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ブログをはじめて五か月になつた。無精者の自分がよくつづいたものだとおもふ。これまで一か月ごとに記事の連想図を書いてきたのですが、五か月も続けると枝分かれしすぎてしまひ、図にするのが面倒くさくなつて参りましたのでこれからは書きません。次の目標は半年目までつづけることです。
2009.01.31
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1月28日の香山滋のスクラップブックのはなしの補足。『香山滋全集別巻』に収録された「アンケート 私のレジャー」といふ文章によると、このスクラップブックは「二ツ折り六十四頁」の特註品で、所要年数五ヶ年(夏のみ)総経費十二万余円冊数百八十冊といふことです。その作品数は、「少年少女ものを含めて八百篇あまりになる。」香山滋といふと「ゴジラの原作者の…」といふレッテルを貼つて紹介されることが多いのですが、それが失礼にあたるほど膨大な作品を書いてゐるのです。それにしても800とはものすごい多作だ。でももつとすごいのは自作に対するその愛情かもしれませんね。
2009.01.31
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1月25日に三宅尚斎が獄中で鼻紙に著作を行つた話を書いた。同じやうな話は外国にもある。ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴは、獄中でトイレット・ペーパーに長編を書いたが没収された。『民族・歴史・文学 アフリカの作家グギ・ワ・ジオンゴとの対話』などで語られてゐる。この長編といふのが、キクユ語による作品『十字架の上の悪魔』。グギ・ワ・ジオンゴは1938年、ケニアのリムル生まれ。1977年に発表した『したい時に結婚するわ』が政府ににらまれ逮捕、1年間投獄された。釈放後はイギリスやアメリカに移住した。 アフリカ人としては初のノーベル文学賞を受賞したナイジェリアの詩人、作家のウォレ・ショインカは2年間の投獄生活中トイレットペーパーなどに作品を書いた。それは釈放後、発表され、ショインカの名声を高めることとなつた。ウォレ・ショインカは1934年ナイジェリア・アベオクタの生まれ。ビアフラ戦争の際、政府を批判して投獄された。獄中では人との接触、読書は許されなかつたといふ。読書が許されてゐた伊藤坦庵や小説の宮本武蔵より過酷な状況だ。ぼくはNHKでやつてた『未来への教室』で、子供たちに語りかけるこの人の姿が大変印象的でした。
2009.01.31
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昨年10月23日に浪花節が嫌ひだつた文学者のことを書きました。山本周五郎もさうでした。木村久邇典の『素顔の山本周五郎』に周五郎が浪花節嫌ひだつたことが書いてある。でも浪花節嫌ひだつたはずなのだが、春日井梅鴬がたづねてきて娘に『日本婦道記』の「不断草」をやらせてくださいと頼まれた時はその娘が美人だつたので承諾してしまふのだつた。春日井梅鴬といへば「赤城の子守唄」だ。この娘といふのは後の二代目梅鴬・春日井加寿子でせうね。あとこの文章には永井龍男が雲右衛門の一節をやつてみせる話も出てくる。といふことは永井龍男は浪花節好きの文学者といふことになる。雲右衛門といへば漱石の『夢十夜』に出てきます。漱石はとくに浪花節が好きだとも嫌ひだとも書いてゐませんが、その「第十夜」にこんな箇所がある。すると女が、もし思い切つて飛び込まなければ、豚に舐められますが好うござんすかと聞いた。庄太郎は豚と雲右衛門が大嫌だつた。豚と雲右衛門…。なんともふしぎな夢だ。
2009.01.30
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1月15日の志賀直哉の洗面器の話から。同じやうに金だらひが出てくる話を。寺田寅彦の『日常身辺の物理的諸問題』はこんな風に始まる。毎朝起きて顔を洗ひに湯殿の洗面所へ行く、さうしてこの平凡な日々行事の第一箇条を遂行してゐる間に私はいろいろの物理学の問題に逢着する。そして「金だらひとコツプとの摩擦によつて発する特殊な音響の問題」が語られる。普通の琺瑯引きの鉢形の洗面盤に湯を半分くらい入れる。さうしてやはり琺瑯引きでとつ手のついた大きい筒形のコツプをそのわきに並べて置き、さうしてコツプの円筒面を鉢の縁辺に軽く接触させる。さうして顔を洗ふために鉢の水が動揺すると、この水の定常振動と同じ週期で一種の楽音を発することがしばしばある。ふしぎだなあ。その後にかうある。自分の経験では金だらひの縁がひどく油あかでよごれているときは鳴らない。石鹸で一応洗つた時によく鳴るやうである。といふことは、志賀直哉のすき焼きの脂で汚れてゐた金だらひでは鳴らないのですね。
2009.01.29
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昨年12月27日に漱石や山田風太郎の手紙の保管について書きました。一方、几帳面な人もゐます。ルイス・キャロルは、「彼はあらゆる手紙にナンバーを記し、死の前日まで書いていた最後の手紙のナンバーは九万八千七百二十一番に達した。」 (種村季弘『ナンセンス詩人の肖像』)すごいなあ。あと1279通で10万通だつたのに、惜しい。日本では以前書いたやうに、江戸川乱歩でせうか。乱歩は自分の書いた手紙の写しをとつてゐただけでなく、自分の記事が載つた新聞・雑誌の切り抜き、チラシ、住んだ家の見取り図などをスクラップした『貼雑年譜』を作り上げたことで有名です。乱歩と同じやうなことをやつた人はあと香山滋がゐます。膨大な自分の作品が載つた新聞・雑誌の切り抜きをスクラップブックにまとめてゐます。『香山滋全集 別巻』の年譜によると、昭和39年の夏から昭和43年までかけて完成した。ちなみに、「雑誌には表、裏があるので二部切り抜きを揃えており、一部しか ないものは片端を重ねて糊付けするという根気のいる作業」だつたといふ。すごいなあ。自作を愛する。なかなかできないことなんぢやないでせうか。
2009.01.28
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一昨日の伊藤坦庵の話で江村専斎が出てきました。この人は長寿で百歳まで生きた。後水尾上皇に修養の法を尋ねられて、「平生唯一の些の字を持す。食を喫も些、食飲を節にするも亦些、 養生も亦些。此外に別の術なし」と答へたといふ。(伴蒿蹊『近世畸人伝』から)「些」が長生きの秘訣なんだなあ。山田風太郎の『人間臨終図鑑』には百歳代で亡くなつた有名人として、野上弥生子、物集高量、天海、平櫛田中、大西良慶、泉重千代の六人が挙げられてゐます。他に、伝説的な人物ですが永田徳本といふ医者がゐました。この人は118歳まで生きた。【永正十年(1513年)~寛永七年(1630年)】永正十年生れといへば大政所(秀吉の母)と同じです。牛の背に乗つて町で「甲斐の徳本十八文」(一説には十六文とも)と言つて薬を売つてゐたといふ。森銑三も『偉人暦』でこの人を取り上げてゐる。現在の製薬会社トクホンの名はこの人からとつてゐるみたいですね。
2009.01.27
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昨年12月21日に藤沢周平と狼の話を書いた。柴田宵曲の『俳諧博物誌』には狼の句がたくさんのつてゐる。江戸時代の人でも実際に狼を見る機会なんてまづないだらうからこんなにあるとはおもはなかつた。ぼくが印象に残つたのは次の其角の句。狼の浮木に乗や秋の水ほかの人が狼と山道や月夜を結びつけて恐ろしい狼のイメージを出してゐるのにこれは全く違つてゐる。狼が浮木に乗つて水の上を流れてくるとはすごい。相模川の洪水に想を得てつくつたやうです。芭蕉や子規にも狼の出てくる句があつて興味深かつた。漱石にはない。でも『心』で「私」が「K」を責める場面に、「狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです」「狼がすきを見て羊の咽喉笛へ食らひつくやうに」といふ表現が出てきます。残酷な動物といふイメージで漱石は用ひてゐる。この羊を襲ふ狼といふのは日本ではなくて欧米のものですね。
2009.01.26
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1月21日の回に、宮城谷昌光の『晏子』で斉の晏嬰が父晏弱の喪に服して三年間粗末な小屋の中で粥だけを食べて暮らすといふ所を紹介しました。三年間狭い所にずつと居たといへば吉川英治の『宮本武蔵』だ。ぼくが小学生の頃夢中で読んだ小説です。野獣の如き暴れ者だつた武蔵が姫路城の開かずの間に三年間閉じ込められて読書などをして成長して出てくるのだ。それについてはあの三田村鳶魚をはじめとして批判の声が沢山あります。曰く、三年間本ばかり読んでて強くなつてるなんてをかしい、とか狭い所で運動不足で身体がなまつてるはずなのに強いのはをかしいとか太陽の光にずつと当たつてない上にろくな物食べてないから栄養失調で身体が弱つてるはずだとかいろいろ言はれてますね。もちろん武蔵のはなしは史実ではありません。でもぼくはさういふことはあるとおもつてます。三年間閉じ込められてゐた実在の人物の話を二つ書きます。山崎闇斎の門人で三傑と称された三宅尚斎。尚斎は藩主の素行を諫めて三年間禁固の刑を受けた。獄中で本を書き著したいと思つたが紙と筆がない。尚斎は折れ釘で指を突いて血を出し、それを墨の代りにして葭を噛んで作つた筆につけ、鼻水が出ると言つてもらつた鼻紙で冊子を作つてその著述を行つた。そして獄中で『狼チ』※『白雀』を完成させ出てきたといふ。又、彼は毎日食後に部屋の中をぐるぐると何百回も廻つてゐたといふことで、肉体的にも衰へてはゐなかつた。伴蒿蹊の『近世畸人伝』には留守を守つた尚斎の妻も立派な人であつたことが書いてあります。森銑三によると修身の教科書にも載つたらしい。江村専斎の弟子で仁斎などとも交流のあつた京都の儒者伊藤坦庵。坦庵は越前候に仕へたが、ある讒言にあつて福井城の一室に三年間閉じ込められる。彼はその部屋の中で本を読み、詩を作り、文章を書いた。後に冤罪が晴れて出てきた坦庵は、世間の雑事に煩はされる事なく三年間思ふままに読書ができたことを感謝したといふ。芭蕉は若いころこの伊藤坦庵に漢籍を学んだことがあつたらしいですね。伊藤坦庵と三宅尚斎。二人とも三年間監禁されて強靭な精神力をみせた。この二人は学者です。剣豪の武蔵だつたら充分あり得るでせう。※『狼チ』の「チ」は表記できない字でしたのでカタカナにしましたが、「売」といふ字の「儿」を取り、その下に「田」と「疋」をつけた字です。
2009.01.25
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1月13日に「失はれた本と記憶力」といふのを書いた。その関連でぼくは寺田寅彦もあげたい。太田文平『寺田寅彦』に引用されてゐる次男正二のことば。「人も言うように、父は異常な記憶力に恵まれてゐた。」たしかにさうだ。寅彦の随筆をよむと子供の頃の話でもじつに細かいところまで描写してあつてよく覚えてゐるものだなあと感心してしまふ。たとへば「厄年と etc.」といふ随筆がある。その中に自身の過去を絵巻物に例へて振り返るところがあり、この文章がすばらしいです。すこし長いですが引用します。始めの方はもうぼろぼろに朽ちているが、それでもところどころに比較的鮮明な部分はある。生れて間もない私が竜門の鯉を染め出した縮緬の初着につつまれ、まだ若々しい母の腕に抱かれて山王の祠の石段を登つてゐるところがあるかと思ふと、馬丁に手を引かれて名古屋の大須観音の広庭で玩具を買つてゐる場面もある。淋しい田舎の古い家の台所の板間で、袖無を着て寒竹の子の皮をむいてゐるかと思ふと、その次には遠い西国のある学校の前の菓子屋の二階で、同郷の学友と人生を論じてゐる。下谷のある町の金貸しの婆さんの二階に間借りして、うら若い妻と七輪で飯を焚いて暮してゐる光景のすぐあとには、幼い児と並んで生々しい土饅頭の前にぬかづく淋しい後姿を見出す。ティアガルテンの冬木立や、オペラの春の夜の人の群や、あるいは地球の北の果の淋しい港の埠頭や、そうした背景の前に立つ佗しげな旅客の絵姿に自分のある日の片影を見出す。このような切れ切れの絵と絵をつなぐ詞書きがなかつたら、これがただ一人の自分の事だとは自分自身にさへ分らないかもしれない。いいなあ。情景が目に浮かぶ。寺田寅彦は詩人だ。レオナルド・ダ・ヴィンチが哲学者のリストに入つてないことはをかしいと言つたのはたしかポール・ヴァレリーだつたと思ふが、寺田寅彦が詩人のリストに入つてないのもをかしい、とぼくはおもふのでした。
2009.01.24
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昨年12月16日に坪内逍遥の朗読のCDのことを書いた。文学者の声が聞けるものでぼくの大好きなCDがある。小林秀雄の講演のCDだ。早川義夫さんもいちばん好きな本は本ではなくてこの音源だと書いてゐた。柳田國男、ベルグソン、伊藤仁斎、本居宣長などについて語り、学生からの質問に時に軽妙に、時に熱く答へていく。たとへばこんな言葉。「学問といふものはさういふ風に庶民のところに立脚しろとか しちやいかんとか、そんな事の講釈から始めたんぢやないんです。 真理つてものはかういふもんだつていふことを人に教へやうと する一人の人物が現れたんだよ。それが教育のもとなんだよ。 だからぼくは現代の教育についてもさういふ風に考へてます。 人間が出ることだと思つてます。教師が現れることだと思つ てます。どこに現れたつていいですよ。ぼくはきつとさういふ 人は現れてると思つてます。田舎でも、どこでも。」ぼくには正直、小林秀雄が書いたものよりこちらの方がわかりやすかつた。
2009.01.23
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昨年11月19日に、サッカーでハンドによるゴールを決めた選手の話を書きました。そのときこんなことを書いた。マンフレート・ブルグスミュラー(元西ドイツ代表)がブンデスリーガでGKのボールをはたき落してゴールしたといふ伝説があるのですが本当でせうか。これについて何かご存じの方はご一報を。これ、本当でした。『ブンデスリーガ85-86リーグ年鑑』といふビデオに収録されてゐた。85-86シーズンのドイツ・ブンデスリーガのベルダー・ブレーメン対1FCカイザースラウテルン戦。ブルグスミュラーはブレーメンです。(ドルトムントの印象が強いけど)背番号10番のブルグスミュラーは相手GKエールマンの持つてゐるボールを背後から手ではたき落して右足でゴール。明らかに手使つてます。しかしウエーバー主審はゴールを認めました。試合は2-0でブレーメン勝利。とんでもないゴールを決められたエールマンの試合後のコメント。「彼は手でボールをはたき落しました。明らかに反則です。」ブルグスミュラーのコメント。「ボールが足の前に落ちてきただけです。」すごいなあ。以下余談。マンフレート・ブルグスミュラーはブンデスリーガ通算447試合で213得点。ゲルト・ミュラー(365得点)クラウス・フィッシャー(268得点)ユップ・ハインケス(220得点)に次いで歴代4位の記録だ。そのわりに代表での印象がないですね。あとこの頃ブレーメンには日本の奥寺康彦が所属してゐました。ブルグスミュラーが手を使つてゴールした話も奥寺さんがある試合の解説で語つてゐたところからぼくは知つたのでした。
2009.01.22
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きのふの宣長の話のもうひとつ似たやうな話。中国で親が亡くなつた時、子が喪に服して絶食をするといふ習慣についても宣長は『玉勝間』で批判してゐます。宮城谷昌光の『晏子』には斉の晏嬰が父晏弱の喪に服して三年間粗末な小屋の中で粥だけを食べて暮らすといふ所がある。晏嬰は春秋時代斉の宰相で、主君に対して厳しい諫言をし続けた。司馬遷は『史記』で、彼の御者になりたいとまで書いた。(孔子はこの前の周公旦は尊敬してたけど同時代人の晏子に 対しては批判的な言葉が多い。)宣長の批判は以下のやうなものです。「うせにし親を、まことに思ふ心ふかくは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病などもおこりて、もしかはらず、なくなりなどもしたらむには、孝ある子といふべしやは、たとひさまでにはいたらずとも、しかいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、おやはさこそこゝろぐるしく思はめ、いかでかうれしと見む、さる親の心をば思はで、たゞ世の人めをのみつくろひて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ」その宣長ですが、自分の死に際しては葬儀や墓の形式について異常にこと細かく遺言してゐます。小林秀雄は『本居宣長』をこの遺言書の話から始めてゐますが、何故こんなに細かい遺言状を書いたのか大きな謎です。
2009.01.21
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1月13日に昔の人は記憶力が優れてゐたといふことを書いた。記憶力といへば南方熊楠の逸話を思ひ出しました。本屋で『和漢三才図会』を立ち読みして暗記し、帰宅しては写本にし、十歳から十五歳までの間に百五巻完成したといふ。一部分ならともかく全部やるとはすごいですね。五年間やりきつたといふその意志の強さにも感動します。
2009.01.20
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前回少しふれた周公旦の話を書きます。周公旦は周の文王の子で、武王の弟。武王の子の成王を補佐して周王朝の基礎を固めた人。後に生まれた孔子はこの人のことを大変尊敬してゐました。この人には有名な故事がある。優秀な人材を求めてゐた周公旦は来客があれば、洗髪中でも三度中断したり、食事中でも三度途中で吐き出したりしてまで会つたといふ。 『史記・魯周公世家』にあるはなし。三国時代の曹操の「短歌行」にも「周公吐哺、天下歸心」と出てきますね。「吐哺」といふのは食べかけで口に含んでいる食物を吐き出すこと。(唐代の詩人は「杜甫」)さういへば、渡哲也さんは石原裕次郎に初めて会つてあいさつしたとき、裕次郎が食事中の手を休めてイスから立つてあいさつしてくれたことに感動したと何かで言はれてゐた。が、本居宣長は『玉勝間』で周公旦の故事を批判してゐます。「いかに賢人を思へばとて、口に入たらむ飯を、呑いるゝまを、 またぬやうやは有べき、出迎へむ道のほどにても、のみいれむ ことは、いとやすかるべきを、ことさらに吐出して、人に見せ たるは、何事ぞや」なるほど。それはさうだ。ぼくは食事中に来客があつたら、モゴモゴ咀嚼しながら口を手で押さへて会ひますね。吉村昭の「食事の途中で」といふ随筆には食事中に電話がかかつてきた時や宴会の途中でスピーチを依頼された時などのケースについて書いてあり、おもしろかつた。吉村先生は相手を待たせてもゆつくり噛んでから応対すればいいのだといふ考へ方です。
2009.01.20
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きのふの本居宣長のはなしは、ある事柄が本のどこに書いてあつたかを忘れてしまふといふ内容でしたが、その事柄がそもそも何の本に書いてあるのかがわからないといふものもあります。『六代勝事記』にかういふ記述がある。昔周武王殷紂を打とするに冬天雲さへて雪降事高丈にあまりぬ。五車二馬に乗人門の外に来て王をたすけて紂をうつべしといひてさりぬ。深雪に車馬のあとなし。海神の天の使として来なりけり。しかうして討事を得たり。(濁点と句点はぼくが付けました。)周の武王が殷の紂王を討つた時雪が降つたと書いてゐる。戦ひがあつたのは牧野といふ場所。『史記』「殷本紀」及び「周本紀」には牧野の戦ひの時雪が降つたとは書いてない。『六代勝事記』はどこからこの話を得たのだらう。ちなみに宣長は周建国の功臣周公旦があまり好きではなかつたやうです。
2009.01.19
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1月13日に昔の人は記憶力が優れてゐたといふことを書いた。が、本居宣長の『玉勝間』を読んでゐたらこんなことが書いてあつた。「もとより物おぼゆること、いとゝもしかりけるを、此ちかき としごろとなりては、いとゞ何事も、たゞ今見聞つるをだに、 やがてわすれがちなるは、いといといふかひなきわざになむ」「ともし」は「乏し」。巻の四の、探してゐる事柄があつて、その本のどこに書いてあつたかを思ひ出せなくて口惜しいといふやうなことが書いてある所にある。ぼくは本を読んでもすぐ忘れてしまふので、あの宣長もさうだつたと知つて何だか安心したのでした。
2009.01.18
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1月5日に『新村出・柳田國男・吉村冬彦・斎藤茂吉集』といふ本を紹介しました。改造社の現代日本文学全集の一冊として刊行され、ぼくは古本屋で買つた。四人が書いたさまざまな随筆が収めてあります。これは昭和6年8月に出た本なのですが、四人の年譜が付いてゐて新村出と斎藤茂吉の年譜が昭和6年の出来事まで書いてあるのに、柳田國男は大正8年、吉村冬彦(寺田寅彦)は大正7年までしか書いてない。何でだらう。気になる。
2009.01.18
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昨年、「びわ湖検定」のことを5回書きました。びわ湖検定・その1びわ湖検定・その2びわ湖検定・その3びわ湖検定・その4びわ湖検定・その5今日その結果が送付され、ぼくは2級に合格してました。点数は90点でした。問題が難しくて自信がなかつたのでうれしかつたです。これからも琵琶湖と滋賀のことを大切におもつて勉強していきたいです。
2009.01.17
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「先生」といふ言葉のはなしの6回目です。上野誠先生の『万葉びととの対話』から。上野先生は中国に行つたとき、「可以先生」といふあだ名を付けてもらつた。可能とかできるとかいふことを表す「可以」といふ言葉がある。中国語の苦手な先生は、席に座りたい時や土産物の値段交渉の時など様々な場面でで「可以、不可以」(できますか、できませんか)を連発してゐたので「可以先生」といふあだ名で呼ばれるやうになつたさうだ。このあだ名は一種の揶揄なのですが先生はうれしかつたといふ。あだ名はその人に対する認知のサインだからだ。上野先生は万葉集に見られる揶揄の歌を解説した上で、さういふ揶揄といふものもあるのだと書かれてゐます。
2009.01.17
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1月6日の回で大佛次郎のこんな言葉を引いた。「僕は昭和のはじめ頃だったが、鎌倉由比ヶ浜で夏帽をかむった 芥川龍之介に何度もお目にかかったのだが、ついに話しかけて 知ってもらうこともしなかった。」これはいつのことなんだらうとおもひました。「昭和のはじめ頃」といつても昭和元年は一週間で、芥川龍之介が亡くなるのは昭和二年七月二十四日。大佛次郎はこの八か月の間に芥川を目撃したことになる。「夏帽」といふのは芥川生前最後の写真といはれる映画の中でかぶつてゐるあの帽子のことだらうか。浜辺で夏帽をかぶるといふのは普通に考へたら夏の話だらう。断定はできませんが。どちらにせよ大佛次郎は亡くなる直前の芥川を見たのですね。
2009.01.16
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1月13日に柴田宵曲の「書物は何よりも人間に似てゐる」といふ言葉を引きました。それで思ひ出したのがウォルト・ホイットマンの詩の一節でした。「仲間よ、これは本なんてものぢやない、これに触れるものは 人間に触れるのだ」日本でホイットマンを最初に紹介した人は誰か。木村毅の『比較文学新視界』に書いてあつた。夏目漱石の「文壇に於ける平等主義の代表者Walt Whitmanの詩について」が明治25年。高山樗牛の「ワルト・ホイットマン」が明治31年5月。内村鑑三の「檪林集」のホイットマン論が明治42年。といふことは漱石が一番早いのかと思つたら、坪内逍遥の「比照文学」と題した講義の筆記に「おるとふいっとまんが云ヘルガ如ク」といふところがあるのだといふ。そしてこの講義は少なくとも明治23年以前なのださうだ。といふことは逍遥が一番早いやうだ。ぼくはホイットマンの『草の葉』をよく読んだ。(日本語訳で)「来たるべき詩人たち」とか「わたし自身の歌」とか。「わたし自身の歌」はものすごく長い詩で52章まであるのです。その中の一節。「一つを欠けば二つとも欠くのだ、そして見えないものは 見えるものによって証拠立てられる、 やがてそのものは見えないものになって順送りに確証を 受け取る。」
2009.01.15
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1月9日の「鍋で顔を洗ふ」、見つかりました。見つかつたといつてもぼくの記憶違ひだつたのだが。それは『稲村雑談』の志賀直哉が松江に住んでたときの話にあつた。やつぱり志賀直哉だつたのだ。住んでゐたのは大正3年の約3ヵ月間。志賀直哉は東京から友だちが来たりすると「金だらひ」を七厘の上にのせて鍋の代りにした。すき焼きするときもジャガイモを煮るときもこの金だらひ。「洗面器を鍋に使ふ時はさほどきたないと感じなかつたが、 今度それを又洗面器に使ふときには却々きれいにならないで 困った。脂がベトベトして、却々おちないのだ。」つまり、ぼくが鍋で顔を洗つたと記憶してたはなしは、洗面器を鍋にした話だつたのである。全く逆ですね。いい加減なものだなあ。言ひかえれば、鍋代りにした洗面器で顔を洗つた話だつたのである。
2009.01.15
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1月11日の「燃やした人々」の追加。笠間書院から無料でもらへる冊子『リポート笠間 No・49』の「【座談会】徒然草とその時代」の中で島内裕子先生が、「例えば、文学者なんかでも草稿を全部必ず燃やせとかいう人が いますよね。中島敦が確か家族にそう言っていたと思いますが。」と発言してをられました。ぼくはこれ初めて聞いた。
2009.01.14
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前回、失はれた原稿のはなしを書きました。原稿にならなかつた作品といふものもあります。それは頭の中の作品とでも言ふものだ。内田百間は亡くなる数日前の芥川龍之介から小説の案を聞く。が、聞いた当時は筋を覚えてゐたのだが、時が経つにつれて忘れてしまひ、自分でそれを書き上げておけばよかつたと悔やんでゐる。「絨氈、モデルの女、画工、夢の中の殺人、モデルの失踪、 私の記憶に残つてゐる要項はそれだけである。」(内田百間『河童忌』)?これは芥川の『夢』ですよ。主人公は画工でモデルの女も絨氈も出てくる。画工は女を絞め殺す。それは夢の中の出来事だつたのだがモデルの女は次の日から来なくなる。5つのキーワードがすべてあてはまる。どういふことだらう。この作品は書かれてゐる。『夢』が書かれたのは大正15年11月。芥川が自殺したのは昭和2年7月24日。百間が芥川から話を聞いた正確な日付はわからない。「私は芥川君の死ぬ二日前に会つてゐる。」「その何日か前に会つた時」である。「何日か前」だからまあ7月と考へていいだらう。芥川は百間にこんな作品を半年前に書いたんだとあらすじを話したのではないだらうか。それを百間はこれから書く小説の話だと記憶違ひをしてゐるのではなからうか。さう考へるのが一番自然のやうな気がする。百間は『夢』のやうに夢と現実が交錯してゐたのだらうか。
2009.01.14
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前回のつづき。鶴ヶ谷真一の『書を読んで羊を失う』に「失われた本」といふ項がある。書店に出まはつて焼けてしまつた本として以下の本が挙げてある。森鴎外訳の『ファウスト』第一部内田百間の『冥途』内藤鳴雪の『詩経俗解』こんな話もある。石川雅望は文政十二年の大火から逃れる際、やむなく『雅言集覧』の草稿を道に捨てる。が、屋代弘賢が筆写したものがあり、刊行することができた。失はれた本を驚異的な記憶力によつて復元した話もあつた。正徹は自宅の火事で六万首の歌稿を失ふ。が、二万首を思ひ出して『草恨集』を編んだといふ。横山胡山は安政五年の大火で千余首の詩稿を失ふ。のちに百数十首を記憶によつて復元し『火後憶得詩』として刊行した。宮本武蔵は『十智』といふ書を焼き捨てた。が、一度だけ読む事を得た古橋惣左衛門といふ高弟が全文を諳んじて同じ家中の士松井市正に伝へて残される。のちにこの本は森銑三によつて確認されたといふ。すごい記憶力だ。昔の人は今の人より記憶力がすぐれてゐた。古くは稗田阿礼なんかもさうだし幸田露伴や南方熊楠や柴田宵曲も読んだものをしつかり覚えてゐる。(柴田宵曲は大正二年の火事で書きためてきた句を失つたが、 記憶に残るいくつかを集めて『句集 柴栗』を編んだ。)記憶力の乏しいぼくとしてはうらやましい限りである。
2009.01.13
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一昨日「燃やした人々」を書いた。今日は消失した本や原稿のことを書く。古くは秦の始皇帝の焚書坑儒といふものがあつた。『史記』「秦始皇本紀」日本では大化の改新のとき蘇我蝦夷は邸宅に火をかけ自殺。『天皇記』は焼失した。『国記』は船史恵尺(ふねのふひとえさか)が持ち出したといふが、現存してゐない。一条兼良は応仁の乱の戦火によつて書庫「桃花坊文庫」が焼失し、『新玉集』二十巻一万句も挫折してしまふ。本居宣長もこのことを『玉勝間』巻九に書いてゐる。ルイス・フロイスの『日本史』は原稿がマカオで焼失。写本がスペイン・ポルトガルに散逸した。徳川吉宗は新井白石の膨大な政策資料や幕府に献上した著書などを廃棄したといはれる。藤沢周平『市塵』はこの話を取り上げてゐる。松平定信の寛政の改革で、林子平「海国兵談」の版木は没収。(写本が秘かに伝はり残つた。)水野忠邦の天保の改革で、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』の版木没収焼却。為永春水の著書絶版、版木没収焼却。『蘭学事始』の原稿は安政大地震の大火で焼失したと福沢諭吉が再版本によせた序文にある。薩摩藩主島津重豪が編纂させた『成形図説』は版木が二回焼けた。富樫広蔭は文久三年に住宅が全焼し原稿の多くも焼失。橘曙覧の遺稿は明治33年福井の大火で焼失。国木田独歩 明治40年1月、刊行予定の原稿が印刷所の火災で焼失。石川啄木『面影』明治40年函館大火で函館日日新聞社が燃える。最初の小説「面影」を含む『紅苜蓿』八号の原稿全てを焼失した。三遊亭円朝の原稿、日記などはすべて後援者の藤浦三周が預かつてゐたが、関東大震災によつて焼失した。岡本綺堂は関東大震災で日記、原稿、蔵書を焼失。淡島寒月は関東大震災で江戸の貴重な資料を全部焼失した。金田一京助は関東大震災で『ユーカラの研究:アイヌ叙事詩』の原稿を焼失する。斎藤茂吉は大正13年青山脳病院の火災で原稿や蔵書を焼失。渡欧中のことだつた。萩原朔太郎『定本萩原朔太郎詩集』は昭和12年印刷所の火事で刊行中止。堀辰雄は昭和12年軽井沢の旅館の火災により原稿などを焼失。堀は火災があつた時は川端康成の別荘にゐた。宮澤賢治の『農民芸術概論』の原稿、『春と修羅』の一部、『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』終章の原稿などは花巻大空襲で焼失した。太宰治『雲雀の声』は空襲で焼失。あとで改作し『パンドラの匣』として刊行。内田百間が持つてゐた漱石の原稿(鼻毛が付いたやつも)空襲で焼ける。(漱石の原稿類のほとんどは小宮豊隆が東北大学に移してゐる。)折口信夫『古代感応集』空襲で原稿焼失。昭和23年書き直して刊行。中原中也「ダダの手帳」戦災で焼ける。(大岡昇平『中原中也』)森銑三 戦災で多くの資料を失ふ。小林多喜二の原稿・書簡の多くは弟小林三吾を始めとする保管者宅が空襲で被災し焼失。早乙女貢の処女作『暁暗』の原稿は出版社が紛失した。森銑三と柴田宵曲の『書物』では柴田宵曲が「焼けた書物」といふ項を書いてゐる。復中に残る暑さや二万巻 子規を最初に引いて、鴫田吾空の蔵書二万巻が焼けた話を皮切りに、橘曙覧の遺稿、佐藤成裕『中陵漫録』、秦の始皇帝の焚書、梁の元帝の焚書、内藤鳴雪、志賀直哉『雨蛙』、ゲーテ、内田魯庵、胡元瑞と『張文潜集』、そして宵曲自身の話が出てくる。そして宵曲は「書物は何よりも人間に似てゐる」と書いた。
2009.01.13
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昨日は「燃やした人々」といふのを書いた。それとは逆に、何らかの過失や災害で原稿が燃えてしまふことがある。しかしそのやうな苦難に遭いながらもそれを完成させた人々がゐます。ニュートンは飼ひ犬のダイアモンドが燭台をひつくり返したために執筆中の科学論文が灰になつてしまつた。しかし彼は犬を叱ることもなくまた同じ論文を書いた。 カーライルは『フランス革命史』何千ページにもおよぶ原稿をミルに渡してゐたが、ミルの家のお手伝ひが火のたきつけにして燃やしてしまつた。しかしカーライルはもう一度書き直して完成させた。 内村鑑三『後世への最大遺物』にも紹介されてゐるはなし。神沢杜口は『翁草』の草稿の大半を天明八年の大火で焼失する。しかし79歳にして再び書き起こし、3年後に完成した。与謝野晶子は『源氏物語』宇治十帖の手前まで現代語訳した草稿数千枚を、大正12年の関東大震災で焼失する。しかし一からやり直し、またもさらに十七年かけて昭和14年『新新訳源氏物語』として完成させた。『大漢和辞典』は昭和20年の東京大空襲により全巻の組版と資料と出版社大修館書店が焼失。しかしまたやり直し、昭和35年全13巻が完結した。編纂者諸橋轍次は右目を失明するなどの困難を経て78歳になつてゐた。『辞苑』も昭和20年の東京大空襲により印刷所と倉庫が被災し、数千ページ分の活字組版と印刷用紙が焼失する。しかし版下になる清刷りを印刷保管していたお陰で編集作業の成果は残り、昭和30年、改訂版の『辞苑』は『広辞苑』として発刊される。そして昨年70数年をかけて『江戸時代語辞典』が刊行されました。著者の潁原退蔵は10万枚以上の語彙カードを防空壕に保管して守り、後を引き継いだ弟子たちによつてついに完成されました。
2009.01.12
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昨年12月27日に「燃やされた手紙」といふのを書きました。手紙以外にも自分の原稿などを燃やした、或は処分した人、といふのがゐるなあとおもひました。谷川士清は死の前年草稿類を土中に埋めて塚を建てた。これを反古塚といふ。ゴーゴリは『ガンツ・キューヘリガルテン』の酷評を受け、本を回収、焼却した。ゴーゴリは『死せる魂』の第二部を焼いた。晩年狂乱状態に陥り、ペチカに原稿を投げ入れたといふ。森鴎外は『一夜』を焼き捨てた。北村透谷は自費出版した『楚囚の詩』を回収し廃棄した。ドストエフスキーは『罪と罰』を途中まで書いたところで焼いて書き直した。ドストエフスキーは1871年国外旅行から帰国する際、『白痴』『永遠の夫』『悪霊』の原稿を妻に燃やさせた。ロシア国境で没収されることをおそれて。夏目漱石は二十三四の時に書いた小説十五六枚を「馬鹿気てまづいもの」で「あまり恥かしいから」処分した。(明治39年2月15日森田草平宛て書簡より)内田百間は漱石の書斎に書き潰しの原稿が積み重ねてあるのを見て、捨てない内に貰つてきてゐる。谷崎潤一郎は秘書の末永泉に『細雪』の書き損じ原稿を渡し燃やさせた。末永は風呂の竈で燃やしたといふ。末永泉『谷崎潤一郎先生覚え書き』にあるはなし。北條民雄は川端康成に送り返された原稿を破棄した。吉村昭は『桜田門外ノ変』を二度廃棄した。二度目は252枚。エッセイ『ひとり旅』に書いてある。上田秋成は原稿を井戸に捨てた。これはあとで誰かが拾ひだしてゐる。現存する原稿に水で濡れた跡がある。大江匡房は死ぬ前に日記(『江記』)を焼いた。トルストイの妻ソフィア夫人は夫の日記を焼いてしまひたい、と日記に書いた。(焼かれずに済みましたが)『風と共に去りぬ』のマーガレット・ミッチェル。夫のジョンは彼女の遺志によってすべての原稿、日記などをアパートの裏庭で焼いた。一方、樋口一葉の二つ年下の妹邦子は姉の遺言に反して、日記草稿、全て姉の書き残したものを大切に保管した。(一葉の日記のことは昨年12月27日にすこし書いた。)カフカは死に際して友人のマックス・ブロートに自作の一切を焼き捨ててくれるやうに頼んだ。ブロートはこの遺言を守らず彼の書いた物を残した。夏目漱石は正岡子規の『七草集』に付けた自分の漢詩は「餘り大人気なく小児の手習」だといつて「一刀両断に切り棄てゝ」くれるやうに頼んだ。が、これは残つてゐる。ちなみにこれは「漱石」と書いた最初の手紙に出てくるはなし。(明治22年5月27日正岡子規宛書簡)寺田寅彦は漱石から高等学校時代にもらつた手紙をみんな燃やしてしまつた。中谷宇吉郎の聞いたはなし。江戸川乱歩は自分が書いた手紙の写しをとつて保存してゐたが晩年になつて焼いた。石原吉郎はシベリア抑留中につけてゐたノートをシカトール(左官)として働いてゐた建築現場の建物の壁に塗り込め、後は焼却した。日本に持ち帰れなかつたため。プロ野球の野村克也監督は大学ノートにして50冊分もの「野村メモ」をつけてゐた。しかし南海の監督解任の際に、すべて燃やした。太宰治の『東京八景』にはこんな描写がある。「そのとしの晩秋に、私は、どうやら書き上げた。二十数篇の中、 十四篇だけを選び出し、あとの作品は、書き損じの原稿と共に 焼き捨てた。行李一杯ぶんは充分にあった。庭に持ち出して、 きれいに燃やした。」これは実際には焼いてないらしいですね。同じく太宰の『乞食学生』は原稿をポストに投函する場面から始まるが、「その下手くその作品を破り捨て、飄然どこか山の中にでも雲隠れ したいものだ、と思うのである。」と書く。太宰は実際にはやつてないけどさういふ衝動にかられる時があつたのかもしれない。浅田次郎は司馬遼太郎の『韃靼疾風録』を読んで清代を描いた自分の作品を燃やしてしまひたい衝動に襲はれたといふ。『蒼穹の昴』のことだらう。以下ご存じの方はご一報を。永井荷風にも原稿を燃やした(或は処分した)はなしがあつたと記憶するのですがいまちよつと見つかりません。謡曲「鉢の木」と同じパターンの話で、薪の代りに紙(歌稿?)を燃やして客人をもてなす話があつたと思ふのですが何の本にあつたか思ひ出せません。
2009.01.11
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前回、漱石先生は洒落を好まなかつたといふ内田百間の話を引いた。漱石の洒落については柴田宵曲が『明治の話題』で作中で洒落をあまり使はなかつたと書いてをり、『吾輩は猫である』の「づうづうしいぜ、おい」「Do you see the boy か」を数少ない例として挙げてゐる。
2009.01.10
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前回は志賀直哉の鍋のはなしでした。この間テレビで落語を見てゐたら桂歌丸師匠が鍋が出てくるはなしをやつてました。そのなかで、「あなた、なべそんなこと言ふの?」と「なべ(鍋)」と「なぜ(何故)」を引つ掛けてゐました。じつはこの洒落は夏目漱石も言つてゐるのです。内田百間の『無絃琴』の「虎の尾」。「洒落を云ふことを、先生はきらはれた。」その漱石先生が洒落を言ふのを百間は聞く。夏目家で夕飯(おそらくすき焼き)を御馳走になつたときだ。漱石先生はかう言つたといふ。「君達はなべ食はないか。」
2009.01.10
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前回は志賀直哉と鍋の話が出てきました。志賀直哉と鍋といへば、たしか志賀直哉が鍋で顔を洗つたはなしがあつたと思ふのだがそれがどこに書いてあつたかわからない。何だつたかなあ、あれは。食べ物に関する文章の中だらうか。志賀直哉と食べ物といへば、吉村昭は『私の引出し』の中で、『暗夜行路』の中に食べ物についての叙述が全くと言つていいほどないことから、「氏は味覚に無関心だったのではなかろうか。それに、氏の 作品から察すると、酒も特に好きではなかったようだ。」と書いてゐる。鍋の話はぼくの記憶違ひで、志賀直哉ではなかつたのかもしれない。ほかの作家だとしたら誰だらう。武者小路実篤?いや、それはない。
2009.01.09
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前回は志賀直哉と泉鏡花の話でした。「私は敬意を持てば尚、個人的交渉を持つ事が億劫になる 方であつたが」と、『泉鏡花の憶ひ出』で書いてゐたわけですが、そんな志賀直哉にもすすんで「個人的交渉」を持つた人がゐます。志賀は「私が影響を受けた人々」として、「師としては内村鑑三先生、友としては武者小路実篤、身内 では私が二十四歳の時、八十歳で亡くなつた祖父志賀直道」 を挙げてゐます。その内村鑑三のところに志賀は明治34年から約七年間通ひ、41年ごろから行かなくなる。「先生はまた来たくなつた時は来てもいい、といはれたと記憶する。」(『内村鑑三先生の憶ひ出』)『内村鑑三先生の憶ひ出』には、内村鑑三の親友、大島正健のことが紹介されてゐます。大島正健とこの間の大佛次郎とは遠い親戚です。(大佛次郎のお兄さん野尻抱影が大島の娘と結婚してゐる)内村鑑三と大島正健。京都で内村にすき焼きをごちさうしたエピソードがある。この時は不敬事件で激しい非難を受けてゐた頃。すき焼きを平らげた内村は、「大島君、この残りの汁も飲んでよろしいか」と鍋を持ち上げて汁も全部飲み干したといふ。志賀直哉もすき焼きが好きだつたみたいですね。それから、奈良県の若草鍋といふのを命名したのは志賀直哉なんですね。ぼくは奈良に居たことがあるのに食べた事がない。
2009.01.09
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志賀直哉の『泉鏡花の憶ひ出』にこんな記述がある。「私は敬意を持てば尚、個人的交渉を持つ事が億劫になる 方であつたが」これは前回の赤木格堂の漱石に対する気持ちに似たところがありますね。志賀は尾崎紅葉の葬儀に付き従ふ鏡花を遠くから見た経験をまづ書いてゐる。そしてその後六回会つたことがこの随筆からわかる。あの有名な将棋を指して飛車と角の位置を間違へてた逸話は二度目に会つたときだ。ちなみに志賀直哉と漱石は東京帝大の英文科の講義の時を除くと三回。西片町へ一度。これは科目の修了証をもらひに行き玄関で。そして牛込の漱石山房へ二度。芥川が「志賀君と先生」で書いた出会ひはおそらく二度目のとき。芥川は「先輩の志賀直哉君がある日先生をはじめて訪ねまして」と書いてゐるけれど。志賀直哉と鴎外は、「鴎外さんとは個人的には知らなかつたが、精養軒の会で一度 会つた事がある。」と『漱石と鴎外』にあるので一度。
2009.01.08
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一度も会はなかつた人の中には敢て会はなかつた人といふのもゐます。『漱石全集・別巻』「漱石言行録」には漱石の思い出話がたくさん収められてをり、そのほとんどは漱石に会つたことのある人々の文章なのですが、赤木格堂の「漱石と子規」は違ふ。「私は漱石先生を知る事最も早く又一時はお互に目鼻の間に住み 乍ら一度も直接会見した事がありません。」赤木格堂は子規の弟子だつたから子規が語つた漱石のはなしを書いてゐます。格堂は岡山の出身といふことで子規に平賀元義の事を紹介したりもしました。「夏目の家へ出入せる友人が幾度となく誘ひに来ましたけれども、 其度びに私は雪嶺翁や夏目さんの様な清い先輩は遠くで崇拝して 居り度い、生じつか会ふて敬意を殺がれる様な事があつては却て 不愉快だと何時も愚にもつかぬ理屈を並べて熱心な勧めを撃退す るのを常としました。」尊敬する人だからこそ会ひたくない、かういふ距離の置き方もあるのだ。昨日の大佛次郎とはまた違ふ考へ方ですね。高倉健さんのエッセイ『あなたに褒められたくて』にもこれと同じやうなことが書いてあつたのを思ひ出しました。あと『渡哲也 俺』といふ本の渡哲也さんと健さんとの交流について書かれたところにもそれに似たことが書いてありました。
2009.01.07
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宮地佐一郎の『大佛次郎私抄』に大佛次郎のこんな談話が載つてゐる。『君、若いときは、機会があれば、これという人に会っておきなさい。 実際の尊敬する人に会っておくことだ。僕は昭和のはじめ頃だったが、 鎌倉由比ヶ浜で夏帽をかむった芥川龍之介に何度もお目にかかったの だが、ついに話しかけて知ってもらうこともしなかった。やはり人は、 じかに出会うことだ、知ることだ』『老人には自分から進んで、早く会っておきなさい。今日後悔してい るが、幸田露伴が若い僕の作品を褒めてくれた際、会う機会もあった のに、相手が大きかったので、つい億劫になって会わずしまいだっ たな』大佛次郎は二人の文豪に対面できなかつたことを悔やんでゐる。若い宮地氏には後悔をしてもらひたくなくてこのやうな言葉をかけたのだとおもふ。
2009.01.06
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柳田國男と寺田寅彦。この二人は昭和八年の秋に会ふはずであつた。それも柳田と寅彦と斎藤茂吉と新村出の四人で。この四人は昭和六年に改造社が『新村出・柳田國男・吉村冬彦・斎藤茂吉集』といふ本を出した縁があるといふことで、四人集まつて話をしようぢやないかと新村出が柳田に手紙で持ちかけたのだ。寅彦・茂吉からも気持のいい同意の返事が来たといふ。約束の日は十月下旬。ちなみに四人を年齢順に並べるとかうなります。柳田國男・明治8年生まれ新村出・明治9年寺田寅彦・明治11年斎藤茂吉・明治15年ところがこの会談は実現しなかつた。茂吉の友人である画家平福百穂が急病になり、茂吉が秋田県横手へ駆けつけることになつたためである。数日後百穂は亡くなり、再び四人が集まる話を言ひ出すことができないままに疎遠になつてしまつたと柳田はいふ。「たとへば百穂君はまだ若かつたのだから、ほんの一年か二年でも 達者で居てくれるか、或は新村君が数週間も早く、あの手紙を書く 気になつてくれたら、記念すべき四人の会は、きつと成立つて居 たのである。」(昭和二十五年版寺田寅彦全集月報・柳田國男『俳諧と俳諧観』から。)人と人との縁といふのは不思議なものだなあと考へさせられる。全く予期せず出会ふこともあれば、約束までしてて会へないこともある。実現してゐたらどんな会談になつてゐただらう。柳田は寅彦に会つたら俳諧のことを聞いてみたかつたといふ。
2009.01.05
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きのふの『古語雑談』の「話と放し」の項で佐竹昭広先生は、「『冗談』という語は『雑談』(ざうだん)から発生した という説を出したのは柳田國男であった。(『不幸なる芸術』)」と書いてをられます。「ゾウダン」から「ジョウダン」?『不幸なる芸術』なら読んだことあるけど柳田國男そんなこと書いてたかなあ、と思ひつつ探してみる。『不幸なる芸術』に収められた「ウソと子供」にあつた。柳田は「ウソ」といふ言葉の意味の変化を論じてゐる。「(略)『ウソおつきなさいよ』の代りに『ごじょうだんでしょう』 を用いるようになった。これに冗談という文字などを当ててむだ口 のことと解する人もあるが、そんな日本語があろうはずはない。 これはまったく以前のゾウダンすなわち雑談から出ているので、 少しでもこんな場合にあてはまる語ではなかった。(後略)」言つてますね。すでに定説となつてゐるかのやうな書き方だ。でも何故さうなのか詳しい論証は書いてない。語源辞典をいくつか見ると、柳田の説はちやんと載つてゐたけど、他に「冗談」は雑談の意味の「常談」からとか「笑談」からなどの説も書いてあつて、決め手はないやうだ。佐竹先生は柳田の説を紹介した上で、立証することは容易ではないと述べてゐます。
2009.01.04
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前回其角の『雑談集』が出てきました。柴田宵曲『蕉門の人々』岩波文庫版では「ぞうだんしゅう」とふりがながつけてある。※これ「ぞうたんしゅう」ぢやないでせうか。鎌倉時代に仏教説話集『雑談集』がある。これは「ぞうたんしゅう」とよむ。佐竹昭広先生の『古語雑談』は「こごぞうたん」とよむ。この本に「雑談」の項がある。それによると、現在では「雑談」を「ザツダン」と読んでゐるが、昔は「ザウタン」と読んだ。十七世紀初頭、キリシタンの宣教師たちは「雑談」をローマ字で「Zotan」と記録してゐる。佐竹先生は節用集などを手掛かりにいつごろザウタンがザツダンに変化したのか探つていく。寛延三年『壊宝節用集綱目大全』では「ザウタン」だが「ゾウ」と発音されてゐたはずである。文政元年『倭節用悉皆袋増字』で「ザウダン」に。1867年ヘボン編『和英語林集成』も「Zodan」。明治二十三年『増補東京節用集』で「ザツダン」。これがたしかならば、其角の『雑談集』は元禄四年成立だからまだ「ザウタン」だ。そして明治の前半に「ザツダン」になつたといふことがわかりますね。雑「ザウ」→「ザツ」このやうな変化をした語はほかにもあります。立「リウ」→「リツ」(立案、立論)以下の語は小さい「ッ」のままの例。納「ナウ」→「ナッ」(納得、納豆)十「ジウ」→「ジッ」(十本、十回)甲「カウ」→「カッ」(甲冑)あと「談」を「タン」と読んだケースを「雑談」以外になんかあるかなあと考へましたがわかりませんでした。『古語雑談』は昭和五十年連載開始だけど「こごぞうたん」。佐竹先生は昔の読み方にならつたわけだ。※このふりがなをつけたのは柴田宵曲ではないはずです。 歴史的仮名遣ひで書いてた人だから。
2009.01.03
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柴田宵曲の『蕉門の人々』にあるはなし。金沢の人小杉一笑は蕉門に入りながら師の芭蕉に会ふ機会がなく元禄元年十一月六日に三十六歳で亡くなつた。芭蕉が『奥の細道』の旅の帰りに北陸道を通つて金沢に立ち寄るのは元禄二年七月十五日である。一笑は病床にあつて父の十三回忌に歌仙の俳諧を十三巻つくり孝養をしようと思ひ立ち、八巻まで成し遂げたところでその生涯を終えたと其角の『雑談集』にある。芭蕉は一笑の墓をとむらひ次の一句をよむ。塚も動け我泣声はあきのかぜ『奥の細道』により一笑の名は天下に知られることとなつた。宵曲は芭蕉がこのやうな強い言葉で哀悼の意を表したわけを詳しく書き、「一笑は決して不幸な人ではなかつた。その点は彼自身も 恐らく異存ないことと信ずる。」と結んでゐる。
2009.01.03
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昨年12月22日に「一度しか会つてゐないひとびと」といふのを書きました。その一方で、会ひさうでついに一度も会はなかつた人といふのもゐるわけです。夏目漱石と魯迅。年は漱石の方が13歳年上です。明治39年12月27日、夏目漱石は本郷区西片町十番地ろの七号に転居してくる。ここには明治40年の九月まで住んでゐました。その約半年後。魯迅は明治41年4月、本郷区西片町十番地ろの七号に移る。漱石が住んでゐた家だ。魯迅は日本の作家では特に漱石を愛読し、関心を寄せてゐた。『藤野先生』に『クレイグ先生』の影響を見る人も多い。魯迅は明治42年8月に帰国したため二人が会ふことはついになかつた。日本と中国を代表する文豪が会つてゐないのは残念だけど、会つてゐなくても魯迅のなかに漱石は入つてゐるのだ、とおもふ。
2009.01.02
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謹んで新年のごあいさつを申し上げます。本年もどうぞよろしくお願ひいたします。詩人石原吉郎は昭和四十九年の年賀状の真ん中に次の詩句のみを書いた。「名称」といふ詩の末尾の二行。ユーカリはそのみどりを遂げよぼくも今年はそんな感じの賀状にしたかつたのですが、いいのが思ひ浮かばず断念しました。
2009.01.01
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