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図工で「ブドウ」を描かせた。朝、八百屋で買ったブドウを実際に教室に持ち込み、その匂いを嗅ぎ一粒ずつ食べる。子どもたちからは、「甘酸っぱい匂い」「冷たくて気持ちいい」なと、いろいろな声があがる。そこで、これまでのスケッチと同じ方法で描いていくことを伝える。子どもたちは、これまでに「自分の顔」「グローブ」「ゴーヤ」と同じ方法で描いているため、その「手順」は理解していた。しかし、この「これまでにやった方法と同じ『手順だから』」という私の考えが失敗の原因であった。実際に描く場面で、「これまでと同じように描いてみよう」と子どもたちに投げかけてしまったのである。できあがった作品の多くに、いきいきとした「勢い」が感じられない。これまでの作品と違って、引きつけられるモノがないのである。佐藤学氏は、「『表現者の教育』を推進する教師」として、「表現者として育つ」の中で、次のように述べている。 ・・・・・芸術教育の意義を上記のように再確認するならば、これまでの「表現の教育」は「表現者の教育」として再定義される必要があるだろう。音楽や美術の教育は、音楽と美術の様式や技法を教育しつつ、表現者としてしか生きられない私たち一人ひとりの存在のありようを、表現のいとなみを通して探究し続ける教育なのである。 ・・・・(中略)・・・・「表現の教育」が、主体内部の情動の表出と規範的な様式と技法の形成を課題とするのに対して、「表現者の教育」は、その表現を生成する人とモノ、人と人との関わりの編み直しを課題として実践を推進する。教師が、規範化された芸術とそのヒエラルキーの擁護者としてではなく、自ら一人の表現者として、「内的リアリティ」を探索するいとなみを教室で開始するとき、子どもたちと教師の関係は、表現者としての共同体として蘇生される糸口を回復する。 ・・・・・「これまでと同じように」という私の言葉に、そのときの私の「忙しさ」があらわれている。本校の運動会前で、その「忙しさ」を理由にして、「自習」を同じ状態をつくりだしていたのである。そんな私から、「ブドウ」をスケッチし表現するすばらしさや楽しさなど、子どもたちは感じることができなかったのだろう。「ブドウ」を八百屋さんで買っているときには、そんなつもりではなかったのだが・・・・。
2005.09.29
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久しぶりに、中学校の理科の授業をみた。今の小学校に勤務するまでは、中学校に勤めていたため、なつかしく感じた。しかしながら、授業の様子を見て、これまでの私自身の授業を反省させられることになる。それは授業をみて、子どもたちの中に「問い」がないと感じたからであろう。「子どもたちの中に『問い』がないこと。」これは、子どもたちの「無関心」が一番の原因であろう。これは、今回みた授業を批判しているのではない。私も中学校に勤めていたとき、同じような授業をしていたにちがいない。私たちは、思春期に入った子どもたちを相手にしているとき、「大げさな」反応を期待しない。しかし、このことが子どもたちの「驚き」や「疑問」を無視して課題を設定することにつながっているではないかということである。佐藤学氏は、この中学生が「沈黙」することについて、「授業を変える学校を変える」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ なぜ、欧米では、小学校で小さな声でたどたどしく発言することから出発して、中学校、高校と上の段階にゆけばゆくほど、活発に発表し明瞭に表現するように成長するのだろうか。それにたいして、なぜ、日本では小学校では騒々しいまでに過剰に発言する子どもたちが、中学校、高校になると、表情までも失って発言することえお拒絶し沈黙してしまうのだろうか。この問題は、わが国の授業を見直すうえで、最大の問題の一つだと思う。 ・・・・・こう考えると、もちろん中学校だけの問題ではない。小学校でも、佐藤氏のいう「いつわりの『主体性』」の問題について、真剣に考えなければならない。
2005.09.17
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5年生の理科では、植物の受粉について学習する。そこで今回、その導入として「アサガオの花のつくり」について観察した。まず、子どもたちに「アサガオの花を分解して観察しよう」と呼びかける。もちろん、子どもたちからは「やってみたい」と声があがる。教材園に咲いているアサガオの花を摘み、花びらを半分とって中の様子を観察する。ここで気づかなければいけないことは、「おしべとめしべの存在」である。しかしながら(案の定)、子どもたちのスケッチを見てみると、おしべとめしべの区別がないものも多い。そこで、学校内に咲いている他の植物の花を観察をさせる。2つの花のつくりを比較し、その共通点から「おしべとめしべの存在」に気づかせようと思ったのである。しかしながら、このねらいは達成されない。子どもたちに「2つの花を比べてみよう」と言っても、なかなか共通点には注目しないのである。「花びらの形が違う(合弁か離弁を指摘していたのだが・・・)。」や「中のおしべ(めしべもいっしょに数えていたものもいた)の数が違う。」など、相違点ばかり発表するのである。このとき、夏休みに鏑木先生を訪ねたときのことを思い出した。小学校の理科でもは「比較する」ことをもっとも大切(基本)にしている。しかしながら、ただ単に比較させると、子どもたちは「違い」にしか目が向かないという話である。共通点を見いださせるためには、何か「視点」や「枠組み」が必要だということだ。結局、私から「共通点は何か」と尋ねることになる。すると、子どもたちは「おしべはたくさんあるけれど、めしべは1本しかない。」と、すぐに答えた。「比べさせれば、子どもたちは何かに気づく」という考えの甘さが残った授業であった。
2005.09.13
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2学期になり、また「飲み会」が増えた。(夏休み中は、ほどほどの回数で、妻の機嫌もよかったのだが・・・・・。)どうしても、ついつい飲み過ぎてしまう。先日の研究会で、この「ついつい飲み過ぎてしまう」ことについて考える機会があった。「アルコールの飲み過ぎは体によくなく、飲み過ぎないようにしなければならない」ということを、私たちは知っているし心がけようとしている。しかしながら、実践できないのはなぜだろうか。「アルコールの飲み過ぎに気を付けて、健康な生活を送ること」と「アルコールを飲んで楽しむこと(コミュニケーションをとること)」の2つを比べ、どちらかを選択するわけだが、前者がよいと分かっていても後者をついつい選んでいるのであろう。佐伯胖氏は、この「『考え方』を選ぶ」ことについて、「『わかり方』の探究」のなかで次のように述べている。 ・・・・・「考え方をえらぶ」というのは自分の生活設計を立てるということであり、とりわけ、今までと異なる「新しい」生活設計を立てるということである。人はつねに生活を変え、あたらしく設計しなおして生きている。今までのどこを改め、どういう変化をつくりだしたいのかということがものごとの「大切さ」の判断をかたちづくるのであり、「考え方を選ぶ」ということは、そういう「大切さ」(生活設計変更への意志)のシステムを選ぶということになる。 ・・・・ (中略) ・・・・ ところで、「自分の生活設計」というのは、自分一人できまる話ではない。他者、社会、文化と深く関わっている。自分の生活設計を変えるというのも、他者の眼差しの中で自分を見直し、社会の中で自分の役割を見直し、文化を背負った自分を眺めてみることからくる。そこから、「考え方を変えてみる」という営みが必要になる。支点や立場を変えて自分を見直し、自分を取り巻く社会の広がりをあえて設定し直して、自分を相対化してみるのである。 ・・・・・佐伯氏は「すべての決定は社会的決定である」という。つまり、私自身、アルコールを控えながら健康を大切にするという社会の中で生活していない(アルコールに対する視点を変えるほどの他者と出会っていない)と同時に、そのことの文化的なつながりを意識していないということであろう。
2005.09.08
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8月の終わりに、佐伯胖氏を招いて校内の研究会を行った。そのなかで、私も「積み木ふりこ」の実践を報告をしたが、佐伯氏はこの実践を痛烈に批判された。佐伯氏は、「積み木ふりこ」を子どもたちが振って調べることが「何になるのか」と問われ、「振り子の等時性を教えるだけなら、ただ単に複雑にしているだけだ」と言う。しばらくのあいだ、振り返り考えることができなかったのだが、よく考えてみると、佐伯氏の批判の中に「文化的実践」や「文化とのつながり」という言葉があったことを思い出す。 「文化的実践」とは何か。「文化とのつながり」とは何か。 佐伯胖氏は、「フルートを学ぶこと」を例にあげて、「学ぶ力」のなかで次のように述べている。 ・・・・・ このように、「フルートを学ぶ」といえば、最初は、「いろいろな曲がフルートで演奏できるようになることだ」と思ってしまっていたけれども、よく考えると、とてもそんな単純なことではないことのようです。私たちは、フルートを通して「さまざまなこと」を学んでいるのです。その「さまざまなこと」の中には、フルートという楽器の特徴、フルートを演奏するときに「からだ全体を楽器にする」ということ、そもそも、自分で音楽を「表現する」ことの意味、モーツァルトという作曲家のすごいところ、バッハのすごいところ、・・・・・・などなど、とうてい語り尽くせない無数のことを「学んで」いるわけです。 ・・・・ (中略) ・・・・ 冒頭であげたフルートの「学び」でも、私は「音楽の世界」に参加し、フルート愛好者の共同体の一員としてのアイデンティティを形成し、そこで、少しでも「一人前」として認めてもらえるように、毎朝、授業の始まる前の一時間、みっちり「基礎練習」を積み重ねているのです。それは本当に楽しい、「学び甲斐」のある世界です。 ・・・・・ これは、佐伯氏が本校の教官研のなかで再三指摘された「文化とのつながり」を示すものであろう「学びとは文化的実践への参加である。」このことは、私自身、この1年間考え続けていたはずのことである。しかし、「積み木ふりこ」の実践で、「多様性」について何となく解決できそうになったことが、一番大切なことを忘れさせていたのであろう。「子どもたちの『かかわり合い』だけが協同的な学びではない」といいながら、その「かかわり合い」のみが目的になってしまっていたのである。今、子どもたちが学習していることが「この先どうなるのか」、私たちが一番大切にしなければならないことである。
2005.09.05
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