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3泊4日の旅-2の続き朝5時にホテルへ迎えに行く。こちらのお客さん以外にも、4~5人がロビーにいた。今日の屋久島地方には、大雨・洪水・雷注意報が出ている。他のお客さんたちは、ガイドを中心に行くかどうか検討中だった。こちらも迷いながらホテルに着いた。しかし、二人は行く気満々。もう一度、天気予報を確認する。明日も同じような天気ということで、今日決行することに。6時頃に縄文杉の登山口に着く。いつもより車の数tが少ない。何と言っても、大雨・洪水・雷注意報が出ているのだから。しかし、それほど雨は降っていない。朝食を車中で済ませ、6時半頃に出発。最初は単調なトロッコ道。しかし、枕木と歩幅がかみ合わず、歩きにくい。40~50分で小杉谷小・中学校跡地に着く。屋久杉を盛んに切り出していた頃の遺構。その先の東屋で最初の休憩。雨はほとんど止んで、カッパなしで歩ける。ゆっくり急がないで歩く。ヤクジカが出てきた。隣に小さな子ジカが・・・生まれたばかりのバンビーは、超かわいい。お母さんの周りで遊んでいる。お母さんの方は、こちらにはまったく関心がない。でも、バンビーちゃんは好奇心旺盛。何度も何度も、こちらを振り返る。バンビーは、この後も二頭出てきた。一度に三頭もバンビーを見れるなんて・・・ほとんど奇跡に近い。すばらしい!2時間半ほどでトロッコ道は終わり、トイレ休憩。靴を脱いで、足をマッサージ。これからハードな山道となる。しっかり準備をしておく必要がある。トロッコ道から森の中へ入る。途端に道が険しくなる。30分ほどでウイルソン株に到着。巨大な株の中に入って、記念撮影。しばらく休んで、また歩き始める。ここからは、ほとんど木道となる。木道はきつい。自然の道の方が歩きやすい。しかし、雨の日は木道も悪くはない。ウイルソン株の少し先に心臓破りの坂と呼ばれる、縄文杉登山で最もきつい難所がある。ここで二人は、少し弱音を吐く。都会の道は平坦。トロッコ道は都会の道に似ている。しかし、山道は違う。距離的には短いのだが、圧倒的にきつい。ゆっくり、ゆっくり登るしかない。何度も休憩しながら、着実に歩く。また雨が降り始める。トロッコ道の間はルンルン気分だったが、森の中に入ってハードになり、雨も降り、かなりきつくなる。それでもひたすら歩くしかない。黙々と歩いていると、巨木が現れ始める。大王杉は、いつ見ても迫力がある。縄文杉が発見されるまでは、屋久島一の巨木だった。それ故に大王杉と呼ばれた。木と木が繋がった夫婦杉を見て、更に奥へ進む。この辺りでは、二人とも相当バテている感じ。それでも歩くしかない。それが縄文杉登山。やがて、縄文杉からの帰りの人に会うようになる。こうなると、縄文杉は近い。とうとう縄文杉の展望デッキが現れる。着いた!時間は、ちょうど12時。駐車場を出てから5時間半。かなりスローペース。でも、無事に着ければ文句はない。しばらく縄文杉をながめ、写真撮影。かなりの雨足。ここでは昼食は摂れないので、もう少し先の休憩所まで歩く。5人ほど先客がいたが、座れるスペースは十分残っていた。靴の紐をゆるめ、昼食を食べる。顔見知りのガイドが、カッパも使い込むと雨が浸透すると話していた。その通り!いくらゴアテックスでも、何回も使っていると雨が滲みてくる。全身びしょ濡れで、ほとんどカッパの役を果たさなくなる。二人のカッパは新しい。雨の雫が丸くなっており、ぜんぜん中には浸透していない。一方、こちらのカッパは、雨をはじいている気配がまったくない。すべて中に浸透している。当然、下着はずぶぬれ状態。寒いよ~ッ!カッパを二着持っている。しかし、二着とも既にゴアテックスは機能していない。ほとんど見せかけだけのカッパに近い。雨が降り続けば、間違いなく全身びしょ濡れになる。新しいものを買うしかないが、これが安くない。軽く2~3万円はする。そのうちにと思いながら、いつも濡れネズミになっている。水晶を買うお金があったら、カッパを買えばいいのに・・・もう一度縄文杉を見て、帰路に就く。雨は本降り。天気予報が当たってきた。午前中は完全に外れた。おかげで安全に来ることができた。滑らないように慎重に歩く。それでも下りは上りに比べると楽。重力のままに歩けばいいのだから。ただ、体重を支えるために膝に負担がかかる。しかし、今回は大丈夫だった。朝の出発時点から、両膝にサポーターを巻いた。そのうえ、雨傘を杖代わりに使用した。それに加えて、ここ一週間ぐらい毎日歩いている。これだけ準備すれば、なんとかなる。前回は、悪条件が重なった。一週間ほどぜんぜん歩いていなかった。サポーターも杖も使用しなかった。加えて、初めてのお客さんで、お年を召していた。今回は、お客さんも若いし、3日目なので気心もわかっている。前回のことがあるので、ゆっくりペースで慎重に歩いた。その結果、膝は大丈夫だった。だから、再度縄文杉まで行けと言われれば、行けないことはない。でも、行きたいとは・・・今年は日記最優先。縄文杉へ行くと、日記を書く時間がなくなる。朝の4時半頃に家を出て、帰り着くのは7時頃。風呂に入って食事をすれば、疲れ果ててバタンキュー。これを何度もやっていると、生活のリズムが崩れてしまう。普通に起床して、日記を書いて、行ける範囲のところがいい。次の日まで疲れが残らないような仕事をしたい。今後は、そういう方針でいきたいと思う。ウイルソン株で、また休憩。なんとかトロッコ道まで下りる。ここまで来れば、もう安心。後はただ歩くだけ。危険はない。ひたすらトロッコ道を歩く。歩けども、歩けども、駐車場は遠い。途中の東屋で休憩。靴を脱ぎ、足のマッサージ。ラスト40分。しばらく止んでいた雨が、また激しくなる。線路は水浸し状態。もう靴の中まで、ずぶ濡れ。諦めて水たまりの中を歩くしかない。疲れているので、欄干のない鉄橋を渡るのが危ない。雨で一段と滑りやすくなっている。下を見ると、雨のために増水した川が勢いよく流れている。川を見ないで、橋だけを見て歩く。川を見れば目が眩みそう・・・最後のトンネルを抜け、なんとか駐車場に辿り着く。時計を見ると、5時を過ぎていた。ほぼ10時間半の道行き。雨の中にしては、まあまあの時間。今日は、いつもに比べて極端に登山者が少なかった。ガイドの数も少なかった。やはり、大雨・洪水・雷注意報が効いたのだろうか。ゆっくり歩いたので、みんなに追い越されて、到着したのはラストから3番目だった。それでも、安全に楽しく歩くのが一番。無理はケガの元。二人とも、さすがに疲れた様子。予想以上に長かったらしい。なにしろ往復で21Kmも歩いたのだ。それに、山道のきつさも予想を上回ったようだ。こちらがHPで縄文杉登山を薦めない訳がわかったとか。それでも、縄文杉まで行って来た満足感はある。これで、みんなに縄文杉を見たと自慢できる。でも、一生に一度でいいとの感想だった。そうだよね。何度も行く人はバカだよね。ハー、何回行っただろう・・・6時半頃にホテルに着く。無事、縄文杉へ行って来れた。後は、ゆっくりお風呂に入って、美味しい食事をすればいいだけ。今回の旅のメインプログラムをクリアー。明日はのんびり屋久島一周。『屋久島の 原始の息吹 伝えるは 切られず残った 古代の巨木』これが545日目の心境です。* 7月2日付けの「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPのトップページには、 先日の日記に出てきた、貴婦人のように優雅な黒いトンボの写真が掲載されています。
2006.06.30
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3泊4日の旅-1の続き朝、虹が出た。大きな虹が一時間以上断続的に出ていた。何枚も写真を撮る。パソコンで拡大してみると、二重の虹になっていた。(この虹は、6月30日の 「いのちの島=屋久島」 に掲載されています)9時にホテルに迎えに行く。彼女たちも虹を見たとのこと。屋久島で虹が見れる人はラッキー!特に最近はあまり出ていないので、超ラッキーかも。昨夜は満天の星も見れたらしい。それだけでなく、流れ星まで・・・こちらも星を見たが、流れ星は見なかった。見たかったなぁ・・・雨の中、木霊の森へ向かう。その前に、お昼の弁当を調達。ここでcellist.mayumi♪さんのらしい車を見かける。その後、白谷雲水峡の駐車場まで、ずっと後を付いてきた。駐車場で準備していると、cellist.mayumi♪さんが近づいてきた。彼女も木霊の森へ行くらしい。今日は休みなので、木霊の森で瞑想したい気分とのこと。先に行ってもらう。それほどたいした雨ではなかった。ゆっくり木霊の森に入る。いつもお昼寝する大岩の上で、cellist.mayumi♪さんは瞑想していた。瞑想の邪魔をしないように、ちょっとだけ挨拶して、更に上へ向かう。苔は雨に濡れ、沢は水量があり、とてもきれいな木霊の森。大きな切り株に入ったりして遊ぶ。雨はだんだん激しくなり、至るところにミニ滝ができていた。沢を渡る時、少し危険だった。いや、これまでで一番危険だったかも。連日の大雨で、かなり流れが激しくなっていた。更に奥へ向かう。一番奥に大きな屋久杉の切り株がある。ここで写真を撮った時、目玉のある木霊ちゃんが写った。屋久島が2度目の女性のデジカメには、はっきりと目玉がついているのがわかる。こちらもフラッシュを焚いて写真を撮ってみる。写った!珍しくはっきりと木霊ちゃんが写った。この時点では目玉がついているかどうか確認できなかったが、自宅のパソコンで拡大してみたら目玉がついていた。美しい緑の森と白い滝の水に、たくさんの木霊が写っている。これだけ美しい木霊の写真は珍しい。この写真は、7月1日の 「屋久島ナチュラルヒーリング」 のHPのトップに掲載されているので、ぜひ見てほしい。右側の木の上の木霊に、小さな目がついているのがはっきりわかる。他の木霊もよーく見ると・・・2度目の屋久島の彼女のブログにも木霊の写真が掲載されている。こちらには大きな目玉がついている。その他にも今回の旅の写真がたくさんあるので、この日記の写真バージョンみたいになっている。見てみれば参考になるだろう。>>こちら雨は更に激しくなり、最後はスコールのような雨に。これまで木霊の森へ来た中では最も激しい雨になった。いつもは白く美しい沢が、濁流と化す。少し危険を感じ、引き返すことに。帰り道、沢ガニが何匹も道路を歩いていた。少しカニと戯れる。そういえば、木霊の森でも大きな幼虫を爪に挟んだ沢ガニを見かけた。これを食べるの?珍しいので写真に撮ろうとしたが、撮られるのがイヤそうで、すぐに隠れてしまった。この後、もののけ姫の森へ行く予定だったが、この雨では危険。たぶん、途中の沢が増水していて渡れないだろう。そういう訳で、予定を変更して里に下りることに。下りる途中の道路で、あちこちに臨時の滝ができていた。その迫力のあること・・・里に近づくにつれて、雨は小降りになった。豪雨のため不老長寿の水が汲めなかったので、屋久島縄文水の工場へ行く。ここの中に湧き水がある。事務所にことわって汲ませてもらう。とても美味しい!帰る時、一人に一本ずつ縄文水のペットボトルをサービスしてくれた。何も買っていないのに。逆に水をもらったのに。親切な屋久島。時間に余裕があったので、抹茶のソフトクリームを食べる。こちらも大変美味しい!彼女たちは大満足。それから屋久杉の木工所へ行ったが、こちらは臨時休業だった。この大雨では迫力のある滝が見れそうな気がして、千尋の滝へ向かう。途中で龍神の滝に寄る。ものすごい水量。水煙がもくもくと上がっていた。千尋の滝で、またcellist.mayumi♪さんに会う。彼女も増水した滝を見に来たようだ。千尋の滝は普段よりは水量が多かった。それでも、台風の後ほどではなかった。彼女たちは、お土産屋でタンカンジュースを飲んだ。これがまたとても美味しい!モッチョム岳がよく見えるところで、しばし写真撮影。ここは誰も来ない。モッチョムの勇姿を独り占めできる特等席。鋭い岩峰。すばらしい山!最後にJR温泉へ行く。女湯では、またcellist.mayumi♪さんに会ったらしい。男湯では、彼女のご主人に会った。一日に三回も会うとは・・・cellist.mayumi♪さんは、この日記に何度も登場する。不思議とよく会う人だ。JR温泉で、お肌はツルツル。5時頃にホテルに着く。いろいろ盛り沢山の二日目だった。『木の緑 苔の緑と 白い沢 木霊の森は 木霊が守る』これが544日目の心境です。
2006.06.29
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今日から、屋久島3泊4日の旅を連載します。参加したのは、20代後半の女性二人。一人は昨年の7月にも屋久島へ来ており、2回目の屋久島。もう一人は初めての屋久島。朝11時に屋久島空港着。以前にも会っているので、顔を見るなり手を振ってくれた。こちらも手を振る。天気は最高。青空が広がり、山々の緑も美しい。車から見える海の美しさに、二人は歓声を上げる。今回は最初に益救(やく)神社に行きたいとのメールが届いており、ご挨拶に立ち寄る。境内の大きなガジュマルに驚く二人。二人は旅の無事を祈ったのだろうか。それとも、木霊の写真?暑いので、羽神(はがみ)の滝へ向かう。別名マリアの滝。駐車場に珍しい花が咲いていた。高い木に咲くピンク紫。入口に立て看板。道路工事でダイナマイトを使用するため、6月30日まで立ち入り禁止。以前は3月31日だった。工事が延びたようだ。しかし、まだ工事は終わりそうにないので、再々延長されることだろう。立ち入り禁止なので、羽神の滝へ行く人はいない。本当は工事が休みの日曜日に行きたいのだが、月曜日からの3泊4日では不可能。最初の沢渡りから危険。思ったより水量が多かった。「ここを渡るの?」「そう、ここを渡るのよ」ちょっと驚いた様子で顔を見合わせる二人。慎重に、ゆっくり渡る。落ち着いて行動すれば、まず事故に遭うことはない。急いで自分を見失った時に、事故が起きる。久しぶりに行ったので、少し道を間違えてしまった。あまりはっきりした道はなく、ピンクのマーキングだけが頼り。基本的には沢沿いに登って行けばいいのだが、人が通っていないので荒れている。何度かルートを外れながら、それでも無事、男滝に到着。ここは滝の真上。下に向かって激しく流れ落ちている。とても気持ちのよいところで、景色もさわやか。靴を脱いで裸足になり、水に入って遊ぶ。冷たいが、気持ちいい。写真を撮って、昼食。心地よい風にのんびりしていると、サルが二頭現れた。見ていると、大ジャンプして沢を渡った。すごい!川幅は人間でも怖くなる距離。彼等は人間と違って、四つん這いのまま飛ぶ。不思議なジャンプ。沢に沿って更に登ると、森から抜ける。沢の中を少し上がると、羽神の滝が突然、現れる。それはそれは繊細。一筋の流れが天から舞い降りている感じ。いつ見てもすばらしい。屋久島には珍しい女性的な滝。昼食を摂った男滝とは対照的。まるで天女の舞を見ているよう。しかし、興ざめなことに、滝の真上に道路の橋脚が立っている。まだ道路は架かっていないが、いずれ架かるだろう。滝に近づくと、以前来た時よりも更に荒れている感じ。自然の風雨と、工事による落石。明らかに工事の後が見て取れる石が、あちこちに転がっていた。しかし、滝壺は以前より広くなった感じ。元々は美しい滝壺があった。滝の周りもこんなに荒れておらず、それはそれは美しい滝だった。今は見る影もない。それでもここへ来るのは、滝そのものが美しいから。滝の真下の石に座ると、滝のミストが心地よい。上を見上げると、繊細な滝が霧状になって流れ落ちている。ふと気がつくと、丸い泡のようなものが上から舞っている。滝の花?まるでシャボン玉のような1cmぐらいの小さな泡が、フワフワと舞い落ちる。滝の飛沫が風で舞っているのだろうか。とても美しい。しかし、残念なことに写真には撮れなかった。滝の上で、時々、工事の音がしていた。落石が気になったが、今回は大丈夫だった。基本的に橋脚工事は完成しており、後は道路を乗せるだけ。これがなかなかできない。あと三ヶ月ぐらいはかかるかもしれない。マリア様は、顔に草が生えていたが、ご健在だった。ベールを被り、振り袖を着たマリア様。和洋混交の不思議なマリア像。暑い時は、滝に限る。心地よいこと、この上なし。まして、これだけ繊細だと、心も体も自然にさわやかになる。美しいものにふれると、人は美しくなる。繊細なものにふれると、人は繊細になる。本来内在しているものが、自然に触発されて自然に出てくる。できるだけ美しく繊細な自然に出会うといい。帰りも慎重に気をつけながら歩く。気を抜くと危ない。気を抜けるような道ではない。彼女たちに言わせると、「サバイバル!」最後の沢渡りで、初めての彼女が沢に足を滑らす。靴が濡れただけだったが、軽いショック状態。よくあることなので、こちらは驚かない。無事に駐車場まで戻ると、ホッとした気持と満足感に満たされる。旅の初日から、すばらしい滝に出会えた感じ。滝から離れる時、何度も何度も振り返った。それほど離れがたい滝。まるで繊細さが生きているような滝。本当に美しい。何度見ても見飽きることがない。誰もが感動するくらい無条件に美しい。こんなに美しいものの上に道路を架けるなんて・・・そのセンスが信じられない。しかも、ここは世界自然遺産の島=屋久島。道路関係者の感性を疑いたくなる。滝からの帰り、抹茶のソフトクリームを食べる。これは美味しかった。暑い時は、滝だけでなく、ソフトクリームもお勧め。早めにホテルに着く。今日は早起きをして飛行機に乗ってきているので、早めに休んだ方がいいだろう。明日から森の中を歩くことになるのだから。たぶん、すばらしい星空が見れるだろうと言って別れる。これが3泊4日の旅の初日の出来事。『美しい ものに出会えば 美しく 心も体も 自然に変わる』これが543日目の心境です。* ハードな仕事が続いており、なかなかコメントへの返事が書けません。 もうしばらく、お待ちくださいね。
2006.06.28
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「542日目 - 感情の源-3」の続き次は、kuririnnさんですね。【遅れてすみません・・初めて参加させていただきます。よろしくお願いします。私は、相手に嘘をつかれる或は相手の態度言ってる事が嘘だと感じる時。又自分の事を疑われたり何かしら決め付けられたように感じる時・・とてもイライラして悔しくて、怒りや悲しみの感情が込み上げてくる。嘘を相手に追及しても嘘に嘘を重ねて、真実は闇の中真実なんて何なのか分からなくなる。イライラして相手を信じられなくなる。全てにおいて疑い始める。信じる・・誰かを信じる・・信じるは私の都合の思い込み、勝手な期待・・・ だから人の事など信じなくても自分を信じていればいいと思うようにした。相手の嘘や思いにこだわらないで、自分が自分でいればいい。 なのにそれが出来ない・・出来たつもりでいてもすぐぐらつく 何故か寂しい。。私は誰からも信じてもらえない、いつだって疑われている。けれど私も誰も何も信じていない、いつだって疑っている。人との距離・・寂しさ・・ それを創っているのは自分自身のような気がする。信じるってなんだろう? 信頼ってなんだろう?寂しさ。 私は本当は人と近づきたいと思っているみたいだ。でもそれを、とても拒んでいる。心を開いて人と関わる事を恐れている。そして、又 グルグルと同じ所を回って、回って、、もう 回りつかれてしまった。心を開く事への恐怖。それは嫌われる事への恐れ、拒否される事への恐れ、ありのままの私を受け入れてもらえるはずが無いという思い込み。・・・見えて来たのは自己否定。私は自分で自分の事を受け入れていない。自分自身を信じていない。愛していない。。たぶん私は、とても愛を求めている。周りからの愛を感じる時 とても嬉しい。ハートがジーンとして幸せになる。けれど、すぐに乾いてしまう・・閉じてしまうのは、私が私を疑っているから、信じていないから、、心を開く事を恐れているから。嘘や疑いに反応して人への不信感をつのらせてしまうのは、自分自身への不信感を周りに投影させていたのかもしれない。自分を信じる事、許す事、ありのままの自分を受け入れる事、愛する事。私はそれを望み求めているのかな・・という事に気がついた。】相手というのは、自分の意識の投影ですよね。本当の相手自身は兎も角、自分が推測する相手は明らかに自分の投影です。信じてくれていない、疑われている、嫌われている、拒否されている・・・それらは、みな自分の意識状態そのものです。自分の意識がそうだから、相手もそうだと思ってしまうのですね。ということは、結局、自分の意識状態が、自分の感情を導き出しているということになります。相手ではないのですね。相手が嘘をつこうとつくまいと、イライラしたり、悔しがったり、怒りや悲しみで反応しなければならないということはありません。静かに見守ることも可能です。イライラしたり、悔しがったり、怒りや悲しみで反応するのは、自分の中にも同質のものがあるからでしょうね。本当は人と近づきたい。周りから愛を感じる時は、ハートがジーンとする。本当は愛を求めている。しかし、心を開けない。心を開けば傷つくから。いつも望むような愛が与えられるとは限らないから。これまでたくさん裏切られてきたのでしょうね。望むような愛を得ることができなかった。手に届きそうなところにあるのに、最後の瞬間、どこか遠くへ去ってしまう。求めても求めても得られなかった・・・だから、それが不信感となり、人を信じることができなくなり、疑い深くなった。本当は心を開いて愛されたい。でも、怖くて、とてもそんなことはできない。愛を求めている限り、その繰り返しかもしれませんね。誰も望むような愛を与え続けてくれる人はいません。いつか必ず傷つきます。愛を求め続ければ、裏切られるしかないのです。周りの人はイエス・キリストではないのですから。事実と共に生きるしかありませんよね。ありのままの事実と共に生きる。自分の状態をありのまま認める。そこから逃げないで、そこからスタートする。それ以外に道が開ける可能性はありません。先ずは、ありのままの自分を、良いも悪いもなく、そのまま認めましょう。自分自身の意識の有り様を深く理解し、静かに生きればいいのですよ。理解から自然な行為が生まれます。自分自身をわかることが、人をわかることです。自分をわかった分だけ、人も理解できます。自分をありのままにわかることができれば、人もありのままにわかることができます。自分をわからない限り、自分の色眼鏡で人を見ているだけです。その人自身ではなく、自分を投影した幻を見ているのですね。事実ベースではなく、思い込みベースです。すべては事実ベースから始まります。自分が理解されるにつれて、余計な感情は出てこなくなります。自分を守るための感情は、今ほど必要ではなくなるのですね。守ろうという意識が消えれば、また出てくる感情も異なってきます。自我を守ろうとしている限り、愛に満たされることはないでしょう。愛されたいと思っている限り、愛はやって来ません。愛を求めれば求めるほど、愛は遠くなるのですね。なぜなら、愛は内にあり、外に求めれば遠くなるしかないのです。先ずありのままの自分を見つめてみてください。そして、深く理解してください。自分の中に宇宙の始まりも終わりもあります。求めているものは、自分の外にあるのではなく、自分の内にあるのですね。この日記を書いている時、西の空には断続的に虹が出ていました。昨夜来の激しい雨が朝方に止み、明るくなるにつれて青空が広がりました。6時頃から西の山に虹が架かり始め、色や形を変えながら1時間以上出続けていました。日記を書きながら写真に撮りましたが、あまりにも大きくて28ミリの広角レンズでも全体を捉えることができませんでした。久しぶりの美しい虹でした。『愛求め 認めてほしいと 願うのは まだ満たされぬ 幼い自分』『生きるため 愛を求めて すがるのは 幼い自分の いのちの願い』『外側に 求め続けて 傷ついて 心閉ざして 淋しく生きる』『求めれば 求めるほどに 遠ざかる 愛は外には 見つけられない』『外側に 求めることは いたずらに 愛の源 遠ざかること』『認められ 愛されたいと 望んでも 自分以外に 満たす人なし』『愛に飢え 傷つき疲れた 幼子は 自分自身で 満たすしかない』『愛に飢え 愛を求める 幼子と 一緒に留まり ただ抱きしめる』『自分から 逃げずに共に 留まれば 愛は自ずと 湧いて来るもの』『マイナスの 電気がプラスへ 行くように 愛も自然に 流れ出るもの』『愛に飢え 愛を求める 幼子が 自分の中の 愛を引き出す』これが542日目の心境です。
2006.06.27
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「541日目 - 感情の源-2」の続き次は、ぴあのさんですね。【先日、私的なことでモヤモヤイライラした出来事がありました。「信じられない! 私なら ”絶対” こうするけどなあ。 それが ”常識” だと思うけど・・・」と、憤慨する私。その私に即、もう一人の私が 「まあまあ、人の考え方なんてそれぞれ。十人十色でしょ?他の人には常識じゃなかったのよ」「でもねえ~~ 情っていうものがあるでしょう?」「だから その情っていうのも あなたの定義づけでしょう?」「う~~ん、そうだけど~」「自分をもっと自由にしてあげたら?」いつもイヤなことやちょっとむっとすることがあると二人の私が心の中でこんなやりとりを繰り返します。これがいつまでたっても終わらなくて・・・よりモヤモヤしてきたりします。いっそ、「ムカつく!」 って叫んだ方がすっきりしてあとくされないかしら・・・なんて思ったりもします。先日の場合の私の思い込みは 『こういう場合はこうするのが常識』 ということでした。そんなこと私には 『あたりまえでしょう?』 ということでした。でも、そうではない人もいる それが自分で納得がいかない。でも、その自分の気持ちのずっとずっと奥へ入っていってみると『私の考えは正しい』 という気持ちの向こうに 自分を認めてもらいたい という気持ちが大きく横たわっていることに気づきました。いつも誰かに認めていてもらいたいという気持ちと、満たされない想い。満たされていない 愛が乾いてしまっている そんな感じ・・・満たされていないので 自分の存在を認めてもらって自分を安心させよう という気持ち。愛を何かで代償しようとしている というか・・・自分の内から愛が湧き上がっていたら 「常識でしょう?」 というような思い込み、気持ちは全く出てはこないだろう と思います。今回のワークは かなり真剣にやったのにもかかわらず、自分の中でまとまりがつかずもう提出はやめよう と思いました。でも、やっぱり、書いてみよう。と書き始めたら 自分の中で少しずつ心の整理ができてきて書くことができました。推敲もせず提出します。(時間がない!)あと、具体的に と書かれていたのですが、相手がいることでしたので 具体的に書けず抽象的になってしまいました。すみません。】自分の中が乾いていると、周りにやさしくできませんね。自分の中が潤っていると、自然に周りにもやさしくできます。時間に追われているとか、とても忙しいとか、心の余裕がないと、心豊かに生きることは難しくなります。心の豊かさというのは、いかに自分の中の深いところと一緒にいるかなのですね。忙しくなると、意識が表面だけになってしまいがちです。表面だけの心は、表面的なものに反応します。人の意識の表面は、それぞれ異なります。異なるところをベースに生きれば、トラブルが絶えません。深い共通の意識のところにベースを置かないと、心やすらかに生きることはできないのですね。認めてもらいたいという意識は、そんなに深い意識ではありません。子供の頃から引きずっている意識ですね。いわゆるインナーチャイルドです。それもまた事実ですから、そのまま認めるしかありません。しかし、その意識をベースに生きれば、いつも満たされない思いで生きることになります。愛を求め続ける意識をベースに生きる時、人は幸せではありません。そこに留まる限り、常に不満が付きまといます。愛そのものの意識領域で生きる時、もう何も求めることはありません。自分自身が愛そのものなのですから。愛を求める意識領域で生きる限り、愛の代償として様々なものを欲しがります。自分の存在を認めてほしい。そのために、お金や地位や名誉を求めます。異性を支配しようともします。人をコントロールし、弱者をつくって満足しようとします。すべて愛の代償行為です。愛を求める不安定な自我を満たすために、必要以上に強がったり、権力を保持したりもします。それでも満たされることはありません。愛の源へ還らない限り、永遠に満たされることはないのです。愛を満たすためには、愛を求める意識の更に奥へ向かうしかないのです。そこにだけ、深いやすらぎがあります。いろんな感情が出てくる源に、満たされない思いが横たわっています。愛の渇きがあるのですね。それを満たすための様々な行動とリアクションがあります。そこから多くの感情が生まれてきます。その辺りを自分自身を通して理解することでしょうか。満たされない自分自身と一緒にいて、黙って抱きしめてあげることです。愛を求め続ける自分自身と一緒にいて、無言で包み込んであげることです。それ以外に愛に満たされる方法はないでしょう。愛を必要とするものと一緒にいる時、愛は自然に湧いてくるのですから。愛は、殊更に愛そうとしなくても、自然に湧いて来るものです。満たされない自分から目を逸らさないで、一緒にいてください。愛を求め続けるインナーチャイルドと一緒にいて、やさしく抱きしめてあげてください。自分の中から愛が湧くことによって、自分自身も満たされます。外に愛を求めている限り、満たされることはありません。異性や家族や教祖や指導者に求めても、所詮一時的なものです。自分の中の愛の源に辿り着かない限り、真に満たされることはありません。急ぐことなく、ゆっくり自分自身と一緒にいてください。自分自身をやさしく見守り、抱きしめていてください。「542日目 - 感情の源-4」に続く
2006.06.27
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「感情の源-1」の続き次は、Y@soleilさんですね。【恐れを伴うもの、それに対して、即座の感情の反応があるように感じました。それは、過去の未消化の記憶の無意識の反応もあります。緊急の要件があり、慌てて、上司に午後からの休みの依頼をする。でもひそかに、その日の仕事内容は余裕があることを知ったいたため、大丈夫だろうと思っての依頼だった。普通だったら調整可能の内容と思い込んでいたら、上司の返答はそうではなかった。さらに動揺する・・・・・・。その動揺を鎮めるために、なによ、普通だったらなんとかするのに。と言っている自分。そして、これって意地悪?と思い不安と怒りを感じた。何故怒りを感じたのだろう?まず、休みを取ること自体を掴んだこと。それに自分のその時の快・不快を乗せてしまった。だからこそ、上司の意向次第で、自分の状況が変わると思いこんでいる。要するに、上司に権威を感じ、私を弱者として位置づけ、また同時に精神的に依存している。そして、私の意向も大切に扱われるべきであるという思い込み。傲慢さ。上司はこうであるべきという思い込み。今までの記憶による自動的きめつけ。上司は私が嫌いではないかと感じていたことがあった。それがとたんに引き出されていた。休みを取ることを掴んだための快・不快から生まれた不安を都合よく鎮めるために。悲しみには、愛されるべき私(他者)への憐憫の気持ちも引き出し、その底には傲慢さがあり、そして、それが外に向けられると、怒りになり、そして、それが満たされたと感じれば、喜ぶ。絶えず外からやってくるものの反応としての感情。まるで自己確認を外に求め、私を確認する手段に利用しているかのように。色んな感情を見つめていくと、私の中の思い込みは、特に、愛情面、性格とか、精神面で顕著でした。誰かを愛さなければならない。誰かに愛されなければならない。誰かを守り、大切にしなければならない、誰かから守られ、大切にされなければならない。自他共に、善き性格でなくてはならない。その他色んな、そんな思い込みがあった。沢山の善悪の基準があり、そのものさし基づいて、喜怒哀楽が生まれてもいた。せねばならないという言葉の裏には、恐れがあった。そうすることで、自らを守れるかのように思い込んで・・・。罪と罰の意識があった。そこには権威があり、弱者がいて、依存があり、妄信があって、不足感があり、怒りがある。愛が見当たらない・・・。愛情において、特に恐れが強まる。そして、自分は何者か?において。今まで反応した感情のほとんどが、ひそかに自分を守ろうとする自我から生まれた感情だったのではないかとすらと感じます・・・・。しばらくじっくり見つめてみたいと感じました。ありがとうございました。】今まで反応した感情のほとんどが、密かに自分を守ろうとする自我から生まれた感情?すばらしい!ほとんどの感情は、自我ベースですね。自己中心、自己本位。ほとんどの感情は、自分ベースから起きてきます。その根底にあるものは、自分を守ろうとする意識です。肉体を維持するためには、自己保存の本能が必要です。自己保存の本能から感情は生まれます。感情は肉体の快・不快から出発して、複雑に発達していきます。やがて、思考力が発達するにつれて、自我ベースの感情になっていきます。その自己中心的な感情を理解しない限り、感情に振り回されます。自分を守ろうとして出て来るいろんな感情。その一つ一つを注意深く見守り、理解する必要があります。そうしない限り、人は感情の奴隷です。人は、思いの奴隷であり、感情の奴隷であり、肉体の奴隷です。それらをマスターするまでは、真の主体性は確立できません。これまで主体性と思っていたものは、思いや感情や肉体の反応に過ぎません。それは肉体の自己保存の本能に端を発する反応人生なのです。スピリチュアルな主体性は、微塵もないのですね。肉体、感情、思考を見守り、理解しないことには、真のスピリチュアルな主体性は確立しません。いくら精神世界の本を読んでも、セミナーに出ても、自分を理解しない限り、単なる思い込みです。それは自分を守るための自我の行為に過ぎません。自己を主張したいがための個の成長であり、永遠の魂です。それは自我からの自由ではありません。自分の中にある肉体感覚、感情、思考を、しっかりと理解する必要があります。それらがクリアーされない限り、精神世界は絵に描いた餅です。どこにも真の自由はありません。感情が出てきた時に、その感情はどこから来たのかをしっかり見極めてください。自己保存の領域から来ているのか、それとも、それ以外の感情があるのか・・・よーく見極めてみるといいでしょう。次は、きらきらハッピー☆さんですね。【自分が話したことが、自分の考えとは違うように自分を否定するように解釈されてしまうときとても悲しい気持ちになります。親しい間柄の相手であれば、もっと自分の気持ちを伝えたり、違う言葉をつかって説明して、できるだけ自分の感情や考えを相手に伝えようとするのですが、まだ知り合って間もない人や、あまり親しくなろうとしていない人から、私を否定するような言い方をされた場合には、説明を加えることなく、相手から遠ざかろうとする自分がいます。「ああ、この人には伝わらないんだ」と決め付けて自分の考えを伝えることをあきらめてしまう自分がいます。でも、これは、説明しないから理解されないという当たり前のこと。十分な説明をしていないのだからその説明なら相手がそう受け取るのは当然なのに勝手に相手を悪者にしているのは、自分の方人によって細かいニュアンスの相違があり、同じ言葉でも解釈や使い方、捉え方が違う。お互いに共通認識を持つためには、たくさんの説明を必要とするのにいろいろな角度からの補足説明が必要なのにただ怠けていただけ、踏み込まないから、理解されないだけ。頻繁に出てくる感情は、上記の感情なのですが、それ以外に、ときどき出てくる感情を探してみると、感情と対面はできても、具体的に言葉で置き換えられるところまでにはもう少し時間がかかるように思います。今回、気づけた感情は、ほんの氷山の一角氷山の氷を少しずつとかして、過去の堆積物を流していこうと思います。 】相手に誤解される。それだけなら、まだ許せるのかもしれませんね。誤解は誰にでもあることですから。でも、否定的に誤解されると・・・ちょっと許せませんね。自分が否定されたような悲しい気分になってしまいます。どうして悲しくなるのでしょう?自分が否定されたから?では、自分が否定されると、どうして悲しくなるのでしょう。自分が否定される=悲しいということでしょうか。自分が否定されることは悲しいことでしょうか。悲しいという反応以外にはあり得ないのでしょうか。では、逆に肯定されたら?もちろん、嬉しい。人は、否定されて悲しみ、肯定されて喜ぶのでしょうか。ほとんどオートマチックに?普通は、褒められると喜び、けなされると悲しくなります。それは子供でも大人でも同じです。その根底にあるものは、認められたいという願いでしょうか。それは幼児期から見られます。親に認められ、褒められ、肯定されると嬉しくなります。逆に、親から叱られ、否定されると悲しくなります。それは人の意識の中でかなり根深いものです。それが成長した後も尾を引いています。人から認められることが、自身の安全や安心に繋がるのですね。逆に否定されると、身の安全が脅かされます。そういう幼児期以来の持ち越したものがあって、悲しくなったり嬉しくなったりしているのでしょうか。自分の存在を認めてもらうということが、人にとってどれほど大きなウエイトを占めていることか。それを深く理解する必要があるのかもしれませんね。自分の中にある、認められたい、わかってほしいという気持がどれほど強いか・・・「この人には伝わらない」と決めつけて、相手を悪者にすることによって、否定された自分を正当化しようとします。あるいは、この人は自分を認めてくれないと諦めて、自分の世界に引き籠もり、自分を守ろうとします。いずれも認められたい気持の裏返しです。相手を判断・解釈することによって、人は自分を守ろうとするのですね。しかし、それもまた思考の悲しいパターンなのです。自分の悲しみやさびしさの奥にあるものを深く理解しましょう。それらと共にいて、見守り、抱きしめてあげましょう。認められたい、否定されたくないという思いの奥には、生きようとする意志があります。生命力が漲(みなぎ)っています。そこまで辿り着ければ、また人生が変わってくるでしょう。この続きは、明日掲載します。
2006.06.26
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屋久島は完全に梅雨が明けたようだ。朝から青空。しかも、朝の6時で気温は25度を超えている。昨夜も天の川がきれいだった。今日から仕事が6日間続く。そのうちの一日は縄文杉。さて、今回は膝は大丈夫だろうか。行ってみないとわからない・・・ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。【自分の中の感情に注意して、感情の源を探ってください。出て来た感情は、どんな思い込みに由来するものでしょうか。日常生活の中で自分の感情を見つめ、感情が出て来たら、それがどこから出て来たか、その源を突き止めてください。どんな感情でもかまいません。感情を見逃さないで、その根を見極めてください。締切まで感情を見つめ、感情の元となる思い込みを突き止めてください。】6人の方から実践報告が寄せられた。さて、その結果は・・・最初は、たろうくんですね。【私は、職場で過ごす感情を見つめてみました。私自身に向けられた言動ではないのですが、職場内やお客様に対して、一人の人が発する言動に、なぜこんな言動をするのだろう?と、私なら・・・と自分が正しいという価値判断に当てはめて、その人は間違っているという判断をし、言葉に出すことはありませんでしたが、落胆や悲しみ・怒りの感情が自分の中にありました。この感情の原因は、自分が仕事を楽しみたいとか、リズムを狂わされ思い通りにならないと感じる自我の思い込みから生まれたものだと思います。でも、この数日間の私を振り返ると、相手の言動ばかりに気持ちがいき、私の方こそ、お客様に対して感謝の気持ちを込めて、心から笑顔でお出迎えできていませんでした。そして私のそんな行動は、私が感じたように職場に重い空気を感じさせてしまい、仕事を楽しみたいと思っていた私も、他の皆さんが仕事を楽しめない原因を作っていたように思います。そのことに気づくまで、相手ばかりへ感情で心身ともに重くてため息ばかりでした。どんな環境であっても、自分を注意深く冷静に見つめていないと、周りの言動ではなく、自分でその瞬間を転換してしまうなと感じました。外を変えようとするのではなく、その時自分がどういられるか。。。内なる自分に耳を傾けてあげれるきっかけを、たくさんいただける職場なんだと感じると、それまでの重い気持ちが消え、今までごめんなさい、そして、このご縁にありがとうございますという気持ちが芽生え、す~っと軽くなった自分を感じることができました。先日のkimiさんの日記で、自分の尻尾を追い回していると書かれていましたが、まさにその通りですね。】人は自分の思うようには動いてくれません。それぞれのペースで動いています。そうなると、自分の気に入らない言動も出てきます。そこで、いろんな感情が生まれます。落胆、悲しみ、怒り、さびしさ・・・そういう感情の源は何でしょうか。それは相手に対する期待、こういう場合にはこのようにすべきだという自分の思い込みでしょうか。その期待や先入観に反したことを相手がすると、自分の中からムラムラと感情が沸き出してきます。相手が間違っている。自分は正しい。という価値判断から出てくる感情です。意識が相手に行き過ぎると、自分の意識状態がお留守になります。自分のことは棚に上げて、相手を非難したり、批判したりすることになります。自分の中の思い込みや価値基準に気づけません。外側の現象に流されるだけです。やはり、自分の意識状態を注意深く見守っていることですよね。もちろん、外側も見ている必要があります。両方必要なんですね。外側と内側を両方見守れている状態では、そんなに感情的になることは起きません。冷静に対応できます。多様性を認めることもできるし、軽くアドバイスすることも可能です。何気なくバックアップするような形でサポートすることさえできるかもしれません。相手と自分の主観だけで生きていると、いろんなトラブルが発生します。お互いに主観同士では、ぶつかるしかありません。自分を見守る客観的な意識が必要です。その時に、感情を超えられる可能性が出てきます。主観だけでは、感情の虜。感情のままに翻弄されるしかありません。自分を見守る意識がある時には、相手も見守ることができます。自分を見守る意識がないと、相手も見守れません。短絡的に相手に反応して、感情の泥沼にのめり込むだけです。自分を見守っていれば、相手に対する感謝も湧いてくるし、職場に対する感謝も湧いてきます。同僚、お客さん、友人、家族・・・縁のある人に囲まれて、感謝しながら暮らせるといいですね。次は、えっちゃんですね。【いっぱいkimiさんに教えていただいた事が、なかなか実生活に活かす事が出来なくて、相変わらす、感情に揺れ動き、思い込みに翻弄されています。けれど、そういう自分をやっと見つめる事が出来るようになってきました。そして自分が追い掛け回す尻尾を思ってみて、やっぱりまだまだ捨てきれずにいる思い込みにぶち当たりました。私を動揺させる感情の源は「私」のようです。感情の理由は二の次ですね。プライドギンギンの「私」が 感情の花火師。派手にバンバン打ちあげてます。「私」を捨てきれずにいるのです。それも、他を意識した「私」。職場の人間関係のギクシャクに、片意地張る[私」。[私」があっても、他を意識せず、プライドも振りかざさずグランディングする「私」でいてられたら、誰に見られることも意識しない野に咲く花のように、自分のいのちを精一杯輝かせる事が出来るだろうなと思います。ムキになって、「私」を強調しないでも、十分地に足着いた「私」なら感情がひとり吹き荒れることもないなあとも思います。後は実践あるのみ・・・です。】野に咲く花には「私」はありませんよね。もし「私」があれば、人が見ている時だけ美しく咲くとか、誰もいなければ怠けるとか起きてきます。でも、野の花にはそんなことはありません。人が見ていようがいまいが、淡々と咲いています。咲くことが天命であるかのように・・・えっちゃんの感情の源は、プライドギンギンの「私」のようですね。それでは、「私」とは何でしょう?他を意識せず、プライドも振りかざさず、グランディングする「私」?そんな「私」がいるのでしょうか。他を意識するから「私」がいるのでは?自意識が生まれるのは、周りを気にしだす思春期から。他がいるから「私」があるのですよ。他を意識しなかったら「私」も存在しません。プライドは、「私」そのものですね。「私」の存在を強く意識しているのがプライドでしょう。プライドを振りかざさない「私」?あり得ないのでは?「私」というのは、大なり小なり自分というイメージを持っているものです。それを否定されると、プライドが傷つきます。プライドが傷つかない「私」というのはないのですよ。なぜなら、「私」は思い込みだから。プライドの塊だから。自分の存在を主張しているのが「私」です。自分を否定されたり、拒否されたりすると、途端に感情的に反応します。それは自尊心の塊だから。「私」の中身を具体的に理解しない限り、絵に描いた餅でしょう。十分地に足の着いた「私」なら感情が独り吹き荒れることもない?そうかなぁー?十分地に足の着いた「私」とはどんな状態ですか。それはしっかり自我をしているということではありませんか。自我でいながら感情的にならない?それは感情を抑え込む以外に無理でしょう。抑え込まれた感情は、人格を歪め、いつか爆発します。後は実践あるのみ?さてさて、どんな実践になるのか楽しみにしていますね。「感情の源-2」に続く
2006.06.26
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屋久島は、もう梅雨が明けたのだろうか。昨夜も星がきれいに出ていた。朝は、夏の朝という感じだった。この時期は5時頃には明るくなるので、起きるのも自然に早くなる。朝はさわやか。気分爽快。ところが・・・今日に限って、朝から肉体労働。なんと集落の草刈り。仕事で不在なら出なくてもいいのだが、家にいるのに出ない訳にもいかない。8時頃から10時半頃まで、炎天下の中、草刈り十字軍をやった。暑いのなんのって・・・8時の時点で30度近くあり、その後も気温は上昇の一途。汗が止めどなく滴(したた)り落ちる。予定では、今朝はホームワークを見ることになっていたのだが・・・昨夜、突然、明日は草刈りと言われ、返す言葉もなかった。でも、草刈りも悪いことばかりではない。道路がカーブしているところに生け垣があり、見通しが悪くて何度も急ブレーキをかけたことがある。そこは別荘で、住人がいたり、いなかったり・・・今日はそこのオーナーが在宅で、ことわって生け垣の枝を切らせてもらった。かなり思いきって枝を払った。みんな大歓迎。なにしろ危ないという共通認識がある。こういう時でなければ、個人ではなかなか言いにくい。今日は集落代表みたいな気分。自分だけの利益のためではないので、堂々と切りまくれる。休憩時間の話題は、もっぱら落雷による被害について。一週間ぐらい前、この集落の電信柱のトランスに雷が落ちた。当然停電した訳だけれども、被害はそれだけではなかった。冷蔵庫、テレビ、パソコン、ソーラー発電システム、衛星放送のチューナー・・・最大の被害は、ハムの無線装置が壊れたらしい。冷蔵庫の修理に一週間もかかると言われ、新しいのを買ったとか。トランスで繋がっているすべての家が、何らかの被害を受けていた。隣の家でも給湯器が使えなくなったとか。ところが・・・我が家は?その時は仕事で森へ行っていた。帰って来ると、エアコンのスイッチが点滅していた。停電になると、いつもそうなるので、停電になったことはわかった。しかし、それ以外に特に変わりはなかった。パソコンも普通に使えた。電話もOK。テレビもDVDレコーダーも特に支障はなかった。冷蔵庫も稼働していた。他の家でもパソコンの電源は切っていたらしい。それでも電話線からやられたとか。ほとんどの家のパソコンが壊れた。どうして我が家だけ壊れなかったのだろうか・・・答ははっきりしている!買い換えるお金がないから。?それは確かだが・・・雷様がそこまで配慮してくれたのだろうか。もしそうなら、なかなか気の利いた雷様だ。しかし・・・もちろん、誰も信じる人はいないだろう。自分でも、そこまで思い込みは強くないつもりだ。では、なぜ?考えられるのは・・・落雷とは、天空のマイナス電気と地上のプラス電気が合体すること。高気圧から低気圧に向けて風が吹くようなもの。天空のマイナス電気が地上のプラス電気に流れ落ちる。それが落雷現象。それによって、プラス・マイナスの電気バランスが調整される。落雷の後は、空気が清浄になる。それは地上のプラス電気が中和されて、調和されるから。ということは・・・我が家には、あまりプラス電気がなかった?プラスに帯電していなかった?だから、マイナス電気が流れてこなかった?ということだろうか。その原因は?水晶?トルマリン?サンゴ?住人の波動?物が少ない?正確なところは、わからない。しかし、結果は被害なし。この家にはマイナスイオンが満ちているのだろうか?立地条件は、それほど変わらない。少なくとも両隣とは同じ。水晶は、数え切れないくらいたくさん置いてある。トルマリンの原石も、テレビやDVDレコーダーの周りに、かなり置いてある。サンゴは家の中だけでなく、庭にもたくさん置かれている。物は絶対的に少ない。なぜなら、家が狭いから増やせない。その結果、家の中の気の滞りは少ない。備長炭も、かなりの量が家の隅に置かれている。住人の波動は?自宅にはいなかったので関係ない?自然の中にいたので、悪くはなかっただろう。それでも正確な原因はわからない。それらのトータルということだろうか。なに?雷さんに嫌われてるだけ?うーん・・・いずれにしても、お変わりなくお健やかで結構。パソコンが壊れたら、復旧するのが大変。それまで日記も書けないし、HPの写真の更新もできない。なかなか大変なことになる。屋久島は雷が多い。ご近所は、これまでに何回も被害を受けているらしい。我が家は?ゼロ。なぜ?日頃のおこないがいい?それを言っちゃーおしめェーよ!それを言わないところが、奥ゆかしい訳で・・・原因はわからないけれども、助かっている。雷様に感謝?この際だから、屋久島の神様たちにも感謝しておこう。そうそう、一つ思い出した。時々、お客さんと一緒に益救(やく)神社にお詣りに行っている。それも効果あり?別に何もお願いはしていない。お願いするとしたら、お客さんの無事を祈るくらい。自分のお願い事は一切しない。基本的には、神社では、そこにいる神々様が光に満たされ、お役目を全うされるように、光を輝かせるだけ。神々様をサポートすることはあっても、神々様に自分のサポートをお願いすることはない。ただ日頃の神々様のお勤めを感謝するのみ。こちらはお願いしていなくても、気は心なので、いつも行っていれば、少しぐらい守ってやろうかという気になられたのかもしれない。ありがたいことではある。という訳で、正確な原因は不明。しかし、複合要因によって守られたようだ。ありがとう!ありがとうございます!『雷に 人気があるのか 無視なのか 避けてもらって ありがたいこと』『神の住む 屋久島の地に 雷の 光は走り 大地浄める』『雷は 神なりという 雷神の 声が轟く 神の宣言』『天と地の 気と気出会わせ 調和させ 祓い浄める 雷の道』『神々の 光り輝き 人々を 見守りたまえ 導きたまえ』これが540日目の心境です。* 今日はホームワークをやるつもりでしたが、朝からの肉体労働でエネルギーが枯渇していま す。 それに暑くて、暑くて・・・ こうやってパソコンに入力しているだけでも汗が止まりません。 夜か朝にならないと、とてもホームワークを見ることはできそうにありません。 暑さのために、頭が繊細ではないのですね。 もう少し気温が下がらないと・・・ という訳で、ホームワークについてのコメントは明日掲載します。
2006.06.25
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今日の屋久島は、不思議な天気になっている。雨が降ったかと思うと、陽射しが現れる。その繰り返し。朝、水を汲みに行く。雨が降った後に陽射しがあるというのは、写真撮影にとっては最高の条件。しかも、朝。花々が生気に満ちている時。しっかりカメラを持参する。昨日も散歩した時に写真を撮ったが、お昼頃だったので花々はいまいちだった。その花たちに、もう一度チャレンジする。今日は雨の雫が残っていて美しかった。遠回りをして帰ると、途中にピンク系のアジサイが咲いていた。これも美しく撮れた。アジサイを撮るために車から降りた時、そこには大きなヘビがいた。縞模様のオレンジ系の色をしていた。写真を撮る間もなく逃げてしまった。大きい割には臆病?ぜんぜん危険ではないのに・・・たぶん1m以上はあっただろう。今日は特にツユクサが美しかった。青と黄色が目を見張るほど鮮やかだった。生命力が輝いている感じ。こんなにカラフルな水晶はない。不思議だなと思う。咲いたばかりの花には、ハチたちが寄ってくる。その新鮮な香りに惹き寄せられるのだろうか。花には、色、形、香りがある。繊細な色彩のバリエーションは、水晶にはないもの。生命力というか、生きている感じが伝わってくる。しかし、花のいのちは短い。今日咲いていたものも、明日になれば枯れている。水晶は、そういうことはない。まるで終わりがないかのように、存在し続ける。いのちのスパンが違うのだろうか。水晶は何万年、何十万年の時を生きている。花はわずか数日。同じいのちなのに・・・屋久杉は数千年の時を生きる。人はせいぜい百年。ほとんどの動物は、もっと短い。トンボは更に短そうだ。昨日は黒トンボを写真に撮った。なかなかいい写真が撮れた。しかし、その代償は大きかった。かなりの献血を強いられた。誰に?もちろん、雌の蚊に。黒トンボは、7月になったら「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPのトップを飾ることになるだろう。ぜひ見てほしい。しかし、名前はわからなかった。屋久島の昆虫ガイドにも出ていなかった。もしかして希少種?歩くと、いろんな花に会える。昨日もたくさんの花に出会った。そして、写真に撮った。汗もたくさんかいた。極めてヘルシー。毎日歩くのが楽しみになった。なにしろ花々が美しい。誰も植えないのに自生している花の可憐なこと。大きくても小さくてもすばらしい。野生の藤が、まだ咲いていた。花の色が強烈だった。森を歩けば、いろんな香りがしてくる。花の香りの場合もあれば、実が熟している場合もある。なにしろ豊か。もう日記なんか書いていられない?とは言わない。でも、自然に惹かれるのは事実。特に朝の花たちはばらしい。しかし、朝は日記の時間・・・午後でも日記は書けるのだが・・・頭がクリアーなのは朝のうち限定。午後ではクリアーさの程度がまるで違う。午後は体を動かす時だろうか。昨夜は天の川がきれいだった。久しぶりに見た。まるで雲が流れているかのように星が集まっている。本当に星の集団?双眼鏡を出して確かめてみた。無数の星々が輝いていた。この日記を読んでいる、すべての人に見せてあげたいと思った。それはそれは美しかった。梅雨が上がれば、毎日見ることができる。まさしく夜空にたゆとう天の川・・・今日は自然オンリーの日記。人間臭さなし。自然は人間臭くない。しつこくない。サラサラと変わっていく。何の感傷もなく、刻々と変化していく。後に何も引きずらない。人間だけが過去を引きずる。花は美しい。ただ美しい。何の理由もなく美しい。美しさが生きている。いのちが生きている。いのちが花となって生きている。『ツユクサに 朝の光が 射す時に 青と黄色に いのち輝く』『淡々と 咲いて散りゆく 花々は 咲き切るだけで 何も思わず』『咲き切って 後は自然に 枯れてゆく 余計な思い 後に残さず』『咲いて散る 花の姿は 変われども いのちの流れ 変わることなし』『色彩と 香りと姿 様々に 四季折々に いのち花咲く』『悠久の 時をたゆとう 天の川 無数の星の いのちの煌めき』これが539日目の心境です。
2006.06.24
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屋久島は、また今日から梅雨に逆戻りという感じ。朝から少し雨が降った。でも、今は曇っている。一昨日から散歩を始めた。どうも今年は足腰が弱っているようだ。ガイドなんでしょう?そうなのだが・・・暇なガイドは、毎日自然の中へ行く訳ではない。自宅にいると、ほとんどパソコンの前にいるか、テレビで映画を見ている。買い物に行くのは車。ほとんど歩くことがない。特に今年は日記を毎日書くと決めているので、パソコンの前にいる時間が長い。そうすると、膝を曲げたままになっている。プリントアウトした日記を校正するために別の机へ持っていく時、立ち上がると膝がガクガクする。長く座り過ぎということだろうか。この状態で縄文杉へ行ったので、左膝を痛めてしまった。右膝も左膝も傷物?さてさて・・・ルームランナーでも買って足腰を鍛えようかとも思ったが、家が狭くて置く場所がない。それに値段も意外と高かった。それなら自分で歩くしかない。毎日一時間も歩けば足腰は丈夫になるだろう。せっかく自然の中に住んでいるのだから。という訳で、初日は水晶のある断崖絶壁を歩き回った。昨日は家の周りを歩いた。と言っても、家の周りには誰も歩かないような森もある。そこで、黒いトンボを見つけた。全身真っ黒。ビロードのような柔らかく深い黒。その黒いトンボが、まるで蝶が舞うように優雅に飛んでいた。森の中で貴婦人に会ったような驚き。道すがら4匹いた。カメラがなかったので写真には撮れなかった。しかし、飛んでいる姿を撮るのは不可能だろう。自分のカメラではピントが合うのが遅いし、シャッターを押してから撮影されるまでのタイムラグも長い。止まっている姿なら撮影できる。しかし、それではあの美しさは伝わらない。ビデオで撮るのがベストだろう。カメラのビデオで撮ってみようか・・・暗いので撮れるだろうか。なにしろ、すばらしく美しかった。歩いていると、いろんなものに出会える。見たこともない花が盛りを迎えていた。美しかったが、少し雨の雫がほしかった。ここのところの天気で乾燥していた。近所の人にも何人か会った。みんな犬の散歩をしていた。会えば、それなりに話もする。普段はほとんど家の中に閉じ籠もっているか、山の中。近所の人と話をすることはない。犬もかわいかった。毎日歩くのは悪くない。雨の日はカッパを着て歩くしかないだろう。歩けば、写真もたくさん撮れる。四季折々の自然が写せる。近所が飽きたら、だんだん遠出すればいい。ということで、日記は原則、午前中に書き上げる。午後からは散歩。ということにしようと自分で決めた。そう決めると、なんだか楽しい気分になってきた。毎日、いろんな自然に会える。なにしろ自然の中に住んでいるのだから。しかも、仕事ではないので自分の気が向いたところへ行ける。うーん、もっと早く気がつけば・・・これもまた怪我の功名?何でも活かせばいいだけ。膝が痛い、体力が落ちたと嘆かないで、前向きに生きる。どのようにでも道は開ける。不思議なものだ。相手の感情的な発言に対して、こちらも動揺する。動揺した状態で反応すると、感情の泥沼にはまる。誰かが感情的になると、その場に感情的なフィールドができる。周りにいる人も自然に影響されて、感情的になりやすくなる。特に感情を直接ぶつけられた当事者は動揺する。そこでそのまま反応すれば、感情のフィールドの中で相撲を取ることになる。冷静な話し合いは望めない。勝っても負けても感情的なシコリが残る。ここは一旦、その場から離れることだろうか。しばらく間をおいて、お互いに冷静になったところで対応する。感情的に対応しても、感情の泥沼に沈むばかり。普段からしっかり自分自身にグランディングしていることだろうか。相手が感情的になっても、それに誘発されて自分まで感情的にならない。常にそのくらいのグランディングができていれば言うことはない。こちらがしっかりグランディングできていれば、相手の感情的な発言も冷静に受けとめることができる。そういう状態では、周りの人もそうそう感情的な物言いはしてこない。自分の周りにそういうエネルギー場ができるのだ。しっかり落ち着いて、自分のペースで生きる。きちんと自分自身にグランディングできていれば、静かなエネルギー場が自分の周りにできる。そうすれば、すべてに冷静に対応できる。冷静に対応できないということは、まだグランディングが足りないということかもしれない。浮き足立つと、いろいろトラブルが起きてくる。しっかりグランディングして、静かに冷静に生きることだろうか。これからは少し日記も短めになるかもしれない。これまでが長過ぎた。読む方も大変だろう。ほどほどでいい。ゆっくり着実に。『蝶が舞う 姿に優(まさ)る 黒トンボ 優雅な舞は 黒い貴婦人』『問題が 起きたらそれを 活かすこと 活かして使えば 問題はない』『感情に 感情的に 応じれば 解決のない 泥沼となる』『感情に 翻弄されずに 生きるには 静かに自分と 共にあること』これが538日目の心境です。
2006.06.23
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屋久島は、ここのところ梅雨が明けたような天気が続いている。もう真夏?という感じだが、また明日ぐらいから梅雨に戻るらしい。既に奄美大島までは梅雨が明けた。屋久島の梅雨明けも、もうすぐだろう。誰かが自分をバカにする。直接言葉に出される場合もあれば、態度で示される場合もある。その時・・・自動的に自分の中から反応が出てくるだろうか。それとも、冷静でいられるだろうか。そもそも、本当にバカにされたのだろうか。それとも、バカにされたと自分が思っているだけだろうか。事実がどうであれ、バカにされたと自分が思えば、オートマチックに反応が飛び出す。ムッとする。気分が悪くなる。「なによ、自分だって・・・」と、すぐに反発したくなる。あるいは、落ち込む。反応のパターンは、いろいろある。相手によっても違うし、時と場合によっても異なる。しかし、冷静でいられる人は少ない。バカにされたと思った瞬間、同時に反応が顔を出す。相手は本当にバカにしたのだろうか。意識的にやった場合もあるだろう。何気なくやった場合もあるかもしれない。あるいは、その気は全然なかったということもあり得る。まったくの思い込みということもないことはない。事実は?わからない。しかし、反応は待ってくれない。反応は、事実に応じて出て来るものではない。反応は、自分がどのように認識したかに応じて出て来る。それが事実であれ思い込みであれ、自分がそう思えば自動的に反応は出てくる。出て来た時にどうするか。しかし、その前に検証しておくことがある。それは事実なのか。本当に相手は自分をバカにしたのか。あるいは、単なる自分の思い込みか。どうやって事実を確かめたらいいのだろうか。相手に直接聞いてみる?相手は正直に答えてくれるだろうか。「そんなことはない」と、慌てて否定するかもしれない。あるいは、「それはあなたの思い込みよ」と、またバカにされるかもしれない。そもそも相手に直接聞くことなどできない場合が多いだろう。では、どうする?周りの人に聞いてみる?周りの人の意見が異なったら?周りに誰もいなかったら?結局、事実確認自体がかなり難しい。では、事実確認がないまま反応する?それも・・・もし単なる自分の思い込みであれば、反応したことは無駄になる?そもそも反応そのものが虚しい?独り芝居?空騒ぎ?さてさて・・・事実確認もないまま、バカにされたと思って反応する。その結果、当然、人間関係は悪くなる。そもそもバカにされるということは、どういうことだろうか。相手が自分を見下す?自分の評価を殊更に低く見る?自分の存在を否定する?バカにされるとは、優劣という価値観のなかで、自分が劣と見られることだろうか。自分が劣と見られることが耐えられない?自分は劣ではない?自分は優?と、思い込んでいるのだろうか。相手が示した態度は、自分の優劣感からすると、予想を遙かに下回るものだった?つまり、自分の思い込みが覆(くつがえ)されたということだろうか。自分の思い込みが否定されることが、バカにされたという認識だろうか。自分はグループの中ではトップクラスだと思っている。ところが、グループの中で真ん中ぐらいだと自分が思っている人よりも低く見られてしまった。相手は何気なくそのような発言をする。その途端、侮辱された、バカにされたと感じる。自分なりの価値観、優劣感がある。それを相手が否定する。自動的にバカにされたと思う。ほとんど公式化できるほどの単純なパターン。自分の中に特定の価値観や優劣感がなければ、バカにされたという思いは起きてこないのだろうか。そういう思い込みがなかったら、どうなるだろう?「あなたは、あの人と同じぐらいの感性ね」「ふーん、そんなものか・・・」もし思い込みや優劣意識があったら?「あなたは、あの人と同じぐらいの感性ね」「エッ! 何ですって? 何言ってるのよ。バカにしないでよッ!」となるだろうか。バカにされたと感じたら、自動的に反発する前に、やるべきことがあるのかもしれない。自分は、どうして反発しているのだろう?反発するのは、自分の中に何らかの思い込みがあるから。何もなければ、反発も起きない。バカにされたと感じること自体が、自分の中に思い込みがあることの証拠。それに気づくことだろうか。いつまでも同じ反応を繰り返していても埒がない。感情が出て来た時に、なぜ出て来たのかを見つめてみる。どうしてこのような感情が出て来るのかを探ってみる。どういう思い込みから、この感情が出て来るのかを突き止める。そうしない限り、死ぬまで同じことの繰り返しになる。感情は思い込みから出て来る場合が多い。その源を探ってみる。感情が出て来た時は、感情に翻弄されている場合ではない。その源を探る場合なのだ。すべての感情が出て来た時に、そこで踏み留まる。そこで自分を見つめる。感情の源を探す。感情の原因となっている思い込みに気づく。それが自分の意識の闇に光を当てるということ。潜在意識の闇に光が当たらない限り、潜在意識に翻弄される人生となる。それでもいい?それでは鈍行列車以下。自分の尻尾を追い回して同じところをグルグル回っている犬と変わらない。相手が悪いと思っている。だから、相手を非難する。しかし、相手は自分の尻尾?その根にあるのは自分の思い込み。問題は相手ではなく、自分。グルグル追い回すのをやめて、静かに自分を振り返ると、そこにあるのは自分の尻尾。自分の独り芝居?自作自演の空騒ぎ?自分の思い込みが、感情という空騒ぎを起こしているだけ。思い込みが消えれば、空騒ぎも消える。感情の根っ子を探ってみよう。ここから先はホームワークとなる。自分の中の感情に注意して、感情の源を探ってみる。出て来た感情は、どんな思い込みに由来するものだろうか。日常生活の中で自分の感情を見つめ、感情が出て来たら、それがどこから出て来たか、その源を突き止める。どんな感情でもいい。感情を見逃さない。出てきたものをキャッチして、その根っ子を明らかにする。感情は、ほとんど自動的に出て来る。しかし、そこには原因がある。思い込みという原因が。それを明らかにしていく。そうしない限り、一生感情の奴隷のまま。感情を理解する。理解して感情から自由になる。『感情の 元を辿れば 思い込み 優劣意識 染み込んでいる』『様々な 思い込みから 感情が 誘発されて 激情となる』『褒められて いい気になって けなされて 落ち込みまくる 感情奴隷』『感情の ままに生きれば 不安定 振り回されて 苦しくなるだけ』『感情に 翻弄されて 生きる時 第2チャクラの 人生となる』『感情の 奥に隠れた 思い込み 意識の闇に 光を当てる』『冷静に 一つ一つの 感情の 源質(ただ)し 明らかにする』『感情の 根っ子を見つめ 突き止めて 振り回されぬ 自由手にする』『感情を 超えて思考も 超えてゆく ハートへ続く 一筋の道』『感情も 思考も共に 超える時 ハートの中で 生きる時代に』これが537日目の心境です。【ホームワーク】自分の中の感情に注意して、感情の源を探ってください。出て来た感情は、どんな思い込みに由来するものでしょうか。日常生活の中で自分の感情を見つめ、感情が出て来たら、それがどこから出て来たか、その源を突き止めてください。どんな感情でもかまいません。感情を見逃さないで、その根を見極めてください。締切まで感情を見つめ、感情の元となる思い込みを突き止めてください。締切は、7月25日午前9時です。BBS欄に記入してください。誰でも参加できます。今回は、実際に自分の感情を見つめ、その原因になっている思い込みについて書いてください。具体的にわかりやすく書いてください。感情がない人はいないでしょう?細やかに注意深く自分を見つめてください。最低一個以上は書いてくださいね。原因がわからないものもリストアップしてみると、何かの役に立つでしょう。ゲーム感覚で気軽に、真剣にやってみてください。*感情と同じ意識スピードでは、感情を見ることはできません。 感情よりも精妙な意識でないと、感情は見れないのですね。 意識が精妙になるにつれて、感情の動きがゆっくり、はっきりと見えるようになります。 落ち着いて、冷静に自分の感情を見守ってください。
2006.06.22
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「535日目 - 区別と差別-1」の続き次は、たろうくんですね。【『区別と差別は何が違うのだろうか。』 区別は、物質世界で生きるなかで五感を通して見分ける手段の一つ。 差別は、見分けることに感情や思い込み・自我など良い悪いといった判断が伴っている。『何が差別を生み出しているのだろうか。』 自分の存在を守ろうとする自我の意識や優越感。 『自分の中にどんな差別があるだろうか。』 一番身近で感じた差別ですが、以前の私は子供たち一人一人を大きく見守るのではなく、 姉はこうだったのに・・・などという意識(差別)で接していたと思います。 でもたくさんワークの中で、それも私(母)の感情だな~と気づき、少しずつですが解放しています。 母の解放のサポートをしてくれている子供達に感謝です】マリナーズのイチローの身体能力はバツグンです。あれほどの身体能力を持った人は、ご近所にはまずいないでしょう。でも、イチローにはないものを持っている人は、ご近所にもたくさんいることでしょう。身体能力だけで比較すれば、優劣がつきます。それはデータとしての事実です。しかし、イチローの身体能力と、特徴のある陶器を造る人とを比較しても優劣はつきません。まったく別の土俵なので、比較しようがないのです。姉妹を学業成績や身体能力で比較すれば、優劣をつけられるかもしれません。しかし、トータルで比較すれば、優劣のつけようがありません。まったく異なる個性なのですから。人を一部で見ると、優劣をつけることができます。お金や地位や名誉や身体能力などでは比較が成り立ち、優劣が成り立ちます。しかし、トータルな個人で見る時、比較のしようがありません。それぞれが宇宙で唯一の存在です。ある一定の価値基準で見れば、個人の比較・優劣もあり得ます。しかし、価値基準をなくせば、個々の存在が尊いだけです。差別は自分の価値基準から生まれます。事実ベースで見るか、価値ベースで見るか。客観ベースで見るか、主観ベースで見るか。全体ベースで見るか、部分ベースで見るか。それによって、区別になったり差別になったりします。その辺りを深く理解することによって、差別からの自由が生まれるでしょう。最後は、ぴあのさんですね。【☆区別と差別は何が違うのだろうか。区別はたんなる事実、差別は事実ではなく感情によって生まれるものだと思います。 ☆何が差別を生み出しているのだろうか。優越感を持ちたい感情だと思います。それは自己保存からくると思います。自分の存在を認めてもらいたい、誇示したい欲求が自分を人より上位に置きたい感情に支配されるのだと思います。そういことによって、自分というものの存在を安定させておきたいのだと思います。(そんなものは幻ですが・・・)何事にも優劣をつけなければ気がすまない社会とその社会のあり方を何の疑いもなく当然のように思い込んでいる個人個人。または、そういう個人個人がそういう社会を創り上げている ということも言えると思います。☆自分の中にどんな差別があるだろうか。差別はありません。ですが、今までにたくさんの差別意識を経験してきました。今は、すべてのものはひとつ、人も森羅万象もみな私と同じひとつのいのちすべて尊いと感じることができますので 差別意識はありません。】優越感を持ちたいということは、劣等感があるということですよね。優越感で劣等感を埋め合わせしたいのですね。そこから差別が生まれます。しかし、優越感では劣等感を満たすことはできません。劣等感の奥には、認められたい、褒められたいという気持が潜んでいます。誰も自分が望むようには認めてくれません。そこで、優越感によって自分で自分を認めようとするのでしょうか。認められたり褒められたりすることは、自分の存在が肯定されることです。それによって自分が安定します。自己の安定=自己保存なのですね。自己信頼が不十分だと、保証を外に求めます。それが差別に繋がっていきます。優越感に浸ることによって、不十分な自己信頼を補おうとするのです。もちろん、それで補いきれるものではないのですが・・・自分で自分を肯定するしかありません。それは言葉を超えた無言の肯定。全面的な見守り。無条件の見守り。全肯定の見守りです。差別は、結局、自分の中から出てきます。自分の中の満たされない思いが、差別という形になって現れるだけです。それは自分を満たすための代償行為とも言えます。それで差別される方は気の毒ですが・・・でも、それもお互い様です。みんながそうしているのですから。自分自身を理解し切るまでは・・・乳幼児期の満たされない思いが、強く尾を引いています。それは人の基本パターンとも言えます。その辺りを深く理解していく必要がありそうです。今回のホームワークで、区別と差別がかなり浮き彫りになったのではないでしょうか。その違い、その源、それらがはっきりとしてきました。やっぱり、映画はいいですねぇー!ではなくて、ホームワークはいいですね。『満たされぬ 自分の中の 思いこそ 差別生み出す 真の源』『差別する ことで自分を 誤魔化して 弱い自分を 隠しているだけ』『孤立した 心が差別 つくり出す 自分のさびしさ 補うために』『強がって 自分の弱さ 隠すのと 差別するのは 同じ構造』『ほとんどは 子供の頃の パターンを 大人になっても 繰り返すだけ』『自らの 差別の根っ子 見ぬ限り 無意識のまま 差別続ける』『満たされぬ ものを自分の 外側で 満たす行為が 差別というもの』『差別して 支配によって 自らを 満たすつもりが 満たされぬまま』『区別から 差別に変わる 原因は 自分の中の 空虚な思い』『満たされぬ 思いが差別 つくりだす 満たされるため 優劣ゲーム』『一部だけ 比較するから 優劣が 全体ならば 優劣はない』『満たされぬ 思いをすべて 受けとめて ただ温めて 花開かせる』これが536日目の心境です。
2006.06.21
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ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは次のようなものだった。【区別と差別は何が違うのだろうか。 何が差別を生み出しているのだろうか。 自分の中にどんな差別があるだろうか。】最初は、あとりさんですね。【差別の心が生まれるもとは、自分のこだわり。自分が認めないと判断した時に差別を作り出している。欲求不満が作り出す思い込み。思いこみにひっかかった相手との違いが許せなくなる。相手と競争、自分のために比較し満足。本当は満足できないけど。差別は違いを否定し、殺しあうシステム。自分を特別視する価値観、損得勘定。自分と他を切り離し、自分の欲望のものさしで、自己存在の意味づけを計るシステム。根底には認められたい、愛されたい思いがあり、このシステムがそれを満たすものだと信じ込んでいた。私の生活は、このシステムどおり。夜中の電話。相手はドン底。悲しみ愚痴をいいたい。私は朝早くから仕事。根底は自分本位なので、親身なつもりでも同情、相手と居ない。嫌われたくない→いい人でいたい。人にかまいたい。そうすることで、認められる、無視されるとという私の思い込み。かまってほしい幼児期にできあがった不満足な思い。電話で、後でお話しよう、となかなかいえないのは、かまわれない幼時期の私が苦しむから。後で話そう、と伝えて相手が怒り出すことが悲しくなるのは、過去の自分の欲求が満たされてないから。列を押しのけていく人に、悲しみを感じるのは私を投影しているから。相手が自分勝手=私を侮辱、と思い込んでいるから。私の世間への怒り悲しみは自己保存による差別の現われ。区別は違いを全肯定し、生かしあい個性が輝くシステム。自分にひっかかる所がないと、どうやっても相手を否定できない。自分の欲望のために比べる相手ではなく、もう相手とともにあるということが当たり前の感覚。感覚として少しわかってきました。相手と私は、絶対的信頼?自然、穏やか、ふんわり、相手は輝いている。秀でた所はただただすごい。その才能や相手が、自分の存在を脅かすとか、自分を満足させるための意識が働かない。 その意識がうまれても理解し、感情もただ感じ包むことができる。差別を作り出さない意識に変えたい。それには、もっと差別を作り出す私を理解して、その全てを差別なく(いい悪いなく)満たすことが必要だと思う。ひっかかっていることに気がつかない混乱状態は危険。差別フィルターまっしぐら。外に出す前に気づき満たしていく、これから全力で取り組むこと。自分を理解し不満足な嫌な自分も受け止めないと、差別の世界、過去の自分、いつまでも人を巻き込み、心も体も健康から離れていく。区別をベースに比較することは必要ではないかと思う。科学、製品づくりは比較なしには発展できない。その時は楽しむものしか生まれない気がする?武器を作る気持ちをもてないから。大人と子供の区別で洋服を作る、足が動きにくい人、動く人を比較し、補助具を作る。大人は偉いとか障害を弱者と価値づけ、値段づけるのが差別の心。区別を差別に変えてしまうのは、寂しくて満たされてない過去からうまれる私の心。】よく見極められていますね。もう何もコメントする必要がないくらい、すばらしいホームワークです。区別というのは、事実ベースですね。一方、差別というのは、自我ベースです。自分本位、自己中心、自己保存、自分の価値基準、思い込みベースなのですね。自分ベースで相手を支配し、コントロールしようとすることですね。その根底には、自分が満たされていないという事実があります。差別は、自分が満たされたい、認められたいという思いの裏返しでもあります。その自分の中の悲しみを理解しない限り、本質的な解決にはならないでしょう。いくら法律で差別をなくそうとしても、それは表面だけの解決であって、根本的には何も変わらないのですね。隠れた差別や新たな差別が出て来るだけです。差別をなくす道は、自分を満たすことです。自分が満たされない限り、人は差別によって自分の満たされない部分をカバーしようとします。もちろん、そんなことで内なる空虚感は満たされることはありません。人は、外のものを支配することによって内側が満たされると錯覚するのです。意識が外に向いている限り、満たされることは永遠にないのですが・・・次は、えっちゃんですね。【区別はくせものですね。区別がなければ差別に至らないのではないか。便宜上、男と女、大人と子供、国別、肌色別・・・分けてみるから比べてしまう。区別も難しい。一見男の子だけど、心は女の子の要素がつよい子供。区別しなければそれを意識せずに済むのに、区別する事で何処にも属せない孤独な状況に置かれる。そうなると、他者からの差別を受けやすくなる。差別とは違いを敢えて強調して、相手を劣視してしまうこと。すべての存在は、十人十色。区別するなら存在の数だけ区別する。便宜上の区別が必要ない限り・・・・。けれど、差別を特に意識しなくても、相手を前に、相手との相違に比較をしてしまうことはないだろうか?比較思考が働いて、相手を劣と判断して優の意識を持つことはないとしても、逆はよくあるように思う。劣等感を感じる・・・自分への差別かもしれません。】比較し、無意識のうちに優劣をつけている・・・それは自分の中のコンプレックスの反映ですね。相手をそのまま素直に認められない。どうしても自分と比較してしまう。動植物の違いから、分類学や生物学が生まれます。それは違いを比較し、区別することから体系づけられます。学問や科学は、比較や区別で成り立っています。しかし、そこには差別はありません。厳密に違いを区別するだけです。そこには故意に違いを強調したり、優劣で評価することもありません。学問や科学は、事実ベース、客観ベースです。ところが、差別は主観ベース。主観が入るから差別が起きます。自己本位、自分中心に物事を見るということですね。事実を客観的に見ようとはしません。主観ベースで見るから、いろんなトラブルが発生します。もう一歩深く自分の中を見つめて、整理されるといいですね疑問のままで終わらせないで、その根っ子を探ってみてください。そうすることで無意識に光が当たり、無意識の領域が消えていきます。それによって、無意識に翻弄されることが少なくなります。締切のギリギリまで自分を見つめて、自分の闇に光を当ててください。次は、きらきらハッピー☆さんですね。【区別と差別は何が違うのだろうか。区別は、まず相手にフォーカスをする。愛情や理解、尊敬の気持ちを持って、自分のフィルターを取り除いて、相手に寄り添い、本質を認識する。相手の固有の個性や特質を認めることが、自分も含めた相手以外の他者の個性や特質も同時に認識することにつながる。それぞれの違いを認識していく過程のなかで個性が調和してひとつになるという理解が生じる。一方差別は、まず自分にフォーカスする。自分の思惑や自我、自己保存の心、自分を優位に見せようとして、自分のコンプレックスを解消しようとして、相手を自分の都合よく捉える。相手の固有の特質や個性を、自己満足のために利用するので時に、事実をゆがめて捉えることもある。相手を下げることにより、自分を上げて優越感にひたる。自分と他者との分離。ひとつにつながることのない、果てしない分離。相手を理解しようとしないまま、相手を判断、評価しているとき私自身、相手を差別していると思います。無知、無理解から生じる差別。自己信頼の不足、一時の痛みを恐れての現実逃避。相手をありのままに見ようとしない。相手を事実ベースで捉えられない。これは、自分をありのままに見ようとしない、事実ベースで捉えられないから?しっかりと寄り添うことなく自身を評価する自分がいます。自分自身を差別していた? だから人をも差別していた?人への反応は、自身への反応が鏡に映ったもの。自分に対する愛情や理解、尊敬の気持ちをもって、ありのままの自分を捉えることが、ひとつへの調和につながると思います。ホームワークありがとうございました。少し深いところの自分にたどり着けました。】きれいに整理されていますね。区別と差別の違いは、相手中心か自分中心かの違いでもありますね。相手にフォーカスすれば、横の関係。平等であり対等です。自分にフォーカスすれば、縦の関係。上下、支配・被支配の世界ですね。全体的な視線で生きるか、個人の視線で生きるかの違いでもあります。差別は、あくまで自己中心。自分さえよければいいという思いが根底にはあります。何よりも自分に意識がフォーカスしているのですね。周りに対する思いやりや愛情はありません。区別は、全体を見守り、その中で個性を活かすということでしょうか。自分流の判断や評価、優劣はないのですね。ただそれぞれの個性が輝くだけ。自分の中に歪みがある限り、その歪んだ視線で周りを見ます。その時、自分の目に映るものは自分の意識の投影です。歪んだ眼鏡をつけていれば、すべては歪んで見えてしまいます。まずその眼鏡を外すことです。それは先入観であり、固定観念であり、生まれてこの方の刷り込みです。自分に対する偏見であり、劣等感であり、思い込みでもあります。その根底にあるものは、やはり満たされない思いです。自分の中で完了していないのですね。自分の中の未完了感が、様々な問題を生み出します。これからは、その辺りを深く見つめていくといいでしょう。「536日目 - 区別と差別-2」に続く
2006.06.20
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屋久島は穏やかに晴れている。庭のオニユリがオレンジ色の蕾を膨(ふく)らませている。先日来の雨で汚れたカッパを洗濯する。ゴアテックス製だが、かなり防水機能が低下している。長い時間雨に当たると、下まで雨が滲みてくる。これではカッパとは言えない。屋久島では一年中カッパが欠かせない。山で寒くなった時にも役に立つ。買った値段の何倍も働いている。そろそろ三代目を買う必要がありそうだ。新月は、光のない闇。すべてがリセットされる時。そして、すべてが新しく始まる時。新月から徐々に光が満ちてくる。それは満月で頂点を極める。頂点では時間が止まる。もうこれ以上成長できない。方向が反転し、衰退に変わる。これまで創りあげられたものが壊れていく。そして、新月で消滅する。ありとあらゆるものが、満ち、そして、欠けていく。創造されたものは、やがて破壊される。破壊されないものはない。破壊を免れるために固定すれば、創造が止まってしまう。創造とは、同時に破壊でもある。潮が満ち、そして、引いていく。すべてのものに潮時があり、リズムがある。満ちたものは引く。引いたものは、やがて、また満ちる。それが宇宙の運行。体の状態も、精神の状態も、事業も、創作活動も、ありとあらゆるものが、このリズムで動いている。人の人生も同じようなもの。肉体は嬰児として誕生し、成長を続ける。成熟すれば、老化が始まる。死は新月に還ること。新月から始まり、また新月へ還る。精神は肉体と共に成長し、肉体が老化を始めても、まだ成長を続ける。脳は老化しても、精神は学び続ける。やがて肉体の死が訪れると、精神は自らを見つめ直す。今生を総括し、リセットし、新月に戻る。そして、あの世での新しい生を始める。今生の仕事においても、新しくスタートし、完成し、次へ移る。いろんな仕事を体験することも小さなリズムであり、大きなリズムの一部でもある。男女関係も同じ。出会い、付き合い、別れる。いろんな人に惹かれ、交わり、離れる。すべてのことが、出会いと別れ。創造と破壊によって成り立っている。創造されたものは、やがて破壊される。ゼロからスタートしたものは、やがてゼロへ戻る。宇宙全体がそのようになっている。それは子供の砂遊びのようなものだろうか。砂のお城を創っては、壊す。今日は怪獣を創り、明日は山と川を創る。毎日毎日が楽しい遊び。砂のお城をそのままにしていては、新しいものを創ることはできない。お城だけでは、すぐに退屈してしまう。もっといろんなものを創り出して楽しみたい。そのためには、せっかく創った砂のお城も壊さなければならない。しばらく楽しんだら、次のものを創るために破壊する。そのビッグバージョンが宇宙だろうか。その果てしない営みが宇宙の創造だろうか。その大きな流れの中にあって、目の前の一つ一つの事象を楽しみ生きる。創造されたものは、やがて破壊される。そのことをわかって、慈しむ。間違っても執着しない。執着すれば、苦しみが待っている。すべては変わる。この宇宙に変わらぬものはない。それが生きるということ。いのちというもの。創造とは、いのちの別名に過ぎない。いのちとは、変化。創造もまた変化。新たなものを創り出し、破壊し、創造し続ける。それが宇宙の営み。良いも悪いもない事実。無常という現実。無限の創造が繰り返されるところ。宇宙劇場。いのちの躍動。その中の地球劇場という舞台で、今、人類は創造活動をしている。何を創り出しているだろうか。あなたは何を創造しているだろうか。それがあなたの創造宇宙。あなたはあなたの宇宙の創造主。どのような宇宙を創り出していくか、よーく考えてみるといい。どのような宇宙も創造可能。創造に限界はない。自分の制限を取り払いさえすれば、無限の創造ができる。あなたの人生は、あなたの創造した作品。誰にも文句は言えない。なぜなら、創造主はあなただから。もし今の作品が気に入らないのなら、創り変えればいいだけ。創造は自由。いかなる制限もない。自分で制限する以外は。もう一度よーく自分の宇宙を見直してみるといい。そして、気になるところがあれば、自分の気に入るように創り直せばいい。砂遊びをしている子供のように楽しめばいいだけ。自由にクリエイトすればいいだけ。但し、自我の狭い了見で創造すると、苦しくなる。宇宙や銀河の流れと共に生きると、魂が喜ぶ。地球や人類と共に生きれば、今生の使命を全うできる。地球に生まれてきた流れと共に創造する。そこに真の喜びがある。『自我だけの 世界創れば 苦しみの 宇宙の中を 一人彷徨(さまよ)う』『自我という 自分の宇宙 生きる時 孤立無援の さびしい人生』『自分だけ よければいいと 思うのは 宇宙の孤児に なっているだけ』『肉体に 翻弄されて 魂の 望み忘れて 浮き世再迷(さまよ)う』『様々な ものを創って 楽しんで 飽きたら壊し 新たに創る』『同じこと 繰り返しても 意味がない 新しいもの 創り楽しむ』『創り出す 喜びこそが 人生の 明日を開く 宇宙の力』『裡にある 無限の力 呼び覚まし 望む宇宙を 創造してゆく』『人類と 宇宙の流れ 見極めて 宇宙と共に 創る人生』『今という 時代に生を 受けたなら 時代と共に 現実創造』『魂が 真に望むは 人類の 流れと共に 生きる人生』『人類や 銀河と共に 生きる時 永久(とわ)の宇宙を 生きる魂』『人類の 流れと共に 生きる時 魂からの サポートがある』『人類と 宇宙と共に 現実を 創造してゆく ことの幸せ』これが534日目の心境です。
2006.06.19
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夜から早朝にかけて大雨が降った。しかし、朝には小雨になった。ホテルに着いた頃には、ほとんど止んでいた。今日は屋久島一周。最初に平内海中温泉へ行って、足湯。ちょうど海水が温泉に入り始めたところで、滑り込みセーフ。温泉は熱かった。湯泊の海浜温泉へ向かう。奥の海際の温泉が空いていたので、夫婦で入ってもらう。その間、こちらは写真を撮ったり、別の露天風呂で足湯をしたり・・・温泉から上がってくると、「お肌がスベスベ!」と嬉しそうだった。昨夜は尾之間温泉へ行ったとのこと。毎朝、ホテルの温泉にも入っており、温泉尽くしの旅。黒牛の牧場では、牛たちに草をやって楽しむ。ここで思わぬハプニングが・・・地元の人が軽トラの荷台に犬を乗せてやって来た。小さな犬が牛に向かって盛んに吠えた。すると・・・牛たちが犬の方に集まって来た。横になっていた牛まで起き出し、すべての牛が柵の近くで犬を見ている。これには驚いた。動物同士は何かコミュニケーションをしているのだろうか。栗生の海岸ではサンゴを拾う。数日来の大雨で、かなりの流木が打ち上げられていた。その中から形の良い屋久杉を選んで、お土産に。ハマユウが露を含んで美しく咲いていた。香りが最高!その下には、たくさんのヤドカリがいた。この頃には太陽が顔を出し、蒸し暑くなっていた。しかし、大川の滝で一気に涼しくなった。これまでに見たことがないくらいの水量。とても滝壺までは近づけない。テーブルがあるところまでも行けず、通路から見るしかない。なんとか写真を撮ろうとしていたら、びしょ濡れになってしまった。ものすごいミスト!一枚毎にレンズを拭きながら撮影する。西部林道には、この辺りのサルがみんな道路に出ているのではないかと思うぐらいのサルたちがいた。雨上がりには、よく道路に出ている。道路の方が乾くのが早いからだろうか。親子連れも多く、お客さんはたくさんのサルを写真に収めることができた。シカもそこそこ出てきて、豊かな西部林道だった。雨上がりの西部林道は、動物の他にも、すばらしいものを見せてくれた。それは至るところに出現した臨時の滝。緑の中を流れる白い滝は、とても美しい。大きな岩から大胆に流れ落ちる滝もあった。いずれも初めてのもの。大雨の後でないと見れない光景。永田いなか浜に着いた頃には、青空が見えていた。ここ三日間の雨が完全に上がって、さわやかな天気になった。波打ち際を裸足で歩くと、数日来の目の痛みがスーッと消えていく。すばらしい!痛みは砂浜を歩くに限る。足の裏から抜けていくのが、はっきりとわかる。宮之浦へ向かう途中で、布引の滝を見て驚いた。最初は我が目を疑った。普段はチョロチョロと水が流れているだけ。寄らずに通り過ぎることも多い。ところが・・・今日は山の上からダイナミックに滝が流れ落ちていた。落差60~70m?こんな布引の滝は初めて。すばらしい!布引の滝って、こんなに大きかったの?もう言葉も出ない。必死にシャッターを切るのみ。宮之浦に着いて、今日こそは屋久島ラーメンを食べてもらおうと勇んで行ったら、臨時休業だった。父の日だから?美味しそうな他の店もやってなく、時間も遅いので弁当を買ってもらうことに。その分、お土産屋さんでゆっくりしてもらった。最後に抹茶のソフトクリームを食べて、空港へ。時間ギリギリかと思ったら、たくさんの人が並んでいた。満席。日曜日の午後の便は満席になりやすい。三日間のうち、最初の二日は雨。でも、最終日に青空を見ることができてよかった。とても満足そう。別れ際に、「こんなに木霊が写るとは思ってもみなかった」雨の二日間で、数え切れないほどの木霊が写った。梅雨時の旅のメリットだろうか。梅雨時に来れば、たくさんの木霊と滝に会える・・・『6月の 楽しみ方は 滝を見て 木霊を写す 雨の屋久島』『今までに 見たことのない 滝の数 ダイナミックに 激しく流れる』『普段なら 見れない景色 梅雨(つゆ)時の 屋久島だけの 滝の出現』『梅雨時は 木霊を写す チャンスかも 雨の屋久島 緑がきれい』『シャクナゲと 一緒に梅雨も 花開く 普段見れない 景色も開く』これが533日目の心境です。
2006.06.18
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朝からかなりの雨が降っていたので、白谷雲水峡ではなくてヤクスギランドへ向かう。この雨では、もののけ姫の森まで行くことはできない。途中の沢が増水していて渡れないだろう。しかし、ヤクスギランドには沢渡りはないので、森の中を歩くことができる。山は予想以上に雨が降っていた。道路の脇に、たくさんの臨時の滝ができている。ヤクスギランドの中を流れる川も、これまでに見たことがないような濁流。もうほとんど洪水に近い。あまりの雨の激しさに、150分コースではなく80分コースに変更。それでも、150分コースにある天柱杉、母子杉、三根杉だけは見に行く。途中で、苔の中を流れる臨時の滝がたーくさんできていた。その美しいこと!写真に撮りたかったのだが、激しい雨で撮ることはできなかった。返す返すも残念・・・さすがに歩いている人はなく、誰にも会わなかった。こんなことは初めてかもしれない。吊り橋を渡る時は、下を見ると目眩(めまい)がするほどすごかった。こんな日はあまり歩きたくはないけれども、こんな日でなければ見れないものもある。 休憩所で昼食を摂って、紀元杉を見に行く。それなりに観光バスが来ていた。雨は激しく降ったり小降りになったりを繰り返す。宮之浦岳の登山口まで行くと、縦走した人たちがバス停まで歩いているのに出会った。かなりの人数。この雨では何も見えなかっただろう。シャクナゲが、まだ少しだけ残っていた。ちょうど小雨になったので、お客さんは下車して写真を撮る。川上杉も迫力のあるシルエットを見せていた。紀元杉のバス停まで戻った時、先程会った縦走帰りの人たちはまだ歩いていた。どうもバスに乗り遅れたようだ。もうバスは終わったので、ヤクスギランドまで歩くしかない。2時間ぐらいはかかるだろう。里に下りてきても雨は止まなかった。里も一日中雨が降っていたようだ。梅雨真っ最中の屋久島。それでも生協に首折れサバが入荷しており、お客さんは刺身にしてもらってホテルへ持ち帰った。きっと美味しかったことだろう。夜空を見上げると、無数の星々が瞬(またた)いている。その星々に優劣をつける人がいるだろうか。あまりそんな話は聞いたことがない。一つ一つの星が、色、形、光の強弱、動き、位置が異なる。それぞれに個性があって、すばらしい。どれが優れていて、どれが劣っているということはない。優劣はなく、ただそれぞれにすばらしいだけ。もっとも、光の強さに応じて、一等星、二等星、三等星・・・というような等級はついている。しかし、それは光の強さであって、優劣ではない。それは単純な区別であって、けっして差別ではない。区別と差別は何が違うのだろうか。ここまで書いて、書くのをやめたい気分になった。そう、この後はホームワークにしよう。それほど難しいテーマではないだろう。でも、自分でその違いを見出してほしい。黒人、白人、黄色人種・・・それは生物学的な区別。科学や学問の世界では差別はない。しかし、現実の社会のなかでは差別だらけ。この違いは何だろう?何がこの違いをもたらしているのだろうか。夜空の星を差別する人はいない。しかし、人を差別する人は後を絶たない。人種差別に部落差別。いじめも差別かもしれない。そういう社会問題になっているものだけでなく、身近でも集団で無視したり、バカにしたり、いろんな差別がある。それはどこから来るのだろうか。これは先日のホームワークとも関連している。敗者のいないゲーム。みんなが勝者のゲーム。自分の中の差別をより明確に自覚できるといい。自分の中にある無意識の差別に気づけるだろうか。自然に差別はない。差別は人がつくり出しているもの。それを理解しないことには、差別はなくならない。差別の根は自分の中にある。『美しい ただ美しい 星々を 差別する人 一人もいない』『意のままに ならない人を 差別する 区別という名の 差別に変わる』『人だけが いろんなものを 差別する 自然の中に 差別は見えない』『人がみな 差別ベースで 生きる時 この世の中に 争い絶えない』『区別する だけなら何も 問題は 起きることなし 単なる事実』これが532日目の心境です。【ホームワーク】区別と差別は何が違うのだろうか。何が差別を生み出しているのだろうか。自分の中にどんな差別があるだろうか。締切は、6月21日午前9時。BBS欄に記入してください。誰でも参加できます。但し、自分の言葉で具体的にわかりやすく書いてください。
2006.06.17
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朝、9時半に、いわさきホテルに迎えに行く。今日のお客さんは、若い夫婦。20代前半に見えたが、それほどでもなかった。まだ結婚して1年も経っていないとのこと。白谷雲水峡の駐車場へ着いた時は、まだカッパはいらなかった。しかし、木霊の森まで歩いている間に雨が降り出した。お昼寝用のマットは、カッパを着るための応急テントに早変わり。雨のせいか霧のせいか、写真を撮るたびに木霊の映像が・・・今日はこちらのカメラにも写ってくれた。しかし、お客さんのカメラにはかなわない。シャッターを切るたびに木霊が写る。日頃の行いが良いのかな?と言ったら、屋久島に来る前に写るようにお祈りしてきたとのこと。やはり日頃の行いがよかった。どうも木霊が写真に写りやすい場所というのがあるようだ。それは、この辺りには木霊がいそうだと思える所と一致している。感じる人には感じられるだろう。ここのところ雨が多かったので、沢は水量があった。至るところに滝ができていた。木霊の写真と共に、美しい写真も何枚か撮れた。最近は木霊の森で美しい写真がよく撮れる。雨に煙る緑の色がとても美しい。ちょうど昼食を食べる頃、雨が止んだ。そして、食べ終わる頃、また降り出した。ゆっくり一日がかりで木霊の森を歩いた。もののけ姫の森までは行けなかった。以前、公務員をしていた頃。何か困ったことがあると親指をくわえる癖のある50代の課長がいた。人柄の良い人で、部下には慕われていた。でも、仕事をテキパキとこなすタイプではなかった。どちらかというと決断力に乏しかった。でも、福祉関係の部署なので、それほど問題ではなかった。幼児が親指をしゃぶっている姿をよく見かける。あれはオッパイの代用だろうか。何か不安や心配があると無意識にしゃぶるのだろうか。なんとなく満たされない思いがある時に、しゃぶる感じだ。乳幼児期に満たされなかった思いは、大人になっても潜在意識の中で生きている。それが、いわゆるインナーチャイルド。子供時代の意識。何か漠然とした不安があると、甘いものを食べたくなる。なんとなくさびしくなると、手当たり次第に電話をしたり、食事に誘ったり・・・通販で次々と買いまくる人もいる。漠然とした不安やさびしさがある時、人は指しゃぶりの代用を求める。何かで自分を満たそうとする。それが満たされないと、周りに当たり散らす人もいる。怒りによって不安やさびしさを紛らわそうとする。インナーチャイルドの影響力は意外と強い。人の意識のかなりの部分を占めている。それは意識されることがないので、無意識の領域で大きな力を持っている。気がつかないと、いつまでも子供時代の意識に大人の自分が翻弄される。もし自分の中のインナーチャイルドに気がついたら、どうしたらいいのだろうか。インナーチャイルドの扱い方の大原則がある。1、抑え込まない。2、けれども、負けない。3、一緒にいて、抱きしめる。4、そして、今を生きる。子供時代の意識だからと、むやみに抑圧しても、より深く潜在するだけ。消えることも、影響力が弱まることもない。それでは、子供時代の意識に翻弄されるままにしている?とんでもない!不安の度に甘いものを食べていたら、いつまで経ってもダイエットはできない。さびしくなる度に買い物してたら、そのうちにカード破産。もう子供ではないのだから、いつまでも代用品を求めている場合ではない。逃げない。不安やさびしさから他のものへ逃避しない。そういう意識があることをわかってあげる。そのまま認める。そのまま受けとめ、抱きしめてあげる。抱きしめることによって、満たされなかった思いを満たしてあげる。無条件に抱きしめる。黙って一緒にいる。事の理非善悪は問わない。ただ満たされなかった思いをそのまま受けとめ、無条件に抱きしめる。そして、インナーチャイルドの意識に影響されずに、今を生きる。いつまでも過去に支配されない。無意識に支配されて自分を見失わない。しっかりと今に立つ。子供は、我が儘。幼児は、自分勝手。しかし、それは自分が満たされていないから。満たされれば、そんなに我が儘ではなくなる。既に満たしてくれる親はいない。いても、今更頼めない。親は完璧ではない。親もまた未熟。未熟な親に満たされなかった部分は、自分が満たしてあげるしかない。未熟な親から未熟な子が生まれる。自分の中の未熟な子は、成熟するまで自分が抱いてあげるしかない。今はそれしかできない。親にも他の誰にも頼めない。自分でやるしかない。潜在意識の闇がぜんぶ抜けると、どうなるだろうか。真っ白!もう目が開けていられないくらいの光。瞬間・瞬間の光。今を輝く光の大洪水。人の潜在意識の闇が、その光を覆っている。その闇が消えれば、人は光の洪水。乳幼児期から延々と続く潜在意識の影。それが顕在意識に影響を与えている。それを理解し、乗り超える。それが今の課題。潜在意識の影が消えれば、人は光の大洪水。瞬間・瞬間煌(きら)めく光そのもの。人は光。今も光。潜在意識に覆われた光・・・『指しゃぶり 幼い頃の 満たされぬ 思いは今も 満たされぬまま』『抱きしめて 満たしてやるしか 道はない 誰も自分を 満たしてくれない』『いつまでも 代用品で 凌(しの)いでも 根本的に 変わることなし』『さびしさに 負けて何かを 求めれば いつまで経っても 光は見えない』『さびしさの 影に怯(おび)えて 逃げるなら いつまで経っても 闇は消えない』『外側に 求める癖は 母親の 胸の温(ぬく)もり 昔の記憶』『さびしさが 出てきたならば さびしさと 一緒に留まり 抱きしめてあげる』『逃げないで 本質見つめ 抱きしめて 闇を光に 転換していく』『抑えない でも負けないで 留まって 不安・さびしさ ただ抱きしめる』『闇のない 光は光 一元で 瞬間・瞬間 今に輝く』『母親に 抱かれて眠る 幼子は 自己信頼の やすらぎの中』『母親に 抱かれるような やすらぎが 心の奥の 愛の真実』これが531日目の心境です。
2006.06.16
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「敗者のいないゲーム-2」の続き最後は、ぴあのさんですね。【敗者がいないゲームとは、どんなゲームだろうか。みんなが勝者になれる人生ゲームはあるのだろうか。ワークの質問に 人生ゲーム と書かれてありました。それで、このホームワークがスポーツというゲームに関して出されたものなのか人生ということに焦点をおいて出されたものなのかが わかりませんでした。スポーツということにおいてであれば、先日コメント欄で書かせていただきました、中学生のクリスタル君のことを挙げさせていただきます。(年代的にはインディゴで、彼は、よく言われるインディゴの資質をそのまま持っています)『私のところに、少しクリスタルっぽい子どもさんがレッスンに来ています。今年、中学になりました。少年サッカーをしていて、でも、その子、争いがすごく嫌いなのですね。でも、サッカーは大好き。監督が言うらしいのです。「反則ぎりぎりのことをしてでもボールを取れ。少しくらい腕をひっぱっても少しくらい足をひっかけてもいい。そうでもしてボールを奪うんだ。」 って・・・その子は、監督に言ったらしいです。「ぼくは、美しいものを見たり、美しいクラシック音楽を聴いたり、心がきれいになることが好きです。そんなことをしてボールを取りたいと思いません。」 って。そうやって監督に自分の意見をつげて、監督の言うとおりにはできない って言ってそれでも6年生の終わりまで 楽しそうにサッカーに通っていました。』彼は 争いではないサッカー、奪いあうことのないサッカー、相手を敵と見ないサッカーをしています。ただ純粋にサッカーが好きなだけ。それで本人は大満足なのです。一見争っているように、奪っているように、敵と戦っているように見えるかもしれませんが、彼の意識はそういうところにはありません。美しい心で相手に向かう、美しい心でボールを奪う、美しい心で勝ち負けを受け入れる。勝つ=いい 負ける=悪い、勝つ=エゴが喜ぶ 負ける=エゴが悲しむそういう世界を通り越した意識でゲームをしています。自分を尊重するように、相手も尊重してゲームをすること。決して 闘争の気持ちでゲームをしないこと。愛と思いやりの心を持って楽しむこと。ゲームをしているときに皆がそのような気持ちで臨めば 敗者 という言葉、意識は 全く出てこないのではないでしょうか。はじめから、勝者 敗者 という意識がないと思います。負けても勝者です。皆が心地よいから・・・人生においても、上のことが 何事にもそのまま当てはまる と思います。】ホームワークは、常に自分自身を見つめるためのものです。自分を通して社会を理解し、人類を理解します。自分を通さなければ、真に理解することはできません。外側だけを理解しても、何も変わらないのです。内側から見つめられない限り、自分も社会も変わることはありません。スポーツゲームについてだけのホームワークがあると思いますか。スポーツゲームは誰がやっているのでしょう?スポーツゲームだけが独立して存在することはあり得ません。人がやっているのです。人を理解しない限り、スポーツも勝負も理解できません。人が勝負をつくり出しているだけです。クリスタルやインディゴチルドレンも、この世に生まれてしまうと、この世の枠の中で生きるしかなくなります。いかに美しい心を持っていても、勝負を競うゲームしかなければ、その中でやるしかなくなるのです。いかにフェアプレーの精神があっても、勝つためにゲームを行っていることに違いはありません。サッカーであれば、当然、シュートを決めようとします。相手は、それを防ごうとします。その隙を衝いてシュートするしかありません。それは鬩(せめ)ぎ合いです。自分が勝つためのゲームです。相手を勝たせるためのゲームではありません。フィギアスケートの勝負がつくと、エキシビションが行われます。エキシビションでは評価はありませんので、みんな伸び伸びと滑ることができます。本番の真剣勝負のような雰囲気はまったくありません。観客も楽しんで応援しています。中国雑伎団の演技はすばらしいものがあります。そこには勝敗はありません。勝敗はなくても、すばらしい演技を見せることはできます。勝つ負けるだけが、すばらしい技の誘因ではありません。お客さんを喜ばせようとすることも、また技の進化に繋がります。勝ち負けを争うゲームではなく、自分自身を表現するゲーム。周りにいる人を喜ばせるゲーム。そういうゲームが、新しい時代のゲームになるでしょう。強弱・優劣・勝敗を競うゲームは、やがて過去の遺物になるでしょう。もうそんなものにいつまでも拘泥している時代ではありません。勝ち負けにこだわっている限り、戦争はなくなりません。その根は自己保存にあるからです。自己保存の本能のままに生きれば、これまでの人類史の繰り返しです。それを理解し、それを超える時を迎えています。それが深く理解されない限り、人類の未来はないでしょう。こんな仏教説話があります。地獄では、箸が自分の腕よりも長いため、食べものを口に入れるのに苦労します。その結果、みんな痩せ衰え、餓鬼のような顔をしています。ところが、天国では・・・みんながお互いに食べものを口に入れてあげます。天国の住人は、みんな満ち足りて幸せそうです。自己中心に生きようとすればするほど、人生は苦しくなります。周りを喜ばせてあげようとすればするほど、楽しく生きれます。意識が根底的に変わる必要があるのです。『勝ち負けは 人を蹴落とし 自分さえ よければいいと 思う現れ』『自分さえ よければいいと 思う時 自分の足下 崩れ始める』『自分さえ よければいいと 思う時 自分のことが 一番危ない』『自分さえ よければいいと 頑張れば 自分の首を 絞める結果に』『世の中も 勝負の世界 食うために 家族のために 戦っている』『競争に 負ければ倒産 待っている 負けて命を 絶つ人もいる』『スポーツの 元を辿れば 人類の 自分を守る 戦いになる』『勝つよりも 戦わずして 勝つ方が 敗れる者の いない勝ち方』『それぞれが 自分自身を 生きる時 比較・優劣 勝ち負けもなし』『それぞれが 自分の花を 咲かせれば 勝つも負けるも 別にいらない』『お互いが 負けることなく お互いが 勝てるゲームは 個性の勝負』『それぞれの 個性そのまま 尊重し みんなが勝てる ゲームを生きる』『勝つことは 自分優先 勝つよりも 周り優先 みんな楽しく』『勝つよりも 勝たせてあげる ことにより 周りみんなが 幸せになる』『お互いの 口に食べもの 運ぶ時 自分の口も 満たされている』『お互いを 喜ばせれば お互いが 嬉し楽しの 世の中になる』これが530日目の心境です。
2006.06.15
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「敗者のいないゲーム-1」の続き次は、昇華555さんですね。【ホームワークは、今の私にとって、とても難しいです。。勝ち負け~と言うよりは、自分の心の中に「何か」を見据える事がままならない今。。。考える、思う、。。。そういった行為そのものに、欠落しています~(TOT) でも、自分の内面に一度置いて、それをしっかり自分の中に取り込んでいかないと、いつまでたっても自分の内面からの答えが出ないのだ!! そうなんだ!! と、逃げ出そうとする言葉を、ズリズリと引き戻す毎日です。。敗者がいないゲームとは、どんなゲームだろうか。みんなが勝者になれる人生ゲームはあるのだろうか。 私の出した答え!!究極のゲームは。。。。『にらめっこ』(^▽^) これは、子供たちと御風呂の中でよくやるのですが、にらめっこをする~という行為そのものが楽しい事で。。。 ましてや、相手を「笑わせるために戦う」なんて。。。これぞまさしくピースフルなゲーム♪♪♪ もう~わからないので、顔をぐちゃぐちゃに崩して、自ら笑って去ります^^ 負けるが勝ち^^ 笑って、笑ってえ~】にらめっこ?確かに楽しいゲームですね。幼い子供たちは、すぐに楽しいものを見つけます。まさに無邪気そのもの。この邪気の無い子供たちに、邪気を教えるのが大人です。無意識のうちに比較・優劣の価値観が刷り込まれていきます。親の言うことを聞く子は、良い子。勉強ができる子は、すばらしい子。お金がある人は、偉い人。地位がある人は、立派な人。もちろん、その逆も教えられます。親が教えなくても、マスコミ始め社会全体が教えてくれます。価値観を刷り込まないで、子供が持っている本来のものを引き出すようにできたら・・・幼い頃の楽しい心を持ったまま成長できたら・・・世の中は変わってくるでしょう。多くの価値観は、自己保存をベースとしたものです。ほとんどは自己中心的であり、物質にベースを置くものです。所有の多寡。支配の強弱。財産、知識、学歴、地位、名誉・・・幼子は、自然にそういう価値観に染まっていきます。やがて無邪気に笑うことができなくなります。そんなことをしたら、周りからバカにされるからです。無邪気な笑いは社会的には何の価値もありません。それは敗者の笑いでしかありません。そのものを純粋に楽しむことができれば、優劣や勝敗はありません。たとえ優劣や勝敗がついても、それに価値を見出さなければ、それをただ楽しむことができます。でも、本当に価値観がなければ、優劣や勝敗をつけること自体が起きません。幼子のように、ただ楽しむだけの世界が広がっていることでしょう。次は、えっちゃんですね。【やっぱり、勝敗があると燃えますよね。勝ちたくて技も磨く。もちろん、純粋に自分自身の向上のためにも磨く技ですが、勝敗のある世界が、自分を刺激しますよね。負けた悔しさも自分の技の向上へのエネルギー源。ただその想いを苦の材料にしない。まだ、ゲームの勝敗を超えて、なおかつみんなが敗者とならない方法ってわかりませんが、採点基準がその人専用で、ゲームそのものに負けても、それを活かす生き方が出来れば、勝敗のゲームも意味があるように思います。】勝敗があると燃えるというのは、やはり勝利の美酒に酔いたいのでしょうか。あるいは、満たされたい、満足したいということでしょうか。それとも、悔しい思いをしたくないということでしょうか。負けた悔しさは、確かに技の向上へのエネルギー源になります。しかし、その想いを苦の材料にしないとは?それは・・・悔しさというのは、その状況が嫌ということではないのでしょうか。負けたことが嫌であり、嫌いなのでしょう?だから、悔しくて、今度は負けないように技の向上に励むのですね。嫌とか嫌いは、苦ではない?苦だから、次は頑張るのではありませんか。自分なりの採点基準があれば、勝負に負けても納得できるかもしれませんね。とても勝てそうにない相手に善戦したとか。全力を尽くすことに意義があるとか。勝つことにこだわらなければ、別の楽しみ方も出て来ます。でも、それはアマチュアなら兎も角、プロでは通用しませんね。それではすぐに解雇されてしまうでしょう。プロは勝ってなんぼの世界です。チャンプになれるのは一人だけです。負け続ければ生活が成り立ちません。勝負の世界は厳しいですよね。そのため、勝つためなら何でもすると、つい思いがちです。そこで、アンフェアーなことも起きてきます。食うか食われるかの世界です。生活がかかっています。戦争と何ら変わりませんね。次は、Y@soleilさんですね。【どのようなゲームなのかよく解らなくて・・。もしかしたら、本当の自分自身を理解して発見していくプロセス、それが敗者のいないゲームなのかもしれません。見つめていくとなにより大切なのは、参加する人がどんな意識でゲームに参加するかではないかと感じるからです。勝つ、負けるという状態について、深い理解があるということ。その価値観に左右されるということは、どんな誤解や欲求から起きているのかを深く理解していること。それは同時に、肉体が語りかける欲求や衝動に気づいて、それにどのように自らが反応しているかを気づいていること。肉体と自我をまとって存在もしている自分自身の癖、弱さや、自らを絶えず守ろうとする衝動や、願望も含めたあるがままを直視でき、そして、それを深く理解し、その欲求をもハートで受け止め、それがもたらす怒りや悲しみや苦しみ、どうしようもなさをも全てを、慈しみ抱きとめること。その深い全体の理解と慈しみから、勝敗や争いを超えた存在としての自分自身を発見できるかもしれない。そして、みんなが自分自身を深く理解し、ハートの望む人生を生ききる、自分らしく心を込めて自由に生きれたらそれがある意味みんなが勝者になれる人生ゲームかもしれない。本来、勝者や敗者という価値観で測ることができないものを、はかろうとする働きが無意識にされることが問題であると思います。そのプロセスを深く理解することが大切なのかなと感じました。なによりあらゆる場所でひそかに戦っている自分に気づいて。弱い自分のあるがままを理解して受け入れ、絶えず勝ちたがる自分を丸ごと抱きとめるということなのかな・・・・。正直言って、このテーマを見つめるのがきつかったです。右往左往しました。ものすごく不安になって。なにより自分が、勝ち負けの状態を引き合いに出して、自分の価値をはかるという繰り返しをしてきたから。ずっと弱い自分を守ろうとして、あらゆることを獲得しようとする、そんな人生を歩んできたから。それを見つめられて良かったです。ありがとうございました。】深く自身を見つめられていますね。こういう感じで自分自身を見つめてもらうためのホームワークです。自分の中にある勝ちたいという気持。勝ち負けによって無意識のうちに自分の価値を計っているのですね。自分だけでなく、周りのすべての人の価値をも計っています。弱い自分を守ろうとして、あらゆるものを獲得しようとしてきました。それが勝つことにこだわらせたのですね。自分を守るために、支配し、所有し、勝負に勝とうとします。勝負の根底にあるものは、自己保存です。勝負を生み出しているものは、自我の存続の欲求です。自己の存亡をかけた勝負なのですね。でも、実際は勝負することで、逆に自己の存続が脅かされます。勝ち負けを競わない方が、自己の存続にとっては安全です。人類は昔から勝ち負け、つまり争いを繰り返してきました。その延長線上にスポーツの勝負というものもあります。それ以外のところから勝負というものは出てきません。ボクシングにしてもレスリングにしても、勝負とは倒すか倒されるかです。剣道、柔道、空手・・・格闘技はすべて同じです。槍投げやアーチェリーや射撃は、武器が姿を変えただけです。それらと、サッカーやバレーボールとどこが違うのでしょうか。勝負という観点では、まったく違いはありません。勝つか負けるか、倒すか倒されるか・・・サッカーのワールドカップに世界中が熱狂するのは、自我が興奮するからでしょう。自己の存続が強固になるか、あるいは弱体化するか・・・それが問われているような錯覚を覚えるのですね。それらすべてのプロセスを理解し、それを超えていくことはできるでしょうか。それは自分自身を理解し、自我を超えていくプロセスに他なりません。自分は社会の縮図です。自分は人類の縮図です。自分を理解することが社会を理解することであり、人類を理解することです。最終的には、そこへ行き着きます。このサイトの一貫したテーマです。「敗者のいないゲーム-3」に続く
2006.06.15
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今日の屋久島は、嵐。昨夜から激しい雨と風が吹き荒れている。飛行機の音は聞こえない。これでは船も欠航だろうか。ホームワークを見ることにしよう。テーマは次のようなものだった。【敗者がいないゲームとは、どんなゲームだろうか。 みんなが勝者になれる人生ゲームはあるのだろうか。】ホームワークは、正解・不正解がある訳ではありません。いかに深く自分を見つめられるか。ただそれだけです。ホームワークを活かして自分に気づけた人はラッキーです。それぞれの回答を比較して優劣をつけるつもりはありません。ですから、誰も敗者はいません。みんなが自分自身を深く見つめられれば、みんなが勝者になれます。ホームワークそのものが、一つの回答になっていますね。最初は、あとりさんですね。【負け犬と勝ち犬では、私は負け犬みたいですが、私はビリで楽しかったので、負けるは嫌なイメージがない。試験で一位とってもビリでも私は変わらない。それは、このサイトで知識のないコンプレックス私にむきあって気づいた。変わるのは、一喜一憂する表面、世間の反応からみる私。それもまた楽しい。ただ、自分が苦しいなあが全てだと思うときは、自分なりの「負け」に近い判断をしている。最近体が軽くて、嬉しふわふわ状態。この嬉しさは、私の判断でいう「勝ち」から来ていたものも混ざっていた。そうすると、体が重くなってきた時の「負け」の判断が待っている。今までよく使ってきたパターン。卵たてがまだできず、皆が出来ていたのに、私はできなく、置いてきぼりみたいで、この「負け」に近いものを意識した。皆さんは、次なる世界に行ってしまう、私はこんな簡単?(らしい)ものができないと。でも、単純に、嬉しさと感動を味わったのも事実です。悪いパターンも連鎖した。何度学んでも、実践できない駄目な人と、卵たてひとつで、ここまで行った。最初の卵たては、恐怖と快楽が一気に襲ってきて驚いた。今は卵の形がかわいく、楽しい。笑えるけど、一喜一憂を楽しんだり、卵と遊んだり。私の楽しいと思うことを、私のペースでやる。それはとても満ちている。でも表面上だけの私のペースにこだわりすぎると、ペースを乱される苦痛が伴う。例えば、それを周りからやるなと言われる時。私のペースとは、私の周りで起きている事、言葉、その方、を胸の中からでてくる、あたたかいもので全て優しく包んで、判断なく、ただその人と居るとき、そのものといながら、行動して、言葉を出すような気がする。そういう時はグランディングしている。こういう気持ちで生きると、起きていく現象の勝ち負けに伴う感情に振り回される事はない気がする。 卵たてを簡単にやった人は、すごい!!!私はまだ出来ていないけれど(笑)いろんな意味で楽しいので、例えば比較により、遅れていても嬉しい。サッカーの試合で思い出しました。サッカーは楽しむもの。人生も楽しむもの。介護も楽しむもの。人との出会いも楽しむもの。そこから作り上げる世界。その楽しむ内容は、勝ち負けで生まれるものではなく、胸の奥からふるえる熱い喜び。目頭が熱くなる感じ。人の楽しみ方は自由。そこに干渉しないで、楽しむ。いろんなことを楽しむ。深い所はいつも自由。自由の中で、いろんな土俵?不自由(肉体など)を楽しみたい。スポーツもそうだと思います。自由の中で楽しむ、私のペースで。これが勝ち負けを楽しみ、または勝ち負けのない世界、そして幸せではないかと今のこの段階で思っています。 】一般的には、「勝ち」は価値があり、「負け」は価値がないという思い込みがあるのですね。だから、勝って喜び、負けて悲しみます。でも、そういう判断をしなければ、勝ちも負けも共に楽しむことができます。ありのままの事実と共に生きることができるのですね。卵立てができなくても、結婚できなくても、それで「負け犬」と断定しなければ、何も問題はありません。事実に付加価値を与えてしまうと、現象に振り回される一喜一憂人生になります。もっとも、その一喜一憂でさえ楽しめるのなら、問題はないのかもしれませんが。何でも楽しんでしまえば、何も問題はありませんね。でも、それは口で言うほど簡単なことではありません。悲惨な現実が身に降りかかった時、それを楽しめるでしょうか。「悲惨」と捉えないで、事実と共にいられるでしょうか。肉体的な苦痛、経済的な困難、人生にはありとあらゆる試練が待っています。それを事実ベースで楽しめるでしょうか。勝っても負けても、どんな状況であれ自分であることに違いはありません。別に現象に振り回されて一喜一憂することもないのです。一喜一憂するということは、そこに価値判断があるということです。自分の価値観に応じて反応しているだけです。つまり、自分の思い込みに応じて一喜一憂しているのですね。それもまた事実。事実を深く理解することでしょうか。あとりさん。楽しむことと同時に、整理整頓をするように心がけるといいかもしれませんね。もう少し頭の中を整理して、シンプルにすると、生きるのがスムーズになるでしょう。今の状態は、あちこちに引っかかって、ストレートではないようです。まず、部屋の整理整頓から始めるといいかもしれません。次は、きらきらハッピー☆さんですね。 【敗者がいないゲーム、みんなが勝者になれるゲーム これは ジグソーパズル不思議な形のピースの集まり。一つ一つ違う形。みんな思い思いに選んだ形。全部がそれぞれ違う個性。自分で選んだ大好きな形。これが自分の個性なの、みんな違う個性なの。そしてピースはみんな場所を持つ。必ず一つ自分だけの場所。自分にふさわしい自分の居場所。居心地のいい自分の居場所。必ずあるから慌てなくても大丈夫。近所の友達が見つかって、一緒に探すのも楽しいね。せっかちさんも大丈夫。走って一番乗りで見つけたら、ご近所さんの灯りになれる。探す手助けの灯りになれる。そうしてみんながおさまると、元は、ひとつの絵なんだと、はじめて気づくひとつの世界。ホームワークありがとうございます。楽しい気づきです。】ジグソーパズルが、きれいにはまっていますね。美しいひとつの世界の完成ですね。それぞれが自分の好みの形を持ち、それぞれに自分の居心地のよい場所があるのですね。それにもかかわらず、全体は調和しています。それぞれが自分を生き切る時、ひとつの壮大な絵が完成するのですね。他の人と比較する必要もないし、優劣を競うこともありません。ただ自分自身を完成させればいいだけです。そのプロセスを楽しめばいいのですね。それが全体の調和に繋がっていきます。同じ平面で比較して優劣を競おうとするから、苦しみが生まれます。それぞれの個性を尊重すれば、楽しさがあるだけです。人は一面ではありません。一面では劣っていても、他の面では優れています。一面では見えないことも、多面的に見ると光り出すこともあります。人はトータルです。表面の一部だけで、すべてを評価するものではありません。それはその人のほんの一部。トータルなその人は、宇宙全体に繋がっています。今は、いろんな面の一部が表面に出ているだけです。一人一人の人には無限の可能性が宿っているのです。人をどのように捉えるか、それは、つまるところ自分をどのように認識しているかということです。自分を捉えているように、人も捉えています。どこまで深く自分自身を理解できるか。それが人生を決めていくのですね。次は、藍&aiさんですね。【結果として勝ち負けの判断が下ったとしても 自分自身の持てる力を精一杯出し切ることが出来たら。。自分で自分に「おまえはすごいぞ!」と心から言える満足しきった闘いが出来たら、きっと。。それは敗者であったとしても負けではないと思う。スポーツの場合、結果が数字となって出やすいけれど、またスポーツ選手は、その数字を追いかけて精進しているが、長い人生から考えてみたら数字の如何は、さほど関係がないだろう。そのとき、如何に自分を心身ともに鍛えたか。。それが全ての結果につながる。たとえ負けたとしても自分の歴史の中にはポジティブな結果が歴然と残るからだ。ここで大切なのは、心身ともに。。と言う言葉。能力だけを鍛えるのではなく、こころの内奥も鍛え上げ磨き上げていく。。。ただ能力だけ。。技術だけで勝利しても後々心の中には貧しいものしか残らないからだ。秀でたスポーツ選手は、大抵はそれなりに生き方そのものも素晴らしい。心身ともに鍛錬しているから。。。文武両道。。心身ともに鍛錬した人は逆境に強い。苦難にも逞しく乗り越えていける。スポーツと言う観点からホームワークに答えてみました。誰が見ていようがいまいが、野に咲く一輪の花。。精一杯、今という時を燃焼して咲ききっている。。そのように生きられたら、敗者も勝者もないと思います。。みんなそれぞれが、素晴らしい人生の勝者☆】勝負に負けても、全力を尽くして自分で満足できたら、それは負けてはいないということでしょうか。全力投球できるかどうか。そこに意識のポイントがあれば、勝ち負けはどちらでもいいのかもしれませんね。心身共に精一杯燃焼し切るのがスポーツであるというふうに捉えていれば・・・確かに野に咲く花は、見ている人がいようがいまいが自分を咲き切っています。そこには勝負というような比較や優劣の意識はまったくありません。ただ自分を生き切っているだけです。それぞれの花がすばらしいだけですね。そこには敗者は存在せず、すべてが勝者です。人間だけが、ある価値観を持って、花の品評会とかをやるのですね。そこでは評価し、優劣を競います。評価された人は喜び、評価されなかった人は悲しむという人間絵巻が繰り広げられます。全力を尽くしたからそれでいいと思う人は少ないようです。優劣を競う。勝ち負けを競う。そういう文化なのですね。それがこれまでの人類の文化でした。そのものを見て楽しむ。それぞれの個性を楽しむ。そういう文化ではないのですね。そういえば、2000年前、「栄華を極めたソロモンでさえ、野の花の一輪にも劣る」と言った人がいましたね。「敗者のいないゲーム-2」へ続く
2006.06.15
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今日の屋久島は、曇。時々、雨が降っている。朝、名刺を頼んでいた人が取りに来た。これから友人の結婚式で東京へ行くとのこと。そこで配るらしい。出来栄えは?予想以上で、大喜び!表も裏もバッチリ!本人の写真もかわいく撮れている。レイアウト、文字の配色、すべて最高!なにしろ、昨日、作るのに5時間以上かかったのだから。名刺の仲介をした知り合いも大喜び。誰が見ても、すばらしい!特に裏側に彼女たちのロゴマークを入れたのが超気に入ったらしい。(入れるのが大変だったんだから・・・)いずれにしても、喜ばれると、こちらも嬉しい。本当は、あまりやりたいものではなかった。時間がかかるのがわかっていたから。やり出すと、良いものを作りたくなって、自分が納得できるまで何度も作り直す。日記を書くだけで忙しいので、あまり気が乗らなかったけれども、親しい間柄なので断ることもできず・・・でも、結果オーライ!先日、歯医者さんに行った。たいしたことではないのだが、以前詰めてもらったところを再調整してもらった。その時、先生が半分、残り半分を歯科衛生士の女性がやってくれた。以前の歯科衛生士さんとは違う人だった。以前の歯科衛生士さんは美人だった。屋久島では目立つほどの目鼻立ちのはっきりした女性だった。都会的な感じで、こんな人が屋久島にいたのかと驚いた。今回の歯科衛生士さんも、清楚で感じの良い人だった。そのうえ、とても仕事が丁寧だった。以前の人と比べると、格段に細やか。彼女は歯科衛生士に向いているという感じ。以前の人も感じは良かった。別に何も文句はなかった。しかし・・・今回の歯科衛生士さんに比べると、明らかに適正が劣っていた。彼女は、もっと派手な仕事の方が向いているだろう。やはり、人それぞれ向き・不向きというものがある。歯科医や歯科衛生士は、血液型で言えばA型向きだろうか。地味で根気のいる細かい仕事は、十二星座では山羊座や乙女座向き。O型では細かい仕事は無理。獅子座の人には地味すぎる。B型の歯科医や歯科衛生士に個性的に治療してもらっても・・・治療に関しては、やはりノーマルな方がよさそう。研究や新規開発であれば、B型向きかもしれない。しかし、決まりきった普通の仕事は向かないだろう。今回の歯科衛生士さんは、やってもらっている間、安心して座っていられた。むしろ、それ以上だった。病院で入院した時に白衣の天使にやさしくしてもらっているような感じだった。ずっとこのままでもいい?ふと、そう思った。以前の歯科衛生士さんも美人だったから、歯医者に行くのは楽しみだった。でも、イスに座っている時は、そんなに心はやすらかではなかった。ちょっと荒っぽい感じがした。うーん・・・職業選択を誤ったのでは?いろんな人がいて、いろんな個性がある。それぞれに職種の向き・不向きがある。自分に合った職業に就くのが、自分にとっても周りの人にとっても幸せの道。では、自分にはどんな職業が向いているのだろうか・・・人は生まれてくる時、それなりの準備をしてくる。今回はどの才能を花開かせるか。どの能力を開発するか。いろいろ計画してくる。そして、それに応じた肉体や環境を選んでくる。生まれる前に、過去世で磨いた様々な才能のうちから、今生で使うものを自分の中にインプットする。それがアストロジー(西洋占星術)で読むアストラル体(幽体)の記憶(記録)。実際は、今生用の材料を過去世のアストラル体の中から集めてきて、新たなアストラル体を創り上げる。それが今生の可能性の原型となる。その可能性は、成長するなかで自然に芽生えてくる。この日記を書いている本人は、今生、書くための才能を持ってきている。たぶん、過去世でも何か書いていたことがあるのだろう。子供の頃から、それほど努力することもなく、スラスラと文章が書けた。作文コンクールとかでも入賞したし、学校の文集とかにクラスを代表していつも掲載された。それは小・中・高を通して一貫していた。だから、書くことは昔からそれほど難しいことではなかった。中学生の頃、国語の時間に、先生が言葉の意味をみんなに質問する。普通は事前に予習していないとわからない。ところが、どういう訳か何でも答えられた。しかも、辞書に書かれているような感じで答えることができた。それは自分でも不思議だった。別にチャネリングをしていた訳ではない。たぶん、幼少時に毎日、NHKのラジオ放送を聞いていたせいではないだろうか。童話の放送とかは、一度聞いたら暗記していた。次の日に学校でみんなに話すことができた。別に意識的に覚えようとした訳ではない。自然に覚えていた。自然に集中して聞いていたのだろう。それも右脳で。別に自慢話をしたい訳ではない。それぞれに生まれながらに備わった才能があるということを言いたかっただけ。生来の適性があるのだ。それを天職とか天命と言うのかもしれない。それが今生でやろうと計画してきたもの。生まれる前から自分で決めてきたもの。それを見出すことだろうか。今生は、文才はある。しかし、絵心や音感は乏しい。何でもある訳ではない。万能の天才はいない。それぞれが特徴を持っている。今生、完全に開花し、みんなに認められる才能もある。今生はまだ開発途中で、ほとんど知られることもなく終わる才能もある。準備してきた才能は、一つとは限らない。自分のなかで何が秀でているか、よーく吟味した方がいいだろう。それが今生、自分が準備してきた才能なのだから。普通は、準備してきた才能が開花しやすい環境を選んで生まれてくる。しかし、この世に生まれてしまうと、計画した内容は忘れてしまう。いつの間にか違う道に行ってしまうこともある。気がつけば物質に囚われ、物欲に走り、自分の才能を磨くことを忘れるということも起きる。才能が開花する保証はない。自分で気づかない限り、花開かせることはできない。この日記を書いている本人も、まだ文章で生活している訳ではない。これまでは書く内容を体験していた?中身がなければ、何も書けない。これまでは書くための準備期間だった?才能を花開かせるために50年以上の準備期間がいる?もちろん、それには個人差がある。この人は遅咲き・・・?まだまだ山のものとも海のものともわからない。しかし、本人にとっては、今は書くことがメインだとわかっている。そのために生まれてきたのもわかっている。別に誰かにそのように教えてもらった訳ではない。なんとなく自分で感じられるもの。なぜなら、書いている時、本当に生きている感じがするから。これが自分のやるべきことだという気がするから。このために生まれてきたという気がするから。人それぞれに、そのようなものがあるに違いない。それを見出した人は、幸せな人と言えるだろう。まだ模索中の人は、これから幸せがやって来ることになる。諦めている人は?自分は今生は何をしに生まれてきたのか。そういう意識を持つことだろうか。それがやがて自覚に導く。諦めることなく持ち続ける。本当は何をしたいのか。これは本当にしたいことか。絶えず自分に問いかける。その繰り返しのなかで、徐々に見えてくるものがあるだろう。突然、天啓のように今生の使命がわかる?そういう人もいるかもしれない。しかし、あなたがそうとは限らない。地道に求め続けることが自覚への近道ではないだろうか。なぜなら、絶えず意識していることで、そのエネルギーはだんだんと高まっていく。やがて、エネルギーが満ちる時、はっきりと自覚される。それが天啓という形で降りてくるかもしれない。あるいは、別の形かもしれない。いずれにしても、それは自分の魂からのメッセージ。表面意識と魂意識が繋がる時。準備してこない人は誰もいない。みんな、なにがしかの才能を準備している。それを見出し、この世で活用する。生活のためにではなく、自分が納得できることのために。本当に今生でやろうとしたことのために・・・注意深く自分の特性を見極める。客観的に自分を見つめる。自分の心の奥に問いかける。本当は何をしたいのか・・・それぞれが計画してきたことをやる時、この世は調和する。物質に目を奪われ、自分の本心を忘れては、世の中は混乱するだけ。自分ベース。深い自分ベースで生きることが、地球を調和へと導く。それぞれが個性を発揮し、競合せず、楽しく暮らす。周りの人との比較ではなく、自分の内なる才能に気づく。外側の価値観に振り回されて、自分の才能を無駄にしない。静かに、静かに自分ベースで生きる。自分の中に宝は眠っている。『今生は 何をやろうと 思うのか 自分自身に 問いかけてみる』『本当に やりたいことが わかるまで 試行錯誤を 繰り返すのみ』『いろいろの ことを体験 するなかで 自分がやりたい ことが出て来る』『向き・不向き その奥にある 才能は 試行錯誤で 見出すしかない』 『あれこれと やってみないと わからない 意外なところに 才能眠る』『いろいろと 頭の中で 思っても 実践しないと わかりはしない』『才能は 誰にでもある そのことに 気がつくまでは 他人(ひと)を羨(うらや)む』『それぞれに 特異な才能 眠ってる 花開かせて 今生楽しむ』『外側に 振り回されて やることを 決めてしまえば 虚しさ残る』『外側の ことに惹かれて 内側が お留守になれば 心が乾く』『見てくれの 派手さに惹かれ やるよりも 自分の裡の 望み叶える』『職業の 貴賤を超えて 本当に 一番したい ことをやること』『生活の ために自分を 売るよりも 質素に暮らし 自分を活かす』『内側が 納得できる 生き方を 徹底的に 生きるしかない』これが529日目の心境です。
2006.06.14
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今日の屋久島は、さわやかに晴れ上がっている。しかし、陽射しは強い。もうほとんど真夏の陽射し。サッカーのワールドカップで世界中が興奮状態。昨夜は日本が登場したが、負けてしまった。日本のファンは、さぞガッカリしたことだろう。しかし、オーストラリアではお祭り騒ぎ。落胆する人々と狂喜乱舞する人々。勝負とはそういうもの。ゲームと割り切って見れば、それでもいいのかもしれない。しかし、興奮のあまり死傷するサポーターが後を絶たない。彼等にとってはサッカーが人生なのだろうか。逆に言えば、他に情熱を注ぐものが見つからないから、サッカーに熱中するのだろうか。多くの娯楽は、代償行為に近い。自分の代理としてヒーローやヒロインが活躍する。それがまるで自分のことのように映る。自分にできないことをやってくれる。そこで感じられる興奮。それが代償行為というもの。娯楽が気分転換のうちはいい。しかし、それが人生の生き甲斐になると、少し危ない。自分の人生を生きないで、誰かに代理してもらうことになる。それでは真に生きたことにはならない。特にマスコミに扇動される娯楽は危ない。それは戦時下の大衆動員と変わらない。世の中全体の雰囲気に流されているだけ。事の是非善悪が見えなくなる。勝つ方がよくて、負ける方がよくない。そういう文化がある。負けたくない、勝ちたいという文化。今、世界中で蔓延している文化。それがサッカーのワールドカップやオリンピックの興奮を呼び起こす。しかし、それは戦争の文化と変わらない。勝つか負けるか。相手をやっつけるか、やっつけられるか。テニスでは、相手が打ち返せないところにボールを打ち込むことに専念する。相手の動きの裏を読み、ボールを打ち込む。それは見方を変えれば、意地悪しているようなもの。相手が打ち返すことのできないところだけを狙って打つのだから。野球にしても、ピッチャーは打たれないように投げる。バッターは、それを必死に打とうとする。それは駆け引きであり、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。両方が勝者になることはない。まさに一喜一憂の相対世界。喜ぶ者があれば、悲しむ者がある。お互いが喜び合うということのない世界。それが勝負の世界。長い永い人類の歴史。もうそろそろ、みんなが喜ぶゲームを始めてもいいのではないだろうか。喜ぶ人がいる一方で、必ず悲しむ人が出るというゲームは、もうそろそろ卒業してもいいだろう。いつまでも勝ち負けゲームをやっていると、いつまでも戦争は終わらない。スポーツの試合をよく見ると、それは戦争と変わらない。いかにして勝つか。どうして相手をやっつけるか。どこが戦争と異なるだろうか。闘争本能を平和的なゲームに置き換えた?オリンピックは平和の祭典?しかし、勝つか負けるかが平和的とは考えにくい。敗者がいないゲームとは、どんなゲームだろうか。これはホームワークにすることにしよう。実は、昨日もよほどホームワークにしようかと迷ったことがいくつかあった。幸せとは何か。どうすれば幸せになれるか。答を書いてしまって読み返すと、あまり面白くない。やはり、みんなに見つめてもらうべきだったかなと思う。いろんな回答が、より理解を深くする。自問自答では視点が限られる。これからもできるだけホームワークという形にしていこう。昨日のテーマは、いかに現実と出会うかということ。勝負の世界で負ければ、落胆や悔しさと共に現実と出会うことになる。そうなれば、落胆や悔しさが輪廻する。無気力になる人もあれば、リベンジに励む人も出てくる。いずれにしても、苦しい輪廻となる。では、勝負に勝った場合はどうか。喜びと感謝で現実と出会う人もいるだろう。驕りと自己満足で現実と出会う人もいるに違いない。それによって輪廻は異なる。喜ぶのはいい。感謝するのもいい。でも、それは負けた人がいるから。それは敗者によってもたらされた喜びであり感謝。誰かの犠牲の下に噛み締める喜びと感謝。当然、犠牲は輪廻する。それは憎しみという輪廻かもしれない。あるいは、恨みという輪廻になるかもしれない。いずれにしても、敗者の怨念は輪廻する。勝つ負けるという世界を超えなければ、人類に真の平和はやって来ない。勝負の世界に生きる限り、人類の未来は暗い。一人一人が自分の意識構造に目覚めない限り、人類に未来はない。世間に流され、刷り込まれた世間の価値観で生きている限り、新しい時代はやって来ない。もっと深く自分自身を見つめ、根底的に変わる必要がある。そうしない限り、今の世界が続く。静かに自分自身を見つめる。勝ちたがる自分を見つめる。負けることを嫌がる自分を見つめる。子供の頃から、そのように条件づけられている自分自身を見つめる。自分の中の無意識の条件づけに気づかない限り、人は自由ではない。人類の共同無意識に動かされている間は、世間の奴隷に過ぎない。そこには真の意味での自分はいない。社会から個別に条件づけられた自分がいるだけ。しっかりと物質に縛りつけられ、無限の宇宙は遠い。世間の喧噪に呑み込まれないで、自分自身を見つめる。自分の真の願いを見出す。深い深い意識の奥にだけ、揺るぎのないものがある。表面だけに意識が行けば、心には波紋が絶えない。深いやすらぎは遙か彼方・・・『勝ち負けに こだわる心 ある限り 争い消える ことはあり得ぬ』『勝つことで 自己顕示欲 満たされる 自己中心の 輪廻ワールド』『無意識の ままに過ごせば 勝ち負けの 輪廻パターン 絶えることなし』『勝つことが どんな輪廻を つくるかを 見極めるなら 勝負できない』『日常の 一つ一つの 行いが 巡り巡って 輪廻していく』『注意して 日々の言葉や 行いを 見直さないと 自由は遠い』『勝ち負けを 超えてみんなが 喜べる 敗者のいない ゲームはあるか』これが528日目の心境です。【ホームワーク】敗者がいないゲームとは、どんなゲームだろうか。みんなが勝者になれる人生ゲームはあるのだろうか。これが今回のテーマです。締切は、6月15日午前9時。BBS欄に記入してください。誰でも参加できます。但し、本や人から見聞したことではなくて、自分自身を見つめて答えてください。できるだけ具体的に、わかりやすくお願いします。
2006.06.13
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今日は木霊の森へ行った。天気は曇。最後の方になって、雨が降り出した。今日のお客さんは、女性一人。東京から来たとのこと。出身は熊本。ガイドと同じパターン。木霊の写真を撮りたそうだったが、最初はなかなか写ってくれなかった。最後の滝のところで、たくさんの木霊が写った。大きな木霊、強烈に光っている木霊・・・お客さんは大喜び!こちらのカメラには、まったく写ってくれない。それほど写したいという気持もないので、やる気の差が出たのだろうか。それとも木霊の好み?顔馴染みなので、木霊にとっては新鮮味がない?いずれにしても、お客さんのカメラに写れば、それでいいのだが・・・左膝は問題なし。右膝の方に軽い違和感があった。途中で右足だけ、突然、太股まで穴に落ちた。今日は右足が災難の日だった。次のような話を聞いた。住み慣れた家を出てほしいと言われた。突然のことで言葉も出ない。大家さんの方に、お金がいる事情ができたらしい。借家を売ってお金をつくるとか・・・親戚同然に親しくしていたのに・・・あんなに親切にしてあげたのに・・・お互いに信頼関係があると思っていたのに・・・どうして?ショックは、やがて不信となり、怒りに変わる。私はどうなるのよ。自分のことしか考えていないの?こちらの立場も考えてよ。信頼を裏切られたという気持が、ふつふつと沸いてくる。さびしくなり、悲しくなり、やがて、恨みや憎しみとなる。もう信じられない!誰も信じられない!信じれば裏切られるから、もう二度と信じない!悲しい決意をすることとなる。悲しみと怒りが収まらぬまま、泣く泣く引越をする。引っ越した後は、どうなるだろう?この人は、「ありがとうございます」と唱えることをやっていた。「ありがとうございます」と何回も唱えると良いことが起きると友達から聞いて、一時期、一日中唱えていたこともある。しかし、この事件が起きた時、「ありがとうございます」は一言も出てこなかった。もし、家を出るように言われた時、「ありがとうございます」と反応していたら?どうなっただろうか。最終的には家を出なければならない。それは変わらない。しかし、大家さんとの友情が不信に変わることはなかった。引っ越した先ではどうだろう?「ありがとうございます」と言って引っ越すのと、恨みや憎しみを抱いて引っ越すのとでは、引っ越した後は同じだろうか。もしかして、今の自分にとって引っ越すことが必要だったのかもしれない。運気を転換するためには引越が必要な時期だったのかもしれない。そうなると、大家さんは、そのために一役買ってくれたことになる。それにもかかわらず、恨みと憎しみだけを残して去ってしまった・・・恨みと憎しみを持って新居に引っ越せば、恨みと憎しみが輪廻する。恨みと憎しみから始まった新居での生活は、恨みと憎しみのエネルギーに覆われる。もし、「ありがとうございます」で引っ越していたなら、新居もまた「ありがとうございます」でスタートする。感謝のエネルギーには感謝のエネルギーが引き寄せられる。「ありがとうございます」「ありがとうございます」の暮らしになる。起きてくる事象を自分の狭い了見で判断し、喜んだり苦しんだりする。事実は事実。喜びも苦しみも伴ってはいない。それを自分の都合で断定する。事実には、良いも悪いもない。ただ淡々と受け入れる。そして、対応を考える。間違っても怒りや恨みや憎しみで反応しない。そういうもので反応すれば、そういうものが輪廻を始める。感謝で反応すれば、感謝が回り出す。幸せになりたかったら、その方がいい。しかし、幸せになりたいからそうすると、なんとなく御利益宗教くさくなる。人は幸せになりたいと思って行動することで、幸せになれるだろうか。幸せとは何だろう?それは自分の望みが実現することだろうか。人生の目的を達成することが幸せだろうか。しかし・・・人生の目的を達成した時、何が去来するだろうか。達成感と共に何が待っているだろうか。そこに待っているものは、満足感と共に虚無感ではないだろうか。目標を達成すれば、それで終わる。虚無感を克服するためには、次の目標を設定するしかない。それには果てがない・・・その先にあるものは?その先にあるものは、徒労感だろうか。けっして満足感や、間違っても幸福感ではない。幸せは、そんなところにはない。遠い遠い未来に幸せはない。では、どこに?人は感謝のエネルギーに満たされる時、幸せを感じる。人は愛のエネルギーに満たされる時、幸せを感じる。人はハートのエネルギーに満たされる時、幸せを感じる。幸せは遠くにはない。幸せがあるのは、ハートの中。自分自身の中に幸せの源がある。外に青い鳥をさがしに行っても、永遠に青い鳥を見つけることはできない。青い鳥は自分の中に住んでいる。ハートと共にいる。ハートベースで生きる。それが幸せをもたらす。但し、それは結果。けっして目的ではない。幸せを目的にすれば、幸せにはなれない。それでは、幸せを求める果てしない不幸せが続くだけ。幸せは追求する対象ではない。ただハートと共に生きる時、そこにあるもの。幸せを目的にすれば、苦しみが待っている。それは幸せを得られない苦しみを生み出すだけ。自分の幸せだけに目が行けば、周りの人は不幸になる。幸せになりたいためにハートベースで生きれば、御利益宗教になる。それは自我のパターン。何も求めない。ただハートベースで生きる。その時にだけ、幸せになる可能性がある。ギブ・アンド・テイクでは、幸せにはなれない。ハートベースで生きますから幸せをくださいでは、取引の幸せしかやって来ない。事実を理解する。この世の成り立ち、人の心の構造、そういうものを深く理解する。理解したら、自然な行為がある。作為的な行為は、人を幸せには導かない。自然な行為のみが、人を幸せに誘(いざな)う。起きてくる事象に、あなたは感謝をするだろうか。それとも、黙って素直に受け入れるだろうか。あるいは、反発し抵抗するだろうか。その反応の仕方によって人生は変わってくる。感謝をして受け入れれば、感謝のエネルギーが輪廻する。「ありがとうございます」「ありがとうございます」の世界になる。事実を事実として黙って受け入れれば、クリアーな世界が広がる。思いの世界を超えた次元で生きるようになる。抵抗し、怒り、憎しみ、恨みなどで反応すれば、それらのエネルギーが輪廻する。延々と悲しみや苦しみの世界が続く。どれでも選択できる。選択は自由。しかし、選択には結果が伴う。そのプロセスを理解することだろうか。朝、今日という日に出会う時、あなたはどんな反応をするだろうか。初めての人に出会う時、あなたはどんな反応をするだろうか。初めての事象に出会う時、あなたはどんな反応をするだろうか。実は、今日という日も、人も、事象も、同じということはない。すべてが一期一会。瞬間瞬間が最初で最後の出会い。あなたは、今この瞬間にどのように出会うのだろうか。感謝で出会うのだろうか。事実ベースで出会うのだろうか。それとも、怒りや憎しみで出会うのだろうか。どのような反応であれ、あなたから発するものが輪廻していく。それが地球を包んでいく。それがあなたの運命を決め、人類の運命を決める。運命は、どこか遠くで決まる訳ではない。今のあなたの思いと行いが、運命を決めていく。どのような意識で現実と出会うか。その瞬間瞬間の出会いが、あなたの人生を決める。心して、今を生きた方がいい。心して、人と出会った方がいい。心して、事象と出会った方がいい。その出会い方が、あなたの運命を決めていくのだから・・・『自(みずか)らが 出した波動が 輪廻する 善因善果 悪因悪果』『出会い方 それが人生 決めていく いかに出会うか それが人生』『起きて来る 事実に善悪 何もなし 判断するから 振り回される』『目の前の 小さな利害で 判断し 一喜一憂 反応人生』『起きてくる 事象をそのまま 受けとめて 判断なしに 素直に生きる』『刻々の 出会いが人生 決めてゆく どんな心で 出会いを持つか』『喜びで 出会えば喜び 輪廻する 怒りで出会えば 苦しみ巡る』『感謝して すべてを受けとめ 生きる時 感謝の輪廻 幸せ運ぶ』『人類の 調和と平和 願うなら 日々の出会いが 大切になる』『幸せを 求めて得られる 幸せは 自我がつくった この世の快楽』『幸せは 気づかぬうちに 訪れる 追い求めれば 逃げてゆくだけ』これが527日目の心境です。
2006.06.12
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「鈍行と超特急-1」の続き次は、keiusakichiさんですね。【1言うと、10ワカルという事がありますが・・・1つの現象が起ると、スピリチュアル的に捉えられないと、偶然だとか・・・何故自分だけ?(ムカつく)自分以外の周りがワルイとか・・・。自分を蚊帳の外に置き、現象を捉え・・・外からナンヤカンヤと批判する。コレをしているかぎり、手を変え品を変え、同じような現象に悩まされることになる。痛い目に何度もあいながらやっと、1つの現象を我が事の心の映しと気が付く。気が付いた人は、ラッキーなのかも知れない・・・いつまでも気が付かない人も居るかも知れないから・・・。1つの現象で1つの気づきが、やっと訪れる。これが鈍行ということなのかと思いました。1つの現象でも、スピリチュアル的に捉え、何かのメッセージと思うと、沢山の意味を考える。正解という捕らえに掴まらず、どんどん自分との対話を始めると、どんな意味か・・・何故起きたかと1つの現象で起きた事が10、20と膨らんでいく。周りの中での一部の自分と捉え、メッセージ盛りだくさんの世の中に、身近に、自分の中に見つける事ができるのではないでしょうか。各駅停車の列車もまたタノシ・・・とも思いますが、超特急は駅というものを認識しながらも、その人に必要な現象である駅にだけ停まる。今までの自分は鈍行であったので、これからは超特急に乗り換えられるようになりたいものです。現象1で自分の枠を外し、理解を深められますよう、ニュートラルな準備をしていこうと思っています。今回もホームワークの参加させていただき、ありがとうございましたm(__)m 】最初のうちは、みんな人の所為(せい)にします。悪いのは、みんな相手。自分は常に正しい。周りは加害者、自分は被害者。自分がまったく見えていません。その段階では、ほとんど気づきはありません。やがて、自分の周りで起きる現象は自分の心の状態と関係があるのかもしれないと気づき始めます。相手は自分の鏡。現実は自分の心の反映。それがわかりだすと、いろんな気づきが起き始めます。周りにばかり気を取られ、まったく自分のことがわかっていなかったと、ハタと気づきます。注意深く自分の心の状態を見つめ、自分の反応パターンに気づくようになります。囚われに気づくたびに、囚われが外れていきます。そうすると、もう各駅停車する必要はなくなっていきます。何事にも、それほど引っかからなくなるのです。どんどんスピードが増し、鈍行から急行、急行から特急になります。でも、超特急は次元が違います。既に気づきの次元ではありません。ただ注意深さが生きている次元。それは、もう瞑想に近い状態です。現象に囚われることなく、すべてを包み込んで見守っている状態です。しかし、一気に超特急にはなれません。徐々にスピードを上げていくしかないのです。それがこの世のルールです。人は気がつかないうちに超特急に乗っているのです。意識的に乗れるレベルではありません。最後は、ぴあのさんですね。【『スピリチュアルな世界において、鈍行とはどういうことだろうか。』鈍行列車が一駅一駅止まりながら目的地へ向かうように、ひとつひとつ、囚われに気づき解放していく。時には気になる景色に目をとめ、途中下車をして、そこでずっと滞在していたりもする。滞在先でいろんな体験をして、気づきを得る。もしかしたら、二駅前で見たお弁当が気になって やっぱり食べたい、買おう と引き返したりすることもあるかもしれない・・・でも、案外 そうやって買ってみたお弁当がおいしくなくてがっかりしたりする。こんなことなら引き返すんじゃなかった なんて後悔したりもする。スピリチュアルな世界において、鈍行列車に乗っている ということは、時間をかけて、ゆっくりと成長していく ということ。 いろんなことを 体験を通して学び、成長していくこと。『私』 がいろんなものを見、『私』 がいろんなことを体験し、『私の中』 で、ひとつひとつを解放していく。気づきを得ながら ひとつひとつ囚われを外していく。『スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。』超特急の乗車券を手に入れるには、古い思考パターンを持っていないこと。過去の反応パターンに巻き込まれないこと。過去や未来に囚われず、今、この瞬間、ここに意識をフォーカスし、事実のみありのままを見て、余分な思考を介在させず、今 この瞬間瞬間を生ききること。そして、自分自身を深く理解し、『私』 の外、非時間の領域へ出ること。時間の枠の中で 成長 という過程を踏みながら終点(光の国) を遠くに見るのではなく、時間を超え、私を超え、即、今ここで自我から自由になること。 (・・・え?これでは 超特急じゃなくてワープになっちゃうのかな・・・)『光の国へ向かう電車。あなたはどちらに乗車したいだろうか。』私は超特急に乗車したい。もういい加減 鈍行列車にはあきあきしました。遅々として進まない・・・このままでは 光の国を遠くに感じるだけで 終点までたどり着けないかも・・・今回のワーク、とっても難しかった・・・ まだ未消化です。】各駅停車から、ノンストップへ。時間から、非時間へ。過去や未来から、今この瞬間へ。肉体は鈍行列車。精神は超特急。肉体は現実にしっかりとグランディングして、精神は無限の彼方へ飛ぶ。一つ一つの気づきを大切にし、そのすべてを見守る。鈍行がイヤで超特急に乗りたかったら、鈍行を粗末にしないことです。日々の気づきを丁寧に行う。二度と同じパターンにはまらないくらい真剣に生きると。それなくして、一気に超特急に乗ることはできないでしょう。二度と繰り返さないということが、いかに難しいか。実際にやったことがある人なら、きっとおわかりでしょう。それには相当の注意力が必要です。それでも、まだ鈍行列車レベル。同じことを何度も繰り返しているのは、鈍行列車以下。各駅停車の鈍行は、少なくとも戻ったりはしません。確実に前に進んでいます。最初のうちは一進一退。各駅停車で進むのさえ難しいものです。でも、焦る必要はありません。ゆっくり確実に進むことです。しかし、不注意は致命的!不注意では、いつまで経っても鈍行に追いつけません。同じことを繰り返さないほどの注意深さが培われると、鈍行列車はやがて急行列車になります。こだわりや囚われが解放され、あまり引っかからないようになります。各駅停車ではなくなるのですね。まだ潜在意識の中に引っかかるものは残っていますが、だんだん少なくなっていきます。それと同時に自分の意識の波動も速くなり、些細なことにこだわらなくなります。意識の中心が見守る意識に移り始め、急行は特急に変わります。どんどん加速度がついてきます。やがて、ノンストップの超特急になるでしょう。その頃には、もう何も囚われるものはありません。大切なことは、足下(あしもと)の一歩一歩を大切にすることです。一つ一つの気づきを十分に深く理解することです表面だけで終わらせない。自分のパターンを深く深く自覚する。自分のパターンと共に立ち止まり、よくよく直視する。そのような丁寧な生き方が、結局、超特急に繋がっていきます。まさに、急がば回れ!しっかりと今にグランディングして、意識を過去や未来に飛ばさない。今の目の前の事実と共に生きていく。思いに自分を奪われない。クリアーな意識は、光です。気づくたびに、意識の光が強くなります。やがて、すべてを見通すような意識の光となります。そうなれば、あなたは光。光そのものです。そのためには、まず自分の足下から、丁寧に、注意深く気づいていくことです。超特急とは、同じことを繰り返さない注意深さの先にあるものなのです。『同じこと 何度も何度も 繰り返し やっと気づいて また繰り返す』『各駅で 心奪われ 行き先を 忘れてしまう 鈍行列車』『いつまでも 同じところで 立ち往生 いつまで経っても 先へ進めず』『各駅で 引っかかっては 逆戻り なかなか前へ 進むことなし』『いいかげん 自分のパターン 手放して 自由になって みればいいのに』『真剣に 生きていかねば いつまでも 行ったり来たりを 繰り返すだけ』『何よりも 繰り返さない 同じこと 気づいたならば 注意して進む』『心込め 一つ一つを 真剣に 注意しながら 徐行運転』『丁寧に 心の動きに 注意して 同じパターン 繰り返さない』これが526日目の心境です。* 左膝は、歩くのには不自由しないレベルにまで回復しました。 応援、ありがとうございました。
2006.06.11
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今日の屋久島は、曇。雨の心配はなさそう。ホームワークを見ることにしよう。課題は次のようなものだった。【スピリチュアルな世界において、鈍行とはどういうことだろうか。 スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。光の国へ向かう電車。あなたはどちらに乗車したいだろうか。その希望も含めて回答してほしい。】今回は、それぞれの回答が正解。どれも間違いではない。それぞれの捉え方だから、模範解答がある訳ではない。最初は、たろうくんですね。【『スピリチュアルな世界において、鈍行とはどういうことだろうか。』目の前に起こること一つ一つに、自分の思い込みや経験を当てはめて、事実ではない想像の世界に囚われて、その囚われを解放していくことから始まること。『スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。』良い悪いの判断や、自我・思い込みなど何の囚われもなく、心静かに事実だけを見つめ、流れに逆らわず大きな愛に包まれ今に居切ること。『光の国へ向かう電車。あなたはどちらに乗車したいだろうか。』私は、まず鈍行に乗ります!!(というか乗車中ですが・・・。)自分の囚われをいっぱい感じれるからです。物質世界を体験できる今世を体験し楽しんでから、特急列車、そして光へ向かう超特急へと乗り継いでいきたいです。】生まれてこの方、無意識のうちにつくってしまった囚われを、気づいて解放しているところですね。日常生活の中で現れてくる自分の囚われや執着に、丁寧に気づいていきましょう。みんなが瞑想生活に入ったら、人類は滅亡してしまいます。日常の中で気づいていくのが普通の人の生きる道です。それで何も問題はありません。物質地球を楽しみながら、物質地球に囚われないで、自由に生きましょう。一つ一つ丁寧に注意深く生きていると、やがて鈍行は急行に変わっていきます。気がつけば特急、最後は超特急になっていることでしょう。大切なのは刻々の気づきです。一歩一歩足元を固めて歩くことが、鈍行から超特急への道です。次は、えっちゃんですね。【光の国は私の意識を超えたところにあるのですね。その光の国に目覚めるのに、気付くのに、例えば、ブッダの様に月桂樹の木の下でひたすら瞑想して、真理に目覚めるのが、ノンストップ直行便・スーパー特急でしょうか?でも私は日常の生活の中で、色々頭を打ち、悩み、模索し、時に心浮き立ち、優しさや感動で、愛を学ぶ・・・・そしてそういう体験の向こうにある気付きに出会えるという生き方を選びます。この生き方は結構しんどい生き方でした。けれど、よき友がいれば、これらの体験が、この世に肉体を持って存在する意味を堪能させてくれるように思います。よき友は、私を見守り私を包み込む存在であり、内なる私自身ですね。このよき友のおかげで、思い込みの泥沼から這い出る事もできます。うんと、心が軽くなっています。これからも、日々の出来事を通して沢山の想いとともに、気付きへの歩を進めたいです。 】えっちゃんが悟る時は、月桂樹の木の下で瞑想三昧に耽るのかな?ブッダは菩提樹を選んだような気がするけど・・・でも、当面は瞑想はパス?日常生活の方が変化があって楽しいものね。スタートは、みんな日常生活。日常生活で苦しんで、その日常生活を瞑想の中で総括して悟るのです。日常生活という基盤がなければ、誰も悟れないでしょう。悩み、苦しみ、疑い、煩悶して、やがて真実を求めるようになります。みんな最初は鈍行列車。各駅に停まっていきます。時には逆方向へ戻って、またUターン。その繰り返しです。それがほとんどの人の人生です。たとえ鈍行列車であれ、真っ直ぐに行けたら、すばらしい!そんな人は、まずいないでしょう。行ったり来たり。挙げ句の果ては、行き先さえわからなくなります。人生の迷子になってしまうのですね。五里霧中。それが今の大多数の人々の実体です。鈍行で十分です。行ったり来たりを繰り返さなければ、やがて超特急になります。くれぐれも同じことを繰り返さないでくださいね。同じ駅は一度でいいのです。また戻ったりしたら、超鈍行になります。一つ一つ丁寧に、深く気づいてください。もう二度と同じパターンにはまらないように、肝に銘じて自覚しましょう。それが鈍行から超特急への道です。どこかに便利な超特急が走っている訳ではありません。日常の中で、細やかに、注意深く生きることなのです。二度と同じことを繰り返さないように注意深く・・・それが普通の人にとっての最短コースです。次は、昇華555さんですね。【『スピリチュアルな世界において、鈍行とはどういうことだろうか。』日常のごく普通の生活の場に、自分の意識と思考を置き、日々の生活の中に起こる、様々な事象から魂への気づきを見い出していくこと~。『スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。』外界からの目に映るような事象をシャットアウトして、自己の内面に向かうこと~。自己の内面の奥深いところに向かおうとすること。。深みに落ちるような錯覚を起こすが、これは、落ちているんじゃない。。。。。南半球に住む人と、北半球に住む人の上下の差~そんな感じでしょうか??最近流行っていた、「卵立て」を例にさせて頂きますが、鈍行に乗った場合、「卵を立てて下さい」と言われて、まず、卵の物質がどういうものかを確かめる。平面的な物体なのか、球体なのか。。そして、それらがどうやったら立つかの、実験をしてみたり、計算を繰り広げてみたりする。。 様々な立つであろう、仮定を生み出してから、実際に立てる準備にとりかかる。。。でも、超特急に乗った場合は、卵と自己と向き合うだけで、後は、実践のみ。。乗車した途端に、その答えを手にしたようなもののように想えます。。が、私はそれに、至れませんが~(TOT)卵は、普通立てと逆立ち立てに、20分ほどで成功しました。。私はどちらに乗りたいかと言うと、鈍行に乗りたいのです。乗っているつもりなのですが、時として、超特急に乗らざるを得ない時もあります。こちらに乗ってしまうと、その普段との違いに、苦しくなり、乗車拒否をしたくなりますが、得られる事は、乗車しなかったら、とてもこんなに早く手に入れられるものではなかった。。とも気づかされます。乗り続けるのが辛くて、鈍行に乗り換える~これが、今の私です。】肉体を持って社会生活をしている限り、内面だけにフォーカスして生きるという訳にもいきません。肉体を維持し、社会生活を行うには、意識を外に向ける必要も出て来ます。精神的には内面にベースを置き、肉体的には物質にベースを置くということです。ただ、外側の現象に振り回されないことですね。ベースをしっかり自分の内面深くに置いて、外のものも楽しみながら生きる。意識を外に奪われてしまうと、自分を見失います。常に自分自身と一緒にいることですね。鈍行が社会生活のベースです。日常の中にしっかりグランディングして、意識の中心は内面深くに置いておくということです。昼間は鈍行、夜は超特急?みんなといる時は鈍行、一人の時は超特急?肉体を持って生きるということは、両方必要なのかもしれませんね。次は、空好◇◆AQA◆◇さんですね。【『スピリチュアルな世界において、鈍行とはどういうことだろうか。』「答えを急がない事」些細な事にも心を動かし、自分の目で見て感じる。時には目的を忘れ、違った視点で他事に興じるかもしれない。無駄事に思える事からも学びがあるはず。光の国までの道のりを愉しむ旅。『スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。』「核心や真実を求めること」情報を集約して、何が大切なのか必要なのか…何を選択するのか判断する。不必要な事に惑わされず、目的を達成するプロセスに喜びと学びがあるはず。光の国まで、より良い道のりを求める旅。『光の国へ向かう電車。あなたはどちらに乗車したいだろうか。』「超特急で光の国へ、鈍行で逆戻り、できれば違うコースも走りたい!(欲張りですね)」乗車する列車は様々でも、到着する場所は同じ「光の国」。それぞれの考えも想いが違っても、辿りつく場所は誰も同じだと思っています。同じ道のりを歩いても、瞳に映る景色も感情も全く違う個人個人。それでも学びの結論は同じところへ辿りつくと感じるのです。今の私は、超特急ばかり乗っている。人生は長いから、もう一度同じ道のりを味わってみたくなる。逆からも見てみたい!違う発見があるかもしれない。同じ目的地へ向かうなら、山側や海側どちらも味わいたいの。いろんなスピードで…その時々の私が求めるスピードはいろいろだと思うから。】人生は試行錯誤。赤ちゃんとして、ゼロからの再スタート。最初は何もわかりません。試行錯誤を繰り返して、何が大切なのか気がついていくのですね。やがて、人生の本質を求めるようになります。いろんな経験を繰り返して、豊かに成長していきます。そのプロセスは貴重です。もっといろんなプロセスを体験したい?過去世でたーくさん経験してきたでしょう。今回は、それらの総括の時。総仕上げの時です。光の国は、自分自身の中にあります。結論は最初からわかっています。でも、それをリセットして、自分自身で発見していくのが、この世の人生ゲームです。これまでは試行錯誤の人生。これからは内なる光の国を発見して、地球上に現実の光の国を建設する人生です。光の国に辿り着くだけであれば、最初から光の国を出て来ることもないでしょう。光の国をすべての次元に実現する。そのために光の国を出て来たのではないでしょうか。地球で学んだことを活かし、これからは新しい地球を建設していきます。そのためには、まず内なる光の国に気づく必要があります。これからは、そこをベースに生きる必要があるのですね。行ったり来たりを繰り返している時間は、もうありません。各駅停車でも十分ですから、一度でクリアーするようにしましょう。それには日々、注意深く生きることです。いつまでも同じパターンを繰り返さないで・・・「鈍行と超特急-2」へ続く
2006.06.11
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今日は雨になった。昨日の感じでは晴れそうな気がしたのだが・・・里ではオレンジ色のオニユリが咲き始めた。白いテッポウユリは既に終わり、紫のアジサイが盛りを迎えている。一年中花が絶えない屋久島だが、花の移り変わりは早い。朝、起きると、左膝が言うことを聞かない。曲げると痛い。真っ直ぐにしていれば痛みはない。しかし、歩くと痛む。杖がほしいくらい。右膝は、疲れているけれども、それほどでもない。これでは、どうなるのだろう?右膝も左膝も悪くなっては、ガイドが勤まるのだろうか。ちゃんと生活していけるのだろうか。縄文杉なんか行かなければよかった。いやいや、大丈夫。そのうちに回復する。そうすればガイドもちゃんとできる。なんとかなるさ。不安になり、心配になり、先行きを心配するのは、いつものパターン。過去を悔いるのも、よくあるパターン。無理に楽観的に考えようとするのも、また別のパターン。いずれも思い=考え。心配や不安で暗くなっても仕方がない。取り越し苦労は何の役にも立たない。基本的には楽天的な方が幸せだが、あまりにも楽天的だと現状認識が甘くなる。気がついた時には手遅れということもあり得る。それは楽天的ではなく、不注意ということ。事実と共に生きる。事実ベースで生きる。余計なことは考えない。ただ事実のみを見つめる。左膝が痛い。歩くだけで痛い。階段の上り下りにも苦労する。杖が必要。そこまでは、事実。でも、そこから先は、思い。そこで、ストップ!これからどうなるのだろう?このまま治らなかったら、どうしよう?収入がなくなったら、生活は?それらは余計な考え。必要のない考え。いたずらに不安や心配を煽(あお)るだけの考え。事実と共に生きる。そして、今できるだけのことをする。冷やしたり温めたり、押したり揉んだり、刺激を与えることによって肉体を活性化させる。手を当てて、エネルギーを充電する。生命力が満ちることによって、肉体が自ら回復するような処置をする。できることを、ただ淡々とやる。他のことは一切考えない。先のことも、過去のことも考えない。意識を今にフォーカスする。今、必要なことをする。それがすべて。極めてシンプル。複雑にしているのは、余計な考え。必要以上に将来のことを心配し、意味もないのに過去を悔いる。ただ目の前の事実と共にいられない。意識は今から離れ、過去や未来へ飛ぶ。そして、妄想の世界に遊ぶ。事実から妄想へ。現実から非現実へ。自分を見失い、今がお留守になる。やるべきことを忘れ、思いの世界を果てしなく彷徨う。グランディングの一欠片(ひとかけら)もない。事実から事実へ。その時、その時、対処する。未来を想定して、今、未来のことを心配しない。今は今のことだけを考える。妄想の中で消耗しない。それが事実になった時に対応すればいいだけ。今からあれこれ心配しても早すぎる。今と未来では状況がまったく異なる。取り越し苦労以外の何ものでもない。その時・その時、それが事実ベースの大原則。余計な思いが出て来たら、どうする?無視する。相手にしない。そのままにしておく。思いに呑み込まれることも、思いを抑えることもしない。思いとは関わらず、思いから離れる。思いを力で抑えつけようとすれば、いつまでも思いから離れられない。思いを無理に否定すれば、不安が更に強くなる。抑えつけるのも否定するのも、まだ思いの世界。思いの世界から離れるしかない。それには、思いに関わらないこと。事実と思いを、はっきりと区別すること。地震や台風への備えは必要かもしれない。しかし、不安になる必要はない。不安は、地震や台風とはまったく関係がない。未来の可能性を想定するにしても、事実ベース。科学的に冷静に検討する必要がある。不安や心配は自己保存を望む自己中心的な思いからやって来る。自分の肉体を健全に維持する必要はある。しかし、不安や心配は、それに貢献しない。むしろ逆効果。自分を守るものは、冷静さ。事実ベースは、極めて単純。シンプルそのもの。それを複雑怪奇にしているのは、思いの世界。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する領域。思考の世界で空回りして、エネルギーを消耗する。事実ベースで生きる。シンプルに生きる。静かにすべてを見守りながら・・・『あれこれと 頭をよぎる 先のこと 不安・心配 尽きることなし』『心配し 不安になって 焦りだし 追いつめられて 悪くなるだけ』『埒(らち)もない 妄想・空想 幻想が 自分自身を 見失わせる』『しっかりと 事実と共に 居切れずに 思いの渦に 翻弄される』 『人生の 苦悩の種は 事実より 自分がつくる 妄想にある』『消耗に 追いやるものは 事実より 取るに足りない 妄想の渦』『心配と いう名の妄想 幻想は 自己中心の 思いから来る』『妄想に 振り回されて 人生を 苦悩のうちに 生きる人類』『いろいろと 想定をして 備えても 未来は今と 違う現実』『将来の 起きる事態を 想定し 検討するなら 冷静にやる』『シンプルに 事実ベースで 生きる時 事態が悪化 することはない』『今できる ことをするしか 道はない 必要以上に 考えすぎない』『シンプルに 事実ベースで 生きたなら 余計な苦悩 つくることなし』 これが525日目の心境です。
2006.06.10
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朝4時に起きる。5時に民宿へ迎えに行く。今日は久しぶりの縄文杉。1年半ぶりぐらいだろうか。お客さんは、昨日の最終便でなんとか屋久島へ来ることができた。50代と60代の男性二人。50代の方は、あまり歩いていないらしい。60代の方は、毎朝散歩しているとか。天気は、曇。山に近づくにつれて小雨が降り出した。駐車場に着くと、既にかなりの人が来ていた。でも、それほど混んでいるという感じでもない。なにしろ梅雨時だから。最初は単調なトロッコ道。延々と2時間ほど歩く。森へ入る前に朝食。こちらは足裏のマッサージ。なんとなく左足の股関節に違和感がある。森へ入って問題が起きた。60代の方が急に足下が覚束(おぼつか)なくなる。簡単に転んでしまう。片方の目が視野狭窄でよく見えないらしい。そのうえ眼鏡が曇っている。一年前に足首を骨折し、3ヶ月前にはぎっくり腰。山へ登るのは初めて・・・ちょっと、もっと早く話してよ!超スローペースになる。トロッコ道は快調なペース。山道になって、危険百倍。慎重にゆっくり歩いてもらう。ここでケガでもされたら、大変なことになる。何より安全第一。なんとかウイルソン株まで辿り着く。ここから先は木道が整備されている。それでも、時々、木道が切れるところがある。後ろで滑る音がする度に心臓が凍った。若い人のガイドは楽。普段から山を歩いている人も問題はない。子供と年齢がいった方のガイドは、なかなか気を遣う。子供は一緒にいると楽しいけれども、何をやり出すかわからない。お年よりは、すぐに転ぶ。ウイルソン株から先は、大きな杉をあちこちに見ながら登ることができる。屋久島の森のクライマックス。巨木が、これでもかこれでもかというぐらいに出て来る。それはそれはすばらしい森のエッセンス。それらの巨木に歓声を上げながら、慎重に注意深く歩く。何回か滑ったり転んだりしながら、それでも縄文杉まで辿り着いた。6時に歩き始めて5時間半。まあまあのタイム。あまり混んでいなかったので、縄文杉の前で昼食。食事をしていると、次々と登ってくる人が到着。それでも、普段に比べると極端に少ない。やはり、昨日、ほとんどの飛行機や船が欠航したからだろうか。今日来た人はラッキー!ゆっくり縄文杉と対面できる。みんな盛んに記念写真を撮っている。こちらは、ひたすら足のマッサージ。なにしろ久しぶりなので、足が引き付けを起こしそう。12時に縄文杉を出発して、帰路に就く。天気は回復。お日様が顔を出し、青空が広がる。光が当たって木々が美しい。風もすがすがしく、とてもさわやか。途中から左膝が痛くなる。普通は右膝が痛くなる。そのためにサポーターを常時携行している。それは若い頃に痛めた古傷。ところが、今日は左膝。朝から左足の調子が悪い。どうして?今年のゴールデンウイークに、69歳の男性が縄文杉の帰りに転倒して、首の骨を折って亡くなった。そこは心臓破りの坂と呼ばれる、縄文杉登山で一番の難所。下りは危険なので、そこを迂回して自然観察路を通る。少し時間はかかるが、こちらの方が安全。それに大きな杉も見れて楽しい。この頃には、もう歩くたびに左膝が痛くなっていた。当然、ペースは落ちる。結果、安全度は増す。休憩も多くなり、その度に足の裏マッサージ。ところが、他の二人もマッサージしている。みんな疲れている。ウイルソン株で、ゆっくり休憩。最後の難関に備える。60代の方が一番心配していたところ。行きに何度も転んだところ。帰りは下りなので、行きよりも危険度が増す。十分足をマッサージして、最後の難関へ向かう。ゆっくり慎重に進む。時間はある。天気は良い。急ぐ必要はない。何より安全。ゆっくり、ゆっくり・・・それでも思ったよりも早くトロッコ道に出ることができた。ここまで来れば一安心。後は時間が経てば駐車場へ着く。何度か休憩しながら、足をマッサージしながら、トロッコ道を歩く。今日はガイド付きの人がほとんど。自分達だけのグループは少ない。帰り道で、縦走する人たちにたくさん出会う。みんな重たそうな荷物を背負って黙々と歩いていた。かわいいシカも何頭か出て来てくれた。休憩が多かったので、駐車場に着いたのは17時半。もう大半の車はいなかった。往復11時間半。まあまあだろうか。これまでで最も速いグループは、8時間。もっとも遅いグループで、13時間。無事に明るいうちに戻れれば何も問題はない。なにより安全第一。特に縄文杉の場合は20キロ以上歩くので、無理をして捻挫したり骨折したりする人が絶えない。中には持病の発作を起こす人もいる。深い森の中で歩けなくなっても救急車は来てくれない。当然、ガイドが背負うことになる。ガイドも大変。どんなに疲れても、元気に戻れれば、後は楽しい思い出になるだけ。動けないようなケガをしたら、元も子もない。建設現場ではないが、安全第一。それがガイドの最低限の仕事。それプラス、楽しければ言うことはない。18時半に宿に着く。13時間半も一緒にいて苦労を共にすると、なんとなく別れづらいものがある。自宅に帰り着いたのは19時近かった。風呂に入って夕食が終わると、もう日記を書く体力は残っていなかった。頭はクリアーなのだが、体がついていかない。コメントだけ書いて、就寝。帰ってからも左膝は痛かった。しかし、この痛みがお客さんの安全を守ってくれた。痛みがなかったら、もっと速いペースで歩いていただろう。そうなれば、当然、危険度は増す。痛みは、痛み。必要があって、痛んでいたのだろう。痛みもまた生かして使えば、それはそれでいい。『何であれ 活かして使えば それでいい すべて活かせば ハッピーエンド』これが524日目の心境です。
2006.06.09
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今日の屋久島は、大風が吹いている。そして、激しい雨も降っている。ほとんど嵐に近い。明日は晴れるらしい。予定では縄文杉に行くことになっている。しかし・・・そのお客さんは、今日、屋久島に着くはず。飛行機が着陸するだろうか・・・この日記の校正をしていたら、電話がかかってきた。「11時に屋久島着の飛行機が、着陸できずに鹿児島空港に引き返してしまった。高速船も全便欠航。最終便まで空席待ちをするけれども・・・」屋久島に住む者にとっては珍しいことではない。しかし、はるばるやって来るお客さんにとっては、とんだハプニング。さてさて、どうなることやら・・・先日、次のようなコメントがあった。【特急券を買いたいのですが、どうしたら買えますか?・・出来れば超特急に乗りたいです!!もう、ゆっくりは堪能しました。どんどん進みたいです!】これは、えっちゃんの次のコメントに対応したもの。【『我を張って 自分を守り こだわって さびしくなって 救い求める』思わず鏡に映る自分を見た気分。長い事このパターンやってきました。今もやってるかな?でも、最近それをまたやってるね・・・っていう、もう一人の自分がいる。きっと、私もいくつかのトンネルを抜けていく、超鈍行列車に乗っているのだろう。いつか着くさ。ね、気楽に行こう♪って、パターンえっちゃんと、もう一人のえっちゃんが、弁当つつきながら、まだまだ混沌とした窓景色見ながら揺られてます。ガタンゴー、ガタンゴー・・・・時には、森も海も見える、素敵な鈍行ツアー。目的地がステキなんです。光の国ですよ♪ね!、kimiさん。】えっちゃんは、鈍行が好みらしい。ゆっくり景色が楽しめるので、それも悪くはない。それに地元の人の方言も聞けるし、思いがけないふれあいもあるかもしれない。しかし、新幹線で行きたい人もいるようだ。鈍行は時間がかかるので、疲れる。その点、新幹線は早いので、楽。どちらを利用するか、それぞれの選択。スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。ここまで書いて、書くのを躊躇した。そう、いつもの出し惜しみ。ホームワークという名前が頭をよぎる。もちろん、今日はそのことについて書くつもりだったので、答は用意してある。しかし、一方的にこちらから提示しても、あまり意味はない。一人一人がよーく考えること。深ーく自分自身を見つめること。それに勝るものはない。ホームワークの課題は次の通り。スピリチュアルな世界において、鈍行とはどういうことだろうか。スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。光の国へ向かう電車。あなたはどちらに乗車したいだろうか。その希望も含めて回答してほしい。別にどちらが良い、どちらが悪いということではない。選択は自由。でも、その中身は?[ヒント]えっちゃんにとっては、簡単だよね。鈍行は、自分のことを書けばいいもの。超特急は、自分と逆のことを書けばいい。(傷つかないでね!)(コケてもいいけど?)締切は、6月11日午前9時。BBSに書き込んでほしい。参加は自由。但し、自分の言葉で具体的に書くこと。別に模範解答を求めている訳ではない。大切なのは結果ではなくてプロセス。自分を見つめるプロセスが何よりも重要。見つめる中から何かが生まれる。ハー、今日の日記はラクチンに終わってしまった。これでは楽しみに読みに来た人に悪い気がする。という訳で、もう少し書くことにしよう。昨日のホームワークの日記を書き終えて、だいぶはっきりしてきたなと感じた。自我と非自我が、かなりクリアーに区別できてきた。読んでいる人にとって、自我と非自我の違いが、ある程度明確になってきたのではないだろうか。日記を書き始めて一年半。自分の中では当然のことも、言葉に出して的確に表現するのは至難の技。まして、それをはっきりと理解してもらうのは、更に難しい。それが、あるところまできたかなという感じがした。共通理解が進みつつある。この日記を読んでいる人がわかるということは、他の人もやがてわかるということ。その先には、百匹目のサル現象が待っている。かなり深まり、明確になってきている。明確になるということは、頭の中がそれだけクリアーになってきているということ。書いている本人も、読んでいるあなたも。最近は初めて書き込む方も増えている。参加していただくのが何よりも理解に繋がる。実名ではないのだから、遠慮することはない。どんどんわからないことは書き込めばいい。疑問を発するということは、回答が用意されているということ。疑問が明確であればあるほど、回答も明確となる。深く自分自身を見つめて、疑問を発するといい。深い疑問には、深い回答がやって来る。もちろん、浅い疑問でもいい。疑問を発しないよりも、遙かにすばらしい。だんだんと迷いの霧が晴れてきているのではないだろうか。これまでの人類の頭の中は、靄(もや)だらけ。混沌として、先が見えなかった。自分がどこにいるのか、まったくわからない状態だった。自分自身が見えていなかった。周りの人のことはよくわかる。でも、自分のことはわからない。だから、延々と同じことを繰り返してきた。怒り、恐れ、恨み、悲しみ、憎しみ・・・争い、戦争、殺し合い。今もって延々と同じことを繰り返している。迷いの霧の中で五里霧中。何が大切なのか、何が本質的なのか、まったく見えていない。人類の集合意識そのものが・・・それが変わる時を迎えている。自分自身を理解し、これまでの自分を超える。これまでの自分とは、自我の人生。物質ベース、肉体ベースの自己中心人生。それがいかに人類を苦しめてきたことか・・・そのことに気づき、新たに生き直す時に来ている。それには自分自身がわからないことには、話にならない。一人一人が変わらないことには、人類は変わらない。一人一人が自分自身を理解しないことには、人類の未来はない。自分自身を理解し、自我を超える時が近づいている。人類の夜明けは近い。長い永い迷いの時の終焉。新しい地球のスタート。それが、なんとなくほの見えてきた昨日の日記だった。卵立て以来、百匹目のサル現象も具体的にわかりだしている。これから更に明確になっていく。意識の中の曇が晴れていく。書いている本人も、読んでいる人も。そして、人類の集合意識も。あと半年は、毎日、日記を書く。その後も1年から1年半は日記を書き続ける。そのくらい書けば、必要なことは書き切れるだろうか。よろしかったら、一緒に付き合ってほしい。無理にとは言わない。気が向いたら。自分にとって必要だと思ったら・・・『飛行機が やって来るのか 来ないのか お天気しだい 神のみぞ知る』『物質に 目を奪われて 忘却の 海を彷徨(さまよ)い 光求める』『自(みずか)らを 見つめる中で はっきりと わかる日が来る シフトが起きる』『いくつもの 小さなシフト 繰り返し 大きなシフト やがて生まれる』『自我という 幻(まぼろし)掴み 苦悩した 人類意識 変わる日が来た』『明確に 理解されれば 人類の 意識が変わる シフトが起きる』『永年の 迷いの霧は 晴れ渡り 人は内なる 光に気づく』『百人の 超人類が 生まれれば 残る人類 自然に変わる』『遙かなる 銀河の巡(めぐ)り 人類の 意識が変わる 時を迎える』これが523日目の心境です。【ホームワーク】ホームワークの課題は次の通り。スピリチュアルな世界において、鈍行とはどういうことだろうか。スピリチュアルな世界において、超特急とはどういうことだろうか。光の国へ向かう電車。あなたはどちらに乗車したいだろうか。その希望も含めて回答してほしい。別にどちらが良い、どちらが悪いということではない。選択は自由。でも、その中身は?[ヒント]えっちゃんにとっては、簡単だよね。鈍行は、自分のことを書けばいいもの。超特急は、自分と逆のことを書けばいい。締切は、6月11日午前9時。BBSに書き込んでほしい。参加は自由。但し、自分の言葉で具体的に書くこと。
2006.06.08
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「自信と自己信頼-1」の続きつぎは、Y@soleilさんですね。【自信とはなに? 自信とはどこから来るの?改めて見つめてみると、毎度のことながら、自信がなんだか解らないで生きてきたようです。自信といってもとても揺らぐし、不安と自信と行ったり来たり。それは条件次第で形を変えてしまう不確かなものであるように思います。目的と結果に左右されるものでもあるし、行為に依存するものでもあったりします。でも、それがある日出来なくなった時、または思うものと違うものが出たときに、自信は揺らぎます。または、自信がついたりします。昔できなかった記憶がやってきても自信が揺らぎます。出来た記憶が、自信を支えたりします。自信を失うようなことが起きても、すぐ立ち直って、やり直すことの出来る人もいるし、なかなかチャレンジをできない人もいます。私の場合、なかなかチャレンジできませんでした。何故簡単にそうなったかというと、それは基本である自己信頼がなかったからだと思います。もし、自己信頼の土壌が不確かであったならば、あるきっかけで自信を失った時に、自分自身への信頼感まで崩れてしまったような気持ちになりやすくなってしまいます。自己信頼とはなんでしょうか?自己信頼はどこからやってくるのでしょうか?目に見える外側からではなくて、自分の大きな内側からやってくるもののように感じます。自己信頼とは、存在に対する無条件の受容。あるがままの自分自身への無条件の受け入れからやってくるように思います。おおらかに自分を包み見つめる視線。条件に左右されない存在としての、そして大きなものとの繋がりを感じる安心感。何があっても大丈夫だよと語りかけ続けるようなそんな意識。今回、この違いだけでなく、どうして自己信頼が解らないかを見つめることになりました。そして、私の場合は、あるがままの素直な自分で、ゆったりと生きることから自己信頼がやって来るように思います。何の偽りもない自分自身を受け入れ、自分の心が本当に望むことと共に生きること。周りの評価、条件いかんに左右されない自分自身にしっかりと両足を付くこと。そうすることによってまたさらに自分自身のことを、自分自身の本当の良さを信頼してあげれるようになれる気がします。だから、自己信頼と自信とは、質が全く違うように思います。比較出来る類のものではなく、自信と不信は自己信頼という土壌の上で、いろんな体験を通して構築できる類のもののように感じます。自己信頼は、なにもかも丸ごと全て包んでいる心の奥から来る安心感のようなものかなと感じます。だから全ての体験を支える大きくて温かな土壌なのかもしれない。自己信頼の土壌の上で体験していくことが大切なのかなと感じました。ベースをそこに置いて体験をし、その結果を見つめた時、自信と不信の繰り返しに振り回されることはなくなるのかなと感じました。もっと体験そのものを楽しんだり、色んな記憶や結果からも自由で軽やかになれるのかもしれません・・・・・。】自信と不安のシーソーゲーム。結果によって、心は揺れ動くのですね。意識が外に向くと、そうなりがちです。その時、自己信頼はありません。これまでは、そういう人生を歩んできたということでしょうか。確かに自己信頼は、内側からやって来ます。自己信頼がある時、外側に振り回されることはなく、ありのままの自分と一緒にいることができます。ありのままの自分は揺れ動いているかもしれません。そういう自分をそのまま受けとめ、見守っているということですね。逆に言うと、そういう見守りの中から自己信頼は自然に生まれるということでもあります。まずは意識的に、ありのままの自分をそのまま見守ることでしょうか。良いも悪いもなく、判断や評価もなく、ただそのまま見守る。そうしていると自分が愛おしくなるでしょう。かけがえのない自分ですから。そうやって、やさしい目線で自分を見守ってあげるといいでしょう。それによって、これまでの心の傷が癒され、自分自身が再生します。自信は外から来ます。自己信頼は内から来ます。自分自身と一緒にいて、自分自身をやさしく見守ってあげることですね。次は、keiusakichiさんですね。【自信は内なる力の誇示と他者や自分の過去からの比較の上に成り立っているように思います。しかし、自信が有ると思った瞬間にもろくも崩れ、自信というもののチカラは強固なものでは無いと感じます。チカラをもって自信を得た気でいても、真逆も同時に存在している。自分には幻想のチカラの象徴に感じました。自己信頼については、受け入れるというイメージが湧きました。自信が能動的なものであるとするなら、自己信頼は受動的。能動的に積み上げていくのに、崩れるを同時に持つものとは対照的な、自己信頼。受動的でありながら、受け入れ、理解し、流す。言葉にすれば、そこには何も残らないのですが、見えないものが積み重なっていく。自分も積み重ねている事を気が付かないくらい。受け入れ、理解し、流す・・・それが自己信頼なのでは?と思いました。受け入れる事をしていく、このことが自己信頼の始まりと思います。理解するは、難しいですが・・・己の枠を外すと、理解が早く思います。理解できた時、流します。そういう行為をして行くことを受け入れる。それが、自分が思う自己信頼でした。】自信は、確かに幻想の力の象徴ですね。あるという思い込みですね。それは単なる思い込みなので、思い込みが事実に負けると、脆くも崩壊するのですね。自信を支えていたのは、思い込みだったのです。自信が能動的で、自己信頼が受動的という表現はわかりやすいですね。自信は自分が能動的に思い込むもの。自己信頼は自然に存在するものという感じでしょうか。確かに、ありのままの受け入れから、自己信頼は始まりますね。自分のイヤな面も否定しない。ありのまま認める。自分を否定している限り、自己信頼は育ちません。ありのままの事実から目を逸らしている限り、自己信頼は遠いでしょう。受け入れ、認め、抱きしめ、見守る・・・その延長線上に、理解が芽生え、執着が外れ、自己信頼が育っていくでしょう。それは気がついたら存在するというようなものです。何かのきっかけで生まれる自己信頼は、思い込みに近いものがあります。気がつかないうちに自然に芽生え、自然に存在するものです。思いによって支えられていないのですね。気づいたら自己信頼が在るのです。最後は、ぴあのさんですね。【自信・・・今回、自信 という言葉を考えてみるにあたって私が行き着いたところ・・・それは 『私には 自信がある と言えることがない』 ということ。自信なんて すぐ揺らぎます。今まで それをイヤというほど経験してきました。とてもあやふやなもの。あるようで、ないもの。ただ、自分の自尊心を満足させるもの?過去の記憶をベースにして生まれるもの。自信は、時として危ない。自信がある という意識が 物事をクリアに見ることを妨げてしまうことがあるように思います。自我を強固にしてしまう場合が時によりあるようにも思います。自己信頼とは、不動のもの という気がします。決して何にも揺らぐことのない 大きな信頼。それは、深い深い意識の奥の、宇宙と繋がる 『ひとつ』 の意識。愛一元。自己を信頼するということは、宇宙を信頼するということ。宇宙を信頼するということは、個を越えた大きな大きな愛と溶け合うこと。自我の入る余地のないもの。静かな静かな意識の中から生まれるもの。美しい調和の世界。そのように思いました。】自信は、記憶ベースですね。記憶がなければ、自信も存在できません。自信と不安は、記憶ベースがつくり出す思い込みワールドです。それは相対的で、不安定なものです。そこに軸足を置くと、人生が極めて不安定になります。外側と自分の思い込みに振り回される人生です。それは自我の人生であり、心のやすらぎは永遠にありません。自己信頼というのは、言葉を超えています。信頼という意識さえありません。信頼という意識がある間は、まだ思いの世界でしょう。自分の深い意識は自分そのものですから、信頼するもしないもありません。信頼以前なのです。自分自身なのですから。自己信頼という表現は、言葉の綾です。実際は、信頼そのものという感じで、意識的に信頼している訳ではありません。ほとんど無意識ですね。一体なのですから。それが自分の中に在るということでしょう。早く自己信頼という言葉がいらなくなるようになるといいですね。そんなことは当たり前で、今更言うまでもない。そういう時代が、やがて来るでしょう。その時までは、いろいろホームワークに参加して、自分自身を思い出すということでしょうか。精神世界に限って言えば、特に新しい知識を入れる必要はありません。自分自身の中にすべてがあります。自分自身と一緒にいて、深く深く感じればいいだけです。このサイトで書かれていることは、知識ではありません。ですから、覚えても何の意味もありません。ただ、自分自身に気づくきっかけに過ぎません。毎日毎日、膨大な文章を書いているのは、ただ自分の中にすべてがあるということを言っているに過ぎません。それがわかったら、別に日記を読む必要もないかもしれません。自分自身と一緒にいれば、すべてはひとりでにわかってくることです。自分と居切れさえすれば、別にこの日記を読む必要はありません。自分自身で何でも学べます。ただ、迷った時は、たまに読むのもいいかもしれません。外側のものに頼らなくても、自分の中にすべてがあります。外側のものは、きっかけに過ぎません。内側のものが輝き出すためのきっかけです。必要な間はそれを活用すればいいでしょう。でも、ベースはしっかり自分自身に置いておきましょう。そうでないと、いつまでも外側のものに振り回されます。自分ベース。事実ベース。自分と一緒にいて、自分を見守り、自分を深く感じる。その先に、自己信頼を超えた自己信頼が存在するでしょう。『何であれ 自信は自我の 拠り所 裏切られると すぐに傷つく』『自信こそ 自分支える アイデンティティ 自信崩れて 自分も崩れる』『過去ベース 自信ベースで 生きるのが 自我の人生 苦しみの道』『競争と 比較と評価 優劣に 揺れる心に やすらぎはない』『揺れ動く 自信の元は 優越感 人に劣れば 自信喪失』『人の世は 一喜一憂 喜怒哀楽 自信と不安の シーソーゲーム』『一代で 天下を取った 秀吉も 死ぬ間際には 自信喪失』『青い鳥 探し求めて さまよって 行き着く先は 自分の内側』『永遠の 心のやすらぎ ほしいなら 自分の中に 求めるしかない』『しっかりと 自分ベースで 生きないと 振り回されて 終わる一生』『しっかりと 自分自身に フォーカスし 自分自身の 人生生きる』『外側は 無常の世界 色の海 色の世界に やすらぎはない』『移りゆく 四季(色)の世界を 愛でながら 空の次元で 色を楽しむ』これが522日目の心境です。
2006.06.07
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今日の屋久島は、穏やかに晴れている。かなり気温が上がっていて、室内でも30度近くある。ホームワークを見ることにしよう。今回のテーマは、次のようなものだった。【自己信頼と自信とは、少し違う。何が違うのだろうか。これはホームワークにしよう。自己信頼とは何かをしっかり理解するのにいい機会だろう。言葉の定義の違いということではなく、もっと本質的に見つめてほしい。自信という言葉は一般的。でも、自己信頼という言葉は、あまり一般化していない。その違いは何だろう。ヒントは、自信は、どこから来るのだろうか。自己信頼は、どこからやって来るだろうか。ゆっくり自分自身を見つめて答えてほしい。】今回は、こちらのコメントを書くまでもなく、みなさんからの回答を読むだけでも十分理解できるように思います。ホームワークとしては大成功でしょう。しっかり見つめられている感じです。では、最初は、空好◇◆AQA◆◇さんですね。【私の想う「自信」と「自己信頼」自信…行動や結果から湧き上がる…?自己信頼…心や魂で湧き上げる…?今の私にはまだ確信がもてない。だから「?」に甘えてみました。締切までにもっとシックリくるだろうか…。】基本的には、そういう感じですよね。自信は、結果=過去からやって来ます。自己信頼は、意識の奥=今からやって来ます。「?」が早く取れるといいですね。次は、えっちゃんですね。【自信を持って言えることは、私は何にも自信がない。これはお任せ!と言えそうな物がない。キャリアがない。いつも必死でやってきて、走り抜けてしまった・・・何も身につけることなく。未だに仕事となると、力ばかり入って余裕がない。結果、ドジる事多し。自信とは、評価しうる能力、または能力の表現されたもの、および姿態。形を成してなくても見えるもの。したがって、他者との比較上甲乙がつけられるもの。または、自分自身の思い込み上優越感を持ちうるもの。または、自分自身の評価で、良しと思えるもの。自己信頼は見えないもの。自分自身で感じるもの。他者の評価の対象外。ただ、自己信頼のもてる人に対する他者の評価はあるかも。私にあるか?自己信頼。例えば,あと一人しか乗れない船があって、何人も残っている時、他を押しのけて船に乗り込まないでいられるように思う。不納得な事を言われると、むきになるけれど、私から相手の気持ちを傷つけようとは思わない。いつだって、出来るだけ明るい方を向こうとする。(自分自身のためにですが)・・・・なんていうことに対する自己信頼はあるかなって思ったけど、 思い込みに陥りやすい自己信頼でもある。深いところに根ざす、自分への信頼・・・どういうものだろう?私は私を最終的に手放さず、どんな自分でも受け入れるということか?そんな私の部分を越えて、もっと大きな存在の一片である自分というものへの確信だろうか?身近な事のように思えた自己信頼・・・・近づくと、三倍くらい遠のいてしまった。】私は何にも自信がないと、自信を持って言える人は、自信がある人でしょうか。それとも、自信がない人でしょうか。えっちゃんは、どちらだろう?自信とは、書かれているように、比較や評価による、目に見える優越感ですね。過去ベースです。自己信頼は、見ることも評価することもできません。自分自身で感じるものですね。他者を押しのけない。相手を傷つけない。明るい方を向く。そういう自己信頼はあるのですね。でも、そういう個別的なものは、ややもするとひっくり返りますね。自分は傷つけるつもりはなくても、相手が傷ついたりした場合とか。こちらの意図が誤解された場合とか。どちらかというと、自信に近い自己信頼かな?自信というのは、思いの世界です。自己信頼は、思いの世界を超えています。だから、ひっくり返ったりしません。海よりも深く、空よりも広い自己信頼は、どこにあるのでしょう?近づくと、遠のいて行く?まるで青い鳥みたいですね。さて、青い鳥はどこにいるのでしょう?次は、藍&aiさんですね。【自信とは他者との比較から生み出されるもののような気がします。自分の固定観念。。思い込みとも言うかな。。そこから生じるもので案外。。脆いものなのかもしれないと思う。自己信頼とは。。自分自身がいままで生きてきた中で自然と体感したもので、いのちの内奥から湧き上がるもの。。自分のいのちの営みの本来の姿。。エッセンス。でも、自己信頼は、誰でもが体感できるものではないと思う。それは。。たぶん究極の生きている証のようなものに出逢うことから生まれる。。と思う。抽象的答えしか出てきませんでしたが。。。自分の中にある想いを言葉にするのは難しい。。】その通りですね。自信は、比較の結果。だから、自分より優れた者が現れると、自信は脆くも崩れてしまいます。相対的で、安定性はありません。自分の思い込みの世界です。自己信頼は、他者との比較ではなく、確かにいのちの内奥から湧き上がるものですね。自分自身の本質。信頼以前の存在そのもの。自己信頼という言葉さえいらないレベルですね。究極の生きている証?早くそれを体感してくださいな。それは自分自身と一緒にいることから生まれるでしょう。自分の外にはないものだから・・・次は、やちよさんですね。【自信について、考えてみました。・合格した、1位になった、勝った、上手に出来た、賞賛された等、 目に見える「結果」が自信をもたらす。・他との「比較」により自分の方が優れているという自己判断により自信をもつ。・「時間」の経過により、自信がもてる場合も、逆に喪失する場合もある。(何年も継続してきた事には自信が生じる。逆に老化等により今まではあった自信が無くなる)自己信頼が自信と違う点。・「結果」「比較」「時間」のどれひとつをも必要としないような気がします。・外からのものに反応するのではなく、全て自己との対話、内なる想いを感じて、 その想いのまま生きる。・自分を否定しないで生きる。・過去に囚われることなく、今この瞬間から可能である。私はまだまだ、ちっぽけな「自信」にしがみついているのが現実です。過去にも自信によってずいぶん助けられました。これからは?以上、提出致します☆】結果+自己判断=自信という感じでしょうか。自信がある人は、過去ベースで生きています。過去の経験の上に今を生きています。それは時として過信を招き、自信喪失に繋がることもあります。自信とは相対的なものです。この世の無常そのもの。明日はどうなるかわかりません。一方、自己信頼は、そんな相対的なものではありません。絶対的とも言えるものです。外側の経験から来るというより、内側から湧き出す感じでしょうか。そこに在るものなのですね。外側の状況に関わりなく、常に存在しているものです。揺れ動くのは、思い。自己信頼は思いの次元ではないので、揺れ動かないのですね。無常ではないということです。常に在る。そこに在る。ちっぽけな自信にしがみついている?確かに自信によって助けられることもあるかもしれませんね。でも、自信によって足下をすくわれることもありますよ。自信は不安を抑える役割はしますが、過信は事故の元です。自信は両刃の剣。自信に頼って生きると、自信に振り回されます。多くの人は自信にベースを置き、それをアイデンティティとして生きています。しかし、そういう生き方は、自信が崩れる時、自分自身も崩れることになります。不安な時は、不安を自信によってカバーしようとしないで、不安と共にいることでしょうか。不安な自分を見守っていることが、自己信頼への道ではないでしょうか。「自信と自己信頼-2」に続く
2006.06.07
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今日の屋久島は、一日中、曇っていた。スタジオで写真を撮る時、人に照明を当てる。光が当たると、人の肌は美しくなる。更に強い光を当てると、まるで透き通るような肌に変わる。もっと強い光を当てると、どうなるだろうか。ディテールは飛び、光そのもののようになってしまう。これは光の強さ、波動の細やかさと似ている。この世の存在よりも、天国の存在の方が光が強い。天国の存在よりも、天使は更に光が強い。天使よりも、如来や菩薩は更に光が強い。地上から離れれば離れるほど、存在の光は強くなる。肉眼ではとても正視できない。たぶん眼は潰れてしまう。モグラが太陽の光に耐えられないように。光が一番暗いところは、地上だろうか。いや、地下はもっと暗いかもしれない。いずれにしても、極めて単純な構造になっている。光がだんだん弱くなる。そして、波動がだんだん遅くなる。人間よりも波動が遅くなると、植物になり、鉱物になる。それはエネルギーが凝縮されるプロセス。動きが鈍いということは、エネルギーが凝縮されて不活性化しているということ。水に熱を加えれば、エネルギーは活性化して水蒸気になる。液体から気体になると同時に拡散する。熱によって活性化され、凝縮から解放される。大宇宙の無限のエネルギーが、徐々に波動が落ち、凝縮され、形を取っていく。神々の意識となり、如来や菩薩の意識となり、天使の意識となり、やがて人間の意識となる。それは光が落ちていくプロセスであり、不自由になっていくプロセスであり、小さく固まっていくプロセスでもある。エネルギーは更に凝縮され、動物となり、植物となり、鉱物とになる。肉体人間になるということは、波動が落ちることであり、光が弱まることであり、物質化することでもある。だから、この世に生まれると、物質に溺れ、肉体に執着しても、誰も責めることはできない。光が弱いのだから。植物よりも少し波動が速いだけの肉体に入っているのだから。それでは今の現状は仕方がないのかと言うと、そうでもない。なぜなら、肉体がすべてではないから。肉体の中に、無限の可能性が宿っている。幽体、霊体、神体・・・そして、体ではない神そのもの。宇宙の本質が宿っている。その宇宙の本質を活性化させれば、肉体の中にいても無限の可能性が現実化する。霊としての本質が輝けば、肉体自体が変わっていく。光の肉体となる。内なる本質によって、その周りのものは変容していく。肉体も、幽体も、霊体も、神体も変わっていく。それらは器。器は、その中身によって変容する。肉体は、幽体を入れる器。幽体は、霊体を入れる器。霊体は、神体を入れる器。神体は、神を入れる器。神は、器ではない。宇宙の本質。魂も、また器。幽体や霊体や神体とは、また違った表現のエネルギー場。器とは、エネルギー場。肉体は、物質界というエネルギー場の乗り物。幽体は幽界の、霊体は霊界の、神体は神界の乗り物。それぞれの界に、それぞれの乗り物があるだけ。乗っているのは誰?乗っているのは、神。宇宙の本質。いのち。愛。光。呼び方は、いろいろある。その性質に応じて異なる呼び方をする。しかし、本質はひとつ。宇宙にひとつのもの。唯一絶対。宇宙とは、唯一絶対のものの光のバリエーション。波動の違い。壮大な宇宙の、ひとつの営み。今、私達は波動の遅い人間として存在している。しかし、裡には無限の可能性が宿っている。唯一絶対の宇宙の本質が宿っている。その本質をどれだけ輝かせるかで、波動が異なってくる。可能性としては、無限。不可能はない。不可能を存在させているのは、思い込みのみ。思い込みを外せば、不可能はない。なぜなら、本質は無限の存在だから。長年の人間的な思い込みを外し、これまでの人間の枠を超える時が近づいている。枠を超えること自体は、以前から可能だった。その証拠に、釈迦やキリストは従来の人間の枠を超えていた。しかし、一般の人が枠を超えるのは不可能だった。時代が、まだそこまで熟していなかった。しかし、時は満ちた。多くの人が変容する時が来た。従来の人間から、これまでの枠を超えた人間へ。意識の次元が変わる。波動が一段アップする。そういう時が来た。これまでの思い込みを手放し、新しい次元に飛翔する。意識を物質から解き放つ。自由の天地で輝く。そういう時がやって来た。裡に裡にフォーカスする。裡にこそ無限の可能性がある。外に目を向けても、物質次元を超えることはできない。内側にこそ、物質から飛翔するエネルギーが宿っている。意識の奥の奥の精妙なエネルギーを感じる。精妙で希薄なエネルギーの中に、無限の世界が広がっている。それは大気圏から大気圏外へ抜け出るようなもの。従来の地球人間から、宇宙人間へ変容する時。物質界から、非物質界へ。固定的な観念から、自由な意識へ。思い込みの塊から、思い込みを超えた世界へ。固体から液体へ。液体から気体へ。たぶん、固体から一気に気体へ変わるような変容の時期。凝縮度が薄れ、自由なエネルギー体に変わる時。これまでの意識の枠を取り払う。人間的な制限された意識を手放す。非物質的な、スピリチュアルな意識に目覚める。それも物質的な自己中心的なスピリチュアルではなく、非物質的な非自己的なスピリチュアルに。自己の成長という精神世界の呪縛を超えて、完全自由の地平へ。それは無限ということ。過去も未来も現在も、すべて含めた無限。無限の中で、人を生きる。人、人にあらず。人は、霊止(ひと)なり。霊(ひ)とは、ひとつのものであり、すべての源。それが多くの存在に別れ、なおかつ、ひとつとして存在している。その無限の存在が裡に宿る。それが人=霊止(ひと)。それが自覚できる次元へのシフト。物質人間から、霊止(ひと)への脱皮。あなたは、晴れやかに舞うことができるだろうか。飛翔の時は近づいている。『頑(かたく)なな 心はまさに 石頭 波動は遅く 固まっている』『いつまでも 自分流儀に こだわると 時代の流れに 取り残される』『外側に 意識が向くから 迷い出す 裡にしっかり 焦点合わせる』『内側に 無限の光 宿ること 一人一人が 思い出す時』『しなやかに 軽く楽しく さわやかに こだわりなくし 自由に生きる』『肉体を 超えて光と なる道は 裡なる光 思い出すこと』『霊止(ひと)として 生きるためには 内側に 意識を向けて 光強める』『人の世の あらゆることは 思い込み 自由の天地 無限あるのみ』これが521日目の心境です。
2006.06.06
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今日の屋久島は、昨夜来の雨が上がって、明るく曇っている。増水で太った落(おとす)の滝が、はっきりと山の中腹に見える。誰かが卵を立てる。それを見た人が、自分も立ててみる。ツルツルの机の上で卵が立っているのを見た人が、自分もツルツルの机の上で立ててみる。今度は卵が逆立ちしているのを見た人が、自分も逆さまに卵を立てる。卵が立っている写真が、知っているだけで、ぴあのさん、小犬のロンさん、優しい気持ち2005さん、沙羅樹さん、そして、えっちゃんのお友達のサイトに掲載されている。ここを合わせると六ヶ所のブログに一斉に載っている。挑戦して成功した人は、もっとたくさんいるだろう。まるで伝染病のようだ。これは何かに似ている。そう、百匹目のサル現象。これまで不可能と思われていたものが、誰かが始めると次々と伝染していく。それも意外と簡単にできてしまう。そういうエネルギー場ができるのだろうか。だから、これまでは難しかったことが、難なくできるようになるのだろうか。人類の集合意識の変化?少なくとも、この日記を読んでいる人にとっては、卵が立つことはもう非常識ではない。 今日の写真は、倒立卵のツーショット。これはかなり長く立っていた。3個目を倒立させようとして、途中で居眠りしてしまった。目が覚めた時も、まだ2個は逆立ちしたままだった。逆立ちさせようとすると、かなり意識が精妙になる。もう三次元を超えて、意識によって物質に影響が出るのがはっきりわかるレベルまで行く。3個目が途中で転んだ時、2個目も同時に転んだ。すると、1個目も直後に転んでしまった。それは突然、エネルギー場が消失したような感じだった。ぴあのさんの日記 に面白いことが書かれている。【それから 逆さたまご立てに挑戦!むむ~~~ これは・・・ ほんとうに立つのだろうか・・・ (不安がよぎる~~)いけない弱気になってはっ(>_
2006.06.05
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今日の屋久島は、明るい曇。雨の心配はなさそう。黒味岳の方は、かなり屋久島シャクナゲが咲いているらしい。行ってみたい気もするが、天気が・・・当分、曇と雨が続きそう。里は曇っていても、山は雨・・・昨日、日記を書き上げてから、また、なんとなく卵立てに挑戦した。昨日と同じように一個立った。もう一つ、今度は逆向きにチャレンジした。尖っている方を下にしても、バランスが取れれば立つような気がした。意外と簡単に立った。証拠写真を27枚撮った。でも、倒れる気配はまったくなかった。欲を出して3個目に挑戦した。3個目が転んだ時、逆立ちしていた卵も一緒に転んでしまった。ダルマさん状態で立っていた最初の一個は、ぜんぜん倒れる様子はなかった。今日はこれまで!という感じ。今日の成果は、逆立ち卵。ハイ、卵の倒立! [左手前の卵が逆立ち卵。右手奥の卵は昨日と同じダルマさん状態]昨夜、卵が立ったというメールが届いた。以前に何度か書き込みをしたことのあるYさんからだった。卵が三個ガラステーブルの上に立っている写真が貼付されていた。そのメールには・・・「思わず私も子供になってしまいました。嬉しい~♪嬉しいです。嬉しすぎです。こんなことが起きるなんてすごいです。信じれば出来るものなんですね!Kimiさん、どうもありがとうございました。これから頑張れそうな気がします。過去を乗り越えられる、そんな気がしてきました。本当にどうもありがとうございました!」卵が立ったことによって、自己信頼が増したようだ。卵の効用?いや、黄身の効用?それとも、茶々の効用?いずれにしても嬉しいメールではある。自分はダメだろうと頭から決めてかからずに挑戦してみる。ネガティブバージョンからポジティブバージョンに切り替えてみる。そうすれば結果が出る。結果が出れば、更に前向きになれる。好循環が始まる。彼女は、自己信頼のスタートラインに立ったところだろうか。これからは何事も一つ一つ丁寧にやっていくといい。人生は、質。けっして量ではない。いかに深く生きるかということ。いかに深く人生を味わうかということ。うまくいかなかったら、その原因を探る。そして、再度チャレンジする。精妙(こまやか)に生きる。けっして粗っぽく生きない。一つ一つのことに心を込めて大切に生きる。それが自己信頼へと繋がっていく。自己信頼と自信とは、少し違う。何が違うのだろうか。これはホームワークにしよう。自己信頼とは何かをしっかり理解するのにいい機会だろう。自信は、わかりやすい?自信は、自信ある?では、自己信頼は?言葉の定義の違いと言うことではなく、もっと本質的に見つめてほしい。自信という言葉は一般的。でも、自己信頼という言葉は、あまり一般化していない。その違いは何だろう。ヒントは、自信は、どこから来るのだろうか。自己信頼は、どこからやって来るだろうか。ゆっくり自分自身を見つめて答えてほしい。締切は、6月7日午前9時。BBSに書き込んでほしい。誰でも参加できる。但し、具体的に自分の言葉で書くのが条件。人から聞いたものや本で読んだものの引用では意味がない。答がほしい訳ではない。答だけなら、既にこちらに用意してある。それでは何の価値もない。ほしいのは結果ではなくて、プロセス。自分自身を見つめるプロセス。それが自身の理解へ導き、やがて自己信頼へと繋がっていく。それがホームワークの目的に他ならない。本当は、今日は自信と自己信頼の違い、自己信頼の深い意味について書くつもりだった。でも、書くことはグッと我慢しよう。教えてもらっても、あまり意味はない。自分で発見することにこそ喜びがある。そうでなければ、本当にわかったことにはならない。自分で見出す!人生とはそういうもの。そういう生き方をしていれば、何も怖いものはない。常に前向きにチャレンジできる。ハー、日記が簡単に終わってしまった。なんとなく肩すかし?これから水を汲みに行って、洗濯をして、掃除をする。梅雨の中の貴重な雨のない日だから・・・『人生は 量ではなくて 質なのだ 深く味わい 噛み締め生きる』『丁寧に 一つ一つを やる時に やがて開ける 次のステージ』『前向きに 感じたことを やってみる やれば新たな 展開開ける』『思い切り やって感じて 泣き笑い 死ぬまで続く チャレンジ人生』『心込め 魂込めて 生きる時 思いがけない 人生開く』これが519日目の心境です。
2006.06.04
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今日の屋久島は、重たい雲が懸かっている。山は半分しか見えない。しかし、海の方は明るい。5月30日のコメントに次のようなものがあった。「そうそう、明日は台湾では端午の節句です。で、この日の昼12時に生卵を用意し、平坦なところに立ててみてください。立つんです!!調子がよければ地面でも立ちます。線路の上でも立ちます。立つんです!卵が!!この日地球の引力が特別になるとか。何日間(ちゃちゃ記録は40時間)も立ってる卵もあります。ちゃちゃは3年前に試しました。面白いほど生卵がたちました!3個・・・皆様 ランチタイムに是非お試しあれ! 注:ゆで卵はダメですよ」このコメントを読んだカキコ常連のぴあのさんが、実際に試してみたらしい。その結果は・・・彼女の日記には、生卵が8個立っている写真が掲載されている。>>ぴあのさんの日記この他にも、同じカキコ仲間のえっちゃんも2個立てられたとか。こちらもコメントを読んだ時、試してみようかと思った。でも、生卵がなかった。普段、卵を食べることがないので、まったくストックがない。それでも、なんとなく立つだろうなとは思えた。ぴあのさんの写真を見て、自分でも立たせてみたくなった。端午の節句でなくても立つような気がした。それで、生卵を5個買ってきた。それが6月1日。夜、立てようと試みた。20分ぐらいで、なんとか4回立てられた。しかし、写真を撮ろうとすると倒れてしまう。その間、2~3秒。立つ瞬間というのは、何か次元が変わるような感じ。フアッと別世界へワープするような気分。なんとなく瞑想と似てないこともない。夜なので無理をしないで、次の日の楽しみとする。6月2日。日記を書き終わって、再挑戦。今度は・・・立った!5分ぐらいで立った。なんとなく立ってしまった感じ。急いでカメラを手に取る。雨が降っているので暗い!フラッシュを焚いて撮る。完璧に撮れた。まだ倒れない。もう少し落ち着いて撮る。それを14回繰り返しても倒れなかった。最後の方はカメラを机の上に置いて、マクロ(接写)で撮影。フラッシュもやめて、逆光のスローシャッターで撮った。それでも倒れないので、欲を出して机の後ろのイスをどけて、バックをスッキリさせようとした。イスを動かした時、一緒に卵も動いてしまった。シマッタ!しかし、後の祭り。再度チャレンジしたが、卵は再起不能だった。それでも立派な証拠写真は撮れた。イスを動かさなければ、当分立っていたことだろう。倒れそうな気配はまったくなかった。やった!ヤッタ!急いでぴあのさんに写真を送る。彼女から返事が来た。「すっごーーーーーい!立ってますね!!こんなつるつるのテーブルの上で立つのって難しいですよね。私、何度やってもダメでしたもの。」やったね!ぴあのさんを超えたぞ!数では負けたけど、質でオーバー!ヤッタ、ヤッタ!子供のように大喜び。* 幼児性丸出し? これもパーソナリティの一部? それとも、インナーチャイルド? まあ、人にはいろんな側面がある訳で・・・ これだけであれば問題だが、一応、自覚しているので・・・ なんとか許してもらえる? そう、この卵はテカテカの硬い机の上に立っている。どうだ!と言わんばかりに?意識的に硬い机の上でやってみた。ここでも立つような気がした。ここで立ったら疑いようがないと思った。完璧!パーフェクト!自信になる?そう、自己信頼が増した。自分が思ったとおりに実現した。思うだけでは弱い。実際に実現しないことには。理論だけでは理想論。現実化しないことには話にならない。そういう意味で、とても嬉しかった。日記に書いていることが、単なる理想論ではないということが証明されたような気がした。生卵と日記では、ぜんぜん関係がないように見える。ところが、共通するものがある。それは非常識ということだろうか。日記に書かれていることは、今の時点では常識とは言えない。生卵が立つことも、日本では常識にはなっていない。世界的に見ても常識とは言えないだろう。なぜなら、「コロンブスの卵」という諺(ことわざ)があるくらいだから。コロンブスの時代にも卵は立たないものと思われていたのだろうか。彼が卵のお尻を少し割って座らせたことが、諺として今も伝えられている。もし、その場に台湾の茶々さんがいたら、コロンブスの卵という諺はできなかったかもしれない。いずれにしても、社会通念では認められていないことを日記では書いている。しかし、卵は立った。ということは・・・時代はどちらに味方するだろうか。こちらに味方する!と、生卵は告げている。自己信頼というのは、すばらしい。それは子供の頃に親に信頼されて育つことによって育まれる。「できたじゃない!」「すごいじゃない!」と、褒められることによって、自己信頼は育つ。その自己信頼が、新しいことへチャレンジする勇気を人に与える。自己信頼がない人は、新しいことにチャレンジするのを躊躇する。いかに親から否定されて育った人が多いか。「またやったの!」「だから、あなたはダメなのよ!」そう言われて成長すれば、自己信頼は育ちようがない。育つのは、自己不信だけ。自分を信頼できない人のなんと多いことか。これまでイヤというほど見てきた。しかし、大人になってから、そんなことを言われても・・・確かにそうだ。もう手遅れだ。諦めるしかない!とは、言わない。手遅れでも対処の仕方はある。自己不信で潜在意識が満杯でも、救われる道は残っている。潜在意識の更に奥には、自己不信は微塵もない。自己不信があるのは、潜在意識まで。その奥は信頼するに足りる。潜在意識の奥には一点の曇もない世界が広がっている。光一元の世界が存在する。自己不信の入り込む余地はまったくない。そこにベースを置く。自己不信の塊(かたまり)である潜在意識にではなく、その奥の光の意識の方にグランディングする。 そうすれば自己不信は問題ではなくなる。今、子育てをしているお母さんは、心を込めて褒め育てをしてほしい。間違っても、自信を喪失させるようなネガティブな言葉を投げかけないでほしい。それは後々の自己不信に繋がる。但し、あまりエゴをくすぐり過ぎないように注意する必要もある。エゴへの自己信頼は、人を傲慢にする。それはやがて孤独や失望へと導く。子供のピュアーな部分を褒めるようにしよう。競争や比較ではなく、その子だけが持っている個性を褒めてあげよう。不幸にも子供時代に潜在意識に自己不信の種をたくさん播かれた人は、自分で対策を取るしかない。種はやがて芽を出し、大きくなる。芽が出た時に、刈り取るしかない。刈り取る方法は・・・ネガティブな思いが出て来た時に、ポジティブな言葉に転換する。意識してポジティブな言葉だけを使うようにする。ネガティブな言葉を一切使わない。ポジティブ、ポジティブ・・・すべてを肯定する。ありとあらゆる事象を肯定しまくる。すばらしい!すばらしい!何でもかんでも、すばらしい!一見ネガティブに見えることでも、すばらしい!ネガティブの芽を刈り取るチャンスだから、すばらしい!溜まっていたネガティブが解放されているのだから、すばらしい!これまで自分の中に入ったネガティブの言葉と同じくらいポジティブの言葉を入れる。 しかし、同じではプラス+マイナス=ゼロ。まだポジティブとはならない。ネガティブの何倍も何倍もポジティブを入れ続ける。それで真からポジティブとなる。そこまでやると、自己信頼が確立する。幼児期に確立できなかったものは、大人になってから確立するしかない。遅きに失することはない。気づいた時にやらなければ、死ぬまで自己不信のまま。それだけならいい。実際は、死んだ後まで自己不信が続く。それでは、また生まれ変わってくるしかない。手遅れということはない。気づいた時に始めるしかない。始めれば、必ず変わる。始めなければ、永遠に変わることはない。初めはゆるやか。ほとんど変化はないかもしれない。でも、やがて少しずつ変化の兆しが現れる。そのうちに変化に加速度がつく。必ずそうなる。もう一つのお薦めは、この日記を毎日読むこと。自画自賛であり、手前味噌だけれども、それでも効果がある。なぜなら、この日記は全肯定の立場から書かれているから。部分的に否定することはあっても、根底においては全肯定。それは一貫している。そういうものに毎日ふれることによって、しだいに自分の中の自己不信が薄れていく。 全肯定の光が潜在意識の中に蓄積される。やがて潜在意識の闇が消え始める。そのうちに、自己信頼の光に満たされる。別にこの日記を読んでもらっても一銭の得にもならない。この日記によって経済的メリットは何もない。だから薦めることができる。読む読まないは自由だけれども、もし自己不信地獄から脱却したかったら、読んだ方がいいだろう。毎日毎日、ポジティブな言葉を自分にかけてあげる。もうイヤになるくらいポジティブな言葉をあびる。そうすると、人生が変わるかもしれない。少なくとも自己不信は薄れていく。本当に自分の潜在意識を光で満たしたかったら、試してみる価値はある。もしそれをやるんだったら、「今日も光に満たされて、ありがとうございます!」と、完了形でやること。完了形と感謝こそが現実を変える。自分自身にグランディングすることが何よりも重要と言える。それも表面意識にではなく、深い意識に。自我にグランディングしても幸せにはなれない。自分の深い深い意識にグランディングして、初めて幸せはやって来る。無常の幸せがやって来る。自己不信の微塵もない完璧な自己信頼がやって来る。試してみる価値はあるだろう。『褒められて 信頼されて 育つ時 自己信頼は 揺らぐことなし』『叱られて ダメ!ダメ!ダメ!で 育つなら 自信喪失 不信の塊(かたまり)』『ネガティブが 出て来た時は 消える時 消えたところに ポジティブ入れる』『ネガティブが 出て来た時に また掴み 増幅させて また仕舞い込む』『人はみな いろんな側面 持っている それらすべてを 見守るしかない』『ポジティブも ネガティブもまた 見守って 見守る意識に フォーカス合わせる』『しっかりと 潜在意識の 奥にある 無限の光に 意識合わせる』これが518日目の心境です。
2006.06.03
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今日の屋久島は、朝から本格的に降っている。山は完全に見えない。海も見えない、ただ雨の音がものすごい。人類は思考パターンを変える必要があるようだ。何か気に入らないことがあると、怒る。あるいは、悲しむ。または、諦める。必要以上に恐れたり、心配したりする。終わってしまったことを、いつまでも悔やむ。自分の気に入らない現状を、暴力で解決しようとする。何か気に入らないことをされると、仕返しする。敵(かたき)討ちも、仇(あだ)討ちも、まだ美意識として残っている。元々は自分を守るというところから始まった、思考と行動のパターン。しかし、長い間に、それでは自分を守れなくなってしまった。逆に、自分を苦しめる結果になっている。エジプトやメソポタミアの時代から続いている人類のパターン。精神的には、人類はそれほど進歩していない。確かに科学や技術の面では格段の進歩を遂げた。しかし、こと精神の分野に限っては、いまだに争いや戦争から自由ではない。人類は、とても平和的な存在とは言えない。これまでの思考パターンを変更する。何か気にくわないことを言われても、即、反撃したり、落ち込んだりしない。まずは、相手の言いたいことを受けとめる。相手の言いたいことをよく理解して、冷静に対応する。相手の言いたいことがわからなければ、素直に質問する。自動的に、これまでのパターンで反応しない。相手の言いたいことをよく見極め、対処する。しっかり自分自身にグランディングして、対応する。すぐに反応することは、ほとんどグランディングしていないに等しい。自分自身と一緒にいないから、つい相手につられて反応してしまう。その結果、自分を見失うことになる。それは自分の反応パターンであると同時に、人類の反応パターンでもある。人類全体の集合意識から、反応パターンはやって来る。自分自身を通して、人類のパターンが反応する。心配、不安、恐怖、怒り、反撃、悲しみ、諦め、虚しさ・・・それらは人類に共通している。その人類全体のパターンを変える時に来ている。これまでと同じ反応をしていたのでは、人類は進化しない。アセンションなど、夢のまた夢。人類が人類自身を理解しないことには、何も始まらない。人類自身の思考パターンと行動パターンを。日本人と中国人、白人と黒人、スラブ系とラテン系、ユダヤ民族とアラブ民族・・・それぞれに違いはある。違いはあるけれども、共通点もある。目には目を、歯には歯を!コーランの教えは、アメリカやイスラエルでも実行されている。攻撃される前に攻撃する。先手必勝。不安や恐れが招く、戦争の災禍。それは人類に共通している。不安や恐れこそが、増え続ける軍備の元凶。自分の安全を確保しようとする思考がつくり出す無限地獄。武器商人の温床。そのプロセスを人類全体が理解し、乗り越える必要がある。と、一人叫んでも、何ほどの効果があるだろうか。とも思う。けれども、何も言わなければ、何も変わらない。気づいた人から始めるしかない。百匹目のサルをめざして。この日記は毎日400人前後の人に読まれている。全員が変われば、ゆうに百匹を超える・・・人類の意識は繋がっている。地球人類としての共通無意識がある。一人一人が変わることによって、人類全体が変わる。まずは自分自身の思考パターンや行動パターンを見直す。どういうパターンで思考し、行動しているかを、よーく見つめてみる。自分自身を見守り、自分のパターンを理解する。そして、必要のないパターンは、改める。まったく必要がなければ、手放す。手放して、新しい自由の空間へ向かう。無限に広がる空間。狭い地球に限定された意識に執着することはない。もっと広い宇宙的な意識を持ってもいい。ゆっくり意識を宇宙に解き放つ。もうこれまでの地球的パターンに囚われている時代ではない。古いパターンを手放し、自由に生きる時代。のびのびと大らかに宇宙に羽ばたく。そのような未来が、もう目の前に迫っている。古いパターンを脱ぎ捨て、新しい自由な衣に着替える。殻を着て自分を守る時代は終わった。カニでさえ脱皮する。サナギでさえ蝶になる。人類にできないことはないだろう。古い思考パターンから、自由の意識へ。それはこれを読んでいる一人一人に懸かっている。『反応に 振り回されて 見失う 同じパターン 繰り返さない』『我を張って 自分を守り こだわって さびしくなって 救い求める』『恐れから 身を守るため 攻撃し 行き着く先は 自他を滅ぼす』『これまでの 文化・文明 見直して まったく異なる 生き方探る』『人類の 思考パターン 改めて 新たな生き方 模索する時』『動物の 本能から 受け継いだ 怒りや恐れ 超えてゆく時』『争いの 奥に潜んだ 悲しみを 理解するしか 超える道なし』『冷静に 自分自身に フォーカスし 一つ一つに 対処していく』これが517日目の心境です。
2006.06.02
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今日の屋久島は、天気予報が外れて曇になっている。予報では雨だった。昨日の屋久島水晶について、いろいろコメントがあった。そこで、少し水晶についてネットで調べてみた。中国では、水が結晶したものと信じられて「水晶」という名が付いた。欧州では、スイスの氷河に覆われた地域から発見されたので、氷が化石化したものと信じられて「クリスタル」という名前になった。日本では、奈良時代には「水精」と呼ばれた。水のエッセンスとして、魂を洗い清める石とされたようだ。仏教では「玻璃(はり)」と呼ばれて珍重されたともある。基本的には石英で、結晶度が高いものが水晶と呼ばれるらしい。生成過程は科学的には確定していないが、人工水晶の成長プロセスから、高温・高圧で成長するらしいことがわかっている。人工水晶の場合は、400度、1000気圧で製造する。天然水晶は、高温・高圧の空洞の中で成長するようだ。実際、水晶の生えているところを見ると、空洞になっている。空洞に両側から生えている。水晶を売っているお店に、アメジストの大きなカペラ(アメジスト・ドーム=晶洞)が置いてあるところがある。(屋久島のお店にもある)それがまさに空洞の中で成長した水晶の原型という感じ。水晶は数千年から数億年の歳月をかけて成長する。地表に出ているものは、既に成長は止まっている。地底深くの高温・高圧で成長するのだ。そういう訳で、一昨日取ってきた水晶は、これ以上成長することはない。小さくても完成品なのだ。ヒマラヤやアルプスでは、今も手堀で水晶が発掘されている。3000m以上の高山なので、常に危険が付きまとう。スイスには「水晶未亡人」という言葉さえあるくらいだ。今回、屋久島の水晶を取ってみて、その危険度がほんの少しわかった気がする。世界最大の水晶の産地であるブラジルでは、手堀もあるけれども、大手ではダイナマイトで爆破する。それをいろいろ加工するようだ。鉄やアルミや金や銅など、日常生活に見られる金属は大規模に掘り出されている。石油や天然ガスに至っては、海底のものまで掘り出している。それは自然破壊なのだろうか。それとも文明の発展に必要なものなのだろうか。昔は、砂金や宝石類も、自然にあるものを拾う程度だった。それが山や地底を手で掘るようになり、最近はダイナマイトで爆破するようにまでなった。動物愛護のために毛皮を着ることを拒否する人の話はよく聞くけれども、自然保護のために宝石類を身につけることを拒否する人の話は聞いたことがない。どこまでが自然保護で、どこからが自然破壊なのだろうか。山と共に暮らす民は、山のものを根こそぎ持ってくるということはしない。また来年、山のものが再生できるように、ある程度は残しておく。魚もほどほどに捕っていれば、いつまでも食べられる。しかし、ひとたび取り尽くせば種が絶えてしまう。自宅の周りは野原が広がっている。たくさんの花が咲いている。多少のものを自宅に持ってきても、来年もまた同じように花は咲く。実際、1mぐらいの木を掘り出して自宅に植え替える人も見かける。神棚や仏壇に活ける花や葉を取っている人もいる。しかし、地元の人が日常生活のために取る分には、それほど問題とはならない。ところが、屋久島の山の方のラン系の花は乱獲されてしまったようだ。それは高く売れるので、誰かが根こそぎ持っていってしまった。象牙やサイの角が高く売れるために、殺されてしまうのと同じ状況。高山植物も、地元の人が自宅に植えるために少し持ち出す分には何も問題はない。ところが、観光客がこれをやり出すと、たちまち根絶やしになってしまう。商業ベースになっても絶滅する。自然破壊を厳密に言い出すと、道路一本造ることはできなくなる。家を建てるために木を切ることもできず、畑として開墾することもできない。しかし、人類の歴史は自然破壊の歴史とも言える。自然を壊し都市を建設してきた。もう一度、すべてを根本的に見直す必要があるのかもしれない。どこまでは許されて、どこからは許されないのか。自然が持つ循環や再生能力の範囲内であれば、自然からいただくことは許されるような気がする。しかし、一旦破壊してしまえば二度と再生しないものについては、慎重に見極める必要があるだろう。ホピの予言で有名なアメリカインディアンのホピ族の人たちは、原子力発電に使うウラン鉱を掘り出すために土地を追われた。それもまた予言に書かれていたようだ。ウランを掘り出すことによって土地のバランスが狂うらしい。過度に鉱物を掘りまくることは、地球に何らかの影響があるようだ。地上に露出しているもの、地上に落ちているものは、それほど問題とはならないだろう。しかし、地球深くに眠っているものについては、慎重な検討が必要なのかもしれない。地球の再生能力と循環力をよく見極める必要がある。地球の生態系を乱さないように、地球と調和して生きる必要がある。地球と共に生きる。それがこれからの基本的な生き方となる。しかし、まだまだ試行錯誤が続く。人と人との調和。人と動物との調和。人と植物との調和。人と鉱物との調和。そして、人と地球との調和。自分の肉体を安全に維持する段階から、地球と調和して生きる段階へ。人類進化のプロセスは続く。すべてのものとの調和。それは公式があるのではなく、現実の中で手探りで発見していくしかない。自然を破壊しないように、自然の恵みを大切に生かす。その調和とバランス。それは人生を生きることと何ら変わらない。綱渡り!人生は常に綱渡り。常に微妙なバランスを取って生きることが求められる。何も固定していない。すべては生きている。生きているから無常。常に変化しているから、人生はサーフィン。波乗りゲーム。自然の波に乗れるだろうか。地球の波に乗れるだろうか。宇宙の波に乗れるだろうか。そして、時代の波に乗れるだろうか。今という時代の流れに・・・『キラキラと 光る水晶 ながめれば 幾千万の 時の結晶』『水の精 氷の化石 水晶は 魂浄め 玻璃(はり)と呼ばれた』『再生や 循環できる 能力を 超えて自然を 収奪しない』『固まらず 常に調和と バランスを 求め求めて 生きる毎日』『固定した ものは一つも ありはせぬ 生きて動いて 波乗りゲーム』『今という 時代の流れ 感じつつ 人や自然と 調和して生きる』これが516日目の心境です。* 二番目の和歌は、Bear Hug Stonesの玻璃さんへのプレゼントにしようかな。
2006.06.01
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