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私たちが「『学び』とは何か」と、あらためて考え直すきっかけになったのが「学びへの誘い」である。この本は、「学びと文化」シリーズの1巻目である。このシリーズの本をいくつかもっているが、これまであまり読んでいなかった「言葉という絆」をなんとなく開いてみた。すると、私たちのめざす「かかわり合い」をイメージすることができるたくさんの記述がある。その中で、佐藤学氏は「教室の言葉」について、次のように述べている。 ・・・・・教師の「発問」「指示」「評価」と生徒の「対応」という定型化されたコードで構成された教室の言語空間は、それ自体が、教えるもの(教師)と教えられるもの(生徒)という権力関係を発動させるシステムであり、認識と表現の個人的性格を消去し知識を情報として処理する一元的な評価システムは、教室のコミュニケーションの言葉において「私」という一人称の個性と「私」と「あなた」の関わりにおける対話(ダイアローグ)の関係を喪失する結果をもたらしている。教室の支配的な関係においては、教師も生徒も、「役割」のコードを遂行する言葉を発話し交換しているものの、自分を生きる言葉と経験を喪失した「だれかさん(somebody)」でしかありえないのである。 ・・・・・ (中略) ・・・・・個人名を冠した生徒が一人称で語る生身の言葉が登場すると、教室の言語空間は、一挙に多元化し多層化される。もはや、教師は、役割や権威という安全な殻の中に自己を定位するわけにはいかないし、生徒も、自己をひた隠しにする安全地帯に身を置くことはできなくなる。そこではじめて「言葉」が「言葉」として発せられ作動するといってよい。教室で自分の言葉を発すること、あるいは、他者の言葉と遭遇すること、それは、本巻でくりかえし指摘されてきたように「事件」であり「出来事」なのである。 ・・・・・ (中略) ・・・・・数学や理科や社会科においても、あるいは、音楽や体育においても、そこでの経験をもっと的確にかたどる言語を探求すべきであり、その言葉と語りを通して学びの意味を構成し、その文化の学びにおける「作者」として、あるいは「表現者」として自己を構成する言語的実践を推進すべきである。 ・・・・・この本を、これまで開かなかったのはタイトルの「言葉」と私の研究教科である理科との関係を重要視していなかったためであろう。しかしながら、コミュニケーションは「言葉」によって行うものであり、理科で行われるかかわり合いも「言葉」が中心になる。全ての教科において、「言葉」について考えなければならないであろう。
2005.05.31
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いよいよ来週、私の研究授業である。(校内の研究授業であるが、本校では研究発表会の公開授業より、ずっと大変でストレスも大きい・・・・)一週間後に研究授業を控え、佐藤学氏の「授業を変える 学校が変わる」を読みなおした。めざす授業のイメージをもつためである。 ・・・・・ ハンドサインを使用させられている子どもたちは、思考や感情の多義性や複合性を切り捨て、自分の内面で生起している思考や感情をたえず「賛成」「反対」「質問」の三つに分類して発言することを強制させられている。一部「賛成」であり一部「反対」である意見や、「賛成」でも「反対」でもない意見は最初から除外されている。しかし、授業の中でもっとも価値が高いのは、このような曖昧で多義的な意見であろう。曖昧で多義的な意見を尊重することによって、教室に個性的で多様な認識が成立し、その交流と共有によって、一人ひとりがより豊かで深い認識に到達することができるからである。 ・・・・・ (中略) ・・・・・ ものごとを認識し表現しながら自分自身をかたどり他者との絆えを築く学ぶという行為において、たどたどしい思考や表現は明晰な思考や表現と同じ程度に重要である。明晰な思考や表現が類型的な思考や感情を反復する行為になりがちなのにたいして、たどたどしい思考や表現は、むしろ創造的な思考や表現において十分な威力を発揮するといってもよい。あらゆる創造的な行為は、たどたどしい言葉によって探索的に遂行されるいとなみである。 ・・・・・本校の研究のよりどころは佐伯氏の論であるが、実際に授業するとき、佐藤氏の本は授業のイメージを与えてくれる。自分の教室を振り返ってみると、一人の子どもの発表に対して「同じです」と大きな声で叫ぶ子どもたちがいる。後一週間であるが、見直さなければならないことが山のようにある。
2005.05.31
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先週、校内の研究会に佐伯胖氏を講師として招いて話を聞いた。佐伯氏は、「理科は『作品』化」といわれる。もちろん、「ものづくり」を中心に据えた実践にも取り組んでいるのだが、それだけではないのではないか。この「作品」化について、佐伯氏は「科学する文化」の中で、次のように述べている。 ・・・・・「科学の言葉」をディスコースとして学ぶには、それについて語り合うに値する、実際に意味のある実践活動がなければならない。テストのためとか、偏差値を上げるためというのは、ここでいう「語り合うに値する、意味のある実践」ではない。意味のある実践というのは、文化的に価値づけられたもの(「作品」)を生み出すいとなみである。しかも、その作品は、他の人びととの間で語られ、賞味(appreciate)され、相互のかかわりを深めるべきものである。 ・・・・・これら指摘できるキーワードは、「語り合うに値する」「意味のある実践」「他の人びとの間で語られる」「賞味される」であろう。これらのキーワードを見てみると「ものづくり」だけが「作品」化ではない。今後、佐伯氏が言われた「工学的な理科に」ということも含めて、理科における「作品」について、分析していく必要がある。
2005.05.31
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メダカのタマゴの観察では、解剖顕微鏡を使う。教室で飼育をはじめたメダカが、まだタマゴを生まないので、今回は、この解剖顕微鏡の使い方を説明し、操作ができるように練習する。ここで、観察するものに悩んだ。解剖顕微鏡の使い方であれば、観察するものは何でもよい。葉っぱや消しゴムの消しクズなどでもおもしろいし十分である。しかし、今回は理科室で飼育していたメダカが生んだタマゴを観察させた。悩んだ理由は、これから「自分たちで」タマゴを生ませて、そのタマゴを観察していくのに、今、実物のタマゴを見せることで子どもたちの意欲は損なわれないかということである。しかし、結果的に実物のタマゴを見せてよかったと考えている。理由は、次の2つである。まず、1つ目は観察の視点が明確になったことである。たとえば、導入の授業で「つぶつぶがどのようにメダカになるのだろう」という課題をもったにもかかわらず、子どもたちのスケッチを見てみると、つぶつぶは見えていない子どもが多い。タマゴのまわりについている薄膜や気泡などに注目している。それぞれのスケッチを見比べさせることで、あらためて顕微鏡をのぞき、つぶつぶの存在に気づいていく。2つ目は、新たな課題が生まれたということである。観察したタマゴには、心臓や眼はっきりと分かるものもあった。子どもたちにとって、タマゴの中でだんだんとできていくということは当たり前だと思っていたものの、実際に見てみると驚きのある発見である。気づきや疑問を交流する中で「どのようにできていくのだろう」「いつ頃できてくるのだろう」という課題が生まれていった。今回の実践で、はじめのねらいとしていた解剖顕微鏡を使う技術を身につけさせることができた。もちろん、授業のはじめにも「解剖顕微鏡が使えるようになる」ことがねらいだと伝えていた。しかし、授業が終わったとき、子どもの「学び」は、それ以上のものであった。
2005.05.30
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これから、理科の学習では、メダカを実際に飼育してタマゴを生ませ、そのタマゴの変化(成長)の様子を観察していく。(私がもっとも苦手な分野だが・・・・) まず、子どもたちに「メダカを飼育するときに、必要なことは」と聞く。子どもたちは、「水槽」や「えさ」など、いろいろなことを発表した。やはり、飼育・観察を問題解決の手段としてとらえていても、活動そのものの楽しさが上回るということであろう。「どんな目的でメダカを飼育するのか」と尋ねると、子どもたちは「タマゴを生ませて、そのタマゴを観察すること」と再確認する。このとき、「タマゴを生ませるためには、オスとメスのメダカが必要」とある子どもがつぶやく。すると、「どうやってオスとメスを見分けるのだろう」という疑問の声があがった。そこで、教科書の写真をスキャナしたものを提示した。オスとメスがいっしょに水槽の中を泳ぎ、腹に生まれたばかりのタマゴがついているメダカもいる。もちろん、子どもたちはすぐにこのメダカがメスであることに気づく。そして、そのメスを基準にして、ひれなど体の形が違うオスを見つけだしていった。偶然であるが、この授業の3日後に授業参観が予定されていた。そこで、この「オスとメスの見分け方」を、保護者に対して説明することにした。当日の授業参観では、小さな水槽に入ったメダカと教科書の写真、ノートに書いた図(イラスト)を使って説明した。保護者にとっても、「オスとメスに見分け方」は興味をひくものであったのであろう。子どもたちの説明後も、次々と質問がなされていた。今回の実践で、子どもたちが得たものは、「外に対して何かをした」という「手応え」である。今回の説明活動そのものが、子どもたちの小さな「作品」になったと考えている。
2005.05.23
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ふと、読んでいる本にはさまっていた「しおり」(もともとはさまれていたもの)をみたら、次のような松下幸之助氏の言葉が書かれていた。 ・・・・・学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師である。語らぬ石、流れる雲、つまりはこの広い宇宙、この人間の長い歴史、どんな小さいことにでも、どんなに古いことにでも、宇宙の摂理、自然の理法がひそかに脈づいているのである。そしてまた、人間の尊い知恵と体験がにじんでいるのである。これらすべてに学びたい。 ・・・・・見出しには「学ぶ心」と書かれている。この言葉を読み、先週の研究会の中で、本校の副校長が「学ぶ力が育っている子どもは、見ているだけで学んでいる」と話されたことを思い出した。本校の研究テーマは「学びが好きになる授業の創造」である。授業の中で、子どもが楽しさを味わうことを中心に研究を進めてきたが、本当に「学ぶ心」が育っているのだろうか。数年、知的好奇心を高めるための工夫に取り組んできたが、かえって「受け身」な子どもの態度を育てていなかったか。目の前にある「あたりまえ」のことから、学ぼうとすることができる。わたしたちがめざす、子どもの姿であろう。
2005.05.21
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今日、先週から行われていた教育実習が終わった。この2週間、実習生の授業をみることが多かったのだが、一般的な授業に対する「イメージ」は、やはり「教えること」なのであろう。授業の中心になるのは、「教材」と「発問」である。しかし、多くの実習生の「発問」が「質問」になっていて、「教材」は、その答えを説明する道具としてつかわれている。佐伯胖氏は、「『学び』を問いつづけて」の中で、「発問」について次のように述べている。・・・・・ 教師が子どもたちに対して発問することに何らかの教育的な意味があるとしたならば、それは子どもたち自身が自らのうちに問いをもつようにしむける点にあろう。 ・・・ (中略) ・・・ 先生が質問を出すと、子どもたちはその答えは何かということのみに関心が向いてしまい、この時点でそのような問いを発するということの意味や役割についてほとんど注意を払わないものである。大切なことはむしろ今まさにその問いを発するということにあるのであって、・・・・・(略) ・・・・・わたし自身の「発問」も、子どもにとって「質問」になっていないか常に振り返る必要がある。
2005.05.20
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今週から、メダカの誕生についての学習がスタートした。メダカを実際に飼育し、タマゴを生ませて、そのタマゴの変化を観察する。今回の実践は、その導入であり、教科書の写真をスキャナーして使う。使用したのは「生まれたばかりのタマゴ」と「からからでてきたばかりの子メダカ」の写真である。まず、「生まれたばかりのタマゴ」の写真を子どもたちに見せる。すると、子どもたちは、「つぶつぶがいっぱいはいっている」「透きとおっている」「毛がいっぱい生えている」などの気づきを次々に発表した。次に、「からからでたばかりの子メダカ」の写真を見せた。ここでも、多くの気づきが出される。そこで、2つの写真を1つのスクリーンに並べて提示する。すると、一人の子どもが「タマゴの中にメダカがいない」とつぶやいた。多くの子どもたちが「えー!」と声を出し、「どうして」と問い直す。「生まれたばかりの方は、つぶつぶしかない」と答えた。すると、「ホントだ」と納得し、子どもたちは「タマゴの中のつぶつぶは、どのようにメダカになっていくのだろう」という疑問をもつことになった。子どもたちに、メダカを飼育し、そのタマゴを観察しようと声をかければ、それだけで興味は高まるであろう。しかしながら、この時点では、ほとんどの子どもたちは「見通し」をもつことができない。2つの写真をじっと見つめ、他者とのかかわわりの中で「気づき・疑問・予想」を交流させた子どもたち。その相互作用により「メダカを実際に飼育し、タマゴの変化を調べてみたい」という見通しのある課題を設定することができた。今回の交流は、子どもたちの認識を共有させたともいえる。このことは、問題を共有し、共同体としての追究を促すことにつながっていくであろう。
2005.05.18
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先週、理科の授業でインゲンマメの発芽の条件が明らかになった。そこで、今回は、その発芽の様子をデジカメで撮影した写真をもとに振り返える。まず、発芽した直後の写真を子どもたちに見せる。すると「インゲンマメの種子の皮がむけ、中から葉っぱがでてきている」という声があがった。これまで理科でいくつかの植物をそだてたことがあるからだろうか、多くの子どもから「子葉だ、子葉だ」という発言が聞かれる。しかし、しばらくすると、ある子どもが「インゲンマメの子葉と形が違う」とつぶやいた。手元にある、ある程度成長したインゲンマメを観察すると、たしかに写真のインゲンマメの中からでてきているのでは子葉ではなく、葉(本葉)だ。子どもたちは、「子葉は?」と納得のいかない表情である。 そこで、2つの写真をスクリーンに映しだし、いろんな考えを発表させた。そのなかで、すべての子どもが「インゲンマメの種子そのものが子葉である」ことに気づいていくことができた。なかには、成長するにしたがって、子葉がしぼんでいることに気づき、オクラやヘチマを育てたときの経験(子葉は枯れて落ちる)を発表する子どもも。 「インゲンマメの種子を解剖しよう。」その後、子どもたちは、意欲的に種子のつくりについて調べることができた。 子どもたちは、発芽の条件を探る中で、いくつものインゲンマメを発芽させている。しかし、どの部分が、子葉になったのか疑問さえ持たなかったこともたちがほとんどである。やはり、「みれば分かる」わけではないということだろう。
2005.05.13
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ずっと以前から好きだった数学者がいる。森毅氏である。よくテレビに出演されているのだが、そのコメントがおもしろい。養老孟司氏と同じく、切れ味がよい。ある番組で「学力低下」が話題になったとき、森氏は「『学力低下』より、『おもしろがらないこと』の方が問題である」とコメントし、とても印象的であった。森氏は、「学ぶ力」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ しかしこれは何でもそうで、わからんなりに何とかするでと言いながら、付き合っているうちにわかってくるという経験はものすごくしました。これは、学力なしで何とかする学力です。 研究者になったら必ずそういうことがあります。このごろみんなわからんといかん、よくわかるようにしましょうと言いますが、あれで、学生さんがわからんことのこらえ性がなくなりまして、わからんけどおもろいなというのがないんです。 ・・・ (中略) ・・・ 研究者にならなくても、大人になると、そうしたことがどんどん必要になりますよね。たとえば河合さんがいっていたように、国文学をちっとも知らんでも国文学を読む。そういった種類の能力がないと、絶対にやっていけないですよ。 ・・・・・まさに、わたしたちがめざしている「協同的な学び」である。学習意欲の低下の原因として○分からないことへの「こらえ性」がなくなったことを示している。また、わたしたちがめざす学び(授業)の姿として、次のようなことが見えてくる。○分からないなりに何とか解決しようとする意欲をもち、共同体としての追究の中で次第に分かってくる。このような「学び」を成立させるために、「学力なしでも何とかする学力」を身に付けようとすることと、何とかする「経験」が必要であるということであろう。
2005.05.13
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昨日、家に帰ったら、ちょうどテレビで「トリビアの泉」が放送されていた。この「トリビア」とは、この世の中で知っていてもしょうがないムダ知識のことで、視聴者から投稿されるトリビアをパネラーが品評していくというの番組である。実は、わたしはこの番組が深夜にはじまった頃から好きで、よく見ていた。なぜ、この番組がおもしろいのか。「トリビアの泉」のおもしろさについて、あるホームページに次のように説明してあった。(メモだけして、URLを忘れてしまったのだが・・・) ・・・・・ 先行オーガナイザーには大きく「解説オーガナイザー」「比較オーガナイザー」「図式的オーガナイザー」の3種類があるそうです。トリビアの場合は「解説オーガナイザー」を巧みに使っています。 最初にトリビアを「解説オーガナイザー」で提示します。例えば「中華料理店の回転テーブルは中国生まれではなく目黒区生まれ」といったような具合です。 ここで、視聴者の従来の認知の枠組みである「中華料理は中国生まれ」→「回転テーブルは中華料理だけのもの」→「よって回転テーブルは中国生まれ」は一気に壊され、「回転テーブル=目黒(日本)生まれ」という新たな認知枠組みをつくり、次の学習材料の提示をしやすくしているのです。 その後、詳細について解説が始まり、最後に補足説明が加わるといった具合に番組は進みます。 最初の「解説オーガナイザー」が今までの認知的枠組みとの隔たっているほど感銘が多くなり、「へぇ」ボタンを押す回数が増えるというわけです。この隔たり感こそが視聴率の源泉ではないかと私は考えています。 ・・・・・先行オーガナイザーとは、オーズベルが「有意味受容学習」のなかで提唱してる「学習において、学習材料を認知構造のなかに取り入れやすくするために、学習材料の提示に先だって学習者に与えられる情報」のことである。実は先日、理科の雑紙で「先行学習の有効性」に関する原稿を執筆した。わたしたち教師は、「知識を教えること」をためらいがちである。「教える」ことで、子ども主体の学習が成立しないと考えているからであろう。しかし、「トリビア」のように、最初に知識を与えられても疑問もわくしおもしろい。大切なことは、何を「教えて」何を「考えさせる」かということであろう。
2005.05.12
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学習意欲を「内発的」とか「外発的」とかでは捉えることができないのは、どうしてだろうか。佐伯氏は「イメージ化による知識と学習」のなかで、「『知的好奇心』に動機づけの原因を帰する場合の難点」として、次のように述べている。 ・・・・・ もう一つの難点をいおう。「知的好奇心」は、オヤからさずからなかったらどうしようもない―つまり、もともと何事にも好奇心を持たないならば、持ちようがない―か、あるいは、ヨソサマが最適条件を用意してくれなければどうしようもない。要するに、知的興味がわかなければ、自分の遺伝子の中に「好奇心」を組み込んでいなかったオヤをうらむか、「好奇心」をひきおこさないそういう環境をうらむか、自分をそのように「鈍感」に育てた教師をうらむか、そのいずれかであり、いずれにしても、わたし自身では、どうしようもないことである。もしもこんなことならば、「内発的」といいながら、「ヨソサマ」に帰因されるべき「外発的」なものという以外にはないではないか。 さらに気にかかる点がある。知的好奇心は手品をみたっておこる。不思議だなあという実感はわく。しかし、「知的探求」の行動は発生しない。「どうせタネやシカケがある」と判断した地点でストップする。また、いろいろな錯覚現象も、認知的不調和をもたらし、知的興味はわく。エッシャーの描くあの「不思議な世界」の絵画はたしかに人目をひきつけるが、それをいくらながめても、そこから新しい知識は生まれてこないであろう。 知的好奇心をかき立てられることと、知識の獲得と創造の活動とは、どこまでいっても平行線のままのように思えるが、いかがなものだろうか。 ・・・・・ここで注目すべきは、「知的好奇心」と「『知的探求』心」とは異なるということである。子どもたちを「知的探求」にかりたてるものは、個の興味・関心に依存するものではなく、共同体との関係としてかかわりあいのなかでうまれるのであろう。
2005.05.11
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本校の研究「学びが好きになる授業の創造」は、学習意欲の問題からスタートしている。最初の2年間(本年度は4年目になるのだが)、子どもの「知的好奇心」や「向上心」を喚起することを中心に研究を進めてきた。これは、「内発的動機づけ」の論にもとづくものであろう。そして、昨年度「子どもの学び」そのものをあらためてとらえなおしたとき、わたしたちがめざすものとして、「協同的な学び」にたどりついた。佐伯氏は、本校研究発表会の講演の中で「学びは、本来『協同的なもの』である」と述べた。しかし、ここで1つの問題にぶつかる。それは、「協同的な学び」と「意欲」の関係である。これまで、わたしたちが大切にしてきた「知的好奇心」や「向上心」は、あくまでも「個」の興味・関心のよるものである。「協同的な」部分は、その「知的好奇心」や「向上心」を充足させるための手だてでしかないのだろうか。佐伯氏は、財団法人コンピュータ教育開発センターのHPの中で、「学ぶ意欲を生み出す関係」として、次のように述べている。 ・・・・・(1)学習者の学びが共同体の中で受け入れられ、意味のある結果を産出したという手応え(誰かの「評価」ではなく、実際に生み出された結果の「よさの実感」)が返ってくることが大切(2)学習者が、共同体の中での役割を担って「次第に十全的に参加していく」プロセスが見えること(3)学習の成果として、共同体の中で「行き先、どういうことになるか」がかいまみえること ・・・・・本校の本年度の研究は、このことを咀嚼し、授業で具体化していくことであろう。この「学ぶ意欲を生み出す関係」から、次の2つのことが指摘できる○学習意欲は、「個の興味・関心」に依存するのではなく、「共同体としての学習集団の成熟」に関係していること○学習意欲は、「内発的動機づけ」「外発的動機づけ」という捉え方では説明できないこと「個の意欲」を高めることから研究がスタートしたものの、これまでわたしたちが大切にしてきた「興味・関心」ではなく「共同体の成立・熟成」、つまり「協同的な学び」の実現そのものが学習意欲に大きく関係しているのである。
2005.05.11
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5年生の理科において、身につけなければならない「力」がある。それは、「条件を制御する」ことである。5年生の理科では、この「条件を制御する」必要のある場面が多く出てくる。さっそく、発芽の条件を調べる場面でも、この「条件を制御」して実験するときになった。子どもたちがピックアップした条件は、「水」「空気」「温度」「肥料」「日光」である。このなかで、どの条件が必要か明確にするためには、1つの条件を変え、他の条件をそろえて実験しなければならない。正直に話すと、これまで5年生で教えていたとき、子どもたちに「条件を制御すること」をしっかりと理解させることができたかというと、自信がない。学年があがるにしたがって、なんとかできるようになるのではないかという甘えがあったのかもしれない。しかし、今回の実践では、思いのほかうまくいった。たとえば、「温度」について調べるとき、一方を冷蔵庫に入れる。すると子どもから「冷蔵庫の中は暗いので、もう一方も暗くしなければならない」と声があがる。何ともうれしい声である。これまでのわたしの授業と何が違ったのだろうか。もちろん指導の不十分さは多々あったと思うが・・・。やはり、これまでの授業は、「条件制御」ありきであったのだろう。「ここでしっかり条件を制御することを教えなければならない」という思いが強かったのではないかと考える。今回の実践では、「インゲンマメの発芽のひみつを探りたい」という子どもたちの意欲が高かった。このことにより、必然的に「条件を制御すること」の必要性に気づき、無理なく受け入れることができたのであろう。わたしたちが、何か「力」を身につけさせたいと思うとき、やはり大切なことは、反復練習や学習訓練ではなく、子どもたちの「学び」の質が問題となってくるようだ。
2005.05.10
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