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スキアヴォーニ河岸の東側には、ホテル・レストランが軒を連ねる。赤茶色の外壁に白い窓縁の建物がホテル・ダニエリ。14世紀末に建築されて総督官邸を改修した五つ星ホテルで、ロビーの豪華絢爛さ客の目を引く。近くの河畔のS.ザッカリア船着場は、水上バスやゴンドラで賑わう。 ホテル・ダニエリと水路挟んで、西隣りのH.ロンドラ・パレスの裏手にサン・ザッカリア教会がある。ベネチア・ルネッサンス様式のサフォードがある教会。ヘッリーニの作品「王座の聖母と諸聖人」が有名。ロンドラ・パレス前の広場は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像があり、集合場所としていた。 エマヌエーレ2世は、クリミア戦争(1853~1856年)後の乱れた状態からイタリアを統一したサルデーニャ国王。クリミア戦争の頃、日本では薩摩藩で国産初の蒸気船が進水したばかり。因みに黒船来航は1853年。クリミア戦争を終えた列強各国が日本に目を付け始めた。 S.ザッカリア船着場から水上バス・ヴァポレットに乗り、旧市街を離れた。フェリーターミナルで預けた スーツケースを受け取り、ベネチア空港から帰国する。今回で、「アドリア海紀行」は終了です。長い間、お付き合いありがとうございました。写真-1 スキアヴォーニ河岸の東側を望む。写真-2 赤茶色のホテル・ダニエリと豪華絢爛なロビー。写真-3 グレース水路とベネチアの斜塔。写真-4 サン・ザッカリア教会と「王座の聖母と諸聖人」。写真-5 ロンドラ・パレス前のエマヌエーレ2世の騎馬像。写真-6バイオリンのヴィヴァルディが働いたピエタ教会。
2018年08月16日
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サン・マルコ広場河岸の対岸の島に浮かぶ「サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会」。コリント様式の真白い円柱と白壁が優雅にみえる。サン・マルコ広場付近から見ると最も美しくなるように設計されている。「水辺の貴婦人」と言われるゆえんである。 海の上に浮かぶ要塞のように見える。教会建物で埋まったS.G.マッジョーレ島。サン・マルコ広場から水上バスに乗ると数分で渡ることができる。聖ジョルジョとは、悪の化身とされるドラゴンを退治した伝説の聖人。 教会内部は、中央にクーポラのある幅広の3廊式。ホワイトとベージュ色が基調で落ち着いた雰囲気の礼拝堂。祭壇に向かって、右側にティントレット作「最後の晩餐」。左側に「マナの収拾」の大絵画が飾られている。 S.ジョルジョ教会は、マンガ「ジョジョの奇妙な冒険(作者・荒木飛呂彦)」にも登場する。ひと頃、愛読者の聖地巡礼地のひとつであった。日本の漫画好きに縁がある島と教会だ・・。写真-1 サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の北側にヨットハーバがある。写真-2 サン・マルコ小広場付近からS.ジョルジョ.M教会を望む。写真-3 水辺の貴婦人と称される真っ白なサフォード。写真-4 サロン的な雰囲気が漂い、明るい教会内部。写真-5 ティントレット作の「マナの収拾」と「最後の晩餐」。写真-6 鐘楼からの展望とヨットハーバ付近。
2018年08月15日
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ベネチアの大運河とジュデッカ運河の合流、その三角州にレンガ造りの低層建物と白いドームの教会が建っている。サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会である。サン・マルコ広場近くの河岸から良く見え、その美しい姿から「大運河の貴婦人」と呼ばれる。 サルーテ教会の中央クーポラ内部は、自然光を取り入れて明るい。天井や壁には、力作の大絵画が10点以上飾られている。ティツィアーノ作「聖マルコと諸聖人」やティントレット作「カンナの結婚」など。入場は無料。但し、絵画等の撮影は禁止。案内本の写真をアップする。 かつて海運国として栄えた頃、三角洲の尖端には、「海の税関」があり、船荷の荷揚げ場であった。今は古いレンガ造りの建物を改修して、現代美術館「プンタ・デッラ・ドガーナ」となっている。日本の安藤忠雄氏が改装を手がけたという。 大流行したペストの終焉を聖母マリアに感謝して造られたサルーテ教会。人口の1/3近くがペストで死亡したと言われる。これにより国力が弱まり、共和国の滅亡に繋がったとも・・。教会基礎は、大量の木杭によって支えられている。ペスト犠牲者と「気杭」が眠るラ・サルーテである。写真-1 大運河とジュデッカ運河とが合流する旧サルーテ埠頭。写真-2 「海の税関」の塔には、黄金の球体を支えるアトラス像。写真-3 モダンアートの美術館「プンタ・デッラ・ドガーナ」。写真-4 ジュデッカ運河とサルーテ教会。写真-5 カナル・グランデと「大運河の貴婦人」。写真-6 サルーテ教会の内部と絵画「カナの結婚」。
2018年08月12日
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サン・マルコ地区からアカデミア橋を渡るとドルソドゥーロ地区。アカデミア橋は、大運河に架かる4つの橋で、唯一木製で出来ている。しかし良く見ると、荷重を支えているのは鉄製の桁だ。ドルソドゥーロ地区は、アカデミア美術館があることで知られている。 アカデミア美術館は、ルネッサンスのベネチア派を代表する巨匠の作品を集めた殿堂。2年ぐらい前に、東京・新国立美術館で「ベネチア・ルネッサンスの巨匠たち展」が開催されている。日伊国交樹立150周年を記念した特別展(作品数60点)。 ベネチア派の絵画は、その大きさに驚く。長さ8m超える大型作品が並ぶ。特に印象的に残ったのは、カルバッチョ作「リアルト橋から落ちた聖遺物の奇跡」とジェンティーレ作「サン・マルコ広場の祝祭行列」。 約500年前のいにしえの絵画と、直前に観光してきたばかり風景がラップする。当時の時代風俗も伺われる。大運河に浮かぶゴンドラには、屋根が取り付けられていた。写真-1 大運河口に架かるアカデミア橋。写真-2 アカデミア橋を渡ると、其処はアカデミア美術館。写真-3 ジョルジョーネ作「嵐」。写真-4 カルパッチョ作「リアルト橋から落ちた聖遺物の奇跡」。写真-5 「レヴィ家の饗宴」と「サン・マルコ広場の祝祭行列」。写真-6 「サン・ロレンツォ橋から落ちた聖遺物の奇跡」。
2018年08月09日
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ベネチアを代表するものにゴンドラがある。かつては市場からそれぞれの館へ品物を運ぶ手段だった。今は観光客専用で、建物の間を縫うようにゆったりと進むアトラクション。リアルト橋を巡って回ってくるのが一般的なコース。昼間なら30分で80ユーロ程度。 ゴンドラは、11世紀に現れたという。その後、船の形が進化して、17世紀頃に現在の形になる。全長11mの非対称の形状と船乗り(ゴンドリエーリ)が重心を取りながら進める漕法。全長の半分しか水に接しないように設計され、水深の浅い運河に適した舟とされる。 日本でも大正期にはベネチアのゴンドラが広く知られていた。吉井勇作詞・中山晋平作曲の「ゴンドラの唄」がある。「命短し 恋せよ乙女 朱き唇 褪せぬ間に・・」と唄い継がれている。最近では、ライオンの歯磨きのCM曲に登場している。 ゴンドラの先端に、「フェッロ」と呼ばれる鉄製の飾りがついている。総督がかぶったコルナ帽の形とされる。ゴンドラは最盛期1万隻あったが、現在は500隻ほど。人気コースは混み合う。ベネチアの道路には信号がないが、水路にもない。交通安全は船乗り次第のようだ・・。写真-1 水路が張り巡らされている水の都・ベネチア。写真-2 カナル・グランデに出て来たゴンドラ。写真-3 コヴァン運河と石造り建物そして連絡橋。写真-4 狭い路地裏の水路をゆっくり進む。写真-5 「溜息の橋」がある水路を進むゴンドラ。写真-6 ゴンドラの装飾、フェッロ、ペッティなど。
2018年08月07日
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S字で流れるカナル・グランデ(大運河)の、ほぼ真ん中に架かるリアルト橋。延長3.8kmの大運河に架かる4本の橋で最も古い。橋長48m×幅22mのアーチ橋で、別名「白い巨象」と呼ばれた。サン・マルコ広場の時計塔の下を抜け、メルチェリエ通りを北西に400mほど歩くと橋に到る。 橋名の由来となったリアルト地区は、海抜が比較的高い。浸水被害が少ないため、人々が早くに住み始めたエリア。貿易の街として発展するに従って、この地区が商業の中心となる。商取引する人が良く渡る橋になったので、「富の橋」とも言われた。 シェイクスピアの戯曲「ベニスの商人」は、貿易商の多いこの街を舞台に、16世紀作られた。人肉裁判と恋の喜劇の物語は有名だ。血を流さずに生身の肉を切り落とすことができないことを逆手にとって、高利貸を負かすことになる。 リアルト橋の上からは、大運河を行き交う船や町の賑わいを見下ろすことができる。陽が暮れ、ライトアップされた「白い象」と岸辺の灯が水面に揺れる風景は「ザ・ベネチア」。ポストカードを添える。写真-1 ベネチア観光スポットベスト3のカナル・グランデとリアルト橋。[ポストカード]写真-2 大きなアーチと屋根を持つ、白いリアルト橋。写真-3 リアルト橋の上から大運河の下流を望む。写真-4 リアルト橋の上から大運河の上流を望む。写真-5 リアルト橋の近景。写真-6 リアルト橋付近の夜景。[ポストカード]
2018年08月06日
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「世界一美しい広場」とナポレオンが称賛したというサン・マルコ広場。西・南・北に壮麗な建物囲まれて、大回廊内の広場だ。サン・マルコ寺院を背にすれば、奥行き157m×幅82mの空間が広がる。 広場を見下ろすのは、高さ100mの大鐘楼。16世紀に建設され、見張り台と灯台だったという。1902年に倒壊したが、10年後に再建されている。エレベーターで見晴し台に上ぼると、サン・マルコ広場や美しいベネチアの町並みを一望できる。 広場北側の旧行政館は、12世紀の建物。行政官らの執務室と住居が入っていた。南側の新行政館は、手狭になったため17世紀に建てられた。西側、サン・マルコ寺院正面の建物は、「ナポレオンの翼壁」と呼ばれ、ナポレオン制覇後の19世紀に造られた。 新行政館側に世界で最も古いカフェがある。1800年代の装飾が今も残っているカフェ・フローリアン。映画「旅情」において、キャサリン・ヘップバーンがコーヒーを飲むシーンが有名。昔、テレビ番組「日曜洋画劇場」で見た人も多いと思うが・・。写真-1 サン・マルコ広場と大鐘楼。写真-2 広場西側の「ナポレオンの翼壁」とコッレール博物館入口。写真-3 屋上にあるブロンズ像が鐘を鳴らして、時を告げる。写真-4 上:北側の旧行政館。下:南側の新行政館。写真-5 カフェ・フローリアン前のテラスとキャサリン・ヘプバーン。写真-6 サン・マルコ広場の鳥瞰と案内図。写真-7 サン・マルコ広場の夜景。[ポストカード]
2018年08月04日
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5つのドームが十字に配置された壮麗な建物、サン・マルコ寺院。ベネチアを代表する建物。「ベネチアとその潟」を構成する世界遺産として1987年に登録。観光客の参観列が途切れることがない。寺院内部の鑑賞は、9時半から17時まで。 寺院正面の頂上部分に、聖人マルコ像が立つ。その下に有翼の獅子が並ぶ。建物は東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルの大聖堂を模して、ビザンチン様式で建てられた。その後、多様な建築様式が取り入れ、現在のような姿になる。 建物正面に5カ所の扉があり、それぞれ上部にアーチ・モザイクが装飾されている。モザイク画は、聖マルコの遺体を運び出す伝説を主に描いている。最も古いのは、向かって左側のアーチ・モザイク。 司教祭壇が置かれるようになったのは、ナポレオン支配の19世紀。従って大聖堂とも呼ばれる。煌びやかな装飾が目を引く寺院内部。特に祭壇の衝立「バラ・ドーロ」は、多量の金と宝石で飾られている。その他に、十字軍の戦利品も多く置かれている・・。写真-1 サン・マルコ寺院を大広場から見る。写真-2 サン・マルコ寺院を小広場から見る。写真-3 北出口とアーチ越しの寺院と共和国時代の国旗。写真-4 正面サフォードの上、4頭の馬像が広場を見守る。写真-5 聖マルコに纏わるモザイク図。左端の画が13世紀の作品。写真-6 五つのドームと寺院内部。
2018年08月03日
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サン・マルコ小広場に隣接して運河に面し、東西に伸びる河岸をスキアヴォーニ河岸という。スキアヴォーニとは、クロアチアなどからベネチアに貨物を運んできたダルマチア地方のスラブ人の名前から来ている。ベネチア共和国時代の荷揚げなどで、活気があった場所だ。 ドゥカーレ宮の裏手を流れる水路(カノーニカ水路)から王の庭園までを、スキアヴォーニ西河岸と仮に呼ぶ。その中心がサン・マルコ小広場。2本の円柱(有翼の獅子と聖テオドーロ像)とゴシック建築の建物に東西を囲まれている。 小広場東側の建物がドゥカーレ宮。連続するアーチ円柱が美しい。ベネチア共和国の政治中枢で、総督の住居でもあった。創建が9世紀、14世紀にゴシック様式に改築された。 カノーニカ水路に架かり、スキアヴォーニ河岸通りの橋がバリア橋。この橋から名物の「溜め息橋」が見える。白い大理石からなる窓のある橋。ドゥカーレ宮から牢獄に贈れる囚人が最後に見たのは、美しい景色だったのだろうか。または見送る関係者の姿か・・。写真-1 スキアヴォーニ河岸の西側とサン・マルコ小広場。写真-2 多くの人々が行き交うスキアヴォーニ河岸通り。写真-3 サン・マルコ小広場と2本の円柱。写真-4 ドゥカーレ宮と元老院の間の天井画。写真-5 カノーニカ水路に架かるバリア橋と「溜め息橋」。
2018年08月01日
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フェリーターミナルからベネチア中心部への移動は、ヴァポレット(水上バス)を利用。クルーズ船が入港する際に通ったルートを、もう一度小さな船で戻ることになる。 ベネチアの街は、バス・乗用車の乗り入れが禁止されている。そのため街の移動は、徒歩とヴァポレット(水上バス)が主体だ。ヴァポレットは、日本の路線バスにあたる。水上タクシーとして、モーターボートのモトスカーフィがある。狭い水路を進むのがゴンドラクルーズになる。 サンタ・ルチア駅/ローマ広場からは、ベネチア本島を蛇行するカナル・グランデ(大運河)を経由してサン・マルコ広場へ行くこともできる。小生らは、サン・マルコ広場へ直行するヴァポレットに乗る。ピエタ教会付近の停留所で「下車」して、街歩きを始めた・・。写真-1 サンタ・クローチェのフェリーターミナルに横付け。写真-2 ヴァポレットに乗り、ポエジア号の脇を抜ける。写真-3 ジュデッカ運河からジェズアーティ教会を観る。写真-4 サンタ・マリア・デッカ・サルーテ教会。写真-5 運河からサン・マルコ広場方面を望む。写真-6 ヴァポレットを降りたピエタ教会付近の停留所。
2018年07月31日
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ラグーナの島々(リド島など)を抜け、サン・マルコ運河に入ると船の速度が落ちる。遊覧船などが行き交う水上交通の要衝だ。美しいベネチアの中心部に達したことを意味する。右側にサン・マルコ地区、左側にジュデッカ地区の町並みがゆっくり過ぎてゆく。 左手沖に浮かぶサン・クレメンテ島が先ず目に入る。修道院をリゾートホテルにリニューアルしたという。次にサルーテ教会(サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会)を通過する。狭い指状の土地に建つカトリック教会。水上からサン・マルコ広場へ上がる玄関口の目印となっている。 ポエジア号は、サン・マルコ運河からジュデッカ運河を西に進む。そしてベネチア本島の西端、サンタ・クローチェのふ頭に接岸。スーツケース等の大きな荷物をフェリーターミナルに、一時保管して街に繰り出す。写真-1 ベネチアの南側に浮かぶサン・クレメンテ島。写真-2 左舷にサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。写真-3 大運河口とサルーラ教会を望む。写真-4 スキアヴォーニ河岸と サン・マルコ広場を望む。写真-5 ジュデッカ運河をゆっくり進む。写真-6 入港ルートと下船場所の案内図。
2018年07月29日
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アドリア海・クルーズ最終の朝、クロアチア・イストラ半島から朝日が昇る。下船準備のため、夜遅くまで荷造り作業等を行ったので寝不足気味。それでも船室で、夜明け前の茜雲から日の出までを見ることができた。 ドブロヴニクから北上して、アドリア海の終点・ベネチアまでは約580km。クロアチアの東端、イタリアやスロベニアとの国境付近にイストラ半島がある。この半島に、ベネチアが600年間支配した小さな街ロヴィニがある。ロヴィニからベネチアまでは海路約100kmの距離。 今回のクルーズは、ベネチアを出港してベネチアに戻るコース。4か国、7つの港そして3つの海域を周る旅。ベネチア市内観光が最終日となる。水の都でゴンドラに無事に乗ることができるだろうか・・。写真-1 アドリア海の夜明け。写真-2 紅く染まった、海上の雲。写真-3 イストラ半島から昇る朝日。写真-4 貨物船とすれ違う。写真-5 旧ベネチア領だったイストラ地方のロヴィニ。写真-6 今回のクルーズ航海図。
2018年07月27日
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中世に迷い込んだような旧市街から現代風のクルージュ港へバスで戻る。広いフェリーターミナルを歩いて、4階デッキからMSCポエジア号に乗り込む。クルージュ出港は15時。 ドブロヴニクは、クロアチアの南端の飛び地にある。途中ボスニアヘルツェゴビナで分断されている。そこで、ボスニアを経由しないで、本国と陸続きにするべく海峡大橋(ペルジェサク半島に接続)を建設する予定。このプロジェクトには中国企業が参入している。 ポエジア号は、二股の入り江からアドレア海に出る。クルージュ港は東側に伸びる入江にがある。北に伸びる入江は、幅300mほどであるが、奥行きが5kmもある。その入口にランドマーク的な斜張橋が架かる。クロアチア大統領の名前をとって、「トゥジマ大橋」と命名されている。 W杯サッカー・ロシア大会で準優勝を果たしたクロアチア。白赤のチェック柄が国旗にある国だ。アドリア海沿いに細長く伸びる形状とその沿岸には多くの島が浮かぶ。そのひとつの島影に赤い夕日があった。写真-1 クルージュ港・フェリーターミナルからクルーズ船に乗る。写真-2 トゥジマ大橋が架る入江とクルージュ港を望む。写真-3 遠ざかるドブログニク。写真-4 クロアチアの山並みと国旗。写真-5 遥かなるドブロヴニク旧市街。 写真-6 アドリア海クルーズ最後の夕日。
2018年07月26日
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城壁上ウォークの残り半周は南側。アドリア海を近くで眺める。潮風を感じて遊歩道を歩く。しかし日陰がほとんどないので、紫外線が空と海から照りつける。長居はできない城壁の上。昔の兵士のことをふと想う・・。 南西端、海に突き出すようにボカール要塞が建つ。西の入口であるピレ門を守る。そして対岸でポカール要塞を支援するがロヴリイェナツ要塞だ。海抜37mの岩上に建っている。海と陸、双方から街を守る役目を果たしたツインの要塞が残っていた。 海岸コースの中央付近の岩場は、公共のビーチとなっている。また、城壁上には、幾つかの砦がある。それぞれに聖人の名前が付いている。バルコニー風で、休憩するに良かった。 旧港を守るために造られた聖イヴァン要塞。14世紀に完成して、16世紀に現在の姿になったという。海に面する部分は丸く、旧港側は垂直な壁になっている。この要塞から港へ降りると、一周ウォークを終点となる。写真-1 城外西側の独立したロヴリイェナツ要塞。写真-2 ピレ門を守る二つの要塞。写真-3 海側・城壁上の遊歩道。写真-4 岩上にたつ城壁と岩場のビーチ。写真-5 城壁の砦からアドリア海を眺める。写真-6 旧市街の南端に建つ「聖イグナチオ教会」。
2018年07月25日
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旧市街を防御する城壁の上に巡らされた遊歩道(一周2km)を歩く。旧市街散策のハイライトだ。ゆっくり回って、約1時間のコース。先ず、北側(山)の要塞などを見学する。 城壁の上へ上る入口は3ケ所ある。そして反時計回りに進むのがルール。街の北東側、ドミニコ会修道院近くの入口から上る。ピレ門近くの入口は、混雑・渋滞することが多いので・・。 城壁の四方には要塞が築かれている。山側ルート上には、要塞が2つある。城壁外の独立した要塞で、東を守るのはレヴリン要塞。15世紀に造られたが、16世紀更に堅固なものへ補強された。 城壁のなかで最も高所にあるミンチェタ要塞。1319年に建造された。15世紀、フィレンツェの建築家により再建された。街を一望できるため、城壁上ウォークにおける一番の絶景が待っている。写真-1 山側(北側)の城壁とスルジ山。写真-2 ドミニコ会修道院付近の入口から城壁へ上る。写真-3 砦やブジャ門が連なる山側の城壁。写真-4 城壁のなかで最も高所にあるミンチェタ要塞。写真-5 ブジャ門上部と城外の家並み。写真-6 街の東側を守るレヴリン要塞。
2018年07月24日
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ドブロヴニク旧市街およびスルジ山麓の家々からは、アドリア海を見通すことができる。空と海の青、そして屋根のオレンジとのコントラスが美しい。映画のワン・シーンに出てくる景色だ。 宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」の舞台のひとつになった街。ストックホルム、タリンなどの旧市街もその街。もう29年前の作品である。海外でも、「天空の城ラビュタ」などと並んで、根強い人気がある。魔女の宅急便のテーマ音楽に、「海が見える街」があるのを思い出す。 作品の物語、キャラクターやアニメ技術もさることながら、テーマ音楽の良さが際立つ。これらの相乗作用により、世代をこえて人気が続く。久石譲氏は、昨年パリで「ジブリ公式コンサート」を成功させている。まさに「ジョーをのせて」地球がまわる・・。写真-1 海に浮かぶ島が見える街・ドブロヴニク。写真-2 海と要塞が見える街・ドブロヴニク。写真-3 スルジ山中腹より旧港とその町並みを望む。写真-4 城壁から海と山を望む。写真-5 びっしりとオレンジ色の屋根が広がる。写真-6 ドブログニク旧市街全景[ポストカード]。
2018年07月22日
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南北の要塞に囲まれたドブロヴニク旧港。海に突き出た聖イヴァン要塞、山裾に構えたレヴェリン要塞を擁する造船港であった。海洋国家だったドブロヴニクの交易を支えた港であった。 スルジ山とアドリア海に挟まれた旧市街の玄関口は、現在、観光ポートとして賑わっている。透明の高い美しい沿岸を遊覧する船、海底を覗くボートなどがある。ビーチリゾートのロクルム島へクルーズ船が出港してゆく。 聖イヴァン要塞は、海洋博物館として利用されている。町の起源から始まり、地中海貿易での繁栄、ラグーサ共和国の解体までを展示。1階と2階を周ると、ドブログニクの海洋史がわかるようになっている。 標高412mのスルジ山に登ると、旧港とロクルム島を展望することができる。しかし当日は、ロープウェイが大変な混雑。「登頂」することを断念して、ポストカードを購入する・・。写真-1 オレンジ色の屋根の向こうは旧港とアドリア海。写真-2 旧港とスルジ山。写真-3 沖に浮かぶロクルム島と観光船の桟橋。写真-4 聖イヴァン要塞と海洋博物館。写真-5 砂浜のバニェビーチと透明な青い海。写真-6 旧市街の港町夜景[ポストカード]。
2018年07月21日
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ルジャ広場から南側へも、大理石のツルツルした舗装道路が伸びる。その広い道の左側に連続アーチの玄関をもつ旧総督邸、突き当りに街のシンボル・大聖堂が建っている。大聖堂で振り向くと、スルジ山が見えた。 総督邸は、ラグーサ共和国時代の総督の住居であるとともに、行政を司る機関が集まった中心地であった。建物は、地震や火災などで損傷するたびに修復され、ゴシックやバロック様式が融合した。現在、骨董家具、古い物品、絵画など展示される文化博物館として使用。 ドブロヴニクの宗教建築を代表する大聖堂。もともとは1192年に英国のリチャード王が創設したとされる。17世紀にバロック様式に再建された。聖堂内の祭壇画「聖母被昇天」や宝物室の黄金の装飾品が見どころか・・。 聖人たちが囲むドームは、城壁からも良く見える。クーポラの天蓋・天頂には金色の球体に載る十字架。裏側から見ると作業用の梯子が架かっている。風のある日には登れない「聖地」である。写真-1 ルジャ広場から大聖堂を観る。写真-2 大聖堂から旧総督邸とスルジ山を見る。写真-3 旧総督邸の入口と中庭。写真-4 聖人像がドームを囲む。天蓋の球体と十字を良く見かける。写真-5 大聖堂の身廊と宝物室展示品。写真-6 北城壁から大聖堂を望む。
2018年07月19日
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プラツァ通りを真っすぐ歩いてぶつかる広場がルジャ広場。この広場には、高さ31mの鐘楼の時計塔とオノフリオの小噴水がある。広場中心にローラントの騎士像が立つ。訪れた日、イベント用のテントの組立作業が行われていた。 ルジャ広場は、華やかで、賑やかな広場だ。自然と人々が集まる場所。広場周囲には、スポンザ宮殿、聖ヴラホ教会などが囲んでいる。以前は青空市場が開かれていたそうだ。現在は少し離れたスーパーの前で行われていた。 連続アーチ庇が並ぶ建物はスポンザ宮殿。1667年大震災でも倒壊を免れた建造物。かつては税関や保税倉庫が置かれていた。現在は、12世紀からの文書を保管する公文書館として使用。 ルジャ広場に面して、重厚な佇まいは、聖ヴラホ教会。1715年に再建されたバロック様式で、ドームを持つ教会。街の守護聖人を祀っている。教会内部では大理石の祭壇が目をひく。写真-1 プラツァ通りの東端のルジャ広場。写真-2 ルジャ広場の建物風景。写真-3 街の守護聖人を祀る聖ヴラホ教会。写真-4 ローラント像と聖ヴラホ教会内部。写真-5 オノフリオの小噴水。写真-6 北城壁からルジャ広場方面を展望する。
2018年07月18日
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ピレ門の直ぐ脇にある大きな建物は、フランシスコ会修道院。美しいロマネスクの回廊の修道院だ。楼門が立つ建物は、バロック風の教会。内部には8つの祭壇がある。通りに面した入口上部にピエタ像が施されていた。 14世紀から15世紀にかけて造られたこの修道院は、もともとは城壁外部にあったが、外敵から守るため現在の場所に移された。そのせいなのか、周囲の建物屋根はオレンジ色だが、修道院の屋根はベージュ色だ・・。 回廊の壁に「聖フラチェスコの生涯」を描いた壁画が並んでいる。また、1667年の大地震で壊滅的な打撃を受ける前の街を描いた絵画が残っていた。 修道院内には1391年に開業したヨーロッパでも3番目に古い薬局がある。薬草の壺や秤など薬局で実際に使われていた古い器具も展示している。薬学博物館にもなっていた。写真-1 プラツァ通りに面するフラシスコ会修道院。写真-2 城壁から修道院の回廊屋根を見る。写真-3 入口上部のピエタ像。写真-4 中庭を囲むロマネスクの回廊。2本の六角柱が珍しい。写真-5 回廊の壁画と震災前の街を描いた絵画。写真-6 世界で3番目に古い薬局。
2018年07月16日
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ピレ門からの目抜き通りが「プラツァ通り」。東側のルジャ広場塔とを結ぶ旧市街のメインストリート。いつも賑やかな200m。目抜き通りの両側には、銀行、旅行会社、ショップ、カフェが並ぶ。そして、この通りから狭い路地が、網の目のように伸びている。 その昔、プラツァ通りは水路(海峡)だったという。南(海側)と北(山側)とで、異なった人種が住み分けていた。しかし、交流が進んだ12世紀に埋立て、ひとつの町となる。 大理石が敷き詰められているプラツァ通り。多くの人々が歩くことによって表面が磨かれ、ツルツルしている。訪れた日は、日差しが強く暑い・・。石畳の照り返しが眩しくて、「暑い」道だった。 通りの西側の起点に、城壁に登る入口と大噴水がある16角形をしたドーム型の噴水は製作者の名前をとって、「オノフリオの大噴水」という。17世紀の大地震により、多くの装飾を失ったが、16面のレリーフが残っている。口に咥えた水道管から水が流れていた。写真-1 城壁からプラツァ通りを見る。写真-2 プラツァ通りを東から西側を望む。写真-3 大勢の人達が街歩きを楽しむ。写真-4 ツルツルした石畳を歩く。写真-5 ビレ門付近。城壁に登る入口とオノフリオの大噴水。写真-6 オノフリオの大噴水と顔のレリーフ。
2018年07月15日
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ドブロヴニクの旧市街は、オレンジ色の瓦屋根を葺いた家々がぎっしりと並ぶ。そして、その町ごとをすっぽりと城壁が囲む。初めて訪れた観光客は、西側のビレ門から入場することになる。ピレ門の前には、チケット売り場、インフォメーション、バス乗降口があり、混雑する場所だ。 街歩きは、ピレ門から始まる。この門は数世紀に渡って、メインの入口として使われていた。現在の姿になったのは1537年。門の前に木製の跳ね橋があり、かつては日没になる門は閉ざされていた。 3箇所ある入口の中で、一番大きいのがピレ門だ。その門の上で、通行人を見守る像がある。ドブロヴニクの守護聖人、聖ヴラホ。316年に殉教した司教で、毎年その祭りも開催されるという。 ピレ門に入る折返しの斜路と踊り場があり、二つ目の入口からメインストリートに至る。門を突破した敵は、この「溜り場」で打ち取られる。日本の城郭・門造りと共通している。門のなか(日陰場所)で、現地ガイドの説明を聞く。世界遺産への入場料は150クーナ(約2500円)。写真-1 旧市街西口のピレ門前を城壁から見る。写真-2 橋を渡ってピレ門へ向かう。写真-3 サイドからピレ門を観る。写真-4 街のシンボル・聖ヴラホとピレ門のアーチ天井。写真-5 ビレ門を潜った「溜り場」。写真-6 旧市街の散策地図。
2018年07月13日
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クロアチア・ドブロヴニクのとなり町、グルージュ港に8時30分に着く。世界遺産・ドブロヴニクの主要な海の玄関口である。良く晴れて、暑い日になりそうだ。 サランダから約360kmのクルーズ。バルカン半島の東沿岸を、アルバニア、モンテネグロ、そしてボスニアヘルツェゴビナを経て、クロアチアにはいる。ドブロヴニクは、クロアチアの最南端に位置し、「アドリア海の真珠」と称される。 周囲が小山と丘に囲また天然の良港・グルージュ港。フェリーターミナルからドブロヴニク旧市街地までの距離は2kmほど。しかしこの時期、車の渋滞が予想されるので、15分から20分間のバス移動を見込む・・。写真-1 バルカン半島から昇る朝日。写真-2 アドリア海にできた光の道。写真-3 クロアチアに入国。写真-4 ドブロヴニクの隣港・グルージュ港を目指す。写真-5 グルージュ港からバスにて目的地へ向かう。写真-6 グルージュ港と旧市街地の位置関係。
2018年07月12日
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ブトリントからサランダに戻ったのは17時半頃。少し時間があったので、サランタ市内のスーパーマーケットーに寄る。オリーブオイルと瓶詰めの蜂蜜をお土産に購入する。その後、ビーチに出て、沖にいるクルーズ船を見ながら休憩。 波止場に着くと、ボートの順番待ちの列が出来ていた。母船のテンダーボート(定員120名)は、間断なく往復している。しかし母船に取付くことができるのが2隻なので、どうしても乗り降りに時間を要してしまう。日本の船会社なら、一般の下船乗船にタグボートを使用するだろうか・・。 観光客の最終組を乗せたボートを帆船に回収した後、ポエジア号は錨を上げた。サランダの出港は日没とほぼ同時刻の20時となった。サランダに別れを告げて、再びアドリア海をクルーズする。写真-1 サランダ・ビーチからポエジア号を望む。写真-2 サランダの波止場。写真-3 120名乗りのテンダーボートに乗船。写真-4 母船の乗降口は2箇所。写真-5 夕刻、アルバニア・サランダに別れを告げた。写真-6 アドリア海を北進する。
2018年07月11日
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ブトリント「島」の南西端に世界遺産への出入口がある。その前に、川が流れている。川幅が狭い(約60m)場所なので、筏(イカダ)よる人と車の運搬をしている。「ブトリントの渡し」と呼ぶ。 この川は、ブトリント湖とイオニア海を結ぶ「水道」である。2km西で河口となり、イオニア海に面している。「渡し」から東は大きな湖に通じる。豊かな水辺と湿原が広がる。 簡素な作りのイカダには、車6台から8台積載できそうだ。対岸にウィンチがあり、ワイヤーロープで「曳筏」していた。昔は橋があったようだが、戦争のたびに破壊されたようだ。 ブトリントの渡しを5kmほど南下すると、ギリシヤとの国境がある。水道を挟んで、ベネチア時代の要塞や見張り塔がある。戦時には、2kmほどの水道が防衛ラインになったのだろう・・。写真-1 ブトリント遺跡入口から対岸を望む。写真-2 ベネチア時代の見張り塔。写真-3 対岸への交通手段「曳筏」。写真-4 城塞と草原。写真-5 ギリシヤ国境方面を望む。
2018年07月09日
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ブトリントで一番見晴しの良い場所に、ベネチア時代の要塞(城)が建っている。四方を見渡す高台は、城を築くのにも絶好の位置だ。森の中にある遺跡群から抜け出すと、心地良い風が何よりだ。円形劇場跡のほぼ真上に展望台があった。 丘上の城は、14-16世紀に築造されたものを1930年に再建したもの。ベネチア共和国は、7世紀から18世紀、ナホレオンに征服されるまで続いた。東地中海の貿易によって栄えた海洋国家。 コルフ島とバルカン半島を結ぶ地政学的な要衝にあるブトリント。ベネチアの城は、遺跡の丘に立って、古代都市跡の世界遺産を守っているかのようだ・・。写真-1 ブトリントの丘上に建つベネチア時代の城。写真-2 建物の一部が博物館として利用。写真-3 眺めが素晴らしい展望広場。写真-4 河口とイオニア海を望む。写真-5 対岸に広がる田園風景。写真-6 丘の麓に広がる遺跡を望む。
2018年07月08日
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川と湖に囲まれた丸い島をぐるりと城壁が囲んでいた。十数メートルの石積み壁が湖岸沿いに続く。戦が矢と槍とが主だった昔、このような城壁を見たら、戦闘意欲が低下してしまう。 レイク門周辺の城壁は、見事な石積み技術だ。巨大な石ブロックどうしには、結合・充填剤はいっさい使われていない。隙間もない。綿密に石を削ったことがわかる。 城壁の北側に、獅子の門がある。頭上の巨石に、ライオンが牛の頭に喰らいついているレリーフがある。身をかがめて、自分の頭を守ように門を潜る。すると門からブトリント上へ登る石段が続いていた。写真-1 ブトリント湖と壊れた城壁。写真-2 隙間の無い石積みが残るレイク門。写真-3 レイク沿の石積み城壁跡。写真-4 牛の頭を喰うレリーフがある「獅子の門」。写真-5 獅子の門を潜り、丘上へ向かう。写真-6 ブトリントの地形と形状[パンフレット]。
2018年07月06日
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ブトリントの東側に大聖堂と洗礼所の跡がある。東ローマ時代の夢の跡だろうか。案内パネルによれば、対岸と水道橋が繋がり、ニンフの泉や公共施設へ配水されていた。 6世紀頃、ビザンツ帝国(東ローマ)の領土に組み込まれたブトリント。キリスト教の洗礼所や大聖堂(バジリカ)が造られた。祭壇のある床面に、当時のモザイクが残っている。露出しているので、観光客が直接見ることができる。 一般に4世紀末キリスト教徒が建設したバジリカには、床や壁にモザイク装飾が施された。布教の一環でもあった。特に東ローマ帝国時代に開花したという。その痕跡がブトリントの大聖堂に残されている。 大聖堂の近くに、石柱が立ち並ぶサークル状の礼拝所跡がある。ビザンツ時代の代表的な建築物。円形の床面に、素晴らしいモザイクが発見されている。現在、保護のために砂で覆われていた。この「円床」を全天候の覆いとガラス床にすると、年間を通して観察できるのだが・・。写真-1 ブトリント遺跡の大聖堂(バジリカ)[6世紀]。写真-2 大聖堂の中。写真-3 石積み壁とモザイクを近くで観る。写真-4 ビザンツ時代の円形の洗礼所跡。写真-5 円形の床面にはモザイクが隠されている。写真-6 往年の大聖堂と水道橋の様子を伝えるパネル。
2018年07月05日
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アルバニアにおける世界遺産のひとつ、ブトリント遺跡を訪ねる。遺跡の特徴は、古い各時代が幾重にも折り重なっている。時代が堆積しているかのようだ。古代ギリシヤ時代、ローマ時代、そして中世の時代が、融合して出来上がった遺跡だ。 ブトリントの地形は、湖と川に囲まれた丸い半島。石積み城壁が遺跡群を取り囲む。直径5kmの範囲に、15箇所の遺跡が詰まっている。その昔、堅固な城壁には8つの門があったとされる。 前4世紀、医学の神・アスクレピウスの聖域として、古代ギリシヤ世界から多くの巡礼者を集めたブトリント。ローマ時代には、カエサル、アウグストゥスによる入植が進められ退役軍人が、水道橋や浴場などの公共施設を造った。 エリアの南西部に、(3)ギリシヤ・ローマ劇場、(4)ローマ浴場、(5)アゴラ/フォルムなど廃墟同然の遺跡が保存されている。長い年月の間に地盤沈下した。雨が降ると遺跡の周りに多くの池が湿原になるという。幸いに、虫類・カエル類や蛇に遭遇しなかった・・。写真-1 アスクレピオスの聖域跡(前4世紀)。写真-2 ギリシヤ、ローマ劇場跡(3世紀)。写真-3 アゴラ/フォルム(公共広場)跡。写真-4 ローマ式浴場跡(2世紀頃)。写真-5 ニンフの泉跡(2世紀)。ローマ時代の水道橋の終点。写真-6 ブトリント遺跡の鳥観図[パンフレット]。
2018年07月03日
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サランダから海岸線沿いに南へ15kmほど行くとブトリント国立公園がある。ローマ時代、要塞が築かれた場所で、イオニア海とは水道で繋がっている。豊かな自然環境が保たれている。2003年にラムサール条約に登録された。 アドリア海の出入口を占めるアルバニア。古来、制海権を握るために、常に大国が支配した歴史がある。古くは紀元前のローマ帝国時代。4世紀に入ると、ビザンツ帝国、ブルガリア帝国、セルビア王国と、その時々のバルカン半島の覇権国家による支配を受ける。 15世紀からはオスマン帝国の支配が400年もの間続く。そのため現在、イスラム教を信仰する人は多いが、戒律は緩やか。2度の大戦後、ソ連軍によりナチスから解放される。そのあと中国に傾倒する。大国に影響されやすい、地勢的、民族的の特徴を持つアルバニア共和国である。 1997年の「ネズミ講事件」が終息して、観光客が増加中。ローマ時代の遺跡や美しい自然が人々を待っているかのようだ・・。写真-1 アルバニア南端のブトリント国立公園とその湖。写真-2 なだらかな丘の上に、教会がぽつんと建っている。写真-3 海抜0mのブトリント湖。青森県十三湖程度の大きさ。写真-4 湖とイオニア海とをつなぐ川。遠くにコルフ島が見える。写真-5 リアス式が続く海岸と緑豊かな土地。写真-6 アルバニア国とサランダの位置図。
2018年07月02日
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アルバニア南端の港町・サランダに着いたのは12時頃。平時の人口は3万2千人ほど。美しい海と豊かな植物、そして何より地中海性気候なので保養地として発展した。イオニア海をのぞむ湾沿に沢山のリゾートホテルが建っている。 イタリア南部とギリシヤ中部を結ぶ線上にケルキラ島(コルフ島)がある。そのケルキラ島とサランダとの距離は約15km。まさに、三国の国境に位置する港町。 下船は13時半頃になった。サランダ港は、大きな客船を横付ける施設がない。水深も浅いので沖合1kmほどに停泊。低層デッキからテンダーボートに乗り込む。救難訓練を兼ねた上陸となった。よく揺れるが、沈むことのない船だと説明があった・・。 サランダとは、ギリシヤ語で「40」を意味する。「セバステの40人の殉教者」が由来だという。この町でもキリスト教は苦難の道をたどっている。中世のオスマン帝国の支配、近世の共産主義の台頭がある。街の東地区にアルバニア正教会の聖堂が見えた。写真-1 アルバニア南部のサランダに入港。写真-2 サランダから15kmのケルキラ島(コルフ島)。写真-3 クルーズ船からサランダの町並みを見る。写真-4 ビーチからリゾートエリアを望む。写真-5 イオニア海の保養地、東地区に建つ正教会の聖堂。
2018年07月01日
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青く輝いたイオニア海を進む。本日の下船は13時予定。従って午前中は、澄み切った空と海そしてイオニア諸島を眺めて、のんびりとクルーズを楽しむ過。イオニアの空に、ゆっくりと流れる雲の白さが目に沁みる。 イオニア海は、ギリシヤ半島とイタリア半島南部に広がる。ケルキラ島(コルフ島)付近でアドリア海に接する。ギリシヤ中部の東海岸に沿って並ぶイオニア諸島は、コルフ島やザキントス島など7つの島からなる。オスマン帝国の支配を受けなかった島々で、「紅の豚」の隠れ家があるそうだ。 クルーズ船のプール周りは、日光浴の人々で溢れていた。太陽の下、読書する人、音楽を聴く人の何と多いことか・・。紫外線が容赦なく降り注ぐ。海面からの照り返しもある。帽子とサングラスを付けて、甲板の日蔭を捜して約2時間過ごす。写真-1 明け方のイオニア海の空模様。レンズ雲が流れてゆく。写真-2 青の世界、イオニアの空と海。写真-3 イオニア諸島を右に見て進む。写真-4 目に沁みる白い雲が行く。写真-5 大勢が日光浴を楽しむ13・14階デッキ。
2018年06月29日
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アクロポリスの北側、プラカ地区のタベルナで遅いランチを摂る。タベルナは、ギリシヤ語で大衆向け食堂とのこと。食後、おみやげ店や路地を散策した後、ピレウス港に戻る。16時出港予定であったが、トラブルで18時頃の出港。しばらくするとアテネ市街が見えた。海上から別れを告げる。 アクロポリスの丘に上り、パルテノン等の遺跡群と眼下のアテネを眺める事ができた。記憶を写真に込めてピレレスを離れた。ポエジア号は、2時間の遅れを取り戻すようにスピードアップして進んでいるようだ。その分、燃料を余計に使うことになる。 今夜の服装はフォーマル。船内唯一の和食、「海渡(カイト)・スシバー」でディナーをする。寿司と饂飩の味に関しては、贅沢は言えない。肉類・パスタ料理・パンに飽きがきているので・・。 航路は、ペロポネソス半島東のエーゲ海を南下した後、大きく北へ進路をとりアルバニアをめざす。夜間はエーゲ海を進み、明るくなってイオニア海に到る。写真-1 18時頃、アテネ外港・ピレウスを出港。写真-2 タベルナで遅いランチをして、下町プラカを散策。写真-3 アテネ市街を遠望。左にアクロポリスの丘、右にリカヴィトスの丘が見えた。写真-4 西エーゲ海の夕景。写真-5 速度を上げて進むポエジア号。
2018年06月28日
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世界で最も古い都市の一つで、3400年の歴史があるアテネ。古代遺跡と近世・近代的な建物が混在する都市。アテネ市の人口は約66万人であるが、周辺の自治体を併せた市街地人口は300万人を超える。東京都の足立区ぐらいの人口規模。 アクロポリスの北西の麓に、古代アゴラが広がる。ほとんどの遺跡が礎石だけの廃墟と化している。そのなかで、アゴラの丘に建つ「ヘファイストス神殿」が、古代アテネの中心地であったことを今に伝える。アゴラとは、「人の集まる所」を意味する。 公共交通の要衝、シンタグマ広場のすぐ近くに国会議事堂がある。ギリシヤ国王の王宮として、1842年造られた建物を、後に国会議事堂に改造したもの。無名戦士の碑の前で行われる衛兵の交代式を身近で見る事ができる。市内観光の拠点になっている。 シンタグマ広場から北西500m付近に、アカデミー(学術院)、アテネ大学、国立図書館が並んでいる。アカデミーの入口に、高い円柱の上に女神アテナ、太陽神アポロンが人々を見守っていた。写真-1 ケラミコス岩山からアクロポリスの丘を望む。写真-2 ディオニソスの劇場とアクロポリス博物館を展望する。写真-3 パナティナイコ・スタジアムとアクロポリスの丘。写真-4 古代アゴラとヘファイストス神殿。写真-5 アカデミーとアポロン像柱。写真-6 国会議事堂と無名戦士の碑
2018年06月26日
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アクロポリスの北側、やや低い場所にエレクティオン神殿が建っている。6体の乙女の姿をした柱像(カリアティード)で、特に有名な遺跡だ。しかし、6体の柱像はレプリカである。5体の乙女達は、アクロポリス博物館に、残り1体は大英博物館にある。 神話によると、女神アテナと海神ポセイドンが、アテネの守護神の座をかけて争った場所だと言われている。その際、アテナはオリーブの樹を植え、ポセイドンは海水の泉を湧き出させたという。勝者は女神アテナ。乾燥した土地に、オリーブが根付くことになった。 エレクティオン神殿の完成は、パルテノン神殿建設後の紀元前406年。しかしアクロポリスで最も神聖場所。アテナのほかに、ポセイドンやゼウスなどが祀われた。建築様式はイオニア式。柱はドーリア式よりも細く、柱頭に渦巻が装飾されている。 パルテノンは壮麗、エレクティオンは繊細優美と称される。細い女性の頭と首で、重い屋根を支える光景は、最初見た人に感動を与える。某英国人が1体を母国に持ち去るぐらいに・・。ギリシヤに返還される日は来るのか・・。「6人」のチーム・カリアティードになればと願う。写真-1 南の方角を向いて、乙女の柱像が立つ。但し、レプリカのカリアティード。写真-2 アクロポリスのエレクティオン神殿。写真-3 神殿の西側に、オリーブ樹がある。写真-4 イオニア式の列柱と女神アテナ像(アカデミーの柱)。写真-5 カリアティードを博物館のものと比較。
2018年06月25日
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アテネの守護神である女神アテナを祀るパルテノン神殿。高さ10mを越える大理石の柱が取り囲み、古代ギリシヤ建築の最高峰と言われる。神殿規模は、幅31m×長さ70m、柱の直径が1.9m。紀元前440年頃、ペルシア戦争の勝利を記念して造ったとされる。 パルテノン神殿内には、金と象牙で出来た高さ12mのアテナ女神像があったという。今なお行方不明。パルテノンとは、ギリシヤ語の「処女宮」に由来する。ギリシヤ神話では、知恵・芸術・工芸・守護を司るアテナ神。現在、国立考古博物館に1/12サイズのアテナ女神像の模造がある。 古代ギリシヤ建築は、高度な数学的設計を基に、柱の太さや角度に僅かな調整を加えている。人間の視覚作用を考慮して、実際に見たときに均整がとれるよう計算されている。 神殿西側で修復工事が行われていた。1975年からギリシヤ政府がアクロポリスの建物の修復に乗り出して40年が過ぎた。政府の財政難で時間を要している。2004年五輪大会の収益やユネスコの寄付金などが修復作業を支えているようだ・・。写真-1 展望台からパルテノン神殿を見る。写真-2 損壊した破風が見える東面(正面)。博物館の模型を合成してみた。写真-3 一部が残っているペディメント(破風)。写真-4 神殿西面は修復工事中。写真-5 神殿の南・東面と女神アテナ像模作。写真-6 神殿の北側。
2018年06月24日
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高さ70mほどの丘の上に広がるアクロポリス。アクロポリスとは、「高い丘の上の都市」を意味する古代の聖域。標高150m、全周約800mの石灰岩棚、その3方は断崖絶壁。西側が唯一の参道となっている。 紀元前5世紀に最盛期を迎えたアテネ。この時期に、パルテノン神殿をはじめとする神殿や劇場が造られた。その後、5世紀以降は、他宗教国家の侵入により荒廃が進む。17世紀には完全に廃墟となる。19世紀になって、修復作業が始まり、いまも続いている。 アテネの黄金時代を築いたのは、ペリクレス(前429年没)。古代ギリシヤ美術を代表する4つの傑作を創る。パルテノン神殿、エレクティオン神殿、アテナ・ニケ神殿、プロピイア(前門)。時を越えて、蘇えりつつある歴史遺産へ上る。日差しが厳しい丘だ・・。 アクロポリスの東端に展望台があり、アテネ市街を一望できる。標高177mリカヴィトスの丘が目に入る。ピレウス入港の際に見えたのが、この小山だろうか・・。写真-1 西側麓よりアクロポリスの丘を望む。写真-2 参道の途中展望台からアッティクス音楽堂(5千人規模)を望む。写真-3 ブーレエの門とアテネ市街。写真-4 アテナ・ニケ神殿とプロピライア(前門)。写真-5 展望台からの眺め。上:リカヴヴィトスの丘、下:アリオス・パゴス。写真-6 アクロポリスの丘を鳥瞰する。[絵葉書]
2018年06月22日
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アテネ・アクロポリスから出土した多数の神殿装飾や宝物品を収蔵するアクロポリス博物館。早い時間に訪れた。博物館は、遺跡の上に浮いていた。100本を越えるコンクリートの柱脚で支えている。 博物館建物は、アクロポリスの丘から300m南にあり、博物館4階窓辺からパルテノン神殿を望むことができる。4階建て、総面積2万5千m2で、展示スペースはその約半分を占める。2009年に完成した。 4階パルテノン・ギヤラリーは、神殿の装飾群を再現した回廊。実際の神殿にあったものと同じサイズに再現している。くすんだ色のものがオリジナルで、白く新しいものが複製品だ。3種類の彫刻類に分類される。 (1)ペディメント:破風、神話の一場面。(2)メトープ:浮彫り板、92枚。(3)フリーズ:帯状装飾、高さ1m×全長160mに及ぶ。カメラ持参で入館することができる。2階のアルカイック・ギャラリーを除いて、フラッシュ無しの撮影は原則OK。写真-1 アクロポリス博物館。1階エントランス付近。写真-2 エレクティオン神殿南側ポーチ天井を支える大理石の女像・カリフティード。写真-3 延長160mに及ぶフリーズ。石の絵巻物。写真-4 1.35m×1.35mのメトープが92枚。写真-5 パルテノン神殿の東側と西側の破風の復原模型。写真-6 4階ギャラリーからパルテノン神殿を望む。
2018年06月21日
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ポエジア号は、アテネ近郊のピレウスに朝7時前入港する。アテネ市中心部から南西に12km、サロニコス湾の東に位置するピレウスは、ギリシヤ最大の港。年間2,000万人が利用するヨーロッパ最大の旅客港だという。埠頭のすぐ近くまで、ビル・マンションが迫っていた。 古代ギリシヤ時代から港として栄えたピレウス。紀元前480年頃にはアテネ海軍の本拠地だった。スパルタとの戦いが続くなか、ピレウスとアテネとを結ぶ幹線は、北城壁と中央城壁で守られていた。 ピレウスとアテネは、一体として発展・衰退してきた歴史がある。ゴート族の侵入、ローマ帝国の支配、オスマン帝国、ナチスドイツの爆撃など、戦禍をその都度被る。戦後復興して現在の姿がある。しかし先人の築いた観光資源に頼りすぎて、国家の財政も悪化している。 大きな港は、維持・整備費も大きい。最近、国営運営会社の株式51パーセントを中国に売却したという。4億ユーロで35年間港を使用する中国企業。中国の一帯一路構想が確実に進んでいる・・。写真-1 夜明け前のピレウス港。水先案内船が出迎え。写真-2 入港を朝陽が迎えてくれた。写真-3 港湾都市ピレウス(人口16万人)を望む。写真-4 通過してきたサロニコス湾方面を望む。写真-5 旅客ターミナルに接岸。バス駐車場も見える。
2018年06月19日
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世界の芸術家や詩人が愛したというミコノス島を19時に出港する。左舷に広がるエーゲ海の夕照が眩しい。ポール・モーリアの「エーゲ海の真珠」が流れて来たような気がした。 エーゲ海には人々を魅了する島が多くある。代表的な島のひとつ、「白い宝石」と称されるミコノス島を訪れることができた。この他にも、サントリーニ島、クレタ島、ロドス島、そしてデロス島ある。それぞれの位置関係が分かった。訪れる機会は無いと思うが、頭の隅に留め置く・・。 次なる港は、ギリシヤ本土の巨大港・ピレウス。首都アテネに近い港で、日本に当てはめると、横浜港と東京のような位置関係。 今夜のドレスコードは、MSC独自の「ホワイトナイト」。ミコノス島に因んで、白い服を着て、ディナーやショー鑑賞やダンスをする夜。小生らも、白モノを着て、カルロフェリーチェ・シアターに出向く。ショー「フランスパリへの旅」を観て眠りにつく。写真-1 「エーゲ海の真珠」に別離を告げる・・。写真-2 ポエジア号、西陽を浴びて進む。写真-3 夕照のエーゲ海。写真-4 エーゲ海の島陰に沈む夕日。写真-5 茜雲の海原をピレウス港へ向かう。写真-6 ホワイトナイトのシアターショーは「フランスパリへの旅」。
2018年06月18日
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「エーゲ海の真珠」と謳われるミコノス島は、紺碧の海に浮かぶリゾートアイランド。夏、バカンス客で超賑わう街だ。迷路のような町並みは、青い空の下では真っ白に輝く。 白いミコノス・タウンは、狭い道が入り組み、家屋が肩を寄せ合うようにて建っている。これは風を防ぐ効果ともに、海賊などの外敵を惑わせるためであった。訪れた日、大勢の観光客で、細い路地と坂道は、数珠繋ぎ状態・・。 上陸した乗客の楽しみに店舗を見ながら、入り組んだ路地を気ままに歩くことだろうか。単独で歩くと間違いなく迷う街。しかし、高台に登ると、港との位置関係が良くわかる。風の方向や太陽の位置はあまり役立たない。狭い路地なので・・。 ミコノス島に空港がある。ドーハとミコノス島とを結ぶ季節便を、カタール空港が就航している。6月から9月の期間、週4便を飛ばしている。5時間弱のフライト時間。北欧の人ばかりではなく、イスラム圏からも訪れる島になった。写真-1 港とミコノス・タウンを高台から望む。写真-2 街を見下ろす場所に1基単独で建っている「アノミリの風車」。写真-3 白くて狭い路地が入り組むミコノス・タウン。写真-4 石の舗装が続く坂道。写真-5 真白い教会が点在している。写真-6 海上から見た白い家並み。
2018年06月17日
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島のシンボルになっている、カトミリの風車。5基並んでエーゲ海を見守っているようだ。風の島、ミコノス島の代表的な風景である。 海沿いの丘に立つ風車は、もともとは小麦を挽くために使われていた。現在、この風車を回すことはない。建物のみがショップや事務所として使われている。白い円柱と麦わら葺き屋根の姿は、ひとの顔のようにも思われ、親しみ易い。 入港する際、遠くに風力発電と思われる風車を1基だけ見かけた。風の島なので、風力発電にもってこいの土地である。しかし観光とリゾートの街としては、景観を損なう大きな風車は不要なのだろう・・。その代わりに、麦挽の風車を大切に保存している。 絵葉書を見ると、風車を構成する12本の腕には、旗のような布がついている。ヨットの帆のようなものか。12本の旗が、グルグル回る情景を見たいものだ。はためく音や回る風車音を迷惑に感じる人もいたのでないか・・と思った。写真-1 海上から眺めたカトミリの風車5基。写真-2 リトルベニスのバルコニーから見たカトミリの風車。写真-3 観光スポットのカトミリの丘。草木が生えない砂地だった。写真-4 麦挽の風車建物と内部。写真-5 エーゲを見守るように佇む5つの風車。写真-6 ミコノス島の絵葉書。
2018年06月15日
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ミコノス島オールドポート(旧港)に面する海岸と接岸施設は、小さな防波堤で守られている。防波堤の外は、白波が立つほどの風が吹いている。ニューポートを発した満員のシャトルボートは、波に揺られてオールドポート内でしばし待機。行き交う船舶がラッシュアワーなので・・。 ミコノス・タウンで最も賑わうのは、オールドポートに面したエリア。青いドーム屋根の聖ニコライ教会やフィシュマーケットがあるほか、オープンテラスのカフェ、レストランが立ち並んでいる。昼どきの大量上陸なので、いずれのレストランも満員状態だ。 オールドポートの南へ少し歩くと、「リトルベニス」がある。カラフルな木製バルコニーが特徴の建物が海にせり出すように並ぶ。18世紀初頭までミコノス島は、イタリア・ベネチア領だったので「ベネチアンポート」とも呼ぶ。西側に面しているので夕日の名所。 日没時刻は20時27分。その頃、ポエジア号は、エーゲ海を西に進んでいる。写真-1 小さなオールドポートと大きなクルーズ船。写真-2 新・旧の港を行き交うシャトルボート(シーバス)。写真-3 船着き場は、青いドームの教会が目印。写真-4 夕日の名所「リトルベニス」。写真-5 防波堤の外は荒波。写真-6 波しぶきが道路を濡らす。
2018年06月14日
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エーゲ海・キクラデス諸島の南側をスライスして、ミコノス島に到着する。オールドポートは、大型船が近づけないため、少し離れたニューポート(リマニ港)に接岸する。リマニ港から旧市街にあたるミコノスタウンへは、シャトルボート(シーバス)で向かう。片道10分程度の距離。 2,500の島々が浮かぶというエーゲ海(和名、多島海)。3つほどの諸島に分類され、キクラデス諸島の北東に位置するミコノス島。人口約6,200人、島の面積105km2。日本の沖永良部島ぐらいの大きさだ。しかし国際空港を持つリゾート・アイランド。 リマニ港のふ頭には、大型船が2隻しか接岸できないようだ。オールドポートの沖合には、大型クルーズ船(セレブリティ・リフレクション、12.6万t)が停泊していた。乗客は、テンダーボートを使用して、ミコノスタウンへ上陸していた。 当日、風が強く、シャトルボーの発着に手間取る。陸路・シャトルバスを使用した方が、観光時間を確保できたと思う。ミコノス島は風の通り道のようで、風の強い日が多いという。入江を持つオールドポートは天然の良港だが、島の北斜面は草木が少ない。写真-1 ミコノス島の燈台辺りから昇る朝日。写真-2 島のシルエットと笠雲。強い東風をついて船が進む。写真-3 2隻の大型クルーズ船が入港していた。写真-4 停泊中のクルーズ船と往復するテンダーボート。写真-5 船体の低いデッキから乗客がボートに乗り移っている。 写真-6 リマニ港に接岸する様子。
2018年06月12日
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カタコロンを17時に出港して、トルコに近いミコノス島へ向かう。エーゲ海を東進する航路。この時期、日の入りは20時40分頃。イオニア海に沈む夕陽を眺めて、シアターへ向かう。 船首にあたる6階・7階に、「カルロ・フェリーチェ・シアター」があり、毎晩エンターテインメント・ショートを19時30分と21時30分から、それぞれ約1時間公演する。今宵は、「ABYSS(アベイス)」劇団が「海の中の世界」のショーを演じた。ダンス+バレー+カンツォーネのミュージカル・・。 クルーズ船の他の施設を少し紹介する。中央部5階から7階を吹き抜けたレセプション・ラウンジがある。毎日、ピアノなどの演奏がある。また、7階にシガールームがある。相棒がスモーカーなので、毎日お世話になる部屋だ。美術調度品が置かれ、かつ船外の景色を見ながら一服できる贅沢な一室・・。写真-1 エーゲ海の夕景と島影。写真-2 イオニア海に沈む夕陽を船尾で眺める。写真-3 エーゲ海を東進するポエジア号。写真-4 船内・レセプションホール。写真-5 シアターと「ABYSS」によるミュージカル・海の中の世界。写真-6 美術品が置かれているシガールーム。
2018年06月11日
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オリンピア古代遺跡に隣接する「考古学博物館」を訪れた。19世紀末に発掘された出土品を展示している。とりわり、大理石の彫刻類は、オリジナリティ作品なので価値があるとされる。 最初に向かった広い第5室は、ゼウス神殿の破風の部屋。東西の破風を半復原している。東の破風は、オイノマオス王とペロプスの戦車競走の出陣場面。西の破風は、半人半馬のケンタウルス族とラピタイ族の戦いの場面。 完全ではないが、注目されている彫刻像として、次の二つだろうか。赤子をあやすヘルメス像(第8室)と、勝利の女神ニケ像(第4室)。ガイドさんが時間をかけて説明してくれた。 訪れた日、気温30度を越える夏日。遺跡フィールドは日陰がほとんどなかったので、考古学博物館の冷房の効いた部屋は助かった。観光客にとって、無料トイレも有難かった。写真-1 ゼウス神殿・東の破風 戦車競走出陣の場面(第5室)。写真-2 ゼウス神殿・西の破風 ケンタウロス族との戦い場面。写真-3 赤子をあやすヘルメス像(第8室)。写真-4 勝利の女神ニケの像。写真-5 古代オリンピアの模型とゼウス神殿のリレーフ部品。写真-6 考古学博物館の建物。
2018年06月10日
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緑豊かな丘陵地に広がるオリンピア遺跡。古代オリンピックとギリシャ神話の世界とが交差する場所。この遺跡群を歩く時、これまで読み物や映画のシーンを思い出させる。またガイドの説明を聞きとイメージが膨らむ。 古代オリンピックは、紀元前776年に始まり、393年まで続いたという。最高神ゼウスへ捧げる大祭として始まったとされる。広大な敷地に、数々の建物の跡が、当時の様子を今に伝える。 ゼウスの神殿跡に1本の円柱が立っていた。世界七不思議のひとつゼウス神殿である。長さ64m×幅27mの巨大な建物に、高さ13.5mのゼウス像が置かれていたという。当時どのように造ったのが謎なのだ。 テレビ等でよく見るオリンピックの採火式を執り行う聖なる場所を訪ねる。ゼウスの妃ヘラを祀った神殿跡である。ギリシャに残る最古の神殿だ。あと1年半もすると、この聖地で東京オリンピックの聖火が灯される。写真-1 入場してすぐ右手に見えたのがギムナシオン(体育練習場)。写真-2 ゼウス神殿跡とゼウス像の想像画。写真-3 ヘラ神殿跡とオリンピックの採火場所。写真-4 古代のスタジアム跡。写真-5 上:フィリペイオン、下:迎賓館跡。
2018年06月08日
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大きな半島の西端に、小さな港・カタコロンがある。半島の名は、古代文明の故郷と言うべき「ペロポネソス半島」。アテネから約85km西へ、コリントス運河を境にして広がる地域。「ギリシャの偉大な田舎」と称されている。 昨日17時にバーリを出港して、11時カタコロンに入港する。約600km、17時間の船旅。カタコロンの港は、本当に小さな港町の雰囲気。イオニア海へ突き出した埼の懐にカタコロン港がある。村の人口は700名程度。しかし、オリンピア遺跡への海の玄関口となっている。 カタコロンからオリンピア遺跡までは、バスで約40分。太陽光線が強く、気温30度を越えそうだ。古代遺跡へ向かう観光客は、それほど多くない。カタコロンのビーチやクルーズ船のプールサイドで過ごす人々が以外に多い。 2本の通りがカタコロンの町並み。長さ100mほどの沿道に、お土産店やシーフードレストランが軒を連ねる。目的地オリンピア市内のレストランでランチをいただく。何よりもビールが旨かった・・。写真-1 ペロポネソス半島沖のイオニア海を進む。写真-2 カタコロン港景色。写真-3 カタコロン港のふ頭に接岸開始。写真-4 カタコロン村の中心街。写真-5 カタコロン港のMSCポエジア号。表-6 カタコロンへの航路図。
2018年06月07日
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アルベロベッロ西の丘は、モンティ地区と呼ばれる。約1000ものトゥルッリが残る密集エリア。アルベロベッロの一番の見所だ。おとぎ話の中に迷い込んだような気分になる この地方は石灰岩が多く産出する。それを切石にして積み上げ、簡易的な屋根でしっかりした屋根に仕上げている。結合剤が使われていないが、強風で飛ばされることはないという。切石がかみ合っているのだ。中に入ると、ひんやりする。暑くて乾燥した土地に、適合した家屋だ。 尖がり屋根の石組みに、モルタルや漆喰が使われないのは、節税対策だとも言われている。税を取りたてる役人が査定に来る際、屋根を取り壊してしまう。人が住んでいないことをアピールしたとか・・。屋根のない建物にして、課税を免れたという説がある。 青い空に、灰色の尖がり屋根と真っ白な漆喰壁が映える町並みを散策した。17時にはクルーズ船が出港するので、その1時間前にバーリに戻る。次の目的地へは、眠っている間にポエジア号が運んでくれる。写真-1 アルベロベッロ・モンティ地区の町並み。写真-2 西の丘に密集するトゥルッリ群。写真-3 モンティ地区の坂道。写真-4 尖がり屋根のトゥルッリの佇まい。写真-5 公開されていたトゥルッリの部屋。
2018年06月06日
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アルベロベッロのトゥルッリ群は、1996年世界遺産に登録。白壁に円錐形の石積み屋根を持つ家屋が、東西の丘にビッシリと並んでいる。アルベロベッロとは、イタリア語で「素晴らしい木」の意味。 先ず東側の丘に登る。このアイア・ピッコラ地区には、400のトゥルッリが密集している。その多くは今も住居として使われている。8本の小路に、お土産店、カフェなども軒を連ねる。 ピッコラ地区の北側にポポロ広場がある。市庁舎や交番などあり、地元住民の集いの場所となっている。広場の先に続く教会テラスからは、トゥルッリの密集した旧市街が一望できる。坂道とトゥルッリの町並みがとても魅力的だ。おもちゃの街を眺めている感覚になる・・。写真-1 アルベロベッロのトゥルッリの町並み。写真-2 東の丘、アイア・ピッコラ地区の尖がり屋根の家並。写真-3 石積屋根が載るが白壁が青い空に映える。写真-4 アイア・ピッコラ地区のトゥルッリ。写真-5 二つのエリアを分ける大通り中心部。写真-6 ポポロ広場と戦没者の慰霊塔。
2018年06月04日
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