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書いた曲を五線譜に書く?意味が分からないとのご質問がありました。曲を書いたとは頭の中でまとめた、と言う意味です。あとは五線紙に清書して終わり。モーツァルトなどは思うままに、頭に浮かぶがままに五線紙に書いていきますが、僕などはああでもない、こうでもないと、頭の中の五線紙に書いては消し書いては消しを繰り返し、出来上がったところでいっきに五線紙に書きます。書き終えクエッション箇所をチェックし、音律と響きの確認が必要な個所はオルガンで確認訂正するわけです。この作業は、ちょうど、手紙を書きながら分からない漢字を辞書で調べるのと似ています。作曲はこの作業の繰り返しです。ピアノを弾きながらじゃないの?との質問がよくありますが、ピアノを弾きながらと言うと、ピアニストの技術が必要ですし、技術と音楽的感性からピアノを頼ることはありません。それにピアノの倍音が邪魔になって、楽器本来の響きが得られないのが大きな原因です。だから僕らはオルガンを使うわけです。音楽の全体をピアノで弾いたりは決してありません。なぜなら、それをすると自分のピアノの技術でしか書きようがないからです。単旋律ならば可能かもしれませんが、管弦楽曲や編成が異なるときはピアノでは無理ですから。演奏の名手が書いた曲と言うのが歴史的に沢山ありますが、そのほとんどは自分の技量にあわせて書いていると想像できます。まぁ、この手法も必要ではありますが、凡人は決してしてはいけない行為でしょう。お風呂でリラックスしていると自然に流れでる鼻歌。とってもいい感じの音楽が誰もが経験します。これは民族地域のもつ音律がベースになっています。きっと他人に聞かせても理解されるでしょう。これが音律なんですね。つまり、歌謡曲民謡童謡が万人に愛される秘密がここにあります。これで書くのは俗曲で、音楽の発展はありません。そこからこね回し消しゴムで消してより高みを目指すから音楽なんだと思います。いじょうです。
2016年05月31日
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なんとなく書いてみた。音律に忠実に守り序破急と規則通りに。目が悪いので移調楽器には書くのに苦労をしたが。目を悪くして、こうも書くことの難しさを体で感じると怨みたくもなる。けっこうな出来。上出来です。構想デッサン完成に三日、目が悪いので五線紙に書く時間が一日もかかった。目がいい時なら一時間くらいで書きあげたの、そう思うと怨めしい。習作なので、いさぎよく、なんの未練もなく屑籠に入れた。あしたは「キリストの聖体」午前中に教会、午後からも教会、夜も教会。車移動のあいだに気になっている詩編のデッサンを考えます。
2016年05月28日
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25日に録音を録りました。草津のハンセン病療養所栗生楽泉園の中にある草津カトリック教会でライ信者さんの遺品を陳列する「展示ケース」の購入資金を目的にCDを作ろうと思っています。その録音の一部を録りました。コーラス入り二曲「マリアさま」「マリアよ私に」で、Sr.マリア丸山と恵美神父の詩に書いたものです。ソロのバックコーラスが18人。ピアノとチェロの伴奏です。ホールを借りての録音で、たった二曲なのに三時間かかりました。コーラスといってもユニゾンの応唱で、年齢70ウン才の録音とは無縁のご婦人たちです。コーラスは大勢で歌うから気楽なはず!ところが音楽ホール六百席の舞台に立つと一瞬で凍り付くものです。口パクするわけにもいかず、飛び出して歌ったら大変だし、色々なことが走馬灯のように頭に浮かぶそうです。「もっと練習しておけばよかった!」がその感想です。みなさん良い経験をしたのではないでしょうか。きのうの録音はコーラスつきの二曲のみ。あとの曲は、演奏者が一堂に会することは難しく、二回に分けての録音となります。8月1~3日、那須トラピスト修道院での録音が決まりました。トラピストのご理解には感謝の言葉もみつかりません。トラピストでは、ラザロ桜井哲夫の「ロザリオの祈り」、サレジオ会の恵美神父の「キリストあなたは」、マリア丸山シスターの「香油」の三曲を予定しています。時間があれば他にも収録したいのですが。僕は「香油」が好きです。香部屋で忙しそうにしていたシスターで、ミサの準備が終わるとオルガンを弾く準備。ガンに体中がむしばまれ激痛の中にあってもニコニコと笑顔をたやさなかったシスターが書いたポエムです。今は天国です。この曲を書くにも沢山の思い出が浮かびます。香油とは?から始まり、聖水、香部屋、香油の香りは?そんなことから出発し、御聖堂に長いこと五線紙片手に祈るでなく、ひざまづいてみたり、手を合わせたり、十字架の道行きを唱えたり、ロザリオをくくったり、天から曲が降りてこないかな、そんな日々を過ごしたことを思い出します。「香油」一人の女の目はイエズスだけを見ていた香油の香りが広がった女の悲しみ苦しみを女がただ一人 受け入れたイエズスの慈しみ ひたむきに応えた女のきもち一途に交わす イエズスと女のまごころの呼応香油の香り 香油の、香油の香り (2008年3月)この歌が那須のトラピストの御聖堂で歌われることをシスターもお喜びでしょう。
2016年05月27日
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日本では10数年前まで「終生隔離絶滅」政策でハンセン病患者さんが強制収容されていた事実がある。敗戦前後には一千人以上が収容され自給自足的な生活を余儀なくされたと聞く。敗戦直後は国民すべてが貧しかったであろうが、それ以上の貧しさと病気によって、多い時は日に何人も亡くなったと聞く。国の政策で強制収容し絶滅が政策なのだから食料は生かさず殺さず、つまり生きるためには自分らで耕して食を得るしかない。患者さんの関心ごとはしぜんと自分の「死」。どのような死を望んだのであろうか。当然のごとくキリスト教も入信の対象の一つだった。草津の栗生楽泉園でも同じだった。1956(s31)年にローマ会議で「すべての差別法の撤廃、完治患者の社会復帰」が提言された。日本からも3人出席したが、日本の国は強制収容終生隔離絶滅の政策をつい最近まで続いた。1956年に渋川にカトリック教会が建てられた。同年の春、栗生楽泉園の看護婦から“園内にカトリック信者の方がおられたら申し出てください”との園内放送があり、三人の信者が名乗り出た。一番近い献堂されたばかりの渋川教会では「ライ信者発見」と大きな喜びで受け入れたか、あるいは二の重い現実を突き付けられたかのどちらかであろう。楽泉園の医者から「ライ病はうつる」と聞かされているのだから、間違いなく恐ろしい病気で近づきたくはなかったであろう。同年5月、ライ国立療養所内にカトリック草津教会が発会する。翌年の1957(s32)年6月に、司祭が渋川教会信徒らと来園し、今後について3人と話し合う。(「草津教会40周年」年表p.66)つまり、渋川教会の歴史は草津教会と密に並行していると言うこと。そして大事なことは、両者には交流が無いと言うことです。ローマ会議が日本でも行なわれていたなら、残念でならない。ある人が言った「今と違い、当時の時代背景思想を考慮しなければいけない」と。たしかにそうでしょう。だが、当時を知る体験した患者さんが今も健在であること。彼らを前にしてそう言えるだろうか。
2016年05月26日
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渋川教会の献堂60周年を考えると、素朴な疑問がわいてきた。誰もが感じ、誰もが口に出さないタブーなのか。渋川教会の献堂が1956年。そしてその6年後1964年に渋川教会の下に草津教会が作られた。ライ療養所には3人の信者が入所していた。最も必要とする小さな教会が作られるにあたって、献堂してまもない渋川教会は当然のごとく熱心に草津教会の献堂に力を貸したと想像できる。「さもあらんや」である。イエズスはライ者を癒し、愛し、ともに食したと。そのライ者の住む地区、ライ国立療養所の中に作られたのが草津教会である。今は違います。が、つい十数年前までは法的に隔離された終生隔離の施設だったことを忘れてはいけないと思う。ここには多くの病者が住んでいたわけで、多い時は約1300人、入所者の関心ごとは自分の死、葬儀、宗教であったと想像できる。キリスト教も選択肢の一つではあった。この終生隔離された塀の中には大勢の患者さんが心の平安を求めていたわけで、宗教者の役割がここにはあったはず。ところが、司祭も信者も寄りつかなかった。「宣教」と言う言葉は存在しなかったと、入所者は言う。何故こうなったのだろうか?この歴史を「告白の祈り」にあるメーアクルパ、メーアクルパ、メーアマクシマクルパと信者は祈らなければならないと思います。
2016年05月25日
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群馬県渋川市にあるカトリック教会が出来て60年になると言う。献堂60年を記念するお祝いが22日にあった。一口に60年と言うが、多くの人がここを訪れ、食卓を共に与ったのでしょう。司祭が一人、シスターが3人生まれたと言う。その一人のシスターを東京から送り迎えをした。車中での会話は大変、僕にとってはありがたい時間をいただいた。
2016年05月24日
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群馬県は渋川市にあるカトリック渋川教会が献堂60周年だという。外国の宗教が日本に伝わり教会建設も外国が肩代わり。そんな時代を長く過ごすと人様からもらって当たり前、ひと様に「あげる」ということを忘れてしまう。渋川教会がそうだと言うのではなく、そんなケースが多いと言うこと。戦後の貧しい時代に教会に行って「アーメン」と言って賛美歌を歌って物をもらうのが楽しみだったと古老に聞いたことがある。その努力熱意のわりには、それ以上には外国の宗教は浸透しなかったように思える。信仰を共有しようと熱心に宣教活動をしたとカトリックでは聞いたこともない。その結果かどうかは分からないが、いまのカトリック教会がそこにはある。子供も若者も壮年もいな老人だけの教会を。幸いか不幸か、アジア南米の出稼ぎ家族が我が者顔で教会を代えようとしている姿を見るのが辛い。時代の流れを感じさせる。司祭の補充?にか、アジアから司祭をオカリする。中には反日意識のある国の司祭もいる。共に食卓を囲むことは当然できるものではない。献堂60周年を思うと、ついこんな愚痴と不安を感じる。これから、ある修道院長さんをお連れする。
2016年05月21日
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献堂60周年記念が群馬県はカトリック渋川教会で日曜日に行なわれる。この教会で育った子が、いま修道院長になられている。あすは運転手、その足で草津に足をのばし月曜日に帰宅します。
2016年05月20日
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障がいのある小学生がレッスンに来ている。もう2,3年になるだろうか。小学高学年になる。ピアノを弾くわけでも、声楽を習うわけでもなく、一緒に歌をうたう。僕が教えているわけではないので、ただ流れる音楽を聞いていると、最近感じることがある。歌の好みがあると言うことで、好みの歌に強く反応し、歌詞も発音できない音程もとれない声で歌っていると言うことです。歌詞も音程もとれなくてもリズムに反応する。リズムとは音楽の中でも一番の源泉なのでしょうか。親の理解と、辛抱づよい音楽指導者がいれば、障害を持つ子供たちにも音楽は強い味方となると言うことです。またそれ以上に、我々健常者に多くを学ばせてくれると言うことです。
2016年05月19日
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5月15日、聖霊降臨の主日。久しぶりの教会で御ミサに与かった。一番後ろの隅っこに席が空いていた。聞きなれた音と違うので背伸びをして見る。リードオルガンだった。今までは電子オルガンだったのに、リードオルガンが並んでいる。物置?からか出してきたのだろう。リードオルガンを弾く、そう発言する人がまだ僅かでもいると言うことは嬉しいかぎりです。日曜の朝から心地よい一日を過ごすことが出来た。午後3時、他の教会のミサに与かる。もちろんここは電子オルガンである。電子音の合成音は音楽の音にはならない。リードオルガンの原理はハーモニカ。ハーモニカのリード弁を大きくしただけ。それをオルガンの箱が共鳴させるわけだ。だからオルガンの箱全体が四方八方に響く仕組み。人間の声に溶け込みハーモニーをかもしだす仕組みです。我が家には自慢のリードオルガンが二台ある。一台は某大学チャペル、一台はシカゴ製でともに11ストップ。シカゴ製は150年たっている。どちらも修理しないといけないのだが、修理代が高いのでそのまま使っている。僕にとってのオルガンは音の響きの確認だけだからこれで充分。フルで音を出してみたい、そんな願望はいつも抱いている。分相応でこれで充分です。教会で流れるリードオルガンの音色は神様の館として相応しいものです。
2016年05月18日
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防災品昨夜、突然の地震に驚いた。地震国だから自信があっても不思議はないのだが、防災品の常備を改めて考えてます。僕は人里はなれたところで10年近く生活したことがある。火とナイフ。火は、マグネシウムの火打石が必需品。マッチやライターは雨に弱く使い物にならない。ナイフは大小あると便利。大はサバイバルナイフが便利。小は小さなナイフは便利、それと別に万能ナイフ。大きいサバイバルはナタがわりにもなるが長さでは刀剣違反になる。僕は米陸軍のナイフを重宝していた。ガソリンと灯油は絶対に必要。携帯タンクで常備している。車もチェーンソー・発電機・暖房にも必要だから。それにラジオと電灯、テントと防水スプレーが必要ですね。あとは食料と水。熊本地震は気が付くと一ヶ月になる。報道は少なくなり行政がスムーズにいっていると思っていたが、あらずのよう。関西、新潟、東北、それに原発の経験は生かされているのだろうか、あらずのよう。余震の中、雨でテントは役に立たないし、車での生活に限界がある。ボランティアの善意に国は手を差し伸べているのだろうか。日本のボランティア考は弱者が弱者への行為で、お金持ちがボランティアをすると聞いたことはない。お金の無い善意者が現地に行っても宿泊飲食がわずかではすぐに帰るしかないだろう。
2016年05月17日
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月に一度の「朝まで生テレビ」を楽しみにしていたが、何か理由があるのだろう幕を閉じた。その論客であり、僕と同年でもありベビーブームの秀才らに声援を送っていた。代弁者でもあった。その論客でもあった文人が都知事に就任。とんでもない赤っ恥を披露して去った。次に同じく論客の東大教授に、今度こそはと期待と声援を送っていた。少し上から目線の発言に違和感はあったが都民のためになるのならと。総理大臣候補と言われる逸材だけに、それにしても「やりたい放題」言える側近はいなかったのだろうか。やりたい放題は、足をのばすお風呂、公私混同?、お殿様ホテル、殿様行列、家族食事宿泊が会議に、もうこなると誰も止める公僕はいません。子供の散髪代も都民税で払っちゃまえ!権力は人を代えると言うことでしょうか。いやそうは言いたくありません。やはりその人の「心」です。「心」だけは読めません。「オリンピック」には「魔物」が付いているのかもしれない。ロゴマークでこけ、都知事でこけ、今度の都知事もこけざるを得ないだろう。都民も馬鹿じゃないから。それにしてもひどい話し。この話しの発端は都職員のタレコミだったのだろうか。こうなるもっと前になぜ出なかったのだろうか。九州にいる親の介護に東京から通っている、とテレビで見た記憶があるだけに残念。陰ながら支援していた自分に腹が立っています。あの悪びれぬ態度は革新政治家ではなく古い体質そのものですね。敗戦間もなくの僕らのベビーブーム世代は、平等に貧しく、田舎から大学に行く、大学進学なんて世間では意識がなかった時代。そんななか、田舎から東大に入ると言うことは、ずば抜けて頭が良かったんだろう。まわりからも誉めまわされ、(▲奨学金を得て)自分はお前らとは頭の構造が違うんだ!と、自分自身が洗脳されたのだろう。そして「お前ら」的になり自己ちゅうに、東大の先生、学者様、TVデビュー、当選確実の政治家、そして東京都知事、オリンピックの花、そのあとは政界にもどって総理大臣のレールが敷かれていたんでしょう。都内の高級ホテルの一室で夜景をながめ、天守閣から下界を見下すかのように天下国家の悦にひったっていたことが想像できる。ずば抜けた逸材にして人間とはこんなもの。子供の散髪代が政治資金ではシャレにもなりません。リコール署名がもう始まっているのだろうか。きょうは「ペンテコステ」です
2016年05月15日
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熊本震災に発電機を送ろうと頑張っています。貧乏人の僕には、ひと様に乞うてお金を集めることと、僕個人では編曲をして稼ぐことしかできません。まぁゴースト的なことになります。内職と言えば聞こえがいいし、自己満足にもなります。本来はすべきことではないのですが。ピアノ曲をクライアントの技術と趣向に合わせて書くわけで、これが結構時間がかかるし、自分の世界と真逆なことに心を向けると言うことは、大変辛いものがあります。心地よい音、心になんの抵抗もなくスゥーと入ってくる音とは、結局は風のように通り抜けるだけで、僕には興味のない世界です。譜面を見ると、ようは・・・。書いても詮無いこと。あぶく銭を得るには随分と犠牲が伴うと言うことを実感しているところです。木下順二の戯曲「夕鶴」を思い出す。“我が身を削って機織りする”良いものが出来ればよいのだが素材に疑問視するなかでの編曲は辛いものがあります。でも少しでも明かりが灯る発電機になるのであれば、これはこれで良しとします。あと1曲で終わりです。
2016年05月14日
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地震の備えは?どうすれば良いのだろうか。救助を待つだけの他力本願でも良くないだろうし。何日分かの食料と生活品を個人で確保していても、備えの無い隣近所をよそ眼に自分の家族だけで食べるわけにもいかないだろうし。罹災して自分の家族だけで食事をしテント生活し、発電機の電力があり、隣近所の悲惨を見ながら自分だけとはいかないだろう。離島ではないのだからすぐに救援されるだろうし。とは言っても個人的には、家庭薬、ラジオ電灯ヘルメット、発電機と照明器具、ガソリン灯油など、飲食品、工具類ナイフ、衣料、火は火打石が一番、けっこう備品がかさむ。物置に保管すると聞くが、建物の崩壊で安物の物置はペシャンコになるだろう。僕は屋根裏部屋と鉄製の箱を使っている。我が家だけのサバイバルでは空しい。被災地で一番欠けるのはリーダー。どこの地域でもリーダーとなり得る人はいるはずなのだが、いざとなるとそのリーダーがいないと言うことでしょうか。
2016年05月13日
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久しぶりに孫たちをスマホ?で見ました。娘より背が高くなって。大人になった感じがする。日本の633制とアメリカは違うそうで、もう中学生とのこと。会った最後は二年前だから大きくなって当たり前でしょうか。「英語がしゃべれるようになった?」なんて馬鹿な質問をして怒られた。孫たちはボストンに住んでいるので日本からは遠すぎ。ボストンは娘婿の生まれ故郷で、歴史のある町なそうな。そこには日本人が多く住んでいると言う。それもエリート家族だから日本子女教育も高く、日本人学校にも通っている孫たちには付いていけないそうな。アメリカと日本の教育の違いは大きいと聞いた。孫たちが一ヶ月間、日本に里帰りするのを楽しみにしている。孫たちが日本の小学校に短期入学していたことがある。その同級生と会いたいと言う気持ちは全くないと聞く。短期ながら小学校に通い、そこで会った教師も父兄も教育委員会も生徒もひどかったので、孫たちには日本人を良く見られないようだ。日本のいいところを教えたいのだが、そう考えると何があるのだろうか?僕自身が良いところが認められない。
2016年05月12日
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きょうは大雨。「雨降って地固まる」と、今日の雨を良き雨と解釈して一日を過ごしたいものです。きょうは大切な事柄が幾つかあって良い方に向かいますように。僕には恵み?の雨だが、熊本震災地では辛いことでしょう。きのう、当たり前で当然かもしれませんが「公務員」の感情抜きの対応、能面づらの彼ら見てゾッとした。まぁ、公務員たるもの、万民に公平ではければならないわけで、そのためには感情抜きで公平でなければいけないのでしょう。よく言えば万民に公平。悪く言えば、じっとマニュアル通りにして定年まで指折り数えていればいいと言うことでしょうか。熊本地震でもこのマニュアル通り、感情抜きの公僕根性が後手後手に回ると言うことです。これも仕方がないと言えばそれまでですが。「明日は我が身」と自分らのできる限りでやりたいと思ってます。
2016年05月11日
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その昔、修道院に籠もり、聖霊に満たされて典礼聖歌を書いた、と言うことを聞いたことがある。事実そうしたのであろう。祈りの中で聖霊を求め潜心熟慮渇望してのことでしょう。聖霊に満たされた書いた、と言われれば反論の余地がない。みなが従うしかない。言い出しっぺ優先で絶対的となる。これが現在の教会の典礼聖歌の姿かもしれない。聖歌とはかくありきなのだろう。作曲とは聖歌であろうがどのような楽曲でも、自身の信ずるところの聖霊によって生みだすものだと思う。それは自身のコダワリ。それを、どこかに籠もって聖霊に満たされてと言うべきではないと思うのだが。こうして作られた作品に対して誰も何も言えなくなる。ただただ有り難く歌わせていただくと言うことになる。 今回、トラピストに一泊して、祈りと沈黙と労働の場を自分の目と耳と心で確認した。俗人がこのような場で仰々しく作曲をすると言う意図が理解できなかった。そう感じました。僕ならどうするだろうか?その環境は欲しい。だが、かりに実現してもそれを人に言うことはしない。
2016年05月10日
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ハンセン病療養所を初めて訪れたのは1983年でした。33年になります。34才の時からのお付き合いです。あのころは、今とは全然違うし、こんな交流になるとは想像すらできなかった。そのころ、療養所には宗教寺院が幾つもあった(今もあるが)。死んで冥土か天国かにいけなければ。誰もがどこかに属していたようです。多磨全生園にはキリスト教が三つある。プロテスタント、聖公会、カトリック。カトリックは週一回の御ミサが当たり前だったが、7年前に信徒委員長の死をさかえに、いつしか月二回になり、そして月一回になった。その理由は司祭がいないからではなく、入所者さんが高齢のため御ミサに与れないが理由だと聞く。しかし、これは理由にはならない理由である。人のいる所、かならずあるのが人間関係ともつれ。ごく一部ではあるが、入所者と外部者との誤解?のようなものもあった。外部者は療養所教会の裏方で奉仕しているつもりなのだが、人間同志の目に見えない誤解があったのかもしれません。「よそ者はこなくていい」と発言力のある信者に言われ外部者信者は行かなくなった。高齢で花を飾り、香部屋の準備、掃除、会計など出来なくなってなおも外部の協力を断る。そして自らの葬儀も聖歌を歌うこともできない現実にあってもなお。1983年に、この教会を司牧していたアヌイ師が亡くなり、僕はそれからのお付き合いと言うことになります。まさかこんな哀れな教会になろうとは、だれもが悲しく無言で遠くから祈っていました。せいてんのへきれき。今年の復活祭から司祭が変り、毎日曜日に御ミサが復活しました。アヌイ師を知る信者さんらはアヌイ神父様がこの現状の願いを執り成してくださった、と喜んでいます。僕もそう思います。「困ったことができたら助けてください」との約束を果たす時なのかもしれません。そうは言っても難しい問題です。
2016年05月09日
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那須のトラピストに行く途中、那須のインターを降りて道の駅で休憩したときのこと。黄色い花が一面ひらいていました。中には白い綿帽子が風に乗って飛んでいました。僕が知るよりもしっかりとして大きい。日本タンポポの群生。驚きでした。どうしようか悩みました。こっそり引っこ抜いていこようかと。見るだけにしました。トラピストの近付く道端にも大きな黄色が。少し時間があったので下車してみて見ると日本タンポポばっかり。この辺は、まだ西洋タンポポに汚染されていないと言うことでしょう。トラピストで日本タンポポをいただいて来ました。タンポポも強い種の西洋タンポポに負けて関東では見かけなくなりました。弱肉強食で、弱いものは生きられない。強いものは弱いものを守らなければ。我が家の小さな庭には日本タンポポが黄色く健在、綿帽子になりつつあります。那須のタンポポが来年咲いてくれることを願うだけです。
2016年05月08日
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音楽にうとい司祭や修道院などには沢山の音楽情報が集まる。その発信者の意図は分からないが、御聖堂の音響やオルガンや歌い方など多種におよぶ。特に知名度のある人の意見は大きな影響力を持つことになる。ここで書くのはバカバカしいので書かないが、その結果にはあきれるばかりである。御聖堂でマイクを使うことの賛否がある。答唱詩編の先唱をマイクで歌う。電子オルガンにわざわざ代えるところもある。現行の典礼聖歌を絶対的と信じる。ここで書くのはバカバカしいので書かないが、その結果にはあきれるばかりである。大きな修道院でマイクを使うとどうなるのだろうか(構造にもより一概には言えないが)。スピーカーの指向性を知らない。スピーカーからの反響と人声とは溶け込まないと言うことを。そんなことすら理解できないで、知名度の高いご仁らがの賜るのだから混乱するのは当然かもしれない。そんなことを、今回のトラピストでも話ができた。
2016年05月07日
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6日金曜日。昨日は忙しく外回り、渋滞にも巻き込まれ、車移動で疲れました。なぜか4時に起床。4時の夜課(読書課)。レクチオ・ディヴィネ(聖なる読書)をこんな夜中に祈っていると思うと身震いを覚える。聖務日課。以前は人の話しと本で読んだ程度だったが、実際にこの目で見てきただけに、世のため人のために生きている人たちがいることを。一度なら僕にもできるが、これが毎日、一生続けるなんて想像もつかない。自分の出来る範囲で、自分なりに神を賛美し、すこしでも信仰生活に近い生き方が出来ればそれで充分でしょうか。その程度しかできないのですから。詩編歌の勉強をしようと考えているところです。トラピストで聞いた詩編唱はじつに感動を覚えたので。きょう6日は断食の日。正午から翌日正午まで、熊本地震の人たちのために一日を自己譲与。少しでも数分でも数十分でも心を向けたいと思います。
2016年05月06日
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トラピストの「終課」でサルヴェレジナを「聞いた」。「聞いた」とは、何と言う不謹慎、何と言う不信心と不快に思うことでしょう。しかし今の僕は創作第一。サレヴェレジナを祈りの中で歌う段階にあらず、です。ふっと思い出すことがある。ある司祭がこれを「うなってる」と、また他の司祭が「吠える」と表現していた。僕らはこれを「唸り節」「吠え節」と言う。特に各教会の歌が「教会節」とも言う。同じ聖歌ミサ曲でもその教会独自に進化し定着しているからだ。しかし今回、トラピストの「サレヴェレジナ」を聞いていると、一般常識的な音楽を越えた完成度の高い祈りの音楽だということを感じました。これは何年も何十年も何百年もひきづがれてきた伝統なんだと、そう思いました。これはこれで良いのです。これに手を加え、西洋音楽の常識のレールに引き戻すべきではないと。ユダヤ教もイスラム教も元をただすと同じでしょう。イスラムの祈りもサレヴェレジナも核心は同じで、言語の違いがあるだけだと思いました。旧約聖書の時代からの。これは僕にとって大きな発見でした。一つ二つ引っかかる疑問もありましたが、西洋音楽の概念を入れるべきではないと感じました。じつに素晴らしい。世俗の教会ではできない歌い方です。御ミサで歌われたGloria。あの長い「栄光の賛歌」が長く感じないのは、ここに本物の歌が祈りがあると言うことです。我々は毎日曜日にあの長いGloriaをたんたんと調子っぱずれに歌いますが、歌い方と理解力があれば、本来のGloriaが教会に響きわたるのだと思いました。トラピストでの収穫でした。
2016年05月05日
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活動修道会の御聖堂も勿論同じだが、観想修道会には赤いランプが現存している。同じ赤いランプとはいえ、いつも見慣れた世俗の教会の赤ランプとは違うように思える。チマッティ神父の「赤いランプ」を思い出す。俗世界とはかけ離れた祈りの空間、決められた時間に労働と祈りが歴史と並行して存続している。これは奇跡ですね。我々俗人がこの空間にいると、この瞬間を共有しているような錯覚を覚えるだろう。またそれを期待しての訪問だろう。トラピスト訪問は、興味本位、自己満足という言葉以外に、僕には見つからない。トラピストはそんなところではない。少し前までは会話も手話だったと聞くし、切り抜かれた新聞を読み、当然のことテレビは最近一時間ほど一緒に見るようになったと言う。そんな世界とはどんなところかと、我々は訪れるわけだ。訪れる意味はどこにあるのだろうか。そっとしておいた方が良いのではと思いました。観光客が門をくぐり、お土産を買い求め、興味本位の眼差しで見つめ、記念写真を撮り、行ってきましたとブログに載せ、はたしてそれで良いのだろうか。「終課」寝る前の祈りが7時半から、最後にサルヴェレジナがアカペラで歌われる。そして就寝が8時。起きるのはまだ暗いうち。考えられない生活。イエズスのご遺体を見に行った夜明け前とは、現代の時計感覚とは違ったのでしょう。サルヴェレジナはまさに教会節。伝統なんでしょうね、その歌い方は。僕の耳には新鮮でイスラームの祈りを感じた。これは僕にとって大きな収穫であり、持論が証明された感じがした。
2016年05月04日
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シトー会那須トラピスト修道院の訪問は、大げさな言いかたですが悪い物をきれいさっぱり洗い流した、と言うことかもしれません。行きの30日は、朝三時半起床で5時半に自宅を出発。すこし車は混雑を感じましたが、那須インターに9時に着、道の駅でゆっくりして修道院に11時半着。観想修道会のシスターの生活は、時間で動いているのが何となく理解できた。これは大変な所に来た、と言うのが正直な実感。僕の来るところではない、と。シスター達が仕事中の時間帯に御聖堂に入れていただく。これ自体が特別待遇。そんなことも知らない僕です。さっそくオルガンと歌の響きのチェック。チェックするには御聖堂の隅から隅まで音の反射をしらべるわけです。その間、他の修道会のシスターと一緒の見学者が何組も来られる。他のシスターでも御聖堂には入れません。なんという罪深いことをしているのかと我にかえること度々でした。ポジティブオルガンも良好。音の反射、ベスト点を確認。5時の終課の前に30分ワイフの歌を披露させていただけることに突然決まりました。とつぜん現われた現実、40人くらいいらっしたでしょうかトラピストのシスターを見て戸惑う、動揺する、震えと言うか緊張する。「なんだこれ、うそだろう!」と尻込みする現実でした。歌が終わり「終課」が始まる前に、ワイフと僕は一般の席について終課が始まりました。あぁ何と言う罪深いことをしたのか。これが実感でした。作曲家が人生の先(死)を感じたとき宗教曲を書くのがよくよく分かった気がしました。俗曲には限界があると言うことです。オファーがあって書き報酬をもらっての才能の開花(いくら有名になっても)の末に残るものは何か。人間、最後には納得のいく作品を自己譲与と感謝を書くのかもしれません。5月1日の4時から夜課、6時半から賛歌とミサ。これらが毎日。毎時間、毎日、毎年、何百年も続いている。これが信仰なんでしょうね。終課の前の歌は、僕が書いた曲を聞いていただいた。シスター丸山の詩「香油」「マリアさま」と、ライ詩人桜井哲夫の詩「ロザリオ」。詩には彼らの全てが密集しているが、僕の旋律が果たしてふさわしいかどうか、疑問が一瞬よぎった。でも一音たりとも妥協はしていないつもりなので自分なりに胸をはれた。トラピストで音に出来たこと。まさに神を賛美する、それもトラピストのシスターたちの前で音に出来たことは、感謝の一語です。
2016年05月02日
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