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しかし、消えるために生きているというのは、なかなか常人には耐え難いことで、自己アッピールを繰り返す。俺様を尊敬しろ、敬え、ひれ伏せ、マウントしてやると思ってたりなんかして、俺様の場合~○○なんだから、オマエもそうせい!特に過去のことは、話10倍に膨らますのである。私とて同じだ。私の車運転の平均速度は時速140キロと嘯いているが、実は120キロぐらいである。私には世界各国に愛人がいるような書きぶりだが、実は4,5人しかいない。ビールを5リットルダボ飲みしたといいつつ、3リットルしか飲んでいなかった。交渉したが飛行機に乗れなかった、実は単に寝過ごした、もうそのうち死ぬからとエグゼクティブ散財しておきながら家計が火の車、などなど、嘘嘘日記のてんこ盛りである。ちなみに、蛇足だが、ハルジ字氏についても、ブログ仲間からみると、遠い存在なので、よかったね、と利害関係もないので素直にいえるが、多分、親戚一族郎党や周りの友達は「おまえ、だまされとんちゃう?」「からかあれとるんちゃう?」とかいわれとるんちゃう?関係ないけど、由紀さおりすごいね、坂本九以来の全米ナンバー1関係ないけど、映画ノルウエイの森を見た。出版された頃の1987年か8年だったか、10時間ほどかけて一気に読んだ。言葉遣いうまいなあ、村上小説いつも僕の前に変な人が出てきては消えていくなあ、あんまり誰でも殺しちゃったり消しちゃったらいけないなあ、と思ったが、もう内容は数シーン以外は忘れた。映画見て、作家はどう思ったのかなあと思った、ミヒャルエンデみたいに怒ったのだろうか。原作小説『ノルウェイの森』の国内発行部数は、一時『世界の中心で、愛をさけぶ』に抜かれていたものの、その後抜き返し、10年現在1044万部に達し、国内小説歴代1位を記録中。海外でも36言語に翻訳され、260万部が発行されている。また映画版も、同じく10月現在、ドイツ、スペインなど36カ国に配給予定だという。
2011.11.30
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というのは、いつも辛い命題というか質問というか、実はどうでもいことだ。結局は、生きてはいたが、その存在はその後消えるので、消えるために生きているようなものだ。先日の、こうやって、植村直己は暫く語り継がれていくだろう。私が名前を知っている人は、分からないが身近な人から歴史上の人まで数えてみても何万人もいない。キルギス人に知っている名前はアイトマートフとアカエフ、バキエフと3人しか知らない。ほとんどは、存在を忘れられていく運命だ。消えるために生きるが、後に続くため、直接何かを残す、あるものは子孫、あるものは教え伝統考え方、あるものは資産、あるものはハナクソ、借金、なんものこさんかったなあ、という忠告、戒め。人は、聞きたがる、成功談,、しかし、ビジネスの成功、投資の成功、うまくなるための技術、といった具体的なもので、あまり人生の成功は聞きいても面白くない。人生は失敗談でなければならなく、失敗談が多いほど面白く聞きたいわけだ。失敗や挫折のない人生、平凡な人生を聞くのは面白くない。平凡な人生は、ほどほどに幸せだというのに。恋愛の話なんか、生涯一人しか付き合わず幸せに暮らしている(うまくっている)人の話より、失敗を繰り返している人の話のほうが愉快だろう。失敗回数=現在の人-1。ははは。まあ、ビジネスも、親から次いだ人の話より、何度も失敗や倒産やピンチの後に今の地位がある人の話のほうが面白いか。成功=失敗-1か、んー、あんまりおもろないな。人の不幸好きだねえ。ってことか。ポポポポーン、結構ばーじょんでてるじゃん
2011.11.29
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某月某日、遂に蟹王国の入口に辿り着いた模様。雨。銀のインゴッドのイミテーション、帰りに生野銀山寄るつもりがタイムアップ。オジレンジャー三姉妹船に乗ろうと思ったのですが、寒いし、雨なので延期しました、来世まで。華麗な剥製達エコる自販機新発売のようだ。きのこジーンズと眼鏡買ってしまった。カバンストリートとコウノトリ、それが豊岡。トイレ100円バス陸に船ありその船で南極にいく口に手つっこんで、奥歯ガタガタいわせたろかい!豊岡カバン通り。カバンの自動販売機大型のバッグは売ってませんでした。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.28
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植村直己が南極に挑もうとしたときに、フォークランド戦争が勃発して、断念せざる得なかった胸の内を語るインタビューの姿を思い出す。植村直己の文庫本はほとんど昔読んだが、処女作「青春を山に賭けて」が一番面白かった。その後の本も、行動した内容は興味深いのだが、かっこいい言葉より内面のおかしさも見所があった。神様など信じたことはないけど、白熊がテントを叩いているときは、神様に祈った、とか、俺なんか何にも取り得ないからよお~ってぼやいていたり。まあ、それでも、多分もう15年から20年は読んでいないので、内容はあまり覚えていない。しかし、この記念館、金かけて作りましたなあ。本人が見たら恥ずかしいだろうな。結構訳のわからん無駄遣い系もある。しかし、1970年代、80年代からも、こういった世界も随分変わり、もうグリーンランドも犬ぞりはまず不可能になったようだ。温暖化かなんかで氷が溶けて安定しない、猟が環境団体の妨害でやりにくい、キビアのような醗酵食料を作る地元の人間もいなくなり食料が調達できない、と昔からあった生活が、3,40年で随分変わってしまったようだ。結局、職業は植村です。 それにしても、日本縦断中の青年がここを途中で訪れたり、どこか海外から帰ってきてザック背負ったままここにやってきたりの写真が置かれており、一部聖地化しているのかも知れないと思った次第。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.27
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大きなことは言えないが、9時間ぐらい車を運転していると、450キロ走っている。その間にいろいろな雑念がよぎるのだが、卒業式ってどんな歌を卒業式で歌わさせられましたか、とうことを命題にした。小学校、仰げばと落とし、中学校、卒業写真、高校、春なのに・・・だったような気がするが、これを歌いたかったな、今思えば。仲間がバイクで死んだのさ とってもいい奴だったのに ガードレールに花そえて 青春アバヨと泣いたのさ あーわかってくれとは言わないが そんなに俺が悪いのか ララバイ ララバイ おやすみよ ギザギザハートの子守唄~熱い心をしばられて 夢は机で削られて 卒業式だと言うけれど 何を卒業するのだろう あーわかってくれとは言わないが そんなに俺が悪いのか ララバイ ララバイ おやすみよ ギザギザハートの子守唄~大学は、卒業式欠席。私は、すっかり、大学ともなれば大人なので、誰も卒業式にはでないものと自分の中で思い込んでいて、ついでに、誰もそんな話題を回りにする友達もいなくて、卒業式の日に、「単位とれたかなあ、卒業できたんやろか・・・」と遠くボルネオ島のジャングルで思いを馳せたものであった。ふと、幼稚園の卒業歌も思い出した、歌詞しか出ないのだが、それで検索したら出てきた。幼稚園や保育園のシステムを知らなかったのだが、近くに保育園がなかったから保育園に通わなかったと思っていて、お金に余裕のある人が保育園も行くものだと、大人になるまで思っていた。何でふと、幼稚園の卒業歌も「思い出のアルバム」思い出せてしまうのだろう、幼稚園なんて、何の思い出がある?何故だか、幼稚園の先生とは年賀状のやり取りをまだしている。新任の先生で、思い出深かったようだ。一度だけ、学生のときに電話もしてみたことがある。結婚したと年賀状に書いていたからだ。出会ったのは、私が5か6歳で先生が新任で短卒なら20か21歳だった。幼稚園のとき、ふざけて、カバンで友達に殴られ、黄色い通園バッグで思い切り相手の頭を叩いた。その場面だけ先生に見られ、怒られ、あいつが叩いてきたからというと、私は無罪放免だった。小学校に上がると、仕返しもよろしくなく、無罪にはならず、これが小学生というものなのか、と思った。何だか分からないが、今とは違って、親の送り迎えは一度もなかった。とにかく、先生には一番気に入られていることは感じた。豆博士と呼ばれた。将来が楽しみといってくれた唯一の人で、すみません、謝るしかない。立派な人にはなれませんでした(なりたくありませんでした)。ぼやぼやしているうちに人生卒業ってことで。
2011.11.26
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ゆるきゃらぐん。こいつらに用はない。ところでしかし、玄さんて何だ。ユルキャラグランプリお、生身の人間来たる。「さあさあ、写真撮りますよ~」て、オマエ、誰に向かって言ってんだ、俺は、立派な分別のつく大人だぜ。大人って何だ?それは、責任感のあることでも、自立していることでも、仕事をしていることでも、自分自身の考えを持っていることでもない、「大きくなったら(大人になったら)どうなるの?」とか「大人って何だ?」とか質問されたことのある人間である。そう質問することは、相手は少なくとも自分のことを大人だと思っているので質問する。大人とは、すなわち、相対的なものである。少なくとも、自分が大人であると意識することであり、他人に聞かないことである。ついでにこれもプラスしておく。しかし、言っておくが、俺も子供の頃は大人のことをこう考えてはいなかったのだ。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.25
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香住から餘部まで10キロほどあるのだが、バイパスができて5分程度で到着してしまう。18歳、餘部のユースホステルに泊まったことがある。1985年末、私は高校同級生と1泊旅行に城崎のほうへ出かけた。まあ何故か我々は香住駅というところで降り、列車の待ち時間15分というのに、腹が減ったので、飯を食いに出かけた。雪はシンシンと降り始め、とても暗い印象で、2,3百メートルいったところに一軒だけ丼の店が開いていた。ここしかないからここに入ろうということで入ったのであるが、この親子丼が18年間生きてきた中で一番うまい親子丼であり、卵のとじ方が岸朝子調にいうと絶妙なバランスのハーモニーであった。堪能した。おかげで、列車に乗り遅れそうになり、走った走った。我々は陸上部長距離の意地を張りつつ、が、無情にも列車は出発し、次の列車はほんの2時間後であった。暗い駅であった。2駅先のユースホステルに泊まるつもりだったので、歩いていくことにした、が、道は峠になっており、我々は決定を強いることもなく、吹雪の中、暢気にそして不安に滑らないように歩いていた。会話もなく、不安な状況になりつつあった。一台、車が停まってくれ、我々は、クラッシクの流れるおじさんの車でユースホステルまで乗っけてもらった。私達は感謝した。ユースには、他に客はほとんど泊まっておらず、我々は素泊まりであった。(そのユースもクローズしたようである)翌朝、雪の中、餘部鉄橋を見た。当時は国鉄だった。どうやって餘部駅まで行ったのかは覚えていないが、道はひとつ。その1年後の1986年12月、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車とお座敷列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった、という事故があった。(ネットより)その後、強い風が吹くと直ぐに列車の運休になったので、新しい橋が架かることになったのだが、見栄えは残念ながら、普通の橋であった。仕方ないのか。2007年からの工事、昨年の2010年8月、今の橋が開通した次第である。(ずっと昔に付け替えが終わっていると思っていた)古い橋梁は少しその残骸を残していた。コウノトリ発見水が、バンコク状態。ガキの頃、家に兵庫県観光の本があって、よく、眼鏡岩を見ていた。なんだ、おまえ在りし日。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.24
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海の文化館の続きである。それではよろしくお願いします。一肌むけた姿でお届けしたいです。こいつらと、同じように並べられたら、何だか、食文化ってやつは・・・てな感じです。何だか、古めかしさがいい感じです。目え、どこについとるねん。この辺参考。セミエビ 伊勢えびなみの大きさで味もイセエビ並みらしい。エイリアン、この青い血液が医療に役立っているらしいぜよ。ベトナムでは食えるよ。でも生物学的には蟹というよりクモやダニの仲間のようぜよ。マンジュウカニ 毒蟹 メガネカラッパ 寒そうやないか。ヤシガニといいつつ、蟹といいつつ、ヤドカリである。しかし、大きくなると、大きくなりすぎて隠れる貝がないし、泳げない。絶滅危機種であるが、自由に殺戮してよい。タカアシガニ 世界最大の蟹であり生きた化石とも言われ、しかもあまりおいしくないとの噂である。深海に住んでいるが、そのでかさゆえ、水族館で昔から良く見る種類で、子供心にこれを見るたびに、これうまいのかなあ、と思うのであった。オーストラリアに住む蟹箱庭で精神分析 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.23
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ちゃんと、海の文化館というのは公式にあるにもかかわらず、車で蟹祭り会場を後にするときに現地の駐車場誘導係の方に道を聞こうとしたが、それがどこか知らなかったのであった。まあ、いいか、と行きながらも、生きた魚のいない素晴らしい水族館ということであった。恐らく魚の最大級に剥製博物館ではないだろうかと邪推。役所が経営しているので、潰れないが、何とも、2階は300円の入場料にして入場者おらん、受付嬢1名にして、暇そうという感じで、静かに300円を受け取るのであった。水族館で飼育が難しい魚を剥製でお届けします!ナイスなコンセプトである。剥製にされたことを笑顔で答える魚もいる。ナポレオンフィッシュちゃうんけ。珍しい深海魚も剥製にやられた。長い鯨のぺにすもあったのですが、画像を間違って消去してしまい、仕方ないので入口にあった虚勢された男性彫刻を代わりに掲載。舌をべろんと出してます。歯か?見学を終了したら、受付嬢が静かにありがとうございましたと言った。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.22
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ひこにゃんあたりから、世の中の趨勢か、だらけたゆるきゃらが跋扈している。叔父レンジャーとのコラボレーションのようなものであった。オジレンジャーの呼称は、ギュウレッド、チョウザメブルー、スッポンイエロー・・・何でもいいんだけどそのバッチも胸に張られていたりして気合がはいているというか・・・叔父レンジャーってなんだ、というとジオの逆のようだ。ここいらは、ジオパークに指定されており、小学生でもGEOという知っているところが時代である、というか、懸命に勉強しているようだ。(ネットで調べたらジオの逆さにしたのではなく、オジロ地区のオジと地名から取ったもののようである) 香住の綺麗どころの中から抽出された香住レディもウロウロしているのである。あ、香りレディなので、近くを通ると匂いでたおれてしまうのかも知れない。 競りも始まったのであり、傾向としては食べやすいもの、調理済みのものは、定価の7~8掛け、素材そのもののようなものは、プロらしき人が5~6割で落札していった模様であった。それにしても、蟹も蟹の世界があり、素人では判断できない価格体系である。10倍からの価格差があることもあるのだが、それと品質やおいしさなど、これは、分からない。そして、競りの落札よりも、ただで蟹をもらおうという魂胆の私は、蟹クイズの前に、蟹コーナーで勉学に励む。○×形式の簡単な問題なので順調に勝ち進むのだが・・・ある問題で、誰もバツにいかないので、ここで×が正解なら一気に勝利だと×に進むと間違えた・・・やっぱり・・・惨敗の後、イベントの主催には、これかなり金のかかったイベントやったんやろうなあという感想を持ちつつ、ない予算をひねり出すためのボランティア借り出しなどで、頑張ったのだなあ、ごちそうさま、ありがとね、という感じであった。しかし、蟹には、いろいろ種類があるが、面倒がりの私は、やっぱり剥かれた蟹が一番良い。何か、いつものことだが、過不足なく書けた感なしです。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.21
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蟹蟹兵庫県は割りと広い。都道府県47でも12番目であり、青森と山口の端の県を除いて唯一、太平洋側と日本海側に海を持つ県である。それゆえ、広すぎるため、他の県のことは知らないのだが、兵庫県民は自分のことをあまり兵庫県民と意識することはない。ああ、そういえば、兵庫県に住んでるな、県はどこかっていわれたらな、という感じである。こうなったのも、うっすら覚えの記憶では、神戸港を国際港にするために、税収を多くするために、どんどん、無理に県を広げていったのである。あの頃、明治、それを決めていったのは、多分、ほんの数人の密談だと思われる。姫路を初めとする播州や日本海側なんかは、何で神戸のために税金取られるねんと怒っていたのであった。そんな訳で、兵庫県の北端方面に行くには、山も越えるため、高速道路でつながる大阪や奈良、京都はもとより、岡山や滋賀、和歌山より遠いのである。大阪は仕事ででかけるし、奈良京都に比べたら、兵庫県北部には和歌山より少なく、岡山と同じくらいの数度しか行ったことがないように思う。そんな訳で、事故渋滞経由で神戸から香住まで4時間近くかかったのであった。予定の蟹会合には遅刻である。車の中では、パフィーの「蟹ただでたべいこうー、はれんちでいこうー」と歌いながら、車内でボクシングする。やがて、香住に到着し、2分差で無料焼き蟹を逃した。私が歩いて最後の列に向かっているときに、おっちゃんがダンボールで最後尾を閉じたのである。終わり?ん、終わり。蟹そして、無事、無料蟹ぞうすいには間に合った。何故だか、蟹料理で一番うまいなあと思うのが雑炊というのが、私のB級度を物語る。蟹光線そして、無料蟹汁にも間に合う。蟹雑炊の少し濃い味を先に食べてしまったので、しまった、と思う。しかし、それだけでは、昼飯には足りないので、蟹焼きいっとく。というか、呼び名がないので、たこやきの蛸がなくて蟹なのである。焼き蟹は、蟹を焼いているが、かにやきは、実は、焼いてないよ。とどめは、蟹味噌。よく分からないが、蟹味噌は毛蟹じゃろ。でも考えたら、緑黄色の、味噌ペースト状なもので、何だ、内臓混ざりまくったものか?ついつい、100円クルクル寿司の蟹味噌軍艦巻きの糊とシャリ抜きのを大量に食べているって感じ。しかし、蟹は高い。何故か。次回考えるので待て・・・って考えるか。栄養、効用より単なる希少価値と、足が速いので流通がいびつなだけか。堪忍して。 香美町 蟹祭り1 香美町 蟹祭り1 香美町 魚の剥製博物館1 香美町 魚の剥製博物館2 香美町 餘部 日高町 植村直己記念館 豊岡 カバン自販機 玄武洞 豊岡 玄さん
2011.11.20
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子供の頃は、いきっとるヤツはむかついたし、非難の対象であったし、そもそも、いきっとるという言葉は普通に使われていた。でも大人になったら、めっきりいきっているヤツがおらんようになって、いきるという言葉自体きかれなくなった。たまに、いきっとるんけ?というのも、ギャグというか茶目っ気で相手に聞くようになったり、聞かれたりする。しかし、これは関西言葉か、我々は、「あいついきっとう」と言っていた。しかし、最近とみにいきっていかんとあかんなと思うようになった。粋がっている、意気がっている、調子に乗っているという意味なのだが、確かに、そういう大人がなかなかいない気がする。ところですっかり忘れ去られようとしているが、今は、放射方レベル問題が盛んだが、震災後1ヶ月ぐらいまでは、東電がメルトダウン発表するまでは、心配ないをマスコミもこぞって発言していた。4月になって急に東電擁護から東電叩きへ。それまでの1ヶ月間、散々現地からガイガーカウンターの値が高いのですが、とか、良心的専門家が提言してきているのに、マスコミは無視したどころか、そういうことをネットにアップしていたことに、一般市民でさえ不謹慎だだの不安を煽っているだけだの書き込みしていたなあ。この国の流される性質は、ほんまヤバイな。
2011.11.19
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急に歩いてたら、シャクンタラー、という言葉を思い出して、高校のインドの抒情詩のマーハーバラタかラーマヤナに出てくる何かだったなあということまで思い出したが、それ以上は思い出せないまま、まあ、家に帰って調べたら、それ以上のことは知らなかったことに気がついた。東京ドームここが昔の定宿のホテルでした。文京区区役所東京大学
2011.11.18
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遷都じゃなくて、国会機能や霞ヶ関ドドーンと10万人ぐらい移動させたらいいねえ。100年に一度の大惨事なら100年償還の国債でいいじゃん。何故、バカみたいに増税なんだ。質問も復興のために資金が必要ですが増税に賛成ですかと質問されれば、増税は必要ですかの質問とは内容が違う。消費税が5パーセントに上がったとき、景気は良くなったか?税金は失敗する、例はドイツ統一のときだ。税金上げて失敗している。東側に大型公共投資が行われたが、資本主義の西ドイツにかなうわけがなく、東ドイツの民需は落ちた、会社は潰れた。埋蔵キンを使え、国債埋蔵キンが10兆円あるやないか。日本は変な国で、使いもしない国債を10兆円持っていて(30兆しか必要ないのに、40兆円集めたり)訳のわからないことしている。これに金利が1パーセントつくだけで1000億円余計に返さなければならない、勿論税金から。理由は、将来返すお金が必要なので心配なので懐に持ってますというものだ。この金は使える。こういった丼感情で集めた金が国にはうなっている。これを使えよ。騙し取られたくないんだよ~。それにしても、先日、東電を息子に持つ親の発言。「給料は3割カット、ボーナスも随分減ったわ」「えっ、ボーナスなんか出るの?」というのが、一般人の反応ではないだろうか。福利厚生施設はストップしたけど、社宅に住んでいる・・・社宅は避難民に開放するのが、普通の感覚だろう・・・。いやいや、東電の下っ端の人も勤め人だから、知らないことじゃん。といいたくもなるかも知れないが、私も就職活動しているときに、関電受けるヤツに「お前、本当に大丈夫か、原発事故でもしものことがあれば、路頭に迷うぞ」と心配しつつ、ちょっとそいつを軽蔑したが、電力会社は国家、そんな心配する必要なかったみたいだね。
2011.11.17
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「おい、あごに何かついてるで?」といい、友達があごに手をやると「ウーン、マンダム」二本指で相手の肩を軽く叩き、「痛い?」と聞く。「いいや全然」といわれると、「え、日本にいたくいないん?」と驚く。「お前パンつかんだことある?」 と聞く。「あたりまえやん。」 といわれると、「汚ねー、お前パンツ噛んだことあるのかよ」といい噛む仕草をする。 「俺の後、まねしてゆうてよ」といって、鉛筆を指差しながら「鉛筆」相手は、「鉛筆」、消しゴムを指差しながら「消しゴム」相手は、「消しゴム」、「鉛筆」、筆箱を指差しながら「筆箱」相手は、「筆箱」、と続くと「えっ、なんて?」と聞きなおすと「筆箱」といったら、「おまえ、えっ、なんてだろ!」と怒る。「手袋を反対にゆうてみてくれ」と聞く。「ろくぶて」というと、6回ぶった。「ネー、ちゃんと風呂入っている?」 と聞く。「あたりまえやん。」 といわれると、「うそやん、お前、姉ちゃんと風呂はいっているのか、ヤラシー」といい結局、相手をぶつ。「お前、ダンス、って10回言ってみろ」「ダンス、ダンス・・・・ダンス」と10回繰り返すのを確認したら、「布団しまうのどこや?」と聞き「タンス」と答えると「ブブー、押入れじゃ」といい結局、相手をぶつ。「お前、ヒヤラマ、って10回言ってみろ」「ヒヤラマ、ヒヤラマ・・・・ヒヤラマ」と10回繰り返すのを確認したら、「世界で一番高い山は?」と聞き「ヒマラヤ」と答えると「ブブー、エベレストじゃ」といい結局、相手をぶつ。「お前、ラブホテル、って10回言ってみろ」「ラブホテル、ラブホテル・・・・ラブホテル」と10回繰り返すのを確認したら、「えーっと何回言ったか?」と聞き「10回やなかい」と答えると「オマエ、ラブホテル10回も行ったんか、ヤラシー」といい結局、相手をぶつ。「お前、桃太郎、って10回言ってみろ」「桃太郎、桃太郎・・・・桃太郎」と10回繰り返すのを確認したら、「亀をいじめてたのは誰だ?」と聞き「浦島太郎」と答えると「オマエ、子供たちにキマットルだろ」といい結局、相手をぶつ。友達のランドセルの留め金をはずして、終わりの回に最後に先生にさようならと深々とお辞儀すると、友達のランドセルの中身がドバーっと全部出て、筆箱の中身も散らばる。なんて10回シリーズが多いんだ。高校ぐらいになると、偉くなってきたので進化した。「北に京って書いて何と読む? 」「ペキン 」「南に京って書いて何と読む? 」「ナンキン 」「東に京って書いて何と読む? 」「トンキン」「 違うよ~トウキョウじゃ」といい、しかし、高校生になったので、相手をぶたない。ばかがみるーぶたのけつー
2011.11.16
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恵山岬 は人がいっぱい。車で無造作に走る。岬というか、はしっこというのは、何となく気持ちいいものというか、楽しいものだ。行きにくいというのもあるし、これより先に人がいないぜという面白さがある。日本最北端室戸岬大瀬崎、九州最西端長崎鼻、九州最南端本州の終わり今日は疲れたがー。 鹿部間欠線 恵山岬 大沼公園 遥々北へ函館
2011.11.15
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今、11時頃だと思う。雨が降って体に当たっているような気がする。今日、昼間なにをしたかというと、ありきたりなのだが、ペタ湖でボートに乗った。一緒に乗ったのは、偶然、一人は実家の7キロ程度の近くに住んでいた仏教大学の男の子、もう一人は金沢の女の子であった。3時間、揺られた。そして、一人になり、ついついサンティバーケリーの前で、カンチャクッキー買おうと並んでしたら、大学の後輩が偶然私を見つけた。勿論、待ち合わせはしていない。会ったのも、3週間ほど前の大学の部室以来である。いや、彼も、クッキーの噂聞きつけてやって来ただけだったが、「トイモイサン!」と大声で叫んだ。その言葉はカタカナであった。少し立ち話をしていると、これまたイラク航空で成田からバンコクまで隣に座った東工大の男の子もやってきた。いやあ、トイモイサンの話を思い出して予定外のポカラにきてしまいましたよ、と暢気なことを言った。驚いた。驚いたにせよ、何でアレ、我々はキメル。これしかないので。時計の秒針が流れるような、鍾乳洞の水の滴りの音が聞こえる。しかし、ポカラの暗闇に何が見えるかというと、暗闇が見える。少し腹痛、蛙か虫が鳴いている。雨に打たれて後輩は自分の宿に帰って行ったが、あれじゃあ、ベトベトになるだろう。無駄を楽しんでいる間に、夜の時間が進んでいくようだ。明日の予定がなくてよろしいのは若者の特権だった。目はゆっくり閉じられる。
2011.11.14
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何度か書いたが、私は、長い話ができない。できないというのは単純に訓練されていないからなのだが、とにかく、長く話すと最初に話していたことを忘れてしまい、主語述語があっていないと言う羽目に陥り、なに行っているか分からんと外国でも言われるのだが、日本でもよく言われるのである。この前、話をしていて、「それで、喪主なのにね・・」というのを「それで、もむしがね、あ、まちがった、もしゅがね・・・」と言った後に、「言葉の中でモチュ、とかモジュとか言い間違えるのなら分かるけど、もぬしって・・・もしかして、話すとき、頭の中の文章読んでいるわけ?」と聞かれて、ああ、そうなのだ、と分かったのであった。ほとんど素人外国語だ。自然に出てこずに、文章を頭で書いて読んでいる。それで、割と、他人(日本語でも)話していることが結構分からないのか(本は理解できるのに)という気分になった。他人の気持ちになってということができない、という前に、すごくよく話そんなにできるなあと感心してしまう。体は割りとぼろくなってきたが、まだ若いなあといわれる理由のひとつに、朝目覚めない、昼まで寝ても平気ということがあるようで、何だか駄目みたいよ。そんなに目が覚めちゃっうみたいよ。
2011.11.13
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イスラエルで買ったら安い。5分の1だ。 一時期、石鹸で頭も洗っていた。昔の旅行はそうだった。 でも石鹸はなくならない。それでも、初めてというのは怖く、初めての海外旅行には石鹸が2つも新品入れた。パジャマまで入れた。 そんで持ち物に慣れたかというと、あまりそういうわけでもなく、前日にパッキングしながらも、忘れ物は多いままである。文庫本もどれ持っていくか悩んだりして、こういうときこそ、キンドルみたいなのがいいのか。でも、本は重量感が欲しいな、というか、紙に慣れているだけか。石鹸物語。昔、そういえば石鹸か洗剤って議論があったなあ・・・、ちょっとヒステリックな。ねずみに洗剤かけて、死んだとか、そりゃあれだけかけたら死ぬだろうなあという写真だったなあ。しかし、洗剤ちっともなくならないなあ。もう2年は買ってないよ。 琵琶湖博物館1 琵琶湖博物館2 琵琶湖博物館3 琵琶湖博物館4 琵琶湖博物館5 琵琶湖博物館6 琵琶湖博物館7 琵琶湖博物館8 琵琶湖博物館9 白鬚神社 豫園・中江藤樹・鯖街道 鯖街道
2011.11.12
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ハワイはもう何度も(=3、4回)行ったけれども、この前、グアムは初めて行った。飛行機の大きさが違ったのだが、客層も違うのであった。やはりグアムは、ハワイより2倍も近い。近いがゆえに、多分、安い、ともに、赤ちゃんや小さい子供も耐えやすい時間なのかもしれないが、年齢層がガクンと下がり、子供も心なしか増えたように見えた。 行きの便は日本発なのに、日本人乗務員がおらず、怖い感じで、食事が配られてから、ほとんど皆が食べ終わっても、回収に来ず、30分以上放置。子供がむずがって困っていた。まあ、さすがの私も30分も置かれてたら、ちょっと遅いなあとは思ったが、まあ、思っただけだった。 帰りの便は日本人乗務員がいっぱいいて、ガキが多いのもあって、まだ後ろのほうで配膳しているのに、前の方では「子供がいるので、すみません、下げてください」と注文がはいるや、私も、私もと、まあ、子供がいるから前を早く自由にしたいは分かるし、子供がいるから分かるのだが、あまりに子供が多くて、結構鬱陶しい。丁寧なものいいだが、さすが、西洋人のときは我慢しておる。さすが、中国人は、違う。わざわざギャレーまで持ってきて(それもたいがい鬱陶しそうだが)、水くれ、という。(はっきりいって私も似たようなものだ。基本、歩く散歩を兼ねて、ギャレーまで飲み物貰いに行く。)ハワイ便もビジネス客がおらず、みんな遊びに行くウキウキモードなので、結構鬱陶しいところがあるが、まだグアムより随分年齢層も上がり、リピーターも多いので、雰囲気も違う。(ちなみに、シンガポールなんかはビジネス客も多いが、バンコク便は、まあ、危ないヤツが多い。マニラ便ともなれば・・・) もっと鬱陶しいのは男性日本人客である。荷物がなくなったと騒ぎ出し、夜中に機内放送しろと言い張る。外国人ならまず要求しないだろう。何とか、収められて、到着したらゆっくり一緒に探しましょうということになったのだが、席を移ったことを思い出したようで、飛行機が止まったら、元の席のオーバーヘッドビンを開けて、荷物取り出して、見つからないように出て行った。(これが中国人なら、ちゃんと、何も言わず、全部のオーバーヘッドビンを開けて回るだろう)それにしても、暴走族みたいな名前にみえてしまうのがいい感じの近代日本。
2011.11.11
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帰りは、くるくる回る寿司じゃい。最近、回転寿司しか食べてないが、高級寿司って何だったか忘れた。高級店はあのカバーはないらしいね。新鮮だからか。高級寿司というのは、ネタがいいということで、考えたら、素材をそんなにいじったらあかんのじゃないか?というか、いじってないよね。そしたら、煮たり焼いたりもほとんどなく、スープやソースもなく、炊くのもご飯ぐらいで、そう考えたら、寿司職人って・・・分からなくなってきた。ご飯って、握り方って、どうなんだろ、難しいだろうが、一生寿司の勉強していくなんか考えたら、日本食なんかとうていマスターできないよね。ありゃ、ファーストフードだな。何度か聞いたのは、ご飯にうまく、空気を入れる、ふわふわした絶妙な感じということだったが、それが何故旨いのか、分からない。うまく空気入れるなら、ご飯にネタ乗せて自分で調整するほうが、自分好みの空気の入れようにできそうだ。 昔は、寿司職人だと、海外で働きやすいといったものだが、今はなんら日本人の特殊能力でも何でもなかろう。でも、1人3万円以上する寿司屋どころか、2万円もない、いや正直1万5000円ぐらいしかないので、また、食べもしてないので、分かってもないのにイキッて言ってるだけかも知れないです、すみません。 その他料理って素材の良さを生かそうとしたら、あまり手を加えず、料理人の出番がでなさそうな気がしてきた。でも、素材が高いから値段も高くなるだろうが・・・。それにしても、高い料理はうまくて当たり前、厳しい試練じゃなあ。
2011.11.10
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鹿部に行ってきた。大きな声では言えないが、鹿部に行ってきた、正確に言うと通りがかってきた。内浦湾の向こうに、室蘭が見える、羊蹄山が見える、はずだが、まあ、見えない。噴火湾。 それにしても、ハイチの大地震で応援に来てくれたネパール人がコレラ(元々ベンガル地方の風土病)を持ち込んでしまい、免疫のないハイチジンいまや50万人の患者で、1万人が亡くなってしまった。綺麗な水がいるよな。ぼくは、「カールス君」よ。鹿部町の観光マスコットなんだよ、かってにほざいとれ。それに15メートル以上って、アブナイからってフタするなよな。半減。何か不思議なことだが、20代ぐらいの女の子姉妹と父母の4人が旅行していて、ココによりました、家族で足湯ですってのが2家族いて(別々で)、仲よさそうにしていて、8人の中に、オッサンひとり入っていく勇気はなく、足湯に入れなかったのが残念である。娘も(息子も)、20代になったら、和解するのかな、親と。でも、今日、会社帰りの満員電車で太った40代の男が地べたに座っていて迷惑だった。その横に年老いた母が困ったような顔で立っていた。不憫であった。こいつ絶対親の年金で暮らしている。親が死んでも隠す予備軍に見えて週末、暗い気分になった(勝手に想像してだけど)。 @@@ @ ・ @ ε ̄凵 ̄з _└  ̄ ┘_ ( m 人 」 ) (_ノ щ_) (___ Ω ___)[ωω:::::::::::ωω] 鹿部間欠線 恵山岬 大沼公園 遥々北へ函館
2011.11.09
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分かりました。KYで生きていきます。写真撮ってくださいと家族の主である親父は、一眼レフの難しそうなカメラを駅員に渡し説明しだし、行列ができているのに、何分も時間を割いて、何だか、迷惑な感じがした。親父が降りて、子供と母親の写真撮ればそれえ済むのに・・・何だかな。ボタン押させて、鳴りましたよー。って、ファンでもない俺、虚無主義に陥る。危険こそ甘い汁。何か力持ち自慢お土産コーナーマア、パンツ600円なら、まあ、いいんじゃない?鉄下買ってもいい頃。待ち時間40分。一旦停止、デカっ!隠すように事故のこと。あのぶつかったマンションに取引先の父母が住んでいた。ほんの微かな記憶で、間違えているのかも知れないが、床が木の電車乗ったことがある(大阪市営バスは床が木だったのはほんの25年前だが、国鉄は多分35年以上前か・・・)やっぱりな。国鉄スタッフの全知英知を結集して作った作品。じゃ、これで家帰るわ。考えたら、夜行列車(寝台でなくとも)に乗ったのは、タイ、マレーシア、中国、インドネシア、インド、パキスタン、フランスぐらいか・・・。さっき、親子の話をだしたけど、結構、満員電車でも、バギー折りたたまずに入ってくるお母さんがいるというか、基本そうだ。別にいいんだけど、自分がそうだったら、結構恥ずかしいなと思う。何せ、会社帰りに旅行行くときでも、朝のラッシュを避けて快速や新快速に乗らずに普通電車(関東では各駅停車)に乗るというのに。バギーたたんで、誰かが席を譲って・・・となるのが普通だと思うのだけれども・・・。
2011.11.08
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戦争のことは、忘れてはなるまい、どんな酷い目に合わされたか。しかし、戦争はなくならない。戦争起こしたやつや加担したヤツ(被害者とかぶるときもあろうが)の反省や、決意がない、私はこんなひどいことをしました、自覚もない、自覚したら、黙っている。いったい誰が好き好んで天皇のために死のうと思ったか、どんなけ無責任やったか。軍部でもやっぱ、しごきという名のイジメがいっぱいあったんだろうねえ。というか、イジメという言い方、なかったよな、現役の学生の頃、いじめるとかはあったけど、無視とか、シバクとかあったけど。イジメって、だって、本質的に楽しいからね。無くすことはできないよな。いじめられたら、甘いこというけど、対抗するか、耐えるか、逃げるか、いまく立ち回るか、少なくとも死ぬ、は、なかった。今はそれほど陰湿になっているのか、いや、死ぬのは例外中の例外なのか(マスコミで報道されると、後追いで死ぬ選択する生徒が増える)。軍部では、逃げることもできなかっただろうから、絶対、自殺した人、いっぱいいる。親にも知らされず、名誉ある戦死だとか何とかいって。傷痍軍人、神社の入口の階段で軍歌を流しながら軍服で立ている姿、わずかな記憶に残る。見たか見なかったか、最後の世代かもしれない。昭和40年代だろうか。子供心に、単純に怖かった。
2011.11.07
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何を隠そう、生粋の鉄道ファンである。ここ25年ぐらいの最近は飛行機ファンに傾倒しつつあるが、恥ずかしながら、日本男児たるもの、動くものが好きなようである。1本線スタンドバイミーGAMEができる。足元に落とさないように注意しなければならない。連結器の予備があれば日々の暮らしも安心。いよいよ、ダンベル工場に侵入。運動しすぎて磨耗したダンベルを磨き上げて正常に戻す作業風景。今から1500キロのダンベル持ち上げる実演です。>磨き上げた後。ちょっとだけよ。たこつぼ。手元足元注意良し!オークションが行われていて、何だか途中から見たので言われは分からないが、新幹線のボンネットの先のカバーがいきなり100万円で落札。鉄道員は予言者にならねばならない。全然気がつかなかったけど、数年前に水色の普通電車なくなってたんだな。(関東にはあるけど)ガキは希望すれば車掌コスプレできます。この形のも、いつの間にか見なくなったような気がする。帰りにこれ買って帰りました。
2011.11.06
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小学校低学年といえば、寄り道して帰るノアタリマエみたいなことを先日書いたが、校門前にはよく怪しいおじさんがいた。勿論誘拐でなく、手品のような商品を見せ付けて、純粋無垢なガキから小銭を巻き上げるためである。当然、学校にお金なんか持って行ってないので、どうやって買ったのか分からないが、私もトランプ手品商品とか知恵の輪を買ったことがある。とにかく、やましいのか2度と現れないシステムになっており、そして、商売人がかぶることがなかったので、それなりのシステムがあったのであろう。それも毎日なんか来たら先生の間で問題になるからか、たまにしか現れなかったところも味噌だったんだろうなあ。ところで授業参観であるが、小学校1年や2年やというと、全ての親が同じようなものと思い込んでいたから、子供心におばあちゃんが来ていると思ったこともある。というか、まあ、お父さんというのは皆無であったが、とにかく、香水かなんだかで臭くて嫌だった。なんだか金歯の光るおばちゃんが3,4人いて眩しかったし。親の年齢がバラバラなんだということに気づくのは、もっと先の話であるが、24歳の子供である私は、当時としては子供を生む年齢としては早くも遅くもないオーソドックスなコースだったと思う。何せオール3である、俺の成績。ただウラッコのオカンだけは、やたら若かった。ウラッコは、小学校1年のときに一番仲が良く、家族ぐるみでつきあっていたのだが、今考えたらあれは16歳のときの子供だな。とにかく、ろくな思いではなく、親が来るのは本当に恥ずかしくて、というか、私の学校ではそれはまあまあ普通で、率先して張り切って手を挙げて親にアッピールというガキはいなかったように思う。とにかく授業参観はろくな思いでもなく、数年前に書いたとおりである。それは、あぶり出しの授業があって、皆で、果物を持ち込んで、絵を描こうという主旨のものであった。 友達は、それぞれに、みかんやリンゴ、ぶどうなどを持ち込んでいた。いまでこそ、皆と違ってなきゃ嫌だと思うのだが、小学校2年生の私にとって、皆と一緒でないと嫌だという感覚があって、私はランドセルの中にある果物をなかなか取り出すことができなかった。 バナナであった。私は母を恨んだ。皆が、そのままや、オロシガネで擦って、ガーゼに落とし込み、汁を溜めた。私はバナナであった。擦ろうが、ガーゼで絞り込もうが、ぐにゃりとなるだけで、汁が出てこなかった。出てきたのは涙であった。友達や友達の母親の視線が痛々しかった。モスクワは涙を信じないが、私は、バナナを信じない、しかし、私は、幼稚園まではそうでもなかったのだが、小学校ともなれば、友達に涙を見せるのが、死ぬほど恥ずかしく、勝手に出始めた悔し恥ずかし涙を隠す為に、そこにあった布で顔を当て、涙顔を見られないように、顔と涙を拭いた。勿論、それはタオルだと思った。友達のお母さんはびっくりした。涙には気がついていなかった。「あんた、それは、雑巾よ」「アー」私は時速百キロでどこかへ駆け抜けて行った。イワンのバカ、でなく、バナナのバカ!オカンのバカ!ちなみに、家庭訪問につては、ちっとも覚えてないが、とにかく、次の最寄の訪問宅まで先生を連れて行くのが、話題がなくて苦痛で仕方なかったという思い出はある。学校では年1回の映画鑑賞会があったのだが、いやはや伝説の思いで、キューティハニーである。夏休みといえば、40日、やたら小学校低学年には長かった。ほとんどを田舎の親戚の家で過ごしたのだが、それは朝の6時からテレビアニメをみるためだったのかも知れない。家にいるとラジオ体操に行って、その前に山のいつもの場所にクワガタを採りに行っていた。勿論、赤と青の昆虫採取セットで、ガンガン昆虫に注射していったのもこの頃である。なんでもいいけど、回れ右というのもあったな。キョーツケから右足前に出して、同時にくるりと180度回転し後ろに向き、右足を戻すやつ、あれってボーイスカウトだったかな、学校でもあったかな、忘れた。小学校1年のときに、前の日にカレーを食べ過ぎて吐いた。次に吐くのは20代中盤のニューヨークの食べすぎで吐くまで、食べ過ぎによるゲロは20年を待たねばならなかった、というか、まだ人生食べすぎで吐いたは2回だけである。ところで、なわとびは、二重とびは当たり前で、3重とびはどうだ?リットルはできたか、簡単だ。(両手をクロスして飛ぶやつだ)リットルが難しいヤツはデシリットルだ。リットルと普通とびを交互にするやつだ。勿論、自慢だが、俺は、2重リットル、2重デシリットルできたぜ。勿論、2重後ろとびはできたが、2重後ろリットルはできなかった、残念。
2011.11.05
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理科室に骨と筋肉の人間全体模型はあったか・これが良く思い出せない。しかし、理科室は何であんなジメジメした部屋を与えられ、昼間でもかび臭いにおいがするのであろうか。といっても、フナの解剖実験とかアルコールランプで沸騰させたり、でんぷん焼くような実験は小学校4年ぐらいまで待たねばならなく、低学年は図画工作も同じ音楽室もいくことなく、同じ教室で同じ担任の先生で全てが完結していた。低学年の先生はオールラウンドプレイヤーやってんなあと子供の頃は思っていたが、簡単だからであった。ともあれ、小学校1年のときだけまだ木造廊下木造階段で、ミシミシゆうとった。3ヶ月に1回ぐらい掃除の後に、油引きというのがあって、モップに油漬けて、ニスを塗るよーに、教室と廊下の木の床を薄くウスーく油を伸ばした。何とも、その臭いがいいにおいでも悪いにおいでもなく、多分今臭ったら一挙に記憶が小学校一年生になると思う。給食については、過去にも書いたことが何度もあるが、過程ではドジで鈍間な亀のように「食べるの遅い」とオカンに小言を言われつつ、小学校一年では食べるのが異常に早く、食べ終わったら「イチー!」と一番なら手を挙げるのえある。まさに1位が続くと英雄であり、遂に私のニックネームは「大統領」になった。そして門下生が集まり、早く食べる方法を私から伝授しようと勉学に励むのであった。まず、いただきますと一斉にいう前に、コッペパンを小さくちぎっておく、三角食べ(牛乳→パン→おかず→牛乳→パン→おかず→のループ)を繰り返し、パンとおかずは、牛乳で流し込むこと、まあそんな感じでふと、ある日教室を見渡すと、皆さん、食べる前からコッペパンが解体されていた。中には、魚の餌ぐらいに小さく粉砕されたパンもあった、それやりすぎやろ、と適度なアドヴァイスはすることはなかった。あまり伝授しすぎると、私の1位の地位が危うくなるからな、と現在の部下育成の要素をすでに身に付けつつあった(自分を抜かしそうな才能のある人は無視して自分の地位を脅かす心配のないヤツを腹心とする。あ、ちゃうわ、部下おらんかった・・・)。 まあ、それもあるけど、家からはエプロンもってこなあかんかった。たまに忘れて前日のを汚く出すこともあったが、基本貧乏というかだらしないヤツはいつも同じのを敷いていた。あれは貧乏でも見え張らなあかんアイテムやったかも知れない。体育の授業は得意だったかと聞かれれば、オール3の綺麗なスコアを維持した私は、実は体育のときだけ元気ですねと先生に言われたというか、普段もっと話しなさいと先生に注意されていたぐらいだったんで、体育のときだけ先生はアレ?と思ったのであろう。それでも(でれでも?)小学校1年のときは逆上がりはできなかったが、小学校2年のときに、夜、親に連れられて近くの公園で逆上がりの練習をして、何回目かにできたときの日のことは感動というかコツをつかんだという意味で覚えている。自転車のコア外しと同じである。クロールの息継ぎと同じである。コツであるので、何年ブランクがあっても、自転車乗れるしクロールできるし、多分、30年ぐらい逆上がりしてないけど、できるんちゃうかな。逆に逆上がりできたら、もう、何でこんな簡単なんでけなかったのか不思議に思うくらい力もいらない。しかし、女の子が、鉄棒にカーデガンを置いてそこに膝の裏を置いて何回転もくるくる、髪を乱しながら回るのは真似できなかたね。しかし、体育については未だに子供心の疑問をもったままである。今は小学校低学年の話をしているので、違うのだが、小学校3年のときに県営のスポーツセンターの水泳教室にいってから、クロールの息継ぎもできるようになり、小学校の水着は男女とも紺色であるが、網目の帽子だけは違った。2級、1級とかなんらかの差別があって、泳げるやつは、横に線が入っているのである(黒い細い布を縫い付けているだけだが)。それは、私は2週半ぐらいの黒い布で、実力者であることが一目瞭然であり、ガキながら誇らしげな気分であった。(ボーイスカウトで矢章が多いのと似たものだ)プライド高きガキだったのだな。しかし、小学校から大学まで成績を貼り出すというのはなかった。(といっても、閉鎖噂社会の学校である。高校のとき、学年テストの後順位表が配られてきたとき、全然親しくない席が隣の女の子が、何位だったの?と聞いてきて、あれれ、俺1位やわ、と彼女だけにボソッとつぶやいただけで、翌日には大多数の生徒が知るようになっていた。でもそこから不思議な現象として、高校生で髭をはやしたり、髪の毛はヒッピーみたいになってきても、あの人は仕方ないね、だって・・・みたいに特権的になってきて、それって、今考えたらよくなかったな・・・みんな分かってくれるんだよ、受け止めてくれるんだよという甘い思想のまま今日に至る。あいつだけなんでこんなに休んどるねん!仕方ないね。きっと分かってくれてるんだよ・・・)まあ、そんな訳で、子供にもプライドは大切なんよ。多分。小学校といえば、サッカーなんかなかったし、野球よりドッチボールだっただろう。我々の地域は100受けというやつでセンターコートがないやつだ。とにかく、クラスでも厳然たる順位があり、俺は、常にクラスで6番か7番ぐらいでまあ、結局は頭から3分の1ぐらいのところであった。まあ、何故か得意なのは顔面受けで、顔面受けの異名はあった。(たまたま1,2回顔面で受け止めたからなんだけど)。放課後、こんなんやり始めたらとまらなく、結局5時のドヴォルジャークのく、ユーモレスクが流れ、帰らなければならなかった。多分、今でもこの曲を聴くと刷り込み状態で、その場を去るであろう。あしかっくン、今でもするよ。デンキヤンマはしないけど。以上。
2011.11.04
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陽明学の聖人といわれた中江藤樹。まあ、朱子学が頭で、つまり理論詰めに対し、陽明学は心、つまりその理論を実践することにあるとされている(多分)が、どちらも、まあ、儒学である。ああ、こんな感じ。薄っぺらな知識、さくっと、検索、朱子学てか、これじゃあ、パチリだな。陽明学の創始者、王陽明さん。ゴミ口に入れてください。こういうのは、わらってしまう。学校のことを多少書いたが、校舎の階段には踊り場がって、やけに無意味だなあと思っていたのだが、どうやら明治時代の取り決めを単純に守っているからに過ぎないということらしい。石炭ストーブで一酸化中毒になったら困るということだ。このような意味なし規制はたくさん残っていて、役人も部署が減っては困るし、前任のやっていることを変えるのはよくないと刷り込みされているので、こんな小さなことでも何千万も建築費を抑えて税金助けられるのになあ。ロシア人も。ところで、上海の豫園には行ったけど、なんだったんでしょう。それにしても、さしたるメリットもないTTP参加って、アメリカに恫喝されているだけだよな。ところで、日本パスポートってビザなしで行ける国が130カ国もあって、世界最高級だろう。ありがたや。もうパソコン向かって8時間、行きたい国の空港HPでそこからどこに飛んでいるかチェック。頭痛が痛くなってきた。ディープパープル、絶対ぱくってるよね。 琵琶湖博物館1 琵琶湖博物館2 琵琶湖博物館3 琵琶湖博物館4 琵琶湖博物館5 琵琶湖博物館6 琵琶湖博物館7 琵琶湖博物館8 琵琶湖博物館9 白鬚神社 豫園・中江藤樹・鯖街道 鯖街道
2011.11.03
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何だか昨日調子に乗ったので、おまけを記することにした。小学校低学年でそんなに悪いことはできないが(ドロップキックや銀行強盗や企業のっとりなど)、といっても、黒板消しを教室のドアの上に挟むという古典的意地悪はしなかったが、何をしたか思い出してみると、虫眼鏡でいろんなものを焼く。そのうち、友達の髪の毛を燃やして叱られる、押しピンを天井に向けて投げる。たまに刺さると、もう落ちてくることはない。牛乳キャップの真ん中を押しピンで空け、牛乳口を巻いていたビニルキャップとそのビニルのヒモでくくりテルテル坊主みたいにして、頭から押しピンが出てるダーツをつくり、壁に投げるのが飽きると、人に向かって投げる。輪ゴムを手鉄砲にして撃つ(勿論人に)、まあそのぐらいか。かわいいものだ。ゆびきりげんまんはよく考えたらやったことがないので、針千本飲まされたこともない。もっと昔には、汚いものを(犬のうんこを踏むとか)みたりしたら、えんがちょ、とか言ったらしいが、我々は、ミッキであった。人差し指と中指を交差させて、うんこふんだやつから離れるのだ。ミッキー、ついでにバーリアとかいって2重セキュリティを施したぐらいであった。さすがに、蚤虱回虫を飼っている子供は少なかったが、夏には毎日蚊にやられ、冬にはアカギレしもやけにやられた。やられているくせに半ズボンはいてたりなんかして、どうにかしてた。私は、今とは違ってシャキっとしていたほうなので、鼻水垂らしてはいなかったが、クラスに2,3人の少し頭の弱いヤツは、時代遅れのまま、青っぱなのままで、ジャンパーの袖が常にテカテカという感じであった。あったが、誰もあまり気にしていなかった。でも時代は進みつつあったので、多分女子は嫌っていたと思う。ダラシナイ子だわ!と。とまあ、子供は風邪の子というぐらいだから、子供は風邪ひくんだと低学年の頃は思っていた。小学校高学年からは高校まで休んだことはなかったが(高校に入っても二日酔いに耐えて会社員のように出かけたが)、小学校低学年の頃は、何度か休んだりなんかした。休むと、急に母が親切になるのが不思議であった。なんか、お菓子だったかフルーツだったかを食べさしてくれるだけでなく、ゴムでできた氷枕まで親切に取り替えてくれたりなんかして、とにかく何より怒られないのが不思議で、母もなかなか優しいのだなと病気のときだけは見直した。学校の帰りは、一人だと何かと寄り道して、知らない道や路地に入っていったり、わざとドブの中を歩いたり(雨の日ね。どうせぬれているからとヤケクソで)、来た道を戻ったり、そういう子供らしい癖が、考えてみれば、まだ抜けきっていないような気がする。寝たきり青年も楽しいのだが、どうにも、どっか知らないところに行きたい願望は消えないものである、誰もがきっとそうなのであろう。しかしガキがつるめば、かばん持ちになったりなんかして、これは願掛けで両手をねじって手を組みその手の中の暗い部分を除いてじゃんけんの次を何出すか占ったりしながら勝負に挑むのであった。それが今の勝負師の礎を築いているのであろう。とにかく10人ぐらいになってくると、もはや1回でランドセルなんか持てるはずがなく、電柱から電柱の間が遠いときは、真剣じゃんけん勝負であった。カバン持ち以外では、じゃんけん分で勝ったらその分歩数を進めるのだが、チョコレート(チョキ)、パナップル(パー)、グリコ(ぐー)であり、子供心にグーだけ3歩しか進めないのは不公平だと思ったが、その分、皆がチョキやパーで7歩を目指すのに、小刻みに戦略的にグーという手もあったのかも知れない。ちなみに、じゃんけんは、ぐんかんぐんかんはーれつ、はれつはれつーんぽつ、であったが、面倒なので、ぐんぐんぱん、パンパンチン、とか言っていたと記憶する。まあそんな感じで今日も許しといたるわ。 琵琶湖博物館1 琵琶湖博物館2 琵琶湖博物館3 琵琶湖博物館4 琵琶湖博物館5 琵琶湖博物館6 琵琶湖博物館7 琵琶湖博物館8 琵琶湖博物館9 白鬚神社 豫園・中江藤樹・鯖街道 鯖街道
2011.11.02
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1回目だか2回目のとき、函館から札幌に行くことになってて、列車で行き、途中大沼公園というところを抜けたとき、線路の両脇が湖で、えらい風光明媚やなあ、日本にもこんな自然あるねんな、と感心したことがある。多分15年ぐらい前だと思う。こんなところで育ったらどうなったんだろう、いやどうもなってないだろう。そういえば、小学生の入学式って写真の中でしか覚えてないなあ。直ぐ近くの家の子(のちに東大に行く)と妹と友達の妹と4人で桜の木の下で写真を撮り、学校では講堂に集められ、クラスの写真では、生徒は前、保護者は後ろなのに、何故か私だけ母の隣に写っていた。私は大きくもないのに生徒の一番後ろの(上の)段の一番端に並び、保護者から溢れた母が、一歩下の生徒の段に降りてきてしまった母、何だか、自分が寄り添っているようで、とても恥ずかしい気がした。それで、その数日後、初めての授業が国語の授業で、「あさ、あさ、あかるいあさ」と書いてあった。その前のページ(表紙を開けたページ)には、朝日のグラデーションがあって、唇の分厚い担任のトクオヨウコ先生が、何人かに、何色がありますかと質問をした。当てないでくれ、皆の前で発表するのが恥ずかしい、そう思った。学級委員長というのは、高校卒業まで一貫して一度もやったことはないけれど、日直(日番)というのは回ってくるので仕方なくやったように思う。ちょっと早く学校に来て、鍵を職員室に取りに行ったり、授業の合間に黒板に書かれた文字を消して、黒板けしを2つ持って窓からパンパンと叩き、思いっきりチョークを吸い込む係である。ちょと一人前になった気になるのかも知れないが、1日交代でみんなやるので、特別感はなかったように思う。給食係も順番に回ってくるが、エプロンするのが嫌でエプロンをしなくてよい唯一の牛乳係りというのをやったが、いつも2人で競争していたため、ある日、コケテ、校舎の脇で牛乳瓶を思いっきり割った。牛乳の白い水溜りができた。学級委員長はやってないが、落し物係はやった。ほとんどが鉛筆であった。当時シャーペンが出てくるのは小学校4年を待たねばならず、当時、それでも100円シャーペンなどなく、安いものでも500円、普通1000円はする代物で、おいそれと、ガキが買えるものではないのだが、小学校4年のときに、パーカーの万年筆とシャーペンをおじいちゃんに貰ったのだ。おじいちゃんと風呂に入ったのはそれが最後というか、1度だけだったかも知れない(おじいちゃんは田舎に住んでいたので)。そのときおじいちゃんは、湯船で「パーカー45、ゆうてみ」と暗誦させられたのであった。まあそれまでは、鉛筆であり、トンボか三菱であり、筆箱は、像が踏んでも壊れないシリーズで、いじめられてるわけでもないのに、筆箱を踏まれて遊ばれた。(自分でもジャンプして筆箱に飛び乗って、やっぱ象が踏んでも壊れないだけあるなと毎回感心していた。鉛筆の芯を大切にする子は、鉛筆にピカピカのシルバーのキャップをかぶせていた。鉛筆には反対側に消しゴムのついたものもあったが、消しゴムはいまだ不朽のプラスチック消しゴムに加え、ノートごと穴がある馬力のある砂消しゴムも当時の大人気であった。勿論、消しゴムのカスを固めてこねくり回し、再度消しゴムにしたという貧乏だか暇だかねばねば消しゴムが面白かったのだか、よく分からないが、机に空いた穴に埋めたりもした。小学校1年のときの机は、まだコーティングされておらず、ざらざらのままで、絶対に必要だったのが下敷きであり、下敷きは、プラスチックでできており、夏にはあおぐものであった。おでことかほほに平行に下敷きをずらしていくと、下敷きに汗が溜まるというシステムであった。下敷きは、最後、ずっと、何種類か持ち続けて(未使用のまま)、インドに送って、小学生に使ってもらうことになった。鉛筆以外にも、色鉛筆があって、一人だけクーパーペンシルだったかなんかの50色ぐらいのを持ってきて、オメすげえなとカリパチされて、1日で25色になっていたような気がする。もしかして、クーパーだったかなんだか鉛筆自体が木の部分がなくて全てが色鉛筆だった機種もあったように思うが、それはもっと後年かもしれない。家では鉛筆削りで、ナイフの時代は終わっていた。電動のものも普及してきていたが、無意味に鉛筆が削れ過ぎてしまうので、やっぱり手動のものがよかった。携帯用の小さな鉛筆削りは、シルバーのは見栄え良かったが、削れるのは安っぽいプラスチックのやつであった。単純に刃が磨げてただけだたんだろうけど、それでもでかいぐるぐるハンドルを回す鉛筆削りには、その美しさ、歯が立たなかったな。あかん、何の話をしているんだ・・・・ランドセルは赤と黒しかなかったぞ。
2011.11.01
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