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3月の入塾・・・ちょうど50人。1月~3月の入塾66人。(もう少し増えるかも)問い合わせ件数・・・よくわかりません(笑)。途中までつけていたけど、ワケわかんなくなってしもうた。時期的な事もあって、入塾件数×1.1くらいのイメージかな。つまり、だいたいの方が入るつもりで問い合わせ&体験授業参加されているということ。昨年までとの顕著な違いは、まず最初に考えてもらえる部類に入ったこと。1月頃体験に来られて、他の塾もまわられて、最終的にかいちに決めましたという方も10%くらいいらっしゃって、うれしい限り。講師募集中です。失敗は、もう明らかにベネッセ子ども英語。プログラム云々ではなく、完全にマーケミス。もう今期はこれ、取り返せません。来期がんばります。塾を始めて5年目、数字を公開するのは2回目。僕らは子どもたちに、「本気で願うことは書け」とか「絶対に実現することを誓いたければ人に言え」と言っている。生徒たちに言っていることを自分が出来ないようでは話にならない。僕は自分の数字を人に公開することで、自分を追いつめている(諸先輩方からすればたいしたことねーじゃんwかもしれませんが)。今となっては書いたかどうか記憶が定かではないが、今回数字を公開した目的は卒業&退塾による生徒数減を絶対に取り返す事にあった。結果は取り返し、さらに上回る事が出来た。良かった。でもあれですね、がんばってもがんばっても、不安感というか焦燥感は増すばかり。そんなことないんでしょうか。他の経営者のみなさま。そうか、僕が気が弱くて小さい、おとなしい人間だからか。そうかそうか。
Mar 31, 2008
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塾の商品は、授業ではないと思う。普通に物を売る商売ならば、お金を払って手に入れた瞬間や、その物を使っている間に「満足」を得られるが、塾では授業を受けているだけでは「満足」は得られないからだ。確かに、授業を受けることで得られる「分かった!」とか「解ける!」というのは、限りなく満足に近い。でも、それは、お金を出してくれている保護者の本質的な満足とは異なる。保護者が何にお金を出しているのかと言えば、成績アップor合格だ。でもその「結果」が見えるのはテストや入試の時だけだ。結果が出て初めて「満足」が得られるのだ。そういう意味で、授業で本質的な満足を与える事は難しい。結局、普段の授業の中での「分かった・解けた」は、保護者が得られる満足とは結びつかない。あるのは、子どもが得られる「これならテストで出ても解ける」という「安心感」である。子どもたちに「これは解けてほしい」と思う問題がある。「この単元なら絶対にこれを聞かれる」という問題などがそれにあたる。良い講師と普通の講師の差が、ここに出てくる。単元ごとに頻出問題や重要問題が分かっていて、それを毎週のようにやらせているにもかかわらず、いざ定期テストが終わってみると結果が講師によって全く異なることがある。例えば中2の数学で、二等辺三角形であることを証明する問題がある。方法論は二つあり、ひとつは「2辺が等しいから二等辺三角形(定義)」、もうひとつは「底角が等しいから二等辺三角形(定理)」だ。数学的には前者の定義の方が当然重要で、問題集や参考書などの説明には定義が最初に書いてある。でも、実際の問題では圧倒的に後者の方が出題率が高い。これをどう伝えるかが、講師によって異なってくる部分だ。ハッキリと、「テストではこっちが出るから、こいつを出来るようにするのが今日の目標だ!」と最初に言い切れるか。これで、1コマの真剣みが全く違う。ちなみに、僕の場合は「4つ中学校があったら3つの学校でこれが出る!」「二等辺三角形の証明問題の9割はこっちだ!」などと言い切る。統計的な根拠は全くないが笑。でも、ただタンタンと進めるより、はるかに効果が高い。もちろん、それが本当に頻度の高い問題でなければならない。事前に期末テスト問題では何が出ているのか、全て分かった上でやらなきゃ意味がない。それがわかっているなら、それを授業前に「出るぞ」と宣言しておくことで、効果が全く違ってくるのだ。そしてその授業は「テストに出る問題をやっているんだ、私の努力は無駄にならないんだ」という「安心感」に変わる。これがある講師とない講師では、全く存在の重要度が違うだろう。ちなみに、「毎週使っていたら効果が持続しないのでは・・・?」と思う人は、まだまだ。毎週使って、毎週集中させればいい。「今日はこれのために来てもらったんだよ!!!!」ってのが、全力で伝えられなければ、講師として失格だ。だって、「あれ?今日はテストに出る所じゃないの・・・?」ってことになるでしょ。そんな日は、塾にとって1日たりともないはずでしょ?
Mar 27, 2008
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何回か登場している求人広告のおにーちゃん。今回は、、、びっくりするほど良くなっていた!募集ページの最初の所にキャッチになる文章&写真を載せるスペースがあるんだけど、そこの文章を「一般的な物」「訴求型(こういう人がほしいみたいな)」「自分(おにーちゃん)目線で」の3パターンで持ってきた。もちろん、最後ので即断。担当のおにーちゃんが最初にうちに来たときの印象をバーンと前面に出した、素晴らしく良い物だった。当初のものは、「教えることで自分も成長する」みたいな、どこにでもある=どーでもいい内容だった。でも、最後に「ちょっとこれは(見せるのに)勇気がいるんですが・・・」といいつつだしてきたものが、それだった。最初の1行はなんと「これがかいち塾だ!」。「写真は、入り口を入ったところの『これが塾なの!?』という写真で行きたいと思うんです!」と。あー、この人、本気で考えてやってくれてるんやなーってのがすごく伝わる、とても良い物。こういうのを求めていた。というか、僕が何を求めているのか、本気で考えてくれたってのがすごく分かった。もちろん僕は経営者なので、単に情だけでOKにはしない。それでもなお、「これでダメやったらしゃーない」と思わせる内容だった。コピーライター、広告プロデューサーの名前も教えてあげたし、「売れるDM」みたいな本もあげた。単なる1営業マンにここまで・・・と思うかもしれないけど、結果的に僕はそれ以上の物を得た訳だ。(これで採用があれば最高)他社の営業マンをデキナイと切り捨てるのは簡単だけど、ちょっと手間をかけると自分に合った非常に優秀な営業マンに変わる事もある。僕も良い経験をした。よし。ところで最近は入塾やら問い合わせやらでワケわかんなくなって、何件問い合わせをもらっているか分からなくなってしまった。1,2,たくさんみたいな。末で締めれば入塾件数は分かるけど、クソ忙しいだけでそんなに入ってない気もする・・・どーなんでしょ。
Mar 20, 2008
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入塾時点でのご面談で、「お父さんお母さんから見て、お子さんはどんなお子さんですか?」ということをお伺いしている。塾をやっていると、子どもの能力が分かってくる。ウソ。分からない。どれだけ見ても、子どもは時に想像を大きく超えていく。何人もの子どもを毎日見ていると、その集団の中で比較検討して、知らず知らずのうちに子どもに対して何らかの評価をしてしまう。換言すれば、ポジショニング、キャラ付け、極端な言い方をすれば「記号化」してしまう。「田中くんはよく遅刻する子」から始まって、最後には「田中といえば遅刻」みたいな(仮名)。子どもには、現在能力と将来性という大きく二つの能力がある。これは全くの別物だ。しかし、勉強という側面において子どもの成長は毎日目に見えて変化があるものではないために、現在の姿が「将来性」という全く別物の能力の判断を大きく狂わせてしまうのだ。遅刻の田中くんはいつまで経っても遅刻の代名詞。そんな感じ。これまでの1年の成長曲線が今後1年の成長曲線と一致しないことくらい僕らは分かっている。それと同様に、勉強以外の面においても子どもたちの変化は「これまでとは異なる」ことを忘れてしまうのだ。塾で見せる子どもの姿が学校や家で見せる姿と大きく異なる事もまた、僕らはよく分かっている。そういった勉強以外の面が勉強に与える影響が絶大であることも分かっている。なのに、そういった面に目を向けずにひたすら過去の期末テストの点数だけ見て子どもたちの将来を勝手に夢想して良いのだろうか?結局の所、僕らは子どもたちのほんの一面しかしらない。そして、それ以外の面が子どもの将来性に与える影響を過小評価している。(逆に言えば、僕ら自身の認識能力を過大評価している)子どもの能力を最も知っているのは親だ。生まれてからのほとんどの時間を共に過ごして、そしてここが重要なのだが、その子ども自身と成長してきた張本人なのだ。親は子どもを育て、そして逆に子どもに育てられてきた。つまり、大人の目をもって、その子の成長を見つめ、その成長を身をもって体験してきたのだ。そんな親の目が重要でないはずがない。僕らが思っていた「○○くんって、こういう子だよね?」って言う評価。これが親の評価と一致していない場合は、まず自分の目を捨てなければいけないと思う。見る目を疑うというよりは、捨てる、である。そして、親の評価からスタートすべきであると思う。ただひとつ、疑問が残る。例えば親が言う「この子はまじめな子なんです」という表現。これが、他のこと比較してどうなのか?ということである。親は、自分の子は知っていても、他の子は知らない。それは僕らの方が知っているとも言えるが、だからといって「いや、お宅のお子さんは他の子に比べたら全然まじめじゃないんで、もっともっと厳しくいきますね」といっても、全く無意味である。その親は、その親自身の尺度の中で自分の子どもを「まじめ」と評価している。そして、その子どもが持っている尺度もまた親と同じなのだ。その親に育てられたのだから、当然といえば当然である。親子で味覚が似てくるのと同じだ。その子特有の「尺度」は、変えることが難しい。親の物差しを変える事に等しいわけだから、難しいのは当たり前だ。こういった場合、無理して尺度を変えようとしてもうまくいかない。「長時間勉強ってのは5時間以上を指すんですよ!3時間程度でがんばってるなんて言わないでください!」なんて言っても、「うちの子なりにがんばってるので・・・」となってしまって、話がかみ合わない。だから、急激な変化を求めるのではなく、少しずつ別の尺度を見せ、触れさせ、参加させ、徐々に子どもの意識を変えていくようにしなければいけない。「かいち塾来たら、めっちゃみんな勉強しとるやん!オレなんかまだまだ全然やな~!!」こういう言葉が出てこれば良い。だからかいち塾は土日も祝日も夜中まで自習室の電気が消えないのだ。お互いの姿を見せ合い、刺激しあい、成長し合う。親や僕らの想像を大きく超えて伸びる瞬間である。
Mar 16, 2008
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求人広告を出すに当たって、営業の人と打ち合わせをした。「今回は○○というご提案をさせて頂きたいと・・・」どーせ会社の上司には「提案型営業で云々」と言われてんでしょ?なんて聞いてみると、まぁその通りなわけで。「提案型」といえば聞こえは良いが、たいていは「自分はこう思う」ていう程度の事を、ただ押しつけようとしているだけなんだけど、営業がデキナイ人はとにかくこの「提案」を繰り返す。ではそこに、客のニーズをくみ取って提案するほどのお客への食い込みがあるかと言うとそうでもなく、要するにお客をろくに知りもしないで言いたいことを言っているだけになって、「営業成績が上がらない」となる。僕らはこういった企業の下っ端営業マンが知っている程度の知識は持っているし、広告やらキャッチコピーやらの勉強はしているわけで、営業マンが「働きやすい職場です!」というキャッチはどうですか?なんて言い出すと、もううんざりする。話がそれまくりまくりすてぃ塾に限らずだけど、本当の自分の姿が一番わかりにくい。出来るだけ自分と距離を取って自分の姿を見てみようと思うけれど、やはり限界がある。よくチラシやらなんやらの本を見ても、「自分の売りを最大限アピールしましょう」なんて書いてあるんだけど、その自分の「売り」がきちんと見える人は結構少ないんじゃないだろうか。それこそが、営業マンがするべき提案型営業だと思う。「僕が最初にかいち塾に来たときにこう思いました、間違いなくこれはかいち塾の売りです。だからこうしましょう!」って具合に。(それを塾で生かそうとすると結構危険だったりするけど、それはまた別の機会に。)最近いろいろな人にかいち塾の印象を聞いてみるけど、よく言われるのが「まず入り口を入ったときに驚きました」というヤツ。良い意味で言ってくれている話なので、HPにその様子を少し載せた。(とは言っても意図があって全部をクリアには見せていないので、ご興味のある方は是非お越しください。いつでもどなたでも大歓迎です。)また、年がら年中あいている自習室というのも、意外に他にはないようだ。だからそれはチラシに書くことにした。どちらもだいぶ前の話だけど、どちらも「来て見なきゃ分からないこと」だから、まだ来てもらっていない方に向けてアピールする必要はある。やっぱり自分の中で当たり前のことだけど人から見たら奇異だったりすることは、常に探る努力をしつづけなければ分からない。特に塾の場合、自塾の特長は親御さんに聞いても意外につかめなかったりする。かいち塾が初めての塾で、そのまま他に通っていないから比較ができないのだ。親同士の情報交換も、自分が授業を受けているわけではないから、結局「うちの子はこういってる」程度の話に留まる。だからこそ、こういった第三者的な立場で、しかも何でも聞ける「営業マン」をうまく利用したいと思うのだ。という話を営業マンくんにして、前回の打ち合わせはだいたい終了。イヤな客なんだろうな笑
Mar 15, 2008
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マジでいた。・・・・なにがって・・・・入試の前日の晩、11時半頃。あぁもういよいよカウントダウン状態で一本の電話・・・「はい、かいち塾です」「○○ですけど・・・」「おうどうした?」(入試前で不安になってんのかな?)「あの・・・受験票が見つかりません・・・」「おぉぉ!?」受験票なんてなくても大丈夫なこと、とりあえず担任に電話することを伝えたが、、、まさか本当にいるとは。奥が深いぜ高校受験。
Mar 12, 2008
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小6のあるクラスでのこと。Q.350万の100倍は?Aくん「・・・3500?」横にいたBくん、唖然。普段は黙っているBくんも、このときばかりは「100倍だから0を二つつけたら・・・」なんて言いながら、指導に参加。半ばあきれ顔というか、もう目が「こいつ・・・アホ?」とでも言いたげだ。このAくんは、少年野球をずっとやってきて、いかにも腕白坊主。中学に行っても野球部に入るつもり。分からない問題があると、ごしごしと頭をかきむしる。字もあまりきれいではない。さて、ここまでの情報で僕らはAくんをどういう子だと思っただろう?実はこの話には続きがある。ぼく「100倍ってのはさ、0をいくつつければ良いの?」Aくん「2つ」ぼく「じゃあ、いくつになる?」Aくん「35000・・・万(さんまんごせんまん)・・・」Bくん「そんなんねーし(笑)」Aくん「あれ?あ!3億5000万!!」ここまできて、「おぉ、ようやく正解にたどり着いたな・・・」と思うだろうか。隣に座っていたBくんはとても満足げ。よしよし、お前も成長したな、と。Aくんは、万の上の桁が億であることは知っている。35000万なんてのがないことも知っている。でも、間違えた。これからは気をつけようね!・・・・なんて、話は単純ではない。この話には、さらにさらに続きがある。ぼく「AくんBくん、二人に問題ね。円柱を縦にすぱっと切るでしょ?切り口はどんな形でしょう!?」(円柱の図を書いて出題。当然答えは長方形。)二人はちょうど同時に口を開いた。「長方形」「かまぼこ型」さて、正しい答えを言ったのはどっち?じつは、ちゃんと正解を答えたのは、さっき「35000万」と言っていたAくんの方。Bくんは答えを聞いただけでもピンと来ていない。切り口の図を書いてあげて説明すると、「あー、そっちか!!!」そう、Bくんは切ってできあがった立体の形を答えたのだ。出題時点できちんと「切り口」を強調したにもかかわらず。実は、冒頭の35000万の問題にも、同じ事が起こっている。その問題に初めて触れる子は、僕らが思いもしない「勘違い」を起こす。このAくんの場合は、「3500000×100」なら、簡単に正解を出してこれる。しかし、表現が変わって「350万×100」になると、何をどう思ったのか、「万」を切り離してしまっていたのだ。「問題の意味が分からない」ならまだいい。どこでつまずいているか、僕らはひとつひとつ探っていけばいいからだ。でも、「分からない」のではなく「勘違い」は非常にやっかいである。本人的には問題の意図を分かっているつもりで答えている。しかし、本来問題が問うている事とはずれてしまっているために、どうにもこうにも正解が出てこないのだ。だから、僕らも勘違いをしてしまう。「この子はこんな問題も分からないほどデキナイのか・・?」と。切り口の問題は、少なくとも当地の小学校ではほとんどまともに扱われていない。だから、そんな問題があることすら知らない子が結構いる。つまり、問題の意図を知らないのだ。一方、この問題では正解を導いたAくんは、少し前から塾に来てくれているからそういった問題が何を聞いてきているのか分かっている。だから正解できた。つまり、「デキルデキナイ」は、かなりの部分、「その問題を知っているか否か」に依存していたりするのだ。僕らは本当にその子の能力が分かっているか?先入観やその他もろもろが、子ども一人一人の能力判断を阻害してはいないか?そこまで注意して見ているか?解答だけを見て「デキル・デキナイ」の判断をすることは、集団塾が陥りやすい罠だと思う。僕らはもう一歩踏み込んで、その子の能力を見極めなければならないと思う。
Mar 7, 2008
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「他の塾と重なってしまうので、遅刻してきても良いですか?」当塾のある子がこういってきた。「それがダメなら、やめます」細かいことはおいといて、これは非常に屈辱。しかも遅刻してくることになるクラスは、満を持して(と思っている)スタートする450点以上限定クラス。そこに入る3人の内の1人だ。他の方はどう思われるか分からないが、僕にとっては相当な屈辱だ。ちなみにこの子のお兄ちゃんは、「重なっちゃうのでやめます」といって、あっさりいなくなった。塾を始めた1年目からいた子だ。多くのことを、この兄弟を軸に考え、実践してきた。何をしたらこの子たちが喜んでくれるか、いつも考えてきた。お兄ちゃんは、あるイベントの際に「かいち塾にいて良かった」とまで言ってくれたモノだが、その1ヶ月後にはやめていた。自分がしていることが本当に相手のためになっているかどうかなんて分からない。しかし、そんなことはお構いなしに選別される。こちらの思いが通じる人がいれば、全く通じない人もいる。残念だが、お金をもらっている以上、仕方がない。相手からしてみれば、お金を払っているのだから、仕方がないということだ。さて、冒頭の件。とてもとても悩んだが、妥協する。頭を下げてでも通ってきて頂けるようにする。理由は、成績が良いからだ。その子の成績を上げてきたのは自分だという自負もある。その子のためにいろいろなことをしてきたにも関わらず、あっさりと「いらない」と切り捨てられることへの絶望的な思いもある。それでも、来てもらうことを選ぼうと思う。ここで、「オレにもプライドがあんだよ!」といって、やめてもらうのは簡単だ。その方がどれだけ気が楽か分からない。しかし、それでも成績が良いから来てもらう。なぜなら、うちは、まだまだ地域内のトップ層はここに集まる!という段階まで来ていないからだ。本当に、トップ層がみんな集まる状態になるまでは、まだ耐える。まだ我慢し続ける。トップの奴らはみんなかいち塾に行くと言われるために耐える。負けるかちきしょーーーーーーーーー
Mar 6, 2008
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一生懸命やっているのにイマイチな塾講師のパターン。1.ひとつひとつ順番に理屈やバックグラウンドを教え、勉強への興味を引き出そうとする講師。2.塾は営利だからと、とにかくテクニックというか、暗記方法やら語呂合わせばかり示し倒す講師。特にどっちが悪いかって聞かれると・・・う~ん、そうだね、1の方が悪いね。もう最悪。これは普段の状況を見れば分かるけど、生徒がだんだん質問をしなくなっていく。そうでなくても長い話の途中で生徒は興味を失っているのに延々と話していたり。こういった悲しい体験をどれだけしてきたことか(笑)1も2も、どちらの講師にも言えることは、生徒が何を求めているかが見えきっていないということ。講師が思う「生徒の成績を伸ばしてあげたい」という気持ちと、生徒が思う「点数を上げたい」という気持ちは、一致しているようでずれていたりすることは多々ある。生徒はもっと直球で「目の前の点数」を要求しているのに、講師側は1年後3年後5年後の姿を想像して、目の前の点数より「深い理解」を求める。この違いが見えていなければ、良い講師とは言えない。点数アップには段階がある。平均点程度の層と、学年トップ層は、表面的には求める物は同じ。もちろん点数アップだ。けれど、一方で「点数アップのために必要な物」が違う。そこを認識しなければ、せっかくの努力が空回りになってしまうのだ。ハッキリ言えば、平均点そこそこのランクの子には、仕組みや理論を理解させた上で点数を上げるという方法論は間違っている。それがデキル子なら、とっくに学年トップクラスにいる。「今はそういった興味はないけど、理解する喜びを知れば・・・」というのも、限りなく幻想に近い。その子はこれまでにもそういった機会が数限りなくあったハズだ。興味関心意欲を引き出そうというのは、学校の先生がはるかに高度にやっている。でも、ないんだ。興味が、意欲が、関心が。それをたかだか週数回、数時間顔を合わす程度の僕らにひっくり返せるか?無理とは言わない。実際、何か心の琴線に触れることがあって、一気に成績が伸びる子も中にはいないこともない。しかし、そんな砂浜で砂金を探すような事をするのは、塾講師としては間違っている。勉強=点数・順位だと割り切れということではない。平均点付近の子たちの興味意欲関心を引き出すには、何千年と人類が構築してきた学問的おもしろさ以外に方法があるということだ。平均点付近の子たちは、毎日どんな生活を送っているか。想像すれば分かるだろう。ほとんどの子が、勉強をしたくない気持ちとの戦いであり、勉強しろとうるさい親との戦いである。さらに点数を上げなければいけないという暗黙のプレッシャーとの戦いが加わり、点数によって序列化されつつある自分への劣等感との戦いである。そんな子が、いま、学問のおもしろさを要求するだろうか?点数を上げることの近道がそこだろうか?逆だ。まず点数を上げて心に余裕を持たない限り、学問への興味を持つ可能性はnearly equal 0だ。平均点付近の子たちを相手にする講師は、まず何が何でも点数を引きずり上げることを最優先課題としなければいけない。どれだけいい話をしても、どれだけおもしろさを伝えようとしても、伝わらない以前に誰もそんなものを求めてはいない。そんな講師にお金を払いたい親はいない。それでもそこにこだわるのなら、まず点数を上げることで絶対的な信頼を勝ち得なければいけない。「この人の言うことは絶対に正しい」と思いこまれるまで、きちんと点数を上げなければいけない。そこまできて初めて、自らの信念を出していくことが出来る。点数を上げることで塾講師としての本分は完遂されるわけだから、そこから先は何をしても自由だ。その順序をはき違えてしまう講師は、いずれ淘汰される運命にある。そうして点数を引きずり上げ、トップ層までもっていくと、ここはもう1点2点の熾烈な戦場だ。ちょっとした語呂合わせなんて結構知っているし、そんなこと知らなくてもきちんと点数をとる。こういった子達が求めているのは非常に高度で、問題の難易度も上がる。この「難易度の高い問題」を解くために必要とされるのが、深い理解であり深い知識だ。ここまできて初めて、深い物が求められるのだ。深く理解していないと解けない問題に対してこそ、理論や体系やバックグラウンドを語れば良い。もちろん、それが問題を解く手助けになるかどうかを細心の注意で吟味しなければいけないけれども。ここに来てようやく「学問」に近いことをなぞることができるようになるのだ。
Mar 2, 2008
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