貴方の仮面を身に着けて

貴方の仮面を身に着けて

2006/09/13
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カテゴリ: 忍野恋歌(完結)




寮の大風呂で、忍野は篠牟の背中に斜めに平行に走る数本の傷を見てしまった。男にしては白い篠牟の肌に、薄赤い傷跡は妙に生々しく思えた。それが何の傷であるか、すぐに気がついた忍野は、不意に悩ましい心地になり、慌ててそれを振り払うように「お背中を流しましょう」と言って、白い石鹸の泡でそれを覆い隠してしまった。


その時、東士夫婦は不在だった。家には麻里子と忍野しかいなかった。麻里子は腹も大きくなり、少しふっくらとして来たが、忍野には妊婦に対する嫌悪感はなく、むしろ生命を身の内で育む神秘な姿に、畏敬の念さえ覚えていた。忍野は台所のテーブルで、麻里子が紅茶を入れてくれるのを見ていた。
「あら、お砂糖がないわ」
麻里子は流しの上の棚に手を伸ばして、戸を開けようとした。麻里子の指先は、もう少しの所で、戸の取っ手に届かなかった。
「私がやりましょう」
身軽に忍野は立ち上がり、麻里子の隣から棚に手を伸ばした。長身の忍野には造作も無い事だった。
「その黄色い入れ物が、お砂糖なの」
忍野は黄色い容器を棚から取り出した。
「ありがとう」


「忍野さん!」
麻里子の小さな悲鳴のような声が聞こえた。短い息遣いが、ますます忍野を熱くした。忍野は麻里子の髪に顔を埋め、耳元で身体の熱さのままの、性急な声で言った。
「麻里子様、貴方をお慕いしています」
忍野の腕の中で、麻里子は息を飲み、身体を硬くした。
「麻里子様・・」
忍野の唇が麻里子の頬に触れた。麻里子の平手が、忍野の頬を打った。忍野は驚いて手を離した。麻里子は両手で忍野を突き飛ばした。麻里子の抱えていた黄色い容器が転がり落ち、白い砂糖が床に飛び散った。麻里子はきらきらとした強い目で、忍野を睨んでいた。忍野は茫然と床に転がった容器を見た。自分が信じられなかった。麻里子は凛とした口調で言った。
「帰って下さい!すぐに帰って下さい!」
忍野は何も言わず、深々と一礼すると、出て行った。

数日前の厨での事だった。麻里子は皿の片付けをしていた。忍野と仲が良いと言う姿子(しなこ)という女が、麻里子に擦り寄り、嫌な口調でささやいた。
「大きなお腹で、男に甘い声を出すんだから、大したものよね」
麻里子の顔色がさっと変った。姿子はそ知らぬ顔で行ってしまった。麻里子は唇を噛み締め、皿の片付けを続けた。村へ来て初めて、深く傷ついた気持ちになった。その事があっただけに、麻里子の態度は頑なになっていた。忍野が侘びに来ても、逢おうともしなかった。忍野は麻里子の家を訪ねる事をやめた。



「忍野様は、どうされたのですか」
「森で倒れていた」
三隅はすぐに老医師を呼びに行った。

忍野の肺はかなり広い範囲で毒に侵されていた。それ以外にも毒は体内を侵食していた。老医師は言った。
「御岬様の治療があれば、毒の勢いは止められるでしょう」

「治るのか」
「根気良く治療をすれば、命を取り留める事は可能です。しかし元通りの健康体とするのは難しい」
治療室の隅に控えていた三隅は堪らなくなり、つい口を出してしまった。
「忍野様は、もう戦えぬとおっしゃるのですか」
「盾として戦う事は無理だ」
それが老医師の診断だった。それを聞き三隅は暗い顔をした。寒露は複雑な顔をしたが、何も言わなかった。意識を取り戻した忍野にも老医師は隠す事なく残らず病状を告げた。忍野は黙って頷いたのみであった。

灯の消えた病室で、一人、寝台に横たわった忍野は、分かっていた事とはいえ涙にくれた。
「戦えずして何の盾、生き延びるは恥」
翌日から忍野は入院扱いとなり、盾の職務から退いた。盾達は忍野の身体がそこまで損なわれていた事に驚くと同時に、それ程の危険を冒して篠牟を連れ帰った忍野への評価は高くなっていった。その事は忍野の耳にも届いたが、忍野の気持ちは暗いままだった。

一時的に盾の長を務めている高遠は忍野を見舞った。高遠も忍野が元に戻らぬ事を知っていた。
「後進の指導も、いつまでも霜月様のご好意に甘えてもいられぬ。お前なら良き教師となれるだろう。どうだ、動けるようになったら、やってはくれまいか」
それを忍野が酷な事と感じるだろうと知りつつ、高遠はあえて言った。忍野は先輩として私淑していた高遠に、麻里子に対する心情をも含めて隠さずに話した。
「私は篠牟様が守りたいとおしゃった笑顔を、その意志を継いで守りたいと思いました。しかし麻里子様は私をお嫌いになった。それでも影ながらお守り出来ればと良いと思っていました。なのに、この身体はそれすらかなわぬようになりました。今の私は、生き恥を晒しておめおめ生きているより、早く篠牟様のお側に行きたい、それだけなのです」

高遠は忍野の傷心を笑いも嘲りもしなかった。高遠も派手な容貌の為にあらぬ噂を立てられる事が多かった。忍野が噂と異なり真面目な性格である事は、自分の事の様に理解する事が出来た。
「今はお前も心が荒れていよう。まずはゆっくりと養生するがいい」
高遠は微笑んだ。その暖かい笑みが忍野の胸に染みた。どこか篠牟様に似ていると感じたのは、篠牟様と同じ風の家の血のせいだろうかと、忍野は思っていた。

二人の弟達が見舞いに来た。蔵野(くらの)と栗野(くりの)は双子だった。兄の蔵野が言った。
「露の家では跡取の兄さんの事を、皆が心配していますよ」
忍野は唇の端だけ上げて、苦笑いした。
「父上は私の事など、心配はしないだろう」
「そんな事はありませんよ、暗い顔をされています」
弟の栗野がむきになって言った。忍野はそれは弟達の思い違いだと思った。しかしそれを口には出さなかった。弟達は早く良くなって欲しいと口々に言い、帰って行った。

露の家の長である劉生(りゅうせい)は厳しい父だった。忍野は父に褒められた事は一度もなかった。盾の席次が上がっても特別なお役目を果たしても、父は忍野を無視するかの如く何も言わなかった。二人の弟には、父は笑顔を見せる事もあった。盾の見習いの試験に合格した時も、二人には「よくやった」と声をかけていたのを忍野は見ていた。篠牟の部下となった忍野は、盾の中では一目置かれる存在になっていたが、父はそれについても何も言わなかった。

劉生が病室に来た。忍野は目を閉じていた。
「御岬様の治療を断ったそうだな」
「御岬様のお力を必要としている患者は、ここには大勢います。私などに使うより、もっと他の方に使うべきです」
「お前は露の家に大事な身体だ」
忍野は笑った。
「今更、何をおっしゃるのです。病の私を慰めるおつもりですか」
忍野は父を見た。
「私が死ねば、貴方のお気に入りの弟達を跡継ぎに出来ますよ。こんな不肖の息子でなく。喜ばしい事ではありませんか」
「何を言っている」
「私はずっと家の中では余計者でした。貴方の期待はいつも私にはなかった。弟達のようにやさしい目で、私は見られた事がなかった。私は出来が悪く、貴方の気に入る息子ではなかった」
「お前は・・」
「努力はしたつもりです。盾でも席次は悪くなかった。篠牟様にも精一杯お仕えしました。剣の腕も同世代の者には負けた事はなかった」
忍野は目を閉じた。
「それでも、貴方のお気には召さなかったようだ」
忍野は咳き込んだ。
「貴方の思う通りになりましたよ。私はいなくなります。私はどこにいても余計な者です」
忍野は叫んだ。
「あの時、もっと早くたどり着けば、私が死んで篠牟様が助かれば、どんなに良かった事か。もう私は戦えない。戦えぬ盾など価値はありません。お帰り下さい、ここに来て下さった事に感謝致します。たとえ世間体や義理であっても」

佐原の屋敷の庭で、霧の家の長の霜月は、露の家の長である劉生が力ない足取りで歩いて来るのに行き合った。医療の建物の方から歩いて来る。跡取の忍野の病の事は霜月も聞いていた。さぞ辛い事だろうと思っていた。それにしてもこんな様子の劉生を霜月は初めて見た。霜月は気になり声をかけた。
「どうされた、劉生殿」
「これは、霜月殿」
劉生は霜月に訴えるように言った。
「私は忍野に、あんな思いをさせていたのか」
霜月は眉をひそめた。
「何かあったのですかな」
「跡取りだけに強くなって欲しいと、あえて甘い言葉はかけずに来た。それが忍野をあそこまで傷つけていたとは」
「劉生殿」
「息子の死を願う親など、いるものか。どの子も可愛い。ましてやあれは私の跡取だ」
霜月はこの親子に何か確執があるのだろうと思った。霜月は励ますように言った。
「今からでも遅くない、そう伝えておあげなさい」
劉生は黙って霜月に頭を下げた。





「忍野恋歌(おしのこいうた)」(続く)
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Last updated  2006/09/14 05:55:25 AM
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龍5777 @ Re:白衣の盾・叫ぶ瞳(3)(03/24) おはようございます。 「この歳で 色香に…
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