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生きているということは、その美しさを堪能できること。生きているということは、誰かの命を支えていること。人も、虫も、花も、すべて分かち合っている。
2008.03.31
ミツバチはその蜜を求め、菜の花はその蜜を求められ、二人は互いに潤っている。そよかぜが「うらやましい」と呟いて、二人にたおやかな愛を吹かせる。
2008.03.31
「軍医長、これ読んだことあるか?」「お、“罪と罰”ですか。ええ、学生時代にね。」「主人公のラスコーリニコフは自分が殺したのは、老婆ではなくて自分自身だと叫ぶ。なぜだろうね。」「そりゃ神様殺しでしょうな。」「神様殺し?」「ええ、隣人を殺すなかれというキリスト教の訓戒を破ることで、自分の中の神様を殺したってことでしょう。」「自分の中の神を?」「それは同時に自分を殺すことでもある。」この作品の評価はおそらく賛否両論、真二つに分かれることだろう。もともと特撮モノが好きだったり、エンディング・ロールのそうそうたるクレジットを見て狂喜する者もいれば、冷静に客観的に捉えて酷評を下す者もいるのではなかろうか。しかし映画というものは、そうやって視聴者のフィルターを通して笑いや涙を生み出して行くメタファーなので、両者どちらの評価にも優劣はない。「ローレライ」は第二次世界大戦をモチーフにはしているものの、戦争の残酷さや悲惨さを全面に打ち出しているものではないため、戦争コードの作品とは一線を画している。そのため、どちらかと言うとファンタジー的要素が強いと言える。第二次世界大戦下、広島に世界で初めて原爆が投下され、いよいよ日本の敗色が濃厚になった。最後の砦として出動することになったのは、ナチス・ドイツからの譲渡潜水艦である「伊五○七」(ローレライ・システム搭載)であった。海軍軍令部の浅倉大佐の命令により、絹見少佐が艦長に任命され、テニアン島への奇襲攻撃を決行する。そんな中、本土では長崎にも第二段の原爆が投下される。そして恐るべきことに第三の標的は、首都である東京に原爆が落とされようとしていた。 絹見艦長以下乗員たちは、原爆搭載機撃墜のために命をかけて戦う。原作を読んでいないせいか、映画の世界観を理解するのに人より時間がかかってしまったかもしれない。ポイントは、特殊能力を持つ少女パウラこそが「ローレライ・システム」の中枢であるということ。パウラは“水と同じ液体である血液を介して記憶を読む”という特殊能力を備えていたのだ。この辺りの超人的行為を、視聴者がどう受け止めるかにより、映画全体の趣が変わるのではなかろうか。ちなみに自分は、パウラがたくさんのチューブにつながれた状態を目にした時、ある種のシュールレアリズムを感じた。アニメーションではありがちな一コマでも、実写の中で目の当たりにした時、やはり冷静にならざるを得なかった。さらに気になる点として、当初艦長は「一人も死なせない」と生きることへの想いを熱く語っていたにもかかわらず、終盤を迎えるころには半ば死にゆく覚悟を強要するムードが漂っていた。この辺りは脚本の弱さだろうか、それとも意識的な演出によるものだろうか。いずれにしろこの作品で注目すべきは、「死」の扱い方という点ではなかろうか。2005年公開【監督】樋口真嗣【出演】役所広司、妻夫木聡また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.28
「(俺に)“構うな”と言ったろ? 世界の裏側に行ったのに。」「過去からは逃げられん。最後まで。・・・お前がそうだ。殺し屋だ。いつまでもな。・・・さあ、早く殺れ。」「(いや)マリーがイヤがる。だから生かしておく。」前作に引き続いてのこのカメラワーク、撮影技法は、観る人にもよるだろうが、船酔いの気分さえする。手持ちカメラ感覚の小刻みなブレは、あるいは作品に臨場感を持たせるのに効果的かもしれない。スリルやリアルを追求する上で、必要な手法であることは否めないが、いかんせん安定性がないので疲れてくる。「時間軸の解体」を得意とするソダーバーグ作品でもこの手持ちカメラ感覚の撮影技法が採用されているが、全く趣は異なる。舞台はインドのゴア。恋人マリーと共に新しい人生を始めようとしていたジェイソン・ボーンであったが、すでに2年の時は空しく過ぎ去り、失われた記憶はいまだ戻っていなかった。毎晩、悪夢にうなされ、その度に夢の断片をメモしては記憶をたどるという気の遠くなる作業をくり返していた。そんなジェイソンの姿を側で見守るしかないマリーもまた、苦悩するのだった。そんなある日、街で怪しい男を見かける。ジェイソンは持ち前のカンですぐさま車に乗り、逃走。男は容赦なく追いかけて来る。途中、ジェイソンはマリーと運転を交代し、男の狙撃に備えるのだが、男の放った弾丸が運転中のマリーに命中。マリーは絶命する。この作品の見どころは前作に続いて、マット・デイモンが憂いを抱えた孤独な男を冷静に演じているところであろう。(カーチェイスなどのアクションシーンはもちろんだが。)マット・デイモン出演の作品は「リプリー」を観た時が初めてだったかもしれない。彼は、何か暗澹として救い難いコンプレックスを抱えているような、いわば変質者的な役柄を得意としている役者のように思えた。サスペンス好きの自分としては、「リプリー」で好演を果たしたマット・デイモンは、絶対に人気俳優になるなと睨んでいた。決してハンサムな俳優ではないし、雰囲気に花のあるタイプではない。だが、変幻自在にキャラクターを演じ分けるマット・デイモンは、正にストイックな「演技派」俳優として末永く活躍が期待できそうである。2004年(米)、2005年(日)公開【監督】ポール・グリーングラス【出演】マット・デイモンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.25
「自分のことが分からんのか!」「僕は誰だ?」「(おまえは)米国政府が3000万ドルかけて育て上げた人間兵器だ。その兵器が爆発した! どういうことか説明しろ。」「なぜ(俺を)殺す?」スパイ・アクション映画も、「007」シリーズでほぼ飽和状態かに思えた。しかし、この作品を観たことでまだまだ映画の奥行は残されていることを知った。サスペンス、スリラー作品をこよなく愛する自分としては、ヨーロッパの古い街並みを舞台に、凍てつく真冬の古い安宿で、身に迫る得体の知れない危機と、自分が誰なのか分からない恐怖とに苦悩する脚本設定は気に入った。だがそこにスパイ・アクションが絡んで来ると、この映画全体の趣はガラリと変わる。 嵐の中、大西洋上を漂う男が漁船に救出される。男は背中に銃撃を受けており、虫の息だったが、強靭な生命力で奇跡的に助かったものの、自らの記憶を失っていた。唯一の手がかりは皮膚に埋め込まれていたマイクロフィルムで、それにはスイス・チューリッヒ相互銀行の貸し金庫の口座番号が映し出された。貸し金庫の中身を確かめると、中には数種類のパスポートに多額の札束、拳銃が入っている。一方、CIA本部ではミッションが失敗に終わったという報告を受け、敏速な追跡調査が開始される。そしてCIA幹部の意向で、ジェイソン・ボーンの抹殺指令が下る。そんな中、数種類のパスポートに困惑していた記憶喪失の男は、アメリカ国籍ジェイソン・ボーンとして、何か得体の知れない己の危機に直面していく。この作品を観る時の体調までとやかく言うのは、おせっかいかもしれない。だが、内容は重く、生死をかけてのアクションシーンも多く出て来て、とにかく先の見えない展開に疲労感が募る。万全の体調で鑑賞したい映画だ。主人公を解き明かしていくポイントは、いくつか出て来る。まず、イタリアの小さな港町で行き先も定まらず真冬の公園のベンチで寝ていると、パトロール中の警官二人に咎められる。男は無意識のうちに警官を叩きのめし、その場から立ち去る。ここで男が格闘技に精通していることがわかる。また、食事に入ったお店では、まず出入口の確認と、店員と客の数を即座に頭に入れ、店先に路上駐車された6台の車のナンバーを記憶する。この男が尋常な職業ではないことが把握できる。さらには、(アメリカ国籍であるはずなのに)フランス語で書かれた新聞を何の抵抗もなく読んでしまうシーンから、かなり知的レベルの高い人物であることがわかり、いよいよ「スパイ」であることが判明する。こういう一連の流れは、サスペンス映画としては徹底したこだわりで好評価。カーチェイスなどアクションを見せ場としているシーンは、狭い路地を駆け抜けたり、対向車線や階段を走行したり、息もつかせぬ緊迫感に見舞われる。だが、いかんせん疲れてしまった。原作がスパイ小説の三部作になっているので、もちろん映画も続編があるのだが、万全の体調の時にこそ鑑賞して欲しい。少しでも気分が萎えていたり、偏頭痛に悩まされている時に観ようものなら、とことん打ちのめされてしまいそうな狂信的な暗さしか感じられないかもしれない。2002年(米)、2003年(日)公開【監督】ダグ・リーマン【出演】マット・デイモンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.24
「あの(アメリカ独立)宣言書には・・・裏面に何らかの符丁が・・・。」「つまり暗号のこと?」「ええ。」「何の?」「(つまりその・・・)図面です。」「地図?」「そうです。」「何の地図?」「場所が記されてます。(咳払いして)歴史的にも、それ自体にも価値のある物の隠し場所です。」「宝の地図?」「(突然ライリーが二人の会話に割って入り)そこでFBIは降りた。※」※「そこでFBIは降りた。」→「そこでFVIは僕らを相手にせず追い払った。」の意。この会話の後さらにゲイツが切々と宣言書の裏に隠された暗号の重要性について訴えるのだが、アビゲイル博士は苦笑して相手にしない。すると再びライリーが二人の会話に割って入り、「そこで国家安全保障省も降りた」と続く。このウィットに富んだ会話は、非常にアメリカ的でユーモラスで魅力的だ。宝探しをテーマにした冒険活劇は過去にもいくつかあり、とりわけ人気を博したのは「インディ・ジョーンズ」シリーズであろう。しかし、この「ナショナル・トレジャー」もなかなかどうして「インディ・ジョーンズ」に負けてはいない。考古学者で冒険家のベンジャミン・F・ゲイツは、幼いころ祖父から伝え聞いたテンプル騎士団の秘宝を探すため、様々な謎を一つ一つ解き明かしていく。やっとの思いで掴んだ手がかりによれば、なんと秘宝の在り処はアメリカ独立宣言書の裏面に暗号化されていることを突き止める。もともとゲイツと行動を共にしていたイアンは、資金などを提供し、ゲイツの研究を援助しているかに思えたのだが、実は宝を独り占めしようと企む野心家であった。イアンは秘宝の在り処を突き止めるため手段を選ばず、国立公文書館からアメリカ独立宣言書を強行に盗み出そうとする。ゲイツはイアンの企みを阻止するため、そして宣言書を守るためにイアンより先に盗み出すという作戦に出るのだった。ニコラス・ケイジの出演している作品はいくつか観た。オスカー俳優ニコラス・ケイジとしての先入観があるせいか、どんな役柄にも自然体に挑むのだと思い込んでいた。また、役者としての幅を広げるために様々なキャラクター作りに努力しているのだとも。 しかしそれは少し捉え方が違っていたようだ。ニコラス・ケイジはハリウッド・スターという枠組みに囚われたくないのだ。“オスカー”という名誉に跪きたくないのだ。彼は与えられた役を、誰よりも楽しんで演じている。作品のブランド性にこだわらず、自由に伸び伸びと演じている俳優はごくまれだ。その天性のものとも思える柔軟な演技力は、ニコラス・ケイジの右に出る者はいない。 また、この作品で絶妙なトークと演技を披露してくれた、ニコラス・ケイジの相棒役、天才ハッカーのライリーを演じたジャスティン・バーサだが、今後ますます期待される役者になるであろう。個性漲るニコラス・ケイジを食ってしまう勢いの存在感があった。今後のジャスティン・バーサに注目しよう。2004年(米)、2005年(日)公開【監督】ジョン・タートルトーブ【出演】ニコラス・ケイジ、ダイアン・クルーガーまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.23
「どうしたんだ? 父親が心配か?」「なぜそれを(知ってるんだ)?」「病気なのは明白だ。ガンは長く人を蝕み、家族をも苦しめる・・・ジョニー、私が治してやろうか?」「どうやって?」「方法は関係ない。私が彼の病気を治して、健康な体に戻せるなら・・・私と取引するか?」「値段は?」「私が欲しいのは・・・君の魂。」「ゴーストライダー」は、言わずと知れたアメリカン・コミックの実写化である。「スパイダーマン」や「バットマン」と同系列に考えれば、それなりに楽しめる作品だ。 だが、いかんせん人にはそれぞれ好き嫌いがある。ポテチをつまみながら、素直にアクションを楽しみ、オカルトを堪能できるタイプもいれば、作中の様々な矛盾点や脚本の弱さにがく然とする者もいることだろう。17歳のライダー、ジョニーは父親とともに危険なバイクショーを生業にしていた。しかしある日、父親がガンに侵され余命いくばくもないことを知ってしまう。そんな時、ジョニーの前に悪魔メフィストが現れる。父親のガンを治す代償として、ジョニーの魂を要求するのだ。ジョニーは、愛する父親の命を救うため、ろくに考えもせず彼の魂を売ってしまう。しかし、結局父親はガンを完治するものの、バイク事故で死亡。絶望したジョニーは恋人ロクサーヌとも別れ、一人バイクで旅に出る。30歳になったジョニーは、ますます危険なバイクショーを披露することで有名になっていた。まるで死に急ぐような危険な技を続けるジョニーだったが、ある日、TVレポーターとなったロクサーヌに再会。さらに、忘れもしない悪魔メフィストも再びジョニーの前に現れるのだった。この作品をホラーコメディと表現して良いだろうか。ジョニー役のニコラス・ケイジが涼しい表情で、グラスに入ったゼリービーンズを飲むようにして食べたり、コーヒーポットに直接口をつけてがぶ飲みしてみたり、口笛でバイクを呼んでみたりするシーンは、もはやマンガチックそのものだ。また、ジョニーが炎のライダーに変身して倒すべき敵は悪魔メフィストの息子とその仲間たちなのだが、それぞれが“土”“風”“水”を支配する悪魔たちであり、メフィストの息子が堕天使であるという設定も多少宗教色を感じる。しかし、同じオカルト色の強いアクション映画なら、「コンスタンティン」の方が数段優れていて、作品として格調高いものに仕上がっているように思えた。いずれにしても、スターぶらずに伸び伸びと楽しげに演じているニコラス・ケイジには注目だ。2007年公開【監督】マーク・スティーヴン・ジョンソン【出演】ニコラス・ケイジ、ピーター・フォンダまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.22
「“愛は知らない”と言ったけど・・・本心じゃないの。よく知ってるわ。何世紀もずっと愛を見てきたからよ。人間の世界で愛だけが唯一の救いだわ。いつも戦争ばかり。苦悩、偽り、憎しみ・・・目を背けたくなるわ。でも人間が愛するのを見て思ったの。宇宙の果てまで探しても、これほど美しいものはないって。だから・・・そうなの、愛は絶対なものよ。」「パイレーツ・オブ・カリビアン」「ロード・オブ・ザ・リング」「ハリー・ポッター」どれも大ヒットを飛ばした冒険ファンタジーである。ここ最近ではそれらに続けとばかりに空前のファンタジーブームが映画界を席捲している。しかし、だからと言って全てのファンタジー映画が成功しているわけではなく、監督の力量と、質の高い脚本のストーリー性と、出演者たちの演技力全てのバランスが取れて初めて視聴者に受け入れられるのだ。「スターダスト」の注目すべきは、主役以外の脇を固める出演者たちの顔ぶれだ。魔女役のミシェル・ファイファー、海賊のキャプテン、ロバート・デ・ニーロ、ストームホールド国の王ピーター・オトゥール。この豪華な役者たちが見せる個性豊かなキャラクターは、子供だましのおとぎ話に成り下がらず、質の高いファンタジーと大人向きの冒険ドラマとして視聴者を酔わせてくれるのだ。舞台はイングランドのはずれにあるウォール村。その村に住むしがない18歳の青年トリスタン。彼は美人のヴィクトリアの気を引きたくて、愛の証として“流れ星”をプレゼントすると約束する。しかしヴィクトリアにはハンサムで金持ちの恋人がいるため、トリスタンを鼻であしらう。トリスタンはヴィクトリアのため、壁の向こう側に落ちた“流れ星”を探しに、壁の外に広がる魔法の国へと冒険の旅に出る。一方、人間界と魔法の国を仕切る壁の向こう側では、老いた魔女三姉妹が400年もの長い間“流れ星”を待ち続けていた。なぜならその“流れ星”の心臓をえぐり出して食べることで、永遠の命と美貌を取り戻せるからだった。さらに、魔法の国ストームホールドでは、国王が息を引き取る瞬間、後継者の証であるルビーのネックレスが夜空へと舞い上がり、国王は絶命。虎視眈々と王位を狙う王子たちにより、ルビー争奪戦が始まるのだった。この作品は本当の意味で娯楽を追求した映画であり、視聴者を飽きさせない。歴史と伝統のあるイングランドを舞台に、奥行と深みを感じさせるストーリー性。個性豊かな人物設定。厭味のない音楽。全てが調和していて申し分ない。いかにも憎々しげで醜さと妖艶さを演じ切った魔女役のミシェル・ファイファー。部下たちの手前冷酷非情で、その実、女装趣味のある海賊のキャプテンというギャップを臆面もなく演じたロバート・デ・ニーロ。ほんのチョイ役に過ぎないにもかかわらず、圧倒的な存在感で周囲を威圧するストームホールド国の王ピーター・オトゥール。これほどの面々がそろって駄作なわけがない!非常に完成度の高い冒険ファンタジーとして、秀逸な作品である。2007年公開【監督】マシュー・ヴォーン【出演】チャーリー・コックス、クレア・デインズまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.21
「本当に誰かを愛した人は愛情豊かなのよ。(亡くなった)奥さんと同じに別の人を愛せるのでは?」「そんな事、想像もできない。」「じゃどうするの?」「そうだな、毎日朝になったら起きて・・・一日中呼吸をする。そのうち努力をしなくても、毎朝ベッドを出て呼吸し続けるようになる。やがて幸せな日々があった事を・・・あまり思い出さなくなる。」この作品のモチーフになっている「めぐり逢い」は、多くの監督によって何度かリメイクされているのだが、何と言ってもケイリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」が最高だと思う。ヒッチコック作品の常連役者でもあるケイリー・グラントは、サスペンスであろうがラブ・ロマンスであろうが視聴者の期待を裏切らない、一流の俳優なのだ。すでに婚約者のいるアニーだったが、ある晩、車内でラジオを何気なく聞いていると、彼女の胸に何か熱いものが込み上げた。それは、リスナー参加の人生相談番組で、シアトル在住の8歳の少年ジョナが、「ママが死んで落ち込んでいるパパに新しい奥さんを」と訴えかけるものだった。ジョナに促されて電話口に出た父親サムは、事態が飲み込めずにいたものの、やっとラジオ番組であることを把握し、自身の心境を淡々と語り出す。妻に先立たれてからの切ない想いや、孤独と寂しさから眠れぬ夜をすごすこともあると告白するサムの声に、思わずアニーはもらい泣きしてしまうのだった。その晩からアニーは、見ず知らずの“シアトルの眠れぬ男性”に心惹かれる一方で、婚約者に運命的なマジックを感じない関係に疑問が生じてしまう。作中、アニーが「めぐり逢い」を鑑賞しながら感情移入してしまい、思わず涙に濡れるシーンが出て来るのだが、これこそがこの映画のテーマであろう。そう、多くの女性がドラマチックな恋愛を夢見ていて、運命の相手を待ち望んでいるのだと。ヒロインのアニーを演じたメグ・ライアンは、あくまで自然体で等身大の女性を演じている。そのチャーミングで厭味のない演技は、この作品で見事に開花されている。共演を果たしたトム・ハンクスとは、この映画の後にも「ユー・ガット・メール」でもコラボして大ヒットになった。ラブ・ロマンスというカテゴリにおいては、おそらく女性視聴者の割合が多くなると推測できるが、メグ・ライアンが等身大ヒロイン像を演じることで親近感を持たせることに成功し、男性視聴者にはキュートな魅力でそのハートを釘付けにした。この作品では、「ロマンティック・コメディの女王、ここにありき」を大いに感じさせてくれるのだ。1993年公開 【監督】ノーラ・エフロン【出演】トム・ハンクス、メグ・ライアンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.20
「君は言ったね? “何かを待っている”と。そうなんだよ。人は皆、何かを待ってる。」 「あなたは何を(待っているの)?」「君だよ。君を待ってる。」評論家の間では、スピルバーグ監督を「映画を肥大化、幼児化させた人物」として揶揄されることが多々あるものの、一般の視聴者サイドから捉えると、彼ほど優れたエンターテイメント追求している人はいないと思うのだ。冒険ファンタジーを次々と生み出す一方で、対照的な戦争や差別をテーマにした作品を手掛け、その矛盾する資質に驚かされるのだが、それだけにスピルバーグという人が多才であることの証しでもある。彼の作品には常に何らかのキーワードが隠されている。「ターミナル」においては“待つ”という言葉がそれにあてはまるだろう。舞台はニューヨークのケネディ国際空港の国際線ロビー。入国手続ゲートで、ビクター・ナボルスキーが足止めされた。ビクターの母国、クラコウジア連邦(ヨーロッパ南東部バルカン諸国の某国)ではクーデターが起こり、政権が崩壊してしまったのだ。そのため彼のパスポートは無効、入国ビザは取り消され、いわばビクターは無国籍の状態になってしまった。彼はターミナルビルから一歩も出られず、かと言って母国に引き返すこともできずに、先の見通しのつかないままターミナルビルで寝泊りするはめになった。当初は言葉の壁にぶつかりつつも、ビクターは持ち前の明るさと順応性でしだいに生活方法を習得していく。脚本が非常におもしろいと思った。またこれを選んだスピルバーグ監督のセンスも素晴らしいと思った。スピルバーグとのコラボレーションでは、「プライベート・ライアン」でも定評のあるトム・ハンクス。トム・ハンクスは、こういう野暮ったい素朴なキャラクターを演じさせたら天下一品なのだ。何事にも流動的で、焦燥感を煽られる現代社会においては、“待つ”という単調な行為がややもすれば軽んじられ易い。だが、純粋なまでにひたすら待ち続けるという行為は、誰にでもできそうで、その実、非常に難しく尊い行為であることが理解できる。国際空港というある種無機質な空間で繰り広げられる人々とのふれ合い、別れ、多民族のせめぎ合いをこの作品から感じ取ることができれば、充分なのではなかろうか。2004年公開【監督】スティーブン・スピルバーグ【出演】トム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.19
「今日、船に(上着を)忘れてった。」「彼女に電話したか?」「いや。親父が(彼女の泊まっている)ホテルに届けてくれ。」「お前が自分で届けろ。会いたくないのか?」「・・・多分。」「なぜだ?」「(そんなに)簡単じゃないんだ。」この作品は「きみに読む物語」と同著者の原作を映画化したものである。作者ニコラス・スパークスの作品には「純愛」がクローズアップされることが多いが、「メッセージ・イン・ア・ボトル」も例外ではない。この著者の作品は次々と映画化されており、それはベストセラー作家として当然の過程であろう。おそらく、オリジナル小説を読んだら、涙無くしてはページをめくれないほどの感動に見舞われるに違いない。しかし、映画という芸術(娯楽とも言えるが)は、物語ることと見せることとの融合なのだ。そのどちらか一方のバランスを欠けば、深い穴に落ちることになってしまう。浜辺に打ち上げられた手紙入りの瓶を、シングルマザーのテリーサが拾い上げるところからストーリーは展開する。テリーサはシカゴの新聞社の調査部に勤務しているため、瓶の中の手紙をさっそく同僚にも披露する。そうしないではいられなかった理由とは、その手紙の内容があまりにも誠実で、一人の女性に宛てられた愛情あふれる言葉に満ちていたからだ。その手紙の全文は、さっそく上司の意向で新聞に掲載。読者の反響はことのほか大きく、何百通もの投書が寄せられる。そんな中、テリーサは手紙を書いた人物に好奇心を抱き、しだいに心を奪われていく。 手を尽くして、やっとの思いでその人物、ギャレットの居所をつきとめるのだ。ギャレットは2年前に妻を病気で亡くしていたが、いまだに妻を忘れることができず、消え失せぬ愛に生きているのだった。主役のギャレットを演じたケヴィン・コスナーは、おそらく誠実で真面目な役者さんに違いない。一つ一つの演技にそつがなく、どういう役柄に徹すれば良いのかを、努力によって培っていることがよくわかる。セイリングのシーンにしろ、嵐の海へダイブするシーンにしろ、彼は全力投球でこの役に打ち込んでいる。しかし、90年代前半に放っていた輝きを、残念ながらこの作品では感じることができない。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」「JFK」「ボディー・ガード」どれも素晴らしい作品に恵まれていただけ、惜しい気がした。あるいは本作、ラブ・ロマンスというカテゴリにおいても息の長い役者であろうと、役作りの幅を広げるための挑戦だったのかもしれない。一方、妻の死を乗り越えられずに深い哀しみに暮れる息子を、影から励まし、見守り続ける父親の情愛に胸を打たれた。この作品の存在意義は、全て、ここに集約されていると捉えても差し支えないかもしれない。その父親を演じたポール・ニューマンの圧倒的な存在感と円熟した演技に、脱帽なのだ。 1999年公開【監督】ルイス・マンドーキ【出演】ケヴィン・コスナー、ポール・ニューマンまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.18
「うまくやるのは難しい。努力が必要だ。でも俺は努力したい。ずっと君が欲しいから※。一緒にいたいから。お願いだ。将来を思い描いてみて。30年後、40年後誰と一緒だ? もしヤツ(を選ぶ)なら・・・行け! それが君の望みなら俺は耐えていける。無難に選ぶな!」「無難って? どうやっても誰かが傷つくのよ!」「人のことは考えるな。俺(のこと)もヤツ(のこと)も両親(のこと)も忘れろ! 君(のこと)だよ、問題は。」「そんな・・・(わからないわ)。」「君は(一体)どうしたい?」※「ずっと君が欲しいから」→「ずっと君が必要だから」と訳した方がわかり易いかもしれない。原作を読んでいないため、憶測で物を言うことをお許し願いたい。著者は「純愛」をテーマにこの物語を書き進めたに違いない。身分違いの恋と言えども、お互いがお互いを思う気持ちがあればどんな障害も乗り越えて行ける。他人など関係ない、最終的には「自分」の問題であって、責任を誰かに転嫁し被害者ぶってはならない、何事も自分を信じるのだ。自分の信じた道を選ぶのだ。・・・と言う純愛の定義、純愛の真髄のようなものがそこかしこに漂っている。ただし、このテーマは単調でわかり易いだけに出演者の演技力やルックスもさることながら、時代背景、脚本、ストーリー展開の難しさが伴うのだ。舞台は1940年ノース・カロライナ州シーブルック。休暇をすごしに都会からやって来た富豪の娘アリーは、地元の製材所で働く青年ノアと出逢い、恋に落ちる。しかし、娘の将来を案じたアリーの両親は、身分違いのノアとの交際を反対し、休暇も早々に都会へと戻ってしまう。ノアは365日欠かさずアリーに手紙を書くものの、アリーの母親が故意にその手紙を渡さなかった。そうすることで、アリーに一日でも早くノアのことを忘れさせたかった親心からなのだ。 その後、第二次世界大戦が勃発。アリーは軍の病院でボランティアとして負傷兵たちの介護に携わる。そこで知り合った兵士は、大富豪の息子で、ノアのことが脳裏をよぎるも、アリーはたちまち恋に落ちてしまう。そして、身の丈に合ったふさわしい二人は、両親の祝福も受け、すんなりと婚約に至る。 数十年後、療養生活を送る認知症の老婦人の傍らで、静かに物語を読み聞かせる老人がいた。それは若かりし日の、ノアとアリーの恋愛ストーリーであった。この作品は、おそらく賛否両論分かれるところだろう。愛を貪る若い二人が、多くの人々を傷つけてまで手に入れた恋愛の代償。その結果が究極のハッピーエンドではあまりにキレイゴト過ぎやしまいか。様々な苦悩と犠牲を払って成就した恋愛だが、どんな若者にもやがては訪れる「老い」。 その時、人は同じ相手を同じ気持ちで変わらぬ愛を誓うことができるであろうか。世知辛い時世には、甘美なラブ・ロマンスが乾いた心を潤してくれるのかもしれない。 2004年(米)、2005年(日)公開【監督】ニック・カサヴェテス【出演】ライアン・ゴズリング、レイチェル・マクアダムスまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.17
「最近、悪魔たちの動きが怪しい。寿命を延ばしてくれ。悪魔退治が必要だろ?」「まだ(あきらめずに)天国へ行こうと?」「チンピラ悪魔どもを地獄へ送り返した功績は?」「何度も言ったはず。そういう問題ではないと。」「まだ(善行が)足りないのか? どうすれば?」「普通のことを(するのです)。自己犠牲、神を信じること。」「信じてるさ。」「(いいえ、あなたは)神の存在を知っているだけ。(霊が)見えるから。」70年代、80年代は、空前のホラー、オカルトブームで、映画界でも世紀末をテーマにしたものが大ヒットした。世界の終わりを予見してのものなのか、「地球滅亡」とか「世界崩壊」など人間社会の終末願望あふれるものが映画界を賑わした。しかし、ミレニアムを過ぎても世界は存在した。それがどのように影響しているのかははっきりと言えないが、ホラー映画と呼ばれる作品の様相が変わって来ているのは確かである。「コンスタンティン」は、ホラーと言うよりオカルト作品であろうか。悪魔祓いの特殊能力を持つエクソシスト、ジョン・コンスタンティンは、人間界に潜む悪魔を地獄へと送り返し続けている。だが、ジョンはヘビースモーカーのため肺を侵され末期の肺ガンと宣告される。そんな中、ジョンは天国と地獄の均衡が崩れかけていることを察知。できるものなら延命を請い、少しでも多くの悪魔祓いを施したいと願う。一方、女性刑事アンジェラは、双子の妹イザベルの自殺に不審を抱く。アンジェラはイザベルの自殺の真相を探るため、ジョンに協力を求める。作品の舞台はロサンゼルスの貧困街なのだが、混沌としていて、犯罪に満ちていて、日本的に言うならば、「おどろおどろしい」雰囲気たっぷりである。根底にキリスト教の崇高な精神が脈々と流れているため、鑑賞には多少の知識が必要かとも思われるが、完成度の高い脚本のおかげでキリスト教に無知でも充分に楽しめた。ただ、一点押さえておきたいのは、キリスト教(カトリック)の教義では自殺イコール大罪であり、この罪を犯したる者は決して天国にはいけない、という思想を踏まえておいた方がいいだろう。また、作中に登場するガブリエルは、四大天使の一人(大天使ガブリエル)とは別ものと捉えた方が良い。この作品はすでに冒頭部から成功している。メキシコで「運命の槍」を掘り当てる場面のカメラアングルと言ったら、不穏な暗示をかき立てるにふさわしい捉え方なのだ。視聴者サイドの視点は上から捉え、悪魔の視点はまるで地獄の闇から覗いたように真下からのアングルなのだ。さらに、主役のジョン・コンスタンティンを演じたキアヌ・リーブスは、スタイリッシュでクールで、どこか薄幸そうなムードがこの役柄にピタリとマッチしていた。この主役は彼以外に誰も思いつかない。残念だったのは、ヒロインを演じたレイチェル・ワイズ。チャーミングな女優さんだけに、悪魔の化身と化した醜い形相には閉口してしまった。 ラストにはありがちなラブ・シーンもなく、淡々としていて逆に好評価。意外だったのは、スタッフやキャストが流れた最後の最後になって、不慮の死を遂げたジョンの運転手チャズが、天使となって天界へ飛んで行くシーン。キリスト教で言う「自己犠牲」が報われた瞬間を見たような気がした。2005年公開【監督】フランシス・ローレンス【出演】キアヌ・リーブス、レイチェル・ワイズまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.16
「なぜ車椅子(の生活)を拒むの?」「車椅子の生活は、失った自由の残骸にすがりつくことだ。たとえば君はそこにいる。わずか1メートル、その距離は常人(健常者)にはわずかなものだ。でも僕にとってこの距離は無限だ。君に触れようと手を伸ばしたくても・・・永遠に近づけない。叶わぬ旅路、はかない幻、見果てぬ夢だ。・・・だから死を選ぶ。」人間の身体が「機能してそこにある」のか、それとも単なる「物体」として横たわるだけに過ぎないのか。その差は大きい。身体感覚のない肉体を持て余す人生とは、一体どんなものなのだろうか。当事者の立場になって考えてみるという浅はかな思いやりは、もはや陳腐な同情にも及ばないのだ。所詮、誰かの苦悩、絶望、孤独を他人が取って代わることなどできないのだから。「海を飛ぶ夢」は、ラモン・サンペドロの手記“レターズ・フロム・ヘル”をもとに、実在の人物をモデルにしたヒューマンドラマである。洋画では多々オリジナル・タイトルをそのまま使用する昨今、「海を飛ぶ夢」という邦題は、この作品に相応しく魅力的なタイトルだと思った。舞台はスペインのラ・コルーニャの海。そこで育ったラモンは、25歳の時に岩場から引き潮の海へダイブした際に、海底で頭部を強打。その衝撃で首から下が完全に麻痺状態となってしまう。以来、ベッドで寝たきりの生活を送る。変化のない生活で、ラモンにできるのは想像の世界で自由に空を飛ぶこと。そんな生活を20数年も送った後、ラモンは尊厳死を求めて、女性弁護士フリアの援助を仰ぐ。しかし、そのフリアも不治の病に侵されており、いつしか彼女自身も尊厳死を望むようになる。作中、度々出て来るラモンの空想シーンでは、彼が山を越え、谷を越え、川を渡り、大海を舞うという浮遊感にあふれている。これは正しく自由への願望であろう。さらに、浜辺を散歩するフリアに、徐に手を伸ばし、しっかりと抱きしめ、彼女の髪の香りを感じながらその唇をふさぐのだ。まるで、愛がこぼれ落ちることのないように、丁寧で深いキスを交わす。これを肉欲と言ってしまうことに抵抗があるのだが、あえて肉欲と表現したい。そういう肉の悦びを、ラモンは二度と味わうことができない。精神的な愛情は、肉体の快楽を伴った上で成立するものなのであろうか。ここではキレイゴトを書かない。ラモンの望んだ尊厳死の理由とは、そこから端を発しているような気がしてならない。 そして、作品最後の場面は見事だった。不治の病(脳血管性痴呆症)が進行したフリアに、友人がそれとなくラモンの話題を出したところ、すでに彼女の記憶にラモンはなかったのである。この乾いた現実が、より一層作品の完成度を高くしているのだ。2004年(西)、2005年(日)公開【監督】アレハンドロ・アメナーバル【出演】ハビエル・バルデム(祝アカデミー賞助演男優賞受賞「ノーカントリー」)また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.13
「晋どん・・・もう、ここいらでよか。」「・・・心得申した。」(西郷は、大久保との青雲の志に燃えた若き日を走馬灯のように回想する。)「ご免なったもんし!」(別府晋介の介錯により、西郷は絶命。)鹿児島という一つの根から生まれた西郷と大久保は、ともに傑出した個性を持っていたため、どうしても対立しなければならない運命を背負っていたかのように思える。時代が大きく変わろうとしていた江戸末期、人間は「時代の中に全ての可能性を引き出そうと動いて」いた。歴史や伝統の中にどっぷりと浸かっていた島国民族が、井の中の蛙であった己の姿に気付き、自己破壊してゆくのだ。言わば、歴史と伝統を破壊する時代に突入したのだ。しかし、幕府の終結はすでに熟しきった結果であり、新しい時代の風は洋上から吹き込んでいた。総集編第二部後編は、「明日への飛翔」と題される。「翔ぶが如く」もこれが最終章となる。明治6年末、鹿児島県下は無職で血気盛んな壮年、若者であふれていた。そこで、これを指導し、統御しなければ方向性を誤ると考え、西郷は「私学校」を設立。 名目上は漢文の素読と軍事教練であったが、その実、不平士族の暴発を防ぐことにあった。しかし、これが西南戦争の直接的原因を生み出す結果となる。明治10年になると、この私学校の生徒が火薬庫を襲撃するという事件が起きる。火薬庫を襲うことは重罪で、死刑に値した。狩猟先でその一報を受けた西郷にとっては、寝耳に水のことであった。一方、政府はこの一件を鹿児島県士族の反乱と見て、警戒命令を出す。また、明治政府による西郷暗殺計画などの陰謀が明るみになるなど、様々な要因が重なり、西南戦争の火蓋が切られたのである。熊本の田原坂での激戦において、薩軍は勇猛の士が次々と倒れていった。それほどの犠牲を払って死守していた田原坂であったが、圧倒的兵力の差で政府軍が大勝。薩軍は撤退を余儀なくされる。鹿児島に入った薩軍はまず城山を占拠。しかし政府軍は城山包囲態勢を完成させ、薩軍は窮地に追い込まれる。こうして政府軍の総攻撃により、前線に立って指揮をしていた西郷も股と腹に被弾。ここに西郷隆盛は絶命するのだ。一方、西南戦争で政府軍を指揮し、薩軍を敵に回した大久保は、同じ政府関係者からも批難を浴び、厳しい状況に立たされてしまう。そしてついに明治11年、大久保利通は不平士族らの手により暗殺される。作家司馬遼太郎の作品に共通してスポットが当てられる登場人物。それは、古い歴史や伝統に深い関心や尊敬を持ちながらも、一方では伝統を破壊し、天下に野望を抱くというものだ。一体、それらが何を意味するのか?誰にも止められない、逆らうことのできない時代の流れ。歴史の進行を意味するのではなかろうか。古い時代と新しい時代との間にできた深い溝。その溝を埋めるべくして、西郷や大久保たちが全力を尽くして運命に挑戦してくれたのだ。そうして近代日本を造り上げた彼らの精神を、魂を、決して無駄にしてはならないのだ。合掌。「時代だ。時代というものよ。時代のみがわしの主人だ。時代がわしに命じている。その命ずるところに従ってわしは動く。時代とは何か。天と言いかえてもよい。」(『国盗り物語』より司馬遼太郎・著)1990年TV放送【原作】司馬遼太郎【脚本】小山内美江子【出演】西田敏行、鹿賀丈史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.12
「今少し冷静になってもらいたか。おまんさは戦になって国が潰れても良かとごわすか!?」「わいは戦をしに行くとってなかっ!!」「そんつもりでも、戦になるやもしれもはん! そん時は・・・!」「よかっ!! 国が潰れても、人が死に絶えるわけではなかっ! 人が死んで死んで、国を焼き尽くして、そん中から生き残ったもんがもう一度新しか日本国を造れば良かっ!!」「そいは暴論ごわす!!」愛読する司馬文学について少しだけ語りたい。歴史というのは、それを捉える後世の人物たちによって検証され、良くも悪くも評価される。それは、その時代背景にもよるし、作家や学者らの歴史観によってずい分異なる。動乱の幕末時、幕府側に立っていた新撰組などは、狂暴な野犬の如き人斬り集団として捉えられていたイメージを、作家司馬遼太郎は一新。動乱期に苦悩する「政治青年の群れ」として、官軍も賊軍もなく等しく描くのである。 こうして、それまでは勤王の志士たちに抵抗する反逆者、いわば賊軍でしかなかった新撰組は、幕臣意識に燃える忠義の士としてドラマの表舞台に立つようになったのだ。「翔ぶが如く」では、西郷や大久保などにスポットが当てられ、魅力あふれる人物として描かれているが、それは決して「官軍」だからと言うような安易な見識からではないことが理解できる。その点を踏まえてこのドラマを鑑賞すると、さらに司馬文学を堪能することができるのではなかろうか。総集編第二部前編は、「両雄対決」と題される。王政復古によるクーデターの後、名目上、政府は徳川幕府から朝廷へ移ったものの、中央集権国家を確立するにはいまだ難題が残されていた。それは「藩」の存在をどうするかという問題であった。そこで、現状の政局を打破するべく、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道(隆盛の弟)、大山巌、木戸孝允、井上馨、山県有朋の薩長の7名が木戸孝允邸にて「廃藩置県」案を練った。その後、岩倉具視、板垣退助らの賛同を得て廃藩置県が制定。こうして土地と人民は明治政府の所轄するところとなったのである。明治6年になると、対朝鮮問題が浮上。これは、明治元年に李氏朝鮮が維新政府の国書受取り拒否に端を発しているが、その後、明治政府の使節を侮辱したとあって、武力行為に及ぶか否かが審議される。西郷、板垣らは武力をもって朝鮮を開国しようとする主戦派で、この主張は後に「征韓論」と呼ばれる。(しかし西郷の当初の主張としては、あくまでも出兵ではなく使節として赴くというものだった。)この主張は一度は閣議決定したものの、太政大臣の三条が急病のため岩倉具視が代行役に立ち、白紙に戻される。西郷らの朝鮮出兵は、無期限延期となった。「翔ぶが如く」もいよいよ佳境に入って来た。それまで、兄弟のように仲睦まじい西郷と大久保であったが、ここへ来て徐々に方向性の違いが明白になってくるのだ。否、方向性は必ずしも違うとは言い切れない、が、その改革におけるプロセス、方法、手段は明らかに違ってくる。しかし、それは両者のうちどちらが正しく、どちらが間違っていると白黒つけるのではなく、史実として捉えてみたらどうだろう。人間は情感に流される動物である。愛すべき登場人物に感情移入せずにはいられない場面も出て来るだろう。だが、西郷も大久保も坂本竜馬も新撰組も、皆等しく、激動の時代を生きた「志士」たちなのである。1990年TV放送【原作】司馬遼太郎【脚本】小山内美江子【出演】西田敏行、鹿賀丈史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.11
「大陰謀には間違いないが、これは正義の陰謀やよってな。」「アハハハ・・・!」「吉之助・・・?」「もちろん、正義の陰謀ごわす。そいどん、なんとしてもやり遂げんいけもはん。」「じゃどん、土佐があくまでも反対したらどげんしますか?」「・・・そん時は、短刀一本あれば足り申す。」いみじくも今年は、作家司馬遼太郎の13回忌。その年に「翔ぶが如く」をDVD鑑賞とは言え、楽しく視聴できるのは非常に嬉しい。 幕末の動乱をもっと深く探究するには、司馬先生の著書である「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」なども併せて拝読しなければ堪能できないかもしれない。だが、ここで忘れてならないのは、あくまでも作品を楽しむということ。歴史の概要がわかったら、その中でくり広げられるドラマ(限りなくフィクションに近い世界だとしても)に酔わされようではないか。総集編第一部後編は、「維新成る」と題される。幕末も大詰め、日本は大きく揺れていた。薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、倒幕運動を展開した。そのため、江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜は、討幕の名分を失わせるため先手を打ち、天皇に対して統治権の返上を行った。(大政奉還)その後、岩倉具視、大久保利通らの働きかけにより、朝廷の秩序を一新し、徳川主体の政治を抜本的に変革しようとする動きが出て来た。それは正に、薩長が主導する新政府の樹立を意味した。(王政復古の大号令)これにより旧幕府陣営では、薩摩藩に対しての猛烈な反発が強まる。さらに、西郷隆盛の冷酷な命令により、江戸において藩士に強盗や狼藉をわざと行わせることで、旧幕府側に戦端を開かせるという戦略に出た。その結果、旧幕府側は薩摩打倒の機運が高まり、会津藩を始めとする旧幕府軍と薩長軍とが、鳥羽・伏見において衝突した。(鳥羽・伏見の戦い)こうして江戸幕府は倒れ、明治新政府が樹立するのだが、これを成功に導いたのは他でもない、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)の3名である。(明治維新の三傑)日本人の間、特に九州では断然西郷人気を誇るのだが、後世の史学者、諸外国の記者等は「西郷より(新しい国造りに)圧倒的に貢献度の高いのは大久保である」とする論評を出している。作中でも感じられることだが、大久保は西郷のようなカリスマ性や雄弁さを持たない。 しかし粘り強さ、強靭な精神力において、右に出る者はいなかった。そのため、ベストを尽くすことが敵わない戦況においては、二の手、三の手を臨機応変に進め、耐え難きを耐え忍ぶという忍耐の人であった。そんな大久保は、維新の三傑中でも一度として政治の中心からは離れなかったのだ。1990年TV放送【原作】司馬遼太郎【脚本】小山内美江子【出演】西田敏行、鹿賀丈史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.10
「江戸には慣れたか?」「はいっ!」「その方、江戸をどのように思う?」「はいっ!」「遠慮のう思うままに申せ。」「はいっ! されば、出府してまもなくペリー艦隊が江戸湾に戻って来ました先日、こん目で確かめんものと出かけましたどん、敵を迎え撃つそん心構えと警備の薄さに驚き申した。」「う・・・む。他には?」「国許を思えば江戸の人はともかく、我らお長屋に居る者どもまで白か米の飯をいただくことは、どげんかと思います。」「大名には体面というものがある。」「はいっ!」「倹約は旨とせねばならぬが、締めるところは締めておる。あまり小さきことにこだわらず、もっと大局を見よ。」「翔ぶが如く」は、1990年1月から同年12月までNHK大河ドラマとして放送された、司馬遼太郎原作の歴史ドラマである。この作品は、ピーク時には30パーセントという高視聴率を打ち出し、歴代の大河ドラマとしても高く評価を受けた。最近では、ダイジェスト版がDVD化され、レンタルショップなどで見受けられるようになった。総集編第一部前編は、「青雲の志」と題され、一介の下級武士に過ぎなかった西郷と大久保が運命の波にもまれながらも、徐々にその頭角を現していく様を描いている。薩摩藩の下級武士であった西郷吉之助(隆盛)だが、武骨ながらも地道な努力が認められ、藩主島津斉彬の格別な抜擢を受ける。斉彬は、薩摩藩の富国強兵に努め、西洋技術を積極的に取り入れた。そんな西洋学に通じていた斉彬のもとに仕えた吉之助は、多いに影響を受ける。しかし、斉彬の急死により、吉之助はあえなく失脚。事実上の新藩主である島津久光と反りが合わずに流罪となってしまう。一方、幕末の動乱の最中、江戸では井伊直弼が独断で将軍世継問題を強行採決。反対勢力に対しては徹底的に弾圧を強化し、多数の活動家を粛清した。(安政の大獄) その結果、開国・通商派である井伊大老は尊攘派の恨みを買い、江戸城桜田門付近で暗殺されるという事件が起きる。(桜田門外の変)この一連の歴史の中に絡みつく天下の盟友、西郷と大久保の明らかな違いが目の当たりにされる。それは、信念を持って正義を貫く西郷は、たとえ相手が身分の高い人物と言えども、死さえ臆することなく忠言するという人であるのに対し、大久保は状況判断能力に優れ、その場の空気を読み、臨機応変に対応した。したがって権力にはめっぽう弱く、ごり押ししてまでの無理強いを好しとはしなかった。 この二人の相違点を比較しながらの作品鑑賞は、非常に楽しい。これから日本史をひも解く学生には秀逸なテキストとなることであろう。西郷隆盛役の西田敏行、大久保利通役の鹿賀丈史、両者とも見事な演技力で視聴者を酔わせてくれる。1990年TV放送【原作】司馬遼太郎【脚本】小山内美江子【出演】西田敏行、鹿賀丈史また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.09
「私たちは発艦することができても着艦することはできません。ですから、出撃したら二度と帰って来ません。敵艦に体当たりします!」「何・・・?」「せっかく整備して下さった大事なゼロ戦を壊してしまいますけど、許して下さい!」 「貴様ら、わざわざそれを言いに来たのか・・・?」「(若き特攻隊員3名そろって)はいっ!」戦争コードの映画は、あまりの残酷、無惨なシーンに驚愕して後味の悪さだけが残るものと、悲哀さのあまり、涙無くしては見られないものとの2パターンがあるように思える。第二次世界大戦において敗戦国である日本が制作した映画は、それだけに哀切極まりない、死にゆく者たちの慟哭が聞えて来るような錯覚に陥ってしまうのだ。1940年、日独伊三国軍事同盟が締結。翌年、同盟国であるドイツのソ連に対する宣戦布告に後押しされる形で、日本軍もベトナムへ進出。これによりアメリカの対日制裁措置を受け、アメリカからの資源の輸入が完全にストップ。日米交渉も虚しく決裂に終わり、いよいよ太平洋戦争へと突入する。連合艦隊司令長官である山本五十六の作戦により、真珠湾攻撃を実行。それにより、真珠湾停泊中のアメリカ太平洋艦隊は大打撃を受ける。日本軍の快進撃も長くは続かず、1942年、アメリカ空軍の日本本土初空襲を受ける。 この攻撃を受け、山本はアメリカ太平洋艦隊の残存部隊を全滅させる必要性を説き、ミッドウェー攻略を打ち立てる。だが、ミッドウェー海戦において、事前に日本軍の作戦情報が完全にアメリカ軍に傍受されており、日本軍の完敗に終わる。「連合艦隊」は、そうそうたるスタッフ、キャストによる優れた戦争映画に仕上がっている。デジタル化の進んだ現代においては、当時の特撮技術の甘さが気になる視聴者もあるかもしれないが、研ぎ澄まされた高度な演出と無駄のない脚本、そして卓越した演技力が見事に調和し、非常に完成度の高い作品となっている。注目すべきは連合艦隊参謀長の宇垣纏(うがき まとめ)である。宇垣はインテリでプライドの高い、賛否両論のある人物だが、対アメリカ戦になることを当初から懸念し、一貫して三国軍事同盟に異を唱えて来た。しかし、一たび太平洋戦争に突入すると、その手腕を発揮。ミッドウェー海戦における敗北時には、パニックに陥っていた参加部隊を見事に統率し撤退させるという指揮を執った。それまで宇垣を無能呼ばわりしていた山本五十六は、一転して彼に篤い信頼を寄せるというエピソードがある。(しかし、このエピソードは作中にはない。)映画「連合艦隊」では、宇垣を高橋幸治が好演。冷酷非情でインテリジェンスなムードを漂わせ、ひときわ存在感があった。作中、日本海軍の誇る戦艦が次々と撃沈されてゆくシーンがあり、BGMに「海行かば」が静かに流れる。それはまるで、戦没者への鎮魂歌のように聴こえるのだ。海行かば水漬く屍かばね山行かば草生す屍かばね大君の辺にこそ死なめかへり見はせじ※日本民族の意識、精神の理解に苦しんだアメリカ軍は、この歌を持って分析、解読を労し、対日作戦を立てたとされる。1981公開【監督】松林宗恵【出演】小林桂樹、丹波哲郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.08
『G・ハウプトマンは45年に言いました。“涙を忘れた者も”、“ドレスデンの破滅に泣いた。”その60年後に付け加えます。“自信を失った者も”、“再建後の教会の姿に自信を取り戻す。”この聖母教会は、世界の人々を結びつけます。民族間の理解を目指す人々を、そしてヨーロッパや世界での戦争を望まない人々を結ぶのです。皆に平和あれ。』ドイツは第二次世界大戦において、日本と同様の敗戦国である。しかし、日本のような島国とは違い、多くの国々が一つの大陸を共有し隣接し合っている都合上、そこにはたくさんの難問がひしめいていた。特に、民族問題においては切実で、独裁主義ヒトラーは一貫して「ゲルマン民族の優越」を唱えて来た。そのため、徹底したユダヤ人迫害を断行したのである。この作品は、第二次世界大戦末、1945年ドレスデン空襲を取り上げたものである。 英国軍による猛攻な空爆で、一夜にして廃墟と化すザクセン州ドレスデンの街を舞台に描かれている。ヒロインのアンナは、病院の院長である父を持ち、自身は看護師として負傷兵の手当てに奔走していた。ある時、病院の地下に身を隠していた兵士ロバートに遭遇。負傷している彼を脱走兵と勘違いし、手当てを施しかくまってやる。だがロバートは、敵国である英国空軍の兵士であった。アンナには婚約者がいたが、いつのまにかロバートに惹かれてゆき、二人は恋に落ちてしまうのだ。作中、負傷兵たちがズラリと眠っている病室で、アンナとロバートが孤独を癒すように肌を寄せ合い同じベッドで交わるのだが、このシーンなどは「スターリングラード」を彷彿とさせる。また、街が一瞬のうちに廃墟と化し、茫漠とした風景が広がるシーンなどは「戦場のピアニスト」を思い起こさせた。さらに、空爆を受けて足がちぎれ、無残な姿で横たわるシーンは「プライベート・ライアン」を連想してしまった。脚本に関しては、アンナの婚約者が彼女の父親と結託して何か良からぬことを企んでいると知った時、アンナがにわかに豹変してしまう心理描写に疑問が残る。アンナの苦悩、葛藤などの心の動きがもう少し丁寧に表現されていたら、ドイツ映画らしい緻密で正統派の作品になったかもしれない。いずれにしても、歴史と芸術の街ドレスデンが、一夜にして焼け野原になってしまったシーンを見るだけでも、いかに戦争が無意味で愚かなことであるか充分に理解できる。2006年(独)、2007年(日)公開※ただしドイツでは劇場公開されておらず、テレビ放映された。【監督】ローランド・ズゾ・リヒター 【出演】フェリシタス・ヴォール、ジョン・ライトまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.05
日露戦争において度重なる失策の際、「戦下手」と罵倒された乃木希典。しかし戦後は、戦死、負傷した部下やその遺族に宛てて見舞金を送るなど、義理と人情の人物であった。また、乃木がドイツ留学により体得した紳士的な雰囲気は、諸外国の面々が抱く日本人観を大きく覆すものとなり、世界中から賞賛された。(水師営の会見)そんな清廉で武士道的精神にあふれた人物であったが為、1912年9月、明治天皇の大葬後、彼の妻とともに自決している。あくまでも高潔で忠義に生きる人、乃木希典。享年62歳であった。映画「二百三高地」で乃木希典演じる仲代達矢は圧巻のひとこと。迫真の演技は観る者の涙を誘う。それは役者と鑑賞者の魂の共鳴であり、まさに芸術の昇華であろう。
2008.03.05
「自分は悔いることは毛頭ありません。最前線の兵には、体面も規約もありません 。あるのは生きるか死ぬか・・・それだけです。兵たちは・・・死んでいく兵たちには、国家も軍司令官も命令も軍規も、そんなものは一切無縁です! 灼熱地獄の底で鬼となって焼かれてゆく苦痛があるだけなのです! その苦痛を・・・部下たちの苦痛を・・・乃木しきの軍人精神で救えるのですか!?」第二次世界大戦を省みた反戦映画は数多く、残酷な殺戮シーンをクローズアップすることで、戦争の悲惨さを打ち出す作品群は周知の通りだ。「二百三高地」は、そのまた昔、19世紀末(明治37年)の日露戦争が舞台となっている。当時ロシアの南下政策は朝鮮にまで及ぼうとしていた。一方、朝鮮半島の支配を目指す日本にとっても、指をくわえて黙ってなどいられない。 だが、軍事力はロシアの強大さの前では赤子同然。その足元にも及ばないことは、誰の目から見ても明白であった。しかし、領土拡大を目論む明治政府にとって、朝鮮半島は是が非でもロシアに奪われるわけにはいかなかった。閣僚会議では、主戦派が反対派を押し切る形で議決。ここで日露戦争が勃発した。この作品では、“英雄”と謳われた乃木希典(のぎ まれすけ)が、痛々しいほどに凡庸で内省的に描かれている。作家司馬遼太郎も、乃木については厳しい批評を向けた一人であり、「乃木の才能は人格的なものであって軍事的才能ではない」とする、軍人としての能力を否定していた。失策を続けていた乃木に対し、満州軍参謀長であった児玉源太郎は、途中、乃木に代わって陣頭指揮を取り、二百三高地を軸とした旅順攻略の作戦を練り直し、成功。その結果、旅順を陥落したのである。映画「二百三高地」では、“英雄”、“大将”などという賞賛が、いかに虚しく、無意味なものであるかを教えてくれる。そして、これほどまでに多大なる犠牲を払ったにもかかわらず、得たものが何であるかを考えさせられる作品は、まずない。反戦映画としては、テーマが明確に打ち出された素晴らしい作品に仕上げられている。1980年公開【監督】舛田利雄【出演】仲代達矢、丹波哲郎また見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.04
「虹をつかまえるんだって?」「あんたも冷やかしかい?」「どんな虹をさがしてる?」(中略)「子供のころ、親父といっしょに虹を見てね、普通の虹じゃないんだ。蛇みたいに巻いたり、うねったりするんだ。」「ほぅ・・・」「信じてくれなくてもいいさ。どうせ誰も信じてくれないさ。」「“虹蛇(こうだ)”って言うんだ。」「えっ?」「そのさがしてるって言う虹さ。虹に蛇と書く。」古来より日本は、八百万(やおろづ)の神々の宿る国とされて来た。庭に咲く梅の木や、路傍の石ころ、美しい曲線を描く富士の山、全てに精霊を感じていた。コミックの世界では、文字だけの表現では限界のある妖怪や幽霊などの“あやかし”を描いた作品が、数多く人気を博している。日本人の多くが少なからず抱えている、万物のエネルギーの源への尊崇の念、そして憧憬。目に見えるものだけが信じられるのではなく、目に見えなくても確実に感じられた森羅万象の営み。この作品、「蟲師」は、「月刊アフタヌーン」に連載されている漆原友紀によるマンガを実写化したものである。作中の「蟲」とは、いわば幽霊や妖怪のような存在で、「蟲師」とは、「蟲」の引き起こす怪奇現象を研究、あるいは退治、治療を施す者を指している。「蟲師」として旅を続けるギンコ。ある時、蟲師たちの集う御堂にやって来たギンコは、淡幽の身体に異変が起きたという知らせを受ける。淡幽とは、代々蟲にとり憑かれた旧家の娘で、蟲の記録を取り続けることでその威力を封じて来たのだ。しかし、ギンコが淡幽の屋敷を訪れた時、彼女は蟲に侵食され、由々しき事態に陥っていた。ギンコは淡幽の病の謎を探るため、狩房家の蟲についての巻物をひも解くのであった。 だが、封印されていたはずの蟲が、黒いモヤとなって立ち昇り、ギンコにとり憑き始めたのだ。原作を読んでいないことをお断りして、感じたことを率直に言いたい。この作品は、互いに相容れないものを排除し、抹殺し、忌み嫌うのではなく、「共存」への願いをテーマにしているのではなかろうか。絶望や不安、孤独と言った闇の部分を葬り去るのではなく、今ある姿として自然の中へ返してゆく。非常にレベルの高い精神世界を描いているため、残念ながらストーリーが追いついて行かない。無駄のない美しい映像から、古き良き時代の風景を垣間見られる。2007年公開【監督】大友克洋【出演】オダギリジョー、江角マキコまた見つかった、何が、映画が、誰かと分かち合う感動が。See you next time !(^^)
2008.03.03
東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ (菅原道真)この歌を詠んでからわずか二年後。左遷した大宰府にて、道真はその生涯を閉じたのである。彼は二度と都の地を踏むことはなかった。【全釈】(東から)春風が吹く季節になったら、その香りを九州の地まで風に乗せて運んでおくれ。梅の花よ、主人がいないからと言って、春を忘れたらいけないよ。
2008.03.01
こんなに可憐で、いじらしく咲いているのに、どこか気高く近寄り難いのは、いったいなぜでしょうか?【オオイヌフグリ】・・・ゴマノハグサ科の1,2年草。道ばた、原野などに生える。名前は果実がイヌの陰のうに似ていることにちなんでいる。 花言葉は
2008.03.01
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