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彦根城で最も眺望の良い場所として知られている着見台。本丸の東端に突き出た一画で、もとは着見櫓が立っていた。見張りと戦に備える櫓。此処からは、名勝・玄宮園、佐和山、彦根市街、そして琵琶湖を一望できる。 湖を渡る風が通り抜ける展望台から竹生島も見えた。景色を楽しんだ後、彦根城を下りると、京橋から南西方向に小江戸風の通りが350mほど伸びていた。白壁と黒格子で統一された町屋を再現している。グルメ・お土産店が軒を連ねる「夢京橋キャスルロード」だ。平成10年頃に整備されたという。 キャスルロードを散策して、ドラ焼き「ひこどら」をお土産にして彦根城下をあとにする。米原駅発17時のひかりに乗車すると、19時には無事に東京駅に着いた。一連の「琵琶湖周行記」は終わりになります。新型コロナ第三波の感染拡大前の旅行だったので幸いであった。写真-1 彦根城着見台から北東方向・伊吹山を望む。写真-2 眼下の佐和山口多聞櫓。写真-3 石田三成の居城があった佐和山。写真-4 北側を望むと竹生島や長浜が見える。写真-5 歴代の藩主が愛した池泉回遊式庭園「玄宮園」。写真-6 夢京橋キャッスルロードの町並み。
2020年12月31日
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彦根城は、琵琶湖から眺めると、船の形をした石垣の要塞に見えたことだろう。南北に長い尾根を整地して、石垣を築いた連郭式平山城。南から「鐘の丸」、「天秤丸」、「本丸」、「西の丸」が直線的に連なっている。大量の石材を短期期間に集めて築いた石垣の尾根でもある。 城づくりの基本設計を「縄張り」という。徳川家康は、戦略的要地である彦根築城を「公儀普請」とし、幕府の総力で造ることとした。公儀から3人の普請奉行を派遣して、近隣の7国の大名が工事を担う。徳川の威武を近江に打ち立て、西国代表に睨みをきかせるためだ。 江戸初期は、居城移転が相次いで行われた。必要に迫られて建築資材の再利用が盛んになる。彦根城はその最たるものではないか。佐和山城の石垣に限らず、安土城、長浜城、大津城の石材をリサイクルしているようだ。 リサイクルと言って、天守や櫓と石垣とは、移築方法が質・量で異なる。クレーンが無い時代、安全に石垣を解体・運搬する技能集団がいたのだろう。石垣を構成する岩質も多様だ。墓石もあった・・。写真-1 大量の石を積み上げた彦根城石垣。写真-2 本丸の石垣。写真-3 墓石も使われた算木積みと登り石垣。写真-4 美しい天秤櫓石垣。写真-5 チャート露頭が太鼓門前と大堀切・階段。写真-6 天守石垣(牛蒡積み)と湖上から城郭を望む。
2020年12月28日
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滋賀が誇る国宝・彦根城。江戸時代を通し譜代大名の井伊家の居城として築かれた平山城。その天守は、高さ21mと小ぶりながら複数の構造が調和している。唐破風造りの地上3階、地下1階の建物で、昭和27年には天守が国宝に指定されている。 もともと彦根には石田三成の居城・佐和山城があった。1600年の関ケ原の合戦で、武功をあげた井伊直政が18万石で入封した。しかし、石田三成の居城をヨシとしなかった。変わりに琵琶湖に近い彦根山に彦根城を築くことを計画。井伊直継の代となって完成する。佐和山城から南西1.5kmの距離だ。 城郭のなかで目立つのが左右対称の多聞櫓。その櫓の中央に「落し橋」を設け、かつ両端が三重櫓となっている。これらの造りが天秤のように見えることより天秤櫓(てんびんやぐら)の名が付いている。落し橋は、敵の侵入を防ぐ仕掛のひとつ。 鎌倉・室町時代から彦根(佐和山城)は、有力守護・大名がせめぎ合う要衝。戦国時代には六角氏から浅井氏に支配が移る。小谷城の重要支城となる。小谷城落後、丹羽長秀、石田三成が治めた。そして徳川の時代彦根城は、天下普請と称して多くの大名が参加して出来上がった城。写真-1 彦根城天守と「ひこにゃん」。写真-2 京橋口から天守を望む。写真-3 大手門橋と多聞櫓への廊下橋(落し橋)。写真-4 左右対称に造られた天秤櫓。写真-5 時報鐘と太鼓門櫓。写真-6 三層の屋根と華頭窓のある天守。
2020年12月25日
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びわ湖テラスを下った後、湖西(こせい)湖岸をバスで移動。JR湖西線が通り、旧街道「西近江路」と重なるエリアをゆく。かつて湖上交通の要衝として発展した今津には、竹生島への連絡船が発着する港がある。自然に恵まれたビューポイントが点在している。季節で様々な顔を見せる湖景色がある。 琵琶湖岸に立ち続ける近江最古級の白鬚神社が近江高島駅の南にある。朝夕に幻想的なシーンが見られるという。鳥居越しに、「沖ノ島」が見える。湖中に突然現れたという伝説がある鳥居は、滋賀を代表する景観のひとつ。日本遺産に認定されている。 近江今津駅から北9Kmに絶景のドライブロードがある。約500本のメタセコイヤが約2.4kmにわたって続く道。円錐形のメタセコイヤ並木と直線的に伸びる道路とが創り出す景観が素晴らしい。四季折々の表情を楽しめる並木道だ。マキノピックランドの駐車場を利用できる。 長浜港のホテル・グラツィエでランチを摂る。長浜の郷土料理「焼鯖そうめん」を食べて、いざ彦根城へ・・。写真-1 琵琶湖西岸線をゆく。写真-2 高島海岸の白鬚神社の鳥居。写真-3 今津付近から竹生島を望む。写真-4 マキノビーチと今津港。写真-5 マキノピックランド近くのメタセコイヤ並木。写真-6 長浜港のホテルと焼鯖そうめん。
2020年12月22日
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琵琶湖西岸に連なる比良山地の打見山(標高1108m)へはロープウェイを利用。高低差782m、延長1783mの「びわ湖バレイロープウェイ」に乗る。大型キャビンは定員121名であるが、半分の定員で運行。秋日和に恵まれ、紅葉の山肌とびわ湖を観る約5分の空中散歩を楽しむ。 比良山地は、近江八景の一つ「比良の暮雪」で知られる景勝地。最高峰は、北よりの武奈ケ岳(標高1214m)。打見山、比良岳(標高1051m)、蓬莱山(標高1174m)が連なる山地は南比良と呼ばれる。南比良の麓に、湖西線・志賀駅がある。 対岸に位置する守山市側からは、朝日を受ける比良山地を見る事ができる。比良山地が美しくなるのは、冠雪の山並みだという。歌川広重の魚栄版「比良の暮雪」は、積雪の比良山中から琵琶湖を描いている。スキーで滑りたくなる坂道だ。写真-1 比良岳の東斜面と北小松方面を望む。写真-2 秋日和の空中散歩。写真-3 びわ湖バレイロープウェイ。写真-4 ロープウェイ越しの蓬莱山。写真-5 山頂エリアマップと冬の比良山地。写真-6 広重・近江八景「比良暮雪」。
2020年12月19日
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びわ湖周行の宿泊基地は、大津湖岸に聳えるプリンスホテル。このホテルは、地上133m×38階の高層建物。500室以上の全室が琵琶湖に面している。丹下健三氏による設計で、1989年に開業している。 鉄道網が発達している大津市。電車を利用すると、近くの名所を訪ねることができる。ホテルとJR大津駅とを無料シャトルバスが運行している。1時間に2便あるので、さほど不自由を感じない。 大阪・札幌のGo Toトラベルの一時除外が11月25日から始まって久しい。小生らは、それ以前のツアーでGo Toを利用した。地域クーポン券は、持て余し気味だった。近江牛をお土産(クール便)して消化した。 12月17日まで東京発着のGo Toトラベルの使用自粛(年齢制限)要請があった。中途半端な判断のように思えた。そして、12月15日突然28日からGo Toトラベルが全国的に中断となった。医療に従事する人にとって、息抜きできれば良いのだが・・。一方、旅行者を相手にする業界は大ピンチだ・・。写真-1 におの浜の夜明けと高層ホテル。写真-2 びわ湖大津プリンスホテルと湖岸線。写真-3 ホテル38Fのスカイラウンジ。写真-4 スカイラウンジからの眺望。写真-5 ホテル内フロアと客室。写真-6 ホテル付近の鳥瞰写真とびわ湖花噴水。
2020年12月17日
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琵琶湖の西域、比良山地・打見山に天空のカフェがある。2016年にびわ湖テラスが出現した。標高1100mからびわ湖一帯を望める絶景スポットに間違いない。眼下に琵琶湖大橋、海のような湖と大空を一望できる木製デッキが設置されている。 関西で知られていたスキー場「びわ湖バレイ」を再開発して、リゾート感を味わえる場所を創り出した。打見山と蓬莱山の二つのエリアに分かれ、徒歩またはリフトで移動できる。天空の食堂(ダイニングレイクビュー)も営業されている。特別の人とゆっくりと寛いで、料理とスイーツを食べる処か・・。 びわ湖テラスの特徴は、ウッドデッキと水盤であろうか。水盤床には濃淡の少し異なる青色タイルが張られている。テラスの水盤が湖と空に一体化させるねらいがあるようだ。海外の山岳リゾートにいる雰囲気がある。 グランドテラスから続く小径を進むと、小さなハート形の展望台が設けられている。「湖空の鐘」を鳴らせる恋人の聖地があった。写真-1 びわ湖バレイ/びわ湖テラス。写真-2 ロープウェイ山頂駅の直ぐ近くに「びわ湖テラス」がある。写真-3 湖空の蒼い水盤。写真-4 びわ湖テラス・グランドテラスからの眺望。写真-5 テラスカフェの建物と展望台(恋人の聖地)。写真-6 びわ湖テラスの施設案合図。
2020年12月15日
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びわ湖に流れ込む川は数多くあるが、びわ湖から流れ出る川はただ一つ。それが瀬田川。宇治川に名前を変え、木津川、桂川と合流し、淀川となってやがて大阪湾に注ぐ。明治になるまで、瀬田川には唐橋の一箇所しかなかった。従って軍略・政治的に重要な要衝であった。 唐橋の名で呼ばれるようになったのは鎌倉時代。当時、唐風(中国風)に架け替られたので、いつしか唐橋となった。現在は、全長224mの鉄筋コンクリート製に様変わりしている。中ノ島を挟んで、小橋52m、大橋172mで繋がっている。上下流に国道1号、名神高速道路が瀬田川に架かっている。 昔、唐橋を制する者は、天下を制すると言われた。東国から都へ上洛するには唐橋を確保することが不可欠だった。そのため日本の歴史を動かす戦いがあった。例えば、672年壬申の乱(大友皇子-大海人皇子)、1180年治承の乱(源平合戦)、1336年建武の戦い(足利軍と朝廷軍)。 唐橋は夕景(せきしょう)の名所と知られている。歌川広重が近江八景「瀬田の夕照」が有名。当時の中州は、今は中ノ島。橋の北東に見えるのは、近江富士(三上山)。写真-1 瀬田川に架かる唐橋(小橋)。写真-2 唐橋大橋からびわ湖方面を望む。写真-3 唐橋の歩道部と受け継がれている疑宝珠。写真-4 歌川広重の近江八景「瀬田の夕照」。写真-5 昔の唐橋の位置と近江富士。写真-6 行き交うボートと石碑。
2020年12月12日
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宿泊ホテルの東側に隣接する大津湖岸なぎさ公園の由美浜。由美浜には砂浜の「サンシャインビーチ」があり、南北に伸びている。早朝、由美浜を散歩すると、岩根山(十二坊)方面から朝日が昇って来た。その左手前には、近江富士が見える。 なぎさ公園のなかで、「三角おむすび」のような広場がびわ湖に突き出ている。湖から見ると扇の形状しており、イベントを開催する市民プラザ広場。扇の広がった縁に駐車する車が並ぶ設計となっている。大きな扇子をイメージしたのだろう・・。 市民プラザのエリアが下水処理施設(処理能力95,000m3/日)のようだ。建物の屋上をグランドに仕上げている。そして、屋上公園としてテニスコート2面、多目的広場2箇所を整備して、一般開放している。健康的で寛げる場所がある由美浜、いや「扇浜」だ。写真-1 夜明け前のびわ湖。写真-2 しだいに山並みが見えてきた。写真-3 由美浜に光の道が繋がった。写真-4 朝照のびわ湖と釣り人。写真-5 サンシャインビーチと近江大橋。写真-6 ホテル38階から市民プラザと屋上公園を望む。
2020年12月08日
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「びわ湖周行」の宿は、大津プリンスホテル。びわ湖の湖畔、におの浜に位置する。「におの浜」は、東西500m渡り、「なぎさ公園」が伸び、プロムナード(遊歩道)が整備されている。朝と夕には散歩する人やジョギングする人々で賑わう浜だ。 ホテルおよび「におの浜」からは比叡山の山並みが見える。朝日が当たる。その方面には近代的なビルやマンションが建ち並んでいる。人口35万人の大津市の中心街は、日当りが良好な場所にある。 「におの浜」の名は、水鳥のカイツブリが由来か。カイツブリの和名が鳰(にお)。その昔、びわ湖は「におの海」と呼ばれるほど鳰とりが多かったようだ。カイツブリは、あまり深くは潜水できないが、巧みな潜水術をもっている。豊かな淡水湖で、小魚、甲殻類、貝を捕食するハンターでもある。 「におの浜」に近い駅は、京阪線膳所駅(ぜぜえき)。この駅から南東に約2km進むと粟津駅に到る。粟津には旧東海道沿いに、約500mの松並木があり、旅人の休憩場所ともなっていた。歌川広重の近江八景「粟津の晴嵐」には、松林と比叡山が描かれている。写真-1 におの浜から比叡山方面を望む。写真-2 なぎさプロムナードとカイツブリ。写真-3 におの浜とびわ湖。写真-4 びわ湖大津プリンスホテル。27階に宿泊。写真-5 ホテルから渚公園と比叡山を見る。写真-6 広重の近江八景「粟津の晴嵐」。
2020年12月05日
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比叡山の麓にある西教寺は、聖徳太子が創建したとの伝説がある。室町時代に真盛上人が不断念仏の道場とした。現在は天台真盛宗の総本山で、山号を戒光山、寺名を兼法勝西教寺という。本尊は阿弥陀如来。そして明智一族の菩提寺として知られている。 西教寺の本堂は、桁行7間×梁間6間、総檜造りの高層な建物。江戸時代(1739年)に再建された。何故か紀州徳川家からの寄進だという。更に客殿は、伏見城の旧殿(桃山御殿)を大谷刑部の母などから寄進されている。 境内に松尾芭蕉の句碑「月さびよ 明智の妻 咄(はなし)せむ」がある。芭蕉は坂本には寄っていないはず・・。越前を通った際に、光秀の妻・煕子(ひころ)のことが話題となったのだろう。境内の二十五菩薩来迎群像の端に、ひっそり煕子の墓があった。テレビの影響で、女優・木村文乃さんを連想してしまう・・。写真-1 戒光山兼法勝西教寺の本堂。写真-2 西教寺境内と本尊の阿弥陀如来像。写真-3 二十五菩薩来迎群像と煕子の墓、および芭蕉句。写真-4 西教寺山内の庭園。写真-5 宗祖大師堂の唐門。写真-6 西教寺から琵琶湖を望む。
2020年12月02日
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大津市坂本は、比叡山延暦寺および日吉大社の門前町とて発展した町。また明智光秀がびわ湖湖畔に坂本城を築いたことで知られている。しかし光秀死後、大津城築城のため廃城となる。 光秀ゆかりの西教寺内に里坊が並んでいる。そのうちのひとつ、禅明坊で「麒麟がくる」展を開催していた。西教寺の本堂へ向かう途中、展示会場を観る。大河ドラマのパネルやビデオ、そして坂本城の模型、甲冑等を見学した。なお、里坊とは、比叡山で修行を積んだ僧侶が住んだ隠居坊。 明智光秀は、比叡山焼き討ち後、織田信長から近江志賀郡5万石を任された。坂本城を築城しながら近江一帯を平定する。天正10年本能寺で主君信長を討った後、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れる。坂本城へ向かう途中で落命する。55歳の生涯であった。写真-1 坂本・西教寺の総門。写真-2 参道沿いに佇む禅明坊写真-3 「麒麟がくる」展の等身大パネル。写真-4 坂本城の模型と想像風景。写真-5 光秀の甲冑と坂本城址公園の石像。
2020年12月01日
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延暦寺からの下山途中、峰道レストランに立ち寄りランチを摂る。奥比叡ドライブウェイの途中にあり、展望台ともなっている。東塔バスセンターから北へ1.1kmの地点。 比叡山の北側尾根(標高約695m)を切開いて広場を造成したもので、眺望が素晴らしい。眼下に広がるびわ湖を見ながら食事できる処。レストランでは、景色もご馳走の一つである。小生らのランチは、近江幕の内+すき焼き。静かにランチタイムを過ごす。 峰道レストランの駐車場の一画に大きな像が立っていた。高さ12mの伝教大師尊像(最澄)だ。比叡山延暦寺の開山1200年を記念した事業。対岸に近江富士(標高432m)を見下ろす広場。紅葉が色づいていた。写真-1 奥比叡ドライブウェイの駐車場からの眺望。写真-2 比叡山を見守る伝教大師尊像。写真-3 レストラン内から眼下のびわ湖を望む。写真-4 峰道レストランの紅葉。写真-5 近江幕の内+すき焼きのランチ。
2020年11月30日
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標高848mの比叡山は、全域延暦寺の境内とされる。3つのエリアのなかで、東塔(とうどう)の大講堂や文殊楼などを見て廻る。燃えるようなモミジが朱色の堂塔に映える。バスセンター側の出入口の一画に、「登叡成佛」の石碑がある。最澄の直筆を刻んだという。 僧侶の学問・修行の場所が大講堂。日蓮・道元、法然、親鸞など修行した比叡山。大講堂の中には、本尊の大日如来像、その左右に叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られている。建物(重文)そのものは、昭和38年に坂本の講仏堂を移築したもの。 大講堂の横に、朱色の鐘楼がある。重さ4.5トンの釣鐘は、「開運の鐘」、「平和の鐘」と呼ばれている。誰もが1回50円ほどで鳴らせる。比叡山に響き渡る鐘の音。大晦日の除夜の鐘がテレビ放映される鐘楼。除夜の鐘を聞くと、大講堂の大日如来像を思い出すことだろう・・。写真-1 比叡山東塔の紅葉。写真-2 モミジのグラデーション。写真-3 山門の階段と文殊菩薩を安置する楼門。写真-4 大講堂と大日如来像。写真-5 大講堂広場と開運の鐘の鐘楼。写真-6 最澄の碑「登叡成佛」。
2020年11月28日
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比叡山延暦寺を訪ねた。往路は、日本一長い「坂本ケーブル」を利用。ケーブル坂本駅と延暦寺駅との全長2025mを11分間で昇る。東塔地域の総本堂で国宝の根本中堂を先ず見学。訪れた時期、大改修工事が最盛期。しかし、薄暗い中堂内で、法話を拝聴させてもらった。 根本中堂の本尊は、最澄が彫ったという薬師瑠璃光如来像。創建の788年以来、本堂等は幾度なく焼けている。1571年の織田信長の焼き討ちが有名。その70年後、将軍徳川家光が9年の歳月を再建した。昭和の大改称を経て、1994年世界文化遺産に登録された。 根本中堂の大改修は、平成28年から約10年を要する事業。本堂および回廊をスッポリ覆う、鉄骨の仮囲いが大規模だ。桁行37.6m×23.6m×高さ24.5mの入母屋造りの根本中堂を覆うのだから・・。修復作業を誰でも見学できるように、「就学ステージ」が仮設されていた。 「不滅の法灯」は1200年間灯されている。信長の焼き討ちの際には、事前に灯火を分けていた山形県の立石寺から分灯したという。燃料は、今も菜種油。原始的な構造の燈篭内で燃え続けている。写真-1 比叡山東塔バス停側の入口。写真-1 比叡山東塔バス停側の入口。写真-3 東塔広場と紅葉。写真-4 根本中堂への階段と改修用の覆屋。写真-5 改修箇所と内部の修学ステージ。写真-6 根本中堂の説明図他。
2020年11月27日
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大津と京都を隔てる山の一つに長等山(ながらさん)がある。標高354mであるが、この山を起点に多くの山が連なる。山体の中を、琵琶湖疎水・鉄道湖西線・国道などのトンネルが掘られている。そして和歌にも詠まれている。三井寺(園城寺)の山号にもなっている。 園城寺(おんじょうじ)は、天台寺門家の総本山。その大門(仁王門)は、びわ湖に面して建っている。室町時代の大門(重文)は、秀吉が伏見へ、家康が大津へ移築して現在に到る。また、本堂にあたる金堂(国宝)は、秀吉の正室北政所によって再建されたという。 金堂の横に鐘楼がある。いわゆる近江八景「三井の晩鐘」だ。日本三銘鐘とされ、形の平等院、音の三井寺と称される。歌川広重の浮世絵には、遠くに響きわたる様が山を描いている。 この鐘は、古鐘「弁慶の引き摺り鐘」の跡継ぎとして鋳造された2250kgの鐘。鐘の上部に、乳と呼ばれる108個の突起がある。この乳と長等山とが鐘の音を独特なものにしているようだ・・。奥深い安らぎを与える梵鐘の音だという。鐘つき1回300円。写真-1 長等山園城寺(通称:三井寺)の参道。紅葉には少し早かった。写真-2 歴史と風格を感じる大門(仁王門)。写真-3 三井寺の金堂(国宝)。写真-4 三井の晩鐘を納めた鐘楼。写真-5 日本一の音と称される梵鐘。写真-6 歌川広重の近江八景「三井の晩鐘」。
2020年11月25日
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びわ湖浜大津駅の西側に琵琶湖疎水の大津口がある。大津市内に宿泊したので、琵琶湖疎水の起点側を観る機会を得た。散歩を兼ねて出かけた。散策道として整備されていたのは、第一疎水(大津運河)の方だった。 琵琶湖第一疎水は、大津市観音寺の取水口を起点とし、三井寺下(長等山)の第一トンネルを抜け、山科北麓を西進して、京都市蹴上に出る。日本人による最初の土木事業だ。計画の立案から着工まで約4年。明治18年に工事を開始して、明治23年に鴨川落合まで完成させている。 最大の難関は、当時最長と言われた延長約2.5km第1トンネル工事。立坑を駆使して完成させた。大津側には、びわ湖の水位変動を勘案して、揚水機場や閘門が残されている。この辺りは、春に訪れると疎水沿いが桜の名所になっているはず・・。写真-1 鹿関橋から琵琶湖第一疎水を見る。写真-2 北国橋から大津運河と揚水場を見る。びわ湖の水位が下がった時ポンプアップする。写真-3 水位を調整して船舶の航行を可能にする大津閘門。写真-4 びわ湖疎水・第一トンネル東口を観る。写真-5 鉄柵のデザインと第1疎水縦断図。
2020年11月24日
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竹生島からの往路を、最終便(15時55分)に乗船する。3割程度の乗客率。微風に恵まれて、船酔いを心配する必要がないので、デッキで過ごす。北びわ湖の雄大な風景を堪能することができた。 竹生島は、長浜港から見ると北西12kmの位置にある。従って、夕日を背に受けて船が進む。ほとんど波浪がない。唯一、クルーズ船が船首波をつくる。穏やかな夕照の湖面だった。 湖面から沢山の棒が突き出ている。ガイドの説明によると、伝統漁法「魞漁(えりりょう)」の仕掛けの一部だという。障害物にぶつかると、それに沿って泳ぐ魚の習性を利用したもの。湖岸から沖に向かって、矢印型に網を設置し、「つぼ」と呼ばれる行き止まりに誘導して捕まえる。写真-1 竹生島と夕陽。写真-2 往路の北びわ湖。写真-3 船首波と夕日写真-4 夕照の北びわ湖。写真-5 夕日を受ける長浜城。
2020年11月22日
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宝厳寺唐門(国宝)を潜り、観音堂(重文)で参拝して、船廊下(重文)を抜けて、そして国宝の都久夫須(つくぶす)神社に到るルートがある。国宝・重要文化財の中をガイドの説明を受けてそぞろ歩いた。 2013年から実施していた「唐門」、「観音堂」、「船廊下」の修復保存事業が、今年の春に完了したばかり。唐門は、太閤秀吉が建てた大阪城の遺構。桃山時代を象徴する唐破風が美しく蘇った。観音堂には千手観音が安置されている。 竹生島の古名をもつ都久夫須神社。本殿は、伏見城の遺構と伝えられている。桟唐戸(さんからど)にはめ込まれた、菊や牡丹、鳳凰の彫刻が目を引く。 竹生島の中で一番の絶景ポイントは龍神拝所。2枚の「かわらけ」に名前と願い事を書いて、宮崎鳥居を目がけて投げる。島を訪れた多くの人がびわ湖に向かって願う拝所だ。鳥居の周りが「貝塚」のようになっていた。写真-1 都久夫須神社と龍神拝所。写真-2 修復保存事業が完了した宝厳寺の唐門(国宝) 写真-3 観音堂と都久夫須神社とを結ぶ船廊下。写真-4 都久夫須神社とその彫刻。写真-5 龍神拝所とかわらけ投げ場所。
2020年11月19日
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日本三弁才天のひとつ数えられる宝厳寺(弁才天堂)。琵琶湖八景のひとつ、「深緑」 竹生島の沈影と称される。竹生島は、周囲約2kmの小さな島であるが、びわ湖で最も水深のある場所にある。古来、伝説と信仰の地と知られる。今風に言えば、パワースポットになる。 島全体がひょうたん形のように見える。瓢箪好きの豊臣秀吉がお気に入りの島だったという。後に豊臣秀頼の命により、太閤を祀る豊国廟から桃山時代の建造物を移築した。それが今なお残り、国宝や重要文化財となっている。貴重な観光資源でもある。 船着場から「祈りの石段」165段を上ると、西国三十三ヶ所観音霊場の弁才天堂に到る。宝厳寺は、724年聖武天皇の勅命を受けた僧行基が開山した。宝厳寺の御本尊は、前立の弁才天像。60年に1回開帳される。次回は2037年だという。 本堂にある小さなダルマが置いてある。「弁天様の幸せ願いダルマ」と呼ばれ、願い事を書き入れて奉納すれば、1年間祈祷してくれる。奉納料500円で、コロナ禍が消える事を願う・・。拝殿間の両角には、座った弁材天像が安置されていた。写真-1 祈りの階段と宝厳寺三重塔を望む。写真-2 165段上った宝厳寺弁才天堂の境内。写真-3 大弁才天が祀られている本堂・弁材天堂。写真-4 拝殿の間に置かれた弁才天座像。撮影OK。写真-5 鎌倉時代の石造五重塔と宝厳寺三重塔。写真-6 「弁天様の幸せ願いダルマ」と竹生島の歌碑。
2020年11月18日
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秋、びわ湖周辺を巡る旅に出かけた。先ず、びわ湖湖北・長浜港から西国三十三所観音場のある竹生島を目指す。コロナ禍で、して乗り物、食事、宿泊に関して感染対策を徹底して過ごす。 びわ湖の北東部に位置する長浜市は、戦国時代浅井氏の小谷城陥落後、羽柴秀吉が築いた城下町。北国街道やびわ湖水運の要衝として栄えた。現在の人口は約11.5万人。竹生島は、長浜市の行政区であるが人口ゼロ人だという。 長浜-竹生島航路は、琵琶湖汽船の観光船で片道約30分。乗船した「BENTEN(べんてん)」は、全長25m×74トンの高速船。小さいながらも、2階建の客席を有する。旅客定員164名の軽金属船。穏やかな湖面を滑るように進んだ。写真-1 長浜港から伊吹山を望む。写真-2 琵琶湖汽船の発着場。写真-3観光船「BENTEN(べんてん)」。写真-4 長浜港を出航。写真-5 出航の待ち時間に訪れた豊公園の明治山。
2020年11月16日
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