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聴覚障害の人たちのバンドを取り上げた番組を見た。彼らにとって音楽は、雑音にしか聞こえないわけで、楽器を奏でることも、歌を歌うことも、と言うか、言葉を発することさえも、とってもたいへんなことなのだけれど、音楽が大好きだから、音楽というのものを楽しみたいから、そして、みんなでわかちあいたいという思いから、バンドを始めたのだそうだ。正直言って私は、この手の話って、あまり好きじゃない。彼らのように障害を乗り越えている人たちに対しては、すごいなあ、良かったなあと素直に思う。だけど、こういう話を番組などで扱う際の、「人間賛歌」的な空気が苦手なのだ。そんな私なのに、今日、番組で彼らが歌う姿を見て、なんだかとても心が震えた。彼らが歌った曲は、「それが大事」タイトル間違ってるかも。随分前にヒットした、それがー1番大事ーって歌です。私は今日までこの歌が大嫌いだったのさ。あーそうですか、って感じでさ。でもその歌が、彼らが歌うことによって、ものすごくソウルフルに聴こえたのだ。なんていうか、歌に魂が宿ってた。と同時に、音楽、音を楽しむということの嬉しい感じが、ストレートに伝わって来たのだ。だから、あんなに嫌いな歌だったのに、「これっていい歌だなあ」と思った。それと、同じ楽曲でも、魂がこもってるのとこもってないのとでは、こんなにも伝わって来るものが違うのか、ということに驚いた。歌ってすごいなあ、すごい力を持っているんだなあ、と改めて感じた瞬間でした。
2002年04月30日
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以前親しくしてた或る人は、口癖のように、「人それぞれだからねー」と言っていた。ちなみに私も「人それぞれ」派。多数意見だからって普通だとか、自分の意見だけが正当ってふうな人と話してると、一方通行な気分になっちゃって、つまんない。だから最初は、彼女と話をするのが楽しかった。どんな変なことを言っても彼女は否定しないのだ。だから私は、「ちょっと変かもしれないけど、私はこういう奴なんだ」というふうに、自分について、いっぱい話した。彼女はいつも「人それぞれだもん、変じゃないよ」と、言ってくれた。嬉しかった。せっかく仲良くなったんだから、自分のことを知って欲しいし、相手のことも理解したいし、お互いに心地良い付き合いをしたい、と、私は思ってた。けれどだんだんと、気がついてしまった。この人、話を全然聞いてないやって。「人それぞれだから」と認めてるような言い方をしてるけど、その実、単に聞き流してるのさ。何度、同じことを話したことか。そのたび「へーそうなんだ・・・」と新鮮に驚いてくれた(笑)私だって、自分の言ったことを一々覚えてて欲しいと願うほど、図々しくはない。気のきいたコメントを期待しているわけでもない。ただ、心のどこかに、留めておいてもらえたら、それでいい。しかし、いくらなんでも忘れすぎだろ?と思うほど、頻繁にそんなことがあったのだ。そんなわけで、いつまでたっても、心地良い関係にはならなかった。くだらないことで言えば、私は自分の半径50センチ以内に人に入ってこられると、リラックスできないという変な性質を持っているのだけれど、彼女は何回言ってもわかっちゃくれなかった。「あ、そうなの?ごめんねー」何回も言うなよ。せめて「そうだったよね」くらいにしてよ。そこで私は思った。「人それぞれ」という言葉って、人によっては、わかりあうことに対する放棄なのかもって。人それぞれだから自分と違う人がいることは認める、だけど自分と違う人って理解不能、で、おしまい。それじゃあ、つまんないじゃん、と思う私が変なのか。もっとも、彼女の場合、ただ単に私に関心がなかったのかも。それはそれで、虚しいや。ま、とにかく、それ以来、自分自身が「人それぞれ」という言葉を使う時、(これまた、よく使うんだ、私は)突き放したふうになってはいやしないかしら?と、なんとなく気になるようになりました。
2002年04月29日
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今までに付き合った彼の数、なんと二人。少ないでしょう。最初の彼とは中学から20才まで付き合った。二人目の彼とは、20才から今まで。高校の頃や18、19の頃は、よく周りの友達から、「飽きないの?」とか、「一人の人としか付き合わないなんて勿体ないじゃん」などと言われていたけれど、私は、ちっとも飽きなかったし、勿体ないとも思っていなかった。どれだけ長く付き合ったって、相手を完全に理解することなんてできないのだし、完全に近いくらいにわかりあえたとしても、自分だって相手だって日々変化して行くのだし。だから飽きるなんて感覚は私にはない。新しい発見はつきない。勿体ないなんてふうにも全然思わない。たくさんの人とたくさんの恋をすることで得られるものっていうのは、あるのだろうけれど、同じ人とずっと一緒にい続けることでしか得られないものだって確かにあるのだから。こういうふうに思うのは、私が臆病者だからなのかもしれない。私はガーッと人を好きにならない。野性のウサギみたいに、馴れるのに時間がかかってしまう。昨日より今日、今日より明日と、少しづつしか距離を縮めて行けない。私のことを好きみたい。悪い人じゃないみたい。信じても大丈夫みたい。甘えてもOKみたい。踏み込んでもいいみたい。ここでようやく私は自分の心の鍵を外すのだ。「好き」って気持ちを解放するのさ。そうして、昨日より今日、今日より明日と、「好き」が、どんどん大きくなって行く。
2002年04月28日
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恋ならば、好きって言葉や、ふれあったりすることで、気持ちが繋がるものだけれど、友情はそうは行かない。「この人にとって私ってどのくらいの大きさの存在なのかな」と不安になった時、恋ならば素直に聞けば大体は解決。ねえ、私のこと、好き?大切?だけど友達相手にその台詞は困難。仲良くして行きたい人だけど、こういう所が自分としてはちょっと困ってる、って時。恋ならばやっぱり素直に言っちゃえば大体は解決。だけど友達相手だとなかなか言いにくい。何でも言い合えるのが友達。そんな小さいことを気にする関係なら友達じゃないじゃん。って思う。思うけど、いきなり本物の「友達」になれるってもんじゃない。そこにいたるまでの過程ってもんがある。その点、恋なら、結構スピーディーに距離を縮められる。というわけで、恋よりも友情の方が難しい。難しいからこそ、恋よりも友情の方が貴重。抱き合うわけでなく、言葉で愛を伝え合うわけでもない。持続させるための手立てと無関係でありながら、繋がっている。それって、すごいことだと思う。
2002年04月27日
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自分で悪いと思わないことに対して謝ることができない子だった。その場しのぎの「ごめんなさい」は、とても卑怯なことのような気がしたし、嘘の「ごめんなさい」を言ってしまったら、いつまでたってもわかりあうことができないから。だからいつも親に怒られていた。いつだって最初はほんの些細な小言なのに、謝らないから、ひどい叱られ方をすることになる。わかってたんだけど。ところで、うちの親は、私が謝りたくない時には、激しく強要するわりに、自ら素直に謝った時にも、「謝って済むなら警察はいらないんだよっ」と、やっぱり怒っていた。どうすりゃいいんだよ(笑)だけど、現実問題、謝って済むなら警察はいらないんだよっと、言いたくなるような時ってある。相手は謝ったことで気持ちがすっきり爽やかかもしれないが、こっちにしてみれば、いっそ謝らないでくれた方が思いっきり怒りをぶつけられるのに、って感じだったりして。「もういいよ」と言いつつも、行き場をなくした怒りに肩が震えてしまう。どうすりゃいいんだよ。
2002年04月26日
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人に弱さを見せるのが苦手だ。悩みを相談したり、頼ったり、甘えたり。そういうことをするのに、どうも抵抗がある。プライドが高いからだ。子ども時代からそう。プライドだけは東京タワーなみ。なんでなんだろ。悔し泣きってしたことありますか。私は痛くても悲しくてもへっちゃらなのに、悔しい時、涙があふれて止まらない。泣いたら余計悔しい羽目になるのにね。どちらかというと理性的な方だと思う。けれど、ただ一点、悔しいという感情だけは、コントロールすることができない。それもこれも、プライドが高過ぎるせいだ。こればっかりは自分でもうんざりする。どうして、軽くいなせないんだ。あーやだやだ。プライドなんてくだらないものから自由になりたいと、いつもいつも思うのに。1度だけ、プライドを完全に取っ払えたことがある。1度しかないんだけど。どうしても離れたくなかった人から別れようと言われた日。あの日の私は、どうしようもなくかっこ悪かった。だけど、なんだかやけに、かっこ良かったような気もね、すごくするんだ。
2002年04月25日
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誰にでも、ガーンガーンガーンと来る一言があると思うんだけど、私の場合、ガーンな言葉、ナンバー1に来るのがこれ。「役立たず」もちろん、同じ意味の言葉も同様だ。なんであんたにそんなことを言われなくちゃならないんだ!と、怒ることも忘れ、タリラリラーと、巣穴に帰りたくなってしまう。巣穴。温かくて、誰にもイヤなことを言われない、私の巣穴。こんなことじゃいかん、ということはわかっている。わかっちゃいるが、無理して心が壊れるよりは逃げる方を私は選ぶ。そうして、一人でペタペタ心の傷を修復してから戦闘開始だ。役立たずなんて言わせるもんか。あなたなんか追い越してやる。それは本当の意味の解決にはならない。すべてにおいて、役に立つ人間になんか絶対になれないのだから、いずれまた別のことで言われるかもしれない。それに役立たずなんて人に言う奴の方が間違っている。そんな言葉を言う無神経さをなくしてもらわないことには、どうにもならない。大体、役立たずってなんだ。何に対して役立たず。そもそも、役立たずで悪いのか。・・・なんてふうに、いろいろ考えると、頭の中がごちゃごちゃしてきて余計に物が見えなくなる。だから私は歌を聞く。役立たずと罵られて最低と人に言われて要領よく演技できず愛想笑いも作れない死んじまえと罵られてこのバカと人に言われてうまい具合に世の中とやって行くこともできないおまえなんかどっちにしろいてもいなくても同じそんなこと言う世界なら僕はケリを入れてやるよ痛みははじめのうちだけ慣れてしまえば大丈夫そんなこと言うあなたはヒットラーにもなれるだろう生まれたからには生きてやる誰かのサイズに合わせて自分を変えることはない自分を殺すことはない ありのままでいいじゃないかこれはブルーハーツの「ロクデナシ」という歌の歌詞。この歌は私の心の歌の一つだ。特に、この、生まれたからには生きてやる、という部分が、私の生きることに対する考え方だったりする。もういい。なんでもいい。とにかく、生まれたからには生きてやる。
2002年04月24日
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「ガンバレ」という言葉が嫌いだ。自分でもまだまだ頑張れそうだなと思っていることでなら、「がんばれ!」「おーがんばるよ!」と、喜んで受け止めることができるのだけれど、もう十分頑張ってるんだよ・・・だけどうまくいかないんだ、って時に言われると、うるさいよと思う。頑張ってんだよ、頑張ってないみたいに言うなよ。あと、気持ち的にもう頑張れない時なら、頼むから追い詰めないでくれよと思う。こっちは生きてるだけで精一杯なんだからさって感じだ。わたしゃ、とりあえず生きてるってだけで、自分を褒めてやりたいくらいなんだよ、なのに何故あんたは、これ以上を課する?こんなことを書いているからといって、今がそういう時期だというわけではないよ。真っ只中にいたならば、逆にこういうことは書けないものさ。「ガンバレ」という言葉には、無責任さと、ある種の押し付けがましさがあるような気がするのは、私だけか。ついでに言うと、「応援してあげてる私っていい人でしょ?」みたいな感じが、見え隠れしてる時って、ないかね。そういう光線を感じた時、自分をいい人に見せる道具に私を使わないでくれ、と思う。・・・偏屈者で、ごめんなさい。
2002年04月23日
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今日は仕事お休み。なので、お部屋の本を片付けた。アクセサリーや服そっちのけで、本ばかり買っている私の部屋は、とにかくもう本だらけ。次から次と購入するので、すぐにタワー。もしも小人が迷い込んできたなら、圧死すること間違いなし。来ちゃダメだよ、小人。しかしよく思うのだけど、この膨大な読書量、何かの役に立ってるんだろうか。立ってない気がする。よくいるでしょ、子どもに「本を読みなさい」という親。うちの親は「読むな」と言ってたけど。本なんか読まなくても生きて行けるなら、そっちの方がいいような気がする。今まで私が好きになった男の人はみんな、本をまったく読まない人ばかりだった。マンガも雑誌も滅多に読まないよってくらいの人ばかり。友達ならば、本を読んでも読まなくてもどっちでもいいけど、恋愛するなら、本を読まない人がいい。だって寂しいから。勝手な言い草だけどね。
2002年04月22日
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アルバムが出たら買えばいいやって思っていたのに、やっぱり買ってしまった宇多田ヒカルのシングル「光」宇多田ヒカルに関しては毎回こうなんだ。不思議なくらい、彼女の歌は、私の胸に響く。フレーズが耳に残る。自分の中のうまく言葉にできない気持ちが、彼女の歌の中にあるから。そして、いつか見た光景が、あの時の自分の心が、あるから。共鳴。無理はしない主義でもきみとならしてみてもいいよ。傷つきやすいまま大人になったっていいじゃないか。・・・この感じがとても好き。ちなみに一番好きな歌は、「Wait & See リスク」です。
2002年04月21日
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人の心は迷いやすくて変わりやすい。「変わるもんか」という強い意思だけが、同じ思いを持ち続けさせてくれる。とても好きな人がいても、その人の気持ちが見えなくなると、自分の心まで見えなくなってしまいがち。つらい思いに耐えられなくて、すぐ目の前の安易なシアワセに走ってしまうなんてことは、本当によくある話。そしていつしか安易なシアワセを、本当のシアワセと心から思えるようになったりもするもので。なんて言うか、人の心は良くも悪くも柔らかい。変わりやすいから救われてる部分ってあるのだし。ああ、話が、飛びまくっている。何を言いたいのかというと、変わることが悪いとか、良いだとか言うつもりはなくて、ただ、人間関係がうまくいかなくてもそんなに悲観することはないよと、そう言いたかっただけなのさ。タイミングが悪いだけかもよ。チャンス到来!って時が来るのを待つのも手だよ。人の心は迷いやすくて変わりやすくて、おまけに柔らかいんだから、人と人との関係に関してだけは、「絶対に無理」ってことはないと思うんだ。恋でも友情でも親子関係でも、なんでもね。
2002年04月19日
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私の両親は嘘の嫌いな人たちで、だから自分の心にも嘘をつかなかった。いつも。彼らには自分の気持ちを抑えてでも子どもに優しくしようとか、子どもに対して立派な親でいようだとかって考えは少しもなく、むしゃくしゃする時は平気で八つ当たりをし、「親ならやってくれてもいいじゃん」ってな頼みごとをしても、迷惑だとか面倒だとか言って拒否したりしていた。きれいごと、一切なしだ。当時は、ひどい親だよと思っていたけれど、よくよく考えると、裏表のないわかりやすい親でもあった。そういう家庭で育ったせいか、私は建前とかお愛想とかが苦手だったりする。うっかりそのまんま受け止めて、後で実情を知り困惑するなんてことは日常茶飯事だ。京都じゃ「お茶を飲んで行ってください」という言葉が、挨拶代わりなのだと前に本で読んだことがある。鵜呑みにして飲みに行くもんじゃないのだそうだ。こんな私が京都に住んだら、あっちでもこっちでお茶をご馳走になり、「図々しい人だ」と呆れられるに違いない。たいへんだ。というわけなので、子どもの頃、親に対して不満たらたらだったわりに、今、一緒にいて気楽なのは、自分勝手でもなんでもいいから裏表のない人だったりする。わかりやすいのが一番だよ、ほんと。
2002年04月18日
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何度も日記に書いていることなのだけど、小さい頃にいじめられっ子だった私は、担任の失礼で間抜けな一言で奮起して、変身した。もう誰にもバカにされたくなかったのさ。明るく積極的になり、勉強でもなんでも頑張った。で、気がついたら、ちょっと目立つタイプの子になっていた。家に居場所がなかっただけに、学校で居場所を見つけたことが嬉しくて、私はもっともっと頑張った。転校生や一人ぼっちの子に声をかけて、みんなの輪に入れるように後押ししてあげたり、他の子がイヤがるようなことも先頭に立って「さあみんな頑張ろうよ」って盛り上げて引っ張ったりね。性格的にも「いい子」「感じのいい子」をめざした。だけど、ある日突然、クラスの女子全員からの仲間はずれとなった。無視。簡単に言うと、いい子ぶってるとか、みんなにいい顔してるとか、とにかく、ムカつくということだった。私はあの頃の自分は認められるに見合う努力をしていたと思うし、自分の言動が間違っていたとも思わない。少なくとも、努力もせずに文句ばっかり言ってる人や、ずるしたり意地悪したりしてた人たちよりは、自分の方が正しかったと思う。だけど正しけりゃいいってもんじゃないのだ、世の中は。と言うか正しさっていうのは、時にものすごーく疎ましがられるものだったりする。特に思春期は。昨日の日記に書いた彼女もまさにそういう感じで、仲間はずれとなった。彼女は悪くなかった。悪くないけど疎ましがられる存在だった。世の中には(社会人になればそうでもないけど十代の場合は)同じような人がいっぱいいると思う。一生懸命努力してるのに、まじめにやってるのに、正しい自分でありたいと思って生きているのに、だからこそ逆に人から好かれない。それは本当に理不尽でおかしなことだと思う。自分で自分を正しいと思ってるから腹が立つとか、押し付けがましいとか、そういう部分はあると思うんだけどね、でもさ、正しくあるために努力しているんだから、本当ならそういう権利があったっていい筈じゃないか。ちなみに私は今、ありのままー♪って感じで暮らしてます。あの頃とは違ってね。気楽です。だけどそうやって生きられない人のたいへんさを見るにつけ、痛々しいなあと思う。あなたは間違ってないよと思う。
2002年04月17日
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19の時、中学時代のクラスメイトが自殺した。彼女と私は、中1から卒業までずっと同じクラス。だけど話したことはあまりなかった。何故なら、私たちはまるで違う世界に属していたから。彼女は、できないことなんか何もないんじゃないか?ってくらいに完璧な女の子だった。ルックスも抜群で、明るく人気者。私は孤独な傍観者。中3の夏頃から、彼女は、クラスの仲間はずれになった。彼女は授業中に胃痙攣を起こし病院に運ばれ、しばらく入院し、それ以来、時々しか学校に来なくなった。夜中に「死んでやる」と言って海まで走ったとか、精神科に通っているとか、噂が流れてた。三学期には、出席日数が足りなくて、受験どころか卒業も危ういということで、学校にちゃんと通っていたけれど、その頃にはもう、すっかり以前の彼女ではなくなっていた。特別な女の子のオーラが消えていた。孤独が彼女を蝕んだのだ。そして彼女は19の時に死んでしまった。彼女は中学時代のあの日々に壊れてしまったのだと思う。そして結局、乗り越えることができなかったのだと思う。もしも彼女に、たった一人でも理解者がいたなら、こんなことにはならなかったのだと思う。あの頃、私は、自分のことで精一杯だった。家のことや友達付き合い、その他いろいろ。だから彼女に対して、仲間はずれにされたくらいで、親が離婚したくらいで(これも原因だったらしい)ダメになってしまうなんて弱いじゃないかと思っていた。私だって頑張ってるんだから、あんただって自分の力で頑張りなよって感じだった。それを言ってあげれば良かったのかもしれない。そうしたら、同じ痛みを共有し、わかりあえる友達に、なれたかもしれない。彼女は死ななかったかもしれない。私は傍観者だったことを後悔している。とにもかくにも、彼女は死んでしまった。彼女の人生は終わってしまって、やり直しは絶対にきかない。もう同じ後悔はしたくない。身近な人が孤独に蝕まれ壊れて行くのを傍観したりしない。
2002年04月16日
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優しい人が好きと言う人は多いけれど、私は優しい人にはあんまり惹かれない。優しさと、気の弱さは、よく似てる。十代の終わり頃までの私は、人から「優しい」と言われることが多かった。言う人は褒めてくれてたのだと思う。だけど私は居心地悪かった。私は人を傷つけて自分の心が痛くなるのがイヤなだけ。争い事や面倒が苦手なだけ。「優しい私」をアピールしておきたいだけ。つまりは自分のために人に優しくしてるんだから、それは本当の優しさじゃないのよね。・・・そう自覚していたから。純粋に優しい人になれたらいいな、と思っていた。純粋に人のために優しい人にね。だけど私はなれない。私の中にそういう心がないから。それはそれで仕方ないと思うので、せめて自分が優しい人ではないことを忘れないようにしていたい。時々、「私って、お人よしなの」と言う人に会う。うーむ・・・と思う。自分でそう言えるのは鈍感だからなのか。本当に、お人よしだからなのか。そんなことを考えながら、その人と接している時の私の目は、ちょっと意地悪になっているに違いない。
2002年04月15日
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被害者づらする人を見ると、イヤな気分になる。実際、どう考えてもあんた被害者だよ・・・って思える場合は別だけど、そういうことは日常生活ではあんまりない。「頭に来たー!」とガンガン文句言うのは、いいのさ。私も言うことあるし、友達が言ったら一緒に燃えることもあるし。そうじゃなくて、自分を善なる弱者の位置に置きつつ、こんなこともされた、あんなこともされた、ねえあの人ってひどいでしょ、私かわいそうでしょって言ってる様子がイヤなのさ。そっか。被害者づらする人がイヤなんじゃなくて、弱者ぶる人がイヤなんだ、私。今、気がついた。私は強くなろうとしてる人が好き。弱さを否定したりはしないけど、(だって人間なんて大抵は弱いものなんだから)弱い自分に甘んじているのはかっこ悪いと思うんだ。
2002年04月14日
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トラウマ。寅ちゃん馬ちゃんの略じゃないのさ。心の傷のことだ。消えない傷のことだ。幼い頃のトラウマに悩んでいる人って、決して少なくないらしい。幼児虐待やイジメなどのもっともなものもあれば、岡田美里のように、他人からしたら「え、そんなことが?」と言いたくなるような、些細なもの(本人にしてみれば些細じゃないの)まで、いろいろ。トラウマ、苦しいだろう。つらいだろう。乗り越えろと言われたって、簡単には行かないだろう。だけど、せっかく生まれて来たんだから、思いっきりシアワセにならなくちゃ損、損。シアワセになるために、「トラウマなんかクソだぜ」と蹴っ飛ばして、ぶっ壊しちゃえ。どんなことでも、まずは、乗り越えようと思わなければ、乗り越えられないよね。トラウマを乗り越えるのは、富士山に登るくらいにたいへんなことかもしれないけれど、たいへんだからこそ、ものすごい達成感があると思う。「私ってすごいじゃん」ってね。消えない傷なら塗り潰そう。
2002年04月13日
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なんか疲れた。心も体も疲れた。きっと根性が足りないのね。職場。もともとなんだかんだと疲れる点はいっぱいあるわけで、こんなの今に始まったことではないのだけれど、なんていうか、飽和点に達したって感じ。持ち前の切り替えの早さでなんとか乗り切れるか、それとも、これまた持ち前のトンズラ願望が沸き起こるのか。まあいろいろ考えて決めるさ。ところで、気晴らしに、趣味のHPを新設しました。もしもどこかでそれらしいHPを見かけたら、ご一報よろしく。そちらの私は、こちらの私よりも毒があるかもしれません。
2002年04月12日
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相槌打ったり、ツッコミ入れたり、ボケかましたり、フォローもしたりと、或る意味、口数は多い方なのだけど、中心になってペラペラ喋るってことは殆どない私。実は自分に関する話をするのが下手だったりする。子どもの頃からそうだった。どうでもいいことばっかり喋ってて、肝心なことを喋んない。(どうでもいいでしょ、ボケだのツッコミだのは)秘密主義じゃないので聞かれれば喋るけど、自ら喋ることって殆どないのさ。自分の気持ちをきちんと説明するのって本当に苦手だ。好き!とか、イヤ!とかだったらいいんだけど、そういう単純なことばかりじゃないしね。で、よく誤解される。誤解を解くため、苦手ながらも説明する。だけどうまく行かないことが結構ある。悲しい気分になる。悔しくもなる。心の中で騒いでいる言葉たちが手に負えなくてモヤモヤもする。そんな私にとって「書くこと」って、子どもの頃からずっと、どうしても必要な作業だった。書くという作業は、他人のペースに惑わされることなく、自分の都合とスピードでできる作業。そして必要以上に他人のことを気にしなくていいという点において、とても無責任で、気楽な作業。だから、どこまでも自由になれる。そのうえ、口にする言葉と違って、文字という目に見える姿で現れるので、自分の心なのにもかかわらず客観的に眺めることができる。つまりは、あふれてぐちゃぐちゃになった言葉たちをきちんと組み立て、整理して、点検する、というのが、「書く」という作業。私にとって、心の安定を守るために、どうしても必要なこと。趣味じゃない。息をするみたいに、ご飯を食べるみたいに、生きてくうえでの、必要不可欠で自然な行為。中学時代、ボーイフレンドにはじめて手紙を書いた時、びっくりされたことがある。「普段のきみと手紙のきみって全然違う! どっちが本当のきみなの?」どっちかと言えば、手紙の私だよ。
2002年04月11日
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自分が好き。なにもかもが好き。好きなものが一緒だったりすると、私ら気が合うねと思うでしょ。相手が異性ならそのまま恋に落ちたりするでしょ。私はその人が私を好きになった時点で、気が合うね、好みが似てるねと思う。私が好きなのは私。あなたが好きなのも私。だからそう思う。その人が私を好きじゃなくなったら、私以上に好きな人を見つけちゃったら、好みがズレたねと思う。私は私を好きなので、自然にしていて好きと感じてくれる男の人としか付き合わない。その人の好みに合わせたり、良く見せようなんて少しも思わない。私は私を好きなので、私をないがしろになんかしないの。私をないがしろにするような彼ならいらないの。どんなに、その彼のことを好きだとしても、私には、私を幸せにするという絶対的な使命があるんでね。ナルシストですみません。
2002年04月10日
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小学生の時、テレビで「ノストラダムスの大予言」を見た。御茶漬海苔の書く漫画のキャラクターのような風貌の五島勉(一連のノストラダムスシリーズの著者)が出て来て、1999年に人類は滅亡するんですよ、と言っていた。その台詞、私にとって、それはもう大大大ショックだった。その日以来、私は、死後について考えるようになった。1999年に自分は死んでしまうのだと思い込んでいたので、死んだその先のことが心配でたまらなかったのだ。霊になるのか?霊界へGOか?だけど人類滅亡だ、一気に人類みんなで行けるほど霊界は広いのか。って言うか、人類みんなで行くのだとしたら、あの世のこの世もたいして変わらないんじゃないか。そんなら、まあいいかな。だけどもしかしたら、魂なんてないとしたら。死んだ瞬間、ただ単に無になっちゃうのかも。それは怖い。絶対怖い。とんでもなく怖い。あーノストラダムスのバカバカ。だけど、はっと気がついた。大予言が外れるとしても、人は必ず死ぬ。小学生の私は死への恐怖にとらわれ、毎日のように、死後について考えるようになった。無はイヤ。霊界も人類みんなで行くんじゃなくちゃイヤ。あーん死にたくない。そんな私の恐怖を、ほんの少し拭い去ってくれたのが、生まれ変わりという考え方だった。生まれ変われるんだったら、死ぬことに耐えられそう。人類滅亡後はどこに生まれ変わるのか?という心配はあったが、それは、別の星ってことで(笑)というわけで、私は生まれ変わりの思想を支持しているの。生まれ変わりがあるのだとすると、前世もあるはず。前世の自分はどこの国のどんな人だったんだろう?と、想像するのは結構楽しい。もしかしたら動物かもしれないけどね。・・・ノストラダムス、はずれたね。余計な心配させやがって。
2002年04月09日
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戦時中だとか、遭難時とかで、極限まで飢えた人がやむなく人肉を食べるというお話が、時々ありますね。人肉だなんて知らないで食べちゃって、後からわかってガーンガーンガーンとなり、「なんでそんなもんを食べさせたんだよっ」「そんなもんを食うくらいなら死んだ方がましだった・・・」「自分は人でなしになってしまった・・・」ってふうに思うやつ。私はあの感覚がよくわからない。なにもグルメを気取って食べるわけじゃない、食べなきゃ死ぬから食べるのだ。しかも元気な人をぶち殺したわけじゃなく、死んじゃった人の肉を食べるのだ。それの何が悪いんだ?ま、私自身は、人肉だってわかってたら食べられないと思う。でも「海がめの肉だよ」とかって言われれば食べるだろうし、後でわかったとしても、騙した人に感謝こそすれ恨みはしないな。それに、もしも無人島に好きな人と二人漂流して、私が先にくたばりそうになったなら、「私を食べて生き延びてね」と思うよ。ただ死んで行くよりも、その人の命になれた方が、ずっと死に甲斐があるってものさ。
2002年04月08日
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私が人の性格を分類するならば、森を見て木を見ないタイプ、木を見て森を見ないタイプの二種類。ちなみに私は、森を見て木を見ないタイプ。大抵の場合、森しか目に入っていないもん。たまに木も見るけど、木より森を優先してしまう。良く言えば、視野が広いってことね。客観的で。でも浅いの。木を見るタイプの人って、視野が狭いとかってふうに、あんまり良いことじゃないみたいに言われがち。だけど私は、視野が狭いからこそ細かいことに気がつくのだろうと思うので、すごいなあと感心するし、こういう人が一つのことに本気で打ち込んだら、すっごい結果を出せちゃうんじゃないかなあとも思っている。ちょっと羨ましかったりするよ。でもまあ、羨ましがっててもしょうがない。私はもう、森を見るタイプに生まれてしまったわけだから、こっちのタイプの良さを追求するまでさ。
2002年04月07日
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びっくりしやすい性格なので、小さなことで簡単に動揺してしまうのだけど、びっくりが終わると殆どの場合悠々と乗り切ることができる。「どうしてそんなに落ち着いていられるの?すごい」と、人から言われるくらいなので、自分で思ってるだけじゃなくて傍から見てもそうみたい。どうして悠々としていられるのかと言うと、「きっと今の状況は序の口でこの先もっとひどくなるに違いない」というふうに、考えてしまう性格だから。序の口序の口と思っていたら実はその時がピークで、心がまえをしている間にコトは終わってたということがよくある。あと、ダメージを受けた時、必ず、「だけど世の中にはもっとつらい目にあってる人がいっぱいいるんだよなあ。アフリカの子どもはご飯も食べられないんだよなあ。それに比べれば自分なんて恵まれてるよなあ」と思ってしまう癖があるから。そして「結局、大抵のことは、たいしたことじゃない」と物事を見くびっているから。そんなわけで、わりと、のほほんと暮らしています。たまに「もっと真面目に人生に取り組め」と言われます。
2002年04月06日
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健康そうに見えるけれど、実は結構、体が弱い。と言っても大病はしたことなくて、ちまちま不快な症状に見舞われているという感じ。「おーっすっきり爽快!!いい気分」ってことは、まずない。中学時代からそんなふうなのでもう慣れちゃってるけど。まず、頭痛。夏場はほとんど毎日。冬はその半分くらいの頻度。激痛の時はさすがにぐったりしてるけど、ちょっとした痛みなら私にとっては「調子の良い日」バファリン、手放せないです。あんまり効かないけど。ついで、アレルギー。鼻、喉、皮膚、目、全部アレルギー。年中花粉症みたいなもんです。卵なんかは好きなので発作が出ると知りつつも食べちゃう時があるのだけど、うっかり許容量を越えると、吐きます。汚い話でごめんなさい。あとは、熱が出やすいとか、おなか壊しやすいとか。そんなわけで、健康じゃない私。だけどこんなふうに、ちまちま不快というタイプの人は、逆に長生きするような気もする。そういえば私の母も同じタイプで若い頃から、「私は早く死ぬと思う」と言ってたわりにまだ生きている。それどころか「年々体調良くなって来た」とのことだ。私も年々体調が良くなればいいな。
2002年04月05日
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ずっと自分は超個人主義だと思っていたのだけれど、最近そうでもないことに気がついた。どこにいても誰といてもヨソ者気分が消えない私だけれど、ヨソ者気分を持ちつつも、友人や家族、同僚などなどに対し、妙な忠誠心を持っていたりするのだ。立場的には、家族と庭で飼われてる犬みたいな感じか。犬が私ね。私は、大事な人に、とっても甘い。その人が人間的にどうかというタイプだとしても、ひどい目にあわされたとしても、結局は、その人がその人であるだけで、いいのいいのと思ってしまう。そういえば前に「おまえは男をダメにするタイプだ」と言われた(笑)実際にダメにしちゃったのかしら。これでは息子を溺愛する母のようだ。ダメだ、ダメだ。というわけで、周りの大事な人たちに、犬のような忠誠心を持つ私だけれど、忠誠心が一瞬にして消える時もある。それは、嫌われていると気がついた時。そして、結構長い付き合いなのに、自分が相手にとってどうでもいい存在なのだと知った時。なんだよ、どうでも良かったのかよ。早く言えよな。犬、新しい場所を探すため、首輪を食いちぎる。
2002年04月04日
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私の住んでた古びた港町には、繁華街から少しだけ外れた所に、おじいさんが一人でやっている小さな映画館があった。低料金で名画やマイナーな映画を見せてくれる地下の映画館。高校時代の私は、学校帰りに制服のまま、一人きりでそこに行くのが好きだった。観客はいつでもやたら少なく、しかも、どういうわけだか、一人でやって来る客が多数。暗闇の中、それぞれに自分のまわりに見えないバリアをはり、スクリーンに思いを馳せる。そんな、自由でひんやりとした空気が好きだった。映画が終わり、地上にあがると、私を包んでくれるものは、涼しげな風と紺色の空。今、見たばかりの映画の香りが制服のスカートの裾に、まだ残っているような不思議な気がした。つんと顎をあげ、背筋を伸ばした、高慢ちきだけど凛としたヴィヴィアン・リーのように、甘くうっとりと目を細め、まろやかな足取りの、お馬鹿さんだけど可愛いマリリン・モンローのように、セルロイドみたいに無機質な視線と、少年ぽい歩き方の、投げやりだけど本当は寂しがり屋のジーン・セパーグのように、無邪気な仕草で、夢見るように踊るような足取りの、清らかだけど結構したたかなオードリー・ヘップバーンのように、バス停までの道を、私は幸せな気分で歩いた。それは、時間が空気みたいにたっぷりとあって、どんな未来でも好きなようにつかめそうに思えてた頃の、けれど、ちっともそれを大切と思っていなかった頃の思い出。ついでに言うと、身のほど知らずでもあった頃の思い出。
2002年04月03日
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山田詠美の小説を読むと、なんて健全、なんて素敵な恋愛観だろう、と思う。クールなのに、ホット。山田詠美、好きです。しかし、山田詠美的恋愛観に憧れつつも、どうしてもそうは思えない自分ってのがいる。一時期、なんとか大人時代を乗り切るために、無理にでも思おうとしたが、もう諦めた。もともと私は人にふれられるのが好きじゃない。自分の半径30センチ以内に入ってこられるだけでなんとなく息苦しい気分になってしまうほどなのだ。そういう性質を持っているので、好きだから相手にふれたい、というふうに思わないの。街で、密着しつつ歩いてる恋人たちを見かけると、歩きにくくないのかなあ?と思ってしまうしね。息苦しいのはともかくとして、カラダの付き合い(なんだ、この言い方)に対して、嫌悪感を感じているということは、まったくない。どうでもいいだけ。イヤじゃないけど、別に素敵なこととも思わないや。欲望だと思う、カラダの付き合いは。欲望、肯定してる。どんどん素直になんなさいと思う。欲望あるのにないふりするのってバカみたい。でも、私の中で、欲望と愛は直結していないのだ。私にとっては、カラダって、単に、心の入れ物だし。だから、尚更、よくわからないの。友情と恋愛の違いが。
2002年04月02日
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映画のタイトルじゃないよ。新発売の炭酸飲料の名前でもないし。・・・と、ボケはここまでにして本題。アウトサイダーに心惹かれてしまう。子どもの頃は妖怪アニメが好きだった。妖怪、異形の者たちは、その姿や能力のせいで、人間達から忌み嫌われているもの、というのが大抵の設定。ブラウン管の前の私は迷うことなく人間を憎んだ。童話では『泣いた赤鬼』を読んで、せつなさに胸がちぎれそうになり、『かちかち山』ではウサギに腹を立て、『あまのじゃく』ではウリコ姫のバカバカと思った。天使と悪魔なら、悪魔に感情移入。アンパンマンとバイキンマンならバイキンマンに感情移入。幕府と蝦夷なら蝦夷に感情移入。鳩とカラスならカラスに感情移入。クラスの大多数と嫌われ者なら嫌われ者に感情移入。それはたぶん、無意識に、自分自身が「あまのじゃく」であり「赤鬼」であり「カラス」であるという認識を持っている現れなのだと思う。多数派というカサの下で、少数派を排除する奴らが嫌い。特に自分らを弱者にたとえ被害者ぶる奴らが嫌い。差別という行為が大嫌い。がんばれ、アウトサイダー。
2002年04月01日
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