキングと噴火湾パノラマパーク(ハイウエイオアシス)とは繋がっており、噴火湾を見渡せる。天気が良ければ、蝦夷冨士と呼ばれる羊蹄山を望める。6年前に鹿部温泉に宿泊し、春季の羊蹄山を眺めたのを思い出す。 八雲町は、日本国内で唯一となる太平洋と日本海に面する町だという。人口は1万5千人ほど、海岸近くに集中し、漁業と酪農が主産業。明治維新後、八雲地区(ユーラック)に開拓入植者は、尾張藩士。17代目当主・徳川慶勝が入植費を負担。「八雲」の名付け親とされる。 パノラマパークは、63ヘクタールと広大な面積を有する。道の駅・ゴルフ場・農場・花畑など混在する。八雲町が公園管理者ではあるが、工事は民間資金活用のPFI事業によって、2009年にオープンした。人口減少問題と箱館本線の廃止で、どのような町になって行くのだろか・・。写真-1 噴火湾と対岸の羊蹄山他。写真-2 展望台の案内板と羊蹄山。写真-3 噴火湾(静狩付近)を望む。写真-4 バノラマ公園内と白樺の樹。写真-5 パノラマ館とパーク案内看板。写真-6 鹿部温泉から見た羊蹄山(2016年春)。
2022年11月01日
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函館駅から市電で約40分の位置に「湯の川温泉」がある。函館市の奥座敷として発展してきた。1847年自噴している温泉付近に小屋を建てたから始まった。函館戦争の最中、当時の幕府総裁榎本武揚も温泉をた楽しんだという。負傷兵の湯治保養所にもなった。 海岸線近くのホテルに宿泊した。浜辺には松倉川を渡り、市熱帯植物園前の海水浴場へ行くと良いフロントに教えてもらう。早朝、潮騒を聞くために砂浜を歩く。対岸の下北半島や函館山を望めた。そして汐首岬からの朝日を待った。 湯の川は、アイヌ語で「ユ・ペッ」(湯の流れる川)が由来。昭和初期松倉川は、湯気と白濁した湯の川に化していたのだろう。今は普通の川だ。現在、湯の川温泉の湧出量は、一日7000トン(平均温度65度)とされる。22本の源泉があるが、昭和30年後半から動力による揚湯が行われている。写真-1 早朝の潮騒と津軽海峡と下滝半島の影。写真-2 汐首岬からの日の出。写真-3 浜辺から函館山を望む。写真-4 逆光の潮騒の浜辺。写真-5 宿泊ホテルと朝食。写真-6 館内の様子。地域クーポン券は夕食ビールと館内お土産で使用。
2022年10月31日
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恵山岬から南西8kmの海岸線に、国道278号の道の駅「なとわ・えさん」がある。休憩をとり、施設建物の屋上デッキから、恵山と津軽海峡こしの下北半島を眺める。函館市内からは車で約1時間の位置にある。 活火山・恵山は、渡島半島(亀田半島)の南東端で、太平洋に突き出す位置にそびえる。標高618mと低い山ではあるが海がせり上がっているので存在感がある霊山。火口付近は、外輪山と丘状溶岩からなる二重式鐘状火山だという。噴煙もあり草木が生えていないので、「賽の河原」と称される。アイヌ語の「イエサン」は、「火を吹き溶岩が流れ落ちる」との意味。 道の駅名に使われている「なとわ」とは、道南地方の方言で「あなたとわたし」。恵山地方の特産物に昆布がある。道の駅で「昆布ソフトクリーム」が販売されている。恵山と下北半島を見ながら、ソフトクリームを食べるカップルを想定しているのかもしれない。写真-1 道の駅から恵山と恵山岬を望む。写真-2 道の駅「なとわ・えさん」の展望デッキ。写真-3 展望デッキから下北半島を望む。写真-4 穏やかな津軽海峡。写真-5 活火山・恵山とその火口付近。写真-6 道の駅「なとわ・えさん」の名物「昆布ソフトクリーム」。
2022年10月28日
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函館市東端の椴法華地区に恵山岬がある。亀田半島の東端には、高さ19mの白亜の灯台が立っている。周辺は灯台公園として整備されている。灯台資料館と遊具があるが、店舗などなく、芝生広がっていた。そのため鹿のフンが沢山落ちていた。岬巡りにおける2番目の岬である。 恵山岬沖は、対馬海流(暖流)と千島海流(寒流)とが合流する場所。豊かな漁場である一方、昔から船乗りにとって難所の海域だった。高田屋喜兵衛のもち船が難破して9名が亡くなっている。また明治41年3月、汽船同士が衝突して、気乗客・船員役120名が行方不明となった大きな海難事故もあった。 椴法華とは北海道特有の難解地名で、「とどほっけ」という。アイヌ語の「トトポケ」(岬の陰という意味)に、当て字したらしい。「椴」は、植物のトドマツの漢字名。法華は宗教用語。ホッケといえば魚の𩸽を連想する。トドマツがある海岸で、ホッケが獲れたのだろうと勝手に思う。写真-1 青い空・海と緑の芝の恵山岬。写真-2 白亜の大きい恵山岬灯台。写真-3 鹿のフンに気を付けて、太平洋と津軽海峡を望む。写真-4 椴法華の断崖を望む。写真-5 灯台資料館と遊戯のある小さな公園。写真-6 活火山恵山が迫っている。
2022年10月27日
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太平洋を見ながら噴火湾(内浦湾)沿に、道央自動車道を東走する。途中、静狩PAで休憩をとり、大沼公園で昼食となる。ジンギスカン・ランチ後、約40分間園内を散策する。太鼓橋を渡たり、「千の風になって」のモニュメントを観て回る。 大沼公園は、大沼、小沼、ジュンサイ沼からなり、北海道駒ヶ岳の火山活動で造られた。大沼は、江戸期寛永17年の大噴火によって、流出した溶岩が河をせき止められた「堰止湖」。小沼とジュンサイ沼は「陥没湖」とされる。胡内には、大小120あまりの溶岩塊や丘の上部が見える小島が浮かび、特異な景観を顕している。昭和33年に国定公園の指定を受けた。 七飯町・森町・鹿部町にまたがる北海道駒ヶ岳。標高1131mの活火山で、渡島半島のランドマーク的存在。「蝦夷駒ヶ岳」とも呼ばれる。寛永の大噴火前には、富士山型の山容をしていたので、「蝦夷冨士」と云われたていたらしい。現在の姿は、山頂部が吹っ飛び、「馬」のような姿から駒ヶ岳と命名されている。写真-1 大沼国定公園。写真-2 北海道駒ヶ岳の撮影スポット。写真-3 大沼の小島巡り遊覧。写真-4 小島を繋ぐ太鼓橋。写真-5 「千の風になって」のモニュメント。写真-6 大沼展望閣でジンギスカン・ランチする。
2022年10月24日
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地球岬は、室蘭市母恋から伸び太平洋に面する岬。海岸線は100m前後の断崖絶壁が連なる。晴れた日には、対岸に駒ヶ岳が、遠くに恵山岬や下北半島を望むことができる。元日の初日の出を見に、大勢の市民が集まる処。 地球岬と大そうな名称であるが、語源の「ポロ・チケップ」(親である断崖)がチキゥエ、更に「チキウ」に転訛して、地球岬という当て字となる。この岬に屹立する白い灯台は地球岬灯台で、大正9年(1920年)に点灯した。灯台下部が八角形の形状をしている。 海抜130mの断崖に立つ灯台を見下ろす場所に展望デッキが整備されている。展望台からは、地球が丸いと感じることができる。そして海岸段丘と太平洋の雄大な景色を堪能した。地球岬は、今回の旅で訪れた最初の岬となった。写真-1 太平洋の水平が円く感じる。写真-2 断崖に立つ地球岬灯台。写真-3 展望台から対岸の大沼駒ヶ岳などを望む。写真-4 幸福の鐘や地球儀のオブジェ。写真-5 雄大な海岸景色と金屏風岩。写真-6 現役の母恋駅と白鳥大橋。
2022年10月23日
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登別地獄谷は、温泉町無番地にある。白い噴気が立ち上がる爆裂火口跡。谷に沿って、多くの湧出口や噴気孔がある。泡をたて煮えたぎる風景から「鬼の棲む地獄」と呼ばれている。 朝飯前に煙棚引く地獄谷を散歩する。早朝は観光客が少ない。木道を進んで「鉄泉池(てっせんいけ)」を覗く。地獄谷のほぼ中央にある小さな間欠泉だ。木道の下を流れるのが「三途の川」。三途の川を渡るので、妙な気持ちになる。三途の川は、湯の川になり、クスリサンベツ川に注ぐ。 地獄にから生還して、朝温泉風呂で身体を清めて朝食を済ませる。道中の長旅に思いを馳せる。バスは8時に出発・・。写真-1 登別温泉地獄谷。写真-2 白い噴気が立ち上る地獄谷。写真-3 三途の川を渡って、鉄泉池を覗く。写真-4 谷底から噴気を望む。写真-5 地獄谷の小山と薬師堂。写真-6 温泉湯が川となり流れ下る。
2022年10月21日
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10月11日から1週間、北海道の岬めぐりを旅した。北の大地の外周を、三海(太平洋、日本海、オホーツク海)を見ながら移動するツアーだ。参加者のほとんどがシニア層。温泉地などの観光地と沿岸グルメを楽しむ。 旅のテーマは、道内の岬12ヶ所をピックアップする「岬めぐり」。1日目は、羽田空港から新千歳空港へ飛び、登別の温泉に浸かり、道内1周に備えた。温泉街を散歩すると「鬼さん」に出会う。登別温泉地の象徴である「地獄谷」に鬼が棲んでいるとのことで、鬼がキャラクターとなっている。 北海道は、「全国旅行支援」の適用が10月11日から適用されている。観光産業喚起策の一環として、旅行代金の40パーセント相当の補助がある。旅行先で利用できる地域クーポンの付与もある。但し、広い道内には、クーポンが届いていない自治体があった。実質、有効期限が1日なので、ホテルでのお土産で消化した。 「北海道岬めぐり」のカテゴリーで、暫く掲載します。登別から時計回りで、北海道外縁をバス移動します。運動不足になるので、朝晩の散歩と岬歩きに心掛けた。写真-1 羽田空港搭乗待合室から見かけた「鬼滅の刃じぇっと」。鬼さん逢いに行くぞ・・。写真-2 お出迎えの赤鬼と青鬼。その棲み家。写真-3 九金棒が立つ源泉広場と間欠泉。写真-4 商売繁盛を願う「湯かけ鬼蔵」。写真-5 恋愛成就と合格祈願の鬼さん。写真-6 登別万世閣と晩飯。
2022年10月20日
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