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草津から帰宅しました。草津カトリック教会では復活祭。復活のセクエンツィアが歌われ、墓に先生のいないのを見て復活を信じた。この事を皆して確認できたと思う。司祭二人、シスター二人、神学生、洗礼者とその奥さん、信徒は七人。小さな集いですがとても良かったです。ミサと洗礼式、イテミサのあとに茶話会。療養所の病気の入所者さんが車から降りてほんの数メートルを自力で歩き、洗礼式の代父のさいの立ったり座ったり歩いたりを立派にこなしていた。とても素晴らしい一日、おまけに天候にも恵まれました。浅間山はおとなしく噴煙も見せず、うっすら雪の姿を見せていました。個人的には作曲が少し出来たこと。環境が変わると書くのが進みます。とても良いことです。ふしぎに音符の訂正の消すことが少なくスムーズでした。移調楽器を使ってみたので目の悪い僕にはとても五線譜が苦痛であることを実感してます。予定の120小節の40小節ぐらいで目がギブアップ。残りが続けられるかどうか不安です。帰宅してパソコンに入力したところまずまずで満足しています。
2016年03月31日
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草津カトリック教会では、あすの30日水曜日一時から復活祭です。ここハンセン病国立療養所内のカトリック草津教会には三人の信者さんがいます。お一人は病棟でね寝たっきりで目も見えず声も出ず意識も薄い、お一人はヒザに怪我をして病棟でリハビリして今は自宅。その奥さんも看病疲れでそっとしておいてあげたい情況にあります。ご夫婦の米塚夫妻は青森の療養所から一年ほど全生園に転園して今は草津です。この冬の間の御ミサは米塚宅でしたが、やっと復活祭を教会で迎える喜びの中にあります。冬の間は来る人が限定されていたが、この陽気だし、復活を祝うと言うことで久しぶりのお顔が集まることでしょう。三日遅れの復活祭です。嬉しいことに洗礼式があります。代父は米塚さん。信者さんが一人増えると言うことは、なんと嬉しいことか。これで草津在住の信者さんは7人になります。久しぶりに、我が家からワイフと息子の三人で訪問します。息子のチェロ、ワイフの歌を喜びの食卓にそえられることは喜びです。あと一時間して草津に向かいます。
2016年03月29日
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主のご復活おめでとうございます。復活の主日の聖福音は「ヨハネによる福音」で20章1-9節だった。新しい教会での御復活祭だけに大勢の信者さんが与っていた。茶話会があったので御聖堂の椅子をどかしてお祝い会場に早変わり。いま御ミサがあった所で飲み食いするのだから、僕には付いて行けずさっさと失礼した。自宅でゆっくり読み返し噛みしめてみた。三人の人。マグダラのマリア、ペトロ、一人の弟子ヨハネが主のいなくなった墓を「見た」。聞いた話では(僕には確認の技量を持ち合わせていない)、この「見た」がギリシャ語では別の言葉が使われていると言う。ラテン語では出てくる三カ所ともに「見た 「videt」だ。三人は、主がいなくなっているのを「見てそして信じた vidit et credidit」。でもこの時点では復活を理解していなかったようだ。彼らにしてこうなのだから、二千年後の僕は「聞いて信じる」だけです。主の御復活アレルヤ!草津の教会は30日にご復活が祝われます。洗礼式もあります。たった三人のハンセン信者さんは雪の後の待ちに待った主のご復活ミサです。30日水曜日一時からです。教会はハンセン病国立療養所「栗生楽泉園」(クリュウ・ラクセンエン)の中です。関越の渋川伊香保インターから草津まで1時間半です。僕はワイフと息子の三人で明日から訪問します。
2016年03月27日
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聖金曜日は断食。教会に入ると祭壇の正面に、十字架にかけられ苦しみの果ての死に顔を否応なしに見ることになる。「十字架上のキリスト」を信者自身が暗黙のタブー視。敬遠する傾向にあることを否めない。そして、教会を訪ねる未信者の素朴な疑問。”どうして十字架にはりつけにされたのか?神ならなぜ自分を救えなかったのか?はりつけのキリスト像を教会はなぜシンボルとするのか?”と。信徒使徒職。信徒の使徒職の宣教のネックはここにあるのかもしれません。 掟に逆らい世の中を混乱におとしめる輩を殺そうと画策し、人間の知恵策略ではとうてい殺すことが出来なかった。人間の浅はかな悪知恵で掟にのっとって石で殺そうとしたが未遂、みなで殺そうと決めても果たせなかった(ヨハネ10:31,11:53)。人間はイエズスを殺すことが出来なかった。ではどうして十字架で死んだのだろうか。イエズスの十字架刑は、イエズスみずからがいけにえとして十字架を望まなければ決して実現しなかったと言うことです。 御父の望みにこたえ命をささげてくださったのです。誰かの強制ではなく、イエズスご自身が望まれたのです。私たちはこの点を、確信をもって証しすべきでしょう。これが信徒使徒職ではないでしょうか。 十字架上のお姿をどう見るべきか。けっして「敗者」ではなく「勝者」なのだと。イエズスの死は自ら進んで全ての人の救いのために十字架を受けられたと言うことを。 聖金曜日は「断食」の日。イエズスの死を断食をもってその苦しみ、犠牲と愛と奉献を想起できるのではないでしょうか。我々自身にも必ず訪れる「死」を、イエズスの死に倣うことだと思います。
2016年03月25日
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「最後の晩餐」のイメージは1490年代作と言われるダヴィンチで知られる。僕のイメージはあの構図とは全く異なる。「キリストの生誕」の絵画もそうだが現実味が感じられないからだ。絵画の空想の作者のイメージの具現化は多くの人に影響を与える。これと比較し、音楽は全く聴者にイメージをゆだねる。これが本当だと思う。「最後の晩餐」の三日間はイエズスの最後の教えだったのだろう。食事中に弟子たちの足を洗うイエズス。師が弟子の足を洗うなんて、当時の慣習では考えられなかったことだろう。身をかがめ弟子の足を洗う姿は二千年経った今もなお人の心をうつ。“みなこれを取って食べよ”これが今もなお二千年経っても続けられている。続いているからではなく、原点にかえって考えるのが聖週間なのかもしれない。いつも思うのです。昔は口で拝領した御体を、今は手の上にのせられる。この罪をおかす手の上に。ふさわしくない自分を痛烈に感じる瞬間でもある。この「ためらい」の心をイエズスは許し愛してくださると言うことです。
2016年03月24日
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聖なる過ぎ越しの三日間が始まり、晩餐と十字架と復活は弟子達への遺言なのでしょうか。きょう聖木曜日は「感謝の祭儀」「司祭職の制定」「兄弟愛」が語られます。「このままで・これで良いのか悪いのか?」と自問自答する迷いの三日間です。「とどまる&ためらい」最後の晩餐での弟子たちのためらい。足を洗われるためらい。イエズスの愛と許し、聖体の秘跡、愛の業。“皆これを取って食べなさい”への戸惑いと困惑。ふさわしくない者へのさらなる愛。御聖体にふれること、相応しくない者にも、なおも惜しみなく与えてくださる愛。ともに食し、ともに愛し合う兄弟愛。そんなことを考える聖木曜日です。
2016年03月24日
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ハンセン病「朗読と音楽」の問い合わせがあった。「ハンセン病は気の毒」と、耳をふさぐ人が多い中で、自分達のものと考える人もわずかにいる。小さな自治会で開きたいとのことだった。こう考え、問合せまでする人は細かい配慮が出来る人ですね。演奏のお金を心配してくれる。この心がとても嬉しいです。金がなければ無いなりに工夫もできるわけで、要は「やりたい」という心でしょうか。出し物は幾つかあるので、ストーリーを電話で話をして決めました。このような心根の人たちが思ったより多いのには救われます。時には「ストーリーの詳細を、演奏の編成は、収録ビデオが観たい」というグループもあるが、即座に断ります。そんな心根では理解できないでしょうし、理解してもらおうとは思わないから。時には「お金のことは一切念頭になく当然無料」だと思っているグループもある。国の援助か助成金か教会からお金が出ているのだろうから、そう感じているようだ。我々も人間で、空気を吸って生活しているわけではないのに。この考えはカトリック教会が顕著、僕の経験では。「ただで当たり前、奉仕して当たり前」と。一ヶ月前になるが、「乗車拒否」をやりました。懐具合から、朗読とピアノだけだったが、これはこれでとても良かった。お客さんは15人位。その中の何人かは集って全生園に行ってきたとメールをいただいた。草津にも行きたいとのことだった。「乗車拒否」は軽井沢から草津までの約60キロをライ病を理由に草軽電鉄の乗車を拒否され、線路づたいに雪の中を歩く話し。刑務所よりも恐ろしい療養所に歩く姿は想像するのもつらい。いま一つは「ライ者の信仰生活」で、カトリック信者になっての信仰生活のストーリーだが、これを仏教団体が希望したのは驚きだった。日本人のやってきた過去を真正面から向き合おうとする人たちがいるのは救いです。それもカトリックとは関係のない人たちだけに。
2016年03月23日
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昨日は我が教会の「献堂式」だった。たくさんの人が祝ってくださった。幸先の良い出港と言うか考えさせられる出船だと感じた。自分の所属する教会にお客様でいるのは良くないと。選挙に無関心な国民の悲劇は日本人なら誰もが感じるのと同じ。教会に無関心の結果が昨日だったと。ちょうど年度替わり。積極的に出来る範囲で参加しようと考えています。
2016年03月21日
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3月21日、きょうは「受難の月曜日」で我が教会は「献堂式」とおめでたい記念すべき日でもあります。悲しみとめでたしの両方。不思議な感覚です。目が覚め今日一日を考えると、すぐに胃痛がする。あの教会に行かなければと思うと胃がキリキリ。昨日の受難の主日に教会に行き、あちこち教会内を見たが「ああこれからこの教会に通うのか」と思うだけで心が沈みます。二週間前にも知人がこちらに観光できたおりに訪問してくれました。その感想は「集会所みたいだね、なんで言わなかったの」と。教会離れがいっそう進行するのでは。胃の痛みを受難の月曜日とします。こちらに来たら聖体訪問してください。カトリック東松山教会。
2016年03月21日
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明日の献堂式の打ち合わせがあるため御ミサに与かった。献堂式までの二回の日曜日は近くの場所での間借り住まい。それもメモリアルホール。と言えば祭儀場。正面にはカーテンが覆っているが中がはっきりと見える。そう、仏式の葬儀が丸見え。その前でキリスト教のミサが執り行われる。この無神経さはおおらかで立派。仏教とキリスト教のコラボです。僕には理解できない。。帰路、神経がおかしくなる。教会に行ってストレスになるのだからどうするものか。ハンセン病「朗読と音楽」をこの四旬節に何回か開いた。朗読者が少ないのが悩みの種です。専門家でも経験者である必要はなく、かえって朗読の未経験者の方が気持ちが伝わる。昔役者を志したと言う人とご一緒したが、昔のキャリア?が邪魔するのだろうか、頑張りすぎて猿芝居の独りよがりになったことがあった。その朗読に演奏者がひきずられて演奏に集中できず、途中放棄状態になってしまった。そんな経験を二度ほどしたので、やはり心ある人、朗読の未経験者であっても伝えようとする気もちがあれば十分、上手下手は関係ないと考えている。そうは言っても、朗読者はいないですね。演奏者も同じですが。
2016年03月20日
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四旬節第5土曜日。明日は「枝の主日」。いよいよ迎えますね。僕はと言えば、我が教会が21日に献堂式。おめでたい記念すべき日となります。お祝いにワイフの歌と息子のチェロで数分間、花を添えます。あすの式次第をみると、なんと言おうか、舌が渇いて言葉になりません。僕らの演奏の出番がなければ行かないところです。なにも受難の月曜日にしなくても、と思いますが。一昨日友人と談笑。東松山の新しい教会を外目でみたとのこと。「集会所教会」とは合点なり。僕は「大きな物置」と表現しましたが、まさに「集会所教会」です。なんでまた、信徒も少なく尻切れトンボ状態なのに教会を建て直ししたのかなぁ~~~。昭和33年初版の「四旬節のミサ典書」を見ています。観想会シスターだった叔母のものです。この時代が第二バチカン公会議から継承されているのでしょうか。刷新の美名のもとに多くを失ったように、いち信徒として思います。「四旬節のミサ典書」と今のを比較する限り、素人なので全く疑問だらけです。以前の方が母国語として相応しいように感じます。
2016年03月19日
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積まれた本の中に小さな本が窮屈そうにはさまっているのに目を留めた。ラテン語と日本語対訳の小さな本。祈祷書。見たかった本「聖母マリア小聖務日課」(Officium Parvum Beatae Mariae Virginis)昭和25年初版だった。観想会のシスターだった伯母の遺品のなかの本で、使い古した生きている本だった。何十冊もの大きく部厚い本の重なりの中で小さな本がじっとしていたのだと思うとやりきれない気持ちです。おまけに、いま僕が作曲に必要としている聖務日課の調べものだけに、偶然なのか必然なのか、やはり神様の計らいとしか言いようがありません。修道院の門をくぐり日夜祈りの生活に入った伯母がいたことは、僕の作曲の原点になるのかもしれません。
2016年03月17日
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栗生楽泉園でのこと夜になると、時季はずれのイルミネーションがチカチカ光っている。デートスポットのよう・・・それでいてお世辞にもきれいとは言えない。むしろやっつけ仕事でやったという感じ。LEDなのか電気代がかからないからなのか。クリスマスツリーの光がなぜか空しくあわれに感じる。誰も見ていないのに。誰のために光っているのだろうか。何かを発信しているのだろうか・・・ここで亡くなった人たちは、このクリスマスツリーの光を天国からどんな気持ちで見ているのだろうか。いまでこそ平和な空間だが、ほんの少し前までは法律で隔離されていた療養所であることを忘れてはならない。大変な、信じられないような出来事が沢山あったのだから。「場所をわきまえたらどうですか職員さん!」そう言いたくなります。何と言う無神経さか。職員としての役目だけを黙々とこなし、それ以上のそれ以下のことは決してしない、それが公務員と言いたいのだろう。そんなもんじゃないと思うのだが。職員も気が気じゃァない。患者さんが一人亡くなると職員が〇〇人減らされるのだから。入所者さんが70数名に対し、職員は200数十名。だから患者さんには長生きしてもらわないと。患者さんに長生きしてもらはないと、自分らの身が危なくなる。ただそれだけの理由であり、ここはただのショクバなんでしょうかね。
2016年03月16日
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栗生楽泉園でのひととき「さぁみなさんゲームをやりましょう・・・いっしょに歌いましょう・・・」どこにでもある高齢者と介護者の風景。おいしそうな串団子が出てきた。「おいしいですよ、食べましょう~」と。中には食べない患者さんがいる。「どうして食べないの?おいしいよ」と。食べられるわけがないでしょ。だって指がないんだから。だって指が曲がってるから。団子の櫛をどうやって持つの。ライ療養所の看護婦、介護士なら最低限のライ病の教育を受けているはずなのに、この程度のことが分からない。世間の高齢者とおんなじだと思っているんですよね。そうして食べることのできない患者さんは心に傷が増える。「ナイチンゲールとはいわないが、ナイチンゲール精神のカケラでも持っていてもらいたい」とは、ライ者の素直な意見です。こんなとき、串団子ひとつを食べる時にも、自分はライ病ものなんだと新たに気が付く瞬間だそうです。厚く高い壁があるということに。「こんなこと本当に些細なことで、数えるときりがない、言ってもしょうがないからあきらめてますよ」と、そんな話を聞くとせつなくなる。
2016年03月15日
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前回のブログに対して、教会離れの楽友友人知人らから連絡をいただきました。教会に行くのがストレス。そう感じるのは僕だけではないようです。これっておかしな話ですね。でも現実で事実ですから。何でこうなるのだろうか。結局は、時流に反する聖職者の在り方でしょうか。信徒は従うまで。信徒使徒職なんて名言はあるが実体のない体裁だけで、信徒は従うまで。司祭が少ないんですよね。司祭を望む声は多いが司祭のなり手がない。信徒が信仰的問題をかかえても相談する司祭がいないのだからどうにもなりません。社会で問題を抱えて相談しようとしても教会には司祭がいないんですからどうにもなりません。司祭不足でらちがあかないのなら、世間のカウンセラーが教会にいてもいいのかもしれません。浦和教区は司教様がどうなるのでしょうか。船長無しの大型船はどこに行くのでしょうか。社長のいない会社が同業の会社社長に来ていただいている。そんなことがまかり通るのが不思議です。ただただ信徒は従うまで。おかしなものです。大人だから誰も口には出しません。それを良いことに現状維持も、そろそろできなくなってきたようです。
2016年03月14日
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四旬節第五主日我が東松山教会にワイフと御ミサに与りに行ってきました。21日の献堂式をむかえるまで今回から間借りしての御ミサだそうで、それもメモリアルホールでの御ミサを何と言ったらいいのか。行きの車の中では、演奏会と録音をひかえているので打ち合わせなどで話がはずみました。着いたところが、どうも葬儀会場のようで嫌な予感。あんのじょうです。50人ほどの少なめの信者があつまり、若い男性が祭壇に背を向けて座っています。??。どうも子供達を指導しているようで、ミサに関係しているようだ。それにしても、信者同士が神妙な顔をして対座する光景は異様としか言いようがない。その神経には理解に苦しむ。聖書朗読者が朗読台に立ち聖書朗読を始める。外は寒いが、せめて聖書朗読をするときは防寒着を脱いだらいいのに。神の言葉を防寒着を着ての朗読にはあきれる。つづいて答唱詩編。やっと理解できた。子供達が朗唱をはじめた。祭壇の前に出て信徒の方に向かって朗唱と言ってもバラバラで歌も練習しているとは思われない。子どもの出番を考えるのはいいが、神の前での賛美にはそれなりの意識を子供であっても持つべきだと思う。可愛けりゃなんでもあり、は良くない!と僕は思う。奉納唱でその男性がギターをだしてジャンカジャンカと御世辞にも普通以下なのにギターをフォーク調でやりだした。とうぜんフォーク調の神を賛美する歌を皆で歌い出した。教会のサマーキャンプでファイヤーを囲んでやる程度の音楽を。ミサ中ですよ、ミサ中!これでもかこれでもかと、今度は聖体拝領後にまた始まった。ジャンガジャンガと。今度は外国人を配慮してだろうフィリピンの音楽をみんなで歌い出した。とうぜんのこと外国人は「水を得た魚」の如くハレルヤ気分で歌い出す。オイオイ、いま四旬節だよ。その前の説教のとき。聖福音書を司祭が読み、インド人司祭の説教が始まった。司祭の言葉に耳を傾け、静寂な心でこれから信徒一丸となって信仰宣言!のはずが、ペラペラと外国語を話しだした。時計を図ると7分丁度。説教が終わって今度はまた同じ内容を英語で話す。日本人はいつ終わるのか分からない状態で、今終わるか今か今かと待っている。ようやく信仰告白を迎える。ミサはオペラとよく言われます。目的があって進行順に沈黙動作唱和と流れていくはずが外国語で中断する。これはミサではない。イテミサ(閉祭宣言)のあと、献堂前の教会に戻り21日の献堂式の確認説明があった。ワイフは新しい教会を始めて見るのだが、開口一番「集会所」みたい。まさに少し大きめの集会所みたい。体裁程度の屋根のてっぺんに小さな十字架があるので教会と分かる。信徒ホールもない。つまり合理的経費削減の実用的な建物。御聖堂の椅子は、重ねパイプ椅子でキャパは80席ぐらい。ようはパイプ椅子を端っこにどかすとホールになる便利を配慮してのことだろう。そのつど御聖体を移動すると言うことは、イエズス様も落ち着かない教会ですね。天井は響きが屋根からとんぼ返りで跳ね返る設計。皆で神を賛美するときは耳栓が必要だろう。もっと面白い不思議さは「泣き部屋」があること。結婚もしない、若者の教会離れの中で、どれほど子どもがくるのだろうか。泣き部屋とは、泣く年齢の子供を配慮した部屋で、どこに鳴くような子供が教会に来るのか?そうだ!外国人のためだ!でもまてよ外国人は教会建築費を負担しないはず。我々にはダブルパンチ。ほんとうに人がいいですね。「おもてなし」ですね。さすがにこの雰囲気に我慢ができず途中で失礼してきたが、車に乗る前からお互いに無口。僕は車に乗る気にもなれずパイプを外でくゆらせ、ワイフは車の中で沈黙。帰路の車中は沈黙とため息。「教会にはかかわり合いを少なくしないとね」「そうはいってもね」「しゃしゃり出ないで最低限で」家に着いて、どっと疲れがでて「疲れた」を連発。ワイフは頭の左が痛いとのことで昼寝してます。僕もこのブログを更新して昼寝します。本当に疲れました。教会に行って徒労のような無駄な疲れをして帰ってくるなんて、どういうことなんでしょうね。司祭のいない教会は好き勝手の集まり。糸の切れたタコのようです。
2016年03月13日
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久しぶりにお顔を拝見しました。もう忘れていた懐かしい、それでいて今もなおいい顔をしている。世間では見られない顔だけに大切にしたい、すなおにそう思いました。再会は十数年ぶりかもしれません。その頃とちっとも変っていません。ピアノ伴奏のヴォーチェ。もともとはリードオルガン伴奏だったのを演奏会場の理由からピアノ伴奏に代えた曲です。オルガンからピアノに代えるのは無謀だし難儀だし。同じ鍵盤楽器とはいえ全くの別ものだから。練習を聞いていい顔に再開できたことに感謝です。
2016年03月12日
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いつものように起きていつものように生活をする。6時間後に大惨事が起ころうとは誰も想像もしなかっただろう。2011年3月11日午後2時46分に東北地震が起きた。全てを国がやるべきとは言わないが、それにしても5年が経って今なお苦しんでいる人がいる。正確ではないだろうが、15894人が亡くなり、2563人が今も不明とのこと。きょう一日だけでも東北震災のことを心に留めたいものです。めずらしく6時に起きました。めずらしく「朝の祈り」と「読書」。きょうは9時からのレッスンの後に「朝の祈り」をして、早めの昼食をしっかり食べて正午から翌日正午まで「断食」です。「昼の祈り」をして三時に「九時課の祈り」、夕方に「晩の祈り」のあと空腹が厳しいから「寝る前の祈り」をして早めに寝ることにします。聖務日課のフルコース。たまにはそんな一日があってもいいかと思ってます。
2016年03月11日
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草津訪問からいま帰宅しました。少し疲れ気味なので少しインベッド。9日の御ミサは司祭シスターら6人、信徒は5人で、信徒宅での最後の御ミサでした。次回からは教会になります。外は寒くなり雨模様、白い水滴、パラパラと雪となり、翌日朝の車の屋根には5センチほど雪が積もってました。きょう10日の帰路、草津は一面が雪化粧で見事でしたよ。草津から下ると雪はほとんどありません。次回は今月の30日(水)1時から三日遅れの復活日中ミサです。お一人洗礼者あり、65歳の男性。今年はにぎやかな復活祭にしたいものです。8日、シスターが草津にいらっして一時間半ほどいて帰りました。片道三時間かけて一時間半とは、70半ばのシスターにはこたえるでしょうに、それでも来てくださるんですね。来月もいらっしゃいます。
2016年03月10日
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今日は11時から6時半までレッスンが続きます。そのあとご主人を亡くした夫人と会い、その足で草津に向かいます。草津の療養所には11時過ぎるでしょうか。あすはシスターが草津にいらっしゃるので草津口まで迎えに行き、みなさんと和やかな時間を過ごせるでしょう。患者さんも心待ちにしていますので。明後日は御ミサ。いつもの参列者だけだとは思いますが。声をかけても、なかなか足が遠いようです。もう少し若かったら、何ていうのが常套句で、聞いていていらだちます。御ミサの日は9日で、9の日のハンストがあります。12時から翌日正午まで。
2016年03月07日
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我が教会のミサに与かった。浦和教区の東松山教会。信徒数はどの位いるのか興味もない程度の信者なので、何も言う資格はない。イエズスの受難を迎えての四旬節にあって、我が教会は献堂式を今月の21日にむかえる。なにも四旬節に。主の復活を迎えた後でも良いのに。そんな素朴な気持ちがわいてくる。初めて新しい教会に入った。あんのじょう。とにかく、何も言う資格のない信者だけに、何をも言わずおきます。これでまた一歩も二歩も教会から足が遠のきます。帰路の車中、いや今もなお気分が悪く、気分転換にコーヒーを飲んでいるところです。コーヒーを気分転換に飲む、で思い出しました。恩師菅原明朗先生と演奏会に行くと、よくあった出来事。“コーヒーを飲みましょう”と。ほとんどは先生宅に帰宅してからコーヒーを入れて飲みます。さぁ、ここからが僕のレッスンになりまう。曲目演奏音響などの話になります。僕のレッスンは「地獄」となります。「針のムシロ」です。射祷のごとく次々に質問されますし、僕の回答が悪いとクソミソです。でも先生に教えて頂いたことが、今の僕の元になっていることは間違いないことです。それにしても、我が教会とこれからどう付き合っていけば良いのか思案中。気持ちは「教会離れ」。でもそうはいかないし・・・
2016年03月06日
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3月4日正午から5日正午までの24時間ハンストを終了したところです。以前は深夜0時スタートでした。深夜のスタートだと寝る前の食事がしっかりできず24時間はきつかったが、正午になってからは楽になりました。これからオカユを食べます。普通の食事だと体調をくずすので。選挙に向けてなのか、為政者のすることは国民のためなのか自分達のためなのか、沖縄裁判をひっこめたり、消費税も何もかもがぼやかしている。結婚したくても生活できない今の若者は本当に気の毒と言うか、言葉にならない。政治に関心を示し、政治家と対等な立場で話をする環境づくりが第一かもしれませんね。政治家の流ちょうな詭弁を拝聴するのではなく。断食は、こんどは9日です。九条の会の「9」の日です。
2016年03月05日
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聖務日課、四旬節第三主日金曜日。「晩の祈り」「福音の歌」の交唱「隣人を自分のように愛することはどんな生贄にもはるかに優る」と。「共同祈願」の答唱「神よ私達の祈りを聞き世界に救いの喜びを」と唱えられる。同じように祈っている人がいると言うことは心強い。修道院で病室で、僕のようにパソコンを前にした机で。死者ミサの音楽の編曲を昼間終えてファックスした。あぁ、あの人が先に天国に行った。今回教えられたこと、気が付いたことはアンティフォナ。聖務日課をしっかり見て(僕の場合は信仰より先に作曲が優先になる)自分なりに理解し詩編を見いだすこと。参考になるのは「聖母マリアの小聖務日課」がベストかもしれない。しばらく昭和25年初版本を手元に置こうと思う。
2016年03月04日
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早朝から訃報のメールを見た。聖務日課にこうあった。共同祈願で「主よ福祉活動に身を捧げる人の労苦を心に留めてください。恵まれない人々と苦しみを共にする彼らが、あなたに力づけられ希望を持って働くことが出来ますように。」と交唱に「心を込め魂を込め精神を尽くして、あなたの神を愛せよ。」と詩編唱和は、詩編51、エレミヤ14:17-21、詩編100。どれもが感ずるものがあった。メガネをかけても虫眼鏡が必要なのは不自由です。9日間のノヴェナを昨日から始めました。そう、きょう4日金曜日は正午から24時間のハンストをします。飢えに苦しむ人たちを思いながら。
2016年03月04日
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味覚音痴なのでウンチクは言えないがコーヒーだけにはこだわりがある。そのこだわりの根拠がこれまたいい加減で、ベートーヴェンがコーヒー豆を60粒と決めていたと言うのがこだわりの根拠です。ベートーヴェンにあやかりたいと思っても才覚が異質なので崇めると言うか60粒を50粒にしている。朝起きて、コーヒー豆をメジャーカップですくい、広げて数えるのだが毎日だから数粒の違いで50粒。できるだけ形のそろった豆を使う。味覚音痴だからコーヒー豆にこだわりはなく、こだわるのは価格。6百円前後と9百円前後では豆の粒がそろっているかどうかの違いかな?6百円位のは不ぞろいでけっこう奇形?な豆が目立つ。僕の感覚はその程度です。ベートーヴェンは60粒9グラム。僕は控え目に50粒の8グラム。この一グラムの差は天地の差です。僕にとってのコーヒー一杯は至福の時です。
2016年03月03日
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寒い一日が始まる。寝室に聖務日課を忘れ書斎の棚に開かれもしない聖務日課を使うことにした。しおりにそって開くと四旬節水曜日の朝の祈り、ちょうど今日同じ日だった。何年か前に開いたままだった。偶然と言うのだろうか。なにか感じるものがある。灰の水曜日の「朝の祈り」の福音の歌の交唱で「断食するとき偽善者のように暗い顔をしてはならない」と唱えた。きょう四旬節第三週水曜日の朝の祈りの交唱は「私は律法や預言者を廃するためんではなく完成するために来た」とある。第一唱和は詩編86、第二唱和は旧約イザヤ33:13-16、第三唱和は詩編98。全世界で同じようにページをめくり、同じように祈られていることに強く胸が打たれる。
2016年03月02日
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