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別のところでちょこっとだけ告白したんですが、うちはダンナ様と毎朝「行ってらっしゃい」のチューをしています。風邪で鼻水タラ~ンの時や、ケンカして冷戦状態が続いている時以外は毎日です。これ、実は娘に強要されて、ではなく、結婚してから12年間、ずっと続いているんです。海外かぶれの私が考えそうなことですが、でも違うんです。ダンナ様がそう決めたんですよ。いくつになってもチューすることが自然な夫婦でいたい、とかカッコイイ事言ってましたけどね。でもそれも新婚時代ならいざ知らず、子供ができてからもずっと続けるのは、正直ツライ時もあります。だって人間ですから、いつもいつも綺麗にしていられる訳無いし。二日酔いでものすごくイケてないダンナ様とのチューや、寝坊してヘビ女ゴーゴンのような頭&洗顔もしていない顔の嫁とのチュー。考えただけでもゾッとするでしょう?まるで「罰」のようです。でも、私はダンナ様との毎朝のチュー、良いと思うんですよ。どちらかというと「スキンシップ」という感覚かな。きっとダンナ様もそうだと思いますよ。ちょっとケンカしてて、でもチューを拒否するほどでもない、という時のチューで(チューチュー書いてて恥ずかしくなってきた…)怒ってたことが馬鹿馬鹿しくなったりすることもよくあります。握手と同じ効果ですね。娘はそんな私達を見て幸せそうだし、そんな娘を見ている私とダンナ様も幸せだし、チューもなかなか良いじゃないか、と思ってます。でも、私たち夫婦を実際に御存じの方には、とても想像できない(したくない)光景でしょうね。(自覚してます)
April 30, 2005
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娘は5歳からダンスを習っています。赤ちゃんの時から気管支が弱く、病弱だったので、かかりつけのお医者様から「スポーツでもさせたら」と勧められたのがきっかけです。まず最初に浮かんだのがスイミング。さっそくスイミングスクールに見学に行きました。娘はガラスの向こうのプールを見た途端「帰る」。レッスンの様子を見ようともしません。スイミングは却下。やっぱりあれしかないかぁ~。私は密かに目をつけていたダンススクールに娘を連れて行きました。体験レッスンを受けるための手続きをしていたら、気が付くと娘がいません。アレッ?と思って探していた私は、レッスン室の中で嬉しそうに音楽に合わせて身体を動かしている娘を見付けました。「これに決まりやね」娘は歩き出したときから、とにかくダンスが大好きで、(その時のはダンスとは言えませんが)テレビを観ながら、身体を好きに動かしていつも踊ってばかりでした。だから、こうなることは最初から分かっていたんです。ただ、ここはダンスはダンスでも、ストリートダンスの教室。その中の、「キッズ ヒップホップ」のクラスなんです。母親の趣味でここを選んだ、と言われれば、返す言葉もございません…はい…。(汗)でも、気に入ってるようだし、良いじゃないか!そう、娘は体験レッスンが終わった後の大人のクラスにも出たい、と駄々をこねるほど気に入り、結局その場で入会、ということになったのでした。ダンナ様に「うまいことやったや~ん」と言われましたが…。実家の父や母は「クラシックバレエ習って宝塚へ(おいおい!)」なんて言っていたので、ヒップホップと聞いたらショックかも…。(というか、きっと分からないと思う)そんなこんなで早5年。始めてみてすぐに分かったのは、ダンスは好きだけどセンスは無い、ということ。運動神経が著しく悪く、身体も硬いので、他の子よりも上達が遅いんです。発表会の前の厳しいレッスンの時に、何度やってもうまく出来なくて悔し泣きしたことも数知れず…。でも、辞めると言わないんですよね。「あの振りが上手く出来ないよぉ~」と泣く娘に、私はいつも「もう辞めちゃおうか」と言うんですが、「いやや!辞めへん!」自分から「行きたい」と言い出したことだからでしょうか。我が子ながらなかなか根性あるな、と思います。(ダンスのことだけは)プライドの高い娘が、後から入った子達にどんどん先越されても続けようと思うなんて、よっぽどダンスが好きなんだな。行けるところまで行けばいい、と思います。娘は娘なりに上達していってるんだし、私はただ見守るだけです。先に入っているんだから発表会では真ん中に、と文句を言う親御さんもいるけれど、上手い子が真ん中で踊るのは当たり前。立ち位置はそれぞれの実力で勝ち取るもんですよ、お母さん。うちの娘は万年端っこです。でも、すっごく良い顔で踊ってるんですよ。
April 27, 2005
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列車事故で負傷された方と亡くなられた方の名前を必死で見ていた。ある人の名前が無いように、と祈りながら。昔、とても愛した人。通勤にこの沿線を利用していた。もし以前のままの仕事だとしたら、この電車に乗っていてもおかしくない。名前は無かった。とりあえず、良かった…。でも、ある一人の名前がありませんように、と祈りながら探す私のような人が、何百、何千といるんだ、と思うと、本当にやり切れない。私なんかよりも、もっともっと身近な人の名を探す、その行為を思うと、身が引き裂かれそうにつらい。こんなの、もう沢山だ。この沢山の名前の、誰一人悪くないのに。
April 26, 2005
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娘は毎年12月に入ると、フィンランドのサンタさんにプレゼントのリクエスト手紙を書きます。で、今頃の時期にサンタさんから返事が届くんですよ。「大好きなあなたへ お便りありがとう。サンタクロースにとって一番うれしいのは、 こうして君のような世界中の子供たちから、わしに届く手紙に ゆっくりと目を通すときなんじゃよ。 大忙しのクリスマスの季節を終えて、こうして暖炉の前に座り、 君たちの事を考えながらくつろいでいると、本当に幸せな気分になるんじゃ。 (中略) 今年のクリスマスにもまたわしにお便りをお便りをくれるかい? 心待ちにしているよ。 大好きな君に心を込めて。」大事に大事に手紙をしまう娘。今年のクリスマスにも、きっとまた手紙を書いてくれると思います。
April 24, 2005
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4月19日に日記に書いて以来、私の頭の中から消えることがなかった「チリコンカン」。ついに、その真相が明らかになりました。昨日、娘が学校からもらってきた1枚の紙、「きゅうしょくだより」と書かれたそれを何気なく見た私は、驚きと嬉しさのあまり、本読みの宿題を真面目にしている娘の声が聞こえないほどでした。娘よ、許せ。これを取り上げるって言う事は、やっぱりみんな疑問に思っていたんだな。我慢できなくなった誰かが、学校に問い合わせたんだろうか。「チリコンカンて、何なんですか?」って。いや、とにかくスッキリしました。画像が粗くて読みづらい、もしくは老眼だ、とおっしゃる方(私)のために、説明をここに書いておきます。 チリコンカン メキシコの代表的な煮込み料理です。 「チリ」は「チリペッパーなどのからいスパイス」、 「コン」は「~といっしょに」、 「カン」は「肉」という意味です。 給食では、スパイスをひかえて食べやすいようにアレンジしています。 新献立です。おたのしみに。これを給食のメニューに加えた栄養士さんって本当にチャレンジャーだ。しかし、実際にはどんな料理なんだろう。スパイスをひかえて、それでもチリコンカンなのか!?パンに、牛乳に合うのか!?娘の感想を待ちたいと思う。ビビンバ、パエリアに続く人気メニューになるか!チリコンカン!
April 23, 2005
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今日、カットの予約を入れていた。長さはそのままで(肩下10センチ位)ゆるいパーマをかけようか、と思っていた。昨夜までは。それが、何を思ったか、美容院に着いてスタイルブックをパラパラと見ていたら、急にショートカットにしたくなってきた。春だし、とか今の長さはちょっと重いかも、とかあちこちから悪魔のささやきが聞こえ、私はすっかりその気になってしまった。担当の美容師さんに「思い切って切ってみようかな、と思うんですけど~」と言うと、美容師さんもすごい乗り気で、「良いですねぇ~!やっちゃいましょうよ~!」と、『ショートヘア』と書かれたスタイルブックを開いてあれこれと説明しながら勧めてくれた。良いな、と思ったのをいくつか選んで、いざカット開始!自分の椅子のまわりにどんどん積もっていく髪の毛を見て、すこぉーしづつ不安になっていく私。その内、鏡を直視できなくなり、ひたすら雑誌を読む…振りをしていた。そして、最後のシャンプーの後、ドライヤーで少しづつ仕上がっていく新しい私。諦めて、顔を上げた。鏡の中の私、いや私のヘアースタイルは、エマールのコマーシャルに出ている、モデルの黒田知永子だった。この美容院の美容師さんはみんな腕が良い。だから本当にそっくりだった。ヘアースタイルだけは。ワックスですごくお洒落に仕上がっていた。ヘアースタイルは。ただ、最大の誤算は、その下の顔が、黒田知永子ではなく、私だということ。学校から帰ってきた娘は、私を見るなりベソをかいた。とどめの一発…。
April 22, 2005
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良いも悪いも一切聞かずに、私は勝手に退職の日を決めた。早く代わりの人を見つけて欲しい、と思っていたが、一向に求人広告を出そうとしないホスト社長。「どなたか心当たりでもあるんですか?」と聞いても、「そんなもの無いよ」と膨れっ面。もうヤケクソか。ヤケクソにもなるだろう。ほとんど毎日スポンサーがやって来て、訴えてやる、だの、逃げるなよ、だのと言われ続けているんだから。でも、そんなの私には関係無い事だ。今いるモデル達の仕事がスムーズに行くように今まで通り動くだけ。最後の日まで。副作用に苦しみながら飲んでいる薬は、運良く私の腫瘍には効いてくれているらしく、直径1センチ近くあった腫瘍が、7ミリにまで小さくなっていた。病気の事を、付き合ってる彼に話すと、「子供の事はええやん。それよりも病気はよ治さな」子供ができないかも、と私は別れも覚悟して深刻に話したのに、「挨拶に行かなあかんな、親に」と彼は簡単に言った。「いや、なんか結婚迫って子供出来た、って言うてるみたいやけど、その反対やで」焦って私がそう言うと、「子供欲しくて結婚するんちゃうやん」と彼が笑った。急にカナダに行き、帰ってきたと思ったら怪しい会社で働きだし、仕事に夢中でなかなか逢えなくて、揚げ句の果てに子供が出来ないかもしれないと言う私を、ずっと見守ってくれてた人。彼の言葉とは逆に、この時私は初めて「子供が欲しい」と思ったのだった。結局モデル達と過ごしたのはたった3年間。その間、クライアントから何度怒鳴られただろう。その度に先方まで駆けつけ、膝に頭がつくんじゃないかというくらいに頭を下げた。仕事が来ないのはあんたのせいだ、とモデル達に囲まれたことも数えきれないくらいある。資金繰りの心配もし、支払いから集金、帳簿付け、給与計算…。今までの経験をすべて出した3年間だった。結局、病気によってこの仕事を失うことになってしまったけど、この事務所での、沢山の宝物のような出会いを決して忘れない。これからは、私の新しい家族のために、しっかり病気と向き合おう。そして、彼と私の子供を産もう。その後、幸運にも子供を授かり、母親業を10年やらせてもらっているが、こんなにしんどくて、悲しくて、心配して…でもその何倍も感動して、嬉しくて、面白くて、泣ける仕事は他には無いとつくづく思う。「やりがい」なんて必要無い、私のライフワークだ。
April 21, 2005
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さっき娘の部屋を掃除していて、ふと給食の献立表に目がいった。あ~、今日は娘の好きなビビンバね。今時の給食はバラエティーに富んでいるなぁ~。ほんと、羨ましいよ。でも、ビビンバにも牛乳か…これはチト辛い。給食が大の苦手な娘。いつも食べ終わるのがビリかビリ2。給食の後にすぐ掃除なので、お盆を載せたまま机を後ろに動かされ、埃が舞う中で食べさせられていることが度々あるらしい。実を言うと、私もいつもビリだった。こんなところ似ていなくても良いのに。パパから運動神経を、ママから人の顔色を見る目を受け継いで欲しかったが、ママから運動神経の悪さを、パパからその場の空気を読めないところを受け継いでしまった娘は本当に不憫だ。そんな事を考えながら一ヶ月の献立をずっと見ていった。ん?27日(水)の上から3行目。これは…なにものだ?
April 19, 2005
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薬の副作用は辛いってもんじゃなかった。いつも悪酔いしているような感じ。あんまり経験はないけど、ひどい二日酔いってこういうのかな、と思う。それが毎日。頭もボーッとしてテキパキと仕事が出来ない。これじゃあダメだ。辞めたらモデルに迷惑がかかる、と思っていたが、こんな仕事ぶりじゃ、辞めるよりももっと迷惑がかかるだろう。私は社長に病気の事、そして辞める意志を告げた。すると、社長は「困る!困る!今君に辞められたらお終いだろっ!」と怒りだした。いや、私が辞めなくても充分ヤバイですよ。とにかく、この人が何と言っても辞めるときは辞めるんだ、と思い、「出来るだけ早く、次の人を探して下さいね」と言っておいた。そんな時、フランスからバレリーが来日した。のっけからハイテンションの彼女は、とにかくハチャメチャな女の子だった。フランス人モデルはバレリーの前に2、3人いたが、みんな年齢より落ち着いた子だった。フランス訛りの英語で、彼女はこう言った。「私の事を小猫ちゃんと呼んで」バレリーは感情の起伏が激しく、よくもモデル達と喧嘩した。で、汚い言葉を使って嫌いなモデルの悪口を私にブツブツと吐き出した。始めは優しくなだめていた私だったが、薬のせいで気分が悪かったりしてイライラするし、いい加減にせーよ!と言う気分になって、「Shut up!」(黙れ!)と大声で言ってやった。すると、バレリーはキョトンとして、「mayoもbitchだ~」と嬉しそうに言い、「私は小猫ちゃん、mayoはお魚ちゃん」と歌い出した。そしてその日から、バレリーは私の事をFishと呼んだ。バレリーはオーディションでもよく問題を起こす子で、そのせいで仕事など入るはずもなく、ブーブーと文句ばかり言っていたが、でも実は結構お気楽にあちこち観光しまくって明らかに楽しそうだった。社長とJは仕事が無く、面倒ばかり起こす彼女の扱いに困り、早めに帰国させようと話していたが、私は彼女のことはどうしても嫌いになれず、深夜に彼女が泣きながら電話してきても、半分寝ながら彼女が泣きやむまで聞いてあげたりした。ある日、バレリーとJが事務所で言い争っていた。どうやらフランスに帰れと言われたようだ。バレリーは泣きながらJに掴みかかって「嘘つき野郎!」と叫び、最後はJに蹴りを一発入れてドアをバンッ!と閉めて出ていった。チケットはJによって勝手に手配され、3日後にバレリーは帰国することになった。オーディションにも行く必要が無くなったバレリーは、諦めたかのように観光客に徹していた。最後の日、みんなオーディションに出ていて事務所には私一人だった。エレベーターからバレリーの「Fish! Fish!」と歌う声が聞こえてくる。笑いながらエレベーターまで迎えに行ってやると、嬉しそうにバレリーが抱きついてきて、何やら私の首に巻き付けた。ネックレス。魚の。「フランスにおいでよ、Fish」「いつかね」「嘘つき」バレリーは笑いながら、また私に抱きついた。こうして私はバレリーと別れた。何か、ひとつ終わったな、と感じ、私の心の中で、真剣に病気と向き合わなきゃ、と自らに言い聞かせる自分がいた。「来月一杯で、辞めます」(続く)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□バレリーからはその後、何通か手紙が届き、私も一度だけ返事を書いた。↓は彼女がミラノのエージェンシーに所属していたときに送ってくれたカードと、彼女からもらったネックレス。今、どうしてるかなぁ~、小猫ちゃん。
April 18, 2005
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妹のダンナさんは中古レコード&CDショップをやっていて、ここ何年か前からすごくお洒落なカフェやら服屋さんが立ち並ぶ、ミナミの北堀江と言う所に最近2店目をオープンさせました。そして今日、妹に会いに、その新しいお店に行ってきました。で、びっくりです。妹夫婦のその店から歩いて1分もかからないところに、とても懐かしい建物がありました。娘が産まれた病院です。ミナミで一人暮らししていた時に生理不順になり、一番近くのしっかりした産婦人科、と私が診察を受けた病院。とても優しい先生と、友人のように接してくれた看護婦さんが大好きで、結局出産までお世話になりました。残念なことに、もう今は産婦人科はありません。以前はまだ、このあたりも住宅も多かったのですが、10年経った今は、ミナミを代表するお洒落なスポットに変身してしまって、周りは様変わりです。おそらく受診する妊婦さんも居ないのでしょう。「なんだか縁を感じるわぁ~」と私が言うと、妹も、「そうやろ、私も初めて店に来た時ビックリしたもん」と笑っていました。娘が生れた時のことを思い出しました。色んな事があって、もう逢えないかも、と思った自分の子供。やっとこの手に抱けたときのあの気持ちは言葉ではとても表せません。あれからもうすぐ10年。今年の6月2日は特別盛大にパーティーをやろう。そして、10年分の感謝の気持ちを娘に贈ろう。生まれてきてくれて、本当にありがとう。
April 16, 2005
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父の紹介で、大学病院のMR検査をすぐに受けることが出来た私は、検査の結果を聞くために、内科の外来待合室にいた。「腫瘍なんてないよ、頭痛も全然無かったし」多分大丈夫、と勝手に思っていた。だから、診察室に入って、先生の口から「プロラクチン産生腫瘍です」と聞いても、しばらくは信じられなかった。「それって…治るんですか?」「悪性じゃないですからね。切れば大丈夫。1センチ弱だから、そんなに大きくないし」「切るって、手術ってことですよね」「そうです。口の中から後ろに切っていく手術ですから、頭蓋骨は触りませんよ」だから安心して、という口振りだったが、私はもう卒倒しそうだった。冷や汗をかきながら、「手術以外に治す方法はないんですか?」と聞いてみた。すると、先生は何か気付いたように話し始めた。「御結婚まだですよね。将来お子さんは希望されますか?」「え、どうしてですか?」「腫瘍があると、当然妊娠はしません。ですが、手術で脳下垂体を触るとそのせいで不妊になる可能性もあるんです。ですから、お子さんを最優先に考えるなら、時間はかかりますが、お薬での治療が一番良いでしょう」「そのお薬は必ず効くんですか?」「その人によります。それと、副作用がきついので合わない方もいらっしゃいます」薬を手に、私はトボトボと駅までの道を歩いていた。子供の事なんて、真剣に考えたこともなかった。いつかは結婚して子供ができたりするんだろうな、と誰でもが思うように、私もそう思っていた。でも、私はそんな当たり前の事が、当然だと思っていたことが出来ないかもしれない。突然自分の目の前に出来てしまった大きな壁の、一体どこに扉が付いているのか、背伸びして遠くを見ても見つからない。帰宅して、しばらく何も考えられずにボーッとしていたら連絡を待っていたらしい母から電話があった。病名を告げると、母は絶句していた。お医者様から教わったことをそのまま話すと、母は、「今すぐ仕事辞めて、マンション引き払って帰ってきなさい」「うん、まぁ、そういう方向で」「方向なんて言ってる場合!?明日辞めてきなさい!その仕事のせいでそんな腫瘍ができたんやから!」決めつける母を何とかなだめて電話を切った。晩ごはんを無理やり食べて、こわごわ薬を飲む。副作用がきつい、というのを意識しすぎだったのか、私はすぐに気分が悪くなった。吐き気とふらつき。ベッドに倒れ込んだ。朝晩この薬を飲まないといけない。晩は寝ればいいけど、朝この薬飲んで、果たして出勤出来るのか…。吐き気と闘いながら、私はもう仕事の事を考えていた。明日仕事のモデルに朝電話して、新しく来日するモデルのために部屋をクリーニングしなきゃ。この仕事が好きだ。でも、事務所は閉鎖寸前。私の身体もボロボロ。どうしたら良いんだろう…。涙が出てきて止まらなかった。(続く)
April 15, 2005
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モデル事務所での仕事も2年目を過ぎた頃、前まであまり顔を出さなかったスポンサーが事務所にやって来て、ホスト社長とヒソヒソと話し込むことが多くなった。ヒソヒソだが、2人とも険しい顔つきなので、楽しい話じゃないこと位は分かる。いや、だいたいの想像はつくのだ。だって私はブッカー兼経理。難しいところは全部会計事務所でやってもらうけれど、帳簿つけから銀行口座の管理まで全部私がやっていたので、この事務所がどれほど儲かっていないか、なんてすぐに分かる。「このまま行くと支払い出来ませんよ」なんてセリフ、今まで何度社長に告げたことか。その度にスポンサーからお金が入金されるのだが、そんなウマイ話がこの世の中にあるはずが無い。で、スポンサーが「どないなっとんじゃ!」と怒鳴り込んでくるわけだ。「そろそろヤバイかもなぁ~」半年前にはもうそう思っていた。その理由がもう一つあった。もしかしたらそういう間柄?とまで疑ったほどのJと社長の仲が険悪になっていたからだ。Jは「社長に騙された」といつも陰で文句を言っていたし、社長は社長で「Jはもっと良いモデルを呼べると思っていたのに」と怒っていた。2人とも子供みたいだ。でも、Jが契約を結んだモデル達は次から次へと来日し、私達は相変わらず多忙な日々を送らざるをえなかった。いつ潰れてもおかしくない事務所に、希望を持ってモデル達がやって来る。でも、社長もJも、スポンサーもみんな誰かに責任をなすりつけてばかり。モデル達への責任は誰が持つの?ちゃんとギャラは払えるの?以前のように、しんどいけどやりがいがある、とはもう思えない私がいた。そんな時、私達スタッフの知らないところでもう一つの事件が起こっていた。カヨちゃんがJとデキていたが、Jが遊びだったことが判明し、怒り狂ったカヨちゃんは、Jの悪口や、今までJがモデル達についていた嘘、そのうえ事務所がヤバイことまで洗いざらいモデル達にぶちまけ、突然辞めてしまったのだ。カヨちゃんがかなりJに言い寄っていたのは知っていたが、まさか本当にそんな関係になっていたとは知らなかった。ショックだった。モデル達と私達スタッフとの間の信頼関係は失われ、アメリカのエージェンシーから抗議の電話がかかってきたり、すぐに帰国する、と言いだす子もいた。Jと社長が必死でモデル達を説得し、なんとか思い止まらせることが出来たが、その日マンションに帰った私は、もう心身共に疲れ果てていた。疲れは寝ても取れず、蓄積され、今までどんなに頑張っても決してダイエットに成功できなかったのに、気が付いたら痩せていた。そして、生理が止まった。いつもきっちりと28日周期でくるので、体の変調はすぐに分かる。そのまま2週間待っても無かったので、私は病院に行った。血液検査の結果を聞くために診察室に入った私に、先生はこう言った。「血中のプロラクチンがとても高いんですよ。乳汁が出たりしませんか?」あ、そういえば。ブラジャーの先が少し濡れていることがあったっけ。「脳の下垂体に腫瘍ができている場合もありますから、大きな病院でMRの検査を受けて下さい」それって、脳腫瘍ってこと…?目の前が真っ暗になった。(続く)
April 14, 2005
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娘はこの春から4年生です。今週の月曜日に、1年生からずっと好きだったK君の隣りの席に座ることが出来たとルンルンで家に帰ってきました。3年間ずっと同じクラスだったのに一度も隣になれなくて、席替えの度に文句を言ってたんですが、やっと彼女の願いは叶えられました。で、ウキウキの娘が学校から帰ってきたら一番に聞きます。「今日はK君と喋った?」でも、たいてい娘は「ううん」と言います。「なんで?せっかくのチャンスやのに~」「だってぇ~、恥ずかしいやん、キャッ♪」「……」身体をクネクネしながら照れる娘を、ただじっと見つめることしか出来ない私。娘は、私には似てないな。この子はひょっとして、いや絶対にぶりっ子(古っ!)タイプ!今朝も服を着ながら、「なぁママァ~、もっとカワイイ服が良いなぁ~」「なんで?それカッコイイやん」「だって~、女の子っぽいカワイイ服の方がK君好きやと思う…」モジモジ…あかん、このタイプ!こういう女、ものすごく苦手!ちなみにK君は女の子からすごく人気のある子で、自分でもそういう風に意識しているらしく、以前、K君と仲良しの男の子のお母さんが、「うちの子、K君から『女の子からもてる方法教えたるわ』て言われたんやて。それがな、『女なんてちょっと優しくすればすぐ好きになる』て言うてたらしいわ。今時の小学生は怖いなぁ~」と教えてくれた事があります。こんなんにまんまと引っ掛かってしまう娘が情けない!でも、世間一般ではいわゆる「ぶりっ子」の方が男性には受け入れられるらしい。私はダンナ様にもよく「可愛くない」と言われます。甘えベタです。娘は私似じゃなくて良かったのかも…。(涙)
April 12, 2005
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今日はちょっとした自慢(?)話。沢山のモデル達との出会いと別れを経験した私だけど、そのモデル達の中で、1人だけ(私の知るかぎりでは)超ビッグになった子がいる。名前をハッキリ書くと彼女のキャリアに傷が付くかもしれない(涙)のでイニシャルで。彼女はD・R。うちの事務所にやって来たのは彼女がまだ15、6才の頃。初めて見た時に、その瞳の大きさに本当に驚いた。キラキラしたその瞳に見つめられて挨拶されると、本当にこのまま吸い込まれてしまうんじゃないかと思うくらいだった。「彼女はアメリカで今人気上昇中だから、来てもらうのが大変だったよ。きっとうちのトップスターになるよ!」Jは興奮しながらそう言っていた。確かに彼女はとてもキュートで、魅力的だった。でも、今から思えばまだ花開く前だったのかもしれない。それと、少し個性的な顔立ちなので、大阪のマーケットには合わなかったんだろう。Jの思惑は外れ、仕事は全く入らなかった。大抵そうなのだが、売れるモデルはみんな「良い子」ばかりだ。頭が良い。彼女もアメリカでは売れっ子、というのがよく分かる。全く仕事が入らなくても文句一つ言わなかった。いつも私達スタッフのことを気遣い、お菓子の差し入れをしてくれたりした。季節は夏真っ盛りで、もうすぐお盆休みに入る、というある日、D・Rは笑いながら私に言った。「大阪は私の事好きじゃないみたい」「あなたにしか出来ない仕事、絶対に見つけるから!」私はそう言って彼女の肩を軽くポン、と叩いた。「良い娘ね、Mayo」とまだ子供の彼女は笑いながら言った。そして短いお盆休みをほぼ毎日寝溜めして過ごしていた私に、実家の父から電話があった。「さっき、外人さんから電話があってな、名前はD~とか何とか言うてたよ。Mayoにサンキューて言うといてくれ、て言うてたんちゃうかな~」一応、英文学科専攻だった父の実力で対等に(おいおい!)お話したらしいが、D・Rの名前を聞き取れただけで充分だ。彼女に何かあったのかも、と思い、急いで社長に連絡した。すると、社長が冷静な声で、「あ、それ、お別れの挨拶したかったんだと思うよ」「えっ?」「D・Rはさっき、帰国したから」「なんでですか?」「アメリカで大きな仕事のオファーがあったらしくて、むこうのエージェンシーがどうしても帰してくれって言うから仕方ないでしょ、こっちじゃ稼げないんだし」わざわざ電話してきてくれたんだ…。私は寂しさと嬉しさでごちゃまぜになっていた。モデルが帰る時はいつもそうだ。どんなに悪態ついていた子でも、みんな帰る時はThank youって言ってhugしてくれる。そんな時、私はいつも逆ウルルン滞在記状態になってウルウルしてしまうのだ。(カヨちゃんはお気に入りの子(男の子のみ)が帰る時はいつも号泣している)休み明け、私は社長から手紙を渡された。D・Rからだった。その内容は、本当にきっちりとした、賢い彼女らしいお礼の手紙で、彼女のアパートメントの住所と電話番号も書かれていた。そして最後に、「きっとまた帰ってくるから」と。それから歳月は流れ、今はもう子供ができて栃木県に住むユキちゃんから電話があった。「Mayoさん!大ニュース!D・R映画に出てますよ!」聞いてみると、それはわりと流行った映画で、ミステリー学園モノという感じの作品だった。私はすぐに近所のレンタルビデオ屋さんに行ってその映画のケースを見て驚いた。セクシーで、大人の女に成長したD・Rがそこにいた。相変わらず瞳は大きくてキラキラしてるが、それよりもぷっくりとした唇が挑発的で、ものすごく魅力的だった。あの幼いD・Rが、こんなに大人になって…。全く泣くような内容じゃないのに、(むしろセクシー系)何故か私はまたウルウルしてしまった。しかし、いつの間にあんなに胸が立派になったんだろう。実際に私が採寸したから証言できるが、15、6才の頃は…私の方が勝っていた。怪しい…のか?そうなのか?D・R!?その後、彼女はシリーズ物では有名な映画のヒロインに抜擢され、ますますメジャーになっているようで、もう今はただの彼女の1ファンの私は、毎回彼女の作品を観るのを楽しみにしている。彼女からの手紙?そりゃあもちろん、私の大切な宝物。「なんでも鑑定団」に出せってダンナ様がうるさいけど。(笑)(まだまだ続いていいですか?)
April 11, 2005
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カナダにいる時から実は考えていた。日本に帰ったら一人暮らししてみたい、と。でも、こんなに早く実現させなければならない状況になるとは思ってもみなかった。地下鉄一本で会社まで30分以内。大阪ミナミの端っこに私は小さなワンルームマンションを借りた。できれば環境の良いところに住みたかったが、何しろ経済的にかなりしんどいので、エリア的にはあまり良くないが、その分オートロックのレディースマンションにした。これで、相変わらず残業は毎日10時過ぎまで続いていたが、気分的には随分楽になった。ただ、会社には一人暮らしの事は内緒にしておいた。社長もJも残業手当が無いのを良い事に、放っておいたらいくらでも働かせるので、「家が遠い」という帰る理由を無くすのはつらい。それに相変わらず彼らはうさん臭いので、一人暮らしだと知らせるのは危険なように思えた。ブッカーとしての仕事に慣れてくると、今度はホスト社長は私の経理の経験に目をつけ、経理もやってくれ、と言いだした。給料上げるから、と人の足下を見やがって…!でも、それに食らいついてしまった自分が憎い(泣)なんでワークシート書いた後にスタッフの給与計算までやってんだ、私は…。こんなに忙しいんだから、さぞかし事務所も繁盛しているだろう、と思いきや、忙しいのは私だけで、クライアントからのオーディションの告知など、他の事務所と同じように扱ってくれるようにはなったものの、やっぱり信用を得るまでには時間がかかるようで、仕事はキャリアのある子に集中していた。新人を頼み込んで使ってもらうには、クライアントと事務所のお互いの信頼感が必要だ。そんなものなんて全く無い新参者のこの事務所では、新人モデルはただの観光客だ。とりあえず、事務所が動き出したのを見届けて、次のモデルをスカウトするためにJはアメリカに帰っていった。途端に仕事の無いモデル達からクレームの嵐だ。カナダやアメリカに遊びに行っていた私は、英語で文句を言われる、という事を初めて経験した。早口で、そしてキツイ表情で。カヨちゃんが必死に彼らに説明するが、彼らの矛先はブッカーである私だ。日本語でなら、適切な言葉を選んで説明も出来るし、なだめる事も出来る。でも、英語で彼らの怒りを止められるくらいの語学力があれば、こんなうさん臭い会社になんか居るもんか!と思いながらも、モデル達も生活がかかっているのだ、と思い直し、つたない英語力で必死に彼らに話した。「クライアントにあなた達のこともっと知ってもらえるように努力するから、もうちょっと時間をちょうだい」と。他の事務所のブッカーがどんなだか私は知らないが、その内モデル達は仕事が来なくてもあまり文句を言わなくなった。モデルの何人かが、「みんなビッチ(女性に対してものすごく侮辱する言葉です)だもん。Mayoみたいなブッカー居ないよ。英語はもう一つだけど」と、嬉しいような、情けないようなことを言ってくれた。(ちなみに私はMayoと呼ばれていた。私のニックネームの由来でもある)きっと私達3人がみんなこの業界初めてで、何をするにも必死になっているのを見て、こんな事務所なんだから仕方が無い、と諦めたんだろう。中には本当に観光客に徹する子も出てきて、京都や奈良に一緒に行こうと週末毎に誘われた。そんな風に、儲かりはしないが全く仕事が無いわけではない状態が続いた。モデルは3ヶ月ごとに入れ替わり、色んな子との出会いと別れを私は経験した。(続く)
April 10, 2005
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モデル達にとっては何本目かの、事務所のとっては初めてのオーディションは予想以上に良い出来だった。結果は誰一人使ってもらえなかったが、得体の知れない怪しいモデルクラブのモデル達が、以前大手のモデルクラブに所属していた子ばかりだったからだ。それもそのはず。Jはその大手のモデルスカウト担当だったのだから。そのおかげでマネージャーが紹介する前に、カメラマンがモデルの顔を覚えていて声をかけてくれたりしたそうだ。「この子また来たんやね~!前回は良かったよ~。今回はイメージが違うけど、また丁度良いのがあったら声かけるから!」オーディションに同行したユキちゃんは自分の事のように嬉しそうに私に報告してくれた。そうかぁ~、良かった、良かった…。そして、ポツポツとだが、本物のオーディションが入り始め、やっと事務所は動き始めた。ギャラの交渉ってどうやるんだろう、と不安だったが、社長はオーディションに同行することが多くなり、いつも不在で、なかなか教えてもらえないまま何日かが過ぎた。クライアントから仕事の依頼が来て、ギャラの交渉をしないといけなくなったらどうしよう…と思っていたある日、実際にそんな事態になってしまった。「担当者から折返しすぐにご連絡させますので」「いや、今スポンサーさん来てはるから、バクッと金額教えて」「えっ…と、あの、すぐです!すぐお電話致しますので!」「じゃあ、いいわ!」ガチャン!受話器を持ったまま、ショックでしばらく動けなかった。幸い、その後すぐに帰ってきた社長に泣きそうになりながらその事を訴えると、社長はそのクライアントに即電話をした。たまたま顔を合わせたことがある担当者だったらしく、初回なのでお近付きの印に、とかなり安いギャラでOKし、事務所初仕事が決まったのだ。ホスト社長も、私もユキちゃんも飛び上がって喜んだ。カヨちゃんは、というと、いつの間にかJと抱き合って歓声を上げていた。さすがはカヨちゃん、タイミングは逃さないのだ。順調にオーディションが増えていくと社長はますます不在になり、オーディションが増えると当然ギャラの交渉と予定の仮押さえの電話が入る。私は汗をかきながら、何とか手探りで覚えていくしかなかった。社長が不在な分、Jが事務所に残ってくれるようになったので、いくぶん心強かった。Jはギャラのことはあまり分からない。スカウトのくせに、そんなんでどうやってモデルを口説くんだろう。ギャラのことはよく知らなくても機関銃のように喋る彼の事だから、相手に一言も喋らせずに契約書にサインさせることくらいお手のもの、なのかも知れないな。仕事が決まると、その当日までに撮影スタジオや入り時間、持ち物などをクライアントに確認し、それを詳しく書いたワークシートと呼ばれるものを作成し、モデルに渡して行き方などを説明するのも私の仕事だった。会話ならごまかすことも出来るが、紙に書く、となると話は別だ。スペルに自信が無くて何度も何度も辞書で確かめる。1枚のワークシートを仕上げるのに、何時間もかかってしまう。モデル経験が浅く、日本も初めての子は本当に不安そうで、前日にユキちゃんが一緒に付いて最寄りの駅まで行ってあげたり、「この場所まで行きたいのですが、どの電車に乗ったらいいですか?」「私は道に迷ってしまいました。この電話番号まで電話してくれませんか?」「梅田の阪急百貨店に行くには、どういったらいいか教えて下さい」などと日本語で書き、裏に同じ意味を英語で書いた小さいメモを沢山作り、単語帳のように一つに綴じてモデルに持たせる。仕事のあるモデルにはどんなに早い時間でも当日モーニングコールをし、どうしても不安がる子にはスタジオまで連れて行ったりもした。こんな事ばかりしていたら、当然帰宅は毎日深夜になる。それでも時間は全然足らず、ストレスと寝不足で私は倒れそうだった。「あぁ…家がもっと近ければなぁ~…」これが、私の一人暮らしを始めるきっかけだ。(続く)
April 9, 2005
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モデルのほとんどはアメリカ人だけど、当然出発地も様々なので到着時間もバラバラ。その日社長とJは一日中空港と事務所を往復していた。で、私達といえば、いや、私とユキちゃんはモデル達のあまりの美しさ、男前さにオドオドしてしまい、目をキラキラさせて彼らと話しまくるカヨちゃんの後ろに隠れてベルボーイのように彼らの荷物を運んだりしていた。社長に教わった通りに彼らをマンションに連れて行き、少し休むように言ってまた次のモデルを待つ。でも、その作業のうちの会話の部分はカヨちゃんが全部こなしてくれた。男の子のモデルの時は特に丁寧だったようだけど、これは私の気のせいか…。中には来日前に届いていた資料とは別人か、という子もいたけれど、そのほとんどが目を見張るくらい綺麗でハンサム。女の子はみんな10代か20代前半で、肌が透き通るように白い。男の子は2人いて、一人はブラピ似、もう一人は真っ青な瞳に金髪で王子様のような雰囲気だった。みんな日本の、それも大阪に来るぐらいだから一流のモデルじゃないことは確かだけど、でも、目の保養なんてもんじゃない!やっぱりモデルって選ばれた人種なんだな~。2、3日のうちに全員来日し、顔合わせも兼ねて事務所に集まった。Jがその場を仕切ってモデル達にこの事務所のこと、私達スタッフの紹介、大阪での仕事の内容、簡単な決まり事などを話した。Jは、もうすでに何本かオーディションが入っているけど、ここ何日かは予定が無いからゆっくりしていて、と言っていたが、クライアントからはただの一本も電話が無い事を知っていた私は「あぁ、芸能界ってこんなもんか」と、芸能界じゃないのにそんな事を考えて気が重くなった。ところで、この事務所がどうやって出来たのかといういきさつ。ホスト社長は前の大手事務所の社長と自分の待遇のことで喧嘩し、その事務所を辞めた。そして何のノウハウも人脈も力量も無いのに「独立してやるぅ~!」と意気込み、仲良しだったスカウトのJと一緒に誰かの紹介で知り合ったバカな金持ちオヤジに「儲かりまっせ」と話を持ちかけ、そのオヤジもまんまと口車に乗ったらしい。嘘のような話だが、そのスポンサーがモデルの来日を知ってホイホイと見物にやって来たので、私はその存在を知ったのだ。で、その人が帰った後、社長に「あの方はどなたですか?」と聞いたら「うちのスポンサー」という答えが返ってきて、その他の詳しいいきさつについてはずいぶん後になってJの口から私は聞いた。そして、モデル達。オーディションの予定など全く入っていない事態に社長とJは焦りまくり、とりあえず知り合いのカメラマンに頼みまくり、仕事の予定などは無いのだが、ただモデル達の顔ぶれを見てもらうだけの「顔見せ」という予定を何とか何件か取ることが出来た。で、Jはまたモデル達に、「これは百貨店の新聞広告のオーディションだから、ジーンズは良くないよ」なんて嘘をついている。またまた気が重い…。そして、ほとんどの女の子がすらりとした足を惜しげもなく見せたミニのワンピースに身を包み、社長が運転する車に乗せられて偽オーディションに出掛けていった。モデルがいなくなると、社長とJに頼まれた通り、私はもちろん、ユキちゃんとカヨちゃんも生まれて初めて電話で営業活動をし始めた。営業なんてしたこと無かったので、最初は本当につらかった。でも、以前働いていたので分かるが、広告制作会社やカメラマンの事務所は、お堅い大企業のような雰囲気では全然無いので、「あ、この間カード送ってきてくれたとこ?ごめんねぇ~、今仕事無いわ~。また電話しますから」と軽い調子で優しく断ってくれるところがほとんどだったので助かった。そして、そのノリの軽さのせいか、実際のオーディションの予定を教えてくれるクライアントも何軒か出てきた。多分、「どんなんやろ?」という好奇心からだろうと思うが、私達は本当にうれしかった。まるで人身売買の片棒を担いでいるような後ろめたさを感じていた私(他の2人もきっと同じだったろう)は、ものすごく嬉しくて、早くこの事をモデル達に教えてやりたかった。とんでもない会社に入ってしまった私は、この時その実態をまだ知らなかったが、でも、それよりも先に、モデル達に対する責任をしっかりと感じてしまっていた。それが私にとって良かったのか、悪かったのか…。(続く)
April 6, 2005
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出勤初日から一週間後にスカウトであり、副社長のJは来日した。ユダヤ系アメリカ人のJはマンハッタンのアパートメントに住む、元モデルだ。年齢は40代半ばらしい。初めてJに会った時、そのあまりの素敵さに緊張しすぎて声も出なかったほどだ。私がカナダやアメリカにいた半年間にはお目にかかったことの無い人種、という感じだった。少しだけ日本語が出来るJは「ハイ~、ワタシガJデスゥ、ヨロシクゥネェ~」と笑顔で握手してくれ、それから社長と抱き合って再会を喜んでいた。呆気にとられながらも私とマネージャーのユキちゃん、年齢不詳で英語堪能のカヨちゃんはJに見とれていた。ユキちゃんは英語の専門学校を出たばかり。ものすごく若い!とにかく英語を使って仕事したいんです!と張り切っている。カヨちゃんは3ヶ月ほど前に長年いたシカゴから帰国したばかり。「遊んで遊んで遊び尽くしてきた」と言っていたが、留学してたのか、何してたのか教えてくれなかった。とにかく外人男性しか愛せないらしい。Jを見る目も一番真剣だった。そしてJがモデル達のカードを最終チェックし、OKが出ると、いよいよ全員分のカードを各クライアントに郵送する作業が始まった。これを見て仕事のイメージに合うモデルがいたら、クライアントから連絡が入る。らしい。だから、カード作りとその発送はとても大事な仕事だ。ただ、この事務所の場合、全く知名度が無い。 封筒にはもちろん社長とJの名前で挨拶文も入れてあるが、2人のことを知ってくれているクライアントが一体何社あるんだろう。そもそも、2人は何者だ?封筒を糊付けして閉じていきながら、私は社長とJが真剣に話し合っているのを横目でチラチラ見ていた。2人の関係は…これまた怪しい…。発送が終わると、社長はやっと私に仕事の流れを少しづつ教えてくれるようになった。でも、モデルもまだ来日していないし、クライアントからの電話も全く無いのでなかなか実際のブッカーの仕事を知ることは出来なかった。でも、慣れるまではずっと社長がやってくれるんだし、横でお手伝いでもしながら覚えていこう。で、無理そうなら、その時そう言って辞めればいいんだ。そしてとうとう、最初のモデルが日本にやって来た。社長とJが空港に迎えに行き、私達3人はワクワクしながら待っていた。激動の日々が、始まる。(続く)
April 5, 2005
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エレベーターが開くとすぐ前のドアは開け放たれ、今日から私の仕事先となるそのオフィスが一目で見渡せた。そこには、例のホスト社長と若い女の子、それと年齢不詳の女性が居て、一斉に私の方を見た。「あぁ!お早うございます!」と社長は笑顔で挨拶しながら近付いてきて、何故か握手を求めてきた。来ない…と思っていたのだろうか…。若い女の子はマネージャー、年齢不祥の女性は英語は堪能だが車が運転できないのでマネージャー及び私の補佐、という事だった。ああ、やっぱり私の英語力のことなんてお見通しなんだ。だから通訳が必要なんだ。いや、だけどブッカーって何!?「3人共この業界は未経験なんで、1から頑張ってね!」と社長が言った。社長以外、ものすごく不安げな表情をしている。考えていることは多分3人共同じ。社長は得意げに「私とスカウトのJはこの業界長いから、何でも聞いてね」と言いながら、どういうわけか英語のレッスンを始めた。タイム誌か何かからのコピーを私達に配り、順番に読ませていった。テスト…のつもりか何か知らないけど、今頃こんな事されても…と正直とても困惑した。ほんの30分ばかりレッスンを続けて、唐突に「ハイ、今日はこれまで」と社長は立ち上がり、今度はこれから来日するモデル達のことを紹介し始めた。(ちなみに、この日以来レッスンは一度も行われなかった)もうすでに名刺代わりにクライアントに渡す各モデルのカードは出来ていて、それを整理するように言われた私達3人は、ますます戸惑いを隠せないまま作業を始めた。私は思い切って最大の疑問を社長に投げかけてみた。「あのぉ~、社長、お聞きしたいんですが、ブッカーというのはどんなことをするんですか?」「あ、ブッカーはね、モデル達のオーディションとか仕事の予定をすべて管理して、モデル達を動かす人。それと、クライアントとのギャラの交渉もブッカーの仕事です」「私には無理だと思います」出来るわけないだろぉ~!そんなこと!と心の中で憤りながら私は言った。「いや、ちゃんと教えていくから。最初は全部私がするし。それを横で見て、覚えていってくれれば良いんだから安心して!」「実際に、どんなお仕事をするんですか?クライアントってどんなところなんですか?」「百貨店や商業施設の広告、アパレル企業のカタログ、通販カタログ、てとこかな。ファッションショーとかCMなんて大阪にはほとんど無いね。クライアントは○○さんがお仕事されてたような広告制作会社、カメラマンの事務所ってとこかな」社長のその話とモデル達の顔ぶれを見ていると、夜の繁華街でいかがわしいクラブのショーに出演するようなモデルを海外から連れてくる訳ではなさそうだった。もう少し、様子を見てみよう。モデル達が本当に来日するかどうかも分からないし。今思えば、モデル達に会う前に逃げてしまったほうが良かったかもしれない、と思う。この先私を待つ、過酷な現実を考えれば。(続く)
April 4, 2005
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アメリカから帰国して、一文無しになってしまった私は、いつまでも「カナダに帰りたい~」と泣いている訳にも行かず、また仕事を見つけなくてはならなかった。半年やそこら海外に行っただけで英語を使う仕事が出来るほど甘くない、と思ってはいたが、でもその時の私はものすごくハイだった。「人生何とかなるさ」的な考えで、新聞の求人広告の中で見つけた「外人モデルクラブマネージャー募集 日常英会話できる人」を見つけると、即応募した。友人は皆「それって、怪しいよ、絶対!」と口を揃えたが、私は「面接行って、確かめてくるから」と気にしなかった。そして、面接の日。怪しげなビルの一室。オフィスはだだっ広いワンルーム。年齢不詳のホストっぽい男性が一人で面接してくれた。聞くと、その男性が社長だという。「あやしぃ~!」と内心思いながら、半年海外に行っただけ、と知ったらきっと断られるから、まぁいいか。と思い、そのまま面接を受けた。社長は大阪では一番大きい外人モデルクラブのマネージャーだったそうで、そのモデルクラブでスカウトを担当していたアメリカ人と2人で今回独立する事になったので、その立ち上げスタッフを募集している、との事。ふーん、そうなんだぁ~、すごぉ~い。もうほとんど他人事のように聞いていた私に、社長は言った。「前に勤めてらした会社は私もよく知っているんですよ。お仕事も一緒にさせていただいたこともありますし」そうそう、私が以前働いていた会社は広告制作会社。そういえば、綺麗な外人モデルの女の子が何度か写真部に来てたっけ…。「この業界の事をよく御存じの方に来ていただけたら、うちとしても助かります」…え?どういうこと?「実はマネージャーはもう2人決まっているので、ブッカーとして来ていただけますか?」ぶ、ぶっ…?なに?いや、業界の事知ってる、って私経理だし…。「早速明日からでもお願いしたいんですが」「いや、でも私、たった半年しか…」「じゃ、明日9時に。マネージャーの子達も来るんで、よろしく」決めの笑顔(やっぱりホストっぽい!)で社長は立ち上がり、私は何が何だか訳が分からず、ただ「は、はい…」と答えるだけだった。エレベーターまで送られ、「じゃ、お待ちしてますね!」決めの笑顔が目の前で閉じられた後、エレベーターの中で私はまだ放心状態だった。これは、怪しい…?英語力も試さず、いきなり採用なんて、そんなのありえない。でも…どこの国からのどんなモデルか知らないけど、とりあえず英語が話せる…かも?そして、ここでまたカナダとアメリカのおかげで充電満タンの頭が能天気な答えを弾き出した。「行くだけ行ってみたらいいじゃん!ヤバそうならその時点でバイバイしよう!」そして次の日、またまた私はその怪しいビルの一室に行く事になる。(続く…最近長編ばっかでごめんなさい!)
April 3, 2005
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友人家族が今朝、グァム旅行から帰国して、わざわざお土産を持ってきてくれた。「はい、これ」と渡された紙の束を見ると、「グァム新聞」横に「フリーペーパー」「無料」(何故か無料の字が毛書体)とある。お土産がコレかい!と暴れると、ウソウソ、と何やら沢山入ったビニール袋を出してきた。私が海外へ行くと、スーパーやドラッグストアで日用品を山ほど買い込んでくるのを知っている友人は、私の喜びそうな物ばかり買ってきてくれた。ディズニーやセサミストリートのバンドエイド、バブルバス、歯磨き、ハンドソープ、そして、これは私がお願いした、バナナボート印のアロエベラジェル!日焼けで痛ぁ~い肌にこれを塗ると、あら不思議!次の日にはすっかり回復しちゃう、という代物。わ~い!わ~い!これで今年の夏も安心して日焼けできる~!…って、まだ焼く気かい、お母さん!(@_@;)しかし、気になる「グァム新聞」読んでみると、なかなかディープな内容だ。なになに~…「脱獄囚2人逮捕 ハガッニャで」うわっ!殺人罪等で刑務所に入っていた囚人3人が脱獄して逃げ回っていた!?あの小さい島で!?で、まだ一人は見つかってないって!?おいおい、安心してホテルで寝てられないって、こりゃあ…。「グァム ナイトライフの過ごし方」というページを見つけた。怪しすぎる~。(笑)「夢」という、多分飲み屋さんの広告。「最新のカラオケシステムと最高の美女達!」か。至れり尽くせりって訳ね。その下に小さな字で何か書いてあるぞ…。「美女にお困りでないファミリー、グループの方でも安心して楽しめます。」…ファミリー、グループが一番美女にお困りだと思うけど…。この広告の横に、「グァム ナイトライフの過ごし方」の説明記事が載っていた。「グァム新聞では毎週11ページから13ページまでナイトライフの広告特集を掲載しています。この4ページはそのまま抜き取れますので、折り畳んでポケットの中にでも忍ばせて下さい。(忍ばせるって…)主に男性向けに編集されていますので、ご家族連れの方はそのまま抜き取っていただいても結構です。」グァムにまで来て、夫婦喧嘩させる気か、この新聞は。
April 2, 2005
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フロントのジェレミー・アイアンズは、最後の日になってやっと私に「遊びで来たの?それとも仕事?」と聞いてきた。日本人はどこへ行ってもすごく若く見られるからきっと私も最初は「子供」に見られていたんだろう。…いや、しかし、私のこの格好を見てどこらへんからbusinessが思い浮かぶんだろう…。神経質そうなジェレミーに、聞いてみたかったな。一人で大丈夫、と言う私に、ナオコさんはどうしても見送りたいから、とホテルまで迎えに来てくれた。最後にまたイエローキャブに乗り、私達はJFK空港に向かった。JFK空港の事は、なぜかあんまり記憶が無い。どこに行く時でも私は空港が大好きで、カナダに行く前、用も無いのに仕事の後シャトルバスに乗ってよく空港に行ったりしていた。たぶん、JFK空港での私は日本に帰ることがただ嬉しかったのかもしれない。精神的に充電満タン状態だったんだと思う。空港に行くのが好きなのは、その時の現実がつらかったから。だから、どこか遠いところに逃げてしまいたい、そんな気持ちが私を空港に向かわせていたんだろう。現在の私も、空港は大好きだ。でも、カナダに行く前の私が好きだった理由とは違う。私の心の故郷、ある意味原点だと思う場所に対する郷愁のようなもの。そこに繋がる場所だから、空港に行くとなぜか懐かしいような、切ないような感情が湧く。いつか、必ず帰る。といつも思う。ナオコさんは、またいつものように笑っているんだけど、前のような寂しい笑顔じゃないような気がする。コーヒーカップを口に持っていきながら、「来てもらって助かったよ」と言った。「自殺、も考えたくらいだったし。彼の事で」「そんな顔してましたね、ナオコさん」「やっぱり?そうかぁ~、バレてたか」ナオコさんは大きく笑い、そして続けた。「でも、なんとなくこれからまた音楽やっていけそうな気がする。無理してニューヨークに来て良かった。昨日のグローバー・ワシントン Jr.、ここにガツンと来たもん」と胸にこぶしを置いた。「ナオコさん、私、ナオコさんには自分の好きなようにしてほしい。私もカナダとアメリカにちょっとだけ居て、自分勝手にしてたけど、でもそのおかげで自分らしい、とかいう感じ、分かったし。音楽ももちろんやけど、その他のどんなことでも人の目なんか気にせずに、ナオコさんの思うように、したいようにして欲しいと思ってます」「ありがとう、そうできるように頑張るね」ナオコさんは嬉しそうに笑ってくれた。扉の向こうの小さなナオコさんが見えなくなるその瞬間まで、ずっと笑顔だったのを見届けて、私は飛行機に続く長い通路を大股で歩いて行った。さようなら、ナオコさん。そして、ニューヨーク。またきっと会えるよね、ローズマリー、そして…バンクーバー。□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ナオコさんはその後、アルバイト先で知りあったフランス人男性と周囲の反対を押し切って結婚したらしい。噂で知った父からその事を聞いた私は、連絡を取りたくてナオコさんの実家に尋ねたが、ナオコさんの結婚の事でナオコさんは実家から絶縁され、今どこに住んでいるかも知りません、と言われてしまった。でも、私はナオコさんさえ幸せなら、それで良いんじゃないかと思う。そのフランス人の旦那さんと、もしかしたら子供と、平穏な暮らしをしているのなら、それが一番。家族に囲まれて、得意のピアノを弾いているナオコさんの姿が目に浮かぶ。ナオコさんらしく生きていて欲しい、と心から願う。(旅は終わったけど、また色んなエピソードをカナダ滞在記として書こうと思っています)
April 1, 2005
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