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「もうじき着くソラリスには軍隊が7隊。装備だって優れてる。今は手を出すな。」「私が必ず倒す。」「生け捕りに(するんだ)!」「断る。私のジャマをするな。」「報酬を考えてもいい・・・金銭的な報酬だ。」「私への報酬は乗組員の安全のみ。」毎日お暑うございます。皆さまいかがおすごしでしょうか。夏と言えばホラー、ホラーと言えば夏。スプラッター映画がおいしい季節ですね。(笑)「13日の金曜日」シリーズが、すでにPART10まで続いているなどとは、つゆと存じませんでした。ジェイソンの生い立ちなどはすでに遠い過去の記憶となり、今やジェイソンは近未来のモンスターとしての風格も具わり、ホラー界に君臨するようになったのであります。どんな手段を講じても死んでくれない不死身の体、無敵のモンスター。我々、一般ピープルはどうやって恐ろしいジェイソンと対峙したら良いのでしょうか?!何百人もの殺害を繰り返したジェイソンは、様々な処刑を受けるが、絶命しない。→某研究所でとりあえず冷凍保存されることになる。(要は処分に困っての苦渋の選択か。)→金儲け主義者が冷凍は取り止めにして生きたまま引き渡すことを要求。(もちろん研究所の職員は大反対。)→ジェイソンは研究所内の職員らを次々と殺害。→勇気ある女性研究員が、ジェイソンを冷凍することに成功。(しかしその代償として自分もケガをし、冷凍保存の巻き添えを食らってしまう。)→その後、四百年以上が経過。ジェイソン復活、大暴れ。これだけの猛暑に、思考力を要する映画は酷であろう。こういう時こそ頭をカラッポにし、町内会の納涼祭にありがちな、お化け屋敷に入る気持ちでホラー映画を楽しもうではないか。作品が一生懸命恐怖を煽る一方で、どこか滑稽さを感じるこの手の映画は、実は最も大衆的で、娯楽映画の王道をゆく王道なのかもしれない。2001年公開【監督】ジム・アイザック【出演】ケイン・ホッダー、レクサ・ドイグまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.31
「たまに思う。(あの時)みんな車に乗ってて・・・これが全部夢だったらと。」「夢か。」「本当は俺たちはまだ11歳の少年で・・・穴蔵の中で、逃げたらどうなるかと思ってる。」「そうかもな。(だが、そんなこと)知るか。」久しぶりに文学的作品を鑑賞した。この感触は・・・そう、村上龍の「イン・ザ・ミソスープ」を彷彿とさせるものだった。 どうしようもない孤独とか、絶望感など、人はふとした瞬間に遭遇する。だがほとんどの人はそういう冷たく無機質な感情と向き合うことなく、何気なくどこかに置き忘れて一生を終える。否、実は気付いているくせに気付かないフリをして、陽気で明るい世界を構築し、ムリヤリにでも「孤独や絶望感などとは無縁だ」とばかりに自己演出をこらしているに過ぎない。世の中すべてが不条理だとは言わない。だが無慈悲で理屈に合わず、正義など本当のところは存在しないのだと、人は少しずつ気付き始めている。「ミスティック・リバー」を後味が悪いと非難する人は、残念だが何か別の作品を観ていただき、お口直しを願う。この作品は非常に格調高い文学なのだ。この世の不条理を赤裸々に表現している。客観性に富み、物事のあり方、人間描写、セリフの流れに類稀なる芸術を感じた。ボストンで少年時代を共に過ごす11歳のジミー、ショーン、そしてデイヴ。道ばたで3人はホッケー遊びに興じていたが、それにも飽きてしまい、いたずら半分でセメント塗りたての道路に、自分の名前を書き込む。そこへ、警官を装う怪しい男が現れ、3人のいたずらを厳しく咎める。男は少年3人のそれぞれの所在地を聞き出し、なぜかデイヴだけを車に乗せると、どこかへ連れ去ってしまう。その後、デイヴは性的暴力を受け、四日間の監禁後脱出し、どうにか助かる。だがこの事件をきっかけに、3人は疎遠になっていく。それから25年後、ジミーの娘が何者かに殺害され遺体となって発見されることで、3人は再会するのだった。作中、ジミーが苦悶を浮かべながら罪のないデイヴを殺害したことを妻に告白するシーンがある。この時の妻のセリフ、「あなたは王様なの。愛する者のためなら何でもするわ。」これをどう受け止めるべきか。殺害に正統な理由さえあれば、何でも許されるということなのか。その罪の重さを知ってか知らずか、いずれにしても夫婦で背負って生きていくということなのか。敬虔なクリスチャンであるはずなのに・・・。作品全体からそこはかとなく漂う喪失感を、視聴者は否が応でも感じないではいられない。2003年(米)、2004年(日)公開【監督】クリント・イーストウッド【出演】ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケヴィン・ベーコンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.29
「先生の仇を討ちます!」「よしなさい。報復などしてはならない。憎しみは・・・更なる憎しみを呼ぶだけだ。見苦しい報復より、自分を磨くことが肝要だ。」中国四千年の歴史を誇るとは、誇張ではない。いにしえの賢人たちの説いた思想、哲学をDNAによって連綿と受け継いでいる民族なのである。そして、人間としてあるべき姿、生きていくプロセスを非常に重んじる。その結果、挫折から学び、失敗をバネにしてのし上がろうとするその執拗さは、単なる“努力家”という言葉では表しきれない、底知れぬ熱いものを感じる。この「SPIRIT」においても同様のことが言えるだろう。幼いころの屈辱的な汚名や、明らかな過失を決して好しとせず、名誉挽回、汚名返上に心血を注ぐのだ。それは、辛酸と苦杯を嘗め続けて来た者が、「今にみてろ」と闘志を燃やす、命を賭けたリベンジなのだ。少年時代、ケンカでこてんぱにやられてしまったフォは、子ども心にも“強くなって絶対に負けない武術家になる”と、自分に誓う。その後、稽古に稽古を重ね、天津でも有名なツワモノとしてその名を轟かせることになるが、一方で己に対する自惚れが強くなり、酒に溺れ、浪費が重なった。ある時、弟子が武術家チンに負けて大ケガを負ったことで、フォは悔しさのあまり憤り、仇を討つ。ところが今度は殺してしまったチンの弟子たちが、報復を企み、フォの母親と最愛の娘を殺してしまう。フォは深い哀しみと絶望感に浸りながら、己を忘れて彷徨い歩くのだった。スピード感のある華麗な武術指導は、言わずと知れたユエン・ウーピンである。「キル・ビル」や「マトリックス」など、アクション監督として世界にその名を轟かせた。作品のラストは、日本人ビジネスマンが己の利益のために毒を盛って主人公の抹殺を計るが、この件はどちらかと言えば日本人の発想ではなく中国人の発想そのものに思えた。勝つためには手段を選ばない、必殺の戦術で攻めて来るのだから。「報復などしてはならない。憎しみは更なる憎しみを呼ぶだけ」という言葉を今一度かみしめて、我々はそれぞれの立場を尊重し、敬うことによって共生していかねばならない。2006年公開【監督】ロニー・ユー【出演】ジェット・リー、中村獅童また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.27
「二度とお前の料理は食えねぇとあきらめて、徳平のマズイ飯でずっと辛抱していたんだぞ。・・・どうした? うちを留守にしている間に舌なくしちまったのか?」「私がお分かりでがんしたか。」「アホだのぅ。お前の煮物の味を忘れるわけねぇ。」やっぱり山田作品は良い。とにかく安心して観ていられるからだ。藤沢周平の世界観とコラボして、見事な人間ドラマに仕上がっているではないか。山田監督が持つヒューマニズム思想のせいなのか、スポットがあてられるのは名もない下級武士の、しがない日常生活ではあるのだが、そこに潜む笑いとか哀しみがそこはかとなくドラマを盛り立てている。「ロン・バケ」や「あすなろ白書」等、テレビドラマのイメージが強いキムタクも、本当によく頑張った。山田監督の厳しい演出に充分応えていると思う。そのせいか、「HERO」の時のキムタクとはとても同一人には思えない演技力を発揮しているのだ。幕末、山形県庄内地方が舞台。藩主の毒見役を務める三村新之丞は、毒見の際に食べたつぶ貝の毒に中り、失明してしまう。本来なら失職し、家禄も奪われ路頭に迷うところなのだが、藩主のお目こぼしによりそれまでの三十石の家禄と家名は守られることになった。そんな折、新之丞の叔母から加世(妻)の不貞を聞かされ、加世がふしだらな女ではないことを信じつつも、一抹の不安を覚えるのだった。時代劇は、なにもお上の武勇伝を聞くためだけのドラマではない。もっと底辺のところでささやかなドラマが生まれているのだ。この作品を観ると、どういうわけだか、浅漬けのお新香とご飯が食べたくなる。しかも着物を着てお寺の参道をそそと歩いてみたくなる。あるいは障子のある部屋が欲しくなる。そしてなにより、「清貧」という生き方にますます憧れを強くするのであった。2006年公開【監督】山田洋次【出演】木村拓哉、笹野高史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.24
「ジャックの記録は何ひとつ残っていない。」「あるはずがないわ。彼のことは今まで誰にも話さなかったの。・・・主人にもね。女って、海のように秘密を秘めてるの。」実に見事な構成である。世界が感動に震え、涙に濡れたのが理解できる。生と死の境、そのボーダーラインがこの作品の決め手となっているような気がしてならない。奇跡的に生還したローズは、すでに100歳を超える老婆となっている一方で、北大西洋の極寒の海に消えたジャックは、青年のままの姿で、もちろんその後はない。これこそが「生きている」ことと「死んでいる」ことの違いなのではなかろうか。ジャックがゆっくりと静かに沈んでいくのを見た時、誰かの記憶の中に眠り、生きた証しを残してこの世を去る潔さを感じた。それはまるで、ローズという生還者に「死の残り香」を漂わせて海に消えてゆくロマンだ。沈没したタイタニック号を調査しているグループが、上流階級の女性が搭乗していたと思われる1等客室の部屋から金庫を発見する。さっそく金庫の中身を調べてみたところ、目ぼしいものはなく、裸婦のデッサン画だけだった。そのようすはテレビ中継され、偶然放送を目にした絵のモデルの女性は、今ではすでに100歳を超える老婆となっていた。彼女は、当時の事故から奇跡的に生還するまでのロマンスを、調査団の乗員たちに話して聞かせるのだった。1912年4月10日、英国サウザンプトン港から豪華客船タイタニック号が北大西洋で長い眠りに就くその日までは、わずか数日のことであった。ディカプリオ扮するジャックが、貧しい絵描きという設定も大変良かった。そこに存在する人や物をデッサンするという行為は、正に「生きている」証し。だが、スケッチブックに残された絵の一枚一枚は、静かで動かない、言わば「死んでいる」ものなのだ。ドルの大枚をチラつかせて救命ボートを確保しようとした行為は「生きている」ことだが、混乱する船上に投げ捨てられた紙幣は、何の価値もない「死んでいる」もの。この生死のコントラストは、パニック映画としてもラブ・ストーリーとしてもすばらしく完成度の高い仕上がりになっていた。人が「生きている」ことを実感するのは、皮肉にも死と隣り合わせであることを認識した時なのかもしれない。「タイタニック」は、この世に“絶対”などないことを教えてくれるのだ。1997年公開【監督】ジェームズ・キャメロン【出演】レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレットまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.22
「兄ちゃん、俺死にたくない。腹くくったふりしてるけど、本当は怖いんだ。でも・・・それを誰にも言えなくて・・・俺子供のころから弱虫だったから・・・本当に怖い!」「いいさ。人間なんか、所詮みんな弱虫だ。」当管理人も肉親をガンで亡くし、その壮絶な最後を見届けた者の一人である。ガンを告知され、余命を宣告された者、そうと知っても尚、気丈に振舞わねばならない家族。様々な思惑が絡み合い、心のバランスはもはや崩れる寸前。正気などではいられない。家族の誰もがムリヤリの笑顔で一場の孤独を紛らわしているにすぎない。闘病をリアルに表現するのは難しい。心の葛藤、人間模様、くり広げられる人間ドラマは、制作者サイドの想像をはるかに越えたところにある。我々はこの世に生まれ出た瞬間から、すでに死へのカウントダウンが始まっていることを思い知らねばならない。大手不動産会社部長の藤山は、家族にも恵まれ、職場でも人望厚く、何不自由ない生活を送っていた。だがある日突然、末期の肺ガンで余命半年との宣告を受ける。藤山は延命治療を拒否し、「死ぬまで生きる」決意をする。そんな中、これまでに出会った大切な人たちともう一度会って、最後の別れを告げることにする。それは初恋の人であったり、昔の取引先の社長であったり、あるいはケンカ別れした友人であった。気丈に振舞う藤山だが、たった一人の兄の前では思わず「死ぬのが怖い」と本音を漏らすのだった。美人の妻、聞き分けの良い二人の子どもたち、それに若い愛人まで囲っていた主人公。 それまで、この世の栄華を謳歌していたに違いない。だが、運命とは皮肉だ。順風満帆では終わらないのが人生である。この作品はひとえに、主人公の生き様などにスポットを当てるのではなく、これから死にゆく人を見送る側に興味が注がれている。自分はガンで余命幾ばくもないのだと告白する主人公に対する、周囲の同情、重い沈黙、反感、興味本意の眼差し。様々な思惑が倒錯する。それら冷静かつ合理的なまでの瞬間が、この作品からはひしひしと伝わって来る。単なる闘病記として捉えるのではなく、作中の人間模様を客観的に捉えることで、この映画の主旨を正しく感じ取ろうではないか。2007年公開【監督】井坂聡【出演】役所広司、今井美樹また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.20
「(エンジンが)動かない!」「クラッチに足を(置くんだ)。合図したら足を離せ。(いいかい)スタジアムまで行くんだ。」「・・・・(うなずく)。」「伏せてろ。・・・向こうで会おう。」やっぱり夏はこれだな。背筋も凍るような不気味な作品、そう、ホラー映画である。うだるような暑ささえ忘れさせてくれる、に違いないから。だが実際は寒気を催すほどの不気味さというのには、なかなかお目にかかれない。どちらかと言うとスプラッター的で、かろうじて目まいに襲われる感覚に近いものがある。「28週間後」は、R-指定映画ということもあり、なかなかきわどいシーンもあるのだが、なにより発想がおもしろかった。モンスターと化した人間に“弱点”が設定されていないからだ。例えばドラキュラには十字架、ゾンビには頭を撃って脳を破壊、山姥には三枚のお札。 とにかくモンスターには致命傷を与える有効手段が必ずある。だが、「28週間後」にはそれが存在しない。なんの解決策も見つからずに空しく人命が失われていくのだから、その恐怖たるや想像を絶する。感染したら最後、吐血と同時に凶暴性を引き起こし、正常な人間に襲いかかるという新種のウイルス“レイジウイルス”がロンドンに蔓延する。11週間後になると、米軍主導のNATO軍がイギリスに上陸し、隔離措置を取る。18週間後になると、ついにレイジウイルスは根絶されたと発表される。24週間後になると、イギリス国民は都市の再構築を始める。しかしある時、二人の姉弟が安全区域内から密かに脱出し、危険地帯にある自宅に戻ったところから悲劇は始まる。なんと、死んでしまったと思っていた母親が生き残っていたのだ。それは、28週間後のことだった。この作品のすごいところは、現実味のないモンスターなどを登場させることなく、ウイルス感染により人間が人間を襲い、さらには感染者を駆逐させるために軍が民間人を皆殺しにするという狂気の沙汰を表現した点だ。この、“コード・レッド”(緊急事態発令)はまんざら在りえないことでもなさそうなのだ。人は我が身を守るために、愛する人を見殺しにできるのか?愛する人が豹変した時、あなたならどうする?悲しんでいる暇などない、生き延びるために殺す。この冷酷非情な選択が、あなたにはできるだろうか?そもそも人間は何のために生きているのだろうか?我々の前に突き付けられた主題は、あまりにも重い。2007年公開【監督】フアン・カルロス・フレスナディージョ【出演】ロバート・カーライル、イモージェン・プーツまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.18
「私は黄金の都市を発見した! 私の名は残るのか!?」「それは後で考えよう。まず脱出するんだ!」「謎解きみたいに言うな! 謎は終わりだ! 皆死ぬ・・・それとも私だけ(が死ぬのか)? 私が発見した!」「頑張れ!」ポストインディ・ジョーンズシリーズの異名を持つ(←勝手に当管理人がそう呼んでいるだけなのであしからず)この作品はディズニーが総力を挙げて社会に発信している「家族ドラマ」なのだ。もちろん、冒険とファンタジーに彩られてワクワクドキドキの連続である。だが、テーマはもっとシンプル。「夫婦の絆」「親子愛」「友情」・・・そういうごくごく正統派の内容なのだ。前作に引き続き主演はニコラス・ケイジ。この役者さんは、三枚目のキャラクターを巧みに演じることを得意としている。作中ではヒーローであるにもかかわらず、ハンサム然とせず、何か弱みを見せる人間くさいキャラクターを作り上げてしまうのだから不思議だ。本作でウィルキンソン役(悪役)として出演するのは、エド・ハリス。彼は完全にこのカラーの似合う役者として確立された。冷酷非情、それでいて言い知れぬ孤独を抱えた男、というキャラクターを演じさせたら天下一品。この作品でも真の悪役としては終わらず、自己犠牲によって汚名を返上するのである。 ベンはゲイツ家の先祖が言い伝えたリンカーン暗殺事件の真相を、学会で発表していた。 ところが聴衆の中に、暗殺者ジョン・ウィルクス・ブースの日記から失われた1ページを持つ男が現れた。そのページには、ゲイツの先祖が暗殺者の属する秘密結社、ゴールデン・サークル騎士団の一員として名前が明記されているのだった。ベンは、何者かによって故意に汚名を着せられた先祖の名誉を守るために、自由の女神からパリ、ロンドン、そして聖地ブルック・ヒルズ・ラシュモア山まで究極の真実を求めて飛び回るのだった。家族と共有する映画の楽しさ。ディズニーが発信しているのは、そういうシンプルなものらしい。大人も子どもも屈託なく喜んで「おもしろかったね」と、笑顔いっぱいで席を立つ映画館での一コマを期待しているのかもしれない。この夏は、原点に返ってエンターテイメント追求の映画を、家族で観るのも悪くないだろう。2007年公開 【監督】ジョン・タートルトーブ【出演】ニコラス・ケイジ、エド・ハリスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.16
「大丈夫か?」「(俺は)どうなるんだ?」「警察に身柄を預ける。2~3日だよ。・・・精神鑑定を受ける。アンジェラと僕が君のそばにいて・・・何も問題がないように気を配る。」ベタなのはわかっているが、イギリスのパンク・ロックバンドのフーの楽曲“Love, Reign over me”を採用しているのは、とても良かった。「愛の支配」と聞いて、視聴者は何を感じるだろうか。作品は9.11事件の後遺症をモチーフにしたものだが、どんな事件にせよ愛する者を失うという悲劇に見舞われた者の心の痛手を癒すというのは、並大抵のことではない。人間は理屈のみで生きているわけではなく、いかに感情の中で生かされているかがよくわかる。壊れてしまった自分を取り戻すには、効果的な向精神薬を服用するより、無償の愛を注がれることがなにより。絶望の淵をさ迷い歩くより、いっそ誰かに刺し殺してもうらうか、過って射殺されることの方が数倍もラクなことなのかもしれない。ニューヨークで歯科医を営むアランは、仕事も家庭にも恵まれ、生活には何不自由なく暮らしていた。ある日アランは渋滞中の車内から何気なく外を眺めていると、大学時代のルームメイト、チャーリーが歩いているのを目撃する。チャーリーは9.11事件で妻子を亡くして以来、消息がわからなくなっていたのだ。 アランは急いでチャーリーを呼び止めるが、チャーリーは気付かずにそのまま通り過ぎて行ってしまう。後日アランは街でチャーリーと再び遭遇。親しげに話しかけてみるものの、チャーリーはアランのことを覚えていないようす。しかも、それはどうやら精神的な原因によるものらしかった。一見、何の問題もなさそうに見えるアランにしても、職場でのストレスや妻とのささいなすれ違いに戸惑いを隠せない。程度の差はあるけれど、人は皆“同じ穴の狢”なのかもしれない。チャーリーだけが病んでいるわけではない。私も、あなたも、皆病んでいる。その苦悩を緩和させることのできる唯一の特効薬、それが「愛」なのだと言わんとしている。誰もがどん底の状況にもがき苦しんでいる中、どうにか生きていけるのは、「愛の支配」に救われる自分が存在するからなのだ。この作品は、複雑な現代社会を生きる様々な立場の人々に発するエールのようにも受け取れる。2007年公開【監督】マイク・バインダー【出演】アダム・サンドラー、ドン・チードルまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.14
「今度もまた負け戦だったな。」「は?」「・・・いや、勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない。」黒澤作品の晩年の作品、たとえば「影武者」や「乱」などは、全体を通して重くズシリと感じさせる内容に仕上げられている。しかもラストは必ず視聴者に向け、何か問題を提示する余韻を残してエンディングタイトルが流れるのだ。だが「七人の侍」を久しぶりに観たところ、どうやらその傾向は黒澤作品の晩年に限ったものではないことがわかった。黒澤監督は、いつも何かを訴えようとしていた。それが一体何であるかを想像しながら作品を鑑賞すると、さらに黒澤映画の奥の深さに驚かされるのだ。「七人の侍」ではおそらく、したたかに生きる者の勝ちなのだ、と言わんとしているのだろう。また、いくら“○○流”を気取る武士であろうとも、一発の銃弾の前では無力なのだ、とも。無敵を誇った武田騎馬軍団も、織田勢の用意した種子島(火縄銃)の前に惨敗したのだから。「七人の侍」は、武家社会の終焉とも読み取れる作品であった。盗人が子どもを人質に納屋に立てこもる中、剃髪し、にわかに僧侶に化けた武士が見事子どもを救出した。その侍こそ勘兵衛である。そのようすを一部始終見聞きしていた利吉たちは、急いで勘兵衛の後を追い、野武士退治を依頼する。だが、勘兵衛は無理な頼みごとだと一蹴する。まず、侍の人数が少なく見積もっても7人は必要だと言う。結局、百姓たちの窮状に胸を痛めた勘兵衛は、利吉たちの懇願を受け入れ、野武士退治に立ち上がるのだった。宮本武蔵や柳生十兵衛をモデルにしたと言われている久蔵というキャラクターは大好きだ。背後から銃弾を受けた際、それでもなお果敢にもう一太刀ふりかかろうとする様は、武士の魂を見た気がした。また、絶命するにしても前のめりで倒れる姿に、思わず目頭が熱くなった。黒澤監督の撮影技法についてだが、周知の通り、この作品の大掛かりなアクションシーンは複数のカメラを様々な角度に設置し、同時に撮影することで芝居を中断させなかったという逸話がある。この撮影技法を見事に生かした編集により、ラストの決戦シーンは歴史に残る大掛かりなアクションシーンとなったのだ。それは正に、ハリウッド映画を凌駕した一場の嵐だった。1954年(日)、1956年(米)公開【監督】黒澤明【出演】志村喬、三船敏郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.13
「離れ家は三つ。部落の家は二十だ! 三軒のために二十軒を危うくはできん! また、この部落を踏みにじられて離れ家の生きる道はない! いいか、戦とはそういうものだ! 人を守ってこそ自分も守れる。己のことばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ!」黒澤作品をつらつらと語るのは今さらという気もするが、やっぱり書かずにはおられない。とにかくこのそうそうたる役者陣の顔ぶれはどうだ!演技しているとは思えないほどの演技力ではないか。主役の勘兵衛を演じた志村喬だが、この人の味わい深い奥行のあるセリフの言い回しは何とも言えない心地良さがある。「男はつらいよ」シリーズでおなじみのさくらの亭主、博(ひろし)の実父役として、確か3度の出演作品がある。これがまたボクトツとしてそれでいて憂いがあり、とにかく存在感に溢れているのだ。 さらに、武士の中の武士とも言えるほどの圧倒的な強さを見せつけた久蔵役を演じた宮口精二だが、この人も「男はつらいよ」シリーズに2回ほど出演している。(当管理人は「男はつらいよ」の大ファンなので、あしからず。)マドンナ役の吉永小百合扮する歌子の父親役で出演しているのだが、小説家という設定ゆえか、口下手で神経質だがどこか知的な匂いのする雰囲気で視聴者を釘付けにする。そんな名優たちが黒澤作品において、同じ舞台で演じているのだからつまらないわけがない。野武士の群れが山間の小さな村をねらっていた。百姓たちは実りの時期を間近に、震えあがる。野武士たちは、ハイエナのように村にある穀物を強奪し、女たちをあさり、奪えるものは全て奪い尽くす集団だった。百姓たちは苦悩の末、村の長老の意見を聞き入れ、侍を雇うことを決意する。さっそく「腹の減った侍」を探すために町へ出た。利吉たち4人の百姓らであったが、なかなか腕の立つ侍など見つけられるものではなかった。そんな時、利吉たちは人だかりに出くわす。見ると、一人の浪人が僧侶に剃髪されているではないか。利吉たちは、事のいきさつを野次馬の一人に尋ねてみるのであった。黒澤監督のすごいところは、夏の入道雲一つ取ってもムダのない被写体であり、理由あっての構図として存在する点である。木の葉の影が風にそよいでゆらゆらと役者の顔に反映するシーンや、言葉はなくとも訴えかけてくるような妖艶な視線など、どれも見事な演出である。そんな「七人の侍」は、1954年にヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞している。日本映画が、世界を揺るがした瞬間であった。1954年(日)、1956年(米)公開【監督】黒澤明【出演】志村喬、三船敏郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.12
『ニューヨーク、世界一安全な都市。愛していた街が・・・恐怖の街に変わる。見慣れた通りの角で物影に怯える。階段すら昇れない。私は恐怖を知らなかった。女性のひとり歩き、郵便受けには白い粉の入った郵便物、暗闇、人を恐れる人たち。恐怖は他人事だった。恐れるのは弱者。私は無関係。でも違った。』フェミニストの代表格であるジョディ・フォスターが、女優という天職をかけて演じる役にふさわしい作品だった。「警察なんかに頼っていられない。信じられるのは自分だけ。」と言わんばかりに女性の持つ底力を見せつけた。だが脚本や演出に納得のいかない視聴者も多くいることだろう。「ご都合主義」だと脚本をなじる者もいれば、「正義のあり方」が間違っていると糾弾する真面目な視聴者もいるかもしれない。正直なところ、あながちその批判にも肯けないわけでもない。ただ、ここで注目したいのは、主役を“ジョディ・フォスター”が演じている点だ。インテリジェンスで主義を持つ彼女が、法を犯してまで正義を正当化する役柄を演じるとは一体・・・?正に、フェミニズムの主張であろう。「女を甘く見るな!」と言うひと言が、鋭く映像から響き渡って来たような気がしてならない。大都会ニューヨークで、ラジオ番組のDJとして生きる女性、エリカ。彼女は愛するデイビッドと結婚を間近に控え、順風満帆な日々を送っていた。ある晩、エリカはデイビッドと二人きりの散歩を楽しんでいた。そんな時、事件は起こった。二人は見ず知らずの男たちに凄まじい暴力を受け、金品を盗まれ、デイビッドは絶命、エリカも重傷を負ってしまった。デイビッドを失った彼女の絶望感は恐怖心へと変わり、ニューヨークの街並みを楽しむことはなくなった。全てに危険を感じ、恐怖心に襲われた。そしてついに彼女は、一丁の拳銃を購入することを決意した。それは、自己防衛という体のいい言い訳だった。ジョディ・フォスターの一連の役柄を思い出してみよう。「タクシードライバー」の少女娼婦役、「告発の行方」のレイプ被害女性役、「羊たちの沈黙」のFBI捜査官役(男性社会の中にもまれる女性という立場)。この、社会的弱者を進んで演じてみせる彼女の意図するところは何であるか?そこを探ってみると、この映画はもっと別の意味で楽しめるのではなかろうか。2007年公開【監督】ニール・ジョーダン【出演】ジョディ・フォスター テレンス・ハワードまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.10
「人は過去をどう背負えばいい? つらい結末を・・・“死”をどう受け入れる?」「さぁ・・・(わからないわ)。前に進むしかないわ。皆どうにか未来に向かって生きてる。でも・・・挫折する人もいるわ。」タイトルに踊らされて、何か淡いラブ・ロマンスを期待していた自分が恥ずかしい。この作品は、もっとメンタルで人間の底知れぬ深淵を覗いてしまったような感覚に襲われる。この世の地獄を見た人間に、憐憫の情など必要はなく、ただただ孤独の静寂がひと時の安らぎを与えるものなのか。うわべだけの優しさや、思わせぶりの愛情表現なんて、つかの間の幻想に過ぎないことを知っている。求めているのは、激しい感情のうねりにも負けないで、溺れずに泳ぐ術。言葉少なく、ただ黙って抱きしめる純粋な愛だけが孤独な魂を救うのかもしれない。イギリスの田舎町の工場で、日々黙々と働き続けるハンナ。組合にも参加せず、同僚たちとも打ち解けないハンナを見かねて、上司は強制的に休暇を取らせる。仕方なしに休暇を取ることになったものの、行くあてもなく、バスに乗って降り立ったのはさびれた港町。ふらりと入った中華飯店で、男が携帯電話で何やら話し込んでいる。それは急遽、看護師が必要だとの要請だった。ハンナは深く考えもせず、看護師資格のあることを告げ、事故のあった油田掘削所へと同行するのであった。母国の内戦によって治安が悪化した状況下で、ハンナは兵士たちから数十回にも及ぶレイプやリンチを受けた。彼女はアーモンドの香りのする石鹸をいくつもリュックサックに詰め込んでいて、何かある度に執拗に手を洗う。まるで、過去の消えようもない傷跡を洗い流そうとするかのような行為。チキンとライスとリンゴしか食べなかったハンナが、ジョゼフの食べ残した食事を夢中になって食べるシーンは、人間の生きようとする本能を見た気がした。大火傷を負い、角膜を損傷し視力を失った重傷患者ジョゼフとの出逢いは、真実の愛に枯渇する二人の止めどもない感情の高揚を予感させた。ティム・ロビンスの迫真の演技に、思わず目頭が熱くなった。2005年(西)、2007年(日)公開【監督】イザベル・コイシェ【出演】サラ・ポーリー、ティム・ロビンスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.08
「戦争はいつも対岸の火事にすぎない。戦後60年、日本は太平洋と東シナ海の間にただ浮かんでただけだ。なぁ、平和ならそれで国と呼べるのか?」「平和って、戦争の隙間に生まれると俺は思う。この国は60年もその隙間にいるんだ。俺はそれでいいと思うよ。」この映画をどう捉えるかは各人様々だが、もしもこれに触発されて「いざ軍備強化」だと短絡的な行動に出ようとする者がいたら、「ちょっと待った」である。原作を読んでいないため、テーマがどこにあるのかをこの映画のストーリーだけで推し量るのは難しい。国防意識を煽っているのか、あるいは反戦映画なのか、それも捉え方しだいのような気がする。ただ、キーワードとなるセリフが、作中いくつか散りばめられていた。その一つが、中井貴一扮するヨンファのセリフ。「よく見ろ、日本人。これが戦争だ。」である。このことからもわかるように、日本が戦争のできる国家ではなく、そういう人間も備わっていないことが理解できる。だが、ウィキペディアなどで調べてみると、軍備における日本の防衛予算は世界の水準を満たしているし、決して劣っていない。それなりに備えているわけだ。では、何が欠落しているのか?そこがポイントになっているような気がするのだ。海上自衛隊イージスシステム搭載ミサイル護衛艦「いそかぜ」の副艦長である宮津2等海佐が、東京湾沖で訓練航海中に謀反を起こす。それは、某国対日工作員のヨンファと共謀し、艦長を殺害したところから戦いの火蓋は切られた。彼らの手には、特殊兵器グソーがあった。その照準は首都東京に設定されていたのだ。防衛庁情報局らが事態解決にあたるものの、最新鋭のシステムを持つ「いそかぜ」を前に、政府は成すすべもなかった。テロリストたちから強制的に離艦を命令された乗務員たちの中に、先任伍長の仙石がいた。仙石はいったんは艦を離れたものの、再び「いそかぜ」へ引き返し、艦を取り戻すべく勇敢に挑む。日本がどうして戦争のできない体質になっているのか。それは、日本人の持っている精神性にあるのかもしれない。日本人は「国家」というものに対してどれだけの重要性を感じているだろう。有事に、家族を見殺しにし、そして己の命を失っても国家を守る精神が備わっているだろうか。キレイゴトではない。「大切な人を守るため」の防衛などではない。はっきり言ってしまおう。戦争ができる体制というのは、「国家を守るため」のしくみが整っているか否かなのだ。 そのために人質に囚われている家族や、己の命など切り捨てる潔さ。それこそが「戦闘態勢」と言えるだろう。この作品は戦争のできる国ではない日本の防衛能力の弱点を憂慮しながらも、それだけに平和を愛する島国民族として有事にあるべき姿を問うているのだ。2005年公開【監督】阪本順治【出演】真田広之また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.06
「ゾーイが落ちても無事で二人で大笑いしたけど、もし私が落ちたら・・・きっと一生歩けなくなる。」「そう考えちゃダメ。人にはそれぞれ才能が(あるのよ)。ゾーイは“体”よ。」いつのころからだろう。タランティーノ作品を観ることが、映画好きにとってこの上もなくカッコイイことのように思われ始めたのは。なにしろ、映像美あふれる格調高い何たるかを真っ向から覆す、いわゆる“ポップ・カルチャー”に徹した鮮烈な印象を与える映画なのだ。タランティーノ監督は、足しげく映画館に通って大学で芸術映画を勉強して・・・という映画人とは一線を画し、レンタル・ビデオ世代特有の家でまったりビデオ鑑賞を楽しんで来た人物だ。好きなビデオソフトを繰り返し観続け、マイブームの極みを築き上げた人でもある。そんなタランティーノ作品は、どれも彼独自に愛する過去の映画の引用やオマージュにあふれた内容に仕上がっている。舞台はテキサス州の某田舎町。ジャングル・ジュリアは、女友だちとバーに出かける。だが、不気味なシボレーに乗る男(スタントマン・マイク)が、彼女たちをつけねらう。 彼女たちは、強い酒を仰ぐように飲み、ハッパを吸い、挑発的なダンスを踊り、しだいにスタントマン・マイクへの警戒心を緩めていってしまった。しかし、謎の男スタントマン・マイクは、性のはけ口として車を暴走させ、女性を追い詰め、破壊することでエクスタシーを感じていたのだ。この作品はタランティーノ監督の考案で、グラインドハウス映画(※)を復活させようと試みたものらしい。70年代の雰囲気を出すために、傷んだフィルムの質感を再現したり、ジュークボックスの使用で当時流行のサイケデリックな音楽を取り入れたりと、かなり手のこんだ作風になっている。若さあふれる女性四人組のガールズトークは、生き生きとしていて、無鉄砲で、屈託がなかった。途中、スプラッター的場面が展開されるが、それもタランティーノ監督のご愛嬌とも思え、くどさは感じられない。鮮烈な暴力描写は本作でも健在だが、強くたくましく生きるモンスターのような女の子たちをイヤミなく表現していて、クールな作品に仕上げられていた。※グラインドハウス映画とは、70年代のインディーズ系低予算映画のことで、いわゆるB級映画を指す。2007年公開【監督】クエンティン・タランティーノ【出演】カート・ラッセルまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.05
「行かせて、お願いだから行かせて。」「もう殴らないよ。」「前も同じことを言った。」「(殴らないと)誓うから。」「イヤよ。時間をちょうだい。考える時間が欲しいの。あんたを許せるかどうか。」DV問題は他人事ではないと思った。嫌悪して直視できない内容ではあるが、最終的には当事者がきちんと向き合わねば解決できない問題なのだ。暴力が愛情の裏返しなどであるはずがない。それが納得できた時、つまらない支配下から解放される。愛情のない●●●は、無意味で虚しい。早くこの瞬間から解放されたいと、相手のタバコ臭い吐息が顔にかかるたび、絶望的な気持ちになる。盲目的な恋も、いつかは目が覚める。それがもっと長期的で穏やかな愛情に変わった時、恋愛は本当の意味で成就する。だが、何かのきっかけに「哀れみ」に変化したなら、それはもう恋の終わりを告げている。馴れ合いの果ての同情は、自分さえも破壊してゆく。ニューヨークのスラム街が舞台。美人でセクシーなキャットと、危険な男アルは、45口径の拳銃の密売や盗品をさばくことで日銭を稼いでいた。ある時、アルが毛嫌いしているプエルトリコ人の男がキャットに近づく。男はキャットの性的な魅力に惹かれ、声をかけ、髪に触れた。それに気付いたアルは、嫉妬のあまり激怒し、プエルトリコ人の手を切り落とすというリンチを加えた後、キャットに執拗な暴力を奮う。そのせいでキャットの目は腫れ上がり、口の中が切れ、見るも無惨な仕打ちに友人たちはがく然とする。キャットの身を案じた二人の友人、ヴィックとライリーは警察へと通報。そのおかげでつかの間、アルは警察に拘留。その間、キャットはDVを担当するソーシャルワーカーのリズにしだいに心を開いてゆくのだった。この作品は、女を武器にしたたかに生き抜いてゆくキャットの生き様を表現したものだが、その根底には吹き溜まりのようなスラム街で、何の教養もなく、その日暮らしに甘んじている貧困層を描いたものである。DV問題や不特定多数との●●●は、ほんの氷山の一角に過ぎず、核心はもっと混沌としていて絶望的でおそらく救いようのない人間の自堕落な痕跡が凝縮されているのかもしれない。※伏字は楽天の公序良俗に反するようでやむなくいたしました。2007年公開【監督】ゲイリー・レノン【出演】ミラ・ジョヴォヴィッチまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.03
「犯人に告ぐ。おまえの逮捕は時間の問題だ。逃げようと思うな。疾走した人間は真っ先にマークする。絶対に逃げ切れない。俺は必ずおまえを追い詰める。俺だけじゃない、日本じゅうの警察官が地の果てまでおまえを追い続ける。芝居はもう終わりだ。」推理小説とかミステリー小説などとジャンル分けされている作品の様相が、だいぶ変わって来た。松本清張や森村誠一を熟読して、恐怖と戦慄の瞬間を味わっていた青春時代も、今や遠い過去の記憶に過ぎない。事件の背景にある忌わしい過去だとか、犯人にまつわる哀切極まりないエピソードとか、犯行までのプロセスだとか、そういう一連のストーリーはどこかに置き去りにされてしまったのだろうか。そうではない。現代社会が求めているのは、陳腐なドラマなどではなかった。もっとドライで、意味などなく、暇つぶしの猟奇殺人なのかもしれない。人間の汚れた側面をクローズアップさせて、作品そのものに意味など持たせず、「こんなのもアリだ」と世間に提示してみせる。正に、現実味を帯びた「サスペンス」なのだ。2000年の12月大晦日。21世紀へのカウントダウンイベントでごった返す横浜展示場広場で、身代金3000万円の受け渡しが行われようとしていた。だが、翌日見つかったのは、誘拐された6歳の少年の遺体と警察を嘲笑した犯人からの年賀状(少年の身につけていた衣類のポケットに入っていた)だった。その後、身代金誘拐事件の捜査責任者であった巻島は、足柄署へ異動させられ、6年の月日が経つ。そんな折、川崎で連続児童殺害事件が起きる。ある日、巻島は県警本部から呼び出され、川崎の事件の捜査責任者としての任命を受け、テレビ出演まで要請される。巻島は、世間を騒がせ警察を挑発する「BAD MAN」と名乗る犯人に対し、メディアを通して劇場型捜査を展開するのであった。日本映画のサスペンスモノからずい分と遠ざかっていたせいか、この作品はかえって斬新に感じた。犯人をジリジリと追い詰めてゆく心理描写とか、なかなか逮捕できない刑事たちのジレンマとか、捜査線上に浮かぶ疑惑の影とか、そういうものは一切なかった。もっと淡々としていて、ドライで、よこしまな人間の本能をちらつかせた、いわば社会派作品であった。派手なアクションシーンや無意味なBGMも使用されておらず、全体を通してトーンの乱れることのない落ち着いたドラマに仕上げられていた。書店で下手な新刊を手に取って世情を知るより、よっぽど現代の世相が反映された内容なのだ。2007年公開【監督】瀧本智行【出演】豊川悦司また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.07.01
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