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2010年8月29日 聖霊降臨節第15主日聖書 ホセア11:1~9/コリント一12:27~13:13/マルコ12:28~34説教 「キリスト教の唯一の掟」 石田聖実キリスト教は「愛」の宗教であると言われます。 私の父の母教会であり、私が高校~大学にかけて約5年下宿していた聖都教会の星野栄一牧師は自らの神学を「アガペエ神学」と名付けていました。そこによく招かれていた北森嘉蔵博士も、「『神の痛みの神学』は正しくは『神の痛みに基礎づけられし愛の神学』である」と言われました。 しばしば、旧約の神は厳しい父、裁きの神のイメージで受け取られています。しかし決してそうではありません。それはホセア書にもよく表れています。エジプトから導き出したのに、カナンの地ではバアルに犠牲を捧げて礼拝するようになってしまう。その結果アッシリアに征服されてしまいます。自業自得、イスラエルを導かれる神から離れてしまった結果なのです。それにもかかわらず神は「お前を見捨てることができようか」とおっしゃる。「わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」9節の「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」は、そのような愛から出た激しい葛藤・苦しみを通して発せられた御言葉であって、決して安易に「チャラにしよう」というものではありません。 キリスト教は「愛」の宗教であるということのまず第一は、「神は愛である」(ヨハネ一4:8)ということです。この神さまの「胸を焼かれる」ほどの愛は、ご自身の独り子なる神をイエス・キリストとしてこの世にお遣わしになり、すべての人の罪を一身に引き受けて死刑を受けるという仕方で、具体化されました。(ヨハネ一3:16) キリスト教が「愛」の宗教であることの第二は神を愛する宗教だということです。神が人を愛してくださる事への応答です。これは子どもが親を愛するような愛と言ってもいいかもしれません。親が子を愛する場合、「慈しむ」という表現があります。神が人を愛する場合にも「慈しむ」が使われます。しかし、子が親を慈しむのは不自然で、むしろ信頼して従うというのが、子の親への態度ではないでしょうか。神さまと人間との関係ではこれを「信仰」という言葉で表現します。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」とイエスさまはおっしゃいました。 キリスト教が「愛」の宗教であることの第三は人を愛する宗教だということです。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」イエスさまは「第一の掟、第二の掟」と言われましたが、私はこの二つは一つの事柄の両面と理解しています。すなわち、「神への愛は人への愛において具体化される」のです。ヤコブは「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」(2:14)、ヨハネも「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(3:18)と言います。すなわち、互いに愛し合うことはキリスト教の唯一の掟です。 パウロはこれを律法と捉えずに、賜物と捉えました。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」それらは賜物に応じた役割です。すべての人がそれらの賜物を持つわけではありません。しかし、すべての人が持つよう求めるべき賜物があります。それが「愛」です。そして愛は完全なもの「信仰・希望・愛」のうち最も重要なものだと言われます。「キリスト者の完全」はまさにこの「愛」に満たされること、またそのことを願いつつ生きることに他なりません。
August 29, 2010
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なぜ群衆にたとえで話すのか?弟子たちは天国の秘密(奥義)を知ることが許されているが、群衆には許されていない。彼らを見ればイザヤ書6:9~10の成就を見ることができる。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、 見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍り、 耳は遠くなり、 目は閉じてしまった。 こうして、彼らは目で見ることなく、 耳で聞くことなく、 心で理解せず、悔い改めない。 わたしは彼らをいやさない。』 前の章では、イエスの力ある業を悪霊の頭ベルゼブルの力によるものだと悪意をもって言ったファリサイ派の人々とのやりとりがあった。彼らはイエスが手の動かない者の手を動くようにし、目が見えず口もきけない人の目と口を開くのを目のあたりにしても、イエスを受け入れることを拒んだ。 だからたとえで話す。それではたとえで話せばよくわかり、イエスの業を受け入れるようになるのかというと、それもまた困難である。教会でも「例話で話して下さい」と言われることがある。例話はわかりやすい。特にヒューマンドラマに仕立ててあると感動して「イエス様の愛はすばらしい」と喜んでもらえることもある。ところが感動的なヒューマンドラマにしたとたんに、神のドラマが欠落したりするのだ。 基本的に神の言葉を人の言葉で語るということは、神のものを人間レベルのものに置き換える作業であって、それを理解しようとする時には常に(我々には理解しきることのできない)神のレベルのことだと想像しなくてはならない。ところがよくできたヒューマンドラマはそのことを忘れさせてしまう。 弟子たちがイエスと共にいること、共に生活していること、それ自体が神の国の現れであって、前の時代の預言者たちが望んでも得られないものだった。12節の「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」は25:29「タラントン」のたとえでも使われている。 18節以下はたとえのイエス自身による解説である。しかし、このたとえ自体が実は上に述べた事柄を説明するものだった。「種を蒔く」とは「福音宣教」のこと。み言葉を宣べ伝える者は同じ福音を様々なところで語る。聞く者もさまざまだ。「道端」はみ言葉を耳で聞いただけで、心に受け止めようとしない人。聞いてもすぐに忘れ去ってしまう。石だらけの所とは、付和雷同的な人たち。戦後のキリスト教ブームで多くの人々が教会に来て喜んで洗礼を受けた。しかしブームが去ると福音から離れてしまった。日本社会の習俗(それはある信仰に基づいていて、キリストの共同体に入るとはそれらの信仰から離れることを意味する)の中で信仰生活が社会生活にマイナスになると(実際にはマイナスにはならないのだが)離れてしまう。世の中での「成功」の夢を捨てきれず、信仰が枯渇してしまう者もある。神と冨とに兼ね仕えることはできない。良い地に蒔かれた種は、「御言葉を聞いて悟る人」であり、百倍、六十倍、三十倍の「実を結ぶ」人である。「悟る」ことは頭の中で理解すること、気持ちにおいて同調することだけではない。現実に実を結ぶことが大事なのだ。 ところで、実を結ぶとは何のことか? マタイの文脈では「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」が再び使われる25章タラントンのたとえ、つまり賜物を100%活かして用いることであろう。そしてまた、それに続いて語られる「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」ということであろう。
August 20, 2010
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このたとえ話は後にイエス自身による解説があるので、今日は読むだけにしておこう。なお、マルコ4章、ルカ8章にも同じ話があるので、並べて読み比べてみよう。 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。 8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、 13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。 4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 8:4 イエスはたとえを用いてお話しになった。 13:3 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 8:5 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 8:6 水気がないので枯れてしまった。 13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」 13:9 耳のある者は聞きなさい。」 4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。 8:8 イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。ルカは少し簡単に書いている感じがする。マタイとマルコは共通部分が多い。6節:マタイ・マルコは「根がないために」、ルカは「水気がないので」。8節の収量は、マタイ=100, 60, 30、マルコ=30, 60, 100、ルカ=100のみ。最後の節はマタイ「耳を持つ者は」、マルコとルカ「聞く耳を持つ者は」。
August 19, 2010
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★ヨナとイエス 悪霊を追い出すイエスの働きは、悪霊の頭ベルゼブルによるのではないのか、とファリサイ派の者らが悪意のある説をだした。イエスは悪霊が悪霊を追い出す仲間割れをしていたら成り立たないと応じ、聖霊によるものであることを説いた。すると彼らは(その証拠としての)しるしを見せてほしいという。一コリント1:22にも「ユダヤ人はしるしを求め」るとパウロが指摘しているが、信仰の世界は「見ないのに信じる人は、幸い」(ヨハネ20:29)なのだ。 しかし、イエスはヨナのしるし、すなわち「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と予告された。そして、ヨナの宣教によって悔い改めたニネベの人々(異邦人)やソロモンの知恵を聴いたシバの女王(異邦人)たちが、今の時代のイエスを信じる者たちと共に、十字架と復活のしるしを見て信じない者らを裁くことになる。イエスはヨナやソロモンにまさる方である。ふだん我々はイエスという方をヨナやソロモン、あるいは他の旧約の人々と並べて見ることをしないので、このような比較はちょっとした驚きである。★悪霊を追い出したままにしておくと 空き屋状態の人に追い出された悪霊が他の悪霊も引き連れて乗り込んできて、その人は前よりも悪くなる。悪い者が更に悪くなる。聖霊によって満たされていることが大切だろう。★イエスの母、兄弟 マルコ(3:21)によれば、イエスは気が狂ったという噂を聞いて、家族総出でイエスを連れ戻しに来たのだ。会堂が人でいっぱいになっていたからか、会堂の中でナザレに帰るよう説得するのは適当でないと考えたのか、彼らは会堂の外でイエスを待っていた。気を利かせた人がイエスに「お母さまとご兄弟がお待ちですよ」と知らせた。それに対するイエスの反応は少々冷たいように、人間的には感じる。だが、イエスが宣教しているということ自身が、神の国がその世界に入り込んできていることの表れであると理解するならば、そして神の国では「めとることも嫁ぐこともなく」なるとすれば、親兄弟の概念も変わらざるを得まい。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」教会では信者を兄弟・姉妹(ブラザー・シスター)と呼びあうが、それは単に仲間を表すものではなく、イエスに倣って神の御心を行うところにその根拠があり、イエスの兄弟、イエスの姉妹であるとの意味である。そのように生活しているか?
August 18, 2010
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イエスが悪霊を追い出したり、病気を癒したりしているのを見て多くの人は素直に「この人こそメシアではないか」と感じた。ところが「悪霊の親分の力でやってる」という者たちがいた。もちろん悪意があってそう言っているのだ。今日の個所はそういう悪口への反論である。 「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」。政権を取ったばかりで国民の評価を受けるに足る実績をまだほとんど作っていないのに、もう代表選がどうだこうだと言ってる民主党は、この2000年前の言葉を聞くべきだろう。教会もそうだ。クリスチャン人口が実質1%にも満たないような国で、狭い教会内で不和があったら、どうして99%以上を占める人たちに福音のすばらしさを伝えることができるだろう。 イエスが悪霊を追い出している。これは悪の力を無力化し、神の国、神の支配の到来を告げ知らせるものだ。人々を神のもとに導くためには、まず悪の支配から解放しなければならない。それを「ベルゼブルの力」などというのは聖霊に対する冒涜だ。 イエスはここでたいへん厳しい、しかし興味深いことを言っている。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」 ファリサイ派の人々が悪霊の追い出しに関してイエスに言った言葉は、きわめて不誠実なものだった。彼らはイエスの言動を注意深く聖書と照らし合わせて判断したわけでなく、ただイエスが人々から注目を浴びて、自分たちの教えから離れ去っていくことを警戒してイエスを悪く言ったのだった。だから彼らのイエス批判は矛盾がある。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」とイエスによるめざましい活動を評価したことは、彼らの仲間の同じような活動についても適用されることになる。イエスほどのめざましい活動ではないので「悪霊の手下の力による」程度だろうか。理屈ではそうなるだろう。こういういい加減な発言についてイエスは厳しく問うのだ。聖霊(のお働き)に言い逆らう者は赦されないというのもそうだし、33節以下の「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」もそうだ。彼らの神との関わりが、聖霊と悪霊をきちんと見分けることのできない程度の関わりだから、彼らの信仰が導き出す結果もろくなものではない。最後に(聖霊の働きを「悪霊だ」というような)言葉についての責任にイエスは言及する。新共同訳「自分の話したつまらない言葉について」、口語訳「語る無益な言葉に対して」、新改訳「口にするあらゆるむだなことばについて」、New International Versionでは"for every careless word they have spoken"。
August 17, 2010
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神は6日間で天地を創造し7日目にお休みになった、それに倣って人も家畜もすべて6日間の労働の後の1日は聖日として一切の労働から離れなさいと定められた。念のためにいうと、週の第7日は土曜日である。最近月曜始まりのカレンダーが多いが、週は日曜に始まり土曜で終わる。しかし、週を最初の労働日から始めるとするなら月曜始まりは非聖書的ともいえない。「一切の労働」というのが注意を要する。手や足を使って何かをすると労働だが、耳で聞いたり、目で見たり、口で話したりするのは労働にならない。だから安息日にテレビを観るのは違反にならないが、テレビのリモコンを操作するのは律法に違反する。 さて、イエスたちが安息日に会堂に行くと片手が動かない障がい者がいた。イエスがこの人をどうするか皆注目した。イエスの愛の教えからすれば、放置しないだろう。しかし今日は安息日だ。ことにイエスを訴えようとチャンスを狙っている者はイエスが何をするか、よ~く視ていた。イエスはこのような人々の思惑にうんざりしていた。大事なことはこの片手の萎えた人が幸福を得ることではないか。障がいが理由でさまざまな制約を受けているなら、そこから自由になることではないか。しかし人々はイエスが律法を冒すかどうか、この男の件を口実にイエスを訴えることができるかどうか、そのためのネタとしてこの男に注目しているのだ。イエスは「安息日に善いことをするのは許されている」(他の訳では「正しいことだ」)と言い、ついでこの男に「手を伸ばしなさい」と言った。すると彼の手は元通りになった。 イエスはこの男に手を触れなかった。「手を伸ばしなさい」と言うのは律法違反ではない。この男の件でイエスを訴えようとする試みは不発に終わった。だから、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」作戦を練り直す必要に迫られたのだ。 このような動きはイエスをうんざりさせた。彼は人々の病を癒し続けていたが、癒された人々がイエスを賞賛すればするほど、ファリサイ派らがエキサイトする。だから、癒された人に「言いふらすな」と抑えた。マタイはこれをイザヤ書42:1~4の成就と受け取っている。「わたしの心に適った愛する者」はイエスがヨハネから洗礼を受けた時(3章)と高い山の上で姿が変わった時(17章)に…から聞こえた声でもある。
August 15, 2010
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再び議会(最高法院)に引き出された使徒たちだが、今回彼らを裁こうとしたのは主にサドカイ派(復活を否定する)だった。それは使徒たちの宣教が、死んだイエスが復活したという事実を根拠にしていたからであった。最高法院はサドカイ派もファリサイ派も共に含まれている。従って、犯罪者として裁かれたイエスを未だにメシアと主張するのはけしからん、という論調で使徒たちを詰問した。しかし使徒たちは引き下がらない。使徒たちがイエスをメシアと信じるのは、十字架前とは違う意味である。以前はイエスこそローマと闘ってイスラエルを再興してくれる再来のダビデと考えていた。しかし今は、すべての人の代わりに犠牲となって、罪を赦してくれるメシアと考えるようになった。それはイエスの十字架の死を目撃し、三日目によみがえったイエスと出会い、さらに天に昇っていくのを目撃したからだった。「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」という言葉にはこれだけのことが含まれている。使徒たちを裁きの場へ引き出した者たちは、怒りを募らせ、死刑を求めた。このとき、ファリサイ派のリーダーの一人である律法学者ガマリエルが演説した。過去に民衆を扇動したテウダやガリラヤのユダといった「自称メシア」たちの運動の結末を思い起こさせ、「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」と述べた。ここには「裁くな」というイエスの教えとの近似性が見られる。また、彼が使徒たちの処刑に反対したのは、「復活の証人」という使徒たちを処刑する事への抵抗感があったのではないだろうか。おそらく議会が(昔そうであったように)律法学者を含まず、長老たちと祭司長たちだけで構成されていたなら使徒たちは処刑されただろう。ところが復活を信じるファリサイ派の律法学者たちが含まれていたため、むち打ちとさらなる脅しで釈放されたのだった。後々パウロも(使徒言行録23章)復活についての両者の違いを使ってファリサイ派を味方に付けている。使徒たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んで、議会から出て行った。信仰のゆえに人々から辱めを受けること、それは彼らの喜びだった。これはいつも自分に対して問いかけられることだ。そして、もちろんイエスの名を口にしなくなるようなことはない。「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」宣教の場として、神殿の境内と、家々が挙げられている。本拠となったのは主の晩餐が行われ、またペンテコステの出来事があったあの「Upper Room」であろうが、信ずる者の群れに加えられた人々の家が、集会の場所として提供されていったようだ。自分の家が祈りと賛美の場として用いられることの幸いを思う。新共同訳が「メシア・イエスについて」としているのは理解できない。原文は「キリスト・イエスを」であるから、わざわざメシアにしなくてもいいのではないだろうか。口語・新改訳ともに「イエスがキリストであることを」である。
August 14, 2010
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新共同訳は5:12~16に「使徒たち、多くの奇跡を行う」5:17~42に「使徒たちに対する迫害」という小見出しを付けている。日課はその途中まで。小見出しの方は内容毎に段落を分け、適切と思われる小見出しを付けているはずである。聖書日課はどういう分け方をしているのかよく分からないが、12~16節まででは短すぎるし、42節まででは長いから途中で切ったのだろう。しかし、日課の切り方は、前半が使徒たちによって行われた奇跡、後半は使徒たちの身の上に起こった奇跡ということができる。「美しい門」のそばで足の不自由な男がイエスの名によって歩けるようになった。そのことについて驚いた人々にペトロが説教した場所が「ソロモンの回廊」だった。以後使徒たちはソロモンの回廊でしばしば説教するようになったらしい。尊敬するがあえて仲間になろうとはしない。(ある時期までは日本でもキリスト教はそんな扱いを受けていた。キリスト教に好意を持ち、子どもを有名キリスト教主義学校へ入れようとする。子どもが教会に行くことは良いことだと思う。しかし、「洗礼を受けたい」と言い出すと、「とんでもない」と禁止する。そんな親が多かった。この頃は尊敬もなくなったようだ。サリン事件以後、宗教全般に対して世間の目が厳しくなったように思うが、それよりもキリスト教自身が人々を引きつける力を失ってきたことが大きいと思う。)それでも14節は主を信じる者が増えていったという。そして多くの病人が癒された。その様子がいささかオーバーとも思える表現で書かれている。これらのめざましい奇跡は、4:30の「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」という祈りに応えて神が彼らを聖霊に満たしたことによるものであることは言うまでもない。使徒たちは病人に手を置く際に「死者の中からよみがえったイエス・キリストの名によって…」といったに違いない。復活信仰に反対するサドカイ派が危機感を募らせた。彼らは使徒たち(名前も人数も不明)を捕らえて牢に入れ、最高法院を開き裁こうとした。ところが使徒たちは夜中の間に天使に導かれて牢から抜け出してしまい、明け方から神殿の境内で伝道していた。捕らえられてもへこたれない、不思議な神の力によって解放されたら、すぐにまた死者の中から復活したイエス・キリストの名を人々に伝えに出かけていく。このこともまた4:29の「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りへの答である。
August 13, 2010
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「信じた人々の群れは心も思いも一つにし…、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」この言葉に初期の教会のあり方が要約されている。イエスは小さな者を一人でも軽んじてはならないと教えた。教会は小さな者が共に生きることができるように最大限の配慮をした。2007年3月25日に発生した能登半島地震では多くの幼稚園も被災し、由緒ある大きな幼稚園が閉園に追い込まれた。その中で教会付属の幼稚園は全国の諸教会の支援によって再建することができた。園長は「教会の幼稚園が再建できたということが地域への証になっている」と語った。これは初代教会の時代からの教会の伝統であるし、キリスト教の本質的な部分でもある。その具体例として、教会に仕えた例として畑を売って代金を献げたキプロス出身のヨセフと、また教会を欺いた例としてアナニアとサフィラの夫婦が挙げられている。アナニアとサフィラの場合は、相当な金額を教会に献げている。彼らは土地を売ってその全額を献げたかのように言ったが実は献げたのはその一部であった。ペトロから叱責されたされたアナニアはたちまち息が止まって死んでしまった。そのことを知らずに後から来た妻サフィラもアナニア同様に金額をごまかしたためペトロに叱責されて死んでしまった。全額を献げなかったから死んでしまったのではない。ペトロは「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。…あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言っている。土地を売って得たお金をどうするか?全額献金するか、一部を献金するか、まったく献金しないか。それは自由なのだ。彼らの問題は収入の一部を献金するのに、あたかも全額献金するように装ったからだ。それは神を欺くことになるとペトロはきつく指摘したのだ。「全額か部分かという違いで、献金したことは献金したのだ。土地を売ったのであれば一部とは言っても相当な額の献金なんだろう。それで二人とも死ななくてはならないとは、厳しすぎるのではないか?」と思う人は少なくないだろう。なぜこの金額の偽装が死に当たるのか。ペトロが言うように、土地を売った代金をどうするかは彼らの自由だ。献げるも良し、別の自分たちの用途に使っても良かったのだ。ルカは「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」というが、使徒たちが「信者は全財産を教会に差し出せ」と言ったわけではない。あくまでもそれ自発的な行為だ。そうでないなら「献げ」たことにならない。キプロスのヨセフがまさにその例だ。アナニアとサフィラは周囲の人々が教会に献げるのを見て、自分たちも何か献げなくてはならないと思ってしまった。そうして土地を売って献げることにした。しかし、元々教会の貧しい人々のために使ってもらおうという目的ではなく、見栄で献げようとしたのだから全部献げるのは惜しいと思ったのだ。だから一部を献げるに留めた。しかしヨセフらが全額献げている手前「一部です」では格好がつかない。そこで「全額献げます」と申し出て実は一部だけ、ということになったと思われる。要するに彼らの献金は、自分を献げる行為ではなく、自分たちをよく見せようとする行為だったのだ。だから単に「金額を欺いた」ということよりも、「献げる」と言うこと自体が欺きだった。「神のため、教会のため、人々のため」といいながら、実際はそんな思いはかけらもなく虚栄心だけだったのだ。さて、アナニアとサフィラは神に対する欺きを暴露されたことによって息絶えた。献げたお金はどうなっただろう。イスカリオテのユダがイエスを裏切ったことを後悔して、裏切りの報酬として受け取った銀30枚を神殿に投げ込んだ。その銀30枚はユダの意図はどうあれ異邦人墓地建設の原資となり、よい用いられ方をした。アナニアとサフィラの意図がどうあれ「献げます」と言われて渡されたお金には罪はない。おそらく貧しい者たちのために用いられたであろう。
August 11, 2010
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神殿の「美しい門」のそばで乞食をしていた足の不自由な男を、イエスの名によって歩けるようにしたペトロとヨハネは、人々にイエスは復活したと語ったため大祭司やサドカイ派(彼らは復活を信じない)によって捕らえられたが、今後イエスの名を語らぬよう脅されただけで釈放された。 二人が仲間のところに戻って報告すると皆喜んで神を賛美し、祈った。祈りの中で詩編2:1~2 なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、 諸国の民はむなしいことを企てるのか。 地上の王たちはこぞって立ち上がり、 指導者たちは団結して、 主とそのメシアに逆らう。が引用され、ヘロデ(ガリラヤ)とピラト(ローマ)がユダヤ議会と共にキリストに逆らい、聖書に記されている通りになったことを指摘した。そして、大胆にみ言葉を語り、病気を癒し、神の僕イエスの名によって多くの業を行えるように願った。すると「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。ポイントを二つ1.現状を聖書によって、つまり神のご計画において把握する。2.そのような状況の中でキリストから福音宣教を託された者として、大胆にみ言葉を語り、主の業を行う主体を神に求める。
August 11, 2010
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ペトロは2章(民家の2階座敷から)、3章(神殿の庭で)の説教に続いて、4章では取り調べという形で議会で説教をした。ただし、議会では回心者を獲得するには至らなかったようである。 ここでもペトロは、自分たちの言動が「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名」によるものであることを強調し、さらにイエスこそ詩編118で歌われている『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』であると力説し、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と結ぶ。 イエスを十字架に架けて殺した議会としては「イエスの名のほかに救いはない」などという言葉はとうてい許せるものではなかったが、イエスの名によって動かない足が動くようになった人を、またその目撃者たちが多く存在し、またこのことがエルサレム中に知れ渡っているという現実の前に、使徒たちに対して何も手を下すことができなかった。もうイエスの名を語るな、と脅すことしかなかった。使徒たちは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」と応えた。3つの言葉を拾い出しておこう。1.私たちは自分の社会における言動について「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と問われた時にどう答えることができるか。2.「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と確信を持って言えるか?3.「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。神に従うことを第一にしているか、神があなたにしてくださったこと、語られたことを自分一人の中にしまい込んでいないか?
August 10, 2010
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生まれながら足が不自由で歩けず、神殿の「美しい門」のそばで乞食をしていた男が、大声で神を賛美しながら、ペトロとヨハネにつきまとって「ソロモンの廊」を歩いている。この様子を見て人々が集まってきた。そこでペトロが説教を始めた。その内容は次のようなものである。 「イエスは聖なる正しい方、神の僕だがあなた方はイエスを拒み、総督ピラトが釈放しようとしているのに十字架につけて殺してしまった。しかし神はこの方を死者の中から復活させた。私たちはその証人だ。そしてイエスを信じる信仰がこの男を完全にいやした。あなた方がイエスを殺したのは無知のためだった。悔い改めて立ち帰りなさい。約束されているようにアブラハムの子(イエス)によって祝福に与ることができる」。 2章の説教と比べるとイエスを殺した責任が厳しくなっている。「あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです」。しかし同時に「あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています」と言い、預言が実現するためだったと弁護?もしている。 後半はアブラハム以来の「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」という約束が、イエスによって実現し、「あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせる」という。 この説教の結果この説教によって5000人ほどの男が信じたと報告されている。女の数は数えられていない。もっと興味深いことが起こっている。ペトロとヨハネはこの説教によって捕らえられてしまったが、その理由は復活を語ったからとされている。ユダヤ教の2大教派であるサドカイ派(神殿関係者や貴族に多く、復活を信じない)とファリサイ派(律法学者や民衆に多く、復活を信じる)のうち、サドカイ派が二人を逮捕した。ということは、信じた5000人の中にはファリサイ派が多く含まれていたのではないだろうか。そして、やがてファリサイ派からはパウロがキリスト者に転向してくることになる。
August 9, 2010
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2010年8月8日聖霊降臨節第12主日礼拝聖書イザヤ54:1 ~ 8 /エフェソ5:21 ~ 6:4 /マルコ10:13 ~ 16説教「家族」石田聖実イザヤ54:1 ~ 8イスラエルについて不妊の女の嘆き(例えばハンナ=サムエル上1 章)がイスラエルに転用されている。しかし、実を結ばなかった故に捨てられた者という意味であろう(マタイ7:19 他)。神が見捨てたという面と、イスラエルが神を捨てて他の神々に走ったという面がある。他の神々に走って失敗したイスラエルを再び神が迎え入れる(ホセア書)。人の側の裏切りによって一度破綻した関係を、神の側から回復される(6 ~ 8)。エフェソ5:21 ~ 6:4◆妻と夫 古代の社会では(現代でもまだまだ)男性中心の社会であったが、パウロは夫も妻も互いに仕え合うようにと命じている。妻に対しては、その時代の秩序を打ち破るというよりは、その時代の人々に受け入れやすいように、しかし、本質的にはキリストと教会の関係に倣うものとして夫と妻の関係を描いた。夫に対しては、キリストが教会のために命をも捨てたような愛をもって妻を愛することを説いた。この関係は上に立つということが実は仕えることであること(これはイエス・キリストが常に説いていたことでもある)を説いているのであって、権力をふるうことではない。26 節のキリストを夫、教会を妻と読み替えると「夫が妻を愛したのは、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、きれいな、汚れのない、栄光に輝く妻を自分の前に立たせるためでした」となる。妻を美しくする夫でありたい。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24、マタイ19:5、マルコ10:7)アダムとエバの出会いから男女について言われた言葉をパウロはキリストと教会について転用している。◆子と親 子供が親に従うのは当然の秩序とされていた。しかし、ここでもパウロは世間の常識として語るのではなく、「主に結ばれている者として両親に従う」ことを求める。それは神が与えた秩序であり、幸福に生きるための道だからである。父親に対しては、子供を怒らせてはなりませんという。今風の言い方では「子供がキレるような叱り方をしてはなりません」ということになるだろう。「主がしつけ諭されるように、育てなさい」神は背くことを一切禁じるような仕方ではない。あくまでも人の自由を尊重しながら、しかし、背くことによって痛い目に遭うことを体験させている。マルコ10:13 ~ 16 聖句そのまま◆子供を祝福する イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。 今日の説教題は「家族」であるが、聖書を見るなら、「問題のある家族」だろう。どの家庭も何も問題がないと言うことはあるまい。 夫婦間の問題、これは生まれも育ちも違う人間が一緒になるのだからいろんな点で不都合が生じてくるのがむしろ自然なことだろう。そうした時に、互いの考え方が一致してある方向に向かって行ければいちばん良い。しかし夢と現実は違うのが普通であり、結婚してみたら「こんなはずじゃなかった」と思うことも多いだろう。そのような中で家を飛び出し、結婚した相手では得られなかったものを求めて他の異性へと走ることもある。あるいは強い立場を持って追い出すこともあろう。イザヤ54 章やホセアの妻などはそういう夫婦としては最悪のケースである。最近は、「最悪」などとは思わずむしろ「最善」の手段として離婚が選ばれているようにも思われる。離婚や失踪まで行かなくても、自分が一方的に我慢していると(お互いに)思い込んでいるケースはしばしばある。 パウロは夫婦関係をキリストと教会の関係から考える。キリストが自分を与え尽くしたように、夫も妻に自分を与え尽くす。教会がキリストに仕えるように夫に仕える。そのようなあり方からクリスチャンホームの姿が立ち上がってくる。 二人は一体。これも一方が他方に従属するものでないことを表しているだろう。一人の男性と一人の女性が、真に出会う、向かい合うところから家庭は作られる。そのような意味で、日本の戸籍法は男性の親の戸籍に女性が入籍するのでも、またその逆でもなく、二人とも親の戸籍を離れて、まったく新しい戸籍を作る(だから「入籍」ではない)という聖書的な法律になっていることを覚えておいてほしい。その点から私は夫婦別姓は賛成できない。 親子関係についてもパウロは聖書から考える。十戒をはじめとする律法のなかに神さまの御心は現されている。「父と母を敬いなさい」は単に人を規制する戒律なのではなく、約束へ導く道標として理解される。親子がどのように関わり合うかということも神の約束への道と考えるからである。その要諦は子供が従えるような指導の仕方ということになろう。 そして、子供は未熟なものではあるが、一つの人格として尊重されるべきことが主イエスによって言われている。「神の国はこのような者たちのものである」。そのようなものとして、祝福の内に子供を育てることが大事である。
August 8, 2010
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「午後三時の祈りの時に」 定められた時に祈るのは大切な習慣だ。我々は日曜の午前に最も重要な「定められた祈りの時」を持っているが、初代の教会や修道院は旧約から引き継いだ祈りの時を毎日8回持っていた。これを時祷あるいは聖務日課(officium=オフィスの語源)という。英国教会はトマス・クランマーが8回の時祷を朝晩の2回に削った。プロテスタントの多くの教会では朝を早天祈祷会として、夜を週1回程度の祈祷会として残すのみになっているが、聖務日課の名残。教会に集うことができないにしても、毎日時間を決めて聖書を開き祈る時を持つことは大切である。ちなみに仏教でもお勤め(勤行)といって朝夕2回行う。「美しい門」 神殿には神殿の外と中を結ぶ門が幾つかあるが、神殿内もいくつものエリアに分かれており、それぞれを結ぶ門がある。神殿内の東側から女子の庭に入るための門が「美しい門」。門や橋は人が集中する場所である。そういう場所に施しを求める者がいる。この男は生まれながら足が不自由で、普通の仕事ができなかったから神殿に礼拝に行く善男善女に施しを求めていた。彼が運ばれてきていつもの場所に座ったところへペトロとヨハネが通りかかって目が合った。施したくない連中は目をそらして通り過ぎていくから、目が合ったということは施しを期待できる。しかしペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」という。ペトロが右手を取って引っ張り起こすと、彼の足は伸びて立ち上がり歩き出した。彼の期待したのは、今日生活するためのわずかなお金だった。そして今彼は運ばれてきたばかりで、一銭ももらっていなかった。歩けるようになった以上、乞食をしているわけにはいかない。見ようによっては、当面の収入の道が断たれたのだ。けれどももっと大きな喜びがあった。生まれて初めて自分の足で大地を踏みしめて歩くという感覚を味わったのだ。今まで自分が座っていた場所をグルグルと回って歩いたに違いない。飛び跳ねてみたに違いない。もし彼が日本人だったら四股を踏んだことだろう。そしてペトロたちと一緒に祈りをささげるために門の中に入っていった。その間も全身で喜びを表現し神を賛美し続けていたからとても目立った。人々は彼が「美しい門」で乞食をしていた男であることを認め、驚き困惑した。ペトロの癒しによって、善意の人たちによって支えられていた彼のささやかな日常生活が壊された。彼がこれから先どうやって生計を立てていくのかはまったくわからない。けれどももっと根源的な自由へと解放された喜びがある。あの男は生まれつき足が動かず乞食をする外ない人間だという既成概念が壊された。この男と自分との関係が変わってしまうだろう。これまでこの男に施しをすることによって善人であった者のうち、彼の足が自由になったことを彼と共に喜ぶ人はどれだけいるのだろう?
August 7, 2010
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イエス・キリストの十字架と復活はダビデの預言の成就で、私たちはその目撃証人だ、というペトロの説教によって多くの人々が心を動かされた。神が遣わしたもうたメシアを十字架につけてしまった、私たちはどうしたらいいのか?ペトロは次のように言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」。英訳 New International Version では "Repent and be baptized, every one of you, in the name of Jesus Christ for the forgiveness of your sins."「悔い改めて洗礼を受けよ、あなたがた一人びとりが、罪の赦しのためにイエス・キリストの名によって」。英訳の方が悔い改めと受洗が固く結びついている。日本語訳では「めいめい」も「イエス・キリストの名」も悔い改めにはかからない。ここでは悔い改めることと洗礼を受けるということが不可分に結びついている。また、それが一人ひとりの自覚的な行為としてなされるべきことが言われている。悔い改めも自分一人で悪い行いを反省し、悪を避け善を行うよう努力するのではない。イエス・キリストの名において神の前に罪を告白し、神の支配に服する。神へ立ち返りますとの表明を洗礼という形で行う。このようにして罪が赦される。新共同訳は「罪を赦していただきなさい」としているが、原文は「罪の赦しのため」である。つまり「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」という質問への答は「罪を赦していただきなさい」(赦すという神の行為を表す動詞)ではなく、「悔い改めて洗礼を受けなさい」(悔い改める+洗礼を受けるという2つのわたしたちの行為)である。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。「受けます」は未来。他の日本語訳では「受けるであろう」「受けるでしょう」と訳しているが「もしかしたら受けられないかもしれない」というニュアンスが入ってしまうのを避けるために「受けます」と言い切ったのだろう。the gift of the Holy Spirit を「賜物として(の)聖霊」(新改訳・新共同訳)とするか「聖霊の賜物」(口語訳)とするか。giftが単数なので「賜物としての聖霊」の方が良いだろう。 悔い改めと一体となった洗礼は「罪の赦しのための洗礼」なのだから、受けることによって当然罪が赦される。しかし、聖霊を受けるというのは約束として未来形で書かれているので、水で洗礼を受ければ自動的に聖霊も受けたことになるわけではない。洗礼者ヨハネによれば「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが…その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。ヨハネは彼の洗礼で十分だとは言ってなかった。人が水で授けるバプテスマだけでなく、イエス・キリストご自身が授けるバプテスマを受けるべきだ。主のもとに招かれたすべての人に与えられている約束なのだから、受け取らないのは損だ。いや、聖霊を受けることをしないのなら、イエス・キリストという犠牲によって罪を赦されたユダヤ教徒に過ぎないのではないかと思う。「聖霊が私を生きる」ところにキリスト教徒ならではの人生があるのだろう。最初のキリスト者たちはまさにそのように生きた。その日ペトロの説教を聞いてイエス・キリストを信じた3000人は「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。「信者たちは皆一つになって…、おのおのの必要に応じて…分け合」い「神を賛美していた」。 経済のシステムとしては財産の切り売りではもたない。ここでは、互いに助け合う共同体を形作ったことを受け止めるべきだろう。 高齢者の所在不明が問題になっている。地域で最長寿の人が、実は何十年も前から行方知れずだったという。驚き呆れるような話だが、それぞれのケース毎に深い事情があるようだ。二人の幼児が泣き叫ぶ声を聞きながら誰も助けることをせず、死んでしまった事件もある。聖書が説く隣人愛を育まずに個人の尊重だけが言われて、核家族化・個人主義がゆがんだ形で進んだ結果だろうと思う。使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心でありたい。
August 6, 2010
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聖霊を受けた人々が突然語り出した。物音を聞いて集まってきた多くの人々は、さまざまな地から来ていたのに、福音がそれぞれの母国語で語られるのを聞いて驚いた。この不思議な現象をペトロはヨエル書3章の預言の成就として人々に説明した。そして、改めて十字架で殺されたナザレのイエスこそ神から遣わされたメシアで、殺されたけれども復活し、我々はその証人だと説いた。その際、詩編16:8~11及び110:1を引用し、ダビデもイエスについて語っていると論証した。ダビデは…・ダビデの子孫の一人をその王座に就かせると神が誓ったことを知っていた。・キリストの復活も前もって知り、「彼は陰府に捨ておかれず、その体は朽ち果てることがない」と語った。我々はダビデが預言したことの証人だ。イエスは神の右に上げられr、約束された聖霊を御父から受けて我々に注いだ。そのことをあなた方は今見ている。ダビデは次のようにも言っている。・主はわたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」。→あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった。ペトロが引用したヨエル書3章にしても、詩編16編、110編にしても、ユダヤ教徒はこのようには読まないだろう。明らかにこれはキリスト教的な旧約の読み方だ。もう少し正確に言えば、それらを「旧約とする」読み方だ。「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。(ローマの信徒への手紙3:21~22)このような読み方がイエス・キリストの十字架から半世紀ほどの間に確立していたということに驚く。
August 5, 2010
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1章に出てきた彼らが泊まっていた「上の部屋」での出来事だろう。聖霊が彼らの上に降ってきた。2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。聖霊は固有の肉体を持たない。我々の目に見える時はシンボリックな形をしている。イエスが洗礼を受けた時にはハトのような姿を見せた。ここでは弟子たちが証し人として世界に出ていくために聖霊が降ったので、語る者の象徴として「舌」、それも「炎のような舌」で彼らの活躍が示される。聖霊に満たされた弟子たちは「ほかの国々の言葉で話しだした。」集まってきた人々の出身地が列挙されているが、大事なことは、母国語はさまざまに違う人々であるにもかかわらず、皆が等しく福音を聴いたということである。「地の果てまでわたしの証人となる」というイエスの言葉どおり、聖霊が降った最初の時点で全世界で語られるための準備は完了したである。ところで、さまざまな国の言葉で語り出したのは誰なんだろう?「一同」とか「みんな」と言われている、この場にいた人たちは誰か。1:13では「彼ら」は11人の使徒たちであったという。1:14では「彼ら」11人の使徒たちは、イエスの母と兄弟、そして婦人たちと共に祈りに専念していたという。これで一堂に会していた人数が増える。1:15では120人ほどが集まっていたと一挙に増える。(120人も収容できたのだろうか?まるで旅館の大広間)そして6節の原文は?τι ?κουον ε?? ?καστο? τ? ?δ?? διαλ?κτ? λαλο?ντων α?τ?ν. 「ひとりひとりが、自分自身の言語で彼らが語っているのを聞いて」この「彼ら」を各訳はどう訳しているか。口語訳は 「彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを」 11人に限定新改訳は 「それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて」 弟子に女性たちは含まれる?新共同訳は「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」 すべての人が語ったかも知れないNIVでは "because each one heard them speaking in his own language."で原文通り。
August 4, 2010
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今日の個所は、イエスを銀30枚で売ったイスカリオテのユダの結末と代わりの使徒の選出。 11人の使徒たち、残されたイエスの家族、そしていつも共に行動した女性たちを中心に、弟子たちの集団は120人ほどになっていた。120人というのは実数というより数あわせかもしれない。いずれにせよ、主の弟子は12人だったわけではなく、例えばエマオの途上で復活の主に出会ったクレオパやもう一人の匿名の弟子もこの集団の中にいた。 ペトロは主を裏切ったユダの結末について1:18~19に報告している。ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 ユダの不正経理についてはヨハネ福音書も「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」(12:6)と言っている。 ユダの死因と「血の土地」についてはマタイはペトロの報告とは異なる報告をしている。イエスを裏切ったことを後悔して金を返しに行ったが受け取ってもらえず、「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」(27:5)。ユダが投げ込んだ金は、(イエスの)血の代金であるから神殿の収入にはできないとして、外国人墓地の造成のため、「陶器職人の畑」の購入資金として用いられた。そこでこの畑(外国人墓地用地)は「血の畑」と呼ばれた。ユダが首を吊った場所を(たとえば土地の所有者からのクレームで)最高法院が買って外国人墓地にしたのかも知れない。 ペトロはこの出来事を詩編69:26の成就だという。そしてユダの死によって空席となった使徒の職を、裁かれて神に逆らう者とされた者についての詩編109:8に従って、他の者によって継がせるべきだと述べた。後継の使徒となるための条件は主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者である。これが初代の教会の使徒の定義であった。したがってパウロは使徒とは言えない。後々、パウロが各地で伝道した時に、「それは使徒の教えではない」という妨害を受けるのは、このような使徒の定義があるからである。 二人の候補が立てられ、祈りが捧げられ、くじを引いた結果マティアが他の11人と共に使徒の職に就くことになった。---ユダの最後は悲惨だった。首吊りにしても転落死にしても、主を裏切ったことの後悔の中で死んだのだ。彼は自分の罪を悔いた。悔いたけれど、主に自分を委ねることをせず、自分の罪を自分で始末したのだった。この後マティアがどのような働きをしたのか、使徒言行録は何も触れていない。また書簡の中にも彼の名は触れられていない。「補欠」ではあるけれども、マティアはたしかに使徒として立てられ、目立たずではあるがその務めを果たしたのだ。
August 3, 2010
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序文はテオフィロ閣下に献呈されたルカによる福音書を第1巻と呼び、使徒言行録がその続編であることを明らかにしている。テオフィロの名は二つの書物の献呈先としてしか出てこないので、どのような人物かはよくわからない。福音書では「閣下」(新共同訳は「敬愛する」だがローマの高官への敬称として使われた言葉なので閣下の方がいいだろう)としているが、使徒言行録では呼び捨てになっている(新共同訳は「さま」を付けている)。テオフィロという名前自体は神と愛の合成語で、「神に愛された者」という意味がある。そういう名前の高い地位にある個人に宛てたものなのか、あるいはクリスチャン全体に宛てたものなのか、どちらとも取れる。ただ、「閣下」という敬称を考えると高い地位の人物を想定した方が良さそうに思う。第2巻は第1巻の終わりにイエスが弟子たちに聖霊を送る約束をされた(ルカ24:49)ことの確認から始まる(1:3~5)。ところが弟子たちは相変わらず、イスラエル国家の主権回復を夢見ている。それに対してイエスは聖霊を受けた弟子たちの使命を、イスラエル国家というローカルな問題ではなく、エルサレムからスタートして全世界に及ぶ「イエス・キリストの福音の証し」であると示した。イエスは天に昇っていった。弟子たちがずっと天を見つめたままでいると、(たぶん)天使が来て、イエスはまたおいでになるという。彼らの目線を地上に戻したのだ。エルサレムから始めて地の果てまでイエス・キリストを証しする使命が与えられたのだ。天使たちから諭された弟子たちは、集まって祈り始める。1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。「上の部屋」、デボーション用の雑誌「アパ・ルーム」の名前はここから取られている。そして、ここから名前を取ったというのはメソジスト系の雑誌らしいところでもある。私は、実のところ、この祈りの輪にいたメンバーに目を留めていなかった。11人の弟子たちは名前を紹介しているが、その他に婦人たち、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちもいた。つまりイエスの家族はもうみんなナザレからエルサレムに出てきていたようだ。最初の「教会」の核になった人々は「使徒」が中心だと思っていたが、使徒ばかりでなく、イエスの家族たち、また女性たちも初めからの中心的メンバーだった。
August 2, 2010
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