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今日のブログを見てくださった何人かの人と久しぶりに長電話。いま常識になった対座的な御聖堂。祭壇に向かずお互いに向き合うような御聖堂。やはり人の前の人の背中を見る、すべての人が祭壇に向かう御聖堂が懐かしくなる時代が来るでしょう。一ヶ月前に与った教会では、久しぶりの友人信徒とタバコ談話、ミサに別々に座ったところ斜め正面に合い対座し目が合ってミサ中に笑いが出た。なんていう不謹慎。心を神に向け、心を天に向けるには、対座式だと無理でしょうね。アプシスについての長電話。一人一人に説明するのも大変でしたよ。今年の夏季講習会でお会いするでしょうから、そのときに詳しくと言うことで一件落着。不思議なことに(僕には説明できませんが)アプシスに集められた集合音に電子オルガンなどの音は交らないという印象を持っています。不思議なものですね。
2016年02月29日
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二日そんな月が今日で終わり。四旬節第三月曜。さいきん立て続けに、司祭とシスターから「ブログ」を見ていると言われた。まぁ、僕の本音だから。みなさん支持してくれていると受け止めている。僕のように禄を食んだことのない素浪人だからこそ、せめて本音で書きたいと思っている。四旬節第三主日、献堂式をひかえた我が教会の外見だけを見てきた。軽率かもしれないが「これが教会?」なのだろうか、と。祭壇があるだろう外壁からして、おそらく祭壇らしくない祭壇なのが想像できる。もうこれ以上書きたくもない。これでは祭壇の天井には何の意味もないだろう。祭壇には「アプシス」がある。ドーム型の天井だ。これはその昔、拡声機の無かったころは重要だった。司式の声が天井ドームに反響して信者にも聞こえる原理だ。スピーカーの役割をはたす。このことは誰もが承知しているだろうが、もっと大切なこともあると思う。それは信者の祈りがこのドームに集中され、信者の祈りが天井にあげられると言うこと。このもっとも大切なことが忘れ去られている、と言うことです。その意識のなさと建築費の削減という問題ではなく「信仰の問題」でしょうに。そう感じてます。この教会がオラが教会と思うと、寒さがいっそう心にこたえた。
2016年02月29日
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わが教会が建てなおされ来月に献堂式がある。久しぶりに四旬節第三主日の御ミサに与りに行く。おっとっとっ・・・これが我が教会か。やっぱり。想像していたのと全くおんなじ。住宅街に何倍かの敷地にちょっと変わった住宅と言う感じ。なんで、こうなるんかなぁ~~。もちろん幼稚園はない。建物の老化なら分かるが、なんでまたお金をかけて建てるのかなぁ~。信徒数も少ないのに、半分以上は外国人で、建築負担も教会維持費も出さない外国人には波風立てず、その分、信徒が負担をする計算はどう考えてもおかしい、と僕は思っている。来るんじゃなかった。おまけに「集会祭儀」だった。司祭の人手不足。教会が多いから神父が足りないのか。だから信徒のお偉方が選ばれて御ミサを執り行う。教会に用があったので帰るわけにもいかず、かといって一度帰るのもしゃくだし、じっと我慢の子とあいなった。来るんじゃなかった。電気オルガンの音が耳と心と肌を刺激する。じっと「般若心経」を唱えるかの如く我慢する。人間、我慢も必要と、じっと我慢の子だった。司祭の代わりになるはずがない信徒が、司祭ぜんとして祭壇に立つ姿は悪魔の化身に思えた。カトリック教会は真摯に考えないといけないと思う。司祭だけで考えるのではなく、信徒一人一人と対座して。
2016年02月28日
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最近の気候はおかしい。冬であったり春であったり、地球規模の問題でどうなるのだろうか。すべてに狂いが生じている。とても立派そうな大臣がポケットマネーで辞めたり、とんとん拍子の青年政治家が育児休暇発言で一躍有名となり藪蛇に妊婦がいながら自宅で浮気して発覚、ガソリンが急に百円をわったと思いきやまたいつの間にか値上がり傾向の元の木阿弥やっぱり、銀行にお金を預けても預け料を払う時代になるとは、外国人が沢山来日するのは嬉しいがテロが頻発するかもそれも日本独自の誘拐テロと原発テロが、原発は廃炉どころか再起動、放射能の数値が今も変わらないことはもう忘れたし、地震には驚かないし、火山も噴火しだしたし、足元がグラグラしている。参院選をひかえての大判振舞のアピール、18才の選挙権がウラと出るかオモテと出るか。介護もそうでしたね。古い話しだが、僕がドイツにいた時、意味も分からず地域奉仕活動?をやった(なぜなら僕は家族もちだったので)ことを思い出す。長い思考錯誤と国民の実践、その結果ゴーサインが出たのがドイツの介護制度だった、と後で知ることになる。日本はどうか。ドイツのイイとこ取りをし、国民の理解も実践もなく導入した結果が今の日本の介護制度だと言わざるを得ない。18才の選挙権も同じにならないといいのだが。若者に社会や政治への関心が根付いての結果ならいいのだが。(選挙権を与えられると言うことは、犯罪を犯すと一人前の責任を果たすと言うことを)
2016年02月27日
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草津の国立ハンセン病療養所の訪問から帰りました。もうスノータイヤはいらないかな?それにしてもこの気象には不安になります。僕が心配してもどうなるわけではないけど。まる二日の滞在はアッと言うまで、一日は買物、一日はお茶のみ日曜大工で終わり。夕方から深夜にかけて自分の時間が持て、ノドにひっかかっていたテーマの糸口が見つかりそうな気がして、これが大きな収穫でした。楽泉園は僕が訪問した前の日までインフルエンザで病棟には入れず、草津町ははやっているの安心マスク着用。宿泊所は独占じょうたいでのんびりできました。一週間前は年に一度か二度か知らないが国立大学の学生さんが訪問するらしく、宿泊所は満室だったよう。「一流大学の学生さんがこれじゃはどうなるんだろうか?」と言わせるほどの呆れ状態に開いた口もふさがりません。何をしに療養所を訪問しているのか。
2016年02月26日
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「vocalise」作曲家自らが伴奏部を書いた興味深いのがラフマニノフのヴォカリーゼ。歌とヴァイオリンの伴奏部に管弦楽曲とピアノで書かれている。ひと昔前、恩師がお元気なころレッスンで学びました。僕の書いたそのころの楽譜は残っていないので、スコアを購入しました。目の悪い僕なのでスコアをA3コピーをしたが、しばらく総譜を見ていないので感を取りもどすのに時間がかかったのと疲れが大きく、無理なのを実感。虫眼鏡も使ってみたが、逆に目が疲れるし、総譜の全体が見ることが出来ない。なんとか写譜を終えて、写譜をしながら思い出して、二十数年前には分からないことが、先生の言われていたことがやっと理解できた気分でいます。作曲家は耳が聞こえなくても書けるが、目が悪いのは致命的。複雑な気持ちです。きょうお昼頃、草津を訪問します。金曜日に帰ります。つい二週間前に行ったので、なんだか通勤しているような気分。車の中が僕の一番好きな居場所。自由に作曲ができるから。いま便利に利用しているのがボイスレコーダーで、運転しながらメモが録れるので。
2016年02月23日
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眼科検診に行ってきました。今のところ現状維持。悪い右目は0.3。失明せずに有り難いが、左右のアンバランスからくるストレス、楽譜が読めない書けないストレスがつのります。9時開院なので8時半に行くと、もう8番目でした。月曜と言うこともあるでしょうが、人間も機械と同じでどこかしこ修理が必要なんですね。待っている間、持参した聖務日課のコンパクト版を開いた。今まで人前ではできなかったことだが、少しは集中できたかもしれない。これが、今日一番の収穫です。当たり前のことですが、こうして「朝の祈り」を唱えていると「あぁ~、全世界でこの瞬間に同じ祈りを唱えている」と、考え深いものがありました。世界の経済が崩壊寸前のこん日、儲け至上主義から脱皮し、人間の原点に帰る時をむかえているのか、そんなことを感じています。「祈り」がたりない。祈ると言うことに気が付かなければ、そう思えた眼科検診でした。きょうは9時半までレッスン。明日から木曜日まで草津訪問するためにはレッスンの変更をしないと。こころよく理解し協力してくださるレッスン生に、まずは感謝しないといけませんね。
2016年02月22日
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「断食」をしています。「一日の断食」は一日が長く感じる。が、時間を大切にできるような気がする。普段の日常生活は朝食昼食夕食の時間単位でしょうが、断食をしていると一時間単位というよりは10分単位かもしれない。まだ10分しかたっていない、そんな時間の長さを感じる。空腹とは厳しいものですね。僕らは飽食の世界だから24時間後にはたらふく食べられるが、本当に食べることもできない地域では終わりのない空腹は地獄を越えて虚無なのだろうか。そんなことを考える一日断食になります。空腹は食への欲望、物への欲望。空腹は悪魔のささやき。悪魔とは自分自身なのでしょうか。こんなことをしてどうなる?何が目的なのか?誰も見ているわけでもないのに。さぁ食べろ、食べたいだけ食べろ!と自信が誘惑します。あと2時間半。
2016年02月20日
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きょう19日金曜日は正午から24時間のハンストをしています。ちょうど四旬節第一金曜日でもあり好都合です。「ガンジーの会」は白湯だけで食べ物は一切禁止の本当の断食です。カトリックの大斎断食とは違います。やはり飲食をしないと言う厳しさは必要かもしれません。きついだけに、世の中のことを心に留める時間が持てると感じています。「ガンジーの会」は自衛隊のイラク派遣に反対して始まりましたが、今もなお続けています。周りを見渡すと、退職後をエンジョイしている光景を見かけます。エンジョイは大切なことですが、それはそれ、それと同じく世の中に自分を見いだすことが大切ではないかと身勝手にそう思います。ガンジーの会は、以前のハンストは深夜0時からスタートでしたが、今は正午12時からとなり、ハンストの環境としては比較的楽になりました。みなさんも、何かの目的で24時間のハンストをなさってみてはいかがですか。断食による空腹は神経を敏感にさせ、世の中のことを考えたり、友人知人のこと、病気回復などに思いを巡らすチャンスとなりますので。胃と腸を空にすることで、健康にもいいのではないかと思ってます。
2016年02月19日
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16日から日本銀行が「マイナス金利政策」を始めた。いよいよその時が来た。「貸金庫」を「低所得者」でも持てるようになった。少し賢い人は自宅でタンス預金が増えるだろう。タンス預金の場所は素人の考えるのは同じ場所。その結果、身内が持ち出したり、ドロボーの餌食になったり、被害が続出するだろう。それに「年金」は減る一方で生きてはいけない時代の到来です。こんな時代を迎えた原因は、我ら有権者であることに、やっと気が付いたのではないだろうか。たぶん、まだまだ気が付いてはいないかも。二大政党でもなし、一大政党ではどこに投票すれば良いものか。お上には逆らわない従順な国民性を卒業しないと。
2016年02月18日
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草津の療養所にシスターと訪問した。定期的に訪問する方向でお考えとのこと。嬉しいかぎりです。心から嬉しいです。どこの療養所も人との出逢いを求める入所者さんがいるからです。多くの聖職者と信徒が草津の国立ハンセン病療養所を訪れるが、風の如く吹き抜けるだけ。一度見れば充分。半年ぶり一年ぶりの訪問者はいい方かも。皆さん良い子ぶって一時間か二時間か自分の好き勝手な話をして帰って行く。療養所にいる同胞を、同じ心を持つ信徒同士の会話も祈りもなく、である。要は自分の主張、自己満足、自己顕示欲が強いと言うことでしょうか。少なくとも僕はそう感じます。「いや、そんなことありません」と言う人がまれにいますが、「入所者さんが何を求めているか聞いたらいかがですか?それを実行されたらいかがですか?」と言いたい。つい最近、そんな出会いがあったものですから、あえて書きます。でもシスターのように考え祈り行動する人もほんのわずかだがいるのも事実です。
2016年02月17日
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草津の国立ハンセン病療養所を訪問すると、入所している夫妻の一日がそれとなく分かる。僕は夜に療養所を訪問する。レッスンを終えてその足で車を走らせる。夜間走行は目に悪いのは承知しているが、9時か10時に療養所に到着する。事務の方にお願いして宿泊所の僕の部屋にカギを開けておいてもらう。普通は出来ないことだろうが、こちらの事情を理解してもらえるようになった。そうすると、朝一番から療養所にいられることになる。せっかく3時間もかけて行くのだから時間を無駄にしたくはないので。こうして朝一番、日が昇るころからの楽泉園を見ることが出来る。この夫妻の一日は、起きて「初めの祈り」から始まる。そして掃除、食事、十時には決まってお風呂。十時前に行くと「朝の祈り」を二人して唱えている。ご主人は目が悪い、奥さんも同じ、二人ともに指先が不自由、教会の祈り本(B6判≒1400ページ)は分厚く紙が薄く文字は小さく、おまけに祈る順が日によって変わるので大変。二人して交唱、交互に唱える。このこと一つをみても、ライ者にとっては大変な重荷、祈りそのものが十字架の道行きだと、見ていてそう思う。昼になると「昼の祈り」があり、夕方には「晩の祈り」があり、その間に「読書の祈り」があって就寝前に「寝る前の祈り」がある。修道者と同じペースで祈られている。べつにこれは特別ではなく、療養所に生活するライ者の多くがそうしているようだ。思い出したように訪問する人には理解できないだろう。訪問者があると、到着時間を今か今かと待ちわび、遅ければ事故ではないだろうかと心配する。何日も前から訪問者を待ち望む。宗教のお説教、安売りをするでなく、聞かれることに来訪者に合わせて答える。来訪者が頻繁にあるわけではない。それだけに待ちどおしいだろう。ある時、ふっと漏らした言葉。“▲▲さんは、ここに何しに来たんだろうか?”それでも来てくださる人は嬉しいんですよね。草津の療養所内にある草津カトリック教会は信徒3名。もう先がない。信者がいなくなればこの教会は閉鎖となる。
2016年02月16日
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二十数年前から使ってきた「教会の祈り」のページめくりで数ページをやぶいてしまった。丁度買い替えの時期をむかえていたのかもしれない。トラピストでは一週間半程度で詩編を全部読み終えると聞くが、詩編の大事さを最近理解できそうな気がしている。そんな気がしているだけのことですが。僕にとっての詩編は作曲の歌詞としての宝庫。歌詞の宝庫ではあるが、なんといってもこちらが読み取る力が備わっていないので宝の持ち腐れ。ページがあっちに飛んでこっちに飛んで、複雑すぎて、指導者によっても違ったりで、それに忙しい?社会生活では平信徒には無理はなしと広まなかったような気がする。でもとても大切なことだと、70に近くなってやっとそう感じるようになってきました。そんな「教会の祈り」が草津の療養所の中では毎日祈られている。これは平信徒には大変なこと。朝起きて祈り、朝の祈りがあって、昼の祈りがあって、夕方にあって、晩にあって、寝る前にあって。この大切な祈りを草津教会の伝統?として引き継ぎたいものです。
2016年02月15日
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「四旬節第一主日」聖務日課のページめくりに忙しい。前晩から準備をしておくのが当然なのだろうが、ついついやることが待っていてそのままになっていた。今回の草津訪問は8日から18日でしんどかったです。予定も考えずの大失態でした。9日は「ガンジーの会」のハンスト、翌10日は「灰の水曜日」の大斎を計算していなかったからだ。大斎(ダイサイ)はキリストの受難に心をはせる断食。断食とは言えない程度か、第二バチカン前は厳しかったが丸一日の断食ではなく大斎は一食の十分な食事と二食は少ない量。このあいまいさがミソです。どうにでも解釈できるわけです。要は心の持ち方なんでしょうが。対象者は第二バチカン前は7才からだったと記憶しているが、今は18才から60才までと人にやさしくなった、と言うか。と言うことは僕は対象外と言うこと。僕の場合の大斎は一日絶食にこだわっています。「ガンジーの会」のハンストは24時間白湯だけ。多くの高齢者?が24時間のハンストをしているのに、信仰者の60才以上は免除とは理解できない。これから修道院を訪問します。
2016年02月14日
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2月10日「灰の水曜日」を迎え「四旬節」に入いる。草津教会は月に一度の第二水曜日がミサで今年はちょうど「灰の水曜日」と合致。四旬節は、キリストが公生活に入る前の40日間の荒野での断食を思い起こし、復活祭までの40日間を悔悛し祈り断食や節制し、愛徳と施し実践を通して、キリスト復活を準備する期間ということでしょう。今日の6時頃我が家を出発、10時前には草津に到着できるでしょう。4泊5日、旅行慣れした人ならバックひとつでしょうが、僕の場合は違います。88鍵の電子ピアノ、ショッピングかごに資料、今一つのかごに食料、着替えのバックと大移動です。怪我をした米塚さんは先週退院できました。出来たと言うよりも「早く帰りたい」と言うことでしょう。退院日に雪が降ったらどうしますか?雪が降っても帰る、とのこと。病院生活は色々な意味で耐えられないのでしょう。治療よりも。奥さんの雉杜子さんは言います。病室には絶対に入りたくない、と。米塚さんの病院生活を見て、そう感じたのでしょうし、僕もそう思います。プライバシーなんて言葉は存在しないのだから。草津の近くで「エゴマ」を見つけてから、草津に行くたびにエゴマの爆買いをしています。
2016年02月08日
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北朝鮮ミサイルが発射された。領空を飛んだのでなければ何も問題はないのかもしれない。もし領空であればとんでもない話しになる。以前、ロシア領内を飛んでいた民間航空機が撃墜されたのを思い出す。もし領空を飛んだのであれば破壊処置をすべきで、もしこのようなことが現実に起これば破壊処置をするだけの技能と訓練が我が国ではなされているのだろうか。国連の安保理違反だと断固抗議をする、情報収集をする、国民の安全が第一とは言うが、どれもこれも形式的なうわべだけとしか思えない。(反日はマイナンバーに影響するのかもしれませんね)
2016年02月07日
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2月20日に、ベタニア会のベルナデッタ祭で朗読と音楽「私の生きた恵みの分かち合い」が再演、シスターの朗読、初演の時の写真展示がされるそうです。いまその写真を決めています。2か月前の初演がよみがえります。うれしい?再演です。それもシスターたちがプロデュース自演するのですから、なおさら嬉しいかぎりです。
2016年02月06日
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時計の修理から、しばらく眠ったままの時計が帰ってきた。ネジを巻くと秒針が動きだした。耳に時計をあてるとカチカチと心地よい時計の心臓音が聞こえる。高価な時計の音は聞いたことがないので何とも言えないが、僕にとっては分不相応な時計は、時として微妙なリズムをかもしだす。二拍子に三拍子に、そして変拍子にと。このゼンマイ時計の金属音が何とも言えない。おそらく今の心理が拍子を刻むのだと思う。翌日、ネジを巻こうと時計を見ると、どうも長針と短針の指し方に違和感を感じた。ためしに長針と短針を12時にしてみた。合わない。短針を12時にすると、長針を37分を指す。専門の時計店でオーバーホールをしてもらって、こんなことってあるのだろうか?また修理に出した。人の気持ちを何だと思っているのだろうか。商いは本来こんなものじゃなかったと思うが。売り手よし買い手よし世間よし、は夢の夢なり。職人という言葉は死語になったのかも。客に帰す時に確認をしないのだろうか。「世も末」ですな。
2016年02月05日
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きょうは午後から修道院を訪問する。幾つかの用件があるようで、それに久しぶりのシスターにお会いできるのも楽しみ。
2016年02月04日
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あした、草津の国立療養所の入所者さんが退院するという。寝室には手すりが付けられ、あとはベット待ち。このベットが入るのに一カ月かかると言う。そんな馬鹿な!ひざの手術をしたのだからベットが入らないうちは退院は出来ないと思いきや、なにがなんでも家に帰ると言う。すこしゆっくり病室で回復を待つのがベストなのだが、家に帰れば奥さんに負担がかかるのだから、そう思うのだが、本人は「帰る」の一点張り。病人のわがまま、とは言えないところ。トイレのドアにはガムテープで開けっ放し、病室には防犯カメラが付けられ、入口のドアはストッパーで開けっ放しだから話し声が筒抜け、声を出して祈ることもできない。看護婦介護士のうわべだけの会話。ライ病を学ぼうともしないライ病療養所の職員。こんな中での治療は精神を病むだけなのが理解できる。心の平安。家に一日も早く帰りたいのもうなずける。あしたが待ち遠しいでしょう。
2016年02月03日
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夕食を二十分位でかき込む。それも手の不自由は患者さんが。五時までに下膳(サゲゼン)しないと。「早く喰え!」と言われているよう、とは患者さんの声。入院していて一番の楽しみは食事だと思うのだが。患者さんのための病棟なのか、働く人のための病棟なのか、考えさせられる。どこの国立病院でもそうなのかなぁ~少なくとも僕が知っている国立療養所は特別なのだろうか。ありえない話しの現実。
2016年02月02日
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