全57件 (57件中 1-50件目)
北欧6か国巡りのブログを2カ月以上に渡って掲載(55回)しました。アップした写真も270枚以上。本人もビックリの「長編」になってしまった。 旅景色の風景・建物、その他についての紹介文、コメントは、ガイドブックや観光冊子を参考にした。現地で調達した案内本、パンフレット、ポストカードは勉強になる。 海外旅行に出発する前は、これが最後の旅になる、として出かける。しかし、半年もしないうちに、つぶやきが大きくなる。相棒が「・・・・に行かないと往生できないよ・・」と。そして、出かけることなる。ボケ防止にはなっていると思う・・。今回の旅景色において、特に印象深い写真5枚をセレクトした。(1) タリン旧市街トームペアの丘・・・エストニア(2) 夏の宮殿大カスケード・・・サンクトペテルブルク(3) エルミタージュと赤御影石塔・・・サンクトペテルブルク(4) 白亜の大聖堂・・・ヘルシンキ(5) 水塞の島ガムラ・スタン・・・ストックホルム写真-1 タリン旧市街のトーンペア丘には、とんがり屋根がいくつも並んでいた。写真-2 ペテルゴフ、夏の宮殿の大カスケード。土木技術が噴水システムを構築した。写真-3 エルミタージュ美術館を見渡す広場に立つ赤御影石の塔。写真-4 エテラ港を見下ろす白亜の大聖堂。写真-5 ストックホルム市庁舎から対岸のガムラ・スタンを望む。
2017年10月03日
コメント(0)
コペンハーゲン沖に戻って来ると、例の洋上風車隊が出迎えてくれる。出港して10日間が過ぎていた。この間、無事に北欧5か国の首都を巡ることが出来た。多少のトラブル、エルミタージュ美術館の迷子者、スウェーデンのバス故障など懐かしい思い出である。 西の空に雲が広がっていた。コペンハーゲンの旧市街が、雲間から差し日差しでくっきりと見えた。特徴的なフレデリクス教会のドーム、クリスチャンスボー城の塔などを確認する。休憩したストロイエ広場と町並みが蘇る。 かつては王宮だったクリスチャンスボー城。その塔の高さは、コペンハーゲン市庁舎の時計台とほぼ同じ高さ。40cmほど上回るという。城内見学と展望台に上る機会はなかったが・・。 寝泊りした部屋を片付け、荷造する秋がきた。14階左舷の船室は、15階のフードコーナーと階段一つの場所。近いので、飲み物と食べ物に不自由することかった。ショーあり、運動あり、快適な船旅。下船して空港へ向い、帰国する・・。写真-1 コペンハーゲンに戻ってきた朝。雲が厚く広がり始めた。写真-2 洋上風力が整列するコペンハーゲン港沖。写真-3 クルーズ船から市内中心と旧市街を望む。写真-4 接岸した埠頭。港の埋立て・拡張工事が進む。写真-5 旧市街で最も高い塔を持つクリスチャンスボー城。写真-6 お世話になった左舷14階の客室。
2017年10月02日
コメント(0)
デンマークの海、グレートベルト海峡大橋の通過と日没が重なった。日の入りと言っても、22時過ぎる時刻。天気が良かったので、大勢の乗客が夕陽をみようと、船のデッキに集まっていた。グレートベルト・リンクは、島国デンマークの東と西とをリンクさせるベルト。 グレートベルト東橋は、首都コペンハーゲンのあるシュラン島とユトランド半島を分断する海峡を橋とトンネルで結ぶベルトのシンボル的な存在。大ベルト海峡(ストア海峡)幅は約18km。その中央部にスプロウエ島がある。この島の東側を東橋、西側を西橋と呼んでいる。 1998年に完成した東橋は、全長約6.8km。その中で、最大支間長を誇る吊り橋は、世界第三位の1,624mスパン。第一位は、ほぼ同じ時期に開通した「明石海峡大橋」の支間長1,991m。 グレートベルト・イースト橋の桁下高さは65m。東京ゲートブリッジよりも10m高い。14.6万トンのゲッタウェイ号が余裕を持って通過できる。グレートベルトを過ぎると、8時間後にはコペンハーゲン港・・。写真-1 大ベルト海峡のスプロウエ島と夕陽。写真-2 グレートベルト・イースト橋の吊り橋。写真-3 吊り橋のアンカー・ブロック部。写真-4 グレートベルト・リンクのシンボルがイースト橋。写真-5 グレートベルト・イースト橋を通過・・。写真-6 グレートベルトをあとに、コペンハーゲンへと進む。
2017年10月01日
コメント(0)
スウェーデンの国会議事堂は、中洲のような場所ある。ガイドブックによれば、中洲ではなく、ヘランズホルメン島という小さな島(長さ250m×幅100m)だ。移動がバスなので、この島の「外堀」沿いを約半周する際、主に車窓からみた風景である。 国会議事堂は、20世紀の始めに建設された石造りの荘厳な偉容だ。四角い建物(東館)と半円状の建物(西館)からなる。二つの建物は南北の通路で繋がっている。使用されている石材は、さくら色を帯びた御影石であろうか。華やかの中に、風格がある色彩である。 東館と西館の間は通路にもなっているようだ。南北の水路を跨ぐ橋が架かっている。ストックホルム中心からリスク橋(めがね橋)を渡り、国会の真中を通り、サタリ橋を渡るとガムラ・スタンに到る。中世色の景色を楽しめる通路である・・。 国会内部は、議会開催期間を除いて、ガイドツアーによる内部見学が気軽にできるという。美術館と思えるほどの彫刻品と絵画が飾っているというが、帰船時刻が迫っているので、サタリ橋は渡らず・・。写真-1 ヴァーサ橋を上流から見る。左手に法務省の建物、右手に国会議事堂。写真-2 ヴァーサ橋付近からガムラ・スタンを望む。左手に大聖堂の塔。写真-3 運河橋からリスク橋を望む。写真-4 ヘランズホルメン島は、「国会島(こっかいじま)」・・。写真-5 重厚な桜色の石造り建物。半円形の西館。写真-6 運河橋から王立オペラ劇場方面を眺める。
2017年09月29日
コメント(0)
ガムラ・スタンから見て、西にリッダー湾、東にストレメン湾。そのガムラ・スタンの北側を迂回する水路がノールストリーム(北運河)である。隅田川の護岸を見慣れている者にとって、護岸が無いに等しく、水面が近い。北欧のベネチアに例えられる理由のひとつが、この親水性だ。 ガムラ・スタンの王宮から対岸の運河岸辺に、グランドホテルと国立美術館が並んでいる。国立美術館前からシェップスホルメン島へ架かる橋は、通称「王冠橋」。王冠の付いた欄干位置は、旧市街を眺める絶景ポイントと云われている。 ノーベル賞受賞者の定宿として知られるグランドホテル。140年前続く名門老舗ホテル。ガムラ・スタンの街並みや王宮を望める絶好のロケーション。ホテルの近くに、群島ゆきのボート乗り場がある。 グランドホテルの湖岸通りに建つ国立美術館。重厚でイタリア・ルネッサンス風の佇まい(1866年に完成)。16世紀から20世紀の絵画、彫刻、装飾品などを展示するスウェーデン最大の美術館。現在は工事中で閉館しているようだ。写真-1 ノール運河に架かる運河橋とその先のハンデルス銀行。写真-2 赤い外壁と緑屋根の建物がグランドホテル。工事用のクレーンが見えた。写真-3 工事中の国立美術館。再オープン予定は2018年。写真-4 シェップスホルメン島に架かる「王冠橋」。橋の欄干に王冠がある。写真-5 グスタフ3世像からシェップスホルメン島を望む。写真-6 王宮の方を見つめるグスタフ3世像。
2017年09月28日
コメント(0)
ガムラ・スタンは、500m四方の小さな島。しかし、この歴史ある古い小島に3つの代表的な教会がある。大聖堂、ドイツ教会、そしてリッダーホルム教会である。ストックホルム市庁舎の展望台からは、3つの尖塔が良くみえる。 ストックホルム最古の由緒ある教会が大聖堂。13世紀に建てられ、幾度となく改築・増築がなされ、現在の形になったのが1480年。教会内部正面に、黒壇と銀の祭壇があり、厳かな空気感。国王・女王の戴冠式や結婚式が行われた教会。 大広場の南にあり、ひときわ高い尖塔を持つのはドイツ教会。16世紀ハンザ同盟の商人たちが建てもの。その後改築がなされて、現在の姿になったのは1887年。パイプオルガンやステンドグラスなどで、華やかな教会。 リッダーホルム教会、ガムラ・スタンに近接するリッダーホルム島にある古い教会。透かし彫りのような尖塔は、ストックホルムのシンボルとなっている。グスタフ・アドルフ2世をはじめ、歴代の国王・女王が眠っている神聖な場所。写真-1 王宮に隣接して建っている大聖堂。写真-2 大広場に通じる路地から見た大聖堂の塔。写真-3 大聖堂の内部。写真-4 赤レンガ造りと緑色の尖塔が特徴のドイツ教会。写真-5 歴代の王族が眠るリッダーホルム教会。写真-6 ガムラ・スタンの3つの教会。
2017年09月27日
コメント(0)
ガムラ・スタン(古い街)の北の一画を占めるのは、スウェーデンの王宮。石畳みの中広場と西大広場が一般開放。広場を囲むのは、重厚な3階石造りの建物。歴代の王族が暮らした宮殿。 初代の王宮は、13世紀中ごろに造られたが、1697年の火災で焼失する。その後1754年にバロック様式で再建され現在に至る。王宮には、何と600室もの部屋があるという。大きなホテルのようなもの。上から見ると南広場を抱きかかえるように、曲線状のウィング建物が配置されている。 ロイヤルファミリーは、1981年からストックホルム郊外の「ドロットニングホルム宮殿」で暮らしている。市庁舎付近の船着き場から、リッダー湾を西へフェリーで約40分の距離。ドロットニングホルム宮殿は、北欧のベルサイユとも称され、世界遺産となっている。今回は残念ながら・・。 王宮の敷地は、ガムラ・スタン(スターズホルメン島)の1/7程度を占める。全周約2kmの小さな島であるが、橋が7ヶ所ほど架けられている。ガムラ・スタンの別名は、「橋の間の街」と呼ばれる。そんな水辺の王宮だった。写真-1 重厚なゴシック様式の王宮建物(1754年築)と南大広場。写真-2 王宮の中広場。写真-3 南側の入口から王宮中広場へ入場する。写真-4 出入り口の装飾と衛兵。写真-5 ノール運河側の建物と庭。写真-6 王宮を鳥瞰。[観光冊子]
2017年09月26日
コメント(0)
ノーベル博物館は、王宮広場の南200mにある。ストールトリェット広場に面する旧証券取引所の1階を改装したもの。ノーベル賞100周年を記念して2001年にオープンした。 館内に入って先ず目に付くのが、天井からぶら下がっているパネルの列。洗濯物を干しているかのように・・。ケーブルウェイに吊るされたタペストリーだ。過去の受賞者900名以上の列がゆっくりと動く。その順番は年代別のようではない・・。この中に、日本人ゆかりの受賞が25名いるはず・・。 来館の記念に、定番のノーベル賞・メダルチョコレートをお土産に買う。入口左側にカフェがあり、軽食とカフェができる。受賞者が椅子の裏側に、白いサインをするのはこの店。そして、祝賀晩餐会に出されたというアイスクリームをいただける。特に、夏は大人気。 生理学・医学賞の山中伸弥博士を検索した。2012年受賞なので、5年が過ぎた。ノーベル賞の賞金(約1.2億円)は、日本では課税されるのか・・。答えは、6分野においてノーベル経済賞のみが所得税を課されるという。この分野での日本人受賞はいない。税務署が残念がっているというお話・・。写真-1 ガムラ・スタン大広場に面するノーベル博物館。写真-2 ノーベル博物館が入る旧証券取引所。後方は大聖堂の塔。写真-3 館内の出入口付近。左側にお土産店とカフェがある。写真-4 天井レールに吊り下げられたタペストリーの列。写真-5 定番のお土産チョコと特製アイスクリーム。写真-6 タッチパネルで山中博士を捜す。
2017年09月24日
コメント(0)
中央駅からヴァーサ橋を渡ると、ストックホルム発祥地とされるガムラ・スタンに到る。ガムラ・スタンとは、「古い街」を意味する。17世紀から18世紀の古い町並みが保存されている。人々で賑わう「大広場」で、スウェーデンの歴史を少し見聞きする。 大広場の中心に噴水跡のような古い施設がある。顔マスクの口から水がチョロチョロと流れ落ちていた。12世紀からある水汲み場らしい。人や馬が集まる処。広場から「中世の小径」、「玉石敷通り」に行ける。狭い通路と古風な建物の間を飛び回る「魔女の宅急便」が出そうな雰囲気・・。 大広場は、「ストックホルムの血浴」の場所と紹介される。1520年、デンマーク支配に抵抗したスウェーデン人百名余が処刑された場所。その後の独立運動に影響を与えた。1523年貴族のグスタフ・ヴァーサが指揮する勢力がデンマーク支配から解放した歴史がある。 広場に面してカラフルな漆喰壁の建物が並ぶ。その中で赤い建物のテラスが、人気の「カフェ・コッペン」。ホワイトチョコドリンクとチョコチーズケーキが有名だという。セットで約1400円程度。あいにく、満席状態で、試食の機会を逸した・・。写真-1 ガムラ・スタンの大広場。写真-2 カラフルな建物が並ぶ。赤い建物の地下に「カフェ・コッペン」がある。写真-3 カフェテラスで寛ぐ人が多い。写真-4 広場中央にある水汲み場とノーベル博物館。写真-5 狭い路地の「中世の小径」。写真-6 支庁舎展望塔から見たガムラ・スタン。[観光冊子]
2017年09月23日
コメント(0)
ストックホルム市庁舎のサイドを緩やかに流れる川がある。否、川ではなく、リッダー湾という入江である。そして市庁舎の対岸に長く連なる丘陵地が、セーデルマルム島。多くの島々が寄り添うように集まる場所、そこがストックホルム市である。 リッダー湾は、広大なメーラレン湖の入り江のひとつ。湖の水は、東流してストックホルムを横断する。そしてバルト海に繋がっている。スウェーデンで3番目に大きいというメーラレン湖は、面積1,140Km2で、琵琶湖の1.7倍の大きさ。 ガムラ・スタンの南に位置するセーデルマルム地区は、長い湖岸線を持ち、さまざまな船舶が停泊する。かつては労働者が住み庶民的な町だった。現在は、学生、芸術家、実業家が屯するエリア。北欧らしい雑貨店・飲食店が集まるエリアとのこと。写真-1 ストックホルム市庁舎緑地より、リッダーホルム島を望む。写真-2 スタッズヒュースブロン船着き場。高い尖塔はクララ教会か・・。写真-3 支庁舎対岸のセーデルマルム島。写真-5 セントラル橋と市庁舎方面。写真-6 リッダー湾とセーデルマルム島の夜景。[観光冊子]
2017年09月22日
コメント(0)
ストックホルム市庁舎の二階に、文字通りの「黄金の間」がある。この広間は、ノーベル受賞パーティの舞踏会を行う場所として世界的に有名だ。1800万枚もの金箔モザイクで飾られた壁は豪華絢爛。 黄金の間の上座に当たる壁面に、聖画を思わせる巨大壁画が描かれている。ストックホルム市西方部に広がる「メーラレン湖」の女王だという。良く見ると、湖に浮かぶ台座の左右に、東洋と西洋なるものを描いている。女王が東西の世界を従え、ストックホルムを抱いて、平和を希求する姿か・・。 モザイク画は、紫外線を長く当てなければ、ほとんど劣化しないと言われている。然るに、国宝級の部屋でも写真撮影がOKである。金箔モザイクは、金箔をガラス板の間に溶かし入れている。そのために、永遠の輝き保つのだという。 長手方向の両壁には、ストックホルムの歴史と歴史を築いた象徴的人物が描かれている。ゆっくり鑑賞するわけには行かない。黄金の間に滞在できるのは僅か。多くの人々に観てもらうためには、仕方がない措置か・・。10年以上の歳月をかけて製作した作品を10分で鑑賞した。写真-1 ストックホルム市庁舎の「黄金の間」。写真-2 東西世界の平和を願うメーラレン湖の女王。写真-3 左図会は西洋の世界、右図会は東洋世界を現わす。写真-4 ストックホルムゆかりの人物モザイク。写真-5 繁栄するストックホルム市。消防活動のイラストが・・。写真-6 青の間側の柱に描かれたモザイク画。
2017年09月21日
コメント(0)
ノーベル賞受賞の祝賀晩餐会を執り行うストックホルム市庁舎。市の行事に支障を与えない日程において、ガイドツアーのみで内部見学ができる。約45分のコース案内に参加する。中庭から庁舎内に入るとすぐそこは、青くない「青の間」。吹き抜けの大ホーである。レンガ壁を青く塗装する予定だった。レンガ壁が、優美に美しかったので、そのままにしたという。100万個の赤レンガの表面は、「たたき仕上げ」。柔らかい音響効果を創り出す魔法の壁だという。 階段を上るとバイキング様式の市議会場。船を組立たような天井と見晴しの良い傍聴席が特徴だ。次に「プリンスのギャラリー」を見て回る。国の王子が外に見える景色を背面の壁にフレスコ画に描いたもの。シャンデリアが点灯していた。LED照明に 毎週、結婚式に使用されるという円型の小部屋は「オーバレーン」と呼ばれる。周囲の壁に、200年前のコブラン織タペストリーが広がっている。タイムスリップしたような空間で挙式をあげると、タペストリーの図柄が一生の思い出になるという・・。写真-1 ストックホルム市庁舎のブルーホール「青の間」。写真-2 青の間は、コンサートホールにも使用される大広間。写真-3 市議会場(議員数101名)と傍聴席。写真-4 船の組立技術によるバイキング天井。写真-5 プリンスのギャラリー「鏡の間」。写真-6 ゴブラン織りのタペストリー。
2017年09月19日
コメント(0)
水の都・ストックホルムにふさわしい市庁舎建物が湖畔に建っている・赤レンガの質感とゴシックの窓をもつ北欧中世風の建物。さまざまな様式を取り入れて、1923年に完成した。 ストックホルム中央駅の西側、徒歩10分の所にある市庁舎。毎年12月10日に行われるノーベル賞受賞祝賀晩餐会場として知られている。テレビ中継の時期は、寒い冬の光景・・。夏に来てみれば、爽やかな水辺の場所だった。 市庁舎の出入口は、メーラレン湖に面している。また建物と中央駅の間に川が流れている。三角州の先端に建っている。水の流れは緩やかで、方向は西から東へ流れる。対岸にガムラ・スタンの旧市街やセーデルマルム島を望むロケーション。 市庁舎には高さ106mの展望塔がある。眺めは良いが、スペースは狭い。一度に30名しか上がることが出ない。展望台の滞在時間は30分ほどに制限されている。火災報知が鳴るトラブルもあり、展望台へ上ることはできず。観光冊子の写真で、上ったことにする。写真-1 ストックホルム市庁舎と展望塔。写真-2 量感ある赤茶色レンガ建物。写真-3 銅板で覆れている屋根とキューポラ。写真-4 中庭を通って内部に入る。写真-5 展望塔から見た旧市街のガムラ・スタン。[観光冊子]写真-6 美しい湖畔の赤レンガ建物。[観光冊子]
2017年09月18日
コメント(0)
バルト海から昇る太陽が眩しいスウェーデンの海。風そよぐ中、ニーネスハムンに8時入港する。ニーネスハムンは、ストックホルムから南60Kmに位置し、大型船が停泊する外港。 日の出は、スウェーデンの領海に入った頃に見た。北北西の方向から太陽が昇る。右舷後方で眺めた。ストックホルム観光も好天に恵まれそうだ・・。気温の上昇が予想される。サングラスと帽子、そしてミネラルウォーターは、必須のアイテムだ。 ニーネスハムンは、接岸する埠頭が小規模な港。可動式の浮き桟橋を渡って上陸する。桟橋がN字形からL字形にアジャストして乗客を迎い入れる。波穏やかな入江ならでの下船風景だ。 D-ゴットランド・フェリー船も同時入港する。ニーネスハムン港からゴットランド島へフェリーが、一日7便出ている。「魔女の宅急便」で日本人にはお馴染みのゴットランド島。廃墟巡りが人気の島だが、当ツアーが往くことはない。但し、デンマークに向かう際に、ゴットランド島近くを航行する。写真-1 スウェーデン沖のバルト海で見る日の出。写真-2 ストックホルム群島が散在する中を慎重に船が進む。写真-3 D・ゴットランド・フェリーも入港。写真-4 接岸前の浮き桟橋の様子。写真-5 下船風景。桟橋をトコトコと歩いて陸地へ渡る。写真-6 ニーネスハムン港に碇を下したゲッタウェイ号。
2017年09月17日
コメント(0)
ヘルシンキ中心街を、半日以上歩き回った後、クルーズ船に戻ったのは14時頃。好天に恵まれ、すがすがしい散歩を楽しむことができた。運動不足を少し解消できたが、足膝が痛くなった。ヘルシンキ出港は16時。5度(たび)、北欧の海原に出る。 フィンランド湾は、東西400kmの細長い湾で、西端でバルト海に繋がる。平均水深は、約40mでそれほど深くない。海域の面積は、瀬戸内海の約1.4倍の3万km2。厳冬期は湾内が結氷する。東の奥から氷はじめ、ヘルシンキ沖では20から50cmの厚さになるとのこと。 ゲッタウェイ号の船首に、派手なイラストが描かれている。人魚姫が波を切って泳ぐ姿だ。何やら片手にモノを持っている。夕陽を受け止めているようにも見える。ゲッタウェイは、2014年ドイツの造船所で就航したバハマ船籍の巨艦。「バハマ文書」の国なので、税金面で有利なのだろう・・。 出航の際、多くのカモメが見送ってくれた。観光客から食べ物をもらえることを知っているカモメ達。銀色に輝く海原へ、「大きな人魚姫」が進んで行く。写真-1 ゲッタウェイ号船首のイラスト「大海を泳ぐ人魚姫」。写真-2 まだ太陽が高い16時にヘルシンキを出航する。写真-3 遠くに、ヘルシンキ旧市街をデッキから望む。写真-4 逆光・銀鱗の水面と小さな島影。写真-5 出港を見送るカモメ達。おやつを求めて群がる。写真-6 遠ざかるヘルシンキ、いやフィランド・・。
2017年09月15日
コメント(0)
ヘルシンキの旧市街に隣接するエテラ港(南港)。となり合うカタヤノッカ島のおかげで、ふところ深い入江を形成している。天然の良港である。エテラ港の印象的な風景を創り出しているのは、海と市庁舎の間に、ずらりと並ぶ青空マーケットだ。活気に満ちた水辺だ・・。 マーケット広場のシンボルは、バルト海の乙女・ハヴイス・アマンダ像と噴水。4匹の魚に乗っかり片手を上げるしぐさで、海を見つめる。噴水池縁は4頭のオットセイ像。1908年に作られ、ヘルシンキの再興を願った像らしい。その9年後1917年にフィンランドは、帝政ロシアから独立した。 旧市街地は、要塞島で守られていた。港から3Km離れたスオメンリンナ島は、世界遺産として保存されている。港入江には、遊覧船の発着場はもとより、大きなフェリー乗り場がいくつかある。西海岸にオリンピア・ターミナルがあり、ストックホルムからのタリンク・シリヤライン船が着く。 青空マーケットで、旬のイチゴとベリーを買いミネラル分を補給する。マーケット広場では食べ切れず。クルーズ船に持ち込もうとしたが、検閲でNGとなる。果物類の持出し・持込みは禁止だった。写真-1 市庁舎・スウェーデン大使館と港の間にマーケット市がたつ。写真-2 マーケット広場のシンボル「バヴィス・アモンダ像の噴水」。写真-3 エテラ港の青空マーケットの様子。写真-4 西岸のオリンピア・ターミナルを見る。写真-5 マカシーニ・ターミナルとオールド・マーケットホールを見る。写真-6 リニュールされたオールド・マーケットホール。
2017年09月14日
コメント(0)
ヘルシンキで最も華やかな所は、エスプラナーデ周辺。おしゃれなショップ、カフェ・レストランが軒を連れ、人出で賑わう大通り。重厚な古い建物が並ぶ通りに沿って、港へ向かって街歩きする。 エスプラナーデ通りは、東西に伸びる緑地公園の北側の道路がメイン。南側の道路は、幅員が少し狭い。一方通行のようだ。西端のスウェーデン劇場からフェリー乗り場に至る約500mをそぞろ歩く。エスプラナーデとは、海岸や川畔の遊歩道という意味があるとか。 マイネルヘイム通りとアレクサンテリンカトゥ通りとの交差点は、ストックマン百貨店とカーブする電車通りにある。その一画に、「三人の鍛冶屋像」が立っている。待ち合わせ場所に重宝する交差点。この銅像は、1932年から立ち続けている。社会の連帯や労働を尊ぶことの意味が込められている。 エスプラナーデ公園は、花や木々、そして休息所のある回廊状の公園。それほど大きくない公園だが、人が溢れる憩の場。北欧の短い夏を、貪欲に楽しむためだろう。港にも近いので、カモメが飛来する。対岸のタリン港と相乗効果を生んでいる港町・・。写真-1 マンネルヘイム通りのスウェーデン劇場を左折すると、エスプラナーデ通り。写真-2 交差点広場の「三人の鍛冶屋像」。写真-3 ストックマン百貨店前を電車がカーブして通る。写真-4 エスプラナーデ通りから中央駅方面を見る。写真-5 カバンの名店・ロンシャンが入る建物。写真-6 エスプラナーデ公園とルーネベリ像。
2017年09月12日
コメント(0)
ヘルシンキ市内の緩やかな丘の上に、UFO円盤が着陸したかのような建物がある。1969年に完成した、福音ルーテル派の「テンペリアウキオ教会」である。別の名前は、岩の教会(ロックチャーチ)と呼ばれている。教会特有の鐘を鳴らす塔は、当然ない・・。教会のスペースは、硬い花崗岩質の岩盤を5mから10mほど鉛直にくり抜き、銅製の屋根をかけている。直径24mの銅板天井と岩盤壁との円周にはガラス窓が張り巡らされている。格子状の天窓から自然光を多く取り入れる設計のようだ。日本の障子天窓の連続させたようなもの・・。 教会内部の壁は、岩盤をむき出しにしている。一部、削孔のノミ跡も見られた。そこには教会的な装飾や聖画がない。岩盤のデコボコ面が音響効果に優れているとのことで、しばしばコンサート会場になるそうだ。教会の多面的な運用を当初から考えていたのだろうか。 周囲を取り巻く岩相・岩脈は、赤みがかったフィンランド特産の花崗岩。花崗岩質のマグマが冷え固まった性状の断面を観ることができる。地質博物館的な側面もある。ユニークな教会造りの一端をみた。観信、関心、感心、のひとときだった・・。写真-1 テンペリアウキオ教会は、ヘルシンキ市内の緩やかな丘の中にある。写真-2 硬い花崗岩の岩盤をくり抜いたドーム型の建造物。写真-3 テンペリアウキオ教会内部の様子。写真-4 天井下の明り採り天窓と二階席。写真-5 銅板の天井が空飛ぶ円盤のよう・・。
2017年09月11日
コメント(0)
高さ48mの時計塔がそびえるヘルシンキ中央駅。フィンランド産の花崗岩を外壁に使用した重厚な建物だ。現在の駅舎は、2代目で1919年に完成。駅前の広場も広く、周りに高層ビルもない。景観を大切にしているお国柄がわかる。 ヘルシンキ中央駅は、ヘテラ港から少し奥まった場所にあるが、地下鉄が駅と港を結んでいる。ヘルシンキ大聖堂から西へ600mなので、駅まで歩いた。南口から駅舎内に入り、見学して回る。19のプラットホームを持つ北欧の要衝鉄道駅。サンクトペテルブルクへ寝台列車が1日1便あるという。 中央駅のシンボルは時計タワーと並んで、球体ランプを持つ石像である。アーチ・エントランスの両脇に巨人像が出迎える。夜になると大きなランプで周辺を照らす。この石像クンは、VR(フィンランド鉄道)のイメージキャラクターでもある。 駅東口広場は、多くのバス停がある。広場を挟んで南北に古い石造りの建物がある。北側にあるのは、灰色の御影石と赤レンガの国立劇場(1902年築)。南側には国指定文化財のアテネウム美術館(1887年築)。この駅から鉄道に乗ってみたいものだ・・。写真-1 ヘルシンキ中央駅の48.5m時計塔は、市内では際立つ高さ。写真-2 ヘルシンキ中央駅の正面玄関。球体ランプを持つ4体の巨人石像が出迎え。写真-3 天井が高く、落ち着いた雰囲気の駅舎内。写真-4 駅東広場の北側に建つ国立劇場(1902年築)。写真-5 駅東広場の南側に建つアテネウム美術館(1887年築)。写真-6 明りを照らすVRの巨人石像。[観光冊子]
2017年09月09日
コメント(0)
ヘルシンキ大聖堂から南東500mの小高い丘に、赤レンガ造りの「ウスペンスキー寺院」が建つ。この寺院はロシア正教会で、ロシア人建築家により1868年に建築された。日本語的には「生神女就寝(しょうしんじょしゅうしん)大聖堂」と書くそうだ。 カタヤノッカ島の西端丘陵地の教会からは、ヘルシンキ大聖堂が見える。白亜の聖堂と赤の寺院。涼やかな白色建物と重厚な暗赤色建物とが好対照だ。エスラ港に面しているので、ライトアップされると、港夜景に彩を添える。 大小13個の黄金色の玉ねぎ尖塔を持つロシア正教会建物。外壁等に使用されている大量のレンガは、クリミア戦争の副産物。破壊された建物のレンガを再利用したとされる。クリミア戦争終結時のロシア皇帝は、アレクサンドル2世だった。 外側の地味なレンガ色と打って変わって、教会内部は煌びやかな宗教芸術の世界。十二使徒を描いたイコノスタシス(聖壁)が二段に並ぶ。天井から差し込む明りで、イコンの装飾が輝いていた。写真-1 橋を渡った岩場の上に、ウスペンスキー寺院がある。写真-2 十二使徒分の黄金尖塔があるロシア正教会。写真-3 外壁部の赤レンガ。写真-4 煌びやかな十二使徒のイコノスタシス。写真-5 中央ドームの天井装飾。写真-6 赤い寺院と白い聖堂。[観光冊子]
2017年09月08日
コメント(0)
ヘルシンキで最も古い歴史地区は、元老院広場(セナーティ広場)。石造り古い建物に囲まれている。北に大石段と大聖堂、東に市庁舎、西にヘルシンキ大学本館と図書館。重厚なクラシカルな雰囲気が漂う大広場。 広場中央に軍服のロシア皇帝・アレクサンドル2世(1855-1881年)のブロンズ像が立っている。彼はサンクトペテルブルクの「血の上の教会」で殺害されている。開明的な君主で、フィンランドにおいても特別な人物だ。立像の台座には、1863年の銘板が刻まれている。議会で演説した姿だという。 セナーティ広場の石畳に使用されているのは赤御影石。約40万個を敷き詰めている。深みのある赤色は、バルモラルレッドと云われ、フィンランドが多く産出する。ブロンズ像の台座にも使われている。 そう言えば、サンクトペテルブルクの宮殿広場の大円柱や聖イサク大聖堂にも、この赤御影石(花崗岩)が使われている。フィンランド赤御影は、大理石に比べて硬く耐久性があると言われている。赤い大広場に白亜の大聖堂。美しくて歴史深い広場である。写真-1 ヘルシンキで最も古い歴史深い「元老院広場」。写真-2 広場中央のアレクサンドル2世のブロンズ立像。写真-3 バルモラルレッド色の石畳みと白亜の聖堂。写真-4 広場東側の支庁舎建物。写真-5 広場西側のヘルシンキ大学本館と広場の石畳み。写真-6 ヘルシンキ大学付属の図書館。
2017年09月07日
コメント(0)
真っ青な空に浮かぶような白亜の聖堂がヘルシンキの高台に建っている。緑色ドームと白い壁、大理石の列柱からなる「ヘルシンキ大聖堂」、町のシンボルである。広場から大石段を上るので、ギリシア神殿を訪れるような感覚になる。 教会建物は、既設の小さなものを30年の歳月をかけて、1852年に完成した。中央ドームを中心に、四方シンメトリー的な「ネオ・クラシック様式」の建造物。ドイツ人の建築家が手がけている。 4つの屋根に3体ずつ、計12銅像が立っている。いや「銅」像ではないそうだ。十二使徒像は、石材や青銅製ではなく、真鍮(黄銅)だという。小さな真鍮の仏像は、日本でも見かける。しかし、これほど大きいものは、お目にかからないのではないか・・。 ルーテル派の本山となっている教会には自由に出入りできる。教会内部の装飾は、シンプルで清楚。或る意味ほっとする空間。正面に「イエスの埋葬」の聖画、入口上部にパイプオルガンがあった。静寂な空気を閉じ込める、そんな白亜の聖堂である。写真-1 大石段の上に建つヘルシンキ大聖堂。写真-2 路面電車道から見た大聖堂。写真-3 ギリシア神殿を思わせる白亜の建造物。写真-4 屋根に並ぶ真鍮製の十二使徒像。写真-5 1200名収容可能な清楚な教会内部。写真-6 エテラ港と大聖堂の夜景。[ポストカード]
2017年09月05日
コメント(0)
複雑な海岸線が創り出す水辺が美しいフィンランドにやって来た。太陽が高い7時前に、ヘルシンキに入港する。接岸するターミナル埠頭は、市街地から少し離れた西側のヤッカサーリ地区。付近では造成工事が行われている様子で、新港のようだった。 ヘルシンキの人口は約64万人。周辺町などを含めた首都圏の人口は110万人。日本の仙台市や広島市に相当する。スウェーデンに650年間、ロシアに100年間、支配された歴史がある。入港する直前に見た「ピフラヤサーリ島」は、昔ロシアの夏の避暑地だった場所。 ヘルシンキは、西のロシア・サンクトペテルブルクに300Km、東のスウェーデン・ストックホルムに400Kmの位置ある。更に対岸にエストニアがある。地勢的に優位な場所。フィンランドの独立は、ロシア革命年と同じ1917年。歴史に翻弄されつつも、繁栄してきた港湾都市である。 トラム(路面電車)が市内をくまなく走るヘルシンキではあるが、中心街へはバスで往復する。クルーズ船会社がチャーターしたリムジンバスで、クルーズカードで乗り降りが可能。降車場所のエテラ港ターミナル付近は、古い町並みの美しい港町だ・・。写真-1 晴天の朝、ヘルシンキに入港する。写真-2 ヘルシンキ・ウエストハーバーを目指す。写真-3 保養施設のあるピフラヤサーリ島。写真-4 ヘルシンキとタリン港を結ぶフェリー2隻が停泊。写真-5 臨時のターミナル埠頭施設のよう・・。
2017年09月04日
コメント(0)
白夜の海を進むクルーズ船ゲッタウェイ号。サンクトペテルブルグ港を19時に出港して、次の寄港地・ヘルシンキを目指す。ほぼ北緯60度線に沿って西へ向けて、300kmの航海。水平線に太陽が沈むのは、ナイト・シアターショが終わる22時半頃。 ダイナミックな茜雲が北の空を覆っていた。北方のフィンランド陸地が雲を作っているようだ。クルーズ船の位置は、ロシアとフィンランドとの国境当りか・・。明日の天気を占う夕焼けだ。晴れそうだ・・。 サンクトペテルブルク、ヘルシンキそしてオスロは、ほぼ北緯60線に並んでいる。これらの都市では、この時期は白夜が続く。地球の軸が23度傾いているためだ。ちなみに、東京の緯度を調べると35度41分、札幌は43度03分。 白夜から連想する言葉として、「白夜行(びゃくやこう)」、「白夜の果て」などが浮かぶ。テレビドラマの影響だろうか・・。赤い雲を見ていると、サスペンス物語での「惨さ」、「切なさ」感を思い出した。写真-1 フィンランド湾に沈む夕陽。7月14日22時30分現地時間。写真-2 北緯60度線で見る「白夜の茜雲」。写真-3 北の空は暗くなることはない。太陽は北に沈み北から昇る。写真-4 シアターのある7階デッキには救命ボートが並ぶ。写真-5 航海地図にクルーズ船位置を示す。
2017年09月02日
コメント(2)
曲線の翼棟が宮殿広場を抱きかかえるように建つ「旧参謀本部」。首都が1918年にモスクワに移されるまで、西翼棟が参謀本部、東翼棟が財務省として使用された。広場から向かって左側(東翼棟)の建物は、改修されて美術館別館となっている。 弓状の長い建物(580m)は、中央部の凱旋アーチで繋がっている。イタリアのカルロ・ロッシュが手がけた左右対称の新古典様式。凱旋アーチの天辺に、対ナポレオン戦争に勝利した記念碑像がある。古代における勝利の女神(ビクトリア)を乗せた6頭立ての騎馬戦車像。 凱旋アーチをくぐると、メインストリートのネフスキー大通りにでることができる。アーチ下に立つと、アレクサンドルの円柱とエルミタージュ美術館を一体で眺めることができる。絶好の夜景スポットのひとつ。サンクトペテルブルク白夜の夜景遺産・・。 世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」には、36件の登録項目がある。そのうち、旧海軍省とネフスキー大通りの周辺に、壮大な歴史的建物24箇所が密集登録されている。1.5日では到底観て回ることはできない。ピックアップした建物を観るしかなかった。写真-1 旧参謀本部の凱旋アーチと勝利の女神の騎馬像。写真-2 宮殿広場から東翼棟の美術館別館入口を捜す。写真-3 地下フロアから2階入口フロアへ石段を上る。写真-4 出口階段を4階から見る。胸のような石段。写真-5 凱旋アーチから宮殿広場を望む。「観光冊子より」写真-6 雨上がりの旧参謀本部。[観光冊子より]
2017年09月01日
コメント(0)
宮殿広場を挟んで美術館本館の向いにあるエルミタージュ美術館別館に、近代西洋画が展示されている。旧参謀本部に向かって左側の建物である。2015年に本館3階から別館4階に引越をした。世界的画家の名作をじかに観ることができる。 宮殿広場に面した小さな入口から入館する。すぐに地下に降りて、間もなく大理石の階段を上ると、2階フロアに至る。エレベーターが完備され、トイレも綺麗だ。各展示室は、本館のような煌びやかさはない。その分落着いて鑑賞できる。 広場側から時計回りに部屋番号が続く。主な部屋番号と画家名は以下のようだ。403号室・・モネ。407号室・・ルノアール。410号室・・セザンヌ。433号室・・ビカソ。440号室・・マチス。441号室・・ゴーギャン。部屋ごとに作品名と製作年を記していた。図-1 美術館別館4階の見取り図。 ガイドに必見作品を案内してもらう。そのひとつを紹介します。ゴーギャンの「果実を持つ少女」[1893年]。タヒチの少女を描いたものだが、絵の左下に文言がある。現地語で「どこへ行くの・・」。すると絵を見た小生にも、声をかけてもらったような気がした。写真-1 ゴーギャンの「果実を持つ少女1893年」。どこへ行くの・・。写真-2 ゴッホの「アルルの女たち 1877年」別名「エフテンの庭の思い出」。写真-3 ピカソの「アブサンを飲む女1901年」。写真-4 セザンヌの「煙草を吸う男1892年」。写真-5 ルノアールの「鞭を持った少女1885年」。写真-6 モネの「庭の女」。写真-7 マチスの「ダンス1910年」。 写真-8 ポール・シニャックの「マルセイユの港 1907年」。
2017年08月31日
コメント(0)
世界各地の名画・傑作を集めたエルミタージュ美術館本館。ガイド付のモデルコースに沿って進めば、珠玉のコレクションを見落とすことはない。そのルートに、レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋、イタリア美術の部屋、およびスペイン・オランダ美術の部屋がある。 ダ・ヴィンチの部屋は、ネヴァ川側の2階214番展示室。一番人気が「リッタのマドンナ」で、ダ・ヴィンチ40歳頃作品。イタリアのリッタ侯爵が最初に購入したのでそう呼ばれる。次に人気なのは、「ベヌアのマドンナ」26歳頃の作品。花を持った聖母とも呼ばれ、ベヌア家が購入したもの。 イタリア・スペイン美術の展示室も2階にある。ここでは、「ダナエ」と「コネスタビレのマドンナ」が必見と云われる。「ダナエ」は、ヴェネチアのティツィアーノの作品で、ギリシャ神話の逸話を絵にしたもの。「コネスタビレのマドンナ」は、ラファエロ1503年の作。コネスタビレ家からアレクサンドル2世が購入したもの。小さいので、ガイド無しでは通り過ぎてしまうかも知れない・・。写真-1 大勢の見学者で盛況な「レオナルド・ダ・ヴィンチの部屋」。写真-2 ダ・ヴィンチの「リッタのマドンナ」。円熟期の作品。写真-3 ダ・ヴィンチの「ベヌアのマドンナ」。青年期の作品。写真-4 ティツィアーノの「ダナエ」。写真-5 ラファエロの「コネスタビレのマドンナ」。写真-6 4種類の動物からなる時計「孔雀」。時刻はキノコに表示される。
2017年08月29日
コメント(0)
ロマノフ王朝の財宝、および国有化後のコレクションであふれるエルミタージュ美術館。収蔵品は、310万点余り。地域別、年代別に展示されている。展示部屋と展示品をすべて見て回るには丸3日間を要するとのこと。当グループは、半日モデルルートをガイド・ワシリーさんと歩く。 見学スタートは、「大使の階段」から。見学人数が多いので、観光冊子の写真を織り交ぜて掲載します。大使の階段は、皇帝に謁見にきた大使が上がった大理石の階段。白い大理石に刻まれた紋章や壁面の装飾が優雅である。 「ギオルギーの間」は、「大玉の間」とも呼ばれる大広間(床面積約800m2)。内周に配置された大理石の円柱と2列のシャンデリアが荘厳さを印象付ける。ピュートル大帝の間は、小玉座の間とも呼ばれ、小謁見用に使われた。玉座の壁には銀糸が織り込んだビロード地が張り巡らされている。写真-1 エルミタージュ美術館内の半日モデルコースに参加。写真-2 見学スタートは、白い大理石の「大使の階段」。[観光冊子より]。写真-3 荘厳な「ギオルギーの間(玉座の間)」。写真-4 小謁見用のピュートル大帝の間。写真-5 機械仕掛けの時計「孔雀」があるパヴィリオンの間。写真-6 ラファエロの回廊。[観光冊子より]
2017年08月28日
コメント(0)
エルミタージュ美術館は、18世紀中頃から19世紀にかけて建設され、5つの建物から構成されている。これらの建物は廊下で繋がっている。その中心となるのが冬宮は、ロシア皇帝の宮殿として造られた。現在、国立美術館・本館ギャラリーとして、室内の装飾品、絵画・彫刻を鑑賞できる。 建物群は、長く大きい。ネヴァ川に沿って西から、冬宮、小館、旧宮、劇場と連なっている。新宮は旧宮の陰になっている。そして冬宮の南側に宮殿広場が広がっている。美術館の入場は、この広場側から入館する。展示室が400室以上もあるので、現地ガイド無しでは迷子になりそうだ。 宮殿広場は、エルミタージュ美術館と旧参謀本部の建物に囲まれている。その大きさは、幅300m×奥行200m。サッカー・コート3面分の広さだ。広場中央部に、高い塔なるものが立っている。対仏ナポレオンとの戦いで、勝利した記念碑・「アレクサンドルの円柱」である。 アレクサンドルの円柱は、台座を含めると高さ47.5m。円柱の天辺に天使像が置かれている。注目すべきは、長さ25.6m×直径3.5mの花崗岩の円柱だ。一体もので重量が650トンだという。この円柱をどのようにして建て込んだのだろうか・・。また地震が絶対に起きない聖地なのだろか・・。写真-1 宮殿広場から見たエルミタージュ美術館。写真-2 宮殿広場から見た旧参謀本部。茶褐色の塔が「アレクサンドルの円柱」。写真-3 ネヴァ川沿いのエルミタージュ・冬宮。写真-4 国立美術館エルミタージュの入口。写真-5 エルミタージュ美術館の鳥瞰。[観光冊子より]写真-6 ネヴァ川と美術館の冬の夜景。[観光冊子より]
2017年08月27日
コメント(0)
キューポラの屋根が寄り添う古ロシア風の教会は、「ハリストス復活大聖堂」。またの名前を「血の上の救済主教会」、スパーナ・ナ・クラヴィー聖堂とも呼ばれている。1881年3月皇帝アルクサンドル2世が暗殺された現場跡に建てられた。その死を悼み、復活を願ったのだろうか・・。 教会内すべての面が聖書を題材としたモザイク芸術品で装飾されている。総面積6,600m2に、308点ものモザイク画があり、文化的価値の高いものが揃っていると言われる。聖画のコレクションと考えれば、世界に類を観ない規模だという。 ロシア正教を信じる人は、教会に行くと十字を切りお辞儀をする。右肩から左肩へ、次に上から下へ。そして、イコンと呼ばれる聖画に向いて祈りを続ける。礼拝時、じっと立ったまま司祭の祈りを傾聴する。強い信仰心が芸術を生む・・。 スパーナ・ナ・クラヴィーは、ロシア正教会建築の遺産とされる。ソ連邦時代、このような様式の建物は、多く取り壊された。その中で破壊を免れた教会だ。現在、世界遺産の構成する建造物である。 写真-1 運河が交差する場所に建つ「血の上の救世主教会(スパース・ナ・クラヴィー)」。写真-2 玉ネギ・ドームが寄り添うロシア正教の教会。写真-3 運河沿いに佇む教会の夜景。[ポストカード]写真-4 中央祭壇とその上の天井モザイク画。写真-5 右隣の祭壇と天井画。写真-6 中央天蓋のハリストス(キリスト)のモザイク。
2017年08月25日
コメント(0)
壁・天井から床まで宗教的な芸術作品が満ち溢れる大ホール、それがイサク大聖堂。堂内に入ると、荘厳華麗の別世界だ。高いアーチ天井を持つこの大ホールは、1万4千人を収容できるという。 主祭壇のイコノスタス(祭壇と一般信者と分ける聖壁)には、数多くのイコン(聖画)がセットされている。絵画はすべて精巧なモザイク画だ。聖画を飾るように、金箔の彫刻像が配置されている。豪華絢爛の巨大なアート・ウォールのよう・・。 金色に映える青緑色の円柱を多数見かける。材質は孔雀石(マラカイト)だという。日本では、銅山で少量産出するとか。主な孔雀石の産地は、ロシアのウラル山地で貴重な石材鉱物。近く見ると、孔雀の羽のような模様がある。 中央アーチの天井画は、「聖母マリアの栄誉」。その上の中心に、平和のハトが飛んでいる。キューポラのドラム部分に、12体の像とその間に人物画が交互に取り付けられている。針があれば、巨大な時計に見える。開かずの南扉(20トン)にも圧倒された。写真-1 荘厳華麗なイサク大聖堂ホール。写真-2 煌びやかな主祭壇のイコノスタス(聖壁)。写真-3 中央ドームの天井を見上げる。写真-4 天井画・聖母マリアの栄誉と中心のハト絵。写真-5 鮮緑色の円柱と濃青色柱の飾り列柱。写真-6 開かずの南扉。彫刻は何かの物語だろうか。
2017年08月24日
コメント(0)
豪華さ、そして重量感あふれる聖イサク寺院。イサク大聖堂ともいう。長きに渡り、帝政ロシアのシンボルだった。現在の建物は、4代目で、1818年から40年の歳月をかけて作り上げた。ネヴァ川河口に近いので、軟弱地盤上に建設するという未曽有の大事業となった。 地盤を補強するために、建物の基礎部に2万4千本の松杭を打ち込み、その上に花崗岩を敷き詰めた。土台づくりに5年を費やし、48本の円柱を建てるのに、更に2年を要したという。総重量30万トンに及ぶ建築材を集めるだけでも凄い。動員された兵隊・労働者の数も膨大なものだろう・・。 大聖堂を取り囲む円柱は、フィンランド産の赤御影石。円柱1本の重量が114トン。直径1.8m×高17mの円柱をどのようにして建てたのだろうか・・。寺院内に足場の模型があった。 サク大聖堂は、キューポラを頂く寺院の中で世界4番目の規模だという。キリスト正教なので、中央に直径20mのキューポラ屋根を持ち、四方に小さなキューポラを配置している。中央ドーム下に人気の展望台がある。眺めは素晴らしいとされるが、その機会は無かった・・。写真-1 豪華で重厚な聖イサク寺院(イサーク大聖堂)。写真-2 ニコライ1世の騎馬像と聖イサク寺院。写真-3 直径1.8m×高さ17mの花崗岩の列柱。写真-4 円柱を建て込む足場等の模型。写真-5 当時の建造の様子。[展示パネルより]写真-6 ライトアップされた大聖堂。[観光冊子より]
2017年08月23日
コメント(0)
ネヴァ川河口の三角地帯の先端にストレルカという岬がある。サンクトペテルブルクの旧市街を眺めることができ、有名な観光スポット。ストレルカのあるワシリエフスキー島は、サンクトペテルブルク発祥の地とされる。しかし川中島のため、出水時交通に難点があり、中心地とはならなかった。 ストレルカ広場に、海戦勝利記念柱が2本立っている。ロストルの燈台とも呼ぶ。帝政ロシア軍がスウェーデンとの戦いに勝利して、フィンランド湾への出口を得た場所。敵軍の船首を切り取り、柱に飾り付けたもので、古代ローマ時代の戦勝記念を踏襲したとか・・。 ストレルカの上流右岸に、星形(6つの陵堡)のペトロパーヴロフスク要塞がある。18世紀に発生した大北方戦争の過程で、スウェーデン軍から土地を防衛するために築かれた。19世紀になると要塞の必要が薄れ、政治犯の収容所になる。レーニン、ドストエフスキーなどが収容された。 この岬から南東側の宮殿橋を渡ると、エルミタージュ美術館、宮殿広場、イーサク大聖堂に至る。宮殿橋は、長さ261m、幅27.7m、5スパンの橋で、中央径間が跳ね上がるのが特徴。但し、車の交通量が減少する夜中のみ。白夜に跳ね上がるところを観るツアーもあるという。写真-1 ストレルカ岬から宮殿橋をみる。中央スパンの橋桁が跳ね上がる。写真-2 高さ32mの海戦勝利記念柱(ロストルの燈台)。年に数日間、火が灯る。写真-3 上流にペトロパーヴロフスク要塞が見える。写真-4 宮殿橋を渡った左側に、エルミタージュ美術館。写真-5 ストレルカ岬とペトロパーヴロフスク要塞の位置。[観光冊子より]
2017年08月21日
コメント(0)
サンクトペテルブルグ港の船着場は、ネヴァ川の三角州の終端にある。その港夜景は、中心街のそれには及ばないが、ロシアの近代化への発展ぶりを垣間見ることができる。4年程前に完成した「西高速直径道路」の光の帯があった。 青く輝くドームの建物は、クレストフスキー・スタジアム。スポンサーの冠名を付けて、「ガスプロム・アリーナ」とも呼ばれる。10年の歳月をかけて、2016年12月に完成したという。開閉式屋根を持ち、収容人数6万8千人のサッカー場。なお建築設計は、黒川紀章氏が担当した。 このスタジアムは、世界一高価なサッカー場(1100億円とも云われる)。しかし突貫工事で建設中の代々木の「新国立競技場」の方が高い。当初の2600億円が高すぎるとの批判にあい、1550億円まで縮減した騒動・・。開閉式屋根を断念して、当時の文部大臣が辞任した。 サンクトペテルブルグの夜景は歴史保存地区が美しい。夏季50日間白夜が続くため、翌日の観光を考えると不可能に近い。美しい運河と優美な建物が彩る港湾都市は、「北のベネチア」と呼ばれる。ナイトクルーズは秋がシーズンのようだ・・。写真-1 クルーズ船からクレストフスキー島とサッカー場を望む。写真-2 サンクトペテルブルグ港の北側を望む。高さ463mラフタ・センターが見える。写真-3 西高速直径道路の光の帯が見える。写真-4 隣のクルーズ船からダンス音楽が夜通し流れていた。写真-5 深夜に跳ね橋になる宮殿橋。[観光冊子より]
2017年08月20日
コメント(0)
5月を過ぎると、ピュートル大帝の屋敷(ドイツ語)を意味するペテルゴフでは、噴水の競演が始まる。フィンランド湾に面する低地(下の公園)には、志向を凝らした噴水が多くある。ペテルゴフ全体で150の噴水と4つのカスケードがある。 噴水は、15m高い宮殿南側から海側の低地に下る水位差を利用している。1717年ピュートル大帝がベルサイユ宮殿を訪問して、噴水構想が芽生えた。その6年後に噴水の放水が始まったとされる。地中には無数のパイプラインが縦横に張り巡らされていることだろう。 噴水に使用する大量の水は、一体どこから来るのだろうか。20km以上離れたロプシンスカヤの丘からもたらされるという。当時の水工学技師が開発した仕組みが今も活用されている。土木工事として、水路21Km、パイプライン21Km、水門26門。まさに土木遺産が噴水群を支えている。 水源は地下湖で、枯れることがないという。その水源を発見していなければ、これだけの噴水を維持することはできなかったとされる。すべての噴水を24時間稼働すると、その水量は1日約3万トン。人口10万人都市を十分まかなえる量だ。水に執着した大帝がいた・・。写真-1 豪快に舞い上がる「イタリアの噴水」。写真-2 古代ギリシャ神殿を連想させる「ライオンの滝」。写真-3 イヴの噴水。水路を挟んで反対側にアダムの噴水がある。写真-4 500個以上の噴水口によってピラミッドが形成。写真-5 「ローマの噴水」。サン・ピエトロ寺院前の噴水を再現したもの。写真-6 ネプチューンの噴水(上の庭園)。
2017年08月19日
コメント(0)
「ライオンの口」から勢いよく、水柱が上がっていた。ライオンの口を裂く勇壮な「サムソンの噴水」である。ペテルゴフの中心施設・大宮殿前を流れ落ちるカスケードの主役だ。 ペテルゴフは、サンクトペテルブルグの南西30kmに位置する。フィンランド湾に面する、ピュートル大帝の「夏の離宮」。総面積1000ヘクタールを超えるその敷地に、20の宮殿と7つの公園がある。 長さ約300m大宮殿は、下の公園と上の庭園の境界に建っている。青く輝く夏の海を見渡せる位置だ。夏の宮殿らしく窓を大きくとっている。また、肌色と白の建物は、左右対称のバロック様式。青空に映える。 大宮殿で最も大きい部屋は、2階の「王座の間」であろうか。西側のウィングには、眩い「舞踏の間」がある。2段の窓と鏡の組み合わせは、部屋を大きく見せる。エカテリーナ宮殿の大広間に似ている。照明の灯った夜、入室するどのように見えるのだろうか・・。写真-1 ペテルゴフ大宮殿と大カスケード。写真-2 ライオンの口を切り裂く「サムソンの噴水」。写真-3 大宮殿からフィンランド湾に続く水路。写真-4 大カスケードを装飾する彫刻達。写真-5 下の公園から華麗な宮殿を見る。写真-6 宮殿西側の豪華絢爛な「舞踏の間」。
2017年08月17日
コメント(0)
長いエカテリーナ宮殿の正面階段ホール東側に、琥珀の間がある。当宮殿の最大の見どころ・・。部屋の三方の壁は、床からフリーズに至るまで琥珀のモザイクで飾られている。温かい黄金色に包まれた異次元の一室である。 第二次世界大戦さなかのレニングラード包囲戦中、すべての琥珀装飾品がナチスドイツ軍に持ち去られた。戦後、しばらく無残な部屋に化した。しかし、1979年から始まった修復作業により、2003年に修復が完了して、一般公開となった。前後してドイツは、琥珀モザイクの一部を返還している。 琥珀は、天然樹脂の化石であり、パワーストーンとしての効果もあるという。バルト海沿岸で多く産出し、ヨーロッパで珍重された。バルト海沿岸には、交易路が整備され「琥珀街道」なるものがある。 日本では岩手・久慈地方が琥珀の産地。久慈琥珀博物館には、いろいろな琥珀の工芸品・美術品が手展示されている。エカテリーナ宮殿博物と「姉妹博物館」を締結しているという。琥珀は暖かくなる石とも云われ、お土産にネックレスを購入するご婦人をみかけた。本当に健康に良いのだろか・・。写真-1 琥珀色に包まれる秘宝の部屋。[観光冊子より]写真-2 琥珀の間の絵画。写真-3 琥珀の間の装飾品。写真-4 100枚以上の絵画が嵌め込まれた「絵画の間」。写真-5 大理石のアレクサンドル1世の書斎。写真-6 古代ローマ風の装いの「緑の食堂」。
2017年08月16日
コメント(0)
エカテリーナ宮殿敷地内へは東側(宮殿教会)から入る。華麗な建物を見ながら横切り、西側から館内に入場する。つまり、控えの間から見学することになる。靴カバーを着けて歩き回る。写真撮影は無フラッシュなら原則OK。但し、琥珀の間では撮影禁止。 建物延長300m以上もあるので、中央玄関を境に東西2回に分けて掲載する。西側には大広間が、東側には琥珀の間がある。いずれの「間」・部屋は、金箔がふんだんに使われて絢爛豪華である。どのぐらいの金の量が使われているのだろうか・・。 大広間(長さ47m×幅17m)は、13対の窓と鏡で輝いていた。舞踏会ができるこのホールは、しばしば映画に登場する。また、江戸時代、アリューシャン列島に漂着した船乗り・大黒屋幸太郎がエカテリーナ二世に謁見し、帰国を許されたという王座の間だという。 王座の間で皇帝に謁見するために待つ、控えの間が3つほど連なっている。いずれも権勢を誇示するかのように装飾が施されている。かつ天井絵も立派。豊臣秀吉の「黄金の茶室」が可愛らしく思えた。写真-1 アラベスクの間。建物の外壁に使われている青色の椅子。写真-2 第二控えの間。黄金装飾の仕切り壁。写真-3 第一控えの間。冬はタイル張りの壁式ペチカで暖まる・・。写真-4 舞踏会やコンサートを開催したという大広間。写真-5 絢爛豪華な大広間の出入口。写真-6 正面階段ホール。飾り棚には中国製の壺と絵皿。 図-7 宮殿内見取り図。
2017年08月15日
コメント(0)
サンクトペテルブルク中心から南東25kmの郊外、プーシキン市に皇帝の村(ツァールスコエ・セローと呼ばれる)がある。その中心にウィングのように、優美・華麗なエカテリーナ宮殿が広がる。頭上に金色のクーポル5つ(玉ねぎドーム)が輝いていた。 エカテリーナ宮殿は、1756年ロココ様式に、イタリアの建築家ラストレッチによって改築された。青い外壁に白い円柱、金箔が散りばめられている。全長325mに渡るファザードの装飾は見事と言うしかない。エカテリーナ2世の「夏の離宮」。少し大きすぎる、維持管理が大変だったろう・・。 エカテリーナ2世(1762年-1796年)は、ドイツ貴族の出身。ピュートル大帝の孫でピュートル3世の妻。夫を無能な皇帝と断じて、クーデターにより自ら皇帝に即位する。機智と才能と幸運に恵まれた女傑。在位中、オスマントルコとの戦争で勝利している。財源を潤したことだろう・・。 宮殿の南側にはエカテリーナ公園が広がり、市民の憩いの場となっている。宮殿に隣接するようにキャメロン回廊がある。この回廊でゆっくりと休憩、そして散策したかったが、宮殿内部の見学に多くの時間が費やされため省略となる・・。写真-1 エカテリーナ宮殿前広場をゆっくりと歩いて、館内見学口へ進む。写真-2 五つのオニオンドーム(クーポル)を見上げる。ロウソクの炎には見えない・・。写真-3 青い外壁に白い円柱、金箔の華麗な宮殿。写真-4 エカテリーナ公園側から青白の宮殿を望む。写真-5 キャメロン回廊を望む。写真-6 ツァールスコエ・セロー(皇帝の村)のパノラマ。[観光冊子より]
2017年08月14日
コメント(0)
フィンランド湾の東付け根に当たるサンクトペテルブルグは、薄い朝霧が漂っていた。かつての帝政ロシアの首都である。皇帝や貴族の宮殿が建ち並ぶ地区は、世界遺産に指定されている。ロシアあっては開放的で、美術・芸術の都と称される。ついに「幻想の都市」にやって来た。 サンクトペテルブルグは、西洋の仲間入りを目指したピョートル大帝の偉業から生まれた。もとは幾筋の流れ込む沼地であった所を華麗な都に変身させた。10年近くの事業を経て、1712年に遷都する。その都の名はペトロブルグ。膨大な労力と犠牲を費やしたことだろう・・。 午前中の気温は19度程度、観光日和だ。サンクトペテルブルグの7月の平均気温は18.8度。湿度を考慮しなければ、東京の5月下旬から6上旬の気候。この時期は「白夜」である。北西に23時頃陽が沈んでも、いつまでも地平線は明るい。そのうち北東から陽が昇って来る。 クルーズ船は、ワシリエフスキー島西端のフェリーターミナルに7時に着く。ここからがひと仕事だ。3000名以上の観光客が一度に、入国審査(2時間立ち続け)を受けることになる。市内に着いたのは11時過ぎ・・。歴史地区で早ランチする。ロシア料理「ビーフストロガノフ」を頂く。感想・・。写真-1 岩礁燈台とコトリン島付近の朝日。トルブーヒン燈台はロシア最古の燈台。写真-2 クロンシュタットを通過。バルチック艦隊の軍港があった島。港まであと約30Km。写真-3 浅霧漂うサンクトペテルブルク。建設中のラフタ・センタービルが摩天楼のよう・・。写真-4 フェリーターミナルからクレストフスキー島方面を見る。写真-5 霞む西高速直径道路。
2017年08月12日
コメント(0)
雨がやんで青空が広がり始めた16時に、タリン港を離れた。出航するクルーズ船のデッキから、雨中を歩いたトームペアの丘、および城壁や聖堂・教会が良く見えた。 フィンランド湾に面するタリンは、対岸のヘルシンキとの距離は僅か75kmほど。箱根駅伝に例えると、大手町から平塚中継所を過ぎた辺りか・・。ヘルシンキとタリン間には、多くのフェリーが往来している。ヘルシンキ空港からフェリーでタリンへ渡って来る観光客が多いという。 タリン港に4つのフェリーターミナルがある。夕刻、大型客船は3隻ほど残っていた。ゲッタウェイ号の右舷に、フィンランド・バイキング・ライン社のエクスプレス号(35,700トン)。左舷にドイツのアイーダ・クルーズ社のマール号(71,300トン)。 ゲッタウェイは、次の寄港地・サンクトペテルブルグへ向けて、東へ進む。タリンは美しいコンパクトな街だ。世界遺産に相応しい町並み。夜景を撮影できなかったことが心残りだ。夕食を早め済ませて、艦内劇場で「バーン・ザ・フロア」ショーを観ることにした。写真-1 海上から見たタリン旧市街・トームペアの丘。写真-2 アイーダ・クルーズ社のマール号。写真-3 バイキング・ライン社のエクスプレス号。写真-4 16時にタリン港を離れる。写真-5 さよならタリンの町よ・・。写真-6 おとぎの国のお城・タリン旧市街[絵葉書]。
2017年08月11日
コメント(0)
タリン旧市街の下町の中心がラエコヤ広場。「ラエコヤ」とは、市庁舎という意味。その石張り広場を、15世紀の商人館が肩を並べて連なっている。カフェのテーブルや露店が並び、旅行者が集う空間だ・・。 ゴシック様式の市庁舎になったのは、1404年の改築(石灰岩を使用)だとされる。以後7世紀近く、この広場の主役だった。見上げると、一風変わった雨樋が突き出ている。王冠をかぶったドラゴンだとう。現在、旧市庁舎はイベント等に活用されている。 広場に面する一画に、創業が1422年という欧州最古と云われる「市議会薬局(Raeapteek)」がある。何故か、店のマークが「蛇が巻き付いた杯」。店内には薬や道具のミニ・ミュージアムが設けられている。菩提樹のハーブティーをお土産にした。 広場から裏手に抜けると、タリン最古のカフェ「マイアスモック」がある。ケーキとチョコレートコーヒーが美味しいという店。窓辺を見ると、ティーカップの観覧車が置かれている。タリンの名物だという。店内は、シックで落ち着いた雰囲気・・。写真-1 下町の中心「ラエコヤ広場」と旧市庁舎建物。写真-2 広場全体が土産・工芸品・洋服などの野外マーケット市。写真-3 昔の商人館と道路沿いのカフェ。写真-4 蛇が杯にとぐろを巻くマークが市議会薬局。写真-5 老舗のカフェ「マイアスモック」。写真-6 金色のティーカップの観覧車。
2017年08月10日
コメント(0)
北欧州において、中世の城壁がまとまっている保存されているのはタリン旧市街と云われる。バルト三国(リトアニア・ラトビア・リトアニア)の中でも、飛び抜けて保存状態が良いとされる。壁厚も最大3mに及び、強固な防塁であった。 トームペア(山の手)は要塞で、下町が防御施設として造られた町。16世紀までに延長2.35kmの城壁と46基の塔があったという。現在でも、80パーセントに当たる1.85kmの城壁が残っている。塔も27基が立っている。赤いとんがり屋根を持つ塔がファンタスティックな雰囲気を醸し出す。 城壁や塔の石積み方法は、日本の城郭の石垣とは異なる。扁平な石片をセメンテーションしながら積みあげている。言わば、レンガ積みの要領だ。500年経ても健在なのは、地震がない証明・・。戦い・占領は数多くあったものの、地震が無いというは住み易さのポイントだ・・。写真-1 タリンの城壁と塔。手前が「乙女の塔」、奥は「台所を覗く塔」と命名している。写真-2 デンマーク国王の庭園そばの石積み城壁。写真-3 城壁上の通路。写真-4 約八割が保存されている城壁。とんがり屋根の塔がアクセント。写真-5 新旧の街並みを分けるヴィル門。写真-6 ふとっちょマルガレータ(中世の砲塔)。
2017年08月08日
コメント(0)
タリン旧市街の丘・トームペアに、煌びやかな教会と質素な白い教会が建っている。玉ネギドームを冠とする威厳のある教会は、アレクサンドル・ネフスキー聖堂(ロシア正教の教会)。訪れた時、雨がやや強くなり、雨宿した。傘をかざして、順番待ちが出るほどの盛況・・。 1901年に建てられたA・ネフスキー聖堂は、エストニア人にとっては複雑な建造物。エストニア建国の英雄の墓の上にあるため・・。帝政ロシアの威力を示すとともに、エストニア人の民族運動を抑える目的を持っていた。現在、首都タリンの人口は約42万人。その約半数がロシア人だという。 A・ネフスキー聖堂には、ロシア艦隊のプレートがある。教会内部は撮影禁止。明治38年(1905年)日露戦争・対馬沖海戦で沈んだバルチック艦隊の艦名もあるようだ。バルチック第2艦隊は、エストニアの隣国ラトビアのリービア港から約半年かけて日本海に至るも敗戦。4800名が命を落とす。 市街地の中心にあるラエコヤ広場に向かう途中、聖ニコラス教会にも立ち寄る。この教会は、船乗り守護聖人であるニコラスを奉じ、13世紀にドイツ商人により作られた。一度戦火の憂き目にあったが再建された教会。現在は、博物館やパイプオルガンなどのコンサートホールとして使用されている。写真-1 一部工事中のA・ネフスキー聖堂。クルーズの観光客が押し寄せた。写真-2 大聖堂側の道路からA・ネフスキー聖堂を見る。写真-3 美しく、威厳あるA・ネフスキー聖堂。[ポストカード]写真-4 A・ネフスキー聖堂内は撮影禁止。[ポストカード]写真-5 質素な聖マリア大聖堂。写真-6 聖ニコラス教会。
2017年08月07日
コメント(0)
エストニア・タリンは雨の中・・。タリン港フェリーターミナルに9時到着。中世らしい町並みが残る美しい古都、タリン旧市街。20年前にユネスコの世界遺産に登録された。旧市街地への観光は、雨具の服装で散策することになった。昼過ぎからは、雨が止み動き易くなる。 旧市街地は、その外周をぐるりと石造りの城壁に囲まれている。所々に城門や城塞が今なお残っている。バルト海東部に位置し、欧州諸国とロシアと中継港と交易で栄えた町だ。デンマーク、ドイツ、ソ連などに支配されながらも、26年前の1991年に独立した。の歌による革命とも呼ばれている。 旧市街地は、下町のローワータウンと山の手のトームペア地区からになる。欧州で最も城壁などの保存状態が良いとされるローワータウン。一方トームペアは、石灰岩でできている丘。教会を中心に石造り建造物が保存されており、中世のテーマパーク的なエリアだ。 小生らは、中世の面影が漂う町並みを一望できる、二つの展望台に案内された。そのひとつウフトゥ通り展望台は、新旧の景色を楽しめる。二つ目のパットクリ展望台は、中世らしい風景を望める。雨に濡れた赤い屋根が鮮やかだった。写真-1 クルーズ船より、トームペア丘を望む。夕方、青空が広がる。写真-2 ウフトゥ通り展望台から旧市街を望む。右上にクルーズ船が見える。写真-3 赤い屋根は、雨で洗われていた。写真-4 撮影ポイント・パットクリ展望台より旧市街を望む。写真-5 城壁下からパットクリ展望へ昇る階段があった。写真-6 美しい丘・トームペア[ポストカード]
2017年08月06日
コメント(0)
バルト海南端に位置するドイツの小さな港・ヴァルネミュンデ。ここからバルト海を北東へ約1400Km進むとサンクトペテルブルグに着く。出航時刻は10時予定。早くできない理由として、大型クルーズ船にとって川幅が狭いのだ。遊覧船などの運行が終わる頃、巨艦のスイッチバック作業が開始する。 夏のリゾート地であるが、古い港町の面影が残っている町。古い水路アルター・ストロム沿いの店舗や木組みの家並、そしてレンガ舗装路などが印象的・・。カモメの鳴き声と潮の香りが旅情をそそる。北の港町で育った小生は、運河と舟を見るにつけて故郷の海を思い出す。 港街だけあって、レストランや露店・船上で魚介類の料理が売りだ。手軽に食することができるバックフィシュが名物。大きな白味魚のフライをパンに挟んで食べるもの。揚げたてのフライは香ばしくて美味しい・・。 広大な砂浜が横たわる町で、「砂の彫刻」を見かけた。作品タイトルの「Moby Dick」とは、「白鯨」らしい。高校時代に読んだ冒険小説。白いマッコウクジラと船長との死闘物語・・。航海中、イルカが見られたラッキーである。 写真-1 灯台ティーポットを中心にヴァルネミュンデの街を望む。写真-2 アルターストロム(古い水路)沿いを歩く。写真-3 街中の煉瓦舗装路を散策する。写真-4 1871年に建設されたレンガ造りのゴシック風教会。写真-5 南バルト海に広がる砂浜。ティーポットより。写真-6 砂の彫刻「白鯨」
2017年08月04日
コメント(0)
ロストック(ROSTCK)の街を貫流するヴァルノヴ川が、バルト海に注ぐ河口に出来た街ヴァルネミュンデ。大型クルーズ船が停泊した波止場から徒歩10分で、小さな可愛い鉄道駅がある。ロストックへは1時間に3本ないし5本運行している。 駅ホームからクルーズ船ゲッタウェイ号がマンションのように見えた。駅前は、お土産店と軽食店が少しあるだけの田舎風駅前風景だ。しかし、少し歩いて運河を渡ると石畳道路と木組みの家並みが続く。運河には小型のヨットやボートが数多く泊まっている。 運河を渡る際、古い小さな橋を渡る。この橋は、1900年に架けられ、その後改修が行われた「旋回橋」だ。橋を90度回転させることにより、船舶が通過できる。橋の両端に大きなハンドルがあり、人力で回転できそうにも見えた。あまり可動しているようには見えない・・。 ヨーロッパでは小さな川や運河でよく見かけるという旋回橋。日本では、宮津・天の橋立の廻旋橋が有名。小規模水路と人の往来の少ない交差点では、土木遺産として残っているのだろ・・。写真-1 ヴァルネミュンデの鉄道駅と町並み。写真-2 主要都市ロストックに連絡する列車。写真-3 ヴァルネミュンデ駅前広場。写真-4 鉄道の先に建っているのはマンションではない。写真-5 駅傍を流れる運河に架かる旋回橋。写真-6 電動で旋回する宮津・天橋立の廻旋橋。
2017年08月03日
コメント(0)
ドイツ・ヴァルネミュンデ港に近づくと、赤・緑・ベージュ色の3つの灯台が目に入る。赤灯台(東)と緑灯台(西)との間は、250mほど。クルーズ船の長さより短い水路幅だ。ヴァルネミュンデ港は、ヴァルノヴ川の河口に築かれた出城のような港町。本城は、河上流10kmに位置するロストック市。 ヴァルネミュンデには3kmの砂浜がバルト海方面に伸びている。従って、小さな漁村からロストックなどの保養地として発達した町(人口8,700人)。ロストックは、東ドイツ最大の港湾都市(人口20万人)。ロストックは、訪れたい場所だったが、時間がなかった・・。 両市町を結ぶ遊覧船やロストックからのバルト海を就航するフェリーが次々と行き来する港だ。昔栄えたと思われる鉄道もある。クルーズ船の到着に合わせて、臨時の列車が待機していた。 町はずれのビーチ傍に古い灯台が立っている。1897年に造られたレンガ造りの高さ37mの灯台。もちろん螺旋階段を昇る。紅茶を炒れる急須に似ているので、現地では「ティーポット」との愛称で呼ぶ。近くに帽子の鍔のような屋根を持つパビリオンがあり、土産店や軽食店がある。写真-1 朝7時にヴァルネミュンデに入港。ヴァルノヴ川河口に赤と緑の灯台が待っていた。写真-2 アルターストロム(運河)と砂浜と街並みをクルーズ船より望む。写真-3 ヴァルノヴ川突端の灯台とスカャンドライン・フェリー。写真-4 町のシンボルの古い灯台・ティーポット。写真-5 灯台の築造年を示す紋章プレート。写真-6 ティーポット内側の煉瓦状態。
2017年08月01日
コメント(0)
クルーズ2日目、ドイツ・ヴァルネミュンデに向かう途中、デンマーク南端ロラン島沖で日の出を迎えた。この海域は、バルト海の西端に当たる。更に東へ進むと奥深いバルト海への本格航海となる。今回クルーズにおける初日の出だ。 平たい島影をバックに無数の洋上風車が建っている。さすが風車大国デンマークである。島影はロラン島で、佐渡島の1.5倍の広さ。島の人口は6万8千人。最高標高は25mなので、風が吹き抜ける平島だ。ちなみに佐渡島は、人口約5万8千人、最高標高が金北山の1172m。 ロラン島の電力は、すべて自然エネルギーで賄われている。自然エネルギー100パーセント、自給率600パーセントとも云われている。隣のファルス島と併せると500基もの風車があるという。余った電力は、対岸のドイツなどに輸出しているとのこと。 ヴァルネミュンデの着港は、3時間後の7時予定。寝不足と時差ボケで体調はイマイチだが、日課とする朝ランのため、トレーニングルームに向かう・・。14階には24時間いつでも飲めるコーヒー、ジュースが設置されている。嬉しい14デッキである・・。写真-1 夜明け前のロラン島沖の朝焼け風景。写真-2 朝焼けに船と風車のシルエットが浮かぶ。写真-3 平な島・ロラン島から朝陽が昇って来た。写真-4 バルト海西端の朝景。写真-5 ゲッタウェイ号の16デッキから日の出を見る。
2017年07月31日
コメント(0)
バルト海クルーズは、コペンハーゲン港から始まる。クルーズ船の名前は、ノルウェージャン・ゲッタウェイ。総トン数145,650トン、乗客乗員定員数(3963+1646)名、デッキ数18の超大型船。17時に出航。北欧の日没は遅い(22時頃)。好天に恵まれ、16デッキより出航を見守った。 出航して間もなくして、海上に風力発電の風車群が現れた。高さ70mほどの風車が一列に20基並んでいる。2000年に完成したミドルグロン風力発電所(総出力40MW=20基×2000kw)。電力会社が10基、残る10基をコペンハーゲン市民1万人が出資しているという。 これら20基の発電量は、首都需要電力の3パーセントを賄っている。デンマークは海と島と風が豊かな国。今後国策として、風力発電に力を注ぎ、電力を輸出する壮大なプランを待っている。当初懸念された漁獲量減少や渡り鳥への影響もないようなので、海が電気を作る畑になりそうだ。 風車の奥に、海峡横断の橋梁が見えた。デンマークとスウェーデンを繋ぐ「オーレスン大橋」。全長16km、2000年。船が航行する中央部が斜張橋(スパン長490m×桁下57m)。ちなみに超大型客船が潜れない東京湾レインボーブリッジは、スパン長590m×桁下52mである。写真-1 コペンハーゲン港フェリーターミナルで出航を待つノルウェージャン・ゲッタウェイ号。写真-2 コペンハーゲンを出航。バルト海クルーズが始まる・・。写真-3 コペンハーゲン沖合に整列する洋上風車群。写真-4 風車の遠方にオーレスン大橋が見える。写真-5 2,000㎾の風車が 20基並ぶ。
2017年07月29日
コメント(0)
全57件 (57件中 1-50件目)