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テーマ: 戦ふ日本刀(97)
カテゴリ: 戦ふ日本刀

陣中の天長節

 四月二十八日、晴れ、なかなか激戦の模様だ。
大砲の音で地ひびきをたてている。
(中略)今夜の砲撃はものすごい。地ひびきがまるで地震のようだ。
相当に死傷者も出たことであろう。砲弾は近くにも落ちて炸裂する。
 四月二十九日、晴れ、今日はこれ天長節だ。
午前中四振の修理、◯◯本部へ行って修理する。
となりの第三野戦病院からも持ってくる。
本部は忙しい。前線から刻々と通報が来る。
支那兵もなかなかガンバルらしい。今度の奴らは容易に逃げないという。
だが、敵の敗色は薄すりと見えてきたそうだ。
今が最後の五分間というところらしい。
 例の日章旗を持って前野部隊長の署名を乞うた。
その旗を前の石榴の植木につるして、戦地奉祝一片の赤心をあらわす。
(中略)お酒、祝天長節とレッテルのはった鯛その他口取りの罐詰、
お赤飯、焼き豚の料理が下給され、隣室の兵舎で祝賀宴だ。
折柄打ち出す彼我の砲声も、時にとっての祝砲と聞き、盃を上げて陛下の万歳を三唱した。

 あきつ神あれましし日をことごぐとたまにとぶ庭に集ひけるかも

 あきつ神あれましし日をこの國のいくさの庭にことほぎまつる

 大づつのとどろにひびくこの庭にとよ酒〔みき〕あげてばんざいとなう

 四月二十二日、済南出発以来、女の姿というものを見ない。
棗荘、蘭陵鎮には、老婆さえいない。
男だけの世界、それも国防色一色の世界だ。それでいてなごやかなものだ。
 こうした切迫した所では、故国の事、家の事、そうした事はあまり浮かんでこない。
ただ目前の自己の任務関係を考えるだけだ。
もっと前線では、ただ鉄砲を打つ事、進撃する事、それだけという。
ツグ坊の写真を出して見るのもごくまれになった。
ただ心配なのは勝敗それ一事だ。
あれほど見たかった新聞や手紙さえも、それもさほど欲しくはなくなった。
ただ大砲の音が気にかかる。皆寄るとさわると、最前線の動静の話ばかりだ。
 こうした場所では、人間はただ実力だけに還元されて帰一されてしまう。
家柄がどうの、背景がどうの、そんな事は問題ではない。
ただ智力体力の大きな合一体のその一分子として働くのみだ。
(中略)このごろは、死、そんな事に対して恐怖も何も感じない。
さりとて死のうとも思わない。
死、生、そうしたものの区別を考えなくなった。だから平気で歩く。
國で楽をしている人たちの事を羨ましくも思わぬと兵隊はいう。
事実その通り。そうした事が考えにも上がって来ないのが不思議だ。
(日記より)


 自分は、明日いよいよ前線へ出る命令を受けているので、
せめて今日半日はゆっくり休もうと、居室に引きこもっていると、
午後になってから隣室の下士官連中から引っ張り出されてしまった。
「四方八方の敵の中でさ、こうやって奉祝のできるのはさ、考えてみろ、
男子一代の本懐じゃないか。ソラ飲め。命令だぞッ。」
もうかなり廻っている曹長が、若い伍長に大盃(といっても牛肉の空罐でつくった)をさす。
伍長はもう飲めないという。
飲めなければ始末書を書け。
何が始末書だって、貴様國におりゃ分署長だろうが、ここじゃひら曹長だぞ。
と別の曹長が やゆ する。
ひら曹長でも上官は上官、我らの生涯に二度とない今日の奉祝の酒だから、
命令をもって飲ませるに不思議があるが、
マ、何でもいいや、そんなら伍長お酌しろ。
いい機嫌である。
 自分は中央に席を与えれられ、祝盃の一斉射撃を受け、
同じ棟に住む最年長者という理由で、陛下の万歳三唱の音頭をとらされた。
こんなにヘベレケに酔っていても、いざ万歳となると、
上衣のボタンをちゃんとはめて、瞬間シンとなる。
そこへ前野部隊長が入ってきた。皆直立して挙手注目する。
「いや、おめでとう。景気じゃな。たくさん飲め。」
「ハイッ、たくさんのむであります。」
と始終黙って一隅でチビチビやっていた無口らしい軍曹が、
突然起立して大声でこういったので、みんなびっくりしてしまった。
 よいあんばいにここを抜け出して自室に帰ると、今度は奥の将校の宴席から、
二度目だといって兵隊が迎えに来た。
ここでは携帯蓄音機に、『露営の歌』のレコードをかけ、
主計少尉がタクトをとって合掌している。
やっぱりかなり廻っていると見えて、呂律の廻らぬ歌声、頓狂な調子はずれも混じって、
一通り終わると、一人の八字髭の少尉が、
 東洋平和のためならばァ、か、何アんで命が惜しかろうゥ、何で命が惜しからゥ……
 と独唱し、感無量の面持ちで、眼をつぶる。
そのすると、その隣りの巨人大尉が、われ鐘のようなバスで号令のように、
「何アんで命が惜しかろう ゥ……さァ、万歳の前に臼砲式乾盃の予行演習だ。用意。」
砲兵の襟章をつけたこの大尉の、臼砲式乾盃というのは、
盃をあげて飲みほした瞬間に、臼砲のごとく、くるっと盃の口を向け合い、
その中に一滴も残っていないことを示し合うのであって、
正九十度の角度に向けなければならないのだ。
ここの盃は、小さいとはいえコップで、これでたてつづけに五回やらされて、
自分もかなり酩酊してしまった。
 この時、裏の方で、ダン、ダダン、と我が砲兵の陣地から射撃が開始され、
その地ひびきで、コップの酒に波をうった。
つづいて、陛下の万歳を三唱し、さらに三回臼砲式をくりかえして宴を閉じ、
各自の宿舎に引きあげた。
 自分は蹌踉〔そうろう〕として室に帰ってみると、前庭に兵隊が◯◯名ほど整別している。
皆武装だ。今のさき大分酔っぱらっていた分署長の曹長も加わっている。
言葉をかけると、
「夜行軍で胡山の線に出ます。◯◯の先発です。」という。
顔の色はまだ赤いが、挙措〔きょそ〕はがっちりしている。
兵隊もみないい顔色だ。
夕闇の深くなるに従って、砲声はだんだんものすごく小刻みになってくる。
そこへ感慨無量の声で歌った八字髭の少尉が、これも武装で来た。指揮官らしい。
 あわただしい空気がただよっている。
室に入ると、間もなく命令の伝達らしく、少尉の復唱する声が聞こえてくる。
自分もこうはしていられないという気分になって、
ろうそくの灯の下で明日前進の工具その他を揃えながら点検した。
 自分は今日ここで恩賜の煙草を拝受した。
手渡してくれたのは、ここへ来てから第一番目に呢懇になった吉森特務兵で、
東京日日新聞の社員である。
その夜おそくまで雑談していった。
特務兵は新婚匆々出征したものであるが、
「だんだん前線へ出てくると不思議に思慕の情が薄らいできた。諦めかもしれぬ。
その代わり喰う事眠る事では餓鬼の塊となってしまった。
すべての欲望がただ食欲に変換したらしい。
大分物を忘れたし、また複雑な事を考えるのが嫌にもなった。」
と述懐した。この心持ちは、おそらく純な告白であろう。
 自分は、年のかげんか食欲は減っているが、
それでも三度の食事の待たれる事は家にいた時の比ではなく、
茶飯のような麦飯、どぶ泥のような味噌汁、
肥料にするような干し魚、馬糧のような干し野菜でも、
腹を満たす事のできる日は満足して眠れた。
それから趣味というものであるが、自分のような場合には、
まったく作業に集中されてしまう。
いわゆる刀剣趣味というやつではなくて、
損傷した軍刀を修理する事それ自体が趣味となってしまうので、
山ほど積まれても決していやな気持ちにはならない。
給料ももらわず料金も取らない仕事をしながら、それが一つの純な楽しみである事は、
一つの戦争心理であるかもしれない。
それだから、修理工具、すなわち二十種類に近い小道具というようなものまでが、
國にいては考えられない一種の楽しみ、
ちょうど愛する小動物にでも対するような親しみを感じてきて、
作業の余暇などに、その工具を大小の順に並べながら、見入る事がしばしばあった。
そうしている所へある時部隊長が見えて
「君やァええ おもちゃ をたくさんもっとるで楽しみぢゃのう。」
といわれた事があったが、
その時、自分の本当の心持ちを現認してくれたような気がしてうれしかった。
 吉森特務兵が帰ってから、修理工具を出して順々に袋におさめた時、
『前進だ修理工具を覚悟せよ』という一句が不意に出てきた。
はてな、同じような句があったっけなと考えているうちに、
数日前、西大條部隊の戦死した兵隊のポケットから、煙草の空箱に鉛筆で書いた
『突貫だ襟の虱も覚悟せよ』という句の出た話を思い出した。





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Last updated  2016年11月29日 03時08分47秒


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