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前に「人間学ノート」その(5)を書いてから大分日にちが経ってしまいました。毎週火曜日に開かれている「勉強会」の感想を元に書いていたのですが、その「勉強会」がほぼ一ヶ月お休みだったためもあります。 この間、いろいろな別の観点での日記を書いていますが、表題は違ってもかなりの部分が共通していることが読み返してみると分かります。 昨日、久しぶりにこの「勉強会」が開かれまた参加してきました。 昨日のテーマは「日常の出来事と私たちの受け取り方・態度」あるいは「日常の出来事と、それに対する考え方」というテーマでした。 これもずっと一貫して書いている「自分にとっての現実は、自分で作り出している」ということの応用というか、じゃあ実際どうするの?という面でも勉強です。 この感想は置いておいて、実は、昨日から書いている「雲 黒斎さんのブログ」で、こんなことが書かれていました。 <守護霊> 今は、こういった「霊的に覚醒する人が増えているし、今後はますます増えるだろう」 この、「霊的に覚醒する人が増える」ということ自体は、スピリチュアルの本の中では、例えば、「アクエリアン革命」に代表されるような、ひとつの新しい精神的な時代が始まろうとしている、という趣旨の内容が1990年代から次々に出ていますので、ああ、またか、という人も居られるでしょう。 ただ、私が参加している「人間についての勉強会」も、こういった「霊的覚醒」を目指したり、直接の目的とはしていませんが、参加されている方がだんだん増えてきているようです。 で、今日、ふと考えたのは、こういったことがなぜ起こりつつあるのか、ということ。もし、霊の世界が存在し、そこから見た「人間界」あるいは「現象界」の存在と、「人間体験」の持つ意味というものが、私が考えるようなものだとしたら、という前提で考えると、この、今の現象は、少し穏やかなものではなくなってしまいます。 というのは、この「覚醒する人が増える」あるいは、人間の生き方を真面目に考える人が増える、というのは「良い事」なんですが、これらはある意味、「あの世」からのサポートを受けて生じている現象だからです。 で、なぜそのような現象を「あの世」がサポートするのか、という理由を考えると、論理的に一つの可能性が浮かび上がってきます。 その可能性というのは、「人間界の存続が危ない」というものです。これは「現象界の存続が危ない」というのとは違い、一地球という限られた空間に存在する「人間存在」あるいは「人間経験」が危機に瀕している、ということです。 宇宙から見ればたかが人間、その人間がどんなことをやろうと、それとは関係なくえんえんと続いていくと思いますが、それを認識する「人間という存在」が、もしかしたら消滅するかもしれない、という危惧を、「あの世」では抱いているのではないか、と思える節があります。 かなり飛躍しているかもしれませんが、これは単なる想像という以上に、ことあるごとに、啓示を受けたり、霊感を受ける人たちが受け取るメッセージにも現れています。 「もう時間がない」「今のままでは遠からず、人類は引き返すことが出来ないところまで行ってしまう」、こういった警告は、たびたび行なわれています。 そして、全然、こんな霊的なことを考えない「普通の人」の間においてさえ、今の地球が、あるいは「人類」が、このまま行ったら、果たして未来はあるのか、ということがいろいろな面で議論されてきています。 2050年には世界人口は100億人を超え、今まで尊重されていた「物質中心」「経済中心」主義の見直しなくしては、地球が、また人類はもたない、という議論は、単にエコロジーの分野だけではなく、人口問題、食料問題、エネルギー問題、地球環境問題、そして何よりも「人間としての精神的成熟」の問題として、いたるところで議論が交わされています。 これらのことは、はたして互いに無関係なのか? 私には、すべて密接に結びついているように思われて仕方がありません。 そうすると、日々、このようなことを考えている「自分」というものも、知らず知らず、この流れに巻き込まれている、というか影響を受けているのかな、と。 今日、ふと思ったことを書いてみました。 本当は、だったらどうなんだ? という所が一番肝心なところなんですが・・・・・・
2011.09.29
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昨日の続きで、雲 黒斎さんのブログの感想を・・・。 このブログ2006年からだから、すでに5年も続いていて、これを読むのは大変です。 まだ3ヶ月分しか読んでいないんで、その範囲での感想ですが・・・・・。あ、それにコメントがものすごい数が入っていて、そのコメントを読んだ方がいいようなんですが、そんなことをしているとますます時間がかかるので、とりあえずはコメントは全てすっ飛ばしています。 で、今日の感想は、先日このブログの9月8日に書いたラズローの「生ける宇宙」の話にダイレクトに繋がる話。 ちょっと、その部分を引用するとーーーーーーーーーーーーー引用ーーーーーーーーーーー<守護霊>『物事を、バラバラに考えることを改めてみなさい。全ては、一つのものなんだから。』というもの。<黒斎さん>「それはどういう意味? “偶然は無く、全ては必然”っていう話の延長?」<守護霊> 『当然、その話にも繋がるが、もっと根源の部分で、宇宙のすべてのものは一つなのだよ。それでは、はじめようか。』『この世も、あの世もひっくるめて、神が作ったあらゆるモノは、元々、同じエネルギーで出来ている。そのエネルギーの状態の変化により、物質となったり、霊となったり、電波となっている。有機質のものも、無機質なモノも、すべて大本は同じものからできあがっているんだ。』『万物の根源をなす、それ以上分割できない要素。人間はこれを「元素」と呼んでいるが、この元素の「さらに素となる根源」は一つの同じエネルギー体だ。全く違うモノに見えていても、バラバラのものではないんだ。』『水が、その状態を「液体」「気体」「固体」と姿を変えるように、このエネルギー体は、波動の違いで、あらゆる要素へその姿を変える。』『人間も、霊も、動物も、植物も、目に見えないあらゆるものも、その根源は同じ「エネルギー」。』『このエネルギーが、お互いに影響しあって、全ての現実は成り立っている。』ーーーーーーーーーーーーー引用 終わりーーーーーーーーーーーこの「守護霊」とか「黒斎さん」というのだけ、私が付け加えています。誰の発言か、というのをはっきりさせるためですが。 で、ここで書かれている「守護霊」さんの話と、先日書いた量子力学から導き出される最新の「宇宙像」というのが、読んでもらえばわかりますが、ぴったり重なります。この「全ては一つ」という考え方は、スピリチュアル系では珍しくもなんともなく、ごく普通の事ですが、それをエネルギーで説明している内容が、量子真空やゼロ・ポイント・エネルギー場と言われる「場」を「ひも理論」の延長で説明しようとしているラズローのAフィールド理論とほぼ一致している、という点ですね。 今のところ、この「守護霊」さんが言われている、「あの世の仕組み」も「この世の仕組み」も、人間の幸せとはなにか、人間が何のためにこの世に生まれてきているのか、そういった面での説明は、上の「全ては一つ」という話だけではなく、かなりの部分、私が持っているイメージと一致しています。「かなりの部分」ということですから、全部、ではありません。 これは当然、このブログを書いている雲 黒斎さんの知識と語彙の範囲でしか、この「守護霊」さんと言えども話が出来ないんで、それは仕方がない差でしょう。 いずれにしても、今のところ、私自身が全然別の方面から自分なりに作り上げてきた「宇宙像」というか、「この世」と「あの世」を含めた「世界像」とかなり重なっていることは確かです。 この方も、この「守護霊」さんとやらにトレーニング、それも超スパルタ・トレーニングを受けて、もがき苦しみながらこのブログを書いているようなので、今後はまただんだん変わって行くのでしょうね。 もう少し追いかけてみたいと思います。
2011.09.29
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昨日の日記へのコメントで、ある方からコメントを頂戴し、こんな人のブログを知っているか?と言われ、お二方のブログの紹介を受けました。 実はどちらも全然知りませんでした。こちらでは日本のTVもないんで、そんな対談みたいなものがあるのも知りませんでしたし。 その紹介された二人の方のブログ、お一人は「あの世に聞いた この世の仕組み」というブログの雲 黒斎さん、もうお一方はなんとアメブロで私が使っていたニックネーム「いまここ」という同じペンネームを持つ阿部 敏郎さんという方。 今までの日記を見た方はお分かりのように、かなり「興味」の分野が重なっているので、さっそくまずは「黒斎さん」のブログから読み出しています。 しかし、「雲 黒斎」なんて、まあ照れ隠しなんでしょうけれど、すごい名前をつけたものですね(笑) せめて「亜 億歳」ぐらいの名前にすればよかったのに、なんて思っちゃいますが^^; それはともかく、この方は突然「守護霊」さんと交信できるようになった経緯から、その内容と、その「守護霊」さんによる指導のもとに「精神世界」系の本で勉強したことを加えながら、「この世の仕組み」を書いているのが、このブログのようです。 まだ読み始めたばかりですが、今のところ、「この世の仕組み」として説明されていることに関しては一貫していますし、私が理解ししていることとほとんど重なっています。 逆に言えば、特にこれと言って目新しいことは出てこないんですが、私のような耳学問ではなくて、この方自身が交流して、このような内容を書いているんですから、それはやっぱり具体性が違いますね。 特に、「霊」としての存在との交信で、その「思い」が直接、脳に伝えられるので、それを自分なりに翻訳することが必要で、その翻訳に際して自分自身の知識が制約となってしまう、という、初めの書き出しには、すごくこの方の正直さ、誠実さを感じます。 私もまさにその通りだろう、と思うからです。 先日来、この日記に書いてきた、例えば聖書に出てくる預言者たちの言葉。 こういったものも、もしかしたら本当に「啓示」を受けたのかもしれない、しかし、その啓示を啓示として受け止める際には、この人自身の知識、理性の制約、あるいはフィルターと言ってもいいのですが、そのフィルターを通さざるを得ない。 だからこそ、「聖書に書いてあることは全て真実だ」とは言えない訳です。神や霊がいわんや啓示をしたとしても、受け取り手である人間が、その解釈において理解できないことは理解できないし、その知識の制約から間違って解釈することはまま有りうるからです。 その点において、この「雲 黒斎」さんという方は、その限界を自分で認め、その上で、読む人に、全て鵜呑みにしないように、これは私の今現在の解釈にしか過ぎませんから、とたびたび断っています。 そのとおりでしょうね。 また、ひとつ、暇つぶしではなく、真面目に読んでみたいブログをご紹介いただきました。 一通り、このブログを通して読んでから、また再度コメントしたいと思います。
2011.09.28
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水前寺清子の365歩のマーチ(古い!笑)じゃないですけれど、最近一日一歩だなあ、と・・・・・ でも、あの歌、「365歩のマーチ」なんですけれど、どうもその由来は「一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる~♪」から来ていると思うんですが、これじゃ三日で一歩しか進めないから、一年で100歩ちょっとしか進めないよなあ・・・なんて、バカな私は考えてしまいます^^; で、今日のタイトルは「一年で100歩?」ということに(笑) 最近(と言っても、今年の1月1日からですが)ピアノを始めて感じるのが、ホントこの歳になっても毎日練習すると昨日より今日、今日より明日、と一日一日で進歩している実感がつかめるんですねえ~、これが。 今はかなり低レベルでやっているから多分そうなのだと思います。ギターなどは、毎日やっても、昔取った杵柄ならぬ、昔弾けた曲すらも弾けないし、それを弾くためにはまたかなり戻って練習し続けないと弾けない。 つまり、あるレベルになると、「練習」そのものが「上手くなるため」よりも「レベルを維持するため」に相当部分が費やされてしまう、という感じでしょうか。 私の今のピアノのレベルは、10分ぐらい練習すると、すぐに「現状維持レベル」になるので、それからの練習は全て「多少とでも向上するため」の練習になります! これがいいんですねえ。 そのうち、やってもやっても、一日高々1時間やそこらでは、そのレベルを維持するのに精一杯、という日が来るんでしょうけれど、まだまだそこまで行っていない。 これはむしろ喜ぶべきことじゃないか、と感じます。 なにせ、一日練習すると、前日には出来なかった事が、ホンの少しでも出来るようになる、ということが実感できるんですから。 一日での差は小さいのですが、これが一週間ともなると、ふと気づくと結構な違いになっています。 それは自分でも驚くほど・・・・。 たぶん、新しい曲の弾き始めは、誰でも同じでしょうけれど、少しずつ弾ける箇所がまず増えてくる。 そして、次には一応楽譜を追えるようになると、全然曲になっていないところから、一小節ずつでも、だんだん繋がってくる。 そして最後には全部の小節が繋がって、曲がりなりにも曲らしくなる・・・。ここまでは、本当に一日一日で違いがはっきり出ます。 で、問題はここから(笑) ある程度「曲」になってくると、次に自分でそれを聴いてみると「とてもじゃないけど聴けない」レベルの演奏だな、と思うわけですが、そこから「なんとか聴けるレベル」にする、という練習が始まると、とたんにその進歩が遅くなる気がしてくる。下手をすると、2、3日弾いても、これで上手くなっているのか?と思う日もあるわけですが、不思議なもんで、それでも一週間ぐらい経つと、やっぱり少しは上手くなっていることに気づくわけです。 たぶん、今は一週間ぐらいでその実感がつかめるんですが、これから段々と曲の難易度が高くなると、この間隔が長くなっていって、そのうち一ヶ月ぐらい弾き続けると、やっと向上した、という実感がつかめるレベルになるんだろうな、という気がします。 なにはともあれ、初めに書いた「三歩進んで二歩下がる」じゃないですけれど、一日、二日休むと、あれ、っと言うぐらい下手になっているのがわかるんで、これはやっぱり少しずつでもやるっきゃない!! こんな、日々向上が実感できる、なんて、最高にステキなことですよね。 これはピアノに関して書きましたが、それ以外のことでも同じでしょう。 スポーツに例えれば、例えば自分はバックハンドが苦手だ、とテニスをしていて思ったら、毎日その苦手なバックハンドを練習すれば、一週間で見違えるようになるのは請け合い! 勉強でも同じでしょう。 記憶力の衰えや、集中力の衰えはさすがに隠せないけれど、それでも、一日一歩、一年で100歩。 一年経ったら、100歩先を歩いているわけです。 さあて、今日の一歩、何をしよう・・・・・・・
2011.09.28
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というテーマで一度書きたいなあ、と思っています。って、今思いついたんですけど(笑)「宗教」に関する話題は、日本ではどちらかというとタブーに近いような気がするんですが、その原因は恐らく、それによって人間関係が壊れたというような経験を持つ人が多いからでしょうか。 日本のこの状況はかなり特殊で、世界の中では宗教の話はかなり積極的に話がされ、「神」あるいは「神様」という言葉も日常的に出てくる方が普通でしょう。 日本で、「神が」とか「神様が・・・」と言ったとたんにドン引きされたりするんですが、いい事なのか悪い事なのか・・・(笑) もちろん、ここで言う「宗教」は、「信仰」とは区別して使っています。 私的には、日本人の宗教嫌いも、それが即「信仰嫌い」とはならない、と思っています。 じゃあ、信仰はともかくとして、私自身、「宗教」というものをどう観ているか、ですが、はっきり言って、今までは「無宗教」という言い方をしてきました。 どの宗教にも属さない、という意味です。 でも最近は、どうも私の宗教観は「無宗教」というよりも「アンチ宗教」に傾いているような気がしています。 宗教の良い点。 それは「信仰」との間に見られます。 信仰が人を救うことがある、ということを認めますし、その「救われた人」は自分の体験から、如何にその「信仰」が素晴らしいかを人に伝えたくなり、その伝える(つまり伝道)場として、あるいは自分の受けた「恩恵」を人と分かち合う場として、宗教の場、つまり教会とか寺院というのは一定の役割を果たします。 そういった「信仰」とそれを人とシェアすることの素晴らしさを認めた上で、なおかつ、「宗教」に対して、だんだん否定的になる自分が居ます。 これは多分に社会学的、倫理的、そして、何よりも民族的な面でのマイナス面があまりにも大きいからです。 先日、教会で、ある女性と話をしていました。 すると彼女は、上〇大学を卒業し、今、ここアトランタのエモリー大学の神学部に留学しているとのこと。で、その専門は「宗教社会学」。 そう言えば、上〇大学もキリスト教系の大学でしたね。フランシスコ・ザビエルのイエズス会系に繋がる歴史をもっていますから。 それはともかく、宗教社会学については全然学んだ事もなく、これと言って本を読んだ事もありませんが、有名なマックス・ウェーバーがある面、古典と言ってもいいでしょうし、彼はニーチェと同様、ヨーロッパの文化を、ある意味キリスト教神学のくびきから開放することに一生を捧げたような印象があります。 そういった「宗教社会学」を、クリスチャンという立場で学んでいる、ということですから、ぜひ今度また話を聴きたいと思っています。 同時に、一度マックス・ウェーバーの著作、あるいはマックス・ウェーバーの宗教社会学入門的な本も読んでみたくなり、早速、「自分の本棚」に登録。 これで、本棚の中の「読みたい本」は45冊を超えてしまいました。 これって、いつ読めるんでしょう?(笑)
2011.09.27
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ハイブリッド車を買ってから、ひとつ楽しみが増えました。それは、「どれだけ良い燃費で走れるか?」という競争です。 たぶん、ハイブリッド車を買う人はほとんどがその「燃費」がいいから、ガソリン代が節約できるから、という理由で買っていると思うんですが、でも車の運転によっては当然、燃費はよくなりません。 車には向き不向きがあって、例えばレーシングサーキットにプリウスを持ち込んで、思いっきり速く走り、その後を3LのBMWが同じ速度で追いかける、という実験がYouTubeに載っていましたが、この時の燃費はBMWの方が上!!つまり、ハイブリッド車は当然重いので、電気モーターをほとんど使わないような高速走行や急発進、急加速などをやるんだったら、普通の車にさえ燃費で負ける、というわけです。 なので、ハイブリッド車はハイブリッド車なりに、燃費のよくなる運転というものがあります。 それを忠実にやると、驚くほど燃費が良くなる。 カタログでは、市街地34マイル/ガロン、高速33マイル/ガロン、となっている燃費性能を、実際の日常でどこまで越えられるか、というのが一つの楽しみ。 さすがに高速は、あまりハイブリッド車らしさを出す運転は出来ません。出来るのは、ただ急加速をできるだけしない、というぐらいのことなんで、このカタログ値とほぼ同じような燃費になります。 気をつけて運転すれば、それでもこれを上回ることは可能です。 一方、市街地の方は、これは発進、停止、加速、減速、すべてのモードがからむので、運転の仕方によって極端に変わります。 で、目標は、当然、最低でもカタログ値のガロン当たり34マイルをクリアすることですが、それはすぐに達成できるので、次は、それをどこまで上げられるか、になってきます。 この車、実は妻と交代で乗っているんですが、「今日は36マイルまで言ったよ」と言うと、翌日には妻が「37マイルを超えたよ」と嬉しそうに報告する・・・・ じゃあ、と、次に乗る時は、ほとんど常時40マイル/ガロン以上をキープして走ると、通算の燃費が37.5マイルになる。 この燃費は一回一回の燃費ではなくガソリンを補給してからの通算燃費なので、一度の運転でていねいに運転しても、この数字はすぐには良くならない。 毎回、丁寧に運転することで、少しずつ良くなる、という感じ。 今日車を運転し始めたときはこれが39.7マイル/ガロン! すでに200マイル以上走っていてこの数字だから、これはなかなかこれ以上にすることは難しい。しかし、挑戦しました。 教会への行き帰り、いわゆる「じいちゃん・ばあちゃん」運転、つまり、ゆっくり加速し、出来るだけブレーキを踏まない、という運転に徹しました。結果、家に帰りついたときの通算燃費は40.1マイル/ガロン!! カタログ値のほぼ20%アップです。 これを維持するのはたぶん相当難しいでしょうが、一回一回運転するたびにチャレンジして、燃費の記録に挑戦するという、楽しみながらガソリン代を節約する、という一石二鳥の「燃費競争」。
2011.09.25
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「現代物理学の基本原理に対する挑戦だ」 これは、ある新聞記事に出ていたある物理学者のコメントです。昨日の「光より速いニュートリノ」のニュースは世界に衝撃を与えました。私自身もかなり興奮して、寝るときにも、もしこれが本当だったらどうなるのだろう?と想像を膨らませたものです。おそらく世界中で何万、いえ何十万人の人が同じような興奮を覚え、中には興奮のあまり寝られなかった人もいるでしょう。それだけ、この観測は衝撃的だったからです。すでに何千、何万という物理学者が、この測定結果の検証に動き始めているはずです。とにかく世紀の発見といってもいいくらいの発見で、今後の物理学の方向さえ左右しかねないわけですから当然でしょう。実験物理学としては、光の速度は観測者の速度にかかわらず常に一定だ、という結果を出した、かの「マイケルソン・モーレー」の光速度測定以来の偉業となるかもしれません。当然、この結果が正しければ、今後の歴史の中でも確実に名を残す大発見となるに違い有りません。以下は、ある記事にあった識者のコメントです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 相対性理論と矛盾しないように「超光速」を説明する考えもある。「異次元」の存在だ。私たちの宇宙は、前後、左右、上下の3次元に時間を加えた4次元の世界だ。もし、5次元や6次元といった、別の次元があり、そこを近道して粒子が通れば、見かけ上、光よりも早く着いたように見えてもおかしくない。だが、「仮想の粒子ならともかく、ニュートリノという実際の粒子にあてはめるのは難しい」と、佐藤勝彦・自然科学研究機構長はこの考えに否定的だ。 ニュートリノの質量を計算に便宜的に使われる「虚数」という想像上の数字にしてしまう方法もある。だが、ニュートリノの質量を虚数とすると、宇宙全体のエネルギーが変わり、宇宙がどのように生まれ将来どのようになっていくのか計算するのにも影響を与える。 「アインシュタインの理論を捨てなければならないとはにわかには信じられない。様々な理論や実験を重ねながら検証していかなければならないだろう」と村山さんは指摘する。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・また別の記事では、こんな説明もありました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ミュー型ニュートリノの速度が光速を超えたとの発表に、東京大学宇宙線研究所の鈴木洋一郎教授は驚きをあらわにした。基本原理とは、アインシュタインが1905年に発表した、有名な特殊相対性理論。20世紀に物理学が急発展する土台となってきたこの理論は、「質量を持ったものは光速を超えることができない」と結論づけているのだ。 相対性理論と矛盾する今回の実験結果は、物理学を支えてきた基本原理だけでなく、時間や空間についての考え方まで革命的に変える可能性を秘める。 「今後、複数の実験施設で同様の結果が出てくれば、特殊相対性理論を100年ぶりに修正する必要が出てくる。どのような修正が必要になるか見当もつかない」と、高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所の山内正則副所長は語る。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう、「見当もつかない」んです。専門家ならなおさら、やれタイムトラベルが実現する、だとか言った軽い発言はできないんでしょう。 ただ、素人の私としては、せっかく、こんな大「ロマン」を生み出すような観測結果が報じられたんですから、それが万一「測定誤差でした」とか「方法が間違っていました」みたいな結果になる前に、「これが本当だったら」という仮定で、もう少し想像の翼を広げて楽しみたいものです(笑) そこで、せっかくの夢が台無しになる前に(笑)、もしこれが本当だったら、ということで、どんな影響があるのか考えてみました。1.宇宙の構造や起源について、今まで通説となっていたものの大幅な見直しが必要になってきて、その結果、全く新しい「宇宙観」が形成される可能性があります。2.この日記で書いてきた「あの世」の構造や、私が考えていた「見えない世界」の存在理由が決定的に影響を受けます。3.元からタイムトラベルは可能、と思っていましたが、それは「意識体」としてのタイムトラベルでした。ところが、今回の発見が本当だったら、単に「意識体」に留まらず、物理的実体のタイムトラベルも視野に入ってきます。ただ、それでもまだ人が乗って自由に動き回る「タイムマシン」という意味ではありませんが。4.上記の1~3を含めて、相対性理論や量子力学が哲学に及ぼしてきた影響と同程度か、もしかするとそれ以上の影響を与えるかもしれません。 つまり、人間の存在、生命の存在理由などにも影響してくる可能性があります。5.先日書いた「生ける宇宙」に代表される、科学と伝統的なスピリチャリズムの融合に対しても、重大な影響を及ぼします。 しかし、これはひょっとすると「いい影響」かもしれません。先日書いたように、今現在提出されている仮説では、まだ説明出来ない現象がいくつか残っているのですが、その多くは「時間軸」に関係しています。 この「時間軸」がもし「双方向」だとしたら、それで説明が出来る現象がいくつか出てきます。 とにかく「想像もつかない」というものを「想像する」わけですから大変です(笑)しかし、せっかくだから、本当であって欲しいし、もし間違いだったら、できるだけ「間違いだった」という結論を出すのを遅らせてもらえたら、と思います。 その方が、いろいろ楽しい想像を展開できる楽しみが増える、というものです。(笑)
2011.09.24
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他のブログで下記の日記を書いたのですが、すごいことになってきましたね。 下記にその日記を転載しますが、この日記にも書いたのですが「ニュートリノが光より速く移動した」との観測結果が発表されましたね。 スイスのCERN研究所での成果ですが、これだけの衝撃的な結果ですから、相当な事前検証を経て発表に踏み切ったと思われます。 一夜明けた日本の新聞各紙を見ると、この記事が一面で伝えられ、ネットの新聞サイトでは、朝日、読売、日経の各社の「編集ノート」が全てこの発表のことに言及していました。 それだけの「衝撃的な」ニュース、ということですね。さて、世界中でさらなる検証が進められるでしょうが、その結果が楽しみです!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今日、Yahooのニュースを見ていたら、すごいニュースが載っていました。これです。⇒ 「光より速いニュートリノを観測!」 スイスにあるCERN研究所での研究結果です。ある種のニュートリノが光より速いスピードで移動したと思われる観測結果を発表しました。リンクは、例によってコメント欄ですが、残念ながら英語の記事です(笑) しかし、もしこれが確認されたらそれこそ「すごい」ことです。20世紀初頭、アインシュタインの相対性理論により、革命的に変更を余儀なくされた人間の「宇宙観」が、またもや覆される可能性を秘めているからです。20世紀の前半が相対性理論の世紀だとしたら、その後半にはすでに立ち上がっていた量子論が、この21世紀では大々的に花開くことになるかもしれません。 今回の観測結果はあまりにもその影響が大きいので、広く一般に公開され、あらゆる人の検証を受け付けています。はたして、すべての検証にパスして、この観測結果の有効性が証明されるでしょうか?素人の私としては、ぜひそうなって欲しい! 人間の宇宙観にまた新たな革命が起き、その結果として、今までの「謎」が解明されるきっかけになるかもしれない、というロマンを感じます。 例えば、タイムトラベルに関しても、従来の「光速は常に一定で、なにものもこれを超えることは出来ない」とする「古典理論」の中ではワームホールぐらいしかタイムトラベルを実現する可能性がなかったところへ、これにより、まったく別の可能性も開けてくるかもしれません。 今読んでいる「ホーキング 未来を語る」の中でホーキングはこのタイムトラベルに関して多くのページを割いています。 でも、その内容は10年前の物理学の最新知識に基づくものでした。 しかし、その章の最後で、彼はこのタイムトラベルに対して、いくつかのアプローチを紹介した後に、「タイムマシンをつくることができるかどうか、私は誰とも賭けをしないでしょう。その相手が未来から来ていて、時間旅行は可能だ、と知っているかもしれないからです。」と書いています。つまりは、「可能かもしれない」と考えている、ということです(笑)ただ、この「可能」の中には相当な幅があります。量子論的に考えたら、現在でもある種の粒子は時間の中を飛び交っている、と考えられています。 そのような極微的なタイムトラベルと、タイムマシンや宇宙船のような巨視的なものや「生命体」のタイムトラベルというのは、まったく異なるものです。 その「可能」の範囲がどこまで拡張されるのか、今回の観測結果からどのような結論や推測が出てくるのか、本当にすごいことになってきました。
2011.09.24
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という記事が載っていました。 ここでの「霊能力」シリーズとなぜか、タイミングが有っていますね(笑) これです ⇒ 「霊が見える人のすごい日常」 やはり皆さん共通して、子供の頃はそういった感覚が有ったのに歳とともに衰えて、大人になるとほとんどなくなる、ということらしいですね。 ソニーの故盛田昭夫会長が、幼児の特殊能力に注目していろいろな教育方法や訓練方法を研究していたのは有名な話ですが、その幼児の特殊能力も、この霊能力と同じように、年齢と共に衰えて行くというのが実態だったようです。 先日書いた「霊能力がなぜあるのか」の中で、昔の人間にはもっとこの種の能力があったのに、今は退化してしまっているのではないか、という説があることを紹介しましたが、この幼児の特殊能力や、子供の時だけ霊が見える、という霊能力も、これに関係しているかもしれません。 霊能力とは違いますが、似たものに「前世を覚えている子供たち」というのも有ります。実際に子供が「昔はxxで〇〇していたんだよ」という事を話すことは、公にならないだけで、結構多いようです。 こんな時、親が「何をバカなことをいっているの!」と叱ったりたしなめたりするために、子供の方はそれ以降何も話さなくなるし、そうやって自分自身で封印すると、余計、その記憶はすぐに忘れ去られる結果になるようです。 こういった「不思議」な現象、中世ヨーロッパでは「魔女狩り」の対象として迫害されたこともあって、やはり一般には、自分としては見えたり聞こえたりしても人には話さない、というのが普通なので、ますます実態が見えにくくなっていますが、近年は、まじめに研究対象とされたことから、その体験者の発言が徐々に知られるようになってきました。 そうやって公に知られるようになると、「実は私も・・・・」という人が次々に現れ、昔考えられていた以上にそういった経験を持つ人は多いことがわかってきました。 科学で証明できなくても、その経験した本人にとっては、それは間違いなく「自分の現実」の一部ですから、それを完全否定する人とはギャップが出るのが当然です。 昔なら、神主や巫女になって、その種の能力を大人になるまで温存する人も居たんでしょうが、それも現代では少なくなってきています。 でも、その代わり、まともな研究の対象となってきていることから、遠からずその能力の実態がより明らかになり、科学的説明さえも付くようになるのだろう、と考えています。 この記事にリンクもありますが、「幽体離脱」にしてもしかり。 よく「金縛り」という現象と共に報告されるこの幽体離脱、英語では「OBE」Out of Body Experience つまり体外離脱体験、と言われますが、この現象に関しては相当な研究がされており、今では訓練によって、自分の意志で実践することが出来るまでになっています。 日本人でも何名もの方が、こちらのバージニアにある研究所を訪れ、訓練を受けてその「体外離脱体験」をされています。 日本でもトレーニングセンターが開設されているようですが・・・ いずれにしても、こういった『目に見えない世界』の探求は、まだ始まったばかり。 今後数十年経ったら、今の常識が非常識、今の非常識が常識、という時代が来るのかもしれません。
2011.09.23
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先日の「最終回」で、「なぜ霊能力者なんて居るのか」という部分について、他のブログでコメントがあり、これについてはあらためて書きます、と約束してしまったんで、仕方なく書きます(笑) ただ、ここまで来ると、「霊能力」や「霊能力者」というものが実際にある、という前提の上に立って、その上に多くの仮定や推測、はたまた「想像」まで積み上げていく必要があるので、もうほとんど「裏づけ」なんてものは有りませんので、あらかじめご了承を(笑) なぜ「霊能力」や、「霊能力者」なんてものが存在するのか?この疑問は、私自身はかなり前から持っていました。このシリーズの初めの方で、「霊能力」というのも、一種の感覚の一つに過ぎない、だから、その「感覚」が鋭い人も居れば、鈍い人も居る、それは他の普通の才能と同じ、と書きました。 なので、その流れで言えば、この感覚が特殊であろうとなかろうと、たまには鋭い人が居て、その中には、特別鋭くていわゆる「霊能力者」と言われるレベルまで行っている人がいてもおかしくはありません。ですが、ここで書こうとしているのは、そういう意味での「なぜ」ではなくて、人間の存在理由に対して、なぜこのような能力が与えられているのか、です。 ご存知のように、人間は物理的な世界に生きています。他の5感と言われる「聴力」「視力」「触覚」「味覚」「臭覚」という感覚は、この「物理的な世界」で生きていくために必要な感覚・能力です。 ところが、この「霊能力」に関しては、どう考えても物理的な世界を生きて行く上で必要だ、とも思えない。必要もない能力が、ダーウィンの進化論じゃありませんが、自然発生的に芽生え、発達する、ということは考えにくい。 動物には、こういった「第6感」的な感覚が備わっている、という説があります。大災害の前触れを事前に感知したり、なんらかの予知や遠方知覚を備えているような気配があります。 一説では、人間は道具の発明、文明の発達によって、これらの「第6感」は衰えてしまった、昔はある程度の能力を持っていたのが、現代人では退化してしまった、ごく一部の人に、その名残りがあるに過ぎない、それが「霊能力者」だ、という形で書いている本もあります。 もしそうだとしても、先に挙げた「なぜ物理的な世界に生きるのに必要とも思えない、このような感覚・能力が存在するのか」という疑問には答えが出ません。 なので、その理由を全然別のところに求めることになります。その「全然別のところ」というのは、人間の存在理由と、その目的、そしてそれを支持する「もの」の存在です。 さあて、だんだん怪しくなってきました(笑)でも構わず続けます。 まず初めの「人間の存在理由」。これはかなり明確です。なぜ私たちはこの世に生まれて、こうして生きているのか? たまたまか? 偶然か? 親が避妊を失敗したからか?(笑) いえいえ、この世に生きているのは、そのどれでもありません。必然です(って、誰かの言葉みたいですが。笑) というより、自分の意志です。 じゃあ、その意思にある目的とはなんでしょうか? 簡単に言うと、「人間体験」をする、ということが目的です。なんだあ、という感じかもしれませんが、この「人間体験」というのものが如何に素晴らしいものであるか、ということを私たち人間は普段あまり意識しません。 しかし、見る人が見れば、その素晴らしさ、その貴重さが分かります。 もともと、この貴重で素晴らしい「人間体験」をするために、私たちは自らの意志でこの世に生まれてきた、と考えることが非常に重要です。 なぜならば、そのことによって、この世の中での私たちの生き方、行動、思索、そのすべてを、この「目的」に照らして考える事になるからです。 じゃあ、百歩譲って、もし自分の意志だとしたら、なぜそれを普段意識しないか、忘れてしまっているのか、ということに関しては、この「人間体験」を最高のものにするため、としか言いようがありません。 そして、この私たちの意志を尊重し、それをサポート・支持してくれる「見えない存在」が確実に存在しています。 実際は多くの面で私たち「物理的世界で生きている人間」はこういった「見えない存在」にサポートされて生きています。 それに気が付かないだけです。 その上で、最初の疑問、つまり「なぜ霊能力や霊能力者というものが存在するのか」という疑問に帰ります。 物理的世界に「だけ」生きるのなら、こんな能力は必要がありません。こういう能力があること自体が、逆にこの世界はこの見える「物理的世界」だけの世界ではない、という一つの証拠にもなります。 そして、この能力の、その秘められた目的、というのは、人間存在の存続です。あるいは「人間体験」の存続、と言っていいかも知れません。 あ、ダメですね、言いたいことの半分も言えていない。 これだけじゃ全然わからないですね。自分で読んでもわかりませんものね(笑) ここまで来ると、じゃあ、この「人間存在」あるいは「人間体験」というのは何で、何の目的があって、なんで存続させる必要があるのか?という疑問にも答えないと、話が見えませんね。 じゃあ、また、それも別の機会に、ということで・・・・・・・・・・・・・・
2011.09.23
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昨日の日記で「国家の破産」という題でEUの経済危機に関して書いたのだが、昨日の今日で、ダウも一時5%近く暴落する、という、ひどい状況になってきました。明日は(今日は、か)日本は休日なので影響がすぐには出ないかもしれませんが、5%と言えば、日経平均が8000円を切るか切らないかの水準・・・ 昨年の一頃には、今年の年末には2万円台まで回復、なんて予想をしていたエコノミストも居たんですが、上がるどころか低迷、そして下落へ、と、どこまで行くのか予断を許さない状況が続いています。 ここまで行くと、さらになんらかの防衛策を講ずる必要があるのか、という気になってきます。防衛策と言ったって、とれる「策」は限られているんですが、少なくとも最悪のシナリオを描いた場合に日本はどうなるか、ということを考えておいても損はないでしょう。もし、その「最悪のシナリオ」が現実化しなかったら、取りこし苦労だった、と言うだけで済むでしょうし、もし現実化したら、多少とでも生活防衛に手を打てたことになります。 しかし、問題は、「なんらかの策」と言っても、なにが実際にできるのか、でしょうね。
2011.09.23
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ギリシャの状況がこの一週間で俄然厳しくなってきました。国債は、もうデフォルトの一歩手前の格付けにまで落ち、今年度中のデフォルトがほぼ100%の確率で起きる、とまで言われています。 国家が破産する・・・・。 ちょっとあまり考えられないのですが、IMFの緊急融資を受けた国ならたくさんありますが、破綻まで行ったのは・・・・2001年のアルゼンチン以来かな? そのアルゼンチンのルポ(2008年ですが)を読みましたが、悲惨ですね。もっとも、IMFからの融資を受ける条件として、IMFの管理下に入る、というのも同様に悲惨なので、それとどれだけの違いがあるのか分からないですが・・・・ 国家が破産するとどうなるのか? よく分からないのでGoogleなどで検索してみましたが、出てくるのは(日本語での検索のためでしょうが)日本の国家破産に関する記事ばかり。 いわく、日本は破綻する、いや絶対にしない、とか、もう破綻している、だとか、破綻した場合はどうなるのか?と言った、いたずらに不安を煽るような記事ばかりが目に留まります。私もど素人なのでよくわかりませんが、「破産」というのは家庭でも企業でも一緒で、「借金」が返済出来なくなる、ということで、それ以降の生活(国家の場合は国家運営)がものすごく制約されるのは想像に難くありません。 国の場合は「借金」というのは「国債」ですが、国債を諸外国に買ってもらっていて、その利子が支払えなくなったり、期限が来た国債を償還できなくなるとデフォルトと言って実質破産になるわけですが、こうなるとその「国債」を所有しているところが大損害を蒙ります。 これも、お金を貸していた先の家庭や企業が破産したら、その債権者が損害を蒙るのと一緒でしょう。まあ、紙くずにはならないまでも、一気に通貨が切り下がって、その通貨での債権の価値は大幅下落となり、大損害になるのが普通でしょう。 個人の破産や、企業の破産などに比べたら、その違いは、その規模がとんでもなく大きい、ということ。 その規模の大きさから来る不確定要素が、個人や企業の比ではない、ということでしょうか。 一旦、ギリシャが破綻したら、その債権国としてのヨーロッパの諸国に飛び火するのは目に見えているし、フランスなどは銀行がギリシャだけでなくスペインやイタリヤなど、国家財政が破綻に近づいている国の債権をしこたま抱えているので、これはリーマン・ショックどころの話では済まないでしょう。 もし100%の確率でギリシャが破綻したら、その影響は確実にスペインやイタリヤなどに及び、企業の倒産と同じで、下手をすると「連鎖的に」破綻への道を転がり落ちかねません。 今は世界中が不況と財政赤字に悩んでいるので、他の国を助ける余裕もなく、かと言って、助けなければ回りまわって自国の経済までも揺るがしかねない、というにっちもさっちもいかない状況になりつつあります。 IMFと言ったって、資金を供給しているのは、各国なので、それぞれの事情を抱えており、ギリシャ一国だったらまだしも、スペインやイタリヤなどを救済するだけの資金力はない・・・ 昔、「ジョセリーノの予言」が流行った(?)ことがありましたが、少なくともその予言をしたときから現在までを見てみると幸い全然当たっていません。幸い、というのはその予言の内容の多くが大災害や経済危機といったクライシスだったからです。当たっていなくて幸いです。その代わり、予言には出ていなかった東日本大震災が起きてしまいましたが・・・ しかし、その中に、2010年に世界同時株価暴落というのがありました。一年ずれていますが、それもあながち外れてはいない、という事態になるのでしょうか。いずれにしても、このグローバル経済下、あまりにも密接に絡み合った国際経済ですから、一国の破綻は、どうやっても日本への影響は避けられません。 まだEUの中ではぎりぎりの努力が続けられていて、なんとかこのギリシャの破綻シナリオを回避しようとしているんですが、手詰まり感があります。 しかし、なんとかなって欲しい、と思っているのは、当のギリシャ国民だけではないでしょう。
2011.09.22
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誰もが認めるように、アメリカという国の凋落傾向は、いろいろな面であきらかになりつつある。 まだITや新技術分野では圧倒的な力を持っているものの、これらは一部の、それも海外からの移民を含めて、圧倒的に層の厚い「人材」に依っているところが大だ。 一方で、この「凋落傾向」が一番如実に現れているのが、中流以下の米国民の生活、および生活実感であろうか。 先日、「増え続けるフードスタンプの受給者」と言う記事(下記)があり、「生活保護」という、日本の最低限のセイフティーネットに相当する、食糧配給券の記事があった。 ⇒ http://xbrand.yahoo.co.jp/category/lifestyle/4622/1.html (リンクはコメント欄) そして、今日は、「米国民は、富裕層増税案支持か?」と言う記事で、一昔前の米国民と、今の米国民の意識の差を報道していた。 この記事の表題に関しては、昔は、一般の米国人でもいつかは成功するという「アメリカン・ドリーム」を持ち続け、そのために富裕層への増税には消極的だったのが、今は、ほとんどのアメリカ人はそういった希望をなくし、だからこそ、富裕層への増税支持に回りつつある、という内容。 しかし、逆の意味で、私が驚いたのは、そこに掲げられたアンケート結果で、アンケート対象者の「79%」は、将来「一億円」以上の資産を持つことはないと「諦めている」というもの・・・・・ これを逆に読めば、残りの「21%」は、「未だに」将来一億円以上の資産を形成できる、と思っている、ということだ。 上で「諦めつつある」と書いたが、数字を見る限り、この21%もの人がまだまだ成功の希望を持っている、と受け取れるのではないか、と。 この数字が高いか低いかは、まあ比較の問題なのだが、上に引用したフードスタンプの受給者を始め、米国の低所得者層は現在激増しつつあり、その生活レベルも年々下降している。 ある別な記事では、アメリカ人のうち70%以上が、もし急に$1000の出費に迫られたらその捻出に頭を悩ませる、と書かれていた。 この「頭を悩ます」の中には「銀行預金や株などの金融商品を解約して」というのは入っていない。 これらは「悩む」の中に入っていないのだ。 ここでいう「悩む」は、「人から借金する」「家財を売る」「ローンを払わない」あるいは「クレジットカードで前借りする」などの、非常手段をとらざるを得ない、ということであり、中には、それさえ出来ない人も(例えばクレジットカードの上限が$1000もない、など)多い。 急に8万円の出費を迫られた時に、こういった状況にはまる日本人はどれくらい居るだろうか? 当然何割かの人は、相当困るだろうけれど、70%以上も居るとは思えないがどうだろう? こういった状況での、上記の21%の人がまだミリオネアになれる、と考えている、とうのだから、米国人は相当楽観的なのか、まだ「アメリカ・ドリーム」という幻を追っているのか、そんな感じがした記事でした。
2011.09.21
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「霊能力について」シリーズ、第5弾で、最終回です(笑)ここまで書いてきて、やっぱりこんなに限られた字数だと言いたい事の半分も言えていないなと感じますが、これは仕方がないでしょう。ベター・ザン・ナッシング、何にもないよりもいい、ということで。さて、最終回の今回は「霊能力は人間に必要か?」です。こんなテーマ自体が、だいたい普通ではありえない内容だとは思いますが、すべて「もし霊能力があるとしたら」という前提で書いてきているので、その締めくくりの意味も兼ねて。 スピリチュアル系の本が好きで、勢い、宗教、信仰、哲学、ニューエイジ関係、心理学(特にトランス・パーソナル心理学)、物理学(特に宇宙論と量子論)、数学(特に無限論)などの素人向けの入門書やら概説書を読んだり、関連のエッセーを読んだり、同じような関心のある人と交わったりしてきて、少し感じたことがあります。 もともと、単純な興味から出発したんですが、そのうち、こういった「超常能力」や「変性意識状態」などに関心が出てきて、根がミーハーなもので、ぜひ自分でもやってみたい、と思うようになりました。 と言っても、試してみたのは「瞑想」「呼吸法」「催眠」そして、体外離脱のための「ヘミシンク」という技術です。 これらの技法、あるいはテクニックによって、人によっては、「変性意識状態」あるいは「過去退行」そして「意識の体外離脱」が可能になり、その内容についての本は、世の中にたくさん出回っています。 「催眠」を除いては、どれも、一定のトレーニングを手順を踏んで行なうことが前提で、基本的には、人により程度の差こそあれ、なんらかの「変化」が体験できるのが普通です。 ところが、幸か不幸か、私の場合はいろいろな条件が重なって、このどれもがなんの効果ももたらさない結果になりました。 たとえば、「退行催眠」。 きちんとした実績のある医者に行って受けたのですが、同時に受けた妻はちゃんと「前世退行」したのに比べ、私自身はそもそも催眠にかかりませんでした(笑) その医者の実績は成功率90%以上ですが、私は残りの10%(笑) そんなこんなで、自分自身がそういった「変性意識状態」になることは、一旦棚上げにして、引き続きいろいろな本を読んでいたわけです。 すると、そのようなテクニックや訓練を通して「変性意識状態」に至った人の書く内容が、かなり「薄っぺらい」内容だな、と気が付きました。 中には、その状態になって初めて得る「気づき」をもとに、人生が180度変わる体験をした人も居ますし、そのような方の書くものには、ものすごく深いものが感じられます。 ところが、大方の体験者の話は、なにか旅行に行った人の旅行記みたいなもので、その体験によって得られたビジョンなどに関しても、珍しいものが見られた、というような感じで、全然深さがありません。 一方、今日のテーマである「霊能力」の方を考えてみると、これは「能力」として、生まれつき持っているか、自然に開花したか、いずれにしても、上記の訓練や一定の手順を踏んで体験する「変性意識状態」と同様に、もしくはそれ以上に、「必然性」がないままに得られてしまいます。 ここで言う「必然性」の話をすると、また長くなってしまうんですが、それは、人間がこの世の中に生まれてきて、生きている意味に直結しています。私の中では、この「私たちが生きている意味」に照らして、すべてのことが「必然性」があるかどうか、あるいは「有益なことなのかどうか」という考えるくせがあるんですが、それに照らして、どうもそうは思えない。 ある意味、努力もせず、少々の訓練で身に付いた「霊能力」や「変性意識状態」、あるいは生まれつき持っている「霊能力」は、下手をすると生きる上での障害になるのではないか、と思われる節があります。 この点については、「ではなぜ、そのような能力を持った人が存在するのか」という観点で、もう少し掘り下げないとはっきりしたことは言えないのですが、今言えることは、少なくとも、こういった形で、物理的な存在以上の存在と接触したり、自身がそういう認識を得ることは「けっして王道ではない」ということ。 ここで言う「王道」は、望まれる在り方、というような意味です。じゃあ、何が、いえ、どんな在り方が「王道」と言えるのか・・・・。それはまた日を改めて書きたいと思います。
2011.09.20
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最近、精神的な面での刺激が多く、インプットが多くて、自分の中でまとめることさえ追いつかない・・・・ それらの一端を、こんな日記で「ノート」や「覚書」の形で多少はまとめておこうか、と考えてやっているのですが、そんなものでは全然追いつかない。 極端な話、すごく刺激的な本を読んだりすると、その一ページ一ページに対して、自分の感想を書いておきたくなる。 それらは、 「すごい! この考えからすれば、もっとこう考えたら、こうなるんじゃないか?」というものから、 「う~ん、こういう考えもアリかもしれないけれども、それでも、こういう点に関しては矛盾が出てきてしまうしなあ・・・・」とか、いろいろな形のものがありますが、とにかく、新しい情報と新しい考え方に出くわすたびに、それらと自分の中にある「信念体系」との間での調整作業が必要になってきて、それを漠然と見過ごしていると、なにかしら忘れ物をしたような気分になる。 そして、その「忘れ物」がどんどん増えていって、そのうちに収拾がつかなくなるか、あるいは、その時のインプットそのものを忘れていってしまうかのどちらかである場合が多い。 まあ、こんな類のことを一日中考えているわけにもいかないし、そうしたくもないんですが、どうもその「気持ちがすっきりしない」という部分だけは何とかしたいなあ、と。 人はインプットばかりでは結局何んにもならず、それを自分の言葉でアウトプットにして始めて、少しは自分の「信念体系」に組み込まれる気がします。 だからこそ、漠然とした考えを人と話したり、こうやって書いて形にする、ということが自分のアウトプットの仕方なんで、これを続けていくしかないわけですが、もしかしたら、別の形のアウトプット、つまり「考えを整理する」「まとめる」だけではないアウトプットの形が別にあるような気もしています。 その「形」がなんなのか、自分でもたぶん気づいているんですが、元来が怠け者の私は、そこまで踏み込む勇気がない。 あるいは「石橋を叩いて渡る」ではないけれども、「信念体系」がある程度の「固さ」を持つまでは、まずはそこに集中したい、という気持ちがあるせいかもしれない。 いずれにしても、すべてが「生きること」に直結するわけだし、その中には「無駄」なんてものはないんだろうな、とも思うこのごろ。
2011.09.20
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今日の教会の説教のテーマ「主の祈り」の中での「赦し」について。 これは難しいテーマです。理解するのも難しければ、実践するのはもっと難しい、そういった「テーマ」。 本題に入る前に、ふと考えた事。それは「信仰と倫理」の問題。ある本によると、「モーゼの十戒」は、人類が持つ事になった初めての「戒律」である、と。それが本当かどうかは知りませんが、それ以前には「良心」というもの以外、人間には己の行動を律する「基準」がなかった、つまり明確な「倫理」も「法規」もなかった。そして、この「十戒」が、初めて人類に、その規範を与えた、というものです。 その延長で聖書を見ると、確かにに「規範」に満ち溢れています。もう「規範」だらけ、と言ってもいいくらい、「あれをせよ」「これをしてはいけない」というのがこれでもか、というぐらいに出てくる。 確かに、明確な法律が定められた「法制国家」でなかった古代では、社会を維持する上での倫理規定を宗教の中に頼らざるを得なかった、ということはあったかもしれません。 何が「善」で、何が「悪」か、その規範なくして、人は「社会生活」を営めません。 ある人によっての「善」は他の人にとっての「悪」、あるいはその逆、ということは、実際の社会生活の中ではまま有り得ることです。「聖書」は、そういった意味で、ある面、法制国家が形成された後も、人間の人間としての「倫理」面の規範になってきたと言えるのではないでしょうか。 法律では特に罰則規定がない、「嘘」や「裏切り」、「妬み」「嫉妬」という人間感情の中に至るまで、そこには「善」「悪」の規範が示されています。 いつしか、これらの規範が「教義」と名をかえて、「聖書」とは別に文書化され共有されるようになってきました。 この「教義」は、神の言葉としての「聖書」には基づいているものの、それを人間が解釈して、決めたいわば一種の「取り扱い説明書」みたいなものかもしれません。 ただ、気になるのが、その中に「相矛盾する」ことが往々にして書かれている、という点です。 聖書にしても、そうです。キリスト教は「愛の宗教」とも言われ、イエスの最大の教え、最高の戒めは「神を愛し、同様に隣人を愛せよ」でした。 そして「隣人」の範囲は「汝の敵」まで含めて、「敵を愛しなさい」という所まで行きます。 ここで、冒頭に書いた今日の説教のテーマ「赦しについて」が出てきます。 ペテロがイエスに、自分に悪事を働いた第三者を何回まで赦すべきか、との質問をし、それにイエスが、「7回の70倍まで赦しなさい」と言う場面です。 この部分に対して、牧師さんの説教では、「これはどれだけ赦したらよいのか?」と聴かれて、「これだけ赦しなさい」とか「どこまでも赦しなさい」と言っているわけではないのだと解説されました。 じゃあ、どういう意味なのか、というと、これはイエスがその死によって私たちの罪をすでに償ってくれている、神はこのイエスの犠牲によってすでに私たちをお赦しになっている、ということです、と。 しかし、このイエスがペテロに答えて話をした時にはまだイエスの死は起きていない。そして、そのような解釈をしても、依然として「じゃあ、私に対して罪を犯した人間をどうするのか?」という疑問に対して、答えが出ておらず、やっぱり同じ質問が出そうだ。 イエスが話の中でたとえ話をする。 そのたとえ話は、書くと長くなるので省略するが、結論としては、「私たちが他の人の罪を赦す事で、初めて神は私たちを赦してくれる」ということのようだ。 だが、待てよ。 さっき、「イエスの死によって、神は『既に』私たちの罪をお赦しになった」と書いたばかりではなかったか? ところが、ここに来て、他の人間の罪をゆする事に「よって」、「初めて」神はあなたをお赦しになる、と言ったら、この二つは矛盾しないか? それに、私たちが「主の祈り」にあるごとく「我々に罪をなす人を赦す」のが神の意思であれば、「神」こそ、無条件に、つまり「我々が第三者の罪」を赦そうが赦すまいが、神こそ、そんなことはお構いなしに「赦す」はずではないのか? ・・・・・と、今日も、説教を聴きながらどうどう巡りの疑問が残ったまま終わってしまいました。 これに決着をつけるのにはどうしたらいいのだろう?
2011.09.19
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さて、「霊能力」シリーズ第4弾です(笑)自分で書いていて、「こんなこと書いて何になるんだ?」という声が自分の中から聞こえてきますが(笑)、まあ成り行きですから、せっかく始めたものは最後までやりましょう、ということで。 今日は「霊能力」あるいは、「霊能力者」との付き合い方、という題ですが、この「霊能力者」には、「自称」霊能力者、つまり本当はそんなものないのに、さもあるような振りをしている人も含めます。 というか、どちらかというと、そちらがメイン。 初めに簡単な方から、ということで、「霊能力」との付き合い方。 私は、まったくこの手の能力には縁がないので、まあ自分のこととして話すことは出来ないわけですが、もし自分で「私って、もしかしたら霊能力があるのかな?」と思う人が居たら参考にしてください(笑) 英語には「才能がある」という形容詞に、talented という言葉がありますが、別の言い方で、gifted という言い方もあります。これは読んで字の如く「ギフト」を与えられた、という意味です。 つまり才能は、もちろん開発するものではありますが、その大元、つまり磨けばダイヤモンドになるにしても、その原石そのものは「与えられた」もの、という見方です。 この言い方は、私は好きで、どんな能力も才能も、もともとは「与えられたもの」という謙虚さを表すからです。 他の音楽やスポーツ、勉強にしても、もしかしたらビジネスにしても、人はそれぞれ持ち味というものがあり、その個々のレベルはまちまちですが、磨いて光ったとしても、大元は「与えられたもの」ですから、自分ひとりで、「優れた人」になったわけではない、ということを常に心に留めておく必要があります。 で、「霊能力」ですが、他の才能よりも、この「霊能力」は希少価値があるからかどうかわかりませんが、この能力を持つ人は得てして、この「謙虚さ」を忘れる場合が多いようです。 なぜか、というと、それは、この霊能力を頼る人の問題ですが、こういう能力のある人を拝んだり、崇め奉ったりする傾向があるのがその一因です。 足が速いスポーツ選手、バイオリンの上手な音楽家、それぞれ、普通の人にはできないレベルのスキルを持っていますが、尊敬はされても「崇め奉り」はしないでしょう。ところが、こと、この「霊能力」になると他の才能とは違って、さも「偉い」「神様に近い」と誤解する人が後を絶ちません。 いえ、周りが誤解するだけならまだしも、それが続くと、本人さえも「もしかしたら自分は選ばれた人間ではないか」とか「神の声を直接聴いたり、死んだ人と交信できる特権を与えられた『特別な人間』ではないか」と思い上がってしまう場合が多いようです。 こうなると、「神に近い」どころか「傲慢」「肥大化した自尊心」「独尊」はては「物欲」に取り付かれてしまう人が多く(この点が人間の弱さですが、つまり、こういう人は人間的には「弱い」人です)、初めは謙虚だったのが、段々尊大になり、はては人を見下し、金儲けに走る人間に落ちてしまうケースが多いようです。 こういう状況で「人間としての強さ」を維持するのは並大抵のことではないことは想像に難くありませんが、それでも、もしこの手の能力があるとしたら、この線は絶対守らなければならない一線です。 「与えられたもの」としての「霊能力」、つまり、他の才能と同様、それを私利私欲のためだけに使うのではなく、せっかく与えられた能力をいかに世間に役に立てられるか、という視点が欠かせません。 それは他の才能と比べても、この霊能力の場合は一層必要です。なぜか、というと、この能力を頼る人、それにすがる人が世の中には次から次へと出てくるからです。世の中は、不幸と不条理に満ちています。 その中で、悩んで悩んで悩みぬいて、その挙句に「わらにもすがる」という気持ちで、こういった「霊能力者」に頼る人が後を絶ちません。 サッカー選手やピアニストには、そんな形で人生の悩みを抱えて頼る人は居なくとも、こういった「霊能者」には、その手の人だからこそ頼ってくるわけです。つまり、この「頼られた霊能者」には、他の才能に比べると、他人の人生を左右するような難問、苦悩、試練が相談で持ち込まれ、それへの手助けを求められるのですから、その責任は重大です。 そんな責任重大な相談事に対して、上に述べた如く「謙虚さ」を忘れ、「私利私欲」で受け付ける、ということがどういう結果になるのかは明らかです。 「これを買って悪霊を追い払いなさい」とか「このxxが憑いているので、この悪霊退治のために祈祷するからxx万円よこしなさい」とか。こんな詐欺に引っかかる人が居るのか?と思うような内容ですが、実際にだまされる人が後を絶ちません。 もし「霊能力」があり、人から「霊能力者」だ、と思われたら、なお一層、自分を律する強い意志が求められます。 すでに長くなってしまいましたが、もう一つの「霊能力者」との付き合い方ですが、これは上の「霊能力」との付き合い方の裏返しにすぎません。 つまり、霊能力者は、もし本当に「霊能力」があったとしても、その人は謙虚でなければならず、けして尊大な「俺が俺が」という独尊的な態度を取らない人はある程度信用できる、ということです。 「霊能力」なんて初めからなく、人をだますためだったらなおさら、この特徴が強く出て、よく考えれば「金をくれ」と言っているだけだ、ということがわかるはずです。 一つだけ、本当の霊能力者だった、どんなアドバイスをするか、という点を書いて置きます。もし、その人のアドバイスが、この内容とかけ離れている場合は、疑ってかかったほうがいい、という「チェックポイント」です。それは、おおむね、次のようなことになると思います。(これは、私の私見です) 1.その方は、自分の能力に対して謙虚か。 2.過度の「霊能力」に対する依存心が依頼者にある場合は、それを戒める。 3.物事の「因」と「果」を、そして「縁」をはっきり示す。 4.すべからく、「試練」「困難」の原因は、人の心の中にあることを知っている。 つまり、外界が悪いように見えても、本当の「因」は依頼者の中にあるこ。 5.4の内容に照らして、彼のアドバイスは、「依頼者自身がどう変わったらよいか」であって、けして、xxをすれば変わる、とか解決する、というような直接的なアドバイスにはならない。 6.その「依頼者自身が変わる」ことを助ける上で、彼自身が出来ることをしてくれる。 あくまで、試練・困難を解決する主体者は、その人にあるのであって、けしてその「霊能者」が、依頼者に代わって何かをして、それを解決する、という形にはなりえないことを銘記すべきでしょう。 もし、そのようなことがあって、「たまたま」その試練・困難が克服されたとしても、その依頼者自身が変わっていない限り、また次々に同じ状態になることは容易に想像がつきます。 つまり、あくまで外部の力を借りて解決したとしても、それは一時的な、見かけだけの解決に過ぎない、ということです。
2011.09.19
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実は、前の「霊能力ってホントにあるの?」の日記、半角ベースだと1万字を超えて、11千文字以上になっていました^^; この楽天日記、本分は半角1万文字以内となっているので、あの程度の長さで1万字を超える、ということで、あまり長い文章は書けないようです。・・・と言い訳しておいて、この「霊能力とは何か?」。 これは難問ですので、あまり大した内容が書けないかもしれない、ということを始めに断っているだけです(笑) よくこの手の本を読むと、「波動」とか「周波数」という言葉が出てきます。この言葉を聞いただけで、なにか胡散臭いと感じてしまうのは私だけではないでしょう。 いわく、波動が影響を与えて、こういった超常現象を引き起こす、だとか、周波数が上がってくるとどうなる、とか、つまり現在の科学では説明できていない事を、何かしら少しでも「科学的」と思えるような用語を使ってごまかしている気がするからです。 波動だとしたら、その「波」を伝える「媒介物」は何か、周波数と言ったら「なんの周波数」で、「どんな値なのか」なんてことは一言も書いてありません。普通に考えたら水の波は水を媒介として、音は空気中を伝わる振動として、目に見えない電波だって、電磁場を介して一定の周波数で伝わる波ですが、そういったことからの「直感」「類推」に委ねてしまっているとことがあって、それをはっきり書かないこと自体で、何か眉唾な印象を与えてしまいます。 書き方も「ある主の周波数を持つ振動らしい」とか「まだ何を媒介としているかは解明されていないけれども」というぐらい断ってあれば、少しはその書いている方の態度に好感をもてるのですが、「振動なのです」とか「周波数が上がれば、そうなるのです」みたいな断定調で書いてあって、なんの根拠も示さない、というのは逆になんの根拠もないと思わざるを得ないわけです。 で、霊能力とは何か。 はっきり言って、「霊能力」の定義を「今現在の科学的な知識と手法の中では解明されていないけれども、実際にあると思われる能力」と定義しましたから、つまりは「解明されていない」のです(笑) でも、そこで終わっては何の意味もないので、今現在考えられていることの一端を紹介しようか、と思います。 ただ、この話の内容は、かなり専門用語が入ってきて、それをいちいち厳密に定義してからでないと内容がちんぷんかんぷんになってしまいます。 なので、詳しいことは、例えば1)エドガー・ミッチェル(MIT出の工学博士で、NASAの宇宙飛行士として月面を探索したあと、現在は超常能力研究の会社を経営。著書に「月面上の思索」など)2)ブライアン・グリーン(現代料理物理学の第一線の科学者。量子力学の最先端を比較的平易に解説した本を書き、アメリカでもベストセラーとなる。著書に「エレガントな宇宙」や「隠れていた宇宙」など)3)アーヴィン・ラズロー(一流のピアニストであり、システム工学の教授。現在では、先端科学と古来の叡智の融合に関しては世界的なオピニオン・リーダー。著書に「叡智の海・宇宙」とか「生ける宇宙」など。)などを読んでいただくとして、ここではその概略だけ。 はじめにどうしても、現代科学が解き明かしつつある「宇宙」のリアリティー、つまり「それは何か」ということに関する話をしないと先へ進めない。 昔、と言っても20世紀において、宇宙はどんどんその姿を変えていきました。今現在も変わり続けているけれども、おぼろげに見えてきた「宇宙の真の在り方」というのは、私たちが想像もしなかったようなものになりつつあります。 例えば「真空」。これは読んで字のごとく「真」に「空」つまりからっぽな状態、という意味ですが、実は宇宙には、本当の意味での「真空」などないことが分かってきました。いえ、真空どころではなく、何もない、と思われていた星と星の間や、銀河系と銀河系の間など、「物質的には」ほとんど何もない空間が、実は、ものすごいエネルギーの場であることが分かってきています。 この話を詳しくする余裕はないのですが、量子力学によって、従来「真空」とされた「なにもない空間」は、ある種の「場」になっていることが分かってきており、その場は、昔提案され、後に忘れ去られた光を伝播する媒体「エーテル」の存在を、新しい知見によって見直す形になって、別の切り口から再び現れてきました。 冒頭、波動、とか、周波数、という言葉が、何の根拠もなく使われていて、話の信憑性を落としている、と書きましたが、この10年ほどで、こういった話の科学的な説明が、「ある程度」付くようになってきました。 この「場」は、量子真空とかゼロ・ポイント・エネルギー・フィールドとか、A-フィールドとか、いろいろな名前がつけられていますが、この「場」を媒介とする「波」は、下手をすると、相対性理論で提唱されている「光の速度」を超えるスピードで伝播する可能性があります。光のスピードが一定で(これ自体、私たちの常識と相容れないのですが)、どんな速いものもこの光の速度を超えることは出来ない、というのが現代物理学の常識です。ただ、ここで「どんなものも」と書きましたが、「もの」は確かに、光のスピードに達すると質量が無限大になってしまうんで、そこへどれだけエネルギーを加えようと、それ以上のスピードに加速することは出来ません。 ところが「波」は、物が動くわけではない。例えば、水の波を考えると、水の分子がどんどん動いて行って波になるわけではなく、ある水の分子は、同じ場所で上下に震動しているだけで、その振動そのものが波として伝わっていく、という現象になります。 これを上の「量子真空」の場で伝播する「波」を適用すると、この波は「量子真空」を媒介として、その「振動」自体が伝播する、ということになり、この場合は光の速度の制約がなくなります。 大分まわりくどい説明になってしまって、ここまで読まれた方もそうはいないでしょうけれど(笑)、ポイントは、今この「量子真空」の場で伝えられる「情報」は、人間の意識を含む可能性が出ている事です。 そして、この波は永遠に消えることはない、という特徴を持っています。 話をはしょりますが、この「情報」という要素が、今まで、空間、時間、物質、それにエネルギーというもので構成された宇宙の中に、ひとつの欠かせない要素となって加わってきつつあります。 話は、ここで「霊能力」とつながります。 この「量子真空」によって伝えられ、永久に消えることのないこれらの「情報」は、一種のホログラムとして、「空間」に保存されている、と考えられるようになってきました。 ホログラムというのは、その情報のどの部分を取り出しても、全体の情報を保存している、という特徴があります。 つまり、あるホログラムを作り出すデータがあったとして、そのデータをどんどん削っていっても、まだ残った部分に「全体」が保存されています。 これをあらゆる事象に拡張すると、もしかしたら「量子真空」の中には、この宇宙で起きたすべてのことの「情報」がホログラムと同様、非局在に(つまり、どこにでも)保存されている、ということになります。 もう字数がないので、話が飛びますが、この「霊能力」というのは、この「量子真空」に保存されている「情報」にアクセスする、あるいはその内容を「知覚」するある種の「能力」だ、と解釈できるかもしれません。 その情報は非局在に存在しています。つまり「どこにでもある」ので、別に近くにいる必要もなく遠方のことを知る事もできれば、時間旅行をする必要もなく過去のことを知ることができます。 また人間の意識がそのまま「情報」として蓄積されていたとすると、人の意識を読むことも可能であり、もっと言えば、死んだ人の意識にもアクセスできることにもなります。 ただ、これも現代科学の最先端の成果を流用しては居ても、未だに「仮説」の域をでていないのは確かだ、ということと、もう一つは「じゃあ、霊と話をする、というのはどう説明するのか」、あるいは「未来を予知する能力」はどう説明するのか、という部分では、仮説の中でさらに仮説を組み立てないと説明が付かない、というのは事実です。ですので、これを以って「霊能力」あるいは「超能力」が現代科学によって説明できた、とはとても言えません。 しかし、物理学、生物学、心理学、あるいは「複雑性」の科学や「意識学」「社会学」などの分野で、どんどん「一貫性」「非局在性」が発見されつつあり、またデカルト以来の精神と物質の二元論(つまり、全く別々のものだ、とする認識)が量子力学によって崩れ去った今、それを説明するひとつの有力な仮説であることも事実です。
2011.09.18
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まずは、一番肝心な点から。「霊能力」なんて本当にあるのか?という疑問から始めたいと思います。 まあ、次の「霊能力とは何か」が一番の難問なんで、そちらの考えがまとまるまでの時間稼ぎです(笑) まず、ここで言う「霊能力」の定義を適当にしておくと、「通常の人間の能力では感知できないと思われていることを感知したり、見たり、聞いたりできる能力」としておきます。 一般に「超能力」と言われるものには、「サイコキネシス」いわゆる念力や、場合によっては空中浮揚や瞬間移動(テレポーテーション)などの物理的な「超」能力が含まれますが、今回のこの「霊能力」はこれらを含めずに1)遠隔知覚 (離れているところの物事を見る力)2)テレパシー (本人以外に知りえないことを、精神感応により知りうる能力)3)予知能力(時系列的に「未来」に属すると思われる事象を予測する能力)4)霊感(いわゆる、「あの世」あるいは霊と交感する能力)などを対象とすることにします。 一般に言われる「霊能力」というのはだいたいこんなものだと思うからです。 ただし、この分類は、私が勝手に作っているので、別に学問的にとか、どこかの本から引用しているとか、そういった類のものではありません。 で、これらの「霊能力」が実際にあるかどうか、というのはどうやって判断するのか、ということですが、私も技術者のはしくれなんで、少なくとも信頼性と再現性、検証性を重視したいと思います。 と言っても、私がなんらかの実験を自らするわけにもいかず、この点において、世に出回る多くの書籍に頼らざるを得ないことはあらかじめお断りしておきます。これらの書籍の信憑性そのものは、その書籍に対する他の人の評価に頼らざるをえません。もちろん、書かれている内容そのものに対しての、私自身の評価を加味していますが、それはあまり客観的に言っても第三者には意味がないでしょうが。 で、このような書物はあらゆる分野にわたっています。たとえば、1)自然科学 特に現代物理学と生物学2)宗教・信仰に関する本3)心理学、特にトランス・パーソナル心理学4)民俗学5)ルポルタージュ(たとえば、立花隆の「臨死体験」や「宇宙からの帰還」など)6)精神世界関連の本(スピリチュアル、ニューエイジ、セラピー、ホリスティック医療などを含む)7)エッセイ8)瞑想に関する本9)「とんでも本」シリーズ(これは、どうやって「いかさま」を暴くか、という観点で)まだまだあるかもしれません。それに、こういった分類のどこに入れていいのか迷うようなものも多く有ります。例えば、元福島大学教授であった飯田史彦氏の書いた一連の「生きがい」シリーズの著作などは、あえて言えば(6)かな、と思いますが、あまりぴったりとは当てはまらない気がします。 これらのジャンルのほぼ全てに渡って、何冊かの本を読んでいますが、当然のことながら、読んでいる本は限られますし、偏っているかもしれません。なにせ、「面白そう」という基準で読んでいるので、学者が研究する場合のようなあらゆるバイアスを排除しようという意図はあまりないからです。 で、本来、この「霊能力はあるのか?」ということについては、これらの本で展開される事例と、その検証結果に対していちいち評価を下し、その結果として、と言う形が一番のぞましいのですが、そんなことをしている時間も、スペースもありません。なにせ、この日記は、10000文字以内ですから(笑) そこで、結論を先に言います(先に、と言っても、すでに相当長くなってきていますが)。 霊能力は、現在の科学で説明できない事象という形で、けっしてその存在を否定できない、というのが、現在の私の結論です。 否定できないのであれば、これらの事例をまともに検討する意義が生まれます。「もし本当にあるのだとすると・・・・」という形で、です。 また、もう一つ、個人的な体験からの結論も、やはり「霊能力がどんな理由で存在するのかは定かではないけれども、どうも有りそうだ」というものです。 これは、実際に個人的に知っている人に関して、その人がその類の能力を持っている、と考えなければ、絶対に説明が付かない多くの実例を見ているからです。 日本でも、なにか「霊能者対科学者」のような番組がTVで放映されたことがあるらしいのですが(私は見ていませんが)、一つ言えることは、この件は議論して結論を出す、という類のものではない、ということです。もっと、厳密に、研究の場でこそ行なうべきことでしょう。少なくとも、政治の場における政策論争や、視聴者による判定で結論が出るようなものでもありません。 ちょっと肩透かしを食ったような内容になったかもしれませんが、個々の事象について細かく話をしてゆくととても書ききれないので、仕方がありません。 ということで、次の、(3)では「霊能力というのは何か?」について書きたいと思います。(これが、ちょっと難問です・・・) <補足> 書いた後に読み直してみたら、肩透かしどころか、全然言いたい事が書けていない気がして来ました。 で、なんなんだろう、と考えたら、実際の主張の裏づけの部分を字数がないから、と省略していることによるんだろうな、と思えます。 なので、やはり詳細は書けないにしても、その「科学ではまだ無いと否定できない」現象について、気休めですが、列記しておくことにしました。 次に上げる事柄は、信頼するに足ると思われる本の中で紹介、あるいは引用されたり、実際の話として聞いたり見たりしたものの一部です。 ☆私の知るある方は、対面する人の過去について本人にしか分からない事を踏まえて話をされます。時には、それは、ある場面でのその方の「感情」である場合もあり、言われて、当人の方が、ああ、そう言われればそうだった、と思い出すこともたびたびあります。 ☆臨死体験の中には、例えばキューブラー・ロス博士の本によると、死んだ人間と接触し、その死んだ人間しか知りえなかった情報を持ち帰って、それが本当の事だと検証された事例がいくつもあります。 ☆ワイズ博士の行なった前世退行の中には、やはり取り戻した記憶がその当時の事実と符合する、という事実が確認されている事例があります。 ☆立花隆氏の臨死体験に関するルポにおいても、あれだけ客観的、現実的に事実を捉える人にとっても、臨死体験はただの幻覚として片付けるわけには行かない、と結論しています。 ☆前世紀(20世紀)で最も有名な霊能力者であるエドガー・ケイシーの、いわゆる「霊が乗り移った」「交霊した」状態での彼の発言が全て記録に残されていて、特に健康問題に関する「霊」の助言は、実際に数千人の患者を救った事実が記録されています。 ☆ソニーの創立者である井深大氏が幼児教育にのめりこんでいた事は有名です。彼のその種の活動のきっかけは、実は幼児に見られる、ある意味での「特殊能力」でした。その「特殊」能力は、今の科学では解明できていません。 ☆同じくソニーの研究所の所長であり、CDの開発者として有名な某氏、ペンネームを天外伺朗氏と言いますが、彼はこの種の「霊感」に関して自分の体験を踏まえて肯定しています。彼自身、アメリカの空港に居るときに、突然、井深氏の映像が見えてしまいますが、実はその時に井深氏が亡くなられました。 ☆意識を肉体から切り離すテクニックがいくつかありますが、それを実践して、意識どおしで会話をし、実際に肉体に戻ってから、それが「相手」にとっても事実であった、ということが検証されている事例がたくさんあります。 ☆意識を肉体から切り離し、遠方の出来事を知覚し、それを、その遠方に居る人に伝えると、そこに居る人がその報告と事実が完全に一致する、というこが確認されています。 ☆なかなか表に出ないようですが、実施に「超能力」により犯罪の真相に迫ることが可能になった事例も報告されています。 ☆自分の正気を疑われかねない、ということで誰にも話さなかった「幽霊を見た」経験が、意外に多くの人に有って、中には、死んだ愛する人からのメッセージとして、その人しか知りえないメッセージを受けとった人も居ます。 ☆予知に関しては、なかなか確実で信憑性のある話がありません。ただ、中には、もしかしたら、という話もあります。例えば、ある方は20代で結婚する時に、妻になる人に、自分は43歳までは大丈夫だが、それから先はわからない、それでも構わないか、と断って結婚し、実際に43歳で死にました。その死の前には、自分の死を知っていたと思われる発言を繰り返し行なっています。 などなど、今、たまたま思い出す範囲で書き出してみました。事例を集めたら数百や数千はすぐ集まるでしょう。 その多くは(全部とは言いませんが)、今の科学で無理やり説明をつけようとすると、かえってこじつけに近い説明にならざるを得ません。
2011.09.17
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またまた「書きたいこと」の続き、第三弾です。まだまだ終わりません(笑) 次は「霊能力」について。 日本のニュースを見ていると、つい最近も「神世界」による霊感商法事件というのがおきました。被害額は億単位に上るという。 この手の事件が未だに起きている、ということ自体信じられませんが。いえ、だます人がいる、というのは分かりますが、だまされる人がいる、ということが、です。そこで、この機会に、この「霊能者」あるいは「霊能力」について、考えている事をまとめておきたいと思います。 その構成は1)霊能力について2)霊能力って、本当にあるの?3)霊能力って、あるとしたら、それは何?4)霊能力との、あるいは霊能力者との付き合い方5)人間にとって、「霊能力」は必要か?という順番で行こうかと思います。もしかしたら、もう一つ、別に書き加えるかもしれません。 で、この日記は初めなんで、とっかかりとして、昨日の別のブログである方からいただいたコメントに関連して、感じたことを書きます。昨日の日記で、このコメントをくださった方も、身近にそのような「霊感」あるいは「霊能力」を持つ、と称する人をご存知だったようですが、それに対して、以下の返事をさせていただきました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・霊能力の正体、というより、その存在そのものが確定しているわけではありませんが、実際にその手の能力を持つ人を見ると、有ると思わざるを得ない、というのが私の今の判断です。では、それは何か? そういったことに興味を持っていていろいろと本を読んだりしているのですが、ほぼ、「これらしい」ということは分かってきています。まだ「推定」あるいは「仮説」の域を出ませんが、説明がつくことは付きます。私としては、人間の知覚の一種だと思っていて、例えば音を聞く能力にしても、人により千差万別です。 その高い音、低い音という周波数に対してだけではなく、その音を捉える捉え方にも差があります。霊能力もこれと同様で、全ての人が持っていても、そのレベルには人それぞれ差があって、この霊能力者の方は、その感覚が人より鋭かった、ということは大いにありえます。ただ、世間一般では、これを「特殊」な能力だ、とみなす傾向があり、その能力を持った人は「自分は特別だ」と思ってしまう危険性が常に伴います。 絶対音感を持つ人が、持たない人に対して「優越感」を感じるのと同じかもしれません。でも、問題は、この能力があまりにも希少であるため、その「特別意識」が変なところへ言ってしまうことです。この方のように、「自分はXXが付いている」「自分は〇〇と話ができる」と、さも自分だけがいわゆる「神」あるいは「その手のもの」に近い、つまり普通の人よりも「優れている」と思い上がってしまう危険です。だからこそ、昔から禅などでは、この危険をあらかじめ認識して、慎重にすることが求められているし、きちんとした「導師」の指導のもとで行なわなければならない、とされています。でなければ、「魔が付く」ということで、勝手に行う事を禁止しています。このお話にあった霊能者がその例でしょう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・これを書いていて、どうも言葉足らずだな、という部分と、最初に書いたように、未だにこの手の詐欺が存在する状況に対して、私としてはどう考えたらいいのか、と思ったわけです。 さて書く構成だけ先に書いてしまいましたが、まだ何を書くかは決まっていません(笑)いつものように、成り行きに任せます。さて、どんな内容になるのか自分でも楽しみです(← 一種の責任放棄かも。笑)
2011.09.16
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前の日記に続く、書きたいこと、その(2)です。 これも順不同、別に重要なことから書いているのではなく、単なる「思いついた」順番です(笑) 最近、いえ、最近ではなく、民主党が政権をとって以来、次々に党首が代わり、従って内閣総理大臣が代わっています。 もちろん、別に日本の外から見るまでもなく、日本に居る人から見ても、あまりにも簡単に変わりすぎて、政策に一貫性もポリシーも感じられなくなっているかもしれません。当然のごとく、外から日本を見ていると、一層、日本はどうなっているんだ、という感じが否めません。アメリカ人と話をしていても、時々、どうなっているんだ?と聞かれ、返事に給する事もあります。 そこへ3月の東日本大震災です。 この震災自体はもちろん、多くの人の生活を破壊し、今なお避難所や仮設住宅での生活を余儀なくされたり、家族ばらばらに避難先で生活を続けていたり、通っていた学校の再建の目処も立たない子供たちも大勢いて、まだまだ「復興」の緒についたばかりでしょう。 しかし、反面、この未曾有の災害を契機として、それまで内部的に相争い、足の引っ張り合いや相手への非難・中傷に明け暮れていた日本の政治の中で、一致団結して、日本の復興を図っていく、というチャンスではないか、と思われた事も事実です。 個々の人間にとっても、試練や困難は、人を育て、相手の痛みを知り、自ら成長する機会ともなりえるのと同様、国にとっても、今回の「試練」はいい機会です。いえ、いい「機会」にしなければいけないはずです。 でなければ、多くの犠牲者が浮かばれません。 先般、新しく野田氏が首相に就任し、新内閣を組織しました。しかしながら、残念なことにすでに「失言問題」で閣僚の一人が辞任する、という、これまた「お定まり」の事件が起きています。 そして始まった「代表質問」。 野党となった自民党の谷垣氏は、「一致団結して日本の復興を!」と唱える与党、民社党を責めあぐねていたのでしょうか、今回の辞任騒ぎを以って、また「任命責任の追及」ということを出してきました。 正直言うと、それはそうかもしれません。任命した人には任命した人の責任がある、当然でしょう。 しかし、今の日本で、この東日本大震災からの復興と、それと合わせた形の財政再建は、これは誰が何と言おうと至上課題です。 だからこそ、野田氏も「党派を超えた」協力を呼びかけているのでしょう。 私自身は、この野田氏が、松下政経塾出身の、庶民出の首相という以上にはあまり知りませんが、少なくとも、今の日本で首相になった人なら、誰でも同じことを唱えるはずです。 もし谷垣氏が同じ立場であっても、恐らく同じことを、つまり国を上げてこの未曾有の試練を乗り越えるための「協力」を要請することでしょう。 これに比べて、「任命責任を追及する」というのは、筋は通っているかもしれませんが、それが初めての代表質問で行なうほどの重要性があるだろうか、と思わざるを得ません。 私も日本を離れてもう20年。住んでいるのはアメリカですが、やはり日本で生まれた日本人。 日本が、この困難な時期を、本当の意味で成熟した政治の元に、乗り越え、見事な復興を遂げて欲しい、と願わずには居られません。
2011.09.16
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最近、書いておきたいことが山ほどあって、時間が取れません。 まあ、ぼちぼち、思いついたものから、日記という形ではありますが、メモを残しておこうか、と。 全然書きたい優先順位とは違いますが、まずは「世界経済と家計」について(笑)今、ヨーロッパの、特にギリシャ、イタリア、スペイン、その前にはアイスランドなどの財政危機が世界を揺るがせています。 今年の初めには、日本の東日本大震災が、やはり世界の経済に影響しました。世界への影響は限定的だったものの、日本経済への影響は大きく、また今後10年単位で残るとも言われています。 世界を見渡すと、10年前の9.11による衝撃、そして、それを回復させるために行なってきた米国の積極策が裏目に出て、2008年のリーマンショックへつながりました。リーマンショックから、この15日で丸三年。 当時は「金融危機」として、世界中の金融機関に飛び火し、そしてその規模の大きさから各国が金融機関の救済や金融制度の更新、そして不良債権の処理などに対して財政出動を余儀なくされました。 その結果、当時の金融危機は、三年経った今、今度は各国の「財政危機」として形を変えて、えんえんと引きずっています。 やれ、サブプライムだ、やれリーマンショックだ、やれギリシャの財政危機だ、と海外から入ってくるニュースを聞くたびに、何か遠くで起こっている事件ぐらいにしか感じられないのが普通です。 身近で起こった東日本大震災を原因とした、その後の事業不振や物資不足、復興財源のための増税論議などの方が、よっぽど身近で具体的であるだけに、こういった世界経済における流れや事件には、あまり注意を払う余裕もないかもしれません。しかし、今日の世界経済は、あまりにも密接にリンクしているので、けして日本だけがその影響から無縁で居られるはずもなく、円高という形であるとか、各企業の業績などを通じて影響を受けます。 そして、それは回りまわって、直接、間接に、確実に私たちの家計にも影響しています。 身近で起きた事からの直接の影響は、家計の面から言えば、なんらかの対策が打ち易いとは言えます。 電力が不足すれば、節電を、生活物資が不足すれば、その代替手段を、と。 しかし、世界経済の影響、つまり、例えば日本の状況に何一ついいところがないにも関わらず、国と国を比べて、消去法で日本が残って、円が買われ、そのお陰で円高になる、そして、その円高で企業業績が悪化し、税収が減り、国や自治体の財政が悪化し、復興財源への手当てが付かず、増税せざるを得ない、という、なにか「風が吹けば桶屋が儲かる」式の影響が確実に起き、この手の影響には、なかなか家庭単位での対処法がない、というのが現実です。 今、私たちが生きている「現代」という時代は、そういった意味では、すでに「グローバル経済」の中にしっかりと組み入れられている、ということでしょう。 そして、その事実は、各人が意識する、しないに関わらず、今後もますます顕在化してくるのだろう、と思います。 だからこそ、逆に、この手のニュースにもある程度敏感でありたい、と思っています。
2011.09.16
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ある往復書簡、まだまだ続いていて、本当はもう「その10」を超えているんですが、ここではその中の一部のみ。 今回は、前にこのブログに書いたこともある「イエスに遭遇した男」の話に関連して、この手の「あぶない話」について(笑)**********************そうです。内容が「過激」というのは、多少、普通の常識からすると、「そこまで行くか?」の?が?????、つまり「疑問」から「疑惑」へ、そして「否定的疑問」にまでなってしまうことです。 つまり、その話が出たとたんに、話全体の信憑性、信用が急に低下する危険性がある内容、ということです。私も正直言って、この本はまじめに真剣に書かれたのだろう、と思う反面、この人にとっての「真剣」と、客観的な「事実」や「真実」の間にある境界線をどこで引こうか迷う部分もあります。特に、ここで出てくる「宇宙人」の実態を読むと、そう思わざるを得ません。下手なSFよりも、よっぽど発想の面白さという観点で言うと面白いんですが、さてそれが「事実」か、と言うと・・・・。まあ、でも、その部分の真偽は脇に置いておいても、抜粋した部分に関する記述は、書いたように、別な本で書かれた「神と遭遇」した人の話しに、かなり相通じるものがあります。もちろん、ここで言う「神」は「人格神」ですが。書かれた、19世紀に書かれた「イエスは他の惑星・・・云々」の話は、私なりにわかります。これは前にも書いた「旧約聖書」の内容と同じく、その時々で、その当時の人々が理解できる範囲で啓示があるか、啓示そのものを、その受けた人自身が理解できる範囲でしか理解出来ないからだろうと思います。例えば、旧約聖書の時代の人に、ビッグバンの理論を元にしたような話をしてもチンプンカンプンでしょうし、19世紀の人に、現代の相対性理論や量子力学を踏まえた宇宙論を啓示の中で使っても、これまた理解不能でしょう。19世紀と言えば、多少は宇宙の構造がわかり始めたばかりのころですから、その先端の知識を利用して、「他の地球外惑星」と言ったのだ、と解釈しても、おかしくはありません。ただ、同じ啓示を現代の人が受けたら、違った言い回し、違った語彙を使っただろう、とは思います。なので、19世紀に書かれた本は、その19世紀の「宇宙観」の範囲で考えるべきで、今の最新の「宇宙観」の中で同等に扱っては間違うだろうと思います。 その意味では、現代でも啓示を受ける人はたくさん居て、それこそ「ビッグバン宇宙論」がその啓示の中に出てきたりするんですが、それすらも、何十年、何世紀経った未来から見たら、「ああ20世紀、21世紀の人間にはこう言うしかなかったんだな」と思われるに違いない、と確信しています。 だって、「神」のレベルに比べたら人間なんて赤ん坊以下。人間とアリの差よりも、神と人間の差は大きいのは確かですから。なにせ、「神」は「無限」、人間は有限、神と人間の比較は「無限」と「有限」の比較ですが、人間とアリの比較は、その差がどんなに大きくても、しょせん「有限」と「有限」の差でしかありませんから。 で、元の「危ない話」に戻ると、今「危ない」話も、その全部とは言いませんが、少なくともその一部は、将来、多少違った形の認識に形を変えるかもしれませんが、未来の人にとっての「宇宙観」の一部になるんだろうな、と思っています。
2011.09.15
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娘が、アトランタシンフォニーオーケストラのユース(高校生のオーケストラ)のオーディションを受け、合格した。 これで高校2年生の時から3年連続の入団(入オーケストラか?)だ。初めて受かったときは家中で「やった!」と喜び、2年目の昨年は、オーディションの合格対象が、高校1~2年の部と、高校3~4年の部とで分かれるため、高校3年の娘は一昨年入っていたからと言って、簡単に入れるわけではなかったので、合格した時にはやはり皆で喜んだ。 だが、今年は・・・・・昨年受かっているから今年も、というほど甘いものではない、とは思っていたから、今回の合格と聞いて、本人もさぞかしホッとして、喜んでいるだろう、と思っていたのだが、本人に聞くと、「別に・・・・」だと。 照れ隠しか、それとも相当に自信があったからそれほど喜ばないのか、と思ったが、どうもそうでもなさそう・・・・・・ なにせ、「行きたくないなあ・・・・」と言うんだから・・・・。「え、行きたくないの? じゃなぜ受けたの?」と聞きたいくらいだ。どうも娘にとってバイオリンは、その道でやっていく、なんて気もさらさらないから、高校生までの一種のクラブ活動的な感じである。 もちろん、高校でもオーケストラに入り、バイオリンでは今年は1番、2番手を争う位置にいるらしい。でも、それも、どうでもいいようだ。 とにかく、あまり熱意はない。本人がちらっと言ったところによると、これらの「肩書き」例えば、アトランタシンフォニーユースに3年連続!とか、全州の代表オーケストラに選ばれた、という「肩書き」は、単に大学へ入るための「箔付け」に過ぎないらしい。 こちらの大学は、入学は試験が無い代わりに、高校の成績と、その高校時代、何をどれだけやってきたか、つまり「勉強」以外にも何をやってきたのか、を非常に重視する。だから、これらのオーケストラの経験も、バイオリンの上手さも、極端に言えば、大学へ入るため、ということのようだ。 まあ、ここまで熱心にやってきたのだから、好きは好きなんだろう、とは思うが、それにしても、何かさびしい気がする。 音楽、特に何か楽器が弾ける、ということは一生の財産だろう。 私だって、この歳になってピアノを弾き出したぐらいだから、子供の時からこれだけ弾けたら、プロにならなくとも、一生付き合っていけて、私などは羨ましいな、と思うほどだ。 それを、「大学へ行くための方便」みたいな言い方はないんじゃないか、と。困ったものだ・・・・・・・・・・
2011.09.13
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今日はもう書く気力がありません。なので、今日のメモ書き。1.「怒り」「妬み」「憎しみ」「恨み」などは「罪」か? 考えてみると、これらは「人間の弱さ」の裏返しでは? 「つい怒る」「つい妬む」「つい憎む」「つい恨む」・・・・この「弱さ」が「罪」か? キリスト教では、よく「罪」という言葉が出る。「 」付きである。 でもよく聞くと、かなりのケース、「私は怒ってしまいました」「私は妬んでしまいました」「私は・・・」と言って、それを「罪」を犯しました、と告白あるいは懺悔する・・・・ これらは「人間の弱さ」の裏返しだとすると、「人間の弱さ」=「人間の罪」?2.「宇宙の進化」と「感謝する事」の関係 万物の存在理由・・・・そこに「なぜ感謝するのか」の理由が。「生ける宇宙」において展開された「進化する宇宙」そして、その「進化」の方向と人間意識の関係は?3.「本当の福音」とは何? 福音のテーマと共に、それにはいくつかの異なったレベルがありはしないか?4.イエスが言う「わたし」の意味 この「わたし」が混乱の元では? 彼の言う「私」はイエス個人を指すのか? ⇒ 大宣教命令における「わたし」 「私を通してしか」の「わたし」5.牧師の言葉「宣教は最高の隣人愛」を考える 「それによって人間関係が悪化するかもしれない。でも、それ(福音を伝えること)をしなければ、その人は一生、その福音に触れずに終わってしまうかもしれない。その福音を知らずに終わる、という不幸になるかもしれない。だから、勇気を持って、そして自信と信仰を以って、伝道しなさい。」 でも、その「福音」の内容が異なる場合、そのそれぞれが上の言葉と同じ「信念」を持ったらどうなるのか?6・教会に行く目的 それは、各個人が「このために」という目的を持っていようがいまいが、ここに居る人は「呼び集められた」のだ、ということの意味。7.5に関連して、「聖書」における「福音」とは? 一般的な答えはわかる。その奥にある考えは? やっぱり、2については書いておかないと、忘れちゃいそうだなあ・・・・・・
2011.09.12
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今日は、9月11日。 あの10年前の同時多発テロのあった日であり、日本では、東日本大震災が起きてちょうど半年。 東日本大震災の時は、私は日本に居なかったので覚えている事と言えば、夜中に息子が寝室に飛び込んできて(息子は夜3時、4時まで起きているんで)、「日本で大地震だって!」と、我々をたたき起こしたのが始まりでした。 それから飛び起きて、TV、インターネットで情報収集・・・・。そして日本への連絡・・・しかし、連絡はそんな深夜にも関わらず、やはり電話が殺到したんでしょう、全然繋がらず。 国際電話回線がパンクしたんでしょう。 それからご存知の経過。 やっと日本の家族と連絡が取れたのが、3日か4日後の、スカイプでした。通常の電話回線が、その時も依然としてダメ。 つくづくインターネット、というか、データによるコミュニケーションの威力を実感しました。 一方、9・11の方。 こちらは、「当事者」とまでは行きませんが、朝仕事が始まってすぐの時間、9時過ぎにニュースの第一報。 私はアトランタのオフィスに居ましたが、部下が日本からの出張者を伴ってニュージャージーに行っていました。 ニュージャージーのオフィスは、川を挟んでマンハッタンが見えます。 そこのオフィスに居る部下から電話で、ニューヨークの方で火災か何かわからないが、貿易センタービルの方から煙が上がっている!と。 そしてTVで航空機がWTCに突っ込んだ大惨事の報道が流れるに及んで、そのオフィスの人は皆、窓際に釘付け。 こちらのアトランタのオフィスでも、仕事は手に付かず、TVに次々に映し出される惨状を見つめていました。 そして、もちろんニューヨークへ出張中の同僚や仲間の安否確認に追われました。 同時多発テロは、このニューヨークだけではなく、他にワシントンにつっこんだ飛行機、もう一つどこだったか忘れましたが、もう一機もハイジャックされていましたので、即座に全米で飛行機の運航が全面ストップしました。 結局、私の部下達と、日本からの出張者は、なんとかレンタカーを確保して、二日かかりでニュージャージーーからアトランタまで帰って来ました。 そしてそれからは・・・・。 ほぼ毎日のように、関係者の安否、消息の確認が行なわれ、従業員には被害がなかったものの、その家族や親戚、知人まで含めると相当な数の犠牲者が、分かってきて、中には泣き崩れる人も・・・・ あれからもう10年。いろいろなドラマが展開されました。 この10年。もちろん、被害規模から言ったら東日本大震災の比ではありませんが、原因が「人為的」なものだけに、その衝撃は世界中に広がり、今もその影響は残っています。 東日本大震災は、自然の猛威を、そして、この同時多発テロは人類の中にある「自らの中にある脅威」を、私たち人間に知らしめました。 双方で亡くなられた方々の冥福を祈ると同時に、生き残り、今もなおこの地球上で生活する「一人間」として私たちは、これらの出来事から何を学ぶべきか、あらためて思いをめぐらす日になりました。
2011.09.12
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世の中、貯筋だとか、エクササイズだとかが流行っておりますが・・・・今日のお題は「ピアノのための筋力アップ」(笑)ピアノを弾くのに、筋力が居るのか?!と思われるかもしれませんが、これは確実に必要です。しかし、その「必要な筋肉」というのが、普段、人間が生活する上で必要な筋肉と、ちょっと違う、というのが、今回の日記の趣旨。 ピアノをこれまで弾いていて、こんな筋肉の使い方、普通ではないよな、と思われるのが大きく二つ。 一つ目は、ある指を固定していて、他の指を動かす際の筋肉。 これは、筋肉だけ、というよりも、神経の分離まで必要なようで、これは単に筋力をつける、というだけでは済まないかも・・・・・ もう一つの方は、指を鍵盤から「離す」あるいは「上げる」筋肉。これも神経と多少とも関係しているが、こちらはもっと「筋力」の比重が高いような気がする。普通の生活で、手で何かを握る、という動作は、早くとも遅くとも、どちらの場合も「握る」という動作に必要な筋肉。 ところが、ピアノに必要な筋肉は、もちろん「弾く」つまり鍵盤を「たたく」「押す」という、普通の「掴む」動作と同様な筋肉も必要であることは当然だが、逆にすばやく「離す」、すばやく「上げる」という動作も必要になる。 ところが、こんな筋肉の使い方は、普通の生活ではしない。勢い、そんな筋力はついていない。 どれだけの筋力が必要か、というと、犬の散歩をしながら、手で「結んで開いて」を繰り返す。 この「結んで」も「開いて」も、できるだけすばやく行なう。次に、指の一本一本を、これまた「分離する神経」の鍛錬を兼ねて、折り曲げる⇒伸ばす、という動作を、これまた出来るだけ素早く繰り返す。 これをやっていると、すぐにひじから下の筋肉が疲れてくるのがわかるし、なんと、散歩では息が上がったりしないのに、これをやっていると息が上がってくる!! それほど筋肉を酷使している、ということでしょう。 この特殊な「筋肉」が、ぜんぜん力を入れるつもりもなく、もちろん「息も上がらず」にずっと使い続けられるようになる、というのが「ピアノのための筋力アップ」(笑) 以前、ジャズピアニストの上原ひろみ(だったかな?)が、いつでも、どこでも、もちろんピアノなどない時、場所でも、例えば机を指で叩いて指の訓練をしているビデオを見たことがある。 あれだけ弾ける人でも、やっぱり「毎日の鍛錬」なんだなあ、と感心。だったら、まだ鍛錬も何も、そんな筋肉なんぞ、使ったこともない私などは、それに輪をかけて「鍛錬」せねばならないことになるんですが・・・・・ まあ、犬の散歩中にやる、というぐらいでお茶を濁しましょう。それに下手にやって腱鞘炎にでもなったら大変です(と、理屈をこねて、手加減する、という、大人のピアノならではの、障害物かもしれませんが。笑)
2011.09.11
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〇〇さんもしかして、ボールはこちらにあるんでしょうか? この返事で、まだ前のメールを読んでいないという印象だったんで、まだそちらにボールがあるのか、と思っていましたが(笑)まあ、どちらにしても、今日は土曜日、考えをまとめるにはちょうどいい日です。明日になるとまた教会へ行って、別な刺激を受けちゃうんで、そうなるとまたまた機会を逃すんで、書き始めちゃいますね。 では、今日は、イエスに会った人の話をTM瞑想に絡めて書きます。初めにお断りしておきますが、ここからだんだん話がキリスト教を離れて、どちらかというとスピリチュアル系の方に行ってしまいます。イエスは、その中に出てくる単なる「登場人物」です^^; また、Technical Writingの話ですが、勉強したことはありますよ。もともと電気・電子系の技術者だったし、アメリカで仕事をする羽目になった、ということもあって。 でも、それは単に「勉強した」というだけで身にはついていません。私の書き方は、どちらかというと、仕事上のレポートでこうなってきてしまった、という方が強いでしょう。レポートは、「相手を説得する」「自分の論点を相手に理解してもらう」「上司の、なんらかの判断を補佐する」という形のものがほとんどで、勢い、その「根拠」とか「背景」や「理由」「目的」をはっきりと、しかも「論理的」に書かないと、その目的を果たせません。そして、自分が部下のレポートを読む場合も、その辺があやふやだとつき返すか、論理が矛盾していると、レポートそのものの質を疑います。そういった経験が、だんだんこんな文章を書くように仕向けてきたんでしょう。 前置きはこれくらいにして、まずは私の、こういった「形而上」の話に対する思いを書きます。「形而上」と言っても難しいことではなく、簡単に言えば「形がないもの。物のように、通常の五感で見たり、触れたり、つまり知覚出来ないもの」を指します。つまり、宗教、意識、心、信仰、愛、その他もろもろの、あるとは思うが、五感では掴めないものです。 これを細かく言うと哲学の領域に入ってしまって、私の手には負えないんで、私の、こういったものへの興味がなぜ、例えばキリスト教への興味という形になったのか、という点についてのみ話したいと思います。私がこういったことにのめりこんだのは、ある意味、純粋に「興味」からでした。 よく信仰や宗教では、人は自分の苦しみ、悲しみ、悩みなどから、あるいは「悟り」へのあこがれから、キリスト教や仏教へ近づき、「救い」を求めたり「悟り」を求めたりしていると思います。が、私の場合、そこまで切羽詰ったものを持たないまま、なぜか(この辺の理由は自分でも定かではありません)こういったことに「興味」を持つようになり、自分で勝手気ままに、手当たり次第関係のありそうな本を読むことからスタートしました。あえて言えば、誰でも考える「自分とは何か」「自分も含めて、人間の存在とは何か」「どこから来て、どこへ行くのか」「死んだらどうなるのか」「この世の中はいったいどうなっているのか」ということへの興味です。「生きていく、ということに、どんな意味があるのか?」というふうに言い換えてもいいかもしれません。 だから、別に特定の「宗教」に、ではなく、これらに関係することだったら、「宗教」の本、「哲学」の本、「スピリチュアル」の本、自然科学(物理や生物、そして数学)の本など、ジャンルにこだわらず読んできました。 その選択基準は「面白そうか?」です(笑)そして、その中の「宗教に関する本」の中で、やっぱり「聖書」は避けて通れない、という結論になり、だったら本を読むだけではなく、せっかく身近に教会があり、クリスチャンの方もいるので、一緒に教えてもらえないだろうか、と考えて教会に行き始め、もう5年目になってしまった、というわけです。 こういった背景から、私自身、初めに書いた「形而上」の世界にアプローチする方法として、いくつかあることに気が付きました。それらは、1.宗教に入る、入らないに関わらず、信仰を持つ2.瞑想をする3.催眠術を使う4.薬剤を使う5.ある種のテクニックを使う6.事故というようなものです。 これらは、「考え」を広げ、「意識」を広げ、形而上的な「経験」を広げます。 特に、ある一定以上のレベルの「非現実」(これも使いたくない言葉ですが、普通に「現実」と思われること「以外」の現実」-「超現実」という言い方もあります)に達するには、「変性意識状態」になる、というのがキーポイントだ、ということが分かります。 この「変性意識状態」というのは、通常の意識状態とは違って、五感は生きているのに、それ以外の、その五感に含まれない「知覚」が作用しはじめる「意識状態」と言えるかもしれません。実際に、この「意識状態」というのは、生理学的に、通常の「意識状態」とはあきらかに異なっていることがデータで裏付けられています。この変性意識状態に到達する方法として、上に挙げた方法とか手段があります。例えば信仰。これは祈りや感謝、そして2.の瞑想を含めて、よく「神を感じる」「霊を感じる」「光や愛に包まれる感覚」などと言われる状態になりえます。また、瞑想は、古今東西、いろいろな瞑想があり、実践され、座禅もその一つですが、その結果として変性意識状態に到達することが可能だ、と言われます。催眠術を使うのは、自己催眠もありますが、普通はやはり術者の人に助けてもらって催眠状態に入ります。この例としては、退行催眠療法や前世療法があります。先日名前の挙がった、ワイズ博士の「前世退行治療」が有名です。薬剤を使う、というのは、これは本当に変性意識状態なのか、それとも「似て非なる」ものなのか、残念ながら私にはあまり知識がありません。ただし、人によっては、これをまともに(まじめに)扱い、研究している人も居ることは確かです。5は置いておいて、先に6の「事故」。 これは、よく言われる「臨死体験」や「スポーツ・ハイ」などを指します。また、「たまたま」そうなってしまった、という偶然性を含めて考えると、「前世を記憶する子供」とか「デジャ・ビュー」(既視感)、あるいは「突然思い出す記憶」やもしかしたら「多重人格」も含まれる、と私は考えています。そして、最後に、今回の話のテーマである、5の「ある種のテクニック」。この「テクニック」は「技術」「技法」という意味です。いろいろな変性意識状態になるアプローチがたくさんある中で、一番、この5が「科学的」といえます。というのは、訓練によって、ほぼ誰にでも同じような結果が期待でき、しかも「再現性」と「信憑性の確認」の手法が確立しているからです。「科学」というのは、その厳密性、正確性と共に、こういった「再現性」や「検証性」を要求するものだからです。で、いよいよ、「イエスにあった人」の話です。この中にTM瞑想も出てきます。でも、もうすでにかなり長くなってしまったんで、続きは次回、ということで。リンロンPS.もし、そんな「危ない」スピリチュアル系の話は聴きたくない、ということでしたら、そうおっしゃってください。キリスト教に関係する(と思われる)箇所だけに絞って書きますよ。
2011.09.10
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久しぶりの「ピアノ」日記(笑) いえ、練習をさぼって進展していない、というわけではありません、念のため。ただ・・・・、次の課題曲の「子供の集会」が、なかなか一筋縄では行かない、というか、指がもつれて、なかなかきちんと弾けない、というのが最大の理由(泣) と同時に、今までのブルグミュラーの練習曲1~3も、同時に継続しているんですが・・・とにかく、アップした時は、「出来た!」⇒「アップ!」という感じで、一応弾けたら、自己採点70点、あるいは妥協して60点でもアップ、という形だったんですが、やっぱり自分的にも不満。 なので、最低70点、出来れば80点ぐらいにしたい、と思って継続しているんですが、ここで問題が・・・・・ それは何か、というと、やればやるほど、自己採点が下がってきてしまう、という問題。今聴くと、これまでアップしたものが、70点だとか60点だとか、自己採点してアップしたはずが、今採点したら、とてもそこまでの点数は付けられない・・・ 練習は一応しているので、内容的には多少とでも以前よりよくなっている「ハズ」なのですが、その「上手く」なるスピードよりも、自己採点が辛くなるペースの方が速い!(笑) なので、60点を70点に、70点を80点に、と狙っていたはずなのに、採点結果は、依然として基準ぎりぎりの60点か、下手をするとそれも下回る、ということで、どんどん点数が下がってしまう・・・・・ 練習すればするほど、ピアノが下手になる? いえいえ、自分の下手さ加減がだんだんわかるようになってきた、と評価する? いずれにしても、「最も知性のある人は、自分がいかに知性がないか、を知っている人である」という逆説になぞらえて、自分をなぐさめるしかないのかな、と。
2011.09.09
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イエスに会った話をするのを先にしようと思ったのですが、きちんと書くと、膨大な量になりそうなので、後回しにします(笑) 実際、こんなメールのやり取り、読むだけでも大変じゃないですか?そちらからメールでのコンタクトを依頼されたとは言え、やりすぎだったら遠慮なく言ってください。分量を落とします(笑) でも、考えながら書いているので、つい長くなっちゃうんですよ。 そうですか、反骨精神=パウロですか、〇〇さんの中では。 それだったらわからないでもないですが、それはあくまで〇〇さん個人の定義ですから、一般にはやはり誤解を生みます。言葉の力、つまり言葉に付随するイメージの力というのは侮れないので、特に名前に関しては慎重にしたいですね^^; 放蕩息子の話は、確かによく聞きますね。説教の中でもたびたび出てきます。あれを、父親の息子に対する「無償の愛」という受け取り方をするのが「普通」の受け取り方でしょうか。 でも、私は「普通」ではなく、どちらかと言うと「天邪鬼」なので(笑)、この話の本当のポイントは、この息子と父親にあるのではなく、それを見て文句を言う兄の方ではないか、という気がしています。 「弟に対する、あるいは弟に対する父の態度に対する」不満が、その人にとっての「不幸」を生み出す、ということです。 あの場合、兄も、父と同様に、この一文無しになって帰ってきた弟を歓迎し、愛で接することが出来たなら、この兄は不幸にならずに済んだのです。ここに「同じ現実」に会って、不幸になるか、幸福でいるかは、その人の心の持ち方次第だ、ということが明確に現れます。 普通、「不幸」や「幸福」は自分の外にある「現実」にその原因がある、と考えがちですが、実は、「不幸」を作り出すのも、「幸福」で居るのも、全て自分の心の持ち方次第である、ということを示しているのがこの逸話ではないか、と。 話が逸れましたが、いずれにしても神の愛は人間の愛を超えて深く大きい「はず」という前提で話をすれば、聖書に出てくる「神」はあまりにも狭量で、怒り、罰し、地獄へ落とすぞ、と脅し、場合によっては赤ん坊や無垢なはずの子供まで含めて町全体を焼き払ったりします。 これを単なる「逸話」で済ますことも可能ですが、どうもそうではないような気がしています。特に「旧約」の中の神は、人間の考えた神に過ぎないと思われる点が多々あります。思うに、預言者と呼ばれ、神の声を聴くことが出来るとされた一連の人たちは、神の声を聴いたかもしれませんが、その内容を人々に伝えるにあたり、その人自身の解釈を加えて伝えたのではないか、と私は思っています。 あるいは、「自分の理解できる範囲で」理解し、「自分が受け取った」と思うメッセージを「自分の語彙」の範囲の中で書いた、ということでしょうか。 このテーマ、つまり、「神の声」を聴くことと、人間の知性や言語の限界についての話も、書き出すと膨大になりそうなので、いったん置いておきます(笑) 質問にあったものを一つ一つ行くと、まず「イエスは神のひとり子」。これは書かれているように、マリヤが処女であったかどうかは別にして、マリヤから生まれた偉人であり、もしかしたら、人類史上、最高の偉人の一人かもしれません。そして、神の子である、ということに私は異存ありません。 なぜならば、全ての人が神の子である、と思っているからです。なので、私が信じないのは、イエスが神の子である、ということではなく、イエスが神の「ひとり」子である、という点です。ここに、「イエスこそ唯一の」という考え方の根拠があり、キリスト教の排他性を生み出す根源があります。 次の「三位一体」。これは〇〇さんも書かれているように、後付けですね。(というより、私は後付けだと思います)なぜその概念が現れたか、というと、まず教義があり、その教義を合理的に説明するのに都合がいい、という理由です。 イエスその人は、そんな三位一体なんて言っていませんよね。じゃあ、「父なる神」「精霊」「イエス」という三つの存在があるのか、と言われればあります。 一体か?と言われれば一体でしょう。それじゃ、三位一体じゃないか、と言われるかもしれませんが、キリスト教の中では、この三つが合わさって、大きな意味での「神」になっていますが、私が言っているのはそうではなく、「神」=「一にして『全』」なる存在」という意味において、です。 「神の裁き」の話は、上の旧約聖書に関するところで書きました。また「罪と罰」については、先日の 罪=「的を外す」こと、の中でかなりの部分触れましたので割愛(笑) ただし、「罪」に関しては、〇〇さんも書かれているように、キリスト教では「罪」「罪」って、さかんに言いますよね。そして、カトリックでは、それを懺悔する、という「形」まであるのでしょう、たとえそれを聞くのが生身の人間でも。 この懺悔をしたら赦される、とか、司教や司祭、神父はこれを聞いて神に代わって赦すことが出来るが、一般の人は出来ない、とか、聖書のどこかに書いてあるとか、イエスが言ったのでしょうか。私は少なくとも知りませんが。 それはともかく「私たちの罪のために死んだ」を信じておられないのですか?!! それって、キリスト教の根幹ですよね(笑) 他のことはともかく、この「私たちのために、身代わりになって十字架にかかられた」というのが、キリスト教を信じる大きなきっかけになった、という人は多いと思います。そして、信仰を深めれば深めるほど「本当にそうだったんだ。感謝しかない」と思われる人が多いようですが。 再び、「洗礼」についてですが、もし「神を信じますか?」で「居ると思う」と答えたら洗礼を受けられるのですか?! でも、その「神」が聖書に出てくる、あるいはイエスが言う「父」と全然違っていたらどうなるんでしょうね(笑)私は「やおろずの神」を信じます、なんて。 洗礼は、「新しい自分に生まれ変わる」という意識付けをする、非常にいい儀式だとは思いますよ。一度死んで(水に浸されて)、生き返る(再び水から出る)、ということを象徴しているわけで、それを意識して行なうと、すごく効果的ではないか、と思います。 でも、それは「象徴」しているだけに過ぎません。じゃ、洗礼のない、仏教、イスラム教、その他、キリスト教以外の宗教を信じる人間を、神様は救われないのでしょうか? 神はキリスト教の信徒に対してだけ、神に近づく「儀式」を与え、それ以外は無視、あるいは見捨てたんでしょうか? あるいは、バプテスマのヨハネがイエスに洗礼を施した紀元30年ごろまでの数千年間に、洗礼などを知らずに生まれて死んでいった何億の人は、神とはなんのかかわりもなかったんでしょうか? キリスト教が現れたのは高々2000年前です。それ以前の人は救われない?もし「洗礼」が、神が与えたものだとしたら、どうして、神は、人類が現れてすぐにこれを与えず、つい最近(2000年前ですが)になって与える気になったのでしょう? などなど。 またまた長くなっちゃいましたね。TM瞑想については、初めに書いた「イエスに会った」人との関連で書きます。 ね、読むだけでも大変でしょ?(笑) 林 PS.チェーンメールが長くなったので、一つ前のメール以前は、削除しました。
2011.09.09
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まだ続いています(笑)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なりゆき上、こちらへ先に返事を書きますね。ひとつ前のメールに対しては後ほど。 ルターは、良い面も当然たくさんあります。教会の腐敗、特に免罪符などを勝手に作り出して金儲けにまい進していた当時の教会に痛烈な批判をあびせ、また聖書を教職者だけのものから一般の人へと広げる基礎を作ったという意味で。その彼でも、ユダヤ人を徹底的に忌み嫌い、その弾圧の先頭に立っていた。なぜそうなってしまうのか?そういった疑問がきっかけで行き着いたのが、キリスト「教」における「排他性」なんですよ。これは、ある信条を絶対のものとして「全く疑わずに信じる」ことから必然的に生じてしまいます。そして、その「信じる信条」が異なると、相対立することになります。これは必然的に、そうならざるを得ない。結果として、その時々で優勢な勢力が、劣勢な勢力を弾圧し、血で血を洗う紛争になります。このどこが「愛の宗教」なのでしょうか? それを、どちらの信条が正しいか、にかかわらず、イエスが「説いた」ことでしょうか?こういった弾圧を正当化するような言葉は「聖書」にはたくさんあります。彼らは、その時その時で、一番適当な「聖句」を取り出して、それをその弾圧の理論的根拠にする、とうことを繰り返してきました。 それがイエスの言われた、「最大の戒律」である、「まず神を愛し、同じように、隣人を愛せよ」に反することであっても・・・・。 前に、なぜ教会に来る人が激減しているか、という話をしました。ひとつは、この情報化社会で、あらゆる情報が入手できる環境におかれているにも関わらず、教会はえてして「情報統制」をします。つまり、情報を「選定」し、場合によっては「臭い物にはふた」の態度をとります。 特に、教会や、キリスト教を批判する言論に対してはそうです。 ところが、今の人間は、いいか悪いかは別にして、「科学的思考」による教育を受けています。この「科学的思考」の根幹は、「疑う」そして「批判にこそ、より一層耳を傾ける」ことです。それでなければ、万人が納得する理論を構築できず、ただの独りよがりな理論になってしまうからです。 カトリックの中で、「質問」が出来ず、「疑った」り、「批判」したりしたら破門される・・・・。人はどんどん遠ざかるのは当然です。本当に、「正しい」という信じているなら、全ての質問、全ての疑問、全ての批判に正面から向き合って、その信じるところの「正しさ」を相手が納得するように説明すべきです。 しかし、現実にはそれを避けている・・・・。疑う人は、ますます疑ってしまいます。 グノーシス派の話が出ました。たぶん、ニューエイジ系の話には、慎重に対処するように、という話の流れだと思います。私は、グノーシス派の考えは、ある意味好きですよ。それが全部正しい、なんて思いませんが、ある面では、今のキリスト教会が認めている「正規」な信条よりも、そちらを取るものもあります。 例えば、キリスト教は現在、輪廻転生を正式には認めていません。これは500何年かのコンスタンチノーブルだったかどこだったかの公会議で、正式に否認されたものです。 しかし、私は輪廻転生に関する、これだけの状況証拠から、たぶんあるのだろう、という立場です。 ではなぜ、それまでキリスト教の中でも認められていた輪廻転生を、あえて公会議の場で否定したのか? 当然、表向きは「神学」上の理由になっているはずです。 しかし、本当のところは、輪廻転生を認めると、この世の中での教会の権威と権力が脅かされると判断したから、だと私は思います。つまり、表向きの理由は「神学的」でも、本当の理由は「現世的」あるいは「世俗的」。どこかで同じ話がありましたね。あの「神父」の独身制に関する議論です。 グノーシスは、ある意味、国教になって保護されたり、絶大な富と権力を保持するようになった「主流派」に対して「異端」で、弾圧の対象になりました。私は、「だからこそ」逆に、信仰としては純粋で居られたのだ、と思います。 最後にそのxxさんの話をしますと、彼が「イエス・キリストの名を出しているか」が本物かどうかを吟味するポイントだ、と言われているんだったら、彼はクリスチャンですね(笑)当然ですが。 ですが、私の基準とは全く違います。 ある方が、イエスキリストに会って話をしました。この方はクリスチャンですが、かねがねある疑問を持っていました。それを彼はイエスに質問します。 正確にはどんな質問だったか覚えていませんが「イエス様を通してしか、人は救われないのでしょうか」と言った内容だったと思います。 それに対するイエスの答えは、この答えははっきり覚えていますが、「名前は関係ない」でした。 私はこれを支持します。なぜなら、本当のイエスだったら、こう言うだろうな、というものと一致しているからです。普通に考えたら、クリスチャンに対しては、そう答えないだろう、と思うからなおさらです。 じゃ、私の「本物かどうかを見分ける基準」は何のか? それは、昨日も書いた「一にして全なる『もの』に向かって、自分の『魂』を進歩・成長させる方向に照らして、そう思えるか」です。つまり「的」に向かって自分を導き、あやまりに気づかせ、少しでも、まっすぐに的へ向かって歩むことができるように、自分を支えてくれるか、どうか、です。 その内容が、イエスの言葉を借りてであろうと、そうでなかろうと、私はそれをまずは「本物らしい」として検討の対象にします。 逆に、「イエスの言葉だから」と言われて、それがたとえ「聖書」の中にある言葉であっても、本当にイエスがそんなことを言ったのかは証明できない限り、疑います。何を疑うのか、というと、イエスが間違っているのでは?と疑うのではなく、聖書がイエスの言われた事を正確に伝えていないのでは無いか?と疑います。 特に、言われる内容、書かれている内容が、「分裂」「対立」「怒り」「攻撃」「恨み」「報復」「分断」「闘争」「憎悪」などを生む可能性がある内容であったら、徹底的に疑います。 結果としてそうなることを「知っている」神が、なぜそんなことを言うのか、というわけです。 また、長くなっちゃいました。 先のメールの返事がまだ続きます。 PS.ここで書いている内容は、「私が理解している範囲では」という限定付きです。私が誤解をしている部分も多々あると思いますし、考え方が間違っている可能性も否定はしません。 たとえ、断定調で書いてある箇所にしても、言ってみれば、すべて「と私は思います」という文脈で読んでいただけたら幸いです。
2011.09.09
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ラズロの「生ける宇宙 - 科学による万物の一貫性の発見」を読んでいます。詳しい内容は書く余裕もないので割愛しますが、この一貫性というものを、物質、それも素粒子のレベルから宇宙のレベルまで、また「生命」、そして「精神」「意識」というものまで含めて、現代科学がその中に一貫性を見出しつつある、ということで始まります。 まだ、この段階で、「見出しつつある」という諸説、諸研究は、ある意味「仮説」あるいは「一つの考え方」の域を出ていないのですが、それを、「これだけの証拠があるから」ということで、それから展開する「仮説」の根拠にしているところが、私にはまだ物足りないところでした。 良く言えば、発想の柔軟さ、いろいろな分野のいろいろな最新成果を集めて、その中に共通性を見出し、そして今現在も謎であり続けている「現実」「現象」に対して、ひとつの説明を提供する意欲に満ちた考え方である、と言えます。でも、逆に悪く言うと、まず「結論ありき」で、その結論に都合の良い、それを補完するような「現代科学」における「仮説」「考え方」を寄せ集めて、無理やり「証拠」扱いすることで、その「結論」としての「仮説」の信憑性を高めようとしている、と言えなくもありません。 ヨーロッパを代表する知性ですから、こんな私がぶつぶつ言ったところで、なんの影響もないわけですが、古代の叡智と現代科学の叡智を融合しよう、というからには、少し先を急ぎすぎてはいないか、という感じもします。 しかし、その「仮説」の面白さは、それによって損なわれるわけでもありません。彼の唱える、A-フィールド、つまり、重力場、EM場、核力などと同じように、新たなA場、というものを「量子真空」の中に設定し、それで、今現在も謎とされている多くの現象を説明しよう、という意欲的な「仮説」です。 まだ読了していないので何とも言えませんが、今までのところ、まだ、それでも説明がつかない「現象」「謎」がいろいろとある、ということは確かで、その辺りに対して、どう説明を付けていくのか。 表題に「霊性と量子真空」と書きましたが、霊性と言われているものの中でも、一部はこの「仮説」で説明は出来ても、そうではない、つまり説明できないものも残りそうな気がしている。 大統一理論ではないけれど、ここまで大胆に発想を広げた「仮説」を提出するのだったら、せっかくだから、そのあたりまで拡張できる「仮説」になっていればいいのだけれども。
2011.09.08
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前に、「神様自動販売機論」というのを書きました。祈る⇒「救い」あるいは「恵み」がある、というのを、お金を入れてボタンを押す⇒「買いたい」商品が出てくる、というのになぞらえたものでした。実は、これはひろさちや氏の「どの宗教が役に立つか」という物騒な(?)本からいただいたアイデアでした。 で、今日は、ちょっと別なのを思いついたので、忘れないようにメモを兼ねて書いておきます。題して「宗教ー金融商品論」(笑) この金融が発達した私たちが、今日の世界を生きるのに最低限の経済常識は必要です。なにを以って「最低限」とするか、は人によって違うと思いますが、その「知識」としての「常識」以外に、「考え方」というのもあります。 別のブログで話題になったのですが、「金持ち父さんの、子供はみんな天才」という本があります。この本の内容は、経済的な「知識」よりも、現代を生きる人に必要な「考え方」に焦点があります。 その関連で、今日の金融商品を買うべきかどうか、というケースを考えたときの、考え方の基本はなんでしょうか? 私は、「知らないもの、自分が理解できないものに手を出さない」ということもその一つではないか、と思っています。 で、元に戻って、「宗教ー金融商品論」。 もう、何を言いたいのか分かっておられる方が多いと思いますが、宗教に対する私のスタンスは、この金融商品に対するスタンスと同様、 「知らないもの、理解出来ないもの、納得できないもの」は信じない。というものです。 だからこそ、もう5年も教会に通いながらも、クリスチャンにはなれないし、仏教の本を何冊読んだところで、本当のところは理解できていない、と感じるから仏教徒にもなれない。 いや、理解できない、というよりも、納得できない、という方が適切かもしれません。一般に宗教とか信仰というものは、理性で判断するのではなく、「信じる」か「信じない」か、だと言われます。しかし、その「宗教」の負の側面を見る限り、それは出来ない。ばかな金融商品にだまされて悲惨な目にあっている人を多く知っている中で、新しい金融商品が出て、それを売っている人が、その商品はいかに素晴らしい商品か(つまり儲かる商品か)を力説しても、それを真に受けたり信じたりしてはいけないのと同じ理由です。 なんて、ちらっと思いついただけの「アイデア」なんで、どこかにバカな勘違いがあるかもしれませんが・・・(笑)
2011.09.07
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ある往復書簡、しつこく続いています(笑)途中で、相手の人が、私を「パウロ・リンロン」なんて呼び始めたので、今回は、洗礼とこの呼び方に対しての返事です。なにせ、相手の方のメッセージが書けないので、話が飛んでいるかもしれませんが、ご容赦を。また、メッセージ中、どうしても割愛しなければならないところは割愛していますので、その点でもご了承ください。・・・・・・・・・・・・ 祈りの力に関しては、いろいろな逸話がありますよね。もっと現実的なものとしてはTM瞑想の上級者が集まって瞑想した時に、その場所の上空が明るく輝いてきた、というのもありました。また、アメリカのある都市での実験で、この瞑想グループがその市に滞在し瞑想していた期間は、その都市の犯罪発生率が極端に低下したそうです。でも、その催しが終わって皆が去ったら元に戻ったとか・・・(笑) 喜びの「一時的な喜び」「永続する喜び」という話は私にも新鮮でした。やっぱり〇〇さんも聞いたことがなかったですか? ともあれ、キリスト教、あるいは「聖書」の中で、「喜び」は「祈り」「感謝」と並んで三大善行(こんな呼び方はありませんが)の一つですね。 ある全然別の本にも同じようなことが書いてありました。神は人間が喜ぶことを喜ぶ、なぜならば人間は神の一部であり、人間が喜ぶことそのものが「神」が喜ぶことに他ならないから・・・とありました。 カトリックの洗礼を受けるのに、そんな事前教育があるのですか!初めて聞きました。こちらのバプティスト教会では、詳しくは知りませんが、「イエスが神の一人子であること、そのイエスが私たちの罪のために十字架にかかり死に、そして人類を救うために蘇られた」ということを信じます、という内容を含めた「証し」を皆の前で読み上げ、それを聞いた「そこの教会員」の賛同が得られれば、もう洗礼を受けられるようです。 私も、いろいろな方に、リンロンさんはまだですか?としょっちゅう聞かれて困っています。いつも「それはあり得ません」と答えているのですが・・・(笑) 実際、まじめな話、ずっとこのまま教会へ行き続けたとしても、私が洗礼を受けてクリスチャンになることは、キリスト教の(カトリックであろうと、プロテスタントであろうと)教理が、革命的に変わらない限りあり得ないでしょう。 そして、その「革命的に変わる」こともあり得ないことを私は知っています。 なぜならそれはキリスト教の根幹部分に関わるので、それが変わったら、もはや「キリスト教」と呼べなくなってしまうからです。 私が信じていないのは、例えば「イエス・キリストは神のひとり子」「三位一体」「神の裁き」「罪と罰」など、キリスト教徒なら、到底否定できないだろう内容ばかりです。(細かく言うと、もっともっと沢山ありますが、今この場ですぐに出てきたものだけです) 例えば「罪」。よく「私たちの罪のためにイエスは死なれた」とかいいますよね。ところが私は人間の罪ということに関して、聖書で書かれているようには考えていません。極論すれば、人間のやることに「神に対する罪」なんてない、と思っています。 「罪」というのは、もともとの意味は「的を外す」という意味だったことはご存知ですよね。 そうです、的を外すことが「罪」なんです。じゃあ、その「的」って何?といわれたら、私は「神に向かって、あるいは一にして『全』なるものに向かって進化すること」という定義を与えています。つまり、神に向かって歩いていればいいのですが、人間、まま「的を外して」あらぬ方向に歩いていったり、戻ったり、ぐるぐる同じ場所を回ったり、遠回りをしたり、なかなか一直線には歩けません。しいて言えば、それが「罪」の内容です。 ですので、それを見て、「神が怒」ったり、「罰し」たり、「地獄へ送」ったりすると思いますか? 迷っている子供に対して、人間の親でもそんなことはしませんよね。子供が迷っていたら、心配し、祈り、勇気付け、導き、教え、時には諭し。。。それが親であり、神が人間の親以上には愛がない、なんて訳有りませんから。 洗礼の話に戻ると、そちらの神父さんが言われた 「洗礼を受けたからといって、わたしたちの目では確かにこれといって変わるわけではない。でも洗礼は神からいただくいいものにちがいないのだから、Why not? 受けてみたら?」 の言葉は、全然あてはまりません。なぜなら、信じてもいないことを「信じる」と嘘をついて洗礼を受けることでまず罪悪感が生じます。そして、洗礼を受けた、ということは周りの人が知るところとなるので、その偽善をつくろうべく、毎日嘘の態度を取り続ける苦痛が生じます。だって、洗礼を受けたあとに「イエスが神のひとり子だって?そんなの嘘に決まっている」とか「イエスが蘇ったのは、我々人類を罪から救い出すためだ、なんてこじつけだ」なんて言えなくなっちゃいますよね。(笑) それに「洗礼は神からいただく」ものだ、なんて私は思っていません。あれは人間が作り出したものです。だから、幼児洗礼は是か非か、なんて議論になり、その考え方の違いで宗派が分かれたりするんです。もし神が作られたんだったら、なんで「一つの決まった洗礼」になっていないのですか?と聞きたいぐらいです。そう言うと、どの派の人も、「あちらの派の考え方が間違っている」と言うか、または「その考え方は、それぞれ違うかもしれないが、洗礼が聖書にこれだけ明白に書かれているのだから、その細かな手順や受ける条件はさて置いても、洗礼そのものはやっぱり大切」とか言うのではないか、と思いますが、それでも、上の論理は有効ですよね。・・・・・・・・・・・・・・・
2011.09.07
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意味ある偶然の一致・・・・。 昨日、豊かさについての日記を書いた。今日の教会での説教に出てきた話でも、またまた同じ事を考えさせられました。まあ、聖書に関連する話はすべて割愛し、牧師さんの経験に基づく話から。 九州の某市にある牧師さんの教会、川のほとりにあるらしいのですが、その河原に、ある時期、不良少年(と思しき、少年・少女の集団)が野宿をしたことがあったらしい。気候もそれほど暑い時ではなかったらしく、牧師さんが近づいて、もし何かあったら、そこにある教会に来てもいいよ、と言ったそうだ。その晩、はたして4名の少年・少女ー髪も染め、風体を見る限り、やっぱり不良少年・少女ーが、寒くなったので教会に泊まらせて欲しいと言って来たそうだ。言葉をかけたわけだし、ことわる理由もないので、教会に入れてあげたところ、その話が伝わったのか、それ以降、30人ぐらいの同じような少年・少女が出入りするようになったらしい。そして話をしていると、皆、帰りたいけれど帰れないといった家庭事情を抱えていることがわかる。 親が離婚、同棲している母親の相手の男に暴力を振るわれる、とか、家に帰っても文句を言われるだけ、邪魔者扱いされるだけ、などなど・・・ そしてある時、やはり、というか、案の定というか、その中の一人が警察沙汰になる。シンナーをやり、さらに窃盗(万引き」でつかまり、その連絡が家にではなく教会に来て、牧師さんが引き取りに行く。そして、話をすると、浮かび上がってくるのが「決定的に愛に飢えた子供」の姿だったそうだ。窃盗の理由は、「警察に捕まったら、離婚した親が迎えに来てくれるかもしれない、と思った」のだという。シンナーをやってつかまった少年の方は、「なんで生きているのかわからない。」「なんで、こんなに苦しいのに生きていなくてはいけないのか、わからない」と牧師に話す。そんな本音をすぐに話したわけではない。何度も話をする中で、だんだん浮かび上がるようにして明らかになる状況。ある時、教会でイベントをやった。クリスマスだったか何か忘れたが、そこにこの少年達も招待した。もちろんクリスチャンでもなく、キリスト教を信じているわけでもない。やはり、皆が賛美歌を歌ったりする中で、そのグループだけ孤立していたらしい。しかし、ある歌を皆で歌っていると、その少年たちが泣き出したのだと言う。その歌は、私が行っている教会でも時々歌われ、昨年亡くなった、ある方も大好きな歌の一つに挙げていた、「君は愛されるため生まれた」という賛美歌。賛美歌ではあっても、他の賛美歌のように、賛美歌・賛美歌していない。私も好きな歌の一つだ。 この歌です ⇒ 「君は愛されるため生まれた」 その少年は、やはり鑑別所に送られることになったらしいが、あとで別の牧師さんから、その鑑別所を訪れた際の少年の近況を聞くことになる。見事に更正して、今ではまじめに働いているらしい。 こういった面の、人との出会い、「愛」との出会い、こんなことを話す機会さえない人は、別に少年や少女に限らず多いだろう。 初めに書いた「豊かさ」とは何か、ということに関連して、今、宗教は日本の社会の中ではある意味、避けられている面もある。が、このような面で、宗教に代わる、ここで書いたような「役割り」を担っている機関なり、制度なりがどれだけあるのだろうか、と考えてしまう。 子供は親を映す。 子供の退廃や非行は、親の問題が別の形で現れていることがほとんどではないだろうか。それに対して、現象面で、その不良行為や非行を責め、罰するだけではなんの解決にもならないことは明白だろう。 上の話も、あの少年は鑑別所に入って反省したから更正した、という単純な理由でもないだろう。 真の豊かさと、それを実現する方法論、その両面で、考えるべきは子供たちではなく、大人である。 そして、誰が、何を、という問いではなく、自分は?という問いが一番重要なのは言うまでもない。 少なくとも、それを社会や、政府や、制度や法律だけのせいにしている限り、問題の解決や状況の改善は図れないことは確かだろう。
2011.09.06
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まだ続いている「往復書簡」の続きです。・・・・・・・・・・〇〇さんメールの返事ありがとうございます。昨日のメールの後、昨日の午後、そして今日の午前、また教会へ行きました。今日の午前中は、「喜ぶこと」という題での説教でした。詳しく書く余裕はありませんが、なかなか良い説教でした。昨日の午前中の「感謝」についての説教と、午後からの「祈り」についての説教の間で、アンケートがありました。質問は、「あなたにとって祈りとは何ですか?」というもの。〇〇さんだったら何と書きますか?・・・・・・・(ここは考える時間です。笑)私は、「過去、現在、そして未来に渡って、良い事、悪い事含めて、『すべて在るべく在る』ことへの感謝」と書きました。ここで話をしてきた、「神はすべてを知った上で、最善の「現実」を私たちに与えているはずなので、それをあるがままに感謝する」ことが祈りだ、ということです。で、60名ほどの参加者のうち、30名ぐらいの人が回答したようです。で、興味あるのはその内訳で、「期待」「お願い事」と書いた方が3名。「感謝すること」と書いた方が6名。(なぜか、私のはここに入っていません。つまり、ここで言う感謝は具体的に何かを、ということでしょう)「神様とのコミュニケーション」と書いた方が最も多くて12名。その他、いろいろな別の回答、心を平安にする時間、とかですが、私の上記回答は、この「その他」に入っていて、数名。こう見ると、改めて「祈りとは?」と聞かれて、「期待」とか「お願い事」と書く人は少数派でした。でも、これは本音で言えば、もっと増えるんだろう、と思います(笑)昨日の午後の説教は、このアンケート結果の報告に始まり、「祈りの力」という感じの内容でした。聖書に出てくる祈りに関する聖句がたびたび引用され、それぞれの意味を問いかけながら、話をしていましたが、祈りの力が現実となった不思議な話も取り上げらて居ました。ある牧師が盗賊に襲われたときに、その盗賊は護衛がいるのを観て襲撃を諦めますが、実際は、その方は一人しか居なかったそうです。後で、自分の教会に戻ったその牧師は、盗賊が見たという26人の護衛と同じ人数の教会員の方が同じ晩に、その牧師さんをお守りください、という祈りを集団で捧げていた、ということを知って驚いた、という話でした。その意味で、祈りには、もちろん「感謝」というのが基本にありながらも、特に「他者」に対する祈り、つまり安全に、とか健康に、とか、そういった「他者への救い・恵み」を祈る時の効果は、相当に大きなものがある、という話。これはまさに〇〇さんが、メールに書かれているマザーテレサと同じですね!!その話が載っている本を書いたディーパック・チョプラは、クリスチャンではなく、スピリチュアル系の思想の中心とも言える人、あるいはニューエージ思想の大御所みたいな人ですが、こういう点では宗教を超えて、共通なものを感じます。彼自身は、東洋思想にかなり傾倒してはいても、東洋思想そのものを書いたわけではないですが。 で、今日の「喜び」についての話の要点は、人間の喜びには大きく4種類、さらに大きくくくると二種類の喜びがある、というもの。その4種類とは、「身体的・物理的喜び」「精神的な喜び」「人間関係にまつわる喜び」「魂・霊の喜び」というものであり、前の三つは、ある意味で、その時だけの一時的な喜びに過ぎないが、最後の一つは、永続する恒常的な喜びである、という話。つまり、いろいろな「喜び」があるが、最後の「魂・霊の喜び」こそ、人間にとっての最大・最善の喜びである、というわけです。「いつも喜んでいないさい。これこそ、神がキリストにおいて、私たちに望んでおられることです」という聖句と共に、その喜びの中身についての話でした。それ以外にも、実際に牧師さんが経験された不良少年との出会いと話し合い、そして彼らの更正の話など、本当に良い話でした。こういった話が聴けるのも、クリスチャンではない私が、教会へ通う理由にもなりますね。キリスト教の良き部分、聖書の良き面が全面に出ている話を聴くのは喜びであり、また、宗教や信仰の力を改めて考えさせてくれます。 ただ、最後に、「・・・と、私たちクリスチャンは語ることが出来ます」という言葉だけが、ちらっと引っかかりました。「私たちクリスチャンだけが・・」となっていなかっただけ救いですが。 〇〇さんは「前世」「生まれ変わり」「輪廻転生」を信じますか? 私自身は、これだけの状況証拠があるのだから「あるのだろう」という立場です。臨死体験や前世退行などだけではなく、「前世の記憶を持つ子供」や「体外離脱による、向こうの世界の探求」に関する本を読むと、余計そう思います。前者では、日本では飯田史彦氏の「生きがい」シリーズ、後者では、ロバート・モンロー氏の「(魂の)¥究極の旅」などが詳しいので、興味があったらぜひ読んでみてくださいね。・・・・・・・・・・・・・・
2011.09.06
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これは、別のブログで同じような年代の人から受けた「本当の豊かさ」って、という問いに対して書いた感想です。 修正も面倒なのでそのまま転載します(笑)・・・・・・・・・・・・・・「本当の意味での豊かさ」・・・・大きな問いです。 日本が終戦の1945年から戦後65年経っている今日でさえ、その答えを見出せていません。今の日本は、方向性を見失っているように見えますが、この答えが見つかっていない事と無関係ではないでしょう。 経済観、結婚観、人生観、そして世界観、すべてに渡って、この「真の豊かさ」の認識は、人の価値観を左右するものですね。 人が生きることの意味が、今いろいろな方面で見直される機運にあるのも、あながち偶然ではないでしょう。経済に未来はあるか? それはあります。でも言われているのは、かつての高度成長のような時代がもう一度来るか、ということであれば、それはないと思います。当時の世界人口が30億人、今はすでに65億人を超え、今年中に70億を突破するといわれています。 2050年から60年にかけて100億人突破も見えてきています。その世界中が、過去の「高度成長」の幻想を追いかけていたら、地球が持ちません。今は、その幻想を追いかける人間が、中国やインドなど、世界の人口のかなりの部分を占める国にまで広がり、増え続けています。これは、やがて破綻するでしょう。残念なことですが・・・・。このままの状態で、人類は2100年に到達するとは到底思えません。 その前になんらかの大きな試練があるでしょう。私たちは、長く生きてもあと50年、2100年までは生きられる人は居ませんが、私たちの子供、孫、その世代は、人類がいまだかつて経験したことのない世界的試練に立ち向かわなくてはならないだろう、と思います。もしかすると、私たちの世代が生きている間に、その試練に遭遇するかもしれませんが、それだけの覚悟を、今の人類は求められている気がします。・・・・・・・・・・・・・
2011.09.05
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「往復書簡」なんて古臭い言葉ですが、現代風に言えば、Eメールのやり取り(笑)ある方とあるきっかけで、何回もメールの交換をしています。 その「一部」を適当に割愛しながら、掲載。 しかし、いつも思うのだが、何か考える事があると、不思議と関連することが次々に起こるなあ、と。 スピリチュアル系の人だったら間違いなく、「それはシンクロニシティーだ!」なんて言うんだと思うんですが・・・(笑)・・・・・・・・・・・・・・・・〇〇さん今朝は失礼! 時間がなかったもので、前のメールをとりあえず送っただけですぐに出かけました。そこにも書いたように、今日は「修養会」と言って、日本から牧師さんが来られて、説教をしてくれました。今日これからもう一度夕方に、そして明日も休日なので、午前、午後と二回の説教があります。今日の朝の礼拝で初めの話を聴いてから、あとの三回に参加するかどうか決めようと思っていたのですが、「意外」に面白かったんで、今日の夕方のやつと、明日の午前中のやつの二回は参加しようと思っています。最後のは「伝道について」なのでパス(笑) で、今日の説教のテーマが何だったと思います? それがなんと「祈り」と「感謝」でした。なんと、ここ数日、このメールでやり取りさせていただいているテーマと全く同じ! こういうのを「スピリチュアル系」では「偶然の一致」とか「シンクロニシティー」と言うんでしょうね。つまり、「意味のある偶然」という奴です。 話の内容も、かなりの部分、私が書いてきたこととダブっていて、感謝の仕方には二つある、ひとつは「感謝できることに感謝する』、これは「素直になる」ということもありますが、自分が受けている様々な恩恵や愛や環境に気づかないまま感謝することを忘れていることを戒める意味もあります。 もう一つは、ここで議論してきたことと同じで、「感謝できないものに感謝する」というものです。「全てを益として備えてくださる」ということを、不幸や困難、試練の最中にも思うこと、それに感謝することです。 牧師さんも、これは難しい、私だって・・・・という話をされていました。ご自分の体験から。 思うに、人は、頭では分かっても、それが実際の行動や生活の基本的態度になるまでには相当長い道のりが必要なんだろうな、と。 牧師とて人間、行きつ戻りつしながら、時々「ハッ」と聖書の教えに戻って反省する、ということの繰り返しなんでしょう。 なかなか、率直な話振りで気に入りました。 ひとつ、改めて考えたのは、人間、幸運の中に居ると、その幸運になかなか気づけず、それを失ってから初めて今までいかに幸運の中にあったのか、に気づく、ということでした。つまり、その中にいる時は「感謝すべきもの」に感謝するどころか、気づいてもいない、というケースが多い、ということですね。これを延長すると、「祈り」というのは、やはり、自分の「今」をあるがままで感謝することに行き着くのだと思います。・・・・・・・・・・・・ああ、自分も「行きつ戻りつ」だなあ、と感じる事しきり・・・。
2011.09.04
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前にも、同様な日記を書いたような・・・・(最近、物忘れがひどいもので。笑) 娘の通う高校に、またまた出かけました^^;今度は、大学進学説明会。いつもオーケストラなどの演奏会をやるシアターで、プロジェクターを使っての説明。一度、息子の進学のときに、同じようなのを聞いているハズだが、いかんせん3年も前なので、もう忘れている・・ 結構な人数の親が集まったが、さすがに大学進学への関心は高い。なかでも、「成績」の取り扱いと、学費援助に関する話は、やっぱり皆も関心のもと。質疑応答も含めて約1時間半。 そろそろ真剣に考えなくてはいけない時期になってきました。とは言え、もうすでに、娘の方は行きたい大学、つまり願書を出す大学はある程度決めているのですが。。。。 今日の説明でも、日本と同様、1.入れたら「やった!」というドリーム校2.まあ、この辺が自分のレベルかな、という順当校3.ここは絶対入れるな、という滑り止め校の三つを上手に組み合わせてくださいとあった。で、娘の志望校を見ると、「ドリーム校」ばかり(笑)それも、「お金」がかかる州外が多い。 年間$5万ドル強(年間5百万円!)奨学金の獲得なくして行ける金額ではない・・・・・さて、と。 子供以上に、親が真剣にならないと・・・・・・
2011.09.03
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他のブログでは、時々載せているのですが、この楽天では初めてかな?時々、外食をしたら、その料理の写真を載せています。今回は、中華編。「今日の」と言っても、すでに昨日になってしまいましたが・・・夜に比べると、どこのレストランもランチは、ほぼ同じようなメニューの食事をお手ごろな価格で提供しています。昨日は、妻と、そろそろ新しい店を開拓しようか、という話がまとまり、ランチに出かけました。目指すは、先日、ちらっと店の外から見かけた中華料理店。 そこのウィンドウに張ってあったランチの広告が、それなりにおいしそうだったからです。 で、行ってきました。 中は、非常に安っぽいつくりの、いつでも簡単に店をたためるぞ、という感じの店(笑)実際、こちらは店ができては消え、できては消え、と非常にめまぐるしく変わります。中には一年も続かない店も・・・・なので、あまり料理も期待していなかったんですが、これが嬉しい期待はずれ! なかなか、でした。 注文したのは、左側がバジルチキン、右側がクンパオ・シュリンプという奴。 ランチメニューで、それぞれスープとライスが付いて、$5.75(約500円)と$6.5(約600円)。 味も結構良かったんですが、量も多く、xxと二人で食べきれず、またしても「お持ち帰り」で、昨晩の夕食にもなってしまいました^^; しかし、考えてみると、マックやバーガーキング、それに中華や韓国料理のファスト・フードもあるのですが、皆最低でも$6ぐらいは行ってしまいます。 レストランのようにチップを払わなくて済む、という利点はありますが、味はそれなり・・・それらに比べると、スープもついてこの値段、チップを一人$1払っても、まだ割安。今回も、チップ、税金込みで、二人で$15(約1300円)。 う~ん、これはいい店を見つけたなあ、と妻と私、二人とも同意見。でも、場所があまり良くないんで、いつまで経営が持つかどうか・・・・・つぶれないように、少しでも経営を助けるべく、これからは時々利用させてもらうことにしました。
2011.09.01
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今日は娘の「カリキュラム・ナイト」で、高校に夕方から約2時間ほど行って参りました。「カリキュラム・ナイト」というのは、新しい期の始まりに(こちらでは学校が9月始まり)、親を学校に呼んで、生徒が受ける授業の各先生から、教育内容や教育方針についての説明と質疑応答の時間を設けていることを指します。日本ではこういった取り組みがないんですが、全学年、全生徒が同じカリキュラムに沿って進める場合はあまり関係ないのかもしれませんが、こちらは、生徒によって選択科目がばらばら・・・その選択した科目と先生によって、成績がかなり左右されるので、日本で言う「内申書」というか、高校の成績を大学に提出するときに、高校の成績が重視されるので、入試がないアメリカの大学進学では、かなりの重要性を持つ。その意味で、難しい科目を取ると成績が悪くなる、という逆転現象が生じる。で、娘の履修科目・・・・ 1.AP統計学 2.AP生物 3・APフランス語 4・AP英文 5・アドバンストオーケストラ 6・H 人体生理学である。 このAPというのはアドバンスド・プレースメントの略で、「大学レベル」の内容を指し、これを履修すると、大学での単位が認定される。 順番に各教室を回り(こちらは科目ごとに教室が固定で、生徒が毎時間、自分の履修クラスに移動する)、各先生の教育方針やら教育内容の説明を受けてきた。 う~ん、一言で言えば、大変そう・・・・・。 それぞれの先生が、意欲満々なのである。先生が意欲満々なのは非常に結構なのだが、これを受ける生徒は、これらの「大学レベル」の授業についていかなくてはならない。 内容的にも高度なのだが、それに輪をかけて宿題が結構出される。これを毎日やるので、授業について行くだけでもかなり大変である。細かい内容は省くが、うちの娘がはたして、こんなカリキュラムについて行けるのか?そして、ちゃんとしかるべき成績が取れるのか? 普通の高校レベルの授業を受けて、いい成績を取ったほうがよくはないか?しかも、履修科目の大半が、このAPである。若干、心配になる。 その反面、こうして、生徒のレベルに合わせて、基礎のクラスから、大学レベルのクラスまで、さまざまな「需要」に応じた教育をする、アメリカの教育のいい面を見た思いがする。 中には、このAPコースを跳び越して、直接大学の授業に参加する道も用意されているし、実際に参加している生徒もいる。 こういった柔軟性というか、対応レベルの間口の広さ、そして、それを大学側でもきちんと評価する、という仕組みは、出来る生徒でさえ、受験勉強にその貴重な時間の大半を費やさざるを得ない、日本の「高校」⇒「大学」の進学過程でもなんとか適用できないものだろうか、と考えてしまった。 教育の二つの面、つまり「全体のレベルアップ」というものと、「個々の特性に合わせた教育」という、二つの面での柔軟性と幅の広さが、高校・大学を含めて実現されるようなシステム、というのは、日本における教育の中でももっと考えられてしかるべきものではないだろうか。
2011.09.01
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