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冬休みに入ったが、2月17日(金)に研究発表会を控えているために、なかなかひまにはならない。(なんと、1月5日が指導案の締め切りである。毎年、三が日のうちからパソコンに向かっているので、家族からは非難ごうごうである。)今日は、「CD-ROM紀要」の作成をした。「CD-ROM紀要」とは、今年の研究や授業の様子を「動画」をつかって紹介するものであり、一枚のCD-ROMにそのデータを収める。研究発表会のときに、資料とは別に500円で販売する。今回、その「CD-ROM紀要」のなかで、私は「積み木ふりこ」の実践をまとめたわけであるが、何が「すごい」かというと、この「CD-ROM紀要」を一日で作ってしまうということである。朝8時半に学校に集まり、全職員がコンピュータ室にかんづめになって作業する。5時きっかりとはいかないものの、その日のうちに、すべての先生が担当するデータを提出して帰る。この「CD-ROM紀要」の作成は、一種の「研修」であろう。この「研修」のよさは、次の2点である。(1)短時間に完成させること(2)全員で同じ作業をおこなうことこのことが、参加者全員に「集中力」と「一体感」を生む。「一体感」とは、単なる仲がよいということではなく、「共同体として」のものであろう。隣で作業する人にたずねたり、教えたりしやすくなる。
2005.12.27
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「食塩水は濃さの違いによって重さが変わるのだろうか。」「食塩水ロケット」のひみつを探る中で、子どもたちがもった疑問である。食塩水を赤色のインクで着色して実験したとき、赤色の「もやもや」がメスシリンダーのそこの部分にたまったことから「食塩水は水よりも重い」と主張する子どももいた。そこで、今回は次の2つの実験を行う。(1)食塩水と水をそれぞれフィルムケースに入れ、同時に水の中に入れる。(2)水と食塩の重さをそれぞれ量り、食塩を水に溶かしたあとの重さを比べる。このとき、水の量(体積)も変化するかどうか調べる。(1)と、(2)の体積変化については、本当に「おおざっぱ」な実験である。もちろん、それ以前に、「濃度」について学習するのは中学校であり、そんな小学生に「濃度」の違いによる現象を提示することは、少々乱暴であろう。しかし、「濃度」について知識も概念も十分ではない子どもたちにとって、このような実験は必要だと考える。子どもたちは、「『食塩水ロケット』のひみつを説明したい」と強く思っているのである。そのなかで、今使える「言葉」によって説明するということは、子どもたちにとって「より科学的」なのである。「難しいから」と避けるのではなく、「子どもなり」に追究することが大切であり、子どもたちには、このような「経験」が一番不足しているのではないか。
2005.12.21
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「フィルムケースから、赤い『もやもや』が出ている。」「浮かび上がってきたフィルムケースの食塩水の色が薄くなっている。」この2つが、「食塩水ロケット」に赤色に着色した食塩水を入れて実験したときの子どもたちの気づきである。これらの気づきを交流する中で、子どもたちは「『もやもや』は食塩水だ」と声をあげる。しかし、食塩水が外に出てくるということは分かるものの、どうして浮かび上がるのかはわからない。 「フィルムケースの中の食塩水は減っていないよ。」ある子どもがつぶやいた。すると、他の子どもが「水がフィルムケースの中に入っていた」と発言したことをきっかけに、「フィルムケースの中の食塩水が薄くなった」ということを見いだしていく。その中で、「フィルムケースの中の赤色が薄くなっている」ことを根拠にあげる場面もあった。また、「赤い『もやもや』は、メスシリンダーも下の方に沈んだ」という気づきも出される。「食塩水は、薄くなると軽くなるんじゃないかな。」子どもたちに生まれた新たな疑問である。
2005.12.20
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前時の終わりに、子どもたちから提案された「フィルムケースの中の食塩水に色をつけて調べる」ことを実験してみる。実験の方法を前回と同じだが、今回は、万年筆用の赤インクを使って食塩水に色をつける。すると、フィルムケースから出てくる「もやもや」が、今回は赤色をしている。子どもたちからは、「やっぱり『もやもや』は食塩水だ」という声が聞かれる。また、「食塩水がメスシリンダーの下の方にたまっている」ことや「浮かび上がったフィルムケースの中の色が、もとの食塩水の色よりも薄くなっている」ことなどにも気づくことができた。次時は、この気づきをもとに「どうして食塩水ロケットは浮かび上がるのか」を予想する。
2005.12.19
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今、「2つのゲーム」を授業中によくやる。2つとも、2人組になり、一方が問題をだし、もう一方がそれに答えるというものである。教室を歩き回り、相手を見つけ、3回対戦する中で相手が答えられなかったり、間違ったりすると勝ちである。その一つは、算数の「わり算の商を分数で表す」ゲームである。一方の子どもが「3÷5」と問題を出す。もう一方は、その商を「3/5」と答える。または、「6/5」と問題を出し、「6÷5」と答える。「3秒間」で正しく答えられなければ、負けである。もう一つは、社会の「4大工業地帯」ゲームである。まず、一人一人に白地図を持たせる。そして、一方が地図を指さし、もう一方がその工業地帯名を答える。もちろん、「3秒間」で正しく答えられなければ負けであるが、問題を出す方が指すところを間違えれば、問題を出した方の負けである。また、このゲームも、四大工業地帯の一つの名前を言い、その場所をもう一方が指さすという逆バージョンもある。このような「ゲーム」は、子どもたちは高学年になっても楽しみながら取り組む。本校に赴任し、本校の英語活動を授業するようになって、この「授業にゲームを取り入れる」ということの「よさ」を知った。中学校での経験が多い私にとっては、新鮮に感じた。もちろん、「習熟」が目的である。ゲームをくり返すうちに、その目的も達成させる。しかしながら、中学年を担任していたときとの違いもある。やはり、学年が上がるにしたがって、そのゲームの「価値」や「よさ」を実感するとともに、学習に中で意識することができるようにしなければならないだろう。
2005.12.14
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「多様」と「多元」について考えているとき、本校が8年前(私は、もちろん本校に赴任していなかったのだが)に出版した「いま、授業をどう変えるか」のなかに、次のよう文を見つけた。 ・・・・・(2) 出力型の学習を作る ここで言う出力型の学習とは、分かったことを生かして何かを作り出していく学習であり、作り出す過程で分かっていく学習である。 分かったことは、それを使ってこそ価値がある。使うことで、分かり方もより深いものになっていく。また、よりよいものを作ろうとすることが、もっと知りたいという入力の学習を促すことになる。 ・・・・・ここでは、「出力型」の学習にすることは、「学習したことを使う」ことをねらいとしているようである。「多様」や「多元」などは意識されていないであろう。しかしながら、これも「出力」と「入力」との両方を意識する「多元的な」学習であるとは考えられないだろうか。「よりよいものを作ろうとすることが、もっと知りたいという入力の学習を促すことになる。」「よりよいものを作ろうとすることすること」と「多元的な学び」には、つながりが感じられる。
2005.12.13
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以前、このblogで「多様と多元」について書いた。なんとなく分かってきたのだが、結構、文章として表すのは難しい。結局、その後、このことを「はっきりさせること」から目を背けることになってしまった。しかし、本校の研究発表会も目前(2月17日)に迫り、この「多元と多様」について、正面から向かい合わなくてはならなくなった。紀要(1年間の研究のまとめ)の中に、このことを書かなければならなくなったのである。その紀要原稿(検討中)の中に、「作品化」とあわせて次のように書いた。 ・・・・・この「作品化」は、「何かを解明する」という追究だけでなく、子どもたちにいろいろな「作品化」するまでの過程に着目させることができる。このことは、子どもたちの学習に対する立場を多元的なものにし、多様な考えを生むことにつながる。 ・・・・まだまだ、中途半端なものである。何を「多元的」なものにするのか、はっきり述べていない。しかしながら、本年度「作品化」に取り組む中で、「学びを多元的なものにすることで、多様な考えを生む」ことを実感することができた。このことを、しっかりと研究発表会での授業に生かしていきたい。
2005.12.12
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2月17日(金)は、本校の研究発表会である。ちょうど、その研究発表会を2ヶ月後に控え、いろいろなことが慌ただしくなってきた。今は、この1年間の研究をまとめる「紀要」の作成に忙しい。教科の理論、実践と「主張が分かる」ように書くことは難しい。特に、私はそれぞれで書かれた文章を検討・確認する係なので、自分のもののといっしょに他の先生方のものも読むことになる。今回、自分の紀要を書くときに気付いたことがある。それは、書くスピードが速くなっているのだ。この1年間、雑紙などの原稿を書く機会が多かったことも理由に挙げられるが、やはり一番は、このblogである。少しずつではあるが、このblogを書くことで「書く力」がついてきたのであろう。3年前に本校に赴任したとき、痛切に感じたことは「話す力」と「書く力」がないことである。もちろん、研究に対して全くの素人だったことが一番の原因なのだが。そこで、私が心がけたことが次の2つである。まず、「場数を踏む」こと。先月、長野まで出かけたのも「場数を踏む」という目的が大きい。もう一つは、ビジネス書を読むことである。書店に行くと、スピーチやプレゼンに関する本がずらっと並んでいる。その中には、「文章を書く」ことについて書かれた本も結構ある。もちろん、佐伯氏や佐藤氏などの本と同じように読むわけではない。しかしながら、参考になることも多い。例えば、和田秀樹氏の「大人のための文章法」である。(私自身、和田氏の主張に必ずしも賛成かといわれると、そうでない部分の方が多いのだが・・・。)その中には、次のように書かれている。 ・・・・・ そして、このような体験を通じていえるのは、「文章が書けない」と悩んでいる人たちはつまらない文章になることを気にせず、とりあえずは型を身につけることから始めるべきだということだ。さらには、それを自分で読み返してみてわかりやすいかチェックする習慣を身につけるだけで、大抵の人は文章力が驚くほど上達するものと信じている。 ・・・・・「型どおりの文章を書く」ことと「わかりやすさに心がける」ということ。今の私が常に心がけていることである。
2005.12.08
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今回の「一版多色刷り」の取り組みの中で最も相互作用が見られたのは、筆を使って線を描く場面であった。ある子どもが拳でグッと筆を握り、腕をブルブルと震わせながら、筆先を紙に押しつけながら描きはじめた。その大胆さに、他の子どもたちは声をあげた。私も、筆が使えなくなるのではないかということを心配するほどである。しかし、その線の「力強さ」が他の子どもたちの描く線にも影響を与えた。今日、ほとんどの子どもたちが「作品」を完成させた。その中のいくつかを紹介する。
2005.12.07
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図工では、この1ヶ月「一版多色刷り」に取り組んだ。普通の版画は、白い紙に黒インクを使って刷るのであるが、この「一版多色刷り」では、黒い紙に水彩絵の具を使って刷る。案外、簡単にできるのだが、今回は佐藤学著「表現者として育つ」の中で紹介されている西岡陽子先生の実践を参考にし、「木」を描くことにした。完成までの学習の流れは、次の通りである。1時間目:校庭の中から、お気に入りの「力強い木」を選ぶ。その「木」に抱きついたり、力一杯押してみたりして、その「力強さ」を感じた後、画用紙に鉛筆で下絵を描く。2時間目:鉛筆で書いた線をもとに、墨と筆を使って「木」を描く。このとき、ゆっくりと「力強く」筆を使うように指示する。その後、絵の具で着色する。3時間目:墨で描かれた線を、トレース用紙に写す。どの後、カーボン紙を使って、板に写す。4時間目~6時間目:墨で描かれた線の部分を彫刻刀で彫る。7時間目~8時間目:絵の具を使って刷る。このような学習によって、個性的で「力強い」作品を完成させることができた。
2005.12.06
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今日から、理科では新しい単元の学習に入る。今回、導入から写真のような「食塩水ロケット」を取り入れる。濃い食塩水がいっぱいに入った穴あきのフィルムケースを、メスシリンダーに入った水の中に沈める。すると、しばらく時間をおいて、フィルムケースが浮かび上がってくる。「食塩水ロケット」とは、この現象を見て、子どもたちが名付けたものである。準備不足で、なかなか浮かび上がらないグループもあったのだが、フィルムケースにあける穴の大きさを調整(大きく)することで、どのグループもその様子を観察することができた。もちろん、子どもたちが最初に着目したのは、フィルムケースから出てくる「もやもや」である。どの子どもも、この「もやもや」にひみつがあると発表する。なかには、この出てくる「もやもや」の量(フィルムケースの穴の大きさ)と、浮かび上がる速さとの関係に気づいた子どももいた。このような気づきを発表させていく中で、「どうしてフィルムケースが浮かび上がるのだろう」ということともに、「もやもや」が何であるかということに強い疑問をもつようになった。もちろん、「『もやもや』は、フィルムケースの中の食塩水ではないか」と多くの子どもたちが予想する。「フィルムケースの中の食塩水に、色をつけて調べてみたい。」このように、次時に向けて、子どもたちは課題を設定していった。
2005.12.05
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5年生の理科では、「条件を制御する」という科学的な思考を育てることを重視している。私のクラスでも、「原因がいくつかあるときは、1つの条件だけを変えながら調べればよい」ことを何度も経験させ、そのたびに説明もしてる。しかしながら、他の単元や教科になると、なかなかうまくできない。条件制御して調べていくことを「形式的」には知っているのではあるが。佐伯胖氏は、この「『形式』にしたがって思考すること」について、「『わかり方』の探究」の中で次のように述べている。 ・・・・・ 思考は、「具体から抽象へ」と発達するというが、人は本当に「抽象的に」思考できるのか。本当に「形式」に従って思考しているのか。文化的な実践の文脈でこそ思考がはたらく、ということは、思考が状況の具体的な事物に結びついているのであり、それを一般化・抽象化・形式化して思考しているとは考えることはできないだろうか。 そもそも具体を離れた思考は存在するのだろうか。もしかすると、人が「形式」を操作できるのは、その「形式」の意味づけや意義づけが感じられて、多少なりとも、現実の場面でのきわめて具体的な状況を「思い起こさせる」はたらきを失っていないからではないか。 ・・・・(略)・・・・ つまり、思考の「発達」は「具体から抽象へ」いくのではなく、具体からより広い具体へと発達し、そのような具体的状況の中で有効さがすぐに検出できるかぎりの「形式」が(具体性へのつながりをもったまま)獲得されていくのではないか、ということになる。 ・・・・・「何度も経験させることで」はなく「文化的実践の文脈」が必要なのであろう。
2005.12.02
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地区音楽会(近隣の小学校の代表が集まる)が終わった。他の学校と比較するわけではないが、よく声が響いていたと思う。これまで、この3週間、毎日練習してきた成果だと思う。しかし、誤解しないでほしい。毎日練習したが、「特訓」をしたわけではない。ただ、毎日「外」で歌う練習をした。(はじめたとき、私は「特訓」のつもりだったのだが・・・。)裏庭、非常階段、屋上、プールサイド、運動場の真ん中、イチョウの木の下(ちょうど、一番葉が黄色に色づいていたときだった)と、子どもたちと相談して練習する場所を決めた。もちろん、1,2回通して歌うだけなので、時間としては10分程度である。「大きな声が出ればよい」というくらいのつもりではじめたのだが、子どもたちには、けっこう「人気」のある練習法であった。何となく「気分転換」になるのであろう。(「外」にも、歌いやすいところ、そうでないところがある!)デメリットもある。声が「地声」になることである。せっかく、音楽専科の先生に「天使のような(?)」歌声をしてもらっても、外で歌うことで元に戻ってしまうこともしばしばあった。そんなとき、子どもたちに「外で歌うのは、もうやめよう」というのだが、「えー」と大きな声で抵抗された。とうとう、音楽会の前日まで、外で練習してしまったのだが・・・。結局、地区音楽会本番では、「雑」な部分が残ってしまった。(校内音楽会では、ホールの響きがごまかしてくれた。)しかしながら、その歌声に大満足である。練習の中でも感じることのできなかった感動があった。
2005.12.01
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