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コロナウィルス感染7波が下がって来たので、昔の同僚と横浜市桜木町でオジン・ランチ会をする。と言っても人数の会。感染対策をしっかりしていること、そして見晴しの良い処が選定された。3年から5年ぶりになので、食べることよりも話の方が弾む。コロナは直接逢い、会話を楽しむことを制約してきた。 あいにくの雨天になったが、折角なので2021年春に開業したロープウェイ(横浜エア・キャビン)に乗る。都市型循環式ロープウェイは、珍しい乗り物だ。桜木町駅から運河パーク駅まで、片道630m×8人乗り×36台の施設規模。片道千円は、少々高く感じる。 雨の運河パークから国際橋を渡り、ランドマークタワーへとぶらつく。途中、昔の石造りの船ドックと日本丸を観る。ランチはビフェ形式で、タワー70階のロイヤルパークホテル・シリウスで。シリウスとは、「おおくま座」の主星。ギリシア語のセイリオス(光輝くもの)が由来。中国名は「天狼星(てんろうせい)」。 ビールで再開を祝うも、窓の景色は灰色。天気が良ければ、素晴らしい夜景を提供してくれる桜木町の空に違いない。夕方に訪れたい港町だ。写真-1 桜木町駅東口広場とロープウェイ乗場。写真-2 横浜エアキャビンの運行状況。写真-3 雨天にめげずにキャビンに乗る。写真-4 ホテル70階から雨に煙る地上を見る。写真-5 シリウスの窓辺と食後のコーヒー。写真-6 シリウスからの夜景[ホテルHPより]
2022年10月11日
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正月休み期間、工事現場で活躍した大型クレーンも休養する。ラフィングクレーンの補助ジブを地面に倒し、安定を保つポーズ。長い首を地につけている様子は、なぜか微笑ましく見える。 江戸川左岸域は、大型物流施設が次々と建設されている。現在、(日本GLP)とDPL(ダイワハウス)が隣り合って工事を進めている。このエリアには、ラフィングクレーンが約20台集結している。稀有な風景だ・・。 大型工事用クレーンは、1ピース10tを越えるコンクリート柱・梁を積み木のように組み立てる。施設の搬入路になる斜路もPC材で造られる。基礎工事が終わると建屋工事が、見る見るうちに出来上がる。田園風景が倉庫のベットタウンに変化してゆく。写真-1 休養をとるクレーン群。写真-2 長い首を地に伏せている様子。写真-3 PC部材で建屋の骨組みが作られる。写真-4 作業中のクレーンたち。写真-5 黄昏のクレーン風景。
2021年01月13日
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コロナ禍における初詣は、分散するように呼びかけられた。例年正月三が日に参拝していたが、今年は1月6日に出かけた。拝殿よりも御札の販売所が混んでいた。電車で3駅にある流山駒木の諏訪神社なので、自転車でも行くことができる。しかし御神矢と御札セットを持ち帰るので電車を利用。 「駒木のおすわさま」と地元では呼ぶ。諏訪神社は、周囲に深い林を有している。そのため「御神水」が湧き出る。ひょうたん形の容器(500円)に湧水を収めて、自宅の神棚などに備えるひともいる。 神社の住所が「駒木」なので、昔々は馬産地であったことが伺える。境内には八幡太郎の「義家献馬像」が目立つ。「後三年の役」の遠征した際、この神社に立ち寄り、武運を祈願したという。その帰還の折り、戦勝を祝い名馬を献上したという言い伝えがある・・。写真-1 第二鳥居から参道。写真-2 林の中の随神門。写真-3 スムーズな流れの拝殿。写真-4 今年の干支、辛丑歳のジャンボ絵馬。写真-5 御神水と義家献馬像。
2021年01月07日
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秋、空を見上げると、ウロコ雲やサバ雲、イワシ雲をよく見かける。夏の雲と異なり、雲厚が薄い。そのせいか空高く、爽やかな雲たちに出会うことができる。江戸川土手で、そんな秋雲と光を見た。 秋は、夏の間に草木が生い茂った後なので、ホコリや塵が立ち難い。従って、春よりも空が高く感じ、遠くまで良く見える。春も魚形の雲が出現するが、あまり印象に残らない。春はスギ花粉のイメージが強く、長く空を見上げる気分にならない。 移り変わりが早い秋の空・・。いっとき、雲をぼんやりと眺めてみよう。誰かの顔に似た雲に、会えるかもしれない・・。写真-1 ウロコ雲がいつの間にかに上空を覆う。写真-2 筑波山の雲模様。写真-3 手を繫でいるような連続雲・・。写真-4 クラゲが浮かんでいるような雲。写真-5 高層雲とその下の彩雲。写真-6 波立つ水面のような雲。
2020年11月01日
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秋空の下、第26回流山ロードレースに参加した。昨年は雨中ランを余儀なくされたが、今年は好天気すぎた。午前10時の気温が約23度。アスファルト道路では照り返しもあり、体感的には25度を越えるコンディションとなる。 今年も10kmコースが変更になっていた。東武線を潜る、開通前のアンダーパス道路を走るため・・。流山ロードレースは、アップダウンの多いコースであるが、更に人造坂を取り入れたようだ。発展中の街(人口18万4千人)なので、やむを得ないことだ。 10km走の参加予定者は3,550名。そのうち女性が21パーセントである。しかし、ボランティアは女性陣が圧倒的に多い。また60歳以上の参加率は16.3パーセント。昨年より0.2ポイント上昇、高齢化の影響か・・。 小生は、膝の調子が今一つで、膝サポートして走る。タイムは1時間を少し超えてしまった。初めてのこと。膝の完治よりも、体重を落した方がよさそうだ。旅行に出かけると、つい食べ過ぎるので・・。写真-1 流山ロードレースのフニッシュ地点。スタート地点も見える。写真-2 アリーナ芝生広場と選手受付風景。写真-3 表彰式が始まるメインアリーナ。写真-4 TXセントラルパーク駅から会場へ。写真-5 大会冊子。昨年の雨降大会を思い出す。
2017年10月08日
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2015年を振り返り、思い出深いシーン(景)をセレクションした。四季折々に強く印象に残ったものを掲載させていただきます。 冬 [上国スキー 山景色]。リフトを乗り継いで、当間頂部(標高1017m)で見たパノラマが思い出に残る。越後三山、日本海を見渡せる絶景。 春 [華麗な糸桜 塩山・慈雲寺]。本堂より高い木の枝から四方に垂れ下がる光景が長糸を思わせる。地元では春を知らせる美樹として長く愛されている。 夏 [峠の駅 クライデ・シャイデック]。スイスアルプスのユングフラウ三山(アンガ―、メンヒ、ユングフラウ)を展望できる峠で昼食した。何を食べたかは忘れたが、アルプスの山容は忘れない。 秋 [紅葉雪景色 城ヶ倉大橋]。八甲田山の麓、城ヶ倉渓谷は紅葉の名所。前日の降った雪で、紅葉の雪景色をアーチ橋から眺める事が出来た。 写真-1 冬 [上国スキー 山景色]。 写真-2 春 [華麗な糸桜 塩山・慈雲寺]。写真-3 夏 [峠の駅 クライデ・シャイデック]。 写真-4 秋 [紅葉雪景色 城ヶ倉大橋]。 写真-5 年 海のピラミット モン・サン・ミッシェル。
2015年12月31日
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柏の葉公園の北側に、柏の葉野球場が4年ぐらい前に開場した。野球場の出入口周辺には、萌黄色(もえぎいろ)の桜が植えられている。黄色い声援を静かに送っているようだ。 収容能力12,000人の柏の葉野球場は、両翼の深さが98mと立派なグランドだ。甲子園の千葉県地区予選に、しばしば利用される。サッカー人気に押され気味な野球ではあるが、全国高等学校野球選手権大会(愛称が甲子園)百年の歴史は重い。根強い人気スポーツである。 2014年の子どものスポーツ活動の一番人気は、水泳とされる。続いて、サッカー、テニス、野球・ソフトボール、体操との調査結果がある。注目はテニスが、前年の4位から3位に上昇している。錦織選手の活躍が大きい。子ども、いや親が影響され易いのかも知れない。 野球場前を飾る黄緑色のサクラは、ギョイコウ(御衣黄)とウコンである。両者は近くでよく観なければ、判別が難しい。樹木に「名札」が付いているので、品種を覚えることができる。黄桜に交じって、淡いピンクのショウゲツ(松月)もある。花が散れば、これらすべてを「さくらの木」として日除けに利用される・・。 写真-1 県立柏の葉野球場の前に佇む黄桜のギョウコウ(御衣黄)。 写真-2 野球場から総合競技場へ向かう通り。ソメイヨシに比べて地味な桜だ。 写真-3 ギョウコウとウコンの並木。萌黄色の花びら。 写真-4 カンザンとギョウコウとが交互に植えられている。 写真-5 ショウゲツ(松月)・・。
2015年04月29日
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駅からハイキングではなく、駅からランを試みた。TX線柏の葉キャンパス駅から我が家までの約7.5kmを・・。駅西口をスタートとして、千葉大学柏の葉キャンパス正門、科学警察研究所(科警研)、柏の葉公園を経て、西へ西へと向かう。春と秋の花の時期、時折ランしたいコースである。 千葉大柏の葉キャンパスは、環境健康フィールド科学センターや実習施設がある。敷地面積は17万m2mと広いが、学生や大学職員は少ない。正門近くに農産物直売所「緑楽来(みらくる)」がある。学生実習などの栽培した野菜や果物が格安で販売している。但し、種類と量は少ない店舗だ。 当キャンパス内には、東西方向にグリーンフィールドがある。地域の交流、憩の場所を提供している。大学は7年程前から実行している「八重桜並木道770」プロジェクトの核となっている。西口駅前通り+千葉第グリーンフィールド+東大キャンパス=200+300+270=770mのさくら道だ。10年後が楽しみだ。 2005年、TX線柏の葉キャンパス駅が開業して以来、商業施設、病院、マンション、高層ホテルが次々と建設された。そして今、このエリアは、柏市の新市街地「スマートシティ」へ進化している。体験型のスマートシティ・ミュージアム(大人500円)をつくり、未来都市へ突き進んでいる。 写真-1 柏の葉キャンパス駅西口通り。八重桜並木が成長中。 写真-2 千葉大学柏の葉キャンパスと八重桜。 写真-3 千葉G-fieldから新市街地「スマートシティ」を見る。 写真-4 千葉G-fieldから科警研をみる。 写真-5 正門近くの農産物直売所「緑楽来」。販売は午後から。
2015年04月26日
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柏の葉公園の西側に、落花生のような形をした池がある。長さ350m×平均幅140m程の大きさ。池を一周(約1km)するコンクリート散歩道が造れている。この池は、広大な柏の葉公園に降る大雨の受け皿になる調整池である。第二水辺公園とも呼ばれる。 ボート池と連結されている第二水辺公園は、大雨の際には散歩道が水没する。昨年、台風18号の大雨では、ほぼ満水状態になった。従って。調整池は厳重な柵に囲われ、かつ出入り口は日々管理されている。台風の心配がない春は、コガモにとっては恋する時期を静かな池で過ごすことができる。 水辺公園西側の道路沿いに、里桜・カンザンが数本並ぶ。見頃を迎えていた。ソメイヨシノ後に咲く種類で、八重咲の大輪だ。セキヤマ(関山)とも言う。花びら数が多くて大きいので、塩漬けして桜湯にするのに適しているとのこと。 カンザン並木道は、柏市と流山市との市境でもある。長閑な農村と新興住宅街が混在するエリアだ。流山市側の畑沿道をランする時がある。背の高い1本の赤い花桃が貴婦人のように畑に立っている。4月限定のランコースである。 写真-1 柏の葉第二水辺公園(調整池)。貯水量は約136,000m3。面積約49,000m2。 写真-2 マガモは錦鯉と仲良さんです。「4月16日撮影」 写真-3 外周道路沿いのサトザクラと水辺公園。 写真-4 柏の葉・桜の広場入口の関山(カンザン)。 写真-5 畑の中に立つ孤高の花桃。
2015年04月23日
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新年明けましておめでとうございます。初日の出ランを終えてきました。今年も『清多夢くらぶ』(せいだむ倶楽部)をよろしくお願いします。 2014年はウマ年(甲午きのえうま)。一説に午年は、草木の成長がピークに達し、衰える兆しが見せるという。国際情勢、政治・経済、地域環境、そして家族動静など、如何なる年になるのだろうか。タイトルの「願馬路往」は、ガンバロウという造語。新年から駄洒落で申し訳ありません。 恒例の正月スキーは、家族の一人が体調を崩したので中止しました。大病を患う事だけは避けたい。初詣の願いごとは、やはり家内安全、健康長寿か・・。これから近くの諏訪神社(豊四季)へ参拝に行き、お札をもらいます。 2014年もブログの更新を1週間に3回程度のペースでと考えています。途中、海外旅景色シリーズを想定しています。時折、チェックして頂ければ幸いです。写真-1 今年の年賀状をスキャンしました。 写真-2 江戸川土手の「朝富士」。赤くないので、ピーチ富士と呼んでいます・・。
2014年01月01日
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今年は秋が短く、冬の到来が早いと言われている。樹の葉が木枯らしで無くならないうちに、近くの柏の葉公園へ小さな秋を見に出かけた。暦では立冬が過ぎ、「小雪」 (11/22)が近づいている。 公園のボート池には、夏の華やかさはない。「今はもう秋、誰もいない秋・・」。落ち葉が積み重ねる季節を迎えていた。公園管理は、秋本番を迎えると大忙しである。落ち葉の掃除と冬の支度に追われる日々が続く。 台風30号が日本列島に寒波をもたらしたとされる。「オスト アンデル効果」という気象作用で大陸の寒気が押し出されたような・・。895ヘクトパスカルの台風の襲撃をうけたレイテ島は、大変な被害だ。先ずは、水やテント、そして道路の確保であろう。自衛隊の現地活動が早く開始されることを願う。 柏の葉公園は、面積45ヘクタールを有し、広域避難場所に指定されている。レイテ島の都市・タクロバンを観て、広域避難場所の重要性が増す。公園は東大キャンパスと通り一つで接している。情報の伝達・集約でも好環境である。防災備蓄倉庫や耐震性井戸付貯水池も整備されているという。 写真-1 柏の葉公園の小さな秋。赤く色づいた楓が散歩に誘う。 写真-2 柏の葉公園・ボート池東側の秋景色。写真-3 今は誰もいない、ボート池北側を眺める。写真-4 落ち葉が積み重なる。今後清掃作業が待っている。写真-5 公園エントラス道路。正面に見える建物は、東大・物性研究所。
2013年11月16日
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流山の運動公園は、市内のほぼ中央に位置する。つくばエキスプレス線セントラルパーク駅の東エリアである。駅から西へ1.2km行くと市役所庁舎だ。この公園は、「日本一密集」したトーテムポールがある場所として少し有名であった。しかし今は昔。 市総合運動公園は、陸上競技場・野球場・テニスコート・体育館からなっている。公園の南側にはピクニック広場があり、トーテムポールが陽だまりの芝生広場を眺めるように立っている。平成3年この地でトーテムポール国際大会が開催された名残だ。 トーテムポールは、雨・風で傷みが進む。かつて87基あったが、現在50基程度に減少。高さ21mを誇った日本一のトーテムポールも今は無い。Tポール同様に痛みが進んでいるのが昭和51年に作られた体育館だ。流山ロードレース大会のたびに、訪れた懐かしの建物である。 体育館の建て替え計画が進んでいる。市単独の予算では難しいとのことで、URと共同での管理・運営になりそうだ。新体育館は、災害時の拠り所にもなる。水害・竜巻・大火など予期せぬ災害に対応できる多機能な施設であってほしい。写真-1 流山運動公園のピクニック広場。大きな木を取り囲むトーテムポール群。 写真-2 お弁当を広げ、トーテムポールと時を過ごす場所。 写真-3 雨・風・紫外線に弱いトーテムポール。痛みが進んでいる。 写真-4 築 36年経過、老朽化の著しい体育館。建て替え計画が進められている。写真-5 手作りの遊具とゲーム「キックターゲット」。市民祭りのイベント。
2013年11月01日
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青梅市吉野梅郷の近くに、吉川英治記念館と旧宅の草思堂がある。昭和19年に家族と共に疎開し、約10年間過ごした場所。70年の生涯におよそ30回の引っ越しをしたという彼にとって、一番長く住んだ町。養蚕農家の家屋敷だったもので、頑丈な建物。吉川英治記念館は昭和52年にオープン。 執筆で多くの時間を過ごした洋式の書斎も復元され、枝垂れ梅が植えられている。この書斎と庭で小説「新・平家物語」を書き続けたのだ。庭園のシンボルは樹齢600年と推定される椎の木であるが、紅白の梅も主役である。平家と源氏とを梅に重ねて、草案と思考を練ったと思われる。 新平家物語は、週刊朝日に連載(昭和25年から昭和32年)され、世に出た。作品は、平家方・源氏方・奥州藤原・公家の盛衰を描きだした不朽の名作。記念館には、挿絵いりのゲラ刷りや週刊誌が陳列している。名優といわれる顔も並んでおり、懐かしさひとしおだ。 NKH大河ドラマの10作品目に新平家物語が放映された。40年も昔のことだ。「平清盛」に仲代達矢、「平時子」に中村玉緒、「祇園女御」に新珠美千代らが出演している。またチョイ役で、昨年亡くなった中村勘三郎さんが「平敦盛」を、西田敏行さんが「北条義時」役を演じていた・・。写真-1 吉川英治記念館の庭園に存在感を示す椎の木。樹齢500年から600年と推定。写真-2 母屋の離れにある書斎。原稿の締め切りに追われる日々もあっただろう・・。写真-3 庭園に静かに佇む石像。「三国誌」に出てくる宰相の雰囲気。写真-4 雑誌に連載された「新・平家物語」。若き日の新珠、仲代、中村の姿があった。
2013年03月21日
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中善寺湖の東湖畔に立木観音が佇む。国道120号線「立木観音入口」の交差点から南に、約1.3km歩くと中善寺の仁王門に至る。立木観音は、境内中央の観音堂に祀られている。784年に勝道上人によって創建された中善寺は、日光山輪王寺の別院。 立木観音は、桂の立木を勝道上人自ら彫ったとされ、高さ6mの「十一面・千手観音」である。室内は撮影禁止のため、パンフよりその立ち姿を載せる。観音堂の奥には五大堂があり、開山1230年を記念して、上人が使用した錫杖が展示されている。五大堂回廊に立つと中禅寺湖を渡る風が快い。 千手観音は、いかなる人でも差別することなく救済するという。更に十一の顔を持ち、10種類のご利益もあるという。つまり、一切の病、一切の悪業を取り除いてくれるのだ。中善寺の観音様は、右手に錫杖、左手に戟(げき)を持ちほぼ西の方向を向いている。 人は西に沈む太陽の光景に遭うと、日常の煩悩を忘れる。仏教(浄土思想)では、西の彼方に極楽浄土があると信仰する。9/12に陸前高田の「奇跡の一本松」が保存作業のため伐採された。この1年半、地元の人々にとっては「立木観音」的存在だったと思う。陽が西方に行く、秋の彼岸が近づいた・・。写真-1 湖と山々を展望できる中善寺五大堂。不動明王などの五大明王を祀るお堂。写真-2 中禅寺の入口、朱色の仁王門。開山1230年を迎えていた。写真-3 五大堂と高石垣。先の大地震でも堅固さを示した石積擁壁。写真-4 十一面千手観音(立木観音)。両脇を守る四天王は、源頼朝が寄進したとされる。
2012年09月15日
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ここは、国道19号線バイパスと中津川が交差する中津川大橋である。川の上流を眺めれば、荒々しい河床と遠くに日本百名山の恵那山がある。下流を眺めれば、優しい山容の高峰山と中津川市本町がある。 中津川は、恵那山南麓から東北に流下する延長14kmの急流。本川の木曽川と左岸駒場付近で合流する。全国には中津川が9箇所ある。信濃川水系や相模川水系の中津川の方が、規模・長さが大である。 中津川宿は、江戸時代の中山道45番の宿場。落合宿と大井宿との間にあり、古くから商業活動が盛んであった。当時の町並みは1100mにも達し、旅籠屋は大小29軒あったという。また、桂小五郎(木戸孝充)が藩主敬親に攘夷を説くために、隠れた家跡もある。木曽路をゆっくり歩きたくなる。 広重の木曽海道六拾九次には、「中津川」が2枚描かれている。そのうちの雨の中津川(写真-3)は、遠景に恵那山、近景に街道と家並を配置している。恵那山が大きく真っ黒だ。左側に溜池らしきものがあるので、坂本集落とされている。小生のお気に入りの一絵だ。広重は、174年前の天保8年(1837年)初夏にこの地を訪れているとのこと。坂本龍馬が生まれて間もない頃か・・。 写真-1 大橋から上流を眺める。朝もやの中津川。中央奥が恵那山。広重の絵にも描かれている。写真-2 大橋から下流を眺める。高峰山には優しさと長閑さとが漂う。川の右岸側が中津川宿だった。写真-3 広重の木曽海道六十九次 雨の中津川。恵那山を黒、屋根を白、溜池を青で、見事雨中を表現している。写真-4 中津川大橋を上流右岸から見る。4車線の国道17号バイパスの橋。シンプルな橋梁。 にほんブログ村
2011年10月15日
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ふたつの大きな川が流れる飛騨地方。北から南に流れるのは飛騨川。逆に南から北に流れるのは宮川。高山市内を南北に貫流する宮川は、京都の鴨川を真似て整備されたという。 宮川という名を持つ川は、全国に8箇所ある。京都府宮津市にもあるが北は会津藩、南は薩摩藩にもある。飛騨・宮川は、幹川延長が120kmの一級河川である。富山県では神通川と呼ぶ。公害で名を馳せた。山地を流下するため宮川沿いには、関西電力や北陸電力の水力発電所が6箇所以上もある。 市内を流れる宮川には多くの橋が架けられているが、やはり中橋と鍛冶橋が特徴的である。天文5年の刻銘がある擬宝珠を持つ朱色の中橋。長手・長足像を欄干に配置した鍛冶橋。長手・長足像は、高山祭の「恵比寿屋台」に飾られている。出雲神話に登場する神に由来するという。山の神、海の神か・・。 かの高山陣屋から東山へ向かって中橋を渡ると、高山城跡公園がある。この園内には、初代城主の金森公銅像以外に、広瀬武夫の銅像がある。「坂の上の雲」に登場する日露戦争・旅順港閉塞作戦で戦死した海軍中佐である。彼は大分県生まれであるが、親仕事の関係で高山東小学校に在籍していたとの理由。写真-1 穏やかな宮川に架かる中橋を上流から望む。橋脚の間からは筏橋や柳橋が見える。写真-2 鍛冶橋の上流側欄干で行き交う人々に手を振る足長像。宮川の彼方は、紅葉の名所の数河(すごう)高原かな・・写真-3 中橋を高山陣屋側から見る。小高い山は高山城跡公園。宮川は堀濠の役割も担っていた。写真-4 高山城跡公園にある広瀬武夫・海軍中佐の像。明治10年市内の東山小学校に在学。「坂の上の雲」で有名。
2011年10月13日
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秋の高山祭は、毎年10月9日と10日に行われる日本三大曳山祭である。今年は好天の3連休に恵まれ、初日には15.8万の人出。その中に小生もいた。高山市は、2005年周辺9町村を合併して日本一広い。その広い面積(東京都程)に9.3万が住む。一夜にして倍の人数を呼び寄せる力が高山祭にはある。 高山祭といえば、からくり人形である。英語の「Karakuri」は、日本のからくり人形を意味するという。秋の例祭の最大の見物は、櫻山八幡宮の境内で行われる「からくり奉納」と夜の町に繰り出される「宵祭」だ。特に生演奏のからくり奉納は10年ぶりとのこと。 からくり奉納には、「布袋台(ほていたい)」が使われる。綱方さんによる36本の綱に操られた「唐子(からこ)」が布袋に飛び移る場面がハイライト。夜の宵祭には、修理中の1台を除く10台の絢爛豪華な祭屋台が市中に曳き廻される。100個の提灯に揺らめく屋台は、「動く陽明門」に値する。 小さな城下でこれほどの高価な屋台祭り生み出され、継続できたことは何であろうか。豊臣秀吉方の金森長近と豪商(金山・銀山)の存在、京都に似ている地形がそうさせたのか。また人手とコストもかかる屋台祭が、江戸時代を通じて頓挫しなかった地域の知恵とは。継続は力=伝統力を培う。写真-1 櫻山八幡宮参道に勢揃いした祭屋台。手前は宝珠台で、棟端に大亀と3つ個の水煙宝珠がある写真-2 提灯飾り屋台を曳き廻す宵祭り。神馬台が月夜の狭い通りを「曳き別れ歌」ともに過ぎ行く。写真-3 櫻山八幡宮境内で奉納される「布袋台」のKarakuri。布袋の肩に唐子が飛び移るハイライト場面。写真-4 旧高山城下町の「上三之町通り」。坂口屋で昼食(品名:そこが味噌ステーキ)。店内には、からくり人形が保存されている。にほんブログ村
2011年10月11日
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成田山新勝寺は、江戸の昔から庶民の人気が高かった。成田山への道で、とりわけ賑わったのが、行徳から船橋、佐倉を経る成田街道ルートだという。門前通りには古い旅館が軒を連ねている。印旛沼あたりの美味しい鰻料理が出されたはず。 江戸庶民は、地域・職場で講中と言う単位で成田山へ向かう。信仰熱心な人もいれば、観光目当ての人もいる。しかし、3つの川(隅田川、中川、江戸川)を渡り、沼を横切り、丘を越える約64kmの道中を共にすれば団結力が増す。成田山参りは、ちょっぴり危険な旅行でもあった。 当時、山内で最初に目にするは、仁王門を照らす「魚がしの赤い提灯」である。築地の魚河岸が代々に奉納するもので、江戸っ子の意気が残っている。浅草の雷門に通じるものがある。本堂は釈迦堂であった。見事な彫物は旅の疲れを癒したことであろう。観光バスで乗り付けては御利益が半減するのだ。 額堂には多種多様なものが奉納されている。明治40年、上野の肉屋さんから奉納された青銅製地球儀がユニーク。今年の大震災で堂内への立ち入りが禁止されている。江戸から明治を生きた庶民の営みがこの額堂に詰まっている。早く修理して、観賞できるよう切に希望する。 写真-1 門前通りに軒を連ねる老舗旅館。望閣を持つ大黒屋旅館の大広間には能舞台もあるという 写真-2 仁王門の赤い魚がし提灯。代々築地の魚河岸が奉納した。両脇には朱塗り金剛像の眼がひかっている写真-3 釈迦堂の脇を進む僧侶の隊列。つい色とりどりの着物に眼が行く。 写真-4 古い額堂には直径110cmの青銅製地球儀がある。現在、堂内へは立ち入り禁止。 にほんブログ
2011年10月04日
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3年程前に開山1070年祭が終わり、新たに総門が完成した成田山新勝寺。その成田山で先般、放射性物質に関する護摩木騒動が持ちあがっていた。しかし、9月25日陸前高田市の松護摩木30本は、無事お焚きあげされ、煙になり無となった。 成田山と言えば御護摩だ。不動明王の護摩火で、煩悩たる薪を焼き尽くす。そのことにより願いが成就するという。仁王門を通り53段の階段を登ると大本堂の境内だ。風が弱く、香煙たなびく朝であった。四つ星のパワースポットは、線香のかおりがキツイ場所と改めて認識した。写真-1 三年前にお披露目された成田山総門。総欅(ケヤキ)造りで、獅子頭16体が支える表玄間 写真-2 香煙絶えない新勝寺境内。53段の階段を登って、直ぐ撮影する。午前9時半の風景。 成田山で今注目すべきは三重塔だ。開基1070年祭に合わせ修復工事が終えたばかりで鮮やかなのだ。漆塗りの極彩色で彫物が蘇っている。隔てる網などが無く直視できる。塔内には五智如来が奉安されており、扉にはその如来名が記してある。上梁の羅漢の彫刻も身近に観ることができる。 今回、護摩供中止を求める電話等が100件以上という。しかし、「京都の五山送り火」、「愛知県日進市の花火」騒動の二の舞にならずに済んだ。「百折不撓(ひゃくせつふとう)」で仕事を再開している被災者もいる。その気持ちに冷水を浴びせてはなるまい。 写真-3 リニューアルされた三重塔。汚れないうちに是非拝観されたし。写真-4 三重塔西面の扉。開くと阿弥陀様と目が逢うかも。上梁の羅漢さん達は碁談義か? にほんブログ村
2011年10月02日
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江戸前(東京湾)を飛行機から見ると奇妙な橋が伸びている。江東区若洲と中央防波堤(埋立地)を結ぶ「東京ゲートブリッジ」だ。恐龍が向き合っているようなので、人は「恐龍橋」と言う。港町育ちの私は、暑くなると浜風が恋しくなる。新木場駅から若洲橋を渡った。 この恐龍橋は、臨海トンネル(延長約3km)へと繋がり、大田区城南島へとアクセスする東京湾臨海道路のランドマークとなる。橋長2,933m、最大支間440m、幅24m(4車線+歩道)のトラス橋で、江戸前を跨ぐ。平成16年からのビッグプロジェクトも完成が間近。 大型船舶の航路を跨ぐ大橋の建設は、一般的にはレインボーブリッジや明石海峡大橋のような吊橋が採用される。しかし羽田空港の発着コースに近いため、空域規制が適用される。海面から橋の上部までの高さは約88mまで。その結果、このようなユニークな設計が採用された。また橋の基礎は、沖合なので鋼管矢板井筒構造[直径1.5m×長さ60.5m×98本]を採用し、工期の短縮を図っているとの事。 平成23年8月現在、来年の春開通に向けて、橋の歩道整備及び照明工事を行っている。東京湾臨海道路が開通すると羽田空港へのアクセスが便利になる人が多い。通行が無料でかつ歩道があるのだ。早くこの江戸前90m上空を歩いて、富士山や東京スカイツリーの眺めて見たいものだ。写真-1 恐龍橋こと、東京ゲートブリッジを望む写真-2 若洲地区の生コン工場。日本強力コンクリート工業が見える写真-3 若洲橋より東京湾を望む。遠くに東京ディズニーランドが霞む写真-4 東京湾臨海道路の位置を示す看板
2011年08月18日
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江戸川と利根川とを約8.5kmで結ぶ運河が開削されたのは明治23年。その後、関東水運の動脈として、約50年間運河は活躍した。運河全盛期頃の河岸地域は、商店、回漕店、舟大工などが住む一大商店街を形成していた。大正2年には、道程約17kmの運河霊場八十八箇所があったと言う。 四国霊場八十八箇所巡りは、当時比較的裕福な人々で流行していたが、田舎庶民にとっては叶わぬ夢であった。「本家」になぞられて「分家」なる新八十八箇所が各地に誕生したと言う。東葛飾地域の数ある八十八箇所巡りのひとつが利根運河沿いにもあった。平成8年には大師堂が再建され、遍路会が毎年行なわれている。 現在の利根運河は、小河川として流域の雨水を江戸川に排水している。その運河水辺公園には、水位を計測する塔が立っている。これまでの増水時の最高水位は、YP+9.36mと掲示してある。塔のミニバルコニまで来たそうだ。平成13年9月11日の15号台風の置き土産。この日は、米国の同時テロと重なる。 政界で少し前、話題になったのは、四国お遍路の54番札所「延命寺(今治市)」。彼の人は、一刻も早く「同行二人」の編笠姿で、原発事故の厄払い巡礼に出発してほしい。運河霊場新八十八箇所での54番札所は、野田市下三ケ尾地区の道端に在る。祠のなかの大師様は、行き交う人々を見守っている。写真-1 利根運河を江戸川側から観る 写真-2 利根運河大師堂に納められた17体の大師像 写真-3 運河水辺公園の水位観測塔。YP+9.36mまでの水位が観測されている。 写真-4 利根運河の水位記録看板
2011年07月26日
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江戸川と中川とが再接近する三郷市を東西に横断するように「三郷放水路」が造られている。中川に面する「三郷水門」が昭和49年(1974年)に完成した。これによって幅約50m×延長1.5kmの放水路が出来、江戸川と中川とが?がるのだ。直交する大場川は、「伏せ越し」で放水路の下を流れている。 中川・綾瀬川流域は、低地のため、大雨時水が溜まり易い地形である。中川の排水能力が十分ではないため都市化の進展に伴い、大きな洪水被害が懸念されていた。そこで、より大きい流量を排水できる江戸川へ三郷排水機場を介して強制的に排水するのだ。いわば中川の安全弁である。 江戸川河川事務所の運営管理する排水機場は7箇所ある。庄和、八潮、伝右、松戸、三郷、古ケ崎、根本である。このうち、庄和排水機場と三郷排水機場の排水能力は、200m3/秒で国内最大規模だ。いざという時のために、日々の整備と訓練が大切だと思う。 大型排水ポンプから吐き出される水の勢いはすさまじいものだ。出力1万KW以上の水力発電所相当のエネルギーである。江戸川口の護岸・護床も監視の対象になる。機会あれば観たいものだ。写真-1 三郷放水路の上空を横断する外環道路(新大膳橋から中川方面を望む) 写真-2 三郷排水機場を放水路側から観る 写真-3 三郷排水機場樋管が配置されている江戸川口
2011年07月24日
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江戸川を百円で渡れる事が出来る伝馬船がある。映画「男はつらいよ」でフーテンの寅さんが柴又に帰ってくる場面にも使われた「矢切りの渡し」だ。「やぎり」の地名は、戦国時代この地で、里見方の矢が切れ負けたことを由来とする説がある。 江戸川には、かつて38箇所の渡船場があったと言う。当時は、人のみならず馬や日常雑貨を積み木船が往来していたのだろう。150mの川幅を5分程度で渡るが、近年次々と橋に架けられ経済的には成りたつはずもなく、ほとんどボランティア状態だ。この近傍を渡る橋は、葛飾橋(松戸-草加線)、葛飾大橋(国道298号線)、鉄橋(常磐線)、新葛飾橋(国道6号線)などがあり、交通の要衝を物語っている。 江戸川の延長が約60kmなので、平均1.5kmに1箇所渡しがあったことになる。現在の状況を調べると、道路橋が17箇所、鉄道が8箇所の計25箇所である。江戸川が増水しようとも何時でも渡ることができる。 「矢切りの渡し」と言えば、昭和58年細川たかしが歌って大ヒットしたが、ちあきなおみが昭和51年の「酒場川」のB面曲だったと言う。環境省の「日本の音風景100選」にも選ばれ、「哀愁」「郷愁」をイメージさせる。ちあきなおみの歌声のほうが似合う風景である。写真-1 矢切り渡しの伝馬船。松戸側より金町浄水場方面を望む 写真-2 矢切りの渡し 柴又側の乗船場。河口より16.6km地点写真-3 矢切りの渡し碑 細川たかし識 写真-4 日本の音風景百選の碑
2011年07月19日
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旅客機がなかった時代、広大な石狩平野を開拓する一大拠点として小樽が脚光を浴びた時期があった。その象徴が防波堤であり、運河・倉庫である。当時の運河規模は、長1,320m、幅40m、水深2.4mである。現在の規模は、長1,140m、幅20~40mとほぼ原形並みであり、長きに渡る市民による運河保存運動の成果なのだ。 日本には270箇所にのぼる運河があったとされるが、現存するものは全国で80箇所余り。そのうち実際に舟運に活用されているのは、名古屋の中川の1箇所のみ。小樽運河は、北海道最後の運河であり、「北の運河」と呼びたい。ちなみに東京都内には半分近くの37箇所の運河がある。 小樽運河は、陸上部を開削していない。沖合を埋め立てることにより、運河水路と倉庫となる平地を同時につくる「埋立て方式」である。このため、9年の歳月をかかり、大正12年(1923年)に完成した。倉庫は、商業流通と富のシンボルでもある。いっとき「北のウォール街」と呼ばれ、銀行その他の公的建物は、西洋様式を取り入れ、石造りの重厚なものが多い。石は遠く本州から船で運ばれ小樽港に陸揚げされた。 運河に架かる北浜橋から北側の運河は、幅40mあり、現在小型船舶の宿泊場所となっている。そのすぐ脇には運河広場と旧日本郵船の建物がある。その運河公園の一角に野口雨情の「赤い靴 親子の像」がある。母親が晩年小樽に住んだことから建てられたそうだ。「赤い靴」関連の碑は、横浜が有名だが全国に7箇所あると言う。名作は時空を超え、各地に伝説をつくる。写真-1 小樽運河と倉庫群。浅草橋より中央橋方向を望む 写真-2 旧日本郵船小樽支店と運河公園 写真-3 運河公園にある「赤い靴 親子の像」
2011年07月17日
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日本酒百本を飲み込むという「瑞龍の松」が柴又帝釈天にある。充分な栄養を得ているのか、松の枝振りは、猛暑を苦にせずに青々と元気だ。この柴又帝釈天近傍の江戸川に面して、首都へ水道水を供給する金町浄水場がある。江戸川河口より右岸17.2km地点である。 金町浄水場は、3/23放射性物質が乳児の基準値100ベクレルを上まわった最初の首都圏内の浄水場だ。ホットスポット群を流下している江戸川から取水しているので、当然の結果だった。金町の施設能力は、150万m3/日を有し、東京都の約20%に当る250万人分の浄水をつくる。近くの三郷浄水場も江戸川から取水している。金町・三郷併せて、東京の約四割の水を供給している。 金町取水場風景は、映画「フーテンの寅さん」にも登場する。独特の帽子をかぶり、川から水を汲み上げる情景を連想させる水辺である。また、トンガリ帽子からはハリポタの魔女マクゴナガル副校長を、山高帽子(ダービーハット)からは袴にガウンをまとった昔人を想う。 水道局では、おいしい水づくりのために力を入れているものがある。ひとつには高度浄水施設の増設である。金町では第3期工事が平成24年3月に完了して高度浄化水が全家庭に届く。ふたつ目は、直接給水方式による供給である。一時貯留水槽を経ずに、直接送水するため雑菌の繁殖を防止できるのでおいしい水なのだと言う。しかし、災害時や停電の際には、欠点になる恐れがあると思う。 写真-1 江戸川と金町浄水場のトンガリ帽子・山高帽子の取水塔。上流右岸から望む 写真-2 高度浄水施設の建設している工事用クレーンが後方に見える 写真-3 柴又帝釈堂前の「瑞龍の松」 沢山の木陰を造り出している
2011年07月06日
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5月GWが過ぎてから被災地へのボランティアが減っている。一方で頑張っている「○○隊」がいる。自衛隊や青年海外協力隊のOB・OGなどのボランティア隊である。昨日仙台で最高気温30.6度を記録した。ガレキ迫り、異臭漂い、ホコリ舞う環境条件での人力作業には頭が下がる。個々の体力・体調に合わせ、オーバーワークにならないよう願う。 青年海外協力隊は、国際協力機構(JICA)における年齢20~39歳の青年による原則2年間の海外派遣である。事業仕分けでも話題になった。問題もある事業・運営方法ではあるが、高い志で開発途上国へ往く若者も多いはずだ。現地に役立ちつつ自己研鑽して、逞しい人間に育ってほしい。 吾が居住する近くの利根運河は、外国青年の指揮下で明治時代に造られた。31歳で来日したオランダ土木技師ムルデンは、足掛け11年間、日本の各地へ出かけ港や運河の企画・設計に携わった。特に利根運河開通に心血を注ぎ、41歳の壮年で帰国した。 利根運河の入口と鬼怒川合流部と近接しているため、鬼怒川が増水すると運河の水位も急激に上がる。運河を守るため「水堰」が造られていたが、昭和10年7月(1941年)の台風で壊され、運河の通航が出来なくなった。その名残が県道の「水堰橋(すいせき橋)」として生まれ変わっている。 写真-1 明治時代の利根運河の水堰。[利根運河120年の記録より] 写真-1 現在の水堰橋。柏市船戸(県道7号我孫子~関宿線の道路橋) 写真-3 オランダ土木技師ムルデルの顕彰碑。昭和60年設置
2011年06月30日
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震災被災地では、いまだ水道水の復旧が進んでいないところがある。南三陸町では仮設住宅に入れても給水タンクからの生活が続いている。水に不自由する生活から早く抜け出せることを切に祈る。蛇口を捻ると出る水は、各地それぞれの条件と過程を経て各家庭に辿り着く。 千葉東葛地域の水道水は、北千葉導水路によって安定的な水利権が確保されている。この導水路の取水口は、手賀沼と利根川を最短で結ぶ木下(きおろし)にある。木下は、利根川水運の要衝として栄えた町で、三社詣(成田山、香取、鹿島)の河岸(かし)があった。また、行徳から伸びる木下街道の終点にあたり、茶船で銚子沖遊覧を楽しむ江戸庶民で賑わったという。 利根川河口より75.5km地点に北千葉揚排水機場樋管がある。樋門は、幅8.1m×高4.5m×2門の設備規模で、昭和59年(1984年)完成した。利根川から取水するに際し、流木やゴミ類の流入を防ぐために1次スクリーンが配置され、さながら「水の関所」のようだ。 この関所を通過した水は、揚水ポンプ、シールドトンネル、落差工および坂川をへて江戸川沿いの北千葉広域水道の取水・導水施設まで約30kmを旅するのだ。この水の街道が完成するまでは利根運河がその役目を果たしていた。利根運河は、8.5kmの水の道である。写真-1 北千葉揚排水機樋門。利根川河口より75.5km地点。[印西市木下]写真-2 樋門前面に設置された鋼製の1次スクリーン。「水の関所」 写真-3 取水口は格好の釣り場となる
2011年06月24日
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梅雨入りして早3週間を超えた。暫く九州・四国地方で大雨が続いた。6/20愛媛県宇和島では1時間当り75mmの豪雨を記録した。江戸川中流域でも、いつこのような大雨に遭遇しないとは限らない。春日部市東側地区は、江戸川、古利根川および中川に囲まれた低地であり、市街化が進んでいる。これまで浸水被害を繰り返してきた地域だ。 江戸川中流右岸地域の治水対策として、平成4年から平成18年にかけて「首都圏外郭放水路」が建設された。その吐き口が江戸川46.5Km地点にある6門の樋門を有する庄和排水機場と延長6.3kmの地下空間である。 庄和排水機場の地下には、巨大な空間と排水ポンプが配置されている。浸水被害を未然に防ぐために、総貯水量67万トンの地下ダム(調圧水槽)もある。 排水ポンプの規模は、毎秒200トンの排水能力で、松戸排水機場の2倍もある(5/24の日記を参照)。毎秒50トンを放出する巨大なポンプが4台設置されているのだ。その動力は、130名乗旅客機(ボーイング737)に使われるジェットエンジンの改良型である。14,000馬力で10tダンプトラック40台分に相当する。燃料はA重油。1時間運転すると約480リットル消費する計算になる。 この排水ポンプは、平時には地下の格納機で待機しているが、川が氾濫しそうなになると出番が回ってくる。洪水を治める「四海竜王」を意識しているのだろうか、インフメーション室の名称が龍Q館という。 写真-1 首都圏外郭放水路の吐き口。江戸川河口より46.5km地点 写真-2 庄和排水機場と龍Q館。地下に大型排水ポンプ4台が配備されている。
2011年06月22日
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高速道路上限1000円および無料化社会実験の50区間が6/20から廃止になり、最後の休日となった昨日は、各地遠乗りのマイカーで混雑した。飲食するだけの客ばかりと嘆く商売する人々も一方にいる。 コロコロ変わる政策に戸惑う人も多いと思う。 今後、原発の運転は、反対運動で運転中止に追い込まれる可能性が高い。13ケ月稼働後の点検で、再稼働する保障がないからだ。来年はわずかな数の原発しか運転されないのではないか。原発事故を契機に、電力の節約運動が一気に広まったが、個人の石油燃料の節約も同時にしなければ片手落ちだ。6/20は、落ち込んでいた公共交通機関の復権の日にしたいものだ。 石油価格の高騰や中近東情勢によって、電力事情が最悪になることを「想定外」と言って片づけることは出来ない。だからこそ、鉄道、フェリー等による人・モノの移動するシステムを未来に残さなくてはならない。 私は、江戸川付近を歩いたり、走ったりしていることが多い。もう一つ高性能の移動手段を持った。3×8段ギヤの軽い(重量11kg)サイクリング自転を用意した。江戸川に架かっている橋のなかで最も古いとされる「野田線江戸川橋梁」を眺めることが容易になった。 この鉄道橋は、3スパンのワーレントラス桁と9スパンの鋼板桁で構成され昭和30年3年に開通。野田線は、千葉県鉄道~北総鉄道~総武鉄道~東武鉄道と受け継がれてきた。有形・無形の財産である鉄道は、次世代にとって宝になるかもしれない。 地方鉄道(特に被災地の三陸鉄道)すべてが、20年後の日本地図にあることを願う。写真-1 江戸川を横断する野田線鉄道橋梁。44.5km地点写真-2 堤坊強化工事完了区間とサイクリング自転車。3×8段ギヤ
2011年06月20日
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昔、江戸川はアユの宝庫だったと。6月になると全国的にアユ釣りが解禁である。東京湾から旧江戸川上流9km地点に江戸川水閘門(通称:篠崎水門)がある。先日の日記で述べた行徳可動堰の近くである。この水門近傍でアユ釣りをする人を多く見かける。 左岸側の水門は、通常閉められてアユが遡上できない。いきおい右岸側の閘門から遡上するチャンスが多くなる。しかし、アユにとっては、潮位差やゲート操作上の問題でスムーズな水路といは言い難い。しかし上流と下流とを行き来する貴重な「渡し」となっているのは間違いない。整備された魚道があればと思う。 江戸川水閘門の目的は、東京湾からの塩水遡上を防止し、上流の真水を確保するために建設されている。左岸側の水門には、5門のローラゲートが装備されている。右岸側には幅16m×長さ100mの閘室があり、上流・下流には幅10m×高さ3m鋼製ローラゲートが装備されている。昭和18年(1943年)に完成している。 天然アユは、彼岸頃清流で産卵し、9月、10月にこの「渡し」を通って、東京湾に出る。冬季小さなアユは、より暖かい海で育ち、また江戸川を遡上する。江戸川沿いには、「ホットスポット」的な箇所が点在しているという。釣りを楽しむ人を観て思う。セシウムが藻に多く付着していないことを。写真-1 江戸川水閘門を上流より望む。釣りを楽しみ人がいる。 旧江戸川上流9km地点写真-2 右岸側の閘門部(篠崎水門ともいう) 閘室幅10m×長100mで、アユが行き来する。写真-3 旧江戸川河口を望む 遠くにスカイツリーが見える
2011年06月18日
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皆既月食は、生憎の梅雨空で関東では見ることができなかった。皆既月食は、満月に起こる現象であり、大潮にもあたる。地盤沈下した被災地では、冠水で夜も安眠できない状態か。 満潮迫る江戸川河口堰で川の逆流する様子を観てきた。江戸川河口堰は、行徳可動堰とも言われ、昭和31年(1956年)に完成している。江戸川放水路(江戸川)に横断し、423mの道路橋の役目を果たすとともに、重要な2つの目的がある。一つ目は高潮・塩害予防、二つ目が渇水期における利水。 東京都民250万人の水道水をまかなう金町浄水場から約15km下流地点に可動堰がある。この日の東京湾の潮位は、干潮11時12分でcm、満潮18時14分で19cmとされている。差し引き190cmの大潮である。この堰で海水の遡上をストップさせているのだ。 また、旧江戸川との分岐点に位置しているので、隣接する江戸川水閘門と連動することにより、渇水期の水位を保つ任務がある。 幅30m×径3.5mの巨大なローリングゲート3門を支える堰柱は、上流に迫り出し威風堂々の姿である。洪水に対して、あたかも4隻の艦艇が並列陣形で監視・防御してくれそう印象を与えてくれる。しかし「敵」は、大潮のため後方からやって来た。 写真-1 江戸川河口堰(行徳可動堰) 4隻の艦艇が並進している様子に見える 写真-2 巨大なローリングゲートを斜めに回転させながら引き揚げる装置。上流に迫り出しているので安定感がある。 写真-3 昭和31年3月竣功を示す名板。
2011年06月16日
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古希の青年(Mさん)をみおくる。昔大変お世話になったダム屋の先輩だ。70歳で急逝され、四十九日になる前に、ダム仲間が集まり東京駅前の居酒屋で偲ぶ会をした。遺影に献杯し、ご冥福を祈った。 Mさんは、酒を愛し、登山、詩吟に勤しみ、元気で過ごしていると思い込んでいた。彼の容貌は、古希にならんとするのに、髪の毛が黒く元気で、いわゆるオールバックぽい。そこで「万年青年」とも呼ばれていた。葬儀が家族葬とのことで、日を改めて会することにしたのだ。四十九日は、「七七日(なななのか)」とも言う。この日まで霊魂は、あの世とこの世をさまよい、六道への行く先が決まるとされる。天道の道を選び登って行くことを願う。 メンバーは、平日にもかかわらず、各地(熊本、石川、神奈川、埼玉、千葉、都内)から出向いてくれた。東京駅周辺および駅ナカの変貌には目を丸くした上京組もいる。ビル等の建設工事が佳境で、不景気感が全くない。 だが、こんなに多くのビルを造って入居する人がいるのだろうかと疑問が湧く。原発事故での電力不足、放射能影響もあり企業の東日本離れが進むからだ。 丸の内側の東京駅舎の早く仮囲いが取れる日を待ちわびる人は多い。来年の春に完成予定か。屋根に使わるスレート瓦は、震災の地・石巻産とのこと。早く、「鶴翼の陣」を連想する赤レンガ駅舎の全貌を観たいものだ。然し、来年の5月は、浅草・スカイタウンが熱い。 写真-1 東京駅丸の内側の工事状況 2011年6月9日撮影 写真-2 東京駅八重洲側の夕暮れ。丸の内側に負けずに工事が展開されている。
2011年06月09日
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住宅街の中に高さ5m程度の滝がある。利根川からポンプアップして導水された水路の出口である。ここは、昔、東葛飾郡江戸川町と言われていた場所で1級河川の坂川へ注いでいる。 最大毎秒40トンの導水能力を有する北千葉導水路工の中間地点で、坂川放水口である。江戸川合流点から約8km、手賀沼第2機場から7.4kmの場所だ。平成12年に完成。 この導水路事業は、4役を任されている。即ち、(1)洪水対策、(2)水道水の確保、(3)工業用水の確保、(4)水質の浄化。一言で言えば、「一水四見」の事業となる。この事業の完成で、利根運河の導水任務は終えた。そして、北千葉広域水道水の安定的な水利権・毎秒4.32トンが確保できることになった。 計画最大取水量からの不足分は、暫定水利権といい6.53-4.32=2.21トン/秒は、八ツ場ダムと思川をあてにしているので、渇水時には不安定となる。 5/28日記の「飲水思源」を参照。 江戸川の水位が低下した際には、毎秒30トンを放水して、東京や埼玉の生活水等を補給することもある。その内訳は、北千葉4.32+東京19.7+埼玉4.39+千葉工業1.59=30トン/秒である。 この水を利用した水辺公園がある。この夏は、特に子供達がこの水辺に集まると思う。写真-1 坂川放水口 北千葉導水路の中間地点 直上流には水辺公園がある 写真-2 野々下水辺公園 夏には子供の水遊び場となる
2011年06月06日
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千葉を代表するパワースポットと言えば、成田山が五つ星である。今、東葛地域がホットスポットに指定されそうだ。市民団体が柏市、松戸市、流山市、我孫子市に向け、独自の放射線測定を実施するように要請することがネット上で駈け廻っている。嬉しくない称号だ。 ホットスポットとは、放射能を出した元素(ホットアトム)が、地形や気象条件により、他の場所より多く舞い降りた特別の場所。千葉県が緊急に調査した箇所(5/31~6/1)では、柏市の0.49マイクロシーベルト/時が最高の値を示している。千葉県のモリタリングポストの約10倍である。地上7mと1mの差があるが、測定箇所を広げることで、安心マップを作成してもらいたい。 ホットスポットは、丘、川など形状にも左右される。まさに「まだれめ」状態に分布するという。今回は、筑波山が上空の気流の乱れを創ったのではないか。福島第一と都心を結ぶ延長線上に筑波山や柏市、流山市がある。福島第一から筑波山まで直線で約155km、筑波山から流山市まで45kmの位置である。 水道水が問題になった3/21頃の降雨量と風向きを気象庁アメダスで調べた。我孫子観測地点では、3/21の日雨量24mm、3/22の日雨量16mm、風向き卓越方向は北東の風。関東以北では、冷たい北東の風を「やませ」とも言う。「山背」、「病風」とも書く。鬼門の方角をも意味する。 東葛地域にいる我々は、南西の風・雨が望ましいが、この風は大雨をもたらす場合があるので要注意。 写真-1 埼玉県側より江戸川越しに東葛地域を望む。遠くに松戸水門が見える。手前に「幸房の渡し跡」標識がある。 写真-2 日本百名山の筑波山。標高EL877m。冬場の北西の風は「筑波おろし」と言い、干し芋や干し柿に役立つ
2011年06月05日
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「去る者は日々に疎し」ではないが、若い頃工事現場で共に汗を流した仲間と一杯を飲みながら語らう会が6月3日にあった。人形町に集まる「浜灯会(はまび)」で、年3~4回程度開催し、無理に参加しなくても良い、緩やかな会である。 人形町は、墨田川と日本橋川に囲まれ、今なお江戸の下町情緒が残る街。甘酒横丁から僅かに離れた所に集合地点の馴染みの居酒屋がある。途中タイ焼きの香りで足が止まる。帰へのお土産にと4匹を並んで買う。焼き板が1匹毎なので、大量生産ができないのだ。創業90年の伝統の味も、この夏は大変だろうなと声をかける。 テレビドラマ「新参者」で甘酒横丁や水天宮が舞台となったおかげでガイドブックを手にした旅行客を見かけた。これから暑くなる。墨田川の風に吹かれて、「ビルマのスカイツリー」を観るのもまた良し。夜の江戸紫色を早く楽しみたいものだ。 冷たい甘酒は、飲んだことがないが、外国では「ジャパニーズヨーグルト」と言われているそうだ。どうなのかなあ。身体が冷えた時や食欲減退で体力が衰弱している時に飲むものと固定観念があるが・・。食の伝統文化と言えば大げさか。 写真-1 人形町の伝統のタイ焼き風景。輻射熱で熱そうな焼人さん。甘みは抑え気味 写真-2 浜町公園からの「ビルマのスカイツリー」、手前は墨田川
2011年06月04日
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大河ドラマ「江」にちなんで、千葉市内の公民館で勉強会が開かれている。3代将軍の跡目争い(竹千代と国松)のお家騒動もテーマに取り上げられるという。 昨日、内閣不信任案提出騒動も、所詮、与党・民主藩の御家騒動・政権争いに他ならない。早く「お家の仲を整理整頓」して、領民を安堵させて頂きたい。そうすれば、他藩から突けいられることもなかったはずだ。6/2は「本能寺の変」があった日。 ドラマ「江」の続きで恐縮する。義父である柴田勝家が滅ぶターリングポイントは、「賤ケ岳の戦」(1583年6月、琵琶湖と余呉湖と中間地点)だ。この合戦には、いろいろな見方があるが、キーマンはやはり前田利家だと思う。土壇場で秀吉方についたのが大きい。今回の政争における利家役は、「あの人」か。家康のように領土を広げていたのは誰であろうか。 この「お家」は、呉越同舟のまま「一定のめど」がつくまで、流れてゆくのだろうか。しっかりとした船頭がいるとは思えないが・・・。更に、この船には、震災復興という人質がいる。こまま、「工程表」で示している冷温停止予定の12月まで進めるだろうか。「小牧・長久手の戦い」もあるやも知れない。図-1 琵琶湖と余呉湖の間に賤ケ岳がある。前田軍は、余呉湖北西の権現坂に陣を敷いた。白は柴田軍、赤は秀吉軍
2011年06月02日
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もの言わぬ黒い流れが、河川敷に黙々と広がる。台風2号から変わった温帯低気圧が通り過ぎて、丸一日経過した朝の風景。車が出入りしていた江戸川河川敷の色が変わった。 『五月梅雨 集めて黒き 太日川』 江戸川は、その昔『ふといがわ』と呼ばれていた。 昨日(5/30)、被災地の仙台市で24時間雨量が138mmの5月観測史上最大を記録した。石巻市では、大雨、波浪、大潮等で被災地のあちらこちらで冠水した。天は非情な試練を与え過ぎると思う。 昔、洪水となれば神頼みするより他なかった。流山だけでも十数箇所に水神さまが祀つられている。また、洪水で亡くなった人の供養碑も見かける。近年は、堤防の整備、上流でのダムづくり、中流での調整池と治水総合対策が為され、他力本願によらないでも済むようになった。 然し、大自然は予想を超えるものを人間に投げ与える。今回の震災で、利根川、小貝川で600箇所以上の堤防損壊があると報道されている。手を緩めることなく、水害に備えなくては・・・。 写真-1 江戸川の増水状況、左岸から右岸側の埼玉県を望む。[2011年5月31日10時頃撮影] 写真-2 上流を見つめ、何を念じるのかお地蔵さん。31.5km地点
2011年05月31日
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台風2号とともにに関東地方に梅雨入がやって来た。例年より12日も早いという。梅雨入が遅ければ遅いで気を揉むこともある。今年は、首都圏の水ガメを心配しなくてもよさそうだ。 一時、雨により河川に流入した放射性物質騒ぎで、ミネラル水がスーパーから消えたことがあった。雨水は、地上の汚れを流し去る力がある。しかし、行きつく先は、海または透水性の高い地下であることを忘れてはならない。 さて、各市町村の生活水は、何処から、どの程度取水しているのか思いを巡らしたことがあるだろうか。小学校では見学会を行っているところもあると聞く。 流山市は、北千葉広域水道企業団から給水を受けている。その取水口は、江戸川24.8km地点で、近傍に取水・導水施設(敷地面積約3万m2、松戸市七右衛門新田)がある。 北千葉広域水道は、1県7市の約410万人を給水人口としている。その水利権は、北千葉導水路事業により毎秒6.532トンが暫定確保されている。1日最大564,400トンの取水量の事業規模。 皆さんの町の水道は、どうなっているのか少し考えてみてはいいがか。天からの恵みに感謝しつつ「飲水思源」を想う。北千葉導水路と水利権についても調べてみます。 写真-1 北千葉広域水道の取水口「4ケ口」、後方に取水門が見える(幅2.3m×高2.7m×2門のゲート)写真-2 江戸川からの水利権が表示。平成27年まで毎秒5.869トンの取水量が確保されている。
2011年05月28日
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江戸川と利根運河を歩けば、数多くの水門と樋門を見かける。樋門とは、堤防を貫通させた暗渠水路(トンネル)の小規模な水門を言う。 松戸水門と5/8に記した運河水門とは、水路距離で約17km離れているが、水縁もある。北千葉導水路事業で関係しているのだ。この事業は、千葉県印西市の利根川から松戸市の江戸川まで延長28.5kmの導水路を建設するもので、長い年月を要した。(昭和49年から平成12年) この導水路工事期間中、代役を務めていたのが利根運河だった。運河水門の完成が昭和50年、松戸水門が6年後の昭和56年に相次いで完成している。両者の水門は、それぞれの水路の主要設備であった。以下に比較してみよう。水門がお相手する河川が異なっている点に注目しよう。 区分 完成年月 ゲート規模 対象河川 運河水門 昭和50年3月 幅26.0m×高10.8m×1門 利根川口。 松戸水門 昭和56年6月 幅19.1m×高13.7m×2門 江戸川口 ゲート1基当たりの規模をみると、運河水門が1.12倍の水圧を多く受け持つ。日本一大きい水門ゲートは、静岡県にあるそうだ。沼津港の航路水門。幅40mとのこと。 写真-1 松戸水門と釣り人 写真-2 松戸水門 竣功プレート
2011年05月22日
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昨日の続き。 関宿水門堰の右岸側にひっそりと幅10m程の水路がある。利根川と江戸川を行き来するための閘門である。その水路の上下流端には、合掌式ゲートが備わっている。 閘門ゲート支柱のコンクリートには花崗岩が埋め込まれ、洪水の激流と摩耗から閘門を守る工夫が偲ばれる。 ところで、関東の人は関宿を「せきやど」と読むけれども、関西の方は、「せきじゅく」と発音するのではないか。東海道五十三次の47番目の宿場であるから。中世の三関のひとつ「鈴鹿の関」の近くで、大和街道と東海道とが合流する所で有名である。「山の関所」と「川の関所」と区別できる。 さて、閘門跡は全国にどのくらいあるのだろかう。100か所以上はあるそうだ。そのうち、「日本の閘門100選」が出版されるのではないか。 世界の閘門は、やはり中国・三峡ダムの閘門。その水位差が何と113mもあり、1万トン級の船舶が通航できると言う。 日本は、エネルギー資源が乏しい国だが、水の国だった。原発がなくなり、石油も枯渇する未来を想像した場合、新たな水運を検討しておくにこしたことはない。造船ドッグ、運河そして閘門を未来の孫達に残して置こう。 江戸川に、かっての通運丸や銚子丸が新型機種で行き交う日もあるかもしれない。その船容姿は、風を抱える太陽光布の帆と船体脇に水車がきっとある。土手をランニングしながらその風景を想像すれば、疲れはどこ吹き風。写真-3 関宿の閘門 幅10mで合掌式ゲートがある写真-4 スーパー堤防を従えている関宿城博物館
2011年05月20日
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東日本大震災で発生した「がれき」の後片付けが進んでいない。5/15の新聞で3県合わせて、撤去率14%程度(349万t÷2,487万t)と報道されている。岩手604+宮城1,595+福島288=2,487万t 進まない理由のひとつに「がれき」には、被害者、遺族の方とって「悲しみが浸み込んでいる」からであろう。然しながら、このままのスピードでは復興も覚束なくなる。 一般の法事に百ケ日目を「卒哭忌(そつこくき)」と呼び、泣くことや悲しみにを卒業する時期との風習もある。一説に土葬すればで、白骨となる頃。来る6月11日は、犠牲者の冥福をお祈りすると共に、天と海に向かい『東北復活』を祈願する大法要を広域的に執り行ったらどうだろうか。 然る後に少し粗っぽくはなるが、がれき撤去そのものに本腰を入れる。台風到来までに大方片づけてしまう機運になれば良いのだが。その祭には、大型重機使用の検討も避けて通れない。大量のがれきの総量は、単位体積当たり1.5t/m3とすれば16,580,000m3となり東京ドーム球場の13個分に相当する。場所にもよるが、工事用道路造成と大規模処分場の確保がまず優先される。 原石山では岩屑の積込・運搬に大型重機を使用することが多い
2011年05月16日
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5月10日政府は、原子力にたよる総発電量50%目指したエネルギー基本計画を白紙に戻す決断をした。現状を直視すれば、火力62%、原子力29%、水力8%、新エネルギー1%です。(この割合は東電エリアのデータ) この数値を見れば見るほど口で言うほど簡単に行かないことがわかる。私は、人生の半分をダム建設に従事してきたので、水力に期待したい。雨の多く国、山地の多い国土では、またまだ水資源を発電に回せるし、開発可能と考えています。また、中東情勢、および中国・インドの経済発展をみるにつけて、火力に頼る電力は問題が多すぎる。むしろ火力による電力量50%以下を目指し一歩一歩進むべきと思う。ここ数年間は、原発跡処理に多大なコストがかかる。化石原料も国際情勢により値が上がるのは必死。日本は足元を見られてしまう。外交カードに石油を止められて、太平洋戦争に行きついた道へは絶対に踏み入れてはならない。 水と陽と風よ、日本を助けてくれ。
2011年05月12日
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政府は、浜岡原発問題で「東海地震は今後30年以内に87%の確立で起きる」とのメッセージを国内外に強烈に発信した。東海地方で生活されてい人々、多くの企業人は、大きな不安を抱え込んだ。風評被害等で、ホテル・観光業がダメージを受けないことを願う。一方、私の住んでいるところは江戸川流域なので、別の災害が想定される。雨台風が関東を直撃して、利根川・江戸川の堤防が決壊・氾濫するシナリオです。64年前の昭和22年のカスリーン台風水害の再来である。当時の被害は、死者1,100人、流失家屋23,000戸と言われている。東日本地震の直後であり堤防が弱っていることを考えると、まさかが現実に。またこの地域の人口も4倍増になっていることを考えると大災害になる恐れがある。多くの橋、自動車、冷蔵庫等が流され、ガレキ処理が大変となる。私は、利根運河と江戸川との合流点付近をジョギングしながら観ることが多い。堤防に腹付工事用道路ができているが、補修・補強工事があまり進んでいない。この地点は、堆積土砂が多いので河川幅が狭いのだ。浚渫工事の準備であろうか。利根川右岸側の「首都圏氾濫堤防強化対策事業」に多くの予算がつき早く、丈夫な堤防になるようにと願うこの頃です。 写真-1 利根運河と江戸川の合流点 堆積土砂が多い 写真-2 堤防両脇に腹付工事用道路が完成したばかり
2011年05月10日
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ときに走り、よく自分の足で歩いて、ものを思い・観察してみようという意味で「走思歩観」という造語を考えた。江戸川付近をジョギングしたり、散歩すると利根川と利根運河との境目に建設されている水門が眼に入ってくる。水門幅が26mもありかなり大きい。この水門は、増水した利根川洪水流量が運河内に流入するのを防ぐ役目があったものと思われます。このように川辺りを散策すると「土木遺産」的なものに巡り合えることが多い。歴史的に国を治めるとは、水の戦いであったし、未来永劫に続く人の営みです。川と港を「走思歩観」しましょう。ちなみにこの運河ルートは、「歩きたくなる道500選」(日本ウォーキング協会認定、千葉県10ヶ所の一つ)
2011年05月09日
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