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幸彦に許され、牢から出られたとはいえ、保名(やすな)の行為が村に多大な災いをもたらした事は事実であった。三峰のいる間は三峰の目をはばかり、村人達は大人しかった。だが三峰が村を去ると、村人達の母子への冷たい仕打ちが始まった。保名の目が見えないのを良い事に、金目の物から米や味噌まで持ち出す者もいた。幼い鵲(かささぎ)は火の気のない家で腹を空かしていた。母からは父には言わぬように厳しく口止めされていた。元は己が罪、夫のお役目に差し障りが出てはならないと、保名は耐えていた。鵲は山へ入り、食べられる草や木の実を探しては飢えをしのいでいた。三峰は愕然とした。「そんな苦労を、お前達に」風の家の嫡子と認められ、”盾”の宿舎に入れられてからは、飢える事は無くなったが、母の元から着物や宝石を奪った”ゆりかご”の女達の世話を受ける事は、鵲には屈辱以外の何物でもなかった。それでも母の厳命を守り、鵲は何もかも心に仕舞い込み、強くなる事だけを考えていた。強い盾になる事だけが、今の境遇から抜け出す道であると、鵲は信じていた。佐原の村に風の力が復活した時、鵲は村のどの盾よりも強い力を発揮した。人々は「さすが三峰様の御子」と、今度は鵲を褒めそやした。だが鵲は、人の心の表裏を、嫌という程知っていた。常に謙虚で控え目な態度を心がけていた。保名の実家も保名を軽んじなくなった。成長した鵲が、三峰に自分達の仕打ちを告げる事を恐れたのだ。「辛い日々、私を慰めてくれたのは、風の声でした。山に入れば、風が木の実の在り処を教えてくれました。どんな時も風の力は私の支えでした。でも今の私には、風の声を聞く事は出来ません。私は何もかも失った。強さも心の拠り所も何もかも。なのに生きろという。生きる力を奪っておいて生きろという」「お前にしか、あの術は施せなかった」「解っております。すべては当主様の為、お役目の為」「もし今聞いた事を、あの時に知っていれば・・」三峰の言葉を鵲は遮った。「それでも貴方は承諾されたでしょう。それが正しき”盾”の道です。我らは道具に過ぎないのですから」「何を言うのだ、私はお前を・・いや、お前の辛さに気づかずにいた私だ、恨まれても仕方あるまい」鵲は叫んだ。「勘違いなさらないで下さい。私の個人的な恨みなど、どうでも良いのです」鵲はその場に平伏した。「私が明かしてしまった事を、どうか母には言わずにいて下さい。そして母を、母をよろしくお願い致します。どうか母が不自由なく暮せるように、母をお守り下さい」「解った、出来る限りの事はする」「父上、いえ・・三峰様。私は甘えを捨てます。貴方の子である甘えを。これからは貴方の手駒のひとつとしてお仕え致します」「お前は私の子だ」「いえ、貴方には今から息子はいなくなります。ここにいるのは一人の”盾”」三峰は立ち上がった。「お前は、私を父と思わぬというのか」その声は悲しみに満ちていた。鵲は顔を上げなかった。「私にはその資格はありません。貴方の息子は、こんな弱き者であるはずはない」重い心を抱いて、三峰は扉の方へ歩き出した。「少しでもお役に立てるように、風の力なくとも強くなります。竹生様が手解きを約束して下さいました。この命ある限り、敵を倒し、お役目を全うする事だけが道と生きていきます」何も言わずに、三峰は出て行った。鵲はしばらく顔を上げなかった。紅い目から涙があふれていた。あふれた涙が、ぽたりぽたりと床を濡らした。(これで良いのだ、何もかも。私は”盾”、あまたの盾の一人に過ぎぬ。敵を倒さねば自分が倒れるのみ。それ以外何もない。私達は自分の為には生きられぬ。何も望んではならぬ・・・幸せなぞ、何処にもあるはずはない)(つづく)
2010/09/22
織はずっと鍬見の胸に頬を押し付けたままの自分に気が付いた。詩織は慌てて身を起した。「ごめんなさい」鍬見は微笑み、詩織の顔を覗き込んだ。「落ち着かれましたか?」百合枝の世話係として常に付き従う千条も、男として並以上の容姿を兼ね備えていたが、鍬見も負けずに良い男で、医師らしい落ち着いた雰囲気と柔和さを持っていた。端正な白い顔に覗き込まれて、詩織の顔に朱が走った。「はい、失礼を・・すみません、鍬見先生」「先生はおやめ下さい。鍬見とお呼び下さい、詩織様」(詩織様・・)自分の名を柔らかい響きを持つ声に呼ばれると同時に、詩織の胸に甘い痛みが疼いた。百合枝の計らいで、詩織は膝の傷の手当てを受ける事になった。詩織の為に用意された客用の寝室で、破れたストッキングを脱ぎながら、詩織は何か後ろめたい事をしている気分になった。扉を軽く叩く音がした。「入ってもよろしいですか?」鍬見の声だった。詩織は深呼吸をしてから言った。「どうぞ」寝台に腰を掛けた自分の前に、ひざまずいて傷の手当てをしている鍬見の柔らかそうな髪を見ながら、詩織は悩ましい気持ちになっていた。鍬見は丁寧に傷口の汚れを拭い消毒をしていた。誠実がこもった仕草だった。(指も細くて綺麗、爪の形も)詩織は自分に触れる鍬見の指の感触に愛撫を思い描いていた。このまま素足の爪先の唇を押し付けて欲しい。そんな自分の淫らな幻想を、もしこの人が知ったらどうなるだろう。そんな事を思う自分に呆れもした。廊下で行き会った鹿沼に、鍬見は先程の”盾”について尋ねた。「警備部の人間ではないな」「見張り役か。詩織様を先にお助けするべきではなかったのか?」「奴が凶器でも持っていたら、そうしただろうな」「気に食わないな」「そう言うな、あいつらにはあいつらのやり方がある」詩織が百合枝の部屋へ戻ると、朱雀と見知らぬ紳士がいた。詩織が入っていくと、紳士は穏やかに微笑んで詩織を見た。「貴方が詩織さんですね」品の良い紳士だった。ソファにゆったりと寛ぐ彼は、この屋敷の客人に似つかわしいと詩織は思った。人々の態度が彼に恭しいのを、詩織は不思議に思った。朱雀が説明した。「我らは、代々幸彦様の家にお仕えする家系でね」皆はそれを当然の如く思っているらしい。詩織は今時珍しいと思ったが、不快ではなかった。彼らは皆、礼儀正しく誇り高い人々であったから。幸彦と呼ばれた紳士は、詩織に好意的なまなざしを向けた。「詩織と呼んで良いかな」「はい」詩織は微笑んで応じた。優しい声が遠い記憶を思い起こさせた。父或いは祖父の。垣間見た真に豊かな暮らしと共に。それは物だけではなく心も豊かな世界だった。(つづく)
2010/09/18
「父上」「しばらくだな、鵲(かささぎ)」口まで出かかった言葉をぐっと押さえ、鵲は頭を下げた。白き守護者は、鵲の部屋のソファで寛いでいた。「何時こちらへ?」「今しがた、幸彦様のお供をして来た」「お側を離れて、よろしいのですか?」「親子水入らずで話したいとおっしゃるのでな」三峰は息子を暖かく見た。「お前の働きで、真彦様がお元気になられたそうだな」「いえ、私ではありません。鳥船(とりふね)が話上手なお蔭です」「お前への信頼なくば、真彦様も鳥船を受け入れようとはしなかったであろう」「高望(たかもち)は、幸彦様をお守りした火高(ひだか)様の息子です。それもあったと思います」「謙虚だな」鵲は答えなかった。三峰は息子が遠くにいる気がした。村から来た当初は、父と共にいられる嬉しさを全身に滲ませながらも、周囲を気遣って馴れ々々しいそぶりを控えている風だったが、今は二人きりでいる事を、明らかに鵲は喜んではいなかった。三峰は言った。「私に言いたい事あらば、遠慮なく言うが良い。今はここには二人しかおらぬ」鵲は大きく息を吸い込んだ。「父上、桜子の事はご存知ですか」「高遠の計らいだ。これから十年余り閉鎖される村に居るよりも、多くの事を”外”で学ばせたいと。将来の村の為にも、風の家の為にも」「許婚とは、高遠様と父上が決めた事なのでしょうか」「特に決めたわけではない」三峰は息子の顔を見た。張り詰めた顔をしていた。「高遠が風の家の長となった時、反対派を納得させる条件として、お前が成人して、正式に風の家の長となるまでとしたのだ。高遠としては、娘を将来の長の妻として良き人生を歩ませたいと思い、桜子にそれとなく言って聞かせていたのかもしれんな」「では、父上のご意志ではないと」三峰は微笑して鵲の顔を覗き込んだ。「桜子が嫌か?」鵲は目をそらし、首を左右に振った。「そうではありません。」「急ぐ事ではない。桜子もお前もまだ若い」「少しお待ち頂けますか」「ああ」三峰は壁際のソファから、息子の部屋を見回した。左手に廊下へ出る扉、右手の奥の窓の前に鵲の机が置かれていた。扉から入ると正面に鵲がいる事になる。背後に窓を背負う無用心さに、鵲はこの配置を嫌がった。だが鳥船は「長は偉そうにしているものだ」と押し切ったのだ。部屋の半分は自分の組の詰所として使用している。部屋の中央の仕切りの向こうに寝台や私物のある空間がある。その仕切りが、今の鵲の心にも立てられている事を、三峰は感じていた。仕切りの向こうにある鵲の本心が、三峰は何故か痛ましく思えてならなかった。「お待たせ致しました」仕切りの奥から鵲が手にして来たのは、名刀「雪白(ゆきしろ)」だった。風の家の宝である。人である事を捨てる決心をした三峰が、生まれたばかりの鵲の枕元に置いて出た刀であった。鵲は三峰の前に膝をついた。三峰は眉をひそめた。「何のつもりだ」鵲は両手に捧げ持った雪白を三峰に差し出した。「お返し致します」「これはお前の物だ」三峰は刀を押し戻そうとした。だが鵲は引かなかった。「雪白は風の家の長の持つ刀、私にはふさわしくありません」「お前は、風の家の直系の唯一の子だ」「風の力なき者に、皆が従うでしょうか」三峰を見上げた鵲の目は、悲痛な思いに満ちていた。「高遠様は立派な方です。なのに従わぬ者がいる。ましてや牢屋で生まれた私に、従う気になるでしょうか」「保名(やすな)の罪は許された」「犯した罪が消えたわけではありません。私が罪人の子である事実は、消える事はありません」「何を言う。お前は私の子、風の家の正統と、我が祖父・臥雲(がうん)長老も認めたのだ」鵲は最早堪える事は出来なかった。「父上、やはり貴方は何もご存知ないのですね。貴方のご不在の間、盲目の母と私がどんな目にあっていたか」「何だと」「母と私は、食べる物にも事欠く日々を送っておりました」(つづく)
2010/09/16
百合枝はしばらく屋敷を留守にしていた。産後の身体には田舎の空気が良いと周囲に勧められ、群青の家に静養に行っていたのだ。朱雀も百合枝に付き添って行った。それは”外”のまとめ役として、佐原の村の決断を見届ける為でもあった。その事は百合枝には知らされていなかった。そして真に重大な事柄についても。ひそかに群青の家を目指す集団があった。誰もが白い頭巾を深く被り、荒野を急いでいた。彼等は互いに囁きあっていた。「機会は一度きりで」「使われる命は二つ」「三度目はない」「失敗は許されぬ」「許されぬ」「許されぬ」「許されぬ」「許されぬ」人目を避けながら、集団は森の奥へと消えた。会社を任された和樹は、それが次期社長への試験だと心得ていた。朱雀の不在の間、社長室を使う事になった和樹は、秘書の香坂に言った。「お父さんを、失望させないと良いけれど」眼鏡の中から穏やかに和樹を見ながら、香坂は言った。「失望させる事などありません。今の和樹様なら」「お前もいるからね」「我らを使いこなせる腕があると、朱雀様、いえ、社長が判断されたからでしょう」「使いこなす・・か」「我らを最大限に上手く使う事、それが秘訣です」和樹は朱雀の椅子に深く腰を下ろし、卓上のコンソールに手を伸ばした。「はい、社長」女性の声が響いた。「高橋君、お茶を頼む」「ミルクティに砂糖はひとつ、それと緑茶でよろしいですか?」和樹は香坂を見た。香坂は頷いた。「ああ、頼むよ」香坂は言った。「彼女達も、それを望んでおります」「僕では納得しないかもね。お父さんみたいに良い男ではないもの」香坂は澄まして言った。「社長夫人の座は、充分に魅力的ですよ」和樹は苦笑した。香坂は続けた。「和樹様ご自身も、それに劣らぬ位に魅力的です」そして書類を和樹の前に置いた。「では始めましょうか、専務」多くの血が流れ、多くの嵐が過ぎていった。やがて訪れた平穏な日々も、瞬く間に過ぎ去り、百合枝の帰還の日時が決まった。屋敷の中がにわかに慌しくなった。「鵲様!」庭先で、いきなり抱きついて来た少女に、鵲は驚いた。「鵲様、私、来ました!」「桜子?」村の長の高遠の一人娘、桜子であった。桜子の物らしい鞄を抱えた伴野が、少し離れて立っていた。伴野は鵲と目が合うと、律儀に頭を下げた。桜子ははしゃいだ声で言った。「お父様も許婚の鵲様の所ならと、許して下さいました」鵲は桜子が傷つかぬ程度にゆっくりと身を離した。「待ってくれ」「はい?」「ここは竹生様のお屋敷だ。私の家ではない」満面の笑みで、桜子は鵲を見上げた。「解っておりますわ。”外”に居る者は、皆仮住まいです。私も百合枝様の元で行儀見習いとして、ここに住まわせていただく事になりました。鵲様とひとつ屋根の下で、桜子はうれしゅう御座います」鵲は頭を抱えたくなった。「とにかく、まずは桐原殿や津代殿に挨拶して来るのが先だ」「はい、では後程」伴野に案内されて、桜子はいそいそと屋敷の中へと消えていった。鳥船が面白そうな顔をして寄って来た。「美人になりましたね、桜子様。許婚とは知りませんでしたよ、鵲様」鵲は努めて普段通りの態度を通そうとした。「桜子が勝手に思い込んでいるだけだ」「高遠様も、そう考えておられるのでは?」「私はまだ未熟者だ」鳥船を置いて、鵲も屋敷の方へ歩き出した。(つづく)
2010/09/14
男が詩織のバッグに手をかけた。「あっ!!」バッグのベルトが千切れ、詩織の身体が道路に転がった。男は成功を確信して駆け出した。不意に男の目の前が何かに遮られた。次の瞬間、男は腕に激痛を感じ、呻いた。背中に腕を捻じ曲げられ、男は押さえつけられていた。わめきもがいたが、身動きが取れなかった。押さえつけているのは、眼鏡をかけた長身の男だった。背広にベージュのコートのごく普通の身なりをしている。とてもこんな荒事が出来るとは思えない温和な顔が言った。「鞄を放さないと、腕が折れますよ」男の腕に更なる激痛が走った。男は鞄を捨てた。眼鏡の男が手をゆるめると、男は素早く立ち上がり逃げていった。詩織は道路に座り込んだまま、事の次第を驚いて見ていた。眼鏡の男は詩織のバッグを拾うと、詩織を助け起した。「大丈夫ですか?」眼鏡の奥の目は優しかった。詩織が立ち上がると、眼鏡の男は詩織にバッグを返した。「膝を擦りむかれていますね」破れたストッキングから血が滲んでいた。詩織は何か言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。眼鏡の男は怯えきっている詩織を黙ってみていたが、ふと気が付いた様に言った。「もしや、詩織様ではありませんか?百合枝様の従姉妹の」詩織は目を見張り、長身の男を見上げた。「はい、あの・・」「私は百合枝様の主治医で、鍬見(くわみ)と申します。お屋敷に向かわれる途中でしたか?」詩織は頷いた。「では、ご一緒致しましょう」歩き出そうとしてよろけた詩織をしなやかな腕が支えた。思わず倒れこんだ胸は暖かく微かに青く甘い香りがした。「あせらずに」「はい」鍬見は片手で詩織を支えながら、ゆっくりと歩き出した。もう片方の手には往診用の鞄を提げていた。鍬見は目の端で、逃げた男を追って行った影を捉えていた。(背後に”異人”がいるか、確かめにいったな)おそらくは朱雀の命令で詩織の身辺に付いていた者だろうと鍬見は思った。(後で、鹿沼にでも確かめておくか)門を開けた伴野は、鍬見にすがる詩織の様子を見ても、余計な事は何も言わなかった。いつも通り律儀に頭を下げただけであった。玄関で出迎えた桐原も同様であった。先程の出来事はすでに屋敷に知らせが入っているのだ。”盾”でもある鍬見には解った。”盾”は三人一組で動くのを常とする。一人は男を追い、一人は屋敷へ知らせ、もう一人はその場に残り、詩織と鍬見の警護についたはずであった。(だったら、最初から詩織様をお助けすれば良いものを)鍬見は心の中で少し怒ったが、詩織の前に姿を見せる事は禁じられているのだろうと思い直した。桐原は言った。「どうぞ、百合枝様のお部屋へ」鍬見は詩織を支えながら階段を昇った。「まあ、詩織さん、どうなさったの?」いつもの安楽椅子から、百合枝は驚いて叫んだ。鍬見は手短に事情を説明した。「とにかくお座りになって」鍬見は詩織をソファに座らせて下がろうとしたが、詩織は鍬見の服の端を硬く握ったままだった。それを見て取り、百合枝が言った。「鍬見、詩織さんの側にいてあげて頂戴」鍬見は詩織の隣に腰を下ろし、震える詩織の背中をそっとさすった。百合枝は千条に温かいお茶を用意する様に言い付けた。「今日はここに泊まって行きなさいな。一人暮らしの家に帰るより良いでしょう?」詩織は頷いた。「鍬見、悪いけど、今夜はここに居て下さる?」百合枝がこんな事を言うのは珍しい。数少ない肉親の事を、百合枝様は深く心配なさっているのだと鍬見は思った。「はい、幸い明日は非番ですので」「それなら、ゆっくりしていらっしゃいな。千条と久しぶりに積もる話もあるでしょう」鍬見はおどけて言った。「ありがとうございます。一人身の男同士の話など、面白くも何ともありませんが」丁度戻って来た千条が言い返した。「こちらだって願い下げだ」笑い声が広がった。互いに信頼しあっているからこその軽口だと、詩織にも解った。詩織はそれを聞きながら、次第に緊張が解れて来るのを感じていた。(つづく)
2010/09/11
桜子が竹生の屋敷に来て、一週間が過ぎた。”外”は珍しい事ばかりで、十八になったばかりの桜子は、若い好奇心のままに様々な事柄を貪欲に吸収した。行儀見習いといっても、村の長の高遠(たかとお)の一人娘である桜子に、無理難題を押し付けるものもなく、桜子は津代の元で嬉々として働いていた。長の娘である事も生来の美貌も鼻にかけない桜子を、屋敷の住人も出入りをする者達も、暖かく受け入れていた。朝の支度が始まる前に、桜子は庭に出た。屋敷の庭には珍しい花が沢山あった。それを見るのも、楽しみのひとつだった。桜子は花々の間の小道をゆっくりと歩いた。豊かな黒髪をひとつに束ね、簡単なブラウスとスカート姿であっても、桜子の姿には匂い立つ若さと美しさがあった。庭師の伴野(ばんの)は、自分の小屋の側に様々な花を植えていた。屋敷の庭には佐原の村の土が混じっている。まずはここに植えて庭の土に馴染むか試しているである。今は薔薇が盛りであった。白い薔薇は花弁を重ね合わせ、やや俯き加減に咲いていた。古い種の面影を持った花であった。桜子は見惚れた。白くそこはかとない品の良さと儚さを漂わせた姿に、桜子は愛しい鵲(かささぎ)の姿を重ね合わせていた。「これは、桜子様」伴野は麦わら帽子を取って頭を下げた。「おはよう、伴野。綺麗な薔薇ね。触っていい?」「はい、棘にお気をつけて」桜子は指先で一輪の花を支え、そっと顔を寄せた。(良い匂い。甘いけれど、それだけではなくて)昨夜の鵲の胸に感じた香りを思い出し、桜子は頬を染めた。身を起こすとそれを隠すかの様に言った。「この薔薇、良い香りね。酔ってしまいそう」「今朝、百合枝様のお部屋にもお持ち致しました。桜子様もお持ちになりますか?」「お願いして良いかしら」伴野は小屋に入ると花鋏を手に戻って来た。花を見定めながら伴野は鋏を入れた。切った薔薇の棘を器用に取って茎をまとめ、伴野は桜子に手渡した。「花瓶がご入用なら桐原に」「ありがとう」鳥船(とりふね)が鵲の部屋を訪れると、鵲は自分の机で書き物をしていた。机の上の一輪差しに白い薔薇が揺れていた。鳥船は無造作に机の端に腰をかけると、薔薇の花を指で突いた。「優雅ですね」「桜子が置いていった」鵲がぽつりと言った。あまり機嫌の良い声ではなかった。「食堂にも同じ薔薇が飾ってありましたよ」「お前は、薔薇の種類にも詳しいのか」「伴野様の小屋の横に咲いていたのと、同じ薔薇です」書類から顔を上げずに鵲が言った。「屋敷内の物を熟知しているとは、頼もしい部下だ」「物だけではありませんよ」鳥船が何を言いたいか解っていたが、鵲はそ知らぬ顔で言った。「高望(たかもち)はどうした」「今朝は、鹿沼様と本社の警備部へ」「みっちり扱かれて来るだろうな」「身体を使うのが好きな男ですから」鳥船は立ち上がった。「私は頭を使って来ます。例の古い記録を調べて来ます」「頼んだぞ」「鵲様」「何だ」「一度位、顔を上げて下さい」「うるさい」鳥船は鵲の顎に手をかけると、強引に上を向かせた。鵲は鳥船を睨んだ。「一段と瞳が赤い。美しい色ですね」鵲の中で怪我や病気への治癒力が働いている時、瞳は更に赤く輝く。それを知っている鵲は、人と目を合わせようとしなかったのだ。鵲は鳥船の手を払いのけた。「何が美しいだ。こんな呪われた目が」「美しいものは美しいのですよ。少なくとも私には、極上の紅玉よりも」再び俯いた鵲は、何も答えなかった。(つづく)
2010/09/10
見覚えのある道へと車は入って行った。(その角を曲がると蔦の絡まる塀が見え、まもなく門が見える)詩織の記憶通りの道を辿り、車が止まった。朱雀は素早く降りると、反対側に回り、助手席の扉を開けた。詩織は外へ出ると屋敷を見上げた。見覚えのある窓に灯りがともっていた。緑色に塗られた窓枠の形を、詩織ははっきりと覚えていた。詩織の視線を追って、朱雀も窓を見上げた。「あの窓が百合枝の部屋だ」「昔と変わらないのね」「ああ、そうだ」一人の男が門を開けた。「お帰りなさいませ、朱雀様」「ただいま」朱雀は男に鷹揚に頷き、詩織に言った。「庭師の伴野だ」伴野は武骨な身体をかがめ、詩織に頭を下げた。朱雀は詩織の肩を抱いて促した。門をくぐり、左右に薔薇の植えられた石畳の道を歩いた。暗闇にも仄かに揺れる花が見えた。「綺麗だわ、オールドローズね。アリスター・ステラ・グレイ?」「左様で御座います。このお屋敷に相応しいと思いまして」伴野はうれしそうに答えた。伴野は詩織の着替えを詰めた鞄を下げ、二人の後に続いていた。「詳しいのだね」「お爺様に教えていただいたの」「他にも沢山の種類が御座います。お時間がある時に是非」「ええ、案内して下さいね」「喜んで」そういうやり取りの中に、朱雀は詩織の資質を思った。彼女も百合枝同様に屋敷の女主人として申し分のない女性なのだ。裕福とは言えない暮らしであった事は、新明の報告で聞いている。けれども持って生まれた品格は損なわれる事無く、この花の様に香っているのである。玄関のファサードの奥の扉が開いた。痩躯の男が立っていた。「お帰りなさいませ、朱雀様。ようこそ、詩織様」深夜であるのに、ジレ付の背広に細いネクタイを締めている。男は伴野から鞄を受け取った。「桐原はこの家の執事だ。屋敷の住人については、後でゆっくりと話してあげよう」「百合枝様がお待ちかねで御座います」「二階へ行こう、詩織」朱雀は桐原に言った。「荷物は詩織の部屋の方に」「はい、朱雀様」階段の手すりにも見覚えがあった。詩織の中に懐かしさがこみ上げた。(つづく)
2010/09/06
深い森の色をした外車だった。朱雀は助手席の扉を開けて詩織を乗せた。運転をしながら朱雀は言った。「百合枝の事を、話しておかねばならない」夜の街の灯りが車内に飛び込み、朱雀の整った横顔をくっきりと浮かび上がらせた。「百合枝は、しばらく前に事故で身体が不自由になってしまったのだ。自分では歩く事も起き上がる事も出来ない」「まあ、百合枝お姉様が?!」思わず昔の呼び方で詩織は叫んだ。「通夜の席で言って、キミに余計な心配をさせたくなかったのでね」「お気遣いありがとうございます、社長」朱雀は笑った。「キミは我が社の社員じゃない、朱雀と呼んでくれたまえ」「はい、朱雀さん」「キミの事を詩織と呼んでいいかね?」「ええ」「では、詩織」「はい」「百合枝は、足が動かないのだ。両腕も失ってしまった」「そんな」「しかし彼女自身は変わらない。素晴らしい女性だ。私は百合枝を愛してる」朱雀の言葉に、詩織は百合枝の現在の幸福な人生を感じた。「百合枝さんが羨ましいわ、朱雀さんの様な素敵な方がいて」朱雀は微笑んだが、何も答えなかった。百合枝をあんな身体にした原因は自分なのだ。しばらく沈黙が続いた。車は渋滞に巻き込まれる事もなく、滑らかに走り続けていた。「キミは、ずっと一人で?」「母と二人で」朱雀は詩織の頭の良さを感じた。話していて退屈しない女性は少ない。百合枝を知った後、朱雀はそれを痛感する様になっていた。詩織はそんな所も百合枝に似ていた。朱雀はおどけて言った。「我が社には良い男が沢山いるのだ。キミが気に入る者が居るといいな」「まあ」詩織は笑い出した。ここ数日で初めての笑いだった。「そんな心配もして下さるの?」「そうだな、キミが百合枝を姉と呼ぶなら、私はキミの兄だ。相手が出来たら、必ず私に知らせるのだよ」「試験でもなさるの?」「勿論さ。キミには幸せになって欲しいからね」先程逢ったばかりなのに、詩織は朱雀という男とずっと知り合いだった気がしていた。たちまちのうちに人と打ち解けてしまうのも、社長業で必要な社交術かも知れない。けれどもそんな事は今の詩織にはどうでも良かった。母が死んで天涯孤独と思っていたのに、そうではないと感じ始めていたから。(つづく)
2010/09/03
狭く侘しい葬儀場だった。通夜の席に人影はまばらで、それが一層寂しさを漂わせていた。祭壇のすぐ側に立つ黒いワンピースの女に、朱雀の眼が引き付けられた。華奢で何処となく品のある女である。長い髪を後ろに束ねている。滑らかな真珠色の肌が、薄化粧の下から透けて見える。精一杯に耐えている風情がありながら、毅然として見せようという誇り高さも感じられる。朱雀が入っていくと、人々の視線は彼に集まった。驚きと好奇の混じった表情と共に、この長身の美丈夫の為に、人々は自然と道を開けた。朱雀を見た女の目元が百合枝に良く似ていると朱雀は思った。百合枝より七歳下と聞いたが、姉妹と言っても可笑しくない。何処か百合枝と共通の雰囲気があった。焼香をすませ、女が頭を下げるより早く朱雀は会釈をし、そして女の眼を覗き込んだ。「詩織さんですね。私は百合枝の連れ合いです」詩織の顔に、親しみのこもった笑顔が浮かんだ。「百合枝さんの?」詩織の問いたい事を、朱雀は先回りした。「百合枝は身体の具合を少し悪くしましてね。今日は一緒に来られずに申し訳ない」朱雀は会場を見渡した。「他の親族の方々は、どちらに?」詩織の顔に困惑の色が浮かんだ。「母の身寄りは殆どいなくて」「では、私だけかな?」詩織は恥じて頷いた。「はい」朱雀は詩織に微笑みかけた。やや砕けた口調で朱雀は言った。「では、親族としてお手伝いさせてもらえるかな?」詩織は驚いた顔をした。「それでは申し訳ありませんわ」「仕事柄、こういう席には慣れているのでね」朱雀が眼くばせすると、新明(しんめい)が入って来て、詩織に頭を下げた。「この度は・・」形式通りの挨拶をすると、新明は言った。「私どもも、お手伝いさせて頂きます」新明は警備部の者を数名連れていた。彼らも詩織に頭を下げた。新明が詩織と話している間、朱雀は部屋の隅で中年の葬儀屋の男と言葉を交わしていた。自分の名刺を渡し、男に素早く金を握らせた。朱雀の会社はそれと名の知れた会社である。陰気な顔の小男はいきなり愛想良くなり、ペコペコと頭を下げた。戻って来た朱雀は新明に言った。「後はまかせた」「はい」新明は葬儀屋と打ち合わせを始めた。朱雀はそのまま詩織の隣に並び、訪れた人々に挨拶をしていた。喪服であっても只者ではないと一目で解る、威厳と同時に人を惹きつける魅力を持つ朱雀がいるだけで、場内の空気が変わった。詩織は朱雀の存在を心強く感じていた。写真の母の顔も、心なしか少し安堵した様に詩織には思えた。人々が去り、会場には詩織と朱雀だけが残っていた。詩織は神妙に朱雀に頭を下げた。「本日はありがとうございました」朱雀は笑って言った。「他人行儀はやめよう、堅苦しいのは苦手でね」「でも」朱雀は長身を折り曲げ、詩織の顔を覗き込んだ。「私達は他人ではないのだよ。キミは百合枝の従姉妹だ、私は百合枝の夫だ」詩織の目の前に端正な顔があった。青く甘い香りがした。詩織の頬に朱が走った。うろたえた自分を隠す様に詩織は言った。朱雀の眼から眼をそらす事は出来ないままで。「親しき仲にも礼儀あり、と言いますわ」朱雀は詩織の眼を覗き込んだまま、そっと詩織の肩に手を置いた。「私は、礼儀にはずれた事をしたかね?」夜気に冷えた肩に、朱雀の大きな手の温もりは心地良かった。「いえ」詩織は小さく答えた。「今夜は、この近くのホテルに泊まるそうだね」「はい、明日は早いですから」「屋敷へ来ないか?知らない部屋で一人でいるよりは良いだろう。百合枝も逢いたがっている」「御影のお屋敷に?」「ああ、知っているかね」「子供の頃に、お伺いした事があります」「剛三氏は、キミを可愛がっていたそうだね」「ええ、でも」玲子は剛三に気兼ねして、あまり屋敷を尋ねようとしなかった。心無い身内に「金目当て」だと露骨に嫌がらせをされたせいもある。玲子はその事は剛三に言わずにいた。だが気付かぬ剛三ではなかった。百合枝に二人の様子を見に行かせる事もあったのだ。「百合枝さんは、いつも優しくして下さいました」「では百合枝に逢いに来てくれるね。心配ない、あの屋敷には部屋なら沢山ある。キミの部屋もすぐ用意させる」詩織の脳裏に、緑の窓の屋敷が浮かび上がった。「ホテルの方は新明に処理させておく。私の車で行こう、着替えは?」「ここの受付に預けてあります」「よし、受け取ったら行こう」詩織はすでに屋敷に泊まる事になっている事態に気が付いた。だがそれを断る気持ちにならない自分に驚いていた。詩織は朱雀にいつのまにか深い信頼を寄せていたのだ。(つづく)
2010/09/02
百合枝の元に一枚の葉書が届いた。叔母の葬儀の知らせだった。差出人は御影詩織。朱雀は葉書を見ながら尋ねた。「キミの従姉妹なのかね?」「私より七つ下」「普段の付き合いはないのかね?」「悠二郎叔父様は、お爺様に画家になる事を反対されて家を出たの。だから御影の家とは疎遠で」「なるほど」「お爺様の葬儀の時も、お知らせはしたけれど」百合枝は言った。「玲子叔母様は、今更そのような席に出るのは申し訳ないと言って、後でこっそりとお線香だけ上げに来られたの」「慎み深い人だね」「優しい方だったわ。叔父様が早くに亡くなられたので、お爺様も後悔する気持ちがおありだったのか、叔母様と詩織さんの事を気にかけていらしたみたい」「そうか、キミの代わりに私が行って来よう」「そうしていただける?」「ああ」「それと詩織さんの事」「ああ、悪い様にはしない」「お願い」朱雀は詩織の事を新明(しんめい)に問い合わせた。百合枝の家の件を任せた弁護士である。「間違いありません。剛三氏の次男、悠二郎氏のご長女です」新明は気が利く男だった。すぐに資料と共に朱雀の社長室にはせ参じた。「悠二郎氏の死後、御母上とお二人でご苦労された様です。母の玲子様は、剛三氏からの援助の申し出も断ったそうで。御影の家に迷惑をかけたくないと」「随分と他の親族とは違うようだな」新明は笑った。「親族の中で、この母子のみが、最初から権利を放棄されました」「それで?」「私は法は公平であるべきだと思っています」「お前らしいな」「私がお尋ねした時も固辞されましたが、詩織様の将来の為にもと説き伏せて、お二人の相続された分は私の管理下にあります。百合枝様に比べれば些細な額ではありますが」「その件も、彼女と話し合う必要があるな」「はい」「百合枝も気にかけている」「社長」「何だね?」「詩織様は会社を退職された直後のご様子です。その・・人減らしで。詩織様の相続分は信託化して月々決まった額をお渡しする形ですが、それで生活のすべてを賄うにはいささか・・」「分った」朱雀は新明を笑顔で見た。「お前は戦場よりも法廷での戦いに向いているらしいな」「恐れ入ります」彼も”盾”の一人であった。(つづく)
2010/09/01
「お父さん、僕はどうしたら良いのだろう」柚木(ゆずき)はつぶやいた。竹生の不在の時間、一人になるのを嫌がる朔也(さくや)の為に、柚木は朔也と共に竹生の居間にいた。暖炉には火が入れられていた。はぜる薪の音が深夜の部屋に大きく響いた。柚木は床の敷布の上で膝を抱えていた。柔らかい敷布は栗色で、炎に照らされて淡く赤味を帯びていた。傍らに異国の極上の猫の如く、伸び伸びと寝転んでいた朔也が起き上がった。柚木と同じ様に膝を抱えると、朔也はじっと柚木を見た。「朔也を追い詰めるな」と竹生に言われた柚木は、過去に触れる質問を、朔也にする事はなかった。けれども一度だけこっそりと聞いてみたのだ。「お父さんと呼んでもいい?」朔也は首を傾げ、しばらく黙っていた。柚木の言った言葉の意味を理解したのかどうか、定かではなかった。柚木はまた朔也が不意に錯乱状態に陥ったらどうしようと不安になった。竹生様に今度こそ屋敷から叩き出される、朔也にも二度と逢えないかも知れないと思った。だが朔也は頷いた。「柚木が、そう呼びたければ・・」それ以来、二人きりの時だけ、柚木は朔也を”お父さん”と呼んだ。朔也はそれを嫌がる気配はなかった。「柚木、大丈夫・・鵲(かささぎ)がいるから」朔也はそう言って微笑した。幼い頃、泣いて帰って来た柚木を迎えてくれた笑顔を、柚木はそこに見た。だが過去を失った微笑は、記憶の中の笑顔よりも無垢で、あまりにも綺麗で、柚木は胸が痛くなった。胸の痛みを隠して、柚木も笑った。「そうだね、鵲さんがいる」朔也は柚木の膝に頭を載せた。柚木はいつもの様に髪をなでてあげた。黒く真っ直ぐな髪は細く滑らかで、柚木の指に心地良かった。「どんなに・・深い川があっても、鵲が橋になる」朔也がつぶやくのが聞こえた。「柚木を・・その先に行かせてくれる・・だから、柚木は・・・・・」言葉が途切れ、柚木の膝の上で頭が重くなった。「お父さん、寝たの?」柚木は朔也を抱き起こした。「ちゃんとベッドで寝ないと、竹生様に叱られるよ」「・・うん」朔也をベッドに寝かせると、柚木は枕元に椅子に腰掛けた。「僕はここにいるから、安心して」朔也の差し出した手を柚木は握った。朔也は目を閉じた。目を閉じたまま、朔也は言った。「とても・・眠い。また、しばらく起きられない・・」「無理はしないで、ゆっくり寝て」朔也は頷いた。すぐに小さな寝息が聞こえて来た。柚木はその寝顔を見ていた。(鵲さんだけじゃない。お父さん、貴方もいるから。やっと見つけた。いてくれるだけでいいんだ、今度は僕が貴方を守るよ。僕はもう十歳の子供じゃない。剣の腕も上達したよ、随分強くなったよ。竹生様にもっと鍛えてもらうんだ。もっともっと強くなる。あの雨の日に貴方を失った、あんな事が二度とないように)柚木は心の中で朔也に語りかけた。(僕は沢山の人を守りたい、今まで僕を守ってくれた人達の事も。お父さん、出来るよね?僕はなれるよね?僕は”盾”、真彦の最強の盾・・その預言通りに)風は遠くに吹いていた。風の運ぶ未来はまだ先にあった。その風の存在を感じながら、今も夜空を翔ける者がいた。その者もまた未来を託された者であった。「我らの風は、まだ止まぬ」誰にともなくその者は言った。黒衣の裾が翻り白く長い髪が闇に流れた。月が照らし出した顔(かんばせ)は天上の美を湛えていた。「夜に潜む者達よ、お前達にこの世界を渡すものか。我らの風が吹く限り」美しき影は天空を翔け上り、消えた。(終)
2010/09/01
「お前達は、私と”絆”を結ぶ必要がある」竹生(たけお)が言った。「鵲(かささぎ)と共に、真の佐原の当主を護る者となる為に」鳥船(とりふね)はその意味を知っていた。それは竹生に血を捧げる事を意味していた。己の命の一部を。”絆”を結んだ者を、竹生は何処に居ても感知し、かの者には竹生の声が届くようになると。それは竹生の支配を受け入れる事でもあった。「拒むならそれでも良い」鳥船が尋ねた。「拒んだらどうなるのでしょう」竹生のあらゆる表情を隠した無表情の白い顔が鳥船を見た。「別の者を選ぶ。鵲の部下として」「何故、それほどまでに?」「漣(さざなみ)の家の者らしくないな。当主様を護る者は当主様のお側にいる」「当主様の居場所を知る為に、火急の際の為にですか?」「それだけではない、お前達の為にもだ」「私達の?」「鵲と共にお前達も生き延びねばならぬ。それがひいては佐原の為になる」高望(たかもち)が前に出た。高望は竹生の前に跪いた。「私に”絆”をお与え下さい。我が父、火高が竹生様に命を捧げたのと同じように」鳥船が慌てて言った。「良く考えろ、高望」高望はじろりと鳥船を見た。「俺は”盾”だ。決意などとっくの昔に出来ている。俺が竹生様と”絆”を結ぶ事で、鵲様と当主様を護る助けになるのなら、拒む理由などない」「高望、お前・・」「鵲様は術を受けた身である事を苦しんでおられる。俺もその苦しみを、少しでも理解出来るやも知れぬ」高望ははっとして竹生の顔を見上げた。今の言葉は竹生に対する侮蔑とも取れる。「竹生様、ご無礼を」竹生は微笑した。高望は思わず見惚れた。「お前の心意気、我が甥への忠誠、良く解った」竹生は高望の前に屈み込み、耳元でささやいた。「お前の望み、かなえてやろう。お前を我が剣の庇護の下に」囁いた薄赤い唇が耳から首へと滑り降りた。高望は床の上に仰向けに横たわっていた。その顔は蒼白で目は硬く閉ざされていた。「すぐに目覚める、心配するな」マサトは椅子の上で胡坐をかき、ケーキを齧りながら言った。「お前はどうする?こいつ一人でも目的は達せられる。お前は拒んでもいいぞ」鳥船は高望を見下ろしていた。首筋の赤い傷を見ていた。”人でない”者の所業の痕を。鳥船は顔を上げた。「竹生様、私は漣の家の者です。漣の家の者だからこそ、貴方にお尋ねしたのです」その顔は晴れやかだった。「物事を確かめずにはいられぬ性分でして。覚悟は出来ております」マサトが笑った。「石橋を叩いて渡るってやつか」「はい。何が起きるかも、どうなるのかも、高望のお蔭で確かめる事が出来ました。これ以上、竹生様をお待たせするのも申し訳がない」鳥船は竹生の前に跪いた。「私も貴方の庇護の下へ。佐原と鵲様への忠誠、高望に勝るとも劣っているとは思いません」竹生は言った。「お前の思いは、むしろ鵲へ深いのであろう?」「”絆”を結ぶ前からお見通しとは、面目ない」「むしろ頼もしい。私に三峰がいたように、お前が鵲を支えよ」「それこそが私の望み、身も心もすべて捧げてお仕え致します」さらさらと白く長い髪が鳥船の頬に触れた。柔らかき闇を思わせる声が耳元でささやいた。「少しだけ貰うぞ、お前の命を」鳥船は目を閉じた。
2010/09/01
「鳥船」竹生が言った。鳥船は身体を硬くした。今この場で切り捨てられても仕方ないと覚悟した。だが次に鳥船が耳にしたのは、意外な言葉であった。「お前が気に入った」竹生は鵲に言った。「立たせよ」鵲は鳥船を助け起こした。竹生は満足気な顔で鳥船を見ていた。「大抵の若い盾は、己の席次を気にするか、目先の事しか見ようとしない。お前のように物事を見る者が側にいるのは、鵲の為にもなるであろう」鵲も言った。「私も鳥船を頼りにしたいと思っております」「鵲様・・」鵲にふらつく身体を支えられながら、鳥船の思いは強く固まった。(鵲様を、必ず盾の長にしてみせる)「高望」「はい」高望は名前を呼ばれて緊張した。「こちらへ来い」高望は竹生の前に進み出た。竹生は高望をじっくりと見た。「鵲の身も心も守り切るが己が務め、お前はそう思っているな」高望は眉を開いた。己の考えを見抜かれた驚きで。「仰せの通りで御座います」「私は長の年月、お前の父と共にいた。火高の事は良く解る。お前は父に良く似ている」父の火高は高望が物心つく前に亡くなっていた。「私は父を覚えておりません」「お前が覚えておらずとも、血は争えぬというやつだ」竹生は微笑した。高望は大きく息を吐いた。そうしなければ、再び呪縛に陥ってしまう気がしたからである。「お前は我が良き部下だった者の息子、期待しているぞ」「ご期待に副えるよう、精進致します」「本当に良く似ているな、その性根までも。お前の事も気に入った。お前はもっと強くなれる。お前に相応しい教師を見つけてやろう」竹生は満足げに二人を見比べた。そして鵲に言った。「良き部下を持ったな。末永く良き長として勤めよ」「ありがとうございます」鵲は竹生の様子に胸をなでおろした。「鳥船」「はい」「お前には更なる知識が必要だな。書斎の使用を許可する」竹生は立ち上がった。「二人とも付いて来い」訝る鵲に竹生は優しく申し渡した。「お前は残れ。私が戻るまで、あれの側に居てやれ。私がいないと寂しがる」鵲には誰の事を指しているか解っていた。鵲は頭を下げた。「素晴らしい蔵書ですね」鳥船は歓声を上げた。元は剛三の書斎だった部屋である。書棚には古今東西のあらゆる本がぎっしりと詰め込まれている。「好きなだけ読むがいい。だが本当に必要なものは、この奥にある」竹生は書棚のひとつに手をかけた。どういう仕掛けか扉が現れた。古びた扉であった。鳥船と高望は顔を見合わせた。竹生が扉を開けた。後について二人も奥へと進んだ。細い通路の奥に広い部屋があった。窓はない。様々な器具の並んだ机と寝台があった。一人の小柄な人物が寝台に寝そべり、黄ばんだ皮表紙の本を読んでいた。青い服を着た子供に見えた。子供はじろりと侵入者を見た。「何しに来た」竹生は子供に恭しく頭を下げた。「鵲の組の者、新しくこの屋敷に住まう者です」子供は起き上がった。「ふーん」二人は竹生が敬意を示している事と、子供の尊大な態度に戸惑っていた。子供はじろじろと二人を見た。子供は鳥船を指差した。「お前、秀明(しゅうめい)に似ているな」鳥船は驚いた。「秀明は、私の曽祖父にあたります」子供はにやりと笑った。「やっぱりな、漣(さざなみ)の家の者か」何故こんな年端のいかない子供が、曽祖父の事を知っているのか。鳥船は、あっと思った。「もしや、マサト様?お亡くなりになったはずでは?」「そのつもりだったんだがな、呼び戻された。おちおち死んでもいられねえんだ」竹生を見て、マサトは再びにやりと笑った。「俺がここにいるのは内緒だ。盾でも知ってる奴はほとんどいない。誰にも言うなよ」マサトは寝台から降りた。そして机の上のナフキンをどけた。様々なケーキが山盛りになった皿が現れた。マサトはひとつを掴むと頬張った。「まあ、ここには他にも住み着いている奴がいるがな」ケーキの皿に手を伸ばしている干瀬を見ながら、マサトは言った。干瀬の姿は二人には見えない。干瀬は首をすくめたが、机の上にしゃがみこみ、両手にケーキを持ってかぶりついた。「俺は今、策を練っている。漣の家の知識が必要だ。それにそっちのでかいの、雷(いかずち)の家の秘伝、お前が受け継いでいるんだな」雷の家の秘伝は一子相伝、父を失った高望はかろうじて存命だった祖父にそれを教えられた。何よりも存在自体が秘中の秘、他家のみならず家の内でも知る者なき、長と嫡男だけの秘儀であった。「秘伝の事を、何故?」「伊達に六百年も村の守護者をやってたわけじゃない。色々と知ってるのさ」マサトはケーキをもうひとつ取るとぱくついた。「このクリーム、美味いな。香りがいい」「アトリエ・エルダールのものですね。最近評判の」マサトはじろりと鳥船を見た。「お前、詳しいな」鳥船は頭を下げた。「恐れ入ります。明日、真彦様ご所望のアイスクリームを買いに行きます。マサト様にもお届け致しましょうか」マサトの顔がぱっと明るくなった。「そいつは楽しみだ。俺の分、忘れるなよ」「心して」マサトはクリームのついた指を舐めた。「鵲を置いて来たのは、あいつに見せたくなかったからだろう?竹生」
2010/09/01
三人が扉の前に立つと、扉は音もなく内側へと開いた。風の力である。夜に支配された部屋の中へ、鵲を先頭に、鳥船、高望と続いて歩を進めた。訓練された夜目を持つ”盾”の三人だが、何物も見る事はかなわず、まとわりつく重い気配に気おされながらも、なおも奥へと進んだ。重くとも悪しきものはなく、ひたすらに荘厳で巨大な気配が三人の心を折りそうになる。それは夜そのもの、深く底知れぬ恐怖と明日への眠りと安らぎを秘めた何か。「歓迎する、鵲の組の者達よ」夜の底に一条の月光が差し込んだ如き声がした。清涼と夜の物憂さを漂わせた声の先に、三人は安楽椅子に座する影を見出した。その者が片手を挙げた。背後のカーテンが開かれ、月光が室内を照らし出した。半分に欠けた月であっても、真の闇に慣れた目には、真昼の太陽の如き思いがした。その者の指先の形が影となって三人の目に強烈に焼きついた。その者は指でさえも神の繊細なる技より生まれた美しさを持っていた。鵲はその場に跪いた。残りの二人もそれに従った。「立つが良い」三人は従った。そして目の前に居る”伝説”を見た。ゆるやかに床まで届く程に白く長い髪が、月光を跳ね返し銀粉を振り撒いている。黒衣を纏った身体はしなやかで、安楽椅子に寛ぐ姿は優雅であり、無表情でありながらあらゆる感情を含んでいるかの如き白き美貌が三人を見ていた。三人は何もかも忘れて見惚れた。見慣れているはずの鵲でさえ、無敵の美影を目前にしてはこの有様であった。「我が甥よ、お前の部下を私に見せてくれ」その声に我に返った鵲は、恍惚の余韻に泡立つ胸を押さえて言った。「わたくしの組の者、鳥船と高望で御座います」二人は鵲より一歩下がって控えていたが、いまだに初めて見る竹生の姿の呪縛から解放されてはいなかった。二人は呆然とした面持ちで竹生を見ていた。その体は細かく震えていた。これほどに圧倒的な力と存在を持つ者に出会ったのは初めてであった。獅子に睨まれた小動物の如き心境と、あってはならぬ美に出会ってしまった感動と悔恨に似た想いが、二人の中でせめぎ合い、二人の身も心も魔性に囚われたままであった。鵲は竹生に出会った人間がどうなるか承知していた。鳥船の傍らに行くと、背中に手を当てて前へ押し出した。「これが漣(さざなみ)の家の鳥船、軍師の家の出の者です」鳥船は鵲の手の暖かさに自分を取り戻した。「竹生様に御目通りがかない、恐悦至極に存じます」何とか声は出たものの、鳥船の声は掠れていた。(我ながら情けない)鳥船は嘆いた。竹生はじっと鳥船を見ていた。竹生は頷いた。「真彦様は、お前を気に入られたようだ。大したものだな」「ありがたき御言葉」鳥船はようやく落ち着きを取り戻した。「鵲をどう思う?」意外な問いかけに鳥船は虚をつかれた。(何が知りたい?甥の器か?それとも俺の?)安易に答えてはならない、だがこの青く深き瞳の前では小細工は通用しないと鳥船は悟っていた。「我が生涯仕えるべき方に巡り合ったと思っております」「成程」竹生は興味を持った顔を見せ、少し身を前に乗り出した。それを見て鳥船は勇気を奮い起こして続けた。「鵲様こそ最高の”盾”となるべきお方、すべての盾を率いるに相応しいと」重ねて竹生は尋ねた。「お前の目指すものは?」「我らは最高の組と呼ばれるようになるでしょう」竹生の目に青き魔性の光が宿った。竹生の唇に微かな笑みが浮かんだ。「それだけではあるまい?お前の望みは」青き煌きが鳥船の心の奥を貫いた。我知らず、鳥船は己の望みを口にしていた。「私は、この戦いを終わらせたい」一度口にした思いは一気にあふれ出た。「我ら”盾”が空しく死んでいく、この繰り返しを断ち切りたいのです。『火消し』の下で死んでいく、我ら佐原の村人の宿命を変えたいのです。『奴等』との戦いに終止符を打ちたいのです」言ってしまってから鳥船は青くなった。(あまりにも大それた事を・・)竹生の不興を買ってあまりある内容であった。(鵲様に、ご迷惑をおかけしてしまう)鳥船はその場に平伏した。「過ぎた事を・・申し訳御座いません!!」
2010/09/01
「初日から深夜までのお役目になってしまったな、済まぬ」鵲は言った。鵲の部屋である。真彦は眠くなるまで三人が下がる事を許さなかったのだ。鳥船はソファに寛いでおり、自分の机にいる鵲に笑顔で応じた。「鵲様のせいではありませんよ。むしろ私達は嬉しいのです」鳥船は向かいの椅子に腰掛けている高望を見た。太い腕を組んだ高望は鳥船に頷き、鵲を見て言った。「当主様には直々にお声掛けを頂き、これから竹生様にも御目通り、こんな栄誉はめったに御座いません」「そう思ってくれるとは、ありがたい」鵲は安堵した表情を見せた。鳥船はずっと鵲の様子を観察していた。真彦達と話しながらでも、鳥船には容易な事だった。鵲の立ち居振る舞い、お役目への熱心さ、佐原の家への忠誠心。どれも申し分なかった。同時に鳥船は鵲の苦悩も感じ取った。”盾”として完璧である事、施された術への嫌悪、その二つのせめぎ合い。人当たりの良い物腰の奥に隠された、閉ざされた心の悲鳴。(成程、これが俺達が選ばれた理由か)高望は余計な詮索はしない。それは鳥船の役割と心得ている。高望の関心事は、鵲と共にどうすれば効率良い戦いが出来るかだ。組の長を守りつつ敵も倒す。高望は己の役割は用心棒と見なしていた。敵からも周囲からも防波堤となる。かつて父の火高が奥座敷の番人として君臨した如くに、鵲の身にも心にも悪しきものを寄せ付けない城壁となるのだと。高望は自分の考えを鳥船が承知していると思っていた。事実、鳥船は理解していた。子供の頃からの長い付き合いの二人だった。「お茶でも入れましょうか」鳥船が言った。鵲の私室は衝立で半分に仕切られている。組としての控えの場所と鵲の寝起きする場所と。湯を沸かす道具は寝起きする場所の方にあった。鵲が立ち上がった。「私がやろう」鵲がソファまで来た時、鳥船が立ち上がり鵲の両肩に手を当てて制した。「私がやりましょう」「しかし」「これからは、部下の使い方も覚えていただかねば」鳥船は肩を押して、強引に鵲をソファに座らせた。鵲は渋々従った。部屋の一角がささやかな台所になっていた。小さな流しと戸棚と焜炉が据え付けられていた。水を入れた薬缶を火にかけると、鳥船は戸棚から急須と湯のみを取り出した。桐原が用意したのであろう、程好く使いやすい茶器類が揃えてあった。無地の焼物で高価過ぎず安物過ぎず、若い鵲に似合いの簡素ながらも清楚なものであった。(まさに手頃とはこういう物だな。こんな心配りが出来る人物になりたいものよ)鳥船は桐原にあらためて尊敬の念を抱いた。桜皮の茶筒には上等の煎茶が入っていた。湯はすぐに沸いた。鳥船は道具を操りながら尋ねた。「鵲様は、珈琲と紅茶とどちらがお好きですか?」「紅茶かな」「お酒は召し上がりますか?」「普段は嗜まない。お役目に差し支えては困る」「高望は一升酒をくらった次の日に、”異人”を二十も倒す男ですよ」「豪快だな」水を向けられて、高望は鳥船の方を見てわざと大げさに怒鳴った。「二日酔いのお前の分も、倒してやっただけだろうが」「二日酔いのふりをしていただけさ。それも策の内だ」「随分と顔色が青かったぞ」「お前より色白だから、そう見えただけさ」高望は鵲を振り返って言った。「ああいう奴ですよ、鵲様」鵲は思わず笑った。「覚えておこう」自分を気楽にしようとする、二人の心遣いが伝わって来た。鵲は二人に心の内で感謝した。
2010/09/01
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