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開封入城 翌日は早起きした。農家の主人がにこにこして、庭の掃除をしている。支那人がホウキを持っているのさえ珍しい事だ。そんな事をいっていると、誰かが、「村からして掃街だぞ。」という。なるほどなるほど。自分は昨日みなで食った南京豆の代金として、五十銭を主人に渡したがとらない。そこへ主計さんが来て、宿料一人頭七銭の割で若干の金を渡した。主人公は目をパチクリさせて、一向に解せないという顔を、通訳が来て大きく頷かせた。 街々の人々は、開闢〔かいびゃく〕以来の珍客から、宿銭までもらったせいか、総動員で我々の進発を見送る。時に午前九時だ。街を出ぬけ土塀を越え、豆と黍畑の間を進む。我々の自動車は各隊と別れて、別の道をたった三台で進む。心細い事で、しかも、その中の一台が一町行っては故障を起こし二町行っては止まるという有様で、歩いた方が早そうにさえ思えた。 ある部落についた。杏の木の多い五、六十戸の村だ。人気もよさそうなので、我々はここで昼食をとる事にした。昼食は豊富である。イワシの罐詰が一人一個ずつ。コンペイトウ一袋ずつ。これが今朝出がけに渡ったのだ。村民は総出で接待に来た。大きなヤカンに湯をいっぱい入れて来る。せんべいの出来そこないのようなものを持ってきて、毒見をしては我々にも食えという。大へんな歓待だ。子供がウヨウヨ集ってくる。 我々は残飯と、罐詰の大部分を彼らにやった。差し引きの利得はもちろん彼らにあった。こうした彼らの歓待は、それが心中いかようであろうとも、我々には無性に嬉しかった。結局、今朝もらったコンペイトウの大部分も、群がり集まってきた村童の手に帰したのだった。 道ばたからちょっと這入ったところには、めずらしくお寺があった。道から土塀のついた山門のようなものをくぐって這入ると、屋根の低い本堂があって、真っ黒な仏様が幾体も棚の上にころがっており、亜中央には阿彌陀仏が手を合わせてござる。これも真っ黒である。そこには、どこからか避難してきているらしい男女の老人と、児童が四、五人ごろごろしている。隅っこに恐ろしく大きな板様のものが斜めに立てかけてあって、なにか朱色や緑青〔ろくしょう〕の文字が彫ってあるので、めずらしく思いながら行って起こして見ると、その陰から「フアフア」といって飛び出したものがある。黒い布で顔をかくしている。自分は思わず佩刀に手をかけた。一人の老婆が横から自分の手にしがみつく。刀を抜かせまいとするのだ。しまった、と瞬間そう思ったとたんに、また一人黒い覆面の者が飛び出した。二人とも、声を立てて、しかし小さい声で泣き出した。女だ、若い女だ。自分は老人たちに、安心しろ、女どもをもとのところへ戻せと、手まねで示した。うなずいた老人たちは、なにか二人の女にささやいた。泣き声ははたとやんで、またもとの板の陰へかくれる。自分が寺を出る時、手を合わせていたのは、仏様ばかりではなかった。 すぐ自動車は出発した。 林間に池のある部落へつく。土粕溝という村で、ここから開封城までは南へわずかに一里、今夜はここに泊まるのだという。もう戦争は始まっているらしく、ドカンドカンと音がしてくる。今日の宿舎は、中門のある外見だけは立派な家だ。すぐ夜になった。今夜は石井少佐と同室で、寝室は相対している。 庭に出てみると、薄明るい空に繋留気球が黒く高く上がっている。砲声は殷々〔いんいん〕として聞こえてくる。部長から夕食にせいという使いが来たので、行ってみると、かなりな御機嫌で「もう開封は落ちたも同然だから、前祝いだ、今夜の酒は腐ってはおらんぞ」という。酒の肴はめずらしい事に、ニンニクをらっきょう漬けにしたようなものだ。牛肉の罐詰も出る。部長の酒の肴の話は、今宵はおそろしく専門的なのである。大要はこうだ。 先日分捕った敵の戦車は◯◯製であるが、外側の製法が、日本刀と同じく、剛軟組み合わせの鉄板である。日本刀は折れないように工夫されたものであるのだが、これは弾丸の透らないためなのだ。陣中で実弾試験をしてみて驚いた、というのである。 室に戻ったのは八時半ごろで、折から吹き出した南風に乗ってくるらしいただならぬどよめきの気配に、ハッと思って緊張する。それに交じって、砲声銃声がはげしく聞こえてくる。ちょうどその時刻に、北門から遠山部隊、東門から横山部隊が突入したのであった事は後で知られた。 十時ごろに、『只今開封城は陥落せり。』 という報告が来た。部長はすぐ出て行った。「案外脆かったね」。「いや、相当犠牲も出ているよ。」「北門はすごかったそうだね。」「それだよ。あの突撃ぶりではただ事ではなかったらしいぞ。」 こんな会話の声だけが、外から聞こえてきた。 すると一人の兵隊がバタバタやって来た。「一番乗りは海野隊だそうであります。」 こんな声がする。ハッと飛び起きた。海野隊といえば、あの道口鎮以来懇意になって、共に追及して来た海野部隊長が隊長であろう。自分は、やにわに部長の室に飛び込んだ。部長は見えなかったが、もう冷えている酒の半分ほど残った水筒と牛罐とが先刻のままそこの机の上に置かれてあった。「部長殿いただきます。」自分はそれを取って汲々と湯呑につぎ、一人で祝盃をあげた。部長の当番兵が覗きに来てこの有様を見、「もっとつけますか。」といった。自分は居直った。「では折角だから半分たのみます。」 その夜は上陸以来の酩酊をして、ぐっすり寝てしまった。 翌朝目が覚めたのは、八時。起きて飯を食うか食わぬに、出発入城だという。大慌てに準備して、今日はトラックの助手台に乗った。病曹長も大分元気になって、ひとりでどんどん歩いている。部長は馬上で出発だ。自分の顔をみるといった。「昨夜どさくさまぎれに酒泥棒が這入ってのう。ワッハッハ。」 自動車は、砂まじりの黄土の畑の間を廻りくねって行った。畑のはるか南に、高い古塔が見える。そこが開封だという。 ある部落には昨夜の戦争の◯◯本部があった。負傷兵が、前方から担架でまたは馬車で、続々と運ばれてくる。 自分らの自動車は、ある林の中に来た。ここは砲兵陣地で、警備兵二、三名と共に大砲は置いたままで、二間四方位の四角な穴の中に、兵隊がつかれきって眠っている。 ここを過ぎると、遠く城壁が見えてきた。近づくにしたがって、城壁と同じ高さの砂丘が、外輪山のごとくつらなっている。道の外側に、鉄兜をかぶった敵の正規兵が一人、真っ赤に焼けただれて死んでいるのが目につく。やがて北門に到着したのである。 自動車は、なだらかな砂丘の上で一旦とまった。下車してみると、直径二尺五寸ぐらいの穴があっちこっちにあいている。ここは敵の地雷火の爆発した跡で、我が兵がだいぶんやられたという。機関銃の薬莢が落ちている。砲弾の破片が飛び散っている。惨憺たるものだ。そこの砂丘を下りて門の入り口のちょっと手前で下車した。警備している兵、アンペラを敷いて眠っている兵、城門城壁のあちこちには、砲弾で欠け落ちた跡が赤黒い。 イタリー人が三人、宣教師であろう、黒い長いガウン様のものを着用、日伊両國旗をもって歓迎に来ている。我々に対して無茶苦茶に握手する。 北門の外、右側に大きな穀倉がある。その垣根を破って、城内から殺到した老若男女が盛んに穀物を盗んでいる。皇軍が来て間もないその中へ這入ってきて、しかもその直前で図々しく盗みを働く支那人の赤裸々の姿。中には纏足〔てんそく〕した弱々しい女の身で、何かの叺〔かます〕をかついでゆく。そこへ城内に行った石井少佐が帰ってきてこの有り様を眺め、「断乎禁止してしまえ」 という命令を下したので、兵隊はそれをさえぎり止めようとしたが、欲にかけては目のない國民だ、兵隊を押しのけ押しのけなおも這入ろうとする。ついに一人は牛蒡剣を抜いて、「畜生ッ、やめないかッ。」と叫んだ。これで、さすがに寄ってくる者がなかったが、今度は、道々に落ちている穀物の粒を拾いはじめた。私欲、盗みの権化、そうした方面では実に根強い恐ろしい民族である。 城門前にはだんだん自動車が集まってきた。みな揃ってしづじづと入城した。こころよい風が吹いて、草木がなびいている。城門に入ると、両側の道路には市民が出て、あやしげなにわかづくりの日の丸の旗を振っている。 左側には、遠くから見えたあの古塔が、天高くそそり立って、折からの微風に、各階の屋根の大風鈴の、カラロンカラロンと心地よく鳴るのが、かすかに聞こえてくる。 我々の心は踊った。市街の中央と覚しきあたりを左折すると、その辺は、両側に歩道のあるコンクリート道路、左に警察公署、右にキリスト教会堂のあるところで、自動車は停まった。 教会堂の屋根には、大きな米國旗が高く翻っている。その門前に、でっぷり肥った五十ぐらいの米國婦人が一人、使用人らしい二人の支那人と、日本の國旗ももたずに素手で立っている。いかにも傲岸不遜の態度であるのがいささか癪〔しゃく〕にさわった。 門の内はなんとなくざわめいていた。よくみると、米國旗にたよって、あまたの若い姑娘が、ここの奥に避難してきているのだ。 そうこうしているうちに再び出発した。太平洋飯店という大きな料理店で、湯だけもらって昼食をした。道路の東西に通じた大道、時計台のある大きな門の通りの旅舎に兵器部は一旦落ちつく事となった。皇軍は北から東から陸続〔りくぞく〕と這入ってきて、コンクリート造りの近代的大都心の各所に分宿する。 自分の室は、十畳敷きぐらいの、広い通路に面した一室で、寝台に横になるなりもう動けなかった。気のゆるみと疲れのためである。そうした状態が次の日まで続いた。兵隊もそうであるらしい。すぐ前の開封一という大きな風呂屋へ行った。一階は兵、二階は下士官、三階は将校以上、三階の入浴料は物価の安い支那の貨幣で三十銭だ。苦力なら一日の賃金である。 翌日は、半町ほど西へ寄った金臺旅館へ宿がえである。今度は獣医部と同居だ。当所一流のホテルで、自分の室は特等室、紫檀のような帳台式の寝室、大きな姿見鏡のついた洋服ダンス、高さ三尺もありそうな日本製九谷焼の大花瓶、厚いガラス板の置いてあるテーブル、安楽椅子、客用椅子数個、広さは約八坪で、従者用の諸道具まで置いてある。それに、強い光の電燈もつく。大道に面して、鉄製の手すりのついたバルコニーもある。ついこの頃までは、肥料小屋のようなところに住み、ロウソクか種油のカンテラかで暮らしてきた乞食が、一夜にしてこうした大名生活となったのだ。 間口のわりに奥行きの深い、室の多い旅館で、兵隊はそれぞれの一室を割り当てられ、寄せ集めの小道具やら、くたくたになった祖国からの絵葉書やらを飾りたてている。例の黒澤特務一等兵は、ひとり階段の上り口の一室を占領して、立派なテーブルに倚〔よ〕り何かすてきもない考案でもめぐらしているらしく、奥の超特務室は石井部長で、部屋づきのオルガンが一台置いてある。さっそく部長指揮の下に、岡島少佐が愛國行進曲を奏でている。どこもここも朗らかな、湧き上がるような気分だ。入城気分とでもいうべきものであろう。 軍刀修理工場開設命令が出たのは、七日の夕方であった。今度は、ほとんど全部の隊がここに集っているので、相当の忙しさを見込んで、遠山部隊の山浦木工伍長ほか一名を、助手としてつけてもらった。 修理室は、この豪勢な室の一隅に設けた。 昼食後、修理刀のトラックが来た。三人の兵隊が、柄の折れたの、鞘ごと曲がったの、種々雑多な破損軍刀を、この一室の予備寝台の上に積み上げた。さらにもう一台来るらしい口吻〔こうふん〕であった。どしどし来てくれ。これからが自分の本領だ。兵隊はここで一休養だというのに、反対に自分は今日から大多忙の熱閙〔ねっとう〕を味わうのである。でも、なんとなく愉快でたまらなかった。自分は、夕食の来る間を、バルコニーに出て、愛國行進曲やら露営の歌やらを口笛で歌った。( 終 )
2017年06月16日
開封へ 砲撃は次第に遠のいた。敵は総崩れらしいという。事務室へ行ってみると、徹宵〔てっしょう〕兵器弾薬補給連絡の事務をとって、一睡もしなかった戸室准尉の目が赤い。准尉は言った。「敵は総潰走だ。味方は総追撃だ。一挙に開封まで押しかけるかも知れん。」 人々の面上にはおおいきれぬ喜びがかくせなかった。 部長も出てきた。「工場は午前限り閉鎖して、出発の用意をする事。」 どこもここも明朗になってきた。 釜田曹長の佩刀は、古様式の日本刀をそのまま皮革の袋に入れたものである。過ぎる隴海〔ろうかい〕線遮断の激戦で、柄は折れ、惨憺たるものとなって、病床の枕もとに立ててある。 今日、工場閉鎖を前にして、せめてこの地に同居した記念にと、柄の新調に取りかかったが、材料もなく道具も完備していない。致し方なく、弾丸箱のこわれたのを削り、これを切り出してえぐり、木ヤスリで磨って、ともかくも柄木をつくり、鮫皮の代わりにズックを張りつけ、柄絲を巻いて“使用できる程度の物”を造った。これが、病曹長と一週間の起居を共にした自分の、せめてもの心やりであった。 石井部長の佩刀を手始めに、釜田曹長のを最後に、この歴史的な大包囲陣中に修理した日本刀の数は九十振であった。 夜ふかくわが砲兵のうつたまのこだま聞きつつ刀つくらふ この朝けたちゆく兵の靴の音に目ざめてわれは刀つくらふ 正午限り工場を閉鎖した。それから、工具材料を片づけ、雑嚢に仕舞い込むまでの所要時間わずかに四十五分。これで敵前軍刀修理工場を閉鎖し終わったのである。 昭和十三年五月三十日第九時河南省蘭封縣黄庄ニ於テ軍刀修理工場ヲ開設シ同年六月三日第十二時四十五分之ヲ閉鎖セリ。軍刀修理箇数総計九十振。以上。 これが修理の報告である。 もう砲弾は一つも落下してこなかった。砲声は、遠くの方から、時々思い出したようにドーンと響いてくる。 偵察機上から見た状況が、通信筒で落下された。それによれば、潰走した敵の遺棄死体が、ちょうどサンマの陸上げのように続いて見えているという。 午後からは、どこもここも出発準備の荷造りで忙しかった。東方から来る部隊が、下の道を通って西へ西へと前進してゆく。 夕食の折には、珍しくキュウリがついた。それも二寸ぐらいの一かけらであった。黄いろい岩塩をつけて、拇指の先ぐらいのをうまそうにかじった。 夜はまだ雨が降った。銃の音一つせぬしんとした夜であった。兵隊は手紙一枚書かない。みなポカンとしている。あまり甚だしい急激な環境の変化で、かえって落ちつけないのである。 朝になっても雨はやまなかった。兵器部全部の荷物を◯台の貨物自動車に積み込む。別に乗用車中の一台は、自分と病曹長にあてられた。 例の小柄の特務兵は、それの運転手であった。「自分は黒澤輜重〔しちょう〕特務兵一等兵であります。」 姓名をたずねると、こう言って挙手をした。ただ嬉しいのだ。今までどこに隠れていたのか、乞食のような恰好をした老若の土民が、さながら地の中から湧き出〔い〕ででもしたように、あちこちから集まってきた。手に手にザル様の容器をもって、各隊の出発したあとから、空き壜空き缶といわず古シャツ古手拭い、なんでもかんでも拾い込んで廻っている。 歩兵隊が行く。輜重隊の車が行く。安藤少尉が馬上で行く。自分の方を見て、何度も何度も手を挙げた。自分も帽子を振った。どこもここも順次出発だ。自分らに出発準備の命令が出たのは、十時半であった。小降りになった中を自動車に乗る。病める釜田曹長も、今日は軍装をして長い日本刀を吊っている。兵隊と自分とで、両方からかかえるようにして車に乗せてやった。 わずか一週間住んだだけの地ではあるが、一度はここの土になりかけた自分らである。なんとなく名残惜しいような、後ろ髪を引かれるような気がされて、幾度も幾度も振り返っては眺め廻した。 泥濘の道を進む。黒澤特務兵は、器用に巧妙にその中を運転してゆく。砲車や他の先行自動車で、悪い道がなおさら悪くなっている。時々深い凹地〔くぼち〕にめり込むと、みな下車して押したり、綱で引っぱったりして進む。敵の歩兵が集結していたという西の部落に這入った。彼らが逃げる時放っていった火で、家という家が残らず焼け、まだ盛んに燃えている所もあった。黒い煙、白い煙が混ざってもくもくとたちのぼっている。 もう雨はやんでいる。敵の掘ってまだ間もないような、真新しい塹壕が、あっちこっちに見えている。先行した工兵隊は、巧妙に地雷火を発見して、目じるしの小さい白い旗をその部分に立ててあった。「開封へ、開封へ。」 誰も彼もがこう言っている。河南省の首府人口三十万の開封城攻略が今日からの新しい目標であるのだ。はるか南の方に堤防のようなものがある。双眼鏡で見れば、敵の死屍が累々として埋めつくしている。近寄るにしたがって、それが肉眼で見える。雲が破れて、太陽が明るく照り出した。砂原のような所で小休止である。 後方から一隊の馬上隊が来る。近づくのを見ると、それは本隊本部で、騎馬衞兵なみに歩兵に護衛された土肥原部隊長及びその幕僚である。 みな立った。直立不動の姿勢で挙手注目する。部隊長もその他も軽く答礼して過ぎる。放胆無比な部隊長が、はるかに河南省の首都開封城を睨んで進む沈毅果敢な雄姿が、諸幕僚の颯爽〔さっそう〕たる威風を背景に、鑞銀像のごとく輝いて見えた。 それから三十分ほどして進発命令が出た。 自動車は、少し入っては停まる。我らと相前後して、豆戦車が◯台行く。警備のためである。もう敵は一人もおらない。逃げ足の早いのは、ただ驚くほかなしである。 大きな土手に出た。急角度で坂を上るのだ。自動車はありったけの力で驀進する。二度も三度もやり直しをしてようやく土手を越えるのもある。下ると広い砂原で、ところどころに大小の砂丘が見えている。あちらこちらに部落があって、畑には南京豆や黍の葉が茂っている。この砂原で昼食をとった。友軍の飛行機が来て通信筒を落としたり吊り上げたりしている。行っては、また来る。どこかとの大きい連絡らしい。 後で聞いた事だが、徐州陥落後、◯◯部隊が隴海線の南方を急進して、我が部隊を包囲している支那軍の背後に出た。それまでの間巧みに引きつけるだけ敵を引きつけておいて、我が方は◯◯部隊と呼応して、一斉に撃ったのだという。我が軍の損害も相当にあったが、敵は総崩れで、その上死傷何万というを知らず、まったく這々〔ほうほう〕の態〔てい〕で逃げ延び、一部は開封へ遁入したのである。 やがてそこを出発した。はるか向こうに、大きな土塀で囲まれた町が見える。掃街という農村の大きなやつである。南から土塀の崩れたところを上って下りる。土塀の上には機関銃座をつくり、あちこちに塹壕が掘ってあり、さらにそれらの上を木の葉のついた枝などでカムフラーヂュしてある。敵はここで皇軍を食い止めるつもりですっかり準備したらしく、こうした設備を一度も使用せずに逃げてしまったのであった。 街々からは、菜っ葉やネギがたくさんに発見された。それに、豚や鶏も相当手に入ったらしかった。ここ三十日間、麦飯と実のない粉味噌汁ばかりで悲鳴をあげていたので、こうしたものを見ただけで、みな歓声をあげていた。時間は午後三時半であるが、本日はここに一泊という事になり、宿舎は町の中ほど、見張りの望楼まである農家ときまった。 飯と野菜と肉をうんと食って、薄暗い物置のような室で寝についた。夜半に、遠くで鳴り出した砲声に目をさます。先発隊の一部が、もう開封に肉迫したらしい。砲声は、だんだん大きくなり、多くなっていく。
2017年06月09日
死か生か 下の道を兵隊が西へ移動して行く。大地を強く踏む軍靴の音がする。みな若い兵隊だ。二十八日に自動車隊と前後して行軍してきたあの◯◯部隊が到着したものらしい。後から後からと続いて来る。騎兵も来る。砲兵も来る。あちらからも、こちらからもみな顔を出して見ている。行軍というものは、内地で見ても、誠に勇ましく、頼もしいものであるのに、こうした陣中でその音その列を見る時、なんとも言えぬ心強さを感ぜしむるものだ。 夜は何度も起こされた。急に明朝出発命令を受けたという人たちが、入り代わり立ち代わり、修理の催促にやって来たので、とうとう十一時頃から工場を開き、ロウソクの灯をアンペラでおおいかくして、修理を始めた。我が砲兵は、つい近くに砲列を敷いたらしく、ドーンと打ち出す弾丸は、しばらくワウーウーとあとを曳いて行くのが、樹々にこだまして何とも言えぬ豪快さ。 こうした徹夜の仕事の終わりに朝が来た。どうやら支那も梅雨に入ったらしく、夜明け頃からジタジタ降ってきた。 例になく、朝から砲撃が始まった。九時頃から、一斉にこの辺の集中射撃らしい。ドジンドジンと、あっちこっちに落ちる。危険がいよいよせまって来た。大越中佐が工場へやって見えた。「今日は工場をしまってはどうです。」「ハイ。」 しかし、工場は相当忙しかった。それに、室に引っこもっていると、いろいろと考え込んでいけない。仕事をしている時は何もかも忘れている。「どうです。今日はもうおしまいにしなさいよ。」中佐は重ねて言う。そこで一時仕事を中止して室に帰ると、こうした危険な中を通って軍刀をとりに来る。出来ていないというのが、いかにも心苦しいので、また工場へ出た。 この日の砲撃は実際ひどかった。敵はよほど近づいていると見えて、雨のように大小の砲弾が落ちてくる。作戦の齟齬? そんな事をさえも考えさせられた。我が砲兵も必死に撃つ。戦争は全面的らしい。戦況観測の我が繋留気球も、高く悠々とあがっている。気球からの報告では、敵は数里の半円形をなし、我を包囲して迫って来ているのが手にとるように看取されるという。 午後二時頃だ。しぶり腹の気味で、一日に数回も便所へ往き来した自分は、工場の隅っこに穴を堀ってしようと考えていた瞬間、頭をかすめたのは、「日本刀の霊威」であった。こうした武士の魂の修理場で、用便は出来ん。そう思って、半丁ほどある西の便所へ行きつくと、東の方で地響きと共に恐ろしい音がした。かなり大きな何物かが墜落したらしい。用便もそこそこに、急いで帰ってみると、工場の中は濛々たる土煙である。隣家との間の木の根もとに砲弾が落ちた。幸いに炸裂はしなかったが、その震動で屋根の残土が落ち込んだのである。まったくの天佑であった。 この弾丸が炸裂したら、そしてその時自分がここで用便をしていたら、定めし醜い死屍となっていたことだろう。 砲弾はますます落下する。部長からとうとう命令が出た。「全員掩蓋壕〔えんがいごう〕に這入れ。」 自分はまず室に行った。各隊には、家の中庭の隅に掩蓋壕が造られてある。室には、釜田曹長が病んでいる。何としても、壕へ這入らぬと言う。部下の兵がいくらすすめても聞き入れぬ。病では死なぬ。弾丸で死ぬ。こう言って動かぬのである。みんなもこの室に籠城する事にした。大きな砲弾が、屋根の上を唸って過ぎた。 こうした無気味な大砲戦の中に、夜となった。夜に入ってますます砲撃は甚だしく、ただごうごうと単調化された、ものすごい唸り声の渦巻きとなった。 この中に砲兵歩兵は勇敢に戦っているのだ。タンタンタンという機関銃の音もしている。ワーッというような声も聞こえてくる。ガラガラン、と、何かくずれ落ちる音、疾走してゆくらしい戦車の爆音。扉の間から外を見ると、あっちこっちの空には赤い光がパッパッと映じている。青い光焰〔こうえん〕が尾を曳いて飛んでいる。 今日は三日である。砲弾は、まだ続いている。こうした中でも、炊事兵は飯を炊き、汁をつくって持って来てくれる。 飛行機の爆音だ。ありがたい。三台、西の上空を旋回している。やがて、急所急所に爆弾を落とすらしい。心強い爆弾の音を聞いて、朝食をとっていると、こうした中にもかかわらず、修理がどしどしやって来る。今日も工場を開設して、十時頃から仕事を始めた。 砲声は相かわらずすさまじいが、彼我ともにその音は次第に遠ざかって行くように思われる。 思えば、昨日は死ぬという事を本当に覚悟した。部長以下全員、一人として然らざるものはなかった。自分は黄河で泥まみれになった軍服を出してその土を落とした。友人松田君ほか十数名の餞別品だ。子供のつくってくれた袋、その中から子供の贈り物の鏡を出した。自分の垢だらけの髭面がうつる。笑ってみる、子供らの顔が見えてくる。 ……この日朝来敵軍近接し来りて砲火を集中す。我が軍また全面的に砲撃す。本部の各所に巨弾落下して炸裂の音物凄し。然れども不思議なるは道路庭等の空地にのみ落下する事なり。これ天佑か。石井部長以下、各一死を覚悟して、終日此の中に立ち働く。同じ棟続きに起居を共にし、同じ鍋の飯を食いたる人々の氏名を記す。石井廣吉、大越幸一、石井勇之助、岡島靖一郎、戸室龍、宮川元弘、釜田藤男、堀山競、樫村徳一、小野内記、倉持武雄、小堀三喜夫、岡村十一郎、黒澤盛義、高橋龍助、湯本佳元、秋山武夫、唐澤正、大塚士郎、百々瀬末利、齋藤常盤、岸田真治、中島一、浅川義男、沼田清治、内田守、小島公平、磯飛貢、鈴木吉夫、西村三代治、小林角治、沼口宗一郎、以上三十二名、と書いた。さらに何かその時の心持ちをあらわしてみたかった。 たまの雨のなかにひねもす働けり心たらひて今宵もやすまむ わが友のはなむけくれしこの服もくろぐろと土によごれたりけり ゆくりなく袋に吾子〔あこ〕の入れくれし鏡とりいでひげづらをうつす 玉きはる命の終わりおごそかに知り得たるこそまたなくありけれ こう書いて自分は何とはなしに安心した気もちになった。この手帳を、ブリキの箱におさめ、さらに雑嚢の底に入れ終わって、ロウソクの灯を消した。不寝番の兵隊が歩いているらしく、ごつごつと靴の音がする。
2017年06月02日
くの字への字の刀 朝が来た。雨は小止みとなった。昨夜の襲撃ははたして西の部落からであったが、我が軍にことごとく撃退されたのだという。 今朝はめずらしく、塩っからい干しイワシのちょっと大きいのが一尾ずつ渡った。聞いてみると、二十日以来の事だそうで、このイワシ一尾、内地ならさしむき肥料俵の中からつまみ出したというしろものだが、実に大した人気を博したもので、少なくとも兵器部関係だけでは、今日一日の大きい話題となったほど、珍味到来であった。 修理工場は相変わらず忙しかった。助手をしてくれる兵隊も、小修理の手際は相当なものであった。高橋部隊長が見えた。佩刀は、小林伊勢守國輝、拵え、保存、手入れまことに行き届いていた。柄の補強巻きをしてあげた。部隊長は最後の一滴だと言って、お酒の水筒をもって来た。どこで手に入れたか、小さいチーズ二個は得がたい珍味であった。部下にうどんを上手につくる特務兵がいる。ちょうど材料も手に入ったから、今夜来いという。 正午過ぎから、敵はまた猛烈は砲撃を開始して来た。迫撃砲も交じっている。ボカンボカンと、あちこちに落ち始めたらしい。 二時ごろ友軍の飛行機が何台か、頭上をかすめて飛んだ。しばらくすると、爆発の音調が変わってきた。友軍飛行機の爆弾投下らしい。敵の砲撃はハタとやんだ。自分は、修理をつづけている。困った事には目釘の材料である竹がなくなってしまった。新郷でやっと探して買ってきたものを、黄河に到着した晩に、暗闇の中の自動車に置き忘れてきたのである。支那箸を削ってやってみたがどうも面白くない。 そこへ赤沼という上等兵が、ある中尉の修理刀を取りに来た。竹のほしい事を相談してみると、「ようがす。探しやしょう。」と案外大きく頷いたものだ。ただし、明日あたりまで待ってくれといって帰った。ところが、間もなく上等兵は、大笑いに笑いながら、一つの竹筒を持ってきた。見ると、直径四寸高さは一尺ほど、肉も相当に厚い。横の上の方に切り口のある一種の貯金筒で、中にはヂャラヂャラ若干の銭がはいっている。 上等兵は、“軍刀修理材料供給の目的”を以って、あっちこっちを物色して廻った。とある農家、片手間に小店でもやっているらしいその店先に現れた上等兵の眼に、いち早く壁にかかっているこの竹筒が映じた。引き下ろそうとするとたんに、どこともなく現れた老人が手を合わせて、持って行くなという。他に竹はないかと手まねで片言できいてみると、竹はそれだけだが、中には銭がはいっている。銭だけは置いていってほしいというのだ。そこで、苦心をして二、三十枚の銅貨〔トンツール〕を出したが、二、三枚はどうしても出ぬので、そのまま持って来たという。「代償は、飯盒に飯を一つやる約束さ。爺さん、やって来るかもしれんて。」 といって、なおも笑っている。他に何かいえないおかしい事があったものと見える。 その竹筒を石臼の上に立て、一刀両断に割って日本精神の気合いをこれにこめようという趣向だ。割り手は上等兵、腰の牛蒡〔ごぼう〕剣を抜いて、ややしばらく構えていたが、「えいッ」 裂帛の気合いに、竹は割れすぎ、大型の銅貨はチャンチャランと音を立てて飛び出し、剣の刃は石臼にあたって刃まくれを出かした。 陣中陸軍修理の模様はというに、刀屋さんが内地でやる修理のような、悠長な仕事はしていられない。まして今回は敵中単身追及の修理行であるから、工具とては、小鉄槌、銅槌、木槌、切り出し、小ヤスリ、鋏、錐、ヤットコ、小砥石など二十種類ほどの小袋一つ。材料は水に溶けて水に犯されぬ菱光〔りょうこう〕糊、チューブ入り生漆、銅釘、針金、既製小金具類など、これも小袋に一つ。次に柄糸、補強巻き用柄紐、ラミー麻糸、などの小袋。工具とも約四貫目。それに身の廻りの必要品を入れた総重量六貫目の雑嚢が一つの身上で、これでだいたい軍刀五百振修理の見当であったのだ。徐州戦線の修理で、柄糸材料をつかいつくし、代用品も手に入らず、困りぬいていると、微衷〔びちゅう〕天に通じてか、町田糸屋から絹製柄糸一反、徳川慶光公爵から國防色補強巻き材料十数巻が、◯◯部隊宛に寄贈されてきた。この材料をしっかりと背負ってここへ来たのである。 曲がった血刀が来る。くの字への字、中には念入りな ∨ (※逆への字)の字形、砲車にはさまれて曲がったつの字形もあり、ごく稀れには片仮名のフの字形もある。こうしたものは、タメ木という木具にはさんでギュッと直す。はさんだ手の内の加減で、かなりなところまで真っ直ぐになる。陣中ではそれでよいのだ。血液は揮発油で落とす。山本勘助の陣中修理法に、このタメ木の事があり、さらに「血刀は唾を以って拭うべし。」とある。実際これは妙な作用で、きれいに取れる。刃こぼれには、一種の早研ぎ法がある。刀身を斜めに左手にささえて、右手に砥石を持ち、また刃先を摩り下す事なく、小刃こぼれならばそのまま双方から九十度の角度に研ぎ合わせる。これを勘助刃という。実際この刃先だとものすごく切れる。勘助根太刃というネタ刃の角度は、八、九十度の間で、刃肉の模様で、度の上げ下げをする。骨もろ共の斬撃には最も妙である。かくて内地の刀屋が半日でやる仕事を二十分で、一日でやる仕事を三、四十分であげなければ、戦争の間には合わない。鎺〔はばき〕がとれてしまってどうにもならない場合がある。材料も方法も、もちろん施す術〔すべ〕がない。どうするか、普通の刀屋なら投げてしまう。ところは勘助は教えている。生漆に小麦をほどよく混じて練り、麦漆をつくる。刀身を柄に固定し、鎺の金具が破れたのを棄て、その部分に麦漆をつけて麻糸で巻き、またつけては巻く。かくの如くして鎺形となったならば、刃の部分を油紙で巻いて湿気の入らぬようにし、新しい馬糞で、鎺元をつつむ。加藤清正の陣中早漆というのも亦これである。かくすれば一夜で固まる。現在では、一時間で使用できる菱光糊という重宝なものがある。柄糸の弱ったの、柄木の折れそうなのは、木綿の柄紐でギリギリと巻きしめて、一端を固くはさみ込む。これにも勘助の発明した方法がある。かくの如く、陣中修理は、頑強早仕事一点張りのもので、一昼夜に一人で三十振の修理ができなくては、戦陣の用にはならないのである。 本阿彌某が上海南京へ修理に行って手が出なかったという。いかなる天下の名工でも、初っぱなには手を拱〔こま〕ねくだろう。ましてや自分は本来の刀匠ではない。横好きの素人芸である。二月二十五日に済南ではじめて山なす血刀を前にした時には、その処理に困った。それから従軍中に、自分は右のような修理の方法を実地修練したのである。その基本知識は、刀屋からの会得ではなくして、武将にして軍師たりし山本勘助の遺法によって得るところが多かったのである。 ◯◯部隊の森下少尉が、二尺二寸五分、無銘の新刀で敵を十人斬り、切っ先から六寸のところに、長さ一寸中央部深さ一分という弧形の大刃こぼれを出かした。折から来合わせていた刀屋さんの慰問修理団へ、遠路わざわざ持たせてやったところが、斯様なものの修理は、刀鍛冶ではなくてはできぬといって突っ返してきた。無理もないことであって、刀屋の眼から見れば、左様な物は、もはや刀ではないのである。少尉は、軍刀を恨めしげに自分のところへ持ってきた。右の話をして、断念してはいたが、一線の事とて代わりも求められずに困りはてているという。自分は、この時も勘助の教えに従って、その部分だけ鉈のように片刃をつけ、刃先から見ると、なだらかな弧形をなしていたが、立派に刃をつけた。戦っても大丈夫と請け合って励ました。少尉は、心から喜んで幾度も礼を述べて去った。 時計を見ると、もう四時を過ぎていた。自分は早目に工場を閉じて、高橋部隊長のところへ、一椀のうどん饗応を受けに行った。
2017年05月26日
ある駄馬の死 自分は、足の向くままに東へ出た。日本の大きな楊柳樹の前に、軍馬が一頭斃れていて小さな蓆がかけてある。よく見ると、馬の頭のところに、空き罐に入れた水と、線香の代わりに火のついたタバコが一本供えてある。日本馬だ。しばらく佇立〔ちょりつ〕している自分の後ろから来て軽く肩を叩く者がある。ふり返って見ると、それは昨日修理に見えた若い獣医少尉だ。「昨夜死んだ馬ですよ。駄馬です。輜重〔しちょう〕の。」 少尉はそういって、何か感慨深そうにじっと斃馬〔へいば〕を見つめている。「どうして死んだんです。」「それがね。……」 少尉は語った。昨日のちょうど今頃のこと、隊にいると一人の特務兵がやって来た。部隊外の兵で、渡河点から荷物を運んで来て帰ろうとすると、馬が動かない。口から泡を吹いて苦しむから診察してくれとの事で、行ってみると他の特務兵が、馬を揉んだり、さすったりしていたはっている。診察すると、過労の結果で、もう心臓が参っている。注射をして帰ってきた。夜中になってから室の入り口で「獣医官殿獣医官殿。」と叫ぶ声がする。起きてみると、さきの特務兵だ。「どうした。」見ると特務兵は眼をはらしている。「お願いであります。もう一度注射をたのみます。」特務兵は泣いているのだ。到底助からぬとわかりきってきたが、あまりにかわいそうなので、懐中電灯をつけて行ってみると、もう半分死んで、全身に痙攣が来ている。「アッ、もう駄目だぞ。」といいながら、注射をさらに一本打ってやった。帰って寝に就くと、夜明け近くになって、その特務兵が再び来て起こした。「獣医官殿、馬は死にました。いろいろと御世話になりました。帰ります。」悲痛な声であった。今日自分は前線に出て今帰ったので、来てみたところです、と、こう語り終わった若い獣医官の眼はうるんでいた。 風が吹いて楊柳の枝葉がゆれる。馬の長い顔は、しずかに安らかに眠っている。機関銃の音が遠くから聞こえてくる。日は血のような色をして大きくゆらゆらと落ちてゆくところだ。 自分は室へ帰ってきた。ボロボロの麦飯の一椀と、粉味噌汁の汁が置いてある。釜田曹長は粥をまずそうにすすっている。「今日は割に静かだね。」と自分は箸をとり上げながら言った。「敵はかなり近くまで寄って来たらしいです。おとくいの迫撃砲でやろうというんでしょう。明一日がやつらの総攻撃だと言いますからね。」 食後、自分は床の上にごろんとなって考えた。 軍の事は素人にはわからない。しかし、◯◯車両から弾丸燃料その他がはいり、続いて、毎日補給されているというのに、目立って活況が現れないのは、満を持して放たないのだろう。そこに作戦の中心があるのかも知れぬ。敵は敵で真剣に乗り込んでいるらしい。修理に来た人達の話によると、敵の中には、我が某砲兵陣地深く単独に接近して来て、本部に手榴弾を投じて行ったり、某陣地へは、白昼三度も突撃して来て、瓦斯〔ガス〕の放散を企てたり、負傷した敵兵が我が軍の面前で自ら手榴弾で自爆したり、その他、従来に見なかった猛闘ぶりを発揮しているという。この精悍な中央軍を、ここで一台殲滅する事は、今後の戦局、特に武漢三鎮の攻略にも影響する事甚大であるから、相当作戦は大きく、深く、ことによれば、徐州を陥れた一部の兵力をしてずっと南を迂廻させ、この大軍を挟撃するのではなかろうか。 どやどや兵隊が帰ってきた。「おぢさん、すごいぞ。敵がぎっしりいるぞ。」「この西の部落は、敵の歩兵でいっぱいだ。」 てんでにこんなことを言いながら、ゴトゴトと飯盒につけわけのしてあった飯を食い始めた。今夜は不思議に砲声がせぬ。 ここから約三キロ、一里足らずの部落に、敵の歩兵が集結しているという情報である。 早目に燈火を消して寝た。時々大砲の音がする。 一眠りしてから目をさますと、夜光時計は青白く十一時十分過ぎのところを指している。砲声もない。なんだか雨が降り出したようだ。いやに涼しい。耳をすませば、たしかに雨だ。またうとうとする。突然タンタンバラバラという銃声に目覚めてみると、西の方で盛んに機関銃が鳴っている。弾丸が屋根の上にバラバラ落ちる。バーンと一つ、力のない音がして厚い板扉にあたる。兵隊はみな起きた。「やっぱり来たな。だが大した事もなさそうだ。」 機関銃は盛んに鳴っている。弾丸はこなくなったが、今度はボカーンという音がする、手榴弾の爆発らしい音だ。雨はショボショボ降っている。午前二時三十分である。そのうちまたもとの静けさにかえった。兵隊は寝た。自分も寝た。
2017年05月19日
軍刀修理官 夜は早く開けた。一晩中南京虫とも家ダニともつかぬ虫様のものになやまされたのと、間断なのない砲声とに、まんじりともしなかった。明け方にウトウトしただけであったのに、別に眠くもなく、頭は冴えている。朝になって砲声はピタリとやんだ。 昨夕の会報に、軍刀修理の事が出たというので、まだ工場も開設せぬうちに、各部隊からこわれた軍刀を運び込んできた。出征以来何ヶ月、激戦に激戦を重ねたので、相当にいたんでいるらしい。 朝の九時、工場開設の命令が出た。そこで石井少佐と適当な場所を物色して廻ったが、室という室はみなふさがっている。仕方ないから、◯◯の左袖になっている一棟、ここは屋根が砲弾で吹っ飛ばされている青天井の一構えである。南北に壁があり、東西に扉のない出入り口があり、もとは製粉工場ででもあったろう、中央に大きな粉曳きの石臼が据えてありその廻廊をなしている板製円卓様の部分を修理台とし、土間に支那蒲団を敷いて、ここに軍刀修理工場が成立した。今度は単身派遣であるから、雑用や簡単な仕事は、手のあいている兵隊に手つだってもらう事とし、吉例によって、石井部長の佩刀から手をつける。 部長の義兄は、刀剣道楽で財産をなくしたというほどの人、その人の選んだ津田近江守助直二尺二寸のすっきりした刀。鍔元のゆるみを止め、柄がやや痛んでいたので、補強巻きを施す。大越中佐のは越前住包則、これも同断。石井少佐のは肥前六代忠吉、鍔元のゆるみをとめる。 衛兵長川崎中尉が、数日前の敵襲で、立ち向かう敵を肋骨三枚まで袈裟斬りにし、一人は向かい面を鼻柱まで切り下げたという、新刀祐定の大だんびらを持ってきた。生々しい血痕、刃は少々こぼれている。曲がっている。ものすごい修理である。つづいて、佐野部隊長、櫻井部隊長、石川部隊長、今井大尉、狩野大尉、と、いずれも敵の血を吸った業物である。「斬ったぞ、斬ったぞ。」 こう言いながら持ち込んで来たのは、有加という曹長だ。今の今しがた、敵と戦って帰ってきたばかり。「二人斬って、これ、こんなに曲がった。」といって、無銘新刀二尺四寸の、ものすごく生々しい血のついたものをひっ提げて来た。刀身が三段に曲がっている。「修理官、昼食であります。」兵器部の当番兵だ。修理官とは珍妙な官名である。おそらく、大日本帝國の職員録にはこうした職名はないであろう。自分は、今日まで色々な称呼で呼ばれてきた。「おぢさん。」これが一番多かった。たまには「刀屋さん。」念の入ったものになると、「刀の修理のおっちゃん。」ところで、今日は上陸以来始めての官名が附与されたわけだ。自分が尉官待遇というので、この兵隊は一代の智慧を絞りぬいて、失礼にならぬようにと、こうした官名を考案した事であったろう。以後、北京帰還までの二ヶ月間、当番兵からは常にこの官名で呼ばれていた。 この修理官殿が、不精髭のぼうぼうと生えのびた垢面、どろどろの、破れた作業衣、血垢のついた手も洗わず、山賊そっちのけの姿で昼食をしているところへ、◯◯隊の内森上等兵が、ぜいぜいといきをはずませながら駆けこんできた。「たのむ、刃がこぼれた。」「待ってくれ、ちょっと。」「待っとれん、たのむたのむ、すぐ行くんだ。よう、おっちゃん。」 仕方ない、飯を半分食って工場へ飛び込む。せかせかと上等兵はついて来る。連日の接戦で、十何人かを斬ったという血刀をかついで。 そこには、今村部隊の石塚曹長以下、すでに四、五名が、愛刀をかかえて張り込んでいた。「おい順番だぞ。」と、一人の伍長は、内森上等兵をどなった。「だってすぐ出るのだ。」「もちろん、自分もだ。」 つづいて、岩倉部隊の橋本准尉が、二尺三寸五分、水戸の名工徳勝の大だんびらで、これも今しがた、袈裟掛けに二つ叩っ斬ったという。生々しい血痕の落ちきらぬままの刀の刃曲がりを直しに来る。こうして後から後からとたてこんだ。 修理に来ている人々の話では、敵の便衣隊が若干昨夜潜入してきた。◯◯◯を◯◯する目的らしく、内二名は捕虜にして、ここの東裏につれて来てあるというので、忙しい間をしょっと行ってみた。裏の浅い崖の上を東へ行くと、大きな樹の下に人だかりがしている。見ると一人は細っちょの丈の高い男で藍色の長い便衣を着し、インテリらしい顔つき、一人はよれよれの色の褪せた短衣を着し、ズボンをつけた丸顔の小男で、支那の兵隊といった恰好である。後ろ手に縛して、着剣の兵隊が三人で警戒してる。別に悪びれた様子もなく、平気でキョロキョロあたりを見廻している。頑として一言も口を割らぬ。 これは聞いた話であるが、正規軍の兵は、捕虜になってもなかなか白状しない。ぢっと黙り込んでいる。追及してようやく口を開いたと思えば、「日本兵はこういう時白状するか。」と反問する。 徹底した抗日教育の十何年かは、支那人をこうまで改造したのである。 今日の一日は短かった。六時には工場をしめて手を洗った。 三十一日は朝から風が吹いた。修理工場には黄粉のような黄土の粉末が吹きつけては積もる。友軍の飛行機が来て通信筒を落としたり、吊り上げたりしているのが、室の中から見える。 佐野隊の副官久保田少尉があわただしくやって来た。ここの南方の戦で五人斬った切っ先に刃こぼれができたから、修理してくれというのである。これも血痕が生々しい。須藤隊の黒尾伍長が来る。ボロボロの軍服、泥だらけの装具、これも戦列から来た事は明らかである。昨日三人斬って刃こぼれがした上、身が曲がってしまったというのである。同じ隊の石田軍医大尉も来た。一人やっつけたらこの通り刀まくれができたという。珍しい刀、流行の錆びない鋼ステンレスで、銘だけは昔風に兼永とあった。一寸余りの大刃まくれ。これも血痕がこびりついていた。 今日は、今村部隊長、那須部隊長、鹽川部隊長などというお歴々が、御自身の軍刀をひっさげて修理に見えた。 戦場の将士が、各々所持の軍刀に、絶大の愛着と信頼とを持っている事は、一般には想像外の事である。軍刀修理工場を開設すると、階級の高下を問わず、自分の佩刀は大がい自身に持って修理にやって来る。戦地に於ける将校、就〔すなわち〕中佐官以上の威令は大したものである。何用でも、枢要〔すうよう〕外の雑事は、多く副官なり、当番なりが代弁するのだ。しかるに、軍刀だけは、まず十中八九までは、御自身で来るのである。負傷した将兵も、軍刀だけはと野戦病院へもって行きたがる。何を措いてもだ。ある時、某城内で敵の襲撃があった。自分はその隊長と世間話をしていた。スワ敵襲と聞いて、隊長は、いきなり佩刀を手にした。それから拳銃をとった。文明の利器たる拳銃を第二にして、最初に原始的武器たる軍刀を手にした心理、それは、人類が猿類から分離独立した歴史の第一頁を忘れぬ歴史的記憶からである。 那須部隊の近藤大尉が、とてもしょげてやって来た。愛刀が鞘ぐるみ曲がってどうにもならんという。「まさか、これではもと通りになるまいね。」 と、いかにも心配そうである。 見ると、鉄製の鞘共くの字なりに曲がっているため、第一中身が抜けない。外見は丈夫そうに見えて始末の悪いのは、鉄鞘の欠点である。一旦曲がったが最後抜けない。それがため急場に間に合わず、敵の兇刄に殪〔たお〕れたものもあったという。近藤大尉のはそれである。鞘の一端を石臼の下に入れ刀身もろ共に曲がりを直し、うんと力を入れて抜いてみると、毛ほどの疵もない。作者は美濃守藤原朝臣壽格、二尺三寸五分に六分の反りという手頃のもので、切っ先に大きな刃こぼれが一つ、すでに敵を十何人か斬っているという。「直ります、安心なさい。」 自分は力をつけてこういった。陣中工具材料も少なく、ただ平にして刃をつけたというだけなのに、大尉は涙を流さんばかりに喜んだ。こうした粗末な修理を、あたかも愛児の急病が全快したかのように、大切そうに持って帰る後ろ姿を見て、自分はいいしれぬせまった心持ちにならざるを得なかった。 今日も一日、血刀の修理に終わった。血刀にはもう慣れきってしまっていて些〔いささ〕かの興奮も起こらない。たまに血の気のない刀が来ると、なんだか物足りない気さえされた。 趣味娯楽とては何もない陣中の事とて、あちこちから刀を見に来る。公用私用に往き来の兵隊が、黒山のように集〔たか〕る事が珍らしくない。石井部長も時々やって来る。今日も来た。「皆んな、拝観料を置いて行けよ。」「ハイ、いくらでありますか。」 剽軽〔ひょうきん〕な例の細い特務兵が言う。「ウン、兵隊は思し目でよい将校以上は十銭ずつ。」「部長殿は無料でありますか。」「当たり前よ、おれは勧進元ぢゃないか。」 みんなたわいなく笑う。 仕事が終わって手を洗いに行くと、水がないという。ここの井戸水はくみつくしてしまって、一滴も出なくなった。どこの井戸もである。仕方なしに、ずっと西の方、敵の真前の池へトラックで水を汲みに行っているが、まだ帰って来ない。自分は、水筒の水でちょぴり洗って、構内から北へ出てみた。そこはなだらかな崖のようになっており、その下は広場であって、高い楊柳〔かわやなぎ〕の樹が十数本茂り合い、自らなるカムフラージュである。砲弾箱やその他の兵器什具類が集積され、その間々に自ら蓆やアンペラで屋根をつくった露営兵舎がある。夜通し勤務した兵隊たちは、そこここの木蔭で大の字になったり、エビのように丸まったりして、ごろごろと眠っている。トランプをやっているもの、何やら書いているもの、古雑誌を読んでいるもの、とりどりである。六時だというのに、太陽はまだ高い。八時でなければ日が暮れないのだ。自分は崖を下りて北へ通りぬけた。ここはもう畑で、麦を刈り取ったあとの土が黄色くつづいて、その先の方に、小さな農家らしいものがある。それの横に立って、しきりとスケッチしている将校がある。あとで聞いた話だが、農家と見えるのは実はトーチカであって、こうしたちょっと見わけのつかぬトーチカが、この黄河べりにはたくさん出来ているという。一歩一歩ゆるやかに近づいて見ると、スケッチをしていたのは石井少佐であった。陣中随一の水彩画家で、すでにこうした作品の数々は、陣中御差遣〔さけん〕の侍従武官の目にとまり、畏〔かしこ〕くも天覧に達しているとの事であった。
2017年05月12日
背水陣本部 自分は、自動車の上に荷物を置いたまま、その部落に這入っていった。東西を貫く道路があって、南北の土地はやや高く、そこに農家が並んでいる。ようやく副幹部を探しあてた。貧弱な農家のそのまた物置らしい。案内を乞えば西向きの一室の蓆を排して少佐の副官が現れた。 自分は派遣証明書を出して、ただいま到着した旨を述べ、部隊長には貴官から宜しく申し上げて下さるようにと挨拶した。副官は、「一人ですね。御苦労様です。兵器部に行ってゆっくりして下さい。」「ありがとうございます。大行李〔だいこうり〕の安蔵少尉が内地帰還中のところ、自分と共に部隊を追及、黄河まで共に来ましたが、ついにはぐれました。しかし、少尉の荷物及び内地より閣下宛の私物荷物は、自分が黄河渡河点で発見ただいま持参しましたから、それを運ばせるために、兵隊を二名ほどお借り致したいのであります。」と申し入れると、直ちに当番兵を二名よこしてくれた。 右側の小高いところ、短い急坂を登って土塀の間から這入っていくと、つき当たりが兵器部事務室兼部長室であった。自分がそこへ出頭していくと、薄暗い、物置のような室に卓子を置き、そこに石井部長、大越部員、石井部員、岡島部員が会談していた。自分は派遣証明書を出し来着の挨拶を述べると、部長は、「よく来たね。今日はゆっくり休んでくれ。サァ暑いから上衣を取ってくれ。」情のこもった物いいである。軍隊というような気がされない。遠い地方の親戚へでも辿りついたという感じである。 部長は一々自分を部の幹部に紹介してくれた。 戸室准尉が、自分の居室の心配をしてくれる。どこにも室がない。兵隊はみな野宿同様だという。「病んでいる曹長の室に割り込んでもらいましょうか。二人の寝室に三人で寝て下さい。」 本部の右袖にあたる棟の家で、入り口は西にある。這入ってみると、農家の物置らしく、東の窓際に、戸板のようなものを箱の上に並べて、アンペラを敷いたのが寝室で、窓際には、釜田という曹長が、病名不詳の病気で床についている。西隣に倉持という伍長と自分と二人で寝るのである。その西の下の土間には、アンペラが敷いてあって、兵隊が六人寝るのだという。壁は泥の荒塗り、天井には、こうりやんのから、その上に土を置いて瓦が並べてある。一隅には竹で編んだ大きな笊〔ざる〕様のものに土をぬった容器、穀物貯蔵用のものが二つ置いてある。 釜田曹長は、寝苦しげに体を動かして自分を見た。顔が蒼白でやつれきっている。「何分よろしく願います。」「不自由でしょうが我慢して下さい。食物は何もありませんよ。」と曹長は細い声でいう。 そこへ両ほほに虎鬚の生えた巨漢の倉持伍長が兵隊三名をつれて這入ってきた。「曹長殿梅干しはどこにもありません。困りました。」「そうか御苦労だった。」 兵隊はまろぶようにアンペラの上に寝た。それなりですぐイビキをかいている。部隊全員は、昨夜、夜通しで黄河渡河点の水につかって働いたのだった。 自分はふと、北京の酒保で買ったパイナップル罐を一つ持っている事に気づいたので、急いで雑嚢から出して、「曹長、パイ罐はどうだね。」「持っておいでですか。」 自分は早速罐を切った。曹長は一切〔ひとき〕れを息をつかずに食べ、つゆを飲んだ。倉持伍長もだ。伍長は三人を叩き起こして一片ずつ食わせた。一人の兵隊は舌つづみを打って、「これで死んでもいい。ああうまかった。」 この時、忍び寄るようにして寄ってきた一人の特務兵が、入り口に突っ立った。小柄な細い男だ。「何だって、死んでもいいって、ほんとうか。何をペチャペチャ食っている。」 そっと這入って来て覗き込んだ刹那、「オー。」 特務兵はうめくように一片を取るなり、すばやく、実にすばやく口にふり込み、飲むようにして食った。だれもかれも、動物園のペリカンが観覧者のやるドジョウを捕らえる瞬間のような態勢で。残ったのは一片、自分は病曹長のためにそっと残した。 兵隊たちの話では、ここ二十日間というもの、食物とてはただ麦飯と粉味噌とだけで、一枚の菜ッ葉すら口に入らなかったという。野草の、あかざの葉、柳の芽を塩うでにして食った部隊があると聞いてさえ、みな羨ましがっているほどであったという。 自分は、釜田曹長と話している間に、ここに高橋大佐のいる事を知った。風采やら何やら聞いてみると、確かに高橋氏に違いないと思った。氏と自分とは十数年も前から別懇であったので、氏が出征しているという事はかねて聞いて知っていたが、ここで邂逅できるとは思いもかけぬ事であった。 早速道順を聞いて、◯◯へ出かけて行った。もう夕景に近く、敵ははるか南方から猛烈に砲撃を開始して来た。前の道を東に出ぬけて、右に這入ったところ、浅い谷の上の一端、門前には部落の女子供が蝟集〔いしゅう〕半野宿している。乳呑み児を抱えた三十ぐらいの女、半病人の娘を守る老夫婦、小児二人を膝もとに眠らせて、皇軍から施された残飯を手づかみで食べている女、そうした婦女子や老人がおよそ三十人あまり、地上にアンペラを敷き、細い木のささえ柱に、これもアンペラの屋根をかけている。 門の中はやや広い庭である。そこの南向きの家、室内に入ると、ここも薄暗い一室で、部隊長は部下と合議をしているところであった。「オヤ。」 部隊長は目を見張った。「ハハハ、おなつかしいですな。化け者ではありませんよ。」 部隊長は部下に命じて、庭に椅子を出させた。大きな桑の木が一本高く茂って、熟した実がパラパラ落ちている。彼我砲弾の音がひとしきりすさまじい。 部隊長と卓子を中に相対し、久しぶりでの対談を、こうした弾雨下に交わそうとは、夢にも思わなかった。部隊長は、水筒から冷やしておいたという日本酒をなみなみとついで出した。「ただ一杯の酒、ただし肴はない。」 千万無量の酒だ。氷のように冷たい。 ドッヂャーン__砲弾が落ちてすぐ近くに炸裂した。門前の女子供が泣きわめく。自分が、うま酒にのどを鳴らして、水筒の口をポンと置いたその刹那であった。震動で桑の実が雨のように落ちる。「いい風情でしょう。ハッハッハッ。」 部隊長は高らかに笑った。 夕景、再会を約してここを去った。すぐ裏の道路の真ん中に大きな穴が開いて、通りかかった兵隊が二人立ち止まって眺めている。今の砲弾がここに落ちたのである。 その夜は、彼我双方の砲撃で寝つかれなかった。
2017年05月05日
戦う日本刀 ー黄河大背水陣中記ー 敵機の空爆 ものすごい爆音がハタとやんで、黄河の河面は何事もなかったのように静まり返っていった。時計を見ると、午前九時三十分であった。敵機は、これまで自分らの上を無気味に旋回していたのだったが、漸〔ようや〕くにして鳴り出した友軍の高射砲に逐〔お〕われて、雲を霞と逃げ去っていた。僅々〔きんきん〕十分間ぐらいの爆撃であった。もとの位置について見ると、つい先刻まで元気に自分と断じ合っていた特務兵は、泥だるまになって蹲っている。足の中指を一本とられたのだ。自分も右半身泥だらけである。西へ三間ほどの所には、馬一頭爆死、馬曳きの特務兵は全身に重傷を負い、血と泥の赤黒い泥人形となって昏倒している。自分は、一人の兵隊と共に抱き起こした。「大丈夫だぞ、傷は浅いぞ。」戦友らしい兵士はこう怒鳴った。衛生兵が駆けて来て手当てをする。担架が来、橋を駆け渡って軍医も来てくれた。__黄河の茶褐色な中洲の上である。 最初の爆弾が五、六間西に落ちた時、自分の足の先三尺ほどの所に、パシャッと何か落ちた物があったので、そのあたりを探して見ると、二寸に三寸ほどの爆弾の破片があった。もう三尺西に寄っていたら、自分の命はなかった。もう三十秒後に落ちていたら、自分は一服やるためにその位置に出ていた。戦場では、運命論者たらざらんとするも能〔あた〕わずである。 自分は起き上がった。どろどろの雑嚢佩刀を背負って、再び橋を渡り始めた。たどり着いてみると、ここには工兵隊の天幕があって、岩倉部隊長が、ごま塩頭を傾けてこの情景を眺めていた。「おお、お前も命を拾ったか。」 部隊長は、自分を見つけるとそう言って、黒い茶を一杯ついでくれた。飲んでみると、黒砂糖の湯である。やがてそこへ海野部隊長、望月少尉、鈴木見習い士官その他の士官下士官がどやどやと橋を渡って来た。さすがに皆顔の色が悪い。いずれも押し黙って部隊長に敬礼し、その辺にある箱やら蓆〔むしろ〕やらに腰を下ろした。__自分が、「◯◯◯部隊に派遣を命ずる、直ちに追及せよ。」という命令を受け取ったのは、五月二十日の深更〔しんこう〕で、二十二日に石家荘を出発した。◯◯◯部隊の安蔵少尉と同行、途中故障また故障で、新郷経由道口鎮へたどり着いたのは二十六日であった。ところが、ここで得た情報によると、◯◯◯部隊は目下弾丸糧食ほとんど尽きて、黄河を北に背水の陣を布〔し〕き、三十万の大敵に包囲され、連日の降雨泥濘の中にあって、悲壮なる白兵戦を継続中であるとのことであった。そして、部隊からは、「糧食より弾丸を送れ。」という悲痛な無電が刻々に来ていた。それに呼応して、弾丸燃料など◯◯車輌に満載した決死の竹澤自動車隊が長蛇の如く動き出したのは、二十八日の早朝六時であった。自分も、その五台目に便乗することができた。両三日降り続いたどしゃ降りは未明に至ってようやくあがっていた。 黄河までの間は、泥道というよりむしろ泥沼と池の連続であった。そうした悪路とも闘いながら自分らを載せた自動車は猛進し、その夜九時ごろに至ってかろうじて黄河のほどりに出ることができた。耳をすませば、ドドーン、ドドーンと砲声が聞こえてくる。しかも、夜が更けるにしたがって、撃ち合う音がますます烈しくなってきた。自分はふたたび戦火の真っ只中に出てきたのである。__弾丸燃料一切は、夜明けまでに河を渡してしまうのだという。幾百の◯◯兵と特務兵とが、肩から肩に、手から手に、曳々と懸け声をあげて河を渡している。__そのどよめきが仄〔ほの〕かに聞きとれる。自分は、その物々しい音を聞くともなく聞きながら、民家のむさ苦しい片隅に寝ていた。 その翌二十九日、すなわち今日午前九時ちょっと前に、自分らも大黄河の渡河点へと出た。そして、渡りかけて間もなく、不意に敵機の襲来に見舞われたのである。 考えてみると、ここは◯◯◯部隊が強敵と相対峙しているその一部分なのだ。安閑としてはおられぬぞという固い決意が湧いてきた。 昼食をとりながら渡船場の方を眺めやっていると、そこには各部隊から弾丸や燃料を受け取りに来ている自動車でにぎわっていた。食後自分は、部隊本部行きの自動車を物色して廻った。 今すぐに出るのが一台あるが、途中ある部隊へ物品を配給して行くのを承知ならばお乗りなさいという。いつまで待ってもはてしがないので、その自動車に便乗を頼んだ。自動車には、若干の荷物のほかに、歩兵の上等兵が一人乗っていた。運転手と助手は特務兵である。自動車は河岸を東へ走り出した。左方に十数頭の馬がまるくふくれて死んでいる。それに蝿がワンワンたかっている。約数キロも来たと思われるころ、今度は狭い道を右方向へ曲がった。凸凹のはなはだしい田んぼ道である。三、四戸の部落を出抜けた途端、突然左方からタタンタタンと機関銃を撃つ音がし、それがだんだん烈しくなってきて、自動車にバンと一つ当たった。「敵だ。」歩兵は怒鳴った。運転手は、左方の荒れはてた廟〔びょう/たまや〕の陰に車を止めた。助手は下車して、遠方近方を眺め廻している。この時右方の部落からも銃声がした。不思議なことに弾丸は飛んでこなかった。自分は、つとめて落ち着いて上等兵に言った。「ここに土肥原閣下宛の荷物がある。万一の時は焼却するから手伝ってくれ。」 運転手は、自信があるから極力疾走してみようと言い出した。皆それに同意した。自分は、上等兵と共に荷物を楯に自動車の中にしゃがんだ。「いいか。」 自動車は、弾丸のように急速な前進を始めた。敵弾がビュッビュッと飛んできたが、幸いにも怪我もなく次の小部落に入ることができた。とはいえ、ここにもし敵がいたら自分らはどうなったろう?ところが、幸いなるかな、友軍の歩哨が立っていた。「先方へ行けますか?」と訊いてみる。「行ける。」「ありがとう。」「今撃たれたのはこの車か。」そこにいた軍曹が訊ねた。「そうであります。」車上の上等兵が答えた。「あいつらは袋のネズミなんだ。どっちみち夕方までの命よ。」軍曹がいい終わるか終わらぬに、ドヂーン、ドヂーン、と迫撃砲が鳴った。南の方からである。「近いな、畜生。」軍曹は急いでそこを去った。 歩哨は目を八方にくばっている。 自動車は動き出した。自分は起き上がって、荷物を腰にかけた。上等兵は、口をとがらせて言った。「やれやれ、えらくおどかされた。」 次の部落には、友軍◯◯部隊の本部があった。荒壁造りの家の前には、歩哨が立っている。ここで箱を◯個下ろして、すぐまた出発した。部落を出て西へ、それから北へ、また西へ、走った走った、走りつづけて着いた所が黄庄の部隊本部である。小さい森がある。まばらな林がある。その間に泥壁の貧弱な農家が一部落をなしている。北は展開した耕地につづく草原で、その果ては黄河らしい。林の中の広場には、馬がつないである。荷物が集積してある。自動車が並んでいる。暑い暑い日盛りを、疲れ切ったというように、涼しい木陰で兵隊たちが睡眠をとっている。
2017年04月28日
天佑来 (日記) 五月十四日、晴れ、曇り、雷雨。 ◯◯部隊における自分の任務は終了した。いよいよ徐州総攻撃の態勢も整った模様で、昨今各部隊の動きも急激に目立ってきた。 前線から引きあげて来て、昨夜は最後の一夜を、棗荘川口隊長と同室でゆっくり眠った。この方面の派遣も満期となり、自分は直ちにこれから◯◯◯部隊を追求して、黄河南線へと行くのである。ここから微山湖を渡るのが順路であるが、それは到底できぬ事、◯◯部隊が清寧から二十数里を敵中突破の計画だというから、それについて行くか、あるいは北京へ出て京漢線を南下、新郷、道口鎮より追求するかよりほかに見込みはない。なんとしてもまた一苦労だ。 隊長及び隊の人達にも別れを告げ、隊の苦力に荷物の車を引かせて、兵馬の来往あわただしい中を驛へと行く。驛には隊の出張所があって、下方軍曹が兵隊を指図して働いている。ここでちょっと休憩、別辞をのべて驛のホームに出る。曇り日で、今にも雨になりそうな空模様だ。一本の大樹が傘のように青葉を開かせている下でアンペラを敷いて休む。ちょうど済南へ帰る同じ部隊の兵隊が三名いるので、万事好都合だ。 四時頃になって、嶧縣から軍用列車が兵隊を満載してきた。歩兵で満員すし詰めだ。各室を物色して廻ると、ある車から突然「オッ、おぢさんッ。」という。見覚えのある兵隊だ。「どこへ。」「いよいよ徐州だ。」「しっかりやれよ丈夫でな。」こんな事を口早にいって、最前車におさまった。大島という讀賣新聞の記者も乗り込む。棗荘の北一帯の妙な形の山ともお別れだ。風が吹く。麦波の中を記者は行く。臨城で兵隊は全部下車だ。きけば、いよいよ今夜細長い微山湖をここから徒歩で渡って、一挙に徐州の背後を衝くのだという。いずれも赤柴部隊だ。この微山湖というのは幅半里及至〔ないし〕一里長さ二十里、徐州西北方の天然の守備だ。今は乾湖で湖水に水がなくなっている。これを一気に渡って敵を中断すれば徐州の守備は弱くなる。だが、敵もさるもの、この湖の南岸の警戒は、厳重らしい。この部隊は今夜そこを渡渉して戦い破るのだ。一寸の間を兵站へ行って堅パンと牛罐とをもらってくる。兵隊は上衣や銃やその他を車内に置いたまま飯盒をさげて夕飯をとりに行く。自分が車に帰るなり、直ちに後方へ向けて発車する。兵隊達は気の毒にも残されてしまった。 夜に入る頃から、一天にわかに大雷雨となった。ものすごい雷鳴と電光につれて、驟雨〔しゅうう〕盆を覆すが如くに降ってきた。往昔〔おうせき〕織田信長が、孤軍今川義元の本拠を衝かんとする一歩前の天候激変もかくやあらんと思われた。今夜の微山湖渡渉には、まさに天佑である。ついに天佑が来た。 この二ヶ月来雨らしいものがなくて、今日の昼から曇りはじめ、夜に入ってこの雨であるのは、正しく神助天佑と信ずるほかはない。先般十二日、十三日の郷土祭礼の日に、我が超巨砲の鳴りはじめたのもそうだった。往古の彼〔か〕の、伊勢の神風にも似たるこれらの奇蹟を、単なる偶然といわばいえ。その日その時の神変不可思議なるこうした事実を、宗祖御神霊の顕現御加護と信じうる國民は幸福である。興亡常なく、社稷〔しゃしょく〕その跡を没した流民には、この感激と讃仰とはあり得ないからである。
2017年04月21日
超巨砲 「臺兒荘からバケツのような弾丸が降る。」徐州南下軍の陣中にこういう言葉が流行した。ビヤ樽のような弾丸とも、またドラム鑵のような弾丸ともいった。物蔭で居眠りでもしていると、「そんな所で舟を漕いでいると、それ、バケツの弾丸がおっこちるぞ。」とか、いい気持ちになってドラム鑵の野天風呂なんぞで、悠悠長風呂をきめこんでいると、待ちきれない兵隊が、「早く出ろやい。ビヤ樽の弾丸がおっこちるぞ。」といった具合に応用されていた。超巨砲とだけいっておこう。それが七門から臺兒荘附近に隠匿して据えつけられてある。どこにあるかさっぱり分からないが、かねて充分に実測して置いたものらしく、各地に向かって実に正確なものすごい砲撃を間断なく浴びせてくる。この砲弾の威力は言語に絶し、屋上数尺のところを通っただけで、あおりを喰って人馬は倒れ、屋根瓦が飛び、附近に落下炸裂すれば、屋内などはさながら地震の如き惨状を呈する。 これがため我が軍は非常に悩まされたのであるが、悲しいかな我には対応すべき強力な砲とては未だ一門もなく、ただ◯砲兵隊が、危険を冒し、敢然〔かんぜん〕と接近して砲撃するという、無念極まる状態であった。 自分は一度胡山の線で、この砲弾が飛ぶのを側面から見た事がある。ちょうど羽をすぼめた鳥の行くように見えた。その飛んでいく下の麦畑が、一直線にビュウと線をなして、麦が目にもとまらぬ早さで倒されてゆく。何とも形容のできない奇麗さだ。はるか彼方に落達した砲弾が、炸裂したのであろう、ダッヂンというような強烈な爆音と共に、活火山が噴火した時のように、もくもくと土煙の柱がたちのぼった。 かつて四、五日前に落下したという所を教えられるままに行ってみた。旋風でも捲き上げた跡のように、附近の麦がねじれ倒れ、その箇所には、よく神社の椽〔えん〕の下などにある蟻地獄の巣のような、直径二間ほどもある、大穴があいていた。砲弾の破片などは一片も見えない。地中深く切れ込んでしまっているからだ。 この砲弾が盛んに来る日には、さすがに誰の顔にも生色〔せいしょく〕がなかった。五月に入ってから、誰いうとなく「内地から超巨砲が◯門来た。今頃は兗州あたりを通過する頃だ。」とか、「五月五日に兗州を通ったそうだ。」とか「鉄道では運べないから大がかりなトラクターで牽引して来るのだ。」とかいろいろと噂がたった。どうせ噂に過ぎないと思っても、誰も彼も無念骨髄に徹している事とて、「たった一発、我が軍の手でうつのを見てから死にたい。」などというものもあって、切ない一縷〔いちる〕の望みをこれにつないだ。 自分は五月五日に臺兒荘から一つ置いた北驛の嶧縣に出で、小林部隊に宿営して作業につく事になった。嶧縣にもこうした噂がたっていて、ここの噂には何となく確実性があるように思えた。 五月十二日は朝から晴れたいわゆる日本晴れであった。今日から、自分の郷里桑名市に鎮座まします鎮國守國神社という藩祖神の、俗に金魚祭りといわれる情趣豊かなお祭りだ。久しぶりで郷愁といった感じも起きてきた。その日は朝からむしむしと蒸し暑くて、皆上着を脱いで仕事をしていた。自分は御神符を肌身からはなして、恩賜の煙草と共に棚にのせ、うやうやしく拝礼した後、さらに祖國日本の郷里の空を遥拝した。何となく気の浮きたつ日で、作業もろくろく手につかなかったが一つの不思議さ、昼食をしてから午睡をとっていると、誰か黙って自分をつつく者がある。ひょいと見ると、同じ杉村部隊下の杉浦という砲兵伍長ではないか。済南にいた頃格別に呢懇〔じっこん〕にした兵隊で、浜松市の製糸家の主人公だ。伍長は噂の超巨砲に乗って来たのであった。自分が今の今しがた神に祈ったのは、一身の安全ではなくて、ただ噂の超巨砲をして一刻も早く実現到着せさせ給わらむ事の至情を訴えたのであったが、はからずも今現実に到着したその第一報に接したのである。その上、みつ豆とか牛罐とか数々の好物まで持ってきてくれたのだ。 伍長の話では、巨砲は某地点に陸揚げを了し、それからずっと◯◯◯◯◯で運びつづけたもので、道路の完備した内地の運搬でも故障が起こりやすのに、不完全なところをとにかく無事で運搬し得た事は、まったくの御神助であるといっていた。 この事実は、はやくも電光のごとくに各部隊に知れ渡っていた。この砲が我が手にも入ったからには、一門が一箇師団に匹敵するなどと話して行く者もあった。早速この方面に◯門据えつけ中だという。「では帰ります。そうだね、明朝四時半ごろ第一発が唸るよ。かなりひびくぜ。」といい残して伍長は去った。 はたせるかな十三日早朝、予定より三十分おくれて突然ダダァン、グワグワッ、と、豪壮天地も顚動〔てんどう〕せんばかりの大音響と共に、ゴゴウッと長い地響きを打って、全軍待望の第一発が鳴り響いた。後で聞いた話であるが、ここの野戦病院に収容されていた無念一杯の負傷兵等は、この一声を聞いてうれし泣きに泣いたという。それから約◯◯分間ずつ間をおいて打っ放す景気のよさ、その日からさしもの臺兒荘も、一角からもりもりと崩れ始めたのである。 自分は東に向かって直立した。そして心からなる感謝の念に燃えて遥拝した。
2017年04月14日
一つ星の兵隊 これはまだ蘭陵鎮にいた時の事であるが、内地から補充の兵隊が、明日前線に出るから、この室に六人泊めてやってくれと、見なれない軍曹がたのみに来た。 自分は前線との連絡に便利のよい自動車車隊発着所前の、ガランとした倉庫のようなものの中に、アンペラを敷いて起居していた。もちろん快く承諾してやった。間もなく、一つ星の若い兵隊が六人、先ほどの軍曹につれられて来た。自分が立って出迎えると、皆挙手の礼をして、大きな声で「御厄介になります」といった。 いずれも二十一、二歳、今年入営したばかりらしい兵隊である。装具をといて、アンペラを敷き、毛布をのべ、たちまちのうちに兵舎のような気分が出て来た。いずれも元気ではち切れそうな青年で、演習にでも行くように嬉々としている。 晩飯は、前野部隊の炊事から、飯と汁と漬物をバケツで運んできて、宿舎の前に火を焚き、自分の銅鍋で湯を沸かし、久しぶりで賑やかな晩飯を食った。夜の八時頃になると、腹が減ったというので、自分がもらいためて貯蔵しておいた、牛罐や、みかんの罐詰コンペイトウの入った乾パン等をすっかり出し払って食わせてやった。兵隊達は、自分の軍刀を抜いて見て「ゴツイ刀だ。」といったり牛罐の中の硬いやつにぶつかると「ゴツイ肉だゾ。」とか、盛んにこのゴツイが出るので、「みんな岡山縣だろ。」と聞くと、一斉に「そうであります。」と答える。ちょうど自分の子供と同年輩ぐらいだ。子供の生まれた頃の事が眼に浮かぶ。あの頃の笑顔やら、あんよを始めた頃の様子やらを思い出して、この六人の兵隊のその頃を想像しているうちに、何ともいえない気持ち、自分の子供のような気持ちになって、横を向いてしまった。自分はしみじみとした調子でこの兵隊達にいった。「自分は軍属だが、今日までずいぶんと危険な所を過ぎて来た見聞を考え合わせて見るに、何度も激戦地をくぐって来た兵隊は、自然と要領がうまくなって、弾丸の下をくぐるコツ合いを会得している。戦場になれないうちに空しく戦死する者の大部分は、その戦場なれのしない為でもある。よく古参兵を見ならい、一日でも余計に生き延びて御奉公せんけりゃいかんぞ。支那兵は狙撃がうまいから気をつけろよ。夜半ひょっと便所に起き用便中に、かねて忍び込んでいた便衣兵に刺殺されたという事も聞いたぞ。塹壕は、いくら窮屈でも不用意に立つんじゃないぞ。」などと、自分の知っている限りを並べたてた。初年兵でも兵隊である。素人のいう事を聞いて、おかしかったかもしれぬ。が、いう方では一生懸命であった。 兵隊達は、夜半を過ぎて間もなく起こされた。軍装を終えると、整列して挙手をし「お世話になりました。では行きます。」と勇ましい声でいって去った。 がらんとした広い室内に一人残された自分は、毛布を引っかぶって、暗闇の中に眼をつぶったが、もう眠れなかった。 それから数日後に、自分もその若い兵隊達のあとを追って、この黄家樓へ出て来たのであるが、ある日ここの南方の激戦で戦死した兵隊の死骸を◯◯◯◯◯為(※原文ママ)に、宿舎の後方の空き地に安置してあると告げて来た者がある。大部分一つ星の可愛い顔をした兵隊たちだと聞いて、自分はハッと思って行って見ると、麦畑の中にそれが七人安置されてある。七人とも顔はそのままで、うち五人は一つ星であった。眠るがごとくある兵隊は微笑をさえ浮かべているではないか。瞬間、憤怒に似た気持ち、あるいはそれ以上だったかも知れぬ気持ちで胸が一杯になった。自分はいきなり宿舎に走り帰って水筒をとるなり引っ返し、水のないこの地としては、実に貴いその水を惜しげもなく七人の死骸の口についだ。笑顔をしていた兵隊の唇は、瞬間たしかに動いた。自分は驚きと、もしやという考えとから、体躯にさわってみると、横腹に大きな穴があいているのだった。 あはれわが死にゆく兵の口々にのこりすくなき水わけあたふ ほゝ笑みて眼を閉ぢて居りちゝのみ父の水とも思ふならむか 黄家樓び野天修理工場へもって来た軍刀は十六振、壕の中まで出張して修理したものが数振、その中に、曹長とては、佐々木、島崎、清瀬、竹内の四人で、かの小部落討伐隊は、たしかにここの所属だが、乱戦中の事とて、はっきりした事は不明であった。ただこのうちの二曹長の軍刀が、いずれも昔拵えそのままで、近く敵を斬ったらしい新しい血糊のあとが、刃先に真一文字についていた点から見て、自分の六感では、あの時の物斬り曹長は、島崎曹長であった事と想像している。
2017年04月07日
血染めの作業服 ちょうどその頃の事で、帝大の史学科を出たというインテリの特務員が、この辺一帯は石器時代の遺跡らしく、この東方の丘阜の断層から石斧らしいものを拾ってきたというのを見せられ、自分の精神内に眠っていた一つの考古癖がむらむらと頭を出してきて、ある日昼休みに、宿営地をはなれ、一人でぶらりと東の方へ歩いて行った。 道を誤ったのか、特務兵のいう丘阜の断層らしいものはさらに見えず、その代わり沼地のような窪地へと下りて行った。 思わず深入りしたのに気づいた自分は、何となく心細くなって引きかえそうとしていると、その窪地の南の方へ車両の担架隊が来ていて、四、五名の兵隊が担架でしきりに友軍散華の尊いなきがらを運んでいる。「手つだってくれや。」と無造作に声をかける。二日二晩寝ずのぶっ通しでどうにもならんという。「ウ、よし。」とばかり、自分は窪地から上って行くと、低い土手の陰にもある。草の深い土手を下りきると、何か収穫したらしい畑地で、そこに図らずも、彼我白兵戦の結果と思われるあるものを見た。 支那兵には珍しい大兵肥満の大男が一人、北向きにうつ伏して殪れている。その五歩ほど東に、一人の支那兵に折り重なるようにして、皇軍の勇士が一名すでに縡〔こと〕切れている。血に染まった日本刀を右手に持ったまま、刀緒がかたくその右手にからみついたままで。 巨漢支那兵の頭のところには、これも血に染まってどす黒くなりかけている大青龍刀の恐ろしくひねくれたのが一振投げ出されている。 自分はぐっと緊張せずにはいられなかった。やにわに本能的にその青龍刀を拾いあげて腰にはさみ、担架兵を呼ぶのも忘れて、いきなりその死屍をぐんとかつぎあげるとたんに、傷口から赤黒い腐血のしたたりがつるつると流れて自分の服にかかった。鉛のように重いその屍体をかついで二、三歩走り出すと、どこかで銃声らしいものがするように思われたが、夢中で土手をあがって下りると、特務兵が手をあげながら一斉に自分に向かって何かいっているがわからない。 どんどんかついで、担架隊の車両のところまで来ると、一人の上等兵が、「危なかったねェ。敵が撃っとるぞ。」という。銃声は約千メートルぐらい南の部落かららしいというのだ。 ところへインテリ特務兵と、半島人の通訳とが、自分をさがしに来てくれた。 ここで昨夕激戦が展開されたのであるが、収容洩れのあったほど左様にはげしい戦いで、今しがた収容した皇軍の一兵士のごときは、捧げ銃をしたままで縡切れていた。その手を銃から離そうにも離れず、まるで漆づけにしたようであったという。 石器に引っぱられて、自分は図らずも一善を働いた。その時の青龍刀は、記念として持ち廻り、ほど経て北京の寺内部隊兵器部に帰還の折、その報告もついでに行ない、血染めの青龍刀を廻覧〔かいらん〕に供した。のち内地帰還の際は、特に上官の佐藤少佐にたのんで乞い受け、携帯許可証を得て内地に持ち帰り、郷里桑名市の旧藩祖神鎮國守國神社に奉献〔ほうけん〕の手続きを、旧藩主松平子爵家に御依頼すると、快く御承諾下さったので、御引き渡しを完了したのであった。 その時の血染の作業服は、後に北京の兵站宿舎の女中が、気をきかせて洗ってしまった。有りがた迷惑であったが、それでも二ヶ所だけは血痕が落ちずに残っていたので、世間でいう意味とは、いささか異なるが、まさに“血染めの作業服”で、今では好個の記念私物として大切に保存している。
2017年03月31日
野犬と烏の群 このあたりには、いたる所に野犬が群れていた。飼い主を失って野犬の群に投じた犬も、いつしか野性に還元してしまっているらしく、これらの犬は、その体躯も大きく、激戦場附近に蝟集〔いしゅう〕して来ては、彼我の死屍をあさり回した。遺棄されている敵のしたいが、この連中の爪牙にかかっているのを時々見受けた事がある。人肉の味を覚えた彼らの眼は異様にかがやき、二人や三人でその一群にあうと、実際敵群に遇ったより薄気味が悪かったと、よくそうした事を耳にした事があった。野天で露営する時に、この野犬群に注意しないと、生きたままがぶっとやられるかも知れんというので、かなり綿密な注意を払ったという事も聞いた。 ひまな時には野犬狩りをやった。餌で釣って門扉のある構内へおびき寄せ、急に扉をしめて構内を追い廻し、一隅に追いつめて試し斬りをするのを見た事がある。歯牙をむき、恐ろしい顔をして飛びかかるようなけはいであったが、難なく斬り伏せされた。敵兵を斬るより始末が悪く、毛のあるせいか刃の通りがわるいといっていた。犬を斬った刀を吊って歩くと、かなり遠くいる犬でも逃げるそうである。嗅覚の異状に発達した彼らには、よくわかるものと見える。 戦場にはまた人間の腐肉をねらう烏が大群をなしていた。支那ほどに烏の多い所はない。高い樹という樹には、この烏の巣がいくつも球状をなしている。烏の中にも、日本のような真っ黒なもの、首の所だけ輪のように白いもの、全体の白いものなどで、啼き声もカアカアでなくややかすれてヤヲヤヲというようになく。これが、収容のできなかった敵の死屍のあるあたりに、何百という大群をなして集〔たか〕り、風にあおられる秋の木の葉のごとく、舞い上がり舞い下って、腐肉を貪食しているのをよく目撃した。烏ぐらいの鳥で、黒と白の交じった羽の鳥、名は知らぬが、内地の鶺鴒〔せきれい〕を大きくしたような恰好なのがいる。こやつと来たらまったくの悪食残忍で、死屍の腐らぬうちに目の玉などをつつき出してしまう。群居はせぬが、比較的低いところをとんでいて、人が追っても容易に逃げ去らない。 よく、この鳥の散見から、はからずも、収容洩れの戦死者を発見したというような話も聞いた事がある。
2017年03月24日
工兵の眼 これはある兵隊から聞いた話しである。 嶧縣から蘭陵鎮へと、自動車道路を開設する時、その兵隊は先登車に六名の工兵と同乗して行った。道路や橋梁の破壊された箇所を、応急的に修繕するためである。この自動車が、次第に進んで行くと、道路の中央部が道幅いっぱいに長さ六尺深さ四、五尺堀り割ってあって、どうしても自動車が通られない。幸い両脇が道路からわずか低いだけの麦畑であるから、それを這入って行こうかと、あわやカーブを切ろうとする一瞬間、工兵軍曹が「ちょっと待った。」といって止めた。す早く六人が飛び下りると、注意深くあたりを物色した末、その辺から三個の地雷火〔じらいか〕を発見したのであった。地雷火というものはそうした所にも埋めてあるのだ。実に危機一髪のところであって、もしこの工兵の便乗がなかったならば、その一瞬一台は木っ端微塵に吹っ飛ばされてしまったのだ。敵の地雷火施設に巧妙な事は、この一例のごとく、臨機応変、所在に埋めてあって、それを六感で看破して未然に防ぐ。工兵は橋をかけたり、クリークを肩梯子で渡したりする外〔ほか〕に、こうした非凡な“眼”の持ち主でもあるのだ。 敵が、低い道路に川を導いて、池のように氾濫させた箇所へかかった。どうしてもエンジンが水浸しになるほどの深さである。ちょっと途方にくれた時、先登車に荷物のないのを幸い、全員下車して手伝い、附近にある荒廃した廟のレンガ塀を破壊して三杯運び、そこを埋めて通った事があり、その所要時間わずかに三十分強、時にこうした事もしてくれる。
2017年03月17日
奇画と怪写真 蘭陵鎮の前野部隊本部も、富豪らしい構えで、自分の室は、一ヶ月ほど前の◯◯新聞で東南の壁を一面に貼り廻〔めぐ〕らしてあった。それで、前にいた人たちが◯◯地方の出身者である事が知られてなつかしかった。「山崎保、生年二十四歳、二十三日未明出発、生還を期せず。」という悲壮な鉛筆の走り書きに交じって、「蚊に喰われ蚊に喰われつつ夢に逢う」という即興俳句が一つ墨汁で書いてあった。夢に通ってきたのは新妻か、父母か、子か、筆の主はやはり生還を期する事なく、どこかの線で戦っていた事だろう。 ここの壁の西側だけは、支那の石版画を貼ったままであった。満州事変直後の日支両軍衝突事件における、古北口の戦争で、日本軍が大敗し、支那兵が青龍刀で、手を合わせて拝む日本兵を斬っているところとか、山海関では、算を乱して逃げる日本軍を追撃してゆくところとか、まことに勇壮な支那軍連戦連勝の絵が貼りつけてあった。こうした絵画で、何にも知らぬ奥地の民衆をだまして強がっていたらしい。珍しいので、小半日かかって根気よく水をつけてはぎとり、そのまま持ち帰った。ある日兵隊が来て、室中の古新聞を読んで行った。中には、何かの続きものを、この壁貼りの新聞からさがして読んで歩く兵隊もいた。自分の室にもそのつづきが三ヶ所あったとかで、大喜びであった。 筆のついでに書くのであるが、津浦、京漢両線を南下進軍した者の誰もが、どこかで買わされたかまたは見たかした、不都合千万な数枚一組の写真があった。まさに国辱物で、モデルの一方は日本婦人、相手の男は覆面をしているからわからぬ。手に拳銃を持って押し入ったところから始まっている。こんなものを売る人間が、日本人であったらなおさらの事、支那人でも容赦はせぬと考えていたのであったが、北京に帰還して、一日某軍医と北海公園をぶらつきながら、白塔を見物しようとあの手前の橋を渡ると、一人の小肥りの支那人が出て来て、写真を買えという。見ると、それだ。こいつだな、と思って、「いくらだ〔トールチェン〕。」と声をかけたら二圓〔リャンカイチェン〕だという。手の内に二十組ほど持っている。手まね交じりに皆でいくらかと聞くと、この男てっきり兵隊にでも儲けて売るのだとでも思ったのか、にやにやしながら十五圓よこせと、指一本と次に五本出して見せる。こちらもだまって指一本出す。よろしい。皆取るが否や、軍医さんと二人でビリビリ引っ裂いて池の中へ捨てたものだ。儞公〔にいこう〕びっくりして、何とか大声で言いながら、泳ぐような格好で寄って来るのを突っ放して、皆寸断寸断〔すたずた〕にしてしまってから、財布から金二十銭也を出して渡したがとらない。十圓〔ジーエン〕といったり十元〔シーユァン〕といったり、十塊銭〔シーカイチェン〕といったりして、なかなかしつこく迫って来る。果ては、頭のてっぺんにのせている赤い玉のついた丸帽子をとって、叩頭百拝する始末。そこでおもむろに手帖を出して“悪俗奇怪的照相”と書いて、グッとにらみつけると、六感でこちらの真意がわかったのか、いきなり「沒法子〔メーファーズ〕」と吐き出すようにいって立ち去ったが、自分の手のひらの邦貨二十銭を、ひったくるようにして持っていく事は、もちろん忘れなかった。
2017年03月10日
桃色がかった話 嶧縣の小林部隊本部(後に瀬谷◯◯部隊の本部となった。)は、嶧縣場内随一の豪家で、表には『進士第』という金色の大きな額が掲げられ、城壁のような煉瓦塀をめぐらし、構内には煉瓦造りの家が十七、八棟もあり、穀倉から宝蔵、大小の物置、書庫、軸物庫まである豪壮な邸宅であった。北寄りの塀の中に、『聖旨』という石額のかかった石造の門がある。功労者勲功者などに皇帝から賜わった記念碑のようなものであろう。 邸内の各室、その棟々の主人の居室などにかかっている写真を見ても立派なものだし、ある室の写真などは、日本でいったらさしずめ勲一等といった勲章、それに英国勲章らしいものも交えて吊った、五十がらみのおっとりした大人〔ターレン〕の姿である。 この家の各所から、衆議院と赤く刷った封筒や、黄絹地に墨書の彰徳の対幅やらが散見されたところなどから、かなりな地位の家らしく、古びた二階に登ってみると、日清戦争の時に、皇帝から私兵を求めた催促状、金銀藍紅色などの文字で書かれた漢文蒙文の感状、私蔵の軍装武器等々が散乱していた。 ある物置には、三尺四方ぐらいの箱に、穴明きの古い銭がいっぱいつまったのが三杯からあり、清國時代からの銅貨が、ミカン箱ぐらいのやつに四、五杯もほったらかしてある。この辺では、瓢箪をたてに二つに切って乾燥したもので、水を汲む柄杓につかうのであるが、それが百個近くも天井から吊るしてあったり、穀倉へ行ってみると、何百尺とある日本婦人の帯のような形に高梁のからを割いて編んだもので、直径一丈ぐらいに巻きながら、その中へ、小麦、栗、高梁などの穀物を入れ、天井までとどくような大きさの笊〔ざる〕の形にしたものが、何本となく並んでいる。一本は少なくとも、二百石ぐらいははいっていそうなもので、そうした倉庫が二棟も三棟もある。兵隊の話では、北西隅に罪人をいれる留置場のようなものまであるという事で、大名のような性質をもった旧家であり豪家であると思われた。 ここの書庫にあった書棚を、部隊長や防疫医官と共にあさり廻して読んだ。極めて古い山東省史などがあった。それには、孔子の父親が、老いて子なく、何とかいう孫のような娘と尼山に祈り野合して孔子を生んだなどと書いてあった。秘教白蓮教の由来書の中に、開封にその秘寺のある事を挙げてあった。あと自分は◯◯◯部隊に配属して開封に入城した折に、この由来書を読んだ記憶から、不思議な廃寺を発見する事ができた。支那の発達した古医書は、防疫医官某大尉の室に運ばれ、大尉はこれで博士論文を書くぞと大へんな意気込みで読みはじめた。部隊長は古版の論語か何かをtに入れ、これの註は天下無双だと読みふけっていた。 防疫医官の室と、自分の室の間をぬけたところに小さな門があって、その中に逃げおくれた一族が住まっていた。部隊でもこれを保護し、残飯などを喰わせていたが、どうやら若い娘もいるらしく、耳をすますとよく若々しい女の声が聞こえて来る。 その翌日あたり、自分は目釘にする竹の必要から、通訳をつれてその門を叩いた。内から開いたのは、三十ぐらいの屈強な男で、目に一癖ありそうな面構えだ。もちろん女たちは姿を見せない。竹があるかと問えば、有るという。朱で塗った六尺ほどの竹棒を持って来る。いい竹材だ。代金はいくらやればいいか。不要だ。若い女がおるだろう。いやおらぬ。嘘をいうな。嘘ではない。大人は(通訳は自分を指して。)年をとっているから心配はない。出して見せろ。いくつだ。五十近いぞ。中国人は五十からが男盛りだ。こんな問答をした後自分らは引きあげた。この事を若い軍医さんに話すと、是非一目見たいという。結局、見せてもらって来たが、軍医さんは美人拝見のお礼に罐詰やら煙草やらを多々的贈った。それから後、日本軍のその方面を信頼したのか、太っちょの若い娘だけはひょいひょいそこから用たしに出てきた。自分が煙草をやると「不要〔プヨ〕。」といって受け取らなかった。他の若い娘は、二人の老婆と散乱した衣類を引っかきまわして、何か拾い出しているのをしばしば見受けた。 自分の最初の室は、奥まった、紫壇のような帳台の置いてある豪家な寝室で、土間には夫婦の机椅子等が置かれ、なかなか手の込んだ細工がしてあり、帳台すなわち二人用の寝台の内側に、小ひきだしのついた小卓があって、何かの薬剤だろう、鼻糞をまるめたようなものや、動物のどこかの部分を乾燥させたようなものや、その他大瓶小瓶に入った薬剤らしいものがあった。軍医少尉が修理に見えたので、何だとたずねてみると、それは媚薬だという。これは何とかの睾丸の干物で、これは何とか蟲の製剤だと説明してくれたが、忘れてしまった。鼻糞のような物は香だろうというので、火にくべてみると、なるほどいい匂いだ。梅花香に似てさらに上品なところがある。も一つの箱には、カードのような形の十二ヶ月にわけた怪しげな絵画で、一度は紙箱ごと地べたに叩きつけてみたが、拾いあげて棚に置くと、兵隊が来て、弾丸よけだといって、一枚二枚ずつ、いつの間にか運び去ってしまった。小林部隊長にその事を話したら、わしの室に来て見いという。二度もいわれたので行ってみると、ここは新婚匆々〔そうそう〕の若夫婦の室で、濃艶な写真がかかっており、調度万端がすべて“桃色”である上に、およそ初歩の漢文が読める者なら、誰でもその意味のわかりそうな甘い文句の書物が置いたりしてある。さらに壁には、祝新婚の甘ったるい文句の五幅対がかかっており、まさに春風駘蕩〔しゅんぷうたいとう〕たるものがある。部隊長は、「わしぢゃからこれでいいが、若い将校には少々罪だと思ってのう。」と、笑いながら、お茶を入れた。
2017年03月03日
運命信者 福栄部隊のある兵隊が話した。某隊では、隊長以下、戦死または戦傷戦病で、最初から残っている者はたった三人だけであった。その中の一人は、不思議にかすり傷一つ受けずにぴんぴんしていた。臺兒荘のある戦で、地物を利用しながら、ぢりぢりと敵に迫っていく時、内地から補充で来た一人の兵隊が、生き残りの兵隊のすぐ後ろから進んでいった。幸いに敵弾はない。もう一足か二足進めば土手のかげに遮蔽のできる地点で、かくれていた敵が二百メートルほどのところから、狙いうちにその生き残りの兵隊を撃った。ところが、弾丸は兵隊の右首をすれずれに飛んで、後ろにいた内地から来たばかりの兵隊の額にあたって即死させた。 敵の陣地を占領した。敵の居住していたらしい宿舎に各自の宿舎を求めた。その夜はばかに寒かったので、皆焚き火をして暖をとった。 ある室に錻力〔ぶりき〕でつくったストーブが据えてあった。煙突も立派についている。念のため中をしらべて見たが異状がなかったので、たきつけをつめ込んで、その兵隊がマッチをすった。何本すっても軸木に火が移らないで消えてしまう。他に誰もマッチを持っていないのでその兵隊は、「待て待て」といい残し、他の宿舎へ借りに行った。その間に、ある兵隊が試みにそれですって見るとよくついた。何ァんだという事で、たきつけに火を移すと、しばらくしてから轟然たる爆音と共に、ストーブの下で何物かが炸裂して、それを囲んでいた三人の兵隊は、粉微塵に吹っ飛んでしまった。マッチを借りに行った兵隊だけが、その難をまぬがれたのであった。 蘭陵鎮の宿舎で、ある晩軍医さんが語った。「ある時自分は部下の衛生兵を連絡にやるために、先方の位置を説明したが、その衛生兵は、いわゆる勘がわるくてなかなかのみ込めない。自分は、急ぎの用でもあったので、少しむっとし、小木片を拾って、地面に略図を描いて説明してやった。一度もとの直立体に復したが、まだわからないために、『馬鹿だなァ。いいか。』といいながら、再び身を屈して略図について説明を繰りかえした。ちょうどその時、敵の小銃弾が衛生兵の軍帽のてっぺんを打ちぬき、自分の背中すれずれのところを飛んで過ぎた。直立しておれば、二人ともやられてしまったのだ。つまり、衛生兵の徹底的にのみ込みの悪いのが、二人の命を救ってくれたのだ。と語った後、「運というものは慥〔たし〕かにある。たしかにある。」と強くいい切った。科学者もついに兜をぬいだわけだ。 三度負傷し、三度とも野戦病院で全癒し、原隊に帰って活動をつづけていた兵隊からも、そうした話を聞いた事がある。最初の一弾は貫通銃創で、肋骨の間から入り、左肺臓の外側を除けて背に抜けた。二番目の弾丸は左腹の面を深く抜けたが内臓にさわらずに水筒を貫いた。三番目には迫撃砲弾の破片で左の頬の肉を直径一寸ほど円形にすくい取られた。顔に浅い盃状のもの、つまり篦棒〔べらぼう〕に大きい笑窪ができてしまったが、三つとも身体の機能には影響しないらしいという。戦場では、誰でも無条件で、運命論者ではなく、運命信者になってしまう。
2017年02月24日
弾丸の中の棄子 蘭陵鎮から棗荘へ帰る時には、三台の貨物自動車の先頭車に便乗した。運転手が乗っている兵隊が皆二つ星の特務兵で、各車には二、三梃ずつの小銃があるだけ。指揮官はこれも輜重〔しちょう〕の軍曹で、まったくの空車である。ちょっと心細かったが、嶧縣までは一っ飛びだから、半ば安心して乗り込むと、左荘という部落で五、六十名ぐらいの敗残兵の小銃射撃を左方に受けた。青葉に包まれた小部落で、姿はちょっとも見せない。皆自動車の上に腹這いになって弾丸をよけながら、こちらからも小銃を撃っ放した。未教育の特務兵も、戦場往来の中に、見様見まねでいっぱしの戦士に叩き上げられている。運転兵はわき目もふらずにどんどん驀進をつづける。いいあんばいに下り坂で、左側は土手で遮られてきたので、弾丸は一つも来ない。 嶧縣で二時間ほど休んで、その間に鹵獲〔ろかく〕の雑兵器を積み込む。革具、馬具類、鉄兜、薬盒、糧食、弾薬類、等である。さらに三台加わり、福々しい丸顔の少尉が指揮官として乗り込み、棗荘へと向かった。 その日は彼我共に休戦状態で、思い出したように、遠くの方で大砲が鳴っていた。 自動車は畑の間を疾走して、半ば以上兵焚きで焼き払われた村落の中ほどで、先登車の車輪が故障を起こした。そこで暫時休止という事になり、自動車をおりて木の陰で休んでいると、道をへだてた向かいの家の壁に立てかけてある高梁のからが、がさがさ動いているのが目に入る。一人の兵隊がつかつかと行って銃の先ではねのけて見ると、ぼろにくるまったような二人の子供が出て来た。一人は二、三歳、他の一人は五、六歳でいずれも男の子だ。兵隊は、このあわれな小孩〔ショウハイ〕二人を、ちょうど豚でも逐〔お〕うようにして自分らのところへつれて来た。二人の子供には、すでに敵という観念が働いていると見えて、異様にかがやく瞳を向け、皆の顔を見くらべながらただおどおどとりている。 自動車指揮官の少尉は、故障修理の監督をしていたが、いまこの二人の子供の連行されてきたのを見ると、にこにこしながらやって来て、「子供だけか。」「そうであります。」「捨てて逃げたな。可哀そうに。」といいながら、小さい方を抱き上げてほほずりをする様な恰好をしたが、蒼白の子供には、何の表情も浮かばす、また何もいわずに、ただうつろの眼を見張っているのみであった。 支那人は、きまってよぼよぼの老人と手足まといの幼児は捨てて逃げる。こうした状景は、他の地方でもよく目撃した。 二人の子供にはたちまち同情が集まった。連れて行って育てようという特殊家が出た。一人の特務一等兵である。もちろん指揮官の許す筈はない。がしかし、飯盒の飯や、乾麺麭や、キャラメルなどが、二人の子供には持ちきれぬほど渡され、そしてもとの所へ戻された。大きい方はそのまま高梁がらの中にかくれたが、小さい方は、いつまでも覗いてこっちを見ている。その子供をつれて行った兵隊が帰ってきてからの話に、麦の穂の噛んだやつがたくさん散らばっていたという。可愛そうに、彼らは、まだ半熟の大麦の穂をぬいてきてはそれを嚙りながら生きていたのだ。 間もなく自動車は出発した。
2017年02月17日
柳本一等兵 兗州の線では、部隊長から、加古という技術伍長(今は軍曹)を、隊長からは福田上等兵を、助手または雑用としてつけてもらった。だから身の回りの事は一切自分らでやっていたが、胡山薹兒荘の線からは、単独派遣であったから、行く先々で助手または当番兵を選んでつけてくれた。 柳本(仮名)という歩兵一等兵が当番をしてくれた事がある。この兵隊はいつもにこにこしていたが、色の白いその面長な顔には、なんとなく一抹淋しいところがあった。これが自分には、第一印象として残っている。この兵隊は、ひまさえあれば当番室からぬけて来て「手紙を見せてくれ。」というのだ。つまり自分のところへ来た手紙をである。自分は一束の手紙を、「さアさ、検閲してもらいましょうか。」と笑いながら出した。 この兵隊はそれを貪るようにして読んだ。中の三通をとって記念にもらいたいという。本庄陸軍大将閣下からのと、文部省の中田社会教育官及び自分の末男(尋常一年生)からのものだ。 自分はなぜともなくそれを拒めなかったが、同時に一つの不審も感じたので、他の兵隊にそれとなく聞いてみると、「柳本一等兵は生まれた年に父母と死に別れ、天涯孤独◯◯の孤児院育ちです。それから……」と続けるのを、自分は皆まで聞かず、話を転換してしまった。柳本一等兵は今は勤め先であるその孤児院から応召したもので、肉親からはもちろん、その他からもあまり便りが来ないとのことであった。 その翌日この兵隊が、自分は明日◯◯としていよいよ前線に出ます、といって別れに来た。自分はお茶をいれ、お菓子を出して激励した。この兵隊は、駄菓子の行商をして自分を育ててくれた祖母が、死ぬる時、「この孫だけは育ててあげたかった。」と狂気のようにいいながら息を引き取った事を語り、「自分は祖母の念力でか、おかげで無病で成人しました。人様のお情けに報いる時が来たようです。あなたからいただいた本庄閣下のお手紙の中の『滅私奉公』ですね、私には私だけの意義があります。幸いに凱旋できたら、自分の宝物として大切にします。有難うございました。では参ります。」といって、自分の顔に注目挙礼して立ち去った。どうかこう上品な犯しがたい面影があった。 この兵隊からはそれっきり便りはない。
2017年02月10日
馬糞玉の怪物 黄家樓の軍刀修理工場は、馬小屋の隣りの、傾きかけた廂〔ひさし〕の下に設けた。何百という兵隊がほとんど全部野宿している中の一構の廂なのだから、贅沢なものだ。廂というのは半ば腐ったこうりやんがらで、三畳敷ほどの土間に叺〔かます〕を敷き、砲弾箱を作業台とした工場で、すぐ前の空き地には、軍馬が五、六頭つないであり、隣りの馬小屋は、馬糞がちらかっている上に、こうりやんがらを厚く敷いて、数名の将校の宿舎になっている。 この修理工場に座り込んで、一心不乱に作業を続け、一寸一寸ぷくつけて何げなく地面に目を落とすと、不思議ではないか、直径一寸ぐらいの馬糞の玉が一つ、ころりころりとひとりでにこちらへ向かってころがって来る。その後からもう一つ。広い地面の、あっちこっちにも、そうした糞玉がころがっている。この馬糞玉の怪物に、作業の手をやめて立ち上がり、眼鏡をかけて熟視すると、なんと、身体の平べったい黒色のこがね虫がするしわざであったのだ。かねて話を聞いていた“糞玉押しこがね”という、日本にいない特殊な虫だとわかったが、こうした大激戦のさ中でこいつを見ようとは思わなかった。 あまりにも珍しい発見なので、自分はその辺にいる兵隊を呼び集めた。誰も彼も、戦争の事で夢中になっていたためか、こうした事には一向気がつかなかったものと見え、「へえェ、珍しい生きものだ。」と、しゃがみ込んでその虫の動作を熟視するのだった。 糞玉を製造してはこれを輸送する虫の一連は、孜々営々〔ししえいえい〕として盛んに運んで行く。何しろ、軍隊の馬で、どこもここも馬糞の豊富なせいか、虫の数も多い。最初は、糞の塊を少しずつかじり取り、それをこてのような形の前脚で巧みに丸めて豆粒ぐらいな団子にする。それが実に堂に入ったもので、ちょっとの間に大きくつくりあげる。最初つくった豆粒ぐらいなやつを糞の上にころがし、前の脚の先で糞をおさえつけては次第に大きくし、直径1寸ぐらいにすると、今度は前脚を地につけて、逆立ちの格好となり、後脚でその玉をゴロリゴロリと押して四、五間もある土手まで運んで行き、かねて堀ってある大穴の中に押し込む。試みにその穴を棒の先でほじくってみると、なんと二、三個の糞玉がすでに格納されているではないか。この糞玉は玉押しこがね虫の食料であり、この一つに卵を生みつけ、そこでかえった仔虫は、これをたべて大きくなるというのだが、いやまったく珍しいものを見た。 この評判がたつと、あちこちからだいぶ見学に来た。小学校の先生だという兵隊などは、ご丁寧にもその糞玉を数個乾燥させて箱にしまい、虫を四、五匹塩びたしにして、よいみやげだと無性によろこんだり、戦争の合間に、馬に乗った将校がわざわざ見学に来たり、おかげで軍刀修理工場は時ならぬ賑わいを呈した事であった。 北支の兗州から徐州へ、臨城から薹兒荘一帯へかけて、この虫は相当に繁殖している事を、その後移動するごとに注意して見きわめた。支那という国柄に相応しい虫である。
2017年02月03日
ちゃんちゃんこを着た馬 自分の従軍中は、露営の歌と、上海だよりとが、どこでもよくうたわれていた。ほかの歌はあまり兵隊の現地心理にはぴったり来なかったらしい。ところが、帰還してからはじめて耳にした愛馬行進曲には、幾度も幾度も、そしてその度に新しく泣かされた。それほどにあの歌詞あの歌曲ともに一分のそつもなく自分を捉えたのである。所詮この三つの歌は、自分の経〔へ〕めぐって来た戦場の幾多の事象とこびりついて、生涯自分の頭をはなれぬ血と泥と涙の思い出を伴奏するものとして残る事であろう。 愛馬行進曲が流れ出すと、いつでも、何処でも、きっと三つの場面、馬と兵隊との生きた映像が、まざまざと目の先にちらついて来て、自分には直ちにそれが発声映画として微妙に接受されるのである。その一つの場面には後に『戦う日本刀』と題したものの中に発表してあるので、ほかの二つについて書いてみる。 自分をのせた長い軍用列車が、臺兒荘から北へ三つ目の棗荘に到着せんとするちょっと手前の左側に、もうもうたる土煙があがっていた。一里近くもつづいて行く輜重車両隊の行進である。 荷車には米叺〔こめかます〕だろう、二つ宛の大叺を積んで、輓馬〔ばんば〕の口をとった特務兵も、馬も、車も、その黄土の土煙を厚くかぶって、さながら粘土細工の馬と兵隊になって動いてゆく。その列の中に、ある車をひいてゆく馬が、ちゃんちゃんこのようなものを着ているのをチラッと見た。「何だろう。」と兵隊は不思議そうに訊く。「病馬だろう。見い、叺はたった一つだ。」 班長らしい下士官がいう。なるほど、歩き方が何となく力がなく、その姿は淋しくあわれであった。 それから二日過ぎのある朝である。自分らは棗荘にいて、前進の準備をしたのであるが、早暁から表通りが騒々しいので、大道に面した窓からすかして見ると、道いっぱいの輜重の馬力車である。夜明け前に到着して、あちこちに半野宿の形で大休止をしたのであろう。人馬共々あちこちの軒下に、つくばえたり寝たりしているものもある。中には、人間同志が添い寝をするように、馬と兵隊がいっしょになって寝ているものもある。 夜が明け放たれてから、自分は外へ出てみた。そして第一に目に映じたのは、ちゃんちゃんこを着た馬であった。四本の脚を長々と投げ出して横に寝ている。腹のところは、兵隊の毛布がかけてある。馬は時々大きな呼吸をしながら、いかにも快よげに寝ているではないか。やがて馬の主の兵隊が、刈りたての麦を一把かかえて帰ってきた。 室に戻っていると、一人の特務兵が、煙草の火をくれといって這入ってきた。そこでそのちゃんちゃんこの馬についてたずねてみると、馬の主は未教育で召集されてきたどこかの中學校の先生である。変わった兵隊で、本部の事務に使ってもらえるのを、自ら志願して◯◯になった。自分の専門なら格別、ここへ来てまで机にかじりついて頭をつかう気になれないというのだ。その輓馬が病気になった。病馬廠へやろうというのを、兵隊は馬と別れたくないといって、自分でちゃんちゃんこを着せたり、難所へかかると、荷物の一部を背負ったりして馬をいたわった甲斐が現れて、どうやら回復したらしいというのである。 その後、胡山の線で三度この馬にめぐり合った。横なぐりの弾丸の飛んでくる所で、その中をやっぱりちゃんちゃんこを着て歩いて行った。 どこまで続くかと思われるような麦隴〔ばくろう〕の中の、車馬のため自然にできた道を、自分らの便乗している貨物自動車がのして行く。二人の兵隊が左右に、運転台の屋根にしっかりつかまりながら、じりじりと照りつける初夏の野を見廻しつつ進んでゆくと、一人の兵隊が、「馬がいる、三本足の馬が。」と指さすのを見れば、ゆく手の左側に、なるほど馬が一頭放馬となって麦を喰っている。砲弾にでもやられたのか、右の後ろ足のが半分ない。近づいてみると、乗馬らしく、背の高い立派な栗毛の日本馬である。 件の馬が、ひょいと首をあげて自動車の方をふりむくと、いきなり駆け出して来たではないか。頭を上下に振り、ヒヒンと呼ぶように訴えるようになく。つれて行ってくれというのだろう。「不憫だな。」自分は腹の中がえぐられるようになってきた。まったく正視できない。運転兵も気のせいか徐行しているらしい。馬は一生懸命に不自由な足を引きずるようにして、とうとう自動車とすれすれの所までやって来た。兵隊の中には、こうした場面を見るにたえずしてか、横を向いているものもある。「助けてやりたいがどもならないぞ。この一戦のすむまで生きていろよう。」 こんな事をいう者もある。馬は自動車の左に取り残された。まだ一生懸命に人間のような声を出して追っかけて来る。それから三日後に、自分はまたこの道を通って蘭陵鎮へと帰った。その途中で、畑の中にぴんと立っていた古碑を目じるしに、あたりを注意深く見廻してゆくと、道路からすこしはいった所に、その馬は死んでいた。三本足の先をつんと麦の葉の上にのばして。
2017年01月27日
ある兵隊の臨終 これも胡山の線の事である。自分たちの便乗している自動車隊が、ほんの今しがた敵を撃退したばかりだという小部落を通過した事があった。これから先は危険だから引き返しては、という隊長からの忠告であったそうだが、この自動車に積載してある◯◯◯◯◯◯その他を待ちかまえている部隊があるから、是非とも突破せんければならないというので、強行する事となった。そこで若干の警乗兵を増員する事となり、その準備にしばらく小休止したのであったが、ここの部落には珍しく絵に描いたような竹林がそこここにあって、名も知らぬ鳥がさえずっていた。自分らの停止しているすぐ右の高い樹木には、大きな丸々とした鳥の巣がいくつもあって、十数羽の鳥が集まり、日本鳥とはちがった声でヤヲヤヲと啼いている。何だか変な予感がしてきた。そのうちに自動車は各百メートルぐらいずつ前進して大きな広場に集結した。分厚い土塀越しに見える左側の民家の軒に、アンペラを敷きさらに毛布をのべて、五、六人の負傷兵を寝かせてある中に、一人は担架にのせたままその頭のところに白布がかけてあり、ポッチリ血が丸くにじみ出ているのが見える。あるいは名誉の戦死者であろうか。 その後方に四、五人人だかりがしている。重傷兵の臨終らしい事が六感で知られた。隊長らしい中年の将校が地べたに正座をして、その両膝の上に負傷兵の頭をのせ、両手で左右をおさえるようにして見まもっている。青白い蝋のような顔がちらりと見える。ひざまづいた兵隊が何かいっている。そのかげにいるのは軍医か衛生兵であろうか、何か応急の施療か手術かを施しているらしく、助手の兵隊の持っている医療器らしいものが、真昼の太陽の光線を時々反射する。負傷兵はじっとしていて動かない。 瞬間厳粛な荘厳な気分が、興奮した頭の中を過ぎてゆく。内地で接した幾多の人々の臨終からうけるような、幽愁にとざされたような気持ちではない。よほど下車して、この勇士の散華を見送ってやりたいと思っていたが、そのうち補充の警乗兵も来て乗り込み、出発準備の号令が聞こえた。自分はただ目送してその部落を出発した。 行く事数町、道の両側には生々しい敵屍がごろごろと横たわっており、ついには道路の中央にも見えてきた。その都度車をとめてはそれらを片づけながら進行していく。茶色の軍帽、エナメルの青天白日章、正規兵の制服にいずれも半ズボンをつけ、黒い支那靴をはいた軽装である。 こうした情景には何回も接した事ではあったが、今日見る屍体は、死後いずれも数時間のものだけに、中には生きているかのような顔つきさえ見られた。日本兵のいずれもには『敵も味方も死ねば一様にほとけだ。厚く葬ってやりたい』という心持ち、つまり菩提心が起こると見え、屍体を片付けるにも、決して足蹴にしようとか、石の一つもぶつけようとかいう者はない。だまって片づけてゆく。
2017年01月20日
従軍僧代役 自分は薹兒荘東北某地点で、火葬のお手伝いをした事がある。率直にいえば、陣中でおんぼうをやったのだ。依頼に来られた将校は、「なるべく若い兵隊にはさせたくない。それに◯◯◯◯で猫の手もほしい時だ。本務外の事で相すまぬが、一日だけ奉仕してもらいたい。」 と、気の毒なほど丁重を極めている。「何の、ご懸念なく。自分としても本望ですから。」と、早速作業服に着かえて出かけて行った。 陣中火葬の場面は『戦劇映画など』にも出てくるが、あんな簡単なものではなかった。何しろ◯◯人からの英霊を、自分を交えてたった六人でお骨にあげようというのである。 自分は英霊一人一人の軍服肌身から認識票をとりはずし、それを整理する事を受け持った。軍人軍属は、認識票といって、小判形の金属板に隊名番号を打ったものを、いつも肌身につけているから、たとい肉体が焼けただれ、飛び散っていても、これさえあれば、隊の原簿と引き合わせて何の誰という事があとでちゃんと判別がつくのだ。 荼毘〔だび〕の詳細は遠慮して省略するが、火がぼうっと燃え上がる瞬間は、居並ぶ者いずれも仏心を起こし、誰となく「お経を。」という。南無阿弥陀仏の唱名だけでは、何だかもの足りないというのだ。無理もない事だが、あいにく誰もお経を心得ておらぬという。自分は子供の頃、信仰深い祖母からお経を教えられた事があった。皆忘れてしまったがただひとくさり真言宗でやる『光明真言』の初句だけ覚えていた。その上、有名な『施身聞偈』は、一つの座右の銘としてよく口ずさんだ。この二つを読んで、皇軍の英霊を弔う事とした。順序も方式もわからぬ。ないよりはましだというだけである。 折から日暮れであったが、西向きにその火に向かって手を合わせ、 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 と節をつけて静かに、しかし力をこめて誦〔しょう/じゅ〕し終わり、それから、 おんあぼきや、べいろしやの、まかぼだら、 まにはんどま、じんばら、はらはりたや…… と読みはじめ、「まにはんどま」でちょっと調子をあげ、「はらはり」で調子を落とし、「たーや」と声を引く。これをくりかえしくりかえしするうち、自分ながら西方弥陀の浄土へ一歩一歩進みゆくような気がされて来、無我無為の尊い心境のようなものさえ自覚されてきた。 その時後ろの方で誰かすすり泣く声がする。自分も経を誦しながら、しらずしらず目頭があつくなって来るのを覚えた。 とたんに、遠くの方で小銃が一発鳴った。 ハッと我に帰った。その時に、青火になりかけていた荼毘の火がゆれて、ささえていた二本の棒と共に、がさっと穴の中に焼け落ちた。「いやご苦労様。なかなか堂に入ったものだ。角田鬼軍曹が泣きおったでのう。」と、係り長の山内老准尉が笑った。が、その御本人とても眼がうるんでいた。鬼軍曹の部下が一人まじっていたのであったという。 それから宿舎に帰って夕飯を食っていると、馬に乗った兵隊が止まって、「お経のうまい修理班の軍属殿。」といってあるく。もちろん自分の事だとわかったので、箸を置いて出てみると、「お食事がすんだらもう一度お願いしたいと、准尉殿が申されます。終わりッ。」「ア、承知しました。」といってかえしたが、我ながら一ぱち従軍僧の代用にされたのが、夢のように思われた。しかし自分は、本分以外のいい奉仕をしたと、今でも満足している。 その晩はお布施として将校から洋菓子一折と、栗の缶詰とを贈られ、鬼軍曹から部下のための寸志として煙草を若干とどけて来た。
2017年01月13日
最前線の閣下 臺兒荘の攻略戦については、当時いろいろと流説があったという。つまり皇軍が敗れたというのだ。それについて自分の知る範囲の事をちょっと書いてみようと思うが、第一薹兒荘が何であったかを知らぬ者が今でもまだ多いようだ。これこそ蒋介石が、いかなる強剛の大軍をも、ここから先へは一歩も南下させぬという考案と自信の下に築造した、ゼークト・ラインの中の一要塞で、構築に使用した苦力を、秘密漏洩を惧〔おそ〕れて、後でことごとく密殺したといわれているほど、隠秘怪奇を極めたものなのだ。 かの剛勇無双といわれた赤柴、福榮、谷口の三部隊が、長驅〔ちょうく〕隼のごとき俊敏さでここに迫ったのは、前にも述べたように三月下旬の事で、福榮部隊中の某部隊のごときは、わずか一個◯隊の兵力を提〔さ〕げて、よもやという敵の油断につけ込み、奇襲勇躍この臺兒荘の一角をアッという間に占領し、一団の敵兵を鏖殺〔おうさつ〕してしまった。敵の狼狽ぶりは想像に余りありで、たちまちのうちに、あらゆる機能を総動員して、集中銃砲火を浴びせ来たり、ためにこの部隊はほとんど全滅に瀕したのであった。しかしながらこれは決して徒労ではなかった。この大胆不敵な猪突ぶりは、敵の心胆を寒からしめ、少なくともこの要塞に拠っている支那兵だけは、もはや嘘っぱちの自国側の宣伝には踊らなくなった。加之〔しかのみならず〕、怖じけづいていた支那側が、徐州を空っぽにしてじゃんじゃんとここに大軍を集結させた一因ともなったのであって、長恨極まりなきこの事実こそは、敵を敗因に導き、友軍を奮起せしむる一導因ともなったものと、自分は考える。 またある時は、勇敢なる我が砲兵隊が、相当深入りして打っ放した。ある一隊のごときは、ついに大敵の方位を受けて危険に瀕したが、短剣突撃で敵を退けつつ砲撃を続行するうち、ついに全員殪〔たお〕れて、砲は残念にも敵の鹵獲〔ろかく〕するところとなった。敵は喊声をあげて砲を曳き去り、儞公の一人が、裸体になって砲身の上に立ちはだかり、はだか踊りをしくさるという無念さ。遠くからこれを望み見たわが戦車隊は、この大敵の真っ只中に突進して蹴散らし、その砲をまた我が手に取りかえし、闘いながらこれを牽引し来たったというような悲壮な話も耳にした。地の利もなく、兵力も少なく、ある種の兵器を欠くという悪条件に抗して、死闘を続けぬいたのに対し、「臺兒荘では負けたげな。」などという事を帰還後耳にする度に、殴ってやりたい程腹が立った。しかもこの線の支那兵は、蒋介石直系軍中でも、さらに中央軍官學校系、教導総隊というような精鋭を網羅したもので、敵もなかなかがっちりしていたのである。兵力の差にしても、我に十倍というのではない。我に六十倍というのだ。万事人間わざでなかった事は、これでも知れよう。 これは五月に入ってからだが、ある勇猛果敢な鬼部隊長が、弾雨下に新聞記者を集めて話した事を聞いた。多分当時の有力紙には掲載されていると思われる。「今ぶつかっている支那軍は、今までのとは少々質が異なっている、ちょっと勝手がちがってきたのが却って愉快ぢゃ、手応えがあればこそ戦い甲斐もある。元来戦争なるものはそうあるべきぢゃ。勝った勝ったばかりが戦争ぢゃない。日本國民にも、ちとその点を明瞭にしてくれ。皇軍は今本当の戦争をして居ると、な。」 当時部隊本部は棗荘に置いてあったが、将軍の居場所は不明だった。不明も道理、砲弾のボンボン落ちる中にまで出て指揮をとっていた。長瀬部隊長のごときは、前線も前線、夜になると敵が忍んで来て手榴弾を投げてゆくという位置で胡山の線を死守猛攻していた。しかもその宿舎たるや、貧農の物置みたいな家の高梁がらの寝台に起臥〔きが〕し、本部兵はほとんど補充に出払って、特務兵が守備に交じるといった状態で、当時自分らは、雲霞の如き敵引き受けてこうりやんのからに起きふす将軍あわれ、という歌のようなものを日記に書きつけたほど、惨憺たるものであった。 昨年阿部中将の壮烈な戦死で、はじめて感づいた事と思うが、かの◯◯◯部隊長の黄河南岸の陣中では、敵弾雨下のために益田副官が将軍の目前で壮烈な戦死をしたほど急迫していた。ずいぶん無謀と思うものがあるかも知れないが、「閣下が見えているぞ」という事が、いかに全軍をして、さらに一段と奮起させる事か。勇往果敢の部隊長が通り、軍旗が見えただけでも、闘いつつある兵隊は泣く。若い少尉の隊長が、悠々として弾雨下を歩いて来るのを見ただけでも、兵隊は奮起するのだ。あるべからざる所に上長がいるという事だけでも、兵隊は勇みたつ。火野葦平氏の『麦と兵隊』の中に、『軍刀を吊った一人の下士官があった。弾丸の中である。その下士官は散兵線の端から端へ二回ゆっくり往復した。豪胆さを誇示する様子であったが、詰まらない兵隊だと思った。そんなのは勇敢なのでもなんでもない。私は幾多の戦場でよくこういう英雄を見かけた。』とあるのは一面だけの見解であって、上に立つものが、沈み切っている部下の萎縮を鼓舞して引き立たせんとするは悲痛な無言の兵略の一つである事を知らないものの言として、反省を促したい。生きた事実を一つ書く。 桑田部隊は◯◯部隊唯一の快速部隊で、一月匆々〔そうそう〕には長駆兗州に馬蹄をかけ、つづいて泗水を占領してその東を押さえ、さらに津浦線を南下して、棗荘から蘭陵鎮へ進出、長城附近に於いて三回までも敵の大襲撃を粉砕し、徐州陥落直前には微山湖を渡渉して西行、丹城集を占領してここで西遁する敵の大部隊を繊(※殲)滅せんとする作戦をたてた。いわゆる大魚の網にかかるのを待つ姿勢をとったのであるが、その兵力はわずかに◯◯機であった。 斯〔か〕くとは知らぬ敵の歩騎砲工の大部隊は、濁流の決するがごとく徐州から落ちてきた。待ち抜いていた我が桑田部隊の一斉襲撃に遇って一度は退いたが、小勢と知って盛り返した敵は、その全機能を揃えて、なだれかかって来た。 部隊長は雲霞の如き敵兵を眺めて、瞬間、『◯◯の皇軍ここに鉄火となって敵兵一万を屠らん。」と覚悟を定め、自ら東門に出馬して部隊を区處〔くしょ〕し且つ指揮した。その時の奮戦は、上下一体鬼神のごとくに行動し、ついに敵軍を心ゆくまで潰滅し、残るものは算を乱して八方に散乱せしめ、多数の武器を押収したのであるが、その時の模様は、当時中村准尉が私記して後筆者に寄せられたのに髣髴として躍動している。 ……この時部隊長自ら士気為に天に冲〔ちゅう〕す。 されど敵銃砲弾は、東門附近に集中落達し危険極まりなし。 副官(江口大尉)屡々〔しばしば〕部隊長の身辺を案じ意見の具申をなし 位置の変換を求むるも首肯されず。 依って副官、書記、当番(野瀬上等兵)身を以って部隊長を掩〔おお〕いある時、 一弾近辺に炸裂し、副官書記当番共に重傷し、部隊長亦負傷す。 然れども毫〔すこし〕も意に介ざす。益々鼓舞し、戦闘を指導す。(後略) さて、この時の副官の進言に従って、部隊長は安全な城門内に退いて指揮すべきであったかどうか。依然として門前に止〔とど〕まっていたのは、豪胆さを誇示するに過ぎなかったかどうか。自分は賢明なる人々の判断に任せる。
2017年01月06日
“犠牲球”部隊 ここで一つ短い私見を書かせてほしい。 全世界の視聴を集めた徐州戦は、ドイツ戦理論大家ゼークトの智能を絞って設計かつ監督したゼークト・ライン、すなわち徐州を中心として築造された難攻不落の一線を、もしも破りうる日本であったならば、それは世界一の日本陸軍であるとまでにいわれた戦いだけに、蒋介石としては、支那四百余州の何物にかえて落としてはならない線であり、日本としては、是が非でも落とさなければならぬものであった。かかる事柄については贅言〔ぜいげん〕を要せぬ。実際南下北上両軍の精鋭が、三月下旬から本腰を据えてかかり、五月十九日に陥落するまで、足かけ三ヶ月を要したほど、難物中の難物そのものでったのでもわかる。 徐州は落ちた日にぼっこり落ちたのではなくて、それより二十日前の四月三十日、南下○○部隊の一支隊長瀬部隊が、胡山臺兒荘の線の重要地点胡山を占領した時に、徐州の運命はすでに決せられ、それからじりじりに弱められていったもので、爾来の十九日間は、一日一刀ずつこのゼークト・ラインを小刻みに料理して、最後の十九日にその魚の頭をつけ根からぶっつり切り落としたのだと見るべきである。だから南京などの陥落とは、性質が根本的に異なっており、いわば丸二ヶ月の間臺兒荘胡山の線で、捨て石となって骨を魯南の山野にさらした我が○○健児の苦闘が、すなわち覆面○○部隊の打った大きな犠牲球が、最後の段階へと導きかつ歴史的な大勝をもたらしたのである事を忘れてはならない。これは、自分が○○部隊に派遣されてその渦中の中に動作していたのだから、我が仏尊し(※思い込みのたとえ)とするものでない事は、当時東西有力の大新聞が、筆を揃えて左様に記しているのでも明らかな事と思われる。 ○○部隊が一月に兗州を陥落、つづいて二月には蒋介石の穀倉済寧を屠ってそっくり頂戴し、三月に入ってから、鄒縣〔すうけん〕、滕縣〔とうけん〕、臨城〔りんじょう〕、それから一部は直進して韓荘を、一部は分岐して棗荘、嶧縣と、破竹の勢いで一気に席巻した、福栄、赤柴、谷口等の各部隊が、一斉に徐州北方運河の線に進出したのは三月下旬で、我が軍はわずかにこの三個○隊を以って敵の夢想もしなかった重要な外線を屠ったのである。 しかし、ほど経てから敵は我が軍の兵力の少数なるを知り、徐州及びその後方から大兵力をこの線に集中、後続部隊の到着せぬ間に、一挙粉砕して、一大攻勢に出でようと、大局的に誤った作戦をたて、李宗仁がその総帥として采配を揮った。 そこで我が軍では、敵の北方に牽制し、かつ隣接部隊の進出行動を便宜ならしむるため、一時嶧縣付近に集結移動するや、この巧妙機敏なる作戦を見誤って、一概に日本軍敗れたりと早合点し、さらに漢口廣東方面からまで狩り集めてこの方面の兵力を増強し、彼我兵力の比は、六十対一という、世界戦史にかつてない数を示した。 敵が漢口あたりで、しきりに○○部隊全滅と宣伝したのはこの時の事で、一面この機を利用して、頽勢〔たいせい〕を挽回しようと策したものでもあったが、自らその宣伝に酔い、ついに全面的の策応を誤るに至ったのは、我が軍にとっては一つの天佑であった。 かくてこれを殲滅すべく、四月十七、八日から、沼田、西大條、赤柴、福栄、谷口、桑田、須磨その他各部隊の全力をあげて攻勢に移り、敵はここを先途〔せんど〕と争いかかり、いたずらにして大軍を膠着せしめ、荏苒〔じんぜん〕日を空費せしめ、ただこの方面の勝敗にのみ拘泥している間に、南下北上の他の部隊は、着々として徐州大包囲の態勢を整えつつあったのであり、一面また中南支はほとんど空きとなって、完全に我が軍の一大作戦に引っかかったのであった。 その大作戦の核心となり、覚悟の前の大犠牲球打者となった覆面部隊の悪戦苦闘は、時間的にも空間的にも、支那事変始まって以来の大苦難であったと言ってもあえて過言ではなかろう。
2016年12月30日
不可解な沈黙 夕されば靄〔もや〕にかぐろひ敵も我も……歌の句のようなものが出てきた。南北十里、胡山山麓の激戦地も、赤い夕日が落ち、群鳥塒〔とや/ねぐら〕に帰れば、刻々と靄〔もや〕が這い上がってきて、あたりはだんだん見えなくなってゆく。 自分は麦飯と塩だけの夕食をすますと、黄家樓○○本部の門に出〔い〕でて、行き交う砲車輜重車〔しちょうしゃ〕や兵馬のために踏みかためられた麦畑が、自然の広場になっているところを、あてもなく歩いて行った。太陽の落ちる頃まで鳴り響いていた砲声も、いまはまったく止んで、何の物音もしなくなっている一帯に、うすい靄がこめて来たのだ。 うすやみをすかして見ると、誰か一人突っ立って、微動もせずにじっと向こうの方を見ている。「誰れ。」とまず自分が声をかけた。「兵隊です。砲兵。あんたは。」おだやかな声だ。「修理班。」「お国は。」これはこういう時きまって出す言葉だ。「東京です。東京市です。あんたは。」「僕も東京なんですよ。本郷です。なつかしいですね。」 お互いに顔を見合わすが、ただぼんやりと姿の輪廓が見えるだけだ。「今夜の敵は、またばかにおとなしいじゃないですか。」「時々こんなことがありますよ。どちらともなく沈黙してしまう。まるで休戦の申し合わせでもしたようですね。」「真夏の夜、田舎の田や沼の中で、何千何万という群蛙が鳴いている。あれですね、ある拍子でピタリと鳴き止んでしまうのとちょっと似ていますね。何か一脈の関係があるのじゃないかね。」「こうした時に突撃をしたら、と思う事があるんですが、それもやりませんね。双方気抜けというやつかな。」「いやいやもっと神秘的なところがある。」「こんな時は、皆何か考え込んでいるんでしょうね。馬だって。」 暫時二人は黙した。あたりはまったく暗くなって、曇りのため星も見えない。どんよりして来た。昨夜うけた右足の小さい傷あとがちくちくとうずく。「何砲ですあんたは。」「○砲なんですがね。」といったまままた黙ってしまう。もう人の姿の識別もつかない。この時影は見えないが、誰か後方から忍び寄って来たような気配がして、「もしもし、自分は歩哨ですがね、そんな所にいると射殺されますよ。毎晩この辺まで敵がやって来るので、夜になって人影が動いたら撃てという事になっていますからね。もう帰って下さい。」 びっくりした二人は、「や、どうもすみません。」 砲兵は西北の陣地へ、自分は東北の宿舎へ、「じゃおやすみなさい。」「おやすみなさい。」といって別れ去った。まったく今夜はどうしたというのだろう。薄気味のわるいほどお互い静まりかえっている。下の句のようなものが出てきた。 ……たま一つうたずしづけさに居る。 その夜再び激戦となったのは、夜半からであった。
2016年12月23日
この前後の感激を、自分は陣中から文部省社会教育官に書き送った。その書簡の一部をここに掲載する。 前略、四月二十八日たまわり候御書面は五月十三日棗荘にて受け取り致し候。 それより今日まで落ちつきて手紙を書くいとまがなく、 あわただしき日を送り候ため失礼仕〔つかまつ〕り候。 さて今回の事変中にて上海以上といわれ候臺兒荘攻撃軍に参加いたし、 該地〔がいち〕の東々南方二里の地点に進出、毎日毎夜砲弾の洗礼を受け候。 酒に名高き蘭陵鎮を根拠とし、それより南下五、六里間 屍臭耐えがたき戦場地をトラックにて走り 黄家樓という三軒家程度の部落に到着、 ここに○○本部これあり落ちつきたるは四月三十日正午頃の事にこれあり候。 夜に入れば敵味方双方、到底形容の出来ぬ猛戦にて、 巨弾の落花近き時は、一寸も身体が飛び上がるように覚えられ候。 夕暮の事にて候。今しもいずこよりか到着の一隊、 とある土手と土手の間に今宵の露営地を定め、 手に手に飯盒を持ち出して所謂〔いわゆる〕飯盒炊爨〔はんごうすいさん〕を始め候。 あちこちに立ち上る細き太き煙の戦場風景、 赤い夕日の沈み終わらんとする頃にて候。 その一団を訪ねえば、図らずもそれがなつかしき東京の人々ならんとは。 空缶にてわかす酒の揉まれすぎて茶褐色になりたるを、 鑵詰〔かんづめ〕の小鑵にすくいて飲み廻す一口、 いずこにてか屠り来たりし豚の焼肉を口にしながら語る東京の話に しばしば敵弾下にあるを忘れ候。 その夜半敵襲ありそのあたりにてしっきりなしに機関銃の鳴るが気になり 夜明けを待ちかねバット数個もって行って見たるに、 はや朝飯の支度「ヤァ昨晩は大変だったね」と声をかけるに、いずれもけげんなる様子。 変だぞと思いつつ聞いてみるに、二時間ほど前に東京の人々前進してあらず、 今新たなる隊が後方より着きたるばかりの所なりと。 ゆうべ酒をあたためたる空鑵は、今朝は他の隊の人々の味噌汁を煮る。 ああ彼〔か〕の人たちはどっちへ行った。 戦場にてかかる時に落涙いたすものにて候。 皆々二十台三十台の兵士将校の中に、小生一人五十近き老骨なれば 「おぢさんおぢさん」とよく世話を致しくれ候。 小生麦酒を一口飲みたいと戯れに申したるに、 いづこよりか探し来たるか内地のもの一本持参いたしくれ候。 ありがたく受け取りたるものの何で一人これを飲まりようか。 折からの非常呼集にて、土間に荒蓆〔あらむしろ〕を敷きたるのみの、 しかしここにては一等室に小生一人つくねんと残され座り居り候。 かかる時また自ら涙の落つるを禁じ能〔あた〕わざるものに候。 こちらにてはスピーアというバットに似たる味の煙草が下給され居り候。 時に一箱(二十五個入り)下給さるる事あり、斯〔か〕かる折にて兵が来て 「煙草を一本くれ」と申せば、一個やるのが常にて、 ために一箱が一週間もつづけば上乗〔じょうじょう〕、 いざ無しとなれば、一本を三人四人にて分けてのむという有様。 時に奥深き室の紫檀の寝台に絢爛〔けんらん〕たる刺繍を敷布として寝〔い〕ね、 時に蛆の這い廻る貧農の物置に、蓆をかぶりて一夜を明かす。 戦場にては一夜一夜乞食にて候。 一時は死を覚悟仕り候。もとより軍属の身分にて戦闘員にては御座なく候えども、 第一線に派遣されし以上は覚悟は一つにて候。 皆々掩蓋壕に入る様〔よう〕すすめくれ候。 戦闘となり候ては何の用なき身、ただ連発モーゼル拳銃をかたく握りて前方を睨むのみ。 末っ子次男坊の姿も、祖国のなつかしき人々の顔も何一つ不思議に浮かび来〔きた〕らず、 ただ明瞭に意識するは、目前の事にて、 バリーンという炸裂する迫撃砲弾の音、 トトトトトトトトと間断なくうつ友軍の力強き機関銃。 「弾丸よつづけ、兵隊よひるむな。」ただ考える事とてはこれのみにて候。 徹夜、約十時間、同じ場所にて、まんじりとも仕らず、ただこれのみを考えつづけ候。 あとにて兵隊のいうを聞けば、 「おぢさん、僕たちは“弾をうつ”これだけしか考えなかったよ」と。 即ち戦死の直前に於ける精神状態を想察するに、 もはや煩わしき人生のきずなはつゆほども考えにのぼらず、 ただ一途〔いちず〕“任務”のみを考えるものにて、 どの戦死者の顔にも一抹の苦痛のあともなく、 むしろ微笑さえ見らるるは、“任務”より“任務終了”に移りたるまでにて、 生は即ち任務死は任務終了を意味するもの、まことに尊き、生死の顕現かなと、 爾来〔じらい〕、戦死者の姿と遺骨とに接するごとに、感激の度を加え申し候。 死の直前に煩わしき浮世の種々相を離脱する事は、 やがて神位にのぼる天成自然なる一の段階か。 靖国神社十余萬柱の神々は、ただひたむきに“任務終了”をのみ考え候て死にたる人々これあり、 この点は戦場死の一歩前まで進み寄りたる者ならでは、 了解はいささか困難と存ぜられ候。(後略)
2016年12月16日
再び敵の押し寄せて来たらしい足音が伝わってきた。自分は思わず立ち上がった。敵の投げた手榴弾であろう、掩蓋壕の境のところでものすごい音と共に炸裂した。まるで砲声かとも思われるような恐ろしい爆音である。鼻をつく強烈な硝煙のにおいと共に、誰かやられたらしい気はいがしたけれども、速やかに軽機の銃座を北西にかえて打ち始めた騒音にまぎれてしまった。我が方の虚をつくつもりで来たらしい敵の小癪な手榴弾攻撃なのだ。が、それは次の瞬間に銃坐をかえた軽機関銃と、一斉射撃とによって撃退されてしまった。 一人の兵隊はかなりな重傷らしく、掩蓋の奥へつれて来て寝させ、懐中電燈の光で照らし出してみると、左大腿部のあたりから、血がブツブツと吹いて流れている。衛生兵は、幅のせまい包帯しかないので、その兵隊の巻ゲートルをぬがせてそれで巧みに巻いても巻いても血はにじみ出て止まらぬ。さらにもう一ヶ所右腕首をやられている。ここ数日来、どこもここも包帯材料の欠乏で困りぬいているのだそうで、仕方ないから、もう片っぽうのゲートルで巻くよりほかはないと衛生兵がいう。ふと自分は、払拭用としてさらし木綿がある事に気がついたので、修理材料の袋からそれを出し、引き裂いて巻きつつんだ上にさらにゲートルで巻き、どうにかこうにか処置してやった後、ふとその顔をのぞいて見ると、到着した時に泥団子を喰わせようとしたひょうきん者の一等兵ではないか。あの時のおどけた顔は、土のようになっている。しっかりしろといえば、小声で「もうあきまへん。」と細い声である。また一人の兵隊が這ってやって来た。見てくれという。左肩から背にかけて、血でびっしょりとなっている。左腕がだらりとして血がつるつると流れ出るのが見える。重傷も重傷致命傷かも知れぬ。それでもさすがは衛生兵だ。その兵隊のゲートルはもちろん千人針まではずさせて、とにかく血をとめてしまった。二人の負傷兵はアンペラの上に仰臥〔ぎょうが〕されている。しびれている状態から、感覚をとり戻すと、痛みに耐えられぬと見えて、沈痛な呻吟〔しんぎん〕をはじめる。また一人来た。靴の上からやられて右足の拇指〔ぼし/おやゆび〕をとられた、気づかずに銃をうちつづけたが、急に痛み出してきたという。これは靴をぬがせるのに一苦労であった。 これらの兵隊は、気の毒なほど我慢強かった。大腿部をやられている兵隊が、たった一言「痛ッ」と叫んだ。衛生兵が「軍人じゃないか」とたしなめると、「おおそうだっけの。」と黙ってしまう。とにかく、一個の手榴弾が、これだけの被害を与えて行ったのだ。あの瞬間の、機敏な防戦がなかったならば、少なくとも三つや四つは投げ込まれていたかも知れぬ。時計を見ると、もう午前二時三十分だ。敵は退却したのだろう。どこもここも銃声はやんで、ただ隣接した◯砲隊の砲声が、ドドーン、ワウウーと小間隔を置いてぶっ放しているのが聞こえている。敵の迫撃砲陣地をやっつけるのらしい。 ふとこの時、北方部隊本部のあたりで、盛んに機関銃の音がし出した。敵が本部のあたりまで押し寄せたものと見える。しかも、迫撃砲や手榴弾の音も交じって聞こえてくる。ワーワーというような突撃の声らしいのもする。雲霞〔うんか〕のように湧きあがっている敵だ。ただ多勢をもって全面的に押し寄せんとしたものらしいが、巧妙な皇軍の作戦にかかり、勇敢な突撃に遇〔あ〕って撃退されてしまったのだ。ここの機関銃が二度目の火を吹き始めたのは、夜明け近い頃であったが、一挺が急に唸らなくなった。故障かなと思わず行ってみると、隊長の曹長がそれにかかっている。暫時銃手を休憩させるために交代したところだ。 夜が白々と明けわたる頃から、銃砲声は下火になってきて、夜の明け切る頃には、胡山鍋山を越えて撃ち合う彼我双方の重砲兵戦のみとなったが、それもだんだん間が遠のいていった。曹長は右耳の耳たぶに手榴弾の破片を受けたとみえて、そこが血で固まったように、右肩が血の滴りで染まっている。夜明け頃から、自分の右足の脛の上がチクチク痛いので、明るくなってから見るとやっぱり傷だ。一寸四方ぐらい、作業服の上に血がにじみ、米粒ぐらいの穴があいている。これも手榴弾の小破片だったのだ。 幸いに浅くて、二週間で全治してしまったが、三日後に蘭陵鎮の野戦病院で衛生伍長の手術を受けた時、大きさは米粒ぐらいの扁平な破片が出た。 いかにながい待望の朝であった事か。兵隊の半数は疲れ切って壕の中に寝ている。数名の兵隊をつれた衛生伍長が来て、二人の重傷兵を担架でつれて行った。一人の兵は半ば昏睡状態であったが、大腿部をやられた兵は別れを惜しがり、壕から出てからも、「みんな達者でおれよう。」と悲痛な声でいうのが聞こえた。なぜか、自分の目には涙がたまってきた。そこへ曹長が来て、「おぢさんには本当に気の毒した。だがわからんもんだね。そこにいて傷を受けるなんて。大丈夫かい。」「いやなんでもない。それよりあんたの耳たぶはどうだ。」「蚊にくわれたようなものさ。ハッハッハッ。」 と笑いながら、自分の涙を目ざとく見つけ、「泣いとるね。」「ウム、みんながよく戦ったのに感激してな。」 と答えたが、自分の泣いた原因は、本当は自分にもわからなかった。涙がなおもとめどなく流れた。 これは後の事であるが、今度の事変で、いち早く戦争小説を書いて有名になった最初の作品に、ちょうどこうした場面のもう少々ひどい中にあっての偽らざる感想として、 ……頭の中がじいんと鳴るようだ。私は掘りかけた穴の土に、父、母、と指で書いた。 何度も消しては書いた。妻の名や子供の名を書いた。 目を瞑〔つむ〕って何かしら、なにやかやを引っくるめたようなものに向かって、 どうぞお助け下さるようにと念じた。 とある。しかし自分は正直にいうと、この激戦中の十時間、ほとんどまんじりともしなかった。その中にあって、ただ考えつづけた事は、“兵隊よひるむな、死んでくれるな。弾をよけつづけ、絶えてくれるな。早く明日になってくれ。”ただこの三つだけがその主流であった。つきつめて見れば、生きたいという事になるかも知れぬが。その他、“所詮助からぬ命らしい。敵がもし壕になだれ混んだら、拳銃でやろうか刀でやろうか。”という方法を考え、本部に残してきた日記帳の一端に、ある二、三の遺言を書いておきたかったと思った。助けてくれという考えは、微塵も起こらず、あきらめぬいて、氷のような冷静さを始終保っていた。こんな話を兵隊たちにすると、機関銃手のがっしりした上等兵は、「僕ァただ一つ。撃つという事よりほかは何も考えにのぼって来なかった。」といっていた。衛生兵は、包帯材料の品切れが残念で、そればかり考えていたといい、若い一等兵は、棗荘で食ったようなやつでもいいから、お汁粉を六、七杯たべたいと考えただけだった、とそろそろこの連中独特の茶目口調になってきた。 九時ごろになって、本部の特務兵二人、武装して自分を迎えに来てくれた。二人とも銃をかつぎ、自分のためにと鉄兜まで持ってきてくれたが、帰路には何事もなかった。ただ壕を出ると、なまなましい敵の屍体が、数個ほど散乱していた。皆正規兵で極めて軽装をしており、一人はすりこぎのような形の手榴弾を抱くようにして死んでいた。
2016年12月09日
戦死一歩前 見渡すかぎりの麦の穂波の中に、大小の島嶼〔しましょ〕のごとく部落が点在している。しかもこの見えるかぎりの部落はことごとく彼我の陣地である。だいたい南北に二側に区画されているようだが、相接する方の面は、いわゆる犬牙錯綜として、彼我陣地の入り組んだ複雑な戦場を形成している。 率直に言うと、我は兵力の不足から、敵は我の猪突を恐れて、互いに鉄条網を張り、土嚢を補強して相対峙し、いわゆる膠着状態となって、夜間のみ猛烈な戦闘を交えていた。五月一日の午後、某陣地から兵隊が来て、安全な掩蓋壕があるから、そこを中心作業所として付近の軍刀七、八振りを修理してほしい。刀身の曲がりや鍔元のゆるみなどで、至極簡単なものばかりだという。ここへ運べといいたかったが、まだ日は高いし、さほど遠くもなさそうなので、簡単な工具だけ持って、兵隊について行った。戸数五、六戸ほど、浅い林に包まれた中に、巧みにカムフラージュした砲も見えて、蓑蟲みたいに迷装した兵隊が行ったり来たりしている。それを左に見て、兵隊の注意により、中腰になりながら、潅木のかげをつたわり、約二町ほど行くと、そこには往昔〔おうせき〕の川の跡ででもあるのか、東西に二条の小高い土手様のものがあり、それを巧みに利用して大きな壕を設け、その半分ほどが掩蓋となっている一種の急造トーチカで、重機関銃、軽機関銃各◯台ずつ装備されている。これは支那兵の掘ったもので、ずいぶん念入りな構築である。いったい支那の土質は、水分がなく、黄土質であるから、きっかり箱のように四角に掘ると、まるでコンクリート造りのようなものになる。 丸顔のたくましい一人の曹長が、掩蓋壕から出てくるなり自分の手をとって、「やっぱりおぢさんだったか。済寧で会いましたっけね。よくこんな所まで来ましたね。」と、なつかしそうにいう。なるほど、この部隊が済寧城を落とした直後の三月上旬に、三方大敵に包囲されている中へ、加古伍長福田上等兵と共に派遣されて行って、一週間修理に従事した事があった。が、この曹長は自分の記憶にない。先方では何から何までよく知っているので、いうがままに旧知としておいて、改めて姓名も問わなかったが、たしか竹内とかいったように覚えている。 この壕の長で、部下◯◯人、極めてほがらかな連中である。ふと見て驚いたのは、壕の一隅に、一寸幅五、六寸の折の薄板へ、何々伍長の墓とか、何々上等兵の墓とか書いたものが若干たてられてあるではないか。さては数日前とかの激戦に、ここで戦死した人たちの遺髪かもしれぬと、思わず頭をさげて敬礼すると、一人がクスクス笑い出し、ついで皆がそれに伝播して爆笑と化した。それは数日前の激戦中の、一歩も出られなかった時の名残りの大便で、踏んだり手をついたりせぬための標識であるのだが、考えてみれば糞もまた身の内で、まさかの時は焼いて遺骨の代用ともなるからというのである。聞いてみると、なるほどとも思われ、敬礼もまんざら無意味ではなかったわけだ。たいたいここの連中は、粒ぞろいのいたずら者らしく、一人の兵隊が薄暗い掩蓋壕の中心へ自分を呼び込んで、「これは下給のきび団子であります。自分らの郷里岡山の名物であります。一つおつまみ下さい。」 といって差し出したのは、折の中に並べたきび団子だ。少々色は黒いが、あるいはこうした種類のものもあるだろうと、一つつまんであわや口というところで、やっぱりいたずらと知れ、いささか軽い憤慨を覚えたのではあるが、それは黄土を巧みに練って、何かの白粉をふりかけてある。これは本職の一等兵が製造したもので、すでに一口喰わされたものがあるとの事に、万事油断はならぬと緊張これつとめたが、しかしこうした場所で思いもよらぬウエストミンスターの金口タバコと、白魚の干物とをご馳走になった事は、前記二事件を償うて余りありであった。 修理はわずか二時間足らずで終わり、帰ろうとしている所へ二人の兵隊が取りに来た。この中の一人は、やっぱり済寧で自分を知っているという。佐野少尉の部下であったと聞いて思い出した。佐野少尉は大隊副官として済寧の西嘉祥で激戦中、部隊長は敵の狙撃をうけて殪〔たお〕れた。時を移さず少尉は部下と共に狙撃した敵兵の隠れている物かげへ躍り込むなり、軍刀を揮って立ちどころに三人を斬り、四人目に及ばんとした時、軍刀の柄がボシリと折れ、加えるに敵弾のため左手首を負傷して残敵を逸した。その血刀を修理に来た時の兵隊だという。この話は、『嘉祥物斬り、部隊長の仇討』として有名なものであった。兵隊は、「おぢさんに拵えてもらった新しい柄を揮って、ここの戦線で中尉殿(佐野少尉はその後陣中で進級した)は奮戦されましたが、再び負傷して後退されました。」と語り、そのまま急いで西の方へと帰って行った。 時計をみるともう六時であるが、まだ日は照っている。辞して帰ろうとすると、頭の真上で、ヒュウゥと妙な音がしたと思ううち、はるか後方でズッデンと恐ろしい音をたてて炸裂した。つづいてまた一つ。兵隊は敵の迫撃砲だという。さすがに顔は緊張している。つい先の部落の友軍と対敵との間に機関銃戦が始まったらしく、相当ものすごい射撃の音が伝わってくる。「おぢさんここへおいでよ。そこはあぶないぜ。」と、兵隊は掩蓋壕の奥へ招く。「もう帰れないぞ。」口々にこういいながら、この壕でも戦闘準備だ。まったく予期しなかった事ではあるが、素より戦場の常、一蓮託生を堅く観念してこの壕にとどまる事とした。 部隊本部の宿舎では知っててくれるし、近いからそのうちに帰れるようになるかもしれぬと、掩蓋壕の奥に居を占めていた。「早いところ飯を喰ってしまえ。」とか「鉄条網の木戸口を閉鎖しろ。」とか、「懐中電燈の電池を調べておけ。」とか、皆がやがやと急がしげに立ち働きながら口々にいっている。銃手はすでに機関銃を構えて前方を注視している。しばらくの間迫撃砲も機関銃もやんだので、この間んに出ようとすると、曹長は堅く制してとめ、今出たら狙いうちにやられる。この分では敵はかなり近よっているらしい。兵隊は要領を心得ているが、あんたにはむずかしかろ。掩蓋は厚くここは安全だと考えるから、一夜を壕内で明かすつもりで、そこにじっとしていてくれ。と、熱心にとどめるので、再び腰を据えて観念した。 本格的な戦闘となったのは、八時を過ぎてからで、日はまったく没し、あたりが暗くなった頃から、ここの機関銃もダダッダダッと一斉に火を吹き出したのである。 それからどのくらい時間が経過したか、多分十時ごろと思われる頃、曹長は、「敵が近寄るぞ。皆銃をとれ。」と早口にいう。兵隊はカチャカチャいわせながら、それぞれの位置に配置された。自分は衛生兵とただ二人端坐していると、曹長の声が暗闇から聞こえる。「おぢさんよう。僕の拳銃を貸すに。取りにおいで。」というのだ。自分はモーゼルの十連発一挺を持っているので、その旨答えるが一向に聞こえないらしい。手さぐりで曹長の声のするところまで行ってみると、壕の外で何やらザワザワしている。ハッと思ってもとの位置まで引きかえすが否や、曹長は、「敵がいるぞ。太田伍長の分隊は反対側をうてい。」と叫び、つづいて何かいったかと思うと、一斉に小銃をバシンバシンうち出し、衛生兵まで行って撃っている。 四方八面は、ごうごうたる銃砲声の交錯と閃光の火の海で、赤い曳光弾がさながら花火のように、空中をチュイチュイと飛ぶ。 従軍以来、大小の差はあるが、こうした場面にぶつかったのはこれで三回目である。場なれとでもいうのか、こうして冷静でいられるのが不思議である。それから何時間か過ぎた。
2016年12月02日
覆面の戦没者 朝食をすますと、自分たちは半野天の軍刀修理工場を開設し、会報によって前線からどしどし損傷軍刀を運んでくる。 ちょうど昼食の過ぎた頃、一人の一等兵が、隊長の佩刀を持って修理にやって来た。睡眠不足らしい顔の蒼白い兵隊で、来る途中敵の蟠踞している村から二度も射撃された。よほど引き返そうかと思ったが、もうここに間近くなっていたので、途中麦畑の中を這ってやって来たのだという。肩章は破れて褐色の下生地が見えており、軍服は泥にまびれ、ゲートルはもうこの四、五日間でずっと巻いたままだという。巻き目には泥がつまったまま乾いていた。 この兵隊は、昨夜最左端の部落で勇敢に敵の大部隊と対戦をつづけた○○部隊の勇士であった。隊長の軍刀は、無銘ではあるが古刀備前物で、刀の切っ先から中央にかけて数個の大きな刃こぼれがあり、刀身が著しく曲がっている。鍔元はがたがたで、柄糸は切れ、目釘は折れ、散々な壊れ方である。 昨夜最後の突撃で、敵陣地の鉄条網を軍刀で叩き切って、隊長自ら突撃路をつくったのだという。 非常な接戦を演じ、○名の犠牲者を出して、一部分の占領はしたが、敵は目と鼻の間の塹壕に這入って頑強に傍線をしつつ夜明けとなったので、今夜こそは、どうあっても全部落を完全に奪取するのだといっていた。 自分がその軍刀の修理をする間、件の一等兵はちょっとやすませてくれという。自分の寝所、といっても貧農の物置らしい荒れはてた一かこいの土間に、こうりやんのから敷き、そこに毛布をのでただけのもので、野天の兵隊にくらべて、ただ屋根があるというだけの相違だ。 兵隊は何度も礼をいいながら、そこにゴロリと横になったかと思うと、もう軽いイビキをかいて眠っている。その間の修理ではあったが、相当の難物で約二時間を要してやっと仮修理ができた。兵隊を起こしに行ってみると、彼は両腕を顔の上に組み合わせて、どうやら泣いているらしい。「軍刀は出来ましたぞ。おいどうした。」自分がこういいながら近づいて、肩に手をかけて軽くゆすると、兵隊は起き直って、「ああ、本当に友達甲斐がなかった。」と突然こんな事をいう。何の事だかわからない。自分は雑嚢の中より、前野部隊長から拝領のとっときのウイスキーの壜を出し、水筒の口に一杯ついで、「まず一口やり給え。」といって出した。兵隊はものをもいわず、引ったくるように夢中で一杯をのみ終わってから、 「ああ、うかまった。もうこれで死んでもよい。」と、はじめて薄い微笑を浮かべ、「実はねェ……」と語るのはこうであった。 ……この兵隊は岡山縣某村の指物職で、尋常一年から机を並べた友達と、兵隊検査も同じに受け、共に合格して、しかも同じ聯隊〔れんたい〕に入営し、今度の事変でもいっしょに召集となり、隊も班も同じという偶然の一致で、死ぬも生きるも同じにと誓って戦線に立ち、馬廠〔バショウ〕の初陣から、済南の入城、兗州済寧等々の戦場を経めぐったが、不思議に二人ともかすり傷一つ受けないで、毎日毎日はげしい戦闘をつづけてきたが、昨夜の突撃で、とうとうそのかけがいのない竹馬の友を失った。「こちらは少数の兵力を大勢と見せかけるために、夜に入るのを待って広く散開し、喊声をあげて突入したが、敵はパッと強力な照明装置でこちらの小勢を見破り、一斉に手榴弾を投げてきたので、たちまちものすごい白兵戦を現出したが、兵数の相違はいかんともしがたく、残念ながら目的を達せず、死傷者を収容して元の位置へ引き下がり、さらに新手を加えて、二度目の突撃で一小部分を奪取した。その時友は敵弾に殪〔たお〕れたので、私はそれをひきかついで安全な所まで来た。何しろ暗さは暗し、敵弾はビュンビュン来る。地上に友をおろして「傷は浅いぞしっかりしろ」と、耳に口をあて、力をつけていうと、友は微〔かす〕かな、しかし力のある声で、ただ「テ……テ……」と二言いったのみ。さては手か、手のどこかをやられたのかと、暗い中で友の身体じゅうをまさぐって見ても、負傷の箇所はわからなかった。そのうちにとうとう冷たくなってしまったのだ。」 こう語って兵隊は話をやめ、手の甲で目を拭った。夜明けてから陣地に帰り、友の死骸をしらべてみると、敵弾は左頬から右耳下へ抜けており、内部出血の一部が口中にたまって、縡切〔ことき〕れていた。この事を隊長に語ると、隊長は、「そりゃお前、天皇陛下万歳といいたくて、テテといったのじゃないか。まァいい、今からでも遅くはない、ここで友に代わって三唱してやれ。」といわれ、さてはそうであったのだった。本当に友達甲斐のない話だ。ゆるしてくれろよと泣きながら、戦友と共に天皇陛下万歳を三唱して、死骸の口に水をやった。「友の心残りを考えると残念です。」両腕をくんで目をしばたたいた。 兵隊は我にかえったように、急に腕時計を見て、「おお、もう三時だ。イヤとんだご心配をかけました。有難うございました。友だちの仇は立派にうちます。」と礼をのべ、隊長の修理軍刀をかかえて二足三足行きかけ、思い出したように戻ってきて、「はなはだあつかましいのですが、先ほどのウイスキーですね、もう半杯いただけませんか。それから隊長にも一杯だけいかがでしょう。」というのだ。自分としては、これだけは今日まで秘しおおせてきた珍蔵物だ。前野部隊(部隊長は後に、武漢攻略戦の花と散った軍用自動車の権威者)本部附の吉森特務兵が、天津へ公用に出たついでに、部隊長の命で買ってきた三本のうちの一本で、部隊長はそれを惜しげもなく手づから自分に贈与されたものであるが、その夜宿舎へ話しにきた吉森特務兵に一杯つぐと、「天津では一壜八圓(※円)の品だが、ここでは百圓でも手に入らぬ。一杯十圓といってもポンと出す者が必ずある。」といって、なめるように飲んだ尊いものだ。がしかしこの兵隊の希望はそのまま叶えてやり、さらに一杯進上のうえ小型の薬壜に一本わけて隊長に贈った。兵隊は再び厚く礼を述べて帰っていったが、用もないのに自分は、「おい君ちょっと」と呼びとめ、彼の後ろをふり返ってから、何をいうべきか迷ったが、「からだを大切にし給えよ」とこれだけいい、兵隊も、「ありがとう。」とこれだけ答えて歩み去った。 気に引かれたとでもいうのか、自分は二度も出直して、この兵隊の後ろ姿を目送したのであった。門を出て、土塀について右へ、一旦道路へ出て、それから左へ。やがて麦畑に半ばかくてつつ進んでいったが、とうとう次の小部落の陰になってしまった。この兵隊の姓は西村とかいったように覚えている。 その夜、すなわち五月一日の夜、前夜にも増してものすごい戦闘であった。その兵隊が所属する隊は、夜に入るのを待って猛烈な突撃を敢行すること三回、完全に敵陣を奪取したが、隊長以下○名は枕を並べて討死し、一軍曹が代わって指揮をとり、わずか○○名で奪取した陣地を死守したという話は、その翌日耳にしたのであった。徐州戦には、南京や武漢に比して、こうした覆面のままの戦没勇士が多かったことは、悲壮薹兒荘の名と共に、ながく記憶してほしい。
2016年11月25日
ゼークト・ライン突破 さて、自分らは、この小戦闘の地区を右に見て、一さんに南へと馳駆〔ちく〕する事一里。次の部落は戸数四、五戸、ここに友軍の荷物集積所があって、沢山の特務兵が動作している。西に接近した部落は敵の陣地で、銃丸が絶えず、ブルッ、ヒューンと飛んでくる。兵隊は意にも介しないといった風に、「畜生、いやにうるさいな。」などといいながら、大きい声で員数を読んでいる。自動車はここで荷物を若干下ろし、兵隊も下りたり乗ったりして再び出発、さらに若干疾走して、黄家樓という小部落に到着したのであった。 鍋をふせたような坊主山が三つ、南方にお行儀よく並んで見えている。中央のはやや小さくて、形通りの名の鍋山、東が胡山、西を雲臺寺山と呼ぶ。この山々の背面山麓を、古い歴史をもつ大運河が通っており、西には臺兒荘が俯瞰される。北麓から北へ十里近い間は、丘阜に富む土地の小高い平野で、三山を西へ臺兒荘までの一線を底辺として、北へやや長い二等辺三角形を描けば、その頂点のあたりが蘭陵鎮であって、ここから三角形の西の一辺に添うて一本の道路が臺兒荘へ抜け、さらに徐州へとつづいている。 自分らは、蘭陵鎮から中央の鍋山へぶっつけに直線を引いたコースを南下したのであったが、行く事数里、左側に小部落というよりも一構え数戸のこの黄家樓があり、ここから浅い山並みと丘阜とを超えて西々南へ二里弱の地点が臺兒荘である。黄家樓から三山の麓まで、有名無名二十有余の小部落が、点々として交錯している。四月の末といっても支那では早や初夏で、十里の平野には、大麦小麦の穂波が、まさに黄色に移らんとして、黄緑色を呈している。 これが徐州陥落二十日前頃の東北戦線一角の地形説明である。 右の三山をつなぐ一線の南、すなわち運河の線一帯には、この方面の総大将李宗仁が、二十数箇師正味十八万の正規軍を集中し、三山の頂上に観測所を設けて、北麓一帯まで迫っている我が軍を、山越しに丘越しに間断なく砲撃している。 我が方では、蘭陵鎮に○○本部を進め、黄家樓に長瀬部隊本部が出て山麓一帯に諸部隊を配置し、敵味方犬牙のごとく錯綜して陣を張り、相対峙して激戦を展開している。これが大体の戦況説明である。 敵は小癪にも四月二十九日の天長節当日を期して一斉に攻勢を取ろうとし、我が軍もまた猛然と猪突反撃して、三山のうち一つを、是が非でも奪取しようとし、ここに朝来ものすごい火力戦肉弾戦が随所で開始され、長瀬部隊本部には、大小の砲弾が雨下集中されたのであった。この日以来、ある一隊は突撃につぐ突撃を以ってし、尊い幾多の犠牲によって、翌三十日の午後には、三山のうちの胡山がついに我が軍の手に帰し、感激の日章旗がたてられ、待望の砲兵部隊観測所が設けられたその直後に、自分らは、ここの本部へと到着したのである。 その日まで、蜿々〔えんえん〕たる徐州北方ゼークト・ラインは、まだ一寸一分も日本軍の突破するところとはならなかった。ことに、胡山の一線は、こうした山々の上に観測所を設け、それによって正確なる射撃をつづけて我が軍を悩ましぬいていたが、今、我が軍の胡山占領によって、ここにはじめて堅塞の一角が破られたのである。しかもこれがために、我は敵の秘境を穴のあくほど俯瞰し得るのであるから、一切の動静が手に取るように判明するだけに、敵としては、何ものに代えて再び奪還しない限り、永久に利を失うべき大変な箇所なのである。 自分らがここに到着すると、ほどなく宿舎の位置が指定され、そこで装具を解く間も、間断なく敵の巨弾が飛んできて炸裂する。しかし、自分らの視聴は、ここの人たちと共に、今の今占領されたばかりの胡山山巓〔さんてん〕に吸引され、各自双眼鏡をとって眺めると、山の上に存在していて無事観測の任務を果たしつつあるその証左として、夕日を受けながらかすかに動いて見える日章旗が、極めて小さく認識できた。その前後左右には、この一点に集中する敵の猛射撃で、かの全山噴火している地獄のように、パッパッと土煙の柱が立ちのぼっている。そのまた敵の砲撃陣地の方向をめがけて、我が砲兵は一斉に砲撃をしているのだ。誰も彼も、ただ手に汗を握りしめているばかりであった。 全山震駭〔しんがい〕しつつあるこの山巓めがけて、後から後からと決死隊がつづいて突貫してゆく。敵もまた争奪の一隊を操り出し、登る、登らせまいと相争うさまが、ものすごい土煙の渦巻きでそれと看取らせた。 かかる間にも、山巓の一隊からは、刻々と正確な観測の報告が来る。それによって、我が重砲兵陣地は一斉に色めきたって来た。時を移さず、正確な砲撃が開始されて、南山麓に蟠踞する敵の主陣地を砕き始めたのであった。 夜に入ってから展開された北麓一帯の彼我陣地戦は、相互に白兵戦の交錯で、我の銃剣攻撃に対する彼〔か〕れは手榴弾突撃を以ってし、大砲小銃手榴弾等々、あらゆる火器を動員して、遮二無二闘いぬいた。 敵は抗日教育に徹底した中央正規軍の青年兵だけに、雑軍とは事変わり、すりこぎのような形の手榴弾を干し大根のごとく腰間に吊るして、勇敢に突進してきては投げてゆく。その音があたかも砲声のごとく聞こえて来、彼我の喊声が相和し、硝煙の臭気が鼻をつく。赤、青、紫の閃光は、狂舞する電光の連続続発とも見える。しかしその音とその光は何ともいえぬ荘厳さであり、それは死線を越えて、臍の下で一旦死んだ者のみが眺めうる絶美だ、とだけいっておくよりほかにない。 南面したすぐ最左端の部落に陣地を占めている友軍に対抗している敵の大部隊陣地から、機銃が十数条の火線を一斉に吹いては消える。その合間合間に、何回も何回も壮烈なる白兵戦が決行されるもののごとく、裂帛の喊声と、小砲弾の一斉炸裂かと思われるような敵の手榴弾の音とが、ひときわ鋭くとどろいてくる。「あれは○○隊だ。今夜は陣地奪取の命令だろうが、すこし無理だなァ。うまくゆけばいいが。」と、左手を包帯して首に吊るした一人の軍曹が、しきりに気を揉みながらじっと注視したまま動こうとしない。 この時、敵の部落とおぼしきあたりに、バッと一道の閃光が立ちのぼった瞬間、皇軍らしい感じの若干の人影が、影絵のごとくに顕現し、直感的に“突撃の姿”を思わしめた。同時に突如として猛烈な手榴弾が百雷のごとくに炸裂しだし、水火となって突っ込みつつある皇軍敢死〔かんし〕の状態が、まざまざと浮かんでくるのだった。 外れ弾丸かそれとも狙われたのか、ここへも盛んに小銃弾が飛んでくる。ついで迫撃砲弾があちこちに落ち始めた。 かかる激闘の中に夜が更け、やがて朝の光がゆらぎ始めると、次第に銃砲声は下火となり、太陽が上がる頃には、ぴったりやんで平成に帰した。“夜出〔い〕で昼は土中に潜んで動かず”これが支那兵の行動する実相のひとつである。 朝の太陽は、この大修羅場のあとを覗くように登ってきた。どこにかくれて一夜を明かしたのか、スズメがまずさえずり出し、つづいて群鳥がヤオヤオと啼いてゆく。砲声は時々思い出したように、遠くの方で鳴る。胡山頂上の観測兵は、四方八方からの敵襲に抗しながら生命をつないでいて、刻々と通信をしてくる。昨夜、下から攻め上がる敵兵と、山上から撃退する我が兵との銃火が、ものすごく閃いていたという。夜明け近くには、糧食弾薬補給のために、若干の輜重隊〔しちょうたい〕が、決死隊として敵中を突破して行ったそうである。鍋山の占領も時間の問題であって、かくて北方ゼークト・ラインの第一線突破は、もはや確定的なものとなり、敵の奪還戦はすべて徒労に帰してしまったのである。 この朝、本部の兵隊中には、疲れ切って朝日を浴びながら、庭の地上でごろごろ寝ている者もいる。前線から来たらしい兵隊が、あちこちに蓆〔むしろ〕やアンペラを敷き、毛布をかぶって寝ている。放れ馬が、うろうろ構内を歩き廻ったしている。 炊事兵は勇敢に飯をたき、特務兵は愛馬のため麦を刈っている。周囲の塹壕や掩蓋壕からは、飯盒炊爨〔すいさん〕の煙がのぼり、部落部落の敵味方の陣地もまた一抹の炊煙をただよわせているらしい。
2016年11月18日
刀の扱い方の訓練 これは剣道の部類に属する話であるが、抜き打ちという事は白兵戦上よほど関心すべき事であって、昔の侍は、現在のごとき剣道は基本としてこれを行い、しかる後必ず抜刀居合術を訓練したものである。俗に“抜打三年にしてようやく形定まる”とかいって、抜き打ちの稽古などは、十日や一ヶ月習ったくらいでは、役に立つものではない。撃ち合いというものは、抜いてから後に始めるので、自分の抜かぬ先に機先を制されて、修練の功の積んだものに先を仕掛けられてはどうにもなるまい。例えば、敵は拳銃をサックに入れて持っている。こちらは一刀を帯している。双方いざ闘うという時分に、敵の手がサックにかかった刹那、こちらが抜き打ちに出れば勝利はこっちのものだ。しかるに、敵がサックから拳銃を出し、こちらは刀を鞘から抜いて青眼に構えたのでは、こちらの負けだ。これは一つの模型的な例として述べたものであるが、この抜き打ちというやつが、いざ戦争となって誰でもできるものでない。かような事は理屈ではない。実際に当たってみなければわからない。第一、竹刀木剣ばかりで修練したものが、急に真剣を持つと、自分の刀でよく自分が怪我をする。縛り首を斬って、自分の向こう脛を切り込んだりするのもそれだ。戦地では、こうした怪我がすこぶる多い。真剣の扱いになれるという事は、武道の重要な要件の一つである。それも居合術の一分科である。 海老名部隊の大石少尉は、「刀を扱って、自分自身の刀で怪我をしないという自信をもてる人が幾人あるか。自分の部隊の某将校は闘わざるに我と我が刀で負傷して後送された。指を一本落としたり、手のひらを切り込んだくらいの事実はざらにある。いやしくも帯刀本分者は、刀の操作を十分に訓練しておく必要がある。」と、しみじみと語った。 居合術というものは、切りつけの諸規範のほかに、刀のさし方、下げ緒からみ、鯉口の切り方、柄手のかけかた、握り方、鞘手の方法、抜き方、血の拭い方、納め方等々、抜き方にしても、刀の棟で抜く朽木または大根折りというような伝のある事など、仔細にわたし、刀の性能に順応して、刀を活用する事を訓練するもので、こうした訓練に熟達し、微細な点にも、ほどんど本能的に注意を集中し、無意識の中に自己に安全に戦いうる事を教えるもので、居合と剣術とが車の車輪のごとく熱(※原文ママ、熟か)達得度して、はじめて剣道と称する域に到達しうるのではなかろうかと思われるのである。 剣舞のまねをして、それで居合術と心得ているとすれば、それは大間違いである。居合術とは、剣道の基本に習熟したものが、真剣のすべてをつかいこなす実戦の奥妙〔おうみょう〕であると心得うべきであって、いかに竹刀剣道に熟達していても、それだけでは実戦に完全に即応できるとはいい得ないであろう。 ついでに、物斬りの実際であるが、自分は前記のような戦闘物斬りに偶然ぶつかった事が二回、刀を以って敵の命脈を断ついろいろな場面を目撃する事二十数回、自分の試し切り三回の経験によるに、力まかせに打ち下ろしただけでは容易に斬れるものではない。負傷させ深手を負わせる事はできるであろう。“引き切る”という気持ち、それは意識的でなくても、平素そうした訓練をしておかぬ限り、一刀ですぱりとは行かない。刀には反りがあるから、叩いても引き切る理屈だというものがあれば、それは空想に近い。叩いただけで引き切る作用を起こさしむるには、二尺二、三寸の刀で少なくとも四、五寸以上の反りがなくては叶わないが、そんなものは刀として用いられない。刀の反りというものは、斬撃の円形運動に順応するため、すなわち振り回しの便利のためにつけられたもので、切断作用のためのものでは決してない。二尺三尺の刀につけられた、五分内外の反りが、刃先にどれだけの影響を与えうるものか、平直面の上にその刀先を置いて目測しただけでも知れる事で、そうした作用に対しては直刀とほとんど変わらぬ事を発見するであろう。 切断作用というものは、畳のとこを、畳屋があの刃先の荒い包丁でさあっと切るようなものだ。畳屋の包丁は、ねた刃の例として、物斬りの例として、最も好適な模型的例証だと思う。 筆のついでであるが、昔の侍は、戦争の場合、いずれも刀の鍔元から五、六寸のところの刃をひいて用いた事が伝えられている。これは、自分の刀で自身に負傷させる箇所は多くこの鍔元であり、実戦にあたって、ほとんど用のないのもまたここであるから、武道の熟不熟を問わず、この部分の刃をひいておく事の安全な事をおすすめしておく。 要するに、武道教育というものは、昔の各藩の武士教育のように、それだけで立派に戦闘のできるように、各武術を総合的に修めるのでなくては、実戦的武術とはいわれまいと思う。しかしこれは理想であって、今日のような複雑な生活様式の時代には行われない事かも知れぬが、少なくとも、剣術居合の総合的教範ができ、それによって本当の剣道が完成されなければならないと信ずる。
2016年11月11日
物斬りを見る 四月の終わりだというのに、蘭陵鎮一帯は早くも夏の気構えで、朝からぢりぢりと照りつける中を、長蛇のような輜重隊が出発して行った。それの残した煙幕のごとき土煙の中を、自分の便乗した自動車隊は進んでゆく。午後一時だ。日盛りの炎熱が、濛々たる土煙と共に、耐えがたい暑苦しさで猛襲してくる。誰も彼も、何もかも、土ぼこりを深くかぶり、さながら粘土細工のような形象となって動いている。流れいづる汗が黄土粉をとかして、泥水となってつたわる。 街門を出てから南行半里ほどの地点で、車輌隊を追い抜き、ようやく黄土の煙幕から脱する事ができたが、この辺から、東西にやや遠く細長い丘阜が見え、西の丘阜の一角には、双眼鏡で注視すれば、敵の砲兵陣地らしいものが見えるという。さらにもっとも近いある地点には、敵の歩哨の立っているのさえ看取されると、皆かわるがわる双眼鏡を手にしながらいう。自分の眼にそれらは見えなかったが、敵のいるらしい気はいは明らかに頷かれた。 自動車は熟れかかった黄緑色の麦隴の中の道をまっしぐらに進んでいく。行く事約二里の地点は、近い頃の激戦地であったと見え、あちらこちらの部落には、彼我互いに入り込んで陣地を構築した跡があり、土嚢の代わりに、砲弾箱に土をつめて積み上げた箇所などが残っている。部落の家々は戦火に焼かれ、屋根だけが燃え抜けて、天に向かって赤黒い口をあけている。こうした十数戸の部落の路傍には、敵兵の死骸や馬の死屍が青黒くふくれて、悪臭の耐えがたい中を通りぬけ、再び麦の野に出ると、向こうから馬に乗った二人の兵隊が駆けてきた。 鉄兜には迷彩を施し、軽装をしているところから見て、急の伝令らしく、自分らの自動車のわきを通る時、手をらっぱのように口にあてて、「この先の部落でやっとるぞ。」といって過ぎた。各車では半ば直感的に“戦闘の存在”を知って、いずれも鉄兜をかぶり、銃器を手に取り、油断なく警戒しながら進んでゆく。行く事さらに半里、同じく屋根の燃えぬけた六、七戸の小部落の手前まで来て、この自動車隊は急停車した。それは、その小部落が敵の拠点らしく、そして友軍が南方からそこへ突入しつつあるらしい模様を察知したからである。 先頭車の警備兵は軽機◯挺を組立てて戦備をととのえている。輸送指揮官である虎鬚少尉は、「みんな下車せんように、車上のまま武装の事。各車それぞれ警備につけ。」と命令した。言下に若干の兵隊は着剣して飛び下り、各自動車を背にして東西に立った。 目測一町ほどの前方にある土塀、すなわち焼けぬけた部落の北方を劃〔かく〕している土塀が約三十間ほども西につづき、中央が巾六尺高さ三尺ほど壊れている。その塀のところまで麦畑がつづき、部落の西側は窪地で、往昔〔おうせき/おうじゃく〕川の流れたあとででもあるのか、浅い谷をなして西に傾斜している。 友軍の一隊が、この部落を東南から圧迫しているらしく、東の一角の陰に、行動している若干の兵隊がチラチラ見える。車隊から連絡に行った兵隊が二人帰ってきて、何か隊長に報告している。歩兵の警乗兵は、隊長の目くばせで機銃を西南に向けて構えた。いざという時、北方から牽制するためらしい。 突如西南の方向にあたって銃声が起こった。それが数を増してゆく。と、この土塀の崩れている所から、まろぶように藍色の便衣をきた一人の支那人が飛び下りた。下りるなり、ちょっと自動車の方を見たが、そのまま脱兎のように麦畑の中を西の谷の中へとおどり込んだ。警乗兵は、小銃でその後ろを追い撃ったが、一発もあたらぬらしく、西へ西へと逃げのびて、遂々土手らしいものにかくれてしまった。 その時また一つの人影、今度は茶褐色の制服様のものを着した敵の正規兵らしいのが一人、またその崩れかかった所から飛び下り、塀に添って西へ逃げる。この時武装した日本の将校か下士官か、日本刀を昔風にさした一人が、ドッと飛び下りるなり、支那兵のあとから追いすがった。後ろから刀の柄もろ共どしんと支那兵の腰のあたりにぶつかったようであったが、次の一瞬間には抜き打ちに横に一刀をあびせたらしく、敵は二、三歩逃げると、廻れ右をするような格好をして後ろをふり向いた。この時着剣した兵隊が同じく追いついていてめちゃめちゃに突き殺してしまった。 さらにまとまった敵が、西の方から逃げ出したらしく、一斉に追撃してゆく友軍の喊声が、銃声に交じって聞こえてくる。 こうした光景はほとんど二、三分間ぐらいの間の出来事で、いずれもアッといった気持ちでただ固唾をのんで見ているばかりであった。 左の方から兵隊が来て、ここを右にとって急いで通過してくれという。そこで、自動車隊はそのまま麦畑へ突入、道のない所をのして南へ南へと進行した。西の方からは、盛んに銃声が聞こえている。双方の撃ち合いらしい。敵はどうやら西の方から応援にやって来たものとみえる。 自分らの車に、榊という准尉がいた。この人は、青島戦にも、この前の上海事変にも従軍した猛者であるが、今見たような場面ははじめてだと感心していた。よほど物斬りの達人か、さなくば、戦場数斬りの手練かでなくては、ああした働きは出来ん。ことに、刀を昔風にさす事の有利さを実施に応用したのなぞは、慥〔たし〕かに見上げたものだと、心から褒めきっていた。さらに准尉は双眼鏡で眺めたのであるが、それは歩兵の曹長であったといっていた。 自分は、かの曹長が支那兵を斬った所作について、榊准尉やその他の話を総合して、もう少々付加する。 二度目に飛び下りた支那兵は、ちょっと尻餅をついた格好であった。右手には拳銃様のものを持っていた。最後に廻れ右のような形で後ろを向いた動作は、心では撃つつもりでやった事かもしれぬ。曹長は、飛び下りる時、「野郎」とも「やあ」とも判明せぬ“おめき声”をたてた。追いすがりざま刀の柄ごとどしんとぶつかって、次に抜き打ちに斬った時は、明らかにその刃が光って見えた。支那兵がきりきり舞のような姿で後ろを向いた時に、一人の兵隊が真っ向から銃剣で胸のあたりを突き、次いで二、三名が銃剣を揃えて殪〔たお〕れるところを突き刺した。 これは後の事であったが、川上部隊長、石丸部隊長をはじめ、前線の将士中に、軍刀を昔ざしにしているのをよく見受けた。まことに戦いよいそうで、やぱり祖先の残した形式には、我々は無条件で従い得るものが多いといっていた。 後に陸軍では、前線のこうした報告に接して、刀帯を改良し、昔風にさす事もでき、また制式によって吊る事もできる一具両用のものを考案したのであるが、前線では木綿布としごき帯のように軍服の上にしめた、戊辰戦争西南戦争当時の勇将そのままの将校をよく見うけたのである。鉄兜も、弾よけ兼雨よけの、もう少々陣笠式のがよいという人々もあり、昔のように刀も大小両用が便利だという人々もあった。
2016年11月04日
戦う輜重隊 押収の兵器が山のように集積されている。迫撃砲、高射砲、チェッコ機銃、小銃、青龍刀その他各種弾薬などなど。兵器係の将校や兵隊が仕分けで大多忙だ。 それらを、ある目的で見張りしていた兵隊や、珍しい高射砲を見物に来た兵隊やらが取り巻いて眺めまわしている。 見廻りしている兵隊達は、二つ星の特務兵で、その眼は、油断なくチェッコ機銃に注がれているのだ。 そこへ歩兵の軍曹と兵隊が三人やって来て兵器係の将校に敬礼し、「◯◯隊からチェッコ三挺いただきに参りました。」という。将校は、そんな事は耳にしていないし、まだ整理がついておらない、とすげなく答える。 特務兵達の眼は悲し気に光りだした。一人の分別者らしい一等兵が、件の軍曹と将校とを等分に見上げながら、「このチェッコは是非自分らの隊にいただきたいのであります。隊は明日胡山の線に糧秣〔りょうまつ〕輸送に出るであります。御承知かも知れませんが、敵兵が◯◯である上に、こちらは警備が手薄であり、それにわずかに小銃が◯◯だけであります。」と慇懃を極め、どこまでも嘆願の一手である。 兵器係の将校の心は動いたらしく、「考えておく、後でもう一ぺん来に見い。」と答える。歩兵軍曹は、「自分らの隊とて兵隊の◯◯がない。チェッコ一挺は兵隊◯◯以上です。二挺だけでもこの際是非いただきたい。」と、これも必死な物言いである。 将校は当惑して黙ったまま整理の指揮をしている。この時突然物かげから現れ出でたる眼光の鋭い虎鬚をはやした輜重兵少尉が、軍曹に向かい、「お前らの整備は万全してるぢゃないか。輜重は可愛そうに、銃剣だけだぞ。それでいて戦いながら輸送任務を果たしているのだ。ことに明日は、自動車◯◯台、車両◯◯車の大輸送ぢゃ。その延長は◯キロ、しかも敵中突破で火器は小銃◯挺だけだぞ。」 すこぶる興奮して、軍服の腕をまくりあげ兼ねない調子である。 ところが軍曹も根強い。つまり兵力の不足を押収自動火器で補うのだと主張しつづける。 事態を見て取ったのか、それともまったく偶然であったか、そこへ半白頭の◯◯部隊長がひょっこり出て来られた。居合わせた将校も兵隊も皆直立して敬礼する。「この分は輜重がもらえ。あとからいくらでもくるわ。今日もいかく分捕ったげな。明日また来られい。のう軍曹。」 世なれ物なれたこのとりなしに、皆笑顔を取り戻した。虎鬚少尉は頭をかきかき、「ちと言語が過ぎたかの感があります。」「ま、ええわええわ、皆國の為ぢゃき、しっかりやられい。」老部隊長は、そのまま怪しい雲の去来する空を見上げながら、帰って行った。 その翌日、自分らは◯◯自動車隊に便乗して、胡山の線に出た。昨日の虎鬚少尉は今日はその輸送指揮官で、破れ鐘のような声をあげて号令をかけている。 皮肉な取り合わせは、昨日の軍曹は、この自動車隊の歩兵警乗長として、軽機関銃をもって、先頭車に乗り込んでいるではないか。延長◯キロにも及ぶ車輌隊の先登中央後部には、例のチェッコ機関銃がこれも豊富な押収弾薬と共に配備され、騎兵銃に長刀の輜重兵が、数車輌置きに指揮して、戦う我が輜重車隊の一聯は、虎鬚少尉の揮う日本刀一閃、静々としかし勇壮に動き出したのであった。
2016年10月28日
陣中の天長節 四月二十八日、晴れ、なかなか激戦の模様だ。大砲の音で地ひびきをたてている。(中略)今夜の砲撃はものすごい。地ひびきがまるで地震のようだ。相当に死傷者も出たことであろう。砲弾は近くにも落ちて炸裂する。 四月二十九日、晴れ、今日はこれ天長節だ。午前中四振の修理、◯◯本部へ行って修理する。となりの第三野戦病院からも持ってくる。本部は忙しい。前線から刻々と通報が来る。支那兵もなかなかガンバルらしい。今度の奴らは容易に逃げないという。だが、敵の敗色は薄すりと見えてきたそうだ。今が最後の五分間というところらしい。 例の日章旗を持って前野部隊長の署名を乞うた。その旗を前の石榴の植木につるして、戦地奉祝一片の赤心をあらわす。(中略)お酒、祝天長節とレッテルのはった鯛その他口取りの罐詰、お赤飯、焼き豚の料理が下給され、隣室の兵舎で祝賀宴だ。折柄打ち出す彼我の砲声も、時にとっての祝砲と聞き、盃を上げて陛下の万歳を三唱した。 あきつ神あれましし日をことごぐとたまにとぶ庭に集ひけるかも あきつ神あれましし日をこの國のいくさの庭にことほぎまつる 大づつのとどろにひびくこの庭にとよ酒〔みき〕あげてばんざいとなう 四月二十二日、済南出発以来、女の姿というものを見ない。棗荘、蘭陵鎮には、老婆さえいない。男だけの世界、それも国防色一色の世界だ。それでいてなごやかなものだ。 こうした切迫した所では、故国の事、家の事、そうした事はあまり浮かんでこない。ただ目前の自己の任務関係を考えるだけだ。もっと前線では、ただ鉄砲を打つ事、進撃する事、それだけという。ツグ坊の写真を出して見るのもごくまれになった。ただ心配なのは勝敗それ一事だ。あれほど見たかった新聞や手紙さえも、それもさほど欲しくはなくなった。ただ大砲の音が気にかかる。皆寄るとさわると、最前線の動静の話ばかりだ。 こうした場所では、人間はただ実力だけに還元されて帰一されてしまう。家柄がどうの、背景がどうの、そんな事は問題ではない。ただ智力体力の大きな合一体のその一分子として働くのみだ。(中略)このごろは、死、そんな事に対して恐怖も何も感じない。さりとて死のうとも思わない。死、生、そうしたものの区別を考えなくなった。だから平気で歩く。國で楽をしている人たちの事を羨ましくも思わぬと兵隊はいう。事実その通り。そうした事が考えにも上がって来ないのが不思議だ。(日記より) 自分は、明日いよいよ前線へ出る命令を受けているので、せめて今日半日はゆっくり休もうと、居室に引きこもっていると、午後になってから隣室の下士官連中から引っ張り出されてしまった。「四方八方の敵の中でさ、こうやって奉祝のできるのはさ、考えてみろ、男子一代の本懐じゃないか。ソラ飲め。命令だぞッ。」もうかなり廻っている曹長が、若い伍長に大盃(といっても牛肉の空罐でつくった)をさす。伍長はもう飲めないという。飲めなければ始末書を書け。何が始末書だって、貴様國におりゃ分署長だろうが、ここじゃひら曹長だぞ。と別の曹長がやゆする。ひら曹長でも上官は上官、我らの生涯に二度とない今日の奉祝の酒だから、命令をもって飲ませるに不思議があるが、マ、何でもいいや、そんなら伍長お酌しろ。いい機嫌である。 自分は中央に席を与えれられ、祝盃の一斉射撃を受け、同じ棟に住む最年長者という理由で、陛下の万歳三唱の音頭をとらされた。こんなにヘベレケに酔っていても、いざ万歳となると、上衣のボタンをちゃんとはめて、瞬間シンとなる。そこへ前野部隊長が入ってきた。皆直立して挙手注目する。「いや、おめでとう。景気じゃな。たくさん飲め。」「ハイッ、たくさんのむであります。」と始終黙って一隅でチビチビやっていた無口らしい軍曹が、突然起立して大声でこういったので、みんなびっくりしてしまった。 よいあんばいにここを抜け出して自室に帰ると、今度は奥の将校の宴席から、二度目だといって兵隊が迎えに来た。ここでは携帯蓄音機に、『露営の歌』のレコードをかけ、主計少尉がタクトをとって合掌している。やっぱりかなり廻っていると見えて、呂律の廻らぬ歌声、頓狂な調子はずれも混じって、一通り終わると、一人の八字髭の少尉が、 東洋平和のためならばァ、か、何アんで命が惜しかろうゥ、何で命が惜しからゥ…… と独唱し、感無量の面持ちで、眼をつぶる。そのすると、その隣りの巨人大尉が、われ鐘のようなバスで号令のように、「何アんで命が惜しかろう ゥ……さァ、万歳の前に臼砲式乾盃の予行演習だ。用意。」砲兵の襟章をつけたこの大尉の、臼砲式乾盃というのは、盃をあげて飲みほした瞬間に、臼砲のごとく、くるっと盃の口を向け合い、その中に一滴も残っていないことを示し合うのであって、正九十度の角度に向けなければならないのだ。ここの盃は、小さいとはいえコップで、これでたてつづけに五回やらされて、自分もかなり酩酊してしまった。 この時、裏の方で、ダン、ダダン、と我が砲兵の陣地から射撃が開始され、その地ひびきで、コップの酒に波をうった。つづいて、陛下の万歳を三唱し、さらに三回臼砲式をくりかえして宴を閉じ、各自の宿舎に引きあげた。 自分は蹌踉〔そうろう〕として室に帰ってみると、前庭に兵隊が◯◯名ほど整別している。皆武装だ。今のさき大分酔っぱらっていた分署長の曹長も加わっている。言葉をかけると、「夜行軍で胡山の線に出ます。◯◯の先発です。」という。顔の色はまだ赤いが、挙措〔きょそ〕はがっちりしている。兵隊もみないい顔色だ。夕闇の深くなるに従って、砲声はだんだんものすごく小刻みになってくる。そこへ感慨無量の声で歌った八字髭の少尉が、これも武装で来た。指揮官らしい。 あわただしい空気がただよっている。室に入ると、間もなく命令の伝達らしく、少尉の復唱する声が聞こえてくる。自分もこうはしていられないという気分になって、ろうそくの灯の下で明日前進の工具その他を揃えながら点検した。 自分は今日ここで恩賜の煙草を拝受した。手渡してくれたのは、ここへ来てから第一番目に呢懇になった吉森特務兵で、東京日日新聞の社員である。その夜おそくまで雑談していった。特務兵は新婚匆々出征したものであるが、「だんだん前線へ出てくると不思議に思慕の情が薄らいできた。諦めかもしれぬ。その代わり喰う事眠る事では餓鬼の塊となってしまった。すべての欲望がただ食欲に変換したらしい。大分物を忘れたし、また複雑な事を考えるのが嫌にもなった。」と述懐した。この心持ちは、おそらく純な告白であろう。 自分は、年のかげんか食欲は減っているが、それでも三度の食事の待たれる事は家にいた時の比ではなく、茶飯のような麦飯、どぶ泥のような味噌汁、肥料にするような干し魚、馬糧のような干し野菜でも、腹を満たす事のできる日は満足して眠れた。それから趣味というものであるが、自分のような場合には、まったく作業に集中されてしまう。いわゆる刀剣趣味というやつではなくて、損傷した軍刀を修理する事それ自体が趣味となってしまうので、山ほど積まれても決していやな気持ちにはならない。給料ももらわず料金も取らない仕事をしながら、それが一つの純な楽しみである事は、一つの戦争心理であるかもしれない。それだから、修理工具、すなわち二十種類に近い小道具というようなものまでが、國にいては考えられない一種の楽しみ、ちょうど愛する小動物にでも対するような親しみを感じてきて、作業の余暇などに、その工具を大小の順に並べながら、見入る事がしばしばあった。そうしている所へある時部隊長が見えて「君やァええおもちゃをたくさんもっとるで楽しみぢゃのう。」といわれた事があったが、その時、自分の本当の心持ちを現認してくれたような気がしてうれしかった。 吉森特務兵が帰ってから、修理工具を出して順々に袋におさめた時、『前進だ修理工具を覚悟せよ』という一句が不意に出てきた。はてな、同じような句があったっけなと考えているうちに、数日前、西大條部隊の戦死した兵隊のポケットから、煙草の空箱に鉛筆で書いた『突貫だ襟の虱も覚悟せよ』という句の出た話を思い出した。
2016年10月21日
桑田部隊と再会 修理に来た兵隊の語るを聞けば、桑田部隊がこの地に進出していて、両三日以来ここの東方長城附近で大敵と遭遇激戦を交え、悪戦苦闘の結果これを撃滅し、今日蘭陵鎮に引きあげて来て休養しているが、相当犠牲者も出た模様だという。あの泗水で別れた思い出の深い部隊が、つい目と鼻の先にいると聞いて、急がぬ修理は後回しとし、応急修理工具を肩にして訪ねて行った。 廃墟のような街々を曲がっていくと、大きな民家の門に紙に書いてある『くはたぶたい』の門標でそれと知れた。見覚えのある兵隊が歩哨に立っている。 門に入ると、あちこちの木かげや、民家の中に、いかにも疲れたらしい兵隊がごろごろと横になって睡眠をとっている。部隊本部へ行ってみると、一人の兵隊が自分の顔を見るなり「オヤオヤ」と不思議そうに見入るのであった。もっともの話で、ここまで深入りして来ると、通訳以外の軍属は薬にしたくもいらない。どこもここも軍人一色に塗りつぶされているからだ。その兵隊は言葉をついだ。「しばらくでしたね。泗水でやってもらった軍刀の修理が本当に役に立ちましたよ。桑田部隊はこの三日間、おかげで血の雨を降らせました。だがアノ虎徹を持っていた末澤軍曹はね、昨日勇敢にあれで戦ってついに敵弾にやられましたよ。重傷だから到底助かりますまい。田中獣医大尉も負傷しました。」 そんな事を語っているところへ、江口副官や東中尉(今は大尉)が見えて、交々〔こもごも〕その激戦ぶりを語った。直ちにそこの土間に道具をひろげて、生々しい血痕のある佐藤大尉大津少尉以下の血刀の修理にかかった。多くは鍔元のゆるみと、刀身の曲がりや刃こぼれであって、それらを片っぱしから修理してゆく早業も、ようやく手に入り、夕刻までに十一振を修理し、ほど遠からぬ野戦病院に、末澤軍曹と田中大尉とを見舞って一旦宿舎に帰った。 かつて泗水城内において、自分と加古伍長とが、心魂を傾けて修理した軍刀を揮って、各地に転戦した同部隊の戦歴は、自分が泗水を去ってから二週間即ち四月十五日に決然として徐州の線に進発し、途中南沙河附近で、津浦線の線路を爆破し、皇軍の徐州進撃をさまたげんとしてその機をねらっていた敵第百二十師を馬蹄にかけて撃滅し、意気揚々と棗荘〔なつめそう〕に出〔い〕で、それから蘭陵鎮へと進出した。 この時、瀬谷、長瀬の◯◯◯は、一は北方より、一は東北より臺兒荘に迫り、我に数十倍する敵に対して日夜激戦につぐ激戦を以てし、死傷相つぎ、ために磯谷本部の予備隊はほとんどないといってよい状態であった。 そうした所へ乗り込んだ桑田部隊であったから、直ちにその機動予備隊となり、四周の捜索及び後方確保に任じていたが、たまたま四月二十四日、李仙州の指揮する一ヶ師は、我が両◯◯の間を巧みにぬけて、磯谷本部の守備薄きに乗じ、一挙に我が本隊を衝〔つ〕かんとした。これを偵知した桑田部隊は、その撃滅の意見を具申し、二十五日手兵わずかに三百余騎に大槻歩兵部隊を併せ指揮して進発、魯坊、李庄、三化の一線で早くも敵と衝突一大激戦となったのであるが、この正面は歩兵に任せ、桑田部隊は北方を迂回し、不意に乗じて最左翼を屠り、二十六日には一挙敵の本拠長城に迫った。この戦いで第二中隊の某無名高地の争奪戦は、日露戦役のかの首山堡の激戦にも比する壮烈無比なもので、彼我互いに白兵を揮い、逆襲をくり返す事三回に及んで、最後には策を以て敵を近距離までおびきよせ、一挙に切りまくってついに敵をして再挙の機を失わしめたのであるが、かの虎徹軍曹の異称のあった末澤軍曹が、哀悼虎徹を揮って奮戦、敵十数名を斬って無念敵弾に負傷し、ついに花と散ったのもこの戦いである。 この高地の争奪に破れた敵は、ついに遠く後退し、翌二十七日早暁部隊の総攻撃で長城の敵本拠を奪取し、一ヶ師を完全に撃滅して、同日凱歌と共に蘭陵鎮に帰還したのであって、自分が二十六日到着以来二十七日朝まで耳にした砲声は、実にこの戦闘中のものであった。 我が桑田騎兵部隊に散々な目にあった敵は、性懲りもなく、今度は騎兵団を以ってまたまた押し寄せたので、五月三日に出発、再度の激戦でこれまた潰滅したのであるが、この戦闘において、野津軍曹を長とする八名の斥候は、敵の騎兵百名と遭遇、直ちに機先を制してその先頭に乗馬襲撃を敢行、日本刀の偉力を十二分に発揮してこれを撃退したるがごとき逸話もこの時で、後、東大尉の談話によれば、敵の騎兵独立第十三旅五、六百が前進して来た。こちらは全部伏して姿を見せない。百メートルぐらいまで近づいてから一挙にやっつけようと構えていると、敵はそれを知らずに近づいてくる。ところが、待ちきれなかったものと見え、兵隊の一人が約五百メートルぐらいのところでついに機関銃をぶっ放した。驚いた敵はそのまま騎首をかえして見苦しくも逃げ去ったので、追撃して大損害を与えはしたが、もう少し近づいてからだと、面白い場面が展開したのだったという。
2016年10月14日
前野部隊長 夜半寝に就いてから、はるか東方で砲声が間断なく鳴りとどろき始めた。うつらうつらとして半睡半眠のうちに目覚めたが、砲声はまだ止まない。起き出でて朝食をすますかすまさぬに、修理刀でたてこむ。 午前中に、ここの前野部隊長が自ら佩刀を直しにやって来られた。在銘新刀祐定で、たしか上野大掾だったと記憶している。二尺三寸余、身幅も広く重ねも厚く、がっしりした刀で、切先から五、六寸ほど錆びていた。切ったものとも水のせいとも思われたが、部隊長は笑って答えられなかった。この日の修理はむしろ労働に近く、昼食の間もないという忙しさで、いずれも本人なり当番兵なりが附ききりで居催促であるのも、前線の切迫した事情を思わせた。 前野部隊長は、学者肌の武人で、軍用自動車の権威として、その研究の結果になる六輪車は今も行われている。 部隊長の当番兵がやって来た。陣中慰安すべき何物もないが、これはほんの心持ちだけだと一つの包みを置いていった。開いてみると、なんと角壜の純ウイスキー及び練ようかん一箱である。大した贈り物で、ウイスキーだけは上陸以来顔を見た事もない代物だけに、さすがに分割に忍(?)びず、こっそり一杯味わっては雑嚢の中にしち隠しにしてかくしておいたが、のち最前線に出てからは三分の二ほど残っているやつを発見されて、一滴も残らずのまれてしまった。 前野部隊長は、徐州陥落後この部隊と共に中支に移動し、漢口攻略中名誉の陣没をされ、陸軍少将に進級殊勲の功績と共に昨秋靖国神社に合祀されたのであるが、遺骨到着後間もなく夫人も長逝〔ちょうせい〕、今は共に東京市外多摩墓地に永眠されている。昨秋(十四年)吉森特務兵も上等兵として帰還され、一夜懐古の情に似た切々の追憶を以って、夢のごとき当時の模様を語り合った。
2016年10月07日
陣中初の相州刀 この蘭陵鎮は名にし負う『蘭陵酒』の名産地で、日本でいえば灘か伊丹といったところ。人口は二、三千人の小邑だが、割合に富有らしく、家々の構えも小立派である。が、しかし兵火に焼け砲弾に崩れ、住民は一人残らず避難して影を見せない。この地が前線基地で、◯◯部隊長は、幕僚と共にここまで前進して来て、弾雨下に指揮をとっていたのである。 自分らは、前野部隊本部に落ちつく事となり、本部わきの一室をあてがわれたが、到着後まず、兵器部から出張して来ている中村砲兵少佐に面会その指揮を受け、さらに大澤副官の指図によって当分ここを本拠として修理に当たる事となった。 宛てがわれた一室に落ちついて荷物を整理し、こうりやんの寝台にごろりと横になるかならぬに、ここに仮泊している大塚部隊の部隊長以下の佩刀数振を携えた兵隊が来て、夜半までに修理してほしいという。到着したのが午後二時半頃で、ものの一時間もたたぬうちに、どうして知れたのか一帯の将兵に、修理班が軍刀修理に来ている事が、無電のごとく知れ渡ったのだ。その日の会報に出たのでもなんでもない。前線部隊のこうした要求のいかに切実なものなるかは、まったく想像以上である。最前線の将兵の総ては、現実に戦う事それ以外の考えは絶無だといってよい。喰うも飲むも眠るもそれはまったく必要外のものなのだ。こうした最前線戦闘部隊の要求するものは、もはや慰問でもなく、慰安でもなく、猫の手一つでも、それが一分でも一寸でも戦果に貢献するものであればよいのだ。 土間にアンペラを敷いて、有り合わせた木を輪切りにしたような台を置き、ただちに修理に着手した。 大塚部隊長の佩刀は、新刀相州綱廣二尺三、四寸のがっしりした業物で、大体の感じは相州伝というよりむしろ美濃風に近いといったものであった。これは五代綱廣で、新刀相州物としては、三代かこの五代が業物とされ、『相州扇子谷住伊勢大掾源綱廣作花押〔かおう〕、裏銘、干時寛文八戊辰八月吉日』と切ってあった。中心飽くまで長く、地肌は板目に柾目交じり、刃文はのたれとも見える直刃で、いかにも新刀綱廣十数人中の第一位といわれるに相応〔ふさわ〕しく、雄偉な形体であった。鍔元のゆるみ、柄巻の故障で、刀身は明皎々〔めいきょうきょう/こうこう〕として何事かを期待するもののごとくに見えた。 同隊の前田少尉の佩刀は『相州相模守宗正』と銘のある新刀で、皆焼きに似た刀であったが、これは元禄頃武州下原に相模守宗國という刀工がいて、のちに銘を宗正と改めたそれかも知れぬと考えられた。武州下原と相州とは密接な関係にあったから、のちに相州で打ったのかも知れぬ。この刀は、切先から五寸ほどのところがひどく曲がっていたほかに、柄頭に小故障があった。前野部隊岩倉准尉の所持刀であったが、古刀相州物で、本阿彌一家の施したらしい國泰の金象眼銘のあるものを見た。これも刀身がくなくなに曲がり物打ちに刃こぼれが少々あった。一人斬ったのだという。 相州物は一体に数が少ない。ここで図らずも上陸以来はじめて三振を手がけたのであるが、鍛刀にあたってわかしの過ぎたためでもあるのか、どうも相州伝の刀は柔らかで曲がりやすい。これはその後の修理においてもしばしば痛感した事である。 その日は夜に入っても蝋燭の灯の下で作業をつづけ、前記のほか大塚部隊外山中尉(無銘古刀ほか三振)、前野部隊大澤副官(源盛綱の銘)、尾上大尉(忠廣)、その他で十数振の修理を施した。 この部隊の吉森という特務一等兵がいろいろと世話をしてくれた。東京日日新聞社の社員である。さばけた物言いぶりで、来ては何かと話し込んで行った。
2016年09月30日
薹兒荘戦話集 一路徐州の線へ 四月二十三日を以って徐州の線に進発、川口隊に追及せよという命令で、済南杉村部隊の営門を出たのは、午前七時半であった。駅についたのは十分の後、八時半に出発するという砲◯門を積載した長蛇のような軍用列車が停車して出発命令を待っている。今日は徐州の線へ軍用列車が◯本出るから、空いたので行ったらと、送ってくれた兵隊達がいう。けれども何となく心がせくので、これで行くこととし、輸送指揮官の某大尉をさがしあてて便乗をたのむと、立錐の余地もないという。ただし、窮屈を承知の上なら、どこへでも自由に割り込んでくれ、と恁〔こ〕うつけ加えて行ってしまった。 なるほどどの車も満員鮨詰めで、馬の車にまで乗り込んでいる。すると、さっきの指揮官が前方で手招きをしている。駆けて行ってみると、「この車は◯隊本部だがね、一人割り込ませてくれるそうだ。」というので、乗り込んでみると、将校◯名下士官◯◯名ほど、ちょっと横になれるだけの空席を指定してくれた。聞いてみると、◯◯から海上を来た上州兵で、◯◯各所に転戦していた偉勲の部隊だ。上州は自分にとっては第二の郷里で、同窓の旧友も多い。少年時代に聞き覚えたやや荒っぽい言葉、お国風のさくさくした気性もなつかしい。指揮官は大阪毎日の腕章をつけた従軍記者五人をつれて来て、「無理かも知れんが兗州まで乗せてやってくれ」という。副官の中尉は、ちょっと当惑したらしかったが、「ぢゃ、齋藤、お前達三人は自分の隊の車へ行け。」と、三人の兵隊を下車させ、五人の記者を乗せてしまった。するとそこへ一人の少尉が口を尖らせ、ぷんぷんいいながらやって来て、「副官殿は兵が大切でありますか、新聞記者が大切でありますか。」と奮然質問に及ぶ。今下車させた三人の兵隊の隊長と見える。「ウン、どっちも大切だ。」中尉はこう答えて、さらに、「兗州までだ、我慢してやれ。」「いいえ、我慢ができません。」 その時、ゴトンと音がして、列車はごごごごと動き出したではないか。件の少尉は駆け戻った。中尉は心配そうに覗いて見ていたが、「飛び乗った。あいつは鼻っぱしらばかり強くていかん。いまに詫びて来るから見ておれ。」 新聞記者達は恐縮して、兵隊も他の将校も妙に押し黙って、列車はざざざと輾〔きし〕めきの音をたてながら進行している。 泰安につくと、果たせるかな少尉がやって来た。「副官殿、自分の車から若干下車した者があります。よって前言は取り消します。」「よし。」「では帰ります。」 至極あっさりしたものだ。中尉は笑って、「上州の空っ風てやつだ。腹にゃなんにもない。ハハハ。」 車中はそれで朗〔ほが〕らかさを取り戻したと見え、雑談を交わしながら進んでゆくうち、南駅を通過してまさに呉村にかからんとするあたりで、『ががッ』と異様な音響振動と共に列車は急停車して、全員将棋倒しになった。爆薬を装置した線路の一端に乗り上げた刹那、他端の下から爆発して、左の線路が弓のごとくはね上がったので、直ちに急停車したのである。 同乗の鉄道工員によって、修理は時を移さず開始され、むくれ上がった一本をはずし、用意してきたレール一本枕木三本を用いて、わずかに三十分間で開通となった。その間、通信兵は電線に携帯電話機を引っかけて通話し、歩兵の一個◯隊は下車して、附近にひそんでいた便衣隊らしい土民数名を拉致して来て訊問を開始し、呉村駅から駆けつけた警備兵に引き渡す。各車から二名宛の警備兵が、つけ剣をして車の両側から外向きに立って警戒する。 やがて出発の命令が出て、徐行しながら兗州についた。ここはつい十日前まで、助手の加古伍長、福田上等兵と二ヶ月間居住した所であっただけに、一種のなつかしさがこみあげて来る。が、その時の川口隊は今はここにはおらず、徐州の北方に進発し、それを追究して自分は今行くのである。 新聞記者はどやどやと下車する。上州健児の◯隊にも、ここで下車し線路に添う南下徐州の線に行軍せよという命令だというので、全部降りて、車室には自分独りとなってしまった。 前方の客車から◯◯部隊長以下が下車して空いたというので、それに移った。二階のある妙な車で、よく見るロシア文字らしいものが所々に見える。だいたいロシア語の上をペンキで塗りつぶして支那文字に改めたもので、ウーゴリスカヤ、という文字だけははっきり見えていた。北満長春鉄道時代の遺物らしく、乗り合わせた兵隊は、今度は本当の郷里三重県しかも桑名市界隈の兵隊であったのはまったくの奇遇で、◯◯部隊の◯砲隊兵である。中でも矢田という兵隊は近所の者で、自分が東京移住直後に生まれた青年。その後の故郷の変遷を、飽かず聞いたのも不思議な廻り合わせであった。 夜に入って滕縣に到着、そのまま車内に一泊、小寒さに何度も眼をさますうちに夜が明け、午前八時に出発となったのであるが、これからはいわゆる危険区域で、いずれもキチンと武装している。列車の窓から見えるものは、馬の死骸、支那兵の屍体、焼けた自動車に破壊されて横倒しになった貨物車などなどである。 かくて官橋の駅に間近くなった頃、ダダアン、ダダアーンと鳴る咆声に、ダダダッ、ダダダッという重機らしい音が交じって連続する。つい近くで戦闘が開始されているのだ。車中の者は残らず左右の窓から首を突き出して見るが、何も見えない。時間は午前十時、官橋の停車場にさしかからんとして左窓をのぞくと、あたり一面の土煙で、駅の東方にあたって砲声銃声がしている。ハッと思って突っ立っているうちに列車は駅に横づけになった。駅の構内に盛んに銃弾が落下している。 兵隊は全部駅に下り立った。聞いてみると、今の今しがた、我が方の輜重車両隊に対して、迫撃砲を持つ敵兵が、小癪にも襲撃をしかけて来たので、応戦中であったところへ、この列車が入ってきたので、敵は応援に来たものと見て、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったのであった。 そこで、列車は警備の意味でか約三十分間停車している間に、例の徒歩強行軍で来た上州健児の◯隊が、駆け足でやって来た。見ると、口を尖らせて副官と談判した少尉の率いる一隊ではないか。ただちに駅舎の北口から東に廻って、輜重車両隊掩護〔えんご〕の陣形を整えるのを待って列車は出発し、臨城へと着いた。この駅から南へ六つ目が徐州であるのだ。自分はここから分岐する列車に乗りかえて、薹兒荘から北へ三つ目の棗縣〔そうけん〕の駅で下車した。臨城から打ってもらった電報によって、川口隊から福田上等兵と他に一等兵が一名武装して自分を出迎えてくれた。かくて自分は川口隊を追及して、無事に徐州の線に就く事が出来たのであった。自分はここに二日いて、二十六日には直ちに蘭陵鎮へと進発して行った。 その日朝来一点隈〔くま〕なく晴れ渡り、やや小寒さを覚える中を、輜重の自動車に便乗して蘭陵鎮へと向かった。前日までは、北方から半円形に迂回して行ったのであるが、今日初めて直線コースを開拓するので、途中あるいは小戦闘は免れぬかも知れぬとあって、いずれも武装物々しく張り切っていた。嶧縣〔えきけん〕を過ぎてからは所々道路が破壊されており、その都度横にそれては麦畑の中を行く。ある所では橋梁が破壊されているのを、工兵隊が支那墓地から頑丈な寝棺を探し出して来て、それを橋板として自動車を渡す。工兵隊の手によって地雷火が発見され、危ないところで爆発を免れ、恐ろしい谷を下り、絶壁のような坂を登り、その都度“覚悟を定め”ずにはいられぬような曲芸的驀進をつづけ、左荘という部落まで来て小休止した。見るとその左方の畑の中は、激戦が展開された跡らしく、人馬の死骸が累々と横たわっている。自動車から下車した自分は、近づいて仔細にこれを眺め廻した。いずれも支那兵の死屍である。太い綱で脚部をつながれ、その一端は他の死屍にくっついているのが目に映じた。逃げられぬように綱で縛して一線に固着させ、強制的に我が軍に抵抗させようとしたものと知れた。すでに腐敗しかかって悪臭を発していたが、二、三の死屍を検〔しら〕べて見ると、いずれも刀創または突き疵で倒れている。ある死屍のごときは、左肩から肋骨の二、三枚までやられ、骨が白く見えていた。かなり物凄い白兵戦が展開されたらしく、畑の中に無数の馬蹄のあるところから察して、彼我騎兵も交じった衝突と思われた。眼を転ずれば、そこの民家の土塀ぎわにも数個の死屍が現れている。この時後から一人の兵隊が駆けて来て、「危ないですよ、敵がおるらしいですよ。」と注意してくれたので、ギョッとして自動車に引き返したが、帰途この地点で敵襲を受けたのから考え合わせて、その時も若干はひそんでいたものと思われた。ずいぶん危険な話であった。 かかる間も、遠近から盛んに砲声が聞こえてくる。蘭陵鎮に近づくにしたがって、大少の砲声はいよいよはげしく鳴りひびく。幸いに予期したごとき戦闘もなくして、無事蘭陵鎮に到着、任務に就く事ができた。
2016年09月23日
突如帰還命令 留守の十日にはいろいろな変化があった。徐州戦はいよいよ第三期戦に入って、磯谷部隊は、漸次〔ぜんじ〕大移動を開始し、諸部隊は続々前進しつつある。川口隊では、何時前進命令が出ても、短時間の間にこの大世帯をそっくり貨車に積み込める手筈をして仕事をしている。お隣の八木隊では、隊長が毎日のように前線へ連絡に行ってはあわただしく帰ってくる。何事も、何者も、ただ南へ南へ、徐州へ徐州へと動きつつあるのだ。 例の加古伍長が指導してつくった“兗州虎徹”を揮って、ある下士官が大紋口で敵匪と血戦し、十数名を斬りまくったが、刃こぼれもなく、まったく異状のなかった報告もあって、伍長や鍛工兵の鼻が高い。昨年十月中、福岡市玉屋百貨店で開催の展覧会中に、八幡市出身故藤井伍長の奮戦に使用したという出陳の遺愛刀は、中支某地点で自ら鍛えたもので、それで相当闘ったが損傷を見なかったという。好一封の話と思うから付け加えておく。 こうしたあわただしい中へ、またあわただしく修理にやって来る。島津という砲兵少尉が来て即座に小修理をしてやる。安田銀行員だという。お互いに東京人だというだけで非常になつかしがり、無事で東京に帰ったら、必ず再会をしましょうと名刺を交換して別れ去った。少尉は即日徐州第一線の真っただ中に飛び込んで行ったのだ。無事でか、それとも壮烈なる最後を遂げてかと、今でも時々思い出す。大槻という少尉がやって来た。これも東京の人で八王子染織學校の武道教師、中山先生のお弟子さんだという。さすがに軍刀の拵えは慥〔たし〕かで、吟味に吟味を加えている。ただ刀刃が曲がっているので、それを直しに来たのだ。若干斬ったのだという。 今までもあった事だが、武道家の軍人は、さすがに争えない。いずれも佩刀の拵えに周到の注意を払っており、ことに大槻少尉のごとく、居合術にも精進を怠らぬというような人の佩刀の吟味振りは、以ってその刀全体を活かしている。 最後に磯谷部隊の田中兵器部長が見えた。いよいよ出発だ。急いで刀を見てくれという。「わしはのう、とにかく◯◯の兵器部長ぢゃ、一点の非もあるまい。ぢゃが兎に角見てくれよ。」というのだ。なるほどどこからどこまでもしっかりしている刀だ。ただ猿手が切れているのでそれをつけ直した。部長にいわせると、そんなものは修理の中には入らぬという。ひねくり廻した後で返そうとするとたんに、柄頭がぐらぐらと動いた。やはり故障があったのだ。ここの修理をしている間、「そりゃ新しい畳でも叩けば埃の出ると同じ理屈でのう。」部隊長のやせ我慢である。 その日磯谷部隊本部も前進して行って、兗州一帯は急に淋しくなった。 四月十三日、川口隊にもいよいよ十五日を以って徐州北方の線へ進発の命令が出た。伍長と共に荷造りを了〔りょう〕して、いつ何時でも出発のできるようにした後、隊長室へ行ってみると、「済南の部隊長から今電報が来た。読んで見い。」といって一通の電報を出す。 ナルセ、カコ、タダチニキタイセシメラレタシ つまり自分と加古伍長への帰隊命令である。「何とかなりませんか、電報でたのんで下さいませんか。」自分は部隊長に一生懸命にぶら下がった。即刻電報で、自分ら両名も、共に前進せしめられたい旨をたのんでくれたが、ついに夜に入るも許可の返電がなかった。命令なれば如何とも致しがたしで、この夜限り、我ら両人は、諸隊の前進と反対に、悄然〔しょうぜん〕として後方へ引き退くのだ。その夜八木隊へお別れに行った。隊長はじめ皆々親懇になったばかりであるのに、いま別れて去るのが悲しい。寝台にもぐり込んでいた隊長も起き出て、さらに電報を打ってもらえという。が、とても見込みはないので、そのままお別れして宿舎に帰った。 移動の準備でまるで火事場のような混雑の中に、自分ら二人は兗州に最後の一夜を送るのだ。日暮れから吹き出した強風が烈風となり、夜半からさらに吹き募って、台風の形となった。 翌朝は早めに起きた。烈風はなお止まぬ。 いよいよ兗州とお別れである。ここに来て修理した刀が二百三十九振、川口隊長から功績現認証というものを書いてくれる。つまり、遊んでいたのではない、これだけの仕事をしたのだという一つの証明書なのである。 隊の諸君とも別れ惜しかった。ことに福田上等兵は、感慨無量の面もちで、黙して二人を見ている。ここの支那人一家、老主人も若主人も子供も、自分と加古伍長を門の外まで送り出し、「再見々々〔サイツェンサイツェン〕」をくりかえし、老主人は自動車にしがみつき、泣いて別れを惜しんだ。 かくて二人は兗州の停車場を午前九時に発する長い長い貨物車に乗り込んだのである。ふと見ると、向こうの線にいる南行の貨車は、西大條部隊の兵隊だ。いつか済寧で御厄介になったあの部隊長以下の幹部も中央に乗り込んでおられる。いよいよ徐州の一戦へ進発だ。時間があったらちょっと行って挨拶して来たいと思っているうちに、自分らの車は一足お先へドカンと恐ろしい震動と共に出発した。幾分風速は弱まったが、それでも烈風は、西から横なぐりに吹き捲っている中を、一路北へ北へと走って行く。途中すれ違う汽車は、どれもこれも徐州の線へ出る兵隊を満載している。 夜に入ってから風はぴったり止んで、円〔まる〕い大きな月が出た。済南へついたのが八時半、満一ヶ月の間に、ここはネオンサインの華やかな都と化して、夜の街路には下駄ばきの日本娘がざわめいているという変わり方だ。 翌日杉村部隊長に面会して仔細報告に及ぶと、聴き終わった後、「実は方面軍の兵器部から、直ちに帰還せよという通知ぢゃ。何かの都合があっての事だろう。さほど徐州の線に出たければ、わしから添手紙をつけてもよい。とにかくすぐ北京へ行け」というのだ。 自分は部隊内で整理をした後部隊長の添手紙をいただいて、十六日早朝天津行きの汽車に乗り、夜半に北京正陽門の停車場にと着いた。二月二十一日にここを出発してから、三月ぶりで帰還したのである。 畳のある兵站宿舎常榮館という旅館で、タオルの浴衣を着、風呂にもはいり、あぐらをかいて焼きのりお新香で白い飯を食った。十七、十八、十九の三日間こうした生活をつづけ、次の命令を待つ間を、退屈のあまり北京の街路も歩き廻った。うまい物を食って平和な大都にいて、それでぢっとしておられないのも、一つの現地気分といえよう。十九日の午後、ようやく兵器部から電話があって出頭して見ると、せっかくの志望だからもう一ヶ月だけ徐州の線に出てよいとの事で、十八日附けの派遣証明書を入手した。部隊長の湯淺閣下にも拝眉した。佐藤少佐(今は中佐)は、もう一日ゆっくりして身体を休めて行けという。しかし妙にせかせかした気持ちで、心はただはるかに徐州の空にあった。翌早朝北京を出発、途中済南に立ち寄り、杉村部隊長に拝眉報告したが、今度は加古伍長は別の任務に就く必要から、単身で出掛け、出先で必要により兵隊をつけてもらえとの事であった。 二十日に北京を出て、済南に到着する間に、列車襲撃で一部不通、夜半の黄河仮橋を徒歩で渡り、済南から兗州へ向かう途中で鉄道線路の爆破に遇い、列車自ら修繕して進むといった具合で、東京大阪間ほどの処理を追及するのに、四日を費やしたのである。ある時は軍馬と同じ貨車に寝て、馬の小便のしぶきで眼をさましたり、またある時は無蓋車上巨砲の下に座を占め、そのまま夜を明かしたり、ようやく車中に席を得ても、身動きもできぬほどであった。 かくして二十三日には徐州の線へと出発したのである。
2016年09月16日
血つかずの鞘 三月二十七日に兗州を出て泗水曲阜と廻り、ちょうど十日目に帰隊したのであるが、この十日間に兗州はすっかり春になりきっていた。支那の春は実に短い。わずか半月ぐらいですぐ一足飛びに夏になる。それだから支那には、日本のように袷〔あわせ〕を着る期間がなく、冬服から夏服に一足飛びである。 十日前にはまだストーヴを燃やしていたのに、たった旬日で、春も終わりの初夏の態勢となっており、帰った夜には南京虫が出て、加古伍長は寝入りばなに首筋をいやというほど喰われた。 自分らの留守の間に、人間を斬ったものか否か、を調べに来た刀があった。ある必要上鑑識しなければならなかった。自分らが留守であったので、川口隊長即座の智慧で、まずその刀の木鞘を二つに割ってみた。すると、切っ先と覚しいあたりに血液らしい跡があったので、斬ってそのまま一旦納刀したものだろうという判断をしたが、刀身は綺麗に拭われていたためか、さらにその根跡が現れていないので、直ちに断定できないから、一応鑑識してくれろというのである。 自分はかつて大村加卜の『刀剣秘實』を読んで、その中に血糊の事が詳しく説明してある事をうすうす記憶していた。いくら拭ってもこすっても、再び研ぎ直さなければ消えないものであるというのである。それから、かつて某医学博士が、『血液の凝固性については、まだ本当の事は判明しておらぬ。すなわち、血漿中にある前塊酵素と、繊維素原とが、一度空気に触れ外物に附着すると凝固たんばく質に変化して、いわゆる血糊となるのであるが、これは出血後二、三分ないし七、八分で完結するものであるから、斬ってから少なくとも二分以内に拭い去らないかぎり、容易にとれない。ことによく研磨された刀刃に触れると、その凝結が格別迅速で、斬った直後に拭っても、不可能である。』という意味の論文を読んだ事がある。実際“血糊の怪”といいたいほど不思議なものであるのだが、よく拭ったものは時に一見しただけではわからない。これを光にかざして見ると出て来る。引き斬ったものだと、横に刷毛で掃いたように出ているし、切っ先で突いたものならば刀刃一面にトップリとついている。 件の刀を手にとってかざして見ると、切っ先から約六、七寸ぐらい血糊がうすく全体についている。油か何かでかなり拭ったらしく、幾分薄目にはなっているが、突いた際の血つき刀であった事だけは確かであった。 血のついた刀を拭わずにそのまま納刀すると、血糊のために一時は抜けなくなってしまう。そのまま乾燥すれば、ちょっとやそっとでは容易に抜けないが、血液が多量で中で腐敗すると抜けるようになる。 ある将校が敵を斬ってそんまま拭わずに納刀して、ほど経て抜こうとしたが一向に抜けず、二度目にはみすみす敵を逸してしまったという話を聞いた。 昔ある侍が戦場で敵と引っ組んで首を揚げ、血のついた短刀を拭わずにそのまま納めて、なおも闘ううち、再び強敵と引っ組んでようやく組み伏せ、前半の短刀を抜いて首を揚げんとしたが容易に抜けない。そうこうしているに、敵にはね返され、反対に首をとられたという話もある。 血つきの刀の始末については、居合の領域で、山本流居合術では、渋染めの手拭を常に左前にはさんでおき、一刀一刀の練習ごとに必ず拭う事を手かずの中に加え、一つの習慣たらしめる。これらの事は、実戦上の痛切な経験から来たものと思われる。よくやる血ぶるいの動作であるが、自分は陣中で実際に試み、これだけでは完全に血の飛散するものではない事をたしかめた。 ただ目にもとまらぬ早わざで斬った場合には、ほとんど血のつかぬものであるが、それでも薄っすりと一条の血の糸を引いており、白々と血糊の残るものである。 これに関係して、鞘の中のえぐりようであるが、やはり実験上から来た一つの口伝がある。刀の棟を鞘に合わせ、鎬と地との境目の筋あたりを、鞘の内面に軽く接触させる具合にかんどころがあるという。加之〔しかのみならず〕鞘の内面を削る方向、粗密の手心にも秘法があって、要するに誤って血刀をそのまま納めても、多少力をこめ、棟を鞘に押しつけて抜けば、再び難なく抜き出せるように工夫したもので、居合術に、“朽ち木折り”または“大根折り”という抜刀法も、こうした時に不覚のないように抜く力の入れ方、方法の修練であると伝えられている。 この秘法は、幕府の御鞘師で芝の長濱松三郎という者が伝え、八代将軍吉宗公の御佩刀にこれを実施した。万事に注意深かった将軍は、この鞘の中の左右が比較的広いにもかかわらず、刀ががたつかずによいのを不審に思い、左右にその事をたずねたのがもとで、この鞘がかの一代の名鞘師曾呂利新左衛門からの伝承である『血つかずの鞘』である事が判明したので、治に居て乱を忘れざる者として大いに賞賛を受けたという事から、この鞘師は一介の町人であったが五人扶持を賜り、苗字帯刀を許され、幕末まで繁栄したという。ただしその伝は不明である。
2016年09月09日
聖地の一瞥 曲阜縣城は小規模ではあるが、大体修理もよく行き届き、城内の人口は一万。街はさほど立派ではないけれども、住民は一人も逃げずかくれず居残って生業にいそしんでいる。さすが孔子のおひざもとの故か人気もよく、あちらこちらにちょっときれいな家があるので覗いてみると、その門は、孔子子孫何某という標札が出ている。こうした家が百数十戸からあって、至聖衍聖公を宗家として一門繁栄、門葉ことごとく尊敬を受けているのである。自分は加古伍長と共に、この古典的な町を歩き、ここの文廟に参詣した。 大聖孔子の廟は、老樹深々として境内塵埃〔じんあい〕をとどめず、支那としては珍しく清掃されており、番人は、鍵を手にして廟内を隈〔くま〕なく案内してくれた。 周の敬王四十二年、約二千四百年前に、孔子故在宅趾に創建され、爾来〔じらい〕幾変遷を経て完成を見たもので、大成殿〔たいせいでん〕は廟の正殿、側柱はことごとく灰色の大理石で、雲龍の高肉彫りが施され、屋根は黄瓦で葺〔ふ〕き、中央の聖龕中〔せいがんちゅう〕には白顔に金襴の衣装をつけた孔子像を安置し、その前に至聖先師孔子神位の位牌が立てられ、左には顔氏、右には孟子、魯氏の像及び位牌、すこし離れてその他弟子の像と位牌とが粛然と立ちならんでいる。 曲阜なる孔子の廟に参らんといくさのなかをすぎて来にけり 孔子廟にわれひざまづき祈りたりこの戦をば勝たしめたまへ 「この戦をば勝たしめたまへ」とはずいぶん勝手千万な祈りとも見えようが、東洋から、欧米の横道野望を駆逐して、東洋人の東洋を建設せんとする立場にある日本の良心を、至聖孔子の前に明らかにしたものであるのだ。 廻廊から孔子の旧居跡、すなわち『孔宅故井』に出る。ここは閑寂な一域で、孔子の引用に供した井戸がそのまま保存され、苔蒸した石の井戸枠には、つるべの縄のあとまで残っている。ここの土中から、龍紋のついた青色黄色の古瓦の破片三個を堀り出し、記念として持ち帰ったが、案内人の話では、「もし事変前だったら拙者も貴殿もこれがとんでいる。」と笑いながら首を指したほど、小石一つ運び出すのもやかましかったという。「たかが古瓦の破片ではないか。」と反問すれば「古瓦だから、それだからなおさらの事です。」という。新しい平瓦五枚分金五十銭也を謹んで寄進して立ち去った。 孔子廟を出てから北行約数丁のところに顔子の廟があって、ここへも参詣したが、あわれ見るかげもなく荒れはてている。北門を出て北へ半里支那里ほどで三里、ここがすなわち孔子林で、広い森林の奥、荘厳な石人石獣石碑の立ち並んだその奥に一個の大きな古冢〔こづか〕があって、その前に『大聖至聖文宣王墓』と石に刻〔こく〕されてある。孔子永眠後の遺骸が春風秋霜〔しゅんぷうしゅうそう〕二千何百年かの間、この下に静かに横たわっているのだ。 もとの道にひきかえし、さらに東門を出〔い〕で、田圃〔でんぽ〕の間を行く事数町の地点に、周公廟がある。史上有名なものであり、ぜひ参詣しておきたいと思ってきいてみると、その辺には便衣隊が出没するかも知れぬという。俥〔ヤンチョウ〕を二台やとい、伍長も自分もすっかり武装して、とにかく行ってみる事にした。 孔子の出生終焉の地魯の国はすなわち周公の封ぜられた国であった。この周公は当時随一の明君で、その頃周の王室ようやく衰えた中に、周礼ひとり魯にありといわれたほど、この国の礼楽は保持されていた。こうした中に孔子は生まれて、周公の道を学び、周公を理想として、ついに文教の大業を成就したのであるから、この聖君は聖人孔子を生んで育てたといってよい。すなわちその廟所なのである。 田圃の間、せまい細道を屈曲して行くと、淋しい林に出た。くずれかけた石門をくぐり、並木の間を行けば、こは何事か、荒廃しはてて痛々しい古い建物、昔の楼門と覚しく、なかば破壊された門を入ればこれも傾いた本廟で、中には白髪赭顔〔はくはつしゃがん〕の周公像、位牌もなく冠衣もなく、龕〔がん〕は何者かに持ち去られて露出したまま、左はかつては白顔容美であったろうその夫人の像で、同じく粉飾はまったく剥ぎ去られ、蓄髪も脱落した丸坊主姿、右は魯侯の像で、これはなかば壊れ朽ちている浅ましさ。鋳鉄製の香爐も赤く錆びたるもの一個、他には何物もなく、ただ風雨の見舞うにまかせ、あたりには人っ子一人もいない。四辺の土塀も八分通りは倒壊し、種々〔しゅじゅ〕の建物があったらしい広い境内にも、空しく瓦石の破片のうず高く散乱するを見るのみ。孔子廟の一糸整然たるに比すれば、ただ打ちおどろくのほかなく、“政権は短く文教は永し”というような感じが油然として沸き起こってくるのを禁じ得ない。 場内に無事引き上げてから、孔子七十六代の当主衍聖公孔令〓(火+日,立 u715c)〔コンリンユ〕氏に敬意を表すべく、その居館至聖府に出頭した。二名の制服警官が物々しく立っている。刺〔し〕(※名刺)を通じてその門をくぐり、広大な応接室へと案内され、明治大學を出たという日本語のうまい秘書に面会、歴史的なここの邸内えお見せてもらい、かつ当代から記念のため、忠孝、仁義などの書数枚の御揮毫を得て帰った。 曲阜の滞在三日間、修理軍刀二十振、一日の休養を利用、この聖地を隈なく踏査参拝する機会に恵まれて、四月五日には無事兗州の古巣に帰来したのであった。
2016年09月02日
分捕り“日本刀” 曲阜縣城は、孔子廟及び孔子墓所の所在地であって、漢族支那随一の聖地、いわゆる儒教エルサレムで、四百余州のすみづみから来たり詣づるものがひきもきらない、おごぞかなる存在である。ここには城内外の廟墓のほかに、孔子代々の子孫が連綿と居住し、代を重ねる事七十七、当主は今回の支那事変進展と共に蒋介石に拉〔らっ〕し去られ、今は先代の七十六代の孔令〓(火+日,立 u715c)〔コンリンユ〕氏が復位して、居館至聖府に住居している。 この至聖府の主人公は、古来衍〔エン〕聖公という支那最高の栄爵者で、一面また国土なき聖王として、あたかもヴァチカンのローマ法皇のごとく、世界儒教信者の尊信をここにあつめ、兵馬政権の県外に立って、見えざる教権を支配して来たものである。 今日まで、支那に幾戦乱政変が勃発しても、ここに砲口を向け、この縣城一寸たりと犯す者あらば、全民衆の怨みを買うとされ、やはり兵乱の圏外にあって、今度の支那事変にもまったく安全であったのは、孔子の示教と永遠の徳の致さしむるところである。 ここを守るは馬籠〔まごめ〕部隊で、曲阜師範学校がその本拠、部隊長は仙台市某學校漢学の教職中応召した人格高潔の士で、この聖地守護者としてその人を得たものというべきである。 自分らは四月二日の午後一時頃泗水の桑田部隊からここに到着して旅装を解いた。宿舎兼修理室にあてられたのは、以前師範學校教官の宿舎であったという長い一棟の第一号室で、加古伍長は大二号室、室も広く、調度品もととのっており、明るく清潔である。連絡もとれていたので、到着すると直ちに修理刀が運ばれてきた。明日は神武天皇祭だから一日休養だというので、それから直ちに工場を開設して、修理にかかった。 直接の戦闘部隊ではないためか、血まみれの物凄い損傷刀はほとんどなく、動揺または自然磨損による鍔元、柄、鞘などの故障が多く、半日のうちに十振かたの修理をする事ができた。 この城内で押収した敵の遺棄諸兵器の中に、日本刀が三振もあった。うち二振は、支那式軍刀としたために、中心〔なかご〕は細く摺りへらされて原型をとどめず、一振は備前物の古刀らしく、一振はこれも古刀末期頃といったもの、ともに身幅のせまい、割に反りの浅い二尺二寸程の手頃さであった。一振は、新刀最上大業物『肥前國住陸奥守忠吉』と立派に銘のあるもので、割に錆びてもおらず、刃文もはっきりした独特の丁子乱れで、あたかも歯朶〔しだ〕の葉のように斜めに垂れ、黒みがかった錵〔にえ〕、深い匂い、それに刀が大振りで反り幾分高く、重ねも厚く、長さは二尺四寸ぐらい、実に見事な雄偉なものであった。 あちこちで、支那の将校から分捕った日本刀の話はよく耳にしたが、実物として見たのは今度がはじめてであった。日本の士官學校に学んだ将校はもちろんの事、その他にも彼是〔あれこれ〕とつてを求めて手に入れたものと見え、そうした日本刀も、かなり支那に流出しているらしく思えた。ことに、ここで見た三代忠吉のごときは、まったくのうぶで、内地だったら、目今〔もっこん〕のところ一千金は降るまいと思われる尤物〔ゆうぶつ〕であった。 翌四月三日は一天雲なく晴れ渡った祭日日和、風もなく、構内の李花はやや盛りを過ぎてへんぽんと散りかかる風情、内地の花盛りを思い浮かべながら、國旗を室の前に立てた。 正午には、師範学校の講堂で、馬籠部隊長が、衍聖公孔令〓(火+日,土 u715c)氏以下曲阜縣長、治安維持会の中心人物、有力者、日本側の各隊長将校その他を招いて、奉祝午餐〔ごさん〕会を催すというので、自分にも御招待があった。孔氏を主賓に主客百余名、主として日本側の余興(兵隊の中から選ばれた玄人素人)であるいはへそを撚〔ねじ〕らせ、あるいはお茶を沸かせ、時に軽く泣かせた。支那側の余興も一、二あって謹厳な部隊長の思い設けぬ手品の余興を最後に主客勧をつくし、支那側の発声で日本帝國萬歳を、日本の発声で臨時政府の萬歳を三唱して、聖地における日支親善の宴を閉じた。 みくにはや櫻かがやきあるらむか畝火〔うねび〕の宮のまつり日今日は かしはらの畝火の宮をはるけくも支那のひぢりの城ゆおろがむ 部隊長馬籠少佐はともに来て豊酒〔とよみき〕くめとつかひおこせり(祝宴に招かる)
2016年08月26日
四月二日。曇り。今日は泗水の桑田部隊とお別れの日である。修理半滞在の一週間は、これが一線と思えぬのんびりしたもので、修理総数五十七振。在銘刀では、既記の外に榊原少佐の萬治年間大和守吉道、田淵少尉の新々刀加賀介祐永、竹原軍曹の備前清重、井上軍曹の新々刀長船祐包、重政軍曹の肥前三代行廣、朝井某の山浦清麿等々で、まずはいずれも良刀揃い(戦地での)であった。平常から刀に対する訓練も行き届いていると見えて手入れ取り扱いもよく、無茶な破損刀のなかったのは、奥ゆかしい事であった。 一切の準備をして部隊長始め隊の人々に別れを告げ、往路と同じく武装トラックで、しずかに泗水の城門を出ると、一路弾丸のような疾走に変わった。わずか一週間の間に、あたりの村落は緑に包まれ、李花菜花今を盛りと咲き乱れている。 そうこう一時間余り、はるか西のあなたに、曲阜縣城の城壁が、荒い櫛の歯型のように、ぽっかりと浮かび上がって来た。
2016年08月19日
四月一日。晴れ。今日はもう仕事はないので、一日休養である。伍長はここの兵隊と遠乗りに出かけた。自分は馬に乗れないから残されて、通訳野村氏と附近の見学に出かける。すぐ近くにドイツの天主教会堂がある。ここんストルクという老ドイツ人が一人いるのを訪ねる。表にはナチスドイツの国旗が高くはためいている。 支那服を着た赤ら顔のストルク氏だ。名刺を見ると、「泗水縣天主堂教務司鐸、滕海徳、恕仁徳國』とある。支那語はうまいが英仏語は知っていても一切話さぬ。在泗水十八年、粒々辛苦経営の支那化された教会堂を拝見する。別棟には、この地の有力者や婦女子が避難している。ここを辞して治安維持会にちょっと立ち寄り、それから城外東郊〔とうこう〕の『仲子の廟〔びょう〕』へ参詣する。この地は孔子の弟子仲子の故地である。淋しい街路を東へ歩いて行くと、あちこちからひょっこりと土民が顔を出す。まるで幽霊のような顔つきをしている老婆もいる。仲子の廟は権現造りの神社によく似ている。石畳式の参道、石段、さては境内に老杉森々たるあたり、上野の東照宮といった感じである。拝殿に似た建物の次の廟に入ると、位牌に『先賢仲子廟』と記し、お厨子〔ずし〕ようの中に、丹青の妙をつくした極彩色白顔の仲子の像が一体、生けるがごとくに安置されている。廟前の石柱は、黒色の大理石で、龍の彫刻の眼は、黄緑色に輝いている。番人はもちろん、この広い境内には人っ子一人も居〔お〕らない。 廟の西には堂々たる一構〔ひとかまえ〕の家がある。仲子の子孫が連綿として継承し、日本の貴族のごとき待遇を受け、廟産ともいうべき世襲の土地その他の財産があって、その収入で廟の維持をしたり、生活をしたりしているのだ。ここの主人は、先日共産賊の襲撃に人質となり、ようやくの事で帰されたが、半狂乱の状態で、日本軍保護の下に村落へ逃避しているのだという。自分らは帰途についた。城内に近く山西会館という仏寺がある。この辺まで出稼ぎに来ている山西省の人たちが建てたもので、山東省人の仏教ぎらいなのに反して、彼らは仏様なしにはいられぬのだという。ひょっこり入って見てハッと驚いた。銃を持った支那兵が十数名評議しているではないか。だがそれは今日治安維持会土民兵団の発団式があるからだと聞いて安心した。自分らはこの民兵に取り巻かれて一ぷくした。頭目らしいのが、人名簿を出して自分の前に置く。軍の宣撫班と思ったのであろう。名前を見ると、張とか李とかいう姓が多い。実際の張三李四だ。
2016年08月12日
三月三十一日。晴れ。早朝から修理。加古伍長は、あたたかい庭に出て、シャツ一枚で作業している。午後は裏通りに支那人の巡回理髪師が来ているというので行ってみると、兄弟らしい二人の青年で、四つ角の小汚い民家に椅子を二つ並べただけ、『日軍御用』の旗が出ている。両鬢〔りょうびん〕を短く刈り上げてもらおうと思って、そこを刈り取る手つきをしながら『多々的〔ターターデイ〕』といえば『明白〔ミンペイ〕』と答える。ところがこの支那語に対する彼の解釈は反対で、たくさん毛を残せというのだろうと考えたらしく、鋏刈りを始めたので、あわててバリカンを持たせる。今度は髭だ。まことに乏しいものだが、チョッピリ残してみようと『多々的〔ターターデイ〕』を連発してようやく危難を免れた。 そこへ加古伍長がやって来て、風呂へ行こうというので共に出かける。湯から上がって一ぷくしていると、ここでも茶を持ってきたり、烟草〔たばこ〕を出したりする。入浴料は無料、部隊で買い切りにしてあるのだ。細長い顔の頭のはげ上がった主人が、伍長に自分を指して何者だときく。飛行兵が着用する作業服を着ていたからだ。伍長はからかって、「大人は飛行士だぞ。」という。主人は目を円〔まる〕くして自分をマヂマヂと見直した。腕を組んで首を振る。いかにも感心したという表情だ。はては家人を呼んで来て、ずっと並べて何か早口に説明するという騒ぎ。 今日は、午後四時から城壁下の広場で、戦没将士の慰霊祭をやるので、手裏剣と居合を奉納してくれと、部隊長からの話。異域に散った勇士への現地奉納演武である。広場城壁際には、木の香も新しい標木が立っている。その前に部隊長以下数百名の勇士が円座をつくっている。 東中尉から御紹介があって、まず古い扉の板を的として根岸流の手裏剣を打ち、次に作業服の上に白衣を帯にしめ、ガーゼを巻いて鉢巻とし、アンペラと毛布とを敷いた上で、桑名藩伝山本流居合術を勇猛に演武した。英霊を左に、敵陣を直前にしたためか、気も立ち、気合も乗り、我ながら精神のこもったものであった。 夜は加古伍長と共に部隊長のお招きをうけ、陣中料理としてこの地方の物産でつくらせた泗水料理に芳醇な日本酒、副官はじめ将校方も居並び、酒のお肴には、この外に各勇士の武勇談やら珍話やらを承り、それからそれと話がはずんだ。 十二分に御馳走になって宿舎に帰ると、今日兗州からの便があって、なつかしい國からの郵便が五通来ている。次男坊正次は明一日に小學校へ入学するのだそうで、今夜あたりはその準備に忙しい事であろう。
2016年08月05日
三月三十日。晴れ。昨今の暖気で季の花が一斉に咲いた。遠景は桜花さながらだ。竹原軍曹の室へ行ってみると、浅い支那の土器にそれが生けてある。見事な古流だ。これは東中尉の当番の目付特務兵が生けたのだという。この兵隊は出雲大社付近の出身で、生花のお師匠さん。 今日も一日無言の修理作業だ。修理を早目に切りあげ、五時頃街の湯に行った。済寧の浴場と同じ形だが、規模がずっと小さい。今日は臨時休業で、明日わかす水をくみ込んでいるところだ。そこを出でてあたりをぶらつく。街々の住民は、八、九分通り避難していて、ほとんどガラ空きである。日本兵は良民を殺戮するという逆宣伝に驚いての事だというが、実際残って住んでいる連中は、かえって日本兵の保護を受け、物を売ったり、使用人となったりして儲けている。ほど近い泗水縣庁の前には、昔から由緒の地と見え『邑侯仁政碑』などという古碑がたっている。やがて『日本軍仁政碑』が建てられるだろうなどと話しながら東の城壁にのぼる。外観はがっしりしているが、内部の土壘〔どるい〕は半ば崩壊して礫土が露出している。城門の上から眺めると、郊外の村々が、遠く近く樹々の間に点綴〔てんてい/てんてつ〕し、東南北は、水成岩の低い山々に囲まれて、短い支那の春がまさに酣〔たけなわ〕ならんとしている。麦の緑、李花の紅、まことに飽かぬ景色ながら、民家田圃〔でんぽ〕には人っ子一人も見えない。ただあちらこちらに薄汚ない水たまりに、カエルがかいかいと啼いている。 日はうらら泗水の城のをちこちを島のごとくに木の芽青み来る かいかいと蛙なくなりこのしろものどかに春となりにけるらし 門の上に歩哨が立っている。昨今討伐しているのはアノ山だと、北方二里ばかりの山を指す。目を南に転ずればはるかに低い丸味のある山が見える。名を尼山といい、そこの麓が孔子の生まれた処であるという。西面すれば、赤い太陽は今まさに沈まんとする一歩前で、ここもカラスの巣がどこの樹々にも黒く見え、彼らのみは盛んに生きる営みを営んでいる。この城壁の上を、北側からしずかに一周してみる。崩れて危ない箇所もある。数町四方、一巡して半里に足らぬ小城である。 ふと城壁の下の土民の家から唱歌の声が聞こえてくる。しかもやさしい女の肉声だ。炊烟〔すいえん〕がたちのぼって、前庭には子供が遊んでいる。ここだけは、こっそりと平和を拾っているのだ。
2016年07月29日
三月二十九日。晴れ。朝食前から修理にかかる。今日は某隊が交替して討伐に出るとかで、昨日直したのをとりに来る。やっぱり柄の修理が多い。昼食中の小休みに、この辺の少年がコロ柿を売りに来た。今気づいたわけではないが、支那の子供はよく物売りに来る。なかなか如才なくかつ熱心だ。一包八個で十銭が云い値だ。結局四個の包みを一つまけて十銭〔イーモーチェン〕。この辺は柿が名産らしい。内地の胡露柿そっくりだが、味は格別甘味がある。三度の食事は炊事兵が運んで来る。夕食には二合瓶をおかんして二本つけて来た。優待され過ぎる感が深い。今日の討伐は敵が逃げたのでそのまま帰ってきたという。ここの風呂もドラム罐だ。浴室の前に霊安室がある。兵隊の遺骨はないが、軍馬徳助号、常草号のたてがみ袋が安置され、お酒や菓子野菜等の供物がそなえてある。茶碗をりん代わりにカンと叩いて、太い支那線香をたむけた。
2016年07月22日
三月二十八日。晴れ。ここは騎兵隊だから一部隊ことごとく帯刀日本兵である。したがって良刀も多い。部隊長のは無銘だが、尾張關の尤物〔ゆうぶつ〕で、もう一振のは志津系兼延、副官江口大尉と東中尉のは、在銘井上真改だ。副官のは寛文十三年の裏銘もあり、菊章も格に叶っているが、惜しい事に鍔元に豆粒ぐらいの刃こぼれがある。過ぎる満州事変の時の記念だという。田中獣医大尉のは、則國在銘の無疵で、色も姿も申し分ない古刀だ。本物とすれば国宝だ。だがこれは伯州小鴨の則國だとあとで知れたが、それにしても稀刀である。いいものを拝見した。 昨日の軍曹は、末澤という猛者で、その虎徹は四分六分というところだが、時代があり、切れる事は相当なものらしい。力を落とすといけないから『良刀だ。』といっておいた。 夜は支那鍋の大きなやつを探し出してきて、その中で焚火をした。兵隊が二人来て武勇談をする。二月の中旬ここで大襲撃を受けた。敵は山砲をうち込む。こちらには砲はたくさんない。やむなく曲阜の守備隊から応援を得て撃退したが、その時はなかなかすさまじかったという話。傷ついた乗馬と別れて前進しなければならぬ時の悲しみ。話はなかなかつきそうにない。今日も若干隊で討伐に出で、機関銃を打ちまくったが、なかなか退かなかったそうである。
2016年07月15日
泗水行(日記抄) 三月二十七日。曇りのち晴れ。今日は泗水へ行く日だ。仕度をして待っていると、十時ごろトラックで迎えに来た。 指揮者は竹原という騎兵軍曹で、ニコニコした温顔の青年。加古伍長と共に便乗。警乗の兵隊◯◯名。軽機関銃◯挺をもつ。 一路泗水へ。だが道路はデコボコで動揺が甚だしい。一人の兵隊曰く「玄界灘へかかりました。」と。けれども速力は早い。泗水まで無停車〔ノンストップ〕だという。途中停車は危険の惧がある。敵が出てきても大抵相当距離の側面射撃が多いから、かまわずに突破するのだそうである。やがて孔子廟で有名な曲阜縣城を左に泗水川に沿うて進むと、南に近く渦のような縞目をもつ一種異様な丘がいくつも見える。これが“阜”というものであろうか。曲阜なる地名の由来であろうか。はるか東南に、あたかも獅子が伏せをしているような、また頭の部分が達磨とも見えるような山が間をおいて二つならんで見える。テーブルのごとき山、バケツをふせたような山形が去来する。 路傍の楊柳は萌え初め、急激に春が飛び込んで来たらしい村々は、南画のように美しい。こうした異風な山河の間を疾走また疾走二時間、無事泗水の桑田部隊に着いた。東中尉(今は大尉)世話係として万事斡旋。指定された宿舎である奥まった民家に一旦落ちついた後、部隊長に拝眉してから急ぎ修理刀を夕刻までに修理する。一人の軍曹、色の黒い肩の怒った壮漢が愛刀をもって来た。虎徹だという。自分らの来るのを待ちかねていた。どうか真偽を確かめてほしいというのだ。 夜に入って大砲の音二発聞こえる。あたりの山々に反響して物々しい。ここは二月以来共産軍の襲撃を受ける事数回に及ぶという。兗州以来の最前線である。
2016年07月08日
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