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気がつけば、昨日と全く同じ時間(夜の9時55分)に会社を出て(正確には30秒早く)、地下鉄やJRの電車も自ずと同じであった。同じコンビニに行き、昨日と同じように、食いたいものがないな、と思う。昨日と同様に同じ銘柄の酒を買って帰宅し、昨日と同じペースで飯を食い、1本目が終了したとき夜中の0時半であった。そのとき実は初めて、昨日と同じやん、と気がついた。(正確には2本目のフタを開けた瞬間である) 仕事のある日の朝、起きる時間は同時刻だが、それゆえ、電車も同時刻であり、しかし、乗る場所は変えるのである。オマエ昨日もここに並んで電車待ってたやろ、と思われるのがイヤなのである。世間体を気にしているのである。何せ、どこから乗っても車内からの風景は同じである、というか、本を読んでいるので、あまり関係ないといえば関係ないのである。読んでいる本が違うだけである。 ほんまに、1ヶ月読み放題キンドル1,000円を開始するのであろうか。そこまでなったら、俺も、電子書籍に変更するかも知れない。何せ、海外に行く時に荷物のスリム化できる、という理由で、どうしようかなあ、なんて思っているのだから。ノンビリ過ごせよ、ゆっくりしろよ、リラックスしろよ、まあ、そうかもしれないが。旅行していたそんなことがあるのかというとナカナカ働いているとないのである。ノンビリするというのは、私の中では、まあ、2,3日もう何の予定もないよ、まあ、暇だよ、明日も明後日も目覚ましいらないよ、ということであり、まあそれは学生時代とか、1都市1週間といったことである(アムス1週間とか、ニューヨーク1週間とか)。永らくそういうのもなくなった10年20年であった。家でも3日先まで予定ないわってのがなくなってはや10年20年たち、いやあ、そんな3日以上休みあるんやたったらどっか行くわ、みたいになっちまっている。そういう感じを楽しんだ10年20年でもあったような気がして、あー暇やナア、という嬉しい時間帯を随分忘れているよな気がする。まあ、そうつぶやいておく。TODAY LIKE A YESTERDAY・・・昔持っていたジェームズディーンの紙袋に印字されていた。
2016.06.30
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詳しくはコチラに記載されている。そういうわけで、ここでは、思い出し外伝である。ゴムボート旅行は、もともと、もっと川上のロングアカから始める予定だった。ロングとは村である。しかし、出発は随分川下のロングナアからである。理由は簡単であり、荷物を成田からバンコクに運んだ時に、ゴムボートのパドルが出てこなかったのだ。単純にトルコ航空なので、イスタンブールに行ってしまったのである。それで、我々冒険野郎達は、バンコク足止め1週間である。それも、4人部屋どころか、4人部屋にその他2人を加えた6人で、昼間から部屋でいい若者が外にも出ずに何してたっていうのだい。まあそれでも、4人の一人は必ずトルコ航空がバンコクに着く頃にドンムアン空港に行って、パドルが着たか確かめに行く係りで、オレが行った日は、来てなかったが、マアあの頃は適当だったんだねえ、到着口出口で、事情を説明すると、入れ勝手に聞きにいってくれといわれ、出口から税関のほうへ入れてくれたのであった。 それで、予定は1週間狂い、狂った日程をどう取り戻したかというと、河下りの期間を短縮して、そのあとのコサムイリゾート期間2,3日ってのは、チャッカリ確保したような、若いときから姑息の至りであった。見送りは、子供たちを中心に数人。こいつらなんだ、ってことであるが、まあ、前日村の空き部屋に泊めさせてもらったから、皆知っているだろう。勿論ホテルはないが、食事もできるだけ、自分たちでやっちまおうと決めてたので、連日連夜のラーメンである。マギーラーメンである。アイライクMAGIIラーメンである。親会社はネスレである。 河下りだといっても、ボートいくらだったかなあ、岩に当たっても破れないちゃんとしたものだから、値段も、2、30万円したと思う。いやそんなしてないな、忘れたが5、6人でシェアして買って一人3、4万円だったか、忘れた、忘れたが、東大阪の長田まで皆で買いに行った。要は地下鉄中央線の終点で、まだ当時は生駒まで近鉄が通ってなかったような気がするんだよなあ。あのあたりは陸の孤島だったからなあ、というか、学生時代は梅田以外の大阪のことは良く知らず、長堀橋にあるMAP(HISに買収されたけど、HISと並ぶ安チケット代表店だった)に行くにも、何だか、随分ややこしい行き方したような気がする。(梅田からミドウスジ線で心斎橋行ってから歩けや、だが、何故か東梅田から行って、堺筋線に乗り換えてたような気がする)。 それからボート買ってから卒業旅行は、ナイル河河下りだと、ほとんど調べずに、ナイルワニっているやないか、といいながら、ひたすらMAPとHISにエジプト航空カイロ行4人分をリクエストしたが、結局、出発1週間前になっても1人分か2人分しかチケットを確保できず、電話口で(なんで、隊長のオレが渉外やってんだ)、「じゃあ、何航空でもいいですからバンコクお願いします。」と無邪気に言い、無事行きは同じでも、4人の帰りの日はバラバラで取れたという経緯があった。バンコクからの帰りはオレともう一人が同じ帰国日だったので、35キロのボート運び係に必然となる。2人で40キロまでであるので、各自の20キロの荷物は着ない持込で、35キロを2人で40キロまでですね、と言ってチェックインして帰るのであった。しかし、帰りももう浸り合わせて空港税が50バーツ足りなかったので、俺も覚えてないが、どういう交渉したか忘れたが、空港税を50バーツごねて(ゴメン)負けてもらったのであった。空港税どうやったらまかるのか、教えてくれ。大らかな時代やったんやろな(今はチケット代に含まれているのが普通)ということである。おまけに、関係ないが、この旅行では、最年少の後輩が、最初のバンコクの5日目ぐらいで、全財産がなくなるという意味の分からないハプニングもあり、我々4人組の財産は4分の3になった。そのため経済学的になかなか厳しい数字となったのである。その資金も、帰国3日前にまたもや、どこで金を使ったのか落としたのか、後輩は第二次破産を宣告し、大顰蹙と鉄の制裁を浴びせられるはめになったのでった。
2016.06.29
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さて、有明海には、かつて佐賀空港をよく利用したこともあって、10回ぐらいは見ている。佐賀空港ってても、要はレンタカー1日1,000円キャンペーンをやってたからであるが、伊丹からの便がなくなったので、まったく行っていないんだぜ、って状態である。奥の奥まで入っているので、理由はそれだけではないが、まあ干満差日本一の6メートル。ちなみに世界地はファンディ湾の15メートル、カナダ。サンマロも干満差が激しい地域であるが(モンサンミシェルがあるところね)、大学のときに、サンマロとかアランシャペルとかプレンデトワールでバイトしてたなあ。勿論、ポートピアホテル内のレストランの名前である。勿論、飲食の接客業はできないので、ひたすら皿洗いである。アランシャペルやプレンデトワールは暇で、30階あたりから神戸の夜景を見ていると、視力が良くなった記憶がある。それから、たまたまウエイトレスのバイトで来ていた高校の同級生の女の子とばったり出会い、なんか、彼女は人気があったのだが、いきなり声を掛けられ「久しぶりトイモイ君」っていわれたけど、おれおまえと高校時代話したこと一回もなかったよ、ケッと若く思ったのであった。まあ、思っただけで、「ああ」という気のない返事をしただけだ。原付で、ポート大橋からバイパスを抜けると、バイパスからはクルマ専用道路で、うっかりポリスに捕まった。それからいつも来る初老のおじさんがえらく遅れてきた。「いや、今日、娘をヨメに出してな」と下向いて言っていたが、そんな日まで夜仕事するんですか?と随分びびった。それから大手人材派遣の会社でバイトしたときに、アルバイトの綺麗な女性が同じ苗字だったので、あの人の娘さんか、いや、ヨメに出したって言ってたから違うな、その妹さん?何だかバイトも連れて行ってくれる飲み会で聞いたが、全然関係なくて、家は花屋さんなのよ、みたいなことを笑顔で言ってくれた。そういえば、その飲み会で隣の女性は結婚で辞めるのよ、というので、そういうのはどうなんですか?って詰めてしまい、専務になだめられたなあ。何で詰めたのかは、よく分からないが、彼女も、これが正解かどうか分からないわ、それに本当はそんなに楽しみでもないのよ、みたいなことを言っていた。そんな訳で、電柱である、焼酎CMみたことないけど。長部田海床路(宇土市)2016年熊本 宇土 有明海(リンク) 宇土 長部田海床路(リンク) 宇土 御輿来(おこしき)海岸 (リンク) 天草 健全観光案内(リンク) 天草 タコ(リンク) 天草 隠れキリシタン1(リンク) 天草 隠れキリシタン2(リンク) 天草 子供の国(リンク)
2016.06.28
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全然関係ないけど、BBってブリジットバルドーやん、和製ブリジッドバルドーって、閃いて、加賀まりこ、ちゃうん、とおもって検索したら、そうやったわ。ちょと自分で、スゲエと思った。以上。帰国して1週間後に阪神淡路大震災。スペイン料理屋さんに頼まれていた生ハムホルダーもろとも店埋まる。
2016.06.27
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5月のゴールデンウィークに飛行機に乗って以来2ヶ月ぶりの飛行機である。泣く子も黙る忙しさといえば嘘になるが、ただの給与所得者であるが、事務的なことだけでなく、まあ、何かと暇でも時間をとられた2ヶ月間であった。まあ、とにかく、仕事を全く休んだのが18日ぶりである。(3時間だけ出たという日が2回ぐらいあったけど。早く帰って洗濯も2回できたけど)これは、もうきっと明日は休みで起きられないだろう、というと、そうでもないのである。起きないどころか、朝の5時20分起きである。前日の22時に急に行くことにしたので、下調べのルートつくりに2時間の歳月をかけたため、寝たのは午前様である。よって、酒も起きた時には多少残っていたのだが、それは哀傷というものである。調べた一つに干満時間という項目もあり、満潮の時間の2時間前、干潮の時間の3時間半前に同じところを通るというルートが確定された。干満を調べるのは、まあ、韓国の珍島以来である。性格は常に緩慢なので、これは致し方ないのではあるが。そういう事情も加味され(神加味されてないな)、6月も終わりだが、早朝はやけに涼しく、外に出ると朝日が優しかった、思わず、生きているっていいことだぜ、とキザな台詞の一言でも呟いてしまったぐらいだ。まあ、少し電車やバスや飛行機で寝るかと思いきや、7時40分に出発した機内で10分程度うとうとした以外は、読書没頭のため、1冊読んでしまったのであった。9時に熊本空港に到着。2ヶ月前に震災があって、一部トイレが壊れていたが、急いでレンタカーを転がしたが、通った場所が被害はそうでもなかったのか、普通であるが、エフエム熊本は震災の話が何度も番組が変わっても出てくるのであった(東京キー局の番組は当然震災の話はでてこないが)。それにしても、三角西港が世界遺産になったとは知らず(去年2015年の7月)、ここだけ駐車場いっぱいやな、何があるねん、おれはスルーやけどな。ということであった。ただ、その横にちょとだけ止めて、そこから見える天草1号橋を鑑賞した。スキーのジャンプ台を架橋しているところだ。跳ね橋作成中か、と一瞬間違えるほどだ。そのほか、三角西港からはこんな風景見えるのだが、肝心の西港は何も見えないが何があるのだ。ということで、ぐぐってみた。がんばろう、で空港の外にもオープンエアビアホールというか、空港屋台村ってか、いや、テーブルとかヤタイポクナクオサレにしているのでヨーロッパの夏か?といった按配である。 あかん、お金ガソリン代とレンタカー代しかまだ熊本県に落としてない。飯も食ってないし、飲み物自宅の駅のコンビニで買ってもたんだった。急いで、空港で金落とせ!貢献だ!ラジャ。少し落ち着いたら、自粛ではなく、行くことだ!あ、入場料もちょとだけ、現地に落としてたわ。500円。角度、OK.オレの確度、NOT OK. 2016年熊本 宇土 有明海(リンク) 宇土 長部田海床路(リンク) 宇土 御輿来(おこしき)海岸 (リンク) 天草 健全観光案内(リンク) 天草 タコ(リンク) 天草 隠れキリシタン1(リンク) 天草 隠れキリシタン2(リンク) 天草 子供の国(リンク)
2016.06.26
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200万人の年間訪問者の7割がモンテゴベイに入る。やっぱ首都キングストンは危険で、ビーチ目当てが多いってことか。ジャマイカといえば、思い出されるものといえば、レゲエ、ガンジャ、ブルーマウンテン、ジャーク、陸上競技、とま、そんなところだろうか。治安は、首都キングストンは悪いといわれているので、ひ弱な日和見の私は、モンテゴベイ、ジャマイカ島2番目の都市であり、オールインクルーシブを生んだ地でもある。治安が悪いので、囲い込みか?安全地帯で綺麗なビーチに押し込めろってことだろうか。 まあ、年取ったらそれも悪くないのだが、どうも予算も多少ありながらもそんな気にはなれずに、ダウンタウンとビーチの間に宿を取る。空港は出たら、各ホテルのブースだらけであり、ご安全に!を強調しているかのように手をこまねいて待っているのである。その前に予約している人は、イミグレのスタンプ前に旅行会社の人が入って来ていて、多分有線レーンかなんかで出て行くのである一緒に乗ってきた日本人のほとんどが、そちら方面で出て行ったようであり、。私は執拗に興味本位としか思えない質問を浴びせられ、困る。ただの勤め人のバカンスだってば、パスポートも考え物である、あっちこっち行っておかしくないか?可笑しくない、何故あちこち行きまくっているのか聞かれたら、「お金持ちだから」としか言い様がない。お金持ちで、こういうところで散財するからストックないけどな、ということはいちいち言わないけどな。 有料ビーチには、ドクターズケーブビーチがあり、パラソルとかデッキとかシャワー付、更衣室で金をとられるのだが、歩いたり見入るだけなら無料なのに、知らずに金を払ってしまった。まあ、海水パンツ履いてるんだけど、まあ、何となく、泳ぐ気もなく、ぶらぶら浜辺を歩いたら、これ無料じゃなかったか?と気がついて少し悲しくなった、悲しくなるなら海に入れよってことかもしれないが、まあ、モルジブ以来泳いでないのである。まあ、入場料5ドルか7ドルかだったけど。その他に有料ビーチ、アクアソルビーチがあり、その間に民間のビーチガって、地元民のみ泳いでいる無料ビーチがあるが、割と砂浜はゴミが溜まっている感じである。行く前に検索しまくったけど、しっくり来ないんだよなあ。なんだろ、そういうアクテヴィティはまあ、いまいちなんだなあ。観光案内は、「ジャマイカ 観光」あたりで検索してくれたらいいよ。 大阪→サンフランシスコ→ヒューストン(リンク) 100か国目の国ジャマイカへ(リンク) ジャマイカgourmetの旅(リンク) モンテゴベイ観光案内(リンク) モンテゴベイダウンタウン案内(リンク) ジャマイカの治安、音楽(リンク) レゲエ島(リンク) モンテゴベイビーチでタイビーチを思い出す(リンク) モンテゴベイビーチでフィリピンビーチを思い出す(リンク) 100か国目の対談1(リンク) 100か国目の対談2(リンク) ジャマイカ→アメリカ(リンク) ヒューストン→ベリーズ(リンク) ベリーズ概要(リンク) キーカーカ島へ(リンク) キーカーカ―島で思い出すビーチ(リンク) キーカーカー島案内(リンク) 100か国目の対談2(リンク) キーカーカー島でフィリピンビーチを思い出す(リンク) ベリーズナイト(リンク) ベリーズdrinkの旅(リンク) 中米制覇(リンク) アメリカ料理(リンク) ベリーズ→ヒューストン→帰国(リンク) お土産(リンク) ヒューストン→成田→伊丹(リンク)
2016.06.25
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高齢でも恒例でもないのだが、1年ぶりに大学の同級生及びその後輩等が集合したという訳である。今年も未来語るんけ、ってことであるが、昨日も西宮北口で取引先と飲みに行き(自腹)、「そういえば、ゴールデンウィークにハワイ行ってたでしょ、そのあと、タグ見ましたよ」というと、「アレー、よく見てますね~」と怪しまれたが(タグっていっても空港3レターコード(HNL)すぐ分かっただけである。「今ヤバイ人のトランプのホテル泊まりましたよ~。」ってことだったので、「ああ、3,4年前にできたやつね、高いでしょ、上のほうは分譲ですよね」、という返しをしたわけだが、「もう空港からクルマ借りて、今回はノースショアの方にいってきましたよ」、とのことだった。「いやー華族、いや家族4人で、それは豪勢ですなあ、GWじゃさぞかし高そうですしなあ、ということで、私も12月にオカンをハワイ招待旅行しましたけど、空港からはザ・バス(ただの公共バス)ですわ、ホノルル1時間もかかりましたわ」との報告をすると、「バスで行く人いませんよ~」とのことだったので、「そうですよ、ビジネスクラスで行って、公共バス乗り場行ったら、私らだけですよ」と答えておく。「さすが、お金のかけどころのバランスが無茶苦茶ですね」と感心されたものの、「まあ、働いてますから」と意味のないことをいいながら、「そういえば、オカンから前日に『アンタ、明日、ほんまにハワイ行くのか。もう1ヶ月も連絡がないけど』のメールが来て、『ああ、そうそう、チョット待ってよ。・・・ウーン、行くので、空港で待ち合わせ○時にしましょう』と返事したんですけどね。危うくないがしろにするところでしたよ」と追加で答えておく。 そんでもって、多分、23時台に解散し、電車に乗って、起きたら、麗しの新開地。終点であり、阪急から何故か間違えて阪神に乗り換え、改札口で、これは、精算できませんね、と言われ、明日阪急さんに行って下さいね、といわれ、危うく舌打しそうになったが、舌打ちされたら大抵自分はその見知らぬ奴に殺意を抱いてしまうので、我慢して、「そうういものですか」と言いながら、駅から遠いな、大変やな、ラーメン食べて帰るわ、ということで、ラーメン屋に寄り、1時頃に家に到着した訳である。明日の仕事は大丈夫だろうか、そういう心配はないが、明日起きられるだろうか、という心配をしつつ、睡眠に入るが、勿論使命感とやらされ感と給料貰っているので、ちゃんと起きて会社行くのである。今まで、どんなに苦しくても二日酔いで休んだことはない(遅刻は1度ある。電車の途中で気分が悪くなり、1駅ずつ降りたため)。前置きは、そのくらいにして、電車を寝過ごすほどではあったが、二日酔いにはならず、業務を淡々とこなし(てるかな?)、再び修行の場に向かうのである。まあ1時間少々遅刻したけど。まあ、皆さんの近況報告は昨年とほぼ変わりなく、シリア情勢を熱く語りながら、北朝鮮のことも語るのである。北朝鮮の崩壊は、何としてでも、日本も韓国中国も避けて欲しい、難民がドバーンとやってきたら大変である。北に渡った日本人、もう全員お返ししますわって、老人返されても困るのである。朝鮮統一なんかになったら、大変である西東ドイツ統一の騒ぎではない。もし、経済格差無茶苦茶のまま統一してしまったら、スローガンとして同じ目標を持つしかない、敵は常に外に作れ、目をそらせろ、それは結局、反日しかないやろな。シリア情勢も同じである、トルコ、アメリカ、ロシア、イラン、サウジ、イスラエル、中東諸国にとって、内戦状態で混沌としているのが都合がいいのである。怖いねえ。問題先送りが各国のチョイスだ。100カ国おめでとう、というとりあえずの、あまり意味のない乾杯を受けながら、まだまだ目差しますか、ということだったのだが、もう年取って西アフリカはないやろ。あのあたりは、もう行けないよ高いし、何もないし、賄賂だし、無茶苦茶だよ、という話をし、レバノンとジョルダン行ったときにちゃんとビザ取ってシリア行けばよかったよ、クソーという話をして、北朝鮮行くはずないやん、とう話をして、オーストラリアかあ、ウーンてことである。総務部に異動になった後輩は、来月セブ島行きますよ、とのことであったが、俺ももう学生時代以降セブ行ってないからなあ、という少しシンミリしたかというと全くしておらず、同輩の一人は明日東京(ジェットスターでゴールドコースト直行は東京だけらしいので)、もう一人は久留米かどっか九州に出張。朝の4時に起きるドー、とイキッテタガ、もう2時過ぎてるんだよね。もうがむしゃらに働いたわけでもないが、体力的には働き盛り過ぎてしまったねえ。そういいながら、ではなく誰もそんなこと言わずに解散である。どうやら、昨年のように、オールナイトニッポン、オールナイトロングではなかったようである。あ、未来語るの忘れてた。
2016.06.24
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ネットはない時代どころではなく、地球の撃たれ方マレーシア編もまだ創刊されてなく(タイ編が1,2年前に創刊された)、ガイドブックは探し当てたロンリープラネットのマレーシアボルネオ編ではなく、東南アジア編であり、ジャングルの詳しい地形なんかまったく分からないので、大学図書館の世界地図の詳細版をコピーしたりして、出国前事前収集を終えていた。旅行中はやたら旅行者と知り合うようにして、(特に反対方向から来た旅行者)情報を収集交換するのだが、ボルネオ島ではついに一人の旅行者にも会わなかった。まず、ボルネオ島の行き方であるが、マレー半島からの船は便数が少ないか、ないかで速攻であきらめた経緯があるが、マレーシアからは国内線になるので、マレーシア入ってから買うかと思っていたのだが、これが、どう情報収集したのか覚えてないが、当時の格安航空券のメッカは香港やバンコクであったが、一番安くいける方法は、シンガポールの格安チケット屋でマレーシアボルネオ島行を買うことだと判明した。出発地はシンガポールの対岸のマレーシアの町、ジョホールバルからである。ジョホールバルで買うより安いとのことであった。そういうことが、バンコクかどこかで判明し、列車とバスでマレー半島を縦断し、シンガポールに入り、何故か安宿の主が、よっしゃ、それなら俺に任せとけ、と少しの手数料を取りながら手配してもらったのであった。マレー半島ジョホールバルからボルネオ島のクチン、ボルネオ島のブルネイ国と隣接するマレーシアの町ミリからマレーシア首都クアラルンプール行のチケットである。 宿屋の主は、クチンまでのチケットエコノミーが満席だったので、ファーストクラス買っといたよ(多分2クラス制)といわれ、えーそんな金ないよと言ったが、主はいやいや2,000円しか変わらなかったからいいだろといった。まあ1万円もしない中の2,000円だからでかいといえばでかいのだが、もう買ってしまったものは仕方ないし、今後もハイクラスに乗る機会もなかなかないぞ、というので、了承したのであった。シンガポールからマレーシア行民間バスの乗り場とバス番号も主から聞きだした。ジョホールバルバスターミナル周辺から空港への行き方であるが、さすがに、もう35キロのボートがあるので、タクシーで行くかとうことになり、タクシーでいく、重量の追加料金も何十円か取られた。(シンガぽーるからは遠いので、バス断られたが、3,4代目で、無理矢理ボート乗せて入った)クチンには夜についたが、宿の情報は全くない。多分、荷物があるからタクシーで街中にきたのであろう。そこから、一人は荷物見張りで、あとの3人は歩いて宿探し、交渉である。安宿はなさそうということは分かっていたので、ツインで4人泊まる交渉である。(2人は床に寝る)値段は、だいたいどこも最低3~4,000円はしたので、3人が探してきた最安値のところに行く、行って何か話が違うなといって、やっぱ泊まるの止めるわ、といいまた宿を出て、また探して、泊まったように記憶する。床もちゃんと絨毯敷かれてたし。それに隊長兼最年長の私も強権発動せずに、民主主義を徹底してジャンケンで、床かベッドを競い合った、ジャンケンで。(ソファなし)何故、シブ経由でミリに行くのか、何故ジョホールバルからミリまで飛ばなかったのかは、今となっては不明だが、とにかく飛行機が安かったということだったのだろう。但し、事前に分かっていたことは、当時クチンからミリまで、まずシブには海岸線が鋭く入り組んでいるので、船のほうが早いことが分かっており、シブからミリ(ボルネオ北側海岸線)は、これが実は日本での事前情報では、道がないので、またここから船でミリに向かう計画であった。大学図書館にある詳細地図でもジャングルに道なんかねえ、むしろ、ジャングル奥地のほうが森林伐採のために道あるよ、という感じであった。まあ、その前に中学校のときの世界地図コピーしたぐらいだけど。ブルネイ(英)ってなってたけど。ベトナム2つあったけど。クチンからシブへの船もどれが何か分からないが、出発前日の夕方にチケットオフィスを聞いて、買っていたのだが、これまた出発の桟橋を間違えて違う船に乗った。同じ場所へ同じ時間に出発するとは思わなかったので(なんだか、似たような時間帯に他社便が同じ目的地に飛ばしていて、何かあったときに補完しあいましょう、みたいなことだったのだろう)、2倍の船代を払ったという結果になったわけである。シブからミリまで多分、300キロぐらい離れているのだが、船を下りて更なる船を捜そうとしたら、バンが「ミリまでいくぞ」と呼び込みをしていたので、陸路もあるのか!道が出来たのかと喜んだが、まあ300キロは未舗装の道を11時間。前述の通り検問も3回、検問で質問されたら隣の村から次の村へ行けと言われていた。パンクもする。道路の黎明期だったんだなあ。ミリも情報がなかったので、荷物見張りを残しホテル探しであった。安いドミトリーのホテルがあったんで、行っていると、ハンモックや3ダンベッドにぎっしり出稼ぎ労働者が詰まっていて、ギロっと何十の目が光ったので止めておいた。何セ今回の旅行はボートが35キロあり、一人でもなく身軽ではないのだ。一人旅なら泊まっていたかも知れない。翌朝、バス停に行ってみて、バスの時間を確認したのだが、これが団体旅行の悪いところで、昼間からユックリ飯なんかボヤボヤ食ってたらバスいっちまうのパターンである。バスステーションで飯食ってバスの時間まで有意義に過ごしていたというのにである。結局バスステーションからタクシーであるが、バラム河からの最終ボートの時刻はどうやって調べたのあろうか、多分、ミリで調べたのであろう、どうやって調べたのかは覚えていない。とにかく、現地着いてからか、その前の都市で調べるのであった。それでないと分からなかったのである。今考えると、要は聞きまくったということなのだろう。シブは、まあ通過点としても、クチンとミリの地図はどこかから現地で仕入れ、ミリなんか何の観光地もなかったけど、クチンは博物館にも行った記憶がある。まあ、時間がかかったなあということであり、旅行者と出会うと、とりあえず、どこから来たの?どこがいい?と情報交換するのが普通であった。今みたいに誰とも話さず旅行する、って不可能だったなあ。 今思い出したが、オデッセイってのがあったなあ。(旅行人は、もう少し先でもう働いていたので、それ持って旅行したことがない、というか、買ったこともないのだなあ)
2016.06.23
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元日記資料シンガポール対岸のマレーシアの町ジョホールバルよりボルネオ島クチンに飛ぶ。サラワク州である。ボルネオ島の大きな都市であり、ヒルトンホテルもあった。クチンの意味は猫だが、私には、どう見ても、猫には思えぬ。ワクチンとか何かそんな感じ。とにかく、スンガイ河のレガッタ際(偶然)を見学し、博物館に行ったような気がする。ターバン巻いたシク教徒たちがヘルメットせずに(できずに)バイク転がしているのを見る。宗教、法律より強しか。これから俺たちはボルネオのジャングルに入るため、酒はなくなる、よってこのクチンで酒を飲むのだ、といって、地酒を買ったら、とてもまずく悪酔い。クチンからシブまで高速ボート。おまけに、行き先も、出発時間も同じ船があって、乗ってからチケット見せたら、これは違う、と言われたときには、もう船は南シナ海上にあった。百メートル程向こうにも何か船が停泊していた様な気がする。(確かに近く似出発寸前のボートがあった。) 爆発的にボートは速度を増す。デッキでまっすぐ立てない。Kと私の嘔吐物は、ほぼ水面と平行に口から漏れていく。我々は無駄な交渉したが、やはり無駄であった。予算は少ないので、頑張って船着き場まで満員バスに乗ってきたというのに、こうなったら、髪をなびかすいい男になるしかない。海を渡りラヤン河を上り、四時間半。シブ着。海を渡り河を内陸に60キロ入ったところ。 シブからミリまでの違法乗合いタクシーが一台呼び込みをしているのを発見し、早速、荷物を乗せるが、その前に間違えた切符の払い戻しを受けるために、港を東奔西走し、汗びっしょりの末に発見した事務所は、休日で敢え無く休み。我々四人はにわかダフ屋及び怪しい不良外人と成り下がって、かたっぱしから「ねえ、安く切符買わない?」と、声をかけまくる。旅行者、できれば、ねぎかも日本人旅行者は、こういう時に限ってまったくいない。結局、誰も我々の相手をしてくれず。乗合いをこれ以上待たす訳にもいかず、「おい、引き上げるぜ」と惨敗宣言し、後ろ髪を引かれながらシブを後にした。 十一時間。ボルネオの道は急速に整備されつつあるようだ。この道も数年前までは存在していなかった筈で、少し古い英語版ガイドブックには船か飛行機しか、この区間の移動手段はないと書かれてあったのに、こうやって未舗装の道を頭をぶつけながら進んできた。乱伐された木と砂埃の中、一時間に対向車と擦れ違うこと数回。パンク一回。まだ通行許可されていないのか、検問で、近くの村から来たと証言させられたこと三回。食事三回。ただでさえ暑いジャングルの中で鮨詰め状態を十一時間、新興中都市ミリ。夜十一時。 ミリはブルネイの恩恵を受けているのか、サラワクの中では物価が高く、あまり愉快な町ではなく、美容院と称した女郎屋がやたらめったら見受けられる。我々は一人荷物見張番として、三人は方々にホテル探しに散る。しかし、夜中人海戦術操作も空しく、どこも満員。やけくそで、からかうつもりで、女郎屋を指差し、奴隷Yに指令を与える。「おい、あそこ空いているか聞いてこい」すると、彼は何も知らないようで、へこへこ女郎屋に消えていった。三分後「みなさーん。部屋空いてますよー」と誠、間抜けで眠たそうな無思想の声でいった。「あたりまえじゃ」と私は即座に呆れたが、まあ、マネージャーと交渉する価値はありそうだなと思い直し、中へ入っていく。出稼ぎに来ているフィリピン女性十数人。ココナツオイルと安っぽい香水の匂いが充満している。マネージャーとの執拗で笑顔の交渉の結果、我々は赤の絨毯、蛍光色の照明、ポツンとダブルベッド、ヌードポスター、重々しく毒々しい数々の行為を営んだ後の因縁の臭い、安物特有の石鹸の臭いという部屋を与えられた。我々は天使ばりのため息をし、正直三パーセント程ぐいっとそそられたのは事実だが、三十パーセントは私たちどうなるのというワクワク感、二十七パーセントは愉快な体験満足モード、四十パーセントは純粋に眠い気分であった。あれほど、女性は結構ですといっていたのに、夜中ドンドンと扉が壊れるのではと思う程のノック。我々はシカトを決め込むが、交渉の最後に「ちなみに、参考までにいくらなのだい」と興味本位で尋ねてみたのが悪かったのかもしれない。 朝、うかがわしいライトの中で目覚め、堕ちたなァと呟く。度重なる移動の連続と一晩連続冷房と毒々しい部屋の空気にやられてしまった様だ。大衆銀行という銀行で両替して、優雅にもテラスのある食堂で食事をうだうだしていると、最終ボートに間に合うバスに乗り遅れたことを知り、ブルネイ国との国境近くにある町クアラバラムまでの三十キロをタクシーで行くことにした。そこでは信じられない光景を目にした。運転手がシートベルトをしたのである。途中運転手は自分の家に寄り、何か短い時間で用事を終え、再度出発したが、すっとまたシートベルトをした。クアラバラム。川幅約二百メートル。泥の河バラム河。左後方には、南シナ海が広がり、泥が海にまで、広がっている。木が伐採されるまでは澄んだ河だったという。根がないので、もう地表が雨に耐え切れず、土砂を流し続けているのだ。本来の海の色は遥か彼方にあり、水平線が空の色と交じりあやふやな状況を帯びている。高速艇は、途中川沿いの村に寄り寄り、人や郵便物を降ろし、波飛沫を二メートル程上げながら突っ走る。川沿いには大きな穴が空いて、使い物にならない大木や丸太が何万と積み上げられ放置されている。二時間半、マルディ着。ホテル数件。食堂十五軒。よろずや十数件のこじんまりした村。車も飛行場もある。訳の分からないうちに車に乗ると百メートル程でホテル到着。蚊帳や缶詰やイバン族の子供たちへのお土産のお菓子を買い出しをしておく。韓国人技術者が多いのか朝鮮人と良く間違えられる。何時間もジャングルの中の河を逆上して、また村が悠然と出没するのに不思議さを感じる。オイルマネーにものをいわせた砂漠のオアシス、中国内陸部不毛地帯の後に突然百万人都市、人と水と栄華ブクブク。私は連日じゃんけんに勝ち続け、悪い気持ちの微塵を見せ付けるように行った。「これから、更に鬱蒼としたジャングルに入っていく。我々の予算は限られてはいる。これが最後だぞ。分かったな。これが最後なんだぞ」といって酒盛りを始めた。翌日、内陸通行許可書を警察と役場に受取りに行く。(さらに奥地に行くには許可書が必要)マルディを出発、高速艇三時間。高速艇の先頭にて。私の真後ろは運転席。考えるに、私は邪魔だ。まあ、いい。運転手の兄ちゃんは舵を取りながら気さくに鼻歌。私はウォークマンを耳にあて、手に一眼レフを持ち、ジャングルの中、文明の利器。本来、必要のないもの。そして、あれば快楽になるもの。燕一羽。船を先導するかのように平行して飛び、私を扇動する。兄ちゃん、口笛に切り替え。まだ、気持ちいいのか。河はぐにゃぐにゃに曲がっている。しかし、速度は一向に緩めない。細長いボートと擦れ違う時だけ、その時だけスピードを緩め、波を抑える。エンジン音が多少収まる。鳥が水面すれすれに飛ぶのが見えるのだが、そんな生き物を蹴散らしてしまうほどのエンジン爆音は他の微量多数ある音を掻き消して、でたらめに伐採された木々の間に埋もれていく。姿は見えない。鼓動は緩やかだ。俗的性的な気分は全くない。水は流れているか。国という概念、国境というイメージはない。川幅百メートル。彷彿させてくれるものはない。何故、欲しいものばかり考えて、いらないものは考えられないのか。切捨て。切符切りのおじさんがやってきて、平然と私のノートを覗き込む。少し渋い顔をしているのだが、親切そうな村のおじさんという感じだ。フフフ、秘密の暗号であろうよ、切符切り屋さん。私はピアノ音をボリューム大にして、耳に注入しているというのに、エンジン音はその合間を狙って耳に滑り込んでくる。別のおじさんも無関心そうに景色を見ている。多少の湿気がある。進み行く単調さが、純化させてくれる。雲がある。風の涼しさと太陽の暑さが混在している。極彩色の鳥が河の獲物目掛けて攻撃を仕掛け、収穫物をくわえて森に消えた。一時間半、切符切りのおじさんとの無言の連帯。川幅は五十メートルに。相変わらず民家はない。影がかなり濃厚、いや、すべてが濃厚に変化している。雲の速度が速く、濃度さは変化する。ファナティックな情熱などない。浮いている木が淀みにはまり込み同じ所を回っている。単調さを描きたい。単調さを。マルディから三時間ロングラマ。荷物は、35キロのボートがあり、デモクラチック的公平的なジャンケンで荷物運び分担が決まる。隊長の私が強権を発動することはない。インド的な薄い水色のコテジに泊まる。ボルネオに入ってからホテルはすべてエアコン付きである。安宿がほとんどないことが原因だが、夜は涼しいので必要ないのだが、ついつい使用してしまう。環境問題のメッカで、環境問題より貧乏性が優先してしまった。悲しいかな、と叫び、ジャングルに軽装で突っ込んでいくと、動いても離れないボルネオ蚊にボッコボコにやられてしまう。即、退散。驚異、発見、習慣。ロングラマを出発、高速艇四時間。高速艇の説明。全長十五メートル程、その三分の一はエンジン室で占められている。屋根は大きな荷物置場となっているが、嬉しがりが風を浴びるスペースとしても機能している。トイレは穴がポコンと空いていて自動水洗直放流。船室の窓はスモークシートが張られ、半地下になっているため窓からの景色は水面上五十センチ程からのものになる。エアコンが効き、なぜかプロレスのビデオが放映されている。ハルクホーガンである。最終的に客は我々四人となり、乗務員のほうが人数が多くなる。終点の村ロングナア到着。これより先に定期便はない。ホテルもないので、ロングナアでは酋長と交渉だ。ロングは村であり、長屋になっている住居形態だ。
2016.06.22
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初めての海外旅行、マニラの歓楽街、エルミタのマビニ通りに面する宿に1泊目は泊まる。1泊目だけは豪華にしようということで大枚5,000円を払う。窓から、ジプニーが行き来するのを眺めた。空港からやっと街中にやってきて、外にでるワクワク感と、ちょと怖いなあという入り混じり感。初めて見た椰子。うわああ、と純粋に感激した。初めて見たスラム。バタンガス。子供がとぎ汁のような糞を路地で垂れていた。初めて頼んだコカコーラ。プラステックに入れてあげるねと言われ、ビニル袋に入れられ、笑う。初めて見る児童労働者。煙草のばら売り、直射日光に当たったハンバーガー。船の出航時間が近づくにつれ、何度も私の前にやって来ては値段が下がって行く。乗船する時に購入。何だか美味かったなあ。写真は、違うが、初めて見る椰子の木が3本生えただけの漫画に出てくる無人島。ミンドロ島、プエルトガレラ。入港10分前から浮いているように珊瑚礁の上を船が行く光景を初めて見る。船が珊瑚礁を壊さないのか、心配になるほど。初めてビーチに泊まる。初めてのバンガロー。サバンビーチは、すぐに山が迫って海との僅かな隙にバンガローが建てられている。雨が屋根から漏れて、笑う。初めて、何もすることがなくなり、半年前まで受験勉強で毎日起きている時間の大半を勉強してきたことを馬鹿馬鹿しく思う。受験失敗し、これ以上勉強してもこの受験制度ではロウニンしても大学をワンランク、あわよくても2ランクしか上げられないと悟り滑り止めで妥協したことを静かに思う。初めてバンカに乗る。何故なら早朝に出る1日1便のミンドロ島プエルトガレラからルソン島のバタンガス行きジプニーに寝過ごして乗り遅れたから、バンカで海から回っていった。勿論5ペソのジープ代に比べ100ペソ(当時1ペソ15円ぐらい)。さすがに初めてずくしだったので、驚きの連続であった、特に人々が適当なのに驚いた。ガキの頃から親に連れられて楽園来ちゃ駄目よ、スイス人。泊まった宿の主、ネリーさんの子供。旦那が働かない!と憤っていたことを思い出す。以降、5年間で4回ほどサバンビーチを訪れることになるのだが、ネリーさんをはじめ、村人は私のことを歓迎してくれることになっていく。(そらお金落とすものね)今は随分喧騒なところみたいが、それでもナツカシズムで、また行ってみるかと思うようになった。もう少し先だが30年ぶり記念で訪ねてみるか。検索したらもう随分変わっているが。誰かオレのこと覚えているかな。
2016.06.21
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先週、会社の古いメンバーの集いがあり、いや、あったのだが、非常に都合の悪い(単純にイベント前日準備忙しいだけ)日であるが、顔だけでも出しとかなアカンという社命もあった(いや、なかった)ので、志半分で仕事を切り上げ、あとは任せた!といって勝手に任せ、何とか終了15分ぐらい前に到着すると、私の席のところだけ、全てのコース分が積み上げられ、飲むのもそこそこに、猛烈に飯を食いつつ、何とも、話題が会社への不満という間の悪い席に座って(席決まってたが)しまったのであった。これは相当にイカンな、と思いつつ、黙って飯を食うと、今回の主人公でもある定年退職したばかりの人が、来られたので、どうしているのかお尋ねすると、失業保険もらえるのが3ヵ月後で(150日間分もらえる)、暇なので短期肉体アルバイト(警備員とか清掃員とか)やってみたが、ムッチャしんどい、体壊したというなかなか厳しいことを言っていた。話を聞くだけで、これはしんどいぞ、しかし、私もそういう似たような日が来るのも、そ20年も30年も先の話ではない、他人事ではないぞ、ということである。ふと、学生時代、学生最後の日の前日の夜、バンコクのカオサンで帰国前ビールを飲みながら、「明後日から社会人として仕事、もしずっと働いたら、次長い旅行とか出来るフリーのプータローまで40年あまり。うわ、眩暈がするぜ、今までの人生の2倍ぐらい先じゃねえか」と言い、悲しくなったことを思い出したが、おぼろ気にそういう日が霞みながらも見え初めてきたのであった。 フト気がつくと、「コラあ!2件目行くぞ!カラオケじゃ!」と無理に誘われ、「でも20分ぐらいあるくぞ!ゴラぁ」と言われ「でも歩くの面倒じゃ!」とタクシーを止め「運転手さん、すみません、500メーターぐらい先ですが、お願いします」とボスは言っていた。カラオケかあ、なんだか、つまらないなあ、と思っていたが、ご指名で誘われたからには仕方ない(他1名)。3名は、何だか、黒門市場あたりの近くのカウンターバーに入り、歌を強制されるのであった。(それが不思議なもので、慣れてくると、そうイヤでもなくなってきた。いや、乗ってきてしまったというおとだろか) その店のママは、「ヒサシブリネー」と言われたものの、横の先輩が「○○という店のママやったヤン」、と言われたが、その店の名前も覚えているようでいないようで、はあはあ、こりゃどうもと愛想笑いした。そしてしばらくしたら、また5,60歳ぐらいの人が店に入ってきて、「久しぶりやネエ」、と言われたが、またこれがどなたなのかも分からなかった。イカン、人の顔をなかなか覚えられない、まあ、そういうことである。挨拶もそこそこに、隣の医学関係のじいさんと話し込み、そのまま、散々帰るに帰れない状態となりながら、ずぶずぶ過ごす。結局帰ってから、4時間半後には仕事にいかねばらなないのにあまり眠くなく、体調が良かったのか、酔っているが、ジャミジャミ状態にもならず、読書した。朝も、何故かスパッと置き、電車内でも座ったが眠らずに本を読み続け、その日を終えて、ちょと再びアルコールを入れると、ヤクが切れたかのように猛烈に眠くなり、何とか半寝状態で選択と集中ではなく、洗濯とクリーニング出しに行き、急ぎマーボー豆腐を作り、ジャークを混ぜ、イッキに食い上げ、ちょとだけ寝ることにしたのである。あかん、電池切れた。2時間後に起きることを祈りながら。何か、知らないうちに尾てい骨を打ったようで、座り方次第では、痛いやないか、という昨日このごろであった。
2016.06.20
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二十歳のある日、横浜駅にある昔風の喫茶店に入った。何故だかは覚えていないが、そこから成田に向かう中で、時間があったので、少し整理もあって入ったのだと思う。パスポートを脇に置いて何か調べたり書いたりしている中、ウエイトレスのおばちゃんが、注文を聞くのではなく、声を掛けてきた。「あれ、外国に行くんですか。私の息子もアメリカ行ってましたけども、どちらに行かれるのですか」「あ、いや、まあ、アジアのほうです」「何故アメリカやヨーロッパに行かれないのですか?」え、あ、高いから行けないとか、ただアジアが好きなんですとか、意味が分かりません、とか一瞬回答がぐるぐる回ったのだが、おばちゃんは何故か頷き、「ああ、学ぶものがない・・・」と少しうらやまし呆れ気味に言った。いや、学ぶというか、遊びに行くからなあ。と思ったが、無意味にあ「ああ、ま、そうですかね」というような含みを残しながら、まあ思想信条は割と後からついてくるからなあ、ノンポリだからなあ、と思った。 そして、成田に到着し、何故か(前日記述の通り同じチェックインカウンターの前に並んでいたのだろう。)知り合った男性とお茶を飲んだ。物静かな男で、大学は東大であり、東大が自分の大学を告白する時は、「いちおう東大です」と「いちおう」という形容詞が、つくのが常であった。学生時代私のであった東大生は、皆、謙遜で、当然賢く、そしてやる気がなかった。覇気がなかったというべきか。賢すぎて見切ったか、完全モラトリアムであった。彼のその類の人で、最後にこういった。「アジアで、インドで何かを学ぼうとしているのでよ」そのときは、同じ学生として、何だか、ソレに対して詰めてしまった気がする。大人気ない。多分、「インド行っても人生感これっぽっちも変わりませんよ」って言ったと思う。「まあ、人生感は変わらなくても、日本人社会や日本会社にとって都合の悪い方向や癖や思想になっちゃうかも知れませんけどね」とも言ったかもしれない。 そのとき、私の脳裏にはいくつかの過去のシーンが思い浮かんだ。フィリピンのマニラの日本食レストラン「伊勢屋」で着物を着たフィリピン人が注文をとりにきて、メニューを見ながら彼女をチラッと見たら、有線に合わせて腰をくねらせていた光景を。 フィリピンのセブシティのYMCAに泊まっていて、電話があり「ハーイ、昨晩出会ったジョイです~(オカマ)、今から遊びに行きますね~」といわれて、2時間待っても来なかったので(というか、来られても、昨日、オカマと飲んだかな、と記憶があやふや)、ボホール島のチョコレートヒルズに行こうと港に行くと1日2便しかなく、出たばかりで茫然つぉした自分の光景。 タイのペチャブリのバスステーションのジュース売りの一人だけが英語を堪能に話し、「君のバス代は10バーツだが、君の自転車をバスに乗せて運ぶ料金も別途10バーツだよ。分かるカイ?」と言われたときの、何故かバス会社と何の関係もないのに、得意げな顔。 3つのシーンが思い出され、東大生に、またどこかで会うかも知れませんね。少なくとも同じ便ですからね。と言った。
2016.06.19
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実は、でもないが、今年2016年4月から関空はオリックスや外資(フランス)の航空会社などが出資する民間の会社となった。というかコンセッション方式なんで、なんていうの、所有権は元の関空のままだが、運営権のみ譲渡するってやつで、まあ、詳しくは分からないが、会社は、関西企業30社も参列ってことである。まあ、そうい予兆もあったのか、ここ2,3年で関空も割りと垢抜けてきたなあという印象は持っていた。なんだろう。便数は相変わらずLCCを除いて寂しいのだが、空港内施設は賑やかになった感じはある。まあー確かにチウゴクジンも増えて賑やかになったかなという感じもあり、台湾人が意外と関西好きで、台湾人最後の最後まで買い物するぜ!って感じで元気感も感じたりするのである。まあ、台湾はメインランドとは違うんで、垢抜けているので分かり易く、今はリピーターも多いので、マイナーなところにも行きたがるんだろうなあ。そんでもって台湾は韓国や中国が割合で落ち込んでいる中、行き先シェアを伸ばしているからねえ、今は海外旅行の10人に一人が台湾だ。(韓国も10人に1人、タイと中国香港マカオは5人に一人。まあ、それはさておき、関空の飯屋街も結構いつの間にか変わったなあと感じるのだが、もしかして国内線利用が多くないので知らなかっただけかも知れないが、3階はいつもの身揚げ物&飯屋にしても、2階の国内線ブースの置くの飯屋街もなんだか刷新されたような気がするのだが、もしかしたら行ったことがあまりなく、そう感じただけかも知れない。まー、考えたら、土産物屋や飯屋で空港は儲けたいから観光客呼び込みたいし、航空会社はビジネス客で単価を上げたいから、利便性を重視し、そういう施設はあまりどうでもいいか、とうか、ビジネスパーソンはスマートに搭乗口まで短時間にいけてラウンジにぽっと行けばそれでいいのである。割とそのあたりは空港と航空は共存共栄から相反している部分もあり、さらに、売上から考えたら、エアラインの発着料金は、まあ航空会社には小さいが空港会社には大きいのである。航空会社にはせいぜいそのコストは5パーセントぐらいだが、空港会社には3割4割の売上を占める。確か関空なんかでも発着料金は80万円ぐらいだから、正規ファースト料金一人でまかなえちゃうんじゃないの?というところである。その他、いろいろいうことはあるのだが、今日は、このくらいで中途半端に勘弁しといたるわ。
2016.06.18
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実験結果は何もないが、今はラジカセの存在がない。そういうことである。まあ、昔は馬鹿なこと考えてた。でも今は、劣化しているだけだった。
2016.06.17
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何せ、暇を楽しんでいるものでな。タイのビーチじゃバカになる。バンガローから海まで20メートルだ。今は亡きクロスタービール 何故、ピンポン玉を旅行に持って来ていたかは不明。ずっと音楽。ラジカセ、タイで買った。Mekongウイスキー 海辺にも持っていくから電池いる。 そしてドリアン。 そしてブッダ。 麦藁帽にバンダナ姿を続けるのよく分からない旅行。レストランを中心に扇形にバンガローが続く。常に蝋燭。 雲の変化にガンをとばし続け、凝視。 その辺の犬とも遊ぶ。 日が沈むまでガンとばし続ける。ミニマルアート、違うわ。寄せ集め。花火。Smoke on the waterファームのおっちゃんとは仲がいい。
2016.06.16
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日本の24時間空港といえば、関空、羽田、北九州ってところだが、関空も永らくそこからの移動手段がないものだから、実質には出発便こそ0時越えてもあったが、真夜中の出発到着ってのはなかった。それが、空港が、バス会社に赤字でたら補填するよ、といい、バスがあるならLCCなど飛行機飛ばすか、見たいな感じになって、ちょとずつ飛行機便数もバス便数も増え、今は大阪梅田発始発便が3時40分、関空から梅田行き始発が3時となっている。(結局好循環となって採算とれて補填してないみたいよ)関空からの梅田行最終が1時だから、空白は2時間だけである。(梅田発関空行最終バスは21時55分だが、それは0時代にバンコク行で終わりだからである(と思って今時刻表みたら、2時35分にバニラエア台北行あるやん。その次はピーチのソウル行7時50分。あら意外と6時台7時台ないんだねえ。)到着は1時台、2時台にあるねえ。 海外では、何度も4時台や5時台に出発したこともあり、到着はできるだけさけているが、夜中ですよ、ってのも結構あったように思う。 近年は、空港税の関係で、ルフトよりトルキッシュの方が安くなるので、トルキッシュだが、これが関空行きが夜中の1時なものですから、イスタンブールに10時台11時台に到着するような便を見つけるという作業になるのであった。逆にルフトを利用する時には、出発が昼過ぎなので、出発は朝一便になったりして、それが5時とか6時の便である。確かリトアニアカラ「フランクも5時頃のに乗ったし、カイロからもリスボンからもフランク行きは5時頃にに乗った。逆に、イスタンブル行きはこの前のセルビアも21時台だし、マケドニアもボローニャもそんな時間帯であった(と思う) 話は戻って、そうはいっても、梅田までそんな時間にどうやっていくねん、てことにもなるのだが、そうだなあ、3時40分梅田発に乗るなら最終電車で大阪に行き、2時間半ぐらい飲むか!ってことになるのかな。まあ、俺も若くないからな。20代のときは、確かに夜飲みに行って、胸ポケットにパスポート忍ばせて、2時か3時にカプセルホテルにチェックイン、7時にチェックアウト、そのまま空港、海外へGO(韓国のときは背広の手ぶらでGO)であったが、今は逆に明日休みならホテルに泊まってもいいよ、あさチェックアウトまで寝るよ、起きないよ、って感じなのである。なんだろ、昔はそううのが楽しいなと感じる自分がいたってことだよね。 話は戻って、国内線で考えれば、まあ関空羽田なんか、夜中に一発飛ばしてもいいんじゃないの?とおもうのだが、そのあたりの採算は分からない。結局羽田発伊丹行きが、伊丹空港が21時からカーヒューになってから、19時20分で終わりなんだけど、その後で20時台に神戸便があって、よくこれを利用するのだが、そのあとにも関空便が21時台に続くのである。それにしても、東京大阪は、これ日本の場合、新幹線という強力なライバルがいるので、結局、東京大阪の移動手段は、新幹線が7割、飛行機が2割、残りがクルマとかバスとか在来線?とかヒッチハイクである。圧倒的に500キロの距離では、ドアツードアでは、負けである。関西のどこから東京のどこに行くかによるが、ビジネスパーソンならドアツードアで早くなるかどうか考えるだろう。飛行時間1時間ではあるが、残りの移動とまあ空港30分前に着くとして、90分ぐらい残りの距離がどうなんかってところである。調査によると、逆転し始めるのは700キロのようだ。東京は駄目だが、東京以北であれば(東北)、基本飛行機である。北海道は、いくら新幹線開通しても、記念以外で関西から新幹線で北海道イカナイよね。津軽港からノンビリ、フェリー旅行とか、寝台で青森いくやつとか、そういうの以外は、飛行機。同じく、九州も博多福岡は新幹線がメインだろうが、その他は、どうかなあ、まず飛行機じゃね?沖縄も、クルマ持って行く以外は飛行機ね。まあ、そんな感じの雑感なんよ。
2016.06.15
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050-3822-4736から会社携帯電話にかかってきた。会社携帯は新しい取引先や、取次ぎから聞いて初めて電話してくる方とかがおられるので、とりあえず、折り返し電話をしてみると、自動音声ガイダンスであった。 お支払いが遅れてますということであった。ちょとだけ法律用語いれてて、思わず笑いながら最後まで聞いてしまう。最後に、急ぎ手続きされるかたは1番、見覚えのない方は2番を押してください、と言われたので、ドッチ押しても、怖いやからが、オラオラ系で更に個人情報をトリニキテ、入金方法を伝えてくるんだろうなー、と思いながら電話を切ったのだが、何でこの電話番号分かるのだ、どこかから漏れたか無作為に電話しているか、まあそれも分からない。ちなみに家の固定電話や個人携帯にも、知らないところから電話がかかるが、全て無視だ。これは、多分、あの潰れた投資会社から漏れているなということは想像できるが、まず家の電話は何年もでたことがない、FAXのみであり、個人携帯もこの時代、基本、緊急中の緊急でないかぎり電話しないね。かかってこないし。(勿論ネット経由の無料電話はすしたり、かかってきたりするけど。無料電話できるのに、個人で金払っているのに有料電話しないよね、多少電波悪くてもちいとも何ともない。まあ、無料電話(というかネット代はかかてちるが)のせいで、世界の「オレ、どこおると思う」ゲームの電話ができるのであるが、当てモンのゲームは大人気ないからしないが、確かこの前もセルビアから無料電話して、そっち新年越えたっけ?って無意味電話した。)そういえば、最近、ダイヤルないから、この意味が分からない若い子もいるそうじゃん。 携帯電話持つのも遅かったなあ。今じゃ、トモダチや嫁子供から会社に電話があることは皆無だが、新入社員の頃はあった。おかげで上司もオレの個人的トモダチを多少認知していて、「最近、○○会社の○○クン元気か?」と質問されたりもあったな。勿論逆に、上司の家庭のことも把握していたのであった。
2016.06.14
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「セビージャ」には、スペインの新幹線で到着した。コルドバ駅に行って、それが新幹線だったとは気がつかず、えらい近代的やなと思っていたのであるが、2年前の1992年にセビージャ万国博覧会の際にマドリーとセビージャに新幹線AVEが開通していたのであった。それで、何だか良く分からないうちに新幹線に乗り、1時間もしないうちに到着したのであった。途中山の上の城が見えた。セビージャ新駅は中心街から遠く離れたところになり、手持ちの地図は2年以上前のもので、旧駅の地図を見ながら歩いたので、あらぬ方向へと歩いた。私は立ち止まり、何となくそこにいた。そこにいる意味は特になく、意味を見出しもせず、漠然とした不安を抱えながら右往左往したい時があるものだ。どこだ、という間に何故かヒラルダの塔が見えた。 セビリアの観光の中心はヒラルダの塔や世界3番目に大きいという大聖堂は観光用馬車が残した馬糞の臭いで充満していた。バルのテラスで臭いのを気にせず飲む。ここ数日は、朝からアルコール漬けで、それも酔うほどではなくダラダラ続けているので、胃腸の調子が狂ってきている。もう1杯かねと尋ねられもう結構と手を振ったつもりが、しっかりもう1杯笑顔で運ばれてくる。冬場でもアンダルシアの太陽は眩しすぎる。翌日、カディスに行こうと思った。たまたまスペイン読本と、逢坂剛さんの赤いカディスの星みたいな本を読んでいたからかも知れない。アンダルシアの海の見える町である。それで、駅に歩いて行ったが、駅は、廃駅になっており、浮浪者がたむろし、新聞紙が床を埋め尽くしていた。危険ではないが悪い空気が流れていた。そうか、新幹線で、こちらの在来線も破棄されたのだな、と分かり、バスターミナルに行くのも面倒になってきた。120キロばかり先の2時間の距離である。往復4時間、最終便でバルセロナに帰る。エアロポルテ!夕刻に面倒になってタクシーに乗って叫んだ。あといくらペソやペセタがあるか数えてない。ではもう少し意味なくセビージャを歩き、とりあえず空港に行って1便か2便早い便に乗って戻るか、ということにした。何故そうしたかは、よく覚えていない。アンダルシアの暗さが良かった。ドス黒い血のイメージだ、肯定的に捉えるが。バルセロナで朝まで飲んで飛行機乗って日本に帰ったってことよ。ここで、自分史思い出料理ベスト3に出会うのであった。カラコレス。同じ料理をお代わりしたぐらいである。というか、アリオリ系のソースやったかなあ?いや違うか、何にせよ、多分、そースが思い出なのであろう。カタツムリはそんな味ないよな。アリオリじゃないや、泥色の出汁やったわ、なにやろ。
2016.06.13
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途中、バスのトイレ休憩で泊まった場所で、少し丘を歩いたら、村が眼下に広がり、全てが白い家だった。うわーっといいながら、ウッカリ写真も撮らず。 コルドバに到着した。バスの着いた場所は分からない。知らない町なのに、今日は道を尋ねたくない気分。バスを降りた一番近いバルにまず入り、「セルベッサ(ビール)」といって指を1本上げるお馴染みのポーズ。親父は大きいグラスと小さいグラスを見せて、どちらだいとゼスチャアしてくれた。 大きなグラスを数分でやっつけた私は、店を出て、暫く迷子を楽しんだ。まだ市内地図も手に入れていない。私の知っているコルドバの場所は「メスキータ」だけだ。 私は停めてあったタクシーに乗り込み「メスキータ」と力強く固有名詞を叫んだ。運転手は助手席に散らかしていた書類を慌ててたたみ、「メスキータ」と呼応してくれた。 そして数分後、運転手はメスキータのどこで停まるのかと尋ねてきたが、その長方形の建物を1周してくれと頼んだ。コルドバはかつてすごい100万人都市だったのだ。 メスキータ。イスラム教とキリスト教の混合建築物。「お地蔵サンよ、いつまでも色付きでいてくれよ」と私は意味不明のことを呟き、建物に触れた。コルドバは中世、ヨーロッパ最大の都市であったこともある。ロンドンなんか片田舎の時代で、パリなんか村。 メスキータ北側の小道で女ジプシーがハポネ火を貸してくれと寄って来た。煙草もくれというのが普通ではないかと邪推しながらライターを渡す。土産物屋の店頭で市内地図を物色していたら奥から主が出てきたのをいいことに、「雨で少し濡れているから安くしてえ」と言ってみたが、笑顔でラべルに貼られた定価で売ってくれた。その横のバルで地図を広げた。今後の傾向と対策だ。どうも荷物がほとんどないと急ぐ感覚を鈍らせてしまう。宿の確保?そんなものは後だ!傲慢になってしまうのが後から問題を生む。しかし考えれば今日は、12月31日、今日のテーマは決まった!「正月を五つ星ホテルで一人しょぼくれて迎える!シブイ!」計画はシブかったが、まずは、飯キーた北西角にある5星ホテルに入る。部屋は全然空いてなかった。4つ星、3つ星と落として行き、ついに1つ星で部屋をやっと確保。はっきりいってあまりシブクない。しょぼい正月を迎えるべく、スーパーマーケットでワインボトルとチーズを買ってきて、しょぼくれた正月に備えた1994年の終わりの日。 22時、外へ出ていくが、人通りがほとんどない。何だか時化てるなあと思いながら、部屋に戻る。しかし、それは間違えであった。アンダルシア、シエスタのある地域。メインは夜ではなく、夜中なのである。花火があがり着飾った男女がうようよ町を徘徊するのは夜中から朝まであのであった。夏場40度を越える暑さを避けるためにシエスタ(昼休み)という制度を夏に作ったという理由は言い訳のような気がした。夜中に遊ぶラテンの血が抑えられないのだ。それならそうと早く行ってくれよ、とふらふら歩く夜中の2時。 ある日本の研究者が、カディスやセビリアではまだ見世物でなく、夜の町で流しの恋歌が残っていると聞き、毎晩2時頃まで町中を探しまわったが、一度も聞くことができなかったという。間違っていたのだ、2時はまだ早すぎるということに。
2016.06.12
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個人的な日記が故に、急ぎ、個人的なことを書いても仕方ないが、久々に明日は休みということで、ふと明日は午後から用事があるので午前中に東京に行こうかと、夕方に思い始めたのであった。何しに?まあ、それは核心に触れるので避けるが、日暮里方面にちょと行こうかと思った次第のところに、夜、久しぶりに東京に転勤になった取引先から電話があり、やり取りしたあとで、「あーそういえば、明日東京行くか迷っているんだよねえ。もし行くなら昼飯でも食いますか?」と言ったら「いいですねー」というところで話は終了し、また別の東京に行った人に「これ、どこにあるか知らない?」と質問したら、「すみません、持ってます」とのことだったので、「急ぎ、朝っているから送ってくれない?あ、オレ明日休みだから午前中、もらいにいこうか」なんて気障なことを行ってしまったのであった。そして、家の近くのコンビニでカレーとアルコールを購入し、固定資産税の1期分を払った。そこに声を掛けられたのが取引先の人であり、「あの件どうなりました?」と夜の10時過ぎに詰められる日であった。「あの件?いやあ、固定資産税督促状がいきなりきて払ったんだけど、今年、督促状の前に、普通の請求書がきてないんだよねえ。毎年1回払いしているんだけど、これじゃあ、2期以降も常に督促状で支払期限に気がつくってことになうんじゃないかなあ。」というと、「まあ、その話はいいじゃないですか。これどうしましょう」とすぐ本題に戻られ、仕方なく、その場で即決指示した次第であった。初めから指示しとけよ、って話である。 それで、家に戻り、いろいろ調べたり、昼からの用事を考えていると、明日東京に行くとすれば、もうすぐ寝なければ、眠いぞ、という話もあり、明日延ばしに延ばしている宅配便の受け取りもあり、ま、止めとくか、というあいにくの苦渋の決断となり、じゃあ、もう一杯飲むかと決定し、プシューと開けたはいいが、座ったまま睡眠状態に陥る。 翌日夕方に久しぶりに舞子に行く、アウトレットで買出しをするためだ。その前に、10年ぐらい前に、明石大橋ド迫力だと思った舞子ビラに行ってみると、ウーン、そうでもなかったが、まあパスタを食する。舞子ビラは、まあ小学校の時から知っているというか、何故して散るのか不明だが、ボーイスカウトとなんか関係があったような気がする。確かあの頃は有栖川華族の別荘私邸を神戸市が買い取った公共施設だったような記憶がある。 とにかく、記憶は拡大解釈という自戒の意味を込めながらも、このブログでは何度も登場してしまう明石大橋である。世界最長の吊橋である。1998年開通だからそろそろ20年である。世の中は難しいもので、こんな大橋でもミリ単位で設計されてて、その技術を持った職人が次への大規模な現場に行きたいのだが、無駄やな理論もいっぱいあって、技術が途絶えてしまったりするわけなんだなあ。関係ないけど、今、天然痘にかかったら、医者の誰も知らず、多分昔の高齢のまだ生きている元医者が何人か知っているぐらいじゃない?whoで根絶が宣言されたけど、どうも残っているみたいでしょ。化学兵器かも知れないけど。原発もそうだね。今時、なかなか学生が原子力を学ぼうとする道に進みたがらないのではないか。しかし、今原発止めても、技術はずっといる。半減期がずっと先だからクールダウンさせていくには技術者がずっといるんだけど、誰も分からなくなっちゃったら、ヤバイ状態。反対賛成関わらず、ストップに関わらず技術者研究者はずっと必要なのだ。他のものなら途絶えるだけで、残念!であるが、原発に関しては途絶えると、ヤバイ!である。 さて、衣類は仕事関係以外、2,3年に1度しか買わないが、今回も旅行用革靴に見える運動靴探し等である、まあ、それでも暫く歩くと疲れたので、茶シバキして帰るのであった。いや、また飯を食ったのであった。今日の飯の時間は15時半に昼食、18時に夕食、以上である。
2016.06.11
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今日は、家の近くでスペイン料理を食べたので、スペインの話をしよう。というか、スペイン料理って地方無視して大まか過ぎる感じもするな。都会的なバルセロナから、いきなりシエスタが似合う中世で止まってしまったようなグラナダにやってきた。いきなりというが、バルセロナから列車で15時間である。3時間遅れての15時間。既に社会人ではあったが、飲まず食わずでやってきた。中世的やなと思ったのは、そもそもヨーロッパはそれまでギリシアしか行ったことがなく、ギリシアも何だかトルコからイスラム消したような感じで、それで近代的なバルセロナからバレンシアを通って来たものだから、古いなあ、と相対的に感じただけかも知れない。 とにかく、宿に行き、部屋はあるか確認すると、英語は通じなかったが、ホテルにやってくるということは、泊めてくれということであり、そのまま、本を読んでいるうちに眠ってしまう。車内販売があると思ったが、なく、21時ではどこかの一画は店が開いていたのだろうが、ホテル目差しての道のりには全ての店が閉まっていたので、結局、昨晩の夜から24時間何も飲み食べしていなかったので、自販機があって、コカコーラを1本飲んだだけとなった。 翌朝、アルハンブラ宮殿ガ見渡せるアルバイシンに行き、や針腹が減ったんで、飯を食うことにしたが、ここはチョリソーである。と思い、朝から空いているバーに入り、チョリソーを頼み(チョリソーが通じず、結局、はあハムねとなったが)、ビールを頼む。アンダルシアでは、ビールを1杯頼むことに、軽いつまみ(フリーのタパスですな)が出てくる。つまみをいろいろ食べたくて無理にビールの追加注文と本末転倒時代が数日間やってくるのだが、さすがに、24時間ぶりの固形物にアルコール、3口ぐらいで酔いを感じ始めた。よく分からないが、貧乏そうな爺さんがバーに入ってきて、床にあったゴミを集めて、恨めしそうに店員を見た。ちょっと掃除したからなんか飲ませてくれ、というシグナルであった。店員は無視をした。腹減ったって、それ、酒のつまみじゃないか。まあ、そう思ったものの、朝から気分よく酔った。アルバイシンは煤けてるが白い壁と石畳の坂の丘陵地域である。そして、スコブル迷路であり、地図の役目が果たされないのでる。しかし、時折、谷の向こうのアルハンブラが見えるので、方向だけは間違えない。アルバイシンより更に山側が、急に家が少なくなり山肌が見え、山に穴が開き洞窟が見える。サンクロモンテ地区であり、主にロマが住む。スペインではヒターノという。要はジプシーである。このあたりが、要はフラメンコであり、要はロマとイスラム(ムーア人)の融合みたいなものである。(というか、フラメンコの由来は不明だが。)不意にタブラオって言葉も思い出したが、フラメンコのショーがある店という意味だったか。シエラネバダ山脈も見える。とにかく、歩き回りすぎて疲れ果て、アルハンブラ宮殿見学は省略したぐらいであった。(入口までは行ったが)行ったのは1995年だから、もっかい、行ってみたいと思う。まあ、スペインは何度でも行こうと思いながら、結局ちっとも行ってないのである。スペインの風景は何でもある。パキスタンのペシャワールで知り合ったスペインで客引きの仕事をしていた旅行者の言葉である。山はある、ビーチはある、歴史はある、砂漠はある、どんな映画でも撮影可能だと。アラビアのロレンスもドクトルジバゴも。ただ、金がないだけだと。どうでもいいけど、スペイン、ペネロペルクス、いつまでたってもかわいいねえ年オレと変わらないけど、はいいすぎか。スペインの監督といえば、最近ではペドロ・アルモドバルだが、学生時代に見た、みつばちのささやき、よかったなあ。
2016.06.10
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考えたらこのガイドブック韓国に持って行ったことがなく、もらいものだ。中学生の同級生が(私は学生でかれは社会人)「人生一度だけ海外旅行に行ってみたい、おまえ、よくいっているから一緒にいってくれないか。ガイドブックも買ってみた」ということで渡されたものだ。(でも数万円も持てなかったのでお断りしたのだが)韓国はガイドブックを持っていたtことがないし、今はネット情報のプリントアウトだけだ。そんな感じで1986年、夏、ソウル駅(今とは違う駅)の前にある屋台で昼間からソジュ(焼酎)飲んでたら兵士2人組に声を掛けられて、飲んだ。飲んだらやばかった。いやいや、韓国自体行きませんよ、とノラリクラリかわしながら、結局、私も行きたかったのである、20年後以上を経て行くのであった。学生時代は、韓国はビザが必要であり、1泊のトランジットのみノービザであったが、うまい具合にアジアンゲーム(アジアオリンピック)に一度忍び込めて1週間のノービザで5日間滞在した。確かに1990年代に働き出してから、韓国2泊したことあるけど、神戸の韓国大使館にビザ貰いにいったわ。イーテウォン、何故かここのディスコに連れて行かれたことがあり、そのとき、初めてそこでサンナクチを食べた。明洞、ミョンドンは、まあ、昔は韓国の原宿と言われてたけど、どうなの?そういえば、実妹とも待ち合わせして飯食ったこともあるな。水原も、まあ、牧歌的じゃないですよ。学生時代、私の周りは、何か知らんけど、韓国といえば、皆、板門店であった。板門店にいかんと人にあらず的であり、他韓国どこいくんや、であった。ほんま、トラワヨ~プーサンガンへ、である。第2の都市、釜山、だよね。朝鮮戦争で、一時期北と中国軍に、釜山以外全土を占領されたのに、よくも巻き返したね。さすがアメリカ、それで、儲かったな、日本。歌といえば、モッポの涙である。チンドに関しては、海割れも、コラムにもなく、(珍島は、コラムしかなかった)モーセらしいよ。天童よしみしランかってんな海が割れるのよ~。最終島のエンタメは随分変わったということやな。中文に泊まったけどな。
2016.06.09
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出来るだけ安く行くには、下関までヒッチで行き、そこからカンプーフェリーだ、と息巻いているところから始まる。飛行機でも行けるよ、KEとJLだけだから。なんせ、ANAが国際線定期的に飛ばす事許されたのは1986年だからね。アシアナにイタッテハ影もない。ここ2,3年でJINエアとかチェジュエアとかティーウエイ、エアプサン、イースターどんなけあるねん。て、だいたいそんなんなかったよな。やっとLCCらしいのが来たのは、2007年ジェットスターやセブパシフィックあたりであーそれでも10年ぐらいたつか~。でも1987年当時はまだ20年あるからな~。それでも、日本はもう1986年当時と物価変わってないからチケットは今より断然高い。5万円は覚悟である。vvVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVVvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvvv。もし安く行きたいなら、友達10人を誘うことである。いやー、権力を握った今でさえ、10人も友達いないので、こりゃ至難の業だなあ。何だか、マシントラブルに何となくひっかかりました。機材故障とかのことですね。ちなみに安チケットは天候欠航は翌日以降の席は受け付けてくれても、滞在費保証はないね。これ、沖合いで朝を待つんですよね。イミグレ開く時間に入港。まあ下手に早朝に降ろされるのもなんですからね。3時に降ろされたら困りますよね。出来れば、クレジットカード必要です。何年もホテルで現金払いしたことないです。学生時代は、韓国はテントか誰かの家に泊めさせてもラタンで、ホテルに泊まった記憶がないです。パスポートを海外でなくしたら、帰国までの1次パスポートってか、ワンウエイパスポートてか帰国渡航書みたいなのを大使館や領事館からもらえます。されに金もなくなってたら、大使館で貸してくれることがあるんですが、それは、ポケットマネーです。海外で全てをなくした人を何回かみました。何故なら私がパスポートや帰りのチケットあるのに(「それは盗まれずに」お金がなくなったとか(暴漢にあった)、トラベラーズチェックだけ盗まれたとかで、銀行にいった後ろの人がそうだったり、オー、何もないのかー、本人確認も金もチケットも何もないのかみたいな。ドミトリー宿で昼前起きたら、宿でずっと意味なく寝ている人がもう一人いたので、どうしたんだと尋ねたら、送金をひたすら待っているとか、まあ、自分がヤバイ状況になったら、ヤバイ人達が見えてくるってこと、ですね。予約は必要かどうかは何がいいか分からない。予約ない方が安い場合もあるし、予約してたら安心感もあるし。いずれにせよ、今はホテルの部屋見てから泊まるかどうか決めるというのはない。(昔は、部屋を見せてもらってからのチェックインであった)演説か。疲れてきたので韓国本体の紹介は明日だ。ゴメン、誰にゴメンかしらんけど。キムチ食べといて。
2016.06.08
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確かに学生時代は、そういうのがあった。昔はシステムもよく分かってなかったし、空いていれば、融通きかせて乗せてくれるというのも分かったのだが、ネットなんかなかった昔はそうは航空会社が下ろさないってことでしたよね。(昔ってもほんの2、30年前だけど)昔はリコンファームってのが必要であり、切羽詰って電話で再確認したこともあるが、基本的には、オフィスに出向いたものだ。あれなんだったかな、ビーマン(バングラ航空)ムンバイ支店のオフィスに行ったときは、日本人の若い奴が何故乗れないか激高してて、それでも再確認ができず、多分オープンチケットだったのだろう。空席があれば乗れる奴ね、今じゃ、それでHPから確認していついつなら乗れるな、空席何席やなと分かる航空会社もあるが、当時は問い合わせないとまったく分からず、彼は、女性職員に詰め寄り、こっち振り向いたら笑顔になって「いやー、毎日来てるのですけど、席がなくって、ははは」と笑って、そのあと、彼とチキンハンバーガー食べにいったような記憶がある。彼も節度をもった社会生活を送っていることを願いつつ、26年ぶりに彼のことを思い出した次第である。そういう私もどこかで書いた通り、うっかりマニラのオープンチケットで帰るに帰れなくなり、帰らなければ履修届けが出せずに自動的に留年という羽目に陥りそうになったのだが、いや実際陥った。今なら、トモダチの誰かにPDFにして送ってもらい、選んで、その人に代理で出してもらい、あとでお礼をするという手段も考えられるが、当時はFAXもメールもない、コレクトコールで親に電話して、ゴメンやけど、オレミスミス留年するかもしれんわ、と迷惑電話したぐらいである。あの時は、予約を取りに帰国の1週間前にマニラのマカティ地区にあるパキスタン航空オフィスに行くと、満席との事。なに、と私は焦り、それから1週間の間毎日パキスタン航空オフィスに毎日空席待ち詣でに参列することになったのでる。毎日ショックを受けた。これが、夏休みなら、空くまで待とうホトトギスであったのだが、履修届けを4月の第一週目までに出さないと留年してしまう。これ以上の留年はいけないという特殊事情があったのだ。 出発前日には、泣きそうになる私をいつもの女性職員が、チケットに何かを貼った。そこには「パッセンジャーチャンス」と書かれていた。「あなた、コレもって、明日空港に行きなさい。空席があれば乗れるかも知れないから。誰か来ないかもしれないから」と言ってくれた。(今は誰か来ないことが多いからソレを期待してすぐ空港行くのだが) 私は、夕方帰り、そして、毎日のことだが、夜になると飲みに行く。まあ、飲みに行くって、学生だから、1日の予算は1,000円しかないから、そうバカ騒ぎするわけもないが、それでも、踊らないけどディスコで飲んで、バーで飲んで、屋台で飲んで、明日朝一に空港行かなあかんからな、明後日までに履修届け出さないと、1年棒に振るからな・・・。何とか誰かキャンセルして、席開けて欲しいな・・・薄れる意識の中でそう思ったのである。 目が覚めると、ちゃんと、下宿先のエマおばさんハウスに戻って来ており、時刻を確認すると、ああ、間に合わない。飛行機が離陸する時間であった。茫然とした21,22歳頃の春であった。 もう一度、自宅にコレクトコールで電話をした。「履修届けを明後日までに出さないといけないが、飛行機が満席で乗れなかった(寝過ごしたとはいわず)、このままでは非常にまずい状態で、大学には、一か八か、履修届けを出すのが遅れた理由を明確に詳細に書いて、大学当局と交渉するが、もし駄目な場合は・・・・あ、・・・2留だ・・・・・・ゴメン」と母に伝えた。しかもコレクトコールの料金は高そうだったので、母の返事を待つこともなく、電話は完結に30秒ぐらいで終えたと記憶する。 そして、猛烈な二日酔いの中で復活劇を私は考えた。「お金を出してでも、日本にやっぱり帰ろう、明日帰って、そのまま空港から大学に行けば届出に間に合うかも知れない。幸い、手元には、実は、8万円ぐらいある。フィリピンに来てから40日ぐらい経過して4~5万円ぐらい使ったので、そのぐらい残っていたのである。早速旅行代理店、またこれが適当に一番近いその辺にある代理店に入った。ビシッとしたフィリピン人の女性スタッフ2人は、ヨレヨレの服を着たヒゲ面ヒッピーみたいな奴でも、冷静に対応してくれたのであった。「明日の朝一番で日本に帰りたい。とにかく空いている一番安いのをお願いできないか」と風体とは別に、エグゼクティブ的な金に糸目を問わないオーダーをしたのだが、それにも彼女らはふたりがかりで冷静に対応して頂き、 「どこもかしこも混んでいるわね・・・あ、空席1席ありました。」 「じゃあ、ソレ頼む。おいくら万円?」 「はい、ノースウエスト航空のエグゼクティブクラスです。7万円です(日本円換算)。」 「あ、ははは、すみません、片道でいいんです」 「え、片道ですよ」ガビバーンである。オレの30日期限切れ無効になった往復オープンチケットがマニラ往復で5万円ジャストだったのにである。7万円で留年阻止を買う、選択の余地はなかった。金はギリギリあった。(勿論、当時はクレジットカードなんか持ってなかったので、全財産を常に持って歩いていたという按配。パスポートと一緒にパンツの中の腰巻で。シャワー浴びるときもビニル袋に入れて浴室に持ち込んで。) そして、その夜は、最後のパーリーピーポーとなって、散財した、散財した、全財産残り1万円弱を飲みまくり驕りまくり(ってそんなことできるのか?忘れたが、多分、出来たのであろう。ビールは、バーで飲んでも100円ぐらいであったからな) 徹夜したまま、強烈な二日酔いで、草履ちゃらちゃらさせながら、空港にちゃんと民間バスで行き、エグゼクティブクラス(今で言うビジネスクラス)に似つかわしくないTシャツにビーチサンダルで乗り込み(それしか服がない。日本着いたら4月で寒くて仕方ない。勿論上着はあった。2月3月にガンバって薄着で空港まで行かないといけないからね。)、二日酔いと戦いながらも、貧乏性を発揮して、ビールをオーダーして、そして力尽き、10分ぐらいで日本に到着、そのまま大学に向かったのであった。 何だか、イタリアのミラノのドォーモを見ながら、KLMに再確認の電話をした覚えもある。マニラのTGオフィスの近くには日本大使館があって、行列ができていたバルブの頃もあった。あのころは、誰も彼もが目差せジャパンだったからねえ。イラク航空、うーん、バンコクオフィスいったかな。再び、PIAパキスタン航空バンコク支店。バスでパキスタン航空のオフィスへ向かう。オフィスの十数メートル前で降りたのはいいが、看板を見落とし、1キロ以上先まで歩いて行ってしまう。戻ってきて、やっと見つけ、「マニラまで」というと、「日本人にフィリピンはビザが9月1日から1日の滞在でも必要になりました」噂では聞いていたのだが、その通りのようである。だからあなたがビザを取得するまで、予約はできません。「そうですか・・・フィリピン大使館はどこですか。」彼女は地図を広げ、「遠いです。バスは45番です。」といい、いそいでフィリピン大使館に向かった。バスは119番である。ビザの申請は午前中である。パキスタン航空事務所を出たのは11時45分であり、焦り始める。バスではもう間に合わない、トゥクトゥクに乗り、タバコを渡して、急いでくれ!と叫んだ。大使館に到着したのは12時である。「ビザを下さい、申請書下さい」「よろしい、申請書を渡します。パスポート見せて。あ、ピクチャーがないですね」「いえいえ、こちらに顔写真あります」「違う、パスポートのピクチャーだ」どうやら、パスポートの残りページがないのであった。「しまった、あ、ここにあります」「きみ、ここは追記だからダメだ」1パージ使って1つだけ入国印が押されているトルコとかがあって、なんだよ、これ、インドならここにでも押してくれるぜ、フィリピンもちゃらんぽらんな国じゃなかったのか・・・「君はパスポートの増刷が必要だ」そすすると、クローズドの看板が下り、30秒もしないうちに職員が食事に出始めた。「君も早く出なさい」私は急いで、地図を広げ38番のバスに乗った。そして昼休みに日本大使館に到着し、入口の警備員に増刷して欲しいというと、彼は力なく笑ったがしばらくして、隣の建物の警備員と判明。日本大使館はがっちり閉まっていた。やる気なくした、フィリピンに寄るのやめた。 マニラの空港の待ち時間に、カウンターでビールを飲んだ。ウエイトレスに「高いね、市内の10倍だね」というと、「そう思うなら市内に行きなさいよ」といわれ、「ソウダネ、カックン」となり、それでも飛行機に乗り込むときに彼女に「パーラムナー8さよなら」」というと、ニッコリ「パーラム」返してくれた。ほんま、バロットな時代やったぜ。
2016.06.07
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マンハッタン島エリス島 自由の女神エンパイヤーステートビル(永らく世界で一番高かったビル)メットライフビル(旧パンナムビル。国防省に次ぐ世界2の床面積があるビル。今はしらん)ロックフェラーセンター(三菱地所が大損こいたビル)セントラルパークプラザホテル(プラザ合意のされたビル。今は大半をコンドミニアムとして分譲され、客室は減った)タイムズスクエアブルックリン橋ウォール街チャイナタウングッゲンハイム美術館ホテルワールドトレードセンター
2016.06.06
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いや別に振り返る必要はないのだが、便利になった今、いったい自分でもどうやって旅行していたのか、不思議に思うのである。大きいのはネットがない。だから飛行機からホテルから最安値とか直前予約とかというものがない。飛行機は散々前から予約し、ホテルは基本的に予約なし、まず行く。だいたい、個人でホテルの予約の仕方が不明。(ホテルへの電話予約電話代もったいない)だから、満室の場合は、さすらい人となるが、まあ時間もあるから問題ない。それに金なかったから料金確認して、部屋もチェックして気にらなかったら泊まらなかったものなあ。今は事前に前日か当日に予約して「ホテルを確保するが、ソレは時間の制約があるところも大きく、ディメリットとしては、カックンホテルになってしまう可能性もあるよ、」ということである。クレジットカード、世界流通の銀行カードがない。だから2,3か月分の現金を常に持つ歩く、というのが本流であった。だから学生時代は常に腹巻、そこに10万円とか20万円が入っていたのであり、取られたら終わり。終ったらどうするか、オレはなかったけど、日本の誰かから現金送金してもらうしかないのである。世界分散投資ではなく、身体分散投資のお陰で、盗られても騙されえも、いくばくか金が残るのである。恥ずかしながら私も文無しになって一度だけ日本に帰る飛行機代を借りたことがある。(ちゃんと返した)逆に貸したこともあるが、これはちゃんと返ってこなかった。日本に到着したら金はなく、送金したり、迎えに来てもらったという情けない事態もまあ2回ほどある。日本帰ったら銀行から金引き出せや、いや残高0なんです、バイトして返しますですよ。今は、まあクレジットカードきくなら3,000円以上ぐらいならカード、現金も海外提携銀行で下ろす。やものなあ。 次行く情報がない。情報が莫大に増えた。ネットも書籍も旅行記や滞在記がここ2,30年で莫大に増えた。ネットででもあまり情報がなくても、とりあえず、ネットで地図は手に入る。いやはや、ボルネオ島の奥地の地図は大学図書館でコピーした記憶がありますからねえ。調べまくってボルネオ島のバラム川の河下りしたからねえ。そして、マイナーな国の旅行記がなく、公共図書館に行く訳で、結局、たまにヒッピー的旅行記は見つかるが、学術書となる訳である。フィールドワークの中で、情報を選り好みするということであった。そしてやっと、英語版ロンリープラネットぐらいである。結局、長期旅行者は、西から来た者と東から来たものが情報を交換するんである。だから、情報を得るために貴重な日本人に出会ったら声を掛けたり掛けられたりするわけであった。時間が適当。待ち合わせ場所が適当。不具合も生じて、日本で待ち合わせしてタージマハル前は6時間オレが遅刻誰もおらず、宿の下男がオレの名前と待ち合わせの野郎の名前を書いて待っていたという具合。その2年後は、デリー待ち合わせで7日間遅れてデリー入りし、当然誰もおらず、周辺の宿探したら、ボーっといたよ、という按配。「何やってんですか、集合時間に1週間も遅れてるじゃないですか」と切れずにノンビリ彼も答えた。1週間遅れたのは4人中2人である。オレと遅れた奴は、偶然カトマンドゥで街端でばったり会い、おい、今日デリーで集合じゃなかったか、と確認したほどだ。(すぐ出発したら2日後にはデリーに到着したのに、今日カトマンドゥに来たのでぼやぼや数日過ごしたのである)まあ、2日遅れるのもモウチョット(1週間遅れるのも大差なしの牧歌的な時代であった。)デリー集合の約束をしたのは1ヶ月前であり、そこから連絡のとりようがない、せいぜいどこかのGPO本人受取人手紙か大使館、または特定の宿(事前打ち合わせ)への手紙や伝言しかない。今は、ネットだからねえ。地球の裏側から電話するのも無料だし。出会いを求めない。今は現地の方々や旅行者との交流を求めなくなった。まあ、頑固になったというか、誰とも話しなくてもいいから旅行してます、になったような気がする。しかし、当時は毎日が誰かとの出会いである。あの頃の写真は酷い、集合写真ばかりである。もう現地ふれあいの旅行者じゃなくなっちゃうんである。単なる、ほっといてくれ、になちゃているんである。考えれば、学生時代は、毎日世界のどこかから国際エアメールが郵送されてきてたよなあ。勿論返事を書く時間も随分割いたよなあ。当時は、まだペンパル的なところもあって、知りあった友達から不意に手紙が来て、日本のことなどをお知らせしたような気がする。まあ、そういうのはネットでもうなくなった。いや、働いて、無意味に忙しいから何かとなくなった。飛行機もリコンファームが必要。 72時間前までに航空会社へ予約の再確認が必要で、オフィスや空港に行くか電話する。今、基本ないよなあ、というか、前日に、空いてたら急に明日から2日休みやからイコカな、と仕事帰ってから家出パソコン開けて、決定するぐらいだ。変わったねえ。 とはいっても、スゲ風景であえ、割と、実は、書籍もネットもスゲエところは使いまわし的であり、感動はそんなところにないのだよねえ。あ、ちょとはあるけど。
2016.06.05
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昨日は、いきって21歳のミンドロ島のことを書き出していたが、その1ヶ月ぐらい前にはタイのコサムイ島のビーチに板野であった。いや居たのであった。その詳細を書くといいたいところだが、これもほとんど日本語になってないので大部分省略。(当時は詩と思って書いたが、死でしかない)8月20日 23時30分ホアヒンから列車に乗り、8時間後スラッタニーに到着した。そこから乗り継ぎ船も乗り継ぎサムイ島、また乗合で今回は小ぶりなブッグブッダビーチへ。端からバンガローを当たって行くが高い高い、ようやく6件目に1泊80B(当時400円)のコテジを見つけ、前に来たときはコテジ探しに苦労した覚えないけどなあ、と思ったぐらいである。経営はドイツ人(というか読めはタイ人)。海の透明度は普通。とにかく疲れ、夜は勝手にインターナショナルテーブルとなりオランダ人、カナダ人、他西洋人にタイ人一人にニポンジン。酔っ払った挙句にタイ人が例のもの出してくるからさ。酔う前に出してくれよってことだよな。8月21日 昨晩、効き過ぎた。昼に起き、道沿いのレストランで飯食って、バナナとチョコレートとランブータンを購入し、宿で水を貰い、座っている。8月22日 シーツとサングラスとコテジの壁に貼るポスターが欲しい。インクもなくなってきた。腐りかけのバナナが美味い。ビーチを散歩していると親子大工3人が作業をしていた。休憩で彼らは浜辺で飯を食い、呼ばれた。ご飯と魚1匹。コテジ群の裏に通る1本の車道の奥に沼があり、大工が網を張りにいくので付いて行った。夜、大工の一人がコテジの前を通りがかったので、呼びとめ、メコンウイスキーを振舞った。車の音も波の音も聞こえてきてプラスマイナス0だ。8月23日 誰もこのビーチでは私の本名を知らない。ジャズを聴きながら夕陽を見ていると、名前も決まっていないのに、大人になってしまった気分だ。昔、日本という国があったな、何か本で読んだなと断片的記憶が残る。8月24日写真を撮る。音楽を聴く。水の中に入る。夕陽を見る。ビーチで寝る。会話を録音。謳う。散歩。アートする。火を吹く。8月25日 何年もいる気になってきた。今日は暑い。鶏の鳴き声、波の音、ラジオの音、食器を洗う音、食器を片付ける音、漁船のエンジン音、削る音、木杭を打つ音、頃義の鳴き声、歩く音、クルマのエンジン音、人の声、子供が遊んでいる声、トラック音、クラクション、鳥の鳴き声、ビール瓶を置く音、缶がへこむ音、足につけた鈴が鳴る。ジャリ銭を数える音、財布をパチッと閉める音、草の中を進む音。網目の世界が次々にやってくる。8月26日稲妻が綺麗。大粒の雨が波のあまりな海に直撃し水面で跳ねる中、泳ぎに行く。リュック背負ってカメラを持ってドアーズのジ・エンド聞きながら森の中に入って行くと、ベトナムの奥地に来た気分になり、人に気づかれないように注意している自分がいた。最後には山を降り、岬にあるビッグブッダにいく。この寺院があるので、ここはビッグブッダビーチと呼ばれている。8月27日飲んで吸って食っての三本の大黒柱を取り巻くのが寝そべっているである。馬鹿馬鹿しい生活。隣のポブットビーチまで1時間程かけて歩いて行く。海はイマイチだがいいレストランを発見。150バーツを拾うが、タイ人がやって来て、探しているようだったので、机の上に置いていたバーツを指差し、これか?といい返す。カオパットとビール大瓶と水とフルーツサラダを頼んだ後であった。考えたら2年前にもポブットビーチには来たことがあり、ここから小船でコパンガンに行ったのだなあ。レストランで3時間をぼやぼや過ごし、夕刻になってきたので、急いで帰るが1時間の道程は何故か遠く、やっと帰ってきては、ビーチに座って疲れに乾杯である。1時間座っていたので、カレー食べに行き、夜は海に浮かびに行く。最後に線香花火をする。8月28日10時間も睡眠。ドリアン食べるが、その後、自分のゲップに辟易。口直しにパパイヤジュース。海に入ると間抜けな小魚が、何故か俺についてくる。掬おうとすると逃げるのだが、また後ろについてくるのだ。50メートル程度付いてきて、ついに水深50センチのところまで来ても小魚君は付いてきた。もう帰れ、と捕獲猛攻撃のフリをした。8月29日 200バーツで125CCのオフロードバイクを借りる。1周60キロの島を2周。8月30日 バイクで峠にあるレストランで朝食を採りに行く。そのまま1周して、バイクを返却。夜黒くて少し怖い海で、怖いので潜ってばかりいると、10センチぐらいの蟹を捕獲。レストランでまるごとから揚げにしてもらう。8月31日 どこまで、つづく・・・ 大阪→サンフランシスコ→ヒューストン(リンク) 100か国目の国ジャマイカへ(リンク) ジャマイカgourmetの旅(リンク) モンテゴベイ観光案内(リンク) モンテゴベイダウンタウン案内(リンク) ジャマイカの治安、音楽(リンク) レゲエ島(リンク) モンテゴベイビーチでタイビーチを思い出す(リンク) モンテゴベイビーチでフィリピンビーチを思い出す(リンク) 100か国目の対談1(リンク) 100か国目の対談2(リンク) ジャマイカ→アメリカ(リンク) ヒューストン→ベリーズ(リンク) ベリーズ概要(リンク) キーカーカ島へ(リンク) キーカーカ―島で思い出すビーチ(リンク) キーカーカー島案内(リンク) 100か国目の対談2(リンク) キーカーカー島でフィリピンビーチを思い出す(リンク) ベリーズナイト(リンク) ベリーズdrinkの旅(リンク) 中米制覇(リンク) アメリカ料理(リンク) ベリーズ→ヒューストン→帰国(リンク) お土産(リンク) ヒューストン→成田→伊丹(リンク)
2016.06.04
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18歳のミンドロ島ではないが、21歳のミンドロ島の詳細を記す。9月23日 4度目のプエルトガレラに来た。ビーチを見ながら、エラフィッツジェラルドインロンドンを聞いている。年々海は汚くなって行く、客がいないオフシーズン、宿のおばちゃんが、また来たかと歓迎、私の家の隣のコテジにしてあげる、って、おばちゃんの家の反対側ディスコ「SUN SET」で夜、煩いやん。9月24日 朝から賑やかで、朝にコーヒーを飲み、オーストラリア人3人組に便乗してバンカで無人島を巡る。バーベキューの昼飯を食べる。金がなくなっていくのは惨めだが、ケチるのはもっと惨めなので、参加費を出そうとしたが、君は、出発間際にたまたま浜辺に座っていて、乗ってう?ッて声を掛けたらついてきただけだから、いらないよ。オレも卒業したら、そのくらい言ってみたいなと思う。9月25日 起床12時半。ヤキメシとビール。ソモールララグナビーチまで浜辺を散歩。少し椰子酒(トゥバ)を飲んで夕景を見ていたら、隣にたまたまいた女性が、夕陽の綺麗さに驚いていた。その女の子の名前はアイリーンといい、マニラに住んでいるという、おいおいマニラの夕陽って世界三大夕陽って言われてないかい?ふと、後ろを見ると、前回来たときに泊まったホテルシーブリーズやん。威勢のいいインディアンがジープで泥道を蹴散らしながら「エクスキューズミ!WE ARE KISS MEN!」と意味の分からんことをいいながら4次元の世界からやってくるという夢をみた。9月26日 起床13時半。めしくって、やっとちょと泳いで、その辺の人達と適当に話しているとまたも夕陽。9月27日 早起き、10時半。ここは全くフィリピンです。楽しみを最大限に発揮できるような時間のとり方と、間をうまく使えれば・・・。9月28日 今度隣のコテジに移って来たイギリス人とその彼女とバンカでココビーチやその近くに出かける。足の爪を切りたくなる。そのイギリス人はしきりにロサンゼルスは危ないといっている。その後、ビールを飲みに言ったが、今日は8本目だぞ、と気が付き、今日も1日が3時間か4時間しかない。9月29日またそのイギリス人がやってきて、晩夏で出かけようぜということだったので沖に出た。昔、サバンビーチから手紙が届いて、この人誰だろう、いろんな人にあったからなあ、と思っていたが、今日それが誰か分かった。分かったということは再会したってことだった。小さい村だから誰とでも少なくとも1日1回は全員とすれ違う。9月30日朝方まで煩いコテージであるが、考えたら朝方まで起きているので、夜中にコテジやテラスで何してんだ、って話だが、今は、john mayallを聞いている。たまには静かに自分の音楽をガンガン聴きたいものだ。9ボールをして、島住民にいくら教えても下手!と下手の烙印を押された。いいよいいよ。いいよいいよ、だらだらしているけど、そろそろ島を去って、大学の必須単位の授業出席日数を数えなければならないよ。それよりも、手持ち資金が益々やばくなってきた。金がなくなったら失意のうちに暗い哀しみとなる。あと持ち金は100ドルを切った。10日以内ぐらいには帰れないと、底をつくんじゃないか。決めて、飲んで、まだ空前のともし火パーティは続く。蚊取り線香に火をつけた。カフェイン剤を飲んで、決めて、バカンス終了。島民は皆オレの顔と名前を知っているし、俺が何をしているかも知っている。ただフラフラしている若者兼バカ者だと。10月1日 ほとんど寝てないまま、ジープはジャングルの中を走り、プエルトガレラ港、船に入り、エンジン作動前の船は静か。 大阪→サンフランシスコ→ヒューストン(リンク) 100か国目の国ジャマイカへ(リンク) ジャマイカgourmetの旅(リンク) モンテゴベイ観光案内(リンク) モンテゴベイダウンタウン案内(リンク) ジャマイカの治安、音楽(リンク) レゲエ島(リンク) モンテゴベイビーチでタイビーチを思い出す(リンク) モンテゴベイビーチでフィリピンビーチを思い出す(リンク) 100か国目の対談1(リンク) 100か国目の対談2(リンク) ジャマイカ→アメリカ(リンク) ヒューストン→ベリーズ(リンク) ベリーズ概要(リンク) キーカーカ島へ(リンク) キーカーカ―島で思い出すビーチ(リンク) キーカーカー島案内(リンク) 100か国目の対談2(リンク) キーカーカー島でフィリピンビーチを思い出す(リンク) ベリーズナイト(リンク) ベリーズdrinkの旅(リンク) 中米制覇(リンク) アメリカ料理(リンク) ベリーズ→ヒューストン→帰国(リンク) お土産(リンク) ヒューストン→成田→伊丹(リンク)
2016.06.03
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自分のためにお土産をわざわざ買うというのは、まあ、そんなにないのだが、今回も確かに何も買わなかったのだが、ホテルの部屋にある物で持って帰っていいものや、朝食時にちょっともらってきたものや、飛行機で出た菓子類などは持って帰ってきている。それを、夜に働く自分用または、ばら撒き用に使用するのである。比較的正しい道だが、何とも比較していないところが味噌。読み終えた雑誌や文庫本は、基本ホテルに置いて帰るというお土産残しもあるのだが、たまには、共用部分に図書コーナーとかがあれば、そこに、すっと刺し込んで、こそっと置いてくるというパターンもある。そのうち訪れた日本人が軽く読むだろうと。確か、そういえば、山田詠美の処女作ベッドタイムアイズ(誕生日同じ)とか曽野綾子の太郎物語とか(自分の息子を題材)、あれって積み木崩しみたいに再度ぐれてしまわなかったのだろうか。まあ、そういう本を海外のどっかの宿に置いてあって、読んだ記憶がある。ホテルの部屋についている湯沸しポットを使うときは、前の客が小便を入れたりしているかもしれないので、一旦ホテル側で洗われているとしても、自分でもう一度洗い、外で買ってきたペットボトルの水を沸騰させて飲むようにしている。ほんまか知らんけど、こんな記事もある。羽田成田の乗車証の裏面は、いつもエクスペディアの1,000円割引付きで割とお得なのだが、何だかいつもうまく使いこなせないのだなあ。ああ、分かった15,000円以上でないと駄目だからだ。注意書きに書いてあるじゃん。最近アメニティキット溜まっている。売りさばいてないからねえ。500円で売るのが面倒になっちゃってね。こういうチケットの残りかすは、よく本のしおりになる。サンドイッチ持って帰ってきて、当日の夜、時差ボケで猛烈な腹ヘリ状態となり重宝食事。それで何故かパイナッポーケーキ。帰国翌日にコナコーヒー実家に持って行くと、前のコナコーヒーより断然ウマイとオカンが絶賛。よく分からなかったが、前に買ったのは100パーセントではなかったか?てか、コーヒーの味分かるのか。私もマズイコーヒーは分かるが、なかなかウマイコーヒーは難しい。家に醤油ないので、意味なく持って帰る。ちなみに、砂糖もない。塩は10年前から同じものがある。いかなごの缶詰もらったが、これ神戸市民の18番(オハコ)。あとは、マグネティカ。 大阪→サンフランシスコ→ヒューストン(リンク) 100か国目の国ジャマイカへ(リンク) ジャマイカgourmetの旅(リンク) モンテゴベイ観光案内(リンク) モンテゴベイダウンタウン案内(リンク) ジャマイカの治安、音楽(リンク) レゲエ島(リンク) モンテゴベイビーチでタイビーチを思い出す(リンク) モンテゴベイビーチでフィリピンビーチを思い出す(リンク) 100か国目の対談1(リンク) 100か国目の対談2(リンク) ジャマイカ→アメリカ(リンク) ヒューストン→ベリーズ(リンク) ベリーズ概要(リンク) キーカーカ島へ(リンク) キーカーカ―島で思い出すビーチ(リンク) キーカーカー島案内(リンク) 100か国目の対談2(リンク) キーカーカー島でフィリピンビーチを思い出す(リンク) ベリーズナイト(リンク) ベリーズdrinkの旅(リンク) 中米制覇(リンク) アメリカ料理(リンク) ベリーズ→ヒューストン→帰国(リンク) お土産(リンク) ヒューストン→成田→伊丹(リンク)
2016.06.02
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それは、幼児体験のようで、最初のフィリピンやタイのビーチの印象が強くて、コテージまたはバンガロー形式で海まで歩いて何十歩で、テラスがあってそこに机と椅子があって、まあ、ハンモックとかあるよ、ってのが心地よい幼児体験である。時間はあるのだがら、知り合った人も、気が合わなくてもよくて、会話は全て何か思い出したように、時々ポツリと話すもの悪くない。といっても、今は知り合いたい気持ちもないので、旅行者と知り合わないというか、そんなのんびりした時間もないのだけど、まあ、昔はビーチでも何人か知り合った。コサムイ島、チャウエンビーチだったのかなあ。夕日をコテジのテラスからボヤボヤ見ていると、日本人らしき人が、何となく散歩がてら前を通り過ぎ、多分こちらに気が着いたのか、無意味に砂浜に立ち止まって夕日を見ていた。ども、と何となくテラスに招待し、話しかけられてよかったなあ、とう感じのことをシャイな彼は言った。彼女(西洋人)と今タイを旅行中なんですけど、日本をぐるぐる回りましたが、安いのはラブホテルなんですね、と日本中のラブホテルを巡りながら日本旅行した話を聞いた覚えがある。私は何を話したか覚えてないが、多分、3日ほど前にギリシアからパキスタン経由で戻って来た(まだタイなんで日本戻ってないけど)ようなことを話たと思う。んー。それ以上覚えてないなあ。彼は彼女が待っているからと2時間か3時間ぼやぼや途切れ途切れに話して別れたのであった。ほとんど、日本語に飢えていた彼が話してたんだけど。そうそうに暇そうにしている一人旅の野郎もなかなかいないからねえ、という感じか。いや、実は私も1度だけ。大学4回生の大御所になったのに、積極的に声を掛けたことがある。何故だか思い出せないが、カトマンドゥであまりに暇過ぎて、全く何もしていなくて、何か今日は日本語で誰かと話でもしたいな、という気分になった珍しい日であった。それで、急に一人旅っぽい奴を見つけて、いきなり、すり違いザマに腹減ってたら飯食いませんか、といきなり声を掛けてしまったのであった。日本人の少ない地域ならたまに会ったらアラマーと声を掛け合うものだが、何だか日本人もイーパイいるネパールのカトマンドゥででる。勿論彼も暇を持て余していて、あーイイスネといって、飯を食ってお互い持っている文庫本を交換した。早稲田大学のこいつ、SFかあ。SF読めるかなあ、ま、暇だから読むか、ということである、向こうもわけの分からんノンフィクション渡されてアチャーだっただろうがね。ああ、そううえば、あれどこ行くときだったのか、成田空港で知り合った奴は、イヤ恥ずかしいけど、自分を見つめなおすといってたなあ、多分、バンコク行きのカウンターで前後に並んでいたのだろうと思う。自分見つめ直すって・・・ア、キミ、東大なの?自分探しは、自分を良く知っている人に聞きまわりなさい、誰も知らないところに行っても、自分は他人がどう見るかだから自分の性格も過去も誰も知らないんだから探せないよ、といいかけたが、マア学生時代でも私は20歳を越えていたので大人だったのでそんなことを言うはずがなかった。でも多分目は、「オマエ、マジか」と言った感じだったかも知れない。同じ飛行機だったのだが、その後、会わなかった。ああ、そいえうば、東大女子にもボンベイ(ムンバイ)空港で何だか時間を持て余した夜中の1時頃にお茶を飲み、何だかこの人まじめだなあと思った記憶がある。私はバンコクで途中下車(ストップオーバー)したけど、彼女はうまく乗りついて日本に帰ったのかもしれない、何せフリーシートのバングラ航空である。ダッカ経由で帰ったが、あ、そういえば、ダッカ空港でぼーっと待ってたら清掃のオッサンが寄って来て「免税で煙草買ってくれないかベントール」とか言って来たので、「それで1箱くれるんか?」というと、「ああ、そんくらいならいいよ」という。よくわからんが、2パッケージ20箱買って1箱取られても全く問題ないぐらいに商売になるんか、ってことか。何か私を信用しドルを貰い、買ってきて渡すと、1箱繰りぬいて私に私に渡し、あとはバケツに突っ込んで上から雑巾をかけて掃除人は消えていったのであった。働いてからは、一度だけ声を掛けられたというか、ベルリンに向かう列車のコンパートメントでたまたま前に座っていたのだが、最初の数時間は多分お互い中国人か韓国人かと思っていたのか、無視状態だったのだが、日本語で声を掛けられた。埼玉の女性だったが、それ以上は何も覚えていない。 大阪→サンフランシスコ→ヒューストン(リンク) 100か国目の国ジャマイカへ(リンク) ジャマイカgourmetの旅(リンク) モンテゴベイ観光案内(リンク) モンテゴベイダウンタウン案内(リンク) ジャマイカの治安、音楽(リンク) レゲエ島(リンク) モンテゴベイビーチでタイビーチを思い出す(リンク) モンテゴベイビーチでフィリピンビーチを思い出す(リンク) 100か国目の対談1(リンク) 100か国目の対談2(リンク) ジャマイカ→アメリカ(リンク) ヒューストン→ベリーズ(リンク) ベリーズ概要(リンク) キーカーカ島へ(リンク) キーカーカ―島で思い出すビーチ(リンク) キーカーカー島案内(リンク) 100か国目の対談2(リンク) キーカーカー島でフィリピンビーチを思い出す(リンク) ベリーズナイト(リンク) ベリーズdrinkの旅(リンク) 中米制覇(リンク) アメリカ料理(リンク) ベリーズ→ヒューストン→帰国(リンク) お土産(リンク) ヒューストン→成田→伊丹(リンク)
2016.06.01
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