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熊野本宮大社はかつて、熊野川、音無川、岩田川の合流点にあった。その中洲が大斎原(おおゆのはら)と呼ばれた。当時、11000坪の境内に5棟12社の社殿、楼閣、神楽殿などあったという。その場所を示す高さ34mの巨大な黒い大鳥居が立っている。 熊野詣の参拝者は、着物の裾を濡らして、川の水で水垢離を行い、身を清めて神域にはいった。振り返って現在は、参道入口まで車で乗りつけて、158段の石段を登り,手水で清めて参拝する。随分と楽な熊野詣である。御利益が薄い訳だ。 明治22年の大水害で、多くの社殿が流失した。関係者は途方に暮れたことだろう。しかし信仰の力は凄い。水害を免れた4社を現在の本宮位置に、遷座してしまう。広大な大斎原の草原にぽつんと旧本殿跡の石洞が残っていた。 熊野川は、少し前までは新宮川と呼ばれた。世界遺産の登録に合わせて、熊野川に改名したが、水系名は新宮川水系。奈良県内では十津川と呼んでいる。昔、木材を筏にして輸送に利用した熊野川。雨が多く木材で繁栄した地域だと思う・・。 「大斎原」で、南紀旅景色シリーズを終わりとします。有難うございました。写真-1 水田に映る大斎原の大鳥居。写真-2 黒い大鳥居の下は桜の名所だが、時期は過ぎていた。写真-3 旧熊野本宮大社本殿の跡を示す石祠。写真-4 旧熊野本宮社殿図絵。まさに川の中の大社。写真-5 大斎原の東側を流れる熊野川。写真-6 毎年8月に行なわれる八咫の火祭り[パンフより] 。
2017年05月11日
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二つの古社が鎮座する新宮市。熊野川河口に、熊野速玉大社と神倉神社がある。神々が山上に降臨したという神倉神社が「本宮」。後に現在の平地に遷されたのが熊野速玉大社。朱塗りの社殿が並ぶ秀麗な速玉の境内で参拝する。 熊野速玉大社の主祭神は、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)。その他に天照大神など十二神が祀られている。とても無覚えきれない・・。 神倉山に鎮座する神倉神社は、創建が128年(景行天皇)と古い。断崖の上(標高120m)に建立され、覆い被るような巨石が御神体。巨石はゴトビキ岩(琴引岩)とも呼ばれる。間近で参拝するためには、急峻な538段の石段を登らなくてはならない。 国の天然記念物「ナギの大樹」が参道を覆う。平重盛お手植えとされ、高さ20m×幹回り6m、推定樹齢千年の神木。ナギ(那木)は、「凪」に通じることから旅の安全祈願に、葉が丈夫で強いことから夫婦円満や健康のお守りになるという。写真-1 熊野権現の鳥居をくぐり、参道に入る。写真-2 参道を覆う「ナギの大樹」、推定樹齢1000年の神木。写真-3 朱塗りの神門。扁額の文字は「全国熊野神社総本宮」。写真-4 境内に入ると秀麗な社殿が並ぶ。写真-5 扁額に「日本第一大霊験所根本熊野権現拝殿」とある。写真-6 断崖の元社、神倉神社とゴトビキ岩。
2017年05月10日
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熊野灘に面した有馬町に、花の窟神社がある。神々が眠る日本最古の神社とされる。熊野古道伊勢路沿いにあることから、世界遺産「紀伊山地の霊場と参拝道」の一部として登録された。 花の窟神社には社殿が無く、巨岩(磐座いわくら)が御神体。神々の母なるイザナミノミコトが火神「カグツチノミコト」を産み、焼かれたて亡くなった後の墓所とされる。巨岩の下部に「ほと穴」と呼ばれる岩陰が御陵だという。 この神社の例大祭は「お綱かけ神事」と云う、岩窟上45mの高さから170mの大綱を松の御神木に渡す行事。隣接する国道42号の交通を止めて行う町あげてのイベントだ。無事、綱かけを終えると、「ほと穴」前で巫女の舞が奉納されるという。 大綱から縄で編んだ三本の幡が吊下がっている。三神を意味する「三流の幡(みながれのはた)」だという。三神とは、宇宙を基本構成する太陽、月、暗黒それぞれの神である。そして、イザナミの7人の子である「7つの自然神」は、大綱に束ねられているという。写真-1 国道42号から見た「花の窟神社」。写真-2 巨岩の下へ続く参道。日本最古の神社との幡が並ぶ。写真-3 イザナミノミコトが眠る墓所。写真-4 墓所の上空を飾る「三流(みながれ)の幡」。写真-5 伝統行事「お綱掛け神事」の説明看板。写真-6 御神体に奉納される巫女の舞。小学4年生が選ばれる。
2017年05月09日
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吉野熊野国立公園内の熊野市木本町に世界遺産・鬼ヶ城がある。国の名勝で天然記念物。鬼岩屋(おにのいわや)と呼ばれた千畳敷と断崖の中腹に作られた約1Kmの遊歩道からなる奇景だ。国道42号鬼ヶ城トンネル(延長570m)の迂回歩道ともなっている。 鬼ヶ城は、志摩半島から続くリアス式海岸の最南部に位置する。熊野灘の荒波に削られた大小の海蝕洞が見られる。鷹のクチバシのように先端が尖がり、天井部分はハチの巣状の模様が際立つ。 平安時代の鬼退治伝説が残っている。この岩場を根城にする海賊・多俄丸が暗躍していた。近くを航行する船人からは鬼と恐れられていた。時の征夷大将軍・坂上田村麻呂がこれを成敗した。つまり鬼退治の言い伝えだ。鬼にまつわる話は日本各地あり、風習・文化に関係している。 鬼ヶ城は、伊勢参りした後に熊野詣をするための熊野古道伊勢路にあたる。主ルートは鬼ヶ城トンネル山上の松本峠越えであるが、修験者立は岩壁を蟹歩きで踏破したのだろう。この断崖を過ぎると、風光明媚な七里御浜が待っている。写真-1 奇景・鬼ヶ城への東口遊歩道。写真-2 鬼の棲みかとも呼ばれた千畳敷。海蝕と風食の岩場。写真-3 断崖の途中に設けられた通路。写真-4 来た通路を振り返る。崖の上に見晴し台らしきものが見えた。写真-5 断崖から七里御浜と熊野山地を望む。写真-6 鷹のクチバシのような奇岩。
2017年05月06日
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八咫烏(やたがらす)が舞い降りたという熊野本宮大社。平安時代人が参拝した中心聖地。すべての熊野古道は、この大社に続いている。158段の石段を登ると神門が待っていた。250kgの大注連縄と対の八咫烏注連縄のくぐると境内である。 広い境内に一直線に並ぶ4社殿。向かって左側から第一殿。右側が第一殿。参拝には順序がある。最初に第三殿のスサノオノ命(本地仏は阿弥陀如来)、次に第二殿のイザナギノ命、第一殿のイザナミ命、そして第四殿の天照大神(本地仏は十一面観音)。 神門の直ぐ隣に拝殿がある。珍しい位置関係だ。その両脇に黒大理石の八咫烏彫刻が控えている。大筆書の「成」と「気」の文字が垂れ下がっている。今年の一文字は気。成は昨年のもの。 熊野権現造りの社殿は、江戸期の建造物。明治24年(1891年)に熊野川沿いの大斎原から移築したという。檜皮葺きの社殿が並ぶ様は、荘厳静寂な空間を創り出す。この後再び、熊野本宮大社を訪れることができるだろうか。伊勢は7度、熊野は3度と人は言うが・・。写真-1 熊野本宮大社の神門。八咫烏注連縄が目を引く。写真-2 黒い八咫烏と拝殿。写真-3 第一殿(夫須美大神)と第二殿(速玉大神)。写真-4 第三殿(家津美御子大神)と第四殿(天照大神)。写真-5 奉納幡なびく石段の参道。
2017年05月05日
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紀伊田辺駅の近くに、勝利の神様が居るという闘鶏神社がある。創建が419年とされ大変古く歴史ある社だ。明治維新の頃、新熊野権現から闘鶏神社に改名したという。 壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍が伝説となっている。武蔵坊弁慶の父といわれる湛僧が、源平のどちらかにつくかを悩み、紅白7羽の鶏を闘わせて占ったという伝承がある。 田辺は、熊野三山への参拝道における中辺路と大辺路との分岐点にあたる。多くの参拝者が宿泊たし町。2016年に世界遺産「紀伊山地の霊場と参拝道」に追加登録された。 弁慶は田辺一帯を統治していた熊野別当の子との伝承がある。田辺市では、毎年10月弁慶まつりが開催される。祭りのハイライトは、弁慶ゲタ踊りだという。田辺市のゆるキャラは、可愛い弁慶姿の「たなべぇ」・・。写真-1 2016年に世界遺産に追加登録された闘鶏神社。写真-2 闘鶏神社の拝殿。写真-3 6棟が並ぶ社殿は国の重要文化財指定。写真-4 闘鶏と湛僧と弁慶の像。写真-5 闘鶏神社の御朱印帳。
2017年05月02日
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熊野古道・中辺路のハイライト的な道を歩く。国道311号・道の駅「熊野古道なかへち」から箸折峠を越えて、近露地区に降りる1.3kmコース。雨中の行軍となる。雨合羽・傘そして杖を持ち、語り部のお話を聞きつつ歩く。杖は下り坂で必須のアイテムだ。 七つの熊野古道のうち、中辺路は、和歌山県田辺から峠を越えて、熊野本宮、新宮、那智山へ向かうメインルート。道沿に設けられた王子社では、奉納や歌会などが行われたという。 箸折峠(標高382m)の小山の上に立つ「牛馬童子像」は、花山法皇が熊野御幸に訪れ、経典を納めた場所とされる。牛と馬にまたがった石像は、花山法皇の旅姿を現わしているとか・・。 日置川左岸の近露王子跡(ちかつゆおうじ)を観て、宮田川近くの滝尻王子社へバスで移動する。滝尻王子は、数ある王子社のなかでも格式が高く、霊域の入口とされた重要ポイント。鳥居と社殿があった。その後、近くの熊野古道館へ向かい休息する。中辺路ハイクを終えた。写真-1 熊野古道・中辺路を「雨中の集団」が往く。写真-2 箸折峠の牛馬王子像で語り部のお話を聞く。写真-3 箸折峠を降りると日置川が流れる近露集落。写真-4 近露王子社の跡。写真-5 滝尻王子近くの中辺路の様子。
2017年05月01日
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那智川の河口、紀勢本線・那智駅の直ぐ近くに、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)がある。本堂・境内は普通のお寺規模である。しかし、「紀伊山地の霊場」を構成する重要な寺。補陀洛渡海は、那智参拝曼荼羅図に描かれているように、熊野信仰の重要な儀礼だった・・。 那智駅から那智湾を望むことができる。その東方には熊野灘が広がっている。井上靖の小説にも描かれている補陀洛渡海。那智の浜から補陀洛を目指して、船出した上人は多い。 中世日本では、遥か南洋上に補陀洛(観音浄土)が存在すると信じられていた。そこを目指すことを補陀洛渡海と呼んだ。25名の渡海上人がいたことを記念碑は、記録している。 四方に鳥居を持つ渡海船。船上の室は扉が無く人が入ると、出入口を板で嵌め込み、釘で固定された。伴船で沖に曳航され、綱切島で綱を切り落とされた。小船は熊野灘を漂流して、太平洋の彼方に消えて行く。そんな儀式があったことを伝えるお寺・・。写真-1 補陀洛山寺・本堂にて住職の講話を聴く。写真-2 世界遺産の構成資産であることを示す石碑。写真-3 納屋に復元された渡海船が展示されている。写真-4 渡海上人25名を記録した補陀洛渡海記念碑。写真-5 那智参拝曼荼羅図に渡海船が描かれている。
2017年04月29日
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高さ133mの断崖から流れ落ちる。1段の滝としては、日本一を誇る那智の滝。青岸渡寺(せいがんとじ)から那智の滝を眺めると、三重塔とのツーショットとなる。更に、名残の桜がわずかに見えた。 那智山青岸渡寺は、那智大社に隣接し、那智山の霊場として栄えた寺院。その昔、インドから渡来した裸形上人が那智の滝で修行した際、如意輪観音像を見出し安置した庵が青岸渡寺の始まりとされる。 戦国時代に焼失するまでは、如意輪堂と呼ばれていた。その後、豊臣秀吉が天正18年(1590年)に再建する。桃山時代の建築様式を残す本堂は、南紀最古の建築物で、国の重要文化財。 那智の滝を見上げる展望広場の中心に鳥居がたっている。滝そのものが那智大社別宮で、飛瀧神社の御神体である。滝の飛沫に触れると、延命長寿の霊験があるとの伝説がある。立ち入りが禁止されているので、滝の飛沫かかるほどの距離に近づけない現世である。写真-1 朱塗りの三重塔と那智の滝。写真-2 惜桜の奥に那智の滝がある。写真-3 熊野山青岸渡寺の本堂。西国三十三霊場1番札所。写真-4 飛瀧神社の御神体が那智の滝。写真-5 杉木立の間から名瀑を観る。
2017年04月27日
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467段の石段参道を登ると山上は、朱塗りの別世界である。熊野の神々を祀る境内が広がる。玉垣内には、五殿が一直線に並ぶ。壮麗な熊野那智大社の眺めだ。 社殿は、仁徳天皇時代(317年)現在の場所に創建された。平重盛が造営奉行となり装いを改めたとされる。その後那智大社は、戦火や台風被害を受けるが、豊臣秀吉、徳川吉宗らが寺院の修復・改築に尽力した。 境内に巨大なクスノキが立っている。樹齢800年以上の御神木で、平重盛お手植えと伝えられている。また、「樟霊社(しょうれいしゃ)」と呼ばれる。幹に開いた洞窟があり、樟霊社の胎内くぐりを体験できる。 拝殿左手に御縣彦社(みあがたひこしゃ)に 八咫烏(やたがらす)が祀られている。八咫烏は、日本サッカー協会のシンボルマーク。その昔、神武東征のおり、道案内をしたという足三本の鳥。太陽の中に住み霊力を持つ八咫烏は、熊野の神様の使いとして崇められている。写真-1 熊野那智大社、一の鳥居と参道。写真-2 山上の境内と二の鳥居。写真-3 熊野那智大社の拝殿を正面から見る。写真-4 樹齢800年以上の御神木のクスノキ。写真-5 御縣彦社と八咫烏像。写真-6 参道の途中から眺めた山並み。
2017年04月25日
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那智山へ向かう世界遺産の参詣道で、人気の大門坂を歩く。大門跡まで、全長600mの杉木立が続く。大杉により日光と風が遮られる坂道。自然石と古木が苔むす古道である。 大門坂は、熊野古道7つの参詣道のひとつ中辺路(なかへち)にある。県道沿いに目印となる大きな石碑がある。大門坂入口である。世界遺産の名は、「紀伊山地の霊場と参詣道」と刻まれていた。 若いカップルの人気スポットが大門坂にある。大門坂入口から3分ほど歩くと、樹齢800年の夫婦杉が聳えている。この大杉をバックに、平安貴族衣装のいでたちで記念撮影するのが流行・・。 大門坂入口から熊野那智大社までは徒歩25分ほど。高低差は、333-93=240m。多富気王子(たふけおうじ)社前で、現地ガイドの説明を聞く。そして平安時代を想像して上を目指す。写真-1 世界遺産の参拝道「大門坂」。写真-2 大門坂の名所、夫婦杉を背景に平安衣装の若い人。写真-3 苔むす大門坂を歩く。写真-4 大門坂の途中に多富気王子がある。写真-5 大門坂入口と世界遺産を表記する石碑。
2017年04月24日
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バンフ国立公園にあるボウ湖は、ペイト湖から南に6km余りの距離。バスで移動すると10分もかからない。ボウ湖の湖畔に着いたのは、18時45分頃。辺りは薄暗くなり始めていた。氷河湖特有の湖面色は見えず。静寂な湖畔から遠くの山に夕照があたっていた。 ボウ氷河とクロウフット氷河が融けて流れ出し、水を湛えたのがボウ湖。面積3.2km2と小規模な湖で、水面標高が1920mと高い。氷結するのが他の湖より少し早いという。ボウ川の源流でもある。ボウ川はバンフ郊外を流れて、南サスカチュワン川に合流する長さ623kmの大河。 「ボウ湖」とは、先住民が弓に使用した木が多く採れた場所に由来する。湖畔には、ナム・ティヤロッジという赤い屋根のロッジがぽつんと建っている。青い湖面と山並みを見ながら食事することができる。宿泊するのは若い人が多いとか・・。16室を備えたログハウスである。 ルイーズ湖から北方30kmに位置するボウ湖。アイス・フィールドパークウエイに接しているので、ピックニック・エリアだという。湖岸には遊歩道やトイレが整備されている。近年、グリズリー・ベア(熊)が出没するようになった。複数でのウォーキング等を呼び掛けている。写真-1 夕暮れのボウ湖。夕照の山肌と針葉樹の黒い稜線とのコントラスが印象的。写真-2 静寂な湖畔から見るカナディアンロッキー。写真-3 ボウ氷河とクロウフット山(左)とジミーシンプソン山(右)を望む。写真-4 日本の何処かで見たような景色・・。写真-5 湖畔の赤い建物がナム・ティヤロッジ。[ガイドブック]
2016年10月31日
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自然がつくり出した絶景のひとつにあげられるペイト湖。カナディアンロッキーの「青い宝石」とも呼ばれる。絵の具を混ぜ合わせたようなミルキーブルーの湖面が人々を驚かす・・。 クリーミーな水を湛えたペイト湖を一望できる展望台がある。この展望台は、アイス・フィールドパークウエイで最も標高が高いとされるボウ峠(2070m)の近くにある。湖面の標高が1880mなので、200m上空から眺められるのだ。 南北方向に長いペイト湖。湖面の大きさは、2000m×500m程度。展望台から眺めると、横たわっているキツネ形をしていると説明があった。また、北端はアヒルの足のようにも見えた。その北西奥に聳えるパターソン山(3185m)の存在感が大きい。 ペイト湖の水源はペイト氷河である。氷河が削った岩粉が湖水に浮遊して、湖面に彩をもたらす。春はエメラルドグリーンに、夏はコバルトブルーに、そして秋にはミルキーブルーに変化するらしい・・。湖を取り囲む針葉樹林帯が落ち着きをもたらしていた。写真-1 ボウ峠近くの展望台からペイトレイクを望む。青いキツネに見えるとか・・。写真-2 ミルキーブルーの湖面と粗々しい山肌。写真-3 鳥の足に見える。塗料でペイントしたようなペイト湖だ。写真-4 展望台で記念写真。日没が迫り、冷えてきた。写真-5 正面奥にペイト氷河が見える。[ガイドブック]
2016年10月30日
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ルイーズ湖付近からジャスパーへ続くハイウエイ93号は、アイス・フィールドパークウエイと呼ばれる。大自然公園の中を突き抜ける230kmの道路・・。河と湖と並走するように建設された道路だ。その道路上で、最も見晴しが良いとされるサンワプタ峠(標高2035m)がある。 サンワプタ峠は、バンフ国立公園とジャスパー国立公園の境であるともに、コロンビア氷原から流れ出る川の分水嶺にもなっている。北極海と太平洋そして大西洋まで流れて行く最上流である。そして、この峠に上るには、「Big Bent(大曲り)」と呼ばれる名所を通ることになる。 この峠から観る景色は雄大に尽きる。大自然の景勝地である。映画「帰らざる河」の冒頭シーンにも使われた。この映画は、開拓時代の冒険・ロマンス的ストリー。開拓した農場を先住民らに焼き払われ、男女二人と子ども計3人で筏に乗り、山を脱出する物語。最大で最後の難所が激流の滝・・。 その激流のロケに使われたのが、ボウ川のボウ滝である。落差は9mと小さいが、雪解け水を集めて、川幅いっぱいに流れる様は迫力満点・・。バンフ中心街から南1.5kmにある。古城のようなホテル・バンフ・スプリンスから徒歩15分なので、訪れる観光客が多い。写真-1 サンワプタ峠からの眺め。左手の山は軍艦山とも呼ばれるシーラス山。写真-2 峠の南を流れるノース・サスカチュワン川と山並み。写真-3 アスバスカ氷河方面から見た道路93号線とサンワプタ川。北極海まで流れて往く。写真-4 バンフ市街を流れるボウ川のボウ滝。映画のロケ地となった場所。写真-5 1954年映画「帰らざる河」のポスター。
2016年10月28日
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コロンビア大氷原の6つの氷河のひとつ、アスバスカ氷河の上を歩いた。ハイウエイ沿いのアイスフィールド・センターから容易にアクセスできた。観光事業としても好調のようだ。天候に恵まれて、全く寒さを感じることなく、氷河の上を転びながら歩いた。 コロンビア大氷原の大きさは、325km2で栃木市の面積に相当する。氷原から足の指のように出て来るのが氷河である。アスバスカ氷河は、アスバスカ山とスノードーム山のU字谷から流れている。全長6km、その厚さは最大300mもあるそうだ。 当グループ20名は、最終便に乗ることができた。フィールドセンターからシャトルバスと雪上車を乗り継いで30分で氷上散歩地点に着く。雪上車は、アイス・エクスプローラ(以前はスノーコーチ)と呼ばれ、大きなタイヤ6輪で走行する。1台1.3億円との説明。10tダンプトラック10台分に相当する。 氷河の先端部にモレーンが堆積している。融け出した水は、サンワプタ湖を形成している。100年程前は、この湖まで氷河先端があった。毎年約1.6m後退しているという。地球温暖化は更に加速しそうだ。100後には、湖周辺に針葉樹林帯が出来ないとは言えない。写真-1 コロンビア大氷原から流れ出すアスバスカ氷河。写真-2 シャトルバスが行き交う「スノーコーチ道路」。写真-3 最終組なのでアイス・エクスプローラー車は1台のみ。氷河の上を散歩する。写真-4 アンドロメダ山の氷河。写真-5 アイスフィールド・センターとスノードーム山。
2016年10月27日
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十人の巨人が見下ろす青い湖。氷河運動の産物であるモレーン(堆積物)がせき止めた湖だ。モレーン湖を特徴付けるのは、テンピークスという岩連峰が湖岸から立ち上がっていることだ。旧カナダ紙幣の図柄になったほどの景勝地。世界自然遺産のひとつ。 モレーン湖は、近くのルイーズ湖よりもひと廻り小さい(0.5km2)。水深も浅く最大14mほど。テンピークスを巨人に例えると、モレーン湖は泉のような存在。東に向いているテンピークスは、朝日で赤くなることがある。朝焼けツアーが開催されるほどの人気だ・・。 湖の入口部に瓦礫のような山がある。何と・・展望台となっている。ガレキの上空には、標高3191mのバベル山が聳える。旧約聖書に出て来る「バベルの塔」を連想させるので、呼んでいるとか・・。そう聞くと、何やら崩れそうな気がする。 訪れた9月下旬、標高1884mの水位下がっていた。流入する川がなく、水源は雪解け水のみ。例年6月下旬に満水になる。従って、モレーン湖の神秘な水は、夏から秋かけて見るのが良い。冬季(10月上旬から6月上旬)の半年は、道路が閉ざされ、雪と風と氷の世界となる・・。写真-1モレーン湖とそれを見下ろすテンピークスの峰。雲が広がり「青い宝石」に見えず・・。写真-2 満水時には流木辺りまで水位がある。写真-3 中央奥の山が「バベル山」。手前は瓦礫山展望台。写真-4 展望台よりターコイズブルーの湖面。[ポストカード]写真-5 朝焼けのテンピークスを映す湖面。[ポストカード]。
2016年10月24日
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レイク・ルイーズに雲が広がっていた。少しだけ雲のすき間から青空が見える。世界自然遺産・カナディアンロッキーを代表するルイーズ湖に着いた。ルイーズとは、美しい響きだ。日本の摩周湖も良いが・・。英国・ビクトリア女王の王妃「ルイーズ・キャロライン・アルバート」に由来する。 周囲2.4km×最大深度90mの小さなルイーズ湖。湖面の色は、エメラルドグリーンまたはターコイズブルー(トルコ石色)。氷河が削った岩粉が水中に漂う。日の光加減で神秘的に見えるという。ビクトリア氷河やホワイティ山と深緑の針葉樹とのコントラスが見事だ。ロッキーの宝と言われる。 この湖とホテルは、日本のオジサン・オバサンにとって、馴染みの場所。日本人に特に人気があった。「森と泉に囲まれて・・」で始まる、ブルコメの「ブルーシャトウ」で有名。1967年にレコード大賞にもなった大衆名曲だ。ホワイトホーンのゴンドラからお城のようなホテルとルイーズ湖が一望できる。 母なる氷河が娘の湖を見守る。昔、女王と王妃は共に、この絶景を眺めたのだろうか・・。ルイーズ湖周辺には、アグネス湖などハイキングコースもある。泊まって湖畔を一周したいものだ。もう来ることはないだろうと思いつつ、次のモレーン湖へ移動する。写真-1 レイク・ルイーズとビクトリア氷河を望む。写真-2 コバルトな湖面でカヌーを楽しむ人達。写真-3 左手前にビッグ・ビーハイブ(大ハチの巣)山が見える。写真-4 湖畔に建つ「シャトーレイク・ホテル」。写真-5 スキー場のゴンドラから一望。[ポストカード]。
2016年10月22日
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バンフ・ゴンドラを8分間乗ると素晴らしい展望が待っていた。標高2285mのサルファー山に造られた山頂駅の展望台である。朝ホテルを出発する時に降っていた雨が止んだ。幸運な一日が始まる予感・・。 バンフ・ゴンドラ山麓駅までは、バンフ中心部からバスで10分ほど。高低差700mを約8分で山頂に登ることができる。登山道を歩いて登ると、1時間半(5.5km)かかる。ゴンドラは4人乗りなので、スキー場に来た感じだ。4層の山頂駅は、今年リニューアル・オープンしたという。 現地ガイドさんの計らいで、朝一番(8時発)のゴンドラに乗ることができた。いっとき、我々グループの貸し切り状態にあった。折よく、ノーケイ山に虹が懸った。南西方向にパイロット山(標高2285m)の特徴的な山頂も見えた。 山頂駅から西尾根に沿って、サンソン・ピークまで木道が伸びている。昔の気象観測所があった場所。歩いて20分の距離だが、団体行動なので断念する。4階展望デッキからは、北にバンフを抱くカスケード山、ボー川と遠方にミネワンカ湖が見える。絵になる景色を見ながら下山する。写真-1 サルファー山からカナディアンロッキーを望む。遠方にミネワンカ湖が見える。写真-2 バンフを抱くカスケード山とトンネル山。写真-3 展望台から西尾根沿い木道がサンソン・ピークまで続く。写真-4 パイロット山の頂に雲が流れる。写真-5 バンフ・ゴンドラ山頂駅の展望デッキ。写真-6 ノーケイ山に少しだけ虹が懸かる。
2016年10月16日
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古都奈良の夜景を彩る古建築物のライトアップ。歴史的建造物がスポットライトを浴びて、より印象的に見える。夕食後、腹こなしに散歩に出る。近鉄電車を利用するので、おのずと行動範囲は限られる。 薬師寺がツアーコースから外れていたので、西ノ京駅で下車する。しかし、辺りが暗くて淋しい。更に国宝・東塔が解体修理中であった。回廊越しに東塔のライトアップを撮影して引き返す。新大宮駅で途中下車して朱雀門を観る。この時期、夜は冷え込む。人がほとんどない・・。早々に退散する。 薬師寺境内では、もう一つの工事が進んでいた。大講堂の北に、食堂(じきどう)が再建されるのだ。2017年5月落成予定。半世紀をかけてきた「白鳳伽藍復興事業」が完了する。機会があれば、来年秋以降に訪れたい場所である。 夜の古都編で、古都奈良の旅景色シリーズを終了します。シーズンオフでバス移動等がスムーズであった。そのため、多くの名所・旧跡を回ることができた。またいつか歩いきたい寧楽町(ならまち)だった・・。 写真-1 薬師寺の西塔を南門越に観る。国宝・東塔は解体修理中。 写真-2 興福寺・五重塔(国宝)のシンプルな明かり。 写真-3 猿沢池と南円堂の夜景。りたつう士。りたつう士。 写真-4 平城宮跡歴史公園の玄関口に建つ朱雀門の輝き。 写真-5 興福寺頭上の小さな三日月。
2016年03月30日
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平城宮跡を早朝散歩する。近鉄奈良線・新大宮駅から西へ1500m進むと、朱雀大路に至る。幅75mの大路の北端に高くそびえる朱雀門は、南都の象徴だったもの。「青丹よし 寧楽(なら)の都の 咲く花の・・」の歌があったことを想い出す。 平城宮跡は、在りし日の奈良の都を今に伝える広大な遺跡だ。「南都、見事な平城京」710年から平安京へ移る794年「鳴くよ ウグイス平安京」までが奈良時代。半世紀ぶりに訪れた平城京跡地は、壮大なスケールと華やかさを感じる場所に変貌していた。 平成10年に復元された朱雀門。高さ22m×幅25mの五間三戸の木製の二重門。国内のヒノキを大量に集めたという。深みのある朱色は、天然塗料・丹土(につち)を使用。7年の歳月をかけて完成した。朱雀大路の東エリアでは、展示館の建設工事が進行中。平成29年夏の完成を目指している。 第一次大極殿(高さ44m)は、遷都1300年にあたる2010年完成した。122ヘクタールに及ぶ遺跡地が「国営平城宮跡歴史公園」になりつつある。しかし朱雀門と大極殿との間を近鉄奈良線が走っている。電車内から大極殿などが良く見えるが・・。将来、この鉄道を巡って、市民の意見が割れそうだ。 写真-1 朱雀大路と朱雀門。朝ジョギングする人を見かけた。平坦で良いコースだ。 写真-2 朱雀門の右後方に第一次大極殿の屋根が見える。 写真-3 平成22年に完成した高さ44mの第一次大極殿。りたつう士。 写真-4 平城京跡保存に半生を捧げた棚田嘉十郎の銅像。工事を指揮しているようだ。 写真-5 国営平城宮跡歴史公園の模型。南から北を鳥瞰する。
2016年03月27日
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鮮やかな朱色の社殿が特徴の春日大社。平安期の貴族びとが通った神社。広大な奈良公園の東側に位置する。東に春日大社、西に興福寺が占める。東大寺は北側に君臨する。この大寺院は、古都奈良の文化遺産・世界遺産である。 春日大社南門まで参道を歩けば、苔むした石灯篭と神使なる鹿が出迎えてくれる。茨城県・鹿島神宮の祭主が白い鹿に乗って来たことがルーツの神社だ。シカの総元締めたる聖地でもある。藤原氏(中臣氏)の氏神を祀るため、768年に創建された。 ガイドさんの説明によると、奈良公園には約1200頭のシカが生息しているらしい。芝を主食に、煎餅をオヤツしている、79ヘクタールの芝生は、人手で刈ることはないという。シカは自然の「芝刈機」なのだ。シカのフンもあまり手をかけない。フン虫が掃除してくれる。それを野鳥などが頂く、自然の営みがある。 万ほどの釣灯篭が並ぶとされる「万灯篭」は、節分とお盆に夜行われる。幽玄の世界だ。実際の釣灯篭は1000基。その多くは室町時代以前のものだという。藤原氏の盛栄を照らす、シンボルだったのだろう・・。写真-1 春日大社の中門(ちゅうもん)を仰ぎ見る。 写真-2 梅の老木と中門・御廊(おろう)。 写真-3 東回廊の釣灯篭。りたつう士。 写真-4 参拝入口となる南門。丹塗り門の高さは12m。 写真-5 参道脇の石灯篭になじんでいる鹿さん。
2016年03月23日
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町家がびっしりと並ぶ「ならまち」の一画に、世界遺産・元興寺(がんこうじ)がある。蘇我馬子が飛鳥に建立した飛鳥寺がその前身だ。奈良時代、近隣の東大寺や興福寺と並ぶ大寺院であった。 元興寺は、五重塔と金堂が焼失して、極楽坊本堂と禅室が残った。いずれも創建当時の佇まいであり、国宝に指定されているが、もうひと国宝がある。高さ5.5mの五重小塔だ。精巧に作られ建築物として登録されている。2014年秋、東京国立博物館へ3ヶ月間ほど出張している。 本堂と禅室の屋根に、日本最古といわれる瓦が葺いている。飛鳥時代の古式瓦で、行基葺瓦と呼ぶ。丸形瓦の色合いがモザイク化している。1400年前の瓦だという。本当だろうか・・。そうだとしたら大切に扱われてきた証だ。 猿沢池の南側、元興寺界隈は、むかしの町並みの面影をとどめる「ならまち」だという。元興寺の境内に職人が住みつき、町家が取り囲むようになった。民間信仰の寺院となってゆく。「うなぎの寝床」のような町家を見学しながら宿泊ホテルまで歩く。写真-1 奈良・元興寺の遺産・極楽坊本堂。[国宝] 写真-2 禅室と本堂の屋根には、日本最古と云われる1400年前の丸瓦が使われている。 写真-3 1/10サイズ。模型ではない。建築建物として国宝登録。りたつう士。 写真-4 「ならまちさんぽ」する。古い町家を生かした店舗がある。 写真-5 格子の町家が並ぶ。内部を一般公開している家もある。
2016年03月19日
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奈良興福寺と言えば阿修羅像である。若いひとの中で圧倒的な人気だ。アニメの影響だろうか・・。国宝館には、国宝40点+国重文19点が展示しているが、阿修羅像の周りは異次元のようだ。「心模様を表情で語りかける」と云う若き戦士。真中の手は弓矢を持っているとされる。 小生らの宿泊は、近鉄奈良駅に近いホテルなので、興福寺へは朝・晩に散歩ができる。丘陵に建つ五重塔は古都のシンボルだ。全国の古塔のうち、京都東寺の五重塔について2番目の高さ(50m)である。五度も焼失している。現在の塔は、590年前1426年に再建されたという。 中世奈良時代の興福寺は、朝廷や摂関家にとって厄介な存在だった。大勢の僧兵を抱えて、大和一国を治めるほどの力があった。このような歴史を持つ興福寺に、阿修羅像がいるのは当然なのかもしれない。 かつて興福寺の中核建築物だった中金堂の再建工事が進んでいる。2018年の完成を目指している。国宝館は、大きな地震に耐えるよう近いうちに休館になるという。もし5年後健康であれば、訪れたい「こうふくの丘」である・・。 写真-1 夜明け前の古都奈良。 写真-2 荒池から興福寺五重塔を望む。 写真-3 夕刻の南円堂シルエット。りたつう士。りたつう士。 写真-4 五重塔と猿沢池のライトアップ。 写真-5 天平仏像の傑作・阿修羅像[国宝]。
2016年03月14日
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半世紀ぶりに奈良の大仏様と対面する。修学旅行以来である。世界最大級の大仏と金堂(大仏殿)は国宝である。1267前(天平17年)に造られた高さ15mの「廬舎那仏坐像」の仏像・台座に使用した銅などは400トンにもなるという。天平の国家プロジェクトは、世界遺産として後世に受け継がれている。 大仏が納まる大仏殿は、過去に2度炎上している。1185年に平家軍と興福寺勢との動乱の際に・・。戦国時代の1567年に松永・三好の合戦で焼失した。本格的な大仏殿の再建は、江戸幕府の支援を受けて、宝永6年(1709年)まで待った。ようやく大仏様は、母屋で過ごせるようになった。 大仏殿内には、廬舎那仏像のほかに立派な仏像が配置されている。大仏の脇侍を務めるのは高さ7mの国重要文化財の仏像。右脇侍に虚空蔵菩薩坐像、左脇侍に如意輪観音坐像である。金堂の四隅を守る四天王が2体。江戸時代作で、北東隅に多聞天、北西隅に広目天。後の2天王は頭部のみ。 昭和の大仏殿修理(昭和49年から55年)では、大屋根7,900m2を葺き替えた。仮設の屋根の下、13万枚の軽量瓦に替えた。3,000トンもある屋根を支える梁や柱は定期的に点検しているようだ。大仏殿内を見学している時、巨大な地震に遭いたくないと想った・・。写真-1 東大寺中門と鏡池。 写真-2 過去焼失の憂き目をみるも大仏は健在。その都度、再建されてきた大仏殿。 写真-3 大仏殿を近くで見る。その大きさに圧倒される。りたつう士。 写真-4 廬舎那仏坐像と脇侍の虚空蔵菩薩坐像。 写真-5 金堂の四隅を守る四天王・多聞天立像。
2016年03月10日
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ライン川にそびえる岩山・ローレライは、クルーズ船乗降艀場のあるザンクトゴア近くにある。水面から忽然と現われた岩壁は高さ130mを超える。ローレライ岩山には登山道が整備され、頂上から見る景色は格別だという。川岸には河口から555km地点を示す看板が見えた。 ローレライとは、「待ち伏せする岩」との意味がある。ライン川中流域で、川幅が最も狭く、流れが速い場所。かつカーブで見通しが悪く、水面下に岩がある。座礁する条件が整った水域だった。多くの人命を奪ってきた難所も、現在は浚渫が行われ大型船も行き交う。河難地から景勝地になっていた。 「なじかは知らねど・・」で始まるメロディは、今から177年に、ハイネの詩が添えられて作曲されている。岩山に佇む乙女が船頭を魅惑して、舟が川の渦に飲み込まれてしまうと謂う伝記に基づく。「奇(くす)しき、魔歌(まがうた)」と和訳が続く。中洲のローレライ像は、あっという間に遠ざかる・・。 連なる古城やワイン、そしてローレライ伝説が観光資源のライン川渓谷。世界遺産登録の約65km区間に架橋はない。しかし近い将来、ローレライから離れた所に橋が架かる予定。反対運動も当然あったが、ユネスコは承諾している。どのような橋が架かるのだろうか。注目される事は間違いない・・。写真-1 ライン川航行の難所だったローレライ水域。ライン渓谷を下る。 写真-2 高さ132mのローレライ岩山。頂上からの眺めは絶景・・。見る岩山ではなく、登る岩山だ。 写真-3 川の中州に設置かれたローレライ像。 写真-4 ザンクトゴア河岸から対岸のネコ城を見る。 写真-5 ザンクトゴアまで乗船したボッパルト号。
2015年07月24日
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ドイツ南西部を貫流して、オランダまで流れる大河・ライン川。ワインの街・リューデスハイムからクルーズ船に乗り、約1時間40分のライン川下りを楽しむ。この街から約30km下流のサンクト・ゴアに着くまでに、両岸に古城と城塞が次々と現れる。世界文化遺産に登録されている区間だ。 ライン川は、全長1,223kmの国際河川。流域面積が日本国土の約半分を有する大河。スイスアルプスのトーマ湖を水源として、ヨーロッパ9ヶ国を通り北海に注ぐ。国際船舶が行き交い、昔から沿岸地域の交通の大動脈。それ故、多くの諸侯が交通税の利権を巡って、争いが絶え間なかったベルト地帯。 「ラインの真珠」と称されるリューデスハイム。古代ローマ時代からブドウ栽培地として発達した町。ワイン居酒屋や土産店がひしめき合う「つぐみ横丁」を散策する。ワイナリーを見学した後に乗船する。先ず見えてきたのは、ブドウ畑斜面に佇むエーレンフゥルス城跡。1689年に仏軍により破壊された要衝の砦。 ライン川の沿岸はワインの産地になる要件を備えていた。ライン川である。水面が照り返す太陽光、さらに川から立ち上る霧が、沿岸斜面に広がるブドウ畑を温暖に保つのだ。人口1万人の小さな街に、40軒ほどのワイナリーがあり、味を競っている。ラインとワインは古代から続く縁だった・・。 写真-1 かつてはワインの積出で賑わったリューデスハイム。今はクルーズ船の「人波止場」。 写真-2 リューデスハイムの下流右岸に建つエーレンフゥルス城跡。1689年仏軍の攻撃で陥落。 写真-3 ブドウ畑の広大な斜面と古城がつくる風景。ライン川左岸を眺める。 写真-4 関税を徴収するために建てられたプファルツ城。 写真-5 現在、ホテルとして活用しているシェーンブルク城。
2015年07月22日
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フュッセン市から北東約20kmの田園地帯に、外観のシンプルな教会が建っている。しかし一歩なかに入ると、荘厳な内装建築と彫刻・絵画の美しさに目が奪われる。1983年世界文化遺産に登録されたヴィース巡礼教会である。人類の創造性を結集した空間であることが評価された。 ヴィースとは、「草原、牧場」を意味するドイツ語。そんな農村に、これほどの教会がどのように出来上がったのか興味がわく。1738年「ヴィースの奇跡」がおこり、巡礼者の聖地になったという。10年以上の歳月をかけ1754年に現在の教会が出来た。辺境な場所故に、戦時中盗品に遭わなかったのだろうか・・。 内陣の装飾群の中に、奇跡の像・「鞭打たれるキリスト」が主祭壇に安置している。壁・柱・天井には所狭しと、ロココ装飾が配置されている。特に天井図は、ヨーロッパ随一の傑作と言われる。教会建築の資金は、キリスト教徒などの寄付金だという。信仰は、時間とコストを異次元で消費するようだ・・。 ロマンチック街道の終点近くあるキリスト巡礼教会。古代ローマ時代、この辺りからアルプス越えをしてローマへの巡礼、または軍事物資を運んだようだ。中世になるとドイツ国内外からアルプスの麓への旅と巡礼を兼ねてブームとなったと思われる。日本に見る「お伊勢参り」、四国八十八巡りのようなものか・・。写真-1 ロマンチック街道終点近く、草原に佇むヴィース巡礼教会。寄付金1ユーロで入堂。 写真-2 入口から観た荘厳なロココ様式の身廊と内陣。 写真-3 入口上階にある装飾パイプオルガン。 写真-4 鞭打たれるキリスト像が安置されている主祭壇。 写真-5 大天井画。空席の王座、閉ざされた天国の扉などが描かれている。
2015年07月12日
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「空と大地が出会うところ」スフィンクス展望台は、風が強く雲流れる状態だった。室内テラスで記念写真を撮るしかない・・。展望台から高低差108mを高速エレベーターで降りる。高山病になる人もいると脅かされたが、皆大丈夫だった。その後、ユングフラウヨッホ館内を歩き回る。 ヨッホとは、「肩」とか「鞍部」を意味するらしい。「乙女」と「坊主」との中間に位置する。ヨッホ館内は地下鉄の地下街にいるような感覚。通路と地下空間が三次元的に配置され、迷子になりそうだ。[TOUR]の表示方向へ進めば、地下回廊を巡って駅に戻ることができる。後で分かったこと・・。 アレッチ氷河の内部を歩くことができる場所がある。アイスパレス(氷の宮殿)と呼ばれる。ヨッホ駅上方に、氷河を約30m掘って造られたもの。アイパイン・センセーションの終点にある。1934年頃二人の山岳ガイドが氷河の中に巨大な洞窟を掘ったことが始まりとか・・。年間15cmほど動くため補修が不可欠。 日本の赤い郵便ポストがあるユングフラウヨッホ駅。富士山五合目郵便局と姉妹提携しているという。世界遺産の赤い糸で結ばれていたのだろうか・・。ここを訪れる観光客は年間約80万人。そのうち20万人程が絵葉書などを投函するらしい。小生も自宅宛へ、切手とはがきを購入した・・。 写真-1 スフィンクス展望台の室内テラス。屋外バルコニーは寒くて視界不良だった・・。 写真-2 動く歩道に沿って、壁画を鑑賞できる。アルパイン・センセーションというギャラリー。 写真-3 アイスパレスへ通じる氷河内のアクセストンネル。 写真-4 日本の郵便ポストが置かれているユングフラウヨッホ駅。 写真-5 ユングフラウヨッホ館内図。りたつう士。
2015年07月06日
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ユングフラウ三山のうち、アンガ―とメンヒの山体岩盤をくり抜いて、隧道を電車が走る。17年間の歳月を費やして、1912年に完成した鉄道トンネル。ユングフラウ鉄道は、明かり部を含めて延長9.3km、平均勾配15パーセント。ヨッホ駅までの途中に岩盤内に2つの洞窟駅があり、天空から眺望が楽しめる。 アイガーの岩盤内にある一つ目の駅は、標高2864mのアイガーヴァント(アイガーの壁)。アイガー北壁の登頂ルートやその歴史を掲示したパネルがある。ギャラリーの窓からは、これまで通過して来たクライデ・シャイデックやグリンデルワルトが見える。更にアイガーの岩壁の一部を目の当たりにした。 メンヒ内にあるふたつ目の駅は、標高3158mのアイスメーア(氷の海)。この洞窟駅のギャラリー窓からは、アレッチ氷河の一部を展望できる。スフィンクス展望台は雲の中になりそうなので、ここで眺めた方がよいとガイドさんに言われた。口を開けたクレバスを近くで観察する。 ユングフラウヨッホは、そこで働く人や大勢の観光客が訪れるが、電気と上下水はどうなっているのだろうか。電力は落差と水が豊富地域なので、水力発電にて供給。分水嶺と凍土のヨッポは、融解水が少ないため、峠の駅から生活水を鉄道輸送で補充する。年間5千トンの水を運搬するという・・。写真-1 クライデ・シャイデック駅を眼下にみるアイガーヴァント洞窟駅からの眺望。 写真-2 アイガーの垂直な岩壁を目の当たりにする。 写真-3 標高3,158mのアイスメーアから氷河を眺める。 写真-4 標高3,471mに建つスフィクス展望台は、天空の雲の中。写真-5 1922年設置の気象観測所と共存するトップ・オブ・ヨーロッパ。現地パネルを撮影する。
2015年07月05日
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登山鉄道3線が出会う峠の駅・クライデ・シャイデック。造山運動による荒々しい岩峰と穏やかな丘陵地形が対称的なところだ。春から夏にかけては、緑と花に包まれる。楽園のように思えた。 クライデ・シャイデックを起終点とするハイキングコースが幾つも整備されている。初級者向け、中級者向けとメニューがある。ロープウェイを利用すると気軽に歩き回れる。日本と違って、リックサックに鈴鳴らして歩く姿は皆無だ。若いひとは、あまり紫外線を気にしていないように思えた。 標高2,060mの峠にはレストランや山岳ホテルが並ぶ。アルピニストの基地だと実感する。アイガー北壁を登頂するアタック隊のベースキャンプ的場所なのだろう。新田次郎の記念碑を訪れた。彼の万年筆や眼鏡が納められているとのこと。 この峠は4月上旬まだ白い。その雪丘で、野外コンサート(スノーペンエアー)が開催される。毎年違ったアーティストが招聘され、5,000人程度が集合するという。「アルプスの乙女」もビックリのロック演奏もある。この音楽を騒音と見なし、山の神が嵐を呼んだという話はない・・。写真-1 花咲く丘からクライデ・シャイデック駅を見る。この丘に新田次郎の碑がある。 写真-2 アイガーへ向かうユングフラウ鉄道。ラックレールの線路。 写真-3 峠に近づく登山電車。西回りのヴェンゲルンアルプ鉄道(WAB)。 写真-4 アイガー・グレッチャー駅付近の風景。ハイキングコースが見えている。 写真-5 軽装でハイキングするグループ。笑顔で挨拶してくれた・・。りたつう士。
2015年07月04日
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乗換駅・クライネ・シャイデックを下車すると、ユングフラウ三山が待っていた。朝方の雨が上がり、青空が広がる。標高3,571mのスフィンクス展望台までもが見えた。アイガー、メンヒ、ユングフラウをはじめとする4,000m級の山々が連なるベルナーオバーラントは、2001年に世界遺産に登録された。 ユングフラウ(標高4,158m)は、「アルプスの乙女」の別名を持つ。山麓に領土を持つ修道院の修道女に由来する名前の山。山頂が雪に覆われる時、修道服のように見えるとか・・。1910年に日本人(加賀正太郎氏)が初登頂に成功する。もう百年以上前のこと・・。 メンヒ(標高4,107m)は、雪を被った山頂が「修道士の頭」に似ているとか・・。日本的には「坊さん」だろうか・・。乙女と坊主と男と三人が並んでいる疑似絵もある。メンヒの頭中には、登山鉄道のトンネルが通る。ユングフラウヨッホのトップ・オブ・ヨーロッパに続く道だ。 アイガー(標高3,970m)は、3山の中で最もシャープなシルエットしている。男体山と言うべきか・・。高さ1,800mの岩壁のアイガー北壁は、アルプス三大北壁と呼ばれる。日本人によるアイガー北壁初登頂は、犠牲者を出して1969年に叶う。後に新田次郎が小説にする。駅近くの丘に彼の記念碑があった。 写真-1 クライネ・シャイデックからメンヒとユングフラウ(標高4164m)を望む。 写真-2 アイガーとメンヒを望む。3つの山は大きすぎてカメラに収まらず・・。 写真-3 メンヒとユングフラウと間に建つスフィンクス展望台。 写真-4 007映画に登場したシルバーホーンの遠景。 写真-5 ベルナーオバーラントの見取り図。
2015年07月02日
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スイスの誇る鉄道網のうち、2つの登山鉄道を体験した。先ず、営業距離19kmのヴェンゲルアルプ鉄道(WAB)をグリンデルワルト駅から乗る。このラック式鉄道の中間点・峠のクライネ・シャイデック駅(標高=2061m)を目指す。天候は回復傾向だ・・。標高差1034mを33分で登坂する。 アイガー山壁が目の前にそびえるグリンデルワルト。鉄道と平行に流れるリッチネ川は、氷河の溶け出す水を集めて勢いよく流れる。橋を入れて写真を撮ると、上高地の梓川を思い出す。グリンデルワルトは、氷河の村と呼ばれる。牧草地や高山のお花畠があり、トレッキングや登山の名所だという。 グリンデルワルト駅から見える山として、外国勢にアイガーが有名。しかし地元ではヴェッターホルン「お天気山、標高3701m」が愛されているようだ。また、駅舎を見下ろし、目の前に迫って来る近くの山は、メッテンベルグ(標高3701m)。橋からの山岳景色は絶景に近い・・。 人口4000人が暮らすこの山村も、地球温暖化の影響を強く受けている。グリンデルワル氷河が急速に後退し、時には雪庇が崩落して、川が鉄砲水のようになるという。しかし、氷河地形が故に恩恵もある。日差しをたっぷり浴びるハイキングが盛んだ。小生も歩き出したくなった・・。 写真-1 氷河から流した激流とベルナーオバーラントの名山・アイガー。写真-2 登山電車に乗り込んだWAB鉄道・グリンデルワルト駅とメッテンベルグ山。 写真-3 U谷地形を走るヴェンゲルアルプ鉄道。ラック式の軌条を軽快に進む。 写真-4 天気の変化は、この山・ヴェッターホルンを見よとの言い伝えがある。 写真-5 列車に手を振ってくれるハイカー。日差し除け用の帽子をかぶっていない・・。
2015年07月01日
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世界遺産・セーヌ河岸には、人道橋を含めると17つの橋が架かっている。橋はそれぞれ個性に富んでいる。発注者、設計者、市民そして時代の要請など、さまざまな思いが詰まった橋達だ。パリの景観を損なわないように橋は架けられている。また、パリの景観を構成しているのも橋なのだ。 シテ島の先端を横切るのは、ポンヌフ橋。パリ市内に現存する最古の橋(1607年)だ。南側に5連アーチ橋、北側に7連のアーチ橋の長さ238mの石造りの橋。ポンヌフとは、フランス語で「新しい橋」を意味するというが・・。 セーヌ川で最も華やか橋がアレクサンドル3世橋。ニコライ2世により1900年のパリ万国博覧会に合わせて造り、寄贈されたという。中央に橋脚を立てることなく、セーヌを一跨ぎしている。金色に輝く彫刻、大理石像、装飾街灯など包まれた幅40mの鋼鉄製アーチ橋である。 ポンヌフ橋の下流に芸術橋(ポンデザール橋)が架かっている。この橋は、南京錠にカップルの名前を書き込み、欄干の金網に取付けることで有名だった。昨年、あまりの多さでその重みに耐えきらず欄干が壊れた。最近、橋の欄干がアクリル板に・・。頑丈な欄干にすれば良いのだが、意見が色々とあるようだ・・。 写真-1 シテ島の南側に架かる5連の石積みアーチ橋。1607年に完成した橋。 写真-2 優美・壮麗な橋「アレクサンドル3世橋」。 写真-3 コンコルド広場とブルボン宮(国民議会)とを結ぶコンコルド橋。1830年完成。 写真-4 アンヴァリッド(廃兵院)に続くアンヴァリッド橋。長さ152m、1856年に完成。 写真-5 無残にもアクリル板の欄干を晒す芸術橋。シテ島を観るのに絶好な人道橋。
2015年06月27日
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フランスの首都パリ中心部を東から西へゆったりと流れるセーヌ川。観光でパリを訪れた人で、セーヌ川クルーズを楽しまない人はいないであろう・・。当ツアーも当然、世界遺産に登録されている河川区間に繰り出した。船上の観覧席では、パリの誇る美しい景観が目の前を流れてゆく。 登録されたセーヌ川河岸(かがん)は、シュリー橋(サン・ルイ島に架かる)からアルマ橋(エッフェル塔脇)までの約8Km。両岸に歴史的建造物がひしめく。約1時間の遊覧はまたたく間に過ぎた。しかし折り悪く、中国人団体御一行と同船となる。奇声飛び交う、騒々しいセーヌ川となった。それも思い出か・・。 セーヌ川クルーズのハイライトの一つにシテ島がある。ノートルダム大聖堂やパリ警視庁があり、パリ市内で最も古い地区だ。「パリ発祥の地」とされる。また、かつてマリー・アントワネットが投獄された牢獄「コンシェルジュリー」が川岸に建ち、哀愁を誘う・・。 セーヌ川は、フランスで2番目に長い大河で、延長780km。中流域に当たるパリを貫流して、大西洋・セーヌ湾に注ぐ。日本第2位・利根川の約2.4倍の長さであり、流域面積も利根川の5倍近く。従って百年前の大洪水規模(1910年1月)に遭い浸水すると、その期間が長い。「水の都」になりそうだ・・。 写真-1 クルーズは、エッフェル塔近くで折り返す1時間コース。 写真-2 セーヌ川右岸沿いのオルセー美術館。かつて鉄道駅舎兼ホテルだった。 写真-3 オルセー美術館の斜め向かいにルーヴル美術館がある。 写真-4 「パリ発祥の地」・シテ島。ポンヌフ橋下はクルーズ船の難所。 写真-5 昔、牢獄に使用されたコンシェルジュリー。
2015年06月25日
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パリの南西22kmの丘陵地にヴェルサイユ宮殿がある。太陽王ルイ14世が49年の歳月をかけて、築いた夢宮殿だ。許す限りの贅を尽くした建物は、ヨーロッパ中の憧れとなる。これを模倣した豪華な宮殿が各地に造られた。 宮殿は1624年当時国王だったルイ13世が、ヴェルサイユ森に狩猟小屋を建てたことに始まり。その後、息子のルイ14世が増改築を重ねて、1682年バロック様式の粋を集めた豪華な宮殿に仕上げたものだ。 宮殿内の「鏡の間」や「ヘラクレスの間」など細部にわたる豪華絢爛たる室内装飾、さらにフランス式庭園の粋を集めた庭園は、17世紀フランス文化の絶頂期であった。しかし、100年後栄枯盛衰となるフランス革命が勃発。1799年ナポレオンによる帝政に移行することになる。 ヴェルサイユ庭園には、多くの噴水池がある。その水源は10kmほど離れたセーヌ川から水を引いていた。約100m差の揚程を巨大な水車とポンプ群で取水したとされる。「マリルの取水施設」の絵図が残っている。蒸気機関が普及するまで使われていたそうだ。水は富の象徴でもあった。写真-1 ヴェルサイユ宮殿の豪華絢爛な飾付や像を鑑賞。 写真-2 宮殿への入場は予約制。列をなしているのは正面で記念写真を撮影する人々。 写真-3 儀式や外国の賓客を謁見した「鏡の間」。 写真-4 巨大な絵画「ナポレオン一世の戴冠式」。高さ6.3m×横9.3m。館内は無フラッシュ撮影OK。 写真-5 宮殿の北側にあるネプチューンの泉水。大噴水と花火大会を行う場所。
2015年06月21日
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世界遺産の景観を保持するための努力が続くモン・サン・ミッシェル。130年前の美観を取り戻すべく、島周辺の整備工事が断続的に行われている。日本ではここのところ、世界遺産登録に沸いているが、一考する必要がある。 1877年、対岸との間に地続きの道路を建設した。その結果、約2mの砂が堆積してしまった。2011年から3年をかけて、島に繋がる弧状の橋を完成させた。これまであった堤防道路の撤去工事を実施している。来年あたり訪れると、景観が改善されていると思う・・。 大きな岩礁を取り巻くように、建築物が三層に築かれているモン・サン・ミッシェル。上層階は、教会、列柱廊そして西テラスがある。海抜80mの展望が待っている。中層階は、迎賓の間、および騎士の間がある。下層階は主に貯蔵庫であり、古代の人力荷揚げ設備を見学した。 モン・サン・ミッシェルから上流2.5kmのクェノン川に水門が造られている。満潮時に水門を閉めて水を溜め、干潮時に一気に水を放出する施設。8つの水門の上には、歩道が整備され展望バルコニーとして開放されている。宿泊ホテルから近いので、ナイト散歩がお勧め。西フランスの夜は長い・・。 写真-1 クェノン川に建設された水門施設。8門の水門の上は展望バルコニー。 写真-2 周囲を歩くと柱が無限に続くような錯覚を得るという「列柱廊」。 写真-3 最上層階の修道院付属教会。ゴシック様式の建築物。 写真-4 中層階の迎賓の間。優雅なアーチが訪問者を迎える。 写真-5 クェノン川河口の浚渫作業状況。西テラスより望む。
2015年06月19日
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欧州の三か国、仏-瑞-独とL字形に旅行した。大手旅行会社によるツアーで、鉄道とバスを乗り継ぐもの。北海道や大阪からも参加する人気のコースで、39人の民族小移動になった。ブログは、しばらく海外旅行編になります。先ず、「一生に一度は行ってみたい」と思う、モン・サン・ミッシェルから・・。 フランス・ノルマンディー地方の海に浮かぶM.S.ミッシェルは、周囲わずか900mの小島に屹立している。ゴシック様式の三層構造の修道院は、実際より大きく見える。夜眺めると「海上のピラミッド」と呼ばれた事を実感する。この時期、日没が夜10時頃だ。ナイト散歩に参加して寝不足となる・・。 M.S.ミッシェルは、フランスの宝であり世界遺産である。フランスではベルサイユ宮殿と共に1979年にユネスコに登録された。その歴史は、708年大天使ミカエルのお告げに沿って建設されたもの。以来1300年にわたり巡礼地として、また要塞や監獄として数奇な運命を辿った「聖地」である。 修道院は湾の奥狭に位置する。日本における陸前高田市に前面に広がる広田湾と似ている。島が浮かぶサン・マロ湾は、ヨーロッパ屈指の潮の満ち引きがある。最大15mにも達するという。津波が押し寄せるようなものだ。昔、多くの巡礼者が命を落とした難所。現在バスが走る連絡橋が架かっていた。 写真-1 海上のピラミッドと呼ばれたモン・サン・ミッシェル。クェノン川河口に浮かぶ修道院。 写真-2 訪れた時期の日没は22時頃。23時頃までシャトルバスが走っている。 写真-3 干潮時のモン・サン・ミッシェル全景。写真-4 修道院の西テラスからサン・マロ湾を望む。 写真-5 塩分の高い草を食べて育つ羊。夕食に名物の羊肉料理をいただいた。「ポストカードより」
2015年06月18日
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大きな正三角形の屋根。分厚い茅葺屋根。皆同じ方向の家並み。全員で合掌しているように見える村が日本にある。1976年に国の「重伝建地区」に指定された岐阜県白川村。約20年後の1995年には、世界遺産に登録された白川郷合掌造り集落。日本における6番目の世界遺産である。 日本有数の豪雪地に、合掌造りが建築されたのは江戸期から昭和にかけて。古いものは築300年になるものもある。何故まとまって残り得たのか。3県の辺境で周囲の道路整備が遅れたためなのか・・。または台風の威力が及ぼさない地理・地形が大型古民家を護ったのか・・。理由は様々であろう。 茅(かや)は古くから屋根材や飼料材に使用されてきた。ヨシやススキの茎は水をはじくので、積雪地方の屋根によく見られた。ヨシの耐用年数は、ススキより2倍。しかしコスト嵩む。より安価なススキがここ白川郷でも採用されている。一方、茅は燃え易く、湿気に弱い。この弱点は先人達の知恵によって乗り越えてきた。 家は人が住んで維持される。茅葺屋根も囲炉裏があって保持される。屋根の向き(東西方向)や囲炉裏の暖気・煙は、茅の材質維持に欠かせないもの。煙は柱材や保存物への防虫・防菌に効果がある。大きな造りは、養蚕と硝煙づくりに適し奥が深い建物。いや意義高い建物である。神田家の3階は煙で燻されていた。 写真-1 仲良く並ぶ三連の合掌造り民家。茅葺屋根の傾斜は、日当たりを考慮して東西方向に。 写真-2 築300年の和田家。白川郷を代表する合掌造り家屋。展望台に近く建ち、大きく見える。 写真-3 五層建の合掌造り家屋。江戸時代の医療道具を展示。 写真-4 築160年の神田家。囲炉裏、床下の煙硝造庫等を見学。 写真-5 神田家の居間。3階は煙で燻されていた。
2014年10月19日
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幾多のトンネルを抜けると世界遺産・飛騨白川郷である。国内第3位の長さ(L=10.7km)を誇る飛騨トンネル開通後は、高山市内から白川郷へわずか1時間の距離だ。東海北陸道・飛騨清見JCTから白川郷ICまでの25km区間にトンネルが10本もある。富山、石川の3県境に位置する秘境・辺境の名は返上された。 定番の展望台(荻町城跡)から、雨に煙る合掌造りの家並みを鳥瞰して集落へ向かう。1995年に世界文化遺産に登録されて以来、年間150万人もの国内外観光客で賑わう。「秘境の里」の雰囲気は薄らいでいる。合掌造り地区の中でも、荻町は60棟が保存されている。維持管理は大変なものだ・・。 荻町へはバスの乗り入れが禁止されている。庄川に架かる長さ107mの「であい橋」から入村する。適当に揺れる吊り橋だ。この人道橋は、景観に配慮してか、主塔と吊りワイヤーが見当たらない。であい橋は、珍しい「PC吊り床版橋」の構造だ。厚さ19cmのコンクリート版には、橋を支えるケーブルが埋設されている。 茅葺屋根・合掌造りの大敵は火災である。放水銃59機を設置し、防火水管理も万全だという。毎年11月頃、この放水銃を使用した消火訓練が行われる。壮観な一斉放水を一目見ようと大勢の人が押し寄せて、放水訓練が阻害されたことがあった。昨今この訓練日は、直前まで公表しないという・・。 写真-1世界文化遺産・飛騨白川郷の雨眺め。荻町城跡展望台から。 写真-2 庄川を渡って白川郷・荻町集落へ。長さ107mのPC吊床版橋・であい橋が撓み・揺れる。 写真-3 明善寺の山門風景。鐘楼門、本堂および庫裏がすべて合掌造りで統一されている。 写真-4 雨が上がり、茅葺屋根越しに荻町城跡展望台が見えた。 写真-5 荻町集落秋の風物詩。人工大雨景色。ポストカードより。
2014年10月18日
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奥州藤原氏初代清衡が建立した中尊寺金色堂。美術工芸の粋を注ぎ込んだ金色の阿弥陀堂である。古都平泉の栄華が偲ばれる。世界遺産に登録された文化遺産のうち現存する建築物は、金色堂と経蔵のみである。 藤原清衡は、前九年と後三年の戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するために中尊寺を再興した。平泉黄金文化のシンボルが金箔で覆われた阿弥陀堂だ(1124年に上棟)。装飾に多量の漆や螺鈿(らでん)を使用されている。戦後間もなく、国宝建造物の第1号リスト入りした。 文化遺産の構成資産は、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山の5カ所。中世に存在した平泉-仏国土(浄土)を表す建築物と庭園が評価され、2011年の世界文化遺産に登録された。今後、追加遺産として、柳之御所遺跡など関連5資産の登録をめざしているという。 創建当時の金色堂に使用した金は、現在の10倍となる150kgと推定されている。奈良の大仏に使用された量の1/3にあたる。当時、マルコポーロをして、「黄金の国ジパング」と思わせた金産出国だったのだろう。ちなみに、これまで日本において約1,600トンの金が産出され、全世界の1.6パーセントに相当するとのこと。 写真-1 入母屋の大屋根が特徴の中尊寺本堂。比叡山延暦寺から分火した不滅の法灯がともる。 写真-2 「中尊寺経」を納めていた経蔵(きょうぞう)は、金色堂のそばに建っている。 写真-3 仙台藩によって造られた白山神社の能舞台。 写真-4 旧覆堂にかわって造られた新しい金色堂覆堂(昭和42年)。 写真-5 藤原清衡が16年間をかけて造った金色堂。[ポストカードより]
2014年08月21日
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不思議で奇抜な公園がバルセロナ市街地を見下ろす山腹にある。ガウディが1900年頃に手がけた宅地で、現在は「グエル公園」として整備されている。構造物等が曲線、または面取りされているので、和やかな雰囲気が漂う。デズニーランドに踏み込んだような感覚だ。 ガウディのパトロンであるエウゼビ・グウル氏の依頼で、山地を切り開き田園住宅街として設計したが、事業は1914年に失敗・頓挫する。海と市街を一望できる高台であったが、交通網が発達しなかったことが原因の一つとされる。その後、バルセロナ市が買取り、公園として一般公開した。 中央公園は、当初「ギリシア劇場」とも呼ばれ、ユニークなベンチが造られた。この広場の半分は、86本の列柱に支えられている。列柱室はコンサートや市場など多目的に使われる。この地下には雨水を貯留する水槽があり、数本の列柱は空洞で水道の役目を果たす。その水は、公園シンボルのトカゲから流れ出る。 破砕タイルが貼られ、キラキラするベンチは一休に値する。この公園は、30年前にユネスコの世界遺産に登録された後、大規模な修復をした。今や年間400万人が訪れる名所になった。昨年秋から公園の維持管理用に、入園料8ユーロが徴収される。観光地で問題となるトイレは、モニュメント階段の傍にあった。 写真-1 グエル公園の中央広場。山側に椰子をイメージした並木通路が見える。 写真-2 公園入口からモニュメント階段とテラスを望む。 写真-3 破砕タイルの張られたベンチで囲われた大テラス。86本の列柱に支えられた屋上公園。 写真-4 展望テラスから公園入口部と市内を望む。 写真-5 公園のシンボルのトガケ噴水。水量が少ないのは少雨のせい・・。
2014年05月04日
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西のマラガから東のバルセロナまでの航海距離は約890km、朝5時に帰港した。巨大なタケノコのような鐘楼がバルセロナの空へ伸びている。今やバルセロナのシンボルとなっているサグラダ・ファミリア聖堂(聖家族教会)である。カタルーニャ出身の建築家アントニ・ガウディは、この建設に生涯を捧げた。 聖堂の起工式が1883年に行われたので、足かけ132年間の偉業。今なお継続中である。ガウディが完成させたのは、東側の「生誕のファサード」とその4本の鐘楼。このファサード(門)の「奏楽の天使たち」と小尖塔の「果実」の彫刻は、日本人彫刻家・外尾悦郎氏が手掛けたという。 西側の「受難のファサード」とその4本の鐘楼は、ガウディ後に完成している。しかし全体の完成まで、あと10本の鐘楼を建てるという。「栄光のファサード」に4本、マタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの塔4本、聖母マリアの塔、そして最も高いキリストに捧げる塔(170m)を建設し、計18本が林立するのだ。 ガウディが路面電車にひかれ死去したのは1925年。サグラダ・ファミリアは、彼の死去百年目に完成させる予定だ。従って、グランドオープンは2026年となる。資金面の心配がないとされるので、今日の建設技術をもってすれば容易だろう。しかし芸術性の高い装飾物は、それに追いつくのだろうか・・。 写真-1 バルセロナの空へ伸びる8本の鐘楼。[絵葉書より]。 写真-2 東側の「生誕のファサード」とその4本の鐘楼。 写真-3 ファサード(門)の「奏楽の天使たち」の彫刻。 写真-4 森をイメージしたという聖家族教会の内部。 写真-5 西側の「受難のファサード」を側面から見る。観光と工事を両立させている。
2014年05月03日
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アルハンブラ宮殿は、歴代イスラム王の「夢のあと」で、世界遺産でもある。グラナダを支配したイスラム600年の間、時を追うように華麗・豪華に増築されたもの。このうち後半のナスル王朝の宮殿がアルハンブラの中核を成している。ナスル王朝の幻想世界は、1492年グラナダ陥落までの約260年が続いた。 ナスル朝宮殿への拝観は、完全予約となっている。人波を適切に制御するためだという。宮殿は大きく3つの宮に区分けされる。(1)メスアール宮・・裁きの間がある、(2)コマレス宮・・大使の間がある、 (3)ライオン宮・・諸王の間・王の居住場所。これらの宮に華麗な中庭が造られているのはイスラム様式なのだろう。 特に立派なものは、コマレス宮の「アラヤネスの中庭」だ。両脇に天人花が植えられたのが名前の由来。35m×7.2mの池はコマレス宮を映し出す。賓客はこの美しい中庭に目と心が奪われたものだろう。砂漠の民は、水と緑が何よりの贅沢品だから・・。水を征する者は国を治めることを形で示しているのだ。 イスラム風の中庭は、日本の「家と庭」との感覚とは異なる思いがあるようだ。強い日差し、砂嵐から隔絶した空間に、水と木があり、食があれば楽園と考えた。昔、アルハンブラに魔物が棲むと云われた。王族らは酒池肉林に溺れ、身を滅ぼしていったとの物語が数多くあるという。 写真-1 コマレス宮を映し出す「アラヤネス(天人花)の中庭」。 写真-2 噴水を支える12頭がいる「ライオンの中庭」。124本の大理石列柱が豪華さを物語る。 写真-3 パルタル庭園と「貴婦人の塔」。一部工事中だった。 写真-4 高い天井や壁に刻まれた装飾いっぱいの「大使の間」。 写真-5 二連窓と鍾乳石装飾の華麗の「二姉妹の間」。
2014年05月02日
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グラナダを見下ろす丘の上に、城塞・宮殿・離宮からなるアルハンブラ宮殿が広がる。スペイン・アンダルシアに遺されたイスラム文化の結晶である。総面積は1万4千m2を誇り、アルカサバ城塞と王宮群に分けられる。案内人がなければ、すぐ1日が過ぎてしまう。見どころ沢山の建物と装飾である。 グラナダは、マラガから北東約90km、バス移動で2時間の距離にある。シェラ・ネバダ山脈に抱かれ、13世紀後半イスラム時代最後のナスル王朝の首都として栄えた都市だ。シェラ・ネバダから流れ出る水がこの町に潤いと豊かさを造り出した。人口24万人が暮らす肥沃な平野は、ベガと呼ぶそうだ。 ナスル王朝が終焉したのは1492年(グラナダ陥落)。スペイン王国イサベル女王の時代が始まる。モスクは接収され、教会に作り替えられたが、アラブ様式は破壊を免れた。映画「1942・コロンブス」が1992年に上映されているが、グラナダ陥落とコロンブスの動静が分かる。新大陸発見500年を記念する作品。 アルハンブラ宮殿は外観にも趣がある。夕日に赤く染まる宮殿を眺め、瞑想と空想するのがアルバイシン子の楽しみだという。また、ラテンの名曲「グラナダ」がクルーズ船内に流れていた。この曲は、色々なジャンヌの歌手・楽団に好まれているそうだ。しかしスペインでは、フラメンコ風が似合っている。 写真-1 シェラ・ネバダ山脈に抱かれるグラナダの丘に建つアルハンブラ宮殿。[絵葉書より]写真-2 丘の西に築かれたアルカサバ(城塞)。アルハンブラで最も古い(9世紀)ものとされる。 写真-3 裁きの門とアルバイシンの町並みを望む。右手の丘がサクロモンテの丘。 写真-4 カルロス5世宮殿。グラナダ陥落後に作られたルネッサンス様式の建物。 写真-5 谷を隔て、造られた王族の別荘・ヘネラリフェを望む。
2014年05月01日
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ベルベル語で「神の国」を意味するマラケシュ。11世紀にイスラムのムラービット朝が都を置いた町。アトラス山脈山麓の丘陵に位置(標高460m)する。「南方産の真珠」と称される北アフリカを代表する町がマラケシュだ。オアシスが周辺に点在している。 マラケシュは、カサブランカより南へ200km入ったモロッコ第3の都市で、人口66万である。交易で発達した町は今も強く息づいている。東西2km×南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)は、1985に世界遺産に登録された。 メディナにあるフナ広場は独特な雰囲気を醸し出す場所で、人類の無形文化遺産ともなっている。訪れた時は昼間だったので、屋台や大道芸人のパフォーマンスか見かけなかった。日中はダタッ広い空間だが、夜になると様子が一変するという。熱い地方は朝が遅く、夜に動き出す人種だから・・。 フナ広場から南に500m歩くとバヒア宮殿がある。宮廷高官の邸宅として建てられたもので、イスラム建築の傑作と言われている。4人の妃と24人の側女が住んだとされる。精緻なモザイク模様が見事だ。いまも王族のひとが宿泊するという。バヒアとは、「光り輝く」という意味があるそうだ。 写真-1 昼間のジェマ・エル・フナ広場。夜になると熱気ある広場に早変わりする。写真-2 フナ広場西のクトゥビア・モスクのミナレットが人々を見守っている。 写真-3 妃4人が住んだという「光り輝く」バヒア宮殿の中庭。 写真-4 部屋の天井に描かれた精緻なモザイク模様の例。写真-5 マラケシュの旧市街地路地を団体散策。
2014年04月24日
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現役で活躍する世界遺産のコンサートホールがバルセロナ市内にある。カタルーニャ音楽堂である。パルセロナ出身のモデルニスモ建築家・モンタネールが1908年に完成させた合唱ホールだ。第二次世界大戦を生き残り、1997年にユネスコの世界遺産に登録された。 モデルニスモとは、スペイン語で「近代主義」を意味し、19世紀から20世紀初頭にかけてカタルーニャ地方に興った芸術復興運動。モンタネールとガウディとは、ほぼ同時代に生きた建築芸術家。彼らを見出し、支援したパトロンがいたバルセロナは、世界的に豊かな都市だったことの証明でもある。 音楽堂の装飾は宮殿を思わせ、「絢爛豪華(けんらんごうか)」の言葉がぴったりする。狭い路地に建っているので、建築物の全体的な撮影が出来ず残念だ。正面玄関のバルコニーには、ベートベンなどの歴史的音楽家の彫刻像達が街角を眺めている。 2011年の秋に、東日本大震災支援のチャリティーコンサートが行われ、集められた募金は日本へ送られたという。また、日本人では最近、坂本龍一氏がこの音楽堂でコンサートを開催した。多種多様な音楽ジャンヌを開催する世界遺産コンサート会場は年間300日働いているそうだ・・。 写真-1 カタルーニャ音楽堂の外観。美しい装飾に身を包まれた建築建物。 写真-2 メインホールを覗く。一度はこの場所でコンサートをしたいと希求する音楽家が多い。 写真-3 。絢爛豪華を誇る世界遺産のコンサートホール。収容人数は2,200人。 写真-4 自然光を取り入れて、輝くシャンゼリア。 写真-5 路地裏に突然姿を現す音楽堂の玄関。
2014年04月18日
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コロラド川が途方もない時間をかけて大地を削り、創造した大峡谷。ひとは畏敬の念を込めて、グランド・キャニオンと呼ぶ。その圧倒的な天と地は、人智を超えている。リム(崖のふち)に立つと、地球の太古へ想いがゆくのは小生だけだろうか・・。 G・キャニオン国立公園は、アリゾナ州北部に位置する。コロラド川に沿って約446kmに伸びる世界で最も雄大な峡谷だ。峡谷の深さは平均1200m、幅が6kmから29kmに及ぶ。むき出しの大地と水垂直な崖は、太陽の光によってその表情を変える。誰もが息をのみ込む絶景・・。 地層は、大きく12層に重なる。およそ20億年前からの積み重ねだという。かつて海中にあった地層が約1000万年前に海抜2700mまで隆起した。東西方向の断層を急流が浸食してきた。いまでも1日40トンの土砂を削り続けているという。将来、モニュメントバレーのようになるかも知れない。 大峡谷には幾つかのビューポイントが用意されている。小生達は先ずマーザーポイトンからヤバパイポイトンまで1.2kmのリム遊歩道を歩く。その後、ブライトエンジェル・ロッジへ。アイスクリームを食しながら大自然にため息する。さらに東側のデザート・ビューヘ移動して、夕日の観賞だ。写真-1 マーザーポイントからの天と地の絶景。標高2600mのサウスリムからの眺め。写真-2 ブライトエンジェル・ロッジ付近からの眺め。地球の博物館と称される大峡谷だ。写真-3 リムの絶壁にひとり立ってみました。現地ガイド「ケンさん」のスペシャルポイント・・。写真-4 大峡谷に落ちる夕日。ウオッチタワーがあるデザートビューからの眺め。
2013年06月02日
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「神々が遊ぶ庭」と称されるヨセミテ渓谷。この渓谷は、ヨセミテ国立公園の面積の1パーセントに満たない21km2ではあるが、唯一観光客など立ち入ることができるエリア。サンフランシスコから336km南西の位置にあり、神秘的で雄大な景色に逢える場所なのだ。 ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ山脈の懐に広がり、面積が3300 km2で東京都の1.5倍の大きさ。その中に巨大な岩峰、雪解け水を集めた無数の滝と渓流が点在している。氷河の名残を残す湖もあり、「自然が造った宝物」とされる。世界遺産に登録され30年が過ぎた。 公園内南側の峰々から流れる水は、マーセド川となり今も渓谷を削っている。2万年前、渓谷は厚さ1000mの氷河に覆われていたが、急速な温暖化により後退した。その際に氷河が高標高の岩肌を削りとった。その岸壁を目の当たりにしているのだ。 ハーフドームは、丸いドームをナイフで縦半分に切り落としたような形をしている。麓から頂上まで1443m(標高2693m)もある。またヨセミテ渓谷の入口に君臨するエルキャピタンは、谷底から高さ1095mで、花崗岩としては世界最大の一枚岩だ。ロッククライマーが憧れる岸壁でもある。 写真-1 センチネル橋からハーフドームを望む。マーセド川が雪解け水を運ぶ。写真-2 落差739mのヨセミテ滝。世界で5番目の高さを有するが、秋には涸れる。写真-3 落差189mのブライダルベール滝。風で舞うしぶきが花嫁のベールを連想させる。写真-4 高さ1095mのエルキャピタン。花崗岩としては世界最大の一枚岩だ。
2013年06月01日
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静かな湾内に2000もの奇岩が浮かぶハロン湾。1994年に世界自然遺産に登録され、風光明媚な景観から「海の桂林」と形容される。ハロンとは、「龍が降りる地」という意味がある。 ハロン湾は、中国の桂林からベトナム北部のニンビンまで続く石灰岩台地が沈降し、侵食作用が進んで現在の姿になったもの。約1500km2の海域にある奇岩のうち半分ほど名前が付いているという。湾を挟んで、東側にホンガイ町、西側にハロン町があり、無数のクルーズ船が行交う。 小生らは、宿泊所・ハロンパールホテル近くの波止場からクルージングヘ出発した。クルーズ船は当ツアー22名の貸切り。船内でシーフード料理をいただきながら、世界遺産を味わう。石灰岩が織りなす奇岩たち、香炉島、闘鶏岩やゴリラ岩を見ながら、時はゆったりと流れて行く。 香炉島は、ベトナム紙幣に図柄になっているシンボル的な奇岩。観光客の人気No.1の岩は、闘鶏岩で夫婦岩とも呼ばれ、各種お土産品に登場する。ゴリラ岩の後方には、ハロン湾を跨ぐ新しい斜長橋が架かかる。日本のODA資金を使い、日本の建設会社が架けたバイチャイ橋(長さ903m)である。写真-1 世界遺産ハロン湾で昼めし。左手に見えるのがカメ岩らしい。写真-2 ハロン湾を代表する「香炉島」。お香を焚く器に見えるというが・・。写真-3 ハロン湾きっての名物「闘鶏岩」。左の岩には斜めに亀裂があり、滑り落ちそう。写真-4 ゴリラが海から顔を出したさま。後方にバイチャイ橋(主塔間435m)が見える。
2012年12月11日
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宿泊ホテルのあるシェムリアップ市から北東約40kmの地に赤い遺跡がある。バンテアイ・スレイ遺跡である。「女の砦」の意味をもつこの寺院は、王朝の摂政役の菩提寺として建設されたという。創建が967年とされ、アンコール遺跡群では古いものだ。 周囲約400mの小さな寺院であるが、外壁が紅色砂岩と赤いラテライトで造られている。そのため優雅で美しい佇まいである。東正面から入ると参道が赤い絨毯が敷き詰められているように見える。硬い紅色砂岩に施された彫刻は、彫りが深く、精密だ。 中央祠堂の壁には、「東洋のモナリザ」と呼ばれるデバター像があった。あまりの人気で、遺跡保存のためロープが張られ近づけない。過去に盗掘事件もあり、現在本物は国立博物館にあるそうだ。アンコール遺跡の中で、一番美しいデバターと言われる。二番に美しいデバター像は撮影できた。 シェムリアップは、人口約17万人の町。内戦が終結し2000年に入り、急速にホテル群が建ち並ぶ。インフラ整備に懸命だ。宿泊所としたケマラホテル近くのレストランで、現在のデバター妃達のアプサラの踊りとクメール料理を楽しんだ。デバターとは、神へ祈りを込め、舞いする天女とされる。写真-1 赤い遺跡「バンテアイ・スレイ」の東門。美しい精密な彫刻が随所に見られる。写真-2 中央祠堂の守門神「ドヴァラパーラ」。日本の仁王像の存在のようだ。写真-3 遠くから眺めた美しいデバター像。望遠で撮影したがうまく撮れなかった。写真-4 左側が「東洋のモナリザ」。[ガイドブックの写真集より]写真-5 レストランの晩餐会。アプサラ踊りとクメール料理を堪能。
2012年12月09日
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