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今日で8月も終わり。今年の三分の二が終わろうとしている。早い、速い。雨が降るようになって、本当に朝夕は涼しくなった。しかし、太陽が顔を出す昼間は、相変わらず暑い日が続いている。縄文杉について質問があった。10月に三人で来る予定の人から。一人が縄文杉へ行きたがっているらしい。しかし、残りの二人は体力に自信がない様子。次のような返事を書いた。【縄文杉は、あまりお薦めしません。一日に20Km以上、10時間以上歩くのは、かなり無理があります。朝5時には宿を出て、6時から歩き始める必要があります。駐車場に戻ってくるのは、夕方の5時ぐらいです。本当に疲れますよ。普段歩いてない人には、きついと思います。(若い人だと歩けちゃいますが・・・)しかも、着いても、縄文杉に触れることはできません。遠くの展望デッキから見るだけです。その上、行く人が多いので、デッキの上は渋滞していることもあります。ゆっくり味わうこともできず、記念写真を撮って帰るだけです。それに、トロッコ道が三分の二で、楽しめる景色もあまりなく、面白くありません。森の中は、すばらしいですけど・・・縄文杉は超有名なので、行きたい気持ちはわかりますが・・・縄文杉は、どちらかと言うと、目的達成という感じなのですよ。周りの景色をゆっくり楽しむ余裕はないのですね。それは今の社会の生き方で、もう古いんですよ。大切なのは、プロセスを大切にして、楽しむことなんですね。そういう意味で、ゆっくり屋久島の自然を味わう方をお薦めします。縄文杉へ行った人は、一度だけでいいという人が圧倒的に多いですね。それだけ疲れるということです。何度も行くようなところではないのですね。もし本当にすばらしいところだったら、何度でも行きたいと思うでしょう?でも、大多数の人はそうは思わないのですよ。それが端的に示していますよね。憧れて行く人は多いけど・・・こちらは何度も行っているので、ぜんぜん行きたいとは思いません。ただ疲れるだけ。一度は見てみたいという気持ちはわかりますが・・・三人一緒に縄文杉に行くのは無理があるでしょうね。どうしても行きたかったら、別の機会にするとか。あるいは、別行動?時間はまだたくさんありますので、三人でよく相談してください。】屋久島で一番有名なのは、縄文杉。行く人も多い。ガイドも半分ぐらいは縄文杉で食べているようなもの。縄文杉がなくなったら、ガイドは今の半分になるに違いない。距離的にも時間的にも長いので、自分達だけで行く自信はない。そういう人が圧倒的に多い。そのために沢山のガイドがいる。しかし、ガイドがいても、おんぶしてくれる訳ではない。20Km以上、自分の足で歩く必要がある。歩くだけで精一杯というのが実情だろうか。周りを楽しむ余裕はない。特に帰りは疲れ果て、駐車場に着くことだけが気にかかる。20Km=10時間は、予想よりハード。多くの人は、縄文杉ばかりに意識が行く。森の中に入れば、途中に大きな杉もたくさんある。なかなか楽しめる森なのだが、そんな余裕がある人は少ない。どうしても目的達成ばかりに意識が向く。それは今の時代の生き方。結果、実績主義。プロセスを楽しまない。それはさびしい。目的を達成した時には、達成感と共に喪失感も存在する。目的達成の後は、ただ過去を懐かしみ自慢するだけ。新たな目標を見出すまでは、過去に生きることになる。未来志向か過去志向。それが目的達成型の生き方。今志向ではない。縄文杉を見たいのは、一生に一度は富士山に登りたいのと同じだろうか。それも否定はしない。富士山にも何度も登ったし、縄文杉にも何度も行っている。それも悪くはない。しかし・・・もっとすばらしい森や山もたくさんある。じっくり味わって楽しめるところが、いくらでもある。そんなに無理をしないでも、ゆったりと楽しく生きればいい。今はそちらの方を薦める。目的達成型は、もう古い。未来志向か過去志向では、今がさびしい。今を犠牲にして未来のために備える。それでは今があまりにも虚しい。そういう生き方をさんざんしてきて、今は、この瞬間を大切に生きることの方が真実のように思う。体力に自信があれば、縄文杉や富士山もいいだろう。でも、そんなに無理をすることもない。余裕を持って楽しんだ方がいい。縄文杉は無理をするので、けが人が多い。今年は亡くなった人まで出た。捻挫や骨折は日常茶飯事。無理をし過ぎて持病の発作が起きる人もいる。ほどほどに・・・今、今、今・・・今を味わい生きること。今を楽しみ生きること。余裕を持って今を生きる。それが人生を豊かにする。『目的に 意識が行って 今ここは 虚空となって 見失われる』『目的に 意識が行って 今ここの 自分自身が 存在しない』『目的を 達成しても 残るのは 自己満足と 喪失感だけ』『目的の ためにすべてを 犠牲にし 達成するのが 古いやり方』『今ここを 楽しみながら 越えてゆく 今いるところが 人生のピーク』これが607日目の心境です。
2006.08.31
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日記が煮詰まって、なんとなく時間が過ぎていった。そうこうしていると、午後と夕方に一人ずつお客さんがあった。あまり尋ねてくる人はいないのだが、来る時はまとめてやって来る。夜になって、みんなのコメントを読んで、がぜん書く気が起きた。自分自身も、このサイトのエネルギー場に助けられている。次のような書き込みがあった。【本当のことがなんだか分からないのに、いっぱい考える。分からないものが確信できるものを探し求める。そして情報に振り回される。。。思い込みワールドの風船を膨らませているだけなんですよね。事実が確認できるまで、あらゆる情報は仮定のままにしておく。とても共感します。】わからないものを、わからないままにしておけない。なんとかモヤモヤを晴らそうとする。何か自分が納得できる答を欲しがる。それもまた自我の行為の一つ。わからないものを、どうしてわからないままにしておけないのだろうか。わからないままでは自分が不安なのだろうか。不確定のままでは安心できないのだろうか。なんとか確定させて安心したいのだろうか。わからないものを、わからないままにしておけるのも、キャパシティの一つ。人は不確定なもの、曖昧なものをはっきりさせたがる。それも悪くはない。必要な場合もある。しかし・・・多くの場合は、不確定では自分が心配だから。自分が安心したいがために確定させたがる。何かで説明がつくことによって安心する。それは何を意味するのだろうか。それはすべてを自分の支配下におきたい、すべてを自分のコントロール下におきたいということの現れだろうか。自分の元を離れて自由に動き回られては困るのだろうか。困るというより、自分が安心できないということだろうか。人はすべてのことを自分の解釈下におきたがる。自分なりの説明をつけて納得する。それによって自分のものになったかのように安心する。自分の中に解釈や判断と共に仕舞い込む。そうすることで自分ワールドが安定する。何かわからないものを、そのままにはしておけない。それでは自分ワールドが不安定になってしまう。すべてを支配する。すべてをコントロールする。すべてを所有する。それが自分ワールドの主人公のやること。わからないものを、わからないままにしておく。支配しない。コントロールしない。何も所有しない。そういう生き方ができるだろうか。不安定と共にいる。不確実と共に生きる。それは自我の生き方とは異なる。自分なりに解釈し、判断して記憶に収めれば、それは自我の根拠となる。次からは、それによって解釈し判断するようになる。その積み重なりが、自我そのもの。自己所有の堆積物。安定した基盤の上で生きたい。そのための自分流の解釈や判断。それらが積み重なった先入観や固定観念。その集大成が自我そのものに他ならない。それらのものを一切外す。何も所有しない。わからないものは、わからないまま。不安定のまま、不確実のまま。そういう生き方ができるだろうか。心配することも 不安になることもなくわからないものは わからないままに不確実なものは 不確実なままに生きることができるだろうかゆれながら しなやかに流れながら 軽やかに自由に おおらかに生きることができるだろうかもしできるならばそれは自我の生とは異なるものとなる『わからない ままではとても 心配で わかって安心 しようともがく』『心配や 不安と共に いられずに わからないこと わかろうとする』『支配して コントロールして 所有して すべて自分の 思うがままに』『わからない ものはそのまま わからない ままにしておく 事実と生きる』『わからない ものはそのまま 見守って 事実と共に ただ生きてゆく』これが606日目の心境です。* 「605日目 - ドロドロ」も同時にアップしました。
2006.08.30
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また暑さが戻ってきた屋久島。朝夕はだいぶ涼しくなったが、昼間は暑い。次のような書き込みがあった。【ハートを・・心を・・開きたい・・。愛を感じて愛の交流をして、生きたい!ハート開きたい!もう~どうしたら開けるの?・・開かなくっちゃ!楽しまなくっちゃ!リラックスしなくっちゃ!・・気がついたら、ガチガチに固まって、意固地になって、とてつもない怒りまで込み上げて来てしまい、もうだめだわ・・どうせ・・と諦めていました。これも、いつものパターンみたいです。ありのまま。自分に素直に正直に生きる。・・でもありのままの自分は深い所で、もの凄いドロドロしていて・・愛とは程遠い所にいます。そして、そんな自分も見守る・・つもりが気がつけば、徹底的に否定して潰そうとしていました。>『幸せに なりたかったら 幸せを 意識しないで ひたすら生きる』沢山のサポートにも感謝する事さえ出来なくなり、いったい私はどうしたいのか・・今の私にできる事は、「ひたすら生きる。」って事なのでしょうか。屋久島の清らかな水の写真を眺めながら・・ぼんやりしてました。思いっきり低い波動でごめんなさい。書き込ませていただいて、ありがとうございました。】何々したい!何々しなくっちゃ!と、あまりに強く思い過ぎると、本当にカチカチに固まってしまう。リラックスしなくっちゃ!と思って、リラックスできる人はいない。あ、カチカチに固まってる!と気づいて、肩の力を抜くしかない。・・・ねばならない、・・・べきだ、の世界は苦しい。ただ理解する。それだけ。後は自然にまかせる。本当に理解されれば、自然に変わる。変わるしかない。カチカチに固まって、意固地になって、怒りが込み上げてくる。そして、もうダメだと諦める。いつものパターン。そのパターンに気づくことだろうか。またやってるな・・・好きだなぁー。飽きもせず、凝りもせず、よくもまあ繰り返すものだなぁー。ほとほと呆れ果てて、言葉もない・・・それがありのままの自分。良いも悪くもなく、事実。単なる事実。自分の深いところは、ものすごいドロドロ?まるで底なし沼?無限地獄?それほどでもない?いずれにしても愛はない。光もなければ希望もない。あるのは絶望だけ?感謝することもできなくて・・・いったい私はどうしたらいいの?どうしたらいいのだろう?ハー、糞詰まり?便秘?困ったね・・・ドロドロがあるということは、ドロドロと認識できるということは、ドロドロ以外のものもあるということだろうか。もしドロドロだけであったら、ドロドロを認識することもできない。ドロドロ以外のものを認識できるからこそ、ドロドロもまた認識できる。つまり、すべてがドロドロという訳でもない。ドロドロもあるけれども、ドロドロ以外のものもある。なければ、ドロドロは認識できない。自分の感性がドロドロオンリーであれば、ドロドロさえも感受できない。ドロドロと感じることができるということは、まだ希望が持てるということでもある。ドロドロ以外のものが自分の中にあるのだ。ドロドロをドロドロとして感じているものが。大きな器の中にドロドロがある。実は、ドロドロはほんの一部でしかない。表面の方がドロドロに覆われているだけ。深い深いところには、まったくドロドロはない。表面がドロドロに覆われているので、深いところは見えない。表面がドロドロなので、深いところもドロドロと思い込んでしまう。しかし、すべてがドロドロでは、ドロドロを自覚することすらできない。ドロドロではないピュアーな感性がないと、ドロドロは自覚できない。つまり、すべてがドロドロではない。ドロドロと感じる、ドロドロではない感性が存在する。感性も濁る。感性も鈍くなる。しかし・・・感性の元は、濁りも鈍くなることもない。純粋な感性そのものはピュアーなまま。それは水のようなもの。濁っているように見えても、それは泥や汚れがくっついているだけ。濾過すれば、元のピュアーな水に戻る。感性というのは、本質的には汚れることも濁ることもない。ただ付着物がたくさん付いて、ドロドロのように見えるだけ。ドロドロは付着物であって、本質的なものではない。ドロドロと感じる感性こそが、自分の本質。それが自覚できれば、何によっても揺らぐことはない。しかし、表面がドロドロであると、意識までその影響を受ける。それによって間違った思い込みをしてしまう。自分自身がドロドロそのものであるかのような・・・ドロドロもある。自分の中にはドロドロもある。それは事実。だから、そのまま素直に認める。でも・・・だからといって、自分のすべてがドロドロと決めつけてしまうのは早とちりというもの。それは早計であり、間違った思い込み。事実は、自分の一部がドロドロであるということ。ほんの一部が・・・ドロドロを感じる感性を大切にするといいだろう。ドロドロそのものになりきらない感性を。本質的に汚れることも濁ることもない感性を。濁っても汚れても、なおピュアーな感性が人の内にはある。あるからこそ、自分の濁りや汚れを自覚することができる。それは信じるに値する。別に信じなくてもいいけれども、できればそれを理解してほしい。ドロドロを感じる感性があることを。それはドロドロではないことを。ドロドロでないが故に、ドロドロを感じることができることを。人は、そんなに捨てたものでもない。もうダメだと思うのは、表面意識がすねているだけ。どうにもできない自分に困り果てているだけ。自虐的になって自分を慰めているだけ。そういう遊びに興じる暇があったら、素直に生きればいい。シンプルに、ストレートに。余計な思いを持たないで、ドロドロと生きればいい。ドロドロはほんの一部なのだから・・・最後の最後まで諦めないで生きること!『リラックス せねばならぬと 思う時 心も体も 固まっている』『ねばならぬ そうあるべきと 思い込み 自分で自分 縛り苦しむ』『コチコチに なっているのに 気づいたら 力を入れて 力を外す』『変わろうと すればするほど 変われない 変わろうとする 心変わらず』『理解する 後は自然に 任せきる 理解されれば 自然に変わる』『ドロドロと 思い込むだけ 真実は ほんの一部が 汚れているだけ』『ドロドロと 八岐大蛇(ヤマタノオロチ) 現るる 魑魅魍魎(チミモウリョウ)に 翻弄されず』『ドロドロと 感じる感性 ドロドロに なることのない ピュアーそのもの』『ドロドロは 自分の中の 一部だけ 根本的に 濁ることなし』『最後まで 諦めないで 生きること 最後の最後に 光に遭える!』これが605日目の心境です。
2006.08.29
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雨の屋久島になっている。明け方からすごい雷と豪雨。久しぶりに落(おとす)の滝が太くはっきり見える。今日は短歌だけの日記です。『自分さえ よければいいと 思う時 ハートは閉じて 幸せ消える』『自らの 利益になるから やる時に 幸せ遠く 去ってゆくだけ』『自らの 利害得失 ない時に 幸せが来る 可能性あり』『幸せに なるためだけに 生きる時 いつまで経っても 幸せ来ない』『外側に 幸せ求め 彷徨えば 移り変わりに 翻弄される』『幸せに なろうと思って 生きてても ハート閉じては 幸せ遠い』 『幸せは 求めるものに あらざれば 追い求めれば 逃げてゆくだけ』『幸せに 気づいた時は そこにある 何もせずとも ハート開けば』『幸せに なりたかったら 幸せを 意識しないで ひたすら生きる』『当たり前 何でもかんでも 当たり前 それでは幸せ やっては来ない』『何気なく 感謝の言葉 出る時に 幸せ傍に 寄り添っている』『ないものを 求めるよりも あるものを じっと見守り 深く味わう』『幸せは 内なるハート 開くこと ハート開けば 愛があふれる』これが604日目の心境です。
2006.08.28
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雨の降らなかった屋久島が、少し様子が変わってきた。今日はかなりの雨が降った。農作物にとっては恵みの雨。知り合いから、「9.11テロ捏造 日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ」という本が送られてきた。友人・知人に片っ端から送ったらしい。リッチな人なので、後で請求書が届くような心配はない。2001年のテロから5年が経とうとしている。当初はアメリカ政府の発表を鵜呑みにしていたアメリカ人も、今では公式発表を信じない人の方が多くなっているようだ。特にインターネットの世界では、あれはアメリカ政府の自作自演ということで決着がついたらしい。アメリカで大論争になった時、政府発表の矛盾点を打ち消すことができなかったようだ。二機の飛行機が貿易センタービルに激突した。しかし、それだけでビル全体が崩壊することはあり得ないらしい。ジェット燃料が完全燃焼したとしても、鉄骨を溶かす温度にはならない。まして、鉄骨やコンクリートが粉々になって飛び散ることなどあり得ないとか。二棟のビルが崩壊する映像は、古いビルをダイナマイトで破壊するのとよく似ている。あれは飛行機が激突したからではなくて、事前に爆薬が仕掛けられていたらしい。崩壊の数日前に警備上の都合からビル全体が48時間立ち入り禁止になっていた。また、爆薬を仕掛けるのにちょうどいい空き部屋が沢山あった。実は、飛行機が激突した二棟のビルだけではなくて、そのすぐ隣の7号棟も崩壊している。飛行機も激突していないし、火災も発生していないのに、突然、崩壊した。それは爆破以外の何ものでもない。この7号棟でさえ、池袋のサンシャインビルほどの高さがあった。不思議なことに、飛行機に乗っていた乗客の死体や遺留品はまったく見つかっていない。それどころか、乗客名簿すら公表されていない。ただ、犯人のパスポートだけが無傷で発見されている。そんなバカな・・・ペンタゴンにも飛行機が激突したことになっているが、飛行機の乗客だけでなく、飛行機の破片すら回収されていない。その激突跡は、飛行機のサイズよりも遙かに小さい。第一、飛行機は機体自体がアルミ缶のようにつぶれてしまうので、ビルを奥深くまで壊すことはできない。にもかかわらず、奥のビルまで壊れている。ペンタゴンに激突したのは、旅客機ではなくてミサイルだろうとのこと。貿易センタービルに激突したのも、旅客機ではなくて軍用機ではないかとのこと。なぜなら、目撃者の情報によれば、窓のない飛行機だったらしい。いずれにしても、怪しい怪しい公式発表ではある。疑問点に明確に答える反論は今のところ出ていない。何もかもが秘密裏に処理されているようだ。テロへの戦いを始めるためのテロ?やらせ?戦争を始めるための自作自演?そのようなことは、9.11直後にもささやかれていた。その時は、あり得ないことではないなという感じだった。それが今では、明らかに作為的なものだろうという感じになっている。もし、それらが事実であれば、私達はとんでもない世界に住んでいることになる。どこに正義はあるのだろうか・・・ただインターネットの世界にだけ、わずかな希望があるのかもしれない。それもかなり危ないものだが・・・中国もアメリカもインターネツトを規制したがっている。情報を管理したがっているのだ。何が事実?政府の公式発表が事実?とは限らない。では、事実かどうかを何によって知るのか。それは・・・頭から信じ込まないことだろうか。事実が確認できるまでは、仮定のままにしておくことだろうか。信頼できる人の見解を参考にしつつ、事実を見極める姿勢を保つことだろうか。今から10年ぐらい前、まだ光のセミナーをやっていた頃。ある人の個人セッションで、9.11とそっくりの光景が出てきたことがあった。ニューヨークが瓦礫の山になっていた。まるで爆弾が落ちたような・・・その時は何のことだかよくわからなかった。9.11の事件が起きて、このことだったのかと気づいた。早過ぎてもよくわからない。直後でさえ事実は霧の中。5年経って、やっと事実関係がはっきりしようとしている。その時の個人セッションでは、太平洋に新しい大陸が隆起する感じだった。それもこれから起きるのだろうか。別の人の個人セッションでは、北朝鮮のテポドンが出てきたこともあった。実際に発射される7~8年前のこと。しかし、北朝鮮はミサイルを正確に制御することができないので、心配はいらないとのことだった。いろんな人の個人セッションを通して、未来のこともたくさん出てきた。これからの基本的な流れは、そういう中で把握されたような気がする。地球の未来は明るい。人々は自然と共に暮らすようになる。地球の自然は美しく再生する。今の時代は、戦争とテロの時代。しかし、その流れとは別に、自然とスピリチュアルが融合する流れもある。どちらの流れで生きるか、それは一人一人が決めること。何も心配はいらない。自分の中の深い深い意識と共に生きれば、何も問題はない。自分ベース。自分自身に深くグランディングして生きることだろうか。外の情報に振り回されないで、自分自身を深く掘り下げることだろうか。周りのことも、何も思い込まず、冷静に見守る。自分自身も、思い込みを外し、静かに見守る。深く深く生きれば、外の喧噪に左右されることはない。『本当の ことが何だか わからない 時は静かに 様子見守る』『戦争で 世界支配を めざそうと 人を騙して 利益貪(むさぼ)る』『慌てずに 周りの状況 見極めて 自分自身を 深く生き抜く』これが603日目の心境です。
2006.08.27
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雨の降らない屋久島が続いている。それでも、森の中は涼しい。夏休み最後の週末で、白谷雲水峡は混んでいた。太鼓岩からの眺めは、宮之浦岳方面に雲がかかっていた。この世はタイミングだろうか。虹に出会うのもタイミング。光のショーに出会うのもタイミング。すべてはタイミング?ところが、そうとばかりも言えないようだ。虹を見る人、見ない人。光を見る人、見ない人。確かにちょっとしたタイミングの差とも言える。しかし・・・いろんな人をガイドしていると、その一日がどんなツアーになるか、なんとなくわからないでもない。思わぬハプニングも起きる。でも、その人が持っている波動は、どうすることもできない。やはり、その人の波動に応じた現実が現れてくるような気がする。最初に会った瞬間で、その人の持っている波動はわかる。精妙か荒いか。詰まっているかクリアーか。日常をどんな感じで生きているか・・・屋久島で起きる現実は、やはり、その人が持っている波動に準じたものとなる。良いも悪いもなく、ただその人の波動が、その波動に見合った現実を呼び寄せる。同じところを同じようにガイドしていても、起きて来る現象は異なる。正確に言えば、同じところでも日々、天候や状況は異なる。けっして同じようにガイドはしていない。その人その人に応じたガイドをしている。自然に対応が違っている。その人に合った現実が起きて来る。その人の波動に応じた現実が起きて来る。不思議なくらい、そうなる。たくさんの人に会ってきて、最近はそのように感じる。いろんな人たちを一緒にすれば、そういうことははっきりしない。しかし、こちらは貸切。そのお客さんがつくり出す現実を如実に体験できる。同じところを案内していても、現実はお客さんの数分だけある。虹も、温泉に寄っていなかったら出会えなかったかもしれない。早くホテルへ入ってしまえば、虹に気づかない可能性の方が高い。もう少し早く木霊の森を出ていても、もう少し遅く木霊の森を出ていても、虹には出会えない。そんなことを言い出したら、宿を出る時からのタイミングということになる。それは偶然とも言えるし、必然とも言える。どちらかというと、必然という感じがする。なぜなら、そのタイミングで虹に出会うためには、ありとあらゆるものがその時間にタイミングを合わせなければならない。それは奇跡に近い。偶然では起こり得ない。虹を見る人は、虹を見るようになっている。そうなるしかない。タイミングはつくられる。その人の波動が、そのようなタイミングをつくり出す。そんな気がする。ありとあらゆる現実は、同じような原理に基づいている。自分の波動がつくり出す現実。自分の現実は、自分がつくり出している。多くの人を見ていて、そのように感じる。それは運命論や宿命論に左右されないことを意味する。自分の波動しだい。自分の波動が変われば、現実も変わる。現実を変えたかったら、自分の波動を変えること。自分の波動に見合った現実が展開しているだけ。自分の現実をつくづく眺めながら、自分の波動に気づくといい。自分の現実をつくり出している源に。そして、現実を変えたかったら、波動を変えればいい。『それぞれの 波動が現実 つくり出す 波動変えれば 現実変わる』これが602日目の心境です。
2006.08.26
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朝10時に空港に迎えに行く。今日は男性一人。男性一人というお客さんは極めて珍しい。大多数は女性。もしくは、夫婦かアベックかファミリー。女性の一人旅は多いけれども、男性の一人旅は少ない。話を聞くと、陶芸の窯元とのこと。徳川時代から続く由緒ある家柄らしい。とても珍しい苗字は、徳川11代将軍家斉からいただいたものとか。お父さんが7代目。お兄さんが8代目。自分が9代目を継ぐかもしれないとのことだった。98歳になる6代目の奥さん(祖母)も健在とか。大家族のようだ。江戸時代は大名相手の茶器専門の窯元だったらしい。今も茶器がメインだが、最近は創作陶芸にもエネルギーを注いでいるとか。その他にも陶芸教室とか、いろいろやっているようだ。緑色を出すために、銅の微粉末を釉薬に混ぜるらしい。その割合は代々の秘伝とか。木霊の森に着くと、たくさんの写真を撮るだけでなく、スケッチも始まった。水彩で緑の世界が描かれていく。これまでヒマラヤやモンゴルなどを旅し、その風景を作品にしたらしい。今度は屋久島の風景が焼き物になるのだろうか。スケッチの間、こちらは瞑想したり、写真を撮ったり、木々を眺めたり・・・かなりのんびり過ごすことができた。とてもゆったりした時間が流れる。そういう時間がほしかったようで、とても満足してもらえた。団体行動では、とてもスケッチなどをすることはできない。こんな感じのツアーがいいらしい。天気が良くて、木霊の写真は撮れなかった。しかし、天気が悪くてはスケッチはできない。この天気でよかったとのことだった。スケッチは、最初の大岩の上と、いつも昼食を摂る見晴らしのよい水辺と、木霊の森の一番奥の滝のところの三カ所でおこなわれた。水墨画のようなあっさりした画風だった。このスケッチをベースにした作品が、やがてできあがることだろう。それはデパートなどの個展で展示され、気持が動いた人に引き取られていくのだろうか。最後に名刺をもらった。ホームページがあるので、ぜひ見てほしいとのことだった。なかなかステキな作品が並んでいた。創作陶芸の世界。アドレスは、こちら。http://www.kikkogama.co.jp/ガイドをやっていると、いろんな人に出会う。そして、いろんな話を聞く。人数が少なければ少ないほど、親密な話ができる。なかなか楽しい。リッチになって経済的には仕事をする必要がなくなっても、時々はガイドをしてもいいなと思う。いろんな人と出会えるし、一緒に自然の中を歩くのは楽しい。日記ばかり書いていると、煮詰まってしまう。時々は自然の中に入る必要があるのだ。たまには知らない人と会うのもいい。これまでとは異質の波動に出会うと、こちらも刺激を受ける。刺激を受ければ、こちらも活性化する。外からの刺激というのも、内側を活性化させる重要なファクターなのだ。たくさんのガイドがいる白谷雲水峡などではなくて、誰もガイドをしていないところを案内したい。他の人がやれるところは、他の人にやってもらえばいい。こちらでしかできないことをやりたい。オリジナリティというもの。今は生活のためにやっているという側面もある。それが前面に出過ぎると、楽しくなくなる。いやいややるような感じになってしまう。そうではなくて、楽しみながらやれたら最高だろう。最近は、だんだんそんな感じになってきている。いろんな人に出会うのは楽しい。いろんな人と一緒の時を持つのは楽しい。最後には、みんな楽しかったと言ってくれる。お互いに楽しければ言うことはない。『ゆったりと 出会い楽しみ ゆったりと 森を歩けば 共に楽しい』これが601日目の心境です。
2006.08.25
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恋愛を超えた恋愛恋愛と呼ぶことさえできない恋愛自我のまったく入らない恋愛求めることも所有することもない恋愛究極の愛の姿ただ愛が響き合っている同じ響きで同時に響き合っているただ共振・共鳴しているそれが無常の幸せもう何もいらないただ一緒にいる響き愛ながら言葉のいらない世界ただ一緒に響き合うだけの世界愛の共鳴愛の共振ただ黙って同じ空間を共有している同じ響きを共有している共に響き愛ながら恋愛は思考の次元の思い込み自我の所有の世界その次元を遙かに超えたところに響き愛がある何も求めず何も所有しないただ一緒にいるただ一緒に響き合っている愛の響きの中で『響き合い ただ響き愛 共にある 自他は薄れて ただ愛がある』これが600日目の心境です。* 今日は新月のためか、同時に三本書けました。 8月23日「599日目 - ゴールドルチル」と 8月4日「580日目 - 人生の質」も同時にアップしました。
2006.08.24
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隣のY翁から黄色い瓜をもらった。屋久島産の瓜とか。こういうものは、最近ではあまり見かけない。果物屋で売っているのは、緑色のメロンばかり。子供の頃は、よく食べた。夏になると、スイカや瓜を毎日のように食べた。食べたのは黄色い瓜で、今のような大きなマスクメロンを食べた記憶はない。メロンもたまに食べた気がするが、せいぜい小さなリンゴぐらいのメロンだった。黄色い瓜を見ると、なんとなく懐かしくなる。味は、そんなに美味しくはなかった。マスクメロンには、到底かなわない。でも、なんとなく郷愁をそそる瓜だった。黄色と言えば、相変わらずゴールドルチルクオーツを集めている。今年はプアーにもかかわらず、かなり購入した。最近は、特にクラスター(群結晶)の良いものが日本に入ってきている。以前はあまり見かけなかったが、時々入荷するようになった。但し、それを購入できるのは奇跡に近い。良いものは一日も待ってくれない。アップされた途端に売れていく。すべてはタイミング。アップされた直後にサイトを見ることができれば、購入できる。タイミングが合わないと、良いものは売り切れとなる。残っているのは、あまり魅力を感じないものか、極端に高価なもの。手ごろな価格で質の良いものは、すぐに売れてしまう。そういう中で、今年はかなりのゴールドルチルを購入することができた。今年使ったお金は15万円ぐらいだと思うが、それにしてはすばらしい品揃え。もうパソコンの前にみんな並べて置くことはできない。1~2cmの小さなものまで加えると、ゆうに50個を超える。そのうちの15個ぐらいは、本立ての中にしまわれている。既に何個かは他の人のところへ行った。毎日眺めて楽しんでいるのは、三分の二ぐらいだろうか。他のものは、これから順次別の人のところへ行くことだろう。どうしてこんなにゴールドルチルを集めたがるのだろうか。こんなにあるのに、まだほしいと思っている。ネット上に、買ってもいいかなと思うものがいくつかある。しかし、今はお金がない。8月は車検があり、DVDレコーダーなどのボーナス一括払いのツケが回ってきた。7月は仕事も少なかったので、財政難なのだ。どうしてもほしいものであれば借金をしてでも買うが、それほどのものでもない。お金の余裕ができたら買おうというレベルのもの。お金がない時は、写真をコピーして、眺めて楽しむ。残念ながら売却済みで買えなかった時も、写真をストックする。ゴールドルチルは、写真だけでも相当楽しめる。写真であれ実物であれ、ゴールドルチルそのものが好きなのだ。今、ネット上にあるのは、ゴールドルチルのポイント(単結晶)が多い。ポイントは高い。大きくなればなるほど、幾何級数的に高くなる。その点、クラスターは安い。個々の結晶は小さいが、最もナチュラル。自然に存在している形のまま。大きい単結晶もいいけれども、小さな群結晶もすばらしい。それぞれ個性があって、とても楽しめる。中には驚くほど美しい結晶もある。この世にこんなに美しいものがあるのかと思うくらい美しい。光が当たれば、更に美しくなる。ゴールドルチルクオーツは、今、ブームになっている。特にブレスレットなどは、たくさん出回っている。質も価格もピンからキリまで、かなりの差がある。金線=金銭で、お金が入ってくるパワーストーンとして人気がある。ギャンブル運や投機運を高めるということで、リッチな人たちが高価なものを求めている。特に中国では昔から貴重品として珍重され、最近は成金たちが競って買い求めている。産出量は減少気味で、値段は鰻登り。日本でもニューリッチ層を対象に、何百万円もするものも出回っている。幸いなことに、ゴールドルチルの原石は、それほど需要がない。特に中華圏ではまったく人気がないようで、みんな加工されてしまう。おかげで、クラスターはそんなに高くない値段で日本に入ってくる。最高級のものはあまり来ないが、ほどほどのものはやって来る。それを楽しませてもらっている。ゴールドルチルには、金運の他にもいろんな作用があると言われている。有名なところでは、恋愛運アップ。ゴールドルチルの別名は、「ビーナスの髪」「キューピットの愛の矢」。金の針が愛情や友情を育むらしい。人間関係全般を良い方向へ導くようだ。この他にも、生命力を高め、魅力的にする。生殖腺を活性化し、セックス運も高める。体力、気力、精力とも充実。つまり、肉体が活性化し、細胞が若返り、エネルギッシュになるのだ。しかし、既に50個以上のゴールドルチルを手にしても、リッチになった気配はない。モテモテという実感もないし、精力絶倫になった覚えもない。別にそういうのが目的で購入している訳ではないので、それでも問題はないのだが・・・ゴールドルチルの効用は?実は、ゴールドルチルの効用は他にもある。それは人と宇宙を繋ぐ役割。金の針はアンテナ。宇宙と人とを繋ぐアンテナ。宇宙からのエネルギーが第七チャクラへ降りるのをサポートする。金の針は磁気的な伝導性を高める。潜在していたスピリチュアルな本質を引き出す。直観力や洞察力。肉体の活性化だけでなく、霊的な活性化にも効果があるようだ。宇宙と繋がり、宇宙のエネルギーを充電する。その結果、潜在していたスピリチュアルなものが顕在化してくる。それによって、自己信頼が増し、真実を見分ける力がアップする。それは的確な判断力や広い視野を与える。そういうものが投機やビジネスチャンスを的確に捉えることに繋がる。この世的なものは結果に過ぎない。宇宙からのエネルギーが充電されることによって心身が活性化する。それによって体力、気力、精力が充実する。金運がアップするのも、的確な洞察力や判断力がアップするから。それらはすべて結果。この世のことはすべて結果。精神性がアップした結果。それによって、毅然とした自信に満ちた態度がとれるようになる。勇気や決断力も備わってくる。真っ直ぐで高潔な心が発達する。宇宙から高貴なエネルギーが入ってくれば、そのようになる。もう一つある。それは創作意欲を掻き立てるらしい。クリエイティブになるのだ。宇宙と同じように自分もクリエイティブになる。別にゴールドルチルを持つまでもない。宇宙と繋がれば、これらのことは自然に起きる。ただ、ゴールドルチルを持つことによって、それがよりスムーズに進むということだろうか。ゴールドルチルは、宇宙と繋がるのをサポートしてくれる。宇宙と繋がって、それを金運や恋愛運やセックス運に使うのも自由。的確な判断と決断力。その前提としての直観や洞察。できれば、それらのものをみんなの役に立つように使えば、更に磨きがかかるだろう。私利私欲に使えば、それらの能力は発達しない。私利私欲ということは、この世的、物質的ということ。宇宙的とは矛盾する。私利私欲ばかりに使えば、やがて宇宙からのエネルギーは途絶えるに違いない。みんなの役に立つように使うのが宇宙の心。その意に反した使い方は、やがて宇宙のエネルギーから離れることになる。内なるスピリチュアリティを確立し、宇宙と共に生きていく。それがゴールドルチルクオーツの本来の使い方だろう。そういう生き方を指向する時には、ゴールドルチルは大いに役に立つことだろう。自分にとってのゴールドルチルとは?別に目的を持って購入している訳ではない。ただ買いたいから買っている。見ていると何とも言えず幸せだから買っている。美しいし、きれいだし、すばらしい・・・それは結果的に、宇宙と繋がることを手助けし、日記を書くことをサポートしているのかもしれない。この日記は自分だけの力ではないのを感じる。見えないサポートがあるのを感じる。その一翼をゴールドルチルは担っているのかもしれない。『宇宙から 降るエネルギー 受け止めて 人に伝える ゴールドルチル』『金銭も 恋愛・元気 みな結果 宇宙と繋がり 活性化するから』『手が出ない ものパソコンに 取り込んで 眺めて楽しむ それもまたよし』『ヒマラヤの 水晶人を 浄化する ルチルは宇宙 人に伝える』『水晶の 中に輝く 金色の 線は宇宙と 人とを繋ぐ』これが599日目の心境です。
2006.08.23
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お盆が過ぎて、さすがの屋久島も真夏が終わった感じ。そうは言っても、まだまだ暑い。9月一杯は暑いだろう。ただ朝晩は少し涼しくなってきたような・・・夜、「4日間の奇跡」という映画を見た。WOWOWで放送したのを録画していたもの。2005年制作の作品。最近の日本映画にしては、とてもよくできていた。ストーリーはベストセラー小説がベースらしい。そういう小説があることは知らなかった。ストーリーと共に景色も美しかった。特に灯台の光と海の青が・・・吉岡秀隆演じる敬輔は、高校時代から天才ピアニストと呼ばれていた。ところが、ある事件に遭遇し、少女を助けようとして左手を銃で撃たれてしまう。左手の薬指の自由が効かなくなり、ピアノは続けられなくなる。助けた少女の両親は、その時に射殺された。彼は少女を引き取り、育てることにする。彼が自宅で右手だけでピアノを弾いていると、少女がメロディーをハミングした。彼女は脳に障害があった。しかし、音楽の才能に恵まれていた。彼女は普通に言語表現はできないけれども、ピアノは天才的。彼は彼女を伴い、いろんな施設へ慰問に行く。ある脳障害者の施設で、彼の高校時代の音楽部の1年後輩の女性と出会う。彼女にとっては、彼が初恋の人だった。しかし、彼は彼女のことを覚えていない。彼の高校時代は音楽がすべて。音楽漬けで、それ以外のことは記憶にないらしい。彼女と少女が外で遊んでいる時、突然、落雷がある。近くの時計台に雷が落ちる。彼女は少女をかばおうとして少女の上に覆い被さる。そこに時計台の一部が落ちてくる。それは彼女の背中から肺を突き刺す。少女は無事。彼女は瀕死の重傷。ところが・・・ここから真のストリーが始まる。少女がベッドから目覚めると、少女の意識は彼女に入れ替わっていた。これまでの彼女の人生が語られる。結婚、そして、離婚。それから、残りの人生が4日間しかないことも・・・彼女が少女を守ってくれたお礼に、少女が彼女の肉体を守っていた。いつ死んでもおかしくない肉体を4日間だけ守り、彼女にこの世の最後の4日間をプレゼントしたのだ。彼女は自分の人生を振り返る。そして、あの世で両親に会った時に、生んでくれてありがとうと言える心境にまでなった。最後のお願いとして、彼にピアノを弾くように頼む。自分を卑下しないで、きちんと評価して生きるように話す。彼が弾いた曲は、ショパンの別れの曲。そのピアノの音が流れる中、彼女の肉体は永久(とわ)の眠りに就く。彼女が死んだ時、少女は少女の肉体の中で4日ぶりに目覚める。他にもピアノの音と共に、いろんな奇跡が起きる。細かいディテールはいろいろあるけれども、これが大まかなあらすじ。自分が死ぬ前に、死をはっきりと自覚できることは悪いことではない。一時的に心が乱れることがあっても、最終的には死を受け入れ、死と共に生きることができる。誰もが死ぬのだけれども、死を意識して生きている人は少ない。死によって、この世の生が限られてくる時、この世の生はこの上なく貴重になる。それは何物にも代え難いほど尊いものになる。すべてに感謝ができる心境になれば、何も問題はなくなる。すべてが美しく感じられる。もう老後のことを考えて、あくせくすることはない。死は確定しているので、何も心配はいらない。不思議なことに、死が確定すると心配が消える。もう死ぬしかなければ、何かを心配しても始まらない。いろんなことにこだわることもない。どうせもうじき死ぬのだから。まだ生きると思うから、明日のことを思い煩う。病気の心配をしたり、老後の心配をしたり・・・いつかは死ぬことは確定している。それでも、その日時がはっきりしないために、人は心配を重ねる。死ぬまでは生きるために・・・これがお釈迦様が言った「生老病死」の中の生の苦しみだろうか。生きているが故の苦しみ。死が不確定であるが故の苦しみ。死が確定すれば消える苦しみ。何かヘン?死が確定すれば消える苦しみ?生きようとするが故の苦しみ?死が不確定であるが故に苦しみがある。死が確定すると、感謝に変わる。何かヘン?生が限定される時、それは貴重となり、感謝に変わる。しかし、生が具体的に限定されていない時、感謝ではなく苦しみがある。なんとも摩訶不思議な現実。同じ人生なのに・・・残りの日が少ないという思い込みから、感謝が生まれる。まだ先々も生きなければならないという思い込みから、苦しみが生まれる。思い込みを外したら?何が生まれる?何も生まれない?不治の病になったり、戦地に赴(おもむ)いたりする時、ドラマは最高に盛り上がる。映画の中でも現実でも。それは、これまで限定されていなかった生が現実的に限定されそうになるから。途端に生のクオリティがアップする。しかし、死は待ってくれない・・・そこで生のクオリティは最高潮となり、ドラマはクライマックスを迎える。生の質の変化。日常から非日常へ。惰性の生から瞬間の生へ。生の質が昇華される。生が限定されることによって、人は真剣に生きざるを得なくなる。それが生の質を高める。死が目の前にあれば、もう躊躇している場合ではない。本音で生きるしかない。本心をぶつけるしかない。その場だけを取り繕っても仕方がない。人が本気で真剣に生きる時、充実した生となる。それはすばらしい。それは周りに感動を与える。死を前提にした時、人は勇気を手にする。普段は勇気がない。人生に躊躇している。今を真剣に生きていない。人生が限定された時に、人は真剣に生きるのだろうか。生の期間が制限された時に、人は勇気を持つのだろうか。その時までは、惰性で生きるのだろうか。当たり前という惰性・・・屋久島育ちの人が、このすばらしい自然の貴重さがわからないように・・・人は、当たり前という惰性の中で生きている。生きていることは当たり前。その前提が崩れる時、人は慌てて真剣に生きようとする。それも悪くはない。自然が壊されて、自然の貴重さがわかる。水が汚れてしまって、澄んだ水の大切さがわかる。しかし・・・限定されようがされまいが、一日に変わりはない。限定されなくても、今を大切に生きることはできる。生が限定されて初めて人生に感謝できるというのも、なんとなくさびしいものがある。一回生起の人生を惰性に溺れることなく精一杯生きることだろうか。味わい切り、楽しみ切ることだろうか。余計な思いは脇に置いて、事実を感じ、味わい、楽しむことだろうか。限定も無限定もなく、今、今を生きることだろうか。何の前提もなく、無限の今を生きることだろうか。『人生が 限定されて 人生の 質が高まり 真剣に生きる』『なくなって 初めてわかる ありがたさ 当たり前では 惰性の人生』『当たり前 何でもかんでも 当たり前 惰性がある時 感謝は消える』『当たり前 そう思うのは 思い込み 今をいきいき 生きてはいない』『当たり前 すべて外して もう一度 ゼロからすべて 味わうといい』『思い込み 外せば人生 いきいきと 今目の前に 展開してくる』『人生を 深く静かに 味わって 今この時を 真剣に生きる』これが598日目の心境です。
2006.08.22
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自宅でヘビを見た。1mくらいの黒いヘビだった。家の中にヤモリや蜘蛛が住んでいるのは知っていた。でも、ヘビを見たのは初めて。赤いカニは時々見る。トンボやアブ、いろんな昆虫類。アリやムカデ。トンビも毎日飛んでいる。豊かな自然に包まれて、動物たちも豊かだ。夜、「アンドリューNDR114」という映画を見る。これは近未来のロボットのお話し。ロボットが一般化し、掃除や食事の支度などもやってくれる。でも、あまりクリエイティブなことはしない。なぜなら、そこまでやると人間の存在価値がなくなるので。でも、このアンドリューと名づけられたロボットは、製造ミスのために創造的なことまでできる。それだけでなく、感情まで持っている。最初の買い主とも、最終的には友達みたいになる。そこの次女と恋仲になってしまうが、ロボットのために結婚はできない。ユニークな時計を創作し、それなりの収入を得るようになる。貯めたお金で自分の家まで建てる。やがて、同じ製造ミスのロボットを探す旅に出る。何十年か後に帰ってみると・・・恋しかった彼女は、もうおばあさんになっている。その孫娘を彼女と間違えてしまう。しばらくすると彼女は亡くなり、今度は孫娘と恋仲になってしまう。その頃になるとアンドロイド技術が発達し、彼はロボットの中身の上に人間の肉体を纏(まとう)うことができるようになる。顔の表情も人間そっくりに変化する。それでも人間とは認められないが、孫娘と一緒に暮らす。食事も楽しめるように改良され、セックスまでできるようになる。最終的には、本人の希望で老化するようになってしまう。200年の間に知り合いは次々と亡くなっていく。自分だけ取り残されるのがたまらない。孫娘と一緒に死ぬことを選ぶ。死の瞬間に、ロボットではなくて人間と認められる。しかし、その結果を知らずに死んでしまう。それが映画の大まかなあらすじ。人間はどんどん老化していく。ロボットは老化しない。なんとも不思議な感じ。その時代には、人間も歳を取ると人工臓器に替えるのが一般化している。それでも、ロボットとは呼ばれない。頭が人工頭脳ではないから。その時代のロボットは、本を読んで自分で学習する。そして、どんどん賢くなる。そんなに人間と変わらない。人格プログラムをオンにすれば、人間のように反応する。人間とは?となってしまう。映画の中では、失敗するのが人間ということになっていた。ロボットの方が優秀なのだ。そのようにプログラムされているから。基本的には、人間の命令のままに動くのがロボット。しかし、ロボットの人工頭脳は日々進化している。株の売買のオートプログラムは、今日でも既に一般化している。状況判断など、人間よりも確かな部分もある。何より感情的になって自分を見失うようなことがない。常に冷静に計算し、判断する。これから人工知能が更に進化すると、本当に人間とは?になってしまう。もっとも、まだベテランの人間にはかなわない。人工知能には勘がない。それに過去のデータに基づいているので、新しい事態に対応できない。メカニカルなので、すべての人工知能が同じような判断をしてしまう。それによって極端に株価が変動するようになっている。今の車にはコンピューターが搭載されている。そのうちに自動運転になるだろう。将来的には、空中を自由に駆けるようになるに違いない。科学技術はどんどん進歩している。人間だけが変わらない?人間は相変わらず肉体と自己同一化し、老人となり、死んでいく。子供ができて親となり、孫ができて祖父母となり、やがて年老いて死ぬ。延々と同じことを繰り返している。ロボットの意識は常に進化しているのに、人間の意識は退化する。実際は肉体と同化しているだけ。肉体の老化によって意識も老化する。意識はいかようにもなれる。生まれた時は、赤ちゃん。それから、子供になり、青年になり、親になり、祖父母になり、老人になる。意識は何にでもなれる。意識は、自分が思ったところのものになれる。それは、ただの思い込み。意識自体が歳を取ったりはしない。ただ肉体に合わせて意識も歳を取っているだけ。それが世間のしきたりだから。意識自体は、ロボットのように年齢不詳にもなれる。実際、肉体を無視すれば、意識年齢は様々。同じ歳でも、意識は千差万別。心の若さは歳とは関係ない。それは思い込みの結果に過ぎない。肉体との自己同一化。年齢との自己同一化。世の風潮との自己同一化。今の自分は、それらの集大成。意識年齢?何歳?それは自分が思っているだけの年齢。ただ思い込んでいるだけ。意識は、意識。年齢はない。ただ、経験がある。記憶がある。でも、意識は歳を取らない。肉体や年齢との自己同一化を外してみると、面白いかもしれない。年齢が消える。更に突き詰めていくと、自分さえ消える。自分とは?肉体との自己同一化を外し、年齢との自己同一化を外す。父親や母親や子供などの家族の中の役割や、上司や部下などの仕事上での役割との自己同一化を外す。様々な思い込みや条件づけとの自己同一化を外す。そうすると・・・何が残るだろうか。残ったものが自分?はたして何が残るだろうか。着ているものを脱いでいくと、やがて裸の自分になる。それがありのままの自分。銭湯では、地位や名誉や財産などは通用しない。裸のつき合いとなる。洋服を脱ぐのは簡単。しかし、精神的に着込んでいるものを脱ぐのは簡単ではない。なぜなら、着込んでいるものを自分自身と思い込んでいるから。それがなくなると自分自身がなくなってしまうように思っているから。さてさて、あなたはどこまで自己同一化を外せるだろうか。どこまで思い込みを外せるだろうか。意識は、意識。極めていけば、人間でもなんでもない。意識は、純粋な意識。人間との自己同一化さえ外してしまう?そうなると、自分は誰?自分は何?さて、何だろう・・・『思い込み 外していけば 何になる? 自分自身の ルーツ求めて・・・』『肉体が 老化する時 精神も 老化していく 同化している』『肉体と 意識の合体 人間は 多層に渡る コラボレーション』『意識とは 光そのもの 肉体の 中に入って 人間となる』これが597日目の心境です。
2006.08.21
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朝8時半に安房のラ・イスラ・タセという民宿へ迎えに行く。洋風のしゃれた建物。民宿というよりプチ・ホテルといった感じ。半年前にできたけれども、屋久島より横浜に似合いそうな建物。天気を見て、太鼓岩か木霊の森かを選択することになっていた。青空が広がっているようなので、太鼓岩まで行けるかなと思って、先ず、もののけ姫の森をめざす。雨上がりで水蒸気が蒸発していた。そこに木漏れ日が差し込んで、美しい光のシルエットが・・・もののけ姫の森に着くまで、何度も美しい光の芸術が繰り広げられた。それは、まるで天上から射す光のようだった。今日のお客さんは光で浄められるために屋久島へ来たのだろうか。美しい光のショーに最初から感動気味。白谷雲水峡は人が多かった。朝早くから登った人が多いらしく、たくさんの人とすれ違った。でも、光のショーを楽しんでいる人は少なかった。気づかなければ、そのまま通り過ぎてしまう。一緒に写真を撮りまくる。コンパクトのデジカメでは、なかなか美しくは撮れない。光が強過ぎるので、オートで撮ると周りが暗くなってしまう。ここは、やはりマニュアルで撮らないと・・・美しい写真が撮れた。久しぶりの光の写真。ここのところ、木霊の森や白谷雲水峡では、ほとんど写真を撮っていない。見慣れた光景なので、撮影意欲が湧かなかった。でも、今日は久しぶりにたくさんシャッターを切った。もののけ姫の森に着くと、なんだか天気が怪しくなってきた。あんなに強く太陽が輝いていたのに・・・山の天気は変わりやすい。雲が出てきたので、太鼓岩を諦めて木霊の森へ行くことにする。途中から雨が降り出した。一時はかなり激しく降った。太鼓岩へ行かずに正解。行ったら、かなり濡れていたことだろう。途中で車に寄って、お昼寝用のマットを持っていく。雨だから無理かとも思ったが、まだ昼食前だったので、念のために持って行くことに。木霊の森に着くと、雨はほとんど止んでしまった。マットを広げて、昼食。雨上がりの木々は格別美しかった。太陽が姿を出し、雨に濡れた緑が輝き始める。これも久しぶりに見る特別に美しい木霊の森。写真を何枚か撮ったが、肉眼に見えた通りの美しい写真が撮れた。今日のお客さんは女性二人。小中学校の同級生らしい。今は福岡と東京に離れて暮らしている。二十代最後の旅とか・・・二人にとっては、白谷雲水峡よりも木霊の森の方が圧倒的によかったようだ。なにしろ誰もいないので、伸び伸びと自然を楽しめる。沢に入ったり、切り株に登ったり・・・白谷雲水峡では人が多過ぎて、なかなかこうはいかない。ゆっくり、のんびり、普段とは違う時間が流れる。携帯に追われることもなく、あるのは自然だけ。たくさんのシカが出てきた。バンビーや雄ジカもいた。ジーッとこちらを見つめたり、1mぐらいまで近寄ったり、シカ達も大サービス。これだけたくさんのシカが出て来るのは珍しい。全部で20頭近く出てきたのでは?これまでのレコードかも・・・帰り道、山の途中で虹が出た。うっすらと海から上がる虹。朝から虹の出そうな天気だった。お客さんは大喜び。でも、薄過ぎて写真には・・・夜はウミガメの孵化を見に行くらしい。観光センターで手続きを終えて、楠川温泉へ。早い時間にもかかわらず、かなりの車が止まっていた。でも、湯船が広くなったおかげで、余裕で入ることができた。女湯もすいていた。温泉から出て、シーサイドホテルへ送っていく途中、ホテルの直前で、お客さんが叫んだ。「虹!」宮之浦の港の上に大きな虹が架かっていた。今度は、くっきりと。ホテルを通り越して、港の駐車場に車を止める。慌てて外に出る。大きな虹。カメラのファインダーに収まりきらない。くっきり、はっきり、太く、二重。ほぼ完璧に近い虹。これだけ大きくて濃い虹は久しぶり。三人で喜び勇んでシャッターを切る。こんな大きな虹が出ているのに、見ている人は誰もいない。これだけ見事な虹は、そうそうないのに・・・途中で雨が降ってきたけれども、かなり長い時間虹を見ていた。最後にこんな虹を見れるなんて・・・光から始まって虹で終わる。普段はどんな生活をしているの?つい聞きたくなってしまう。久々の大ヒット。一人の女性は二度目の屋久島だけれども、前回はさしたることもなかったらしい。今回はスペシャル?二度目なので屋久島が大歓迎したのだろうか。それとも、屋久島と深い縁があるのだろうか。光と緑とシカと虹・・・「今日は一日楽しかった!」という言葉に実感がこもっていた。そして、「また来ます!」二泊三日の旅で、前日は遅く着いたので、滝を少し見た程度とか。明日は午前中の便で帰るので、お土産屋さんに寄る程度。今日がメインの一日。その一日が、この上なく充実した一日となった。すばらしい!『光降る 屋久島の森 虹架かる 屋久島の海 二人を祝福』これが596日目の心境です。
2006.08.20
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屋久島は、台風が行ってしまって、なんとなく気が抜けたような天気。晴&曇、時々雨。山の方は雲がかかっている。「自分が傷つけられても、人を傷つけたりはしない」「自分が騙されることはあっても、人を騙すことはしない」「誠心誠意生きることこそ人生」「人の役に立つことが自分の生き甲斐」そのような信念を持って生きている人もいる。「自分の身を守るためだったら、何でもする」「家族を守るためだったら、多少の悪いこともやむを得ない」「最後の最後は自分、自分さえよければいい」「みんな悪いことをしているので、人にわからなければいい」そのような信念の基に生きている人もいる。人生いろいろ。他人本位な人もいれば、自分本位な人もいる。この世では、正反対の信念を持っている人が一緒に暮らしている。あの世では、そんなことはない。同じ波動の人たちが一緒に暮らしている。自分本位な人と他人本位な人が一緒にいることはあり得ない。一緒に暮らすなら、他人本位な人たちと暮らした方が楽に決まっている。こちらの意向を尊重してくれるので、伸び伸びと生きれる。自分本位な人たちと暮らしたら、何かにつけて争奪戦になってしまう。それでは、おちおち安心して眠れない。この世は不思議なところ。いろんな精神状態の人が同居している。この世は物質ベース。けっして精神ベースではない。だからこそ、いろんな精神状態の人が同時に存在できる。もしこれが精神ベースであったら、精神状態に応じて住み分けることになる。それがあの世の世界。この世で培った物質的な精神は、高次元の世界まで持って行くことはできない。この世、そして、この世の周辺でしか通用しない。その次元、その次元に応じた意識がある。物質ベースの意識は、基本的にはこの世用。別の次元では、別の次元の意識で生きることになる。但し、この世あの世を通して通用する意識もある。それは物質的でない意識。ピュアーで純粋な意識。愛やいのちや霊的な意識は、遙かな次元まで通用する。純化されれば純化されるほど、高次元対応となる。多次元の意識が、今ここに同時に存在している。そのどの次元の意識をベースに生きるかによって、死後、どの次元まで通用するかが決まる。物質オンリーの意識で生きれば、死んだ後は路頭に迷う。もう物質は存在しないのだから。もっとも、物質に似たものはある。物質そっくりの幽体。それでも物質とは性質が異なる。物質よりも波動が速いので、再生スピードが速い。死んでも、すぐに生き返る。自殺願望の人は、何度も何度も自殺を繰り返すことになる。意識が変わらない限り・・・今ここで、どの次元の意識で生きるかによって、死後に行く世界も決まれば、死後、どこまで今の意識が通用するかも決まる。ベースが非物質的であればあるほど、意識の通用範囲は広がる。しかし、あまりにも非物質的だと、この世をしっかり生きることができない。しっかりこの世にグランディングして、尚かつ、意識は非物質ベースであることができるだろうか。スピリチュアルベース。しかし、この世にもしっかりグランディングしている。この世から高次元まで、多次元に同時に存在する。すべての次元を統合する。それがこの世でのみ可能な究極の生き方。信念というのは、この世の経験からつくりあげたもの。自分の人生経験がベースになっている。そういう意味では、極めてこの世的な意識ということになる。中身の違いはある。自分本位か他人本位か、そのバリエーション。しかし、信念という意味では異なるところはない。信念とは何だろう?それは自分を支えるものだろうか。自分のバックボーン。それこそが自分のアイデンティティそのものだろうか。そういうものがないと、自分が自分でいられない?そういうものなしでは、自分が何なのかわからない?それは自分を維持するためのものだろうか。信念に自分が支えられているのだろうか。それは、なんとなく道徳や宗教に似ている。道徳や宗教は、人のあるべき姿、目標や理想を表している。そういうものを掲げ、そういう方向へ努力する。そういう努力目標がないと、人は堕落してしまう?道徳や宗教は、理想や目標がないと人は堕落するという信念に基づいているのだろうか。堕落することを防ぐためのものだろうか。つまり、それらは恐れに基づいているのだろうか。信念もそれと同じだろうか。そういう信念がないと、堕落してしまう?少なくとも、信念のようには生きれない?もし信念がなくても、信念のように生きれたら?信念は要らない?道徳や宗教がなくても、道徳や宗教のように生きれたら道徳や宗教は要らない。道徳や宗教のように生きれないから、道徳や宗教が必要となる。戒律は、必要悪?信念も、必要悪?そういうものがなくても、そのように生きれたら、道徳も宗教も信念も必要はない。そのように生きれないから、そういうものをつくって自分を支える。道徳も宗教も信念も、この世の価値体系。思考が生み出した、思考人間を支えるためのシステム。道徳も宗教も信念も、思考の世界。思考の価値体系の世界。自分で自分を縛る世界。自縄自縛の世界。早く言えば、思い込みの世界。思考の次元を超えれば、そのようなものは何の価値もない。そのレベルの意識では、思考の次元までしか通用しない。頭でわかり、頭で信念体系をつくれば、思考どまり。頭も必要。思考も必要。でも、それだけでは足りない。それ以上のエネルギーを感じ、それを生きる必要がある。感覚や感情や思考と同時に、それ以上の意識エネルギーと共に生きる。頭でまとめたものをベースに生きない。思考ベースに生きれば、思考ベースの人生。それ以上のものを感じられなくなる。頭で体系づけてしまうと、エネルギーを直に感じることができなくなる。頭で理解することも必要だが、それはあくまで理解のための補助。最終的には、洞察や気づきや直観によってストレートにわかるしかない。そして、その理解をベースに生きる。道徳も宗教も信念も、人を制限する。無限を一定の枠に閉じ込めてしまう。そういうものをベースに生きると窮屈になる。自由に伸び伸びと生きることができなくなる。道徳や宗教や信念は、そういうものなしでは、そのように生きれない人向きのアイテム。そういうものに頼って自分を支えるしかない弱い人向きのもの。努力目標がなければ、道を誤ってしまう人たち用。あなたも弱い人?自分を縛って、自己規律を課す世界。まるで寮生活?それが多くの人の生き方。自由を放棄した生き方。自己の安全のために・・・物質ベース。この世ベース。思考ベース。恐れベース。道徳も宗教も信念も、みなそのようなもの。自縄自縛の世界。自分の本質に対する信頼感の欠如。絶対の、無限の自己との分離。道徳も宗教も、いかなる信念もなしに生きることはできるだろうか。何も自分を支えるものなしに生きることは可能だろうか。裸の自分で。ありのままの自分で。その時にだけ、遙かな次元にまで通用する意識が存在するかもしれない。『信念で 自分支えて 信念で 自分縛られ 自縄自縛』『信念で 自分を縛り 身動きが 取れなくなって 安全なだけ』『信念を 持てば自分が 縛られる 思考の枠の 外に出れない』『一定の 枠に収めて 人生を 規定するのが 信念体系』『信念が この世を生きた 結果なら あの世以降は 通用しない』『道徳も 宗教もまた 信念も 何も持たずに 自由に生きる』『何ものも 自分支える ものなしで 生きていくこと できるだろうか』『今ここで すべての次元 統合し この世あの世を 一つに繋ぐ』これが595日目の心境です。
2006.08.19
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台風は行ってしまった。たいした雨も残さずに・・・屋久島は7月中旬から、ほとんど雨が降っていない。山の方は時々は降っているが、里の方はさっぱり降らない。そのため、農作物が順調に育っていない。こんなに雨の少ない屋久島も珍しい。先日、Tシャツをもらった。今年はどういう訳かTシャツをよくもらう。これで四組目。それぞれに気持がこもっていて、ありがたい。しかし、今回のはスペシャルだった。何が?それはオリジナルのTシャツだった。屋久島の下の方に喜界島という小さな島がある。そこの工房で作られたもの。こちらのHPを見て、そのイメージで作ってくれたらしい。HPの写真を胸に三枚プリントしてあった。それもご丁寧に、山、森と川、海の写真をピックアップしてあった。背中には「屋久島ナチュラルヒーリング」のロゴ。左肩にも、「kimi」の文字が入っていた。生地も丈夫で、首周りもゆったりしていた。なかなかステキなTシャツ。なによりもオリジナルというのが気に入った。世界に一つのTシャツ。なかなかすばらしい!既にオリジナルのキャップは、9個ほどある。オーダーメイドして、その後に一部自分で加工した。やはりオリジナルはいい。唯一無二。これから、Tシャツも少しずつオリジナルを増やしていきたいと思う。もっとも、あまりオリジナルにこだわり過ぎると、囚われになってしまう。執着すれば、苦しくなる。ほどほどに楽しむ程度がいい。菩薩像を見ると、いろんな装飾品を身につけている。装飾品を楽しんでいるのだろうか。これが如来像になると、一切の装飾品がない。装飾品で遊ぶ次元を超えてしまっているのだろうか。別に装飾品を楽しんではいけないということはない。美しいものを写真に撮って楽しむ分には、何も問題はない。ただ、その度が過ぎると、執着になる。執着になれば、苦しみが生じる。ほどほど・・・つまり、中道ということ。過ぎたるは及ばざるが如し。足(たる)を知る。不思議なことに、執着すればするほど、波動は遅くなる。過去に囚われれば囚われるほど、波動はスローになる。波動が高くなればなるほど、瞬間・瞬間に生きるようになる。究極は波動が高くなり過ぎて、波動が消えてしまう。真空になる。固体・液体・気体・・・氷、水・水蒸気・・・波動が速くなれば、流動化、気体化する。波動が遅くなれば、固定化、固体化する。動物・植物・鉱物・・・波動は順次遅くなる。エネルギーが集中固体化する。莫大なエネルギーが結晶化し、長く持続する。エネルギーは強力になる。波動が速くなれば、変化が速くなる。刻々に変化するようになる。鉱物よりも植物、植物よりも動物の方が動きが速い。意識は物質よりも、更に波動が速い。変化するものを固定させようとすることが、執着。波動を遅くして掴んでしまうことが、囚われ。波動が遅くなるほど、過去に執着し、意識は限定されたものになる。波動が速くなるほど、今こことなり、意識は無限に近づく。美しいものも、オリジナルなものも、楽しめばいい。この世の豊かさを思う存分味わえばいい。しかし、それが度を越せば、苦悩が待っている。執着は苦しみを生む。そのことをわかったうえで楽しめばいい。執着なく、楽しめばいい。気軽に楽しむということ。囚われないで楽しむということ。やがて、楽しみきれば、その楽しみから自然に離れればいい。楽しみたいだけ、楽しめばいい。執着がなければ、何も問題はない。楽しんで、この地球を卒業すればいい。物質地球を楽しみ尽くせば、また新たなものが開ける。そこで、また新しい人生を生きればいい。何ものにも囚われることなく、楽しく生きればいい。『囚われて 執着すれば 心身の 波動は遅く 動きは鈍い』『刻々に 変わりゆくもの 楽しんで 囚われないで 自由に生きる』『何事も 執着しないで 淡々と 流れのままに 楽しみ生きる』これが594日目の心境です。* 「593日目 - 写真」も同時にアップしました。
2006.08.18
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台風10号がやって来たのだが、これが台風?という感じだった。時々は雨も降ったが、ほんの少し風が強い程度。たまに晴れ間さえ見えた。飛行機は通常通り飛んでいた。但し、海は大荒れ。高速船もフェリーも全便欠航。かなりの人が屋久島から帰れなくなったことだろう。それでも、島の中で十分楽しめる天候だった。木霊の森で写真をたくさん撮っている。美しい風景もかなり撮れている。しかし・・・その中には既にない景色もある。倒木にびっしり美しい苔が生えていた。しかし、大雨でその苔の半分近くが流されてしまった。あの美しい写真の光景は既に見られない。写真とは何だろう?過去の一瞬?過去の記録?写真を撮った瞬間、もう過去になってしまう。今ではない。写真は常に過去。今を切り取ることはできない。切り取れるのは過去だけ。その一瞬。その時だけの光景。過去にも未来にもない光景。ただ、そういう時があったというだけ。その一瞬が存在した。一瞬の記録。地球史の中の一瞬。絶対の一瞬。それ以前にはなく、それ以後にもない一瞬。似たような状況はあっても、正確に同じということはあり得ない。その場限りの一瞬。しかし・・・厳密に言うと、一瞬とは?シャッタースピードの100分の1秒が一瞬?1000分の1秒が一瞬?シャッターでさえ微妙に動いている。シャッターが開いた瞬間と閉じた瞬間との間には、微妙な時間が存在する。その間に光を捉えて写真となる。シャッターが開いた瞬間に入って来た光と、閉じる瞬間に入って来た光では、微妙に色彩が異なる。その合成物が一枚の写真。高速シャッターで撮れば、一粒一粒の水が撮れる。しかし、スローシャッターでは、水は繋がった流れとなる。何が、どこが一瞬なんだろう?一瞬の定義はない。人が一瞬と思ったものが一瞬。個人差がある。一瞬を極めていけば、一瞬は消える。時間は消える。一瞬は永遠になってしまう。ただ永遠があるだけ。記憶にあるのは、すべて過去。今この瞬間は、何もない。時間もなく、一瞬もない。永遠の今があるだけ。写真とは、過去にこういう光景があったという記録。それが人になにがしかの感銘を与えるものであれば、芸術作品となる。それは絵画や造形や音楽と変わらない。厳密に言えば、一瞬というようなものはない。ただ永遠の今があるだけ。その永遠に区切りをつけて時間とし、一瞬をつくり出しているだけ。今この瞬間は何もない。過去だけが記録として残っていく・・・人は空の中で生きている。空とは、瞬間の色。過去になる前の色。瞬間・瞬間が、色であり空であり、今であり永遠である。色即是空、空即是色。固定したものは、すべて過去。今この瞬間は、不確定。確定した瞬間、過去となる。今ここは、永遠であり、無限・・・色であり空。空であり色。『水晶の 中に永遠 生きている その透明な 光沢の中』『刻々に 移りゆくもの 一瞬を 固定させれば 過去が確定』『永遠の 一部切り取り 過去として 記憶・記録に 残す人類』『美しい 過去の瞬間 切り取って 四角の枠に 残す執着(たのしみ)』『美しさ あると思えば みんな過去 囚われる時 苦しみとなる』『美しさ 今目の前に あるばかり 次の瞬間 過去になるだけ』『厳密に 言えばこの世は すべからく 一回生起 再現はない』『一瞬を 極めていけば 一瞬は 消えてなくなり 永遠となる』これが593日目の心境です。
2006.08.17
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朝から、白谷雲水峡のもののけ姫の森へ向かう。天気は申し分ない。今日のお客さんは、ホテルあかつきに泊まっているファミリー。小一の男の子と小三の女の子、そして、その両親。とても楽しい一日だった。何が楽しいかというと、子供と一緒だったから。時々、子供と手を繋ぐ。自然にそうなる。子供の手は温かい。体温が高いのだ。そして、とても気持ちがいい。まるで子供の無邪気さが伝わってくるような・・・二回も沢に浸かってしまった。普段は、あまり沢に入ることはない。しかし、子供がいると特別?子供は、どうしても川で遊びたがる。一緒に川に入って遊ぶ。実際は、子供だけでは危ないので、半分以上はボディガードなのだが、それでも楽しい。まるで子供に還ったみたい。沢ガニがいた。男の子が見つけて、手で掴んだ。しかし、爪で挟まれそうになって、沢に落とした。それをもう一度拾い上げて、みんなで眺めて楽しむ。恐竜遊びも楽しかった。屋久島の森には、恐竜が生きたまま化石になったような屋久杉がたくさんある。名づけてヤクゴン。ジャンケンをしているヤクゴンまでいる。そのジャンケンに勝たないと、沢を無事に渡れない!(子供がいる時だけ、特別にそのようになる)都会の子なので、そんなに体力はない。もののけ姫の森まで行くのがやっと。それでも十分堪能した感じ。帰りの車の中では、お母さんと一緒にぐっすり眠っていた。そのため、ソフトクリームを食べるのは中止。起こすのがかわいそうなくらい熟睡していた。ホテルに着いた時も、まだとても眠たそう。子供というのは、小さければ小さいほど邪気がない。手に触れたり肌に触れると、とても気持ちがいい。その何もない無邪気な波動が伝わってくる。子供特有の気持ちよさがある。大人になると、これがだんだん薄れていく。たまに気持ちのいい人もいるが、子供のような純粋無垢とは少し違う。子供のガイドは、何をしでかすかわからないので気を遣うけれども、やはり楽しい。こちらがリフレッシュされる。たくさんのシカが出て来て、身近に見る野生のシカに、みんな大喜び。サルも最後に一匹だけ出てきてくれた。鳥や蝶もたくさんいた。人はもっと多かった?やはり夏休み・・・森の中は、いつもさわやか。心地よい風が吹いている。水が美味しい。今年は雨が少ないので、殊のほか美味しい。子供と森を歩くといい。子供と川で泳ぐといい。海も滝もいい。自然はいい。夏の屋久島の自然。里は暑いけれども、森は気持ちがいい。夏の屋久島は、涼しい森と川と滝で遊ぶのがいい。日焼けしてもいいのなら、海に行けば熱帯魚もいる。四回目の屋久島の夏が過ぎていく・・・『無邪気さが 握った手から 伝わって こちらも子供に 還る楽しさ』『心地よい 風に吹かれて 森の中 歩けばシカが こちら見ている』これが592日目の心境です。
2006.08.16
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屋久島は、旧盆のようだ。お墓がきれいに掃除され、たくさんの人が訪れている。初盆のところは、お墓に大きな盆提灯が飾られている。七夕も旧暦のようで、つい先日、七夕飾りが見られた。朝から木霊の森と、もののけ姫の森へ行く。お客さんが大きな岩のところでリラックスしている間、こちらはその上流で瞑想していた。すると、蚊がやって来た。指の先に止まって刺すので、目を開けて蚊を眺めて驚いた。その美しいこと!朝の太陽が当たって、頭も胴体もキラキラ光っている。頭は濃い藍色。胴体は藍と黒と白のまだら。生きている蚊をしげしげと見たことはないような気がする。少なくとも、蚊がこんなに美しいとは気づかなかった。森の蚊だから?自宅にいる蚊は、こんなに美しくはないような気がする。もっとも、朝陽を浴びている蚊など、めったに見られるものではないが・・・美しいのでゆっくり見ようとすると、すぐに飛び去ってしまう。しっかり刺されるしかない。きちんと針を刺して吸い始めると、指を動かしてもぜんぜん飛ぼうとはしない。上から下から、前から後ろから、横から斜めから、いろんな角度からじっくり眺める。本当は写真を撮りたかったが、右手の人差し指に止まっているので、それは無理。血を吸われている間、特有のむず痒さがあった。献血しているような血が吸われていく感覚。とても長い間、蚊は吸い続けていた。1~2分ではないような気がした。やがて、お腹がほんのり紅く染まって膨らんできた。そのままじっと見ていると、突然、離れた。そして、重たそうに飛んで行った。蚊が離れる瞬間、なんとなく指先がスッと軽くなる感覚があった。その後、人差し指は痒くならなかった。そればかりか、腫れることもなかった。十分に吸わせると、痒くなることも腫れることもないと聞いたことがある。確かにその通りだった。まったく何も問題はなかった。どうも中途半端なのがいけないようだ。血を吸っている途中で止められると、何か毒を残していくのだろうか。痒くなったり腫れたりするものを。最後まで吸わせるに限る?意識して吸わせていると、心が豊かであることは間違いない。じっと見守っていると、かわゆくさえ感じられる。お釈迦様は、大悟する前の生で、飢えたトラに我が身を捧げたと伝えられている。そこまでいかなくても、たまには肉体の一部を供養するのもいいかもしれない。しかし、それは余裕のある時にしてほしいのも事実。昨日、必死で藪の中を歩いている時、アブに刺されまくっていた。その時には気づかなかった。帰宅して寝る時に違和感に気づいた。左肩がコチコチになっていた。触ってみると、7カ所ぐらいアブに刺された後があった。右の二の腕もかなり腫れていた。一番腫れていたのは、右側の背中。仰向けに寝ると当たる。ぷっくり膨れあがっていた。それほど深く刺されている感じではない。頭でもないので、日常生活に支障はない。ただ、痒い。これはしばらくは続きそう。痒くて何度も掻きむしってしまう。10日ほど前には、雨の白谷雲水峡でヒルにやられた。それも帰宅してから気がついた。森に行ったり、藪を歩いたりすると、どこかしらケガをしている。たいした傷ではないけれども、自宅に帰ってから気づくことが多い。自然の中に住んでいると、いろいろある。最近は満身創痍という感じ。今日も、木霊の森や白谷雲水峡でアブやハチが、しつこくお客さんに付きまとった。最近はアブとハチが多い。お客さんが刺されたことはないけれども、ほとんどのお客さんは嫌がる。中には逃げ出す人もいるが、逃げるとアブやハチは追ってくる。静かにしているのが一番なのだが、なかなかそれができない。屋久島は、南の島。虫は多い。それを楽しむしかない。嫌がっていては暮らせない。最近はアブやハチも多いけれども、蝶もたくさん飛んでいる。特に黒いアゲハが森の中では目立つ。黒の中のブルーの模様が美しい。トンボも何種類か飛んでいる。15cm近い巨大なトンボもいる。鳥たちも鳴いている。シカやサル、それにカエルも多い。キノコも何種類もある。そういうものを楽しむしかない。森の中は涼しい。里に比べたら天国。水は美味しいし、空気はさわやか。まあ、多少の虫はムシするしかないだろう。『嫌がれば 蚊の美しさ わからない じっくり見れば 感動するもの』『逃げないで 静かに見つめ 楽しもう 逃げれば刺され 虻蜂(アブハチ)取らず?』『刺されても 血を吸われても 美しい 美しいもの ただ美しい』これが591日目の心境です。
2006.08.15
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屋久島は、相変わらず暑い日が続いている。午後の5時を過ぎても、室温は最も低いところで34度。最も高いところは、なんと38度を超えている。さすがに外に出れば少しは風もあるのだが、室内は暑いの一言。ここのところ、毎日、洗濯をしている。エアコンを使わないので、ただ座っているだけで汗が噴き出してくる。何回もシャワーを浴びるけれども、その場限り。汗を拭くために、連日、タオルを10枚近く使う。自宅にいても大量の汗。森に行っても同じくらいの汗。これが夏中続く。屋久島の夏は長い。これでは病気になりたくても病気になれはしない。体内の毒素という毒素が、みんな出払ってしまう。今日はあまりにも暑いので、一年くらい前に屋久島へ引っ越してきた人と滝へ行った。 本当は落(おとす)の滝へ行くつもりだったが・・・いつもと違うルートを取ったら、沢へ出てしまった。せっかく沢へ出たので、沢登りをしようと思って歩き出すと・・・しばらく行くと、行き止まり。沢に入らないことには、どうにも前へ進めなくなった。やむなくガケを登って迂回することに・・・これが間違いだった。行けども行けども藪の中。反対側にも道があると聞いていたのに、道らしいものは見つからない。今さら戻る訳にもいかず、道なき道を進む。それが蜘蛛の巣だらけの急な道で・・・ハードなこと、ハードなこと。途中で何度も休憩する。引き返したい気分だが、もう引き返す道すらわからない。前へ進むしかない。しかし、前にも道はない。行くも戻るも極まった時、道が見つかった。しかし、その行く手には・・・とんでもない急なガケが待ちかまえていた。滑りながら、なんとか沢へ下りる。しかし、水がない!滝は?どうも違う沢へ下りてしまったらしい。もう一つガケを超えて先へ進む。今度は沢の音が聞こえる。シカでも通らないような急なガケを下りる。倒木があちこちにあって、真っ直ぐに下れない。全身が汗と蜘蛛の巣だらけになると、今度はアブが離れない。アブない!と冗談を言っている場合ではない。気をつけないと、しっかりTシャツの上に止まっている。なんとか急なガケを下りきる。下りたところのすぐ先に小さな滝があった。本来なら五倍ぐらいの水量があるのだが、今日は水が少なくて滝が二筋に別れていた。 まだアブがしつこく付きまとう。こうなったら仕方がない。もう泳ぐしかない。泳いで汗を消すしかない。落(おとす)の滝は諦めて、今日はここまで。さあ、泳ごう!先ずTシャツを沢で洗濯する。それから着ているものを全部脱いで、そのまま滝壺に入る。水はそんなに冷たくはなかった。最初は浅かったが、さすがに滝の真下は背が立たなかった。それでも滝のシブキを浴びるために、しばらく滝が流れる岩に張り付く。一緒に行った人は泳げない。今度来る時は浮き袋でも持って来たらと冗談を言って、ふと前方を見ると・・・滝壺の奥の方に流木がたくさん溜まっている。これを浮き袋代わりにしたら?自分も適当な木を見つけて、それにぶら下がって滝に近づく。今度は余裕を持って滝の飛沫を浴びることができた。リラックスしていると、滝に押し流されていく。それもまた楽しい。なにしろ素っ裸で泳ぐというのは、この上ない開放感。まるで子供に還ったよう。先日のヨガのグループのことを、とやかく言うことはできなくなってしまった。こちらも裸泳ぎにはまりそう。以前にも滝壺で泳いだことはある。しかし、その時は水着を着用していたし、人もたくさんいた。川で裸で泳いだこともある。しかし、その時は滝はなかった。滝壺で裸で泳ぐというのは格別。やはり滝のエネルギーはすばらしい。クリアー!浄化!本当に病みつきになりそう。屋久島には人の行かない滝はいくらでもある。そういうところへ行って裸で泳ぎたい。本当にそう思ってしまう。それくらい気持ちがいい。一緒に行った人は女性だったが、ヘンな気はまったく起きなかった。滝のエネルギーのせいだろうか。それとも疲れ果てていたから?いずれにしても、何も不自然ではなかった。Tシャツは乾かなかった。それでも、イヤな感じはしなかった。むしろ気持ちよかった。これも滝壺で洗濯したから?十分満足して、今度は反対側の急なガケを登る。少し危険だったが、逆側に登ればルートに出ることはわかっていた。道はすぐに見つかった。後はあまり人の通らない荒れたルートを帰るだけ。最後に近くのお茶屋さんで、抹茶のソフトクリームを食べる。ここは喫茶店ではなくて、正真正銘のお茶屋さん。無農薬の屋久島産のお茶を製造販売しているところ。そこで作った無農薬の抹茶がソフトクリームに入っている。混んでいたので外のベンチで食べていると、ここの犬が近づいて来た。可愛い顔で、じっとこちらを見つめている。もしかしてソフトクリームが食べたいの?一緒の女性が指に付けて差し出すと、喜んでなめた。さすがお茶屋さんの犬!こちらも最後の方をプレゼントする。とても嬉しそうに食べた。そして、食べ終わるやいなや、さっさと自宅の方へ行ってしまった。現金なヤツ!でも、可愛い目をしていたので許してあげることにしよう。スッキリさわやか。滝泳ぎは最高!帰宅して洗濯をして、今、日記を書いている。やはり泳ぐのはいい。溜まっていたものが、すべて抜けていく。何も溜めない。いつもスッキリさわやか。そのように生きたいものだ・・・『滝壺で 裸になって 泳ぐ時 気持さわやか 心は子供』『滝飛沫(しぶき) 浴びて泳げば 心身に 溜まっていたもの スッキリさわやか』これが590日目の心境です。* 今日は、「588日目 - 意識の進化-1」と「589日目 - 意識の進化-2」も同時にアップしています。
2006.08.14
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「588日目 - 意識の進化-1」の続き意識は肉体に入ると、肉体と共に成長する。先ず五感が発達する。それから五感の快・不快に基づいて感情が発達する。それらの記憶から思考が発達していく。意識は、肉体と共に成長することによって、肉体と自己同一化する。感覚や感情や思考と自己同一化する。肉体や感覚や感情や思考を自分自身だと思ってしまう。それらの総合体としての自分として生きるようになる。肉体や感覚や感情や思考は、周りからの刺激によって発達する。それは同時に周りのものを自分の中に記憶として取り込むプロセスでもある。その結果、自分とは環境の賜(たまもの)となる。しかし、そのことには気づかない。肉体や感覚や感情や思考と自己同一化した意識は、自分の中身については何も見えない。見ようとすらしない。ただ刷り込まれた癖や習慣やパターンのままに生きていくだけ。それが肉体と感覚と感情と思考までの人生。もちろん、環境を無作為に吸収している訳ではない。自分なりに選択している。自分にとって必要なもののみを吸収している。双子であっても、人生は同じではない。周りの環境の中から自分にとって必要なものを選び、今の自分を形成している。それはある意味、主体的に生きているとも言える。しかし、与えられた環境の中から選択するしかないという意味では、条件づけられているとも言える。正確に言うと、ある条件下で主体的に選択しているということだろうか。この段階では、過去や条件づけから自由ではない。環境の産物としか言いようがない。ここまでは全人類が到達している。ここから先が、これまでの人類史とは違うところ。ニワトリが卵から孵(かえ)る時、親鳥が卵の殻をつつく。卵の中の雛の動きを察知した親鳥が、絶妙のタイミングで殻をつつく。そうすると、卵の中の雛も殻をつつき出す。やがて殻が破れ、雛が誕生する。人の意識が発達するためには、外側からの刺激が必要となる。意識が進化する準備ができた時、外側から殻を突いてやる必要がある。人類が自我の殻を破ろうとする時、それに応じたエネルギーが用意されている。それは自分自身を見守り、理解するということ。この日記は、親鳥のようなものだろうか。外側から自我の殻をつついている。しかし、自我から出て来るかどうかは内側の雛にかかっている。こちらにできることは、あくまで手助け。主体は雛の方にある。そう書いている本人も、クリシュナムルティによって自我の殻をつつかれたように思う。その当時の自分にとって、クリシュナムルティのエネルギーはあまりにも高度だった。そのため、最初のうちはまったく理解できなかった。6年間、仕事もしないで全身全霊で理解に打ち込んだ。それから、既に10年以上経過している。今、日記を書きながら、その理解は更に深まっている。深化しながら、親鳥の役割を果たそうとしている。それが時代の流れであり、自分のプログラムだから。それが人類の流れだから。人の意識は、新しいエネルギーに刺激されて進化する。自我を超えるエネルギー。それは見守るというエネルギー。それは自我=思考のエネルギーを遙かに凌駕している。肉体という物質も、感覚、感情、思考という意識も、見守る。外側の環境を見守ると同時に、肉体や意識も見守る。肉体や感覚、感情、思考との自己同一化を外すためには、それらを見守るしかない。それによって自我の殻が破れる。自我を超えた意識が生まれる。正確に言えば、元々、その意識は内在している。それが外からの刺激によって現れるだけ。意識は進化する。高度の意識に刺激されて意識は深化する。それがこれまでの人類の歴史。これからもその原理は変わらない。雛は雛なりに、しっかりと今生のプログラムを設定している。縁あって、この日記に出会うようにプログラムしてある。そして、自我の殻を脱ぎ捨てると決めている。新しい存在として飛翔することを予定している。その自分が設定したプログラム通りに生きることができるだろうか。意識は進化する。限りなく深化する。『本来の 自分を忘れ 肉体や 感情・思考と 同化している』『肉体を 守ることだけ 意識して クローズされた 意識で生きる』『閉ざされた 自我の人生 宇宙から 孤立しており 分離の極み』『生きていく ためのアイテム 肉体は 感覚・感情 思考も同じ』『表面の 意識の層に 使われず その成り立ちを 理解すること』『肉体も 表面意識も 仮のもの 理解しながら 大事に使う』『自我の殻 破る努力は 外からの 刺激を受けて 内で始まる』『見守れば 同化していた 感覚や 感情・思考と 分離が起きる』『新しい 時代の流れ これからは 自我の人生 超えて羽ばたく』『透明な 意識五体に 浸透し 感覚・感情 思考と生きる』これが589日目の心境です。
2006.08.13
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意識は、外からの刺激によって成長していく。いろいろなものとの出会いによって意識は刺激され、発達していく。そのため、意識は外を向くようにできている。自分の身を守るためにも意識は外を向く必要がある。思春期まで、人の意識は外を向いている。外の刺激によって発達していく。そのため、周りの環境からの影響を大きく受ける。無意識のうちに家族や地域の考え方や習慣が刷り込まれていく。周りのものを吸収して意識はできあがる。何を吸収するかという選択はある。同じ環境に生まれても同じ人間に育つことはない。各人によって吸収するものは違ってくる。しかし、選択肢は限られる。周りにあるものから選択するしかない。その結果、その時代、その地域の共通無意識のようなものが形成される。意識は無意識のうちに周りからの影響を受けながら成長する。思春期まで意識は外を向き、外からの刺激によって成長していく。思春期になって初めて、自分を意識するようになる。自我意識の芽生え。それまで無邪気に行動していたものが、周りの目を意識するようになる。自分が周りからどう思われるかを、先ず考えるようになる。周りからヘンに思われないように行動するようになる。意識が外向きオンリーから、いくぶん内向きになる。自分というものを強く意識するようになる。自分と他人という構図が明確にできあがる。自我が確立されていく。単なる自意識から明確な自我へと変わっていく。自我の実態はない。それはいろんな記憶の寄せ集め。イメージの集合体に過ぎない。それは思考がつくりあげたイメージに他ならない。しかし、人は自我を後生大事に生きるようになる。何よりも自我を優先する。自分最優先。自分が一番大事。しかし、その自分とは、成長過程で吸収してきた環境に他ならない。自分の実態は、周りからの刷り込みがほとんど。自分自身を真剣に観察すればするほど、それがよくわかる。自分はオリジナルだと思っている人は、自分を知らないだけ。いかに親からの刷り込みを受けていることか。いかに身近にいた人々の影響を受けていることか。いかに時代の影響下にあることか。自分の意識構造を理解すれば理解するほど、それが明らかとなる。自我の中身は、ほとんどが周りからの影響。もちろん、その影響の選択は個々人がしている。しかし、その中身は周りそのもの。選択の仕方はオリジナルだが、中身にオリジナリティはない。人はそのことに気づくまでは、環境の子供。刷り込みの奴隷。癖や習慣やパターンのほとんどは、親などから受け継いだもの。気づかないまま、同じことを延々と繰り返す。外からの刺激に対して、過去が反応する。刷り込まれたパターンが反射的に反応する。一喜一憂、喜怒哀楽。それは幼少時から刷り込まれたパターン。それに気づかない限り、それが死ぬまで続く。自分自身を見守り始めることによって、初めて過去の奴隷から解放される可能性が生まれる。自分自身の実体がわかるにつれて、自我を超えたものに気づき始める。外に向いていた意識が、内に向き始める。しかし、外側の意識の壁を突破しない限り、内側深くへは進めない。潜在意識の中に溜まっている成長過程の刷り込み。思い込みという形の刷り込み。その膨大な記憶。そのほとんどが無意識のまま潜在意識の中に埋もれている。それらのものに気づき、突破しない限り、更に深いところまで進むことはできない。瞑想などを通して一時的に深いところへ進むことはできる。しかし、すぐに潜在意識レベルへ連れ戻される。そこにある壁を突き崩さない限り、潜在意識の影響から自由になることはできない。自分自身を見守ることによって、潜在意識の壁に穴があく。潜在意識の闇に光が当たる。闇に光が当たれば、闇は消える。意識されれば、無意識は消える。無意識こそが意識の中で猛威を振るっているもの。無意識こそが意識の中で傍若無人に振る舞っていたもの。その無意識を意識することによって、無意識は無意識ではなくなる。闇は即座に消える。人は自分を見守るということを始めるまでは、環境の奴隷。過去の奴隷であり、刷り込みの操り人形。自分を見守ることによって、初めて過去から自由になる。人の意識は外を向くようにできている。先ず、そのようにして自分を守る。自分を守りながら意識は発達していく。やがて、自分を意識するようになる。自我が芽生える。しかし、それは肉体の自己保存の本能をベースとした自己中心的なもの。まだまだ表面的な意識。十分に内向きの意識ではない。ただ自分を守るために自分を意識しているだけ。そこまでは誰もが体験している。そこから先が、この日記で再三書いていること。自分自身を見守る。それによって過去から自由になる。過去の集大成である自我から解放される。意識は、外を向いているだけでは十分ではない。意識は、外を向くと同時に内も向いている必要がある。外と内の両方を向いている必要がある。その時に、意識はバランスが取れる。肉体と精神。物質と霊。地上と天上。あらゆるバランスが調和する。見守ることから、調和が生まれる。見守ることで、天地人のバランスが整う。すべてのエネルギーが今ここに結集される。しっかりと今にグランディングできる。『刷り込みの ままに生きれば 人生は 子供の頃の 反応のまま』『気づかない 刷り込み今も 生きている それが人生 動かしている』『外側を 意識するだけ 内側を 見直すことは 思いもよらない』『刷り込みの ままに一生 終わるのか それともそれを 超えてゆくのか』『外を見て 内側も見る 両方を 把握しながら 生きてゆくこと』『注意して 意識ながめて みるがいい あるのは過去の パターンばかり』『今ここの 空白どこに あるだろう この瞬間は 空白そのもの』これが588日目の心境です。* 「589日目 - 意識の進化-2」に続く
2006.08.12
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仕事が一段落して、ホッとしている。仕事が続くと、なかなかゆったりできない。天気を見ながら、お客さんの要望を聞きながら、次の日の段取りを考える必要がある。 最終的には当日にならないとわからないけれども、それなりの準備はいる。忙しいと、ついつい心の余裕がなくなる。しかし、ここに取って置きのものがある。どんなに忙しい時でも、心の余裕が生まれる玉手箱。さて、本当にそんなものがあるのだろうか。それは、何かに付けて「ありがとう」「ありがとうございます」と言うこと。何かの後に付けて、「ありがとう」「ありがとうございます」と言えば、それが確定する。そして、どういう訳か、心の余裕が生まれる。本当に不思議だけれども、しっかりとグランディングできる。それは理屈ではなくて、実際。実際にやってみるといい。本当に心に余裕が生まれる。「ありがとう」「ありがとうございます」と言うことによって、心がゆったりするのだろうか。「ありがとう」「ありがとうございます」というのは、心に余裕がある時に出る言葉なのだろうか。だから、逆に「ありがとう」「ありがとうございます」と言えば、心に余裕が生じるのだろうか。逆もまた真?しかし、実際にやってみると、確かに心の余裕が生まれる。心が落ち着いてくるのだ。しっかりと自分自身にグランディングできる。何も焦ることはない感じになる。ゆったりと安定した感じになるから不思議だ。「ありがとう」「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べることによって、豊かさが満ちてくる。豊かさが現実化してくる。何にでも「ありがとう」「ありがとうございます」を付ける。心はどんどん豊かになる。まあ、実際に試してみるといいだろう。どんな結果が待っているか・・・『ありがとう ただ一言を 付け足せば 豊かさ満ちて 心落ち着く』『簡単な 言葉一言 付けるだけ それで心に 豊かさ満ちる』『感謝する 心の余裕が 豊かさを 気持の中に 運んでくれる』『豊穣の 女神微笑(ほほえ)む ありがとう 豊かさ満ちて 心潤う』これが587日目の心境です。* 「586日目 - 今ここ」も同時にアップしました。
2006.08.11
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最近は、山の方はいつも雲がかかっている。森に行くと、雨に遭うことが多い。雨の森も悪くはないが、カッパを着ることになるので、ものすごく蒸す。ダイエットにはちょうどいいのだが・・・今この瞬間に生きる。この瞬間だけにフォーカスする。そうすると、意識は極めてクリアーになる。何かをやりながら、別のことを考える。運転しながら、物思いに耽る。人を案内しながら、まったく違うことを考えている。仕事をしながら、今夜の夕食のことをあれこれ思っている。そういう時は、今ここにはいない。体はここにあっても、意識はここにはいない。そういう時にアクシデントが起きやすい。心ここにあらず・・・今ここというのは、今やっていることに意識をフォーカスすること。他のことを考えないこと。考えというのは、ややもすると独り歩きを始める。今ここがお留守になる。そういう時にミスが起きる。思いが独りで彷徨(さまよ)い歩かないようにする。しっかりと今ここに意識を留める。その時初めて、瞬間・瞬間生きるということが可能になる。意識が今ここから外れると、意識は思いの世界の放浪者になる。意識と体が分離する。すべてが今ここに統合されない。すべての次元が今ここにフォーカスされてこそ、今この瞬間にすべてがひとつになる可能性が生まれる。体と意識が分離していては、ひとつにはなれない。「忙しい」とは、その字のごとく、心を亡くすこと。今ここに心がないこと。自分を見失うこと。自分がバラバラに分離すること。歳を取りボケ気味になると、この世にグランディングがきかないようになる。半分はあの世で暮らしているような感じになる。意識は寝ぼけたようにボーッとしている。意識がクリアーであるとは、今ここにすべてのエネルギーが結集されていること。あらゆる次元のエネルギーが、今ここにあること。それは別のことを考えていては実現しない。考える時は、集中して考えればいい。感じる時は、全力で味わえばいい。何をやるにも全身全霊で当たることだろうか。リラックスする時は、心からリラックスすればいい。五感に支配される。感情に翻弄される。過去や未来に意識が飛ぶ。そうなると、トータルな自分を見失うことになる。意識がそれらの世界に行ってしまい、今ここから離れる。今にすべてのエネルギーを結集する。今ここを全力で生きる。その時、意識は極めてクリアーになる。限りなく透明になり、限りなく広がっていく。あらゆる境界が消える。何もない。すべてが今ここにある。『今ここに 意識なければ 分離する 心と体 バラバラになる』『今ここに 意識がないと ミスが起き アクシデントが 後を絶たない』『過去になり 未来になって 今ここの 自分忘れて 彷徨い歩く』『感覚も 感情・思考 肉体も すべてはひとつ 今ここに在る』『全体が ひとつに結集 する時に 分離は消えて 個即全体』『全体を ひとつにまとめる 焦点は 今ここにある 今だけにある』『今ここに すべての次元 結集し 統合された いのちを生きる』『心込め 魂込めて 今ここを いのちの限り すべてで生きる』これが586日目の心境です。
2006.08.10
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カルマというのは、自分の中にある。自分の中に生きている。カルマに負けるのも、カルマを乗り越えて行くのも自分しだい。突然、理不尽なことを言われる。どうにも納得のいかないことをされる。思ってもみないような事態が起きる。そういう時に、どうするか。それがカルマの行く末を決める。反発し、怒り、争う。現実をはね除けるために戦う。それも一つの生き方。恐れ、萎縮し、恨み、憎む。現実から逃避し、自分の世界に引き籠もる。それもまた人生。基本は、そのどちらかのパターン。各人は、そのバリエーション。反発するか萎縮するか。外に向かうか内に向かうか。どちらのパターンをやっても、カルマは解消されない。外に向かえば、更に争いのカルマを積み重ねることになる。内に向かえば、孤独と絶望のカルマパターから抜けられなくなる。いずれも自分を見失っている。ただ状況に反応しているだけ。パターン通りに行動しているだけ。カルマに翻弄されて生きているに過ぎない。それではカルマの理解は起きない。いつまでもカルマに振り回される人生が続く。しっかり自分自身にグランディングできていない。ただ状況に左右されているだけ。戦って相手を抑え込もうとするか、それとも、恐れをなして逃げ回るか。極めて単純。間違っても、相手を理解しようとはしない。相手を理解する。相手の言いたいことをわかろうとする。相手の行動の真意を理解するように努める。キーワードは、理解と冷静さ。しっかり自分自身にグランディングして、冷静に対応する。何を言いたいのか理解に努める。客観的に判断し、冷静に対応する。けっして感情的に反発しない。じっと踏みとどまる。冷静に聞く。冷静に見る。そして、理解する。自分のできること、できないこと。冷静に相手に伝える。そこで自己中心的になると、トラブルが発生する。冷静さを見失うと、カルマの鎖に呑まれてしまう。できるだけ相手の気持ちを尊重する。相手の気持ちをわかり、十分に受け止める。それから行動する。自動的に反応しない。自動的に反応している限り、カルマの鎖から自由にはなれない。怒りに怒りで応じている限り、カルマの連鎖は続く。攻撃に攻撃で反応している限り、カルマから自由になることはできない。すべてを受け止め、理解し、冷静に対応する。その意識があるかどうか。それがカルマからの自由を決めていく。自分の中の傾向に負けない。癖、パターン。無意識であれば、それらのままに突き動かされる。反応のままで人生が終わる。カルマは解消されないで次の世まで続く。カルマは、時間の経過と共に自然に現れてくる。現れる時は、消える時。そのままにしておけば、自然に消えていく。しかし・・・それに対して自動的に反応すれば、また新たなカルマをつくってしまう。それでは、いつまで経ってもカルマは消えない。無意識で反応している限りは、カルマの鎖が途切れることはない。しっかりと意識すること。明確に自覚すること。それなくしてカルマからの自由はない。自動的な反応から自由になるためには、注意深く生きるしかない。自動的に反応している自分に気づくこと。イージーに生きていると、自動反応の虜。いつまで経っても、カルマから自由にはなれない。真剣に注意深く生きる。そのように生きていると、自然に注意深さが働くようになる。いろんなことに自然に気づけるようになる。自分自身の反応が見えてくる。カルマから自由になりたかったら、真剣に注意深く生きること。それ以外にカルマから自由になる道はない。誰かにカルマを断ってもらう?そんなことをしても、あまり意味はない。自分で自覚できない限り、パターンは変わらない。いつのまにか新しいカルマを再生産するだけ。自分で自覚しない限り、真の自由はない。他力本願では、依存心を生むだけ。依存があるところに自由はない。正真正銘自由に生きるためには、注意深く自分自身を理解していくしかない。理解の後に自由がある。自由を制限しているのは、結局は自分自身。自分以外に心の自由を縛ることができる人はいない。新興宗教の教祖は?メシアは?誰であれ、本人が信じ込まない限り、人を縛ることはできない。自縄自縛。それが真実。だからこそ、自分自身を理解すること。自分自身を理解すれば、縛っていたものを解くことができる。自分を縛っているもの。それは無意識という闇。無自覚という無明。無明とは、光がないこと。意識とは、光。無意識は、闇。見るという光の意識を持ち込まない限り、カルマという闇の連鎖を断ち切ることはできない。意識は光。カルマは闇。すべてを意識化する。意識化するということは、光化するということ。意識化するということは、明確に自覚するということ。気づくということ。無明の闇の中を彷徨う時は終わろうとしている。光を灯し、光の中を歩く時が近づいている。光とは、自分自身の意識。明確に自覚すること。自分の闇を自覚すること。自分の闇に光を当てることによって、光は強くなる。意識は一段と光り輝く。闇を照らすことこそが光を強める道。本来の光に戻る道。意識とは、光。人は、光。人の本質は、光。その光に目覚める時。それが今。カルマとは、光が足りないということ。無自覚のままに闇に翻弄されてきたということ。何もわからないまま、カルマの虜になっていたということ。しっかりと闇に光を当てる。明確に意識化する。それは自分の光を輝かせることでもある。闇を恐れることはない。闇とは、ただ光がないだけ。光を当てれば闇は消える。自覚されれば、カルマは消える。闇とは、無意識。カルマとは、無自覚。人は、光。意識は、光。光として生きていく。『カルマとは 光忘れて 闇の中 無自覚のまま 生きるパターン』『戦うか 逃げ回るかの 選択が カルマのままに 生きる人生』『イージーに 生きればカルマ そのままに 翻弄されて 終わる人生』『真剣に 注意しないと 反応の ままで人生 終わってしまう』『立ち止まり 自分自身を 照らし出し カルマの実態 突き止めること』『冷静に 理解すること 人生を 反応のまま 流されないで』『自らの 心の闇を 照らし出し 自分のパターン 自覚すること』『無意識の 無明の闇の ただ中で 人はカルマの 奴隷そのもの』『無意識に 光を当てて 自覚する 自覚されれば カルマは消える』『カルマとは 自覚されない 闇のこと 意識されれば 光が当たる』『意識とは 光そのもの 意識する ことで光が 強く輝く』これが585日目の心境です。* 「584日目 - 怒り」も同時にアップしました。
2006.08.09
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以前に、すぐにキレてしまう子供たちが問題になったことがあった。キレるとはどういうことだろうか。小さな子は、自分の思うようにならないとタダをこねる。それと同じだろうか。未成熟な子がキレまくるのだろうか。大人になってもキレる人はいる。キレまくる人も、たまにいる。怒りとは何だろう?それは、自分の思うようにならない時に出てくる感情だろうか。自分の思うとおりにならない時、焦(じ)れたり、イライラしたり、落ち着かなくなる。やがて、それらが溜まると、怒りが爆発する。抑圧されていたものが一気に解放される。怒りとは何だろう?自分の思うようにしたい。でも、できない。何かに妨げられる。その時に、怒りが起きる。自分が思ったことと別のことを言われたり、されたりする。自分の行動にストップをかけられる。その時、何か抑え込まれているような、自分が否定されているような感じがする。そういう時に、怒りが沸いてくる。頭ごなしに否定される。これから起こそうとした行為の行き場がなくなる。エネルギーの出口が塞がれる。そうすると、抑圧されたエネルギーが怒りに変容する。自分の中から出ようとしたエネルギーが拒否される。受け入れてもらえない。出口がなくなったエネルギーは、自分の中に抑圧され、やがて怒りとなって出口を求める。怒りをなくすには、相手のエネルギーを受け入れてあげることだろうか。受け入れられたエネルギーは、怒りになることはない。抑圧され、歪んだエネルギーだけが怒りとなる。しかし、常に相手が受け入れてくれるとは限らない。むしろ受け入れられないことの方が多いだろう。その時は、どうすればいいのだろうか。受け入れられなかったエネルギーは、抑圧された形で自分の中に蓄積される。その圧力が強くなると、やがて爆発する。暴発を防ぐには、ガス抜きをする必要がある。そうしないと、常にダイナマイトと一緒に暮らしているようなものだ。どうやってガス抜きをするか。直接、相手に怒りをぶつける。これをやると、人間関係が壊れる恐れがある。誰もいないところで、大声で怒りをぶちまける。それも悪くはない。友人・知人に話を聞いてもらう。それも効果がある。溜まっていたエネルギーが流れる。しかし、聞かされる方は楽しいとは言えない。それではどうする?自分の中の怒りをわかってあげる。受け入れられなくて怒りとなったエネルギーを受け入れてあげる。受け入れることによってエネルギーを溶かす。歪んだ形で滞留させない。自分の中の怒りを自覚し、受け止める。そして、受容する。怒りの訳を理解し、わかってあげる。そうすれば、怒りは消える。それは、子供に対するのと同じ。怒りの原因を聞いてやり、わかってあげる。そうすれば、怒りの大部分は解消される。それは大人に対しても同じ。怒っている人がいたら、その訳を聞き、よーくわかってあげる。怒りとなってしまったエネルギーを受け入れてあげる。受け入れられたエネルギーは流れていく。流れていけば問題はない。怒りの元は、受け入れられなかったエネルギー。拒否されたエネルギー。正確に言うと、受け入れられなかったと思い込んでいるエネルギー。受け入れられなかったかどうかではなく、自分がそう思い込むことによってエネルギーは歪み、怒りとなる。事実が問題ではない。自分がそう思い込むことによって怒りは生まれる。誤解によって怒りが生まれることも少なくない。よく話し合えば、「なーんだそんなことだったのか」ということも多々ある。感情は事実から起きるとは限らない。むしろ、思いから起きる場合の方が多い。正確に言うと、思い込みから起きる感情がほとんど。怒る必要もないのに、怒ることのなんと多いことだろう。相手に拒否されたと思い込む。最初は落ち込む。それから怒りがふつふつと沸いてくる。どうして?なぜ自分だけを受け入れてくれない?そう考え始めるとキリがない。次々とこれまでのことが思い出される。これまでやさしくされていればいるほど、怒りや憎しみは深くなる。それが近親憎悪の世界。こちらは受け入れているつもりでも、相手は拒否されたと感じることもある。それ以前に、お互いの思い込みがある。お互いが自分の思い込みから行動する時、誤解が起きる。受け入れているつもりなのに、反発される。受け入れてもらえると思ったのに、拒否される。と、お互いに思い込む。そこから、エネルギーが歪む。素直に出ることができなくなったエネルギーは、抑圧された形で残る。それが、今度は先入観となる。次に会った時、白紙の状態で出会うことができない。なんとなく違和感があり、警戒してしまう。お互いに・・・そういうことが積もり積もって・・・もう訳がわからなくなる。いつも怒りが滞留している。それが何かのきっかけで爆発する。キレる子供たちは、潜在意識にたくさんの抑圧を溜めている。最初は、実際に拒否されて成長したのかもしれない。やがて、拒否されるのが当たり前という思い込みができる。自分が受け入れてもらえるはずがないという思い込み。それが更なる拒否の思い込みを生む。拒否されていないのに、些細なことでも拒否されたと思い込む。エネルギーはますます出口を失い、歪んだエネルギーが蓄積される。神経過敏になり、何にでも当たり散らすようになる。最後は、暴力にはけ口を見出すしかなくなる。たぶん最初の最初は、些細なことが受け入れてもらえなかったのだろう。その小さな歪みが積もり積もって・・・更に思い込みによって増幅され、大きな歪みになっていく。やがて暴力と怒りの連鎖が起き、もう手がつけられなくなる。自分でも、どうしてこんなにキレまくるのかわからない。元の元は、受け入れてもらえなかったということ。エネルギーの出口が塞がれたということ。そこからエネルギーが歪み、怒りとなって爆発したということ。それを思い込みが更に増幅したということ。それが人類の、これまでの物語。怒りと争いの物語。果てしない戦争の物語。今も続く物語。この怒りの連鎖から人類は抜け出せるだろうか。あなたは抜け出せるだろうか。抜け出すためには自分自身の怒りを理解する必要がある。頭ではなくて、実際に。自分の中の怒りを通して理解する必要がある。あなたはあまり怒らない人かもしれない。いや、正確に言うと、怒れない人かもしれない。リアクションが怖くて・・・あなたもあまり怒らないかもしれない。しかし、それは怒りがないのではなくて、ガマンしているだけかもしれない。怒りのエネルギーは潜在意識にどんどん蓄積されているのかもしれない。大爆発する日まで・・・あなたは怒りまくる人かもしれない。いつも不満が溜まっているかもしれない。あなたは自分は受け入れてもらってないと強く思い込んでいるのかもしれない。だから、いつも不満が溜まっているのかもしれない。自分の中の怒りを理解する。怒りが出て来た時に、実際の怒りの実態を見極める。その怒りがどこから出て来ているのか。なぜ怒っているのか。自分自身をよーく観察し、理解した方がいい。理解しない限り、あなたは怒りに振り回される。怒りたくないのに、無意識のうちに怒っている。怒りまでいかなくても、無意識のうちに不満を感じていることは多いだろう。それが蓄積されれば、やがて怒りとなって噴出する。怒りとなって爆発する前に、それに気づけるだろうか。怒りは子供の頃からある。大人になっても解消されない。棺桶まで怒りを持っていく人も多い。怒りが理解されない限り、また生まれ変わるしかない。怒りが理解されない限り、人類から戦争が消えることはない。今、今生で怒りを理解することだろうか。死ぬ前に・・・『受け入れて もらえないから エネルギー 歪んでしまい 怒りに変わる』『受け入れて もらえないから エネルギー 怒りとなって 出口求める』『拒否すれば 怒りとなって エネルギー 攻撃的に 受け入れ迫る』『頭から 抑圧された エネルギー 怒りとなって 反発してくる』『受け入れて わかってあげて 丁寧に お断りする 抑圧しない』『訳を聞き わかってあげて 受け入れて あげれば怒り 自然と消える』『思い込み あれば予測と 違う時 自然に怒り 沸いて来るもの』『ささやかな 不満溜まれば いつの日か 怒りとなって 爆発するだけ』『自らの 怒りの元が わかるまで 怒りのままに 振り回される』『自らの 怒りの元は 思い込み 思い込むから 不満が溜まる』『目の前の 事実と共に 生きる時 不満や怒り 沸く余地はなし』これが584日目の心境です。
2006.08.08
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自分と似たような波動の人と一緒にいると、とても楽。そして、とても幸せな気分になれる。何も問題はない。ところが・・・自分と違う波動の人と一緒にいると、違和感がある。違和感があるぐらいなら、まだいい。抵抗を感じてしまうと、苦しくなる。イヤな気分になり、その場から逃げ出したくなる。離れられれば問題はなくなる。しかし、また同じような人と一緒になると、同じ気分になってしまう。問題は根本的には解決されていない。抵抗があるということは、自分の中にこだわりや囚われがあるということ。何かが引っかかっているということ。何らかのわだかまりがあるということ。それは自我の自己主張だろうか。自分の中の塊やシコリが反応しているのだろうか。何であれ自分の中に抵抗するものがあるのは間違いない。それが心を重苦しくする。自分のやり方や考え方と違うものに出会うと、抵抗を感じる。自分の中のこだわりや思い込みと違う相手と出会うと、居心地が悪くなる。反発し、抵抗し、イライラする。抵抗があるということは、自分の中に何か引っかかるものがあるということ。自分の中にこだわりや囚われがなければ、何の抵抗も起きはしない。相手の自我は、自分の中をスーッと通り抜けていく。抵抗があるということは、自分の中に相手を拒むものがあるということ。それこそが自我。自我の中身は、思い込みであり、囚われであり、こだわりであり、執着。自分の中の何らかのシコリであり、塊。それらのものが抵抗する。自分の中に抵抗がある限り、先入観や固定観念や偏見があるということ。信念や信条や主義や特定の思想があるということ。心の傷や思い込みや執着があるということ。心の中が完全に自由ではないということ。自分の心の中に起きる抵抗感は、自分自身を知るきっかけ。心の中に何のわだかまりもなければ、何の抵抗もない。抵抗があるということは、何であれ透明でないものがあるということ。心の中に何もない時、人はどういう感じになるだろうか。流れのままに生きる。流れと一緒に生きる。自分でどうこうしようという気持はない。周りの状況と共にあって、ただ流れていく。周りを注意深く見つめ、相手の気持ちを理解し、相手の流れに合わせる。相手の流れに合わせてあげれば、すべてはスムーズに流れる。自分の思うとおりにしたいと思うと、抵抗が生じる。自我と自我がぶつかり合う。その時、その時の状況に合わせる。事前に設定しない。事前に設定すれば、自由が制限される。あくまで目の前の事実優先。今の流れ優先。あれこれ前もって考え過ぎない。今の目の前の状況最優先。今、今で流れていけば何も問題はない。しなやかに、やわらかに、今を生きる。抵抗しているのは、過去。思い込みや囚われ。自分の中のシコリ。そういうものを脇に置いて、ただ今と一緒にいる。今に意識をフォーカスし、今の流れと共に生きる。しなやかに、ゆるやかに、軽やかに・・・何の抵抗も、何のわだかまりもなければ、無理に心を静める必要もなくなる。何もしなくても、心は独りでに静まる。改めて瞑想するまでもなく、自然に瞑想状態となる。すべての抵抗が消えれば、自然にそのようになる。『抵抗が 起きる限りは 自我がある 我(が)が言うことを 聞こうとしない』『何であれ 心のシコリ ある限り 摩擦・抵抗 自然に起きる』『抵抗が あれば心の わだかまり あると知るべし 自分の中に』『抵抗の 元を辿れば 自我がある 自己を主張し 自己にこだわる』『抵抗が あれば自分を 見直して 抵抗の元 気づき手放す』『抵抗を 外していけば 限りなく 意識は澄んで 透明になる』『殊更に 瞑想をする 必要も 心静める 必要もなし』『抵抗が 消えれば心 澄み渡り 静まりかえる 何もせずとも』『抵抗も 摩擦もなくて 今ここの 意識あるだけ 無色透明』これが583日目の心境です。* 「582日目 - カルト」も同時にアップしました。 582日目 - カルト
2006.08.07
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お客さんを連れて、湯泊の温泉へ行く。海を見ながら、地元の人が最近の屋久島の話題を聞かせてくれた。どうも怪しい団体が屋久島に来ているらしい。ヨガの団体と称しているが、指導者が男性の他は全員女性。女性陣は順次入れ替わっているらしい。屋久島の民家を借り切って滞在している。真夜中、うるさいので近所の人が苦情を言いに行くと・・・全員が真っ裸で踊っていた。苦情を言いに行った人は、我が目を疑った。近くの平内海中温泉に、真っ昼間、全員素っ裸で入って来た。一糸まとわず、タオルも持たず。温泉に入っていた男性陣は、フルヌードの女性たちに大喜び。20代の女性が4~5人、全員で10ぐらいいたらしい。男性の指導者が海で泳ぎ始めると、女性たちもその後に続いた。大川の滝にも彼等は現れた。指導者の男性が滝壺に飛び込むと、女性たちも次々と飛び込んだ。全員生まれたままの姿。たくさんの観光客が見ている前で・・・湯泊の海浜温泉にも彼等はやって来た。奥の海際の温泉で、ついにいかがわしいことを始めた。地元の人が警察に通報して、パトカーが二台やって来た。エトセトラ、エトセトラ・・・最近は韓国のカルト教団「摂理」も話題になっている。教祖は国際指名手配中。世界各地を逃げ回っているようだ。元統一教会の幹部で、似たような教えとシステムらしい。オウム真理教の事件は何だったのだろうか。日本人は、あの事件から何も学んではいないのだろうか。同じような事件が引きも切らず起きる。カルト・・・上にオを付けると、オカルトとなる。なんとも怪しい世界。なんとなく魔女の世界のような感じ?しかし、魔女と言っても、いろいろあって・・・白魔術から黒魔術まで千差万別。インディオのシャーマンなどが使う、人々の役に立つ魔術もある。一方、自分さえよければいいという自我我欲の黒魔術もある。ピンからキリまで、世界は広い。人はなぜ怪しい世界に惹かれていくのだろうか。それは、拠り所を求めてということだろうか。不確かな現実に翻弄され、確かなものを求めて彷徨ううちに、怪しいところに辿り着いてしまうのだろうか。確かな拠り所のはずが、とんでもない拠り所にすがっている。なぜ?それは識別力がないから?真実を見抜く力がないから?何が本当のものかわからないから?いずれにしても、本人はそれを本物だと信じ込んでいるのだが・・・彼女たちの表情は、みな同じような感じらしい。まるで能面のようで、いきいきとしたものが感じられない。スタイルはいい。見かけは美しい。でも・・・彼女たちは幸せなのかもしれない。少なくとも彼女たちはそう思い込んでいるに違いない。そうでなければ、カルトに所属したりはしないだろう。マインドコントロールされた幸せワールド。思い込みとは、心を固定すること。一方向に心を固定し、それ以外のことを考えなくすること。それがマインドコントロールの実態。心のしなやかさの欠片(かけら)もない世界。自由もなく、真のやさしさもない。思い込みから来るやさしさはある。そうでなければ、会員は増えない。もしかすると強い信念もあるかもしれない。揺るぎない思い込み?心の安定を求め、心を固定する。そうすれば、心は安定する。不安や悩みも消える。思い込みの幸せに浸ることができる。しかし・・・それによって失うものも多い。まず、自由がない。一定の考え方に固定される。物事を客観視することができなくなる。常に色眼鏡をかけて事実を見ることになる。世界はカルト色に染まる。事実はすべてカルト的に解釈される。それは指導者の言うがままになるに等しい。指導者が右と言えば、すべてが右に見えてしまう。何も自分で考える必要はない。すべて指導者任せ。指導者の言うまま。ラクチン?自分で真理を追い求める手間は省ける。みんな鵜呑みにすればいいだけ。でも、その分、思考力は退化する。何も考えない。盲目に信じるだけ。自分の主体性を放棄することによって、安定を得る。心のしなやかさを捨てることによって、身の安全を確保する。心も体も固くなる。しなやかさや優美さは消えていく。心の安定と引き替えに、自分自身をなくしていく。それがカルトの世界。思い込みの世界で溺れる人たち。良くも悪くも、それが事実。心のしなやかさを忘れ、心の自由を放棄し、自分自身を思い込みに明け渡す。思い込みの世界で、幸せに生きる。宗教も一歩間違えば、カルトのようになる。カルトは世間から隔絶されている。宗教は世間の中にある。それだけの違いでしかない。世間の中にいても、心のしなやかさを忘れることはできる。歳を取ると、人は心も体も固くなる。頑固な人は圧倒的に中高年が多い。頑固オヤジとはよく言ったものだ。心が固くなるとは、どういうことだろう?自分の経験に固執する。自分の信念を頑なに守る。つまり、心を何かに固定させること。何と言われようと、自説を曲げない。自説を守るためには、現実の方を曲げてしまう。頑固一徹。周りのアドバイスに耳を貸さない。心はコチコチ。しなやかさの欠片もない。自分が正しいに決まっている。素直さはどこにもなく、偏屈そのもの。それもまた思い込みの世界。自分の経験を拠り所にしているだけ。宗教やカルトではないけれども、自分の思い込みワールドに住んでいることに違いはない。心のしなやかさは、どこにも見当たらない。経験ベース。信念ベース。信条ベース。それを頑なに守っているだけ。今に生きていない。過去の記憶を基に生きているだけ。過去の記憶と今が出会っているだけ。自分=過去。石頭とは、石のように頭が固い人。意識の自由がなく、過去から反応しているだけの人。頭が固くなれば、体も固くなる。後は、折れるしかなくなる。若さとは、しなやかさ。今に対応できる心のやわらかさ。のびやかに、いきいきと生きている状態。信念や信条を持つことは、自分を安定させる。何かを信じ込むことは、心の安定に役立つ。心を固定させることで、心がゆらぐのを防げる。心が不安定にならないために、心を何かに縛りつける。その縛りつける対象が、カルトであったり宗教であったり、信念や信条であったり、思想やイデオロギーであったりする。何でもかまわない。心が不安定から解放されればいいだけ。内容は問わない。心を固定させてしまえば、後は楽に生きることができる。周りの言うことを聞いてはいけない。心が動揺するから。思い込みがゆらぐから。ただ信じること。どこまでも信じ込むこと。それが自分を救ってくれる。信じる者は救われる!しかし・・・信じるという行為は、同時に騙されるという行為を内在している。なぜなら、信じるという行為と騙されるという行為はコインの裏表。信じるから騙される。信じなければ、騙されることもない。信仰の時代は終わった。理解の時代が始まっている。しかし、過去の時代のエネルギーのままに生きている人は多い。安定のために自由を手放して・・・思い込みワールドで安住するためには、見ざる・聞かざる・言わざるになるしかない。ありのままのものを見たら、心が動揺する。人の言うことを聞いては、信仰がゆらいでしまう。何か言うと、とんでもない反発を食らう。世間とは関わらないに限る。自分の世界に篭もっているに限る。それが一番安全。心が動揺しない方法。それは別種の引き籠もり。心を閉じ、自分の世界で生きているだけ。頭の中で生きているだけ。そこにはリアリティはない。見せかけの安定を手放して、自由に生きる勇気があるだろうか。不安や動揺の中で、ゆらぎながら生きることができるだろうか。絶えず周りから揺さぶられながら、それでも自分を生きることができるだろうか。何も心の拠り所を持たず、何も固定したものを持たずに生きることができるだろうか。 何もなしに・・・何も持たずに・・・ただ今と共にあって・・・ただ生きることができるだろうか。その先にしか真実はない。その手前にあるものは、みな思い込み。真実は、思い込みの先の、何もないところにある。『固定した ものに頼って 安定を 得たいと願い カルトに走る』『固定した ものを求める 源は 不安と共に いられないから』『揺さぶられ 自分が動揺 することが 怖くて何かに すがろうとする』『固定した ものを求める 大元は 安定・保身 自己保存から』『ゆれながら 生きることには 耐えられず ガンジガラメに 自分を縛る』『信仰も 信念・信条 主義・思想 心固めて 不安を防ぐ』『揺るがない ように心を 固定して 不安・動揺 防いで生きる』『拠り所 つくればそれに 縛られる 安定のため 自由を捨てる』『信じると 騙されるとは 裏表 信じ込むから 騙されるだけ』『拠り所 何も持たずに 生きるのは 波乗りゲーム 今といるだけ』『ゆれながら ゆれる自分を 見守って 波と戯れ 波を楽しむ』これが582日目の心境です。
2006.08.06
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昨夜は南の方で落雷が頻発したらしい。天然村へお客さんを迎えに行くと、停電していた。目の前の電柱に雷が落ちたようだ。今年は落雷が多いとか。何個もトランスがやられてしまったと、修理に来た人が話していた。トラブルが起きる。トラブル自体は、そんなに問題ではない。できるだけのことをするしかない。問題は・・・自分の心。心の状態。あれこれ考え過ぎると、苦しくなる。頭の中が空回りを始めると、悩みは尽きない。トラブル自体よりも、それにまつわる心理的な葛藤が心身を痛める。トラブルは事実。事実と共にあって冷静に対処できれば、対応できないトラブルはない。できることをやるしかないのだから。しかし、トラブルについて、いろいろ考え過ぎると、心身の消耗は激しくなる。一番疲れるのは、トラブルが起きたことではなく、その後の自分の心の動き。頭に血が上り、感情的になり、冷静さをなくすと、的確な判断ができなくなる。全体の状況がわからなくなる。トラブルは起きる。心の中にシコリがある限り、トラブルは起きてくる。心のシコリとは、囚われや執着。プライドや自己中心の思い。そういうものが現実と出会う時、トラブルという形を取って現れる。ある意味、トラブルが起きている時は、自分の中の詰まりを解放しているとも言える。また、自分に気づく最高の機会であるとも言える。しかし、ほとんどの場合、トラブルに巻き込まれ、自分を見失う。もうそのことだけしか考えられなくなり、客観的に状況を見れなくなる。感情に呑まれ、思いに呑まれ、自分が何をしているのかわからなくなる。周りに当たり散らし、些細なことに腹を立てる。冷静ないつもの自分が姿を消す。トラブルは起きる。自分の中が浄化しきるまでは。その間、どうするか。トラブルに巻き込まれて右往左往するか。それとも、その機会を生かすか。トラブルが起きた時は、心して自分の意識の状態を見守っていることだろうか。冷静か、心が動揺しているか。頭の中がパニクっている自分を、じっと感じている必要がある。そして、心が落ち着いてから、行動した方がいい。トラブルが起き、トラブルに巻き込まれ、更に心のシコリを大きくしないように。トラブルが起きた時は、自分の中のパターンに気づき、心のシコリを小さくするように。そのようにしていれば、トラブルが起きるたびに解放されていく。トラブルが起きれば起きるほど、軽くなっていく。トラブルが怖くなくなる。先のことをあれこれ考え過ぎるから。過去のことをあれこれ悔やむから。人は苦しくなる。今の事実だけに集中すれば、心理的な負担は少ない。トラブルが起きた時は、自分に気づく時。執着や囚われを手放す時。解放されて楽になる時。本来の自分へ戻る時。そういうことを肝に銘じて生きることだろうか。そうしない限り、トラブルの連鎖から抜け出ることはできない。どこかで止めなければ。果てしない思考の空回りを、どこかでストップしなければ。トラブルにトラブルを重ね、どんどん心のシコリを大きくしてきたのが、これまでの生き方。これからは、それを軽くしていく。方向を逆転させる。舵を逆に取らなければ、人生は変わらない。いくら精神世界の本を読んでも、セミナーに出席しても、ヒーリングを受けても、自分のパターンが変わらない限り、人生は変わらない。トラブルに巻き込まれ、自分本位にあれこれ考えている限り、これまでの人生からシフトすることはできない。自分を含めて客観的に見守ることだろうか。トラブルが、自分のどんな心のシコリに起因しているか、よーく感じてみることだろうか。冷静に、冷静に。あらゆるトラブルを生かし、心のシコリを解放する。事実だけに対処する。余計な考えは、脇に置いておく。そういうふうな対応ができるようになると、人生が変わってくる。トラブルの度に自分が軽くなり、トラブル自体も減ってくる。トラブルを恐れないことだろうか。トラブルは、基本的に自己中心の思いからやって来る。自分の都合最優先。周りのことを十分に理解する余裕がない時にトラブルは起きやすい。それに気づけるだろうか。起きた時は、冷静に対処する練習。自分を解放する機会。チャンスと捉えて楽しめたら、何も言うことはない。最初からそう簡単ではないが、トライしてみる価値はある。いつもの自分のパターンに巻き込まれない。感情や思いに呑み込まれて、自分を見失わない。冷静に、冷静に、常に自分を見守っている。そういうつもりでいると、人生は変わってくる。『トラブルは 心のシコリ ある限り 何かの縁で 必ず起きる』『トラブルの 元は自分の 囚われや こだわり・執着 心のシコリ』『トラブルに トラブル重ね 心身を 痛め傷つけ 悩み苦しむ』『人生の 苦悩の元は 事実では なくて心の 思い・感情』『事実だけ 見れば苦悩は ないものを 思いから来る 非苦の人生』『冷静に まず冷静に 事実から 余計な思い 苦しみを生む』『トラブルが 起きたらそこで 終わらせて 次のトラブル 引き起こさない』『事実だけ 見つめることが 何よりも トラブル連鎖 防いでくれる』『人はみな 思いに思い 積み重ね 苦しんでいる 事実忘れて』『トラブルに 呑み込まれるか 見守るか それが今後の 運命決める』『トラブルは 軽くなるため 心身を 浄化するため 楽しく使う』これが581日目の心境です。
2006.08.05
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お金があれば、あったなりに。お金がなければ、ないなりに。それぞれの人生を楽しむことができる。お金があっても、お金がなくても、人生を苦しむこともできる。人生はお金では決まらない。お金も重要なファクターではあるけれども、それが決め手という訳ではない。今の世の中は、お金があればたいていのものは手に入れることができる。それはすばらしい。しかし、何でも手に入ることによって、手にしたものを雑に扱うと、人生の質は薄くなる。逆に、お金がないと、手にすることができるものは限られる。手にするものが限られれば、大切に扱うしかない。それは人生の質を高くする。お金がある・ないは、本質的にはあまり関係がない。いかに深く味わって生きるか。それで人生が決まる。いくらお金があっても、使う時間さえないくらい忙しくては、何のためのお金かわからない。お金がなくても、あるお金を有効に使って生きれば、人生は豊かになる。量ではない。人生は質で決まる。いかに深く、いかに豊かに生きるか。いくらお金があっても、使い道を知らないのでは、お金がないに等しい。いくらお金があっても、大ざっぱに使っていては、人生の質が問われる。きめ細やかに大切に使う時、お金は生きてくる。お金がなくて水晶が買えなければ、水晶の写真を楽しめばいい。ネットからコピーすれば、お金は一円もかからない。それでも十分楽しめる。下手な水晶を買うよりも、最高の水晶の写真の方がいいかもしれない。お金がなければないなりに、楽しみを発見すればいいだけ。その発見は無限に広がる。もし安い水晶が買える程度のお金があったら、その水晶を楽しみ味わうことだろうか。よくよく観察すれば、いろんな特徴を発見できる。色、艶、形、バランス、セルフヒールドetc.それらをよくよく眺めていれば、飽きることはない。他と比較さえしなければ、自分が持っているものが最高!比較すれば惨めになるかもしれない。しかし、そのもの自体を味わえば、無限の味わいが可能となる。比較する必要はない。そのもの自体を味わえばいい。他の人と自分とを比較して、悩んだり、苦しんだりすることもできる。自分よりリッチな人を見て、どうして自分はプアーなのかと嘆くこともできる。そうやって自分を貶(おとし)めることも可能。嘆くことによって自分を慰めることもできる。しかし、それはほとんど自慰行為と変わらない。リッチであるが故の悩みもある。他の人のやっかみや恨みを買わないだろうか。お金を盗まれはしないだろうか。家族が誘拐されはしないだろうか。今の財産が目減りしたりしないだろうか。お金があるが故の悩みも尽きない。お金があっても、お金がなくても、悩もうと思えばいくらでも悩める。悩もうと思わなければ、お金があろうとなかろうと、悩む必要はない。悩むというのは、ほとんど癖と言っていい。これまでの習慣や思考パターン。発想そのものが悩むようにプログラミングされている。悩む・悩まないは、お金のあるなしには関係ない。まったく別の次元の話。お金はあってもいいし、なくてもいい。それぞれの状況を楽しめれば、たいして変わらない。西行法師は、小さなあばら屋に住んでいた。しかし、すばらしい和歌を残した。松尾芭蕉も、旅から旅の人生だった。彼等は、お金よりも人生の質を追求した。それは無限の広がりと深まりを持つ。お金は有限。量は有限。質は無限。人生に何を求めるかによって、人生はまるで違ってくる。人生に量を求めれば、人生は限定される。限られたパイの奪い合いとなる。人生に質を求めれば、無限の深さが待っている。個性とは、質。深く深く追求する質。その深さの中にこそオリジナリティがある。けっして量の中にオリジナリティを見出すことはできない。比較しないで、そのものの質を楽しむ。今自分の周りにあるものの質を楽しむ。ないものをあれこれ望み、悩んだり苦しんだりしない。あるものを深く深く味わう。人生は、質。量ではない。だから、お金持ちを羨むことなど、まるで必要がない。いかに人生の質を高めるか。それは自分自身の問題。他の人との比較ではない。人生を深く深く掘り下げて、オリジナリティを見出す。人生の質は、自分の中に埋まっている。まるで限りない資源のように・・・『量求め 意識が外に 向く時に 心の中は 貧しき限り』『悩もうと 思えば悩み 果てしない 現実逃避 思考のパターン』『豊かなら 豊かなことに 感謝して 一つ一つを 大事に生きる』『プアーなら 貧しさ生かし 人生の 質を追求 深さを生きる』『リッチでも プアーであっても 変わらない いかにじっくり 質を生きるか』『比較して 心貧しく するよりも そのもの自体 深く味わう』『美しい 和歌を残して 西行は 貧しき中で 豊かに生きた』『量よりも わずかなものを 繊細に 深く感じて 豊かに生きる』これが580日目の心境です。
2006.08.04
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朝方、雨が降った。断続的に降ったり止んだりしていた。その間、太陽も出ていた。となると・・・虹が出た!久しぶりの虹。なにしろ雨が降らなかったので。雨が降らねば、虹も見れない・・・幅の広い虹が、山の一番下に架かった。しかし、山の方は暗く、バックは何も見えなかった。そのため、写真には撮らなかった。暗過ぎ・・・13時50分の飛行機で、お客さんが着く予定。若い女性二人。一人は以前からの知り合い。なので、緊張感はない。空港に着くと、既に飛行機が着いていた。まだ定刻5分前というのに。しかし、予定のお客さんは乗っていない。?その場にいた近所の人に聞くと、どうも前の便が送れて到着したらしい。40~50分遅れ?ということは・・・次の便は?心配する間もなく、次の便が着いた。空港に飛行機が二機。極めて珍しい光景。屋久島空港では、同時に二機滑走路にいることはめったにない。まず益救神社に、ご挨拶に行く。こちらも、珍しいことに観光客が二組いた。さすがに夏休み?時間が遅いので、羽神の滝へ行くことにする。別名、マリアの滝。立ち入り禁止の看板はそのままだったが、期日は6月30日から更新されていなかった。 駐車場の合歓(ねむ)の木は、既に花が終わり、一風変わった実がついていた。最初の沢渡りで、お客さんは少しビックリした様子。思ったより水量があり、少し危なかった。途中の男滝で休憩。こちらは、これまでになく水量が少ない。ここで、お客さんの一人が滑って川に落ちてしまった。そのまま滝壺へ?ちょっと怖い一瞬。本人は真っ青!なにしろ下は20~30mの滝。滝の真上で休憩していたのだ。とても危険なところだけれども、これまで川に落ちた人はいなかった。思えば、怖いところを案内している。保険もかけずに・・・羽神の滝は、きれいだった。感動するほど美しかった。この上なく繊細。こんな滝は他では見られない。マリア様も健在だった。なんと、今回は目と口があった。暗いベールの中から、しっかり目が光っていた。マリア像の開眼?滝の真下まで来ると、爆風があって涼しい。これまでの暑さが、心地よさに変わっていく。滝の上で工事をしている様子はなく、安心してゆっくりできた。滝の真下から見ると、繊細さが一段と際立つ。少ない水量の方が、より繊細に感じられるようだ。滝のミストを浴びながら、しばらく滝に酔いしれる。彼女たちも大喜び。この滝を見て、喜ばない人はいない。それほど繊細で女性的な美しさに満ちている。まるで天女の舞といった感じ。何度も振り返りながら、羽神の滝を後にする。マリア様に別れを告げ、お礼を言いながら来た道を戻る。最後の方は、森の中が少し暗くなってしまった。なにしろスタート時間が遅かった。それでも、無事、駐車場に戻って一安心。楠川温泉へ向かう。ちょうど近所の知り合いが、若い女性二人を連れて来ていた。朝から白谷雲水峡へ行ってきたとのこと。楠川温泉は広くなっていた。湯船と更衣室が、これまでの倍ぐらいになっていた。すばらしい!これでかなりゆっくり入れる。これまでが狭すぎた。しかし、その分、待合室が狭くなっていた。待合室を削って、湯船と更衣室を拡張したようだ。町の予算が300万円下りたとか。ここは上屋久町がやっている温泉。汗を流してスッキリしたところで、宿の天然村へ向かう。相変わらず、のんびりしている。美味しい食事が待っていることだろう。初日にしては、充実した屋久島を体験できた気がする。『繊細な 羽神の滝は 羽のある 神が舞うのか 天女の舞か』『マリア様 見守る滝は 来る人の 心浄めて 美しくする』これが579日目の心境です。
2006.08.03
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屋久島は、だんだん雲が多くなってきている。暑さは変わらないけれども、山の方はいつも雲がある感じになってきた。全般的に下り坂だろうか。感覚も感情も思考も、常に揺れ動いている。どれも固定してはいない。目に見えるものも、常に動いている。見るものも、見られるものも、どちらも動いている。地球は、実際はものすごいスピードで宇宙空間を動いている。それだけでなく、自分自身も回転している。自転と公転。自ら回転しながら太陽の周りを回っている。すべてがゆらいでいる。しっかりと固定していると思われている大地ですら、実際は動いている。自分自身も動いている。変化しないものはない。変化しているものと変化しているものとの出会い。それは瞬間の出会い。二度と同じ出会いはあり得ない。絶対の瞬間!見慣れた景色や人は、実は同じものではない。同じだと思い込んでいるだけ。実際は、刻々に変化している。見られる対象も、見ている本人も。不思議な世界に生きている。すべては非連続。瞬間・瞬間の出会いがあるだけ。何も継続しているものはない。継続していると思い込ませているものは、記憶。記憶だけが、すべてを繋いでいる。非連続を連続と思い込ませている。すべて継続していると錯覚させている。それは映画を見ているようなものだろうか。フイルムを見れば、実際は一コマ一コマの写真。完全な非連続。しかし、それを高速で回せば連続しているように見える。それは目の錯覚。目が速さに付いていけないだけ。残像が残っているだけ。それは記憶と似ている。映画が連続しているように見えるのは、思い込み。それは事実ではない。目の錯覚。現実は、それと似ていないだろうか。瞬間・瞬間変化しているのに、同じ私?どこが同じなんだろう?記憶が?思い込みが?自分という思い込みは変わらない。だから自分は継続していると思い込んでいる。でも、実際は何が継続しているのだろうか。記憶以外に・・・目の波動が速くなれば、映画のコマとコマの間の空間が見えるかもしれない。映画のフイルムの回転スピードよりも速いスピードで撮影すれば、当然、コマとコマとの間には境目が写るに違いない。それをゆっくり再生すれば、非連続だったことがわかる。こちらの意識の波動が速くなると、現実がスローモーションのように見えたりする。突然、肉体から飛び出した時とか。あるいは、プロ野球の選手が集中して球を待つ時、球が止まって見えるとか。スポーツ全般、集中力が高まれば、動きが静止しているかのように見えてくる。すべては相対的。こちらの波動が速くなれば、相手の波動は遅くなる。こちらの波動が遅くなれば、相手の波動は速くなる。この世は相互関係で決まっていく世界。この世に絶対的なものはない。あらゆるものが、ゆらぎの中にある。見るものも、見られるものも、お互いにゆれている。すべては相対的。ただ、瞬間だけが絶対。唯一の絶対。永遠の絶対。無限の絶対。時間の世界は、相対。すべて比較の世界。比較が止んだ時だけ、絶対。瞬間だけが絶対。実際は、永遠の絶対があるだけ。瞬間・瞬間の絶対があるだけ。しかし、そうなると、もう何もないに等しい。時間が消え、瞬間も消える。ただ永遠があるだけ。ただ無限があるだけ。あまり固定的に考えないことだろうか。ゆったりと、ゆらぎながら生きることだろうか。そうすれば、いろんな事態にもスムーズに対処できる。頭が固くなると、新しい事態にギクシャクしてしまう。頭が固いとは、思い込みが強いということ。思い込みが激しいと、あちこちぶつかり、傷つくことになる。しなやかということは、思い込みが少ないということ。自由ということは、思い込みがないということ。目の前の事実と共に生きているということ。瞬間・瞬間出会っているということ。赤ちゃんや幼子は、思い込みが少ない。見るからに、しなやかに生きている。歳を取るに従って、どんどん思い込みが多くなる。頑固・石頭とは、自分の思い込みからテコでも動かない人のこと。心のしなやかさ。それが若さかもしれない。海のように、波のように、ゆらぎながら生きてゆく。固定したものを持たず、風のように自由に生きてゆく。ゆったりと、ゆらぎながら、瞬間・瞬間を楽しみながら、すべてを見守りながら、しなやかに生きていこう。『歳取れば 心も体も 固くなる ゆらぎが消えて 固まってしまう』『固定した ものの見方を する時に 自由は消えて 不自由となる』『囚われて 心と体 頑(かたく)なに なればこの世の 奴隷と同じ』『思い込み 強くなるほど ギクシャクし あちこちぶつかり 傷が絶えない』『頑固者 その実体は 思い込み コチコチ頭に しなやかさなし』『固定した ものがあるとの 思い込み 崩れる時に 嘆き悲しむ』『継続は 記憶がもたらす 思い込み 瞬間・瞬間 変わらざるなし』『比較する ことがなければ 変化なし 瞬間・瞬間 存在するだけ』『瞬間の 中にだけある 絶対は 時間の中は すべて相対』『瞬間も 時間も消えて 絶対の 今ここがある 永遠・無限』『自由とは 思い込まずに しなやかに 波にゆられて 生きてゆくこと』『見るものも 見られるものも 動いてる 変化と変化 出会っているだけ』『移りゆく すべてのものを 見守って すべてと共に 流れゆくのみ』『しなやかに ゆれて流れて 見守って 時代と共に ゆったり生きる』『固定した ものを持たずに しなやかに 風に吹かれて 波にゆられる』『風に乗り 大空を飛ぶ しなやかに 海に浮かべば 波にゆられる』これが578日目の心境です。
2006.08.02
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真夏の屋久島が続いている。夜遅く、少しだけ雨が降った。昼間、「バス174」というドキュメンタリー映画を見た。2000年にブラジルで実際に起きたバスジャックに関するドキュメンタリー。ブラジル全土に生中継された映像を使った、本物のバスジャック映画。そこに至る経緯や、その後のことが描かれていた。犯人は、ストリートチルドレンから成長した青年。前科があり、刑務所に入り、脱獄した経験もある。ストリートチルドレンが無差別発砲された事件の生き残りでもあった。一緒にいた6~7人が殺された。しかし、ブラジル社会では、それに対して邪魔者が消えたことを歓迎するような風潮があったらしい。ピストルで脅し、バスをハイジャックする。当然、乗客を人質にする。警察に囲まれ、手榴弾とライフルを要求。警察との駆け引きが始まる。何時間も状況は進展しない。普通であれば犯人を射殺するところだが、全国にテレビで生中継されているので、その前で殺す訳にはいかない。上層部から現場指揮官に殺さないように命令がある。殺さなければ、後は説得するしかない。時間をかけて、ねばり強い説得が続く。バスの中では、いろんなドラマが繰り広げられていた。人質にされた人たちの証言が続く。大学に行く時間になって、解放された男子学生がいた。自分の息子も刑務所にいることを話し、犯人に母親のような態度をとった病気の女性も解放された。若い女性たちは犯人に脅され、警察に犯人の要求通りにするように叫んだ。最後の方では、人質の若い女性が一人射殺された。毛布を頭から被せ、バスの床に跪(ひざまづ)かせて、ピストルの引き金を引いた。しかし、これは演技だった。人質に対し、犯人は殺すつもりはないと言っていた。命は保証するので、大げさに怖そうな演技をするように要求した。人質たちは、その通りにした。最後の最後の場面で、暗くなり、要求が入れられない犯人は、一人の若い女性を連れてバスから降りた。その時、警察の特殊部隊員が彼に襲いかかり、発砲した。ところが・・・それと同時に彼は体を動かした。警官が打った弾の一発は、人質の頭に命中した。犯人は無事だった。しかし、驚いた犯人は、人質の女性と一緒に倒れる時、彼女の背中に三発発射してしまった。当然、彼女は即死状態。彼はその場で取り押さえられた。周りで見ていた群衆が一斉に駆け寄って来る。犯人を殺せと叫びながら・・・警察が、それを必死に押し留める。早々に犯人をパトカーに押し込み、警察へ運ぶ。無事、群衆から逃れられたかと思ったのだが・・・なんと、犯人は警官に首を絞められて殺されてしまう。まさか、そんな・・・開いた口が塞がらない。彼がパトカーの中で暴れ回ったので、気絶させようとして首を絞めたとか・・・裁判の結果、殺した警官たちは無罪となる。日本では信じられないことだが、ブラジルではそうでもないらしい。劣悪な刑務所。全員が床に横になって休むことができない。半分は立って、交代で寝るという狭さ。暴力は当たり前。賄賂がなければ、刑期が満了しても出してもらえない・・・刑務所で学ぶものは、怒りと憎しみだけ。復讐することしか頭にない者たちが、次々と再生産される。なんともすさまじいブラジル社会。政治家は選挙のことしか頭になく、貧困層は見捨てられている。ソーシャルワーカーや社会学者など、警鐘を鳴らしたり、実際に社会活動をしている人もいるが、とても間に合わない。これは、なにもブラジルに限ったことではなく、南米全般、アフリカなどにも見られる現象。いや、メキシコなどの中南米、もしかするとアメリカでも見られるかもしれない。まだまだ世界は暴力とサバイバルの中にある。しかし、そんな中でも、よく見ると、いろんな違いが学べる。殺された若い女性は、最初のうちは恐怖の演技をしていた。しかし、そのうちに本気で恐怖そのものになってしまった。もうパニック状態に近いものがあり、同じ人質の女性が肩を抱いて慰めていた。映像を見ながら、なんとも危ない感じが伝わってきた。一方、恐怖は感じながらも、冷静に観察していた女性もいた。警察とアイコンタクトをとりながら、犯人に家族のことを話しかけ、犯人を落ち着かせようとしていた。犯人がまだ小さい時、母親は妊娠中に殺された。彼の目の前で。その後、母親の妹の家に引き取られたが、いつのまにか家出して、ストリートチルドレンになっていた。殺されなかった人質たちは、今では彼のことを許している。彼は人質を殺すつもりはなかったと確信している。ただ、ピストルの引き金を引いてしまったことは許せないと言っていた。冷静さをなくしパニックになれば、結果は悲惨なことになる可能性が高くなる。どんなに怖くても冷静さが残っていれば、助かる可能性がある。恐怖によって自分を見失えば、自分の命まで失うことになる。なぜパニックになるのか。それは殺されるかもしれないと思うから。殺されたらどうしようと思うから。なんとしても生きたい、死にたくないと思うから。思い過ぎることによって、精神がフリーズしてしまう。そのこと以外考えられなくなる。冷静さが消し飛び、周りが見えなくなる。そうすると、本当にそのようになってしまう。危険であるのは変わらない。冷静であってもパニックになっても。パニックになれば、更に危険度が増すだけ。普段から冷静であることだろうか。感情に呑み込まれないように注意して生きることだろうか。やはり、バランスということだろうか。感覚、感情、思考のバランス。そして、見守ること。どれかに偏って自分を見失わないこと。食欲や性欲という肉体の快楽に溺れない。感情のあまり自分を見失わない。考え過ぎて、取り越し苦労や思い込みにはまらない。食事もセックスも楽しむ。感情も豊かに味わう。思考も冷静に使う。それらすべてをゆっくり見守り、バランスよく生きる。何かに囚われ、何かに偏ると、豊かに調和して生きることはできなくなる。どんな時にも冷静さを失わないことだろうか。自分を見守る意識を失わないことだろうか。それが自分を守ることに繋がる。犯人には同情する余地がたくさんある。しかし、残念なことに、彼は視野が狭い。思い込みの中に浸りきっている。事実ベースで生きてはいない。最終的には薬物に溺れていた。みんなから認められたい!有名なミュージシャンになることが夢だった。認められない人生を生きてきたので、みんなに認められたかったのだろう。しかし、その前にありのままの自分を認めるべきだった。目の前のありのままの自分を認めないで、一気に逆のものになろうとする。それは逃避と言えなくもない。しかし、地に足が付いていない限り、それは途中で挫折する。今ここからスタートしない限り、夢のままに終わることになる。現実から逃避している限り、最後に行き着くのは薬物依存。そうでなければ、精神異常かアルツハイマー。事実ベース。徹底的に事実ベースで生きるしかない。今ここからスタートするしかない。あくまで冷静に・・・『事実から 逃避する人 最後には 薬物依存か 精神異常』『目の前の 事実と共に 生きないと 行き着く先は 幻想世界』『感情に 呑み込まれれば 感情の 虜となって 何も見えない』『感情に 呑み込まれれば パニックに なって自分を 忘れ危ない』『感情に 呑み込まれると いうことは 自分の世界で 生きているだけ』『感情や 思いに呑まれ 見失う 事実ベースの 見守る意識』『感情や 思いに呑まれ 見失う 自分自身の 深い真実』『酒を飲み 抑圧外し 解放し 羽目を外せば 行き過ぎとなる』『ほどほどに 飲めばお酒も 役に立つ リラックスして 楽しく生きる』『外面(そとがわ)も 内面(うちがわ)も見て 冷静に 生きていくこと すべてバランス』『偏らず 囚われないで それぞれを 楽しみ味わい 豊かに生きる』『ありありと 事実を感じ 生きる時 豊かな自然 目の前にある』これが577日目の心境です。
2006.08.01
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