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シンクロナイズド・スイミング監督の井村雅代さん曰く。私、高校生にこう言うんです。(手で三角形を作りながら)今、三角でしょ。「これ、私がマルって言ったら、「マル」って覚えなさい」って。「三角ですって主張するんじゃないの。他人の言った言葉にはまれって言うんです」「一度、人の言葉に100%騙されてその気持ちになりなさい」「これを私がマルだって教えたら「これがマルだ」と覚えなさい。「これがペケや」って教えたら、「マルやのに」って思わないで「これはペケだ」って覚えなさい」って。そんな時がなかったら、あかんねん。自分のことばかり言うんじゃないの」シンクロナイズド・スイミングでは、選手が水上にあげた足の角度が自分の思っている角度と違っていることがよくあります選手が30度だと思っていても、実際には15度だったということはよくあります。その時に自己主張を繰り返していては、決してうまくはならない。メダルには程遠くなるばかりだ。自分を捨てて、監督やコーチに従うという姿勢が上達のコツです。これは森田理論学習にもそっくりそのまま言えることです。森田理論は1919年に確立されて、すでに100年以上の歴史を持っている。歴史の重みを尊重して森田にかけてみる気持ちが大事です。森田先生曰く。森田理論に対していくら疑いを持っていてもかまわない。私の言うことに盲従しているよりは、かえって反発心を持っているぐらいの方がよい。疑いながらも森田先生の指導を信頼して、その通り真剣に取り組んでみる。こういう流れに乗るためには、一旦は自分の我を捨てなければいけません。最初はどうしても自分を捨てて、素直に教えを請うということが必要です。考え方や技や極意を自分のものにするという気概を持つことです。素直でない人は森田の神髄を掴むことは困難です。これは武道の「守・離・破」の「守」にあたります。「守」を無視して自己流を押し通していると「型なし」になります。「そうは言われましても、その考え方、指導方法は違うと思います」と反抗ばかりしていると成長はそこで止まってしまいます。
2024.03.31
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形外先生言行録から御津磯夫さんのお話です。鐘が鳴るかや 撞木(しゅもく)が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る。51年前の慈恵医大で私の精神科講義の森田教授の第一声がこれであった。あざやかに今日も私はその日の光景が目の前に彷彿としてくる。私は一瞬面喰って一瞬茫然としたが、この最初の一言が私の一生を支配したようで、なんとも忘れられず、意味もよくわからないまま、私の内的生活を育んできたごとくである。(形外先生言行録 御津磯夫 62ページより引用)この部分はどう理解すればよいのか難しいところです。ただ鐘と撞木がそれぞれに激しく動いただけでは鐘は鳴らない。鐘と撞木の両方がぶつかり合うときに鳴るということです。つまり相互作用によってはじめて鐘が鳴るのです。これに関して森田先生は次のように説明されている。 宇宙の現象は、すべて唯、発動力と制止力とが、常に平行状態にある時にのみ、調和が保たれている。天体にも、物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、興奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。吾人の精神現象も、決してこの法則から離れることはできない。余は特にこれを精神拮抗作用と名づけてある。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐戒・悪怖という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つときに、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、その抑制の剛健な人が、益々大なる人格者である。(森田全集第7巻437ページ)神経症的な不安に対してはその裏に欲望があります。ですから神経症的な不安に対して、ことさら不安だけを取り上げて対処しても仕方がない。不安の裏にある生の欲望の発揮のほうに焦点を当てることが大事になります。不安は欲望が暴走しないように制御する役割を果しています。これは自動車の運転を考えるとよく分かります。自動車にはアクセルとブレーキがあります。目的地に行くためにはアクセルを吹かして車を前進させなければなりません。またカーブや坂道、赤信号ではブレーキを活用してスビートを制御しなければいけません。運転する人は誰でもアクセルとブレーキを適宜上手に操作しています。ところが感情の取り扱いになると、ブレーキばかり踏み込んでアクセルを踏み込むことを忘れている。これではいつまで経っても目的地に到達することはできません。森田理論の「欲望と不安」の単元を学習するとそのことがよく分かるようになります。生の欲望の発揮はまず日常茶飯事に丁寧に取り組むことから始めたいものです。
2024.03.30
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ショーン・コヴィー氏がこんな話をされている。パレスチナには2つの湖がある。一つはガリヤラ湖だ。きれいな湖で、魚も泳いでいる。その土手を緑が彩っている。木々は土手の先へと枝を広げ、癒しの水を吸い上げようと渇いた根を伸ばす。・・・ヨルダン川がなだらかな山を下り、この湖にきらめく水を注ぎ込む。だから、湖は日差しを浴びて笑っている。人はその近くに家を建て、鳥は巣を作る。この湖がそこにあるから、どんな生き物も幸せなのだ。ヨルダン川は南に下り、もう一つの湖にも注いでいる。ここにはしぶきを上げる魚も、風にそよぐ葉も、鳥の歌声も、子どもたちの笑い声もない。空気は水面に重く垂れこめ、人間も獣も鳥も、ここの水は飲まない。この湖は死海という。隣り合った湖のこの大きな違いはなんだろう。ヨルダン川のせいではない。両方の湖にいい水を注いでいるのだから。湖底の土でもない。まわりの土地でもない。ガリヤラ湖はヨルダン川の水をもらうが、ためてはいないのだ。一滴注げば、一滴が流れ出る。等しい量の水を与え、受け続けている。死海は一滴もらえばすべてため込む。つまり外に向かって流れ出るということはないのです。(7つの習慣 ショーン・コヴィ キングベア出版 51ページ引用)この話は感情の取り扱い方を考えるときに参考になります。感情は谷あいを勢いよく流れる小川のように、早く流すようにするとよいのです。お堀の水のように入れ替わらないということになると、藻が湧き、雑菌が繁殖して、水が濁ってきます。谷あいを流れる水のように、飲み水として利用することはできません。感情を早く流すためにはどうすればよいのか。新たな行動を開始すると新たな感情が生まれてくると学びました。これを活用すればよいのです。お勧めは、毎日の生活のルーティンを作り上げることです。3か月もすれば規則正しい生活習慣が身に付きます。身体がスーと動いてくるようになります。そのとき運動野や側頭葉が盛んに活動しています。そして比較検討、試行錯誤を繰り返す前頭前野は休んでいます。神経症に陥ると絶えずその前頭前野を酷使しています。帚木蓬生氏は5分以上考え続けていると前頭前野が傷むと言われています。前頭前野を酷使しないためには、規則正しい生活習慣を身につけることが有効です。
2024.03.29
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関根正明さんと言う元中学校の校長先生の話です。K子さんという中学生の生徒が、小学5年生の時、先生から受けた対応がいまだに許せないという。K子さんにはこんな体験がありました。昼休み、トイレのそばで2年生らしい女の子がシクシク泣いていたそうだ。「どうしたの」と聞いても、何も言わずシクシク泣いている。「どこかイタイのだったら、オネエサンが保健室に連れて行ってあげるから」と言っても何も言わずにシクシク泣いている。その子は両手で両目をふさいでいて、顔がわからないものだから、私は両手で、その子の両手をつかんで、「ドレドレ」という感じでその子の手を離そうと思った。ところが、その子どういうわけだか、とてもがんこで、手をギュッとかたくして顔から離さない。私も少しがんこになって「どうしたのよ」と強い声で言ってしまった。とたんにその子、大きな声でウエーンと泣きだした。そのとき、運悪くとても短気で、女の子でもぶつというD先生が通りかかった。D先生は、いきなり、「こら、2年生をなぜ泣かすのか」と言うと、私の頭をゴツンとぶった。D先生は、「ちょっと来い」と私のそでを引っ張って、その2年生には、やさしい声で「どうした、何をされたんだ」と聞きながら、私と一緒に職員室に連れて行った。職員室でK子さんがどんなに理由を説明してもD先生は聞いてくれなかったという。担任もやってきて、「いじめたのなら早くあやまってしまいなさい」などという。おまけに、他の先生に「この子は、強情なところがあって」とか、「勝ち気だから扱いにくい」などと言っている。私は「もういいです。私が泣かしました」と言って、私も泣いてしまいました。この件は、Kさんは今でもシャクにさわるという。私の言うことをアタマから疑っていた担任の先生も憎らしい。だから卒業してからも、小学校なんかには一度も行っていない。(叱り方 うまい先生 下手な先生 関根正明 学陽書房 175ページ)Kさんにとってこの理不尽な出来事がトラウマとなって今でも苦しんでいます。先生がKさんの話に聞く耳を持たなかったというのが一番問題だと思います。一方Kさんは先生の理不尽な対応を受け入れることができませんでした。被害者意識でいっぱいです。被害者意識を持つと相手と敵対するようになります。でも大人である先生にかなうはずもありません。自分を責めた先生は担任の先生まで味方につけているのです。何とかやり返したいという気持ちでいっぱいですがどうにもできません。反論できていないので、その時のトラウマが解消できていないのです。その時先生の対応をあるがままに認めることができたら、忌まわしい記憶としていつまでも苦しむことは避けることができたかもしれません。難しいことですが事実を否定しないできちんと向き合うことです。事実が正しいか間違っているかという是非善悪の価値判断をすると、被害者意識が益々膨れ上がり大人になっても思い出すたびに許せないということになります。事実にきちんと向き合うと、自分の言い分を先生に分かってもらうにはどうすればよいかを考えることができるようになります。この場合自分ではどうしようもないことですから他人の助けを借りることになります。関根先生のような先生に事実の詳細を話してみる。友達に話してみる。家に帰って親に事の顛末を話してみる。親から校長先生や教頭先生に相談してもらう。PTAの役員さん、教育委員会に対応してもらう手もあります。きちんと対応していれば理不尽な対応をした先生と和解できたかもしれません。そうすれば大人になってトラウマで苦しむことはなくなっていたと思います。事実に蓋をしてしまうと、一生涯理怒りに振り回されてしまいます。
2024.03.28
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身体を健康に保つためには食べ物が必要です。飲み水や食物がなくなると命の再生産はできなくなります。動物は餓死しないために必死になって生きています。できる限り延命を図り、子孫を残していくことが最大のミッションです。人間もそれを無視することはできません。但し人間の場合は、精神面の健康にも注意を払う必要があります。心を健康に保つために重要なことは、課題や目標を意識することだと思います。それが心を健康に保つための食べ物のようなものです。問題点や課題、目標や目的、希望や夢の有無は心の健康を維持するために欠かすことはできません。森田理論では「生の欲望の発揮」と言います。どうすれば課題や目標を持った生き方ができるようになるのでしょうか。観念優先の「かくあるべし」から現実、事実、現状を批判、非難、否定していると、事実本位にはなれません。そちらの方に意識や注意を投入することが多くなるからです。すると「生の欲望」に向けるエネルギーが不足してしまいます。事実本位の生き方をしていることは、マラソンでいえば国内予選を突破してオリンピックのスタート地点に立つようなものです。メダル獲得に向けてのスタート地点に立てたということはとても大切なことです。その方法は10項目くらいあります。このブログで詳しく紹介しています。今日は私が最近意識して取り組んでいる内容を2つご紹介しましょう。1、まず日常生活の中で「あたりまえのこと」に感謝する習慣を作り上げることです。能登半島地震で被災された人たちを見ていると、普段私たちは何と恵まれた生活を送っているのかよく分かります。住む家がある、電気、水、風呂、暖房、トイレ、ガス、給排水設備が利用できる。道路、自動車、食事ができる生活がどんなに恵まれていることか。感謝の言葉は災害に遭った人たちを見つめているだけで湧き上がってきます。感謝の言葉は意識して見つけ出すことが肝心です。見つけたら日記に書くなどして再確認したいものです。2、次に神経症で苦しんでいるときでも、規則正しい生活を心がけることはできます。ルーティンワークを確立することが大切です。毎日同じ時間に同じことをするという習慣を作り上げることです。すると別に意識しなくても自然に体が動いてくれるようになります。時にはしんどいなと思うこともありますが、ルーティンワークをすっぽかすと心が落ち着かないという気持ちになります。この習慣作りは3ヶ月くらいで確立できます。心が安定軌道に入りますので、神経症に陥りやすい人は是非とも挑戦していただきたいと思っております。
2024.03.27
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帚木蓬生氏は、「自分の気持ちが、ある固定観念にとらわれたら「即」をつけて考えなおしましょう。ぐっと気持ちが楽になります。心が広々、晴れ晴れしてきて、新たな地平線が見えてきます」といわれています。(生きる力 森田正馬の15の提言 帚木蓬生 109ページ)「即」のつく言葉を探してみました。努力即幸福、煩悩即解脱、煩悩即菩提、不安定即安定、不安心即安心、苦即楽、善即悪、雑念即夢想、矛盾即統一、耳鳴即無声、病気即無病、健康即不健康、富即貧、貧即富森田先生は次のように説明されている。強迫観念の療法は、その精神の葛藤・煩悶を否定したり回避するのではない。そのまま苦悩煩悶を忍受しなければならぬ。これを忍受しきったときに、その煩悶・苦悩が消滅する。すなわち煩悩即菩提であり、雑念即夢想・不安心即安心であるのである。禅やその他の仏教で「煩悩無尽誓願断」とか煩悩を断つとかいうけれども、私の療法では、決して断つのではない。煩悩のままであるのであります。(森田全集 第5巻 388ページ)森田先生は煩悩を断つのではない。煩悩を受け入れるのだと言われています。「即」というのは、不安、恐怖、違和感、不快感が沸き起こったときに、はからいをやめてそれらと一体になる態度のことではないでしょうか。ここでのキーワードは「なりきる」ということです。「○○になりきれば○○になる」という言葉に置き換えれば分かりやすい。「なりきる」というのは、たとえば同じスピードで走っている電車に乗っていると、両方の電車は静止しているように感じられます。向こうの電車に乗っている人の動作が手にとるように分かります。実際には高速で動いているのですが、そのスピードが体感できなくなります。感情でもこれと同じことが起きます。不安、恐怖に「なりきる」ことができると、不安や恐怖に追い回されるという感覚がなくなるのです。この考え方を基にして、「努力即幸福」という言葉を考えてみました。努力している段階は目的が達成されている状態ではありません。一生懸命に努力しても、その努力が報われるとも限りません。失敗する確率が高いものはいくらでもあります。不安です。イライラしています。心はハラハラドキドキしています。普通そんな状態にあるときは幸福であるとは言えません。それなのにどうして幸福といえるのでしょうか。それは目標達成に向かって一心不乱に努力しているときは、意識や注意が外向き・前向きになっています。意識や注意が内向き・後ろ向きになっていないために、不安や恐怖などが入り込む余地もありません。不安、恐怖、違和感、不快感に振り回されていない状態は幸福な状態ではないでしょうか。目的を達成して次の目標を探しあぐねている人よりも、むしろ幸福な状態にあるといえます。
2024.03.26
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集談会でイヤイヤ仕方なしの行動の是非の話がでました。イヤイヤ仕方なしの行動は間違いだらけになりませんかと問題提起されました。本音が拒否しているのに無理やり行動してもしんどいばかりだといわれるのです。目標に向かって努力するのが人間の本来性と言われますが、その反面しんどいこと、面倒なこと、努力を要求されるようなことはパスしたい気持ちも持っています。その相反する二つの考え方が絶えず綱引きをしているようなものです。努力することがしんどいときはつい楽なほうに流されてしまいます。森田ではこの問題をどのように考えているのでしょうか。イヤイヤ仕方なしの行動を回避する人は、行動する前に頭で意欲を高めようとしているのではないでしょうか。事前に安心や確信や自信を作り出そうとしているようにみえます。頭で成功するためのシュミレーションを行い、80%くらいの成功確率があると判断できれば、そこで初めて行動に着手しようとする。成功確率がおぼつかないときは積極的に動くことを控える傾向があるように思います。失敗する確率が高いことに手を出すことは労多くして無意味だ。行動する前から成果が上がるかどうかの詮索ばかりしている。軽はずみな見切り発車は絶対にしたくない。やって見なければ結果がわからないのですが、失敗することを恐れてしまう。対人恐怖の人は他人からバカにされ、批判・否定することは受け入れられない。思い切って行動に移ったとしても、途中で躓いてしまうと、すぐに努力することをあきらめて撤退してしまう。こういう気持ちを持っている人は、引っ込み思案で体験不足に陥ります。子供の頃にけんかや失敗の経験を数多く積み重ねていると大人になってそれが生きてきます。反対に子供の頃にイヤなことや面倒なことから逃げ回っていると、大人になったときにどう対応してよいのか迷ってしまいます。結局目の前の障害を乗り越えることができなくなります。普通の人は嫌な気持ちになっても、必要なときに必要なことから安易に逃げてはいけないものだと考えています。また目的の達成は最初から頭で考えたようにうまくいくわけはないと考えています。目の前には数多くの試練が待ち構えているのが普通の状態だ。目的を達成するためにはその問題や障害物を乗り越えていくことが不可欠だ。目的を見失わないようにして、二歩前進一歩後退の気持ちで取り組むことだ。すぐにあきらめては果実は手にできない。むしろそれらを乗り越えて目的を達成していくことが人生の醍醐味だ。失敗を数多く経験すると、成功へのヒントが蓄積されてくる。人間的にも試練を乗り越えることで一回り大きな器の人間になれると思っている。普通の人は現状を踏まえて目的を下から上目線で見ているのです。「かくあるべし」を振りかざして、上から下目線で見ているわけではありません。自己嫌悪、自己否定で苦悩することはありません。普通の人は現実や現状に根を張って「事実本位」の生き方をしているということになります。これが森田理論が目指している方向です。イヤイヤ仕方なしの気分本位の行動は回避した方が賢明だと思います。
2024.03.25
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森田理論は、一定の所に留まってそのまま静止するのではなく、刻々と変化する状況を捕まえて、素早く変化に対応していくという考え方です。神経症的な不安、恐怖、違和感、不快感などもその方向で対応することが大事です。いつまでも関わり続けると、精神交互作用でアリ地獄に落ちてしまいます。変化対応力を鍛える面では参考になる話があります。セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文氏は、「顧客は移ろいやすく、飽きやすい集団と化している。加えて、好況、不況、産業構造、人口動向などのマクロ的変化、天候、気温、地域性などのミクロ的変化によって、顧客のニーズは日々刻々と変化している。こうしたいかなる変化にも素早く対応することが大切である」と指摘されています。セブン・イレブンの店舗の仕入れ商品はすべて買取である。売れ残った商品はメーカーに対して返品はできない。自分の店の負担となる。売れ残りは発注精度に問題があると判断する。自分の失敗を棚に上げて、安易に値引き販売するという方法は、お客様のニーズに真摯に向き合う気持ちが希薄であるととらえる。また売れ残るよりも、在庫切れを起こすことはさらに問題だという。これはお客様に最も迷惑をかけているというふうにとらえている。これを販売の機会ロスというそうだ。同じ店であっても、平日と土日、祝日では並べる商品がちがう。給料日の前と後ろでも品ぞろえを変えている。雨が降りそうならビニール傘、寒い夏ならおでんというふうに即座に対応している。セブン・イレブンは一店として同じ品ぞろえをしていない。立地、商圏、客層特性、他店との競合状態によって当然違うものにならざるを得ない。セブン・イレブンは1988年8月に夏季の交通渋滞地域である三浦半島および南房地区の米飯配達にヘリコプターを使ったという。2004年中越地震の際にも、ヘリコプターで大量のおにぎりを運んだ。これはいかに輸送コストがかかろうとも、状況の変化の中でお客の需要がある限り、お客様のニーズにこたえる責任と義務があると認識しているからである。セブンイレブンの発注システムは変化対応の歴史そのものであった。レジを通った商品データーは即座に販売データとして記録されている。これも商品発注の精度を高めるために活用されている。時代の変化が生み出す様々な環境与件の変化の前には、過去の強者、覇者といえども明日は保証されない。変化対応力こそが生き残るすべてである。世の中は変化こそが常態である。であるならば、自己革新は我々人間の生き方として第一に重視しなければならない。(「創造的破壊」経営 緒方知行 小学館文庫)
2024.03.24
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森田先生曰く。疑問と不安は絶えず出没して一つ一つこれを解決して、しかる後初めて安心するということはできない。すぐに解決できないようなとき、疑問は疑問としてこれが解決する時節を待つしかない。すぐに衝動的な行動をしてはならない。態度を保留にすることが大事である。不安は不安のままにいつまでも執着していられるものではない。強迫観念も、無理にただ一つのことを解決しようとして、もがかずに、素直に境遇に柔順でありさえすれば、苦しい不安でも、水の上の泡のように、水の流れの早いほど早く消えて、跡をとどめぬようになるものである。(森田全集 第5巻 764ページ)私たちは不快な感情が湧き上がったとき、すぐに解決してすっきりしようとします。例えば、赤ちゃんが夜泣きをしてうるさくて眠れない。こういう場合、叱りつけたり、菓子を与えて機嫌をとるなどの軽率な行動をとってしまうことがあります。どうしてよいか分からないようなときは、「うるさいな」という純な心はそのままにして、態度を保留にすることがベストの選択になります。どうしたものかと、赤ちゃんを観察し、なすべきことを手掛けていると、いつとはなしに赤ちゃんは泣きやんでくる。すぐに解決策が見当たらないようなときには、その不快な感情をそのままにして、時間の経過にまかせることがよい結果をもたらします。これができようになった人は、この手の不安に対して処理能力を獲得したことになります。
2024.03.23
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東日本大震災の時、宮古市重茂の姉吉地区では大きな津波が襲ってきたにもかかわらず、一人の犠牲者も出さなかった。海岸にいた人はすぐに高台にある自宅に戻った。建物が津波に流されることも皆無であったという。姉吉地区は、明治三陸大津波(1896年)では60人以上が死亡している。昭和三陸津波(1933年)では100人以上の人が犠牲になった。津波の恐ろしさを身をもって体験した人たちが、この地震を教訓にして「此処(ここ)より下に家を建てるな」という石碑を建てた。この教訓を11世帯40名の人たちがかたくなに守ったことが幸いした。東日本大震災では、津波が漁港から坂道を約800m上った場所にある石碑の近くまで迫ってきたという。一人の犠牲者も出さなかったので奇跡の集落といわれた。私たちは災害や事故に巻き込まれると、どうして自分だけがこんな目にあわなければならないのかと嘆き悲しみます。その他取り返しのつかない不祥事を起こして後悔することもあります。仕事でミスや失敗をすることもたくさんあります。過去にとらわれて後悔するよりも、それを教訓として同じ過ちを犯さないことが肝心です。現実を否定して、嘆き悲しむよりも、教訓として次に活かすようにしたいものです。ましてや自己嫌悪、自己否定で苦しむことは避けたいものです。森田に「前を謀らず、後ろを慮らず」という教えがあります。自然災害やミスや失敗を教訓として活かせば後世の人に大いに役立ちます。反省材料として将来に活かすことができれば、「雨降って地固まる」ことになります。ここでは災害や災難、ミスや失敗、問題や課題、改善点や改良点を宝の山として取り扱うことが肝心だと思います。自然災害は次の災害に備えて教訓として活かしたいものです。森田ではマンネリに陥ったときや気がすすまない仕事に取り組むときに、なにか一つでも問題点や課題を見つけるつもりで取り組むと次の展開が全く違ったものになると教えてくれました。これは生活や仕事に中でぜひ活用していきたいものです。
2024.03.22
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藤沢周平作品に「浦島」というのがある。会社の中での人間関係で苦しんでいる人には共感できる小説です。主人公御手洗孫六は、18年前は勘定奉行(今でいう経理課)に努めていた。そこで酒が絡んだ失策を犯し、普請組(用度課)に配置転換させられた。左遷させられたのである。さらに大切な家禄を30石から25石に削られた。内職しないと生活できなくなった。一人娘の結婚にもからむ話になった。住んでいた家は今までよりも粗末なところに転居させられた。その失策というのが、藩が参勤交代の費用を富商の献金で賄うことにした。御手洗孫六は以前から懇意の美濃屋善兵衛の店に依頼に行った。過去にその店の窮地を救済してやった関係から協力的であったのだ。その時義理堅い美濃屋は無類の酒好きの孫六に酒を勧めた。酔いつぶれた孫六は不覚にも美濃屋からの献金30両のうち10両を紛失したのだ。その不手際の責任を取らされて左遷させられたのだ。その献金は職場に戻った時同僚に盗まれたということが18年経って判明した。藩は処分を取り消して孫六を元の勘定方に戻し、石高も元の30石に戻すことにした。住まいも以前並みの住居を用意することにした。本来ならめでたしというところだ。孫六は配置換えされてから18年間も普請組の仕事を続けていた。石高は減らされたが、今の仕事に十分満足していたので大いに戸惑った。結局藩の好意を受け入れて、勘定方の仕事に復帰したが、勘定方の同僚は出戻りの孫六を歓迎しなかった。同僚たちは孫六を厄介扱いし、書類を隠したり、大事な受取書をちり箱に捨て、あとでそれを取りだして見せたりした。またあるときは帳簿の表紙と中身が取り換えられていたこともあった。さらに長い留守の間に帳付けの方法も変わってしまっていて、孫六はいちいち辞を低くして若い同僚にたずねないと一歩も仕事がすすまない状態であった。そして、昔は得意だった算盤も、力仕事のために芋虫のように太くなった指にはなかなか馴染めず、たどたどしい指の運びは職場の笑いものになった。親しかった者が残っていたら、もう少し事情は違っただろうが、昔の同僚が3人は残っているものの、彼らは孫六と親しく付き合った人間ではなかった。次第に孫六は酒屋でうさを晴らすようになった。その飲み屋で偶然出会った同僚たちと問題行動を起こして、職場には居づらくなってしまう。このような話は会社勤めをされている方は大なり小なり経験されている方がいらっしゃるのではないだろうか。現在営業されている方は過酷なノルマを押し付けられて、目標未達の場合は営業会議などで叱責される。目標管理シートなどを作成させられて、仕事ぶりをきびしく査定される。キャパを越えた仕事をこなすために土曜日、日曜日も出勤することがある。有休休暇は法律によって取得が義務つけられているが、計画通りには取得できない。会社の人間関係は利害が衝突することが多く気が休まらない。昇格してマネージャーになっても、成績が上がらなければすぐに左遷や窓際族、退職勧奨を受ける。ストレスで心身ともに病んでしまう人もいる。ましてや神経症を抱えての会社勤めはつらい。私の場合もまさにそんな状態でした。なんとか定年近くまで働くことができたのは、集談会の仲間同士で励まし合って来たからだと思っています。集談会を越えた仲間と知り合えたのも大きかった。それと仕事以外の楽しみを見つけて息抜きをしていたことがよかったと思います。釣り、テニス、スキー、トライアスロン、資格試験への挑戦、第九合唱団への参加、集談会での世話活動、自家用野菜作り、一人一芸への取り組み、観光地巡りなどです。それから苦しいときにはその苦しみを癒してくれるお気に入りの映画、DVD、音楽、ユーモア小話作りと収集、読書の楽しみを持っていたのが大きかった。この内容の一部は2022年4月14日に投稿しました。小説では藤沢周平氏の小説には癒されました。藤沢周平氏は肺結核で長らく療養生活を送っています。人の心の痛みがよく分かっている小説家だと思います。特に小林一茶や長塚節の一生(白き瓶)を描いた小説には癒されました。それから樹木希林さん、宇野千代さんの人生観に接して生き方を見直すことができました。職場での仕事や人間関係の悩みにどっぷりつかっていたら、多分途中で人生をあきらめていただろうと思います。
2024.03.21
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生活の発見誌2月号(17ページ)に「感情に距離をおく」という記事がありました。神経症に陥ると注意や意識を一つに集中するようになります。すると注意や感覚が強まると同時に、視野が狭くなります。これについてケーナ―先生の実験があります。これは上から見た図です。上の方に塀があります。黒丸は杭です。犬はこの杭を通り抜けられない。A-2、B-2は犬の大好きな肉です。まず犬をA-1へ連れていきました。肉はA-2地点に置きます。犬は最初きょろきょろしていたが、杭の外を通って(点線)A-2に向かった。次に別の犬をB-1に連れていき、肉は手が届かないギリギリのところに置いた。肉のうまい匂いがプンプンとするところです。すると犬は矢も楯もたまらず杭の間から手を突っ込んで一生懸命に獲ろうとしました。獲れそうで獲れないのでむきになって獲ろうとしました。回り道をすれば獲れるということに頭が回らなくなってしまいました。エネルギーを消耗し無駄な努力を飽きもせずいつまでも続ける。この光景は傍から見ていると滑稽ですが、神経症で苦しんでいるときはみんな同じような対応をとっているのです。苦悩を取り除こうともがけばもがくほどパニック状態になります。そのうちアリ地獄に落ちて神経症として固着してしまいます。日常生活や仕事に支障が出てきます。さらに自己嫌悪、自己否定で苦しむようになります。ここまでくると医療機関で対応してもらうことになります。このパターンはまらないためには、症状から距離を置くことが大切です。距離を置くためにはどうすればよいのか。森田でお勧めしているのは、症状には手を付けないで日常生活を充実させていくことです。具体的には規則正しい生活習慣を作る。約3か月続けると自分のものになります。毎日同じ時間に同じことをするというルーティンを確立するのです。まずは起床時間、就寝時間を決める。食事の準備、あと片付け、掃除、洗濯、整理整頓、身支度などです。頭で考えなくても、自然に体がすっと動いていくように持っていく。必要な時に必要なことを必要なだけするという行動が症状を遠ざけていきます。症状で苦しんでいる人は、そんなことで果たして効果があるのかと思われるでしょう。論より証拠。あなたの実践で検証してみて下さい。
2024.03.20
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1、私たちの日常生活は積極的に行動した方がよいものがあります。2、反対にどんなに誘惑に負けそうになっても我慢した方がよいものがあります。3、その区分けをして、きちんと実行すれば問題行動は起きないはずです。私の場合、積極的に行動しなくてはならない時に何もしていない。反対に我慢しなくてはならない時に誘惑に負けて問題行動を引き起こしている。今日は人間関係の面からこの問題を掘り下げてみました。積極的に行動した方がよいものとして、「あいさつ」をきちんとするということがあります。いくら嫌いな人でも、会社ではきちんと笑顔で挨拶をする。これは社会人としてあたりまえのことですが、できていない場合があります。これをしないということになると、作らなくてもよい敵を作ることになります。お客様がお見えになったら、笑顔で「あいさつ」をして対応する。仕事が終わって帰るときは「お先に失礼します」と仕事をしている人に声を掛ける。「あいさつ」は人間関係の潤滑油のようなものです。「あいさつ」はこちらから積極的にすることが肝心です。笑顔で「あいさつ」をしても、無視する人もいますが、それは仕方ないことです。潤滑油が切れてしまうと、人間関係はすぐにぎくしゃくしてしまいます。儀礼的なことでは、親戚や友人や知人に不幸があったら、香典を用意して万難を排して葬儀に参列する。結婚式は欠席してもよいが、告別式は必ず出席しないといけないと聞いたことがあります。私の経験では、これを軽視ないし無視するとその後の付き合いに悪影響がでます。相手と一旦約束したら、その約束をきちんと守ることが大切になります。約束を守らないと相手の予定が狂ってしまいます。うっかりして忘れていたというのは、相手を粗末に扱っていることになります。きちんとカレンダーに書いて忘れないように心がけるようにする。基本的に別の用事が入ったからと断ることは許されることではありません。気分本位でドタキャンすることは、それだけで信用が地に落ちてしまいます。相手の話を聞く時に他の用事をしながら、パソコンやスマホを操作しながら、テレビや新聞や雑誌を見ながらというのもいただけません。相手にしてみると、この人に相談しても仕方ないと思われてしまいます。相手の顔を見て、あいづちを打ちながら聞くようにしたいものです。自分のしゃべりたいことを一方的にまくしたてられると、たとえそれが正論であっても嫌悪感をもたらします。それよりも相手の気持ちや考え方を聞くことを優先したいものです。森田の学習会では傾聴、共感、受容、許容が欠かせないと言われています。森田的なアドバイスをしたくなっても、相手との信頼関係ができて、相手の成長段階に応じて行うことが大切になります。自分の正直な気持ちを相手にそのまま伝える人がいます。たとえば、物忘れが増えてきた人に、「あなたはボケが始まっているね」などと言う。相手がその言葉を聞いてどんな気持ちになるのか全く考えていない。森田では人情から出発することが大切だと言われています。我慢した方がよいこととして、叱責される、非難される、無視される、自尊心を傷つけられたとき、売り言葉に買い言葉で暴言を吐くことがあります。森田では感情と行動は別物として取り扱うという考え方です。心の中が時化でどんなに荒れ狂っていても、怒りを吐き出すことはがまんする必要があります。せめて5分間だけ我慢する。席を外してトイレに逃げ込む。感情の法則では時間が経てばどんなに激しい感情でもしだいに鎮静化してくるといいます。神経質性格の人は、ちょっとした不快感に耐えるということが苦手なのだと思われますが、この点は意識しないと周りは敵だらけということになります。人間関係は気の合う人20%、気の合わない人20%、どちらでもない人60%と聞いたことがあります。積極的に行動した方がよいことを実行し、してはならないことを我慢するだけで60%の人を敢えて敵に回すことはなくなると思われます。人間関係には控えた方がよいことと積極的に行動すべき点があることを自覚して着実に実行に移していきたいものです。
2024.03.19
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2014年10月31日の記事の再録です。生き生きワークショップの時にこんな発言があったそうです。ある女性の方が「今日ゴミ出しをしたときに人に会わなかったからよかった」と言われた。これを聞いたある男性の方曰く。私なら、「人に会うのがイヤだという感情はそのまま持ちながら、ゴミ出しをするという目的を果たしたのでよかった」と答えます。森田理論をよく学習している方の模範解答のようですね。このエピソードは感情の向き合い方についてそのヒントを与えてくれます。ここでの眼目は湧き上がってきた感情にはきちんと向き合うことが大事であるということです。普通は感情に向き合うよりも、その感情がよいとか悪いとかという価値評価をしてしまいます。これはちょっと考えものだと思います。なぜなら感情は向き合うものであって、評価をするべきものではないからです。高良先生の青竹買いの話でそのことがよく分かります。高良先生のところに入院していた患者さんが物干し竿にする青竹を買いに行った。帰ってきて先生に「今日は赤面恐怖が出たので竹買いは失敗だった」高良先生は「君の目的は立派な竹を買ってくることだ。症状が良くなっているかどうかを心配しているようではいけない」と言われた。ここではネガティブな感情を抱えたまま、目的本位に行動することが大切だと言われています。初期の段階では逃げないで行動できたのですから、良かったということになります。第一段階はクリアできました。これを継続していけば、表向き神経症は克服できます。でもこの対応では神経症の葛藤や苦悩は軽減できません。それは沸き起こってきた感情に対して、良い悪い、快不快、正しい間違いと是非善悪の価値判断をしているからです。嬉しい感情はあってもよいが、不快な感情や醜い感情、自分が感じたくない感情は沸き起こってはいけないものだと思っているのが問題です。森田理論では感情は自然現象であって人間が自由自在にコントロールすることはできないといわれています。是非善悪の価値判断をするということは、自然現象に精一杯抵抗しているということになります。ではどうするか。すべての感情は池のなかの鯉のように自由に泳がせておくことが大事になります。これは是非善悪の価値判断をしないで、感情にきちんと向き合うだけでよいということになります。そうはいっても「言うは易く行うは難し」だと思います。人間は是非善悪の価値判断をする生きものだからです。でもこのことを理解しているかどうかはとても重要なことです。理解していると、是非善悪の価値判断をしたときに踏みとどまることができるからです。10回の内1つか2つ自覚できるようになるかどうかはその後の生き方に影響を与えます。
2024.03.18
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アリストテレスは次のように言っています。人は習慣によってつくられる。優れた結果は、一時的な行動ではなく習慣から生まれる。人間の行動の95%はあなた自身の習慣によって決まっているといっても過言ではありません。心理学でも、人の行動の95%は無意識によるものであるといわれており、無意識のほとんどは習慣によってできているのです。このときに脳は、一定期間毎日繰り返された行動が習慣になると、無意識のうちにその習慣を繰り返すように変化してくるのです。ですから、よい習慣でも、悪い習慣でも一旦プログラムされてしまうと、意識していないのに勝手に体がすっと反応してしまうという現象が起きるのです。行動が習慣化していないときは、次に何をすべきかを前頭前野で試行錯誤することになります。こんなことを繰り返していると脳は疲れ果ててしまいます。無意識のうちに作られた健全な生活習慣は、悩む前にすっと身体が動くようになりますので、不安にとらわれる回数が少なくなってきます。問題は習慣にはよい習慣と悪い習慣があるということです。健全な生活習慣を作り上げて、淡々と日常生活をこなしていくことは森田が目指している方向です。(「続ける」習慣 古川武士 日本実業出版社 参照)健全な習慣はまず早寝早起きがあります。特に朝起きる時間を一定にすることです。そして夜寝る時間も一定にする。昼間は仕事や家事、育児や介護が中心になります。これらが生活の柱になります。その間隙をつなぐための生活習慣を確立することが大切です。食事の準備と後片付け、掃除、洗濯、整理整頓、運動、ペットや観葉植物の世話、身支度などです。毎日同じ時間に同じことをしているというルーティンを作ることを目指します。3か月もすれば、身体が自然に動いてくるようになるでしょう。考えることと行動は同時にできませんから、不安に振り回されることはかなり少なくなってくるでしょう。規則正しい生活習慣作りは神経症を乗り越えるために是非身につけたいことです。
2024.03.17
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実業家の春山満氏は24歳のとき進行性筋ジストロフィを発症し、数年後に首から下の運動機能をすべて失ったそうです。その経験の中で、医療・介護事業に取り組んでみようと考えられたそうです。身体が不自由なことが春山氏にとって、生きがいを見つけるきっかけになったのです。その春山満氏の言葉です。障害のある人は、とかく自分の障害が一番辛いと考えて、「もしこの脚が動けば・・・」「手が動けば・・・」と悲嘆にくれる。だが、首から下の機能を失った春山氏は、そうは考えない。「首から下は動かなくても、目は見える。耳も聞こえる。だから自分の障害は一番軽い」と考えるのである。自分にはできないこともあるが、それでもなお自分にしかできないこともある。そう前向きに考えることで、その人の生き方も将来も大きく変わる。この話は現状を否定し、希望を失っている人に参考になります。いつも次のようなことを考えているような人です。神経質性格でなく、発揚性気質の人間に生まれていたら。外向的な人間に生まれていたら。リーダーシップのある人間に生まれていたら。説得力、交渉力のある人間に生まれていたら。もっと頭のよい人間に生まれていたら。もっと子供の教育に熱心な家に生まれていたら。もっと容姿がよかったら。もっと裕福な家に生まれていたら。等々。また、人と比べて劣っていると感じると、時間とお金をかけて、それらを人並みに引き上げようと必死になって努力する人もいます。努力が報われないことが分かると、今度は劣等感を感じている部分を隠蔽しようとする。事実をごまかして生きているような人です。「天は二物を与えず」という言葉があります。この言葉は逆に言うと、「天は一物は与える」ということだと思います。そうなら、春山満氏のようにどうにもならないことはそのまま受け入れる。そして自分に備わっているもの、自分が出来るものに取り組むほうが理にかなっていると思われます。我々神経質性格は、リーダーシップを発揮して組織を動かすようなことは苦手です。良好な人間関係を築いていくのもどちらかというと苦手です。それらは得意な人に頑張ってもらおうではありませんか。我々はそれらを補って余りある強みや長所を持っているのですから。例えば、好奇心が旺盛です。興味や関心の範囲が広くて深い。感受性が強い。音楽、絵画、彫刻、演芸などをより深く味わえる。他人の気持ちをより深く思いやることができる。一旦くらいついたら安易にあきらめない執着性を持っている。優れた分析力がある。探究心がある。思考力がある。論理的である。これらを活用してNO.2としてリーダーを補佐していけば、十分に人の役に立つ人間になれます。これらの神経質の性格特徴を伸ばして生きていこうと決意した人は、味わいのある人生を送ることができます。
2024.03.16
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明日テストがあるので勉強しなければならない。あるいは明日プレゼンがあるので準備をしなければならない。やらなければいけないことは分かっているがどうしても手が出ない。その原因はいろいろとあると思います。1、難しくてどこから手を付けてよいのか分からないという場合もあります。2、やる気が出てこない、苦痛だ、イヤだという気持ちになることもあります。1の場合は、一人で考えているだけでは難しいのではないでしょうか。詳しい人の協力を仰ぐなどの対策が必要です。2は気分本位の態度です。気分に振り回されてしまうと、なすべきことを放棄してしまいます。破れかぶれな気持ちになって、そのまま寝てしまう。テレビを見てしまう。ネットゲームにはまってしまう。you tubeを見てしまう。酒を飲んでしまう。カラオケに行く。パチンコに行く。そしてあとから後悔することになります。この場合は感情の法則を活用することです。「森田理論学習の要点」に「不快な感情もそのまま感じながら、必要な行動をしていくとき、感情は自然に流れ去り、行動したという事実だけ残ります」「森田理論学習の実際」には、「プラスの行動には快の感情が伴い、マイナスの感情には不快の感情が伴う」とあります。これは感情は、「新しい行動を開始すると、新しい感情が発生する」ということだと思います。気分に振り回されそうになった時は、この法則をすぐに応用することです。車の運転中に眠くてどうしようもないときは、路肩やサービスステーションで15分くらい寝ることです。眠気が取れて正常運転に戻れます。明日テストがあるという場合、一旦寝てしまうと朝まで寝てしまうことがあります。これではどうしようもありません。この場合は、風呂に入る。シャワーを浴びる。外に出てしばらく散歩をする。近くのコンビニに行く。するとあれほど眠たかったのが、ウソのように眠気が飛んでしまいます。精神が弛緩状態にあったものが、緊張状態に切り替わるのだと思います。森田に「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」とあります。これを活用して30分おきに、仕事を変えていくと相当な仕事ができます。気分に流されそうなとき、「新しい行動を開始すると、新しい感情が発生する」ということを思い出したいものです。
2024.03.15
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高良武久先生のお話です。われわれは富士山を見て非常にいい景色だという。富士山が日本のシンボルみたいに立派な山で、霊峰なんていう名前を付けたりするけれども、なるほど富士山を眺めていい景色だと、立派なものだというふうに思うのは富士山の利の方面だけで、富士山の裏側の人は、富士山があるために日のあたりが悪くて閉口しているんだね。それだけその影が多いんだな。だから富士山にしても非常にいい面と人に迷惑を与える面があるということですね。神経質な人は、自分が気が小さい、いろんなことに心配する、ということでずいぶん自己嫌悪に陥るということが多い。しかし、そういうようなことは、一応非常な欠点のように思われるけれども、やはり必要なこともあるわけですね。ものごとをやる場合に、細心でやらなければ、いい仕事はできないんですよ。大雑把にやったってできないですよ。みんな細かく気をつかってやるんですね。細かく気をつかってやらなければいい仕事はできないんだから、気が小さいということはそういうふうに、外界のものごとを処理することにそれを使っていけば、それは長所となる。しかし、自分自身のことばかりに気をつかって、自分を守ることに一生懸命気をつかうと、それにとらわれて非常に萎縮しますね。ものごとに用心深くなりすぎて、そして絶対に安全でなければやらないということになれば、手も足も出なくなってしまう。つまり、これは適度の感覚がないということですね。一方に極端にはずれてしまって小心になって、自分のことばかり一生懸命に心配している。これはやはり一つの極端ですね。しかし心配、苦労が全然なくてなにごとも楽観的に見るということになれば、これも極端であって、ものごとを希望的観測ばかりやって楽観していれば、失敗が多いんだから、それも極端でやはり順応できないということですね。(生活の発見誌 1992年3月号より)この話は両面観の説明です。鉛筆を見るときは全体を見ないと正しく見たことになりません。鉛筆削り器で削った真の先ばかり見ていると、先のとがった黒い三角形の物体だったということになります。その反対ばかり見ている人は、6角形で真ん中に黒いものがある物体だったということになります。真ん中ばかり見ている人は細長い物体だったといいます。部分的には合っていますが、全体的には真実は見えてこないことになります。これは森田理論を理解するときも応用できます。森田理論は、基礎的な学習が終わった後は、森の中に入って一本一本の木を丹念に調べていくよりも、先ず森全体を眺めて森田理論全体像を頭の中に入れると理解度が格段に上がります。巨大迷路ではその中に入ってしまうと、なかなか出口は見えてきません。ところが丘の上から巨大迷路を見て、出口から入り口を探していくと比較的早くルートが見つかります。森田理論全体像は4つの柱があります。それらが相互に関係しています。念のため図解は2023年6月10日の投稿をご覧ください。関連記事は2013年3月29日~31日にあります。
2024.03.14
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海洋冒険家の白石康次郎氏のお話です。3年かかって変な修行をするよりも、3年かかってもいいからいい師匠を探しなさい。これは生活の発見会の集談会でも言えるのではないかと思います。なにしろ集談会は素晴らしい人材の宝庫なのですから。まず森田理論に詳しい人がいます。自分一人で森田理論を学習するよりも、そういう人から教えてもらうことが効果的です。しかも集談会やモバイル懇談会に参加すれば授業料はかかりません。例えば、森田理論に「純な心」というのがあります。この言葉は、理屈や判断が入り込まない素直な感情と言われています。また自分の中で瞬間的に湧いた初一念のことだと説明されています。これは間違いはありませんが、内容がもう一つよく分かりません。森田理論を極めている人は、森田先生の皿を割った時の話、ウサギが野犬に嚙み殺されたときの話だけではなく、自分の体験を通した具体的な説明をされます。モヤモヤしていた「純な心」の意味がすぐに分かるようになります。森田には「純な心」以外にも、「物の性を尽くす」「思想の矛盾」「精神交互作用」「精神拮抗作用」「生の欲望」「あるがまま」「なりきる」「自然に服従」「見つめる、感じる」「今、ここ」「目的本位」「事実唯真」「不安と欲望の関係」「神経質の性格特徴の活かし方」「感情の法則の活用法」「認識の誤りの理解」「無所住心」「行動の原則」など大切なキーワードがあります。これらを詳しい人から自分の体験を通して具体的に説明してもらうとすぐに理解できます。さらに森田理論を仕事や生活に応用している人から学ぶことも多い。例えば、規則正しい生活、凡事徹底という言葉があります。規則正しい生活を心がけている人は、起床時間、就寝時間を守り、昼間活動しているときは淡々とルーティン作業をこなしておられます。代わり映えのしない日常生活の中に小さな楽しみや感動をたくさん味わっておられます。そういう人から具体的な森田の活かし方の話を聞いていると、自然に真似をしている自分に気づきます。いつの間にか自分の生活が少しずつ森田的に変化していきます。見つけ方はまずは地元集談会。次にリモートを活用した全国版JUPITERという懇談会をお勧めいたします。目的に応じて現在8つの部屋があります。こちらは会員でなくても登録すれば参加できます。詳しくは生活の発見会のホームページでご確認ください。
2024.03.13
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悪役俳優だった蟹江敬三氏のお話です。悪役というのは、見るからに恐ろしいというような演技はしない方がよい。「俺は怖いんだぞ」というような人は、周りの人が最初から警戒する。あらかじめ近づかないようにするとか逃げるから危害を加えられることが少ない。はっきり言えばそんな人はたいして恐ろしくはないのです。一番恐い人というのは、ちょっと見ただけでは危害を加える人かどうかが分からない人です。そういう人でも、どこか目がイッているという特徴があるのですが、そこに気づかないこともあります。普通の人に見える人に対しては、みんなある程度警戒心が薄らぎますでしょう。油断をしている時に、突然暴れまくるとみんなびっくりしてパニックに陥る。なすすべもなく殺傷事件に巻き込まれてしまう。事実がわからないで疑心暗鬼になったときが一番怖いということだと思います。たとえば、ひとりでさびしい山道を行くときに、不意に草むらの中に怪しい音が起こって驚き恐れたとする。もし精神を緊張して、立ち止まり、その方に注目するときは、まもなく心が静まり、「幽霊だと思ったら、正体は枯れ尾花だったのか」ということにもなるが、もし驚きのままに、突然かけ出せば、無我夢中で、自分の足音に追っかけられて、平素の自分を失って、心も転倒してしまう。(神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 32ページ)森田では事実を正しく認識することが大切であるといわれます。私は事実に注目することで、仕事が面白くなるという体験を持っている。仕事はマンションの管理人である。基本ひとりでやる仕事である。棟内の清掃や巡回の仕事をするときに、問題点や課題、改善点や改良点、楽しみや喜びを見つけ出そうと意識して取り組んでいるのです。すると、いくらでも気になる点が見つけられるようになりました。鳥の糞が落ちている。クモの巣が張っている。落ち葉が散乱している。不法駐車している車がある。来客用駐車場に駐車している車に使用届がない。ドレンにゴミがたまっている。黄砂で手すりが汚れている。面格子が汚れている。トイレが汚れている。電球が切れている。玄関のガラスが汚れている。掃除道具置き場が散らかっている。子どもが泥だらけの靴で歩いたあとがある。不要になった掲示物ある。ゴミ置き場が散乱している。気づいたことはすぐにメモ用紙に書いておく。ルーティン作業が終わった後にこれらに取り組むようにしている。自分で見つけた仕事は意欲的になれます。小さな達成感が味わえます。
2024.03.12
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この言葉は達磨大師の仏性論に出ているという。「故に至人は、その前を謀(はか)らず、その後ろを慮(おもんばか)らず、念念道に帰す」森田先生は次のように説明されている。至人、すなわち達人で悟った人は、金をなくしたとかいって、以前のことの繰り言をいったり、「来年のことをいうと鬼が笑う」というように、当てにもならぬ未来のことを空想するようなことをしない。ただ念念道に帰して、そのときどきの現在に対して、全力を尽くすというくらいのことであろうと思うのである。(森田全集 第5巻 385ページ)誰でも過去のミスや失敗、不祥事等を思い出して後悔することがあります。そして自己嫌悪、自己否定で苦しむことがあります。最悪、それらが夢にまで出るようになります。生きることが苦しくなり、投げやりになってしまいます。そういう人は未来のことに取り越し苦労、予期恐怖する傾向があります。結果がどう出るか分からないのに、失敗した時のこと、最悪の状況を想定して、手を出すことをためらうようになります。隠居仕事に日を送るというふうの境遇に身をおくときには、結局、自分の欲望は思い切り難いものであるから、アアこの身体が病気でなければという「前を謀る」心と、したいことができないで残念だという「後に慮る」の心が起こって、絶えず繰り言が心のうちに巣食うようになるのである。(森田全集 第5巻 167ページ)こうならないために森田先生は「現在になりきる」ことが大切だと言われています。過去のことを後悔し、未来のことを思い悩むよりも、今の生の欲望に乗り切るようにすることが肝心ということです。今取り組むべきこと、やるべき課題や目標を明確にするということです。その流れに乗って生活していると後悔や取り越し苦労は少なくなります。そのためには一つには規則正しい生活習慣を作り上げることが大切です。毎日同じ時間に起床する。その後は習慣化された行動にしたがって、毎日決まったことをこなしていく。この次に何をしようかと考える必要もなく、淡々と手足が動いていく。この時大脳の前頭前野はお休みしています。つまり過去のことを悔やんだり、未来のことを思い煩うことは少なくなります。さらに習慣化された行動に取り組むときに、問題点、課題、改善点、改良点、楽しみ、喜びを見つけだそうという気持ちを持っていると「現在になりきる」ことができます。気づきや発見、工夫やアイデアが次から次に生まれてきます。行動に弾みがついてやりがいが生まれます。これは森田でいう形から入るということになります。
2024.03.11
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今年7月には「経営の神様」とも称せられる渋沢栄一氏の新札が発行されます。渋沢栄一氏は1800年代に活躍した埼玉県深谷市出身の実業家です。渋沢氏の功績は多岐にわたっています。1873年に第一国立銀行を設立しています。それ以外にも500以上の企業の設立にかかわっています。その中には東京海上保険、東京瓦斯、大阪紡績、東京証券取引所など現在も存続している企業がたくさんあります。その渋沢氏が「夢7訓」という名言を残されている。夢なき者は理想なし理想なき者は信念なし信念なき者は計画なし計画なき者は実行なし実行なき者は成果なし成果なき者は幸福なし故に幸福を求むる者は夢なかるべからずこれは森田先生の言われた「生の欲望の発揮」「努力即幸福」のことではないでしょうか。目標、目的、課題、夢、希望を持って挑戦していく中に幸福がある。私は日常生活の中で小さな問題、課題、改善点、改良点、楽しみ、喜びを見つけるように心がけています。それらに取り組むことで、やがて大きな夢につながっていくのではないかと思っています。渋沢栄一氏は「どうしようもない逆境」こそ、人間が真価を試される機会に他ならないと述べています。普通、手に負えないような問題、災難、障害物に出会うと、意気消沈して、早々にあきらめて退散しまうことが多いように思います。「どうしようもない逆境」に出会って「やりがい」が見つかったと素直に喜べる人は幸せな人だと思います。神様はその人が乗り越えられないような問題や課題を出すことはないと聞いたことがあります。私は対人恐怖症という神経症で苦しみました。神様はこの問題をどう料理するのか、お手並み拝見されていたのではないかと思います。私は対人恐怖の裏には、人から評価されるような人間になりたいという強い欲望があることが分かりました。対人恐怖症を抱えたまま、人から評価されるようなことを見つけて、努力精進していけば人生の道を開くことができることを学びました。私の目標は、森田理論とその応用・活用方法をこのブログで取り上げて、いま苦しんでいる人たちに役立ててもらうことです。これから先の目標を持つことができた私は幸せ者だと思っております。森田理論を確立された森田先生とそれを100年以上にわたり維持発展された多くの先輩方に感謝しております。
2024.03.10
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他人から「かくあるべし」を押し付けたとき、どのように対応したらよいのかを考えてみました。例えば、自分が気にしている弱点や欠点を取り上げて非難した。他人がバカにするようなことを口にした。自分のことを無視した。からかった。みんなの前でミスや失敗を取り上げて叱責した。笑いものにした。等々。相手に悪気がなくても、とても腹だたしい気持ちになります。そんなとき、すぐ感情を爆発させて応戦したことはないでしょうか。これは目には目を、歯には歯をというやり方です。人間関係はすぐに破綻します。一旦破綻してしまうと元に戻すことは難しくなります。これは相手が「かくあるべし」を押し付けたときに、自分も相手に「かくあるべし」を押し付けていることになります。双方が「かくあるべし」を押し付け合っているために戦闘モードになります。相手の「かくあるべし」を押し付けることは止めさせることはできません。一方自分が相手に「かくあるべし」を押し付けることを止めることはできます。「かくあるべし」の反対は、事実をあるがままに受け入れることです。せっかく森田理論を学習したのですから、活用・応用するようにしましょう。まず感情の法則の応用です。どんなに腹だしい感情もそのまま放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の経過をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものであるといいます。時間が経過するとともにどんなに腹立たしい感情も薄まってきます。ここで森田理論は時間稼ぎをすることを教えてくれています。この法則を活用しない手はありません。逆に、腹立たしい感情をつつきまわして刺激していると、その怒りの感情は火に油を注ぐようなことになり、修復不可能となってしまいます。次に森田理論に「不即不離」というのがあります。人間関係は必要なときに必要に応じて近づいたり離れたりしているというものです。普通の人はこれが臨機応変、自由自在にできているのです。これができていない人は相手と対立的で険悪な状態の時に敢えて近づいてしまうのです。距離を置くべきときと近づいてもよいときの区別がついていないのが問題です。例えば目の前に毒蛇がいるとします。自分で駆除できれば何とかなります。自分で駆除できなければその場から急いで逃げる必要があります。棒きれで追い払おうとすることは大変危険です。駆除できる人を探してまかせることが肝心です。不快な感情を抑えられないときは、「ちょっと腹が痛くなったのでトイレに行ってきます」といって席を外すことはできるのではないでしょうか。近づきすぎるとつい言わなくてもよいようなことを口にしてしまいます。これが修復不可能な大問題に発展してしまうのです。これだけのことを意識して実行するだけで、犬猿の仲になることを回避できます。
2024.03.09
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人間関係で注意したいことを取り上げてみました。1、腹が立つなどの不快な感情は池のなかを泳ぐ鯉のように自由に泳がしておく。きちんと向き合うようにする。その感情がいいとか悪いとかの価値判断はしないようにする。どんなマイナス感情でも自然現象ですから、是非善悪の価値評価をしても意味がありません。私はマンションの理事会の書記をしています。別の用事があって理事会に出席できないことがありました。副書記の方に私の代わりに議事録を作成してくれるように頼みました。その方はいろいろ理由をつけて難しいといわれるのです。私はそれを聞いて腹が立ちました。副書記の役割を果してほしいと思いました。但しそれを口にすることはしませんでした。5分程度その感情を自由に泳がしてみたのです。時間が経つと冷静になれました。客観的な立場に立つことができました。そうか、副書記の人はパソコンを持っていないと聞いたような気がする。それならパソコンが出来る理事長に頼んでみようか。それよりももっと良い方法がある。手書きしてもらってあとで私がパソコンで清書すればいいのではないか。録音機もあるので理事会の模様を録音して、後で議事録を作ることもできる。これで波風が立つことなく、この問題は解決した。2、行動の原則に「感情と行動は別物」として取り扱うというのがあります。「森田理論学習の要点」の「行動の原則」の9項目目に書いてあります。これを意識して、役者が上手に演技をするように、心の手の内をさらけ出さないように心がける。これを取り入れないと潤滑油の切れた歯車のように人間関係がギスギスする。飲み物でも熱すぎると飲むことは不可能です。少し時間をかけて冷ますと、火傷をすることはありません。売り言葉に買い言葉の対応はとても危険です。3、相手が気を悪くするかもしれないと思った時は、口外しないように我慢する。たとえば、「あなたはさっきから何回も同じことを言っている。ボケてきたんじゃないですか」などと言ってはならない。心の中で感じたままにしておくことだ。このことを森田先生は人情から出発すると言われています。4、話し名人よりも、聞き名人を目指す。知っていることでも、相手から教えてもらうようにした方がよい。相手の話を聞くのが7割、自分の発言は3割に抑えるくらいの気持ちでやっとバランスがとれる。多少言い足りなかったなというぐらいがちょうどよい。5、相手の話を聞く時はきちんと正対して聞くようにする。別のことを考え、ほかのことをしながら聞くことは控える。相手に顔を向けて、うなずいたり、相手の話を復唱しながら聞く。
2024.03.08
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私は今までためになる話をたくさん聞いてきましたが、ほとんど覚えていないような気がするのです。その原因は、聞きっぱなしで、自分に引き寄せて考えていなかったからだと思います。その結果すぐに忘れてしまうのです。現在は講話を聴いた後に、レジメやメモを見てまとめをしています。そのとき自分の場合はどうなのかを考えるようにしています。また生活の発見誌や森田関連図書を読んだ後も、印象に残った部分を書き出して整理しています。そして仕事・生活・人間関係、趣味などに応用・活用しようとしています。これは森田理論を応用・活用するうえでは欠かせない作業だと思っております。この作業を続けていくという習慣を身に着けると、森田理論が宝の山に変わってきます。たとえば私は森田先生の行動の真似をしてきました。森田先生は第29回形外会の時、「鶯の綱渡り」という曲芸を披露されたという。(森田全集第5巻293ページ)好奇心の強い私は強い衝撃を受けました。私も森田先生のように人を喜ばせる芸を身につけたいと思いました。早速地元で活動していたチンドン屋に入れてもらいました。メインはアルトサックスの演奏です。それ以外に、どじょう掬い、傘踊り、浪曲奇術、獅子舞などの芸を身に着けました。気が付けばもう14年間も老人ホームの慰問、地域のイベント活動に関わってきました。楽しい人間関係の輪が大きく広がり、神経症以外のことで悩むことが多くなりました。森田先生の行動に学んで、自分の生活に取り入れることで、毎日の生活が楽しくなりました。集談会では他の人の応用・活用例を聞くのがとても楽しみです。興味が湧いたものはできるだけまねをするように心がけています。例えば映画や落語の紹介をされたら自分も見に行きます。イベントや観光案内の話を聞くとできるだけ行くようにしています。その他、ビールをおいしく飲む方法、魚の粗炊きの作り方、味噌作り、自家用野菜の作り方、カラオケを楽しむ方法などは自分でも取り組んでいます。人間関係ではやってはいけないことやらなければいけないことがあると教えてもらいました。毎日感謝することよかったことを1つずつ日記に書くことを聞いたので取り入れました。「あるがまま」というのは、規則正しい生活を心がけて身体がすっと動くような習慣を確立すると身に着けることができるというのも役に立ちました。仕事は生活費を得るだけと思っていましたが、自分の居場所作り、生きがい作り、人間関係を豊かにする、身体と脳を鍛えるなどいろいろな役割があるということを教えてもらいました。雑事に丁寧に取り組むと仕事を追っていけるようになるという話も役に立っています。森田理論は仲間とともに学習して刺激を与えあうことが大事だと思っています。
2024.03.07
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カウンセラーの東山紘久氏のお話です。新米のカウンセラーは、来談者から「先生は何も言ってくれないのですか。助言もしてくれないのですか」と詰問されるようなことがあります。これは、自分の話をするしないに関係なく、来談者が、カウンセラーの防衛的な、頼りない、自分をわかってくれないことにいらだっているのです。少しベテランのカウンセラーになると、このような詰問や、問いかけをされることはまずありません。本当はベテランのカウンセラーのほうが、よく来談者の話を聞いて、自分から話をしないものなのです。もし、あなたが話し手から、「何も言ってくれないのですか」と言われたら、あなたは聞き手ではありますが関与が足りないということです。カウンセラーは相手の話を聞くことによって、話し手自らが洞察を得るようにしているのです。言い換えるなら、カウンセラーは相手の心を映す鏡になるように訓練されます。けっして相手の心に侵襲し、自分の個人的影響を与えてはいけないと教えられているのです。(プロカウンセラーの聞く技術 東山紘久 創元社 57、59ページ)集談会には先生も生徒もいないといわれています。みんなが対等の立場で参加しています。しかしともすると森田理論を深耕した人が先生になってしまいやすい。ここで相手の心を映す鏡になるということについて考えてみたいと思います。集談会に参加した人は、神経症で苦しんでいる人です。仕事や生活がうまくいっていない人です。集談会では自分の現在の苦しんでいる状況を話します。なんとか手っ取り早い解決策を教えてほしいのだと思います。一方森田で立ち直った人は、その方法を手取り足取り教えて上げたくなります。しかしこれはあまり役に立たない。根本的な解決策にはならない。それは集談会に参加した人が自分でつかむものだからです。ではどうすればよいのか。東山氏は相手を映す鏡なることだと言われています。相手に優しく寄り添うことを心がける。まずは傾聴です。次に共感的受容です。相手の気持ちや考え方が分かったらそれを言葉にして返してあげる。これは無意識の感情を意識化してあげることになります。そうすることによって相手は自己対話を始める。自分の感情や気持ちを自分の頭の中で整理できるようになります。弾みがついてあとは自分で今後の方針を選択できるようになります。
2024.03.06
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水谷啓二氏は1957年(昭和32年)生活の発見の創刊にあたり次のように述べています。私どもは精神医学、心理学あるいは人間学の面では森田正馬博士の教えを継ぎ、教育及び社会生活面では下村胡人先生の教えを継ぎ、下村先生の主催された雑誌「新風土」の伝統を守りたいと思います。時代を超越して千古不易の心理を把握された二人の先師の心を心として、毎日の生活の上に具現し、社会にひろめてゆきたいと思います。(ノイローゼをねじふせた男 岸見勇美 ビジネス社 132ページ)今日は3月号の生活の発見誌から刺激を受けて、下村胡人の思想・考え方を取り上げてみたいと思います。下村胡人は「次郎物語」の著者として有名です。次郎物語は5部まである。1部は映画化された。1部は生まれた次郎がすぐに里子に出された。これは下村胡人の実体験であった。その後実家にもどされたが生みの母親にはなつかない。さらに祖母が兄や弟ばかりかわいがる。自分はいつものけ者にされる。次郎は当てつけにけんかやいたずらばかり繰り返す。今でいう愛着障害を抱えた子どもの苦悩と葛藤を題材にしている。ちなみに5部は、下村胡人が主催されていた青年団運動が取り上げられている。下村胡人は、東京帝国大学を卒業後一旦郷里の佐賀県に戻り、唐津中学の校長などを歴任している。その後東京武蔵小金井の青年団講習所で村の若者の社会教育に取り組まれている。そこに京都大学哲学科を卒業した永杉喜輔が加わった。後の群馬大学教授である。永杉喜輔は熊本の五高で水谷啓二と同級生であった。水谷啓二は永杉喜輔を通じて、下村胡人の考え方や思想に接し大きな影響を受けた。下村胡人は「新風土」という雑誌を出していました。武蔵小金井の青年団講習所では、全国から小学校を出たばかりの青年たち30名と、学歴などまるで無視して肌を突き合わせての合宿を行っている。青年たちに人間の本来の考え方、生き方をみんなが共に生活する中で、それぞれにつかみ取ってほしいと思っていたのです。青年団講習所での下村胡人の教育手法は、森田先生の入院療法に通じるところがあった。下村胡人の考え方は、「あたりまえのことをあたりまえにやろう」「凡人道を非凡に歩め」ということが基本になっている。水谷先生が、「神経質者は風雲に乗じて成功を収めるタイプではない。平凡を軽視しないで20年、30年と積み重ねると類まれな非凡な人になれる」と言われていることに通じるところがある。青年団講習所では、日常茶飯事の炊事、洗濯、掃除、風呂を沸かすのは自分たち自身で行うのです。座学ではなく体験学習なのです。下村胡人自身はトイレ掃除に率先して取り組んでいたそうです。それも半端ではなかったという。永杉喜輔は最初大きな衝撃を受けたという。下村胡人は、凡人道を実践していない人がどんなに素晴らしい人生論や国家の在り方を論じたところで意味はないと考えていたのです。(凡人の道 永杉喜輔 渓声社 200ページ参照)下村胡人は「煙仲間」運動を提唱していた。本来、「煙仲間」というのは、佐賀鍋島藩の「葉隠」からきており、名もない若侍たちが武士としての生き方を語り合った集まりをそのように名付けたものです。下村胡人はその精神を受け継ごうとしていたようです。どんな嫌いなもの同士でも肌を接して話をしてみると、必ず分かり合えるようになるという考え方を持っていた。これはヘルプセルフグルーブ、自助組織の意義を高く評価されていたということではないでしょうか。NPO法人生活の発見会の存在意義にかかわるところです。下村胡人の教育に対する考え方は自己教育です。「教育は自己教育に始まって自己教育に終わる」というのが下村胡人の教育の根幹です。青年団講習所でもその点ををきちんと踏まえて運営していました。ここには不思議なことに最初から何の規則もなかったという。規則はみんなで作ればよいという考え方なのです。30人がどういう方向を目指してやっていくのか、何も教えないのですから、最初はみんながキョトンとしていました。下村胡人のイニシアティブを期待していた青年たちは、下村胡人のやり方を痛烈に批判しました。永杉喜輔は次のように語っている。これはそのときは分からなかったんですよ。規則は自分たちで作るものだ。規則があって生活がある。組織の中に入るのではなくて組織は自分たちで作るのだ。結局自分ですね。最後は自分で、身体で悟るしかない。これが基本だということを、先生は青年団講習所の生活の中で、口では言わずに、そのような人間教育を行っていたということですね。(同書 198ページ)下村胡人の名言を紹介しておきます。道が見つからなければ切りひらけばいい自分の長所を伸ばすことに夢中になっている人は、自分の欠点を飾ることに決して心を労しないものである
2024.03.05
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1月号の生活の発見誌(72ページ)に「感謝に気づくことは治ることへの近道です」とあります。感謝を心がけることで神経症が治るとはどういう事でしょうか。普通に考えると、人に何かをもらったとき、親切な言葉がけをしてもらったとき、親切なことをしてもらったときに「ありがとうございます」という「感謝」の言葉が出てくるように思います。これを普段の生活習慣として定着することが大切だと言われているように思います。感謝で思い出すのは、1週間の集中内観療法を受けた人に聞くと、感謝の気持ちが自然に湧き出てくるということでした。内観療法は、してあげたこと、してもらったこと、迷惑をかけたことを母親、父親、兄弟姉妹、祖父母など身近な人から、期間を区切って思い出して自分と対話することです。終わるころになると、してもらったことや迷惑をかけことが次々に思い出されて感謝の気持ちが湧き出てくるということでした。ところが普段の生活に戻るとその時の感謝の気持ちはどんどん薄まってしまうそうです。毎日時間を決めて日常内観をしないと元の木阿弥になるということでした。人間は意識しないと感謝するよりも不平、不満、グチをこぼす生き物なのかもしれません。1月号の生活の発見誌では「感謝の反対は、当たり前」と気にも留めなくなる態度のことだと説明されていました。普段人間に生まれたこと。戦争のない国に生まれたこと。食べるものに困らない生活。目が見える、耳が聞こえる、口が利ける、両手が使える、両足で歩けることに感謝することは忘れています。あたりまえのことには目もくれず、ないものや不足しているものに注意や意識を向けています。森田先生はお母さんから何かを欲しくなったとき、下の人を見なさいと言われたという。不幸な境遇にある人を見つめると感謝の気持ちが湧いてくるということではないでしょうか。この記事では星野富弘氏や中村久子氏の半生記が参考になるといわれていました。お二人とも極めて不自由な体であり、自分の両手が使えず、両足で歩くこともできない。それらを否定するのではなく、できることに光を当てて懸命に生きておられます。この方は毎日感謝できることを3つ書き出すことを提案されています。これを1か月間続ける。書き出したら最後にそのひとつひとつに「ありがとう」を3回言います。そうすると感謝の気持ちはさらに深まるといわれていました。太陽の光に対して、とても感謝しています。お陰様で、気持ちが明るくなります。お世話になった方々へ感謝する。花や緑に、食べ物に、空気に、森田療法に感謝・・・。様々なことを思い出して書いているうちに、自分がいかに恵まれた生活をしているかに気づくことができました。私は毎日仏壇の前に正座して、ご先祖様に感謝の言葉を読み上げています。その内容は2022年7月24日に投稿しました。意識して「今日の感謝の言葉」を唱えないと、毎日不平不満や愚痴を口にし、態度に表わすようになると思っています。
2024.03.04
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森田先生の言葉に、煩悩即菩提、煩悩即涅槃、煩悩即解脱、雑念即無想、矛盾即統一、諸行無常即安心立命、強迫観念即安楽、耳鳴即無声、病気即未症などがあります。一般的に「即」という言葉は、すぐにただちにという意味があります。それから拡大解釈されて、「とりもなおさず、つまり、すなわち、言い換えると」という意味を持つようになりました。しかし普通煩悩で苦しんでいる状態がすなわち解脱といわれてもよく分かりません。全く正反対のことなのにどうして同じことだと言えるのかと反発してしまいます。ここで「即」という言葉のかわりに、「反抗しないでものそのものになりきることができれば」という言葉に置き換えてみませんか。煩悩そのものになりきれば菩提となる。煩悩になりきれば涅槃となる。煩悩になりきれば解脱できる。雑念になりきれば無想となる。矛盾になりきれば統一である。諸行無常になりきれば安心立命となる。強迫観念になりきれば安楽となる。耳鳴になりきれば無声である。病気になりきれば未症となります。これだとなるほどそういうことだったのかと思えませんでしょうか。神経症で苦しんでいる人は、不安、苦しみ、雑念、矛盾、不安定、耳鳴り、病気などをあってはならないものと思っています。そしてそれらは取り除くことが可能であると思っています。そのままにしておくと苦しいので取り除くために様々にはからいを始めます。森田理論学習によって、不安や不快な感情は自然現象であり自由にコントロールできるものではない。また神経症的な不安は欲望があるから湧き上がってくるものであると学びました。「ものそのものになりきる」というのは、例えば自分の乗っている電車と並行して走っている電車が同じスピードの場合、高速で走行しているにもかかわらず、さも動いていないように感じることがあります。この現象とよく似ています。「病気即未病」とは、実際にはガンや難病で苦しんでいても、できるだけ健康な人と同じように日常茶飯事をこなしていけば、病気ではあっても、精神的には健康的であると言えます。「耳鳴即無声」とは、不快な耳鳴りを我慢しながら、日常生活を進めていけば、いつの間にか耳鳴りのことが気にならなくなります。雑念にしても、強迫観念にしても、それを目の敵にして戦いを挑んでいると、症状としてはどんどん悪化してきます。強迫観念と一体化して、苦しいときにそのまま苦しむことができるようになると、強迫観念とは手が切れます。そして、目の前の仕事や日常茶飯事に手を出していけば、煩悩、雑念、耳鳴りなどは実際にあっても生活するうえで支障はなくなります。
2024.03.03
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藤田紘一郎氏のお話です。横浜国立大学におられた青木淳一教授はヒトに嫌われているダニ類の研究を40年間も続けておられる。ある時、青木教授はこんなことを私に語ってくれた。「藤田先生、地球に生きている生き物はすべて意味があるんですよ」と。「ダニの話をすると、すぐ寄生虫としてのダニ、衛生害虫としてのダニの話が先行してしまう。しかし、実は無害のダニはたくさんいるのです。ヒトにしか寄生しないダニは、ヒゼンダニとニキビダニの2種類にすぎません。残りの大部分は、大自然の中でのんびりと暮らしている。たとえば、ササラダニ類は腐りかけた落ち葉や枯れ枝をコツコツ嚙み砕いて食べ、糞として排出している。この糞をバクテリアがさらに分解する。つまり、自然界のゴミ掃除人なのです。このダニがいなければ自然界のゴミは片付けられないのです。少しばかり嫌な奴を含んでいますが、ダニ族は私たち人類の大切な共存者なのです」(清潔はビョーキだ 藤田紘一郎 213ページ)青木先生のお話は、森田理論の「他人の性を尽くす」という話に通じるものがあります。「他人の性を尽くす」とは、その人が持っている存在価値、資質、能力を正しく評価して、居場所や活躍の場を確保して、命ある限りとことん活かしてもらうということです。その人もやりがいができ、生まれてきたかいがあったということになります。お互いがお互いをリスペクトする関係性が生まれると争いなどは起きないのではないでしょうか。共存共栄を目指すことが人類の繁栄につながります。人間は強い自己保存欲求を持っていますで、自己中心的になります。その結果、自分の価値観に合わないものを排除するようになります。紛争、侵略、戦争などは他者の存在価値、資質、能力を無視して、他者を自由自在にコントロールしようとするところから起きています。藤田先生は、人間の皮膚には皮膚ブドウ球菌や黄色ブドウ球菌をはじめとするたくさんの皮膚常在菌が存在して、皮膚を守っているといわれています。それらを抗菌グッズで常に攻撃していると皮膚常在菌は弱ってくる。すると体の中の白血球がそれらを攻撃して多量の活性酸素を生じ、皮膚が障害される。国立医薬品食品衛生研究所の鹿庭正昭氏は次のように語っている。皮膚の上に棲みついている常在菌も、中性脂肪を分解して酸をつくることで、他の細菌がとりつくのを防いでいると考えられている。抗菌防臭加工した衣類ばかりを着ていたらこうした常在菌がどうなるか、きちんと調べていくべきだ。子どもの皮膚の形成は、生後2年ごろまでに完了する。逆にいえばそれまでは、皮膚そのものの抵抗力は十分ではないということだ。病原菌にむやみに犯されないようにするためにも、少なくとも幼児や、同様に抵抗力が落ちた高齢者には、常在菌の助けが必要だろう。「父を追う 娘の手には ファブリーズ」という笑えない川柳がある。そういえば抗菌グッズは毎日CMで見かけます。特に神経質者のなかに細菌を極端に恐れている人がいる。エスカレーターのベルト、電車の取っ手に触れない。公衆トイレで用が足せない。長風呂をして体を石鹸でごしごし洗う。アルコールなどの抗菌グッズを持ち歩く。抗菌マスクを持っていないと他人がいるところに出かけられない。これらはすべてウィルスや細菌を目の敵にしている。不愉快、不快な気分をすぐに払拭しないと次の行動に移れない。そういう人は腸のなかに常在菌が約100種類、計100兆個住んでいるのをどう考えておられるのでしょうか。微生物の専門家は「腸内細菌は臓器の一つ」と言っています。食べ物の消化吸収、外から入ってきた病原菌を撃退している。腸内細菌は悪いものもあるが、基本的には味方である。共存共栄を目指す必要がある。抗生物質などで腸内細菌を殺してしまうことは、自分の命を危うくしているのである。
2024.03.02
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杉山芙紗子氏はテニスの名コーチです。技術的に神奈川県で一番の実力があり、全国レベルでも優勝できる選手が、ある試合の決勝戦で負けてしまいました。その後も、彼女は断トツの技術を持ちながら、勝てない試合が続きました。杉山さんは彼女とお母さんを呼んで、家での日常生活について聞きました。朝起きたらきちんと挨拶ができているのか。身支度や歯磨きなどはきちんとしているか。寝具などの片付け物などはしっかりやっているか等。そんなことには無頓着であることが分かりました。そこで、自分で「やるべきことリスト」を作ってもらいました。玄関の靴を揃える。神棚の水を毎朝替える等、10項目ありました。これは森田でいう実践課題です。それを1ヶ月間続けてもらいました。こうした簡単なことでも、毎日続けることはとても難しいと言っていました。しかし、これを続けた1か月後、彼女は神奈川県の大会で優勝し、関東の大会でも優勝したのです。技術力が1ヶ月でそんなに上達したわけでもない。日常生活の中でやるべきことをきちんとやることによって、自分がなにをすべきかの判断力も増し、結果として試合の中でも正しい判断ができるようになったのです。(一流選手の親はどこがちがうか 杉山芙紗子 新潮社)実力はあるのに本番で練習通りの結果が出せないという選手はたくさんいます。それは期待に応えて勝たなければいけない、負けたらお世話になった人に顔向けができないなどと余計なことを考えてしまうからです。つまり試合に臨んで前頭前野がヒートアップしているのです。試合では前頭前野は開店休業状態しておくことが大切です。今までの練習によって手足の微妙な動きは運動野や側頭葉に記憶されています。そこから前頭前野を経由しないで、直接手足の筋肉に無意識の指示命令が伝えられれば少なくとも練習で身に着けている成果が100%近く発揮できるはずです。これは自動車の運転と同じです。最初は意識して操作していましたが、慣れてくると意識しなくても自動的に必要な操作を正確に行っています。これを鍛える方法は、杉山コーチによると規則正しい生活を習慣化することにあると指摘されています。日々のルーティンワークを確立することです。これは得てして見落としがちなところですがとても大事なところです。規則正しい生活を習慣化できると前頭葉を休ませることができます。反射的に運動野や側頭葉等が盛んに活動するようになります。これが試合中にパニックになることを防いでくれているのです。何も考えることなく、すっと体が動くようになります。すっと動くというのは、考えることを中断して行動に移る能力を獲得していることになります。不安や気分本位に振り回されている人にとっては取り組む価値があります。私が勤務しているマンションからの眺めです。海も見えます。
2024.03.01
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