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今日の屋久島は、暗く曇っている。ここのところスッキリしない天気が続いている。朝、海の音と船の音がしていた。風が海から吹いていた。大きな貨物船がゆっくり航行していた。昨日、WOWOWで「植村直己物語」という映画を見た。美しい映像が印象的だった。ああいうのを見ると、やはり行ってみたくなる。特に、ヒマラヤがすばらしかった。確かに神々の住む山。屋久島もそうだが、ちょっとスケールが違う。彼は明治大学に入ってから登山を始めたらしい。最初からバリバリのクライマーではなかった。大学を卒業しても就職口が見つからないほどの成績。やむなく単独でアメリカへ行き、冒険人生が始まる。その後、スイスのヒュッテで3年間のアルバイト暮らし。その間に、日本人で初めてエベレスト登頂成功。その後は、世界で初めて五大陸の最高峰を踏破。それから、北極圏を犬ぞりで単独旅行。世界的な冒険家となるが、冬のマッキンレーで初の単独登山の記録を作った後、消息を絶つ。ヨーロッパのモンブラン、アフリカのキリマンジェロ、北米のマッキンレー、南米のアコンカグア、そして、アジアのエベレスト。最高峰は、それぞれに美しかった。体を鍛えれば、エベレスト以外は登れそうな気がする。エベレストの無酸素単独登頂は無理だろう。あんな重装備では登る気にもならない。軽やかに普段着で登りたい。そのためには・・・やはり、ワープするしかない。通常の登山では、登り口に辿り着くまでに多額の金銭と時間を要してしまう。飛行機に何時間も乗るのは、もうゴメンだ。出入国の煩雑さも、行く気を削(そ)いでしまう。それでもヒマラヤだけは、そのすべてを負担しても行ってもいいと思う。もちろん、エベレストへ登ったりはしない。3000mあたりのトレッキング。それだったら、しばらく滞在してもいいと思う。但し、今はネパールの政情が不安定なので、もう少し落ち着く必要があるだろう。時代錯誤の王様が、まだ絶対王制を維持しようとしている。なんとも嘆かわしい限りなのだ・・・世界中の山へ行くには、やはり、食事を減らし、光で生きるようになる必要がありそうだ。軽やかにワープして行きたい。とてもではないが、今の飛行機に乗る気はしない。UFOなら乗ってもいいが・・・最近、NHKのドラマの「氷壁」でも美しいヒマラヤ、特にK2を映し出していた。昨夜の映画も美しかった。やはり、山は美しい。まさに息を呑むような美しさ。ただ見ているだけで、ピュアーな気分になれる。人は一歩一歩、山へ登ろうとする。自分の足で一歩一歩。それは、すばらしい!8848mのエベレストでさえ、登ってしまう。それは、この世の人生に似ている。人生は重き荷を負うて行くがごとし・・・非苦のカルマを背負い歩く人生。まさに山登りそのもの。重たく辛い一生。手探りで歩む百年足らず。その中で悲喜交々(こもごも)の人生模様が展開する。それを宇宙空間から見れば、まるでアリの歩みのようだ。美しく輝く地球の上に這いつくばって、遅々とした人生を過ごしているように見える。しかし、その人間ドラマの渦の中に入ってみると、一喜一憂・喜怒哀楽の、まさに小説のような人生が繰り広げられている。その中で、人は学び、成長し、自分を表現している。アリのような歩みではあっても、宇宙で唯一の自分を表現しようとしている。人はなぜ、このような非苦の巷で暮らしているのだろうか。人はなぜ、地獄のような社会をつくっているのだろうか。憎み合い、争い合い、殺し合う。文明を造っては破壊し、破壊しては建設する。いったい人類は何をやっているのだろうか。何のために、こんなにも苦しむのだろうか。何のために、こんなにも悲しむのだろうか。人は、苦しみや悲しみよりも更に尊いものを体験するために、非苦を経験しているのだろうか。はたして、そういうものがあるのだろうか。人は本当に非苦を乗り越えることができるのだろうか。悲しみの裏側に、慈しみがある。悲しみと同時に、慈しみがある。それを慈悲と言う。愛よりも更に深い愛。悲しみをも癒す愛。すべてを包み、すべてを癒す愛。何もすることなく、遠くから見守り続けている愛。直接人生に介入することなく、ただ包み込んでいる愛。共に悲しみ、共に苦しみ、すべてを見守っている愛。そういう愛を超えた愛が生まれるために、人は非苦の巷に住んでいるのだろうか。人の中に非苦を超えるものが芽生えるために、非苦を体験しているのだろうか。非苦を体験し、非苦を超え、非苦の彼方へ行くために、人は非苦の海で生きているのだろうか。非苦があることによってのみ生まれる慈悲を求めて、人は非苦の海を彷徨(さまよ)っているのだろうか。非苦と共にある時にのみ、人はそれがわかる。非苦から逃げていては、非苦の意味はわからない。非苦と共にある時にのみ、非苦の深さがわかる。人類の非苦は、慈しみによって見守られている。人類の非苦を、無上の慈しみが包み込んでいる。非苦の巷で迷う一人一人を、慈しみは見放してはいない。懐(ふところ)深く抱きしめ、黙って涙している。無始無終の愛。愛を超えた愛が、静かに見守っている。愛が昇華された慈悲という名の無上の愛が、無条件に包み込んでいる。慈悲に至る道。非苦を超え、慈悲に至る道。目に見えない慈悲に包まれ、人は非苦の海を泳いでいる。地球という愛の星は、慈母観音の掌(てのひら)の上で青く輝いている。『悲しみを 超えて見守る 慈しみ 悲しみあれば 慈しみもある』『悲しみの なかに溢れる 慈しみ 悲しみ通し 地上を満たす』『悲しみの 涙の海と ある時に 悲しみ変じ 慈しみとなる』これが423日目の心境です。
2006.02.28
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今日の屋久島は、曇。朝、遠くでウグイスがホーホケキョと一声鳴いた。気がつくと、他の鳥たちも軽やかに囀(さえず)っていた。屋久島は、もうすっかり早春。昨夜、「ハウルの動く城」という映画を見た。昨年のレンタルDVD貸し出しNo.1の作品。声の出演は、倍賞千恵子と木村拓哉とあった。しかし、それにしてはハウル役の男性の声が低すぎた。木村拓哉は、いつからあんなに低い声になったのだろう?もっと甘い声のはずでは・・・しばらく疑問の中にいて、ふと気づいた。声は英語で聞いていた。あの声は木村拓哉の声ではなかったのだ。頭、大丈夫だろうか・・・この作品は、完全に右脳系の映画。たぶん、宮崎アニメは、ほとんどが右脳派映画だろう。見ているのは、子供たちと女性層。サラリーマンは、あまり見ていないだろう。子供たちや女性は、右脳派が多い。逆に、社会の第一線で働いている男たちは、左脳派が圧倒的。右脳の世界は、自由自在。時間も空間も飛び越えてしまう。論理も何もあったものではない。ファンタジーやポエムの領域。それでは現実社会は動かせないと男どもは言うかもしれない。ところが・・・そうとも限らないのだ。天才と呼ばれるような人は、たいていは右脳派。左脳では飛躍は期待できないのだ。アインシュタインも明らかに右脳派。もちろん、左脳も冴え渡っていた。しかし、相対性理論などというものは、けっして左脳からは生まれない。右脳のインスピレーションからやって来る。但し、右脳だけでは、これを理論化するのは難しい。右脳も左脳も両方が活性化している必要がある。エジソンは、発明は99%の努力と1%のインスピレーションと言った。実験を何度も何度も繰り返すのは、左脳。それだけでは発明・発見は生まれない。やはり、最後は右脳のインスピレーションが決め手となる。しかし、それだけでは発明・発見とはならない。それを理論化し、現実化するのには、また左脳が必要となる。結局、右脳と左脳の両方がないと、今の社会は成り立たないのだ。宮崎アニメの「もののけ姫」は、屋久島や出雲がモデルになっている。それらの地は、縄文=国津神系のエネルギー場。ムーの世界=右脳ワールド。長い間、封じ込められていた世界。宮崎アニメは、そこに光を当て、それらを甦らせようとしている。「ハリーポッター」や「ロード・オブ・ザ・リング」などのファンタジー映画の世界的大ヒットは、これまで地下に封じられていた魔法などの右脳系のエネルギーが復活しようとしている兆候。これまでは、天孫降臨の天津神系の時代だった。つまり、左脳=アトランティス系のエネルギーだった。これからは、それが右脳系に変わる?というわけではない。右脳と左脳が統合される。国津神系と天津神系の和解。ムーとアトランティスの融合。スピリチュアルと科学の調和。つまり、抱き参らせ。大和の新しい時代が開く。個々バラバラに生きれば、この世は乱れる。しかし、全体主義では、自由がない。個々が自由に生き、かつ、調和している。そういう状態が求められている。それには、個であると同時に全体である必要がある。個として個々の生を十分に生き切る。多様性の宇宙の創造を楽しむ。しかし、それだけでは足りない。それだけでは、今の社会と変わらない。お互いの個性がぶつかり合い、混乱と争いの巷になるのは目に見えている。全体としてのつながりが必要なのだ。宇宙はひとつであるという自覚。その自覚を踏まえた上での個の開花。それなしでは、また非苦の巷となるだけ。発明・発見に右脳と左脳が必要なように、実際の生においても両方の調和が必要なのだ。全体の中で個を生きる。空の中で色を生きる。それによってのみ、個々に囚われない生が可能となる。右脳の統合性の中で、左脳の多様性を生きる。個々の現象に囚われないで、宇宙に展開する変化を楽しむ。宇宙と共に今を生きる。大きな宇宙に見守られ、個としての肉体の生を楽しむ。永遠の中で、瞬間を楽しむ。天に抱かれて、地を楽しむ。人は、個であり全体であり、そのすべてである。人は、色であり空であり、そのすべてである。人は、相対であり絶対であり、そのすべてである。人は、瞬間であり永遠であり、そのすべてである。人は、デジタルでありアナログであり、そのすべてである。人は、左脳であり右脳であり、そのすべてである。人は、一つでありひとつであり、そのすべてである。男となり女となり、王侯貴族となり乞食となり、支配者となり奴隷となり、殺し殺され、愛し愛され・・・宇宙という器の中で、人は様々に演じ、楽しみ、生きてきた。もうそろそろ、その仕組みに気づき、新しいステージに移ってもいい頃かもしれない。永遠の中で瞬間を生き、全体の中で個を生きる。空に包まれて色を楽しみ、ひとつの中で一つを楽しむ。ゆっくりと、自分自身の深いところと共に、今の現実を生きる。『漆黒の 宇宙(やみ)に抱かれて 星々は 永久(とわ)のいのちを 刻々に燃やす』『永遠の いのち溢れて 瞬間の 生きとし生ける 煌(きら)めきとなる』これが422日目の心境です。
2006.02.27
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今日の屋久島は、嵐の後の静けさ。昨夜は一晩中、台風並の風と雨。久しぶりに大荒れだった。今朝、スズメが三羽、庭で餌を啄(ついば)んでいた。庭に餌があるの?昨夜の雨で餌が飛んできた?ゆっくり鳥たちの動きを追う。双眼鏡を持ち出してアップで見る。美しい!スズメって、こんなに美しかった?目の上と下に大きく白い線が入っている。これって本当にスズメ?これまでスズメのアップなど見たことがないので自信が揺らぐ。羽は確かにスズメに見えるのだが・・・屋久島の野鳥ガイドという小冊子で調べてみる。全体的にはスズメだが、やはり顔が違う。こんな種類のスズメもいるのだろうか。スズメにもいろんな顔がある?これから少し注意して見ることにしよう。双眼鏡で見てみて、バードウォッチングする人の気持がわかる気がした。本当に美しい。顔も羽も芸術的。ただ見ているだけで、うっとりしてしまう。これから、いろんな鳥が鳴き出す季節。春はやはり鳥の声がないと春らしくない。軽やかな鳥の声と、やわらかな春の日差しがよく似合う。映画館も劇場もない屋久島だが、自然だけはどこよりも豊か。しかも、タダ。所得の少ない屋久島向き。美術館に行っても、動かないものが並んでいるだけ。映画館へ行っても、平面の上に画像が映るだけ。しかし、自然は立体ムービー。刻々に変わる生きもの。これ以上のものは、どこにもないだろう。だからこそ、屋久島に住んでいる。鳥たちをカメラで写そうとしたが、遠すぎて無理だった。しかも、暗くてはっきりしない。ところが、双眼鏡ではクリアーに見える。倍率は8倍程度だが、ものすごく明るい。さすが東京のヨドバシカメラで数ある双眼鏡の中から薦められただけのことはある。極めてクリアーなNikon製。本当は山へ持っていくために購入したのだが、山へ持参したことはない。重たいのはカメラだけで十分?地球の地表と電離層との間は共振回路になっているらしい。これを最初に発見したのは、テスラコイルで有名なニコラス・テスラ。その共振周波数を正確に実測した人が、ドイツの物理学者シューマン。結果は、7.8ヘルツ。これはアルファー波と同じ。それ以来、この地球の波動を、彼の名に因(ちな)んでシューマン共振波と呼ぶようになった。本来、地表はアルファー波で振動している。それによって人はリラックスして生きれるようになっている。すごい!地球は本来、アルファー波状態。地上天国?ところが・・・現実は有害電磁波が飛び交う地獄?有害電磁波によって、心身の波動が狂ってしまっているのが現状。この自然に恵まれた屋久島でさえ、パソコンの前に座れば有害電磁波の雨霰(あられ)。炊飯器もテレビもDVDレコーダーも、みんな有害電磁波をたっぷり出してくれる。特にパソコンと炊飯器がひどい。敏感な人は長い時間パソコンをやることはできない。すぐに気分が悪くなってしまう。この有害電磁波は、1989年に『K-Communication』というクリシュナムルティ関係の小冊子をワープロで作り始めて以来の懸案事項だった。それが昨年の秋の終わり頃から解消した。なぜ?それは有害電磁波を中和するソフトをパソコンにインストールしたから。今ではパソコンを起動する時は、必ずそのソフトも同時に稼働させている。それによって、これまでのような心身への負担がなくなった気がする。このソフトは、『シューマン共振波発生CD』本来地表を満たしているはずのシューマン共振波を発生させるCD。このCDが優れているのは、固定したシューマン波を出すのではない点。その場所の実際のシューマン波を測定し、パソコンのCPUで増幅する。シューマン波は7~8ヘルツというのは確かだが、場所によって微妙に違うらしい。 一般的には固定波を出す機械がほとんど。市販されているアルファー波発生装置とかも、みな固定波。シューマン共振波は、睡眠周期、月経周期、体内時計(ホルモン分泌)とも関係があり、細胞の免疫力を向上させることも科学的な実験から実証されている。鉄筋コンクリートなどの建物は自然界のシューマン共振波が届きにくく、生体の抵抗力が落ち、疲れやすくなる。都会のアスファルトジャングルも、地球の自然なアルファー波をシャットアウトする。NASAのスペースシャトルにもシューマン共振波発生装置が搭載されているとのこと。自然が持つ自然の波動。地球の固有の波動。それがシューマン共振波。本来、人はその波動によって健康的に過ごせるようになっていた。自然と共に生きれば健康なのが当たり前だった。ところが、科学技術の進歩によって思いもかけぬ有害電磁波が飛び交うことになってしまった。核兵器や原子力発電など、まだまだ人類の科学技術は未熟。今や世界中の人が使うようになったパソコンは、更に改良の余地がある。パソコンを使えば使うほど健康になるようなものになってほしい。そういうパソコンをずっと求めていたが、このCDはその希望をかなり満たしてくれた。なにしろ、日記を書くために、連日、長時間パソコンに向かう。下手をすると、明るいうちは一日中パソコンがオンの場合もある。これまではトルマリンの原石や備長炭、ありとあらゆる電磁波予防グッツをパソコンの周囲に並べていた。それでもかなりきつかった。今では、そういうグッツは何も置いていない。ただ、パソコンが起動している間は、常にシューマン共振波発生プログラムが働いている。このソフトの中にBGMが15曲ぐらい入っている。チベットのマントラまで入っている。それが意外といい。聞けば聞くほど、いい。今では、いつもそれを聞きながらパソコン作業をしている。このCDが来るまでは、パソコン本体の作動音が気になって、いつもステレオで曲を流していた。でも、これが来てからはステレオをつける機会がめっきり減った。このCDにはシューマン共振波だけでなく、他にもいろんなソフトが組み込まれている。1、パソコンが出す有害電磁波を、超高周波(10~70メガヘルツ)の逆位相の波形を発生させることによって中和、無害化するUHFハーモニクスという機能。2、チベットのラマ教徒が用いるマニ車をコンピューター化して、登録されている人に世界の神聖な祈りのエネルギーを届けるプレイヤーホイールという機能。3、肯定的なエネルギーを送ることのできるラジオニクスアクティビティという機能。4、意識した対象者に必要なレメディーのエネルギーを送るサイバネティックループという機能。5、ウイルヘルム・ライヒ博士が発見したオルゴンエネルギーを発生するオルゴンフィールドという機能。オルゴンエネルギーとは、空間に普遍的に満ちている細胞を活性化させ健康を維持するエネルギー。このソフトを稼働させることで半径100mのフィールドがオルゴンエネルギーに満たされる。植物の生育に有効なため、田畑への活用が推奨されている。6、時空間の12次元に及ぶ歪みを調整するアジャスト12ステップという機能。7、パソコン周辺の否定的なエネルギーの存在をチェックするチェックフォーネガティブエナジーという機能。8、否定的エネルギーが検知された時に、その場を浄化するために使うクリーンズエンティティという機能。これらの機能のいくつかを試してみたが、時空間の12次元の歪みを調整するというのが面白かった。確かに何かが作用しているのがわかる。そして、しばらくするとスッキリする。具体的にはわからないが、何かが働いているのは間違いない。普段はシューマン共振波発生装置とBGMを使用しているだけで、他のものは使っていない。このソフトを稼働させれば、半径10mがシューマン共振波で満たされる。狭い自宅は、これでほぼカバーされてしまう。炊飯器もテレビもDVDレコーダーも安心して使える。極めてユニークなソフト。価格は、25000円+税。残念なことに、コピーはできない。電話で乱数表みたいな数字を聞いて、入力する必要がある。それは最初の一回しか教えてくれない。たぶん、その数字はその都度変わるので、各人に一つのソフトが必要となる。別にこのCDを推奨しているわけでも、宣伝を頼まれたわけでもないので、発売元は記さない。関心のある方は、ネットで調べれば出てくるだろう。元々はイギリスで制作されたもの。日本の代理店から発売されている。パソコンから離れて自然の中に行けば、そこはシューマン共振波=アルファー波の世界。心安らぐ自然の天国。自然の中にある時、人はリラックスする。それは地球が発信するシューマン共振波に満たされるから。自然は人が自然でいられるようにできている。自然の中に入ることによって、人は本来の自然な状態に戻る。だからこそのナチュラル・ヒーリング。自然の宝庫。最高の自然が残っているところ。それが屋久島。CDの宣伝ではなく、屋久島ナチュラルヒーリングの宣伝?でもないが、事実として自然はすばらしい。自然の中で、人は自然に還る!(新しいキャッチコピーにしようかな?)『人はみな 自然の中に 抱かれれば 何をせずとも 自然に還る』『本来は すべてのものが 住みやすく やすらぐように できているもの』『何よりも 自然は大きい おおらかに すべてを包み 見守っている』『大いなる 自然に抱かれ 育まれ 自然と共に 生きる喜び』これが421日目の心境です。
2006.02.26
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今日の屋久島は、今にも雨が降り出しそうな天気。山の方は厚い雲に覆われている。でも、気温は連日15~20度あるので、ぜんぜん寒くはない。昨夜、DVDで日本映画を見た。タイトルは、「火宅の人」作家、壇一雄の私小説の映画化。娘の壇ふみも特別出演していた。妻と5人の子供を残して、愛人と同棲生活。その愛人と喧嘩をして、あてのない旅へ。途中から別の女性と一緒に旅をすることに。予告編のキャッチコピーが、旅と女を愛した人生。3ヶ月間、日本中を旅しながら、その様子を原稿用紙に書いて発表。映画の中に太宰治や中原中也も出てきた。妻をいしだあゆみ、愛人を原田美枝子、旅を一緒にする女を松坂慶子が演じていた。松坂慶子だけが、いやに若々しかった。旅と女・・・悪くはないなと思う。なんとなく憧れるものがないでもないが・・・今日はパソコンをやりながら珍しくCDを聴いている。昨日の女子フィギアの音楽が残っていて、ピアノ曲を聴いている。音楽というのは不思議なもので、万国共通。言葉は国や地域によって異なるのに、音楽だけはどこでも通用する。しかも、時代を超えて愛される。言葉は時代と共に変わる。もちろん、流行の音楽は時代と共に変わるが、クラシックというのが残っている。言葉も古典文学として残っているが、話し言葉は時代と共に変わっていく。その結果、消えていく言語もある。録音機器が発達する前の言葉の響きは、既に失われたものも多い。平安時代の言葉は、わずかに宮中や公家の家系の儀式に残されているだけ。これが縄文時代や弥生時代になると、もうまったく残ってはいない。ただ、神道の祝詞の中に、わずかに残っているのかもしれない。最近の映画やテレビは、言葉の使い方が極めていい加減。時代劇の中で、平気で現代語が喋られる。時代考証がまったくなっていない。古い日本の言葉が失われつつある。そういう意味では、能や歌舞伎は貴重な文化遺産と言える。古い言葉の響きを今に残している。浄瑠璃や落語なども、江戸時代の言い回しが残っている。それらの文化遺産としての価値は計り知れない。そういう言語表現は、世界中の人に理解してもらうのは限界がある。言葉が違うために。しかし、音楽にはその壁がない。それは右脳だからだろうか。右脳は直接わかってしまう世界。説明はいらない。だから、万国共通。音楽はすばらしい。でも、同じ曲を聴いて、みんながみな同じ印象を持つかというと、そうとも限らない。共通点もあるが、異なるところもある。響きとしては共通に伝わっていても、受け止め方は微妙に違う。右脳で受けとめ、左脳で判断する。そこで違いが出てくる。右脳で受けとめるだけであれば、記憶と同じで100%同じ。聴いているだけであれば右脳が活動しているだけ。ところが、その感想となると、左脳が働く。そこで受け止め方の違いが生じてしまう。右脳には事実が入るけれども、左脳で言語化する時に解釈され判断されて、個人的な感想となる。それは視覚についても同じ。目に映る事実が言語化される時、思考の働きによって捉え方が異なってくる。黙って見ている限りは、事実そのもの。俳句や短歌は、自分の感動を伝える手段。感動をそのままは伝えられない。言葉に翻訳することによって、初めて他の人にも伝えることができる。言葉を介することによって、初めて共感が生まれる。誤解や錯覚を生む可能性もあるが、感動を共有できる可能性も秘めている。音楽も、自分の感動を伝える一つの方法。言葉を介さない分だけダイレクトに伝わる。しかし、ダイレクトに響くけれども、受けとめられ方は言語を解するよりも曖昧になる。科学のように分析的で厳密なことは伝えにくい。音楽は、デジタルではなくて、アナログ。全体の印象を伝えるもの。分析的なものではない。音楽は、全体の印象を感じ、右脳でダイレクトに感じればいいのだろう。それを共有したい時にだけ、左脳を働かせ言語化すればいい。基本的には音楽は黙って聴くもののようだ。音を楽しむと書いて、音楽。純粋に響きを楽しめばいい。音は波動そのもの。音楽は、波動の高低、長短、強弱の組み合わせ。そのように分解すれば、デジタルになる。左脳=分析の世界。右脳はアナログ。一連の流れ=統合の世界。人体は、個々の細胞の合体。個々の細胞や各器官は、それぞれの働きをしている。しかし、それらは人体という一つの生命体として機能している。デジタルの合体がアナログ。分析と統合。宇宙の数え切れないほどの銀河。太陽系の惑星と衛星。それらはバラバラのように見えて、有機的に連動している。それは細胞や器官と人体の関係に似ている。個々の生命と宇宙としての一つの生命。多様性と統合性。デジタルとアナログ。左脳と右脳。色と空。オーケストラもまた、それらと似ている。個々の楽器がある。個々のパートがある。でも、全体として一つの曲を奏(かな)でている。多様性と統合性。デジタルとアナログ。左脳と右脳。色と空。一人一人の人間と宇宙の関係も、またそれらと似ている。個々の人間は多様性であり、色。宇宙は統合性であり、空。人はデジタルであり左脳であり、宇宙はアナログであり右脳。星の音楽があり、銀河の音楽があり、宇宙の音楽がある。それぞれが響きを出し、響き合っている。それらが一つの宇宙のハーモニーを創り出している。一人一人が星であり、響きであり、音楽である。それぞれがそれぞれの音楽を奏でている。それを右脳で聴けば、感動する。それを左脳で表現すれば、共感できる。一個の細胞から全宇宙まで、まるで波紋のように多層的に広がっている。分離と統合の何層にも渡る構造によって宇宙は成り立っている。宇宙の多様性が、宇宙の統合性の中で息づいている。ひとついのちが無数のいのちとなりひとつの音が無数の音となりひとつの光が無数の光となるひとつの空の中で無数の色が踊るまるで次々と花が開くように限りない色の宇宙が展開するひとつのいのちの限りない変化変滅まるで星の煌めきのような宇宙のいのち多様性と統合性の中に存在する宇宙一人の中に多様性があり統合性がある一人の中に色があり空がある一人の中に個があり全体がある人は目眩(めくるめ)くような色の宇宙でありひとつの宇宙でもある『限りない 個と全体の 多重奏 人も銀河も いのちも音も』『それぞれの 個と全体が 色と空 無限の色と ひとつの空と』『それぞれの パートを合わせ 一曲を 奏でるものが 宇宙のメロディー』『何事も 右脳で聴いて 感動し 左脳で現し 共有する』『花となり 形となって 現れる いのちは 永久(とわ)に 生き続けるもの』『限りない 空に抱かれて 舞う色の 色とりどりの 艶(あで)やかさかな』これが420日目の心境です。
2006.02.25
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今日の屋久島は、朝方の雨が上がって、曇。天気予報では一日中雨。外れてくれて、ありがとう。今朝は、たまたま3時頃に目が覚めた。本当は6時に起きようと思って、珍しく目覚ましをセットしていた。トリノオリンピックの女子フィギアスケートを見ようと思っていた。でも、せっかく3時に目が覚めたので、そのままテレビのスイッチをオンにした。メジャーではない人たちも見てみたかった。いろんな国から、いろんな人たちが出ていた。6人一組で4組だから、24人ということになる。音楽も故国のものを使う人もいて、それなりに楽しめた。最後は荒川静香の金メダルで終わった。村主章枝(すぐりふみえ)もよくやった。どちらかというと、村主章枝の方が見ていて感動した。彼女はいつも全力投球。持てるものをぜんぶ発揮したという感じ。荒川静香は余裕があった。流れに乗っている感じで、安心して見ていられた。荒川静香は、SP(規定)の時から安定していた。フリーの直前の練習でも、安定感バツグンだった。サーシャ・コーエンは、直前の練習で2回も転んでしまった。明らかにSPの時とはコンディションが異なっていた。右足を痛めたらしい。安藤美姫も直前の練習の時に転んでいたように見えた。遠目だったのではっきりしないが、たぶん4回転を失敗したのだろう。荒川静香は、エネルギーが充実していた。気が満ちているというか、スポーツ選手が乗っている時の雰囲気があった。相撲にしても野球にしても、勝負は始まる前にほぼ決まっている。気が充実している方が勝つ。仕切りを見たり、バッターボックスに立っている姿を見ていると、結果は予想できる。よーく見ていれば、まず間違うことはない。気が頭に上がっていては、勝てない。それはスポーツに限らず、何についても言える。しっかりと臍下丹田(せいかたんでん)に気が満ちていることが必要だ。今日の荒川静香は、きっちりとグランディングできていた。そして、スケートを楽しんでいた。彼女は表彰式後のインタビューで、金メダルが取れるとは夢にも思っていなかったと言っていた。楽しみたいと思って滑ったと。彼女は、新採点方式になって、ジャンプが高得点になり、かなり悩んでいた。でも、最終的には得点狙いではなく、自分のスケートをすることに決めた。それは音楽に乗った美しいスケート。得点にはならないイナバウアーをプログラムに組み入れ、自分本来の美しいスケートをめざした。メダルよりも自分本来のスケートの方を選んだ。だから、落ち着いて滑れた。自分のスケートができた。それはいくら褒めても褒めすぎることはないだろう。メダルや得点のためではなく、自分自身を演じ切った。結果としての金メダルよりも、その心根の方が遙かにすばらしい。それは絶賛に値する。結果を求めない。自分を生きる。自分を生き切る。それこそが人生!それなくして、何の人生ぞ!!メダルが取れても取れなくても、自分を生きる。メダルは結果に過ぎない。だからこそ、全力投球した村主章枝もすばらしい。果敢に4回転に挑んだ安藤美姫もすばらしい。自分を生きた人は、みんなすばらしい。後は、その時の精神の充実度と素質と努力が、結果として現れる。今回は荒川静香があらゆる面において最も充実していた。彼女は静かに満ちていた。イリーナ・スルツカヤは、今日は練習の時から重たそうだった。本番直前の表情もイマイチだった。明らかに荒川静香の充実度には至っていなかった。心技体、すべてが充実する必要がある。心技体、それぞれにリズムがあるので、それらのフォーカスが一点に合うのは希有(けう)なこと。天の時、地の利、人の和。すべてが結集された時、金メダルという結果がついてくる。天の時、地の利、人の和を自分に引き寄せるだけの精神の充実。静かに深い充実。それはすべてに通じる。深い深い充実。深いということと静かということは、ほぼ同義語。騒々しくて深いなどということはあり得ない。精神の表層で生きている限り、深くなることはあり得ない。静かに静かに生きないことには、深くはなれない。逆に言うと、深くなればなるほど、人は静かになる。自分自身に気を満たす。心身に気を満たす。そういう状態で何事にも当たれば、間違いはない。そわそわした気持ちでは、何事であれ躓(つまづ)いてしまう。しっかりとグランディングして生きる。自分自身にグランディングして生きる。周りに気を取られないで、自分を生きる。自分の人生を生き切る。その時に、初めて他の人の人生も尊重できる。自分の人生を生きていないと、他の人の人生も認められない。自分を生き切る。ただそれだけ。極めてシンプル。周りの評価や言辞に翻弄されない。自分を生きる。自分自身を生き切る。それしかないし、それでいい。世間は、そんなに気にすることはない。自分を生き切っていれば、やがて世間の方がそれを認めてくれる。世間に迎合していると、自分を見失う。自分自身がわからなくなる。自分を生きるとは、自分の生きたいように生きてみること。それしかない。羅針盤は自分の中にしかないのだから。結果を気にしないで、自分を生きる。結果は後から付いてくる。結果のために生きているのではない。人生は、自分自身を生き切ること。結果は、その証(あかし)でしかない。そこのところを間違えないことだろうか。そこさえ間違えなければ、自由に生きれる。自分の望むように生きれる。一人一人がそうすればいい。それが人生。それが宇宙。自由創造。無限創造。『何であれ 自分自身を 生きてみる それが生きると いうことだから』『周りから どう見られるか それよりも 納得できる 生き方をする』『人は人 自分は自分 それぞれが 美しい花 咲かせればいい』『いつであれ 自分の道を 生きないと やがて自分が わからなくなる』『それぞれが 自分自身を 生きる時 色とりどりの 楽園になる』『真実の 自分の道は 裡(うち)にある いつも静かに 自分に聞き入る』『静けさの なかに真理は 宿るもの 深い静けさ 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)』『静けさの 極みに立てば 何もなし すべてが満ちる 空があるのみ』これが419日目の心境です。
2006.02.24
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今日の屋久島は、白い雲に覆われている。トンビが一羽飛んでいる。彼はすぐそばの森に住んでいる。このあたりが彼のテリトリー。たまに他のトンビが遊びに来る。右脳から発せられる言葉は、響き。左脳から発せられる言葉は、意味。右脳の響きだけを受けとめては、何を言いたいのか細かくは伝わらない。左脳の意味だけを受けとめても、その奥にあるものが伝わらない。響きを受けとめ、意味を理解する必要がある。右脳と左脳の両方を使う必要がある。それで初めてトータルにわかる。右脳と左脳のバランス。肉体と精神のバランス。宗教と科学のバランス。ムーとアトランティスのバランス。そして、調和。右脳だけを使えば、感情的な言葉になり、宗教になる。左脳だけを使えば、思考的な言葉になり、科学になる。右脳と左脳と両方を使う。そして、それらを超えていく。言葉の響きと言葉の意味の両方を受けとめる。右脳と左脳で受けとめる。左脳だけで受けとめれば、自分流の解釈になってしまう。右脳だけで受けとめれば、明確な意味がわからない。全体で受けとめる。言葉とは、元々は発せられる響きであり、その後に、コミュニケーションの手段となった。それは赤ちゃんを見れば明らかだろう。響きの言葉には力がある。その波動は多大な影響力を持つ。コミュニケーションの手段としての言葉は、力はないけれども、伝えたいものをより明確にしてくれる。細かく定義し、厳密に伝達するのには適している。それぞれに一長一短がある。普通の人は、この両方の言葉を、かなり曖昧に使っている。科学的にきちんと定義した言葉を使っているわけでもなく、内側の波動を伝えるように使っている人も少ない。子供の頃から覚えた言葉を何気なく使っている。それはほとんど刷り込みに近い。それほど言葉に注意を払うことなく、平気で使い捨てている。その結果、いろいろな誤解や齟齬(そご)が生じている。争い事のほとんどは誤解から発している。お互いに自分流に解釈し、判断する。お互いが自分の思い込みのこもった言葉を使い、お互いに誤解し合う。お互いに相手のことをよく理解すれば、こんなにまで争い事は多くはないだろう。言葉だけを捉えるのではなく、その響きも捉える必要がある。右脳と左脳、感情と思考。自分の全体として、言葉を捉える必要がある。いい加減に捉えていると、誤解の泥沼に沈む。クリアーな意識で聞いてないと、思い込みの陥穽に落ちる。言葉を発する時も、聞く時も、自分の全体でおこなう必要がある。そうでないと、誤解や行き違いが多発する。不注意に、いい加減に生きていると、トラブルに巻き込まれる。人生は自分の生きる姿勢しだい。きちんと自分の全体で生きることが必要となる。片手間に生きていては、まともな人生は生きれない。苦悩と悲哀の人生になってしまう。真剣に、真面目に生きるしかない。小手先だけ、目先だけの生き方では、不調和な人生しか展開しない。真剣に生きないと、深いやすらぎはやって来ない。なかなかたいへん・・・言葉を発する時は、口先の言葉ではなく、響きが重要となる。どんな響きの言葉を発するか。どんな波動が込められているか。自らが発した波動が、また自分へ還ってくる。きれい事を並べても何も響かない。巧言令色鮮(すくな)し仁。響きと的確な表現の両方が必要なのだ。文章を書くにしても、書いている時の波動によって伝わるものが違ってくる。どこにベースを置いて言葉を発するか。それをいかに正確に表現するか。右脳と左脳の両方、そして、その総合としての全体。自分の全体で言葉を発し、自分の全体で言葉を受けとめる。そうしないと、すべてがアンバランスになってしまう。社会全体が調和しない。いい加減に生きれば、いい加減な結果。真剣に生きれば、調和された結果。意識の進化。それは赤ちゃんから成長していく過程を見ればわかる。感覚、感情、思考、そして、ハートベース・・・右脳、左脳、そして、その統合・・・意識はより全体へ近づいている。感覚も感情も思考も、そして、それ以上のものも、すべてトータルに使いこなす。それによって、調和された社会が生まれる。偏った使い方をすれば、全体のバランスが壊れる。トータルに使うことによって、意識は進化し、社会は調和する。日常の何気ない言葉の使い方が、社会全体に影響を及ぼす。恐るべし言葉の力。感覚や感情や思考も含めたトータルなハートベースの言葉が使われるようになれば、社会も変わるだろう。もちろん、個人も変わる。全体的に生きる。右脳と左脳。思考も使うけれども、響きも大切にする。響きと的確な表現。トータルにハートベースで生きることが問われている。『人生を どれほど深く 生きるかが 問われているだけ 最終的には』『表面の 意識で生きれば 人生は 混乱のうちに 終わりゆくだけ』『表面で 受けとめないで しっかりと 深いところで 受けとめて生きる』『口先や 言葉だけに 頼らずに ハートの響き 大切にする』『だんだんと 静かになって トータルに なってゆくのが 意識の深化』『静かさの 中にすべての 根源が 息づいている 一人一人に』これが418日目の心境です。
2006.02.23
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今日の屋久島は、暖かい。もう冬は終わったようだ。春直前という感じ。電話をする。相手の声が聞こえる。最初の一声で相手の状態がわかる。心地よい波動。それだけ。直後に、思考が、なかなか良い感じだと囁(ささや)く。相手の状態を判断し、いろいろ解説してくれる。言語化とは、そういうものだ。ただそのものを聞いていれば、その波動が伝わるだけ。そこに思考が動いて、価値判断を付け加える。そのものを感じたければ、ただ黙って感じるしかない。言語化しないで、そのものと一緒にいる。言語化した途端、思考が介入する。判断、解釈、評価・・・何かを形容すること自体が既に解釈とも言える。美しい・醜い、すごい・つまらない、上手(じょうず)・下手(へた)、好き・嫌い、良い・悪い・・・言語化した途端、同時に価値判断が入ってしまう。しかし、言語化しなければ伝えることはできない。しかし、言語化すれば、そのもの+αを伝えることになる。いや、そのものとは別のものに変わってしまう場合もある。言語化されたそのもの。それは、そのもの自体とは異なる。「美しい牛」という言葉は、見た人の主観。そして、受け取る人にとっての「美しい牛」もそれぞれ異なる。「牛」という言葉自体、大きな牛をイメージする人もいれば、子牛をイメージする人もいる。オレンジ色の牛を思い浮かべる人もいれば、白黒の牛を思い浮かべる人もいる。「美しい」に至っては、それこそ千差万別。これだけ各自のイメージの差があって、よくコミュニケーションが成り立つものだ。だからこそ、誤解や行き違いが生じるとも言える。まず伝える側の思い込みや先入観がある。受け取る側にも別の思い込みや先入観がある。事実がそのまま伝わっているという保証はどこにもない。それが言葉によるコミュニケーションの難しさ。しかし、現在のところ、それしかコミュニケーションの手段がないので、気をつけておこなうしかない。言葉の効力と限界を理解しながら。お互いの思い込みに注意しながら。この日記にしても、書き手の主旨がそのまま読み手に伝わっているという保証はない。書き手の中にあるイメージと、読み手の中にあるイメージは明らかに異なる。「美しい」という言葉一つとっても、お互いの使い方は同じではない。個々の言葉のイメージは各人で違う。しかも、伝えたい内容が極めて複雑ときている。ハー、絶望的?と、まあ、悲観的になっても何の意味もない。言葉によるコミュニケーションの限界はあるものの、伝わっているものもある。個々の言葉に引っかかって自分流に解釈して受けとめられることもあるが、明らかにわかってもらえていると実感できる時も多い。できれば、個々の言葉を超えた伝えたい主旨を受けとめてもらえたらと思う。この日記で何を言いたいのか、その内容を感じ取ってほしい。個々の言葉は個々人で使い方の差があるので、あまりこだわらない方がいい。それよりも主旨、何を伝えたいのかを感じ取ってほしい。何を伝えたいのだろうというスタンスで読むといいかもしれない。最近の日記には、最後に短歌が添えられている。これはその日の日記のエッセンスみたいなもの。時間がない時は、これだけ読むという手もある。できれば全文を読んでほしいけれども、なにしろ長いので、短歌だけ何度か読むという方法も有効かもしれない。それによって伝わるものもあるだろう。書いている卵の黄身氏は、最低でも2回以上は読んでいる。込み入った内容になると、10回以上読み直すこともある。キーボードから入力したものをプリントアウトして校正する。赤いボールペンを片手にチェックしていく。最低でも、それを2~3回は繰り返す。しかし、自分で納得できないと、その回数がどんどん増えていく。校正すればするほど、シンプルになるのは間違いない。しかし、やがて頭が疲れてしまう。そこで日記としてアップすることになる。書いている本人が一番読み込んでいると言いたいところだが、たぶん、ぴあのさんの方がそれ以上に読んでいるだろう。彼女もプリントアウト派。サインペンでチェックしながら何度も読み返しているらしい。そうでないと、あの日記のエッセンスのような写真ブログ(いのちの島=屋久島)の言葉は出てこないだろう。本当は他の人にも何度か読み返してほしいと言いたいころだけれども、なにしろ長いので、それはご自由に。理解できれば一度だけでいいし、理解できなかったら何度か読み直してみると、よりわかるかもしれない。言葉は、イメージ。個々の言葉のイメージは各人によって異なる。だから、個々の言葉にはできるだけ囚われないで、全体の主旨を読み取るように心がけてほしい。伝えたいものは個々の言葉ではないわけだから、伝えたいものを的確に受けとめてほしい。これはこの日記を読む時だけではなく、他のものを読む時にも適用できるだろう。また、他の人とのコミュニケーションにも活用できる。言葉にこだわらない。相手の主旨を受けとめる。相手が伝えたいことを受けとめてあげる。そういう気持ちでコミュニケーションすると、お互いの意志の疎通がよりスムーズになるだろう。相手の言いたいことをわかろうとするスタンスと、なんとなく聞いているのとでは、天と地ほどの差が出てくる。まして、自分の立場に固執して聞いていれば、相手の伝えたいことは伝わらない。個々の言葉の持つニュアンスには個人差がある。そこに引っかからないことだろうか。それを超えたところで理解するように努めることだろうか。人は、ややもすると自分の土俵で受けとめようとする。自分のパターンに引き込んで解釈しようとしがちだ。ありのままを理解しようという準備のできている人は少ない。いつも自分の受け入れやすいスタンスでスタンバイしている。自分流に解釈し、自分流に判断する。よほど気をつけないと、ありのままを感じたり、理解するのは難しい。何ものにも引っかからない。何ものにも囚われない。主旨をよーく感じてみる。言葉以前の、そのエネルギーを感じてみる。言葉に翻訳することは、思考を通して物事を見ていること。言葉以前のものを感じるように心がけると、また違った景色が見えてくるかもしれない。『言葉より 言葉の奥に あるものを 耳を澄まして 受けとめてみる』『全体の 主旨を静かに 受けとめる 言葉に言葉で 反応しない』これが417日目の心境です。
2006.02.22
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今日の屋久島は、雨。でも、明るい。少しだけ青空ものぞいている。(書いているうちに、すっかり晴れてしまった)過去世で辛い思いをして、今生でも辛い思いをしている人がいる。書き込み常連のSさんも、その一人。彼女の場合は、その痛みが最大級と言っていい。これほど苦しんでいる人は、日本広しと言えども、そんなにはいないだろう。あまりの痛さのために横になれない時もあるらしい。それが三日間も続く。痛さのために、食事中も意識が遠のいて眠りこけてしまう。股関節から槍を突き刺され、胃を通り抜けて喉まで達する痛み。慎重に心臓を外すことによって、簡単には死なせない。生きながら苦痛を長引かせる中世の拷問の一種。その槍が一本だけではなく何本も。しかも、繰り返し・・・それを自分の体で再体験しているようだ。その苦痛から逃れる唯一の方法は、激痛のあまり気を失うこと。下半身が火あぶりにあっているかのように、焼けつくような痛み。もう数限りないほどの苦痛のオンパレード。それが何年も続いていると言う。もちろん働けないし、満足に外にも出れない。体はボロボロ。精神はクタクタ。当然、そこから逃げ出したいと願う。自分の肉体が早く朽ち果てればいいと自分自身を呪詛する。激痛と自己否定の二重奏。もう心身共に極限状況。彼女は普通の人には見えないものまで見えてしまう。地獄からの使者や煉獄や無限地獄のエネルギーまで、しっかり感じてしまう。自分の過去世だけではなく、両親や先祖の過去世まで被(かぶ)ってくる。先祖代々の苦痛が彼女の一身に押し寄せる。それを延々と供養してきたらしいが、キリがない。心身の消耗は、もう限界に近い。満足にパソコンにも向かえない。目は霞み、手は自由に動かない。粘膜系は、すべてドロドロ状態。重度の心身障害者並みと言える。にもかかわらず、日記を読み、自分を見つめ、書き込みをしている。それは、すばらしい!称賛に値する。長い永い闇の時代を超えて、今、やっと光の時代へ向かおうとしている。まだ完全には離脱できていないけれども、前方に光は見えている。殺し・殺され、犯し・犯され、滅ぼし・滅ぼされ・・・人類の業の歴史は延々と輪廻している。今もまだその業が繰り返されている。世界中で悲しみのない日はない。人が住むところ、争いの絶える時はない。いつまで続く泥沼。果てしなく続く人間の業。それを終わらせることができるのだろうか。彼女は、磔にされ、火あぶりにされ、犯され、拷問され、ありとあらゆる苦痛を味わった。それは彼女だけではなく、多くの人が体験しているもの。過去世のことなので、みんな忘れているが、潜在意識の奥には残っている。それが今生の人生に気づかないうちに暗い影を投げかけている。体の一部が麻痺したり、不自由だったり、痛みがあったり、シコリがあったり・・・人それぞれだけれども、そういうものが何もない人の方が珍しいだろう。卵の黄身氏も左目から奥にかけて痛みがある。左側の後頭部に暗い部分があり、まだシコリが残っている。たぶん、過去世で生きながら目をえぐられたと思う。その時の傷が、後頭部にまで達している。それがなかなか抜けない。もう何十年もかけて少しずつ抜いているけれども、まだ完全にはクリアーになっていない。そこにあるのは、痛み、苦しみ、憎しみ、恨み、怒り・・・それらがミックスされた黒い塊。それらはもう何百年も前の話なのに、まだ影響力を持っている。もちろん、それに翻弄されることはないけれども、しかし、違和感はある。それがいろいろ顕在意識に影響を与えているのもわかる。時に、氷の君になるのもそのせいかもしれない。最終的には、それらをすべてクリアーにする。それはわかっているけれども、まだ時間がかかっている。なぜなら、それはあるべくしてあるから。必要で残っているものだから。何にとって必要なのだろうか。理解するために。自分自身を理解するために。自我の意識構造を理解するために。人類の意識構造を理解するために。それは大切に保存されていたのだ。何もクリアーにするものがなければ、人類の業を深く理解することはできないだろう。自分自身を通して実体験し、共にクリアーしていくプログラム。一人一人にとって、そういうことだろう。自分だけではなく、自分の過去世、先祖代々、縁のあるすべての人々を救う。壮大なプログラムなのだ。最終プログラム。そのために我々は出てきた。魂たちの絶大な期待を背負って・・・クリアーするのは自分だけではない。全人類の業。そういうつもりで出てきている。多くの人がそのために、この時期を選んで地上に生を受けている。自分自身を通して、人類を救う。なぜなら、自分自身こそが人類に他ならないから。Sさんに襲いかかっている痛みは、今の痛みではない。それは何百年も何千年も前の痛みだ。磔や火あぶりや拷問や、残酷に殺されたり犯されたり、不治の病になって捨てられたりした時の苦痛なのだ。どうしてそんな昔の痛みが襲ってくるのだろうか。それは簡単なこと。子供の頃のトラウマを、いまだに持っている人は少なくない。それと同じことなのだ。原理はまったく同じ。それが何十年前か何百何千年前かの違いだけだ。記憶。それが襲ってくる。過去の囚われてしまった思いが、繰り返し繰り返しフィードバックしてくる。シコリになっているものが、ほぐれようとしている。それは肉体的なシコリが自然にほぐれようとするのとまったく変わらない。心のシコリが、記憶のシコリがほぐれようとしているのだ。その時に、再び以前の現象が現れる。それは夢とも似ている。夢に過去のトラウマが現れる時、それは解放されているプロセス。すべては解放のプロセス。それをまず理解する必要がある。人は、掴む。しっかりと、握る。体験を掴んでしまうと、それはシコリとなる。シコリとなった塊は残る。ほぐれるまでに時間がかかる。人類が、これまでどれほどの思いを掴んだことか。それは、憎しみ、怒り、恨み、痛み、苦しみ、悲しみ、さびしさ、辛さ・・・ありとあらゆるものが、記憶にしっかりと刻印された。それ故に、まだ残り続けている。それが今も亡霊のように彷徨(さまよ)っている。人類の想念の海。そこにこれまでの人類の業想念が渦巻いている。その渦に捕まっている限り、苦しみ悲しみの人生から離れることはできない。人類の思いの世界。そのエネルギーフィールドから離脱できるだろうか。それが問われているのだ。すべては過去のこと。今のことではない。それは記憶の中にだけ存在するもの。過去の想念の海。今この瞬間は、白紙。何もない。この瞬間に居切ることができれば、過去の影響は受けない。今、即座に自由。しかし、意識の波動が遅いと、すぐに思いの世界へ引きずり込まれてしまう。そこは業想念の渦巻く記憶の地獄。そこにつながる限り、苦しみ悲しみから離れることはできない。まさに波動しだい。自分の中に、まだクリアーにされていないものがあると、波動は思いの世界につながってしまう。自分の意識が思いを中心に生きていると、業想念世界に生きることになる。すべては自分しだい。自分の波動しだい。過去の想念の海が地球を取り巻いている。その海を抜けないことには、自由はない。海の中にいる限り、苦しみや悲しみが終わることはない。人類が延々と溜め込んできた業想念の海。思いの海が、恨みや憎しみや悲しみや苦しみでいっぱいなのだ。ほんの少しの喜びと、膨大な悲しみ。圧倒的な苦しみと共に人は生きてきたのだ。この世は、苦界。いつの日に浄土と化すのだろうか・・・襲ってくる過去の闇は否定しない。そのまま受けとめるしかない。しかし、それに自分を奪われない。過去の想念そのものにならない。苦しみそのものにならない。それは過去のもの。今のものではない。想念の海に浮かぶ過去の残像。ただの塊。黒い塊。海に浮かぶヘドロのようなもの。そんなものに自分を明け渡さない。しっかりと見切る。その実体を見抜く。まず取り乱したり、自分を見失わないことが第一に肝要なこと。それから、それらを癒してやる。あたたかく抱きしめ、癒してやる。その苦しみや悲しみをわかってあげて、包み込む。ハートベースで抱きしめる。一緒にいて、優しく包み込むしかない。もう苦しみは終わったから、もう安心していいからと優しく言ってあげる。これからは同じように苦しむことはないから、大丈夫だと励ましてあげる。黙って抱きしめ、大丈夫、大丈夫と繰り返し言ってあげる。まるで幼子に語り聞かせるように丁寧に優しく話してやる。安心して心安らぐまで包み込んであげる。基本は、幼い子供に対するように接すればいいだけ。それは今生のインナーチャイルドに接するのと同じ。今生も過去世も変わりはない。強い苦しみや悲しみを掴んでしまったというだけ。それを手放せばいいだけ。思いの世界の外にあって、思いの世界を癒す。癒される必要のない次元にあって、癒される必要のある次元を癒す。自分のベースをどこに置くか。それがキーになる。思いの世界にベースを置いて、思いの世界を癒そうとしても、思いの世界に掬(すく)い取られてしまう。訳がわからなくなってしまう。最悪は精神病院行きとなる。それは自分の寄って立つところが思いの世界だから。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する思いの世界にいては、それらの餌食になるだけだ。意識のベースをハート以上に置く必要がある。そうでないと、思いの世界に捕まってしまう。自分自身が光になった時、闇を照らすことができる。自分自身が愛になった時、闇を癒すことができる。それまでは闇に呑まれる。残留想念の渦に呑み込まれてしまうのだ。過去に囚われない。今に生きる。白紙。ゼロ。ニュートラル。表現はいろいろあるけれども、要は今この瞬間に生きること。時間の中に生きない。自我の中に生きない。時間も自我も苦しみも、みな同義語。囚われこそが自我であり、シコリこそが自我なのだ。そのシコリは、苦しみであり悲しみであり、恨みであり憎しみ。それらはすべて過去であり、記憶であり、残留想念なのだ。それが思いの世界。つまり、思い込みワールド。人はみな思い込みワールドの中で、藻掻(もが)き苦しんでいるだけ。この思いの世界を出ない限り、救いはない。それが仏教で言う六道輪廻の世界。その中には天国もあるが、それは地獄と対の天国。まだ相対比較の世界。いつ地獄になるかわからない、思いの世界がつくり出す仮初(かりそ)めの天国。同様に、地獄もまた仮初め。ただの思い込み。強い思い込みがシコリとなり、記憶されているだけ。その残留想念に巻き込まれ、苦しみ、争い、殺し合ってい現世。まるで残留農薬によって体が苦しめられているように・・・すべてがつながってくる。延々と一年以上に渡って書いてきたことが、すべて一つにつながっていく。思いの世界から自由になること。想念の海から抜ける。光輝く世界へワープする。もう十分に思いの世界を体験したならば・・・『楽しみも 苦しみもまた 思い込み 思いの海で 溺れているだけ』『自らの 思考の渦に 巻き込まれ 苦悩の渦に 堕ちて行くだけ』『のめり込み 自分を忘れて しまうから 悩み苦しみ のたうち回る』『体験を 掴めばそれが 自我になる 味わい切って すぐに手放す』『人類の 思いの世界の 雲を抜け 光り輝く 青空に出る』これが416日目の心境です。
2006.02.21
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「415日目 - 自信 [1]」の続き最後は、せきせきさんですね。「私にとって自信とは、とても前向き姿勢ではあるが、結局ありのままの自分でいられない時に必要なもの。自分で自分に依存したい時に使うもの。自分は「いい調子」「これが得意」「できるから大丈夫」という自信を持ち出さないと、過ごせないときに必要なもの。それが前提にあれば、物事ができるという助けとしての道具。それは業績や、今までの経歴、褒められた言葉などを参考にして生まれてくるもの。だから、失敗などして「自信がなくなる」と消沈する。例えば今の私。何ももっていないし、病気だし、と思えば自信もなくなる。「そんなことないよ」と言われれば自信復活?人からや、自分からの判断から生まれる自信で生きていくと、とても危うい脆いものだと思うのですが。そういう環境や状態で変化する自信ではなくて、違う自信とはないのかと思いました。ありのままの自分の時は、自信という言葉を使わなくていい位、自分を信じることが当たり前。というか、「私」の全てが私を信じている状態。自分を意識した「自信」ではなく、自分を意識しない「自信」みたいなもの?一般的に使われている「自信」と違う意味合い?そんなの自信と使ってよいのか疑問ですが。自我のない自信みたいなもの?自分を信じるという言葉が自分の内にある状態。私の全てが自信という感じ。でも、自信が服を着て歩いているような意味ではなくて、外の環境や過去や人と比べる自信ではないということ。人の評価、価値観は一切関係ないし、自分の価値観も関係のないもの。それは環境や状態に左右されないものではないだろうか。価値判断のない裸の私そのもの、ありのままの姿を信じること。そういう自信。私は、そういう「自信」がないことは、トラブルや痛み苦しみと関係ありそうな気がしています。」自信は、ありのままの自分でいられない時に使うもの?自信とは、自分への依存?過去の栄光の自分への依存?今のありのままの自分では不安なので、過去の評価された自分を借りてきて取り繕う?何もなければ、自信もいらない。今のありのままの自分に不安や心配があるから、過去のデータに依存する。これまではちゃんとやってこれた。だから今回も大丈夫。そのように自分に言い聞かせる。しかし、その思い込みが打ち砕かれる現実に直面する時、自信は脆くも崩れ去ってしまう。思い込みを現実が打ち砕く。それはスポーツ界の世代交代などに如実に現れる。自信というのは、過去のデータに基づく思い込み。その思い込みが現実の中で通用する間は、思い込みに浸っていられる。しかし、現実と思い込みが食い違う時、自信は消失する。なぜなら、それは単なる思い込みだから。架空のことだから。自信を持って世に出したものが認められる。有頂天になる。しかし、次に絶対の自信を持って世に送り出したものは、まったく世間から無視される。これまでの自信が崩れ去る。世の中がわからなくなる。自分の人生観が揺らぐ。自信喪失。そして、またゼロからやり直す。それが認められ、また自信回復。その繰り返し。自信とは、自分が認め、世間が認めたことによって、思い込むこと。自己肯定の思い込み。自信喪失は、その逆。これまでの失敗のデータから、自分が否定し、世間が否定した結果の思い込み。自己否定の思い込み。自信と自信喪失。それはシーソーゲームのようなもの。上に行ったり、下に行ったり。優越感と劣等感。自信と自信喪失。それは思考の世界のシーソーゲーム。思い込みワールドのシーソーで遊んでいるだけ。相対の世界で一喜一憂しているだけ。自分の剣に奢る者は、隙ができて敗れる。自分の剣を疑う者は、その隙につけ込まれる。奢れる者も疑う者も、いずれも敗れる。ただ無心の者だけが、敗れることを知らない。心が動けば、隙ができる。無念無想の時にだけ、相手の動きがわかる。プラス・マイナス=ゼロ。シーソーが揺れていない状態。心が静かに落ち着いている状態。無念無想。その時、自信は存在しない。自信があるということも、自信がないということも、ない。そのような思い込みは一切ない。ただありのままの自分がいる。自信は思考の世界の産物。過去ベースのもの。自信=自分を信じるとは、過去の自分を信じるということ。過去の自分こそが自我のベース。自我とは、過去の自分から紡ぎ出した自己イメージ。つまり、自信とは自我以外の何ものでもない。それは不安定な幻のようなもの。どこにも実体のない思い込み。今この瞬間に自信という過去が介入すれば、過去のデータで今を見ることになる。それでは今が見切れない。過去の色眼鏡で今を見てしまう。それでは今を十全に生きることはできない。今この瞬間にフォーカスする時、自信はいらない。ただ白紙で臨む。白紙だけが、今をそのまま受けとめられる。自分の全存在で事に臨む。自分の全身全霊を今に投入する。もしそれが命を賭けた真剣勝負であれば、当然、そうするだろう。冷静な深い静かさ。必要なのはそれだけ。自信は真剣勝負の邪魔になるだけ。自信というようなものは、意識の遙か上の方にある。そんな表面意識で生きない。自我の泡のような意識で生きても、何ほどのこともない。まさに掴んだと思ったら、泡のように消えてしまうだけ・・・矢を放てば百発百中という境地がある。それは矢を射る以前に、的に当てている。的に当ててから矢を放つ。だから百発百中。それは自信や一喜一憂の世界より遙かに遙かに深い境地。しかし、その境地すら終(つい)の棲家ではない。静かな集中から解放された自由無碍(むげ)という境地は、まだ遠い。静かに深く生きる。自分の全身全霊で生きないと、世間の浅はかな潮流に流されてしまう。表面の快楽を求めるだけの薄っぺらな人生で終わってしまう。深く深く生きる時、不動の揺るぎないものに出会う。それは世間の価値観の中にはない。自分自身の深い深いところにしかない。『しくじれば 崩れてしまう 自信とは 思い込みから つくる幻(まぼろし)』『浅はかな 表面意識で 生きる時 一喜一憂 揺れ動くだけ』『自信こそ 自我そのものに 異ならず 自分自身を 主張するだけ』『しっかりと 地に足つけて 生きる時 壊れるような 自信はいらない』『殊更(ことさら)に 自信も不安も 何もなく 心静かに 現実(じじつ)と生きる』これが415日目の心境です。
2006.02.20
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今日の屋久島は、曇。時々、小雨が降っている。昨夜、「ターミナル」というDVDを見た。ニューヨークの空港でアメリカへの入国を拒否され、一ヶ月近く空港に足止めされた人の物語。母国でクーデターが起き、国がなくなったために出国も入国もできない法の空白地帯に陥ってしまう。ところが、人生は捨てたものではない。空港という狭い世界にも、いろんなドラマが渦巻いており、けっこう楽しく暮らせてしまう。最後の方では、みんなの人気者になる。ほとんどあり得ないような世界だけれども、英語があまり喋れなくても、案外なんとかなるかな?という気にさせてくれる映画だった。昨年のレンタルベストテンで洋画部門4位。確かに面白かった。既成概念を吹き飛ばす痛快さがあった。いろんな人生があるなぁーという感じ。人はどこでも、それなりに生きていけるものだ。それではホームワークを見ていくことにしよう。テーマは次のようなものだった。「自信とは何でしょう?自分にとっての自信とは何でしょうか。」では、最初は、えっちゃんから。「『自信とは何でしょう?』自信とは、自分自身を信じられる考え、能力。『自分にとっての自信とは何でしょうか』自分にとっての自信となると、本当は自信なんて微塵もない。何にもない。一瞬そうなんだ!!と抱く自信らしきものは、吹けば飛ぶ有り様。私はコンプレックスの塊です。 長く生きている間にアレコレした事すべて、身に付いていない。趣味ですら、楽しんだけれど、この世界は私にお任せなんていうのもない。 長年やってきた料理すらオットドッコイで、今、職業にしていても日々プレッシャーに押しつぶされそう。 考えにしても、誰もが悲しい思いをしないでいられたらいいなあ・・・と良い心を持っているのでは?と思っても、所詮、悲しんでる人を見たくないだけ・・・となると、自分の考えも何ほどでもない事になる。 自信がなくても、のびのびと生きたい。一挙手一投足をチェックされない生き方をしたい。どんな状況でも自信のなさにうろたえない生き方なんてあるのだろうか?」自信とは、自分自身を信じること?でも、えっちゃんは、自信なんて微塵もない?謙虚だね。コンプレックスの塊?それは劣等感ということ?自信の反対は、劣等感?自信はないけど、劣等感はある?それは自信を持って断言できる?自信も劣等感も過去ベース。自分の過去の経験から結論を出しているだけ。でも、その自信も、失敗すれば脆(もろ)くも崩れしまう。劣等感も、少しうまくいくと、ほんのちょっとは薄れる?人生、一度も失敗したことのない人はいないだろう。あの自信満々だったホリエモンでさえ、今は塀の中。それでも自信がある?それは他の人に比べれば秀でているというだけ。しかし、もっと優秀な人が現れれば、その自信は危うくなる。自信とは、相対的なもの。絶対的な自信は、まず存在しない。なぜなら、人生で一度も失敗しない人はいないから。自信がなくてものびのびと生きたい?それにはコンプレックスを外すことかな。どんな状況でも自信のなさにうろたえない生き方なんてあるのだろうか?ある!それは自信がないという思い込みを外すこと。何もないニュートラルに戻すこと。自信がある・ない以前のゼロポイントに戻ること。次は、藍&aiさんですね。「自信ありげな人って大抵は、自分の様々な限界とも言えることを自力で乗り越えていった人だと思う。それがスポーツだったり仕事だったり生活だったり。。そして、そこで得たことを唯一の自分の信条としていて、それを自分でも揺ぎ無いものと確信している。あたしには、それがない。苦労はしているのかもしれないが、いつの間にか乗り越えるというよりも時に任せて過ぎていったという感じだ。子どもの頃からの訳も無い自信のようなものは16の時に打ち砕かれた。辛い思いも人一倍してきたと思うが、じっと耐え忍んでいるうちに過ぎていった。そこで自分が勝ち取ったものなどなにひとつない。ますます自分に自信を無くした事実だけが残った。自信が、まるでない自分は、将来に対しても周りの家族に対しても不安ばかりが募る。すべてマイナス志向になりがちな自分を日々のささやかな日常に幸せを見つけて、そこで自分を納得させ満足させようとしている。なるべく本質をみないようにしているのがいまの現状。。だから自信にあふれている人をみると羨望のまなざしで見てしまう。でも、自信ってなんなんでしょうね。。?余程地に付いた根の張ったものでなければ、誰でも打ち砕くのは容易なものなのかもしれません。」自力で乗り越えてきた結果が自信?自分で勝ち取ってきたものが自信?でも、藍&aiさんの自信は16歳の時に打ち砕かれてしまった?今は不安ばかりのマイナス思考?ささやかな日常に幸せを見つけ、自分を納得させ満足させようとしている?確かに、自信は打ち砕かれるものだよね。でも、打ち砕かれると、自信が消えるだけではなくて、不安やマイナス思考が残ってしまう。その後は、自信のない暗い人生になってしまう。それもまた過去ベースの人生。過去の失敗をベースに生きているだけ・・・不安や心配を紛らわすために、ささやかな幸せで自分を満足させようとする。でも、その満足は表面だけのもの。本質的な不安や心配は消えてはいない。せっかく苦労して、人一倍辛い思いもしてきたのに・・・残ったのは不安だけ?それは・・・でもね、陰極まれば陽。その証拠に、なるべく本質を見ないようにしていると言いながらも、この日記を読んでいる。この日記を読めば、いやでも人生の本質に直面することになる。それはどん詰まりの現状から脱皮しようとしているのかもしれない。夜明けは、そう遠くないかもよ。次は、ぴあのさんですね。「私にとって自信とは、得意なことをやる時には自信がみなぎって楽しいし、不得意なことをやる時には当然自信もなく、そうすると楽しくない。例えば舞台に上がるとき、人前で演奏するとき、または、おえらい先生方の並ぶ前で演奏しなければならない実技試験のとき、自信があるのとないのとでは心臓の鼓動の回数が全く違う。自信があるときは、リラックスして細部にまで注意の行き届いた丁寧な演奏ができるし、舞台 という特殊な空間と 普段の数倍、数十倍の研ぎ澄まされた意識とによって日頃の練習では出てくることのないインスピレーションが突然湧いて出て動いている指が まるで自分のものではないようにさえ感じられることがあります。(・・・ま、めったにありませんが・・・(ーー;))でも、これは自信があるとき限定です。自信がないときは 全くこれの逆。あそこのパッセージでつまったらどうしよう、あそこの暗譜が自信がないのよね・・・そして、考えることは最悪なことが起こるパターンに行こう行こうと・・・それを、『大丈夫、弾けるわよ。弾ける 弾ける』なんて必死で暗示をかける。(~_~;)体は固くなり、普段の練習どおりも弾けないこと多々。私にとって自信とは、リラックス。・・・と、『自信』 という言葉を考えるにあたって 自分の人生の中でこの言葉で一番ウエイトをしめている事柄で考えてみました。」ぴあのさんにとっての自信は、得意なことと同義語?そして、リラックスとも?でも、不得意なことは、自信喪失?不安や心配の悪循環?自信があると、余裕があるのかな。余裕があるとインスピレーションがやって来たりして、普段よりもすばらしくできたりする。でも、得意なことはいいけど、不得意なことは困ってしまうね。得意なことだけやる?不得意なことは避ける?でも、それだとレパートリーが狭くなる?得意なことを広げる?自信がないと思っていると、どんどん疑心暗鬼が募る。自信がないという思い込みが技術的な未熟さに拍車をかける。でも、自信があるという思い込みは役に立つ。思いがけない好循環となる。なんとか自信があるという思い込みだけを持ち続けることはできないものだろうか。残念ながら、それは不可能。自信というのは相対比較の世界だから、不安定。いつ自信が自信喪失に変わるかもしれない。自信があること自体が、自信喪失のスタンバイ状態。一歩先は自信喪失。「415日目 - 自信 [2]」へ続く
2006.02.20
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今日の屋久島は、暗い曇。今にも雨が降り出しそう。天気予報では一日雨だったが・・・昨夜、NHKの衛星放送で「奇跡の人」を上映していた。たまたま途中から見たが、すばらしい映画だった。たぶん40年ぐらい前に一度見たと思う。まだ中学生か高校生の頃。ヘレン・ケラーを演じたパティ・デュークの名前を鮮明に覚えていた。物語は、目も見えず、耳も聞こえず、喋ることもできない三重苦の少女に言葉を教えるというもの。まさに愛の鞭という感じの映画。親が甘やかして育てたために、どうしようもない我が儘娘になっていたヘレン・ケラーを、悪戦苦闘の末に言葉が認識できるまでにする。モノクロの40年前の映画とは思えぬ迫力。時間の経過に関係なく、すばらしいものはすばらしい!言葉のない状態から、言葉を手に入れるということが人類にとってどういう意味があるのか・・・改めて考えさせられるものがあった。普通の人にとって、言葉があるのは当たり前。この日記でも、どちらかというと、その言葉の持つ弊害について書く傾向がある。言葉が特定のイメージと結びつくことによる弊害。言葉にまつわるイメージに個人差があることによる弊害。いろいろ言葉には問題があるのだけれども、こうやって日記が書けたり、読めたり、コミュニケーションがとれるのは言葉のおかげ。言葉がなければ、ブログ日記は成り立たない。人類史そのものが違ってくる。言葉については、いつかきちんと整理する必要があると思っている。言葉の持つ効力と限界、右脳と左脳の言葉の違いについて、やがて改めて書く時が来るだろう。昨日の書き込みに次のようなものがあった。「私は、人を信じるってとても素敵なことだと思っていました。『無償の愛』なのかと。だから、人を信じる事の出来ない自分を『愛』の無い人間だとネガティブに捉えていました。でも、信じてこなくてよかったのですかね?信じる・信じないは、曖昧な思考...? 難しいけど...『信じたいけど、信じられない』じゃなくて、『信じない』と決めればよいのかな?とりあえず、肩が軽くなった☆わたしでした。」信じることができないということと、信じる必要がないということは、同じではない。信じることができないのは、今生か過去世で深く裏切られた経験があるからだろう。それについては、きちんと向き合ってクリアーにする必要がある。なぜなら、それは裏切られて傷つくことから逃げているだけだから。信じる必要はないけれども、信じることができない状態はニュートラルとは言えない。何かから逃げている人生が幸せであることは、あり得ない。まず、信じることも信じないこともフリーの状態に戻す必要がある。そうでないと、信じる必要はなくても、他の人間関係で必ず支障が出る。自分が責められていると感じたり、自分の立場が危うくなったりすると、すぐに逃げ出そうとする。そういう基本的なパターンに気づく必要があるだろう。信じる・信じないは、結果でしかない。表面的な現象ではなく、原因を直視する必要がある。もちろん、ネガティブに捉えて自分を責める必要はない。ただ事実を明確に理解する必要があるだけだ。信じることは、先の見えない三次元の人生において、極めて尊いことだった。信じるもののために命を捧げることは、人類の美の極みだった。迫害され、磔(はりつけ)にされながらも、信じるもののために殉じる。それは涙なしには語れない愛の結晶。そういう過去世がたくさんあった。自己犠牲という美徳を過去世で経験している人は多いだろう。それは人類史に燦然(さんぜん)と輝く星なのだ。信じることは、ハートや直観をベースにしていることもある。それは美しい。何よりも美しい。それは愛であり、それ故に自己犠牲を厭(いと)わない。そういう信仰も、過去の歴史において多々見られた。それは人類の歴史において、今も美しい香りを放っている。それは肉の身を持つ者にとっての至宝。最高の尊さだ。そういう時代もあった。しかし、時はひとときとして同じところには留まらない。自己犠牲の美しさは既に過去のものとなってしまった。純粋な愛や直観に、思考が加わった。純粋な愛や直観もひとたび思考に捕まれば、思い込みと成り果ててしまう。中東で見られる自爆テロは、アラブやイスラムの人たちにとっては崇高な英雄的行為と映る。しかし、イスラエルやアメリカにとっては、無差別殺人以外の何ものでもない。しかしながら、広島や長崎に原爆を投下したアメリカに、無差別テロを非難する資格があるのだろうか。原爆では無差別テロの何百倍何千倍の人が一度に亡くなった。もちろん、南京大虐殺をおこなった日本にも非難する資格はない。もしかすると、誰も非難する資格はないのかもしれない。なぜなら、自分と違う意見や価値観を持つ人を攻撃したり、非難したりしない人は希(まれ)だ。それは無差別テロと程度の差でしかない。他人は責めなくても、自分を責めていれば同じ。自分の信じるもの以外を攻撃したり非難したり否定したりすれば、やがて、それが無差別自爆テロにつながらないと誰が断言できるだろうか。自己犠牲は美しいけれども、それが敵に向けられる時、憎しみの連鎖を呼ぶ。何がどう間違ってしまったのだろうか。あれほど美しく尊いものであった自己犠牲が、どうしてこんなにも貶(おとし)められてしまったのだろうか。それは思考で信じてしまったからだろうか。思考で信じることによって、純粋な信仰が思い込みに変わってしまったのだろうか。愛や直観から来る信仰ではなくて、思考の思い込みによる信仰によって、すべてが狂ってしまったのだろうか。同じことが、オウム真理教や統一教会などについても言えるのだろうか。巷に氾濫する多くの新興宗教も同じ陥穽(かんせい)にはまっているのだろうか。これまでの歴史的な宗教戦争も、同じパターンだろうか。思い込みの信仰が、自分が信じる以外の宗教を敵と見なし、殲滅(せんめつ)しようとするのだろうか。それは愛ではなくて、自己保存の本能の延長だろうか。神への愛という美名の下、多くの殺戮が繰り返されてきた。それが人類史と言っても過言ではない。美しい純粋な自己犠牲もあった。それが、いつのまにか思考の思い込みによって大量殺人に変わってしまった。圧倒的な自我の力と、ごく少数の彗星のような自己犠牲の煌めき。それがこれまでの人類史だろうか・・・思考が人の意識の中心となり、信じることは妄信・狂信と化してしまった。狂信は狂気となり、やがて凶器に変わる。無差別自爆テロの源は、狂信。つまり、思考による思い込み信仰。今の段階で信じることは、思い込み信仰になってしまう。もう信仰の時代は終わった。それは、はっきりと断言できる。アクエリアスの時代は、クリアーな意識の時代。そんな時代に、信仰は時代遅れ。今も信仰している人たちは、過去世の名残に浸っているだけ。今は信仰している場合ではなく、思考によって曇ってしまった意識をクリアーにする時。次のピュアーな意識の時代に備える時。「信じない」と決めることではなくて、信じる必要がないのを理解すること。明確に見えれば、何も信じる必要はない。「信じない」と決めることは、「信じる必要はない」と信じるみたいなもの。理解すること。理解されれば、後は何もいらない。信じる必要のないことが真に理解されれば、信じるという行為は消える。理解があるところに、信じることはない。理解がないから、信じるという行為が生まれる。明確にクリアーに理解することに尽きる。信じる・信じないの次元から、まったく異なる次元へ飛ぶ。信じる必要もない世界へワープする。赤ちゃんや幼子が絶対的に母親を信頼しているように、疑う余地のない信頼の次元へ。信頼や信じるという言葉が必要のない世界へ。直にありありと愛が感じられる次元へ。愛に満たされ、愛によってつながっている世界へ。思考から愛の次元へ。歌にあるガンダーラのような愛の国へ。さてさて、そんな国があるのだろうか・・・それはいくら言葉で説明しても、実感されることはない。一人一人がその国へ行ってみるしかない。その国はどこにあるの?地図にはない。では、どうやって行くの?磁石はある。磁石?そう、磁石だけは誰もが持っている。どこに?ハートの中に・・・『身を捧(ささ)げ 愛に殉じた 歴史こそ 人の歴史の 無上の至宝(たから)』『敵もまた 愛する心 あるならば 無差別テロは あり得ないこと』『信頼も 信じることも ことさらに 必要のない 世界へワープ!』『ガンダーラ 愛の国は どこにある? 一人一人の ハートの中に』これが414日目の心境です。
2006.02.19
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今日の屋久島は、さわやかに晴れている。朝、水を汲みに行ったら、鳥たちが春モードで歌っていた。もうすっかり春。例年より一ヶ月は早いだろうか。13日の満月から少しずつ月は欠け始めている。それでも、まだ明るい。昨夜もオーラがはっきりと見えた。星も美しかった。月が欠けている時は、これまで蓄えてきたものを整理するのに向いている時期。物質的なものであれ精神的なものであれ、もう必要のなくなったものを整理する。そして、新月の時にすべて、リセット。もう一度ゼロから再スタート。何か新しいことにチャレンジする。それが月のリズム。月だけではなく、それぞれの星にリズムがある。目に見えるものだけではなく、九星や干支というのもある。科学的にはバイオリズムというようなものもある。いろんなリズムが重なっている。自分にとって、わかりやすいリズムを活用するといいだろう。昨夜、日本版の「Shall we ダンス?」をDVDで見た。なかなか面白くできていた。でも、先にアメリカ版を見てしまうと、日本版はいかにも地味。風土の違いを感じる。特にダンスは、アメリカの方が圧倒的にダイナミック。それに、ラストもアメリカの方が遙かに感動的にできていた。後発の強みだろうか。しかし、ヒロインだけは負けていなかった。草刈民代はバツグンにすばらしかった。何がすばらしいと言って、あの姿勢には感服。雰囲気も日本的な繊細さに溢れていた。彼女はハリウッドでも十分通用するだろう。実際、世界的なプリマとして活躍している。もっとも、映画に登場したのは10年前の彼女。30歳ぐらいだろうか。この映画の後、監督の周防正行と結婚。アメリカ版が完成した時、二人仲良く招待された。昨日の信じることと思い込みのワークを、更に深く見つめてみよう。信じると裏切られるは、一対。信じることがなければ、裏切られることもない。信じるが表で、裏切るが裏?裏切られるのは、自分の思い込み。裏切られるとは、想定外ということ。想定内では、裏切られないことになっていた。しかし、結果は想定外。そこで、裏切られたと言って相手を非難する。しかし、相手が裏切ったわけではない。相手は自由に行動しただけ。こちらが勝手に相手の動きを想定しただけ。それが見事に外れたというだけのこと。それは相手のせいではなく、まさに自業自得。自分の想定ミス。にもかかわらず、普通は相手を責める。相手のせいで自分が被害をこうむったかのように主張する。その時、自分の想定ミスは棚上げされている。何度か裏切られる経験をすると、今度は裏切られるのが怖くなり、誰も信じないようになる。これ以上傷つくのがいやなので、自ら信じることを封印する。でも、人を信じることができないと、さびしい。結果、心が揺れ動く。信じたいけど、信じられない。信じれば裏切られそうで、もう一歩深く踏み込めない。それが、あらゆる人間関係に影を投げかける。信じても裏切られないものはないのだろうか。それは永遠の真理だろうか。人は信じても裏切られないものを求めて旅に出る。精神世界という旅へ。しかし、そこにも信じれば救われるという世界が広がっている。救世主やメシアを信じる。グルや教義を信じる。生まれ変わりや永遠の魂を信じる。天国や自己の成長を信じる。それらを信じれば本当に救われるのだろうか。救われる場合もある。但し、それが永続するという保証はない。いつ裏切られるかもしれない。なぜなら、信じることと裏切られることは表裏一体だから。それは精神世界も一般世界も変わらない。自分の想定外のことが起きれば、いつでも裏切られる。自分が想定した時点で、裏切られる準備をして待っているようなもの。いつでも裏切られるスタンバイ状態。相手は裏切ろうとは思っていない。しかし、こちらの想定外のことをすると、裏切ったと見なされる。それは精神世界、一般世界を問わない。なにしろ信じる・裏切るの世界は、信じた人の想定範囲にかかっている。その想定範囲が狭ければ、すぐに裏切られる。想定範囲が広ければ、裏切られるのに時間の余裕がある。ホリエモンは拘置所に入ることを想定していただろうか。もし想定していれば問題はないが、想定していなければ、世間に裏切られたと思っているだろうか・・・信じれば、裏切られる!場合が多い。それは自分の狭い了見で信じるから。想定範囲がこれまでの自分の人生に限定されているから。人は自分の経験を通して物事を見ている。結果、自分の過去からしか想定できない。だから、不確定な未来に、すぐに裏切られてしまう。未来は過去の繰り返しではない。未来は常に想定外のことに満ちている。信じた途端、同時に裏切られる高いリスクを背負うことになる。それでも、信じる?それとも、信じることをやめる?絶対に裏切られることのないものがある!と言ったら、信じる?もう何も信じない?絶対に裏切られないもの。それは信じることの必要のないもの。信じる・信じないの次元を超えたもの。比較・相対の思考の次元を超えたもの。そこでは、既に信じるという行為そのものが存在しない。なぜなら、信じる必要がないから。誰の目にも明らかなものは、信じる意味がない。信じる・信じないという次元は、不明瞭な世界。はっきりしないから、信じようとする。あるいは、はっきりしないから、信じることを躊躇(ためら)う。明確であれば、何も信じる必要はない。信じなくてもクリアーに生きていける。要は、そのようなクリアーな意識で生きることではないだろうか。何事も明確に見えるクリアーな意識であれば、信じる必要はまったくない。意識が曖昧だから、信じようとするだけ。意識が明晰ならば、何も信じる必要はない。そもそも信じるというのは、自分に自信がなくて、何かに寄りかかろうとする行為ではないだろうか。信じれば救われる?から、信じようとする?救いを求める弱い心?自分の足だけでは立っていられない弱い意識?だからこそ、救いを求める?しかし、その救いは弱い意識が想定した範囲内のもの。弱い意識は必死に縋(すが)ろうとするが、ガラスのように繊細な想定範囲はすぐに破られてしまう。疑いが生じ、やがて裏切られたという気持ちに変わる。信じたものに裏切られるのに、そんなに時間はかからない。何ものにも裏切られない生き方。それは何も信じないこと。何も信じないで、クリアーに生きること。裏切られるのが怖いから信じないのではなく、信じる必要がないから信じない。そういう選択肢もある。ある次元まで行けば、そういう選択肢しかない。信じる・信じないの次元を抜ければ、信念や信仰は無用の長物。ただ事実と共に生きればいいだけ。いつまでも信じる・信じないという曖昧な思考の次元にいないで、スッキリさわやか、クリアーな次元で生きればいい。自分を理解すれば、その空間が待っている。いつまでも泥沼の中で生きていたい?それとも、泥沼から咲く蓮の花になる?『信じれば 裏切られるのは 当たり前 自分本位の 想定範囲』『信じれば 相手を縛る ことになる 想定外の 自由認めず』『信じれば 応えてくれる 人ならば 信じなくても 応えてくれる』『泥沼を 抜けて花咲く 蓮の花 地上の穢(けが)れ 残すことなし』これが413日目の心境です。
2006.02.18
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「信じることと思い込み [1]」の続き次は、たろうくんですね。「『自分が信じていることや自分が思い込んでいることを、自分の日常生活を通して発見してください。』光のkimiさんのホームワークに参加し始めた頃の自分なら、きっと信じていることや、自分が思い込んでいることは沢山あったと思います。でも、いま自分が信じているものは、自分自身です。どんな状況が目の前に起こっても、そのときの自分を何の判断もせずに信じてあげる。そのような意識をもって、今を体験しています。そして、その意識で自分を見つめ生きていると、自分の思い込んでいることは、自分のイマジネーションの世界であり、それはありのままの真実ではないと感じるので、日常生活の中で起こる思い込みも、少なくなってきているように思います。ただ、自分を信じて見つめていても、まだまだその瞬間を居切る自分になれていないことを、実感することの方が多かったので、信じていると思い込んでいる自分がいると感じました。『信じることと、思い込んでいることの違い』信じているものには、自分の意識が集中しているように感じます。だからとても敏感で、何かあればすぐ反応してしまう。思い込んでいることは、自分ではあまり気付かなくて、周りの人に言われて、初めてそれが、思い込みの意識と気付くことの方が多いと感じます。こう書き出すと、違う性質のように感じますが、二つとも同じだと感じます。なぜなら、その思いに依存している自分がいるように思うからです。」自分自身を信じている?信じていると思い込んでいる自分がいる?なぜ自分自身を信じるの?なぜかな・・・信じている方が顕在化していて、思い込みの方が潜在的?程度の差?面白い捉え方だね。二つとも同じ?その思いに依存している自分がいるから同じ?ということは、自分を信じていると思い込んでいるたろうくんは・・・依存?なに?異存あり?次は、ぴあのさんですね。「ホームワークが出てからこちら、自分の信じていること思い込んでいることを見つけ出すためアンテナをたてて自分を見つめ 生活をしていましたが、思い込んでいること というのは特に何もありませんでした。でも、昨日、間際になって出てきました。ここのコメント欄に書いた、kimiさんは男性だから母親の気持ちはわからない ということ。これは 私の思い込み ということになるでしょう。信じていることは 人との深い部分での繋がり、愛、調和、信頼。愛や調和や信頼が たとえ表面的な部分で乱れる ということがあったとしても深い部分ではそれらは繋がっていて 全く心配がないということ。そういうことを信じています。信じていることは、私にとって直観、理由のない確信。思い込んでいることは 根拠のないもの。ただの私の想像。」信じていることは、直観?思い込んでいることは、ただの想像?直観は、事実ではないの?事実は、信じる必要があるの?まだ事実とはなっていないので、信じるのかな?アーン、こんなことを書くと、また氷の君とか言われるかも?アーン、アーン、世界中の母親に嫌われそう?アーン、アーン、アーン、ありもしないことを想像して、これも思い込み?被害妄想君の卵の黄身でした。次は、えりさんですね。「信じていることは、自分を信じる事、周りを信じる事ということです。でも、自分に自信がないときはできません。思い込んでいることは、人と反対の意見を言うと良くないということです。以前にこれで友達を無くしたので(これだけじゃないと思いますが)なかなか抜けません。」自分と周りを信じている?そんなに簡単に信じていいの?騙されたりしないの?世の中には悪い人もいるかもよ。でも、自信がない時は信じない?条件つきの信じますなんだね。それでは周りの人はどうなるの?信じられたり、信じられなかったり?えりさんの自信しだい?人と反対の意見は言えない?なかなか苦しいものがあるね。でも、実際、あまりストレートには言わない方がいいかもね。ストレートに反対されて喜ぶ人は少ないでしょう。でも、別の言い方を工夫するといいのかもね。違った角度から表現してみるとか。自分の感じたことを言ってあげた方がいい時もあるでしょう。言い方を工夫すればいいんじゃないかな。「人と反対の意見を言うとよくない」という思い込みは、なくてもいいかもね。最後は、えっちゃんですね。「バレンタインなので、山仕事のメンバーにプレゼントしたいと思った。迷惑かなって躊躇した時の想い。私は人に喜ばれたいと思う。自分のことをどうにか思って欲しいわけでなく、喜んで欲しい。だから、いろいろ思い立ち、実行しようとする。ただ、相手はどう思うかわからない。だから、それが受け容れられなくても仕方ないと思うようにする。時々、想いが前のめりになって、うろたえるけれど・・・。これは、日常よく直面する自分の癖。けれど、それは所詮自己満足。誰に望まれたわけでなく、自分の思い込みのなせる業。そこに、私の想いの支えとして信じられるものは、私は、相手に喜んでもらいたかったんだという想い・・・。信じるというのは、思い込みの更に強烈なもの。始末におえない。ただ、日々何かをする場合、自分なりの定規やレールがないと、一歩も足がでない。だから、思い込みの極みでも、信じるものをもって動くしかない。いつもよくやるもうひとつの癖。私は、堅苦しい事が苦手。話をよく茶化す。けれど、これを面白いととるか、不愉快にとるかは相手の領域。私は、信頼なりがあって、私が冗談を言ってるんだと思ってくれそうな相手に言ってるつもり。自分で勝手にそうと決め込んで。全て思い込み。けれど、それが私なんだと、受け入れてくれる友達もいる。何処までが、誰までが、いつなら、何処なら・・・それが許されるのか、私の思い込み判断が決めている。ここでも私としては、自分は真面目に対応しているんだ。・・・というのが自信。傲慢かもしれない思い込み。思い込みや自信をはずしても、手や足は出せるかな?」何かをする場合、自分なりの定規やレールがないと、一歩も足がでない?思い込みの極みでも、信じるものをもって動くしかない?思い込みと自信ベースで生きているのかな?でも、思い込みが外れることもあるよね。その結果、自信を喪失する。それでも、やっぱし思い込みと自信ベースに生きるの?思い込みと自信に、思い込みと自信があるのかな?それが自分を支えているのかもね。その支えによって自分を維持できている?なんとなく脆(もろ)い支えだけどね。それが、えっちゃんのアイデンティティ?ウーン、危ないなぁー。今にも崩れそうなアイデンティティだね。別にそれを否定はしないけど、ちょっと心配かな。いつまた傷つくかもしれなくて・・・卵の黄身は、何も信じてはいない。信念・信仰=ゼロ。その方がクリアーに生きれる。でも、クリアーすぎてコートがいるかも。寒がりの人向きではないかも。いーっぱい信じるものと思い込みで厚着して生きる?どちらでも可能。厚着している方が、いろいろファッションは楽しめるかも。何も着てないと、ファッションショーはできない。その代わり、すぐに海に飛び込んで泳げる。砂浜で遊んでも、汚れる心配はいらない。まあ、子供みたいなもの。やっぱ、大人の方がいい?子供の方が自由かもよ・・・またまたホームワークがあります。今回は、今日も何回か出てきた「自信」ということです。自信とは何でしょう?自分にとっての自信とは何でしょうか。なに?自信がない?そんなことを言わないで、自信を持って回答してね。締切は、20日の午前8時。参加は自由です。書き込みはBBSにお願いします。『信じても 信じなくても 変わらない 思いの世界 出ないことには』『信じます 信じませんの 世界から 事実ベースの 世界へ移る』『信仰も 信念もまた 思い込み 善し悪し以前に 次元が違う』『一切の 信じることを 排除して 事実と共に 生き切ってみる』これが412日目の心境です。
2006.02.17
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今日の屋久島は、風が強いけれども晴れている。マウスとキーボードを今日から変えた。新しいマウスは、レーザー式。これまで使っていたものは、ボール式。光学式を飛び越えて、一気に最新バージョンへ。さすがに性能がいい。速いし正確。ボール式は、かなりまどろっこしいところがあった。新しいキーボードも使いやすい。人間工学に基づいた変な形をしている。でも、慣れれば、これまでのものより楽だろう。なんとなく人に優しい感じがする。モニターが壊れたのをきっかけに、パソコン本体以外はすべて一新。マウスやキーボードは、そんなに高くはなかった。にもかかわらず、パソコンが一新されたような気分になっている。驚いたのは、キーボードを探していたら、980円ぐらいであったこと。ポイント分を差し引くと、実質、750円ぐらい。そんな金額で、よくキーボードができるものだと思ってしまう。マウスも安いものは2000円もしない。パソコン本体以外は、それほど高いものではない。今年中には、Windows XPの次のOSが出ると言われている。来年ぐらいになって、それが安定したら本体も新しいのに買い換えることになるのだろうか。最近のものはCPUがD(デュアル)に進化しいるので、早めに買い換えたいと思っている。ホームワークを見ていくことにしよう。今回の課題は次のようなものだった。「自分が信じていることや自分が思い込んでいることを、自分の日常生活を通して発見してください。期間は三日間です。この期間内に自分が信じていることと思い込んでいることを、できるだけたくさん見つけ出してください。自分の再点検ですね。それらのものは日常の何気ないことの中に隠れているものです。それらを書き出したら、信じることと思い込むことの違いについても見つめてみてください。どういう違いがあるか、それとも同じか。よーく自分を見つめてみてくださいね。」最初は、藍&aiさんです。 「子どもの頃から母はある宗教をしていました。藍も10代で大きな悩みにぶつかり生きるか死ぬか、自分が壊れそうになる中、すがるように母に勧められて入会しました。それから30年、その宗教をやってきましたが、2001年頃から、様々な疑問にぶつかり悶々として今はそこから遠ざかっている状況です。その宗教は、他の思想や宗教すべてを認めず悪と言い放つようなところでした。そして、ここから離れると必ず不幸になると、ずーっと聴かされていて。だから、いま、そこから離れている藍は、そのときに聞かされていた言葉の数々が亡霊のように今も自分を苦しめています。ときどき、このまま行ったら、あたしは地獄に堕ちるんじゃないかって不安になることもあります。でも、もうこの宗教には戻れない。そんななか、このKIMIさんのページに辿り着いたんです。この中で言われていることは、いままで信じてきたこととは懸け離れていて驚きの連続です。それでも自分が今も信じていることはあります。それは、人を苦しめるようなことをすると必ず自分に帰って来ると言うこと。父から虐待を受ける中自然に感じたことかもしれません。この藍の信じていることも、もしかして思い込み?信じることって人の行動も左右すると思います。もし、少しでも信じることが出来なかったら、藍はここには書き込みなどしないでしょうし。。人間付き合いも食べると言う行動ひとつとっても、そこには信じるということがあるからだと思います。この人は、自分に害を及ぼすと思ったら付き合わないだろうし、この食べ物に毒がないって信じられるから当然のごとく食べているのだろうし。間違ったものを信じると不幸になると、ずーっと教えられてきたけれど、その、間違ったものって何?どこを基準にしているの?正義って何?正しいって何?悪って何?ほかにも、いろろなものがぐるぐると藍のなかでクエスチョン???何故?と回っている状況です。いまは過去の信じてきた宗教から離れて、こころが穏やかになっているのが現実です。でも、思い込みだと思いますが十代の頃から教え込まれた?ことは、なかなか抜けてはくれません。信じることは、ある意味恐ろしいことなのかもしれません。それが集団になったら、まさにカルトでしょうか。。?人が幸せになるために信じている宗教なのに、いつの間にか人の不幸をこころから願うようになっている人もいるのですから。。上手く言えませんが、信じることも思い込み間違いをするととんでもないことになります。宗教って幸せになりたいから信じるのですよね。。?でも、宗教を信じて不幸せになる人もいます。いや、これも思い込みかしら。。?自分がそこにいてクエスチョン?ハテナ??と思うことに素直に従って、そこから離れて、いまは良かったと思いますが、そこから離れたら不幸になるのでは?という思い込みの亡霊は、まだまだあたしからは抜けてはくれません。いまに不幸になるよって、きっとその宗教を信じているあたしの周りの人たちはそう思っていることでしょう。現実に、そういった言葉は嫌と言うほど聞いてきましたから。。ああ。。もう嫌です。こういったことを書いている自分が。。。でも、ここに書いていたい自分も存在する。過去の宗教の亡霊の呪縛から抜け出したくて。。」宗教によるマインドコントロールですね。オーム真理教の事件でも統一教会の騒動でも話題になりましたね。一度染み込んだ信念体系を変えるのは、なかなか大変なことです。その宗教から離れると不幸になるというのは、よくあるパターンですね。でも、そういう場合、ほとんどは以前より不幸にはなっていません。たいていは、以前より幸せになっています。なぜなら、そういう経験をし、それをクリアーしたから。何事も、そこから学べばいいのです。ですから、何も心配はいりません。東京から新幹線に乗れば、二時間後には大阪に着くことを藍&aiさんは信じますか。今どき、そんなことを信じている人はいないでしょう。それは当然だと、みんな思っているでしょう。でも、江戸時代であれば、江戸から上方まで二時間で行けるなんて、誰も信じなかったでしょう。普通の人がロケットに乗って宇宙空間に出れる。10年前であれば、信じる人は少なかったでしょう。でも、現実に行った人が出てしまえば、それは可能なんだと誰もが思います。信じる・信じないというのは、そういうレベルではないでしょうか。目の前の事実となれば、誰も信じる人はいません。信じる必要がないのですね。わからないから、信じる・信じないという話になる。事実ベースで生きれば、何も信じる必要はありません。実際、卵の黄身氏は何も信じていません。まったく信じるものはありません。なぜなら、信じる必要がないからです。事実ベースで生きています。何も信じなくても、別に何の支障もありません。クリアーに生きれています。信じるというのは、そもそも何かの拠り所がほしいということでしょうか。拠り所を求めていなければ、信じる必要はありません。何も信じなくても人は生きていけます。赤ちゃんや幼児は何も信じてはいません。赤ちゃんが教会で洗礼を受ける時、ほとんどの赤ちゃんは嫌がって泣き叫んでいます。赤ちゃんにとっては、迷惑な話なのです。もちろん、動物、植物、鉱物、みんな何も信じてはいません。それでもちゃんと生きています。信じなければ生きていけないわけではありません。どちらかというと、信じない方が自由に生きていけます。信じると、信じたことに縛られるのです。藍&aiさんが今も縛られているように・・・事実ベースで生きたらどうでしょうか。食べものに毒が入っていたら?慎重に注意深く生きるしかありません。BSEの牛もいれば、食中毒もあるのですから。不注意であれば、信じるものがあるなしにかかわらず、ケガをします。ただそれだけです。何が正義か、何が悪か?それは見方であり価値観ですから、それぞれ異なるでしょう。客観的、絶対的なものはありません。それこそ思い込みの世界です。正義や悪、正しい間違っているの世界は、思考の次元です。思いの世界に住む限り、価値観の違いによる争いは絶えません。思いの世界ではなく、事実ベースで生きる時、争いのない世界が開く可能性があります。平和で心安らぐ世界に住みたかったら、事実ベースで注意深く生きることでしょうか。「信じることと思い込み [2]」へ続く
2006.02.17
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思いの世界 [1]の続き次は、ぴあのさんですね。「苦しみ というのは自我があるから出てくるものだと思います。自分には苦しみであっても他の人にとっては苦しみでも何でもない ということはたくさんあります。その人の価値観だから。『自我』 『私』 がなく、何の判断も評価もしないとき、苦しみはない と思います。 と言っても、実際子供が病気になったり亡くなったりするととても苦しむと思いますが・・・でも、これは 姿、形をこえたところでふれあえるかどうか ということですよね。地上から消えてもふれあえる関わり・・・(非常に難しいですが・・・)楽しみ”だけ”というのは 自我のない状態でハートが開いた時に可能だと思います。 ほとんどのこの世的な楽しみは 苦しみと表裏一体だと思います。いつ苦しみに転換するかわからない 不安定なもの。それは、『自我』 『私』 が楽しんでいるから。ハートが開くと、自我ではなく 表面意識を超えた内奥が喜びに満たされる。『私』 という小さな檻のなかの自分が楽しむのではなく、自我を手放してハートを全開にしたとき 苦しみのない楽しみだけの世界が可能になると思います。」苦しいと思わなければ、苦しみはない。そのことが、その人にとって苦しいことかどうかは、本人が決めているだけ。その決めつけをやめればいいだけ。それで苦しみはなくなる。元々苦しみなどはない。肉体的な苦痛はある。しかし、それは事実。それについて、あれこれ思い悩むから、心理的な苦痛となる。ずっと治らないのではないか、更にひどくなるのではないか、このまま死ぬのではないか・・・それは肉体的な苦痛を遙かに上回るエネルギーの消耗。そういう思いや悩みは必要?別になくてもいい?そういうものを外していく。ただ肉体的苦痛と共にいる。そうすると極めてシンプルになる。それだけでなく、苦痛の意味がわかってくる。苦痛があるところへ必然的に意識がいく。その結果、ヒーリングエネルギーが流れることになる。否定的なよけいな思いがなければ、かえって早く回復する。思い悩むことが更に苦痛を長引かせる。苦しみという言葉を自分の辞書から削除する。そうすれば苦しみはなくなる。それは自分が認定している以外の何ものでもないから。子供が病気になったら苦しむ?苦しむ暇があったら、もっと心から看病したら?苦しんでいる場合ではないでしょう。そんなネガティブなエネルギーを出したら、子供の病気は更に悪化してしまう。一切心配しない。できるだけのことをする。ただそれだけ。極めてシンプル。亡くなったら苦しむ?それは執着と言うもの。亡くなった子は、別の世界で暮らすだけ。どうして自分の世界へ連れ戻そうとするの?自分の所有欲以外の何もの?亡くなったら、自分から奪われたと思うから苦しむの?亡くなったら、もう一緒に暮らせないと思うから苦しいの?すべて思い。思い込み。何も思わなければ、苦しくはない。事実と共にいる。よけいなことは考えない。苦しみは自分が生み出しているだけ。亡くなった子は、自分の人生を生きている。それを押しとどめることはできない。それは母親の我が儘。子供を自分のものと思い違いしているだけ。子供には子供の人生がある。それがどんな人生であれ、そのままを祝福するしかない。嘆かない。それは子供を嘆いているのではなく、自分を嘆いているだけ。子供に見捨てられた自分を可愛そうだと思っているだけ。自作自演。苦しみは自作自演。それ以外の何ものでもない。思い込みがつくりだす幻想の苦しみ。事実と共に生きる。居切る。よけいなことは考えない。相対的な苦しみや楽しみが存在する思いの世界を抜けて、別の次元へ出る。そこには苦しみはない。もちろん、苦しみと裏表の楽しみもない。でも、相対的ではない別の何かがあるかもしれない。苦しみの裏返しではない楽しみ。悲しみへ反転しない喜び。絶対的な楽しみや喜び。まさに嬉し楽しの世界。ハートベースで生きれば、そのような世界が開くだろうか。思考を理解し、思考の次元を超え、ハートベースに生きる時、まったく違った世界となるだろうか。それがアセンションということだろうか。それがこれからやってくる新しい時代だろうか。そのための露払い日記?所有しない。何ものも所有しない。瞬間・瞬間楽しみ、瞬間・瞬間終わらせる。波動が速いとは、そういうこと。いつまでも執着するのは、波動の遅い世界。思考=思い込みの世界。あっさりと、さわやかに生きている人は、人気がある。重たく、いつまでも引きずっている人は、人気がない。みんな軽やかな生き方を求めている。にもかかわらず、自分は重たく生きている?この辺で、もうそろそろ軽やかに生き始めたら?もう重たいのは十分体験したでしょう?まだやりたい?まだ体験し尽くしていない?どちらでもいいけど・・・別に強制はしない。いろんな生き方を提示しているだけ。決めるのはあなた・・・ここまで書いて、校正をしていたら、藍&aiさんから回答が届いた。締切は10時では?もう13時を軽く過ぎている。うーん、構成がメチャクチャになる?苦しい?なんの。大丈夫?苦しまないもの。ホント?ホントよ。苦しまないの?そうだよ。つまんないの。ハ?藍&aiさんからの回答は次のとおり。「苦しみって精神の世界のなかだけではないように思います。不治の病に侵されていくときの苦しみ、痛み不安感や絶望感のときに人って、どうやって楽しみを得るのだろう。。?苦しみも楽しみも思うに肉体と精神と連動していると思う。食べるものもなくひもじくて、真冬なのに暖もとれなくて凍える寸前に自分だけじゃない家族や子供たちまでも。。となったら、どう感じるのだろう。。?そんななかでも楽しみってみつけられるのだろうか。。?アンデルセンのマッチ売りの少女は、そんななかでも温かい天国を感じることが出来たけれど。。ある程度の豊な状況でだったなら、どんな困難なことが起きても悠々と乗り越えられるだけの精神力があれば苦しみのなかでも楽しみを感じることは容易なのだろうか。。?そう、命が光り輝いていたなら。。。自分の子供が、もし人を殺めるような犯罪を犯したとしたらそんななかでも悠々と楽しんでいけることってあり得るのだろうか。。?いま。。あたしがこんなことに想いを巡らせられるのもある程度の生活の基盤があるからなのかな。。?もし、あたしが生きるために、健康ではない身体に鞭打って必死で昼夜働かざるを得なかったら、こんなことを想っていられるのだろうか。。?いろいろな疑問がうかびます。。。まだまだきりがないくらいに。。。藍は、起こるとは限らないそんな亡霊のような苦しみに恐れおののいています。これこそ。。思い込みの亡霊ですね。でも、日々不安で仕方ありませぬ。。。いまは大丈夫でも そのうちに苦しみの世界に行くよ。。そう囁かれているように感じるのです。」不治の病に冒されていく時?苦悩にのたうち回る人もいれば、生死を超えた美しい世界に入る人もいる。花の色、鳥の声が、こんなにも美しいものだったかと初めて気づく人もいる。病になって知る人生の真実ということもある。不治の病になったら、不安や絶望と共に生きなければならないと決まっているわけではない。エイズになり、一度は不幸のどん底に沈み、そこから回復する人もいる。餓死しそうになったら?落ち着いて生きる道を探す以外にないでしょう。悩み苦しんでいる場合ですか。必死に生きるのですよ。亡霊のような苦しみに恐れおののいている?戦争中は精神病の人は激減する。そういうデータがある。よけいなことを考えている暇がないから。生きるだけで必死だから。苦しみや心配は、暇つぶし?そのうちに苦しみの世界に行くよと囁かれている?そのうちにではなく、今、苦しみの世界にいるのでは?周りの状況は関係ない。すべては自分の心次第。心次第で天国にも地獄にもなる。ただそれだけ。いかなる時も冷静に生きる。最後まで諦めない。ギリギリまで見極める。よけいなことは一切考えない。そうすれば、悩みも苦しみもない!『苦しいと 思えばそこで 苦しみの 思いの世界に 入り込むだけ』『苦しみの 原因見れば ただ一つ 思考がつくる 思い込みだけ』『苦しみの 実体見れば 思い込み 苦しみなどは 本来はない』『毎日を 思考ベースで 生きる時 悩み苦しみ 種は尽きない』『毎日を ハートベースで 生きる時 悩み苦しみ 生まれる余地なし』『何もかも 思い込みだと 気づいたら 事実と共に 生きていくだけ』『自(みずか)らの 思いを見つめ 注意して 思いの世界に のめり込まない』『何事も 事実ベースで 生きる時 苦しみ消えて 事実あるのみ』『人類の 課題は一つ 思考から ハートベースに いかに移るか』『人類の 救いの道は ただ一つ ハートベースに 転換すること』『思考から ハートへ向かう 分岐点 幸せの道 目の前にあり』『アセンション その実体は 思考から ハートベースに 移行すること』『アセンション 思いの渦の 世界抜け ハートベースで 生きる幸せ』『難しい ことはいらない ただ一つ 思いの世界 抜ければいいだけ』『世を覆う 思いの雲の その上は 澄んだ青空 光る太陽』これが411日目の心境です。
2006.02.16
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今日の屋久島は、朝方は激しい雨と風だったけれども、だんだんと青空が見えてきている。ホームワークを見ることにしよう。テーマは次のようなものだった。「苦しみのない楽しみだけの方法はあるだろうか。それはどういう方法だろうか。」提出順に、えっちゃんから。「楽しいだけになるには・・・ハートを開きなさい!って言う声が聞こえてきそうに思います。でも、ドアの場所聞いたけど、鍵穴が見つからなくて・・・。それに、楽しいだけっていうのはつまらないですね。笑顔も、ず~~~っと笑顔を維持出来ない。練習して出来るとしてもビジネス笑顔になりかねない。やはり、思わず顔がほころびて笑顔が生きる。楽しいもそんなもの。湧き上がる楽しさがキラキラうれしい。しんどい事を無しには出来ない。槍も飛んでくるし、苦痛も、苦悩もある。ただ、それに打ち負かされないで、達観できればいいなあと思う。後まで、引きずらないで、流せたらいいなあと思う。そして、生きてるっていろいろあって楽しいじゃないかって心から思いたい。今の私は、そうなればかなり楽しい。」楽しいだけっていうのはつまらない?いろいろあって楽しい?山あり谷あり、一喜一憂・喜怒哀楽が人生の醍醐味?それを達観できたらいい?引きずらないで流せたらいい?達観するとはどういうこと?一喜一憂しつつ、それを達観している?それって見守りとどう違うの?引きずらないということは、瞬間・瞬間生きているということ?それだったら、悩みや苦しみがあるの?達観や引きずらなかったら、もう悩みや苦しみはないかもよ。両方ほしい?贅沢だね。でも、歴史的には聞いたことないな。片方だけでしょう。次は、まこぴ777さんですね。「同じことしても自分に自信を持ってるときって怖いもの知らずっていうか 未知に挑戦しても楽しいことが多いような気がするんです。で 自信が無い時ってなんでもないようなフツーの言葉にもへこんじゃったりするんですよね。」確かにそれは言えるよね。前向きに生きている時は、逆風でも耐えていける。でも、後ろ向きだと、すぐに負けてしまう。生きる姿勢の問題かな。絶えず前向きであれば、苦しみはない?前向きであれば、何でも楽しめる?後ろ向きの時にだけ苦しみがある?前向きにすべての物事を楽しめたら、苦しみはないかもね。何事も苦しいと思わなければ、苦しみは存在しないのだから。いかに前向きに、すべてのことを楽しむか。それが鍵かな?次は、優しい気持ち2005さんですね。「正直、わかりません。本来、楽しみだけが存在することってあるでしょうか。この世で起こるいろいろな出来事、現象は、本来、色がなく、ただ冷徹な事実があるだけ。それに人が主観で色をつけて、比較することではじめて、その現象から楽しみという感情が生まれるように思います。楽しみだけの状態では、楽しみということすらありえない、そのような気がするのですが。つまり、その人の主観と比較があっての楽しみと苦しみ。時計の振り子のようなバランスの世界。心がニュートラルになれば、楽しみもなければ苦しみもない。それとも、静かな心境において、楽しみが持続する?大きな苦しみがあっての、大きな楽しみ?僕は大きな苦しみを抜けたときに大きな楽しみを得るし、そうでなくとも、大なり小なり苦しさと楽しさが常に同居しています。」思考の世界は相対の世界。苦しみがあることによって楽しみがある。片方だけということはない。確かにそのとおりですね。あるのは事実だけ。それに楽しみや苦しみという名前をつけて区別している。その区別も個人によって異なる。だから、楽しみも苦しみも個人差がある。絶対的なものはない。比較の世界にいる限り、苦しみはあり続けるかもしれませんね。苦しみの反対としての楽しみの世界にいる限り、楽しみには常に苦しみが伴うでしょう。苦しみを伴わない絶対的な楽しみのためには、相対の世界から抜けるしかありません。相対比較を超えた楽しみというものは存在するのでしょうか。絶対的な楽しみというのはあり得るのでしょうか。次の世は、嬉し楽しの世界になると言われています。それは苦しみや悲しみのない世界です。そういう世界になる必要条件は何でしょうか。次は、たろうくんですね。「意識をどこにフォーカスするかだと感じました。自分が苦しいと感じていることが、他の人には苦しくないことだと感じるように、その苦しさも自分の思い込みだと気づくことだと思います。」苦しみも、また思い込みだよね。客観的な苦しみというものはない。苦しみには常に個人差があり、程度の差がある。それは各人が思い込んでいるだけだから。ということは、その思い込みを外せば、苦しみはないことになる。同じ状況でも、まったく苦しまない人もいる。思い込みが外れれば、苦しみはない。まさに単純明快。しかし、この回答では賞金は500万円かな。なぜ?問題は、『苦しみのない楽しみだけの方法はあるか』というもの。これでは前半の答にはなっているけれども、後半の答が足りない。思いの世界 [2]に続く
2006.02.16
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今日の屋久島は、少し蒸し暑い。夜中は強風が吹き、雨が降ったりしていたが、朝になったら太陽が出ていた。以前、「50回目のファーストキス」というDVDを見た。ハワイが舞台のラブロマンスだった。それは恋人の女性に短期記憶喪失という障害があるため、毎日がファーストキスとなるストーリーだった。彼女は交通事故の後、記憶が一日しか保てなくなってしまう。交通事故に遭うまでの記憶は残っているが、それ以降の記憶はまったくない。その結果、恋ができなくなってしまう。数日前に、テレビで「恋は記憶でつくられる」みたいなタイトルの番組が放送された。恋人同士を調査した結果、恋人の姿を認めると脳の特殊な場所から特殊なホルモンが出ることがわかった。それが恋のホルモンらしい。しかし、それも記憶がないと出てくることはない。なぜなら、相手を恋人と認識できないと、そのホルモンは出ないのだ。相手の姿と過去の記憶とを照合し、相手の姿から過去の甘い記憶が甦る時、相手は恋人と認識される。その結果、恋のホルモンが出る。但し、それは2年間しか続かない。というのは、恋のホルモンが出ている状態は、ハラハラ・ドキドキの興奮状態。それは恐怖や怒りなどの状態に似ているらしい。その状態では不安定なので、安定するために2年間限定となったようだ。恋は最長2年間しか続かない?それが現時点での科学による結論。「50回目のファーストキス」という映画には、記憶障害のために精神病院に入っている人もたくさん登場した。数分で記憶が消えてしまう人もいた。その結果、数分後には「初めまして」ということになる。その繰り返し。それでは日常生活はできないので精神病院暮らしとなったのだろう。主人公の男性は、恋心を抱いて彼女に毎日会いに行くが、彼女は毎日が初対面。その結果、彼は毎日、最初から恋を始めなければならなくなる。その日の彼女の気分によって、恋人気分に浸れる時もあれば、痴漢まがいに扱われる時もある。過去の記憶が持続していないと、恋は成り立たないのだ。もちろん、彼女には交通事故以降の時間は存在しない。交通事故までは歴史があった。しかし、その後の歴史は存在していない。時間は、記憶と思考によって成立する。記憶がなければ時間も存在しない。赤ちゃんや幼児に時間の観念はない。もちろん、動物にも。動物にも記憶はあるが、記憶の絶対量と思考力が不足している。それでは時間は生まれない。つまり、時間は記憶と思考の産物。赤ちゃんや幼児には時間の観念がないと書いたが、まさに時間とは観念に他ならない。記憶力が破壊される時、時間も破壊される。それだけではない。記憶が破壊される時、「私」も消える。交通事故で過去の記憶が消える時、「私は誰?」ということになる。アルツハイマーになっても同様。「私」=自我も記憶がなければ存在できない。「私」は記憶をベースに思考が作り上げたイメージ。記憶力と思考力が発達した時にのみ存在するもの。赤ちゃんや幼児や動物には、「私」=自我は存在しない。記憶がなければ、時間もない。記憶がなければ、「私」もない。記憶がなければ、恋もない。何もない?記憶がなければ、思い込みワールドは脆(もろ)くも崩れてしまう。大多数の人は記憶+思考ベースで築かれた思い込みワールドに住んでいるだけ。他人(ひと)からどう思われるか。他人にどう見られるか。自分がどのように評価されているか。周りに映る自分=「私」=自我。それがとてつもなく重要になっている。恋をすると、それが端的に現れる。相手は自分のことをどう思っているだろうか。そればかりが気にかかる。相手の些細な言動や動作で、嫌われているのではないかと思い悩み、傷ついたりもする。それはまったくの思い込みワールド。自分がどう相手に思われているか、それが恋する者の最大の関心事。恋とは、甘い記憶に浸ること。また再び甘い記憶を求めること。いつも恋人と一緒にいたい。いつも甘い雰囲気の中に浸っていたい。恋は記憶ベースの出来事。それは別名、執着と呼ばれることもある。失恋すれば、それが誰の目にも明らかとなる。いつまでも前の恋人にこだわる。楽しかった思い出に耽る。今頃、相手はどうしているだろう?最後は、いつも今の境遇に涙する。完璧に記憶ベースで生きている。記憶+思考=思い込み。ほとんどの大人は、思い込みワールドで生きている。しかし、もうそろそろ、そこから卒業してもいい時期かもしれない。思い込みワールドから別の世界へ。それは、ハートベースの愛の世界。三次元から五次元へアセンションする時が近づいている・・・卒業するための最短コースは?本当はこれもホームワークにしたいところだけれども、あまりにもホームワークが多すぎると、誰も卒業できなくなってしまう?ので、泣く泣くホームワークはやめにする。卒業するための最短コースは、そのコースを味わい切ること。思いっきり体験し、そのコースを理解すること。躊躇しない。恐れない。積極的に飛び込んで、たくさん体験した人の勝ち?そして、それを総括し、三次元ワールドをマスターする。つまり、記憶と思考がつくり出す思い込みワールドのメカニズムを理解する。その手助けをするために、延々と長い日記を書いている。読むのも、ご苦労さん。書くのも、ご苦労さん。こんな日記は早くクリアーして、次の世界へ行こう!(と言いながら、実は書いている本人が一番こだわっていたりして?)次の次元は、ハートベースの楽しい世界。争いのない平和な世界。そのためには、そこに争いを持ち込んではならない。そのためには、ここで争いのメカニズムをマスターする必要がある。そのためには、この日記を読む必要がある?とまでは言わないが、少なくとも、この三次元をフルに体験し、総括し、理解する必要はある。そうしないと、次の扉は開かない。よーくよーく自分を見つめて、記憶ベースの人生を総括してほしい。記憶と思考のコラポレーションによってできあがっている思い込みワールドを、自分自身を通して理解してほしい。別に理解しなければならないということはないけれども、理解した方が自由に生きれるのは確か。理解なくしてアセンションすれば、アセンションした先がまた混乱する。そんなことを繰り返しても仕方がない。ここはきっちりと三次元にケジメをつけた方がいいだろう。(別に指はツメなくてもいいから、自分を見ツメよう!)なに?恋ができないなら、アセンションしなくてもいい?永遠に恋する乙女でいたい?どうぞ、好きなだけ失恋してください。五次元には恋はないの?それは・・・言っていいのかな?うーん・・・瞬間のエネルギー交流?セックスの何千倍のエクスタシー?・・・?まあ、自分で体験してくださいませ。(そのためには五次元へ行かないと・・・)『思い込み 恋も時間も 私さえ この世のことは 夢のまた夢』『思い込み 強いからこそ もう一度 生まれ変わって やり直すだけ』『思い込み ワールド超えて 夢超えて 真実の住む 世界求めて』『真実は 山の彼方の 空遠く 住んでいるとは 限りはしない』『青い鳥 気づいてみれば いつだって 自分の中に 住んでいるもの』『思い込み 超えねば次の 新しき 世界はけっして 開きはしない』『思い込み 超え去りゆかば 真実の 愛の世界が 待っているかも』これが410日目の心境です。☆ 同じドリューバリモア主演の「25年目のキス」という映画も劇的なラストが感動的な映画です。 この世の恋が大好きな人にはお薦めかも。
2006.02.15
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今日の屋久島は、とても穏やか。ぜんぜん寒くはない。春先の感じ。自我=思い込みの塊を理解するのもいいけれども、そればかりでは、なんとなく重たい。時には、もう少し軽やかにいきたいものだ。今日は色を楽しむことにしよう。絵を描いたり、詩を作ったり、花を愛でたり・・・色を楽しんでいる人は多い。みんなが色を楽しめば、何も問題はない。ところが、なかなかそうはいかない。なぜだろう?生きなければならない?生活しなければならない?生きるために生きる?生活するために生きる?余った時間で趣味を楽しむ?それが今の平均的な考え方だろうか。仕事は辛いもの?生活はシビアーなもの?生きることはそんなに甘くはない?仕事も家庭も人間関係も、なかなか楽しめない?楽しみよりも苦しみの方が多い?生きることは、楽しみよりも苦しみの方が多い?もちろん個人差がある。毎日、楽しくてたまらない生活をしている人もいるかもしれない。日々、活き活きと生きている人もいるだろう。でも、それは少数派。大多数の人は、多くの苦しみと少しの楽しみ。それが平均的なパターンだろうか。天下の耳目を集め、楽しさの絶頂だったホリエモンでさえ、どん底に落ちることもある。栄枯盛衰は世の習い?奢れる者は久しからず?楽しさだけが続くことはない?楽しさと苦しさはワンセット?それは常に相対的なもの?楽しさだけということはあり得ない?美味しいものを食べる楽しみ。セックスの楽しみ。子供が成長する楽しみ。釣りに行く楽しみ。パーティに出席する楽しみ。映画を見る楽しみ。買い物の楽しみ。デートの楽しみ。新車に乗る楽しみ。昇進する楽しみ。収入がアップする楽しみ。楽しみの種は尽きない。しかし、その裏側には、それと同じだけの苦しみがある。美味しいものを食べられない苦しみ。期待したほどの快感を得られない苦しみ。子供が病気になったり亡くなったりする苦しみ。急用ができて釣りに行けない苦しみ。パーティに招待されない苦しみ。人気の映画を見るために長時間行列する苦しみ。買いたくてもお金がない苦しみ。デートする相手がいない苦しみ。新車で事故を起こす苦しみ。後輩の下で働く苦しみ。リストラされる苦しみ。楽しみの種も苦しみの種も尽きない。楽しみだけをチョイスし、苦しみは避ける方法はないものだろうか。あったら採用する?では、その方法を提示しよう。しかし、ここから先はトップシークレットのために会員様限定!入会金は1000万円。どうする?もし入会する人が一人でもいたら、これ以上書くのはやめようかな?1000万円あれば、2012年まで働かないで暮らせる?苦しみのない楽しみだけの方法?もしそういうものが本当にあったら、一億円でも安い?どうする?一億円用意する?1000万円でもいいけど・・・本当はホームワークにしたいけど・・・今、別のホームワークが進行中だから・・・でも、タダで教えてあげるのは、いかにももったいない。もう少し、もったいぶらないと?ありがたみというものがない?少なくとも自分である程度考えてみないと、深く理解できないのは間違いない。真剣に考えれば考えるほど、答を聞いた時にハッと目が覚める。なんとなく回答を読んでも、何のインパクトもない。ちったぁー動脈硬化気味の脳味噌をひねって考えておくれ!頭もたまにゃー使わないと退化しちまうよ。と、まあ、意地悪ばーさん風にキメて・・・さて、さて、やはりホームワークにしようっと。苦しみのない楽しみだけの方法はあるだろうか。それはどういう方法だろうか。というのが今回のホームワークの課題。難しく考えると、難しい。簡単に考えると、とても簡単。さて?締切は16日の午前10時。記入欄はBBS。参加は自由。正解者には1000万円の賞金、は、もちろん出ない。『苦しんで 泣いて悩んで 落ち込んで 投げやりになり 終わる人生?』『楽あれば 苦ありと人は 言うけれど 楽だけの道 ないものだろうか』『人生の 楽しみ苦しみ もう一度 根底的に 見直してみて』これが409日目の心境です。
2006.02.14
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今日の屋久島は、最高にさわやか。気持ちのよい青空が広がっている。もう完全に春モード。この天気が続いたら、山へも行けそう。ここのところずっと自宅に篭もっているので、かなり足腰が弱っている。3月になればウォーミングアップ開始となるだろう。今日は満月。海は大潮。そして、ベタ凪(なぎ)。屋久島では、朝からたくさんの人が磯もの取りに出かけている。自宅は釣りのポイントへの通り道。朝から車や人の声がかなり聞こえた。魚たちは海の中で楽しそうに泳いでいる。色とりどり、大小様々。海の中は別世界。まるで竜宮城のよう。あなたは魚であり、海である。あなたは活き活きと楽しく泳ぎ回る魚であり、それをやさしく包み込む海である。あなたは自分の色を出しきり、思いっきり生き抜く。あなたはすべてを優しく抱きしめ、限りない愛と共に見守る。あなたは海であり、魚である。魚は最初の頃は何も考えないで楽しく泳いでいた。苦しみなど知らなかった。ところが、いつの頃からか苦しみが始まった。それは自我に目覚めた頃だろうか。他人との比較によって悩むようになったのだろうか。自分の世界だけで生きていた幼児期には、悩みなどはなかった。思考力が目覚め、他人と自分を比較するようになって、苦悩の世界に沈んでしまった。苦悩の闇に沈む魚を救い出す術(すべ)はないのだろうか。それは苦悩の原因を明らかにする光だろうか。その光はどこにあるのだろうか。それは見守ることの中にあるのだろうか。魚の目は外を見るようにできている。外を見、餌を見つけ、生命を維持するようにできている。外を見、危険をキャッチし、身を守るようにできている。自分の内面を見るようにはできていない。自分自身を見守るには別の目がいる。それは背後から見守る第三の目。それによって初めて自分自身が見える。それまでは、自分を見ているようで見えてはいない。それは思考が思考を見ているだけ。同一次元で見ている限り、自我から自由になることはできない。思考が自我を見つめる時、そこには判断があり、解釈があり、評価がある。ただありのままの事実を見ることはできない。なぜなら、思考とは比較だから。自我は比較によって成り立つ。他人と比較することによって自分というイメージができあがる。それが自我に他ならない。相対的で、揺れ動く自我。その全貌を思考で見ることはできない。なぜなら、それは思考がつくり出すものだから。思考が思考を見ても、更なるイメージができるだけ。それでは自分の尻尾を追いかけ回す犬でしかない。それは思考の空騒ぎ。多次元空間から見守る時にだけ、自我からの自由がある。三次元は地球の現実。肉眼にだけ映る物質世界。宇宙の真実は、多次元世界。世界は魚だけと思い込んでいるのが、自我の三次元世界。海の感覚が第三の目、多次元世界。実は、この海も一層や二層ではない。限りない波動の層の世界。それは同心円、いや、同心球。何層にも何層にも球が重なっている。最後の一番大きい球が、空。それは形のない球。その空がすべての中に浸透し、すべてを包み込んでいる。まるで海のように、自分の中ですべてを生かし、すべてを見守っている。それだけでなく、その海の中で泳ぐ魚でもある。実は、魚は、魚の意識と海の意識の両方を持っている。魚であり、海である。色であり、空である。海の意識を忘れた魚は、海の迷子となる。海の中にいても海を感じず、海に守られていても、それがわからない。孤独地獄に堕ち、自分の位置を忘失する。何のために生きているのか悩み苦しむ。自分のことが何も見えていない。自分自身を背後から見守る。海のように包み込んで見守る。その時、初めて自分の真の姿がわかる。孤独の中で迷子になっている自分。思いっきり生きることを躊躇している自分。小さく身の安全だけを考えている自分。頭の中で老後の計算をしている自分。今を活き活きと生きることを忘れている自分。そういう自分が見えてくる。ありのままの自分が見えてくる。それは事実。ありのままの事実。良いも悪いもない単なる事実。その現実をよくよく見、わかることだろうか。本当にわかったら、自然な行動が起きる。自然な行動が起きるまでは、自分を見守っていればいい。自発の行為がある。本来のいのちが目覚める。萎縮していたいのちが、活き活きと生きようとする。それは自然なこと。だから、ただ見守ればいい。徹底的に見守ればいい。あなたは魚であり、海なのだ。あなたは色であり、空なのだ。あなたは三次元に生きるものであり、同時に多次元に生きるものなのだ。二つの目だけでは足りない。それでは自分は見れない。第三の目がいるのだ。あなたの背後から見守る目。それで初めて自分自身が見える。多次元の中で三次元が見える。その時、あなたは三次元に生きるものであり、同時に多次元に生きるものとなる。『肉眼は いつも外向き 真実の 自分の姿 見えてはいない』『幼子(おさなご)は 外ばかり見て 自我はない 他人(ひと)と比べて 自我が芽生える』『比較して 自分のイメージ つくるだけ 相対的で 幻(まぼろし)の自我』『判断し 評価するのは 他ならぬ 自我と変わらぬ 思考の見守り』『ただ単に 意識するだけ 気づくだけ 見守ることに 他はいらない 』『はっきりと 自覚されれば おのずから 内から湧き出す 行為があるもの』『背後から 自分を見つめ 見守って 色の世界に 溺れず生きる』『見守って 多次元的に 生きる時 宇宙の真実 現れてくる』『今日もまた あの手この手の 方便を 駆使して君は 日記書くなり』これが408日目の心境です。
2006.02.13
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今日の屋久島は、風が強いけれども晴れている。もう冬の感じはしない。冬は終わってしまったのだろうか。昨夜、DVDで「Shall we Dance?(シャル・ウィ・ダンス?) 」という映画を見た。これはハリウッドバージョン。元々は日本の映画で、1996年に制作され、日本アカデミー賞を受賞したもの。とてもステキな映画だった。ダンスの楽しさが伝わってきた。楽しくダンスを踊るのもいいと思う。楽しければいい。でも、コンテストは?参加したみんなに、いろんな賞をあげればいい。別に順位を付けなくても・・・一人一人が個性を発揮する。それが色の世界の楽しみ。それぞれがユニークなものを創造すればいい。それだけで十分。競う必要はない。競うということは、同じ土俵の上で優劣を決めること。ゲームと割り切れば、それもいいかもしれないが、なかなかそうはいかない。金メダルと銀メダルでは、世間の評価や待遇がまるで異なる。今の文化は、同列で競わせ、その優者を評価する傾向が強い。入試にしても、資格試験にしても、同じような傾向がある。それぞれの個性を尊重するという文化は、まだ根付いていない。一人一人は異なる。その個性を尊重すればいいだけ。その個性を伸ばすようなサポートをすればいいだけ。別に同じ土俵で競う必要はない。競い合うから優劣が生じ、差別が生まれる。競わなければ、優劣もなく、差別もない。ただ個性の違いがあるだけ。今の文化は、子供の時から運動会で競わせ、学業成績で競わせる。それぞれに個性があるのだから、別に他の人と比較することはない。自分なりに生きればいい。それが一番平和な道。それぞれがそれぞれの個性を生きれば、何の問題もない。同じ平面で競おうとするから、いろいろな問題が生じる。空の世界は、ひとつ。唯一絶対。色の世界は、無数。数限りない。唯一絶対のものが、どうして無数のものに分裂したのだろうか。唯一絶対では、面白くも可笑しくもないから?限りない個性、そして、無尽蔵の変化。その千変万化の宇宙の営みは、すばらしい!無限の創造。無限の変化。それが生きているということ。絶対静寂の空から、絶対変化の色へ。それはワクワクするような創造。ダイナミックなクリエーション。それが宇宙のダイナミズム。競争も戦争も、争い。別にそんなことをしなくても、自由に色を楽しめばいい。なぜ人は争い合うのだろうか。自分の安全を確保したいから?自己保存の本能と思考の合体?やはり、そりあたりを深く理解しないことには、色を楽しむことはできないのだろうか。色の中で個性を楽しめばいいだけ。一人一人が自分自身を表現すればいいだけ。他の人と争うことはない。ただ自分を生きればいいだけ。ところが・・・自我とは他の人との比較。他の人との比較によって自我は成り立つ。それ故に、他の人と競おうとする。なんとも因果な性(さが)ではある。ただ素直に個性を楽しむことはできないのだろうか。ただシンプルに自分を生きることはできないのだろうか。できなくはないだろう。但し、それには前提がある。自分自身を理解すること。自我に振り回されないこと。周りを気にせず、自分の道を生き切れること。それは周りに冷淡になるのではなく、「和して同ぜず」の道。みんなと仲良く、しかし、自分の道を生きる。色は楽しむためにある。けっして争うためにあるのではない。瞬間・瞬間、同じ色はないのだから、その時の自分を生きればいいだけ。他と比較する必要はない。比較したければしてもいいが、それで優劣を競う必要はない。自分より優れた人からは学ぶ。それだけでいい。劣等感はいらない。劣等感は、同じ土俵の上で比較することから生じる。同じ土俵ではなくて、自分の土俵で生きればいいだけ。みんな違う。みんな異なる。それが真にわかれば、競うことはない。それでも敢えて競いたければ、競ってもいい。競うことを楽しめれば、何も問題はない。色の世界は美しい。その美しさを楽しめばいい。色を生きながら、色を楽しむ。それが色の宇宙の生き方。何も争い合うことはない。平和に楽しく生きよう。『無理をして 競い合わずに ゆっくりと 自分の道を 進めばいいだけ』『それぞれを 比較しないで お互いに 自分を生かし 自分を生きる』『比べずに 自分の道を 究めれば 一人一人が 光り輝く』これが407日目の心境です。
2006.02.12
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ハートのホームワーク [2]の続き最後は、藍&aiさんですね。 「>ハートを意識する。>ハートを意識の中心におく。>ハートから全てを見つめる。これは藍にとって、とても難解に思えた。どうしたらそうなれるのか、その術を知らないし全くわからない。。。でも、ここで藍の体験を一言。。。この無色透明さんのページを知ってから、藍は驚かされることばかりだった。自分のいままでの概念とは懸け離れたことばかりで。。。でも、不思議なことに。。。じつは、藍は、いままで眠りに入る時には、いつも自分を責め続けていたんだよね。自分の過去だったり現在だったり。。未来だったり。。毎晩。。自分を罵倒し続けて苦しい気持ちで眠りについていたんだ。そのときの気持ちは、恐怖だったり怒りだったり、過去を悔いる悲しみだったり。。。毎晩、苦しい気持ちで眠りに着いていたんだ。でもね。。ここでKimiさんに出逢って、言葉を頂いたり皆さんのメッセージを読むようになってから。。それが、クリアになって、なくなったんです。。。眠りに就く時の苦しみが。。いまのところなくなりました。また出没するかもしれない不安はあるけれど。。。毎晩、眠る時には静かな。。そして優しい?気持ちで眠りに就けるようになれました。自分のこの変化を言葉で説明するのはむずかしくてできないけれど。。。確かに自分が少しづつ変化しているような気がします。まだまだわからないことが多いけれど。。。」ハートのワークではありませんが、このような報告を聞くと、とても嬉しくなります。優しい気持ちで眠りに就ける?すばらしいね。自分を責めて苦しい気持ちで眠りに就くのと、静かで優しい気持ちで眠りに就くのとでは、天と地ほどの違いがあります。眠りに就く時の意識は、とても大切なのです。眠った後は、就寝時の波動の世界へ行きます。自分を責めて苦しい気持ちで眠りに就けば、間違いなく地獄へ行くでしょう。悪夢にうなされて目が覚めることになります。静かで優しい気持ちで睡眠に就けば、行き先は天国です。幸せな気分で朝を迎えることができるでしょう。ぜひ、これからも日記やみなさんの書き込みを読み続けてください。もう学ぶことはないというところまで読み続けられたら、その時は、目の前に幸せな藍&aiさんが立っていることでしょう。自分を見つめ出せば、いろんな自分が出てきます。醜かったり、美しくなかったりするかもしれません。辛く、苦しくなる時もあるかもしれません。でも、そういう時は、それらのものが浮かび上がって消えていく時です。出てこないことには、消えていくこともできません。出してあげればいいのです。怖がらないで大丈夫。ただ見守っていればいいだけ。見守っていれば、何も怖がることはありません。これまで溜まっていた潜在意識が解放されているだけです。焦らないで、ゆっくりやってください。今回のホームワークは、すばらしかったですね。実践ワークというのは、やはりいいですね。頭だけの理解ではなく、実生活の中で試してみると、いろんなことが実際にわかってきます。これからもホームワークを続けましょう。ということで、さっそく次のホームワークがあります。今回のホームワークは自分の内面を見つめるものです。テーマは、自分が信じていることや自分が思い込んでいることを、自分の日常生活を通して発見してください。期間は三日間です。この期間内に自分が信じていることと思い込んでいることを、できるだけたくさん見つけ出してください。自分の再点検ですね。それらのものは日常の何気ないことの中に隠れているものです。それらを書き出したら、信じることと思い込むことの違いについても見つめてみてください。どういう違いがあるか、それとも同じか。よーく自分を見つめてみてくださいね。ぴあのさんがクリアーではないようですので、少し時間の余裕をおきましょう。締切は2月17日の午前8時まで。その中で、最低3日以上は自分の日常生活に注意を向けて、自分が信じていることと思い込んでいることを発見してください。もちろん、それ以上続けてもかまいません。できるだけこまやかに観察して、微妙な信じ込みや思い込みを発見してください。そして、締切までにBBSに書き込んでください。参加は自由です。誰でも参加できます。『誰であれ ハートに意識の 中心を 置いて生きれば 愛があふれる』『ハートから あふれる愛が これまでの 苦しみ悲しみ 一切(すべて)を癒す』『幸せは ハートベースで 生きること ただそれだけで 安心立命』これが406日目の心境です。
2006.02.11
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ハートのホームワーク [1]の続き次は、ぴあのさんですね。「実はホームワークが出てからこちら、というかこの10日ほど、クリアとは程遠い精神状態に陥っていました。とても心身がキツくて。ホームワークができるような状態にも程遠い状態。ハートにベースを置くなんて とてもできない波動が粗い状態。ですので、今回全然ホームワークはできていないのですが・・・過去を振り返り・・・私はよく至福が止まらなくなることがあります。そして自分が、透明な水晶のようにクリア。ああいう状態は ハートにベースが置けている という状態かな・・・?街を車で走っていても、木々や花々や人々や建物、すべてに愛が宿っているのが感じられて、すべてのものがキラキラと光り輝いていて、眩くて愛しくて感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。私は仕事をしていても、お掃除をしていても、お洗濯をしていても、何をしていても幸せで幸せで微笑んでいる・・・何をしていても、ありがとうございます という気持ちで心が震えて感動する・・・私の中に愛がたくさんたくさん満ち充ちてあふれ出す感じ。とにかく、愛しい。何もかもが愛しい。そんな感じ。その時の感覚を思い出すと ハートに中心が来ているような、確かにそういう感覚です。精神状態が戻ったら 自分でもう一度ワークをやって 確かめてみます。」過去のリポートでしたね。リポート自体は、すばらしい。でも、残念なことに、今回のホームワークは実践できませんでしたね。過去に栄光の記憶があっても、今それを実践できなければ、宝の持ち腐れとなります。なぜ、今実行できないのか、よーく見つめてみるといいでしょう。意識のポイントがハートにフォーカスしていないのですね。どこにフォーカスしているのでしょうか。思考?感情?感覚?それとも、過去?少なくとも今でないことは確かでしょう。今、今を生きてください。精神がクリアーではなくても、今を生きるように心がけましょう。今のボーッとした精神と一緒にいればいい。熱で曖昧な精神と共にいれば、次の展開があるのです。以前のクリアーだった意識に逃げないことでしょうか。今のボンヤリした状態を否定しないことですね。今、今、今と一緒にいればいいのですよ。クリアーでなくてもいい。クリアーであることよりも、今にいることの方が遙かに重要です。今に居切ることが、今を生きることなのです。ハート=愛、幸せ、感動、微笑み、至福、感謝という感じでしょうか。ハートの中に、それらがすべて含まれています。ハートこそが幸せの源なのです。ハートベースで生きない限り、幸せになることはできません。幸せになりたい人は、ハートベースで生きればいいだけです。幸せになりたい人はたくさんいるのに、ハートベースで生きる人は少ない。なぜ?なぜでしょう?不思議ですね・・・次は、たろうくんですね。「『どのような感じがするだろうか』気負う言葉でなく、『ハート』という言葉だけで優しく温かい気持ちになれた。『どのような変化が現れるだろうか』まだまだイメージしたハートの意識ですが、でもそこに意識をすると、深呼吸するように心を落ち着かせた自分で見つめていたように思います。『自分自身と周りの関係はどうなるだろうか』私が落ち着いていると、周りの人もその人のペースが乱れることはなく、お互いの感情をぶつけ合うことや、ネガティブな意識を感じることは、あまりなかったように思いました。この三日間とも、違う生活スタイルの自分を経験することができました。波のない穏やかな休日、仕事が始まり心地いい風を受けた日。そして、突然の職場休業で色んな風や波をうける自分。以前kimiさんが日記で、『目の前に起こることを色んな自分の意識に当てはめてみる。その中でなぜそう感じたのか?またそこから見つめてみる。』と、少し言葉は違いますが、そんなお話をしてくださり、私も色んな意識の自分を見つめていました。そうすることで、どれも自分のイマジネーションの世界でしかないことや、外部から流れてくる情報も、その人の思い込みや自我が含まれた情報であり、真実からほど遠い。今、目の前に起こることは、ただそれだけなんだと感じれました。ふっと気を抜けば、たくさんの思考の渦に巻き込まれてしまう。ハートの意識を深く感じないで、言葉だけで意識していたことの方が多かったとは思いますが、この三日間、ハートのワークをいただき、温かさや優しさを感じることができたことに、心から感謝しています。」自分がハートフルに落ち着いていると、周りも落ち着く。自分のハートのエネルギーが周りにも伝わるのですね。ハートベースだと、周りに翻弄されにくくなります。ハートのエネルギーで、すべてを包み込むような感じになるのですね。これからもハートベースで生きてくださいね。次は、Y@soleilさんの2日目と3日目です。「ホームワーク二日目に尿路結石の発作が起きて、そのまま入院になってしまい、昨日退院してきました。退院したばかりでバタバタして提出が遅れてしまい申し訳ありません。普通の状態から、いきなり身体の痛みを感じる状態になり、その中でハートを意識することで、色んな発見がありました。自分にとっては、パワフルで新しい世界でした。ハートから生まれるものはものすごく無尽蔵に感じます。ハートを意識の中心にすえることは、安心立命をもたらすということ。何が起きても、大丈夫という安心感。危機に陥っても、安心していた。安心しているから、落ち着いて観れるし、待てる(在れる)。だから恐れに翻弄されないでいられる。意識がクリアになり、観察が研ぎ澄まされるようです。例えば怒りが起きても、何故起きるのか、起きる姿、反応が見えて、理解と同時に瞬時に消えてしまいます。まるで目前のスクリーンで映画を見ているような状態です。そうして全て、あるがままがおきている。それを観ているだけ、そういう状態の観察が出来ます。いままではこういう状態の観察が出来なかったように思います。ハートを意識した状態ですと、痛みも怒りも私と一緒くたになることがなく、離れた状態で眼を閉じても周りや自分の状態が刻々と観察できているような状態です。安心があるから、開かれた感覚で内にも外にも敏感になれるという感じ。だからどうということもなく、恐れと一緒にならずに、そのまんまと静かに共に居ることができます。そうしていると回りも安心して心開いてくれるようです。私の反応一つ一つも観ている。反応から離れた状態で観ている。刻々と静かに観ている。その全てをただ理由もなく受け入れている。それが同時に起きている、この不思議な感じ。結石の発作の痛みの中で、ハートを意識した時、痛みは単なる痛みでしかないことに気付きました。痛みは痛みでしかない、それだけ。それをただ静かにしっかり観ている状態、それだけ。だから、初めての発作にパニックにならずに済み、不安に巻き込まれないことには驚きました。そして、その場でどう対処すればいいかが、すぐ明確になるようでした。周りも観察して機能的に動いていたからです。痛みが痛みでしかないことに気付いたら、気持ちに余裕が出てしまって、傷みもエンジョイできるかもと思った。痛みと遊べる?!そう、この痛みをどのようにも捉えることが出来るのだと。今までだって色んな選択が出来たのだと思った。痛みは痛みでしかないという気付きが私を痛みの感覚から自由にしてくれた。私は体ではない、感覚からの自由感、これはなによりすばらしかった。ほんとうにすばらしかった。ああ、なんだか書いていることが、もどかしいです。ハートを意識する。ハートを意識の中心におく。ハートから全てを見つめる。なんて楽しいんだろう?そして、なんだかとっても自由な気持ちで軽くて嬉しい。ハートは意識をクリアにしてくれ、全てをただ丸ごと受け止める。安心立命が感覚、思考、感情と自我の同一化のないクリアな観察と深い理解へと導いてくれる。そしてひとつひとつを大切に扱いたくなる。優しく上品に全てに触れたくなる。ハートを意識の中心にすることは、同時に深い理解と生きると同じなのかもしれない。ハートの力が叡智を目覚めさせる。愛と叡智、それはどちらもかけることがないもののように感じられます。全てが無尽蔵。色々ありすぎて、こんな濃い3日間でしたが、このテーマを通して過ごすことができて楽しかったです。このハプニングも本当に楽しかったです。もっと繊細に見つめたいです。どうもありがとうございました。」すばらしいですね。この状態が持続できれば、パーフェクト!もう何も言うことはありません。ところが、この後の掲示板の書き込みでもわかるとおり、このすばらしい体験さえ疑い、否定しようとする気持ちが湧いてきます。体験は、一瞬後には経験となります。それは過去のことです。どんなにすばらしい体験でも、忘れるしかありません。忘れて、今を生きるしかないのです。常に今、今です。それにしても、この体験はすばらしいですね。でも、ちょうどタイミングよく(?)尿路結石で入院になるものですね。劇的体験の二連発?過激にやっていますね。(せきせき流に言うと、歌劇になってしまいますが)でも、後から振り返ると、本当に歌劇かもね。すばらしいハートベースの歌劇ですね。ハートベースで生きれば安心立命?優しい気持ち2005さん、読んでますか。安心立命がここにありますよ。ハートの中に心のやすらぎがあるのですね。恐怖に翻弄されないだけのものがハートにはあります。恐怖は思考の産物。愛はハートの産物。どちらが強い?愛は恐怖を包み込み、やさしく抱きしめることで恐怖は溶けていきます。怒りも痛みも、自己同一化することなく、静かに見守っていられます。それが、『空にあって色を生きる』という感覚です。すべてを包み込み、すべてを見守りながら、なおかつ、現実を生きる。それが延々と、この日記の中で書いていることです。ハートに意識の中心を置けば、それが容易に実現します。そんなに難しいことではないのですよ。問題は、それが持続するかどうかということです。まあ、なかなか一気にはいかないかもしれません。どうしてもこれまでのパターンが顔を出します。その時に、そのパターンそのものになるか、そのパターンを見守っていられるか・・・それは意識のフォーカスがどこにあるかという問題です。ハートにフォーカスがあれば、あるいは、すぐにフォーカスがハートに戻れば、思考に翻弄されることは少ないでしょう。そのためには、今この瞬間をハートベースで生きようと心がけることでしょうか。持続できるかどうかは考えないで、今この瞬間にだけフォーカスすることです。結局は、その連続でしかないのですから。それから、この日記を読み続けることも役に立つかもしれません。思考に傾きそうになった時、またハートベースに戻りやすくなるでしょう。ハートベースの体験を重ねていくと、だんだんと意識のフォーカスがハートに移っていきます。完璧に移動すれば、もう五次元です。アセンションの世界です。そこへ誘(いざな)うための日記です。ハートのホームワーク [3]へ続く
2006.02.11
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今日の屋久島は、穏やかに晴れています。11時現在、室温は17度もあり、もう冬は終わった感じです。(最終校正をしている15時30分現在、室温は25度近くになっています)今日の日記は、ものすごく長くなっています。でも、最後まで読み通すことを心からお薦めします。最後まで読んで、損をすることは決してありません。すばらしいホームワークです。断言できます。では、ハートのホームワークを見ていくことにしましょう。今回のテーマは次のようなものでした。「ハートを意識の中心に置いて生きてみてほしい。常にハートを意識しながら生きてみてほしい。どのような感じがするだろうか。どのような変化が現れるだろうか。自分自身と周りの関係はどうなるだろうか。ハートを中心に据えても、別に悪いことは起きない。だから安心してトライしてほしい。マイナスになる要素はまったくない。心配することは何もないので、ぜひ挑戦してみてほしい。長い時間とは言わない。とりあえず、三日間ほど。2月6~8日の三日間。その結果をレポートしてほしい。」回答をいただいた順に見ていきます。まず、Y@soleilさんです。「1日目・・・友人に誘われ彼のゴルフ仲間と一緒にコースへ行く。朝からハートベースに意識が追いつかない。 両手を胸において何度も確かめる。日中はその繰り返しでした。ハートを意識する。ハートはどこ?実感が湧かないな・・。とても堅くなっているな。ガチガチだな・・・。無感覚みたいな感じ。ハートを意識しようとすると、みぞおちの痛みと不安感、胸の痛みが迫ってくる。それに捕らわれてしまうと視野が狭くなり、周りが見えなくなってくる。気付いた時にはなるべく押さえ込まないで、それと一緒にいるように心がけたのですが、あんまりにも痛くなって混乱しそうになった。周りの自然を眺めて深呼吸して落ち着いて来たら、またハートベースに意識をもどすの繰り返し。でも意識がなかなかヒットしない感じ。ハートで打ったら真っ直ぐ飛ぶかしら?と思い、ボールを打つ前に胸に手を当てて、スイング前に意識して試してみました。(しかし、ハートとゴルフの腕はあまり関係なかったみたい・・・)でもおなかの底から笑いがこみ上げてきた。私の笑いが止まらないので、みんなも変なショット連発になって大笑いになる。見回すとみんなの笑顔が傍にある。初心者の私を気遣ってくれている。みんなは変わらない。いつも優しい。心開いて接してくれる。彼の顔を見てみる。笑顔が返ってくる。心が緩みだすと私は安心して行動がとてもゆっくりになることに気付いた。 家に戻ってから、また、どうしようもなく胸が疼いて痛くて、悲しくなってしまう。自分の心がとても荒廃してしまっている気がして、辛くなる。心がまるで、痩せて荒れ果ててしまった大地のように感じる。ハートを意識しようとするけれど意識が届かない。私はずっと愛することができないのではないか?不安や痛みや悲しみなどの感情があふれ出してくる。ハートの前に沢山詰まっている物があるから、ハートが意識しずらいのだなと感じて、自室に戻ってから、今感じていること、考えていることを一つ一つありのまま書きとめていたら涙が止まらなくなり、また大泣き状態になってしまった。その最中、職場の同僚の友人から、私がいなくて寂しかったとメールが来た。今日も職場で何かあったようだった。私も今、泣いていたんだと返すと、ただ、私が大好きだ、幸せになって欲しいって返信が届いた。心がジーンと暖かくなって来る。みぞおちの痛みがみるみる緩まり、ハートがほんわりと緩んでくる感じ。身体中に血が流れてゆく感じ。と同時に彼女に対する愛しさと感謝が心に満ちる。泣きながら彼女に感謝の言葉と、私も彼女が大好きだと送り返す。また枯れるまで大泣き。何かが開放されるような流れが心に起きている。胸に手を当てる。朝の時よりも心が緩み暖かく血が通った感じがする・・・。心臓の鼓動がしっかり感じられる。胸とみぞおちの痛みがやんわりと溶けているような感じがした。1日目はこんな感じでした。」最初はうまくハートを感じられなかったようですね。逆に、みぞおちが痛くなってしまう。みぞおちというのは、自意識のパートでしょうか。神経過敏になると、胃潰瘍や十二指腸潰瘍になります。自我とつながっているのですね。ハートの前にたくさん詰まっているものがあると、ハートを感じにくくなるようです。でも、いっぱい泣くことで、それは洗い流されていきます。笑いというのは、心を開いてくれますね。お互いが楽になる。また、心がこもったメールも心を開いてくれます。心が緩み、暖かい血が全身に流れる。そうすると、みぞおちの痛みも和らぐのですね。Y@soleilさんは、この後の報告もあります。それはまた後ほど。次は、えっちゃんですね。「あんまり上手に出来なかった。けれど、胸の真ん中辺りに、感じる部分があるって感じられた。今日、お月様がとてもきれいだった。空気が澄んでいるのかも知れない。でも、実はお月様を見るとき、ハートをしっかり意識するようにして見たのです。その所為かどうか、お月様の輝きが冴え渡り、とても立体的に、本当に球体がそこに浮かんでいると、しっかり見えたのです。いつもは、空に張り付いて見えるのに・・・。気のせい?思い込み?もし、私の感性を信じるなら、ハートで見たから・・・って思える。ぴあのさんがkimiさんの光の繭のイラストを送ってくれた。その繭をじっと見てると、ハートがザワザワ騒ぐのです。光のラインは騒がない・・・。単に好みの所為なのか?思い込み?やっぱり、ハートが光の繭に反応したんだと思う。日常生活は・・・ハートの所為かどうかわからないけれど、私は今、自分を楯のようなもので固めて相手に対応しないようにしている。それが出来るのが、ハートを意識してるからか、自分にそうしようと言ってきかせたからか・・・やっぱりハートのおかげかも知れない。心が波立たないから。どうだろう?まだまだハートを扱いきれないでいる。」ハートフルな月が見えたのかな?立体的で美しかったようですね。ハートに意識の中心を置いて、いろんなものをながめてみるといいでしょう。すべてが違って見えるかな?楯でガードしないで人と接する?それで心が波立たなければ最高だね。これからも、ぜひ続けてください。次は、せきせきさんですね。「ハートを感じると、何も判断もなく、理由も求めず、無条件の愛で見守っている。その見守りをしていると、私は『全体』になっていく。全体になると、その一部、(悲しみ、痛み、等の感情、思考、感覚)に、振り回されたりしないで、私の一部が今はそういう『状態』なんだと愛の中で感じる。私の痛みや体の状態のあるがままを、無限の中で受け入れて、痛みや状態が優位も下位もなく調和されていく気がする。全体になった時に、事実そのものが見える。周りの人や物事のありのままが解かってくる。でも、少しでも、優越感など(自我)が出てくると、事実はゆがんでくる。自我による思考に支配されてしまうと、いつもの私を通しての世界になる。見守っているとそういう状態に気づきやすいような。私が今回経験したことは、苦しい私を静かに見守った。今、何に振り回されているのか、何故私は悲しいのか、怒っているのか。そういうことが自然に解かってきた。でもそれすらも否定も肯定もずまた見守り続けると、悲しみや怒り、という言葉が必要なくなる。そこは全く判断価値がない、凸凹のない世界。何もない世界へ入っていく。叡智とは、その何もない世界から状態や事実を見て、その仕組みまで見えてしまう事?食べて排泄する流れの様に?水の流れの様に?問題なく見える事?ハートを感じている時は、痛みが優しいオブラートに何層も包まれていく感じがします。そして、痛みが痛みと認識できなくなるという感じでしょうか。痛いことは痛いのですが、痛みから逃避する事とは違い恐怖がない。感覚がある、それだけという感じでしょうか。この手も足もすべてハートで動いているような気分になります。私の持っている道具(肉体、思考、感情、感覚)はハートを意識するとハートで動くことができる??」すばらしい状態ですね。こんな感じで日々暮らせたら、もう何も問題はないでしょう。ハートベースだと、すべてのものを暖かく包み込んで見守っていられるのですね。抱き参らせ・・・親鳥が卵や雛をその羽の下で温めるように・・・感情に振り回されることもなく、それらは見守られ、理解され、溶けていく。痛みでさえ、やさしくオブラートで包まれる感じになる。ハートの愛のエネルギーが、すべてを癒していく。事実がある。恐怖はない。価値判断がなければ、ただ感覚があるだけ。ハートベースになる時、肉体も感覚も感情も思考も、すべてが変容していきます。愛の中で変容していくのですね。その一部を体験できたという感じでしょうか。ホームワークとしては、花丸ですね。すばらしい体験です。ハートのホームワーク [2]へ続く
2006.02.11
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今日の屋久島は、曇だろうか。時々、太陽が顔を出す。そうかと思うと、雨が降ったり・・・なんとも的確に表現のしようがない。昨日は午後から太陽が照りだし、部屋の中は暑いくらいだった。窓を開けても、ぜんぜん寒くなかった。ちょうどパソコンのモニターが届く予定だったので、部屋を大幅に改造した。と言っても、元に戻しただけ。前のモニターが壊れた時、テレビにつなぐためにパソコン本体を動かした。本体を動かすと、ISDNのモデム、プリンター、外付けメモリーなど、いろんなものを同時に動かす必要が生じる。コンセントの場所も変わり、全てのコードをつなぎ変えることになる。デスクトップの移動は、なかなか大変。しかし、夕方届いた19インチのモニターはすばらしかった。画面が大きくなっただけではなく、解像度もアップした。以前のモニターは15インチ、今回は19インチ。解像度は1024×768が1280×1024ピクセルになった。文字がクリアーになり、写真はより鮮明になった。これで前のモニターが壊れた甲斐があった?以前の状態よりバージョンアップされたことにより、壊れたことが生きたことになる。壊れたことを嘆くのではなく、生かして使うことができた感じ。全ての機会は活用するしかない。純粋意識について、次のようなコメントが届いた。 「例えば、白い布を染めていく・・・最初は淡い黄色だの、水色だの・・更にそれを染めていく・・・濃い緑だの紫だの・・・・もっと欲深に染めていくと・・・真っ黒になってしまう。色を抜くのは難しい・・・洗って、洗って、洗って、・・・・でも色が薄くなるだけ。自分を見極めるという強力な漂白剤がいるわけですが、元の白は遠そうですね。」三次元の平面だけで生きると、白い布のように真っ黒になってしまう。いくらもがいても、元の真っ白には戻れない。多次元的に立体的に生きる必要があるのだ。純粋意識は、白い布のように、色んな色に染まったりはしない。最初から最後まで無色透明のまま。それはフィルターを通る光のようなものだろうか。赤いフィルターを通れば赤く見える。しかし、フィルターの手前にある光は無色透明のまま。フィルター側から見ると赤いが、フィルターの向こうは無色透明。そんな感じだろうか。感覚、感情、思考というフィルターがある。フィルターには、それぞれの色がついている。そのため元の光は色のついた光のように見える。しかし、それはフィルターを通して見ているからで、フィルターを取り除けば、そこには無色透明の光がある。光は透過する。純粋意識は浸透するといった感じだろうか。いのちを吹き込むという感じで、どんな色にも染まったりはしない。別の例で表現してみよう。それは太陽系に似ているかもしれない。太陽系で光を放っているのは、太陽だけ。他の九惑星は太陽の光を反射しているだけ。それぞれの惑星は美しい。しかし、太陽の光がなくなれば、それらは宇宙の闇に消える。感覚、感情、思考というのも、それに似ているかもしれない。純粋意識のエネルギーが浸透することによって、それらは機能する。純粋意識が浸透していなかったら、意識作用は存在しないだろう。感覚も感情も思考も、太陽系の九惑星のように自ら光ることはなく、純粋意識によって機能しているだけ。つまり、太陽系にはひとつの光しかないように、意識はひとつしかない。すべての意識作用は、ひとつの意識のバリエーション。太陽系のそれぞれの惑星が異なる色で輝いているように、感覚・感情・思考等々、それぞれ異なる機能を果たしているだけ。太陽系には九個の惑星があるように、意識領域も感覚、感情、思考だけではない。更なる意識領域がある。宇宙全体が無数の太陽系、銀河系によって構成されているように、人の意識にも無限の広がりがある。しかし、基本的な構造は変わらない。諸惑星は太陽の光で色々に輝く。光は、ひとつ。それが惑星に反射しているだけ。惑星の性質の違いによって、色々な色に変化しているだけ。肉体意識は、純粋意識によって色々に機能する。純粋意識は、ひとつ。それが感覚、感情、思考などに浸透しているだけ。それらの性質の違いによって、色々に機能しているだけ。諸惑星は相対であり、太陽は絶対。諸惑星は色であり、太陽は空。肉体意識は相対であり、純粋意識は絶対。肉体意識は色であり、純粋意識は空。太陽があることによって、全ての生物が存在できる。太陽は、いのちの源でもある。ひとつのいのちの源があるだけ。それが多くのいのちに分かれているだけ。宇宙には、ひとつのいのちがあるだけ。それが無数の生きものとなって現れているだけ。ひとつのいのちは、空。無数のいのちは、色。宇宙には、ひとつの意識があるだけ。それが無数の意識となって現れているだけ。ひとつの意識は、空。無数の意識は、色。肉体意識は相対であり、刻々に変化する。ある時は感覚的になり、ある時は感情的になる。ある時はイマジネーションの世界に入り、ある時は論理の中で科学する。ある時は気づきが起き、ある時は直観が働く。純粋意識は絶対であり、常に浸透し見守っている。肉体意識と純粋意識の関係は、孫悟空とお釈迦様の関係にも似ているかもしれない。いくら孫悟空が飛び回っても、所詮は、お釈迦様の掌(たなごころ)の中。けっしてその外に出ることはできない。色の世界は常に空の中。空の中で生かされ、見守られている。純粋意識にベースを置きながら、肉体意識を生きる。すべてを見守りながら、現実を生きる。三次元だけで生きるのではなく、多次元空間と共に三次元を生きる。空にあって、色を生きる。『星々も 意識の中も みな同じ すべてはひとつ ひとつの現れ』『湧き起こる 感覚・感情 思考など すべてのものを 見守り生きる』『色界は 千変万化の 万華鏡 空の世界は 涅槃寂静(むげんのせいじゃく)』『色となり 色を生かして 色を生き 色の展開 空は見守る』これが405日目の心境です。☆ ホームワークについての感想は、明日掲載します。
2006.02.10
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今日の屋久島は、寒い。今年になって一、二番の寒さだろうか。相変わらず風も強いが、波は昨日ほどではない。フェリーは条件つきで出航したらしい。波が荒ければ途中で引き返すかもしれない。鹿児島-屋久島の飛行機は、年中、条件つきで飛んでいる。離島の場合、手紙や宅配便も何日かかるかわからない。陸続きではないので、確たる保証はない。自然に囲まれていると、そういう不便もある。子供時代に満たされなかったもの。それが潜在意識の中に残っていて、大人になってからも、いろんな影響を与える。無意識のうちに子供時代の意識に引きずられたりする。ところが、よくしたもので、それを自動的に癒す方法がある。方法と言うよりも自然のシステムのようなものだろうか。子供が生まれる。そうすると、自分の子供時代にはできなかったことを、自分の子供にだけはやらせてあげたいと思う。自分の満たされなかった思いを、子供を通して満たそうとする。行きたいところへあまり連れて行ってもらえなかった子供時代があれば、自分の子供はできるだけいろんなところへ連れて行こうとする。それによって自分もまた満たされる。ほしいものをあまり買ってもらえなかった記憶が強ければ、できるだけ望むものを買い与えようとする。それによって自分が癒される。それらは特に母親の場合に見られるけれども、男たちも同じようなことをする。子供時代に貧しければ、大人になって豊かになろうとする。子供時代に満たされなかった思いを満たそうとする。子供時代に差別されれば、見返してやろうとする。あるいは、自分が逆の立場になった時に、差別しないように心がける。いずれにしても、自分の子供時代に満たされなかったものを満たそうとする。子供やお年寄りや心身障害者などの、いわゆる弱者と言われる人たちと接することによって自分を癒す人もいる。いろいろ世話をしてあげることが、自分の癒しとなる。自分が思うようにやってもらえなかったことを、心を込めてやることによって癒される。弱者は何の役にも立たないということはない。ちゃんと人を癒している。直接的にではないにしても、間接的に癒している。適者生存、弱肉強食だけが、生存の原理ではない。動物セラピーというのもある。動物によって癒される。それは動物を世話することによっても癒され、動物の思考のない意識によっても癒される。彼等は人間のように疑り深かったり、恨みや憎しみを持ち続けることはない。もっとシンプルに生きている。それが人を癒してくれる。自分の中の子供時代を癒す必要はある。子育て中の人は、子供を大切に育てることで癒せばいい。では、子育てが終わった人は?子供がいない人は?動物の世話をする?それもいいだろう。助けを必要とする人のヘルプをする?それもいいと思う。それらのことで自分の子供時代が癒されるのならば、それで問題はない。でも、それらのことでは癒されない場合は?あるいは、何らかの理由で、それらのことができない人は?自分で癒すしかない?どうやって?自分で自分を抱きしめる。自分で自分を無条件に抱きしめてあげる。自分の中の子供を、そのまま抱きしめる。良い悪いの評価を一切しないで、ただ抱きしめる。何か話したいことがあったら、黙って聞いてあげる。いろんな思いが湧いてきたら、そのまま受けとめる。何事もそのまま黙って受けとめさえすればいい。子供は、ただ自分の気持ちをわかってほしいだけ。無条件に抱きしめる。常に子供の味方でいる。ただそれだけでいいのだ。セミナーやセラピーなどに出て、自分の中のインナーチャイルドを癒すのもいいかもしれない。しかし、それにはお金と時間がかかる。それだけでなく、一度や二度では全て癒されるとは限らない。出席すれば、それなりの効果はあるだろうが、自分でやれれば、応用が利く。自分の子供にも、周りの人にも活用できる。自分で自分を癒す。自分で自分を抱きしめる。時間がかかるかもしれないけれども、一番確実で、一番間違いがない。どのような方法であれ、自分の子供時代の心の傷を癒してあげるのはよいことだ。そうしない限り、それらの思いは持続する。そのような思いに囚われることはない。そのような子供時代の思いに引きずられることはない。でも、癒してあげた方がいい。子供時代の満たされなかった思いが出てきたら、それと一緒にいてあげる。よーく聞いて、わかってあげる。わかって溶かしてあげる。いつまでも、そんな塊(かたまり)を持っていても仕方がない。それらのものが出てきたら、黙って心から抱きしめてあげる。抱きしめて、抱きしめて・・・自分の子供時代も、自分自身も、周りの人も。ただ無条件に抱きしめてあげれば、それだけで癒されていく。難しい理屈はいらない。ただ抱きしめればいいだけ。『難しい 理屈(こと)はいらない 単純に ただ抱きしめて あげればいいだけ』『抱きしめて 自分自身を 抱きしめて 周りの人も 抱きしめていく』これが404日目の心境です。
2006.02.09
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今日の屋久島は、久しぶりに寒い。と言っても、室温は13度くらいはある。ここのところ連日、風が強い。そのため、今日もフェリーが欠航になった。一昨日も欠航した。冬は海が荒れる。人の意識の流れを、もう一度見つめ直してみたい。学問的なものではなく、主観的でアバウトなものだ。概念的になりやすいので、事実のみを見てほしい。[0] 純粋意識まだ肉体に受肉する前の意識状態。厳密に言うと、既に魂意識や過去世の意識の影響下にあるので、完璧に純粋そのものではない。ただ新たに生まれるに際し、リセットされた状態。一応は白紙の状態。[1] 胎内意識胎児の中に入り、胎児の意識を体験する。この時、母親が妊娠を喜んでいなかったり、堕胎を望んだりすれば、ネガティブなエネルギーを感知し、苦しむ。それは自己の存在を否定されるエネルギーであり、胎児にとっては存亡の危機となる。それは胎児の記憶に残る。一般的には、母親の喜びの波動の中で成長する。母親の気分や母親と関わりのある人たちの影響を多分に受ける。自分の感覚器官ではなく、母親を通して様々なものを感知している状態。まだ肉体が形成過程なので、半分ぐらいは純粋意識が残っている。[2] 赤子・幼児期出産は羊水の中から空気中に出てくるため、環境の激変でかなりのショックを受ける。出産後は、肉体と共に成長する。肉体を自分の望むように動かそうと悪戦苦闘する中で、自然に肉体と自己同一化していく。五感の発達と共に意識も多岐に渡り発達していく。肉体や五感との自己同一化が、この時点の意識状態。肉体+感覚=自分。更に、快・不快をベースとして感情が芽生える。お腹が空いては泣き、オシッコをしては泣く。お乳で満腹になれば満足して眠り、目が覚めては好奇心いっぱいにあちこちを見渡す。何かにぶつかって痛い目に遭えば泣き、兄弟にオモチャを取り上げられても泣く。痛い目にあって恐怖を覚え、取り上げられて怒りを覚える。高い高いをされて喜び、美しい音の出るものに目を輝かせる。五感と感情が一段と発達していく。やがて、肉体+五感+感情=自分となる。[3] 少年少女期五感や感情が記憶されることによって、非論理的な思考=イマジネーションが発達してくる。意識は想像の世界で遊ぶようになる。それは記憶をベースとしたイメージの世界。それは記憶の組み合わせであって、比較による論理的思考ではない。右脳の世界。自分だけの世界。そのイマジネーションの世界から、更に複雑な感情が芽生えてくる。純粋意識はそれらと自己同一化する。その結果、肉体+五感+感情+イマジネーション=自分となる。[4] 思春期膨大な記憶量から論理的思考が芽生えてくる。論理的思考のベースは、比較。左脳が中心の世界。この比較から自我=「私」という意識が形成される。他者との比較によって「私」というイメージができあがる。その実体は、イマジネーションや論理的思考によって構築されたイリュージョン。思い込みワールド。それは様々なイメージの複合体。それは常に相対的であり、揺れ動いている。その曖昧な「私」と純粋意識は自己同一化する。そして、「私」として生きる。この「私」から更に複雑な感情が生まれる。この時点で純粋意識は、肉体+五感+感情+イマジネーション+論理的思考=自分となる。このようにして、当初の純粋意識が、いつのまにか自我になる。自我という幻想と自己同一化し、「私」を生きる。純粋意識は、胎児期から成人するまで、いろんな意識状態を体験する。その時その時の肉体や感覚や感情や思考の発達状況に合わせて、自分もそれらと一体になって発達していく。その過程の中で、純粋意識は自己同一化している対象そのものになってしまう。純粋意識ではなく、肉体になり、感覚になり、感情になり、イマジネーションになり、論理的思考になる。最終的には、自己保存の本能と思考が合体した「私」を生きるようになる。肉体は個別化しているために、自分も孤立しているものと思い込む。自己保存の本能と一体化しているために、自分を守ることを最優先する。それは肉体を保持するためには必要なことだが、思考はそれ以上のことを求める。自己保存が思考によって増幅され、欲望と化す。純粋意識は、いつのまにか欲望の虜と成り果てる。欲望と自己同一化し、欲望=自分となる。そして、苦しみの泥沼にはまる。それが個人史であり、その拡大バージョンが人類史ではないだろうか。もちろん、これはアーキタイプ=原型であり、バリエーションは様々にある。知性や感情の発達程度もそれぞれに異なる。たぶん例外もあるだろう。しかし、これが現在の人類の基本パターンではないだろうか。元を辿れば純粋意識。それが肉体と共に成長するために、いつのまにか自我と自己同一化してしまう。それによって苦しみの人生となる。欲望の虜となり、お互いに殺し合い、傷つけ合い、苦しめ合う。その現実を直視する必要がある。直視し、深く理解する必要がある。本来の純粋意識に戻ることは可能だろうか。「私」との自己同一化を外すことは可能だろうか。肉体や感覚や感情やイマジネーションや論理的思考との自己同一化から離れることは可能だろうか。自己同一化からの離脱。思い込みワールドからの脱却。それは新鮮な眼差(まなざ)しだろうか。肉体や感覚や感情や思考を通して世界を見ることだろうか。それらに成りきるのではなく、それらを通して世界を体験する。自己同一化を外し、それらを器や道具として扱う。それらと共に生きる。自分=肉体+感覚+感情+思考を外す。自分=純粋意識の原点に戻る。そうすれば、別の世界が目の前に開けるだろうか。ただ、ここには一つの陥穽(かんせい)がある。それは純粋意識というイメージ。それもまた思い込みになりやすい。実際に自分自身を深く深く見つめていかない限り、この純粋意識というものは現れて来ない。それは誰の中にも存在しているけれども、自己同一化により見えなくなっている。見極めて、見極めて進む中で、その意識に出会えるかもしれない。最初から、それを前提に進まない方がいい。前提にすれば、それはイメージとなる。イメージを持てば、それは先入観となる。先入観がある時、真実には出会えない。ただ深く深く見つめていくしかない。自己同一化のカラクリを自分自身を通して見抜くしかない。その見抜いた先に純粋意識が顔を出すかもしれない。自己同一化という思い込みの先に純粋意識は隠れている。思い込みのベールを剥がすしかない。そうすれば、純粋意識は目の前にあるだろう。『肉体と 一緒になって 育つため 気づいてみれば 肉体そのもの』『本能と 思考のままに 動かされ いつのまにやら 欲のかたまり』『肉体と 一体(ひとつ)になって 様々の 体験をする 「私」の世界』『何もかも 思い込みとは 露知らず そのものになって 生きてきた日々』『思い込み 外していけば 元々の 純粋意識に めぐり逢うかも』『元々の 意識求めて 行き着けば 無色透明 純粋無垢(そのもの)』これが403日目の心境です。
2006.02.08
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今日の屋久島は、青空が広がっている。朝、湧き水を汲みに行ったら、ぜんぜん寒くなかった。冬が終わって、早春という感じだった。まるで少女のような初々(ういうい)しさがあった。今日もまた、えっちゃんに登場してもらおう。一般人代表のえっちゃん大活躍!「全体の落とし穴」というコメントが昨夜、書き込まれていた。「根本的に違うのですが、単に言葉だけを追いかけていけば、全体と個人というのは、過去、抹殺された個人、全体優先の犠牲となった個人というのもある。その『全体』のスケールは、愛と叡智というような宇宙的規模からは程遠いけれど。けれど、一部の人間の妄想から発した戦争や、社会システムに、全体のためというスローガンで個人の全てを取り上げられてしまった。そして、個人を取り戻した現在、極端な利己主義もはびこるけれど、個人の自由な生き方も確保できた。今、自分を追求するという、何者にも支配されない自分自身の営みは、社会に個人尊重という安定した風潮があるからで、かっては自分自身の考えまで取り上げられた時代もあった。もちろん、弾圧を超えてなお、個人の想いを貫く人たちも居るだろうけれど。これは、思考の落とし穴でしょうか。個人の生き方の尊重と、自分本位の生き方、全体を思う生き方、全体に統制される生き方・・・。言葉は難しい。全体のためと愛を持って投じた命。ただ、宇宙全体ではなかったけれど・・・。」確かに全体主義の時代があった。北朝鮮やキューバでは、まだ残っている。全体のために個人は存在する。全体のために個人は滅私奉公するべきだ。それが戦時中の日本だった。そんな時代に逆戻りしたい人は一人もいないだろう。それ故に、『全体』という言葉を聞く時、そのような危惧を抱(いだ)く人もいるかもしれない。確かに、全体のためにという言葉の中には、そのような危険が潜んでいる。それはオーム真理教の事件を見れば明らかだ。衆生を救うという大儀のためなら何でも許される。全体のためにという美名の下、敵対する人間がポアされた。全体のために、いかに多くの人が殺されたことか。全体のために戦争をし、全体のために個人の犠牲を強いる。それがこれまでの人類史。それは今も続いている。全体のためにと標榜していても、その実は自己保存の本能の延長に過ぎない。アーリア民族が優先され、ユダヤ民族は抹殺される。大東亜共栄圏では、日本人以外のアジアの諸民族は弾圧され、抑圧された。全体のためにというスローガンの下には自己の利益が見え隠れする。人は、家族のため、会社のため、国のため、民族のため・・・と言いながら、自己の利益を追求する。自己の延長が家族であり、会社であり、国であり、民族に他ならない。もし、家族の中に自分に敵対する者がいれば、即、勘当となる。会社の中で違う派閥に属する人とは、絶交だ。同じ国民でも、戦前は共産党員は非国民だった。同じ民族でも少数派は常に弾圧される。それらは、みな思考の為せる技。自己保存の本能を思考で拡大しただけ。家族も会社も国も民族も、みんな自分の延長。自己同一化の世界。それらのものは、全て自己の拡大バージョン。それは贔屓(ひいき)のチームであったり、住んでいる地域であったり、所属するグループであったり・・・それらと自分を自己同一視し、一喜一憂しているだけ。もうすぐ冬季オリンピックが始まる。多くの日本人はフィギアスケートを楽しみにしている。日本人が金メダルを取ることは、まるで自分が取ったようなもの。まさに日本人と自分との自己同一化。それは別に日本だけに見られる現象ではない。ヨーロッパのサッカー場では、死傷者まで出る騒ぎとなる。チームと自己同一化したサポーターが、相手チームのサポーターを敵と見なす。自分が応援するものは、自己が投影されたもの。自己の拡大バージョン以外の何ものでもない。人は自己同一化によって、自己実現を図ろうとする。それはスターに憧れることのなかにも見られる。映画やテレビの主人公と自己同一化し、ハラハラドキドキを繰り返す。それらは全て自己の延長。全てに自己を投影し、自己を拡大して物事を見ている。その結果としての全体優先。それは正確に言えば、全体優先ではなく、自己の延長としての全体優先。スターリンも毛沢東も自分に敵対する者は容赦なく粛正した。全体のために反するという理由だが、実は自分の安全に反しただけ。全体主義とは、所詮、そのようなものだ。それは思考の産物。思考がやることは、常に自己の安全が最優先。自分第一主義の延長が全体主義に他ならない。そういう意味では、政治家の全体優先発言は注意した方がいい。全体の裏に自己の利益が隠れている。宗教も同じ。教祖の自己保存の本能の膨張が勢力拡大のベースとなる。基本的には今の社会は、自我ベースでできている。社会奉仕にしても、自我の満足や世間体のためにやられている場合が多い。純粋に愛が動機というのは少ない。最初はそうでも、途中から思考が介入する。自分のことを少しでも考えた途端、愛は歪んでしまう。個人主義も全体主義も思考の生み出したもの。個人主義は、露骨な自分最優先。全体主義は、隠れた自分最優先。両者に根本的な違いはない。思考ベースで生きる限り、人類に救いはない。思考ベースをいかに超えるか、ただそれだけが問われている。自己の延長としての全体に関心はない。それはまだ思考の次元。それでは何の解決にもならない。思考を超えた全体。自己保存にベースを置かない全体。そういう全体はないのだろうか。無理に全体のために生きようとしている間は、思考の次元。頭で納得して全体のために生きなければと思っている限りは、思い込みの世界。そうではなくて、自然に全体のために生きる。全体のためにとか意識しないで、結果的に全体のためになっている。自然の行為が、全体的な行為。そういう生き方はないのだろうか。全体のために生きようとしている間は、全体のためにはならないだろう。自分が全体になれば、そのような意識は消える。生きること自体が全体のためになる。全体のために生きるのではなくて、生きることが全体のため。そこが思考の次元と決定的に違うところだろうか。思考は目的を持ち、それに自分を合わせようとする。しかし、そのような生き方は思考に支配された生き方。思考が決めた枠に自分を収めるのは苦しい。それは、まさに自縄自縛。何の無理もなく自然に起きる行為。それが結果的に全体のためになる。そのような生き方は可能だろうか。その中にのみ自由は存在する。『目的や 意図や作為が ある限り 思考の行為 混乱の元凶(もと)』『無為自然 自然に起きる 行為のみ みんなのために 役に立つかも』これが402日目の心境です。
2006.02.07
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今日の屋久島は、強風が吹いている。しかし、南風なので、そんなに寒くはない。春二番?12月が寒かったので、もう真冬が終わって春を待っている気分。刻々と春が近づいている感じ・・・肉体は個別化している。本能も個別に付いている。だから争いが絶えない?とも、限らない。動物たちも個別化している。個々に本能が付与されている。しかし、彼等は共食いはしない。個体密度が濃くなると弱いものを食べることもあるらしいが、種の保存のために原則的に共食いはしない。少なくとも生きたものは食べない。死体を食べることはあるらしい。また、カマキリの雄が交尾後に雌によって食べられることもある。しかし、それは役割を終えて子孫の栄養となるためで、共食いではない。肉食動物が草食動物を襲うことはある。それは自然の循環。自然のシステムに過ぎない。しかし、肉食動物も同じ種は襲わない。雄は雌を得るために戦うが、相手が尻尾を巻けば殺したりすることはない。日常的に共食いをしているのは人間だけだろうか。いや、人間も実際に食べたりはしない。ただ殺すだけ。種の保存のためではなく、自己の保存のために。殺して食べるのなら、まだ許せるかもしれない。自分が生き延びるために食べざるを得ないのなら、仕方がないのかもしれない。しかし、人間の場合は、殺すだけ。別に人肉が欲しいわけではない。ただ己の安全を確保したいだけ。動物と人間の違いは何だろう。個別化した肉体や本能に違いはない。では、感情だろうか。しかし、動物も本能的に怒ったり、恐れたりしている。本能ベースの感情に、そう変わりはない。では、何が違うのだろうか。やはり、思考だろうか。思考が必要以上に恐怖を増幅するということだろうか。それによって共食いを始めるのだろうか。人間は思考に振り回されているだけなのだろうか。まだ思考をマスターできていないということだろうか。思考が肉体の本能と合体する時、それは個別化された思考となる。思考自体に個性はない。単なるシステムであり能力だ。ところが、それが個別の本能と一体化する時、それは利己心となる。自我が生まれ、自己最優先となる。動物たちには自我はない。自分という自己イメージは持っていない。人間だけが自分という個別化した意識を持っている。特に思春期以降、他との比較による自分のイメージが明確化する。自我は相対的なものであり、比較によって成り立つもの。絶対的な自我というものは存在しない。絶海の孤島で一人で暮らしていれば、自我が存在することはあり得ない。自意識はあるけれども、それは自我ではない。他との比較によって生まれるものが自我だ。そういう意味では幼児には自我はない。幼児は論理的に考えるということはしない。まだイマジネーションの世界に住んでいる。イマジネーションの世界に自我はない。それは自分だけの世界。比較相対の世界ではない。比較相対は、思春期以降の論理的思考力の発達によって生じる。比較こそが、まさに論理的思考力のベースなのだ。幼児期にも争いはある。自分の世界に住んでいても、兄弟喧嘩はある。しかし、記憶力も思考力も未発達なので、それほど尾を引かない。その場限りで終わることが多い。成長するに従って、尾を引くようになる。記憶力と思考力の発達によって、過去が保存される。過去をベースに生きるようになる。イマジネーションと論理的思考力が一緒になって、恐怖を増幅する。過去の恐怖を思い出し、未来の恐怖をつくり出す。ありもしない恐怖を次々と生み出す。イマジネーションも論理的思考も幻想の海の中に溺れる。自分を見失ってしまう。思考が肉体の自己保存の本能と合体する限り、救いはないのだろうか。個別化しているものと自己同一化することによって、意識は個別化し、自己の利益のみを追求するようになる。この構造から脱却する道はないのだろうか。個別化したものと思考が合体する限り、救いはないように見える。では、どうすればいいのだろうか。人類に未来はないのだろうか。唯一可能性がありそうなのは、聖者たちの軌跡。彼等は同じ肉体にいながら、肉体の本能を超えていた。自己保存第一主義者ではなかった。自分最優先では生きなかった。そういう生き方もできる。人類の可能性。わずかな希望。それはどのようにすれば可能なのだろうか。それは個別化したものと合体するのではなく、全体と合体することによって生まれるのだろうか。意識が肉体の本能・感覚・感情・思考と自己同一化する限り、弱肉強食の世界から脱却する道はなさそうだ。そうではなくて、個別化していないものと意識が合体する時、全体優先という平和の時代が来るのだろうか。個別化していないもの?それは何だろう。常に全体であるもの。いかなる時も断片化していないもの。それは何だろうか。まず最初に思い浮かぶのは、愛。無償の愛。聖者たちに共通に見られるもの。愛に意識のベースを置く時、人は争うことはない。愛の中で平和に暮らせる。聖者たちに共通して見られるもう一つの特徴は、叡智だろうか。この世の本質を見抜く叡智。これがあることによって、思考がつくり出す煩悩に翻弄されない。煩悩の構造を理解し、煩悩から自由に生きられる。人の意識構造の理解。それが平和をもたらすのだろうか。愛と叡智。それらにベースを置いて生きれば、人は平和に暮らすことができるのだろうか。個別化した肉体ではなく、常に全体としてある愛や叡智にベースを置く。それのみが全体の平和をもたらすのだろうか。では、愛と叡智にベースを置くには、どうすればいいのだろうか。それは・・・ホームワーク?この文章を読み、理解するためには思考力を使っている。幼児には、この文章は理解できない。思考力があることによって、このような複雑なことが理解できる。また共通の言葉によって、同じ理解を得ることも可能になる。思考力は必要なものだ。このような言葉を通しての理解だけでなく、科学技術においても必要不可欠なもの。 それには誰も異存はないだろう。問題は、その思考力がもたらす弊害の方だ。現状では、思考力のプラス面以上の弊害が生まれている。そこをクリアーする必要がある。そのために延々と書き綴っている。これも思考の為せる技(わざ)?使っているのは思考。でも、思考はこんなことはしない。自己保存の本能と一体化した思考は、みんなのためには働かない。常に自己の利益最優先。狭い視野しか持っていない。個別化した思考には全体を理解する能力はない。一見それらしく振る舞うことはあっても、所詮、仮初(かりそ)めの姿。羽織の下には鎧がのぞいている。思考は道具。それは使いこなすもの。けっして使われるものではない。これまでの人類史は、思考を使って文明を築き、思考に使われて文明を破壊してきた。 それがまさに人類史そのもの。その人類史を変えることができるだろうか。破壊を終わらせることができるだろうか。共食いの文化を永遠に終焉(しゅうえん)させることは可能だろうか。それが今、問われている。愛と叡智にベースを置く生き方。それが可能かどうか、これからゆっくり見ていくことにしよう。『個別化し 自分本位に 生きてきて 根源的に 変われるだろうか』『肉体に ベースを置けば いつであれ 自分一人の 利益を求める』『全体に ベースを置いて 生きる道 可能かどうか 試してみよう』これが401日目の心境です。
2006.02.06
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「思考のホームワーク[1]」の続きつぎは、せきせきさんですね。「イマジネーション思考が、何故人類破滅になるか私の右脳派コメントを読めば解かる(笑)思い込みの中で、イマジネーションしても、「今の事実」が見えない。でも体験した恐怖だけは積み重ねられ、知らずに人を巻き込み、破滅の渦を作っていく。論理的思考は何故破滅に導くのだろう?数字と数字の間に感情はなく、作られた物にも自我がない。数字や出来事のデータ分析、検証で理論や物を創り上げる。コンピュータはプログラム通りに動く。しかし、作られた物を犯罪ツールにしてしまう人もいる。ゴミも資源も食う。おまけに分析理論にも自我が入る。これも時間の中での重なる恐怖や自我が人類破滅の原因しか思い浮ばない。恐怖が生まれれば、その科学や分析は始めから武器や、金儲けに使われていく。論理的な思考は、水が上から下へ流れていくように、導き出すとよいのでしょうか。論理が、恐怖により曲げられている事を気がつかないのが破滅に繋がる気がします。そして、その論理やイマジネーションを作り出す人も、それを使う人も全ての人が自我のない水の様であることが必要なのでは?子供の頃のイマジネーションは自由。楽しく問題なく紫の太陽をお絵かきする。大人は、紫の太陽を書くのはおかしいと、精神分析、心理検査したり、論理に当てはめ子供に病名をつける。子供はもう、イマジネーションをする時の自由を失う。これが、今の論理的思考とイマジネーション思考の恐怖バージョンの使い方でしょうか?恐怖発信思考。空っぽの恐怖や自我のない状態からの発信ならいいのでしょうか?ゼロベース思考のもっと深い感じ?ハートベース思考とか?右脳と左脳の時代、平和であった理由は解かりませんが、好奇心発信のイマジネーションや科学が、恐怖発信思考や、使われ方に変わったのでしょうか。思考も使い方次第で変わってくる?」幼児期の恐怖体験が、イマジネーション(非論理的思考)にも論理的思考にも暗い影を投げかけているようです。そういう暗い記憶をベースに想像され、論理が構築される。その時、思考は利己的になる。やはり、自己保存の本能が理解され、感情や思考も理解されないと、平和はやって来ないのかもしれません。感覚・感情・思考だけでなく、それ以上の何かが必要なのかもしれません。もっとトータルな意識エネルギー。全体的なエネルギー。愛や叡智のようなもの。断片化されていないエネルギー。肉体は個体に断片化されています。感情も思考も、その肉体ベースに成長してきます。肉体には個別に自己保存の本能がインプットされています。当然、感覚も感情も思考も個別性を帯びてきます。結果、利己的になります。必要なのは、肉体と共に成長してこないもの?最初から断片化されることのないもの?常に全体であるもの?それは愛でしょうか。それとも、叡智でしょうか。そういうものがない限り、人は利己的になってしまうのでしょうか。個別の肉体というベースの上に生きる限り、利己性は避けがたいのでしょうか。更に深く自分を見つめてみてください。次は、たろうくんですね。「『自分は論理的な思考をしているか、それとも非論理的か。』以前だと、かなりOLDタイプの論理的な思考を持ち合わせていたと思います。(*たぶんこのOLDというのを持ち合わせているから、私が年の割にはしっかりしているなんて、言われていたのではないかと思いました。)『ただイマジネーションの中で遊んでいるだけか、それとも事実に基づいた思考をしているか。』イマジネーションの中で遊ぶこともありますが、実際に行動に移す思考は、事実に基づいた思考で動いているように思いますが、自分ではそのとき気づかないけれど、後で考えるとそれは事実ではなく、自分のイマジネーションの中で遊んでいただけという事もあったのではないかと思いました。『自己中心的行為が自他を破滅に追いやる---その原因は何か。』自分でコントロールできるその行為が無くなると、自分の存在までもが消えてしまうような不安や恐怖があるからでしょうか? ちょっと深いところまで見つめれませんでした。『イマジネーションか論理的思考か、あるいはその両方か。』ここまで見つめると、論理的思考が大部分を締めているように感じますが、目の前に起こる事実が、自分にとって厳しかったり不安だったりすると、イマジネーションの中で遊びたい・遊べたら。。。と、その意識をもつことで目の前の事実が楽になるんじゃないかと、逃げ道のように感じている部分もあるような気がします。遊ぶということが、楽しい・面白いといったイメージがあるからかもしれません。今は、両方をバランスよくもつことがいいかなと感じました。」OLDって何?オールドレディ?まさか?かなり論理的な、たろうくんでしょうか。時にイマジネーションの中に逃げ込む時もあるのかな?自分でコントロールできないことは望まない?不安だから?普通の人は、そうですよね。何でも自分でコントロールしようとする。自分の支配下にあることが、安心につながるのですね。自分のコントロールを離れたら、何が起きるかわからない。それはとても不安なのですね。自分の安心・安全。それが第一。それが今の世界の混乱をもたらしていますね。自己の安全=利己心ですね。安全第一というのは、工事現場では役に立つけど・・・こと個人のこととなると?最後は、ぴあのさんですね。「自分は論理的な思考をしているか それとも非論理的か ということに関して、自分ではかなり論理的な思考人間だと思っています。数学、科学は苦手で 文系、芸術分野が得意ですが思考はかなり論理的です。ですが、ひとつのことを分析して だからこう と納得していくタイプである反面理由もなく理屈もなく物事を信じてしまう一面もあります。かなり左脳型だとは思いますが 芸術、特に、音楽の分野に意識が入ると突然右脳人間になります。今までの自分は全くいなくなり、イマジネーションの世界に埋没する という感じ・・・次の質問の、ただイマジネーションの中で遊んでいるか、それとも事実に基づいた思考をしているか ・・・ ということに関しては、右脳優先になったとたん、イマジネーション世界へ入り込んでしまう という感じです。それ以外は 事実に基づいた思考をしていると思います。息子など見ていますと、一日のうち ほとんどイマジネーションの世界で遊んでいます。 仏画を描き、仏画集を見、千手観音のように手がたくさんあったらどんなにいいだろう顔が十一面あったらどんなにいいだろう と、毎日つぶやいています。(彼は本気です)かなり右脳型なので、ピアノを弾くときも、箏を弾く時も、彼には楽譜というものが必要なく楽譜を読み取り (頭で考える) 指に移す という作業を飛ばして、聴く→弾く と、直結です。これが、もう少し歳が進んでいってどうなっていくのか 親としてとても注目しているところです。 論理的思考優先になってくると、右脳が発達しているが故の息子の不思議な(と思われる)能力も消えていってしまうのでしょうか・・・?自己中心的行為が自他を破滅に追いやる原因、イマジネーションか論理的思考か ということに関してはムーも、アトランティスも滅びてしまったことを考えると、両方が原因であると思います。 イマジネーションも論理的思考も、バランスが取れて 初めて宇宙に沿えるものとなるのではないでしょうか。宇宙はすべてバランスの上で成り立っています。 バランスがとれなくなったものは滅びていきます。イマジネーション優先になってもいけない、論理的思考優先になってもいけない。バランスがとれた上で、思考をうまく使いこなし、自我の意識をなくすこと、宇宙の統一性の中で 宇宙と共に息づいていくこと、そのことが大切なのではないか と思いました。」数学や科学は苦手で、思考は論理的?変わった人だね。音楽の分野では、突然、右脳人間になってイマジネーションの世界に埋没する?左脳兼右脳?両刀遣い?右脳も左脳も両方とも必要だよね。それは右手と左手が両方必要なのと同じ。右目も左目も必要。目も耳も鼻も二つずつある。口も排泄口とワンパック。二つあることによって正確な距離や音を感知しているだね。両方バランスよく持つ必要があるんだね。二つずつある五感も、右脳と左脳も、感じる主体ではない。それらは道具。正確に知るための道具。生きるための道具。感覚も感情も思考も、みな道具。恐れや怒りでさえ身を守るための機能であり道具。そういう道具に主体が乗っ取られている?それがこれまでの人類史?主体とは?それはホームワーク。でも、これは次回のホームワークかな?今回は、ハートを意識の中心に置き・・・日常生活を過ごしてみてください。ひとつずつ、順番にやっていきましょう。
2006.02.05
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ホームワークの回答を一人一人提出順に見ていきましょう。最初は、Suppleさんですね。「ホームワークを記載します。初めて出します。自分は論理的な思考をしているか、それとも非論理的か。ただイマジネーションの中で遊んでいるだけか、それとも事実に基づいた思考をしているか。⇒自分の思考はケースバイケースな気がしますが、論理的な思考が強いですね。自分にかかわる過去のことや現状説明の際は論理的な思考をつかっている。未来を予測するときや他人のことなどを推測するときは非論理(イマジネーション)的な思考をしている。ただ、過去の経験から推測するのだから「論理的な思考」⇒「非論理的な思考」へと移る。すなわち、論理的な事実に基づいて考えることと非論理的な想像して思ったことを同時に混ぜている自分がいますね。自己中心的行為が自他を破滅に追いやる---その原因は何か。イマジネーションか論理的思考か、あるいはその両方か。自分の思考を明晰に見つめて回答してほしい。⇒自己中心的行為が自他を破滅に追いやることは、イマジネーションと論理的思考両方だと思うなあ。イマジネーションって想像の世界ですよね。論理的思考って経験だけをみている。結局、思考って自分の思い込みや考えですから、自分中心な思い込みだけで行動すれば、自他をわけて思考できなくなっちゃう。結局、自分よがりになるからね。それは、他の人を尊重もないから、自分が、自分がとなったところに他者がぬけ、いつしか自他の崩壊が起こる気がします。だからそれを国民が一人一人していたら文明も滅ぶ。みんなで集る必要がなくなるのでというところです。種族もほろぶかもね。なぜ、自己中心的行為をとるようになるんでしょう?」論理的な思考と非論理的なイマジネーションが、両方とも見られるのですね。たぶん、それが普通の人の状態でしょう。片方だけという人はいないでしょう。非論理的思考から論理的思考へと、精神は順に成長します。しかし、成長後も両方使うのですね。発達程度は人それぞれです。両方とも客観的に、非利己的に使えている人は極めて希ですね。ほとんどの人は利己的に使っています。特に自分のこととなると、客観的・非利己的に使うのは至難の業です。その結果、多くの災厄が人類全体を襲っています。現在の災害の多くは、過去の人類の想念の結果と言われています。自分のことについて、非利己的に思考を使うことが可能でしょうか。それが問われています。次は、Y@soleiさんですね。「Yです。ブログ上の初参加。思考のホームワーク提出します。『自分は論理的な思考をしているか、非論理的思考か』私のタイプはどちらかというと、非論理的思考の傾向が強いです。感覚を表現する時が多いし、イメージを使ったり、想像すること、イメージを形にすることを楽しむ傾向がある。『イマジネーションの中で遊んでいるか、それとも事実に基づいた思考をしているか』先日、自分の状況の知らせを出した後、これってどうかな?と思えることがあり、その出来事を自分の中で終わらせることが出来なかった。起きている事実を具体的に説明することが出来なかった。書いている間に自分を明らかにすることに不安を感じた為、イマジネーションを利用した説明で煙に巻いたと感じる。ひそかにイメージ遊びの空間を作ることによって、あるがままの私が逃げ去れるような場所を無意識的に作っておく。それで不安に耐えるのに必死な赤裸々な自分を隠しておける。独りで表層の言葉をもて遊んでいるのと同じ事。相手も私も決して核心に触れることはできない。またイメージをするというのは確実に私の事実や状況が具体的に把握できていない事の現れでもあるんだなと感じた。となると、理解することでその事柄を終わらせることもできない。これはイメージの中で遊んでいたのだ思う。客観的になっていると思っても全くなっていないことが多い。イメージ乱用での説明は理論派に大体突っ込まれるので、だからあいまいさを抱えたままのものについてはついつい身構える。なぜなら、彼らの突込みが自分(イメージ)を攻撃されてるように感じて怖いから。ということは、イメージそのものが私と同化してしまっていることになる。『自己中心行為が自他を破滅に追いやるその原因はなにか?イマジネーションか、論理的思考か、あるいはその両方か』その両方だと思います。思考は思考でしかないから。どんな形であれ、思考は思考。私が考えると言っている限りは自己中心的になってしまうと思う。イメージに基づく思考はイメージが膨らめば膨らむほど事実から離れていく。なぜなら、よくよく見るとイメージが生まれる時には、事実の知覚の間に隙間、時間があるから。イメージは今ここに息をしている体も忘れて、過去だったり、未来だったりする。それは今ここの事実とともに生きていないことを意味する。それは事実に対する本物の理解を生まず、自己中心性をますます加速させる気がする。論理的思考のほうが、一見客観的、クリアーにも見える。でも、論理的思考と純粋な観察は違うと感じる。ここを混同してはいけない気がする。ここを混同すると、ここで言う、ものすごく冷たい、もしくは辛辣な人間になってしまうと思う。私は明晰な思考をしたことがないから、よくわからないけれど、論理的思考の中にも考える私がおり、好き嫌いの判断、批判や肯定、反応としての感情などがひそかに隠されている時があると感じるのは考えすぎなのかな。論理的思考の組み立ての最中に、あるいは、原因の中に、理想や怒りが潜んでいる場合があるのではないかと感じるときがある。理に執着するということも暴力的だと思う。私がひっそり入り込む隙間のない観察ができるかどうか。そして外におきているもの、内におきているものについてクリアーな観察が刻々出来るかどうか。それが非常に大切なのではと思う。そしてこれら二通りの思考を使いこなす?ここで地に足をつけるには、この両方の性質を理解して、上手に活用することが必要かもしれない。しかし、あるがままの事実の間に私いて、私がイメージしたり、私が論理を構築してていることに気付けないままでいると、いつの間にかあるがままの物事はゆがんで自己中心世界になってしまう。それが自他共に破滅に追いやる流れになってしまう。そう感じます。」逃げ場を残しておくために、徹底的に見極めない。曖昧な部分を残しておく。そういうことはありますね。自分に甘いというか、自信がないというか・・・それが自分の弱さであることを知りつつも、そんなに強くない自分が断定は避ける。イマジネーションの曖昧さの中に逃げ込んでしまうのですね。自然科学の分野では利己心の入る余地はあまりないように思いますが、社会科学の分野では主観の入る余地は大ですね。歴史認識などは、その最も顕著な例です。経済学も微妙に見方や捉え方が異なります。心理学も諸説があり、諸派に分かれています。人間性を扱う部分においては、なかなか主観を排除するのは難しいですね。どうしても自分の人生経験をベースに物事を見てしまいますから。人生経験には当然価値観も含まれるのですね。それによって史観が分かれたり諸説が生まれたりします。現在の人類の知的レベルでは、自分と関係の弱い自然科学や数学などの分野では客観的であり得ますが、自己の精神と深く関わる人文科学系はまだまだ未熟としか言いようがありません。課題は、自分が関わる分野において、いかに客観的に物事を見ることができるか。自分自身も含めて、非利己的に見れるでしょうか。そして、非利己的に生き得るでしょうか。そうでない限りは混乱が付きまとうでしょう。利己が入り込まない観察と、思考の性質を理解した上で、思考を自由に使いこなすこと。ぜひそれに挑戦してみてください。次は、えっちゃんですね。「イマジネーション思考はよくやります。あれこれ想像するのは楽しい。ついでに悲しい想像もでっちあげて、思い込み思考もよくやります。これはしんどい。けれど、事実に基づいて論理的思考も出来ると思っている。客観的視野で論理的思考をしているとも思っている。ただ、事が自己保存に関する思考になると、どうやら、論理的がヘリクツ思考に変身するらしい。盗人にも三分の理みたいだけど、ヘリクツも、三分くらいの事実には基づいている。自己中心的行為は、他を思いやる心が欠落してる場合が多い。それは、信頼関係を揺るがしかねない。または、信頼関係をなしえない。信頼関係というのは大きい。これなくしては、誤解に始まり誤解に終わるというように、真のコミュニケーションが成り立たない。心の交流は壊滅する。お互いの信頼と思いやりは、きわめて繊細な性質のもので、自己中心的な想いが肥大すると、もろく崩れる。更に信頼と思いやりを持っているという想いは、逆に、思い込み・・自己中心的想いとなりやすい。信頼と思いやりがあるという事に胡坐をかいてしまうと。・・・と、論理的思考で書いたつもりですが、はたして、思い込みえっちゃんの為せる業か・・・。」イマジネーションの世界では、楽しくも悲しくもなれます。どんな想像も可能です。そして、想像したことが現実となります。想像力というのは、創造力に通じるのですね。それは論理的思考にはないものです。イメージは現象化するのです。科学者も技術者も論理的思考だけでなく、イメージ的思考も使っています。完成図をイメージの中で作ってみたり、イメージの中で試行錯誤を繰り返したりします。両方使っているというのが現実でしょう。しかし、こと科学や技術については、さほど問題はありません。問題は利己的思考です。いつのまにか、利己心がイマジネーションの中にも論理的思考の中にも忍び寄ります。そして、気づかないうちに、利己性が考えの中に埋め込まれています。よほど注意しないと、利己的傾向に引きずられてしまいます。えっちゃんは、信頼関係にこだわっていますね。でも、信頼関係も、また思い込みなのでは?何をもって信頼関係と言うの?信頼してる人から裏切られることもあるでしょう?信頼関係とは何?信頼関係があるから裏切られるの?信頼関係がないから裏切られるの?信頼関係とは何だろう?「思考のホームワーク[2]」に続く
2006.02.05
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今日の屋久島は、すばらしい天気になっている。朝方は快晴だった。今は少し雲が見えるけれども、すばらしい天気に変わりはない。2月2日のホームワークを見ることにしよう。テーマは次のようなものだった。「自分の中の思考を、もう一度見つめ直してほしい。自分は論理的な思考をしているか、それとも非論理的か。ただイマジネーションの中で遊んでいるだけか、それとも事実に基づいた思考をしているか。自己中心的行為が自他を破滅に追いやる---その原因は何か。イマジネーションか論理的思考か、あるいはその両方か。自分の思考を明晰に見つめて回答してほしい。」提出された回答を見ると、結論はかなり似ている。イマジネーション(非論理的思考)も論理的思考も、共に自他を破滅に追いやる原因となる。問題はイマジネーションか論理的思考かではなく、自己中心的であるかどうかということ。自己中心的でなければ、イマジネーションも論理的思考も特に問題はない。それらは有効に活用すればいいだけのもの。思考自体に問題があるわけではない。イマジネーションも論理的思考も過去をベースにしている。思考というのは、基本的に過去ベース。過去の経験を基に、あれこれ想像したり、組み立てたりしているだけ。記憶がなければ、思考も存在し得ない。記憶というデータベースを基に、いろいろ想像し、論理を進める。そこに利己心が入り込まなければ、さして問題とはならない。おなもみ君が音楽を一度聴いただけで覚え、そのまま楽譜も見ないでリピートする。それは右脳にそのままコピーされたため。それ自体はすばらしいことではあっても、何ら問題になるようなことではない。数学や科学によって新しい星を発見したり、GPSを発明して登山や航海の役に立てる。それらも何も問題はない。ところが、それはすぐに軍事に転用される。もしかしたら軍事技術から民生用が生まれたのかもしれない。超能力を軍事に応用しようというプロジェクトすらあった。右脳や左脳の問題ではなく、利己心の問題。科学や学問自体に問題はない。童話や小説も問題はないだろう。しかし、それを軍事に転用したり、そこからヒントを得て犯罪を犯したり、使い方によっては危険となる。イマジネーションも論理的思考も自己保存の本能と合体すれば、危険きわまりないものになる。自己保存のために使われれば、全体の安全は脅かされる。一人の人の中に自己保存の本能もイマジネーションも論理的思考も同時に存在する。それをわかったうえで、それを乗り越えられるだろうか。少なくとも、これまでの歴史は自己保存の本能に振り回された歴史だった。自己保存の本能には勝てなかった。感情も思考も自己保存の本能に振り回された。人類全体は、ただ自己中心的に生きただけだった。ところが、人類史には、そのようには生きなかった人も少数ながらいる。それは仏陀やイエス・キリストやクリシュナムルティ。いわゆる聖者と言われる人たち。彼等にも自己保存の本能はあったし、イマジネーションや論理的思考もあっただろう。しかし、彼等は自己保存の本能に振り回されることはなかった。なぜか?何が違うのか?たぶん、彼等は感覚・感情・思考だけでは生きていなかったのだろう。それ以上のエネルギーを使っていたのだろう。例えば、ハートとか。ハートのエネルギーによって全てを包み込み、自己保存の本能に翻弄されなかったのだろうか。意識の中心がハートにある時、それは可能となるのだろうか。あるいは、感覚や感情や思考の性質をわかっていたのだろうか。自己保存の本能を理解し、それに翻弄されないだけの叡智を持っていたのだろうか。感覚や感情や思考を超えた、気づきや洞察や直観を使えたのだろうか。それらのものがみんなに備われば、ムーやアトランティスの二の舞を演じることはないのだろうか。イマジネーションを使うことによって、未来を疑似体験することもできる。コンピューターによって未来を予測することもできる。いずれも予測なので、完璧とは言えない。しかし、ある程度わかることはできる。天気予報は完璧ではないが、かなりの確率で信頼できる。イマジネーションを使ってイメージトレーニングすることは、本番の役に立つ。いずれも、それらに呑み込まれないで、主体性を確保できていれば、それなりに役に立つ。右脳が発達し、左脳が発達する。重要なことは、その統合だろうか。これから問われることは、右脳と左脳の調和であり、それを超えていくことだろうか。ハートによって右脳と左脳を使う。右脳と左脳に意識が使われない。ハートベースの右脳と左脳・・・ハートとは、まさに愛。二つを繋ぎ合わせるもの。調和させるもの。右脳と左脳を繋ぎ合わせ、調和させる。それがこれからの人類の課題となるのだろうか。自己保存の本能さえハートによって抱き参らせる。それによって、全てが愛と調和の中で機能するようになるのだろうか。愛が働くには、叡智もいるのだろうか。全てを静かに観察し、理解する。理解することによって、意識の中心がハートへ移るのだろうか。感覚も感情も思考も全て抱き参らせ、そのまま見守る。そういう中で、全てが調和していくのだろうか。単に肉体の感覚や感情や思考に振り回されるのではなく、意識の全体で見守る。全身全霊で見守る。その時に、自己保存の本能を超える可能性が生まれるのだろうか。それは一人一人が実践してみるしかない。自分自身を通して実感するしかない。そうしない限り、新しい時代は開かない。自分自身を見守り、自分自身を理解し、自分の全体と共にいる。感覚も感情も思考も否定することなく、共に留まる。それ以上の、愛や気づきや洞察や直観とも一緒にいる。自分の全存在と共にある。その時に、自己保存の本能に翻弄されない状態が実現しているかもしれない。それは一人一人の双肩にかかっている。誰もそれを保証することはできない。今日もまたホームワークがある。今日のは知的なものではなく、実践的なもの。実際に実践して、その結果を報告してほしい。その実践課題とは?ハートを意識の中心に置いて生きてみてほしい。常にハートを意識しながら生きてみてほしい。どのような感じがするだろうか。どのような変化が現れるだろうか。自分自身と周りの関係はどうなるだろうか。ハートを中心に据えても、別に悪いことは起きない。だから安心してトライしてほしい。マイナスになる要素はまったくない。心配することは何もないので、ぜひ挑戦してみてほしい。長い時間とは言わない。とりあえず、三日間ほど。2月6~8日の三日間。その結果をレポートしてほしい。10日午前8時までにBBSに書き込んでほしい。今回は日常生活での実践レポート。参加は自由。誰でも参加できる。短い期間だから、ぜひトライしてみるといい。結果は問わない。結果を出そうとすることはない。ただ実践してみるだけ。ハートに意識の中心を置くと、どんな感じがするものか試してみるだけ。お試しコース?参加費は無料。次回から有料?になる予定はない。『中心を ハートに置けば どうなるか 試してほしい 暮らしの中で』『いろいろと 楽しく可笑しく やってみて ホントのことが わかるものだよ』『何事も 慌てず焦らず ゆっくりと 一つ一つを やればいいだけ』『やってみて どんな結果が 出るものか 楽しみながら 試すといいよ』これが400日目の心境です。
2006.02.05
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今日の屋久島は、晴れていると曇っているの中間。晴と曇を足して二で割ったような天気。それほど寒くはない。ただ、海の方はかなり波が立っている。 蒼い海に白い波がきれいだ。宇宙というのは、アメーバーのようなものだろうか。どこかが動けば、同時に別のところも動く。一ヶ所だけ動くということはない。全てが連動している。あるところが突き出せば、別のところが引っ込む。全て関連している。単独な存在というものはない。全てが微妙に関わっている。あるのは、ひとつのいのち。ひとつの宇宙。存在するのは、ひとつのアメーバーだけ。それがクニョクニョと、まるで軟体動物のように動いている。全ての動きがひとつの動き。ひとつの存在。ただひとつの宇宙があるだけ。全てが連動した宇宙があるだけ。それはまるで人体のようにも見える。60兆の細胞が、それぞれ独立している。独立しているけれども、ひとつの人体。個々バラバラに動いているように見えても、ひとつのいのちとして動いている。右手を上げれば、バランスを取るために左手が下がる。全てが連動して動く。それが人体。それが宇宙。全ては、ひとつ。全体で、ひとつ。ひとつのいのちがあるだけ。人体も宇宙も変わらない。人体は宇宙の縮図。人体のビッグバージョンが宇宙。あなたの一挙手一投足が全宇宙に影響を与える。無関係ということはあり得ない。全てが連動している。足の指にトゲが刺さっても、虫歯になっても、頭痛がしても、同じように痛い。どこであれ、痛みに変わりはない。あなたが痛い。宇宙が痛い。部分や個人に関わりなく、ただ痛い。自分と関わりがないことは一つもない。全宇宙がつながっている。どこかが傷つけば、宇宙が痛む。誰かが苦しめば、宇宙が苦しむ。誰かが喜べば、宇宙が喜ぶ。すべてはつながっている。ひとつのいのちがあるだけ。ひとつの宇宙を体験するといい。実際に宇宙は、ひとつ。ひとつのいのちが息づいているだけ。あなたも私もない。あるのは、ひとつのいのちだけ。ひとつのいのちが万象万物となって現れているだけ。色は空に他ならず、空は色に他ならない。ひとつのいのちが、様々ないのちとなる。様々ないのちは、ひとつのいのちの現れ。色即是空、空即是色。ひとつのいのちが、万象万物となって花開いている。宇宙は、ひとつのいのち。千変万化の花の宴。今日は立春。地上も宇宙も花盛り。それぞれの花が、それぞれに美しい。それぞれの花は別々に咲いているように見える。しかし、たどっていけば、ひとつの根があるだけ。ひとつのいのちが、様々な形で咲いているだけ。連動しながら、次々と咲いているだけ・・・『目に映る 花の色香は 違えども 花のいのちは ひとつなりけり』これが399日目の心境です。
2006.02.04
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「無垢の愛[1]」の続き不安?心配?恐れ?そういう気持ちが沸き上がる。それもまた否定することはない。それらのものを無理に抑えても、歪んだ形で別のところから吹き出すだけ。ただ事実と共にいる。不安や心配や恐れと共にいる。それができるだろうか。この世は何の保証もない。そういう事実と共にいることができるだろうか。そのような現実から目を背けないで、事実と共にいることができるだろうか。不安や心配や恐れをなんとかしようとせず、ただそれらと共に留まる・・・不安や心配や恐れをなくすために、お金を貯め、人脈をつくり、新興宗教に入る。精神世界の本を読み漁り、バカ高いセミナーへ出席する。不安や心配や恐れをなくすために、ありとあらゆることに手を出す。それによって、一時的に不安や心配や恐れがなくなることがあるかもしれない。しかし、それは長続きはしない。大丈夫だよと何度も自分に言い聞かせる。何かを信じ込み、自分を安心させる。メシアが現れる、アセンションが起きる、生まれ変わりがある・・・それらは、みな思い込み。思い込みによって自分を安心させようとする。しかし、それはただ蓋(ふた)をしているだけ。元々は自分の不安や心配や恐れと一緒にいれなかっただけ。それで外に救いを求めただけ。外で発見したものを自分の不安や心配や恐れの上に覆い被せただけ。実体は何も変わってはいない。ただ蓋をして、怖いものから目を逸らしているだけ・・・事実を直視する。事実と共にいる。それができるかどうか。ただ、それだけなのだ。逃げない。目の前の不安や心配や恐れから逃げ出さない。それと一緒にいる。何も持たずに、ただそれと一緒にいる。自分を慰める道具を一切持たないで、裸で対峙する。自分の不安や心配や恐れを慰めてくれる、本や宗教や観念に依存しない。自分は神の子だから大丈夫、自分は輪廻転生するから大丈夫、自分は魂だから大丈夫、もうすぐアセンションが起きるから大丈夫、もうすぐメシアが現れるから大丈夫、ありとあらゆる安心させてくれるアイテムを放棄する。自分を支えてくれるものを何も持たない。ナッシング。自分さえない。信念や信条や信仰。主義や主張や概念。先入観や固定観念や偏見。全て思い込み。思い込みで築いた自分さえ持たない。何も持たない。空っぽ。全てのものを手放し、何も所有しないで生きていけるだろうか。不安や心配や恐れと共に生きていけるだろうか。もしそのように生きることができたら、その時、不安や心配や恐れは存在しないかもしれない。何もない。そう、不安や心配や恐れさえない世界。何もない。人間らしいものは何も残らない。人間らしいものが消えた先にあるのは・・・それは一人一人が実感するしかない。言葉で言えばイメージとなる。それは先入観となり、真実の体験を妨げる。何も持たずに生きることができるだろうか。何の保証もなく生きることができるだろうか。全てを剥(は)ぎ取られて裸で生きることができるだろうか。全てを捨てれば、パラダイスが保証される!それでは物々交換。ギブ・アンド・テイクの今の社会と何ら変わらない。そのパラダイスさえ怪しいものだが、信じる人は多い。しかし、それは自分の不安や心配や恐れからパラダイスへ逃避しているだけのこと。何も根本的には解決していない。たぶん、そのパラダイスとやらにも、不安や心配や恐れはあるに違いない。なぜなら、全て持ち越しているのだから。何も本質的には解決されていないのだから。いかなる保証も、いかなる見返りも欲しないで、全てを手放すことができるだろうか。当然、その時は自分というものは死ぬ。精神的に存在しなくなる。そこまでできるだろうか。究極は、それが問われる。ハー、ちょっと過激すぎ?歌劇ではないよ、現実だよ。まあ、そんなに緊張しないで、楽にやってね。ゆっくり落ち着いて生きればいい。何も恐れる必要はない。事実と共に。ただ白紙で臨めばいいだけ。気合だ! 気合だ! 気合だ!うん?どこかで聞いた?ここはレスリングの世界?気合いを入れないと、恐怖には直面できないかもしれない。背筋を伸ばし、真剣に、真っ直ぐに生きるのみ・・・『見返りも 保証もなしに 何もかも 手放すことが できるだろうか』『何もかも 手放しきれば 何もかも 新たに生まれ 変わるだろうか』これが398日目の心境です。
2006.02.03
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今日の屋久島は、曇っている。今にも雨が降り出しそう。海も白波が立っている。今日も、えっちゃんにモデルになってもらおう。一般人代表のえっちゃんは、モデルにピッタシ。昨日、次のようなコメントが書き込まれていた。「>人生はコントロールゲームなんだよ。>自分を守るために他者を支配する。本当に、改めてびっくり!支配、コントロールだらけ。私が、せきせきコメントでびっくりして、その後、しんど過ぎ~~とブーたれたのを恥じて、朝、ごめんねコメントを書いたのも、考えようによってはコントロール。ブーたれおばさんと思われたくなくて、せきせきさんの心証を良くしたいと、ごめんねという。これはもう、しっかりコントロールですよね。・・・うっかりごめんねも言えないじゃないか。恋愛なんてまさに支配。「愛しています」というのは、ほとんどの場合、「だから私を愛して」という意味を含んでいる。コントロールですね。こわもて風に言うと、まさに支配です。「愛してるネン。だから俺の事も愛さんかい!」強制みたいになる。キリストさんが言ったのか、教会が言ったのか、信じるものは救われる・・・。救って欲しかったら信じなさいという支配。この後のコメントの所で、ハートや愛に実感がないと言ったのは、愛というものを疑ってかかってるのかも知れない。ハートが開くと沸々湧き出る愛は、本当に無垢の愛か?無垢の愛など存在しうるのか?条件付愛とか、相手にも見返りを望む愛とか、そういうものなのではないか?親の愛は無償の愛というけれど、それを子供がわずらわしいと感じたら、その愛は、コントロールの愛と成り果てないか・・・???無垢の愛に出会ってみたい・・・えっ?kimiさんの愛は無垢の愛?・・・何にしても、愛の時代なんでしょうね。天皇家の愛子様しかり、スポーツ界のトップランナーも、今まさにアイの時代、ゴルフ、卓球、スキー・・・と。 ますます愛の時代になっていくのでしょうね。こんな私でも、無垢の愛に出会えるでしょうか?」たくさん問題提起してくれている。嬉しくて涙が出そう。人類史の大半は、支配とコントロールの歴史と言えなくもない。自己保存の本能から、相手を支配しようとする。自分の安全を確保するために、相手をコントロールしようとする。それは単純に力で抑えつける場合もあれば、下手に出て気づかれないようにコントロールする場合もある。それは種族間、国家間、グループ間を問わない。多くの人間関係も、この範疇に入る。人は自分を守るために、周りを支配しようとする。それは男女間の駆け引きでも見られる。相手を自分のものにしたいという思いは強い。最初は純粋な恋愛も、やがてコントロールゲームになる場合が多い。自分のものにするために、あの手この手が駆使される。甘えてみたり、すねてみたり、引いてみたり、押してみたり・・・恋の手練手管には事欠かない。それもこれも全て自分のものにしたいから。支配したいからに他ならない。もちろん、もっと純粋な恋愛もあるだろう。しかし、恋愛は執着に変わりやすい。最初は純粋にエネルギー的に惹かれ合う。ところが、時間が経つにつれて、そこに思考が介入する。思考は、変わることのない愛を要求する。そこから苦しみが始まる。この世に変わらぬものはない。魅力は失せ、情熱もやがて弱まる。いつも一緒にいれば、そのうちに飽きてしまう。熱はいつかは冷める。その後は夫婦間の駆け引き。別のコントロールゲームとなる。人類史、そして世界の現状も、支配・被支配のコントロールゲームに他ならない。それは国家間に限らない。家族の中も男女の間も、さして変わりはない。人間関係全般がそうとも言える。なぜなら、自己保存の本能と思考がドッキングし、自分最優先が今の世のパターン。自分優先主義がまかり通る限り、世界は変わらない。それは社会の隅々にまで浸透している。では、無垢の愛は存在しないのだろうか。「愛」という名のスターは輩出している。にもかかわらず、無垢の愛はあり得ないのだろうか。kimiさんの愛は無垢の愛?はたしてどうだろう?まず、kimiさんの愛は無垢の愛と信じてみる。そうすると救われるだろうか。もし無垢の愛でない時は、妄信・狂信となって人生を狂わせるかもしれない。自分だけでなく、多くの人に迷惑をかけることになるかもしれない。では、最初から疑ってかかることにしよう。しかし、もし無垢の愛であった場合、疑うことによって、それがわからなくなってしまう恐れはないだろうか。色眼鏡で見れば、透明な愛も色が着いた歪んだものに見えてしまう。では、どうすればいいのだろうか。信じれば、危なくなる。疑えば、怪しくなる。信じることも疑うことも先入観となる。最初から先入観を持って見れば、ありのままの事実は見えない。信じることも疑うことも必要はない。ただ白紙の状態で事に臨めばいい。その時だけ、ありのままの事実が見える可能性がある。お釈迦様やイエス・キリストに会った人は、みながみな無垢の愛を感じることができただろうか。残念ながら、歴史的事実は、そうではないことを告げている。目の前に無垢の愛があったとしても、それを感じられるとは限らない。先入観をもってまみえれば、無垢の愛はないに等しい。固定観念や偏見がある限り、無垢の愛は感じられない。心が閉じていれば、無垢の愛といえども届かない。それは無垢の愛に限ったことではない。全てについて言えること。一切の先入観を外して、ただ事実と共にいる。白紙の状態。ゼロの状態。ニュートラルな状態。その時にのみ、真実が見える。何もない。空っぽ。何も所有していない。つまり、「私」がない。その時にだけ、ありのままの事実が知覚できる。そうでない限り、全ては自我を通した認識となる。つまり、自分ワールド。思い込みワールド。思い込みワールドに住んでいる限り、真実はわからない。全て自分の都合のいいように解釈しているだけ。解釈、判断、認識、全てが主観=自分ワールド。そこには客観の欠片(かけら)すらない。自分流に受け止め、自分流に解釈し、自分流に判断し、自分流に決断する。お互いが自分の世界に住んでいる限り、真に交わることはない。一人一人が自分ワールドという孤独な城に居住しているに過ぎない。何が真実かを見極めるためには、自分ワールドの外に出るしかない。一切の判断や解釈をやめ、ただ黙って見守る。事実を見極める。それは簡単な道ではない。すぐに思考が動く。すぐに、いつものように現実を自分ワールドに引き込もうとする。自分ワールドに安住し、自分ワールドから出ようとはしない。なぜ?そこは安住の地。自分が守られているところ。高い壁を造り、外敵を遮断してあるところ。自分のベース。自我の源。最後の砦。道は遠い。果てしなく遠い。気が遠くなりそうだ。自我のジャングルに一歩足を踏み入れると、そこは複雑に入り組んだ思いや感情の迷路。それらのジャングルを整理し、見通しのよいものに変えることが、はたしてできるのだろうか。できるという保証はない。しかし、できないという保証もない。いかなる保証もない。人は安全の保証を欲しがる。しかし、この世に絶対安全などというものがあるだろうか。全ては変化している。変化しているものに絶対はない。どこにも保証はない。それが事実。その事実と共に生きていくことができるだろうか。「無垢の愛[2]」に続く
2006.02.03
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今日の屋久島は北西の風に変わったけれども、まだそんなに寒くはない。朝、水を汲みに行った。暑くもなく寒くもなく、何とも言えず気持ちがよかった。包み込まれるように空気がやわらかだった。1月中旬から完全なシーズンオフになって、のんびり日記三昧の暮らしをしている。2月一杯は、この暮らしが続くだろう。今年はブログ日記を書ききることが最大の課題。仕事が忙しくなったら、睡眠時間を減らしてでも書く気でいる。でも、意識が日記にフォーカスしているので、そんなに忙しくはならないだろう。月に半分働けばいいと思っている。それで十分暮らしていける。ボチボチ・・・日記の方は、かなり盛り上がってきている。特にコメント欄が賑(にぎ)やかだ。ホームワークも面白い。毎日、300~400人の方が読んでくれている。書き込んでくれる人もたくさんいる。ありがたいことではある。書くことは楽しいし、気づきもある。意識は日毎にクリアーになっている。ここ1~2年、いや、2~3年は真剣に書くことになるだろう。全身全霊、全力投球で書いていく。まだ突き詰めるべきものがある。まだ明確にする必要のあるものが残っている。それらが活字化される時、三次元のエネルギー状態が変わる。まだ曖昧なもの、明確にされていないもの---そういうものをはっきりと活字化していく必要がある。それによって三次元が変わる。何の気負いも、どのような使命感もない。ただ、淡々とやるだけ。それは楽しいことであり、心惹かれることでもある。意識の深みへ入っていくことは、面白い。意識の暗部に光を当て、それを白日の下に晒す。人の意識構造を明らかにする。明らかにする過程で、それらから自由になる。そういう感じで日々、日記に取り組んでいる。これまで書いてきたことや、これから書くことは、既に仏典やヨガの聖典には書かれているのかもしれない。しかし、それらのものは古くなり、苔が生え、もう現代人には理解するのが困難になってしまった。今の時代の今の言葉で書き直す必要がある。誰にでもわかる表現で、誰にでもわかる形で発表する必要がある。そういう意味では、ブログ日記は最高の形態かもしれない。一方的な発信ではなく、フィードバックがすぐに返ってくる。それは独りよがりになるのを防いでくれる。今の時代、もしかしたらこのような内容は、既にどこかで明らかにされているのかもしれない。しかし、寡聞にして、それを知らない。ここに読みに来ている人たちも、たぶん知らないのだろう。知っていれば、わざわざ来ることもないだろう。そうであれば、一緒に深まっていこう。人類の意識の深みへ共に入っていこう。縁のある人たちと一緒に、人の意識構造を明らかにしていく。それが今の自分にとっての生きることなのだ。「思考」と一口に言うけれども、思考にはどうも二種類あるようだ。一つはイマジネーションの世界。幼児期の童話やファンタジーの世界。成長すれば、それが小説や映画となる。もう一つは、数学や科学の世界。つまり、論理の世界。そこには微塵のファンタジーもない。事実と論理の組み合わせ。極めてクリアーな世界。逆に、ファンタジーの世界は、極めてファジーな世界。どちらも思考という言葉で表現される。どちらかというと、前者は「思う」という方に近く、後者は「考える」という方に近いのかもしれない。思うことやイメージすることは、幼児期から始まる。しかし、論理的に考えることが本格化するのは、思春期以降となる。一番わかりやすい例は、サンタクロースを信じている間は、ファンタジーの世界の住人だろう。成長するに従って、サンタクロースを信じる人は少なくなる。みんなリアリストになる。ところが、本当にリアリストになるかというと、そうでもない。大多数の人は、自分の思い込みワールドの住人となる。事実と共に生きている人は少ない。自分の外側のことでは、事実と共に生きれているかもしれない。しかし、自分のこととなると、それができている人は極端に少なくなる。多くの人は、幼児期のファンタジーの世界を成長後も持ち続けている。端的な例は、幼児期のトラウマによって人間関係に支障のある人は多い。親子関係が決定的な役割を演じている。抑圧された意識は、今も何かに怯(おび)えている。素直にあるがままに生きている人が、どれほどいるだろうか。論理的な思考をベースに、クリアーに生きている人はごく希だ。思い込みワールドにはまり、恐れと共に生きている人が大多数だ。思考力がまだ未発達なのだろうか。少なくとも自分自身に関しては、まだ客観視できない。いつも主観の中で彷徨(さまよ)っている。事実ベースで生きれず、思い込みワールドの中で喘(あえ)いでいるのが現状ではないだろうか。感情を伴う思考と、論理を伴う思考があるのだろうか。前者は曖昧なイマジネーションの世界であり、後者は明晰な科学の世界だろうか。自我は、思春期以降の論理的な思考力が発達する過程で生まれる。もちろん、幼児期にも自意識はある。しかし、その自意識は、どちらかというと自分の世界に埋没している。自分がどのように見られるかを、それほど意識してはいない。小さな子供は平気で人前で歌ったり踊ったりできる。ところが、思春期になると、そんなことは恥ずかしくてとてもできない。思春期になると、他者を強く意識するようになる。他者との関係における自分=それが自我となる。動物にも自意識はある。しかし、自我意識はない。なぜなら、思考力が劣るから。他者との比較によって自我は存在する。単独の自我というのはあり得ない。比較---それこそが思考のベース。比較によって思考は成り立つ。比較がなければ、思考もない。データの比較、これが思考の基本だ。その比較に基づいて、自我は存在する。他者との比較によって自分が際立つ。幼児期には明確な自分のイメージはない。それは他者との比較において明確になる。つまり、思考力が発達することによって自我が成立するのだ。それ故に、自我とは相対的なものだ。絶対的なものではない。それは比較の上に成り立つイメージ=思い込みなのだ。論理的な思考は、コンピュータと同じ。しかし、イマジネーションの世界は、コンピューターとはまったく異なる。感情を伴うイメージ的思考は、論理的なコンピューター的思考とはまったく異質のものだ。想像による思考と、比較による思考。曖昧な思考と明晰な思考。思考には二種類あるように見える。右脳と左脳。右脳はイメージ脳。左脳は論理脳。幼児期は右脳が発達し、成長すると左脳が発達する。イマジネーションの世界は、右脳。科学の世界は、左脳。左脳だけでは、芸術作品は生まれない。右脳だけでは、科学技術は覚束(おぼつか)ない。それぞれに役割がある。ムーの時代は、右脳の時代と言われている。イメージによって、いろんなものを創造した。それは直感の時代であり、論理を使うことはなかった。ムーの時代は、宗教の時代でもあった。宗教は左脳からは生まれない。左脳は信じるという行為はしない。信じるのは、右脳の働きだ。アトランティスは、左脳の時代だったと言われている。科学によっていろんなものを創り出した。それは現代の科学水準を凌駕するものだった。彼等は論理的な思考を使い、右脳はそれほど重視しなかった。アトランティスの時代は、科学の時代だった。しかし、ムーもアトランティスも海に没した。なぜか?それは利己的になったからだろうか。自己中心になる時、文明は滅ぶ。個の生存のみを重視する時、全体は崩壊する。個が全体の調和を乱す。いずれの文明も、自己保存の本能を超えられなかった。肉体が個別化しているが故に生じる個々の本能が、全体を滅ぼしてしまった。しかし、動物の世界では、個々の本能が全体を滅ぼすなどということはない。なぜ人間だけが全体を崩壊させてしまうのだろうか。それは自己保存の本能を思考によって必要以上に増幅させるからだろうか。つまり、思考が自身の滅亡の原因だろうか。思考がなければ、自己保存の本能は個体の中で完結していたのだろうか。思考によって個体という領域を超えてしまったのだろうか。自己中心的行為が拡大しすぎて、お互いを抹殺してしまったのだろうか。その原因は、イマジネーションとしての思考か、それとも論理としての思考か、あるいは、その両方か。今日は、ここまで。この続きは・・・ハイ、ホームワーク。できるだけ教えない。自分で気づいていただく。それが基本方針。自分の中の思考を、もう一度見つめ直してほしい。自分は論理的な思考をしているか、それとも非論理的か。ただイマジネーションの中で遊んでいるだけか、それとも事実に基づいた思考をしているか。自己中心的行為が自他を破滅に追いやる---その原因は何か。イマジネーションか論理的思考か、あるいはその両方か。自分の思考を明晰に見つめて回答してほしい。締切は2月5日午前10時。それまでにBBSに書き込んでほしい。参加は自由。但し、本の知識や他人から聞いたことは無用。自分自身を通して気づいてほしい。よーくよーく自分を見つめて、理解してほしい。参加することに意義がある。自分を見つめること自体に意義がある。結果以上の意義がある。『人はみな 自分自身を 知らないで 自分自身に 振り回される』『自らに 静かに深く 分け入って 意識の闇に 光を当てる』『自らを 見つめることに 意義がある 抱き参らせ 全て見守る』これが397日目の心境です。
2006.02.02
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「心・ハート・愛[1]」の続き5人の回答を読んだ感想と自分の捉え方を書きます。但し、これはあくまでこちらの捉え方であって、それが正しいとは限りませんので、最終的には自分自身で確かめてください。とても微妙な問題ですので、注意深く自分自身を見守りながら読んでください。まず、最初の質問。『心とはどういうものでしょうか』これは、みなさんが書いているように、意識場でしょう。感覚や感情や思考、気づきや洞察や直観、そして、愛。そのような様々な意識が現れるところ。意識のフィールド。意識の器ですね。いろんな意識が現れるので、心は一定していません。一喜一憂。喜怒哀楽。心はコロコロ変わります。ありとあらゆる意識が現れては消えていきます。その人にとって意識が現れるところ、それが心でしょうか。次の質問は、『ハートとはどういうものでしょうか』ハートは、愛の意識場。愛が現れるところですね。愛はハートを通して現れます。直接心から愛がほとばしり出るわけではありません。ハートを通して出る感じですね。ハートは、愛専用の出口です。愛以外にはありません。次は、『愛とはどういうものでしょうか』愛は言葉を超えていますね。でも、できるだけ言葉で表現してみましょう。愛とは、生かすエネルギーです。全てを肯定し、育てるエネルギーです。プラスのエネルギーとも言えるし、ポジティブなエネルギーとも言えます。拡大させる、増大させるエネルギーとも言えます。もう少し大きく捉えれば、プラス・マイナスを超え、ポジティブ・ネガティブを超え、増減を超えた、全てをそのまま包み込み肯定するエネルギーとも言えます。無条件に生かすエネルギーですね。最後の質問は、『心とハートと愛の関係はどういうものでしょうか』心は全ての意識が現れる意識場。ハートは愛専用の意識場。心が一番表面意識に近いところにあります。その奥にハート。だから、心が恐怖で閉じてしまうと、ハートは顔を出せません。ハートが現れないと、当然、愛も流れ出せません。恐怖がクリアーされ、心がオープンなる時、ハートが姿を見せます。そうすれば、状況に応じて愛は自然に流れ出します。いかに心を閉ざさないか。それが問われています。いかに心を開くか。それがポイントなのです。それはハートを開く以前の問題です。ハートに意識の中心を置き、ハートを開こうと努力します。しかし、心が恐怖のために閉じてしまっては、どうすることもできません。恐怖を理解し、克服することが必要条件となります。ハートに中心を置き、ハートから活動することは、ハートを活性化させ、ハートのエネルギー場を大きくします。その結果、愛は大きく溢れ出すようになります。しかし、恐怖があれば、愛は心から閉め出されてしまいます。恐怖を理解することが必要なのです。愛だけでは足りないのです。思考の理解とハートへのフォーカス。その両方が必要なのです。藍&aiさんの回答には少しコメントが必要かもしれませんね。他の方の回答には特別にコメントはいらないでしょう。それぞれ深く見つめられていると思います。愛には、無償の愛と愛憎の愛があるのですね。無償の愛というのは無条件の愛です。いつ、いかなる時でも変わることのない愛。ところが、愛憎の愛というのは、「可愛さ余って憎さ百倍」という愛です。自分の言うとおりにしている間は、この上なく愛するけれども、自分の意に反する場合は、憎しみに変わってしまうのですね。特に親しい関係の場合に、このようになりやすいようです。これは明らかに無条件の愛ではありません。条件つきの愛です。もちろん無償の愛でもありません。代償を期待した愛です。では、無償の愛と愛憎の愛は、何が違うのでしょうか。無償の愛は純粋な愛そのもの。愛憎の愛は、愛の中に自分の思いが混じっています。つまり、純粋な愛ではなくて、愛+思考ということです。思考によって愛が歪められてしまうのです。元々は愛から出発したのかもしれません。しかし、いつのまにか愛の対象に囚われてしまったのです。気づいたら、執着になってしまっているのです。執着になれば、相手が自分から離れようとすると、愛が憎しみに変わってしまいます。相手を縛り、結果、自分も相手に縛られるのです。どんなに可愛い我が子でも、ほんの少し距離を置いて見守っていた方がいいかもしれません。そうでないと執着になってしまう危険があります。それは双方に苦しみをもたらします。もう少し、ゆったりと構えているといいかもしれませんね。最後にせきせきさんの疑問。私の心を見守っているのは誰?心を感じているものは何?これは少し難しすぎるかもしれませんね。もうしばらく自分の中で問いかけを持ち続けていてください。注意深く自分を見守っているといいでしょう。心とハートと愛の関係。必要なのは定義ではなくて、自分の中を整理することです。今回のホームワークで、参加された方はかなり整理されたと思います。スッキリ、何の抵抗もなく生きていく。それが最もシンプルな生き方です。抵抗こそが自我です。それは思い込みであり、囚われであり、執着です。そういうものがない時、愛はストレートに流れます。自分の中の抵抗に気づき、それらのものを手放す。自分の中の恐怖や怒りや心の傷。引っかかっているものこそが、自我なのです。それがまた生まれ変わらせるのです。自分が引っかかるものに、惹きつけられるのです。引っかかるということは、それに執着しているということであり、囚われているということです。そういうものに気づき、直視し、手放す。何も持たない。サラサラと流れていく。必要なものは流れてくる。それを必要な間だけ拾って使う。そして、また流す。物も体も心も、全てそうです。何も持たない。軽やかに流れていく。その時に、心は全開になる。その時に、ハートも全開になる。その時に、愛は自然に溢れ出す。『見守って 心の中を 整理して 流れを止めず そのまま流す』『手放して 手放しきって 何もなし ただ渾々(こんこん)と 愛が湧くのみ』これが396日目の心境です。
2006.02.01
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今日の屋久島は、荒れ模様。激しく雨が降ったり、強い風が吹いたりしている。でも、気温はまだ高い。明日あたりから、また冬型に戻るらしい。数日前に、ぴあのさんが「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPの「K-コミ時代」の「POEM」欄にNo.9とNo.10を入力してくれた。その中に「新時代」という詩があった。1990年に作ったもので、既に15年以上経っているが、要旨ははまだ生きていた。内容は、これからは教える・教えられるという関係ではなくて、共に発見し合うという関係の時代になるというもの。それを読みながら、このサイトでは、まだ教えすぎかなぁーと思った。できるだけ教えないで、自分で気づいてもらえたらと思っている。けれども、なかなか難しい。でも、できるだけその方向で進んでいきたい。結果的に、問いかけるような文体が多くなるかもしれない。この日記は、自分が感じたことを率直に書いている。断定的に書いているけれども、それはあくまでこちらの主観。客観的に正しいという保証はない。そこのところを理解して、よく吟味して受け止めてほしい。間違っても鵜呑みにだけはしないように。自分の感性を尊重してほしい。そういう前提でホームワークを見ていくことにしよう。ホームワークのテーマは次のようなものだった。心とはどういうものでしょうか。ハートとはどういうものでしょうか。愛とはどういうものでしょうか。そして、心とハートと愛の関係はどういうものでしょうか。個々に見ていくと重複するので、提出した5人全員を一度に見ていく。まずは、えっちゃんの回答。「本当に良くわからなくて、コメントのところは混乱状態。『心とはどういうものでしょうか』精神的なもの感じたり、判断するところ。想いが湧き出るところ。『ハートとはどういうものでしょうか』外からの刺激の受信機であり、心に沸きあがる想いの送信機でもある。感じることは出来るけど、判断はしない。精神的な刺激を受け入れたり、出したりする場。『愛とはどういうものでしょうか』外からの刺激に対して、心が慈しみや、想いを湧き上がらせる気持ちのカタチをいう。『心とハートと愛の関係はどういうものでしょうか』心で生じた慈しみの気持ちを愛といい、ハートがそれを送信したり、または受信したり、蓄えたりする。」次は、たろうくんの回答。「『心とはどういうものでしょうか。』自分のなかにある思考や自我など、すべてを認めた意識だと思います。『ハートとはどういうものでしょうか。』心の意識のなかでも、愛しみや優しさ・思いやりが中心となったあたたかな意識と感じます。そして、ハートの意識から共振・共鳴を感じ、より一層ぬくもりを感じることができます。『愛とはどういうものでしょうか。』何の思考や判断もなく、その存在すべてを受けとめて包み込み見守る、無償の空の意識。『そして、心とハートと愛の関係はどういうものでしょうか。』どれが欠けてもそれに気づけない大切な存在です。」次は、せきせきさんの回答。「心とは心は脳なんだと勉強した気がしますが、自分が感じる感覚で、考え直して・・・・心は器です。今生きている私の波動、振動をつくる器の1つ。私を表すもの。(私の波動をつくる器はまだ、なんとなくありそうだから、その中の1つといっておきます。)他の波動と、自分の波動が共鳴してる所。私の世界の枠が狭いとそれだけ心も狭くなる。ちくちく感じたり、ズキンと感じたり、ツーンとかんじたりする。この感覚に、「悲しい」「ショック」とか、名前を作るのが脳(思考)なのかな?今の私の心は、自我と強い関係があります。自我があり、思考があると感情となるのかな??大地とか水は様々な波動があるけれど、汚染で波動が低くても「苦しいよ」とは言わないし。ハートとはkimiさんが私のコメントに「ハートは愛だね」と書いてくださったけど・・・。心の枠が広くなっていくもの。心が開いていく時になる心の状態。あたたかな状態。言葉で表せば、思いやりとか、慈しみとか、優しさとかあるだろうけれど、そいういう何もかも溶かすような包むような波動の種類がハート。心が愛になっていく状態を表すもの。愛とは愛は、そこに在るもの。説明のいらないもの。そのもの、全て。心とハートと愛の関係は最近心が疲れている状態を、見守っていました。で、そうすると、心は元気になり、充電され、ハートになるのですよね。心は、愛によって(何も説明や判断の要らない見守り)、ハートになるみたいです。私の心がハートになると、私の世界もハートになり、様々な人や、物もハートになる。ところで、余談ですがこの私の心を見守っている私は、一体誰なんでしょう。宇宙とか?なんとかセルフとか?」次は、ぴあのさんの回答。「心とはどういうものでしょうか。 喜怒哀楽、あらゆる感情を感じ、外からの刺激に揺れ動く意識場。 時には喜び 時には悲しみ 時には怒り、傷つき・・・ 自我と共にあるもの。 ハートとはどういうものでしょうか。 無条件の愛、信頼、宇宙と繋がる、絶対的愛の意識場。 自我はどこにもない。 自他もない。 愛に満ち充ちた 愛の源。 愛とはどういうものでしょうか。 愛とは心の内から慈しみと美しさが溢れ出るもの。 対象に対してハートがオープンになること。 自分ではなく自分の外にフォーカスしている。 また、宇宙の源。そして、心とハートと愛の関係はどういうものでしょうか。 ハートをベースに、愛、心 と、ピラミッドのようになっている気がします。 ハートは無限の世界。 そのハートから愛が溢れ出て そして、愛をベースにして 心が色の世界、有限の世界を体験する。」最後は、藍&aiさんの回答。「このホームワークのテーマ。。いくら考えてもわからない自分がいました。いつの間にか、あたしは愛というものを否定して生きてきたように思います。。?愛を感じたことがない。。?いえ。。愛というものを心から信じられない自分がいる。。?愛は、もしかしたら憎悪と裏返しのもの。。?無償の愛。。母親が自分の子供に想うものしか信じられない自分がいる。。?いつのまにか、そういうふうに自分を洗脳してきてしまっていた。。?愛は、いつか裏切るかもしれない。。。?藍は子供のときから親から虐待を受けて育ってきたのでとても疑り深いし、数十年。。自分が死ぬことばかりを想って生きていた。。自分のことが自分でも好きになれない。。でも、ここ数年。。やっと自分の気持ちが楽になれたばかりなんです。。それは、HPを作ったことによって様々な人の生き方を知ったから。。そして、やっと自分はこれでいいんだって自分自身を肯定して生きられるようになったところです。つい最近、Kimiさんのここの場所も知って。。日記を読むたびに考えさせられてきました。でも、今回のこのホームワークは、いくら考えても藍にはわかりません。心とハートの違いもわからないし、愛という言葉。。実態も及びがつきません。自分で言えば、子供を愛する気持ちはあふれるほどあるけれどその他のものでの愛という存在は。。? 正直。。謎です。でも、こんな事を書き込んでいながら涙があふれてきてしまうのは何故なんだろう。。?愛という存在を否定しないで生きていきたいです。。」「心・ハート・愛[2]」へ続く
2006.02.01
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