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いよいよ、実際に土をもって水を流し、その様子を観察する。今回は、天気の関係もあり、理科室の中で「流水実験装置」をつかって実験する。この「流水実験装置」は、写真のようにベニヤ板の上に「餅箱」の側面を切り取り、3つつないだものである。実は、2年前に同僚の先生が研究授業のときにいっしょに作ったものであり、今回はこの装置そのものに、特に主張や工夫はない。しかし、そのときと比べ、子どもたちの反応に大きな違いが見られた。2年前は、単元の導入に、この装置を使って実験されたのだが、そのときと比べると、水を流しはじめたときから子どもたちのつぶやきが違うのである。今回は、しっかりと「視点」をもって観察してることがわかる。(前回は、この「視点」をもたせることが目的だったのだが。)「土が削れている」という声が聞かれると、「どちら側が削れている?」や「幅はどうなっている?」など、どんどん「詳しく」観察してくことになった。「やっぱり」や「予想と違う」などの声がたくさん聞かれたのも今回の実践の特徴であろう。同じモノを見ても、子どもたちが見るモノは違う。あらためて「視点」をもたせることの大切さを感じる1時間だった。
2005.11.28
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ある学校の研究発表会に司会者として参加した。授業をみた感想であるが、ねらいに迫るため、シンプルに授業が計画され、「よい授業」だったということである。この学校の研究テーマは、「指導と評価の一体化」である。これまでもこのテーマで研究している学校の取り組みをいろいろと見ることがあったのだが、何とも腑に落ちないことが多かった。「これだけ評価の方法を工夫し、こんなにたくさん評価しました」という研究(?)が多く、「それでは、授業がどのように変わったのか」が分からないものがほとんどだったからである。つまり、「評価(評定)のための評価」になっていたのである。しかし、今回参観した学校の取り組みは違った。私が参加した分科会の助言者の先生が言われたとおり、「すべてが一貫している」のである。「評価」に取り組むことにより、目標を分析し、それに沿って授業を組み立てる。評価の観点から、授業のねらいや組み立てを見直していく。「評価」の研究というと、私自身、いまひとつ抵抗があったのだが、このように考えていくと、立派な「授業研究」である。しかしながら、気になる点もある。基準に照らし合わせ、行動やワークシートなどの記述、テストなど評価する。もちろんここまでは何も異論はないのだが、基準に達しなかった子どもにたいする「手だで」に疑問を感じるのである。多くの手だてが、「もう一度、教師がそばについてていねいにやらせる」というものなのである。これでは、「わからない」をくり返すだけではないかと考える。特に、理科では、多くの場合、観察・実験の中ですべての子どもが「同じもの」を見ているのであり、その現象を「どう見るのか」が違っているのである。「どう見るのか」がよくわからない子ども、つまり、観察する視点をもっていない子どもに対し、もう一度やらせてみても、「何を見てよいのか」がわからないのである。やはり、「教師が見てほしいものを、どうして子どもたちは見ていないのか」というところから、指導と評価の在り方を見直していかなければならないであろう。
2005.11.25
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校内の音楽会は終わったものの、来週近隣校が集まって開かれる聞く音楽会に学校代表(?)として参加するため、合唱の練習を続ける。校内音楽会も終わり、少し気が抜けたせいか緊張感が感じられないこともあり、大きな声を出して指導してしまう。すると、子どもたちは「ちゃんと」歌うのだが、なにか違う。佐伯胖氏は、「パフォーマンスを創り出すこと」として、「『学び』を問いつづけて」の中で次のように述べている。 ・・・・・ つまり、意識の面では、フルートというモノを相手に、ソレを鳴らしてやろうとやっきになっても良い音が出ない、ということである。そうではなくて、フルートを自分の体の一部にして、むしろからだ全体を共鳴体にする、つまり全身(フルートつきのからだ全体)を釣り鐘のようにして「鳴り響く」ようにするのがよい、というわけである。 このことも、学校体育に対する大きな示唆を含んでいる。つまり、「体育」というのは、モノとヒトと「一体」になること、あるいは、世界と「なじむ」ことだったのだ。 否、それ以前に、自分自身が自分のからだとなじむこと、不必要なチカラを抜いて、世界にまっすぐに「立つ」ことを学び、さらに、そのような自然体の中から「鳴り響いてくる」結果としてのすばらしいパフォーマンスを創り出す、それが体育だったのだ。 ・・・・ 従来、「体育」というと、学習者が自分のからだの各部に注意を払い、あれやこれやをうまく「動かそうとする」実践であり、それが「うまく動かせるように」なれば一応の目標が達成されたことになる、というものであった。「うまく動かそうとしても、うまく動かせない」というとき、教師はあれやこれやの「指示」(叱責?)が効果をもつだろうという考え方から指導が行われていたように思う。 ・・・・ ところが、からだというものを外界の「事態」に開かれて行くものだという考え方にもとずくと、これらとはまったく別の教育観があらわれる。 ・・・・ 人間というのは、外界の「意味」に反応するようにできている。しかも、実に適切に。そして、新しい「意味」を自ら発見できるように、自らの「構え」を自然につくり直すことができる。 さらに、人間のイマジネーションによって、世界をそこにくっきり「想定」し、その「想定された世界」にさえ、みごとに「立ち向かう」べく反応することができる。ただし、その場合も、そこでのモノやコトガラの、あくまでも「自分自身にとっての」意味に向かっているのであり、「意味はあとからでわかるから、今は、文句をいわずに指示にしたがえ」という指令に応答しているわけではない。 ・・・・・しかしながら、「文句をいわずに指示にしたがえ」という指導からは、なかなか抜け出せない・・・。
2005.11.24
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11月も、このblogを書くのがサボリぎみになってしまった。以前も「blogが書けない理由」について書いたのだが、今回は、理由が少し違う。本当に忙しいのである。本校では、2月17日(金)に研究発表会を行う。そのための文書発送などの事務的な仕事や、1年間の研究と実践をまとめる紀要の作成など、もともと学校行事が続く高学年担任の忙しさと重なって「ものすごい状態」になっている。そんな中、この11月には2つの雑紙の原稿を頼まれていたのである。一つは1日が原稿の締め切りだった「初等理科教育」。もう一つは、筑波大附属小が発行している「教育研究」で、22日がその締め切りであった。学級のこと、本校の研究が一番なので、これらの原稿は、どうしても後回しになってしまう。結局、2つとも少し遅れてしまい迷惑をかけることになった。もちろん、このblogをまったく書く時間がないわけではない。実際、授業記録や読んだ本の引用などは、そのたびに文書データとして残している。このblogは自分の研究のために書き始めたのだが、結構「見てますよ」という声を聞き、だれかに読まれているということを意識せざるをえない。そんななか、「とりあえず」のものをupすることもできない。また、私の仕事が遅れて迷惑をかけているのもかかわらず、blogだけきちんとこなしていくわけにもいかない。しかし、なんとか雑紙の原稿も書き上げることができた。今回は「ビー玉エンジン」の実践を中心に紹介する。教育研究2月号、1月中頃に発売である。(これも普通の書店にはおいていなのだが・・・・。)
2005.11.23
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校内の音楽会だった。校内の発表会というものの、市内の本格的なホールを貸し切り、1000を超える客席は満席になる。1ヶ月以上前から練習を始め、担任が指揮をする。5年生は、音楽専科が日頃指導しているのだが、2週間ほど前からは、担任が中心になって練習を進める。私のクラスは、合唱に取り組んだ。三部合唱の本格的な曲だ。音楽専科の先生のこれまでの指導で、すばらしい歌声に仕上がっている(私が「手を出す」と、子どもたちの声が地声に戻ってしまい、叱られ続けたのだが・・・)。音楽会そのものも、とてもシンプルにプログラムが進められる。学校の体育館で行うものとは比べものにならないほど「本格的」だ。子どもたちも、そんな雰囲気の中ですばらしい歌声を披露し満足感を味わうことができたであろう。「本格的な」ホールに、「本格的な」音楽会。そして、「本格的な」合唱(練習も含めて)。しかしながら、いまひとつ「文化とのつながり」が感じられない。以前、このblogの中で、「文化とのつながり」について、佐伯胖氏の「フルートを学ぶこと」(「学ぶ力」)の中から次の部分を紹介した。 ・・・・・ このように、「フルートを学ぶ」といえば、最初は、「いろいろな曲がフルートで演奏できるようになることだ」と思ってしまっていたけれども、よく考えると、とてもそんな単純なことではないことのようです。私たちは、フルートを通して「さまざまなこと」を学んでいるのです。その「さまざまなこと」の中には、フルートという楽器の特徴、フルートを演奏するときに「からだ全体を楽器にする」ということ、そもそも、自分で音楽を「表現する」ことの意味、モーツァルトという作曲家のすごいところ、バッハのすごいところ、・・・・・・などなど、とうてい語り尽くせない無数のことを「学んで」いるわけです。 ・・・・・ 読み返してみると、「足りないもの」が何となく分かる。今回の音楽会に向けての取り組みが「文化的実践への参加」につながらないわけではない。もっともっと私たちが子どもたちに「音楽の世界」のよさや楽しさを伝え、その世界へ「誘う」ことに力を注がなければならないということである。
2005.11.22
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前回の授業では、「洪水前」と「洪水後」の川の写真(教科書をスキャナしたもの)を比較し、その違いから「流れる水」を観察する視点を明らかにしていった。今回は、「地球観測衛星から撮影した熊本の様子(地形)」の写真を活用し、川の「上流」「中流」「下流」の違いに着目させる。まず、全体が写っている写真を提示し、熊本の地図と照らし合わせる。子どもたちからは、「これが白川(熊本市の中心を流れる川)だ」「ここが阿蘇山だ」などの声が聞かれた。そこで、今回も「川」の様子を観察することを伝える。そして、それぞれのパソコンに向かい、16分割された写真(拡大され、より鮮明に観察することができる)を自由に観察させる。しばらくすると、「海に近いところ」と「山に近いところ」の写真を2枚を開き、比べで観察する姿も見られるようになる。最後に発表させてみると、「海に近いところでは、川幅が広くなっている」や「山の近くにある川は、深い谷に囲まれている」などの気づきが出された。いくつかの写真を同時に開いて観察することができたことで、このような「上流」と「下流」の違いに着目していったのであろう。もちろん、「中流から下流にかけて、川が蛇行しているところが多い」ということにも気づくことができた。次回は、いよいよこれまで明らかにしていった観察の視点をもとに、実際に水を流し、その様子を観察する。
2005.11.21
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これまで、私の研究について説明するときに、よく「y=ax」で観察・実験を見直す必要があるということを主張してきた。この「y=ax」は、養老孟氏のベストセラー「バカの壁」から引用したものであり、xを入力、yを出力、係数aを「現実の重み」と説明されている。私は、この係数aを「興味・関心」と捉え、「係数aが大きければ、観察・実験から得られる情報(入力:x)に対する理解(出力:y)が深まる」と考えてきた。しかしながら、最近、この係数aは興味・関心ではなく、これまでの経験の中からもった「信念」や「思いこみ」に近いのではないかと思うことが多い。つまり、どのように興味・関心を高めるのかというよりも、子どもたちがもともともっている「信念」や「思いこみ」をどう変えていくかが大切だと考えるようになったのである。佐伯胖氏は、この「信じる」ことについて「『わかり方』の探究」の中で次のように述べている。 ・・・・ 「信じる」ための疑問は、ときには強烈に破壊的になりうる。問われた者がそれまで築き上げてきたものがすべてガラガラと音を立ててくずれ落ちることすらありうるものなのだからである。 そういう「破壊」を互いがおそれないこと、やはり破壊をつきぬけて新しいものをつくりたいという熱意がなければならない。 そういう「破壊的な」問いは、まさに、「破壊的」でなければ意味がない。タテマエや公式でかたづけたり、ごまかしたり、逃げまわってはいけない。 ・・・・ 最後に、「信じる」という営みの中の「希望」という側面について論じておこう。「希望」というと、何かしら、「しあわせ」を夢見る話のようにきこえるかもしれない。しかし、私がいま指摘した希望は、そういうロマンテックな話ではない。村井実氏(慶應義塾大学名誉教授)のことばを借りるならば、「善くなろう」という意志であり、「善くなれる」ということへの信頼である。教師にとっては、ひとりひとりの子どもが「善くなろうとしている」ということを信じ、「きっと、善くなる」ということの信頼である。 ここで注意したいことは、「善い」ということはどこまでも「定義できない」ことである。どこまでも「未知数X」なのである。 ・・・・係数a(養老氏がいわれる「現実の重み」)を変え高めるには、「『破壊的な』問い」が必要であり、「破壊」をともなう「信じる」という営みそのものに対して、子どもたちが「希望」がもてるような学びや共同体を作っていかなければならないということであろう。
2005.11.17
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2年生といっしょに、プラネタリウムに出かける。秋の遠足を兼ねた行事であり、近くの公園のそばに市立博物館があり、そこにプラネタリウムがある。2クラスで出かけるということで、どこでもよかったのだが、手軽さと「ぜひ理科に関係のあることを」という思いから、公園でのレクリエーションとともに計画した。私自身、久しぶりにプラネタリウムを見た。「インターネット天文台」の実践を発表したあとだからであろうか、眠たくもならず、関心をもって見ることができた。まず感じたことは、「全天」を映しだし、一つ一つ「矢印」で指し示しながら説明されるので、とても分かりやすいということであった。私自身、昨年何度か星座観察会を行ったのだが、プロジェクターに映しだして説明するよりも、その「広がり方」は、ずっと分かりやすい。また、実際の夜空で説明するときには、懐中電灯などを使うのだが、なかなか「どの星を指しているのか」分かりづらく、プラネタリウムの「矢印」は、すべての子どもの視線をそこに向けることができる。教師が観察させたい星や星座を観察させるためには、実際の星座観察の前にプラネタリウムを見ると効果的ではないかと考える。もちろん、プラネタリウムを見る時間と実際に観察する時間の間隔も関係してくるであろうが。しかしながら、「インターネット天文台」と同じ問題点(「インターネット天文台」やプラネタリウムそのものに問題があるということではなく、教師が陥りやすい間違いということ)も見えてくる。「こんな星が見えます」「この方角に観察できます」というだけでは、子どもたちを天体観察に向かわせるには不十分であるということである。やはり、「見せるだけ」では問題意識や目的意識の高まりに欠けるのである。学校の戻り、私のクラスの子どもに「今日、家庭で星を観察したくなったか」と質問した。すると、その答えは半分半分であった。「どうして観察したくなったのか」「どうして観察したいと思わないのか」、分析する必要がある。じっくりとプラネタリウムと秋を楽しむこととともに、ちょっとの「バーチャルなもの」の活用方法について考えさせられた一日であった。
2005.11.16
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今週から、理科では新しい単元「流れる水のはたらき」の学習をはじめる。その導入として、今回は、教科書から「洪水前の川」と「洪水のときの川」の2枚の写真をスキャナして提示する。「同じ川の写真である」と子どもたちに伝えると、「えー」という声があがる。そして、2枚の写真を比較しながら、いろいろな気づきを発表していった。子どもたちが最初に着目したのは、「川はば」と「橋が流されている」ことであった。そして、しばらくすると増えた水によって土地が「削られている」ことに気づく。「土が削られているから、川の水が濁っているんだ」と「水の色の変化」を発表する子どももいた。そこで、スクリーンに映し出された写真の「削られているところ」をペンで示させる。すると、子どもたちからいろいろな気づきが発表される。「川の曲がっているところの外側が削られている。」「削られているところの反対側(内側)は、土がたまっている。」これらの気づきは、すべての子どもたちに疑問を持たせ、川の水の流れによって「土が削られる」という視点を明確にした課題設定につながっていった。教科書の写真をそのまま使用したのだが、スクリーンに映しだすことで、その映像を「媒介」とした交流を促しやすくなる。
2005.11.14
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長野での研修を終え、熊本に戻る。2泊3日であったが、次のようなことをふり返りながら有意義なものになったと感じている。まず、自分の実践をまとめ発表すること。分科会の中で、あまり質問もなかったのだが、発表すること自体が、自分自身のよい刺激となる。論文にまとめ、プレゼンをつくり発表する。この一連の過程が大切なのだろう。自分の取り組みをふり返り、その成果と課題が今後の実践につながっていく。もちろん、その中での自分自身の成長も期待できる。(人前で発表することは、いろいろな「力」をつけることになり、場数を踏むことも大切だと考えている。)次に、多くの人たちの「ニーズ」を知ること。今回は(も?)、IT活用に関して他の参加者との「温度差」を感じた。しかしながら、その「温度差」について分析することこそ、今どんなこと(授業・研究)が求められているのか「ニーズ」を知ることにつながる。自分の研究に没頭していると、なかなかそこが見えなくなってくる。今回の分科会で「理科」の授業におけるIT活用の実践発表が少ないことも、今後分析しなくてはならないであろう。最後に、人との出会いとつながりである。このような学会や研究会では、多くの人と出会うことができる。春に訪問した神戸大の稲垣先生とも学会で出会った。今回は、参加する時間が少なく(懇親会にも参加できず)もの足りなさを感じていたのだが、帰りの新幹線を待っているときに、東京工業大学教授の赤堀先生と話す機会が持てた。今年は、発表を聞いてもらうことはできなかったのだが、驚いたことに、昨年の実践発表を覚えていていただいたのである。このような「出会い」と「つながり」を大切にしていきたい。必ず自分自身の研究のプラスとなる。もちろん、今回の長野での研修は、同僚の先生との「つながり」も強化された3日間ではあったのだが・・・。
2005.11.13
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長野での研修の2日目(昨日は移動のみだったので、実質1日目)である。午前中は、分科会で発表(「インターネット天文台」の活用)し、午後はシンポジウムに参加する。(昼食は、おいしい信州そばを食べた・・・。)そのシンポジウムの中で、フロアの参加者を交えて「おもしろい」協議があった。「ITを活用すると授業は楽になるか」というものである。ある参観者から「IT活用は面倒で大変だから、あまり普及しない」という大胆な発言があったことから始まる。「授業が楽になる」という言葉自体があいまいで、なかなか協議もかみ合わなかったのだが、IT活用した授業に対する「イメージ」がバラバラであるという印象が残る。まだ、参観者の多くがITを「活用する」というまで意識が向いていないのであろう。これまでの教具のかわりにITを活用すると、授業は「楽」になるであろう。たとえば、写真一枚を拡大して提示するための労力は、プロジェクターを活用した方が断然少なくてすむ。しかし、ITを活用し授業研修を進め、新しい授業をつくるとなると、もちろん「楽」ではない。この「楽ではない」部分で協議ができるよう、授業実践を重ねていかなければならないということであろう。
2005.11.12
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夕方から、長野へ向けて出発する。全国日本教育工学研究協議会全国大会に参加するためである。勤務の都合で、2日目の分科会とシンポジウムのみの参加である。午後5時に学校を出る。7時前の飛行機で羽田まで行き、東京駅から新幹線で長野に向かう。到着するのは、11時すぎであった。もちろん、途中では、同僚の先生とビールを乾杯しながらではあったのだが。飛行機の中で明日分科会で発表するためのプレゼンをつくる。今回の発表は「インターネット天文台の活用」である。「インターネット天文台」とは、熊本大学教育学部の佐藤助教授が中心になって開発・設置したインターネットを経由して操作できる天文台である。国内に数カ所、そしてガーナにも望遠鏡が設置してあり、その時差のため昼間(日本で)にもリアルタイムの夜空の様子をパソコンを通して観察することができる。実は、昨年の3月に、私の担任する4年生のクラスで「インターネット天文台」を使った授業が、NHKのローカル番組で紹介された。その内容は「インターネット天文台」の開発が中心であったが、本校での授業の様子も5分ほど放送された。今回のプレゼンの中心は、この番組である。この番組を録画しておいたものを短く編集した。しかしながら、あらためて番組を見てみると、「インターネット天文台」を通して星や月を観察すると、子どもたちの天体に対する興味・関心が高まるというものであった。(もちろん、取材・放送されたときにもわかっていたことではあるが。)ここで、次の2点において誤解されないように注意しなければならない。(1)「何か不思議なものを見せればいい」ということを主張しているわけではないこと。(2)直接体験に向かうために見せる以外の「手だて」を工夫していることこのことは、これまで私自身がIT活用のなかで心がけてきた視点である。今回の実践も「午前中に熊本から見えた月が、その日の午後にガーナで見えるのはどうしてだろうか」と「月の動き」という視点を明確にした問題意識の高まりを期待したものである。
2005.11.11
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理科学習において「先行学習」を導入することについて「批判」を受けている。もちろん、私自身「先行学習」を強く推進していく立場でもなく、形式的に「先行学習」を取り入ればよいと考えているわけではない。また、「先行学習」の効果として、学習の効率化を求めているのでではない。私の「映像」を使った「先行学習」の導入(「先行学習」の捉えは鏑木氏の考えと100%一致するわけでもないのだが)は、観察・実験のなかで、すべての子どもたちが同じモノを見ているわけではないという現状からスタートしたものである。目の前にあるのに、なかなか子どもたちはそのことに気づいてくれない、着目してくれないという経験は、理科に限らず教師なら誰でもあるであろう。佐伯胖氏は、「見る」ということについて、「『わかり方』の探究」のなかで次のように述べている。 ・・・・ このように、「見る」ということは、「気づく」ということであり、「気づく」べきものは、見えるべき形ではなく、むしろ注目すべきコト(事態)なのである。私たちは、コトを見ているのであって、モノを見ているのではない。そして、コトを見るということは、コトに関する理論、信念、経験のすべてが全体として関与しており、知るべきコトの問題意識や、やるべきコトの目標意識に大きく左右されることであるということを、忘れるわけにはいかないのである。 ・・・・私が理科の授業の中で「先行学習」として「映像(IT)」を取り入れのは、「知るべきコトの問題意識」を高めるための視点の明確化をねらうものである。
2005.11.10
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最近、このblogについて保護者の方に声をかけられることがよくある。その理由は2つである。まず一つ目は、最近、なかなか更新されないこと。2つ目に、「本の引用」が多く、難しいことである。更新が滞っているいいわけは後日書くとして、今回は「本」のことをこのblogによく書くことについて書いてみたい。私たちは、いわゆる「理論家」ではなく、授業研究という「実践」研究をしている。しかし、「実践」だからといって、何か「実践」すればよいということではない。特に、教師は経験の中から「何となくわかること」を拠りどころにしていることが多い。そのこと自体、全く悪いことではないのだが、研究会の中で、あたかも正論として主張されると、反論として私の「経験」を持ち出すしか方法がなくなる。私の「経験」を分析しても、以前このblogでかいた「ステレオタイプ」のものがおおい。 そんなとき、二人の先生の言葉が思い出される。まず、大学時代の教授から聞いた「理論なき実践は、無謀である。」という言葉である。もう一つは、先輩から話していただいた「私たちは実践家であり、理論は自分でつくるものではない。」という言葉である。つまり、自分の実践の拠り所となる「理論」を求めるために、試行錯誤する場が、このblogなのである。
2005.11.07
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土曜日の午後、近隣の小中学校の先生・PTAが集まって、親睦のソフトボール大会があった。あまり乗り気ではなかったのだが、ソフトボール大会とその懇親会に参加した。しかし、その懇親会の中で、私の理科の授業を「鍛えてくれた」先生と7年ぶりに会うことになる。今年の4月、その先生は近くの中学校に教頭として転勤してこられていたのである。その先生とは、私が初任のとき(そのときは中学校に勤めていた・・・)に市の中学校理科サークルの中で出会った。月に2回、木曜日の夜に集まっていたので、その名前は「木曜会」。毎回3人ほどの実践発表や、年に1回の授業研究会をしていたのだが、メンバーの先生方が校内や市・県の研究会で研究授業をされることが多く、そのたびに指導案検討を行った。そのなかで、必ず毎回「わからない」といわれるのが、その先生であった。もちろん、その場には5、6名しかおらず、授業者以外もその「わからない」に対する答えや代案を考えることに必死であった。そのせいで12時近くになることもしばしばであった。その「木曜会」には、理科の「授業」に対して情熱のある先生方が集まっていたと思う。部活指導の後に、くたくたになりながらも毎回参加していたのは、校内では味わうことのできない楽しさを感じていたのであろう。妥協しないこと。理科を「授業」を中心に考えること(当たり前のことだが、研究会やサークル活動の中に「授業」という視点がないものが多い)。この2つが「木曜会」の楽しさであった。(年に2度ほどの「飲み会」や、飲みっぱなしの巡検会も楽しさの一つではあったのだが。)忙しく疲れ切りソフトボールでは負けた中ではあったが、うれしい出会いのあった懇親会であった。
2005.11.05
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今回、月刊初等理科教育に原稿を書く機会があった。主題研究ということ「『わかった』と実感するまとめ」がテーマであり、しばらく筆をとるまでに時間がかかってしまった。その理由として、「まとめ」という言葉に違和感を感じたことがあげられる。 授業の中で「まとめ」はしているのだが、あらためて考えてみると、「まとめ」とは何なのか考えさせられた。もちろん、ここでの「まとめ」とは子どもの立場から見たものあるが、これまで私自身「まとめはこうあるべき」と、あまり意識してこなかったというのが本音である。また、「実感」という言葉にこだわってしまった。そこで、この2年間取り組んでいる単元末での「説明活動」について書くことにする。しかし、あらためて感じたのだが、この「説明活動」だけでは、なかなか主張にならず、筆が進まない。やはり、単元の導入から追究の対象として取り入れる「発展的な(難易度の高い)教材」とセットでなければならない。「わかった」という瞬間の子どもの姿は、他のときとは比べものにならない。結局、「ヘロンの噴水」の実践を中心の書いた。(「科学の祭典」での取り組みを書きたかったのだが、「積み木ふりこ」の実践をまだよくまとめていないので書けなかった。)今回の原稿が載る初等理科教育1月号は、12月中旬に発売である。(普通の書店にはおいてないのだが・・・。)
2005.11.02
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