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草津のハンセン病国立療養所栗生楽泉園の田名部さんが14時半に帰天。いま訃報が届きました。すぐに準備をしてこれから向かいます。神山復生病院から楽泉園への転園の信者さんです。お知り合いの方にお知らせまで。詳細は僕の携帯まで。「いざ鎌倉」日頃準備をしていて良かったです。じつは三人ほど心配な方がいるので、いつでもすぐに出かけられるように準備だけはしているものですから。田名部さんが終油の秘跡を受けてもう三年になりましょうか。苦しかったでしょう、やっと天国に行けるのですから。
2016年11月28日
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12月6日(火)6時開演、練馬文化センター小ホールで演奏会。ベタニアの家「チャリティー・コンサート」~ベトレヘム学園&ナザレットの家合築新築支援~ いつの頃だったか一枚の写真に強い印象を受けた。写真の構図は、玄関前で10数人のシスターとフロージャック師とのにこやかな写真。こんな信仰に燃える時代があったのだと。聖霊来たり給えと願って一気に書き上げたのが「Omaggio a Nasu Trappist Abbey」 Nr1 Matutinum(夜課)。夜明け前の夜課を音にしたもので、今回初演です。原曲(Voc,Fl,Vn,chi,Pf,Vc.)とは編成が違うので僕にとっては大きな試みです。原曲のギターにかえてハープです。恩師から言われたことハープは使わないように、と。その理由は良く分かっていますが、今回はあえて勉強のために使ってみました。先日の練習の時にこの曲を初めて聞きました。机の上で書いた曲で実際の音になったのが初めてですので。楽譜上は満足してますが、実際の音になると、不安がないと言えば嘘になるでしょうか。まずは満足です。ハープを意図的に鍵盤楽器として使ってみたが、これが正解だったと思っています。ハープの技法ではクエッションだったのでは、亡き先生に怒鳴られるところでしょうが。 数カ月前に観想会に入られる女性と同宿したことがある。信仰にあふれる笑顔。今でもそうなんでしょうがシスターブラザーになられる人たちの笑顔と言うか。少なくとも僕のようなエセ信者にはない信仰と笑顔でした。
2016年11月28日
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12月6日(火)6時開演、練馬文化センター小ホールで演奏会。ベタニアの家「チャリティー・コンサート」~ベトレヘム学園&ナザレットの家合築新築支援~ 第一部の朗読と音楽「私の生きた恵みの分かち合い」は、多くの人に聞いて頂きたいと個人的に願っています。主の生誕を祝う演奏会にふさわしいとも。 この作品をどこかで上演してくれる人や団体それに演奏者がいると良いのですが、現実は厳しいですが。 ヘイトクライム(憎悪犯罪)と言う言葉を最近よく耳にします。衝撃的な事件として神奈川での事件は今も心に残ります。障害者無用論。問答無用と、戦後最大の事件と騒がれましたが、戦後最大と言えばハンセン病を忘れてはいけないはず。この「朗読と音楽」は、ぜひぜひ皆さんに聞いてもらいたい。ライ病の両親から生まれた子の軌跡を、耳を澄ませて聞いてもらいたい、そう思っています。これはクリスマス・プレゼントだと思います。 「子どもが欲しい、子供を産みたい」という当たり前のことがハンセン病者には許されなかった。療養所内での結婚は、子孫を残さないため、ライ病は「一等国」にはあってはならない病気。したがってライ病患者を死滅させるために出産は許されなかった。そんな時代がつい最近まであったという驚き。それも国の政策で、また国民の総意だった。あるライ夫婦は子供産みたさに、産める可能性にかけて青森の療養所を脱走し、新しくできた東北新生園にたどり着く。電車を乗り継ぎ、身重の妻をかかえてある時は徒歩で、怪しげな風体の夫婦を好奇の目にさらしたであろう。当時は、不審者はサーベルをさげた警官に通報された時代。ライ者の脱走は大変な事件でもあるのだから。そうして奇跡的に生まれた子は、すぐに親元から離され、ヤギの乳で育てられた。妻は出産の重荷から病気が騒ぎ(重くなり)、まもなく失明する。この子は25才の転機を迎える。“25才までにライが発病しなければ健常者”と医者から言われていた。25才まではライの発病におびえる日々が続くということだ。そして25才の検診で健常者とされ、あすへの進路にシスターの道を選択した。そして今75才になられた。
2016年11月26日
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12月6日(火)6時開演、練馬文化センター小ホールで演奏会。ベタニアの家チャリティー・コンサート~ベトレヘム学園&ナザレットの家合築新築支援~ パリミッション会宣教師ヨゼフ・フロジャク神父は、1886(m19)年フランスに生まれる。1909(m42)年9月、司祭に叙階(23才)、日本に宣教師として派遣され、同年12月28日、横浜に上陸。来日後、宇都宮教会で日本語と日本事情を学び、水戸に赴任。1913(t2)年、関口教会の主任司祭。31才。 1927(s2)年7月19日、41才、一人の入院患者を見舞うため、中野区江古田にあった東京市立結核療養所を訪問から、その後30余年、結核病者訪問が始まる。当時死の病といわれ、強い感染力をもつ結核患者の顔に顔を寄せ、“具合はどうだね?”と一人ひとり見舞ったと言われる。1929(s04)年のある日、ひとりの患者が退所命令を受け行き場のないことを聞く。当時の結核患者は、完治の是非にかかわらず一年で治療所を退所させられていた。退所後の社会復帰がかなわぬ患者の中には、自らの命を絶つ悲劇が現実だった。退所しても家族はひきとらず、仕事にも就けません。 1929(s4)年9月、ハンセン病と同様に社会的問題の根が深い中、一軒の家(東京府豊多摩郡野方町丸山)が借り入れられ、そこに数名の行き場のない患者が収容され、ベタニアの事業の第一歩となった。1929年(昭和4年)丸山の借家でベタニアの事業への第一歩を踏み始めた日から、神父の長い苦難の生活が始まりました。計画はあっても無一文です。退所を余儀なくされる患者は増える一方でした。神父は資金集めに奔走します。 翌年、木造2階建てのホームを造り、これを「ベタニアの家」と名付ける。「ベタニア」は、キリストの愛されたパレスチナの地名で、「主の憐れみ」を意味する。 1931(s6)年、奉仕に生きようとする若い女性たちによって「ロゼッタ姉妹会」が生まれ、取り壊す寸前の家を借りて仮の修道院とし、労働と祈りを重症の結核患者を奉仕。1937(s12)年6月4日聖心の祝日、ローマの布教聖省の認可に基づき、東京教区長シャンボン大司教より教区立の修道会として正式に認可され、修道会名は「ベタニア姉妹会」、その後、「ベタニア修道女会」と改称され現在に至る。 いつの頃なのか玄関前に10数人のシスターとフロージャック師の一枚の写真がある。とても強い印象を目にした。こんな信仰に燃える時代があったのだと、イメージして一気に書き上げたのが「Omaggio a Nasu Trappist Abbey」 Nr1 Matutinum(夜課)で夜明け前の時間を音にしたもので、今回初演します。
2016年11月25日
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那須トラピスト修道院で録音させていただいた時、その時に書いたのが「Omaggio a Nasu Trappist Abbey」(夜課,賛課,三時課,六時課,九時課,晩課,終課の六曲)。どれも思いがつまっている。今回はその中から「Matutinum」(夜課)を初演する。原曲は、Ob,Vn,Voca,Pf,chi,Vc.だが、今回のためにFl,Vn,Voca,Arp,Pf,Vc.に編作した。 Matutinum (夜課)Aperi,Domine,os meum 「主よ、我が口を開きて」主よ、我が口を開きて、主の聖名を祝せしめ給え。我が心をも、諸々の空しき、悪しき、又関係なき思いより清め給え。我、ふさわしく、かつ注意して熱心にこの日課を唱え、主のとうとき御稜威の前に聞き入れられるにたる者とならんがために、願わくは、我が智慧を照らし心を燃やし給え。我らの主キリストによりて。アーメン。 Aperi,Domine,*os meum ad benedicendum nomen sanctum tuum;munda quoque cor meum ab omnibus vanis,perversis et alienis cogitationibus;intellectum illumine,affectum inflamma,ut digne,attente ac devote hoc Officium recitare valeam,et exaudiri merear ante conspectum divinae Majestatis tuae.Per Christum Dominum nostrum.Amen 声楽はラテン語ではなくヴォカリーゼで歌われる。これは僕にとって大きな試みです。
2016年11月24日
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この演奏会は「ベタニア修道女会のベトレヘム学園&ナザレットの家合築新設支援」のチャリティーです。家族のぬくもりのない子供幼子たちのなんと多いこと。この目で見ると辛いものがあります。その子供たちにより良い環境をと新しく建てられます。演奏会の収益は微々たるものですが、こうして広く多くの人に知ってもらうことが大切なことだと思います。“演奏会には行けないがチケットだけ買わせて”そんな気持ちに接すると熱いものを感じます。
2016年11月23日
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12月6日(火)6時開演、練馬文化センター小ホールで演奏会。ベタニアの家チャリティー・コンサート~ベトレヘム学園&ナザレットの家合築新築支援~
2016年11月22日
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僕の生活サイクルは?と先日聞かれて返答に困った。いま大事なことをすべきは当然ながら、ふと思い立つと、いまなすべきことが後回しになる。その繰り返しで後手後手となり、どれもこれもがアタフタ処理となります。これが僕の人生。人に信用されない人生です。やっちゃいけない常識が非常識となるわけです。すべてが後手後手。信用という言葉は僕にはないでしょう。 最近世間でよく聞かれる言葉に「中心気質」があります。良くも悪くも、僕はそれにあてはまります。 朝おきて、手巻き時計のネジを巻き、朝の祈りがあって、コーヒー豆をミルして一杯のコーヒーとパイプの煙。きょうなすべきことを手帳を見てゴーサイン!と思いきや、気になるメロディーが浮かぶといけません!やるべきことはそっちのけになります。専門のレッスン生はその都度お断り。旋律の神様?は気まぐれです。いくら僕がおいでを願っても気まぐれです。ある日突然においでになる。おいでになったら、このチャンスを逃すといつ来るか分からない。いつも身近に五線紙があるが、ときおり外出中に五線紙がないと悲惨。紙に五線を書いてオタマジャクシを書くわけです。ドライブのときはコンビニや路肩駐車をして書くことになります。 この年末は音楽で多忙ながら、創作は待ってはくれません。昨夜は、夢の中で旋律の神様?に起こされ、夜中の二時から朝方まで書いて、小鳥たちの鳴き声を聞きながら二時間ほど就寝。それから12月の演奏会チケットの行商(チケット売り)に夕方まで。移動の車中で書きまくり、いま清書を終えたところです。書き終えた作品をこうして読んでいると、どうも早合点で駄作と判断し筆を折りました。陶芸家が何日もかけて窯を燃やし、窯をあけて陶器を見て良し悪しを判断するのと同じですね。今回は室内楽のソナタだったが、陶芸家が悪い陶器を惜しみなく投げ割るように止めにしました。少し手直しすれば完成するが、それは僕にはできないといさぎよく捨てました。今回は19時間の格闘に終止符を今終えたところです。ご苦労様と葉巻と一杯のコーヒーをすすって、いま自分をねぎらっているところです。
2016年11月20日
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不忍池を眼下に小さな音楽会が昨夜終わりました。午前中は12月の演奏会の会場打ち合わせ。午後からチケット行商に数件訪問して夕方から上野の会場。帰宅は11時過ぎになりました。打ち合わせ会場は600席。思うような会場にコーディネートできそうで嬉しいです。 聖劇の勉強会は、日程が一部変更ですから。ドクレ(ハ音記号)はト音記号に直して送ります。「不忍池」は「しのばずのいけ」「忍ばず」で「不忍」。何があったのでしょうか?何か興味津々な物語を期待します。これだから田舎者と言われるのです。
2016年11月19日
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ハンセン病をテーマに書いた「朗読と音楽」の台本を読み返し、ブログで10回に分けて載せてみました。このブログから沢山の方と話ができたことは大きな収穫であり励みになります。草津の療養所内にある「重監房跡地」を示す案内板に個人的に不快感を感じたので。案内板に描かれた「ご当地キャラ」?のような絵は、重監房で亡くなり、また精神的に冒されて解放された人びとを茶化しているようで、僕的には不謹慎と感じたから、ブログに載せました。関係者でこのブログを見ている人もいると聞きます。見ても何の変化もないし、口をつぐんでいると言うことで、何もできない。このブログを載せるために台本を読み直すと、僕自身が精神的にまいるのを感じています。これ以上は載せるのをやめにします。ハンセン病を題材に書いた「朗読と音楽」の台本は10数冊になります。その内、初演できたのは、たった3つだけです。できる限り公演したいと思っています。
2016年11月17日
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朗読と音楽「重監房」より 歴史に「もしも」と言う言葉はないが、この場合は「もしも」があっても良いと思う。 明治40年、1907年、日本で初めて「癩予防に関する件」が帝国議会で審議されたとき、“そんなに伝染するのか”と、質問する議員に対して、“そんなに伝染はしないが、伝染すると言うことを理由にして取り締まるのだ”と政府要員が答えてる。 さほど伝染力も無いにもかかわらず、それを理由に浮浪ライ者、つまり家も職もないライ者を取り締まると言うことで、最初のライ予防法は成立したのであった。 平成8年、1996年、国は初めてそのことの非を認め、長い間迷惑をかけたと詫びて、ライ予防法を撤廃するまで、この精神がずっと貫かれて来たのである。 もしも、この法律さえなかったら。 もしも、一歩踏み込んで“うつる病気ではない”と言ってくれたら。 もしも、医療関係者が勇気をもって言ってくれたら。 もしも、国が改めてくれたなら。 と考えることに、無理があるだろうか。 “mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa” 「過ちなり、過ちなり、我がいと大いなる過ちなり」と、いくら言葉で過ちだったと言おうとも、89年は長すぎる。これで全てが解決したわけではない。 そして第二のハンセン病が、第三のハンセン病が出ないよう、同じ過ちを犯さないように、人は正しい目を持ちたいものです。~~~~~~~「重監房跡地」とはこんな所だった。怖さ見たさでと遠路はるばる訪問し納得し、差別は良くない偏見は良くないと一瞬善人になるだけではなく、じっくり考えてもらいたいと思います。昼間に重監房跡地を訪れる人が極僅かだろうかいるようだ。いまは厳寒の時期。夜は底冷えする。こんな所に暖房も明かりも人の気配もなく法的犯罪者でもないのに収監。僕と友人は、この寒い夜中の重監房跡地に線香とタバコをもって訪れる。昼間とは全く違う。夜空に星がきらめき底冷えし、イノシシに遭遇するときもある。だからクマ除けの鈴を鳴らしながらの恐怖の訪問となる。夜中の訪問をしないと重監房の恐ろしさは分からない。ここまでしてもなにも理解できない自分らがいる。 こんな場所を示す標識パネルに「ご当地キャラのマーク」はどんなものだろうか。そう思います。きっと重監房跡地の地下から叫んでいるように感じる。標識パネルのご当地キャラに強い抵抗を感じるのは、重監房と言うところで何があったのか、少しでもそれを知ると、あんなふざけたキャラを書けるものではない。僕が言いたいことを少しでも理解してくださると幸いです。
2016年11月16日
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朗読と音楽「重監房」より ハンセン病療養所にとって、問題を起こす患者をどう対処したか。 多磨全生園の「山井道太事件」で語りつくせると言っても過言ではない。 山井道太は多磨全生園の洗濯場の主任であった。洗濯作業は、年中、足場に水が流れる作業である。そのため水の漏らない長靴を履いていないと仕事にならない。ところが作業員のほとんどは、破れた長靴を履いていた。そこで、新しい長靴を支給して欲しいと施設へ掛け合いに行った。昭和16年、1941年5月末のことであった。 いよいよ物資不足になり始めた頃であった。施設側は、長靴はないと言った。ところが倉庫にいっぱいしまってあるのを、作業員の一人が見てしまった。そこで“あるではないか、長靴を出してくれるまで仕事はしない”と言ってストライキをしたのである。 その数日後の朝、山井は寝込みを襲われ、手錠をかけられ、自動車に押し込められた。その車を“うちの人を連れて行くなら私も連れて行け”と行き先がどんなところかも知らない妻が追いかけたところ、ご希望ならどうぞとばかり、何の罪もない妻女まで乗せて、草津送りにされたのである。 その1ヶ月後の7月、多磨全生園の患者の大工数人が、楽泉園に派遣された。山井夫婦のことを知り、分館長の加島正利のところへ“出してやってくれ”と日参し、7月18日になって、ようやく山井は出されたが、すでに廃人になっていて、まもなく9月1日に死んでしまうのである。同時に出された妻女は“多磨全生園のみんなが、もっと庇ってくれれば、こんなことにならなかった”と言い残し、邑久光明園に転園したのだった。~~~~~~~重監房跡地は、専門家の発掘作業で掘り起こされた。便所の中から最低生活品の一部が見つかったと言う。便所に溜まった水のおかげか腐らず残ったと言う、なぜ便所に?推測だがこの重監房はきゅうきょ取り壊される際に証拠になるものを朝知恵か便所に放り込んだのだろう。それが遺品として残されたと言うことだろう。建物の土台だけでも永久保存すべきと僕は思っていたが「予算の都合」で再び元に戻された。そして自然消滅するのを待つのみ。国にとって恥の部分は跡形もなく消滅させるのが得策なのだろうと言う。いま、この重監房跡地を訪れる人はほとんどいないのだろうが整備され、あたかも観光地の展望のようだ。標識案内図を見ると「展望台」と明記してある。展望台と言う言葉は不快感と憤りを感じる。山の絶景の展望台じゃあるまいし、下界にひろがる絶景を見下ろすかのように重監房跡地をながめるのはいかがなものだろうか。この無神経さが理解できない。自動販売機でも置いて缶コーヒーでも飲みながら絶景かな絶景かな・・・僕は月に二回訪問するが、そのつどお線香とタバコをささげる。訪問した形跡は食まれ。あの重監房跡地の地下には、餓死発狂した罪のない人たちの霊魂が眠っていると信じます。
2016年11月15日
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朗読と音楽「重監房」より 中で死んだ人を運び出す話が、またすごい。 死ぬのは主に冬であるから、死体は凍り付いている。布団ごと運び出さなければならない場合が多かった。その敷布団が、がっちり床に凍り付いているから、バールで引き剥がすんだ。 “この中で死んでいるはずだが”と言われて覗いて見るが、布団の中にそれらしい死体がない。周囲にもない。かわるがわる、恐る恐る覗いてみるうち、あれではないかと言う物を見つけ、よく見ると、片隅に薄ぼんやりと白い塊がある。そこで縦横90センチの扉を開け、勇気を出して中に入り、よくよく見るとそれが死体だった。うずくまったまま息絶えていた。びっしり霜をまとっていたと言うのである。まさに冷凍庫の寒さ、凍え死にである。 「もの食わぬ 囚人死んだか 息あるか 棒を差し入れ 小突きみし話」 「獄死せる 18人の怨み今に こもりておりて落ちる山蛭」 (ヤマヒル) 収監者の多い時は、ひと房に2人を収容し、同室者が死亡したことを隠し、2人分の食事を食っていた例もあった。 このような生き地獄で、22人と言われる獄死者を出したのである。~~~~~~~布団が床に凍り付いているとは、バールで布団をひきはがすとはどんな精神状態なのだろうか。少なくとも刑務所ですらあり得ない事が戦後しばらくハンセン病療養所内で行われていた事実。それも、裁判で刑が確定したわけでもない。オイお前入るか、少し頭を冷やしてこい的レヴェルで行なわれていたと言う事実。これらを目撃した人たちは90を過ぎる。このまま口をつぐんで終わりになれば、ハンセン病はハッピーエンドになってしまう。とは言え、目撃した人たちの口は重い。この90を過ぎる目撃者らを僕は知っている。少しでも当時のことを記録しようと考えている。
2016年11月14日
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朗読と音楽「重監房」より 当時、この病気に罹ったが最後、生きる意味はない、と言うのが社会通念であり常識だった。 この常識は非常に根深いもので、そのいい例として、戦後28年もたった昭和48年、1973年の「新日本歌人誌」にこうある。「世間には生きる甲斐のないライに罹って、なお生きている人もあるのだから」という文言の入った論文が載ったのである。 「新日本歌人」といえば、民主的な歌人が多く入会していることで知られる。しかも執筆者は、戦前からプロレタリア短歌運動をやってきた人なのである。そのような人が戦後28年も経った1973年になってなお、こんなことを書けばライ患者を傷つけはしないかと、いささかも考慮することなく書いてしまうのである。 「ライを病めば、もはや生きる甲斐はない」と言う考えが如何に深く、日本人に浸透していた常識であったかを知る証拠であろう。 “もはや生きている必要がない人たちなのだ。それを養ってやっているのだ。にもかかわらず、日ごろ有り難いとも思わず、身の程をわきまえず、常に不満を内に宿し、職員の言うことを聞かず刃向ったりする。その不届きさかげんは、少しばかり懲らしめただけでは足りない”そこで特別病室に入れて懲らしめるのである。 「ライ故に この惨めさよと 落書きあり まさしくライなる 故の悔(ク)いり」 「優秀なる 日本を世界に 広めるが 侵略思想にて ライは国辱」 1944年頃、航空隊佐官将校が療養所を慰問し、患者に時局の講演をした。それに対して患者代表が“こんな大事な時に病気をしていて申し訳ない、我々は早く死んだ方が国に奉公というものだ”と言う意味のお礼の言葉を述べた。これをその将校はまともにとり“爆弾を落として皆殺しにしてやる、その時は事前に連絡してやるから職員は避難していろ”と言ったという記録が残っているという。 「生きる無駄は ライ者自らが 知るところ 殺しやるは情けと 言いし将校あり」 ~~~~~~~障害者は、障碍者、障がい者と名を変え、ハンセン病も、らい病、ハンセン氏病、氏をとってハンセン病、いまでは重い皮膚病と聖書でさえ変えている。ハンセン病患者は、元患者から回復者・快復者と。しかし名前を変えようが病名は変えられないと思うのだが。病名を変えないとならない心情をお考えると辛くなる。世間の冷たさが。国立ハンセン病療養所にはハンセン病を完治した元患者がそのまま入所している。完治すれば療養所を出なければならないのだが、この病気はそう簡単ではない。国立ハンセン病療養所と言うが、入所者さんは完治している人ばかりだから国立ハンセン病回復者施設・センターと施設名を変えないといけないのでは?素朴な疑問を聞き目からウロコです。
2016年11月13日
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朗読と音楽「重監房」より 群馬県草津の冬は零下18度という極寒の地。特別病室があったのは、栗生楽泉園の正門から西に入る道を80mほど行った行き止まりにあった。 建坪33坪の二棟。治療室と看守控室、独房が8房。ひと房の広さは便所を含めて約4畳半。高いところに明り取りの窓が一ヶ所ある。その寸法は縦13cm、横75cm。それと、食事の差し出し口が足元にあり、汁椀がやっと出し入れできる程度だった。 建物の周囲には高さ約4mの鉄筋コンクリートの塀が巡らされ、収監される独房もひと房ひと房、同じ高さの塀で仕切られていた。通路はひと房ごとに90cm四方の扉を、体をかがめて通るようになっている。最初の扉をくぐってから一番近くの房へ行くまでに、4つの扉をくぐらねばならなかった。 電気の配線はされていたが電球はなく、収監者には袷着(アワセギ)1枚と布団2枚が与えられただけで、暖房はない。 明り取りの窓は高くて小さく、何重にも高い塀で閉ざされているから、曇った日には、昼夜の区別さえつかなかったと言う。冬は吐く息が氷柱となって布団の襟にさがり、房内は霜がびっしりと降りた。 収監者には減食の刑も課せられていた。食事は日に2回。朝食は麦の握り飯1個に汁だけで、汁の実はなかった。昼は汁がなくお湯だけ、飯は朝の5割増し。夕食はない。おかずは朝昼ともに梅干し1個か沢庵だった。 この食事運びは患者の仕事だった。 ここに入れられてしまえば、日に2度、食事運びの患者が来るだけである。あとは、新たに収監者があった場合か、死者が出た場合だけだ。 食事を差し入れる患者は、最初のうちは恐怖にかられ、一刻も早く仕事を済ませてそこを立ち去りたい一心から、収監者と言葉を交わすゆとりなどなかったと言う。長く続けて慣れてくると、“俺は無実だから分館に行って早く出してくれるように頼んでくれ”などと言われた人もいたようだが、あまり手間取ると守衛に“遅かったじゃないか”と言われるので、ほんの二言三言言葉を交わすのが関の山だったと言う。~~~~~~~ここ草津の療養所のすみっこに「重監房資料館」が何億円もかけて作られた。ここ草津の療養所の入所者さんの多くは、この資料館を見た人が少ないという。むしろ無関心を装って行かないのか、プロテストなのかもしれない。建設当初には、この重監房の一室を当時を再現して氷点下何十度を体感するとあったが、正確な理由はともかく、子供が怪我をしてはいけないと言うことで止めにしたと聞く。冷凍庫の360日のフル回転では経費がかさむが納得のいく理由ではないのか。バスで来られる関係団体さんか、みなさん神妙な面持ちで帰られる。このままの気持ちで帰るには厳しいから、せっかく来たのだから草津温泉に入り、いい気分で帰路につくスケジュールになるのかな。これでは意味がないですね。看板には「居住区には入らぬように」とある。それでも最近見かけるのは、居住区内をグループになって散策する光景を見かける。壮健(健常者)さんが来ると、急ぎ家に入ってしまう。そりゃ嫌だよね。ジロジロ見られるようで。今までもさんざんそうされてきたのだから。これ自体がまさに差別だよね。そんなことを何度も何十度も体験すると、いい加減にしてほしい、そっとしておいて欲しいと、大声で言いたくなります。
2016年11月12日
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朗読と音楽「重監房」より 明治政府は、明治40年、1907年、“ハンセン病は非常に醜い。そして、その醜い姿で巷を徘徊する。これをそのまま放置しておいては一等国の名に恥じる”と言うことで、収容所を作って「ライ患者刈り」に乗り出した。 その根拠は、この病気は伝染する、この病気は治らないと言うところにあった。治療の道がないのだから、収容所を作って患者を収容して、外出を禁止して、病気の感染源である患者が死に絶えるのを待って、この国からこの病気を根絶しようと考えた。これが「ライ患者隔離撲滅政策」である。 こうして「ライ予防に関する件」が公布されたのである。この法律は患者の救護を大義名分に、療養の道のない患者、扶養する人のいない患者、つまり行くあてのない浮浪ライ者を収容することにあった。 だが、大正末から昭和にかけて、その法的解釈を意図的に変え、患者と名のつく者は全て収容する方針へと変わったのである。こうして昭和6年、1931年、名前も「ライ予防法」と改め、救護を目的としていたものが予防を目的、つまり患者なら全て収容する旨を公布したのであった。 これによって、家庭内に匿われていた患者も強制収容されることとなった。強制収容数が多くなることを予想して、一段と強い園内秩序策を講じなければならない。そこで、園長の「懲戒権」が絶対的なものとなり、園長の要請で患者弾圧機関の設置が、昭和13年、1938年、栗生楽泉園に特別病室と言う名の重監房が作られたのである。~~~~~~~ “ハンセン病は非常に醜い。その醜い姿で巷を徘徊する。これをそのまま放置しておいては一等国の名に恥じる” 「醜い姿で徘徊。一等国の名に恥じる。」そう当時は考えていたんですね。よく考えてみると、今も何ら変わっちゃいないのでは。神奈川のやまゆり園の事件はつい最近のこと。まったく反省がない。一番大切な心。この心が病んでいる現代社会でヘイトクライムが横行するし、それを黙認する人が増えるのは恐ろしいことです。 津久井やまゆり園の悲惨な事件を戦後最悪と言うが、それ以上にハンセン病療養所では横行していたことを知らない。 あの標識パネルに描かれたキャラを書く人も見る人も同罪だと僕は感じています。だれも、あの標識パネルを撤去しなさいとは言わない。気聞いたことがない。無関心なんですよね。 今度の草津訪問のときに僕だけでも言おうと思っています。
2016年11月10日
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朗読と音楽「重監房」より “風呂に入れられているのを見たかよぅ。痩せるだけ痩せて、ヒョロヒョロで、湯船につかまってても浮いてくるんだ。だから世話係が棒で押さえるんだ。出てくる時は、亡霊のようにフワリフワリ出てくる。地べたに敷いたムシロの上に座らされて、頭を刈ってもらってる。へたばって動けないのに、担架に乗せて入れちゃうんだからなぁ。ああまでしなくたっていいだろぅなぁ” “どんな悪党が入れられているかと言えば、たいした事はないんだぜ。逃走常習なんてぇのはそんなに悪いことか? おとなしくしてない者への見せしめじゃぁないか。職員反抗だってそうだ。たいした事はない。園内騒動だってそうだ。たいした事はねぇのに、奴らが勝手に悪いと決めつけてやってる。そんなのが罪かよ” “この療養所は療養所なんてもんじゃない。患者が患者の看護から始まって、ありとあらゆる作業は、患者が働かないと一日も成り立たない。その上、炭背負い、薪あげ、工事作業、温泉修理と毎日毎日奉仕作業に追い回され、座る暇もないくらいだ。これじゃ良くなる病気だって悪くなる。不治の病と言われてはいても、療養所へ行けば、少しは治療の道もあるかと期待をかけていたところもあるが、全くの当て外れと言うもんだ” ~~~~~~~ 「怖いもの見たさで」この場を何度も見たと言う人がいる。その光景は、その残酷さ、人間の誰にでも潜在する「ヘイトクライム」を見ることができる。ここではとても書けない。 人間という生きものは、普通の人間が、これほどまでに冷静沈着にできるものかと。そして弱き者の心情を伝えなければ、と思います。 現場を恐る恐る覗き見た人も90を越えてます。話すと一夜眠られなくなるとか。当然でしょう。でも語り継いでもらいたい、とも話していました。
2016年11月09日
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朗読と音楽「重監房」より 療養所園長に与えられた「懲戒検束権」に、「監禁は一ヶ月を越えてはならない」と言いう決まりがある。決まり通り一ヶ月ごとに入浴と称して連れ出すのだ。と言うことは、死ぬまでここに入れておく意図があったと解釈できるだろう。 私が楽泉園に来て間もないころ、この特別病室に入れられた人が月に一度の入浴の後、分館の窓の下にムシロを敷いて座らされ、散髪をしてもらっている所を目撃したことがある。その人たちのあまりの異様さに思わず後ずさりし、しばし凝視したことを覚えている。 髪の毛の黒さは普通なのに、肌の色だけが只々白く、透き通る程の白さだった。 あるとき、それらの人を再び特別病室へ連れて行く列に出会ったことがあった。しかも、そのうちの一人は担架に乗せられていた。後で聞いたところによると、その人は入浴後へたり込んでしまい、看護婦が注射を打ったがまだ歩けない。そこで担架に乗せて運んだとのことだった。 こうした光景は誰もがよく目撃した。そして見た人は、あの人たちは一体何をしたと言うのか、故郷恋しさ、肉親恋しさから無断帰省しただけ。職員の命令に従わなかったから不隠分子にされた。賭博をしただけ。そんな程度ではないか。だとすれば、この患者隔離撲滅政策の下ではありがちな話で、自分もいつ、あのような目にあわされるか、分かった物ではないと、恐怖の目で見ていたのである。
2016年11月08日
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朗読と音楽「特別病室・重監房」より ●●も、特別病室で干し殺しにあってしまった。長く食事運びをしていた人の話によると、●●は1945年、敗戦の年の夏ごろからひどく錯乱し、房内にあるはずもない電話をかけ、声高でしゃべったり、笑ったり、泣いたりしていたとのことだ。無理もない。あのような孤独地獄、闇地獄の中でまともな神経でいられるはずはない。錯乱はむしろ救いであっただろう。 彼は若かったから、ひと冬越せるはずがないと言われた特別病室で、1944年10月から46年、敗戦の翌年の1月まで生き続けたのだった。444日間、厳寒のひと冬を越し、2度目の冬を半ばまでしのいだことになる。 家族も知人も何故見捨てたのか? それは言うまでもなく、この病気の者が一家の中から出たことが世間に知れると、生活が出来なくなるからだ。 それほど、この病気に対する社会の差別偏見は強かったのだ。 ●●は、後ろ髪は肩まで伸び、前髪は目に届くほどだったと言う。体はひどくやせこけ、4貫目(15キロ)あるかないかで、手足の爪はひどく伸び、人間と言うよりはネコ科の動物の死骸のようだったと言う。なんとも哀れである。18才5ヶ月の尊い命であった。 「我も知る ●●は 痩せ縮み 爪伸び伝説の 鵺のごとかり」~~~~~~~ 世間体には特別病室、実態は重監房。刑務所と比較にならない、法の目の届かない過酷な個人的な虐待監房だった。 「草津に行くか?」と言われれば誰も逆らわない、全国に知られた病室だった。 このような過ちの跡地を案内するのに「ご当地キャラ」はいかがなものだろうか、と僕は思う。 バスをチャーターして、遠くからだろうか車で重監房資料館を訪れる。再現された監房とビデオをみて神妙な面持ちで皆さん帰路につく。当然だろうか、実際の重監房跡地はあまり知られていない。 ハンセン病の悲惨さを他人事のように。ハンセン病を理解したと勘違いして帰ってゆくのだろうね。なぜ、いま一歩踏み込まないのだろうか。 いまいるハンセン病回復者と膝を交えようとはしないのだろうか。 標識パネルにご当地キャラ?はどうかと思いますが。この神経が分からない。
2016年11月05日
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この「重監房跡地」で沢山の人が罪なき人が犯罪者として入れられていた。餓死し発狂し暖房も電灯もない監房に入れられ犬の餓死体のような人もいたという。そんな標識にご当地キャラみたいなマークは不謹慎と感じるのは僕だけだろうか。ふざけた話です。
2016年11月03日
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栗生楽泉園にもジワジワと何かが押し寄せてくる予感がする。ここ数か月前からか目につきだしたこと。小さな「看板」。遊歩道の道しるべ。ハンセン病栗生楽泉園の一角には「重監房資料館」がある。テレビで時折り目にする資料館で、報道のすごさか、今ではバスで訪れるのには驚かない。この資料館を訪問するには、楽泉園の正門から入るのではなく、療養所と町有地の境界線でもある町道?を通って訪問する。そして同じ道で帰るわけだ。けっして療養所の中には入らないことになっている。入所者さんの居住区に入ることは禁じられているわけだが、その療養所の中に、散歩道をしめすような「道しるべ」がいたるところに立っている。驚きです。一般人が入っちゃいけないところに「道しるべ」とはなんと不思議なことか。この不思議をどう解釈すべきか。ここに住む住人のハンセン病元患者さんのためでは決してない。「重監房は→」「小林公園は→」などなど・・・ 「遊歩道 重監房跡地 マーク →」この看板に人の心をかきむしるかのような、群馬県のご当地ぬいぐるみ人形のマークがご丁寧に描かれているのだ重監房跡地とは、犯罪を犯したわけでもなく入れられ、中には餓死発狂した悲惨の跡地。それを示す「道しるべ」に、ご当地マスコットの可愛い「お馬ちゃん」の絵はないだろう! その話を入所者さんに話しをすると、この目で見たいということになり、車で療養所内を走った。どう感じたのだろうか。書かなくても分かる話し。人の心を逆なでするようなことをよくもするものか、と。さすが国立、としか言いようがない。
2016年11月02日
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