遊心六中記

遊心六中記

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません
2022.06.17
XML
カテゴリ: 観照

龍谷ミュージアムで春季特別展を鑑賞後、すぐ近くにある 風俗博物館 に行きました。

4月から始まった展示 「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」 です。
堀川通の東側に建つ 「井筒左女牛ビル」5階に風俗博物館があります
龍谷ミュージアムから数十m北にあるビルです。


5階でエレベーターを降りると、 まず最初に目にするのが、このシーン です。
1月7日の節句は「人日の節句」 と称されたそうです。 (資料1)
1月7日に「 七草粥 (ななくさがゆ) 」を食する習慣と言えばわかりやすくなり、身近なものとして結びついてくるでしょう。

そこで、「 五節句 」です。
私たちが知るこの五節句は、江戸幕府により年中行事が整備されて、公的な行事・祝日としてその内容が定められたそうです。
正月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日 が「五節句」です。
そのルーツになるのが、奈良時代の『 養老令 』。ここに季節の変わり目を祝う日「 節日 」が定められています。 正月元日・正月7日・正月16日・3月3日・5月5日・7月7日・11月の大嘗祭(新嘗祭) の日が「節日」に該当します。
節供 」という言葉が使われるようになり、行事そのものが「節供」と呼ばれるようになったそうです。江戸時代に、 「節供」が「節句」と書かれるように なったとか。季節の区切りという意識から節句になったそうです。(資料1)

時康親王(のちの光孝天皇)
『百人一首』に光孝天天皇の歌が採録されています。第15首です。
君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ
この歌に詠まれている 「若菜」は、現在でいう「春の七草」 に相当します。
春は新春をさし、旧暦1月は新春です。季節的に雪が降っていてもおかしくはありません。
光孝天皇は55歳の時、884年に即位し、887年に退位された天皇です。 (資料2)
時康親王が天皇になれたのは、政界の有力者藤原基経が強く推薦したからだとか。なぜか。「政治の実権を握りたい基経には、彼のおとなしい性格がコントロールしやすく好ましいと判断されたらしい。」 (資料3)
光孝天皇は在位4年で崩御されます。その在位中に基経は実質上の関白になります。
皇位を継承するのは宇多天皇です。

1月7日に「七草粥」を食して無病息災を祈る習慣が庶民にまで広まったのは江戸時代以降 だそうです。その原形は平安時代に溯るということに・・・・・。 (資料3)



采女 (うねめ) 」が若菜を摘んでいます。各種の若菜が地に散在しています。

この時代の若菜摘みは、 正月7日の「人日の節句」に 供若菜 (わかなをくうず) 」という年中行事として行われました。 (資料1)


「春の七草」がパネルで 示されています。
『源氏物語』の注釈書である 『河海抄』
せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七種
と指定したそうです。なお、二、三種について違う草の名を指定して七草にしている事例もあるようです。 (資料4,5)
ルーツをたどると、七種が確定していたわけではなさそうです。

東宮・道康親王(のちの文德天皇)

ともに臣下 ですが、 左側は位階が五位 背中を見せているのは四位 です。
 東宮の斜め左前に坐っている 臣下 ​二位​
時康親王の右斜め背後に、 文德天皇の東宮時代という設定 で、幕を巡らした一画に 膳部が整えられた儀式の場面 が具現化されています。


この場面全体は、絵画で使われる「 異時同図法 」を利用しています。
文德天皇は第55代で在位期間は850年~858年です。一方の光孝天皇は第58代で在位は上記のとおりですから、「若菜摘み」⇒「七種粥(ななくさかゆ)」⇒「人日の節句」という風に、時間の流れを溯らせているようです。

そこで、入手した資料をきっかけに少し学習したことも加えて、ご紹介します。
まずは、「 人日の節句 」から。
中国の『荊楚 (けいそ) 歳時記』に「人日」が載っている そうです。そこには、正月1日を鶏の日とし、狗 (いぬ) ・猪 (いのしし) ・羊・牛・馬がそれぞれ続きの日にあてられ、 7日が人 、8日に穀があてられました。1~6日は、それぞれの日にその動物を殺さない。 人をあてた7日には刑罰を行わない ことになっていたそうです。人は万物の霊長なので、この日を 霊辰 とも言うそうです。これが「人日」の由来とか。 中国の人日の習俗は漢代からあった と言います。 (資料1,6)

手許の別の歳時記を参照しますと、「人日」を季語に掲載し、「東方朔の古書に『正月一日は鶏を占ひ、二日には狗を占ひ・・・・・七日には人を占ひ、八日には穀を占ふ』とあるのによる」と説明されています。 (資料7)

この「人日の日には 7種類の若菜の羹 あつもの 、熱い汁物)を食べ、春に芽吹いた七草の良い気をいただき 邪気を払う (資料1) という儀式を行ったと言います。この中国の風習が公家社会に取り入れられました。 七草を粥に入れて食するようになるのは室町時代以降 だそうです。
一方、「七草粥」とは全く関係なく、 正月15日 には疫病除けに ​7種類の雑穀粥 を食べる習慣 がありました。「米の他、粟 (あわ) 、黍 (きび) 、胡麻 (ごま) 、小豆 (あずき) などの 穀物をいれた粥を食すると1年の邪気を払う (資料1) とされていたそうです。
『宇多天皇記』には、他のいくつかの歳時とともに、この民間の行事を宮中の歳時として取り入れるように指示されたとされています。 (資料1)

この『七種』が「七草」と読めることから若草の七草と結びつき、現代に伝わる『七草粥』となっている (資料1) これが「七草粥」のルーツという次第。
手許の複数の歳時記を参照すると、季語としては「七種粥」で掲載されています。 (資料6,7)

展示に対し説明パネルが置かれています。そこには東宮と一緒に七種粥を食する儀式に列席する臣下の位階が記してあります。まず、臣下の位階により場所の設定が違います。 椅子 を御覧ください。東宮の傍にいる臣下(二位)は東宮と同じで、一人用の椅子に腰掛けています。一方四位・五位の臣下は長椅子に腰掛けています。

もう一つ、なぜ臣下の位階が明記できるのか。説明はありません。多分、当然のことだからでしょう。
調べてみますと、元正天皇の時代、 718(養老2)年に『養老令』 が刊修され、その中に服装について『 衣服令 』が規定されました。
この場面は公式の儀式の席でしょうから、人々は衣服として袍を着ていることになります。臣下の着る袍の色目は位階に従って規定されていました。だからこの場面で臣下の位階を明記できるのだろうと思います。
『令』の規定によれば、「 ​​​​​一位は深紫 (こきむらさき) 、二位、三位は浅紫 (うすきむらさき) 、四位は深緋 (こきあけ) 、五位は浅緋 (うすきあけ) 、六位は深緑 (こきみどり) ​​​​​ ・・・・・」という具合でした。 殿上人は従五位以上の位階の人々 です。 (資料4)

なお、 一条天皇の寛弘(11世紀初)のころから 、「位色の制が混乱し、 四位以上は黒一色 となり、これを ​橡 (つるばみ) の袍​ といい、 五位 は緋に蘇芳 (すおう) の気が加わった、 赤黒い色 となり、 六位は緑 となり、七位以下は事実上叙位の事もなく、事前位色も廃れ、結局、 黒、緋、緑の三色 となり」 (資料4) という形に変化して行ったそうです。
つまり、紫式部の生きた現実の世界では、袍は三色への転換点だったようです。『源氏物語』の世界は逆にカラフルに描き出されているということになりますね。

さらに、別の観点があります。「 ​子 (ね) の日の遊び​ 」です。 正月の初子の日 に野に出て若菜を摘み、小松を引くという行事 が行われていたことです。そのままそこで宴を開き、若菜の羹を食し、和歌を詠じて楽しんだとか。 (資料4,8)
たとえば、 『源氏物語』初音の巻 には、次の描写があります。
「今日は子の日なりけり。げに千年の春をかけて祝はんに、ことわりなる日なり。姫君の御方に渡りたまへれば、童、下仕など御前の山の小松ひき遊ぶ。若き人々の心地ども、おき所なく見ゆ。北の殿よりわざとがましく集めたる鬚籠 (ひげこ) ども、破子 (わりご) など奉れたまへり。」という場面描写です。
源氏の君が紫の上の御殿から、明石の姫君の所を訪れた時に、初子の遊びが行われているのを見る場面です。小松の引き若菜が献上されるのです。 (資料9)
若菜の羹は春の精気に満ちており、小松引きは長寿を願う信仰を有している (資料8) のです。

この初子の日の遊びの行事が、七種の草を正月7日に食べるという人日の節句の行事に変更されるようになった のです。それがいつかは今では判然とはしません。『公事根源』には、 醍醐天皇の延喜11年(911)を初めとしている そうです。 (資料4)

清少納言は『枕草子』の第127段に「七日の日の若菜を、六日、人の持て来騒ぎ、取り散らかしなどするに、見も知らぬ草を子どもの取り持ちて来たるを、・・・・・・」と記しています。
また、第2段では、「七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの目近からぬ所にもて騒ぎたるこそ、おかしけれ」と書きとめています。 (資料10)
清少納言の頃には、既に人日の節句としての若菜摘みや若菜の羹を食べる行事は定着していたのでしょう。
『枕草子』は平安時代の中頃、1001年頃に成立したと考えられています。

清少納言は上記の続きに 、「白馬 (あおうま) 見にとて、里人は、車きよげにしたてて見に行く。」と記し、「 ​白馬節会​ の様子の描写 に転じます。 1月7日には「白馬の節会」という行事 も行われていたのです。

白馬節会 (あおうまのせちえ) は、旧暦正月7日、天皇が豊楽殿(のちに紫宸殿)に出御し、庭に引き出される ​白馬 (あおうま) をご覧になり、群臣と宴を催す行事​ である。中国の陰陽五行説に基づいたもので、春に陽のものを見ると その年の邪気を避けることができる とされていた。春は青色(夏は赤、秋は白、冬は黒)、馬は陽の動物とされ、両者が結びついて春に青馬を見るようになったと考えられる。」 (資料1)
村上天皇(946~967)の時代に「青馬」が文献上「白馬」と書かれ始め、国風文化の発展の過程で、青よりも 白を高貴な色として上位に置く ようになったことに関係するようです。 漢字では「白馬」と記し ながら、それを 「あおうま」と読むように なったと言います。 (資料1)

藤原道長が記した『御堂関白記』の最初の頃を部分的に調べますと、以下のような記録が残されています。  (資料11)
長保二年正月七日 白馬御覧
  内裏に参った。・・・・天皇に奏上して言ったことには、「左右の白馬を御覧になるべきであることは、先日、諸卿が定め申しましたが、天皇の仰せによりましょうか」と。天皇がおっしゃって云われるには、「早く召せ」と。大外記(滋野)善言を召して、御馬を召すよう命じた。・・・・御馬の数は、常と同じであった。
寛弘元年正月七日 白馬節会
  午二刻に参入した。三刻に天皇の出御があった。出御の後、標を立てた。
寛弘二年正月七日 白馬節会
  物忌によって、白馬節会に参らなかった。
寛弘三年正月七日 白馬節会
  内裏に参った。白馬節会は、常と同じであった。大将(藤原公季・藤原実資)、および内教坊別当がいなかった。そこで私が白馬奏と坊家奏を奏上した。右馬寮は頭が参ってこなかった。
という具合である。白馬節会は例年行われていることがわかる。

源氏物語 』ではどうか。 少女の巻 に次の一文が出てきます。
「朔日にも、大殿は御歩きしなければ、のどやかにおはします。良房の大臣と聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬ひき、節会の日々、内裏の儀式をうつして昔の例(ためし)よりもこと添えていつかしき御ありさまなり。」
(年の明けた正月にも、源氏の大臣は参賀のお出ましもないので、ゆっくりとうちくつろいでいらっしゃる。良房の大臣と申したお方の昔の例にならって、二条院に白馬を引き、節会の日には宮中の儀式を模して、その古例よりもさらに新たな行事を加えて、おごそかな御有様である。)  (資料9)
フィクションの中にも、 白馬節会に関連した記述 が出てきます。藤原良房という史実の人物を引き合いにだしていますが、史実としての所見はないようです。紫式部が読者がイメージしやすく、リアル感を増すために、初めて太政大臣・摂政に任じられた良房の名を使ったのでしょう。



人日の節句の具現化場面の左側、池の中に龍頭鷁首の舟の内、 龍頭の舟を具現化 してあります。
少女の巻の上記の続きに、「楽の船ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの」(一対の楽の船があたりを漕ぎめぐって調子合わせの曲などを奏すると)という描写が出てきます。その関連なのかもしれません。


興味深いのは、 龍頭の舟に補助の舟を横に連結させて楽人の舞台に 仕立てていることです。
双胴船の形式であることを連想しました。

五節句を順番に眺めていきましょう。

つづく

参照資料
1)「五節句のルーツをたどる・平安時代の年中行事」風俗博物館 当日入手の小冊子
2)『日本史小事典』 日正社
3)『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人  PHP文庫  p66-67
4)『有職故実』上・下 石村貞吉著 嵐羲人校訂 講談社学術文庫 上・267-271,下・p35
5) ​ 春の七草の短歌 万葉集、正岡子規他[日めくり短歌] ​:「短歌のこと」
6)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編  角川春樹事務所 
7)『ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編  三省堂
8)『源氏物語図典』 秋山・小町谷編 須貝作図 小学館
9)『源氏物語 3』 日本古典文学全集 小学館 p145, p70, p72
10)『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫 p16-17,p166-167
11)『藤原道長「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏  講談社学術文庫

補遺
平安貴族の正装の色の違いについて知りたい。 ​:「レファレンス協同データベース」
異時同図法と捨身飼虎図について ​ :「つれづれ美術手帖」
藤原良房 ​  :ウィキペディア
藤原良房 ​  :「ジャパンナレッジ」
船楽(ふながく) ​ :「風俗博物館」
双胴船 ​    :ウィキペディア
第20回 『紫式部日記絵巻』「龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟」を読み解く
             :「SICTIONARIES & BEYOND WORD-WISE WEB」
龍頭鷁首舟 ​  :「いけばな嵯峨御流」
賀茂別雷神社(上賀茂神社) ​  ホームページ
 1月7日に「白馬節会」を神事化したものとして「白馬奏覧神事」が行われます。
住吉大社 ​ ホームページ
 1月7日に「白馬神事(あおうましんじ)」が行われます。

  ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -2 へ
観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -3 へ
観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4 へ
観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -5 へ
観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6 へ

こちらも御覧いただけるとうれしいです。
観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞
    5回のシリーズでご紹介
観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~
    4回のシリーズでご紹介
観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1)
    6回のシリーズでご紹介
観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」
    4回のシリーズでご紹介
探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養
    4回のシリーズでご紹介
観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1
    3回のシリーズでご紹介





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.06.30 13:39:28
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: