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●マルクスの何が間違っていたために、そろいもそろって社会主義政権は醜悪な姿になってしまったのであろうか?●この問題を正しく認識しておくことは、未来社会をデザインする上での参考になる。1.社会の歴史は階級闘争の歴史である?●『共産党宣言』は…今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である …との書き出しで始まる。自由民と奴隷、都市貴族と平民、領主と農奴、ギルドの組合員と職人、要するに圧制者と被圧制者は互いに対立して、時には暗黙のうちに、時には公然と、不断の闘争を行ってきた。この闘争はいつも、全社会の革命的改造をもって終わるか、そうでないときにはあい争う階級の共倒れをもって終わった。 と書かれている。●原始共産制といわれる氏族社会に「階級」があったとは思えないが、歴史的に社会組織は階級によって構成されていたのは確かである。●しかし、歴史的には、異なる階級間よりも、同一階級内での方が遥かに激しい闘争(領土、市場、財産、地位を巡って)を繰り広げてきた。身分制度があれば身分間の対立はつきものでる。しかし、必ずしも「階級が存在していた歴史=階級闘争の歴史」ではない。社会の歴史は階級間の下克上の歴史とは言えない。●階級闘争はむしろ稀な出来事であった。階級闘争史観は、プロレタリア革命なるものが歴史的必然と言いたいがための牽強付会に違いない。2.剰余価値学説の誤り労働力は金利の源泉である。資本に転じるお金の金利はお金に由来するものではない。お金が交換手段だというのが正しいのであれば、お金は購入する商品の価格を支払うためのものに過ぎない。そのままにしておいても、お金の価値は増えはしない。そのため、購入された商品に由来する剰余価値(金利)はより高く売られなければならない。この変化は売買時には起こらない。取引の際は等価物が交換されるためだ。そのため、仕入れと小売の間に、商品の使用価値が変わってくるという結論に達せざるを得ない。(『資本論第1巻6章』)と記述されている。●封建制社会においては、領主が農民から眼に見える形で搾取していたが、資本主義社会でも搾取がある筈であるとして考え出されたものが剰余価値である。●生産物の製造コストには原材料、減価償却費、労賃の他に金利や地代も入る。しかし価格は、生産者の思いとは別に、市場での需要と供給によって決定される。価格から剰余価値部分を抽出などできるものではない。●資本家や経営者が労働者から剰余価値を搾取していることが許せないということであれば、資本家から権力を奪取しなければならない…ということになる。●利子(剰余価値)の原因は貨幣の性格の中にあるのであって、労働のなかにあるのではない。支配関係にある(身分支配、雇用関係に関係なく)場合、資本家に限らず、支配者は常に搾り取れるだけ絞ろうとしているだけのことである。●お金がモノと同じように減価するのであれば、お金を集めて持っているだけでは、目減りする一方になる。お金は生産手段や消費材料と速やかに交換されなければならない。従って、企業家はいても資本家はいなくなる。金(きん)や金本位制をたたえるマルクス賛歌は完全に、プロレタリアの関心をお金からそらし、投機家や高利貸、それに詐欺師を無産階級、プロレタリアートの攻撃にさらされるような所にかくまった。そのため、世界中で「富の寺院の門番が紅衛兵と交替した」(『自然的経済秩序』シルビオ・ゲゼル)●不況は、お金が退蔵されて市場に出回らない状態である。しかし、減価貨幣の社会では、退蔵されたお金は減価する。●このため、お金は絶えず循環することになるので、好況・不況などの景気変動は無くなる。後払いよりも前払いの方が有利になる。お金は市場が必要とするぶんだけ通貨当局によって供給されることになる。●企業家の存在が問題なのではなく、利子を必要とする資本や地代が問題なのである。マイナス利子のお金(自由貨幣)は貯蓄手段であることを止めて、交換手段にすぎなくなる。売上こそがわれわれ企業家が必要としているものだ。定期的で安定した売上、長期かつ事前の販売契約、それに規則的な商品販売に産業は依存している。だがわれわれは、売上が停滞するたびに熟練労働者を解雇して、すぐあとに非熟練労働者を新たに雇い入れるわけにはいかない。また、安定した注文がないときに、やみくもに在庫を増やすわけにもいかない。売上、それも安定した売上である。安定した売上があるときにのみわれわれは、われわれの生産物の交換に適した公的設備を、その複雑な技術とともに利用することができる。売上や現金払い、それに安定した物価などを達成できるのだ。これが、自由貨幣の導入の際のわれわれの願望であった。そしてこれは叶えられた。 (『自然的経済秩序』)●日本共産党が言うように「大企業=悪玉、中小企業=善玉」ではない。どちらも、資本主義社会では利潤追求動機で活動していることに代わりはない。単体としては、大企業の方がより大きな雇用を生み出し、社会に貢献していると言える。●「マルクス主義は賤民思想ではないか」と言う友人がいるが、確かに剰余価値学説は貧者の富者への嫉妬や怒りの理由付けのために発明されたものかもしれない。3.貨幣とは何かが全く理解されていない●ということで、マルクスは「お金とは何か」については、資本家などと同じ考えをもっていたわけで、資本主義の原因が利子にあることに気づかず、封建社会でのような搾取が見当たらないために、労働の中に剰余価値を発明するに至ったわけである。●マルクスにとって、減価貨幣が資本主義を廃止することなど思いも至らなかったことである。4.市場を欠いた計画経済●分業は生産力の源泉であるが、これは生産物の交換を前提とする。分業と市場はワンセットである。●市場での価格によって生産物の供給量もコントロールされる。計画経済は供給量と価格の双方をコントロールすることになり、人々の自由なニーズに箍をはめ、結果として生産力の向上やより良い製品の登場を遅らせる。●それ以上に計画経済が問題であるのが、計画をする官僚機構を肥大化させることである。選民としての官僚や権威主義が跋扈することになる。●お金の性質の如何を問わず「市場=悪玉」とする考えは、その思いとは裏腹に計画経済を導入するしかなくなり、賢者の管理(支配)に道を譲ることになるのではなかろうか?5.人間組織についての無頓着性●手段である組織が目的化し、組織が頽廃することの必然性の認識がマルクスには欠如していた。●組織というものは、その設立目的が組織構成員自身の目的にとって代わる傾向を内在している。官僚組織は、国民への奉仕が目的の筈であるが、組織や権限の拡大を自己目的化するようになる。●政治権力を手中にした共産党は、「労働者のための社会」という建前の下で、共産党員の利害によって国を運営するようになる。●組織に関することでもうひとつ重要なことは…政治権力を得る過程で編成された組織が階級組織である場合、権力獲得後に、これをチャラにして民主主義組織にするなんてことはありえない…ということである。独裁的階級組織はそのまま国家全体の組織に適用されることになる。6.共産主義社会の仕組みの欠如●マルクスは、共産主義社会を理想社会として思い描き、社会主義社会が「各人はその能力に応じて働き、『労働』に応じて各人に与えられる社会」という段階であるのに対して、共産主義社会を「各人はその能力に応じて働き、『必要』に応じて各人に与えられる社会」と述べている。●しかし、「『必要』に応じて各人に与えられる社会」が具体的にどのような社会であるのか、この理想社会でもお金があるのか否かについては定かでない。●私が『未来社会の構造』でスケッチしているような社会の姿(設計図)はまったくと言ってよいほど描かれていない。●あきらかにされていない以上、政権の座についた共産党組織の論理に従って、社会の体制ができるだけのことである。7.人に対する憎しみの感情●共産党宣言は、プロレタリアートの労働から剰余価値を搾取する資本家への憎しみに満ちている。暴力的手段に訴えても政治権力を奪取しなければならないとしている。●人は仕組み次第で善人にも悪人にもなる。「罪を憎んで人を憎まず」という諺があるように、悪いのは仕組みの方である。●思想そのものを問題にする人達は、対立が激化すると、必ずといってよいほどその思想をもつ脳髄の破壊まで進むことになる。新左翼と呼ばれるグループは、こうして内ゲバに走ることになった。これまでに政治権力を得た政権も大なり小なり同じようなことを行ってきた。●思想ではなく仕組みが問題であると考える人は少ないが、このように考えれば、人への直接的攻撃(テロ)などは決して起きない筈である。人間的社会を目指す思想には、敵を含めて人に対する憎しみの感情があってはならない。●社会主義が資本主義に敗れ去ったのは、経済システムが効率性が悪かったためではない。人は仕組みとしての信頼関係があれば、少々貧しくともハッピーいられる筈である。社会主義の問題はその仕組みの非人間性にあると思う。●『未来社会の構造』での関連説明■共産主義の破綻■資本主義の可能性と限界
July 29, 2006
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●友人の奥さんから精神障害者達と格闘している向谷地生良(むかいやちいくよし)さんの『「べてるの家」から吹く風』という本を紹介された。べてるの家は、北海道浦河町にある精神障害者達の家である。●今回は、この本の内容と絡ませて、精神病や精神障害者の問題について触れてみた。●精神障害には先天的なものと後天的なものがある。おそらく後者の方が圧倒的に多いのではないかと思う。●これは次のような家族関係や教育の場、職場などで組織内でのストレスや人間関係が原因ではなかろうか。・競争社会であり、優劣や成績による評価がついて回る。・豊かな人間性の涵養ではなく、カネの稼ぎ手としての知育教育になっている。・権威と能力がものをいう社会である。・組織は封建制度になっている。・お金がなければ生活できない。・家族の世話はお金にならない。・親が子供を保護・支配する。・上記に伴う様々な社会的差別がある。●私は、精神病対策の基本は、これらの人間の様々な組織のあり方を含む人間関係の改善にあるのではないかと考えてきた。これらの関係が人間的なものになれば、精神障害の発生そのものが少なくなると思っているのだが…。●確かに、精神病は社会の仕組みをいくら人間的なものにしても、全ての病気が無くならないのと同じ理由で、無くならないかもしれない。未来社会でも精神病や精神障害に対する治癒のあるべき姿を模索する必要性がある。●ところが、現代社会(資本主義社会)の精神病や精神障害者の医療は、薬物による脳の「治療」がますます盛んになっているようだ。●現代医学は、精神病を「心の病」ではなく、「脳病」とするようになってきた。神経伝達物質の分泌量の制御は、薬物による感情のコントールである。●向谷地さんは、「医学="囲"学」「看護="管"護」「福祉="服"祉」になっているのではないかと言う。●専門家は次のような病名にかかりやすいと言っている。・過剰保護代理行為型不安心配症・過剰心配型多剤投薬症●抗精神科薬に頼るのではなく、「安心して爆発し、文句のひとつも言いやすくし、しっかり悩むことをじゃましない」ことが肝心であると言い、様々なキーワードをあげて解説している。・諦めが肝心・だめなままの自分を受け入れよう・降りていく生き方●そして、世界にも例の無い精神所障害者自身が自らの病を研究する「当事者研究」という治療方法を実践している。従来、研究とは科学的な視点から専門家が問題解決の方法を探り、様々な事象の真理に迫ろうとする方法である。常識的に考えて、統合失調症の当事者が、研究対象になることはあっても研究の主体になることは想像もつかいないことであった。この出来事を通じて、「当事者研究」というおそらく世界ではじめての試みがはじまったのである。●具体的に、次のような当事者研究や救援隊を紹介している。・爆発の研究班、当事者達による爆発救援隊の設置・幻聴の研究班、当事者達による幻聴さんレスキュー隊の設置・脅迫的な確認行為のメカニズムの解明とつきあい方の研究・暴走する体験感覚の研究-もうだれにもとめられない・人間アレルギーの研究班●サポート側での姿勢として、次のような点をあげている。・「苦労の先取り」で大切なのが、「それで順調!」という「楽観」・当事者主体の援助・誉めること・公私混同のすすめ●精神障害者達の起業もユニークであり、次のようなキーワードによって様々な事業を展開している。・心と身体に優しい会社づくり・いつでも廃業・出勤したくなる会社・むなしさを絆に・安心を届ける"べてるウィルス"に感染すると、「反転症状」というものが起きてくる。代表的な反転症状は、"病気"なのに心は健康になる、"貧乏"なのに商売が繁盛する、"病気"のおかげで昆布が売れる、"病気"のおかげで友達ができる、"絶望"するほど「いい落方してきたね」と誉められる、"病気"になってきてホットするなどである。"べてるウィルス"に感染すると、こういった症状がジワジワと起こりはじめる。…ということのようである。専門家が「答え」と「真理」の鍵を、常に握っているとする専門家神話は、既に崩壊しつつある。ちまたでは「専門家の当事者化」と、「当事者の専門化」が始まっている。だれもが、「自分の人生の当事者」にならなければいけない時代のなかで、人から不当に支配され、管理される精神医療の現場は、健全とはいえない。…と言っている。●「べてるの家」の実践は、専門家による「抽象的思考」や「科学的思考」が如何に当事者をなおざりにした「治療」を行っているかということの証明ではなかろうか。●「当事者研究」や「当事者同士の救援隊」は、年金生活者や介護の対象としか見られていない高齢者に関しても応用できるのではないかと思う次第である。●「未来社会の構造」での関連説明 ■職業 ■高齢者
July 22, 2006
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●前頭葉を発達させた脳味噌をもつ人間は、言葉や文字を駆使するに至った。社会的分業は肉体労働と精神労働を分離し、少なからぬ精神労働者がロゴスの世界の住人になった。●かくして人間の脳味噌は、ますます多くの観念的生産物(宗教、思想、理論など)を編み出すようになった。●神仏は人間の脳味噌の空想的産物である。猿などがこのようなものを生産しているとは考えられない。このような脳味噌の空想的産物に過ぎないものであっても、効用があれば有難がれる。●カント、ヘーゲルなどの観念的哲学やサルトルなどの手の込んだ思弁的哲学も脳味噌の産物に違いない。●ところがマルクスの著作物になると、科学的社会主義などと言う人もいて、脳味噌の空想的産物とは思えない…ということになるだろうか。マルクスもヘーゲルの弁証法を引き継いでいて、一般の労働者にはとても理解できる代物ではない多くの哲学的著作物がある。●資本論などは経済理論の範疇に入るのだろうが、ここに出てくる剰余価値論なんてモノは脳味噌の産物以外の何モノでもないように思う。労働の中のどの部分が搾取対象の剰余価値部分であるというのだろうか? これに対して、利子は極めてリアルなモノであり、経済の姿を決定する。●人間の歴史が階級闘争の歴史であるという側面は、確かに一定程度あるかもしれないが、この階級闘争史観もプロレタリア革命を正当化するための牽強付会のように思える。●いずれにしてもマルクス(レーニンや毛沢東なども)は思想家ではあっても、実務家ではない。マルクスは共産主義社会に関しては何も設計していないのである。多くの人々が賛同できる社会の仕組みの設計図がなくて、どんな人間的社会が実現するというのであろうか? 一旦権力を手に入れた者(権力者)達に都合の良い組織や体制になるだけので話である。●シルビオ・ゲゼルは経済人であり実務家であったためと思われるが、マルクスの剰余価値論の誤りを直ちに見抜き、自由土地と自由貨幣による新しい社会の設計図を「自然的経済秩序」に描いた。経済システムに限定したものであって社会システムの細部に亘るデザインをしている訳ではないが、これほどまでにリアルな人間社会の設計図は、これ以前には存在しなかったのではなかろうか?●マルクスの場合…剰余価値を搾取されないようにするには、資本家を打倒しなければならない…ということになる。ゲゼルの場合…地代や利子を取られないようにするには、土地の公有と減価貨幣が必要である…ということになる。前者は牢獄のような社会をもたらし、後者の減価貨幣(古代エジプトや13世紀以前の中世)では経済発展を実現した。●ガリレオやニュートンは物理学者である以前に、観測者であり望遠鏡を発明した技術者であった。ガリレオはレンズを組み合わせた望遠鏡を発明し、ニュートンは鏡を利用した反射望遠鏡を発明した。●アインシュタインは、紙に書かれた脳味噌の創作物以外には発明しなかった。●現代物理学では、数式が示すものが実体であるかの如く取り扱われているように思えてならない。数式上で時間を空間の次元と同列に扱うだけでなく、任意の次元の空間が脳味噌の必要に応じていくらでも作られることになる。そして、物理学者達は、まことしやかに4次元以上の空間は「縮退して見えなくなった」などという。●マイケルソン・モーレーの実験の解釈の誤解から特殊相対性理論を発明し、重力と加速度が等価と見なすことによって一般相対性理論を捻出した。宇宙背景放射の「観測結果」(これも疑問視されている)を根拠にビッグバン理論が玉座に着いた。こうなると、後は数式を駆使する理論物理学者の脳味噌の独壇場である。自然界の4つ力を数学によって統合するのだという。●常識人には時間が遅れたり、長さが縮んだりといったことは理解不能である。技術者は、レーザージャイロの発明によって「光速の不変性」などとっくに見破っている。あとは「権威」が崩れるのを待つだけである。●理論はだんだん手の込んだ抽象思考の産物になり、真偽を見破るのが難しくなってきている。●生活者であり技術職のサラリーマンであった私は、技術者や現場で苦闘する人たちが考えだしたもの(技術や仕組み)ではない、思想家や理論家と称する人達の考え出した「理論」については疑いの眼と嗅覚をもって臨むようにしている。●私が考えている「未来社会の構造」も脳味噌の空想的産物であるかもしれないが、思想を語ろうとしているのではない。未来社会をデザインしたものであり、より良いものにするための問いかけである。
July 20, 2006
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●私には、「現代社会での夫婦関係とか親子関係のあり」について語る資格などありはしない。見方によれば、どうしようも無い夫であり、父親かもしれない。●ということで、ここでは未来社会では現代社会で深刻化しているような親子関係がどのように、「このように扱われることになるのでは」について述べてみる。■幼児虐待●親が幼児を虐待したり、結果として死に至らしめたりする事件も頻発している。親が養育者として不適切であるにも関わらず、親権故に嫌々自分の子供を育てざるをえなかったり、親権故に子供を引き離すことができなかったりした結果ではないかと思う。●このような事件は親の子供への愛情が欠如していると見られる事件である。産みの親が育ての親として適当でないにも関わらず、養育しなければならない社会の仕組みの問題ではないかと思う。■親の殺人●愛憎を巡る殺人事件としては、男女間の愛憎のもつれに伴うものや、親子間でのなんらかの格闘の結果としてのものがある。後者は幼児虐待とは異なって、少なくとも当初から親子間で愛情が欠如していた訳では無い。愛情の差し違えのようなものかもしれない。●最近の事件としては、次のようなものが報じられている。H16年 9月 和歌山県橋本市で少年(19)が父親を殺害、自宅に放火H16年11月 水戸市で無職少年(19)が両親の頭を鉄亜鈴で殴り殺害H16年12月 千葉県木更津市で中3男子(15)が母親を刺殺H17年 6月 東京都板橋区で高1男子(15)が両親を殺害、自宅の社員寮に放火H17年10月 静岡県伊豆の国市で劇物のタリウムを母親に摂取させ意識不明にしたとして、高1女子(16)を殺人未遂で逮捕H18年 3月 東京都世田谷区で中学2年男子(14)の自宅に放火、生後2カ月の妹殺害、両親重傷●経済的に自立可能な男女間の関係は、円満に解消できることが多い。もちろんそうでない場合もあるが…。女性が男性に経済的に依存している状況では、関係の解消は複雑な様相を呈する。いずれにしても、男女間の関係は任意な「愛」から始まった筈である。●ところが、親子間は血縁関係によって強制された関係である。現代社会では、意志によって破棄することができない関係である。●子供への期待には、親の功利性や見栄もあるかもしれない。親は子供に良かれと思ってものを言うが、子供にはそのことが耐え難くなる。心からの忠告であってもうっとうしいものである。●親が子供の選択の自由を奪い、親の価値観を押し付けている場合もある。傍目にはそうは見えなくても、無言の精神的圧力になっている場合もあるかもしれない。●親が放任主義の場合であれば、子供に親を憎悪する感情は芽生えないかと言えば、そうとも言えない。●或いは、苦労を知らずに無菌状態で純粋培養された子供のひ弱な体質が「切れやすさ」になっているのかもしれない。●評論家や心理学者が、あれこれともっともらしい解説をする。「親の教育の間違い」を指摘するのは簡単である。政治家や宗教家などは倫理や道徳教育の欠如が問題だというかもしれない。●子供は教育次第でどのようにも育つものだとは言えない。抗いがたい人の資質というものもあるように思う。従って、親の教育方針の誤りを安易に批判できるものではない。●親は自分なりの方法で子供によかれと思って、精一杯やってききたのかもしれない。親にとって、子供から何故憎しみを買わなければならないかは理解できないことが多いのではないかと思う。●理由や原因がなんであれ、親子間で憎みあう感情が生まれるようであれば、男女関係と同様に同居や付き合いを避けた方が良い。とはいっても親は容易に子供への「希望」を捨てられない。●親の主観的愛情が子供にとって親への憎しみを増幅させるだけになる。愛情は常に主観的なものである。●憎しみの感情は、時間が癒すこともあれば、本人の反省によって消えることもある。■原因●心の問題に万能薬はないが、このような親子間での問題の大半は、次の2つが原因になっているのではないかと思う。(1) 産みの親=育ての親となっていること・つまり、産みの親が育ての親として相応しくないにも拘らず、育ての親になっていることである。・子供は最も望ましい養育者によって育てられる必要がある。(2) 子供が経済的に自立できないこと・子供が親の経済力の下にあることが親への服従の原因である。・子供の養育義務は子供の支配と一体である。・家族制度や財産の相続制度とも関係している。■未来社会での対策●このような親子の悲劇が起こらないようにするため、私の考える未来社会では次のようなシステムを用意している。(1) 基本配当システム・稼ぎ(授権配当)が無い人に支給される生活保障資金のことである。子供は生まれながらにして自身の養育費の所有者である。・本人にこの配当の管理能力が無い場合(乳幼児や痴呆症老人など)には、保護者(親とは限らない)が管理する。・保護者は本人が選定することが原則であるが、本人に保護者の選定能力が無い場合は第三者(民生委員のような人達)の推薦に基づき法定が保護者を決定する。・一般には両親が子供の配当管理者であり、養育者ではあるが、本人や第三者の訴えによってこれらの権利を剥奪されることがあるということである。(2) 親の勘当・子供は、虐待する親や自身の選択の自由を奪う親を勘当(配当管理や養育の拒否)できる。・本人に人格的に自立していない場合には、第三者が本人に成り代わって親を勘当する。(3) 育ての親の紹介制度・両親以外の育ての親(里親)や養育環境を選べる。・本人が人格的に自立していない場合には、第三者がこれを支援する。(4) カウンセリングシステム・親子関係、男女関係を含めて様々なカウンセリングシステムが用意されている。・相性診断、性格診断システムなどもある。(5) 立場置換トレーニング・保護者と庇護者、健常者と身障者、上司と部下、苛める側と苛められる側など、立場を入れ替えて相手の心情を知るための体験するトレーニングで、人生の折り目節目に体験することを推奨されている。●人にとって選択の自由(他人の選択の自由を尊重するということ)こそが至上の価値であるかもしれない。●自分の生活環境としての共同生活の場の選択の自由もある。共同生活の場とは、血族関係(核家族、大家族)、恋愛関係、思想・信条を同じくするグループなどのことであり、相手やグループの同意によって、共同生活に入ることができる。●下記にこれらに関連した説明があります。◆経済の仕組み◆家族関係◆教育
July 13, 2006
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●『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』(日本経済評論者:中村修)を読んでみた。●はしがきは、次の文章で始まる。 経済学者に対する素朴な疑問があった。 地球環境の時代を迎えているにもかかわらず、多くの経済学者はあいかわらず経済成長を求め、論じている。しかし、彼らは成長のための資源やエネルギーという具体的根拠を示すことはない。さらに、成長がどこまで続くのか、いつまで続くのかという限界を示すこともない。 これはとても不思議なことであった。 ということであるが、私には「不思議なこと」とは思えなかったので違和感を覚えた。●経済学の定義がどのようになっているのかは知らないが、経済学とはどのようなものであれ「お金に換算できないものは経済学の対象にはなりようがない」と考えていたからであり、このようなものでしかないと思っていたからである。経済学に一体何を期待しているのだろうか…と?●経済学者に、「地球環境や持続可能な社会のために、生産コストとして(自らの直接利益にならない)資源や環境の回復費用を組み込むべきである」なんてことを言っても仕方がない。提言するのであれば、経済学者ではなく政治家に言うのならばまだしも…であるが。●自然を無限ととらえる経済学に対して、「環境経済学」とか「厚生経済学」と言われる経済学が社会的損失とか社会的費用とかを持ち込もうしているとのことである。●経済主体が考えていないものを組み込もうというのである。利潤追求に明け暮れる企業が、自ら進んでこんなことをする訳がない。これは、経済学の話ではなく、政治や社会システムのありかたの話である。●予想どおり、後半になって「政治経済学」の話が登場してくる。 宮本(憲一)の経済体制論では、例えば、工場での廃棄物の発生において、その垂れ流しを許さない社会構造(人権の確立、整備された法律、言論の自由など)があれば、廃棄物は処理され自然破壊の発生は抑えられる。一方、言論の自由や人権が無視される社では、自然破壊がひきおこされる可能性が高い、と考える。 経済学の問題ではなく、税制などの政治や社会システムの問題に他ならないではないか!●義務化されていないのに、「社会的費用を負担しろ」といっても企業がするわけがない。資源の回復費用や廃棄物処理費用の負担が立法化されれば、企業はやむなくこれらを費用として組み込むことになる。結果として経済学でもこれらを費用として組み込むことになる。●この本でも述べているように、 石油を採掘し、ガソリンを「生産」しても、それは単なる消費にすぎない。石油や石炭を燃やして電気を「生産」しても、それも地球の資源の消費にすぎない。 企業経営が中心のアメリカの大型農場では、投下した資本を短期間で回収することが農場経営の必要条件である。ここでは、長期的な視点での地力の維持は問題ではない。利潤が全てを決定する。 ような社会の仕組みの方が問題ではないのでしょうか?●ローマ・クラブの『成長の限界』(1972年出版)は経済学ではない。非常に荒っぽい方法ではあったが、システム・ダイナミックスによる予測になっていたではないか。●ニュートン力学的な「劣化しない無限の自然」を仮定した経済モデルではなく、熱力学的制約からの「劣化する有限の自然」という観点から、「経済学」に対してつぎのような提案がなされている。 1.自然は有限であり、それゆえ商品も経済活動も経済成長も有限である。 2.経済活動においてエントロピーは増大し自然は劣化する。地球が捨てるエントロピーは有限であるため、持続的な生命活動は、地球が捨てるエントロピーの範囲内に限られる。 3.利用可能なエネルギーは有限であるため、生産した以上のエネルギーを消費することはできない。 4.物質も有限であるため、持続的な生存のためには物質を循環させる必要がある。●内容自体には異論は無いが、「経済学」に提案したって詮方ないことである。経済学を枠組みを越えた内容だからである。それと、わざわざニュートン力学や熱力学を持ち出して対比することに特別な意味があるようには思えないか…。●地球環境問題の解決は「経済学が自然を無限と捉えているから」ということとは無関係である。経済学は、現実の経済システムが反映されたものであり、実態経済があたかも自然を無限と捉えていることの反映にすぎない。問題にすべきなのは、実態の経済システムのほうであって、経済学ではない。●現代経済・社会システムには、地球環境を破壊するメカニズムが働いている。人間はこのメカニズムに支配されている。経済学に拘らずに、地球環境問題が起きるメカニズムや必然性を明らかにして頂きたいものである。●結論から言うと、地球環境問題は、内部経済と外部経済に分かれる経済システム、私有財産制度、国境、利潤追求動機の資本主義経済システムが原因で起きているのではないだろうか?●これらの原因を除去できない現状では、強力な立法措置しかないのではなかろうか?●ゲゼルの提案(自由土地や自由貨幣)についても、「経済・社会の仕組みが間違っている」ことを指摘する声が小さくなって「地域通貨」に収斂している。経済から環境問題を扱うのは結構なことではあるが、こちらも「経済学批判」に終始し、現実世界の仕組みの批判についてはトーンダウンするのではないかと危惧している。●環境問題の原因は「資本主義、国境や相続制度」に原因があるなんてことを主張するのは「学者」でいるうちは…「過激思想の持ち主」と見られることを恐れるからでしょうか…なんて失礼なことを考えています。●原材料は生産過程を経て商品になるが、同時に原材料は生産過程を経て廃棄物になり、エネルギー資源は生産過程を経て排気ガスや廃熱になる。●従って、生産・消費の全てのプロセスをこのような自然資源の消費過程、環境への廃棄の観点から生産をとらえる必要がある。●要は、お金の循環と同様に全ての自然資源の循環をトレース可能なように計測する必要があるということである。●持続可能な社会システムは太陽の恵みとしてのエネルギー(フロー)の活用以上のエネルギーを消費してはならない。つまり化石燃料(ストック)などは消費してはならない。有限な地球環境の下で、物財に関する無限の経済成長なんてものはありえない。●このためには、鉱物の採掘、森林の伐採、動植物の狩猟・採取、大量の水や空気の消費、化石燃料の消費などを世界規模で管理する必要がある。●現代から未来社会にかけて地球温暖化や人口爆発は深刻な地球環境問題になる。資源の再生・回復・リサイクルのシステム化の中に経済システムは組み込まれなければならない。●そのためには、内部経済と外部経済、自国と他国、自分の資産と他人の資産の境界を全て撤廃する必要がある。●人間的・自然的な未来社会では、ローマ・クラブが意図したようなワールド・ダイナミックスは、 ・人間を含めた生態系の管理 ・3次元GIS(地理情報システム)などによる資源の採取と復元管理 ・地球環境のモニタリングとシミュレーション機能 ・全ての生産・消費プロセスでの入力(原材料、エネルーギー資源、労働力)と出力(生産物と廃棄物)の数量把握 ・人や組織間のお金の流れ などをトータル管理できるようなシステムになるのではなかろうか?
July 8, 2006
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●「相対性理論が誤り」だとする下記の2冊の本も読んでみた。『「相対論」はやはり間違っていた』での窪田登司さんの「相対論は崩壊する」は非常に分かり易かった。●既に、素人ながら、私は「相対性理論は完璧に間違いである」と確信している。●これらの本は10年以上前に出版されたものである。 ◆「相対論」はやはり間違っていた ◆科学をダメにした7つの欺瞞●従って、私の驚きは「こんなにも明瞭に間違っている理論が、何故、未だに、世界中にまかり通っているのか」ということである。●物理学者の多くが、「巷では相対性理論は間違い」と思っているらしいとの話も出ている。●自然科学は社会科学と違って、2×2=4の世界だから、アインシュタインだろうが、誰であろうが間違いは間違いの筈だと思うのであるが、どうもそうではないらしい。●信じられないことであるが、一度、神様になったアインシュタインの理論は「神聖にして犯すべからざるもの」のようである。
July 3, 2006
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